2017-02-20
■両津高校
「荒海 第2号 二九の会 (昭和62年11月)」より
(懐しい校舎の中の面々 小池荘一郎)
二九の会「荒波」第一号を山田さんより贈呈され、その折「一年先輩を語って」を依頼され、全く拙文で恐縮ですが寄稿させて頂きました。先輩の皆さんお元気にてご活躍のこととお慶び申し上げます。さて諸兄姉の皆さん三十余年前、両高健児として素略しい青春の日々を過した頃の顔が今も目に浮かび、何処でお逢いしても「先輩」と声を掛ける程、憶えております。三十年の春卒業以来、ずっとこの郷里両津に生活をし、小生なりに母校発展のため微力を尽くしている心算りです。石楠会幹事(会長二期)として、母校創立二十五周年、三十周年、四十周年の折々には、本当に先輩の皆様にはお世話になりました。紙面をお借りし厚くお礼を申し上げます。
先輩を語る第一弾としては、やはり野球部の面々です。F組からは磯野良衛、B組には渡辺伸一郎、C組からは、北岩大、小池正広さん等がいて、、北岩大さんの巾広い体からのアンダースロ-ピッチング、無口な磯野さんの華麗な守備とバッチソグ、その後三十年の野球部の歴史の中で、磯野さんのような名選手は現われないと今でも私は思っています。
我々六回生から見ると五回生の面々は、勉強も体育も一段と秀れていたようです。柔道の紋さん(失礼)バレーの矢辺さん、バスケットの太田健蔵さん、卓球の岩本さん、陸上の高橋・宇治・輪地さん達、思えば壊しい方々ばかり一ばいです。或る時の生徒大会 (二十八年と思う。)長髪問題で、三年生が長髪賛成の折小生が反対を叫んだ時、北川裕章さんに睨らまれ冷汗が出た思い出、そのせいか今でも「ヤマヤ」の兄貴として頭が上りません。
生徒会では会長山口皓さん(C組)副会長の長谷川さん(F組)坂口さん(D組)には、お世話になりました。卒業後、山口さんには銀行で顔を合わせていますし、坂口(染野)さんには、街で会いますが、長谷川さんには全々お会いしませんが、今、宇都宮でお元気なんですネ。(「自他同一」読みました。)F組の渡辺利雄さん未だにゆっくりとお話しをした事ありませんが、僕等にとっては、誰一人貴兄を知らない人はいませんでした。頭が良いのにガリベンでなく鉄棒は上手……。計良多郎左衛門、市橋駿一さんもコワイような存在でした。女性では、両中の先輩で文学少女的
だった木村悦子さん。ヤてカク小路を通る時、いつも、どこに生活されているのかナア~と思っていました。
「荒波」を読んで、草加市に居られるとのこと、一日も早く元気になられるようお祈り致しまう。
校門のあのコスモスの群生はもう無くなりましたが、翠松薫る白山、そして新しい校門の周囲には今日も美しい花が先輩達の来校を心待ちにしています。
我が二Bの教室の近くに三Eがあった関係で、三Eの皆さんには毎時間顔を合わせたものです。何を云っても、その中の華は荒木さんでした。当時はあまりにも高嶺の花で、親しく話をする事もありませんでしたが、石楠会東京支部大会には、是非共クラスメ-トお誘いの上ご出席下さい。同じ三Eの山口トシさんは両中の先輩であり、演劇でもお世話になりましたが、六十年五月、偶然にも上野の「庄や」で三Eの方々、小池巌、粕谷、辻、野口さん等や、そして中川早苗、渡辺光枝、三国悦子、山口トシさん達に会った時には、涙の出る程懐しく、嬉しく、胸の熱くなるものを感じました。その時の縁で、四十周年には、三Eの皆さんより多額なご寄附を頂戴致しました。募金委員の一人として厚くお礼を申し上げます。
次は三Dの面々、当時家庭科の方は、一年下の男性にとっては、コワイような存在でした。その関係か地元に嫁いだ女には、カカア天下が多いようです。(カカア天下は、家庭円満の秘決とか。)何故か伝統的に両高の家庭科(被服科)出身者には、地元の嫁さんになった人が大変多くいます。今、被服科が消滅した事を思う時、本当に残念でたまりません。何は兎にあれ、二九の会が益々発展され」我々後輩に良き刺戟を与え、両高出身者の先駆者となって突き進むようお願い申し上げます。
最後に六十三年八月の「両津高校一日入学」の成功をお祈り致します。
◎ムッサンコにケナルイのウ
◎古里で久遠に残す鬼太鼓
石橋会一幹事 両高野球部後援会長
「荒海 第3号 二九の会 (昭和63年7月)」より
(磯野良衛君のこと F組 宇佐美薫)
名前は当時、両津の情報に詳しかった原点の連中から聞いていたが、実際に磯野君の姿に接したのは、河崎中学校三年の時だった。彼ら両津中学校の野球部の面々が河崎中へ練習試合に来てくれた時である。
当時の両津中野球部には、磯野君の他に渡辺伸一郎、北岩大、小池正広、小池巌君などそうそうたるメンバーがおり、都会的で、洗練されており、ぼくらいなか者にとっては恐れおののくチームであった。そんな中にあって、磯野君はショートで、キャプテン。華麗な守備と確実なバツティングはもちろん主力・中心選手であったが、そんなことばより花形選手といったほうが当たっている。河時の仲間の藤井稔君は、磯野君のいろいろなフォームの真似をするのを得意としていた。ゴロを取ってファーストヘスローインクする時のフォーム、その時の口の動き、そして、守備位置のあたりを例の内股で歩く姿などが、とりわけ秀逸であった。
ともあれ、同期の連中があこがれと畏敬の念を持って眺めるほどの大きな存在であったのである。
高校に入ってからは三年間とも同じ組だった。先に挙げた人達とともに野球部に入部した。監督・コーチはおらず、中山秀夫(北越銀行)、水井昇(新潟交通)、今井一夫(NTT)、伊藤吉久(櫛谷鉄工)などの諸先輩が中心となって教えてくれていた。磯野君は最初確かセカンドだったと思うが、一年の時から正選手としてもう試合に出ていた。ただ、三年まで野球を続けたが、当時佐高には藤村、近藤(近藤胃腸病院の先生)選手などがそろっていて強く優勝した記憶はない。
また、彼は運動神経抜群で、校内バハレーポール大会、バスケットボール大会、運動会のリレーなどで大活躍をし、なにをやっても一流だった。特に、後藤三夫先生が佐渡.ハスケットポール選手権大会に、両高バスケット部とは別に、他の部に所属している連中を集めてチームを編成し、出場させてくれたが、その時にご一緒させてもらった。確か二回くらいあったと思うが、金北山に駐留する米軍チームと対戦したりもした。ジャソプポールの時、黒人選手の手の平の色がプラウソというのだろうか、表の色と違うことを発見して、ひそひそと仲間で語り合ったことを覚えている。彼との係わりの中では、不思議と勉強のことは思い出さない。野球のこととこの米軍とのバハスケの試合のことが最大の思い出である。
…いろんな意味で実力と才能があっても、それを表にあらわすことなく、常に謙虚で、静かに闘志を内に秘めていた君……計報に接し、驚きました。だれしもが孫を膝に、あと二十年くらいは余生を送れるものと考えているのに、どんなにか残念で、心残りであったことでしょう。ぼくら同期生一同、残り少ない人生を君の分まで大切に生きていきます。 どうぞ安らかに………合掌
「荒海 第1号 二九の会 (昭和62年11月)」
より
(青春讃歌 小田忠雄)
ドンテン登山で皆さんが芭蕉心酔者の宮川悌二郎先生を胴上げして落し、校長がカンカンに怒って胴上げ禁止になった事件、亡き甲斐清トウチャン先生が、掃部茂(現在高校教諭)のカバンを二階からなげ飛ばした事件は、下の教務室では、生徒が落ちたのかとびっくりしたこと。高橋信一先生も昨年不帰の人となりましたが、体育祭の行進練習には、青竹でたたかれた痛みを今も思い出す悪童の面々もいるはずです。授業中、一切ノートをとらずただ黙々と聞いているだけの生徒であった渡辺利雄(現在東大教授)、イヨマンテの斉藤修デソスケ先生もなかなかモダンボーイでした。
「荒海 第3号 二九の会 (昭和63年7月)」
より
(土屋長松)
『二九の会』の皆さん今日は!! 田君今日は!!
卒業以来会わない人が大部分ですね。皆さん夫々に石楠魂で雄々しく活躍されていることを嬉しく喜んでいます。
山田君から『荒波』三号に何か書けとの注文を受け、感無量、両高創立以来のあれこれ次々と思い出されるがペンが走ってくれません。
生まれ故郷の両津に長年の待望の高女が出来るので、是非来て協力するようにとの事で、勤務校の東京都立十中(西高)に転任願いを出したのに、三月が終わり四月になっても許しがない。エェイーママヨと転任辞令を待たずに、四月十七日両津港に着いた時、夷の中心街が炎上している最中、この両津大火に皆さんの中にも延焼した家が少なからずあったと思います。一度帰って六月一日附の辞令を持って赴任したのが七月十五日でした。昭和二十三年四月六、三制の新教育体系が発表になり、両津町加茂村組合立両津新制高等学校となり、加茂小学校裏のバラックに移りました。午前、午後定時制の三部授業で午前組は午前勉強で午後は新校地の開墾整地、午後組は、反対に作業して勉強、僅かばかりの先生方は、ペコ・ヘコ腹をすかせて夜の定時制です。二十四年六月に第一期工事の教室が出来上ったので、七月七日に祝賀式をやりました。職員生徒は俺達の学校が出来たんだと喜び勇んで、加茂小や両津小から教壇を多数借り、それを土の上に敷きつめて祭場を作り、紅白の幕も借りて張り廻し、一同希望に満々ての盛大な祝典でした。
PTAのお母さん達に加茂村婦人会が家から煮〆の材料やドプロクを持って来て賑やかな大バザー、並居る者全員心からの喜びと両津高校の前途の希望と期待と幸多からん事を祈りました。七月になって早々と思いますが、遇二日音楽講師として来ていた松木博先生が式典があるのに校歌がないのは淋しい。校歌と云うにはおこがましいが、両校応援歌を作って見た、と云って「荒波四方に…‥」をピアノを引きながら鮨介しました。作詞と云い作曲と云い、先生方感銘して立派な校歌だ、直ぐに生徒を集めて練習です。生徒も感銘。すぐに覚えて歌い出しました。両津高校の卒業生は、校歌よりこの「荒波……」の方が印象に残り、一昨日の石橋会東京支部会で荒波の方が盛大に歌われました。永久に歌い続けられます。
諸君の同人誌『荒波』.。いみじくも良くつけたりフクの会とともに敬服します。
『荒波』一号を送っていただき、なつかしくむさぼり読みました。木村悦子さんの闘病に打ち勝った記事に驚いて、早速電話しました。病気療養中の家内の手を引いて三人で会食しました。非常に元気で勤務している事を知り安心しました。一昨日の東京支部会にも出席し、ますます美しくなり、小田、赤江橋先生等と談笑している様子を嬉しくながめていました。それにしても本間悦子さんのご主人の突然の不幸を聞き、何とお悔み申し上げたらよいか筆舌では表わせません。近くに、三回生の岩原正夫君が川崎市の中心校、富士見台小学校の大校長先生で孫二人が御世話になっています。彼の呼びかけで、両津高校四十周年記念式典に出席した土屋の報告会の名目で、三回生の同期会を持ちました。六十一年十一月です。三十人集まりまし
た。『荒波四方に……』を高らかに歌い、創立当時の勤労奉仕の事、勉強の事、卒業後の事、夜のフケルのを忘れて楽しく過ごしました。
次に六十二年、去年も盛会でした。宮川悌二郎先生も出席し、全く久しぶりに旧交を温めました。この正月には、やはり近くの古川弘志君、櫛谷省吾君が年賀に来、二人の呼びかけで四回生の有志長谷川通哉君等八人西新宿の住友ビル五〇階のレストランで、楽しい新年会をやました。
一昨日の石楠会東京支部会に出席し、実に盛大でした。驚きと共に嬉しさ楽しさ一杯でした。学校から校長、小田、今井(一回)飯田(六回)あと数人の先生方、旧職員は土星、赤江僑、牧野、会員は八十人位いたでしょう。三部屋プチヌキで足りず、若い連中は次の部屋を占領していました。庄や目黒の主人は卒業生、おいしい料理を沢山出してくれました。会費からみて持ち出しの大奉仕と思います。
オカラ/\と馬鹿にされて卒業した皆さんが、歯を食いしばって石楠魂を存分に発揮し、実業界には社長、重役、部長等々沢山出ており、個人としても立派に成功されています。文教育界では、五回生の渡辺利雄君と六回生の近藤保君が東京大学の教授、四十周年記念に講演した竹内洋君は、京都大学助教授、其の他の有名大学の教授、助教授が数名いるようです。高、中、小では、校長、教頭も沢山いるようです。岩原君等は神奈川県の小、中学校新潟県出身者の会長です。
昭和二十八年県立移管の三条件として(一)教室、理科教室等特別教室(家庭実習室を含む)体育館等四学級募集の高校の整備を完了すること。(二)二十八年度両高予算は全部組合が持つこと。(三)一、1000坪の校地を買増し、尚今後の教材等備品代金として、現金、1000万円を県に寄附すること。の三条件です。全く苛酷そのものでした。大火後の両津市は、この無理難題を呑み、中学校等義務教育を後廻しにしました。
四回生の諸君が新潟県立両津高等学校の一回生です。三十年十同年創立記念祝典は、貴方達の作ったグラウンドで、菊池校長。
四十一年二十同年創立記念祝典は、1000坪買増した現グラウンドで。威風堂々ネヂリハチマキで行進、深田校長。
五十一年三十同年創立記念祝典は、現体育館が出来たので体育館。後藤校長。六十一年四十同年創立記念祝典は、両津会館。束田校長。事情もあるでしょうが、創立記念を他に求めるのは、卒業生一万人以上の私立大学位いです。私の勤務校の横浜商業(Y校)の九十、一〇〇 都立北園(都立九中)六十、都立西校(都立十中)五十、私の母校佐渡高校も両高の翌日が創立九十です。全部自校内で式典をしています。式が終わって館内放送で、「学校を見たい来賓は玄関にてハスを用意してあります」
私達創立時代の職員生徒一丸となって、木の根を堀越こし、土をならし、蟻の如くそれを運び、飢と戦い汗を流し、血豆に苦しんで建てた学校です。新人類の時代と云われます。飽食の時代と云われます。旧人類でありかつて飢と戦った私には、理解することが出来ません。古い古い考え方なんですね。間違っているでしょうか。
213 川崎市宮前区菅生三-二八-五 以上
追伸
昨夜より夜を徹して書きました。東の空が白んできました。誤字、脱字も多い事と思います。文章もなっていないと思います。悪い所は訂正してください。切除してもかまいません。
『二九の会』の発展と『荒波』の充実を御祈りしています。
■思い出の先生達
(渡辺)両津小学校の1~3年は加藤ゆみ先生だった。美しく優しく、時々は大変厳しい先生だった。家は牡蠣養殖の加藤玉屋と言う屋号で、神明町だった。長女に同年の珠江・さんがいた。実は私の母はあまりお乳が出なかったようで、赤子の時に加藤先生のお乳をもらって吸っていたと言う。そんなこともあってか加藤先生はわが子のように私に対してくれた。後年、彼の長男が私達の社交ダンス教室に入ったので聞いてみると、加藤先生は佐和田鍛冶町の岡固という苗字の家の方だったと言う。
4年生は池田サイ先生だ。わが家から徒歩1、2分の夷新に住んでいた。とても厳しい先生だった記憶はあるがそれ程印象はない。一年間だけだったので仕方ないか。先生の家の真ん前が小松石屋さんだった。七星屋石材店で修行して独立したばかりだったと思う。
・赤江橋マス先生
直接指導を受けたことはないが、何故か印象に残っている。会う度に挨拶する私に元気よく声をかけてくれた。もしかしたら、わが屋と多少ともひっかかりが合ったのかも知れない。後年、私が佐渡に帰り家を継いでからであるが、洋服仕立ての職人さんの夏井さんの家に商品を運んだが、偶然にもその隣が先生の家であった。河原田諏訪町の角辺り、反対側の角地には十王堂?があったと想う。時折バッタリ会うことがあったが先生は朗らかに私に声をかけてくれた。赤江橋先生は体操で知られた二階堂女子大(後の日本女子体育大)出身と言っていたが、ともかく両津高校草創期に両津高校生に大きな影響を与えた先生の一人であったろう。本当にもう一度会って昔話をしたい先生である。二十年ほど前、親しくしていた金井貝塚の本間隆さんが先生の親戚と言っていたのを今ふと想い出した。
(出山)赤江橋先生は母と仲良しの女学校同級生で、家によく来ましたし、河原田の自宅にも行ったことがあります。
・今成厚男先生
体育の先生で、私が入学時から2年の夏休みまで属したバスケット部の顧問だった。六日町の人で、六日町から新大高田分校を卒業し大学時代は選手としてもならしたらしい。身長は165㎝位の小柄で、しかも童顔だった。ただ、大きくステップするように距離を伸ばして走り、シュートなども全身を使って遠くから打っていた。
指導法も本格的であらゆる形のパスを指導してくれた。練習前のランニングの距離が長く、両津高校から羽黒神社まで走り、そこで休んだり階段を使って走りこんだ。その後は同じ道を帰ったり、時々は羽吉の浜まで走って帰ったりした。これはきつかった。そうそう、入学早々の頃はグランドをいやと言うほど走らされた。長距離走の苦手な私には本当に苦痛だったが上級生が怖く何とかついて行った。しかし彼の指導の元、私の同級生の宇治繁夫君は国士舘大に進学した。バスケに精進し、県内中学の指導者として小針中全国大会導き、国体成年女子監督や、現在(平成28年)は新潟経営大女子監督としてチームを全国大会に出場させている。
私が在籍した頃のチームは島内2,3位であった。私の一年上の佐農には、安達さん、小間さんと言う巨漢と長身選手がいた。佐渡no1チームだったが、県大会で全国優勝を狙っていた三条高校と当たった試合を見て愕然とした。三条には樋渡(県外から入学)などと言う190cmを超える選手や190㎝近い掘などと言う選手がおり、最初のジャンプからすでに圧倒されていた。あの長身の安達さんがジャンプで負けるなど考えもしなかった。安達さんは180㎝後半の高さとがっちりした身体があり、ともかく佐渡では手が付けられない選手だった。
私の二年先輩は相川高校が強かった。卒業後、国士舘大に行き、県内中学でバスケの名指導者となった相川の鳥井誠さんがいた。鳥井さんは前述の宇治繁夫君の国士舘時代の先輩であり、現在島内中学校での名指導者として活躍する石川覚君はその又後輩になる。
今成先生は、練習中はものすごく厳しいものの、日常生活ではシャイで子供っぽかった。ベテラン体育教師の 赤江橋マス先生のそばに行くと先生と教え子のように見えたものだ。
・河原寿雄先生
あだ名はカッパであったが由来は全く不明である。風貌や行動からは推測できない。数学の教師で、それはそれは生徒に強い印象を与えた熱血教師であった。普通科のT組?担任だった。進学に特化したクラスが私達L組であり、T組は就職する人が多いクラスだった。何故先生がL組担任でなかったのか未だに不思議である。進学面で、佐渡高校には絶対に負けるな!をモットウーにそれを常に口に出し実践もしていた。授業中無駄話でもしようものなら、即チョークが飛んできた。感情が高ぶり、コントロールももう一つだったこともあり、私語の本人に当たらないことが多かったが、知らん顔で、授業中私語する馬鹿に投げたんで、それが誰に当たったって知っちゃことはない、という感じだった。ただ、誰も文句は言わなかった。先生の大学進学にかける強力な意志と実践を知っているからであり、私語する自分達を恥ずかしく思ったのだ。また剣道の竹刀で黒板をたたくこともあった、「こんなことも分からないのか! 佐校の連中はみんなわかっとるぞ!」と。先生はテニスの顧問でもあった。一度進学指導の相談にテニスコートの横で椅子に座ってる河原先生に進学のことで話しかけたことがある。先生は丁寧に私の話を聞き、「同志社かあ、いい学校だぞ!でも、両津高校からほとんど入った奴がいないんで資料がないなあ・・」と済まなさそうにおっしゃっていた。
後に私が両津高校同窓会の石楠会の会長だった頃(若干36歳だった)、先生が校長として赴任してきた。私は先生のために出来るだけのことをしたいと思って居た。
(伊豆野)私が両高1年S組の時の昭和32年4月に新潟高校に次ぐ進学校の新潟南高より赴任してきた担任。私にとっての河原先生は私の人生進路・生き方働き方に影響を及ぼした5人の恩人の一人であります。当時、東京帝国大学卒の経歴を持つ北川校長は両高を島内トッククラスの進学校にするため、「佐高に追いつけ、追い越せ」をモットーにまず、入学成績の上位クラスをS組(理系)とL組(文系)進学組に編入、そうして集めた生徒を進学指導実績のある優秀な教諭を向かい入れ、徹底した進路指導をされました。
・木村与三次先生
5,6年生時の担任だ。それはそれは厳しい先生だったが、それ以上に優しく心の広い先生だった。河崎の人で何度か家をお邪魔したこともある。父の1年上と言ってたから大正11年生まれだったと思う。
昨年(平成27年)亡くなった。
ビックリするようなエピソードをたくさん残してくれた。
筋骨隆々の体育系の先生でしょっちゅう体育館で倒立して歩いて見せた、それも半端な距離じゃなかった。
ある日、両津欄干橋に私らを連れて行き、欄干で逆立ちをやった、そして何メートルも移動した。
本当にそんなことが出来たのだろうかと今は思うが間違いはないと思う、見た記憶が鮮明にある。
直情径行で正義感に燃えた人だった。
給食のパンに何だか黒いものが混じっていたことがある。
これはネズミか何かのクソだと大声を出し、みんなのを確認し業者を怒鳴りつけると部屋を飛び出していった。
また、グランドの端の方にイカが干されていたことがある。グランドにイカを干すなどとんでもない!とか言いだしてソフトボールのボールをイカの所に幾つも投げ込んだ。もしかして台をひっくり返したかも知れない。
こんなこともあった。クラスの中でひと際暴れん坊の土屋健次郎君がいた。
両親が居なかったか何かで家庭的に恵まれない子だったが、身体は大きくともかく一筋縄ではいかない子だった。
ある時、先生は堪忍袋の緒が切れて、彼を引き倒して両足をむんずと掴み二階の窓から外に出した。
泣き叫んだが直後に彼は気絶したんではなかったか。おしっこを漏らしてたと思う。
彼は二度それをされたし、山口満君も一度同じことをされた。二度めの土屋君と山口君は下手に泣き叫んで暴れると却って身の危険があると察したらしくうごかずにじっとされるままに身をゆだねた。
それにしても本当にこんなことがあったのか宇賀が割れるような話だか、その後何度かのクラス会でこのことが語られたので事実であることは疑いもない。
もう一つ、如何にも木村先生らしいエピソード書いてみたい。このことは、私達の二年先輩である出山正さん(湊出身)も経験したと言う。出山先輩を送りだして私達のクラスを受け持ったのだろう。
先生は日本刀を愛好し、いつも(時々?)学校に持参していた。時々、生徒達がうるさい時に突然、いやーーっ!とか気合を入れて自分の机の上に飾ってあるシャボテンを斬った。私達は震えあがり静かになった。今なら考えられないことで、もしこんなことがあれば全国ニュースに出たろうと思う。
こんな破天荒な一面を持つ木村先生であったが、彼を悪く思う生徒は居なかったと思う。ものすごく怖いが、とてつもなく優しい先生だった。夏休みには毎年キャンプに連れて行ってくれた。相川の達者でテント?張って泊まったこともあった。かなり多くの生徒を一人で面倒を見たのだから今時では考えられない。父兄達も先生を信頼していたのだろう。
そうそう、卒業時に「若鮎」と言う卒業文集を作った。勿論当時はガリ版刷りであり、先生の指導でほとんど全員がガリ版切り等を手伝った。特筆すべきは文集委員を選ぶ時に先生は先述の土屋健次郎君を指名した。みんなは驚いた、成績も悪いし暴れん坊だし、この役に最もふさわしくない人物だったからだ。
学級委員長だったか副委員長だったかの役を持っていた私も委員になった。私が土屋君と一番親しいことを知ってての人選だったと思う。最後には数人が残り夜遅くま頑張ったものだが、その時に先生は鍋焼きをおごってくれた。学校に配達してもらったのだ。冬の夜、夜遅く文集作りに励む生徒達と先生の情景を想い出すと、何だかうるうるとしてくる。こんなすごい先生が居たことを是非とも記しておきたいと思い長文になってしまった。
先生が話したことで覚えてるこんなこともある。
一つは先生の先輩が佐渡を訪れた際に読んだ句である。
「佐渡に来て 山あり川あり 島でなし」。
季語云々とか句の良しあしはともかく、いい句だなあといまだに覚えている。
もう一つは先生が朗々と歌ってくれた「人を恋うる歌」である。
「妻をめとらば才たけてみめ美(うる)わしく情けある 友をえらばば署を読みて六分(りくぶ)の狂気四分の熱」が一番で、次いで「恋の命をたずぬれば・・」、最後は「ああ吾ダンテの詩才なく・・」だったと思う。
六年生の私には到底理解はできなかったが、すごく心に響いたのをよく覚えておる。
その後いつしか私の愛唱歌になった。
・倉田藤五郎先生
南中時代、私の3年F組時代の恩師だ。背が高く背筋がしゃんと伸びて、いかにも国語の教師らしい先生だった。いい意味での古いタイプの先生だったと思う。一度先生に厳しく叱られたことがある。確か、宿題が詩を書いてくる時だったと思う。成績のよくないSK君がいて、宿題をやってこなかった。やらなかったと言うより能力的に大変だったと思う。クラス委員長だった私は、虫の居所が悪かった私はかなり頭にきて、黒板に彼の名前を書いて「またSKが」宿題を忘れて来た」と書いた。何気なくである。その時先生は烈火の如く怒った。私は単なる悪ふざけ程度だったので先生の怒り理解できなかった。しかし、何となく理解できた。先生は成績程度で人を差別することを嫌ったのだ。私の書いたものに彼への上から目線を感じ、彼への差別を見たに違いない。ズバリ、それが私の心情であった。怒られた後、却ってすがすがしかったのを覚えて居る。
先生は野球部の担当であった。野球はうまくなかったと思うが、強いチームで生意気な連中の多かった野球部をうまくまとめていた印象がある。先生が時々語っていたのは、自分は長く剣道を学び、高条先生から強い影響を受けたと言っていた。後年、私が40歳前後だったと思うが、ミニバスを教えたN君がシンナーでつかまり、高校入試に影響が出そうなので何とか息子の担任の倉田先生にお願いしてくれないかと親しくしていたお父さんから頼まれたことがある。
正義感溢れる倉田先生故、逆効果になるかも知れないとも思ったが、藁にもすがりたい父親の気持ちを察するに何とかしたいと父親と私で先生の羽吉の自宅を訪ねた。
私の久々の来訪を歓び、先生は大変機嫌がよく、その後に恐る恐る言いだした私達のお願いにも、「わかった大丈夫」と一言毅然とした態度で言ってくれた。先生は、子供のちょっとした間違いが高校入試に影響を与えるなんてことは反対であったのだろうと思う。間違いがあってもその次に改めればそれでいいではないか、それが倉田先生の考えであったに違いない。
当時、共産党の両津市議で後に市長選挙に立候補し、敗れたものの共産党ながら大接戦を演じた石川忍さんが、25歳で立候補する時に恩師である倉田先生にお伺いを立てたこと、その後もことあるごとに先生の指導を受けた聞いて、何だかすごく気持ちの良かったことを想いだす。私にも石川議員にも、はたまた多くの教え子達に同じような感慨をもたらした先生であったのだろう。平成25年に亡くなり私も通夜に出席したが、遺影の先生の眼光は当時と変わらずに鋭かったが、私らはその奥にあるとてつもない優しさにも思いをはせた。
・清田照吉
『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
片野尾小学校から赴任して来た清田照吉先生(元市議清田節氏父)は大川の学校の雰囲気をガラリと変えた。言葉、運動、学習態度、教室の分離、児童文庫の設置等、中でも先生は歴史を語らせたら息のつく間もない程の話術。国史科苦手の者は一人もいない位になった。加えて物語だけではなく学芸会を新設、情操教育にも力を注いだから、今まで先生の質問にたじたじで答えを発表し得ない児童でも、清田先生が赴任してからはみんな堂々と立って、考えを発表できるようになった。片田舎の暗い分校のイメージから一年足らずで脱却し、明るい活気ある分校に変わって行った。私が今も忘れることのできない歴史劇は、六年の国語にあった「鉢の木」の佐野次郎左工門常世を演じたこと。卒業後も幾度か先生の家を訪問したが、先生が研究記録した地方の年間行事とそれに関連した民間信仰等を編集したものを世に出してくれないかと常に思っている。いずれにしても大川分教場を衣替えしてくれた偉大な教育者であったと讃えたい。
※一般的には「きよた」であるが、正式には「せいた」らしい。照吉氏のお孫さんである新大名誉教授清田(せいた)文武先生からお聞きした。
・高橋信一先生
両津高校時代、選択授業に絵画と書道と音楽があり私は絵画を選択した。先生は高橋信一先生だった。最初の授業は「佐渡おけさ」だった。大きな声で自ら唄い、踊りの説明をした。両手の動きは波の動きである!などと話した記憶がある。
また黒板に、チョークで丸や三角、直線、波線などを見事に描いた。普通なら定規でも使わないとうまくは描けない。これは絵画の基本技術なのだと言った。今に思えば確かにそうだ。ある時、写生に出かけた。大声で、止まれ!と言い、ここだ!と海岸に放置されていた直径80cm位の土管を指した。そして、みんなをしゃがみこませて土管を覗かせ、そこから見える風景が如何に美しいかを説明した。確かに素晴らしい構図であった。写生の時は1時間授業で終わらないこともあった。「先生、次の授業は数学です。河原先生はおそげーから早う行かんと怒られる・・」などと言うと、「何を言っとる、人生にとって美しいものを美しいものと感じる美術と馬鹿みたいな数字のやり取りとどっちが大事だか考えればすぐわかる・・」などと言って知らん顔で写生を続けたものだ。しかし、いろんな場面で厳しい反面、間違いや失敗には寛容だった。私は一度美術室で誰かの版画の上にインクをこぼした。強く怒られて当然の状況だった。要らないことに手を出してみんなに迷惑をかけたからだ。しかし先生は、渡辺、わざとじゃないんだろう?!、そんなら別にどうってことはない、と。私にはうれしいばかりでなく感動的でさえあった。
他にも先生らしいエピソードを紹介する。新潟国体の前年の山口国体時と思う。授業中に突然校内放送が始まり、「皆さん、大変なことが起きました!」と高橋先生の声。私達はビックリして次の言葉を待った。すると、「今電話がありました、山口県で行われている国体で両津高校ボート部が優勝しました! すぐに体育館に集合してください」。校長先生の許可をとってなかった気がする。ともかく、ほとんどの学生が何やら面白そうだと体育館に集まると、壇上から高橋先生一人で優勝報告をしてくれた。他の先生が居たと言う気憶はあまりない。
先生は朝礼の時、壇上を見つめている私達の顔が見えるように反対側から歩いて来た。そして、或る女生徒の顔をいろんな角度からしげしげと眺め「いい顔だなあ・・」、放課後俺のとこに来てくれ」と言っていた。美人と言うよりも、不細工に見える独特の風貌をした女性であった。モデルになってもらいたかったに違いない。
私達の年代の普通科T組に後の芸能プロダクションで活躍することになる畑野の中野間君が居た。国士舘大に合格していたが、美術の授業の卒業作品を提出してなかったらしい。聞くところによると、先生は職員会議で彼を卒業させない、と言いだしたそうで、彼は翌年の夏過ぎまで卒業できなかったと後に聞いた。真偽の程はわからない。
当時の進学生徒は、大学入試と卒業試験がぶつかったりで後者を受けられないことが結構あった。その時は担任の先生が一肌脱いでくれて、レポート提出でOKだったと思う。私も実はその一人である。
高橋先生はこんなこともされた。
私が小学生だった頃と思う。商店であったわが屋やその他商店のウインドウのディスプレーである。両津高校の美術部員であったのか、選択で美術を取っていた生徒達であったか詳しいことはわからないが、一週間くらい毎日、両津高校生が来て店のウインドウを華やかに飾ってくれた。クリスマスシーズンだったかも知れない。私が毎日学校から帰る頃、美しいお姉さん達が熱心に作業をしていた。二人か三人であったと思う。今に思えばそのお姉さん達と話したり手つだったりしてたらどんなにか楽しかったろうと思う。それがかなっていればそのお姉さん達とは親しくなり今でも年齢差を超えて交流が続いて居たかも知れない。実際そんなケースもあるのではないか。この仕組みなどはまさに高橋信一先生の真骨頂と言ってよいだろう。後の各地での版画村運動の精神の芽生えがこのあたりにも伺える気がする。
ある日、時々指導に行っていたらしい新穂の知的障碍児施設「新星学園」生の絵を何枚も見せてくれた。私達はその「下手さ加減」
に大笑いした。疾走する犬を描いた絵は足が10本もあったのだ。彼らより「頭のよい」私達なら、足は4本で、走っているスピード感は地面に平行な線を薄く何本も描いたはずだ。先生は私らの言い分をふむふむと聞きながら、このバカ者が!と大笑いしつつ叱った。それじゃあ単なる漫画だ。どこに風の線などが見えるんだ。新星学園の生徒はそのスピード感を出すのに苦労したんだ。何本も足が見えたんだ、それを正直に書いたんだ。それが写実と言うことだ、と。又私達が犬を描く時に、まず輪郭をさっと掻くことにも注意を与えた。輪郭などないんだ。あくまで体毛が一本一本あって、それを着実に描写すれば全体として線のようになるんだ。一本一本描くんだ、と。私は芸術のすごさに言葉を失ったことを今でも覚えている。私には向いていない世界だと思ったことも確かだ。
・土屋長松先生
教頭先生だった。数学の教師で、草創期の両津高校に来るまでは東京の都立西高の教諭であったと言う。ここは日比谷高校と共に東大入学者数の1位、2位である。私らの頃にはすでに高齢で、普通の商店のおじさんみたいに見えた。家は夷七の町の丸善土産物屋(渡辺洋服店前)だったから元々商売人の血筋があったのだろうか。弟さんが、この家の裏手の海岸通りに面する場所で「おけさ食堂」を営業していた。兄弟だけに顔はよく似て居た。この店で石楠会の役員会のほとんどを行った。この後には「東京庵」でやった気がする。土屋先生は東京理科大卒と言うことで、両津高校から理科大に行く生徒が多かったし、両津高校の数学教師も大半が理科大卒と聞いている。河原寿雄先生もそうだし、私ら同年の小杉栄一君もそうであり、湊の塚本塾の塚本賢二君もOBである。何かしら土屋先生の影響があったのだろう。先生の子供さんは彫刻家になったらしく現在の佐渡中等教育学校の入口にある彫像がその方の作品であると聞いている。
(出山)「先生の子供さんは彫刻家になったらしく現在の佐渡中等教育学校の入口にある彫像がその方の作品であると聞いておる。」
彫刻家になったのは甥と聞いています。おけさ食堂の息子さんかと思います。長松さんの長男は土屋重信君といって親友の同級生でしたが5年前に胃ガンで亡くなりました。パリで活躍した建築家でした。南中を出た後、付属の早稲田高等学院に進み、早大理工学部建築科で学んだ後、坂倉設計事務所に就職。28歳でフランスに渡ってパリの設計事務所に入り、カリブ海周辺
の建築などを多数手掛けています。フランス人の伴侶がいましたが、父親は籍に入れることを最後まで拒み、滞在ビザで仕事しながら半年ごと日本と行き来する生活でした。パリの日仏文化会館設立の際にも事務局の役割で深く関わっています。姉昭子さ
んが日立市に、妹真理子さんは川崎市宮前区に住んでいます。
・永田先生
南中1年生の時の恩師だ。両津小卒の湊側生徒は東中に、夷地区は南中に通うことが市議会で決議され、大もめになった。湊地区生徒の大半は無理を承知で南中に通ってきた。多くの湊地区父兄が教室の前の方に机だったか箱のようなものだったかを並べわが子達に南中での授業を受けさせた。その時の先生方はどのような気持ちで生徒達に対したのであろうかと思う。夷地区の私にとって、加茂小出身の生徒達とすぐ仲良くなったが、勿論それ以上に湊地区の生徒とは仲良かった。そして湊地区生徒と加茂地区生徒との間は険悪な雰囲気が流れた。湊の父兄達は私達を見る度に、「湊の(生徒の)味方してくれえや!」と悲壮な顔をして私達に懇願した。湊、加茂両地区の生徒間でいざこざが絶えず、一対一の場合もあればそれが数人同士の規模に発展し、学校の浦地辺りで決闘があるとか、そんな話もあった。
永田先生はその時にどちらの味方でもなくみんなの前で代表者同士で堂々とやれとか言って代表者の人選をさせたことがあった。実現はしなかったと思うが、「喧嘩する時は堂々とやれ、審判は俺がやる。そして終わったら勝ち負けは忘れて仲良くせえー!」とおっしゃっていた。今思うと感激でぞくぞくとする、何とすごい先生が居たものだろう。先生は肩幅が広くがっしりしたタイプで、身長は普通かやや低かった気がする。目が大きく涼やかだった。今も、背広にネクタイをきりっと締めた先生の姿を想い出せる。
柔道の選手だったと聞いている。入学式の時、前任校は新潟南高校だったと話されていた気がする。
ところが何月だったのだろう、先生が事故死された。バイク事故で亡くなったと言う。現場は福浦と外城の境目辺りで、吉井に向かって左側、当時夷自動車修理工場があった場所の真ん前だったと言う。私達1年E組全員(もしかしてクラス委員の数人だったかも知れない)は先生宅での葬儀に参加した。クラス委員長だった祝博君が弔辞を読んだ。その時小学校4年生?のグレーの制服(襟付き学生服)を着た息子さんが哀しそうに下を向いて座っていた姿を覚えて居る。後に両津高校教員となった永田治人君である。彼もいつの間にか父と似た顔になってきた。すでに父の亡くなった年をはるかに超えている。
(出山)
永田先生は今でも時々思い出す忘れられない先生です。3年生の時に職業家庭だったかの授業だけの担任でしたが、「デコ、デコ」と呼んで放課後にまで相手してくれ、特別に目を掛け可愛がってくれた先生でした。バイク事故でしたが当時の悲しみは、白衣姿と柔道着姿とともに忘れられません。夏休み中に、骨折していた息子さんを自転車に乗せて学校に現れたのを記憶しています。息子さんは佐渡高校で定年を迎えられたようですが、一度、墓参りと、息子さんと思い出を語り合いたいと常々思っているのですが…。
・仲川巌先生
永田先生が亡くなって、交代に仲川先生が来られた。吉井の人だった。永田先生同様にがっちりした上品な方だった。眼鏡をかけたハンサムな人であった。私達が悪いことをすると、椅子の上に座らされた。これは辛い、と言うか痛い。いろいろと生徒を罰する方法はあったが、これは仲川先生独特のものであった。
・本間忠雄先生
中学二年の担任だった。あだ名はマンモスと言ったが、大柄で怒った時の顔がマンモスみたいだったところからのあだ名だろうか。国語の先生であり、ともかく板書が多くて、授業中のかなりの時間は先生が板書する全てをノートに移すのが生徒の仕事だった。本間越堂との号を持つ書家でもあり、板書の字も丁寧で上手かったが、囚人授業じゃないんだから板書はもっと簡単に要点だけをサラサラっと書いてくれればいいのにと思ったものだ。
先生はそれ程皆に好かれる先生でなく、時々はひどく立腹し雷を落とした。後年、先生の親戚筋にあたる梅津の梅沢市議の選挙の時に投票の依頼に何度か私を訪ねてこられた。私が大人になってたこともあり、恩師と生徒の関係でなく、大人同士の関係で話されたのには少々驚いた。しかし、考えてみればたった一年の先生と生徒の関係であり、今後は社会人として仲良くしましょうと言うことであり私にはとても快かった。
・宮川悌二郎先生
国語の先生で北一輝の信奉家で俗に言う右翼と言うか強烈な国粋主義者であったらしい。そう言えば学生服で学校に来ていた気がする。先生が背広を着ている印象もあるが、どうだったのだろう。最初はバスケの副顧問であり、時々レイアップシュートを見せてくれたが余り上手くはなかった。ただ背が高く骨太い体形だったのバスケをやってたこともあったに違いない。授業中は堂々とした指導風景を想い出す。何となくだらだらとしてきた生徒が隣の机との通路に足を投げ出しているようなことがあると、無言で強く蹴っとばした。その余りもの迫力
にやられた本人はすぐにピンとして授業に集中したものだ。確か私の二年時に転校したと思う。転校先は先生の母校である国学院大の付属高校である国学院高校であったことを何故か覚えている。湊の大野屋瀬戸物やさんの次男と言う。兄は第四銀行の支店長(私の父と同級生)をしていた。二人とも眼光炯々とした風貌であった。
後に知ったことだが、右翼団体「大東塾」に属し、『北一輝のこころ』、『ロシア亡国論』(内田良平との共著)の著書をもつとのこと。私の大学の後輩で北一輝研究者である萩原稔君(平成29年現在、大東文化大講師)が来島した時、加藤繁さん達と一緒の席で知り合い、遅くまで酒席を共にしたということである。一度お会いしたいものである。
(出山)「湊の大野屋瀬戸物やさんの次男と言う。兄は第四銀行の支店長(私の父と同級生)をしていた。」は湊4丁目の大野さん(屋号大久)の次男。大野屋瀬戸物屋は私の実家で、その2件夷寄りが銀行員の大野さんの家でした。大野さんは定年前後に事情があって家を処分したと聞いています。
・渡辺松次郎先生
両津高校三年間お世話になった。まっちゃんなどの愛称で呼ばれていた。少し大柄でやや肥満気味の人で、英語の先生であり、おっとりとした方だった。青山学院卒であったが、当時すでに退職近くだったこともあり、発音は昔風であった。そして、基本的な短文を丸暗記させる方法をよく取っていた。先生がいくつかの短文を尋ね、それに答えれば帰ってよいみたいなこともあり、私はよく真っ先に帰ったものだ。当時、こんなのが英語の勉強になるのか大きな疑問を感じていたが、今に思えば、これこそが英語マスターの一番の近道だったのだ。ただその時に、この単純な方法が如何に英語の勉強の基本であるかを説明してくれてたらもっと私も積極的にこの方法を取り入れて居たことだろう。長男敏雄さんが両津高校から東大を出て、ハーバード大で学び、当時は東大の英米文学科の助教授だった。次男も優秀で東北大?を出て三菱銀行?勤務と聞いていた。また、先生の兄は本間茂雄と言い、当時の東京教育大学教授(副学長?)であった。後年知ったのは、この本間教授は日本初の体操競技のオリンピック選手で、自ら惨敗した経験を活かし、長くオリンピック体操競技の団長を務め、教育大の後輩である、小野喬、遠津幸雄、加藤沢男等を育て世界に冠たる体操日本を築いた大功労者とのことでった。その息子さんの本間二三夫氏も体操競技の世界選手権で活躍し、オリンピック(補欠)にも出場しており、「ホンマ」なる技に名を残しているそうである。渡辺先生は、時々息子さんや兄の名を出しことはあったが、それは威張って言うような風でなく、お前たちの母校の先輩やその近い所にこんな人達がいるのだから頑張ってほしい、との思いであったに違いない。それは確信出来る。渡辺先生はそんな先生であったのだ。同じ英語教員に北嶋藤郷(ふじさと)先生が居て、大学院を出た人で大変レベルの高い英語の先生だと言われていた。その北嶋先生が、渡辺先生の息子さんについて「すごい英語の先生なんだよ。また、あなた達の恩師の渡辺も素晴らしい教育者だから・・」とよく話された。私達が、余り担任の渡辺先生を尊敬していないようであり、渡辺先生の風貌も確かに生徒の尊敬を受けるような感じではないから、自分から何とか渡辺先生を持ちあげてやらなけけばと思ったに違いない。これはこれで素晴らしいことである。
北嶋先生は後に敬和学園大教授になり、英語で良寛を紹介する本を出版されたりと活躍された。やはりすぐれた先生であったのだと今に確信している。
私の結婚式にも列席頂いた。その時、「渡辺君はクラスのリーダーで・・・、クラス会があり、私が碁に夢中になっていて遅れた時に、渡辺君がものすごく怒ったのを覚えて居ます・・」などと話してくれた。勿論、新郎の私を誉める言葉ではありながらも人前で平気で自分の恥をさらすような大度量の人間であったのだ。今は子のようなタイプの先生が子供達を教えることは可能なんだろうか。
先生はともかく碁が大好きで、よく帰り際に私の祖父がやっていた個人的な碁会場(現在の丹下昭治宅の二階)に来て遊んで行ったらしい。私が三年生になり、進学指導があった。父兄面談に母が行った。帰宅後言うのには、「渡辺先生には参ったっちゃ。和弘は大丈夫だと一言言った後すぐに、お爺ちゃんには碁で大変お世話になってる。本当にいい人だ。とそんなことばかりずっと話してそれで終ったっちゃ」と。如何にも渡辺先生である。進学のクラスだけにともするとギスギスしそうなクラスであったが、先生のおっとりとした風貌と指導でどんなにか私達は救われたかもしれない。
先生の自宅は今も潟上に残り、5,6年ほど前に朱鷺の研究者・研究生が集う「朱鷺談義所」となったことがある。その時に何回かそこを訪れ、部屋部屋を懐かしんだものである。カラーテレビを初めて見たのも先生の自宅だった。大学生の夏休みに誰かと遊びに行ったのだろう。教え子の訪問に先生はうれしかったに違いないが、無表情で昔を語らずカラーテレビがどうのこうのなどと話していた。先生はうれしさをこらえ、話題をうまく引き出せなかったのだろう。奥様が何かと気を遣っていろいろとお菓子や飲み物を出してくれた。
先生は畑野坊ケ浦の本間家から潟上渡辺家に婿入りしている。先生の兄の本間茂雄氏は旧制中学時代から東京に進学し、先生自身も私立の青山学院大卒の所を見るとを本間家はかなり裕福であったに違いない。
渡辺家は俗に言う庄屋(佐渡で言う金持ち)で大地主だったらしいが農地解放でほとんど土地をなくしたと先生は話していた。
先生とは見合い結婚であったらしく、見合いしたらすぐに自分の住いに押し寄せて来て、こっちが知らぬ間に夫婦になっていた、などと如何にも先生らしいとぼけた調子で話しみんなを笑わせていた。まさに先生の周辺には常に春風が吹き陽光が差していた。
渡辺正一先生
小学校の5,6年の頃に来られた。直接授業を受けた記憶はないがともかく恐ろしく怖い先生だった。すこし太っており眼光が鋭かった。記憶にあるのは、月曜の朝礼の時にうるさいと、張本人の一人をステージの近くに呼びつけ、耳をつかんでステージまで吊るしあげた。今思うとあんなことが本当にできたのか不思議であるが。
この先生の長男が佐渡汽船の重役になり、黒崎の「新潟ふるさと村」を再興した渡辺正之さんです。奥さんは私の同年で、夷二磯野幸子さんです。両津高校で長く体操の先生をされてました。現在はご夫婦で浜梅津で生活しています。
磯野先生が高校時代バレーボールを指導した(後藤三夫先生の長女である)浩子さんの息子(アメリカで育った)が高卒時にニューヨークヤンキースに二位指名された加藤豪将(ごうすけ)選手です。「NUMBER」って雑誌に載った彼の写真を見せた時の幸子さんの喜びようはすごかったものです。
渡部繁先生
(山田)渡部繁先生の印象は強いなあ。彼に殴られたことがあります。自分はおとなしい人間なんで本来なら殴られないのですが。同級生のカネカ魚屋さんの子をからかったんです。詳しく覚えてないけど、ちょっと彼をばかにしたにしたんだと思います。そしたらそのからかったことに対してぼかーんと殴られてねえ、学校時代で殴られたのはこの時だけです。自分では特別ひどいからかいでもなかったと思うんですが、渡部先生からすると弱者をからかうなどは絶対に許されないと思ったのでしょうね。差別する、バカにするなどあってはならないことだったんですね先生からすると。今想うと、そんな先生を今の時代に欲しいものです。いじめだ何だと色々言われてますが、本気で怒ってくれる先生は必要ですねえ。
親父はそれを聞いて何にも言わなかった。悪いことをすれば殴られて当たり前だ、先生はよく殴ってくれたと思っていたに違いありません。
悪ガキはたくさん居たんですが、その連中はうまく立ち回って見つからないけど、自分は慣れてないからすぐ見つかって。(笑)
(渡辺)当時の生徒数ですが、小学校の時は一クラス50人位だったと思いますが、松・竹・梅・桜・杉・桃組がありました。校長先生は木村幸次郎先生で、家は確かアリサ美容院の道路を挟んで真ん前だった。ちょっとした金属製の門があって、その向こうが広い庭だったような。その奥に家がありました。奥さんは南中の美術の先生で、怖かった。ある時「そんなにうるさいなら家に帰りなさい!」と言ったらみんなでこれ幸に帰宅したことがあり、大問題になりました。私は先生とは相性が悪かったのか、単に絵が下手だったのか覚えていませんが、通知表で2をもらったことがあります。2をもらったのは、この時と、同じ南中時代に佐山勇(大業)先生の習字でもらった二回だけです。習字は結構うまかったし、先生にも誉められたものですが、この時は、「おまえは相撲の選手に選ばれているのに練習に来ない。だからだ。習字の気持ちも相撲の心も同じものだ。」と言われました。ヘンテコな話ですが、如何にも佐山先生らしい解釈で腹は立ちませんでした。やはり根底には佐山先生の素晴らしい人間性があったんだと思います。先生はかなりどもって話しました。当時はどもる人が多かったですねえ。今に想えばあの現象は何だったんでしょうか。今はどもる人を殆ど見ませんね。
昭和30年代初期だったと思いますが、延命寺さんの門の前の狭いスペースに何か箱を置いて、その上で「・・どもりは必ず直ります!」とか云ってました。「・・矯正」と言うような白地に墨字の立て看板が横に建てられてました。今想うと、そんな「どもり矯正会」のような会があって、どもりの人が人通りの前で大きな声でしゃべることでどもりを矯正すると言う運動だった気がします。
(山田)私達は松・竹・梅・桜くらいだったかなあ。生徒数は同じ位いたと思う。校長先生は木内裕二先生でした。赤井地神社の宮司さんです。
(小池)木内先生の伜さんも先生で当時は加茂小に居たなあ。
(渡辺)私の時は伜さんは両津小の教務主任みたいな立場でした。余り記憶にないですが、後に歴代校長先生の額に入ったお父さんの写真とほとんど同じ顔でした。
★七夕の唄
(渡辺)そうそう、大事なことを聞いておきたいんです。
両津の七夕の歌です。資料によれば、昭和23年佐渡民報社が懸賞付きで募集しました。「七夕さま」作詞・仙宅千寿、作曲・中田信、「七夕祭のうた」作詞・土屋実、作曲・中田信が入選しています。
この中田信さんとは誰のことなんでしょうか。両津関係の歌でよく出て来る名前なんです。遠い記憶では、南中時代の朝礼か何かで、中田信先生のお父さんは加茂小の校長をやられた方で、中田信先生は両津出身の作曲家です、との話を聞いたのを覚えています。
(山田・小池)築地の骨董屋さん「佐州」の大屋さんの家だと思う。お父さんは校長だし。家は近いから知ってるんですが、後で両津中学校に教頭で来ました。怖いと言うかなかなか勇ましい先生でした。
信さんの下だと想いますが、教員で中田民雄さんと言ったと思いますが、関西の方で結構有名な俳句結社に属し、小田とよ子さんを通じて句集などを読みました。結構佐渡を詠んだものが多かったと言う記憶があります。今も佐渡へ帰省してますよ。
(小池)中田先生の息子さんは間違いなく音楽家です。自分よりかなり年上でしたが、その人が音楽家と言うのは結構知られてました。
古堀角次先生が記憶にあります。音楽の先生です。私は可愛がられたけど、気にくわんことがあるとのすごく怒って他の生徒はくらつけられていました。小学校の1,2年生頃の先生です。男で音楽の先生は珍しかった。ともかくおっかねえ先生でした。
(山田)小学校の時、松木ばっちんと言う先生が居た。片方の足が悪いんで、自転車に乗る時は片方の足が宙ぶらりんみたいな恰好で。ばっちんと言うのは、そう言う障害を言った言葉かなあ。河崎の人でした。
松木ばっちん何とかかんとか言ったフレーズがあった気がします。自転車こいでもなかなか前に進まん状態を言ったのかも知れません。おそげえ先生で、子供の頭を上から押さえつけて回転させるんですが、その時に爪を立てるんでひどく痛かったものです。
(小池)河崎方面の須藤先生も覚えています。お寺の方でない人で、その息子さんが私の5,6年位先輩で市役所に勤めていました。
(渡辺)椎泊の須藤でしょうかね。一軒は願誓寺ですし、もう一軒の須藤からは前国立民族博物館館長の須藤健一先生が出ています。昭和20年生れですから、東中の一回生です。お寺の方の息子さんと言うか後継ぎは須藤信宏君で両津に戻って来てケアマネージャーをしてると聞いてますし、姉さんは尚子さんで加茂の名門高橋家(酒造会社、高橋秀世さんは39歳で県議)に嫁ぎました。二人とも私達がやってた英語サークルの仲間でした。高橋家は佐渡銘醸を設立した家ですよね。
(山田・小池)高橋秀世さんは足が悪かった。その原因は結構有名な話で、新潟地震か何かの時二階でマージャンしてて、ビックリして飛び降りて足を大怪我したとか。
他には渡部繁先生が思い出に残ってます。両津の人ではないと思うけど春日町に家を建てました。奥さんも先生でした。(奥さんの旧姓は近藤)近藤苗字は確か住吉だったかな。住吉神社の近くです、近藤家の奥さんは両津小で養護の先生でした。
(渡辺)旦那さんは近藤甚平先生かなあ。確か東中辺りにもいて、息子さんが東大に入ったはずです。
(山田・小池)両津中学校はA~E組まであった気がする。守道校長でした。守道さんは両中の歴史の中で一番長い校長だったと聞いてます。長男は私(山田)と両津高校で同級生でした。大阪の方へ行ったと聞いてます。守道先生の前は原校長だったかな。
(渡辺)私も入学時は守道辰雄校長でした。ってことは守道校長は山田さん、小池さんの頃からずっと両津中ー南中の校長だったんですね。当時は中学校の合併問題で、校長の移動は難しかったのですかね。娘さんが池田呉服店の奥さん敬子さんですし、辰雄先生の弟さんが真野町真野の臼杵正巳校長先生です。「佐渡スポーツ賛歌」などと言う立派な本の編集責任者でした。バトミントンでしたか、スポーツの指導者としても知られた方でした。私の記憶では、正巳先生の奥さんが馬首の山本家と親戚でした。もしかして、山本家から養子に入って守道正巳さんをお婿さんに迎えたかも知れません。私の同級生の山本君子さんの結婚式の時、列席されていて、そんな話をしてくれました。正巳先生の娘さんは両津小の先生をしてまし智恵子?先生で、版画教育で知られてました。高橋信一先生の門下生です。旦那さんは越後から来られたお婿さんで、両津小校長や佐渡市教育長を歴任しました。この方も版画では知られてましたね。
(山田)守道さんの家は、河崎のバイパスのカーブの所の右側にあります。下を通ってると見えない場所です。この守道苗字は元々は山伏の家だったとどこかで読みました。他にはちょっとない苗字ですね。
(小池)馬首の山本家の娘さんが大阪屋さんの最初の奥さんです。熱心な天理教信者でした。
山本家の娘さんで両津中学出た人が居ると思います。同級生の山本敦子もそうだったかなあ。加茂の氏田良隆と両津の橋本喜一の市長選一騎打ちの中で中学合併問題が大騒ぎになって、その関係で山本家は娘を両津中に出したんだと想う。
(山田)ゴトウボーシの後藤英吉先生がいた。両津中学に入学した時の担任でした。しかし一回か二回しか来ないのに学校を休んで。あんまり学校に来なかったのはどうしてだったのか。一度怒られた記憶があります。昔、旭町辺りに造船所(佐渡造船、田中湖山さんが社長)があり焼玉エンジンを熱くするシューっと音がする機械と言うか火薬があった。それで焼玉を熱すると言うか。それを私達がこっそり遊び道具にしてた。それを近所の人が見つけて学校に連絡したようだ。その時こっぴどく怒られた記憶があります。まあ、大変危険なことだけど、子供心にここまでは大丈夫と言う境目は分かっていた。海のそばでもあるしね。
だから少しは担任として居たことは確かです。先生が来ない時は他の先生が来たとは想うけど、それをいいことに、先生が来ないから英語がダメなんだと言い訳してた記憶があります。
(小池)中学3年間、国語の松木左衛門五郎先生がいました。私にとっては3年間最高の先生でした。私が多少とも国語に自信があるのはこの松木先生に出会ったことだと思う。厳しいけどやさしい先生だった。ともかく頭がいい感じで、文法をしっかり教えてくれた。そこで完全にマスターしたんで、高校に入って文法の授業では簡単過ぎてしょうがなかったものです。中学と高校が同じレベルの気がしました。高校の先生に、小池どうしてそんなに文法に詳しいんだと言われたこともあります。まあ、高校の先生が小田忠雄先生だったこともありますが。文法なんて面白い分野じゃないのに、それは松木先生の教え方が驚くほどうまかったんでしょうね。他に家業が印刷だったから文章と言うか国語自体に関心が高かったかも知れません。
しかし、私以外の人も松木先生の授業は熱心に聞いていました。そうそう、先生のことで印象に残っているのは、三年間ずっと宇賀神祭に真木の松木先生の家に立ち寄ったものです。仲間も一緒です。先生の家に寄ると先生は居たか居なかったか覚えてないけど、お爺さんとお婆さんが居て必ずあん餅を振まってくれました。私らは楽しみでした。息子の教え子が気楽に訪ねていける松木家ってのは、親子そろってすごいなあと今になってつくづく思いますね。当時は格好つけて下駄とか足駄で行ったものですが、途中で鼻緒が切れて往生したものです。だから当時松木先生にクラスをもってもらった連中は80歳になった今でも親しい仲間同士です。今はさすがに歳なんでやってませんが、クラス会も長くやってたものです。
今に想うと宇賀神祭りなのにどうしてあん餅があったのか不思議ですが。
それからもう一つ、いつだったか国語の先生方が集まっての会議みたいなのが公民館にあって、私が出席して何か話して欲しいと言われたことがあります。松木先生が「これは俺の教え子の小池です」と紹介してくれました。何を話そうかと思っていると、小池は鬼太鼓を話せばいいがさ、と言ってくれたものです。
私もその席で松木先生にはこれこれしかじか大変ご指導を頂きました、と話したのを覚えています。
その席で上手い鬼と下手な鬼の実演をしましたねえ。
(渡辺)松木先生は国語教育の専門雑誌にいろいろと論文を発表していました。佐渡のレベルをはるかに超えたすごい先生だったんでしょう。全国に知られた人だったと聞いています。退職近い頃は南中の校長で校内が大荒れの時代でいろいろと苦労されたことはよく知ってます。学者タイプの方だっただけに学校管理者としては苦労されたと思います。教育懇談会か何かあり、私は両小PTA会長として出席しましたが、当時の伊豆野市長が30人近く集まってる会議の席で、松木校長を怒鳴りつけたのを覚えています。革新の伊豆野さんから見れば松木さんは政敵だったんでしょうか。
(小池)高校では生物の北見秀夫先生をよく覚えています。高校三年間、牧野富太郎先生の話ばかり聞いてた気がします。牧野先生はよく知らんかったけど北見先生を通じてともかく話を聞かされました。
(渡辺)北見先生は私らの授業中に、牧野先生からメタセコイヤをもらった。日本に三本しかないもので、一本目は先生の故郷高知県に、二本目は僕(北見)の為に両津高校に植えてくれた、と。後年、私が両津高校石楠会会長の時、新校舎建築問題があり、その法線にメタセコイヤが引っ掛かるので伐採すると。そんな会議か何かの時、役員の一人が北見先生(と追随した高橋信一先生)が烈火のごとく激怒して、こんな日本を代表する記念碑的メタセコイヤを伐るとは絶対にだめだ!と言ってるがどうしたものかと。私はそれほど関心はなかったけれど、まあ残せるものなら残した方がいいんじゃないかと発言した記憶があります。
また「両津高校20年史」に載ってますが、生物部部長だった渋谷尚武(ひさたけ)さんが同志社大に入り、帰省の度に京都の植物を持ってきて両津高校の庭に植えてくれている。京都の植物がどれだけ佐渡で育つのか見極める意味がある。だから、時々県から役員が来て庭が雑草で汚いですねえ、などと言う馬鹿が居るがとんでもない話で、それぞれが貴重な植物群なのだと。
私は又授業中に新大?の椿教授とか歌代教授の名前を聞いた記憶があります。私には自慢話と言うよりも、大学教授達と普通に接して植物関係の知見を交換していると言う自然の話し、即ち、私達にも植物に興味を持って同じように仲間に入らないか、そんな気持ちじゃなかったかと今になって思っています。
先生は退職後でしょうか羽茂高校の寮官?だった気がします、もしかして講師として授業も教えたかも知れません。大人になった私もその時少々話しましたが大変好感を持ちました。いい人だったんだなあ・・と。
また、両津高校生物部の部長だった近藤保さんが東大教授になったのは本当にうれしかったに違いありません。いくら威張ってもいいことです。
他には、私が大和屋の子と知ると、「お前のとこのおじいさんは素晴らしい人だ! 夏になると家全体を朝顔で囲っている」と。地面の所から二階まで縄を張って朝顔の蔓を伸ばしてたんです。当時は少し恥ずかしい面もありましたが、今に想うと素晴らしいことだと思いますし、それを北見先生が感動してくれたことは本当にうれしいことです。他の思い出は「楓(かえで)と楓(ふう)は別の植物だ」と言ったのを覚えています。レベルが高過ぎて大学の授業ですね、これは。だから、北見先生の授業はベルが高過ぎて高校生には面白くなかったんでしょうね。
北見先生の本と言うか、随想みたいなものを読んだことがありますが、これはすごいことが書いてあります。一緒に読んだ知人も北見先生の学者としてのすごさにビックリしてました。植物が育つ為の地層とか岩石とか水流とか、あらゆることを網羅した知見の元に植物を書いているんです。これは伊藤邦男先生とは一段違うなあと思いました。時々植物関係者が言いますが、北見先生は全国区の学者であり、伊藤先生は全県的に活躍し、現在の中川清太郎氏は島内トップの植物研究家であると。真偽のほどはわかりませんが、あの北見先生の文章を読んだ時の感動は忘れられません。
★渡辺利雄・近藤保、二人の東大教授
(小池)さっき出て来た近藤保君は入学した時は一緒のクラスでした。勿論頭は良かった。がり勉型の秀才ではなく、結構みんなと普通に遊んでました。理数系が得意だったなあ。
家は道路沿いの大きい神社の近くだった気がします。ともかく頭は良かったですが、勉強勉強と言うタイプでは全くなかったですね。家は金井の本線沿いの神社の辺りだったと思います。
渡辺利雄さんは1年上で有名でしたが、勉強ばかりでなく運動も出来たと言う印象を持っています。
当時は成績が玄関に出てたから利雄さんの出来るのは誰もが知ってた。全教科全部出来るのに、おまけにスポーツも出来るんで後輩の自分達もよく知ってました。
(山田)当時はすごい生徒が続々と出たと言うことですが。当時はともかく菊池勘左衛門校長が、古今東西天下一の学校!を叫んでいましたね。しかし、渡辺利雄はそれとはちょっと違ってともかく別格でした。あれが出来てこれが出来んと言うんじゃない、何でもかんでも全て出来た。先生方は目を離すと言うか勝手にさせておいた。私が山田だから前の席は守道、後が渡辺でした。授業中はともかく静かで授業を受けてるんだけど、全部わかってるから授業とは別のことをやってたかも知れません。先生も一目置いて利雄君には声もかけなかった。学校では自分達と一緒に竹の棒でワイワイやったし、スポーツも出来たし、がり勉など片鱗も無かった。体操の時間でなく、時々鉄棒なんかもやってたなあ。車輪でも大車輪をバンバンやってた。俺達は鉄棒ってもそんなもん知らんかったから驚いたものです。
長谷川さんについては一年上だけど、優秀だとは聞いてました。
(渡辺)そうすると両津高校からは二年連続で東大に入りましたね。しかも山田さんの同級生の渡辺利雄さんの時は、一年浪人して長谷川さんも入りました、長谷川利平次さんの息子さんですね。そして翌年に近藤保さんです。渡辺、近藤さんは共に東大の名誉教授になったわけですね。近藤先生の兄さんは金井の町会議員をしてました。元々は電柱に看板を取り付けるような会社をやってました。電通なんかの関係でしょうか。どこかで聞きましたが、両津高校時代は吾潟の池田さんと言う内に下宿をしてたと。親戚の家だったそうですが。
渡辺利雄さんは、父の松次郎先生が私達の恩師だったんでいろいろ聞きました。先生も決してホラを吹くとかそう言うんじゃなくて、うちの息子は変っとった、って言い方でこんなことを話しました。
ともかく家では勉強ばかりで、親が身体のことを心配した。そこで、兄貴(本間茂雄東京教育大教授、体育学、オリンピック出場の日本最初の体操選手。その後、競技団長としてオリンピックに出場し世界一の体操日本を築いた。金メダリストの小野喬、遠藤幸雄、加藤沢男は全て教育大の教え子)に相談したら庭に鉄棒を作ってくれた。そして利雄さんに鉄棒を教えて、毎日これとこれとこれを必ずやれと言ったそうです。それで利雄さんは鉄棒がうまくなったそうです。勿論、体力強化にも役だったでしょうね。夏休み中は、勉強ばかりで身体壊さないように、又体を鍛えるつもりもあり、毎朝自転車で小木まで行ってこいといった。小木に親戚があるんで、そこへ行って腕に印をつけてもらって来いと。その次の朝、早々勉強してるんで、「どうして小木に行かないんだ!」と怒ったら黙って印が付いた腕を見せた。即ち、勉強時間に食いこまないように、その分早く起きて小木に行って来たと。この子については、ともかく好きなことをさせておこうと考え直したそうです。まさに親も驚く努力家だったし、おまけに勉強が好きで好きでだちかんだったらしいです。
私等の頃はともかく勉強で佐渡高校に負けるな!と言う時代で、河原先生(カッパ)などは剣道の竹刀を持って、黒板バンバン叩いて、こんなのがわからんのか、佐渡高校では全員しっとるぞ!とかハやってました。ちょっと私語が聞こえるとチョークを全力で投げつける、コントロール悪いから誰にあたるかわからん、一人でも悪いとみんなの責任だと考えてるから誰にあたろうが彼からすれば知ったことか、という理屈。しかし、今から考えれば何と有り難い先生であったことか。
(山田)私の頃は先生が勉強勉強と大声を出すと言う感じではなかったなあ。土屋長松先生(あだなはケモ)もそんなに厳しいと言う印象はなかった。
(小池)土屋先生は厳しかったと思う。私と同じ町内だったんで、私を町内町内と言い、町内しっかりせ―と言うのには困った。こっちは数学は大の苦手だったのに。進学についてはやっぱり勉強せ―!と言ってた気がするなあ。
(渡辺)あれだけ高レベルの大学に沢山合格したのに、進学の面で猛烈な先生は居なかったんですかねえ・・。私が石楠会の会長の時、東京支部会で後藤精一さんと話しました。後藤帽子の人で、名刺見たら日本航空の役職が書いてありました。彼にしても小池さんより年上で、しかも日本航空ですから当然しかるべき大学を出てたはずです。
菊池校長が富山県から教え子たちを連れて来ましたよね、筏井(いかだい)先生とかちょっと変わった名前の。
(小池)英語の高畑とか。皇太子みたいな感じだった。皆さん若くて優秀な先生だったと思います。
(渡辺)山田さんと同級生の私の叔父さん渡辺良一が言うには、富山から来た数学の飯田?とか言う先生に両津高校で習った。後年、社会人になって東京の進学のすごい名門の戸山高校へ仕事で行ったらばったり飯田先生にあった。お互いビックリして、「こんなすごい学校で教えてるんですか?」と聞いたら、冗談交じりに、「実は俺はすごいレベルの先生なんだけど、両津の菊池校長先生に無理やり数年間の約束で佐渡くんだりまで行ったんだよ」と。私はそれを聞いて驚きました。菊池勘左衛門校長は両津高校を古今東西日本一の高校にするために出来ることは何でもやったんだなと。本当にすごいことだと感心し感激しますね。
こんなことも。亡くなった大盛屋の後藤昭雄さんが、何十年も前ですが、若手の一流女流棋士(碁)に富山出身の長部?オサカベ?とか言う人がいて、その父親は両津高校で先生をしていたと。
(渡辺)キンダホールがこの三月(平成30年)に閉園しましたが・・。
(山田)言っても詮無いことですが、閉園記念誌のようなものを作ってほしいですね。
閉園私はキンダホールを出ました。ここはいつ創立かわかりませんが、私の二年先輩は居ました。当時の写真がありますし、桜井
(渡辺)私も小学生の時、数回だけ日曜教室に行ったことがあります。子供が20人も居たのかなあ、大柄で優し男性の外人(ドイツ人?)で日本語が上手かった先生が楽し話をしてくれました。とても面白かったのですが、何故その後行かなかったのか不思議です。もしかして、その外人の先生が居なくなったような記憶もうっすらあります。
(山田)夷保育園は元は今のあの場所が託児所だったそうです。中静先生はその当時から居たそうです。諏方神社境内だったので、氏子総代だった岩原九平さんがお世話して下さったそうです。託児所の隣にはどんどこ屋が居て、どんどこと音がしてたそうです。トイレは板張りで、直接そこにする形で、大便は別に囲ってあったそうです。普通、託児所はお寺の境内が多いんですが。今の保育園の場所は元は青年会館があり、その前は夷町の頃ですが、夷小学校があったわけです。例の明治の諏方神社の図絵に二階建ての夷小学校が描かれてますね。
戦時中は一時キンダホールが無くなり、その場所に夷保育所がありました。自分の後輩は今のキンダホールの所にあった夷保育園を卒業したしたいます。昭和21年~22年当時の夷保育園園長は岩原志んさんで、両津高校創立時に尽力された岩原一雄先生の奥さんです。正覚寺の裏手です、その後、辻行政司法書士事務所になった家です。一雄先生は音楽の先生などをされました。
(渡辺)岩原一雄先生は橋本喜一さんと共に両津高校創立に関わった教員で、河原田高女(佐渡高女?)の先生でした。一雄先生の弟さんが系吾さんで、東京御徒町ヨシケイデパートの高橋家に婿入りし、東京の幼稚園業界で名を成しました。道灌山幼稚園、高松幼稚園や短大なども経営し東京での同業界の指導的立場の方でした。その関係か、又は一雄先生独自の動きなどか知りませんが、私らの頃東京田端に越佐教育会館があり、佐渡関係の大学生がたくさん生活して居ました。同年の辻久和君が居たので一度そこで泊まりましたが、同年の吾潟池田君(佐渡高校卒)、一年後輩の春日町忠平君などが居たのを覚えています。越佐とは言いながら佐渡関係者が大半だった気がしますが、詳しくはわかりません。ともかく、ヨシケイの高橋啓吾さんは通じて両津高校創立時に多大な寄付をされたりしたのが岩原家ですね。
啓吾さんの義父が教員時代の教え子が当時の文部大臣であったそうで、びっくりするような展開で両津高校が創立されたと聞いています。
(渡辺)両津小学校についてです。
(山田)私の時は学校の前に道路はなかった。野球やってライトに大きなフライを打つと勝広寺の墓に入るし、ライトは墓の前で守ったりしました。
柳屋さんは加茂湖まで家があり、縄を作っていて北海道に出荷してました。長い縄がずーっと加茂湖までつながっていたものです。そこをまたいで椎崎方面に行ったものです。若宮神社はやや高くなってるので、学校から行く時は神社に上がる石段があり、そこを上がって神社を横切り、また石段を下って向こうに行ったのです。そこから向こうは比較的道路風になってました。遊郭街への道ですね。
従って、湊本町通りから若宮神社に行く時は、今の幼稚園(平成30年春、河崎地区と合併閉園)入口の鳥居を通ってそのままの高さで神社に行ったのです。今のように幼稚園を通り、若宮通りに下って、また神社の石段を上ると言うのではないわけです。
夷から湊の遊郭に行く場合は、湊本町通りから若宮神社を通り越した辺りで加茂湖方面に下ったのです。その辺りに湊魚市場もありましたし。その辺りから湊は本町通りと裏通り(遊郭通り)と二本あったのです。
話が変わりますが、当時の新聞配達店は夷八の樋口新聞店と夷4の内海医院辺りにもう一つありました。
両津小学校の裏手は加茂湖でした。私達の後の時代に、その場所で一応プールと言う名前で、飛び込み台と縄でしきりを作ったようでした。私の時は、自分の記憶の限りですが、昔の魚市場の前辺りが砂浜でしたが、そこに簡易飛び込み台や仕切りを作り、プールとして大会などを行いました。佐渡中学、後の佐渡高校が強かった頃です。
(渡辺)私の時代には低学年の頃はグランドは表側で、高学年になったら裏の加茂湖側でした。表時代の思いでは洗濯の木などと言ったガンガラべソの細長い葉っぱだか果実だかをとって水につけてこすると石鹸みたいな泡が出て。数年前、両津小学校校長先生と話した時、私の年代らしい方から、あの木はその後どうなったと手紙で問い合わせがあったとか。校長も困ってました。
運動会はそこで行われ、私達がサカイのチャンと呼んでいたおっさんが自転車の荷台に直方体のアイスキャンデーの箱を乗せて販売しました。ある時、強風で自転車が倒れ、中のキャンデーがこぼれたのを見つけた悪ガキたちがそこに殺到しキャンデーをかっぱらってました。キャンデーやさんはジャンジャン鐘を鳴らして人寄せしてました。当時、グランドの周辺は少し高くなってて土手みたいだった記憶があります。もしかして、今の若宮通りが出来始めてたのかも知れません。
裏側のグランドの記憶は、5,6年頃、湊側の空き地にイカがたくさん干してありました。担任の木村与三次が怒って、学校の敷地にイカを干すなどとんでもないと、野球のノックついでに、イカをめがけてボールを打ってました。
確か小学校の湊側の中村佐太郎さんの干したイカだったはずです。そうは行っても地元の名士の家ですから、それを知ってたはずの先生が平気でボールを打ちこむんですから、木村先生の度胸は半端じゃなかったはずです。まあ、元々はあの辺りは佐太郎さんの土地だったんでしょうし、その名残でイカを干してたんでしょうが。
佐太郎さんとの境辺りには一部土手が残ってた気がします。中村さんとの境ははっきりしてなかったんで、中村さんの裏の小さな船着き場みたいな所でみんながクロダイを釣ってました。すぐそこで、でっかいのが釣れてましたね。
(山田)先程、北海道へ柳屋さんが縄を出していた話をしましたが、当時は竹を裂いて細くし、それを丸く縛った俗に言う輪竹が両津の至る所におかれていました。これも北海道へ搬出したんでしょう。何たって佐渡竹は有名でしたから。
両津小学校ですが、当時のクラスは松、竹、梅で桜はどうだったかなあ。クラスは50人位かな。
中学は両津中学で小学校からそのまま同じメンバーでした。

両小の建物はアルファベットのE形で縦が加茂湖と並行で、横棒の一番上が第一校舎、二番目が第二校舎、三番目が第三校舎で一番湊側です。第一と第二を繋ぐ縦棒が体育館、第二と第三をつなぐのも体育館です。
第一第二の間のスペースはグランドです。例のガンガラベソの木は第一の下の所ですから、今の離島センターの電話ボックス辺りです。その木には溝などがありそこに石などを突っ込んで遊んだものです。
自分達は中学校になっても同じ場所の第三校舎で学んだわけです。ただ、弟の世代になるとぼちぼち坂上の校舎にも行くようになり、授業は両方を行ったり来たりだったじゃないかな。椅子を持って坂上まで上がったそうです。弟は昭和13年生まれです。この後数年同じ状態が続いたようですから、全てが上に上がる過渡期だったんでしょうね。
学校時代の科目で言うと道徳と言うのはなかった気がする。米軍に占領され、古い道徳教育が否定され、まだ新しい道徳の方向性も出てなかったんでしょうね。
(渡辺)私らの時は、松、竹、梅、桜、杉、桃組もありました。何たって団塊の世代ですから。私らの入学時に出来た南中に入ったら、A組~H組までありました。他にI組があり、これは各学年の今で言う多少知的に劣る生徒達を一クラスに集めたものでした。やたら秋津の生徒が多かったのを覚えています。しかも、私らの一年下が多かった。本当かわかりませんが、当時が秋津は近親結婚が多いのでと言われていました。お茶だったか何かの技術を地域外に出さないと地元同士で結婚させたとか。
両津小時代の校長は木村幸次郎先生、教頭は酒井先生で海岸通りに家があります。
中学の校舎ですが、私の低学年の時は確かに湊側校舎には中学生が居ました。私より5つ位上の学年が居たのを覚えています。
(山田)一年上に姉が居たけれど教科書を譲り受けた記憶はありません。当時は戦後まもなくで教育体系も変化があり、毎年教科書が変わってたかも知れません。製本は今のとほとんど同じでしたね。
(渡辺)私の時代には、結構親戚や身近な先輩たちから教科書を譲り受けてました。お金があるなしよりも、身近に先輩がいるかいないかが一番で。私は譲り受けた覚えは一度もありません。今思いだすに、いろんな書き込みがある教科書を使ってる生徒が居たものです。大抵は優秀な先輩が丁寧に使った教科書の「お古」を使ってましたね、友達は。自分も先輩のように勉強が出来るようになるみたいな。まあ、そこを考えて親がもらってきたんでしょうね。まあ、親からすれば出来の悪い生徒の教科書をもらうと馬鹿になるみたいな感覚もあった気がします。また、成績が悪い子の教科書は汚れてたり、乱暴に扱われているので痛みも激しいとか。
(山田)弁当ですが、結構、昼飯に家に帰ってました。両小の場所ですから、夷も湊からは中学も小学も近かったわけで。まだブック型が出る前だったんで、所謂ドカ弁の子供サイズみたいな。おかずも特に別にしたわけでなく、端の方にちょこっと入ってたんじゃないかな。おかずには汁のこぼれるようなものは使わなかった。大きめのハンカチにくるんでました。冬になるとストーブの代わりに火鉢だった時代で、その端のスペースの所にみんなが弁当を置いて温めてました。二重になろうが上下に置こうがどうってことはないわけで。時々小遣いさんが来て火鉢に炭を入れたりしてました。小遣いさんは小田とよ子さんのお母さんでした。とよ子さんは本間林三先生の文化グループの一員でした。とよ子さんのお父さんも、元々は船乗りでしたが、当時は学校に来ていろいろ奥さんを手伝ってました。とよ子さんは両津郵便局に勤めて居ました。
その後、戦後のレッドパージか何かで局をやめ、両津病院の交換手をしてました。昭和初期の生まれだったと思います。その後、子供さんを頼って埼玉かどこかに行かれました。彼女は「ゲンのイカ釣り」とか言う童話を書いたこともありました。とよ子さんの姉が夷自動車のお婆ちゃんで、本間幸則さんの母です。
(渡辺)私らの頃の弁当は、中学時代は完全にブック型のかっこいいものでした。上の方に小さなおかずのスペースもあり、箸なども横の方にきちっと納められたような。また、おかず入れも別にあり、今のスマホサイズの深さがあるような形で、汁がこぼれないようにパッキンでカチンと絞めるものでした。弁当+おかず入れをセットにして大きめのハンカチで包んで持って行きました。小学時代の低学年はよく覚えて居ませんが、5年生の時だったか初めて給食が始まりました。味のついてないコッペパン一つと、おかずの皿が一つか二つくらいあったんでしょうか。勿論、金属製です。大きなバケツに入っているご飯やおかずが給食室に届けられ、それを給食当番が取りに行き盛りつけしました。教室だったと思います。牛乳は所謂脱脂粉乳でした。後にあの時のはまずかったなどとみんな語ってますが、当時はみんなにとってまずくはなかったと思うなあ。今はあいしい牛乳と比較して言ってるのでしょうが、当時の子供達は食糧事情も対してよくなかったわけで、腹減れば何だってうまかったはずです。時々乾パンが出ました。無味のクラッカーと言うか、消しゴムサイズのものでした。そうそう、脱脂粉乳は味噌汁入れる茶碗サイズの金属容器に入ってまして、そこにコッペパンを浸して食べると柔らかくておいしかったですねえ。
5,6年担任の木村与三次先生は、身体の小さい生徒、虚弱な生徒にもっと食べろと、配分後に残った食材をくれてました。身体の大きい連中も、俺も欲しいなどとぐずぐず言ってましたが。
(山田)学校の主治医は内海先生とか角坂先生でした。
※写真(昭和25年頃)を見ながら

右側が第三校舎です。奥が第二校舎、もっと奥が第一校舎です。第一校舎の加茂湖側にトイレがありました。前列真ん前が原与一校長です。その右が田中先生。右端がブル(ドッグ)って言われた菊池先生(河崎)、その左が神蔵一松先生(吉井長江)。後列中央が伊藤邦夫先生、4列目左端が後藤ボーシの後藤英吉先生、右最前列の左が伊藤正男(あだ名、かぼちゃ)先生、その右が近藤右全先生(吉井のお寺)です。
中学1年の時の担任は後藤英吉先生で、2,3年が棚か先生でした。後藤先生は一年だけ担任を持ってその後居なくなりました。ただ、この写真は私が中学2年(昭和25年)か3年
ですので、この時に又復帰したんでしょうか。
■「保育所・幼稚園」
(伊豆野)
湊の保育所は、私が知る限りでは現在の保育所は3代目。1代目は私が通った場所。夷から大倉先生メガネ顔(おおくら・えいいち先輩の母、中学の斉藤チヨ先生と似ていて交錯しますが)、それとホオリ先生の顔がうっすらと思いだされます。跡地は若宮通りを夷から来て「若宮八幡社の信号の『T字路交差点の左角地』です。」つまり若宮通りを真っ直ぐ行けば若宮石油商事。
右折は不可ですが、今駐車場!?。左折して行けば本通りと交差、さらに真っ直ぐいけば、佐渡汽船船着き場。2代目は引っ越し先の八幡若宮社境内の保育所。3代目は、八幡若宮社境内を横切る道路(若宮通り)が建設された際に建て替えられた現在の保育所。
「荒海 第2号 二九の会 (昭和62年11月)」より
(懐しい校舎の中の面々 小池荘一郎)
二九の会「荒波」第一号を山田さんより贈呈され、その折「一年先輩を語って」を依頼され、全く拙文で恐縮ですが寄稿させて頂きました。先輩の皆さんお元気にてご活躍のこととお慶び申し上げます。さて諸兄姉の皆さん三十余年前、両高健児として素略しい青春の日々を過した頃の顔が今も目に浮かび、何処でお逢いしても「先輩」と声を掛ける程、憶えております。三十年の春卒業以来、ずっとこの郷里両津に生活をし、小生なりに母校発展のため微力を尽くしている心算りです。石楠会幹事(会長二期)として、母校創立二十五周年、三十周年、四十周年の折々には、本当に先輩の皆様にはお世話になりました。紙面をお借りし厚くお礼を申し上げます。
先輩を語る第一弾としては、やはり野球部の面々です。F組からは磯野良衛、B組には渡辺伸一郎、C組からは、北岩大、小池正広さん等がいて、、北岩大さんの巾広い体からのアンダースロ-ピッチング、無口な磯野さんの華麗な守備とバッチソグ、その後三十年の野球部の歴史の中で、磯野さんのような名選手は現われないと今でも私は思っています。
我々六回生から見ると五回生の面々は、勉強も体育も一段と秀れていたようです。柔道の紋さん(失礼)バレーの矢辺さん、バスケットの太田健蔵さん、卓球の岩本さん、陸上の高橋・宇治・輪地さん達、思えば壊しい方々ばかり一ばいです。或る時の生徒大会 (二十八年と思う。)長髪問題で、三年生が長髪賛成の折小生が反対を叫んだ時、北川裕章さんに睨らまれ冷汗が出た思い出、そのせいか今でも「ヤマヤ」の兄貴として頭が上りません。
生徒会では会長山口皓さん(C組)副会長の長谷川さん(F組)坂口さん(D組)には、お世話になりました。卒業後、山口さんには銀行で顔を合わせていますし、坂口(染野)さんには、街で会いますが、長谷川さんには全々お会いしませんが、今、宇都宮でお元気なんですネ。(「自他同一」読みました。)F組の渡辺利雄さん未だにゆっくりとお話しをした事ありませんが、僕等にとっては、誰一人貴兄を知らない人はいませんでした。頭が良いのにガリベンでなく鉄棒は上手……。計良多郎左衛門、市橋駿一さんもコワイような存在でした。女性では、両中の先輩で文学少女的
だった木村悦子さん。ヤてカク小路を通る時、いつも、どこに生活されているのかナア~と思っていました。
「荒波」を読んで、草加市に居られるとのこと、一日も早く元気になられるようお祈り致しまう。
校門のあのコスモスの群生はもう無くなりましたが、翠松薫る白山、そして新しい校門の周囲には今日も美しい花が先輩達の来校を心待ちにしています。
我が二Bの教室の近くに三Eがあった関係で、三Eの皆さんには毎時間顔を合わせたものです。何を云っても、その中の華は荒木さんでした。当時はあまりにも高嶺の花で、親しく話をする事もありませんでしたが、石楠会東京支部大会には、是非共クラスメ-トお誘いの上ご出席下さい。同じ三Eの山口トシさんは両中の先輩であり、演劇でもお世話になりましたが、六十年五月、偶然にも上野の「庄や」で三Eの方々、小池巌、粕谷、辻、野口さん等や、そして中川早苗、渡辺光枝、三国悦子、山口トシさん達に会った時には、涙の出る程懐しく、嬉しく、胸の熱くなるものを感じました。その時の縁で、四十周年には、三Eの皆さんより多額なご寄附を頂戴致しました。募金委員の一人として厚くお礼を申し上げます。
次は三Dの面々、当時家庭科の方は、一年下の男性にとっては、コワイような存在でした。その関係か地元に嫁いだ女には、カカア天下が多いようです。(カカア天下は、家庭円満の秘決とか。)何故か伝統的に両高の家庭科(被服科)出身者には、地元の嫁さんになった人が大変多くいます。今、被服科が消滅した事を思う時、本当に残念でたまりません。何は兎にあれ、二九の会が益々発展され」我々後輩に良き刺戟を与え、両高出身者の先駆者となって突き進むようお願い申し上げます。
最後に六十三年八月の「両津高校一日入学」の成功をお祈り致します。
◎ムッサンコにケナルイのウ
◎古里で久遠に残す鬼太鼓
石橋会一幹事 両高野球部後援会長
「荒海 第3号 二九の会 (昭和63年7月)」より
(磯野良衛君のこと F組 宇佐美薫)
名前は当時、両津の情報に詳しかった原点の連中から聞いていたが、実際に磯野君の姿に接したのは、河崎中学校三年の時だった。彼ら両津中学校の野球部の面々が河崎中へ練習試合に来てくれた時である。
当時の両津中野球部には、磯野君の他に渡辺伸一郎、北岩大、小池正広、小池巌君などそうそうたるメンバーがおり、都会的で、洗練されており、ぼくらいなか者にとっては恐れおののくチームであった。そんな中にあって、磯野君はショートで、キャプテン。華麗な守備と確実なバツティングはもちろん主力・中心選手であったが、そんなことばより花形選手といったほうが当たっている。河時の仲間の藤井稔君は、磯野君のいろいろなフォームの真似をするのを得意としていた。ゴロを取ってファーストヘスローインクする時のフォーム、その時の口の動き、そして、守備位置のあたりを例の内股で歩く姿などが、とりわけ秀逸であった。
ともあれ、同期の連中があこがれと畏敬の念を持って眺めるほどの大きな存在であったのである。
高校に入ってからは三年間とも同じ組だった。先に挙げた人達とともに野球部に入部した。監督・コーチはおらず、中山秀夫(北越銀行)、水井昇(新潟交通)、今井一夫(NTT)、伊藤吉久(櫛谷鉄工)などの諸先輩が中心となって教えてくれていた。磯野君は最初確かセカンドだったと思うが、一年の時から正選手としてもう試合に出ていた。ただ、三年まで野球を続けたが、当時佐高には藤村、近藤(近藤胃腸病院の先生)選手などがそろっていて強く優勝した記憶はない。
また、彼は運動神経抜群で、校内バハレーポール大会、バスケットボール大会、運動会のリレーなどで大活躍をし、なにをやっても一流だった。特に、後藤三夫先生が佐渡.ハスケットポール選手権大会に、両高バスケット部とは別に、他の部に所属している連中を集めてチームを編成し、出場させてくれたが、その時にご一緒させてもらった。確か二回くらいあったと思うが、金北山に駐留する米軍チームと対戦したりもした。ジャソプポールの時、黒人選手の手の平の色がプラウソというのだろうか、表の色と違うことを発見して、ひそひそと仲間で語り合ったことを覚えている。彼との係わりの中では、不思議と勉強のことは思い出さない。野球のこととこの米軍とのバハスケの試合のことが最大の思い出である。
…いろんな意味で実力と才能があっても、それを表にあらわすことなく、常に謙虚で、静かに闘志を内に秘めていた君……計報に接し、驚きました。だれしもが孫を膝に、あと二十年くらいは余生を送れるものと考えているのに、どんなにか残念で、心残りであったことでしょう。ぼくら同期生一同、残り少ない人生を君の分まで大切に生きていきます。 どうぞ安らかに………合掌
「荒海 第1号 二九の会 (昭和62年11月)」
より
(青春讃歌 小田忠雄)
ドンテン登山で皆さんが芭蕉心酔者の宮川悌二郎先生を胴上げして落し、校長がカンカンに怒って胴上げ禁止になった事件、亡き甲斐清トウチャン先生が、掃部茂(現在高校教諭)のカバンを二階からなげ飛ばした事件は、下の教務室では、生徒が落ちたのかとびっくりしたこと。高橋信一先生も昨年不帰の人となりましたが、体育祭の行進練習には、青竹でたたかれた痛みを今も思い出す悪童の面々もいるはずです。授業中、一切ノートをとらずただ黙々と聞いているだけの生徒であった渡辺利雄(現在東大教授)、イヨマンテの斉藤修デソスケ先生もなかなかモダンボーイでした。
「荒海 第3号 二九の会 (昭和63年7月)」
より
(土屋長松)
『二九の会』の皆さん今日は!! 田君今日は!!
卒業以来会わない人が大部分ですね。皆さん夫々に石楠魂で雄々しく活躍されていることを嬉しく喜んでいます。
山田君から『荒波』三号に何か書けとの注文を受け、感無量、両高創立以来のあれこれ次々と思い出されるがペンが走ってくれません。
生まれ故郷の両津に長年の待望の高女が出来るので、是非来て協力するようにとの事で、勤務校の東京都立十中(西高)に転任願いを出したのに、三月が終わり四月になっても許しがない。エェイーママヨと転任辞令を待たずに、四月十七日両津港に着いた時、夷の中心街が炎上している最中、この両津大火に皆さんの中にも延焼した家が少なからずあったと思います。一度帰って六月一日附の辞令を持って赴任したのが七月十五日でした。昭和二十三年四月六、三制の新教育体系が発表になり、両津町加茂村組合立両津新制高等学校となり、加茂小学校裏のバラックに移りました。午前、午後定時制の三部授業で午前組は午前勉強で午後は新校地の開墾整地、午後組は、反対に作業して勉強、僅かばかりの先生方は、ペコ・ヘコ腹をすかせて夜の定時制です。二十四年六月に第一期工事の教室が出来上ったので、七月七日に祝賀式をやりました。職員生徒は俺達の学校が出来たんだと喜び勇んで、加茂小や両津小から教壇を多数借り、それを土の上に敷きつめて祭場を作り、紅白の幕も借りて張り廻し、一同希望に満々ての盛大な祝典でした。
PTAのお母さん達に加茂村婦人会が家から煮〆の材料やドプロクを持って来て賑やかな大バザー、並居る者全員心からの喜びと両津高校の前途の希望と期待と幸多からん事を祈りました。七月になって早々と思いますが、遇二日音楽講師として来ていた松木博先生が式典があるのに校歌がないのは淋しい。校歌と云うにはおこがましいが、両校応援歌を作って見た、と云って「荒波四方に…‥」をピアノを引きながら鮨介しました。作詞と云い作曲と云い、先生方感銘して立派な校歌だ、直ぐに生徒を集めて練習です。生徒も感銘。すぐに覚えて歌い出しました。両津高校の卒業生は、校歌よりこの「荒波……」の方が印象に残り、一昨日の石橋会東京支部会で荒波の方が盛大に歌われました。永久に歌い続けられます。
諸君の同人誌『荒波』.。いみじくも良くつけたりフクの会とともに敬服します。
『荒波』一号を送っていただき、なつかしくむさぼり読みました。木村悦子さんの闘病に打ち勝った記事に驚いて、早速電話しました。病気療養中の家内の手を引いて三人で会食しました。非常に元気で勤務している事を知り安心しました。一昨日の東京支部会にも出席し、ますます美しくなり、小田、赤江橋先生等と談笑している様子を嬉しくながめていました。それにしても本間悦子さんのご主人の突然の不幸を聞き、何とお悔み申し上げたらよいか筆舌では表わせません。近くに、三回生の岩原正夫君が川崎市の中心校、富士見台小学校の大校長先生で孫二人が御世話になっています。彼の呼びかけで、両津高校四十周年記念式典に出席した土屋の報告会の名目で、三回生の同期会を持ちました。六十一年十一月です。三十人集まりまし
た。『荒波四方に……』を高らかに歌い、創立当時の勤労奉仕の事、勉強の事、卒業後の事、夜のフケルのを忘れて楽しく過ごしました。
次に六十二年、去年も盛会でした。宮川悌二郎先生も出席し、全く久しぶりに旧交を温めました。この正月には、やはり近くの古川弘志君、櫛谷省吾君が年賀に来、二人の呼びかけで四回生の有志長谷川通哉君等八人西新宿の住友ビル五〇階のレストランで、楽しい新年会をやました。
一昨日の石楠会東京支部会に出席し、実に盛大でした。驚きと共に嬉しさ楽しさ一杯でした。学校から校長、小田、今井(一回)飯田(六回)あと数人の先生方、旧職員は土星、赤江僑、牧野、会員は八十人位いたでしょう。三部屋プチヌキで足りず、若い連中は次の部屋を占領していました。庄や目黒の主人は卒業生、おいしい料理を沢山出してくれました。会費からみて持ち出しの大奉仕と思います。
オカラ/\と馬鹿にされて卒業した皆さんが、歯を食いしばって石楠魂を存分に発揮し、実業界には社長、重役、部長等々沢山出ており、個人としても立派に成功されています。文教育界では、五回生の渡辺利雄君と六回生の近藤保君が東京大学の教授、四十周年記念に講演した竹内洋君は、京都大学助教授、其の他の有名大学の教授、助教授が数名いるようです。高、中、小では、校長、教頭も沢山いるようです。岩原君等は神奈川県の小、中学校新潟県出身者の会長です。
昭和二十八年県立移管の三条件として(一)教室、理科教室等特別教室(家庭実習室を含む)体育館等四学級募集の高校の整備を完了すること。(二)二十八年度両高予算は全部組合が持つこと。(三)一、1000坪の校地を買増し、尚今後の教材等備品代金として、現金、1000万円を県に寄附すること。の三条件です。全く苛酷そのものでした。大火後の両津市は、この無理難題を呑み、中学校等義務教育を後廻しにしました。
四回生の諸君が新潟県立両津高等学校の一回生です。三十年十同年創立記念祝典は、貴方達の作ったグラウンドで、菊池校長。
四十一年二十同年創立記念祝典は、1000坪買増した現グラウンドで。威風堂々ネヂリハチマキで行進、深田校長。
五十一年三十同年創立記念祝典は、現体育館が出来たので体育館。後藤校長。六十一年四十同年創立記念祝典は、両津会館。束田校長。事情もあるでしょうが、創立記念を他に求めるのは、卒業生一万人以上の私立大学位いです。私の勤務校の横浜商業(Y校)の九十、一〇〇 都立北園(都立九中)六十、都立西校(都立十中)五十、私の母校佐渡高校も両高の翌日が創立九十です。全部自校内で式典をしています。式が終わって館内放送で、「学校を見たい来賓は玄関にてハスを用意してあります」
私達創立時代の職員生徒一丸となって、木の根を堀越こし、土をならし、蟻の如くそれを運び、飢と戦い汗を流し、血豆に苦しんで建てた学校です。新人類の時代と云われます。飽食の時代と云われます。旧人類でありかつて飢と戦った私には、理解することが出来ません。古い古い考え方なんですね。間違っているでしょうか。
213 川崎市宮前区菅生三-二八-五 以上
追伸
昨夜より夜を徹して書きました。東の空が白んできました。誤字、脱字も多い事と思います。文章もなっていないと思います。悪い所は訂正してください。切除してもかまいません。
『二九の会』の発展と『荒波』の充実を御祈りしています。
■思い出の先生達
(渡辺)両津小学校の1~3年は加藤ゆみ先生だった。美しく優しく、時々は大変厳しい先生だった。家は牡蠣養殖の加藤玉屋と言う屋号で、神明町だった。長女に同年の珠江・さんがいた。実は私の母はあまりお乳が出なかったようで、赤子の時に加藤先生のお乳をもらって吸っていたと言う。そんなこともあってか加藤先生はわが子のように私に対してくれた。後年、彼の長男が私達の社交ダンス教室に入ったので聞いてみると、加藤先生は佐和田鍛冶町の岡固という苗字の家の方だったと言う。
4年生は池田サイ先生だ。わが家から徒歩1、2分の夷新に住んでいた。とても厳しい先生だった記憶はあるがそれ程印象はない。一年間だけだったので仕方ないか。先生の家の真ん前が小松石屋さんだった。七星屋石材店で修行して独立したばかりだったと思う。
・赤江橋マス先生
直接指導を受けたことはないが、何故か印象に残っている。会う度に挨拶する私に元気よく声をかけてくれた。もしかしたら、わが屋と多少ともひっかかりが合ったのかも知れない。後年、私が佐渡に帰り家を継いでからであるが、洋服仕立ての職人さんの夏井さんの家に商品を運んだが、偶然にもその隣が先生の家であった。河原田諏訪町の角辺り、反対側の角地には十王堂?があったと想う。時折バッタリ会うことがあったが先生は朗らかに私に声をかけてくれた。赤江橋先生は体操で知られた二階堂女子大(後の日本女子体育大)出身と言っていたが、ともかく両津高校草創期に両津高校生に大きな影響を与えた先生の一人であったろう。本当にもう一度会って昔話をしたい先生である。二十年ほど前、親しくしていた金井貝塚の本間隆さんが先生の親戚と言っていたのを今ふと想い出した。
(出山)赤江橋先生は母と仲良しの女学校同級生で、家によく来ましたし、河原田の自宅にも行ったことがあります。
・今成厚男先生
体育の先生で、私が入学時から2年の夏休みまで属したバスケット部の顧問だった。六日町の人で、六日町から新大高田分校を卒業し大学時代は選手としてもならしたらしい。身長は165㎝位の小柄で、しかも童顔だった。ただ、大きくステップするように距離を伸ばして走り、シュートなども全身を使って遠くから打っていた。
指導法も本格的であらゆる形のパスを指導してくれた。練習前のランニングの距離が長く、両津高校から羽黒神社まで走り、そこで休んだり階段を使って走りこんだ。その後は同じ道を帰ったり、時々は羽吉の浜まで走って帰ったりした。これはきつかった。そうそう、入学早々の頃はグランドをいやと言うほど走らされた。長距離走の苦手な私には本当に苦痛だったが上級生が怖く何とかついて行った。しかし彼の指導の元、私の同級生の宇治繁夫君は国士舘大に進学した。バスケに精進し、県内中学の指導者として小針中全国大会導き、国体成年女子監督や、現在(平成28年)は新潟経営大女子監督としてチームを全国大会に出場させている。
私が在籍した頃のチームは島内2,3位であった。私の一年上の佐農には、安達さん、小間さんと言う巨漢と長身選手がいた。佐渡no1チームだったが、県大会で全国優勝を狙っていた三条高校と当たった試合を見て愕然とした。三条には樋渡(県外から入学)などと言う190cmを超える選手や190㎝近い掘などと言う選手がおり、最初のジャンプからすでに圧倒されていた。あの長身の安達さんがジャンプで負けるなど考えもしなかった。安達さんは180㎝後半の高さとがっちりした身体があり、ともかく佐渡では手が付けられない選手だった。
私の二年先輩は相川高校が強かった。卒業後、国士舘大に行き、県内中学でバスケの名指導者となった相川の鳥井誠さんがいた。鳥井さんは前述の宇治繁夫君の国士舘時代の先輩であり、現在島内中学校での名指導者として活躍する石川覚君はその又後輩になる。
今成先生は、練習中はものすごく厳しいものの、日常生活ではシャイで子供っぽかった。ベテラン体育教師の 赤江橋マス先生のそばに行くと先生と教え子のように見えたものだ。
・河原寿雄先生
あだ名はカッパであったが由来は全く不明である。風貌や行動からは推測できない。数学の教師で、それはそれは生徒に強い印象を与えた熱血教師であった。普通科のT組?担任だった。進学に特化したクラスが私達L組であり、T組は就職する人が多いクラスだった。何故先生がL組担任でなかったのか未だに不思議である。進学面で、佐渡高校には絶対に負けるな!をモットウーにそれを常に口に出し実践もしていた。授業中無駄話でもしようものなら、即チョークが飛んできた。感情が高ぶり、コントロールももう一つだったこともあり、私語の本人に当たらないことが多かったが、知らん顔で、授業中私語する馬鹿に投げたんで、それが誰に当たったって知っちゃことはない、という感じだった。ただ、誰も文句は言わなかった。先生の大学進学にかける強力な意志と実践を知っているからであり、私語する自分達を恥ずかしく思ったのだ。また剣道の竹刀で黒板をたたくこともあった、「こんなことも分からないのか! 佐校の連中はみんなわかっとるぞ!」と。先生はテニスの顧問でもあった。一度進学指導の相談にテニスコートの横で椅子に座ってる河原先生に進学のことで話しかけたことがある。先生は丁寧に私の話を聞き、「同志社かあ、いい学校だぞ!でも、両津高校からほとんど入った奴がいないんで資料がないなあ・・」と済まなさそうにおっしゃっていた。
後に私が両津高校同窓会の石楠会の会長だった頃(若干36歳だった)、先生が校長として赴任してきた。私は先生のために出来るだけのことをしたいと思って居た。
(伊豆野)私が両高1年S組の時の昭和32年4月に新潟高校に次ぐ進学校の新潟南高より赴任してきた担任。私にとっての河原先生は私の人生進路・生き方働き方に影響を及ぼした5人の恩人の一人であります。当時、東京帝国大学卒の経歴を持つ北川校長は両高を島内トッククラスの進学校にするため、「佐高に追いつけ、追い越せ」をモットーにまず、入学成績の上位クラスをS組(理系)とL組(文系)進学組に編入、そうして集めた生徒を進学指導実績のある優秀な教諭を向かい入れ、徹底した進路指導をされました。
・木村与三次先生
5,6年生時の担任だ。それはそれは厳しい先生だったが、それ以上に優しく心の広い先生だった。河崎の人で何度か家をお邪魔したこともある。父の1年上と言ってたから大正11年生まれだったと思う。
昨年(平成27年)亡くなった。
ビックリするようなエピソードをたくさん残してくれた。
筋骨隆々の体育系の先生でしょっちゅう体育館で倒立して歩いて見せた、それも半端な距離じゃなかった。
ある日、両津欄干橋に私らを連れて行き、欄干で逆立ちをやった、そして何メートルも移動した。
本当にそんなことが出来たのだろうかと今は思うが間違いはないと思う、見た記憶が鮮明にある。
直情径行で正義感に燃えた人だった。
給食のパンに何だか黒いものが混じっていたことがある。
これはネズミか何かのクソだと大声を出し、みんなのを確認し業者を怒鳴りつけると部屋を飛び出していった。
また、グランドの端の方にイカが干されていたことがある。グランドにイカを干すなどとんでもない!とか言いだしてソフトボールのボールをイカの所に幾つも投げ込んだ。もしかして台をひっくり返したかも知れない。
こんなこともあった。クラスの中でひと際暴れん坊の土屋健次郎君がいた。
両親が居なかったか何かで家庭的に恵まれない子だったが、身体は大きくともかく一筋縄ではいかない子だった。
ある時、先生は堪忍袋の緒が切れて、彼を引き倒して両足をむんずと掴み二階の窓から外に出した。
泣き叫んだが直後に彼は気絶したんではなかったか。おしっこを漏らしてたと思う。
彼は二度それをされたし、山口満君も一度同じことをされた。二度めの土屋君と山口君は下手に泣き叫んで暴れると却って身の危険があると察したらしくうごかずにじっとされるままに身をゆだねた。
それにしても本当にこんなことがあったのか宇賀が割れるような話だか、その後何度かのクラス会でこのことが語られたので事実であることは疑いもない。
もう一つ、如何にも木村先生らしいエピソード書いてみたい。このことは、私達の二年先輩である出山正さん(湊出身)も経験したと言う。出山先輩を送りだして私達のクラスを受け持ったのだろう。
先生は日本刀を愛好し、いつも(時々?)学校に持参していた。時々、生徒達がうるさい時に突然、いやーーっ!とか気合を入れて自分の机の上に飾ってあるシャボテンを斬った。私達は震えあがり静かになった。今なら考えられないことで、もしこんなことがあれば全国ニュースに出たろうと思う。
こんな破天荒な一面を持つ木村先生であったが、彼を悪く思う生徒は居なかったと思う。ものすごく怖いが、とてつもなく優しい先生だった。夏休みには毎年キャンプに連れて行ってくれた。相川の達者でテント?張って泊まったこともあった。かなり多くの生徒を一人で面倒を見たのだから今時では考えられない。父兄達も先生を信頼していたのだろう。
そうそう、卒業時に「若鮎」と言う卒業文集を作った。勿論当時はガリ版刷りであり、先生の指導でほとんど全員がガリ版切り等を手伝った。特筆すべきは文集委員を選ぶ時に先生は先述の土屋健次郎君を指名した。みんなは驚いた、成績も悪いし暴れん坊だし、この役に最もふさわしくない人物だったからだ。
学級委員長だったか副委員長だったかの役を持っていた私も委員になった。私が土屋君と一番親しいことを知ってての人選だったと思う。最後には数人が残り夜遅くま頑張ったものだが、その時に先生は鍋焼きをおごってくれた。学校に配達してもらったのだ。冬の夜、夜遅く文集作りに励む生徒達と先生の情景を想い出すと、何だかうるうるとしてくる。こんなすごい先生が居たことを是非とも記しておきたいと思い長文になってしまった。
先生が話したことで覚えてるこんなこともある。
一つは先生の先輩が佐渡を訪れた際に読んだ句である。
「佐渡に来て 山あり川あり 島でなし」。
季語云々とか句の良しあしはともかく、いい句だなあといまだに覚えている。
もう一つは先生が朗々と歌ってくれた「人を恋うる歌」である。
「妻をめとらば才たけてみめ美(うる)わしく情けある 友をえらばば署を読みて六分(りくぶ)の狂気四分の熱」が一番で、次いで「恋の命をたずぬれば・・」、最後は「ああ吾ダンテの詩才なく・・」だったと思う。
六年生の私には到底理解はできなかったが、すごく心に響いたのをよく覚えておる。
その後いつしか私の愛唱歌になった。
・倉田藤五郎先生
南中時代、私の3年F組時代の恩師だ。背が高く背筋がしゃんと伸びて、いかにも国語の教師らしい先生だった。いい意味での古いタイプの先生だったと思う。一度先生に厳しく叱られたことがある。確か、宿題が詩を書いてくる時だったと思う。成績のよくないSK君がいて、宿題をやってこなかった。やらなかったと言うより能力的に大変だったと思う。クラス委員長だった私は、虫の居所が悪かった私はかなり頭にきて、黒板に彼の名前を書いて「またSKが」宿題を忘れて来た」と書いた。何気なくである。その時先生は烈火の如く怒った。私は単なる悪ふざけ程度だったので先生の怒り理解できなかった。しかし、何となく理解できた。先生は成績程度で人を差別することを嫌ったのだ。私の書いたものに彼への上から目線を感じ、彼への差別を見たに違いない。ズバリ、それが私の心情であった。怒られた後、却ってすがすがしかったのを覚えて居る。
先生は野球部の担当であった。野球はうまくなかったと思うが、強いチームで生意気な連中の多かった野球部をうまくまとめていた印象がある。先生が時々語っていたのは、自分は長く剣道を学び、高条先生から強い影響を受けたと言っていた。後年、私が40歳前後だったと思うが、ミニバスを教えたN君がシンナーでつかまり、高校入試に影響が出そうなので何とか息子の担任の倉田先生にお願いしてくれないかと親しくしていたお父さんから頼まれたことがある。
正義感溢れる倉田先生故、逆効果になるかも知れないとも思ったが、藁にもすがりたい父親の気持ちを察するに何とかしたいと父親と私で先生の羽吉の自宅を訪ねた。
私の久々の来訪を歓び、先生は大変機嫌がよく、その後に恐る恐る言いだした私達のお願いにも、「わかった大丈夫」と一言毅然とした態度で言ってくれた。先生は、子供のちょっとした間違いが高校入試に影響を与えるなんてことは反対であったのだろうと思う。間違いがあってもその次に改めればそれでいいではないか、それが倉田先生の考えであったに違いない。
当時、共産党の両津市議で後に市長選挙に立候補し、敗れたものの共産党ながら大接戦を演じた石川忍さんが、25歳で立候補する時に恩師である倉田先生にお伺いを立てたこと、その後もことあるごとに先生の指導を受けた聞いて、何だかすごく気持ちの良かったことを想いだす。私にも石川議員にも、はたまた多くの教え子達に同じような感慨をもたらした先生であったのだろう。平成25年に亡くなり私も通夜に出席したが、遺影の先生の眼光は当時と変わらずに鋭かったが、私らはその奥にあるとてつもない優しさにも思いをはせた。
・清田照吉
『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
片野尾小学校から赴任して来た清田照吉先生(元市議清田節氏父)は大川の学校の雰囲気をガラリと変えた。言葉、運動、学習態度、教室の分離、児童文庫の設置等、中でも先生は歴史を語らせたら息のつく間もない程の話術。国史科苦手の者は一人もいない位になった。加えて物語だけではなく学芸会を新設、情操教育にも力を注いだから、今まで先生の質問にたじたじで答えを発表し得ない児童でも、清田先生が赴任してからはみんな堂々と立って、考えを発表できるようになった。片田舎の暗い分校のイメージから一年足らずで脱却し、明るい活気ある分校に変わって行った。私が今も忘れることのできない歴史劇は、六年の国語にあった「鉢の木」の佐野次郎左工門常世を演じたこと。卒業後も幾度か先生の家を訪問したが、先生が研究記録した地方の年間行事とそれに関連した民間信仰等を編集したものを世に出してくれないかと常に思っている。いずれにしても大川分教場を衣替えしてくれた偉大な教育者であったと讃えたい。
※一般的には「きよた」であるが、正式には「せいた」らしい。照吉氏のお孫さんである新大名誉教授清田(せいた)文武先生からお聞きした。
・高橋信一先生
両津高校時代、選択授業に絵画と書道と音楽があり私は絵画を選択した。先生は高橋信一先生だった。最初の授業は「佐渡おけさ」だった。大きな声で自ら唄い、踊りの説明をした。両手の動きは波の動きである!などと話した記憶がある。
また黒板に、チョークで丸や三角、直線、波線などを見事に描いた。普通なら定規でも使わないとうまくは描けない。これは絵画の基本技術なのだと言った。今に思えば確かにそうだ。ある時、写生に出かけた。大声で、止まれ!と言い、ここだ!と海岸に放置されていた直径80cm位の土管を指した。そして、みんなをしゃがみこませて土管を覗かせ、そこから見える風景が如何に美しいかを説明した。確かに素晴らしい構図であった。写生の時は1時間授業で終わらないこともあった。「先生、次の授業は数学です。河原先生はおそげーから早う行かんと怒られる・・」などと言うと、「何を言っとる、人生にとって美しいものを美しいものと感じる美術と馬鹿みたいな数字のやり取りとどっちが大事だか考えればすぐわかる・・」などと言って知らん顔で写生を続けたものだ。しかし、いろんな場面で厳しい反面、間違いや失敗には寛容だった。私は一度美術室で誰かの版画の上にインクをこぼした。強く怒られて当然の状況だった。要らないことに手を出してみんなに迷惑をかけたからだ。しかし先生は、渡辺、わざとじゃないんだろう?!、そんなら別にどうってことはない、と。私にはうれしいばかりでなく感動的でさえあった。
他にも先生らしいエピソードを紹介する。新潟国体の前年の山口国体時と思う。授業中に突然校内放送が始まり、「皆さん、大変なことが起きました!」と高橋先生の声。私達はビックリして次の言葉を待った。すると、「今電話がありました、山口県で行われている国体で両津高校ボート部が優勝しました! すぐに体育館に集合してください」。校長先生の許可をとってなかった気がする。ともかく、ほとんどの学生が何やら面白そうだと体育館に集まると、壇上から高橋先生一人で優勝報告をしてくれた。他の先生が居たと言う気憶はあまりない。
先生は朝礼の時、壇上を見つめている私達の顔が見えるように反対側から歩いて来た。そして、或る女生徒の顔をいろんな角度からしげしげと眺め「いい顔だなあ・・」、放課後俺のとこに来てくれ」と言っていた。美人と言うよりも、不細工に見える独特の風貌をした女性であった。モデルになってもらいたかったに違いない。
私達の年代の普通科T組に後の芸能プロダクションで活躍することになる畑野の中野間君が居た。国士舘大に合格していたが、美術の授業の卒業作品を提出してなかったらしい。聞くところによると、先生は職員会議で彼を卒業させない、と言いだしたそうで、彼は翌年の夏過ぎまで卒業できなかったと後に聞いた。真偽の程はわからない。
当時の進学生徒は、大学入試と卒業試験がぶつかったりで後者を受けられないことが結構あった。その時は担任の先生が一肌脱いでくれて、レポート提出でOKだったと思う。私も実はその一人である。
高橋先生はこんなこともされた。
私が小学生だった頃と思う。商店であったわが屋やその他商店のウインドウのディスプレーである。両津高校の美術部員であったのか、選択で美術を取っていた生徒達であったか詳しいことはわからないが、一週間くらい毎日、両津高校生が来て店のウインドウを華やかに飾ってくれた。クリスマスシーズンだったかも知れない。私が毎日学校から帰る頃、美しいお姉さん達が熱心に作業をしていた。二人か三人であったと思う。今に思えばそのお姉さん達と話したり手つだったりしてたらどんなにか楽しかったろうと思う。それがかなっていればそのお姉さん達とは親しくなり今でも年齢差を超えて交流が続いて居たかも知れない。実際そんなケースもあるのではないか。この仕組みなどはまさに高橋信一先生の真骨頂と言ってよいだろう。後の各地での版画村運動の精神の芽生えがこのあたりにも伺える気がする。
ある日、時々指導に行っていたらしい新穂の知的障碍児施設「新星学園」生の絵を何枚も見せてくれた。私達はその「下手さ加減」
に大笑いした。疾走する犬を描いた絵は足が10本もあったのだ。彼らより「頭のよい」私達なら、足は4本で、走っているスピード感は地面に平行な線を薄く何本も描いたはずだ。先生は私らの言い分をふむふむと聞きながら、このバカ者が!と大笑いしつつ叱った。それじゃあ単なる漫画だ。どこに風の線などが見えるんだ。新星学園の生徒はそのスピード感を出すのに苦労したんだ。何本も足が見えたんだ、それを正直に書いたんだ。それが写実と言うことだ、と。又私達が犬を描く時に、まず輪郭をさっと掻くことにも注意を与えた。輪郭などないんだ。あくまで体毛が一本一本あって、それを着実に描写すれば全体として線のようになるんだ。一本一本描くんだ、と。私は芸術のすごさに言葉を失ったことを今でも覚えている。私には向いていない世界だと思ったことも確かだ。
・土屋長松先生
教頭先生だった。数学の教師で、草創期の両津高校に来るまでは東京の都立西高の教諭であったと言う。ここは日比谷高校と共に東大入学者数の1位、2位である。私らの頃にはすでに高齢で、普通の商店のおじさんみたいに見えた。家は夷七の町の丸善土産物屋(渡辺洋服店前)だったから元々商売人の血筋があったのだろうか。弟さんが、この家の裏手の海岸通りに面する場所で「おけさ食堂」を営業していた。兄弟だけに顔はよく似て居た。この店で石楠会の役員会のほとんどを行った。この後には「東京庵」でやった気がする。土屋先生は東京理科大卒と言うことで、両津高校から理科大に行く生徒が多かったし、両津高校の数学教師も大半が理科大卒と聞いている。河原寿雄先生もそうだし、私ら同年の小杉栄一君もそうであり、湊の塚本塾の塚本賢二君もOBである。何かしら土屋先生の影響があったのだろう。先生の子供さんは彫刻家になったらしく現在の佐渡中等教育学校の入口にある彫像がその方の作品であると聞いている。
(出山)「先生の子供さんは彫刻家になったらしく現在の佐渡中等教育学校の入口にある彫像がその方の作品であると聞いておる。」
彫刻家になったのは甥と聞いています。おけさ食堂の息子さんかと思います。長松さんの長男は土屋重信君といって親友の同級生でしたが5年前に胃ガンで亡くなりました。パリで活躍した建築家でした。南中を出た後、付属の早稲田高等学院に進み、早大理工学部建築科で学んだ後、坂倉設計事務所に就職。28歳でフランスに渡ってパリの設計事務所に入り、カリブ海周辺
の建築などを多数手掛けています。フランス人の伴侶がいましたが、父親は籍に入れることを最後まで拒み、滞在ビザで仕事しながら半年ごと日本と行き来する生活でした。パリの日仏文化会館設立の際にも事務局の役割で深く関わっています。姉昭子さ
んが日立市に、妹真理子さんは川崎市宮前区に住んでいます。
・永田先生
南中1年生の時の恩師だ。両津小卒の湊側生徒は東中に、夷地区は南中に通うことが市議会で決議され、大もめになった。湊地区生徒の大半は無理を承知で南中に通ってきた。多くの湊地区父兄が教室の前の方に机だったか箱のようなものだったかを並べわが子達に南中での授業を受けさせた。その時の先生方はどのような気持ちで生徒達に対したのであろうかと思う。夷地区の私にとって、加茂小出身の生徒達とすぐ仲良くなったが、勿論それ以上に湊地区の生徒とは仲良かった。そして湊地区生徒と加茂地区生徒との間は険悪な雰囲気が流れた。湊の父兄達は私達を見る度に、「湊の(生徒の)味方してくれえや!」と悲壮な顔をして私達に懇願した。湊、加茂両地区の生徒間でいざこざが絶えず、一対一の場合もあればそれが数人同士の規模に発展し、学校の浦地辺りで決闘があるとか、そんな話もあった。
永田先生はその時にどちらの味方でもなくみんなの前で代表者同士で堂々とやれとか言って代表者の人選をさせたことがあった。実現はしなかったと思うが、「喧嘩する時は堂々とやれ、審判は俺がやる。そして終わったら勝ち負けは忘れて仲良くせえー!」とおっしゃっていた。今思うと感激でぞくぞくとする、何とすごい先生が居たものだろう。先生は肩幅が広くがっしりしたタイプで、身長は普通かやや低かった気がする。目が大きく涼やかだった。今も、背広にネクタイをきりっと締めた先生の姿を想い出せる。
柔道の選手だったと聞いている。入学式の時、前任校は新潟南高校だったと話されていた気がする。
ところが何月だったのだろう、先生が事故死された。バイク事故で亡くなったと言う。現場は福浦と外城の境目辺りで、吉井に向かって左側、当時夷自動車修理工場があった場所の真ん前だったと言う。私達1年E組全員(もしかしてクラス委員の数人だったかも知れない)は先生宅での葬儀に参加した。クラス委員長だった祝博君が弔辞を読んだ。その時小学校4年生?のグレーの制服(襟付き学生服)を着た息子さんが哀しそうに下を向いて座っていた姿を覚えて居る。後に両津高校教員となった永田治人君である。彼もいつの間にか父と似た顔になってきた。すでに父の亡くなった年をはるかに超えている。
(出山)
永田先生は今でも時々思い出す忘れられない先生です。3年生の時に職業家庭だったかの授業だけの担任でしたが、「デコ、デコ」と呼んで放課後にまで相手してくれ、特別に目を掛け可愛がってくれた先生でした。バイク事故でしたが当時の悲しみは、白衣姿と柔道着姿とともに忘れられません。夏休み中に、骨折していた息子さんを自転車に乗せて学校に現れたのを記憶しています。息子さんは佐渡高校で定年を迎えられたようですが、一度、墓参りと、息子さんと思い出を語り合いたいと常々思っているのですが…。
・仲川巌先生
永田先生が亡くなって、交代に仲川先生が来られた。吉井の人だった。永田先生同様にがっちりした上品な方だった。眼鏡をかけたハンサムな人であった。私達が悪いことをすると、椅子の上に座らされた。これは辛い、と言うか痛い。いろいろと生徒を罰する方法はあったが、これは仲川先生独特のものであった。
・本間忠雄先生
中学二年の担任だった。あだ名はマンモスと言ったが、大柄で怒った時の顔がマンモスみたいだったところからのあだ名だろうか。国語の先生であり、ともかく板書が多くて、授業中のかなりの時間は先生が板書する全てをノートに移すのが生徒の仕事だった。本間越堂との号を持つ書家でもあり、板書の字も丁寧で上手かったが、囚人授業じゃないんだから板書はもっと簡単に要点だけをサラサラっと書いてくれればいいのにと思ったものだ。
先生はそれ程皆に好かれる先生でなく、時々はひどく立腹し雷を落とした。後年、先生の親戚筋にあたる梅津の梅沢市議の選挙の時に投票の依頼に何度か私を訪ねてこられた。私が大人になってたこともあり、恩師と生徒の関係でなく、大人同士の関係で話されたのには少々驚いた。しかし、考えてみればたった一年の先生と生徒の関係であり、今後は社会人として仲良くしましょうと言うことであり私にはとても快かった。
・宮川悌二郎先生
国語の先生で北一輝の信奉家で俗に言う右翼と言うか強烈な国粋主義者であったらしい。そう言えば学生服で学校に来ていた気がする。先生が背広を着ている印象もあるが、どうだったのだろう。最初はバスケの副顧問であり、時々レイアップシュートを見せてくれたが余り上手くはなかった。ただ背が高く骨太い体形だったのバスケをやってたこともあったに違いない。授業中は堂々とした指導風景を想い出す。何となくだらだらとしてきた生徒が隣の机との通路に足を投げ出しているようなことがあると、無言で強く蹴っとばした。その余りもの迫力
にやられた本人はすぐにピンとして授業に集中したものだ。確か私の二年時に転校したと思う。転校先は先生の母校である国学院大の付属高校である国学院高校であったことを何故か覚えている。湊の大野屋瀬戸物やさんの次男と言う。兄は第四銀行の支店長(私の父と同級生)をしていた。二人とも眼光炯々とした風貌であった。
後に知ったことだが、右翼団体「大東塾」に属し、『北一輝のこころ』、『ロシア亡国論』(内田良平との共著)の著書をもつとのこと。私の大学の後輩で北一輝研究者である萩原稔君(平成29年現在、大東文化大講師)が来島した時、加藤繁さん達と一緒の席で知り合い、遅くまで酒席を共にしたということである。一度お会いしたいものである。
(出山)「湊の大野屋瀬戸物やさんの次男と言う。兄は第四銀行の支店長(私の父と同級生)をしていた。」は湊4丁目の大野さん(屋号大久)の次男。大野屋瀬戸物屋は私の実家で、その2件夷寄りが銀行員の大野さんの家でした。大野さんは定年前後に事情があって家を処分したと聞いています。
・渡辺松次郎先生
両津高校三年間お世話になった。まっちゃんなどの愛称で呼ばれていた。少し大柄でやや肥満気味の人で、英語の先生であり、おっとりとした方だった。青山学院卒であったが、当時すでに退職近くだったこともあり、発音は昔風であった。そして、基本的な短文を丸暗記させる方法をよく取っていた。先生がいくつかの短文を尋ね、それに答えれば帰ってよいみたいなこともあり、私はよく真っ先に帰ったものだ。当時、こんなのが英語の勉強になるのか大きな疑問を感じていたが、今に思えば、これこそが英語マスターの一番の近道だったのだ。ただその時に、この単純な方法が如何に英語の勉強の基本であるかを説明してくれてたらもっと私も積極的にこの方法を取り入れて居たことだろう。長男敏雄さんが両津高校から東大を出て、ハーバード大で学び、当時は東大の英米文学科の助教授だった。次男も優秀で東北大?を出て三菱銀行?勤務と聞いていた。また、先生の兄は本間茂雄と言い、当時の東京教育大学教授(副学長?)であった。後年知ったのは、この本間教授は日本初の体操競技のオリンピック選手で、自ら惨敗した経験を活かし、長くオリンピック体操競技の団長を務め、教育大の後輩である、小野喬、遠津幸雄、加藤沢男等を育て世界に冠たる体操日本を築いた大功労者とのことでった。その息子さんの本間二三夫氏も体操競技の世界選手権で活躍し、オリンピック(補欠)にも出場しており、「ホンマ」なる技に名を残しているそうである。渡辺先生は、時々息子さんや兄の名を出しことはあったが、それは威張って言うような風でなく、お前たちの母校の先輩やその近い所にこんな人達がいるのだから頑張ってほしい、との思いであったに違いない。それは確信出来る。渡辺先生はそんな先生であったのだ。同じ英語教員に北嶋藤郷(ふじさと)先生が居て、大学院を出た人で大変レベルの高い英語の先生だと言われていた。その北嶋先生が、渡辺先生の息子さんについて「すごい英語の先生なんだよ。また、あなた達の恩師の渡辺も素晴らしい教育者だから・・」とよく話された。私達が、余り担任の渡辺先生を尊敬していないようであり、渡辺先生の風貌も確かに生徒の尊敬を受けるような感じではないから、自分から何とか渡辺先生を持ちあげてやらなけけばと思ったに違いない。これはこれで素晴らしいことである。
北嶋先生は後に敬和学園大教授になり、英語で良寛を紹介する本を出版されたりと活躍された。やはりすぐれた先生であったのだと今に確信している。
私の結婚式にも列席頂いた。その時、「渡辺君はクラスのリーダーで・・・、クラス会があり、私が碁に夢中になっていて遅れた時に、渡辺君がものすごく怒ったのを覚えて居ます・・」などと話してくれた。勿論、新郎の私を誉める言葉ではありながらも人前で平気で自分の恥をさらすような大度量の人間であったのだ。今は子のようなタイプの先生が子供達を教えることは可能なんだろうか。
先生はともかく碁が大好きで、よく帰り際に私の祖父がやっていた個人的な碁会場(現在の丹下昭治宅の二階)に来て遊んで行ったらしい。私が三年生になり、進学指導があった。父兄面談に母が行った。帰宅後言うのには、「渡辺先生には参ったっちゃ。和弘は大丈夫だと一言言った後すぐに、お爺ちゃんには碁で大変お世話になってる。本当にいい人だ。とそんなことばかりずっと話してそれで終ったっちゃ」と。如何にも渡辺先生である。進学のクラスだけにともするとギスギスしそうなクラスであったが、先生のおっとりとした風貌と指導でどんなにか私達は救われたかもしれない。
先生の自宅は今も潟上に残り、5,6年ほど前に朱鷺の研究者・研究生が集う「朱鷺談義所」となったことがある。その時に何回かそこを訪れ、部屋部屋を懐かしんだものである。カラーテレビを初めて見たのも先生の自宅だった。大学生の夏休みに誰かと遊びに行ったのだろう。教え子の訪問に先生はうれしかったに違いないが、無表情で昔を語らずカラーテレビがどうのこうのなどと話していた。先生はうれしさをこらえ、話題をうまく引き出せなかったのだろう。奥様が何かと気を遣っていろいろとお菓子や飲み物を出してくれた。
先生は畑野坊ケ浦の本間家から潟上渡辺家に婿入りしている。先生の兄の本間茂雄氏は旧制中学時代から東京に進学し、先生自身も私立の青山学院大卒の所を見るとを本間家はかなり裕福であったに違いない。
渡辺家は俗に言う庄屋(佐渡で言う金持ち)で大地主だったらしいが農地解放でほとんど土地をなくしたと先生は話していた。
先生とは見合い結婚であったらしく、見合いしたらすぐに自分の住いに押し寄せて来て、こっちが知らぬ間に夫婦になっていた、などと如何にも先生らしいとぼけた調子で話しみんなを笑わせていた。まさに先生の周辺には常に春風が吹き陽光が差していた。
渡辺正一先生
小学校の5,6年の頃に来られた。直接授業を受けた記憶はないがともかく恐ろしく怖い先生だった。すこし太っており眼光が鋭かった。記憶にあるのは、月曜の朝礼の時にうるさいと、張本人の一人をステージの近くに呼びつけ、耳をつかんでステージまで吊るしあげた。今思うとあんなことが本当にできたのか不思議であるが。
この先生の長男が佐渡汽船の重役になり、黒崎の「新潟ふるさと村」を再興した渡辺正之さんです。奥さんは私の同年で、夷二磯野幸子さんです。両津高校で長く体操の先生をされてました。現在はご夫婦で浜梅津で生活しています。
磯野先生が高校時代バレーボールを指導した(後藤三夫先生の長女である)浩子さんの息子(アメリカで育った)が高卒時にニューヨークヤンキースに二位指名された加藤豪将(ごうすけ)選手です。「NUMBER」って雑誌に載った彼の写真を見せた時の幸子さんの喜びようはすごかったものです。
渡部繁先生
(山田)渡部繁先生の印象は強いなあ。彼に殴られたことがあります。自分はおとなしい人間なんで本来なら殴られないのですが。同級生のカネカ魚屋さんの子をからかったんです。詳しく覚えてないけど、ちょっと彼をばかにしたにしたんだと思います。そしたらそのからかったことに対してぼかーんと殴られてねえ、学校時代で殴られたのはこの時だけです。自分では特別ひどいからかいでもなかったと思うんですが、渡部先生からすると弱者をからかうなどは絶対に許されないと思ったのでしょうね。差別する、バカにするなどあってはならないことだったんですね先生からすると。今想うと、そんな先生を今の時代に欲しいものです。いじめだ何だと色々言われてますが、本気で怒ってくれる先生は必要ですねえ。
親父はそれを聞いて何にも言わなかった。悪いことをすれば殴られて当たり前だ、先生はよく殴ってくれたと思っていたに違いありません。
悪ガキはたくさん居たんですが、その連中はうまく立ち回って見つからないけど、自分は慣れてないからすぐ見つかって。(笑)
(渡辺)当時の生徒数ですが、小学校の時は一クラス50人位だったと思いますが、松・竹・梅・桜・杉・桃組がありました。校長先生は木村幸次郎先生で、家は確かアリサ美容院の道路を挟んで真ん前だった。ちょっとした金属製の門があって、その向こうが広い庭だったような。その奥に家がありました。奥さんは南中の美術の先生で、怖かった。ある時「そんなにうるさいなら家に帰りなさい!」と言ったらみんなでこれ幸に帰宅したことがあり、大問題になりました。私は先生とは相性が悪かったのか、単に絵が下手だったのか覚えていませんが、通知表で2をもらったことがあります。2をもらったのは、この時と、同じ南中時代に佐山勇(大業)先生の習字でもらった二回だけです。習字は結構うまかったし、先生にも誉められたものですが、この時は、「おまえは相撲の選手に選ばれているのに練習に来ない。だからだ。習字の気持ちも相撲の心も同じものだ。」と言われました。ヘンテコな話ですが、如何にも佐山先生らしい解釈で腹は立ちませんでした。やはり根底には佐山先生の素晴らしい人間性があったんだと思います。先生はかなりどもって話しました。当時はどもる人が多かったですねえ。今に想えばあの現象は何だったんでしょうか。今はどもる人を殆ど見ませんね。
昭和30年代初期だったと思いますが、延命寺さんの門の前の狭いスペースに何か箱を置いて、その上で「・・どもりは必ず直ります!」とか云ってました。「・・矯正」と言うような白地に墨字の立て看板が横に建てられてました。今想うと、そんな「どもり矯正会」のような会があって、どもりの人が人通りの前で大きな声でしゃべることでどもりを矯正すると言う運動だった気がします。
(山田)私達は松・竹・梅・桜くらいだったかなあ。生徒数は同じ位いたと思う。校長先生は木内裕二先生でした。赤井地神社の宮司さんです。
(小池)木内先生の伜さんも先生で当時は加茂小に居たなあ。
(渡辺)私の時は伜さんは両津小の教務主任みたいな立場でした。余り記憶にないですが、後に歴代校長先生の額に入ったお父さんの写真とほとんど同じ顔でした。
★七夕の唄
(渡辺)そうそう、大事なことを聞いておきたいんです。
両津の七夕の歌です。資料によれば、昭和23年佐渡民報社が懸賞付きで募集しました。「七夕さま」作詞・仙宅千寿、作曲・中田信、「七夕祭のうた」作詞・土屋実、作曲・中田信が入選しています。
この中田信さんとは誰のことなんでしょうか。両津関係の歌でよく出て来る名前なんです。遠い記憶では、南中時代の朝礼か何かで、中田信先生のお父さんは加茂小の校長をやられた方で、中田信先生は両津出身の作曲家です、との話を聞いたのを覚えています。
(山田・小池)築地の骨董屋さん「佐州」の大屋さんの家だと思う。お父さんは校長だし。家は近いから知ってるんですが、後で両津中学校に教頭で来ました。怖いと言うかなかなか勇ましい先生でした。
信さんの下だと想いますが、教員で中田民雄さんと言ったと思いますが、関西の方で結構有名な俳句結社に属し、小田とよ子さんを通じて句集などを読みました。結構佐渡を詠んだものが多かったと言う記憶があります。今も佐渡へ帰省してますよ。
(小池)中田先生の息子さんは間違いなく音楽家です。自分よりかなり年上でしたが、その人が音楽家と言うのは結構知られてました。
古堀角次先生が記憶にあります。音楽の先生です。私は可愛がられたけど、気にくわんことがあるとのすごく怒って他の生徒はくらつけられていました。小学校の1,2年生頃の先生です。男で音楽の先生は珍しかった。ともかくおっかねえ先生でした。
(山田)小学校の時、松木ばっちんと言う先生が居た。片方の足が悪いんで、自転車に乗る時は片方の足が宙ぶらりんみたいな恰好で。ばっちんと言うのは、そう言う障害を言った言葉かなあ。河崎の人でした。
松木ばっちん何とかかんとか言ったフレーズがあった気がします。自転車こいでもなかなか前に進まん状態を言ったのかも知れません。おそげえ先生で、子供の頭を上から押さえつけて回転させるんですが、その時に爪を立てるんでひどく痛かったものです。
(小池)河崎方面の須藤先生も覚えています。お寺の方でない人で、その息子さんが私の5,6年位先輩で市役所に勤めていました。
(渡辺)椎泊の須藤でしょうかね。一軒は願誓寺ですし、もう一軒の須藤からは前国立民族博物館館長の須藤健一先生が出ています。昭和20年生れですから、東中の一回生です。お寺の方の息子さんと言うか後継ぎは須藤信宏君で両津に戻って来てケアマネージャーをしてると聞いてますし、姉さんは尚子さんで加茂の名門高橋家(酒造会社、高橋秀世さんは39歳で県議)に嫁ぎました。二人とも私達がやってた英語サークルの仲間でした。高橋家は佐渡銘醸を設立した家ですよね。
(山田・小池)高橋秀世さんは足が悪かった。その原因は結構有名な話で、新潟地震か何かの時二階でマージャンしてて、ビックリして飛び降りて足を大怪我したとか。
他には渡部繁先生が思い出に残ってます。両津の人ではないと思うけど春日町に家を建てました。奥さんも先生でした。(奥さんの旧姓は近藤)近藤苗字は確か住吉だったかな。住吉神社の近くです、近藤家の奥さんは両津小で養護の先生でした。
(渡辺)旦那さんは近藤甚平先生かなあ。確か東中辺りにもいて、息子さんが東大に入ったはずです。
(山田・小池)両津中学校はA~E組まであった気がする。守道校長でした。守道さんは両中の歴史の中で一番長い校長だったと聞いてます。長男は私(山田)と両津高校で同級生でした。大阪の方へ行ったと聞いてます。守道先生の前は原校長だったかな。
(渡辺)私も入学時は守道辰雄校長でした。ってことは守道校長は山田さん、小池さんの頃からずっと両津中ー南中の校長だったんですね。当時は中学校の合併問題で、校長の移動は難しかったのですかね。娘さんが池田呉服店の奥さん敬子さんですし、辰雄先生の弟さんが真野町真野の臼杵正巳校長先生です。「佐渡スポーツ賛歌」などと言う立派な本の編集責任者でした。バトミントンでしたか、スポーツの指導者としても知られた方でした。私の記憶では、正巳先生の奥さんが馬首の山本家と親戚でした。もしかして、山本家から養子に入って守道正巳さんをお婿さんに迎えたかも知れません。私の同級生の山本君子さんの結婚式の時、列席されていて、そんな話をしてくれました。正巳先生の娘さんは両津小の先生をしてまし智恵子?先生で、版画教育で知られてました。高橋信一先生の門下生です。旦那さんは越後から来られたお婿さんで、両津小校長や佐渡市教育長を歴任しました。この方も版画では知られてましたね。
(山田)守道さんの家は、河崎のバイパスのカーブの所の右側にあります。下を通ってると見えない場所です。この守道苗字は元々は山伏の家だったとどこかで読みました。他にはちょっとない苗字ですね。
(小池)馬首の山本家の娘さんが大阪屋さんの最初の奥さんです。熱心な天理教信者でした。
山本家の娘さんで両津中学出た人が居ると思います。同級生の山本敦子もそうだったかなあ。加茂の氏田良隆と両津の橋本喜一の市長選一騎打ちの中で中学合併問題が大騒ぎになって、その関係で山本家は娘を両津中に出したんだと想う。
(山田)ゴトウボーシの後藤英吉先生がいた。両津中学に入学した時の担任でした。しかし一回か二回しか来ないのに学校を休んで。あんまり学校に来なかったのはどうしてだったのか。一度怒られた記憶があります。昔、旭町辺りに造船所(佐渡造船、田中湖山さんが社長)があり焼玉エンジンを熱くするシューっと音がする機械と言うか火薬があった。それで焼玉を熱すると言うか。それを私達がこっそり遊び道具にしてた。それを近所の人が見つけて学校に連絡したようだ。その時こっぴどく怒られた記憶があります。まあ、大変危険なことだけど、子供心にここまでは大丈夫と言う境目は分かっていた。海のそばでもあるしね。
だから少しは担任として居たことは確かです。先生が来ない時は他の先生が来たとは想うけど、それをいいことに、先生が来ないから英語がダメなんだと言い訳してた記憶があります。
(小池)中学3年間、国語の松木左衛門五郎先生がいました。私にとっては3年間最高の先生でした。私が多少とも国語に自信があるのはこの松木先生に出会ったことだと思う。厳しいけどやさしい先生だった。ともかく頭がいい感じで、文法をしっかり教えてくれた。そこで完全にマスターしたんで、高校に入って文法の授業では簡単過ぎてしょうがなかったものです。中学と高校が同じレベルの気がしました。高校の先生に、小池どうしてそんなに文法に詳しいんだと言われたこともあります。まあ、高校の先生が小田忠雄先生だったこともありますが。文法なんて面白い分野じゃないのに、それは松木先生の教え方が驚くほどうまかったんでしょうね。他に家業が印刷だったから文章と言うか国語自体に関心が高かったかも知れません。
しかし、私以外の人も松木先生の授業は熱心に聞いていました。そうそう、先生のことで印象に残っているのは、三年間ずっと宇賀神祭に真木の松木先生の家に立ち寄ったものです。仲間も一緒です。先生の家に寄ると先生は居たか居なかったか覚えてないけど、お爺さんとお婆さんが居て必ずあん餅を振まってくれました。私らは楽しみでした。息子の教え子が気楽に訪ねていける松木家ってのは、親子そろってすごいなあと今になってつくづく思いますね。当時は格好つけて下駄とか足駄で行ったものですが、途中で鼻緒が切れて往生したものです。だから当時松木先生にクラスをもってもらった連中は80歳になった今でも親しい仲間同士です。今はさすがに歳なんでやってませんが、クラス会も長くやってたものです。
今に想うと宇賀神祭りなのにどうしてあん餅があったのか不思議ですが。
それからもう一つ、いつだったか国語の先生方が集まっての会議みたいなのが公民館にあって、私が出席して何か話して欲しいと言われたことがあります。松木先生が「これは俺の教え子の小池です」と紹介してくれました。何を話そうかと思っていると、小池は鬼太鼓を話せばいいがさ、と言ってくれたものです。
私もその席で松木先生にはこれこれしかじか大変ご指導を頂きました、と話したのを覚えています。
その席で上手い鬼と下手な鬼の実演をしましたねえ。
(渡辺)松木先生は国語教育の専門雑誌にいろいろと論文を発表していました。佐渡のレベルをはるかに超えたすごい先生だったんでしょう。全国に知られた人だったと聞いています。退職近い頃は南中の校長で校内が大荒れの時代でいろいろと苦労されたことはよく知ってます。学者タイプの方だっただけに学校管理者としては苦労されたと思います。教育懇談会か何かあり、私は両小PTA会長として出席しましたが、当時の伊豆野市長が30人近く集まってる会議の席で、松木校長を怒鳴りつけたのを覚えています。革新の伊豆野さんから見れば松木さんは政敵だったんでしょうか。
(小池)高校では生物の北見秀夫先生をよく覚えています。高校三年間、牧野富太郎先生の話ばかり聞いてた気がします。牧野先生はよく知らんかったけど北見先生を通じてともかく話を聞かされました。
(渡辺)北見先生は私らの授業中に、牧野先生からメタセコイヤをもらった。日本に三本しかないもので、一本目は先生の故郷高知県に、二本目は僕(北見)の為に両津高校に植えてくれた、と。後年、私が両津高校石楠会会長の時、新校舎建築問題があり、その法線にメタセコイヤが引っ掛かるので伐採すると。そんな会議か何かの時、役員の一人が北見先生(と追随した高橋信一先生)が烈火のごとく激怒して、こんな日本を代表する記念碑的メタセコイヤを伐るとは絶対にだめだ!と言ってるがどうしたものかと。私はそれほど関心はなかったけれど、まあ残せるものなら残した方がいいんじゃないかと発言した記憶があります。
また「両津高校20年史」に載ってますが、生物部部長だった渋谷尚武(ひさたけ)さんが同志社大に入り、帰省の度に京都の植物を持ってきて両津高校の庭に植えてくれている。京都の植物がどれだけ佐渡で育つのか見極める意味がある。だから、時々県から役員が来て庭が雑草で汚いですねえ、などと言う馬鹿が居るがとんでもない話で、それぞれが貴重な植物群なのだと。
私は又授業中に新大?の椿教授とか歌代教授の名前を聞いた記憶があります。私には自慢話と言うよりも、大学教授達と普通に接して植物関係の知見を交換していると言う自然の話し、即ち、私達にも植物に興味を持って同じように仲間に入らないか、そんな気持ちじゃなかったかと今になって思っています。
先生は退職後でしょうか羽茂高校の寮官?だった気がします、もしかして講師として授業も教えたかも知れません。大人になった私もその時少々話しましたが大変好感を持ちました。いい人だったんだなあ・・と。
また、両津高校生物部の部長だった近藤保さんが東大教授になったのは本当にうれしかったに違いありません。いくら威張ってもいいことです。
他には、私が大和屋の子と知ると、「お前のとこのおじいさんは素晴らしい人だ! 夏になると家全体を朝顔で囲っている」と。地面の所から二階まで縄を張って朝顔の蔓を伸ばしてたんです。当時は少し恥ずかしい面もありましたが、今に想うと素晴らしいことだと思いますし、それを北見先生が感動してくれたことは本当にうれしいことです。他の思い出は「楓(かえで)と楓(ふう)は別の植物だ」と言ったのを覚えています。レベルが高過ぎて大学の授業ですね、これは。だから、北見先生の授業はベルが高過ぎて高校生には面白くなかったんでしょうね。
北見先生の本と言うか、随想みたいなものを読んだことがありますが、これはすごいことが書いてあります。一緒に読んだ知人も北見先生の学者としてのすごさにビックリしてました。植物が育つ為の地層とか岩石とか水流とか、あらゆることを網羅した知見の元に植物を書いているんです。これは伊藤邦男先生とは一段違うなあと思いました。時々植物関係者が言いますが、北見先生は全国区の学者であり、伊藤先生は全県的に活躍し、現在の中川清太郎氏は島内トップの植物研究家であると。真偽のほどはわかりませんが、あの北見先生の文章を読んだ時の感動は忘れられません。
★渡辺利雄・近藤保、二人の東大教授
(小池)さっき出て来た近藤保君は入学した時は一緒のクラスでした。勿論頭は良かった。がり勉型の秀才ではなく、結構みんなと普通に遊んでました。理数系が得意だったなあ。
家は道路沿いの大きい神社の近くだった気がします。ともかく頭は良かったですが、勉強勉強と言うタイプでは全くなかったですね。家は金井の本線沿いの神社の辺りだったと思います。
渡辺利雄さんは1年上で有名でしたが、勉強ばかりでなく運動も出来たと言う印象を持っています。
当時は成績が玄関に出てたから利雄さんの出来るのは誰もが知ってた。全教科全部出来るのに、おまけにスポーツも出来るんで後輩の自分達もよく知ってました。
(山田)当時はすごい生徒が続々と出たと言うことですが。当時はともかく菊池勘左衛門校長が、古今東西天下一の学校!を叫んでいましたね。しかし、渡辺利雄はそれとはちょっと違ってともかく別格でした。あれが出来てこれが出来んと言うんじゃない、何でもかんでも全て出来た。先生方は目を離すと言うか勝手にさせておいた。私が山田だから前の席は守道、後が渡辺でした。授業中はともかく静かで授業を受けてるんだけど、全部わかってるから授業とは別のことをやってたかも知れません。先生も一目置いて利雄君には声もかけなかった。学校では自分達と一緒に竹の棒でワイワイやったし、スポーツも出来たし、がり勉など片鱗も無かった。体操の時間でなく、時々鉄棒なんかもやってたなあ。車輪でも大車輪をバンバンやってた。俺達は鉄棒ってもそんなもん知らんかったから驚いたものです。
長谷川さんについては一年上だけど、優秀だとは聞いてました。
(渡辺)そうすると両津高校からは二年連続で東大に入りましたね。しかも山田さんの同級生の渡辺利雄さんの時は、一年浪人して長谷川さんも入りました、長谷川利平次さんの息子さんですね。そして翌年に近藤保さんです。渡辺、近藤さんは共に東大の名誉教授になったわけですね。近藤先生の兄さんは金井の町会議員をしてました。元々は電柱に看板を取り付けるような会社をやってました。電通なんかの関係でしょうか。どこかで聞きましたが、両津高校時代は吾潟の池田さんと言う内に下宿をしてたと。親戚の家だったそうですが。
渡辺利雄さんは、父の松次郎先生が私達の恩師だったんでいろいろ聞きました。先生も決してホラを吹くとかそう言うんじゃなくて、うちの息子は変っとった、って言い方でこんなことを話しました。
ともかく家では勉強ばかりで、親が身体のことを心配した。そこで、兄貴(本間茂雄東京教育大教授、体育学、オリンピック出場の日本最初の体操選手。その後、競技団長としてオリンピックに出場し世界一の体操日本を築いた。金メダリストの小野喬、遠藤幸雄、加藤沢男は全て教育大の教え子)に相談したら庭に鉄棒を作ってくれた。そして利雄さんに鉄棒を教えて、毎日これとこれとこれを必ずやれと言ったそうです。それで利雄さんは鉄棒がうまくなったそうです。勿論、体力強化にも役だったでしょうね。夏休み中は、勉強ばかりで身体壊さないように、又体を鍛えるつもりもあり、毎朝自転車で小木まで行ってこいといった。小木に親戚があるんで、そこへ行って腕に印をつけてもらって来いと。その次の朝、早々勉強してるんで、「どうして小木に行かないんだ!」と怒ったら黙って印が付いた腕を見せた。即ち、勉強時間に食いこまないように、その分早く起きて小木に行って来たと。この子については、ともかく好きなことをさせておこうと考え直したそうです。まさに親も驚く努力家だったし、おまけに勉強が好きで好きでだちかんだったらしいです。
私等の頃はともかく勉強で佐渡高校に負けるな!と言う時代で、河原先生(カッパ)などは剣道の竹刀を持って、黒板バンバン叩いて、こんなのがわからんのか、佐渡高校では全員しっとるぞ!とかハやってました。ちょっと私語が聞こえるとチョークを全力で投げつける、コントロール悪いから誰にあたるかわからん、一人でも悪いとみんなの責任だと考えてるから誰にあたろうが彼からすれば知ったことか、という理屈。しかし、今から考えれば何と有り難い先生であったことか。
(山田)私の頃は先生が勉強勉強と大声を出すと言う感じではなかったなあ。土屋長松先生(あだなはケモ)もそんなに厳しいと言う印象はなかった。
(小池)土屋先生は厳しかったと思う。私と同じ町内だったんで、私を町内町内と言い、町内しっかりせ―と言うのには困った。こっちは数学は大の苦手だったのに。進学についてはやっぱり勉強せ―!と言ってた気がするなあ。
(渡辺)あれだけ高レベルの大学に沢山合格したのに、進学の面で猛烈な先生は居なかったんですかねえ・・。私が石楠会の会長の時、東京支部会で後藤精一さんと話しました。後藤帽子の人で、名刺見たら日本航空の役職が書いてありました。彼にしても小池さんより年上で、しかも日本航空ですから当然しかるべき大学を出てたはずです。
菊池校長が富山県から教え子たちを連れて来ましたよね、筏井(いかだい)先生とかちょっと変わった名前の。
(小池)英語の高畑とか。皇太子みたいな感じだった。皆さん若くて優秀な先生だったと思います。
(渡辺)山田さんと同級生の私の叔父さん渡辺良一が言うには、富山から来た数学の飯田?とか言う先生に両津高校で習った。後年、社会人になって東京の進学のすごい名門の戸山高校へ仕事で行ったらばったり飯田先生にあった。お互いビックリして、「こんなすごい学校で教えてるんですか?」と聞いたら、冗談交じりに、「実は俺はすごいレベルの先生なんだけど、両津の菊池校長先生に無理やり数年間の約束で佐渡くんだりまで行ったんだよ」と。私はそれを聞いて驚きました。菊池勘左衛門校長は両津高校を古今東西日本一の高校にするために出来ることは何でもやったんだなと。本当にすごいことだと感心し感激しますね。
こんなことも。亡くなった大盛屋の後藤昭雄さんが、何十年も前ですが、若手の一流女流棋士(碁)に富山出身の長部?オサカベ?とか言う人がいて、その父親は両津高校で先生をしていたと。
(渡辺)キンダホールがこの三月(平成30年)に閉園しましたが・・。
(山田)言っても詮無いことですが、閉園記念誌のようなものを作ってほしいですね。
閉園私はキンダホールを出ました。ここはいつ創立かわかりませんが、私の二年先輩は居ました。当時の写真がありますし、桜井
(渡辺)私も小学生の時、数回だけ日曜教室に行ったことがあります。子供が20人も居たのかなあ、大柄で優し男性の外人(ドイツ人?)で日本語が上手かった先生が楽し話をしてくれました。とても面白かったのですが、何故その後行かなかったのか不思議です。もしかして、その外人の先生が居なくなったような記憶もうっすらあります。
(山田)夷保育園は元は今のあの場所が託児所だったそうです。中静先生はその当時から居たそうです。諏方神社境内だったので、氏子総代だった岩原九平さんがお世話して下さったそうです。託児所の隣にはどんどこ屋が居て、どんどこと音がしてたそうです。トイレは板張りで、直接そこにする形で、大便は別に囲ってあったそうです。普通、託児所はお寺の境内が多いんですが。今の保育園の場所は元は青年会館があり、その前は夷町の頃ですが、夷小学校があったわけです。例の明治の諏方神社の図絵に二階建ての夷小学校が描かれてますね。
戦時中は一時キンダホールが無くなり、その場所に夷保育所がありました。自分の後輩は今のキンダホールの所にあった夷保育園を卒業したしたいます。昭和21年~22年当時の夷保育園園長は岩原志んさんで、両津高校創立時に尽力された岩原一雄先生の奥さんです。正覚寺の裏手です、その後、辻行政司法書士事務所になった家です。一雄先生は音楽の先生などをされました。
(渡辺)岩原一雄先生は橋本喜一さんと共に両津高校創立に関わった教員で、河原田高女(佐渡高女?)の先生でした。一雄先生の弟さんが系吾さんで、東京御徒町ヨシケイデパートの高橋家に婿入りし、東京の幼稚園業界で名を成しました。道灌山幼稚園、高松幼稚園や短大なども経営し東京での同業界の指導的立場の方でした。その関係か、又は一雄先生独自の動きなどか知りませんが、私らの頃東京田端に越佐教育会館があり、佐渡関係の大学生がたくさん生活して居ました。同年の辻久和君が居たので一度そこで泊まりましたが、同年の吾潟池田君(佐渡高校卒)、一年後輩の春日町忠平君などが居たのを覚えています。越佐とは言いながら佐渡関係者が大半だった気がしますが、詳しくはわかりません。ともかく、ヨシケイの高橋啓吾さんは通じて両津高校創立時に多大な寄付をされたりしたのが岩原家ですね。
啓吾さんの義父が教員時代の教え子が当時の文部大臣であったそうで、びっくりするような展開で両津高校が創立されたと聞いています。
(渡辺)両津小学校についてです。
(山田)私の時は学校の前に道路はなかった。野球やってライトに大きなフライを打つと勝広寺の墓に入るし、ライトは墓の前で守ったりしました。
柳屋さんは加茂湖まで家があり、縄を作っていて北海道に出荷してました。長い縄がずーっと加茂湖までつながっていたものです。そこをまたいで椎崎方面に行ったものです。若宮神社はやや高くなってるので、学校から行く時は神社に上がる石段があり、そこを上がって神社を横切り、また石段を下って向こうに行ったのです。そこから向こうは比較的道路風になってました。遊郭街への道ですね。
従って、湊本町通りから若宮神社に行く時は、今の幼稚園(平成30年春、河崎地区と合併閉園)入口の鳥居を通ってそのままの高さで神社に行ったのです。今のように幼稚園を通り、若宮通りに下って、また神社の石段を上ると言うのではないわけです。
夷から湊の遊郭に行く場合は、湊本町通りから若宮神社を通り越した辺りで加茂湖方面に下ったのです。その辺りに湊魚市場もありましたし。その辺りから湊は本町通りと裏通り(遊郭通り)と二本あったのです。
話が変わりますが、当時の新聞配達店は夷八の樋口新聞店と夷4の内海医院辺りにもう一つありました。
両津小学校の裏手は加茂湖でした。私達の後の時代に、その場所で一応プールと言う名前で、飛び込み台と縄でしきりを作ったようでした。私の時は、自分の記憶の限りですが、昔の魚市場の前辺りが砂浜でしたが、そこに簡易飛び込み台や仕切りを作り、プールとして大会などを行いました。佐渡中学、後の佐渡高校が強かった頃です。
(渡辺)私の時代には低学年の頃はグランドは表側で、高学年になったら裏の加茂湖側でした。表時代の思いでは洗濯の木などと言ったガンガラべソの細長い葉っぱだか果実だかをとって水につけてこすると石鹸みたいな泡が出て。数年前、両津小学校校長先生と話した時、私の年代らしい方から、あの木はその後どうなったと手紙で問い合わせがあったとか。校長も困ってました。
運動会はそこで行われ、私達がサカイのチャンと呼んでいたおっさんが自転車の荷台に直方体のアイスキャンデーの箱を乗せて販売しました。ある時、強風で自転車が倒れ、中のキャンデーがこぼれたのを見つけた悪ガキたちがそこに殺到しキャンデーをかっぱらってました。キャンデーやさんはジャンジャン鐘を鳴らして人寄せしてました。当時、グランドの周辺は少し高くなってて土手みたいだった記憶があります。もしかして、今の若宮通りが出来始めてたのかも知れません。
裏側のグランドの記憶は、5,6年頃、湊側の空き地にイカがたくさん干してありました。担任の木村与三次が怒って、学校の敷地にイカを干すなどとんでもないと、野球のノックついでに、イカをめがけてボールを打ってました。
確か小学校の湊側の中村佐太郎さんの干したイカだったはずです。そうは行っても地元の名士の家ですから、それを知ってたはずの先生が平気でボールを打ちこむんですから、木村先生の度胸は半端じゃなかったはずです。まあ、元々はあの辺りは佐太郎さんの土地だったんでしょうし、その名残でイカを干してたんでしょうが。
佐太郎さんとの境辺りには一部土手が残ってた気がします。中村さんとの境ははっきりしてなかったんで、中村さんの裏の小さな船着き場みたいな所でみんながクロダイを釣ってました。すぐそこで、でっかいのが釣れてましたね。
(山田)先程、北海道へ柳屋さんが縄を出していた話をしましたが、当時は竹を裂いて細くし、それを丸く縛った俗に言う輪竹が両津の至る所におかれていました。これも北海道へ搬出したんでしょう。何たって佐渡竹は有名でしたから。
両津小学校ですが、当時のクラスは松、竹、梅で桜はどうだったかなあ。クラスは50人位かな。
中学は両津中学で小学校からそのまま同じメンバーでした。

両小の建物はアルファベットのE形で縦が加茂湖と並行で、横棒の一番上が第一校舎、二番目が第二校舎、三番目が第三校舎で一番湊側です。第一と第二を繋ぐ縦棒が体育館、第二と第三をつなぐのも体育館です。
第一第二の間のスペースはグランドです。例のガンガラベソの木は第一の下の所ですから、今の離島センターの電話ボックス辺りです。その木には溝などがありそこに石などを突っ込んで遊んだものです。
自分達は中学校になっても同じ場所の第三校舎で学んだわけです。ただ、弟の世代になるとぼちぼち坂上の校舎にも行くようになり、授業は両方を行ったり来たりだったじゃないかな。椅子を持って坂上まで上がったそうです。弟は昭和13年生まれです。この後数年同じ状態が続いたようですから、全てが上に上がる過渡期だったんでしょうね。
学校時代の科目で言うと道徳と言うのはなかった気がする。米軍に占領され、古い道徳教育が否定され、まだ新しい道徳の方向性も出てなかったんでしょうね。
(渡辺)私らの時は、松、竹、梅、桜、杉、桃組もありました。何たって団塊の世代ですから。私らの入学時に出来た南中に入ったら、A組~H組までありました。他にI組があり、これは各学年の今で言う多少知的に劣る生徒達を一クラスに集めたものでした。やたら秋津の生徒が多かったのを覚えています。しかも、私らの一年下が多かった。本当かわかりませんが、当時が秋津は近親結婚が多いのでと言われていました。お茶だったか何かの技術を地域外に出さないと地元同士で結婚させたとか。
両津小時代の校長は木村幸次郎先生、教頭は酒井先生で海岸通りに家があります。
中学の校舎ですが、私の低学年の時は確かに湊側校舎には中学生が居ました。私より5つ位上の学年が居たのを覚えています。
(山田)一年上に姉が居たけれど教科書を譲り受けた記憶はありません。当時は戦後まもなくで教育体系も変化があり、毎年教科書が変わってたかも知れません。製本は今のとほとんど同じでしたね。
(渡辺)私の時代には、結構親戚や身近な先輩たちから教科書を譲り受けてました。お金があるなしよりも、身近に先輩がいるかいないかが一番で。私は譲り受けた覚えは一度もありません。今思いだすに、いろんな書き込みがある教科書を使ってる生徒が居たものです。大抵は優秀な先輩が丁寧に使った教科書の「お古」を使ってましたね、友達は。自分も先輩のように勉強が出来るようになるみたいな。まあ、そこを考えて親がもらってきたんでしょうね。まあ、親からすれば出来の悪い生徒の教科書をもらうと馬鹿になるみたいな感覚もあった気がします。また、成績が悪い子の教科書は汚れてたり、乱暴に扱われているので痛みも激しいとか。
(山田)弁当ですが、結構、昼飯に家に帰ってました。両小の場所ですから、夷も湊からは中学も小学も近かったわけで。まだブック型が出る前だったんで、所謂ドカ弁の子供サイズみたいな。おかずも特に別にしたわけでなく、端の方にちょこっと入ってたんじゃないかな。おかずには汁のこぼれるようなものは使わなかった。大きめのハンカチにくるんでました。冬になるとストーブの代わりに火鉢だった時代で、その端のスペースの所にみんなが弁当を置いて温めてました。二重になろうが上下に置こうがどうってことはないわけで。時々小遣いさんが来て火鉢に炭を入れたりしてました。小遣いさんは小田とよ子さんのお母さんでした。とよ子さんは本間林三先生の文化グループの一員でした。とよ子さんのお父さんも、元々は船乗りでしたが、当時は学校に来ていろいろ奥さんを手伝ってました。とよ子さんは両津郵便局に勤めて居ました。
その後、戦後のレッドパージか何かで局をやめ、両津病院の交換手をしてました。昭和初期の生まれだったと思います。その後、子供さんを頼って埼玉かどこかに行かれました。彼女は「ゲンのイカ釣り」とか言う童話を書いたこともありました。とよ子さんの姉が夷自動車のお婆ちゃんで、本間幸則さんの母です。
(渡辺)私らの頃の弁当は、中学時代は完全にブック型のかっこいいものでした。上の方に小さなおかずのスペースもあり、箸なども横の方にきちっと納められたような。また、おかず入れも別にあり、今のスマホサイズの深さがあるような形で、汁がこぼれないようにパッキンでカチンと絞めるものでした。弁当+おかず入れをセットにして大きめのハンカチで包んで持って行きました。小学時代の低学年はよく覚えて居ませんが、5年生の時だったか初めて給食が始まりました。味のついてないコッペパン一つと、おかずの皿が一つか二つくらいあったんでしょうか。勿論、金属製です。大きなバケツに入っているご飯やおかずが給食室に届けられ、それを給食当番が取りに行き盛りつけしました。教室だったと思います。牛乳は所謂脱脂粉乳でした。後にあの時のはまずかったなどとみんな語ってますが、当時はみんなにとってまずくはなかったと思うなあ。今はあいしい牛乳と比較して言ってるのでしょうが、当時の子供達は食糧事情も対してよくなかったわけで、腹減れば何だってうまかったはずです。時々乾パンが出ました。無味のクラッカーと言うか、消しゴムサイズのものでした。そうそう、脱脂粉乳は味噌汁入れる茶碗サイズの金属容器に入ってまして、そこにコッペパンを浸して食べると柔らかくておいしかったですねえ。
5,6年担任の木村与三次先生は、身体の小さい生徒、虚弱な生徒にもっと食べろと、配分後に残った食材をくれてました。身体の大きい連中も、俺も欲しいなどとぐずぐず言ってましたが。
(山田)学校の主治医は内海先生とか角坂先生でした。
※写真(昭和25年頃)を見ながら

右側が第三校舎です。奥が第二校舎、もっと奥が第一校舎です。第一校舎の加茂湖側にトイレがありました。前列真ん前が原与一校長です。その右が田中先生。右端がブル(ドッグ)って言われた菊池先生(河崎)、その左が神蔵一松先生(吉井長江)。後列中央が伊藤邦夫先生、4列目左端が後藤ボーシの後藤英吉先生、右最前列の左が伊藤正男(あだ名、かぼちゃ)先生、その右が近藤右全先生(吉井のお寺)です。
中学1年の時の担任は後藤英吉先生で、2,3年が棚か先生でした。後藤先生は一年だけ担任を持ってその後居なくなりました。ただ、この写真は私が中学2年(昭和25年)か3年
ですので、この時に又復帰したんでしょうか。
■「保育所・幼稚園」
(伊豆野)
湊の保育所は、私が知る限りでは現在の保育所は3代目。1代目は私が通った場所。夷から大倉先生メガネ顔(おおくら・えいいち先輩の母、中学の斉藤チヨ先生と似ていて交錯しますが)、それとホオリ先生の顔がうっすらと思いだされます。跡地は若宮通りを夷から来て「若宮八幡社の信号の『T字路交差点の左角地』です。」つまり若宮通りを真っ直ぐ行けば若宮石油商事。
右折は不可ですが、今駐車場!?。左折して行けば本通りと交差、さらに真っ直ぐいけば、佐渡汽船船着き場。2代目は引っ越し先の八幡若宮社境内の保育所。3代目は、八幡若宮社境内を横切る道路(若宮通り)が建設された際に建て替えられた現在の保育所。
スポンサーサイト
トラックバック
コメントの投稿
最高の教師
うちも5年ぐらい前からSLD-MAGIC使っている。寿命が10倍ぐらい伸びて、寿命バラツキが少ないのでメンテナンス管理がしやすい。おまけに防錆油メーカーがP系の極圧添加剤が入った防錆油を開発し鉄鋼メーカーが使いだしたことで、かなり寿命が延びた。伸びたら伸びた分だけ、冷間成形鋼種を革新し、従来工程の半分までこぎつけた。SLD-MAGICはいい材料以上にいい教師だ。
Powered by FC2 Blog
Copyright © 佐渡人名録 All Rights Reserved.