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2016-10-11

中川善兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡羽茂村上山田の農である。天保のほじめ(一八三〇年ごろ)ほ全国的な不作で佐渡はとくにひどかった。
幕府は巡検使を全国におくって実状を調べさせた。善兵衛は宝暦以来の不作のようすを訴えたが、さらに小木まで追って訴えようとした。巡検使は船に乗って面会しなかった。
奉行鳥居正房は善兵衛を捕えて獄に入れた。農民たちはこれを怒って相川に火を放って善兵衛を救おうとしたので正房は善兵衛をゆるした。善兵衛は江戸に出て幕府に直訴しようとした時、また農民たちが隊を組んで打ちこわしをはじめた。ついに高田藩の出動となり善兵衛らは捕えられ、奉行の役人田中従太郎(薬園)以下七名も禁錮となった。
天保十年(一八三九年)三月七日、善兵衛は江戸へ送られ五月二十九日に獄中でなくなった。三十五才であった。(殉国碑、近世越佐人物伝、佐渡人名辞書、佐渡人物志)

「朝日日本歴史人物事典」の解説.
生年: 寛政5 (1793) 没年: 天保10.4.23 (1839.6.4) 江戸後期の義民。幕領,佐渡国羽茂郡上山田村(新潟県羽茂町)の農民。天保9(1838)年12代将軍徳川家慶襲職にともなう巡見使来島の際,佐渡一国惣代として,過重課税,地役人の不正,商品流通に関する専売制,鑑札制などの是正を要求した訴状を巡見使に提出した。その後捕縛されたが,善兵衛釈放を要求して2万人の農民が押し寄せようとしたため一旦は釈放された。意気盛んになった一揆勢は専売制,鑑札制に関係する問屋などに対する激しい打ちこわしを展開し,高田藩兵入国まで半ば無政府状態が続いた。善兵衛ら一揆勢の頭取のほか,地役人らも入牢を命じられ,江戸で吟味が行われたが,善兵衛獄門の判決が下ったとき(11年8月7日)には善兵衛はすでに牢死していた。しかし善兵衛らの要求は一揆後佐渡奉行に就任した川路聖謨 の政治に活かされることになり,善兵衛は義民として顕彰されていった。<参考文献>伊藤治一『佐渡義民伝』,『編年 百姓一揆史料集成』15巻(大橋幸泰)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
な中川善兵衛

『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
天保の代表的義民である、羽茂町上山田の人。上山田の百姓仲右衛門の子息で、幼時から観音寺の住職に就いて学問を修め、頭脳明噺のほまれが高かった。長じて後佐渡の国政に注目し、特に農民の生活に関心を持ち明和の一揆で、罪を一身に引きうけた遍照坊の美挙に感激し、自分で遍照坊の再生と自認して一生を百姓たちの救済に献げたのである。
だから強訴の罪にょって相川から江戸へ送られる時には、沿道の島民は堵列し、号泣して別れを惜しんだが一方役人の護送にはことごとく悪書を浴せたといわれている。天保十年三月七日江戸に送られ、四月二十四日獄中で急死した。年三十五才である。先きに離縁された一子勝太郎は後に江戸へ上って行方不明となり、長女千代に羽茂から養子を迎えて跡を継いだ。法名は光明院普観長善居士、同村観音寺に墓所があるが、豊後と助左衛門と合祀である。観音寺は、小木線上山田公民館前バス停留所から二キロ余の山中にあって、附近は小公園の形となり、善兵衛の生家はその附近に現存する。そして、観音寺ほ佐渡四国八十八カ所の札所ではないのであるが、善兵衛を追慕する信者たちは、わざわざ山道を辿って此所で供養をすることになっているのである。なお、善兵衛の頌徳碑は村山の気比神社境内に建立されており、撰文は羽茂の生んだ碩学葛西周禎である。原文は漢文であるがその伝記が詳しく記されているので、これを訳して掲げることとする。学者のみたその人となりを偲んでもらいたい。

天保の初め、歳しばしばみのらず、丙申(天保七年)丁酉(同八年)、海内大いに飢ゆ。吾州最も甚だし。飢餓路に載る。
是の時将軍新たに立ち、令を下して賑給すも有名無実なり。戊戌(天保九年)又天下に使を分ち民の疾苦を問う。使番木下内記、石尾織部、筧新太郎、徒日付戸田与左衛門、審に北国を巡視す。吾州上山田村民中川善兵衛之を聞き、蹶起して日く、吾まさに請う所あらんと。即ち之を途に要し、状を具して以て訴う。其一、本州の賦税之を上国に比し斂に過ぎ、等を踰ゆ。今又新たに法を設け、租百石を出す者は、更に四石を増し、之を口米と謂う。倉に入るる日、毎に帖簽を苞む、之を中札と謂う。記して五斗とい曰う。而して又二升を益し取り、之を差米と謂う。民命に堪えず、請う新法を除かれよ。其ニ、胥吏(小役人)が斗衡を執り、減ぜんと欲すれば即ち減じ、増さんと欲すれば即ち増す。増減手に有り。ただ賄賂に従って之を出入す。今より後、官吏は民をして量を執らしめんことを請う。其三、広恵倉を築いて貯蓄して民を救うと日う。是を以て人民銭を出し費を供したり。今にして之を察するに、売買は一に皆上の令に出づ。偶ま賑貸有れば、毎に苞んで八升を減ず。是れ民を欺き自ら刺するなり。之を廃せんことを請う。其四、夷港に倉庫あり。而して半分の粗を輸って相川に積む。昼は茅刈り、宵には縄なうの時、民は力を農事に尽す能わず。不便なり。之を寝めることを請う。其五、大石村の官倉は本官費なり。今新たに民費を付くるは非法なり。之を復すことを請う。自余挙ぐる所の弊政凡そ十八条なり。使者日く、訴を越ゆるは事重し。吾が専断し得る所に非ず。今しばらく封書を受く。汝宜しく使館に来るべし。対質して之を大府に上らん、と。
善兵衛従って相川に至る。吏の嘱を受けて敢て通さず、明日使者はにわかに相川を発つ。奉行鳥居正房、善兵衛を掃えんとす。善兵衛白く、公は未だ情を知らざるのみ。さきに上使封を受く。而して令して使館に来れと日う。公いずくんぞ沮むことを得んと。正房之を放つ。善兵衛追って小木に至る。時已に亥刻(夜十時)を過ぐ。館人欺いて日く、上使既に寝ぬ。謹んで、さわぐなかれ、と。善兵衛門外に立って退かず、窮民三百余人皆随う。館の人交々数梯を縛り、街の両端を塞いで白く、訴者皆比内に入れ、と。けだし、あざむきて之を錮するなり。黎明、使者ほ隙を窺い、輿を使って突過し、まさに船に乗らんとす。三百余人号呼し、憤り起ち数梯立ちどころに摧く。菩兵衛䌫を攀じて命を請う。䌫絶つ。沙に伏して号泣す。舟の行くこと飛ぶが如し。幕政、凡て訴うる老を聴かず。若し火を拳ぐれば、即ち聴者は必ず反して之を聴くが例なり。善兵衛窮民に教えて火を拳ぐ。使者顧みずして去る。後使者越後に在り、罪を畏れて屠腹して死すと云う。是の日奉行吏に命じて善兵衛を捕え、相川に押送す。窮民之を聞き、嘯きて八幡に聚る。凡一万余人。皆火を放ち、獄を毀ち、善兵衛を奪い、臓吏を殺戮せんと謂う。相川市民も亦密に来りて慫慂す。郡吏井口方義、正房に説いて日く、愚民蠢動の是非は小事のみ。姑く善兵衛を出して之をゆるめるに如かず、と。乃ち之を放つ。市民拉して八幡に至る。喜びの声地を動かす。衆相告げて白く、更に媚び、貨を納め以て民情を塞ぐ者はことごとく其家を毀て、と。善兵衛手を揮て日く、是乱民なり。敢えて行うべからず。且つ古より券無くして境を出る者は法の罪有り、故に上使を待ち境に荏みて之を訴えむ。之を訴えて受理せざれば、之を江戸に訴えざるを得ず。諸君宜しく謹んで待たむのみ、と。言終って涕下る。衆皆諾す。善兵衛家に帰り装を治す。少年之後に在る者、又相煽動して日く、忿堪ふべからず。家を毀ちてともに情を訴うるは、本両岐たり。暴乱之罪は我輩之に当る。何ぞ阿善に関せんや、と。遂に隊を結んで四散し、民屋を発き、使館を毀ち、勢猖蹶を極む。高田藩兵を発して来りまもる。変江戸に聞え、評定衆使徒目付望月新八郎、小田五郎作、小人目付長坂鑑八、来りて鎮む。奉行笹山景徳も亦至る。是に於て善兵衛再び逮捕に就き、並に其党六人、臓吏七人、皆獄に下る。巳亥(天保十年)江戸に押送す。
獄に在ること七日にして七人皆痩せ死す。鳴呼奇怪なるかな。令して日く、善兵衛党を結びて強訴す。罪当に斬にあたるべし。既に死すと雖も、法は当に其後を絶つべし、と。籍を削り、戸を除く。奉行正房は免に坐し、余ほ皆罪無しと云う。
甚だしきかな、民之を弔わざらんや。善兵衛身を以て之に殉ず。反って蠢動する者のために誤られ、徒に獄中に死す。悲しきかな、善兵衛之死や。今を距る殆ど五十年、民之思慕猶昨日の如し。頃日村人大倉重延、渡辺保定、来りて余に共事を記すを請う。予遺老に就いて之を質す。日く、善兵衛年三十五、平素質重寡言、撲々泥塑人の如きも、其人と接するや、便々能く言う。村中に会議有れば席について、一言も出さず。会散って傍人に告げて日く、其々の言行うべし、其々の言う所は行うべからず、と。之を他日に験するに果して其言の如し。妻は羽生氏、一男一女を生む。男は勝太郎と日い、女ほ千代と日う。善兵衛既に死す。羽生氏再び同郷の渡辺秀造を養い勝太郎を其嗣と為す。後、家を出でて行く所を知らず。秀造乃ち、羽茂の中川彦十郎二子力造を養い以て千代を之にめあわす。千代も亦尋で没す。子無し。善兵衛の系是に絶ゆ。鳴呼善兵衛之義、天之に報いて一に此に至るか。但其事のごときは、則ち以て伝えて記さざるを得ざる也。

明治十九年丙戌之冬十月 葛西質撰文

9img659(右)義民中川善兵衛の供養塔ー羽茂上山田、観音寺境内
(左上段右)中川善兵衛の墓-羽茂上山田、観音寺境内
(左上段左)中川善兵衛彰徳碑ー羽茂村山、気比神社境内
(左下段)中川善兵衛の生家ー羽茂上山田

新潟日報(平成26年8月18日)
なか中川善兵衛

「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)

「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))

中川善兵衛(「羽茂の幕末を生きた三人」『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)

橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)①p1-28
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御忠告ありがとうございます。
早速訂正させて頂きました。
今後とも何か気付くことがありましたらご指導くださいませ。

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