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2023-04-23

夷(「佐渡広場」桜井哲夫)

2023年3月26日(日)佐渡広場:歴史スポット115
夷町起源考Ⅰ:郷土史年表からの探究
1.はじめに
 「歴史スポット」の記述は、2021年7月14日号「114:1950年代両津子どもの遊び51:メモ」以来。
 今回の投稿のきっかけは、前号「佐渡の画廊503:えびす(恵比寿)」で夷(えびす)町の起源に関心を持ったこと。2010年佐渡広場「佐渡の神社25:蛭子神社」で取り上げたが、更に掘り下げようと思ったことによる。なお、その時の「まとめ」は、以下のとおり。
「現時点、地域住民の間で「えびす」と既に呼んでいたのが先か、修験者が「えびす」信仰のお堂を開いたのが先か 結論出来ないが、新興地「えびす」・商売繁昌「えびす」・えびす様(おべっさん)のいる「えびす」で、地元住民に「えびす」名で呼ばれることは歓迎で、「えびす(夷)」の地名に誇りを抱き公認となったことは事実であろう。」
 その「まとめ」を評価すれば、「夷」の地名の由来・地名の定着又は公示時期について不明瞭で当たり障りのない記述で核心を捉えたと言えるもので到底ない。
 その当時参考にした『両津市誌 町村編下』での要旨は、次のとおり。
 「夷」の町名の由来
・夷町の川方(加茂湖)には、古くから町の総鎮守として尊崇されてきた社で、現在は町の鎮守諏方神社の末社となっている蛭子〔えびす〕神社がある。
・祭神は蛭子命(ひるこのみこと)、後に恵比寿神は商業神として、また漁業の神として、特に海神信仰として尊崇されてくる。この町が海漁を生業とし国仲方面への諸商売がよく行われたこと、そしてこの地に夷講行事の存在する点を考え合わせると、夷の地名はここから来たことは確かだろう。「そうすると夷町は神社名がそのまま町名になった所と言えよう」 
 「夷」という地名の始まり
・寛文10年(1670)夷町小物成報告書に、夷町に六郎左衛門という大船持ちがいて越後の上杉謙信(1530~1578)没後供養に島内の真言宗の僧を越後まで仰せ付けられたこと、その覚書に天正3・4〔1575・1576〕年以前まで地頭の久知殿に猟役として鱈・鯳・烏賊などの生肴を納め、この年に各干し肴を銀納したこと、上杉景勝の佐渡支配(1589年)の頃から猟船の役として械役を銀納していたことが記されている。
・夷町の総鎮守諏方神社の創建は年歴不詳であるが、文禄2年(1593)の勧請。加茂の神野にあったものを土地の人が田地300刈を付けて譲渡したという伝承があり、慶長5年(1600)の時点で加茂村の神社として存在し社領も加茂村に所属。「この事情などを考え合わせると、町民に鎮守として尊崇されるのは、少なくともその後のことであろう」
 蛯子神社と諏方神社について新たな資料として明治12年(1879)政府への提出文書(全国一斉調査であろう)(出所:「佐渡人名録」サイト「両津の神社」)は、次のとおり。
 蛯子神社は「由緒 開基年暦不詳」、諏方神社は元禄14(1701)年の火事で資料類焼失「創立年月詳ニセスト雖も、遠ク天正(1573~1592)以前ノ創立タル敢テ疑ヲ容ルべカラズ」との内容。
 以上より限られた資料の中で解明すること自体無駄で、あくまでも推理・推察・推測・推定に過ぎない。提示が具体的であるほど間違いの確率が高まる。それでも明らめないというのが、人の持つロマン・ドリーム、ここでは歴史ロマン。
 「夷町」の由来と誕生時期の完全解明は至難としても近づくことはできるはずである。ここではいろいろ角度からの史実・伝承記録を基に探究を進める。
 その出発が「年表からの考察」。一定の結論を提示するまでには中断・訂正・変更・転換など紆余曲折があろう。
2.夷町関連年表
 資料:『両津市誌資料編 年表』『両津市誌町村編下』、『両津町史』、『加茂村誌』、『吾潟郷土史』、ウィキペディア他
 (注)『両津市誌資料編 年表』を基本とするが、筆者なりに補足・加筆・加工あり。
西暦(年)と概要
 135:国制定まり、このころ大荒木直が佐渡国造となる。(先代旧事本記)
 544:粛慎人が佐渡に来たことを越の国から都へ報告する。(日本書紀)
 645:大化の改新
 646:大化改新の詔発布、佐渡全島が雑太郡と定められた。
 701:大宝律令制定。国内は国・郡・里の三段階の行政組織に編成された。(ウィキペディア)
  「国郡里制は、古代日本において大宝律令により施行された地方行政・地方官制の方式である」。
  諸国に軍団設置し国司が統率。軍団は兵士千人で構成、五十人で一隊。「里は715年郷に改め、郷を2、3の里に分けた」(ウィキペディア)
 709:佐渡ほか3か国から船百艘を北狄所に送る。(続日本紀)
 712:『古事記が編纂。「次生佐度嶋」の一文あり。(岩波文庫『古事記』)
 718:下横山の蔵王大権現 大和国金剛山から勧請されたという。(佐渡神社誌)
 720:『日本書紀』ができる。その中に佐渡は大八州の5番目に当り、隠岐州と双子に生んだと言われる。(日本書紀)
 721:雑太郡を分けて、賀母・羽茂・雑太3郡とする。(続日本記) 
   佐渡は越前の按察使(あぜち)の支配下にはいる。
  (按察使:数か国の国守の内から1名選任、その管内での国司の行政の監察を行った)
724:諸流配所の道程を定め、佐渡ほか5か国を遠流の地とする。( 〃 )
  〔縁起式に5刑(笞刑・杖刑・徒刑・流刑・死刑)があり流刑の中で罪の重い順に近流、中流、遠流(佐渡・伊豆・安房・常陸・隠岐・土佐)〕
  佐渡への遠流は政治犯。それらの中には、途中で赦免になった万葉歌人穂積朝臣・日蓮上人・伊勢神宮神官藤波友忠公など、都に帰ることはなかった順徳上皇、その後どうなっか行方不明の能の大成者世阿弥、7年間佐渡に蟄居の中で当事者でもないのに中央での討幕計画発覚を機に処刑された後醍醐天皇の重臣日野朝資公、の例がある。
 736:佐渡正税を課す(越佐資料)。このころ佐渡は13郷・38里、国衙には掾(じょう)と目(もく)がいた。(律書残篇)
  参考:「正税」(コトバンク)
  令制で諸国が備蓄した田租。租は国・郡の正倉にとどめられて国の財政をまかなうのに用いられた。令制崩壊後は、領主のもとに納める年貢の米をさした。
 739:佐渡国雑太郡石田郷曽祢里の丈部得麻呂は調布を納める。 (正倉院宝物銘文集成)
  「白布壱巻 長4丈1尺3寸5分 巾2尺3寸 巻頭 佐渡国雑太郡石田郷曽根里丈部得麻呂 調布壱端 天平11年11月15日 越の国主 阿部引田臣比羅夫 巻尾 石田郷曾禰里丈部口麻呂。」
  「第59回(2006年)正倉院展で展示された。麻布の単の袴。佐渡の調布という墨書きがある。」
 (以上佐渡広場:奈良「正倉院」)
  743:佐渡国を越後国に併合した。(続日本紀)
  752:佐渡国を復地し、守一人、目一人を置く。( 〃 )
     渤海の使者が佐渡に漂着した。( 〃 )
  770:羽吉の羽黒神社 出羽羽黒山から勧請されたという、(羽黒神社由緒)
  792:潟上村の八王子大明神(牛尾神社)出雲神社から勧請されたという。(宝暦寺社帳)
  781:佐渡国賀茂郡佐位郷矢田部某納付の調布で仕立てた布袴一着が正倉院Jに現存(河崎村史料編年史)  
  802:越後国は米1万6百石、佐渡国は塩120石を出羽国雄勝城へ送り、鎮兵の糧とする。(日本紀略)
  811:湊の釈迦院開基という。(宝暦寺社帳)  
  831:久知河内の天長寺(後の長安寺)開基という。(長安寺)
  871:「佐渡の兵庫震動す」との報告出される。(三大実録)〔貞観13年大地震が佐渡に伝わる〕
  927:延喜式が成立。佐渡の国幣小社として9社が記載。
   羽茂郡:度津神社・大目神社
   雑太郡:引田部神社・物部神社・御食神社・飯持神社・越敷神社
   賀茂郡:大幡神社・阿都久志比古神社
  931~(承平年間):賀茂郡は、賀茂・佐為・殖栗・勲知・大野とある。(倭名類聚鈔)
  951:渤海の使者が佐渡に漂着した。(続日本記)
  961:下久知の八幡宮勧請という。(八幡宮)
  975:椎泊の白山神社創立。(佐渡神社誌)
 1185:源頼朝 諸国に守護・地頭を置く。
 1221:承久の変。順徳上皇佐渡へうつされる。(吾妻鏡)
   それを契機に相模国本間・渋谷・監原・土屋から4人の鎌倉武士が地頭として佐渡に赴任、以降佐渡国守護の大仏北条氏に代わり守護代の本間氏が佐渡支配。
 1271:日蓮 佐渡に流される。(日蓮聖人遺文)
 1325:日野資朝  佐渡に流される。(越佐史料)
 1344:足利尊氏は賀茂・梅津・浦河・津浦ほか2ヶ所を近江国園城寺に寄進した。( 〃 )
 1376:原黒の諏訪神社棟札に永和2(1376)年8月とある。(佐渡神社誌) 
 1379:城腰の明照寺開基という。(城腰区)
 1380:河崎の晃照寺開基という。(宝暦寺社帳)
 1384:下久知の和光院開基という。( 〃 )
 1394~1428(応永年間):この頃の地頭と所領(夷及び隣接地)。加茂渋谷氏の所領:湊・夷・加茂。歌代渋谷氏の所領:歌代。(佐渡風土記・佐渡名勝志・佐渡故実略記)
 1419:湊の源阿弥陀仏が,大般若経600巻を長安寺に納めた。(橘鶴堂文庫)
1490~1500初頭:寺院開基ラッシュ。
  加茂歌代は1490極楽寺(加茂村誌)、1501吉祥寺・1501安照寺・理性院1503、夷町は延命寺1504(宝暦寺社帳)
 1504:夷の延命寺開基という。(宝暦寺社帳)
 1522:夷新の正覚寺開基という。( 〃 )
 1561:久知七代本間泰時、梅津・羽黒を攻め、梅津地頭渋谷半左衛門自害する。(久知軍記)
  永禄年中(1558~1570)久知(本間)殿 加茂〔渋谷〕殿を攻め敗退させる。(加茂村誌)
 1578:上杉謙信供養に夷町六郎左衛門の大船で島内真言宗の僧を送った。(白瀬臼杵家文書)
  1585年頃まで夷町では久知地頭に鱈(タラ)・鯳(スケトウダラ)・烏賊(イカ)を干して納めていた。(後述、覚書文書)
 1589:上杉景勝の佐渡攻略により佐渡は上杉氏の領分となる。(歴代古案)
    久知殿・潟上殿は景勝に従って越後に移る。(久知軍記、本間令桑控書)
 1592:上杉氏代官河村彦左衛門によって島内全島に検地が始められ1600年各村の中使あてに検地帳が交付。(佐渡風土記) 両津市に残っているのは、岩首・水津・羽二生・両尾・椎泊・釜屋・潟端・細屋・和木・北松ヶ崎。
 1593:夷の諏方神社勧請と伝える。(諏方神社)
 1600:上杉氏代官河村によって1597年から島内全村で検地。この年各村の中使あてに検地帳が交付。(佐渡風土記)
 1601:佐渡が天領となる。徳川幕府から中川主税・吉田佐太郎・田中清六の3代官が赴任。上杉氏の代官河村彦左衛門とともに鶴子外山陣屋にいて全島を治めた。(佐渡年代記)
 1604:大久保長安来国。佐渡支配に加わり、服部伊豆が湊代官として用いられる。(佐渡年代記)
 この頃佐渡3郡を羽田組(77ヶ村)、夷組(52ヶ村)、大野組(54ヶ村)、小木組(79ヶ村)に4分し、夷町に代官所が置かれ、この時大久保から任命された夷組代官は鳥居嘉右衛門である。
 1610:湊の勝広寺は、原黒から沢根鶴子銀山、上新穂村大工沢を経て、この年現在地に移った。(皇国地誌)
 1617:屋敷検地が行われる。岩首・水津・羽二生・椎泊・城腰・釜屋・羽黒・椿・馬首・北松ヶ崎に検地帳が残っている。
 1622:この年の夷湊番所一ヵ年分の御役並びに諸役納まりは、24貫467匁5分。(佐渡風土記)
 1624:湊の妙法寺創建という。(妙法寺碑記)
 1635:正月 奥野源左衛門・滝五左衛門が夷湊番所判方役となる。(両津町史)
 1649:諏方神社の祭礼始まるという。(宝暦寺社帳)
 1670:夷町小物成(雑税)納方覚 (白瀬臼杵家文書)
   干鱈(タラ)412枚・銀納 干鯳(スケト)2,640枚・銀納 干烏賊(イカ)9,600枚・銀納
   械役(猟船役)・銀113匁2分
 是ㇵ84、5年以前〔1585、1586〕迄ㇵ夷町ㇵ久知殿之御持ニ而、猟役トテ鱈、鯳、烏賊ナド生肴ㇵ御取被成候処ニ、其後川村彦左衛門殿、田中清六殿、吉田佐太郎殿、中川主税殿4奉行ニ而、島国御支配之砌ヨリ干鱈、干鯳、干烏賊ニ而納来申候ヲ50年許以前鎮目市左衛門様御持之時御訴訟申上銀納ニ相成、只今迄来候由申伝候、右之通御座候、以上 只今迄来候由申伝候
    一 銀納 110匁2分 械役
 是ハ景勝様御代ヨリ猟船トテ納来リ候由申伝候年数之儀者久敷事ニ御座候故不奉存候但年々船之過不足に付高下御座候右之通御座候 以上
  寛文10年戌年
    夷町名主:源右衛門 町年寄:藤四郎・儀左衛門・新兵衛・九郎左衛門 惣町中
  御奉行様
 1687:夷と湊の境橋架換えられた。
 1694:元禄検地帳が交付。夷町の検地帳には「加茂郡夷町畑屋敷御検地水帳」とある。全部畑で水田はなかった。この時の案内人は源右衛門・儀左衛門である。(若林文庫)
 1889:町村制施行に伴い加茂郡夷町・夷新町が合併した夷町が発足。
 1896:郡の統合で加茂郡は佐渡郡に所属。
 1901:夷町は、佐渡郡湊町・加茂歌代村(一部)と合併し、両津町となり夷町・湊町は消滅。
3.年表の着目点と掘り下げ
①「135年:国制定まり、このころ大荒木直が佐渡国造となる。(先代旧事本記)」
1)『先代旧事本記』は天地開闢から推古天皇(554~628)までの歴史が記述。著者不明、成立806年~906年と推定。「大和朝廷の行政区分の1つである国の長を意味、国は令制国整備前の行政区分であるため、範囲ははっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。有力な豪族が朝廷によって派遣、または朝廷に帰順して国造に任命され、その多くが允恭朝に臣・連・君(公)・直(凡直)などの姓が贈られた。」(ウィキペディア)
 「大荒木直」に「直」の姓がある。
2)「佐渡」とあるも『古事記』は「佐度嶋」、『日本書紀』は「佐度洲(サドノシマ)」。(岩波文庫『古事記』、同『日本書紀』)
3)「佐渡」の由来
a、『大日本地名辞書』(吉田東伍 著 ):「佐渡の名義詳ならず、書記通証に「佐度与迫門通、言海路之狭也」と云ひ、古事記伝には「狭門歟、此島へ舟入るる水門の狭き故にや」云々、共に未だ信拠に足らずJ。筆者が小学5年の時 担任の先生から、佐渡はアイヌ語で2つの島が並んでいるのを「サド」と呼んだと聴いた覚えがある。
b、『日本歴史地名体系15新潟県の地名』(平凡社):「古事記」「日本書記」の国生み物語に佐度島(さどのしま)・佐度洲(さどのしま)とあり、大八島の一とみえる。「さど」の地名の意味については、「日本書記通証」「古事記伝」などは「狭門(さど)」すなわち海路の狭い意味かと推測し、また佐渡の雑太(さわた)郡雑太郷と関連させる設もあるが、いずれも確設とはいいがたい。漢字表記としては記紀の「佐度」、六国史などの「佐渡」、正倉院文書の天平宝字6年(762)5月17日造石山院所解案などには「佐土」とみえる。
c、筆者が小学5年の時に担任の先生が、「さど」はアイヌ語であり「2つ島が並んでいること」を指すと言われたことを覚えている。アイヌ語(文字は無い)で「さど」は「2つ並んだ島」を言うか調べれば、わかるはずで有力。2008年アイヌ民族を日本の先住民でることを国は認めた。同年の衆・参両院本会議で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択された(ウィキペディア)
②711年大宝律令制定。721年佐渡国雑太郡1郡を雑太・賀母・羽茂3郡とする。(続日本記)
1)大宝律令の制定目的は、地方の隅々まで統治する中央集権国家を構築するため。大和朝廷は手段として中国の唐の制度を参考に律(刑法)6巻・令(その他の法律)11巻の計17巻から成る律令を制定。
2)国内を五畿七道・66国2島の地方行政区分に設定。
 内訳:五畿(大和・山城・摂津・河内・和泉の五国)
    七道(東海道・東山道・北陸道・山陽道・南海道・西海道)
    66国:平安時代927年の延喜式(律令の施行細則)には、下記のように国の分類がされた。
     国力分類:大国・上国・中国・下国
     都からの距離分類:畿内・近国・中国・遠国
   【佐渡国は、北陸道・中国・遠国に位置。】
3)国郡里制
 a、地方は国、その下に郡、さらにその下に里(50戸が一つの単位)を設ける行政組織に編成され、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。なお、里は、715年に郷に改め、郷を2、3の里〔=100~150戸〕に分ける。
 【年表にある「739:佐渡国雑太郡石田郷曽祢里」の里は、郡里制の名残りなもしれない。なお、石田という地名が「石田川」と同じく今でもある。】 
 b、地方の役所は官衙といい、国と郡に置かれ、国府(国衙)・郡家(郡衙)といった。地方の行政機関は、庶民を統制して、租税を徴収する機構。
 c、佐渡国の郡と郷
 源順朝臣が930年代に編纂した『和名類聚抄』(今日の百科事典のような辞書)に「古代律令制の国・郡・郷の名称が網羅。佐渡について佐渡叢書『佐渡志巻之一』に収録。
 ァ、羽茂郡(9郷):越太、大目(於保女)、駄太、菅生(須加布)、八桑(也久波)、松前(万都佐木〔まっさき〕)、星越(保之古之)、高塚(多加倍)、水湊(茨奈也)
 ィ、雑太郡(8郷):岡、石田、与知、高家(多介倍)、八タ、竹田、小野、雑田(佐波多)
 ゥ、加茂郡(5郷):井栗、賀茂、勲知、大野
 【夷は、『佐嶋遺事』佐渡島地頭一覧より渋谷十郎佐衛門忠清=加茂殿の領地:加茂・夷・湊に入り加茂郡に属していたことはわかるが、奈良時代に「夷」の地名があったか不明】
4)国家財政を支える納税制度と国防のための兵役制度(ウィキペディア)
 a、納税制度・粗傭調
 ァ、租は、口分田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3 %から10 %分に相当。国衙の正倉に蓄えられ地方の財源にあてられた。
  【佐渡の国衙はどこで正倉はどこか?】
 ィ、庸は、正丁(21歳から60歳の男性)・次丁(61歳以上の男性)へ賦課。元来は、京へ上って労役が課せられていたが(歳役)、その代納物の納入、もしくは上京生活を支える仕送りとして、布・米・塩などを京へ送るものを庸といった
 ゥ、調は、正丁・次丁・中男(17歳から20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品34品目または貨幣(調銭)による納入(調雑物)も認められていた。
 ェ、年表にあるとり佐渡からの例は、正倉院宝物に見える。
  739年佐渡国雑太郡石田郷曽祢里の丈部得麻呂は調布を納める。 (正倉院宝物銘文集成)
  781年佐渡国賀茂郡佐位郷矢田部某納付の調布で仕立てた布袴一着が正倉院Jに現存(河崎村史料編年史) 
 【正倉院の保管されている調布と調布で仕立てた布袴は、傭か調か?】
 b、国防制度:防人
  防人制度は、646年大化改新の詔の方針として設けられたとされる。
【佐渡からも九州方面へ防人として派遣されたか?答はNOであろう。理由は佐渡自体が手薄になって侵略される恐れがある。むしろ壱岐・隠岐のように防人が配備されてもよい。
 その代わりとして709年佐渡からは数艘の船を北狄所に送った(続日本紀)・802年塩120石を出羽国雄勝城へ送った(日本紀略)記録がある。】
③1221:承久の変。順徳上皇佐渡へうつされる。(吾妻鏡)それを契機に相模国本間・渋谷・監原・土屋から4人の鎌倉武士が地頭として佐渡に赴任、以降佐渡国守護の大仏北条氏(執権北条家一門)の代理として守護代の本間氏が佐渡を支配。
1)応永年間(1394~1428)の地頭と所領について加茂渋谷氏の所領に湊・夷・加茂があり。なお、歌代渋谷氏の場合は歌代のみ。(佐渡風土記・佐渡名勝志・佐渡故実略記)
 詳しくは、荻原由之著『佐嶋遺事』。戦国時代佐渡の地頭と領地等が記載。ちなみに、当時22人の地頭(内訳:本間12家、渋谷4家、藍原1・土屋・阿部・名古屋、土豪から生りあがったといわれる石花・潟上葉梨の各1家)
2)地頭の管轄領域には町村名が入っていない。
〔江戸時代には夷町はあるが、鎌倉~戦国の守護地頭時代ではどうか?、夷村というのは初めから無かったとして夷の地名はいつからか?〕
④「1504年夷の延命寺開基」「1522年夷新の正覚寺開基」という。(宝暦寺社帳)
1)上は『両津市誌資料編 年表』の記述であるが、『両津市誌町村編下』の年表には1504年夷町・1522年夷新町と町名が付いていた。「夷は1500年初頭には町であった」と一瞬驚いたが、これは江戸中期に編集された宝暦寺社帳に拠るもので、その時は町であったが『資料編 年表』で誤解のないよう正したものであろう。
2)地域の発展は、神社もそうであるが最初の寺院は何年に開基されたか、ある時点で寺院がいくつあるか(寺院の場合は通常1社)で推察できる。以下は『加茂村誌』年表より。
 1490:加茂邑川内極楽寺開基すと云う。
 1501:加茂邑谷地吉祥寺開基すと云う。
 1503:加茂邑福浦理性院開基すと云う。
 一方夷は1504年延命寺が最初。
 そこから言えることは、夷は北の近隣地域より発展が後で、いわば新興地であった。
 なお、湊町の場合「1508年湊の花蔵院開基という(宝暦寺社帳)」とあるが、近隣村は
 1452:下久知の正覚寺、1470:下久知の弥勒寺、1473:河崎の源秀院、1474:河崎の西方寺開基とある。湊町も同じく南の近隣地域より発展が後で、いわば新興地であった。
⑤1693年(元禄6年)国司荻原重秀・一国検地
 ※「国司」という表現は江戸中期『佐渡志』編者田中美清による。本来は「佐渡奉行」であろう。
 以下は『佐渡志巻之三』「田土」(出所::『佐渡叢書大巻』山本修之介編集)より(配列は夷町を中心に北から南の町村順に加工
 羽黒村:田33町  圃17町7段  糧額 762石7斗6斗5合
 梅津村: 67町2段  48町1段     1340 石6斗8升3合
 加茂村: 103町   40町   2100石1斗7升4合
 歌代村:  49町5段  21町4段     1002石4斗7升2合
 夷 町:   ― 3町5段    42石6斗  8合 
 夷新町:   ー  6段     5石4斗7升4合 
 湊 町:   ー    4町3段    49 石1斗6升2合     
 原黒村:  9町9段 23町      435石5斗2升4合
 住吉村: 7町7段 17町      513石1斗8升4合  
 下久知村: 44町7段 21町9段     999石 2升6合
 河崎村 : 68町   38町5段    1525石4斗9升6合
 〔着目〕
 以上のデータから、
 夷町は、夷新町・湊町も同じだが、海と湖に挟まれた細長く平坦な砂洲で出来た土地のため圃=畑はあるが田はなく、はじめから専ら漁業・商業、一部に工業で成り立っていた町であった。
 《裏付け資料》
 a、『佐渡四民風俗』
 「夷、湊町は高40石余宛にて皆畑の所に候へば、百姓の業は纔(わずか)ながら繁昌の勝地に候事は、海猟多き上に又潟池猟有之。相川表迄魚鳥売り出し候体、其上国仲村々より前浜筋、内海府方への通路の候へば、万の商物捌け宜敷故候。(中略)荒磯に無御座候故、中春より中秋迄は越後船の往来不絶売買多く依之2、30年以前とは格別有徳の者も出来候由、此処造酒等も味宜敷方に候。或は近郷〔住吉・平沢〕の塩焼共え仕入を致し、塩商も多く有之候。鍛冶細工も当所は勝れ、包丁を打煙管管を張り、印を彫り、又は漁猟の釘鉄を仕出し、或るは原黒村辺にて作り候茶の真葉を取、湊町より売出し候」
 b、『島根のすさみ(川路聖謨佐渡奉行在勤日記)』1841年3月12日より
 「梅津村を経夷町に至り小休それよりここにて昼かれい〔カレイ〕給〔食〕候而同所の御蔵御番所見廻り湖水を船にて巡覧岸の桜などよき咏也常にはここにて網引かせ猟師に鴨などとらせてみるよし(中略)夷町は東南に海・湖水あり北に金北山あり咏よきのみならず地理ことによろしここの本間といふ某か宿せし本陣は則佐州之国主本間か末にて今以豪家也夷町湊町に而高百石計に而人別3千にあまれり廻船等之入津もなくてかくの如し豊か成ことおもふへき也」
【夷・湊の繁栄は、廻船でなく海猟・湖猟と相川および平野部の国仲の村々への行商、その裏付けが塩の産地が近隣の梅津村平沢と住吉にあること、漁業に関係する鍛冶細工(釘鉄・包丁製造)が発展し、加茂湖は収穫だけでなく物資輸送に貢献。そして両津湾は越後の海岸と違って湾のため冬でも漁が可能であることが根底にある。】
4.まとめ
 夷(町)が集落を形成したのは1500年初頭、近隣の加茂村・歌代村・梅津村(平沢含む)の次男や三男が夷の地に住み着き、漁業で生計を立てたと推定。
 夷という名の由来と成立時期は不詳だが、『両津市誌町村編下』に記されている「夷町は神社名がそのまま町名になった所と言えよう」について、そうとは言えないは明らか。
 理由は、1593年夷に勧請の諏方神社の末社の蛯子(えびす)神社は『宝暦寺社帳』に載っていない。(宝暦:1751~1764年)。年表から集落を形成したと推定される1500年初頭と1593年夷に勧請された諏訪神社(その末社に蛯子神社があり郷土史年表に蛯子神社は載っていない)との年代ギャップが大きいことにある。

2023年3月29日(水)佐渡広場:歴史スポット116
夷町起源考Ⅱ:蛭子神社関連資料からの探究
1.はじめに
1)前号「Ⅰ郷土史年表からの探究」では、「夷町」の由来については不詳としながら蛯子神社説には郷土史年表を基に疑問は投げかけた。
2)当号では蛯子神社資料を基に探究する。なお、資料といっても多くあるはずはなく極めて少ない中で推理しなければならない。そのことは既に多くの先人が試みているところであり、それが『両津市誌 町村編下』に集約されていると言える。以下は要旨。
 古くから町の総鎮守として尊崇されてきた蛯子神社の祭神は蛯子命(ひるこのみこと)、後に恵比須神は商業神、また漁民の神として、特に海神信仰として尊崇、「この町が海漁を生業として国仲方面への集散地として諸商売がよく行われたこと、そしてこの地に特別な夷講行事の存在する点を考え合わせると、夷の地名はここから来たことは確かであろう。そうすると夷町は神社名がそのまま町名になった所と言えよう」 
 年表の観点からは、蛯子神社由来説には疑問があった。
3)果たして限られた資料から従来説をくつがす納得できる説明ができるか。
2.蛯子神社関連資料
1)「佐渡人名録ー両津の神社」サイト
a、諏訪神社について
「本社も末社も、その創建についての古文献は、元禄の大火で焼亡したといわれ、なんら由るべきものはなく、次の調査は、明治十二年に新政府に提出したもので、これも伝承に過ぎないのは、はなはだ遺憾である。」
b、蛭子神社について
「夷新の蛭子神社については別項、学問・思想の部に掲載してあるとおり、夷の地名とも深い関係があるようにうかがわれる。次は、やはり明治十二年の調査である。
  新潟県管下佐渡国加茂郡夷町字川方 無格社 蛭子社
 一、祭神 事代主命 蛭子命
 一、由緒 開基年暦不詳
 一、本社名詞 堅弐尺七寸 横弐尺参寸
 一、拝殿 堅弐間 横弐間
 一、境内坪数 五十三坪
 一、崇敬人 千八百六十人 夷町、夷新町
 一、鏡壱面 銘藤原定次作 直径参寸八分
    円形重量四十匁、鋳文角二一 葉梶五三桐浪形
 一、明治十六年七月三十一日文書
     氏子惣代 佐野勘太郎、小池佐太郎、 中川福蔵
     祠官、 安藤幸彦
 一、明治三十一年八月文書
   氏子惣代  夷 土屋六右衛門 佐藤権三郎 中田徳三郎
           夷新 中田作十郎 」
2)『佐渡神社誌』(大正15年新潟縣神職会佐渡支部編纂)
 「両津町 郷社 諏訪神社 大字夷121番地
  (文化12年正二位を授けられ正一位諏訪大神宮と称す宝暦帳に元禄14年云々当時の祭礼は慶安2年6月15日より初り享保18年宝暦9年本社拝殿建立とあり)
  祭神 健御名方命
  合祀 蛭子神(当町大字加茂歌代無格社蛭子神社合併明治39年12月7日許可祭神は御二方にましますなり) 事代主命
  由緒 不詳 元禄14年2月10日火災に罹り旧記焼失したればなり
  境内神社 金山彦社 祭神:金山彦命 金刀羅社 祭神:大国主命 船玉社 少童神
  例祭日 6月16日 」
3)『宝暦寺社帳』(宝暦:1751~1764)に蛭子神社の記述なし。夷町は、一社記述のみ。
「夷町 諏訪大明神 当社元禄14巳年2月10日本社より出火縁起焼失と、仍て勧請の年歴否知。当時の祭礼は慶安2丑年6月15日より始まり、享保18年丑年、宝暦9卯年本社、拝殿建立。社地8畝26歩御除、米9斗7合弐勺、此の反歩壱反廿五歩、三ヶ一御除。
3.着目点と掘り下げ
①蛭子神社は無格社。
1)無格社について(ウィキペディア)
a、法的に認められた神社の中で村社に至らない神社で、正式な社格ではなく、社格を有する神社と区別するための呼称だったが、社格の一種ともされるようになった。
b、無格社の神社であってもほとんどは氏子を有し、村社以上の神社とは、神饌幣帛料供進がなかった点や境内地が地租もしくは地方税免除の対象とされなかった点などが異なる以外に、目立った相違はない。
c、規模の小さな無格社の多くは、明治末期の神社合祀で廃社とされた。全国約11万社のうち、無格社は1938年(昭和13年)の調査では60,496社あり、当時の神社数の半数であった。
②蛭子神社の祭神 事代主命 蛭子命 (ウィキペディア)
1)事代主命(ことしろぬしのかみ):日本神話に登場する神。『古事記』では大国主神と神屋楯比売命の子とされ、『日本書紀』、『先代旧事本紀』では大国主神と高津姫神との子とする。葦原中国平定において、建御雷神らが大国主神に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主神が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主神は「承知した」と答えた。大国主神は国譲りを承諾し、事代主神が先頭に立てば私の180人の子供たちも事代主神に従って天津神(高天原にいる神々、または高天原から天降った神々)に背かないだろうと言った。
2)蛭子命:ヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)は、日本神話に登場する神。『古事記』において国産みの際、イザナキ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神。不具の子に生まれたため、葦船に入れられオノゴロ島から流されてしまう。流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。『源平盛衰記』では、摂津国に流れ着いて海を領する神となって夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)、と記している。日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多い。ヒルコとえびす(恵比寿・戎)を同一視する説は室町時代からおこった新しい説であり、古今集注解や芸能などを通じ広く浸透しており、蛭子と書いて「えびす」と読むこともある。現在、ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られているが、恵比寿を祭神とする神社には恵比寿=事代主とするところも多い。
③諏訪神社「合祀 蛭子神(当町大字加茂歌代無格社蛭子神社合併明治39年12月7日許可」
1)諏訪神社は明治39年(1906)蛭子神社(夷町大字加茂歌代)を合祀したということで、蛭子神社は当時は今の夷新でなく加茂歌代にあったことを意味している。
2)「夷町大字加茂歌代」は、1693年の元禄検地で「加茂村」と「歌代村」があったのは事実(前号参照)。1889年加茂歌代村が発足、1901年一部が夷町・湊町と合併して両津町を設置、一部が梅津村、羽吉村、内浦村と合併し加茂村を設置し、加茂歌代村は消滅、(ウィキペディア)
3)「当町大字加茂歌代」は両津町のことであろう。
4)着眼は、蛭子神社は最初は夷町に鎮座でなく、加茂村か歌代村にあったということ。蛭子神は、本来は漁業・商売の神様であるが農村に社があったでは辻褄が合わない。無格社で由緒・開基年暦不詳であり、宝暦寺社帳には夷町は諏訪神社だけが載っていて蛭子神社の記述はないのはおかしい。
4.まとめ
 夷あるいは夷町の地名の蛯子神社由来説は、郷土史年表だけでなく蛭子神社関連資料からも客観的根拠に欠けることが明らかとなった。但し、これで解決ではない。ここでの成果は、諸説の問題点を挙げて否定するのでなく、何が正しいかを発見し説き、多くの人に認められることによってである。

2023年4月02日(日)佐渡広場:歴史スポット118
夷町起源考Ⅳ「古絵図からの探究」
1.はじめに
1)夷町起源について前号では『佐渡巡村記』に載る270の村名から地名の由来に10の視点があること、そして地域行政従事者は地域内にどんな寺社・堂があるかを参考にすることも大切であることに気づいたということが「まとめ」であった。
2)当号のテーマは、夷町起源探究からは外れているようであるが「古絵図からの探究」とした。
 ここでの古絵図は、佐渡奉行所絵図師・石井文海の天保7年(1836)作「越湖勝覧」で、フェイスブック2023年1月2日(月)「佐渡の画廊480」に載せた。
  それ以前にも佐渡広場ブログに載せている。
 2015年「佐渡の画廊37:石井夏海・文海の絵画・絵図」原画
 2020年「歴史スポット113:両津橋」原画
 2020年「佐渡の風景147:両津橋(その2)」レプリカ
3)当絵図が、「佐渡の風景」「歴史スポット」「佐渡の画廊」のテーマで用いていることは、当絵図の応用可能性の大きさ・文章だけでは足りない絵図ならではの重要性の証しと言える。
4)前述の「佐渡の画廊480」石井文海「越湖勝覧」の「まとめ」は、次のとおり。
「絵に地名などが記されているから絵地図であり絵画ではないと主張する向きもあると思うが、字があって絵が生き、絵があって字が生き、新たな問題提起・気づき・発見を促す貴重な絵である」
 今回の場合、果たしてどうか。
2.石井文海 天保7年(1836)作「越湖勝覧」気づき一覧
1)蛭子神社は、神社でなく「蛭子堂」と記されている。
 平成元年(1989)作成『両津市誌町村編下』にある夷略図(掲載写真参照)には、蛭子神社が夷新の外れに見られる。
2)「蛭子堂」の場所は、今の街中の夷新でなく街並みから外れた湖(当時は「加茂湖」でなく「越湖」)の奥の夷から相川へ向かう道端にある。
3)そこは書かれている地名で言えば、「夷町」「歌代村」でなく「加茂村」に入る。
4)夷町の通りは、今のように本町通りがあって海方に南北2本の道、同じく湖方(明治の中頃までは「川方」名)に2本の道はなく、本町通り1本あって家が並び、各家の裏は海か湖であった(湊町も同じ)。
5)夷町の神社は「諏訪社」と記され、場所は今とは少し異なる。湊町の神社は「若宮八幡」と記され、場所は今のように絵図に見える「渋谷十郎跡」ではなく、原黒村に近い方にあった。
6)夷と湊の境の橋が架かっていて「両津橋」と記されている。「欄干橋」と言ったのは明治になってのことか。尾崎紅葉の『煙暇療養』に「夷欄干橋」とある。
7)加茂湖には帆掛け舟が目立つ。テンゲ舟も奥の方に見える。
8)両津湾には同じく帆掛け舟。夷に近い沖には帆を外し碇泊しているのであろう舟が多く見える。湊の沖には2人載った帆テンゲ舟が2艘 大謀網の周囲に見える。
9)山の名称
 a、「金北山」は、今と同じ。江戸期以前は「北山」と呼ばれた。世阿弥の『金島集』は「北山」。
 b、「多々羅嶺」は、今はドンデン山が通称。
 c、「五月雨山」は、今は羽黒山が通称。「年を経て 積もりし越の湖は 五月雨山の 森の雫か」の歌は、佐渡へ流され赦免となって京へ帰った鎌倉末期の公家・歌人で藤原定家の曽孫・京極為兼作。
10)湊町に描かれている隣同志の「釈迦院」「花蔵院」は、昭和7年合併により昭和院となった。山号は、花蔵院の「湊始山」を受け継いだ。(『佐渡へんろ』)
3.気づきの絞り込みと突っ込み
1)蛭子神社は江戸後期の天保期は、夷の諏訪神社のように「諏訪社」でなく「蛭子堂」で呼ばれていた。
a、「堂」について(漢字ペディア)
 ①たかどの。大きな建物。「堂宇」「殿堂」「講堂」
 ②神仏をまつった建物。「堂塔」「金堂」「経堂」
 ③いえ。すまい。「草堂」
 ④ざしき。広間。
 ⑤いかめしくりっぱ。さかん。「堂堂」
 ⑥他人の母の敬称。「母堂」
 ⑦屋号や雅号などにつける語。
b、上記に従えば「堂」は「②神仏を祭った建物」に相違ないが、絵図を見るかぎり諏訪神社の「諏訪社」と違い「社」と言いより「堂」に相応しい。
c、絵図からは神社に付きものの鎮守の森(森はなくても神木らしきものがあってよい)がない。ちなみに「諏訪社」の奥は森林。
2)絵図からは「蛭子堂」は夷町になく加茂村にある。
a、加茂村に赤井大明神 堀内大明神など鎮座しているが、蛭子堂はない(『佐州巡村記』)。知らなくても行政に影響がないからであろう。
b、筆者は、能舞台があることで赤井神社・堀井神社に訪問し記事にしたことがある。(2008年佐渡広場「佐渡の能楽12:能舞台めぐり(加茂歌代~安養寺)」)
3)佐渡奉行にいわば必須の『佐渡巡村記』の「神社・堂」に「蛭子堂」が載っていないことの意味は、知るほどの重要性に欠けるということであろう。
 地域住民の娯楽施設である能舞台や広場もなく、集会場としてのお堂があるだけ。
4.まとめ
1)石井文海の天保7年(1836)作「越湖勝覧」からは、夷町起源について蛯子神社由来説の正統性を裏付けになったことに反し当説の疑問と否定を裏付ける事柄が多く出て来た。
2)これまでの調査では、夷の鎮守とされる諏訪神社又は蛭子神社は、いずれも加茂村からの勧請で夷に遷座したことは事実。
3)初めに「えびす」またはそれに近い似た音で呼ばれ、やがて「夷」「蛭子」「恵比寿」「戎」等と漢字で書かれるようになった。  
 そして、その「えびす」にはその地域ならではの事柄を含んでいる。
4)以上のことは、当たり前のことで今更の感じであるが、探究レベルが上がりステージが変わる機会となったことは確かであろう。

2023年4月06日(木)佐渡広場:歴史スポット119
夷町起源考Ⅴ「マクロからの探究」
1.はじめに
①前号「夷町起源考Ⅳ.絵図からの探究」の「まとめ」は、「探究レベルが上がりステージが変わる機会となったことは確か」と記したが、それが当号で試される。
②筆者は、これまで一般的大局的な全国視野からの追求でなく、個別・具体的なローカル・ミクロからの追求を優先してきた。そして、更にモデル事例を設定し追究を行うつもりでいた。
③だが、根拠となる信頼できる資料に事欠く状態では、推測・想像な・主観に頼るしかなくなるのは目に見えている。
④そこで発想を変え、全国=マクロで捉えてみることにした。かえってヒントが得られるかもしれないという期待がある。やってみなければわからない。
1)佐渡には「えびす」と呼んでいる神社は夷の「蛭子神社」以外に小田に「夷神社」がある。「夷神社」をグーグルで検索すると「えびす神社」と出て来た。そのため、瞬間「夷神社」は佐渡にしかないと思ったものだ。
2)調べるとWikipediaに「えびす神社」は、「全国に点在し、夷神社、戎神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社、恵比寿神社、恵美須神社、恵毘須神社などと表記する」云々とあり、「主な神社」として30社以上の名が載っていた。個々の関心ある事柄は更に追っていけばよい。
3)記されている事柄は一般向きで常識的な事柄が大部分であろうが、夷町起源の手掛かりが掴めるかもしれない。
2.「えびす神社」について
①「えびす神社は、えびす或いはヒルコ或いは事代主を祭神とする神社」
 【夷の「蛯子(えびす)神社」の祭神は、事代主命 蛭子命。(夷町起源考Ⅱ・Ⅲ)】
②「えびす神社は全国に点在。夷神社、戎神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社、恵比寿神社、恵美須神社、恵毘須神社などと表記する。正式名では「えびす」の語を含まない神社であっても、祭神がえびすである場合「○○えびす神社」と通称されることもある。またおもに関西地域では、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称」
 【佐渡の場合「えびす」の呼び名で夷に「蛯子神社」(社の近くに「おべっさん川」の小川あり)、小田に「夷神社」が鎮座。】
③えびす様のご利益
 七福神の中の唯一の日本の神様であり、釣竿を持ち鯛を抱える姿から大漁満足の象徴としてある漁業の神様。ほかにも航海安全や商売繁盛などのご利益がある。なお、大黒様(七福神の1柱)は五穀豊穣の農業の神様。二人合わせて招福、商売繁盛の商業神として親しまれている。
3.えびす神社例
  (ウィキペディア、「全国えびす大神 奉斎社一覧 西宮神社講社本部」他)
(1)「主なえびす神社」(ウィキペディア)
①西宮神社(兵庫県西宮市)
1)全国に約3,500社あるヒルコ神系えびす神社の総本社(名称「えびす宮総本社」)。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
2)社伝によると、和田岬(神戸市兵庫区)の沖に出現した蛭児命(ヒルコ)の御神像を鳴尾の漁師が引き上げて自宅で祀っていたところ御神託が降り、そこから西の方に御神像を遷して改めて祀ったのが当社の起源という。延喜式内社「大国主西神社」と同じとする説がある。
【語源由来辞典:平安後期に「にしの宮」で見え、鎌倉期に「西宮」と記すようになった。諸説ある中で、元々「西宮」と呼ばれていたのは、京の都から西方にある「廣田神社」のことであったが、戎神信仰の隆盛により、「西宮神社(戎社)」を「西宮」と呼ぶようになった説。鳴尾浜の漁民が戎神をまつり、鳴尾の西に位置することから「西宮」と呼んだことに由来する説どが有力と考えられている。】
3)中世に人形繰りの芸能集団「傀儡師」が境内に居住。全国を巡回し、えびす神の人形繰りを行って神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。商業が発展すると、海・漁業の神としてだけでなく、商売の神としても信仰されるようになった。
4)毎年1月10日前後の3日間で行われる十日えびす(戎)では、開門神事福男選び、大マグロの奉納、有馬温泉湯奉納「献湯式」などの行事とともに、800軒を越える屋台が軒を連ね、開催三日間で百万人を超える参拝者で賑わう。
【筆者は、数年前大学ゼミ会が神戸の有馬温泉であった序に同社を訪問しブログ記事にしている。
  2018年10月佐渡広場「係わりの地115:西宮(甲子園・西宮神社)」】
②堀川戎神社(大阪北区)
1)近畿一円では大阪市内南部の今宮戎神社・西宮神社と共に商売繁盛の神様として、「堀川のえべっさん」「キタのえべっさん」として知られる。
2)毎年1月9日から11日にかけ十日戎(とおかえびす)が開催。
③美穂神社(島根県松江市)
1)事代主神を祀る神社の総本社。出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称される。
2)創建の由緒は不詳であるが、8世紀に編纂された『出雲国風土記』の神社台帳に記載される古社。延喜式神名帳では小社に列する。
3)えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。
④京都ゑびす神社(京都市東山区)
1)建仁2年(1202年)日本の臨済宗の祖である栄西が建仁寺を建立するにあたり、その鎮守社として南宋から帰国する際海上で暴風雨から守ってくれた恵美須神を主祭神として勧請し創建された。
2)商売繁盛、家運隆盛、旅行安全で民衆の信仰を集め、西宮神社・今宮戎神社と並んで日本三大えびすと称され、「えべっさん」の名で親しまれる。
3)祭事例:十日ゑびす大祭(初ゑびす)(1月8日 - 12日)、二十日ゑびす大祭(ゑびす講)(10月19日・20日)
⑤今宮戎神社(大阪市浪速区)
1)推古天皇8年(600年)、聖徳太子が四天王寺を建立する際にその西方の守護神として建立されたと伝えられている。
2)主祭神 : 天照皇大神、事代主命、素盞嗚尊、月読尊、稚日女尊  
 中でも事代主神はえびすとして特に信仰を集めている。近世以降は商売繁盛の神として、現在でも篤く信仰される。
3)毎年1月9日から11日にかけ江戸中期に始まる十日戎(とおかえびす:えびす講)が開催される。
【「戎(えびす)」について辞典によれば、「えぞ・えみし」「未開の民族」、「古代中国で「戎」は西方、「夷」は東方の蛮族」、「外国・未開の地」を意味するとある。
 また同社ホームページでは「戎橋」の由来について、戎さんへの参詣の道筋の橋であることから付けられたという。
 筆者は、戎橋を過去2度ほど渡ったことがあり、ブログ佐渡広場に記している。
  2017年11月「係わりの地98:大阪(中之島、心斎橋、道頓堀)」
  2018年04月「係わりの地108:大阪(道頓堀戎橋南詰)」
「世界最大級の繁華街、大阪ミナミのど真ん中」のキャッチフレーズの戎橋筋商店街は、御堂筋の一本東側、髙島屋大阪店から道頓堀川・戎橋までの南北約370mのアーケード型の商店街】
⑥恵比寿神社(東京都渋谷区恵比寿西)
1)縁起について元である天津神社の資料が乏しく不明。
2)1959年区画整理による遷座の際、町名あるいはヱビスビールにあやかって兵庫県の西宮神社から事代主命(恵比寿神)を勧請して合祀、天津神社を恵比寿神社に改名
⑦蛭子神社(京都府与謝郡伊根町)
1)人口1,935人・891世帯(2023年4月1日現在)の伊根町に蛭子神社が青島、亀島、日出の3地区に鎮座。他にも浦嶋神社(宇良神社)などの社がある。
2)青島の蛭子神社の境内には3基の鯨墓がある。
3)同町観光協会に電話で尋ねると、「江戸時代から大正の頃まで鯨を獲っていた」とのこと。「同町には「えびす」という地名はなく丹後半島でもないのでは」との回答。
【web記事に「日本では古くから「寄り鯨の到来で七浦が潤う」(浅瀬に迷い込んだ鯨一頭で七つの漁村の暮らしが潤う)と言われ、鯨類を漁業の神である「恵比寿様」と同一視。 日本各地で鯨は「えびす」と呼ばれ「恵比寿様は鯨の化身」と考えられていた」とある。日本海に面す丹後半島の先端にある伊根の漁村に蛭子神社が3社あるというのは、その関係を証明する。だが、鯨・蛭子神社が「えびす」の地名と関係する説は無理がある。なぜなら、伊根のウェブマップには詳細に調べたわけでないが「えびす」は見当たらない。佐渡海峡には今日でも鯨・イルカが通り、江戸時代の鯨塚がある。細目は2010年佐渡広場「佐渡の風景96:片野尾の海岸線」参照。但し、「えびす」の地名は両津湾内にある旧夷町と大陸に面した外海府の北狄(きたえびす)しかない。佐渡に「稲鯨」、越後に「鯨波」の地名あるが、「夷(えびす)」は夷しかない。従って夷の地名の由来は、鯨でないと言える。】
(2)新潟県(佐渡を除く)の「えびす神社」例(「全国えびす大神 奉斎社一覧」西宮神社講社本部)
①海あり市町村鎮座地:祭神名
1)西宮神社(村上市瀬波浜町:西宮大神・素戔男大神・大国主大神)
2)稲荷神社(新潟市中央区沼垂西:宇賀魂命・大物主命・事代主命)
3)蛭子神社(糸魚川市寺島:事代主神)
②海なし市町村鎮座地:祭神名
1)神明社(阿賀野市沖:天照大神・稲荷大神・大山祇命・西宮大神・他1柱)
2)住吉神社(東蒲原郡阿賀町津川:表筒男命・中筒男命・底筒男命・蛭子命・他7柱)
3)西宮神社(十日町市本町:蛭子命。備考欄に宝暦13年(1763)分霊とあり。)
【えびす神社の鎮座地は、海のある地とは限らない。なお、夷の蛯子神社の鎮座地は「全国えびす大神 奉斎社一覧」に「佐渡蛭子神社。佐渡市加茂歌代200:蛭子命・事代主命」とある。】
参考1:「夷」と「戎」(「漢字文化資料館」「漢字Q&A」サイト)
Q:「夷」や「戎」という表示は「異民族に対する蔑称」という意味以外に「七福神のえびす様」という意味でも使いますが、この2つはなにか関係があるのですか?
A:七福神のえびす様を表す漢字はいろいろとあって、「夷」や「戎」のほかにも、「恵比寿」「恵比須」などがあります。たしかに「夷」や「戎」は、漢和辞典で調べると「異民族に対する蔑称」の意味がありますし、「えびす」という日本語を国語辞典で調べても、やはり同様の意味があります。
小社『日本の神仏の辞典』では、「えびす様」の語源について、もともと「異邦人や辺境にある者、あるいは未開の異俗の人々などを意味する言葉と深い関連があったと思われる」としています。同書によると、日本には古くから、そういった人々を蔑視の対象とみなすだけでなく、彼らが望外な幸いをもたらしてくれるという信仰があったというのです。
そこで、海の向こうからやってくる神として、えびす様が、まずは漁民たちの信仰の対象として誕生したのでしょう。現在、私たちがお正月には必ず目にするえびす様が、釣り竿と鯛を持っているというのも、そこに起源があります。そして、それがやがて商売繁盛の神様へと発展していったというわけです。
ことばは生き物ですから、ある1つのことばが、時代とともに意味の分裂を起こすことはよくあります。漢字との関連でいえば、同訓意義と呼ばれることばは、もとは1つのことばであった可能性があります。たとえば「書く」と「掻く」はともに「かく」と読みますが、もともと何かの表面を引っ「掻」いて文字を「書」き記したところから、この2つのことばは起源は同じだとする説があります。
そのように、意味が分裂した結果、漢字も別々になってしまった例はたくさんありますが、「えびす」の場合は、意味が分裂してしまったことばが、逆に漢字によっていまでも結びついている、という興味深い例であるといえるでしょう。
参考2:「夷」「戎」を含む地名一覧(「漢字書き順辞典」サイト)
 「夷」地名
①夷堂:青森県上北郡七戸町    ⑯夷町:京都市中京区         
②夷ケ沢平:〃上北郡横浜町    ⑰西夷川町: 〃
③蝦夷森:岩手県下閉伊郡田野畑村 ⑱東夷川町: 〃       
④千倉町北朝夷:千葉県南房総市  ⑲夷町: 〃 東山区
⑤千倉町南朝夷:   〃   ⑳日ノ岡夷谷町: 〃 山科区
⑥両津夷:新潟県佐渡市    ㉑川内町平石夷野:徳島市
⑧両津夷新: 〃       ㉒川内町平石夷野番外: 〃
⑨夷浜:新潟県上越市     ㉓八万町夷山:   〃
⑩夷子(えびす)町:富山県滑川市      
⑪夷川町:京都市上京区      
⑫夷之町:京都市下京区      
⑬夷馬場町: 〃         
⑭上夷町:  〃         
⑮南夷町:  〃         
 「戎」地名
①戎町:岐阜県岐阜市  ⑧戎通:奈良県磯城郡田原本町末武上
②戎本町:大阪市浪速区   ⑨北新戎ノ丁:和歌山県和歌山市
③戎之町西:大阪府堺市堺区  ⑩荒戎町:兵庫県西宮市
④戎之町東: 〃 ⑪戎町:  〃 神戸市須磨区
⑤戎島町:  〃      ⑫高砂町戎町:兵庫県高砂市
⑥戎町:   〃 泉大津市 ⑬戎町:鳥取県鳥取市 
⑦ 〃 :  〃 岸和田市 ⑭ 〃:山口県下松市
【夷・戎の地域別傾向は、概ね京都市を含む東と北は「夷」、西と南は「戎」。】      
4.まとめ
 マクロ分析から「夷」の付く地名の起こりについて、漁業やえびす神の信仰と直接関係はなさそうであることが判明。
 視界を海に囲まれていると言ってもよい日本において「夷」の地名が極めて少なく、反対に海無し地域に「夷町」や「夷」の付く地名が存在するのには驚いた。一方、人口2,000人弱の漁業の町に蛭子神社が3社鎮座していること(昔は3つの漁村であったに相違ない)も驚き。
 いろいろな情報を集約して夷町の起源を一つ仮説を描いた中で如何に理論的にどこまでまとめ上げることが出来るかが今後の課題。

2023年4月18日(火)佐渡広場:歴史スポット121
夷町起源考Ⅶ「「小田」「夷神社」資料からの探究」
1.はじめに
①4/4夷町起源考Ⅵ「「北狄」資料からの探究」に続き、北狄から海岸道路に沿って北東20㎞、外海府の小田にある夷神社をテーマとした。
 なお、4/10「係わりの地154:京都(「えびす」巡り)」は、夷町起源考を意識したものであった。
②「夷町」の鎮守で「夷」の名の起源とされる蛭子神社は最初は夷町になく加茂村に鎮座し、「夷神社」というのは、小田にしか無い。従って、夷町起源考に夷神社の資料は欠かせない。
③その資料が、webで見つかった。それが、「ガシマ」サイトに載っている「小田」と「夷神社」。
 何が掴めるか。なお、小田についてこれまで訪問ごとに佐渡広場で記している。
  2008年「佐渡の生物13:外海府の動植物」
  2013年「佐渡の祭り40:大倉祭り」
   〃  「佐渡の祭り44:小田祭り」(この時は資料のみ)
  2015年「特定地区芸能25:高千芸能」(2)小田「麦まき」
 起源考には際限がないから。この辺で夷町起源考の結論を出さねばならない。
2.「夷神社」関連資料(「ガシマ」サイト)
(1)小田(こだ)
  現在(平成七年)の世帯数は四○戸、人口は九三人である。宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』によれば、家数三三軒、人数一八九人である。田畑は合せ二一町五反九畝四歩である。草分は重立〔おもだち〕七人衆といわれる左衛門太郎・八郎右衛門・次郎左衛門・平左衛門・甚右衛門らで、稲場左衛門太郎家は通称南とよばれ、石動権現をもち、八郎右衛門は牛王の宮、次郎左衛門は夷の宮をもつ。『佐渡国寺社境内案内帳』によれば、いずれも中世の勧請という。集落石名寄りの段丘先端部には、通称小田城(石名村では石名の城という)とよばれる中世城跡がある。稲場左衛門太郎の祀る石動神社のご神体は、海からあがった光る石で、浜(元小田小学校下の「あしやすめ」)にあがっても動かず、アラメを下に敷いたら、するするっと動いたとの伝承をもつ。次郎左衛門のもつ夷の宮のご神体も光る大石で、沖のイカ場で釣りあげたもので、別名釣石神社ともいう。この夷神社には、八郎右衛門の牛王の宮も合祀されている。祭日は四月十五日、会津から習ったというヒョットコ・四つ切りの舞・麦まき・棒術などが奉納される。真言宗重泉寺は、石名清水寺末といわれ「元禄寺社帳」に開基は康暦二年(一三八○)とある。小田祭の芸能がこの寺にも奉納される。大倉川の相川寄りの海岸に「古釜」という地名があり、昔の塩釜跡かと思われる。海府の海岸で釜の名のつく地名は、達者の「釜所」「釜屋」、北田野浦の「釜のもと」などがある。ともに製塩跡といわれている。
【関連】小田祭り
【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集四)、『角川日本地名大辞典』(角川書店)
【執筆者】 浜口一夫
(『佐渡相川の歴史』別冊 佐渡相川郷土史事典より引用)
(2)夷神社
小田の小山にあり、蛭子命を祀る。神社のカギトリは新五郎という者であったが、ある時期から本間左内にかわったという。ご神体は、イカ釣りに出た漁師のトンボ(釣具)にかかった石で、そのご神体の石にちなんで、土地の人びとは「釣石神社」、または「ドベイシ神社」とも呼んでいた。この神社の由緒書には、豊漁祈願のため、永享十年(一四三八)攝津の西宮より分霊したとの、口碑が記されてある。そして西宮のご神体も、漁師の網にかかったものだといわれ、ともに寄り神伝承が一致していることが興味をひく。境内には、稲場左衛門太郎の祀る石動神社もある。これも、ご神体は佐渡に多い寄り神の光る石で、浜に打寄せられていたが、どうしても動かず、アラメを下に敷いたら、楽々と動いたという伝承を持つ。なお浜に打寄せられ、動かなかった場所にちなんだ「あしやすめ」という田が、元小学校下の浜にあり、近くに製塩の古釜もあったという。さらに夷神社には、本多長兵衛の祀る、牛王神社も合祀されており、小田集落は、これらの地神を祀る人びとにより、形成されたムラなのである。祭日は四月十五日。会津から習ったという、「麦蒔き」などの芸能を奉納する。
【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)、『図説 佐渡島歴史散歩』(河出書房新社)【執筆者】 浜口一夫
(『佐渡相川の歴史』別冊 佐渡相川郷土史事典より引用) 
3.着目点と推察または関連要調査項目
①村の草分けが重立となり、夫々自身の宮(神社)を持ち祀った。それがやがて合併し統合されていくのが世の習い。「夷神社には、本多長兵衛の祀る牛王神社も合祀 云々」。村の祭は、一本化される。
②「由緒書には、豊漁祈願のため、永享十年(一四三八)攝津の西宮より分霊したとの、口碑」
 地域の社がまとまるには、大きな宮の傘下に入るのが無難。
③「蛭子命を祀る」は、夷の蛭子神社と同じ。
 但し、祭神は「蛭子命・伊須流岐彦命・事解男命・健御名方命」で、蛭子神社の「事代主命 蛭子命」と比べて多い。重立七人衆のためか。
 (資料「全国えびす大神 奉斎社一覧 西宮神社講社本部」)
④「ご神体は、イカ釣りに出た漁師のトンボ(釣具)にかかった石」「佐渡に多い寄り神の光る石」
 蛭子神社では聞かない。元の鎮座地が夷町でなく農村地帯の加茂村であるためちと推察。
⑤小田の夷神社の祭礼は、「麦まき」等など農村ならではの芸能が奉納され継承。
 夷の蛭子神社の場合、かっては「海の神・山の神 えびす神社」旗が立ち仮設舞台で芸が演じられ、「えびす講」市が築地・夷新通りに立ち並んで賑わった。
 (2010佐渡広場「佐渡の神社25:蛭子神社」)。
4.まとめ
①寺社名が市町村名になる例は、観音寺など除いて極めて稀。
 字(あざ)名であれば多くある。佐渡の場合は、「小比叡」「国分寺」「妙宣寺」など、
②加茂村(その後夷に移転)に蛭子神社、小田に夷神社あるが、神社があって地域名が生まれたのではない。
③外海府の北狄(きたえびす)は1600年検地時は「えびす村」であった。おそらく元禄検地の際「えびす」では夷町の「えびす」と混同されるから、呼び名は「きたえびす」、漢字で「北狄」にしたのであろう。行政上の必要から。
④地名は、特定・識別するためにある。その地域に住む人はじめ統治者、さらに他所の人にとっても必要で重要。一般にはその土地の特徴を示す自然環境の呼び名で表現される。
 なかには、その時の土地の住民にしか知らされない別の呼び名の地名が存在。例:「舟隠し」租税を逃れるため。
 また、何かの間違いの地名がある。例:両津湾が見下ろせる高台(佐渡市加茂歌代向高野)の奥地にある小さな池の付近は昔から「さんそうふね」(三艘舟?)と呼ばれ、大津波が3艘の舟を運んだ言い伝えがある。なお、それほどの大津波が両津湾を襲った史実はない。
⑤「夷」という地名に替わる可能性があったと推定される例
1)地形(「湊」との対比も考慮。以下同じ)
 北湊、北浜、北の津、北浦、境港、湖崎
2)砂洲に出来た新興地・未開地・辺境地 
 北新地、曙、大黒、魚津、戒(えびす)、蛮(えびす)、狄(えびす)
3)立地
 北泊(とまり)、四日市
4)その他
 湊:なぜ、夷になったかは、「湊」方面(城腰・久知・住吉・河崎等)の方が、長安寺(831年(天長8)開基)や久知八幡宮(961年(応和元)山城国石清水八幡宮より分霊)に見るように「夷」方面より早く開けていたことか。
  2010年佐渡広場「佐渡の寺院36:長安寺」
     〃    「佐渡の神社27:久知八幡宮」参照
夷と湊の地名が入れ替わっても遜色はなかった。なお、戦国末期に加茂殿を滅ぼした久知殿の港と言えば、潟上の港でなく「湊」の港であった。
⑥夷は、湊よりもやや遅れて人が住み地名が必要になった。
1)田んぼはなく、漁で生計を立てた。
2)幸い北平沢は、塩の産地。獲った魚介類は塩に漬けて乾燥させ国仲の農家に加茂湖も利用して行商し、市の日に来てもらって商いした。
3)漁業の神様・商売の神様と言えば、縁起のよい七福神の中の「えびす」様。売り手良し・買い手良し・世間良しの三方良しで親しまれ、地名を呼ぶのに5~6音も要せず3音で簡潔に親しみを込めて呼べる夷(え・び・す)に自然と決まった。
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2023-04-23

近藤福雄

金井大和田にある旧宅(令和5年4月20日)
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