2022-11-30
松本為一郎
松本為一郎のこと(橘光治談:令和4年)
⇒松本為一郎が恐らく佐中(佐渡中学校:佐渡高校の前身)の講師だったと思うなあ。
・昭和何年頃?
⇒親父の弟、大正5年生まれの人が佐中へ通っていた頃だから、戦前の昭和10年から15年の間位じゃないかなあ
・そうすると戦前、戦中の頃ですか?
⇒そうだなあ、その頃佐中で絵の講師をやっていた。後で聞いた話だけどクラブでグライダーとかスキー、スキーは大和田の集落の上に今柿畑になっているところが丁度いいスロープで圧雪なんかしていない自然のスキー場ということで、佐渡でスキーをやりたい人はそこへ行く訳よ。佐中のスキー部もそこで滑っていたという話を聞いたことがある。その時のスキーの講師が松本為一郎さん。
それからグライダー
・グライダーってその当時佐渡にあったんですか?
⇒佐中で、飛ばしたか飛ばすまでの話だか、その辺は知らんけどあったらしいよ。どこで飛ばしたか、飛ばんかったかはそれは知らん。それからクラッシックの音楽コンサート。
・いろんな方面で才能があったというか、秀でてたんですね。人に教える位だからね。
⇒ハイカラさんだよねえ。今から言えばやあ。それだけのものを一人で熟すんだから。ひとつ取っても珍しい時代に、珍しいもん、珍しいもん、珍しいもんと当時としては時代の先端をいくようなハイカラさんだよ。
そういう人だったんだ。最後に金井中へ絵の講師で来て、酒飲んで酒飲んで生活も苦しい酒飲んで、というところしか俺は知らん訳。実際に目で見たり・・・
・その頃は何歳位だったの?
⇒俺が習ってたんだから・・・
・為一郎さんの年齢だけど
⇒そうだなあ、定年間際の60前後か、当時は定年が55歳だったから、講師だから年齢はオーバーしてもよかったのかもしれないが
・見た感じは
⇒大体60歳前後だろうなあ。
・身長は?
⇒背は高かった。スラーっとしていた。それでもう、俺たちより5つ位下に長男がいたけど、それが大和田のこの家より上のお寺から夕方一人でずーっと尾花の町まで、今の国道のところまで歩いて行くの。何だかというと、その時は知らんだけど後で大人が言うとった話を総合すると、親父の酒を買いに子供が暗くなってからあこまで20分位歩くとかかるんだよ。そこまで行く、子供にそこまでさせても酒飲みたかったんだなあ。
・まあ、あの頃の子供っちゃ、みんな手伝いもしたしねえ。俺も横山の家から新道端まで新聞を取りに行ってたよ。
⇒ここは外灯もなければ人も通らないようなところをさ、小学校高学年だから(偉いなあって思うより)可哀想だっていうのが先だわ。家のお手伝い当たり前だって言いながらも可哀想だよ。そういう生活をしていたんだな。
・裕福じゃなかったといっても学校の先生をやってたからそれなりの暮らしが出来たんじゃないの。
⇒先生といったって講師だから日当かなんかだよ。何日出た、一日幾らって数えてもたかが知れているさ。
・別にデカい家の御曹司だったとか財閥の息子だったとか、そんなんじゃなかったのかなあ。
⇒その辺のところを知りたくて、どこの出身だかなどということを履歴書などを頼めば教えて貰えんものかなあと思って、佐渡高校に問い合わせてみようと思っているんだけど
・今その家ってあるんですか?
⇒いや、家が無いから転々としとったのんさ。
・ああ、そういう人かあ
⇒だから佐渡の人じゃないってことだけは判るのんさ。家が無いんだから。家とお寺まで借りて住んでおったんだからさ。だから出身地だけでも調べようと思って学校に履歴書がある筈だから、講師だからといっても履歴書は取る筈だから保存してあると思うんだけどなあ。
・インターネットで検索しても松本のマの字も引っかからないからさ、友達から佐高新聞を借りて探してみたけど全然出て無かったから
⇒佐高だからない筈だよ。その前の佐中の時代だから
・悲しいかな佐高新聞は昭和30年代からこっちのものしか無かったし
⇒昭和30年頃はもう金井中に来ていた。
・だから探しても無い訳だよね。
⇒金井中学校の絵の講師をやっとった。1学年にしたって1週間に1回か2回位2時間位なもんだから、習字なんかもそう、俺たちの時なんか1学年3クラス位で(学校全体で)9学級か10学級しか無かったから、1日1時間しかないのに1日来いなんてことはしないだろうから、1日に3学級なり4学級まとめて絵の時間を割り振りするようなやりかたをしていたと思うので、毎日勤務みたいな感じじゃなかったと思うんだえな。せいぜい1週間に2日位じゃなかったのかな。そうなると月何日だね。
・佐中の他にもやってなかったのかな
⇒その学校だけだなあ。佐中だけ、あるいは金井中だけで他には行ってなかったと思う。女子高もあったけど、女子高は行ってなかったと思うなあ。そこまで俺記憶は無いけものう。何にも趣味はなかった筈なのに、絵描きっていうのは大体飲むのが好きだろ。大体飲むんだよ。だから酒の付き合いだと思うんだよなあ。
・酒の付き合いって何が?
⇒親父と
・橘さんのお父さんと?
⇒とにかく新保に居た頃に、俺が子供の頃に大和田の感想寺というお寺の本堂に転居したんだよな。その時牛舎に荷車、自動車でも無い時代に
・大八車?
⇒それに家財道具を積んで夕方新保から大和田の感想寺に来たのだが、俺その荷物の上に乗って夕方暗くなってから来たのを覚えておるんだわ。
・佐渡番茶のラベルを見てパッと思い出す位だから橘さんの記憶の中にしっかり残っていたんだよね。
⇒お茶のラベルかあ。うん、ちょっと版画かなあなんだかなあと思いながらひょっと名前を見たら松本為一郎と小さく書いてあったからさ、何で松本為一郎と横山の家が関係あるんだろう。よく松本為一郎まで手を伸ばしたなあと思って慌てて電話をかけて聞いた訳。
・あの版画の原画っていうのは川上喚濤の遺品の中に丁寧に油紙に包んで仕舞ってあったんです。5枚入っていて
⇒それは親父が買ってもらったんだろうなあ。もう苦しい生活だったからさ、松本為一郎がまさか加茂の知らんとこへ闇夜に提灯無しで行く訳ないから、おそらく提灯の役を親父の正治がやったのだと思う。
・個展とかそういうのがあって、そこで買ったという訳じゃないの?
⇒昔やったことある。
⇒松本為一郎が恐らく佐中(佐渡中学校:佐渡高校の前身)の講師だったと思うなあ。
・昭和何年頃?
⇒親父の弟、大正5年生まれの人が佐中へ通っていた頃だから、戦前の昭和10年から15年の間位じゃないかなあ
・そうすると戦前、戦中の頃ですか?
⇒そうだなあ、その頃佐中で絵の講師をやっていた。後で聞いた話だけどクラブでグライダーとかスキー、スキーは大和田の集落の上に今柿畑になっているところが丁度いいスロープで圧雪なんかしていない自然のスキー場ということで、佐渡でスキーをやりたい人はそこへ行く訳よ。佐中のスキー部もそこで滑っていたという話を聞いたことがある。その時のスキーの講師が松本為一郎さん。
それからグライダー
・グライダーってその当時佐渡にあったんですか?
⇒佐中で、飛ばしたか飛ばすまでの話だか、その辺は知らんけどあったらしいよ。どこで飛ばしたか、飛ばんかったかはそれは知らん。それからクラッシックの音楽コンサート。
・いろんな方面で才能があったというか、秀でてたんですね。人に教える位だからね。
⇒ハイカラさんだよねえ。今から言えばやあ。それだけのものを一人で熟すんだから。ひとつ取っても珍しい時代に、珍しいもん、珍しいもん、珍しいもんと当時としては時代の先端をいくようなハイカラさんだよ。
そういう人だったんだ。最後に金井中へ絵の講師で来て、酒飲んで酒飲んで生活も苦しい酒飲んで、というところしか俺は知らん訳。実際に目で見たり・・・
・その頃は何歳位だったの?
⇒俺が習ってたんだから・・・
・為一郎さんの年齢だけど
⇒そうだなあ、定年間際の60前後か、当時は定年が55歳だったから、講師だから年齢はオーバーしてもよかったのかもしれないが
・見た感じは
⇒大体60歳前後だろうなあ。
・身長は?
⇒背は高かった。スラーっとしていた。それでもう、俺たちより5つ位下に長男がいたけど、それが大和田のこの家より上のお寺から夕方一人でずーっと尾花の町まで、今の国道のところまで歩いて行くの。何だかというと、その時は知らんだけど後で大人が言うとった話を総合すると、親父の酒を買いに子供が暗くなってからあこまで20分位歩くとかかるんだよ。そこまで行く、子供にそこまでさせても酒飲みたかったんだなあ。
・まあ、あの頃の子供っちゃ、みんな手伝いもしたしねえ。俺も横山の家から新道端まで新聞を取りに行ってたよ。
⇒ここは外灯もなければ人も通らないようなところをさ、小学校高学年だから(偉いなあって思うより)可哀想だっていうのが先だわ。家のお手伝い当たり前だって言いながらも可哀想だよ。そういう生活をしていたんだな。
・裕福じゃなかったといっても学校の先生をやってたからそれなりの暮らしが出来たんじゃないの。
⇒先生といったって講師だから日当かなんかだよ。何日出た、一日幾らって数えてもたかが知れているさ。
・別にデカい家の御曹司だったとか財閥の息子だったとか、そんなんじゃなかったのかなあ。
⇒その辺のところを知りたくて、どこの出身だかなどということを履歴書などを頼めば教えて貰えんものかなあと思って、佐渡高校に問い合わせてみようと思っているんだけど
・今その家ってあるんですか?
⇒いや、家が無いから転々としとったのんさ。
・ああ、そういう人かあ
⇒だから佐渡の人じゃないってことだけは判るのんさ。家が無いんだから。家とお寺まで借りて住んでおったんだからさ。だから出身地だけでも調べようと思って学校に履歴書がある筈だから、講師だからといっても履歴書は取る筈だから保存してあると思うんだけどなあ。
・インターネットで検索しても松本のマの字も引っかからないからさ、友達から佐高新聞を借りて探してみたけど全然出て無かったから
⇒佐高だからない筈だよ。その前の佐中の時代だから
・悲しいかな佐高新聞は昭和30年代からこっちのものしか無かったし
⇒昭和30年頃はもう金井中に来ていた。
・だから探しても無い訳だよね。
⇒金井中学校の絵の講師をやっとった。1学年にしたって1週間に1回か2回位2時間位なもんだから、習字なんかもそう、俺たちの時なんか1学年3クラス位で(学校全体で)9学級か10学級しか無かったから、1日1時間しかないのに1日来いなんてことはしないだろうから、1日に3学級なり4学級まとめて絵の時間を割り振りするようなやりかたをしていたと思うので、毎日勤務みたいな感じじゃなかったと思うんだえな。せいぜい1週間に2日位じゃなかったのかな。そうなると月何日だね。
・佐中の他にもやってなかったのかな
⇒その学校だけだなあ。佐中だけ、あるいは金井中だけで他には行ってなかったと思う。女子高もあったけど、女子高は行ってなかったと思うなあ。そこまで俺記憶は無いけものう。何にも趣味はなかった筈なのに、絵描きっていうのは大体飲むのが好きだろ。大体飲むんだよ。だから酒の付き合いだと思うんだよなあ。
・酒の付き合いって何が?
⇒親父と
・橘さんのお父さんと?
⇒とにかく新保に居た頃に、俺が子供の頃に大和田の感想寺というお寺の本堂に転居したんだよな。その時牛舎に荷車、自動車でも無い時代に
・大八車?
⇒それに家財道具を積んで夕方新保から大和田の感想寺に来たのだが、俺その荷物の上に乗って夕方暗くなってから来たのを覚えておるんだわ。
・佐渡番茶のラベルを見てパッと思い出す位だから橘さんの記憶の中にしっかり残っていたんだよね。
⇒お茶のラベルかあ。うん、ちょっと版画かなあなんだかなあと思いながらひょっと名前を見たら松本為一郎と小さく書いてあったからさ、何で松本為一郎と横山の家が関係あるんだろう。よく松本為一郎まで手を伸ばしたなあと思って慌てて電話をかけて聞いた訳。
・あの版画の原画っていうのは川上喚濤の遺品の中に丁寧に油紙に包んで仕舞ってあったんです。5枚入っていて
⇒それは親父が買ってもらったんだろうなあ。もう苦しい生活だったからさ、松本為一郎がまさか加茂の知らんとこへ闇夜に提灯無しで行く訳ないから、おそらく提灯の役を親父の正治がやったのだと思う。
・個展とかそういうのがあって、そこで買ったという訳じゃないの?
⇒昔やったことある。
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