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2020-05-24

・根塚・中静家の歴史

★根塚・中静家の歴史(鎌滝津江子さんより聞き書き:令和2年5月)
・笠原チヨ、大倉ハナ、中静みよが三人姉妹です。湊保育園園長大倉ハナは戦争未亡人になり舞鶴から戻りランプ屋が実家で、中静みよの姉です。
・富山から佐渡に来てランプ商を営んだのが中静みよ(津江子さん母)の祖父徳衛門です。
 その長兄がみよの父庄太郎。みよの兄弟姉妹は5人。長男庄一は妾が新潟に二人居て子供の一人が根塚敏男で、赤ん坊の時にランプ屋に連れて来ました。
 も一人の、妾の子が昭和22年生まれの根塚秀雄です。庄一は羽振りがよく、新潟川開きには中静の祖母が庄一の本妻や妾宅に行ったそうです。
・庄一の下は春吉。ランプ屋は庄一が北海道の物産を船で買い付ける?商いが傾いてる中、借金して、次男春吉を、秋田鉱山大学冶金科に出しました。私(津江子)は春吉のことを九州の伯父さんと呼んでました。紛争の頃、三池炭鉱工場長でした。退職後は月星の役員でした。発明家で、コカコーラの口が爆発したことがありましたが、その爆発防止の特許等々数多く発明しました。95歳前後亡くなるまで特許料を得ていました。春吉の長男(津江子は従弟で一つ下)は九州大学を出て日本アイビーエム勤務でニューヨーク支店長でした。今は浜田山に住み、大学の講師やボランティアをしてます。
・中静チヨは渡辺自転車屋に下宿していた越後鳥原の県職員野方に嫁ぎましたが、3番目の慶子妊娠中に夫が亡くなり、3人の子供を連れてランプ屋で世話になりました。チヨの長男は身内が支援して佐渡中、新潟大学人文学科を出て北陸ガスに勤務して最後は重役になりました。その後、子会社の社長でした。斎藤甲子郎さんと親友でしたが、甲子郎さんが亡くなる少し前に亡くなりました。その関係で、私は甲子郎に「あいぽーと佐渡」建設の話が出たときに、そこでキルト展をやるように励まされました。ヘルメットを被り「あいぽーと佐渡」を見せていたいましたが、本当にキルト展開催の時には故人になられてました。
・田中靴屋さんは中静の祖母(根塚庄一の妹)が茶飲み友達のようで、良くして頂きました。
・奥田薬局の先代根塚と同じく富山から佐渡に来たので、中静、根塚、奥田薬局は冠婚葬祭の時に所謂「色着(いろき)」の間柄でした。
・今は代替わりしましたが、但し、この内容は㊙️にするようなことでは無いと思っています。
・根塚徳衛門は奧さんが病弱で二人亡くし3番目は入籍しなかったとか?確か二番目の奧さんとの間の子供が中静みよと、従姉妹に当たりますが、その従姉妹根塚てる子の次男が東京に居ます。私が大学生の時に家庭教師に行きましたが勉強嫌いで手こずりました。その子が根塚政吉です。高校出た後、ボタン屋に就職したのですが、どこで才能発揮したのか、今は有名なアクセサリーデザイナーです。EXILEの付けている装飾品などの制作をしてます。NEZUkAブランドでネットで見られます。文化学院の講師や講演に全国を又に活躍しています。私のことは煙たがってます。先祖の墓が南中裏にあり未だ墓参りに来てるようです。
根塚の先祖が富山で人形制作してたことを佐渡人名録で見まして、政吉の抜群の、才能を何十年振りに想い出しました。
・富山館も富山出身ですね。私の同級、奥田富子さんの父が富山館の長男ですが、ご存じの事情で富山館から出て奥田産業を興しました。私達が高校生の頃に奥田産業が倒産し、富子さんは一旦富山で過ごし、後に佐渡に戻り、父が興した奥田保険をつぎましたね。私の親戚は何故か富山館とはお付き合いはなかったです。
・山本修之助先生の著書は中静の父が良く購読してましたが、残念ながら焼失しました。修之助先生の娘さん山田聖子さんと私は親しい間柄です。兄上の講演やご実家のお宝がテレビで紹介されました。
・昔、朝日亭というのがあったそうですが、これがランプ屋の私の祖母(中静みよの母)の親戚と母から聞かされていたことを思い出しました。朝日亭の、息子が第四銀行の重役?だったのでしょうか?眞後琢磨の関係で私の身内は、第四銀行勤務が多いです(兄も)又商工会婦人部や有志の方々が、(こちら東京両津の会でも若い女性が、踊り継いでいます、)保存している芸妓舞は朝日亭の奧さん(新潟出身と聞きました)が、芸者さん達に教えてたと母から聞いたのですが、本当かと思っておりました。大した話しでなくて、余計なことを済みませんです。
・先日は眞後家の詳細を有難う存じました。88歳川崎市在住の従姉(旧姓笠原敏子)連絡出来まして、聞いてみましたが、詳細記憶なく、ただ朝日亭には、しょっちゅう遊びに、行ってたので、それで親戚と思ってたとのことでした。従姉は、第四銀行本店人事課にいましたが、その兄笠原秀夫(故人北陸ガス重役歴任)(斎藤甲子郎さんと佐中の、同級生亡くなるまで親しくしてました)の結婚の仲人で新潟での結婚式に小学四年生?の私は祖母に連れて行かれ、集合写真に写ってるのが鷺野の自宅にあります(その眞後哲衛さんに会った記憶がかすかに残っており、組踊りが、気になってるのかと想いました)。
・中静は新潟まさや?小路中静金物店と、かなり昔の親戚筋と、聞きました。焼失した中静金物店の、先代が、横谷の、中静玉山から出た人のようです。複雑な話しもありますが、取り敢えず、吉井(横谷)と思います。
・もう一つ私の父(相川の佐渡支庁に勤務してた県職員でした。)が斎藤甲子郎さんの父君八郎平さんや佐守、塚本一山庄の方と、鳴雪会とういうグループで、しょっちゅう集まってましたが、佐渡人名録に、ございますか?その方々と、ドンデン山や、小木の宝や旅館?等親睦バス旅行に、私はついて行った写真もありますが、その方々との繋がりは戦時中青年学校?の指導員のようなことをやってた時の仲間と母から聞いたような記憶です。
・中静の由来は、長野県にある「中子塚」(なかしずか)という古墳(今はない)で平家の落人集落の跡がある。そこから一族が新潟県の長岡在、中之島村に身を寄せた、そこで一族は中静と云う姓を名乗り、呼び方を(なかしずか)とした。いまでも長岡市周辺に(中静)姓が多く存在するが大半が(なかしずか)である。長岡に移住した後、さらに一部が新潟市や佐渡に移住したものである。新潟市には数は少ないが(なかしずか)が5軒程ある。ルーツは(なかしず)(なかしずか)同じく長野と推察される。但し「中子塚」が長野の何処に有るのかは不明である。

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