2019-04-23
◆マイ作品 「佐渡TV」 「新穂を歩く(前・後編)」up
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2019-04-23
2019-04-19
高橋二郎についての聞き書き
「高橋二郎についての聞き書き」
(平成31年3月13日 高橋スミさん-大正12年生-)
・二郎は明治30年頃、浜梅津生れ。昭和16年、竜江省甘南県東宝地区に佐渡村開拓団入植。団長となる。
加茂農林卒後、農地事務所に勤務して県内各地を転勤した。
小柄で野球好きだった。加茂農林在学中に、先生に野球ばかりやってると退学させるぞと注意された。その後、勉学にもはげみ、特に数学が優秀であった。
40代?で帰京し、漁業に従事。沖の大船と岸との連絡船である引き船業も行った。次男であるが、長男が早く亡くなったので実際は長男として育った。48歳頃没。死因は腸チフスとも盲腸とも言われる。
子供の私(スミ)の父に対する印象は、おとなしい人ではなかった、子供に厳しくはなかった、気の合う人とはよくしゃべる人だった。人によっては余りしゃべらなかった。
男子の教育については熱心で、二人の兄は上級学校に進学させたが、女子は学校は出なくて良いと考えていたようだ。
佐渡開拓団事件の時は父は既に佐渡に帰った来ていた。
・高橋信吉家から梅川本店に行った人がいるが、その弟が福浦に有った杉山医院の先生だと聞いている。
・二郎の妻はタキで60歳弱で亡くなった。太っ腹で元気のよい人で、その人柄もあって皆から好かれていた。
※高橋保一(やすかず 浜梅津)の談:二郎さんが、学校に来て満州について講演された。激寒で小便が凍ったなどの話を覚えて居る。
(二郎の両親)
・父は高橋専吉で、高橋忠右衛門(農業)の出。農業と漁業を並行して行っていた。家では寺子屋も開設し、学問のある人であった。背が高く、がっちりした体格で、人を頼んで農業漁業を手広く行っていた。寺子屋では読み書きを教えて居た。本間幸二が高校で書道を教えて居たのもその筋が有ったに違いない。
専吉は二郎が佐渡に戻ってから亡くなっているが、専吉が体調を壊したので若くして二郎が帰郷して家を継いだのかも知れない。
・母は和木の石塚権平から嫁いできた。小柄で山仕事、山での採りものが好きだった。
(二郎の子供達)
・長男:信一(大正5年生)
・長女:幼児死亡、次女:幼児死亡、
・次男:幸二(大正10年8月23日生生)
・三女:スミ(大正10年1月1日生)
浜梅津の渡辺家に嫁ぐ。渡辺家は両津夷一にあった浜屋旅館と親戚筋である。
※浜屋旅館は長男が医師となり。渡辺医院となったが若くして没。昭和30年代には、妻が同地で雑貨店を営んでいた。その長女信子は両津高校から弘前医大を出て、弘前で夫と共に村上医院を経営した。
・信一は柏崎で出生、幸二とスミは北蒲原郡神林村平林で出生。
・信一は佐渡農学校卒後、加茂農林に入学、卒後教員となる。与板地区の学区にも勤務して居た。
(二郎の兄弟)
長男:高橋清蔵(梅川本店高橋家の下の家、高橋家とは親戚筋と思う)
長女:ヤツ(両津夷の本間郁蔵(「本郁」)に嫁ぐ。河原田高女卒)
次男:二郎
(高橋信一)
・長男:孝夫、昭和18年生、日体大卒後、県内高校教諭。
・次男:英司、昭和21年生、平成30年没。
・長女:芳子、昭和23年生、真野須田家に嫁ぐ。
(本間幸二)
・男児のなかった本郁に養子に入る。
・本間郁蔵関係者からも養子に入る。
・結局、男児を得た本間郁蔵家関係者が本間郁蔵家を継ぐ。後継ぎは本間清(昭和22年生)
・幸二の子供は、長女:光子(昭和21年生)、次女:明子(めいこ 昭和23年生)
★高橋仁作
梅津の人、明治32年、郡会議員に当選。明治38年、加茂村二代目村長となる。明治42年、村長再選。
(平成31年3月13日 高橋スミさん-大正12年生-)
・二郎は明治30年頃、浜梅津生れ。昭和16年、竜江省甘南県東宝地区に佐渡村開拓団入植。団長となる。
加茂農林卒後、農地事務所に勤務して県内各地を転勤した。
小柄で野球好きだった。加茂農林在学中に、先生に野球ばかりやってると退学させるぞと注意された。その後、勉学にもはげみ、特に数学が優秀であった。
40代?で帰京し、漁業に従事。沖の大船と岸との連絡船である引き船業も行った。次男であるが、長男が早く亡くなったので実際は長男として育った。48歳頃没。死因は腸チフスとも盲腸とも言われる。
子供の私(スミ)の父に対する印象は、おとなしい人ではなかった、子供に厳しくはなかった、気の合う人とはよくしゃべる人だった。人によっては余りしゃべらなかった。
男子の教育については熱心で、二人の兄は上級学校に進学させたが、女子は学校は出なくて良いと考えていたようだ。
佐渡開拓団事件の時は父は既に佐渡に帰った来ていた。
・高橋信吉家から梅川本店に行った人がいるが、その弟が福浦に有った杉山医院の先生だと聞いている。
・二郎の妻はタキで60歳弱で亡くなった。太っ腹で元気のよい人で、その人柄もあって皆から好かれていた。
※高橋保一(やすかず 浜梅津)の談:二郎さんが、学校に来て満州について講演された。激寒で小便が凍ったなどの話を覚えて居る。
(二郎の両親)
・父は高橋専吉で、高橋忠右衛門(農業)の出。農業と漁業を並行して行っていた。家では寺子屋も開設し、学問のある人であった。背が高く、がっちりした体格で、人を頼んで農業漁業を手広く行っていた。寺子屋では読み書きを教えて居た。本間幸二が高校で書道を教えて居たのもその筋が有ったに違いない。
専吉は二郎が佐渡に戻ってから亡くなっているが、専吉が体調を壊したので若くして二郎が帰郷して家を継いだのかも知れない。
・母は和木の石塚権平から嫁いできた。小柄で山仕事、山での採りものが好きだった。
(二郎の子供達)
・長男:信一(大正5年生)
・長女:幼児死亡、次女:幼児死亡、
・次男:幸二(大正10年8月23日生生)
・三女:スミ(大正10年1月1日生)
浜梅津の渡辺家に嫁ぐ。渡辺家は両津夷一にあった浜屋旅館と親戚筋である。
※浜屋旅館は長男が医師となり。渡辺医院となったが若くして没。昭和30年代には、妻が同地で雑貨店を営んでいた。その長女信子は両津高校から弘前医大を出て、弘前で夫と共に村上医院を経営した。
・信一は柏崎で出生、幸二とスミは北蒲原郡神林村平林で出生。
・信一は佐渡農学校卒後、加茂農林に入学、卒後教員となる。与板地区の学区にも勤務して居た。
(二郎の兄弟)
長男:高橋清蔵(梅川本店高橋家の下の家、高橋家とは親戚筋と思う)
長女:ヤツ(両津夷の本間郁蔵(「本郁」)に嫁ぐ。河原田高女卒)
次男:二郎
(高橋信一)
・長男:孝夫、昭和18年生、日体大卒後、県内高校教諭。
・次男:英司、昭和21年生、平成30年没。
・長女:芳子、昭和23年生、真野須田家に嫁ぐ。
(本間幸二)
・男児のなかった本郁に養子に入る。
・本間郁蔵関係者からも養子に入る。
・結局、男児を得た本間郁蔵家関係者が本間郁蔵家を継ぐ。後継ぎは本間清(昭和22年生)
・幸二の子供は、長女:光子(昭和21年生)、次女:明子(めいこ 昭和23年生)
★高橋仁作
梅津の人、明治32年、郡会議員に当選。明治38年、加茂村二代目村長となる。明治42年、村長再選。
2019-04-11
山本伝十郎家(三宮)


「三宮 山本伝十郎家」
□山本伝十郎-山本孝策-山本博-山本伝一郎-秀剛
・山本伝十郎は1851年生、1938年没。名畑喜一郎家から1872年以前に養子に入る。
伝十郎の妻はイチで1851年生、山本家に入籍、1938年没。
(伝十郎の子供)
・長男は山本孝策で1871年生、1938年没。三宮村村長だった。
孝策の妻は佐藤ミスで1877年生、1894年入籍、1920年没。ミスの父は佐藤藤作である。
・次男は中川健蔵で真野新町中川清三郎家の養子となる。南満州鉄道理事、香川県知事、熊本県知事、北海道庁長官、東京府知事、文部次官、台湾総督、貴族院議員、大日本航空総裁等を歴任。
・三男は清太郎で上川茂の風間家に入る。県議、赤泊村長(第8代、大正5年-大正7年)を務める。
・長女はマツで、二宮村の酒造家近藤吉太郎に嫁ぐ。
マツと吉太郎の間には12人の子供が居た。
(山本孝策の子供)
・長女はスマで1901年生、長男は伝一で1904年生1921年没。
スマは1911年に母ミスの実家佐藤藤作家に養子に入る。しかし、山本家長男の伝一が夭折した為、1923年に再び佐
藤藤作家から山本家に養子に入る。
・山本家はスマが継ぐことになり、1923年に近藤博(1898年生)を婿として迎える。
近藤博はマツの夫吉太郎の弟である。
(山本博の子供)
・長女は房子(1923年生)で沢根青野林平に嫁いだ。二人の長男は一之(1947年生)で、両津夷で青林書房を経営していた。
・次女は敏子(1925年生)で下新穂の城野甚一に嫁ぐ。城野家には京都市視学より助役となり東京目黒区長、日本
歯車協会理事長を務めた城野亀吉がいる。
・次が長男の山本伝一郎(1927年生-2017年没)で予科練を出て第四銀行勤務であった。
妻は長木加藤新兵衛家から嫁いだが亡くなり、後妻孝子を迎えた。
・次男は孝夫(1930年生)で妻は沢根から迎える。
・次が三女の昌子(1933年生)で真野吉岡高野直巳に嫁ぐ。
・次が三男の昭次(1936年生)で札幌の女性と結婚。
・山本伝一郎の長男は秀剛(ひでたけ)で新潟在中である。
(山本伝一郎の子供)
・秀剛(ひでたけ 新潟在、昭和27年生、第四銀行勤務)、博明(佐和田中校長 昭和32年生)等。
「東京 中川家」 ※中川健蔵については別紙資料
・中川健蔵家(旧姓山本)
妻:中川キヨ(真野新町、中川清三郎家、母マキは佐藤清見長女)明治8年(1875)生
1875年 誕生 1917年 逓信省通信局長(-1919年) 1919年 南満州鉄道理事(-1923年)
1923年 香川県知事(-1924年) 1924年 熊本県知事(-1925年) 1925年 北海道庁長官(-1927年)
1929年 東京府知事(-1929年) 1929年 文部次官(-1931年) 1932年 台湾総督(-1936年)
1936年 貴族院議員(-1944年) 1939年 大日本航空総裁(-1943年) 1944年 死去
(中川健蔵の子供)
・長男:中川清吾:1894年誕生、東京帝大法科卒、日本郵船勤務。妻:川合蔵子(海軍大佐 川合昌吾の二女)。
清吾の長男:中川清史(1939年誕生)
・二男:中川清整:1897年誕生、南満州鉄道勤務、妻:【大黒房江】(大黒熊次郎の養女)、長女:中川二三子。
・三男:中川晃成(てるしげ):1905年誕生、東大法科卒。日本航空電子社長、日本電気勤務(専務)、妻:杉原貴美子(杉原二郎の妹)。※妻中川貴美子の著書(私家版)に『忘れ得ぬ日々』(昭和62年)がある。、
・四男:哲郎:明治41年(1908)生、東大法科卒、逓信省勤務。妻:杉原睦子(杉原二郎の妹、貴美子の妹)
・五男:中川融 ※中川 融 については別紙資料
1911年誕生、 1952年 在マニラ在外事務所所長(-1953年) 1953年 外務省アジア局長(-1957年)
1960年 外務省条約局長(-1964年) 1964年 駐イタリア特命全権大使(-1965年)
1965年 駐ソヴィエト連邦特命全権大使(-1971年) 1971年 国際連合日本政府代表部特命全権大使(-1973年) 2001年 死去
・長女:中川アヤ(寺内毅雄の妻)
・二女:中川寿子(赤池健の妻)
・三女:中川田鶴子(羽生健一郎の妻)
「赤泊上川茂 風間家」
□風間安右衛門-風間清太郎-風間保好(やすよし)-好紀
・同家の屋号は大上(おおかみ)で大和屋源兵衛と言う廻船業で財を成した。また、上川茂地区の土地の大半を有し、多くの小作人を抱えていた。しかし、農地解放でほとんどの土地を失う。
・安右衛門は第二代赤泊村長(明治37年-38年)。妻は貞(てい)。
・清太郎は第八代赤泊村長(大正5年-大正7年)、県会議員。
・現当主の好紀は上川茂387番地に住む。
(清太郎の子)
・長女の綾子は徳和の三浦貞一に嫁ぐ。三浦家の屋号は水上(みずかみ)で造り酒屋、第12代赤泊村長(昭和32年-昭和34年)
・長男は保好(やすよし)で明治42年生。妻アサは下川茂の屋号中山の風間家から嫁ぐ。
保好の長男好紀は昭和15年生。
・次男は たかし、軍医となり、戦後シベリアに送られ現地で死去。
・次女の紀子(としこ)は相川大工町郵便局長の富田家に嫁ぐ。富田家の親戚筋に相川の浅香医院がある。
紀子の娘綾子は医師となり、夫と相川で田代医院を営む。夫死後、佐和田で逓信診療所所長となる。
・三女は和(かず)、元は鍛冶屋であり、後電気店となった丸輪電気店に嫁ぐ。
・四女は妙子で長木の保健所獣医佐々木氏に嫁ぐ。
・三男はよしひろ(漢字は 幸?)。
「二宮 近藤家」
□近藤吉左衛門-近藤吉太郎-近藤光雄-近藤光信(昭和23年生)
・近藤吉左衛門は佐渡酒造組合初代会長。「菊波」は、元は近藤酒造のブランドである。
・近藤吉左衛門の長男が吉太郎で佐渡酒造組合長。妻は三宮の山本家から嫁いだマツである。
(吉太郎の子供)
・吉太郎の長女キワは新穂の荒井忠兵衛家の荒井実に嫁ぐ。
・次女キヌは二宮村石田の渡部(わたなべ 屋号は渡部大屋)に嫁ぐ。渡部家は近藤家の隣家。
現当主は東京在の渡部英樹さん。
・三女アヤは母マツの実家である三宮山本家で育つ。山本家に子供が居なかった為である。
三女アヤは真野新町の中清呉服店、中川清一郎に嫁ぐ。清一郎は真野町長となる。
・清一郎の長男は清久で、妻は赤泊外内呉服店より嫁いだ康子である。
・四女アイは相川永田家に嫁ぐ。・永田俊一と弟健二(昭和23年生)は小学校入学前に東京へ。
「新穂 荒井家」
※荒井実については別紙資料
□荒井忠兵衛-荒井実-荒井洌
※忠兵衛は屋号で、本名は「忠平」なのではと言う人も居るが正式には不明。身内は「ちゅうへい」と言っていた。
・荒井実は新穂山王神社宮司守屋家で生まれ、荒井忠兵衛呉服店に養子として入る。大正7年3月に佐渡中卒で、名簿には荒井(守屋)実となっているので、卒業時点では守屋実であったと思われる。昭和42年2月27日没。テニスが上手であったと言う。
・荒井呉服店は店の一角で第四銀行両津支店の出張所を開設していた。
・佐和田近藤家の長女キワは新穂荒井家(呉服店)に嫁ぐ。
夫は荒井実、新穂日吉神社宮司次男で旧姓は守屋、荒井家に養子に入る。
・実の妹康子は真野新町の酒造家嵐城嘉平(本名は勝三郎)に嫁ぐ。嘉平の父は嵐城治作。治作は新穂村長だった荷上與六の弟。嘉平の妹は江崎真佐子で現在ニューヨーク新潟県人会顧問。元夫はノーベル賞受賞者江崎玲於奈である
(荒井実とキワの子供)
・長女まさ子は沢根郵便局長金子家の4男金子修彌に嫁ぐ。修彌は陸軍大尉で、相川中学の教員で軍事教練を担当。相川に居住していたが後に真野新町に移住し、マルゴに勤務したが50歳頃に死去。
・次女ゆき子は両津浜田の市橋保雄に嫁ぐ。保雄は高校の英語教師から両津市長。その長男俊博は東農大卒後、家業の醤油製造業(保屋、天保醤油)を継ぐ。
・三女ひさ子は河原田池野與男(よしお:池野あめ屋:味噌屋))に嫁ぐ。
河原田海岸に今も残る突堤は池野家が北海道等への商品積み出し用に作られたものである。
・四女あい子は両津柴田酒造の柴田四郎右衛門に嫁ぐ。四郎衛門は両津市議。
・長男は三歳位の時に死亡。
・次男冽(きよし)は第四銀行勤務、妻は岩田都代子(新潟在、日本舞踊花柳流師範)、
妻の弟は岩田秀夫で両津の歯科医、その長男宏は金井のあおば法律事務所代表。
「真野 中川家」
□中川清一郎-中川清久
・中川清一郎(中清呉服店)は真野町町長
・清久の妻康子の実家は赤泊外内家。
「赤泊 外内(とのうち)家」
・靖子の父は赤泊外内呉服店次男で、田辺九郎平の孫にあたる。次男は英太郎で、赤泊淡路屋の長女松澤ノブと結婚。二人の長女幸子は沢根の金子久彌と結婚、次女洋子は河原田中山守夫に嫁ぐ。三女は亡くなり、長男の量は河原田で外内茶店を経営する。4女康子が真野中川清久に嫁ぐ。 外内呉服店3男は猪三郎である。
・田辺九郎平は将来の成長産業と考え、発電事業(電灯会社)に手を出した。その関係で次男英太郎は電機学校に入学し電気の道を進んだ。その後、島内の電気事業者が大同合併して東北電力となった。英太郎は河原田火力発電所所長を55歳で定年退職し、趣味であったお茶の商い(外内茶店)を始めた。
田辺九郎平
【生没】一八三一ー一九○二 天保二年十月二十三日、赤泊村赤泊の田辺九郎兵衛の長男として生まれる。子供の頃浄福寺へ手習いに通ったが、早くに父を失い、嘉永元年(一八四八)徳和村の羽豆太郎三郎家へ奉公に出た。翌嘉永二年、一九歳の時に北海道の江差へ渡り、同郷の商人武部喜八郎の店で四年間働いて蓄えた金を元手に、反物の行商を始めた。渡航後一一年目に店を開き、漁業者を相手の貸金業も行って資産を残した。明治十九年に帰島したが、この時出入りの漁業者に、米三○○○俵と漁具いっさいを与え、五、六万円あった貸付金も反故にしたと言う。帰島後は、農業のかたわら公益事業に努め、明治二十年八月から、自費で赤泊港の修築工事を始めて、同二十三年十月に完成した。また、明治二十八年には、三郡連合会の補助も受けて、両津・新潟間が荒れて就航が滞る十一月から三月までの五か月間、赤泊・寺泊間に定期航路を開き、占魁丸を就航させるなど、越佐航路の発展にも尽力したが、明治三十五年八月十二日に没した。
「相川 永田家」
※永田俊一については別紙資料
□永田武兵衛-永田俊三郎-永田馨-永田俊一
・永田俊三郎は円山溟北門下で永田間山(けんざん)と号した漢学者。旧制中学漢文教師。
・永田馨は京都大卒後、高校教師。その後、上京して日本電技を創業する。
・永田俊一は以下の経歴。
昭利19年、新潟県佐渡生まれ 昭和42年、東京大学卒業後、大蔵省入省。主計局主計官、銀行課長、官房審議官、日本銀行政策委員会大蔵省代表委員などを歴任 平成9~10年、社団法人信託協会専務理事 平成10~14年、日本銀行理事 平成15~16年、信託協会副会長・専務理事 平成16~22牛、預金保険機構理事長 平成24年~、楽天銀行社長、会長(現在、楽天銀行・証券・保険各取締役)
既刊書に『信託のすすめ』な『なぜ今、そしてこれから信託なのか』『信託改革金融ビジネスはこう変わる』『[新版]信託のすすめ』『透明な墓標 信託の精神を理解するために』『遺志ありて 信託の本懐』『溟北先生時代日記』
「沢根 金子家」
代々沢根郵便局長の家。
・新穂荒井家の長女まさ子は真野新町の金子修彌に嫁ぐ。修彌(大正3年11月生)は陸軍大尉で相川中学教師(軍事教練等)。相川に住み、後真野新町に移住してマルゴに勤務した。
(金子家の子供)
・金子家長男は沢根郵便局長の重彌、次男は哲彌で萩田家に入り、佐和田町長となる。長男が萩田換地を創業。
三男が研彌で電通大教授。四男は修彌、五男は久彌で海軍大尉、文部省勤務。
・長女は畑野金子呉服店へ嫁ぐ。夫は太津平で、歌人として高名な金子不泣。
・次女は畑野坊ケ浦の本間茂雄に嫁ぐ。東京教育大教授、日本初の体操オリンピック選手で長く五輪競技団長を務め教育大後輩から幾多の金メダリストを育てる。尚、茂雄の甥には東大教授で英米文学者として高名な渡辺利雄がいる。
※女性は二人とも、4男修彌の姉
・金子不泣
本名は太津平。1892-1970、歌人。本名太津平、明治二十五年生まれ、畑野町の人。少年時代から文芸を愛好し、佐渡中学校在学中から、校友会誌や「中学世界」「文章世界」などに投稿した。早稲田大学予科に入学した明治四十四年(一九一一)、前田夕暮が「詩歌」を創刊すると同時に加盟し、以後生涯をともにした。大正二年(一九一三)病を得て大学を中退して帰郷、家業の呉服商を継ぎながら文筆活動にいそしんだ。大正四年、佐渡中学校の後輩たちが創刊した文芸誌「白壁」や、大正十三年山本修之助が発起した「純芸術」にも加わり、「純芸術」では編集名儀人となった。作歌においてはつねに「詩歌」を離れず、「詩歌」を代表する歌人として、その作品は『現代短歌大系』『短歌史』『新万葉集』などに選録されている。歌集に、『波の上』『童髪』『独居』『荒磯波』『風雪』の五冊があり、昭和四十三年(一九六八)には、知友たちによって母校の畑野小学校校庭に、「愛しきやし垂り髪少女幻に明るかりけり垂り髪少女」を刻む歌碑が建てられた。昭和四十五年三月十日、七八歳で没した。
・本間茂雄
畑野出身で日本体操競技を世界一に押し上げた功労者。明治37年畑野坊ケ浦で出生、畑野小-牛込高商-府立4中-東京高等師範卒。後年は東京教育大副学長、名誉教授となった。昭和7年、第10回ロサンジェルスオリンピック体操競技に日本人として初めて出場、主将でもあった。以後はオリンピック体操競技のコーチや競技団長を歴任し、世界を制した日本体操競技の礎を築いた。自ら指導した東京教育大の後輩達には小野喬、遠藤幸雄、加藤沢男等のオリンピック金メダリストが並ぶ。晩年は民謡を愛し、樂唱会を設立して会長となり、日本の民謡普及活動に尽力した。4男に本間二三雄が居る。ミュンヘン五輪直前の世界選手権で団体優勝、個人総合6位、跳馬4位、鉄棒6位となり、オリンピック直後のワールドカップでも個人総合6位、つり輪2位の好成績を残した。ミュンヘン五輪には補欠出場した。つり輪種目にある「ホンマ」は彼の名から来ている。
また、弟(渡辺松二郎)の長男渡辺利雄は日本を代表する英米文学者で東大名誉教授。
・祖父(六蔵 婿養子)祖母(サワ:本間茂平治・タカの長女)、父(森蔵:長男m11生、s19没)母(キク:m20生、t10没)※キクは34歳没の為後妻はマツ、森蔵子女の母は全てキク。
・父方伯母(タイ:長女m6生)、〃叔母(ヨシ:次女m19生)、〃叔母(ハル:三女m20生)、〃叔母(トク:四女m21生)、〃叔父(曠:次男m21生)
・本人本間茂雄(長男m37年4月19日生)、妻(文:m44生)、茂雄妹(初枝:長女m40生)、茂雄弟(松二郎:次男m41生、潟上渡辺家に婿養子、松二郎妻マツ:m26生、s26没)
・茂雄長女(冨士子:s9生)、茂雄長男(英茂:s12生、妻紘子、アサヒビール勤務、札 幌在。
子女は男女一名。 平成30年春本間家墓は札幌に移転)、次男崇、三男俊三郎、次女恭子、
四男二三雄(s22生、 父茂雄の元で体操で活躍)
・渡辺利雄
日本を代表する英米文学者。1935年(昭和10年)台湾新竹市生まれ。1954年、新潟県両津高校卒。1958年、東京大学文学部英文科卒。1961年、同大学大学院修士課程修了。父は両津高校教諭の渡辺松二郎、伯父は体操競技で日本人初のオリンピック選手で同競技団長を長く務め体操日本を築いた本間茂雄。1962年から64年まで、カリフォルニア大学バークレー校などに留学。東京大学文学部教授、20年近く「アメリカ文学史」の講義。その講義を通して、柴田元幸はじめ、佐藤良明、小川高義、後藤和彦、上岡伸雄、舌津智之、諏訪部浩一等、現在活躍中の多くのアメリカ文学者・翻訳者に、多大な影響を与える。その後、日本女子大学文学部教授・文学部長などを歴任。現在、東京大学名誉教授、昭和女子大学特任教授。専門はアメリカ文学(特に、マーク・トウェイン、ヘンリー・ジェイムズなどのリアリズム文学)。著書に『フランクリンとアメリカ文学』『英語を学ぶ大学生と教える教師に―これでいいのか? 英語教育と文学研究』(いずれも研究社)。編著に『20 世紀英語文学辞典』『読み直すアメリカ文学』(研究社)など、訳書に『フランクリン自伝』(中公クラシックス)、マーク・トウェイン『自伝』(研究社)、『ハックルベリー・フィンの冒険』(集英社)、『不思議な少年』(講談社)、ジョン・ドス・パソス『USA』(岩波文庫、共訳)、ノーマン・マクリーン『マクリーンの川』(集英社文庫)、『マクリーンの森』(集英社)などがある。2007年12月、研究・教育の集大成『講義アメリカ文学史[全3巻]―東京大学文学部英文科講義録』を刊行し、2009年12月には『講義アメリカ文学史 補遺版』を出版した。
そしてこの4冊の基本的な部分を抽出し、限りなく新しい情報も盛り込んだ『講義アメリカ文学史 入門編』を、2011年2月に発表した。
「両津 市橋家」
□市橋保吉-市橋保雄-市橋俊博
・両津浜田の市橋保屋は元々は加茂新町で農業、市橋主四郎(もんしろう)の次男。
・現在の保屋の隣にあり遠縁でもあった市橋勘吉家が味噌・醤油を製造していた。
市橋勘吉は慶応3年生まれで、加茂歌代新町の市橋主四郎家、主平の弟。
市橋勘吉家が業務を終了する時、市橋保屋が引き継いだ。当主は市橋保吉で、その長男が保雄、その長男が市橋俊博である。保吉の妻てる子は両津夷新にあった山岸医院(後に両津会館、現在はマンション)、山岸寛の妹である。
・保屋のブランド「天保醤油」は「保」の上に山形のマークが入った商標を使っていたので、山形が「天」と変わり、「天保」となった。
・市橋勘吉家は三男の市橋謙三郎が新潟の料亭「大善」(大坂苗字)に婿入りした。
・後両津市長となる市橋保雄は東京外語卒後、新潟中央高校の英語教師であり、京都大でも研修した。肺の病に罹り、佐渡に帰郷して家業を継いだ。
・下記写真の右は相模原伊藤病院院長の伊藤茂で幼馴染であった。二人が協力して「東京両津の会」を立ち上げ、茂氏は初代会長となり、両津市民会館にグランドピアノを贈呈するなど両津の為に大変尽力された。ロータリークラブや裏千家の役員等も歴任した。元々は両津福浦にあった両津病院(現在のNTTビル)の創業者で、近くに住んだ。福浦火災後に相模原に移転した。救急指定病院で業務を拡大し、テレビドラマ『白い巨塔』のロケ地となって有名病院となった。伊藤家は両津梅津の出で屋号は丸伊屋。
「両津 柴田家」
□柴田繁-柴田四郎次-柴田四郎右衛門-柴田茂
・柴田繁の妻は吉井立野の原田家から嫁ぐ。
(繁の子供)
・長男は四郎次。次男は柴田正一郎(巴屋、佐渡大商)は両津町長・三男信夫(しのぶ→松村、両津市議会議長)
繁の長姉アヤは相川出雲屋(竹田家、1988年廃業)に嫁ぐ。竹田家現当主は竹田栄彦(ひでひこ)。
アヤの長女(佐世子)は相川郵便局長伊藤家の嫁ぐ。その子伊藤光は佐渡市副市長。
次女は両津夷稲葉時計店に嫁ぐ。
・アヤの妹キクは中村富雄(両津市収入役)に嫁ぐ。中村家は湊5丁目の海産物商中村佐太郎家で長男中村佐一郎は港タクシー経営や両津商工会長等を歴任した。
※アヤ、キクは何番目の子供になるのか不明。
(四郎次の子供 一子~末子へ)
・長女シズは両津夷中沢栄一郎に嫁ぐ。栄一郎は中沢商店を経営し佐渡大商社長等も歴任した。
・長男は四郎右衛門で両津市議。
・次男は昭で、両津夷の喫茶店の草分け「木の実」(このみ)店主。
・次女は和子。
・三男は輝光。
・四男は禄郎で、夷八でジャズ喫茶の名店「響」、その後神明町で「アスティ」を経営した。
・柴田四郎右衛門妻あい子(保屋市橋保雄妻の妹、新穂荒井家荒井実の子)は令和5年1月没(91歳)。
2019-04-10
高橋二郎
「高橋二郎についての聞き書き」
(平成31年3月13日 高橋スミさん-大正12年生-)
・二郎は明治30年頃、浜梅津生れ。
佐渡開拓団団長。加茂農林卒後、農地事務所に勤務して県内各地を転勤した。
小柄で野球好きだった。加茂農林在学中に、先生に野球ばかりやってると退学させるぞと注意された。その後、勉学にもはげみ、特に数学が優秀であった。
40代?で帰京し、漁業に従事。沖の大船と岸との連絡船である引き船業も行った。次男であるが、長男が早く亡くなったので実際は長男として育った。48歳頃没。死因は腸チフスとも盲腸とも言われる。
子供の私(スミ)の父に対する印象は、おとなしい人ではなかった、子供に厳しくはなかった、気の合う人とはよくしゃべる人だった。人によっては余りしゃべらなかった。
男子の教育については熱心で、二人の兄は上級学校に進学させたが、女子は学校は出なくて良いと考えていたようだ。
佐渡開拓団事件の時は父二郎は既に佐渡に帰った来ていた。
・高橋信吉家から梅川本店に行った人がいるが、その弟が福浦に有った杉山医院の先生だと聞いている。
・二郎の妻はタキで60歳弱で亡くなった。太っ腹で元気のよい人で、その人柄もあって皆から好かれていた。
※高橋保一(やすかず 浜梅津)の談
二郎さんが、学校に来て満州について講演された。激寒で小便が凍ったなどの話を覚えて居る。
(二郎の両親)
・父は高橋専吉で、高橋忠右衛門(農業)の出。農業と漁業を並行して行っていた。家では寺子屋も開設し、学問のある人であった。背が高く、がっちりした体格で、人を頼んで農業漁業を手広く行っていた。寺子屋では読み書きを教えて居た。本間幸二が高校で書道を教えて居たのもその筋が有ったに違いない。
専吉は二郎が佐渡に戻ってから亡くなっているが、専吉が体調を壊したので若くして二郎が帰郷して家を継いだのかも知れない。
・母は和木の石塚権平から嫁いできた。小柄で山仕事、山での採りものが好きだった。
(二郎の子供達)
・長男:信一(大正5年生)
・長女:幼児死亡、次女:幼児死亡、
・次男:幸二(大正10年8月23日生)
・三女:スミ(大正10年1月1日生)
浜梅津の渡辺家に嫁ぐ。渡辺家は両津夷一にあった浜屋旅館と親戚筋である。
※浜屋旅館は長男が医師となり。渡辺医院となったが若くして没。昭和30年代には、妻が同地で雑貨店を営んでいた。その長女信子は両津高校から弘前医大を出て、弘前で夫と共に村上医院を経営した。
・信一は柏崎で出生、幸二とスミは北蒲原郡神林村平林で出生。
・信一は佐渡農学校卒後、加茂農林に入学、卒後教員となる。与板地区の学校にも勤務して居た。
(二郎の兄弟)
長男:高橋清蔵(梅川本店高橋家の下の家、高橋家とは親戚筋と思う)
長女:ヤツ(両津夷の本間郁蔵(「本郁」)に嫁ぐ。河原田高女卒)
次男:二郎
(高橋信一)
・長男:孝夫、昭和18年生、日体大卒後、県内高校教諭。
・次男:英司、昭和21年生、平成30年没。
・長女:芳子、昭和23年生、真野須田家に嫁ぐ。
※信一が与板地区に勤務時代に長男孝夫が腸チフスに感染した。浜梅津の渡辺家に嫁いで居たスミが食事の世話などをした。二郎は昭和21年頃亡くなったが孝夫の腸チフスが移ったとも言われた。
(本間幸二)
・男児のなかった本間郁蔵(本郁)に養子に入る。
・本間郁蔵関係者からも養子に入る。
・結局、男児を得た本間郁蔵家関係者が本間郁蔵家を継ぐ。後継ぎは本間清(昭和22年生)
・幸二の子供は、長女:光子(昭和21年生)、次女:明子(めいこ 昭和23年生)
(平成31年3月13日 高橋スミさん-大正12年生-)
・二郎は明治30年頃、浜梅津生れ。
佐渡開拓団団長。加茂農林卒後、農地事務所に勤務して県内各地を転勤した。
小柄で野球好きだった。加茂農林在学中に、先生に野球ばかりやってると退学させるぞと注意された。その後、勉学にもはげみ、特に数学が優秀であった。
40代?で帰京し、漁業に従事。沖の大船と岸との連絡船である引き船業も行った。次男であるが、長男が早く亡くなったので実際は長男として育った。48歳頃没。死因は腸チフスとも盲腸とも言われる。
子供の私(スミ)の父に対する印象は、おとなしい人ではなかった、子供に厳しくはなかった、気の合う人とはよくしゃべる人だった。人によっては余りしゃべらなかった。
男子の教育については熱心で、二人の兄は上級学校に進学させたが、女子は学校は出なくて良いと考えていたようだ。
佐渡開拓団事件の時は父二郎は既に佐渡に帰った来ていた。
・高橋信吉家から梅川本店に行った人がいるが、その弟が福浦に有った杉山医院の先生だと聞いている。
・二郎の妻はタキで60歳弱で亡くなった。太っ腹で元気のよい人で、その人柄もあって皆から好かれていた。
※高橋保一(やすかず 浜梅津)の談
二郎さんが、学校に来て満州について講演された。激寒で小便が凍ったなどの話を覚えて居る。
(二郎の両親)
・父は高橋専吉で、高橋忠右衛門(農業)の出。農業と漁業を並行して行っていた。家では寺子屋も開設し、学問のある人であった。背が高く、がっちりした体格で、人を頼んで農業漁業を手広く行っていた。寺子屋では読み書きを教えて居た。本間幸二が高校で書道を教えて居たのもその筋が有ったに違いない。
専吉は二郎が佐渡に戻ってから亡くなっているが、専吉が体調を壊したので若くして二郎が帰郷して家を継いだのかも知れない。
・母は和木の石塚権平から嫁いできた。小柄で山仕事、山での採りものが好きだった。
(二郎の子供達)
・長男:信一(大正5年生)
・長女:幼児死亡、次女:幼児死亡、
・次男:幸二(大正10年8月23日生)
・三女:スミ(大正10年1月1日生)
浜梅津の渡辺家に嫁ぐ。渡辺家は両津夷一にあった浜屋旅館と親戚筋である。
※浜屋旅館は長男が医師となり。渡辺医院となったが若くして没。昭和30年代には、妻が同地で雑貨店を営んでいた。その長女信子は両津高校から弘前医大を出て、弘前で夫と共に村上医院を経営した。
・信一は柏崎で出生、幸二とスミは北蒲原郡神林村平林で出生。
・信一は佐渡農学校卒後、加茂農林に入学、卒後教員となる。与板地区の学校にも勤務して居た。
(二郎の兄弟)
長男:高橋清蔵(梅川本店高橋家の下の家、高橋家とは親戚筋と思う)
長女:ヤツ(両津夷の本間郁蔵(「本郁」)に嫁ぐ。河原田高女卒)
次男:二郎
(高橋信一)
・長男:孝夫、昭和18年生、日体大卒後、県内高校教諭。
・次男:英司、昭和21年生、平成30年没。
・長女:芳子、昭和23年生、真野須田家に嫁ぐ。
※信一が与板地区に勤務時代に長男孝夫が腸チフスに感染した。浜梅津の渡辺家に嫁いで居たスミが食事の世話などをした。二郎は昭和21年頃亡くなったが孝夫の腸チフスが移ったとも言われた。
(本間幸二)
・男児のなかった本間郁蔵(本郁)に養子に入る。
・本間郁蔵関係者からも養子に入る。
・結局、男児を得た本間郁蔵家関係者が本間郁蔵家を継ぐ。後継ぎは本間清(昭和22年生)
・幸二の子供は、長女:光子(昭和21年生)、次女:明子(めいこ 昭和23年生)
2019-04-06
2019-04-06
2019-04-04
2019-04-03
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