2019-03-23
庄野潤三 『佐渡』up
スポンサーサイト
2019-03-23
2019-03-22
2019-03-22
2019-03-05
桑原・池田・豊原家等
★平成31年3月 池田源一郎氏からの情報★
我が家は昔からある家ですが途中で途絶えたのですが中興の土屋ブヘイとかいう家の息子と新保の児玉茂助の娘が結婚して池田を名乗りました。
(祖父)
祖父には弟1人と妹3人がいました。弟は同じ新保の勘四郎の婿養子となりその一人息子の嫁は同じ新保の出で(花角)県知事とは イトコになります。勘四郎の私のマタイトコの上の順子は泉の正法寺の谷地田の嫁で、その弟の一仁は早稲田の理工学部から伊藤忠商事に入りその嫁は 佐渡高校の同級生の両津出身です。
下の妹 加奈子は数年前になくなりましたが旦那さんの父親は佐渡の英語の先生で戦前は台湾の中学校の英語の先生をやっていたみたいです。かなこの旦那も確か東京の文京学院って言う高校の英語の教師です。
また祖父の妹の1人は両津の旅館に嫁ぎましたが子供もいなくその旅館 確か兼半とか言う名前です。その下の妹は私の祖母の弟と結婚して泉です 息子は泉で 一番鶏」という居酒屋です。 その下の妹の旦那は両津の人で新保の同志団の最初の竹細工の先生をやっていたみたいです。この妹夫婦にも子供はいません 小菅徹也さんの佐渡竹細工の歴史と言う本の中に祖父の妹夫婦の写真が出ていてびっくりしました。
(祖母)
私の祖母の実家は泉の市橋で 現在 長男は佐渡犬猫病院の市橋敏弘です。祖母のすぐ下の妹がマキで豊原久夫の母親で 豊原久夫の姉の好子が池田正雄と いとこ結婚しました。
この市橋敏弘と大道一仁の二人は今でも私を 一番慕ってくれています。又 豊橋久夫も子供の頃から可愛いがって来れました。
(父方)
ところで我が家は父親の姉の旦那は願の出身で福助や や民宿の大野岩荘は おじさんのいとこです。
父親のすぐ下の妹が桑原ツヤで桑原義泰の嫁です。桑原の叔父は幼い頃 児玉茂助から 子供のいない桑原家に養子に出され
我が家の家の後の桑原のおばあさんは叔父の実姉になります。潟端の甲斐竹夫の嫁は桑原の叔父の姪で児玉茂助の娘です
桑原の叔父の葬式の時に甲斐夫婦が普門寺の私の従姉と親しく話していたので聞いたたら普門寺の檀家だそうです。
父のその下の妹は相川の測候所に勤務していた吉岡虎雄の家に嫁ぎました。吉岡の家は何か佐渡の古い家で昔は刀とかいろいろありました 佐渡にある 吉岡という地名もその関係のようです。残念ながら叔母夫婦の一人息子も若くして死んだので家もなくなりました。吉岡の家には昔の古文書があり 昔 小菅徹也さんも吉岡のおじさんが持っていた古文書が読みたいと言っていました。
その下が池田正雄 池田正雄の妹が三条の竹村と言う医者に嫁ぎました。たまたま叔母は日本女子大を卒業後 金沢高校で臨時の先生をやっていて佐渡病院で研修をやっていた竹村の叔父と知り合ったようです。
ところで叔母の 女子大の頃からの 1番の親友が柏崎のブルボンの先代の奥さんで実家は上原酒造です。.上原家もいろいろと縁があります。 昔私は会社勤務の時のお客様の会社の副社長に上原という男がいて 本人の両親が新潟だと言うので聞いたら父親は上原酒造の次男坊で 偶然にもその副社長は私の高校の1年後輩と言うことがわかり。個人的にも今でも連絡を取り合っています。そんなことで上原酒造の誠一郎さんとも上京した時に何回か会いました
誠一郎さんの弟さんが先日なくなったドナルドキーンさんの養子です。ドナルドキンーンの展示館が柏崎にあるのもまた日本の最初の地ビールの越後ビールの経営がブルボンに移ったのもそう言う経緯があります。
皇太子と雅子さんの結婚式に出された日本酒は上原酒造の酒です。
竹村の叔母の娘の旦那は東北大学の医学部の教授ですが、この叔母の話によると東北大学の歯学部の一人の先生の両親が佐渡の出身だと言っていました。
ところで私の父親は川上の伯父と一緒に私の家のすぐそばで町工場をやっていて、その工場の敷地内に川上の家があり川上夫婦には子供がいなかったので家の二階の八畳の部屋を佐渡の知り合いの子供たちを無料で住まわせていました。
当日住んでいのが桑原義信 と伯父の願の実家の息子2人 そして同じ新保の小菅徹也さんと徹也さんのいとこの長木の伊藤正紀さんです。 ですからこの5人は子供のからよく知っています。そしてその工場に働いていたのが寺沢又一郎さん。寺沢樹さんのおじいさんです。
又一郎さんは今でも小生に年賀状を よこすのですが 竹村の叔母の話によると又一郎さんは 当時 叔母の竹村医院にいた佐渡出身の看護婦さんと結婚したので今でも池田家には恩義を感じているようです。
我が家は昔からある家ですが途中で途絶えたのですが中興の土屋ブヘイとかいう家の息子と新保の児玉茂助の娘が結婚して池田を名乗りました。
(祖父)
祖父には弟1人と妹3人がいました。弟は同じ新保の勘四郎の婿養子となりその一人息子の嫁は同じ新保の出で(花角)県知事とは イトコになります。勘四郎の私のマタイトコの上の順子は泉の正法寺の谷地田の嫁で、その弟の一仁は早稲田の理工学部から伊藤忠商事に入りその嫁は 佐渡高校の同級生の両津出身です。
下の妹 加奈子は数年前になくなりましたが旦那さんの父親は佐渡の英語の先生で戦前は台湾の中学校の英語の先生をやっていたみたいです。かなこの旦那も確か東京の文京学院って言う高校の英語の教師です。
また祖父の妹の1人は両津の旅館に嫁ぎましたが子供もいなくその旅館 確か兼半とか言う名前です。その下の妹は私の祖母の弟と結婚して泉です 息子は泉で 一番鶏」という居酒屋です。 その下の妹の旦那は両津の人で新保の同志団の最初の竹細工の先生をやっていたみたいです。この妹夫婦にも子供はいません 小菅徹也さんの佐渡竹細工の歴史と言う本の中に祖父の妹夫婦の写真が出ていてびっくりしました。
(祖母)
私の祖母の実家は泉の市橋で 現在 長男は佐渡犬猫病院の市橋敏弘です。祖母のすぐ下の妹がマキで豊原久夫の母親で 豊原久夫の姉の好子が池田正雄と いとこ結婚しました。
この市橋敏弘と大道一仁の二人は今でも私を 一番慕ってくれています。又 豊橋久夫も子供の頃から可愛いがって来れました。
(父方)
ところで我が家は父親の姉の旦那は願の出身で福助や や民宿の大野岩荘は おじさんのいとこです。
父親のすぐ下の妹が桑原ツヤで桑原義泰の嫁です。桑原の叔父は幼い頃 児玉茂助から 子供のいない桑原家に養子に出され
我が家の家の後の桑原のおばあさんは叔父の実姉になります。潟端の甲斐竹夫の嫁は桑原の叔父の姪で児玉茂助の娘です
桑原の叔父の葬式の時に甲斐夫婦が普門寺の私の従姉と親しく話していたので聞いたたら普門寺の檀家だそうです。
父のその下の妹は相川の測候所に勤務していた吉岡虎雄の家に嫁ぎました。吉岡の家は何か佐渡の古い家で昔は刀とかいろいろありました 佐渡にある 吉岡という地名もその関係のようです。残念ながら叔母夫婦の一人息子も若くして死んだので家もなくなりました。吉岡の家には昔の古文書があり 昔 小菅徹也さんも吉岡のおじさんが持っていた古文書が読みたいと言っていました。
その下が池田正雄 池田正雄の妹が三条の竹村と言う医者に嫁ぎました。たまたま叔母は日本女子大を卒業後 金沢高校で臨時の先生をやっていて佐渡病院で研修をやっていた竹村の叔父と知り合ったようです。
ところで叔母の 女子大の頃からの 1番の親友が柏崎のブルボンの先代の奥さんで実家は上原酒造です。.上原家もいろいろと縁があります。 昔私は会社勤務の時のお客様の会社の副社長に上原という男がいて 本人の両親が新潟だと言うので聞いたら父親は上原酒造の次男坊で 偶然にもその副社長は私の高校の1年後輩と言うことがわかり。個人的にも今でも連絡を取り合っています。そんなことで上原酒造の誠一郎さんとも上京した時に何回か会いました
誠一郎さんの弟さんが先日なくなったドナルドキーンさんの養子です。ドナルドキンーンの展示館が柏崎にあるのもまた日本の最初の地ビールの越後ビールの経営がブルボンに移ったのもそう言う経緯があります。
皇太子と雅子さんの結婚式に出された日本酒は上原酒造の酒です。
竹村の叔母の娘の旦那は東北大学の医学部の教授ですが、この叔母の話によると東北大学の歯学部の一人の先生の両親が佐渡の出身だと言っていました。
ところで私の父親は川上の伯父と一緒に私の家のすぐそばで町工場をやっていて、その工場の敷地内に川上の家があり川上夫婦には子供がいなかったので家の二階の八畳の部屋を佐渡の知り合いの子供たちを無料で住まわせていました。
当日住んでいのが桑原義信 と伯父の願の実家の息子2人 そして同じ新保の小菅徹也さんと徹也さんのいとこの長木の伊藤正紀さんです。 ですからこの5人は子供のからよく知っています。そしてその工場に働いていたのが寺沢又一郎さん。寺沢樹さんのおじいさんです。
又一郎さんは今でも小生に年賀状を よこすのですが 竹村の叔母の話によると又一郎さんは 当時 叔母の竹村医院にいた佐渡出身の看護婦さんと結婚したので今でも池田家には恩義を感じているようです。
Powered by FC2 Blog
Copyright © 佐渡人名録 All Rights Reserved.