2017-10-29
◆両津の昔を記す ┣・学び舎・先生 up
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2017-10-28
2017-10-27
2017-10-20
2017-10-20
■すたれた方言・言葉
(昭和20年代~昭和40年頃までは普通に使われていたが、その後殆ど使われないもの)
方言「加茂村誌」(昭和38年)
➡◆参考資料
・『佐渡方言辞典』(廣田貞吉 昭和49年)
・『佐渡方言集』(著者:矢田求編著 出版者:佐渡新聞社出版部 出版年月日:1909)
(あ行)あくと:かかと
・あたま汁:スケトウ頭にちょっと大根やネギ程度を入れた味噌汁。お椀には頭一つが入り、それを吸ったり、こびりついた肉片などを食べる。何とも言えなくおいしかった。
・あつごい:厚いこと
・あんにゃん:成人女性のこと。片野尾地区ではよく使って居た。
・いけえ:いっぱい・たくさん
・いしゃ:あなた、お前のこと。昭和30年代には普通に使われた。やや目下の人に対して使った気がする。
・いたまかす:道具や品物等を傷つけたりして痛めること。
・いーちゃんげーな:その人らしくない、恰好を付けたような。相手の態度や言葉を冷やかす言葉。
・えめぞ:どぶ・側溝
・おけけ:おかゆのこと。おけーっ、とも言った。
・おしたじ:味噌汁
・おぼえる:びっくりする
・お前:水津、片野尾辺りで使う言葉で、普通の用法とは違い、「あなた」とか「あなたさま」と言う意味で、同等や目上にも使った。 古い本来の用法が残っているのではないのか。
※渡辺注:「大辞林」によると、「代名詞」の「お前」は①同等又はそれ以下の相手 ②相手を敬って言う語 と二つの用法が出ている。
・おもしい:面白い
(か行)
・かかやん:おかあさん。どっちかと言えば、よそのお母さんを言う時の言葉。
・ガメ:①ガキと同様に子供のこと。②頭部の皮膚病の一種。
・カンカンとガンガン:金属製の缶詰くらいの小さな缶はカンカン、炊き火などの使う大きくて頑丈な缶はガンガンと言った。
叩いた時の音から来ているのだろう。
・くらつける:なぐる、ひっぱたく。
・蔵の戸が開いてる:男子ズボンの前のファスナーが開いていること。全国的には「社会の窓が開いてる」ともい言う。
・げーら:「~げーら」と使い、「~の様だとの意」。酒飲んで暴れた友を「A君げーら」などと言う。「~気」から来ているのだろう。
・けーろ:「けーろで待っとれ」などと使われ、「街道で待つ」即ち玄関や入り口で待つの意らしい。昭和30年代に年配者が使っていた。(真野合沢 志和さん談)
・ごとばな(ごと鼻):黄色がかった、青みがかった粘着質の鼻汁のこと。戦後の栄養不足が原因か。
(さ行)
・さがねる:探し回る
・しゃつける:はたくこと。
・しゃなる:叫ぶ
・しょうしねえ:恥ずかしい。小心から来ているのだろう。
・じょうだ:「~ならじょうだ」などと使い、「~なら上出来だ」の意味。
・しょうや(庄屋):金持ちの家。
・しらくも:皮膚病の一種で疥癬のことか。
・すなぶる:例えば汁のついたスケトウ(魚)の頭などを吸ってうまい汁を飲むこと。吸う、しゃぶる。津軽語辞典に出る言葉。
(た行)
・だちゃかん:だちかん、らちかんとも言う。駄目であること。「そんなことしちゃだちゃかん」などと使う。元々は「埒(らち)が明(あ)かない」で「埒」は「馬場の周囲にもうけた柵」である。そこから、「物事の決着がつかない」となった。
※両津高校の名物教師で版画村美術館創設者でもある高橋信一先生は、生徒の絵を誉める時の「この絵はうまくてだちかん」とよく言っていた。この場合は、「上手いを強調する」言い方であった。私達にも意味はよくわかった。・
・たっこむ:へっこむの反意語で、すこし高くなる、盛り上がること。へっこむ はへこむ とほぼ同意。皮膚などが押されて少し陥没するような時に使う。反対は たっこむ で少し高くなる、盛り上がる時に使う。
・たなげつ:標準語では棚尻(たなしり)で、「でっちり」(でっ尻)のこと。赤泊地区で現在(平成29年)でも高齢者が使うという。
・ちみぎる:「つねる」ことだが、小さな一部をつねる言葉で、ひどく痛く、血が出そうになるほど痛い。
・ちゃんちゃん:女性性器のこと。
・ちんぽじじ::魚の内臓で男性器の形をした部分。煮物にして食べる。
・どおい:なんと、とっても どおいおもしいっちゃあ、などと使う。
・どっさ:へえそうかい、しかし・・・なるほど、よくそんなこと平気で言うなあ・・みたいなニュアンスの言葉。そんな語感。どうもニュアンスがうまく表現できないが。
・ドリヤン:クラスや学校内の美少女のこと。果物のドリアンが高価であったことから来てるのだろう。
(な行)
・ナンバタ:私の子供の頃、少なくとも昭和30年代まではナンバタという言葉があった。「ならず者」「暴れん坊」「無法者」の意味である。「あそこの家のアンちゃんはナンバタだから」などと使った。『佐渡の百年』(昭和47年刊 山本修之助著)には次のように載る。「明治になっても、相川鉱山を逃げ出し、国仲の村などで乱暴する鉱夫があった。彼らは〝ナンバタ″といわれ、人びとに恐れられていた。〝ナンバタ〟は初めの鉱夫頭が、長野県の南畑からきた人であったところからつけられたといわれている。」
・ねぎもん:寝着物の意味。
・ねじ回し:ドライバーのこと
・ねぶち:内出血があったのか、腕や足の一部が膨らんだ。「タコの吸出し」と『いう薬品で毒素を吸い出した。
・ねまる:すわるとこ。平成19年時点でも、年配者が時々使う。
・ねめる:トイレで大便を出す時などに腹部に力を入れること。「息(いき)む」と同意。本来は、①にらむ②憎むなどの意味。
・のし:一人称の第三者。彼。「のしは最近元気だかや?」
(は行)
・八十:でー馬鹿八十:母の故郷、片野尾地区ではよく使って居た。能力が普通である百に足らない人との意味だろう。
・ひつけもつけ:相手にしない。無視される。あの人は一生懸命頑張ってくれたのに、今では家の人にひつけもつけにされてる、などと使う。
・ひっちゃく:紙などを引っ張って破くこと。
・ぶす色:北海道弁として知られる。内出血した皮膚の色のこと。漢字は附子(府子)と書き、これはトリカブトの根(から抽出されるアルカロイド)を指す。佐渡では「ぶす色」、長野県では「ぶすど色」。
「北海道方言辞書」
ぶしいろ△【附子色・付子色】[名] =ぶすいろ
ぶすいろ△【附子色・付子色】[名] 打撲などにより皮下に内出血したときに見られる青い痣あざの色。濃い青紫色。附子ぶす(トリカブト)の花の色。〈全〉
・ぶすこく:ブスッとする。不機嫌な態度をとる。あの人ってすぐにぶすこく、などと使う。
・古しい:古いこと。新穂の土屋武氏(t15年生)によると、物だけでなく人間にも使ったとのこと。私は物に使われたのは覚えているが、人間に使ったのを聞いたことはない。
・へっこむ:へこむ と同意。皮膚などが押されて少し陥没するような時に使う。反対は たっこむ で少し高くなる、盛り上がる時に使う。
・べっさらづく:おだてる、お世辞を言う
・べと:泥のこと。
・べべやる:セックスすること。子供たちが大人の性行為をそのように言った。大人が使ったかどうか不明。
・べりこく:おだてる、お世辞を言う.。
・ほじくる:何かに穴をあけて、中身をとり出すこと。標準語の一つであり佐渡弁ではない。佐渡でも最近はあまり使わない。
・ほすべ:早くすること。語源は「帆が滑る」から来てるようだ。両津の湊地区独特の言葉かもしれない。昭和26年生まれ、杉山龍子さんから聞く。
・ほていて:騒いで
(ま行)
・まま:ごはん。
・まめ:1.元気なこと。2.小さなこと。
・みんみん:(南部で)それぞれに。民民、皆皆か。
・むっさんこ:無謀なほどにすごいこと。あの人はむっさんこに強い。むっさんこに食べる、などと使う。
(や行)
・山やれ山やれ:もっとテキパキやれ、の意。芸山車(げいやま)を囃す掛け声から来ているようだ。芸山車は主に水主衆(かこしゅう)が担った。昭和27年湊生まれの杉山龍子さんから聞く。
・やんべえ・jやんべん:しっかりと、確実に の意。やんべん数を数えんとだめだぞ、などと使う
・よげ:悪さをする、行いが悪いこと。「あの子はよげだ」などと使う。
・よて:「得手(えて)」、即ち得意のこと。よてでねえ、は得意でない、即ち不得意、嫌いのこと。
・よんろこねえ:恥ずかしいの意。「より所ない」から来ているのだろう。
(ら行)
・~らすけ:~だから
・ろくなかし:ろくすっぽ
(昭和20年代~昭和40年頃までは普通に使われていたが、その後殆ど使われないもの)
方言「加茂村誌」(昭和38年)
➡◆参考資料
・『佐渡方言辞典』(廣田貞吉 昭和49年)
・『佐渡方言集』(著者:矢田求編著 出版者:佐渡新聞社出版部 出版年月日:1909)
(あ行)あくと:かかと
・あたま汁:スケトウ頭にちょっと大根やネギ程度を入れた味噌汁。お椀には頭一つが入り、それを吸ったり、こびりついた肉片などを食べる。何とも言えなくおいしかった。
・あつごい:厚いこと
・あんにゃん:成人女性のこと。片野尾地区ではよく使って居た。
・いけえ:いっぱい・たくさん
・いしゃ:あなた、お前のこと。昭和30年代には普通に使われた。やや目下の人に対して使った気がする。
・いたまかす:道具や品物等を傷つけたりして痛めること。
・いーちゃんげーな:その人らしくない、恰好を付けたような。相手の態度や言葉を冷やかす言葉。
・えめぞ:どぶ・側溝
・おけけ:おかゆのこと。おけーっ、とも言った。
・おしたじ:味噌汁
・おぼえる:びっくりする
・お前:水津、片野尾辺りで使う言葉で、普通の用法とは違い、「あなた」とか「あなたさま」と言う意味で、同等や目上にも使った。 古い本来の用法が残っているのではないのか。
※渡辺注:「大辞林」によると、「代名詞」の「お前」は①同等又はそれ以下の相手 ②相手を敬って言う語 と二つの用法が出ている。
・おもしい:面白い
(か行)
・かかやん:おかあさん。どっちかと言えば、よそのお母さんを言う時の言葉。
・ガメ:①ガキと同様に子供のこと。②頭部の皮膚病の一種。
・カンカンとガンガン:金属製の缶詰くらいの小さな缶はカンカン、炊き火などの使う大きくて頑丈な缶はガンガンと言った。
叩いた時の音から来ているのだろう。
・くらつける:なぐる、ひっぱたく。
・蔵の戸が開いてる:男子ズボンの前のファスナーが開いていること。全国的には「社会の窓が開いてる」ともい言う。
・げーら:「~げーら」と使い、「~の様だとの意」。酒飲んで暴れた友を「A君げーら」などと言う。「~気」から来ているのだろう。
・けーろ:「けーろで待っとれ」などと使われ、「街道で待つ」即ち玄関や入り口で待つの意らしい。昭和30年代に年配者が使っていた。(真野合沢 志和さん談)
・ごとばな(ごと鼻):黄色がかった、青みがかった粘着質の鼻汁のこと。戦後の栄養不足が原因か。
(さ行)
・さがねる:探し回る
・しゃつける:はたくこと。
・しゃなる:叫ぶ
・しょうしねえ:恥ずかしい。小心から来ているのだろう。
・じょうだ:「~ならじょうだ」などと使い、「~なら上出来だ」の意味。
・しょうや(庄屋):金持ちの家。
・しらくも:皮膚病の一種で疥癬のことか。
・すなぶる:例えば汁のついたスケトウ(魚)の頭などを吸ってうまい汁を飲むこと。吸う、しゃぶる。津軽語辞典に出る言葉。
(た行)
・だちゃかん:だちかん、らちかんとも言う。駄目であること。「そんなことしちゃだちゃかん」などと使う。元々は「埒(らち)が明(あ)かない」で「埒」は「馬場の周囲にもうけた柵」である。そこから、「物事の決着がつかない」となった。
※両津高校の名物教師で版画村美術館創設者でもある高橋信一先生は、生徒の絵を誉める時の「この絵はうまくてだちかん」とよく言っていた。この場合は、「上手いを強調する」言い方であった。私達にも意味はよくわかった。・
・たっこむ:へっこむの反意語で、すこし高くなる、盛り上がること。へっこむ はへこむ とほぼ同意。皮膚などが押されて少し陥没するような時に使う。反対は たっこむ で少し高くなる、盛り上がる時に使う。
・たなげつ:標準語では棚尻(たなしり)で、「でっちり」(でっ尻)のこと。赤泊地区で現在(平成29年)でも高齢者が使うという。
・ちみぎる:「つねる」ことだが、小さな一部をつねる言葉で、ひどく痛く、血が出そうになるほど痛い。
・ちゃんちゃん:女性性器のこと。
・ちんぽじじ::魚の内臓で男性器の形をした部分。煮物にして食べる。
・どおい:なんと、とっても どおいおもしいっちゃあ、などと使う。
・どっさ:へえそうかい、しかし・・・なるほど、よくそんなこと平気で言うなあ・・みたいなニュアンスの言葉。そんな語感。どうもニュアンスがうまく表現できないが。
・ドリヤン:クラスや学校内の美少女のこと。果物のドリアンが高価であったことから来てるのだろう。
(な行)
・ナンバタ:私の子供の頃、少なくとも昭和30年代まではナンバタという言葉があった。「ならず者」「暴れん坊」「無法者」の意味である。「あそこの家のアンちゃんはナンバタだから」などと使った。『佐渡の百年』(昭和47年刊 山本修之助著)には次のように載る。「明治になっても、相川鉱山を逃げ出し、国仲の村などで乱暴する鉱夫があった。彼らは〝ナンバタ″といわれ、人びとに恐れられていた。〝ナンバタ〟は初めの鉱夫頭が、長野県の南畑からきた人であったところからつけられたといわれている。」
・ねぎもん:寝着物の意味。
・ねじ回し:ドライバーのこと
・ねぶち:内出血があったのか、腕や足の一部が膨らんだ。「タコの吸出し」と『いう薬品で毒素を吸い出した。
・ねまる:すわるとこ。平成19年時点でも、年配者が時々使う。
・ねめる:トイレで大便を出す時などに腹部に力を入れること。「息(いき)む」と同意。本来は、①にらむ②憎むなどの意味。
・のし:一人称の第三者。彼。「のしは最近元気だかや?」
(は行)
・八十:でー馬鹿八十:母の故郷、片野尾地区ではよく使って居た。能力が普通である百に足らない人との意味だろう。
・ひつけもつけ:相手にしない。無視される。あの人は一生懸命頑張ってくれたのに、今では家の人にひつけもつけにされてる、などと使う。
・ひっちゃく:紙などを引っ張って破くこと。
・ぶす色:北海道弁として知られる。内出血した皮膚の色のこと。漢字は附子(府子)と書き、これはトリカブトの根(から抽出されるアルカロイド)を指す。佐渡では「ぶす色」、長野県では「ぶすど色」。
「北海道方言辞書」
ぶしいろ△【附子色・付子色】[名] =ぶすいろ
ぶすいろ△【附子色・付子色】[名] 打撲などにより皮下に内出血したときに見られる青い痣あざの色。濃い青紫色。附子ぶす(トリカブト)の花の色。〈全〉
・ぶすこく:ブスッとする。不機嫌な態度をとる。あの人ってすぐにぶすこく、などと使う。
・古しい:古いこと。新穂の土屋武氏(t15年生)によると、物だけでなく人間にも使ったとのこと。私は物に使われたのは覚えているが、人間に使ったのを聞いたことはない。
・へっこむ:へこむ と同意。皮膚などが押されて少し陥没するような時に使う。反対は たっこむ で少し高くなる、盛り上がる時に使う。
・べっさらづく:おだてる、お世辞を言う
・べと:泥のこと。
・べべやる:セックスすること。子供たちが大人の性行為をそのように言った。大人が使ったかどうか不明。
・べりこく:おだてる、お世辞を言う.。
・ほじくる:何かに穴をあけて、中身をとり出すこと。標準語の一つであり佐渡弁ではない。佐渡でも最近はあまり使わない。
・ほすべ:早くすること。語源は「帆が滑る」から来てるようだ。両津の湊地区独特の言葉かもしれない。昭和26年生まれ、杉山龍子さんから聞く。
・ほていて:騒いで
(ま行)
・まま:ごはん。
・まめ:1.元気なこと。2.小さなこと。
・みんみん:(南部で)それぞれに。民民、皆皆か。
・むっさんこ:無謀なほどにすごいこと。あの人はむっさんこに強い。むっさんこに食べる、などと使う。
(や行)
・山やれ山やれ:もっとテキパキやれ、の意。芸山車(げいやま)を囃す掛け声から来ているようだ。芸山車は主に水主衆(かこしゅう)が担った。昭和27年湊生まれの杉山龍子さんから聞く。
・やんべえ・jやんべん:しっかりと、確実に の意。やんべん数を数えんとだめだぞ、などと使う
・よげ:悪さをする、行いが悪いこと。「あの子はよげだ」などと使う。
・よて:「得手(えて)」、即ち得意のこと。よてでねえ、は得意でない、即ち不得意、嫌いのこと。
・よんろこねえ:恥ずかしいの意。「より所ない」から来ているのだろう。
(ら行)
・~らすけ:~だから
・ろくなかし:ろくすっぽ
2017-10-16
2017-10-05
2017-10-05
鵜飼郁次郎


『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)



鵜飼郁次郎年譜(2015 年・鵜飼重行氏作成)
(西暦 年号 年齢)
・1855 安政2 年7 月21 日、真野村大字竹田羽生甚左衛門の三男として生まれる。2 兄、1 姉、1 妹あり。長兄、長姉早逝し、竹田家は次男英三氏が継ぐ。 幼年期は郁蔵と呼ばれ、同村医師森玄達に付き、漢書素読を学ぶ 父甚左衛門は俳諧に親しみ、京・江戸に学び、「荒海集」なる句集一巻 を遺している。 また、書を巻菱湖(明治7 年没)に学ぶ。母タマは畑野村吉田源四郎の長女、温厚篤実の人(明治36 年没)。妹ヒサは文芸評論家青野季吉(昭和46 年没)の母。
・1867 慶応3 年12 歳相川奉行所による修教館にて圓山溟北の門下生となり、和漢の学を塾
頭まで修める。
・1872 明治5年17歳同修教館を去る。
・1875 明治8年20歳4月、選抜により官立新潟師範学校に入学。
・1876 明治9年21歳12月、同学校を卒業。学術振興の運びにあった東京府学務より六師範学校に人材輩出の要請
あり。これに選出され、翌10年1月より東京府学務課傭となり、府立師範学校に入り、学制その他の改良方法の調査、議定に従事。その後、
同校の六等教師として普通学取調を担任、霊岸島小学校の校長を兼務。また、在京中は成島柳北、島地黙雷等に付き、文学、仏教学を研修する。
・1879 明治12年24歳12月、母親の命により帰郷。圓山溟北塾に再度入門。愛郷論を著す。
・1880 明治13年25歳11月、全国に国会開設の世論高まるにあたり、同志と図り国会開設哀願書を元老院太政大臣三條実美宛に提出するも却下され受け付けられ
ず。各府県の同志と図り国会開設期成同盟を組織し会員となる。
・1881 明治14年26歳10月、相川中学校三等教諭となる。
・1882 明治15年27歳同校を依願退職し上京。
・1883 明治16年28歳3月、郡立佐渡中学校の教諭に任じられる。
9月、加茂郡河崎村原黒鵜飼家に後夫として入婿。
・1884 明治17年29歳7月、郡立佐渡中学校を依願退職。
・1885 明治18年30歳1月、新潟県加茂郡県会議員に立候補、当選。教育軽佻の世情に対し教育振興に力を注ぐ。
島内中央線(本線)道路開鑿の具体化実施。これに伴い各町村の利便性を考慮し、郡役所を相川から河原田(現佐和田)に移転せんと県会
の同意を得、内務大臣に建議。しかしこのために相川青年壮士より暗殺状を受ける(明治21 年12 月)。
・1889 明治22年34歳越佐同盟会(自由党系)に入会。
・1890 明治23年35歳7月、初回衆議院議員に立候補。改進党益田克徳を破り当選(投票数445 票中257 票獲得)。
明治15 年以来毎年請願の全国離島海底電線敷設を内務大臣に建議。
・1891 明治24年36歳越佐海底電線敷設運動が漸く実り、承認、敷設となる。尚、承認されたのは佐渡のみ(他の離党は承認されず)。また、相川一局のみの原承
認に対し、夷・小木分局の増設を建議し承認を得る。海底電線敷設は明治24 年10 月に完成。
8月、立憲自由党(板垣退助党首)に入党。この年、兵役税法案を建議、陸海軍の賛同を得しも、発布に至らず。
・1892 明治25年37歳1月、雑誌『回天』を発刊し、政府の現行外交条約の改正を迫る(明治25年1月7日初刊)。
2 月、第二期衆議院議員に再選される。立憲自由党を脱退し、国権派を組織。当時国権主義の推進を前田案山子、武井綾夫と共に政府の現行
外交条約廃棄を建議。
・1893 明治26年38歳議会に豪州、欧州の二大航路拡張建議の修正建議を提出。
・1894 明治27年39歳曹洞宗紛糾(総持寺対永平寺)に関する国会演説、調停。
・1895 明治28 年40 歳第三期総選挙に立候補するも自由党、改進党連合推薦の松本八十八に敗れる(287票対193 票)。
7月、再度の総選挙に国権派の先輩後藤某を候補に推し当選せしめる。
日清戦争起こり、広島で召集された議会で後藤某を補翼。この頃より敵党の図るところとなり、選挙法違反で訴えられる。同派
中山小太郎が被告として幽閉される。
・1897 明治30年42歳相川区裁判事用某犯罪の嫌疑をもって予備審に付され、3月偽証罪で拘留され体罰等を受ける。
6月、釈放。健康を害す(この年、重雄仙台中学入学)。
・1898 明治31 年43 歳改進党、革新党、新国権党の三党が合体し進歩党となる。
・1899 明治32 年44 歳憲政党ができる。この頃より、政界にて活動する意思が減退、佐渡郷士史料の蒐集、奇
書珍書の蒐集、或いは古銭の蒐集に傾倒。自らを萬花楼と号す。
・1900 明治33年45歳この頃より、肋膜肺炎を患い、新潟病院にて治療。
・1901 明治34年46歳7月、新潟病院試験するも薬石効なし。
9月27日、午前5 時逝去。
※尚、夫人なおも東京浜田婦人科病院にて入院加療中であったが、夫に先立つこと2 週間前の9 月14 日逝去。

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
安政二(一八五五)年七月二一日、合沢(大字竹田)羽生甚左衛門(通称ヤチ)の三男として生まれた。父は郭と谷守(たにもり)と号し、俳人であった。のち(明治一六年)、両津市原黒の鵜飼家(通称源助)の養子となった。
郁次郎は円山溟北の門下生として学び、やがて塾頭となった。明治九年新潟師範学校を卒業し、しばらく東京で教員をしていた。
明治一三年一一月一〇日、束京西紺屋町の愛国社で第二回国会期成同盟の大会が開かれた時、佐渡の有志二九〇人の総代として出席したのが青年羽生郁次郎であった。この当時の郁次郎の行動を中心にその人となりをみることにしょう。この会議は、太政官第一二号の集会条例を守って、当局の認可を得て開会するか、それとも懇談会の名義で秘密裏に会合するかが問題になった。議論の末秘密裏に会合を開き、議事がほぼ終了してから正式に届け出、認可されれば再び会議を続行することにし、たとえ禁止されてもさしつかえないということに決定した。しかしこの会議は当局の認可が得られず、とうとう懇談会のままで終了したということである。
請願書提出については二派にわかれた。今より一層団結を強くして明年(明治一四年)一〇月にしようというものと、この会議に出席した総代一同が連署して直ちに請願すべきだというものであった。
郁次郎は後者に同意したが賛成者が少なく否決された。彼は早速「国会開設哀願書」というものを起草し、萩野由之(相川町出身、のちの東大教授、文学博士)に浄書させて、直接天皇陛下に訴えることにした。明治一二年一一月二四日午前一〇時、郁次郎はこの「国会開設哀願書」をふところにして、そのころ赤坂離宮にあった太政官の門前にあらわれた。衛兵が乾(いぬい)門へまわれというのでそこへ行って名刺を出し、哀願書を取り出し太政大臣に面会したいと申し出た。さらに内閣の判任官控室へまわされ、ここで内閣書記官局諸属官山田秀俊が出てきて、「大臣は多忙で面会できない。この哀願書は元老院へ提出せよ」とのことであった。郁次郎は「国家にとって重大なことであるから、是非大臣に面会させてほしい」と迫ったがかなえられず、「それでは明日も明後日もまいります。
私ほ佐渡が島からほるばる上京した者です。この上は幾百日でもまいります」と熱意のこもった言葉をなげかけて門を出た。そして翌二五日も出頭し、前日と同じ押問答をくり返したが、今度ほ哀願書を書記官局で預ってくれた。一二月四日、三たび出頭したが係官は「哀願書は大臣のお目にかけたが、立法に関することは元老院へ建白せよ」と却下してしまった。
一二月九日には、全国一三県二五人の総代が太政官乾門付近の茶店に集合して大臣に面会を求めたが拒絶された。その後三人の代表が交渉したが、ついに面会はできなかった。そして間もなく太政官布告第五三号が発令されて、今後人民の上申書はすべて元老院へ建白することになり、この運動は暗礁にのりあげたかにみえたが、翌一四年一〇月一二日、「来る明治二三年を期して国会を召集する」という詔勅が発布された。こうして郁次郎らの運動が実ったのである。
明治二三(一八九〇)年七月一日、第一回の衆議院の選挙が行われた。もちろん鵜飼郁次郎(自由党)も立候補し、改進党の益田克徳を破って当選した。そして同二五年にも再選された。
郁次郎は政治家として、明治十八年に県会議員にもなっており、佐渡の県道の最初である両津市夷から河原田町間の開通に力をつくした。また新潟・佐渡間の海電線架設にも彼の力があった。
晩年は一三、〇〇〇冊余の蔵書の中に埋もれて暮し、明治三四年九月二七日、四七才の若さで急逝した。(昭和五年山本悌二郎の撰文で、原黒地内の加茂湖畔に記念碑が建立された。)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政二年生 羽生郁次郎の記事はここに加えている
明治村原黒 ・明1、佐渡に於ける政党[十三年四月]・明1、國会期成同盟と羽生郁次郎[十三年十一月]・明1、羽生郁次郎の国会開設哀願書奉呈始末[十三年十一月十日]・明2、電線架設の建議[十七年五月]・明2、第四回の選挙[十八年六月]・明2、第五回選挙[十九年五月]・明2、第六回選挙[二十一年一月]・明2、監獄実地調査[二十一年六月]・明2、後藤の大同団結[二十一年六月]・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]・明2、越佐同盟会の郡内遊説[二十二年四月]・明2、綾井武夫等の政治演説会[二十二年七、八月]・明2、越佐に於ける条約改正中止の建白[二十二年七月二十日]・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明2、新潟縣会に於ける佐渡官衙移転の決議[二十三年]・明2、第七回選挙[二十三年三月] ・明2、海底電線[二十三年四月]・明2、相川の米騒動[二十三年六月二十九日]・明2、第一回衆議院議員選挙[二十三年七月一日]・明2、大同派の当選祝賀会[二十三年九月一日]・明2、鵜飼郁次郎同志者を招待す[二十三年十月十日]・明2、海底電線架設の建言[二十三年十二月一日]・明3、第二回衆議院議員選挙[二十五年二月十五日]・明3、山際七司 東京の客舎に没した[二十四年六月九日]・明3、鵜飼郁次郎の議会報告[二十四年六月十五日]・明3、越佐同盟会の去就[二十四年六月二十六日]・明3、鵜飼郁次郎等旧友と袂を断つ[二十四年十一月四日]・明3、在京学徒鵜飼を訪問す[二十五年一月二十三日]・明3、鵜飼の送別会[二十五年三月十九日]・明3、鵜飼の報告演説会[二十五年七月十三日]・明3、鵜飼の慰労会[二十五年八月二十日]・明3、鵜飼の報告演説会[二十六年三月二十四日]・明3、大日本協会新潟支部の組織と解散[二十六年十月二十八日]・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]・明3、遼東半島還附と越佐会の創立[二十八年四月一日]・明3、佐渡憲政党の発会式[三十一年七月二十四日]・明3、佐渡憲政党の分離[三十一年十二月二十六日]・明3、第十三回選挙[三十二年九月十三日]・明3、大選挙区に於いて佐渡進歩派の会合[三十三年四月八日]・明4、高橋、鵜飼を伴い新潟に渡航せんとす[三十三年十二月一日]・明4、鵜飼郁次郎の逝去[三十四年九月二十七日]・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・明4、山本悌二郎、政界乗り出しの経路[三十五年四月]・明4、第七回衆議院選挙[三十五年八月十日]・明4、鵜飼元代議士の追悼会[三十五年十月二十七日]・明4、伊達喜太郎の病死[四十二年]・大1、青木永太郎等同志会を脱党す[四年九月]・昭4、山本悌二郎 薨去[十二年十二月十四日] 「佐渡関係事典に載る」
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡真野町に生まれ、両津市河崎の鵜飼家を継いだ。青年時代国会開設運動に加わり、請願書をもって太政官に面接を強要して、官憲に迫害された。明治二十三年国会開設となり、七月一日第一回衆議院議員に当選した。二十五年二月十五日の第二回選挙にも当選した。佐渡中央本線と中山トンネルの開通に努力し、三十三年開通の海底電線敷設にも功績が大きかった。円山溟北に学び、私財を出して中学校を設け、自ら史学を教えた。山本悌二郎を世に送った陰の恩人といわれる。その蔵書一万余冊は「鵜飼文庫」として残っている。明治三十四年九月二十七日に四十七才でなくなった。(越佐人物風土記、佐渡人名辞書)
青野季吉「佐渡人」より
故鵜飼郁次郎(号竹田)は、青年の頃、国会開設の請願書を懐にして、太政官を訪れ、大臣に面接を強請したやうな情熱的な人物で、明治廿三年、帝国議会の開設と共に、佐渡最初の代議士に選ばれ、同二十六年の第六議会まで就職してゐた。この鵜飼竹田は、少年の私には、目の鋭くて大きな、ただ旋風のやうに私の生家へ突然やつて来る、こはい伯父としか印象しなかつたが、こんど岩木拡氏の詳伝をよんだり、鴨湖畔の小丘にある記念碑のまはりを低徊したり「鵜飼文庫」の土蔵に身を置いたりして、故人の四十七年の長からぬ一生を考へて見ると、明治の黎明期の人物にふさはしい気魂と、多才と、情熱を具へた人物として、あらたに見直されもし、懐しさも湧いた。同じ国権派の同志中山小四郎を東京監獄に訪ね、ひと目その顔を見ると、㱆欷流涕して一語も発し得なかつたと云ふ逸話など、情熱的な鵜飼の性格が、目に見えるやうだが、彼自身また同志をかばつて偽証したと云ふ罪で、幽囚の身となつた。晩年は、禅の信仰と「鵜飼文庫Lに残つてゐる壱万余冊の書籍の蒐集と読破に精進したが、ここに私は、精神の或る飢餓を満たさうとする新たな情熱に憑かれた鵜飼を、感じないではをれない。少年の頃、私たち兄弟の勉強部屋に、原稿紙一枚にかいた鵜飼の遺文が掲げられてあつた。これは多くの子供を残して早死にした薄倖な妹ー私たちの母を想ひ、遺児を憐んだ一文で、慟哭の声が行間にあふれてゐた。この鵜飼があつて、はじめて「議政壇上冷如水 利劔斫空有声」と渡辺国武の讃した鵜飼があつたのだと思ふ。
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
「佐渡の国会議員第一号」(「佐渡の百年」)
「城が丘の「ペンの碑」」(「佐渡の百年」)
※郁次郎の妹は沢根青野屋に嫁ぎ、青野季吉を生んだ。若くして亡くなる。
鵜飼家の歴史(佐渡国加茂郡原黒村鵜飼家文書目録(その1 ))より
鵜飼家の系図は、参考資料として鵜飼重行氏作成の図を後掲した。各代については、本集では確定できていないため、鵜飼重行氏と各資料を突き合わせて精査した上、次集でとりまとめることとする。 鵜飼家当主は、源助を名乗り、屋号を酒田屋と称した。村役は、名主、組頭、百姓代を勤めている。 在住の村は、加茂郡(かもぐん)原黒(はらくろ)村である。北西はわずかに湊(みなと)町に続き、北は両津湾、西は加茂湖、南は潟上(かたがみ)村下組(しもぐみ)、東は住吉(すみよし)村と接する。享保4 年(1719)まで城腰(じょうのこし)村のうちで、原黒組とも称し、原黒村となる。 支配は、佐渡奉行支配下である幕府領。宝暦年間の村高は435 石余、田が9 町余りで畑が23 町である。この当時の名請人は61 名である。
地名の変遷は、原黒村というのは明治22 年(1889)まで継承され、明治村となり、同34 年(1901)から河崎村、さらに昭和29 年(1954)には両津市、平成16 年(2004)3 月1 日をもって、佐渡の一島全体が佐渡市となった。 鵜飼家にとって特筆すべき人物は、郁次郎である。鵜飼玲吉は、明治16 年(1883)にわずか21 歳で亡くなる。同年9 月に、雑太郡竹田村(現、真野)に生まれた羽生(はにゅう)郁次郎が、羽生家から、後夫として鵜飼家に入ることになった。鵜飼郁次郎は、安政2 年(1855)に佐渡に生まれ、鵜飼家には28 歳時に入った。私塾で和漢の学を学んだ後、新潟師範学校に入学し、教員となり、30 歳の時に県会議員、35 歳で第一期衆議院議員(自由党系)に当選した。40 歳過ぎまで政治活動に専念し、その後健康を害し、明治34 年(1901)、46歳で没する。晩年「萬花楼」と号して、奇書珍籍や郷土資料の収集につとめた。後掲の「鵜飼郁次郎年譜」を参照されたい。
・鵜飼郁次郎と妻の間には二人の女子が居り、一人は湊郵便局長の清田家(湊二)に、もう一人は後山の伊東照蔵に嫁いだ。
伊東照蔵は加茂村出身の代議士市橋藤蔵家を継いだが、伊東夫妻として市橋家を継いだのか、市橋家を継いだ照蔵の所に鵜飼家から嫁いだのかは不明である。
2017-10-03
『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一)
『北一輝を育てた文化的遺伝子』
(講演録 松本健一 『佐渡郷土文化 116号』2008年(平成20年))
二○○七年は北一輝没後七○周年。命日の八月一九日には、両津湊の八幡若宮社において慰霊祭が行われました。
その記念講演で、佐渡にも足繁く通って調査された、北一輝研究では第一人者の松本健一氏よりこ輝の思想と両津湊町」と題して、お話いただいたことをまとめたものです。
「初めて佐渡を訪ねた頃」
佐渡、特に湊、夷という風土が北一輝の精神と思想をどう育んだのかについて話してみたいと思います。私が初めて佐渡へ来たのは四○年前で、この地域の風土はそんなに変わっていませんが、佐渡の風景はずいぶん変わりました。
かつて佐渡汽船の港から下船したところに税関があり、昔は奉行所の役人が勤めていた出張所がありました。明治三三年(渡辺注:32年)に来島した尾崎紅葉は、その税関の側に生えていた大きな松の木を、「村雨の松」と呼び、その松が出迎えてくれたと書いています。
四○年前にはその松がありましたが、今でもあります。私が最初にこの街を歩いたときは学生服でした。郷士史家の山本修之助さんにお会いして明治の話をお聞きしましたが、「松本さん、明治の佐渡のことを、僕よりもよく知っている」と言われました。
それは『佐渡新聞』や『佐渡毎日新聞』を隅々まで読んでいたからです。その頃の新聞は、誰と誰が逢い引きしたとか、北一輝は新潟の眼科医院の看護婦さんとできていたとか、そういうゴシップもたくさん載っていました。
江戸時代は、若宮通りはまだ湖の中でした。明治時代に斎藤八郎兵衛が干拓をして夷と湊の街を広げました。両津を大きくしたという功績はありますが、斎藤さんは北一輝からはかなり批判されています。改進党系の政治家ですから、権力を持っている。
北一輝は権力者に対して痛烈な批判を浴びせるのがうまい人であります。しかし、一輝の父親も初代の両津町長で、ちょうど斎藤さんと同年代、お父さんは板垣退助の自由党系、斎藤さんは大隈重信の立憲改進党に属していましたから、対立する要素もあったようです。
ずいぶん昔のことのようですが、北一輝のことを語ると、過去が現在にそのままよみがえってきます。
「北一輝と富田朝彦-北海道と佐渡との縁」
昨年、昭和天皇時代の宮内庁長官富田朝彦の日記が出てきて、靖国神社がA級戦犯を合祀したことを、天皇が非常に不愉快に思っておられた。そういう国際問題になるようなことをしてはいけない、と靖国参拝を取り止めた。「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」という天皇の言葉が残されています。
一説には、あれは昭和天皇の言葉ではない、富田の言葉だろうとか、徳川義寛侍従長の意見を宮内庁長官が書きとめたのだろうとか、言われましたが、昭和天皇の強い意思だというのが私の判断です。これが公開されたのは、後に述べるような事情から、私が関わっているとも言われました。この富田という人、回りまわっていくと北一輝とつながってきます。
北のライバルで林儀作という人がおりました.一輝と同じ明治一六年生まれ、相川の出身で、一輝が自由党系の『佐渡新聞』の論客、イデオローグであったのに対し、立憲改進党系の『佐渡毎日新聞』では林三十六郎が論陣を張った。林儀作は、たぶん頼山陽の号、〃三十六峰外史〃から取ったのだと思いますが、三十六郎と名乗り、別の号を「濁川」、相川が鉱山の影響で川が濁っていたことからの名です。両紙は常に論争をしていました。二○歳の一輝が佐渡新聞に論説を書き、同じ二○歳の三十六郎が一輝を批判する。政治的には自由党と改進党で対立する。しかし、儀作はあるときから佐渡毎日新聞を辞めて、佐渡新聞の記者になり、一輝と大の仲良しになります。
北一輝の佐渡中学時代の先生で長谷川清という人物、東大を卒業した非常に切れる人で楽天と称し、赤泊村で私塾を開いていた漢学者の葛西周禎の娘を嫁にもらって、生まれた子が長谷川海太郎、作家の林不忘です。長谷川四郎が四男。儀作は、楽天が北海新聞の主筆として函館へ渡ると、後を追って北海道へ行き、そこに根を下ろして、最後は北海道選出の衆議院議員になりました。立候補するときにスポンサーになったのが西堀良造です。長谷川家は林儀作にお世話になり「林の恩は忘れてはならない」とお父さんから言われ続けていたので、海太郎は「丹下左膳』を書いたときに〃林不忘〃と名を付けたということです。四年前に『評伝北一輝』の第一巻を出したとき、「松本さんのファンでこの本も読みました。
私の母方の祖父が林儀作で、母の姉が
富田家に嫁いでできた子、つまり私の従兄が宮内庁長官の富田朝彦です」という連絡が来ました。昭和天皇と北一輝は対立関係になりますが、一方では北の友人の孫が天皇のお側に仕えるという興味深い関係になったわけです。さて、この西堀良造の妻が、若き日の北一輝の恋人松永テルです。良造の父西堀啓次郎に資金を出してもらって北海道で商売を始めた磯野進という人がいます。彼は両津の廻船問屋の次男ですが、その資金をもとに小樽銀行をつくり、成功して小樽に大きな土地を持ち小作人を搾取して、自分は東京に住むという不在地主になり、小林多喜二の『不在地主』のモデルにされた人です。この磯野進が西堀家にお世話になったので、息子の結婚の世話をした。
その相手が原黒(はらぐろ)の松永テルさん。こういう形で北海道とつながっています。
原黒の分かれ道を山の方に登っていくと北家の墓がありますが、登る手前にあるのが松永テルの家で造り酒屋でした。私が初めて訪ねたのは一九六九年で、松永イチさんという、テルの弟清の奥さんがいらして、「二人の恋物語をいろいろ聞いている」と思い出話をしてくれました。私がその話を聞いて三カ月後にイチさんはお亡くなりになられた。まるで私を待っていてくれたようで、話したいことがあったんでしょうね。今は松永家には誰も住んでいない状態です。
しかし、『評伝北一輝』を出しましたら、世田谷の病院の理事長の石井薫さんから電話がかかってきました。松永家の出で、結婚して石井姓になった人で、「私は少女時代を原黒で過ごしたが、今はもう大正時代の原黒や湊の話をできる人が松本さんしかいないから、遊びに来てください」と言う。そう言われても、私は大正時代に生きていたわけではないので、まだ行っていませんが…。
最初に『若き北一輝』を出したときも、岩手の方から手紙がきて「松本さんは六四歳ですか」とおっしゃる。私二五歳のとき書いたのです。それから四○年近く経っていますが、まだ六四歳に達していません。
「まつ舟まだ見えぬ’一輝のロマン主義」
北一輝の漢文調の文章は、まさに光り輝くような、魅せられるものがあります。日本人の心の一番記憶に残っている言葉をあげなさいと言われると、私はこれです。「太陽に向かって矢をつがふ者は日本そのものと云へども天の許さざるところなり」日本が好きでも、日本そのものが間違っていると考えるときには、天の許さざるところとして問い質さねばならないという趣旨で、これは一輝の気概でしょうか。天才といわれる人も、そのときの精神的環境や、どのような先達から文学や漢文を学んだかによってつくられます。
一輝の場合佐渡中学で、和歌は長谷川楽天、漢文は石塚照。石塚は卓堂という号を使っていますが、太っていたので〃小西郷〃(しようさいごう)とも呼ばれていました。西南戦争のことを北一輝は「明治維新の第二革命」という言い方をしていますが、こういう西郷さんに対する敬愛の念とか、「太陽に向かって〜」という文章を調べていくと石塚照さんの影響だとわかってきます。北は自費出版の本に「卓堂書房」と付けています。
「美しいものを見ようと思ったら目をつぶれ物事の本質を知ろうと思ったら目をつぶれ」ロマン主義とは、現実なんかを見るな、現実には汚いものがたくさんあり、本質が見えなくなるというもので、これは私の言葉ですが、北の精神の構えでもあります。一輝のロマン主義を具体的に表した言葉では、「舟は千来る万来るなかで私のまつ舟まだ見えぬ」になります。これは北が大正時代、中国から帰ってきたとき、危険人物と見られ、毎日のように尾行がついたり、刑事が来たりしていたが、その刑事が北一輝のことを好きになって、白い扇に何か書いてほしいと頼んだとき、かれが書いた言葉です。
一輝の家の裏側は砂浜が三○メートルくらいあって、その先は両津湾ですから、船が入ってくる。一輝が何かを見つめている、美しいものを待っている言葉として、私は好きだったのですが、あるとき、房総半島の祭の木遣歌で「舟は千来る万来るなかで主の乗る舟まだ見えぬ」と歌われていたことを知りました。
また佐渡へ来ているうちに、両津で出していた豆本で磯節を集めたものがあり、そのなかに「舟は千来る万来るなかにわしの待つ船まだまだ見えぬ」とあって、これは湊の花街のあるところで流行った歌だと知りました。客を待つ芸者が「主が乗る船まだ来ない」と旦那を待ちこがれた歌だったのです。北一輝は、これを若いときに聞いて知っていたのでしょう。そして、革命クーデターの『日本改造法案』を書き上げた自分の心情と重ね合わせて歌い換えたのでしょう。
一輝が佐渡中学の頃、卒業行軍というのがあって、真野の順徳天皇の御陵まで歩いていき、帰ってから卒業論文として紀行文を書かせて文集をつくった。一輝は身体が弱かったので、それに参加できなかったが、順徳天皇のことを思って書いた文章があります。それがまた名文で、私が北一輝著作集に収めました。この文集の指導をしたのが、矢田求という国文の先生でした。
「佐渡の文化的遺伝子」
明治の佐渡は今より文化的に活発でした。『佐渡新聞』と『佐渡毎日新聞』があり、それに対抗するように『佐渡日報』ができ、『新佐渡』という週刊新聞もでき、当時人口一○万の島に新聞が四つ、悪口からスキャンダル、政治論文や北の国体論批判まで発表し、それを相互に批判する。一輝は二○歳で論文を書き、天才と呼んでもいいかもしれませんが、その天才はこういう文化的風土の中で生まれてきたのです。
新聞が一紙もない辺地で、二○歳の若者が論文を発表することなどできるわけがない。そういう意味では、一輝の才能を発揮できる精神的・文化的土壌があったわけです。北の小学校の先生があるとき、「この世の中で一番速いものは何だ」と生徒に尋ねます。明治二三年頃、汽車に乗ったことがある子は「汽車だ」と言う。当時は新潟まで、船で五、六時間かかったそうですが、「いや、越佐汽船の佐渡丸だ」。ほとんどの子がこう答えるなかで、一輝は「目んたまだ」と言う。
「左に目を寄せれば、一番東側の水平線が見える、次の瞬間に右へ寄せれば、一番西側まで見える。一瞬に地球を半周できる、こんなに速いものはないだろう」と答えたというエピソードが、同級生の回想文集に載っています。
このことを友人の東大の宇宙物理学者に話したところ、それは一輝が正しいと言う。「光の速さよりも、それを計算するとか、思い浮かべるという人間の脳の方が速い。脳の指令を受けて左から右へ目を向けているわけで、頭の中が速いのだが、それが具体的な行動として表れるのは目ということになる」そうです。
一輝は両津でそんな少年時代を過ごすわけですが、そこには文化的高さがある、経済的豊かさがある。魚や米はもちろん、リンゴ、梨、ブドウ、桃、スイカもあり、佐渡は自立できる。その上に江戸時代は金が採れた。奉行所は「修教館」という学問所を開く。そこはただ単に田舎の学校ではなく、江戸幕府の役人が勉強する学問所ですから、学問的水準が高くなります。円山溟北がそこで教え、三井物産を今日まで盛り上げた「大番頭」の益田孝がそこで勉強した。
溟北は徳川幕府に使えた学者で、明治政府に仕えたくないと、自分の号を浮海窩(不開化)とし、私塾の学問所をつくってそこで教えた。石塚照も若林朔汀(=玄益)もここで学び、その後、夷で教えた玄益のところで、一輝の父も一輝も学んでいる。玄益の孫になるのが若林真さん。
先年亡くなりましたが、慶応大学の文学部教授でアンドレ・ジイド研究の第一人者、『海を畏れる』という小説も書きましたね。DNAというのは生物的遺伝子で、目が二つあるとか、背が高い低いを伝えるものですが、そうではない文化的遺伝子というものがあります。
父親が政治家で町長、母は青木村の出で、日蓮への信仰が厚い人です。大人が新聞を読んでいる、政治的対立をする選挙の時は批判をし合う。そういう風景を見て育った子どもと、そういうものがないところで育った人間では、文化的に遺伝子が違ってくるわけです。これはミーム(meme)と呼ばれており、人間形成、精神形成に寄与します。
これを解明するような学問が今進んでいます。
当時夷にキリスト教会があって、牧師さんは腰の回りにローブ状のものを巻き、長いスカートみたいな衣を着て歩いている。それを見て、一輝は「ケッヒラヒラ」を呼んでいた。恋人のテルにバイブルを贈っていますが、一輝はキリスト教にも触れています。佐渡にキリスト教が入ってくるのは意外と早く、内村鑑三が水産伝習所の教授で、スルメの検査員の講習のために佐渡に来たか
らです。佐渡新聞を創刊した森知幾も、内村鑑三のようになりたいと水産講習所に行き、影響を受ける。
そういう人が佐渡新聞の周りにゾロゾロいた。北一輝という一人の人物、一つの精神が育まれるには、どれほど多くの佐渡の文化的遺伝子があったか。ここを解明しないと、北一輝の精神はわかりません。
「「国賊」のレッテルを剥ぐ試み」
昭和天皇という方は非常に理性的で、すぐれた政治的判断力のある方でしたが、二・二六事件の時は臓起軍を最初から「反乱軍」と呼び、「鎮圧せよ、誰も行かなければ私が行く、馬を引け」と言って、断固として譲らなかった。だから二・二六事件のときと終戦の判断は「ご聖断」と称えられています。これはあくまでも正しい判断であった。
それは間違いないでしょう。しかし、それが「ご聖断」であるならば、青年将校や、彼らに思想的影響を与えた北一輝は、永遠に「国賊」と呼ばれ続けざるを得ません。私が昨年の二・二六事件の慰霊祭のとき、ご遺族たちの前でこう話すと、ほとんど全員が涙していました。
しかし、彼らは間違ったことをしたわけではない。その前の昭和七、八、九年の段階で、飢饉で東北では親が首をくくり、娘が吉原の女郎に身を売って、子どもたちが餓死している。そういう兵隊が青年将校の部下には沢山いたわけで、「この苦しさを誰かが解決しなければならない。そのために私たちは起った。それをあなた方が指導してくれたんです」と兵隊から言われ、それゆえ青年将校たちは最後まで退かなかった、退けなかったのです。
政治が農村の疲弊している状態を救うことをしていれば、彼らは畷起する必要はなかった。私はそういうつもりで北一輝を書いてきました。北一輝を「国賊」というレッテル張りのまま終わらせたくはない。なぜ青年将校たちが北の思想に拠って蹶起しなければならなかったか、私たちは考えていかねばなりません。
私は北一輝のことを四○年前から書き始めまして、評伝も全五巻で完結し、もう全部終わったと思いましたが、しかし、これが終わらないんですね。『佐渡郷士文化』最近号のなかに詳しいのですが、北一輝が上海だけでなく、後に北京にも密航して、当地の警察につかまり、外務省に引き渡されて拘束されたという文書が、外務省の資料の中から発掘されました。まだまだ終えてはいけないと言われている気がします。
それに北一輝は獄中で書いた書を「ここに五○〜六○部あるから、これをみんなで分けてくれ」というふうに残していますが、まだ一つしか出てきていません。また、『佐渡中学同窓会誌』は明治三三年に始まるのですが、全一○号のうち出てきたのは二つだけです。まだ他の号にも北一輝の文章があるかもしれません。みなさんのお宅を探してみて、何か見つかったら、お知らせいただけば幸いです。(了)
-まとめ長野雅子-
(講演録 松本健一 『佐渡郷土文化 116号』2008年(平成20年))
二○○七年は北一輝没後七○周年。命日の八月一九日には、両津湊の八幡若宮社において慰霊祭が行われました。
その記念講演で、佐渡にも足繁く通って調査された、北一輝研究では第一人者の松本健一氏よりこ輝の思想と両津湊町」と題して、お話いただいたことをまとめたものです。
「初めて佐渡を訪ねた頃」
佐渡、特に湊、夷という風土が北一輝の精神と思想をどう育んだのかについて話してみたいと思います。私が初めて佐渡へ来たのは四○年前で、この地域の風土はそんなに変わっていませんが、佐渡の風景はずいぶん変わりました。
かつて佐渡汽船の港から下船したところに税関があり、昔は奉行所の役人が勤めていた出張所がありました。明治三三年(渡辺注:32年)に来島した尾崎紅葉は、その税関の側に生えていた大きな松の木を、「村雨の松」と呼び、その松が出迎えてくれたと書いています。
四○年前にはその松がありましたが、今でもあります。私が最初にこの街を歩いたときは学生服でした。郷士史家の山本修之助さんにお会いして明治の話をお聞きしましたが、「松本さん、明治の佐渡のことを、僕よりもよく知っている」と言われました。
それは『佐渡新聞』や『佐渡毎日新聞』を隅々まで読んでいたからです。その頃の新聞は、誰と誰が逢い引きしたとか、北一輝は新潟の眼科医院の看護婦さんとできていたとか、そういうゴシップもたくさん載っていました。
江戸時代は、若宮通りはまだ湖の中でした。明治時代に斎藤八郎兵衛が干拓をして夷と湊の街を広げました。両津を大きくしたという功績はありますが、斎藤さんは北一輝からはかなり批判されています。改進党系の政治家ですから、権力を持っている。
北一輝は権力者に対して痛烈な批判を浴びせるのがうまい人であります。しかし、一輝の父親も初代の両津町長で、ちょうど斎藤さんと同年代、お父さんは板垣退助の自由党系、斎藤さんは大隈重信の立憲改進党に属していましたから、対立する要素もあったようです。
ずいぶん昔のことのようですが、北一輝のことを語ると、過去が現在にそのままよみがえってきます。
「北一輝と富田朝彦-北海道と佐渡との縁」
昨年、昭和天皇時代の宮内庁長官富田朝彦の日記が出てきて、靖国神社がA級戦犯を合祀したことを、天皇が非常に不愉快に思っておられた。そういう国際問題になるようなことをしてはいけない、と靖国参拝を取り止めた。「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」という天皇の言葉が残されています。
一説には、あれは昭和天皇の言葉ではない、富田の言葉だろうとか、徳川義寛侍従長の意見を宮内庁長官が書きとめたのだろうとか、言われましたが、昭和天皇の強い意思だというのが私の判断です。これが公開されたのは、後に述べるような事情から、私が関わっているとも言われました。この富田という人、回りまわっていくと北一輝とつながってきます。
北のライバルで林儀作という人がおりました.一輝と同じ明治一六年生まれ、相川の出身で、一輝が自由党系の『佐渡新聞』の論客、イデオローグであったのに対し、立憲改進党系の『佐渡毎日新聞』では林三十六郎が論陣を張った。林儀作は、たぶん頼山陽の号、〃三十六峰外史〃から取ったのだと思いますが、三十六郎と名乗り、別の号を「濁川」、相川が鉱山の影響で川が濁っていたことからの名です。両紙は常に論争をしていました。二○歳の一輝が佐渡新聞に論説を書き、同じ二○歳の三十六郎が一輝を批判する。政治的には自由党と改進党で対立する。しかし、儀作はあるときから佐渡毎日新聞を辞めて、佐渡新聞の記者になり、一輝と大の仲良しになります。
北一輝の佐渡中学時代の先生で長谷川清という人物、東大を卒業した非常に切れる人で楽天と称し、赤泊村で私塾を開いていた漢学者の葛西周禎の娘を嫁にもらって、生まれた子が長谷川海太郎、作家の林不忘です。長谷川四郎が四男。儀作は、楽天が北海新聞の主筆として函館へ渡ると、後を追って北海道へ行き、そこに根を下ろして、最後は北海道選出の衆議院議員になりました。立候補するときにスポンサーになったのが西堀良造です。長谷川家は林儀作にお世話になり「林の恩は忘れてはならない」とお父さんから言われ続けていたので、海太郎は「丹下左膳』を書いたときに〃林不忘〃と名を付けたということです。四年前に『評伝北一輝』の第一巻を出したとき、「松本さんのファンでこの本も読みました。
私の母方の祖父が林儀作で、母の姉が
富田家に嫁いでできた子、つまり私の従兄が宮内庁長官の富田朝彦です」という連絡が来ました。昭和天皇と北一輝は対立関係になりますが、一方では北の友人の孫が天皇のお側に仕えるという興味深い関係になったわけです。さて、この西堀良造の妻が、若き日の北一輝の恋人松永テルです。良造の父西堀啓次郎に資金を出してもらって北海道で商売を始めた磯野進という人がいます。彼は両津の廻船問屋の次男ですが、その資金をもとに小樽銀行をつくり、成功して小樽に大きな土地を持ち小作人を搾取して、自分は東京に住むという不在地主になり、小林多喜二の『不在地主』のモデルにされた人です。この磯野進が西堀家にお世話になったので、息子の結婚の世話をした。
その相手が原黒(はらぐろ)の松永テルさん。こういう形で北海道とつながっています。
原黒の分かれ道を山の方に登っていくと北家の墓がありますが、登る手前にあるのが松永テルの家で造り酒屋でした。私が初めて訪ねたのは一九六九年で、松永イチさんという、テルの弟清の奥さんがいらして、「二人の恋物語をいろいろ聞いている」と思い出話をしてくれました。私がその話を聞いて三カ月後にイチさんはお亡くなりになられた。まるで私を待っていてくれたようで、話したいことがあったんでしょうね。今は松永家には誰も住んでいない状態です。
しかし、『評伝北一輝』を出しましたら、世田谷の病院の理事長の石井薫さんから電話がかかってきました。松永家の出で、結婚して石井姓になった人で、「私は少女時代を原黒で過ごしたが、今はもう大正時代の原黒や湊の話をできる人が松本さんしかいないから、遊びに来てください」と言う。そう言われても、私は大正時代に生きていたわけではないので、まだ行っていませんが…。
最初に『若き北一輝』を出したときも、岩手の方から手紙がきて「松本さんは六四歳ですか」とおっしゃる。私二五歳のとき書いたのです。それから四○年近く経っていますが、まだ六四歳に達していません。
「まつ舟まだ見えぬ’一輝のロマン主義」
北一輝の漢文調の文章は、まさに光り輝くような、魅せられるものがあります。日本人の心の一番記憶に残っている言葉をあげなさいと言われると、私はこれです。「太陽に向かって矢をつがふ者は日本そのものと云へども天の許さざるところなり」日本が好きでも、日本そのものが間違っていると考えるときには、天の許さざるところとして問い質さねばならないという趣旨で、これは一輝の気概でしょうか。天才といわれる人も、そのときの精神的環境や、どのような先達から文学や漢文を学んだかによってつくられます。
一輝の場合佐渡中学で、和歌は長谷川楽天、漢文は石塚照。石塚は卓堂という号を使っていますが、太っていたので〃小西郷〃(しようさいごう)とも呼ばれていました。西南戦争のことを北一輝は「明治維新の第二革命」という言い方をしていますが、こういう西郷さんに対する敬愛の念とか、「太陽に向かって〜」という文章を調べていくと石塚照さんの影響だとわかってきます。北は自費出版の本に「卓堂書房」と付けています。
「美しいものを見ようと思ったら目をつぶれ物事の本質を知ろうと思ったら目をつぶれ」ロマン主義とは、現実なんかを見るな、現実には汚いものがたくさんあり、本質が見えなくなるというもので、これは私の言葉ですが、北の精神の構えでもあります。一輝のロマン主義を具体的に表した言葉では、「舟は千来る万来るなかで私のまつ舟まだ見えぬ」になります。これは北が大正時代、中国から帰ってきたとき、危険人物と見られ、毎日のように尾行がついたり、刑事が来たりしていたが、その刑事が北一輝のことを好きになって、白い扇に何か書いてほしいと頼んだとき、かれが書いた言葉です。
一輝の家の裏側は砂浜が三○メートルくらいあって、その先は両津湾ですから、船が入ってくる。一輝が何かを見つめている、美しいものを待っている言葉として、私は好きだったのですが、あるとき、房総半島の祭の木遣歌で「舟は千来る万来るなかで主の乗る舟まだ見えぬ」と歌われていたことを知りました。
また佐渡へ来ているうちに、両津で出していた豆本で磯節を集めたものがあり、そのなかに「舟は千来る万来るなかにわしの待つ船まだまだ見えぬ」とあって、これは湊の花街のあるところで流行った歌だと知りました。客を待つ芸者が「主が乗る船まだ来ない」と旦那を待ちこがれた歌だったのです。北一輝は、これを若いときに聞いて知っていたのでしょう。そして、革命クーデターの『日本改造法案』を書き上げた自分の心情と重ね合わせて歌い換えたのでしょう。
一輝が佐渡中学の頃、卒業行軍というのがあって、真野の順徳天皇の御陵まで歩いていき、帰ってから卒業論文として紀行文を書かせて文集をつくった。一輝は身体が弱かったので、それに参加できなかったが、順徳天皇のことを思って書いた文章があります。それがまた名文で、私が北一輝著作集に収めました。この文集の指導をしたのが、矢田求という国文の先生でした。
「佐渡の文化的遺伝子」
明治の佐渡は今より文化的に活発でした。『佐渡新聞』と『佐渡毎日新聞』があり、それに対抗するように『佐渡日報』ができ、『新佐渡』という週刊新聞もでき、当時人口一○万の島に新聞が四つ、悪口からスキャンダル、政治論文や北の国体論批判まで発表し、それを相互に批判する。一輝は二○歳で論文を書き、天才と呼んでもいいかもしれませんが、その天才はこういう文化的風土の中で生まれてきたのです。
新聞が一紙もない辺地で、二○歳の若者が論文を発表することなどできるわけがない。そういう意味では、一輝の才能を発揮できる精神的・文化的土壌があったわけです。北の小学校の先生があるとき、「この世の中で一番速いものは何だ」と生徒に尋ねます。明治二三年頃、汽車に乗ったことがある子は「汽車だ」と言う。当時は新潟まで、船で五、六時間かかったそうですが、「いや、越佐汽船の佐渡丸だ」。ほとんどの子がこう答えるなかで、一輝は「目んたまだ」と言う。
「左に目を寄せれば、一番東側の水平線が見える、次の瞬間に右へ寄せれば、一番西側まで見える。一瞬に地球を半周できる、こんなに速いものはないだろう」と答えたというエピソードが、同級生の回想文集に載っています。
このことを友人の東大の宇宙物理学者に話したところ、それは一輝が正しいと言う。「光の速さよりも、それを計算するとか、思い浮かべるという人間の脳の方が速い。脳の指令を受けて左から右へ目を向けているわけで、頭の中が速いのだが、それが具体的な行動として表れるのは目ということになる」そうです。
一輝は両津でそんな少年時代を過ごすわけですが、そこには文化的高さがある、経済的豊かさがある。魚や米はもちろん、リンゴ、梨、ブドウ、桃、スイカもあり、佐渡は自立できる。その上に江戸時代は金が採れた。奉行所は「修教館」という学問所を開く。そこはただ単に田舎の学校ではなく、江戸幕府の役人が勉強する学問所ですから、学問的水準が高くなります。円山溟北がそこで教え、三井物産を今日まで盛り上げた「大番頭」の益田孝がそこで勉強した。
溟北は徳川幕府に使えた学者で、明治政府に仕えたくないと、自分の号を浮海窩(不開化)とし、私塾の学問所をつくってそこで教えた。石塚照も若林朔汀(=玄益)もここで学び、その後、夷で教えた玄益のところで、一輝の父も一輝も学んでいる。玄益の孫になるのが若林真さん。
先年亡くなりましたが、慶応大学の文学部教授でアンドレ・ジイド研究の第一人者、『海を畏れる』という小説も書きましたね。DNAというのは生物的遺伝子で、目が二つあるとか、背が高い低いを伝えるものですが、そうではない文化的遺伝子というものがあります。
父親が政治家で町長、母は青木村の出で、日蓮への信仰が厚い人です。大人が新聞を読んでいる、政治的対立をする選挙の時は批判をし合う。そういう風景を見て育った子どもと、そういうものがないところで育った人間では、文化的に遺伝子が違ってくるわけです。これはミーム(meme)と呼ばれており、人間形成、精神形成に寄与します。
これを解明するような学問が今進んでいます。
当時夷にキリスト教会があって、牧師さんは腰の回りにローブ状のものを巻き、長いスカートみたいな衣を着て歩いている。それを見て、一輝は「ケッヒラヒラ」を呼んでいた。恋人のテルにバイブルを贈っていますが、一輝はキリスト教にも触れています。佐渡にキリスト教が入ってくるのは意外と早く、内村鑑三が水産伝習所の教授で、スルメの検査員の講習のために佐渡に来たか
らです。佐渡新聞を創刊した森知幾も、内村鑑三のようになりたいと水産講習所に行き、影響を受ける。
そういう人が佐渡新聞の周りにゾロゾロいた。北一輝という一人の人物、一つの精神が育まれるには、どれほど多くの佐渡の文化的遺伝子があったか。ここを解明しないと、北一輝の精神はわかりません。
「「国賊」のレッテルを剥ぐ試み」
昭和天皇という方は非常に理性的で、すぐれた政治的判断力のある方でしたが、二・二六事件の時は臓起軍を最初から「反乱軍」と呼び、「鎮圧せよ、誰も行かなければ私が行く、馬を引け」と言って、断固として譲らなかった。だから二・二六事件のときと終戦の判断は「ご聖断」と称えられています。これはあくまでも正しい判断であった。
それは間違いないでしょう。しかし、それが「ご聖断」であるならば、青年将校や、彼らに思想的影響を与えた北一輝は、永遠に「国賊」と呼ばれ続けざるを得ません。私が昨年の二・二六事件の慰霊祭のとき、ご遺族たちの前でこう話すと、ほとんど全員が涙していました。
しかし、彼らは間違ったことをしたわけではない。その前の昭和七、八、九年の段階で、飢饉で東北では親が首をくくり、娘が吉原の女郎に身を売って、子どもたちが餓死している。そういう兵隊が青年将校の部下には沢山いたわけで、「この苦しさを誰かが解決しなければならない。そのために私たちは起った。それをあなた方が指導してくれたんです」と兵隊から言われ、それゆえ青年将校たちは最後まで退かなかった、退けなかったのです。
政治が農村の疲弊している状態を救うことをしていれば、彼らは畷起する必要はなかった。私はそういうつもりで北一輝を書いてきました。北一輝を「国賊」というレッテル張りのまま終わらせたくはない。なぜ青年将校たちが北の思想に拠って蹶起しなければならなかったか、私たちは考えていかねばなりません。
私は北一輝のことを四○年前から書き始めまして、評伝も全五巻で完結し、もう全部終わったと思いましたが、しかし、これが終わらないんですね。『佐渡郷士文化』最近号のなかに詳しいのですが、北一輝が上海だけでなく、後に北京にも密航して、当地の警察につかまり、外務省に引き渡されて拘束されたという文書が、外務省の資料の中から発掘されました。まだまだ終えてはいけないと言われている気がします。
それに北一輝は獄中で書いた書を「ここに五○〜六○部あるから、これをみんなで分けてくれ」というふうに残していますが、まだ一つしか出てきていません。また、『佐渡中学同窓会誌』は明治三三年に始まるのですが、全一○号のうち出てきたのは二つだけです。まだ他の号にも北一輝の文章があるかもしれません。みなさんのお宅を探してみて、何か見つかったら、お知らせいただけば幸いです。(了)
-まとめ長野雅子-
2017-10-02
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