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2017-07-25

┣・「佐渡TV」 ダン渡辺の四方山話 up

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2017-07-25

平田喜裕up

2017-07-23

◆両津の昔を記す -各地の変遷(神明町)up

2017-07-19

新規&追加 up 与謝野鉄幹・吉井勇・吉野秀雄・吉村昭・吉屋信子・若林真・和久唆三・渡邊喜八郎

2017-07-19

岡崎利孝up

2017-07-18

『父・長谷川四郎の謎』(長谷川元吉 2002年8月 草思社)

『父・長谷川四郎の謎』(長谷川元吉 2002年8月 草思社)

親父・長谷川四郎は、旧ソビエトでの捕虜生活を終えて帰国してからは、作家として生計をたてていたが、中国にいる間は給与所得生活者で、鬼畜語でいうとサラリーマンだった。一九三七年、親父は祖父と交流のあった大川周明の口利きで、一九〇六年十一月に設立された南満州鉄道株式会社(満鉄)に入社し、中国は大連に渡っている。

伯父・濬は祖父・淑夫の行地社社友の大川周明から紹介された満州国資政局自治指導部訓練所(この年の七月、大同学院と改称。大川周明はこの学院の黒幕) の第一期卒業生となるべく、一九三二年五月十五日、門司港を出港している。この日十五日は五・一五事件の起きた日であり犬養毅が殺されている。この事件を背後で操ったとされたのが大川周明であり、祖父が尊敬していたのが殺害された犬養毅というのも皮肉である。
 また、この満州国資政局は、後に親父が入会する協和会の前身であり、協和会は後の大政翼賛会の原型となってもいる。「あんがい早く満鉄調査部入りがきまったのは大川周明とその友人の満川亀太郎とわりと近しかった私の父親が、よし、おれが大川周明に頼んでみようと言い、これが効を奏し、大川周明が口をきいてくれたからである。」

 祖父はこの男大川周明と「行地社」でつながっていたし、暗殺された犬養毅の普選論に共鳴し、徳川時代に世界の国々から注目されていた函館港を有する函館に渡り、新聞人となった男である。 中国には祖父が佐渡で教員をしていたときの教え子、北一輝も渡っていて、最初は社会主義者として中国革命に力をいれていたが、一九一九年上海で「日本改造法案大綱」を執筆し、国家主義に よる世界最強の日本国家建設を強調しながら、大川周明とは「猶存社」でつながっていた。

また、親父のすぐ上の兄・濬は終戦直後自殺した株式会社満州映画協会理事甘粕正彦の最後をみとったのだが、そんな甘粕正彦は、関東大震災のとき、大杉栄・伊藤野枝夫妻を殺害、軍法会議により十年の判決を受けて下獄するが、三年で出所しフランスに渡っている。しかし一九三一年には満州に渡るが、大川周明が招いたのだろうか、そのように私には思えてしまう。 甘粕正彦がかかわっていた、虐殺事件の大杉栄とは親父の長兄・海太郎(丹下左膳の作者)は学生時代に交遊があり、親父の長兄に対する文章から拾ってみると、「彼はアメリカへいく前、東京で大杉栄のところに出入りし、大杉栄は貴族趣味の人で、安物の藤椅子にこしかけ、パイプをくゆらし、大きな声で外国語の本をよみあげて-これは家の外にいる刑事に自己の存在を知らせるためで、などと彼は話した。」
 
「北一輝は『丹下左膳』を愛読していたそうだが、兄(海太郎)とは面識がなかったろうと思う。しかしそれ以上のつながりがあった。というのは二・二六の青年将校と海太郎兄さんは意気投合するところがあり会っていたからだ。」 親父は学生時代東京で、祖父を訪ねてきた北一輝の印象を、「亡父が函館から東京へ出てきていると、北一輝が財閥からせしめた長大なるイタリア車にのって儀礼的に訪ねてきたことを憶えている。少しやぶにらみの痩せた男であった。」 この北一輝は二・二六事件の指導者として暗躍し、結局は軍事裁判により一九三七年、日本で銃殺刑となったとされている。ということは、親父とは中国で会うことはなかった。

余談ではあるが、私の撮影した映画「戒厳令」で、三国連太郎ふんする北一輝を撮っているし、「エロス+虐殺」では大杉栄と甘粕らしき人物を撮っている。
 親父が満鉄から協和会に再就職して練成を受けている際に、甘粕理事から満映に招待されているが、そんな甘粕とは親父のすぐ上の兄・濬が、満映時代から密接な関係にあった。川崎賢子著『彼等の昭和』 (白水社刊) の中に次のように記してある。
「八月九日、ソ連軍進攻、甘粕正彦はヤマトホテルをひきはらい、満映理事長室に移る。騒ぎのなかで、濬は理事長室に呼ばれ、元日本共産党『赤旗』編集長であり、溶の友人でもあった三村亮一をコルト銃で殺すよう命じられるが、沈黙。甘粕は(作家の君にはむりだ)と命令撤回。八月十七日より、濬は、赤川孝一(赤川次郎の父)、大谷隆とともに、自死のおそれのある甘粕理事長の警護にあたる。

北一輝、大川周明、甘粕正彦などと、昭和のある時期の黒幕的存在だった人物が、長谷川家に関わっていたことを示すこのような文を読んでいると、どれもが自分と血のつながっている人達のことだけに心臓はたかなり、血液が興奮気味に駆け巡るのが分かる。いずれにしても中国での親父からは文学の匂いよりも、政治の、国家の匂いしか伝わってこない。しかし、まあなんと当時の長谷川家は政治色の強い一家だったのだろう。

小学校低学年のとき、亡祖母からいろいろ聞かされた話は、今から思うと、かなり右よりな話ばかりだった。息子である親父も当然聞かされて育ったはずだ。その話とは、ほとんどが武士・武家の話で、特に源氏の話が多く、これはおそらく、曾祖父の時代まで、長谷川家は江戸幕府金座役人年寄役として金山で有名な佐渡に居を構えていたためかもしれないし、徳川時代のなごりとして、このような話が多かったのかもしれない。 なにしろ、祖父の生まれる五年前までは、長谷川家は徳川幕府の下で働いていた。 余談であるが、ある時こんなことを親父から聞かされた。「昔、長谷川家は今の三越本店のあたりに金座の役人として住んでいたが、その時仕えていた後藤家の不祥事の尻拭いをするため佐渡の
金山の役人へと降格された」と。長谷川家の仕えていた後藤家とは、慶長金を鋳造して貨幣制度の基礎を確立した家柄だったが、一八一〇年(文化七年)十一代目が処罰されて断絶している。親父の話を信ずるなら、このあたりに佐渡に渡っているのだろう。
 祖母はそんな佐渡の儒医、葛西周禎の娘で、私が手や足におできが出来ると、その辺に生えているドクダミの葉をすりつぶして治療してくれたが、それよりもいろいろな話を子供達に聞かせるほうが得意だった。『源平盛衰記』壇ノ浦の合戦・源義経のヒヨドリ越えを講談調に語り、木曾義仲や、八幡太郎義家や、鎮西八郎為朝の弓の話などや、爆弾三勇士の話や、日本海でのパルチック艦隊との海戦で、日本海軍が勝利した話を、その大砲の音を交えて、小学生の私や伯父の息子に手振りを交えて聞かせ語ってくれた。
「クロバトキンの首をはね!」などと歌いながら、日露戦争当時、極東軍総司令官だったロシアの将軍の無残な様子を、事も無げに得意になって孫たちに聞かせる祖母でもあったし、明治天皇の映画が公開されると、盛装して、おごそかに出掛けていった亡祖母だった。また当時、黒龍という化粧用クリームを縁側に座らせた男から買っている祖母の姿を何度か見掛けたが、どうみても化粧品を売るような雰囲気とはほど遠い鋭い顔をした男が売り手だったし、祖母はあまりクリームを必要としない年になっていた。 その商品がそもそも売り手と別じように異様な雰囲気で、メンソレータムの容器より一回り小振りな真っ黒な器の蓋には、黒い龍が浮き彫りになっていて、中には真っ白なクリームが、なんとな
く薬の匂いを漂わせながらセロファンの中蓋越しに詰まっていた。 黒龍という化粧品は、戦後のどさくさの中で、黒龍会の残党が作っていたのかもしれないと、今これを書きながら急に思い出し、あらぬ想像をしてしまったのだが、それは祖父が戦前の早い時期に黒龍会と関係があったらしいという資料を読んだからである。大川周明や北一輝や甘粕正彦などと関わっていた長谷川家としては、祖父との関係を別にしても、戦後のどさくさに黒龍会から慕われても道理としてかなっている。

とにかく、親父の親父、つまり祖父と祖母のいとなんでいた家庭環境は、武家と天皇家とが生活の中心となっていたように思われ、時代の先端で暗躍する組織のすぐ側で、生活していたような気がしてならない。
2017-07-18

◆マイ作品  ・「佐渡ジャーナル」up

2017-07-17

水野晶・緑川玄三・武者小路実篤・村井米子・柳照雄・山田康二郎・山本攝子・結城清史up

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