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2016-11-30

魔夜峰央

「週刊文春」(平成28年10月28日号)
まや魔夜峰央 (1)

まや魔夜峰央 (2)

まや魔夜峰央 (3)

まや魔夜峰央 (4)

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2016-11-30

宮田亮平

みや宮田亮平 291222

みや宮田宏平 (1) みや宮田宏平 (2)

・受賞歴
1970年 第24回「二紀展」彫刻部奨励賞
1970年 東京藝術大学安宅賞
1971年 第25回「二紀展」彫刻部奨励賞
1971年 「二紀展選抜展」佳作賞
1972年 第11回「日本現代工芸美術展」大賞 および 読売新聞社賞、日本TV賞
1979年 第18回「日本現代工芸美術展」文部大臣賞
1981年 第13回「日展」特選
1985年 「西武工芸大賞」奨励賞
1996年 「国際ジュダイカ・デザイン・コンペティション」銅賞
1997年 第29回「日展」特選
1999年 朝日「海とのふれあい賞」(朝日新聞社)
2004年 「日本銅センター賞」(社団法人日本銅センター)
2005年 第7回「瀬戸山賞」(法務省)
2007年 第46回「日本現代工芸美術展」内閣総理大臣賞
2012年 日本芸術院賞

・主な作品所蔵
東京藝術大学美術館
東京都美術館
新潟県立現代美術館
富山県立山博物館
東京駅「銀の鈴」(4代目)
日本橋三越新館エンブレム
神田明神
根津神社
日枝神社
大邱大学(韓国)

・社会活動
日展会員・審査員
現代工芸美術家協会理事・審査員
NPO工藝文化研究所理事
文化審議会委員(副会長)
横綱審議委員会委員(2010年3月 - )
アジア・ゲートウェイ戦略会議メンバー
台東区文化政策懇談会委員
たいとう観光大使
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「宮田亮平HP」より
金工作家。新潟県佐渡に蝋型鋳金作家の2代目宮田藍堂の3男として生まれる。昭和47年に東京藝術大学大学院 美術研究科 工芸専門課程(鍛金専攻)を修了。イルカをモチーフとした「シュプリンゲン」シリーズなどの作品で、「宮田亮平展」(個展)をはじめとして、国内外で多数の展覧会に参加。
「日展」内閣総理大臣賞や、「日本現代工芸美術展」内閣総理大臣賞など数々の賞を受賞し、2011年度日本芸術院賞を受賞。

文部科学省「文化審議会」:委員(会長)
日本放送協会「経営委員会」:委員
東京都「東京芸術文化評議会」:評議員
日展:理事
現代工芸美術家協会:常務理事
国立大学協会:会長補佐
財務省「地方自治法施行60周年記念貨幣の発行に関する会合」:委員
日本相撲協会「横綱審議委員会」:委員
文化財保護・芸術研究助成財団:理事長 他

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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1945- 昭和後期-平成時代の工芸家,金工家。
昭和20年6月8日生まれ。「蝋型鋳金」の初代宮田藍堂の孫。昭和45年二紀展彫刻部奨励賞,安宅賞。47年日本現代工芸美術展大賞,54年同展文部大臣賞。平成2年東京芸大助教授,9年教授。同年日展特選。17年東京芸大学長。19年日本現代工芸美術展内閣総理大臣賞。24年日展出品作「シュプリンゲン『翔』」で芸術院賞。文化庁文化審議会会長代理,文化財保護・芸術研究助成財団理事長,横綱審議委員会委員などをつとめる。新潟県出身。東京芸大卒。

・作品所蔵
東京都美術館、新潟県立近代美術館、駿台甲府高校、大曲商工会議所、駿河台大学、杉並区、東京藝術大学大学美術館、富山県「立山博物館」、深田地質研究所(財)、豊田香の博物館、九州産業大学、高崎駅、群馬県社会福祉総合センター、取手駅前広場、緑の牧場学園、安田シーケンスタワー、佐渡汽船、新潟朱鷺メッセ、新潟国際情報大学、新津駅、北千住駅前、日本橋三越本店新館エンブレム、中国(北京、福州、曲陽)、神田神社、根津神社、台東区役所、日枝神社、バンコク、函館・青森フェリーターミナル、東京駅「銀の鈴」、大宮光陵高等学校、荒川区役所、副都心線池袋駅、妙高市役所、大邸大学校美術館(韓国)、弘前大学、東京工業大学、清華大学(中国)、福原記念館、北越高等学校、国立音楽大学附属小学校、東京学芸大学「学芸の森保育園」、九州大学、ホキ美術館、佐渡総合病院、東京電機大学、その他

・佐渡高校時代の昭和38.2.16、全国児童生徒デザイン展特選 

日報 h27 11 25
みや宮田亮平 日報 h27 11 25

日報h27.12.8
みや宮田亮平

【共同通信】2016年2月26日
(文化庁長官に宮田亮平氏)
 政府は26日の閣議で、文化庁の青柳正規長官(71)が退任し、後任に東京芸術大学長の宮田亮平氏(70)を充てる4月1日付の人事を決めた。宮田氏の任期は2018年3月末まで。官僚出身者以外の長官起用は6人目となる。
 宮田氏は金属工芸家で、文化審議会の会長や、20年東京五輪・パラリンピックの新たな公式エンブレムを選ぶ委員会の委員長も務めている。

「島の新聞」25号
25みや宮田亮平 (1)
25みや宮田亮平 (2)
2016-11-29

後藤五郎次・高野宏一郎・市橋藤蔵・恩田耕作・梶原計助・山下峰生・与謝野晶子・津田政明・金子健治・計良美恵子・辻小夜up or 追加up

2016-11-29

津田弘道

「ウィキペディア」より
津田 弘道(つだ ひろみち、天保5年5月4日(1834年6月10日) - 明治20年(1887年)4月14日)

は、幕末の備前国岡山藩士で尊皇攘夷派の志士、明治時代の佐渡鉱山長官、大審院判事、従六位。通称は彦左衛門、英語読みは"Kodo Tsuda"、幼名は万之丞。

・出生から幼少期
天保5年(1834年)5月4日、岡山藩士津田弘和(右太夫)の二男として備前国岡山三番町に生まれる。

津田家初代・長兼(長兵衛)は、淀殿の中臈をつとめた津島局の養子で、千姫(天樹院)に仕え、その娘勝子(円盛院)が岡山藩主池田光政の室となった縁で池田家に仕えることになった。弘道は八代目で8歳の時、父弘和が江戸在勤となったため江戸へ移る。

・幕末期
・西洋流砲術修行
弘道(万之丞)は父により儒者(折衷学派)井上顒斎に入門させられ儒学を学び、やがて高弟となった。 嘉永6年(1853年)8月、弘道(彦左衛門)20歳の時、藩命により幕臣・下曽根金三郎に入門し西洋流砲術を学んだ。同年6月のペリー提督浦賀来航から僅か2ヶ月後のことである。幕府より岡山藩に房総警備(海岸防備)の命が下り、弘道は西洋流大筒御用に任じられ、安政元年(1854年)3月、日米和親条約調印直後に上総国・竹ヶ岡台場の任務に就き、安政5年(1858年)まで務める。
その間、安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政江戸地震(安政の大地震)に遭遇、日記に詳細な記録を残している[1]。

・国事周旋方と長征軍
文久3年(1863年)国元岡山へ帰着。同年親兵(禁闕御守護兵)として京都御所守衛を務める。 元治元年(1864年)6月国事周旋役となり、周旋・探索・外交に当たることになる。7月19日に起こった禁門の変の翌日、長州追討の勅令が発せられ、岡山藩が先鋒を命じられた。藩は「長州の内情を探索し悔悟の念がはっきりすれば周旋すべきである」として、弘道を密使として岩国へ派遣した。津田の長州・安芸探索が備前藩論転換の契機となり、藩の長州支援・征長軍反対の立場が定まった。第一次征長軍尾張総督に対して弘道らは阻止周旋に東奔西走し、西下速度を鈍らせ気勢をそいだ。

・中岡慎太郎・坂本龍馬との接点
諸藩入り乱れての探索・周旋活動が一層盛んとなり、中岡慎太郎・坂本龍馬らと接触・交流したのもこのころである。弘道は京都(元治2年2月12日(1865年3月9日))と岡山城下藤井宿(慶応元年6月15日(1865年8月6日))で中岡・坂本と会談している。会談内容は残されていないが、薩長同盟成立をめぐって地理的・戦略的に重要な位置にある岡山藩として、緊迫した雰囲気で情報交換・駆け引きが行われたに違いない。

・尊皇攘夷
詳細は「尊王攘夷」を参照
文久3年(1863年)2月に尊攘派に推されて第9代岡山藩主となった池田茂政は、水戸藩主・徳川斉昭の九男で、一橋慶喜の実弟にあたるため、勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとって立場を明確にせず、慶応2年(1866年)12月慶喜が第15代将軍になると一切の朝幕間周旋の仕事から身を引いた。
慶応3年4月9日(1867年5月12日)国事周旋方・尊攘派の弘道は新庄厚信らと第二次征長軍に反対し、また藩主茂政に隠居を迫って、万成峠の矢坂台場から岡山城へ大砲の音を鳴らして威嚇する事件を起こした(備前勤皇党決起)。茂政より役目罷免・蟄居謹慎を命ぜられたが、周旋方軍事御用掛・牧野権六郎が執りなして謹慎は解かれた。

・大政奉還建議
慶応3年(1867年)10月探索方となった弘道は京都へ馳せ参じ、大政奉還の舞台裏で立ち働くことになる。同年10月3日(1867年10月29日)、土佐藩は大政奉還の建白書を将軍・徳川慶喜に提出した。これを受けて同月13日(1867年11月8日)慶喜は諸藩重臣を二条城に召集し意見を諮った。薩摩藩・小松清廉、広島藩・辻将曹、土佐藩・後藤象二郎らと共に備前藩周旋方・牧野権六郎(成憲)は家老の代人として大政奉還を将軍に建言した。弘道は牧野との意見交換、国元への報告、他藩への周旋・探索と奔走した。

・明治時代
・神戸事件
詳細は「神戸事件」を参照
事件は戊辰戦争の只中の慶応4年1月11日(1868年2月4日)に起こった。鳥羽・伏見の戦いの1週間後のことである。家老・日置帯刀率いる岡山藩の武装藩兵が、新政府の要請により摂津西宮の警備をするため西国街道を東上していた。兵庫開港にともない三宮から元町周辺は外国人の居留地となっていた。大砲方を含む総勢数百名余の隊列が、道幅の広くない三宮神社付近を通りかかった時、フランス人水兵数名が列を横切ろうとし、これを制止しようとする藩兵との間で小競り合いになった。騒ぎは隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数回にわたり一斉射撃を加えるという事態に発展、生田川の河原で藩兵と米英仏兵との銃撃戦となったが、幸い死者はなく数名の軽傷者で騒ぎは収まった。
西欧列強は岡山藩の行為を諸外国に対する敵対行為とみなし、神戸沖の諸藩の船6隻を拿捕し、外国人居留地を占領した。神戸事件は明治新政権となって初めての外交事件だった。交渉に先立って朝廷は、「開国和親」を宣言した上で明治新政府への政権移譲を諸外国に対して初めて表明した。外交方(探索方改め)の弘道は家老・日置の代人として、国元岡山藩への連絡や、岩倉具視ら新政府当路の者に事件解決方を願って奔走した。
事件の顛末は、国際法「万国公法」を基に、長州藩士・伊藤俊輔(のちの博文)、弘道らの尽力により、岡山藩は諸外国側の要求を受け入れ、永福寺において列強外交官列席のもとで砲兵隊長の滝善三郎を切腹させると同時に部隊を率いた岡山藩家老・日置に謹慎を課す、という諸外国に譲歩した内容であった。事件は攘夷派の岡山藩としては許し難いことで、避けられなかったかもしれない[2]。瀧の切腹[3]を食い止めることができなかった弘道は、挫折感に打ちのめされ総髪(惣髪)をもって自責の意を表した。

・奥羽鎮撫
慶応4年(1868年)4月、弘道は貢士(新政府が諸藩より差出させた代議員)に任ぜられ公議に加わるが3か月余りで辞し、岡山藩外交方に復帰、奥羽鎮撫の命を奉じ戊辰戦争の北征軍参謀として水戸、会津若松と転戦、一旦帰京後、恤兵使(じゅっぺいし)として箱館に遠征した。その間、外交方(のちに応接方)頭取に任命されている。明治3年(1870年)10月岡山藩大属、議院副議長となり藩政改革を推進する。

・もう一つの海外視察団
明治新政府が全国の15大藩に命じて欧米視察させた第1回欧米視察団は、安政条約の改定をめざして半年後に出発した政府首脳からなる岩倉使節団の影に隠れて一般には知られていない。岡山藩からは大参事・香川忠武と大属・津田弘道が選ばれ、随員を除いて総勢18名の視察団は、明治4年5月6日(1871年6月23日)に当時世界最大級の木造蒸気船「アメリカ号」で横浜を出帆、アメリカ、イギリス、フランス、スイス、イタリア、オーストリア、プロイセン、トルコ、エジプト、香港、上海、長崎、神戸を経て明治5年1月29日(1872年3月8日)横浜に帰還した。

一行がベルリン滞在中に「廃藩置県」の報が入り、半数は急遽帰国したが、弘道は予定通り旅行を続けた。米国では鉱山の採鉱・製錬と陪審制度に興味を持って視察し、詳しい旅行記・書簡を残している[4]。この海外視察が津田弘道の大きな転機となった。

・帰朝後
・佐渡鉱山長官
明治5年(1872年)5月工部省鉱山寮に出仕、官業として稼行する価値の有無を探るため、イギリス人鉱山師長ゴッドフレーと共に北関東・東北・北越・佐渡鉱山の点検巡察を4ヶ月かけておこない、洋式溶鉱炉の建設等の改革案を提出した[5]。
明治6年(1873年)7月佐渡支庁主任となり、単身佐渡に赴いた。『佐渡奉行は鉱穴にも入る殿様』といわれるように何事も率先垂範し、外人5人を含む15人の有能な技術者を呼び寄せ、熔鉱炉の新増設、大立堅坑の開削、新製錬方式の導入など佐渡鉱山の近代化に力を発揮した[6][7]。明治7年(1874年)5月、鉱山権助(勅任官)に任じられた。

・大審院判事従六位
明治8年(1875年)4月大審院設置が布告され裁判制度改革(八年改革)の時、弘道は司法省から六等判事従六位に任じられた。巡回裁判に隣席、東京上等裁判所判事、大審院判事、広島裁判所判事、同山口支庁所長代理を歴任した。維新政府首脳の出身地である薩長土は幕藩権力が強く、封建の旧習を固守しており、八年改革後も地方官が裁判権を掌握していた。明治11年(1878年)10月そんな山口支所に弘道は乗り込み、死罪など重罪を多く裁いた。海外視察時サンフランシスコで裁判の実情を見聞した経験が活かされた形だ。

・官職を退き士族授産事業に
明治12年(1879年)12月辞意を決意、全ての官職を離れて岡山六番町で明治5年(1872年)以来の家族揃っての生活を始める。父青翁(弘和)も齢81を数えており、孝養を務めようとしたことも帰郷を決意した一つの理由である、と免官奉願書(辞職願)にある。父弘和は翌明治13年(1880年)4月天寿を全うした。

明治2年(1869年)の版籍奉還により旧武士階級は士族と改められた。藩主が家臣に与えていた俸禄は家禄として新政府に引き継がれたが明治9年(1876年)に全廃された(秩禄処分)。士族の救済政策として士族授産事業が起こり、岡山では元藩主池田家が多く出資して士族授産事業がすすめられた。

・蒸気船会社を経営再建
「偕行会社」は士族授産のために創立された蒸気船会社で、岡山・神戸・大阪間で営業していたが、大阪・神戸間に鉄道が開通した明治7年(1874年)5月以降、経営危機に陥った。弘道は乞われて偕行会社取締役に就任、再建のために奔走することになる。弘道が官界を辞して帰岡した本当の理由はここにあった。幕末・維新期に奔走した岡山・大阪間(ときに東京まで)を慌ただしく行き来する生活が再び始まったのである。偕行会社は池田家および国立第二十二銀行からの融資で経営再建が成った。弘道は1年後に偕行会社を辞し国立第二十二銀行(のちの富士銀行、現みずほ銀行)取締役に就任、士族授産に力を尽くす。その後、偕行会社は発展的に解散して大阪商船(のちの関西汽船、現商船三井)となった。

・八十国押分
明治14年(1881年)1月から明治20年(1887年)4月までの6年余を国立第二十二銀行取締役として勤め、同年4月14日死去。享年54歳。墓所は岡山市半田山にある。
江戸末期から明治維新へと時代が大きく動くときに、その中心近くにいて時に深く関わり、日本中(海外渡航も含めて)を慌ただしく動き回り、多くの人々と交流して、難題を引き受け解決していった。諡(おくりな)は『八十国押分(やそくにおしわけ)弘道』。
なお、弘道の日記・書簡・写真・甲胄・刀剣等の遺品は、津田弘道曾孫家から岡山県立博物館(岡山市北区後楽園1-5)に寄贈された。

・出典
1.^ 石田寛『津田弘道の生涯 ― 維新期岡山藩の開明志士 ―』吉備人出版(2007)p65-67
2.^ 大野敏明『切腹の日本史』実業の日本社(2013)p109-114
3.^ 国際ニュース事典出版委員会『The Times 1868.5.7 ― Harakiri(ハラキリ) ―』(外国新聞に見る日本第1巻)毎日コミュニケーションズ(1989)p442
4.^ 石田寛『津田弘道の生涯 ― 維新期岡山藩の開明志士 ―』吉備人出版(2007)p277-281
5.^ 森 一欽『海図第1号「陸中國釜石港之図」と釜石2』(水路・第159号)日本水路協会(2011)p21-27
6.^ 小村弌『越後佐渡の史的構造』小村弌先生退官記念論文集,(1984)p692
7.^ 色川大吉監修『官営佐渡鉱山-図説 新潟県の歴史』図説 日本の歴史;15,(1998)p204

・参考文献
石田寛:津田弘道の生涯 ― 維新期岡山藩の開明志士 ―.吉備人出版,岡山,2007.
Hiroshi ISHIDA: A life history of Kodo Tsuda An Englightened patriot(1834-1887)of the Bizen Daimiate,Introductory remarks and part one.Hiroshima University Studies 1975;35:91-119.
岡山県立博物館『津田弘道家資料』
岡山大学池田家文庫
妹尾裠編:備前岡山人名彙海.同書刊行会,1933.
坂本保富:土佐藩「徳弘家資料」から見た幕末期の日本-軍事科学を媒介とした洋学の普及拡大過程-.坂本保富研究室研究報告書;4,信州大学,2005.
アーネスト・サトウ著、坂田精一訳:一外交官の見た明治維新・下.岩波書店,東京,1947.
内山正熊:神戸事件―明治外交の出発点.中公新書,中央公論社,1983.
国際ニュース事典出版委員会:The Times 1868.5.7 ― Harakiri(ハラキリ) ―.外国新聞に見る日本;1,毎日コミュニケーションズ,東京,1989.
岡山の幕末のサムライ(其ノ一).F&A;45,富士印刷,岡山,2008.
大野敏明:切腹の日本史.実業の日本社,東京,2013.
工部省沿革報告.大蔵省,1888.
麓三郎:佐渡金銀山史話.三菱金属鉱業,1956.
日本鉱業史料委員会:津田弘道日記・阿部知己清記録等.日本鉱業史料集第四期明治篇上,白亜書房,東京,1983.
小村弌:越後佐渡の史的構造.小村弌先生退官記念論文集,小村弌先生退官記念事業会,1984.
色川大吉監修:図説 新潟県の歴史.図説 日本の歴史;15,河出書房新社,東京,1998.
いわき市史編さん委員会編:いわき市史 別巻 常磐炭田史.いわき市教育文化事業団,1989.
相川町史編纂委員会編:佐渡相川郷土史事典.相川町,2002.
佐渡市教育委員会編:旧佐渡鉱山近代化遺産建造物群調査報告書.佐渡市,2007.
森一欽:海図第1号「陸中國釜石港之図」と釜石2.水路;159,日本水路協会,2011.
半澤周三:大島高任 ― 日本産業の礎を築いた近代製鉄の父.PHP研究所,京都,2011.
2016-11-29

津田仙


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「ウィキペディア」より
天保8年7月6日(1837年8月6日) - 明治41年(1908年)4月24日)は、日本の農学者、キリスト者。学農社創立者。青山学院大学・筑波大学附属盲学校の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、“キリスト教界の三傑”とうたわれた。明六社会員。娘に、後に津田塾大学創設者となる津田梅子がいる。

(経歴)
佐倉城内に生まれる。父は下総国佐倉藩、堀田氏の家臣小島良親(善右衛門)3男に生まれる。幼名は千弥。嘉永4年(1851年)、元服して桜井家の養子となる。文久元年(1861年)に津田家の初子と結婚し婿養子となる。
15歳で佐倉藩藩校、成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で学び、藩主堀田正睦の洋学気風もあり、藩命でオランダ語、英語の他、洋学や砲術を学ぶ。安政2年(1855年)に出仕し、江戸では蘭学塾へ入門し、森山栄之助の下で英語などを学ぶ。文久元年(1861年)外国奉行の通訳として採用された。慶応3年(1867年)、小野友五郎が幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されるのに、福澤諭吉、尺振八の3人が通訳として随行する。
明治維新が成ると官職を辞して、明治2年(1869年)には築地の洋風旅館、築地ホテルに勤め、西洋野菜の栽培などを手がける。明治4年(1871年)には明治政府が設立した開拓使の嘱託となり、女子教育に関心のあった開拓次官の黒田清隆が、政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘の梅子を応募する。使節団が出発した翌月には開拓使を辞職。民部省に勤めたのち、明治6年(1873年)には、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席する佐野常民(日本赤十字社の創設者)の書記官として随行。オランダ人農学者のダニエル・ホイブレイクの指導を受け、帰国後の明治7年(1874年)5月に口述記録をまとめて『農業三事』として出版した。仙がウィーン万博から持ち帰ったニセアカシアの種子は、その後明治8年(1875年)に大手町に植えられ、これが東京初の街路樹となった。明治8年(1875年)1月、米国メソジスト監督派教会のジュリアス・ソーパー宣教師によりメソジスト派信者として妻の初と共に洗礼を受ける。また,古川節蔵らと共に盲聾唖者の教育のため楽善会を組織する。明治9年(1876年)には東京麻布に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版などを事業とする学農社を設立、その一環として農学校も併設した。キリスト教指導も行う。学農社雑誌局発行の「農業雑誌」で、明治9年(1876年)にアメリカ産トウモロコシの種の通信販売を始め、これが日本で最初の通信販売といわれている。同年には、栗原信近に招かれワイン醸造技術指導のため甲府を訪れている。
足尾鉱毒事件では田中正造を助け、農民救済運動に奔走した。明治30年(1897年)には事業を次男に譲り引退、鎌倉で過ごす。明治41年(1908年)、東海道本線の車内で脳出血のため71歳で死去。葬儀は青山学院の講堂で行われた。
死後、内村鑑三や新渡戸稲造らは追悼文を発表し,仙の事業を讃え、仙を「大平民」と呼んだ。墓所は青山墓地。

(学農社)
1875(明治8)年9月1日,麻布東町23番地に学農社を開業した。 「農業雑誌」の発行,農学校の経営, 1877(明治10)年,麻布新堀町2番地西に移転。 1898(明治31)年,仙引退。次男の次郎社長引き継ぐ。 1916(大正5)年7月,宇喜多秀穂社長引き継ぐ。

(学農社農学校)
1875(明治8)年9月1日,麻布東町23番地に学農社農学校を設立した。 農園が麻布年本村町178番地。 教員1,学生12。 本科3年,予科・別科年限無し。 学内で日曜学校を開催し,フルベッキ,ジュリアス・ソーパー等を講師に招いた。 1876(明治9)年7月,農園内に新校舎落成。 教員7名,学生35名。
1875(明治8)年,学生12名。 1876(明治9)年,学生35名。 1877(明治10)年,学生53名。 1878(明治11)年,学生70名。 1879(明治12)年,学生145名。 1880(明治13)年,学生167名。 1881(明治14)年,学生175名。 1882(明治15)年,学生80名。 1883(明治16)年,学生43名。 1884(明治17)年,学生25名。
1884(明治17)年12月,閉校。

(教師)
上野栄三郎 内村鑑三 岡田松生 海部忠蔵 窪田義衛 元良勇次郎 中川久和 中島力造 山本亮吉 渡辺譲三郎

(学生 中退者含む)
足立五郎作 綾田桃三 井川岩太郎 池田作次郎 池田次郎吉 磯村貞吉 巌本善治 宇喜多秀穂 大竹義道 岡田鳴三郎 奥山藤三郎 片寄俊 古河喜三郎 近藤賢三 坂本理一郎 十河理喜蔵 高千穂宣麿 滝七蔵 立花寛治 田沢耕 橘仁 田中助 田中宏 玉利喜蔵 豊永真里 新原俊秀 西村規矩 新渡戸道郎 野沢小次郎 平野師応 福羽逸人 古田喜一 古市与一郎 古東英一 前田吉太郎 丸岡重五郎 水島義生 三田義正 三輪振次郎 村井経次 山田登代太郎

(農業雑誌)
1876(明治9)年1月10日創刊。 1920(大正9)年7月,1221号まで。 創刊号の表紙裏にジョージ・ワシントンの言葉を英語とその漢訳で掲げた。

Agriculture is the most healthful, mostuseful and most noble employment of man.

農者,人民職業中,最健全,最尊貴,而最有益者也

(著書)
『農業三事』
『農業新書』(学農社)
『酒の害』(学農社雑誌局)

(参考文献)
キム・ムンギル 『津田仙と朝鮮 朝鮮キリスト教受容と新農業政策』 世界思想社、2003年2月。ISBN 4-7907-0976-0。
高崎宗司 『津田仙評伝』 草風館、2008年3月。ISBN 978-4-88323-180-5。
都田豊三郎 『津田仙 明治の基督者 伝記・津田仙』 大空社〈伝記叢書341〉、2000年12月。ISBN 4-7568-0922-7。
山崎孝子 『津田梅子』 吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1988年6月。ISBN 4-642-05122-8。

「島の新聞」
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2016-11-29

津田政明

「藤原和博のよのなかnet」より
20代30代は気の向くままに海外を放浪して過ごす。最も長く滞在したニューヨークのハーレムで、あるときホームレスシェルターでの“サンクスギビングディナー”を手伝うことに。2日間徹夜で働いて1000食分を調理しホームレスたちに振る舞い、最後は参加した皆で抱きあい涙するほどの感動を味わう。このときの深い体験が心の礎となり、その後、世界のどこに滞在しても、必ず貧困地域での奉仕活動を実践するようになる。90年に初めてアフリカを訪れ、世界で最も貧しいエリアであることを実感すると、活動の拠点はもっぱらアフリカに。94年ルワンダに内戦が勃発してからは、難民キャンプでの支援活動に始まり、ルワンダ国内で失われた音楽を取り戻す「音楽による平和活動」などを継続。以来、ルワンダ語で“平和”を意味する『あまほろ』を名乗っている。
一方、日本国内でも現代社会難民とも言える野宿者を支援。
「住まいの目と鼻の先にある新宿中央公園に住むおじさんたちを見ながら、この豊かな日本でなぜ?同じ人間なのに…という思いでした。不況の折、野宿者は増える一方で、今では東京都内に6000人、大阪は10000人に達するほど。政府、行政の対策は無きに等しく、民間団体がサポートしているのが現状で、僕も98年春から毎朝お茶を出し始め、今では週3回の炊き出しと衣類、日用品の配付を行っています。ある寒い朝、『この冬、路上死が出なかったのは、この炊き出しのおかげだよ』とおじさんに言われ、嬉し涙が溢れました」
今年1月より“新宿530(ごみゼロ)部隊”を結成し、野宿者たちによる町内の清掃を実施したところ、周囲の人々の見る目も違ってきた。目下、野宿者たちの自立を目指した“便利屋”も計画中。
「アフリカで教えられたのは『心の豊かさ』。それに引き換え今の日本を覆う『心の飢餓』は、より深刻な問題ではないでしょうか。先に進むことをひと休みして、考えるべき時だと思います。『世界中すべての人々が、必要十分な衣食住を得て幸せに暮らせるようになること』が私の夢です」
地道な活動の一歩一歩がよのなかを、そして宇宙を変えていく。

『ボランティア オヤジ』
第1章 新宿難民キャンプ
第2章 ロックと女と米軍基地
第3章 ジョン・レノンの死
第4章 ロサンゼルスで運命の出会い
第5章 ミスター・ピースと呼ばれて
第6章 新宿、「530部隊」誕生!
第7章 ルワンダ難民キャンプ
第8章 再び、ルワンダへ
第9章 ニューヨーク、そして新宿
第10章 ボランティアオヤジ走る!

「神奈川新聞」
つだ津田政明

つだ津田政明 (2)

つだ津田政明 (3)

諸情報
2016-11-29

津田政明 金子健治 計良美恵子 辻小夜

「島の新聞」25号
25つだ津田政明 金子健治 計良美恵子 辻小夜 (1)

25つだ津田政明 金子健治 計良美恵子 辻小夜 (2)

25つだ津田政明 金子健治 計良美恵子 辻小夜 (3)

25つだ津田政明 金子健治 計良美恵子 辻小夜 (4)

2016-11-29

山下清

やま山下清 (1) やま山下清 (2) やま山下清 (3) やま山下清 (4) やま山下清 (5) やま山下清 (1) やま山下清 (2) やま山下清 (3)
やま山下清 - コピー
『昭和の佐渡綴り』(清水薫 2011年)
やま山下清 (2)

やま山下清 (1) やま山下清 (1) やま山下清 (2) やま山下清 (2) やま山下清 (3) やま山下清 (3) やま山下清 (4) やま山下清 (4) やま山下清 (5) やま山下清 (6) やま山下清 (8) やま山下清 (9) やま山下清 (10) やま山下清 (11) やま山下清 (12) やま山下清 (13) やま山下清 (14) やま山下清 (15) やま山下清 (16) やま山下清 (17) やま山下清 (18) やま山下清 (19) やま山下清 (20) やま山下清 (21) やま山下清 (22) やま山下清 (23) やま山下清 (24) やま山下清 (25) やま山下清 (26) やま山下清 (27) やま山下清 (28) やま山下清 (29) やま山下清 (30) やま山下清 (31) やま山下清 (32) やま山下清 (33) やま山下清 (34) やま山下清 (35) やま山下清 (36) やま山下清 (37) やま山下清 (38) やま山下清 (39) やま山下清 (40) やま山下清 (41) やま山下清 (42) やま山下清 (43) やま山下清 (44) やま山下清 (45) やま山下清 (46) やま山下清 (47) やま山下清 (48) やま山下清 (49) やま山下清 (50) やま山下清 (51) やま山下清 (52) やま山下清 (53)

昭和36年来島時、正明寺を訪問。後列右端が親戚の本多さん(佐渡農高教諭)、前列左が本多さん奥様、右が山下清氏母か? 撮影場所はシンミセ古藤家庭。
やま山下清 (7)

やま山下清 (2)

「島の新聞」(2号 平成18年8月)
やま山下清

やま山下清 (5) やま山下清 (6)

平成27年4月29日確認
やま山下清

平成26年6月確認
やま山下清 (2) やま山下清

記念碑(正明寺「国見荘」)
やま山下清

『家族が語る山下清』

・はじめに
「ここのところの色はもう少し濃いほうがいいんだな」
 こう言ってよくアドバイスしてくれたのは、私の叔父・山下清です。
 私が小学生のころの夏休みの宿題はいつも貼り絵でした。
 相手が誰であろうと合わせることができずマイペースをくずさなかった叔父は、人に#教える$ということを極端に嫌っていました。ですから、叔父のもとに美術大学の学生などが弟子入りの志願に来ると、ことごとく断ってしまい、生涯を通じて弟子をとることはありませんでした。
 それを考えると、叔父から直接貼り絵の指導をうけていた私は、山下清の唯一人の弟子といえるかもしれません。
 画家・山下清、そして彼を終生かわらぬ愛情によってささえた母親・ふじ、弟の辰造、辰造の妻・礼子。私にとってはそれぞれ叔父、祖母、父、母という人たちです。あとから加わった私・浩と私の弟・茂が山下家のメンバーです。
 叔父から教えられたこと、学んだことはたくさんあります。そのなかで今も強く心に残るのは「あるがままの自分に正直に生きよ」ということです。このことは、本書を読み進んでいただければ、読者の皆さまも感じていただけるのではないかと思っています。

・四九歳という若さで人生の幕を引いた山下清――。
 人は彼を「放浪の天才画家」と呼んでいました。
 放浪中のできごとについては、これまでいろいろな書籍やテレビドラマ、あるいは映画などによって、おもしろおかしく紹介されてきました。しかし、どれも知的障害者としての山下清像が先行しすぎているのです。そのイメージのもとに絵画作品も批評されていることは非常に残念です。
「兵隊の位になおすと……」という流行語まで生み出したり、奇妙な言動で笑いを誘い、映画やテレビドラマを通じて広く知られた山下清像が、まったく実像とかけはなれているとは言いませんが、家族だけが知るもう一人の山下清がいたこともまた事実です。
 人並みはずれた記憶力の持ち主で、超がつくほどの几帳面な性格。作品を制作するときも、自分で決めた作業時間を忠実に守ります。
 また、いたずらが大好きで、負けず嫌い。相手が子供といえども絶対に手を抜かず、トランプでも何でも自分が勝つまでやめません。
 放浪時代は着の身着のままの姿でしたが、ほんとうはたいへんオシャレで服装にも気をつかっていました。マスコミにその言動が注目されるようになると、自分がどう扱われているかとても気にするナイーブな一面もありました。
 自分の体を大切にするあまりいろんな健康法をつぎつぎと試してわけがわからなくなったり……。叔父が大嫌いだったサインをしてくれたおかげで、家族全員が飛行機事故に合わないですんだ、などということもありました。
 ほんとうの山下清を知ってほしい。そうすれば叔父の作品もまたちがった角度から見てもらえるのではないか――。そんな家族の思い、願いから一冊の本にまとめてみました。
 叔父が残したかずかずの作品は、見る人たちになにかあたたかいものを感じさせる貴重な作品として評価されています。
 私たち遺族は、次の世代の人びとにも作品を見てもらえるように、作品の保存に力を注いでいます。
 劣化した作品の修復作業などをはじめ、近年にわかに表面化してきた贋作問題など、山下清の名を汚さないことを念頭において対応しています。
 なぜそこまでしなければならないのか――。
 そうしなければ、いままで叔父の作品に対して、数多くの人たちからいただいた評価、あるいは鑑賞していただいた方々の純粋な気持ちというものがすべて台無しになってしまうからです。
 そのため私たちは、叔父の作品を未来永劫つたえていけるようできるかぎりのことをしていく覚悟です。
 本書では、これまで表面には出なかった、家族しか知らないさまざまなエピソードを紹介しながら、もう一つの山下清像に迫っていきたいと思います。

・目  次
 はじめに
 第1章 天才画家・山下清 11
   日本を代表する素朴画家 11
   驚異的な記憶力 14
   絵を描くための放浪ではない 17
   貼り絵に生かされた虫捕り 21
   清の弟子は生涯ただ一人 24
   素描画や陶磁器の絵付け作品 28
   百貨店を超満員にした清 34
 第2章 放浪の果てに 36
   新たな放浪への旅立ち 36
   姿を消したほんとうの理由 40
   徴兵を逃れ、ふたたび放浪へ 42
   放浪中は住み込みで働いたことも 47
   貼り絵との出会い 50
   一躍有名人になった放浪画家 53
  「ゴッホなんて知らない」 56
   全国くまなく歩いた清 59
  「もう放浪はしません」 63
   どこに行っても見つかる清 66
 第3章 素顔の山下清 69
   おもしろいことを言うと、みんなが喜ぶ 69
   少しならうそはついてもいい 72
   辰造と礼子の結婚 75
   イタズラ好きな清 80
   超がつくほど几帳面な性格 82
   人には見せなかった負けず嫌いな一面 84
   動物に好かれるニオイがする 86
   魚釣りの名人? 88
   なんでも試す清の健康法 91
   清の最大の楽しみ 96
   忘れてならないことは「清に頼め」 98
   有名人・山下清 99
   清の女性観 103
   外出するときはベレー帽 106
   家族旅行で仕事から逃避 109
   大嫌いなサインで命拾い 112
 第4章 山下清交遊録 116
   映画やテレビドラマ化に戸惑う 116
   テレビのバラエティーショーに二年間出演 123
   山下清を発掘した人たち 126
   式場隆三郎先生との出会い 128
   「週刊朝日」で徳川無声氏と対談 130
   芸術家から見た人間・山下清 135
  「絵が売れればゴッホも死ななかった」 139
   ゴッホとの共通点 142
   ゴッホに涙? 147
   山下清の絵にすくわれた人たち 148
 第5章 晩年の山下清芸術 152
   ヨーロッパへのスケッチ旅行 152
   キャンバスにおさまらなかった大作 156
   ライフワークとしての『東海道五十三次』 157
   最後のことば 161
   再評価される『東海道五十三次』 166
 第6章 次代に伝える山下清の作品 170
   教育の現場に役立つ 170
   全国各地を放浪する遺作 173
   表面化した贋作問題 174
   二十一世紀にひきつぐための修復作業 183
  あとがき 187
   山下清の年譜と主な作品 189
あとがき
 大正に生まれ、戦前、戦後、そして高度経済成長期という、あわただしい時代を一気に駆け抜け、四九歳で生涯を閉じた叔父・山下清――。
 まるで大好きな花火のように、一瞬のきらめきを放って消えていったようです。しかしその一瞬のきらめきは、花火と同様に人びとの心に永遠に刻まれています。
 本能の赴くままの旅のなかで山下清が求めたものは、「絵を描くため」でも「きれいな風景を見るため」でもなく、何もしないで「ぼーっ」とできる時間でした。この「ぼーっ」としている時間こそ、山下清の世界だったのです。
 そのそも、山下清の世界とは、我々の住む社会とは無縁だったのかもしれません。山下清は自由奔放に生きた自由人であったからこそ、殺伐とした現代社会とは無縁な「あたたかい」「ほのぼのとした」存在として多くの人びとの心に生きているのでしょう。
 いま山下清は、大好きだった富士山のなかの富士霊園で永遠の眠りについています。墓碑には「みんなの心に生きた山下清」と刻まれています。
 この本を出版するにあたって、ご協力いただいた方々、また叔父が放浪中にかかわったすべての人びとに感謝いたします。
 平成一二年六月 山 下 浩

山下 浩(やました・ひろし)
昭和35年、山下清の実弟・辰造の長男として東京に生まれる。中央大学法学部卒業。昭和46年に叔父・山下清が亡くなるまで同居。山下清から貼り絵の指導も受ける。平成7年、「山下清鑑定会」を設立し、山下清の作品および著作権の管理と、作品鑑定をおこなう。著書に『山下清作品集』がある。

山下清の作品鑑定についての連絡先は株式会社西邑画廊(電話03-3278-1420)。山下清作品集の購入および展覧会開催の日程等についての問い合わせは、株式会社ダイレクトネットワーク(電話03-3438-3668)。

「テレビドラマとは違う!?山下清の素顔」 (memeko07さん)

【山下清】テレビで見るのと違う山下清の一面をまとめました

現:東京都台東区日本堤)に、大橋清治・ふじの長男として生まれる。
翌年には関東大震災によって田中町一帯が焼失すると、両親の郷里である新潟県の新潟市(現:中央区)白山に転居する

・幼少期
 3歳の頃に重い消化不良で命の危険に 出典山下清 - Wikipedia
 一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患う
・温厚な性格 出典aboutus
 温厚な性格の清は、子供たちからの虐めには取り合わず、虫取りや家にこもって絵を描くなどの孤独な毎日を過ごしていましたが、虐めがエスカレートするようになり、ついに暴力沙汰を起こすようになっていきました
・級友のいじめに遭い、その際ナイフで級友を傷つけた 出典山下清とは - はてなキーワード
 小学生の頃、級友のいじめに遭い、その際ナイフで級友を傷つけたため、千葉県市川市の知的障害者養護施設 八幡学園に収容される。この八幡学園で清はその才能を開花させていく。
・復讐をしたり園内や近くの畑で盗みをする 出典放浪の天才画家 山下 清 :: おきらく日記 あらため おとぼけ日記|yaplog!(ヤプログ!)byGMO
 意地悪な園児の学用品や衣類を隠したり川に投げたりといった復讐をしたり園内や近くの畑で盗みをするといった
行動も見られた
・山下清を名乗るようになる 出典山下清 - Wikipedia
 1934年(昭和9年)の春、夫が不在の間に母ふじが清を含む子供3人を連れて北千住(足立区千住)の木賃宿へ逃れるも、生活の困窮で、すぐに杉並区方南町(現:杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。この頃に母ふじの旧姓である山下清を名乗るようになる
かけ
・山下清が放浪に出た理由は「学園生活の飽き」 出典aboutus
 さらに放浪を続ける原因となったのが「戦争出征回避」でした。しかし、もっと根底にあったものは自由でいたいという願望でした。
・もうじき兵隊検査があるので 出典aboutus
 清の日記には、「もうじき兵隊検査があるので もし甲種合格だったら兵隊へ行ってさんざんなぐられ戦地へ行ってこわい思いをしたり 敵のたまに当たって死ぬのが一番おっかないと思っていました」と書かれています。
・自由でいたいという願望 出典aboutus
 清の放浪生活は、暑い季節は北へ、寒くなってくると南下するといった、まさに本能の赴くままの旅です。そして、この放浪で清が求めたものは、何もしないで「ぼやっ」としている時間であり、この「ぼやっ」としている時間こそ、清の自由な空間だったのです。
・人並みはずれた記憶力 出典家族が語る山下清
 放浪先で絵を描きながら人と触れ合っていくと言う感動を与えるようなストーリーだった事を覚えていますが、実際はほとんど絵を描いていなかったのです。山下清は、旅先で見た風物を脳裏に鮮明に記憶して、実家や八幡学園へ帰ってから、そのイメージを描いた物でした。数ヶ月間、時には数年間の放浪生活から帰った後、その脳裏に焼きついた風物を鮮明に再現したといわれます
・超が付くほどの几帳面な性格 出典家族が語る山下清
 作品を制作するときも、自分で決めた作業時間を忠実に守ります。
 また、いたずらが大好きで、負けず嫌い。相手が子供といえども絶対に手を抜かず、トランプでも何でも自分が勝つまでやめません。
・本当はとてもおしゃれ 出典IN MY ROOM:本当におにぎり好きだったのかな?
 放浪時代は着の身着のままの姿でしたが、ほんとうはたいへんオシャレで服装にも気をつかっていました。マスコミにその言動が注目されるようになると、自分がどう扱われているかとても気にするナイーブな一面もありました
・放浪中にぶらりと学園に戻ってきたときに、毎日貼絵をした 出典文学にみる障害者像-『山下清の放浪日記』
 毎日の作業として課せられていたのである。夕食後の日課として、千字の文字を書いて先生に見てもらう。そうしないと床に就けない。寝るために彼は懸命に思い出して書いたのだろう。貼絵を作り、日記を書くと、彼の頭の中には次に逃げる計画が、盛り上がってくるのだった

2016-11-29

後藤五郎次

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文政十年生 政党史では五郎治、舟代村、酒造業 ・明1、第一回の選挙[十二年七月][新潟縣会の巻]・明1、第二回の選挙[十三年十月][新潟縣会の巻]・明2、第六回選挙[二十一年一月]・明3、鵜飼の送別会[二十五年三月十九日]・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]・明3、衆議院議員臨時選挙[三十年十一月四日] 「佐渡関係事典に載る」

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
ご後藤五郎次

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
ごと <br>後藤五郎次

ごと <br>後藤五郎次 (2)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
文政十年(一八二七年)一月に佐渡郡新穂村舟下で生まれた。明治二十七年九月一日の衆議院議員に当選し、三十年十月に在任中なくなった。六十九才であった。教育の振興、相川鉱山の開発に力を尽くした。(概観佐渡、佐渡人名辞書)

「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)

→後藤呉山

『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の和歌のグループは所々にあったらしい。河原益斎も河原浪江(?~一七九六)も舟下後藤守黒(-七八六~一八二七)守黒の子宗蔵(一八〇六~一八六一)同二男文中(一八〇八~一八五五)宗蔵の子五郎次も和歌を能くし、同家には現在も多くの歌稿がされている。辻守遊も、その子守継、その子守稠、守寿その子守富も和歌や連歌を能くしたと伝えられる。

「島の新聞」22号
22ごと後藤五郎次 (3)
2016-11-29

伊藤赤水

五代目
いと伊藤赤水 五代

初代
いと伊藤赤水 初代

h290322
いと伊藤赤水 h290322 (1)
h290412
いと伊藤赤水 h290412

h29年3月30日
いと伊藤赤水h290330

いと伊藤赤水 h290322

「島の新聞」22号(by 松本秀雄)
22いと伊藤赤水 (4)

「伊藤赤水」HPより
(五代・伊藤赤水の生い立ち)
本名は、伊藤窯一(よういち)。1941年(昭和16年)6月に赤水窯の長男として誕生。五代が生まれるとすぐに父親の四代は出征し、五代が5歳のときに戻ってきました。戦争で陶磁器が低迷しているなか、窯の仕事を軌道にのせるためしゃかりきに働く四代に、子供を構う心の余裕はなかったのでしょう。祖父の三代に連れられて仕事場に行くと「仕事場には来るな」と言われていました。そのため、五代は19歳になるまで、四代の仕事を見ていましたが、ほとんど土に触ることはありませんでした。大学は、父親の母校でもあり、将来は窯の跡を継ぐために工房経営と芸術の両方を学びたいという五代の希望にも合った、京都工芸繊維大を受験しました。東京で浪人をしていた1961年(昭和36年)12月に父親(四代)が急死。その打撃は大きなものでした。将来に悩んでいた大事な時期だったこともあり、身近に相談ができ、アドバイスをしてくれる人が亡くなったこと、家業を存続させることへの心配などもありました。翌年、京都工芸繊維大学工芸学部窯業工芸学科に合格。赤水窯の経営は三代に任せ、大学へ。家業を継ぐ決意を固めていた五代は、大学にやきもの作りに即役立つ講義を求めていました。しかし、陶芸に直接役立つ講義はほとんどなかったため、講義は欠席がちになりました。しかし、この大学時代の4年間に、洗練された京都の空気を吸ったことは、その後の作風に影響し、個展で「京都らしい」と評されるようになりました。1966年(昭和41年)に大学を卒業し、佐渡に戻った五代は、「轆轤を引けなければ話にも仕事にもならない」と覚悟を決め、当時赤水窯で働いていた熟練した従業員の技術を見よう見まねで学び、日夜轆轤を引いて練習を重ねました。全国レベルの展覧会に出品するようになったのは、佐渡に戻って3年たった、1969年(昭和44年)からです。無名異の伝統を生かすため、「日本伝統工芸展」に出品するようになりました。初入選したのは、出品4年目のことでした。作品は、当時「不良品」とされていた窯変の壷です。五代は、無名異の赤を生かすためには釉薬を使わない焼締めがいいだろう、赤一色よりも別の色を配したほうがいいだろうとの考えから、炎の当り方によって黒がはいる「窯変」にたどり着いたのです。この初入選の連絡は、2003年(平成15年)に、重要無形文化財保持者の認定の連絡を受けたときよりもうれしかったということです。歴史を背負い、つなげるタスキ伊藤家の祖先が佐渡にきて300年あまり。その間、途切れることなくやきもの作りに携わってきている家の歴史を、五代・伊藤赤水は重く受け止めています。自分の代で終わることは出来ないという歴史の重さを感じます。これまで築き上げられたものを自分が受け継ぎ、次の世代に渡さなければいけない。言ってみれば、ぼくは終わりのない駅伝競走で一区間を走るランナーのようなものです。
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「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八三八-一八九九)(居住)一町目(現在の赤水家)陶芸家。伊藤家の先祖は、南沢で羽口の製造を業としていた。分家した初代赤水家の先祖は下戸町から移り、陶業を始める。素焼きから、明治三年、煉瓦焼きに移る。そのご、常山に次いで、無名異土の朱・紫泥焼きに成功し、全国の博覧会で受賞する。煉瓦の製造は、本業として続ける。「赤水」の号は、円山溟北によると言われる。明治三十一年から用いる。中国風の南画の浮き彫りに優れていた。現在の当主は五代目で、重要無形文化財技術保持者。新しい境地に挑戦している。
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「ウィキペディア」より
日本の陶芸家であり、江戸後期から続く無名異焼窯元、赤水窯の代々が襲名する名称。弘化(1844年−1847年)に先祖にあたる伊藤甚兵衛が、佐渡特有の「無名異」と呼ばれる土を作陶に用いたのが無名異焼の創
始である。2006年現在、五代伊藤赤水(1941年6月24日 - )が当代であり、2003年に人間国宝に認定されている。

(五代略歴)
新潟県佐渡郡出身。四代目赤水の長男として生まれた。本名は窯一。1966年に京都工芸繊維大学工芸学部窯業工芸学科を卒業後、三代である祖父に師事し無名異焼の技術を学ぶ。1972年に日本伝統工芸展に入選。以降、日本陶芸展、伝統工芸新作展等に入選。1976年に五代赤水を襲名。更なる技法の研究と錬磨につとめた。1981年米国国立スミソニアン博物館、英国国立ビクトリア・アンド・アルバート美術館で開催された「日本現代陶芸展」に招待出品され、世界的にもその名が知られることとなる。1985年、日本陶芸展で最優秀作品賞である秩父宮賜杯を受賞。1993年には、皇太子妃の成婚を祝し、新潟県から皇太子妃の実家である小和田家へ「無名異窯変壺」が祝い品として寄贈された。2003年7月10日、工芸技術としての「無名異焼」が重要無形文化財に指定され、その保持者(いわゆる人間国宝)として伊藤赤水が認定された。色の違う土を重ねて巻きずしのようなものを作り、それを輪切りにした断面を並べて皿や壺の形を作る「練り上げ」という技法を用いる。独特な縞模様や花紋が伊藤赤水の特色である。
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新潟県佐渡郡出身。四代目赤水の長男として生まれた。本名は窯一。1966年に京都工芸繊維大学工芸学部窯業工芸学科を卒業後、三代である祖父に師事し無名異焼の技術を学ぶ。1972年に日本伝統工芸展に入選。以降、日本陶芸展、伝統工芸新作展等に入選。1976年に五代赤水を襲名。更なる技法の研究と錬磨につとめた。1981年米国国立スミソニアン博物館、英国国立ビクトリア・アンド・アルバート美術館で開催された「日本現代陶芸展」に招待出品され、世界的にもその名が知られることとなる。1985年、日本陶芸展で最優秀作品賞である秩父宮賜杯を受賞。1993年には、皇太子妃の成婚を祝し、新潟県から皇太子妃の実家である小和田家へ「無名異窯変壺」が祝い品として寄贈された。2003年7月10日、工芸技術としての「無名異焼」が重要無形文化財に指定され、その保持者(いわゆる人間国宝)として伊藤赤水が認定された。色の違う土を重ねて巻きずしのようなものを作り、それを輪切りにした断面を並べて皿や壺の形を作る「練り上げ」という技法を用いる。独特な縞模様や花紋が伊藤赤水の特色である。
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「佐渡市HP」より
【伊藤赤水】1941年、旧相川町出身。1966年に京都工芸繊維大学窯業科を卒業後、帰郷。1977年に五代・赤水を襲名する。1972年に日本伝統工芸展に入選して以来、国内の展覧会などで数多く受賞。多くの海外店にも招待出品されている。2003年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。1968年頃から制作を始めた「窯変」は、炎の当て方によって生まれる赤と黒の色合いの妙を表現した作品。また、1984年から手がける「練上」は、独特な線状紋や美しい花紋は配した作品で、繊細で華やかな表現力が見るものを惹きつける。芸術の島、佐渡。そう呼びたくなるほどに、この島は多くの芸術家を輩出してきた。絵画、陶芸、鋳金、彫刻、版画、書…。様々なジャンルに生まれた芸術家たちは、佐渡の何によって生まれたのだろうか。無名異焼(むみょういやき)は、佐渡金山の坑中から算出される鉱土「無名異」を原料として、200有余年焼き継がれている佐渡固有の焼き物である。江戸・天保年間から続く赤水窯は、無名異陶芸の始祖といわれる伊藤家が開いた伝統窯。初代・赤水から引き継がれてきた伝統を今に繋ぐのが、五代目となる伊藤赤水氏である。「無名異焼」の魅力は何かとよく聞かれますが、それは見る人が感じることなので自分ではわかりません。では、どうしてこの仕事をしているのか・・・。それは200年続いてきた家業を次の世代へつないでいくことが、私に課せられたことだと思っているからです」。そう語る赤水氏は、これまで家業としての無名異焼を尊重しつつ、独創性にあふれた作品の制作を追及してきた。その中で生み出されたのが、炎の当て方で色を変化させる「窯変(ようへん)」と、色の異なる土を何層も重ねてパーツをつくり、それを組み合わせて紋様を描き出す「練上(ねりあげ)」の二大技法。どちらも無名異焼の新たな世界を創造した芸術作品だ。赤水氏がろくろを回し始めると、赤い土の塊が命を吹き込まれたかのようにひとつの形になってゆく。気迫に満ちたその姿は、まさに土との真剣勝負だ。「ものを作る上で一番大きなファクターは、作る人間のトータルパワー、人間性だろうと思っています」。魅力的な作品を作ろうと一生懸命に打ち込んだ結果として、人を魅了する作品が生まれるのだという。こうして佐渡で40年に渡り無名異と格闘してきた赤水氏は、「全てが東京で決まる今の日本で生き残っていくためには、佐渡に生きることを肯定し、佐渡固有のファクターをいかすことこそ大切なこと」と語る。無名異という佐渡特有の素材で独自の表現を生み出し、国内外で勝負をしてきた赤水氏だからこその実感なのだろう。「時代の息吹を感じ、よりチャーミングな作品を創ることに心を砕いていきたい」。時代を感じ、自信の人間力を注ぎ込む。佐渡からの魅力的な作品を発信するために、赤水氏の独自の美の世界の追求は、留まることなく続くのである。

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤赤水

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
あたる。父の雲仙流に独自の色彩を加えた彫刻は注目され、博覧会展覧会に出品して入賞している。
各宮家お買上げの栄に浴した。(佐渡名艦)

(渡辺注)「越佐人物誌」の著述に不備がある。

「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)

h290309 伊藤赤水
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