2015-02-28
「二・二六事件と佐渡人四人」
一昨日が二・二六事件の日だったんだね、すっかり忘れてた。
二・二六事件と関連して、意外と知られていない佐渡人のご紹介。
①北一輝
こりゃ詳しい説明は要らんでしょ。彼の著「日本改造法案」が決起した青年将校達のバイブルとなり、事件と直接関係はなかったのに結局は死刑に。
②柏倉一徳
この事件は皇道派青年将校達の起こした事件、その皇道派の親分の陸軍大将が真崎甚三郎。
この大将の佐賀中学時代の恩師が柏倉一徳。
柏倉は相川の人で佐渡中学4代目の校長、かの森知幾は弟、現在の「かしわくらキング」は子孫だね。
何と柏倉一徳は、その前の熊本中学に居た時に暴れん坊青年の面倒を見ていた。この青年が後の徳富蘇峰。蘇峰は後年佐渡に柏倉を訪ね、相川で柏倉をたたえる講演を行っている。
③葛西千秋
真崎と並んで皇道派の中心に居たのが荒木貞夫大将。この荒木に可愛がられたのが文部省教学部長等を歴任した羽茂のこの人。葛西は郷土に羽茂農学校が出来ると聞くや文部省を退職して校長に。
困ったのが新潟県知事。何と文部省では葛西の方が上司であった。
丹下左膳を書いた佐渡出身の林不忘は葛西の甥っ子。また、安部総理が最も信頼する財界人JR東海会長の葛西敬之さんはその孫だね。
実家は羽茂商工会前の葛西(田中)家。
④田村宣明(たむらのりあき)
「佐渡高等学校百年史」(「二・二六事件を見学に上京した生徒」)その他によると。
三年生の田村宣明は、事件のことを知ると矢も盾もたまらなくなって下駄履きのまま上京してしまった。帰ってきて主任の先生にそのことをとがめられると、「勉強も大事だが、このような重大な事件を自分の目で確かめることは勉強よりはるかに大事だと思います」と反論したという。
田村は沢根の人で、のちに東大法科を卒業後、新潟県県警本部長。警察庁刑事局長。この時代、田中角栄のロッキード事件の時にしょっちゅう国会で答弁してたね。その後、警察大学校長、日本道路公団監事を歴任。
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2015-02-26
2015-02-26
2015-02-25
2015-02-23
「難 読・奇 名」
『日本姓氏語源辞典』(新潟県佐渡市)
※佐渡市にある全国的に珍しい苗字の解説等
(あ行)
・赤江橋(諏訪町)・銅(あかがね 赤玉)・朝夷(あさい・あさえびす 西三川)・浅形(あさがた 徳和)・甘草(あまくさ 真野背合)・庵原(いおはら 羽茂本郷)・五十守(いかがみ 柿野浦)・五十子(徳和)・五十地(羽茂本郷)・五十立(佐和田山田)・五十里屋(五十浦)・五十川(久知河内)・一色(新町)・犛山(うしやま 金井)・哥(うた 佐和田)・歌方(うたかた 小木)・江竜田(旭青龍寺)・大豆生田(おおまめうだ 湊) ・鬼(おに 昭和30年代まで水津にあったが後に鬼(きい)となる)・母屋(おもや 小木)
(か行)
・金玉(かなたま新穂・佐和田)・神主(かみぬし 貝塚)
・鬼(きい 水津)・鬼子(きし 大川) ・金時(きんとき 小木)・紅蛇(こうじゃ 二見)・神主(こうず 金井)・御器(羽吉)
・切貫(きりぬき):昭和30年代まで畑野町畑野(玉林寺近く)にあった。この家に小沢辰男厚生大臣の姉が嫁ぐ。両津夷の渡辺洋服店、渡辺頼一氏妻)はこの家の出。【全国順位】 26,358位【全国人数】 およそ140人
(さ行)
・酒匂(さこう 二見)・坐和(ざわ 羽茂)・称解(吉岡) ・絞張(大崎絞張)・直地(すぐじ 羽茂上山田)・輪地(そろじ 真木)
・十二(じゅうに 赤泊徳和):自宅敷地に十二権現がある。元長野県である信濃が発祥といわれる。十二の数字に因む地名や地域が語源。仏語の十二神将などにも由来する。富山県氷見市に多数みられる。
・称解(しょうげ):真野吉岡(小河内)にあり、全国で10人以内。他県では岐阜県各務原市にある。
・白髭(しらひげ):『佐渡史の謎』(田中圭一編 昭和48年)
真野町の大立村に、自髭権左衛門という家がたった一軒ある。この苗字は佐渡には聞きなれないものであった。民族学の本間雅彦さんからこの家の話をきいて、是非一度うかがってみたいものだと思っていた。ところが、わたくしがこの家を訪れた日、家には小学生の子どもさんが留守番をしていた。そこで、しかたなくちかくにあった金子五右衛門という家をおとずれたのであったが、ここの老人から耳よりなことをきいたのである。それは大立の村の大屋が、この金子五右衛門で、二十二軒の村で金子が十戸いじょうもあること、わたくしのおとずれようとしている自髭氏が金子五右衛門の分家のひとつであること、檀那寺がむかしは西三川の医王寺であったこと、有名な倉谷の不動尊(地もとでは、成田不動尊・菅谷不動尊とならぶ三大不動尊のひとつだといっている)は、この家の下男仁蔵が朝草を刈りにいって、海岸でひろったものであること、などなどであった。とくにわたくしの注意を引いたのは、例の自髭氏が金子五右衛門の分家であるということにあった。一般にいえば、金子五右衛門の分家であったら、金子権左衛門になったらよいのでほないか。ところで、「自髭」というのは高句麗王若光のことである。七世紀のなかば、朝鮮半島では新羅の統一事業がすすみ、ついに六六三年日本の援助もむなしく高句麗は滅亡してしまうのであるが、そのとぎ高句麗王若光ほ、高句麗の道民をつれて日本にのがれ、むかLの縁故をたどって日本各地に住みついたという。『続日本紀』によると、大和朝廷は七〇三年、若光を「従五位下高句麗若光賜王姓」とある。王若光は自髭であったことから、高句麗系の人々のあいだでは自髭明神としてまつられているという。その「自髭」が、佐渡にある。思いもかけないことである。そのうえ、不思議なこことには、その自髭が村の大屋といわる金子五右衛門の分家であるという。しかし、この謎は簡単にとけた。それほ金子五右衛門の家と自髭の家の境界ちかくに、金子五右衛門のぢがみ(地神)といわれる大石がある。それがいつのころまでか自髭明神であって、そのために権左衛門が分家して五右衛門の隣にできると、村人から白髭の権左衛門と呼ばれた。その頃から明神とだけいわれていたこのやしろは、大正のころ自髭氏が、この場所から高台に居をうつすと、自髭の名は権左衛門といっしょに台地にあがっていったために、やしろのほうはついに決定的に名まえがわからなくなった。小布勢の神主の高柳氏が、まい年おまつりにくるところから最近、高柳氏に名をつけてもらったという。これがいまの「いわひめ神社」である。この自髭明神の大石のあるところは、村がここでおぁってここから山にのばろうとするところにある。いまはこのうえにある高台も開発されてしまっているが、海岸の崖上の段丘に村が展開していた頃は、ここが村のいちばんかみ手にあったことは疑う余地がない。そして、村はもとはもっとずっと海岸によったところにあったらしい。村の墓が海ぎわの岸ちかくにひろがっているのはそのためである。その墓場のすぐちかくに円墳がひとつある。大立の古墳である。この古墳は、真瀬さんという家の畠の隅にあって、大きな石が何枚もみえるが、発掘されてほいない。真瀬さんにきいたら、昔はもっと広く根をはったようになっていたということであった。墓場のところから海岸におりるせまい坂道をおりてみると、そこは「㗴(ま)の前」とよばれるところで、いまは無残にも建設会社の採石場となっていた。同行した山本仁氏は、その海岸の土手から、大きいのや小さいのやたくさんの師楽式製塩土器をみつけた。わたくしもむちゅうになってひろったが、おそらく大量のものが分布しているのであろう。すぐそばに、自髭明神のはうから流れてくる堀端の川が注いで湾入している。この辺で、古墳をきずいた人々は塩焼きをしていたのであろう。私達は、一心に土器をさがしてそれをひろった。手のかじかむような寒い日であった。すぐちかくにたき火をして、子守りをしているお婆さんがいた。その火にあたらしてもらうと、お婆さんも土器をいっしょにさがしてくれた。「この村のかたですか」ときくと、「わたくしは、この村の自髭というものですがさ」ということであった。 「へえー」ともらしたわたくしのことばに、お婆さんは「自髭という苗字は、真野町にはほかにない珍しい苗字ですや」と話した。
(た行)
・駄栗毛(相川)・包(つつみ 羽茂大石)・出張(でばり 北五十里)
・道解(どうげ):真野吉岡(小河内)にあり、全国で40人以内。他県にもあるが、比率的には佐渡市が全国2位。関連姓は道氏。和歌山県や北陸から山形県、秋田県など東北まで広がる大族、道君(安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)族)の子孫といわれる。語源は道や街道の地形に由来する。
(な行)
・中道(なかみち 二見・北河内・新穂)・苦竹(にがたけ 長畝)・野螻(のげら 泉)・除(のぞき 徳和)
(は行)
・硲(はざま 両津)・萬豆(はず 莚場)・塙(はなわ 中奥)・旗鉾(はたほこ 川茂)・頓宮(はやみ 青木)・速水(はやみ 千草)・速見(はやみ 小倉)・早水(はやみ 相川)・榛白(はんぱく 椿)・干明田(ひあけだ 羽茂本郷)・備家(びか 柿野浦)・蜂起(ほうき 羽茂三瀬)・宝水(加茂歌代)
(ま行)
・摩尼(まに 窪田)
(や行)
・矢櫃(やびつ 川茂)・八尋淵(羽茂大崎)・影向(ようこう 羽茂飯岡)・横大道(よこおおみち 川茂)・横呑(よこのみ 川茂) ・横枕(川茂)
(ら行)
・礼助(羽茂本郷)
(わ行)
・四月朔日(わたぬき 川茂)・和見(わみ 真浦 ・二見)
「4文字」
・大豆生田 ・梅ノ木沢 ・四月朔日
「鬼がつく」
・鬼(きい) ・鬼子(きし) ・鬼月(きつき) ・三鬼(みき) ・嵐鬼(あらき)
※鬼子さんから出た人は苗字を変えて「岸」となった。
「同じ読みで別漢字」
・歌・哥 ・頓宮(はやみ 青木)・速水(はやみ 千草)・速見(はやみ 小倉)・早水(はやみ 相川) ・荒木・荒貴・嵐城・嵐鬼 ・鰕名・海老名 ・萬豆・羽豆・幡豆 ・三鬼・三木 ・浅井・朝井・朝夷 ・畑・秦・籏 ・甲斐・貝・嘉井 ・木次・木透 ・間・硲 ・羽入・羽生・羽二生 ・安藤・安東 ・伊藤・伊東・井藤・井東 ・古藤・古東 ・立岩・館巌 ・臼杵・臼木・薄木 ・宇治・氏 ・椎・椎井 ・小竹・小嶽 ・和倉・輪倉 ・石見・岩見 ・仙度・仙宅 ・相田・会田・間 ・有本・有元 ・有田・在田 ・安達・足立 ・井端・井畑 ・猪股・猪俣 ・今川・今河 ・鶴間・霍間 ・余湖・余呉
「同じ漢字で別読み」
・神主(かみぬし こうず ) ・葛西(かさい かっさい くずにし) ・川野名(かわのな こうのみょう) ・長田(ながた・おさだ・ちょうた) ・渡部(わたべ・わたなべ) ・東(あずま・ひがし) ・神蔵(かみくら かんぞう) ・越前(えちぜん こしまえ) ・米山(よねやま こめやま) ・間(あいだ はざま) ・東(あずま・ひがし)etc
「地名苗字」
「県名」
・秋田 ・茨城・大阪・島根 ・兵庫・広島・福岡・福井・福島・宮城・宮崎・山口
「旧国名・藩名」
・和泉 ・伊勢・石見・越後・越前 ・新発田・駿河・高田・竹田・播磨・飛騨・村上
「地名」
・明石 ・伊豆 ・臼杵・小杉 ・菊池・長岡・渡嘉敷・浜田・三木・和倉
「全国の佐渡地名の苗字」
・佐渡1373世帯 ・佐渡島49 ・相川7051 ・佐和田285 ・真野4213 ・金井18102 ・両津1 ・新穂252 ・畑野1815 ・小木922 ・赤泊41 ・羽茂0
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★金光
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
真光寺最後の住職となった賢理は、真光寺の末寺石名村(相川町)清水寺の住職であったが、慶応二年(一八六六)八月、関係諸山の推せんを得て入院(着任)した。真光寺ほ一国総鎮守金北山神社の別当で、門末二六カ寺、寺領五八石八斗を有する大寺で、だれもが住職になれるものではない。つぎに入院の費用も多額である。入山式、継目披露と物入りがかさんだ。本山である京の醍醐三宝院や江戸城へ継目披露に参上したのは翌慶応三年四月になって、それも催促状が来てからのことである。寺家や末寺の負担も軽くはなかったであろう。このようにして入院の諸行事を終え一息ついたのも束の間明治維新を迎えた。賢理ほこのとき金北山神社の社人(神主)となるべく願書を呈出し許可された。これ以後、金光氏を称したのは、金北山と真光寺に依るものであろう。続いて寺家の東之坊も願いのうえ社人となった。東之坊の住僧快全は北守氏を名乗る。金北山を守るという意味で付けた姓という。
★北守
「北」山を「守」るとの意から。(『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より)
→「金光」参照
★久文(きゅうぶん)
『新穂村史』(昭和51年)より
久文家の墓地には、瓦で焼いた塞が立っている。文久年間に創業したので、それに因んで姓を久文とつけたと墓碑に書いてある。
★「沢根」と「潟上」









★駄栗毛
沢根殿の家臣。
★出山
先祖の苗字が山口だったので、「山口から出た」の意味。(『大野屋物語』より)
★「島の新聞」(「佐渡雑学」)より


『日本姓氏語源辞典』(新潟県佐渡市)
※佐渡市にある全国的に珍しい苗字の解説等
(あ行)
・赤江橋(諏訪町)・銅(あかがね 赤玉)・朝夷(あさい・あさえびす 西三川)・浅形(あさがた 徳和)・甘草(あまくさ 真野背合)・庵原(いおはら 羽茂本郷)・五十守(いかがみ 柿野浦)・五十子(徳和)・五十地(羽茂本郷)・五十立(佐和田山田)・五十里屋(五十浦)・五十川(久知河内)・一色(新町)・犛山(うしやま 金井)・哥(うた 佐和田)・歌方(うたかた 小木)・江竜田(旭青龍寺)・大豆生田(おおまめうだ 湊) ・鬼(おに 昭和30年代まで水津にあったが後に鬼(きい)となる)・母屋(おもや 小木)
(か行)
・金玉(かなたま新穂・佐和田)・神主(かみぬし 貝塚)
・鬼(きい 水津)・鬼子(きし 大川) ・金時(きんとき 小木)・紅蛇(こうじゃ 二見)・神主(こうず 金井)・御器(羽吉)
・切貫(きりぬき):昭和30年代まで畑野町畑野(玉林寺近く)にあった。この家に小沢辰男厚生大臣の姉が嫁ぐ。両津夷の渡辺洋服店、渡辺頼一氏妻)はこの家の出。【全国順位】 26,358位【全国人数】 およそ140人
(さ行)
・酒匂(さこう 二見)・坐和(ざわ 羽茂)・称解(吉岡) ・絞張(大崎絞張)・直地(すぐじ 羽茂上山田)・輪地(そろじ 真木)
・十二(じゅうに 赤泊徳和):自宅敷地に十二権現がある。元長野県である信濃が発祥といわれる。十二の数字に因む地名や地域が語源。仏語の十二神将などにも由来する。富山県氷見市に多数みられる。
・称解(しょうげ):真野吉岡(小河内)にあり、全国で10人以内。他県では岐阜県各務原市にある。
・白髭(しらひげ):『佐渡史の謎』(田中圭一編 昭和48年)
真野町の大立村に、自髭権左衛門という家がたった一軒ある。この苗字は佐渡には聞きなれないものであった。民族学の本間雅彦さんからこの家の話をきいて、是非一度うかがってみたいものだと思っていた。ところが、わたくしがこの家を訪れた日、家には小学生の子どもさんが留守番をしていた。そこで、しかたなくちかくにあった金子五右衛門という家をおとずれたのであったが、ここの老人から耳よりなことをきいたのである。それは大立の村の大屋が、この金子五右衛門で、二十二軒の村で金子が十戸いじょうもあること、わたくしのおとずれようとしている自髭氏が金子五右衛門の分家のひとつであること、檀那寺がむかしは西三川の医王寺であったこと、有名な倉谷の不動尊(地もとでは、成田不動尊・菅谷不動尊とならぶ三大不動尊のひとつだといっている)は、この家の下男仁蔵が朝草を刈りにいって、海岸でひろったものであること、などなどであった。とくにわたくしの注意を引いたのは、例の自髭氏が金子五右衛門の分家であるということにあった。一般にいえば、金子五右衛門の分家であったら、金子権左衛門になったらよいのでほないか。ところで、「自髭」というのは高句麗王若光のことである。七世紀のなかば、朝鮮半島では新羅の統一事業がすすみ、ついに六六三年日本の援助もむなしく高句麗は滅亡してしまうのであるが、そのとぎ高句麗王若光ほ、高句麗の道民をつれて日本にのがれ、むかLの縁故をたどって日本各地に住みついたという。『続日本紀』によると、大和朝廷は七〇三年、若光を「従五位下高句麗若光賜王姓」とある。王若光は自髭であったことから、高句麗系の人々のあいだでは自髭明神としてまつられているという。その「自髭」が、佐渡にある。思いもかけないことである。そのうえ、不思議なこことには、その自髭が村の大屋といわる金子五右衛門の分家であるという。しかし、この謎は簡単にとけた。それほ金子五右衛門の家と自髭の家の境界ちかくに、金子五右衛門のぢがみ(地神)といわれる大石がある。それがいつのころまでか自髭明神であって、そのために権左衛門が分家して五右衛門の隣にできると、村人から白髭の権左衛門と呼ばれた。その頃から明神とだけいわれていたこのやしろは、大正のころ自髭氏が、この場所から高台に居をうつすと、自髭の名は権左衛門といっしょに台地にあがっていったために、やしろのほうはついに決定的に名まえがわからなくなった。小布勢の神主の高柳氏が、まい年おまつりにくるところから最近、高柳氏に名をつけてもらったという。これがいまの「いわひめ神社」である。この自髭明神の大石のあるところは、村がここでおぁってここから山にのばろうとするところにある。いまはこのうえにある高台も開発されてしまっているが、海岸の崖上の段丘に村が展開していた頃は、ここが村のいちばんかみ手にあったことは疑う余地がない。そして、村はもとはもっとずっと海岸によったところにあったらしい。村の墓が海ぎわの岸ちかくにひろがっているのはそのためである。その墓場のすぐちかくに円墳がひとつある。大立の古墳である。この古墳は、真瀬さんという家の畠の隅にあって、大きな石が何枚もみえるが、発掘されてほいない。真瀬さんにきいたら、昔はもっと広く根をはったようになっていたということであった。墓場のところから海岸におりるせまい坂道をおりてみると、そこは「㗴(ま)の前」とよばれるところで、いまは無残にも建設会社の採石場となっていた。同行した山本仁氏は、その海岸の土手から、大きいのや小さいのやたくさんの師楽式製塩土器をみつけた。わたくしもむちゅうになってひろったが、おそらく大量のものが分布しているのであろう。すぐそばに、自髭明神のはうから流れてくる堀端の川が注いで湾入している。この辺で、古墳をきずいた人々は塩焼きをしていたのであろう。私達は、一心に土器をさがしてそれをひろった。手のかじかむような寒い日であった。すぐちかくにたき火をして、子守りをしているお婆さんがいた。その火にあたらしてもらうと、お婆さんも土器をいっしょにさがしてくれた。「この村のかたですか」ときくと、「わたくしは、この村の自髭というものですがさ」ということであった。 「へえー」ともらしたわたくしのことばに、お婆さんは「自髭という苗字は、真野町にはほかにない珍しい苗字ですや」と話した。
(た行)
・駄栗毛(相川)・包(つつみ 羽茂大石)・出張(でばり 北五十里)
・道解(どうげ):真野吉岡(小河内)にあり、全国で40人以内。他県にもあるが、比率的には佐渡市が全国2位。関連姓は道氏。和歌山県や北陸から山形県、秋田県など東北まで広がる大族、道君(安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)族)の子孫といわれる。語源は道や街道の地形に由来する。
(な行)
・中道(なかみち 二見・北河内・新穂)・苦竹(にがたけ 長畝)・野螻(のげら 泉)・除(のぞき 徳和)
(は行)
・硲(はざま 両津)・萬豆(はず 莚場)・塙(はなわ 中奥)・旗鉾(はたほこ 川茂)・頓宮(はやみ 青木)・速水(はやみ 千草)・速見(はやみ 小倉)・早水(はやみ 相川)・榛白(はんぱく 椿)・干明田(ひあけだ 羽茂本郷)・備家(びか 柿野浦)・蜂起(ほうき 羽茂三瀬)・宝水(加茂歌代)
(ま行)
・摩尼(まに 窪田)
(や行)
・矢櫃(やびつ 川茂)・八尋淵(羽茂大崎)・影向(ようこう 羽茂飯岡)・横大道(よこおおみち 川茂)・横呑(よこのみ 川茂) ・横枕(川茂)
(ら行)
・礼助(羽茂本郷)
(わ行)
・四月朔日(わたぬき 川茂)・和見(わみ 真浦 ・二見)
「4文字」
・大豆生田 ・梅ノ木沢 ・四月朔日
「鬼がつく」
・鬼(きい) ・鬼子(きし) ・鬼月(きつき) ・三鬼(みき) ・嵐鬼(あらき)
※鬼子さんから出た人は苗字を変えて「岸」となった。
「同じ読みで別漢字」
・歌・哥 ・頓宮(はやみ 青木)・速水(はやみ 千草)・速見(はやみ 小倉)・早水(はやみ 相川) ・荒木・荒貴・嵐城・嵐鬼 ・鰕名・海老名 ・萬豆・羽豆・幡豆 ・三鬼・三木 ・浅井・朝井・朝夷 ・畑・秦・籏 ・甲斐・貝・嘉井 ・木次・木透 ・間・硲 ・羽入・羽生・羽二生 ・安藤・安東 ・伊藤・伊東・井藤・井東 ・古藤・古東 ・立岩・館巌 ・臼杵・臼木・薄木 ・宇治・氏 ・椎・椎井 ・小竹・小嶽 ・和倉・輪倉 ・石見・岩見 ・仙度・仙宅 ・相田・会田・間 ・有本・有元 ・有田・在田 ・安達・足立 ・井端・井畑 ・猪股・猪俣 ・今川・今河 ・鶴間・霍間 ・余湖・余呉
「同じ漢字で別読み」
・神主(かみぬし こうず ) ・葛西(かさい かっさい くずにし) ・川野名(かわのな こうのみょう) ・長田(ながた・おさだ・ちょうた) ・渡部(わたべ・わたなべ) ・東(あずま・ひがし) ・神蔵(かみくら かんぞう) ・越前(えちぜん こしまえ) ・米山(よねやま こめやま) ・間(あいだ はざま) ・東(あずま・ひがし)etc
「地名苗字」
「県名」
・秋田 ・茨城・大阪・島根 ・兵庫・広島・福岡・福井・福島・宮城・宮崎・山口
「旧国名・藩名」
・和泉 ・伊勢・石見・越後・越前 ・新発田・駿河・高田・竹田・播磨・飛騨・村上
「地名」
・明石 ・伊豆 ・臼杵・小杉 ・菊池・長岡・渡嘉敷・浜田・三木・和倉
「全国の佐渡地名の苗字」
・佐渡1373世帯 ・佐渡島49 ・相川7051 ・佐和田285 ・真野4213 ・金井18102 ・両津1 ・新穂252 ・畑野1815 ・小木922 ・赤泊41 ・羽茂0
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★金光
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
真光寺最後の住職となった賢理は、真光寺の末寺石名村(相川町)清水寺の住職であったが、慶応二年(一八六六)八月、関係諸山の推せんを得て入院(着任)した。真光寺ほ一国総鎮守金北山神社の別当で、門末二六カ寺、寺領五八石八斗を有する大寺で、だれもが住職になれるものではない。つぎに入院の費用も多額である。入山式、継目披露と物入りがかさんだ。本山である京の醍醐三宝院や江戸城へ継目披露に参上したのは翌慶応三年四月になって、それも催促状が来てからのことである。寺家や末寺の負担も軽くはなかったであろう。このようにして入院の諸行事を終え一息ついたのも束の間明治維新を迎えた。賢理ほこのとき金北山神社の社人(神主)となるべく願書を呈出し許可された。これ以後、金光氏を称したのは、金北山と真光寺に依るものであろう。続いて寺家の東之坊も願いのうえ社人となった。東之坊の住僧快全は北守氏を名乗る。金北山を守るという意味で付けた姓という。
★北守
「北」山を「守」るとの意から。(『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より)
→「金光」参照
★久文(きゅうぶん)
『新穂村史』(昭和51年)より
久文家の墓地には、瓦で焼いた塞が立っている。文久年間に創業したので、それに因んで姓を久文とつけたと墓碑に書いてある。
★「沢根」と「潟上」









★駄栗毛
沢根殿の家臣。
★出山
先祖の苗字が山口だったので、「山口から出た」の意味。(『大野屋物語』より)
★「島の新聞」(「佐渡雑学」)より


2015-02-17
2015-02-15
2015-02-15
「佐和田」
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より




「新穂」
『新穂村史』より















「畑野」
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より




















「羽茂」
『羽茂町誌第三巻((近世の羽茂))』より
(石工)











(その他)












(大崎)
『山里の人々)』より



「真野」
・『真野町史(下巻)』より









『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より


2015-02-13
★鬼太鼓
「新穂」












「歴代の本間能太夫」
(記述について『佐渡の能舞台』には、小田季吉「佐渡能楽余録」宝生昭和43年7月より12月号によるとある。その他『吾潟郷土史』『佐渡能楽史序説』を参考に加筆した)
①初代本間秀信
1616~1651、本間能太夫家初代。父秀光=潟上弥太郎は、上杉景勝の家臣となって越後に渡り、さらに景勝と共に会津そして米沢に住んだ。16歳のとき家督を次男に譲って諸国遍歴の途中、奈良で薪能をみて感銘し、宝生家の門を叩き教えを受けたとされる。寛永18年(1641)佐渡に帰り梅ヶ沢に住み、能楽を家業とすることとした。慶安年中(4年=1651ともいう)佐渡奉行所より能太夫を命ぜられた。
②二代秀昌(1634~1666)
先代の嫡男で、父と共に梅ヶ沢に住んだ。後、源兵衛と改名。慶安5年(1653)世襲に当って八世宗家九郎将監重友より、謡本を贈られた。(『吾潟郷土史』では、「田中圭一氏によると、慶安4年(1651)に本間源兵衛が宝生九郎重政から『小野小町』の口伝書を貰い、それが残っているという」)
③三代杢昌継( ~1664)
二代秀昌の弟秀成の子。
④四代右京秀清( ~1669)
承応2年(1653)~寛文9年(1669)までの春日神社の神事能に出演。また、万治2年(1659)~寛文8年(1668)の間、子の権左ェ門と共に勤めている。
⑤五代権左ェ門秀継( ~1691)
万治2年(1659)~元和元年(1681)まで春日社の神事能を勤めた。
⑥六代右近秀精( ~1703)
権太郎ともいった。寛文12年(1672)~延宝3年(1675)まで春日社の神事能を勤めた。延宝3年(1675)潟上村左太夫は江戸宝生座にて鏡の間をつとめる。翌年9月20日中原村一王子社の神事能奉納。元禄15年(1702)春日社で一代能、大山祇神社で神事能を勤めた。
⑦七代権之丞昌房( ~1700)
春日社の神事能を勤めたのは寛文6(1766)・7・8・10年(1670)。短命で父より早く没す。
⑧八代右近昌方( ~1756)
享保2年(1717)8月1~3日沢根で勧進能を勤める。国仲の能が盛んになる反面、相川の神事能が神楽に替わられることを恐れ、享保13年(1728)春日社社祠 津田山城に願文を提出。(享保9年経費節約から定能をやめ神楽に改めた。そのため書面を神職に送って費用の一部を自分たちも負担するから神事能を復興してもらいたいと願い出た。なお、奉行によって能に興味のない者もいて一様に援助されていたわけではない)
⑨九代江助唯清( ~1746)
⑩十代右京清房( ~1756)
宝生宗家将監友晴の没後、四男暢栄を補佐した功によって永扇の称号を与えられ、内弟子格に取り立てられて子々孫々修行中は宝生家で負担することとした。また、最大の重習いである「定家」「木賊「「関寺小町」「乱」「乱拍子」の永世免許を受けた。宝暦3年(1753)鶴岡・新潟へ興業に出かけている。
⑪十一代右内繁由( ~1797)
⑫十二代右近由広( ~1813)
⑬十三代左京由春( ~1867)
先代の嫡子。天保4年(1833)宗家より能面を贈られ、弘化5年(1848)神田筋違橋で張行された宝生太夫友干(後の紫雪)の一生一代勧進能のときシテ方を2回勤めた。嘉永5年(1852)柏崎へ招かれ興業を行なっている。「佐渡人物誌」に、左京由春の時、佐渡宝生流は盛んを極めた と記されている。
⑭十四代右近由久( ~1872)
正徳3年(1713)に時の佐渡奉行神保五左衛門に認められ矢馳から相川に住まわせられワキ師として奉行所より払下米を給せられた遠藤家は、清之進(可啓)の時本間家のワキ方に甘んぜず、江戸へ上がり観世宗家観世清孝の直弟子となり、清之丞と命名された。しかも安政4年(1857)奉行所より能太夫を仰せつけられ佐渡観世流太夫の創始者となったことで、宝生流と観世流との競争・対立が始った。さらに明治維新により能楽が保護されなくなった中で家業といしての能を存続させた。
(遠藤可啓に門人多く、越後の高田・水原にも弟子があり、能太夫に昇格したとき越後の門人市島・佐藤などの富豪より能装束の寄贈もあった。二代目可清は、明治維新後能楽は没落し楽師も官給から離れてしまったことに憤慨。能の家業を廃業し上京。明治11年能装束一式を西三川派の金子柳太郎に時価200余円で売却。それで佐渡観世流は衰えた)
⑮十五代本間令蔵(1848~1915)
干孝、行孝、令桑(隠居名)などともいった。先代から謡を習い、宗家宝生九郎の薫陶を受け帰島。吾潟村独立当時(明治13年(1880)潟上村から越戸・田ノ浦・品浦・藤巻部落90戸をもって分離)連合戸長を務めたり、学田開墾を発議して事業の推進に努めたり、加茂湖の埋立事業を行なうなど社会事業家の面もあった。
本間家の弟子であった西三川の金子柳太郎(1836~1903)は、明治9年(1876)本間家と喧嘩別れし、相川県庶務局より興業許可を取得。明治11年43歳で加賀宝生流宗家宝生嘉内に入門。免許皆伝を許された翌年(明治16年)佐渡に帰り佐渡での加賀宝生初代太夫として免状を出す事態になった。明治17年6月金子柳太郎は能舞台を自宅の庭に設けた。
それに対抗すべく令蔵はその翌年自宅の能舞台を再建。「本間令蔵としては、負けてはいられなかった。200円の費用をかけて家屋を移築し、そのあとに豪壮な能舞台をつくった。費用は600円かかった。あわせて800円の出資」(『佐渡に舞う』)
同年10月令蔵は「債主(債権者)御一同様」という書き置きを残し末子七郎を伴い島を出た。明治19年12月高田商会に入社。社主の高田慎蔵は初め佐渡奉行所役人であった。同25年大阪麦酒(ビール:アサヒビールの前身)の大阪出張所販売係に転職。(同社生田秀は真野新町出身。ドイツ留学して醸造技術者となり後支配人となった。今日のアサヒビールでは、生田を「近代ビールの父」としている。生田とその長男は小鼓の胴に関心があり、長男は『鼓胴之研究』を出版)
帰島したのは明治33年。その16年間必要に応じては佐渡へ帰り、大膳神社の神事能などを勤めていた。
帰島後は、佐渡能楽倶楽部の結成にかかわった。「門弟の数は島内外を含めて400人余に及んだ」(『吾潟郷土史』)。(「明治42年門下生の協議の上、・・・佐渡能楽倶楽部を設立した」とある(『佐渡の能舞台』)が、明治37年3月15日付けの主要弟子の書状の「陳者佐渡能楽倶楽部創立以来・・・」文面から既に能楽倶楽部は結成されていた)
明治39年1月北海道函館東雲会に招かれ興行。函館で門家指導2ヶ月、札幌を経て小樽で2週間滞在して弟子獲得に努め、帰途新潟に立ち寄り旧社中の要請で6月新潟で「能楽謡曲研究会」の発足に係わった。規約には、「一、本会ハ能楽謡曲研究ノ為本間令蔵先生ヲ招聘スル事。一、本会ハ本間先生ヨリ毎日随意ニ師範ヲ受ける事一、会員ハ本会ノ維持費及先生ノ謝儀ニ充ツル為毎月金壱円ヅツ醵金スル事・・・」とうたわれている。
(参考)西三川派の創始者 金子柳太郎その後
柳太郎は、明治36年(1903)3月23日68歳で没する直前の2月10日金子高次郎(1880~1961)に皆伝免許を授け婿養子とし二代目を継がせた(『佐渡の能舞台』。『佐渡能楽史序説』では、「柳太郎の逝去後、相川町・・・の三男高次郎が柳太郎次女の婿養子となり、初め実父に謡を習い、のち畑福新三郎に師事、さらに明治35年には上京して10世波吉宮門の教えも受けて、芸事は養父柳太郎にも劣らぬものがあったといわれており、西三川派は、新興派閥の熱気と結束があり、高次郎を二世大夫に仰いで安泰であった」とある)
ところが、高次郎は大正7年(1918)になって能装束等を売却した。能装束は、群馬県高崎市で能楽の公演があった時に知り合った同市の多額納税勅選議員・桜井忠三郎に2万円で売却したという。能舞台は、同じく公演で知り合った京都の狂言師に売り払った。
売却が何の相談もなく密かに行なわれたので、門人たちは反発し「太夫」という敬称を止め佐渡能楽会を結成。出資金を集め、能装束を購入し充足を図った。(以降、潟上派と西三川派の実質的対立は、本間能太夫・佐渡能楽倶楽部会員と佐渡能楽会会員の対立となる)
その金子高次郎(以後「佳愛」)は、佐渡能楽会から排除され東京へ出て能の師匠などして生活していたが、食えなくなったのかやがて佐渡能楽会への入会を求めて来た。昭和3年(1928)佐渡能楽会は、過去の事を許し金子の入会を認めた。その年の12月16日佐渡能楽会創立10周年記念祝賀能を真野尋常小学校体育館で行い、佳愛が「安宅」を舞いそれが復帰の披露となった。なお、佳愛は芸と指導に優れているとの定評があり、佳愛を尊敬する多くの門弟がいた。楽謡会・佳鳳会は、金子佳愛の門弟グループ。
⑯十六代本間 凞(ひろし。 ~1941)
先代には五男二女があり、長男・次男は早逝・若死し三男は養子に行き、令蔵没後は四男・凞が後を継いだ。凞は本拠地が東京で、盆暮に佐渡へ帰り指導を行なった。大正12年と大正15年に宝生宗家一行を佐渡に招き本間家能舞台で演能を行なった。大正12年の時の費用が、同行した野村蘭作の話では、全費用3,000円で当時家が一軒買える値段という。入場料は1人3円で500人として1,500円。差額は、本間家と佐渡能楽倶楽部の負担。
⑰十七代本間友英(1902~1969)
先代には男子がなく女子だけであった。宝生宗家の分家九世宝生嘉内(1854~1921)の娘の子で昭和8年1月入籍、同8月披露能。家元宝生九郎重英とは叔父・甥の関係にある。昭和23年には70年以上にわたって対立した西三川派との和解が成立。戦前までは東京に居る方が多かったが、戦後は佐渡を本拠地に活動。
⑱十八代本間英孝(1934年生まれ)
幼少の頃より先代宗家・現宗家の薫陶を受ける。海外公演や米国各地の大学で指導実績がある。1975年重要無形文化財指定。
「畑野」











「羽茂」



「真野」
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より (芸能)
























『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より


『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より (スポーツ)






「新穂」












「歴代の本間能太夫」
(記述について『佐渡の能舞台』には、小田季吉「佐渡能楽余録」宝生昭和43年7月より12月号によるとある。その他『吾潟郷土史』『佐渡能楽史序説』を参考に加筆した)
①初代本間秀信
1616~1651、本間能太夫家初代。父秀光=潟上弥太郎は、上杉景勝の家臣となって越後に渡り、さらに景勝と共に会津そして米沢に住んだ。16歳のとき家督を次男に譲って諸国遍歴の途中、奈良で薪能をみて感銘し、宝生家の門を叩き教えを受けたとされる。寛永18年(1641)佐渡に帰り梅ヶ沢に住み、能楽を家業とすることとした。慶安年中(4年=1651ともいう)佐渡奉行所より能太夫を命ぜられた。
②二代秀昌(1634~1666)
先代の嫡男で、父と共に梅ヶ沢に住んだ。後、源兵衛と改名。慶安5年(1653)世襲に当って八世宗家九郎将監重友より、謡本を贈られた。(『吾潟郷土史』では、「田中圭一氏によると、慶安4年(1651)に本間源兵衛が宝生九郎重政から『小野小町』の口伝書を貰い、それが残っているという」)
③三代杢昌継( ~1664)
二代秀昌の弟秀成の子。
④四代右京秀清( ~1669)
承応2年(1653)~寛文9年(1669)までの春日神社の神事能に出演。また、万治2年(1659)~寛文8年(1668)の間、子の権左ェ門と共に勤めている。
⑤五代権左ェ門秀継( ~1691)
万治2年(1659)~元和元年(1681)まで春日社の神事能を勤めた。
⑥六代右近秀精( ~1703)
権太郎ともいった。寛文12年(1672)~延宝3年(1675)まで春日社の神事能を勤めた。延宝3年(1675)潟上村左太夫は江戸宝生座にて鏡の間をつとめる。翌年9月20日中原村一王子社の神事能奉納。元禄15年(1702)春日社で一代能、大山祇神社で神事能を勤めた。
⑦七代権之丞昌房( ~1700)
春日社の神事能を勤めたのは寛文6(1766)・7・8・10年(1670)。短命で父より早く没す。
⑧八代右近昌方( ~1756)
享保2年(1717)8月1~3日沢根で勧進能を勤める。国仲の能が盛んになる反面、相川の神事能が神楽に替わられることを恐れ、享保13年(1728)春日社社祠 津田山城に願文を提出。(享保9年経費節約から定能をやめ神楽に改めた。そのため書面を神職に送って費用の一部を自分たちも負担するから神事能を復興してもらいたいと願い出た。なお、奉行によって能に興味のない者もいて一様に援助されていたわけではない)
⑨九代江助唯清( ~1746)
⑩十代右京清房( ~1756)
宝生宗家将監友晴の没後、四男暢栄を補佐した功によって永扇の称号を与えられ、内弟子格に取り立てられて子々孫々修行中は宝生家で負担することとした。また、最大の重習いである「定家」「木賊「「関寺小町」「乱」「乱拍子」の永世免許を受けた。宝暦3年(1753)鶴岡・新潟へ興業に出かけている。
⑪十一代右内繁由( ~1797)
⑫十二代右近由広( ~1813)
⑬十三代左京由春( ~1867)
先代の嫡子。天保4年(1833)宗家より能面を贈られ、弘化5年(1848)神田筋違橋で張行された宝生太夫友干(後の紫雪)の一生一代勧進能のときシテ方を2回勤めた。嘉永5年(1852)柏崎へ招かれ興業を行なっている。「佐渡人物誌」に、左京由春の時、佐渡宝生流は盛んを極めた と記されている。
⑭十四代右近由久( ~1872)
正徳3年(1713)に時の佐渡奉行神保五左衛門に認められ矢馳から相川に住まわせられワキ師として奉行所より払下米を給せられた遠藤家は、清之進(可啓)の時本間家のワキ方に甘んぜず、江戸へ上がり観世宗家観世清孝の直弟子となり、清之丞と命名された。しかも安政4年(1857)奉行所より能太夫を仰せつけられ佐渡観世流太夫の創始者となったことで、宝生流と観世流との競争・対立が始った。さらに明治維新により能楽が保護されなくなった中で家業といしての能を存続させた。
(遠藤可啓に門人多く、越後の高田・水原にも弟子があり、能太夫に昇格したとき越後の門人市島・佐藤などの富豪より能装束の寄贈もあった。二代目可清は、明治維新後能楽は没落し楽師も官給から離れてしまったことに憤慨。能の家業を廃業し上京。明治11年能装束一式を西三川派の金子柳太郎に時価200余円で売却。それで佐渡観世流は衰えた)
⑮十五代本間令蔵(1848~1915)
干孝、行孝、令桑(隠居名)などともいった。先代から謡を習い、宗家宝生九郎の薫陶を受け帰島。吾潟村独立当時(明治13年(1880)潟上村から越戸・田ノ浦・品浦・藤巻部落90戸をもって分離)連合戸長を務めたり、学田開墾を発議して事業の推進に努めたり、加茂湖の埋立事業を行なうなど社会事業家の面もあった。
本間家の弟子であった西三川の金子柳太郎(1836~1903)は、明治9年(1876)本間家と喧嘩別れし、相川県庶務局より興業許可を取得。明治11年43歳で加賀宝生流宗家宝生嘉内に入門。免許皆伝を許された翌年(明治16年)佐渡に帰り佐渡での加賀宝生初代太夫として免状を出す事態になった。明治17年6月金子柳太郎は能舞台を自宅の庭に設けた。
それに対抗すべく令蔵はその翌年自宅の能舞台を再建。「本間令蔵としては、負けてはいられなかった。200円の費用をかけて家屋を移築し、そのあとに豪壮な能舞台をつくった。費用は600円かかった。あわせて800円の出資」(『佐渡に舞う』)
同年10月令蔵は「債主(債権者)御一同様」という書き置きを残し末子七郎を伴い島を出た。明治19年12月高田商会に入社。社主の高田慎蔵は初め佐渡奉行所役人であった。同25年大阪麦酒(ビール:アサヒビールの前身)の大阪出張所販売係に転職。(同社生田秀は真野新町出身。ドイツ留学して醸造技術者となり後支配人となった。今日のアサヒビールでは、生田を「近代ビールの父」としている。生田とその長男は小鼓の胴に関心があり、長男は『鼓胴之研究』を出版)
帰島したのは明治33年。その16年間必要に応じては佐渡へ帰り、大膳神社の神事能などを勤めていた。
帰島後は、佐渡能楽倶楽部の結成にかかわった。「門弟の数は島内外を含めて400人余に及んだ」(『吾潟郷土史』)。(「明治42年門下生の協議の上、・・・佐渡能楽倶楽部を設立した」とある(『佐渡の能舞台』)が、明治37年3月15日付けの主要弟子の書状の「陳者佐渡能楽倶楽部創立以来・・・」文面から既に能楽倶楽部は結成されていた)
明治39年1月北海道函館東雲会に招かれ興行。函館で門家指導2ヶ月、札幌を経て小樽で2週間滞在して弟子獲得に努め、帰途新潟に立ち寄り旧社中の要請で6月新潟で「能楽謡曲研究会」の発足に係わった。規約には、「一、本会ハ能楽謡曲研究ノ為本間令蔵先生ヲ招聘スル事。一、本会ハ本間先生ヨリ毎日随意ニ師範ヲ受ける事一、会員ハ本会ノ維持費及先生ノ謝儀ニ充ツル為毎月金壱円ヅツ醵金スル事・・・」とうたわれている。
(参考)西三川派の創始者 金子柳太郎その後
柳太郎は、明治36年(1903)3月23日68歳で没する直前の2月10日金子高次郎(1880~1961)に皆伝免許を授け婿養子とし二代目を継がせた(『佐渡の能舞台』。『佐渡能楽史序説』では、「柳太郎の逝去後、相川町・・・の三男高次郎が柳太郎次女の婿養子となり、初め実父に謡を習い、のち畑福新三郎に師事、さらに明治35年には上京して10世波吉宮門の教えも受けて、芸事は養父柳太郎にも劣らぬものがあったといわれており、西三川派は、新興派閥の熱気と結束があり、高次郎を二世大夫に仰いで安泰であった」とある)
ところが、高次郎は大正7年(1918)になって能装束等を売却した。能装束は、群馬県高崎市で能楽の公演があった時に知り合った同市の多額納税勅選議員・桜井忠三郎に2万円で売却したという。能舞台は、同じく公演で知り合った京都の狂言師に売り払った。
売却が何の相談もなく密かに行なわれたので、門人たちは反発し「太夫」という敬称を止め佐渡能楽会を結成。出資金を集め、能装束を購入し充足を図った。(以降、潟上派と西三川派の実質的対立は、本間能太夫・佐渡能楽倶楽部会員と佐渡能楽会会員の対立となる)
その金子高次郎(以後「佳愛」)は、佐渡能楽会から排除され東京へ出て能の師匠などして生活していたが、食えなくなったのかやがて佐渡能楽会への入会を求めて来た。昭和3年(1928)佐渡能楽会は、過去の事を許し金子の入会を認めた。その年の12月16日佐渡能楽会創立10周年記念祝賀能を真野尋常小学校体育館で行い、佳愛が「安宅」を舞いそれが復帰の披露となった。なお、佳愛は芸と指導に優れているとの定評があり、佳愛を尊敬する多くの門弟がいた。楽謡会・佳鳳会は、金子佳愛の門弟グループ。
⑯十六代本間 凞(ひろし。 ~1941)
先代には五男二女があり、長男・次男は早逝・若死し三男は養子に行き、令蔵没後は四男・凞が後を継いだ。凞は本拠地が東京で、盆暮に佐渡へ帰り指導を行なった。大正12年と大正15年に宝生宗家一行を佐渡に招き本間家能舞台で演能を行なった。大正12年の時の費用が、同行した野村蘭作の話では、全費用3,000円で当時家が一軒買える値段という。入場料は1人3円で500人として1,500円。差額は、本間家と佐渡能楽倶楽部の負担。
⑰十七代本間友英(1902~1969)
先代には男子がなく女子だけであった。宝生宗家の分家九世宝生嘉内(1854~1921)の娘の子で昭和8年1月入籍、同8月披露能。家元宝生九郎重英とは叔父・甥の関係にある。昭和23年には70年以上にわたって対立した西三川派との和解が成立。戦前までは東京に居る方が多かったが、戦後は佐渡を本拠地に活動。
⑱十八代本間英孝(1934年生まれ)
幼少の頃より先代宗家・現宗家の薫陶を受ける。海外公演や米国各地の大学で指導実績がある。1975年重要無形文化財指定。
「畑野」











「羽茂」



「真野」
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より (芸能)
























『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より


『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より (スポーツ)






2015-02-13
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