2015-01-29
畑野地区歴代町村長up
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2015-01-27
2015-01-26
本間籐右衛門
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) より
2015-01-26
「新穂」
『新穂村史』より











「畑野」
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)




・明治三十三年の調べでほ、つぎの者が大工として善かれている。〔( )カツコ内は編さん室調べによる〕
〔畑 方〕渡辺与喜蔵(吉助)・中川勘之亟(勘之亟)・加藤周吉(新七)
〔畑本郷〕土屋松蔵(長五郎)・渡辺貞蔵(利吉)・後藤由蔵(権三郎)・高野源平(不詳)・熊谷松蔵(兵作)
〔小 倉〕杉本由蔵(八郎右衛門)・高崎鉄蔵(七右衛門)・舟越鉄蔵(庄次郎)・計良猿松(多田星)
〔目黒町〕生田八百蔵(徳次郎)・近藤字宇吉(紋兵衛)
〔粟野江〕佐藤両蔵(上 かみ)・計良浅吉(清左衝門)
〔宮 浦〕本間仁吉(半兵衛)
〔猿 八〕大森新蔵(不詳)
〔河 内〕佐藤与三平(与三平)
・さらに大正四年の役場資料によって大工の部分を抜き書きするとつぎのようになる。
〔畑 野〕 加藤松蔵・渡辺与喜蔵(吉助)・中川勘之亟(勘之亟)・土星松蔵(長五郎)・内田鹿蔵(伝次郎)・本間常蔵・松本辰蔵・仲野間新吉・熊谷松蔵(兵作)
〔小 倉〕 杉本由蔵(八郎右衛門)・高崎権吉(七右衛門)・計良猿松(多田屋)
〔後 山〕 谷川友吉(友次郎)
〔宮 浦〕 長島代蔵(幸七)
〔坊ケ浦〕 小田儀市(藤兵衛)・小田六次(勘左衛門)
〔目黒町〕 長嶋芳蔵(宗三郎)
〔粟野江〕 渡辺正・渡辺盛蔵・土屋与吉(孫十郎)
〔村名不詳〕 中村岩吉
右の両期を比較してみると、わずか十五年の間に移り変りの激しさがわかり、大工職を世襲する者があまりいなか
ったことを知ることができる。
「羽茂」
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂()』





















(大崎地区)
『山里の人々)』より

2015-01-22
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
粟野江の城ケ平にある義民堂には、慶長から天保までの義民の、代表的人物二六名が合祀されている。そのうち九人までは畑野地内の者で、全体の三分の一以上が当地から出ていることになるわけである。これは、四つの大きな事件のうちで、明和の義民が遍照坊智専を始めとして、藤右衛門・助左衛門ら、多くがこの地域の者であったことによるのであるが、合祀されている二六名以外の活動家までをとり挙げるとすれば、慶長事件にも、寛延の事件にも、また天保の一国騒動にも畑野人はことごとく名を連ねて、事件の禍中の人となっているのである。
畑野にみるこの義民の体質というものは、畑野史のひとつの特質ともなっている。僧職にあった智専は別として、藤右衛門にしても助左衛門にしても小倉の重左衛門にしても、永らく村の指導者として働いていた人たちで、とくに藤右衛門は明治期の相川暴動では打壊しの対象ともされた家柄である。これはこうした一揆を単純に、体制と反体制
という次元や視野から見ることを許されない問題をもっており、村の構造を理解するのに不可欠な事件であることを
示している。
(慶長の義民)
義民堂に祀られている、慶長の義民は、新穂村半次郎・北方村豊四郎と羽茂村の勘兵衛の三人である。このうち、北方村豊四郎は晩年に畑野地内のある寺に住んで、僧了雲と名乗ったことが知られている。その寺とはどこの寺であるのか残念ながら知ることが出来ないが、そうした直接の関連性ではなくて、この慶長の一揆は、佐渡の農業政策に少なからず影響を与えており、村の歴史を知る上でも益するところがあるので、その要点だけをとり挙げることにする。
波多本郷村・粟江村本郷・後山村・宮浦村には、慶長五年の検地帳が、大窪村・寺田村・波田村には入作分の記録が残されている。河村検地とか国中検地あるいは中使検地などと呼ばれているのがこれである。河村とは、上杉景勝の代官で、景勝が会津に移封された後も佐渡に残って支配をつづけた河村彦左衛門のことである。中使というのは、のちの名主に当る村役を、中世以後から江戸期の寛文四年六月十日まで中使と呼んでおり、その中使が隣村どうしで田地の検地をし合ったことから中使検地の名が生れた。河村の検地は慶長二年から始められて同五年に完了したのである。その翌六年に、徳川家康は全国を制覇し、佐渡をいち早く徳川の直轄領と定め、河村彦左衛門に加えて、新たに田中清六・中川主税・吉田佐太郎の三人を佐渡代官に任命した。その四人支配の時に、本途(ほんと・本年貢)の五割増という急激な増税策が打ち出された。慶長の一揆は、この増税に対する抵抗運動として起ったのである。
中央の権力が佐渡支配をしようとする第一の目的が金鉱山にあったことは言うまでもない。その金銀山での産出を
円滑に行なうには、人材や食糧や燃料などの供給源である農村への対策が、直接に成否を左右するので、そのことは農民側にも権力側にもよく承知されていて、繁発した佐渡の一揆はその両者の均衡の中で行なわれてきたのである。『越後と佐渡の一揆』(池政栄編)の中で筆者児玉信雄氏は、佐渡の慶長検地が、「秀吉にょって確立された近世的農村支配の基礎ともいうべき太閤検地とは、およそほど遠い内容のものである。」とし、そのわけは、『佐渡風土記』に述べられているように、河村殿が田畑屋敷の広少を調べて、御年貢をかけようとしましたところ、農民との間に不穏なことが起りましたので、やむをえず、村々の中使どもに命じて代わるがわる検地を行わせた」とした点にある。つまり本土の場合とちがって、佐渡では、農民の不穏な動きが農政に大きな力を与えていたわけである。
慶長の一揆は、前記した半次郎・豊四郎・勘兵衛が一国を代表して江戸幕府に直訴するという方法をとった。その結果幕府は、中川市左衛門、鳥井九郎左衛門、飯倉隼人の三人を現地に派遣して実情を調べさせたところ、直訴の内容が正しいことが分って、吉田佐太郎は切腹、中川主税は免職、河村彦左衛門と田中清六は改易(官職や身分を取り上げること)となった。つまりこの処分に見られるように、表の原因ともなった本途の五割増の年貢は、吉田佐太郎の企てであったことが判明したのである。
(寛延の義民)
寛延三年(一七五〇)に起った一揆は、半世紀前に島を潤してきた「近江守様時代」の反動のような形で、そして享保の幕政改革以後の倹約令にょる内需の縮少や、度重なる増税の結果として起ったものである。近江守とは、元禄三年(一ハ九〇)から二十二年間にわたって佐渡を支配した、佐渡奉行の荻原彦次郎重秀のことである。元禄時代といえば全国的な好景気の時代ではあったが、巧みな荻原の政策で、佐渡は鉱山も農村も殊の外繁栄をみたのであった。ところがそれから十数年を出ないうちに、享保四年の定免制実施や切り替えに伴なう増税と、享保八年以後につづく鉱山経営の不振とは、全島的な不況を斍していた。その構造的な落ち込みが、行政上の些細な点にまで及んで、島の住民を圧迫しはじめたため、その背景の中で村々の有識者の連帯が始まった。当初は増徴を重ねてきた年貢の問題が発端であったが、行政の非を衝いていく過程で、さまざまな疑惑が挙げられるようになった。寛延の訴状二十八ケ条の条文をみると、飢渇人に対する夫食(ふじき)米の扱いの件、御蔵掛り定役衆への
礼金の件、その御蔵元から相川御蔵へ附運びの駄賃を要するという件、出判を申し請ける際の手数料の件、百姓の筆養子を迎える際の御役所への祝儀を差出す件、宗門改めに廻る役人や手代など供の者の宿にかかる経費の件、小木赤泊両港の波除場の御普請を自普請としている件、牢番に対して納める不当な納め物の件、御陣屋に対する掃除人足賃の件、煙草・茶畑・塩・海産物・船械などの役銀に関する件など詳細に及んで述べられている。
右の二十八ケ条の悪政を指摘した条文は、辰巳村太郎右衛門・川茂村弥三右衛門らの首謀者によって起草されたものであるが、寛延三年午九月に、佐渡国貮百六拾箇村惣代・宿江戸堀江町二丁目萬屋七兵衛の住所で、吉岡村七郎左衛門・椎泊村弥次右衛門・和泉村久兵衛・下村庄右衛門・新保村作右衛門の五名の連署となっている訴状は七郎左衛門と弥次右衛門の二人によって島抜けの上、江戸に上がって提出の運びとなったが、書類などに不備な点があったため一旦帰国して、再度出府の際は右記の三人を伴っていた。十月七日にこの訴状は、勘定奉行の曲渕豊後守の手に渡された。
幕府は吟味の結果この訴状め内容の正しいことを認め、佐渡奉行の鈴木九十郎に対して、「知行半知召上、御役御免、小普請入、閉門」の判決で免職言い渡した。後任の佐渡奉行には先手弓頭であった松平帯刀忠隆が任命され、松平は勘定奉行から引き継いだ書類にもとづいて、翌年に佐渡赴任の上取調べをすることにして、五人を且帰国させた。
帰国した五人は、明くる寛延四年二月二十七日に、河原田で催した一国寄合の席上で江戸上訴の報告をし、弥次右衛門から出された動議によって、佐渡在勤の阿部信之に対しても訴状を投出することとなり、左の三名の者がこれに署名捺印した。
一国惣代辰巳村太郎右衛門・下川茂村弥三右衛門・大石村庄左衛門・新町村伊右衛門・吉岡村清左衛門・竹田村新兵衛・小倉村重作・河内村太右衛門・目黒町村利左衛門・畑方村惣左衛門・舟代村五左衛門・瓜生産村仲右衛門・潟上村嘉兵衛・椎泊村七左衝門・長江村源兵衛・吉井村重右衛門・谷塚村吉左衛門・大和田村勘兵衛・中興村半兵衛・平清水村弥一郎・窪田村六左衛門以上二一名
松平奉行が用人を伴って佐渡に赴任してきたのは、同年の五月十五日であった。この一行には幕府御巡見の中根吉左衛門や、勘定役の横尾六右衛門、評定所留役の川口久三郎が、それぞれの用人を伴って加わっていた。吟味の結果は、諸役人の不正が確認され、在方役・地方役・米蔵役などが罰せられた。最終的には、役人は斬罪丁死罪二・遠島七・重追放三・中追放一・軽追放一・暇五・押込二六・役義取扱一・急度叱五の計五二名が刑を受けた。
いっぽう訴えた農民側の刑はつぎのとおりであった。
死罪-辰巳村太郎右衛門・椎泊村弥次右衛門、遠島-椎泊村七左衛門、重追放-下川茂村弥三右衛門、軽追放-吉岡村七郎左衛門・新保村作右衛門・和泉村久兵衛が刑を受ける。さらに三郡の村々の名主のうちで、実際に事件に参加した二〇八力村が名主を取り放され、二〇〇名以上の百姓が急度叱りを受けた。
右の事件に関する吟味取調べに伴って、直接にかかわりのない者にも余波が及んだ。それは、後山村の名主久左衛門と田上村の名主林右衛門の両名が、在方役の大森五右衛門と荻野善左衛門両名の依頼を受けて、四月から九月までの半年間に、二千六百石の地払米を受取っていないのに受領の捺印をした偽証の罪で、国払いとなったのである。前記した役人の死罪二とは、この大森と荻野のことであった。国払いから帰国して以後の久左衛門の行動については畑野町史『萬都佐木』で詳述した。
(宝暦の飢饉)
『佐渡災異誌』(相川測候所刊)によると、江戸期に「凶作」と記録されている年が三〇回ほどあった。そのうち特に集中していたのほ、宝暦時と天保および嘉永の三つの時期である。これは一揆や事件の発生との関連で、記載の煩度が多くなっているという事情があったのかもしれないが、宝暦と天保の頃に気候の不順が重なっていたのは事実であろう。寛延の一揆が終末をみた二年後の宝暦三年(一七五二)に、佐渡では代官制が布かれた。代官は二人制で、そのひとりは地方五万千六百石余と蔵方を支配し、もうひとりほ地方七万九千石余と金鉱山を支配し、それぞれにこれまでの奉行所役人が配属となった。つまり佐渡奉行は、寺社と訴訟に関する権限をもつだけとなったのである。そして前者の小佐渡側の代官には藤沼源左衛門時房が、大佐渡側の村々の代官には横尾六右衛門が就任した。
猿八村と小倉村の飢饉は、藤沼源左衛門が代官職にあった、宝暦五年と六年に起った。藤沼は、同六年二月新町村の商人半右衛門・西三川村の武左衛門と新穂町の吉右衛門の三人を肝煎役に命じて実態の取調べと救他に当らせた。その時の肝煎りの者から藤沼代官に差出した報告書はつぎのようであった。
『山本半右衛門家年代記』
一、小倉村、飢渇百姓人別改帳一冊(但し 人名人別等ハ、相略し帳尻だけを写し出す)
〆 八拾八軒
此人別弐首九拾七人
内
一、百弐拾人 急ニ餓死之躰ニも相見江申快
一、百七拾七人 走ハ急二痛も相見江不申候
右 人別持分 田地 拾四町五反弐畝拾四歩
右 同断 畑 弐拾六町八反九畝弐拾八歩
右之通相改相違無御座候 以上
宝暦六年子二月
新穂町 吉 右 衛 門
新町村 半 右 衛 門
一、猿八村、飢渇百姓人別改帳一冊(但し 人名人別等ハ、相略し帳尻だけを写し出す)
〆 弐拾三軒
此人別七拾四人
内
一、三拾四人 急二餓死之躰ニも相見江申侯
一、四拾人 是ハ急二痛にも相見江不申候
右 人別持分 田地 五町七反弐畝六歩
右 同断 畑 七町弐反弐拾六歩
右之通相改相違無御座候 以上
宝暦六年子二月
新穂村 吉 右 衛 門
新町村 半 右 衛 門
藤沼源左衛門様御役所
つまり、小倉村で一二〇人、猿八村で三四人、合せて一五四人が餓死寸前の状態に見え、二一七人の者はそれほどでもないように見えるというのである。この報告書は、予め名主ら村役人が行った吟味がもとになっていた。右両名から猿八村役人に宛てた書状によると、
一、二月、小倉村・猿八村飢餓人多く是有侯に付、御代官藤沼源左衛門様より当家及び加茂郡新穂村吉右衛門、羽 茂郡西三川村武左衛門三人二肝煎役を命じ、右救済方被仰附、則三人之者共、右弐ケ村へ出張取調べ救恤救二万事尽力致侯。
夫村方夫食不足、又者餓死人等有之由、御聞被上、此度私共御見分二被仰付侯間今日罷越候、先達而急々飢餓致候様成者人別家数御吟味之上、帳面認置可被成侯、為其先達而申進候
二月廿四日
新穂町 吉右衛門
新町 半右衛門
猿八村役人衆中
で、これによって飢餓人について吟味の上、帳面に書き出して置くように予め通達があったことがわかる。但し両名
によって、その上で村人のことごとくが見分を受けたのかどうかはわからない。その前後の、宝暦六年二月および五月、小倉村の村役の者から三人の肝煎宛につぎの証文が届けられた。
証文之事
一、当村、田高町歩方、百三拾町余之内、五拾町程及飢渇ニ植附難相成旨、御役所江申上侯所ニ、此度各中為御検役と御出被成、右ケ所改之上吟味被成侯ハ、先達而御手宛等も度々被下置候所ニ、働方少も相見不申、不屈之由逸々察当之趣尤二存候、依之村中不残呼寄猶又吟味仕候ニ付、右高之内弐拾弐町斗ハ郷中相互ニ助ケ合可成ニも植附させ可申侯、尤用水丈夫之場所ハ稲作、渇水之所ハ稗作並大豆小豆二而も、土地相応ニ作付させ可申侯、残り弐拾八町三反五畝廿歩別紙帳面之分ハ、何分吟味改侯而も、植付可致方更無御座候、右作付請所之内少成共荒し置侯ハバ如何様之越度ニも可被仰立侯、依而後証如件
宝暦六年子二月
雑大都小倉村 百姓代 重作
同 忠左衛門
同 七郎右衛門
組頭 久三郎
同 作左衛門
同 長右衛門
同 儀左衛門
新穂町 吉左衛門殿
新町 半右衛門殿
西三川村 武左衛門殿
証文之事
一、当村飢人持分之田地不植付高廿六町余、此度御役所より近在人足被仰付、各中肝煎役として御越被成、別紙書面の田地植付地二御仕立被下、尚又御植付可被下旨、被申聞侯所、格別之御慈悲を以、御役所より度々御手宛等被下置段々麦作ニも取続申付申侯間、か程迄に被成下侯上ハ、植附之分ハ村中相互ニ助合銘々有合候こやし等持運び作付させ可申侯、尤苗之儀、不足二御座候故、先達而稗種蒔立させ申侯所、いまだ生立不申侯間、出来次第作付いたし、其上ニも不足任候ハハ、大豆小豆二而も土地相応ニ仕付させ可申侯、若植附之義、拙者共御請申候少成共荒し置申候ハハ、如何様之越度ニも可仰立侯、仍而作附請書印形如件
宝暦六年子五月廿八日
雑太郡小倉村 百姓代 七郎右衛門
同 忠左衛門
同 十作
組頭 長右衛門
同 作左衛門
同 久三郎
名主 儀左衛門
新穂町 吉右衛門殿
新町 半右衛門殿
西三川村 武左衛門殿
この二通の証文をみると、小倉村の飢饉に対して御役所では、並々ならぬ配慮を示して、「御手当」などを度々下
されて、「か程迄に被成下侯上ハ」と村役の老たちを感激させている様子がよくわかる。しかし一方おいて、飢餓人の人命に対する憂慮ばかりではなく、作付放棄に対して厳しい指導監督が加えられていたことも窺われ、当時の行政上の措置が必ずしも人道的立場からだけでなされていたのではなかったことを知ることができるのである。
ところで、同じく小倉村の名主や、肝煎役を接待した宿の者から出したもう一通の証文がある。
証文之事
一、米壱斗五升 但壱升二付四拾八丈つゝ
代 七首四十八文
一、銭壱貫六拾文(但 壱人ニ付、一日三拾四文宛三人分 十九日晩より廿九日朝迄)
〆 壱貫八百拾弐文 木賃米代受取申侯
右者、此度当村不植附田地肝煎役として、御越被成、私共宿致候所、何成共馳走ケ間敷儀不仕侯、勿論 非分成義少も無御座候、為後日之証文如斯ニ御座候 以上
子五月廿九日
雑太郡小倉村 宿 七右衛門
同 吉兵衛
名主 儀左衛門
新穂町 吉右衛門殿
新町村 半右衛門殿
西三川村 武左衛門殿
これは右の肝煎役の三人が、小倉村に調査などのために逗留した際に費した米代や木賃(燃料費)の受領の形式をとってはいるが、「なにぶん共、馳走がましいことはしなかったし、もちろん疚ましいことはありませんでした」と断わり書きが必要であったのは、気にかかる点である。つまり贈賄の疑惑を予期した釈明書とも受けとれるからである。
(飢渇人の数)
宝暦五、六年の飢讐の餓死人について公式の報告書では、右記したように猿八村で三四人、小倉村で一二〇人ということであった。ところが『佐渡年代記』の宝暦六年の部には、「此節に至り飢渇人も有之よし村々より申出候間源左衛門逐吟味侯虚相違も無之小倉村猿八村は三百七拾人余も有之事故」となって、戯死人ばかりでなく「急に痛も相見江不申」者をも加えた総数が記録された上に、「藤沼源左衛門墓所に飢渇人七千五百人餘有之に付御救米三百五拾七石餘を渡す横尾六右衛門支配所に飢渇人四千七百余人餓死の者千三百餘人あり御救米百六拾石餘を渡せしと聞ゆ」となって、両代官配下の飢渇人を合わせると一二.二〇〇人余り、餓死人が二、八〇〇人というばう大な人数となって書きとめられたのである。
この二、八〇〇人の餓死者が正しいとすれば、これは佐渡史上最大の出来事のひとつといってよいであろう。それ
にもかかわらず、死人の数は大まかに一、五〇〇人、一、三〇〇人などと「概数」としてしか善かれておらず、その内訳も明らかにされていないからには、この数字はかなり根拠の浅いものであったと言うことができる。
そもそも、人間の死を、自然死か病死のような、いわゆる通常用いられる「死」と、「餓死」と正確に見分けることはかなり困難な作業である。
(中山堂の過去帳)
右記したように、藤沼代官から命ぜられて肝煎人たちが報告した小倉村の「餓死の躰」に見える者の数は、一二〇にんであった。ところが小倉の村人の伝承では「三百人餓死した」ということになっている。そしてそのことを伝える餓死者の過去帳とされる帳簿が、宮の河内の奥にある中山の堂に現存している。この帳簿は、過去帳であるからには回向のための命日が月々の日付もしくほ月日だけ記載されていて宝暦五、六年の飢饉の年を示すような年号が全く書かれていないのはいたし方ない。小倉村の多くの家は、長谷の遍照院檀家であるが、その遍照院には飢饉の十年ほど以前の寛保四年に求めた過去帳がある。それによると、宝暦五年に十二名、翌六年に百一名の者が小倉村内の檀家で仏になっている。そしてその両方の過去帳を比較照合するため、戒名に「道」および「妙」の字のつく二一八例について当ったところ、月日・屋号まで一致するのは、わずか一例だけであった。
そこで、さらに宝暦五、六年の死者確認するため、中山堂の過去帳に記載されている戒名の墓を探し出すことにし
町史編さん委員会でその探さくに当った結果、二三基ほどの墓に過去帳の戒名と一致するものを見つけ出した。それによるとそのうち一基だけが宝暦五年の年号で刻まれており、他は元禄一・宝永三・享保五・元文二・寛保一・延享三・寛延三・宝暦(三年・四年・八年)三・不明年一の計二二基であった。すなはち、その大半は宝暦飢饉の起る以前のもので、そのほかに逆修の文字が書かれた戒名も三体あった。逆修とは、死者の霊ではなくて、生前に戒名を貰って供養をしたもののことである。
こうして調べた限りでは、中山堂の過去帳は、宝暦の餓死者の名簿ではないと判断せざるを得ないのである。たぶんこれは普通の過去帳であって、家々の仏の名を列挙したものなのであろう。当時小倉村では最も大きな土地所有者であった太郎右衛門家の仏が八体も記入されているということからみても、この素封家の家族八名がすべて餓死者であったなどとはとうてい考えられないことである。事実新町の山本家に伝わる飢餓人別帳には、こうした富農の家は挙げられてはいない。またこの帳面には、畑方村や坊ケ浦村・北方村など他村の老の名も載っている。
そうすると、三〇〇人餓死の伝承の根拠ほ、前述した『佐渡年代記』の三七〇人余という記事のあたりにあったのかもしれない。もしそうならその内の七〇人というのは猿八村の餓死者ということであろうか。小倉村と猿八村のちがいは、村づくりの歴史の深さに関係があるのかもしれない。猿八村も、けっして江戸期の新入者だけにょる新村ではないが、開拓の事情からみて、山村での生活経験が十分でない老がいたであろうと推察でき、この点で古くからの小倉の居住者とはいくぶん性格上の相違があったことが考えられるからである。(小倉部落史の項)
宝暦六年に、小倉村の林左衛門・佐伝次・弥八郎が、猿八村の名主伊兵衛宛に出した証文の中に、私たちの親類の猿八村の徳兵衛が亥年(宝暦五年)に収穫皆無で年貢が納められなくなったので、私たちが身元相応に援助したが、過半は残ってしまいその分を村の負担に仰せつけられやっと皆済いたしましたところ、この春に徳兵衛が死去しました故、いっそう食物がなくなり、(そのため)飢のために枠重治には作付の力がないのでその所帯を放置してこちらに引取りました。そこで御公用を果たす上で村方に難儀をかけさせるため、親類等に呼びかけて代って世話するようはからいましたが応ずる者がおりません。そこで村方でご相談の上で、どなたが入ろうと当方でほ何の申し分もございませんので、証文としてこの書つけをお渡しいたしいたします。
と言う意味のことが書かれている。つまり猿八村の飢餓家族のために、たまたま小倉村にいた親類が面倒をみてその後の処置をしたというものである。
(餓死者の碑)
小倉の物部社が見える位置にある元十王堂の跡に、宝暦十一年六月に建てた 餓死病死者有縁無縁霊魂之法界平等利益也 の石碑がある。願主は定賢と達外という両名の行者風の名をもつ者であるが、施主は当村男女等となっている。この碑は、碑銘に明らかなように、餓死者だけではなく、病死者も対象としてあり、無縁の者も含まれている。この碑と並んで、もう一基の横幅のある巨石に、光明真言百万遍餓死百回忌菩提也 とあり、これは前記の餓死病死者碑より九十三年後の嘉永七年の三月に、儀左衛門と万兵衛が発起人となり、利右衛門と甚十郎が世話人となって建てた追善供養の記念碑である。石碑は他にも三基ほど併立してあるが、餓死者に対して村人の対し方が分るのは右記した二基の石碑である。そのうち新しいほうの巨石が建てられた嘉永七年という年は、五年つづいた凶作の後のことである。嘉永二年には大雨や洪水で不作であったのをはじめとして、同三年、同四
年、同五年と凶作がつづき、さらに同六年にはこんどは旱魃に見舞われて苦しい年であった。これは宝暦や天保に劣らない凶作で、このような時に人々は、不慮や不遇の死をとげた老に対する供養の足りなさが取り沙汰されて、大きな真言・念仏が行われることになる。この嘉永の凶作の場合には、真言宗の着たちによって、餓死者のために百万遍供養が催されたのである。そしてこうした災難を除く目的で供養するときは、火防神として秋葉山を祀るときと同じく、巨石が用いられるのが普通であった。この巨石の大きさや重さが、地下にいて災厄を招く悪霊を鎮めると信じられてきたからである。
(明和事件の発端)
明和三年から同七年にかけて起った事件のことを、世の人は「遍照坊事件」と呼ぶことが多い。そしの発端てその呼び方が示すように、長谷の遍照坊が中心となって、あるいは遍照聖人が活躍した騒動であるかのような印象をさえ与えている。『天領佐渡』を書かれた田中圭一氏が、その中で「たった一人の犠牲者」と明和の一揆に副題をつけられたように、たしかに結末は遍照坊だけが処刑されて、遍照坊事件と呼ぶことがいかにも相応しい状況であった。しかし事実は、遍照坊智専は事件の途中から参加して渦中に巻き込まれ、いつしかこのような結果となってしまったのであって、事の発端からかかわりを持っていたのではなかった。
明和の事件の発端にも、さまざまな要素が複合されていて煩雑である。これまでに言われてきたのは、明和三年七
月二十八日の大雨による洪水の被害と、翌四年七月十九日から二十三日までの大雨と東風、それに浮塵子(ウンカ)の発生で中稲(なかて)・晩稲(おくて)が全滅になったことである。(『佐渡義民伝』伊藤胎毒)村々では、その実情を立毛検分によって認めて貰おうとして請願したが、四日町・馬場・北村・猿八の四力村が年貢の被免に、船代・下村・畑方・畑本郷・武井・金丸・金丸本郷の七ケ村が三分の一づつ未納・年賦・石代納となっただけで、他の村々には免除等の恩恵がなかった。
それに加えて、代官制が布かれて以来、奉行所と代官所の二重支配を受けることになり、「政令二途に出るといふ
事あれ、願や届け出に煩雑なる手数がかかる」(『佐渡義民傳』)ために百姓たちはこの代官制を廃止することを強く希望していた。この代官制に付随して、さらに百姓を困らせるような出来事が相ついで起った。
そのひとつは、代官の下役で年貢米納入の職務をとる御蔵奉行に、明和元年から谷田又四郎という者が就任したことである。谷田は業務に忠実で、幕府側からみれは有能な吏員であったらしいが、農民にとっては冷酷非情な悪奉行であった。着任二年後の秋、百姓共から代官久保田十左衛門に差し出された願書によると、御蔵奉行の谷田様から、年貢米の納入には特に念を入れるようにとの達しがあったので、そのようにしたところが、検査に通らなかった。そこで指摘された縄と俵をとりかえて差出したところ、こんどは米質が悪いという理由で戻されてしまった。それで多
くの手間をかけて青米や砕け米を取り除き、改めて俵ごしらえをして差出したところ、四一俵は納入できたが、あと
で改めを受けた一五俵はまたまた戻されてしまった。(田中圭一『天領佐渡(2)り抜粋)
この谷田奉行の年貢米に対する過酷な指図は、村人に奉行への不信感を抱かせた。明けて明和四年の正月には、谷田個人に対する非難の訴状が佐渡奉行所に持ち込まれた。
「(前略)旧冬の御蔵納めの節、御奉行様は、村々の内で去年つかった古俵を明けかえしてそれに米をつめて年貢
米に出したと判断されたのか、その俵から米を御蔵の庭に引きあけてしまわれた。しかし大切な御年貢を古俵に入れるというようなことを百姓がするわけがない。百姓にしてみれば、大切な御米が御蔵納めにならないからといって、土庭に米をまき散らされるやり方は、いかにも慈悲少ない仕打ちかと思われる。したがって、これ以上は何といわれても当国の百姓の力の及ばないところである。米の質にしても、一ヵ村の内であっても天水田もあれば沢田・山田もあって、青米・赤米がまじることはどうしてもさけられない。さらにそのようなごたごたのためにかかった費用は、米一俵について、一俵の米が買えるような大変な金額になったので、その分を各村々で入用帳面に仕立てて提出したが、一覧もしていただけない。(以下略。同上書)」
この訴状をしたためたのは、村の名主など村役人をつとめていたものであったが、結びのところで、願いの筋をお取あげがないので、そのため百姓共がのこらず御陣屋へ押しかけてお願いしようと言うのをなだめすかして差し留めました。百姓が潰れ果ててはどうにもなりません。そこで要求を入れてくれるか、そうでなければ江戸表へまかり出て、直訴しなければなりませんので出判をお渡しくださるよう願いあげます。と書いてある。
これは村々から、奉行所に対するたいへんな挑戟である。直訴のための出判を要求するなどは、出来る筈のない無
理難題を出すという点で脅迫的でさえある。それほど村役人は百姓と奉行の間にあって苦境に立たされたということ
であろう。
谷田奉行がこれほどまでに御年貢の納入に苛酷な要求を出したのには理由があった。相川金銀山の衰微と共に鉱山町相川での米の消費が減少し、余剰米を他国に払い米することが始まったが、明和元年には一万四千石が大阪向けに回米された。その大阪市場での佐渡米ほ安値という利点はありながら、米質や包装など商品としての価値においては他国米に比べて劣っていた。御蔵奉行として谷田又四郎が着目したのはそのことであった。
しかし島内の百姓に、そのわけを含めて納得させることをしなかったから、百姓共は、おかみの権力で首姓を困らせ、それは賄賂を取るためであろうと判断した。その当時の奉行所役人にはそのような悪風があり、首姓たちから強い不信感をもたれていたからである。
(明和の一揆)
村の名主たちの憂慮と心入れにもかかわらず、事件はつい百姓たちによる打こわしに発展し、一揆の様相を呈してきた。明和四年(一七六七)二月十二日の夜、沢根町の越中屋清兵衛宅から出火した火災で五軒の民家が類焼した。さらに同日同刻に、やはり沢根町の加賀屋多兵衛所有の材木小屋からも出火した。そのため浜に揚げてあった加賀屋の回船三艘と、浜田屋の回船三艘それにに家一軒が延焼した。この不審火は、解明されないままで終ったが、付け火であったことはつぎの事からはっきりわかる。
前年の明和三年三月二十四日、銀山大工(注・大工とは坑夫のこと)と精錬所の稼ぎ方の者が、米価の高騰を
奉行所が何の処置もとらないのに怒りが爆発し、集団を組んで中山峠を越えた。そして沢根五十里の造り酒屋茂右衛門宅にのり込んで酒食を強要した。この時は奉行所から山方役や同心衆が出かけて釆て大工共をなだめ、茂右衛門の対応のし方のよかったこともあって災難は小さくて済んだ上、相川の米屋や町年寄の協議で米価は二割方引き下げられて落着した。これが明和の一揆の前哨戦となった。
一揆が起った明和四年は、七月の雨と風にょる天候不順と九月二十一日の大風にょる晩生稲(おくて)の大きな被害があって、その年の年貢の納入が困難な村がぞく出した。後山村・宮浦村・目黒町村・粟野江村・二十五貫村・大久保村などがそれで、これらの村々は新穂・金丸方面の村と寄合い協議して、年貢の十年賦納入の願いを出すことにした。
その大風の直前九月十六日に、谷田御蔵奉行から、「虫つきによることしの不作について、年貢の減免は一切行なわない」と申し渡されていたので、年賦納入の話し合いとなったものである。しかしそのころ、谷田奉行から、またもや御年貢のこしらえをよくするよう、また米性の悪いものは受けとらないという達しがあって、農民の不信感がますます強まっていた。こうした農民の実情に無頓着で、役目柄の要求ばかりをつきつける谷田の冷酷さが、一揆の直接のきっかけとなったのである。(同上書)
越後の出雲崎在住の鳥井儀資氏所蔵文書に、丸山村の大工彦八が写しとった回状がある。(『新潟県史』資料編9) これによると、十一月四日(明和四年)暮六つ時に、八幡村の広野に勢揃いして、命に替えて行動を起す。もし参加しない村があれはその村を焼払う、という意味の激しい調子の回状に、つぎのような内容の回文がついている。「・当国は近年江戸から役人が多数やってきて万事について国は二つにわかれ、治改もはらばらで、国中一同は大に困っている。そのため今度、御蔵方、御代官、御組頭を打ちつぶし、国中、御奉行様と地役人によって治政下さるよう訴えるものである。 ・来る十一月四日暮六つ時国中の男子一五歳以上五〇歳までの者は相川に押し寄せること。 ・どうみのをつけあみ笠をかぶり、こうせん二日分、わらじのはきかえ、一人に竹ヤリー本、竹櫂一丁ずつ、よき、まさかりにて十人の内一人持たさすべし。ほかに梯子、七、八百石以上の村、三間梯子持たさすべし。小村は寄合い二間半梯子持たさすべし。かま・武具の類かたく無用、諸道具に書付け無用、出合の節、唄けんかかたく無用。相川へ参り、第一に御蔵方のやかたへ四方より梯子をかけ、屋根より屋根石取り、その外互に心を合せ、隣家の屋根石手ぐりに致し、屋根より破り申すべし。つぎに御代官御門ならびに御役所へ四方より梯子をかけ、右の通り打ち破り申すべし。御居宅障り申すまじく侯。 ・両人の組頭のやかたへ四方より梯子をかけ蔵方同様に致すべし。つぎに、国中一同御城の御門前へ進み、一同高音に御願い、お願い、と言うべし。願う事は、・一に石盛二〇の村の上品の一反年貢額五斗四升(中略)石盛一二の村下々田で三斗一升とすること。 ・二には、川欠・山崩・死荒れ等作物のあがらない年は年貢をとらない。 ・三には、不作のとき御検見御代官ならびに両組頭の非道な仕打ちについて。これより今回、蔵代官・組頭などの、惣じて江戸役人打ちはらい、以後は御奉行と地役人中ばかりで政治をしてもらいたい。 ・最後に、今後の強訴の要求がかなわなければこの国は立ちゆかない。だから騒いを聞き入れ御触れをいただくか、国中の村役人を集めて願いの通り御聞済と仰せらるまでは、国中一円命令はきかない。また村方からは一切相方へ出ないことにする。もちろん金銀納め共に納めない。庄屋・質屋ともに今年と来年は貸金の利息はとらないこと。もっとも元銭は返済するし、また来年の八月からは約束どおりにする。もし違反して利息をとる者があった場合には、その者はもちろん、その村共に焼き払うことにする。
徒党のとき、名主・組頭・百姓代の三人は、火盗番として村に残ること。このことは村に写し置き、十一月の一日までは取り沙汰せず、二日になったら村中を集めて読み聞かせ、きっとそのように命ずること。もし村方へ申し渡さなかったり公辺へ内通したりする村役人があった場合には、その名主はもちろん五三力村から押し寄せ焼き打ちすること。また徒党のとき奉行所・地役人の館へ石一つでも投げないよう随分大切に守り申すべく候。もし捕えられたりした場合は、国中へ回文をして数百人の者が相川へ行き、帰村させるようにすること。」
以上は、謀議から行動を起すまでの農民の心情や、決起への仕組を知るよい資料であるが、『佐渡国略記』による
と、一揆の実際の経過はつぎのようであった。
明和四年十一月五日、胴みの・わら笠姿に小さな叺(かます)を脊負った者たちが一〇人・二〇人と連れ立って中山街道から相川の町へ出てきた。丸槍をもつ者も三、四人いた。凡そ一五〇人ほどが四丁目の弾誓寺境内に寄り合った。そのほかにも何人かの者が町中をうろついていた。下戸の番所の扉には、「国中一統」と書いた奉行宛の訴訟文が張られたりしたが、とくに打ちこわしなど暴動らしき事は起らなかった。これが手はじめであった。この決起の寄り合いには、二、000人の百姓が相川・沢根辺りに集結した資料もあるという。この事件に対して奉行所では穏便策をとった。直後の三月九日に召集した村の代表者たちへの警告も、回状の首謀者も不明であるし、願いごとがあれは、村単位で行なうようにして強訴のような事を避けるようにという達しであった。そしてその年の年貢米の上納は、支障もなく通過した。この役所の態度の豹変は、百姓たちの打ちこわしの情報が流れていたためとされている。回文にも書かれていたように、村方の三役の者は、直接行動には参加せず、村に残されていたのは、内通を防ぐ目的であった。そうした配慮にもかかわらず、十月の半ばにはすでに奉行所・代官所には暴動の情報は入手され、年貢米の無条件受領はその表われであったという。
しかしこの穏便策は、新たな決起を誘った。最初の手はじめであった相川集結から十日後の三月十八日の朝、三
宮村の三宮大明神拝殿の鰐口の綱に、「御年貢米の延納を請願する相談のため、三月二十三日に、粟野江村の加茂大明神の境内に集まるように」という一文が詰わえつけてあった。そして二十三日の当日は、多ぜいの者が加茂社前に集まったた。その集会で指導的な立場にあったのは、後山村の助左衛門であった。助左衛門は事の経過を報告し、代表者の紹介なども行なった。集まった代表者は、七四力村にもなった。訴状の案文は四通あった中で、後山村助左衛門のものが採択された。この集会では、助左衛門の訴状をもとにして成案をつくることや、日を改めて具体的な日程や代表者を決めることが決議された。
第二回目の加茂社前の会合は、十一月二十六白早朝に行なわれた。この席で惣代が選ばれた。選ばれたのは、小倉村十左衛門・瓜生屋村仲右衛門・後山村助左衛門・舟代村五郎右衛門・目黒町村理左衛門と、長谷村遍照坊智専であつた。智専ほ訴状の成文を清書する役を負った。その訴状の重な内容は、さかのぼって寛延元年(一七四八)から同三年までの年貢にかかった増米の分を免じてほしいというものであった。過去の年貢を免ずるとは、その間に納入した年貢米を実質的に返済してほしいということである。
こうして綿密な計画の下に進められてきた連帯ほ、この段階で終末へと向ってしまったのである。相川奉行所は、「隠目付商人にならせ侯を、右寄合中にて、就中頭取立ち侯者を付け候て名を留め」、首謀者七人(右記のほかに左衛門が加わる)ほ捕えられて、相川へ召し連れて行かれた。
明和の一揆には、天照皇大神を奉ずる伊勢信仰が伴っているが、伊勢信仰はこの頃が全国的な最盛期で、明和八年には爆発的な「おかげまいり」に発展し、さらに「ええじゃないか」の世直し運動の性格をもつようになる。佐渡農民の起したこの一揆の中に、そうした伊勢信仰の初期の世直し的運動の芽生えがすでにあったかどうかはわからない。
(明和事件のお仕置き)
明和の一揆の肝要な部分は未遂に終ったわけである。しかし、村々が徒党を組んで強訴してはならないというお触れが出されている最中に、数度にわたっ寄り合いをし、時にほ予備的な行動も起したのであるから、それに対するお仕置がなされるのは止むを得ないことであった。ところが捕えられた七人は、智専を除いてみな村の有力者であって、数年前に起った寛延の越訴や打ちこわしの風潮の強いこのような時期に重い刑を課することができる情勢ではなかった。右逮補者七人のうち、畑本郷村文左衛門はのちに牢死し、舟代村五郎右衛門は病気となり、役所の医師たちの診断で回復できないとみられ村役にお預けとなった。また長谷の遍照坊は別に「揚げ屋」というところにつかわされ、他は獄屋に入れられた。(片野尾三国充氏所蔵文書他)そのような状況の中で吟味が進められたが、助左衛門は、(暴動を起すつもりでなく)増米の幅をゆるめて下さるよう願い書を出そうとしただけであり、その証拠は畑本郷村の藤右衛門方に預けてある書類を見て箕えばわかることだと述べた。ここで藤右衛門が騒動に巻き込まれることになるが、藤右衛門は後難を恐れて、預った書類を焼却してしまっていた。そのため一時は金鎖をつけられて懲しめを受けたが、取調べの結果この者には罪がないとわかり釈放された。
こうした経過をへて、しだいに主謀者ほ遍照坊であるという方向に傾いていった。そして奉行は遍照坊ばかりを吟味し追及したが、遍照坊は「上古稀なる口ききゆえ、何分にもおちいらず侯て」手こずったので、その後は寺の関係
者を呼び出して吟味したところ、「なかんずく小僧申し分悪敷」遍照坊はますます不利な状況に陥入っていった。そ
れというのも、その年とその前年に、遍照坊が山伏と出入りがあり、遍照坊の才智で山伏の旦那をみな取上げるとい
うような一件があったりしたためである。けっきょく、最終的に処刑されたのは、遍照坊智専ひとりだけであった。明和七年三月のことである。『天領と佐渡』に善かれた「遍照坊智専御仕置の廉書」(佐渡高等学校舟崎文庫蔵)ではこうなっている。
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松平周防守殿御差図
此者儀、去る亥年田作虫付に付き、徒党強訴致すべき廻文謀計を以て取り拵へ、右書面に相川表勤役之者御役の者御役宅打潰す旨、竹鑓・梯子・斧など露出し侯様相認め、不心得の村方へは火をかけ焼払うべく相触れ侯に付、百姓共相川へ罷出侯所存にも相成り、その上国中百姓願と偽り、数ケ条不法の義相認め強訴致し、願の通り相叶わずば、陣屋下へも火を掛け申すべき旨、公儀をも恐れず法外の儀共相打ち、御禁制之徒党強訴を企て、其の後粟野江村加茂明神社へ百姓共寄合の節強訴件の訴件の訴状下書差出し、重々不届至極に付き明和七寅年三月二十一日死罪 以上
処刑は、同日の寅の刻に獄内において斬首が行われた。智専は五〇才であった。そしてそれ以前に釈放され村預けとなった者には、過料銭を課して放免し、願書に連判した村方へは、名主は五貫文を、組頭は三貫文を過料銭として納めさせ、一般の百姓共に対しては「叱り」で終った。
いっぽう奉行所の役人の側には、寛延の事件のような罰は課せられなかった。しかし明和五年四月二日に、この明
和事件のひとつの目的であった代官制が廃され、以前の奉行支配に復帰したし、同七年二月には、事件の発端をつくつた御蔵奉行の谷田又四郎は江戸に召還され、蔵奉行の職務は組頭によって管掌されることになった。つまり、事件によって百姓たちの願いの大きな部分が達せられたのである。
(明和事件と籐右衛門)
俗説でほ、この事件の真の首謀者の中に、助左衛門らと共に藤右衛門がいるともされているので、このことについて述べてみる。前記したように、助左衛門の陳述で、藤右衛門に訴状を預けたとして取調べの結果、預かった藤右衛門には罪がないと認められて釈放されたが、藤右衛門と事件とのかかわりは、ただそれだけのことではなかったらしい。遍照坊の吟味の中でも、「自分は藤右衛門などに頼まれて文案を整理し、それを書いただけだ」と当初から主張しており、『天領佐渡』で著者の田中圭一は、おそらくそれが事実なのであろうと書いている。また一応釈放された藤右衛門が、智専の陳述で二代の藤右衛門や小倉村重五郎らと共に入牢したという文書もある。
当の藤右衛門家に伝わる家系書の中に、「遍照坊騒動」について記したものがある。それによると、「明和四年ハ夏秋水害虫害交々臻(いた)り大凶作トナリ、住民窮乏言語二絶シ、上納モ又意ノ如クナラズ。然ルニ時ノ代官督促苛酷ヲ極メ、温情更=加フルナシ。此処二於テ二代本間藤右衛門遍説(が)義憤黙シ難ク、決然身ヲ呈(挺)シテ事ヲ起シ、一挙二弊政ヲ改メ住民塗炭ノ苦ヲ救ハントス。之レ遍照坊事件ノ発端ナリ。当初同志ヲ加茂神社二集メ事ヲ議ス。適々(遇々)遍照坊住職智専氏来り会シ、共二身ヲ捨テ住民多数ノ苦ヲ救ハン事ヲ約ス。以後挙ゲテ盟主トス。第二代本間藤右衛門遍説道照居士、明和訴訟事件(遍照坊騒動)ノ主唱者ニシテ、六郎右衛門・熊谷文左衛門卜謀り、小倉・後山ノ同志及ビ舟代・瓜生屋ノ有志卜通ジ、遍照坊智専ヲ謀主トシテ近傍五十餘村ノ重立ト、粟野江ナル加茂社内二会議シ夫ノ事件ヲ起シタリ。事露ルルニ及ビ同志卜共二捕ハレシハ、明和四年十一月ニシテ、同七年三月迄足掛四年在牢シ、科(過)料銭若干ヲ課セラレ放免セラレタリ。本間藤右衛門ヲ義民卜云フハ故ナキエアラザルナリ。後世心スべシ。」
この家系書中の記述は、後世になって七代目の村蔵が大正末年以降に旧村志を参考に記したもので、史実どおりの記録ではない。しかし、藤右衛門が事件の中心にいたという伝承ほあったのであろう。二代目藤右衛門の戒名が、「遍説道照居士」であり、これは遍照坊との関わりをもつ者であったためにつけられたかと考えられるからである。
右記に登場する六郎右衛門とは舟代村の五郎右衛門のことかと思われ、熊谷文左衛門のことは旧村志では与右衛門の分家で、「藤右衛門と共に明和事件発起人の一人となり奔走したりしたが、事の露はるるに及んで遍照坊智専、本間藤右衛門其他五人と共に捕われ、入牢したりしが其疑獄の未だ決裁に至らざる前、即ち明和六年二月五日病みて牢内に歿せり」とし、汚名を着た上、義民として名を知る人が少なきは惜しいことであるとつけ加えた。
(遍照坊智専の書き置き)
巷間では、遍照坊智専は事件の罪を自ら一身に負うて献身したということになって、他の義民たちの身代りとして理解されている。しかし以上述べてきたように、智専は発起人でもなく首謀者でもなく、好んで責めをかぶったのでもなかった。こうした伝承が生まれる動機のひとつとしては、僧職にある者が世を救うために捨て身になる「即身成仏」の思想があったためとみることができる。すでに長谷寺にははっきりとその伝承は残っているし、即身成仏を重んずる湯殿山信仰はこの地にも伝わっていて、行人派の遺跡も何ケ所かある。それに何よりも智専が書いたといわれる書き置きの中に、そのことがつぎのように書かれている。
長谷村遍照坊智専最後書留(抜粋)
今般の不作は国中同様なり。然れば何千何万の人命を失ひ、何程の御田地荒捨可申、依之我等所存、釈尊ハ度々捨身の行を成し給ふ。我は賤しき凡僧なれども、現在人の命を害する者は未来短命なり。現在に火を附る者は火あぶりになる。我国中の為に捨身の行を為す事、是又人の為ならず。凡人命五十年と申し、十人の命を助くれば未来は五百年の寿命を得べく、百人の命を助くれば五千歳の寿命を得べく、千人の命を助くれば五万歳の寿命を得べし。然らば我れ凡そ千人の命を助けば五万年と申す寿命を持ち、何れの界に生れんや、定めて天界に生るべし。-(中略) - 然る上は我ら義、早く三毒五欲の此界を去り、人界は九度の非業は一度の常業とや、九度を逃るる共、一度は逃れがたし。少しも残慮これなく、亥の十月の存立右の通りに侯へ共、思い残るは法流ならびに弟子共志願成就し給へ。南無遍照金剛 願着 意盛
一国中
(橘鶴堂文庫)
右のうち「中略」の部分には、助米や石代の事も書かれてあり訴状にかかわる点もみられるが、書き置きの冒頭に
は、「佐渡雑太郡初瀬村遍照坊奉願法流寺家を改め末寺となし色衣地をせんことを請勧進帳」とあり、一国の者の助力で寺格を上げるための願いがこめられている。
さてこの書き置きに述べられた「捨身の行」をなさんとする思想は、遍照坊智専が裁判に示した言い訳の実態とは、一見して矛盾しているかのように思われるが、これは捕らわれてから処刑されるまでの三年余りの間に、智専が到
達した心境の変化を示すものではないだろうか。とくにこの文の最後に書かれた、人の死は逃がれがたいのであるか
ら、「少しも残慮これなく」と覚悟を決めた言葉の中に、刑死を甘んじて受けようとするための、自らへの戦いのようなものを感ずることができる。そして、自分のために法廷で不利な証言をした弟子たちに対して、祝福を願っているなどは、僧としての智専の大きな悟りと完成さを知ることができるのである。世俗の智専には、いくつかの非難や中傷もあった。中でも長谷寺に残されている遍照坊の大きな借銭で、檀家の者たちを困惑させていた左の文書(要旨)は、智専に悪僧のような印象を与えてさえいる。
書付を以て願い奉り慎
一、遍照坊には、借銭ならびに頼母子の掛金が数多ありますので、去年の冬、当住から旦那共へ相談があり、盆
供・年取物ならびに遍照坊持分の田畑を添えて、作徳で借銭と病母子に当てたいと頼まれましたが、そのような
方法では何年たっても返済できないので、遍照坊の所持する小倉の田地を売って借を返し、畑沖から毎年上る四貫文を積立てて十年後に小倉田地を受け出すよう、もし不作が続いて畑沖の田徳で不足したら、加印した我々で受出すよう申し合せ、本寺へは御苦労かけないようにいたします。尤も目録をご覧のように借銭が大きいのです
が、お耳に入れないわけにはいきません。 明和二酉五月
これに署名捺印したのは畑本郷の惣左衛門を筆頭に、坊ケ浦の茂左衛門・小倉の助左衛門・佐兵衛・七郎左衛門・長次郎・弥三右衛門・与市・藤左衛門・勘左衛門・忠左衛門・重右衛門・与吉・武井の徳兵衛・畑本郷の源右衛門・作右衛門・小倉の助三郎・仲右衛門・由兵衛・正寿院であった。
遍照坊智専は享保五年に小立村の源七(島川姓)に生れた。幼時の智専に関する挿話としては、幼童のころから煙草を契っていたということだけが伝わっている。五、六才の頃から喫ったというのである。当時の農家でほ自家製の
煙草を作っていて、とくに西三川は産地であったので、源七家でも栽培から煙草刻みまでやっており、智専もその手
伝いをしていた。そのような事情もあって、子供の智専が喫煙するのをとがめなかったのであろう。そのような智専をみて母親がお前は人並の死に方はできないと嘆いたという詰も残っている。幼童の時から喫煙の習慣があったなどといえば、今ならさしづめ問題児とされたことであろう。智専は長じて羽茂本郷村の真言宗妙法寺に入って剃髪しその後に長谷の遍照坊に移り、明和二年に名僧快遷の死後同寺の住職となったという。(旧村志)もしこれが正しければ、前記した遍照坊に大きな借銭のあったことを示す文書は、快遷の代にあったことで、これを智専の放漫な経理とするのは誤りということになる。しかし快遷の寂年は確認できない。
智専こと憲盛法印の供養塔は、全島で一二〇基が数えられている。(祝勇吉調べ)その分布は、バス通路を中心とすれば南線すじが五〇基で圧倒的に多く、ついで本線すじが二六基、小木線一二基・河崎線一〇基・赤泊線九基・前浜線七基などとなっている。そして建立の年代は文政から天保にかけてのものが大半である。ただし明和の建立も三〇基ほど数えられるが、これは殆どは処刑の日付になっているから、建立年月とは別である。当時は、非業・不慮の死を遂げた者に対する供養が足りぬと凶作や天災が起ると信じられていたから、供養塔の建立が競うようになされたらしい。一般には遍照坊虫(うんか説・二化螟虫説などがある)のたたりが語られ、病虫害に対する虫除け供養という形で近年に至ってもつづけられたのである。
(天保の一揆と畑野町)
天保九年(一八三八)を頂点とする全島的な一揆のことを、普通は「一国騒動」と呼んでいる。そのと畑野町一国騒動でも、畑野町は主謀者・被害者・参加者とそれに寄合の場などで直接にかかわりをもっている。とくに主謀者の中に、雑太郡惣代として畑本郷村の季左衛門と、上山田村善兵衛門を事務的な面で最もよく助けた同村の四郎左衛門があり、この両名は、城ケ平の義民堂に合祀された二六名のうちに数えられている義民である。
また当町で事件に関係した者の数は一八七名に達し、全体の約一七パーセントにあたる最も高い比率を示してい
る。そして、幕府評定所で吟味のため江戸送りとなった一八名のうちには、季左衛門・由郎左衛門のほかに小倉村兼之亟・後山村桝五郎・丸山村多次郎・同村甚五郎・畑方村兼之助・同季四郎・三宮村喜七などの名が伝えられ、ここでも畑野人の数がとくに目立っていた。さらに寄合の場所としては、天保九年三月十七日、訴状の調印に後山村の本光寺が用いられた。
訴状の中に、薬草植付の自由を要求してあるのも、従来からのこの地域の薬草栽培を背景に考えてよいのかもしれない。
(天保一揆の性格)
江戸期の佐渡の三つの大きな一揆と言われる事件のうち、寛延は越訴で比較的に穏便に経過したが、明和の騒動には打ちこわしの性格を伴ってやや過激になってきた。それに対して天保の一揆は、さらに打こわしが激しくなって、町方ばかりか村々の商家や富農層が対象となった。これは佐渡だけのことではなく、全国の一般的な風潮でもあった。天保の一国騒動が、なぜこのように過激さを増してきたかというと、この事件は奉行所など役所に対して年貢米の減免要請をするばかりでなく、そのころ商品経済の比重が加えられた百姓たちは、現金収入に直接影響を与える政策や商人たちの独占的なやり方に抵抗する必要が生じたためである。そして憎しみの対象となる町や村の商人たちへの実力行使は、武備のある奉行所への挑戦よりは、ほるかに容易でかつ効果的であったからである。
一揆の訴状は、一国惣代の羽茂郡上山田村善兵衛を願主とし、天保九年戌年閏四月に、巡見使に宛てて小木で渡された。その訴状の内容には、十六力条の要求が善かれてあった。主な事項としては、年貢米に口米を取ることが重役(二重課税)であること、上納米の米盛りや秤量を百姓に仰せ付けられること、夷・大石・国仲の郷蔵に関すること、材木商の鑑札を廃すること、野役・山役に重役があること、広恵倉にょる商人の被害のこと、薬草鑑札を廃すること、松前行きのあば縄の扱いを以前の通りとすること、酒造役銭にも重役があること、出判(旅行許可証)に関する願いなどがある。しかしこれらの要求に対しては、二重課税や鑑札制度や広恵倉の設置など、佐渡の置かれた特殊事情の下で行われた政策に対する事項が多かったためか、巡見使への上訴は、返答のないまま、善兵衛が逮揺されただけで終ってしまった。
ところが騒動は、逮揺された善兵衛の釈放を要求して暴動化していった。こうして打こわしが始まったのである。逮捕された主謀者善兵衛は、もともと村の重立であったらしく、元禄検地時には一町一反四畝余の田畑をもち、四畝
二十歩の屋敷に住んでいた。それが天保期ではさほどの田畑はなかったと言われている。そして上山田村の名主弥兵衛は、善兵衛を持て余して意見を加えもせず、奉行所の呼び出しに応じない善兵衛に偽った報告をしたりした。このことからみて、善兵衛は強気な信念の持主で、他への影響力には並々ならぬものがあったにちがいないが、暴動化の動機はさらに構造的なもので、善兵衛の力量の外にあったとみるべきである。
村の三役たちは、すでに明和の一揆のときに、実力行使から外されていた。このたびの天保の一揆はさらに村の長
百姓級を除外して、小前百姓を主体にして起ったのである。
(打壌しに遭った畑野の米屋たち)
天保の一国騒動の打こわしは、小木の問屋衆と、畑野地内に米屋を営む庄屋衆に対するものが多かった。小木町では、小木の番所付の問屋信濃屋をほじめ、鍋屋・播磨屋・風間屋・団子屋・安宅屋・備前屋・柳屋・松屋など九軒の問屋がこわされた。在郷商人では、当町関係として宮浦村兵右衛門・後山村伝九郎・畑方村万七・河内村東(藤)五郎・馬場村森右衝門・三宮村伝十郎・同村次兵衛・多田村の米屋などが襲われたほか、宮浦村には他の米屋の受難も伝えられている。このほか八幡村・徳和村・赤泊村・川原田町・真光寺村などにも米屋・酒屋などの被害があった。馬場村森右衛門が暴徒数百人に襲われたとき、同村の力士浮世が、「提灯を高く挙げて日く、己は馬場の與之吉なり。森右衛門は悪人に非ず。決して迫害する勿れと。暴徒は何等為し得ずして去れり。」と旧村志には書いてある。
(天保一揆の関係者)
江戸末期の奉行・川路三右衛門聖謨が記した、『佐州百姓騒立二付吟味落着一件留』という天保一揆の記録によると、事件の関係者の総数は一、000名をはるかに越えている。そのうち当町に関係する者の名を村別に書き出すと次表のようになる。ただしこの名簿には打こわしの被害を受けた者や、村の代表としてお咎めを受けた者などすべての者の名が列挙されている。
「三宮村」重右衛門・鉄五郎・六助・辰之助・嘉右衛門伜三次郎・権四郎・源五郎・清助・作左衛門・紋右衛
門・孫右衛門・八五郎・清右衛門・六助伜六次郎・仁兵衛・三右衛門・茂左衛門・仁兵衛伜常次郎・庄兵衛・覚 兵衛・武兵衛・権十郎・六三郎・金助・藤左衛門・六兵衛・半右衛門・伊兵衛・甚左衛門・兵五郎・権兵衛・武 右衛門・同人伜熊次郎・季七・名主次右衛門・小前惣代清左衛門
「馬場村」利兵衛弟与之助
「北 村」 組頭平蔵・小前惣代政右衛門
「宮浦村」源右衛門・新右衛門・作左衛門・伊三郎伜六之助・源右衛門伜岩次郎・半右衛門・甚左衛門伜甚次 郎・善十郎・忠四郎・名主五郎右衛門・小前惣代季右衛門
「後山村」本光寺留守居日逕・伝九郎・紋右衛門・新右衛門・与三兵衛・昌庵・善右衛門・伝七・桝五郎・助
右衛門・源左衛門・又三郎・兼蔵・只八・滝蔵・猶次郎・金七・繋八・幸三郎・茂八郎・新六・茂左衛門伜伊与助・伝之助・三次郎・清太郎親五郎兵衛・助次郎親類六左衛門・名主藤左衛門・小前惣代助左衛門・儀一郎親類五郎平
「大久保村」医師周甫・名主次郎右衛門・小前惣代惣左衛門
「猿八村」名主新右衛門・小前惣代権九郎
「小倉村」庄右衛門伜兼之亟・医師静斉・組頭久右衛門・小前惣代伊与平
「雑太郡河内村」 主善平・小前惣代忠左衝門
「畑本郷村」次右衛門親次郎左衛門・伝兵衛・藤九郎親類藤四郎・与次兵衛兄清三郎・次郎右衛門・源太郎・安左衛門・伝次郎・新次郎・作兵衛・七兵衛・季左衛門・四郎左衛門・名主宇右衛門・小前惣代金左衛門
「畑方村」源左衛門・季左衛門・与助・源太郎・新助・権左衛門・本山修験持明院快賢・紋太郎親類与右衛
門・為次郎親長八・与助・新太郎・八兵衛・松兵衛・佐治兵衛・孫次郎・平左衛門・孫次右衝門・徳兵衛・嘉十郎・平八・方兵衛・子之助・定右衛門・徳右衛門・仁兵衛・善兵衛・伝四郎件三次郎・太助・季八郎・季四郎・彦次郎伜兼助・百姓代奥右衛門・小前惣代万吉
「安国寺村」名主金十郎・組頭作兵衛・小前惣代次三郎
〔寺 田 村〕名主源之亟・小前惣代甚七
「目黒町村」名主金左衛門・小前惣代源右衛門
「粟野江村」名主茂右衛門・小前惣代権右衛門
「三十二貫村〕名主源次郎・小前惣代三郎兵衛
【二十五貫村〕名主作次右衛門・小前惣代庄兵衛
「坊ケ浦村」名主吉兵衛・小前惣代茂左衛門
「長谷村」名主宇左衛門・小前惣代弥一郎
「丸山村」三七郎・八蔵親類甚六・甚六伜多次郎・伴六・子之助・五郎左衛門・惣助・三四郎・甚太郎・藤次
郎・与之助・甚十郎・権助・甚作・次郎助・権七・助九郎・弥吉・甚五郎・名主孫十郎・小前惣代次郎右衛門
「羽茂郡河内村」三次郎・仁左衛門・善太郎・喜左衛門・百姓代源左衛門・小前惣代九郎右衛門
「多田村」 百姓代清蔵・小前惣代兵之助
「松ケ峰村」 組頭半兵衛・小前惣代久兵衛
(騒動の結末)
川路奉行の記した『佐州百姓共騒立二付吟味落着一件留』は、部厚い一書をなすほど詳細を極めていて、多ぜいの御仕置を悉くとり挙げることはできないが、江戸送りとなった一八名のうち徒党の頭取として捕えられた六人の者は、江戸の伝馬町などに入牢中に皆死亡したと伝えられている。また米商人打こわしの者のうち七人と、一揆非協力者への打こわしの者五人も牢死した。食当り、あるいは伝染病など、死因にはいろいろ考えられるが、俗説では毒殺説が流れている。これらの者も罪名は、農民側から獄門一人(善兵衛)・死罪一人(宮岡豊後)・遠島三人(四郎左衛門・季左衛門・半左衛門)・追放十四人・所払一三人・手鎖九人など多くの受刑者を出したが、これに対し役人側は、差控え・逼塞・押込だけで終った。これは明和以前の事件に比べて著しい相異点である。
しかし農民側の願いであった、株仲間の廃止や広恵倉の廃止などは目的が達せられ、また役人たちの不正についても、ある程度の成果を得た。
粟野江の城ケ平にある義民堂には、慶長から天保までの義民の、代表的人物二六名が合祀されている。そのうち九人までは畑野地内の者で、全体の三分の一以上が当地から出ていることになるわけである。これは、四つの大きな事件のうちで、明和の義民が遍照坊智専を始めとして、藤右衛門・助左衛門ら、多くがこの地域の者であったことによるのであるが、合祀されている二六名以外の活動家までをとり挙げるとすれば、慶長事件にも、寛延の事件にも、また天保の一国騒動にも畑野人はことごとく名を連ねて、事件の禍中の人となっているのである。
畑野にみるこの義民の体質というものは、畑野史のひとつの特質ともなっている。僧職にあった智専は別として、藤右衛門にしても助左衛門にしても小倉の重左衛門にしても、永らく村の指導者として働いていた人たちで、とくに藤右衛門は明治期の相川暴動では打壊しの対象ともされた家柄である。これはこうした一揆を単純に、体制と反体制
という次元や視野から見ることを許されない問題をもっており、村の構造を理解するのに不可欠な事件であることを
示している。
(慶長の義民)
義民堂に祀られている、慶長の義民は、新穂村半次郎・北方村豊四郎と羽茂村の勘兵衛の三人である。このうち、北方村豊四郎は晩年に畑野地内のある寺に住んで、僧了雲と名乗ったことが知られている。その寺とはどこの寺であるのか残念ながら知ることが出来ないが、そうした直接の関連性ではなくて、この慶長の一揆は、佐渡の農業政策に少なからず影響を与えており、村の歴史を知る上でも益するところがあるので、その要点だけをとり挙げることにする。
波多本郷村・粟江村本郷・後山村・宮浦村には、慶長五年の検地帳が、大窪村・寺田村・波田村には入作分の記録が残されている。河村検地とか国中検地あるいは中使検地などと呼ばれているのがこれである。河村とは、上杉景勝の代官で、景勝が会津に移封された後も佐渡に残って支配をつづけた河村彦左衛門のことである。中使というのは、のちの名主に当る村役を、中世以後から江戸期の寛文四年六月十日まで中使と呼んでおり、その中使が隣村どうしで田地の検地をし合ったことから中使検地の名が生れた。河村の検地は慶長二年から始められて同五年に完了したのである。その翌六年に、徳川家康は全国を制覇し、佐渡をいち早く徳川の直轄領と定め、河村彦左衛門に加えて、新たに田中清六・中川主税・吉田佐太郎の三人を佐渡代官に任命した。その四人支配の時に、本途(ほんと・本年貢)の五割増という急激な増税策が打ち出された。慶長の一揆は、この増税に対する抵抗運動として起ったのである。
中央の権力が佐渡支配をしようとする第一の目的が金鉱山にあったことは言うまでもない。その金銀山での産出を
円滑に行なうには、人材や食糧や燃料などの供給源である農村への対策が、直接に成否を左右するので、そのことは農民側にも権力側にもよく承知されていて、繁発した佐渡の一揆はその両者の均衡の中で行なわれてきたのである。『越後と佐渡の一揆』(池政栄編)の中で筆者児玉信雄氏は、佐渡の慶長検地が、「秀吉にょって確立された近世的農村支配の基礎ともいうべき太閤検地とは、およそほど遠い内容のものである。」とし、そのわけは、『佐渡風土記』に述べられているように、河村殿が田畑屋敷の広少を調べて、御年貢をかけようとしましたところ、農民との間に不穏なことが起りましたので、やむをえず、村々の中使どもに命じて代わるがわる検地を行わせた」とした点にある。つまり本土の場合とちがって、佐渡では、農民の不穏な動きが農政に大きな力を与えていたわけである。
慶長の一揆は、前記した半次郎・豊四郎・勘兵衛が一国を代表して江戸幕府に直訴するという方法をとった。その結果幕府は、中川市左衛門、鳥井九郎左衛門、飯倉隼人の三人を現地に派遣して実情を調べさせたところ、直訴の内容が正しいことが分って、吉田佐太郎は切腹、中川主税は免職、河村彦左衛門と田中清六は改易(官職や身分を取り上げること)となった。つまりこの処分に見られるように、表の原因ともなった本途の五割増の年貢は、吉田佐太郎の企てであったことが判明したのである。
(寛延の義民)
寛延三年(一七五〇)に起った一揆は、半世紀前に島を潤してきた「近江守様時代」の反動のような形で、そして享保の幕政改革以後の倹約令にょる内需の縮少や、度重なる増税の結果として起ったものである。近江守とは、元禄三年(一ハ九〇)から二十二年間にわたって佐渡を支配した、佐渡奉行の荻原彦次郎重秀のことである。元禄時代といえば全国的な好景気の時代ではあったが、巧みな荻原の政策で、佐渡は鉱山も農村も殊の外繁栄をみたのであった。ところがそれから十数年を出ないうちに、享保四年の定免制実施や切り替えに伴なう増税と、享保八年以後につづく鉱山経営の不振とは、全島的な不況を斍していた。その構造的な落ち込みが、行政上の些細な点にまで及んで、島の住民を圧迫しはじめたため、その背景の中で村々の有識者の連帯が始まった。当初は増徴を重ねてきた年貢の問題が発端であったが、行政の非を衝いていく過程で、さまざまな疑惑が挙げられるようになった。寛延の訴状二十八ケ条の条文をみると、飢渇人に対する夫食(ふじき)米の扱いの件、御蔵掛り定役衆への
礼金の件、その御蔵元から相川御蔵へ附運びの駄賃を要するという件、出判を申し請ける際の手数料の件、百姓の筆養子を迎える際の御役所への祝儀を差出す件、宗門改めに廻る役人や手代など供の者の宿にかかる経費の件、小木赤泊両港の波除場の御普請を自普請としている件、牢番に対して納める不当な納め物の件、御陣屋に対する掃除人足賃の件、煙草・茶畑・塩・海産物・船械などの役銀に関する件など詳細に及んで述べられている。
右の二十八ケ条の悪政を指摘した条文は、辰巳村太郎右衛門・川茂村弥三右衛門らの首謀者によって起草されたものであるが、寛延三年午九月に、佐渡国貮百六拾箇村惣代・宿江戸堀江町二丁目萬屋七兵衛の住所で、吉岡村七郎左衛門・椎泊村弥次右衛門・和泉村久兵衛・下村庄右衛門・新保村作右衛門の五名の連署となっている訴状は七郎左衛門と弥次右衛門の二人によって島抜けの上、江戸に上がって提出の運びとなったが、書類などに不備な点があったため一旦帰国して、再度出府の際は右記の三人を伴っていた。十月七日にこの訴状は、勘定奉行の曲渕豊後守の手に渡された。
幕府は吟味の結果この訴状め内容の正しいことを認め、佐渡奉行の鈴木九十郎に対して、「知行半知召上、御役御免、小普請入、閉門」の判決で免職言い渡した。後任の佐渡奉行には先手弓頭であった松平帯刀忠隆が任命され、松平は勘定奉行から引き継いだ書類にもとづいて、翌年に佐渡赴任の上取調べをすることにして、五人を且帰国させた。
帰国した五人は、明くる寛延四年二月二十七日に、河原田で催した一国寄合の席上で江戸上訴の報告をし、弥次右衛門から出された動議によって、佐渡在勤の阿部信之に対しても訴状を投出することとなり、左の三名の者がこれに署名捺印した。
一国惣代辰巳村太郎右衛門・下川茂村弥三右衛門・大石村庄左衛門・新町村伊右衛門・吉岡村清左衛門・竹田村新兵衛・小倉村重作・河内村太右衛門・目黒町村利左衛門・畑方村惣左衛門・舟代村五左衛門・瓜生産村仲右衛門・潟上村嘉兵衛・椎泊村七左衝門・長江村源兵衛・吉井村重右衛門・谷塚村吉左衛門・大和田村勘兵衛・中興村半兵衛・平清水村弥一郎・窪田村六左衛門以上二一名
松平奉行が用人を伴って佐渡に赴任してきたのは、同年の五月十五日であった。この一行には幕府御巡見の中根吉左衛門や、勘定役の横尾六右衛門、評定所留役の川口久三郎が、それぞれの用人を伴って加わっていた。吟味の結果は、諸役人の不正が確認され、在方役・地方役・米蔵役などが罰せられた。最終的には、役人は斬罪丁死罪二・遠島七・重追放三・中追放一・軽追放一・暇五・押込二六・役義取扱一・急度叱五の計五二名が刑を受けた。
いっぽう訴えた農民側の刑はつぎのとおりであった。
死罪-辰巳村太郎右衛門・椎泊村弥次右衛門、遠島-椎泊村七左衛門、重追放-下川茂村弥三右衛門、軽追放-吉岡村七郎左衛門・新保村作右衛門・和泉村久兵衛が刑を受ける。さらに三郡の村々の名主のうちで、実際に事件に参加した二〇八力村が名主を取り放され、二〇〇名以上の百姓が急度叱りを受けた。
右の事件に関する吟味取調べに伴って、直接にかかわりのない者にも余波が及んだ。それは、後山村の名主久左衛門と田上村の名主林右衛門の両名が、在方役の大森五右衛門と荻野善左衛門両名の依頼を受けて、四月から九月までの半年間に、二千六百石の地払米を受取っていないのに受領の捺印をした偽証の罪で、国払いとなったのである。前記した役人の死罪二とは、この大森と荻野のことであった。国払いから帰国して以後の久左衛門の行動については畑野町史『萬都佐木』で詳述した。
(宝暦の飢饉)
『佐渡災異誌』(相川測候所刊)によると、江戸期に「凶作」と記録されている年が三〇回ほどあった。そのうち特に集中していたのほ、宝暦時と天保および嘉永の三つの時期である。これは一揆や事件の発生との関連で、記載の煩度が多くなっているという事情があったのかもしれないが、宝暦と天保の頃に気候の不順が重なっていたのは事実であろう。寛延の一揆が終末をみた二年後の宝暦三年(一七五二)に、佐渡では代官制が布かれた。代官は二人制で、そのひとりは地方五万千六百石余と蔵方を支配し、もうひとりほ地方七万九千石余と金鉱山を支配し、それぞれにこれまでの奉行所役人が配属となった。つまり佐渡奉行は、寺社と訴訟に関する権限をもつだけとなったのである。そして前者の小佐渡側の代官には藤沼源左衛門時房が、大佐渡側の村々の代官には横尾六右衛門が就任した。
猿八村と小倉村の飢饉は、藤沼源左衛門が代官職にあった、宝暦五年と六年に起った。藤沼は、同六年二月新町村の商人半右衛門・西三川村の武左衛門と新穂町の吉右衛門の三人を肝煎役に命じて実態の取調べと救他に当らせた。その時の肝煎りの者から藤沼代官に差出した報告書はつぎのようであった。
『山本半右衛門家年代記』
一、小倉村、飢渇百姓人別改帳一冊(但し 人名人別等ハ、相略し帳尻だけを写し出す)
〆 八拾八軒
此人別弐首九拾七人
内
一、百弐拾人 急ニ餓死之躰ニも相見江申快
一、百七拾七人 走ハ急二痛も相見江不申候
右 人別持分 田地 拾四町五反弐畝拾四歩
右 同断 畑 弐拾六町八反九畝弐拾八歩
右之通相改相違無御座候 以上
宝暦六年子二月
新穂町 吉 右 衛 門
新町村 半 右 衛 門
一、猿八村、飢渇百姓人別改帳一冊(但し 人名人別等ハ、相略し帳尻だけを写し出す)
〆 弐拾三軒
此人別七拾四人
内
一、三拾四人 急二餓死之躰ニも相見江申侯
一、四拾人 是ハ急二痛にも相見江不申候
右 人別持分 田地 五町七反弐畝六歩
右 同断 畑 七町弐反弐拾六歩
右之通相改相違無御座候 以上
宝暦六年子二月
新穂村 吉 右 衛 門
新町村 半 右 衛 門
藤沼源左衛門様御役所
つまり、小倉村で一二〇人、猿八村で三四人、合せて一五四人が餓死寸前の状態に見え、二一七人の者はそれほどでもないように見えるというのである。この報告書は、予め名主ら村役人が行った吟味がもとになっていた。右両名から猿八村役人に宛てた書状によると、
一、二月、小倉村・猿八村飢餓人多く是有侯に付、御代官藤沼源左衛門様より当家及び加茂郡新穂村吉右衛門、羽 茂郡西三川村武左衛門三人二肝煎役を命じ、右救済方被仰附、則三人之者共、右弐ケ村へ出張取調べ救恤救二万事尽力致侯。
夫村方夫食不足、又者餓死人等有之由、御聞被上、此度私共御見分二被仰付侯間今日罷越候、先達而急々飢餓致候様成者人別家数御吟味之上、帳面認置可被成侯、為其先達而申進候
二月廿四日
新穂町 吉右衛門
新町 半右衛門
猿八村役人衆中
で、これによって飢餓人について吟味の上、帳面に書き出して置くように予め通達があったことがわかる。但し両名
によって、その上で村人のことごとくが見分を受けたのかどうかはわからない。その前後の、宝暦六年二月および五月、小倉村の村役の者から三人の肝煎宛につぎの証文が届けられた。
証文之事
一、当村、田高町歩方、百三拾町余之内、五拾町程及飢渇ニ植附難相成旨、御役所江申上侯所ニ、此度各中為御検役と御出被成、右ケ所改之上吟味被成侯ハ、先達而御手宛等も度々被下置候所ニ、働方少も相見不申、不屈之由逸々察当之趣尤二存候、依之村中不残呼寄猶又吟味仕候ニ付、右高之内弐拾弐町斗ハ郷中相互ニ助ケ合可成ニも植附させ可申侯、尤用水丈夫之場所ハ稲作、渇水之所ハ稗作並大豆小豆二而も、土地相応ニ作付させ可申侯、残り弐拾八町三反五畝廿歩別紙帳面之分ハ、何分吟味改侯而も、植付可致方更無御座候、右作付請所之内少成共荒し置侯ハバ如何様之越度ニも可被仰立侯、依而後証如件
宝暦六年子二月
雑大都小倉村 百姓代 重作
同 忠左衛門
同 七郎右衛門
組頭 久三郎
同 作左衛門
同 長右衛門
同 儀左衛門
新穂町 吉左衛門殿
新町 半右衛門殿
西三川村 武左衛門殿
証文之事
一、当村飢人持分之田地不植付高廿六町余、此度御役所より近在人足被仰付、各中肝煎役として御越被成、別紙書面の田地植付地二御仕立被下、尚又御植付可被下旨、被申聞侯所、格別之御慈悲を以、御役所より度々御手宛等被下置段々麦作ニも取続申付申侯間、か程迄に被成下侯上ハ、植附之分ハ村中相互ニ助合銘々有合候こやし等持運び作付させ可申侯、尤苗之儀、不足二御座候故、先達而稗種蒔立させ申侯所、いまだ生立不申侯間、出来次第作付いたし、其上ニも不足任候ハハ、大豆小豆二而も土地相応ニ仕付させ可申侯、若植附之義、拙者共御請申候少成共荒し置申候ハハ、如何様之越度ニも可仰立侯、仍而作附請書印形如件
宝暦六年子五月廿八日
雑太郡小倉村 百姓代 七郎右衛門
同 忠左衛門
同 十作
組頭 長右衛門
同 作左衛門
同 久三郎
名主 儀左衛門
新穂町 吉右衛門殿
新町 半右衛門殿
西三川村 武左衛門殿
この二通の証文をみると、小倉村の飢饉に対して御役所では、並々ならぬ配慮を示して、「御手当」などを度々下
されて、「か程迄に被成下侯上ハ」と村役の老たちを感激させている様子がよくわかる。しかし一方おいて、飢餓人の人命に対する憂慮ばかりではなく、作付放棄に対して厳しい指導監督が加えられていたことも窺われ、当時の行政上の措置が必ずしも人道的立場からだけでなされていたのではなかったことを知ることができるのである。
ところで、同じく小倉村の名主や、肝煎役を接待した宿の者から出したもう一通の証文がある。
証文之事
一、米壱斗五升 但壱升二付四拾八丈つゝ
代 七首四十八文
一、銭壱貫六拾文(但 壱人ニ付、一日三拾四文宛三人分 十九日晩より廿九日朝迄)
〆 壱貫八百拾弐文 木賃米代受取申侯
右者、此度当村不植附田地肝煎役として、御越被成、私共宿致候所、何成共馳走ケ間敷儀不仕侯、勿論 非分成義少も無御座候、為後日之証文如斯ニ御座候 以上
子五月廿九日
雑太郡小倉村 宿 七右衛門
同 吉兵衛
名主 儀左衛門
新穂町 吉右衛門殿
新町村 半右衛門殿
西三川村 武左衛門殿
これは右の肝煎役の三人が、小倉村に調査などのために逗留した際に費した米代や木賃(燃料費)の受領の形式をとってはいるが、「なにぶん共、馳走がましいことはしなかったし、もちろん疚ましいことはありませんでした」と断わり書きが必要であったのは、気にかかる点である。つまり贈賄の疑惑を予期した釈明書とも受けとれるからである。
(飢渇人の数)
宝暦五、六年の飢讐の餓死人について公式の報告書では、右記したように猿八村で三四人、小倉村で一二〇人ということであった。ところが『佐渡年代記』の宝暦六年の部には、「此節に至り飢渇人も有之よし村々より申出候間源左衛門逐吟味侯虚相違も無之小倉村猿八村は三百七拾人余も有之事故」となって、戯死人ばかりでなく「急に痛も相見江不申」者をも加えた総数が記録された上に、「藤沼源左衛門墓所に飢渇人七千五百人餘有之に付御救米三百五拾七石餘を渡す横尾六右衛門支配所に飢渇人四千七百余人餓死の者千三百餘人あり御救米百六拾石餘を渡せしと聞ゆ」となって、両代官配下の飢渇人を合わせると一二.二〇〇人余り、餓死人が二、八〇〇人というばう大な人数となって書きとめられたのである。
この二、八〇〇人の餓死者が正しいとすれば、これは佐渡史上最大の出来事のひとつといってよいであろう。それ
にもかかわらず、死人の数は大まかに一、五〇〇人、一、三〇〇人などと「概数」としてしか善かれておらず、その内訳も明らかにされていないからには、この数字はかなり根拠の浅いものであったと言うことができる。
そもそも、人間の死を、自然死か病死のような、いわゆる通常用いられる「死」と、「餓死」と正確に見分けることはかなり困難な作業である。
(中山堂の過去帳)
右記したように、藤沼代官から命ぜられて肝煎人たちが報告した小倉村の「餓死の躰」に見える者の数は、一二〇にんであった。ところが小倉の村人の伝承では「三百人餓死した」ということになっている。そしてそのことを伝える餓死者の過去帳とされる帳簿が、宮の河内の奥にある中山の堂に現存している。この帳簿は、過去帳であるからには回向のための命日が月々の日付もしくほ月日だけ記載されていて宝暦五、六年の飢饉の年を示すような年号が全く書かれていないのはいたし方ない。小倉村の多くの家は、長谷の遍照院檀家であるが、その遍照院には飢饉の十年ほど以前の寛保四年に求めた過去帳がある。それによると、宝暦五年に十二名、翌六年に百一名の者が小倉村内の檀家で仏になっている。そしてその両方の過去帳を比較照合するため、戒名に「道」および「妙」の字のつく二一八例について当ったところ、月日・屋号まで一致するのは、わずか一例だけであった。
そこで、さらに宝暦五、六年の死者確認するため、中山堂の過去帳に記載されている戒名の墓を探し出すことにし
町史編さん委員会でその探さくに当った結果、二三基ほどの墓に過去帳の戒名と一致するものを見つけ出した。それによるとそのうち一基だけが宝暦五年の年号で刻まれており、他は元禄一・宝永三・享保五・元文二・寛保一・延享三・寛延三・宝暦(三年・四年・八年)三・不明年一の計二二基であった。すなはち、その大半は宝暦飢饉の起る以前のもので、そのほかに逆修の文字が書かれた戒名も三体あった。逆修とは、死者の霊ではなくて、生前に戒名を貰って供養をしたもののことである。
こうして調べた限りでは、中山堂の過去帳は、宝暦の餓死者の名簿ではないと判断せざるを得ないのである。たぶんこれは普通の過去帳であって、家々の仏の名を列挙したものなのであろう。当時小倉村では最も大きな土地所有者であった太郎右衛門家の仏が八体も記入されているということからみても、この素封家の家族八名がすべて餓死者であったなどとはとうてい考えられないことである。事実新町の山本家に伝わる飢餓人別帳には、こうした富農の家は挙げられてはいない。またこの帳面には、畑方村や坊ケ浦村・北方村など他村の老の名も載っている。
そうすると、三〇〇人餓死の伝承の根拠ほ、前述した『佐渡年代記』の三七〇人余という記事のあたりにあったのかもしれない。もしそうならその内の七〇人というのは猿八村の餓死者ということであろうか。小倉村と猿八村のちがいは、村づくりの歴史の深さに関係があるのかもしれない。猿八村も、けっして江戸期の新入者だけにょる新村ではないが、開拓の事情からみて、山村での生活経験が十分でない老がいたであろうと推察でき、この点で古くからの小倉の居住者とはいくぶん性格上の相違があったことが考えられるからである。(小倉部落史の項)
宝暦六年に、小倉村の林左衛門・佐伝次・弥八郎が、猿八村の名主伊兵衛宛に出した証文の中に、私たちの親類の猿八村の徳兵衛が亥年(宝暦五年)に収穫皆無で年貢が納められなくなったので、私たちが身元相応に援助したが、過半は残ってしまいその分を村の負担に仰せつけられやっと皆済いたしましたところ、この春に徳兵衛が死去しました故、いっそう食物がなくなり、(そのため)飢のために枠重治には作付の力がないのでその所帯を放置してこちらに引取りました。そこで御公用を果たす上で村方に難儀をかけさせるため、親類等に呼びかけて代って世話するようはからいましたが応ずる者がおりません。そこで村方でご相談の上で、どなたが入ろうと当方でほ何の申し分もございませんので、証文としてこの書つけをお渡しいたしいたします。
と言う意味のことが書かれている。つまり猿八村の飢餓家族のために、たまたま小倉村にいた親類が面倒をみてその後の処置をしたというものである。
(餓死者の碑)
小倉の物部社が見える位置にある元十王堂の跡に、宝暦十一年六月に建てた 餓死病死者有縁無縁霊魂之法界平等利益也 の石碑がある。願主は定賢と達外という両名の行者風の名をもつ者であるが、施主は当村男女等となっている。この碑は、碑銘に明らかなように、餓死者だけではなく、病死者も対象としてあり、無縁の者も含まれている。この碑と並んで、もう一基の横幅のある巨石に、光明真言百万遍餓死百回忌菩提也 とあり、これは前記の餓死病死者碑より九十三年後の嘉永七年の三月に、儀左衛門と万兵衛が発起人となり、利右衛門と甚十郎が世話人となって建てた追善供養の記念碑である。石碑は他にも三基ほど併立してあるが、餓死者に対して村人の対し方が分るのは右記した二基の石碑である。そのうち新しいほうの巨石が建てられた嘉永七年という年は、五年つづいた凶作の後のことである。嘉永二年には大雨や洪水で不作であったのをはじめとして、同三年、同四
年、同五年と凶作がつづき、さらに同六年にはこんどは旱魃に見舞われて苦しい年であった。これは宝暦や天保に劣らない凶作で、このような時に人々は、不慮や不遇の死をとげた老に対する供養の足りなさが取り沙汰されて、大きな真言・念仏が行われることになる。この嘉永の凶作の場合には、真言宗の着たちによって、餓死者のために百万遍供養が催されたのである。そしてこうした災難を除く目的で供養するときは、火防神として秋葉山を祀るときと同じく、巨石が用いられるのが普通であった。この巨石の大きさや重さが、地下にいて災厄を招く悪霊を鎮めると信じられてきたからである。
(明和事件の発端)
明和三年から同七年にかけて起った事件のことを、世の人は「遍照坊事件」と呼ぶことが多い。そしの発端てその呼び方が示すように、長谷の遍照坊が中心となって、あるいは遍照聖人が活躍した騒動であるかのような印象をさえ与えている。『天領佐渡』を書かれた田中圭一氏が、その中で「たった一人の犠牲者」と明和の一揆に副題をつけられたように、たしかに結末は遍照坊だけが処刑されて、遍照坊事件と呼ぶことがいかにも相応しい状況であった。しかし事実は、遍照坊智専は事件の途中から参加して渦中に巻き込まれ、いつしかこのような結果となってしまったのであって、事の発端からかかわりを持っていたのではなかった。
明和の事件の発端にも、さまざまな要素が複合されていて煩雑である。これまでに言われてきたのは、明和三年七
月二十八日の大雨による洪水の被害と、翌四年七月十九日から二十三日までの大雨と東風、それに浮塵子(ウンカ)の発生で中稲(なかて)・晩稲(おくて)が全滅になったことである。(『佐渡義民伝』伊藤胎毒)村々では、その実情を立毛検分によって認めて貰おうとして請願したが、四日町・馬場・北村・猿八の四力村が年貢の被免に、船代・下村・畑方・畑本郷・武井・金丸・金丸本郷の七ケ村が三分の一づつ未納・年賦・石代納となっただけで、他の村々には免除等の恩恵がなかった。
それに加えて、代官制が布かれて以来、奉行所と代官所の二重支配を受けることになり、「政令二途に出るといふ
事あれ、願や届け出に煩雑なる手数がかかる」(『佐渡義民傳』)ために百姓たちはこの代官制を廃止することを強く希望していた。この代官制に付随して、さらに百姓を困らせるような出来事が相ついで起った。
そのひとつは、代官の下役で年貢米納入の職務をとる御蔵奉行に、明和元年から谷田又四郎という者が就任したことである。谷田は業務に忠実で、幕府側からみれは有能な吏員であったらしいが、農民にとっては冷酷非情な悪奉行であった。着任二年後の秋、百姓共から代官久保田十左衛門に差し出された願書によると、御蔵奉行の谷田様から、年貢米の納入には特に念を入れるようにとの達しがあったので、そのようにしたところが、検査に通らなかった。そこで指摘された縄と俵をとりかえて差出したところ、こんどは米質が悪いという理由で戻されてしまった。それで多
くの手間をかけて青米や砕け米を取り除き、改めて俵ごしらえをして差出したところ、四一俵は納入できたが、あと
で改めを受けた一五俵はまたまた戻されてしまった。(田中圭一『天領佐渡(2)り抜粋)
この谷田奉行の年貢米に対する過酷な指図は、村人に奉行への不信感を抱かせた。明けて明和四年の正月には、谷田個人に対する非難の訴状が佐渡奉行所に持ち込まれた。
「(前略)旧冬の御蔵納めの節、御奉行様は、村々の内で去年つかった古俵を明けかえしてそれに米をつめて年貢
米に出したと判断されたのか、その俵から米を御蔵の庭に引きあけてしまわれた。しかし大切な御年貢を古俵に入れるというようなことを百姓がするわけがない。百姓にしてみれば、大切な御米が御蔵納めにならないからといって、土庭に米をまき散らされるやり方は、いかにも慈悲少ない仕打ちかと思われる。したがって、これ以上は何といわれても当国の百姓の力の及ばないところである。米の質にしても、一ヵ村の内であっても天水田もあれば沢田・山田もあって、青米・赤米がまじることはどうしてもさけられない。さらにそのようなごたごたのためにかかった費用は、米一俵について、一俵の米が買えるような大変な金額になったので、その分を各村々で入用帳面に仕立てて提出したが、一覧もしていただけない。(以下略。同上書)」
この訴状をしたためたのは、村の名主など村役人をつとめていたものであったが、結びのところで、願いの筋をお取あげがないので、そのため百姓共がのこらず御陣屋へ押しかけてお願いしようと言うのをなだめすかして差し留めました。百姓が潰れ果ててはどうにもなりません。そこで要求を入れてくれるか、そうでなければ江戸表へまかり出て、直訴しなければなりませんので出判をお渡しくださるよう願いあげます。と書いてある。
これは村々から、奉行所に対するたいへんな挑戟である。直訴のための出判を要求するなどは、出来る筈のない無
理難題を出すという点で脅迫的でさえある。それほど村役人は百姓と奉行の間にあって苦境に立たされたということ
であろう。
谷田奉行がこれほどまでに御年貢の納入に苛酷な要求を出したのには理由があった。相川金銀山の衰微と共に鉱山町相川での米の消費が減少し、余剰米を他国に払い米することが始まったが、明和元年には一万四千石が大阪向けに回米された。その大阪市場での佐渡米ほ安値という利点はありながら、米質や包装など商品としての価値においては他国米に比べて劣っていた。御蔵奉行として谷田又四郎が着目したのはそのことであった。
しかし島内の百姓に、そのわけを含めて納得させることをしなかったから、百姓共は、おかみの権力で首姓を困らせ、それは賄賂を取るためであろうと判断した。その当時の奉行所役人にはそのような悪風があり、首姓たちから強い不信感をもたれていたからである。
(明和の一揆)
村の名主たちの憂慮と心入れにもかかわらず、事件はつい百姓たちによる打こわしに発展し、一揆の様相を呈してきた。明和四年(一七六七)二月十二日の夜、沢根町の越中屋清兵衛宅から出火した火災で五軒の民家が類焼した。さらに同日同刻に、やはり沢根町の加賀屋多兵衛所有の材木小屋からも出火した。そのため浜に揚げてあった加賀屋の回船三艘と、浜田屋の回船三艘それにに家一軒が延焼した。この不審火は、解明されないままで終ったが、付け火であったことはつぎの事からはっきりわかる。
前年の明和三年三月二十四日、銀山大工(注・大工とは坑夫のこと)と精錬所の稼ぎ方の者が、米価の高騰を
奉行所が何の処置もとらないのに怒りが爆発し、集団を組んで中山峠を越えた。そして沢根五十里の造り酒屋茂右衛門宅にのり込んで酒食を強要した。この時は奉行所から山方役や同心衆が出かけて釆て大工共をなだめ、茂右衛門の対応のし方のよかったこともあって災難は小さくて済んだ上、相川の米屋や町年寄の協議で米価は二割方引き下げられて落着した。これが明和の一揆の前哨戦となった。
一揆が起った明和四年は、七月の雨と風にょる天候不順と九月二十一日の大風にょる晩生稲(おくて)の大きな被害があって、その年の年貢の納入が困難な村がぞく出した。後山村・宮浦村・目黒町村・粟野江村・二十五貫村・大久保村などがそれで、これらの村々は新穂・金丸方面の村と寄合い協議して、年貢の十年賦納入の願いを出すことにした。
その大風の直前九月十六日に、谷田御蔵奉行から、「虫つきによることしの不作について、年貢の減免は一切行なわない」と申し渡されていたので、年賦納入の話し合いとなったものである。しかしそのころ、谷田奉行から、またもや御年貢のこしらえをよくするよう、また米性の悪いものは受けとらないという達しがあって、農民の不信感がますます強まっていた。こうした農民の実情に無頓着で、役目柄の要求ばかりをつきつける谷田の冷酷さが、一揆の直接のきっかけとなったのである。(同上書)
越後の出雲崎在住の鳥井儀資氏所蔵文書に、丸山村の大工彦八が写しとった回状がある。(『新潟県史』資料編9) これによると、十一月四日(明和四年)暮六つ時に、八幡村の広野に勢揃いして、命に替えて行動を起す。もし参加しない村があれはその村を焼払う、という意味の激しい調子の回状に、つぎのような内容の回文がついている。「・当国は近年江戸から役人が多数やってきて万事について国は二つにわかれ、治改もはらばらで、国中一同は大に困っている。そのため今度、御蔵方、御代官、御組頭を打ちつぶし、国中、御奉行様と地役人によって治政下さるよう訴えるものである。 ・来る十一月四日暮六つ時国中の男子一五歳以上五〇歳までの者は相川に押し寄せること。 ・どうみのをつけあみ笠をかぶり、こうせん二日分、わらじのはきかえ、一人に竹ヤリー本、竹櫂一丁ずつ、よき、まさかりにて十人の内一人持たさすべし。ほかに梯子、七、八百石以上の村、三間梯子持たさすべし。小村は寄合い二間半梯子持たさすべし。かま・武具の類かたく無用、諸道具に書付け無用、出合の節、唄けんかかたく無用。相川へ参り、第一に御蔵方のやかたへ四方より梯子をかけ、屋根より屋根石取り、その外互に心を合せ、隣家の屋根石手ぐりに致し、屋根より破り申すべし。つぎに御代官御門ならびに御役所へ四方より梯子をかけ、右の通り打ち破り申すべし。御居宅障り申すまじく侯。 ・両人の組頭のやかたへ四方より梯子をかけ蔵方同様に致すべし。つぎに、国中一同御城の御門前へ進み、一同高音に御願い、お願い、と言うべし。願う事は、・一に石盛二〇の村の上品の一反年貢額五斗四升(中略)石盛一二の村下々田で三斗一升とすること。 ・二には、川欠・山崩・死荒れ等作物のあがらない年は年貢をとらない。 ・三には、不作のとき御検見御代官ならびに両組頭の非道な仕打ちについて。これより今回、蔵代官・組頭などの、惣じて江戸役人打ちはらい、以後は御奉行と地役人中ばかりで政治をしてもらいたい。 ・最後に、今後の強訴の要求がかなわなければこの国は立ちゆかない。だから騒いを聞き入れ御触れをいただくか、国中の村役人を集めて願いの通り御聞済と仰せらるまでは、国中一円命令はきかない。また村方からは一切相方へ出ないことにする。もちろん金銀納め共に納めない。庄屋・質屋ともに今年と来年は貸金の利息はとらないこと。もっとも元銭は返済するし、また来年の八月からは約束どおりにする。もし違反して利息をとる者があった場合には、その者はもちろん、その村共に焼き払うことにする。
徒党のとき、名主・組頭・百姓代の三人は、火盗番として村に残ること。このことは村に写し置き、十一月の一日までは取り沙汰せず、二日になったら村中を集めて読み聞かせ、きっとそのように命ずること。もし村方へ申し渡さなかったり公辺へ内通したりする村役人があった場合には、その名主はもちろん五三力村から押し寄せ焼き打ちすること。また徒党のとき奉行所・地役人の館へ石一つでも投げないよう随分大切に守り申すべく候。もし捕えられたりした場合は、国中へ回文をして数百人の者が相川へ行き、帰村させるようにすること。」
以上は、謀議から行動を起すまでの農民の心情や、決起への仕組を知るよい資料であるが、『佐渡国略記』による
と、一揆の実際の経過はつぎのようであった。
明和四年十一月五日、胴みの・わら笠姿に小さな叺(かます)を脊負った者たちが一〇人・二〇人と連れ立って中山街道から相川の町へ出てきた。丸槍をもつ者も三、四人いた。凡そ一五〇人ほどが四丁目の弾誓寺境内に寄り合った。そのほかにも何人かの者が町中をうろついていた。下戸の番所の扉には、「国中一統」と書いた奉行宛の訴訟文が張られたりしたが、とくに打ちこわしなど暴動らしき事は起らなかった。これが手はじめであった。この決起の寄り合いには、二、000人の百姓が相川・沢根辺りに集結した資料もあるという。この事件に対して奉行所では穏便策をとった。直後の三月九日に召集した村の代表者たちへの警告も、回状の首謀者も不明であるし、願いごとがあれは、村単位で行なうようにして強訴のような事を避けるようにという達しであった。そしてその年の年貢米の上納は、支障もなく通過した。この役所の態度の豹変は、百姓たちの打ちこわしの情報が流れていたためとされている。回文にも書かれていたように、村方の三役の者は、直接行動には参加せず、村に残されていたのは、内通を防ぐ目的であった。そうした配慮にもかかわらず、十月の半ばにはすでに奉行所・代官所には暴動の情報は入手され、年貢米の無条件受領はその表われであったという。
しかしこの穏便策は、新たな決起を誘った。最初の手はじめであった相川集結から十日後の三月十八日の朝、三
宮村の三宮大明神拝殿の鰐口の綱に、「御年貢米の延納を請願する相談のため、三月二十三日に、粟野江村の加茂大明神の境内に集まるように」という一文が詰わえつけてあった。そして二十三日の当日は、多ぜいの者が加茂社前に集まったた。その集会で指導的な立場にあったのは、後山村の助左衛門であった。助左衛門は事の経過を報告し、代表者の紹介なども行なった。集まった代表者は、七四力村にもなった。訴状の案文は四通あった中で、後山村助左衛門のものが採択された。この集会では、助左衛門の訴状をもとにして成案をつくることや、日を改めて具体的な日程や代表者を決めることが決議された。
第二回目の加茂社前の会合は、十一月二十六白早朝に行なわれた。この席で惣代が選ばれた。選ばれたのは、小倉村十左衛門・瓜生屋村仲右衛門・後山村助左衛門・舟代村五郎右衛門・目黒町村理左衛門と、長谷村遍照坊智専であつた。智専ほ訴状の成文を清書する役を負った。その訴状の重な内容は、さかのぼって寛延元年(一七四八)から同三年までの年貢にかかった増米の分を免じてほしいというものであった。過去の年貢を免ずるとは、その間に納入した年貢米を実質的に返済してほしいということである。
こうして綿密な計画の下に進められてきた連帯ほ、この段階で終末へと向ってしまったのである。相川奉行所は、「隠目付商人にならせ侯を、右寄合中にて、就中頭取立ち侯者を付け候て名を留め」、首謀者七人(右記のほかに左衛門が加わる)ほ捕えられて、相川へ召し連れて行かれた。
明和の一揆には、天照皇大神を奉ずる伊勢信仰が伴っているが、伊勢信仰はこの頃が全国的な最盛期で、明和八年には爆発的な「おかげまいり」に発展し、さらに「ええじゃないか」の世直し運動の性格をもつようになる。佐渡農民の起したこの一揆の中に、そうした伊勢信仰の初期の世直し的運動の芽生えがすでにあったかどうかはわからない。
(明和事件のお仕置き)
明和の一揆の肝要な部分は未遂に終ったわけである。しかし、村々が徒党を組んで強訴してはならないというお触れが出されている最中に、数度にわたっ寄り合いをし、時にほ予備的な行動も起したのであるから、それに対するお仕置がなされるのは止むを得ないことであった。ところが捕えられた七人は、智専を除いてみな村の有力者であって、数年前に起った寛延の越訴や打ちこわしの風潮の強いこのような時期に重い刑を課することができる情勢ではなかった。右逮補者七人のうち、畑本郷村文左衛門はのちに牢死し、舟代村五郎右衛門は病気となり、役所の医師たちの診断で回復できないとみられ村役にお預けとなった。また長谷の遍照坊は別に「揚げ屋」というところにつかわされ、他は獄屋に入れられた。(片野尾三国充氏所蔵文書他)そのような状況の中で吟味が進められたが、助左衛門は、(暴動を起すつもりでなく)増米の幅をゆるめて下さるよう願い書を出そうとしただけであり、その証拠は畑本郷村の藤右衛門方に預けてある書類を見て箕えばわかることだと述べた。ここで藤右衛門が騒動に巻き込まれることになるが、藤右衛門は後難を恐れて、預った書類を焼却してしまっていた。そのため一時は金鎖をつけられて懲しめを受けたが、取調べの結果この者には罪がないとわかり釈放された。
こうした経過をへて、しだいに主謀者ほ遍照坊であるという方向に傾いていった。そして奉行は遍照坊ばかりを吟味し追及したが、遍照坊は「上古稀なる口ききゆえ、何分にもおちいらず侯て」手こずったので、その後は寺の関係
者を呼び出して吟味したところ、「なかんずく小僧申し分悪敷」遍照坊はますます不利な状況に陥入っていった。そ
れというのも、その年とその前年に、遍照坊が山伏と出入りがあり、遍照坊の才智で山伏の旦那をみな取上げるとい
うような一件があったりしたためである。けっきょく、最終的に処刑されたのは、遍照坊智専ひとりだけであった。明和七年三月のことである。『天領と佐渡』に善かれた「遍照坊智専御仕置の廉書」(佐渡高等学校舟崎文庫蔵)ではこうなっている。
ヽ
松平周防守殿御差図
此者儀、去る亥年田作虫付に付き、徒党強訴致すべき廻文謀計を以て取り拵へ、右書面に相川表勤役之者御役の者御役宅打潰す旨、竹鑓・梯子・斧など露出し侯様相認め、不心得の村方へは火をかけ焼払うべく相触れ侯に付、百姓共相川へ罷出侯所存にも相成り、その上国中百姓願と偽り、数ケ条不法の義相認め強訴致し、願の通り相叶わずば、陣屋下へも火を掛け申すべき旨、公儀をも恐れず法外の儀共相打ち、御禁制之徒党強訴を企て、其の後粟野江村加茂明神社へ百姓共寄合の節強訴件の訴件の訴状下書差出し、重々不届至極に付き明和七寅年三月二十一日死罪 以上
処刑は、同日の寅の刻に獄内において斬首が行われた。智専は五〇才であった。そしてそれ以前に釈放され村預けとなった者には、過料銭を課して放免し、願書に連判した村方へは、名主は五貫文を、組頭は三貫文を過料銭として納めさせ、一般の百姓共に対しては「叱り」で終った。
いっぽう奉行所の役人の側には、寛延の事件のような罰は課せられなかった。しかし明和五年四月二日に、この明
和事件のひとつの目的であった代官制が廃され、以前の奉行支配に復帰したし、同七年二月には、事件の発端をつくつた御蔵奉行の谷田又四郎は江戸に召還され、蔵奉行の職務は組頭によって管掌されることになった。つまり、事件によって百姓たちの願いの大きな部分が達せられたのである。
(明和事件と籐右衛門)
俗説でほ、この事件の真の首謀者の中に、助左衛門らと共に藤右衛門がいるともされているので、このことについて述べてみる。前記したように、助左衛門の陳述で、藤右衛門に訴状を預けたとして取調べの結果、預かった藤右衛門には罪がないと認められて釈放されたが、藤右衛門と事件とのかかわりは、ただそれだけのことではなかったらしい。遍照坊の吟味の中でも、「自分は藤右衛門などに頼まれて文案を整理し、それを書いただけだ」と当初から主張しており、『天領佐渡』で著者の田中圭一は、おそらくそれが事実なのであろうと書いている。また一応釈放された藤右衛門が、智専の陳述で二代の藤右衛門や小倉村重五郎らと共に入牢したという文書もある。
当の藤右衛門家に伝わる家系書の中に、「遍照坊騒動」について記したものがある。それによると、「明和四年ハ夏秋水害虫害交々臻(いた)り大凶作トナリ、住民窮乏言語二絶シ、上納モ又意ノ如クナラズ。然ルニ時ノ代官督促苛酷ヲ極メ、温情更=加フルナシ。此処二於テ二代本間藤右衛門遍説(が)義憤黙シ難ク、決然身ヲ呈(挺)シテ事ヲ起シ、一挙二弊政ヲ改メ住民塗炭ノ苦ヲ救ハントス。之レ遍照坊事件ノ発端ナリ。当初同志ヲ加茂神社二集メ事ヲ議ス。適々(遇々)遍照坊住職智専氏来り会シ、共二身ヲ捨テ住民多数ノ苦ヲ救ハン事ヲ約ス。以後挙ゲテ盟主トス。第二代本間藤右衛門遍説道照居士、明和訴訟事件(遍照坊騒動)ノ主唱者ニシテ、六郎右衛門・熊谷文左衛門卜謀り、小倉・後山ノ同志及ビ舟代・瓜生屋ノ有志卜通ジ、遍照坊智専ヲ謀主トシテ近傍五十餘村ノ重立ト、粟野江ナル加茂社内二会議シ夫ノ事件ヲ起シタリ。事露ルルニ及ビ同志卜共二捕ハレシハ、明和四年十一月ニシテ、同七年三月迄足掛四年在牢シ、科(過)料銭若干ヲ課セラレ放免セラレタリ。本間藤右衛門ヲ義民卜云フハ故ナキエアラザルナリ。後世心スべシ。」
この家系書中の記述は、後世になって七代目の村蔵が大正末年以降に旧村志を参考に記したもので、史実どおりの記録ではない。しかし、藤右衛門が事件の中心にいたという伝承ほあったのであろう。二代目藤右衛門の戒名が、「遍説道照居士」であり、これは遍照坊との関わりをもつ者であったためにつけられたかと考えられるからである。
右記に登場する六郎右衛門とは舟代村の五郎右衛門のことかと思われ、熊谷文左衛門のことは旧村志では与右衛門の分家で、「藤右衛門と共に明和事件発起人の一人となり奔走したりしたが、事の露はるるに及んで遍照坊智専、本間藤右衛門其他五人と共に捕われ、入牢したりしが其疑獄の未だ決裁に至らざる前、即ち明和六年二月五日病みて牢内に歿せり」とし、汚名を着た上、義民として名を知る人が少なきは惜しいことであるとつけ加えた。
(遍照坊智専の書き置き)
巷間では、遍照坊智専は事件の罪を自ら一身に負うて献身したということになって、他の義民たちの身代りとして理解されている。しかし以上述べてきたように、智専は発起人でもなく首謀者でもなく、好んで責めをかぶったのでもなかった。こうした伝承が生まれる動機のひとつとしては、僧職にある者が世を救うために捨て身になる「即身成仏」の思想があったためとみることができる。すでに長谷寺にははっきりとその伝承は残っているし、即身成仏を重んずる湯殿山信仰はこの地にも伝わっていて、行人派の遺跡も何ケ所かある。それに何よりも智専が書いたといわれる書き置きの中に、そのことがつぎのように書かれている。
長谷村遍照坊智専最後書留(抜粋)
今般の不作は国中同様なり。然れば何千何万の人命を失ひ、何程の御田地荒捨可申、依之我等所存、釈尊ハ度々捨身の行を成し給ふ。我は賤しき凡僧なれども、現在人の命を害する者は未来短命なり。現在に火を附る者は火あぶりになる。我国中の為に捨身の行を為す事、是又人の為ならず。凡人命五十年と申し、十人の命を助くれば未来は五百年の寿命を得べく、百人の命を助くれば五千歳の寿命を得べく、千人の命を助くれば五万歳の寿命を得べし。然らば我れ凡そ千人の命を助けば五万年と申す寿命を持ち、何れの界に生れんや、定めて天界に生るべし。-(中略) - 然る上は我ら義、早く三毒五欲の此界を去り、人界は九度の非業は一度の常業とや、九度を逃るる共、一度は逃れがたし。少しも残慮これなく、亥の十月の存立右の通りに侯へ共、思い残るは法流ならびに弟子共志願成就し給へ。南無遍照金剛 願着 意盛
一国中
(橘鶴堂文庫)
右のうち「中略」の部分には、助米や石代の事も書かれてあり訴状にかかわる点もみられるが、書き置きの冒頭に
は、「佐渡雑太郡初瀬村遍照坊奉願法流寺家を改め末寺となし色衣地をせんことを請勧進帳」とあり、一国の者の助力で寺格を上げるための願いがこめられている。
さてこの書き置きに述べられた「捨身の行」をなさんとする思想は、遍照坊智専が裁判に示した言い訳の実態とは、一見して矛盾しているかのように思われるが、これは捕らわれてから処刑されるまでの三年余りの間に、智専が到
達した心境の変化を示すものではないだろうか。とくにこの文の最後に書かれた、人の死は逃がれがたいのであるか
ら、「少しも残慮これなく」と覚悟を決めた言葉の中に、刑死を甘んじて受けようとするための、自らへの戦いのようなものを感ずることができる。そして、自分のために法廷で不利な証言をした弟子たちに対して、祝福を願っているなどは、僧としての智専の大きな悟りと完成さを知ることができるのである。世俗の智専には、いくつかの非難や中傷もあった。中でも長谷寺に残されている遍照坊の大きな借銭で、檀家の者たちを困惑させていた左の文書(要旨)は、智専に悪僧のような印象を与えてさえいる。
書付を以て願い奉り慎
一、遍照坊には、借銭ならびに頼母子の掛金が数多ありますので、去年の冬、当住から旦那共へ相談があり、盆
供・年取物ならびに遍照坊持分の田畑を添えて、作徳で借銭と病母子に当てたいと頼まれましたが、そのような
方法では何年たっても返済できないので、遍照坊の所持する小倉の田地を売って借を返し、畑沖から毎年上る四貫文を積立てて十年後に小倉田地を受け出すよう、もし不作が続いて畑沖の田徳で不足したら、加印した我々で受出すよう申し合せ、本寺へは御苦労かけないようにいたします。尤も目録をご覧のように借銭が大きいのです
が、お耳に入れないわけにはいきません。 明和二酉五月
これに署名捺印したのは畑本郷の惣左衛門を筆頭に、坊ケ浦の茂左衛門・小倉の助左衛門・佐兵衛・七郎左衛門・長次郎・弥三右衛門・与市・藤左衛門・勘左衛門・忠左衛門・重右衛門・与吉・武井の徳兵衛・畑本郷の源右衛門・作右衛門・小倉の助三郎・仲右衛門・由兵衛・正寿院であった。
遍照坊智専は享保五年に小立村の源七(島川姓)に生れた。幼時の智専に関する挿話としては、幼童のころから煙草を契っていたということだけが伝わっている。五、六才の頃から喫ったというのである。当時の農家でほ自家製の
煙草を作っていて、とくに西三川は産地であったので、源七家でも栽培から煙草刻みまでやっており、智専もその手
伝いをしていた。そのような事情もあって、子供の智専が喫煙するのをとがめなかったのであろう。そのような智専をみて母親がお前は人並の死に方はできないと嘆いたという詰も残っている。幼童の時から喫煙の習慣があったなどといえば、今ならさしづめ問題児とされたことであろう。智専は長じて羽茂本郷村の真言宗妙法寺に入って剃髪しその後に長谷の遍照坊に移り、明和二年に名僧快遷の死後同寺の住職となったという。(旧村志)もしこれが正しければ、前記した遍照坊に大きな借銭のあったことを示す文書は、快遷の代にあったことで、これを智専の放漫な経理とするのは誤りということになる。しかし快遷の寂年は確認できない。
智専こと憲盛法印の供養塔は、全島で一二〇基が数えられている。(祝勇吉調べ)その分布は、バス通路を中心とすれば南線すじが五〇基で圧倒的に多く、ついで本線すじが二六基、小木線一二基・河崎線一〇基・赤泊線九基・前浜線七基などとなっている。そして建立の年代は文政から天保にかけてのものが大半である。ただし明和の建立も三〇基ほど数えられるが、これは殆どは処刑の日付になっているから、建立年月とは別である。当時は、非業・不慮の死を遂げた者に対する供養が足りぬと凶作や天災が起ると信じられていたから、供養塔の建立が競うようになされたらしい。一般には遍照坊虫(うんか説・二化螟虫説などがある)のたたりが語られ、病虫害に対する虫除け供養という形で近年に至ってもつづけられたのである。
(天保の一揆と畑野町)
天保九年(一八三八)を頂点とする全島的な一揆のことを、普通は「一国騒動」と呼んでいる。そのと畑野町一国騒動でも、畑野町は主謀者・被害者・参加者とそれに寄合の場などで直接にかかわりをもっている。とくに主謀者の中に、雑太郡惣代として畑本郷村の季左衛門と、上山田村善兵衛門を事務的な面で最もよく助けた同村の四郎左衛門があり、この両名は、城ケ平の義民堂に合祀された二六名のうちに数えられている義民である。
また当町で事件に関係した者の数は一八七名に達し、全体の約一七パーセントにあたる最も高い比率を示してい
る。そして、幕府評定所で吟味のため江戸送りとなった一八名のうちには、季左衛門・由郎左衛門のほかに小倉村兼之亟・後山村桝五郎・丸山村多次郎・同村甚五郎・畑方村兼之助・同季四郎・三宮村喜七などの名が伝えられ、ここでも畑野人の数がとくに目立っていた。さらに寄合の場所としては、天保九年三月十七日、訴状の調印に後山村の本光寺が用いられた。
訴状の中に、薬草植付の自由を要求してあるのも、従来からのこの地域の薬草栽培を背景に考えてよいのかもしれない。
(天保一揆の性格)
江戸期の佐渡の三つの大きな一揆と言われる事件のうち、寛延は越訴で比較的に穏便に経過したが、明和の騒動には打ちこわしの性格を伴ってやや過激になってきた。それに対して天保の一揆は、さらに打こわしが激しくなって、町方ばかりか村々の商家や富農層が対象となった。これは佐渡だけのことではなく、全国の一般的な風潮でもあった。天保の一国騒動が、なぜこのように過激さを増してきたかというと、この事件は奉行所など役所に対して年貢米の減免要請をするばかりでなく、そのころ商品経済の比重が加えられた百姓たちは、現金収入に直接影響を与える政策や商人たちの独占的なやり方に抵抗する必要が生じたためである。そして憎しみの対象となる町や村の商人たちへの実力行使は、武備のある奉行所への挑戦よりは、ほるかに容易でかつ効果的であったからである。
一揆の訴状は、一国惣代の羽茂郡上山田村善兵衛を願主とし、天保九年戌年閏四月に、巡見使に宛てて小木で渡された。その訴状の内容には、十六力条の要求が善かれてあった。主な事項としては、年貢米に口米を取ることが重役(二重課税)であること、上納米の米盛りや秤量を百姓に仰せ付けられること、夷・大石・国仲の郷蔵に関すること、材木商の鑑札を廃すること、野役・山役に重役があること、広恵倉にょる商人の被害のこと、薬草鑑札を廃すること、松前行きのあば縄の扱いを以前の通りとすること、酒造役銭にも重役があること、出判(旅行許可証)に関する願いなどがある。しかしこれらの要求に対しては、二重課税や鑑札制度や広恵倉の設置など、佐渡の置かれた特殊事情の下で行われた政策に対する事項が多かったためか、巡見使への上訴は、返答のないまま、善兵衛が逮揺されただけで終ってしまった。
ところが騒動は、逮揺された善兵衛の釈放を要求して暴動化していった。こうして打こわしが始まったのである。逮捕された主謀者善兵衛は、もともと村の重立であったらしく、元禄検地時には一町一反四畝余の田畑をもち、四畝
二十歩の屋敷に住んでいた。それが天保期ではさほどの田畑はなかったと言われている。そして上山田村の名主弥兵衛は、善兵衛を持て余して意見を加えもせず、奉行所の呼び出しに応じない善兵衛に偽った報告をしたりした。このことからみて、善兵衛は強気な信念の持主で、他への影響力には並々ならぬものがあったにちがいないが、暴動化の動機はさらに構造的なもので、善兵衛の力量の外にあったとみるべきである。
村の三役たちは、すでに明和の一揆のときに、実力行使から外されていた。このたびの天保の一揆はさらに村の長
百姓級を除外して、小前百姓を主体にして起ったのである。
(打壌しに遭った畑野の米屋たち)
天保の一国騒動の打こわしは、小木の問屋衆と、畑野地内に米屋を営む庄屋衆に対するものが多かった。小木町では、小木の番所付の問屋信濃屋をほじめ、鍋屋・播磨屋・風間屋・団子屋・安宅屋・備前屋・柳屋・松屋など九軒の問屋がこわされた。在郷商人では、当町関係として宮浦村兵右衛門・後山村伝九郎・畑方村万七・河内村東(藤)五郎・馬場村森右衝門・三宮村伝十郎・同村次兵衛・多田村の米屋などが襲われたほか、宮浦村には他の米屋の受難も伝えられている。このほか八幡村・徳和村・赤泊村・川原田町・真光寺村などにも米屋・酒屋などの被害があった。馬場村森右衛門が暴徒数百人に襲われたとき、同村の力士浮世が、「提灯を高く挙げて日く、己は馬場の與之吉なり。森右衛門は悪人に非ず。決して迫害する勿れと。暴徒は何等為し得ずして去れり。」と旧村志には書いてある。
(天保一揆の関係者)
江戸末期の奉行・川路三右衛門聖謨が記した、『佐州百姓騒立二付吟味落着一件留』という天保一揆の記録によると、事件の関係者の総数は一、000名をはるかに越えている。そのうち当町に関係する者の名を村別に書き出すと次表のようになる。ただしこの名簿には打こわしの被害を受けた者や、村の代表としてお咎めを受けた者などすべての者の名が列挙されている。
「三宮村」重右衛門・鉄五郎・六助・辰之助・嘉右衛門伜三次郎・権四郎・源五郎・清助・作左衛門・紋右衛
門・孫右衛門・八五郎・清右衛門・六助伜六次郎・仁兵衛・三右衛門・茂左衛門・仁兵衛伜常次郎・庄兵衛・覚 兵衛・武兵衛・権十郎・六三郎・金助・藤左衛門・六兵衛・半右衛門・伊兵衛・甚左衛門・兵五郎・権兵衛・武 右衛門・同人伜熊次郎・季七・名主次右衛門・小前惣代清左衛門
「馬場村」利兵衛弟与之助
「北 村」 組頭平蔵・小前惣代政右衛門
「宮浦村」源右衛門・新右衛門・作左衛門・伊三郎伜六之助・源右衛門伜岩次郎・半右衛門・甚左衛門伜甚次 郎・善十郎・忠四郎・名主五郎右衛門・小前惣代季右衛門
「後山村」本光寺留守居日逕・伝九郎・紋右衛門・新右衛門・与三兵衛・昌庵・善右衛門・伝七・桝五郎・助
右衛門・源左衛門・又三郎・兼蔵・只八・滝蔵・猶次郎・金七・繋八・幸三郎・茂八郎・新六・茂左衛門伜伊与助・伝之助・三次郎・清太郎親五郎兵衛・助次郎親類六左衛門・名主藤左衛門・小前惣代助左衛門・儀一郎親類五郎平
「大久保村」医師周甫・名主次郎右衛門・小前惣代惣左衛門
「猿八村」名主新右衛門・小前惣代権九郎
「小倉村」庄右衛門伜兼之亟・医師静斉・組頭久右衛門・小前惣代伊与平
「雑太郡河内村」 主善平・小前惣代忠左衝門
「畑本郷村」次右衛門親次郎左衛門・伝兵衛・藤九郎親類藤四郎・与次兵衛兄清三郎・次郎右衛門・源太郎・安左衛門・伝次郎・新次郎・作兵衛・七兵衛・季左衛門・四郎左衛門・名主宇右衛門・小前惣代金左衛門
「畑方村」源左衛門・季左衛門・与助・源太郎・新助・権左衛門・本山修験持明院快賢・紋太郎親類与右衛
門・為次郎親長八・与助・新太郎・八兵衛・松兵衛・佐治兵衛・孫次郎・平左衛門・孫次右衝門・徳兵衛・嘉十郎・平八・方兵衛・子之助・定右衛門・徳右衛門・仁兵衛・善兵衛・伝四郎件三次郎・太助・季八郎・季四郎・彦次郎伜兼助・百姓代奥右衛門・小前惣代万吉
「安国寺村」名主金十郎・組頭作兵衛・小前惣代次三郎
〔寺 田 村〕名主源之亟・小前惣代甚七
「目黒町村」名主金左衛門・小前惣代源右衛門
「粟野江村」名主茂右衛門・小前惣代権右衛門
「三十二貫村〕名主源次郎・小前惣代三郎兵衛
【二十五貫村〕名主作次右衛門・小前惣代庄兵衛
「坊ケ浦村」名主吉兵衛・小前惣代茂左衛門
「長谷村」名主宇左衛門・小前惣代弥一郎
「丸山村」三七郎・八蔵親類甚六・甚六伜多次郎・伴六・子之助・五郎左衛門・惣助・三四郎・甚太郎・藤次
郎・与之助・甚十郎・権助・甚作・次郎助・権七・助九郎・弥吉・甚五郎・名主孫十郎・小前惣代次郎右衛門
「羽茂郡河内村」三次郎・仁左衛門・善太郎・喜左衛門・百姓代源左衛門・小前惣代九郎右衛門
「多田村」 百姓代清蔵・小前惣代兵之助
「松ケ峰村」 組頭半兵衛・小前惣代久兵衛
(騒動の結末)
川路奉行の記した『佐州百姓共騒立二付吟味落着一件留』は、部厚い一書をなすほど詳細を極めていて、多ぜいの御仕置を悉くとり挙げることはできないが、江戸送りとなった一八名のうち徒党の頭取として捕えられた六人の者は、江戸の伝馬町などに入牢中に皆死亡したと伝えられている。また米商人打こわしの者のうち七人と、一揆非協力者への打こわしの者五人も牢死した。食当り、あるいは伝染病など、死因にはいろいろ考えられるが、俗説では毒殺説が流れている。これらの者も罪名は、農民側から獄門一人(善兵衛)・死罪一人(宮岡豊後)・遠島三人(四郎左衛門・季左衛門・半左衛門)・追放十四人・所払一三人・手鎖九人など多くの受刑者を出したが、これに対し役人側は、差控え・逼塞・押込だけで終った。これは明和以前の事件に比べて著しい相異点である。
しかし農民側の願いであった、株仲間の廃止や広恵倉の廃止などは目的が達せられ、また役人たちの不正についても、ある程度の成果を得た。
2015-01-20
順徳院・世阿弥・日蓮・文追加up
「波多」より多量情報upしました。
2015-01-20
世阿弥
★世阿弥
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
俗名、観世元清こと世阿弥には、他の流人とちがって、配所への道すじや、配所での暮らしぶりのわかる『金島書』という書きものがある。それによって世阿弥は、波多郷とも松前郷ともかかわりのあったことを知ることができる。金島書は、明治四十二年に、新潟県出身の歴史・地理学者、吉田東伍博士が、安田善之助氏秘蔵の古写本を、『世阿弥十六部集』として公刊した中にあるもので、これがこの書が世に出た最初である。世阿弥は、永享六年(一四三四)七十二才で佐渡に配流になった。高令のためと、廻船の普及で、若狭の小浜から乗船して「大田のうら」に着いた。大田のうらとは多田の浦のことで、ここは当時の公津・松ケ崎の内とみられていたらしい。そこから配所に至る道すじを書いた金島書のその部分を抜書すると、
はい処
只ことば、その夜は大田のうらにとまり、あまのいほりの、いそまくらして、あくれば、山路をわけのほりて、かさかりと云たうけにつきて、こまをやすめたり、ここはみやこにてもききし名ところなれば、「山はいかてか紅葉しぬらん」夏山かへてのわくらはまても、心あるさまにおもひそめてき、その山路をおりくたれば、はせと申て、くわんおんのれいちわたらせ給、こきやうにても、ききし名仏にてわたらせ給へは、ねんころにらいはいして、その夜はさうたのこほり、しんぼと云ところにつきぬ、国のかみのたいくわん、うけとりて、まんぷく寺と申せういんにしゅくせさせたり(以下略)
と書かれている。多田を出発してから、「かさかり」という峠に着いて、そこで馬を休めたというのである。この峠名は現存していない。従来は、ササンクビトと呼ばれる小佐渡の数少ない分水嶺が笠借峠であるとする橘法老説がとられていた。これはこの辺りでよく驟雨に出会うことがあるということや、峠という観念からみちびき出されたもので、昭和十七年に『佐越航海史要』に公表したものである。この説は、昭和二十五年に出版された椎野廣吉著『佐渡の能謡』にも引用され、当町史の松ケ崎篇『萬都佐木』もその見方に従ってきた。
ところが、その後の考証で、多田から尾根道を登って仁王木に出る途中にある、「笠取峠」が笠借峠のことではな
いかとする説が出てきた。金島書について考証を進めている磯部欣三氏がそのひとりである。この道は以前にはかな
り頻繁に用いられていたらしく、同氏ほこの笠取峠付近で寛政頃の墓石を数基と地蔵石像などを発見した。この尾根道は、ヒルメ山をへて、筵場からの道、さらに腰細からの道と合流して、仁王木-馬込-ササンクビトー桧山とつながる、これまでのいわゆる「桧山越え」の道となる。
その先の紅葉の観賞のくだりは、すでに『萬都佐木』に書いてある通り、男神山の南向き斜面の紅葉山のこととみ
てよいであろう。次で、山を下りて「ほせと申て、くわんおんのれいち」までの記述が簡略すぎて、「ねんごろにらいはいして」が、長谷観音に参詣したのか、遥拝ですませたのか不明であるが、この道すじで長谷観音に至るとすれば、その先新保までの長旅をする老体の世阿弥にとってはかなりの負担であったと思われるのである。とくに長谷観音が、現在の位置に移されたのはいつなのか明らかではなく、世阿弥時代よりは後世になってからである可能性もある。世阿弥と波多郷とのかかわりは、金島書の「十社」のくだりにもみられるので、その部分を書いてみる。
十 社
只ことば、かくて国にいくさ起りて、国中おだやかならず、配所も、合戦の巷になりしかば、在所をかへて、いまの泉といふ所にしゅくす。さる程に、秋去り冬暮れて、永享七年の春にもなりぬ。爰は当国十社の神まします。敬神のためけ二曲を法楽す、夫れ人は天下の神物たり、禰宜が習はしによって威光を増し、五衰の眠を無上正覚の月に醒まし、衆生等も息災延命と守らせ給ふ御誓、げにありがたき御蔭かな、神のまにく詣で釆て、歩みを運ぶ宮巡り、げにや和光同塵は、和光同塵は結縁の御初、八相成道は利物の終なるべし、やまちと秋津洲の中こそ、御代の光や玉垣の国豊かにてほう年を、楽む民の時代とて、げに九の春久の、十の社は曇りなや、曇りなや。
この十社が、十の数が揃った社であるのか、それとも十社という固有名詞をもつ特定の社であるのかも議論の分れる
ところである。『河崎村史料編年志』の著者橘法老は、十の社を官巡りしたと書いた。ところが、宮浦村慶宮寺の所有する一宮川沿いの田地に「十社免」というのがあることから、十社とは慶宮寺が別当をつとめていた一宮神社のことではないかとみる見方が強くなってきた。橘法老は、大仏北条が国仲盆地をめぐる十ケ所に市神を定置したのが十社で、他の九社にもそれぞれに十社免があったのを、名義人の移動と共に地名も変更されて消滅したのであろうと推定した。また一社を代表して参拝し、敬神のために一曲を法楽したのは、泉の荒貴神社であるとした書もある。(『佐渡流人史』雄山閣)十社という数から三斎市を思いついた橘法老の説のほかに、春日十社を説く者もある。佐渡考古歴史学会の中にある説がこれである。宮浦の一宮神社に十社免があっても、他になかったというのではないことは橘法老の説く通りで、固定的にみるのではなく、今後さらに広い視野から見直す必要がありそうである。真野町吉岡には八社林があり、十二社権現は島内いたる所に存在する。十社が「惣社」的な社であったとしてもそれが成立する背景には、こうした一連の連繋社が行われていなければならないのである。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
俗名、観世元清こと世阿弥には、他の流人とちがって、配所への道すじや、配所での暮らしぶりのわかる『金島書』という書きものがある。それによって世阿弥は、波多郷とも松前郷ともかかわりのあったことを知ることができる。金島書は、明治四十二年に、新潟県出身の歴史・地理学者、吉田東伍博士が、安田善之助氏秘蔵の古写本を、『世阿弥十六部集』として公刊した中にあるもので、これがこの書が世に出た最初である。世阿弥は、永享六年(一四三四)七十二才で佐渡に配流になった。高令のためと、廻船の普及で、若狭の小浜から乗船して「大田のうら」に着いた。大田のうらとは多田の浦のことで、ここは当時の公津・松ケ崎の内とみられていたらしい。そこから配所に至る道すじを書いた金島書のその部分を抜書すると、
はい処
只ことば、その夜は大田のうらにとまり、あまのいほりの、いそまくらして、あくれば、山路をわけのほりて、かさかりと云たうけにつきて、こまをやすめたり、ここはみやこにてもききし名ところなれば、「山はいかてか紅葉しぬらん」夏山かへてのわくらはまても、心あるさまにおもひそめてき、その山路をおりくたれば、はせと申て、くわんおんのれいちわたらせ給、こきやうにても、ききし名仏にてわたらせ給へは、ねんころにらいはいして、その夜はさうたのこほり、しんぼと云ところにつきぬ、国のかみのたいくわん、うけとりて、まんぷく寺と申せういんにしゅくせさせたり(以下略)
と書かれている。多田を出発してから、「かさかり」という峠に着いて、そこで馬を休めたというのである。この峠名は現存していない。従来は、ササンクビトと呼ばれる小佐渡の数少ない分水嶺が笠借峠であるとする橘法老説がとられていた。これはこの辺りでよく驟雨に出会うことがあるということや、峠という観念からみちびき出されたもので、昭和十七年に『佐越航海史要』に公表したものである。この説は、昭和二十五年に出版された椎野廣吉著『佐渡の能謡』にも引用され、当町史の松ケ崎篇『萬都佐木』もその見方に従ってきた。
ところが、その後の考証で、多田から尾根道を登って仁王木に出る途中にある、「笠取峠」が笠借峠のことではな
いかとする説が出てきた。金島書について考証を進めている磯部欣三氏がそのひとりである。この道は以前にはかな
り頻繁に用いられていたらしく、同氏ほこの笠取峠付近で寛政頃の墓石を数基と地蔵石像などを発見した。この尾根道は、ヒルメ山をへて、筵場からの道、さらに腰細からの道と合流して、仁王木-馬込-ササンクビトー桧山とつながる、これまでのいわゆる「桧山越え」の道となる。
その先の紅葉の観賞のくだりは、すでに『萬都佐木』に書いてある通り、男神山の南向き斜面の紅葉山のこととみ
てよいであろう。次で、山を下りて「ほせと申て、くわんおんのれいち」までの記述が簡略すぎて、「ねんごろにらいはいして」が、長谷観音に参詣したのか、遥拝ですませたのか不明であるが、この道すじで長谷観音に至るとすれば、その先新保までの長旅をする老体の世阿弥にとってはかなりの負担であったと思われるのである。とくに長谷観音が、現在の位置に移されたのはいつなのか明らかではなく、世阿弥時代よりは後世になってからである可能性もある。世阿弥と波多郷とのかかわりは、金島書の「十社」のくだりにもみられるので、その部分を書いてみる。
十 社
只ことば、かくて国にいくさ起りて、国中おだやかならず、配所も、合戦の巷になりしかば、在所をかへて、いまの泉といふ所にしゅくす。さる程に、秋去り冬暮れて、永享七年の春にもなりぬ。爰は当国十社の神まします。敬神のためけ二曲を法楽す、夫れ人は天下の神物たり、禰宜が習はしによって威光を増し、五衰の眠を無上正覚の月に醒まし、衆生等も息災延命と守らせ給ふ御誓、げにありがたき御蔭かな、神のまにく詣で釆て、歩みを運ぶ宮巡り、げにや和光同塵は、和光同塵は結縁の御初、八相成道は利物の終なるべし、やまちと秋津洲の中こそ、御代の光や玉垣の国豊かにてほう年を、楽む民の時代とて、げに九の春久の、十の社は曇りなや、曇りなや。
この十社が、十の数が揃った社であるのか、それとも十社という固有名詞をもつ特定の社であるのかも議論の分れる
ところである。『河崎村史料編年志』の著者橘法老は、十の社を官巡りしたと書いた。ところが、宮浦村慶宮寺の所有する一宮川沿いの田地に「十社免」というのがあることから、十社とは慶宮寺が別当をつとめていた一宮神社のことではないかとみる見方が強くなってきた。橘法老は、大仏北条が国仲盆地をめぐる十ケ所に市神を定置したのが十社で、他の九社にもそれぞれに十社免があったのを、名義人の移動と共に地名も変更されて消滅したのであろうと推定した。また一社を代表して参拝し、敬神のために一曲を法楽したのは、泉の荒貴神社であるとした書もある。(『佐渡流人史』雄山閣)十社という数から三斎市を思いついた橘法老の説のほかに、春日十社を説く者もある。佐渡考古歴史学会の中にある説がこれである。宮浦の一宮神社に十社免があっても、他になかったというのではないことは橘法老の説く通りで、固定的にみるのではなく、今後さらに広い視野から見直す必要がありそうである。真野町吉岡には八社林があり、十二社権現は島内いたる所に存在する。十社が「惣社」的な社であったとしてもそれが成立する背景には、こうした一連の連繋社が行われていなければならないのである。
2015-01-20
日蓮
★日蓮
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
日蓮に関しても、『畑野町史・信仰篇』は、「日蓮と波多郷」の項で一四頁にわたって詳述した。それを要約すると、日蓮配所は一般に信じられているように、新穂村大野の塚原山根本寺境内にある三昧堂のところではなかったとする大方の郷土史家の意見が一致していること、そしてその配所に関しては、粟野江の仙道説・目黒町の妙満寺付近とする説・宮川もしくは三宮説(以下川西説とする)などがあって、いまだ流動的ではあるといえ、仙道説はこれを説いた橘法老の死去と共に薄らいでおり、それに代る佐渡史学会など多数の支持者のある妙満寺説がいま主流であるかの感を与えていることなどである。当町史編さん委員会は、自らの決定的な史料を欠いたまま、妙満寺説を参考に、川西説をも考慮してきた。川西説をとっているのは、未公表ながら佐渡考古歴史学会の指導層の中にもあり、これから先の調査研究が待たれるところである。
目黒町の野町に、「殿やしき」という広い館跡がある。古城址研究家である山本仁氏の意見では、かなり古い時代の館跡であるということである。いまのところ、何者の居館であるか不明であるが、嘉禎三年(一二三七)の年号が記入されている同村熊野社の神官許状の差出人、遠藤為盛との関連が問題とされている。遠藤為盛とは日蓮を預った阿仏坊日得の俗名であるとされる。日得ははじめ日蓮の教義に強い反対をしていたが、のちに御意して深く日蓮に帰依し、妻の千日尼と共に日蓮の生活全般を世話した在家の者であった。右記した神官許状は、明らかに後世の偽書でほあるが、そうした許状を発行する力をもった人物の存在が背景にあったとすればこれを無視することはできない。そして千日尼にもやはり順徳院供奉着であったとする伝説があり、また遠藤為盛には文覚上人の子孫の伝承もある。こうして著名な流人たちを互いに結び合せるための策意がいろくと認められはするものの、何らかの事実が背後に存在しなかったとは言いきれないのである。
殿やしきのすぐ西隣りにある本間源兵衛家には、この家が千日尼の生家であるという伝承がある。また妙満寺を建
てたという日満の墓・満師塚のある土地は、以前は源兵衛家のものであったのを妙満寺に寄付したもので、この塚を
挟む道沿いの細長い旧株場はいまも同家の所有である。これらの事情からみて、殿やしきと阿仏坊日得とは何らかのかかわりがあった可能性がつよく、ことによると、阿仏坊の在家時代の館跡とみてよいのかもしれない。日蓮が波多
郷内にあって、守護代の直接監視下に置かれていたのは、文永八年十一月一日から翌四月七日までの六ケ月余りの間のことであり、その後石田郷地頭本間某のもとに移り、一谷入道の家に入った。日蓮の初期の配所を、小倉川左岸の宮浦郷付近とみる川西説についても十分に考慮をする必要がある。宮浦村字山さきの伊藤五郎右衛門家の屋敷近くから、中世墓が七基ほど出土した。また一宮神社境内からも、納骨甕と思われる土器が多数出土していて、この界隈が埋葬地であったことは疑いのないところである。日蓮の高弟であった日朗の名のついた坂があるのもこの場所であり、ここから西に向ってすこし行くとかつての辻堂・いまの本光寺があり、さらに端(は)塚の坂にかかる。日朗坂は、日蓮と赦免状でかかわりをもつ場所であるが、なぜここが擬せられなければならないのかを考えるときに、問題の配所との関係も浮び上ってくる。この辺りの事情については次の書翰などが参考になる。文永十一年(一二七四)三月八日に赦免状が届いた。その後に日蓮が身延から光日房にあてた消息の中に文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日国を立ちて、まうらというつにをりて、十四日はかのつにとどまり、同じき十五日に、越後の寺どまりにつくべきが、大風にはなたれ、さいわいに、ふつかぢをすぎて、かしわざきにつきて、次の日はこうにつき、中十二日をへて、三月二十六日に鎌倉へ入りぬ。
とある。しかしこの時に赦免状を携えてきたという日朗については何もふれていない。日朗は小木の港に着いたとい
ぅ伝説が、同地の安隆寺にある。そしてなぜか日朗坂のところで日蓮に会い手渡したというのが実話として信じられ
ている。伝説では、日蓮はこのとき何代にいたというが、これは配所がその方向にあったとみることから出たのであれば、あるいは仙道説や妙満寺説は何らかの上で参考にはなるかもしれない。宮川の本光寺が所蔵する江戸後期の掛絵図によると、腰掛石にかけた宗祖の足もとに日朗がひざまづいており、日興が松明をかかげて立っていて、夜景として措かれてあるその場所は、「元ハ人見坂、今ハ日朗坂」と書いてあり、遠景に「後山辻堂」が建っている。赦
免状の文面は、日蓮法師御勘気事有/御免之由所被仰下也早々/被赦免之由侯仍執達如件/文永十一年二月十四日 となっており、行兼・行平・光綱の順に署名と判があって山城兵衛入道に宛ててある。したがって赦免状が鎌倉から釆た日朗の手から直接日蓮の手に渡ったのかどうかは疑わしい。郷土史家たちはこれを否定して、日朗が赦免状を携えたことさえ「ありえないこと」であるとしている。(田中圭一篇『日蓮と佐渡』)
前記の消息文には、日蓮の出航地について書かれてないが、ほじめやはり国津の松ケ崎から一たん出航した船が、悪天候で赤泊方面に流され、そこで「まうらというつにをりて」ということになったのであろうと推定されている。松ケ崎の本行寺には、出航時の荒波を鎮めた波題目の額が掲げられている。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
日蓮に関しても、『畑野町史・信仰篇』は、「日蓮と波多郷」の項で一四頁にわたって詳述した。それを要約すると、日蓮配所は一般に信じられているように、新穂村大野の塚原山根本寺境内にある三昧堂のところではなかったとする大方の郷土史家の意見が一致していること、そしてその配所に関しては、粟野江の仙道説・目黒町の妙満寺付近とする説・宮川もしくは三宮説(以下川西説とする)などがあって、いまだ流動的ではあるといえ、仙道説はこれを説いた橘法老の死去と共に薄らいでおり、それに代る佐渡史学会など多数の支持者のある妙満寺説がいま主流であるかの感を与えていることなどである。当町史編さん委員会は、自らの決定的な史料を欠いたまま、妙満寺説を参考に、川西説をも考慮してきた。川西説をとっているのは、未公表ながら佐渡考古歴史学会の指導層の中にもあり、これから先の調査研究が待たれるところである。
目黒町の野町に、「殿やしき」という広い館跡がある。古城址研究家である山本仁氏の意見では、かなり古い時代の館跡であるということである。いまのところ、何者の居館であるか不明であるが、嘉禎三年(一二三七)の年号が記入されている同村熊野社の神官許状の差出人、遠藤為盛との関連が問題とされている。遠藤為盛とは日蓮を預った阿仏坊日得の俗名であるとされる。日得ははじめ日蓮の教義に強い反対をしていたが、のちに御意して深く日蓮に帰依し、妻の千日尼と共に日蓮の生活全般を世話した在家の者であった。右記した神官許状は、明らかに後世の偽書でほあるが、そうした許状を発行する力をもった人物の存在が背景にあったとすればこれを無視することはできない。そして千日尼にもやはり順徳院供奉着であったとする伝説があり、また遠藤為盛には文覚上人の子孫の伝承もある。こうして著名な流人たちを互いに結び合せるための策意がいろくと認められはするものの、何らかの事実が背後に存在しなかったとは言いきれないのである。
殿やしきのすぐ西隣りにある本間源兵衛家には、この家が千日尼の生家であるという伝承がある。また妙満寺を建
てたという日満の墓・満師塚のある土地は、以前は源兵衛家のものであったのを妙満寺に寄付したもので、この塚を
挟む道沿いの細長い旧株場はいまも同家の所有である。これらの事情からみて、殿やしきと阿仏坊日得とは何らかのかかわりがあった可能性がつよく、ことによると、阿仏坊の在家時代の館跡とみてよいのかもしれない。日蓮が波多
郷内にあって、守護代の直接監視下に置かれていたのは、文永八年十一月一日から翌四月七日までの六ケ月余りの間のことであり、その後石田郷地頭本間某のもとに移り、一谷入道の家に入った。日蓮の初期の配所を、小倉川左岸の宮浦郷付近とみる川西説についても十分に考慮をする必要がある。宮浦村字山さきの伊藤五郎右衛門家の屋敷近くから、中世墓が七基ほど出土した。また一宮神社境内からも、納骨甕と思われる土器が多数出土していて、この界隈が埋葬地であったことは疑いのないところである。日蓮の高弟であった日朗の名のついた坂があるのもこの場所であり、ここから西に向ってすこし行くとかつての辻堂・いまの本光寺があり、さらに端(は)塚の坂にかかる。日朗坂は、日蓮と赦免状でかかわりをもつ場所であるが、なぜここが擬せられなければならないのかを考えるときに、問題の配所との関係も浮び上ってくる。この辺りの事情については次の書翰などが参考になる。文永十一年(一二七四)三月八日に赦免状が届いた。その後に日蓮が身延から光日房にあてた消息の中に文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日国を立ちて、まうらというつにをりて、十四日はかのつにとどまり、同じき十五日に、越後の寺どまりにつくべきが、大風にはなたれ、さいわいに、ふつかぢをすぎて、かしわざきにつきて、次の日はこうにつき、中十二日をへて、三月二十六日に鎌倉へ入りぬ。
とある。しかしこの時に赦免状を携えてきたという日朗については何もふれていない。日朗は小木の港に着いたとい
ぅ伝説が、同地の安隆寺にある。そしてなぜか日朗坂のところで日蓮に会い手渡したというのが実話として信じられ
ている。伝説では、日蓮はこのとき何代にいたというが、これは配所がその方向にあったとみることから出たのであれば、あるいは仙道説や妙満寺説は何らかの上で参考にはなるかもしれない。宮川の本光寺が所蔵する江戸後期の掛絵図によると、腰掛石にかけた宗祖の足もとに日朗がひざまづいており、日興が松明をかかげて立っていて、夜景として措かれてあるその場所は、「元ハ人見坂、今ハ日朗坂」と書いてあり、遠景に「後山辻堂」が建っている。赦
免状の文面は、日蓮法師御勘気事有/御免之由所被仰下也早々/被赦免之由侯仍執達如件/文永十一年二月十四日 となっており、行兼・行平・光綱の順に署名と判があって山城兵衛入道に宛ててある。したがって赦免状が鎌倉から釆た日朗の手から直接日蓮の手に渡ったのかどうかは疑わしい。郷土史家たちはこれを否定して、日朗が赦免状を携えたことさえ「ありえないこと」であるとしている。(田中圭一篇『日蓮と佐渡』)
前記の消息文には、日蓮の出航地について書かれてないが、ほじめやはり国津の松ケ崎から一たん出航した船が、悪天候で赤泊方面に流され、そこで「まうらというつにをりて」ということになったのであろうと推定されている。松ケ崎の本行寺には、出航時の荒波を鎮めた波題目の額が掲げられている。
2015-01-20
順徳院
★順徳院
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
承久三年(一二二一)五月に、後鳥羽上皇とその子順徳上皇(その直前の四月二十日までは天皇)は、京都守護伊賀光季を殺害し、鎌倉の北条義時を討つために院宣を下した。これに対して幕府軍ほ直ちに京に向って進発し、六月には入京して泰時・時房が六波羅に入り、上皇軍はあえなく敗れ去った。翌七月、北条義時は後鳥羽上皇を隠岐に、数日後に順徳上皇を佐渡に配流することを決定した。そして順徳上皇(以下順徳院と呼ぶ)は七月二十一日佐渡に向われた。『吾妻鏡』によると、供奉を命ぜられたのは、冷泉中将為家・花山院少将能氏・左兵衛範経・上北面左衛門太夫康光と女房左衛門佐局および別当の局が従ったとある。けれども、『承久記』によると、けっきょく為家は都に留まり、花山院は病で途中から引き返し、女房が一人加わって、男は範経と康光の二人、女は女房など三人の計五人が順徳院に供奉したとある。
松ケ崎へ着いた後は、山越えをされたらしいが、伝承では船で真野湾の恋ケ浦に着いたことになっている。当時、
国衝ほ波多郷にあったとされている。順徳院一行は、とりあえず国衝に向い、役所の手をへて配所に落着かれたものであろう。その配所および遺跡には諸説があり、真野町・金井町・佐和田町をほじめ、新穂村・両津市・小木町・相川町などに伝脱が及んでいる。順徳院は在鳥二十一年に及び、仁治三年九月十二日佐渡に手崩御された。
御年四十六才であった。数多ある遺跡のうち真野町御廟所については、延宝七年(一六八〇)に佐渡奉行の曾根五郎兵衛から真輪寺に宛てた覚書きや絵図によって、急拠でき上った経過が明らかにされているので、、それ以後に作り出された遺跡もあるらしい。また佐和田町八幡の伝説は、それから間もなく配流となった京極為兼との混線ともみられている。このように順徳院に関する伝承にも、年代の古さに著名度が加わって、事実とは異なる遺跡がかなり多く流布しているものとみられる。
波多郷と順徳院とのかかわりは、上記した国街との関係以外にも、一宮神社・三宮神社の祭神となっている皇女・
皇子を儲けられたという重要な伝承がある。またそれに伴って、使用されたと称する瓶(壷)などの御物も遣ってい
る。また山吹の里・院の馬場など、後世の文人たちによって作られたと思われる遺跡もある。これらに関しては町
史・信仰篇で概ね考証を加えてきたので重複を避けるが、皇女・皇子の伝説が全く根拠のないものであるかどうかについては、なお即断を許さないものがある。
伝説には、語り物や演劇などが媒体となって創作される場合がよくある。後山村不動院に伝わる二代蓮花院の書いた「一宮・二宮・三宮謂れの事」は、箱根権現物語のすじに似ている。ここには順徳院は登場せず、「佐原中将光氏とて院に官づかえせし公卿」の娘たちをめぐる物語りになっている。この内容の正否はともかくとして、このような物語を生む社会的な背景があったという事実は考慮しなければならないことである。
俗に一宮・三宮の唐崎と呼ぶ皇女・皇子の御墓については、郷土史家で真野陵管理の公職にあった山本修之助氏の『佐渡の順徳院と日蓮』(昭五一)の著書から、抜き書きすると左のようになっている。
慶子女王御墓 畑野村大字宮川字唐崎
上皇御在島中御降誕の第一皇女慶子女王の御墓である。御謚号を島照姫命と申し上げている。御母は右衛門督局(従二位権中納言藤原範光ノ女)と伝えられているが、詳らかでない。嘉禄元年の御降誕で、弘安九年御年六十二で薨去なされた。鎌倉幕府の命にょり宮浦の地頭本間次郎兵衛が守護申し上げていた。(以下略)
千歳宮御墓 畑野村大字三宮字道祖神
上皇御在島中御降誕の第三皇子千歳宮の御墓である。御謚号を成島親王と申し上げている。御母は詳らかでない。嘉禎三年の御降誕で、建長六年御年十八で薨去なされた。同じく佐渡守護本間左衛門尉が守護していた。(以下略)
なお右記二人の間に生れたとされる第二皇女忠子女王と、千歳宮の下に生れたとされる第三皇子彦成王の御墓もある。彦成王については町史・信仰篇の三二九真に対談として扱ってある。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
承久三年(一二二一)五月に、後鳥羽上皇とその子順徳上皇(その直前の四月二十日までは天皇)は、京都守護伊賀光季を殺害し、鎌倉の北条義時を討つために院宣を下した。これに対して幕府軍ほ直ちに京に向って進発し、六月には入京して泰時・時房が六波羅に入り、上皇軍はあえなく敗れ去った。翌七月、北条義時は後鳥羽上皇を隠岐に、数日後に順徳上皇を佐渡に配流することを決定した。そして順徳上皇(以下順徳院と呼ぶ)は七月二十一日佐渡に向われた。『吾妻鏡』によると、供奉を命ぜられたのは、冷泉中将為家・花山院少将能氏・左兵衛範経・上北面左衛門太夫康光と女房左衛門佐局および別当の局が従ったとある。けれども、『承久記』によると、けっきょく為家は都に留まり、花山院は病で途中から引き返し、女房が一人加わって、男は範経と康光の二人、女は女房など三人の計五人が順徳院に供奉したとある。
松ケ崎へ着いた後は、山越えをされたらしいが、伝承では船で真野湾の恋ケ浦に着いたことになっている。当時、
国衝ほ波多郷にあったとされている。順徳院一行は、とりあえず国衝に向い、役所の手をへて配所に落着かれたものであろう。その配所および遺跡には諸説があり、真野町・金井町・佐和田町をほじめ、新穂村・両津市・小木町・相川町などに伝脱が及んでいる。順徳院は在鳥二十一年に及び、仁治三年九月十二日佐渡に手崩御された。
御年四十六才であった。数多ある遺跡のうち真野町御廟所については、延宝七年(一六八〇)に佐渡奉行の曾根五郎兵衛から真輪寺に宛てた覚書きや絵図によって、急拠でき上った経過が明らかにされているので、、それ以後に作り出された遺跡もあるらしい。また佐和田町八幡の伝説は、それから間もなく配流となった京極為兼との混線ともみられている。このように順徳院に関する伝承にも、年代の古さに著名度が加わって、事実とは異なる遺跡がかなり多く流布しているものとみられる。
波多郷と順徳院とのかかわりは、上記した国街との関係以外にも、一宮神社・三宮神社の祭神となっている皇女・
皇子を儲けられたという重要な伝承がある。またそれに伴って、使用されたと称する瓶(壷)などの御物も遣ってい
る。また山吹の里・院の馬場など、後世の文人たちによって作られたと思われる遺跡もある。これらに関しては町
史・信仰篇で概ね考証を加えてきたので重複を避けるが、皇女・皇子の伝説が全く根拠のないものであるかどうかについては、なお即断を許さないものがある。
伝説には、語り物や演劇などが媒体となって創作される場合がよくある。後山村不動院に伝わる二代蓮花院の書いた「一宮・二宮・三宮謂れの事」は、箱根権現物語のすじに似ている。ここには順徳院は登場せず、「佐原中将光氏とて院に官づかえせし公卿」の娘たちをめぐる物語りになっている。この内容の正否はともかくとして、このような物語を生む社会的な背景があったという事実は考慮しなければならないことである。
俗に一宮・三宮の唐崎と呼ぶ皇女・皇子の御墓については、郷土史家で真野陵管理の公職にあった山本修之助氏の『佐渡の順徳院と日蓮』(昭五一)の著書から、抜き書きすると左のようになっている。
慶子女王御墓 畑野村大字宮川字唐崎
上皇御在島中御降誕の第一皇女慶子女王の御墓である。御謚号を島照姫命と申し上げている。御母は右衛門督局(従二位権中納言藤原範光ノ女)と伝えられているが、詳らかでない。嘉禄元年の御降誕で、弘安九年御年六十二で薨去なされた。鎌倉幕府の命にょり宮浦の地頭本間次郎兵衛が守護申し上げていた。(以下略)
千歳宮御墓 畑野村大字三宮字道祖神
上皇御在島中御降誕の第三皇子千歳宮の御墓である。御謚号を成島親王と申し上げている。御母は詳らかでない。嘉禎三年の御降誕で、建長六年御年十八で薨去なされた。同じく佐渡守護本間左衛門尉が守護していた。(以下略)
なお右記二人の間に生れたとされる第二皇女忠子女王と、千歳宮の下に生れたとされる第三皇子彦成王の御墓もある。彦成王については町史・信仰篇の三二九真に対談として扱ってある。
2015-01-20
文覚
★文覚
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
鎌倉期に入るとまもなく、佐渡に怪僧文覚が流されてきた。文覚は波多のうち大久保の地に住んで、その地にある滝で行をしたと伝えられている。文覚の流罪については、中央の史家の間でも明確ではなく、なお流動的な点はあるが、近年の研究では、佐渡流罪はほぼ確定的に認められるようになった。『廣辞苑』は、「一一九九年佐渡に流され、一二〇五年また対馬に流された。」としてある。しかしどの書をみても、それが佐渡のどこであるのかについては、上記の伝承にょる資料のほかには何も見当らない。文覚を知る資料としては、『平家物語』・『吾妻鏡』などの武家記録があるが、これらは物語りであり軍記なので扮飾が多く、史実とは異なる部分の多い点が指摘されている。(相原精次『文覚上人一代記』)例えば、よく知られている袈裟御前との悲恋と殺害の話でさえも実話ではなく、中国の「東帰婦女」の焼き直しであるという点などである。そして文覚の激しい性格と旺盛な行動力のために、文学作品や劇の対象になり易く、それが虚像を作り上げるのに一層その傾向を強めたようである。
文覚の最初の配流の地は伊豆であった。そこで源頼朝との出会いがあり、平家追討の企てがなされた。また僧とし
ても京都の東寺や神護寺復興に活躍したことも事実とされる。こうして日本歴史に大きな影響力を与えた人物であることには異論がない。佐渡に流された動機について『大日本史』は、文覚が頼朝を唆して、遊び好きで政ごとを怠る後鳥羽天皇を廃して、皇兄守貞親王を立てようとしたが、頼朝がこれに応じないまま薨じたため、事が洩れたことによるとしている。またそれとは別の動機を伝える書もあるが、いずれにしても文覚の流罪は、鎌倉幕府からのものではなく、朝廷からの命令であった点で、のちの日蓮の場合などとは事情が異なっていた。
文覚の佐渡流罪が確かであり、佐渡でほ大久保の他には配所が聞かれないというのであればこれが事実に近いものなのであろう。大久保には、文覚の弟子たちによって建てられたと伝えられる真禅寺があり、その真禅寺の奥の院があるナべクラの滝を修業の場とし、滝の脇には文寛が刻んだという稚拙な不動明王の石像が祀られてある。さらにその滝の下方には、文覚の墓あるいは弟子たちの墓という右横みが数基ならんでいる。
文覚が佐渡に流されたのは、七十九才の高令に達してからのことである。在島中にほまだ真禅寺は存在しなかったので、その期間には慶宮寺が預かったのではないかとする見方がある。(『畑野町史・信仰篇』)たしかに慶官寺の山号・神護山には、文覚が再興した京都高雄山神護寺を思わせるものがある。ナべクラの滝の東側にそびえる京中という山の呼び方は境中からの転化らしいが、京の文字を当てたのは、この地とは異質で、京から釆た者の在所であるかのような印象を与えている。ただし文政五年の村絵図では、京中(なか)の地名は山の西側から文覚墓のある沢にかけての斜面の呼称で、山の名ではない。その他にも遺跡としては経塚・行水池・腰掛石があり、文覚作を伝える和歌もある。佐渡関係の古書のうち、江戸中期に書かれた『佐渡名勝志』や『佐渡舌実略記』には文覚のことを伝えておらず、江戸後期の『佐渡志』につぎのように書いてある。
文覚上人墓
雑太郡大久保村真禅寺後の山にある正治元年高雄の文覚上人流されて此国に来り(大日本史に百錬抄皇帝紀抄を引て文覚佐渡配流とあり平家物語に隠岐に流されて死すとあるはあやまりなるべし)守護人に語りけるは我齢既に傾きぬ今幾程か此世にあるへきなからむ跡を人間に読されむことこそ安からね同しくは世離れたる山の奥に居らはやとて遂に邪辺久羅といへる深山に入り庵を結ひてやかてここにて身まかりぬ都より従ひたる弟子の僧相謀りて庵の跡に寺を作り真禅寺と名つくといへり
文覚終焉の地についてほ諸説がある。佐渡以外では、隠岐・対馬・鎮西などである。前記した廣辞苑にょると、七
十九才で佐渡に流され、五年間在島して八十五才になって対馬に三度目の流罪となったことになるが、さらに他の資料ではその後に鎮西に流されたとあり、信じられぬほど転々としたことが誤りであるとも言い切れない。
文覚は俗名を遠藤盛遠といった。生れたのは父の盛光が六十才・母も四十三才になっていた。出産と同時に母は死に、やがて父をも三才のときに失なった。そのため親戚の青(春)木道善に育てられ、同族の滝口遠光が烏帽子親となって、その滝口の取りなしで、上西門院(鳥羽天皇第二皇子統子の居所)の北面の武士(警備兵)となった。俗説ではここで袈裟御前との一件があって、同女を殺害したことが動機で出家したことになっている。そして熊野に入山し、那智の滝で一千日の荒行ののち、京都で神護寺復興に奔走し、そのことで犯した、後白河法皇への無礼の振舞に対し咎を受け、伊豆に流された。しかし源平の戦いで勝利した頼朝支持によって、文覚も一時は権勢を振った時代があった。
文永八年(一二七一)に佐渡に流された日蓮に帰依し、日蓮に奉仕した僧日得・俗名遠藤為盛は、この盛遠の子孫であるという。文覚在島から約七十年余り後のことであるから、もし血縁者であるとすれば孫もしくほ曾孫ぐらいになるのであろう。しかしそれはかなり伝説的で、史家たちはそれを認めていない。その他文覚に関する記録や考証
は、町史・信仰篇に「真禅寺と文覚」の項を設けて詳述してある。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
鎌倉期に入るとまもなく、佐渡に怪僧文覚が流されてきた。文覚は波多のうち大久保の地に住んで、その地にある滝で行をしたと伝えられている。文覚の流罪については、中央の史家の間でも明確ではなく、なお流動的な点はあるが、近年の研究では、佐渡流罪はほぼ確定的に認められるようになった。『廣辞苑』は、「一一九九年佐渡に流され、一二〇五年また対馬に流された。」としてある。しかしどの書をみても、それが佐渡のどこであるのかについては、上記の伝承にょる資料のほかには何も見当らない。文覚を知る資料としては、『平家物語』・『吾妻鏡』などの武家記録があるが、これらは物語りであり軍記なので扮飾が多く、史実とは異なる部分の多い点が指摘されている。(相原精次『文覚上人一代記』)例えば、よく知られている袈裟御前との悲恋と殺害の話でさえも実話ではなく、中国の「東帰婦女」の焼き直しであるという点などである。そして文覚の激しい性格と旺盛な行動力のために、文学作品や劇の対象になり易く、それが虚像を作り上げるのに一層その傾向を強めたようである。
文覚の最初の配流の地は伊豆であった。そこで源頼朝との出会いがあり、平家追討の企てがなされた。また僧とし
ても京都の東寺や神護寺復興に活躍したことも事実とされる。こうして日本歴史に大きな影響力を与えた人物であることには異論がない。佐渡に流された動機について『大日本史』は、文覚が頼朝を唆して、遊び好きで政ごとを怠る後鳥羽天皇を廃して、皇兄守貞親王を立てようとしたが、頼朝がこれに応じないまま薨じたため、事が洩れたことによるとしている。またそれとは別の動機を伝える書もあるが、いずれにしても文覚の流罪は、鎌倉幕府からのものではなく、朝廷からの命令であった点で、のちの日蓮の場合などとは事情が異なっていた。
文覚の佐渡流罪が確かであり、佐渡でほ大久保の他には配所が聞かれないというのであればこれが事実に近いものなのであろう。大久保には、文覚の弟子たちによって建てられたと伝えられる真禅寺があり、その真禅寺の奥の院があるナべクラの滝を修業の場とし、滝の脇には文寛が刻んだという稚拙な不動明王の石像が祀られてある。さらにその滝の下方には、文覚の墓あるいは弟子たちの墓という右横みが数基ならんでいる。
文覚が佐渡に流されたのは、七十九才の高令に達してからのことである。在島中にほまだ真禅寺は存在しなかったので、その期間には慶宮寺が預かったのではないかとする見方がある。(『畑野町史・信仰篇』)たしかに慶官寺の山号・神護山には、文覚が再興した京都高雄山神護寺を思わせるものがある。ナべクラの滝の東側にそびえる京中という山の呼び方は境中からの転化らしいが、京の文字を当てたのは、この地とは異質で、京から釆た者の在所であるかのような印象を与えている。ただし文政五年の村絵図では、京中(なか)の地名は山の西側から文覚墓のある沢にかけての斜面の呼称で、山の名ではない。その他にも遺跡としては経塚・行水池・腰掛石があり、文覚作を伝える和歌もある。佐渡関係の古書のうち、江戸中期に書かれた『佐渡名勝志』や『佐渡舌実略記』には文覚のことを伝えておらず、江戸後期の『佐渡志』につぎのように書いてある。
文覚上人墓
雑太郡大久保村真禅寺後の山にある正治元年高雄の文覚上人流されて此国に来り(大日本史に百錬抄皇帝紀抄を引て文覚佐渡配流とあり平家物語に隠岐に流されて死すとあるはあやまりなるべし)守護人に語りけるは我齢既に傾きぬ今幾程か此世にあるへきなからむ跡を人間に読されむことこそ安からね同しくは世離れたる山の奥に居らはやとて遂に邪辺久羅といへる深山に入り庵を結ひてやかてここにて身まかりぬ都より従ひたる弟子の僧相謀りて庵の跡に寺を作り真禅寺と名つくといへり
文覚終焉の地についてほ諸説がある。佐渡以外では、隠岐・対馬・鎮西などである。前記した廣辞苑にょると、七
十九才で佐渡に流され、五年間在島して八十五才になって対馬に三度目の流罪となったことになるが、さらに他の資料ではその後に鎮西に流されたとあり、信じられぬほど転々としたことが誤りであるとも言い切れない。
文覚は俗名を遠藤盛遠といった。生れたのは父の盛光が六十才・母も四十三才になっていた。出産と同時に母は死に、やがて父をも三才のときに失なった。そのため親戚の青(春)木道善に育てられ、同族の滝口遠光が烏帽子親となって、その滝口の取りなしで、上西門院(鳥羽天皇第二皇子統子の居所)の北面の武士(警備兵)となった。俗説ではここで袈裟御前との一件があって、同女を殺害したことが動機で出家したことになっている。そして熊野に入山し、那智の滝で一千日の荒行ののち、京都で神護寺復興に奔走し、そのことで犯した、後白河法皇への無礼の振舞に対し咎を受け、伊豆に流された。しかし源平の戦いで勝利した頼朝支持によって、文覚も一時は権勢を振った時代があった。
文永八年(一二七一)に佐渡に流された日蓮に帰依し、日蓮に奉仕した僧日得・俗名遠藤為盛は、この盛遠の子孫であるという。文覚在島から約七十年余り後のことであるから、もし血縁者であるとすれば孫もしくほ曾孫ぐらいになるのであろう。しかしそれはかなり伝説的で、史家たちはそれを認めていない。その他文覚に関する記録や考証
は、町史・信仰篇に「真禅寺と文覚」の項を設けて詳述してある。
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