2014-03-30
北海道苫前関係者up
苫前に移住して成功を収めた人達
長島家、斉数家、志和家、名畑家等。
長島家、斉数家、志和家、名畑家等。
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2014-03-29
三浦綾子関係up
「苫前の佐渡衆」について多くの関係情報しました。
2014-03-20
『佐渡名艦』up
『佐渡名艦』(高屋次郎 昭和13年)のupをスタートしました。
2014-03-13
「佐渡人名辞書」up
下記全頁をupしました。
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
2014-03-08
「佐渡人名辞書」up中
大正初期発売したもので、真野の医師本間周敬による労作である。
2014-03-01
★渡辺?
関東畑野会二代会長。
東京銀座4丁目で学術用具関係の店を経営。
★渡邊靄山(あいざん)
「島の新聞」31号(by 松本秀雄)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡新穂村瓜生屋の人で名は真という。本間凌山に学んで四条派の画をよくした。明治三十二年十一月になくなった。(佐渡人名辞書)
★渡部秋治
金井出身、佐渡中学6回生、カリフォルニア大卒。南加州サンディエゴ日本人会の中心人物。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p381
→鈴木卓苗 「佐渡高等学校百年史」
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
★渡辺晃
『両津市要覧(昭和33年)』より

★渡辺朝子(あさこ)
両津湊「金澤屋旅館」主。昭和20年(早)生まれ。
★渡邊東
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺有恒

旅館番頭の佐渡観光情報ブログ
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「8号」(平成19年1月)画(渡辺有恒)
★渡辺磯治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺一以
新穂潟上の人、新潟日報「島の文芸」の常連(短歌等)として長く活躍した。令和元年6月没、82歳。
★渡辺市太郎
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)



『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。両津市豊岡の人で慶応三年(一八六七年)三月二十四日に生まれた。明治三十年八月七日、佐渡に水害が起り、死者五十人、負傷者三十六人、こわれた家九百三十七棟、流失田畑四百六十九ヘクタールに及んだ。市太郎は母マツ(天保十四年七月十日生、五十四才)が葛倉川に流されたのを見て荷縄をもって濁流にとびこみ、遂に水死し、母は奇跡的に助かった。本荘了寛はこの話を聞き、市太郎が振りしめていた荷縄と編笠とをもらい受け、明治記念館に保存した。また島内小学生から一人五厘の寄附を集め「孝子渡辺市太郎之碑」を葛倉川の遭難地に建てた。文字は水害慰問使、侍従片岡利和男爵が書き、文は司法大臣秘書官片桐正気が書き、明治三十七年に完成した。(佐渡の百年)
★渡辺市兵衛
潟上 湖鏡庵

★渡辺一朗
新穂村

★渡邊宇吉
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

★渡邊宇吉
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺暎
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村畑野、内科産婦人科医師 ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★渡辺栄一
大正2年10月1日、両津浜田に生まれる。屋号はマルエ(現在は「佐渡木材」)。彫刻家の渡辺有恒は実弟である。
昭和6年3月、佐渡中学校卒業
昭和11年3月、東京高等師範学校文科第三部卒業
昭和11年4月、北海道庁立小樽中学校教翰
昭和19年7月、陸軍教授 熊本幼年学校数官
昭和21年8月、函館市立中学校教諭
昭和22年8月、新潟第一師範学校教官
昭和23年8月、新潟第一師範学校教授
昭和25年4月、新潟大学教育学部附属新潟中学校教諭(教頭)
昭和29年4月、新潟大学教育学部非常勤講師(昭和43年3月まで)
昭和31年9月、新潟県教育委員会指導主事
昭和41年4月、新潟市教育委員会学校教育課長
昭和43年4月、新潟県教育委員会指導課長
昭和45年4月、新潟県教育委員会教育次長
昭和47年4月、新潟県立新潟中央高等学校校長
昭和49年4月、学校法人新潟技術学園北都工業短期大学助教授
新潟医療技術専門学校教授兼副校長
昭和52年4月、新潟薬科大学助教授
昭和56年4月、新潟薬科大学教授
昭和59年3月、新潟薬科大学名誉教授
昭和59年4月、新潟薬科大学非常勤講師(昭和63年3月まで)
昭和59年11月3日、勲四等瑞宝章を授けられる
昭和63年9月29日、新潟市にて死去(74才)没後正六位に叙せられる
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p422
★渡辺栄作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡部栄蔵

北海道市千歳市の「山三ふじや」創業者。村議時代に町長と共に千歳空港設立に尽力する。千歳町興しの中心となった人物。
1886年11月10日 新潟県佐渡郡真野村大字吉岡で生まれる
1905年11月 3日 北海道千歳に移住。商業に従事。山三ふじや創業日
1913年 現住所(本町3丁目)に店舗を新築。山三ふじや渡部商店を開店
1914年 山三ふじや木材業を兼業
1920年2月 真々地に水力による製材工場を新設。その後、タービン水車にて電力を動力とした
1926年8月 北海道鉄道(株)開通に伴い千歳駅公認運送取扱人、渡部運送店を開業。
1943年 製材工場を千歳駅前(栄町6丁目)に新築移転
1944年 旧製材工場跡に千歳航空機(株)を設立。主に、飛行機用計器を生産。
1945年11月 山三ふじや、札幌丸井今井百貨店と提携し米兵向け商品(陶器、漆器、骨董品など)を販売
1946年 山三ふじや本店を改造。従来の畳敷部分を全てコンクリート床にし、ウインドー陳列
1947年3月 米穀部を新設
1949年 渡部榮藏、千歳商工会会頭に就任、1月:山三ふじや卸部(酒類、食品類等)新設。日本麦酒(サッポロビール)特約店、8月:山三ふじや売炭部(千代田町6丁目)新設。北海道炭礦汽船、三井砿山特約店
1950年1月 千歳交通(株)設立。初代社長、新保鉄太郎、8月 警察予備隊創設に伴い指名により営内に売店(PX店)を開店、12月 渡部木材(株)設立。初代社長、渡部榮藏
1951年5月 千歳交通(株)恵庭営業所(支店)開設
1952年4月 保安隊第一特科群(北千歳駐屯地)内に売店(PX店)を開店
1953年 千歳交通(株)苫小牧支店開設
1954年 千歳交通(株)支笏湖営業所・島松支店開設、8月 自衛隊東千歳駐屯地(第七師団)内に第一売店、第三売店を出店
1955年9月 千歳米軍キャンプ内(将校クラブ)にスーベニヤ店を特設
1956年4月 航空自衛隊第二航空団新設。営内にBX店を出店。9月 石油部を開設(錦町2丁目)出光興産の特約店としてガソリンスタンドを経営。10月 売灰部を幸町3丁目に移転
1957年 千歳交通(株)勇払営業所新設、1月 株式会社山三ふじや渡部商店を設立。代表取締役社長 渡部祐一郎。資本金250万円、3月 山三渡部商事(株)を設立。代表取締役社長 渡部祐一郎。資本金250万円
1959年 千歳交通(株)札幌支店(豊平区美園)開設、9月 渡部商事(株)苫小牧営業所開設
1960年7月 日本航空(株)千歳ターミナル改築。山三ふじや空港店も移転
1963年4月 北海道空港(株)空港ターミナルを建設。山三ふじや空港店も移転(千歳市平和)
1965年12月 千歳バス(株)設立
1966年7月 千歳交通(株)札幌支店を新築移転(白石区南郷通)、9月 山三ふじや別館(書籍・文具等)を開設(本町1丁目)
➡以下 諸情報
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「瀧澤順久現社長談」
「佐渡へ佐渡へと、草木もなびく、佐渡は四十九里、海の上」
私の故郷は、この佐渡おけさの本場の佐渡です。そこから、明治38年11月3日の天長節に、この千歳にやって来ました。疲れた足を引きずるように、ようやく峠の頂上に立ち、千歳村を見たとき、なぜか急に悲しくなり、その場に崩れるように腰を下ろしてしまいました。
なぜなら、峠の下にある千歳村を見たとき、あまりの寒村に驚き、あたかも心の 支えをなくしたような絶望感にさいなまれました。この話は、創業者であります「渡部榮蔵」翁が19歳の若さで商いの決意を固め、はじめて千歳の地に入ったときのことです。以来、いまの千歳市本町に山三の屋号を掲げて雑貨屋を始めたのが、山三ふじやグループの始まりであります。それから100年の間、幾多の苦難を乗り越えて、千歳の歴史と共に歩んで参りました。 大正15年、千歳着陸場の建設に際しては、村民の皆さんに呼びかけ、村民大会を開き、無償の奉仕 活動のもと、一本の着陸場を作り上げ、北海一号機を迎えました。これが現在の新千歳空港の 母体となり、千歳の発展の大きな転機になりました。 その時の喜びと感動は、”事に当たって一致協力する=「スピリット・オブ・チ トセ」”として、山三ふじやの象徴精神となり、今日に受け継がれております。千歳の発展と共に、山三ふじやもまた、その時代時代のニーズに合わせ、生業か ら家業へ、家業から 企業へと、地域に育まれながら多方面にわたり事業を広げ、 現在、8企業からなる山三ふじやグループを構成するに至りました。平成17年創業百年を迎えることができ、これを新たな「創業元年」と位置づけ、先人の残した 尊い精神を受け継ぎ、前掛け姿の商人として、社員一同が心を一つにして、次の100年に向けて、その第一歩を強く踏み出し、社業に邁進いたします。
諸情報
★渡辺栄太郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二年生 二宮村下長木、農業 ・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、県会議員の補欠選挙[三十八年六月二十七日]・明4、進歩党の集会[四十一年四月二十日]
★渡辺恵美

東京両津の会7代会長。東京両津の会「甚句の会」を結成し、夷祭りの「甚句の舞」に参加するなど幅広く活動する。東京新潟県人会常務理事。池坊華道教授。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「1号」(平成17年4月)一万人の佐渡民謡パレードへの夢(渡辺恵美)
★渡辺えり子(えり)

有名な女優、夫が新穂大野出身の俳優土屋良太。
→土屋良太参照
「ウイキペディア」より
★渡辺奥人
『両津市要覧(昭和33年)』より

★渡辺治
新穂潟上の人。令和5年3月個展@新穂民俗資料館。佐渡を代表する養鶏農家であったが、農業を辞して後、趣味の写真撮影で国内外を撮影旅行。

★渡辺嘉市
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★渡部角一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺角次
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


★渡部嘉作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭4、縣会補欠選挙[十二年六月十五日]
★渡辺一枝
「島の新聞」15号


「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺一雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・5 第7回県学童水上競技大会(県水上競技連盟・県小学校体育連盟)新潟中プール
(金泉小尋)高200自①2.46.1新
昭和12年度県学童大会最高記録(県小学校体育連盟・県水上競技連盟)
200自 2.46.1(金泉)昭12.8.5、200リレー2・41・6 (金泉)山本・中村・渡辺・石見 昭12・8・4
(昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)200自2.40.0 渡辺一雄(金泉)昭12
★渡辺和弘
平成28年

「サイエンスプロジェクト」(令和4年7月31日 「ひとの話」)(本間芳則・本間希樹・渡辺和弘 司会:小橋敞徳)
his blog
「佐渡人名録」
「佐渡の民謡」
「青春彷徨のうた」
両津夷に昭和22年生。両津小-両津南中(3回生)-両津高校(17回生)-同志社大商学部(史跡同好会7代目会長)。
両津高校12代同窓会長(石楠会 昭和55年~昭和56年)、両津小PTA会長、両津ミニバス監督(20年間)、両津英語クラブ代表(10年)、両津市社会教育委員、公平委員、新潟県青少年育成委員、佐渡市地域審議委員等を歴任する。
趣味は民謡(新穂「こがね会」・畑野「本間社中」在籍)、社交ダンス(両津ダンスクラブ主宰)、文芸(短歌・俳句・川柳)。平成28年度新潟日報「読者文芸」で歌壇賞受賞。著書に「佐渡の民謡-唄と人と歴史-」(平成23年刊)
2011年4月(佐々木さん85歳)インタビュー
「砂金音頭の思い出話」by 佐々木フミ子・渡辺和弘
youtube「佐渡民謡聞きかじり」(新穂「島の新聞」事務室)
youtube「佐渡四方山話(現代につながる佐渡の人脈)」(2018年8月3日 青山学院アイビーホール)
youtube「オリンピックと佐渡人」(2019年11月10日 アミューズメント佐渡)
youtube 「小木を歩く」(2020年1月21日 小木商工会館)
youtube「古写真が語る新穂」(2020年6月13日 新穂行政センター )
youtube 「佐渡の民謡(金井小3年生用)」(2020年8月27日 金井小学校)
youtube 「畑野あれこれ」(2021年3月23日 畑野行政センター)
youtube まちなみ講演会「小木の文化再発見」(2021年3月29日 小木「あゆす会館」)
金沢屋さんを訪問(令和3年4月19日)
youtube 「新穂あれこれ」(2021年6月1日 佐渡農協新穂支所)
新穂ふるさと講座(「古写真が語る新穂2」)令和3年6月12日
youtube 「まるも味噌」訪問(令和3年7月24日)
youtube慶宮寺八祖堂を訪ねる(令和3年7月27日)
youtube「小木四方山話-芸妓の文化他-」(031125 小木あゆす会館)
youtube「佐渡民謡の集い」前編(「ダン渡辺の「佐渡民謡四方山話」」他 031128 新潟県人会館)
youtube 金井千種を歩く(令和4年3月11日)
※私も後半に少々語っています。
youtube ダン渡辺の「佐渡見聞録」(相川郷土博物館)令和4年5月30日
youtube ふるさと講座(「葛西敬之と有田八郎」)040611
「佐渡雑楽」(「島の新聞」より)
youtube 本間社中40周年記念公演(令和4年」6月19日)於:アミューズメント佐渡
同じ内容ですが、映像が鮮明
「本間社中40周年公演」(令和4年6月19日)
※「越中おはら節」については保存会から早速著作権侵害のクレームが付きましたので、残念ながらそこだけカットしました。
youtube 加茂湖周遊(令和4年7月3日)
「サイエンスプロジェクト」(040730/31)
youtube「両津七夕の歌」(令和4年9月作成)
夕虹会「初秋の徳和周辺を歩く」令和4年9月11日
夕虹会「平泉寺から鰐清水経由で磬台山(けいらいさん)まで」令和4年10月8日 (畑野丸山から~赤泊山田へ)
「佐渡の旧家と人脈-有田八郎と葛西敬之他-」(令和4年12月3日:首都圏佐渡連合会文化講演会)
真野新町山本家訪問(令和4年7月14日)
令和5年2月末
山本修巳先生逝去の佐渡テレビ特別報道
佐渡遍路バスツアー南佐渡編(夕虹会)令和5年3月11日
「佐渡から世界へ飛び立った人々」(令和5年4月18日)
ダン渡辺さんと佐渡の旧家を巡る「川上喚濤、近藤福雄、茅原鐵蔵」(令和5年4月20日)
「私の高校時代 思い出の先生たち」(令和5年6月5日)※デイケアセンター「しゃくなげ」)
小木を愛した文人達(050617 @華屋 小木 hellobooks)
男はつらいよのロケ現場(小木)にタイムスリップ(令和5年6月17日)
令和5年8月2日 「羽茂の生んだ日本的人物・葛西田中家の人々」
令和5年8月13日 佐渡おけさと鬼太鼓~過去から未来への連続性を考えるシンポジューム~
夕虹会(令和5年8月20日)世阿弥の道~羽茂西方地区
※下記にマイ作品をUPしてあります。
「佐渡人名録」
→◆マイ作品
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺和弘
136 作家三浦綾子のルーツ -佐渡金丸と苫前「佐渡衆」- 138 本間泰蔵とその孫一夫-豪商の祖父と点字図書館を創設した孫- 157 「佐渡民謡よもやま話」(一) 渡辺和弘 159 「佐渡民謡よもやま話」(二)渡辺和弘 「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★渡辺勝蔵
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★渡部勝昌
長く畑野町役場に勤務、平成20年~23年、佐渡社会福祉協議会会長。
★渡辺一真

★渡辺勝昌
「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺勝巳
昭和21年(1946)、河原田生、昭和40年佐渡高校卒。1974年、宇宙開発事業団(現JAXA)に入社以釆、一貫して広報・普及業務に携わる。2005年から宇宙教育推進室長として、青少年教育の場での、宇宙開発の普及に力を注いだ。現在、一般財団法人日本宇宙フォーラム広報調査事業部主任調査員。著作本に、講談社ブルーパックス「完全図解 宇宙手帳」などがある。
(上記は平成25年当時の略歴)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「64号」(令和3年1月)・宇宙へのいざない 佐賀県立宇宙科学館 渡辺勝巳館長に聞く
★渡辺佳奈子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「38号」(平成26年7月)それぞれの鬼太鼓奮闘記-地域おこし協力隊(岩首)新田聡子・〃(新穂)小川佳奈子-
★渡部亀蔵
「奇人・亀先生」(「佐渡の百年」)
★渡部加代子
「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺寛(かん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡相川の人で通称覚左衛門という。和歌をよくした。
閑居花 現存歌選
さくら花散なは何を友とせん、人にしられぬ木かくれのいほ
ほ寛の歌である。(佐渡人名辞書)
★渡辺寛一
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。
稔り穂の伏してふさげる畦道を いたわりつヽも打ちまたぎゆく
★渡辺勘作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★渡邊喜一
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渡辺岸蔵
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)

★渡部義純
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡部義純 24 真光寺本住「快安」考
★渡辺義浄
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渡邊喜太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渡邊喜八郎
「二年の島の勤務を今日終へて引継ぐ官舎ねもごろに拭く」
(短歌集 「月間にいがた」昭和23・12月号~平成7・1月号「砂丘」昭和23・12月号~平成7・1月号)
昭和21年頃より作歌をはじめ、新潟日報歌壇、月刊にいがた等に投稿して吉野秀雄の選を受けた。昭和27年に「砂丘」が創刊され吉野秀雄が選者となったので、入会し引きつづき選を受け、その没後は自選歌を発表した。判事というといかめしい人物に思われるが、穏やかな叙景歌からきびしいだけではない人物が偲ばれる。歌は人なりである。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★渡部喜平
赤泊村役場助役。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★渡部喜平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木 ・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]
★渡辺儀兵衛
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
相川銀山開発者。慶長六年(一六〇一年)七月、鶴子銀山の山仕、儀兵衛は渡辺弥次右衛門、三浦次兵衛と共に相川に銀鉱脈を発見しこれを開発した。儀兵衛の開発した間歩を道遊といい、次兵衛は六拾枚、弥次右衝門は割間歩を開発した。(佐渡年代記上巻)
★渡辺響子
佐渡高校時代の平成6.8、全国高校総合文化祭(愛媛県)書道部門、県代表として出品
★渡辺清
佐渡高校時代の昭和38.2.16、全国児童生徒デザイン展入選
★渡辺漁村(わたなべぎょそん)

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八五四ー一九一四 安政元年十二月八日生れ。圓山溟北門下の高弟で、一五歳のとき明治維新に遭遇し、参謀民政方として来島した奥平謙輔の「給仕」として仕えた。『佐渡幕末奇事』の著作で知られていて、謙輔の行状、功蹟を回顧した書物では詳細をきわめている。名は耿(正しくは”耿”冠に”衣”)。字は美中。父は奉行所の地役人で蘆舟(号)といい、祖父は友水。先祖は甲州武田家の家臣である。修教館に学んで、明治三年(一八七○)一七歳のとき同館の読師に登用された。同九年に修教館が廃止されたあと新潟に出て、新発田税務署長などを最後に官吏を退職し、明治三十三年ごろ当時の勝間田新潟県知事の推挙で、旧制新潟中学に漢文の先生として勤務した。李白・杜甫の詩を誦するかと思えば英会話を始めるというユニークな授業で、いつも和服姿で赤ら顔、白髪の伊藤博文に似ていたという。漢詩に秀でていて、勝間田知事はじめ坂口五峰らとも親交があり、佐渡では小崎藍川・大久保湘南らが、その教えを受けたとされる。祖父友水は、心働流の剣と田村流砲術の免許をうけた豪傑として知られ、父の廬水は無念流の剣士だったという。大正三年八月に六一歳で没した。漁村の墓は、新潟市四ツ谷町の共同墓地に、渡辺家代々の墓は、相川下山之神町の総源寺に残っている。【関連】「佐渡幕末奇事」(さどばくまつきじ) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡幕末奇事(さどばくまつきじ)
相川の地役人、漁村こと渡邊 (しゅう)があらわした著書。明治十八年に完結したことが「自序」からうかがえる。明治元年(一八六八)十一月に、参謀民政方として佐渡受領に来島した奥平謙輔が、翌明治二年九月に離島するまでの、施政および個人的な性格、行状の一部始終をつぶさに記述していて、昭和十八年一月発行の『佐嶋遺事』にも収録されている。一五歳で維新に遭遇した漁村は、治府が河原田に移ったため、そこの屯所(現在の県立佐渡高校のある高台)で謙輔のそば近くに仕え、相川から移った旧修教館生一○人の一人に加わって勉学に励んでいた。この書で謙輔という人の表情を「面色銅の如く」と記し、髪には梳(くし)を入れず、常に一衣一袴あるのみと書いていて、ときおり近郊を馬で馳せまわり、民情を視察する、その姿は「一見一兵士の如し」とも述べている。謙輔二八歳のときである。謙輔はある夜、局長井上某の邸宅に大刀を持って突然侵入し、家人を驚かせる。目をさました井上の枕元に、菊の紋章の提灯を持った謙輔が立っている。官吏は清廉でなければならず、賄賂をむさぼる者あらば三尺の剣あるのみ、と言ったとあるから、高級役人の私生活や挙動の偵察だったらしい。謙輔は意をよく民事に用い、政務は簡潔にして一切の訴願は文書によらず、自ら出廷して面告で済ませたから「民大いにこれを便とす」と、漁村は回想している。
【関連】奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・渡辺漁村(わたなべぎょそん) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で名は●(「耿」冠に「衣」)。字は美中、漁村と号した。円山溟北の高弟である。佐渡奉行の学問所であった相川の修教館の句読師をしていたが二十五才の時、新潟県に仕え、また収税属となり小千谷、新発田等に歴任、晩年新潟中学校の嘱託となり漢文を教授すること十五、六年に及んだ。詩作にすぐれていた。大正三年に六十一才でなくなった。(北越詩話)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八五四-一九一四)(出生、生育)漢詩人。詩文を大久保湘南、小崎藍川などに教える。名はしゅう(上部に耳・火、下部に衣)。字は美中。修教館に学び、明治三年、十七歳で、同館の読師になる。同九年、修教館を引き継いだ相川県仮中学校が廃されると、新潟で官吏になり、新発田税務署長を務める。三十三年ころ、旧制新潟中学の漢文の教師になる。授業の中に英語が出てきたのは、相川県仮中学校の中にあった相川洋学校で学んだことによるものであろう。
「ウィキペディアより」
生誕 安政元年12月8日(1855年1月25日)
佐渡国雑太郡相川板町
死没 1914年(大正3年)8月14日
新潟県新潟市学校町通二番町[1]
墓地 新潟市日和山共同墓地
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
別名 褧(諱)、美中(字)[2]
出身校 佐渡奉行所修教館
職業 相川県佐渡中学教授、新潟県新津収税署長、新発田税務署長、新潟中学校嘱託教員兼舎監事務取扱
代表作 「佐渡日詩」「佐渡幕末奇事」
影響を受けたもの 円山溟北、奥平謙輔
配偶者 渡部クニ、江原キエ
子供 渡辺轍、笠原軔
親 渡辺蘆舟
親戚 渡辺友水(祖父)
渡辺 漁村(わたなべ ぎょそん)は明治時代の新潟県の教育者、漢詩人。佐渡奉行所修教館句読師、相川県佐渡中学教授、新潟県税務官、新潟中学校教員兼舎監。
(生涯)
佐渡時代
安政元年12月8日[3](1855年1月25日)佐渡国相川板町に佐渡金山役人渡辺蘆舟の次男として生まれた[2]。元治元年(1864年)父が死去し、祖父友水に獅子ヶ城跡の官舎で養育された[4]。幼くして佐渡奉行所修教館で円山溟北に学び[2]、井上幹にも書法を学んだ[3]。
明治2年(1869年)参謀兼民政方奥平謙輔に書生として仕えた[4]。1871年(明治4年)修教館句読師[2]、1874年(明治7年)4月相川県佐渡中学漢学部教授となり、1876年(明治9年)4月相川県廃止により解職された[3]。
(新潟県出仕)
1880年(明治13年)5月新潟県に勤め[5]、1883年(明治16年)1月十七等出仕となった[3]。1885年(明治18年)10月収税属に転じ[3]、1889年(明治22年)小千谷出張所長、1890年(明治23年)新発田間税分署長、1893年(明治26年)新津収税署長、1896年(明治29年)与板税務署長、1897年(明治30年)新発田税務署長を歴任した[5]。
(新潟中学校)
1900年(明治33年)5月前新潟県知事勝間田稔の推挙で[3]新潟県立新潟中学校嘱託教員兼舎監事務取扱となった[6]。白山浦一丁目や下旭町に住み[7]、後に学校町通二番町の岡本小路入口から西20m南側の2階建家屋に移った[8]。
1902年(明治35年)6月佐渡への修学旅行を引率し、妙法寺の師溟北墓碑、清水寺、根本寺、長谷観音、妙宣寺、檀風城趾、国分寺、真野御陵、獅子ヶ城趾、相川鉱山、総源寺の祖先の墓、金北山等を巡り、「佐渡日詩」を著した[9][4][10]。
1911年(明治44年)夏、先祖の故地川中島古戦場を訪ねつつ、東京小石川区原町の長男轍と本郷区菊坂町の次男軔を訪れ、上方を経由して帰郷した[11]。
1914年(大正3年)1月9日体調不良のため舎監を退職し、右眼の緑内障や内蔵疾患により新潟医学専門学校附属病院に入院した[12]。半月で退院後も体調は快復せず、8月14日早朝、妻キエ、2人の子、兄嫁キクに看取られながら死去し、日和山共同墓地に葬られた[12]。
(逸話)
新潟に移った当初は貧乏だった。引越のため妻と荷車で運搬中小崎藍川に遭遇し、「まだ孟郊ほどは貧乏でない。」と言い張りながら運搬の手伝いを頼んだが、藍川は辟易して逃げ去ったという[2]。
ある夏の夜、大酔いして帰宅し、妻に酒を求めるも、夜が更けていたため断られた。怒って離縁状を突き付けると、妻は嫁入り道具だとして蚊帳を外し始めた。漁村は狼狽し、「女が夜出歩くな。明日の朝まで待て。」と引き止めたという[3]。
魁偉な外見と大きな声から「鬼渡辺」と呼ばれ[11]、大きな頭部は「紙屑ボテ」と綽名された[7]。新潟中学では、先に在籍していた次男軔の「つぁま」(中越方言で「父」の意[13])として「ジンツァマ」と呼ばれた[8]。
ある夜、「あめゆ」の赤行灯を出している店で飴湯を飲んでいるところを生徒に見られ、翌日から「あめゆ、あめゆ」と囃されるようになった。同年の卒業謝恩会で「今日から酒・煙草を飲んでもいいのだぞ。」と呼びかけると、「先生!飴湯はどうです?」と冷やかされ、「も……ももちろん!」と返したという[8]。
結婚式の時、座敷に出るのを恥ずかしがり、屋根の上に隠れてしまった。親族・媒酌人等が捜索するも見つからず、自分からも戻りづらくなったため、屋根の上から頼山陽「天草洋に泊す」を吟じ、ようやく発見されたという[8]。
漢文だけでなく英語にも通じ、ベンジャミン・フランクリンから原語で「空嚢(くうのう - 空の袋のこと)は直立し難し」と引用したこともあった[14]。
(作品)
「新潟中学校雑詠十律」 - 1900年(明治33年)『遊方会雑誌』第8号所載[9]。『新潟新聞』にも寄稿した[15]。
「佐渡日詩」 - 1902年(明治35年)6月佐渡に修学旅行した時の紀行。『遊方会雑誌』第11号所載[9][4][10]。
「村杉坐湯中雑咏」 - 同僚と村杉温泉に旅行した時のもの[14]。1910年(明治43年)3月『遊方会雑誌』第24号所載[16]。
「佐渡幕末奇事」 - 『佐島遺事』所収[17]。
(家族)
父母
祖父:渡辺友水 - 佐渡奉行所地役人。
父:渡辺蘆舟(文化11年(1828年)5月3日 - 安政元年(1854年)10月24日)
通称は舎人、名は鎮、別号は自来舎佳友。鷲尾甚助に無念流剣術、安田花狂に俳諧を学んだ。天保9年(1838年)一揆鎮圧のため島内を巡察し、『俳諧風車』を編んだ。最終職階は山方役助[18]。
母:高野氏[19]
兄:渡辺碇浦 - 名は潜。明治16年(1883年)没[19]。
長姉 - 本間家に嫁いだ[19]。
次姉 - 佐渡長谷川家に嫁いだ[9]。
妻子
先妻:渡部クニ - 明治5年(1872年)6月結婚。1887年(明治20年)8月29日29歳で没[5]。
長男:渡辺轍(1882年(明治15年)2月21日[5] - 1941年(昭和16年)4月[20])
新潟県立新潟中学校、第四高等学校[5]、東京帝国大学史学科を経て、萩野由之助手となり[20]、兜町渋沢家編纂所で『徳川慶喜公』編纂に参加した[1]。
次男:笠原軔(1885年(明治18年)4月24日 - 1955年(昭和30年)11月4日) - 画家[5]。
後妻:江原[12]キエ[11] - 1888年(明治21年)10月結婚[5]。
脚注
^ a b 小林 1991.
^ a b c d e 坂口 1919, pp. 865-875.
^ a b c d e f g 小林 1982.
^ a b c d 小林 1984a.
^ a b c d e f g 小林 1992b.
^ 『新潟県立新潟中学校第八年報』新潟県立新潟中学校、1902年11月。NDLJP:813321/39
^ a b 小林 1985a.
^ a b c d 小林 1983a.
^ a b c d 小林 1983b.
^ a b 小林 1984b.
^ a b c 小林 1992a.
^ a b c 小林 1993.
^ 「ちゃん【父・爺】」『日本国語大辞典』小学館、2002年、第二版。
^ a b 小林 1989.
^ 小林 1990a.
^ 小林 1990.
^ 萩野由之『佐島遺事』新穂村教育会、1943年。
^ 萩野由之『佐渡人物志』佐渡郡教育会、1927年10月。NDLJP:1188906/121
^ a b c 小林 1985a, p. 33.
^ a b 小林 1985b.
参考文献
坂口仁一郎『北越詩話』巻10、坂口仁一郎、1919年3月。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(一)」『青山同窓会会報』第35号、青山同窓会、1982年7月20日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(二)」『青山同窓会会報』第36号、青山同窓会、1983年1月21日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(三)」『青山同窓会会報』第37号、青山同窓会、1983年7月14日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(四)」『青山同窓会会報』第38号、青山同窓会、1984年1月13日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(五)」『青山同窓会会報』第39号、青山同窓会、1984年7月18日。
小林智明「笠原軔の父 渡辺漁村のこと」『佐渡郷土文化』第45号、佐渡郷土文化の会、1985年1月。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(七)」『青山同窓会会報』第41号、青山同窓会、1985年7月18日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(十五)」『青山同窓会会報』第49号、青山同窓会、1989年7月20日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(十六)」『青山同窓会会報』第50号、青山同窓会、1990年1月23日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(十九)」『青山同窓会会報』第53号、青山同窓会、1991年7月18日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(二十一)」『青山同窓会会報』第55号、青山同窓会、1992年7月20日。
小林智明「屠龍山人笠原軔略年譜」『屠龍山人笠原軔画集』屠龍山人笠原軔顕彰会、1992年10月。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(二十二)」『青山同窓会会報』第56号、青山同窓会、1993年1月20日。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺漁村 45 笠原軔(じん)の父 渡辺漁村のこと
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数25
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★渡辺欽斎
「明治の敬老会」(「佐渡の百年」)
★渡辺金左工門→渡辺湖畔
★渡辺金助
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、野沢代議士の報告演説会[六年六月七日]
★渡辺九十郎
三瀬川に渡辺九左衛門家がある。家は絶えたが、そこの娘さんは佐渡病院の薬剤師である野口まゆみさん(60過ぎ位)。場所は三瀬川の松歳(まつざい)地区。
★渡辺国蔵・数馬
左:「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

陶芸家、長男は八戸の陶芸家、佐渡の陶芸家である渡辺陶三、陶生(すえなり)は次男、三男である。
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



★渡辺国蔵
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺蔵之助
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
上酒屋こと渡辺氏の墓碑によると、その祖先は元和元年(一六一五)大阪落城のみぎり、豊臣の家臣渡辺蔵之助が主命をおぴて越後へ逃れ、慶安二年(一六四九)佐渡へ渡海して、北方村城ノ内に蟄居し二代目が享保二年(一七一七)新穂まちへ出て酒造業を始めたと言い伝え、この家から漢方医や有名な俳人が幾代も続いているし、巴江庵という句会所を建てて宗匠をつとめていることも衆知のところである。
★渡辺慶一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺慶一
18 佐渡鉱山水替人足史料 -天保八年八月六日-
44 楽しかった史料蒐集
★渡辺慶次郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治八年生 畑野村栗野江、農 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]
★渡辺螢窓(けいそう)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★渡辺源一
河内の人、明治40年、羽吉の坪井仙吉と共に盛岡種馬所より種馬移入。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂 ・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]
★渡部源右衛門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺健吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★渡辺賢吉
『続佐渡酒誌』(平成14年)

「佐渡名勝史」(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺源左衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久三年 岩首村豊岡、農業 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★渡辺健三郎(竹翠)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の書家は、潟上の稲葉事、牛尾神社宮司土屋一丸(号は賢継)、瓜生産の石塚照(号卓堂)、潟上の後藤与作(壷中庵)、大野の小杉猪吉(号は悟東)等があり現存では潟上の佐山大業を師に土屋甚平(号桂石)、本多正吉(号彰雲)、渡辺健三郎(号竹翠)、河原治一(号思秋)、本間忠雄(号越堂)、雑賀栄助(号雨石)等があり、子弟を集めて教えているものもある。
★渡辺源三郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺健資
「島の新聞」索引(人名別)
★渡邊源次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺賢丈
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある)この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
★渡邊源助
県立佐渡女子高等学校6代目校長(昭和2.4.30~5.6.30)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★渡辺源助
→「若林源助」の間違い
★渡邉元琢(渡部元琢)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡畑野町寺田の人で医家である。鈴木南嶺に学んで四条派の画にすぐれ、また俳諧、詩歌も巧みであった。号を鶴夢好風といぅ。天保十年(一九三九年)三月に五十才でなくなった。(佐渡人名辞書)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
寺田村で代々医業を営み、漢籍の教授をしていた。目黒町村の長島善右衛門家の娘きしは、元琢に句読の手ほどきを受けてのち、江戸に出て日尾荊山・梁川星厳にそれぞれ経史・漢詩を学び、青雀と号し漢詩人として大成した。
★渡辺源次
「躍進日本」

★渡辺顕道
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渡邉弘顕
「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺庚二

畑野出身、昭和5年生。昭和19年陸軍飛行兵学校入学。昭和23年佐渡農高入学。
日大の通信講義を受ける。青年団運動の後、町会議員、県会議員、畑野町長を歴任。

「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺晃三

佐渡高校時代の昭和53.6.3~5、バドミン トン県高校結合体育大会(新潟市) 前田・渡辺組男子ダブルスベスト8 54.1.21 バドミン トン、県高校選抜大会(新潟市) 男子シングルス1位(北信越大会出場)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「65号」(令和3年4月)・NPO法人「サードフィールドさど」※渡辺晃三
★渡辺五作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★渡辺湖畔(わたなべこはん 金左工門)
「佐渡ふるさと百科」

渡辺湖畔邸跡

畑野教会


長谷寺

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

【生没】一八八六ー一九六○ 歌人・俳人・実業家。本名林平、のち金左衛門。明治十九年七月一日畑野町に生まれ、小学校卒業以後は、羽茂の美濃部禎について国漢を学んだ。家業の呉服商を営む一方、三○歳で佐渡電灯会社の社長に就任する実業家であったが、十代の頃から短歌に親しみ、山田花作主宰の同人誌「わかな舟」や、花作が選者をつとめる「新潟新聞」に寄稿した。また与謝野鉄幹主宰の「明星」にも参加し、作品の発表だけでなく、大正十三年(一九二四)八月と、昭和九年(一九三四)十一月の両度にわたって、与謝野夫妻を佐渡に招くなど、生涯にわたって親密に交際した。外にも詩人・彫刻家の高村光太郎や、画家の石井柏亭らを自宅に逗留させるなど、数多くの歌人・俳人・小説家との交際をもつ、芸術一般の理解者でもあった。さらに昭和十年からは、「彰」と号して「東華」によって漢詩を発表しつづけ、昭和二十年代からは、古半の号で俳句に転じた。著書に、歌集『草の葉』『若き日の祈祷』遺稿集『野思幽夢』『渡辺湖畔遺稿集』がある。昭和三十五年九月十六日没。
【参考文献】渡辺湖畔『草の葉』(天弦堂書店)、渡辺栄太郎『渡辺湖畔遺稿集』、酒井友二「佐渡歌壇史抄」(『佐渡郷土文化』六六号) 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺湖畔
50 与謝野寛より渡辺湖畔への書簡 山本修之助
84 「佐渡学」ノート (6) 渡辺湖畔氏のこと、佐渡・アメリカ親善俳句大会 山本修巳
84 「渡辺湖畔への手紙」から その1 高村光太郎の来島
85 「渡辺湖畔への手紙」から その2 美濃部 楨
86 「渡辺湖畔への手紙」から その3 会津八一の絵葉書
87 「渡辺湖畔への手紙」から 4 佐渡の同人雑誌「海草」と「微光」の頃
88 「渡辺湖畔への手紙」から その5 手紙の谷間
89 「渡辺湖畔への手紙」から その6 『草の葉』の頃
90 「渡辺湖畔への手紙」から その7 湖畔身辺のこと
91 「渡辺湖畔への手紙」から その8 『若き日の祈祷』の頃
92 「渡辺湖畔への手紙」から その9 『明星』の復刊など
93 「渡辺湖畔への手紙」から その10 関東大震災の前後
93 本誌執筆者の自家版紹介 -倉田藤五郎氏・渡辺和一郎・長嶋陽二氏- 山本修巳
94 「渡辺湖畔への手紙」から その11 渡辺湖畔のカトリック改宗 渡辺和一郎
95 「渡辺湖畔への手紙」から その12 与謝野寛、晶子夫妻の来島まで
96 「渡辺湖畔への手紙」から その13 与謝野寛、晶子の佐渡-
97 「渡辺湖畔への手紙」から その14 与謝野寛と湖畔-漢詩と短歌
98 「渡辺湖畔への手紙」から その15 高村光太郎「蝉」の前後
99 「渡辺湖畔への手紙」から 16 『明星』休刊そして会津八一との再会
100 「渡辺湖畔への手紙」から その17 青木月斗の来島と湖畔
101 「渡辺湖畔への手紙」から 18 『覇王樹』と『歌と評論』そして『冬柏』
102 「渡辺湖畔への手紙」から その19 佐渡国分寺の古瓦と会津八一
103 「渡辺湖畔への手紙」から その20 晶子晩年の手紙
104 「渡辺湖畔への手紙」から その21 松井如流との交流
105 「渡辺湖畔への手紙」から その22 晶子晩年と湖畔
106 「渡辺湖畔記念資料館」の開館記録
107 「渡辺湖畔への手紙」から その23 吉田學軒と湖畔
108 「渡辺湖畔への手紙」から その24 土屋竹雨と湖畔の漢詩
109 「渡辺湖畔への手紙」から その25 會津八一、新潟へ帰る
110 「渡辺湖畔への手紙」から その26 前田普羅の来島と渡辺湖畔
111 「渡辺湖畔への手紙」から その27 普羅みたび佐渡へ
112 「渡辺湖畔への手紙」から その28 會津八一と湖畔晩年
113 「山本静古翁日記」と渡辺湖畔
114 「渡辺湖畔への手紙」から その29 戦中戦後の土屋竹雨と湖畔
115 「渡辺湖畔への手紙」から その30 會津八一宛湖畔の手紙
139 「渡辺湖畔記念資料館」の開館記録 (続)
144 悼 渡邉和一郎氏
渡辺湖畔 「佐渡びとへの手紙」(渡辺和一郎)
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★渡邉剛忠→渡邉剛忠(わたなべよしただ)
★渡辺五郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

五郎には静子(昭和11年生)と信子(昭和17年生、村上姓)が居る。後者は両津高校卒で医師。現在は青森市新町で村上新町病院を経営。渡辺家の親戚筋に桂屋旅館(渡辺苗字)がある。
→渡辺信蔵
『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)より
北見角太郎(同窓会長、医博、佐和田町)山本成之助(県相川保健所長、同、真野町)らは大正十二年の卒業名簿にのっている。このクラスには医者が多く出た。本間賢吉(医博、両津市)、榎蓮(内科医、同)や北見は、島内でいまも開業している。後藤衛門(内科医、新穂村)本間為次(外科医、新穂病院長)も、死亡したが同級だった。ほかに伊藤栄一(内科医、医博、埼玉県)堀治部(耳鼻科医、同、東京都新宿区)武井悌(内科医、羽茂町)渡辺五郎(耳鼻科医、両津市)らがいる。たいてい、十一年に四年で修了して進学した人たちである。北見によると「医者だけで十二人出た。佐中の歴史で、あとにも先にも、例がなかった」という。
→◆いろいろ→┣・料亭・遊郭・旅館・劇場
※山田昭夫氏(昭和11年生)の少年時代の記憶では、既に医院はなく、お爺さん(信蔵氏か)と娘さんがよく一緒に町を歩いて居たと。渡辺(昭和22年生)の記憶では、上品な奥さん(五郎氏未亡人か)が小間物屋をやっていた。
関東畑野会二代会長。
東京銀座4丁目で学術用具関係の店を経営。
★渡邊靄山(あいざん)
「島の新聞」31号(by 松本秀雄)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡新穂村瓜生屋の人で名は真という。本間凌山に学んで四条派の画をよくした。明治三十二年十一月になくなった。(佐渡人名辞書)
★渡部秋治
金井出身、佐渡中学6回生、カリフォルニア大卒。南加州サンディエゴ日本人会の中心人物。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p381
→鈴木卓苗 「佐渡高等学校百年史」
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
★渡辺晃
『両津市要覧(昭和33年)』より

★渡辺朝子(あさこ)
両津湊「金澤屋旅館」主。昭和20年(早)生まれ。
★渡邊東
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺有恒







旅館番頭の佐渡観光情報ブログ
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「8号」(平成19年1月)画(渡辺有恒)
★渡辺磯治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺一以
新穂潟上の人、新潟日報「島の文芸」の常連(短歌等)として長く活躍した。令和元年6月没、82歳。
★渡辺市太郎
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)





『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。両津市豊岡の人で慶応三年(一八六七年)三月二十四日に生まれた。明治三十年八月七日、佐渡に水害が起り、死者五十人、負傷者三十六人、こわれた家九百三十七棟、流失田畑四百六十九ヘクタールに及んだ。市太郎は母マツ(天保十四年七月十日生、五十四才)が葛倉川に流されたのを見て荷縄をもって濁流にとびこみ、遂に水死し、母は奇跡的に助かった。本荘了寛はこの話を聞き、市太郎が振りしめていた荷縄と編笠とをもらい受け、明治記念館に保存した。また島内小学生から一人五厘の寄附を集め「孝子渡辺市太郎之碑」を葛倉川の遭難地に建てた。文字は水害慰問使、侍従片岡利和男爵が書き、文は司法大臣秘書官片桐正気が書き、明治三十七年に完成した。(佐渡の百年)
★渡辺市兵衛
潟上 湖鏡庵




★渡辺一朗
新穂村

★渡邊宇吉
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

★渡邊宇吉
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺暎
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村畑野、内科産婦人科医師 ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★渡辺栄一
大正2年10月1日、両津浜田に生まれる。屋号はマルエ(現在は「佐渡木材」)。彫刻家の渡辺有恒は実弟である。
昭和6年3月、佐渡中学校卒業
昭和11年3月、東京高等師範学校文科第三部卒業
昭和11年4月、北海道庁立小樽中学校教翰
昭和19年7月、陸軍教授 熊本幼年学校数官
昭和21年8月、函館市立中学校教諭
昭和22年8月、新潟第一師範学校教官
昭和23年8月、新潟第一師範学校教授
昭和25年4月、新潟大学教育学部附属新潟中学校教諭(教頭)
昭和29年4月、新潟大学教育学部非常勤講師(昭和43年3月まで)
昭和31年9月、新潟県教育委員会指導主事
昭和41年4月、新潟市教育委員会学校教育課長
昭和43年4月、新潟県教育委員会指導課長
昭和45年4月、新潟県教育委員会教育次長
昭和47年4月、新潟県立新潟中央高等学校校長
昭和49年4月、学校法人新潟技術学園北都工業短期大学助教授
新潟医療技術専門学校教授兼副校長
昭和52年4月、新潟薬科大学助教授
昭和56年4月、新潟薬科大学教授
昭和59年3月、新潟薬科大学名誉教授
昭和59年4月、新潟薬科大学非常勤講師(昭和63年3月まで)
昭和59年11月3日、勲四等瑞宝章を授けられる
昭和63年9月29日、新潟市にて死去(74才)没後正六位に叙せられる
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p422
★渡辺栄作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡部栄蔵

北海道市千歳市の「山三ふじや」創業者。村議時代に町長と共に千歳空港設立に尽力する。千歳町興しの中心となった人物。
1886年11月10日 新潟県佐渡郡真野村大字吉岡で生まれる
1905年11月 3日 北海道千歳に移住。商業に従事。山三ふじや創業日
1913年 現住所(本町3丁目)に店舗を新築。山三ふじや渡部商店を開店
1914年 山三ふじや木材業を兼業
1920年2月 真々地に水力による製材工場を新設。その後、タービン水車にて電力を動力とした
1926年8月 北海道鉄道(株)開通に伴い千歳駅公認運送取扱人、渡部運送店を開業。
1943年 製材工場を千歳駅前(栄町6丁目)に新築移転
1944年 旧製材工場跡に千歳航空機(株)を設立。主に、飛行機用計器を生産。
1945年11月 山三ふじや、札幌丸井今井百貨店と提携し米兵向け商品(陶器、漆器、骨董品など)を販売
1946年 山三ふじや本店を改造。従来の畳敷部分を全てコンクリート床にし、ウインドー陳列
1947年3月 米穀部を新設
1949年 渡部榮藏、千歳商工会会頭に就任、1月:山三ふじや卸部(酒類、食品類等)新設。日本麦酒(サッポロビール)特約店、8月:山三ふじや売炭部(千代田町6丁目)新設。北海道炭礦汽船、三井砿山特約店
1950年1月 千歳交通(株)設立。初代社長、新保鉄太郎、8月 警察予備隊創設に伴い指名により営内に売店(PX店)を開店、12月 渡部木材(株)設立。初代社長、渡部榮藏
1951年5月 千歳交通(株)恵庭営業所(支店)開設
1952年4月 保安隊第一特科群(北千歳駐屯地)内に売店(PX店)を開店
1953年 千歳交通(株)苫小牧支店開設
1954年 千歳交通(株)支笏湖営業所・島松支店開設、8月 自衛隊東千歳駐屯地(第七師団)内に第一売店、第三売店を出店
1955年9月 千歳米軍キャンプ内(将校クラブ)にスーベニヤ店を特設
1956年4月 航空自衛隊第二航空団新設。営内にBX店を出店。9月 石油部を開設(錦町2丁目)出光興産の特約店としてガソリンスタンドを経営。10月 売灰部を幸町3丁目に移転
1957年 千歳交通(株)勇払営業所新設、1月 株式会社山三ふじや渡部商店を設立。代表取締役社長 渡部祐一郎。資本金250万円、3月 山三渡部商事(株)を設立。代表取締役社長 渡部祐一郎。資本金250万円
1959年 千歳交通(株)札幌支店(豊平区美園)開設、9月 渡部商事(株)苫小牧営業所開設
1960年7月 日本航空(株)千歳ターミナル改築。山三ふじや空港店も移転
1963年4月 北海道空港(株)空港ターミナルを建設。山三ふじや空港店も移転(千歳市平和)
1965年12月 千歳バス(株)設立
1966年7月 千歳交通(株)札幌支店を新築移転(白石区南郷通)、9月 山三ふじや別館(書籍・文具等)を開設(本町1丁目)
➡以下 諸情報
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「瀧澤順久現社長談」
「佐渡へ佐渡へと、草木もなびく、佐渡は四十九里、海の上」
私の故郷は、この佐渡おけさの本場の佐渡です。そこから、明治38年11月3日の天長節に、この千歳にやって来ました。疲れた足を引きずるように、ようやく峠の頂上に立ち、千歳村を見たとき、なぜか急に悲しくなり、その場に崩れるように腰を下ろしてしまいました。
なぜなら、峠の下にある千歳村を見たとき、あまりの寒村に驚き、あたかも心の 支えをなくしたような絶望感にさいなまれました。この話は、創業者であります「渡部榮蔵」翁が19歳の若さで商いの決意を固め、はじめて千歳の地に入ったときのことです。以来、いまの千歳市本町に山三の屋号を掲げて雑貨屋を始めたのが、山三ふじやグループの始まりであります。それから100年の間、幾多の苦難を乗り越えて、千歳の歴史と共に歩んで参りました。 大正15年、千歳着陸場の建設に際しては、村民の皆さんに呼びかけ、村民大会を開き、無償の奉仕 活動のもと、一本の着陸場を作り上げ、北海一号機を迎えました。これが現在の新千歳空港の 母体となり、千歳の発展の大きな転機になりました。 その時の喜びと感動は、”事に当たって一致協力する=「スピリット・オブ・チ トセ」”として、山三ふじやの象徴精神となり、今日に受け継がれております。千歳の発展と共に、山三ふじやもまた、その時代時代のニーズに合わせ、生業か ら家業へ、家業から 企業へと、地域に育まれながら多方面にわたり事業を広げ、 現在、8企業からなる山三ふじやグループを構成するに至りました。平成17年創業百年を迎えることができ、これを新たな「創業元年」と位置づけ、先人の残した 尊い精神を受け継ぎ、前掛け姿の商人として、社員一同が心を一つにして、次の100年に向けて、その第一歩を強く踏み出し、社業に邁進いたします。
諸情報
★渡辺栄太郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二年生 二宮村下長木、農業 ・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、県会議員の補欠選挙[三十八年六月二十七日]・明4、進歩党の集会[四十一年四月二十日]
★渡辺恵美

東京両津の会7代会長。東京両津の会「甚句の会」を結成し、夷祭りの「甚句の舞」に参加するなど幅広く活動する。東京新潟県人会常務理事。池坊華道教授。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「1号」(平成17年4月)一万人の佐渡民謡パレードへの夢(渡辺恵美)
★渡辺えり子(えり)

有名な女優、夫が新穂大野出身の俳優土屋良太。
→土屋良太参照
「ウイキペディア」より
★渡辺奥人
『両津市要覧(昭和33年)』より

★渡辺治
新穂潟上の人。令和5年3月個展@新穂民俗資料館。佐渡を代表する養鶏農家であったが、農業を辞して後、趣味の写真撮影で国内外を撮影旅行。




























★渡辺嘉市
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★渡部角一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺角次
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


★渡部嘉作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭4、縣会補欠選挙[十二年六月十五日]
★渡辺一枝
「島の新聞」15号


「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺一雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・5 第7回県学童水上競技大会(県水上競技連盟・県小学校体育連盟)新潟中プール
(金泉小尋)高200自①2.46.1新
昭和12年度県学童大会最高記録(県小学校体育連盟・県水上競技連盟)
200自 2.46.1(金泉)昭12.8.5、200リレー2・41・6 (金泉)山本・中村・渡辺・石見 昭12・8・4
(昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)200自2.40.0 渡辺一雄(金泉)昭12
★渡辺和弘



平成28年






「サイエンスプロジェクト」(令和4年7月31日 「ひとの話」)(本間芳則・本間希樹・渡辺和弘 司会:小橋敞徳)
his blog
「佐渡人名録」
「佐渡の民謡」
「青春彷徨のうた」
両津夷に昭和22年生。両津小-両津南中(3回生)-両津高校(17回生)-同志社大商学部(史跡同好会7代目会長)。
両津高校12代同窓会長(石楠会 昭和55年~昭和56年)、両津小PTA会長、両津ミニバス監督(20年間)、両津英語クラブ代表(10年)、両津市社会教育委員、公平委員、新潟県青少年育成委員、佐渡市地域審議委員等を歴任する。
趣味は民謡(新穂「こがね会」・畑野「本間社中」在籍)、社交ダンス(両津ダンスクラブ主宰)、文芸(短歌・俳句・川柳)。平成28年度新潟日報「読者文芸」で歌壇賞受賞。著書に「佐渡の民謡-唄と人と歴史-」(平成23年刊)
2011年4月(佐々木さん85歳)インタビュー
「砂金音頭の思い出話」by 佐々木フミ子・渡辺和弘
youtube「佐渡民謡聞きかじり」(新穂「島の新聞」事務室)
youtube「佐渡四方山話(現代につながる佐渡の人脈)」(2018年8月3日 青山学院アイビーホール)
youtube「オリンピックと佐渡人」(2019年11月10日 アミューズメント佐渡)
youtube 「小木を歩く」(2020年1月21日 小木商工会館)
youtube「古写真が語る新穂」(2020年6月13日 新穂行政センター )
youtube 「佐渡の民謡(金井小3年生用)」(2020年8月27日 金井小学校)
youtube 「畑野あれこれ」(2021年3月23日 畑野行政センター)
youtube まちなみ講演会「小木の文化再発見」(2021年3月29日 小木「あゆす会館」)
金沢屋さんを訪問(令和3年4月19日)
youtube 「新穂あれこれ」(2021年6月1日 佐渡農協新穂支所)
新穂ふるさと講座(「古写真が語る新穂2」)令和3年6月12日
youtube 「まるも味噌」訪問(令和3年7月24日)
youtube慶宮寺八祖堂を訪ねる(令和3年7月27日)
youtube「小木四方山話-芸妓の文化他-」(031125 小木あゆす会館)
youtube「佐渡民謡の集い」前編(「ダン渡辺の「佐渡民謡四方山話」」他 031128 新潟県人会館)
youtube 金井千種を歩く(令和4年3月11日)
※私も後半に少々語っています。
youtube ダン渡辺の「佐渡見聞録」(相川郷土博物館)令和4年5月30日
youtube ふるさと講座(「葛西敬之と有田八郎」)040611
「佐渡雑楽」(「島の新聞」より)
youtube 本間社中40周年記念公演(令和4年」6月19日)於:アミューズメント佐渡
同じ内容ですが、映像が鮮明
「本間社中40周年公演」(令和4年6月19日)
※「越中おはら節」については保存会から早速著作権侵害のクレームが付きましたので、残念ながらそこだけカットしました。
youtube 加茂湖周遊(令和4年7月3日)
「サイエンスプロジェクト」(040730/31)
youtube「両津七夕の歌」(令和4年9月作成)
夕虹会「初秋の徳和周辺を歩く」令和4年9月11日
夕虹会「平泉寺から鰐清水経由で磬台山(けいらいさん)まで」令和4年10月8日 (畑野丸山から~赤泊山田へ)
「佐渡の旧家と人脈-有田八郎と葛西敬之他-」(令和4年12月3日:首都圏佐渡連合会文化講演会)
真野新町山本家訪問(令和4年7月14日)
令和5年2月末
山本修巳先生逝去の佐渡テレビ特別報道
佐渡遍路バスツアー南佐渡編(夕虹会)令和5年3月11日
「佐渡から世界へ飛び立った人々」(令和5年4月18日)
ダン渡辺さんと佐渡の旧家を巡る「川上喚濤、近藤福雄、茅原鐵蔵」(令和5年4月20日)
「私の高校時代 思い出の先生たち」(令和5年6月5日)※デイケアセンター「しゃくなげ」)
小木を愛した文人達(050617 @華屋 小木 hellobooks)
男はつらいよのロケ現場(小木)にタイムスリップ(令和5年6月17日)
令和5年8月2日 「羽茂の生んだ日本的人物・葛西田中家の人々」
令和5年8月13日 佐渡おけさと鬼太鼓~過去から未来への連続性を考えるシンポジューム~
夕虹会(令和5年8月20日)世阿弥の道~羽茂西方地区
※下記にマイ作品をUPしてあります。
「佐渡人名録」
→◆マイ作品
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺和弘
136 作家三浦綾子のルーツ -佐渡金丸と苫前「佐渡衆」- 138 本間泰蔵とその孫一夫-豪商の祖父と点字図書館を創設した孫- 157 「佐渡民謡よもやま話」(一) 渡辺和弘 159 「佐渡民謡よもやま話」(二)渡辺和弘 「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★渡辺勝蔵
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★渡部勝昌
長く畑野町役場に勤務、平成20年~23年、佐渡社会福祉協議会会長。
★渡辺一真

★渡辺勝昌
「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺勝巳
昭和21年(1946)、河原田生、昭和40年佐渡高校卒。1974年、宇宙開発事業団(現JAXA)に入社以釆、一貫して広報・普及業務に携わる。2005年から宇宙教育推進室長として、青少年教育の場での、宇宙開発の普及に力を注いだ。現在、一般財団法人日本宇宙フォーラム広報調査事業部主任調査員。著作本に、講談社ブルーパックス「完全図解 宇宙手帳」などがある。
(上記は平成25年当時の略歴)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「64号」(令和3年1月)・宇宙へのいざない 佐賀県立宇宙科学館 渡辺勝巳館長に聞く
★渡辺佳奈子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「38号」(平成26年7月)それぞれの鬼太鼓奮闘記-地域おこし協力隊(岩首)新田聡子・〃(新穂)小川佳奈子-
★渡部亀蔵
「奇人・亀先生」(「佐渡の百年」)
★渡部加代子
「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺寛(かん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡相川の人で通称覚左衛門という。和歌をよくした。
閑居花 現存歌選
さくら花散なは何を友とせん、人にしられぬ木かくれのいほ
ほ寛の歌である。(佐渡人名辞書)
★渡辺寛一
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。
稔り穂の伏してふさげる畦道を いたわりつヽも打ちまたぎゆく
★渡辺勘作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★渡邊喜一
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


★渡辺岸蔵
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)


★渡部義純
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡部義純 24 真光寺本住「快安」考
★渡辺義浄
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渡邊喜太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渡邊喜八郎
「二年の島の勤務を今日終へて引継ぐ官舎ねもごろに拭く」
(短歌集 「月間にいがた」昭和23・12月号~平成7・1月号「砂丘」昭和23・12月号~平成7・1月号)
昭和21年頃より作歌をはじめ、新潟日報歌壇、月刊にいがた等に投稿して吉野秀雄の選を受けた。昭和27年に「砂丘」が創刊され吉野秀雄が選者となったので、入会し引きつづき選を受け、その没後は自選歌を発表した。判事というといかめしい人物に思われるが、穏やかな叙景歌からきびしいだけではない人物が偲ばれる。歌は人なりである。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★渡部喜平
赤泊村役場助役。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★渡部喜平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木 ・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]
★渡辺儀兵衛
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
相川銀山開発者。慶長六年(一六〇一年)七月、鶴子銀山の山仕、儀兵衛は渡辺弥次右衛門、三浦次兵衛と共に相川に銀鉱脈を発見しこれを開発した。儀兵衛の開発した間歩を道遊といい、次兵衛は六拾枚、弥次右衝門は割間歩を開発した。(佐渡年代記上巻)
★渡辺響子
佐渡高校時代の平成6.8、全国高校総合文化祭(愛媛県)書道部門、県代表として出品
★渡辺清
佐渡高校時代の昭和38.2.16、全国児童生徒デザイン展入選
★渡辺漁村(わたなべぎょそん)

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八五四ー一九一四 安政元年十二月八日生れ。圓山溟北門下の高弟で、一五歳のとき明治維新に遭遇し、参謀民政方として来島した奥平謙輔の「給仕」として仕えた。『佐渡幕末奇事』の著作で知られていて、謙輔の行状、功蹟を回顧した書物では詳細をきわめている。名は耿(正しくは”耿”冠に”衣”)。字は美中。父は奉行所の地役人で蘆舟(号)といい、祖父は友水。先祖は甲州武田家の家臣である。修教館に学んで、明治三年(一八七○)一七歳のとき同館の読師に登用された。同九年に修教館が廃止されたあと新潟に出て、新発田税務署長などを最後に官吏を退職し、明治三十三年ごろ当時の勝間田新潟県知事の推挙で、旧制新潟中学に漢文の先生として勤務した。李白・杜甫の詩を誦するかと思えば英会話を始めるというユニークな授業で、いつも和服姿で赤ら顔、白髪の伊藤博文に似ていたという。漢詩に秀でていて、勝間田知事はじめ坂口五峰らとも親交があり、佐渡では小崎藍川・大久保湘南らが、その教えを受けたとされる。祖父友水は、心働流の剣と田村流砲術の免許をうけた豪傑として知られ、父の廬水は無念流の剣士だったという。大正三年八月に六一歳で没した。漁村の墓は、新潟市四ツ谷町の共同墓地に、渡辺家代々の墓は、相川下山之神町の総源寺に残っている。【関連】「佐渡幕末奇事」(さどばくまつきじ) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡幕末奇事(さどばくまつきじ)
相川の地役人、漁村こと渡邊 (しゅう)があらわした著書。明治十八年に完結したことが「自序」からうかがえる。明治元年(一八六八)十一月に、参謀民政方として佐渡受領に来島した奥平謙輔が、翌明治二年九月に離島するまでの、施政および個人的な性格、行状の一部始終をつぶさに記述していて、昭和十八年一月発行の『佐嶋遺事』にも収録されている。一五歳で維新に遭遇した漁村は、治府が河原田に移ったため、そこの屯所(現在の県立佐渡高校のある高台)で謙輔のそば近くに仕え、相川から移った旧修教館生一○人の一人に加わって勉学に励んでいた。この書で謙輔という人の表情を「面色銅の如く」と記し、髪には梳(くし)を入れず、常に一衣一袴あるのみと書いていて、ときおり近郊を馬で馳せまわり、民情を視察する、その姿は「一見一兵士の如し」とも述べている。謙輔二八歳のときである。謙輔はある夜、局長井上某の邸宅に大刀を持って突然侵入し、家人を驚かせる。目をさました井上の枕元に、菊の紋章の提灯を持った謙輔が立っている。官吏は清廉でなければならず、賄賂をむさぼる者あらば三尺の剣あるのみ、と言ったとあるから、高級役人の私生活や挙動の偵察だったらしい。謙輔は意をよく民事に用い、政務は簡潔にして一切の訴願は文書によらず、自ら出廷して面告で済ませたから「民大いにこれを便とす」と、漁村は回想している。
【関連】奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・渡辺漁村(わたなべぎょそん) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で名は●(「耿」冠に「衣」)。字は美中、漁村と号した。円山溟北の高弟である。佐渡奉行の学問所であった相川の修教館の句読師をしていたが二十五才の時、新潟県に仕え、また収税属となり小千谷、新発田等に歴任、晩年新潟中学校の嘱託となり漢文を教授すること十五、六年に及んだ。詩作にすぐれていた。大正三年に六十一才でなくなった。(北越詩話)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八五四-一九一四)(出生、生育)漢詩人。詩文を大久保湘南、小崎藍川などに教える。名はしゅう(上部に耳・火、下部に衣)。字は美中。修教館に学び、明治三年、十七歳で、同館の読師になる。同九年、修教館を引き継いだ相川県仮中学校が廃されると、新潟で官吏になり、新発田税務署長を務める。三十三年ころ、旧制新潟中学の漢文の教師になる。授業の中に英語が出てきたのは、相川県仮中学校の中にあった相川洋学校で学んだことによるものであろう。
「ウィキペディアより」
生誕 安政元年12月8日(1855年1月25日)
佐渡国雑太郡相川板町
死没 1914年(大正3年)8月14日
新潟県新潟市学校町通二番町[1]
墓地 新潟市日和山共同墓地
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
別名 褧(諱)、美中(字)[2]
出身校 佐渡奉行所修教館
職業 相川県佐渡中学教授、新潟県新津収税署長、新発田税務署長、新潟中学校嘱託教員兼舎監事務取扱
代表作 「佐渡日詩」「佐渡幕末奇事」
影響を受けたもの 円山溟北、奥平謙輔
配偶者 渡部クニ、江原キエ
子供 渡辺轍、笠原軔
親 渡辺蘆舟
親戚 渡辺友水(祖父)
渡辺 漁村(わたなべ ぎょそん)は明治時代の新潟県の教育者、漢詩人。佐渡奉行所修教館句読師、相川県佐渡中学教授、新潟県税務官、新潟中学校教員兼舎監。
(生涯)
佐渡時代
安政元年12月8日[3](1855年1月25日)佐渡国相川板町に佐渡金山役人渡辺蘆舟の次男として生まれた[2]。元治元年(1864年)父が死去し、祖父友水に獅子ヶ城跡の官舎で養育された[4]。幼くして佐渡奉行所修教館で円山溟北に学び[2]、井上幹にも書法を学んだ[3]。
明治2年(1869年)参謀兼民政方奥平謙輔に書生として仕えた[4]。1871年(明治4年)修教館句読師[2]、1874年(明治7年)4月相川県佐渡中学漢学部教授となり、1876年(明治9年)4月相川県廃止により解職された[3]。
(新潟県出仕)
1880年(明治13年)5月新潟県に勤め[5]、1883年(明治16年)1月十七等出仕となった[3]。1885年(明治18年)10月収税属に転じ[3]、1889年(明治22年)小千谷出張所長、1890年(明治23年)新発田間税分署長、1893年(明治26年)新津収税署長、1896年(明治29年)与板税務署長、1897年(明治30年)新発田税務署長を歴任した[5]。
(新潟中学校)
1900年(明治33年)5月前新潟県知事勝間田稔の推挙で[3]新潟県立新潟中学校嘱託教員兼舎監事務取扱となった[6]。白山浦一丁目や下旭町に住み[7]、後に学校町通二番町の岡本小路入口から西20m南側の2階建家屋に移った[8]。
1902年(明治35年)6月佐渡への修学旅行を引率し、妙法寺の師溟北墓碑、清水寺、根本寺、長谷観音、妙宣寺、檀風城趾、国分寺、真野御陵、獅子ヶ城趾、相川鉱山、総源寺の祖先の墓、金北山等を巡り、「佐渡日詩」を著した[9][4][10]。
1911年(明治44年)夏、先祖の故地川中島古戦場を訪ねつつ、東京小石川区原町の長男轍と本郷区菊坂町の次男軔を訪れ、上方を経由して帰郷した[11]。
1914年(大正3年)1月9日体調不良のため舎監を退職し、右眼の緑内障や内蔵疾患により新潟医学専門学校附属病院に入院した[12]。半月で退院後も体調は快復せず、8月14日早朝、妻キエ、2人の子、兄嫁キクに看取られながら死去し、日和山共同墓地に葬られた[12]。
(逸話)
新潟に移った当初は貧乏だった。引越のため妻と荷車で運搬中小崎藍川に遭遇し、「まだ孟郊ほどは貧乏でない。」と言い張りながら運搬の手伝いを頼んだが、藍川は辟易して逃げ去ったという[2]。
ある夏の夜、大酔いして帰宅し、妻に酒を求めるも、夜が更けていたため断られた。怒って離縁状を突き付けると、妻は嫁入り道具だとして蚊帳を外し始めた。漁村は狼狽し、「女が夜出歩くな。明日の朝まで待て。」と引き止めたという[3]。
魁偉な外見と大きな声から「鬼渡辺」と呼ばれ[11]、大きな頭部は「紙屑ボテ」と綽名された[7]。新潟中学では、先に在籍していた次男軔の「つぁま」(中越方言で「父」の意[13])として「ジンツァマ」と呼ばれた[8]。
ある夜、「あめゆ」の赤行灯を出している店で飴湯を飲んでいるところを生徒に見られ、翌日から「あめゆ、あめゆ」と囃されるようになった。同年の卒業謝恩会で「今日から酒・煙草を飲んでもいいのだぞ。」と呼びかけると、「先生!飴湯はどうです?」と冷やかされ、「も……ももちろん!」と返したという[8]。
結婚式の時、座敷に出るのを恥ずかしがり、屋根の上に隠れてしまった。親族・媒酌人等が捜索するも見つからず、自分からも戻りづらくなったため、屋根の上から頼山陽「天草洋に泊す」を吟じ、ようやく発見されたという[8]。
漢文だけでなく英語にも通じ、ベンジャミン・フランクリンから原語で「空嚢(くうのう - 空の袋のこと)は直立し難し」と引用したこともあった[14]。
(作品)
「新潟中学校雑詠十律」 - 1900年(明治33年)『遊方会雑誌』第8号所載[9]。『新潟新聞』にも寄稿した[15]。
「佐渡日詩」 - 1902年(明治35年)6月佐渡に修学旅行した時の紀行。『遊方会雑誌』第11号所載[9][4][10]。
「村杉坐湯中雑咏」 - 同僚と村杉温泉に旅行した時のもの[14]。1910年(明治43年)3月『遊方会雑誌』第24号所載[16]。
「佐渡幕末奇事」 - 『佐島遺事』所収[17]。
(家族)
父母
祖父:渡辺友水 - 佐渡奉行所地役人。
父:渡辺蘆舟(文化11年(1828年)5月3日 - 安政元年(1854年)10月24日)
通称は舎人、名は鎮、別号は自来舎佳友。鷲尾甚助に無念流剣術、安田花狂に俳諧を学んだ。天保9年(1838年)一揆鎮圧のため島内を巡察し、『俳諧風車』を編んだ。最終職階は山方役助[18]。
母:高野氏[19]
兄:渡辺碇浦 - 名は潜。明治16年(1883年)没[19]。
長姉 - 本間家に嫁いだ[19]。
次姉 - 佐渡長谷川家に嫁いだ[9]。
妻子
先妻:渡部クニ - 明治5年(1872年)6月結婚。1887年(明治20年)8月29日29歳で没[5]。
長男:渡辺轍(1882年(明治15年)2月21日[5] - 1941年(昭和16年)4月[20])
新潟県立新潟中学校、第四高等学校[5]、東京帝国大学史学科を経て、萩野由之助手となり[20]、兜町渋沢家編纂所で『徳川慶喜公』編纂に参加した[1]。
次男:笠原軔(1885年(明治18年)4月24日 - 1955年(昭和30年)11月4日) - 画家[5]。
後妻:江原[12]キエ[11] - 1888年(明治21年)10月結婚[5]。
脚注
^ a b 小林 1991.
^ a b c d e 坂口 1919, pp. 865-875.
^ a b c d e f g 小林 1982.
^ a b c d 小林 1984a.
^ a b c d e f g 小林 1992b.
^ 『新潟県立新潟中学校第八年報』新潟県立新潟中学校、1902年11月。NDLJP:813321/39
^ a b 小林 1985a.
^ a b c d 小林 1983a.
^ a b c d 小林 1983b.
^ a b 小林 1984b.
^ a b c 小林 1992a.
^ a b c 小林 1993.
^ 「ちゃん【父・爺】」『日本国語大辞典』小学館、2002年、第二版。
^ a b 小林 1989.
^ 小林 1990a.
^ 小林 1990.
^ 萩野由之『佐島遺事』新穂村教育会、1943年。
^ 萩野由之『佐渡人物志』佐渡郡教育会、1927年10月。NDLJP:1188906/121
^ a b c 小林 1985a, p. 33.
^ a b 小林 1985b.
参考文献
坂口仁一郎『北越詩話』巻10、坂口仁一郎、1919年3月。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(一)」『青山同窓会会報』第35号、青山同窓会、1982年7月20日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(二)」『青山同窓会会報』第36号、青山同窓会、1983年1月21日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(三)」『青山同窓会会報』第37号、青山同窓会、1983年7月14日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(四)」『青山同窓会会報』第38号、青山同窓会、1984年1月13日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(五)」『青山同窓会会報』第39号、青山同窓会、1984年7月18日。
小林智明「笠原軔の父 渡辺漁村のこと」『佐渡郷土文化』第45号、佐渡郷土文化の会、1985年1月。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(七)」『青山同窓会会報』第41号、青山同窓会、1985年7月18日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(十五)」『青山同窓会会報』第49号、青山同窓会、1989年7月20日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(十六)」『青山同窓会会報』第50号、青山同窓会、1990年1月23日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(十九)」『青山同窓会会報』第53号、青山同窓会、1991年7月18日。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(二十一)」『青山同窓会会報』第55号、青山同窓会、1992年7月20日。
小林智明「屠龍山人笠原軔略年譜」『屠龍山人笠原軔画集』屠龍山人笠原軔顕彰会、1992年10月。
小林智明「画人笠原軔とその父漁村(二十二)」『青山同窓会会報』第56号、青山同窓会、1993年1月20日。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺漁村 45 笠原軔(じん)の父 渡辺漁村のこと
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数25
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★渡辺欽斎
「明治の敬老会」(「佐渡の百年」)
★渡辺金左工門→渡辺湖畔
★渡辺金助
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、野沢代議士の報告演説会[六年六月七日]
★渡辺九十郎
三瀬川に渡辺九左衛門家がある。家は絶えたが、そこの娘さんは佐渡病院の薬剤師である野口まゆみさん(60過ぎ位)。場所は三瀬川の松歳(まつざい)地区。
★渡辺国蔵・数馬
左:「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


陶芸家、長男は八戸の陶芸家、佐渡の陶芸家である渡辺陶三、陶生(すえなり)は次男、三男である。
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



★渡辺国蔵
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺蔵之助
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
上酒屋こと渡辺氏の墓碑によると、その祖先は元和元年(一六一五)大阪落城のみぎり、豊臣の家臣渡辺蔵之助が主命をおぴて越後へ逃れ、慶安二年(一六四九)佐渡へ渡海して、北方村城ノ内に蟄居し二代目が享保二年(一七一七)新穂まちへ出て酒造業を始めたと言い伝え、この家から漢方医や有名な俳人が幾代も続いているし、巴江庵という句会所を建てて宗匠をつとめていることも衆知のところである。
★渡辺慶一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺慶一
18 佐渡鉱山水替人足史料 -天保八年八月六日-
44 楽しかった史料蒐集
★渡辺慶次郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治八年生 畑野村栗野江、農 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]
★渡辺螢窓(けいそう)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★渡辺源一
河内の人、明治40年、羽吉の坪井仙吉と共に盛岡種馬所より種馬移入。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂 ・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]
★渡部源右衛門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺健吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★渡辺賢吉
『続佐渡酒誌』(平成14年)

「佐渡名勝史」(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺源左衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久三年 岩首村豊岡、農業 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★渡辺健三郎(竹翠)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の書家は、潟上の稲葉事、牛尾神社宮司土屋一丸(号は賢継)、瓜生産の石塚照(号卓堂)、潟上の後藤与作(壷中庵)、大野の小杉猪吉(号は悟東)等があり現存では潟上の佐山大業を師に土屋甚平(号桂石)、本多正吉(号彰雲)、渡辺健三郎(号竹翠)、河原治一(号思秋)、本間忠雄(号越堂)、雑賀栄助(号雨石)等があり、子弟を集めて教えているものもある。
★渡辺源三郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺健資
「島の新聞」索引(人名別)
★渡邊源次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渡辺賢丈
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある)この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
★渡邊源助
県立佐渡女子高等学校6代目校長(昭和2.4.30~5.6.30)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★渡辺源助
→「若林源助」の間違い
★渡邉元琢(渡部元琢)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡畑野町寺田の人で医家である。鈴木南嶺に学んで四条派の画にすぐれ、また俳諧、詩歌も巧みであった。号を鶴夢好風といぅ。天保十年(一九三九年)三月に五十才でなくなった。(佐渡人名辞書)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
寺田村で代々医業を営み、漢籍の教授をしていた。目黒町村の長島善右衛門家の娘きしは、元琢に句読の手ほどきを受けてのち、江戸に出て日尾荊山・梁川星厳にそれぞれ経史・漢詩を学び、青雀と号し漢詩人として大成した。
★渡辺源次
「躍進日本」

★渡辺顕道
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渡邉弘顕
「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺庚二

畑野出身、昭和5年生。昭和19年陸軍飛行兵学校入学。昭和23年佐渡農高入学。
日大の通信講義を受ける。青年団運動の後、町会議員、県会議員、畑野町長を歴任。

「島の新聞」索引(人名別)
★渡辺晃三


佐渡高校時代の昭和53.6.3~5、バドミン トン県高校結合体育大会(新潟市) 前田・渡辺組男子ダブルスベスト8 54.1.21 バドミン トン、県高校選抜大会(新潟市) 男子シングルス1位(北信越大会出場)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「65号」(令和3年4月)・NPO法人「サードフィールドさど」※渡辺晃三
★渡辺五作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★渡辺湖畔(わたなべこはん 金左工門)
「佐渡ふるさと百科」





渡辺湖畔邸跡

畑野教会













長谷寺

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)


【生没】一八八六ー一九六○ 歌人・俳人・実業家。本名林平、のち金左衛門。明治十九年七月一日畑野町に生まれ、小学校卒業以後は、羽茂の美濃部禎について国漢を学んだ。家業の呉服商を営む一方、三○歳で佐渡電灯会社の社長に就任する実業家であったが、十代の頃から短歌に親しみ、山田花作主宰の同人誌「わかな舟」や、花作が選者をつとめる「新潟新聞」に寄稿した。また与謝野鉄幹主宰の「明星」にも参加し、作品の発表だけでなく、大正十三年(一九二四)八月と、昭和九年(一九三四)十一月の両度にわたって、与謝野夫妻を佐渡に招くなど、生涯にわたって親密に交際した。外にも詩人・彫刻家の高村光太郎や、画家の石井柏亭らを自宅に逗留させるなど、数多くの歌人・俳人・小説家との交際をもつ、芸術一般の理解者でもあった。さらに昭和十年からは、「彰」と号して「東華」によって漢詩を発表しつづけ、昭和二十年代からは、古半の号で俳句に転じた。著書に、歌集『草の葉』『若き日の祈祷』遺稿集『野思幽夢』『渡辺湖畔遺稿集』がある。昭和三十五年九月十六日没。
【参考文献】渡辺湖畔『草の葉』(天弦堂書店)、渡辺栄太郎『渡辺湖畔遺稿集』、酒井友二「佐渡歌壇史抄」(『佐渡郷土文化』六六号) 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺湖畔
50 与謝野寛より渡辺湖畔への書簡 山本修之助
84 「佐渡学」ノート (6) 渡辺湖畔氏のこと、佐渡・アメリカ親善俳句大会 山本修巳
84 「渡辺湖畔への手紙」から その1 高村光太郎の来島
85 「渡辺湖畔への手紙」から その2 美濃部 楨
86 「渡辺湖畔への手紙」から その3 会津八一の絵葉書
87 「渡辺湖畔への手紙」から 4 佐渡の同人雑誌「海草」と「微光」の頃
88 「渡辺湖畔への手紙」から その5 手紙の谷間
89 「渡辺湖畔への手紙」から その6 『草の葉』の頃
90 「渡辺湖畔への手紙」から その7 湖畔身辺のこと
91 「渡辺湖畔への手紙」から その8 『若き日の祈祷』の頃
92 「渡辺湖畔への手紙」から その9 『明星』の復刊など
93 「渡辺湖畔への手紙」から その10 関東大震災の前後
93 本誌執筆者の自家版紹介 -倉田藤五郎氏・渡辺和一郎・長嶋陽二氏- 山本修巳
94 「渡辺湖畔への手紙」から その11 渡辺湖畔のカトリック改宗 渡辺和一郎
95 「渡辺湖畔への手紙」から その12 与謝野寛、晶子夫妻の来島まで
96 「渡辺湖畔への手紙」から その13 与謝野寛、晶子の佐渡-
97 「渡辺湖畔への手紙」から その14 与謝野寛と湖畔-漢詩と短歌
98 「渡辺湖畔への手紙」から その15 高村光太郎「蝉」の前後
99 「渡辺湖畔への手紙」から 16 『明星』休刊そして会津八一との再会
100 「渡辺湖畔への手紙」から その17 青木月斗の来島と湖畔
101 「渡辺湖畔への手紙」から 18 『覇王樹』と『歌と評論』そして『冬柏』
102 「渡辺湖畔への手紙」から その19 佐渡国分寺の古瓦と会津八一
103 「渡辺湖畔への手紙」から その20 晶子晩年の手紙
104 「渡辺湖畔への手紙」から その21 松井如流との交流
105 「渡辺湖畔への手紙」から その22 晶子晩年と湖畔
106 「渡辺湖畔記念資料館」の開館記録
107 「渡辺湖畔への手紙」から その23 吉田學軒と湖畔
108 「渡辺湖畔への手紙」から その24 土屋竹雨と湖畔の漢詩
109 「渡辺湖畔への手紙」から その25 會津八一、新潟へ帰る
110 「渡辺湖畔への手紙」から その26 前田普羅の来島と渡辺湖畔
111 「渡辺湖畔への手紙」から その27 普羅みたび佐渡へ
112 「渡辺湖畔への手紙」から その28 會津八一と湖畔晩年
113 「山本静古翁日記」と渡辺湖畔
114 「渡辺湖畔への手紙」から その29 戦中戦後の土屋竹雨と湖畔
115 「渡辺湖畔への手紙」から その30 會津八一宛湖畔の手紙
139 「渡辺湖畔記念資料館」の開館記録 (続)
144 悼 渡邉和一郎氏
渡辺湖畔 「佐渡びとへの手紙」(渡辺和一郎)
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★渡邉剛忠→渡邉剛忠(わたなべよしただ)
★渡辺五郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

五郎には静子(昭和11年生)と信子(昭和17年生、村上姓)が居る。後者は両津高校卒で医師。現在は青森市新町で村上新町病院を経営。渡辺家の親戚筋に桂屋旅館(渡辺苗字)がある。
→渡辺信蔵
『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)より
北見角太郎(同窓会長、医博、佐和田町)山本成之助(県相川保健所長、同、真野町)らは大正十二年の卒業名簿にのっている。このクラスには医者が多く出た。本間賢吉(医博、両津市)、榎蓮(内科医、同)や北見は、島内でいまも開業している。後藤衛門(内科医、新穂村)本間為次(外科医、新穂病院長)も、死亡したが同級だった。ほかに伊藤栄一(内科医、医博、埼玉県)堀治部(耳鼻科医、同、東京都新宿区)武井悌(内科医、羽茂町)渡辺五郎(耳鼻科医、両津市)らがいる。たいてい、十一年に四年で修了して進学した人たちである。北見によると「医者だけで十二人出た。佐中の歴史で、あとにも先にも、例がなかった」という。
→◆いろいろ→┣・料亭・遊郭・旅館・劇場
※山田昭夫氏(昭和11年生)の少年時代の記憶では、既に医院はなく、お爺さん(信蔵氏か)と娘さんがよく一緒に町を歩いて居たと。渡辺(昭和22年生)の記憶では、上品な奥さん(五郎氏未亡人か)が小間物屋をやっていた。
2014-03-01
★山内和弘
「島の新聞」

「島の新聞」索引(人名別)
★山内三信(みつのぶ)
(Asahisinbun digital「島めぐり」)
佐渡島<7>元ホテルマンが追求する「ゆっくり眠る宿」
http://www.asahi.com/and_w/interest/SDI2015122157301.html?iref=andw_kijilist
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=17
★山尾章政(あきまさ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で通称を衛守という。歌人である。文政五年(一八二二年)二月に八十一才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★山尾鶴軒(やまおかくけん)
【生没】一七○七ー五七 絵師。名前は政圓、通称が衛守。鶴軒と号した。先祖は山尾治太夫といい三河(愛知)の生まれとされ、丹波(兵庫)亀山の城主松平伊賀守忠晴に仕えた。祖父伊兵衛の代に別家して相川へ移住してきたといわれる。このころ越後の画家長谷川信雪がいて、伊兵衛はこの人に絵を学び信舟と号したという。そういう家風の中に鶴軒は育った。初め流人絵師狩野胖幽に学び、享保十四年(一七二九)、二四歳のとき上京して狩野春賀、また狩野憲信に入門し、三年ほど修行して帰国した。佐渡奉行萩原美雅に認められて、奉行所付の絵図師に登用されるのは元文二年(一七三七)三月で、主として金銀採製図などの製作を担当したと見られている。菩提寺の江戸沢町大安寺に残る大型の涅槃図は、宝暦七年(一七五七)九月の雄こんな作画で、裏書に「絵師、当寺檀那、三町目、山尾衛守筆」とあり、三町目に邸宅があったことが知られる。その後代々絵図師で衛守を襲名し、章政(文政五年、八一歳没)・定政(万延元年、七二歳没)と続くが、定政は鶴斎の号があり、金銀採製図録などを描いたといわれる。萩野由之は『扶桑名画伝』に、「政圓姓しられず、山尾氏政圓は名にや、號にや、さだかならず」とあるのを引用して、「佐渡人にして中央の画家譜に上れるは、唯此人あるのみ」(『佐渡人物志』)と書いている。宝暦七年二月、五一歳で没した。【関連】絵図師(えずし)・狩野胖幽(かのうはんゆう)【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※絵図師(えずし)
鉱山で必要とした絵図を描く仕事で、山方役(山奉行)の指図を受けて、坑内坑外を問わず、いわゆる「絵図御用」を勤めた。一か月の報酬を「二人扶持、給銭一貫三百七十二文」とした記事があり、坑内外の測量に当たる「振矩師」よりは、いくらか高給であった。振矩師は「二人扶持、給銭一貫三百四十八文」とあるからである。佐渡鉱山で絵図師を新規採用しはじめたのは、享保二十年(一七三五)十月のことで、江戸の中期ころからである。職制では振矩師よりはるかに遅れていて、最初は古川門左衛門という人だった。この人は養父に当たる門左衛門(古川平助)が振矩職で、金銀巧者であり、古今の稼ぎ場などもよく知っている上、絵図にも堪能であることが買われて、絵図師登用が決まった。こうした事情から、それまでは振矩職が絵図師も兼ねていたらしいことがうかがわれる。門左衛門の採用によって、振矩と絵図師職が分業化されたことになる。この人と二年ほど遅れて、元文二年(一七三七)に山尾衛守(政圓)という人が絵図師となり、絵図師が二人制となる。二人に増員する必要が鉱山に生じていた。諸国に残る佐渡金銀山の「稼方図」や「金銀採製図」絵巻の中に、絵図師山尾一族の作図と思われるものが見られる。また絵図師以前に、南沢疎水の測量を担当した与右衛門(姓・静野)などによる詳細な坑内図も数多い。鉱山の採掘だけでなく経営ならびに開発にも、測量や作図作画業務は、きわめて重要な仕事であった。【関連】山尾鶴軒(やまおかくけん)【参考文献】『佐渡と金銀山絵巻』(相川郷土博物館)
【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★山尾定政(さだまさ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の絵図師で章政の養子、初名は治七、鶴斎と号した。佐渡海岸絵図、金銀採製図等の作がある。田中葵園社中で文学の才があった。文久元年(一八六一年)に七十二才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★山尾政圓(せいえん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の画家で通称は衛守、ほじめ政之助といい、鶴軒と号した。先祖は丹波亀山侯の臣、祖父伊兵衛の時、分家して移住した。伊兵衛は長谷川信雪に学び信舟と号して花鳥をとくいとした。政円はよく家風を継いで出藍の才があった。幼時から画をこのみ享保十四年(一七二九年)江戸に出て狩野春賀に学び、さらに狩野永真憲信に師事して帰郷した。翌年再び江戸に出て狩野祐清に師事し同十七年帰郷した。元文二年(一七三七年)絵図師として扶持を与えられ、五年田村奉行より泉清散の薬方を伝えられて州中に行商したという。宝暦七年(一七五七年)二月に五十一才でなくなった。子孫は代々衛守といい絵図師であった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
★山岡多一郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山岡伝五郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、享保七年(一七二二年)二月二十八日、御徒士頭より転任し、十一年二月九日御役御免となった。名は景顕、知行七百石であった。(佐島遺事)
★山岡八郎左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、嘉永七年(一八五四年)四月、西之九日付より佐渡奉行となり、翌安政二年(一八五五年)五月二日相川へ着いた。名は景恭、知行三百俵、役料千五百俵百人扶持である。万延元年(一八六〇年)十月、日光奉行となり備前守といった。(佐島遺事)
★山岡利納
利納は本名で、上山田の嘉左衛門家の人。大正十一年生れ。平成十年死亡。若いころから青年団や地域活動に活発で、町の青年団長や議会議員など勤めたが、晩年は健康もすぐれず不遇であった。
(歌碑:平成十八年三月建碑 樟石丈○、七六㍍)
○父われをお客となしてままごとにもはらなる児よ三つとなれり
歌は藤川忠治先生疎開当時からの歌友で、当時の地域の短歌活動の中核となって活動した。碑の歌も、子供の年齢から推してそのころの作と考えられる。『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★山折哲雄
「島の新聞」索引(人名別)
★山我宗敬
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
伊藤仁斎について儒学を修めたという。詳らかなことはわからない。東涯の「蓋簪録」に、「先人教授生徒四十余年諸州之人無国不至唯飛騨佐渡壱岐三州人不及門」云々とあるので尚考証が必要である。(佐渡人名辞書)
★山貝惇一
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7鎮魂譜 9<巻頭詩>海 9一随筆一わが残日録 9佐渡人形芝居座談会を終え
★山貝芳枝
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「7号」(平成18年10月)首都と佐度を「あまほっこり」と(高野チエ・山貝芳枝)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 9人物点描、画家・山貝芳枝 高野チエ
★山形壽作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★山形屋甚右衛門
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
★山形屋与惣左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川下戸町の人である。小前の老をよくいたわったので、文化七年(一八一〇年)役所へ呼出され賞された。(佐渡年代記中巻)
★山川卯平
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山川玉兎
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★山川健次郎
「ショートプロフィール」1854年(嘉永7)-1931年(〈昭和6年)。明治から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。会津藩出身で白虎隊士、後に国費で米国留学をして東京帝国大学教授。九州大学初代総長、京都大学総長、東京大学総長、貴族院議員。少年時、佐渡に居住。

白虎隊から東大総長になった会津人。少年時の一時期、越後の権判事奥平謙輔に預けられ、現在の佐渡高校の地にあった屯所に住んで下働きをしていた。奥平が若い頃、長州で学んだ会津藩士秋月悌二郎が奥平に、将来ある会津の若者3人を預けたことによる。山川は後にエール大学で物理学を収めて田中館愛橘や長岡半太郎等に教授し、その弟子筋である湯川秀樹、朝永振一郎がノーベル賞を受けた。なお、健次郎の実妹が米国に渡った女子留学生の一人山川捨松である。


「島の新聞」





『男爵山川先生伝』・『男爵山川先生遺稿』
『男爵山川先生遺稿』(山川健次郎著 故山川男爵記念会 昭和12年)
『男爵山川先生伝』(著者:花見朔巳編 出版:故男爵山川先生記念会 昭和14年)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山川健次郎 41 山川健次郎の手紙 福嶋野城子
「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」(両津港物語)
「明治の女子留学生」
★山川茂周(やまかわしげちか)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で字は孟楨という。経義を亀田鵬斎に学んだ。(佐渡人名辞書)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

「島の新聞」(両津港物語)
★山川捨松
「ショートプロフィール」・安政7年(1860年)- 大正8年(1919年)、日本初の女子留学生の一人、当時10歳。教育者。明治の女子留学生。大学を卒業し学士号を得た最初の日本人女性。元老大山巌の妻、看護婦教育・女子教育に尽力。
・安政7年(1860年)- 大正8年(1919年)は日本の教育者。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。
・兄山川健次郎は「白虎隊から東大総長へ」。
「島の新聞」(両津港物語)
「明治の女子留学生」
★山川園女(そのじょ)
【生没】一七五四ー一八一○ 江戸時代の書家、玉兎と号す。相川町大工町に生まれ、江戸に上り、三井親和の門に学ぶ。親和は、鵬斎の幼児期の手習い師匠であった。夫の茂周は、字は孟 、伯山と号した。漢籍を江戸の亀田鵬斎に学んだ。ともに文学の道の夫婦であったので、池大雅と玉蘭に比べられている。
【関連】亀田鵬斎(かめだぼうさい) 【参考文献】萩野由之『佐渡先哲遺墨』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で玉兎と号した。家は薬種商で播磨屋といった。書を三井親和に学び、その蘊奥を得たのみでなく、琴、三絃、点茶、挿花、聞香の諸技にまで通じ、交遊も広かった。文化四年(一八〇七年)七月、夫の伯仙に先だってなくなった。五十六才であった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★山川武夫
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山川茂周→山川茂周(しげちか)
★山川利英

★山川伯仙
「「励風館」の復元」(「飛鳥路に似る真野の里佐渡の百年」)
★山川博美
「島の新聞」索引(人名別)
★山木惣次
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
79 「洛中洛外図」展とふるさとの「芸能」 86 私見佐渡の覚書 (1) 87 私見佐渡の覚書 (2) 89 点鬼簿(6) 中山守夫、本間敏雄、本間亮敬、斎藤良二郎、真木山幸二郎、小野久夫、本間フミ、山本惣次、若林吉堯、浅島治兵衛、相馬一正、宮崎萬平 山本修巳
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 2またも行きたや佐渡の四季 3・ 随想・佐渡百年の大計 ・またも行きたや佛性の國・佐渡 4・佐渡北蔭の海 ・故・山本修之助先生のこと 5山木惣次氏の随想を『佐渡新報』が紹介 5《連載・1》世阿弥 6《連載・2》世阿弥 7「洛中洛外図」展とふるさとの芸能 7佐渡流人抄③世阿弥 8「遥かなる鷲崎への道」考 9あまほっこり劇場上演にさいしての実行責任者挨拶 9私見佐渡の覚書 10「時の流れに」
★山木ワカ
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 5 ルポルタージュ 山木ワカさん「奮闘」
★山岸敬爾
両津夷築地角で山岸医院を経営。「おそい梅」(倉田藤五郎 h11年11月再版)より

岩原・山岸・祝家
→本間周敬
★山岸俊次→鵜野峻
★山岸(岩原)正石
昭和17年両津夷生まれ 36年佐渡高校卒 40年東京理科大数学科卒。武南高校数学教師・教頭・事務長を務める。同校は全国高校サッカー全国優勝。両津高校創立に尽力した岩原一雄氏の三男であり、両津にあった山岸医院長女の家に入った。岩原家の叔父(父一雄の弟)に吉池百貨店創業者高橋与平の娘婿に入り道灌山幼稚園等を経営した幼稚園業界で知られる高橋系吾がいる。
★山岸隆光

★山岸寛
『加茂村誌』(昭和38年)

医師、両津夷(正覚寺辺)で開院していた。以前、映画館の「両津会館」があった場所で、現在は渡辺産商経営のマンションとなっている。昭和3年の夷大火災では奇跡的に焼失を免れる。
『両津町史』(昭和44年)
乗合自動車は夷の山岸寛、松瀬教五郎両氏の共同出資による山松商会が誕生し、夷新に事務所を置いて開業した。
大正から昭和初期にかけて両津築地で医院経営。事故で水死。近所の岩原一雄氏の三男正石氏(武南高校教諭)が山岸家に婿入りした。
※岩原一雄先生の三男は正石さん(17年生)、理科大出て神奈川県の高校教諭。山岸病院の娘さんと結婚されて山岸姓に。
二ノ丁の祝次郎助さんの静代さん(昭和20年生))の兄。正石さんの母は保母(早くに退職、102才で没)で中静美代先生と親しかった。静代さんは昭和20年生まれで時男(次男)さんと双子。
・白瀬奈須家の奈須与三次の弟(三男)が梅津鷺野の山岸権十郎家に婿入り(妻は山岸八重子)
・山岸寛・八重子夫妻に男児がなかったため、長女よし子に真野の医師本間周敬氏の次男(敬爾)を婿にもらい医業を継がせる。よし子さんは山岸医院廃院後に医院跡地に出来た両津会館社長となる。 後新潟に転居し、市橋保雄氏の隣家に住んでいた。
その子供たちは長男が山岸寛(医師)、妹(長女)てる(てる子?)は市橋安吉(やすきち:市橋保屋)に嫁ぐ。次女は池田啓二(池田呉服店)に嫁ぐが若くして死去。
・市橋保吉の弟が新潟の料亭「大善」に婿入り、苗字は大阪(大坂?)。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「人力車から自動車へ」(「佐渡の百年」)
★山岸美幸(みゆき)
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北鵜島の人、昭和8年生。北村家の人で、車田田植え歌を歌い継ぐ。また、海府甚句保存会の一員として踊り方を担当する。
→「佐渡の民謡」→「聞き書き」参照(本人写真あり)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「39号」(平成26年10月)国重文「車田植え」の田で古式ゆかしく稲刈り ※北村佐市・山岸美幸
★山岸本幸

★山岸隆蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★ヤマキチ
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=12
★山口明香
(Asahisinbun digital「島めぐり」)
佐渡島<1>古着から生まれる、アートな割烹着
http://www.asahi.com/and_w/interest/SDI2015092830971.html
★山口巌
両津住吉の人。長く両津活版印刷所に勤務しながら、夷七の町鬼組の太鼓打ちを務めた。周辺からは名人と慕われ、また、観光客などに行う鬼太鼓の解説はこれまた名人位であった。昭和30年代の佐渡観光における鬼太鼓分野での代表的人物である。
『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
私の生家「山口嘉次屋」(大川)は、先祖は「鍛冶屋」だったことは確かだ。私がまだ家にいた頃、歳の暮れ近い頃祖母が「今日はかじやの祭だから」といって、アンコの入らない「ヤキモチ」を作って神様にお供えしていた。成長してから考えてみると、その日は十二月八日の、いわゆる「ふいごまつり」であったことに気付いたのである。 鳥追い唄に「かんじゃ(かじや)の屋根に、ケケロが鳴いた どういうて鳴いた 銑(せん)ややすり たろ槌たがね やれこら打上げて ケケロと鳴いた チャーホーホ」とかじやのことが唄われている。大方ケケロというのは悪烏のことを云うのだと思う。知っている方は教えてほしい。「山口」という姓は明治四十年頃まで、「かんじゃの地蔵さん」の向かいに家があった。山へ入る口にあったため「山口」と名乗ったのだとよく聞かされた。
『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)より
・会長山口が県観光協会長より受賞 新潟県観光協会長より、昭和三十七年度総会席上「新潟県観光功労者」として表彰するという事で、同年の総会会場松の山温泉へ出かけて行った。勿論県下の功労者中、前後を問わず一番の若年者である。その時四十六歳。
・昨年、両尾集落と大川集落の鬼太鼓が誕生してから丁度百年を数え、それぞれ記念行事を考えているらしいが、発足の明治二十七年という昔を想像すると、それはとてもとても現今の時代からは考えられない苦労があって、恐らく村を挙げての大きな協力事業であったことと思う。ちなみに前記集落の鬼太鼓は夷の舟大工弥之助が教えたものである。
古老から聞いた話や、神社の祭礼の歴史などを考え合わせて見ると、現在行われている両津市の各集落の鬼太鼓は、明治になってから導入したか、もしくは江戸末期に習ったものであったとしても、神社に奉納だけで、今のように氏子の家庭を回るような盛大な行事になったのは、恐らく庶民の生活が安定した明治十年以後からではなかろうか。
わが両津鬼太鼓組の原点ともいうべき夷七ノ丁鬼太鼓にしても、明治の始めか(江戸末期と考えても)、「下町大神宮のお祭りには、小木芸者の鬼太鼓が来て、奉納されたもんだ」と語ってくれた古老が二人もいたことを考えると、大先輩の創始者、下町の舟大工弥之助が潟上から習い覚えて、下町大神宮の例祭に舞ったのは明治も十年頃か、それ以後であると考えられる。
創始者舟大工弥之助の話は、私らの先輩である八郎平町の関東長助、福島作助の話を聞いてみると、「弥之助一人ではない。サエムクロもその内の一人なんだ」と聞かされた。その人はどこの人か? 弥之助もどこにいた人だったのか? 両人推語ってくれない内に他界してしまった。後年になって七ノ丁出身者である飯嶋庄吉の
(飯嶋ナカ) おばあさんからきいてみるとサエムクロつまり左工門九郎という家は、今の小池佐太郎両津活版の屋敷であり、「両津町史」の地囲を見てもはっきり左工門九郎は分かった。残るは舟大工弥之助だ。
ある時同志中尾君から意外なことを聞いたのである。夷七ノ丁石川惣五郎さんが毎度お墓の花を買う時、「弥之助の分」といって買い求めることが分かった。もしや! と思って伺ってみると、昔、惣五郎家の借家にいた人であり、正覚寺にそこのお墓が現存していることが分かった。早速惣五郎さんの案内で参拝させて貰った。昭和三十年代に新しく立て替えたお墓には、「山口弥之助」となっており、現在子孫は北海道に住んでいるとの事。正覚寺住職さんから調べて頂いたら、確実なことは分からないが、どうもそれらしき人が明治三十八年に亡くなっているので、その人が夷七ノ丁鬼太鼓の・元祖舟大工弥之助であろうと考えられる。 毎晩、向いの「両津会館」の鬼太鼓の音を聞きながら、弥之助大先輩はいま泉下でどう受け止めていてくれるだろうか。 湊の鬼太鼓も元は同じ型であったと聞く。つまり兄弟である。その証拠に前記作助翁は湊まつりになると裏太鼓用のバチを帯につき込んで、手伝いに出かけて行く姿を見かけている。湊はその後幾度か塑が変っているということを湊の人から聞いていることから、弥之助説が考えられないこともない。 春日町及び、福浦の鬼太鼓が出来たのは、昭和六年頃であり弥之助から考えれば孫にあたると云ってもよい。 とにかく、この年誌はウソを書かないよう充分注意して書いたつもりであるが、何分資料のない部分もあり、もし違った点等あったら教えていただきたいと思っている。
「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山口巌 32 夷・鬼太鼓 -山口さんの話- 福嶋野城子
・「両津鬼太鼓組五十年誌」(山口巌 昭和7年)
・「太鼓人生六十年」(山口巌)
★山口栄一郎
「島の新聞」索引(人名別)
★山口嘉市
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★山口亀太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口義貫
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口啓四郎(吹雪島)
本名山口啓四郎、写真は昭和33年頃。最高位は幕下32枚目、横綱吉葉山の宮城野部屋。写真一列目左端が吹雪島、右端が後にプロレスで活躍したラッシャー木村


両津夷出身の大相撲力士で、本名は山口敬四郎。最高位は幕下で、引退後は家業であるホテル経営に入り、両津ヤマキホテル社長となった。平成20年頃没。
★山口健吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口幸蔵
「躍進日本」

★山口湖門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
両津市夷の画家で幼名を利三郎といい、家を継いで利八と呼んだ。号を金峰、後湖門と改めた。家は海産物業で富裕だったので幼時から画を志し、京都に出て横山清暉の門で修業した。三年後帰郷したが家は衰頽したので画業を絶ち、家業に専念し海産物を輸出して一時は挽回したが、たびたび海難にあって家産を失い苦難のうちに明治八年に三十七才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★山口三次郎

1841年(天保12)、羽二生に生れる。明治5年、31歳で単身北海道に渡り、島牧(しままき)郡原歌(はらうた)村でニシン漁、ニシン工場等で大成功する。最盛期には35の漁場経営と「北海道西海岸開拓史」に記述あり。親松太郎の佐渡におけるニシン移植運動に協力する。明治37年に寄贈した燈明台一対が羽二生の村宮八幡若宮神社境内に残る。
「北海道立志編」(明治36年刊)より


★山口茂子 両津高校時代のS4l、全国選手権ボート部女子ナックル6位(山口茂子、滝本幸子、須藤法子、
板野富代、池ひろ子)
★山口写真館
相川と両津町開拓に店舗を持った。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★山口壽一
両津市市会議員を長く務め議長も歴任。豪放磊落で人情味ある政治家として慕われた。家業は八郎平町の水産業「染三屋」で往時は遠く海外に進出して漁獲、しかし倒産。ヤマキホテル山口家とは親戚筋。平成29年3月没、97歳。
★山口誓子(せいし)
「朱鷺58号」

左:度津神社、右2枚:小木公園



本名新比古(ちかひこ)。京都生れの俳人で、俳誌「天狼」を主宰して、写生を目指す俳句を指導した。
佐渡にも門人が多く、句を島内の方々に残した。
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)


『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
(句碑:棹石1.3m 度津神社)
○ひぐらしが鳴けり神代の鈴振って
碑の裏に説明板があって、一の宮の度津神社に参詣してこの句を詠んだのは、昭和六十二年八月三十日であったとある。
盛夏の騒々しい蜩(ひぐらし)ではなく、社の森に浸み入るような澄み通った鳴き声であったのであろう。
建設は当時の羽茂町であった。
(佐渡で詠んだ句)
・烏賊火(いかび)明るし佐渡の月更に明(めい) (相川・大浦)
・先ず見しは 蘇鉄(そてつ)の青き 照葉なり (真野・新町。故山本修之助氏宅庭内)
・ひぐらしが 鳴けり神代(かみよ)の 鈴振って (羽茂・度津神社境内)
・次の間が 透けり霞簀(かさく)の 襖(ふすま)には (羽茂本郷・氏江省吾氏宅庭前)
・この寺は 佐渡あぢさゐの 総本山 (小木小比叡・蓮華嶺寺境内)
・烏賊釣火(いか・つりび) 木の間に透きて 連なれり (小木木野浦・長寿庵)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山口誓子
59 佐渡行 61 山口誓子先生・加藤楸邨先生 御来訪記念「大蘇鉄」句碑除幕式 平成元年8月20日 62 佐渡の日蓮 65 蓮華峰寺「あぢさゐ」の句碑建立始末記 数馬あさじ 68 山口誓子先生随伴記 山本修巳 70 一句を選ぶ 73 佐渡の島、二つの句碑除幕式覚書 数馬あさじ 76 山口誓子先生と富士山 佐竹紘栄 77 山口誓子先生の思い出 佐竹紘栄 81 山口誓子筆 芭蕉「荒海や」句碑など移転-小木町-数馬あさじ 140 わたしの俳句雑感 山口誓子先生・加藤楸邨先生句碑 山本修巳
「ウィキペディア」より
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=4
★山口高子
「島の新聞」索引(人名別)
★山口孝志
1971年4月24日[1] - )は、日本の投資家、FXトレーダー、企業経営者。クロスリテイリング株式会社の創業者。新潟県生まれ
「ウイキペディア」より
★山口正
佐渡高校時代の昭和47.10.15、陸上競技県高校新人選抜大会(三条市)入賞
48.5.31~6.2、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)ハンマー投3位入賞
48.9.30、陸上競技県高校新人選抜大会(上越市)砲丸投1位
49.6.4~6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)総合29点3位 、ハンマー投1位・円盤投2位・砲丸投2位
49.6.21~23 、陸上競技北信越高校大会(新潟市) 砲丸3位・ハンマー投3位
★山口太郎吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口智海
石名の檀特山清水寺住職。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口常吉
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

昭和7年、加茂村長に当選。
★山口鶴蔵(しこ名 二代越の湖)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
両津の人、大正13年の第8回青年団スポーツ競技会(相撲の部)で優勝する。
明治34年生まれ一昭和47年投。72歳。(1901年~1972年)両津夷、染三屋の出。両津方面の古老の話では、「越後の相撲に肩を並べられるのは、大正時代の越の湖、昭和に入って出来清水だ」と云います。また、島内でほ一時期「越の湖か荒磯か。」とうたわれたことは確かである。山口鶴蔵ほ、大湊も名乗ったことがあるらしい。越の湖を名乗る前であろうと思うのだが、越の湖を譲ったあと男山で名乗ったという人もあり、はっきりしない。大湊の化粧廻しは、この人から相川の大潮に譲渡されていることは、はっきりしている。(大湊の化粧廻しは東京相撲から入ってきたもの。)山口鶴蔵は大正13年県青年大会に2位入賞をしている。明治神宮大会県代表に推薦されたのだが、辞退して出場しなかったという。翌年荒磯が出場している。山口は力持ちで、四斗俵を2~3俵かためてしばったものを、かつぎあげたと云われているので、3俵なら180kgだから、仲々の力持ちであった。それというのも、彼は両津の農業会に集荷された米を、北海道通いの汽船に移し代える、いわば沖仲仕の差配を業としたというから、自然腰と腕力は備わったものであろう。祖父の染吉は、夷八郎兵衛町に住任し、男伊達で気っぶが良くて、人に恵むことが多かったので、取り巻きは、染さん、染さんといって、それが染三屋の屋号になったのだと伝えられている。 鶴蔵は経済界でも成功した時期があって、遠洋漁業の船を3艇も所有するようになり、その1艇を大湊丸と名付けたといいます。この頃職業柄、民社党の県連会長の柏原正雄と親交を結んだといわれ、その影響をのちに子の寿一に引き継がれることになった。子の寿一は、民社党から市会議員選挙に出馬して、5期をつとめ、両津市副議長になった。鶴蔵は晩年糖尿病をやみ尿毒症で死去した。墓ほ新穂村浄賢寺にある。
★山口八治郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

★山口勝
佐渡高校時代の昭和47.10.15、陸上競技県高校新人選抜大会(三条市)入賞
48.5.31~6.2、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)砲丸投・円盤投3位入賞
48.6.22~24 、陸上競技北信越高校大会(富山県) 砲丸投入賞
48.9.30、陸上競技県高校新人選抜大会(上越市) 円盤投1位
49.6.4~6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)総合29点3位 山口勝砲丸投1位・円盤1位
49.6.21~23 、陸上競技北信越高校大会(新潟市)砲丸6位
★山口麻矢
両津高校時代の1990年度(H2)5月、第2回学生短歌・高校生の部(短歌新聞社『短歌現代』5月号) 人選
★山口幹文

★山口光行
「戦国佐渡国人名辞典」より
【やまぐちみつゆき(15??~15??)】羽茂高茂家臣。通称式部。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。
★山口康男
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「11号」(平成19年10月)「世界をリードする日本のアニメ」(山口康男)
★山口弥之助
左工門九郎(サエムクロ)と共に両津鬼太鼓の祖と言われる。
『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)より
・昨年、両尾集落と大川集落の鬼太鼓が誕生してから丁度百年を数え、それぞれ記念行事を考えているらしいが、発足の明治二十七年という昔を想像すると、それはとてもとても現今の時代からは考えられない苦労があって、恐らく村を挙げての大きな協力事業であったことと思う。ちなみに前記集落の鬼太鼓は夷の舟大工弥之助が教えたものである。古老から聞いた話や、神社の祭礼の歴史などを考え合わせて見ると、現在行われている両津市の各集落の鬼太鼓は、明治になってから導入したか、もしくは江戸末期に習ったものであったとしても、神社に奉納だけで、今のように氏子の家庭を回るような盛大な行事になったのは、恐らく庶民の生活が安定した明治十年以後からではなかろうか。 わが両津鬼太鼓組の原点ともいうべき夷七ノ丁鬼太鼓にしても、明治の始めか(江戸末期と考えても)、「下町大神宮のお祭りには、小木芸者の鬼太鼓が来て、奉納されたもんだ」と語ってくれた古老が二人もいたことを考えると、大先輩の創始者、下町の舟大工弥之助が潟上から習い覚えて、下町大神宮の例祭に舞ったのは明治も十年頃か、それ以後であると考えられる。創始者舟大工弥之助の話は、私らの先輩である八郎平町の関東長助、福島作助の話を聞いてみると、「弥之助一人ではない。サエムクロもその内の一人なんだ」と聞かされた。その人はどこの人か? 弥之助もどこにいた人だったのか? 両人は語ってくれない内に他界してしまった。後年になって七ノ丁出身者である飯嶋庄吉の(飯嶋ナカ)おばあさんからきいてみるとサエムクロつまり左工門九郎という家は、今の小池佐太郎両津活版の屋敷であり、「両津町史」の地図を見てもはっきり左工門九郎は分かった。残るは舟大工弥之助だ。ある時同志中尾君から意外なことを聞いたのである。夷七ノ丁石川惣五郎さんが毎度お墓の花を買う時、「弥之助の分」といって買い求めることが分かった。もしや!と思って伺ってみると、昔、惣五郎家の借家にいた人であり、正覚寺にそこのお墓が現存していることが分かった。早速惣五郎さんの案内で参拝させて黄った。昭和三十年代に新しく立て替えたお墓には、「山口弥之助」となっており、現在子孫は北海道に住んでいるとの事。正覚寺住職さんから調べて頂いたら、確実なことは分からないが、どうもそれらしき人が明治三十八年に亡くなっているので、その人が夷七ノ丁鬼太鼓の元祖舟大工弥之助であろうと考えられる。毎晩、向いの「両津会館」の鬼太鼓の音を聞きながら、弥之助大先輩はいま泉下でどう受け止めていてくれるだろうか。 湊の鬼太鼓も元は同じ型であったと聞く。つまり兄弟である。その証拠に前記作助翁は湊まつりになると裏太鼓用のバチを帯につき込んで、手伝いに出かけて行く姿を見かけている。湊はその後幾度か型が変っているということを湊の人から聞いていることから、弥之助説が考えられないこともない。春日町及び、福浦の鬼太鼓が出来たのは、昭和六年頃であり弥之助から考えれば孫にあたると云ってもよい。
『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
・元祖弥之助は夷七にいた舟大工
夷七ノ丁に私が住むようになり、鬼太鼓に関係するようになってから、長助、作助の大
先輩によく弥之助のことを聞いてみたが、なぜかいま一つはっきりしなかった。ある時、中尾君が、「惣五郎さんがお墓の花を買う時、『弥之助の分も』と余分に一つ買い求めてゆく」ということを聞いたので、「もしや」と思って惣五郎さんへたずねてみた。分かった!! 永年探していた弥之助が分かった。惣五郎さんは「年寄り夫婦がいる時ならもっと詳しく分かったのに……」と云いながら次のように話してくれた。「昔、永い間、惣五郎の借家にいた大工さんで、実子がなく、若い人の代になってから北海道へ移住した。その際に惣五郎へ弥之助の墓の守りもこ緒に頼んで、時々お金も送ってくる。お墓は惣五郎と同じく正覚寺にあります。」ということであった。早速惣五郎さんのご案内で正覚寺境内の弥之助の墓にお参りした。戦後北海道にいる人が新しく建て替えた新しい墓で、弥之助は山口姓であることが判明した。正覚専任職様に依頼して調べていただいた。俗名伊之吉、その方らしい人が昭和三十八年に亡くなっている。明治二十六年に舟大工弥之助は、大川と両尾へ鬼太鼓を教え誕生させている。
★山口雄太
新潟日報 平成27年8月21日

★山口裕
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=7
★山口義威
善知鳥神社

ヤマキホテル創業者山口菊治の長男で相川ヤマキホテル社長。同ホテルは平成20年代後半に廃業した。
★山口義紀
両津高校時代の2000年度(H12)、北信越総合体育大会 陸上競技部 走幅跳5位
2001年度(H13)、陸上部県選抜陸上競技大会 走幅跳1位、、北信越高校新人陸上競技大会 走幅跳 3位
2002年度(H14)、新潟県高校稔体 走幅跳2位、北信越高校総体 走幅跳3位、全国高校総体 走幅跳出場
★山口里桂
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★山崎音吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山崎潔
「躍進日本」

★山崎寿吉

両津高校5代校長(昭和42年4月~昭和43年3月)。
★山崎則正

両津高校17代校長(平成12年4月~平成15年3月)。
★山崎千代
源氏物語研究家、畑野栗ノ江出身、長岡に住んだ。著書に『源氏物語欅中抄 (1954年)』
★山崎俊雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山崎友子
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
河原田高女時代の昭和13年、第8回県下女子中等学校体育大会(柏崎グランド)で河原田高女が200mRで5位(石塚スエ、近藤絢子、山崎友子、真島佐智子)。
★山崎酉蔵

★山崎美一
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)10代校長(昭和21・7・29~昭和24・3・31)、福井県人。
★山崎房子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山崎房子 59 清水基吉先生の俳句
★山崎文蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★山崎松蔵
風島神社

★山崎弥生吉
馬首出身、大蔵省官僚。
★山崎勇平
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7わが人師片岡班長殿へ!
★山崎和佳奈(やまざきわかな)
1965年3月21日 -。著名な女性声優、ナレーター、舞台女優。青二プロダクション所属。神奈川県横浜市出身、京都府育ち。代表作は『名探偵コナン』(毛利蘭)、『ひみつのアッコちゃん(第3作)』(加賀美あつこ(アッコ))、『格闘美神 武龍』(毛蘭)など。母が相川姫津の人、相川の「竹屋」ご主人は彼女の伯父。
「ウィキペディア」より
★山路健
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山路健 70 佐渡は文化の発信地-五七五の地球儀-
★山路三五郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山路秀雄
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
いまは藁がたいへん不足している時代となった。最も多く使われるのは馬の飼糧としてであるという。つぎは畳の材料に使われる。そして縄がこれに続く。だから昔のように縄をなう人たちが少なくなってしまった。縄の種類は堅縄(大網用)、荷造り粍(農家用)、大綱(漁業用)などが主なものである。これらの縄を取り扱う商人はあまりいない。新潟県下でも、新町の山路秀雄一軒くらいであるという。だから山路は、島内の製縄を一手に引きうけて取り引きしているが、それでも品不足気味である。集められた絶は島内の漁業者はいうに及ばず、遠く富山県・石川県・福島県・越後方面へ送られるという。北海道方面へは昔とちがって出ていかない。山路は自分で藁を買い入れ、自家用の製縄機械を使って生産を他人に委託している。また多少農家で作るものを買い入れている。いま縄を作っている所は畑野町目黒町などが一番多く、他に新穂や畑野町三宮あたりである。真野町のうちでは金丸、合沢あたりでも少し作られており、これらの買入れも行っている。
★山下悦子
「島の新聞」索引(人名別)
★山下数右衛門(やましたかずうえもん)
【生没】(生年不詳)ー一七七一 延享三年(一七四六)より嘉永二年(一八四九)まで、代々この名で振矩師を勤めた。振矩師としての山下家初代は、三丁目に住んだ山留大工頭数右衛門(~明和八年・一七七一)。奥州半田銀山が佐渡奉行支配となるにあたり、延享三年半田銀山見分のため、銀山功者の故に振矩師に取り立てられ、苗字を許され山下数右衛門を名乗った。半田では穿子遣山留肝煎を、帰国後は振矩師の傍ら、種々の稼方の世話をも務めた。振矩術を、振矩師静野与右衛門の門人で絵図師の、山尾衛守政円より受けたが、その技は静野には及ばず、二代数右衛門清八(~文化二年・一八○五)の頃には、この術も立ちゆかず、寛政二年(一七九○)幕府の命によって来島した大坂天満木幡町の銅屋で、宅間流算学者妻野佳助重供がこれに手をかしている。このとき、清八は妻野から宅間流算術の一部や「町見術図解」(測量術)を授けられ、三代数右衛門美 (~天保二年・一八三一)を経て四代数右衛門泉(~嘉永二年)は、若年ながら百五十間余の中尾間歩水貫普請(文政八年~天保二年『佐渡四民風俗』)を成功させ、老中松平泉守より褒美を受け、山下家の名誉を挽回している。しかし、残念ながら泉は、奉行所御用炭に関する収賄一件で、嘉永二年四月死罪となり、振矩師としての山下家の終焉を迎えた。下寺町法然寺の過去帳には、初代山下数右衛門の祖父数右衛門(~元禄元年・一六八八)以下、泉の長男柏太郎(天保五年~明治七年)までの記録があり、同家の墓は同寺本堂の裏手にある。
【関連】振矩師(ふりかねし) 【参考文献】石井文海『当家永久年代記』、金子 勉「振矩師雑記」(『佐渡郷土文化』) 【執筆者】金子 勉 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※振矩師(ふりかねし)
佐渡奉行所雇の、鉱山の測量師を振矩師という。鉱石の採掘場所である敷が深くなるにつれ気絶(通気不良)や、湧水による水敷(水没した敷)が多くなる。これを避るための煙貫(通気坑道)や水貫(排水坑道)工事、探鉱坑道の延長工事等々には、つねに具体的な測量が不可欠である。地上や地中の各地点間の方角・勾配・距離を測定し、精密な計算等を経て、その位置関係を定めるのが、振矩師の職分である。振矩師の下に、振矩師見習・振矩師助・同助見習などの身分があり、宝暦~文政年間(一七五一~一八三九)には振矩師に二人扶持(一日米一升)、一か月銭一貫三百四十八文が支給され、文政の例では、振矩師助にもなにがしかの給銭が与えられたが、助見習は無給であった。ただし、水貫工事などで特別な業績があったときには、増給や身分の昇格もあった。また幕末~明治初年には、「算術指南方」を兼務する者もあり、これには別に手当が出た。なお、振矩師には大略次の人たちがいた(ただし、○印は振矩師助である)。樋野半三・持田半左衛門(後に地役人に昇格)・静野与右衛門・品川平左衛門・古川門左衛門・山下数右衛門(初代~四代)・○青木忠四郎(青木次助・羽田町青木家の祖先)・阿部六平・阿部坤三・山本仁右衛門。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
振矩師(ふりかねし)。佐渡国相川鉱山に勤務した。
天保三年(-八三二年)中尾問歩の水質間切工事で最初の縄引(測量)の通り聊かの狂いなく貫合したのは職業鍛練故の儀につき、一代給銭を増すと役所から申付けられた。(佐渡年代記中巻)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山下数右衛門
31 振矩師雑記 (9) -山下数右衛門 (1)-金子勉
33 振矩師雑記 (10) -山下数右衛門 (2)-金子勉
35 振矩師雑記 (11) -山下数右衛門 (3)-金子勉
38 振矩師雑記 (12) -山下数右衛門 (4)-金子勉
40 振矩師雑記 (13) -山下数右衛門(5) 阿部六平-金子勉
★山下兼吉
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★山下喜三次
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★山下清

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)


山下清の動画あり(下の方)
「ウィキペディア」より
諸情報
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 154 「僧」良寛と「画伯」山下清-佐渡を舞台のすれ違い-
「島の新聞」索引(人名別)
★山下圭一
佐渡高校時代の昭和52.1.30、バドミン トン全国高校選抜新潟県予選会(新潟市)シングルス1位、山下圭一・堀幹雄組ダブルス2位
52.2.10~11 、バドミン トン高校選抜大会北信越予選会(福井児)山下圭一・堀幹雄出場
52.6.4~6、バドミン トン県高校総合体育大会男子団体3位、山下圭一シングルス2位
52.8.1~6 、バドミン トン全国高校結合体育大会(倉敷市) 出場
★山下庄次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山下仁策
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山下寛
佐渡高校時代の昭和45.10.3~4、陸上競技県高校新人大会(新潟市)、200m入賞
★山下文内
「手わざ図鑑」

★山下美智子
両津高校時代の1951年度(S26)9月、第4回新潟県高等学校総合体育大会 陸上競技 砲丸投1位
★山下峰生
「島の新聞」23号


「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」索引(人名別)
★山下良実
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川町 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]
★山下隆一
両津高校時代の1982年度(S57)11月、第7回BSN杯高校柔道選手権大会 個人中量級3位
★山城一雄


下新穂の人、家は新穂城の中にある。岩の平園園長を長く務めた。1964年の東京パラリンピックに出場している。地元の義盛塚等、地道に郷土史を研究している。昭和12年、下新穂生、新穂城の掘の内側に家はある。小学生時代の昭和21年11月、作業場で遊んでいた時、そこにあった真管に触れるとそれが爆発し右手を失う。その爆発音は佐渡農業高校辺りまで聞こえたと言う。 兄弟は6人で、男4人。小さい頃から運動が好きで、野球は後に大リーグのジム・アボットで有名になった投げ方だった。左手のグラブでボールを取り、グラブを右手の間接に挟み、左手でボールをグラブから取って投げるのである。卓球もやったが、今はやっている「投げ上げサーブ」だった。左手でラケットとボールを持ち、ボールを上に投げ上げてサーブする形だ。小さい頃から走るのが好きで、100m走や幅跳びが得意だった。 高校卒業後県職員になり、障害児関係畑に勤務した。最初が新星学園、その後も勤務し計2回。寺泊「白岩の里」(2回)、上越児童相談所(2回)である。福祉関係の専門職で児童教育の専門職である。・昭和39年(1964)の東京パラリンピックには幅跳び(5m29)で銀メダル、100m走(13:02)で銅メダルだった。両方共に普段の実力は出せなかった。練習は主に新穂小で行ったが大会前の練習は不足していた。100mは優勝候補と思っていたが、当日はフライングしてしまい、その後慎重になってスタートが出遅れた。当時は167cm、50㎏弱の干し見の身体だった。 この時のメダルは、オリンピックのメダルと同じ重さで、大きさはオリンピックの方が大きかった。従ってパラリンピックの方がメダルは厚い。大会後BSNラジオ出演した。
・当時から障害者県大会はあったがレベルが低いために出場しなかった。健常者と共に競技に参加し100m走では佐渡島内で5位位(12秒台)で、当時郡内大会で4連勝していた真野青年団を400mリレーで破ったことをよく覚えている。なお、同年代には国体等で全国で活躍した金子隆夫、高野正也氏等が居た
。
・昭和38年の障害児新潟県大会に出た時、当時の障害者記録を塗り替えたのでオリンピック出場につながった。最初はどんな大会に出るのかわからなかったが、どうもオリンピックらしいと言うので喜んで出場した。このパラリンピックはオリンピックと同会場・同時期に行われた初回で、東京オリンピック閉会後、一週間後、選手村をそのまま使ってパラリンピックが行われた。これは第二回であるが、パラリンピックと呼ばれた最初の大会であった。
★山城十作
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1斎藤のオヤジを偲ぶ
★山城政人




「桃田選手に続け、新潟の3選手が福島の強豪中学に」(2021年3月24日)
【新潟】バドミントンの強豪で知られる福島県内の中高一貫校に、この春、新潟県内から3選手が入る。いずれも今冬の全国大会で優勝した有力選手だ。同校は、男子シングルス世界1位の桃田賢斗選手の母校の流れをくむ。3人も世界での活躍を夢見ている。 1月にあった「日本小学生バドミントンフェスティバルINくまがや」の男子ダブルス6年生以下の部で優勝したのが、柏崎市立半田小学校6年の植木伸弥さん(12)と、刈羽村立刈羽小学校6年の品田莉希さん(12)のペア。決勝では第1セットを先取される展開だったが、粘り強いプレーで逆転した。品田さんは「攻撃は通用していた感覚があった。相手が甘くなるのをしっかり待てた」。植木さんは「ベスト4や決勝進出を目指していたので、優勝した瞬間は夢のようだった」と語った。 2人は柏崎市内の同じクラブチームに所属し、練習を共にしてきた。「伸弥は自分よりレシーブがうまい」(品田さん)、「(品田さんは)自分が取れない球も拾える」(植木さん)と互いを認め合う。 2人は4月に、福島県立ふたば未来学園中学・高校に入る。同校は、桃田選手が卒業した富岡高校などを引き継ぐ形で開校した。「まずは全中(全国中学校体育大会)で優勝し、将来は世界で通用する選手になりたい」と2人は口をそろえた。 一方、同じ1月の小学生バドミントンフェスの男子シングルス6年生以下の部で優勝したのが、佐渡市立金井小学校6年の山城政人さん(12)。全国の予選を勝ち抜いた40人の中で、準決勝まで全てストレート勝ちで決勝に進んだ。佐渡市内の佐渡ジュニアバドミントンスクールで練習し、4年生のときにも全国制覇。全日本強化選手として海外遠征にも参加経験がある。
・全国小学生選手権の代替大会として開催されている日本小学生バドミントンフェスティバル INくまがや(埼玉県・彩の国くまがやドーム)。大会最終日の8日は、5年生以下の準決勝と決勝、6年生以下の3回戦(男子ダブルスのみ2回戦)から決勝が行なわれた。ここでは、6年生以下男子シングルス・ダブルスの優勝者コメントと結果を紹介する。
【6年生以下・男子シングルス】
山城政人(佐渡ジュニア・新潟)
「前回の全小は3位。準決勝で焦ってしまったので、今回は焦らないことを意識しました。決勝は1ゲーム目を取られたけど、2、3ゲーム目はミスを減らしていけたのがよかったです。これからもっと攻撃を磨いて、全中でも優勝したいです」
4年生の時に全小を制した山城が頂点到達。得意のネット前のプレーや長身を生かした上からのショットで得点を重ねた
★山城やえ
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1927年、佐渡高等女学校卒。俳人協会会員。「春耕」同人。
金井地区俳句教室講師(平成4年度より)
★山城屋勘十郎
富山市の長慶寺五百羅漢は佐渡の石工の手になるものであるが、「長慶寺五百羅漢尊者施主名簿」に載っている佐渡人二名の一人。他は、小木の町年寄、船問屋の柳屋傳五右衛門。
羅漢番号420 佐渡国新穂町。元禄二年大宮二宮拝殿建立の棟札に『新穂村名主 山城勘ケ由左衛門』と記す。」
「島の新聞」

「島の新聞」索引(人名別)
★山内三信(みつのぶ)
(Asahisinbun digital「島めぐり」)
佐渡島<7>元ホテルマンが追求する「ゆっくり眠る宿」
http://www.asahi.com/and_w/interest/SDI2015122157301.html?iref=andw_kijilist
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=17
★山尾章政(あきまさ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で通称を衛守という。歌人である。文政五年(一八二二年)二月に八十一才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★山尾鶴軒(やまおかくけん)
【生没】一七○七ー五七 絵師。名前は政圓、通称が衛守。鶴軒と号した。先祖は山尾治太夫といい三河(愛知)の生まれとされ、丹波(兵庫)亀山の城主松平伊賀守忠晴に仕えた。祖父伊兵衛の代に別家して相川へ移住してきたといわれる。このころ越後の画家長谷川信雪がいて、伊兵衛はこの人に絵を学び信舟と号したという。そういう家風の中に鶴軒は育った。初め流人絵師狩野胖幽に学び、享保十四年(一七二九)、二四歳のとき上京して狩野春賀、また狩野憲信に入門し、三年ほど修行して帰国した。佐渡奉行萩原美雅に認められて、奉行所付の絵図師に登用されるのは元文二年(一七三七)三月で、主として金銀採製図などの製作を担当したと見られている。菩提寺の江戸沢町大安寺に残る大型の涅槃図は、宝暦七年(一七五七)九月の雄こんな作画で、裏書に「絵師、当寺檀那、三町目、山尾衛守筆」とあり、三町目に邸宅があったことが知られる。その後代々絵図師で衛守を襲名し、章政(文政五年、八一歳没)・定政(万延元年、七二歳没)と続くが、定政は鶴斎の号があり、金銀採製図録などを描いたといわれる。萩野由之は『扶桑名画伝』に、「政圓姓しられず、山尾氏政圓は名にや、號にや、さだかならず」とあるのを引用して、「佐渡人にして中央の画家譜に上れるは、唯此人あるのみ」(『佐渡人物志』)と書いている。宝暦七年二月、五一歳で没した。【関連】絵図師(えずし)・狩野胖幽(かのうはんゆう)【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※絵図師(えずし)
鉱山で必要とした絵図を描く仕事で、山方役(山奉行)の指図を受けて、坑内坑外を問わず、いわゆる「絵図御用」を勤めた。一か月の報酬を「二人扶持、給銭一貫三百七十二文」とした記事があり、坑内外の測量に当たる「振矩師」よりは、いくらか高給であった。振矩師は「二人扶持、給銭一貫三百四十八文」とあるからである。佐渡鉱山で絵図師を新規採用しはじめたのは、享保二十年(一七三五)十月のことで、江戸の中期ころからである。職制では振矩師よりはるかに遅れていて、最初は古川門左衛門という人だった。この人は養父に当たる門左衛門(古川平助)が振矩職で、金銀巧者であり、古今の稼ぎ場などもよく知っている上、絵図にも堪能であることが買われて、絵図師登用が決まった。こうした事情から、それまでは振矩職が絵図師も兼ねていたらしいことがうかがわれる。門左衛門の採用によって、振矩と絵図師職が分業化されたことになる。この人と二年ほど遅れて、元文二年(一七三七)に山尾衛守(政圓)という人が絵図師となり、絵図師が二人制となる。二人に増員する必要が鉱山に生じていた。諸国に残る佐渡金銀山の「稼方図」や「金銀採製図」絵巻の中に、絵図師山尾一族の作図と思われるものが見られる。また絵図師以前に、南沢疎水の測量を担当した与右衛門(姓・静野)などによる詳細な坑内図も数多い。鉱山の採掘だけでなく経営ならびに開発にも、測量や作図作画業務は、きわめて重要な仕事であった。【関連】山尾鶴軒(やまおかくけん)【参考文献】『佐渡と金銀山絵巻』(相川郷土博物館)
【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★山尾定政(さだまさ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の絵図師で章政の養子、初名は治七、鶴斎と号した。佐渡海岸絵図、金銀採製図等の作がある。田中葵園社中で文学の才があった。文久元年(一八六一年)に七十二才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★山尾政圓(せいえん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の画家で通称は衛守、ほじめ政之助といい、鶴軒と号した。先祖は丹波亀山侯の臣、祖父伊兵衛の時、分家して移住した。伊兵衛は長谷川信雪に学び信舟と号して花鳥をとくいとした。政円はよく家風を継いで出藍の才があった。幼時から画をこのみ享保十四年(一七二九年)江戸に出て狩野春賀に学び、さらに狩野永真憲信に師事して帰郷した。翌年再び江戸に出て狩野祐清に師事し同十七年帰郷した。元文二年(一七三七年)絵図師として扶持を与えられ、五年田村奉行より泉清散の薬方を伝えられて州中に行商したという。宝暦七年(一七五七年)二月に五十一才でなくなった。子孫は代々衛守といい絵図師であった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
★山岡多一郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山岡伝五郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、享保七年(一七二二年)二月二十八日、御徒士頭より転任し、十一年二月九日御役御免となった。名は景顕、知行七百石であった。(佐島遺事)
★山岡八郎左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、嘉永七年(一八五四年)四月、西之九日付より佐渡奉行となり、翌安政二年(一八五五年)五月二日相川へ着いた。名は景恭、知行三百俵、役料千五百俵百人扶持である。万延元年(一八六〇年)十月、日光奉行となり備前守といった。(佐島遺事)
★山岡利納
利納は本名で、上山田の嘉左衛門家の人。大正十一年生れ。平成十年死亡。若いころから青年団や地域活動に活発で、町の青年団長や議会議員など勤めたが、晩年は健康もすぐれず不遇であった。
(歌碑:平成十八年三月建碑 樟石丈○、七六㍍)
○父われをお客となしてままごとにもはらなる児よ三つとなれり
歌は藤川忠治先生疎開当時からの歌友で、当時の地域の短歌活動の中核となって活動した。碑の歌も、子供の年齢から推してそのころの作と考えられる。『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★山折哲雄
「島の新聞」索引(人名別)
★山我宗敬
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
伊藤仁斎について儒学を修めたという。詳らかなことはわからない。東涯の「蓋簪録」に、「先人教授生徒四十余年諸州之人無国不至唯飛騨佐渡壱岐三州人不及門」云々とあるので尚考証が必要である。(佐渡人名辞書)
★山貝惇一
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7鎮魂譜 9<巻頭詩>海 9一随筆一わが残日録 9佐渡人形芝居座談会を終え
★山貝芳枝
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「7号」(平成18年10月)首都と佐度を「あまほっこり」と(高野チエ・山貝芳枝)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 9人物点描、画家・山貝芳枝 高野チエ
★山形壽作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★山形屋甚右衛門
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
★山形屋与惣左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川下戸町の人である。小前の老をよくいたわったので、文化七年(一八一〇年)役所へ呼出され賞された。(佐渡年代記中巻)
★山川卯平
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山川玉兎
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★山川健次郎
「ショートプロフィール」1854年(嘉永7)-1931年(〈昭和6年)。明治から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。会津藩出身で白虎隊士、後に国費で米国留学をして東京帝国大学教授。九州大学初代総長、京都大学総長、東京大学総長、貴族院議員。少年時、佐渡に居住。



白虎隊から東大総長になった会津人。少年時の一時期、越後の権判事奥平謙輔に預けられ、現在の佐渡高校の地にあった屯所に住んで下働きをしていた。奥平が若い頃、長州で学んだ会津藩士秋月悌二郎が奥平に、将来ある会津の若者3人を預けたことによる。山川は後にエール大学で物理学を収めて田中館愛橘や長岡半太郎等に教授し、その弟子筋である湯川秀樹、朝永振一郎がノーベル賞を受けた。なお、健次郎の実妹が米国に渡った女子留学生の一人山川捨松である。








「島の新聞」





『男爵山川先生伝』・『男爵山川先生遺稿』
『男爵山川先生遺稿』(山川健次郎著 故山川男爵記念会 昭和12年)
『男爵山川先生伝』(著者:花見朔巳編 出版:故男爵山川先生記念会 昭和14年)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山川健次郎 41 山川健次郎の手紙 福嶋野城子
「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」(両津港物語)
「明治の女子留学生」
★山川茂周(やまかわしげちか)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で字は孟楨という。経義を亀田鵬斎に学んだ。(佐渡人名辞書)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

「島の新聞」(両津港物語)
★山川捨松
「ショートプロフィール」・安政7年(1860年)- 大正8年(1919年)、日本初の女子留学生の一人、当時10歳。教育者。明治の女子留学生。大学を卒業し学士号を得た最初の日本人女性。元老大山巌の妻、看護婦教育・女子教育に尽力。
・安政7年(1860年)- 大正8年(1919年)は日本の教育者。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。
・兄山川健次郎は「白虎隊から東大総長へ」。
「島の新聞」(両津港物語)
「明治の女子留学生」
★山川園女(そのじょ)
【生没】一七五四ー一八一○ 江戸時代の書家、玉兎と号す。相川町大工町に生まれ、江戸に上り、三井親和の門に学ぶ。親和は、鵬斎の幼児期の手習い師匠であった。夫の茂周は、字は孟 、伯山と号した。漢籍を江戸の亀田鵬斎に学んだ。ともに文学の道の夫婦であったので、池大雅と玉蘭に比べられている。
【関連】亀田鵬斎(かめだぼうさい) 【参考文献】萩野由之『佐渡先哲遺墨』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で玉兎と号した。家は薬種商で播磨屋といった。書を三井親和に学び、その蘊奥を得たのみでなく、琴、三絃、点茶、挿花、聞香の諸技にまで通じ、交遊も広かった。文化四年(一八〇七年)七月、夫の伯仙に先だってなくなった。五十六才であった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★山川武夫
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山川茂周→山川茂周(しげちか)
★山川利英

★山川伯仙
「「励風館」の復元」(「飛鳥路に似る真野の里佐渡の百年」)
★山川博美
「島の新聞」索引(人名別)
★山木惣次
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
79 「洛中洛外図」展とふるさとの「芸能」 86 私見佐渡の覚書 (1) 87 私見佐渡の覚書 (2) 89 点鬼簿(6) 中山守夫、本間敏雄、本間亮敬、斎藤良二郎、真木山幸二郎、小野久夫、本間フミ、山本惣次、若林吉堯、浅島治兵衛、相馬一正、宮崎萬平 山本修巳
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 2またも行きたや佐渡の四季 3・ 随想・佐渡百年の大計 ・またも行きたや佛性の國・佐渡 4・佐渡北蔭の海 ・故・山本修之助先生のこと 5山木惣次氏の随想を『佐渡新報』が紹介 5《連載・1》世阿弥 6《連載・2》世阿弥 7「洛中洛外図」展とふるさとの芸能 7佐渡流人抄③世阿弥 8「遥かなる鷲崎への道」考 9あまほっこり劇場上演にさいしての実行責任者挨拶 9私見佐渡の覚書 10「時の流れに」
★山木ワカ
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 5 ルポルタージュ 山木ワカさん「奮闘」
★山岸敬爾
両津夷築地角で山岸医院を経営。「おそい梅」(倉田藤五郎 h11年11月再版)より

岩原・山岸・祝家
→本間周敬
★山岸俊次→鵜野峻
★山岸(岩原)正石
昭和17年両津夷生まれ 36年佐渡高校卒 40年東京理科大数学科卒。武南高校数学教師・教頭・事務長を務める。同校は全国高校サッカー全国優勝。両津高校創立に尽力した岩原一雄氏の三男であり、両津にあった山岸医院長女の家に入った。岩原家の叔父(父一雄の弟)に吉池百貨店創業者高橋与平の娘婿に入り道灌山幼稚園等を経営した幼稚園業界で知られる高橋系吾がいる。
★山岸隆光

★山岸寛
『加茂村誌』(昭和38年)

医師、両津夷(正覚寺辺)で開院していた。以前、映画館の「両津会館」があった場所で、現在は渡辺産商経営のマンションとなっている。昭和3年の夷大火災では奇跡的に焼失を免れる。
『両津町史』(昭和44年)
乗合自動車は夷の山岸寛、松瀬教五郎両氏の共同出資による山松商会が誕生し、夷新に事務所を置いて開業した。
大正から昭和初期にかけて両津築地で医院経営。事故で水死。近所の岩原一雄氏の三男正石氏(武南高校教諭)が山岸家に婿入りした。
※岩原一雄先生の三男は正石さん(17年生)、理科大出て神奈川県の高校教諭。山岸病院の娘さんと結婚されて山岸姓に。
二ノ丁の祝次郎助さんの静代さん(昭和20年生))の兄。正石さんの母は保母(早くに退職、102才で没)で中静美代先生と親しかった。静代さんは昭和20年生まれで時男(次男)さんと双子。
・白瀬奈須家の奈須与三次の弟(三男)が梅津鷺野の山岸権十郎家に婿入り(妻は山岸八重子)
・山岸寛・八重子夫妻に男児がなかったため、長女よし子に真野の医師本間周敬氏の次男(敬爾)を婿にもらい医業を継がせる。よし子さんは山岸医院廃院後に医院跡地に出来た両津会館社長となる。 後新潟に転居し、市橋保雄氏の隣家に住んでいた。
その子供たちは長男が山岸寛(医師)、妹(長女)てる(てる子?)は市橋安吉(やすきち:市橋保屋)に嫁ぐ。次女は池田啓二(池田呉服店)に嫁ぐが若くして死去。
・市橋保吉の弟が新潟の料亭「大善」に婿入り、苗字は大阪(大坂?)。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「人力車から自動車へ」(「佐渡の百年」)
★山岸美幸(みゆき)
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北鵜島の人、昭和8年生。北村家の人で、車田田植え歌を歌い継ぐ。また、海府甚句保存会の一員として踊り方を担当する。
→「佐渡の民謡」→「聞き書き」参照(本人写真あり)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「39号」(平成26年10月)国重文「車田植え」の田で古式ゆかしく稲刈り ※北村佐市・山岸美幸
★山岸本幸

★山岸隆蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★ヤマキチ
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=12
★山口明香
(Asahisinbun digital「島めぐり」)
佐渡島<1>古着から生まれる、アートな割烹着
http://www.asahi.com/and_w/interest/SDI2015092830971.html
★山口巌
両津住吉の人。長く両津活版印刷所に勤務しながら、夷七の町鬼組の太鼓打ちを務めた。周辺からは名人と慕われ、また、観光客などに行う鬼太鼓の解説はこれまた名人位であった。昭和30年代の佐渡観光における鬼太鼓分野での代表的人物である。
『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
私の生家「山口嘉次屋」(大川)は、先祖は「鍛冶屋」だったことは確かだ。私がまだ家にいた頃、歳の暮れ近い頃祖母が「今日はかじやの祭だから」といって、アンコの入らない「ヤキモチ」を作って神様にお供えしていた。成長してから考えてみると、その日は十二月八日の、いわゆる「ふいごまつり」であったことに気付いたのである。 鳥追い唄に「かんじゃ(かじや)の屋根に、ケケロが鳴いた どういうて鳴いた 銑(せん)ややすり たろ槌たがね やれこら打上げて ケケロと鳴いた チャーホーホ」とかじやのことが唄われている。大方ケケロというのは悪烏のことを云うのだと思う。知っている方は教えてほしい。「山口」という姓は明治四十年頃まで、「かんじゃの地蔵さん」の向かいに家があった。山へ入る口にあったため「山口」と名乗ったのだとよく聞かされた。
『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)より
・会長山口が県観光協会長より受賞 新潟県観光協会長より、昭和三十七年度総会席上「新潟県観光功労者」として表彰するという事で、同年の総会会場松の山温泉へ出かけて行った。勿論県下の功労者中、前後を問わず一番の若年者である。その時四十六歳。
・昨年、両尾集落と大川集落の鬼太鼓が誕生してから丁度百年を数え、それぞれ記念行事を考えているらしいが、発足の明治二十七年という昔を想像すると、それはとてもとても現今の時代からは考えられない苦労があって、恐らく村を挙げての大きな協力事業であったことと思う。ちなみに前記集落の鬼太鼓は夷の舟大工弥之助が教えたものである。
古老から聞いた話や、神社の祭礼の歴史などを考え合わせて見ると、現在行われている両津市の各集落の鬼太鼓は、明治になってから導入したか、もしくは江戸末期に習ったものであったとしても、神社に奉納だけで、今のように氏子の家庭を回るような盛大な行事になったのは、恐らく庶民の生活が安定した明治十年以後からではなかろうか。
わが両津鬼太鼓組の原点ともいうべき夷七ノ丁鬼太鼓にしても、明治の始めか(江戸末期と考えても)、「下町大神宮のお祭りには、小木芸者の鬼太鼓が来て、奉納されたもんだ」と語ってくれた古老が二人もいたことを考えると、大先輩の創始者、下町の舟大工弥之助が潟上から習い覚えて、下町大神宮の例祭に舞ったのは明治も十年頃か、それ以後であると考えられる。
創始者舟大工弥之助の話は、私らの先輩である八郎平町の関東長助、福島作助の話を聞いてみると、「弥之助一人ではない。サエムクロもその内の一人なんだ」と聞かされた。その人はどこの人か? 弥之助もどこにいた人だったのか? 両人推語ってくれない内に他界してしまった。後年になって七ノ丁出身者である飯嶋庄吉の
(飯嶋ナカ) おばあさんからきいてみるとサエムクロつまり左工門九郎という家は、今の小池佐太郎両津活版の屋敷であり、「両津町史」の地囲を見てもはっきり左工門九郎は分かった。残るは舟大工弥之助だ。
ある時同志中尾君から意外なことを聞いたのである。夷七ノ丁石川惣五郎さんが毎度お墓の花を買う時、「弥之助の分」といって買い求めることが分かった。もしや! と思って伺ってみると、昔、惣五郎家の借家にいた人であり、正覚寺にそこのお墓が現存していることが分かった。早速惣五郎さんの案内で参拝させて貰った。昭和三十年代に新しく立て替えたお墓には、「山口弥之助」となっており、現在子孫は北海道に住んでいるとの事。正覚寺住職さんから調べて頂いたら、確実なことは分からないが、どうもそれらしき人が明治三十八年に亡くなっているので、その人が夷七ノ丁鬼太鼓の・元祖舟大工弥之助であろうと考えられる。 毎晩、向いの「両津会館」の鬼太鼓の音を聞きながら、弥之助大先輩はいま泉下でどう受け止めていてくれるだろうか。 湊の鬼太鼓も元は同じ型であったと聞く。つまり兄弟である。その証拠に前記作助翁は湊まつりになると裏太鼓用のバチを帯につき込んで、手伝いに出かけて行く姿を見かけている。湊はその後幾度か塑が変っているということを湊の人から聞いていることから、弥之助説が考えられないこともない。 春日町及び、福浦の鬼太鼓が出来たのは、昭和六年頃であり弥之助から考えれば孫にあたると云ってもよい。 とにかく、この年誌はウソを書かないよう充分注意して書いたつもりであるが、何分資料のない部分もあり、もし違った点等あったら教えていただきたいと思っている。
「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山口巌 32 夷・鬼太鼓 -山口さんの話- 福嶋野城子
・「両津鬼太鼓組五十年誌」(山口巌 昭和7年)
・「太鼓人生六十年」(山口巌)
★山口栄一郎
「島の新聞」索引(人名別)
★山口嘉市
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★山口亀太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口義貫
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口啓四郎(吹雪島)
本名山口啓四郎、写真は昭和33年頃。最高位は幕下32枚目、横綱吉葉山の宮城野部屋。写真一列目左端が吹雪島、右端が後にプロレスで活躍したラッシャー木村




両津夷出身の大相撲力士で、本名は山口敬四郎。最高位は幕下で、引退後は家業であるホテル経営に入り、両津ヤマキホテル社長となった。平成20年頃没。
★山口健吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口幸蔵
「躍進日本」


★山口湖門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
両津市夷の画家で幼名を利三郎といい、家を継いで利八と呼んだ。号を金峰、後湖門と改めた。家は海産物業で富裕だったので幼時から画を志し、京都に出て横山清暉の門で修業した。三年後帰郷したが家は衰頽したので画業を絶ち、家業に専念し海産物を輸出して一時は挽回したが、たびたび海難にあって家産を失い苦難のうちに明治八年に三十七才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★山口三次郎

1841年(天保12)、羽二生に生れる。明治5年、31歳で単身北海道に渡り、島牧(しままき)郡原歌(はらうた)村でニシン漁、ニシン工場等で大成功する。最盛期には35の漁場経営と「北海道西海岸開拓史」に記述あり。親松太郎の佐渡におけるニシン移植運動に協力する。明治37年に寄贈した燈明台一対が羽二生の村宮八幡若宮神社境内に残る。
「北海道立志編」(明治36年刊)より


★山口茂子 両津高校時代のS4l、全国選手権ボート部女子ナックル6位(山口茂子、滝本幸子、須藤法子、
板野富代、池ひろ子)
★山口写真館
相川と両津町開拓に店舗を持った。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★山口壽一
両津市市会議員を長く務め議長も歴任。豪放磊落で人情味ある政治家として慕われた。家業は八郎平町の水産業「染三屋」で往時は遠く海外に進出して漁獲、しかし倒産。ヤマキホテル山口家とは親戚筋。平成29年3月没、97歳。
★山口誓子(せいし)
「朱鷺58号」


左:度津神社、右2枚:小木公園





本名新比古(ちかひこ)。京都生れの俳人で、俳誌「天狼」を主宰して、写生を目指す俳句を指導した。
佐渡にも門人が多く、句を島内の方々に残した。
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)


『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
(句碑:棹石1.3m 度津神社)
○ひぐらしが鳴けり神代の鈴振って
碑の裏に説明板があって、一の宮の度津神社に参詣してこの句を詠んだのは、昭和六十二年八月三十日であったとある。
盛夏の騒々しい蜩(ひぐらし)ではなく、社の森に浸み入るような澄み通った鳴き声であったのであろう。
建設は当時の羽茂町であった。
(佐渡で詠んだ句)
・烏賊火(いかび)明るし佐渡の月更に明(めい) (相川・大浦)
・先ず見しは 蘇鉄(そてつ)の青き 照葉なり (真野・新町。故山本修之助氏宅庭内)
・ひぐらしが 鳴けり神代(かみよ)の 鈴振って (羽茂・度津神社境内)
・次の間が 透けり霞簀(かさく)の 襖(ふすま)には (羽茂本郷・氏江省吾氏宅庭前)
・この寺は 佐渡あぢさゐの 総本山 (小木小比叡・蓮華嶺寺境内)
・烏賊釣火(いか・つりび) 木の間に透きて 連なれり (小木木野浦・長寿庵)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山口誓子
59 佐渡行 61 山口誓子先生・加藤楸邨先生 御来訪記念「大蘇鉄」句碑除幕式 平成元年8月20日 62 佐渡の日蓮 65 蓮華峰寺「あぢさゐ」の句碑建立始末記 数馬あさじ 68 山口誓子先生随伴記 山本修巳 70 一句を選ぶ 73 佐渡の島、二つの句碑除幕式覚書 数馬あさじ 76 山口誓子先生と富士山 佐竹紘栄 77 山口誓子先生の思い出 佐竹紘栄 81 山口誓子筆 芭蕉「荒海や」句碑など移転-小木町-数馬あさじ 140 わたしの俳句雑感 山口誓子先生・加藤楸邨先生句碑 山本修巳
「ウィキペディア」より
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=4
★山口高子
「島の新聞」索引(人名別)
★山口孝志
1971年4月24日[1] - )は、日本の投資家、FXトレーダー、企業経営者。クロスリテイリング株式会社の創業者。新潟県生まれ
「ウイキペディア」より
★山口正
佐渡高校時代の昭和47.10.15、陸上競技県高校新人選抜大会(三条市)入賞
48.5.31~6.2、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)ハンマー投3位入賞
48.9.30、陸上競技県高校新人選抜大会(上越市)砲丸投1位
49.6.4~6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)総合29点3位 、ハンマー投1位・円盤投2位・砲丸投2位
49.6.21~23 、陸上競技北信越高校大会(新潟市) 砲丸3位・ハンマー投3位
★山口太郎吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口智海
石名の檀特山清水寺住職。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山口常吉
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

昭和7年、加茂村長に当選。
★山口鶴蔵(しこ名 二代越の湖)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
両津の人、大正13年の第8回青年団スポーツ競技会(相撲の部)で優勝する。
明治34年生まれ一昭和47年投。72歳。(1901年~1972年)両津夷、染三屋の出。両津方面の古老の話では、「越後の相撲に肩を並べられるのは、大正時代の越の湖、昭和に入って出来清水だ」と云います。また、島内でほ一時期「越の湖か荒磯か。」とうたわれたことは確かである。山口鶴蔵ほ、大湊も名乗ったことがあるらしい。越の湖を名乗る前であろうと思うのだが、越の湖を譲ったあと男山で名乗ったという人もあり、はっきりしない。大湊の化粧廻しは、この人から相川の大潮に譲渡されていることは、はっきりしている。(大湊の化粧廻しは東京相撲から入ってきたもの。)山口鶴蔵は大正13年県青年大会に2位入賞をしている。明治神宮大会県代表に推薦されたのだが、辞退して出場しなかったという。翌年荒磯が出場している。山口は力持ちで、四斗俵を2~3俵かためてしばったものを、かつぎあげたと云われているので、3俵なら180kgだから、仲々の力持ちであった。それというのも、彼は両津の農業会に集荷された米を、北海道通いの汽船に移し代える、いわば沖仲仕の差配を業としたというから、自然腰と腕力は備わったものであろう。祖父の染吉は、夷八郎兵衛町に住任し、男伊達で気っぶが良くて、人に恵むことが多かったので、取り巻きは、染さん、染さんといって、それが染三屋の屋号になったのだと伝えられている。 鶴蔵は経済界でも成功した時期があって、遠洋漁業の船を3艇も所有するようになり、その1艇を大湊丸と名付けたといいます。この頃職業柄、民社党の県連会長の柏原正雄と親交を結んだといわれ、その影響をのちに子の寿一に引き継がれることになった。子の寿一は、民社党から市会議員選挙に出馬して、5期をつとめ、両津市副議長になった。鶴蔵は晩年糖尿病をやみ尿毒症で死去した。墓ほ新穂村浄賢寺にある。
★山口八治郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

★山口勝
佐渡高校時代の昭和47.10.15、陸上競技県高校新人選抜大会(三条市)入賞
48.5.31~6.2、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)砲丸投・円盤投3位入賞
48.6.22~24 、陸上競技北信越高校大会(富山県) 砲丸投入賞
48.9.30、陸上競技県高校新人選抜大会(上越市) 円盤投1位
49.6.4~6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)総合29点3位 山口勝砲丸投1位・円盤1位
49.6.21~23 、陸上競技北信越高校大会(新潟市)砲丸6位
★山口麻矢
両津高校時代の1990年度(H2)5月、第2回学生短歌・高校生の部(短歌新聞社『短歌現代』5月号) 人選
★山口幹文

★山口光行
「戦国佐渡国人名辞典」より
【やまぐちみつゆき(15??~15??)】羽茂高茂家臣。通称式部。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。
★山口康男
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「11号」(平成19年10月)「世界をリードする日本のアニメ」(山口康男)
★山口弥之助
左工門九郎(サエムクロ)と共に両津鬼太鼓の祖と言われる。
『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)より
・昨年、両尾集落と大川集落の鬼太鼓が誕生してから丁度百年を数え、それぞれ記念行事を考えているらしいが、発足の明治二十七年という昔を想像すると、それはとてもとても現今の時代からは考えられない苦労があって、恐らく村を挙げての大きな協力事業であったことと思う。ちなみに前記集落の鬼太鼓は夷の舟大工弥之助が教えたものである。古老から聞いた話や、神社の祭礼の歴史などを考え合わせて見ると、現在行われている両津市の各集落の鬼太鼓は、明治になってから導入したか、もしくは江戸末期に習ったものであったとしても、神社に奉納だけで、今のように氏子の家庭を回るような盛大な行事になったのは、恐らく庶民の生活が安定した明治十年以後からではなかろうか。 わが両津鬼太鼓組の原点ともいうべき夷七ノ丁鬼太鼓にしても、明治の始めか(江戸末期と考えても)、「下町大神宮のお祭りには、小木芸者の鬼太鼓が来て、奉納されたもんだ」と語ってくれた古老が二人もいたことを考えると、大先輩の創始者、下町の舟大工弥之助が潟上から習い覚えて、下町大神宮の例祭に舞ったのは明治も十年頃か、それ以後であると考えられる。創始者舟大工弥之助の話は、私らの先輩である八郎平町の関東長助、福島作助の話を聞いてみると、「弥之助一人ではない。サエムクロもその内の一人なんだ」と聞かされた。その人はどこの人か? 弥之助もどこにいた人だったのか? 両人は語ってくれない内に他界してしまった。後年になって七ノ丁出身者である飯嶋庄吉の(飯嶋ナカ)おばあさんからきいてみるとサエムクロつまり左工門九郎という家は、今の小池佐太郎両津活版の屋敷であり、「両津町史」の地図を見てもはっきり左工門九郎は分かった。残るは舟大工弥之助だ。ある時同志中尾君から意外なことを聞いたのである。夷七ノ丁石川惣五郎さんが毎度お墓の花を買う時、「弥之助の分」といって買い求めることが分かった。もしや!と思って伺ってみると、昔、惣五郎家の借家にいた人であり、正覚寺にそこのお墓が現存していることが分かった。早速惣五郎さんの案内で参拝させて黄った。昭和三十年代に新しく立て替えたお墓には、「山口弥之助」となっており、現在子孫は北海道に住んでいるとの事。正覚寺住職さんから調べて頂いたら、確実なことは分からないが、どうもそれらしき人が明治三十八年に亡くなっているので、その人が夷七ノ丁鬼太鼓の元祖舟大工弥之助であろうと考えられる。毎晩、向いの「両津会館」の鬼太鼓の音を聞きながら、弥之助大先輩はいま泉下でどう受け止めていてくれるだろうか。 湊の鬼太鼓も元は同じ型であったと聞く。つまり兄弟である。その証拠に前記作助翁は湊まつりになると裏太鼓用のバチを帯につき込んで、手伝いに出かけて行く姿を見かけている。湊はその後幾度か型が変っているということを湊の人から聞いていることから、弥之助説が考えられないこともない。春日町及び、福浦の鬼太鼓が出来たのは、昭和六年頃であり弥之助から考えれば孫にあたると云ってもよい。
『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
・元祖弥之助は夷七にいた舟大工
夷七ノ丁に私が住むようになり、鬼太鼓に関係するようになってから、長助、作助の大
先輩によく弥之助のことを聞いてみたが、なぜかいま一つはっきりしなかった。ある時、中尾君が、「惣五郎さんがお墓の花を買う時、『弥之助の分も』と余分に一つ買い求めてゆく」ということを聞いたので、「もしや」と思って惣五郎さんへたずねてみた。分かった!! 永年探していた弥之助が分かった。惣五郎さんは「年寄り夫婦がいる時ならもっと詳しく分かったのに……」と云いながら次のように話してくれた。「昔、永い間、惣五郎の借家にいた大工さんで、実子がなく、若い人の代になってから北海道へ移住した。その際に惣五郎へ弥之助の墓の守りもこ緒に頼んで、時々お金も送ってくる。お墓は惣五郎と同じく正覚寺にあります。」ということであった。早速惣五郎さんのご案内で正覚寺境内の弥之助の墓にお参りした。戦後北海道にいる人が新しく建て替えた新しい墓で、弥之助は山口姓であることが判明した。正覚専任職様に依頼して調べていただいた。俗名伊之吉、その方らしい人が昭和三十八年に亡くなっている。明治二十六年に舟大工弥之助は、大川と両尾へ鬼太鼓を教え誕生させている。
★山口雄太
新潟日報 平成27年8月21日

★山口裕
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=7
★山口義威
善知鳥神社

ヤマキホテル創業者山口菊治の長男で相川ヤマキホテル社長。同ホテルは平成20年代後半に廃業した。
★山口義紀
両津高校時代の2000年度(H12)、北信越総合体育大会 陸上競技部 走幅跳5位
2001年度(H13)、陸上部県選抜陸上競技大会 走幅跳1位、、北信越高校新人陸上競技大会 走幅跳 3位
2002年度(H14)、新潟県高校稔体 走幅跳2位、北信越高校総体 走幅跳3位、全国高校総体 走幅跳出場
★山口里桂
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★山崎音吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山崎潔
「躍進日本」

★山崎寿吉

両津高校5代校長(昭和42年4月~昭和43年3月)。
★山崎則正

両津高校17代校長(平成12年4月~平成15年3月)。
★山崎千代
源氏物語研究家、畑野栗ノ江出身、長岡に住んだ。著書に『源氏物語欅中抄 (1954年)』
★山崎俊雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山崎友子
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
河原田高女時代の昭和13年、第8回県下女子中等学校体育大会(柏崎グランド)で河原田高女が200mRで5位(石塚スエ、近藤絢子、山崎友子、真島佐智子)。
★山崎酉蔵


★山崎美一
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)10代校長(昭和21・7・29~昭和24・3・31)、福井県人。
★山崎房子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山崎房子 59 清水基吉先生の俳句
★山崎文蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★山崎松蔵
風島神社

★山崎弥生吉
馬首出身、大蔵省官僚。
★山崎勇平
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7わが人師片岡班長殿へ!
★山崎和佳奈(やまざきわかな)
1965年3月21日 -。著名な女性声優、ナレーター、舞台女優。青二プロダクション所属。神奈川県横浜市出身、京都府育ち。代表作は『名探偵コナン』(毛利蘭)、『ひみつのアッコちゃん(第3作)』(加賀美あつこ(アッコ))、『格闘美神 武龍』(毛蘭)など。母が相川姫津の人、相川の「竹屋」ご主人は彼女の伯父。
「ウィキペディア」より
★山路健
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山路健 70 佐渡は文化の発信地-五七五の地球儀-
★山路三五郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山路秀雄
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
いまは藁がたいへん不足している時代となった。最も多く使われるのは馬の飼糧としてであるという。つぎは畳の材料に使われる。そして縄がこれに続く。だから昔のように縄をなう人たちが少なくなってしまった。縄の種類は堅縄(大網用)、荷造り粍(農家用)、大綱(漁業用)などが主なものである。これらの縄を取り扱う商人はあまりいない。新潟県下でも、新町の山路秀雄一軒くらいであるという。だから山路は、島内の製縄を一手に引きうけて取り引きしているが、それでも品不足気味である。集められた絶は島内の漁業者はいうに及ばず、遠く富山県・石川県・福島県・越後方面へ送られるという。北海道方面へは昔とちがって出ていかない。山路は自分で藁を買い入れ、自家用の製縄機械を使って生産を他人に委託している。また多少農家で作るものを買い入れている。いま縄を作っている所は畑野町目黒町などが一番多く、他に新穂や畑野町三宮あたりである。真野町のうちでは金丸、合沢あたりでも少し作られており、これらの買入れも行っている。
★山下悦子
「島の新聞」索引(人名別)
★山下数右衛門(やましたかずうえもん)
【生没】(生年不詳)ー一七七一 延享三年(一七四六)より嘉永二年(一八四九)まで、代々この名で振矩師を勤めた。振矩師としての山下家初代は、三丁目に住んだ山留大工頭数右衛門(~明和八年・一七七一)。奥州半田銀山が佐渡奉行支配となるにあたり、延享三年半田銀山見分のため、銀山功者の故に振矩師に取り立てられ、苗字を許され山下数右衛門を名乗った。半田では穿子遣山留肝煎を、帰国後は振矩師の傍ら、種々の稼方の世話をも務めた。振矩術を、振矩師静野与右衛門の門人で絵図師の、山尾衛守政円より受けたが、その技は静野には及ばず、二代数右衛門清八(~文化二年・一八○五)の頃には、この術も立ちゆかず、寛政二年(一七九○)幕府の命によって来島した大坂天満木幡町の銅屋で、宅間流算学者妻野佳助重供がこれに手をかしている。このとき、清八は妻野から宅間流算術の一部や「町見術図解」(測量術)を授けられ、三代数右衛門美 (~天保二年・一八三一)を経て四代数右衛門泉(~嘉永二年)は、若年ながら百五十間余の中尾間歩水貫普請(文政八年~天保二年『佐渡四民風俗』)を成功させ、老中松平泉守より褒美を受け、山下家の名誉を挽回している。しかし、残念ながら泉は、奉行所御用炭に関する収賄一件で、嘉永二年四月死罪となり、振矩師としての山下家の終焉を迎えた。下寺町法然寺の過去帳には、初代山下数右衛門の祖父数右衛門(~元禄元年・一六八八)以下、泉の長男柏太郎(天保五年~明治七年)までの記録があり、同家の墓は同寺本堂の裏手にある。
【関連】振矩師(ふりかねし) 【参考文献】石井文海『当家永久年代記』、金子 勉「振矩師雑記」(『佐渡郷土文化』) 【執筆者】金子 勉 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※振矩師(ふりかねし)
佐渡奉行所雇の、鉱山の測量師を振矩師という。鉱石の採掘場所である敷が深くなるにつれ気絶(通気不良)や、湧水による水敷(水没した敷)が多くなる。これを避るための煙貫(通気坑道)や水貫(排水坑道)工事、探鉱坑道の延長工事等々には、つねに具体的な測量が不可欠である。地上や地中の各地点間の方角・勾配・距離を測定し、精密な計算等を経て、その位置関係を定めるのが、振矩師の職分である。振矩師の下に、振矩師見習・振矩師助・同助見習などの身分があり、宝暦~文政年間(一七五一~一八三九)には振矩師に二人扶持(一日米一升)、一か月銭一貫三百四十八文が支給され、文政の例では、振矩師助にもなにがしかの給銭が与えられたが、助見習は無給であった。ただし、水貫工事などで特別な業績があったときには、増給や身分の昇格もあった。また幕末~明治初年には、「算術指南方」を兼務する者もあり、これには別に手当が出た。なお、振矩師には大略次の人たちがいた(ただし、○印は振矩師助である)。樋野半三・持田半左衛門(後に地役人に昇格)・静野与右衛門・品川平左衛門・古川門左衛門・山下数右衛門(初代~四代)・○青木忠四郎(青木次助・羽田町青木家の祖先)・阿部六平・阿部坤三・山本仁右衛門。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
振矩師(ふりかねし)。佐渡国相川鉱山に勤務した。
天保三年(-八三二年)中尾問歩の水質間切工事で最初の縄引(測量)の通り聊かの狂いなく貫合したのは職業鍛練故の儀につき、一代給銭を増すと役所から申付けられた。(佐渡年代記中巻)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山下数右衛門
31 振矩師雑記 (9) -山下数右衛門 (1)-金子勉
33 振矩師雑記 (10) -山下数右衛門 (2)-金子勉
35 振矩師雑記 (11) -山下数右衛門 (3)-金子勉
38 振矩師雑記 (12) -山下数右衛門 (4)-金子勉
40 振矩師雑記 (13) -山下数右衛門(5) 阿部六平-金子勉
★山下兼吉
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★山下喜三次
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★山下清







『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)





山下清の動画あり(下の方)
「ウィキペディア」より
諸情報
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 154 「僧」良寛と「画伯」山下清-佐渡を舞台のすれ違い-
「島の新聞」索引(人名別)
★山下圭一
佐渡高校時代の昭和52.1.30、バドミン トン全国高校選抜新潟県予選会(新潟市)シングルス1位、山下圭一・堀幹雄組ダブルス2位
52.2.10~11 、バドミン トン高校選抜大会北信越予選会(福井児)山下圭一・堀幹雄出場
52.6.4~6、バドミン トン県高校総合体育大会男子団体3位、山下圭一シングルス2位
52.8.1~6 、バドミン トン全国高校結合体育大会(倉敷市) 出場
★山下庄次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山下仁策
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★山下寛
佐渡高校時代の昭和45.10.3~4、陸上競技県高校新人大会(新潟市)、200m入賞
★山下文内
「手わざ図鑑」

★山下美智子
両津高校時代の1951年度(S26)9月、第4回新潟県高等学校総合体育大会 陸上競技 砲丸投1位
★山下峰生
「島の新聞」23号


「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」索引(人名別)
★山下良実
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川町 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]
★山下隆一
両津高校時代の1982年度(S57)11月、第7回BSN杯高校柔道選手権大会 個人中量級3位
★山城一雄








下新穂の人、家は新穂城の中にある。岩の平園園長を長く務めた。1964年の東京パラリンピックに出場している。地元の義盛塚等、地道に郷土史を研究している。昭和12年、下新穂生、新穂城の掘の内側に家はある。小学生時代の昭和21年11月、作業場で遊んでいた時、そこにあった真管に触れるとそれが爆発し右手を失う。その爆発音は佐渡農業高校辺りまで聞こえたと言う。 兄弟は6人で、男4人。小さい頃から運動が好きで、野球は後に大リーグのジム・アボットで有名になった投げ方だった。左手のグラブでボールを取り、グラブを右手の間接に挟み、左手でボールをグラブから取って投げるのである。卓球もやったが、今はやっている「投げ上げサーブ」だった。左手でラケットとボールを持ち、ボールを上に投げ上げてサーブする形だ。小さい頃から走るのが好きで、100m走や幅跳びが得意だった。 高校卒業後県職員になり、障害児関係畑に勤務した。最初が新星学園、その後も勤務し計2回。寺泊「白岩の里」(2回)、上越児童相談所(2回)である。福祉関係の専門職で児童教育の専門職である。・昭和39年(1964)の東京パラリンピックには幅跳び(5m29)で銀メダル、100m走(13:02)で銅メダルだった。両方共に普段の実力は出せなかった。練習は主に新穂小で行ったが大会前の練習は不足していた。100mは優勝候補と思っていたが、当日はフライングしてしまい、その後慎重になってスタートが出遅れた。当時は167cm、50㎏弱の干し見の身体だった。 この時のメダルは、オリンピックのメダルと同じ重さで、大きさはオリンピックの方が大きかった。従ってパラリンピックの方がメダルは厚い。大会後BSNラジオ出演した。
・当時から障害者県大会はあったがレベルが低いために出場しなかった。健常者と共に競技に参加し100m走では佐渡島内で5位位(12秒台)で、当時郡内大会で4連勝していた真野青年団を400mリレーで破ったことをよく覚えている。なお、同年代には国体等で全国で活躍した金子隆夫、高野正也氏等が居た
。
・昭和38年の障害児新潟県大会に出た時、当時の障害者記録を塗り替えたのでオリンピック出場につながった。最初はどんな大会に出るのかわからなかったが、どうもオリンピックらしいと言うので喜んで出場した。このパラリンピックはオリンピックと同会場・同時期に行われた初回で、東京オリンピック閉会後、一週間後、選手村をそのまま使ってパラリンピックが行われた。これは第二回であるが、パラリンピックと呼ばれた最初の大会であった。
★山城十作
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1斎藤のオヤジを偲ぶ
★山城政人





「桃田選手に続け、新潟の3選手が福島の強豪中学に」(2021年3月24日)
【新潟】バドミントンの強豪で知られる福島県内の中高一貫校に、この春、新潟県内から3選手が入る。いずれも今冬の全国大会で優勝した有力選手だ。同校は、男子シングルス世界1位の桃田賢斗選手の母校の流れをくむ。3人も世界での活躍を夢見ている。 1月にあった「日本小学生バドミントンフェスティバルINくまがや」の男子ダブルス6年生以下の部で優勝したのが、柏崎市立半田小学校6年の植木伸弥さん(12)と、刈羽村立刈羽小学校6年の品田莉希さん(12)のペア。決勝では第1セットを先取される展開だったが、粘り強いプレーで逆転した。品田さんは「攻撃は通用していた感覚があった。相手が甘くなるのをしっかり待てた」。植木さんは「ベスト4や決勝進出を目指していたので、優勝した瞬間は夢のようだった」と語った。 2人は柏崎市内の同じクラブチームに所属し、練習を共にしてきた。「伸弥は自分よりレシーブがうまい」(品田さん)、「(品田さんは)自分が取れない球も拾える」(植木さん)と互いを認め合う。 2人は4月に、福島県立ふたば未来学園中学・高校に入る。同校は、桃田選手が卒業した富岡高校などを引き継ぐ形で開校した。「まずは全中(全国中学校体育大会)で優勝し、将来は世界で通用する選手になりたい」と2人は口をそろえた。 一方、同じ1月の小学生バドミントンフェスの男子シングルス6年生以下の部で優勝したのが、佐渡市立金井小学校6年の山城政人さん(12)。全国の予選を勝ち抜いた40人の中で、準決勝まで全てストレート勝ちで決勝に進んだ。佐渡市内の佐渡ジュニアバドミントンスクールで練習し、4年生のときにも全国制覇。全日本強化選手として海外遠征にも参加経験がある。
・全国小学生選手権の代替大会として開催されている日本小学生バドミントンフェスティバル INくまがや(埼玉県・彩の国くまがやドーム)。大会最終日の8日は、5年生以下の準決勝と決勝、6年生以下の3回戦(男子ダブルスのみ2回戦)から決勝が行なわれた。ここでは、6年生以下男子シングルス・ダブルスの優勝者コメントと結果を紹介する。
【6年生以下・男子シングルス】
山城政人(佐渡ジュニア・新潟)
「前回の全小は3位。準決勝で焦ってしまったので、今回は焦らないことを意識しました。決勝は1ゲーム目を取られたけど、2、3ゲーム目はミスを減らしていけたのがよかったです。これからもっと攻撃を磨いて、全中でも優勝したいです」
4年生の時に全小を制した山城が頂点到達。得意のネット前のプレーや長身を生かした上からのショットで得点を重ねた
★山城やえ
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1927年、佐渡高等女学校卒。俳人協会会員。「春耕」同人。
金井地区俳句教室講師(平成4年度より)
★山城屋勘十郎
富山市の長慶寺五百羅漢は佐渡の石工の手になるものであるが、「長慶寺五百羅漢尊者施主名簿」に載っている佐渡人二名の一人。他は、小木の町年寄、船問屋の柳屋傳五右衛門。
羅漢番号420 佐渡国新穂町。元禄二年大宮二宮拝殿建立の棟札に『新穂村名主 山城勘ケ由左衛門』と記す。」
2014-03-01
★迎町猛
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★迎町彌曾吉(むかいまちやそきち)
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治七年生 吉井村吉井 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日] 『金井を創った百人』
★向山愛

★向山清(むこやまきよし)

赤泊三川(山田)出身、昭和8年生。山田のやまびこ会(古民謡保存会)に入り笛を担当。昭和56年(48歳)の時に上京、新潟県人会に入り「おけさ友愛会」を立ち上げる。関東における新潟県や佐渡関係行事に数多く出演し佐渡民謡を披露している。
★武者小路実篤
「日蓮と千日尼」(小説31枚 武者小路実篤全集9 平成元・小学館 「主婦之友」昭和8年1月)
日蓮の佐渡配流から身延での修行の頃までを概略描いた。佐渡配流の折り師事して世話をした阿仏房およびその妻・千日尼との交情を核とする。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★武藤岩五郎
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★棟方志功
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)棟方志功 1 棟方志功氏の思い出 笹井敏雄
★宗岡佐渡(むねおかさど)
【生没】(生年不詳)ー一六一三 石見の人、慶長五年(一六○○)十一月付で、今井越中・宗岡弥右衛門・石田喜右衛門・吉岡隼人ら四人の連署で、大久保十兵衛に文書が提出されている(子歳石見国銀山諸役銀請納書)。宗岡は、毛利時代石見国大森銀山の代官であった。宗岡の佐渡来国は慶長八年といわれ、慶長九年の史料にその名を記録する(相川郷土博物館所蔵文書)。宗岡は銀山を支配したが、『伊勢屋九郎兵衛文書』には、宗岡佐渡が白糸の取引をした史料がのこっている。宗岡佐渡は、慶長十八年佐渡で没し一族は石見に戻った。佐渡の墓は沢根(現佐和田町沢根)専得寺(浄土真宗)にある。
【関連】宗岡佐渡守名号石塔(むねおかさどのかみみょうごうせきとう)【参考文献】田中圭一『関西大学伊勢屋九郎兵衛文書にみる慶長期の佐渡金銀山』、村上直他『江戸幕府石見銀山史料』【執筆者】田中圭一(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「宗岡佐渡守名号石塔(むねおかさどのかみみょうごうせきとう)」
浄土宗大安寺にある、宗岡佐渡守建立の名号石塔である。石塔は、巾三○センチ位の細長く加工した流紋岩質の四角柱状であるが、自然石に近い。塔面の長さは二六八センチ、その塔頂は高さ一三センチ位の三角状山形とし、全長は二八一センチである。基礎は高さ二五センチ位、巾八五センチ×九五センチ位の自然石で、中央をうがって利用している。石塔正面に上下ほぼ一ぱい、「(キリーク) 南無阿弥陀仏 慶長拾四年(一六○九)己酉暦今月 寄進 宗岡佐渡守」と刻む。種子と「南無阿弥陀仏」は大書し、年月と寄進者名は二行としている。薬研彫に近い彫りはあまり深くないが、書体はのびやかで風格がある。当初、山門の向って右内側に倒れていたが、本堂前の右側に移されて建て直された。宗岡佐渡は、佐渡奉行大久保石見守長安の目代(代官)として慶長八年に来島し、金銀山の事を沙汰したが、長安の家臣ゆえに、長安が慶長十年(『佐渡年代記』、『佐渡国略記』は慶長十一年)に建立した大安寺境内に、名号石塔を寄進建立したものであろう。『佐渡名勝志』の慶長十四年には、「宗岡佐渡、大安寺ニ南無阿弥陀佛ノ石牌ヲ建ル」とある。のち、長安は慶長十六年、自らの逆修塔を大安寺に建て、同十八年四月二十五日に没したが、それより四○日前、同年三月十六日に宗岡佐渡は没し、佐和田町沢根村の一向宗専得寺に葬られた(『佐渡年代記』)。法号は釈道雪である。
【関連】大安寺(だいあんじ)・宗岡佐渡(むねおかさど)【参考文献】計良勝範「宗岡佐渡守寄進の名号石塔」(『佐渡史学』六集)【執筆者】計良勝範(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★むめ
長寿者。佐渡国羽茂本郷嘉吉の祖母である。嘉永四年(一八五一年)に九十五才になったので役所から老養扶持一人扶持を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★村井米子
「佐渡の高原ドンデン山」(紀行16枚 現代紀行文学全集7 山岳編下 昭和33・修道社)
昭和22年秋のドンデン山を中心とした佐渡旅行記。一日目、信越線で新潟着、おけさ丸に乗って両津へ。一時間ほど加茂湖畔逍遥。二日目、真野御陵、銅器作家の仕事場を見学、車窓から尖閣湾を眺めながら入川の宿へ。三日目、いよいよドンデン山へ。「1000メートルなのに3000メートルに近い山の大観を持ち、高山の植物を秘している」山に感動。佐渡情緒を満喫し、最後にドンデンの景観に魅せられた筆者は、佐渡を訪れる人に山に登ることを薦めている。昭和31年7月、河出書房より刊行の『山恋の記』に収められている。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★村岡幸蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二年生 八幡村、河原田町本町、酒造業 ・明4、県下町村分合[三十四年十月]・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、新潟県会の役員[四十年十月十五日]・明4、新潟県会議員補欠選挙[四十三年六月]・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]・大3、佐渡政友倶楽部の会合[十一年一月六日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、高等女学校の移転問題[十一年十二月二日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、佐渡護憲派の會合[十三年七月二日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]
★村岡寿一
「躍進日本」

★村岡多平→文慶
★村岡藤蔵
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★村岡文慶(多平)
「島の新聞」33号


八幡人形

「島の新聞」索引(人名別)
)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=5
諸情報
★村岡龍太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★村上喜一郎
・『青春の森』(毎日新聞新潟支局 昭和50年) p356
★村上章如(むらかみしょうにょ)
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1938、(社)日本空手協会公認技術指導員審査員、審判員、(社)日本空手協会五段、(財)全日本空手道連盟三段。(社)日本空手協会指導員として一般・大学・高校・市町村スポーツ少年団の空手の技術を指導中。
(社)日本空手協会佐渡支部長として佐和田地区・金井地区・のスポーツ少年団(空手)を指導。県立佐渡高校クラブ活動指導助手。
★村上精二
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7熊太郎少年と戦後五十年
★村上勉
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=8
★村上籐太郎
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50047237.html?p=3
★村上友美
佐渡高校時代の平成8.5.30~6.1、バドミントン県高校総合体育大会(村上市)女子団体ベスト8 大間美絵子女子シングルスベスト8、大間美絵子・近藤杏奈組 金子恵理・村上友美組 女子ダブルスベスト8
★村上信子
両津出身、1943年生まれ。両津中学校から両津高校を出て、弘前医大卒、旧姓は渡辺。
現在青森市で医療法人副理事長、ご主人は青森医師会副会長
★村上正樹
「島の新聞」索引(人名別)
★村川吉右衛門(昌平)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
伝えるところによると、岡田の稲場の村川吉右衛門昌平が、剣道一波流の免許を、嘉永二年(一八四九)五月に受け、さらに剣道随変篠田流・同無限心流、また柔道は唯心流を極め、若者らに指導したという。大崎では葛原源左衛門本考(野口)・八尋渕甚太郎(木戸場)・本間兵吉保豊(兵庫)・中川春吉(清水)らがこれに師事した。ことに葛原源左衛門は、剣道一波流の白刃をもよくし、若者たちにこれを伝授した。八王寺祭(草刈神社)には、以前は余興として大崎・西方の若者が、白刃の型を奉納したと伝えられる。
→中川七郎兵衛
★村川九一郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]
★村川健吉
令和2年1月没、88歳。金井新保。
★村川壽笻(じゅこう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡小木の人で通称を寿吉、万就堂北州と号した。金井良談について俳語を学んだ。(佐渡人名辞書)
★村川四郎
「エスライフ」2008年7・8月号

「佐渡ジャーナル」関係記事:「12号」(平成20年1月)佐渡牛の話(村川四郎)「13号」(平成20年4月)「がんばれ佐渡牛!」(佐渡牛の話「パート2」)(村川四郎)
「14号」(平成20年7月)白い灯台のある牧場-がんばれ!佐渡牛パート3-(村川四郎)
「島の新聞」索引(人名別)
★村川剛

★村川俊彦
佐渡高校時代の35.8.27~28、水泳県高校結合体育大会(柏崎市)総合6位、入賞
36.7.22~23、水泳県高校選手権(柏崎市)総合57点2位、(背泳)100m・200m入賞
36.8.2~3、水泳東北高校大会(酒田市)総合24点3位、入賞
37.7.21~22、水泳県高校選手権(柏崎市)総合64点3位、上位入賞
37.8.1~2、水泳東北高校大会(長岡市)総合3位、上位入賞
37.8.25~26、水泳高校結合体育大会(長岡市)総合3位、(バタフライ)200ml位
37.9.16~19、水泳国民体育大会(岡山県)県代表として出場
★村川八郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★村川秀行
佐渡高校時代の昭和51.10.3 、陸上競技 、県高校選抜大会(上越市) 200m3位
52.6.3~5、陸上競技 県高校結合体育大会(新潟市) 村川秀行200m6位、4×100mR(羽豆・高柳・称解・村川)5位
53.6.2~4、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)100m3位200m6位
53.6.23~25 、陸上競技北信越大会(高岡市)200m7位
★村上正樹
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 6 劇画・朱艦(とき)のいた空 村上正樹・小松聡美
★村川安太郎久年
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。不詳。
★村川與市定年
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。大石岡田新屋。
★村川義行

和鋼博物館(鳥取県安来市)館長。東京工大時代は山岳部に所属し、就職後すぐに島根県安来市内の金属工場に配属。
50歳代半ばから大山に魅せられ、本格的に写真を撮り始める。33歳で米子市内に居を構えてからも、頻繁に足を運ぶ。「目的は登山で、写真撮影はほとんどしなかった」が、一冊の本との出会いで考え方を変えた。本のタイトルは『大山をめぐる山々』。佐渡には年に数回帰省すると言う。
★村瀬儀益
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★村田翁七
左:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より 右:「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★村田喜一郎
新穂長畝の人、父喜作の後を継ぎ、佐渡における池坊華道の中心人物として活躍し多くの門人を指導した。
平成26年7月没。
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約言五十人を数えている。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「34号」(平成25年7月)佐渡の池坊 ※藍原千里・村田喜作・村田喜一郎・藤井冴子
★村田喜作
邸内の顕彰碑等


『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約百五十人を数えている。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)


※「佐渡ジャーナル」関係記事:「34号」(平成25年7月)佐渡の池坊 ※藍原千里・村田喜作・村田喜一郎・藤井冴子
★村田圭
「 エスライフ」2014年10・11月号

※「佐渡ジャーナル」関係記事:「37号」(平成26年4月)座談会(本間文雄・石原和子・民部猛・村田圭・岩田雅)
★村田しげ子
新潟県人会参事、民謡家村田文三の孫にあたり、佐渡と関東圏をつなぐ活動に尽力している。

「佐渡ジャーナル」関係記事:「5号」(平成18年4月)第五十三回東京相川会大会のおしらせ(東京相川会副会長 村田しげ子)「46号」(平成28年7月)・高橋和子さん ありがとう!さようなら(村田しげ子)
★村田清
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。
よしよしとうなずきすれば牛の子の 首さしのばし甘ゆる仕草
★村田七郎
左:『新潟県官民肖像録』(明治41年) 右:『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

★村田兆治

★村田哲四郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★村田豊次(豊治)
(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎座と大和座は分裂以後、たがいに芸道を競い、文弥人形界は活気を呈してきた。中川甚七は昭和四年(一九二九)没し、中川鹿蔵も老境に入り、葛原五兵衛がその後をついで座頭となり、中川伊八・渡辺伝蔵・石渕由太郎・村田豊次・今倉正太郎らと共に、その振興に力を尽した。鹿蔵もまた昭和十一年に世を去った。その後五兵衛は、佐渡人形界の名人の座にあり、全島に「五兵衛さん」の愛称で親しまれ、特に二刀流のつかい手としては、島内の第一人者である。また、薙刀の名演技も鮮かである。中川伊八は薙刀、渡辺伝威は女形・薙刀・若武者、石渕由太郎は女形・若武者を特技とした。太夫は村山の笠井長吉(大山)がつとめ、再び里見座の全盛時代を招来した。笠井長吉の没後、河原田の岡本文司によって各地をまわり、また、潟上の三代池田宗玄も両三度来演されたが、昭和三十年(一九五五)頃より中興岡本文盛太夫となり、羽茂の藤井閑六・長尾閑月らと共に今日に至っている。
昭和二十四年(一四四九)村田豊次宅の火災により、同家に保管されていた人形一行李を焼失した。上の坊住職本間敵政は、かねてから余技として刻んだ人形を里見座に寄贈して、その不足を補った。その後、石渕由太郎は不幸病魔のため倒れ、渡辺伝蔵・村田豊治も共に歿し、また、昔日の面影はなく、わずかに座頭葛原五兵衛が今倉正太郎と共に、一座をささえている状態となった。しかるに、五兵衛また老境に入り、大崎の文弥人形の将来を危ぶむ声が起ってきた。かねてから藤井真一は岡本文司に師事して文弥を修業し、かたわら人形つかいの技を修め、また昭和五二年(一九七七)には草木実・中川清治・川上公紀・渡辺友子・川1芳枝・中原ムツらの若人が、五兵衛の指導を受けて大崎座の復興にのり出した。しかるに、不幸若手のホープとして嘱望された藤井真一・草木実の両名が相次いで死去の悲運に遭ったが、若い同志の固い結束により、文弥人形の保存と振興のために精進をつづけている。また、昭和五十三年には、文弥人形愛好の有志により、大崎文弥人形保存会を結成して協力しつつある現状である。昭和二十四年(一四四九)村田豊次宅の火災により、同家に保管されていた人形一行李を焼失した。上の坊住職本間敵政は、かねてから余技として刻んだ人形を里見座に寄贈して、その不足を補った。その後、石渕由太郎は不幸病魔のため倒れ、渡辺伝蔵・村田豊治も共に歿し、また、昔日の面影はなく、わずかに座頭葛原五兵衛が今倉正太郎と共に、一座をささえている状態となった。しかるに、五兵衛また老境に入り、大崎の文弥人形の将来を危ぶむ声が起ってきた。かねてから藤井真一は岡本文司に師事して文弥を修業し、かたわら人形つかいの技を修め、また昭和五二年(一九七七)には草木実・中川清治・川上公紀・渡辺友子・川1芳枝・中原ムツらの若人が、五兵衛の指導を受けて大崎座の復興にのり出した。しかるに、不幸若手のホープとして嘱望された藤井真一・草木実の両名が相次いで死去の悲運に遭ったが、若い同志の固い結束により、文弥人形の保存と振興のために精進をつづけている。また、昭和五十三年には、文弥人形愛好の有志により、大崎文弥人形保存会を結成して協力しつつある現状である。
村田豊四郎の曽孫。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
「山里の人びと」(文弥人形)
★村田豊四郎(田代)
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大崎座は松之助が去った後でも、木戸場、川口、三郎、小沢、甚太郎等が一丸となって一座の発展につくしていた。 当時の青年八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が若き情熱を傾けて、研究するに及び、おのずから之等3人が中心の形となり、更に後進の指導を図った。かかる雰囲気の中で切磋琢磨して後日名人の域にまで達したのが中川甚七と中川鹿蔵で、当時の大崎座は甚七(屋号通称甚太郎)が座元であった。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎屋松之助の去った後の大崎座の遣い手、明治中期以降に活躍し、太夫としても知られる
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
「山里の人びと」(文弥人形)
★村田晴彦

「躍進日本」


河原田諏方町生、多摩美術大学理事長。
「Shiro's Site → History of Tama Art University」より
「年譜」
1903年 7/2生 母:村田チエ 川原田町大字諏訪町44(出生届7/6 戸主祖父:村田清太郎)
(チエは、菊池糸松の長女に入籍1886)
1909年 母チエが寅吉と婚姻届11/1
1917年 県立佐渡中学 酒井億尋と同郷 走高飛運動中にアキレス腱を負傷
1920年 認知届9/5 父:伊藤小太郎 川原田町大字諏訪町127
母チエが養父村田清太郎 養母スエと離縁届
1922年 中央大学予科 1928年 法学部卒 弁護士 山田辰之進の書生(佐渡郡 加茂村字羽吉出身)
1929年 北れい吉に呼ばれて 帝国美術学校の吉祥寺校舎を見学
新潟の下宿で、常香夫人と出会い
1931年 婚姻届1/12 山口マキ(父:無記 戸主母:山口マサ 若松市北小路町112)
長女出生2/14 豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷864
1932年 家督相続届5/9
1933 長男出生1/10 渋谷区代々木上原1315
1934年 北れい吉より電報 村田芳太郎が北れい吉の替わりに美術学校を経営
多摩帝国美術学校の設立基本金の借入を五島慶太に申し入れ
東横と 上野毛校舎 土地5400坪の契約
1935年 校舎建築費を東横から借入 今井兼次設計(東横が清水組施工の建築費を代払い)
建築費借入のための頭金15000円を調達
(ダンサー川畑文子の父親より借入5000円
(佐渡出身の酒井億尋(美術コレクター 荏原製作所)より借入 3000円
(牧野虎雄の絵画を満鉄本社に売却3000円 牧野虎雄の絵画を永見某に売却1000円
(残金は東横が猶予3000円
多摩帝国美術学校 認可9月6日 北れい吉が隣地田中貞治宅の樹下にて始業式挨拶
出席者:井上忻治 牧野虎雄 杉浦非水 吉田三郎 佐々木大樹 大隅為三 森田亀之助 渡辺素舟 鈴木誠
学生数:40名
学生監:村田芳太郎が吉祥寺校舎の教具を搬出
1936年 北れい吉の選挙違反の身代わりで未決監 佐渡を数回往復(第19回衆議院議員総選挙新潟一区 無所属当選)
母逝去 3/14
財団法人多摩帝国美術学校 設立(徴兵猶予の専門学校となる)
東横から基本金30000円借り入れ(寄付金:利付貸金 年8分)東横常務が理事長、重役が理事
1937年 次男出生1/14 杉並区井荻2-33
2.26軍法会議の秘密漏洩のため潜伏(磯辺浅一の獄中手記写真を小笠原長生中将に手渡す)
1938 三男出生2/7 世田谷区上野毛町272
1939年 上海旅行
1941年 次女出生1/20
東横債務の代わりを条件に、成田千里が校長に登記したが、入金なしで1週間で辞退
繰上卒業式11/
1942年 北れい吉の選挙応援で佐渡に(第21回衆議院議員総選挙新潟一区 翼賛政治体制協議会非推薦当選)
1943年 三女出生11/12
釜山 浦項 平壌 奉天 新京 ハルピン 満州 旅行
昭和医専校長の上条秀介より20万円借入(東横へ地代と利息元金 牧野画代 今井設計費を返済)
繰上卒業式(佐渡出身の在野の哲学者:土田杏村の後輩:渡邊泰亮主事)
1944年 海老名一雄と徳富蘇峰を伊豆山に訪問
1945年 三木清の消息をたずねて特高部を訪問
日本漁業組合の資材部長と財務部長 海外同胞引揚促進運動 社会党結成準備事務所
牧野虎雄の四谷の自宅で、多摩帝国美術学校の在京教授が集会 9月10日
多摩帝国美術学校 溝ノ口校舎で学生募集を再開(元日本光学軍需工場の2棟800坪を借受)
1946年 GHQ天然資源局水産部アダムス水産課長と佐渡へ同行
水産部長フィードラと資材課長ポーランドを佐渡に案内
多摩帝国美術学校『学校工場』を運営 三越高島屋へ売り込み
村田晴彦が幣原内閣の内務大臣三土忠造に、軍事工場跡の借入れの斡旋を依頼
溝ノ口の木造三階建600坪と木造平屋200坪を大蔵省国有財産部から借用
荏原製作所羽田工場青年学校から教具を貰い受ける 酒井億尋
元海軍の軍需工場から焼けた旋盤ミーリング盤セーパー盤ボール盤を払い下げ
中目黒の木工工場から丸鋸盤 帯鋸盤電動鉋盤機械鑿盤を購入
学生は木造3階建の2階を学生寮で生活し、学校工場でアルバイトをした
1947年 四男出生7/28
財団法人多摩帝国美術学校 学内理事
昭和医から斎藤監事と上条 石井理事、学内から杉浦理事長(軽井沢在)
新たに学内理事を追加 井上 村田 今井 藤原理事
1948年 野口英世銅像設置運動
1950年 財団法人多摩美術短期大学 理事 (監事 : 池留三 佐渡郡 河崎村野崎出身 )
1951年 学校法人多摩美術短期大学 理事
1953年 学校法人多摩美術大学 理事
名変変更届9/25 村田晴彦
1954年 「本学の創設から現在に至るおもいで」美術大学新聞
1957年 300坪購入 810,000円 川崎市宮前字三ツ又325-5 畑(1反歩) 1965年 所有権移転 9/20 売却
1960年 「多難だった学校設立」美術大学新聞
本館落成記念 6/
1961年 学校法人多摩美術大学 理事長
1961北死亡北の金婚式
1963年 北先生と選挙戦を偲ぶ「追想記」北れい吉先生三回忌法要会
欧州米国視察 世界の美術大学見学 木馬イーゼル導入
1965年 逸見梅栄からの文書偽造訴訟 (51国会文教委員会)
逸見宅の立退訴訟
八王子寮地鎮祭
「事件の真相」村田記述6/10
土地問題9/20
杉浦非水葬儀8/24 費用負担
1967年 学園紛争収拾のため、理事長を退任
学生運動に関する建白書
1968年 学校法人多摩美術大学 理事長に復帰および学長事務取扱に就任 石田英一郎が学長就任七ヶ月で急逝のため、
『総合美術大学構想』石田ビジョン
1969年 「多摩美術大学の現状」村田 1/25
入院手術 夫人が看護疲れで逝去 学園紛争中のため公表せず
多摩美術大学 機動隊導入ロックアウト 評議員 理事 教授を総入替 (61回国会文教委員会)
『紛争の経過ならびにその後の学内問題』12/1
1970年
1971年 長女夫婦を大学事務より排除
1973年
「村田家の墓」建之8/2 七代目村田興四兵衛 晴彦
多摩美術大学文様研究所 「文化外交についての建白書 10/20」 大平大臣会見記録11/13
1974年 真下学長と山脇教務部長を解雇 (75国会文教委員会)
多摩美術大学 定年規定制定 高橋史郎委員
学校法人多摩美術大学 理事長退職 東京地裁調停により(内藤頼博理事長および学長代行の就任)
村田晴彦口述『多摩美術大学沿革史』印刷『想出の期』3/
タイ王国旅行 タイ王国に移住計画
羽田空港に江上波夫を見送り:高橋士郎撮影
1975年 7月16日 72歳 北海道への旅支度をして、上野毛駅前で散髪、帰宅後横になったまま起きてこず
諸情報
★村田房之助(3代目 沢根の入海)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
沢根の入海は大名乗りで、3代読いた。初代は小木の中村から出た沢根の漁師であったが、入海の名を高からしめたのは2代目菊森実平である。(金子実平)この人は小木井坪から、沢根へ入婿した老であるが押し相撲を得意として強かったと語り草になっている。3代目を継いだのが村田房之助である。村田は沢根町の村田分店の出である。昭和2年生まれで現在かくしゃくとして、地域社会で活躍している。相撲は初め『青の川』の小名乗りであったが、のち地域の大名乗り入海を継承した。この人は生存しているので、よく冗談めかして、「沢根の入海は、3代目になったら弱くなったと云われて、困ってしまうわ。」と云って笑わせている。この人にはエピソードがあって、彼の実父は実直な人だったと見えて、息子が家業を休んで相撲を取りにいくのを大変嫌ったそうな。息子は窓からそっと褌を外に出しておいて、店の品物を配達する素振りで店から出て、褌をかかえて一目散に相撲場に駆けつけたそうだ。この力士の異色なのは、後年佐和田町長を2期つとめた事である。相撲取りで町長まで登りつめたのは、小木町の小木港を名乗った中川秀夫と、この村田房之助の二人だけである。
★村田文三(相川)
「村田文三の翁の実像を語る」
(娘:田中笑子、孫:村田しげ子、ゲスト:山田実、大谷公一)於:北とぴあ、取材:新潟日報・親松記者、共同通信・岩田記者、世界日報・岩田、片上記者
村田文三翁の実像を語る(H15.10.22)
右:墓(相川鹿伏 観音寺)


【生没】一八八二ー一九五六 民謡歌手。明治十五年一月元日、相川町大字五丁目浜町に生まれる。「ぶんさんや」という屋号の漁師の家で、父は篤蔵、母はトリ。本名は文蔵で、八男三女の長男である。一六歳のとき、北海道に四年ほど出稼ぎに行って帰り、鉱山に勤めた。この間日露戦争に従軍して、奉天で右腕に負傷し送還された。大正十四年(一九二五)すすめられて立浪会に入会。選鉱節で知られる選鉱場に勤めていて、声量のよさが認められた。同十五年「日東レコード」に初めて「佐渡おけさ」と「相川音頭」を吹込む。同年四月には愛宕山の東京放送局(現NHK)から、全国にラジオでも初放送した。その後ポリドール・ビクター・マーキュリー・コロンビアレコードなどに吹込み、格調の高い節廻しで、昭和初期の歌謡界を驚かせた。昭和二年(一九二七)に新潟市で山田耕筰・藤原義江の激賞を受け、同五年に鉱山を退職して、ビクターの専属となる。立浪会の演奏旅行では、満州・台湾・樺太・朝鮮などに出向いた。体重八一キロ、首まわり四七センチ、足袋は一三文のキングサイズで、いが栗頭の巨体がのそりとあらわれるので、放送局員などを驚かせたという逸話がある。昭和二十八年十一月、「佐渡おけさ」を広めた功績で、相川町の名誉町民に選ばれ、日本民謡協会から「技能賞」をも受賞した。同三十一年八月十日、七四歳で死亡した。
【関連】佐渡おけさ(さどおけさ)・立浪会(たつなみかい)・曽我真一(そがしんいち)【参考文献】『立浪会史』(立浪会)、森三郎「村田文三」ほか 【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
佐渡民謡・佐渡おけさを世界に広げた人物。 相川町5 丁目浜に明治15 年生、昭和31 年没。実家は漁師の「ぶんさんや」で「文三」の名前はここから。父は篤蔵、母トリ。本名は文蔵で8 男3 女の長男。16 歳の時、北海道の漁場に4 年程出稼ぎし帰って鉱山に勤務。日露戦争に従軍し奉天で右腕に負傷し送還。大正14 年立浪会入会、選鉱場に勤めており声量が認められた。同15 年「日東レコード」に「佐渡おけさ」と「相川音頭」を吹込み、同年4 月、愛宕山の東京放送局(現NHK)から全国にラジオで初放送。その後ポリドール・ビクター・マーキュリー・コロンビアレコードなどに吹込み、稀に見る声量と格調高い節廻しで昭和初期の歌謡界に旋風を巻き起こす。昭和2年、新潟市で山田耕筰・藤原義江から激賞され、同5 年に鉱山を退職してビクター専属歌手となる。立浪会の演奏旅行で満州・台湾・樺太・朝鮮などに出向いた。身長164cm、体重81kg、首回り47cm、足袋は13 文で、いが栗頭の巨体がのそりと現れるので、放送局員などを驚かせたという逸話がある。昭和28年「佐渡おけさ」を広めた功績で相川町の名誉町民に選ばれ、日本民謡協会から「技能賞」をも受賞した。
『佐渡郷土文化』所収(数字は号)村田文三 127 ふたりの文三 佐渡おけさが運んだ第二のふるさと 柳平則子
「佐渡ジャーナル」関係記事:「3号」(平成17年10月)佐渡おけさの村田文三氏の愛嬢逝く(父を支え、おけさの普及に捧げる)(本間壮平)「8号」(平成19年1月)よみがえる村田文三の美声-没後50年記念CDに復刻-「40号」(平成27年1月)ちょっと気になったこと ※桑田佳祐・村田文三
村田文三 その他諸情報
★村田守
小木の人、昭和19年-平成22年没。第2回両津甚句全国大会で優勝、第10回「おけさ 唄・踊り 日本一全国大会」(平成5年)で優勝(おぎおけさ)。中川千代、山田フサ姉妹から佐渡民謡を習得し、「さざ波会」会長、佐渡民謡協会会長を長く務めた。
平成13年にCD もリリースし小木追分、小木音頭、旧節両津甚句等貴重な歌を収録。総務省・文化庁・NHK後援の「第4 回地域伝統芸能祭り」(平成16年)に佐渡民謡協会会長として会を率いて出演した。児童への民謡指導も熱心に行った。
『佐渡ジャーナル』(33号 2013年4月)

(村田守)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「33号」(平成25年4月)故村田守さんを偲ぶ-佐渡民謡の保存活動と児童への民謡指導の牽引者(伊豆野康弘)
★村田弥六
「浜子屋派の名人村田弥六師」( 『江差追分』より)

世に追分博士といわれた村田弥六師もまた何かと話題の多い人であった。明治の初めに佐渡の佐和田から江差に渡ってきた師は、始め浜小屋の捻金の栄五郎方に奉公し、後に姥神町の米穀雑貨商龍五十印関川家の手代として働くかたわら、浜小屋芸者の里菊や井桐まん女について追分を習ったという。「待つ夜の長さを四五尺つめて、逢うたその夜で延ばしたい」という一句を数年がかりで習ったといわれるその苦心談の陰には、若い身空の村田師の隠されたロマンスがあったかもしれない。やがて一人立ちした村田師は、厚沢部方面で雑穀の仲買いに従事し、その縁で同村の館地区に住むようになる。即ち、館村駅逓主村田弥六氏の誕生である。師はその後館地区の名士として郵便局の創設や同地区からの道議会議員の擁立などに大きな力を発揮するようになるのであるが、それらの忙しい日々の中にあっても、師の追分に対する熱意は少しも衰えず、ときおり江差の新地に姿を現しては旧知の三味線で気持よく追分の一ふしを唄って帰ったという。次は、その頃の村田師のおもかげを伝える地元出身の識者の懐旧談の一節である。「追分節の名人といわれた村田弥六翁は厚沢部村館の駅逓の主人であった。ときどき江差へ出ては父の店に寄り、〝吉大郎さん、いい嫁さんもらったねェー″などと言っては、いつも牛肉の缶詰と果物の缶詰を一個ずつ買って五月楼の座敷にあがり、酒はとらず、いつも小鶴さんという老妓を呼んで、缶詰の牛肉と果物をお茶を飲み喰べながら、小鶴さんの三味線でてぇーいっぱい追分を歌って満足そうにニコニコとして、館へ帰っていったという。五月では、小鶴さんの線香代はもらったろうが、何回もかえて出したお茶代はとらなかったろうと母の話である。」(『江さし草第九号昭和五十三年十一月刊所載〝江差の鯛〟元桧山支庁長鈴木吉蔵氏記より)。生前、道内はいうにおよばず、関東関西の各地を巡演し、鷗島の追分記念碑にも高野小次郎師と並んで不朽の名を止めている村田師の面目躍如たる佳話である。自ら追分狂人と号し、裏地に追分文句を記した羽織を着し、行住坐臥追分を愛好した村田師、晩年自らの画像の裏に生国と父母の名を記して常に望郷の念を忘れなかった村田師、その生涯もまた、古きよき時代の江差人の典型であったといえよう。(「江差追分」江差追分会編)
・厚沢部町館の駅逓主「村田弥六」は大正3年、浜小屋節を改めて村田派を旗上げし、追分村田派図式音譜を発表して正調音譜に対抗し、その他「石沢派」「見砂派」「新正派」「三浦派」などを名乗って各自の唄に固執していたものも多い。 そこで、昭和10年に至り、時の原田浅次江差町長が、この現状を憂い各師匠を説得して町内の追分会派を改組し、町長が会長に就任するということで江差追分会が誕生し、完全に統一ができ、以来今日に受け継がれ正調として固定化をみるに至ったのである。 こうして、正調江差追分標準音譜を基調とする江差追分一本でレコードが吹き込まれ、全国各地に普及して「唄は追分、追分江差」と唄われる活況を見るに至ったのである。 また同年、村田弥六師は神戸方面に、江差出身の阿部鴎江師は東京方面にと、それぞれ巡回指導を行ない、追分節の普及に寄与したことも忘れてはならない功績である。これらの人々の熱心な普及宣伝の結果、大正六年から七、八年にかけて、東京に髄上会、神戸に千鳥会、岩見沢に鴎友会、留萌に北誉会など、有力な同好会が続々と結成され、追分界は戦前の第一期黄金時代を迎えることになるのである。中でも後藤桃水師を中心とする東京の追分界は大いに振い、追分節演奏家の間の親睦と協同を図ろうとする動きが強まった。その一例が大正七年秋、東京荒川の鯉料理店で開かれた追分尺八家の会合である。後藤桃水師が翌年予定していた追分節大会の相談のために開いたこの会合には、小金井静重、榎本秀水、菊地淡水ら後に追分尺八界の指導的な役割を果すようになった人々が出席し、大いに親交を深めた。翌大正八年、予定どおり神田のキリスト教青年会館で行われた追分節大会には、後藤師門下のほか、三浦為七郎、越中谷四三郎、村田弥六、浜谷はつ等の名人が出演し、いやが上にも人気を盛上げた。大会はその後、大正十一年からは全国民謡大会と名称が改められてさらに盛大に行われるようになった。そのように、当時の追分界は、明治末期以来の先覚者達の懸命な努力が実を参んで、しだいに広く世に知られ、大都市を中心に流行したのであるが、大正十二年九月一日、突如として関東地方を襲った大震災のため、一時挫折の上むなきに至ったのである。
「江差追分節記念碑」
(江差町鴎島 揮竜 北海道長官 佐上信一)
碑 記
古来、我地方二追分節ナルモノアリ。歌詞繊麗優佳ニシテ内地追分ノ比ニアラス。
往年、同好者平野源三郎、村田弥六氏等閑東関西ノ地ヲ歴遊シ。宣伝大二努ム。
当時、追分ノ名手トンテ内野中将ヨリ鴎浜翁ノ号ヲ得タル高野小次郎、其同士卜共二江差追分会ヲ組織シ、爾来北海、東北、関東、関西ノ各地二招聘セラレ、公開スルコト十数回、今ヤ全国津々浦々二到ルマデ、我江差追分節ヲ称揚セザルナキニ至ル。
仍テ碑ヲ建テ、兹二会員名ヲ録シテ以テ記念トナス。
昭和七年十一月 築瀬仁右衛門書
松前江差の鴎の島は地から生えたか浮島か
昭和七年十一月建立
江差追分会本部
会長鴎浜翁高野小次郎
浅木福三 山田玉蔵 宇佐美源蔵 船木賢治 蔦屋丈八
小路梅太郎 金森勇 金田仙次郎 吉田勝之助 佐々木栄太郎 村田幸一
賛助員芳名
森本正雄 原田浅次 田中義仁 北村屹郎 石田連治 西谷嘉右衛門
大島重一郎 横山宗右衛門 関川常雄 加藤重兵衛 増田勝次郎 高橋兵市 堀井安則
(「江差追分」江差追分会編)

※・高橋秀夫先生(沢根篭町)談
沢根でも大正時代などでは追分が大層盛んであったと聞いている。
村田苗字は沢根上町がルーツだと思う。
・松本丈一が20歳頃(大正10年頃)追分研究家である沢根五十里の山本為蔵に師事したとあるので、この時期の沢根は追分が盛んであったとことが偲ばれる。
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嘉永3年(1850年)頃佐渡沢根にて生誕生~大正15年76歳で没。
明治初期江差に渡る。江差追分節初期の名人で明治から大正にかけて普及宣伝に尽力し、世に追分博士と呼ばれた。浜小屋の捻金の栄五郎方に奉公し、後に姥神町の米穀雑貨商龍五十印関川家の手代として働くかたわら、浜小屋芸者の里菊や片桐まん女から追分を習う(明治9年頃)。「待つ夜の長さを四五尺つめて、逢うたその夜で延ばしたい」という一句を数年がかりで習ったとも言われる。その後一人立ちし、厚沢部方面で雑穀の仲買いに従事し、その縁で同村の館地区に住み館村駅逓主となる。その後館地区の名士として郵便局の創設や同地区からの道議会議員の擁立などに大きな力を発揮しながらも追分に対する熱意は衰えず。道内は言うに及ばず、関東関西の各地を巡演し、鷗島の追分記念碑にも高野小次郎師と並んで名を留める。明治40年頃、豊川橋畔高田屋で追分大会が開かれ参加していた。明治42年、正調江差追分節の曲調が論議された重要な会議にも参加し、現在の江差追分の骨格が決定した(江差追分研究会発足)。大正2年1月、東京の三光堂で追分節吹き込み。大正3年には浜小屋節を改めて村田派を旗上げし、追分村田派図式音譜を発表して正調音譜に対抗した。同年東京方面を巡演。この頃と想われるが、旭川で追分講習会を開き、これは後に300人の会員を擁する蝦夷歌会として村田派追分後援会に発展する。
・大正5年6月「江差追分文句集」、大正9年5月「純粋の江差追分節」を共に函館小島大盛堂からは出版した。後者には「江差追分アイヌ船頭由来説」が書かれている。同年、4月には大阪南地演舞場で行われた「第36回浪花風流芦辺の踊」に賛助出演する。江差追分を愛した晩年の伊藤博文公が銃弾に倒れて後、神戸大倉山の銅像前で追分を献唱する。昭和10年には神戸方面に巡回指導を行ない追分節の普及に寄与する。大正八年、神田のキリスト教青年会館で行われた追分節大会には、後藤師門下のほか、三浦為七郎、越中谷四三郎、浜谷はつ等の名人と共に出演し、いやが上にも追分人気を盛上げた。この大会が元になり、翌年大正9年に第一回日本民謡大会が開催されることとなる。「江差追分節記念碑」(江差町鴎島)には次のようにある。
・国仙重作さん談(「江差追分」昭和57年刊)
「村田弥六さんの追分は現在の「スクリ」という節が入らない型の追分でした」
碑 記
古来、我地方二追分節ナルモノアリ。歌詞繊麗優佳ニシテ内地追分ノ比ニアラス。
往年、同好者平野源三郎、村田弥六氏等閑東関西ノ地ヲ歴遊シ。宣伝大二努ム。
・沢根なぎさ会の高橋秀夫先生(沢根篭町)談。
「沢根でも大正時代などでは追分が大層盛んであったと聞いており、村田弥六の名前は聞いていた。
村田苗字は沢根上町がルーツだと思う、弥六の子孫は新潟に住んでいる。」
・畑野出身の民謡家松本丈一が20歳頃(大正10年頃)追分研究家である沢根五十里の山本為蔵に師事したとあるので、この時期の沢根は追分が盛んであったとことが偲ばれる。

「新潟日報」(h26 12月30日)

下記の本に村田弥六の詳しい出自が載る。
・村田弥六翁伝
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036865.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=2
★村田興作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治六年生 澤根町澤根、米穀生産検査員 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、佐渡郡会[九年十二月二十三日]
★村田慶朗(むらたよしろう)
二見橘出身、佐高44年卒。東京外語大卒、新潟高校英語教諭、佐渡高校校長歴任。佐高野球部が、鎌田侑樹投手を擁して第83回全国選抜野球大会に出場した時の学校長。県立佐渡高等学校19代校長(平成20・4・1~平成23・3・31)。
★村田与三兵衛(むらたよそべえ)
【生没】生・没年不詳 近世初頭から明治期にかけて、下相川居住の外海府の大中使または大名主。大中使・大名主という村方役は、内外海府・赤泊内浦にみられるだけで、他村にはおかれなかった。天領支配にともなう臨時の職制とみられる。与三兵衛は本興寺の西側に屋敷があり、石切町にも屋敷があった。本興寺の重檀家である。地方文書に大中使与三兵衛が登場するのは万治年間ころ(一六五八~六○)で、境界論争、山争いの調停役、村々水争い、新田開発願書の証人、外海府(下相川~願)の炭・材木・級などの集荷人として登場する。近世村落形成期にあって、地方支配の末端業務を担っていた。また、『佐渡年代記』によると、寛永二十年(一六四三)、北田野浦に銀山二か所見立て、増扶持を与へ中使与三兵衛を山主にして稼いだとある。同翌年、小野見村に与三兵衛堰が引かれ、相川から数人の百姓をつれて入り新田を開いた。与三兵衛が大名主として登場するのは、元禄・宝永期ころ(一六八八~一七一○)までで、その後は奉行所役人が直接新田を開く、役人請負新田の時代に入り、大名主の名は消える。与三兵衛家は村田姓であり、出自は不明。墓地は本興寺本堂裏側の上手にある。明治期には紺屋を営んでいた。
【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集五)、『郷土相川 三・四集』(相川町教育研究会) 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★村田竜太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]
★村中治一
「島の新聞」索引(人名別)
★村本義雄


1925年4月26日生。佐渡の佐藤春雄、能登の村本義雄と言われた朱鷺保護の二大巨人。
著書:「中国のトキを慕いて」(2017/9/30)、「能登のトキ―幻の鳥を追った5475日 写真集」 (1982年)、「能登のトキ―十七年間の観察記録」 (1972年)、「能登のトキ物語―語りつぐ、能登に暮らしたトキの生活史」(2010/6)、「ニッポニアニッポン―わが愛せし朱鷺」 (新歌人叢書 (第69輯)1998/5)、「大地に生きる―中国陜西省洋県の朱鷺」(1997/2)。
(個人ブログ)
「村本義雄さんに聞く 44年ぶりに眉丈山に飛来したトキの定着に必要なこと」
今年5月27日、羽咋市にある眉丈山近くの水田に、トキが飛来しました。眉丈山は本州最後のトキの生息地で、1969年に最後の1羽が確認されて以来、じつに44年ぶりの飛来となります。七尾市での世界農業遺産国際会議の開幕を2日後に控えたこの日、タイミングよく飛来したのは、富山県黒部市に住みついていたメスのトキで、その後も眉丈山にほど近い邑知潟周辺で餌を採る姿が目撃されていることから、引き続きこのあたりに滞在しているものと思われます。眉丈山のふもと羽咋市上中山町に住み、長年トキの保護に尽力してきたNPO法人日本中国朱鷺保護協会名誉会長の村本義雄さん(88歳)に話を聞くと、村本さんは、飛来したトキがこのまま邑知潟周辺に住みつくのではないかとみて、観察を続けるとともに、早速いろいろな保護活動をはじめていました。(村本さんは、7月27日、29日にも邑知潟でトキの姿を確認しています)村本さんが、まずやらなければならないと感じているのは、農家の方に協力を仰ぎ「トキを守る隊(仮称)」をつくって、トキが安心して暮らせるように見守ってもらうこと。監視員が巡回するのではなく、農家の方に農作業のついでに気を配ってもらい、一緒にトキを保護する体制を作っていきたいと、実現へ向けて関係機関と話し合いを進めています。こうした取り組みは、中国のトキ生息地でなされていることで、中国では、撮影のためにトキを追いまわすカメラマンを農家の人が注意したりしているそうです。「中国へ視察に訪れて、なるほどなぁと感心しました。羽咋市でもぜひ取り組むべきです」と村本さんは言います。合わせて、11月の狩猟解禁に向け、トキがどこにどれぐらい滞在しているかを、餌場などを中心に調査することも必要です。11月の解禁以降もトキが居続けるようであれば、注意を促す看板を設置しなければならないし、もし滞在が数年にわたるようであれば、禁猟区を設けることも視野に入れた対策が必要だと、村本さんは考えています。こうした考えは、能登にトキがいた頃、村本さんが実際に関係機関に掛け合って禁猟区を設けた経験に基づいているのです。「かつて、能登のトキの保護活動をしていた頃は、『田んぼの苗を踏み荒らす害鳥を守れとはどういうことか! 傷んだ苗のぶんは誰が補償してくれるのか』と怒鳴りこまれたこともありました。禁猟区を設けるときは、『この銃口がお前の方を向くぞ』と脅されたこともありました。でもそれは戦後の食糧難の頃のことで、時代は変わりました。トキだけでなく、人間を含むすべての生き物が共生できる環境を作ることの大切さを、多くの人に理解してもらいたいのです」(村本さん)さらに、これらの活動と並行して、村本さんは保育所や小学校へのトキの講演にも出向いています。これは、子供たちの心に、トキをはじめとする生き物と共生する心を育みたいと、村本さんが長年続けていることのひとつです。いずれ大人になった子供たちの中から、トキの保護に真剣に取り組んでくれる子が出てくるかもしれない。自然保護のリーダーとなって指導してくれる子が出てくるかもしれない。そんな思いから、依頼のあった各地の保育所へボランティアで出かけています。今回の飛来でも、5月にトキが最初に飛来した無農薬田の持ち主の男性は、「村本さん、私、子供の頃に、最後の1羽になったトキを望遠鏡で見たことがあるよ!」と話してくれたそうです。その体験は、後に男性が無農薬での米作りを始めたことと無関係ではないでしょう。長い年月を経て、村本さんの活動が、いろいろなところで実を結んでいます。その事実に後押しされて、村本さんはこの日も、さっそうと保育所での講演へ出かけていきました。
h291019

★村山古郷
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)村山古郷
6 鑑賞 佐渡のうた (6) 青木月斗・佐々木象堂・前田普羅・村山古郷 山本修巳
26 特集 句集「海見ゆる坂」 「海見ゆる坂」を見つつ
★村山真城(しんじょう)

両津小、両津高校で教鞭をとり、音楽部を通して多くの生徒達を指導した。老後は東京在。実家は湊真念寺で父が家人でもある村山忠。
→村山忠参照
★村山忠
両津湊の勝広寺境内にあった真念寺住職で、歌人でもあった。生れは両津河崎の西芳寺玄森家。長男村山真城(しんじょう)氏は両津小、両津高校等の音楽教師で合唱団を指揮し多くの生徒の音楽好きの生徒を指導した。次男は高校教師、長女?は両津第一保育所の先生、村山真紀さんは私(渡辺)と同学年だった。
★村山由貴男
・昭和52年5月 新潟県東頸城郡松代町(現十日町市)生まれ。・平成8年3月 新潟県立松代高等高校を卒業後、米国へ留学。
・平成13年5月 ノースカロライナ州立A&T 大学工学部を卒業。・同7月 株式会社ソフトウェーブ(東京・豊島区池袋)に入社。・同12月 ベトナム赴任のため株式会社ソフトウェーブを退社・平成14年2月 合資会社両津市清掃組合(現アイマーク環境株式会社)に入社。・同2月 サザンクロス・ベトナム社(ベトナム・ホーチミン市)へ出向、平成14年8月 ベトナムから帰国。・平成14年9月 両津市清掃組合に復帰。・平成18年9月 両津市清掃組合が「アイマーク環境(株)」に社名および組織変更。・代表取締役社長を拝命。(代表取締役会長に伊藤憲三)。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「31号」(平成24年10月)第13回産業フォーラム(廣瀬俊三・村山由貴男)
「島の新聞」索引(人名別)
★室岡清子
夷保育園園長。両津夷2、あめ屋商店長女。下記室岡啓史氏の大叔父の妻になる。

★室岡甚一
「島の新聞」索引(人名別)
★室岡悌二
「島の新聞」索引(人名別)
★室岡啓史(むろおかひろし)
ウィキペディアより


h28年4月市議選立候補パンフ

新潟日報(h28年4月12日) 市議初当選

平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報

「島の新聞」索引(人名別)
★室賀図書(むろがとしよ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、天明七年(一七八七年)七月二十六日に払方御納戸頭から佐渡奉行となり、翌八年四月八日相川へ着任、寛政五年(一七九三年)六月三日持筒頭へ転役となった。名は正明、知行は五百石、役料は千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)
★室橋音次郎
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)8代校長(昭和10・9・14~昭和16・3・31)。
長岡市立栖吉中学校の校歌作詞者である。
★室本美咲
「島の新聞」索引(人名別)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★迎町彌曾吉(むかいまちやそきち)
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治七年生 吉井村吉井 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日] 『金井を創った百人』
★向山愛

★向山清(むこやまきよし)

赤泊三川(山田)出身、昭和8年生。山田のやまびこ会(古民謡保存会)に入り笛を担当。昭和56年(48歳)の時に上京、新潟県人会に入り「おけさ友愛会」を立ち上げる。関東における新潟県や佐渡関係行事に数多く出演し佐渡民謡を披露している。
★武者小路実篤
「日蓮と千日尼」(小説31枚 武者小路実篤全集9 平成元・小学館 「主婦之友」昭和8年1月)
日蓮の佐渡配流から身延での修行の頃までを概略描いた。佐渡配流の折り師事して世話をした阿仏房およびその妻・千日尼との交情を核とする。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★武藤岩五郎
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★棟方志功
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)棟方志功 1 棟方志功氏の思い出 笹井敏雄
★宗岡佐渡(むねおかさど)
【生没】(生年不詳)ー一六一三 石見の人、慶長五年(一六○○)十一月付で、今井越中・宗岡弥右衛門・石田喜右衛門・吉岡隼人ら四人の連署で、大久保十兵衛に文書が提出されている(子歳石見国銀山諸役銀請納書)。宗岡は、毛利時代石見国大森銀山の代官であった。宗岡の佐渡来国は慶長八年といわれ、慶長九年の史料にその名を記録する(相川郷土博物館所蔵文書)。宗岡は銀山を支配したが、『伊勢屋九郎兵衛文書』には、宗岡佐渡が白糸の取引をした史料がのこっている。宗岡佐渡は、慶長十八年佐渡で没し一族は石見に戻った。佐渡の墓は沢根(現佐和田町沢根)専得寺(浄土真宗)にある。
【関連】宗岡佐渡守名号石塔(むねおかさどのかみみょうごうせきとう)【参考文献】田中圭一『関西大学伊勢屋九郎兵衛文書にみる慶長期の佐渡金銀山』、村上直他『江戸幕府石見銀山史料』【執筆者】田中圭一(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「宗岡佐渡守名号石塔(むねおかさどのかみみょうごうせきとう)」
浄土宗大安寺にある、宗岡佐渡守建立の名号石塔である。石塔は、巾三○センチ位の細長く加工した流紋岩質の四角柱状であるが、自然石に近い。塔面の長さは二六八センチ、その塔頂は高さ一三センチ位の三角状山形とし、全長は二八一センチである。基礎は高さ二五センチ位、巾八五センチ×九五センチ位の自然石で、中央をうがって利用している。石塔正面に上下ほぼ一ぱい、「(キリーク) 南無阿弥陀仏 慶長拾四年(一六○九)己酉暦今月 寄進 宗岡佐渡守」と刻む。種子と「南無阿弥陀仏」は大書し、年月と寄進者名は二行としている。薬研彫に近い彫りはあまり深くないが、書体はのびやかで風格がある。当初、山門の向って右内側に倒れていたが、本堂前の右側に移されて建て直された。宗岡佐渡は、佐渡奉行大久保石見守長安の目代(代官)として慶長八年に来島し、金銀山の事を沙汰したが、長安の家臣ゆえに、長安が慶長十年(『佐渡年代記』、『佐渡国略記』は慶長十一年)に建立した大安寺境内に、名号石塔を寄進建立したものであろう。『佐渡名勝志』の慶長十四年には、「宗岡佐渡、大安寺ニ南無阿弥陀佛ノ石牌ヲ建ル」とある。のち、長安は慶長十六年、自らの逆修塔を大安寺に建て、同十八年四月二十五日に没したが、それより四○日前、同年三月十六日に宗岡佐渡は没し、佐和田町沢根村の一向宗専得寺に葬られた(『佐渡年代記』)。法号は釈道雪である。
【関連】大安寺(だいあんじ)・宗岡佐渡(むねおかさど)【参考文献】計良勝範「宗岡佐渡守寄進の名号石塔」(『佐渡史学』六集)【執筆者】計良勝範(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★むめ
長寿者。佐渡国羽茂本郷嘉吉の祖母である。嘉永四年(一八五一年)に九十五才になったので役所から老養扶持一人扶持を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★村井米子
「佐渡の高原ドンデン山」(紀行16枚 現代紀行文学全集7 山岳編下 昭和33・修道社)
昭和22年秋のドンデン山を中心とした佐渡旅行記。一日目、信越線で新潟着、おけさ丸に乗って両津へ。一時間ほど加茂湖畔逍遥。二日目、真野御陵、銅器作家の仕事場を見学、車窓から尖閣湾を眺めながら入川の宿へ。三日目、いよいよドンデン山へ。「1000メートルなのに3000メートルに近い山の大観を持ち、高山の植物を秘している」山に感動。佐渡情緒を満喫し、最後にドンデンの景観に魅せられた筆者は、佐渡を訪れる人に山に登ることを薦めている。昭和31年7月、河出書房より刊行の『山恋の記』に収められている。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★村岡幸蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二年生 八幡村、河原田町本町、酒造業 ・明4、県下町村分合[三十四年十月]・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、新潟県会の役員[四十年十月十五日]・明4、新潟県会議員補欠選挙[四十三年六月]・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]・大3、佐渡政友倶楽部の会合[十一年一月六日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、高等女学校の移転問題[十一年十二月二日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、佐渡護憲派の會合[十三年七月二日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]
★村岡寿一
「躍進日本」

★村岡多平→文慶
★村岡藤蔵
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★村岡文慶(多平)
「島の新聞」33号


八幡人形



「島の新聞」索引(人名別)
)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=5
諸情報
★村岡龍太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★村上喜一郎
・『青春の森』(毎日新聞新潟支局 昭和50年) p356
★村上章如(むらかみしょうにょ)
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1938、(社)日本空手協会公認技術指導員審査員、審判員、(社)日本空手協会五段、(財)全日本空手道連盟三段。(社)日本空手協会指導員として一般・大学・高校・市町村スポーツ少年団の空手の技術を指導中。
(社)日本空手協会佐渡支部長として佐和田地区・金井地区・のスポーツ少年団(空手)を指導。県立佐渡高校クラブ活動指導助手。
★村上精二
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7熊太郎少年と戦後五十年
★村上勉
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=8
★村上籐太郎
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50047237.html?p=3
★村上友美
佐渡高校時代の平成8.5.30~6.1、バドミントン県高校総合体育大会(村上市)女子団体ベスト8 大間美絵子女子シングルスベスト8、大間美絵子・近藤杏奈組 金子恵理・村上友美組 女子ダブルスベスト8
★村上信子
両津出身、1943年生まれ。両津中学校から両津高校を出て、弘前医大卒、旧姓は渡辺。
現在青森市で医療法人副理事長、ご主人は青森医師会副会長
★村上正樹
「島の新聞」索引(人名別)
★村川吉右衛門(昌平)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
伝えるところによると、岡田の稲場の村川吉右衛門昌平が、剣道一波流の免許を、嘉永二年(一八四九)五月に受け、さらに剣道随変篠田流・同無限心流、また柔道は唯心流を極め、若者らに指導したという。大崎では葛原源左衛門本考(野口)・八尋渕甚太郎(木戸場)・本間兵吉保豊(兵庫)・中川春吉(清水)らがこれに師事した。ことに葛原源左衛門は、剣道一波流の白刃をもよくし、若者たちにこれを伝授した。八王寺祭(草刈神社)には、以前は余興として大崎・西方の若者が、白刃の型を奉納したと伝えられる。
→中川七郎兵衛
★村川九一郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]
★村川健吉
令和2年1月没、88歳。金井新保。
★村川壽笻(じゅこう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡小木の人で通称を寿吉、万就堂北州と号した。金井良談について俳語を学んだ。(佐渡人名辞書)
★村川四郎
「エスライフ」2008年7・8月号

「佐渡ジャーナル」関係記事:「12号」(平成20年1月)佐渡牛の話(村川四郎)「13号」(平成20年4月)「がんばれ佐渡牛!」(佐渡牛の話「パート2」)(村川四郎)
「14号」(平成20年7月)白い灯台のある牧場-がんばれ!佐渡牛パート3-(村川四郎)
「島の新聞」索引(人名別)
★村川剛

★村川俊彦
佐渡高校時代の35.8.27~28、水泳県高校結合体育大会(柏崎市)総合6位、入賞
36.7.22~23、水泳県高校選手権(柏崎市)総合57点2位、(背泳)100m・200m入賞
36.8.2~3、水泳東北高校大会(酒田市)総合24点3位、入賞
37.7.21~22、水泳県高校選手権(柏崎市)総合64点3位、上位入賞
37.8.1~2、水泳東北高校大会(長岡市)総合3位、上位入賞
37.8.25~26、水泳高校結合体育大会(長岡市)総合3位、(バタフライ)200ml位
37.9.16~19、水泳国民体育大会(岡山県)県代表として出場
★村川八郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★村川秀行
佐渡高校時代の昭和51.10.3 、陸上競技 、県高校選抜大会(上越市) 200m3位
52.6.3~5、陸上競技 県高校結合体育大会(新潟市) 村川秀行200m6位、4×100mR(羽豆・高柳・称解・村川)5位
53.6.2~4、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)100m3位200m6位
53.6.23~25 、陸上競技北信越大会(高岡市)200m7位
★村上正樹
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 6 劇画・朱艦(とき)のいた空 村上正樹・小松聡美
★村川安太郎久年
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。不詳。
★村川與市定年
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。大石岡田新屋。
★村川義行

和鋼博物館(鳥取県安来市)館長。東京工大時代は山岳部に所属し、就職後すぐに島根県安来市内の金属工場に配属。
50歳代半ばから大山に魅せられ、本格的に写真を撮り始める。33歳で米子市内に居を構えてからも、頻繁に足を運ぶ。「目的は登山で、写真撮影はほとんどしなかった」が、一冊の本との出会いで考え方を変えた。本のタイトルは『大山をめぐる山々』。佐渡には年に数回帰省すると言う。
★村瀬儀益
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★村田翁七
左:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より 右:「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)


(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★村田喜一郎
新穂長畝の人、父喜作の後を継ぎ、佐渡における池坊華道の中心人物として活躍し多くの門人を指導した。
平成26年7月没。
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約言五十人を数えている。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「34号」(平成25年7月)佐渡の池坊 ※藍原千里・村田喜作・村田喜一郎・藤井冴子
★村田喜作
邸内の顕彰碑等







『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約百五十人を数えている。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)


※「佐渡ジャーナル」関係記事:「34号」(平成25年7月)佐渡の池坊 ※藍原千里・村田喜作・村田喜一郎・藤井冴子
★村田圭
「 エスライフ」2014年10・11月号


※「佐渡ジャーナル」関係記事:「37号」(平成26年4月)座談会(本間文雄・石原和子・民部猛・村田圭・岩田雅)
★村田しげ子
新潟県人会参事、民謡家村田文三の孫にあたり、佐渡と関東圏をつなぐ活動に尽力している。

「佐渡ジャーナル」関係記事:「5号」(平成18年4月)第五十三回東京相川会大会のおしらせ(東京相川会副会長 村田しげ子)「46号」(平成28年7月)・高橋和子さん ありがとう!さようなら(村田しげ子)
★村田清
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。
よしよしとうなずきすれば牛の子の 首さしのばし甘ゆる仕草
★村田七郎
左:『新潟県官民肖像録』(明治41年) 右:『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)


★村田兆治


★村田哲四郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★村田豊次(豊治)
(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎座と大和座は分裂以後、たがいに芸道を競い、文弥人形界は活気を呈してきた。中川甚七は昭和四年(一九二九)没し、中川鹿蔵も老境に入り、葛原五兵衛がその後をついで座頭となり、中川伊八・渡辺伝蔵・石渕由太郎・村田豊次・今倉正太郎らと共に、その振興に力を尽した。鹿蔵もまた昭和十一年に世を去った。その後五兵衛は、佐渡人形界の名人の座にあり、全島に「五兵衛さん」の愛称で親しまれ、特に二刀流のつかい手としては、島内の第一人者である。また、薙刀の名演技も鮮かである。中川伊八は薙刀、渡辺伝威は女形・薙刀・若武者、石渕由太郎は女形・若武者を特技とした。太夫は村山の笠井長吉(大山)がつとめ、再び里見座の全盛時代を招来した。笠井長吉の没後、河原田の岡本文司によって各地をまわり、また、潟上の三代池田宗玄も両三度来演されたが、昭和三十年(一九五五)頃より中興岡本文盛太夫となり、羽茂の藤井閑六・長尾閑月らと共に今日に至っている。
昭和二十四年(一四四九)村田豊次宅の火災により、同家に保管されていた人形一行李を焼失した。上の坊住職本間敵政は、かねてから余技として刻んだ人形を里見座に寄贈して、その不足を補った。その後、石渕由太郎は不幸病魔のため倒れ、渡辺伝蔵・村田豊治も共に歿し、また、昔日の面影はなく、わずかに座頭葛原五兵衛が今倉正太郎と共に、一座をささえている状態となった。しかるに、五兵衛また老境に入り、大崎の文弥人形の将来を危ぶむ声が起ってきた。かねてから藤井真一は岡本文司に師事して文弥を修業し、かたわら人形つかいの技を修め、また昭和五二年(一九七七)には草木実・中川清治・川上公紀・渡辺友子・川1芳枝・中原ムツらの若人が、五兵衛の指導を受けて大崎座の復興にのり出した。しかるに、不幸若手のホープとして嘱望された藤井真一・草木実の両名が相次いで死去の悲運に遭ったが、若い同志の固い結束により、文弥人形の保存と振興のために精進をつづけている。また、昭和五十三年には、文弥人形愛好の有志により、大崎文弥人形保存会を結成して協力しつつある現状である。昭和二十四年(一四四九)村田豊次宅の火災により、同家に保管されていた人形一行李を焼失した。上の坊住職本間敵政は、かねてから余技として刻んだ人形を里見座に寄贈して、その不足を補った。その後、石渕由太郎は不幸病魔のため倒れ、渡辺伝蔵・村田豊治も共に歿し、また、昔日の面影はなく、わずかに座頭葛原五兵衛が今倉正太郎と共に、一座をささえている状態となった。しかるに、五兵衛また老境に入り、大崎の文弥人形の将来を危ぶむ声が起ってきた。かねてから藤井真一は岡本文司に師事して文弥を修業し、かたわら人形つかいの技を修め、また昭和五二年(一九七七)には草木実・中川清治・川上公紀・渡辺友子・川1芳枝・中原ムツらの若人が、五兵衛の指導を受けて大崎座の復興にのり出した。しかるに、不幸若手のホープとして嘱望された藤井真一・草木実の両名が相次いで死去の悲運に遭ったが、若い同志の固い結束により、文弥人形の保存と振興のために精進をつづけている。また、昭和五十三年には、文弥人形愛好の有志により、大崎文弥人形保存会を結成して協力しつつある現状である。
村田豊四郎の曽孫。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
「山里の人びと」(文弥人形)
★村田豊四郎(田代)
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大崎座は松之助が去った後でも、木戸場、川口、三郎、小沢、甚太郎等が一丸となって一座の発展につくしていた。 当時の青年八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が若き情熱を傾けて、研究するに及び、おのずから之等3人が中心の形となり、更に後進の指導を図った。かかる雰囲気の中で切磋琢磨して後日名人の域にまで達したのが中川甚七と中川鹿蔵で、当時の大崎座は甚七(屋号通称甚太郎)が座元であった。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎屋松之助の去った後の大崎座の遣い手、明治中期以降に活躍し、太夫としても知られる
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
「山里の人びと」(文弥人形)
★村田晴彦

「躍進日本」




河原田諏方町生、多摩美術大学理事長。
「Shiro's Site → History of Tama Art University」より
「年譜」
1903年 7/2生 母:村田チエ 川原田町大字諏訪町44(出生届7/6 戸主祖父:村田清太郎)
(チエは、菊池糸松の長女に入籍1886)
1909年 母チエが寅吉と婚姻届11/1
1917年 県立佐渡中学 酒井億尋と同郷 走高飛運動中にアキレス腱を負傷
1920年 認知届9/5 父:伊藤小太郎 川原田町大字諏訪町127
母チエが養父村田清太郎 養母スエと離縁届
1922年 中央大学予科 1928年 法学部卒 弁護士 山田辰之進の書生(佐渡郡 加茂村字羽吉出身)
1929年 北れい吉に呼ばれて 帝国美術学校の吉祥寺校舎を見学
新潟の下宿で、常香夫人と出会い
1931年 婚姻届1/12 山口マキ(父:無記 戸主母:山口マサ 若松市北小路町112)
長女出生2/14 豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷864
1932年 家督相続届5/9
1933 長男出生1/10 渋谷区代々木上原1315
1934年 北れい吉より電報 村田芳太郎が北れい吉の替わりに美術学校を経営
多摩帝国美術学校の設立基本金の借入を五島慶太に申し入れ
東横と 上野毛校舎 土地5400坪の契約
1935年 校舎建築費を東横から借入 今井兼次設計(東横が清水組施工の建築費を代払い)
建築費借入のための頭金15000円を調達
(ダンサー川畑文子の父親より借入5000円
(佐渡出身の酒井億尋(美術コレクター 荏原製作所)より借入 3000円
(牧野虎雄の絵画を満鉄本社に売却3000円 牧野虎雄の絵画を永見某に売却1000円
(残金は東横が猶予3000円
多摩帝国美術学校 認可9月6日 北れい吉が隣地田中貞治宅の樹下にて始業式挨拶
出席者:井上忻治 牧野虎雄 杉浦非水 吉田三郎 佐々木大樹 大隅為三 森田亀之助 渡辺素舟 鈴木誠
学生数:40名
学生監:村田芳太郎が吉祥寺校舎の教具を搬出
1936年 北れい吉の選挙違反の身代わりで未決監 佐渡を数回往復(第19回衆議院議員総選挙新潟一区 無所属当選)
母逝去 3/14
財団法人多摩帝国美術学校 設立(徴兵猶予の専門学校となる)
東横から基本金30000円借り入れ(寄付金:利付貸金 年8分)東横常務が理事長、重役が理事
1937年 次男出生1/14 杉並区井荻2-33
2.26軍法会議の秘密漏洩のため潜伏(磯辺浅一の獄中手記写真を小笠原長生中将に手渡す)
1938 三男出生2/7 世田谷区上野毛町272
1939年 上海旅行
1941年 次女出生1/20
東横債務の代わりを条件に、成田千里が校長に登記したが、入金なしで1週間で辞退
繰上卒業式11/
1942年 北れい吉の選挙応援で佐渡に(第21回衆議院議員総選挙新潟一区 翼賛政治体制協議会非推薦当選)
1943年 三女出生11/12
釜山 浦項 平壌 奉天 新京 ハルピン 満州 旅行
昭和医専校長の上条秀介より20万円借入(東横へ地代と利息元金 牧野画代 今井設計費を返済)
繰上卒業式(佐渡出身の在野の哲学者:土田杏村の後輩:渡邊泰亮主事)
1944年 海老名一雄と徳富蘇峰を伊豆山に訪問
1945年 三木清の消息をたずねて特高部を訪問
日本漁業組合の資材部長と財務部長 海外同胞引揚促進運動 社会党結成準備事務所
牧野虎雄の四谷の自宅で、多摩帝国美術学校の在京教授が集会 9月10日
多摩帝国美術学校 溝ノ口校舎で学生募集を再開(元日本光学軍需工場の2棟800坪を借受)
1946年 GHQ天然資源局水産部アダムス水産課長と佐渡へ同行
水産部長フィードラと資材課長ポーランドを佐渡に案内
多摩帝国美術学校『学校工場』を運営 三越高島屋へ売り込み
村田晴彦が幣原内閣の内務大臣三土忠造に、軍事工場跡の借入れの斡旋を依頼
溝ノ口の木造三階建600坪と木造平屋200坪を大蔵省国有財産部から借用
荏原製作所羽田工場青年学校から教具を貰い受ける 酒井億尋
元海軍の軍需工場から焼けた旋盤ミーリング盤セーパー盤ボール盤を払い下げ
中目黒の木工工場から丸鋸盤 帯鋸盤電動鉋盤機械鑿盤を購入
学生は木造3階建の2階を学生寮で生活し、学校工場でアルバイトをした
1947年 四男出生7/28
財団法人多摩帝国美術学校 学内理事
昭和医から斎藤監事と上条 石井理事、学内から杉浦理事長(軽井沢在)
新たに学内理事を追加 井上 村田 今井 藤原理事
1948年 野口英世銅像設置運動
1950年 財団法人多摩美術短期大学 理事 (監事 : 池留三 佐渡郡 河崎村野崎出身 )
1951年 学校法人多摩美術短期大学 理事
1953年 学校法人多摩美術大学 理事
名変変更届9/25 村田晴彦
1954年 「本学の創設から現在に至るおもいで」美術大学新聞
1957年 300坪購入 810,000円 川崎市宮前字三ツ又325-5 畑(1反歩) 1965年 所有権移転 9/20 売却
1960年 「多難だった学校設立」美術大学新聞
本館落成記念 6/
1961年 学校法人多摩美術大学 理事長
1961北死亡北の金婚式
1963年 北先生と選挙戦を偲ぶ「追想記」北れい吉先生三回忌法要会
欧州米国視察 世界の美術大学見学 木馬イーゼル導入
1965年 逸見梅栄からの文書偽造訴訟 (51国会文教委員会)
逸見宅の立退訴訟
八王子寮地鎮祭
「事件の真相」村田記述6/10
土地問題9/20
杉浦非水葬儀8/24 費用負担
1967年 学園紛争収拾のため、理事長を退任
学生運動に関する建白書
1968年 学校法人多摩美術大学 理事長に復帰および学長事務取扱に就任 石田英一郎が学長就任七ヶ月で急逝のため、
『総合美術大学構想』石田ビジョン
1969年 「多摩美術大学の現状」村田 1/25
入院手術 夫人が看護疲れで逝去 学園紛争中のため公表せず
多摩美術大学 機動隊導入ロックアウト 評議員 理事 教授を総入替 (61回国会文教委員会)
『紛争の経過ならびにその後の学内問題』12/1
1970年
1971年 長女夫婦を大学事務より排除
1973年
「村田家の墓」建之8/2 七代目村田興四兵衛 晴彦
多摩美術大学文様研究所 「文化外交についての建白書 10/20」 大平大臣会見記録11/13
1974年 真下学長と山脇教務部長を解雇 (75国会文教委員会)
多摩美術大学 定年規定制定 高橋史郎委員
学校法人多摩美術大学 理事長退職 東京地裁調停により(内藤頼博理事長および学長代行の就任)
村田晴彦口述『多摩美術大学沿革史』印刷『想出の期』3/
タイ王国旅行 タイ王国に移住計画
羽田空港に江上波夫を見送り:高橋士郎撮影
1975年 7月16日 72歳 北海道への旅支度をして、上野毛駅前で散髪、帰宅後横になったまま起きてこず
諸情報
★村田房之助(3代目 沢根の入海)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
沢根の入海は大名乗りで、3代読いた。初代は小木の中村から出た沢根の漁師であったが、入海の名を高からしめたのは2代目菊森実平である。(金子実平)この人は小木井坪から、沢根へ入婿した老であるが押し相撲を得意として強かったと語り草になっている。3代目を継いだのが村田房之助である。村田は沢根町の村田分店の出である。昭和2年生まれで現在かくしゃくとして、地域社会で活躍している。相撲は初め『青の川』の小名乗りであったが、のち地域の大名乗り入海を継承した。この人は生存しているので、よく冗談めかして、「沢根の入海は、3代目になったら弱くなったと云われて、困ってしまうわ。」と云って笑わせている。この人にはエピソードがあって、彼の実父は実直な人だったと見えて、息子が家業を休んで相撲を取りにいくのを大変嫌ったそうな。息子は窓からそっと褌を外に出しておいて、店の品物を配達する素振りで店から出て、褌をかかえて一目散に相撲場に駆けつけたそうだ。この力士の異色なのは、後年佐和田町長を2期つとめた事である。相撲取りで町長まで登りつめたのは、小木町の小木港を名乗った中川秀夫と、この村田房之助の二人だけである。
★村田文三(相川)
「村田文三の翁の実像を語る」
(娘:田中笑子、孫:村田しげ子、ゲスト:山田実、大谷公一)於:北とぴあ、取材:新潟日報・親松記者、共同通信・岩田記者、世界日報・岩田、片上記者
村田文三翁の実像を語る(H15.10.22)
右:墓(相川鹿伏 観音寺)




【生没】一八八二ー一九五六 民謡歌手。明治十五年一月元日、相川町大字五丁目浜町に生まれる。「ぶんさんや」という屋号の漁師の家で、父は篤蔵、母はトリ。本名は文蔵で、八男三女の長男である。一六歳のとき、北海道に四年ほど出稼ぎに行って帰り、鉱山に勤めた。この間日露戦争に従軍して、奉天で右腕に負傷し送還された。大正十四年(一九二五)すすめられて立浪会に入会。選鉱節で知られる選鉱場に勤めていて、声量のよさが認められた。同十五年「日東レコード」に初めて「佐渡おけさ」と「相川音頭」を吹込む。同年四月には愛宕山の東京放送局(現NHK)から、全国にラジオでも初放送した。その後ポリドール・ビクター・マーキュリー・コロンビアレコードなどに吹込み、格調の高い節廻しで、昭和初期の歌謡界を驚かせた。昭和二年(一九二七)に新潟市で山田耕筰・藤原義江の激賞を受け、同五年に鉱山を退職して、ビクターの専属となる。立浪会の演奏旅行では、満州・台湾・樺太・朝鮮などに出向いた。体重八一キロ、首まわり四七センチ、足袋は一三文のキングサイズで、いが栗頭の巨体がのそりとあらわれるので、放送局員などを驚かせたという逸話がある。昭和二十八年十一月、「佐渡おけさ」を広めた功績で、相川町の名誉町民に選ばれ、日本民謡協会から「技能賞」をも受賞した。同三十一年八月十日、七四歳で死亡した。
【関連】佐渡おけさ(さどおけさ)・立浪会(たつなみかい)・曽我真一(そがしんいち)【参考文献】『立浪会史』(立浪会)、森三郎「村田文三」ほか 【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
佐渡民謡・佐渡おけさを世界に広げた人物。 相川町5 丁目浜に明治15 年生、昭和31 年没。実家は漁師の「ぶんさんや」で「文三」の名前はここから。父は篤蔵、母トリ。本名は文蔵で8 男3 女の長男。16 歳の時、北海道の漁場に4 年程出稼ぎし帰って鉱山に勤務。日露戦争に従軍し奉天で右腕に負傷し送還。大正14 年立浪会入会、選鉱場に勤めており声量が認められた。同15 年「日東レコード」に「佐渡おけさ」と「相川音頭」を吹込み、同年4 月、愛宕山の東京放送局(現NHK)から全国にラジオで初放送。その後ポリドール・ビクター・マーキュリー・コロンビアレコードなどに吹込み、稀に見る声量と格調高い節廻しで昭和初期の歌謡界に旋風を巻き起こす。昭和2年、新潟市で山田耕筰・藤原義江から激賞され、同5 年に鉱山を退職してビクター専属歌手となる。立浪会の演奏旅行で満州・台湾・樺太・朝鮮などに出向いた。身長164cm、体重81kg、首回り47cm、足袋は13 文で、いが栗頭の巨体がのそりと現れるので、放送局員などを驚かせたという逸話がある。昭和28年「佐渡おけさ」を広めた功績で相川町の名誉町民に選ばれ、日本民謡協会から「技能賞」をも受賞した。
『佐渡郷土文化』所収(数字は号)村田文三 127 ふたりの文三 佐渡おけさが運んだ第二のふるさと 柳平則子
「佐渡ジャーナル」関係記事:「3号」(平成17年10月)佐渡おけさの村田文三氏の愛嬢逝く(父を支え、おけさの普及に捧げる)(本間壮平)「8号」(平成19年1月)よみがえる村田文三の美声-没後50年記念CDに復刻-「40号」(平成27年1月)ちょっと気になったこと ※桑田佳祐・村田文三
村田文三 その他諸情報
★村田守
小木の人、昭和19年-平成22年没。第2回両津甚句全国大会で優勝、第10回「おけさ 唄・踊り 日本一全国大会」(平成5年)で優勝(おぎおけさ)。中川千代、山田フサ姉妹から佐渡民謡を習得し、「さざ波会」会長、佐渡民謡協会会長を長く務めた。
平成13年にCD もリリースし小木追分、小木音頭、旧節両津甚句等貴重な歌を収録。総務省・文化庁・NHK後援の「第4 回地域伝統芸能祭り」(平成16年)に佐渡民謡協会会長として会を率いて出演した。児童への民謡指導も熱心に行った。
『佐渡ジャーナル』(33号 2013年4月)


(村田守)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「33号」(平成25年4月)故村田守さんを偲ぶ-佐渡民謡の保存活動と児童への民謡指導の牽引者(伊豆野康弘)
★村田弥六
「浜子屋派の名人村田弥六師」( 『江差追分』より)

世に追分博士といわれた村田弥六師もまた何かと話題の多い人であった。明治の初めに佐渡の佐和田から江差に渡ってきた師は、始め浜小屋の捻金の栄五郎方に奉公し、後に姥神町の米穀雑貨商龍五十印関川家の手代として働くかたわら、浜小屋芸者の里菊や井桐まん女について追分を習ったという。「待つ夜の長さを四五尺つめて、逢うたその夜で延ばしたい」という一句を数年がかりで習ったといわれるその苦心談の陰には、若い身空の村田師の隠されたロマンスがあったかもしれない。やがて一人立ちした村田師は、厚沢部方面で雑穀の仲買いに従事し、その縁で同村の館地区に住むようになる。即ち、館村駅逓主村田弥六氏の誕生である。師はその後館地区の名士として郵便局の創設や同地区からの道議会議員の擁立などに大きな力を発揮するようになるのであるが、それらの忙しい日々の中にあっても、師の追分に対する熱意は少しも衰えず、ときおり江差の新地に姿を現しては旧知の三味線で気持よく追分の一ふしを唄って帰ったという。次は、その頃の村田師のおもかげを伝える地元出身の識者の懐旧談の一節である。「追分節の名人といわれた村田弥六翁は厚沢部村館の駅逓の主人であった。ときどき江差へ出ては父の店に寄り、〝吉大郎さん、いい嫁さんもらったねェー″などと言っては、いつも牛肉の缶詰と果物の缶詰を一個ずつ買って五月楼の座敷にあがり、酒はとらず、いつも小鶴さんという老妓を呼んで、缶詰の牛肉と果物をお茶を飲み喰べながら、小鶴さんの三味線でてぇーいっぱい追分を歌って満足そうにニコニコとして、館へ帰っていったという。五月では、小鶴さんの線香代はもらったろうが、何回もかえて出したお茶代はとらなかったろうと母の話である。」(『江さし草第九号昭和五十三年十一月刊所載〝江差の鯛〟元桧山支庁長鈴木吉蔵氏記より)。生前、道内はいうにおよばず、関東関西の各地を巡演し、鷗島の追分記念碑にも高野小次郎師と並んで不朽の名を止めている村田師の面目躍如たる佳話である。自ら追分狂人と号し、裏地に追分文句を記した羽織を着し、行住坐臥追分を愛好した村田師、晩年自らの画像の裏に生国と父母の名を記して常に望郷の念を忘れなかった村田師、その生涯もまた、古きよき時代の江差人の典型であったといえよう。(「江差追分」江差追分会編)
・厚沢部町館の駅逓主「村田弥六」は大正3年、浜小屋節を改めて村田派を旗上げし、追分村田派図式音譜を発表して正調音譜に対抗し、その他「石沢派」「見砂派」「新正派」「三浦派」などを名乗って各自の唄に固執していたものも多い。 そこで、昭和10年に至り、時の原田浅次江差町長が、この現状を憂い各師匠を説得して町内の追分会派を改組し、町長が会長に就任するということで江差追分会が誕生し、完全に統一ができ、以来今日に受け継がれ正調として固定化をみるに至ったのである。 こうして、正調江差追分標準音譜を基調とする江差追分一本でレコードが吹き込まれ、全国各地に普及して「唄は追分、追分江差」と唄われる活況を見るに至ったのである。 また同年、村田弥六師は神戸方面に、江差出身の阿部鴎江師は東京方面にと、それぞれ巡回指導を行ない、追分節の普及に寄与したことも忘れてはならない功績である。これらの人々の熱心な普及宣伝の結果、大正六年から七、八年にかけて、東京に髄上会、神戸に千鳥会、岩見沢に鴎友会、留萌に北誉会など、有力な同好会が続々と結成され、追分界は戦前の第一期黄金時代を迎えることになるのである。中でも後藤桃水師を中心とする東京の追分界は大いに振い、追分節演奏家の間の親睦と協同を図ろうとする動きが強まった。その一例が大正七年秋、東京荒川の鯉料理店で開かれた追分尺八家の会合である。後藤桃水師が翌年予定していた追分節大会の相談のために開いたこの会合には、小金井静重、榎本秀水、菊地淡水ら後に追分尺八界の指導的な役割を果すようになった人々が出席し、大いに親交を深めた。翌大正八年、予定どおり神田のキリスト教青年会館で行われた追分節大会には、後藤師門下のほか、三浦為七郎、越中谷四三郎、村田弥六、浜谷はつ等の名人が出演し、いやが上にも人気を盛上げた。大会はその後、大正十一年からは全国民謡大会と名称が改められてさらに盛大に行われるようになった。そのように、当時の追分界は、明治末期以来の先覚者達の懸命な努力が実を参んで、しだいに広く世に知られ、大都市を中心に流行したのであるが、大正十二年九月一日、突如として関東地方を襲った大震災のため、一時挫折の上むなきに至ったのである。
「江差追分節記念碑」
(江差町鴎島 揮竜 北海道長官 佐上信一)
碑 記
古来、我地方二追分節ナルモノアリ。歌詞繊麗優佳ニシテ内地追分ノ比ニアラス。
往年、同好者平野源三郎、村田弥六氏等閑東関西ノ地ヲ歴遊シ。宣伝大二努ム。
当時、追分ノ名手トンテ内野中将ヨリ鴎浜翁ノ号ヲ得タル高野小次郎、其同士卜共二江差追分会ヲ組織シ、爾来北海、東北、関東、関西ノ各地二招聘セラレ、公開スルコト十数回、今ヤ全国津々浦々二到ルマデ、我江差追分節ヲ称揚セザルナキニ至ル。
仍テ碑ヲ建テ、兹二会員名ヲ録シテ以テ記念トナス。
昭和七年十一月 築瀬仁右衛門書
松前江差の鴎の島は地から生えたか浮島か
昭和七年十一月建立
江差追分会本部
会長鴎浜翁高野小次郎
浅木福三 山田玉蔵 宇佐美源蔵 船木賢治 蔦屋丈八
小路梅太郎 金森勇 金田仙次郎 吉田勝之助 佐々木栄太郎 村田幸一
賛助員芳名
森本正雄 原田浅次 田中義仁 北村屹郎 石田連治 西谷嘉右衛門
大島重一郎 横山宗右衛門 関川常雄 加藤重兵衛 増田勝次郎 高橋兵市 堀井安則
(「江差追分」江差追分会編)

※・高橋秀夫先生(沢根篭町)談
沢根でも大正時代などでは追分が大層盛んであったと聞いている。
村田苗字は沢根上町がルーツだと思う。
・松本丈一が20歳頃(大正10年頃)追分研究家である沢根五十里の山本為蔵に師事したとあるので、この時期の沢根は追分が盛んであったとことが偲ばれる。
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嘉永3年(1850年)頃佐渡沢根にて生誕生~大正15年76歳で没。
明治初期江差に渡る。江差追分節初期の名人で明治から大正にかけて普及宣伝に尽力し、世に追分博士と呼ばれた。浜小屋の捻金の栄五郎方に奉公し、後に姥神町の米穀雑貨商龍五十印関川家の手代として働くかたわら、浜小屋芸者の里菊や片桐まん女から追分を習う(明治9年頃)。「待つ夜の長さを四五尺つめて、逢うたその夜で延ばしたい」という一句を数年がかりで習ったとも言われる。その後一人立ちし、厚沢部方面で雑穀の仲買いに従事し、その縁で同村の館地区に住み館村駅逓主となる。その後館地区の名士として郵便局の創設や同地区からの道議会議員の擁立などに大きな力を発揮しながらも追分に対する熱意は衰えず。道内は言うに及ばず、関東関西の各地を巡演し、鷗島の追分記念碑にも高野小次郎師と並んで名を留める。明治40年頃、豊川橋畔高田屋で追分大会が開かれ参加していた。明治42年、正調江差追分節の曲調が論議された重要な会議にも参加し、現在の江差追分の骨格が決定した(江差追分研究会発足)。大正2年1月、東京の三光堂で追分節吹き込み。大正3年には浜小屋節を改めて村田派を旗上げし、追分村田派図式音譜を発表して正調音譜に対抗した。同年東京方面を巡演。この頃と想われるが、旭川で追分講習会を開き、これは後に300人の会員を擁する蝦夷歌会として村田派追分後援会に発展する。
・大正5年6月「江差追分文句集」、大正9年5月「純粋の江差追分節」を共に函館小島大盛堂からは出版した。後者には「江差追分アイヌ船頭由来説」が書かれている。同年、4月には大阪南地演舞場で行われた「第36回浪花風流芦辺の踊」に賛助出演する。江差追分を愛した晩年の伊藤博文公が銃弾に倒れて後、神戸大倉山の銅像前で追分を献唱する。昭和10年には神戸方面に巡回指導を行ない追分節の普及に寄与する。大正八年、神田のキリスト教青年会館で行われた追分節大会には、後藤師門下のほか、三浦為七郎、越中谷四三郎、浜谷はつ等の名人と共に出演し、いやが上にも追分人気を盛上げた。この大会が元になり、翌年大正9年に第一回日本民謡大会が開催されることとなる。「江差追分節記念碑」(江差町鴎島)には次のようにある。
・国仙重作さん談(「江差追分」昭和57年刊)
「村田弥六さんの追分は現在の「スクリ」という節が入らない型の追分でした」
碑 記
古来、我地方二追分節ナルモノアリ。歌詞繊麗優佳ニシテ内地追分ノ比ニアラス。
往年、同好者平野源三郎、村田弥六氏等閑東関西ノ地ヲ歴遊シ。宣伝大二努ム。
・沢根なぎさ会の高橋秀夫先生(沢根篭町)談。
「沢根でも大正時代などでは追分が大層盛んであったと聞いており、村田弥六の名前は聞いていた。
村田苗字は沢根上町がルーツだと思う、弥六の子孫は新潟に住んでいる。」
・畑野出身の民謡家松本丈一が20歳頃(大正10年頃)追分研究家である沢根五十里の山本為蔵に師事したとあるので、この時期の沢根は追分が盛んであったとことが偲ばれる。

「新潟日報」(h26 12月30日)

下記の本に村田弥六の詳しい出自が載る。
・村田弥六翁伝
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036865.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=2
★村田興作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治六年生 澤根町澤根、米穀生産検査員 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、佐渡郡会[九年十二月二十三日]
★村田慶朗(むらたよしろう)
二見橘出身、佐高44年卒。東京外語大卒、新潟高校英語教諭、佐渡高校校長歴任。佐高野球部が、鎌田侑樹投手を擁して第83回全国選抜野球大会に出場した時の学校長。県立佐渡高等学校19代校長(平成20・4・1~平成23・3・31)。
★村田与三兵衛(むらたよそべえ)
【生没】生・没年不詳 近世初頭から明治期にかけて、下相川居住の外海府の大中使または大名主。大中使・大名主という村方役は、内外海府・赤泊内浦にみられるだけで、他村にはおかれなかった。天領支配にともなう臨時の職制とみられる。与三兵衛は本興寺の西側に屋敷があり、石切町にも屋敷があった。本興寺の重檀家である。地方文書に大中使与三兵衛が登場するのは万治年間ころ(一六五八~六○)で、境界論争、山争いの調停役、村々水争い、新田開発願書の証人、外海府(下相川~願)の炭・材木・級などの集荷人として登場する。近世村落形成期にあって、地方支配の末端業務を担っていた。また、『佐渡年代記』によると、寛永二十年(一六四三)、北田野浦に銀山二か所見立て、増扶持を与へ中使与三兵衛を山主にして稼いだとある。同翌年、小野見村に与三兵衛堰が引かれ、相川から数人の百姓をつれて入り新田を開いた。与三兵衛が大名主として登場するのは、元禄・宝永期ころ(一六八八~一七一○)までで、その後は奉行所役人が直接新田を開く、役人請負新田の時代に入り、大名主の名は消える。与三兵衛家は村田姓であり、出自は不明。墓地は本興寺本堂裏側の上手にある。明治期には紺屋を営んでいた。
【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集五)、『郷土相川 三・四集』(相川町教育研究会) 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★村田竜太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]
★村中治一
「島の新聞」索引(人名別)
★村本義雄




1925年4月26日生。佐渡の佐藤春雄、能登の村本義雄と言われた朱鷺保護の二大巨人。
著書:「中国のトキを慕いて」(2017/9/30)、「能登のトキ―幻の鳥を追った5475日 写真集」 (1982年)、「能登のトキ―十七年間の観察記録」 (1972年)、「能登のトキ物語―語りつぐ、能登に暮らしたトキの生活史」(2010/6)、「ニッポニアニッポン―わが愛せし朱鷺」 (新歌人叢書 (第69輯)1998/5)、「大地に生きる―中国陜西省洋県の朱鷺」(1997/2)。
(個人ブログ)
「村本義雄さんに聞く 44年ぶりに眉丈山に飛来したトキの定着に必要なこと」
今年5月27日、羽咋市にある眉丈山近くの水田に、トキが飛来しました。眉丈山は本州最後のトキの生息地で、1969年に最後の1羽が確認されて以来、じつに44年ぶりの飛来となります。七尾市での世界農業遺産国際会議の開幕を2日後に控えたこの日、タイミングよく飛来したのは、富山県黒部市に住みついていたメスのトキで、その後も眉丈山にほど近い邑知潟周辺で餌を採る姿が目撃されていることから、引き続きこのあたりに滞在しているものと思われます。眉丈山のふもと羽咋市上中山町に住み、長年トキの保護に尽力してきたNPO法人日本中国朱鷺保護協会名誉会長の村本義雄さん(88歳)に話を聞くと、村本さんは、飛来したトキがこのまま邑知潟周辺に住みつくのではないかとみて、観察を続けるとともに、早速いろいろな保護活動をはじめていました。(村本さんは、7月27日、29日にも邑知潟でトキの姿を確認しています)村本さんが、まずやらなければならないと感じているのは、農家の方に協力を仰ぎ「トキを守る隊(仮称)」をつくって、トキが安心して暮らせるように見守ってもらうこと。監視員が巡回するのではなく、農家の方に農作業のついでに気を配ってもらい、一緒にトキを保護する体制を作っていきたいと、実現へ向けて関係機関と話し合いを進めています。こうした取り組みは、中国のトキ生息地でなされていることで、中国では、撮影のためにトキを追いまわすカメラマンを農家の人が注意したりしているそうです。「中国へ視察に訪れて、なるほどなぁと感心しました。羽咋市でもぜひ取り組むべきです」と村本さんは言います。合わせて、11月の狩猟解禁に向け、トキがどこにどれぐらい滞在しているかを、餌場などを中心に調査することも必要です。11月の解禁以降もトキが居続けるようであれば、注意を促す看板を設置しなければならないし、もし滞在が数年にわたるようであれば、禁猟区を設けることも視野に入れた対策が必要だと、村本さんは考えています。こうした考えは、能登にトキがいた頃、村本さんが実際に関係機関に掛け合って禁猟区を設けた経験に基づいているのです。「かつて、能登のトキの保護活動をしていた頃は、『田んぼの苗を踏み荒らす害鳥を守れとはどういうことか! 傷んだ苗のぶんは誰が補償してくれるのか』と怒鳴りこまれたこともありました。禁猟区を設けるときは、『この銃口がお前の方を向くぞ』と脅されたこともありました。でもそれは戦後の食糧難の頃のことで、時代は変わりました。トキだけでなく、人間を含むすべての生き物が共生できる環境を作ることの大切さを、多くの人に理解してもらいたいのです」(村本さん)さらに、これらの活動と並行して、村本さんは保育所や小学校へのトキの講演にも出向いています。これは、子供たちの心に、トキをはじめとする生き物と共生する心を育みたいと、村本さんが長年続けていることのひとつです。いずれ大人になった子供たちの中から、トキの保護に真剣に取り組んでくれる子が出てくるかもしれない。自然保護のリーダーとなって指導してくれる子が出てくるかもしれない。そんな思いから、依頼のあった各地の保育所へボランティアで出かけています。今回の飛来でも、5月にトキが最初に飛来した無農薬田の持ち主の男性は、「村本さん、私、子供の頃に、最後の1羽になったトキを望遠鏡で見たことがあるよ!」と話してくれたそうです。その体験は、後に男性が無農薬での米作りを始めたことと無関係ではないでしょう。長い年月を経て、村本さんの活動が、いろいろなところで実を結んでいます。その事実に後押しされて、村本さんはこの日も、さっそうと保育所での講演へ出かけていきました。
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★村山古郷
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)村山古郷
6 鑑賞 佐渡のうた (6) 青木月斗・佐々木象堂・前田普羅・村山古郷 山本修巳
26 特集 句集「海見ゆる坂」 「海見ゆる坂」を見つつ
★村山真城(しんじょう)

両津小、両津高校で教鞭をとり、音楽部を通して多くの生徒達を指導した。老後は東京在。実家は湊真念寺で父が家人でもある村山忠。
→村山忠参照
★村山忠
両津湊の勝広寺境内にあった真念寺住職で、歌人でもあった。生れは両津河崎の西芳寺玄森家。長男村山真城(しんじょう)氏は両津小、両津高校等の音楽教師で合唱団を指揮し多くの生徒の音楽好きの生徒を指導した。次男は高校教師、長女?は両津第一保育所の先生、村山真紀さんは私(渡辺)と同学年だった。
★村山由貴男
・昭和52年5月 新潟県東頸城郡松代町(現十日町市)生まれ。・平成8年3月 新潟県立松代高等高校を卒業後、米国へ留学。
・平成13年5月 ノースカロライナ州立A&T 大学工学部を卒業。・同7月 株式会社ソフトウェーブ(東京・豊島区池袋)に入社。・同12月 ベトナム赴任のため株式会社ソフトウェーブを退社・平成14年2月 合資会社両津市清掃組合(現アイマーク環境株式会社)に入社。・同2月 サザンクロス・ベトナム社(ベトナム・ホーチミン市)へ出向、平成14年8月 ベトナムから帰国。・平成14年9月 両津市清掃組合に復帰。・平成18年9月 両津市清掃組合が「アイマーク環境(株)」に社名および組織変更。・代表取締役社長を拝命。(代表取締役会長に伊藤憲三)。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「31号」(平成24年10月)第13回産業フォーラム(廣瀬俊三・村山由貴男)
「島の新聞」索引(人名別)
★室岡清子
夷保育園園長。両津夷2、あめ屋商店長女。下記室岡啓史氏の大叔父の妻になる。

★室岡甚一
「島の新聞」索引(人名別)
★室岡悌二
「島の新聞」索引(人名別)
★室岡啓史(むろおかひろし)
ウィキペディアより









h28年4月市議選立候補パンフ


新潟日報(h28年4月12日) 市議初当選


平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報

「島の新聞」索引(人名別)
★室賀図書(むろがとしよ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、天明七年(一七八七年)七月二十六日に払方御納戸頭から佐渡奉行となり、翌八年四月八日相川へ着任、寛政五年(一七九三年)六月三日持筒頭へ転役となった。名は正明、知行は五百石、役料は千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)
★室橋音次郎
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)8代校長(昭和10・9・14~昭和16・3・31)。
長岡市立栖吉中学校の校歌作詞者である。
★室本美咲
「島の新聞」索引(人名別)
2014-03-01
★はな
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国牛込村の人である。夫の死後老母に仕えて孝養を尽くしたので、文政二年(一八一九年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★華岡青洲(はなおか せいしゅう
宝暦10年10月23日(1760年11月30日) - 天保6年10月2日(1835年11月21日))は、江戸時代の外科医。記録に残るものとして、世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)を成功させた。諱は震(ふるう)。字は伯行。通称は雲平。号は青洲、随賢。随賢は祖父・華岡尚政の代から華岡家の当主が名乗っている号で、青洲はその3代目である。
※佐渡から三十人位の人が学んだ。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=5
★葉梨勲
佐渡高校時代の34.7.4-5、体操全国高校県予選会(新潟南高校)徒手2位
★葉梨貫一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★葉梨吉平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]
★葉梨源内
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
能には狂言がつきものである。殊に中央では滅びた鷺流が、真野町にだけ残っているのは重要である。鷺流の宗家は明治初年まで舞台を勤めた鷺権之丞で絶えてしまった。佐渡での初期の狂言は大蔵流だったらしい。鷺流を佐渡に伝えた最初の人は吾潟村藤巻の葉梨源内で、江戸で修業して帰国したのが文政年間のことで、それ以来天保四(一八三三)年に三二歳で死ぬまで佐渡で活躍し、弟子を養成したという。しかしその系譜は不明である。大膳神社の能では、明治三十三年八月、本間令桑の勧進能があり、一四日には「そら腕・飛越」を小杉忠三郎が演じ、一五日には「ぬけがら、粟焼」を畑福新三郎が演じた記録があり、いずれも鷺流である。鷺流狂言で地方に残ったものの中でも、佐渡のは宗家直伝の正しいものだといわれている。明治初年に一九代宗家鷺権之丞が三河静観を頼って佐渡へ渡り、数年寄食して指導したからである。真野の狂言は鶴間笛畝に始まる。明治一八年に上京した時に鷺流の狂言も習った。真野での弟子に岩本量宏(明治五-昭和二八年)や佐々木文蔵(明治一七-昭和三六年)がおり、文蔵の弟子に土屋増一がいる。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


「島の新聞」(95号)


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「島の新聞」索引(人名別)
★葉梨五郎
『新穂村史』(昭和51年)より
潟上の城主について潟上の後藤与作は、潟上氏の初代は葉梨五郎という人物であったとしている(潟上郷土史)言い伝えを書いたものであろうが大変おもしろい。というのはふつう雑太氏の場合などは最初から本間氏を名乗っているのに、ここでは菓梨を名乗っていることである。それは潟上氏がこの土地出身の土豪であることを主張しているとみてよかろう。たしかに潟上の場合は「平城」もないのであるから、ふるく、大きな土豪(村殿)がいた、とは一寸考えにくい。そして牛尾神社に所蔵される大蔵経五首二十二巻の奥書にほ「永徳元年六月日佐州久知郷潟上に於て喜畢」と記してある。永徳元年といえば一三八一年のことで、そのころ潟上は久知郷に属していたのであろう。
★葉梨稔明
佐渡高校時代の31.9.22~23、体操県高校結合体育大会(新潟市)跳馬3位
★花角英世(はなずみひでよ)

新潟県知事。昭和33年、金沢生まれ。金井小~加茂小、小学4年で新潟有明台小に転校。付属新潟中学から新潟高校、東大法学部卒。父母共に佐渡の電報電話局勤務。父は白瀬無線局の技師、母ヒサ美(昭和23年河原田高女卒)は佐和田電報電話局の交換手。母の旧姓は吉田でその父は警察官であり、両津浜田にも居たことがある。当時は電報電話局はまだ海底ケーブルに頼る時代だったので無線局はその業務もあったのではないか。※母は金井新保の小菅家の人と言う人もいるが、祖母の間違いと思われる。
昭和33年5月(平成25年4月1日現在54歳)
学歴:東京大学法学部卒業
職歴:昭和57年4月 運輸省入省 63年11月地域交通局総務課補佐官
平成2年9月 航空局管制保安部総務課長補佐官
〃 11年10月 運輸大臣秘書官
〃 20年10月 観光庁総務課長
〃 23年8月 大阪航空局長
〃 24年9月 大臣官房審議官(海事局、港湾局併任)
〃 25年4月 新潟県副知事
佐渡高校同窓会報より、昭和23年3月卒に一人 花角(吉田)ヒナ美 金沢(新潟市寺尾上5-10-1 025-260-4113)となっているのが母親。
(新潟日報 2013.3.22記事)
国土交通省官房審議官の同氏が新潟県副知事就任予定。
金井町出身54歳、新潟高校-東大卒。
1982年運輸省入省、観光庁総務課長、大阪航空局長等を経て12年9月から国土交通省官房審議官(海事局、港湾局併任)。
「ウイキペディア」より

※「佐渡ジャーナル」関係記事:「54号」(平成30年7月)・佐渡市出身の知事誕生 ※花角英世
★花房勘右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、寛永十一年(一六三四年)より十二年まで在任した。知行は千二百石であった。(佐島遺事)
★羽生郁次郎→鵜飼郁次郎
★羽生英三
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村竹田 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
★羽入嘉吉
「躍進日本」

★羽生一夫

羽茂本郷の人、昭和17年生。羽茂民謡研究会草創期の昭和51年頃入会し長く在籍する。
笛、三味線、唄を担当。また、小木さざ波会にも参加した。
小木新潟交通発売のテープ「佐渡めぐり」に「小木おけさ」を収録。
総務省・文化庁・NHK後援の「第4回地域伝統芸能祭り」(平成16年)に佐渡民謡協会一員として出演。
★羽生数馬
羽茂の人、連歌関係者。→下記資料のp707
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生吉右衛門
晃照寺

★羽入慶太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★羽生茂
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野能楽会は「笛畝会」と「清諷会」とが合流して生まれたが、その頃誕生早々で、今は真野能楽会に所属しているものに「宝清会」がある。この会は昭和四九年、町役場勤務の若い者を中心に五、六名が山本清左衛門に習ったことから始まり、今は二〇名近い。会長は羽生茂・内田喜久男・渡辺ヤス・安達忠雄と続き、現在は再び羽生茂である。師匠は山本の没後、その高弟である小泊の浜岡直一にかわった。
★羽入壽泉
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★羽生恕安(友順)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より


金子杳良(市太郎)とも言う。羽茂の人、連歌関係者。三右衛門、山田かじや、享和2年6月10日上京。→下記資料のp691
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
羽茂木戸、星越家の日人、連歌関係者。→下記資料のp697
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽入慎吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★羽生甚左衛門
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三年生 真野村竹田、農業、精米業 ・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大2、佐渡郡会の鉄道敷設請願[九年十二月二十三日]・大3、佐渡郡会の鉄道敷設意見書[十一年二月二十一日]
★羽生助左衛門
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
明和の代表的義民である、畑野後山の人。明和の飢饉は、現在の畑野町と新穂村が最も甚しく、そのためにこの方面の名主たちが救恤に立ち上り免租減税を上訴したのであるが、助左衛門はその先頭に立って活躍した。そして、明和四年十一月から同七年三月まで入牢し、遍照坊の処刑後放免となつたのである。現在羽生家は断絶して屋敷跡を残すばかりであり、墓所も同村慶宮寺に在るのではないか、と極力探したのであるがとうとう発見することができなかった。
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★羽生孝之
北海道道庁職員、北海道民族共生象徴空間「ウポポイ」勤務。佐渡出身。
★羽生武成(友聞)
羽茂木戸の人、連歌関係者。→下記資料のp691
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生帯刀
「戦国佐渡国人名辞典」より
羽茂高茂家臣。羽生館主。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。
★羽生谷守
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡真野町竹田の里正で名ほ済通、字は公楫、通称を甚左衛門という。俳人で鵜飼郁次郎の父である。新井精斎、太田熊山に学びまた書を巻菱湖に受けた。俳語をよくし谷守と号し四方に遊歴し、京都の節翁、江戸の惺庵、西馬等を訪れた。荒波集一巻の著がある。明治七年になくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)羽生谷守 153 谷守翁壽藏銘: 原文 円山溟北 釈文 本間昭雄
★羽生致孝(治兵衛)
「明治の敬老会」(「佐渡の百年」)
※海老名武右衛門(義明)とは兄弟
★羽生忠二郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
梨やリンゴの栽培は、第一次大戦ころから昭和の初期ころにかけて、佐々木伝左衛門や小川内の渡辺八十八、合沢の羽生忠二郎、四日町の菊池長右衛門、沢根の土屋弸(つちやみつる)らによってはじめられた。とくに梨は大正九年、郡の農業技師山田忠平が桃の栽培の良好なのをみて、梨の栽培を勧めたのが動撥となって、翌年には佐々木伝左衛門らが早生赤、長十郎などを植えた。
★羽生禎次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★羽生友二
佐渡高校時代の平成元.6.3-5、体操県高校総合体育大会(新潟市)男子団体(安藤・星野・羽生・渡部)5位
平成元.9.30、県体操選手権大会(新潟市)個人総合8位
平成2.6.1~3、体操県高校総合体育大会(新潟市)男子団体(羽生・渡部・渡辺・相田)5位
★羽入令吉(はるよし)

真野合沢の人、昭和13年生まれ。佐渡博物館学芸員を長く務め、各種調査研究に加わる。佐渡金銀山を世界遺産にする会でも活躍し、特に小木~相川に至る「金荷(かねに)の道」の整備や紹介に活躍した。他にも真野歴史講座他各種講座の講師として活躍している。合沢の実家は羽生(鵜飼)郁次郎の隣家で、その分家筋にあたり、隠居谷地と言う屋号である。佐渡高校時代の昭和31.7.11、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞。
2016.01.10 新潟県佐渡市:佐渡市文化財保護審議会職務代理者の羽生令吉さんが、平成27年度の新潟県教育委員会表彰を受賞しました。今回の表彰は、旧真野町当時から現在まで文化財保護審議会委員の要職を歴任され、長年佐渡博物館学芸員としても考古調査に尽力された功績を称えるものです。
★羽生秀夫
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和10年、第5回県下男子中等学校競技大会(4部)に出場し、走幅跳4位(4m61)、800mR4位(加藤三正・羽生秀夫・萩原忠司・渡辺俊)。
★羽入平雄
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★羽生正長
羽茂木戸、羽生又右衛門家正矩の子、連歌関係者。→下記資料のp697
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生正延
羽茂の人、連歌関係者。→下記資料のp710
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生正矩
羽茂木戸、又右衛門家の人。連歌関係者。→下記資料のp697
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生正房
羽茂の人、連歌関係者。→下記資料のp662
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生政之(又右衛門)
羽茂木戸したがみ、連歌関係者。羽生又衛門家、正長の子、寛政9年没。→下記資料のp691
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽入雪太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、児玉竜太郎、羽入高等課長を告訴す[五年三月二十二日]
★羽生雅春
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)羽生雅春
126 父・羽柴雪彦の俳句とその人生
150 「雪の高浜」について
148 司馬遼太郎と佐渡-小説 「胡蝶の夢」に見る伊之助の風景―
153 「彷徨の記」に名前を記された俳人たち(一)
154 「彷徨の記」に名前を記された俳人たち(二)
156 「いもせ」休刊のこと
「島の新聞」索引(人名別)
★羽二生万吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★羽生明甫
羽茂の人、連歌関係者。→下記資料のp707
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生門平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]
★羽生保成
羽茂の人、連歌関係者、明治3年没(75歳)。→下記資料のp719~
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽二生良夫
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑野宮川の羽二生勘兵衛家の人。昭和二十年代後半に、自ら手動の結束式稲刈機を設計して、親戚の伝内鍛冶屋に試作させた。この稲刈機は、のちの農業機械化時代の口火を切るものであった。同氏はその後農機具会社の技師をへて社長となった。
「稲刈結束機 (いねかりけっそくき)」
本機は、稲の刈り取りを結束を一連作業として行うことができる。普通、バインダという。人力用バインダである。機体を押して、押刈りした稲株は、十数株集めて一束とし、細縄で結束して、側方に放出する。画期的なもので、羽二生良夫の考案による。昭和27年、人力用刈取結束機として出現した。両ハンドルを握り、機体を一押しして、5~6株を刈り、これを繰り返して一束分とする。一旦機体を停止し、ハンドルを回して、刈株を結束し、機体の側方に刈束を放出する。この人力用稲刈機は昭和20年代後期から、動力用バイダのできる昭和30年代後期まで使用された。(なお、人力用バインダを動力化して開発された動力稲刈機は、小形空冷エンジンを搭載し、機体の運行におよび刈取・結束を行う。はじめ、結束に2分縄を使用したのが、のち毛繊紐を利用するようになった。昭和40年初期の動力用バインダは、1日当たり約20アールの刈取結束効率を示した。その後、機体のスリップ防止のため、キャタピラを使用し、また軽量・小型化などの改良が行われ、今も小区画圃場などに利用されている。)
(羽二生良夫)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)佐渡総合高校の校歌作詞者(羽二生良夫 前三条商工会議所会頭)
★羽生林斎
真野合沢十王堂

真野合沢の人。画家、仏画を得意とした。師は本間深兆、探兆の師は狩野胖幽である。
★羽入令吉→羽入令吉(はるよし)
★羽田次郎
長畝の観音院にある顕彰碑(建立代表者嵐城嘉平氏は父治作氏が長畝荷上家の人:村長與六弟)

新穂長畝出身の軍人、少将。父は羽田清次、姉の夫が本間林三である。
「島の新聞」37号


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)羽田次郎 79 「佐渡学」ノート (1) 近藤福雄、宇治金太郎、羽田少将、薪能「景清」 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4海軍少将羽田次郎物語・世勘亭黙公 7羽田少将の慰霊 世拗亭黙公
諸情報
★羽田清次(はねだせいじ)・桜村

下記羽田清七郎は羽田清次と関係があると思われるが・・

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

【生没】一八六八ー一九四六 相川町羽田に生まれ、桜村と号した。先祖は、鉱山都市相川が誕生する前の羽田郷をおこした一族であると伝えられている。正確な生年月日はわからないが、昭和二十一年十一月十七日に没した時七九歳とあるから、逆算すると明治元年の生まれとなる。明治十九年十月に、永井晋らと相川町の折柴小学校に集まって「有志佐渡教育会」を組織し、明治二十六年七月「佐渡義会」の会員となり、明治三十年五月十一日から新潟県議会の書記となった。明治の末頃、新穂村に移って長畝に住み、長畝購買組合の設立運動に参加し、大正五年(一九一六)十二月に設立すると監事に就任した。執筆・出版した書物も多く、『佐渡遊覧案内』(明治四十三年)、『新穂村案内』(大正二・六年)、『両津町誌稿』(大正七年)、『佐渡歌謡集』(昭和十三年)などがある。佐渡郡教育会から、昭和十年には『佐渡年代記』、同十四年には『佐渡風土記』の編纂主任を委嘱され、それぞれ刊行させている。また、島内外の文化人との交流も多く、明治三十二年には尾崎紅葉を、大正十三年には大町桂月を案内した。【関連】佐渡義会(さどぎかい)・佐渡郡教育会(さどぐんきょういくかい)・佐渡歌謡集(さどかようしゅう)・金堀節(かなほりぶし) 【参考文献】『あまほっこり』(六)、『佐渡長畝』、『佐渡国史撮録』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・長畝、川上龍一さん談
羽田家の墓は北海道に移したと聞いている。・和田延治(のぶじ、大正初期生)さんと言う方が長畝に居り、羽田清次さんに私淑し、晩年の面倒を見ていた。下の世話までしていた。清次さんをリヤカーに載せて佐渡病院への送り迎えをしていた。羽田清次さん死後も羽田家の墓守をしていた。・長畝の杉坂正之さん(昭和10年頃生)は羽田家に詳しかった農協組合長の本間一雄さんや、羽田家の古い親戚である本間昭一さん(昭和8年頃生)から羽田清次さんについていろいろ聞いていたようだ。
順徳天皇の真野山御陵(※萩野由之 羽田清次編 大正6)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数59・63・139・141
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 6羽田清次翁 明治・大正・昭和交遊録 飯田辰巳
諸情報
★羽田清七郎
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★羽田利見(としみ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行。通称を龍助という。嘉永三年(-八五〇年)八月二十四日、佐渡奉行に任命された。前職は中川飛弾守跡元御役御勘定役であった。嘉永四年四月二十四日に相川へ着任した。柏崎で病気となり、六年三月江戸へ帰り、その後は任地へ帰らなかった。病気のため御役御免隠居被仰となったからである。知行は二百俵、役料干五百俵百人扶持であった。利見は歌人としてもすぐれ、歴代奉行中鈴木重嶺(その項を見よ)とならぶといわれている。
此国は浜の真砂も河の洲も黄金白金ありといはずやも
舌だみし声こそなけれ鴬は都の人や生(おふ)したてけん
笠とりを夕越えくれば国中の田づらかすみて雨こぼれきぬ
ふるさとの今日はたよりを聞く日とて先づあさめよき鳥の声かな
長歌旋頭歌に、平詞をもって一気呵成に表現した技量は高く評価される。(佐島遺事)
★羽田豊治
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約言五十人を数えている。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国牛込村の人である。夫の死後老母に仕えて孝養を尽くしたので、文政二年(一八一九年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★華岡青洲(はなおか せいしゅう
宝暦10年10月23日(1760年11月30日) - 天保6年10月2日(1835年11月21日))は、江戸時代の外科医。記録に残るものとして、世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)を成功させた。諱は震(ふるう)。字は伯行。通称は雲平。号は青洲、随賢。随賢は祖父・華岡尚政の代から華岡家の当主が名乗っている号で、青洲はその3代目である。
※佐渡から三十人位の人が学んだ。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=5
★葉梨勲
佐渡高校時代の34.7.4-5、体操全国高校県予選会(新潟南高校)徒手2位
★葉梨貫一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★葉梨吉平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]
★葉梨源内
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
能には狂言がつきものである。殊に中央では滅びた鷺流が、真野町にだけ残っているのは重要である。鷺流の宗家は明治初年まで舞台を勤めた鷺権之丞で絶えてしまった。佐渡での初期の狂言は大蔵流だったらしい。鷺流を佐渡に伝えた最初の人は吾潟村藤巻の葉梨源内で、江戸で修業して帰国したのが文政年間のことで、それ以来天保四(一八三三)年に三二歳で死ぬまで佐渡で活躍し、弟子を養成したという。しかしその系譜は不明である。大膳神社の能では、明治三十三年八月、本間令桑の勧進能があり、一四日には「そら腕・飛越」を小杉忠三郎が演じ、一五日には「ぬけがら、粟焼」を畑福新三郎が演じた記録があり、いずれも鷺流である。鷺流狂言で地方に残ったものの中でも、佐渡のは宗家直伝の正しいものだといわれている。明治初年に一九代宗家鷺権之丞が三河静観を頼って佐渡へ渡り、数年寄食して指導したからである。真野の狂言は鶴間笛畝に始まる。明治一八年に上京した時に鷺流の狂言も習った。真野での弟子に岩本量宏(明治五-昭和二八年)や佐々木文蔵(明治一七-昭和三六年)がおり、文蔵の弟子に土屋増一がいる。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


「島の新聞」(95号)




「島の新聞」索引(人名別)
★葉梨五郎
『新穂村史』(昭和51年)より
潟上の城主について潟上の後藤与作は、潟上氏の初代は葉梨五郎という人物であったとしている(潟上郷土史)言い伝えを書いたものであろうが大変おもしろい。というのはふつう雑太氏の場合などは最初から本間氏を名乗っているのに、ここでは菓梨を名乗っていることである。それは潟上氏がこの土地出身の土豪であることを主張しているとみてよかろう。たしかに潟上の場合は「平城」もないのであるから、ふるく、大きな土豪(村殿)がいた、とは一寸考えにくい。そして牛尾神社に所蔵される大蔵経五首二十二巻の奥書にほ「永徳元年六月日佐州久知郷潟上に於て喜畢」と記してある。永徳元年といえば一三八一年のことで、そのころ潟上は久知郷に属していたのであろう。
★葉梨稔明
佐渡高校時代の31.9.22~23、体操県高校結合体育大会(新潟市)跳馬3位
★花角英世(はなずみひでよ)

新潟県知事。昭和33年、金沢生まれ。金井小~加茂小、小学4年で新潟有明台小に転校。付属新潟中学から新潟高校、東大法学部卒。父母共に佐渡の電報電話局勤務。父は白瀬無線局の技師、母ヒサ美(昭和23年河原田高女卒)は佐和田電報電話局の交換手。母の旧姓は吉田でその父は警察官であり、両津浜田にも居たことがある。当時は電報電話局はまだ海底ケーブルに頼る時代だったので無線局はその業務もあったのではないか。※母は金井新保の小菅家の人と言う人もいるが、祖母の間違いと思われる。
昭和33年5月(平成25年4月1日現在54歳)
学歴:東京大学法学部卒業
職歴:昭和57年4月 運輸省入省 63年11月地域交通局総務課補佐官
平成2年9月 航空局管制保安部総務課長補佐官
〃 11年10月 運輸大臣秘書官
〃 20年10月 観光庁総務課長
〃 23年8月 大阪航空局長
〃 24年9月 大臣官房審議官(海事局、港湾局併任)
〃 25年4月 新潟県副知事
佐渡高校同窓会報より、昭和23年3月卒に一人 花角(吉田)ヒナ美 金沢(新潟市寺尾上5-10-1 025-260-4113)となっているのが母親。
(新潟日報 2013.3.22記事)
国土交通省官房審議官の同氏が新潟県副知事就任予定。
金井町出身54歳、新潟高校-東大卒。
1982年運輸省入省、観光庁総務課長、大阪航空局長等を経て12年9月から国土交通省官房審議官(海事局、港湾局併任)。
「ウイキペディア」より















※「佐渡ジャーナル」関係記事:「54号」(平成30年7月)・佐渡市出身の知事誕生 ※花角英世
★花房勘右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、寛永十一年(一六三四年)より十二年まで在任した。知行は千二百石であった。(佐島遺事)
★羽生郁次郎→鵜飼郁次郎
★羽生英三
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村竹田 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
★羽入嘉吉
「躍進日本」

★羽生一夫

羽茂本郷の人、昭和17年生。羽茂民謡研究会草創期の昭和51年頃入会し長く在籍する。
笛、三味線、唄を担当。また、小木さざ波会にも参加した。
小木新潟交通発売のテープ「佐渡めぐり」に「小木おけさ」を収録。
総務省・文化庁・NHK後援の「第4回地域伝統芸能祭り」(平成16年)に佐渡民謡協会一員として出演。
★羽生数馬
羽茂の人、連歌関係者。→下記資料のp707
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生吉右衛門
晃照寺

★羽入慶太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★羽生茂
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野能楽会は「笛畝会」と「清諷会」とが合流して生まれたが、その頃誕生早々で、今は真野能楽会に所属しているものに「宝清会」がある。この会は昭和四九年、町役場勤務の若い者を中心に五、六名が山本清左衛門に習ったことから始まり、今は二〇名近い。会長は羽生茂・内田喜久男・渡辺ヤス・安達忠雄と続き、現在は再び羽生茂である。師匠は山本の没後、その高弟である小泊の浜岡直一にかわった。
★羽入壽泉
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★羽生恕安(友順)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より


金子杳良(市太郎)とも言う。羽茂の人、連歌関係者。三右衛門、山田かじや、享和2年6月10日上京。→下記資料のp691
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
羽茂木戸、星越家の日人、連歌関係者。→下記資料のp697
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽入慎吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★羽生甚左衛門
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三年生 真野村竹田、農業、精米業 ・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大2、佐渡郡会の鉄道敷設請願[九年十二月二十三日]・大3、佐渡郡会の鉄道敷設意見書[十一年二月二十一日]
★羽生助左衛門
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
明和の代表的義民である、畑野後山の人。明和の飢饉は、現在の畑野町と新穂村が最も甚しく、そのためにこの方面の名主たちが救恤に立ち上り免租減税を上訴したのであるが、助左衛門はその先頭に立って活躍した。そして、明和四年十一月から同七年三月まで入牢し、遍照坊の処刑後放免となつたのである。現在羽生家は断絶して屋敷跡を残すばかりであり、墓所も同村慶宮寺に在るのではないか、と極力探したのであるがとうとう発見することができなかった。
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★羽生孝之
北海道道庁職員、北海道民族共生象徴空間「ウポポイ」勤務。佐渡出身。
★羽生武成(友聞)
羽茂木戸の人、連歌関係者。→下記資料のp691
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生帯刀
「戦国佐渡国人名辞典」より
羽茂高茂家臣。羽生館主。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。
★羽生谷守
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡真野町竹田の里正で名ほ済通、字は公楫、通称を甚左衛門という。俳人で鵜飼郁次郎の父である。新井精斎、太田熊山に学びまた書を巻菱湖に受けた。俳語をよくし谷守と号し四方に遊歴し、京都の節翁、江戸の惺庵、西馬等を訪れた。荒波集一巻の著がある。明治七年になくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)羽生谷守 153 谷守翁壽藏銘: 原文 円山溟北 釈文 本間昭雄
★羽生致孝(治兵衛)
「明治の敬老会」(「佐渡の百年」)
※海老名武右衛門(義明)とは兄弟
★羽生忠二郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
梨やリンゴの栽培は、第一次大戦ころから昭和の初期ころにかけて、佐々木伝左衛門や小川内の渡辺八十八、合沢の羽生忠二郎、四日町の菊池長右衛門、沢根の土屋弸(つちやみつる)らによってはじめられた。とくに梨は大正九年、郡の農業技師山田忠平が桃の栽培の良好なのをみて、梨の栽培を勧めたのが動撥となって、翌年には佐々木伝左衛門らが早生赤、長十郎などを植えた。
★羽生禎次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★羽生友二
佐渡高校時代の平成元.6.3-5、体操県高校総合体育大会(新潟市)男子団体(安藤・星野・羽生・渡部)5位
平成元.9.30、県体操選手権大会(新潟市)個人総合8位
平成2.6.1~3、体操県高校総合体育大会(新潟市)男子団体(羽生・渡部・渡辺・相田)5位
★羽入令吉(はるよし)


真野合沢の人、昭和13年生まれ。佐渡博物館学芸員を長く務め、各種調査研究に加わる。佐渡金銀山を世界遺産にする会でも活躍し、特に小木~相川に至る「金荷(かねに)の道」の整備や紹介に活躍した。他にも真野歴史講座他各種講座の講師として活躍している。合沢の実家は羽生(鵜飼)郁次郎の隣家で、その分家筋にあたり、隠居谷地と言う屋号である。佐渡高校時代の昭和31.7.11、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞。
2016.01.10 新潟県佐渡市:佐渡市文化財保護審議会職務代理者の羽生令吉さんが、平成27年度の新潟県教育委員会表彰を受賞しました。今回の表彰は、旧真野町当時から現在まで文化財保護審議会委員の要職を歴任され、長年佐渡博物館学芸員としても考古調査に尽力された功績を称えるものです。
★羽生秀夫
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和10年、第5回県下男子中等学校競技大会(4部)に出場し、走幅跳4位(4m61)、800mR4位(加藤三正・羽生秀夫・萩原忠司・渡辺俊)。
★羽入平雄
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★羽生正長
羽茂木戸、羽生又右衛門家正矩の子、連歌関係者。→下記資料のp697
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生正延
羽茂の人、連歌関係者。→下記資料のp710
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生正矩
羽茂木戸、又右衛門家の人。連歌関係者。→下記資料のp697
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生正房
羽茂の人、連歌関係者。→下記資料のp662
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生政之(又右衛門)
羽茂木戸したがみ、連歌関係者。羽生又衛門家、正長の子、寛政9年没。→下記資料のp691
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽入雪太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、児玉竜太郎、羽入高等課長を告訴す[五年三月二十二日]
★羽生雅春
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)羽生雅春
126 父・羽柴雪彦の俳句とその人生
150 「雪の高浜」について
148 司馬遼太郎と佐渡-小説 「胡蝶の夢」に見る伊之助の風景―
153 「彷徨の記」に名前を記された俳人たち(一)
154 「彷徨の記」に名前を記された俳人たち(二)
156 「いもせ」休刊のこと
「島の新聞」索引(人名別)
★羽二生万吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★羽生明甫
羽茂の人、連歌関係者。→下記資料のp707
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽生門平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]
★羽生保成
羽茂の人、連歌関係者、明治3年没(75歳)。→下記資料のp719~
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★羽二生良夫
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑野宮川の羽二生勘兵衛家の人。昭和二十年代後半に、自ら手動の結束式稲刈機を設計して、親戚の伝内鍛冶屋に試作させた。この稲刈機は、のちの農業機械化時代の口火を切るものであった。同氏はその後農機具会社の技師をへて社長となった。
「稲刈結束機 (いねかりけっそくき)」
本機は、稲の刈り取りを結束を一連作業として行うことができる。普通、バインダという。人力用バインダである。機体を押して、押刈りした稲株は、十数株集めて一束とし、細縄で結束して、側方に放出する。画期的なもので、羽二生良夫の考案による。昭和27年、人力用刈取結束機として出現した。両ハンドルを握り、機体を一押しして、5~6株を刈り、これを繰り返して一束分とする。一旦機体を停止し、ハンドルを回して、刈株を結束し、機体の側方に刈束を放出する。この人力用稲刈機は昭和20年代後期から、動力用バイダのできる昭和30年代後期まで使用された。(なお、人力用バインダを動力化して開発された動力稲刈機は、小形空冷エンジンを搭載し、機体の運行におよび刈取・結束を行う。はじめ、結束に2分縄を使用したのが、のち毛繊紐を利用するようになった。昭和40年初期の動力用バインダは、1日当たり約20アールの刈取結束効率を示した。その後、機体のスリップ防止のため、キャタピラを使用し、また軽量・小型化などの改良が行われ、今も小区画圃場などに利用されている。)
(羽二生良夫)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)佐渡総合高校の校歌作詞者(羽二生良夫 前三条商工会議所会頭)
★羽生林斎
真野合沢十王堂

真野合沢の人。画家、仏画を得意とした。師は本間深兆、探兆の師は狩野胖幽である。
★羽入令吉→羽入令吉(はるよし)
★羽田次郎
長畝の観音院にある顕彰碑(建立代表者嵐城嘉平氏は父治作氏が長畝荷上家の人:村長與六弟)



新穂長畝出身の軍人、少将。父は羽田清次、姉の夫が本間林三である。
「島の新聞」37号


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)羽田次郎 79 「佐渡学」ノート (1) 近藤福雄、宇治金太郎、羽田少将、薪能「景清」 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4海軍少将羽田次郎物語・世勘亭黙公 7羽田少将の慰霊 世拗亭黙公
諸情報
★羽田清次(はねだせいじ)・桜村

下記羽田清七郎は羽田清次と関係があると思われるが・・

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

【生没】一八六八ー一九四六 相川町羽田に生まれ、桜村と号した。先祖は、鉱山都市相川が誕生する前の羽田郷をおこした一族であると伝えられている。正確な生年月日はわからないが、昭和二十一年十一月十七日に没した時七九歳とあるから、逆算すると明治元年の生まれとなる。明治十九年十月に、永井晋らと相川町の折柴小学校に集まって「有志佐渡教育会」を組織し、明治二十六年七月「佐渡義会」の会員となり、明治三十年五月十一日から新潟県議会の書記となった。明治の末頃、新穂村に移って長畝に住み、長畝購買組合の設立運動に参加し、大正五年(一九一六)十二月に設立すると監事に就任した。執筆・出版した書物も多く、『佐渡遊覧案内』(明治四十三年)、『新穂村案内』(大正二・六年)、『両津町誌稿』(大正七年)、『佐渡歌謡集』(昭和十三年)などがある。佐渡郡教育会から、昭和十年には『佐渡年代記』、同十四年には『佐渡風土記』の編纂主任を委嘱され、それぞれ刊行させている。また、島内外の文化人との交流も多く、明治三十二年には尾崎紅葉を、大正十三年には大町桂月を案内した。【関連】佐渡義会(さどぎかい)・佐渡郡教育会(さどぐんきょういくかい)・佐渡歌謡集(さどかようしゅう)・金堀節(かなほりぶし) 【参考文献】『あまほっこり』(六)、『佐渡長畝』、『佐渡国史撮録』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・長畝、川上龍一さん談
羽田家の墓は北海道に移したと聞いている。・和田延治(のぶじ、大正初期生)さんと言う方が長畝に居り、羽田清次さんに私淑し、晩年の面倒を見ていた。下の世話までしていた。清次さんをリヤカーに載せて佐渡病院への送り迎えをしていた。羽田清次さん死後も羽田家の墓守をしていた。・長畝の杉坂正之さん(昭和10年頃生)は羽田家に詳しかった農協組合長の本間一雄さんや、羽田家の古い親戚である本間昭一さん(昭和8年頃生)から羽田清次さんについていろいろ聞いていたようだ。
順徳天皇の真野山御陵(※萩野由之 羽田清次編 大正6)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数59・63・139・141
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 6羽田清次翁 明治・大正・昭和交遊録 飯田辰巳
諸情報
★羽田清七郎
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★羽田利見(としみ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行。通称を龍助という。嘉永三年(-八五〇年)八月二十四日、佐渡奉行に任命された。前職は中川飛弾守跡元御役御勘定役であった。嘉永四年四月二十四日に相川へ着任した。柏崎で病気となり、六年三月江戸へ帰り、その後は任地へ帰らなかった。病気のため御役御免隠居被仰となったからである。知行は二百俵、役料干五百俵百人扶持であった。利見は歌人としてもすぐれ、歴代奉行中鈴木重嶺(その項を見よ)とならぶといわれている。
此国は浜の真砂も河の洲も黄金白金ありといはずやも
舌だみし声こそなけれ鴬は都の人や生(おふ)したてけん
笠とりを夕越えくれば国中の田づらかすみて雨こぼれきぬ
ふるさとの今日はたよりを聞く日とて先づあさめよき鳥の声かな
長歌旋頭歌に、平詞をもって一気呵成に表現した技量は高く評価される。(佐島遺事)
★羽田豊治
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約言五十人を数えている。
2014-03-01
★土井伊之吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★土居里江子
「エスライフ」2008年5・6月号

※「佐渡ジャーナル」関係記事:「40号」(平成27年1月)第13回「キンの道マラソン」
★土井利江子
両津高校時代の1968年度(S43)11月、第2回新潟県高等学校美術展県知事賞受賞
★戸泉清行
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
剣道八段、全日本剣道連盟評議員である。
佐渡郡相川町の人で昭和三十二年十月十一日に七十二才でなくなった。(新潟県年鑑)
★樋野半三(といのはんぞう)
【生没】生・没年不詳 振矩師(奉行所雇の鉱山測量師)と記録される最初の人。算術にすぐれ、寛永三年(一六二六)水金水貫の振矩(測量)のため、町人から振矩役人に取り立てられ、割間歩から水金沢までの、四百八十間(約八七四メートル)に及ぶ疎水坑道を、寛永十五年までの一三か年間をかけて完成した。慶長以来の大工事である。これによって、排水のための樋三六本(『佐渡年代記』)が不要となり、莫大な経費節減になったという。『相川志』によると、当時の下相川村平の、高嶋孫七屋敷の上手にある阿弥陀敷の内部より、上方割間歩および、下方水金沢へクランク状に切り向った。これを「手カ子間切」というとある(水上輪のクランク形の把手を手カ子という)。割間歩および水金沢側からも、この敷に向って掘り進んだと考えられるから、これは元禄時代の、南沢水貫で有名な六方からの迎間切の原形をなすものであろう。なお、『相川志』や『相川砂子』には、ともに一冊中に植野半三・樋野半三の両者がみられる。いずれが正しいか不明であるが、元和の頃の山師味方但馬配下の「とい(樋)治右衛門」は、測量技術者であるという説にちなみ、ここでは樋野半三としておく。【関連】振矩師(ふりかねし)【参考文献】田中圭一『佐渡金銀山文書の読み方・調べ方』、『相川砂子』【執筆者】金子 勉(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※振矩師(ふりかねし):佐渡奉行所雇の、鉱山の測量師を振矩師という。鉱石の採掘場所である敷が深くなるにつれ気絶(通気不良)や、湧水による水敷(水没した敷)が多くなる。これを避るための煙貫(通気坑道)や水貫(排水坑道)工事、探鉱坑道の延長工事等々には、つねに具体的な測量が不可欠である。地上や地中の各地点間の方角・勾配・距離を測定し、精密な計算等を経て、その位置関係を定めるのが、振矩師の職分である。振矩師の下に、振矩師見習・振矩師助・同助見習などの身分があり、宝暦~文政年間(一七五一~一八三九)には振矩師に二人扶持(一日米一升)、一か月銭一貫三百四十八文が支給され、文政の例では、振矩師助にもなにがしかの給銭が与えられたが、助見習は無給であった。ただし、水貫工事などで特別な業績があったときには、増給や身分の昇格もあった。また幕末~明治初年には、「算術指南方」を兼務する者もあり、これには別に手当が出た。なお、振矩師には大略次の人たちがいた(ただし、○印は振矩師助である)。樋野半三・持田半左衛門(後に地役人に昇格)・静野与右衛門・品川平左衛門・古川門左衛門・山下数右衛門(初代~四代)・○青木忠四郎(青木次助・羽田町青木家の祖先)・阿部六平・阿部坤三・山本仁右衛門。【関連】山下数右衛門(やましたかずうえもん)・阿部六平(あべろくべい)・樋野半三(といのはんぞう)【参考文献】金子 勉「振矩師雑記」(『佐渡郷土文化』)、「酒井家覚書」【執筆者】金子勉(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★土居原法嶺
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡河原田光福専任職で北州または微笑子と号した。漢籍詩歌および書をよくした。明治七年に四十九才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★籐右衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★菪翁(とうおう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡金井町和泉本光寺門前に小庵を結んで俳諧を楽しみまた新穂、両津などを遍歴して大いに蕉風をひろ若。洒とたばこを愛した。俳友が米寿の賀筵を開いた。無鬼庵と号した。文化十五年(一八一八年)正月に九十九才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★道雅
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡小木小比叡山蓮華峰寺住僧で宿根木で生まれた。
僧道本に学んで書をよくしまた天保(-八三〇-四三年)年中、西川巧と共に葵園詩鈔を編した。(佐渡人名辞書)
★等覚院日等大徳 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★當岸良穏 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★東儀文隆
宮内庁の雅楽師。両津湊出身の俳人斎藤葵十の姉(トヨ)が宮内庁雅楽を伝える東儀文盛(ふみもり)に嫁ぎ、その子が東儀文隆(ふみたか)である。
(注)・東儀文盛:生歿:1902~1941(40)(明治35年~昭和16年4月7日)
実父:文礼(次男)、実子:文隆・文昭(他道)・文親、楽器:篳篥/?、勲位:従七位/勲八等。1914(大正3年)楽生、1921(大正10年)楽師
・東儀文隆:生歿:1927~2000(73)(昭和2年9月23日~平成12年12月20日)、実父:文盛、楽器:笛/ファゴット、1945(昭和20年)楽師、1974(昭和49年)、楽長補、1987(昭和62年)楽長、1992(平成4年)退官
※〔神楽〕桃豊舞(ももとよまい)
真清田神社独自の神楽舞。
「ますみ田の 神のやしろのとことはに いやさかゆくを いのりつづけむ」
神宮祭主北白川房子さまより真清田に贈られた御歌に元宮内庁楽部首席楽長東儀文隆先生が作曲、元宮内庁楽部楽長薗廣晴先生が作舞したもので
真清田神社の降昌を祈る舞として、祭典・結婚式などおめでたい機会にご神前で奉奏されるものだそうです。
※「東儀秀樹」は親戚筋と思われる
東京京都出身。奈良時代から続く楽家(がくけ)の家系に生まれる。商社マンだった父親の仕事の関係で、幼年期をタイ、メキシコで過ごす。成蹊高等学校卒業後に國學院大學の文学部二部神道学科で学ぶかたわら、宮内庁式部職楽部の楽生科で雅楽を学ぶ。1986年から10年間、楽師として活躍する。宮内庁の楽師として活動する一方で、1996年にアルバム『東儀秀樹』でデビューする。雅楽器とピアノやシンセサイザーといった現代楽器の珍しいコラボレートで話題となった。同年に宮内庁を退職し、フリーランスでの活動をスタートさせる。元々雅楽の世界に入る前は、海外での生活で耳にした洋楽のロックやポップスやジャズなど影響を受け、学生時代は友達とロックバンドを組み、本人はエレキギターを担当した。高校を卒業したらプロのギタリストでやっていきたいと本気で思っていたが、母の東儀九十九(とうぎ つくも)から「どうせ音楽の世界に入るのなら、東儀家の血を引くものとして雅楽をやってみてはどうか」と勧められて宮内庁に入庁した。
★統慶
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
永享一二(一四四〇)佐渡に配流。松光院法印秀慶の子。弟の僚慶を殺害した罪。室町時代佐渡最後の配流者か。(『北野天満宮史料・古記録』)
★同契如参
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★東後壮治
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★冬広
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国夷(両津市)の鍛冶。鎗をきたえ、佐州住蒲原冬広と記した。享保五年(一七二二年)佐渡奉行所に差出した。田舎細工には相応なりといえども未だ用をなすべき所に至らざる故、丹誠をこらし鍛錬なすべき旨を申付けられた。(佐渡年代記上巻)
★道公全成→道公全成(みちのきみまたなり)
★東郷平八郎
本荘了寛の訪問を受け、佐渡を訪ねて、明治紀念堂に揮毫をおくる。
「生きたお経をよんだ了寛」(「佐渡の百年」)
「大正の皇太子御来島」(「佐渡の百年」)
★道斎豊洲 正法寺・洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★道受
『両津町史』(昭和44年刊)
本願寺顕如は天正元年(一五七三)出羽国浜松浄願寺門徒の道受の求めに応じて方便法身絵像を与えた。この頃、顕如は織田信長との間に石山戦争をたたかっていたから、各地の本願寺門徒はいつ果てるともわからない長期戦にそなえて、その勢力圏の拡大につとめていた。湊町勝広寺縁起にはおおよそ次のように述べている。湊町の多郎兵衛、安藤儀左衛門、星野左衛門、野口文七、鈴木孫左衛門、鈴木源七、六人の者が佐渡に行き、一生商売をして暮したいと願い出たので、阿弥陀如来の絵像を下げてもらい、此の浦に着船し、湊に道場をかまえたこと。そののち、沢根の鶴子山が繁昌して六人の者が沢根に移りたいと願ったので鶴子に移ったこと、またそののち、上新穂の八王子の銀山に移ったが、そのとき上杉景勝の渡海にあって(天正十六年)越後蒲原の郡矢彦の真木の照光寺におくりものとなったことなどである。道受がこの国に渡海した年号はわからないが、恐らくは天正二年のことではないかと考えられる。湊に道場を構えたというのは、そこを拠点として商業活動をおこなったからである。出羽からやってくる商品は米、木材であるが、木材は分割が困難であるから、銀山に近い沢根に陸揚げされたであろう。湊には出羽米があがったと一応考えておきたい。彼らの道場は港の近くに置かれたに違いない。そこで今道場の場所を原黒村絵図にもとめてみた。
★道昭(どうしょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
沙弥道昭。興国六年(一三四五年)七月七日、道昭は譲状を書いて佐渡国竹井保(加茂郡新穂村)を本間源八郎の子に譲った。(越佐史料巻ニ)
★道水太子碑
大和田

★藤助(とうすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国鷲崎村(両津市)の人である。孝心奇特の趣相聞に付、文政八年(一八二五年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★堂谷作二
『両津市要覧(昭和33年)』より

※長男は堂谷亨氏で、若い頃はバスケット選手でならした。仲間に後市議になった加賀博昭、シーサイドホテルの石川高市?、白陵クラブ会長木村梧平各氏がいる。
★堂谷作太郎
『加茂村誌』(昭和38年)

明治40年、白炭改良製炭法導入。大正8年、「白炭製法の道しるべ」を刊行した。
★桃中軒東雲大夫
稲鯨で一門を抱えて居た。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★藤堂藍
沢根出身のタップダンサー。旧姓矢島、沢根小➡佐和田中➡佐渡高校➡日本女子体育大学舞踊学専攻

★道範
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
建暦二(1212)佐渡に配流。理由不明。(『百錬抄』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
建暦二年(一二一二年)五月二十三日に佐渡流された。その理由は不明である。(新潟県史)
★道本(虎渓)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


佐渡小木小比叡山遊撃峯寺の住僧。名は憲寿、字は虎渓、有楽々庵安忽子、不可得の号があり最も書をよくした。後に江戸浅草蔵前大護院の住職となり権僧正となった。安政四年(一八五七年)七月に十才でなくなった。(佐渡人名辞書)
※渡辺注:「十才でなくなった。」→「九十一歳でなくなった」
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)道本 48 連載 閑々亭雑記 (7) 書家・蓮華峰寺住職道本和尚 山本修之助
「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)
★道明和尚
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川総源寺十一世の住職、字は仏冠、信州の人である。
はじめ羽茂大蓮寺に住んだ。文章をよくし道徳堅固の禅僧であった。ある武士が因果応報ありやとの問に対して、庭上の竹を斬らせ応報のある理を説き、また守遊が交を求めた時「瓜つるに茄子はならず人は人牛は牛づれ馬は馬づれ」と書きおくり取合わなかったという。宝暦十二年(一七六二年)四月に六十四才でなくなった。(佐渡人名辞蕃)
★遠矢駿一郎
「島の新聞」索引(人名別)
★銅谷白洋
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より

大正の未年から全国的に流行した「佐渡おけさ」について、いちはやく竹人形の製作者があらわれた。これは、佐渡人でなく、新潟市の銅谷白洋という人であつた。箱には「佐渡おけさ情緒人形」とあつて、大小さまざまあつた。いま筆者の所蔵しているの高さ十三cmある。大きな竹を横に切って、丸みのあるところを胴体にし、両袖もこの竹の丸味をつけて、風になびいた枚にしている。背にも丸い竹をつけて帯とし、煤竹の台座の上にのせてある。着物は紫色と紅色を塗り、金で波の模様を描いてある。菅笠は黄色で顔とともに、これは木製である。「情緒人形」と銘うつてあるだけに、おけさ踊りを、ロマンツチクに表現してある。意匠登録をとっているだけに、竹の丸みを利用してあるのはよいが、側面からだけのもので、ものたりなく、ことに顔や笠が、うすい板になつているので立体感が出ていない。これに影響されてか、佐渡でも、竹にエナメルを塗った「おけさ人形」があらわれた。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★銅屋彦右衛門
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
中川奉行は江戸より幕府お抱えの鉄砲師国友松五郎、越後柏崎より鋳物師原伝十郎(のちの本間琢斉)
はか二人を招き、地元の田中村(佐和田町沢根)銅屋彦右衛門を用いて、弘化四年八月より大砲鋳造に着手した。沢根町斎藤リツ氏所蔵の「大筒御鉄砲鋳立中御役人様御見廻り月日覚留帳」は、役人たちの宿泊を勤めた祖先斎藤作兵衛の日記で、鋳造開始から完成、試射までの状況を記している。
これによると、鋳造工場は鶴子銀山の床屋(精錬所)あとで、地字は「金屋」である。現在の大字鶴子の部落の北のはずれにあたり、付近一帯からは今でも鉱滓を採取することができる。
★桐林俊鳳 洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★道遊茶屋
「佐渡名勝史」(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)

★富樫栄吉
三味線の名手で大正10年第2回日本民謡大会に後藤桃水の勧めで石野琢磨(唄)と参加する。この時に初めて「佐渡おけさ」名称が使用された。両津甚句保存会、草創期の鴨湖会の会員と思われる。昭和22年の両津大火後、夷2丁目で旅館「一休館」を経営する一方で興業社を営んだ。
「島の新聞」

★富樫俊子
「島の新聞」索引(人名別)
★富樫久子
両津高校時代の1973年度(S48)5月、第28回新潟県展奨励賞 洋画
★富樫賢雄
『両津市要覧(昭和33年)』より

★富樫利作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、小作労働組合の會合[十三年二月七日]
★富樫利八
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村 ・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]
★渡嘉敷彩子
「島の新聞」索引(人名別)
★渡嘉敷有
「島の新聞」索引(人名別)
★戸川籐五郎
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★戸川美久

★朱鷺さなえ→新屋さなえ
★土岐藤左工門
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂村に荷車が現われたのは明治三十三年で、北方の土岐藤左工門外一名が共同出資で荷車一台を購入し、自家用のかたわら一日十銭の損料で貸したので、相当繁昌したものであると言われている。
★時岡二郎
加州銀行重役、陶芸研究家。著書『佐渡の須恵器』(1953年刊)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p401
★時岡春台(ときおかしゅんたい)
【生没】一八三九ー一九二○ 天保十年二月二十九日に生まれる。佐倉の順天堂で佐藤尚中に西洋医学を学び、明治六年(一八七三)十一月、鉱山寮佐渡支庁主任津田弘道に招かれて来島し、鉱山の医官となった。その後医業に専念して、相川町二町目浜町の私邸に時岡病院を開業した。明治十六年に県営病院が河原田に移転すると、同二十年に病院の前に佐渡鉱山付属の病院を建設して鉱山付属医を兼ね、同三十六年に鉱山病院が出来るまで、鉱山で働く人々の怪我や病気の治療にも当たった。大正九年二月十六日に没した。
【関連】津田弘道(つだひろみち)・鉱山病院(こうざんびょういん) 【参考文献】蒲原宏『新潟県医学史覚書』、石田寛「明治初期佐渡鉱山の改革と津田弘道」(『越後佐渡の史的構造』)、「新潟新聞」 【執筆者】石瀬佳弘
『田中圭一講演集(第六集)「長谷川元了と竹中成憲』より
十八世紀から幕末にかけて佐渡からどういう医者が、、どういう所に勉強に行っているのか、少し紹介しておきます・・・・・。華岡流外科に佐渡で最初に行ったのは猪坂尚逸(相川町)、その後中山顕民(川原田町)大平昌清(しょうせい)(相川町)、山本桂(新町、有田八郎の実父)、菊池東純(小倉村)、小倉村には何人もおります。京都伏見の蘭学者小石元俊-杉田玄白や大槻玄沢などと交流があつた-の所へは、鞍立章平(川原田町)、藤沢明卿(湊町)、田中参二郎(相川町)が行っております。また、シーボルト事件(文政十一年、一八二八)で投獄された土生玄碩という眼医者-土生眼科は元は漢方系、シーボルトを通じて西洋医学を取入れた-のところへは時岡亮朔(相川町)、葛西周禎(羽茂本郷村)、北君養(湊町)などがおります。幕末の頃、佐藤尚中(下総佐倉、順天堂の祖)という蘭学者のところへは、近藤玄洋(川原田町)、時岡春台(相川町)です。そして小石川施療所、ご存知「赤ひげ先生」こと桂川甫周のところへ佐藤元沢(潟上村)、鈴木良順(夷町)など。こうざっと見ても、佐渡では十指に余る医者が蘭学で育っております。このように、十八世紀から幕末の頃まで、佐渡から数多くの青年が江戸や京都や長崎を主として他国に医学修行にでかけております。その多くは蘭学者の門をたたいていることが注目されます。
★時岡孝行
「躍進日本」

★時岡本立(ときおかほんりゅう)
【生没】(生年不詳)ー一七七○ 相川の陣屋付医師。俗名を又太郎と称し、三町目の医師五十嵐伯の長男に生まれた。一七歳のとき、同じ三町目の医師時岡是春が没したため養子として入り、時岡家の六代目を継いだ。母が時岡家の出で、亮伯に嫁いでいて濃い親戚であった。時岡家を継いだ年に、弥次右衛門と名乗っている。一六歳で京都に遊学し、眼科の原田尚現に師事した。二年で帰郷し、本立と名乗った。時岡家は、初代を弥右衛門といい、若州(福井)高嶋の人とされ、元和年間(一六一五ー二三)に、大坂の陣を避けて相川へ渡り、江戸沢町の大安寺門前に住みついたという。代々医者で、時岡家から分家した人に医師、時岡亮庵がいた。時岡一族では出色の儒医で、明和(一七六四ー七一)のころ町内で私塾を開いていて、安永三年(一七七四)から奉行所の書院で、奉行や諸役人に毎月経書の講義をした。寛政元年(一七八九)には、経書素読の師範もしたことが『佐渡国誌』に見えている。奉行所の出入医師でもあった。本立は明和七年五月十五日に没し、大安寺に葬られた。法名は「専照院静誉寂雲本立」。腹ちがいの妹に「おみね」がいて、大間町の橘屋に嫁ぐ。のちに出雲崎橘屋に嫁入りして、良寛を身ごもる「おのぶ」の母がこの人である。時岡家の末裔には陶磁研究家、時岡三郎がいて、佐渡の無名異焼の研究などに業蹟を残した。
【関連】五十嵐亮伯(いがらしりょうはく)・良寛の母おのぶ(りょうかんのははおのぶ) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 155 良寛の祖母の兄、時岡本立について 山本修巳
★時岡弥右衛門
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
先祖は元和年中大阪より佐渡へ来たと云われ、相川大安寺前で商売をしていた。何をあきなっていたかは明らかでないが、かなりの財力があったようで貞享二年頃から、後山村の土地を買い求めている。元禄検地帳では、字西こうやに二筆の屋敷と三町五反二畝七歩の田畑を所有している。また、相川とことわり書きの無い弥右衛門が、字かたまたに屋敷を三畝〇五歩、田畑を三町四反歩余を持っているがこれも相川の弥右衛門と同一人と考えると、これを合計すると約七町歩の田畑となる。後山には現在でも時岡姓を名のる者がおり、おそらく、この者が時岡の手代としてこの田地を管理していたのであろう。後山村羽二生徳左衛門家には時岡弥右衛門家の質地証文や、その他の古文書が残り、弥右衛門家との特別な関係がうかがわれる。それによると宝暦年代、相川町の医者五十嵐亮伯の子木立が時岡家へ養子に入った。そのため徳左衛門、古屋重畳の主、右仲がそれぞれ従弟関係ということになっている。宝暦五年、御食神社の建立願状を名主勘右衛門、百姓代徳左衛門、社人将監(信仰篇参照)たちが名を連らねているが、社人将監とは右仲のことで、また勘右衛門は古屋重屋から助左衛門家へ養子に入り、後で助左衛門を名のる人であり、百姓代の徳左衛門は将監と従弟の関係で、一宮神社の氏子でほどんなに財力があっても、新参者では頭が上らないことが、いまいましかったに違いない。この右仲を中心とした人脈で、後山村に御食神社を創立するのであるが、財力と奉行所役人とつながりのあるこの者たちにとって、さして、困難なことではなかっただろう。この神社が村人に認められるようになるのが、九社神詣が流行する江戸後期のことで、時岡家が地所を少しつつ手離して行くのが、本立代(宝暦)からである。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
相川から後山村の元禄検地帳によると、相川弥右衛門という名の者が、字西こうやに二反一畝二十八歩と七畝歩の二枚の屋敷をもち、三町二反三畝七歩の良田と、二反九畝歩の上畑を持っていた。弥右衛門の西こうやの屋敷は、現古屋茂平次家のところである。弥右衛門は後山村のほかに、三宮村にも五町一反四畝二十四歩の土地をもつ町人地主であった。時岡家の系図にょると、先祖は若狭の国高嶋の出で、大阪の陣を避けて佐渡にわたり、相川大安寺の門前町に住んだとある。三代目から弥右衛門を名乗り以後この名が用いられた。四代目の娘清女が、相川の医師で良寛の母おのぶの実父でもある五十嵐亮伯家に嫁したのを機に、時岡家と五十嵐家の密接な関係ができ、男子がいずれも早逝したため、五代目に五十嵐了春の子、安之助を迎えて、弥右衛門家を襲名させたのをはじめ、両家問の子息子女のやりとりは何度も行われてきた。六代目の木立も五十嵐家の生れで、この代から眼科医となり、以下代々眼科医がつづいた。十代目の亮朔は、後山村羽二生助左衛門の末子、豊松である。六代目の本立の従兄弟右中が、オモヤの六郎兵衛を継いだいきさつは前項で述べたとおりである。
★時岡亮庵
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人。長崎に出て医を学びかねて製陶の術をおさめ帰郷して子弟に教えた。寛政元年(-七八九年)奉行の命により町会所において大平家泉とともに州吏の子弟その他に経書を講じた。文化元年(一八〇四年)八月になくなった。(佐渡人名辞書)
★時岡亮朔
『田中圭一講演集(第六集)「長谷川元了と竹中成憲』より
十八世紀から幕末にかけて佐渡からどういう医者が、、どういう所に勉強に行っているのか、少し紹介しておきます・・・・・。華岡流外科に佐渡で最初に行ったのは猪坂尚逸(相川町)、その後中山顕民(川原田町)大平昌清(しょうせい)(相川町)、山本桂(新町、有田八郎の実父)、菊池東純(小倉村)、小倉で、佐渡から数多くの青年が江戸や京都や長崎を主として他国に医学修行にでかけております。その多くは蘭学者の門をたたいていることが注目されます。
★刀岐直雄貞
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
暦請益従六位下 承和六(八三九)佐渡に配流。遣唐船に乗船させられることを知り、伴宿祢有仁(遣唐知乗船事従七位上)・佐伯直安通(暦留学生少初位下)・志斐連永世(天文留学生少初任下)と)共謀して逃走し、捕まり死一等を減じて佐渡へ。伴宿祢有仁と刀岐直雄貞は承和七年二月一六日赦免。(『続日本後紀』)
★常磐ノ一(ときわのいち 伊藤常磐ノ一)
【生没】一八四一ー一九○八 文弥節の語り手で、盲人の伊藤常磐ノ一(常磐ノ一とも)は、天保十二年沢根の甚平家に生まれた。春可という名であったが、文久三年(一八六三)の春、二二歳で常磐ノ一に改めた。幕政下の盲人には、保護策として「当道」という官位があって、その年に過銭の盲官を、のちには京都にのぼって中老の官を授けられた。これはかなりの高位で、島内を歩くときはカゴを用い、五尺一寸の撞木杖を許されたという。文弥の師匠は、はじめ畑野の福田若ノ一に、のち竹田の遠藤駿河ノ一についた。美声で三味線もすぐれていた。明治三年(一八七○)に、羽茂大崎生まれでのち小木町に住んでいた、説経人形の遣い手大崎屋松之助と提携して、文弥人形の座を組んだ。人形座には太夫の常磐ノ一と、遣い手は大崎屋のほかに弟の「ためさん屋」、羽茂の村川九一郎出の「ひできみ屋」などがいた。それまでの人形遣いは、説経節の語りで遣っていたが、ここで初めて文弥節と人形とが組み合され、いまの人形芝居の主流の形が成立したのである。この人形座の初期の舞台は、説経人形と同じ高幕形式であったが、大崎屋はやがて御殿人形を考え出し、それ以後文弥人形といえば、この形式に固定された。この意味で、常磐ノ一と大崎屋は、新しい文弥人形芝居の元祖というべきである。
【参考文献】佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡佐和田町沢根の人で、明治のはじめの高名な文楽語りである。これまで文弥人形は説教節を地としていたが、常盤一は、小木町の人形つかいの名手大崎屋松之助と提携して、文弥節を地とする今のようなものとした。(概観佐渡)
「佐渡の百年」より
佐和田町沢根、伊藤甚兵衛家に生れ、幼児期に両眼を失ひ、真野竹田の遠藤駿河ノ一について分や節を習得。小木町の大崎座で松之助とコンビを組んだ。明治38年旧3月16日、67歳で没。
(『羽茂村誌』1956年刊より)
松之助は遣い手としても名人で、別けても女ものを得意としたと伝えられる。松之助一座の語り手(以下太夫という)は沢根町の常盤の一(常盤一)で、遣い手は当人の外に小木町秀君屋(羽茂村岡田村川九一郎家出身)と、同町為三屋(松之助弟)であったという。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
人形芝居関係者。人形芝居の系統をたどると、最初は駿河一-阿波一-金子善次郎、後の師匠は駿河一-常盤一-静賀と、元はどちらも駿河一に結ばれることになる。師匠運がよかったといえよう。
→「金子善次郎」参照
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎屋松之助とともに、文弥人形の創始者である文弥節の太夫伊藤常盤ノ一は、佐和田町沢根の通称畳屋甚兵衛家に生れた。子供のころ両眼を失って盲人になった。天保十年生れで、二十五歳(文久三年)の時、過銭という盲官をとって、それまで春可といったが、初めて常盤ノーと名乗った。さらに翌々年(慶応元年)に昇格したといわれる。文弥節は、初め畑野町宮川の福田若ノー(また若狭ノーともいう、のち理勢ノ一と改めた。福生院という山伏の家に生れた)につき、のち真野町竹田遠藤駿河ノ一(通称忠左衛門)についた。語りや三味線も上手であったが、また美声であったから、たいへんな評判であったという。明治三十八年三月十六日、六十七歳で死んだ。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★篤助(とくすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川二丁目新浜町の人である。奇特之趣追々相聞に付、天保十五年(一八四四年)に役所より鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★徳田貞造
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★徳田美智子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)徳田美智子 67 日本最初の婦人牧師 高橋久野の生涯-佐和田町出身-
★得津馨
「島の新聞」索引(人名別)
★徳富蘇峰
右は金井大和田の故近藤福雄宅にある

徳富蘇峰書(檀風城跡)

柏倉一徳と熊本時代に交流があり、後年佐渡を訪ねて4日間滞在。『佐渡の百年』(山本修之助の「蘇峰と檀風城址」)に次のように載る。「ここで、はからずも五十年前の旧友に会った。元佐渡中学校校長の柏倉一徳で、柏倉は明治十三、四年ごろ、熊本師範学校の教諭をしていた。蘇峰が十八歳の時で、東京から郷里の熊本へ帰っていた時期であった。そのころ、「相親社」という会があり、ニ人とも会員であった。おたがいに討論をしたり、演説をしたり、雑誌を編集したりして気炎をあげていた。「今や両人頽然たる老翁となりて、半世紀を隔てて、相見るを得た。感何んぞ極らん」と書いている。又、関係してこんな資料もあり。「佐渡の歴史の中で、開明的な教育者として知られている柏倉一徳(かしわくら・いっとく 1859―1938)は「『熊本新聞』編集長村上定らと『相親社』を組織し徳富蘇峰を指導して民権運動・キリスト教布教活動を行った」(森幾「森知幾―その時、佐渡は、輝いていた」、東京学芸大学海外子女教育センター編「海外子女教育研究」第143号)。」(三村修の文書庫)
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「朝日日本歴史人物事典の解説」.
生年: 文久3.1.25 (1863.3.14)
没年: 昭和32.11.2 (1957)
明治大正昭和期の新聞記者,歴史家。肥後国葦北郡水俣郷(熊本県水俣市)の豪農徳富一敬と久子の長男に生まれる。本名は猪一郎。弟は徳冨蘆花。父と共に熊本に出て,漢学を学び,のちに熊本洋学校に入学。教師L.L.ジェーンズの感化によってキリスト教に入信,先輩と花岡山山頂で奉教を誓った(熊本バンド)。さらに同志社に学んだが,新島襄と衝突し,明治13(1880)年退学。故郷に帰り,自由民権運動に参加,15年私塾大江義塾を開き,自らの学習と教育に当たった。19年塾を閉鎖し上京,『将来之日本』を刊行,一躍新進評論家として注目を集める。20年,民友社を設立し,雑誌『国民之友』を創刊,青年層を中心に圧倒的支持を得た。この年には『新日本之青年』も出版し,文字通り「明治の青年」の指導者となった。23年には『国民新聞』を発刊し,「平民主義」を標榜する言論によってジャーナリズムをリードした。しかし,日清戦争(1894~95)前後から対外膨張を主張するようになり,30年の欧米巡覧によって決定的となった。44年貴族院勅選議員。明治後半から大正初期は藩閥,特に桂太郎と密接に提携した言論活動を展開し,彼の国民新聞社は2度にわたって民衆に焼き打ちされた。桂死後の大正中期以降は,社会の大衆化に危機感を深め,皇室中心主義による国民道徳を唱え,「近世日本国民史」を連載するなど言論界の一方の雄であった。昭和4(1929)年国民新聞社の経営難から退社を余儀なくされ,以後は大阪毎日新聞社の社賓となる。<著作>『蘇峰自伝』『明治文学全集34・徳富蘇峰集』<参考文献>杉井六郎『徳富蘇峰の研究』
(有山輝雄)
「ウィキペディア」より
『佐渡の百年』
「佐渡の百年」より
高名なジャーナリストで、若い頃、熊本において柏倉一徳と交友があった。昭和5年に来島。9月24日来島27日離島。中興植田旅館泊。
『田中圭一講演集(第四集)「北一輝と明治の佐渡』より
蘇峰に「平民主義」的影響を与えたのが、のちに佐渡出身者で初めて佐渡中学の第四代校長となった柏倉で、教職の初任校の熊本で赴任早々に同僚と「相親社」(相親愛という意)を組織して時事を論じあっているのですが、蘇峰は、この組織で柏倉と影響し合って、ともに民権運動やキリスト教の布教活動を行うのです。明治三十七年、柏倉は、本間雅晴などの生徒がいる佐渡中学に四十六歳のとき帰ってきて、四代校長に就任します。以降、非常に開放的な校長として尽くすのでありますが、「中学校内での社会主義の信奉を放任」した、いわゆる「平民新聞」購読事件で退官させられております。余談ですが、昭和五年、佐渡を訪れ柏倉に再会した蘇峰は、佐渡は自分の第二の故郷だ、と講演で述べております。
・「徳富蘇峰記念館」(神奈川県中郡二宮町)に 蘇峰宛て書簡 大正(2通) 計2通 葉書(2通) 直筆(2通)
「越佐往来」(佐渡関係分)東京日日新聞(昭和5年11月)

『読書と山水』(徳富猪一郎 著 昭和7年)
上記中の「越佐往来」p240-256 に佐渡記事あり
「蘇峰と檀風城址」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p373
★とくはつ
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約言五十人を数えている。
★常葉(とこは)金太郎→峯直貴
★土佐金次
「躍進日本」

★土佐金蔵
「加茂村誌」(昭和38年4月)

★土佐の三助


『小木町史』より
『むかし、土佐の国に永楽又兵衛という男がいました。その又兵衛は、三助という男の子まである妻と離婚し、後妻をもらいました。
ところが、この後寿が悪い女で、まま子の三助をいじめます。そして、ついに又兵衛をそそのかして、三助を佐渡に流すのです。
三助が佐渡へ流されることを聞いた実母は、たいへん悲しみ、こっそり三助にモミを三升持たせました。佐渡についた三助は、その後加賀から流されて沢崎にいたお菊という女とめぐりあい、夫婦にをりました。そして二人は、三助が持ってきたモミをまいて稲を作りました。これが佐渡で稲を作ったはじめです。』というのです。こうした伝説は、赤泊や松ケ崎にも同じものが伝わっています。このお菊は、白山の神、シラヤマキクリヒメのキクの名をとって付けたものらしいのです。古くから佐渡の島の人たちの心の奥に潜んでいた考え方が伝説とをって定着し、語り伝えられてきたものであろうと思います。たしかに、小木半島は佐渡文化のはじまりの地点であり、外からの文化が佐渡へ上陸してくるときには、小木の岬と二見の岬に最初の文化の花が開くはずだという考え方が古くからありました。
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
「佐渡名勝志」によると、「佐渡風土記中に、天智天皇の代(667-671)に、土佐国山方の永楽兵衛の子、三助なるものが、継母のざん言に遇って、当国に流され松が崎に着岸し、田を耕し、籾をまいた。同じ頃、能登の女がこの島に流され、沢崎(小木町)に着いて稲を作っていたがほどなく二人は夫婦になった。これが当国人の始めで、女の植えた稲を加賀早苗、男の稲を土佐三助と言い伝う」と記されている。
・和同年間、稲種を佐渡に伝える。
「島の新聞」索引(人名別)
★戸嶋清作
『両津市要覧(昭和33年)』より

★徒然→徒然(とねん)
★戸田和馬

★戸田寿作
真野合沢の人、佐渡中学6回生、シアトルの実業界で活躍する。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p381
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
→鈴木卓苗 「佐渡高等学校百年史」
★戸田主謄
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、天明元年(一七八一年)六月十五日、徒士頭より佐渡奉行となり、翌二年四月二十一日相川到着、四年三月十二日長崎奉行に転任して出雲守と改めた。
はじめの名は氏孟、知行五百石、役料千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)戸田主膳 27 我家に伝わる戸田主膳奉行の記録 山本修之助
★戸田貴夫
佐渡高校時代の平成4.5.31-6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)4×100mR(本間啓輔・志和正隆・戸田貴夫・高岡豊秀)6位
平成4.6.19~21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR出場
★戸田辰巳
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

★戸田藤左衛門(とだとうざえもん)
【生没】生・没年不詳 大久保長安の家老。「佐渡川上家文書」(両津市和木、川上二六氏蔵)に、しばしばその名前が出てくる。当時駿府にいて、長安の下代で佐渡に駐在していた岩下惣太夫から、鉱山の鉱况などが詳しくこの人に報告されている。また藤左衛門から、岩下への書状もふくまれていて、「長安が甲州へいって逗留し、機嫌がよろしい」ことなど、駿府における長安の動静を伝えている。「戸田藤左衛門所蔵文書写」(国立史料館所蔵の紀伊国古文書)を紹介した、大野瑞男氏の論考(「日本歴史」一九九○年一月号)によると、藤左衛門は慶長十一年(一六○六)五月ころ佐渡にいたらしく、長安から「佐渡国加茂郡」に、六百石の知行が与えられていた、という。長安は慶長九年(一六○四)四月と、五年後の同十三年の二月に来島しているが、藤左衛門の来島および知行は、佐渡史書にはいっさい見当らない。『甲斐国史』によれば、「大久保長安ノ家老ナリ。慶長十八丑年大久保ガ事ニ坐シテ禁獄セラル」とあって、長安の死後投獄されたものの、ゆるされて牢(浪)人になり、駿府・遠江を領した徳川頼宣(家康の十男)に仕え、元和五年(一六一九)の頼宣の転封で紀州(和歌山)に移り、知行千石(鉄砲衆)を与えられた。また『和歌山分限帳』によると、同領内の松城城代も勤めた。これより先、慶長十二ー十三年ごろ、伊豆縄地銀山をも管轄していたことがあると、大野氏が報告している。
【関連】川上家文書(かわかみけもんじょ) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★戸田正弥
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)戸田正弥 144 悼 戸田 正弥氏 山本修已
★戸田正之
1943年佐渡真野町に生まれる。1968年東大教養卒、 同年運輸省入省。
1995年東京航空局長、 1996年日本倉庫協会理事長、
2003年東芝・社会ネットワークインフラ社顧問。
2005年佐渡汽船社長に就任。

68年(昭43)東大教養卒、同年運輸省入省。95年東京航空局長、96年日本倉庫協会理事長、03年東芝・社会ネットワークインフラ社顧問。佐渡汽船社長(就任日=2005年7月21日)
2014-11-03
秋の叙勲で、元東京航空局長 戸田正之さん(前佐渡汽船㈱代表取締役社長)が瑞宝中綬章を受章しました。戸田さんは、佐渡市竹田(旧真野町竹田)出身で、現在も公益財団法人海上保安協会新潟地方本部の本部長をなさっており、健康体のご様子で毎日飛び回っているようです。この6月から首都圏佐渡連合会の総務委員会に所属し、郷土のため協力できれば と汗を流しています。また、首都圏真野人会の副会長でもあり、昨日の国分寺まつりに参加(毎年参加)、その後の役員会に出席下さいました。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)変わることを恐れない(佐渡汽船
★戸田道治
佐渡高校時代の昭和56.5.30-6.1、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)4×400mR(戸田・笠木・北見・菊池)3位
56.6.19-21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR(戸田・笠木・北見・菊池)5位
56.8.1~5、陸上競技全国高校総合体育大会(横浜市)4×400mR出場
57.5.29~31、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)800m3位
57.6.18~20、陸上競技北信越大会(金沢市)800m・4×100mR出場
58.5.29-31、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)800m5位
58.6.17~19、陸上競技北信越大会(富山市)800m出場
★戸田与左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、万延元年(一八六〇年)納戸頭より佐渡奉行となった。
知行百俵、役料千五百俵百人扶持である。文久二年七月五日御先手へ転役した。(佐島遺事)
★戸谷英三
「佐渡高等学校百年史」(佐々木義栄-大正10年~15年佐中在籍-の「僕の自画像」)
佐々木の回想にも出てくるが、当時在学していた者の多くが戸谷英三という教師を恩師として記憶している。卒業生たちの回想の断片をつなぎ合わせてみるだけでも、戸谷が非常に興味深い人物だったことがうかがえる。実際、彼は大正初年に佐渡中学を去った嶺直貫とならんで、生徒に対して学問的にも精神的にもたいへん大きな教育的感化を与えた教師の一人であったようだ。信州から赴任して釆た戸谷英三は大正十四年六月二十日付けで佐中の国語教師となった。明治二十五年生まれの戸谷はこのとき三三歳であった。役職は正教諭ではなく教諭心得だった。戸谷が生徒に多大な感銘を与えた理由は、人によって様々であるが、生徒は何よりもまず第一に、この教師のもつ清潔さと謙虚にものを語るその誠実さに魅力を感じたようである。丸刈りで、骨張った顔に分厚いメガネをかけて、ややうつむきかげんに歩くのが特徴の戸谷は、毎朝早くから登校し、授業時間になるとすぐに教室にやって釆た。戸谷の授業は実に丁寧で、格調の高いものであったという。特に、自分が好きだった芭蕉の「奥の細道」などの課にくると、古書の和歌を引用して三時間も四時間もかけて教えたという。また戸谷は良寛にも精通していた。戸谷は生徒たちにたいへん慕われていたにもかかわらず、わずか一年足らずで佐渡中学校を去っている。その理由については定かではないが、自殺を考えるほどの何かがあったらしい。昭和二年に卒業した本間唯一は戸谷の人物像、自殺未遂について次のように語っている。戸谷は本間の家に下宿していた。
「佐渡高等学校百年史」(戸谷先生のこと(抜粋) 第二十七回卒 本間唯一)
信州生まれの先生は御多分にもれず「アララギ」の心酔者であった。ちょうど先生は僕の家を下宿にしていたので、僕は先生から茂吉だの赤彦だのの作品を見せられ、その歌集や論集を読ませられた。先生はそれだけではたりず、三十一文字の実作をすすめた。学校では放課後、有志の生徒を集めて、「万葉集」の講釈をやってくれた。万葉集巻一の始めから、先生自らガリ版を切って、それをテキストに講義するのである。その努力は、たいしたものであったように思う。この万葉講義グループのなかから、数人の実作者があらわれ、先生の添削をうけるようになった。
その結果、「霜月三日」という回覧誌(これは一冊だけだったと思う)ができるところまでこぎつけた。先生は歌と同時に、書もよくした。毎日、学校から帰ると時間を限って、「秋はぎ帳」を手本に習字した。のちには、良寛にこってその字も習っていたようだが、とてもむつかしいといっていた。関東震災とそれに引きつづいて、大杉栄が殺され、有島武郎が情死した異常な空気は、僕たちの精神情況に何かしらの影響を与えないではおかなかった。芥川龍之介を死にまでおいやった大正末期の全期間を中学に育った僕たちは、その時代の重い空気にゆさぶられながら、教師としてよりも、もっと自由な広い考えをもっている人に話相手を求めた。そういう対象に先生はピッタリしていた。僕たちの仲間は、夜おそくまで先生の部屋にお邪魔した。当時僕たちが求めていたもの全てをそこで解決できたとはいえないが、しかし楽しかった。僕たちは先生をヒューマニストと呼んでいた。その先生が、ある日、自殺未遂をした。秋のことであった。夜、外出から帰って釆た僕に、スグ来てくれというので、先生の部屋に行って見た。するとランプの芯を細くして暗くした部屋の中に、先生は結跏趺坐の形ですわっていた。来意を告げると、先生は「君これを見てくれ給へ」と頸すじを指さした。頸はホウタイで巻いてあったが、それをとくと一すじのミミズばれが目にはいった。「紐が切れてネ…‥」と先生はいう。その日先生は沢根口から青野峠に上って、真野湾を見下ろせるところを死場所にえらんだという。 しかし辛か不幸か紐が切れた。とたんに足もとから野兎が一匹飛び出して、それこそ脱兎の如く逃げたという。生きることの尊厳さをこのときほど痛切に感じたことはないと先生はいった。この自殺にいたる原因については先生は何もいわなかったし、僕もあえて聞こうとも思わなかった。ヒューマニストの限界というようなことがチラと僕の頭にひらめいたくらいである。(後年、僕は、『兄貴と田虫』という小説にこのことを書いて、大学の雑誌に発表した。)それからほどなく、僕は中学四年から京都の大学に行くようになり、先生と別れたのであったが、先生は教師をやめられ永平寺へ行って修行したといっていた。
われのみとな思いそもいそ悲しみの なき人などか世にあらめやも
という一首と、「君、どんな苦しいことがあっても、永平寺のどこかに、ゾウキン掛けしている僕のいることを思って辛抱してくれ」という言葉が先生の僕へのはなむけであった。その翌年、先生は中学を辞めて、赴任したときと同じように沢根港から直江津に向かったと、僕の友人から通信があったが、果たして先生の希望通り永平寺へ行ったものかどうか、その後の消息を知らない……。(『獅子ケ城』創立六十周年記念特集号)
戸谷は大正十五年五月三十一日付けで佐渡中学校を退職した。彼が沢根捲から船に乗って離島する時、たくさんの生徒が見送りに出て涙したという。校内における厳しい生活規律の中で、純粋で謙虚な人柄をもって生徒に接した戸谷英三の存在は、教わる者にとってかけがえのない心の救いであった。昭和三年に卒業し、のちに母校で教鞍をとった池田源一郎も戸谷に深い感銘を受けた一人である。池田は『佐渡高等学校八十年史』に寄稿した「わたしの思い出」の中で当時の様子を次のように振り返っている。二年の一学期だったと思う。戸谷英三という若い国語の教師が小学校から来た。丸刈りで、骨ばった四角な顔の眼鏡の奥に敬虔な眼がのぞいていた。黒い詰襟の洋服を着ていつも前かがみに歩いていた。やや貧相な外見ではあったが、実に良心的な教師で、非常に授業熱心であった。「大口の真神の原に降る雪はいたくな降りや家もあらなくに」と万葉の歌を歯切れのよい徹る声で噛みしめるように読んだ声が今だに鮮やかに耳に残る。在職期間はわずか数ヶ月だったと思うが、先生ほど若い私達の心をとらえ、深い感動(漠然としたものではあったが)を与えた方はなかったと思う。私事になって恐縮だが、来る早々「獅子ケ城の春」という作文を書かされた。思いがけなく私の文章を激賞してくれ、クラスで発表し、挿入の下手な俳句などにも批評を加えられて、よしそれならもっと大物をと意気込んでみたが、先生が間もなく去るようになってその気をなくした思い出がある。良寛に私淑していて、字もうまく、先生がどういう事情でほんの暫くしかいられなかったか私達にはよくわからなかったが、教員免許状のこともあったらしい。ある日突然実生自分の過去の恋愛を告白され、「自分は壇に立つような立場にないのだ。これから信州へ行って寺に入るつもりだ」といわれた。控所での別れの挨拶は「親は子のために隠し、子は親のために隠す」ということについて何か学校の複雑な事情を暗示するようなお話で、小さな胸には何のことやら真意が掴めなかったが、ただ先生が去られるということだけで悲しく、上級の猛者がワァワァ泣き出してしまった。沢根から船に乗って離島されたが諏訪町のはずれに整列して送ったあと、有志の生徒が船場まで送って行き、ボート部の生徒は船まで追って別れを惜んだ。汽笛が消えて静かな日暮の海に一筋残った白い航跡を見やりながら淋しい思いで帰ったことを思い出す。先生はその後永平寺に入られたとか開いた。何ということはないのだが、先生の生き方がまことに真剣で、自らに厳しく、その一挙手一投足が多感な私達の胸を揺さぶって人生の厳粛さを感じさせてくれたのだと思う。戸谷英三のその後については、当時だれも知る者がなかった。ところが、戸谷が佐渡を去ってから四〇年後の昭和四十年秋、ガリ版刷りの二冊の本が本校に送られて来た。「信陽沙門 愚鈍英三遺稿」(前編・後編)と題するこの二冊の本は、長野児篠ノ井市の風間元によって世に出された戸谷英三の遺稿集であった。それによると、戸谷英三は大正十五年五月三十一日に佐渡中学校を去るとすぐ、同年六月二日に長野県松代町長国寺住職青山物外に師事して出家した。修業を重ねた後、昭和七年十月に戸谷は松代町梅翁院住職となった。彼は昭和九年には若手県の正法寺監寺にもなり梅翁院との間を往復していたが、昭和十四年一月二十四日急性肺炎のため正法寺で亡くなっている。なお、遺稿集には戸谷が佐渡での一年を振り返って記した覚え書きがあり、佐渡で「長く続かなかった原因」は、「1実力不足 2余技熱中 3胆力の不足 4アムール」だと書いてある。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p419・420
★栃倉範子
佐渡高校時代の平成4,高校囲碁選手権県大会女子団体戦1位(栃倉範子・光村美紀・信田早苗)、女子個人戦1位、高校囲碁選手権全国大会女子団体戦(栃倉・光村・信田)7位入賞、女子個人戦2回戦敗退
★ドナルド・キーン


『佐渡ぶんや紀行』(紀行25枚 日本細見 昭和55・中央公論社)
佐渡を再訪して文弥人形を見、山本修之助と談笑し、能を見物し、長谷寺・蓮華峰寺などの静かな寺院を見て回った印象記。中矢一義訳。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
佐渡高校百周年に記念講演をしている。その他「ろうそく能」等しばしば来島する。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)ドナルド・キーン 150 ドナルド・キーン先生を悼む 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
★刀根仁兵衛(とねにへえ)
【生没】(生年不詳)ー一六一○ 相川町南郊の府外、海士町の海士稼ぎの差配人として磯西茂左衛門と共に、近世のはじめより居住。『相川砂子』によると「慶長のころ、石見・出雲から当国へ渡り、はじめは一丁目辺に居住しており、元和の頃、海士町へ移る」とある。また『佐渡四民風俗』には、「慶長九辰年大坂より召連れ来り、追々海士稼取立て、串貝等仕立、他国売買致す」とある。相川への来住は、魚貝類の需要の増大に対応した政策的移動であった。『延喜式』三二巻にも佐渡鰒が記されてあり、近世以前にも海士漁があった。幕府や大名の贈答習俗に「佐渡のし」が用いられた。海士は御船手役により、大坂(一説に石見・出雲)よりつれてきたといわれ、御用船の水主衆とのつながりがあった。海士稼ぎの期間は、おもに夏より初秋までで、海中七尋より深いところの蚫を捕採することになっていた。幕末の記録(「地他国古書之写」)によると、刀根仁兵衛差配の海士は一五軒、海士一九人、磯西茂左衛門は一七軒、海士二九人を差配していた。あとには海士町居住の海士は海辺の方に移動し、『佐渡年代記』によると、文政十一年(一八二八)「海士の儀、磯遠の場所にては不便利であるから、下戸炭屋浜町の内、新海士町と唱え引移るよう申し渡した」という。慶長十五年歿、菩提寺は下戸町浄土宗立岩寺。
【関連】海士町(あままち)・磯西茂左衛門(いそにしもざえもん) 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★刀根良夫
佐渡高校時代の28.8.1~2、県高校水上競技大会(長岡市)、100m平泳2位・100m背泳2位、300mメドレー(刀根・大谷・塚本)1位、男子総合2位
28.9、水泳国民体育大会(高知県)、100m背泳出場
32.9.21~22、陸上競技県総合体育大会(新潟)1500m1位・5000m1位
<★利根川裕
『革命の使者北一輝』(評伝430枚 昭和42・人物往来社)
明治16年、佐渡に生まれた北一輝は「二・二六事件」の指導者といわれ、青年将校とともに刑死していった。しかし、明治憲法がもつ天皇神学への反発から出発した彼の思想は、必ずしも明噺ではなかった。だから、彼は事件の傍観者にすぎなかったといっても過言ではなかった。この事件に関する資料や著書、記録をもとに利根川裕が北を中心に据えて事件を再現し、その人間性を「二・二六事件」という歴史的事件を通して明らかにしている。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★利根山光人

<★徒然(とねん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

佐渡相川瑞仙寺住職。俳諧および狂歌をよくし判者を許され、硯向庵と号した。(佐渡人名辞書)
★堂上まさ志(どのうえまさし)
「ウィキペディア」より
1947年11月23日 -漫画家。相川町上小川出身。本名は小杉義昭。相川中学ー相川高校卒。
高校の同級生斎藤正さん(北狄)によると、大変シャイな生徒で帰宅部、目立たなかった。しかし、絵はすごくうまく、女性などきれいな絵を描いていた。数学が際立って出来、その道の学者になってもよいくらいだった。若い頃会ったことがあり、漫画家をやってると言ってたが、その後有名な漫画家になっているとは全く知らなかった。自分と同級生だから昭和21年生まれか、22年の早生まれだと思う。
・経歴:1981年、『マルユウ親衛隊』が第16回週刊少年チャンピオン新人まんが賞最終選考候補作品となるが選外。1982年、『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)3月号に掲載された『でっかく大志』でデビュー[1]。
『プレイコミック』(秋田書店)に連載された代表作『銀玉マサやん』は単行本22巻に及ぶ長期間の連載となり、パチンコ漫画の先駆けとなった。また同作は実写映画・OV化もされた。その他、『銀玉命!銀次郎』も1990年代初期から現在まで『漫画パチンカー』(白夜書房)で連載を続けており、OV化も果たしている。
『銀玉命!銀次郎』の他にも、『漫画パチンコ大連勝』(日本文芸社)にて、『マサやんのオススメ銀玉道場』を連載中である。
・作品リスト: 燃えろ!一歩(週刊少年チャンピオン、秋田書店、全6巻)
ガッタレ!塁(月刊少年チャンピオン、秋田書店、全1巻)
信天翁一発!(プレイコミック、秋田書店)
男一発!あほう鳥(プレイコミック、秋田書店)
トラブル童児(コミックボンボン、講談社)
銀玉マサやん(プレイコミック、秋田書店、全22巻)
浪漫街(週刊漫画ゴラク、日本文芸社)
銀玉命!銀次郎(連載中、パチンカーワールド→漫画パチンカー、白夜書房→ガイドワークス)
マサやんの波理論(パチンコフィーバー、一水社)
マサやんのオススメ銀玉道場(連載中、漫画パチンコ大連勝、日本文芸社)
・脚注:1.^ a b c d e 『漫画家人名事典』p260 日外アソシエーツ
★外内幸吉
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 赤泊村赤泊、呉服商 ・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大2、佐渡郡会[九年十二月二十三日]・大3、政友本党の遊説[十三年十月二日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]
★外内周蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治四年生 赤泊村赤泊、廻船問屋、旅館業 ・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★戸内(とのうち?)常蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久二年生 澤根町澤根村 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、高等女学校[四十年三月二十日]・明4、佐渡水産学校[四十年三月二十日]
★殿内弥之吉
「ハワイ移民第一号」(「佐渡の百年」)
★外村義郎(とのむらよしろう)
「躍進日本」(中川杏果)より
キリスト教会の長老、東京四谷のスラム街をまわり、医者に行かれない病人に毎日手当てをしてやるので、キリストの生き神様と呼ばれた。僕は河原田のキリスト教会で先生から洗礼を授けてもらった。
その後よくお会いしたが、賀川豊彦氏と並び称せられた人だ。僕はこの先生の救えを受けてから牧師になろうと思い、新穂の白井慶吉という牧師のところへ相談に行ったら、白井先生は、牧師なんて普通の人のやれることでない。やめたまえと言われた。あの時僕は牧師をやっていたらナア……と、時々後悔する
★鳥羽十左衛門(備前守)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
下畑・安国寺に近い寺田部落の西端にあった寺田城主。鳥羽は上杉景勝の家臣で、上杉占領時代には寺社代官をつとめて、寺田郷内に住んでいたから寺田の殿様とほ呼ばれていたが、波多郷全域を対象としていたので寺田集落の中心を遠く離れた位置に居を構えたのであろう。しかし、この城が鳥羽時代になって新規に築いたものかどうかは即断できない。
★土肥一夫


昭和18年両津羽吉生れ、昭和37年両津高校卒。旧姓は坂脇。
東京都交通局に勤める。後、上野池之端で老舗の鰻割烹「伊豆榮」に婿入りし、社長となって事業を拡大する。
当店は宮内庁御用達。
都内に多くの支店を経営し、両津の「天の川荘」もその系列である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「某サイト」より
「伊豆榮の土肥一夫さんはたまに送迎用のマイクロバスの運転手をやりながら、お客さんのお話に目を凝らしているそうです。不満を持ったお客様は来なくなるだけで、そのメッセージはお店に届かないので、こうして情報を集め、それを素直に聞きいれ、かいりょうできることは努力するという繰り返しで暖簾を守っているそうです。」
伊豆栄は、江戸中期の創業で260年の歴史を誇るそうです。また、鰻好きとして有名な昭和天皇も当時侍従長だった入江相政さんが贔屓にしていたこともあり、召し上がったという話があります。よく宮内庁御用達などというお店は格式ばって勘違いしているお店もありますが、こちらは格式ばったところは全くありません。それどころかお客さんは国際色豊かでこの日も近くのテーブルには中国人と思われるグループやフランス語を話すカップルがいました。もちろん日本人にも愛されています。隣のテーブルの老夫婦が美味しそうに鰻を食べる姿は、自分も年をとったらこうありたいと思わせる微笑ましい姿でした。
お店のパンフレットによると和歌山に自前の備長炭の窯を持っていて、鰻を焼くのはもちろん、タレ作り、ご飯を炊くのにも備長炭を使用するといったこだわりです。
私のお気に入りはご飯です。見た目は炊き込みご飯のように満遍なくタレがしみ込んでいるご飯は、それだけで頂けます。鰻自体も美味しいのですが、天皇陛下から外国の方まで愛されているので、クセが無さ過ぎるのが物足りないところでしょうか?!
★都丸(とまる?)綱吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★富井富蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]
★冨井英雄

★富内正
※「佐渡ジャーナル」関係記事: ※「佐渡ジャーナル」関係記事:「39号」(平成26年10月)案山子とラケットー亜季と珠子の夏休みー(監督:井上春生 平祐奈・大友花恋出演)※富内正
★富川潤一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富川潤一
80 点鬼簿(2) 武田静澄氏、福田清人氏、富川潤一氏、笹井正氏 山本修巳
87 良寛と富川芸術 皆川喜代弘
147 山本半右衛門 山本家正面図 画家
★富川豊
県立佐渡女子高等学校13代目校長(昭和45.4.1~48.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★富小路敬直
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


「御落涙の明治天皇」(「佐渡の百年」)
★富崎五作
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川町下戸、佐渡新報社長 ・大1、渡部七十郎縣会議員を争はんとす[四年九月二十五日]・大2、北越、新聞記者大会[九年六月二十日]・大4、佐渡新報の発刊[十四年十一月十日]・昭2、佐渡毎日新聞[五年七月一日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭4、縣会補欠選挙[十二年六月十五日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★富田渓仙
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富田渓仙 54 連載 閑々亭雑記 (13) 富田渓仙画伯と佐渡 山本修之助
★冨田砕花
明治44年に来島した詩人。歌集「哀しき愛」(「蒼茫と野暮れ山暮れ海暮れぬかなしや佐渡は星あかりのみ」)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富田砕花 121 -私の愛唱歌- 流人の悲哀と青春の哀感 山本修巳
「惣之助と鬼太鼓」(「佐渡の百年」)
「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)
★冨田さとこ
「島の新聞」索引(人名別)
★富田新右衛門
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

「岩首校百年誌」(昭和55年)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永元年生 相川町羽田町 ・大1、第十七回縣會議員選挙[四年九月二十五日]
★富田真也
畑野長谷、長谷寺(ちょうこくじ)に生れる。父は畑野町長等を歴任した富田宝純でその長男である。
昭和28年佐渡高校卒・早稲田大学卒で埼玉県に入り、当時の埼玉県知事畑 和(はたやわら)氏の秘書課長として長く務め、土屋知事に代わってからも知事室教育部長として活躍、定年後も埼玉県埋蔵記念物財団の副理事長として活躍。
「高ぶらず」「偉ぶらず」「歌を詠み」「佐渡観光に情熱を注ぐ人」と言うのが友人評である。
現在、千葉県茂原市在住。
★冨田善吉
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★富田毅
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p392・393
→堀部国治 「佐渡高等学校百年史」(弁論部舌禍事件)
「島の新聞」索引(人名別)
★冨田朝彦(ともひこ)



朝彦の母が林儀作の娘。従って、林儀作は朝彦の母方の祖父。昭和期の日本の官僚。第3代宮内庁長官。冨田メモ知られる。 ※富田メモ:昭和天皇が第二次世界大戦のA級戦犯の靖国神社への合祀に強い不快感を示したとされる内容。
・『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)
→林儀作
「ウィキペディア」より
★富田寶元(宝元)
昭和15年12月15日 畑野町に生まれる 昭和34年 3月 佐渡高等学校卒業 昭和34年 4月 大正大学入学(住職取得) 平成 5 年 5月 長谷寺第53代住職就任 平成13 年 3月 新穂役場退職 平成21 年 4月 真言宗豊山派佐渡支所長就任
平成22 年 4月 「佐渡住みよい会」会長就任




畑野長谷出身、北豊山長谷寺の三男で当寺住職。昭和34年佐渡高校卒、38年大正大学卒。長く新穂役場に勤務後、家業の僧職を継いだ。豊山派佐渡地区の宗務長。牡丹で名高い当寺を、四季折々の花が咲く花の寺として奥様と一緒に寺を整美し、多くの参詣客を楽しませ、各種催事も開催している。又、「市民サロン」代表として市民の政治への参加を促す運動等を行っている。
奥様は昭和22年生、両津駒坂の長家より嫁ぐ。父は畑野町長等を歴任した富田宝純で、その三男である。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「65号」(令和3年4月)・ウサギ寺が思わぬ事態に
「島の新聞」索引(人名別)
★富田宝純

畑野町の長谷寺住職から畑野町町長となる。生れは東鵜島。
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★冨田ますお
「島の新聞」索引(人名別)
★富田美里
1986年11月4日-、本名:山崎 美里(旧姓・富田)は、日本の元シュートボクサー、女性キックボクサー。新潟県佐渡市[1]出身。・来歴:新潟明訓高校から専修大学に進学し「東洋伝拳法部」(キックボクシング部)に所属。その一方でキックボクシングジム山木ジムに「侍塾」に所属。のちに正式にシーザージムに入門、シュートボクサーとしてプロデビューする。2008年5月28日の後楽園ホール大会でAACCの坂本ひとみ相手にデビュー戦をし、判定勝ち。2戦目には、RENAと激戦を繰り広げ、終了のゴングと同時に首投げをきめるもノーカウントとなり、延長判定の末敗れる。3戦目となる同年9月12日、坂本の先輩にあたる藤井惠と対戦し、終始前に出る戦いぶりで2-0の判定勝ち。立ち技ルール初挑戦とはいえ女子総合格闘技の第一人者を倒したことで、富田は一躍注目を集めた。2009年2月11日、今度はDEEP女子ライト級王者のMIKUと対戦したが、MIKUの膝蹴りの前に1ラウンドKO負けを喫した。2009年8月23日、シュートボクシングの女子トーナメント「Girls S-cup 2009」に出場。1回戦で岡田円と対戦し、膝蹴りでKO負けしたのを最後に、しばらく試合から遠ざかる。2010年11月28日、ブラジリアン柔術の東京国際オープントーナメントに出場、女子白帯ペナ級とアブソルート級の二階級で優勝を飾る。その後は故郷の新潟に戻り、2012年からは新潟市で女性・子供向けの格闘技フィットネススクールのインストラクターとして活動。現在はRENATUS JIUJITSU ACADEMYに所属、紫帯を巻く。2014年に結婚し山崎に姓が変わる。
★富田ミツエ
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★富名哲也(+プロデュ―サー畠中美奈)

「ブルー・ウインド・ブローズ」試写会関係(令和3年12月5日)







h28年8月31日


「富名哲也がヴェネツィア国際映画祭の新人発掘プログラムに選出」(2018年9月3日)
現在開催中の第75回ヴェネツィア国際映画祭にて、富名哲也の「Where Were We?」がビエンナーレ・カレッジ・シネマの第1次選考を通過した。
ビエンナーレ・カレッジ・シネマは、世界中から新人映画監督を発掘し育成するためのプログラム。このたび国際プロジェクト9作品と、イタリアのプロジェクト3作品の計12作品が第1次選考を通過した。10月に行われるワークショップを経て、最終選考に残った3作品に15万ユーロ(約2000万円)が助成され、2019年の同映画祭での上映を目指す。
「Where Were We?」は新潟の佐渡島での撮影を予定。同じく佐渡島で撮影され、第68回ベルリン国際映画祭に正式招待された富名の初長編作品「Blue Wind Blows」は、2019年に公開予定だ。
★富永儀三郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★冨永純子(旧姓:志田)

1962年8月9日生(59歳)、慶応病院を経て、八王子市議会議員(1期目)、公明党。石楠会32回生/商業科・看護師・看護、介護、福祉の推進で活躍。
・ホームページ Twitter(ツイッター):E-mail sumire0833@gmail.com
★富永備中
『小木町史』より
羽茂本間が滅びて後、小木城に入った人上杉氏の家臣富永備中でした。そして、富永氏がここに建てたのが海円寺です。富永氏の館は今の「久保の城」のところにつくられました。それまでの城は、海潮寺の下の元小木の上の台地、いま畑になっている所にありました。海円寺文書には、寺が城の「堀」を売却した記録がみられます。やがて慶長三年(1598)、上杉景勝は会津に移封されることになり富永氏もこの地を引きあげました。
★富永元治

『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
・大川津神神社の社標
津神神社の神橋を渡ると右側に社模が建っている。その寄附者に前川亀吉、富永元治と
ある。前川様は越後(寺泊の方と聞く)の人で夷築港の技師、富永様は土屋町長の二女が
嫁いだ方の義父にあたる方(築港技師)。前記富永千代様の話によれば、「夷築港建造のため、大川津神神社周辺の岩石を沢山頂いて夷へ運んだ。いかに取ってもいい石とはいい乍ら、神域の石を沢山頂いたことは誠に恐れ多いことであると云って、人一倍敬神の念厚き義父が前川さんと二人で津神神社に寄附したものである」と語ってくれた。
・心に残る富永さんの話
土屋町長は、体の具合が悪く休んでいても重要な会議があれば一言も云わず、単身出張した人であった。しかも出張旅費の殆どは自弁であったという。両津町長になる前にすでに佐渡銀行頭取、県会議員、電気会社を創立し、社長、佐渡商船(現佐渡汽船の前身)社長を殆ど自費出費で創設又は運営し、俵屋の豪財を惜し気もなく使ったのである。 大正五年七月、両津町長に当選、夷町と福浦の町並みを繋ぎ、俵屋の田地を悉く町を繋ぐために寄附し、当時の人は出来た町の名を「俵屋町」と呼んでいた。富永千代さんは、「折角俵屋町と呼んでいるものを『浜田一』と町名を呼んでいるが、せめて俵屋の名の一角でも残してほしい。」と話されたので、市橋市長に具申したけれど、市橋市長の返事は次のようなものであった。「即ち、浜田という地名はずっと昔から付いていた名前で、あの辺一帯が昔は浜であり、そして田地であったのでつけた名称だと聞いている。従って今、浜田一の僅かな部分だけ呼称変更するのは非常に困難だ。民間で「俵屋町」と呼ぶのには少しもこだわるものではない。」ということであった。右の事情は私が上京の際、富永さんを訪れて報告したのである。
★富の一
「加茂村誌」(昭和38年4月)


★富安風生
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富安風生 7 鑑賞 佐渡のうた (7) 石榑千亦(いしくれちまた)・本間七左衛門・富安風生 山本修巳
★富山治夫(とみやまはるお)

1935- 昭和後期-平成時代の写真家。昭和10年2月25日生まれ。独学で写真にとりくむ。「女性自身」誌の嘱託をへて,昭和38年朝日新聞出版写真部嘱託となり,「朝日ジャーナル」の「現代語感」の連載を分担。41年フリー。53年写真集「佐渡島」を,55年「京劇」を刊行する。53年講談社出版文化賞,55年日本写真協会年度賞。平成7年「近藤福雄写真集1917-1945―佐渡万華鏡」を総合編集。17年スポニチ文化芸術大賞優秀賞。東京出身。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富山治夫 143 悼 富山治夫氏 山本修巳
★富の一
加茂羽黒の人、天和(1681-1684)の頃に文弥人形を佐渡へもたらしたと言われる。(寛政の頃、湊の天田左与ノ一と言う盲人が京都から伝習とも言われる。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
佐渡の文弥節は天和のころ両津市羽黒の富一が伝えたとか、寛政ころ両津市湊の天田佐与ノー(文化三年没)が伝えたとかいっているが、みな盲人の間に伝承されたもので、正確な史料はない。また、相川音頭に「文弥法師歌の中山」という一篇があり、佐々木義栄氏によると、その女主人公「おたの」という瞽女の名が、「伊藤家日記」の明和八年(1771)七月二十日の記事に見えるから、このころ文弥節は佐渡で語られていたものであろうといっている。とにかく、江戸時代の中ころ享保以前、元禄に近いころ佐渡へ伝来したものであろう。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★とめ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国相川五郎左衛門町の人である。とめは夫の死後よく姑に仕え、ひとりの働きによって子どもを養育したので、文化十三年(一八一六年)役所から姑存命中、手当を与えられることとなった。(佐渡年代記中巻)
★とめ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川一丁日裏町の人である。元主人へ忠信を尽くしたので、文化十三年(一八一六年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★とめ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国郷宿万屋嘉十郎の祖母である。孝心奇特の趣相聞につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★とめ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川濁川町源助の娘である。相川三丁目浜町に嫁し、老養父善太郎によく仕えたので、文化十一年(一八一四年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★とも
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国松ケ崎(畑野町)の惣百姓である。風義よろしき趣につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)
★伴善男(とものよしお)
伴善男(とものよしお)「新撰佐渡人名辞典」資料(山本修之助 )


「ウィキペディア」より
弘仁2年(811年) - 貞観10年(868年))は、平安時代前期の貴族。参議・伴国道の五男。官位は正三位・大納言。伴大納言と呼ばれた。
・経歴
弘仁2年(811年)、伴国道の五男として誕生。生誕地については父・国道の佐渡国配流中に生まれたとされるが、京で出生したとする説[1]、あるいは元来は佐渡の郡司の従者で後に伴氏の養子になったという説[2]がある。なお、大伴氏は弘仁14年(823年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、避諱のために伴氏と改姓している。
天長7年(830年)に校書殿の官人になり、仁明天皇の知遇を受け次第に重用されるようになる。承和8年(841年)大内記、承和9年(842年)六位蔵人・式部大丞を経て、承和10年(843年)従五位下・讃岐権守・右少弁に叙任された。
承和13年(846年)、善愷訴訟事件で法理を争い、左大弁・正躬王を始め同僚の5人の弁官全員を失脚させる。また、かつて大伴家持が所有し藤原種継暗殺事件の関与によって没収され、大学寮勧学田に編入されていた加賀国の100町余りの水田について、既に家持は無罪として赦免されているのに返還されないのは不当と主張し、強引に返還させたという[3]。
その後は急速に昇進し、承和14年(847年)従五位上・蔵人頭・右中弁、翌嘉祥元年(848年)には従四位下・参議・右大弁に叙任され公卿に列し、のち右衛門督・検非違使別当・式部大輔を兼ねる。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い従四位上に昇叙すると、仁寿3年(853年)正四位下、斉衡元年(855年)従三位と引き続き順調に昇進を続けた。また、この間皇太后宮大夫・中宮大夫を歴任する一方、右大臣・藤原良房らと『続日本後紀』の編纂にも携わった。清和朝に入っても貞観元年(859年)正三位・民部卿、貞観2年(860年)中納言と累進し、貞観6年(864年)には大納言に至る。これは天平2年(730年)に大伴旅人が大納言に任ぜられて以来約130年ぶりのことであり、伴氏(大伴氏)の極官をきわめた。しかし、貞観8年(866年)閏3月、応天門が放火される事件が起こると、善男は左大臣・源信が犯人であると告発する。源信の邸が近衛兵に包囲される騒ぎになるが、太政大臣・藤原良房の清和天皇への奏上により源信は無実となる。8月になると応天門の放火は善男とその子中庸らの陰謀とする密告があり、拷問を受けるも犯状否認のまま善男は犯人として断罪[4]、死罪とされたが、善男がかつて自分を抜擢してくれた仁明天皇のために毎年法要を行っていたという忠節に免じて罪一等を許されて流罪と決した。善男は伊豆国、中庸が隠岐国に流されたほか、伴氏・紀氏らの多くが流罪に処せられた(応天門の変)。貞観10年(868年)、配所の伊豆で死去した。
・人物
生まれつき爽俊で、また狡猾で、黠児(わるがしこい男)であったとされる。風貌は、眼窩深くくぼみ、もみあげ長く、体躯矮小、傲岸で人とうちとけなかった。弁舌が達者で、明察果断、政務に通じていたが、寛裕高雅さがなく、性忍酷であったという。
・系譜
父:伴国道
母:不詳
妻:不詳 男子:伴中庸
男子:伴善魚
男子:伴善足
・脚注
1.^ 『日本三代実録』によると国道は延暦24年(805年)に恩赦により帰京したとされる。
2.^ 『宇治拾遺物語』など
3.^ 『意見十二箇条』
4.^ 『江談抄』によると、「伴中庸が自白した」と偽りを言って自白を迫ったところ、善男は観念して自白したという。
★外山哲也
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)外山哲也 81 山本修之助先生の詩に出会って
★外山茂右衛門(とやまもうえもん) l
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
鶴子銀山開発者。天文十一年(一五四二年)越後の人、茂右衛門は佐渡に渡り、土地の人と謀り、沢根の地頭本間摂津守に訴え、運上金銀百枚を出して鶴子銀山を開いた。この銀山は天正年中、上杉景勝の分国となり外山に陣屋を構え、代官山口右京を配置した。(佐渡年代記上巻)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
鶴子銀山については『佐渡古実略記』に、「鶴子銀山は天文十一卯年、越後国茂右衛門と云う老、数年当国へ商いに渡海、或時夜に入、沢崎沖を馳(はせ)通り船中より見れば沢根にあたり鉄吹き炎のごとく光、空に移り怪しければ近く船を寄せてこれを見れば、沢根の奥山に金気の立にてそありける、すなわちこの所の老を語らい地頭本間攝津守に訴え、一ケ月に銀百杖の運上を指上げ、銀山稼ぎ次第に盛り、是を外山茂右衛門間歩と云う、また百杖平とも云う。」とある。
天文十一年という年は西暦で1542年にあたる。我が国にあっては大永・享禄のころ、博多の商人神谷寿禎という者が石見の国の大森で、銅山稼ぎ人の三島清左衛門という者を転んで銀山をひらき鉱石を馬路の港から積み出した。その銀を求めてポルトガル人が日本を訪れたのが天文十一年の頃であったという。鶴子の発見ほこうした日本全体の動きのなかでとらえる必要があるだろう。
★豊吉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
忠僕。佐渡国塚本八郎次の小者である。主家大切に致す趣相聞るに付、弘化三年(一八四六年)に役所から鳥目五貫文を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★豊崎松蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]
★豊四郎
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
慶長の代表的義民の一人、新穂北方の人。
晩年僧籍に入って了雲と称した人が豊四郎であるという言い伝えはあるが、その姓
すら明らかでなく、生家も墓所もいくら探して見ても見つからない。
(右)佐渡一国義民供養塔・八幡辰巳より昭和四十二年六月佐和田町八幡佐渡博物館に遷す
(右上)本間太郎右衛門の供養碑
(左上段右)豊四郎(了雲)の墓地のある円通寺-新穂村北方
(左上段左)半次郎の生家と伝えられる山田家-新穂町上新穂
(左下段)佐渡一国義民殿のある城ケ平より国仲平野の眺望-畑野栗之江
★豊田俊介
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、立憲青年党の演説會[十四年七月十二日]・昭1、佐渡革政党の秋期大会[三年九月七日]・昭2、政友会の陣容[五年一月二十九日]・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭4、佐渡政友倶楽部春季総会 齋藤長三初代会長となる[十四年五月五日]
★豊田光世(とよだみつよ)

新潟大学 朱鷺・自然再生学研究センター准教授
【専門分野】環境哲学、合意形成学、環境教育、対話教育
【略歴・研究内容】東京都出身。米国大学院で環境倫理と哲学対話の研究に従事。帰国後、東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程にて、環境倫理と哲学対話を統合し、佐渡島をフィールドとして市民参加の環境保全に向けた合意形成の実装研究を行う。博士(学術)を2009年に取得。兵庫県立大学環境人間学部講師(2010-2013)、東京工業大学グローバルリーダー教育員特任准教授(2014-2015)を経て、2015年9月より現職。佐渡島では、「移動談義所」というトキとの共生に向けた話し合いの場づくり、天王川自然再生事業「水辺づくり座談会」での合意形成マネジメント、里海再生のための協働のしくみ「佐渡島加茂湖水系再生研究所」の設立と運営などを通して、地域に根ざした自然再生の実践活動を進めるとともに、そのなかから見えてくる社会的・倫理的課題について理論化を行っている。
【著書】“Collaborative Thinking: A Path to Environmental Ethics Education,” Comparative Philosophy Today and Tomorrow: Proceedings from the 2007 Uehiro Cross Currents Philosophy Conference. Edited by Sara A. Mattice, Geoff Ashton and Joshua P. Kimber, pp. 228-236, Cambridge Scholars Publishing.
新潟日報(h28年4月9日)


(豊田光世)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・親子でのヨシ舟作りに歓声-加茂湖の再生を考える- 藤井英樹・豊田光世
「島の新聞」索引(人名別)
★豊竹巴雪
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★豊ノ一
『加茂村誌』(昭和38年)

★豊原快慶
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
寺小屋の年中行事として新年の書初め、新町では毎月二五日天満宮へ奉納の清書をした。また、正月二五日には天神講と称し、少しずつお金を出しあって菅公祭を催した。
そのころ、寺小屋師匠として、新町には山本半右衛門・生田三折・山本桂・島倉伊右衛門など、吉岡には若林玄真、竹田には森玄達・小田与三兵衛、金丸に計良尚賢・若林文平、豊田に豊原快慶などがいた。寺小屋師匠の師弟の関係が深かったことは明治四年死亡した山本半右衛門の葬儀に、弟子として一三名の参列者があったという記録が残されていることからもわかる。
明治維新を経て、二年三月人民教育のため小学校の設置を奨励するという太政官布告にょり相川・新穂・羽茂に郷学校が設立され、三年には大中小学校規則にょり新町・五十里に郷学校が設けられた。
★豊原久夫

県立佐渡高等学校14代校長(平成5・4・1~平成8・3・31)、真野豊田諏方神社宮司。 佐渡市初代教育長。
連合佐渡会初代会長の池田正雄氏とは親戚筋。
桑原・池田・豊原家他
★豊原政秋
正応元年(一二八八年)九月に佐渡守となり、十一月十七日なくなった。(新潟県史)
★豊原雅秋
雅秋を一本には惟秋とある。元中四年(一三八七年)五月に佐渡守となった。(新潟県史)
★虎右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川下京町の人である。母に仕えてよく孝養を尽くしたので、文化十三年(一八一六年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★とり
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
忠勤者。佐渡国藤村小膳の下女である。主家へ誠忠を尽くす趣相聞之奇特に付き、嘉永三年(一八五〇年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★とり
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国上横山村(両津市)の人である。奇特之趣相聞るに付、天保十三年(一八四二年)に役所から鳥目五貫文を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★鳥井嘉市
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]
★鳥井嘉左工門
『新穂村史』(昭和51年)より
大野は野町の紺屋。嘉左工門家が、どの時代に紺屋をほじめたかは家人にも云い伝えはないが、この家は相川奉行所の大野組代官の子孫といわれる古い家柄である。先代の嘉蔵は大正の前半に新穂村長をつとめた人で、乳牛飼育、メタンガスの利用などを試みた進んだ思想の持主であった。麻と木綿の染色が主で、農作業のじばん・ももひき・大漁旗・ほんてん・麻かたびらなどなんでも染めたという。藍玉ほ四国から俵でとりよせた。嘉左二門家は明治二十年(一八八七)の建築になる九間五間の家の台所の側に仕事場を接続してある。紺屋の典型的構造である。乾燥(かげぼし)のために、台所から座敷の奥の鴨居までの九間を通して綱を張ったそうである。
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
慶長九年の『年代記』には、「横地所左衛門、原土佐、吉岡出雲等石見守にしたがい来り、所左衛門は赤泊に任し、水津迄の郷村を預り、土佐は小木の古城に住し西三川迄を預り、出雲は銀山の事を沙汰す」とあり、また「保科喜右衛門は鶴子銀山を預り、堀口弥右衛門は河原田城付地方を預り、鳥井嘉左衛門は夷組大野組代官となり」とある。
★鳥井嘉蔵➡鳥井嘉蔵(とりいよしぞう)
★鳥居九右衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★鳥居八右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、天保九年(一八二六年)四月九日勘定吟味役より佐渡奉行となった。名は正房、知行は二百俵、役料は千五百俵と百人扶持である。五月十四日相川へ着任した。十一年七月、小木港その他で強訴など百姓がさわぎ出し八月十四日御役御免となった。小普請人りとなり謹慎となった。(佐島遺事)
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★鳥井嘉蔵
「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
新穂村

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
万延元年生 新穂村大野 ・明3、佐渡の自由派倶楽部設置の協議[三十三年四月十一日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]
★鳥井竜蔵
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
★鳥越文蔵(とりごえぶんぞう)

1931年8月28日生、日本の国文学者、日本近世演劇研究者。早稲田大学名誉教授。元早稲田大学坪内博士記念演劇博物館館長。当時の畑野町に蔵書を寄贈して、猿八に鳥越文庫が設立された。
「畑野鳥越文庫」
小佐渡の山懐に散在する、佐渡の猿八集落は豊かな自然をそのままに、国仲平野を前景に大佐渡の山並みを一望する高台にある。猿八地区にIターンし、精力的に芸能活動を進めていた西橋健氏の取り組みに地区の皆さんが感動、理解を示し、地域活性化のために古典芸能を中心とした地域おこしが始まった。平成7年の夏、この話を聞いた西橋氏の母校早稲田大学の恩師であり、古典芸能の大家である鳥越文蔵先生がバックアップすることとなり、先生の所蔵する演劇関係の図書約2万冊が寄贈されることとなった。
これを受けて、図書を収蔵する「鳥越文庫」を平成9年に建築、翌10年度には文庫を管理する管理棟も改築し、芸能活動の拠点作りと活動が本格的に始まった。
「猿八山舎」
鳥越文庫の創設にともない、文庫と猿八の豊かな自然環境を活用して伝統と現代、山村と都市の人々を結び、新しい文化を創造することを目指して、地区の住民を主に活動を相互の交流の中から始めた非営利の民間団体です。
伝統芸能の研究講座や体験学習、演劇・音楽の公演などさまざまな催しを企画、実行しています。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)鳥越文蔵
92 鳥越先生と佐渡 佐々木義榮
102 鳥越文庫のこと 鳥越文蔵
「島の新聞」索引(人名別)
「ウィキペディア」より
★トレロール(トーマス・トレロール)
「鉱山に来た異人」(「佐渡の百年」)
★ドロワール→レゼ―神父
★とわ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国下戸炭最町(相川町)の人である。奇特の趣相聞につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★土居里江子
「エスライフ」2008年5・6月号

※「佐渡ジャーナル」関係記事:「40号」(平成27年1月)第13回「キンの道マラソン」
★土井利江子
両津高校時代の1968年度(S43)11月、第2回新潟県高等学校美術展県知事賞受賞
★戸泉清行
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
剣道八段、全日本剣道連盟評議員である。
佐渡郡相川町の人で昭和三十二年十月十一日に七十二才でなくなった。(新潟県年鑑)
★樋野半三(といのはんぞう)
【生没】生・没年不詳 振矩師(奉行所雇の鉱山測量師)と記録される最初の人。算術にすぐれ、寛永三年(一六二六)水金水貫の振矩(測量)のため、町人から振矩役人に取り立てられ、割間歩から水金沢までの、四百八十間(約八七四メートル)に及ぶ疎水坑道を、寛永十五年までの一三か年間をかけて完成した。慶長以来の大工事である。これによって、排水のための樋三六本(『佐渡年代記』)が不要となり、莫大な経費節減になったという。『相川志』によると、当時の下相川村平の、高嶋孫七屋敷の上手にある阿弥陀敷の内部より、上方割間歩および、下方水金沢へクランク状に切り向った。これを「手カ子間切」というとある(水上輪のクランク形の把手を手カ子という)。割間歩および水金沢側からも、この敷に向って掘り進んだと考えられるから、これは元禄時代の、南沢水貫で有名な六方からの迎間切の原形をなすものであろう。なお、『相川志』や『相川砂子』には、ともに一冊中に植野半三・樋野半三の両者がみられる。いずれが正しいか不明であるが、元和の頃の山師味方但馬配下の「とい(樋)治右衛門」は、測量技術者であるという説にちなみ、ここでは樋野半三としておく。【関連】振矩師(ふりかねし)【参考文献】田中圭一『佐渡金銀山文書の読み方・調べ方』、『相川砂子』【執筆者】金子 勉(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※振矩師(ふりかねし):佐渡奉行所雇の、鉱山の測量師を振矩師という。鉱石の採掘場所である敷が深くなるにつれ気絶(通気不良)や、湧水による水敷(水没した敷)が多くなる。これを避るための煙貫(通気坑道)や水貫(排水坑道)工事、探鉱坑道の延長工事等々には、つねに具体的な測量が不可欠である。地上や地中の各地点間の方角・勾配・距離を測定し、精密な計算等を経て、その位置関係を定めるのが、振矩師の職分である。振矩師の下に、振矩師見習・振矩師助・同助見習などの身分があり、宝暦~文政年間(一七五一~一八三九)には振矩師に二人扶持(一日米一升)、一か月銭一貫三百四十八文が支給され、文政の例では、振矩師助にもなにがしかの給銭が与えられたが、助見習は無給であった。ただし、水貫工事などで特別な業績があったときには、増給や身分の昇格もあった。また幕末~明治初年には、「算術指南方」を兼務する者もあり、これには別に手当が出た。なお、振矩師には大略次の人たちがいた(ただし、○印は振矩師助である)。樋野半三・持田半左衛門(後に地役人に昇格)・静野与右衛門・品川平左衛門・古川門左衛門・山下数右衛門(初代~四代)・○青木忠四郎(青木次助・羽田町青木家の祖先)・阿部六平・阿部坤三・山本仁右衛門。【関連】山下数右衛門(やましたかずうえもん)・阿部六平(あべろくべい)・樋野半三(といのはんぞう)【参考文献】金子 勉「振矩師雑記」(『佐渡郷土文化』)、「酒井家覚書」【執筆者】金子勉(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★土居原法嶺
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡河原田光福専任職で北州または微笑子と号した。漢籍詩歌および書をよくした。明治七年に四十九才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★籐右衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★菪翁(とうおう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡金井町和泉本光寺門前に小庵を結んで俳諧を楽しみまた新穂、両津などを遍歴して大いに蕉風をひろ若。洒とたばこを愛した。俳友が米寿の賀筵を開いた。無鬼庵と号した。文化十五年(一八一八年)正月に九十九才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★道雅
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡小木小比叡山蓮華峰寺住僧で宿根木で生まれた。
僧道本に学んで書をよくしまた天保(-八三〇-四三年)年中、西川巧と共に葵園詩鈔を編した。(佐渡人名辞書)
★等覚院日等大徳 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★當岸良穏 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★東儀文隆
宮内庁の雅楽師。両津湊出身の俳人斎藤葵十の姉(トヨ)が宮内庁雅楽を伝える東儀文盛(ふみもり)に嫁ぎ、その子が東儀文隆(ふみたか)である。
(注)・東儀文盛:生歿:1902~1941(40)(明治35年~昭和16年4月7日)
実父:文礼(次男)、実子:文隆・文昭(他道)・文親、楽器:篳篥/?、勲位:従七位/勲八等。1914(大正3年)楽生、1921(大正10年)楽師
・東儀文隆:生歿:1927~2000(73)(昭和2年9月23日~平成12年12月20日)、実父:文盛、楽器:笛/ファゴット、1945(昭和20年)楽師、1974(昭和49年)、楽長補、1987(昭和62年)楽長、1992(平成4年)退官
※〔神楽〕桃豊舞(ももとよまい)
真清田神社独自の神楽舞。
「ますみ田の 神のやしろのとことはに いやさかゆくを いのりつづけむ」
神宮祭主北白川房子さまより真清田に贈られた御歌に元宮内庁楽部首席楽長東儀文隆先生が作曲、元宮内庁楽部楽長薗廣晴先生が作舞したもので
真清田神社の降昌を祈る舞として、祭典・結婚式などおめでたい機会にご神前で奉奏されるものだそうです。
※「東儀秀樹」は親戚筋と思われる
東京京都出身。奈良時代から続く楽家(がくけ)の家系に生まれる。商社マンだった父親の仕事の関係で、幼年期をタイ、メキシコで過ごす。成蹊高等学校卒業後に國學院大學の文学部二部神道学科で学ぶかたわら、宮内庁式部職楽部の楽生科で雅楽を学ぶ。1986年から10年間、楽師として活躍する。宮内庁の楽師として活動する一方で、1996年にアルバム『東儀秀樹』でデビューする。雅楽器とピアノやシンセサイザーといった現代楽器の珍しいコラボレートで話題となった。同年に宮内庁を退職し、フリーランスでの活動をスタートさせる。元々雅楽の世界に入る前は、海外での生活で耳にした洋楽のロックやポップスやジャズなど影響を受け、学生時代は友達とロックバンドを組み、本人はエレキギターを担当した。高校を卒業したらプロのギタリストでやっていきたいと本気で思っていたが、母の東儀九十九(とうぎ つくも)から「どうせ音楽の世界に入るのなら、東儀家の血を引くものとして雅楽をやってみてはどうか」と勧められて宮内庁に入庁した。
★統慶
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
永享一二(一四四〇)佐渡に配流。松光院法印秀慶の子。弟の僚慶を殺害した罪。室町時代佐渡最後の配流者か。(『北野天満宮史料・古記録』)
★同契如参
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★東後壮治
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★冬広
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国夷(両津市)の鍛冶。鎗をきたえ、佐州住蒲原冬広と記した。享保五年(一七二二年)佐渡奉行所に差出した。田舎細工には相応なりといえども未だ用をなすべき所に至らざる故、丹誠をこらし鍛錬なすべき旨を申付けられた。(佐渡年代記上巻)
★道公全成→道公全成(みちのきみまたなり)
★東郷平八郎
本荘了寛の訪問を受け、佐渡を訪ねて、明治紀念堂に揮毫をおくる。
「生きたお経をよんだ了寛」(「佐渡の百年」)
「大正の皇太子御来島」(「佐渡の百年」)
★道斎豊洲 正法寺・洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★道受
『両津町史』(昭和44年刊)
本願寺顕如は天正元年(一五七三)出羽国浜松浄願寺門徒の道受の求めに応じて方便法身絵像を与えた。この頃、顕如は織田信長との間に石山戦争をたたかっていたから、各地の本願寺門徒はいつ果てるともわからない長期戦にそなえて、その勢力圏の拡大につとめていた。湊町勝広寺縁起にはおおよそ次のように述べている。湊町の多郎兵衛、安藤儀左衛門、星野左衛門、野口文七、鈴木孫左衛門、鈴木源七、六人の者が佐渡に行き、一生商売をして暮したいと願い出たので、阿弥陀如来の絵像を下げてもらい、此の浦に着船し、湊に道場をかまえたこと。そののち、沢根の鶴子山が繁昌して六人の者が沢根に移りたいと願ったので鶴子に移ったこと、またそののち、上新穂の八王子の銀山に移ったが、そのとき上杉景勝の渡海にあって(天正十六年)越後蒲原の郡矢彦の真木の照光寺におくりものとなったことなどである。道受がこの国に渡海した年号はわからないが、恐らくは天正二年のことではないかと考えられる。湊に道場を構えたというのは、そこを拠点として商業活動をおこなったからである。出羽からやってくる商品は米、木材であるが、木材は分割が困難であるから、銀山に近い沢根に陸揚げされたであろう。湊には出羽米があがったと一応考えておきたい。彼らの道場は港の近くに置かれたに違いない。そこで今道場の場所を原黒村絵図にもとめてみた。
★道昭(どうしょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
沙弥道昭。興国六年(一三四五年)七月七日、道昭は譲状を書いて佐渡国竹井保(加茂郡新穂村)を本間源八郎の子に譲った。(越佐史料巻ニ)
★道水太子碑
大和田

★藤助(とうすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国鷲崎村(両津市)の人である。孝心奇特の趣相聞に付、文政八年(一八二五年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★堂谷作二
『両津市要覧(昭和33年)』より

※長男は堂谷亨氏で、若い頃はバスケット選手でならした。仲間に後市議になった加賀博昭、シーサイドホテルの石川高市?、白陵クラブ会長木村梧平各氏がいる。
★堂谷作太郎
『加茂村誌』(昭和38年)

明治40年、白炭改良製炭法導入。大正8年、「白炭製法の道しるべ」を刊行した。
★桃中軒東雲大夫
稲鯨で一門を抱えて居た。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★藤堂藍
沢根出身のタップダンサー。旧姓矢島、沢根小➡佐和田中➡佐渡高校➡日本女子体育大学舞踊学専攻



★道範
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
建暦二(1212)佐渡に配流。理由不明。(『百錬抄』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
建暦二年(一二一二年)五月二十三日に佐渡流された。その理由は不明である。(新潟県史)
★道本(虎渓)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


佐渡小木小比叡山遊撃峯寺の住僧。名は憲寿、字は虎渓、有楽々庵安忽子、不可得の号があり最も書をよくした。後に江戸浅草蔵前大護院の住職となり権僧正となった。安政四年(一八五七年)七月に十才でなくなった。(佐渡人名辞書)
※渡辺注:「十才でなくなった。」→「九十一歳でなくなった」
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)道本 48 連載 閑々亭雑記 (7) 書家・蓮華峰寺住職道本和尚 山本修之助
「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)
★道明和尚
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川総源寺十一世の住職、字は仏冠、信州の人である。
はじめ羽茂大蓮寺に住んだ。文章をよくし道徳堅固の禅僧であった。ある武士が因果応報ありやとの問に対して、庭上の竹を斬らせ応報のある理を説き、また守遊が交を求めた時「瓜つるに茄子はならず人は人牛は牛づれ馬は馬づれ」と書きおくり取合わなかったという。宝暦十二年(一七六二年)四月に六十四才でなくなった。(佐渡人名辞蕃)
★遠矢駿一郎
「島の新聞」索引(人名別)
★銅谷白洋
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より

大正の未年から全国的に流行した「佐渡おけさ」について、いちはやく竹人形の製作者があらわれた。これは、佐渡人でなく、新潟市の銅谷白洋という人であつた。箱には「佐渡おけさ情緒人形」とあつて、大小さまざまあつた。いま筆者の所蔵しているの高さ十三cmある。大きな竹を横に切って、丸みのあるところを胴体にし、両袖もこの竹の丸味をつけて、風になびいた枚にしている。背にも丸い竹をつけて帯とし、煤竹の台座の上にのせてある。着物は紫色と紅色を塗り、金で波の模様を描いてある。菅笠は黄色で顔とともに、これは木製である。「情緒人形」と銘うつてあるだけに、おけさ踊りを、ロマンツチクに表現してある。意匠登録をとっているだけに、竹の丸みを利用してあるのはよいが、側面からだけのもので、ものたりなく、ことに顔や笠が、うすい板になつているので立体感が出ていない。これに影響されてか、佐渡でも、竹にエナメルを塗った「おけさ人形」があらわれた。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★銅屋彦右衛門
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
中川奉行は江戸より幕府お抱えの鉄砲師国友松五郎、越後柏崎より鋳物師原伝十郎(のちの本間琢斉)
はか二人を招き、地元の田中村(佐和田町沢根)銅屋彦右衛門を用いて、弘化四年八月より大砲鋳造に着手した。沢根町斎藤リツ氏所蔵の「大筒御鉄砲鋳立中御役人様御見廻り月日覚留帳」は、役人たちの宿泊を勤めた祖先斎藤作兵衛の日記で、鋳造開始から完成、試射までの状況を記している。
これによると、鋳造工場は鶴子銀山の床屋(精錬所)あとで、地字は「金屋」である。現在の大字鶴子の部落の北のはずれにあたり、付近一帯からは今でも鉱滓を採取することができる。
★桐林俊鳳 洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★道遊茶屋
「佐渡名勝史」(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)

★富樫栄吉
三味線の名手で大正10年第2回日本民謡大会に後藤桃水の勧めで石野琢磨(唄)と参加する。この時に初めて「佐渡おけさ」名称が使用された。両津甚句保存会、草創期の鴨湖会の会員と思われる。昭和22年の両津大火後、夷2丁目で旅館「一休館」を経営する一方で興業社を営んだ。
「島の新聞」

★富樫俊子
「島の新聞」索引(人名別)
★富樫久子
両津高校時代の1973年度(S48)5月、第28回新潟県展奨励賞 洋画
★富樫賢雄
『両津市要覧(昭和33年)』より

★富樫利作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、小作労働組合の會合[十三年二月七日]
★富樫利八
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村 ・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]
★渡嘉敷彩子
「島の新聞」索引(人名別)
★渡嘉敷有
「島の新聞」索引(人名別)
★戸川籐五郎
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★戸川美久

★朱鷺さなえ→新屋さなえ
★土岐藤左工門
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂村に荷車が現われたのは明治三十三年で、北方の土岐藤左工門外一名が共同出資で荷車一台を購入し、自家用のかたわら一日十銭の損料で貸したので、相当繁昌したものであると言われている。
★時岡二郎
加州銀行重役、陶芸研究家。著書『佐渡の須恵器』(1953年刊)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p401
★時岡春台(ときおかしゅんたい)
【生没】一八三九ー一九二○ 天保十年二月二十九日に生まれる。佐倉の順天堂で佐藤尚中に西洋医学を学び、明治六年(一八七三)十一月、鉱山寮佐渡支庁主任津田弘道に招かれて来島し、鉱山の医官となった。その後医業に専念して、相川町二町目浜町の私邸に時岡病院を開業した。明治十六年に県営病院が河原田に移転すると、同二十年に病院の前に佐渡鉱山付属の病院を建設して鉱山付属医を兼ね、同三十六年に鉱山病院が出来るまで、鉱山で働く人々の怪我や病気の治療にも当たった。大正九年二月十六日に没した。
【関連】津田弘道(つだひろみち)・鉱山病院(こうざんびょういん) 【参考文献】蒲原宏『新潟県医学史覚書』、石田寛「明治初期佐渡鉱山の改革と津田弘道」(『越後佐渡の史的構造』)、「新潟新聞」 【執筆者】石瀬佳弘
『田中圭一講演集(第六集)「長谷川元了と竹中成憲』より
十八世紀から幕末にかけて佐渡からどういう医者が、、どういう所に勉強に行っているのか、少し紹介しておきます・・・・・。華岡流外科に佐渡で最初に行ったのは猪坂尚逸(相川町)、その後中山顕民(川原田町)大平昌清(しょうせい)(相川町)、山本桂(新町、有田八郎の実父)、菊池東純(小倉村)、小倉村には何人もおります。京都伏見の蘭学者小石元俊-杉田玄白や大槻玄沢などと交流があつた-の所へは、鞍立章平(川原田町)、藤沢明卿(湊町)、田中参二郎(相川町)が行っております。また、シーボルト事件(文政十一年、一八二八)で投獄された土生玄碩という眼医者-土生眼科は元は漢方系、シーボルトを通じて西洋医学を取入れた-のところへは時岡亮朔(相川町)、葛西周禎(羽茂本郷村)、北君養(湊町)などがおります。幕末の頃、佐藤尚中(下総佐倉、順天堂の祖)という蘭学者のところへは、近藤玄洋(川原田町)、時岡春台(相川町)です。そして小石川施療所、ご存知「赤ひげ先生」こと桂川甫周のところへ佐藤元沢(潟上村)、鈴木良順(夷町)など。こうざっと見ても、佐渡では十指に余る医者が蘭学で育っております。このように、十八世紀から幕末の頃まで、佐渡から数多くの青年が江戸や京都や長崎を主として他国に医学修行にでかけております。その多くは蘭学者の門をたたいていることが注目されます。
★時岡孝行
「躍進日本」

★時岡本立(ときおかほんりゅう)
【生没】(生年不詳)ー一七七○ 相川の陣屋付医師。俗名を又太郎と称し、三町目の医師五十嵐伯の長男に生まれた。一七歳のとき、同じ三町目の医師時岡是春が没したため養子として入り、時岡家の六代目を継いだ。母が時岡家の出で、亮伯に嫁いでいて濃い親戚であった。時岡家を継いだ年に、弥次右衛門と名乗っている。一六歳で京都に遊学し、眼科の原田尚現に師事した。二年で帰郷し、本立と名乗った。時岡家は、初代を弥右衛門といい、若州(福井)高嶋の人とされ、元和年間(一六一五ー二三)に、大坂の陣を避けて相川へ渡り、江戸沢町の大安寺門前に住みついたという。代々医者で、時岡家から分家した人に医師、時岡亮庵がいた。時岡一族では出色の儒医で、明和(一七六四ー七一)のころ町内で私塾を開いていて、安永三年(一七七四)から奉行所の書院で、奉行や諸役人に毎月経書の講義をした。寛政元年(一七八九)には、経書素読の師範もしたことが『佐渡国誌』に見えている。奉行所の出入医師でもあった。本立は明和七年五月十五日に没し、大安寺に葬られた。法名は「専照院静誉寂雲本立」。腹ちがいの妹に「おみね」がいて、大間町の橘屋に嫁ぐ。のちに出雲崎橘屋に嫁入りして、良寛を身ごもる「おのぶ」の母がこの人である。時岡家の末裔には陶磁研究家、時岡三郎がいて、佐渡の無名異焼の研究などに業蹟を残した。
【関連】五十嵐亮伯(いがらしりょうはく)・良寛の母おのぶ(りょうかんのははおのぶ) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 155 良寛の祖母の兄、時岡本立について 山本修巳
★時岡弥右衛門
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
先祖は元和年中大阪より佐渡へ来たと云われ、相川大安寺前で商売をしていた。何をあきなっていたかは明らかでないが、かなりの財力があったようで貞享二年頃から、後山村の土地を買い求めている。元禄検地帳では、字西こうやに二筆の屋敷と三町五反二畝七歩の田畑を所有している。また、相川とことわり書きの無い弥右衛門が、字かたまたに屋敷を三畝〇五歩、田畑を三町四反歩余を持っているがこれも相川の弥右衛門と同一人と考えると、これを合計すると約七町歩の田畑となる。後山には現在でも時岡姓を名のる者がおり、おそらく、この者が時岡の手代としてこの田地を管理していたのであろう。後山村羽二生徳左衛門家には時岡弥右衛門家の質地証文や、その他の古文書が残り、弥右衛門家との特別な関係がうかがわれる。それによると宝暦年代、相川町の医者五十嵐亮伯の子木立が時岡家へ養子に入った。そのため徳左衛門、古屋重畳の主、右仲がそれぞれ従弟関係ということになっている。宝暦五年、御食神社の建立願状を名主勘右衛門、百姓代徳左衛門、社人将監(信仰篇参照)たちが名を連らねているが、社人将監とは右仲のことで、また勘右衛門は古屋重屋から助左衛門家へ養子に入り、後で助左衛門を名のる人であり、百姓代の徳左衛門は将監と従弟の関係で、一宮神社の氏子でほどんなに財力があっても、新参者では頭が上らないことが、いまいましかったに違いない。この右仲を中心とした人脈で、後山村に御食神社を創立するのであるが、財力と奉行所役人とつながりのあるこの者たちにとって、さして、困難なことではなかっただろう。この神社が村人に認められるようになるのが、九社神詣が流行する江戸後期のことで、時岡家が地所を少しつつ手離して行くのが、本立代(宝暦)からである。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
相川から後山村の元禄検地帳によると、相川弥右衛門という名の者が、字西こうやに二反一畝二十八歩と七畝歩の二枚の屋敷をもち、三町二反三畝七歩の良田と、二反九畝歩の上畑を持っていた。弥右衛門の西こうやの屋敷は、現古屋茂平次家のところである。弥右衛門は後山村のほかに、三宮村にも五町一反四畝二十四歩の土地をもつ町人地主であった。時岡家の系図にょると、先祖は若狭の国高嶋の出で、大阪の陣を避けて佐渡にわたり、相川大安寺の門前町に住んだとある。三代目から弥右衛門を名乗り以後この名が用いられた。四代目の娘清女が、相川の医師で良寛の母おのぶの実父でもある五十嵐亮伯家に嫁したのを機に、時岡家と五十嵐家の密接な関係ができ、男子がいずれも早逝したため、五代目に五十嵐了春の子、安之助を迎えて、弥右衛門家を襲名させたのをはじめ、両家問の子息子女のやりとりは何度も行われてきた。六代目の木立も五十嵐家の生れで、この代から眼科医となり、以下代々眼科医がつづいた。十代目の亮朔は、後山村羽二生助左衛門の末子、豊松である。六代目の本立の従兄弟右中が、オモヤの六郎兵衛を継いだいきさつは前項で述べたとおりである。
★時岡亮庵
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人。長崎に出て医を学びかねて製陶の術をおさめ帰郷して子弟に教えた。寛政元年(-七八九年)奉行の命により町会所において大平家泉とともに州吏の子弟その他に経書を講じた。文化元年(一八〇四年)八月になくなった。(佐渡人名辞書)
★時岡亮朔
『田中圭一講演集(第六集)「長谷川元了と竹中成憲』より
十八世紀から幕末にかけて佐渡からどういう医者が、、どういう所に勉強に行っているのか、少し紹介しておきます・・・・・。華岡流外科に佐渡で最初に行ったのは猪坂尚逸(相川町)、その後中山顕民(川原田町)大平昌清(しょうせい)(相川町)、山本桂(新町、有田八郎の実父)、菊池東純(小倉村)、小倉で、佐渡から数多くの青年が江戸や京都や長崎を主として他国に医学修行にでかけております。その多くは蘭学者の門をたたいていることが注目されます。
★刀岐直雄貞
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
暦請益従六位下 承和六(八三九)佐渡に配流。遣唐船に乗船させられることを知り、伴宿祢有仁(遣唐知乗船事従七位上)・佐伯直安通(暦留学生少初位下)・志斐連永世(天文留学生少初任下)と)共謀して逃走し、捕まり死一等を減じて佐渡へ。伴宿祢有仁と刀岐直雄貞は承和七年二月一六日赦免。(『続日本後紀』)
★常磐ノ一(ときわのいち 伊藤常磐ノ一)
【生没】一八四一ー一九○八 文弥節の語り手で、盲人の伊藤常磐ノ一(常磐ノ一とも)は、天保十二年沢根の甚平家に生まれた。春可という名であったが、文久三年(一八六三)の春、二二歳で常磐ノ一に改めた。幕政下の盲人には、保護策として「当道」という官位があって、その年に過銭の盲官を、のちには京都にのぼって中老の官を授けられた。これはかなりの高位で、島内を歩くときはカゴを用い、五尺一寸の撞木杖を許されたという。文弥の師匠は、はじめ畑野の福田若ノ一に、のち竹田の遠藤駿河ノ一についた。美声で三味線もすぐれていた。明治三年(一八七○)に、羽茂大崎生まれでのち小木町に住んでいた、説経人形の遣い手大崎屋松之助と提携して、文弥人形の座を組んだ。人形座には太夫の常磐ノ一と、遣い手は大崎屋のほかに弟の「ためさん屋」、羽茂の村川九一郎出の「ひできみ屋」などがいた。それまでの人形遣いは、説経節の語りで遣っていたが、ここで初めて文弥節と人形とが組み合され、いまの人形芝居の主流の形が成立したのである。この人形座の初期の舞台は、説経人形と同じ高幕形式であったが、大崎屋はやがて御殿人形を考え出し、それ以後文弥人形といえば、この形式に固定された。この意味で、常磐ノ一と大崎屋は、新しい文弥人形芝居の元祖というべきである。
【参考文献】佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡佐和田町沢根の人で、明治のはじめの高名な文楽語りである。これまで文弥人形は説教節を地としていたが、常盤一は、小木町の人形つかいの名手大崎屋松之助と提携して、文弥節を地とする今のようなものとした。(概観佐渡)
「佐渡の百年」より
佐和田町沢根、伊藤甚兵衛家に生れ、幼児期に両眼を失ひ、真野竹田の遠藤駿河ノ一について分や節を習得。小木町の大崎座で松之助とコンビを組んだ。明治38年旧3月16日、67歳で没。
(『羽茂村誌』1956年刊より)
松之助は遣い手としても名人で、別けても女ものを得意としたと伝えられる。松之助一座の語り手(以下太夫という)は沢根町の常盤の一(常盤一)で、遣い手は当人の外に小木町秀君屋(羽茂村岡田村川九一郎家出身)と、同町為三屋(松之助弟)であったという。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
人形芝居関係者。人形芝居の系統をたどると、最初は駿河一-阿波一-金子善次郎、後の師匠は駿河一-常盤一-静賀と、元はどちらも駿河一に結ばれることになる。師匠運がよかったといえよう。
→「金子善次郎」参照
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎屋松之助とともに、文弥人形の創始者である文弥節の太夫伊藤常盤ノ一は、佐和田町沢根の通称畳屋甚兵衛家に生れた。子供のころ両眼を失って盲人になった。天保十年生れで、二十五歳(文久三年)の時、過銭という盲官をとって、それまで春可といったが、初めて常盤ノーと名乗った。さらに翌々年(慶応元年)に昇格したといわれる。文弥節は、初め畑野町宮川の福田若ノー(また若狭ノーともいう、のち理勢ノ一と改めた。福生院という山伏の家に生れた)につき、のち真野町竹田遠藤駿河ノ一(通称忠左衛門)についた。語りや三味線も上手であったが、また美声であったから、たいへんな評判であったという。明治三十八年三月十六日、六十七歳で死んだ。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★篤助(とくすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川二丁目新浜町の人である。奇特之趣追々相聞に付、天保十五年(一八四四年)に役所より鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★徳田貞造
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★徳田美智子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)徳田美智子 67 日本最初の婦人牧師 高橋久野の生涯-佐和田町出身-
★得津馨
「島の新聞」索引(人名別)
★徳富蘇峰
右は金井大和田の故近藤福雄宅にある


徳富蘇峰書(檀風城跡)



柏倉一徳と熊本時代に交流があり、後年佐渡を訪ねて4日間滞在。『佐渡の百年』(山本修之助の「蘇峰と檀風城址」)に次のように載る。「ここで、はからずも五十年前の旧友に会った。元佐渡中学校校長の柏倉一徳で、柏倉は明治十三、四年ごろ、熊本師範学校の教諭をしていた。蘇峰が十八歳の時で、東京から郷里の熊本へ帰っていた時期であった。そのころ、「相親社」という会があり、ニ人とも会員であった。おたがいに討論をしたり、演説をしたり、雑誌を編集したりして気炎をあげていた。「今や両人頽然たる老翁となりて、半世紀を隔てて、相見るを得た。感何んぞ極らん」と書いている。又、関係してこんな資料もあり。「佐渡の歴史の中で、開明的な教育者として知られている柏倉一徳(かしわくら・いっとく 1859―1938)は「『熊本新聞』編集長村上定らと『相親社』を組織し徳富蘇峰を指導して民権運動・キリスト教布教活動を行った」(森幾「森知幾―その時、佐渡は、輝いていた」、東京学芸大学海外子女教育センター編「海外子女教育研究」第143号)。」(三村修の文書庫)
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「朝日日本歴史人物事典の解説」.
生年: 文久3.1.25 (1863.3.14)
没年: 昭和32.11.2 (1957)
明治大正昭和期の新聞記者,歴史家。肥後国葦北郡水俣郷(熊本県水俣市)の豪農徳富一敬と久子の長男に生まれる。本名は猪一郎。弟は徳冨蘆花。父と共に熊本に出て,漢学を学び,のちに熊本洋学校に入学。教師L.L.ジェーンズの感化によってキリスト教に入信,先輩と花岡山山頂で奉教を誓った(熊本バンド)。さらに同志社に学んだが,新島襄と衝突し,明治13(1880)年退学。故郷に帰り,自由民権運動に参加,15年私塾大江義塾を開き,自らの学習と教育に当たった。19年塾を閉鎖し上京,『将来之日本』を刊行,一躍新進評論家として注目を集める。20年,民友社を設立し,雑誌『国民之友』を創刊,青年層を中心に圧倒的支持を得た。この年には『新日本之青年』も出版し,文字通り「明治の青年」の指導者となった。23年には『国民新聞』を発刊し,「平民主義」を標榜する言論によってジャーナリズムをリードした。しかし,日清戦争(1894~95)前後から対外膨張を主張するようになり,30年の欧米巡覧によって決定的となった。44年貴族院勅選議員。明治後半から大正初期は藩閥,特に桂太郎と密接に提携した言論活動を展開し,彼の国民新聞社は2度にわたって民衆に焼き打ちされた。桂死後の大正中期以降は,社会の大衆化に危機感を深め,皇室中心主義による国民道徳を唱え,「近世日本国民史」を連載するなど言論界の一方の雄であった。昭和4(1929)年国民新聞社の経営難から退社を余儀なくされ,以後は大阪毎日新聞社の社賓となる。<著作>『蘇峰自伝』『明治文学全集34・徳富蘇峰集』<参考文献>杉井六郎『徳富蘇峰の研究』
(有山輝雄)
「ウィキペディア」より
『佐渡の百年』
「佐渡の百年」より
高名なジャーナリストで、若い頃、熊本において柏倉一徳と交友があった。昭和5年に来島。9月24日来島27日離島。中興植田旅館泊。
『田中圭一講演集(第四集)「北一輝と明治の佐渡』より
蘇峰に「平民主義」的影響を与えたのが、のちに佐渡出身者で初めて佐渡中学の第四代校長となった柏倉で、教職の初任校の熊本で赴任早々に同僚と「相親社」(相親愛という意)を組織して時事を論じあっているのですが、蘇峰は、この組織で柏倉と影響し合って、ともに民権運動やキリスト教の布教活動を行うのです。明治三十七年、柏倉は、本間雅晴などの生徒がいる佐渡中学に四十六歳のとき帰ってきて、四代校長に就任します。以降、非常に開放的な校長として尽くすのでありますが、「中学校内での社会主義の信奉を放任」した、いわゆる「平民新聞」購読事件で退官させられております。余談ですが、昭和五年、佐渡を訪れ柏倉に再会した蘇峰は、佐渡は自分の第二の故郷だ、と講演で述べております。
・「徳富蘇峰記念館」(神奈川県中郡二宮町)に 蘇峰宛て書簡 大正(2通) 計2通 葉書(2通) 直筆(2通)
「越佐往来」(佐渡関係分)東京日日新聞(昭和5年11月)















『読書と山水』(徳富猪一郎 著 昭和7年)
上記中の「越佐往来」p240-256 に佐渡記事あり
「蘇峰と檀風城址」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p373
★とくはつ
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約言五十人を数えている。
★常葉(とこは)金太郎→峯直貴
★土佐金次
「躍進日本」

★土佐金蔵
「加茂村誌」(昭和38年4月)

★土佐の三助






『小木町史』より
『むかし、土佐の国に永楽又兵衛という男がいました。その又兵衛は、三助という男の子まである妻と離婚し、後妻をもらいました。
ところが、この後寿が悪い女で、まま子の三助をいじめます。そして、ついに又兵衛をそそのかして、三助を佐渡に流すのです。
三助が佐渡へ流されることを聞いた実母は、たいへん悲しみ、こっそり三助にモミを三升持たせました。佐渡についた三助は、その後加賀から流されて沢崎にいたお菊という女とめぐりあい、夫婦にをりました。そして二人は、三助が持ってきたモミをまいて稲を作りました。これが佐渡で稲を作ったはじめです。』というのです。こうした伝説は、赤泊や松ケ崎にも同じものが伝わっています。このお菊は、白山の神、シラヤマキクリヒメのキクの名をとって付けたものらしいのです。古くから佐渡の島の人たちの心の奥に潜んでいた考え方が伝説とをって定着し、語り伝えられてきたものであろうと思います。たしかに、小木半島は佐渡文化のはじまりの地点であり、外からの文化が佐渡へ上陸してくるときには、小木の岬と二見の岬に最初の文化の花が開くはずだという考え方が古くからありました。
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
「佐渡名勝志」によると、「佐渡風土記中に、天智天皇の代(667-671)に、土佐国山方の永楽兵衛の子、三助なるものが、継母のざん言に遇って、当国に流され松が崎に着岸し、田を耕し、籾をまいた。同じ頃、能登の女がこの島に流され、沢崎(小木町)に着いて稲を作っていたがほどなく二人は夫婦になった。これが当国人の始めで、女の植えた稲を加賀早苗、男の稲を土佐三助と言い伝う」と記されている。
・和同年間、稲種を佐渡に伝える。
「島の新聞」索引(人名別)
★戸嶋清作
『両津市要覧(昭和33年)』より

★徒然→徒然(とねん)
★戸田和馬

★戸田寿作
真野合沢の人、佐渡中学6回生、シアトルの実業界で活躍する。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p381
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
→鈴木卓苗 「佐渡高等学校百年史」
★戸田主謄
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、天明元年(一七八一年)六月十五日、徒士頭より佐渡奉行となり、翌二年四月二十一日相川到着、四年三月十二日長崎奉行に転任して出雲守と改めた。
はじめの名は氏孟、知行五百石、役料千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)戸田主膳 27 我家に伝わる戸田主膳奉行の記録 山本修之助
★戸田貴夫
佐渡高校時代の平成4.5.31-6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)4×100mR(本間啓輔・志和正隆・戸田貴夫・高岡豊秀)6位
平成4.6.19~21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR出場
★戸田辰巳
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

★戸田藤左衛門(とだとうざえもん)
【生没】生・没年不詳 大久保長安の家老。「佐渡川上家文書」(両津市和木、川上二六氏蔵)に、しばしばその名前が出てくる。当時駿府にいて、長安の下代で佐渡に駐在していた岩下惣太夫から、鉱山の鉱况などが詳しくこの人に報告されている。また藤左衛門から、岩下への書状もふくまれていて、「長安が甲州へいって逗留し、機嫌がよろしい」ことなど、駿府における長安の動静を伝えている。「戸田藤左衛門所蔵文書写」(国立史料館所蔵の紀伊国古文書)を紹介した、大野瑞男氏の論考(「日本歴史」一九九○年一月号)によると、藤左衛門は慶長十一年(一六○六)五月ころ佐渡にいたらしく、長安から「佐渡国加茂郡」に、六百石の知行が与えられていた、という。長安は慶長九年(一六○四)四月と、五年後の同十三年の二月に来島しているが、藤左衛門の来島および知行は、佐渡史書にはいっさい見当らない。『甲斐国史』によれば、「大久保長安ノ家老ナリ。慶長十八丑年大久保ガ事ニ坐シテ禁獄セラル」とあって、長安の死後投獄されたものの、ゆるされて牢(浪)人になり、駿府・遠江を領した徳川頼宣(家康の十男)に仕え、元和五年(一六一九)の頼宣の転封で紀州(和歌山)に移り、知行千石(鉄砲衆)を与えられた。また『和歌山分限帳』によると、同領内の松城城代も勤めた。これより先、慶長十二ー十三年ごろ、伊豆縄地銀山をも管轄していたことがあると、大野氏が報告している。
【関連】川上家文書(かわかみけもんじょ) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★戸田正弥
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)戸田正弥 144 悼 戸田 正弥氏 山本修已
★戸田正之
1943年佐渡真野町に生まれる。1968年東大教養卒、 同年運輸省入省。
1995年東京航空局長、 1996年日本倉庫協会理事長、
2003年東芝・社会ネットワークインフラ社顧問。
2005年佐渡汽船社長に就任。

68年(昭43)東大教養卒、同年運輸省入省。95年東京航空局長、96年日本倉庫協会理事長、03年東芝・社会ネットワークインフラ社顧問。佐渡汽船社長(就任日=2005年7月21日)
2014-11-03
秋の叙勲で、元東京航空局長 戸田正之さん(前佐渡汽船㈱代表取締役社長)が瑞宝中綬章を受章しました。戸田さんは、佐渡市竹田(旧真野町竹田)出身で、現在も公益財団法人海上保安協会新潟地方本部の本部長をなさっており、健康体のご様子で毎日飛び回っているようです。この6月から首都圏佐渡連合会の総務委員会に所属し、郷土のため協力できれば と汗を流しています。また、首都圏真野人会の副会長でもあり、昨日の国分寺まつりに参加(毎年参加)、その後の役員会に出席下さいました。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)変わることを恐れない(佐渡汽船
★戸田道治
佐渡高校時代の昭和56.5.30-6.1、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)4×400mR(戸田・笠木・北見・菊池)3位
56.6.19-21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR(戸田・笠木・北見・菊池)5位
56.8.1~5、陸上競技全国高校総合体育大会(横浜市)4×400mR出場
57.5.29~31、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)800m3位
57.6.18~20、陸上競技北信越大会(金沢市)800m・4×100mR出場
58.5.29-31、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)800m5位
58.6.17~19、陸上競技北信越大会(富山市)800m出場
★戸田与左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、万延元年(一八六〇年)納戸頭より佐渡奉行となった。
知行百俵、役料千五百俵百人扶持である。文久二年七月五日御先手へ転役した。(佐島遺事)
★戸谷英三
「佐渡高等学校百年史」(佐々木義栄-大正10年~15年佐中在籍-の「僕の自画像」)
佐々木の回想にも出てくるが、当時在学していた者の多くが戸谷英三という教師を恩師として記憶している。卒業生たちの回想の断片をつなぎ合わせてみるだけでも、戸谷が非常に興味深い人物だったことがうかがえる。実際、彼は大正初年に佐渡中学を去った嶺直貫とならんで、生徒に対して学問的にも精神的にもたいへん大きな教育的感化を与えた教師の一人であったようだ。信州から赴任して釆た戸谷英三は大正十四年六月二十日付けで佐中の国語教師となった。明治二十五年生まれの戸谷はこのとき三三歳であった。役職は正教諭ではなく教諭心得だった。戸谷が生徒に多大な感銘を与えた理由は、人によって様々であるが、生徒は何よりもまず第一に、この教師のもつ清潔さと謙虚にものを語るその誠実さに魅力を感じたようである。丸刈りで、骨張った顔に分厚いメガネをかけて、ややうつむきかげんに歩くのが特徴の戸谷は、毎朝早くから登校し、授業時間になるとすぐに教室にやって釆た。戸谷の授業は実に丁寧で、格調の高いものであったという。特に、自分が好きだった芭蕉の「奥の細道」などの課にくると、古書の和歌を引用して三時間も四時間もかけて教えたという。また戸谷は良寛にも精通していた。戸谷は生徒たちにたいへん慕われていたにもかかわらず、わずか一年足らずで佐渡中学校を去っている。その理由については定かではないが、自殺を考えるほどの何かがあったらしい。昭和二年に卒業した本間唯一は戸谷の人物像、自殺未遂について次のように語っている。戸谷は本間の家に下宿していた。
「佐渡高等学校百年史」(戸谷先生のこと(抜粋) 第二十七回卒 本間唯一)
信州生まれの先生は御多分にもれず「アララギ」の心酔者であった。ちょうど先生は僕の家を下宿にしていたので、僕は先生から茂吉だの赤彦だのの作品を見せられ、その歌集や論集を読ませられた。先生はそれだけではたりず、三十一文字の実作をすすめた。学校では放課後、有志の生徒を集めて、「万葉集」の講釈をやってくれた。万葉集巻一の始めから、先生自らガリ版を切って、それをテキストに講義するのである。その努力は、たいしたものであったように思う。この万葉講義グループのなかから、数人の実作者があらわれ、先生の添削をうけるようになった。
その結果、「霜月三日」という回覧誌(これは一冊だけだったと思う)ができるところまでこぎつけた。先生は歌と同時に、書もよくした。毎日、学校から帰ると時間を限って、「秋はぎ帳」を手本に習字した。のちには、良寛にこってその字も習っていたようだが、とてもむつかしいといっていた。関東震災とそれに引きつづいて、大杉栄が殺され、有島武郎が情死した異常な空気は、僕たちの精神情況に何かしらの影響を与えないではおかなかった。芥川龍之介を死にまでおいやった大正末期の全期間を中学に育った僕たちは、その時代の重い空気にゆさぶられながら、教師としてよりも、もっと自由な広い考えをもっている人に話相手を求めた。そういう対象に先生はピッタリしていた。僕たちの仲間は、夜おそくまで先生の部屋にお邪魔した。当時僕たちが求めていたもの全てをそこで解決できたとはいえないが、しかし楽しかった。僕たちは先生をヒューマニストと呼んでいた。その先生が、ある日、自殺未遂をした。秋のことであった。夜、外出から帰って釆た僕に、スグ来てくれというので、先生の部屋に行って見た。するとランプの芯を細くして暗くした部屋の中に、先生は結跏趺坐の形ですわっていた。来意を告げると、先生は「君これを見てくれ給へ」と頸すじを指さした。頸はホウタイで巻いてあったが、それをとくと一すじのミミズばれが目にはいった。「紐が切れてネ…‥」と先生はいう。その日先生は沢根口から青野峠に上って、真野湾を見下ろせるところを死場所にえらんだという。 しかし辛か不幸か紐が切れた。とたんに足もとから野兎が一匹飛び出して、それこそ脱兎の如く逃げたという。生きることの尊厳さをこのときほど痛切に感じたことはないと先生はいった。この自殺にいたる原因については先生は何もいわなかったし、僕もあえて聞こうとも思わなかった。ヒューマニストの限界というようなことがチラと僕の頭にひらめいたくらいである。(後年、僕は、『兄貴と田虫』という小説にこのことを書いて、大学の雑誌に発表した。)それからほどなく、僕は中学四年から京都の大学に行くようになり、先生と別れたのであったが、先生は教師をやめられ永平寺へ行って修行したといっていた。
われのみとな思いそもいそ悲しみの なき人などか世にあらめやも
という一首と、「君、どんな苦しいことがあっても、永平寺のどこかに、ゾウキン掛けしている僕のいることを思って辛抱してくれ」という言葉が先生の僕へのはなむけであった。その翌年、先生は中学を辞めて、赴任したときと同じように沢根港から直江津に向かったと、僕の友人から通信があったが、果たして先生の希望通り永平寺へ行ったものかどうか、その後の消息を知らない……。(『獅子ケ城』創立六十周年記念特集号)
戸谷は大正十五年五月三十一日付けで佐渡中学校を退職した。彼が沢根捲から船に乗って離島する時、たくさんの生徒が見送りに出て涙したという。校内における厳しい生活規律の中で、純粋で謙虚な人柄をもって生徒に接した戸谷英三の存在は、教わる者にとってかけがえのない心の救いであった。昭和三年に卒業し、のちに母校で教鞍をとった池田源一郎も戸谷に深い感銘を受けた一人である。池田は『佐渡高等学校八十年史』に寄稿した「わたしの思い出」の中で当時の様子を次のように振り返っている。二年の一学期だったと思う。戸谷英三という若い国語の教師が小学校から来た。丸刈りで、骨ばった四角な顔の眼鏡の奥に敬虔な眼がのぞいていた。黒い詰襟の洋服を着ていつも前かがみに歩いていた。やや貧相な外見ではあったが、実に良心的な教師で、非常に授業熱心であった。「大口の真神の原に降る雪はいたくな降りや家もあらなくに」と万葉の歌を歯切れのよい徹る声で噛みしめるように読んだ声が今だに鮮やかに耳に残る。在職期間はわずか数ヶ月だったと思うが、先生ほど若い私達の心をとらえ、深い感動(漠然としたものではあったが)を与えた方はなかったと思う。私事になって恐縮だが、来る早々「獅子ケ城の春」という作文を書かされた。思いがけなく私の文章を激賞してくれ、クラスで発表し、挿入の下手な俳句などにも批評を加えられて、よしそれならもっと大物をと意気込んでみたが、先生が間もなく去るようになってその気をなくした思い出がある。良寛に私淑していて、字もうまく、先生がどういう事情でほんの暫くしかいられなかったか私達にはよくわからなかったが、教員免許状のこともあったらしい。ある日突然実生自分の過去の恋愛を告白され、「自分は壇に立つような立場にないのだ。これから信州へ行って寺に入るつもりだ」といわれた。控所での別れの挨拶は「親は子のために隠し、子は親のために隠す」ということについて何か学校の複雑な事情を暗示するようなお話で、小さな胸には何のことやら真意が掴めなかったが、ただ先生が去られるということだけで悲しく、上級の猛者がワァワァ泣き出してしまった。沢根から船に乗って離島されたが諏訪町のはずれに整列して送ったあと、有志の生徒が船場まで送って行き、ボート部の生徒は船まで追って別れを惜んだ。汽笛が消えて静かな日暮の海に一筋残った白い航跡を見やりながら淋しい思いで帰ったことを思い出す。先生はその後永平寺に入られたとか開いた。何ということはないのだが、先生の生き方がまことに真剣で、自らに厳しく、その一挙手一投足が多感な私達の胸を揺さぶって人生の厳粛さを感じさせてくれたのだと思う。戸谷英三のその後については、当時だれも知る者がなかった。ところが、戸谷が佐渡を去ってから四〇年後の昭和四十年秋、ガリ版刷りの二冊の本が本校に送られて来た。「信陽沙門 愚鈍英三遺稿」(前編・後編)と題するこの二冊の本は、長野児篠ノ井市の風間元によって世に出された戸谷英三の遺稿集であった。それによると、戸谷英三は大正十五年五月三十一日に佐渡中学校を去るとすぐ、同年六月二日に長野県松代町長国寺住職青山物外に師事して出家した。修業を重ねた後、昭和七年十月に戸谷は松代町梅翁院住職となった。彼は昭和九年には若手県の正法寺監寺にもなり梅翁院との間を往復していたが、昭和十四年一月二十四日急性肺炎のため正法寺で亡くなっている。なお、遺稿集には戸谷が佐渡での一年を振り返って記した覚え書きがあり、佐渡で「長く続かなかった原因」は、「1実力不足 2余技熱中 3胆力の不足 4アムール」だと書いてある。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p419・420
★栃倉範子
佐渡高校時代の平成4,高校囲碁選手権県大会女子団体戦1位(栃倉範子・光村美紀・信田早苗)、女子個人戦1位、高校囲碁選手権全国大会女子団体戦(栃倉・光村・信田)7位入賞、女子個人戦2回戦敗退
★ドナルド・キーン


『佐渡ぶんや紀行』(紀行25枚 日本細見 昭和55・中央公論社)
佐渡を再訪して文弥人形を見、山本修之助と談笑し、能を見物し、長谷寺・蓮華峰寺などの静かな寺院を見て回った印象記。中矢一義訳。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
佐渡高校百周年に記念講演をしている。その他「ろうそく能」等しばしば来島する。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)ドナルド・キーン 150 ドナルド・キーン先生を悼む 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
★刀根仁兵衛(とねにへえ)
【生没】(生年不詳)ー一六一○ 相川町南郊の府外、海士町の海士稼ぎの差配人として磯西茂左衛門と共に、近世のはじめより居住。『相川砂子』によると「慶長のころ、石見・出雲から当国へ渡り、はじめは一丁目辺に居住しており、元和の頃、海士町へ移る」とある。また『佐渡四民風俗』には、「慶長九辰年大坂より召連れ来り、追々海士稼取立て、串貝等仕立、他国売買致す」とある。相川への来住は、魚貝類の需要の増大に対応した政策的移動であった。『延喜式』三二巻にも佐渡鰒が記されてあり、近世以前にも海士漁があった。幕府や大名の贈答習俗に「佐渡のし」が用いられた。海士は御船手役により、大坂(一説に石見・出雲)よりつれてきたといわれ、御用船の水主衆とのつながりがあった。海士稼ぎの期間は、おもに夏より初秋までで、海中七尋より深いところの蚫を捕採することになっていた。幕末の記録(「地他国古書之写」)によると、刀根仁兵衛差配の海士は一五軒、海士一九人、磯西茂左衛門は一七軒、海士二九人を差配していた。あとには海士町居住の海士は海辺の方に移動し、『佐渡年代記』によると、文政十一年(一八二八)「海士の儀、磯遠の場所にては不便利であるから、下戸炭屋浜町の内、新海士町と唱え引移るよう申し渡した」という。慶長十五年歿、菩提寺は下戸町浄土宗立岩寺。
【関連】海士町(あままち)・磯西茂左衛門(いそにしもざえもん) 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★刀根良夫
佐渡高校時代の28.8.1~2、県高校水上競技大会(長岡市)、100m平泳2位・100m背泳2位、300mメドレー(刀根・大谷・塚本)1位、男子総合2位
28.9、水泳国民体育大会(高知県)、100m背泳出場
32.9.21~22、陸上競技県総合体育大会(新潟)1500m1位・5000m1位
<★利根川裕
『革命の使者北一輝』(評伝430枚 昭和42・人物往来社)
明治16年、佐渡に生まれた北一輝は「二・二六事件」の指導者といわれ、青年将校とともに刑死していった。しかし、明治憲法がもつ天皇神学への反発から出発した彼の思想は、必ずしも明噺ではなかった。だから、彼は事件の傍観者にすぎなかったといっても過言ではなかった。この事件に関する資料や著書、記録をもとに利根川裕が北を中心に据えて事件を再現し、その人間性を「二・二六事件」という歴史的事件を通して明らかにしている。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★利根山光人

<★徒然(とねん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

佐渡相川瑞仙寺住職。俳諧および狂歌をよくし判者を許され、硯向庵と号した。(佐渡人名辞書)
★堂上まさ志(どのうえまさし)




1947年11月23日 -漫画家。相川町上小川出身。本名は小杉義昭。相川中学ー相川高校卒。
高校の同級生斎藤正さん(北狄)によると、大変シャイな生徒で帰宅部、目立たなかった。しかし、絵はすごくうまく、女性などきれいな絵を描いていた。数学が際立って出来、その道の学者になってもよいくらいだった。若い頃会ったことがあり、漫画家をやってると言ってたが、その後有名な漫画家になっているとは全く知らなかった。自分と同級生だから昭和21年生まれか、22年の早生まれだと思う。
・経歴:1981年、『マルユウ親衛隊』が第16回週刊少年チャンピオン新人まんが賞最終選考候補作品となるが選外。1982年、『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)3月号に掲載された『でっかく大志』でデビュー[1]。
『プレイコミック』(秋田書店)に連載された代表作『銀玉マサやん』は単行本22巻に及ぶ長期間の連載となり、パチンコ漫画の先駆けとなった。また同作は実写映画・OV化もされた。その他、『銀玉命!銀次郎』も1990年代初期から現在まで『漫画パチンカー』(白夜書房)で連載を続けており、OV化も果たしている。
『銀玉命!銀次郎』の他にも、『漫画パチンコ大連勝』(日本文芸社)にて、『マサやんのオススメ銀玉道場』を連載中である。
・作品リスト: 燃えろ!一歩(週刊少年チャンピオン、秋田書店、全6巻)
ガッタレ!塁(月刊少年チャンピオン、秋田書店、全1巻)
信天翁一発!(プレイコミック、秋田書店)
男一発!あほう鳥(プレイコミック、秋田書店)
トラブル童児(コミックボンボン、講談社)
銀玉マサやん(プレイコミック、秋田書店、全22巻)
浪漫街(週刊漫画ゴラク、日本文芸社)
銀玉命!銀次郎(連載中、パチンカーワールド→漫画パチンカー、白夜書房→ガイドワークス)
マサやんの波理論(パチンコフィーバー、一水社)
マサやんのオススメ銀玉道場(連載中、漫画パチンコ大連勝、日本文芸社)
・脚注:1.^ a b c d e 『漫画家人名事典』p260 日外アソシエーツ
★外内幸吉
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 赤泊村赤泊、呉服商 ・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大2、佐渡郡会[九年十二月二十三日]・大3、政友本党の遊説[十三年十月二日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]
★外内周蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治四年生 赤泊村赤泊、廻船問屋、旅館業 ・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★戸内(とのうち?)常蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久二年生 澤根町澤根村 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、高等女学校[四十年三月二十日]・明4、佐渡水産学校[四十年三月二十日]
★殿内弥之吉
「ハワイ移民第一号」(「佐渡の百年」)
★外村義郎(とのむらよしろう)
「躍進日本」(中川杏果)より
キリスト教会の長老、東京四谷のスラム街をまわり、医者に行かれない病人に毎日手当てをしてやるので、キリストの生き神様と呼ばれた。僕は河原田のキリスト教会で先生から洗礼を授けてもらった。
その後よくお会いしたが、賀川豊彦氏と並び称せられた人だ。僕はこの先生の救えを受けてから牧師になろうと思い、新穂の白井慶吉という牧師のところへ相談に行ったら、白井先生は、牧師なんて普通の人のやれることでない。やめたまえと言われた。あの時僕は牧師をやっていたらナア……と、時々後悔する
★鳥羽十左衛門(備前守)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
下畑・安国寺に近い寺田部落の西端にあった寺田城主。鳥羽は上杉景勝の家臣で、上杉占領時代には寺社代官をつとめて、寺田郷内に住んでいたから寺田の殿様とほ呼ばれていたが、波多郷全域を対象としていたので寺田集落の中心を遠く離れた位置に居を構えたのであろう。しかし、この城が鳥羽時代になって新規に築いたものかどうかは即断できない。
★土肥一夫


昭和18年両津羽吉生れ、昭和37年両津高校卒。旧姓は坂脇。
東京都交通局に勤める。後、上野池之端で老舗の鰻割烹「伊豆榮」に婿入りし、社長となって事業を拡大する。
当店は宮内庁御用達。
都内に多くの支店を経営し、両津の「天の川荘」もその系列である。
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「某サイト」より
「伊豆榮の土肥一夫さんはたまに送迎用のマイクロバスの運転手をやりながら、お客さんのお話に目を凝らしているそうです。不満を持ったお客様は来なくなるだけで、そのメッセージはお店に届かないので、こうして情報を集め、それを素直に聞きいれ、かいりょうできることは努力するという繰り返しで暖簾を守っているそうです。」
伊豆栄は、江戸中期の創業で260年の歴史を誇るそうです。また、鰻好きとして有名な昭和天皇も当時侍従長だった入江相政さんが贔屓にしていたこともあり、召し上がったという話があります。よく宮内庁御用達などというお店は格式ばって勘違いしているお店もありますが、こちらは格式ばったところは全くありません。それどころかお客さんは国際色豊かでこの日も近くのテーブルには中国人と思われるグループやフランス語を話すカップルがいました。もちろん日本人にも愛されています。隣のテーブルの老夫婦が美味しそうに鰻を食べる姿は、自分も年をとったらこうありたいと思わせる微笑ましい姿でした。
お店のパンフレットによると和歌山に自前の備長炭の窯を持っていて、鰻を焼くのはもちろん、タレ作り、ご飯を炊くのにも備長炭を使用するといったこだわりです。
私のお気に入りはご飯です。見た目は炊き込みご飯のように満遍なくタレがしみ込んでいるご飯は、それだけで頂けます。鰻自体も美味しいのですが、天皇陛下から外国の方まで愛されているので、クセが無さ過ぎるのが物足りないところでしょうか?!
★都丸(とまる?)綱吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★富井富蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]
★冨井英雄

★富内正
※「佐渡ジャーナル」関係記事: ※「佐渡ジャーナル」関係記事:「39号」(平成26年10月)案山子とラケットー亜季と珠子の夏休みー(監督:井上春生 平祐奈・大友花恋出演)※富内正
★富川潤一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富川潤一
80 点鬼簿(2) 武田静澄氏、福田清人氏、富川潤一氏、笹井正氏 山本修巳
87 良寛と富川芸術 皆川喜代弘
147 山本半右衛門 山本家正面図 画家
★富川豊
県立佐渡女子高等学校13代目校長(昭和45.4.1~48.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★富小路敬直
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


「御落涙の明治天皇」(「佐渡の百年」)
★富崎五作
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川町下戸、佐渡新報社長 ・大1、渡部七十郎縣会議員を争はんとす[四年九月二十五日]・大2、北越、新聞記者大会[九年六月二十日]・大4、佐渡新報の発刊[十四年十一月十日]・昭2、佐渡毎日新聞[五年七月一日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭4、縣会補欠選挙[十二年六月十五日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★富田渓仙
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富田渓仙 54 連載 閑々亭雑記 (13) 富田渓仙画伯と佐渡 山本修之助
★冨田砕花
明治44年に来島した詩人。歌集「哀しき愛」(「蒼茫と野暮れ山暮れ海暮れぬかなしや佐渡は星あかりのみ」)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富田砕花 121 -私の愛唱歌- 流人の悲哀と青春の哀感 山本修巳
「惣之助と鬼太鼓」(「佐渡の百年」)
「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)
★冨田さとこ
「島の新聞」索引(人名別)
★富田新右衛門
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

「岩首校百年誌」(昭和55年)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永元年生 相川町羽田町 ・大1、第十七回縣會議員選挙[四年九月二十五日]
★富田真也
畑野長谷、長谷寺(ちょうこくじ)に生れる。父は畑野町長等を歴任した富田宝純でその長男である。
昭和28年佐渡高校卒・早稲田大学卒で埼玉県に入り、当時の埼玉県知事畑 和(はたやわら)氏の秘書課長として長く務め、土屋知事に代わってからも知事室教育部長として活躍、定年後も埼玉県埋蔵記念物財団の副理事長として活躍。
「高ぶらず」「偉ぶらず」「歌を詠み」「佐渡観光に情熱を注ぐ人」と言うのが友人評である。
現在、千葉県茂原市在住。
★冨田善吉
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★富田毅
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p392・393
→堀部国治 「佐渡高等学校百年史」(弁論部舌禍事件)
「島の新聞」索引(人名別)
★冨田朝彦(ともひこ)













朝彦の母が林儀作の娘。従って、林儀作は朝彦の母方の祖父。昭和期の日本の官僚。第3代宮内庁長官。冨田メモ知られる。 ※富田メモ:昭和天皇が第二次世界大戦のA級戦犯の靖国神社への合祀に強い不快感を示したとされる内容。
・『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)
→林儀作
「ウィキペディア」より
★富田寶元(宝元)
昭和15年12月15日 畑野町に生まれる 昭和34年 3月 佐渡高等学校卒業 昭和34年 4月 大正大学入学(住職取得) 平成 5 年 5月 長谷寺第53代住職就任 平成13 年 3月 新穂役場退職 平成21 年 4月 真言宗豊山派佐渡支所長就任
平成22 年 4月 「佐渡住みよい会」会長就任













畑野長谷出身、北豊山長谷寺の三男で当寺住職。昭和34年佐渡高校卒、38年大正大学卒。長く新穂役場に勤務後、家業の僧職を継いだ。豊山派佐渡地区の宗務長。牡丹で名高い当寺を、四季折々の花が咲く花の寺として奥様と一緒に寺を整美し、多くの参詣客を楽しませ、各種催事も開催している。又、「市民サロン」代表として市民の政治への参加を促す運動等を行っている。
奥様は昭和22年生、両津駒坂の長家より嫁ぐ。父は畑野町長等を歴任した富田宝純で、その三男である。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「65号」(令和3年4月)・ウサギ寺が思わぬ事態に
「島の新聞」索引(人名別)
★富田宝純

畑野町の長谷寺住職から畑野町町長となる。生れは東鵜島。
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★冨田ますお
「島の新聞」索引(人名別)
★富田美里
1986年11月4日-、本名:山崎 美里(旧姓・富田)は、日本の元シュートボクサー、女性キックボクサー。新潟県佐渡市[1]出身。・来歴:新潟明訓高校から専修大学に進学し「東洋伝拳法部」(キックボクシング部)に所属。その一方でキックボクシングジム山木ジムに「侍塾」に所属。のちに正式にシーザージムに入門、シュートボクサーとしてプロデビューする。2008年5月28日の後楽園ホール大会でAACCの坂本ひとみ相手にデビュー戦をし、判定勝ち。2戦目には、RENAと激戦を繰り広げ、終了のゴングと同時に首投げをきめるもノーカウントとなり、延長判定の末敗れる。3戦目となる同年9月12日、坂本の先輩にあたる藤井惠と対戦し、終始前に出る戦いぶりで2-0の判定勝ち。立ち技ルール初挑戦とはいえ女子総合格闘技の第一人者を倒したことで、富田は一躍注目を集めた。2009年2月11日、今度はDEEP女子ライト級王者のMIKUと対戦したが、MIKUの膝蹴りの前に1ラウンドKO負けを喫した。2009年8月23日、シュートボクシングの女子トーナメント「Girls S-cup 2009」に出場。1回戦で岡田円と対戦し、膝蹴りでKO負けしたのを最後に、しばらく試合から遠ざかる。2010年11月28日、ブラジリアン柔術の東京国際オープントーナメントに出場、女子白帯ペナ級とアブソルート級の二階級で優勝を飾る。その後は故郷の新潟に戻り、2012年からは新潟市で女性・子供向けの格闘技フィットネススクールのインストラクターとして活動。現在はRENATUS JIUJITSU ACADEMYに所属、紫帯を巻く。2014年に結婚し山崎に姓が変わる。
★富田ミツエ
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★富名哲也(+プロデュ―サー畠中美奈)


「ブルー・ウインド・ブローズ」試写会関係(令和3年12月5日)













h28年8月31日


「富名哲也がヴェネツィア国際映画祭の新人発掘プログラムに選出」(2018年9月3日)
現在開催中の第75回ヴェネツィア国際映画祭にて、富名哲也の「Where Were We?」がビエンナーレ・カレッジ・シネマの第1次選考を通過した。
ビエンナーレ・カレッジ・シネマは、世界中から新人映画監督を発掘し育成するためのプログラム。このたび国際プロジェクト9作品と、イタリアのプロジェクト3作品の計12作品が第1次選考を通過した。10月に行われるワークショップを経て、最終選考に残った3作品に15万ユーロ(約2000万円)が助成され、2019年の同映画祭での上映を目指す。
「Where Were We?」は新潟の佐渡島での撮影を予定。同じく佐渡島で撮影され、第68回ベルリン国際映画祭に正式招待された富名の初長編作品「Blue Wind Blows」は、2019年に公開予定だ。
★富永儀三郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


★冨永純子(旧姓:志田)

1962年8月9日生(59歳)、慶応病院を経て、八王子市議会議員(1期目)、公明党。石楠会32回生/商業科・看護師・看護、介護、福祉の推進で活躍。
・ホームページ Twitter(ツイッター):E-mail sumire0833@gmail.com
★富永備中
『小木町史』より
羽茂本間が滅びて後、小木城に入った人上杉氏の家臣富永備中でした。そして、富永氏がここに建てたのが海円寺です。富永氏の館は今の「久保の城」のところにつくられました。それまでの城は、海潮寺の下の元小木の上の台地、いま畑になっている所にありました。海円寺文書には、寺が城の「堀」を売却した記録がみられます。やがて慶長三年(1598)、上杉景勝は会津に移封されることになり富永氏もこの地を引きあげました。
★富永元治


『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
・大川津神神社の社標
津神神社の神橋を渡ると右側に社模が建っている。その寄附者に前川亀吉、富永元治と
ある。前川様は越後(寺泊の方と聞く)の人で夷築港の技師、富永様は土屋町長の二女が
嫁いだ方の義父にあたる方(築港技師)。前記富永千代様の話によれば、「夷築港建造のため、大川津神神社周辺の岩石を沢山頂いて夷へ運んだ。いかに取ってもいい石とはいい乍ら、神域の石を沢山頂いたことは誠に恐れ多いことであると云って、人一倍敬神の念厚き義父が前川さんと二人で津神神社に寄附したものである」と語ってくれた。
・心に残る富永さんの話
土屋町長は、体の具合が悪く休んでいても重要な会議があれば一言も云わず、単身出張した人であった。しかも出張旅費の殆どは自弁であったという。両津町長になる前にすでに佐渡銀行頭取、県会議員、電気会社を創立し、社長、佐渡商船(現佐渡汽船の前身)社長を殆ど自費出費で創設又は運営し、俵屋の豪財を惜し気もなく使ったのである。 大正五年七月、両津町長に当選、夷町と福浦の町並みを繋ぎ、俵屋の田地を悉く町を繋ぐために寄附し、当時の人は出来た町の名を「俵屋町」と呼んでいた。富永千代さんは、「折角俵屋町と呼んでいるものを『浜田一』と町名を呼んでいるが、せめて俵屋の名の一角でも残してほしい。」と話されたので、市橋市長に具申したけれど、市橋市長の返事は次のようなものであった。「即ち、浜田という地名はずっと昔から付いていた名前で、あの辺一帯が昔は浜であり、そして田地であったのでつけた名称だと聞いている。従って今、浜田一の僅かな部分だけ呼称変更するのは非常に困難だ。民間で「俵屋町」と呼ぶのには少しもこだわるものではない。」ということであった。右の事情は私が上京の際、富永さんを訪れて報告したのである。
★富の一
「加茂村誌」(昭和38年4月)


★富安風生
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富安風生 7 鑑賞 佐渡のうた (7) 石榑千亦(いしくれちまた)・本間七左衛門・富安風生 山本修巳
★富山治夫(とみやまはるお)




1935- 昭和後期-平成時代の写真家。昭和10年2月25日生まれ。独学で写真にとりくむ。「女性自身」誌の嘱託をへて,昭和38年朝日新聞出版写真部嘱託となり,「朝日ジャーナル」の「現代語感」の連載を分担。41年フリー。53年写真集「佐渡島」を,55年「京劇」を刊行する。53年講談社出版文化賞,55年日本写真協会年度賞。平成7年「近藤福雄写真集1917-1945―佐渡万華鏡」を総合編集。17年スポニチ文化芸術大賞優秀賞。東京出身。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)富山治夫 143 悼 富山治夫氏 山本修巳
★富の一
加茂羽黒の人、天和(1681-1684)の頃に文弥人形を佐渡へもたらしたと言われる。(寛政の頃、湊の天田左与ノ一と言う盲人が京都から伝習とも言われる。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
佐渡の文弥節は天和のころ両津市羽黒の富一が伝えたとか、寛政ころ両津市湊の天田佐与ノー(文化三年没)が伝えたとかいっているが、みな盲人の間に伝承されたもので、正確な史料はない。また、相川音頭に「文弥法師歌の中山」という一篇があり、佐々木義栄氏によると、その女主人公「おたの」という瞽女の名が、「伊藤家日記」の明和八年(1771)七月二十日の記事に見えるから、このころ文弥節は佐渡で語られていたものであろうといっている。とにかく、江戸時代の中ころ享保以前、元禄に近いころ佐渡へ伝来したものであろう。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★とめ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国相川五郎左衛門町の人である。とめは夫の死後よく姑に仕え、ひとりの働きによって子どもを養育したので、文化十三年(一八一六年)役所から姑存命中、手当を与えられることとなった。(佐渡年代記中巻)
★とめ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川一丁日裏町の人である。元主人へ忠信を尽くしたので、文化十三年(一八一六年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★とめ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国郷宿万屋嘉十郎の祖母である。孝心奇特の趣相聞につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★とめ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川濁川町源助の娘である。相川三丁目浜町に嫁し、老養父善太郎によく仕えたので、文化十一年(一八一四年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★とも
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国松ケ崎(畑野町)の惣百姓である。風義よろしき趣につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)
★伴善男(とものよしお)
伴善男(とものよしお)「新撰佐渡人名辞典」資料(山本修之助 )



「ウィキペディア」より
弘仁2年(811年) - 貞観10年(868年))は、平安時代前期の貴族。参議・伴国道の五男。官位は正三位・大納言。伴大納言と呼ばれた。
・経歴
弘仁2年(811年)、伴国道の五男として誕生。生誕地については父・国道の佐渡国配流中に生まれたとされるが、京で出生したとする説[1]、あるいは元来は佐渡の郡司の従者で後に伴氏の養子になったという説[2]がある。なお、大伴氏は弘仁14年(823年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、避諱のために伴氏と改姓している。
天長7年(830年)に校書殿の官人になり、仁明天皇の知遇を受け次第に重用されるようになる。承和8年(841年)大内記、承和9年(842年)六位蔵人・式部大丞を経て、承和10年(843年)従五位下・讃岐権守・右少弁に叙任された。
承和13年(846年)、善愷訴訟事件で法理を争い、左大弁・正躬王を始め同僚の5人の弁官全員を失脚させる。また、かつて大伴家持が所有し藤原種継暗殺事件の関与によって没収され、大学寮勧学田に編入されていた加賀国の100町余りの水田について、既に家持は無罪として赦免されているのに返還されないのは不当と主張し、強引に返還させたという[3]。
その後は急速に昇進し、承和14年(847年)従五位上・蔵人頭・右中弁、翌嘉祥元年(848年)には従四位下・参議・右大弁に叙任され公卿に列し、のち右衛門督・検非違使別当・式部大輔を兼ねる。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い従四位上に昇叙すると、仁寿3年(853年)正四位下、斉衡元年(855年)従三位と引き続き順調に昇進を続けた。また、この間皇太后宮大夫・中宮大夫を歴任する一方、右大臣・藤原良房らと『続日本後紀』の編纂にも携わった。清和朝に入っても貞観元年(859年)正三位・民部卿、貞観2年(860年)中納言と累進し、貞観6年(864年)には大納言に至る。これは天平2年(730年)に大伴旅人が大納言に任ぜられて以来約130年ぶりのことであり、伴氏(大伴氏)の極官をきわめた。しかし、貞観8年(866年)閏3月、応天門が放火される事件が起こると、善男は左大臣・源信が犯人であると告発する。源信の邸が近衛兵に包囲される騒ぎになるが、太政大臣・藤原良房の清和天皇への奏上により源信は無実となる。8月になると応天門の放火は善男とその子中庸らの陰謀とする密告があり、拷問を受けるも犯状否認のまま善男は犯人として断罪[4]、死罪とされたが、善男がかつて自分を抜擢してくれた仁明天皇のために毎年法要を行っていたという忠節に免じて罪一等を許されて流罪と決した。善男は伊豆国、中庸が隠岐国に流されたほか、伴氏・紀氏らの多くが流罪に処せられた(応天門の変)。貞観10年(868年)、配所の伊豆で死去した。
・人物
生まれつき爽俊で、また狡猾で、黠児(わるがしこい男)であったとされる。風貌は、眼窩深くくぼみ、もみあげ長く、体躯矮小、傲岸で人とうちとけなかった。弁舌が達者で、明察果断、政務に通じていたが、寛裕高雅さがなく、性忍酷であったという。
・系譜
父:伴国道
母:不詳
妻:不詳 男子:伴中庸
男子:伴善魚
男子:伴善足
・脚注
1.^ 『日本三代実録』によると国道は延暦24年(805年)に恩赦により帰京したとされる。
2.^ 『宇治拾遺物語』など
3.^ 『意見十二箇条』
4.^ 『江談抄』によると、「伴中庸が自白した」と偽りを言って自白を迫ったところ、善男は観念して自白したという。
★外山哲也
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)外山哲也 81 山本修之助先生の詩に出会って
★外山茂右衛門(とやまもうえもん) l
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
鶴子銀山開発者。天文十一年(一五四二年)越後の人、茂右衛門は佐渡に渡り、土地の人と謀り、沢根の地頭本間摂津守に訴え、運上金銀百枚を出して鶴子銀山を開いた。この銀山は天正年中、上杉景勝の分国となり外山に陣屋を構え、代官山口右京を配置した。(佐渡年代記上巻)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
鶴子銀山については『佐渡古実略記』に、「鶴子銀山は天文十一卯年、越後国茂右衛門と云う老、数年当国へ商いに渡海、或時夜に入、沢崎沖を馳(はせ)通り船中より見れば沢根にあたり鉄吹き炎のごとく光、空に移り怪しければ近く船を寄せてこれを見れば、沢根の奥山に金気の立にてそありける、すなわちこの所の老を語らい地頭本間攝津守に訴え、一ケ月に銀百杖の運上を指上げ、銀山稼ぎ次第に盛り、是を外山茂右衛門間歩と云う、また百杖平とも云う。」とある。
天文十一年という年は西暦で1542年にあたる。我が国にあっては大永・享禄のころ、博多の商人神谷寿禎という者が石見の国の大森で、銅山稼ぎ人の三島清左衛門という者を転んで銀山をひらき鉱石を馬路の港から積み出した。その銀を求めてポルトガル人が日本を訪れたのが天文十一年の頃であったという。鶴子の発見ほこうした日本全体の動きのなかでとらえる必要があるだろう。
★豊吉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
忠僕。佐渡国塚本八郎次の小者である。主家大切に致す趣相聞るに付、弘化三年(一八四六年)に役所から鳥目五貫文を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★豊崎松蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]
★豊四郎
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
慶長の代表的義民の一人、新穂北方の人。
晩年僧籍に入って了雲と称した人が豊四郎であるという言い伝えはあるが、その姓
すら明らかでなく、生家も墓所もいくら探して見ても見つからない。

(右上)本間太郎右衛門の供養碑
(左上段右)豊四郎(了雲)の墓地のある円通寺-新穂村北方
(左上段左)半次郎の生家と伝えられる山田家-新穂町上新穂
(左下段)佐渡一国義民殿のある城ケ平より国仲平野の眺望-畑野栗之江
★豊田俊介
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、立憲青年党の演説會[十四年七月十二日]・昭1、佐渡革政党の秋期大会[三年九月七日]・昭2、政友会の陣容[五年一月二十九日]・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭4、佐渡政友倶楽部春季総会 齋藤長三初代会長となる[十四年五月五日]
★豊田光世(とよだみつよ)

新潟大学 朱鷺・自然再生学研究センター准教授
【専門分野】環境哲学、合意形成学、環境教育、対話教育
【略歴・研究内容】東京都出身。米国大学院で環境倫理と哲学対話の研究に従事。帰国後、東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程にて、環境倫理と哲学対話を統合し、佐渡島をフィールドとして市民参加の環境保全に向けた合意形成の実装研究を行う。博士(学術)を2009年に取得。兵庫県立大学環境人間学部講師(2010-2013)、東京工業大学グローバルリーダー教育員特任准教授(2014-2015)を経て、2015年9月より現職。佐渡島では、「移動談義所」というトキとの共生に向けた話し合いの場づくり、天王川自然再生事業「水辺づくり座談会」での合意形成マネジメント、里海再生のための協働のしくみ「佐渡島加茂湖水系再生研究所」の設立と運営などを通して、地域に根ざした自然再生の実践活動を進めるとともに、そのなかから見えてくる社会的・倫理的課題について理論化を行っている。
【著書】“Collaborative Thinking: A Path to Environmental Ethics Education,” Comparative Philosophy Today and Tomorrow: Proceedings from the 2007 Uehiro Cross Currents Philosophy Conference. Edited by Sara A. Mattice, Geoff Ashton and Joshua P. Kimber, pp. 228-236, Cambridge Scholars Publishing.
新潟日報(h28年4月9日)


(豊田光世)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・親子でのヨシ舟作りに歓声-加茂湖の再生を考える- 藤井英樹・豊田光世
「島の新聞」索引(人名別)
★豊竹巴雪
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★豊ノ一
『加茂村誌』(昭和38年)

★豊原快慶
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
寺小屋の年中行事として新年の書初め、新町では毎月二五日天満宮へ奉納の清書をした。また、正月二五日には天神講と称し、少しずつお金を出しあって菅公祭を催した。
そのころ、寺小屋師匠として、新町には山本半右衛門・生田三折・山本桂・島倉伊右衛門など、吉岡には若林玄真、竹田には森玄達・小田与三兵衛、金丸に計良尚賢・若林文平、豊田に豊原快慶などがいた。寺小屋師匠の師弟の関係が深かったことは明治四年死亡した山本半右衛門の葬儀に、弟子として一三名の参列者があったという記録が残されていることからもわかる。
明治維新を経て、二年三月人民教育のため小学校の設置を奨励するという太政官布告にょり相川・新穂・羽茂に郷学校が設立され、三年には大中小学校規則にょり新町・五十里に郷学校が設けられた。
★豊原久夫

県立佐渡高等学校14代校長(平成5・4・1~平成8・3・31)、真野豊田諏方神社宮司。 佐渡市初代教育長。
連合佐渡会初代会長の池田正雄氏とは親戚筋。
桑原・池田・豊原家他
★豊原政秋
正応元年(一二八八年)九月に佐渡守となり、十一月十七日なくなった。(新潟県史)
★豊原雅秋
雅秋を一本には惟秋とある。元中四年(一三八七年)五月に佐渡守となった。(新潟県史)
★虎右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川下京町の人である。母に仕えてよく孝養を尽くしたので、文化十三年(一八一六年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★とり
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
忠勤者。佐渡国藤村小膳の下女である。主家へ誠忠を尽くす趣相聞之奇特に付き、嘉永三年(一八五〇年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★とり
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国上横山村(両津市)の人である。奇特之趣相聞るに付、天保十三年(一八四二年)に役所から鳥目五貫文を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★鳥井嘉市
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]
★鳥井嘉左工門
『新穂村史』(昭和51年)より
大野は野町の紺屋。嘉左工門家が、どの時代に紺屋をほじめたかは家人にも云い伝えはないが、この家は相川奉行所の大野組代官の子孫といわれる古い家柄である。先代の嘉蔵は大正の前半に新穂村長をつとめた人で、乳牛飼育、メタンガスの利用などを試みた進んだ思想の持主であった。麻と木綿の染色が主で、農作業のじばん・ももひき・大漁旗・ほんてん・麻かたびらなどなんでも染めたという。藍玉ほ四国から俵でとりよせた。嘉左二門家は明治二十年(一八八七)の建築になる九間五間の家の台所の側に仕事場を接続してある。紺屋の典型的構造である。乾燥(かげぼし)のために、台所から座敷の奥の鴨居までの九間を通して綱を張ったそうである。
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
慶長九年の『年代記』には、「横地所左衛門、原土佐、吉岡出雲等石見守にしたがい来り、所左衛門は赤泊に任し、水津迄の郷村を預り、土佐は小木の古城に住し西三川迄を預り、出雲は銀山の事を沙汰す」とあり、また「保科喜右衛門は鶴子銀山を預り、堀口弥右衛門は河原田城付地方を預り、鳥井嘉左衛門は夷組大野組代官となり」とある。
★鳥井嘉蔵➡鳥井嘉蔵(とりいよしぞう)
★鳥居九右衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★鳥居八右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、天保九年(一八二六年)四月九日勘定吟味役より佐渡奉行となった。名は正房、知行は二百俵、役料は千五百俵と百人扶持である。五月十四日相川へ着任した。十一年七月、小木港その他で強訴など百姓がさわぎ出し八月十四日御役御免となった。小普請人りとなり謹慎となった。(佐島遺事)
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★鳥井嘉蔵
「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
新穂村

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
万延元年生 新穂村大野 ・明3、佐渡の自由派倶楽部設置の協議[三十三年四月十一日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]
★鳥井竜蔵
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
★鳥越文蔵(とりごえぶんぞう)

1931年8月28日生、日本の国文学者、日本近世演劇研究者。早稲田大学名誉教授。元早稲田大学坪内博士記念演劇博物館館長。当時の畑野町に蔵書を寄贈して、猿八に鳥越文庫が設立された。
「畑野鳥越文庫」
小佐渡の山懐に散在する、佐渡の猿八集落は豊かな自然をそのままに、国仲平野を前景に大佐渡の山並みを一望する高台にある。猿八地区にIターンし、精力的に芸能活動を進めていた西橋健氏の取り組みに地区の皆さんが感動、理解を示し、地域活性化のために古典芸能を中心とした地域おこしが始まった。平成7年の夏、この話を聞いた西橋氏の母校早稲田大学の恩師であり、古典芸能の大家である鳥越文蔵先生がバックアップすることとなり、先生の所蔵する演劇関係の図書約2万冊が寄贈されることとなった。
これを受けて、図書を収蔵する「鳥越文庫」を平成9年に建築、翌10年度には文庫を管理する管理棟も改築し、芸能活動の拠点作りと活動が本格的に始まった。
「猿八山舎」
鳥越文庫の創設にともない、文庫と猿八の豊かな自然環境を活用して伝統と現代、山村と都市の人々を結び、新しい文化を創造することを目指して、地区の住民を主に活動を相互の交流の中から始めた非営利の民間団体です。
伝統芸能の研究講座や体験学習、演劇・音楽の公演などさまざまな催しを企画、実行しています。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)鳥越文蔵
92 鳥越先生と佐渡 佐々木義榮
102 鳥越文庫のこと 鳥越文蔵
「島の新聞」索引(人名別)
「ウィキペディア」より
★トレロール(トーマス・トレロール)
「鉱山に来た異人」(「佐渡の百年」)
★ドロワール→レゼ―神父
★とわ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国下戸炭最町(相川町)の人である。奇特の趣相聞につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
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