2012-01-09
佐渡高校(歴代校長)
「佐渡高校同窓会誌」(平成13年度)

佐高HPより

旧制佐渡中学・高女・佐渡女子高(歴代校長)
佐高HPより


佐渡高校(同窓会長 )佐渡高等学校百年史より

佐渡高校歴代生徒会役員(「佐渡高校百年史」より


佐渡農業高校(歴代校長)「師友百年の歩み」(平成23年)より

両高(歴代校長) 両津高校閉校記念同窓生名簿より


両高(同窓会長)両津高校閉校記念誌「石楠」より

両高(生徒会長)両津高校閉校記念誌「石楠」より

両高(PTA会長)両津高校閉校記念誌「石楠」より

畑野
畑野小歴代校長
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「佐渡高校同窓会誌」(平成13年度)



佐高HPより

旧制佐渡中学・高女・佐渡女子高(歴代校長)
佐高HPより



佐渡高校(同窓会長 )佐渡高等学校百年史より

佐渡高校歴代生徒会役員(「佐渡高校百年史」より


佐渡農業高校(歴代校長)「師友百年の歩み」(平成23年)より

両高(歴代校長) 両津高校閉校記念同窓生名簿より


両高(同窓会長)両津高校閉校記念誌「石楠」より

両高(生徒会長)両津高校閉校記念誌「石楠」より

両高(PTA会長)両津高校閉校記念誌「石楠」より

畑野
畑野小歴代校長

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2012-01-05
2012-01-05
「島内全域」
・『佐渡酒誌』(出版者:佐渡郡酒造組合事務所 出版年月日:昭和10)
・『続佐渡酒誌』(出版者:佐渡郡酒造組合事務所 出版年月日:平成14年7月)
「金井」
「金井の酒造家たち」(『金井を創った百人』 金井町 平成12年)より




「新穂」

「畑野」
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)




畑野地区は、江戸末期から昭和初期にかけて、酒造をはじめ、みそ・しょうゆなどの醸造工業において、島内有数
の産地であった。現状では酒造と酢造りがなくなって、みそ・しょうゆが僅かに続けられている。
(江戸期の酒造株)
島内の酒造は、江戸初期に相川人口の急増に伴って起った深刻な米不足のために厳しく制限され、その後の鉱山衰微によって生じた余剰米の量に応じ、また米の作柄の豊凶によって、制限と緩和がくり返し行われてきた。そうした不安定さは当然村々の酒造に及び、酒屋の盛衰となって現われた。この地区ではっきりと酒造株をもって家業としての酒造を行なっていたことが確認できるのは、享保十七年子九月晦日に、栗野江の造酒屋甚四郎が、御目付役岸野六左衛門と地方役柿並与市右衛門らによって酒造道具改めを受け、符印を申し受けたときの文書が初出である。それによると三尺二寸から二尺五寸(仕込桶の直径)までの大ものは八本で、他にすまし桶・こしき桶・半切り・酒船など十八本で、その内八つに御符印が申し請けられた。さらに享保十九年寅三月に、その中で古い酒道具の一部を、同村の主左衛門と久右衛門に売り渡した。譲り受けた両名が酒屋をやったかどうかはわからない。それと前後して、畑本郷村の藤右衛門が酒造を行なっていた。同家が代々書き記した系譜によると、二代目藤右衛門こと藤兵衛が、延享二年丑二月二十六日に先代が死去したときに、田畑山林・家・屋敷と共に酒造株を譲り受けた。「旧村志」は、この家の醸造は元禄以後であったと書いている。こうして親から酒造株を譲り受けた二代目藤右衛門の代には、棟梁金兵衛の手で三間に十間余りの酒蔵を建てた。この酒蔵の大きさからみて、酒造量はかなりのものであったことがわかる。さらに三代目藤右衛門の代に、天明四辰年に同じ棟梁の手で三間に七問の酒蔵を、享和元酉年には棟梁文助にょって四間に五間二尺の上の酒蔵を、そして同年中にさらに一棟の六間に七間の下の酒蔵を増した。この上下二棟の蔵は、嫡子祖邦の働きにょった。
酒の仕込桶は、六尺の桶が十本であった。これは粟野江の甚四郎のものよりかなり大型化している。この桶が同家
の酒造の最後まで用いられたと思われる。藤右衛門家の酒造は、明治二十三年六月二十九日に起った相川暴徒による打壊しに遭うまで約二百年に及び、同二十八年に同家は北海道の留萌管内羽幌町に移住した。打壊しの後もしばらくの問、銘酒「藤川」の名で酒造は続けられていた。
藤右衛門家には、文化七年から慶応四年までの五十八年間に申告した「酒造道具御改請書」が残っている。これによると当時の酒造高は拾六石二斗二升で、これに要する米は、二百十八石九斗七升であった。道具としては、諸味打桶十六木・元卸桶十一本・元半切三十三枚・造桶三十本・潰し桶二十四本・酒揚船四艘で、これちの道具には改めの上焼印が押された。ほかにも、造掛米漬桶・半切・蒸桶・水桶・桶口半切・坪台桶・かい・水溜など二十六種類の小道具が書き記されている。
河原田の中山五兵衛家が所蔵する明和九年(一七七二)の「国中造酒元石増石留帳」によると、島内六八人の造酒家のうち、本町関係でほ畑本郷の藤右衛門・惣左衛門・十兵衛、畑方村三右衛門、小倉村惣三郎、三拾弐貫村市十郎の六人で、元石ほ藤右衛門が十三石で最も多く、ついで惣三郎の六石、他は二石から三石前後であった。(山本半右衛門家写本にょる)
宮浦村の伊左衛門家の文書に、「文化十二亥年より酒造初申侯」と書かれたものがある。その時の酒造道具は、その後文政十年に後山村の町の大屋こと紋右衛門に譲り渡されたが、明治初年になって株を請け戻して、明治中期には「宮川」という銘酒を販売するようになった。
猿八村の五郎右衛門家にも、弘化三年十月の「酒造道具御改帳」がある。元株高は五石五斗で、但し元米一石につき造入米十三石五斗であった。道具としては、諸味打桶が五木・澄し桶三木・元おろし桶二本・三尺達桶十一本・元半切十二枚・酒造船一艘その他小道具の桶類が十三本となっている。桶の上径は四尺五寸から五尺であった。畑本郷村の紋兵衛家も酒造をやっていた時代があったらしく、同家の文書の中に「文政十三寅年 畑野村酒屋紋兵衛殿」とした蚫村の者からの借用証がある。また野高屋の本間儀平家の先祖は四代続いて杜氏をしており、その覚書きが帳面になって残されている。これをみると、藤右衛門家の杜氏として酒造りをやったはかりでなく、時には醤油造りもやっていたようである。時代は慶応から明治初年にかけてのことで、小倉村でも酒造ほ早くから行われていた。伝承の上では中村重左衛門の五代目の弟で分家した重作(重作の初代は享保九年歿)が酒屋のはじめとされている。文書で確認できるのは、宝暦の前後に松ケ崎からきた勘七の伜勘兵衛こと青木宗三郎で、天明六年以前に酒造屋商売をやったことである。この酒造りが繁昌して宗三郎は村の有力者となった。
計良平吉氏が編さんした『三宮懐古帳』には、「三宮村の造酒屋」として、深山部落の中川蛭川(ひるごう)家の文書を載せてある。宝暦二年中五月二十六日に、地方御役所宛に鑑札を願い出た訴訟書で、その中に、高さ三尺五寸・奥行一丈九寸・横六尺七寸の椛室一軒と、濁り酒一軒を「拙者商売に仕り罷り有り申し侯につき、このたび板御判願い奉り侯」というものである。時代としては藤右衛門につぐ古い酒造の記録である。
(明治期の酒造)
明治二年の畑両村の戸籍簿から、職業を酒造とした者をぬき出してみると、本間藤右衛門・本間太郎右衛門・本間長次郎・間善吉・小田助左衛門・内田久吉・土屋杢右衝門の七人である。それより二年前の慶応二寅年十月に、後山村の酒屋与三兵衛が奉行所への申告のため調べた「国仲筋酒造人数並元石銘々調帳」にょると、右記した七人のほかに各村々の酒屋と酒造の石高はつぎのようであった。
畑本郷村 藤右衛門 十六石二斗二升
岡 村 助右衛門 五石五斗
同 村 杢右衛門 五石
畑方村 太郎右衛門 十石七斗
岡 村 善右衛門 六石
岡 村 三次郎 五石五斗
同 村 久左衛門 五石
小倉村 宗三郎 捨石
同 村 新左衛門 三石一斗八升
目黒町 善右衛門 三石
同 村 弥市郎 貮石
後山村 紋右衛門 五石五斗
同 村 与三兵衛 五石五斗
同 村 伝九郎 五石
粟野江 佐源治 五石
この帳簿には、他町村の酒造人とも一二〇人について書かれているが、そのうち石数が最も多いのは右記中の藤右衛門で、これについで太郎右衛門が、三位は石田村の甚五右衛門であった。(注、太郎右衛門は通称「新酒屋」と呼ばれていた。)
畑野酒は酒造量だけでなく、一般に質的にも好評で品評会でも常に上位を占めていた。明治二十五年の佐渡三郡酒造営業春季通常会で品評の上、優等品と査定されたもの七品中、松の井(小倉八代松蔵)・宮川(宮浦信田伊左衛門)・千歳(畑本郷本間半平)・加茂川(畑本郷土屋杢右衛門)・滝川(小倉菊池新太郎)の五品までが畑野酒で占めていた。当時の畑野酒としてはほかに、黄金(畑本郷本間定次)・竹の霹(畑本郷本間半平)・松風(小倉青木永太郎)・錦川(同上)・松の霹(中村吉蔵)があり、これらもまた右記七品とは別な機会にそれぞれに入賞している。(『北溟雑誌』明治二十五年以降)
(みそ・しょぅゆ)
安政五年に書かれた畑本郷上組の「商人方書上控帳」によると、醸造関係では主左衛門が酢屋を営んでいただけで、他は煮売引酒を商っていたいわゆる居酒屋として、天明ごろから紋兵衛ら九人が書き上げられているにすぎない。そしてそこには、みそ・しょうゆ屋は一軒も見当らなかった。みそ・しょうゆ業が確認できるのは明治二年以降である。同年の畑両村の戸籍簿によると、(畑本郷村の姓は編さん室調べによる) 〔味噌造〕 本間半十郎・今井三左衛門・本間宇兵衛・中川磯吉・坂野藤九郎・本間甚七・本間長十郎・本間太次右衛門・渡辺主左衛門・本間宇大郎・土屋甚蔵 〔醤油〕 本間宇兵衛・土屋甚蔵・渡辺主左衛門となっていて、江戸末期にはこの業者が急激に増加していたことがわかる。このうち、しようゆのほうは右記したようにみそとの兼業で、専業醤油屋はなかった。ところが大正七年の村是に示された数字にょると、醤油屋は副業ともに十三軒であるのに対して、味噌屋の数は兼業の者が一軒あるだけで専業は見当らない。こうして半世紀の間に、味噌屋から醤油屋へ転業した経過がわかるのである。
畑野の野高屋の「やまじゅう」こと本間重次郎醤油屋は、前記した明治二年には田一町五反六畝余歩・畑三反八畝余歩の専業農家であった。その後に先々代の庄太郎の代にはじめて味噌造りを始めた。これが松前行きの廻船業者に好評で、豊田の浜から積荷するために傭った一斗樽を脊負った人足が、竹田沖を列をなしていたことを記憶するものがいまもいる。また山越えで松ケ崎港・多田港から出すこともあった。
同じく野高屋の熊谷与右衛門家の醤油造りは、やはり明治二年の戸籍簿には現われておらず、田一町三反五畝・畑四反八畝余歩の富農層ではあった。与右衛門家が重次郎家と異なる点は、味噌屋からの転業ではなく、初めからの醤油屋であったことである。同家には、雑太郡畑本郷村の村名のある醤油の造石高七石五斗四升と記した木札が保存されている。また大久保村の重次郎も醤油屋をやっていた。明治初年のことであるが、どの時代に始まり、どの時代まで続いたかは分っていない。
明治二十五年の記録によると、当村には醤油屋としては渡辺主左衛門・熊谷与右衛門・本間重次郎の三人があっただけで、味噌屋の記載はすでにない。榎田のマルモ味噌こと小田茂平治家の創業はそれからまもなくして明治三十八年三月一日である。開業時にほ、重次郎家の道具の一部を譲り受けたといわれている。その頃ほまだ豊田浜から、北海道向けの移出の道すじは変ってはいなかった。
(酢屋)
酢造りの初出は文化八未年何代の渡辺主左衝門である。(「商人方書上控帳」)同人は前項に記したように、その後に味噌・醤油業に切り替え、明治二十五年には酢造りはやってはいない。
明治三十三年に酢造りをやっていたのは、畑方村の中川滝太郎・今井貞治・吉田四郎・本間伊喜蔵と、畑本郷村の渡辺藤八であった。野高屋の本間伊喜蔵の通称と屋号が、酢屋の源次郎で、吉田四郎の孫四郎家を通称酢屋というのはそのためである。伊喜蔵は酢造りのほかに千石通しもつくっており、その技法をその子荘吉に伝えたが若死した。
{注}千石通しつくりは、榎田の画家・金島万右衛門も技術をもっていた。
「真野」




『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より







・『佐渡酒誌』(出版者:佐渡郡酒造組合事務所 出版年月日:昭和10)
・『続佐渡酒誌』(出版者:佐渡郡酒造組合事務所 出版年月日:平成14年7月)
「金井」
「金井の酒造家たち」(『金井を創った百人』 金井町 平成12年)より




「新穂」

「畑野」
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)




畑野地区は、江戸末期から昭和初期にかけて、酒造をはじめ、みそ・しょうゆなどの醸造工業において、島内有数
の産地であった。現状では酒造と酢造りがなくなって、みそ・しょうゆが僅かに続けられている。
(江戸期の酒造株)
島内の酒造は、江戸初期に相川人口の急増に伴って起った深刻な米不足のために厳しく制限され、その後の鉱山衰微によって生じた余剰米の量に応じ、また米の作柄の豊凶によって、制限と緩和がくり返し行われてきた。そうした不安定さは当然村々の酒造に及び、酒屋の盛衰となって現われた。この地区ではっきりと酒造株をもって家業としての酒造を行なっていたことが確認できるのは、享保十七年子九月晦日に、栗野江の造酒屋甚四郎が、御目付役岸野六左衛門と地方役柿並与市右衛門らによって酒造道具改めを受け、符印を申し受けたときの文書が初出である。それによると三尺二寸から二尺五寸(仕込桶の直径)までの大ものは八本で、他にすまし桶・こしき桶・半切り・酒船など十八本で、その内八つに御符印が申し請けられた。さらに享保十九年寅三月に、その中で古い酒道具の一部を、同村の主左衛門と久右衛門に売り渡した。譲り受けた両名が酒屋をやったかどうかはわからない。それと前後して、畑本郷村の藤右衛門が酒造を行なっていた。同家が代々書き記した系譜によると、二代目藤右衛門こと藤兵衛が、延享二年丑二月二十六日に先代が死去したときに、田畑山林・家・屋敷と共に酒造株を譲り受けた。「旧村志」は、この家の醸造は元禄以後であったと書いている。こうして親から酒造株を譲り受けた二代目藤右衛門の代には、棟梁金兵衛の手で三間に十間余りの酒蔵を建てた。この酒蔵の大きさからみて、酒造量はかなりのものであったことがわかる。さらに三代目藤右衛門の代に、天明四辰年に同じ棟梁の手で三間に七問の酒蔵を、享和元酉年には棟梁文助にょって四間に五間二尺の上の酒蔵を、そして同年中にさらに一棟の六間に七間の下の酒蔵を増した。この上下二棟の蔵は、嫡子祖邦の働きにょった。
酒の仕込桶は、六尺の桶が十本であった。これは粟野江の甚四郎のものよりかなり大型化している。この桶が同家
の酒造の最後まで用いられたと思われる。藤右衛門家の酒造は、明治二十三年六月二十九日に起った相川暴徒による打壊しに遭うまで約二百年に及び、同二十八年に同家は北海道の留萌管内羽幌町に移住した。打壊しの後もしばらくの問、銘酒「藤川」の名で酒造は続けられていた。
藤右衛門家には、文化七年から慶応四年までの五十八年間に申告した「酒造道具御改請書」が残っている。これによると当時の酒造高は拾六石二斗二升で、これに要する米は、二百十八石九斗七升であった。道具としては、諸味打桶十六木・元卸桶十一本・元半切三十三枚・造桶三十本・潰し桶二十四本・酒揚船四艘で、これちの道具には改めの上焼印が押された。ほかにも、造掛米漬桶・半切・蒸桶・水桶・桶口半切・坪台桶・かい・水溜など二十六種類の小道具が書き記されている。
河原田の中山五兵衛家が所蔵する明和九年(一七七二)の「国中造酒元石増石留帳」によると、島内六八人の造酒家のうち、本町関係でほ畑本郷の藤右衛門・惣左衛門・十兵衛、畑方村三右衛門、小倉村惣三郎、三拾弐貫村市十郎の六人で、元石ほ藤右衛門が十三石で最も多く、ついで惣三郎の六石、他は二石から三石前後であった。(山本半右衛門家写本にょる)
宮浦村の伊左衛門家の文書に、「文化十二亥年より酒造初申侯」と書かれたものがある。その時の酒造道具は、その後文政十年に後山村の町の大屋こと紋右衛門に譲り渡されたが、明治初年になって株を請け戻して、明治中期には「宮川」という銘酒を販売するようになった。
猿八村の五郎右衛門家にも、弘化三年十月の「酒造道具御改帳」がある。元株高は五石五斗で、但し元米一石につき造入米十三石五斗であった。道具としては、諸味打桶が五木・澄し桶三木・元おろし桶二本・三尺達桶十一本・元半切十二枚・酒造船一艘その他小道具の桶類が十三本となっている。桶の上径は四尺五寸から五尺であった。畑本郷村の紋兵衛家も酒造をやっていた時代があったらしく、同家の文書の中に「文政十三寅年 畑野村酒屋紋兵衛殿」とした蚫村の者からの借用証がある。また野高屋の本間儀平家の先祖は四代続いて杜氏をしており、その覚書きが帳面になって残されている。これをみると、藤右衛門家の杜氏として酒造りをやったはかりでなく、時には醤油造りもやっていたようである。時代は慶応から明治初年にかけてのことで、小倉村でも酒造ほ早くから行われていた。伝承の上では中村重左衛門の五代目の弟で分家した重作(重作の初代は享保九年歿)が酒屋のはじめとされている。文書で確認できるのは、宝暦の前後に松ケ崎からきた勘七の伜勘兵衛こと青木宗三郎で、天明六年以前に酒造屋商売をやったことである。この酒造りが繁昌して宗三郎は村の有力者となった。
計良平吉氏が編さんした『三宮懐古帳』には、「三宮村の造酒屋」として、深山部落の中川蛭川(ひるごう)家の文書を載せてある。宝暦二年中五月二十六日に、地方御役所宛に鑑札を願い出た訴訟書で、その中に、高さ三尺五寸・奥行一丈九寸・横六尺七寸の椛室一軒と、濁り酒一軒を「拙者商売に仕り罷り有り申し侯につき、このたび板御判願い奉り侯」というものである。時代としては藤右衛門につぐ古い酒造の記録である。
(明治期の酒造)
明治二年の畑両村の戸籍簿から、職業を酒造とした者をぬき出してみると、本間藤右衛門・本間太郎右衛門・本間長次郎・間善吉・小田助左衛門・内田久吉・土屋杢右衝門の七人である。それより二年前の慶応二寅年十月に、後山村の酒屋与三兵衛が奉行所への申告のため調べた「国仲筋酒造人数並元石銘々調帳」にょると、右記した七人のほかに各村々の酒屋と酒造の石高はつぎのようであった。
畑本郷村 藤右衛門 十六石二斗二升
岡 村 助右衛門 五石五斗
同 村 杢右衛門 五石
畑方村 太郎右衛門 十石七斗
岡 村 善右衛門 六石
岡 村 三次郎 五石五斗
同 村 久左衛門 五石
小倉村 宗三郎 捨石
同 村 新左衛門 三石一斗八升
目黒町 善右衛門 三石
同 村 弥市郎 貮石
後山村 紋右衛門 五石五斗
同 村 与三兵衛 五石五斗
同 村 伝九郎 五石
粟野江 佐源治 五石
この帳簿には、他町村の酒造人とも一二〇人について書かれているが、そのうち石数が最も多いのは右記中の藤右衛門で、これについで太郎右衛門が、三位は石田村の甚五右衛門であった。(注、太郎右衛門は通称「新酒屋」と呼ばれていた。)
畑野酒は酒造量だけでなく、一般に質的にも好評で品評会でも常に上位を占めていた。明治二十五年の佐渡三郡酒造営業春季通常会で品評の上、優等品と査定されたもの七品中、松の井(小倉八代松蔵)・宮川(宮浦信田伊左衛門)・千歳(畑本郷本間半平)・加茂川(畑本郷土屋杢右衛門)・滝川(小倉菊池新太郎)の五品までが畑野酒で占めていた。当時の畑野酒としてはほかに、黄金(畑本郷本間定次)・竹の霹(畑本郷本間半平)・松風(小倉青木永太郎)・錦川(同上)・松の霹(中村吉蔵)があり、これらもまた右記七品とは別な機会にそれぞれに入賞している。(『北溟雑誌』明治二十五年以降)
(みそ・しょぅゆ)
安政五年に書かれた畑本郷上組の「商人方書上控帳」によると、醸造関係では主左衛門が酢屋を営んでいただけで、他は煮売引酒を商っていたいわゆる居酒屋として、天明ごろから紋兵衛ら九人が書き上げられているにすぎない。そしてそこには、みそ・しょうゆ屋は一軒も見当らなかった。みそ・しょうゆ業が確認できるのは明治二年以降である。同年の畑両村の戸籍簿によると、(畑本郷村の姓は編さん室調べによる) 〔味噌造〕 本間半十郎・今井三左衛門・本間宇兵衛・中川磯吉・坂野藤九郎・本間甚七・本間長十郎・本間太次右衛門・渡辺主左衛門・本間宇大郎・土屋甚蔵 〔醤油〕 本間宇兵衛・土屋甚蔵・渡辺主左衛門となっていて、江戸末期にはこの業者が急激に増加していたことがわかる。このうち、しようゆのほうは右記したようにみそとの兼業で、専業醤油屋はなかった。ところが大正七年の村是に示された数字にょると、醤油屋は副業ともに十三軒であるのに対して、味噌屋の数は兼業の者が一軒あるだけで専業は見当らない。こうして半世紀の間に、味噌屋から醤油屋へ転業した経過がわかるのである。
畑野の野高屋の「やまじゅう」こと本間重次郎醤油屋は、前記した明治二年には田一町五反六畝余歩・畑三反八畝余歩の専業農家であった。その後に先々代の庄太郎の代にはじめて味噌造りを始めた。これが松前行きの廻船業者に好評で、豊田の浜から積荷するために傭った一斗樽を脊負った人足が、竹田沖を列をなしていたことを記憶するものがいまもいる。また山越えで松ケ崎港・多田港から出すこともあった。
同じく野高屋の熊谷与右衛門家の醤油造りは、やはり明治二年の戸籍簿には現われておらず、田一町三反五畝・畑四反八畝余歩の富農層ではあった。与右衛門家が重次郎家と異なる点は、味噌屋からの転業ではなく、初めからの醤油屋であったことである。同家には、雑太郡畑本郷村の村名のある醤油の造石高七石五斗四升と記した木札が保存されている。また大久保村の重次郎も醤油屋をやっていた。明治初年のことであるが、どの時代に始まり、どの時代まで続いたかは分っていない。
明治二十五年の記録によると、当村には醤油屋としては渡辺主左衛門・熊谷与右衛門・本間重次郎の三人があっただけで、味噌屋の記載はすでにない。榎田のマルモ味噌こと小田茂平治家の創業はそれからまもなくして明治三十八年三月一日である。開業時にほ、重次郎家の道具の一部を譲り受けたといわれている。その頃ほまだ豊田浜から、北海道向けの移出の道すじは変ってはいなかった。
(酢屋)
酢造りの初出は文化八未年何代の渡辺主左衝門である。(「商人方書上控帳」)同人は前項に記したように、その後に味噌・醤油業に切り替え、明治二十五年には酢造りはやってはいない。
明治三十三年に酢造りをやっていたのは、畑方村の中川滝太郎・今井貞治・吉田四郎・本間伊喜蔵と、畑本郷村の渡辺藤八であった。野高屋の本間伊喜蔵の通称と屋号が、酢屋の源次郎で、吉田四郎の孫四郎家を通称酢屋というのはそのためである。伊喜蔵は酢造りのほかに千石通しもつくっており、その技法をその子荘吉に伝えたが若死した。
{注}千石通しつくりは、榎田の画家・金島万右衛門も技術をもっていた。
「真野」




『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より







2012-01-05
2012-01-05
「諸情報」
「病院・医者と佐渡の医療事情」(金井を創った百人」発刊1周年記念講演 講師:田中圭一)
亀井省吾(blog「佐渡が島悠々」より)
田中元筑波大学教授の講演は、毎回のことであるが得るものが多い。
今回も、佐渡人の考え方、生き方についての考察が興味深かった。
徳川幕府が官軍に破れた影響が今日の佐渡人を作っているとの考察であった。
佐渡人とは
1、明治の初めに東大医学部が出来た時、教授の1/3が佐渡人だった。
2、華岡青洲には300人の弟子が居たが、うち数十人が佐渡人だったし、江戸、京都、長崎に医学留学した。理由、天領で行動の自由があり、裕福だった。
3、明治の佐渡は非常にミジメだった。
官軍の進駐で540箇所の寺は80に減らされ、明治9年、相川県が廃され新潟県に統合され、天領ゆえの交易は衰退し、回船業は滅びた。
4、明治維新から50年で団結心がなくなったのは、リーダー不在で求心力がなくなったからである。
5、新潟県は、明治末期、人口190万人の大きな県でありながら唯一大学、美術館、博物館がなかった県。そんなものは要らないと県議会の決議であった。富農は多かったのに。
6、明治40年、時の佐渡郡長深井康邦は、「私が見た佐渡」と講演し、佐渡の人間は極端に度量狭く、自負心だけが強く、寛容の精神がない、例えば、赤十字への参加が全県に比べると、25/1000が17/1000,婦人会については、15/1000が7/1000,文盲は、5/1000に対し12/1000と高く、娼妓、遊郭の類はべらぼうに多い、要は、裕福なのに公共心が欠如している、と評した。
このように、身勝手で求心力を失ったのは、藩主が居ないゆえと田中元筑波大学教授は考察している。
では、佐渡病院は何故出来たか?昭和の初め、佐渡にも貧者の医療救済運動、セツルメント運動が起こったが一年ほどで潰れた。
これに危機感を持った運動が起きた、中心は茅原鉄蔵であった。
彼は、東京に留学し帰ってきてから明治35年、産業組合、耕地整理の実践運動を奨め、北見喜宇作の産業振興などを生んだ。
この運動は、学歴はないが、中小の地主の人たち、というのが共通の特徴であった。
昭和の初めに、竹中成憲いわく、県下で預金が一番豊かなのは佐渡だが、人のためには使わないと新聞に書いた。
これを読んだ、金井の地主、本間長二は同志を募り、青年たちも立ち上がり、信用組合立佐渡病院が出来た。
彼らは、高学歴ではなかったが佐渡の現状を憂いたのである。
ちなみに、現在、県内の投書の8割は佐渡人であると。
「江戸時代佐渡の医療」(田中圭一 18回全国天領ゼミナール 平成14年8月3・4日)
「佐渡の医学史」(蒲原宏 10回全国天領ゼミナール 平成6年8月6~8日)
「新潟県の医学の歴史をたずねて」
「長谷川元良と竹中成憲-幕末・明治の科学者達-」(田中圭一講演 平成13年11月18日 新宿文化センター)
「佐渡の衛生」(山本成之助 昭和28年)
「金井」
「明治・大正の開業医たち」(『金井を創った百人』 金井町 平成12年)より



「佐和田」
『佐和田町史』(通史編Ⅱ 平成3年)より


「新穂」
『新穂村史』(昭和51年刊)より



「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂町では江戸時代に正徳、享保(一七一一~一七三五)の頃、本間万吉三代目に周行という漢方医がいた。
寛保二年(一七四二)十月の書には新穂町、順安とあり、文化・文政(1804-1827)の頃、良碩また、文政元年(一八一八)の頃浅井快甫、文政二年(一八一九)容安、良川、天保十二年(一八四一)浅井快甫、弘化(一八四四-一八四七)年玄的、安政六年(一八五九)浅井源安などの漢方医の名が見える。明治二十四年(一八九一)五月六日山王火事の原因となった私立浅井病院開業祝いの花火は蘭法医仁庵、貞吉兄弟の施設新築の時であった。この病院が開業きれると、門前市をなしたと記録に残っている。なお先に記した容安という人は、相川羽田町の杉山家から船代村の後藤五郎右工門家へ入婿した当時の名医で、文政の頃に
は当町内に宅地建物を所有して医業に従事していたものらしく、文学にもすぐれ呉山と号して詩を能くした人で、嘉永二年(一八
四九)に相川奉行所から次のような申し渡しを受けているが、嘉永四年四月、六十九才で亡くなっている。
申渡 御役所詰医師格 船代村 後 藤 容 安
其方儀医業に出精に付、先達而御役所医格申付る処其後相励、医術功者に相成殊に村方の者に夫々教諭をも加へ、貧窮の病人等には深切に療治致し既に去々卯年申は小前百姓多数のものに施薬等致す趣相聞一段之事に付御役所詰医師肝煎並申付、平生帯刀差免す
己三月十三日 在住の儀は勝手次第 右之趣可相心得事 己三月 (註=己とは嘉永二年、肝煎並はきもやきなみ)
そして明治中期頃になると眼科医荻野医院が上町で開業、続いて内科耳鼻咽喉科本間医院、内科産科婦人科長嶋医院、内科臼杵医医院、昭和に入ると内科山田医院、小児科後藤医院などの開業がみられ、歯科医では小杉、樺島の両医がそれぞれ専門医として住民の診療にあたっていたのであるが、なお、長期入院を要する患者あるいは外科的大手術を要する者は、佐渡病院あるいは新潟医大等を尋ねるよりほかはなかったので、住民の不安は解消することはできなかった。特に冬期の積雪時にはその不便と不安はひとしおであった。
そこで住民間に病院施設を要望する声が高くなり、時の村長斎藤豊氏、村議会議長本間市郎左工門氏等が中心となって、昭和二
十二年佐渡病院新穂村診療所として元本間医院跡を借家して開所されていた診療所を、発展的解消して国の補助金を得て二九三坪の村営「新穂村国民健康保険病院」を国民健康保険の事業として開設し、二十一病床を設け前記診療所長であった当町出身の新潟医科大学出の外科医本間為次先生を迎えて院長とし、外科、内科、婦人科の三科を有する病院として発足し、薬剤師一名、レントゲン技師一名、看護婦七名、事務職員四名、その他雑役者二名を置いて最新鋭の医療機関として出発したのである。
後年、数度にわたって医療器具の新設、看菱婦の増員、水洗便所、給食施設、病棟の増改築等々が行われ村民は言うに及ばず近郷町村民の利用も多く、佐渡病院につぐ国仲地区の診療施設として目覚しい活動をしてきたのであるが、昭和三十年頃からの医師不足の影響を受けて、同三十四、五年頃から短期に派遣されるインターンを以って細々と診療を続ける状態となり、一時は佐渡病院の診療所に格下げせねばならなくなったこともあり、その経営は次第に緊迫の度を加え、同四十八年遂いに佐渡病院の診療所として存続するか、村営病院として再建するかの大困難に遭遇し、与論も喧々轟々たるものがあり、しばらくは一時しのぎの施策として、元佐渡病院院長時代名医とうたわれた川口先生の個人経営に委嘱の措置をとってきたが、同医師の急死によってその後しばらくは後継者もなく、その施設は往年の姿もなく、廃屋同然の姿となってさびしくその姿を止めていたのである。
川口先生は、当地の診療に献身された功績が高く評価きれて名誉村民の名をおくられ村葬を以てその御冥福を祈ったのである。
その間、開業医も次々に他界されて、しばらくは全くの無医村の状態であった。
昭和五十一年、ようやく台湾出身の黄先生が着任されたが、五十三年二月に帰国され、五十三年四月から国立真野療養所に勤務されていた田中先生がかっての川口先生と同様の状件で着任きれて以来、村民の保健、再生、診療に日夜献身的な努力を続けられ今日に至っている。
★新穂の医院(大正15年生 土屋武氏より)
・臼木医院:一三楼と川上楼の中間辺りにあった。内科・小児科。新穂村長も務め、午前中が役場在、午後は医師となった。
・樺島医院:歯科医(女医)で夫は教員だった。場所は南線沿いの平野側で、横町に曲がる道から6軒目位。
・小杉医院:歯科医で、樺島医院の並びで数軒目畑野側。
・後藤医院:両津から行くと、新穂橋を渡ってすぐの山側にあった。後藤衛門医師。兄は新穂村長後藤億衛、父は後藤与作(四三九)。ここに来る前は、横町で長三郎の並びにあった。後藤医院の前にこの場所は、末武医院(女医)で、末武医院の前は萩野医院(萩野桂三医師)で桂三の次男が能役者野村蘭作師である。
・末武医院:両津から行くと、新穂橋を渡ってすぐの山側にあった。女医で結婚して東京にわたった。上新穂善八郎の人で、父末武直吉は郡会議員であった。
「畑野」
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より





「真野」





「病院・医者と佐渡の医療事情」(金井を創った百人」発刊1周年記念講演 講師:田中圭一)
亀井省吾(blog「佐渡が島悠々」より)
田中元筑波大学教授の講演は、毎回のことであるが得るものが多い。
今回も、佐渡人の考え方、生き方についての考察が興味深かった。
徳川幕府が官軍に破れた影響が今日の佐渡人を作っているとの考察であった。
佐渡人とは
1、明治の初めに東大医学部が出来た時、教授の1/3が佐渡人だった。
2、華岡青洲には300人の弟子が居たが、うち数十人が佐渡人だったし、江戸、京都、長崎に医学留学した。理由、天領で行動の自由があり、裕福だった。
3、明治の佐渡は非常にミジメだった。
官軍の進駐で540箇所の寺は80に減らされ、明治9年、相川県が廃され新潟県に統合され、天領ゆえの交易は衰退し、回船業は滅びた。
4、明治維新から50年で団結心がなくなったのは、リーダー不在で求心力がなくなったからである。
5、新潟県は、明治末期、人口190万人の大きな県でありながら唯一大学、美術館、博物館がなかった県。そんなものは要らないと県議会の決議であった。富農は多かったのに。
6、明治40年、時の佐渡郡長深井康邦は、「私が見た佐渡」と講演し、佐渡の人間は極端に度量狭く、自負心だけが強く、寛容の精神がない、例えば、赤十字への参加が全県に比べると、25/1000が17/1000,婦人会については、15/1000が7/1000,文盲は、5/1000に対し12/1000と高く、娼妓、遊郭の類はべらぼうに多い、要は、裕福なのに公共心が欠如している、と評した。
このように、身勝手で求心力を失ったのは、藩主が居ないゆえと田中元筑波大学教授は考察している。
では、佐渡病院は何故出来たか?昭和の初め、佐渡にも貧者の医療救済運動、セツルメント運動が起こったが一年ほどで潰れた。
これに危機感を持った運動が起きた、中心は茅原鉄蔵であった。
彼は、東京に留学し帰ってきてから明治35年、産業組合、耕地整理の実践運動を奨め、北見喜宇作の産業振興などを生んだ。
この運動は、学歴はないが、中小の地主の人たち、というのが共通の特徴であった。
昭和の初めに、竹中成憲いわく、県下で預金が一番豊かなのは佐渡だが、人のためには使わないと新聞に書いた。
これを読んだ、金井の地主、本間長二は同志を募り、青年たちも立ち上がり、信用組合立佐渡病院が出来た。
彼らは、高学歴ではなかったが佐渡の現状を憂いたのである。
ちなみに、現在、県内の投書の8割は佐渡人であると。
「江戸時代佐渡の医療」(田中圭一 18回全国天領ゼミナール 平成14年8月3・4日)
「佐渡の医学史」(蒲原宏 10回全国天領ゼミナール 平成6年8月6~8日)
「新潟県の医学の歴史をたずねて」
「長谷川元良と竹中成憲-幕末・明治の科学者達-」(田中圭一講演 平成13年11月18日 新宿文化センター)
「佐渡の衛生」(山本成之助 昭和28年)
「金井」
「明治・大正の開業医たち」(『金井を創った百人』 金井町 平成12年)より



「佐和田」
『佐和田町史』(通史編Ⅱ 平成3年)より


「新穂」
『新穂村史』(昭和51年刊)より



「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂町では江戸時代に正徳、享保(一七一一~一七三五)の頃、本間万吉三代目に周行という漢方医がいた。
寛保二年(一七四二)十月の書には新穂町、順安とあり、文化・文政(1804-1827)の頃、良碩また、文政元年(一八一八)の頃浅井快甫、文政二年(一八一九)容安、良川、天保十二年(一八四一)浅井快甫、弘化(一八四四-一八四七)年玄的、安政六年(一八五九)浅井源安などの漢方医の名が見える。明治二十四年(一八九一)五月六日山王火事の原因となった私立浅井病院開業祝いの花火は蘭法医仁庵、貞吉兄弟の施設新築の時であった。この病院が開業きれると、門前市をなしたと記録に残っている。なお先に記した容安という人は、相川羽田町の杉山家から船代村の後藤五郎右工門家へ入婿した当時の名医で、文政の頃に
は当町内に宅地建物を所有して医業に従事していたものらしく、文学にもすぐれ呉山と号して詩を能くした人で、嘉永二年(一八
四九)に相川奉行所から次のような申し渡しを受けているが、嘉永四年四月、六十九才で亡くなっている。
申渡 御役所詰医師格 船代村 後 藤 容 安
其方儀医業に出精に付、先達而御役所医格申付る処其後相励、医術功者に相成殊に村方の者に夫々教諭をも加へ、貧窮の病人等には深切に療治致し既に去々卯年申は小前百姓多数のものに施薬等致す趣相聞一段之事に付御役所詰医師肝煎並申付、平生帯刀差免す
己三月十三日 在住の儀は勝手次第 右之趣可相心得事 己三月 (註=己とは嘉永二年、肝煎並はきもやきなみ)
そして明治中期頃になると眼科医荻野医院が上町で開業、続いて内科耳鼻咽喉科本間医院、内科産科婦人科長嶋医院、内科臼杵医医院、昭和に入ると内科山田医院、小児科後藤医院などの開業がみられ、歯科医では小杉、樺島の両医がそれぞれ専門医として住民の診療にあたっていたのであるが、なお、長期入院を要する患者あるいは外科的大手術を要する者は、佐渡病院あるいは新潟医大等を尋ねるよりほかはなかったので、住民の不安は解消することはできなかった。特に冬期の積雪時にはその不便と不安はひとしおであった。
そこで住民間に病院施設を要望する声が高くなり、時の村長斎藤豊氏、村議会議長本間市郎左工門氏等が中心となって、昭和二
十二年佐渡病院新穂村診療所として元本間医院跡を借家して開所されていた診療所を、発展的解消して国の補助金を得て二九三坪の村営「新穂村国民健康保険病院」を国民健康保険の事業として開設し、二十一病床を設け前記診療所長であった当町出身の新潟医科大学出の外科医本間為次先生を迎えて院長とし、外科、内科、婦人科の三科を有する病院として発足し、薬剤師一名、レントゲン技師一名、看護婦七名、事務職員四名、その他雑役者二名を置いて最新鋭の医療機関として出発したのである。
後年、数度にわたって医療器具の新設、看菱婦の増員、水洗便所、給食施設、病棟の増改築等々が行われ村民は言うに及ばず近郷町村民の利用も多く、佐渡病院につぐ国仲地区の診療施設として目覚しい活動をしてきたのであるが、昭和三十年頃からの医師不足の影響を受けて、同三十四、五年頃から短期に派遣されるインターンを以って細々と診療を続ける状態となり、一時は佐渡病院の診療所に格下げせねばならなくなったこともあり、その経営は次第に緊迫の度を加え、同四十八年遂いに佐渡病院の診療所として存続するか、村営病院として再建するかの大困難に遭遇し、与論も喧々轟々たるものがあり、しばらくは一時しのぎの施策として、元佐渡病院院長時代名医とうたわれた川口先生の個人経営に委嘱の措置をとってきたが、同医師の急死によってその後しばらくは後継者もなく、その施設は往年の姿もなく、廃屋同然の姿となってさびしくその姿を止めていたのである。
川口先生は、当地の診療に献身された功績が高く評価きれて名誉村民の名をおくられ村葬を以てその御冥福を祈ったのである。
その間、開業医も次々に他界されて、しばらくは全くの無医村の状態であった。
昭和五十一年、ようやく台湾出身の黄先生が着任されたが、五十三年二月に帰国され、五十三年四月から国立真野療養所に勤務されていた田中先生がかっての川口先生と同様の状件で着任きれて以来、村民の保健、再生、診療に日夜献身的な努力を続けられ今日に至っている。
★新穂の医院(大正15年生 土屋武氏より)
・臼木医院:一三楼と川上楼の中間辺りにあった。内科・小児科。新穂村長も務め、午前中が役場在、午後は医師となった。
・樺島医院:歯科医(女医)で夫は教員だった。場所は南線沿いの平野側で、横町に曲がる道から6軒目位。
・小杉医院:歯科医で、樺島医院の並びで数軒目畑野側。
・後藤医院:両津から行くと、新穂橋を渡ってすぐの山側にあった。後藤衛門医師。兄は新穂村長後藤億衛、父は後藤与作(四三九)。ここに来る前は、横町で長三郎の並びにあった。後藤医院の前にこの場所は、末武医院(女医)で、末武医院の前は萩野医院(萩野桂三医師)で桂三の次男が能役者野村蘭作師である。
・末武医院:両津から行くと、新穂橋を渡ってすぐの山側にあった。女医で結婚して東京にわたった。上新穂善八郎の人で、父末武直吉は郡会議員であった。
「畑野」
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より





「真野」





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