2010-09-14
平辰「決断の時」
「決断の時」(日経 「レストラン」2008年)
1940年佐渡市生まれ。大学中退後、日立製作所に入社。2年後に退職し、滅菌割り箸製造販売会社経営、洋食店店長などを経て、68年に焼き鳥店「とき」オープン。73年「庄や」、82年「やるき茶屋」を開店。独立支援制度を確立し、飛躍的に店舗数を増やす。89年に大庄を設立。2008年4月末現在、大庄グループは北海道、沖縄を除く国内に約40業態、930店舗
文=芦部 洋子
写真=山田 愼二
「怖くて怖くて」出店投げ出す
ようやく出した店は閑古鳥
「1日の売り上げ3000円だった」
「店の内装工事がドンドン進む。それを見ていると、もう、怖くて怖くて、たまらなくなってきてね……」。現在、930店舗を展開する大庄グループの総帥、平辰は、40年前に初めて自分の店を持とうとしたときの心細さを思い返していた。1967年、28歳の平は東京・赤坂、アメリカ大使館前の一等地に、和食店を開く予定だった。
「足りない資金の金策の目途が立たないんです。しかも私自身は板前経験がなく、売上予測も立てられない。家賃は月20万円──。不安で眠れない日が続いて、夢遊病者のようになってフラフラし、気がつくと不動産屋の前に立ってた」。話を聞いた不動産店は、驚きながらも相談に乗ってくれ、買い手の希望通りに内装を仕上げるというオプションを付けて店の権利を売り出してくれた。「これが680万円で売れた。支払いを済ませても280万円儲かっちゃった。これを元手に、今度は6坪の土地付きの物件を買ったんです」。
60年に大学を中退し、いくつかの職を経た後のことだった。
銭湯で背中を流して営業
「お客に“貸し”を作れ。それが接客の真髄」
この6坪の土地に、焼き鳥店「とき」を出店した。平は29歳だった。
「店を開いたらね、お客さんがいっぱい来てくれるものだと、勝手に思っていたんですよ。バンバン来てくれるんだろうなと。ところが全くお客さんが入らないんだよね」。店は“超”のつく赤字。東京の南部・池上の寂れた路地。スナックやバーが並ぶ、その一番奥。「場所も悪かった。その辺りの店で飲んだ人たちが、帰りにおしっこするから、路地がおしっこ臭いのよ」。
「売り上げは1日平均2000~3000円しかなくて、営業すればするほど赤字が増える。鶏肉はアシが早いから、売れ残った肉で作った鶏メシばっかり食べてましたよ。焼き鳥屋を甘くみていたんだね。肉を串に刺して焼けばいいんだろうと。鶏肉問屋に3週間ぐらい通って焼き鳥の作り方を習って、それで店を出しちゃった」。
お客を呼ぶ方法がわからない。そこで、「仕込みが終わると近くの銭湯に行って、入っている人の背中を片っ端から流すんです。『そこの焼き鳥屋です。今度ぜひ店に来てください』って宣伝しながら。ご近所の掃除もしました。道路に沿ってずーっと掃除しながら、あいさつして回るんです」。
写真は「庄や」1号店。(同社パンフレットより)
こうした地道な努力は、じわじわと効いてきた。1人、2人とお客が増えてきたのだ。「ひとり来てくれたら、この人をどうやってもてなすか、そのことで頭はいっぱいですよ。靴も磨いたし、酔っ払ったお客さんを自転車の後ろに乗せて家まで送って行ったりもした。すると、そのお客さんが翌日には家族連れで来てくれるんだよね。“お客さんに貸しを作る”こと。これなんだと思った。徹底して貸しを作る。借りを作っちゃ駄目。ここで接客の真髄を学びました」。
「はい! よろこんで!」のあいさつに表れる「庄や」の接客の精神は、このときに培われた。
また、「係長かなと思ったら『課長さん』、課長には『部長さん』と、ワンランク上の役職で呼ぶ。呼ばれたほうも気持ちがいいでしょ。本当に出世しちゃう人もいましたよ」。こうした平流の接客術がお客の心をつかみ、1年後には連日満席の店になっていた。
2店舗のとき、自分が保証人の独立支援制度を開始
一緒に頑張ってくれれば独立させてあげる──。
辞めていく板前を引きとめたかった
平は開店当初から1000円の日掛け預金を続けていた。「売り上げ2000円の日も歯を食いしばって積みました。徐々に掛け金を増やし、3年後には300数十万円になった。これを元手に融資を受けて、2店目を出したんです」。
マグロ、ハマチ、タイなど10種類程の刺身を盛り合わせた「大漁盛」は、約5人前で3000円。今でも「庄や」で同価格で提供している
1971年、東京・水道橋に36坪の「太平山酒蔵」を出店。「この店は魚がメイン。私は佐渡で新鮮な魚を食べて育ったから、お客さんにも美味しくて身体にいい魚をたくさん食べてもらえば喜ばれると思って。看板メニューの刺身の盛り込みは、10種の刺身を3000円という破格の安値で出して、大評判になりましたよ」。
さらに平は、築地市場の隅に積んであったアサリに目をつけた。「砂を吐かせなきゃいけないし、手間がかかるから売れないんだね。これをタダ同然で買ってきて、板前さんと一緒にいろんな料理を考えた。このとき思いついたのがアサリバターです。美味しくて身体にいいと好評でしたね」。これは今や日本中に広まっている。
店は繁盛したが、平は新たな問題に悩ませられることになる。「板前さんが辞めちゃうんですよ。ドンドン注文が入るから、早く作ってと頼むと、『俺はタコじゃねえ。手は2本しかねえよ』。その挙句に『この店には合いません。上がらせてもらいます』と、営業中の忙しい最中に包丁を片付けて帰っちゃうんだもの。イキのいいハマチが5本も6本も積んであるのに、さばく人がいない。調理師会から派遣してもらってもすぐ辞めちゃう。店のピンク電話の横に10円玉を積み上げて、調理師会に片っ端から電話して、人の手配をするのが日課でした」。
料理人が辞めることに悩み
人材確保のために独立支援
「板前の目の色が変わった」
「庄や」1号店。古民家を模した造りで、テーブル席、居間風の座敷席、接待にも使える床の間つきの個室があった(写真は、同社パンフレットより)
73年には同じ地域にさらに1店舗出店。これが「庄や」第1号店だ。71年には株式会社も設立し、平の意気はますます揚がったが、人手不足にもさらに拍車がかかった。
「本当に困りきっちゃって。板前さんと膝を突き合わせて話し合ったんです。これからどうしたいの? 将来の目標は何? と。すると、誰もが自分の店を持ちたいという。そのために、今は修業しているんだと。そこで、私はこう話した。『腕が良くてもお客さんが来てくれるとは限らないよ。マーケットの問題やマネジメントの問題があるでしょ。もし、私と一緒に頑張ってくれるなら、あなたを支援して独立させてあげよう』と。一人ひとり説得したけど、最初は信用してもらえませんでした」。
有言実行の平は、75年から独立者を出していった。しかし今度は「親戚、友人、同郷だったから、縁故で独立できたんだ」と噂された。だが4人目は違った。「新聞広告を見て入社した小森谷さんが独立したときに初めて、もしかしたら俺たちも独立できるかもしれない、という空気が流れた。みんなの目の色が変わってきました」。
新聞の求人募集欄を見て小森谷雅勝が入社したのは75年、30歳のときだった。「高校を出てから10年ほど料理人の修業をして、結婚もしたことだし、自分の店が持ちたかったんです。物件を探し歩いたけど資金が足りなかった。そこで、独立支援してくれるという『庄や』に入社したんです」。
あいさつの訓練に始まり、新店舗のチーフなどを担当し、入社3年後にいよいよ独立。東京・神谷町に店を出した。「身内に借りた800万円を元手に、社長に連帯保証人になってもらい、銀行からお金を借りることができた。自分の店がオープンした日の感激は絶対に忘れません」。開店当日から毎日満席、これが10年間続いた。「社長のマーケティングがよかったんですよ。周りに40~50人も入れる店はうちしかなかったから。借りた800万円は3カ月で返しました。板前修業だけで、接客もできずに開店していたら、絶対に成功しなかったでしょう。厳しく指導してもらって、本当に良かった」。
小森谷は2店舗を20余年経営した後、故郷の福島県に戻り、トマト栽培を学んだ。現在は、農業の傍ら、地元野菜で作った料理を提供する店を経営。トマトは大庄にも納入している。
平は81年に、開店資金の融資を受けるための協同組合を設立。「私の保証では、それ以上銀行からお金が借りられなくなっちゃった。仕方がないから、農業共同組合を参考に組合を作って、3000万円まで無担保で借りられるようにした。これが今に続く独立制度です」。現在は融資の上限は5000万円。他に例のない制度だった。
人材確保に苦労した経験から、教育の場の必要性を痛感した平は、78年に社内研修センター「日本料理専門学校」開設、85年には労働省(現・厚生労働省)認可の「東京都調理高等職業訓練校」を開校。現在に生きるこれらのシステムはすべて、第1号店のオープンから10数年の間に構築したものだ。
89年にはM&Aにも乗り出し、多業態展開を進めた。今後も推進していく意向だが、「会社を買うときに見るのは、うちと合うか合わないか。利益追求主義の会社とは合わない。お客さんのことを家族のように考えていなきゃ駄目。それは、店と経営内容を見ればすぐわかります」。
さらに、生産、物流、施設設計・建築から、食材の安全性を検査する科学研究所まで、一貫したネットワークを構築した。「うちは“日本の台所”。予防医学の見地で料理を開発・提供して、日本人を健康にしたい。お母さんが子供の健康を考えて食事を作るように、お客さんを健康にする食を提供したいですね」。家庭に“お母さん”が不在になってきている今、それを担いたいと熱く語る。
そして、「小森谷さんが実践するような、農業と外食が一体になった形は私の理想。今後目指したいモデルです」。グループの、さらに日本の食の将来を話す平の表情には、慈愛に満ちた笑みがあふれていた。(文中敬称略)
1940年佐渡市生まれ。大学中退後、日立製作所に入社。2年後に退職し、滅菌割り箸製造販売会社経営、洋食店店長などを経て、68年に焼き鳥店「とき」オープン。73年「庄や」、82年「やるき茶屋」を開店。独立支援制度を確立し、飛躍的に店舗数を増やす。89年に大庄を設立。2008年4月末現在、大庄グループは北海道、沖縄を除く国内に約40業態、930店舗
文=芦部 洋子
写真=山田 愼二
「怖くて怖くて」出店投げ出す
ようやく出した店は閑古鳥
「1日の売り上げ3000円だった」
「店の内装工事がドンドン進む。それを見ていると、もう、怖くて怖くて、たまらなくなってきてね……」。現在、930店舗を展開する大庄グループの総帥、平辰は、40年前に初めて自分の店を持とうとしたときの心細さを思い返していた。1967年、28歳の平は東京・赤坂、アメリカ大使館前の一等地に、和食店を開く予定だった。
「足りない資金の金策の目途が立たないんです。しかも私自身は板前経験がなく、売上予測も立てられない。家賃は月20万円──。不安で眠れない日が続いて、夢遊病者のようになってフラフラし、気がつくと不動産屋の前に立ってた」。話を聞いた不動産店は、驚きながらも相談に乗ってくれ、買い手の希望通りに内装を仕上げるというオプションを付けて店の権利を売り出してくれた。「これが680万円で売れた。支払いを済ませても280万円儲かっちゃった。これを元手に、今度は6坪の土地付きの物件を買ったんです」。
60年に大学を中退し、いくつかの職を経た後のことだった。
銭湯で背中を流して営業
「お客に“貸し”を作れ。それが接客の真髄」
この6坪の土地に、焼き鳥店「とき」を出店した。平は29歳だった。
「店を開いたらね、お客さんがいっぱい来てくれるものだと、勝手に思っていたんですよ。バンバン来てくれるんだろうなと。ところが全くお客さんが入らないんだよね」。店は“超”のつく赤字。東京の南部・池上の寂れた路地。スナックやバーが並ぶ、その一番奥。「場所も悪かった。その辺りの店で飲んだ人たちが、帰りにおしっこするから、路地がおしっこ臭いのよ」。
「売り上げは1日平均2000~3000円しかなくて、営業すればするほど赤字が増える。鶏肉はアシが早いから、売れ残った肉で作った鶏メシばっかり食べてましたよ。焼き鳥屋を甘くみていたんだね。肉を串に刺して焼けばいいんだろうと。鶏肉問屋に3週間ぐらい通って焼き鳥の作り方を習って、それで店を出しちゃった」。
お客を呼ぶ方法がわからない。そこで、「仕込みが終わると近くの銭湯に行って、入っている人の背中を片っ端から流すんです。『そこの焼き鳥屋です。今度ぜひ店に来てください』って宣伝しながら。ご近所の掃除もしました。道路に沿ってずーっと掃除しながら、あいさつして回るんです」。
写真は「庄や」1号店。(同社パンフレットより)
こうした地道な努力は、じわじわと効いてきた。1人、2人とお客が増えてきたのだ。「ひとり来てくれたら、この人をどうやってもてなすか、そのことで頭はいっぱいですよ。靴も磨いたし、酔っ払ったお客さんを自転車の後ろに乗せて家まで送って行ったりもした。すると、そのお客さんが翌日には家族連れで来てくれるんだよね。“お客さんに貸しを作る”こと。これなんだと思った。徹底して貸しを作る。借りを作っちゃ駄目。ここで接客の真髄を学びました」。
「はい! よろこんで!」のあいさつに表れる「庄や」の接客の精神は、このときに培われた。
また、「係長かなと思ったら『課長さん』、課長には『部長さん』と、ワンランク上の役職で呼ぶ。呼ばれたほうも気持ちがいいでしょ。本当に出世しちゃう人もいましたよ」。こうした平流の接客術がお客の心をつかみ、1年後には連日満席の店になっていた。
2店舗のとき、自分が保証人の独立支援制度を開始
一緒に頑張ってくれれば独立させてあげる──。
辞めていく板前を引きとめたかった
平は開店当初から1000円の日掛け預金を続けていた。「売り上げ2000円の日も歯を食いしばって積みました。徐々に掛け金を増やし、3年後には300数十万円になった。これを元手に融資を受けて、2店目を出したんです」。
マグロ、ハマチ、タイなど10種類程の刺身を盛り合わせた「大漁盛」は、約5人前で3000円。今でも「庄や」で同価格で提供している
1971年、東京・水道橋に36坪の「太平山酒蔵」を出店。「この店は魚がメイン。私は佐渡で新鮮な魚を食べて育ったから、お客さんにも美味しくて身体にいい魚をたくさん食べてもらえば喜ばれると思って。看板メニューの刺身の盛り込みは、10種の刺身を3000円という破格の安値で出して、大評判になりましたよ」。
さらに平は、築地市場の隅に積んであったアサリに目をつけた。「砂を吐かせなきゃいけないし、手間がかかるから売れないんだね。これをタダ同然で買ってきて、板前さんと一緒にいろんな料理を考えた。このとき思いついたのがアサリバターです。美味しくて身体にいいと好評でしたね」。これは今や日本中に広まっている。
店は繁盛したが、平は新たな問題に悩ませられることになる。「板前さんが辞めちゃうんですよ。ドンドン注文が入るから、早く作ってと頼むと、『俺はタコじゃねえ。手は2本しかねえよ』。その挙句に『この店には合いません。上がらせてもらいます』と、営業中の忙しい最中に包丁を片付けて帰っちゃうんだもの。イキのいいハマチが5本も6本も積んであるのに、さばく人がいない。調理師会から派遣してもらってもすぐ辞めちゃう。店のピンク電話の横に10円玉を積み上げて、調理師会に片っ端から電話して、人の手配をするのが日課でした」。
料理人が辞めることに悩み
人材確保のために独立支援
「板前の目の色が変わった」
「庄や」1号店。古民家を模した造りで、テーブル席、居間風の座敷席、接待にも使える床の間つきの個室があった(写真は、同社パンフレットより)
73年には同じ地域にさらに1店舗出店。これが「庄や」第1号店だ。71年には株式会社も設立し、平の意気はますます揚がったが、人手不足にもさらに拍車がかかった。
「本当に困りきっちゃって。板前さんと膝を突き合わせて話し合ったんです。これからどうしたいの? 将来の目標は何? と。すると、誰もが自分の店を持ちたいという。そのために、今は修業しているんだと。そこで、私はこう話した。『腕が良くてもお客さんが来てくれるとは限らないよ。マーケットの問題やマネジメントの問題があるでしょ。もし、私と一緒に頑張ってくれるなら、あなたを支援して独立させてあげよう』と。一人ひとり説得したけど、最初は信用してもらえませんでした」。
有言実行の平は、75年から独立者を出していった。しかし今度は「親戚、友人、同郷だったから、縁故で独立できたんだ」と噂された。だが4人目は違った。「新聞広告を見て入社した小森谷さんが独立したときに初めて、もしかしたら俺たちも独立できるかもしれない、という空気が流れた。みんなの目の色が変わってきました」。
新聞の求人募集欄を見て小森谷雅勝が入社したのは75年、30歳のときだった。「高校を出てから10年ほど料理人の修業をして、結婚もしたことだし、自分の店が持ちたかったんです。物件を探し歩いたけど資金が足りなかった。そこで、独立支援してくれるという『庄や』に入社したんです」。
あいさつの訓練に始まり、新店舗のチーフなどを担当し、入社3年後にいよいよ独立。東京・神谷町に店を出した。「身内に借りた800万円を元手に、社長に連帯保証人になってもらい、銀行からお金を借りることができた。自分の店がオープンした日の感激は絶対に忘れません」。開店当日から毎日満席、これが10年間続いた。「社長のマーケティングがよかったんですよ。周りに40~50人も入れる店はうちしかなかったから。借りた800万円は3カ月で返しました。板前修業だけで、接客もできずに開店していたら、絶対に成功しなかったでしょう。厳しく指導してもらって、本当に良かった」。
小森谷は2店舗を20余年経営した後、故郷の福島県に戻り、トマト栽培を学んだ。現在は、農業の傍ら、地元野菜で作った料理を提供する店を経営。トマトは大庄にも納入している。
平は81年に、開店資金の融資を受けるための協同組合を設立。「私の保証では、それ以上銀行からお金が借りられなくなっちゃった。仕方がないから、農業共同組合を参考に組合を作って、3000万円まで無担保で借りられるようにした。これが今に続く独立制度です」。現在は融資の上限は5000万円。他に例のない制度だった。
人材確保に苦労した経験から、教育の場の必要性を痛感した平は、78年に社内研修センター「日本料理専門学校」開設、85年には労働省(現・厚生労働省)認可の「東京都調理高等職業訓練校」を開校。現在に生きるこれらのシステムはすべて、第1号店のオープンから10数年の間に構築したものだ。
89年にはM&Aにも乗り出し、多業態展開を進めた。今後も推進していく意向だが、「会社を買うときに見るのは、うちと合うか合わないか。利益追求主義の会社とは合わない。お客さんのことを家族のように考えていなきゃ駄目。それは、店と経営内容を見ればすぐわかります」。
さらに、生産、物流、施設設計・建築から、食材の安全性を検査する科学研究所まで、一貫したネットワークを構築した。「うちは“日本の台所”。予防医学の見地で料理を開発・提供して、日本人を健康にしたい。お母さんが子供の健康を考えて食事を作るように、お客さんを健康にする食を提供したいですね」。家庭に“お母さん”が不在になってきている今、それを担いたいと熱く語る。
そして、「小森谷さんが実践するような、農業と外食が一体になった形は私の理想。今後目指したいモデルです」。グループの、さらに日本の食の将来を話す平の表情には、慈愛に満ちた笑みがあふれていた。(文中敬称略)
スポンサーサイト
2010-09-13
竹内洋「両津勘吉で見る歴史の彩」
「両津勘吉で見る歴史の彩(1)」
2011/8/2(火) 午後 11:54無題漫画、コミック ナイス!0 両津勘吉で見る歴史の彩
Seibun Satow
Aug, 02. 2011
「学びは『今』と『ここ』に焦眉の時論的問題には無力かもしれない。そうした無力性が反知性主義というニヒリズムや安易なポピュリズム、高踏的衒学趣味という知のデカダンスへの布石となることなく、学びという迂回こそが世界と人生の悲惨と苦悩と困難を切り開いていく根源的な力なのだという希望をもちつづけたいものである」。
竹内洋『教育への信頼』
第1章 両津出身の女性看護師
今の彼にはその記憶はほんのわずかしか残っていません。けれども、そこだけ非常に鮮明です。
1976年、夏休みを間近に控えた暑い日の夕方、岩手県にある北上市立南小学校の5年生が帰宅する途中の出来事です。大堤の酒屋の傍だったと思いますが、定かではありません。捨てられていた数冊のマンガ雑誌の中から『週刊少年ジャンプ』のある号を取り出します。そのマンガ家志望の少年は『週刊少年チャンピオン』の方が好きでしたから、それは偶然のことです。ページを開くと、その『チャンピオン』で人気のマンガ家と似た名前の「山止たつひこ」による『こちら葛飾区亀有公園前派出所』というタイトルの読切マンガが目にとまります。一瞬のうちに惹きこまれてしまいます。『いなかっぺ大将』で切り開いた劇画の絵でギャグ・マンガを描く川崎のぼるの後継者に感じられます。読み終わるや否や、こう確信します。「この人には才能がある。きっとすごいマンガ家になる」。
佐藤清文という文芸批評家は、そうした自負もあり、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を略して呼ぶことはありません。必ず『こちら葛飾区亀有公園前派出所』と言います。
もっとも、その後の1677年に公開されたせんだみつお主演の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の映画化に関してはまったく評価していません。劇画の絵でギャグ・マンガを展開する試みは、映画で言うと、『仁義なき戦い』シリーズで鳴らした菅原文太がそのままの演技で喜劇映画『トラック野郎』シリーズを演じていたのに相当します。マンガ史ならびに映画史を理解していれば、この手法を採用して当然です。1978年に岡本喜八監督が制作した『ダイナマイトどんどん』のような作品に仕上がらなければおかしいのです。それはヤクザの抗争を扱い、『仁義なき戦い』ばりの演技で展開される菅原文太主演の完璧な喜劇映画です。また、1980年公開の『グライング・ハイ』でレスリー・ニールセンがやはりシリアスな演技でコメディを演じ、その後、彼の芸風となっています。さらに、80年代に入ると、大映テレビがシリアスな配役・演技を追及していくと、コメディに到達するという見事な逆説を示しています。こうした映像の流れにあって、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のマンガ史上の意義が映画化に反映されていないというのは、お話になりません。
浅草出身の主人公の姓が「両津」というがいささか不思議です。両津は佐渡島の地名だからです。連載がまだ浅かった頃、派出所内ですき焼きパーティーをするシーンがあります。そこで両津がつくるのは土鍋を使った寄せ鍋風のすき焼きで、東京の一般的なすき焼きと違うのです。これは、新潟を含む東日本でところどころ見られる習慣です。実際、新潟県出身の高橋留美子の『うる星やつら』や『めぞん一刻』でも同タイプのすき焼きが描かれています。そのため、作者ないしその親世代が新潟県出身なのだろうと若き佐藤清文は勝手に思いこんでいます。
しかし、その後、単行本内の作者による解説を読み、まったくの誤解だったと知ります。「両津」の由来はデビュー前の作者が入院した際に出会った女性看護師の出身地が新潟県両津市(現佐渡市両津)だったからです。これはたんなる偶然ですが、両津出身の女性看護師からバイオレンス・ポリスマンの誕生は、佐渡出身の竹内洋京都大学名誉教授による『学校が輝いたとき』で描かれた島の戦後史を読むとき、歴史の彩というものを感じずにいられません。両津出身の看護師という存在はその町の戦後の原点を具現しているからです。
第2章 赤ん坊の地獄と米百俵
佐渡島は能舞台が多いことで知られています。これには世阿弥が流されたことも無縁ではありません。佐渡島は、古くから、政治犯の流刑地で、その能の大成者の他にも、順徳天皇や京極為兼、日野資朝、日蓮などが配流され、それと関連してさまざまな人が訪れています。そうした人の流れは都から洗練された文化をももたらし、歴史的に独特の発展を遂げています。
ただし、そうした伝統は金北山と大地山を結ぶ線の西側に集中しています。この西佐渡に比して、東佐渡はその貴族的文化波及も乏しく、非常に貧しい地域です。戦前、佐渡には旧制中学校2、農業学校2、高等女学校3の計7校も中等教育機関が設置され、島の規模を考えれば、非常に充実しています。ところが、そのすべてが西佐渡にあり、東佐渡は初等教育機関があるだけです。ここからも東西の格差の一端がうかがわれるでしょう。両津は、その名が示す通り、この東佐渡に属する漁師町で、人口密集地です。
この教育後進地域で、戦後すぐに高等女学校創設の運動が地元の名望家たちの間で高まります。発端は領津町の乳児死亡率の高さです。1933年の乳児死亡率の全国平均は1000人当たり121人です。一方、両津は216人と全国平均の倍であり、新潟県の町としてワーストです。戦前、両津町は「赤ん坊の地獄」と揶揄されます。この最大の原因が女性たちの衛生知識の低さです。実態を把握しようと調査を始めた町の小児科医は町民の反応に絶句します。産むだけ産んで、死んだら死んだでそれでいいではないかという意識だったからです。こうした通念を教育を通じて変えない限り、両津町の乳児死亡率の改善はありえないと町長を始めとする名望家たちは確信します。西佐渡に、確かに、高等女学校が3校ありますが、東佐渡の女子には遠すぎます。下宿をするか、バス通学をしなければなりません。それは貧しい一般家庭にとって大きな負担で、足で通える範囲に高等女学校がなければなりません。名望家たちも高等女学校を開校さえすれば、みんな通うようになると楽観視していません。最初は少数であっても、その人たちが刺激となって、徐々に進学率が上がってくれればと考えています。町議会も設立案を可決、敗戦後の混乱の中で資金を集め、高等女学校設置を国に働きかけます。
1946年3月、町立両津高等女学校の設置が許可されます。5月1日に入学式が挙行され、新入生110名、選任教諭3名、他に他校から出張教諭による授業嘱託でスタートします。ところが、11月に公職追放により町長がパージされてしまいます。1947年4月、新憲法施行に備えて、首長の公選制が始まります。ちょうど学制も旧制から新制へと切り替わる時期でもあります。両津高等女学校を新制両津高等学校へと移行すると公約を掲げた柴田正一郎が両津町長に当選します。弱冠38歳で、民主日本の門出としてふさわしい人選です。
ところが、当選の二日後の4月17日、両津町が大火に見舞われ、町の半分が消失してしまうのです。国中が赤字の状態であり、人口9000人ほどのこの町も例外ではなく、そこにこの災害からの復旧・復興が加わります。もともと教育に意義を見出していない人が多い地域でもあり、公約凍結の世論が高まります。庶民とは縁がない新制高等学校など無駄であり、新制中学校で十分、「ブルジョアのための高校設置反対」というビラまで出回っています。
けれども、若い力に迷いはありません。隣の賀茂村の浜野喜作村長と連携し、青年町長は自らの公約実現に邁進します。町民を説得するための公聴会の開催を決断するのです。反対論に流されがちな町民を前に、医師が町の乳児死亡率の高さとそれを改善するための教育の必要性を説き、助役や町議会議長も、民主日本の建設には新しい人材育成が不可欠であると訴えます。最後に、柴田町長が壇上に立ち、山本有三の戯曲『米百俵』についてかたり始めるのです。
山本有三は戦前から広く読まれた作家で、加えて、これは長岡藩で起きた実話を元にしており、町民にとっても馴染み深いのです。戊辰戦争により窮乏に陥った長岡藩を見かねた隣接の三根山藩が米百俵を支援します。餓えに苦しんでいた藩士たちはその分配に期待しましたが、家老小林虎三郎はこれを基金に学校創設を決断するのです。「人物をつくれ、教育こそ人間形成、長岡復興の要諦である」と反対論を説得します。こうして設立された国漢学校は、後に坂之上小学校、旧制長岡中学校へと至ります。多くの人材を輩出し、その中には小野塚喜平次東京帝国大学総長や山本五十六連合艦隊司令長官がいます。この戯曲を紹介した後、柴田町長は演説を次のように締めくくります。「今、戦争にヤブレ、重ねて両津は大火に襲われ、疲弊の極みに達している。この時こそ『米百俵』の精神をわれわれは学ばねばならぬ」。
2001年、当時の小泉純一郎首相が『米百俵』に言及した国会演説を行っています。ただ、それはほぼ「臥薪嘗胆」の意味で使われ、恣意的な曲解にすぎません。小泉政権下、教育予算が増えたことはありません。
演説の後、町民から拍手喝采が沸き起こります。もう心は決まっています。翌年、両津町加茂村組合立両津高等学校が発足するのです。
「両津勘吉で見る歴史の彩(2)」
2011/8/2(火) 午後 11:56無題漫画、コミック ナイス!0 第3章 古今東西、天下一等の学園の建設!
普通科3学級で開校したものの、資金難のため、校舎はバラック、トイレに至っては地面に穴を掘ってむしろで囲っただけという有様です。ただし、教員の人材には恵まれています。戦時中は疎開、戦後になると、食糧難・就職難から佐渡出身者や縁のある人たちが島に渡ってきます。それぞれ民主日本建設のための人材育成の使命感に燃えています。けれども、生徒集めには苦労しています。当初の反対論とは逆に、ブルジョアの子弟は伝統のある西佐渡の高校に進学します。そこに通えない事情を抱えた中学生が両津高校に入学するわけです。そのため、この高校は「オカラ学校」と揶揄されています。
むしろトイレの実態が教育庁の知るところとなり、校長が呼び出され、改善が要求されます。女子生徒もいるというのに、人権無視ではないかというわけです。そんなこともあり、49年、白山に新校舎が建設されるのです。
1950年、菊池勘左ヱ門が2代目校長に就任します。菊池勘左エ門は両津出身ですが、富山県の教育界の実力者として知られた人物です。貝類の研究者でもあり、新種を12種も発見し、そのうちユキノツノガイ・ハブタエツノガイ・トヤマツノガイ・ロウソクツノガイの4種を自ら新種記載しています。その大物が前年に郷里に戻っていたところ、両津高校の新校長を依頼されています。着任後、菊池校長は、「古今東西、天下一等の学園の建設!」をスローガンに掲げます。もともと熱心な教師がそろっていたこともあり、就職志望の生徒には、簿記検定三級の合格を目標とした教科書を手作りし、徐々に増えてきた進学志望者にはガリ版刷りのテストを繰り返しています。さらに、生徒たちには、君たちは両津高校の先祖であり、その実績によって子孫の運命が左右されると説いています。成果は次第に現れ、後に設置された商業科の生徒の70%が合格するようになり、普通科からも地元の新潟大を始めとして東大や京大、東北大、早稲田、慶応などいわゆる難関校への進学も続々現われていきます。
教育のもたらす変化は時間がかかります。政治や経済のようなスピードはありません。1961年のラジオ聴衆加入普及率は、新潟県が58.0%、佐渡郡の平均が46.1%であるのに対し、両津は41.1%です。向上したいと望み、自分でものを考えるためには、より多様な情報が必要です。ラジオを聴くというのもその一つです。両津は、この時点でも、まだ開明の意義が内部で共有されていたわけでは必ずしもありません。教育には長い眼が不可欠です。舟木一夫の『高校三年生』の歌声がラジオから流れる63年、団塊の世代が高校に入学を始め、それが大きな転機となっていきます。
一方で、当初の目的だった乳児死亡率の低下は、劇的に現れます。50年代、両津の乳児死亡率は全国平均レベルでほぼ維持し、1962年からは全国平均を一貫して下回っています。ちなみに、62年の乳児死亡率は全国平均が1000人当たり26.4人に対して、両津のそれは17.9人です。その30年前は216.3人だったことを思えば、まさに奇跡的です。実は、小児科医が両津高校の孔子として公衆衛生を説くのみならず、校舎に地域の女性を招き、新生児や乳幼児の健康診断・育児指導を行っているのです。こうした環境の中で、乳児死亡率は飛躍的に下がっていきます。「赤ん坊の地獄」はこうして消えているのです。
第4章 社会のナビゲーター
こうした経緯を見てくると、両津出身の女性看護師という存在に大きな意義を秘めていることがわかるでしょう。両津の戦後を凝縮しているとさえ言えます。乳児死亡率を下げるために、女性への健康に関する知識・意識を高めることが両津の戦後の出発点です。両津で生まれた女性がこうした状況の中で育ち、学び、看護師となって、秋本治と出会うのです。それは、確かに、偶然です。けれども、背後にある両津の歴史が彼女を看護師にさせた一つの理由であったことは否定できません。
しかも、それがバイオレンス・ポリスマンの姓に借用されるというのも、偶然ですが、何と言う歴史の彩かと思わずにいられません。かつて「両津もんは向こう気ばっかり強くて教養がない」と嘲られています。まさに「始末書の両さん」はそれを具現化したような人物です。新しき両津が生み出した女性から古き両津が復活するのです。
思いつきや思いこみに基づき、たんにその不備だけが目立つような作品の方が多いことでしょう。まったくの偶然から誕生した「両津勘吉」が、実は、歴史の彩を秘めているというのは表現作品において数少ない例外かもしれません。けれども、偶然から世界の渥美が見えてくることは、『こちら葛飾区亀有公園前』の方法と相通じるのです。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の特徴は解剖学的・百科全書的方法です。ルーズソックスが作品に登場する際、それは決して小道具や口実として扱われません。ルーズソックスがどういうもので、いかなる種類があり、どんな特徴があるかが詳細に言及されるのです。対象が何であり、何でありうるかが物語られます。定義が提示され、構造と携帯に基づいて分類されるのです。対象は解剖されて、百科全書的知識として明示化され、作品の中でそこから見えてくる社会が展開されていきます。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の真の主人公は社会です。両さんは、むしろ、ナビゲーターです。作品の最初の方で偶然の出会いがあり、それをきっかけに固有の秩序を持った社会が顕在化します。読者は両さんに連れられて、そのゾーンを体験するのです。
「両津勘吉」は確かに偶然の産物です。けれども、それは両津の戦後史のナビゲーターの役割を果たしています。偶然にも、作品と相通じます。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を映画化する際には、こうした特徴を反映させる必要があるでしょう。これほど社会の厚みを明示してくれる作品もめったにありません。偶然から思わぬ世界が見えてくるような映画でなければ、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を冠したところで、その名に傷をつけるだけというものです。
〈了〉
・参照文献
竹内洋、『改訂版学校システム論』、放送大学教育振興会、2007年
2011/8/2(火) 午後 11:54無題漫画、コミック ナイス!0 両津勘吉で見る歴史の彩
Seibun Satow
Aug, 02. 2011
「学びは『今』と『ここ』に焦眉の時論的問題には無力かもしれない。そうした無力性が反知性主義というニヒリズムや安易なポピュリズム、高踏的衒学趣味という知のデカダンスへの布石となることなく、学びという迂回こそが世界と人生の悲惨と苦悩と困難を切り開いていく根源的な力なのだという希望をもちつづけたいものである」。
竹内洋『教育への信頼』
第1章 両津出身の女性看護師
今の彼にはその記憶はほんのわずかしか残っていません。けれども、そこだけ非常に鮮明です。
1976年、夏休みを間近に控えた暑い日の夕方、岩手県にある北上市立南小学校の5年生が帰宅する途中の出来事です。大堤の酒屋の傍だったと思いますが、定かではありません。捨てられていた数冊のマンガ雑誌の中から『週刊少年ジャンプ』のある号を取り出します。そのマンガ家志望の少年は『週刊少年チャンピオン』の方が好きでしたから、それは偶然のことです。ページを開くと、その『チャンピオン』で人気のマンガ家と似た名前の「山止たつひこ」による『こちら葛飾区亀有公園前派出所』というタイトルの読切マンガが目にとまります。一瞬のうちに惹きこまれてしまいます。『いなかっぺ大将』で切り開いた劇画の絵でギャグ・マンガを描く川崎のぼるの後継者に感じられます。読み終わるや否や、こう確信します。「この人には才能がある。きっとすごいマンガ家になる」。
佐藤清文という文芸批評家は、そうした自負もあり、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を略して呼ぶことはありません。必ず『こちら葛飾区亀有公園前派出所』と言います。
もっとも、その後の1677年に公開されたせんだみつお主演の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の映画化に関してはまったく評価していません。劇画の絵でギャグ・マンガを展開する試みは、映画で言うと、『仁義なき戦い』シリーズで鳴らした菅原文太がそのままの演技で喜劇映画『トラック野郎』シリーズを演じていたのに相当します。マンガ史ならびに映画史を理解していれば、この手法を採用して当然です。1978年に岡本喜八監督が制作した『ダイナマイトどんどん』のような作品に仕上がらなければおかしいのです。それはヤクザの抗争を扱い、『仁義なき戦い』ばりの演技で展開される菅原文太主演の完璧な喜劇映画です。また、1980年公開の『グライング・ハイ』でレスリー・ニールセンがやはりシリアスな演技でコメディを演じ、その後、彼の芸風となっています。さらに、80年代に入ると、大映テレビがシリアスな配役・演技を追及していくと、コメディに到達するという見事な逆説を示しています。こうした映像の流れにあって、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のマンガ史上の意義が映画化に反映されていないというのは、お話になりません。
浅草出身の主人公の姓が「両津」というがいささか不思議です。両津は佐渡島の地名だからです。連載がまだ浅かった頃、派出所内ですき焼きパーティーをするシーンがあります。そこで両津がつくるのは土鍋を使った寄せ鍋風のすき焼きで、東京の一般的なすき焼きと違うのです。これは、新潟を含む東日本でところどころ見られる習慣です。実際、新潟県出身の高橋留美子の『うる星やつら』や『めぞん一刻』でも同タイプのすき焼きが描かれています。そのため、作者ないしその親世代が新潟県出身なのだろうと若き佐藤清文は勝手に思いこんでいます。
しかし、その後、単行本内の作者による解説を読み、まったくの誤解だったと知ります。「両津」の由来はデビュー前の作者が入院した際に出会った女性看護師の出身地が新潟県両津市(現佐渡市両津)だったからです。これはたんなる偶然ですが、両津出身の女性看護師からバイオレンス・ポリスマンの誕生は、佐渡出身の竹内洋京都大学名誉教授による『学校が輝いたとき』で描かれた島の戦後史を読むとき、歴史の彩というものを感じずにいられません。両津出身の看護師という存在はその町の戦後の原点を具現しているからです。
第2章 赤ん坊の地獄と米百俵
佐渡島は能舞台が多いことで知られています。これには世阿弥が流されたことも無縁ではありません。佐渡島は、古くから、政治犯の流刑地で、その能の大成者の他にも、順徳天皇や京極為兼、日野資朝、日蓮などが配流され、それと関連してさまざまな人が訪れています。そうした人の流れは都から洗練された文化をももたらし、歴史的に独特の発展を遂げています。
ただし、そうした伝統は金北山と大地山を結ぶ線の西側に集中しています。この西佐渡に比して、東佐渡はその貴族的文化波及も乏しく、非常に貧しい地域です。戦前、佐渡には旧制中学校2、農業学校2、高等女学校3の計7校も中等教育機関が設置され、島の規模を考えれば、非常に充実しています。ところが、そのすべてが西佐渡にあり、東佐渡は初等教育機関があるだけです。ここからも東西の格差の一端がうかがわれるでしょう。両津は、その名が示す通り、この東佐渡に属する漁師町で、人口密集地です。
この教育後進地域で、戦後すぐに高等女学校創設の運動が地元の名望家たちの間で高まります。発端は領津町の乳児死亡率の高さです。1933年の乳児死亡率の全国平均は1000人当たり121人です。一方、両津は216人と全国平均の倍であり、新潟県の町としてワーストです。戦前、両津町は「赤ん坊の地獄」と揶揄されます。この最大の原因が女性たちの衛生知識の低さです。実態を把握しようと調査を始めた町の小児科医は町民の反応に絶句します。産むだけ産んで、死んだら死んだでそれでいいではないかという意識だったからです。こうした通念を教育を通じて変えない限り、両津町の乳児死亡率の改善はありえないと町長を始めとする名望家たちは確信します。西佐渡に、確かに、高等女学校が3校ありますが、東佐渡の女子には遠すぎます。下宿をするか、バス通学をしなければなりません。それは貧しい一般家庭にとって大きな負担で、足で通える範囲に高等女学校がなければなりません。名望家たちも高等女学校を開校さえすれば、みんな通うようになると楽観視していません。最初は少数であっても、その人たちが刺激となって、徐々に進学率が上がってくれればと考えています。町議会も設立案を可決、敗戦後の混乱の中で資金を集め、高等女学校設置を国に働きかけます。
1946年3月、町立両津高等女学校の設置が許可されます。5月1日に入学式が挙行され、新入生110名、選任教諭3名、他に他校から出張教諭による授業嘱託でスタートします。ところが、11月に公職追放により町長がパージされてしまいます。1947年4月、新憲法施行に備えて、首長の公選制が始まります。ちょうど学制も旧制から新制へと切り替わる時期でもあります。両津高等女学校を新制両津高等学校へと移行すると公約を掲げた柴田正一郎が両津町長に当選します。弱冠38歳で、民主日本の門出としてふさわしい人選です。
ところが、当選の二日後の4月17日、両津町が大火に見舞われ、町の半分が消失してしまうのです。国中が赤字の状態であり、人口9000人ほどのこの町も例外ではなく、そこにこの災害からの復旧・復興が加わります。もともと教育に意義を見出していない人が多い地域でもあり、公約凍結の世論が高まります。庶民とは縁がない新制高等学校など無駄であり、新制中学校で十分、「ブルジョアのための高校設置反対」というビラまで出回っています。
けれども、若い力に迷いはありません。隣の賀茂村の浜野喜作村長と連携し、青年町長は自らの公約実現に邁進します。町民を説得するための公聴会の開催を決断するのです。反対論に流されがちな町民を前に、医師が町の乳児死亡率の高さとそれを改善するための教育の必要性を説き、助役や町議会議長も、民主日本の建設には新しい人材育成が不可欠であると訴えます。最後に、柴田町長が壇上に立ち、山本有三の戯曲『米百俵』についてかたり始めるのです。
山本有三は戦前から広く読まれた作家で、加えて、これは長岡藩で起きた実話を元にしており、町民にとっても馴染み深いのです。戊辰戦争により窮乏に陥った長岡藩を見かねた隣接の三根山藩が米百俵を支援します。餓えに苦しんでいた藩士たちはその分配に期待しましたが、家老小林虎三郎はこれを基金に学校創設を決断するのです。「人物をつくれ、教育こそ人間形成、長岡復興の要諦である」と反対論を説得します。こうして設立された国漢学校は、後に坂之上小学校、旧制長岡中学校へと至ります。多くの人材を輩出し、その中には小野塚喜平次東京帝国大学総長や山本五十六連合艦隊司令長官がいます。この戯曲を紹介した後、柴田町長は演説を次のように締めくくります。「今、戦争にヤブレ、重ねて両津は大火に襲われ、疲弊の極みに達している。この時こそ『米百俵』の精神をわれわれは学ばねばならぬ」。
2001年、当時の小泉純一郎首相が『米百俵』に言及した国会演説を行っています。ただ、それはほぼ「臥薪嘗胆」の意味で使われ、恣意的な曲解にすぎません。小泉政権下、教育予算が増えたことはありません。
演説の後、町民から拍手喝采が沸き起こります。もう心は決まっています。翌年、両津町加茂村組合立両津高等学校が発足するのです。
「両津勘吉で見る歴史の彩(2)」
2011/8/2(火) 午後 11:56無題漫画、コミック ナイス!0 第3章 古今東西、天下一等の学園の建設!
普通科3学級で開校したものの、資金難のため、校舎はバラック、トイレに至っては地面に穴を掘ってむしろで囲っただけという有様です。ただし、教員の人材には恵まれています。戦時中は疎開、戦後になると、食糧難・就職難から佐渡出身者や縁のある人たちが島に渡ってきます。それぞれ民主日本建設のための人材育成の使命感に燃えています。けれども、生徒集めには苦労しています。当初の反対論とは逆に、ブルジョアの子弟は伝統のある西佐渡の高校に進学します。そこに通えない事情を抱えた中学生が両津高校に入学するわけです。そのため、この高校は「オカラ学校」と揶揄されています。
むしろトイレの実態が教育庁の知るところとなり、校長が呼び出され、改善が要求されます。女子生徒もいるというのに、人権無視ではないかというわけです。そんなこともあり、49年、白山に新校舎が建設されるのです。
1950年、菊池勘左ヱ門が2代目校長に就任します。菊池勘左エ門は両津出身ですが、富山県の教育界の実力者として知られた人物です。貝類の研究者でもあり、新種を12種も発見し、そのうちユキノツノガイ・ハブタエツノガイ・トヤマツノガイ・ロウソクツノガイの4種を自ら新種記載しています。その大物が前年に郷里に戻っていたところ、両津高校の新校長を依頼されています。着任後、菊池校長は、「古今東西、天下一等の学園の建設!」をスローガンに掲げます。もともと熱心な教師がそろっていたこともあり、就職志望の生徒には、簿記検定三級の合格を目標とした教科書を手作りし、徐々に増えてきた進学志望者にはガリ版刷りのテストを繰り返しています。さらに、生徒たちには、君たちは両津高校の先祖であり、その実績によって子孫の運命が左右されると説いています。成果は次第に現れ、後に設置された商業科の生徒の70%が合格するようになり、普通科からも地元の新潟大を始めとして東大や京大、東北大、早稲田、慶応などいわゆる難関校への進学も続々現われていきます。
教育のもたらす変化は時間がかかります。政治や経済のようなスピードはありません。1961年のラジオ聴衆加入普及率は、新潟県が58.0%、佐渡郡の平均が46.1%であるのに対し、両津は41.1%です。向上したいと望み、自分でものを考えるためには、より多様な情報が必要です。ラジオを聴くというのもその一つです。両津は、この時点でも、まだ開明の意義が内部で共有されていたわけでは必ずしもありません。教育には長い眼が不可欠です。舟木一夫の『高校三年生』の歌声がラジオから流れる63年、団塊の世代が高校に入学を始め、それが大きな転機となっていきます。
一方で、当初の目的だった乳児死亡率の低下は、劇的に現れます。50年代、両津の乳児死亡率は全国平均レベルでほぼ維持し、1962年からは全国平均を一貫して下回っています。ちなみに、62年の乳児死亡率は全国平均が1000人当たり26.4人に対して、両津のそれは17.9人です。その30年前は216.3人だったことを思えば、まさに奇跡的です。実は、小児科医が両津高校の孔子として公衆衛生を説くのみならず、校舎に地域の女性を招き、新生児や乳幼児の健康診断・育児指導を行っているのです。こうした環境の中で、乳児死亡率は飛躍的に下がっていきます。「赤ん坊の地獄」はこうして消えているのです。
第4章 社会のナビゲーター
こうした経緯を見てくると、両津出身の女性看護師という存在に大きな意義を秘めていることがわかるでしょう。両津の戦後を凝縮しているとさえ言えます。乳児死亡率を下げるために、女性への健康に関する知識・意識を高めることが両津の戦後の出発点です。両津で生まれた女性がこうした状況の中で育ち、学び、看護師となって、秋本治と出会うのです。それは、確かに、偶然です。けれども、背後にある両津の歴史が彼女を看護師にさせた一つの理由であったことは否定できません。
しかも、それがバイオレンス・ポリスマンの姓に借用されるというのも、偶然ですが、何と言う歴史の彩かと思わずにいられません。かつて「両津もんは向こう気ばっかり強くて教養がない」と嘲られています。まさに「始末書の両さん」はそれを具現化したような人物です。新しき両津が生み出した女性から古き両津が復活するのです。
思いつきや思いこみに基づき、たんにその不備だけが目立つような作品の方が多いことでしょう。まったくの偶然から誕生した「両津勘吉」が、実は、歴史の彩を秘めているというのは表現作品において数少ない例外かもしれません。けれども、偶然から世界の渥美が見えてくることは、『こちら葛飾区亀有公園前』の方法と相通じるのです。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の特徴は解剖学的・百科全書的方法です。ルーズソックスが作品に登場する際、それは決して小道具や口実として扱われません。ルーズソックスがどういうもので、いかなる種類があり、どんな特徴があるかが詳細に言及されるのです。対象が何であり、何でありうるかが物語られます。定義が提示され、構造と携帯に基づいて分類されるのです。対象は解剖されて、百科全書的知識として明示化され、作品の中でそこから見えてくる社会が展開されていきます。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の真の主人公は社会です。両さんは、むしろ、ナビゲーターです。作品の最初の方で偶然の出会いがあり、それをきっかけに固有の秩序を持った社会が顕在化します。読者は両さんに連れられて、そのゾーンを体験するのです。
「両津勘吉」は確かに偶然の産物です。けれども、それは両津の戦後史のナビゲーターの役割を果たしています。偶然にも、作品と相通じます。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を映画化する際には、こうした特徴を反映させる必要があるでしょう。これほど社会の厚みを明示してくれる作品もめったにありません。偶然から思わぬ世界が見えてくるような映画でなければ、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を冠したところで、その名に傷をつけるだけというものです。
〈了〉
・参照文献
竹内洋、『改訂版学校システム論』、放送大学教育振興会、2007年
2010-09-13
竹内洋 「8・15」に思う 終戦69年、いま「逆移住革命」を
「8・15」に思う 終戦69年、いま「逆移住革命」を
2014.8.18 03:07 [正論]
□社会学者、関西大学東京センター長 竹内洋
≪疎開先の佐渡島の記憶≫
昭和20年5月の東京大空襲。そのとき、わたしは、母親に背負われて東京を逃げ惑っていた。いや3歳になったばかりだったから逃げ惑っていたことをわかってはいない。空が真っ赤になり、強風が吹いていたことは憶(おぼ)えている。
それから父の郷里の佐渡島に疎開することになる。途中貨物列車が燃えていたことも記憶にある。
疎開先は、休業中の女郎屋の2階の一部屋。廊下に七輪が置いてあった。煮炊きはそこでおこなわれた。疎開者や海外からの引き揚げ者が食べ物を分かちあい、肩を寄せ合って生きていた。自分の家族も他人の家族も溶け合っていた。戦争も敗戦も貧困もわかっていなかったから、人と人の純粋な交流の楽しさと美しさだけが記憶にある。
戦争と敗戦の残した深い傷を知るようになったのは、もっとあとになる。父を戦争で失った生徒や、戦争未亡人となり亡夫の実家を頼って子供たちと佐渡島にやってきた人たちの難儀を知ったときからである。
しかし、こうした悲惨さにもかかわらず、敗戦にも思わざる帰結がともなった。
明治以後、日本の近代化は地方の人材が大都市に移動する「離村向都」でおこなわれた。そのぶん大都市と地方の生活格差は大きくなり、地方はしだいに疲弊していった。二・二六事件の引き金となったという農村の窮状はその象徴である。
ところが敗戦によって、多くの人々が外地や都会から地方に逆移住(疎開)することがおきた。東京都の人口は昭和15年は735万人だったが、20年には半分以下の349万人になった。東京人のかなりが地方に逆流した。外地から帰国した人は600万人といわれる。併せて1千万人近い人口が地方に還流したのである。世の中が安定すると都会に戻った人もいるが、そのまま地方に住み続けた人々も少なくなかった。
≪人材の還流と文化の交流≫
佐渡島の人口も急増する。昭和25年の人口は12万6千人。戦前期は10万程度だったから、逆移住効果で人口が膨らんだ。地方の人口が増加しただけではない。人材の還流と文化の交流がおきた。
佐渡島の私の母校は、戦後生まれの新設高校だったが、旧制高等学校教授だった人が疎開で実家に帰り、この新設高校の名物校長になった。東京の有名旧制中学校の数学教師だった人もいた。勉強のできる生徒の大半は島内の名門佐渡高校に行ったが、行けない生徒の学校、つまり(豆腐の)「おから」学校といわれていた私の母校からも東大をはじめとする有名大学進学者を出すにいたる。
地方を活気づけたのは学校教師だけではない。都会文化は疎開者や引き揚げ者によって運ばれた。逆移住者の多くは都会のモダン生活を経験した人々である。かれらは戦後の貧しさの中でもそうした生活流儀を残しながら暮らしをしていた。子供への教育熱心さもきわだっていた。
地元の人々はこうした逆移住者をつうじてモダニズムと接触することになった。垢抜(あかぬ)けした生活流儀は確実に記憶と意識の中に残った。地方の親の教育への頑(かたく)なな否定的感情が緩みはじめた。子供は「高校まではいかせたい」とされたことには、こうした逆移住効果が大きく影響している。
また、高度成長期の生活様式の大変容には、このときの逆移住効果による記憶が作用していたはずである。人材の攪拌(かくはん)と大都市文化と地方文化の交流で地方が活気づいたのである。
≪地方からの人材で成長≫
こうして地方はもう一度、人材を都会に送ることができ戦後の高度成長時代を築くことができた。
しかし、地方からの人材の流出過多で地方の力がしだいに枯渇しはじめた。過密と過疎がいわれたのが、昭和40年代からである。すでにイエローカードが出されていた。ところが、数次の全総(全国総合開発計画)にもかかわらず、有効な策らしいものは打たれなかった。
かくていまやこのままでは消滅する市町村が話題になる始末にいたっている。佐渡島の人口はいま最盛期の半分以下の6万人である。1年に千人減少するといわれているから単純計算で60年後には無人島になる。そんな中、東京都は人口がいまも微増している。
来年度予算でも「地方活性」特別枠1兆円が計上される予定だが、それとともに、第4次全国総合開発計画でいわれた多極分散をいまこそ真剣に考えなければならないのではないか。中央官庁の地方分散はもとより、博物館や美術館などの文化施設などの地方分散に手をつける必要がある。逆移住のための強い誘導政策が打ち出されなければならない。
敗戦により思わざる帰結をもたらした逆移住革命は明治から77年にしておこった。いまそこから数えて、69年である。(たけうち よう)
2014.8.18 03:07 [正論]
□社会学者、関西大学東京センター長 竹内洋
≪疎開先の佐渡島の記憶≫
昭和20年5月の東京大空襲。そのとき、わたしは、母親に背負われて東京を逃げ惑っていた。いや3歳になったばかりだったから逃げ惑っていたことをわかってはいない。空が真っ赤になり、強風が吹いていたことは憶(おぼ)えている。
それから父の郷里の佐渡島に疎開することになる。途中貨物列車が燃えていたことも記憶にある。
疎開先は、休業中の女郎屋の2階の一部屋。廊下に七輪が置いてあった。煮炊きはそこでおこなわれた。疎開者や海外からの引き揚げ者が食べ物を分かちあい、肩を寄せ合って生きていた。自分の家族も他人の家族も溶け合っていた。戦争も敗戦も貧困もわかっていなかったから、人と人の純粋な交流の楽しさと美しさだけが記憶にある。
戦争と敗戦の残した深い傷を知るようになったのは、もっとあとになる。父を戦争で失った生徒や、戦争未亡人となり亡夫の実家を頼って子供たちと佐渡島にやってきた人たちの難儀を知ったときからである。
しかし、こうした悲惨さにもかかわらず、敗戦にも思わざる帰結がともなった。
明治以後、日本の近代化は地方の人材が大都市に移動する「離村向都」でおこなわれた。そのぶん大都市と地方の生活格差は大きくなり、地方はしだいに疲弊していった。二・二六事件の引き金となったという農村の窮状はその象徴である。
ところが敗戦によって、多くの人々が外地や都会から地方に逆移住(疎開)することがおきた。東京都の人口は昭和15年は735万人だったが、20年には半分以下の349万人になった。東京人のかなりが地方に逆流した。外地から帰国した人は600万人といわれる。併せて1千万人近い人口が地方に還流したのである。世の中が安定すると都会に戻った人もいるが、そのまま地方に住み続けた人々も少なくなかった。
≪人材の還流と文化の交流≫
佐渡島の人口も急増する。昭和25年の人口は12万6千人。戦前期は10万程度だったから、逆移住効果で人口が膨らんだ。地方の人口が増加しただけではない。人材の還流と文化の交流がおきた。
佐渡島の私の母校は、戦後生まれの新設高校だったが、旧制高等学校教授だった人が疎開で実家に帰り、この新設高校の名物校長になった。東京の有名旧制中学校の数学教師だった人もいた。勉強のできる生徒の大半は島内の名門佐渡高校に行ったが、行けない生徒の学校、つまり(豆腐の)「おから」学校といわれていた私の母校からも東大をはじめとする有名大学進学者を出すにいたる。
地方を活気づけたのは学校教師だけではない。都会文化は疎開者や引き揚げ者によって運ばれた。逆移住者の多くは都会のモダン生活を経験した人々である。かれらは戦後の貧しさの中でもそうした生活流儀を残しながら暮らしをしていた。子供への教育熱心さもきわだっていた。
地元の人々はこうした逆移住者をつうじてモダニズムと接触することになった。垢抜(あかぬ)けした生活流儀は確実に記憶と意識の中に残った。地方の親の教育への頑(かたく)なな否定的感情が緩みはじめた。子供は「高校まではいかせたい」とされたことには、こうした逆移住効果が大きく影響している。
また、高度成長期の生活様式の大変容には、このときの逆移住効果による記憶が作用していたはずである。人材の攪拌(かくはん)と大都市文化と地方文化の交流で地方が活気づいたのである。
≪地方からの人材で成長≫
こうして地方はもう一度、人材を都会に送ることができ戦後の高度成長時代を築くことができた。
しかし、地方からの人材の流出過多で地方の力がしだいに枯渇しはじめた。過密と過疎がいわれたのが、昭和40年代からである。すでにイエローカードが出されていた。ところが、数次の全総(全国総合開発計画)にもかかわらず、有効な策らしいものは打たれなかった。
かくていまやこのままでは消滅する市町村が話題になる始末にいたっている。佐渡島の人口はいま最盛期の半分以下の6万人である。1年に千人減少するといわれているから単純計算で60年後には無人島になる。そんな中、東京都は人口がいまも微増している。
来年度予算でも「地方活性」特別枠1兆円が計上される予定だが、それとともに、第4次全国総合開発計画でいわれた多極分散をいまこそ真剣に考えなければならないのではないか。中央官庁の地方分散はもとより、博物館や美術館などの文化施設などの地方分散に手をつける必要がある。逆移住のための強い誘導政策が打ち出されなければならない。
敗戦により思わざる帰結をもたらした逆移住革命は明治から77年にしておこった。いまそこから数えて、69年である。(たけうち よう)
2010-09-12
立岩真也


新潟日報(h28年12月18日)


立岩真也「障害者問題を考える」他
「島の新聞」


平成28年8月 新潟日報

立岩真也「障害者問題を考える」他
2000年夏の出版以来、ひそかに、しかし着実に反響を呼んでいる一冊の本があります。社会学者である著者の文章はなかなか手強いのですが、緻密で論理的な文から浮かび上がる「『強い』ことが本当にいいのか、『弱い』ままでもいいじゃないか」というメッセージが、強いものに憧れ、強くなろうともがく心を揺り動かします。『自己決定』『自己責任』が叫ばれる時代に、『弱くある自由』を語る著者、立岩真也さん。その真意を2回にわたって話していただきます。
70年代からあった、「弱くある自由」という考え方
・・・まず、『弱くある自由へ』というタイトルにグッときました。とかく『元気な障害者』『がんばってる障害者』を持ち上げる風潮のなかで、「弱いままでいてもいいじゃない」と言ってしまう軟弱さ(笑)。このタイトルに、立岩さんはどんな思いを込められたんですか?
編集者は「売れる本にするために、流行りの『自己決定』という言葉をタイトルに入れましょう」と言ってたんですけど、この本では自己決定そのものについてはそれほど多く触れてないんですね。「それじゃあ『看板に偽りあり』やから、止めよう」と。それで僕が思っていることをそのままタイトルにしたんです。
確かに障害者運動のなかには「自分のしたいこと、やりたいことを主張して実現していこう」という運動ってあったし、あるし、必要だと思うんです。言い換えれば「自分の暮らしのことは自分で決める」、すなわち『自己決定』ということなんでしょうけど。
ただ、そういうことを強力に主張しながら、でももう一方で「少なくとも言葉としては自分の意思を主張できなかったり、しない人もいる。そういう人も含めて考えないと、障害者運動として何か言ったことにはならないんじゃないか」という考え方も、実は障害者運動が始まった1970年代からあったんです。そういう運動の流れがあったことを、知ってる人は知ってるけど、知らない人はまったく知らない。それはやっぱりよくないと思うんですよね。
この歴史的な流れについては最初に出した『生の技法』という本にも書いたんですけど、それを補うことも含めて、「自分を強く主張するのも大事だけど、そうじゃないあり方の人もいるし、そうじゃないあり方もある。そういうことも含めて運動を考えてきた人たちが何をやってきたのか、これから先どうするのか」ということを考えたかったんですよ。
・・・確かに「自分の意思を主張できない人、しない人」、つまり『弱くある自由』も認めようとか、どうするんだという話はあまり聞きませんね。とても大切な視点だと思うんですけど、障害者運動の歴史のなかで、「強くなろう」という主張が目立ち、「そうじゃないあり方だっていいんじゃないか」という声がどんどん小さくなってしまったのはなぜでしょう。
わざわざ僕が調べて書かないといけないぐらいだから、あまり知られていないのは事実です。ただ、昔から「これだけがんばったら、ここまでできる」「これまでできなかった人が、こうしたらできるようになった」という語られ方の方がずっと大きい声だったと思うし、今でもそうだと思う。そういう意味では、昔と比べて『弱くある自由』を認めようという声が小さくなったわけではなくて、むしろ少しずつではあるけど、多くの人に届くようになってきたと感じる部分もあります。
「決められる」ということが一番大切なのではない
・・・すごく基本的な疑問なんですけど、そもそも『自己決定』とは何でしょう? 障害があるという「弱い立場」にいると特に、「自分で決めた」と「決めさせられた」との境界がすごく曖昧になりがちじゃないか、そう決めざるを得ない状況がそもそもあるとすれば、『自己決定』自体が『健常者』の物差しになる恐れがあるのでは、と思うのですが。
社会福祉業界用語としての『自己決定』というのもあります(笑)。ただ、障害者運動のなかでの『自己決定』というのは、障害者自身の言葉として選び取られてきたのであって、借り物の言葉ではないと僕は思うんですね。
言い方がすごく難しいんだけど、「充分に決定できない人もいるじゃないか」というのは、運動をやってる人たちのなかでも大きなテーマです。でも「そういう人たちのために社会福祉がある」とか「そういう人たちを代弁するために専門家がいるんだ」と、すぐに話をそっちに持っていこうとするのが、いわゆる専門家の人たちなんですね。彼らは言葉、たとえば自己決定という言葉の捉え方が狭すぎるんです。言葉としての意味をきちっと説明できるというだけじゃなく、もっとゆるく考えたら、知的障害のある人だって自分の思いや言いたいことを言葉じゃない形で伝えられるし、それも自己決定のひとつの形ですよね。当事者たちは「社会はその意思表示をちゃんと受け止めようとしなかったじゃないか、だから“決められない人もいるよ”と簡単に言わないでくれ。ちゃんと聞いたらわかるはずだ」と言ってきたわけです。
何度も言うけど言い方が難しいところで、「決められるということが一番大切なことじゃないよ」とは言えるかもしれないけど、そう言うとすぐに「じゃあ代わりに私が決めてあげましょう」という話にからめとられてしまう部分があって、「いや、それはちょっと待って。まずはもう少しきちんと聞いてくれ」というのが当事者たちの言い分である、と。
それから、「それでも確かに聞き取れない、わからない」という場合もあるんですが、「わかる」「わからない」という話になると、自分の思いをきちんと伝えられるということが一番大切なのか、価値があることなのか、という問題が出てくるんですよ。それに対して、どう答えるのかという。
・・・『自己決定』という言葉のとらえ方が、障害がある人たちと福祉関係者たちとでは違うんですね。それから、自己決定にこだわることによって、「自己決定をし、それをわかるように伝えられることが一番大切なのか」という問題も出てくる・・・・・・。
それに対してすごく大雑把に言ってしまうと、こうなるかな。「どうすれば気持ちがいいかは、本人が一番よくわかる」というのは基本的には事実だから、その決定を尊重することは大切です。でもその前に、その人が存在している、生きて暮らしていることそのものが大切であり、生きて暮らすあり方のひとつとして「本人が決めたように暮らしてもらう大切さ」があるんじゃないかと僕は思うし、言い方は多少違うかもしれないけど、運動をやってきた人たちも同じことを言い続けてきたんじゃないかと思うんです。
つまり「自分で決めて、決めた通りにやる」というのが一番目の価値じゃなくて、「そのまんまの形で生きてる」というのが一番目。その一部に「本人が決めた暮らしをしてもらう」というのがある、と。だから「自己決定できない人間には価値がない」という言い方に反対しつつ、「自己決定なんて大した問題じゃないよ」という言い方にも反対しつつ、自己決定の大切さを言っていかなあかんというところが難しいといえば難しい、面白いといえば面白いところですね。
「できる」イコール「価値がある」という考え方の落とし穴
・・・「存在していること自体が一番大切なんだ」というのは、理屈としてはよくわかるし、大事なことだと思います。ただ実際には「できなかったことができるようになる」「自分の暮らしを自分の力で支えていく」ということによって、喜びや充実感を得るのも事実だし、私も含めて多くの人たちがその喜びや充実感を求めて生きているといっても過言ではないと思うんです。そんな私たちが、「生きているのが一番大切なんだよ」と言っても説得力がないのでは?
それはその通りですね。今までできなかったことができるようになるというのは新鮮だったり、世界が広がるような気がしたりというのは、確かにあります。そういう意味では「できるようになる」というのは、本人にとって悪いことじゃない。
・・・「できないことをできるようになるためにがんばる」とか「できるようになった時にものすごく嬉しいというのは、「できることがいいことだ」という価値観が刷り込まれているのか、人としての自然な感情なのか・・・・・。
それは微妙なんやけど、どっちもあるでしょうね。そういうことに喜びを感じるというのはどんな時代にもあっただろうし、それが生きがいだという人がいてもいいと思う。
ただ、「できる」「できない」ということに対して、自分が生きていくなかでの楽しみの一部という以上の意味を、僕らの社会は付与してしまった。つまり、「できる」ということがすなわち「人間の価値」や「生きてることの意味」といったものまで含めてしまったんです。そこまでいくと「ちょっと違うんじゃない」と、僕は言いたい。
「できる」イコール「自分が生きている値打ち」だというところまでいってしまうと、何らかの理由でできなくなってしまえば、生きている値打ちがなくなってしまうということになります。たとえばアルツハイマーになって知的能力が落ちていくとか、進行性の難病にかかって昨日までできたことが今日はできない、明日はもっとできなくなるという状況になった時、単に不便というだけじゃなく、自分の存在価値までが危うくなったように感じてしまい、「生きる価値がない」から「死ぬしかない」ところまでいってしまうということが、実際にあるんですね。それが安楽死といわれるものの一部だと思うんですけど。
・・・安楽死についても書かれていますよね。
ええ。2章にわたって書いたんですけど、簡単にまとめるとこういうことだと思うんです。今、安楽死という選択をしようという人は、「人間的に弱いから、死のうとする」というよりは、「強くなくてはいけない、しかし現実の自分は強くない」という思いがあって、そのギャップのなかで死を選ばざるを得ないんじゃないか。つまりその人は弱いのではなく、「自分」というものを強く意識している、ある意味では『強い人』だからこそ死を選ぼうとする。だとすれば、そこで言うべきなのは「強くなれ」ではなく、むしろ「弱くてもいいじゃないか」ということだと思うんですよ。
・・・「自分の命をどうするかを決めるのは自分だ」という主張の背景には、「強くありたいのに、そうじゃない自分」への失望がある可能性もある、と。そうなると、その『自己決定』の意味が変わってきますよね。本来の目的からずれているというか。『自己決定』という言葉は確かに最近よく言われていますが、なんだかすごい説得力を感じてしまいます。でも、「本人が決めたこと」を何よりも優先しようというのは大切なことではあるけど、決められない人や今は決めたくない人もいるし、「決めたこと」だけに気をとられていると大事なことを見逃してしまう恐れもある。場合によっては人を死に追いやってしまう、いわば『効くけど、副作用も強力な薬』のようなものだということも認識しておきたいですね。
まあ、「弱くてもいいじゃないか」というのはスローガンというか、お題目みたいなもので、実際に弱いまま、あるがまま、どう生きていくかといえば、やっぱり「それでいいんだ」だけでは済まないわけです。じゃあ弱い部分をどう補って暮らしていくのかを考えないといけない。弱くある自由のために。そういうことを書いたのが第7章で、介護の話が中心なんですけど。
・・・『自己決定』についてはあまり触れていないとおっしゃいましたが、『弱くある自由』と『自己決定』とは深い関係があるということがわかってきました。実は本を読んだかぎりでは、なかなかピンとこなかったんですよ、難しすぎて(笑)。どういう読者をイメージして書かれたんですか?
これはもともと『現代思想』という雑誌に書いたものを中心にまとめたんです。『現代思想』というのは「何これ、わからんぞ」という文章が並んでいるような変な雑誌で、「わからなくて当たり前」という世界(笑)。だから実は「誰にでもわかるように」という配慮はしていないんです。
・・・でもいいこと書いてはるんで(笑)、これの普及版みたいなのがあればすごくいいと思うんですけど。
たまにそういう冗談を言う人がいますね(笑)。この本の前に出した『私的所有論』の漫画版が欲しいとか、口語訳版がいるとかね。「『源氏物語』みたいやな」と言われたんですよ。
・・・そう言った人の気持ち、わかります。朝日新聞の『論壇』に書かれたのはすごくわかりやすくて、「ああ、こういうことを書いてはったんや」と、やっとわかった(笑)。
あれは1200字くらいだから・・・かなり考えましたね。確かに反響もありました。でも結論しか書いてないんですよ、「そんなにがんばらんでええねん」と。そのわけは書いてない(笑)。一般読者は「あ、自分の感覚とマッチしてる、オッケー」みたいなとこでいいけど、玄人というか疑り深い人に対しては「俺が言うてることは嘘やないで。それはな・・・・・」ということを本のなかでじっくりと書いていく、ということですかね。
・ ・・なるほど・・・・・・。少し頭がこなれてきたところで、次回は家族や友人として『弱くある自由』や『自己決定』とどう関わっていくのか、ということをお聞きしたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 AERA 2009年8月24日号掲載 (朝日新聞出版)」
前編では「生存」ということにギリギリで接している人たちがたくさんいること、そういった人たちがどうやって生きていくかに関わる様々なことを考えるのが「生存学」だと紹介しました。後編では、より具体的なお話を展開しようと思います。
例えば聴覚障害の人は、聞こえないから見るしかない。今では音声をコンピュータで文字にするソフトがあります。そうした技術が、実際にはどう使えるのだろうか。目の見えない人にも、文字を自動で点字にしたり、音声にすることも可能です。そうしたテクノロジーはある意味で決して難しいものではありませんが、日常生活という現場で使いまわしていこうとすると数々の問題が発生します。ソフトの精度だけではなく、情報流通の面では、著作権法によって許可が必要になるなど、社会や制度的な問題が出てくるわけです。視覚障害者に出版社がテキストデータをどの程度無償で提供してくれるのかなどを調査・分析した報告書も発表しました(生存学研究センター報告6)。
生存学は、経済学などのように大きな前提や命題はありません。テーマによって最適な手法や理論を駆使していこうというのが基本スタイル。メディアでは、少数派の声はまだ小さいですよね。そうしたマイナーな声や皆さんに知ってほしいことをインターネットのホームページを通じてどんどん発信しています。調査報告を出したから、情報を発信したから世の中が簡単に変わるわけではありません。ただ、情報を発信することで、それぞれのスタンスで様々な意見や事実を言っていただくことを大切にしたい。僕たちのホームページには膨大な情報が集まり、かなり実践的なレベルに達していると僕は判断しています。
生きるのが難しい時には、技術を使えば少しは生きやすくなる。であるなら、使い勝手をできる限り良くした方がいい。そのためには何を解決すべきなのか。また、解決のためにどのような視点が必要なのかを当事者の意見(技法)を尊重しながら拾い上げていく。世界で起こっていることでも、拾われていないことはたくさんあります。そういったものを拾い上げて発信していく。これも「生存学」の使命なのです。
2010-09-07
2010-09-05
Powered by FC2 Blog
Copyright © 佐渡人名録 All Rights Reserved.