2015-09-18
★災害(水害・高潮・地震・台風)

★高波災害

★西光庵(真更川)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html
★西光寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=2
★境港と佐渡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=8
★酒蔵

★酒田と佐渡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=15
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=20
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=23
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=28
★酒田本間家
(ウイキペディアより)
酒田本間氏 本姓 武蔵七党横山党海老名氏流本間氏流 家祖 本間原光 種別 地下人 平民 出身地 相模国愛甲郡依知郷本間村
・主な根拠地 出羽国 山形県酒田市
・著名な人物 本間光丘
本間氏(ほんまし)は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主と称された豪商[注釈 1]。その財力を基礎に、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの栄華を誇った。酒田本間氏については「本間家旧本邸」のように、本間氏(ほんまし)ではなく本間家(ほんまけ)と通称される。佐渡本間氏の一族には、上杉氏転封の折に山形へ移った者もいた。1689年(元禄2年)、現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始めた酒田三十六人衆の一人で武士であったといわれる本間久右衛門の息子あるいは番頭といわれる原光を初代とし[1]、3代当主である光丘は、士分の取り立てを受け庄内藩の財政再建に取り組んだほか、砂防林の植林を進めた[1]。さらに宝暦の大飢饉で多くの農民が餓死したことを教訓に、豊作の際には米を庄内藩の米倉に貯蔵し、飢饉の際には米を放出する「八ヵ年計画による備蓄計画」を起案し藩に提出。この計画は昭和20年頃まで維持された[2]。またローソク足を考案した宗久など多くの逸材を輩出した。このほか金融業にも進出[注釈 2]。大名貸では東北の多くの大名家から借入の申し込みを受けその要請に応えた。そしてそこから得た利益を元手に土地を購入。田地を拡大していった[2]。さらには北前船交易の隆盛もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家となった。戊辰戦争の際には佐幕派の庄内藩のため巨費を献じたほか、明治維新後には政府から多額の賠償金の支払いを求められた[3]。その後も引き続き日本最大級の大地主ではあったものの、起業・興業にはあまり執心せず財閥化することなく、一地方企業家にとどまった。しかしながら、防風林および灌漑事業整備に大いに貢献し、酒田の近代化に尽力。また、6代光美、7代光輝によって旧亀ヶ崎城(現:酒田東高校)の東側の田んぼに整備された試験場である本間農場では、乾田馬耕など小作人に対する農業指導を行い、庄内米の価値向上に繋げたほか、農民や小作人には保護政策を執っていた[4]。加えて、根室の柳田藤吉も支えた。第二次世界大戦後のGHQによる農地改革の実施に伴い、1750ヘクタールあった農地はただ同然で売り渡され、本間家には4ヘクタールのみが残存した[5]。1990年(平成2年)、本間家の商事部門等であった本間物産は倒産[5]。その後、本間物産はカウボーイ傘下での再建を経て、秋田県仙北市に本社を置く伏見屋からの買収によって[注釈 3]、子会社化された。 なお、不動産関連は本立信成として今日も現存する。本間ゴルフ創業者は、酒田本間氏庶流にあたる。
・「歴代当主」 本間原光 本間光寿 本間光丘 本間光道 本間光暉 本間光美 本間光輝 本間光弥 本間光正 本間真子 - 2009年11月死去。 本間万紀子[6]
・「一族」 本間宗久(光寿の弟。「相場の神様」「出羽の天狗」と称される。光寿の隠居後、光丘の奉公修行中に当主代理を務めた) 本間北曜(葛飾北斎の弟子。またフルベッキから英語を学び、欧米諸国を外遊。薩摩藩開成所の英語教師を務めつつ、薩摩藩に貿易商社設立を提案して奔走するも、帰郷したところを庄内藩によって幽閉され急死)
・「関連項目」 佐渡国 本間美術館 日本の戦後第3集「酒田紀行 農地改革の軌跡」(NHK特集 1977年) 東北三大地主
「参考文献」
山形放送株式会社山形県大百科事典事務局編 『山形県大百科事典』山形放送、1983年。
「外部リンク」
本間家旧本邸 – 一般社団法人酒田観光物産協会 光丘文庫 – 一般社団法人酒田観光物産協会
「本間光丘(四郎三郎)」
・経歴:本間家は、当初相模国愛甲郡本間村にいたため、本間氏を称したとされる。子孫は鎌倉時代初期、佐渡および越後に移り、その分家が足利季綱のとき出羽庄内に移る。光重(光繁とも)に到って永禄年間、酒田に住んだ。庄三郎のときに酒田の長人になり、家は次第に栄えた。四郎三郎[1]もまた長人となり、父祖の志を体し、奉公の念厚く、経済の理に通じ、最上川の水利を治め、天明の大飢饉では金穀を施し、宝暦8年(1758年)、資財をなげうち酒田の西浜に防砂林を植えるなど、功績が多く、宝暦12年(1762年)、庄内藩はこれを賞して町年寄とし、明和4年(1767年)、士格に列し、小姓格となした。また、酒田港口に灯台を建てたり、藩士の借財を整理し、本間家の低利な資金に借り換えさせた。明和5年(1768年)酒田、鶴岡両城普請掛を命じられ、備荒貯蓄米24000俵を献じた。功によって500石30人扶持を給せられた。ときに江戸藩邸が焼失し、そのうえ徳川家慶の加冠の謝恩使を命じられるなどして財政が窮乏を極めたが、安永4年(1775年)、藩主・酒井忠徳の命をもって藩の財政改革に携わり、大いに奔走したが、これを妬む者もあったためついにこれを辞した。藩主の命により再びこれにあたり、功績は大いに上がった。天明8年(1788年)、藩士が富士川、大井川、安倍川の修治を命じられると、藩命によって大阪の巨商から資金を借り入れ、事を弁じた。寛政3年(1791年)に米沢藩主上杉治憲(鷹山)により、隠居の身から中老に就任した莅戸善政は、寛政6年(1794年)に四郎三郎を酒田に訪ね、これから金穀を借り軍備を修め、田地の開拓などをすることができた。鷹山の治績がおおいに上ったのは、江戸の三谷、越後の渡辺に加えて、四郎三郎の献替が大きかったという。寛政4年(1792年)、北海の警備のために大砲10門を献上し、海防に資した。
大正6年(1917年)、特旨をもって正五位を贈られた。山形県酒田市には本間四郎三郎を祀る光丘神社が鎮座する[2]。
ブログ『ユカリノ』より
「藩主をしのぐ日本一の大地主!庄内藩・山形県酒田市の本間家が貫いた義」
身分制度が厳しかったとされる江戸時代は、武士が商人や農民たちに威張りちらしていたというイメージを持っている方が多いかもしれません。しかし、東北の庄内藩(現在の山形県の日本海側)には藩主をはるかにしのぐ力を持つ豪商がいました。それが、戦前まで日本一の大地主とされた本間家です。その庄内藩の栄華を伝える雛祭りが4月3日まで開催中。ぜひこの機会に訪ねてみては?本間家は酒田を拠点に金融業や米取引、そして北前船交易などで莫大な富を築き、新田開発にも力を注ぎました。庄内藩は譜代大名の酒井家が幕末まで統治しましたが、その石高は13万石ほど。これに対し、本間家の財力は20万石規模に相当していたとされ、その繁栄ぶりは「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれたほどでした。
本間家はもともと佐渡の豪族で、血筋をさかのぼると関東の武士だったといわれます。上杉景勝に反逆したため滅ぼされますが、一族の中には上杉方に味方したものもいました。彼らは会津に国替えとなった上杉家に付き従い、その中で酒田に移り住んだ一族は武士の身分を捨て、江戸時代に商人となったのです。
➡『佐渡広場』係わりの地66:酒田 http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=12
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=23
★さかなまつり(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=7
★裂織(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=8
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51978719.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51979375.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=3
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=4
★鷺流狂言




■鷺流狂言について■
能と兄弟関係にある狂言は、江戸時代、大蔵・鷺・和泉の3流があり、鷺流宗家は能楽の観世流に属する狂言方として栄えましたが、明治維新後衰退し、廃絶しました。佐渡の鷺流狂言は江戸末期に潟上村の葉梨源内によってはじめられ、明治維新後も伝えられました。明治3~4年頃(1870~71)には鷺流最後の宗家鷺権之丞も来島し、数年間滞在しました。その後佐渡最後の名人といわれた天田狂楽が昭和19年に (1944)亡くなり、佐渡の鷺流狂言も滅びたとされていました。ところが、昭和54年(1979)頃、これとは別に真野町の鶴間兵蔵という人の弟子たち によって、鷺流狂言が伝承されていることが確認されました。昭和59年(1984)には新潟県の無形文化財に指定され、現在真野の佐渡鷺流狂言研究会の手によって伝承されています。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=6
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=7
★下げ紙→袴紙
★笹鳴会
昭和5年頃、橋本座の民謡踊りは、夷海岸町にいた「こと」の阿部先生が指導する少女の笹鳴会であった。地方は両津小黒館のかおるさんらの両津芸妓遵がつとめていた。
★佐渡おけさ(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036865.html?p=2
★佐渡牛(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=30
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037359.html?p=8
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=17
★『佐渡郷土文化』(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=17
★佐渡語源の言葉
「ドサ回り」
「ウィキペディアより」
芸能人などが地方を巡業すること。「地方巡業」や、近年では「営業」と呼ばれる行為もほぼ同義である。表舞台で華々しく活躍する一線級の芸能人ではなく、二線級以下の人々の活動を示すことが多い。転じて、左遷や転勤などで地方の営業所や子会社に赴任する勤め人をも指す言葉となった。芸能用語としては蔑視的な使用に重なり、近年[いつ?]は直接的には使わないが状況的には生きた言葉である。
・概要:売れない芸人や歌手が行う地方での営業活動。生活の糧を得ると共に、知名度を着実に上げる下積み活動の意味を持つ。ドサ回りを行う者は、無名はもちろんのこと、一世を風靡し没落した者まで多種多様。ドサ回りの結果、表舞台へ駆け上がったり、復帰する例は枚挙にいとまがない。このためドサ回りの人間模様は、小説や舞台の題材となることも多い。今[いつ?]では芸能でなく性風俗の枠で捉えられがちなストリップも、香盤の用語が示す通り芸能の一種であり、地方巡業も同様の形態を持ったことが小沢昭一の「日本の放浪芸」に記録されている。
語源:ドサとは佐渡を逆から読んだ言葉で、一度巡業に出るとなかなか戻れなかったことから、流刑地であった佐渡ヶ島になぞらえて使用された隠語である。これ以外にも、粗末な小屋に振り込む土砂降りの雨のことという説、土の上に座って演じることが語源とするなどの異説もある[1]。地方を巡る活動であるため、地方を拠点として活動を行う者は対象とならない。
「どさくさ」
どさくさの語源には、江戸時代に佐渡金山の人手確保のため行われた「博徒狩り」を語源とする説がある。これは、「佐渡(さど)」の音を反転させ、「◯◯らしい」などを意味する「臭い」の「くさ」をつけたもので、博徒狩りの賭場の混乱状態を表す言葉として使われたというものである。
「山を張る、山を掛ける」
山を張る(山を掛ける)とは、リスクの大きい賭けの勝負に出るという意味だが、「山」は「鉱山」のことで、「山を掛ける」「山を張る」は金や銀など貴重な鉱脈のありそうな山を予想して、そこへ採掘資金をつぎ込むことをいったように、あまり確実性のない対象や場所に集中的に資金や労力を投下するという意味あいで用いられる。特に試験勉強などで、出題される問題を予想し、その問題だけ集中して答を覚えるというやり方に使用されることが多く、本業そのものに対する知識や努力しようとする気力はないが、試験問題の出題傾向や教師の心理を読む力はあるという、社会に出てから意外に花開く才能を備えた人物が好んでとる戦術である。
似た言葉に「一か八かの勝負に出る」があるが、「山を張る(山を掛ける)」が、その山(鉱山)を選ぶまでにその人のなりの緻密な計算が働いているのに対して、「一か八か」は二者択一の局面が目前に迫っていて、計算を働かせる余裕もなく目をつぶってえいやとどちらかを選ぶという、よりバクチ度の強い印象のある言葉である。とはいえ、どちらにしても投機性の高い勝負のありかたを言っているには違いなく、健全な市民には決してお勧めできない生き方ではある。(CAS)
「山勘/やまかん」
意味:山勘とは、勘に頼って成功を狙うこと。当てずっぽう。相手を計略にかけてごまかすこと。また、その人。
・山勘の語源・由来:山勘は、「山を張る(掛ける)」「山を当てる」などの言葉と同時期の近世以降に見られる語で、第六感を「勘」と言うようになったのも同時期である。山勘の語源には、武田信玄の参謀とされる山本勘助の略という説と、山師の勘の略とする説がある。山本勘助の説は、彼が計略に長けていたことから、ごまかすことを「山勘」と言うようになったとするものである。しかし、この言葉が使われ始めた時代と、人物の時代がずれ過ぎていること、山勘がごまかす意味で用いられるのは当てずっぽうよりも遅いこと、策略が優れていることから当てずっぽうの意味になるには、隔たりがあり過ぎることなどから考え難い。
山師の勘の説は、鉱山の採掘をする山師の仕事は当たり外れも多く、勘が頼りであることからというものである。しかし、山師の略ということではなく、「山を張る」や「山を当てる」などと同じで、山が投機対象であったことから万一の成功・幸運を「山」と言い、それを狙った勘で「山勘」となったと考えるのが妥当である。
ただし、山師はペテン師の代名詞にもなっている言葉なので、他人をあざむく意味で「山勘」が用いられるようになったのは、山師に由来していると考えて良いだろう。
※一方で、佐渡言葉だと思われ、観光ガイドブックに出てるもので完全な標準語もあり。
例えば、「けなるい」「がめる」等はしっかりと国語辞典に出ています。
★佐渡開拓団
「佐渡開拓団」(『加茂村誌』昭和38年4月)
★佐渡から江戸へ
□無宿人を目駕籠(唐鶏籠)で送る
①信州路をう回して北国街道ー出雲崎ー小木
②三国海道ー寺泊ー赤泊
③奥州街道(白河から分かれて)ー会津ー新潟ー夷
※このルートは天明五年(1785年)より。
・三国路が最短、どの道も江戸から2週間以上かかる。
・三道を隔年で交代で指定したが、それは人足を出す沿道の駅や村から苦情陳情が幕府に出されたため。
★佐渡山岳会
★佐渡汽船
佐渡汽船埠頭前公園

★佐渡牛
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)②p191-234
★佐渡銀行・相川銀行
(「風間進君の佐渡」より)
★佐渡県 「萬都佐木」

★佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)(広瀬貞三)
佐渡鉱山の朝鮮人労働者

★佐渡五史書
・『佐渡年代記』
一九巻・二二冊。原本は慶長六年(一六○一)から嘉永四年(一八五一)まで、二五一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、江戸幕府の佐渡支配を知る根本史料。著者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本に、明雅の没後、同じ地役人であった原田久通が書き続けたものといわれる。さらに嘉永五年(一八五二)から明治七年(一八七四)までの二三年は、『佐渡年代記続輯』として、また、『佐渡年代記』に全く脱漏したもの、および不完全な部分を萩野由之が編纂して『佐渡年代記拾遺』として、昭和十年以降佐渡郡教育会から出版した。佐渡教育会の刊本は、佐渡支庁本を底本として、両津市鵜飼文庫本、真野町荏川文庫本によって校訂し出版されたが、ほかに萩野由之蒐集の舟崎文庫本が優れている。刊本は羽田清次が編纂主任となり、矢田求・山本半蔵・北見喜宇作がこれに参加して完成した。【執筆者】 児玉信雄
・『佐渡風土記』(さどふどき)
上中下三巻。相川の地役人永井次芳(歌古園・鳳波と号す)が、延享三年(一七四六)に完成した。明治三十二年まで作者がわからなかったが、子孫の永井晋によって次芳であることが立証された。上巻は上杉景勝の領国となる天正十七年(一五八九)以前、中巻は同年より慶安五年(一六五二)小比叡騒動の終結まで、下巻は承応二年(一六五三)より寛延三年(一七五○)までを収めている。内容は書名と異り、郡村・山川・寺社・物産などの記述はいちじるしく少く、すべて歴史的記述で構成される。ただ、上巻は史料が乏しいため、おおよその時代をおって配列しており、中・下巻は毎年の記事をおって編年体で記述され、時代が下るにつれ詳細である。次芳は、高野信治の子ではじめ半十郎といい、のち永井四郎兵衛仲雄の養子となり、手形改役・目付・山方役を歴任し、宝暦十四年(一七六四)四三歳で死去した。父仲雄は月番役で、父子ともに奉行所の記録閲覧の便があったと思われ、著者はそれによって佐渡の年代記を編纂しようとしたらしく、中・下巻を「佐渡国年代略記」と名づけた写本があることによっても、このことが裏づけられる。『佐渡地志』についで、早く成立した佐渡史書として貴重である。【執筆者】 児玉信雄
・『佐渡志』(さどし)
一五巻、同附録図一巻。佐渡奉行所広間役田中從太郎(美清・葵園と号す)が、文化年中奉行の命を受けて、同じ地役人西川明雅(藤兵衛・恒山の子)とともに編集した地誌。葵園の生前には、文化十三年(一八一六)までを、それ以後は二男藤木実斎(名は穂、実斎・竹窓と号す)が、先志を継いで弘化年中に完成した。内容は、本編の巻順で、建置・形勝・田土・食貨・風俗・官員・武備・戸口・祥異・神祠・仏寺・古蹟・遷流・遺事・物産の一五巻と附録図でなり、各巻とも可能なかぎり古代からの記録を採用し、自らも寺社・民家の記録を採訪して著述している。引用書目は、記紀以下六国史・増鏡・梅松論・延喜式・今昔物語・遊行渡海記など、島内だけでなく中央の史料まで引用し、その数は六○種をこえている。このために、葵園が文化三年(一八○六)二五歳のとき、江戸の塙保巳一に佐渡関係史料所載の古文献の調査を依頼した書簡がのこっている。本書を完成させた藤木実斎は、二部作成し、一部を修教館におさめ、一部を家蔵したが、明治七年葵園の孫美暢が明治政府に献納し、現在は二部とも内閣文庫が所蔵している。【関連】 田中葵園(たなかきえん)【参考文献】 『新潟県史』(通史編3近世一)、麓三郎『佐渡金銀山史話』、田中圭一『天領佐渡』【執筆者】 児玉信雄
・『佐渡四民風俗』(さどしみんふうぞく)
宝暦六年(一七五六)佐渡奉行所在方役の高田備寛は、奉行命によって島内の各村々の生活ぶりを二巻の書に記述し、これを『佐渡四民風俗』と名づけた。その後天保十一年(一八四○)に、広間役の原田久通が追補したものが明治二十八年(一八九五)に矢田求の解題で、下巻の一部を省いて史林社から刊行(同書は昭和四年にも出された)。戦後昭和二十六年(一九五一)に佐渡古典叢書として橘正隆の、さらに同四十四年に田中圭一の解説で、三一書房から出版された。上巻は中世の本間能久支配の頃から、江戸前期までの歴史の概要を述べたあと、「当国農家風俗の儀」として、上杉景勝支配以後の村の様子を記してある。記述の順序は、沢根町・河原田町・辰巳村・八幡村・四日町村と真野沿いにはじまって、終りは両津湾沿いの内海府村々となっている。下巻は職人についての記述で、樋職人・番匠・鍔師・金具師など、あらゆる職種に及んでいて、追加分を併せると、江戸前期・中期の島内の工芸事情が詳細に把握できる。筆者の高田備寛は、地方の役人とはいえ、江戸詰の機会が享保から元文にかけて前後五回もあって、江戸在住および往復の旅の経験や見聞がひろく、その視野の広さから、高度の民俗誌を書き上げることができたものと考えられる。【関連】 高田備寛(たかだびかん)【執筆者】 本間雅彦
・『佐渡相川志』(さどあいかわし)
全五巻。相川町浄土真宗永弘寺(現永宮寺)十二世松堂の著。松堂は、河原田真宗光福寺八世了運の弟として、元禄八年(一六九五)に生まれ、明和九年(一七七二)十一月七八歳で死去した。巻一は、佐渡地頭・諸所城主・鶴子陣屋・相川陣屋を記述して、中世から近世への推移を概観し、歴代佐渡奉行・代官・各役所・番所の開設年代と変遷、旧勤名録を詳細に記している。巻二は、相川金銀山の起こり、間ノ山・六十枚両番所から主要間歩までの道法、古間歩の名前、山師の由緒、買石・金子・羽口屋・紙燭等の職人、相川町々の名主・中使、五ケ所番所・高札・訴訟箱・牢・兵法道場・町会所・時鐘・後藤屋敷・留木納屋等の施設、それに相川町々の絵図。巻三は、諸学・諸道をはじめ造庭・大工・木挽・鍛冶・塗師から、酒屋・湯屋・魚屋等にいたるまで、五一種について記述している。巻四は、相川の社寺堂・修験で、神社は大山祇神社以下二○社、寺院は真言(七)・天台(六)・禅(一○)・浄土(二○)・真宗(一八)・日蓮(二○)・時宗(一)合計九二か寺・堂(五)、修験当山・本山両派で一六院を記す。巻五は、相川町の年中行事・観音巡礼札所・諸家秘伝妙薬・相川八景を収めている。内閣文庫蔵の「相川砂子」は、本書をもとに編集されたものと考えられている。【関連】 相川砂子(あいかわすなご)・松堂(しょうどう)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡小判
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


★佐渡商船
(「風間進君の佐渡」より)
★佐渡植物園(菊池はるみブログより)

戦後の混乱の時、県下に先駆けて昭和23年(1948)設立。
・設立の趣旨
1.佐渡島の植物分布の特異性、多様性の縮図として、島内自生の植物をできるだけ多く収集し植栽して研究のための資料を提供したい。
2.未来を背負い青少年の生涯学習の場として植物園を提供したい。
3.文化的・学術的な資料を提し、豊かな情操を培わせる第一歩
として植物に親しむ場を提供したい。
4.地域社会の生産と厚生の参考の場としての植物園としたい。
・地元の植物研究家の酒川哲保・海老名一郎・葛西秀夫・近藤 福雄・北見秀夫など識見ある指導者が核となり発足した。
・日本の植物学の泰斗牧野富太郎、佐竹義輔、木村四郎博士などの指導をうけ、本田正次博士(東京大学教授・付属植物園長)、武田久吉(日本山岳会長)からは来園実地指導を受けた。
・植物面積の総面積およそ65㌶。現在7つのゾーン別に植物が植栽される。
1.照葉樹林(スダジイ・タブ・アカガシ・シ ロダモ)
2.既存林の保全と花木園(バラ称の花木を中心)
3.佐渡の代表的山野草園(雪割草・エビネ・フクジュソウ)
4.ロックガーデン(スカシユリ・ハクサンシャクナゲ・高山植物)
5.つつじ園(アカマミツ林床)
6.ヤブツバキ園
7.水生植物(ヒツジグサ・コウホネ・ミツガシワ)
8.ミズバショウ園(湧き水水域)
9.杉林とシダ植物園(マメズタ・クリハラン・オニヒカゲワラビ)
10.落葉広葉樹(ヤマザクラ・ヤマモミジ)と里山の山野草(ヤマユリ・シュンラン)
11.竹林 (マダケ・モウソウチクの竹類・笹類)
12.冷温帯の森林植物園(ブナ・ミズナラなどの大佐渡冷温帯の広葉樹)
※明治神宮より下付されたハナショウブ園が隣接する。
※佐渡の原生植生(タブ・シイ・ミズナラ・ブナ林)の復元林や佐渡の植物センターの設立などは近き将来の課題である。
・残念ながらこの本を発行された平成10年から20年たった今も植物センター設立の課題は果たされていない。この超豪華監修の植物園も価値を知る人は一部の人以外少ないと思います。私もその一人で豪華監修の事実は最近知ったばかり。戦後の混乱のさなか新潟県で一番先にできた古い植物園。植物界のドン牧野富太郎博士、本田正次博士などの助言をいただいて佐渡島の植物研究家が核となって作った…なんて、素晴らしい行動力と志。この植物園は、心優しい羽茂の皆さんに守られながら、70年以上たった今も存続しています。当時とほとんど変わらないまま。時代の流れにより佐渡市の公園や公共施設が次々と手放され崩壊していく中で地元の人に支えられながら70年以上も続く佐渡植物園。心が熱くなります。
「佐渡 巨木と美林の島」(著:伊藤邦男)より引用させていただきました
→北見秀夫・牧野富太郎・近藤福雄・酒川哲保
・佐渡人気質
佐渡人気質(田中圭一講演集より)
★佐渡独立論
★佐渡の句歌(碑)
★佐渡の交通
★佐渡の国字
※佐渡だけで使われた漢字
・鯳(すけと) ・硨(がためき:真野黒山地区の地名)・蚫(あわび:岩首地区の地名)
※「佐渡魚」は「すけとう」と呼びます。
「佐」:訓読みは「すけ」、「渡」:と、「魚」:うお、とこうなります。江戸時代の佐渡奉行川路聖謨の名著「島根のすさみ」に出てきますね。
★佐渡の古代
新潟県立歴史博物館学芸課長 浅井勝利



★佐渡の新聞
★佐渡の神社総覧
★佐渡の人口
人口減の佐渡島、 新潟県は、人口減少に悩む佐渡島への外国人移民の永住受け入れを検討している。
国の構造改革特区制度を活用し、入管難民法の在留資格を緩和するよう新年度にも国に提案する考えだ。泉田裕彦知事が24日の県議会で表明、佐渡市の高野宏一郎市長も積極的な姿勢を示している。
検討されているのは、一定の資産を預けたり投資したりすることを条件に、外国人に永住や長期滞在を認める制度。条件は様々だが、米国やカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどが同種の制度を設けているという。
日本の場合は、入管難民法がネックになっている。同法では公用や芸術、教育など分野ごとに在留資格が定められ、国内での活動もその資格の範囲内に制限。在留期間も外交官などを除き原則最長3年と短い。永住資格を取得するには、長期の在留実績や国への貢献が認められるなど条件が厳しい。
このため県は、資産を預けるだけで長期の在留資格を得られ、活動制限も設けられないよう特区による規制緩和を国に求める。
県は今後、受け入れ条件など詳細を詰め、佐渡市と協議する。高野市長は「市としてもどういう形がいいのか検討し、積極的に対応していきたい」と話す。
佐渡の人口は1950年の約12万5000人をピークに若者の流出などで減少。2005年の国勢調査では約6万7000人(速報値)にまで落ち込んだ。
(2006年2月25日12時11分 読売新聞)
★佐渡の本
★佐渡の水害
「明治三〇年水害について」
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治三〇年八月二七日
八月七日全島大水害 死者空 傷者三六 荒廃田一九四町歩砂水田畑二六六町七反と言はれ夫々行政処置通達有 今般の水害は実に本部末曽有之惨状にしてその彗口の状況は筆紙の尽す処無之実に酸鼻の外無之ここに於て去る二十二日河原田に於て有志相会し其の善後策に付種々協議せし儀も有之侯へ共先以て被害細民の救葦は最も急要なるが故郡内より義損金を募り之が救護をなさんとし左の標準を定めたり、裁ては有志者と御協議の上義損金募集方至急御尽力相成度其応募金額人名等は其時に御報告相成侯様に致度此段及得御意侯草々不備。
明治三〇年八月廿七日 吉 藤 堆一
★佐渡の銅像
・野沢卯一:朱鷺の郷 ・本間長治:佐渡病院大駐車場の東南隅 ・舟崎由之:金丸農村公園 ・村田文三:相川「おーやり館」 ・中野清:小木「かもめ荘」近辺 ・近藤元次:相川開発センター ・渡辺治作:旧金井吉井小 ・山本悌二郎:真野公園 ・中野四郎太:佐渡博物館 堀治部・愛子:佐渡能楽堂 ・木島豊治:松埼神社境内
★佐渡の道路
県道、里道に区別されていた。明治六年八月道路法が布かれたが、佐渡には国道は敷かれなかった。それは今日に及んでいる。新潟県から相川に通ずる道路を県道としたのは明治九年六月の太政官布告第六〇号であるが、それから、改修工事のおこなわれた道路は次の各線である。
・相川線
相川-河原田 明治十八年、河原田-夷 明治十九年
・小木線
河原田-小木 明治二十八年
・国仲線 新町-夷 明治二十八年
・赤泊線 新町-赤泊 明治二十六年
・度津線 小木-飯岡 明治三十三年、飯岡-下川茂 明治三十四年
・皆川線 中興-新穂 明治三十二年
・二見線 沢根-二見 明治二十六年、二見-相川 昭和二年
・多田、松ケ崎線 畑野-松ケ崎 大正九年
・横宿線 上横山-新穂 昭和二年
このように、島内道路の主要幹線は、明治三十五、六年頃までに開通したのであるが、この頃は越佐間の船路が開け、帆前船の往復がきわめて盛んになった時代で、貨物、ことにニシン締粕、豆粕などの肥料の陸揚げが続いた。したがって、その運搬のための荷馬車屋が多くなり、夷港から積み出す数十万石の産米の運搬もこれによるので、十月以降の夷港埠頭は、毎日三、四十台の荷馬車が集って、賑盛を極めたのである。
★佐渡の文芸
(詩)
・高村光太郎(「石くれの歌」)
石くれは動かない 不思議なので しゃがんでいつまでも見ていた
あかい佐渡石が棄てたように 小径のわきに置いてある これひとつだけが この林泉の俗をうけない
★佐渡の本
・「灯台」(鵜野峻) 佐渡北部鷲崎辺りがモデル。
・「島へ」(井出孫六)内の 「佐渡 金山の国、空海の国」
・「命つなぐ愛」(山本勝一編著) 佐渡演劇グループいごねり創作演劇脚本集
・「歩く風車」(青野聰)の中の「佐渡 トキと父のふるさと」
・「日本紀行」(井上靖)の中の「大佐渡小佐渡」
・「嵐吹く時も」
(三浦綾子作 昭和61年8月刊 「主婦の友社」)
作者の父方祖父母は佐渡出身であり、その物語。
★佐渡の名水
★佐渡開拓団事件
★佐渡の地震の記録
http://www.city.sado.niigata.jp/sadobunka/denbun/information/new_tayori/h2304_toku.pdf
★佐渡八十八ヶ所霊場(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html
★佐渡病院
佐渡病院(田中圭一講演集より)
★佐渡奉行所

★佐渡町(甲府)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=6
★佐渡を歌った or 佐渡にゆかりの歌謡曲
※「佐渡にゆかりの歌謡曲 その1」(伊豆野康弘氏作成 令和3年)
★沢崎(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=19
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=31
★沢根(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=29
★沢根航路

★沢根団子(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=5
『沢根だんご』は、上品な甘さがうれしいひと口サイズのだんごである。江戸時代、金山で栄えた佐渡島。金山で掘られた金は、中山峠から沢根集落を通って船積みされた。その峠の茶屋で売られ、大人気となったのが沢根だんごといわれている。「佐渡おけさ」の中で、「沢根通ればだんごが招く だんご招くが銭がない」とうたわれている。沢根だんごは天保(1830~44)の初め、沢根で回船業を営んでいた佐藤久次郎の工夫創製によるものといわれている。久次郎は回船業をやめたのち中山峠で茶屋を開業した。佐渡金山送りとなった無宿人たちにとっては、相川に入る前の最後の休憩場所となった。唐丸駕籠で護送された無宿人たちは、先の自分の運命を慮りながらだんごを口にしたという。その後三代まで続いたが、明治26年(1893)に廃業した。しかし、その後も沢根町内で製法が受け継がれ、現在まで観光客や住民に親しまれながら売られている。精魂こめて作られた佐渡産コシヒカリを寒中にさらして粉にし、こねて蒸して、うすでつく。それを清冽な地下水で冷やし、手早くこし餡をくるむと出来上がりだ。餡の原料となる小豆も、無農薬の佐渡産なので安心。そのままでもいいが、冷蔵庫で冷やして氷を一片そえて食べると、白玉のような口当たりで後味も爽やか。佐渡の代表的な特産品となっている。
★サンアロー化成(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=16
★山居池(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=25
★三光の松(一谷実相寺)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037359.html?p=4
★山王まつり(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=12
★さんま捕り
「佐渡ふるさと百科」

★寺院・寺(総合)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html
★塩→製塩
★式内九社(羽生玲吉記)



★慈眼寺(新穂): 報恩寺と合併して慈恩寺となる。慈眼寺の山門が慈恩寺の山門となる。慈眼寺は新穂銀山に向かう途中にあったが、昭和21年生まれの安田勝治さんは遺構さえも見たことはないと言う。現在は松が一本立っている場所と言う。
★シベリア抑留
佐渡汽船埠頭前公園

★「島流し」と「島送り」
「島流し」:流人などで、遠島刑と言う有罪判決を受けて流された。島へ流すのが刑罰で、島で流人の労役などはなく自由な生活を送った。
「島送り」:江戸水替等。「江戸水替」は「刑罰」でなく、不穏分子の予防検束で都市の治安対策。
安永七年(1778年)から江戸、長崎、大坂(阪)の天領地を徘徊していた無罪の無宿者を佐渡へ送り、鉱山の水替え人足とした。
幕末までの100年間に1874人(途中逃亡や病死者を除くと1833人)。
※長崎無宿が45人、大阪無宿が181人で、江戸からのものを「江戸水替」と呼
★しまや(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=16
★下関と佐渡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=24
★地役人

約180人、佐渡出身者は一割に満たない。大方は戦国時代の浪人たちが佐渡に就職先を求めてやって来た。
★周囲
島の周囲は262.7km 道路一周210km
★舟城寺(しゅうじょうじ)
新穂舟下にある浄土宗の寺。
(舟下の土屋正義さん(昭和9年生)語る)※正義さんは土屋源左衛門の分家7軒の一つ。
・後藤五郎右衛門・土屋源左衛門・山田久太夫(山田さちよ先生宅)の三家が中心となり勧請した。・元は、大野川沿いにあったが上杉に攻められ焼き討ちされ、現地に移転した。移転当時は今の三倍くらいの敷地だった。正義達の代になり、檀家でお金を出し合って寺を新築した。大野川沿いにあった寺の場所にはお堂が立ており、阿弥陀如来(黒阿弥陀と言われた)が祀られていた。正義が子供の頃は舟城寺にあったが、その後はわからない。・舟城寺は元はかなり裕福で格式の高い寺だったらしく、京都の本山知恩寺では佐渡の舟城寺と言えば特別の待遇を受けたらしい。国会議員で財産家であった後藤五郎治の力であったろう。
・同じ資産家でも、後藤家は米を酒にして付加価値をして売り、土屋家は単にコメ販売であったので資産の蓄積はけた違いだった。
・住職は貝沢弁明で、京都から来られた。昭和8年生まれの「しんじ」さんががいたが、寺は継がなかった。その方の姉が高子さん(次女)で両津夷の正覚寺(浄土宗)の山口隆海(隆戒?)氏に嫁ぐ。弁明さんには現在、舟城寺は正覚寺によって管理されている。・計良由松さんは元々土屋源左衛門本家の方で2男又は3男で生まれた。土屋家本家は一家で北海道に移住した。しかし、小学生の頃、由松は北海道が嫌で一人で佐渡に戻った。土屋家分家の正義宅で過ごした。正義の祖父は由松父の弟となる。その後、由松は北海道へ又連れ戻されたらしいが、後年新穂の計良家に婿入りした。新穂の角地で本屋「新光堂」(10銭店と呼ばれた)を開き、この店は後、仲野本屋(仲野正二経営)となる。
★住宅
佐渡島の町家に関する史的研究 - 住総研
★十二月の札
佐渡市の関集落に伝わる一風変わった風習です。節分の日に「12月」と書かれた木札を家々に掲げます。フシノキで作られたこの木札は「十二月の札」と呼ばれ、節分の夜にやってきた鬼に来るのが早すぎたと勘違いさせ、追い返す意味が込められています。まさに鬼にも優しい厄除けの札です。またこんな伝統も・・・。<集落の住民は>「うちのなかにまいた豆は集めて残しておいて、海に行くときに持って行けよって言われておりました」「十二月の札」は2月4日の立春の朝に道にまいて人に踏みつけてもらうことで厄払いを行うということです。
★十二が柿

★宿根木(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=17
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=18
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=23
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=31
★宿坊(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=4
★酒造(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=6
★正覚寺(夷)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=2

★浄願寺(秋田市)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=15
★常慶寺 椿

★浄経寺の百日紅

★勝広寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=4
★称光寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=6
★勝興寺(富山)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=18
★松泉寺 川茂

★城南窯(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031750.html
★常念寺 (「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=26
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=4
★城腰のトチノキ(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037359.html?p=3
★正法寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=8
★正法寺ろうそく能(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=11
★縄文遺跡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=15
★庄屋(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=6
★食肉加工(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=16
★食文化
http://sado-ikimono.eepc.jp/dictionary/food/index.html
★順徳上皇
・順徳上皇が崩御された翌年の1243年(寛元元年)4月28日、藤原康光が奉持5月13日京都の大原に納めたことが記録に残る。
★城の貝塚


★正法寺
正法寺
★白木~三ツ屋~江積(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=17
★白山(しらやま)神社 沢根
0506月

★城
佐渡の古城址
★白瀬(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=6
★しんこ・おこし
★真光寺
https://www.city.sado.niigata.jp/site/bunkazai/5206.html
★神社
・奈良朝廷が祀った神社
・ハナムラ神社(西三川小泊)・サシバ神社(相川高瀬)・オオバ神社(所在不明)・モノノベ神社(畑野小倉)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=2
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=3
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=6
★心中

★尋常小学校・尋常高等小学校
・明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存在した初等教育機関。
・1886年(明治19)の小学校令で小学校を尋常小学校4年(義務教育)、高等小学校4年。
・1907年(明治40)に尋常小学校6年、高等小学校2年
・国民学校令(昭和16年 1941年)で国民学校が設置、尋常小学校は国民学校初等科、高等小学校は国民学校高等科となる。
・1947年(昭和22年)学制改革(六・三制実施)により国民学校初等科は小学校、高等科は新制中学校に改組。
(進学実態)・尋常小学校卒業後は、旧制中学校・高等女学校・実業学校といった旧制中等教育学校、高等小学校、青年学校普通科などに進学するか就職。1936年の統計では、旧制中等教育学校に進学する者は21%、進学しない者は13%、高等小学校に進学する者は66%。
・進学率は年々上昇し、第二次世界大戦のころにはほとんどが進学した。
★新田開発(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=19
★新保と新穂
『田中圭一講演集(第一集)「世阿弥の頃の佐渡」』より
羽田清治先生は「しんぼ」というのは「新保」ではなくて、「新穂」のことだと話されました。つまり、もともと新穂辺りが「しんぼ」だったのに新穂を「にいぼ」と読みちがえてしまったために生じた間違いであるとお考えのようでした。かって根本寺の隣に本間六郎左衛門という人の家がありましたが、先生はそこが日蓮が流された頃の守護代、本間六郎左衛門の守護所であると信じておられました。しかし先生の説には少しムリがあろうかと思われます。
★新保八幡宮祭(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=12
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=2
★水銀精錬
https://drive.google.com/file/d/1A_n8-g6rCWAAxDEu7IOC_65060HmokBc/view?usp=share_link
https://drive.google.com/file/d/1LN3BCVy_WJDuVb24Xy-8G8klEYCU88ZE/view?usp=share_link
https://drive.google.com/file/d/1chCK7x-BhB-cspg_aEzj_9doqiBFE35w/view?usp=share_link
★水産加工(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=7
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=12
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=14
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=4
★菅原神社(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=9

★杉池(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=27
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=4
★スキューバダイビング(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=7
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=9
★スゲ笠

★すけとう
★すけと
すけと(すけとう)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50033591.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=21
★住吉(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=26
★住吉神社(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html
★諏方神社(夷)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html
★諏訪神社(椎崎)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=3
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=28
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=5
★諏訪神社(河原田)例大祭(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=12
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=3
★製塩
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)②p253-261
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=10
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=11
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=18
★清水寺(大野)
清水寺(大野)28部衆
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037359.html?p=6
★清水寺(石名)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=2
★製鉄(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=17
★セイデンテクノ(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=5
★関(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=30
★石仏・石工(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=24
★世尊寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=7
★説教人形(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50040538.html
★節分
「黒姫の鬼も内」
黒姫の庄屋「山本勘右エ門」の物語です。
この家には、田植えが暴風雨に見舞われたとき、鬼が田植えをして助けてくれたという言い伝えがあります。以後、鬼に感謝して豆まきでは「鬼も内 福も内」と唱えるようになったそうです。この豆まきは、黒姫地区でも山本家と分家の4件だけ。
「鬼も福も同じ、悪い物はいない」という性善説の家訓が記された掛け軸と、升を手に、口に手を入れて笑う鬼の像は、現在黒姫公民館に飾られています。
★瀬戸内海(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=23
★占魁丸
占魁丸と沢根港(「風間進君の佐渡」より)
占魁丸(せんかいまる)の経緯(「風間進君の佐渡」より)
★善光寺と佐渡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=17
★選鉱場おけさ(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036865.html?p=3
★千畳敷(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=19
★潜水(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=9
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=17
★千本(せんぼ)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=10
★善宝寺
『佐渡の善寳寺信仰』(池田哲夫)』
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=20
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=23
★専門学校(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=8
★総源寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=3
★曹洞宗と佐渡本間家(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=4
★宗念堂 佐和田山田



★そば(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=22
★素浜海岸(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=24

★高波災害

★西光庵(真更川)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html
★西光寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=2
★境港と佐渡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=8
★酒蔵


★酒田と佐渡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=15
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=20
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=23
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=28
★酒田本間家
(ウイキペディアより)
酒田本間氏 本姓 武蔵七党横山党海老名氏流本間氏流 家祖 本間原光 種別 地下人 平民 出身地 相模国愛甲郡依知郷本間村
・主な根拠地 出羽国 山形県酒田市
・著名な人物 本間光丘
本間氏(ほんまし)は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主と称された豪商[注釈 1]。その財力を基礎に、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの栄華を誇った。酒田本間氏については「本間家旧本邸」のように、本間氏(ほんまし)ではなく本間家(ほんまけ)と通称される。佐渡本間氏の一族には、上杉氏転封の折に山形へ移った者もいた。1689年(元禄2年)、現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始めた酒田三十六人衆の一人で武士であったといわれる本間久右衛門の息子あるいは番頭といわれる原光を初代とし[1]、3代当主である光丘は、士分の取り立てを受け庄内藩の財政再建に取り組んだほか、砂防林の植林を進めた[1]。さらに宝暦の大飢饉で多くの農民が餓死したことを教訓に、豊作の際には米を庄内藩の米倉に貯蔵し、飢饉の際には米を放出する「八ヵ年計画による備蓄計画」を起案し藩に提出。この計画は昭和20年頃まで維持された[2]。またローソク足を考案した宗久など多くの逸材を輩出した。このほか金融業にも進出[注釈 2]。大名貸では東北の多くの大名家から借入の申し込みを受けその要請に応えた。そしてそこから得た利益を元手に土地を購入。田地を拡大していった[2]。さらには北前船交易の隆盛もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家となった。戊辰戦争の際には佐幕派の庄内藩のため巨費を献じたほか、明治維新後には政府から多額の賠償金の支払いを求められた[3]。その後も引き続き日本最大級の大地主ではあったものの、起業・興業にはあまり執心せず財閥化することなく、一地方企業家にとどまった。しかしながら、防風林および灌漑事業整備に大いに貢献し、酒田の近代化に尽力。また、6代光美、7代光輝によって旧亀ヶ崎城(現:酒田東高校)の東側の田んぼに整備された試験場である本間農場では、乾田馬耕など小作人に対する農業指導を行い、庄内米の価値向上に繋げたほか、農民や小作人には保護政策を執っていた[4]。加えて、根室の柳田藤吉も支えた。第二次世界大戦後のGHQによる農地改革の実施に伴い、1750ヘクタールあった農地はただ同然で売り渡され、本間家には4ヘクタールのみが残存した[5]。1990年(平成2年)、本間家の商事部門等であった本間物産は倒産[5]。その後、本間物産はカウボーイ傘下での再建を経て、秋田県仙北市に本社を置く伏見屋からの買収によって[注釈 3]、子会社化された。 なお、不動産関連は本立信成として今日も現存する。本間ゴルフ創業者は、酒田本間氏庶流にあたる。
・「歴代当主」 本間原光 本間光寿 本間光丘 本間光道 本間光暉 本間光美 本間光輝 本間光弥 本間光正 本間真子 - 2009年11月死去。 本間万紀子[6]
・「一族」 本間宗久(光寿の弟。「相場の神様」「出羽の天狗」と称される。光寿の隠居後、光丘の奉公修行中に当主代理を務めた) 本間北曜(葛飾北斎の弟子。またフルベッキから英語を学び、欧米諸国を外遊。薩摩藩開成所の英語教師を務めつつ、薩摩藩に貿易商社設立を提案して奔走するも、帰郷したところを庄内藩によって幽閉され急死)
・「関連項目」 佐渡国 本間美術館 日本の戦後第3集「酒田紀行 農地改革の軌跡」(NHK特集 1977年) 東北三大地主
「参考文献」
山形放送株式会社山形県大百科事典事務局編 『山形県大百科事典』山形放送、1983年。
「外部リンク」
本間家旧本邸 – 一般社団法人酒田観光物産協会 光丘文庫 – 一般社団法人酒田観光物産協会
「本間光丘(四郎三郎)」
・経歴:本間家は、当初相模国愛甲郡本間村にいたため、本間氏を称したとされる。子孫は鎌倉時代初期、佐渡および越後に移り、その分家が足利季綱のとき出羽庄内に移る。光重(光繁とも)に到って永禄年間、酒田に住んだ。庄三郎のときに酒田の長人になり、家は次第に栄えた。四郎三郎[1]もまた長人となり、父祖の志を体し、奉公の念厚く、経済の理に通じ、最上川の水利を治め、天明の大飢饉では金穀を施し、宝暦8年(1758年)、資財をなげうち酒田の西浜に防砂林を植えるなど、功績が多く、宝暦12年(1762年)、庄内藩はこれを賞して町年寄とし、明和4年(1767年)、士格に列し、小姓格となした。また、酒田港口に灯台を建てたり、藩士の借財を整理し、本間家の低利な資金に借り換えさせた。明和5年(1768年)酒田、鶴岡両城普請掛を命じられ、備荒貯蓄米24000俵を献じた。功によって500石30人扶持を給せられた。ときに江戸藩邸が焼失し、そのうえ徳川家慶の加冠の謝恩使を命じられるなどして財政が窮乏を極めたが、安永4年(1775年)、藩主・酒井忠徳の命をもって藩の財政改革に携わり、大いに奔走したが、これを妬む者もあったためついにこれを辞した。藩主の命により再びこれにあたり、功績は大いに上がった。天明8年(1788年)、藩士が富士川、大井川、安倍川の修治を命じられると、藩命によって大阪の巨商から資金を借り入れ、事を弁じた。寛政3年(1791年)に米沢藩主上杉治憲(鷹山)により、隠居の身から中老に就任した莅戸善政は、寛政6年(1794年)に四郎三郎を酒田に訪ね、これから金穀を借り軍備を修め、田地の開拓などをすることができた。鷹山の治績がおおいに上ったのは、江戸の三谷、越後の渡辺に加えて、四郎三郎の献替が大きかったという。寛政4年(1792年)、北海の警備のために大砲10門を献上し、海防に資した。
大正6年(1917年)、特旨をもって正五位を贈られた。山形県酒田市には本間四郎三郎を祀る光丘神社が鎮座する[2]。
ブログ『ユカリノ』より
「藩主をしのぐ日本一の大地主!庄内藩・山形県酒田市の本間家が貫いた義」
身分制度が厳しかったとされる江戸時代は、武士が商人や農民たちに威張りちらしていたというイメージを持っている方が多いかもしれません。しかし、東北の庄内藩(現在の山形県の日本海側)には藩主をはるかにしのぐ力を持つ豪商がいました。それが、戦前まで日本一の大地主とされた本間家です。その庄内藩の栄華を伝える雛祭りが4月3日まで開催中。ぜひこの機会に訪ねてみては?本間家は酒田を拠点に金融業や米取引、そして北前船交易などで莫大な富を築き、新田開発にも力を注ぎました。庄内藩は譜代大名の酒井家が幕末まで統治しましたが、その石高は13万石ほど。これに対し、本間家の財力は20万石規模に相当していたとされ、その繁栄ぶりは「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれたほどでした。
本間家はもともと佐渡の豪族で、血筋をさかのぼると関東の武士だったといわれます。上杉景勝に反逆したため滅ぼされますが、一族の中には上杉方に味方したものもいました。彼らは会津に国替えとなった上杉家に付き従い、その中で酒田に移り住んだ一族は武士の身分を捨て、江戸時代に商人となったのです。
➡『佐渡広場』係わりの地66:酒田 http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=12
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=23
★さかなまつり(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=7
★裂織(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=8
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51978719.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51979375.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=3
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=4
★鷺流狂言




■鷺流狂言について■
能と兄弟関係にある狂言は、江戸時代、大蔵・鷺・和泉の3流があり、鷺流宗家は能楽の観世流に属する狂言方として栄えましたが、明治維新後衰退し、廃絶しました。佐渡の鷺流狂言は江戸末期に潟上村の葉梨源内によってはじめられ、明治維新後も伝えられました。明治3~4年頃(1870~71)には鷺流最後の宗家鷺権之丞も来島し、数年間滞在しました。その後佐渡最後の名人といわれた天田狂楽が昭和19年に (1944)亡くなり、佐渡の鷺流狂言も滅びたとされていました。ところが、昭和54年(1979)頃、これとは別に真野町の鶴間兵蔵という人の弟子たち によって、鷺流狂言が伝承されていることが確認されました。昭和59年(1984)には新潟県の無形文化財に指定され、現在真野の佐渡鷺流狂言研究会の手によって伝承されています。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=6
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=7
★下げ紙→袴紙
★笹鳴会
昭和5年頃、橋本座の民謡踊りは、夷海岸町にいた「こと」の阿部先生が指導する少女の笹鳴会であった。地方は両津小黒館のかおるさんらの両津芸妓遵がつとめていた。
★佐渡おけさ(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036865.html?p=2
★佐渡牛(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=30
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037359.html?p=8
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=17
★『佐渡郷土文化』(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=17
★佐渡語源の言葉
「ドサ回り」
「ウィキペディアより」
芸能人などが地方を巡業すること。「地方巡業」や、近年では「営業」と呼ばれる行為もほぼ同義である。表舞台で華々しく活躍する一線級の芸能人ではなく、二線級以下の人々の活動を示すことが多い。転じて、左遷や転勤などで地方の営業所や子会社に赴任する勤め人をも指す言葉となった。芸能用語としては蔑視的な使用に重なり、近年[いつ?]は直接的には使わないが状況的には生きた言葉である。
・概要:売れない芸人や歌手が行う地方での営業活動。生活の糧を得ると共に、知名度を着実に上げる下積み活動の意味を持つ。ドサ回りを行う者は、無名はもちろんのこと、一世を風靡し没落した者まで多種多様。ドサ回りの結果、表舞台へ駆け上がったり、復帰する例は枚挙にいとまがない。このためドサ回りの人間模様は、小説や舞台の題材となることも多い。今[いつ?]では芸能でなく性風俗の枠で捉えられがちなストリップも、香盤の用語が示す通り芸能の一種であり、地方巡業も同様の形態を持ったことが小沢昭一の「日本の放浪芸」に記録されている。
語源:ドサとは佐渡を逆から読んだ言葉で、一度巡業に出るとなかなか戻れなかったことから、流刑地であった佐渡ヶ島になぞらえて使用された隠語である。これ以外にも、粗末な小屋に振り込む土砂降りの雨のことという説、土の上に座って演じることが語源とするなどの異説もある[1]。地方を巡る活動であるため、地方を拠点として活動を行う者は対象とならない。
「どさくさ」
どさくさの語源には、江戸時代に佐渡金山の人手確保のため行われた「博徒狩り」を語源とする説がある。これは、「佐渡(さど)」の音を反転させ、「◯◯らしい」などを意味する「臭い」の「くさ」をつけたもので、博徒狩りの賭場の混乱状態を表す言葉として使われたというものである。
「山を張る、山を掛ける」
山を張る(山を掛ける)とは、リスクの大きい賭けの勝負に出るという意味だが、「山」は「鉱山」のことで、「山を掛ける」「山を張る」は金や銀など貴重な鉱脈のありそうな山を予想して、そこへ採掘資金をつぎ込むことをいったように、あまり確実性のない対象や場所に集中的に資金や労力を投下するという意味あいで用いられる。特に試験勉強などで、出題される問題を予想し、その問題だけ集中して答を覚えるというやり方に使用されることが多く、本業そのものに対する知識や努力しようとする気力はないが、試験問題の出題傾向や教師の心理を読む力はあるという、社会に出てから意外に花開く才能を備えた人物が好んでとる戦術である。
似た言葉に「一か八かの勝負に出る」があるが、「山を張る(山を掛ける)」が、その山(鉱山)を選ぶまでにその人のなりの緻密な計算が働いているのに対して、「一か八か」は二者択一の局面が目前に迫っていて、計算を働かせる余裕もなく目をつぶってえいやとどちらかを選ぶという、よりバクチ度の強い印象のある言葉である。とはいえ、どちらにしても投機性の高い勝負のありかたを言っているには違いなく、健全な市民には決してお勧めできない生き方ではある。(CAS)
「山勘/やまかん」
意味:山勘とは、勘に頼って成功を狙うこと。当てずっぽう。相手を計略にかけてごまかすこと。また、その人。
・山勘の語源・由来:山勘は、「山を張る(掛ける)」「山を当てる」などの言葉と同時期の近世以降に見られる語で、第六感を「勘」と言うようになったのも同時期である。山勘の語源には、武田信玄の参謀とされる山本勘助の略という説と、山師の勘の略とする説がある。山本勘助の説は、彼が計略に長けていたことから、ごまかすことを「山勘」と言うようになったとするものである。しかし、この言葉が使われ始めた時代と、人物の時代がずれ過ぎていること、山勘がごまかす意味で用いられるのは当てずっぽうよりも遅いこと、策略が優れていることから当てずっぽうの意味になるには、隔たりがあり過ぎることなどから考え難い。
山師の勘の説は、鉱山の採掘をする山師の仕事は当たり外れも多く、勘が頼りであることからというものである。しかし、山師の略ということではなく、「山を張る」や「山を当てる」などと同じで、山が投機対象であったことから万一の成功・幸運を「山」と言い、それを狙った勘で「山勘」となったと考えるのが妥当である。
ただし、山師はペテン師の代名詞にもなっている言葉なので、他人をあざむく意味で「山勘」が用いられるようになったのは、山師に由来していると考えて良いだろう。
※一方で、佐渡言葉だと思われ、観光ガイドブックに出てるもので完全な標準語もあり。
例えば、「けなるい」「がめる」等はしっかりと国語辞典に出ています。
★佐渡開拓団
「佐渡開拓団」(『加茂村誌』昭和38年4月)
★佐渡から江戸へ
□無宿人を目駕籠(唐鶏籠)で送る
①信州路をう回して北国街道ー出雲崎ー小木
②三国海道ー寺泊ー赤泊
③奥州街道(白河から分かれて)ー会津ー新潟ー夷
※このルートは天明五年(1785年)より。
・三国路が最短、どの道も江戸から2週間以上かかる。
・三道を隔年で交代で指定したが、それは人足を出す沿道の駅や村から苦情陳情が幕府に出されたため。
★佐渡山岳会





★佐渡汽船
佐渡汽船埠頭前公園




★佐渡牛
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)②p191-234
★佐渡銀行・相川銀行
(「風間進君の佐渡」より)
★佐渡県 「萬都佐木」

★佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)(広瀬貞三)
佐渡鉱山の朝鮮人労働者

★佐渡五史書
・『佐渡年代記』
一九巻・二二冊。原本は慶長六年(一六○一)から嘉永四年(一八五一)まで、二五一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、江戸幕府の佐渡支配を知る根本史料。著者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本に、明雅の没後、同じ地役人であった原田久通が書き続けたものといわれる。さらに嘉永五年(一八五二)から明治七年(一八七四)までの二三年は、『佐渡年代記続輯』として、また、『佐渡年代記』に全く脱漏したもの、および不完全な部分を萩野由之が編纂して『佐渡年代記拾遺』として、昭和十年以降佐渡郡教育会から出版した。佐渡教育会の刊本は、佐渡支庁本を底本として、両津市鵜飼文庫本、真野町荏川文庫本によって校訂し出版されたが、ほかに萩野由之蒐集の舟崎文庫本が優れている。刊本は羽田清次が編纂主任となり、矢田求・山本半蔵・北見喜宇作がこれに参加して完成した。【執筆者】 児玉信雄
・『佐渡風土記』(さどふどき)
上中下三巻。相川の地役人永井次芳(歌古園・鳳波と号す)が、延享三年(一七四六)に完成した。明治三十二年まで作者がわからなかったが、子孫の永井晋によって次芳であることが立証された。上巻は上杉景勝の領国となる天正十七年(一五八九)以前、中巻は同年より慶安五年(一六五二)小比叡騒動の終結まで、下巻は承応二年(一六五三)より寛延三年(一七五○)までを収めている。内容は書名と異り、郡村・山川・寺社・物産などの記述はいちじるしく少く、すべて歴史的記述で構成される。ただ、上巻は史料が乏しいため、おおよその時代をおって配列しており、中・下巻は毎年の記事をおって編年体で記述され、時代が下るにつれ詳細である。次芳は、高野信治の子ではじめ半十郎といい、のち永井四郎兵衛仲雄の養子となり、手形改役・目付・山方役を歴任し、宝暦十四年(一七六四)四三歳で死去した。父仲雄は月番役で、父子ともに奉行所の記録閲覧の便があったと思われ、著者はそれによって佐渡の年代記を編纂しようとしたらしく、中・下巻を「佐渡国年代略記」と名づけた写本があることによっても、このことが裏づけられる。『佐渡地志』についで、早く成立した佐渡史書として貴重である。【執筆者】 児玉信雄
・『佐渡志』(さどし)
一五巻、同附録図一巻。佐渡奉行所広間役田中從太郎(美清・葵園と号す)が、文化年中奉行の命を受けて、同じ地役人西川明雅(藤兵衛・恒山の子)とともに編集した地誌。葵園の生前には、文化十三年(一八一六)までを、それ以後は二男藤木実斎(名は穂、実斎・竹窓と号す)が、先志を継いで弘化年中に完成した。内容は、本編の巻順で、建置・形勝・田土・食貨・風俗・官員・武備・戸口・祥異・神祠・仏寺・古蹟・遷流・遺事・物産の一五巻と附録図でなり、各巻とも可能なかぎり古代からの記録を採用し、自らも寺社・民家の記録を採訪して著述している。引用書目は、記紀以下六国史・増鏡・梅松論・延喜式・今昔物語・遊行渡海記など、島内だけでなく中央の史料まで引用し、その数は六○種をこえている。このために、葵園が文化三年(一八○六)二五歳のとき、江戸の塙保巳一に佐渡関係史料所載の古文献の調査を依頼した書簡がのこっている。本書を完成させた藤木実斎は、二部作成し、一部を修教館におさめ、一部を家蔵したが、明治七年葵園の孫美暢が明治政府に献納し、現在は二部とも内閣文庫が所蔵している。【関連】 田中葵園(たなかきえん)【参考文献】 『新潟県史』(通史編3近世一)、麓三郎『佐渡金銀山史話』、田中圭一『天領佐渡』【執筆者】 児玉信雄
・『佐渡四民風俗』(さどしみんふうぞく)
宝暦六年(一七五六)佐渡奉行所在方役の高田備寛は、奉行命によって島内の各村々の生活ぶりを二巻の書に記述し、これを『佐渡四民風俗』と名づけた。その後天保十一年(一八四○)に、広間役の原田久通が追補したものが明治二十八年(一八九五)に矢田求の解題で、下巻の一部を省いて史林社から刊行(同書は昭和四年にも出された)。戦後昭和二十六年(一九五一)に佐渡古典叢書として橘正隆の、さらに同四十四年に田中圭一の解説で、三一書房から出版された。上巻は中世の本間能久支配の頃から、江戸前期までの歴史の概要を述べたあと、「当国農家風俗の儀」として、上杉景勝支配以後の村の様子を記してある。記述の順序は、沢根町・河原田町・辰巳村・八幡村・四日町村と真野沿いにはじまって、終りは両津湾沿いの内海府村々となっている。下巻は職人についての記述で、樋職人・番匠・鍔師・金具師など、あらゆる職種に及んでいて、追加分を併せると、江戸前期・中期の島内の工芸事情が詳細に把握できる。筆者の高田備寛は、地方の役人とはいえ、江戸詰の機会が享保から元文にかけて前後五回もあって、江戸在住および往復の旅の経験や見聞がひろく、その視野の広さから、高度の民俗誌を書き上げることができたものと考えられる。【関連】 高田備寛(たかだびかん)【執筆者】 本間雅彦
・『佐渡相川志』(さどあいかわし)
全五巻。相川町浄土真宗永弘寺(現永宮寺)十二世松堂の著。松堂は、河原田真宗光福寺八世了運の弟として、元禄八年(一六九五)に生まれ、明和九年(一七七二)十一月七八歳で死去した。巻一は、佐渡地頭・諸所城主・鶴子陣屋・相川陣屋を記述して、中世から近世への推移を概観し、歴代佐渡奉行・代官・各役所・番所の開設年代と変遷、旧勤名録を詳細に記している。巻二は、相川金銀山の起こり、間ノ山・六十枚両番所から主要間歩までの道法、古間歩の名前、山師の由緒、買石・金子・羽口屋・紙燭等の職人、相川町々の名主・中使、五ケ所番所・高札・訴訟箱・牢・兵法道場・町会所・時鐘・後藤屋敷・留木納屋等の施設、それに相川町々の絵図。巻三は、諸学・諸道をはじめ造庭・大工・木挽・鍛冶・塗師から、酒屋・湯屋・魚屋等にいたるまで、五一種について記述している。巻四は、相川の社寺堂・修験で、神社は大山祇神社以下二○社、寺院は真言(七)・天台(六)・禅(一○)・浄土(二○)・真宗(一八)・日蓮(二○)・時宗(一)合計九二か寺・堂(五)、修験当山・本山両派で一六院を記す。巻五は、相川町の年中行事・観音巡礼札所・諸家秘伝妙薬・相川八景を収めている。内閣文庫蔵の「相川砂子」は、本書をもとに編集されたものと考えられている。【関連】 相川砂子(あいかわすなご)・松堂(しょうどう)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡小判
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


★佐渡商船
(「風間進君の佐渡」より)
★佐渡植物園(菊池はるみブログより)


戦後の混乱の時、県下に先駆けて昭和23年(1948)設立。
・設立の趣旨
1.佐渡島の植物分布の特異性、多様性の縮図として、島内自生の植物をできるだけ多く収集し植栽して研究のための資料を提供したい。
2.未来を背負い青少年の生涯学習の場として植物園を提供したい。
3.文化的・学術的な資料を提し、豊かな情操を培わせる第一歩
として植物に親しむ場を提供したい。
4.地域社会の生産と厚生の参考の場としての植物園としたい。
・地元の植物研究家の酒川哲保・海老名一郎・葛西秀夫・近藤 福雄・北見秀夫など識見ある指導者が核となり発足した。
・日本の植物学の泰斗牧野富太郎、佐竹義輔、木村四郎博士などの指導をうけ、本田正次博士(東京大学教授・付属植物園長)、武田久吉(日本山岳会長)からは来園実地指導を受けた。
・植物面積の総面積およそ65㌶。現在7つのゾーン別に植物が植栽される。
1.照葉樹林(スダジイ・タブ・アカガシ・シ ロダモ)
2.既存林の保全と花木園(バラ称の花木を中心)
3.佐渡の代表的山野草園(雪割草・エビネ・フクジュソウ)
4.ロックガーデン(スカシユリ・ハクサンシャクナゲ・高山植物)
5.つつじ園(アカマミツ林床)
6.ヤブツバキ園
7.水生植物(ヒツジグサ・コウホネ・ミツガシワ)
8.ミズバショウ園(湧き水水域)
9.杉林とシダ植物園(マメズタ・クリハラン・オニヒカゲワラビ)
10.落葉広葉樹(ヤマザクラ・ヤマモミジ)と里山の山野草(ヤマユリ・シュンラン)
11.竹林 (マダケ・モウソウチクの竹類・笹類)
12.冷温帯の森林植物園(ブナ・ミズナラなどの大佐渡冷温帯の広葉樹)
※明治神宮より下付されたハナショウブ園が隣接する。
※佐渡の原生植生(タブ・シイ・ミズナラ・ブナ林)の復元林や佐渡の植物センターの設立などは近き将来の課題である。
・残念ながらこの本を発行された平成10年から20年たった今も植物センター設立の課題は果たされていない。この超豪華監修の植物園も価値を知る人は一部の人以外少ないと思います。私もその一人で豪華監修の事実は最近知ったばかり。戦後の混乱のさなか新潟県で一番先にできた古い植物園。植物界のドン牧野富太郎博士、本田正次博士などの助言をいただいて佐渡島の植物研究家が核となって作った…なんて、素晴らしい行動力と志。この植物園は、心優しい羽茂の皆さんに守られながら、70年以上たった今も存続しています。当時とほとんど変わらないまま。時代の流れにより佐渡市の公園や公共施設が次々と手放され崩壊していく中で地元の人に支えられながら70年以上も続く佐渡植物園。心が熱くなります。
「佐渡 巨木と美林の島」(著:伊藤邦男)より引用させていただきました
→北見秀夫・牧野富太郎・近藤福雄・酒川哲保
・佐渡人気質
佐渡人気質(田中圭一講演集より)
★佐渡独立論
★佐渡の句歌(碑)
★佐渡の交通
★佐渡の国字
※佐渡だけで使われた漢字
・鯳(すけと) ・硨(がためき:真野黒山地区の地名)・蚫(あわび:岩首地区の地名)
※「佐渡魚」は「すけとう」と呼びます。
「佐」:訓読みは「すけ」、「渡」:と、「魚」:うお、とこうなります。江戸時代の佐渡奉行川路聖謨の名著「島根のすさみ」に出てきますね。
★佐渡の古代
新潟県立歴史博物館学芸課長 浅井勝利



★佐渡の新聞
★佐渡の神社総覧
★佐渡の人口
人口減の佐渡島、 新潟県は、人口減少に悩む佐渡島への外国人移民の永住受け入れを検討している。
国の構造改革特区制度を活用し、入管難民法の在留資格を緩和するよう新年度にも国に提案する考えだ。泉田裕彦知事が24日の県議会で表明、佐渡市の高野宏一郎市長も積極的な姿勢を示している。
検討されているのは、一定の資産を預けたり投資したりすることを条件に、外国人に永住や長期滞在を認める制度。条件は様々だが、米国やカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどが同種の制度を設けているという。
日本の場合は、入管難民法がネックになっている。同法では公用や芸術、教育など分野ごとに在留資格が定められ、国内での活動もその資格の範囲内に制限。在留期間も外交官などを除き原則最長3年と短い。永住資格を取得するには、長期の在留実績や国への貢献が認められるなど条件が厳しい。
このため県は、資産を預けるだけで長期の在留資格を得られ、活動制限も設けられないよう特区による規制緩和を国に求める。
県は今後、受け入れ条件など詳細を詰め、佐渡市と協議する。高野市長は「市としてもどういう形がいいのか検討し、積極的に対応していきたい」と話す。
佐渡の人口は1950年の約12万5000人をピークに若者の流出などで減少。2005年の国勢調査では約6万7000人(速報値)にまで落ち込んだ。
(2006年2月25日12時11分 読売新聞)
★佐渡の本
★佐渡の水害
「明治三〇年水害について」
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治三〇年八月二七日
八月七日全島大水害 死者空 傷者三六 荒廃田一九四町歩砂水田畑二六六町七反と言はれ夫々行政処置通達有 今般の水害は実に本部末曽有之惨状にしてその彗口の状況は筆紙の尽す処無之実に酸鼻の外無之ここに於て去る二十二日河原田に於て有志相会し其の善後策に付種々協議せし儀も有之侯へ共先以て被害細民の救葦は最も急要なるが故郡内より義損金を募り之が救護をなさんとし左の標準を定めたり、裁ては有志者と御協議の上義損金募集方至急御尽力相成度其応募金額人名等は其時に御報告相成侯様に致度此段及得御意侯草々不備。
明治三〇年八月廿七日 吉 藤 堆一
★佐渡の銅像
・野沢卯一:朱鷺の郷 ・本間長治:佐渡病院大駐車場の東南隅 ・舟崎由之:金丸農村公園 ・村田文三:相川「おーやり館」 ・中野清:小木「かもめ荘」近辺 ・近藤元次:相川開発センター ・渡辺治作:旧金井吉井小 ・山本悌二郎:真野公園 ・中野四郎太:佐渡博物館 堀治部・愛子:佐渡能楽堂 ・木島豊治:松埼神社境内
★佐渡の道路
県道、里道に区別されていた。明治六年八月道路法が布かれたが、佐渡には国道は敷かれなかった。それは今日に及んでいる。新潟県から相川に通ずる道路を県道としたのは明治九年六月の太政官布告第六〇号であるが、それから、改修工事のおこなわれた道路は次の各線である。
・相川線
相川-河原田 明治十八年、河原田-夷 明治十九年
・小木線
河原田-小木 明治二十八年
・国仲線 新町-夷 明治二十八年
・赤泊線 新町-赤泊 明治二十六年
・度津線 小木-飯岡 明治三十三年、飯岡-下川茂 明治三十四年
・皆川線 中興-新穂 明治三十二年
・二見線 沢根-二見 明治二十六年、二見-相川 昭和二年
・多田、松ケ崎線 畑野-松ケ崎 大正九年
・横宿線 上横山-新穂 昭和二年
このように、島内道路の主要幹線は、明治三十五、六年頃までに開通したのであるが、この頃は越佐間の船路が開け、帆前船の往復がきわめて盛んになった時代で、貨物、ことにニシン締粕、豆粕などの肥料の陸揚げが続いた。したがって、その運搬のための荷馬車屋が多くなり、夷港から積み出す数十万石の産米の運搬もこれによるので、十月以降の夷港埠頭は、毎日三、四十台の荷馬車が集って、賑盛を極めたのである。
★佐渡の文芸
(詩)
・高村光太郎(「石くれの歌」)
石くれは動かない 不思議なので しゃがんでいつまでも見ていた
あかい佐渡石が棄てたように 小径のわきに置いてある これひとつだけが この林泉の俗をうけない
★佐渡の本
・「灯台」(鵜野峻) 佐渡北部鷲崎辺りがモデル。
・「島へ」(井出孫六)内の 「佐渡 金山の国、空海の国」
・「命つなぐ愛」(山本勝一編著) 佐渡演劇グループいごねり創作演劇脚本集
・「歩く風車」(青野聰)の中の「佐渡 トキと父のふるさと」
・「日本紀行」(井上靖)の中の「大佐渡小佐渡」
・「嵐吹く時も」
(三浦綾子作 昭和61年8月刊 「主婦の友社」)
作者の父方祖父母は佐渡出身であり、その物語。
★佐渡の名水
★佐渡開拓団事件
★佐渡の地震の記録
http://www.city.sado.niigata.jp/sadobunka/denbun/information/new_tayori/h2304_toku.pdf
★佐渡八十八ヶ所霊場(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html
★佐渡病院
佐渡病院(田中圭一講演集より)
★佐渡奉行所







★佐渡町(甲府)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=6
★佐渡を歌った or 佐渡にゆかりの歌謡曲
※「佐渡にゆかりの歌謡曲 その1」(伊豆野康弘氏作成 令和3年)
★沢崎(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=19
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=31
★沢根(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=29
★沢根航路


★沢根団子(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=5
『沢根だんご』は、上品な甘さがうれしいひと口サイズのだんごである。江戸時代、金山で栄えた佐渡島。金山で掘られた金は、中山峠から沢根集落を通って船積みされた。その峠の茶屋で売られ、大人気となったのが沢根だんごといわれている。「佐渡おけさ」の中で、「沢根通ればだんごが招く だんご招くが銭がない」とうたわれている。沢根だんごは天保(1830~44)の初め、沢根で回船業を営んでいた佐藤久次郎の工夫創製によるものといわれている。久次郎は回船業をやめたのち中山峠で茶屋を開業した。佐渡金山送りとなった無宿人たちにとっては、相川に入る前の最後の休憩場所となった。唐丸駕籠で護送された無宿人たちは、先の自分の運命を慮りながらだんごを口にしたという。その後三代まで続いたが、明治26年(1893)に廃業した。しかし、その後も沢根町内で製法が受け継がれ、現在まで観光客や住民に親しまれながら売られている。精魂こめて作られた佐渡産コシヒカリを寒中にさらして粉にし、こねて蒸して、うすでつく。それを清冽な地下水で冷やし、手早くこし餡をくるむと出来上がりだ。餡の原料となる小豆も、無農薬の佐渡産なので安心。そのままでもいいが、冷蔵庫で冷やして氷を一片そえて食べると、白玉のような口当たりで後味も爽やか。佐渡の代表的な特産品となっている。
★サンアロー化成(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=16
★山居池(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=25
★三光の松(一谷実相寺)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037359.html?p=4
★山王まつり(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=12
★さんま捕り
「佐渡ふるさと百科」

★寺院・寺(総合)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html
★塩→製塩
★式内九社(羽生玲吉記)



★慈眼寺(新穂): 報恩寺と合併して慈恩寺となる。慈眼寺の山門が慈恩寺の山門となる。慈眼寺は新穂銀山に向かう途中にあったが、昭和21年生まれの安田勝治さんは遺構さえも見たことはないと言う。現在は松が一本立っている場所と言う。
★シベリア抑留
佐渡汽船埠頭前公園


★「島流し」と「島送り」
「島流し」:流人などで、遠島刑と言う有罪判決を受けて流された。島へ流すのが刑罰で、島で流人の労役などはなく自由な生活を送った。
「島送り」:江戸水替等。「江戸水替」は「刑罰」でなく、不穏分子の予防検束で都市の治安対策。
安永七年(1778年)から江戸、長崎、大坂(阪)の天領地を徘徊していた無罪の無宿者を佐渡へ送り、鉱山の水替え人足とした。
幕末までの100年間に1874人(途中逃亡や病死者を除くと1833人)。
※長崎無宿が45人、大阪無宿が181人で、江戸からのものを「江戸水替」と呼
★しまや(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=16
★下関と佐渡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=24
★地役人

約180人、佐渡出身者は一割に満たない。大方は戦国時代の浪人たちが佐渡に就職先を求めてやって来た。
★周囲
島の周囲は262.7km 道路一周210km
★舟城寺(しゅうじょうじ)
新穂舟下にある浄土宗の寺。
(舟下の土屋正義さん(昭和9年生)語る)※正義さんは土屋源左衛門の分家7軒の一つ。
・後藤五郎右衛門・土屋源左衛門・山田久太夫(山田さちよ先生宅)の三家が中心となり勧請した。・元は、大野川沿いにあったが上杉に攻められ焼き討ちされ、現地に移転した。移転当時は今の三倍くらいの敷地だった。正義達の代になり、檀家でお金を出し合って寺を新築した。大野川沿いにあった寺の場所にはお堂が立ており、阿弥陀如来(黒阿弥陀と言われた)が祀られていた。正義が子供の頃は舟城寺にあったが、その後はわからない。・舟城寺は元はかなり裕福で格式の高い寺だったらしく、京都の本山知恩寺では佐渡の舟城寺と言えば特別の待遇を受けたらしい。国会議員で財産家であった後藤五郎治の力であったろう。
・同じ資産家でも、後藤家は米を酒にして付加価値をして売り、土屋家は単にコメ販売であったので資産の蓄積はけた違いだった。
・住職は貝沢弁明で、京都から来られた。昭和8年生まれの「しんじ」さんががいたが、寺は継がなかった。その方の姉が高子さん(次女)で両津夷の正覚寺(浄土宗)の山口隆海(隆戒?)氏に嫁ぐ。弁明さんには現在、舟城寺は正覚寺によって管理されている。・計良由松さんは元々土屋源左衛門本家の方で2男又は3男で生まれた。土屋家本家は一家で北海道に移住した。しかし、小学生の頃、由松は北海道が嫌で一人で佐渡に戻った。土屋家分家の正義宅で過ごした。正義の祖父は由松父の弟となる。その後、由松は北海道へ又連れ戻されたらしいが、後年新穂の計良家に婿入りした。新穂の角地で本屋「新光堂」(10銭店と呼ばれた)を開き、この店は後、仲野本屋(仲野正二経営)となる。
★住宅
佐渡島の町家に関する史的研究 - 住総研
★十二月の札
佐渡市の関集落に伝わる一風変わった風習です。節分の日に「12月」と書かれた木札を家々に掲げます。フシノキで作られたこの木札は「十二月の札」と呼ばれ、節分の夜にやってきた鬼に来るのが早すぎたと勘違いさせ、追い返す意味が込められています。まさに鬼にも優しい厄除けの札です。またこんな伝統も・・・。<集落の住民は>「うちのなかにまいた豆は集めて残しておいて、海に行くときに持って行けよって言われておりました」「十二月の札」は2月4日の立春の朝に道にまいて人に踏みつけてもらうことで厄払いを行うということです。
★十二が柿



★宿根木(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=17
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=18
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=23
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=31
★宿坊(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=4
★酒造(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=6
★正覚寺(夷)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=2





★浄願寺(秋田市)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=15
★常慶寺 椿



★浄経寺の百日紅



★勝広寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=4
★称光寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=6
★勝興寺(富山)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=18
★松泉寺 川茂














★城南窯(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031750.html
★常念寺 (「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=26
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=4
★城腰のトチノキ(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037359.html?p=3
★正法寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=8
★正法寺ろうそく能(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=11
★縄文遺跡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=15
★庄屋(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=6
★食肉加工(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=16
★食文化
http://sado-ikimono.eepc.jp/dictionary/food/index.html
★順徳上皇
・順徳上皇が崩御された翌年の1243年(寛元元年)4月28日、藤原康光が奉持5月13日京都の大原に納めたことが記録に残る。
★城の貝塚


★正法寺
正法寺
★白木~三ツ屋~江積(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=17
★白山(しらやま)神社 沢根
0506月







★城
佐渡の古城址
★白瀬(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=6
★しんこ・おこし
★真光寺
https://www.city.sado.niigata.jp/site/bunkazai/5206.html
★神社
・奈良朝廷が祀った神社
・ハナムラ神社(西三川小泊)・サシバ神社(相川高瀬)・オオバ神社(所在不明)・モノノベ神社(畑野小倉)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=2
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=3
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=6
★心中


★尋常小学校・尋常高等小学校
・明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存在した初等教育機関。
・1886年(明治19)の小学校令で小学校を尋常小学校4年(義務教育)、高等小学校4年。
・1907年(明治40)に尋常小学校6年、高等小学校2年
・国民学校令(昭和16年 1941年)で国民学校が設置、尋常小学校は国民学校初等科、高等小学校は国民学校高等科となる。
・1947年(昭和22年)学制改革(六・三制実施)により国民学校初等科は小学校、高等科は新制中学校に改組。
(進学実態)・尋常小学校卒業後は、旧制中学校・高等女学校・実業学校といった旧制中等教育学校、高等小学校、青年学校普通科などに進学するか就職。1936年の統計では、旧制中等教育学校に進学する者は21%、進学しない者は13%、高等小学校に進学する者は66%。
・進学率は年々上昇し、第二次世界大戦のころにはほとんどが進学した。
★新田開発(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=19
★新保と新穂
『田中圭一講演集(第一集)「世阿弥の頃の佐渡」』より
羽田清治先生は「しんぼ」というのは「新保」ではなくて、「新穂」のことだと話されました。つまり、もともと新穂辺りが「しんぼ」だったのに新穂を「にいぼ」と読みちがえてしまったために生じた間違いであるとお考えのようでした。かって根本寺の隣に本間六郎左衛門という人の家がありましたが、先生はそこが日蓮が流された頃の守護代、本間六郎左衛門の守護所であると信じておられました。しかし先生の説には少しムリがあろうかと思われます。
★新保八幡宮祭(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=12
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=2
★水銀精錬
https://drive.google.com/file/d/1A_n8-g6rCWAAxDEu7IOC_65060HmokBc/view?usp=share_link
https://drive.google.com/file/d/1LN3BCVy_WJDuVb24Xy-8G8klEYCU88ZE/view?usp=share_link
https://drive.google.com/file/d/1chCK7x-BhB-cspg_aEzj_9doqiBFE35w/view?usp=share_link
★水産加工(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=7
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=12
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=14
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=4
★菅原神社(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=9




★杉池(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=27
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=4
★スキューバダイビング(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=7
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=9
★スゲ笠

★すけとう
★すけと
すけと(すけとう)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50033591.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=21
★住吉(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=26
★住吉神社(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html
★諏方神社(夷)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html
★諏訪神社(椎崎)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=3
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=28
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=5
★諏訪神社(河原田)例大祭(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=12
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037393.html?p=3
★製塩
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)②p253-261
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=10
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=11
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=18
★清水寺(大野)
清水寺(大野)28部衆
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50037359.html?p=6
★清水寺(石名)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=2
★製鉄(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=17
★セイデンテクノ(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=5
★関(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=30
★石仏・石工(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=24
★世尊寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=7
★説教人形(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50040538.html
★節分
「黒姫の鬼も内」
黒姫の庄屋「山本勘右エ門」の物語です。
この家には、田植えが暴風雨に見舞われたとき、鬼が田植えをして助けてくれたという言い伝えがあります。以後、鬼に感謝して豆まきでは「鬼も内 福も内」と唱えるようになったそうです。この豆まきは、黒姫地区でも山本家と分家の4件だけ。

「鬼も福も同じ、悪い物はいない」という性善説の家訓が記された掛け軸と、升を手に、口に手を入れて笑う鬼の像は、現在黒姫公民館に飾られています。
★瀬戸内海(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=23
★占魁丸
占魁丸と沢根港(「風間進君の佐渡」より)
占魁丸(せんかいまる)の経緯(「風間進君の佐渡」より)
★善光寺と佐渡(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=17
★選鉱場おけさ(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036865.html?p=3
★千畳敷(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=19
★潜水(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=9
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=17
★千本(せんぼ)(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=10
★善宝寺
『佐渡の善寳寺信仰』(池田哲夫)』
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=20
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=23
★専門学校(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=8
★総源寺(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=3
★曹洞宗と佐渡本間家(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50034045.html?p=4
★宗念堂 佐和田山田












★そば(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=22
★素浜海岸(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=24
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