2016-10-23
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★さ行★
・在相川医師諸町人由緒(ざいあいかわいししょちょうにんゆいしょ)
史料価値の高い由緒書の集成。県佐渡支庁に保管されてあった「教育財団文庫」に、毛筆の写本で一冊にとじられてあったものを、『佐渡相川の歴史』(資料集二『墓と石造物』)を刊行したさい、初めて活字化された。題名の通り佐渡奉行所の地役人など侍をのぞく、医師・町人・山師・有力商人などのルーツで、いわば江戸時代の佐渡全島の「紳士録」である。侍も部分的にふくまれているが、この書の成立の動機は、基本的には地役人をのぞいた一般諸町人のために編まれたことが知られる。その点で、「佐州地役人分限由緒書」(同町史収載)などと対比できる史料の一つであろう。医師のほか山尾政円・古川平助などの絵師、山田吉左衛門・山本(橘屋)重右衛門・浜田屋権左衛門などの豪商、菊地喜兵衛などの廻船商人もその由緒が記されていて、秤屋の守隨吉兵衛、流人で測量師や細工職人として自活した古川平助、かざり屋(江戸)三左衛門などにおよんでいて、多彩な人物の履歴が紹介されている。この書はおおよそ宝暦~明和のころ、十八世紀後半ごろを下限に書かれたらしく、生国・現住所・家族・没年・法名など、書き上げ方に統一された形式も見られるので、上からの指示によって、ある時期に陣屋へ提出されたものであろう。ただし名前だけのもの、宗門人別改帳だけのものなどあって、成立した動機と、補充されて一冊にまとめられる動機は、別々の時点と考えられる。【執筆者】 本間寅雄
・在方役(ざいかたやく)
在方役は、元禄七年(一六九四)荻原重秀奉行の一国検地のとき、検地御用の役職として、初めて設置された。当初は地方元締役と称し、検地業務の中枢業務を掌る要職で、検地の計画・指揮、検地帳の作成・訂正などを管掌したが、元禄検地後の享保五年(一七二○)、在方役と改称した。定員二人。延享四年(一七四七)以後、在方役のうち一人が奥州半田銀山在勤となり定員三人となる。寛延三年(一七五○)一人減員、宝暦二年(一七五二)より翌年まで月番役兼帯。同三年以後、幕末にいたるまで二人。在方役は、地方役と業務上関係が深く、両者とも農村支配を担当し、年貢徴収を最も重要としたが、地方役は村方支配に関わる、広範な業務全般を司ったのに対し、在方役は主として、年貢割付状・同皆済状・検地帳の作成交付など、年貢・諸役関係などの業務を担当した。在方役は広間詰であったが、地方役所へも立合い、地方役などと一緒に在出するなど、業務を共同で行ったようである。【関連】 荻原重秀(おぎはらしげひで)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】 児玉信雄
・財団法人佐渡博物館(ざいだんほうじんさどはくぶつかん)
昭和二十六年(一九五一)東京国立博物館学芸部長石田茂作、同二十七年文化財保護委員斉藤忠両氏の来島の折、佐渡博物館建設の必要性について発言があり、島内識者間に設立運動の機運が高まった。昭和三十年(一九五五)五月、佐渡郡町村会は博物館設立の協力を約し、風岡相川町長・富田畑野村長二名の委員を選出した。同三十年七月十七日金井村公民館に、佐渡郡内各種団体代表八○名が参集し、佐渡博物館設置促進委員会結成大会が開催され、役員・常任委員・幹事等を選出した。かくして学識経験者が主導となり、佐渡郡町村会・新潟交通・佐渡汽船などの協力合意により、設立運営されることになった。昭和三十一年十二月、佐渡博物館本館工事着工準備(新潟交通事業)、同三十二年九月一日竣工、財団法人佐渡博物館として開館式を挙行。内部は、歴史・考古・動植物・民俗・美術・地質・芸能・産業の八部門に分けて展示されている。綜合博物館である。平成四年(一九九二)十二月から増改築が行われ、新に土田麦僊素描展示室が設置され、翌年七月一日から開館した。【関連】 土田麦僊(つちだばくせん)【参考文献】 本間嘉晴「佐渡博物館の開館に至るまで」(『佐渡博物館々報』一号)【執筆者】 本間嘉晴
・サイナガ(ヤリイカ)(さいなが)
サイナガという方言は、鞘長すなわち外套(胴)部が長く、胴に付く鰭(俗に耳と呼ぶ)も長く、全体が尖った筒状にみえることに由来する。佐渡のイカ漁の主体をなすのは、俗にマイカ(真烏賊)と呼ばれている和名スルメイカ(鯣烏賊)であり、眼球が直接海水と接している開眼類である。一方、和名のヤリイカ(槍烏賊)は、眼に被膜のある閉眼類である。田中葵園の『佐渡志』に、サイナゴイカの名で出てくるヤリイカは、胴長が四○㌢にも達する大型イカで、ほとんどが刺身として賞味されるが、ケンサキイカと共に、スルメに作られることもある。二月頃から佐渡の岩礁地帯に、産卵のため大群が押し寄せるので、灯火を利用した棒受網で、大量に漁獲される。漁は小木半島に始まり、相川町の外海府で終わる。卵は、長くて白い寒天質の袋に数十個が入っており、岩陰や褐藻に産み付けられる。多量に房がぶら下っている様は見事である。産卵後、親イカは斃死するので、死体が海底に小山を成すほどに重なることもある。佐渡の古語にある「瀬取りイカ場」は、ヤリイカ産卵群の接近状況を表わしたものであろう。【参考文献】 「佐渡のイカ漁ーその周辺のことなど」(『神奈川大学日本常民文化調査報告』七集)【執筆者】 本間義治
・西方寺(さいほうじ)
北田野浦にあり、真言宗豊山派。本尊は大日如来で、山号は光明山である。開基は寛正三年(一四六二)と寺社帳にあるが、同寺の縁起には寛弘五年(一○○八)相州・小田原出身の、源兼房寛了という者が北田野浦に来て三年の間とどまり、阿弥陀如来を安置して帰ったという。これが同寺の奥の院「阿弥陀堂」の始まりで、寛正三年は阿弥陀堂が南之坊という僧によって再興された年だと伝えられる。この後阿弥陀堂の別当として、真光寺門徒西方寺が成立したものと思われる。今の本尊は、阿弥陀堂の近くにあった同寺が、明治の初め頃火事で焼けたため、今の場所に寺を建つとき京都の寺から持ってきて納めたと伝えられるが、寛政四年(一七九二)真光寺の新末寺に改まっており、この頃本尊は大日如来に替わったものかと思われる。なお同寺には、毎年正月北田野浦の七人衆が集まり、「マンダラ蒔」といわれる佐渡島内にも例を見ない秘法が伝えられている。【関連】 北田野浦城址(きたたのうらじょうし)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『高千村史』【執筆者】 近藤貫海
・賽の河原(さいのかわら)
この習俗は全国的なもので、『広辞苑』でひくと、仏教用語として「小児が死んでから赴き、苦をうけるところ。冥途の三途の河原で、小児の亡者が石を拾って父母供養のため塔を造ろうとすると鬼が来てこわす。これを地蔵菩薩が救うという。西院(斎院)の河原」と書いてある。外海府の願の集落から、二つ亀方向に浜道を約五○○㍍ほどいった出崎を廻わるとすぐのところにある。死んだ子供を供養する霊跡である。さほど深くない洞窟になっていて、石積みや石地蔵や供え物が岩の外に溢れて、浜辺にも散在している。八十八か所の海府遍路の札所では、番外となっていながら参詣者は甚だ多い。浄土系の賽の河原和讃がよく唄われ、近年は小型の水子地蔵がたくさん納められている。『綜合日本民俗語彙』(昭三○・平凡社)では、「賽の河原と呼ばれる地は現在極めて多い。その多くは小児の死に関連した石積みの話を伝え─(中略)その以前の形があったはずである。おそらく葬送地のひとつ」云々とある。同書の写真説明によると、越後の西蒲原郡角田村のサイノカワラは洞窟内にあって、日蓮が悪竜を済度したところと伝えているが、福井県三方郡三方町では、幼児の死後四十九日間まつるのは、小川の流れの中につくられた棚の上となっている。願集落の賽の河原は、現在鷲崎の観音寺が管理しており、毎年七月二十四日の縁日には、地蔵祭が行なわれている。子供を失なった島人のほかに、関東ほか各地からの参詣者がある。【執筆者】 本間雅彦
・材木町(ざいもくまち)
『佐渡相川志』に、町長サ一三八間五尺、御陣屋迄三丁一三間二尺、居宅は町の東側にあり、五反二畝歩余を数えた。海に面した西側八反六畝九歩は薪納屋が続き、番所の荷揚げ場で空間が設けられた。慶長九年(一六○四)に、板町との境の浜に番所が建てられたが、元禄の中頃まで十分一役場と呼ばれ、役人を口屋衆、問屋を水揚と云った。寛永元年(一六二四)に焼失し、再建された。その後、呼び名が材木町番所に変り、幕末まで続いた。金銀山で必要な留木や薪・材木・板類を、出羽・庄内より買い付け、陸揚げで賑わいを見せた。文政九年(一八二六)の「墨引絵図」には、浜側にも民家があるが大半は空家か薪納屋である。『佐渡国寺社境内案内帳』によれば、善知鳥神社の社地であったが、町造り計画で下戸村へ移転し、これより社造営には材木等を下されるようになった。寛永二十年(一六四三)から善知鳥神社の祭礼が始まり、山鉾などが町内より出、神輿・神楽などが奉行所前へ行き、佐渡一の祭りとして賑やかに執り行なわれた。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡国寺社境内案内帳【執筆者】 佐藤俊策
・佐越航海史要(さえつこうかいしよう)
昭和二十二年(一九四七)に佐渡汽船株式会社は、明治初年から八○年間の船舶の発達、航海の状態、港津の盛衰等を輯録して、「佐越航海史」を編さんすることを計画し、それを郷土史家の橘正隆(通称法老)に依嘱した。依嘱は、同社の顧問格で取締役であった野沢卯市から直接なされたもので、野沢はそれまでに三か年にわたって集めた資料すべてを橘に提供し、橘自身の調べた資料を加えて、自由にまとめるよう要望した。橘は昭和十一年(一九三六)に日蓮遺跡研究を目的に来島して、最初は金泉村にいたが、翌年村史編さんの仕事が赤泊ではじまったとき、同村に招かれた。野沢はその赤泊の出身者で、早くから両者は昵懇の間柄であり、橘は後日野沢の伝記ともいうべき『遭逢夢の如し五○年』を書いている。橘は会社の要望した「佐越航海史」に、「要」を加えて次の八章にまとめた。「①緒言②海洋文化時代③流人島時代④徳川領時代⑤黎明時代⑥佐越航海競営時代⑦佐越航海統一時代⑧官公費補助始末」。同書は、昭和二十二年(一九四七)に五○○部が非売品として佐渡汽船株式会社から出され、また昭和四十八年(一九七三)に同社の創立六十周年を記念して、『六十年のあゆみ』を発刊したときにB5版に拡大して再版され、同じ凾に収め非売品として、関係者に配布された。【関連】 橘正隆(たちばなまさたか)【執筆者】 本間雅彦
・蔵王遺跡(ざおういせき)
新穂村大字下新穂に所在し、弥生時代中期~古墳時代前期に、佐渡島全体で大規模に玉作りが行われ、その中心的な遺跡であると考えられている、新穂村玉作遺跡群の一つである。発掘調査の結果、玉作資料や石鏃・石包丁などの各種石器、木製品など多くの遺物が発見されている。環濠と考えられる溝が検出されており、佐渡島に環濠集落が存在していたことを証明した。また、環濠の中から木製品が大量に出土し、ほとんどが建物の廃材であるが、容器・祭祀具・農耕具等も出土している。建物跡は九棟検出されており、その中でも大型礎板を持つ建物跡と、枕木を持つ建物跡の二棟が注目される。この二棟の建物の柱などを、年輪年代測定した結果、西暦二九○年代に伐採された可能性が高いことがわかっている。枕木が設置されていた建物跡付近から、佐渡島内で初めて内行花文鏡・珠文鏡・銅鏃が出土しており、遺物から神殿と考えられる貴重な建物跡として、全国から注目されている。日常生活を感じさせない、特殊な建物跡や遺物の多さから、玉作遺跡群の中で、祭祀的な場所だと考えられる。【執筆者】 小川忠明
・栄町(さかえまち)
埋立造成地。平地に恵まれない相川町にあって、町民の福祉向上、町政の発展、そして今後の観光開発を主とする、関連産業の振興を目的とした、総合開発計画の基礎的要件として、土地の確保が重要な課題となり、公有水面を埋立て、公有地の造成を決定した。着工は昭和五十一年(一九七六)度で、大間町~五丁目までの沿岸域を、約一○○㍍の沖合いに、県・国が護岸・消波工を設置し、その背後を相川町が、公有水面埋立免許を取得、埋立造成を進めた。一期工事(大間海岸~羽田浜)七二○㍍、二期工事(一丁目浜~五丁目浜)四三○㍍と進み、埋立総面積は一二万六○○○平方㍍となり、平成八年(一九九六)度に完成した。町名は一般公募(三六○件)の中から、町がますます繁栄するようにという願いをこめて、「栄町」とした。土地利用計画の中には、相川町民体育館(昭和五十六年度)・大佐渡開発総合センター(同五十八年度)・テニスコート・ゲートボール場(同五十九年度)・多目的運動広場(同六十年度)・駐車場(同六十三年度)・漁業センター(平成元年度)・町営住宅栄町団地(同三年度)・文化社会教育施設・町民健康増進施設・相川浄化センター・観光交通ターミナル・役場庁舎などがある。【執筆者】 三浦啓作
・坂下町(さかしたまち)
町は濁川に沿った両側が主で、西の下流は濁川町、南は帯刀坂に分れて、厳常寺坂に続き、下山之神町へ繋がった。濁川町との境から小路を隔てて炭屋町となり、東は川に沿って北沢町があった。『佐渡相川志』は、町の長さ七八間、町屋敷九反四歩と書く。帯刀坂の下りと厳常寺坂の登口は坂下町であり、濁川に架かる橋は公儀で修復したが、町にかかる小橋は町の負担であった。当初は川に石垣がなく、雨による水害で被害にたびたび逢い、家が濁流に流されたこともあった。明治に入り、金銀山の所有が徳川から国に変ると、北沢町の大半は鉱山の建物が次々に建ち、製鉱所となって諸施設が並んだ。町の至る所が、門や柵で締切られ、部外者の立ち入りを禁止する状態であった。明治から大正・昭和と鉱山の施設が新しくでき、町の様相が一変し、昔の面影を偲ぶ間がないほどめまぐるしく変化した。他に例がないほど変りようが激しかった。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、「坂下・下山之神・北沢土量絵図」(村川利章【執筆者】 佐藤俊策
・魚の化石(さかなのかせき)
脊椎動物の硬骨魚類では骨と鱗の化石が、また軟骨魚類では歯とまれに椎骨の化石が産出する。佐渡島の中新世前期の真更川層と、中新世前期~中期の下戸層・鶴子層は、魚の骨・歯・鱗の化石などを含む。相川町関に分布し、多量の植物化石を含む真更川層の泥岩は、淡水魚の化石をまれに産出する。これはコイ科の魚と推定されている。また相川町下戸東方に分布し、細かい層理が発達した鶴子層の泥岩は、海にすむ魚の骨・鱗の化石を含む。多く産出する硬骨魚類は、ニシン科のエオサルディネラヒシナイエンシスと命名された種類である。体長五~一○㌢ほどの大きさで、頭骨・脊椎骨・肋骨・鰓骨などの骨格が体型を保って残されている。また、同種の鱗の化石がみいだされる。ほか、硬骨魚類のアイナメ科、カサゴ科メバル属の鱗、また軟骨魚類のサメの歯が、下戸層・鶴子層からかなり多く発見されている。【関連】 真更川層(まさらがわそう)・下戸層(おりとそう)・鶴子層(つるしそう)・サメの化石(さめのかせき【参考文献】 佐渡海棲哺乳動物化石研究グループ『佐渡博物館研究報告』(七集)、小野慶一・上野輝弥『国立科学博物館専報』(一八号)、佐藤陽一・上野輝弥『国立科学博物館専報』(一八号)【執筆者】 小林巖雄
・裂き織り(さきおり)
経糸に木綿を細く裂いて織った仕事着を「つづれ」という。裂き織りと「つづれ」は同義語につかっていたが、現在では「つづれ」という人は少ない。「つづれ」という地域は海府と能登である。近世前半期まで能登と海上交通で密接に結びついており、文化性も共通点が少なくない。本来の用途を替えて加工し、木綿の二次製品として再製したものが「つづれ」であるので、高級品という感じはない。高千以北では「つづれ」というが、相川に近くなると「さっこり」という。また戸中では「さっきり」といっている。「つづれ」と裂き織りを使い分けているわけではない。木綿布が入手しにくい地域ほど「つづれ」という用語が残っている。裂き織りと「ねまり機」とは共存関係にあり、経糸にきつく織り込む地機として使われてきた。海府方面に裂き織りが残ったのは木挽の山着(どうぶく)、漁船上の防寒具など、激しくかつ耐久性のある着物として必要であったからである。つづれ地帯に「つづれ帯」が使われたのはそれなりの理由がある。古謡に「いくら隠しても、海府の者は知れる。白のツヅレ帯たてむすび」というのがある。婦人の仕事姿は「ぞんざ」(「どんざ」とも)に「つづれ帯」を腰に巻いて仕事をした。帯がゆるまないで仕事がしやすかったからである。木綿の裂き織りくさに和紙をまぜた「紙さっこり」があった(戸地・戸中)。木綿だけより軽く保温力があった。また作業内容に合わせて「短かさっこり」、木挽がたんぜんのようにして着た「おおそで」もあった。木綿布の不足分は相川市にでて「つぎ」を買入れてきて間に合わせた。この木綿ぎれは北前船で上方から「裂織りぐさ」といって運び込まれていた。裂き織り製品として最後まで残ったのは、背負い具としてつかわれた「さっこり」と「こたつ掛け」で、国中方面に海府の製品として売り出されていた。この伝統的紡織習俗は記録の作成、糸織用具や製品の収集を行ない、昭和五十年(一九七五)国指定重要有形民俗文化財となった。【関連】 ねまり機(ねまりばた)・相川町技能伝承展示館(あいかわまちぎのうでんしょうてんじかん)・佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)【参考文献】 『佐渡相川の織物』(相川町教育委員会)、佐藤利夫『佐渡嶋誌』、同「さど・あるくみるきく」(「新潟日報」連載)【執筆者】 佐藤利夫
・鷺流狂言(さぎりゅうきょうげん)
鷺流宗家は、能楽シテ方の観世流に属する狂言方として、幕府の御用をつとめ隆盛をきわめた流派である。しかし、明治維新という社会的変動は、能・狂言師たちに俸祿の打切りという経済的苦難をもたらした。鷺流はこのことがきっかけとなって衰退の途をたどり、明治二十八年鷺流宗家十九世・鷺権之丞の死によって、家元は廃絶し再興もかなわず、大正末年には中央狂言界から完全に姿を消してしまい、現在ではわずかに山口県と佐渡に、その命脈を保っている。佐渡の鷺流狂言は、江戸後期に潟上村の葉梨源内によってはじめられた。源内は、文政四年(一八二一)に江戸で鷺流宗家・仁右衛門定賢に師事し帰郷、佐渡で鷺流を広めたといわれる。幕末には、佐渡奉行・鈴木重嶺の用人として鷺流宗家の高弟、逆水五郎兵衛に師事した三河静観が来島し、明治維新後もそのまま残り、佐渡での鷺流の興隆につくしている。これとは別に、明治十八年真野町の鶴間兵蔵が、東京で宗家やその弟子から狂言を学び帰郷し、自身の主宰する笛畝会の門人たちに狂言を伝授した。それが現在でも真野町に伝承されており、昭和五十九年(一九八四)には県の無形文化財に指定され、佐渡鷺流狂言研究会によって伝承活動が行われている。【執筆者】 池田哲夫
・サケガシラ(さけがしら)
体が細長い帯芯のようなところから、紐体類と呼ばれる魚類に入れられている。体色は銀白色で、皮膚に鱗は無いが、いぼ状の突起が散らばっている。学名の属名トラキプテルスは、この状態を表わした粗い翼の意味である。普段は、中部太平洋の深海の中層にすみ、立ち泳ぎをしているが、時には暖流に乗って運ばれ、日本海へも入る。北西の季節風の卓越した時化の後に、浜辺へ漂着することがあり、珍しがられる。相川町の海岸へは、三月を中心にして発見され、新聞種になることが多い。サケガシラ(鮭頭)という和名は、北米原住民がサケの頭として崇めたことに由来する。肉は白身で柔かく、うまくないので利用されない。この仲間のリュウグウノツカイには、人魚伝説があり、肉を食すと長生きすると言われている。日本海でも産卵することがあるが、幼魚は育たないので、無効分散となる。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治
・下げ紙(さげがみ)
正月の神棚の前に下げる伝承的な切り紙のことであるが、白紙のままの家も多い。呼び方にも、ほかにタレガミ・マエダレガミ・ハカマガミ・キリサゲガミ・キリスカシ・オカザリガミ・シデガミなどがある。普及したのは、歴史的にはさほど古くからのことではない。石井文海の『天保年間相川年中行事』に、それらしきものはみえないし、昭和十三年(一九三八)の『佐渡年中行事』(中山徳太郎・青木重孝著)では、柱松や注連縄に昆布やスルメといっしょに、扇型の切り紙を結ぶマツノハナの行事が、泉・河原田・多田・徳和にみられるにすぎない。しかし民俗学研究所の『綜合日本民俗語彙』(昭和三十年刊)の「ハカマガミ・袴紙」の項には、佐渡での行事として載せてある。その後『海府の研究』(両津郷土博物館・昭和六十一年)には「切り紙」として、ツルカメ・大黒・エビスなどの縁起ものを切り抜いた紙を買ってきて下げるとして、両津の秀方仙之助が切った二○種ほどの見本を掲げ、同氏は四○年前に小木で習った旨書いてある。さらにこのさげ紙は、高野山で始まって北前航路で運ばれたとも書いているので、一般化はないとしても一部の者には、かなり以前に伝えられていたとみてよいであろう。神棚に下げるようになる前には、前記した柱松にハリセンベイといって、麸状の型で起した薄いせんべいなどといっしょに、縁起ものを切り抜いた紙を下げる習俗が、昭和初期にはかなり見られたから、それからの移行ともいえる。じょうぶな和紙が入手しにくくなってからは、薄手の習字紙が多く用いられているが、これは純白さが好まれる上、市販するようになってから、重ね切りの枚数が多くできるなどの利点があるためと思われる。【執筆者】 本間雅彦
・笹川十八枚村(ささがわじゅうはちまいむら)
江戸時代の村名。現在の真野町西三川字笹川集落で、明治五年(一八七二)の閉山まで、砂金山として諸国に知られた。明治十年六月、西三川村に合併して、「大字笹川」となって「十八枚」が消えたが、砂金流しを月額十八枚で請けて、運上を納めたのに由来するとされる。砂金一枚は十両であり、重さにして四五匁とされた。請負い額だから、実際の産額はその数倍あったと思われる。国道から西三川川に沿って四、五㌔ほど登った山間に家が点在する。川は、赤泊村下川茂に発して、上流を笹川といい、金山川・茶屋川を経て、下流の高崎で海に注いでいる。砂金は古来から、この川すじで採取され、右岸の「番屋平」「金堀山」「外輪」「諏訪坂」「中田」「梅ノ木」。左岸の「角力瀬」「高仙」「石原」などが、砂金稼ぎの多かったところであった。登って笹川に入ると、「立残山」「中柄山」「虎丸山」「鵜峠」といった堀り場が残っていて、砂金山遺構の豊富な点では、全国でも屈指のところである。公民館や庚申塚がある「中瀬」のあたりからで集落が二分され、北側が「金山」、南側が「笹川」と区別されて呼んでいる。金山には、大山祇神社・代官所跡・旧名主の金子勘三郎家など。笹川地区には、法名院塚・旧勝興寺跡・虎丸山・西三川小笹川分校などがある。両方合わせて三十数戸のムラで、中には「かなこ」と呼ばれる砂金堀りを先祖とする家が多い。明治五年の閉山以降は、ほとんどが農家に転じて、家系が続いている。【関連】 西三川砂金山(にしみかわさきんざん)【執筆者】 本間寅雄
・佐志羽神(さしはのかみ)
「三代実録」(清和・陽成・光孝の三代天皇の実録ー八五七~八八七)の記事の中に、貞観十六年(八七四)十二月、佐渡国花村神が、元慶二年(八七八)十一月、佐渡国佐志羽神が、元慶七年三月、佐渡国大庭神がそれぞれ正六位上から従五位下に叙せられたことが載っている。これらの神の名もその神跡も、どこであるか現在は全くわからない。このうち佐志羽神は、相川町橘の差輪がその神跡でないかとする矢田求の説がある。サシワは鷹で、上代佐渡では名鷹を産し公用に供したことがあって、その守神として住吉神を佐志羽神社と称したので、二見の橘のサスワであろうというものである。また『佐渡相川の歴史』(資料集五)には、次のような記事を載せている。差輪の坂下五平家は荒沢神社を管理してきた家で、さすわ沢と橘・羽二生線が交差するあたりの尾畑に、荒沢神社の元宮があった。ここに一つの伝説が残る。それは同家の先祖の代に、娘が宮の近くで吹雪倒れになった。それで社人の娘を助けられないような神はいらぬと、御神体を海へ流した。御神体は北に流れて大倉に着き、大幡神社となったと。この荒沢神社が佐志羽神社と関係があったか、興味ある問題である。【参考文献】 『佐渡志』、本間周敬『佐渡郷土辞典』【執筆者】 山本仁
・佐州官途栞(さしゅうかんとしおり)
一巻 表紙共八一枚。作者・成立年代とも不明だが、記事の最新年代が天保十二年(一八四一)であることと、冒頭に「佐州御手限にて差略これあり、江戸御伺ニ振候廉」と題する、佐渡支配に関する問題点十五か条の、幕府に対する意見書を掲げている点から考えて、天保十三年後に在任した大屋図書明啓(天保十三~弘化二)が作者かと推測される。これ以外では、直山と請山、御直粉成(直営精錬)と引請粉成(請負精錬)、天保五年より同十二年までの直山(青盤・鳥越・中尾・清次・雲子の五間歩)の銀生産高、諸役人の役金(給料)の支給月、水金町、時鐘、市町の由来、金銀細工の禁令、他国出し停止の商品、出入国人改め覚など詳細に記している。後半も定御問吹所壁書、銅床屋壁書、大吹所え張置候御書付、金銀吹分所壁書並びに張出これあり候御書付、山出筋金 直内訳、本目位規則之事、焼金小判ニ仕立候御入用積、砂金色々割合出目入目並びに御払代之訳、御入用目録差出候節書面認め方、笹吹銀並びに印銀の起立及び金銭引替相場、印銀由来之事の十一項目が記され、すべて金銀精錬に関するものと、金銀貨に関する詳細な記録になっている。写本は、佐渡高等学校舟崎文庫所蔵。【参考文献】 「佐州官途栞」(舟崎文庫)【執筆者】 児玉信雄
・佐州巡村記(さしゅうじゅんそんき)
三巻。巡村記は、佐渡奉行が新たに着任し、島内町村を巡回する際の手引書で、約二六○か町村すべてについて、家数・人数・石高・年貢高・見取田畑・御林・秣場・寺社・堂・郷蔵・用水・古跡・出先機関が記されている。類書が多く、本書は宝暦年間のものと推定され現存最古のもので、荏川文庫の所蔵である。類書には「お国巡り巡村記」(延享三年)、「佐州巡村記」(文化十年)、「佐渡一国巡村記」(天保七年)、「佐渡国巡村記」(天保十三年か)、「佐渡巡村記」(弘化二年)、巡村記(年不詳)などがある。巡村記とセットで使用されたものに「御巡村絵図」がある。【参考文献】 「佐州巡村記」(『佐渡叢書』一○巻所収)【執筆者】 児玉信雄
・座禅草(ざぜんそう)
【科属】 サトイモ科ザゼンソウ属「座禅草 臙脂(えんじ)の衣の達麿かな 井児」。達麿大師が座禅を組む姿に見たててこの名がある。「ザゼンソウとの出会いで山歩きをするようになった」「サンカヨウとの出会いがきっかけ」と、花の出会いが人をとりこにする。ザゼンソウもまた、強いインパクトを人々に与える。大佐渡のドンデン周辺。色とりどりの春告花の咲く花園。白骨の池と呼ばれる湿原は、ザゼンソウの群生地。赤茶色の部分は仏炎苞といい、内部にある黄色の花の集りを包み守っている。仏炎は仏に供える炎、大きなローソクの炎形である。同じ仲間のミズバショウは、白い仏炎苞。苞は葉の変形したもので、苞葉とも言い、蕾や花を包み保護する葉のことで、鱗片状にもなり、また本種のように色づいて、花弁状になるものもある。苞の内にたつ黄色の肉質の棒状のものが花の集りで、肉穂花序と呼ばれる。ポツポツと点在するものが一個の花で、四枚の小さな花びらが、雌しべと四本の雄芯を囲んでいる。花には強烈な悪臭がある。そのため英名スカンクキャベジン、仏炎苞が黄色のものを、イエロー・スカンクキャベジンという。【花期】 四~五月【分布】 北・本【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・撮要年代記(さつようねんだいき)
吉井剛安寺十五世潮音の編書で、元文五年(一七四○)に成立した。江戸時代に成立した佐渡史書には、『佐渡年代記』『佐渡年代略記』『佐渡国略記』『佐渡風土記』『佐渡志』など佐渡奉行所の地役人か奉行所付き医師、町年寄など奉行所御雇いの者によって書かれたものが多いが、この書は奉行所と関係がない地方の一寺院の住職によって書かれた点で異色である。潮音は島内各地の寺社の縁起を多く手がけており、古実に明るかった。成立年代も佐渡史書中比較的早く元文五年であるが、奉行所の記録も使用していること、殊に在野の史料、聞き書きも多く採用していること、江戸・上方に関する記事が多いことが特徴である。宗一検校の書いた『佐渡故実物語』の序文も潮音が書いたものである。潮音は加茂郡玉川村の加藤安兵衛家の出で、椿村常慶寺で剃髪、同寺住職となり、のち吉井剛安寺住職となった。宝暦頃隠居し、明和二年(一七六五)二月十二日死去した。【参考文献】 「撮要年代記」(『佐渡叢書』四巻)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡(さど)
青野季吉の著作である。青野は、佐渡の真野湾にのぞんだ佐和田町沢根に生まれ、早稲田大学英文科卒業(大正四年)後、読売新聞社や大正日々新聞その他につとめ、その後、左翼文壇の指導的評論家・芸術院会員・日本文芸家協会会長などとして活躍した。青野季吉の『佐渡』は、昭和十七年(一九四二)十一月に、小山書店から出されており、その後記に「私は佐渡に生れて、佐渡を喪った一人だ。しかし喪ったことは、忘れたことではない。この五月、私はじつに久し振りに、墓参に佐渡へ帰った。そして、五月雨にぬれた墓前の雑草のなかで、この書をかく決心がほんたうについた。(中畧)喪った故郷を再び見出し度いと云ふのが、この書をかく念願だったからだ。」と述べている。目次内容は、「佐渡の夢」・「三つの佐渡」・「佐渡の順徳院」・「佐渡の世阿弥」・「佐渡人」・「佐渡五題」(自然・民家・人形・回想・新佐渡)となっている。「三つの佐渡」では、佐渡の文化を、相川中心の武士文化、国中平野は、流人などによる通俗的意味での貴族文化、小木港の町人文化に分け、論じている。また佐渡への流人については、悲劇の帝順徳院に涙を流し、七二歳の老齢で流された世阿弥に、深い同情と関心を寄せている。「佐渡人」や「佐渡五題」のなかでの、人形や春駒に寄せる回想にも、佐渡人ならではの温かいまなざしをそそいでいる。晩年、ふるさとの沢根に「ペンの碑」がたてられ、愛用のペンをうめた。碑には「この美しい入江の岸辺にぼんやり立っていた 何も待つことなしに」と、記されている。【関連】 青野季吉(あおのすえきち)【参考文献】 『越佐が生んだ日本的人物』(新潟日報社)、玉木哲・山本修之助『新潟県人』(新人物往来社)、山本修之助『佐渡の百年』【執筆者】 浜口一夫
・佐渡相川合同庁舎(さどあいかわごうどうちょうしゃ)
国の機関の合同庁舎として、平成七年(一九九五)十一月、三丁目新浜町に新築した、鉄筋コンクリート造四階建、塔屋一階、延べ面積二、八八八・二七平方㍍で、相川税務署・相川測候所・新潟地方法務局相川支局が入居。一階と二階に「相川税務署」が入り、一階が個人課税部門で、所得税・消費税・贈与税・地価税などの、相談の指導及び調査を行い、法人課税部門では、法人税・消費税・源泉所得税・酒税・印紙税などの相談・指導及び調査を行っている。二階には総務課があり、税務広報・租税教育などを行い、管理徴収担当で税金の納付などを行っている。三階は、「新潟地方法務局相川支局」が入り、不動産・商業・法人などの登記、及び登記簿の謄抄本・証明書の発行など、各種登記に関する業務、市町村の戸籍事務の指導監督、外国人の帰化・国籍取得及び離脱などの、戸籍・国籍に関する業務、供託・人権擁護・国の訴訟に関する業務、その他公証に関する業務を行っている。四階は、「相川測候所」が入り、佐渡地方における気象災害の防止、交通の安全確保・産業の発展をはかるため、毎日の天気予報・注意報・警報、大雨や台風に関する情報の作成・発表、気象及び地震の観測の通報・統計、津波の観測・予報及び警報の発表、気象などに関する情報の収集・調査・発表、気象証明書の交付などを行っている。【関連】 相川税務署(あいかわぜいむしょ)・相川区裁判所(あいかわくさいばんしょ)・佐渡裁判所(さどさいばんしょ)・相川測候所(あいかわそっこうしょ)【参考文献】 「佐渡相川合同庁舎 入居官署とその業務内容」【執筆者】 三浦啓作
・佐渡相川志(さどあいかわし)
全五巻。相川町浄土真宗永弘寺(現永宮寺)十二世松堂の著。松堂は、河原田真宗光福寺八世了運の弟として、元禄八年(一六九五)に生まれ、明和九年(一七七二)十一月七八歳で死去した。巻一は、佐渡地頭・諸所城主・鶴子陣屋・相川陣屋を記述して、中世から近世への推移を概観し、歴代佐渡奉行・代官・各役所・番所の開設年代と変遷、旧勤名録を詳細に記している。巻二は、相川金銀山の起こり、間ノ山・六十枚両番所から主要間歩までの道法、古間歩の名前、山師の由緒、買石・金子・羽口屋・紙燭等の職人、相川町々の名主・中使、五ケ所番所・高札・訴訟箱・牢・兵法道場・町会所・時鐘・後藤屋敷・留木納屋等の施設、それに相川町々の絵図。巻三は、諸学・諸道をはじめ造庭・大工・木挽・鍛冶・塗師から、酒屋・湯屋・魚屋等にいたるまで、五一種について記述している。巻四は、相川の社寺堂・修験で、神社は大山祇神社以下二○社、寺院は真言(七)・天台(六)・禅(一○)・浄土(二○)・真宗(一八)・日蓮(二○)・時宗(一)合計九二か寺・堂(五)、修験当山・本山両派で一六院を記す。巻五は、相川町の年中行事・観音巡礼札所・諸家秘伝妙薬・相川八景を収めている。内閣文庫蔵の「相川砂子」は、本書をもとに編集されたものと考えられている。【関連】 相川砂子(あいかわすなご)・松堂(しょうどう)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡相川の歴史(さどあいかわのれきし)
昭和四十五年(一九七○)四月より、相川町町史編纂事業が編纂委員長を町長として委員一一人、調査委員会、部門別調査員・特別調査員・指導顧問の構成で発足、『金泉近世文書』資料集一、四十六年十一月に発行。相川町にはすでに『相川町誌』・『金泉郷土史』・『高千村史』などがあったが、新町史はこれら町村史を基礎資料としながら、町村合併による新町を一本にした、相川の歴史を編纂することを企図した。新町史の編纂について「広く町民、とくにこれから町を背負う青少年のために、郷土を懐かしみ、郷土の自然と文化をたいせつにし、その発展の示唆を与えるものでありたい」と、新町史のねらいとして述べている。各部門別に専門家の指導を得ながら、通史編は一○か年の事業として出発したが、貴重な調査・収集の史料を、まず資料集として刊行することになり、担当部門毎に資料集を編集・刊行することが先行した。四十七年『佐渡金山史料』(資料集三)、四十八年『墓と石造物』(資料集二)、四十九年『相川県史』(資料集六)、五十一年『高千・外海府近世文書』(資料集四)、五十三年『佐渡一国天領』(資料集七)、五十六年『民俗資料集Ⅱ』(口承文芸編 資料集九)、五十八年『二見・相川近世文書』(資料集五)、五十九年『金銀山水替人足と流人』(資料集一○)、六十一年『民俗資料集Ⅰ』(資料集八)の計一○巻が刊行された。編纂事務局を相川町文書館に移し、当初予定された通史編の編纂に取りかかる。基礎的・学術的な資料集と異なり、読みやすく親しみの持てる内容の編纂のため手間どり、平成七年二月に近・現代編が完成した。近・現代編には、明治維新以後、行政の中心的地位を維持しながら、鉱山の縮少・諸官庁の移転問題に直面した激動と苦悩の世紀の相川の歩みを、戦後の町村合併まで記している。なお、予定された部門別の自然・考古・社寺資料編および近世通史編は刊行されていない。本書『佐渡相川郷土史事典』は、通史・資料集を合わせた総合編として発行された。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集一~一○、通史編 近・現代)【執筆者】 佐藤利夫
・佐渡一巡記(さどいちじゅんき)
民俗学者の柳田国男は、大正九年(一九二○)六月十六日に両津に着き、翌日小型の発動機船で鷲崎に往き木村屋に一泊した。同十八日徒歩で相川に向い、途中入川の服部旅館に泊った。十九日に相川に着いて高田屋に泊り、そこからは人力車を雇って、河原田・新町をへて小木に出た。二十一日の朝小木から再び発動機船で松ケ崎へ、そして松ケ崎から和船で両津に帰ってきた。そのあと、国仲は新穂と中興を半周しただけで離島した。つまり島の外縁ぞいに一巡したわけである。「佐渡一巡記」は、そのときの記録をもとに、一二年後の昭和七年(一九三二)になって書きあげ、雑誌「旅と伝説」に掲載したものである。この記事は同じ年のうちに、神田の梓書房から出版した『秋風帖』の、一二七頁から一五八頁までに収録された。なお秋風帖には、つづいて「佐渡の海府」という大正九年(一九二○)に、「歴史と地理」誌に出した記事も併載されている。【関連】 柳田国男(やなぎだくにお)【執筆者】 本間雅彦
・佐嶋遺事(さとういじ)
萩野由之の著作を中心に、岩木拡・渡辺 ・上月喬らの著作も合わせて、新穂村教育会が昭和十五年、紀元二千六百年奉祝記念事業として出版したもの。編集の実務を担当したのは羽田清次である。著書名の『佐嶋遺事』は、収載する萩野由之の一篇の題名からとったものである。萩野著作の「佐嶋遺事」は本来二巻あったが、出版当時すでに滅び、本書に収められたものは、『北溟雑誌』に同じ題名で連載されたもので、随筆風に古代から江戸時代までを、概観して記述されている。萩野の著作では、この外に「佐渡史談慕郷録」と「佐渡国地名考」があるが、前者は地名考証で矢田求・羽田清次の「追補」が付されており、後者は萩野が在京中「佐渡新聞」に寄稿したものを主とし、小倉実起・圓山溟北・本間默斎など、多くの人物の伝記と随筆合わせて二四篇を収めている。本書にはこのほかに渡辺 (漁村)の「佐渡幕末奇事」、岩木拡の「奥平氏の事蹟大略」、付録として「佐渡奉行の片影」と「佐渡奉行歴代」がつけられている。「佐渡奉行片影」は六篇を収め、そのうち「佐渡奉行の遺事」が萩野、他は岩木・上月喬の著作である。全体として小篇を集載したものであるが、他に見ることができない貴重なものを多く含んでいる。【参考文献】 『北溟雑誌』、「佐渡雑爼一~一○号」(舟崎文庫所蔵)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡牛(さどうし)
その土地の名を冠して、南部牛・見島牛・近江牛などというときには、体型や毛色や肉質などの特色を表しているが、佐渡牛は黒牛で目立って小柄であることと、美味であることがきわだった特色になっている。小柄なことについて長塚節は、『佐渡島』の中で「チンコロでもあるかと思ふ程小さいものばかり」と書いている。佐渡牛のさらに大きな特色は、飼い方にある。大佐渡山系周辺の村々では、初夏の頃から秋の終りまで、林間放牧をする点である。これは家畜史でいう移牧の一種で、日本では他地ではあまり例をみない飼育形式であり、佐渡牛の美味の理由も、それと関連があるとされる。飼育頭数は、元禄期の六七八四頭から明治中期六九二七頭までに、ほぼ同数が記録され、昭和期に減少しはじめ、平成四年(一九九二)には、肉用牛一二八八頭と減少した。純系の佐渡牛は、昭和二十年代まではまだ少しはみかけたが、その後に神石系などの移入がふえて、改良や淘汰によって絶滅した。佐渡牛の写真は、大正・昭和前期の写真集『佐渡万華鏡』(近藤福雄撮影)に記録されている。【参考文献】 『佐渡牛調査書』(農商務省農務局)、『楽苦我記ー橘法老佐渡史話』(佐渡農業高等学校)、『佐渡島のあらましと農林水産業』(農政事務所)【執筆者】 本間雅彦
・佐藤部屋(さとうべや)
鉱山の部屋の一つで、部屋頭は佐藤金太郎である。上相川の上り口である奈良町の真宗「専照寺」跡に、高さ約二米ほどある大きな石塔が、草群に転がっている。「無縁塔」と正面に刻み、左側面に「佐藤金太郎」の文字が見える。所属の坑夫・人足の供養のために建てたものである。同じ専照寺の墓地に「佐藤家之墓」がある。右側面に「明治三三年七月」、左側面に「佐藤金太郎再造」とあって、この墓の左右両隣りに、天明から天保の年号を刻んだ、先祖の墓が残っている。したがって佐藤家は、代々相川に住んだ家らしく、明治になって金太郎の代に部屋を起したのであろう。飯場は最初銀山町にあって、のち諏訪町に移ったという。明治二十三年(一八九○)一月の「人夫請負人誓約証」に、「大塚平吉・安田安平・鈴木菊次・太田範七・佐藤金太郎」と、相川の五大部屋頭の名前が見え、佐藤部屋もそれらと肩を並べていた。【執筆者】 本間寅雄
・佐渡送り(さどおくり)
「島送り」ともいい、遠島などの刑罰によって送られる流人と区別する意味でいわれた。流人は「島流し」とするのである。佐渡鉱山の水替人夫として、江戸・大坂・長崎など「幕府直轄地」から送りこまれた無宿者たちをさすが、「島送り」「さど送り」も、ともに江戸時代の用語ではなく、近代に入って便宜的に使われたことばである。【関連】 江戸無宿(えどむしゅく)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡おけさ(さどおけさ)
おけさ節の起源として、古くから化け猫説が伝わっているが、それは歌詞にまつわる伝説にすぎず、曲型からいうと、江戸時代に北九州に流行した俚謡ハイヤ節が、北前船などの船乗衆によって、越後の出雲崎や寺泊、そして佐渡の赤泊や小木港に上陸し、それが変化しおけさ節になったといわれている。いまうたわれている正調おけさともいうべき「佐渡おけさ」は、民謡団体・立浪会の曽我真一が小木で採録し、会員の名民謡歌手・村田文三に工夫させた「文三おけさ」というべきもので、この文三おけさに対し、俗に「選鉱場おけさ」とか「相川おけさ」などと呼ばれるものがある。明治の中頃から相川鉱山の選鉱場でさかんに歌われていたもので、これも小木から流れこんだはんやくずしのおけさ節である。そしてこのおけさはまた小木へ逆もどりし「小木おけさ」ともいわれた。おけさ踊りには、流し踊り・十六足踊り・組踊り・三つ拍子・さし踊りなどがある。流し踊りは明治三十年(一八九七)の鉱山祭りに始まったもので、多くの人が群をなし、町を浮かれ踊り流すもの。十六足踊りは、相川おけさ(選鉱場おけさ)が流行した頃、小木芸者が座敷踊りとして振りつけしたものといわれ、大正十三年(一九二四)、相川に立浪会が結成されると、早速小木芸者から手ほどきを受けた、十六足踊りを受けいれている。その橋渡し役は、浅香寛や児玉龍太郎の両氏で、小木の料理屋(高砂屋)に三日も居続け、習い覚えてきたものだという。現在呼ばれている「佐渡おけさ」という名称は、大正九年(一九二○)東京神田の青年会館で開催された、第一回全国民謡大会に出演する際、民謡研究家の中川雀子らが選名したものだという。【関連】 村田文三(むらたぶんぞう)・立浪会(たつなみかい)・ハンヤ節(はんやぶし)【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅱ・Ⅵ』(佐渡博物館)、『立浪会史』(立浪会)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)
昭和五十一年(一九七六)に国の重要有形民俗文化財の指定を受ける。指定紡織用具二七四点(材料採集用具三二点・製糸用具二七点・機織用具二一五点)、製品二五四点(糸三八点・布地三九点・製品一二七点・食生活に関するもの一四点・住生活に関するもの一○点・生業に関するもの二六点)、ほかに紡織にともなうその他の資料一四点である。衣生活の急変により、民具および伝統的紡織技術が消滅しつつあることにたいする対応として、昭和四十七年から、海府の紡織用具・衣類の調査・収集を、相川郷土博物館中心に行ない国指定を受けた。以後、毎年紡織の実演と講習会を開く。五十四年には、指定物件の文化財収蔵庫を建設。五十五年より国補助事業として、民俗文化財地域伝承活動を始める。金山の相川に入った綿布や古木綿は、近郊村の海府の山野に自生する山苧や級・藤の繊維を加工して、独特の仕事着を作り出した。また、この繊維を経糸にして、木綿布を裂いて緯糸にして織る裂織を考案した。国指定品は、この伝統的紡織習俗と諸道具一式である。六十一年に、付属施設として相川町技能伝承展示館が開館して、裂織りの普及と伝承活動により、以後、裂織りの商品化を推進し、特産開発に取り組んでいる。【関連】 相川町技能伝承展示館(あいかわまちぎのうでんしょうてんじかん)・裂き織り(さきおり)・ねまり機(ねまりばた)【参考文献】 『相川の織物』(相川町教育委員会)【執筆者】 佐藤利夫
・佐渡海府方言集(さどかいふほうげんしゅう)
民俗学研究者、倉田一郎著『佐渡海府方言集』は、太平洋戦争末期の昭和十九年八月五日に、中央公論社から出版された(註 初版は二○○○部、昭五二年図書刊行会版も出されている)。同社は、柳田国男の編さんで全国方言集を企画し、それまですでに喜界島・大隅・伊豆・周防・伊豫などを刊行し、右書はその第六冊目として出されたものである。著者の倉田は、明治三十九年(一九○六)に富山県の蒔絵師の家に生まれ、日本大学を卒業した。それ以前の大正後期には、菊地寛の文芸春秋社にいて、『太陽は輝けり』という長編小説を書いていた。昭和九年春から、柳田国男邸で催されていた木曜会に出席して、民俗学研究をはじめた。昭和十二年(一九三七)に佐渡に二度訪れて、おもに相川から高千・外海府・内海府を調査、採集した。この調査は、日本学術振興会の補助を得て、柳田の海府調査の一環としてなされたものである。当時の佐渡には、中山徳太郎・青木重孝らすぐれた民俗学研究者がおり、伝承者としても小田の稲葉美作久・本間佐吉、片辺の宿「松屋」周辺に在住する老婆らの協力によって、この方言集は完成した。倉田が北小浦で採集した資料は、彼が昭和二十二年(一九四七)に急死したあと、柳田国男によって『北小浦民俗誌』として出版された。【関連】 北小浦民俗誌(きたこうらみんぞくし)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡島(さどがしま(さどしま))
北緯三八度付近の日本海上にうかぶ大型の山地島。面積は沖縄本島に次いで二番目に大きく八五七平方キロメートル、周囲は二二七キロメートルある。対岸の角田岬との間三二キロメートル幅の佐渡海峡を隔て本州と相対する。本州東北弧に並行する地形構造を示し、北東ー南西を長軸として、大佐渡山地・国中平野・小佐渡山地が北から順に並ぶ。古生層は島の北端と南東岸中央部に露出して、海岸線に相対的凸部を造るが、山地の殆どは新第三紀中新統の礫岩・砂岩・シルト岩・頁岩等海成層と、玄武岩・安山岩・石英粗面岩・凝灰角礫岩・凝灰岩等各種の火山活動起源の岩石から成る。これらの火山岩は、新第三紀のグリーンタフ変動に伴う陸上或いは海底の火山の噴出物や貫入岩体であり、佐渡には新期の火山地形は見あたらない。巨視的には、国中の向斜軸を挟む両側の背斜運動が継続して造山に至ったと考えられるが、大佐渡・小佐渡両山地ともに主山稜が東に偏り、南東側斜面に急で北西側斜面に緩やかな、言わば傾動地塊状である。最近のプレート説の解釈によれば、糸魚川ー静岡構造線の延長は日本海へ延びて、佐渡の西沖から奥尻島の西沖を連ねユーラシアプレートの沈み込み帯を形成していると言う。その為か東に接するプレートがもち上げられ、佐渡にも奥尻にも海岸段丘の発達が好く、新期の地盤隆起運動が顕著である。東北日本と共通しながら、幅三○キロメートル程の間に二山地一低地を容れるので、褶曲の波長はかなり小さい。国中平野には洪積層・沖積層が分布し、海抜三○㍍以下の平坦な台地と殆どが五㍍以下の沖積低地をつくる。東側は加茂湖で最深所八・五㍍の潟湖、西側は国府川低地で同様の潟湖が自然に埋積されて生じた。小佐渡の南西部には、別に小規模な羽茂川低地がある。近世既に一○万を越え、現在も八万以上の人口をもつ佐渡の人々の活動の主な拠点は、上述の平野や海岸段丘に集中している。大佐渡山地・加茂湖・小木半島の地域は、海岸景勝地を特色とする佐渡弥彦国定公園に指定されている。【参考文献】 九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、式正英『地形地理学』(古今書院)、奈須紀幸・西川治編『日本の自然』(放送大学教育振興会)【執筆者】 式正英
・佐渡が島人形ばなし(さどがしまにんぎょうばなし)
文弥人形芝居に関する、数ある著作の中で、この本は群を抜く名著である。この本は文弥人形を中心に、佐渡はもちろん全国各地(薩摩・日向・加賀・越後)を、長年かけて足で調べあげ、まとめたものである。その内容は、説経高幕人形・のろま人形の変遷。文弥節(座語り)や文弥御殿人形の成立と、その人形座の変遷。そして、佐渡の文弥節が、全国的に注目されはじめるのは明治の末であるが、そのいきさつについての文弥上京。尾崎紅葉と人形芝居の関係、さらに文弥人形に好意を寄せ、宣伝にひと役買った新潟交通(雨森博司)のこと。首を作る人たちや保存会の人々、人形芝居のゆくえ、文弥役節の五線譜など、実に至れり盡せりの密度の濃い内容である。この本の初版は平成八年三月であるが、一年余でたちまちなくなり、再版は平成十年六月である。再版には新たに、あまほっこり座談会の「佐渡の人形芝居の昨日・今日・明日」が掲載されており、意義深い。【関連】 佐々木義栄(ささきよしふさ)【参考文献】 山本修之助『佐渡の人形芝居』、河竹繁俊編『諸国の人形芝居』(講談社)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡学会連合会(さどがっかいれんごうかい)
明治二十三年(一八九○)に、二宮村養気会の呼びかけによって組織された各地の研修団体の連合体。明治二十年頃から、各地に青年たちを中心とする自主的な研修団体が組織され、全島に広まった。その会則をみると、①智識の交換、②徳義の修養、③学術の研究などを通して、地域社会の改良を図ることを目的とし、講義や演説・討論会・談話会・雑誌の発行・図書の購入と巡回などの活動を行っている。十一月二十三日、二宮村石田(現佐和田町石田)の石田会堂を会場に、第一回佐渡学会連合懇親会が開催されたが、この時一二の団体に案内を出し、二宮村養気会・相川致力会・沢根同友会・河原田行餘青年会・金沢遷喬会・平泉同志研究会・多田一致会・夷金蘭会の八団体の代表三六名が集まっている。その後も毎年一、二回開催されて、参加団体も二○を越えた時もあった。ここから明治後半から大正にかけての村や地域の指導者層が育っていったが、明治末には行政の指導による青年会・青年団に組込まれた。明治二十七年三月の規約には、会の名称「佐渡学会連合会」、会の目的「各学会ノ親交ヲ保チ併テ風俗ノ矯正ヲ謀ルモノトス」とある。当時相川からは、相川致力会(代表味方友次郎)・佐渡青年協会(代表森知幾)・佐渡青年学会(代表山田倬)などが参加している。【参考文献】 「佐渡学会連合懇親会記録」(金井町泉公民館蔵)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡歌謡集(さどかようしゅう)
編者は新穂村長畝生まれの郷土史家、羽田清次である。跋執筆の本間林蔵(妻の父)によれば、岳父は古稀をこえてからの編纂であり、山本修之助の『佐渡の民謡』に漏れた船唄全部を載せ、『佐渡国名所歌集』の収録も珍らしく貴重なり、という。発行は昭和十三年(一九三八)、佐渡叢書刊行会からである。内容は、「佐渡音頭集」「佐渡俚謡集」「佐渡の舟唄」「佐渡国名所歌集」「付録」(佐渡の盆踊考・佐渡盆踊の各地各態)となっている。「佐渡音頭集」の緒言では、音頭の七七調の創意とその美文をほめ、編者の聞知せる三十余種から一四種を選び、簡潔な解説をなしている。後年発行され、その採録数も増した山本修之助の『相川音頭集成』(昭和三十年刊)や『相川音頭全集』(昭和五十年刊)を併せ読むとよい。「佐渡俚謡集」は、大正六年初版本の再版である。これも山本修之助『佐渡の民謡』(昭和五年)の併読をすすめたい。なお、これに似た俚謡集に、川上喚濤「民謡集」(墨書、佐渡群書文庫蔵)などがある。「佐渡の船唄」は、江戸幕府時代に官船にて用いた歌詞で、岩木拡自書の原本を写したものだという。「佐渡国名所歌集」は、相川県権参事・磯部最信が編輯し、高橋以一が木版にて、明治六年発行した珍本を複刻したものである。【関連】 佐渡の民謡(さどのみんよう)・羽田清次(はねだせいじ)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡義会(さどぎかい)
教育・殖産・時事問題に関して論究するために組織された会。明治二十年代の佐渡では、自由党系と改進党系、それに自由党から分れた国権党などが互いに離合集散を繰返し、争いが絶えなかった。このような中、川上賢吉や竹本多平らは不偏不党の立場で、教育や産業・時事問題について誰にも遠慮すること無く大胆に論究する会合を組織しようと、明治二十六年(一八九三)七月一日金沢村中興の深山亭に集まって、佐渡義会を発足させた。その目的には、「飽くまでも討究してこれが矯正者となり、刺激者となり、嚮導者となりて、以て此国の弊風を矯め、社会の改良を謀る」とある。初代の会長には川上賢吉が、副会長には竹本多平が選ばれ、幹事には佐竹守太郎・岩原仁三郎・明石瑩・斉藤長三・藤井一蔵らの名前があがっている。しかし、次第に政党の影響を受けるようになり、消滅した。【関連】 川上賢吉(かわかみけんきち)【参考文献】 斉藤長三『佐渡政党史稿』【執筆者】 石瀬佳弘 ※原書に『 川上賢吉(かわかみけんきち)』の項目はありません。
・佐渡汽船会社(さどきせんかいしゃ)
明治十八年(一八八五)、佐渡島民による初めての汽船会社「越佐汽船会社」(大正七年新潟汽船会社と改称)が設立され、当初は島民の利便を第一に考えた経営を行なった。ところが、次第に重役陣を新潟出身者が独占し、本社も新潟に移して利益優先の経営を行なうようになった。こうした状況に奮起した湊町(両津市湊)の星野和三次らは、明治二十四年九月に「両津丸」を就航させたが、資力と組織力には勝てず失敗に終わった。こうした中、当時の佐渡郡長深井康邦らが、公共性の高い汽船会社の設立を勧め、大正二年(一九一三)佐渡商船会社が設立されて、初代社長に両津町の土屋六右衛門が就任した。両社は運賃の値下げなどで激しく争い、大正十二年に前佐渡汽船会社(昭和二年越佐商船会社と改称)が設立されて、小木・赤泊・多田・松ケ崎・新潟航路を開設すると、三社の間で激しい競争が展開された。このような抗争を県も見逃せなくなり、昭和七年(一九三二)二月の県会で越佐航路の県営を決議し、同年四月佐渡商船会社を主体に三社を合併し、県が資本金五○%を負担する半官半民の「佐渡汽船会社」が誕生した。初代社長には佐渡商船の古川長四郎、取締役には相川町の松栄俊三外四名の佐渡出身者が就任している。現在両津・新潟、小木・直江津航路にカーフェリーとジェットフォイル、赤泊・寺泊航路にカーフェリーを就航させている。【関連】 越佐航路(えっさこうろ)・秋田藤十郎(あきたとうじゅうろう)・松栄俊三(まつばえしゅんぞう)【参考文献】 橘法老『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社)、『六十年のあゆみ』(佐渡汽船株式会社)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡奇談(さどきだん)
田中従太郎(葵園)が「佐渡志」編纂(文化年間・一八○四ー一七)の際、見聞した奇談三六話を編んだもので、和本上中下の三巻よりなっている。下相川の「炭焼藤五郎(戸川大権現)の事」、新保村の「新保山大蛇の事」、片野尾村の「風島弁天の事」、新穂長畝二方潟両村の大年の晩、棺桶をあずかり長者になった話(「河上五郎右衛門大金を得る事」)、これは「大年の客」として、今なお語られる有名な昔話である。また「加茂村武右衛門が事」などは、加茂湖干拓の史実に基づく「武右衛門流し」や、「武右衛門地蔵堂」と関連する伝説で、山本修之助の『佐渡の伝説』などと併わせ読めば興味ぶかい。「石井八弥霊魂の事」は、古人の遊魂信仰を知る好資料で、文化文政の頃のものと推定される著者不明の『怪談藻汐草』の「萩野善左衛門怪異の火を追いし事」などと共に併読するとよい。『佐渡奇談』の編著者田中葵園は、奉行所の地役人である。若い頃江戸に遊学し、帰島後、広間役など勤め、文政六年(一八二三)幕府に建議して「広恵倉」を設け、町民の福利につとめ、さらに「修教館」を創立し、子弟の教育に尽した。弘化二年(一八四五)五月病歿。享年六四歳だった。【関連】 田中葵園(たなかきえん)・修教館(しゅうきょうかん)・広恵倉(こうえいそう)【参考文献】 本間周敬『佐渡郷土辞典』、岩間徳太郎『佐渡郷土史料』(三集)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡狐(さどぎつね)
能の狂言の曲名。主役(シテ)である佐渡の百姓と、脇役(アド。能のワキにあたる)である越後の百姓と、小脇(アド)役である奏者が登場する。話のすじは、両国の百姓が年貢を納めにいく途中で道づれになった。越後百姓が、佐渡は離れ島でなにごとにつけて不自由であろうというのをきいて、佐渡の百姓は、「佐渡には何でもある」と強がりをいう。しかし「狐はおるまい」とほんとのところを衝かれて、「いや狐もおる」といってしまう。いやおるまい、いやおると、お国自慢が言い争いになり、とうとう「ひと腰賭ける(腰の刀を一本賭けるの意)」ことになる。その勝負の判定は奏者に頼むことにする。佐渡の百姓は、じっさいには狐がどんなものかを知らないので、こっそり奏者に賄賂をつかって狐のなり格好を教えてもらった。そして奏者の前に出て佐渡の百姓は、狐の形・毛色・口つき・尾などを示して、見たことがある証拠としたので勝ちを宣せられ、相手の腰のものを一本とって行こうとすると、相手はどうも怪しいとにらんで、さらに狐のなき声はどうかと訊いた。奏者からその点を聞きもらしていた佐渡の百姓は、いいかげんな声で答えたので、越後の百姓は有無をいわせず、二腰を奪って去るということになる。【執筆者】 本間雅彦
・佐渡義民殿(さどぎみんでん)
江戸期の、慶長から天保までの義民のうち、代表的な二六名を合祀した佐渡一国義民堂が、畑野町栗野江の城か平の山頂にある。昭和八年に、島内の百姓一揆を研究し、『佐渡義民伝』を著わし、義民劇の上演などに協力していた新穂村青木の伊藤治一を中心に、一二九名が発起人となって建設が始まり、昭和十二年に落成したものである。島内の農民騒動の発端は、慶長六年(一六○一)に佐渡が徳川家の直轄領と定められ、上杉支配のときから居残った代官の河村彦左衛門に加え、新たに田中清六・中川主税・吉田佐太郎が代官に任命され、四人支配の下に本途(本年貢)の五割増という急激な増税策が出されたのに対して、島の有識者たちが抵抗したことにある。この最初の一揆の結末は、首謀者の新穂村半次郎・北方村豊四郎・羽茂村勘兵衛の三人が江戸に出向いて、幕府に直訴したのが効を奏し、吉田は切腹、中川は免職、河村と田中は改易となり、全面勝訴となったのである。その後一世紀半ほどは、良吏の派遣などもあって平穏であったが、享保四年(一七一九)の定免制(収穫に関係なく定められた年貢を徴集する制度)の実施に伴なう増税に加え、同八年以後の鉱山経営の不振が住民の生活に圧迫を来し、村々の有識者の連帯を強めた。寛延三年(一七五○)の一揆は、そうした背景の中で、辰巳村太郎右衛門・川茂村弥三右衛門らを首謀者として起った。このときも、島ぬけして訴状を江戸の勘定奉行に手渡すことに成功して、幕府は訴状に認められた二八か条の要求の正しさを認めて、佐渡奉行・鈴木九十郎は免職となった。しかし訴人は、他の多くの役人にも非のあることを再度、佐渡奉行・幕府巡見(検)使らに訴えて、諸役人の不正が暴露され、在方役・地方役・米蔵役などに、斬罪一・死罪二・遠島七・重追放三・中追放一・軽追放一・暇五・押込二六・役義取放一・急度叱五の計五二名が刑を受けた。いっぽう訴人の側も刑を受け、太郎右衛門は獄門に、椎泊村弥次右衛門は死罪、椎泊村七左衛門は遠島、弥三右衛門は重追放、吉岡村七郎左衛門・新保村作右衛門・和泉村久兵衛は軽追放のほか、二○八か村の名主が被免、二○○名以上の百姓が急度叱りの処分となった。明和三年(一七六六)から同七年にかけて、大雨による洪水、浮塵子の大発生で中稲・晩稲が全滅状態になったとき、村々ではその実情を立毛検分するよう請願したが、けっきょく四日町・馬場・北村・猿八の四か村に年貢被免、船代・下村・畑方・畑本郷・武井・金丸・金丸本郷の七か村に三分一の未納・年賦・石代納の措置がとられただけで、他の村々には恩恵がなかった。その上、当時は代官制がしかれて、奉行に加え二重支配となったため、願いや届に煩雑なる手数がかかり百姓たちを苦しめた。さらに、代官の下役で年貢米取立ての御蔵奉行谷田又四郎と百姓の間に起きた摩擦がしだいに悪化し、谷田の苛酷さを非難する訴状が佐渡奉行所にもちこまれた。訴状は名主ら村役人たちによってしたためられたが、願いの筋がきき届けられないので、百姓どものこらず御陣屋へ押かけようとするのをなだめすかしたこと、要求がいれられなければ江戸表へまかり出て直訴しなければならないので出判をお渡しくださるようなど書いてある。谷田は、相川金銀山の衰微に伴って、米の消費が減少し、余剰米の大阪回米が市場で不評であり、その佐渡米の商品価値を高めようとして、米質や包装改良を求めて百姓と摩擦を生じたもので、良吏とされた人物であったが、百姓がわでは、それを賄賂をとるためとする誤解が生まれて事件を深めることになった。一揆にいたる前哨戦として、沢根町に相ついで起った付け火が挙げられる。米価の高騰で爆発した相川の鉱山稼ぎの者が、中山峠を越えて沢根方面の富裕な商家を襲ったのであるが、米価の引き下げなどの処置で、この時は大きな騒動にはならなかった。この明和の一揆は、首謀者の呼びかけで、栗野江の賀茂社境内に集結した民衆が、二度めの集結を察知され、六人が捕えられ、成功にいたらなかった。裁きの末、通りすがりにすぎなかった長谷村の遍照坊住職・智専が自ら罪を負う形となって死罪となり、他は牢死・お預け・釈放などの微罪で落着した。智専は「憲盛法印」のおくり名で今も農民の崇敬をうけている。天保九年の全島的な一揆は、島内で最大の規模で起ったので「一国騒動」と呼ばれている。惣代の羽茂郡上山田村の善兵衛を願主とする訴状には、百姓・商人などの要求十六か条が書かれていたが、上訴した巡見使から返答がないまま善兵衛らが捕えられ、善兵衛は獄門に、宮岡豊後の死罪、ほか遠島・所払いなど極めて多数の受刑者やとがめを受けて終った。この天保一揆についての記録としては、江戸末期の川路聖謨奉行による『佐州百姓共騒立ニ付吟味落着一件留』(佐渡高校・舟崎文庫所蔵)があり、同校同窓会が刊行している。【関連】 智専(ちせん)・中川善兵衛(なかがわぜんべえ)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡金銀山史話(さどきんぎんざんしわ)
佐渡鉱山の創業から幕府領有時代を経て、維新後官営となり、明治二十九年(一八九六)三菱に払下げとなるまでの、二九五年間の佐渡金銀山に関する、はじめての本格的な歴史書である。刊行は、昭和三十一年(一九五六)八月。三菱金属鉱山株式会社社長羽仁路之の社命に応じた、同社嘱託麓三郎の著書である。単なる社史の域に止どまらず、佐渡鉱山の稼行の推移を、時代的背景と共に余す事なく著述した。佐渡金銀山史の総合的な研究書である。巻末に元同社参事平井栄一の、技術史の「旧幕時代の鉱山技術」「佐渡の金銀産出量に就いて」を収録したことによって、さらに同書の学術書としての価値は不動のものとなっている。以後の佐渡金銀山史研究のみならず、日本における鉱山史研究の範となった一書である。また、同書完成の背後には、日本鉱山史研究の第一人者、小葉田淳の絶えざる指導が預かって大きかった。その後、同書に導かれた鉱山史研究は、昭和四十五年(一九七○)の田中圭一編『佐渡金山史』の刊行で新しい展開を見せるが、依然として同書の佐渡金銀山史研究上における、学術的価値と影響力は今も絶大である。【執筆者】 小菅徹也
・佐渡銀行(さどぎんこう)
明治三十年(一八九七)十月六日開業。明治二十九年第四銀行相川支店に閉鎖の動きが出ると、島民の手による銀行を設立しようという運動が活発になった。島内の有志はさっそく発起人会を開き、同年八月「株式会社佐渡銀行」の発起認可申請書・仮定款等を作成、本店を夷町、支店を相川町に置くことにした。発起人は相川町の三国久敬を筆頭に新穂村の後藤五郎次・二見村の渡辺七十郎・金沢村の伊藤円蔵・夷町の土屋六右衛門など一四名である。ところが同年八月八日相川支店で開かれた設立組織会で、本店の設置場所(夷と相川)や株券の金額、発起人の負担額などで相川町と夷町や国仲の有志の意見が対立し、その後何回かの会議を経て翌三十年三月創立総会を開催したが、ここでも相川町と夷町の有志が対立して、相川町の有志は脱退した。同年十月六日、佐渡銀行は資本金八万円で夷町夷一六五番戸に開業した。創立時の専務取締役には土屋六右衛門、取締役には伊藤円蔵・後藤五郎次等五人が就任した。大正八年(一九一九)大口融資をしていた佐渡商船会社の経営不振などで、大正十五年十月一日第四銀行に合併され、同銀行の両津支店となった。【関連】 第四銀行相川支店(だいしぎんこうあいかわしてん)・相川銀行(あいかわぎんこう)・土屋六右衛門(つちやろくうえもん)【参考文献】 『第四銀行百年史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡国仲の昔話(さどくになかのむかしばなし)
編著者は丸山久子、昭和四十五年(一九七○)二月、三弥井書店から発行される。編著者は昭和二十九年十月二十八・九日の両日、畑野町の本間雅彦夫妻の手びきで、同町の岩井キサ(八三歳)から録音その他で採集した、昔話五二話がおさめられている。冒頭の解説では、岩井キサ媼とのめぐりあい、佐渡の昔話とその背景などについて記し、キサ媼の話の大部分は、姑さんで猿八という山村の、庄屋の家から嫁いで来た、岩井シキ婆さまから聞いたものだといい、この姑のシキ婆さまは、多くの昔話を知っており、クロメ(年末)や正月には、近所から「ムカシ云いに来てくれ」と頼まれたものだという。本文資料の各昔話の末尾には、日本昔話名彙、日本昔話集成、A・Tとの関連が示され、鈴木棠三『佐渡昔話集』の類話や、難解な佐渡方言には註が付記され、親切である。なお、巻末には山本修之助採集の「外海府の昔話」(一五話)が添えられ、この昔話に幅と深みを持たせている。ふつう民話はその型と内容により、昔話・伝説・世間話に分類されているが、参考までに佐渡に関する既刊の、主なる昔話集のみを記しておく。鈴木棠三『佐渡昔話集』(昭和十四年)、浜口一夫『鶴女房』(昭和五一)、大谷女子大学説話文学研究会『両津市昔話集』上・下巻(昭和五四)、新潟県教育委員会『新潟県の昔話と語り手』(昭和五四)、両津教育委員会『りょうつの民話』(昭和五八)、浜口一夫『南佐渡の民話』(昭和六三)、山本修之助『佐渡外海府の昔話』(平成二)、大谷女子大学説話文学研究会『佐渡・佐和田町昔話集』(平成三)、国学院大学民俗文学研究会「伝承文芸第一八号」(平成五)。【関連】 佐渡昔話集(さどむかしばなししゅう)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡金山遺跡(さどきんざんいせき)
平成六年(一九九四)五月二十四日付文部省告示第七三号により、文化財保護法第六九條第一項の規定に基づき、次の七か所が国の史跡に指定された。「宗太夫間歩」(相川町下相川)、「南沢疎水道」(相川町南沢町・大床屋町・左門町)、「佐渡奉行所跡」(相川町広間町)、「大久保長安逆修塔・河村彦左衛門供養塔」(相川町江戸沢町)、「鐘楼」(相川町八百屋町)、「御料局佐渡支庁跡」(相川町坂下町)、「道遊の割戸」(相川町銀山町)。このうち佐渡奉行所址は、昭和四年(一九二九)十二月十七日付で史蹟名勝天然記念物保存法第一條により、国から史蹟の指定を受けたが、昭和十七年(一九四二)十二月一日の火災で全焼したため、翌年七月に指定解除になった。佐渡奉行所の復元計画により、国・県指導の下に、平成六年から発掘調査が五か年継続の予定で行なわれている。【参考文献】 「佐渡金山遺跡、保存管理計画策定書」(「官報」)【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡郡会(さどぐんかい)
郡役所の設置に伴って置かれた決議機関。明治十二年(一八七九)に三郡役所が置かれると、翌十三年四月、三郡戸長会議が開かれて三郡連合の決議機関を設けることを決めた。三郡連合会は、各町村の持込戸長より三名の議員を選出し、同年五月に第一回の会議を開いている。その後毎年通常会を開き、緊急の議案のある時は臨時会を開いた。明治二十二年三月には、学事と土木が分けられ、学事は連合三郡町村会、土木は連合広間町外七二か町村会が担当した。明治二十九年に中学校設立の問題が起こると、全町村組合会が組織された。明治二十三年五月に郡制が公布され、決議機関として郡会と郡参事会を設けることになったが、新潟県の場合は郡の統合等の問題で遅れ、同二十九年四月一日、三郡を統合して佐渡郡を置くことになると、翌三十年に佐渡郡役所と共に佐渡郡会が設置された。第一回郡会は、明治三十年三月に開かれている。この郡会では、道路の改修・整備、初等・中等教育の振興、港湾・航路の整備、勧業・授産等、佐渡全島の振興にかかわる問題について審議し、ある程度の自治権をもった地方議会としての役割を果たした。大正十五年(一九二六)佐渡郡役所が廃止されたのに伴って廃止となった。【関連】 佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)・佐渡支庁(さどしちょう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、石瀬佳弘「佐渡における郡制の推移とその実態」(『新潟県文化財収蔵館報』2)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡郡教育会(さどぐんきょういくかい)
明治二十二年(一八八九)に設立された教育の研究推進団体で、明治十九年に組織された有志佐渡教育会が発展的に改組されたものである。会員の多くは小・中学校の教育者であったが、一般の有識者も加入し、柏倉一徳(大正五年)や松栄俊三(昭和二年)も会長に就任している。会則には「教育の改良と上達を図るを以て目的とす」(昭和二年改正)とあり、夏期講習会・通俗講演会・国内外の教育視察・研究会・講習会・出版物の刊行等、学校教育及び社会教育を包含した、幅広い活動を行なった。出版物の刊行としては、『佐渡人物志』(昭和二年)、『佐渡先哲事蹟』(昭和七年)、『佐渡年代記』(昭和十年)、『佐渡風土記』(昭和十六年)などがあり、いずれも今日でも基本文献として活用されている。戦後は学校教育と社会教育の研究団体に分れ、学校教育の研究団体としては、昭和二十四年に小・中学校の教員のみで組織する佐渡郡教育研究会が設立され、現在では佐渡郡小学校教育研究会・同中学校教育研究会・両津市教育研究会・佐渡地区高等学校教育研究会などに細分化されて活動している。【関連】 佐渡人物志(さどじんぶつし)・佐渡年代記(さどねんだいき)・佐渡風土記(さどふどき)【参考文献】 『概観佐渡』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡郡酒造組合(さどぐんしゅぞうくみあい)
酒造者が製造方法を改良し、営業上の弊害を矯正するために設置した組合組織。明治二十年(一八八七)六月、佐渡酒造営業者組合が発足した。初代組合長には、石田村(現佐和田町石田)の近藤吉左衛門が就任した。明治三十二年に新潟県酒造組合に加盟して佐渡支部となったが、同三十八年一月に法令の改正があって県酒造組合が解散となり、佐渡郡酒造組合が設立された。主な活動内容としては、清酒及び麹の品評会の開催、優良従業員の表彰・実地試醸・銘醸地視察・濫売矯正等の審査と協議などを行い、酒造業の改善と発展に大きな役割を果たした。昭和十年十月、中山五郎組合長の時に、『佐渡酒誌』を発行している。現在は、新潟県酒造組合佐渡支部として、佐和田町窪田の佐渡酒造会館に事務所を置いている。【関連】 中山小四郎(なかやまこしろう)【参考文献】 『佐渡酒誌』(佐渡郡酒造組合)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡群書類従(さどぐんしょるいじゅう)
佐渡郡相川町出身の、旧東京帝国大学教授萩野由之博士が、長期にわたって収集された、佐渡の古代から近代にかけての史料を中心とする、歴史史料である。氏が、『佐渡年代記続』『佐渡人物志』『佐渡編年史』などを執筆するために収集した史料を中心として、いずれ『佐渡群書類従』という史料集として刊行を予定されながら、未刊に終わった史料群でもある。第二次大戦後、佐渡郡真野町出身の舟崎由之氏が、郷里に伝えたいと御遺族から買取り、新潟県立佐渡高等学校同窓会に寄付したことにより、以来、新潟県立佐渡高等学校同窓会所蔵「舟崎文庫」として今日に伝えられ、活用されている。昭和四十九年(一九七四)七月に刊行した『舟崎文庫目録』があり、整理番号一三一一までの全容を知ることができる。萩野由之編『佐渡叢書』一~五○、『佐渡叢書追加』一~四、『佐渡叢書目録』、『佐渡年代記』以下の佐渡史書類、佐渡奉行所公文書類、鉱山関係文書・絵図類・佐渡地誌類・佐渡絵図類・文学・芸能書類、江戸時代に日本を代表する学者・文人・経世家の書簡集である『先哲手簡並ニ先賢手簡』などが、主な内容である。【関連】 舟崎文庫(ふなざきぶんこ)・舟崎由之(ふなざきよしゆき)【執筆者】 小菅徹也
・佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)
相川支庁の廃止によって設置された行政機関。明治十一年(一八七八)七月「郡区町村編制法」が公布され、区制が廃止されて元の郡制・町村制が復活することになった。これによって、今までの第二六大区が加茂郡、第二七大区が雑太郡、第二八大区が羽茂郡となり、明治十二年四月、三郡連合で相川町広間町の旧奉行所に、雑太・加茂・羽茂郡役所(佐渡三郡役所)が置かれることになり、同年五月十六日に開庁した。初代郡長には、鹿児島県士族西田弥四郎が就任している。明治三十年には、郡制の施行に伴って郡の統合が行なわれ、三郡が佐渡郡となって佐渡郡役所を置くことになった。その後郡制が廃止されて、大正十五年(一九二六)に佐渡支庁が置かれるまでの約三○年間、県と町村の中間的行政機関として、郡長を中心に地域の産業開発、交通・道路の整備、初等・中等教育の振興等に大きな役割を果たした。【関連】 佐渡郡会(さどぐんかい)・相川支庁(あいかわしちょう)・官庁移転運動(かんちょういてんうんどう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、石瀬佳弘「佐渡における郡制の推移とその実態」(『新潟県文化財収蔵館報』2)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡県(さどけん)
明治初期、佐渡に置かれた県。慶応四年(一八六八)四月、新政府は佐渡に裁判所を置いて、総督に北陸道鎮撫副総督滋野井公寿を任命したが、赴任には至らなかった。続いて同年九月二日、佐渡県を置いて政府直轄県とし、知県事に井上聞多(後の馨)、判事に吉井源馬を任命したが両名とも赴任せず、佐渡の支配は中山修輔らに任されていた。明治元年(九月八日改元)十一月五日、佐渡県を新潟府の管轄として民政方役所を置き、参謀奥平謙輔を民政方に任命して、その配下の北辰隊(隊長遠藤七郎)と共に佐渡に派遣することにした。奥平の来島は同年十一月十三日である。翌二年二月二十二日に、佐渡県は越後府(二月八日新潟府を改称)の管轄となり、奥平謙輔は越後府権判事となって引続き佐渡を治めた。明治二年七月二十三日、佐渡県は独立した。これによって同年八月十二日に奥平は任を解かれて北辰隊と共に佐渡を去り、同年九月二十日に新五郎(貞老)が権知事として来島した。佐渡県は、明治九年四月十八日に相川県と改称された。新は相川県権令となったが、同年十二月に免ぜられて佐渡を去った。県庁は奥平謙輔の時に一時石田屯所に移されたが、それ以外は相川の奉行所跡に置かれていた。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・北辰隊(ほくしんたい)・新貞老(あたらしさだおい)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集六、通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡鉱山史(さどこうざんし)
元佐渡鉱山採鉱課長の平井栄一の編著。まだ未公開で、稿本のまま相川町史編纂室に保存されている。ただしコピーで、原本の所在はわからない。内容の一部は、昭和三十一年(一九五六)八月発行の『佐渡金銀山史話』(麓三郎著、三菱金属鉱業発行)に「旧幕時代の鉱山技術」「佐渡の金銀山産出量に就いて」の二章が収録されている。同三菱金属の羽仁路之元社長の回想によると、社長在任中に佐渡鉱山の変遷と興亡の跡を、まとめて後代への記念にしたいと考え、永年佐渡鉱山に在勤した平井に起稿を頼んだ。昭和二十五年に完結したが、技術方面や統計資料が多かったので、さらにこれを一般読物にしたいと考え、生野鉱山史などの著作で造詣が深かった麓三郎(三菱鉱業監査役)に依頼した、という。同書に一部収録されたのは、平井の草稿の江戸時代に関する記述で、明治・大正・昭和にわたる部分は、スペースの関係で除かれた。明治初期の金銀貨幣問題、三菱への鉱山払下頴末、三菱移管後の佐渡鉱山製煉法、課制および所属人員と施設の概況、鉱夫親方制度の来歴などのほか、大正から昭和時代の採掘法の沿革、労働争議と労務係の新設、浮遊選鉱場の建設、近年に於ける探鉱・採鉱の状況などが、かなりくわしく綴られていて、技術・経営史としてとりわけ貴重である。この草稿は、そのコピーが昭和五十一年一月に、麓三郎から北海学園大学(札幌)の大場四千男教授の手に渡り、平成元年に相川町史編纂室に寄贈された。【関連】 平井栄一(ひらいえいいち)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡鉱山長(さどこうざんちょう)
佐渡鉱山が、三菱合資会社に移管された明治二十九年(一八九六)十一月一日以降の職名で、佐渡鉱山の現地での最高責任者を指す。歴代鉱山長は「表一」の通りである。職名は時代と共に変ったが、その時々の現地最高責任者を鉱山長と呼ぶこともある。今、資料で明かな者をまとめると「表二」の通りとなる。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、麓三郎『佐渡金銀山史話』、『工部省沿革報告』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡鉱山の同盟罷業(さどこうざんのどうめいひぎょう)
三菱合資会社の経営合理化に反対して起こった、佐渡鉱山の労働争議。御料局時代の佐渡鉱山は、模範鉱山としての性格もあり、労務管理もゆるやかな面があった。明治二十九年(一八九六)十一月に三菱合資会社に払下げられると、経営の合理化が断行され、従業員が大幅に削減されてきびしい労務管理と労働強化が行なわれた。これに対して労働者が反発し、明治三十二年七月に鉱夫が暴動を起こし、さらに翌三十三年三月十八日には、職工の約半数に当たる六百余名が同盟罷業に突入した。この争議は、労働者側が各課に「かしら職工」を置いて結束を固め、全権委員を選んで会社との交渉にあたらせるなど、組織的で統率のとれたものであった。この事態を憂慮した相川町長や町の有志らは、佐渡郡長や県知事らの協力も得て調停に乗り出し、同年四月三日首謀者を処罰しないこと、会社において相応の恩恵を施すことなどを条件に妥結した。そして、ある程度労働者に譲歩した改革が行なわれた。しかし、その後も争議は続き、大きなものだけでも、明治四十一年二月・大正六年三月の争議がある。【関連】 御料局佐渡鉱山(ごりょうきょくさどこうざん)・原田鎭治(はらだしんじ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡鉱山の地質(さどこうざんのちしつ)
相川町惣徳町、濁川中流に位置する。一六○一年の開発開始から一九八九年の閉山までの生産量は、粗鉱量一五三○万㌧、金七七㌧(江戸四一㌧・明治八㌧・大正七㌧・昭和二一㌧)、銀二三三○㌧(江戸一七八一㌧・明治一三二㌧・大正八○㌧・昭和三○七一㌧)であり、日本の金銀鉱山の過去の実績では第一位である。前期中新世の暗緑色に変質した安山岩・同質火砕岩に発達した断層を充填する石英脈が、金銀鉱床となっている。佐渡鉱床の主要鉱脈は、道遊脈・青盤脈・大立脈・中尾脈・西栄脈・大切・鳥越脈・鰐口脈・七助脈・中立脈などであり、入川層・相川層に貫入している。青盤脈はその代表で、佐渡鉱山駐車場の奥の大岩壁は、青盤脈の露天掘りあとである。青盤脈は、稼業延長二一○○㍍、稼業深度五○○㍍、平均脈幅六㍍の規模を持ち、東西方向の断層を埋めるかたちで存在する。青盤脈の金銀比は金:銀=一:二○、金含有量平均値は六㌘/㌧(六ppm)である。これは普通の岩石の金含有量平均値○・○○一㌘/㌧(○・○○一ppm)と比較して、金の含有量が六○○○倍も高い。この金の濃集は、地下一○○○㍍程度に存在したマグマによる熱水循環によっておこなわれた。地下深くしみこんだ雨水や海水が、マグマの熱で加熱され熱水となり、地表まで達する断層をとおって地表に吹き出す。このとき高温の熱水は岩石と反応し、石英や金・銀・銅・亜鉛などを溶かしだす。熱水が上昇し、深度数百㍍程度、温度二五○℃程度となったとき、熱水に溶けていた石英が結晶となって析出する。石英脈はこうしてできるが、このとき金や銀も熱水から同時に沈殿し含金石英脈となる。この熱水循環の影響を受け、蒸し焼き状態になった岩石が、暗緑色に変質した安山岩であり、当時の地熱帯を構成していた岩石である。金が熱水に溶けだすには、熱水にふくまれる硫化水素の作用もあると考えられている。硫化水素を含むような還元的環境では、熱水に溶解する金の濃度は、三○○℃で○・○○一~○・○一ppmぐらいまで高くなるとされている。石英や金が溶けこんだ熱水は、断層に沿って上昇するが、地温の低下により石英の結晶が析出し、また上昇にともなう圧力低下で沸騰がおこり、硫化水素を失われ金が沈殿する。佐渡鉱山の場合には、地下数百㍍で、二五○℃ぐらいの熱水から金が沈澱したことがわかっている。このときの金の濃度は四ppm~五ppm程度であり、金鉱石中の金含有量とほぼ同程度である。なお、金鉱床が形成されるに必要な熱水循環の期間は、一般に数万年程度と見積もられ、火山活動の継続時間に比べれば、比較的短時間である。主な鉱石鉱物のうち、初生鉱物は自然金・輝銀鉱・黄鉄鉱・閃亜鉛鉱・方鉛鉱・黄銅鉱・白鉄鉱・濃紅銀鉱・脆銀鉱・輝安銀銅鉱・淡紅銀鉱・四面銅鉱、二次鉱物は斑銅鉱・孔雀石・藍銅鉱・自然銅・銅藍・褐鉄鉱である。鉱脈鉱物は、石英・玉髄・紫水晶・方解石・菱マンガン鉱・重晶石・石膏・氷晶石・絹雲母である。【参考文献】 坂井定倫・大場実「佐渡鉱山の地質鉱床」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】 神蔵勝明
・佐渡国小木港の社会経済史的研究(さどこくおぎこうのしゃかいけいざいしてきけんきゅう)
著者渡部次郎。昭和二十六年(一九五一)小木町公民館発行、一○○頁。渡部次郎は相川出身。明治四十二年佐渡中学校、慶応義塾大学理財科卒業後、東京にて保険会社に勤め、戦時中、房州北条町から昭和十七年佐渡へ疎開、小木町長塚原徹から小木町史の編纂を依嘱された人。昭和二十二年まで小木に滞在。その間、塚原町長の奨めで「佐渡は郷土史料が豊富で、小木と限定せず、佐渡の郷土史を研究してみたら─」と言われ執筆し、小木町史に替わる書物として刊行。九州に転移した昭和二十六年夏、原稿を書き直し書名をつけた。社会・経済史的視点で旧形を脱して、戦後の新しい史観で記述している。目次は、一 小木町の発展史、二 小木町の問屋衆、三 小木女郎、四 港湾施設「三味線堀」始末と町割計画、五 日本越後佐渡両国渡船商社始末、附録から成る。一では、初期は小木湊を鉱山町相川の湊としての発展ととらえ、その後寛文十二年(一六七二)河村瑞賢による出羽国最上郡の官米輸送の西廻航路寄港地としての小木、次は北前船時代の「春下り」・「夏上り」の湊として栄えた小木を、日本海交易の視点からみている。二は、小木の問屋・船宿・小宿について、成立過程と問屋・船宿の株仲間的性格を記し、小木問屋は委託問屋・買付問屋・宿屋の営業であると述べる。三の小木女郎では、港湾・河口の湊町で栄える町の芸妓の特徴を述べ、筑前平戸近郊の田助浦の田助女郎に及び、小木女郎の性格は、公娼として一定の型をもたない家庭的な女房性が本質である、とある。戦後郷土史の新方向を示した好著。【参考文献】 青野季吉『佐渡』、橘正隆『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社)【執筆者】 佐藤利夫
・佐渡国小木民俗博物館(さどこくおぎみんぞくはくぶつかん)
小木町立の登録博物館。本館は、木造平屋建ての旧宿根木小学校校舎である。現在は町指定文化財でもあるが、町内小学校統合による、廃校という時代の流れの中で、当博物館は誕生した。昭和四十五年(一九七○)四月から、資料収集活動を始めている。校舎のその後の活用方法は種々取りざたされたのであるが、当時武蔵野美術大学教授であった、故宮本常一先生の強い指導によって、今の身の回りにあるもので使われないものを集め、保存するという施設に利用されることとなった。当時は、民具とか民俗資料といった概念は一般的ではなく、さながらガラクタを集めているという光景の作業であった。収集した資料の中から、昭和四十九年二月に「船大工道具及び磯船」九六八点、同年十一月「南佐渡の漁労用具」一二九三点が、重要民俗資料として国の指定を受けた。文化庁が、民俗資料館建設に対する補助制度を発足させた時代である。当館の収蔵庫はこの補助を受けて、昭和五十一年に完成している。また五十九年には、新館が完成し農林漁業の資料を整理展示する。平成十年三月、千石船とその展示館が併設され現在に至っている。収蔵資料は、衣に関するもの二○○○点、食に関するもの三○○○点、住に関するもの二○○○点、生産・生業に関するもの一万五○○○点、交通・運輸・通信に関するもの一○○○点、信仰・年中行事に関するもの一万五○○○点となっている。【関連】 千石船(せんごくぶね)【執筆者】 高藤一郎平
・佐渡国誌(さどこくし)
一巻、大正十一年(一九二二)二月刊。明治四十年(一九○七)、佐渡郡教育会会員中山小四郎が発議した国誌編纂は郡会に承認され、時の郡長深井康邦は、編纂主任に岩木拡、顧問に萩野由之を委嘱した。当初は、「地文」「人文」「地方誌」三編の出版を計画し、岩木は川上賢吉らの協力を得て、精力的に資料の収集にあたった。はじめ三年で完成する予定のところ、調査が困難で進行せず、郡会は経費上の理由で大正四年度をもって事業の中止を決定した。同五年(一九一六)七月岩木は解任されたが、それまでに脱稿して萩野由之博士のところへ校閲に回されていた「人文」編だけが、大正十一年になって『佐渡国誌(全)』として発刊された。内容は、「沿革」「政教」「鉱山」の大分類の下にそれぞれ小項目を設け、上古から明治末年までの史資料を載せる。岩木は編集方針について、「本書ハ専ラ事実ヲ記述スルニ務メタリ。唯其史実ノ晦渋ナル所ニハ之ヲ解釈若クハ評論スヘク、私意ヲ述ヘタル所アルノミ」と述べているが、古来の史書の引用や解説が適切で、興味深く読める郷土史書である。【参考文献】 『佐渡近世近代史料集ー岩木文庫(上・下)』(金井町教育委員会)【執筆者】 酒井友二
・佐渡国府(さどこくふ)
延長五年(九二七)に成立した「延喜式」に、「佐渡国、国府在雑太郡、管三郡、羽茂、雑太 佐波太国府、賀茂」とある。また十世紀中ばころの成立という「和名類聚抄」に、「佐渡国郡、管三羽茂、雑太 佐波太国府、賀茂」と同じ記載がみられる。さらに平安末ころといわれる「色葉字類抄」も、「佐渡、三郡、羽茂、雑太府、賀茂」、また鎌倉中期ころのものという「拾芥抄」も、「佐渡 三郡、羽茂、雑太府、賀茂」とする。これらは十世紀以後の書であるが、いずれも雑太郡内に国府が存在したことを述べる。しかしその位置は、記録の上ではわからない。そしてこの国府が、律令制初期から同じ場所にあったかどうかもわからない。ただその所在地が雑太とあるからには、雑太郡内も雑太郷の内(真野町)にあったのではないかと推察される。その一つの根拠として、国分寺の位置との関係である。天平十三年(七四一)の諸国国分寺建立の詔勅の中で、その占地条件の一つとして、国府に近いとこであることがある。そうすると逆に言えば、国分寺(跡)の近くに国府がなければならないことになる。佐渡の国府址は、佐渡国分寺の近くに求められる所以である。その場所が現在では、「下国府遺跡」を含む竹田台地先端平坦部(四~五町四方)の地点でないかと考えられている。近辺には、「国府川」「総社神社」「府中八幡」なども存在する。国府(中心都市)の中に、国衙(政庁)があるわけであるが、今はそれもわからない。【執筆者】 山本 仁
・佐渡国分寺(さどこくぶんじ)
天平十三年(七四一)、聖武天皇の諸国国分寺建立勅願によって、佐渡国国分寺も建立された。しかしこの大工事開始の時期も、完成の時期も明らかでない。当時は各国共、それぞれの国の事情によって建立の時期が遅れるが、佐渡国も同じであったとみられる。完成時期については諸説があるが、天平宝字八年(七六四)とみる説が現在有力である。それはこの年、国より佐渡国国分寺へ金光明最勝王経、法華経各一部が施納されている(「大日本古文書」)記事からである。律令制が衰退すると、その精神的基盤であった国分寺の機能も低下または消滅し、寺院は姿を消すもの、一般的寺院化するものなどが出てくるが、佐渡国分寺はどうなったか。寺伝によると七重塔は正安(一二九九ー一三○一)の雷火で焼失、伽藍も戦国の争乱で失ったという。本尊薬師如来(平安初期、国重文、明治三十九年)は現在残る。創建当時の本尊については不明である。旧国分寺境内(国指定史跡、昭和四年)は方二町四方と想定され、その中に金堂跡・中門跡・廻廊跡・南大門跡・七重塔跡などの礎石が整然と残っている。小規模ながら東大寺式伽藍配置の建物群であったことがわかる。ただ後年の開発によって、鐘楼・経蔵・講堂・僧房などの跡が残っていない。史跡内からは多数の布目瓦片が採集されており、中には人物画瓦や文字瓦・紋瓦などが含まれている(今の所、中世の遺物は採集されていない)。瓦の製産地は、国分寺に接する東側の経ケ峯瓦窯跡、南に遠く離れた小泊須恵器窯跡(羽茂町)などである。現国分寺は、史跡国分寺跡の東隣にある。本尊の安置されていた瑠璃堂の建立が寛文六年(一六六六)であるが、他の建築物が現地に移転したのはいつのころであったろうか。【執筆者】 山本 仁
・佐渡国分寺跡(さどこくぶんじあと)
遺跡は、国中平野を北側に見おろす、真野町大字国分寺の台地にある。現国分寺に接する西側、松林中(字経ケ峰)のほぼ二町四方域内に、南面する伽藍遺構が広がる。「佐渡志」(文化年間編)の中に「初て天平に作られし寺は正安のころ雷火に焼け、再び建てしも享禄二年己丑災にかかりて悉く焼けぬ。今も寺のあたりの地を穿ちて稀に瓦を得ることあり。古色観つべし。─」とある記事が、国分寺旧跡に関する初見である。昭和二年(一九二七)、県史跡調査委員山本半蔵氏や、郷土史家本間周敬氏・原田広作氏らの数回に亘る調査によって、礎石の点在が確認され、同年内務省調査官らの調査によって、建物跡の概要が判明、昭和四年十二月国の史跡として、指定保存地に指定された。第二次大戦後の昭和二十七年、斉藤忠博士を中心として再調査が行われ、建築遺構の大部分が明らかにされた。報告書によると、建築物としては、金堂・中門・廻廊・南大門・七重塔の中心軸がほぼ南北に並び(金堂東側に中心軸より一二度東偏した新堂址がある)、東大寺式伽藍配置であったことが知られる。寺域の地割は、天平尺三十三尺を基準としている。ただ残念なことには、金堂背面に存在したであろう経蔵・鐘楼・講堂・僧房の礎石は、後世の土地開発のため発見されていない。現在、国の重要文化財(史跡)指定。なお、建立当初の建物に載せられた瓦の焼成窯跡は、現国分寺(東向き)の前方経ケ峰瓦窯跡、その後の修理用瓦の窯跡は、小泊須恵器窯跡で焼かれたものとみられている。【参考文献】 今井浤二「佐渡国分寺」(『国分寺の研究』)、斉藤忠「佐渡国分寺の諸建築物跡とその規模」(『越佐研究』五・六合併号)【執筆者】 山本仁
・佐渡古実略記(さどこじつりゃっき)
七巻。一巻~四巻は、神代より慶長六年(一六○一)の相川銀山の立ち始まりまで、五巻~七巻は、慶長八年の大久保長安支配開始から設楽長兵衛の寛永十一年(一六三四)までを収める。『佐渡古実略記』七巻は、『佐渡国略記』三四巻と一体をなすもので、編者は相川町町年寄伊藤三右衛門が、佐渡奉行石谷清昌の要請で編纂したものと推測される。一巻は『日本書紀』の国生み伝説、当国村郡始之事・当国九社之事・当国惣鎮守金北山之事・当国江流罪人之事・当国名所寄などを収め、二・三巻は鎌倉・室町時代にあたり、佐渡本間氏など地頭たちの支配・系図を中心に収めている。四巻は、上杉景勝の佐渡支配を中心に、河村彦左衛門由緒書・同系図、郷村・寺社領の支配、慶長五年から同八年までの徳川幕府の四奉行(田中清六・河村彦左衛門・吉田佐太郎・中川主税)支配、西三川金山・鶴子銀山の創業などを収めている。五巻は大久保長安の支配から鎮目の就任まで、六巻は鎮目市左衛門・竹村九郎右衛門の支配、七巻は寛永元年(一六二四)より同十一年までが収められている。【関連】 佐渡国略記(さどのくにりゃっき)・石谷清昌(いしがやきよまさ)【参考文献】 伊藤三右衛門『佐渡国略記』【執筆者】 児玉信雄
・佐渡古典叢書(さどこてんそうしょ)
昭和二十六年(一九五一)に郷土史家の橘正隆(通称は法老)は、金井町中心街の尾花崎で、印刷事業を行っていた産青連印刷所の三十周年記念事業として、同会と提携して佐渡史関係の古典書の刊行をはじめた。第一巻は『相川県史』で、そこへ「寺社帖」が付されていた。第二巻は、「四民風俗」と「いが栗」が収録され、いずれも好評を得て郷土史愛好者たちに、叢書の発行が期待されていたが、事情があって打ち切られてしまった。そのため『佐渡古典叢書』は中断したまま、幻の叢書となってしまった。【関連】 橘正隆(たちばなまさたか)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡小判(さどこばん)
佐渡で小判を鋳造したのは、元和七年(一六二一)に始まって七○年継続し、元禄四年(一六九一)これを停止して、正徳四年(一七一四)復興して享保十年(一七二五)まで行われ、翌享保十一年また停止、延享四年(一七四七)から文政元年(一八一八)まで七二年間継続し、その後は行われなかった。佐渡小判は、背面の右肩に丸に佐の字の印があり、同じく左下方の極印の上にあるのは六、或いは馬、或いは砂の字で、下にあるのは神、或いは當の字である。六は大賀六郎兵衛、馬は相馬五兵衛、砂は佐藤次右衛門という小判師の印で、神は片山甚兵衛、當は上原藤左衛門という吹所役人の印である。正徳以後は、小判師はこの国に居ないので、筋の字を用いた。元和の小判は、縦二寸三分一厘、横一寸二分八厘、重量四匁七分六厘ある(以上『佐渡郷土辞典』)。上記は『佐渡志』巻之四、食貨の金の項目(佐渡小判)の記述を基にしたものと思われるが、若干の採録違いがあるので、読み合わせが必要。なお、『佐渡金銀山史話』の第三章第一節の、「佐渡小判の鋳造」「小判鋳造の変遷」が参考になる。【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』、『佐渡志』【執筆者】 小菅徹也
・佐渡御用覚書(さどごようおぼえがき)
「天」「地」「人」の三巻よりなる。正徳五年(一七一五)より享保七年(一七二二)までの佐渡奉行北条新左衛門氏如が、在任中を中心に公文書と公務の覚書を収録したもの。江戸の老中・勘定奉行からの奉書・達書、また佐渡奉行から老中・勘定奉行への報告書、佐渡奉行より諸役人への通達・触書、相役である河野通重奉行との交代引継などが含まれており、正徳・元禄期の政治・社会を知るうえで貴重である。天・地・人の三部からなり、「天」では諸役人扶持切米覚・佐渡往還休泊覚、他に佐州米改・相川町中および諸役人の宗門改・島内巡見の書付・諸種の御触書・佐州御船造替・囚人宰領注進・拝借金等四九点。「地」は島内巡見、河野勘右衛門申送口上之覚・正徳五・享保元年佐州新規申候覚、将軍家継死去による諸通達、穿子・大工の規定書、巡見に付仰出され候書付、切支丹類族病死之時差上候証文控等二七点。「人」は諸制札・山之内道法・起請文前書の覚、小倉実起配流の覚、佐渡国開基、神保新五左衛門様御渡被成候在々百姓共ニ可申聞書付、御陣屋武具目録等六○点、と広範な分野にわたっている。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡裁判所(さどさいばんしょ)
維新期に新政府が設置した行政機関。新政府は、慶応四年(一八六八)一月二十八日、大阪鎮台を大阪裁判所と改称し、つづいて各地の天領を直轄地にして裁判所を置き、「専ら人心の鎮定を図り、(中略)安んじて業を営ましむ」ことにした。佐渡に裁判所を置く方針が決定されたのは四月頃で、佐渡奉行所にこの知らせが届いたのは、五月二十二日である。在京の組頭竹川竜之助が、閏四月十九日に北陸道総督府参謀に呼出され、「佐渡に裁判所を置き、総督に北陸道副総督滋野井公寿、参謀に津田山三郎(肥後藩士)と小林柔吉(安芸藩医師)を任命したので遠からず着任する。」と告げられた。滋野井総督の辞令は、四月二十四日付となっている。竹川は直ちに岩間郁蔵を佐渡へ帰し、このことを知らせた。中山修輔は、広間役岩間郁蔵・井上大蔵に顧問として丸岡南 を付けて京都へ派遣し、佐渡の国情を説いて赴任を思いとどまるよう懇願させることにした。岩間らは五月二十九日に相川を出発し、ほぼ目的を達成して八月十二日に帰っている。かくして佐渡裁判所の設置は実現せず、間もなく地方行政が府・県・藩に分けられることになって、行政機関としての裁判所は消滅した。【関連】 岩間郁蔵(いわまいくぞう)・丸岡南陔(まるおかなんがい)【参考文献】 『国史大辞典』(吉川弘文館)、『佐渡相川の歴史』(資料集六、通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡災異誌(さどさいいし)
昭和三十七年(一九六二)七月二十五日に、相川測候所は創立五十周年を機に、『佐渡災異誌』を刊行した。当時の相川測候所長の府中国一は、冒頭の言の書きだしに、「最近の気象官署における重要な仕事の一つは、異常な気象現象の発現の場合に、適切な気象予警報を発表し、もって担当区域内の防災対策に、幾分でも寄与することである。」として、その判断に資する資料を、過去の歴史上の記録から編集した経路を述べている。そのうち中心的な資料は『佐渡年代記』で、その他の古文書を骨とし、市町村誌を肉として書かれているが、それらいわゆる郷土誌関係書以外にも、日本気象史料や新潟県地震誌・石川県災異誌など、業内資料も用いられた。書の内容は第一部が年表形式で、津波・雷・長雨、鳥類の異常渡来、なだれ・雪・風ほか、オーロラ・たつまき・いん石・虫害など、三五項目にわたっている。第二部は、統計・グラフ・分布図などで、対象となっているのは、気温・湿度・気圧・風・降水・季節の六項目である。同書は上巻にあたるもので、明治以降はあらためて(下)として刊行予定と書いてある。【執筆者】 本間雅彦
・佐渡志(さどし)
藤沢子山(名は周)の著書、田中葵園(従太郎)の『佐渡志』と混同されやすいので、ふつう『子山 佐渡志』という。本書はもと三巻あったが、第一巻と第二巻が火事で焼失したので、この第三巻「寺社部」だけしかない。天明から寛政(一七八一~一八○○)頃の成立という。内容は寺院・山伏・神祠からなり、寺院は、真言・天台・浄土・禅・日蓮・一向・時宗の七宗の別に有力寺院をあげ、その由緒・本寺名・寺家(子院)名・末寺(会下)名・境内の面積・除地除米高・堂宇・什物・寺領検地その他の古証文類などを記す。山伏は、当山派(三宝院所属)七四人と本山派(聖護院所属)一五三人の別に分けて、その居住する郷村名を記す。神祠は、寺院同様佐渡の有力神社である、度津神社・式内九社・金北山神社・大山祇神社などについて、由緒・除地・除米・境内・古証文・神官・別当寺・合祠をあげ、一般の寺院は所在郷村名と神官名を記す。成立は『佐渡国寺社境内案内帳』より新しいが、これよりも古くて現存しない元禄寺社帳の形をとどめている。【関連】 藤沢子山(ふじさわしざん)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡叢書』(巻五)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡志(さどし)
一五巻、同附録図一巻。佐渡奉行所広間役田中從太郎(美清・葵園と号す)が、文化年中奉行の命を受けて、同じ地役人西川明雅(藤兵衛・恒山の子)とともに編集した地誌。葵園の生前には、文化十三年(一八一六)までを、それ以後は二男藤木実斎(名は穂、実斎・竹窓と号す)が、先志を継いで弘化年中に完成した。内容は、本編の巻順で、建置・形勝・田土・食貨・風俗・官員・武備・戸口・祥異・神祠・仏寺・古蹟・遷流・遺事・物産の一五巻と附録図でなり、各巻とも可能なかぎり古代からの記録を採用し、自らも寺社・民家の記録を採訪して著述している。引用書目は、記紀以下六国史・増鏡・梅松論・延喜式・今昔物語・遊行渡海記など、島内だけでなく中央の史料まで引用し、その数は六○種をこえている。このために、葵園が文化三年(一八○六)二五歳のとき、江戸の塙保巳一に佐渡関係史料所載の古文献の調査を依頼した書簡がのこっている。本書を完成させた藤木実斎は、二部作成し、一部を修教館におさめ、一部を家蔵したが、明治七年葵園の孫美暢が明治政府に献納し、現在は二部とも内閣文庫が所蔵している。【関連】 田中葵園(たなかきえん)【参考文献】 『新潟県史』(通史編3近世一)、麓三郎『佐渡金銀山史話』、田中圭一『天領佐渡』【執筆者】 児玉信雄
・佐渡式内社(さどしきないしゃ)
延喜五年(九○五)から編さんの始まった『延喜式』の「神名帳」に記載されている、二八六一社を式内社という。そのうち佐渡国は九座あって、郡ごとに「羽茂郡ー度津・大目、雑太郡ー引田部・物部・御食・飯持・越敷、賀茂郡ー大幡・阿都久志比古」となっている。雑太郡の五座は、波多郷およびその周辺に集中している点が特徴的である。右社名をもつ九社はみな現存してはいるが、その社が延喜式の神名帳記載のものとは限らず、伝承が途切れていたのを、近世にいたって僭称したところもあるとされている。社名の記載には、位格などに拠って序列があると考えられてきたので、羽茂郡度津社が筆頭社として、「佐渡一の宮」と呼ばれる習慣ができているが、一の宮の判定には異説もある。また最初の鎮座の位置から遷移したことが、記録や伝承によって明らかなところもあり、伝承や所説はあっても、確証のない社などさまざまである。前者の例は、三宮村から寛文中(一六六一~七二)に猿八村に移ったとされる越敷社で、後者の例としては大幡社などがあるが、推測の域をでない。【関連】 大幡神社(おおはたじんじゃ)【参考文献】 『角川日本史辞典』(角川書店)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡支庁(さどしちょう)
佐渡郡役所の廃止によって設置された行政機関。大正十年(一九二一)四月、「郡制廃止に関する法律」が公布された。これは、府県や町村の行政組織が整備されて、両者の中間にあった郡の役割が薄れてきたためである。大正十二年四月一日には郡制廃止が実施されて、郡は地理的名称と化し、大正十五年七月一日の郡長・郡役所廃止によって、歴史的役割を終えた。それまで郡営で行なわれていた事業は、県または町村へ移管された。ただ、郡役所廃止によって住民に大きな不便を与える地域については、支庁または出張所の設置が許され、新潟県では離島である佐渡にのみ支庁を置くことが認められた。かくして大正十五年七月一日、新潟県佐渡支庁が誕生し、前岩船郡長であった関威雄が初代支庁長に就任した。庁舎ははじめ広間町の佐渡郡役所に置いたが、昭和三年一町目裏に新庁舎を建てて移転した。その後の行政の機構改革によって、昭和三十年(一九五五)から下越支庁佐渡分室、同三十三年からは佐渡分室と変り、同四十一年には再び佐渡支庁となって、同六十年に廃止されるまで続き、県と市町村の中間行政機関としての役割を果たした。【関連】 佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)・新潟県相川合同庁舎(にいがたけんあいかわごうどうちょうしゃ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「佐渡支庁の沿革」【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡四民風俗(さどしみんふうぞく)
宝暦六年(一七五六)佐渡奉行所在方役の高田備寛は、奉行命によって島内の各村々の生活ぶりを二巻の書に記述し、これを『佐渡四民風俗』と名づけた。その後天保十一年(一八四○)に、広間役の原田久通が追補したものが明治二十八年(一八九五)に矢田求の解題で、下巻の一部を省いて史林社から刊行(同書は昭和四年にも出された)。戦後昭和二十六年(一九五一)に佐渡古典叢書として橘正隆の、さらに同四十四年に田中圭一の解説で、三一書房から出版された。上巻は中世の本間能久支配の頃から、江戸前期までの歴史の概要を述べたあと、「当国農家風俗の儀」として、上杉景勝支配以後の村の様子を記してある。記述の順序は、沢根町・河原田町・辰巳村・八幡村・四日町村と真野沿いにはじまって、終りは両津湾沿いの内海府村々となっている。下巻は職人についての記述で、樋職人・番匠・鍔師・金具師など、あらゆる職種に及んでいて、追加分を併せると、江戸前期・中期の島内の工芸事情が詳細に把握できる。筆者の高田備寛は、地方の役人とはいえ、江戸詰の機会が享保から元文にかけて前後五回もあって、江戸在住および往復の旅の経験や見聞がひろく、その視野の広さから、高度の民俗誌を書き上げることができたものと考えられる。【関連】 高田備寛(たかだびかん)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡自由党(さどじゆうとう)
板垣退助らによって、明治十四年(一八八一)に結成された自由党のながれをくむ政党。明治十五年四月、県下の各自由党組織の連合体性格をもつ北辰自由党が結成された。そして、同党の招きで同年十一月に自由党員の高橋基一(東京府士族)らが来島し、小木・中興・夷・相川・本郷の五か所で政談演説会が開催されたが、夷町での演説会によって、若林玄益ら十余名が入党した。しかし、その後の活動は活発とは言えなかった。政党の活動が盛んになるのは、国会開設が迫った明治二十年頃からで、明治二十一年十月には、自由党系の大同派が越後から山際七司らを招いて演説会を開き、両津や国仲に勢力を広げた。翌二十二年三月に越佐同盟会が結成されるが、ここには原黒の鵜飼郁次郎、中興の石塚秀策、河原田の高橋元吉、皆川の池野最平らが参加している。その後自由党系の政党は、明治二十五年に鵜飼郁次郎らの国権党が分れたり、民党連合として合同したこともあったが、佐渡自由倶楽部(明治二十六年)、憲政党(明治三十一年)、立憲政友会(明治三十三年)と党名を変えながら、昭和十五年(一九四○)の解党まで続いた。【関連】 佐渡同好会(さどどうこうかい)・佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)・鵜飼郁次郎(うがいいくじろう)【参考文献】 石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2)、斉藤長三『佐渡政党史稿』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡状(さどじょう)
佐渡流罪中に、大和ないし京都にいたと思われる娘婿の、金春大夫氏信(禅竹)に宛てた世阿弥の手紙。直筆の手紙は二通しか現存しておらず、その中の一通がこれで、奈良県文化財。佐渡で書いた『金島書』は、写本で伝わったものだから、世阿弥滞島中の筆跡は、この手紙が唯一のものであり、流人としての世阿弥の息づかいが感じられ、貴重である。昭和十六年、能楽研究家の川瀬一馬氏が、奈良県生駒市の宝山寺で発見した今春家伝書群の中に、世阿弥自筆能本などといっしょにまじっていた。楮紙二枚をはりあわせた横五五・七糎、從二○・四糎の手紙で、「世阿弥が佐渡流謫中のものなり、稀代の資料といふべし」と、川瀬氏は発見したときの驚きを記している。「六月八日」の日付があり、配流の翌永享七年(一四三五)に発信したものと見られている。文面は、佐渡では人目も外聞も、とくに問題なく暮していること、氏信から銭一○貫文が届いたことと、妻の寿椿を預かってもらっていることへの謝辞、また佐渡は「不思議の田舎」なので、料紙なども不足していて、妙法諸経のありがたい教えも、稾筆で書くためしもあるというから、道の大事(鬼能のこと)を書くこの手紙は、金紙とお考えになって下さい、などと結んでいる。禅竹から「鬼の能」について、質問した手紙が届いたことへの返信も兼ねているらしく、「(鬼の能に関しては)砕動までに限られ、力動なんぞは他流のことにて候」と、つっぱねている。鬼の能の力量が、役者評価の基準にされるような風調が、そのころ都で生まれていたらしく、形式的・外面的な能の俗化をいましめた手紙ともうけとられ、配処にあってもなお、能への情熱を失ってはいないようすがうかがえる。「世阿弥佐渡状の碑」(題字、二十六世観世宗家・観世清和書)が、この手紙を直筆のまま刻んで、佐渡博物館の玄関前に平成九年に建立された。【関連】 観世元清(かんぜもときよ)・金島書(きんとうしょ)【参考文献】 表 章・加藤周一『世阿弥・禅竹』【執筆者】 本間寅雄
・佐渡事略(さどじりゃく)
佐渡奉行石野平蔵廣通(天明元年~天明六年まで在勤)が、天明二年(一七八二)に著わしたもの。上・下・別録の三巻があって、上巻は、佐渡の大概を記し、下巻は、佐渡における見聞を記し、別録は金銀山のことを記している。その時代の佐渡の国勢・気象・物産・風俗・鉱山の様子が知られる。佐渡人に対する見方は、「人物辺鄙の気質温和ならずといへども、大平の化行はれて、重立ちたるものは義信礼譲あり、下等のものは奸曲讒阿、或は密訴を企て、又は妬情の心あり、色欲深く、物に心をとどめず、業に精しからず、土を掘り石を拾ひて利を得んことをおもふ。」(萩野由之『佐嶋遺事』)とあり、また、天明二年九月十九日善知鳥明神の祭礼に「作り物を出し、鉾を出し、猿田彦、獅子もあり、鬼太鼓といふて金堀共打つ」などの記録もある。当時、武家三歌人の一人と言われた観察眼をもち、博識の人の書である。【参考文献】 萩野由之『佐嶋遺事』【執筆者】 山本修巳
・佐渡人物志(さどじんぶつし)
一巻。萩野由之の著書。大正十年(一九二一)完成したものを、昭和二年に佐渡郡教育会より出版。内容は、慶長から大正までの約三百年の佐渡出身者、または他国人でも佐渡で死去した、史上著名な人物の伝記である。ただし流謫の公卿、もしくは在任中に没した官吏は入れていない。事実はみな本拠のあるものを採っており、その出所を註記し精確を期している。この書は、萩野が二○歳頃在島中から諸家の記録、古老からの聞き採り、上京後水戸・京阪等各地で得た材料が用いられている。収載人物は、一 善行・二 良吏・三 漢学・四 医術・五 数学・六 音韻学・七 蘭学及地理学・八 神道及歌文・九 連歌及俳諧・十 書画・十一 産業及技芸・十二 義侠・十三 沙門・十四 女流・十五 雑学の、一五部門に分けている。原本は、佐渡高等学校同窓会「舟崎文庫」が所蔵する。【関連】 萩野由之(はぎのよしゆき)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡新聞(さどしんぶん)
明治三十年(一八九七)九月三日、森知幾によって創刊された佐渡で最初の本格的新聞。当初は隔日刊であったが、同三十五年から日刊となった。発行兼編輯人が友部周次郎、印刷人細野啓蔵、主筆には「新潟新聞」の記者をしていた大竹忠次郎を迎えて発足したが、実際には主幹の森知幾が編集と発行に当たった。発行所は当初羽田町にあったが、のち下戸炭屋浜町へ移転した。以前から島民による新聞の発行を企図していた知幾は、畑野町の本間慶四郎や「江差新聞」の記者をしていた伊達喜太郎らと相談して六月発刊の予定にしていたが、本間と伊達の間で支持政党の対立が起こって、三か月近く遅れた。知幾は、人民の自由・平等と独立をかかげて地方分権を主張し、官尊民卑の姿勢が強かった当時の吉屋雄一郡長と激しく対立、その姿勢を糾弾する論陣を張った。そのため官吏侮辱罪で六か月間の拘留(のち無罪判決)となったが、この間一時退社していた伊達喜太郎が新聞社を支えた。同紙はこうした弾圧に屈することなく、廃娼論や被差別部落の解放、佐渡鉱山のストライキ解決のための論陣を張り、佐渡の近代化と産業の振興に大きく貢献し、最盛期には発行部数が二○○○部にも達した。大正三年(一九一四)、社主の知幾が没すると、一時山本悌二郎に経営が託されたが、その後知幾の子供たちが受け継ぎ、昭和十五年(一九四○)九月に新聞の整理統合によって廃刊となった。【関連】 森知幾(もりちき)・伊達喜太郎(だてきたろう)・本間慶四郎(ほんまけいしろう)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、森 幾『森知幾ー地方自治・分権の先駆』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡新報(さどしんぽう)
『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)によると、明治大正期に佐渡では、四つの日刊紙が発行されていたが、太平洋戦下の昭和十五年(一九四○)に、言論統制による整理統合がなされ、最後まで残った「佐渡日報」も、同年十一月三十日をもって廃刊となっていた。戦後に言論の自由な空気が広がるのにそって、佐渡新報・佐渡民報・佐渡タイムス・佐渡評論・佐渡文化新聞・佐渡報知新聞・佐渡時事新聞・佐渡観光新聞などが続出した。「佐渡新報」社は昭和二十一年(一九四六)九月二十日に創立、同十月二十一日に金沢村尾花で創刊した。初代社長は、二宮村窪田で耳鼻咽喉科医を開業していた医師北見角太郎であった。二代目は東京在住の舟崎由之が継ぎ、本間庫次(のち畑野町長)・本間朝之衛が常勤に近い形で編集に当っていたが、帯刀金蔵(浜河内の建設業社長)とその子息弥寿正社長のときに、佐和田町東大通りに移転した。その頃から佐渡汽船や通信手段のスピード化、自家用車の普及、中央紙地方版の新設、とくに新潟日報佐渡版の充実などで、島内新聞の経営が困難になった。その結果、日刊紙は佐渡新報だけとなり、中央紙の配達が後れる南佐渡に、第三種郵便として細々とつづいていたが、平成十一年(一九九九)に廃刊となった。【執筆者】 本間雅彦
・佐渡人名辞書(さどじんめいじしょ)
大正四年(一九一五)に真野町新町の眼科医、筆名洒川こと本間周敬によって著わされ、東京の弘文堂で発行された。同書の自序によると、その二年前に新穂で、先哲遺墨展覧会をみて感動し、「爾来業務の余暇諸書を渉猟し旧記を討尋し、伝説に稽へ遺裔に糺し、苟も一技一芸に秀て、篤行奇績の伝ふべきものあれば得るに隨ひて録し、稿を更むること六回、蒐集の人物四百五十余を採りて以て世に向ふ」とある。その頃同氏は、千葉町猪鼻台に仮寓していた。また凡例のなかに、「本書編纂に就きては、山本半造君・山本植蔵君・岩木擴君・守屋泰君・川上賢吉君・茅原鉄蔵君・本荘了寛君・牛窪弘善君、及び遺裔関係諸氏の指導校訂を受けしもの甚だ多し。」とある。とくに牛窪には多くの資料を得たり、極力史料をさがしてもらったともある。島の出身者牛窪は東京在住者、他は在郷の研究家や篤学の士である。内容は、子弟関係の系統図にはじまり、人名はいろは順に挙げられ、八二頁から九六頁までは外伝が、以下附録として年表が、また古書の解題が三頁ほどあって、一一一頁で終わっている。著者には他に『佐渡上代史考』・『佐渡郷土辞典』・『佐渡の史蹟』などの良書がある。【関連】 本間周敬(ほんましゅうけい)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡水難実記(さどすいなんじっき)
明治三十年(一八九七)に、金沢村本屋敷の得勝寺住職本荘了寛が著した、佐渡を襲った大水害の記録書で、大正二年(一九一三)七月十五日に東京小石川の博文館から出版された。当時佐渡新聞や雑誌「佐山」に掲載されたものを、明治三十五年(一九○二)にまとめ、絵師麦僊のさし絵、萩野由之の序文、名士の加筆をえて書物とした。記述は、羽茂川すじから始めて海岸線ぞいに、そして国府川方面に及んでいる。実記には、当時の郷土研究家として著名な川上賢吉(喚涛)の随筆や、岩木擴の考証も加えられている。本書の経済的な援助者として、内藤久寛・斉藤恒・青木永太郎・野沢卯市・森知幾・嵐城嘉平の名前が挙げられている。【関連】 本荘了寛(ほんじょうりょうかん)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡政党史稿(さどせいとうしこう)
斎藤長三が、昭和十五年(一九四○)頃から同十八年にかけて著した稿本。謄写版印刷で数部作成し、「各位御一覧之上可否善悪を御書き加へ可成早く御返し被下度御願申上候」との添紙を付けて関係者に配布し、寄せられた意見をもとに加筆を行っていたようであるが、途中で没したために発刊には至らなかった。したがって、完成されたものはないが、県立図書館と橘鶴堂文庫に一部が保存されている。それによると、構成は明治政党之巻・大正政党之巻・昭和政党之巻・新潟県会之巻・衆議院及内閣之巻となっているが、三郡町村組合会や郡会、有田真平の不敬事件や相川暴動・官庁移転問題などの島内で起きた大きな出来事、『北溟雑誌』「佐渡新聞」「佐渡毎日新聞」などの新聞雑誌の発刊とそれぞれにかかわる人物についても、くわしく記述されている。【関連】 斎藤長三(さいとうちょうぞう)【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅵ』(佐渡博物館)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡銭(さどせん)→銭座(ぜにざ)
・佐渡総合病院(さどそうごうびょういん)
昭和十年(一九三五)に開設された、佐渡で最初の総合病院。昭和初年から始まる農村不況によって、医者にも診てもらえない農民が増えてきた。そこで、当時佐渡産業組合連合会の会長であった本間長治や、主事の川上久一郎らが中心となって、昭和七年十一月産業組合の事業に、医療組合設立を加えることを決議した。これに対して、佐渡郡医師会や組合員の一部が反対したが、産業組合青年連盟などの熱心な活動によって、昭和八年八月六日に医療組合病院の設立が決議された。翌九年一月には、難航した建設位置も金沢村千種に決定し、昭和十年十月十八日に開院式が挙行されて、同月二十一日から診療が開始された。初代院長には佐野龍雄、副院長には伊藤清太郎をそれぞれ東京大学から招いた。開院当時は、内科・外科・眼科の三科であったが、その後順次増設され、現在は当初の三科の外に、小児科・精神科・整形外科・産婦人科・耳鼻咽喉科・神経内科・放射線科・歯科などを備えた総合病院となっている。現在の建物は、昭和四十三年(一九六八)に竣工したものである。【関連】 郡立病院(ぐんりつびょういん)【参考文献】 「四五年のあゆみ」(『年史』佐渡総合病院)、『佐渡郡産業組合史』(二)、『金井町史』(近代篇)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡叢書(さどそうしょ)
佐渡の基礎的史料を復刻した叢書。現在、一六巻・別巻一・別冊一が刊行されている。昭和三十二年(一九五七)、金井町の佐渡産青聯印刷所が、佐渡叢書刊行会の発行元となり、真野町の山本修之助が編集者として、川路聖謨『島根のすさみ』、昭和三十三年に第二巻『佐渡志』、昭和四十一年第三巻『佐渡国「皇国地誌」』が続刊されたが、昭和四十八年四巻『撮要佐渡年代記・小比叡騒動史料・佐渡流人寄帳』から、発行元を編集者の山本修之助に移し、自費出版として続刊された。昭和四十九年五巻『佐渡地誌・子山佐渡志・佐渡国寺社境内案内帳』、六巻『佐渡維新日記・佐渡海防史料』、七巻「佐渡山本半右衛門家年代記」別巻『北溟雑誌』、昭和五十一年八巻『佐渡山本半右衛門家史料集』、九巻『佐渡明治資料集1』、昭和五十二年一○巻『佐州巡村記・佐渡四民風俗・市郷上ゲ金一件・天保十五年佐渡奉行所普請所出火一件』、昭和五十三年一一巻『佐渡史苑』、一二巻『佐渡人物志・佐渡碑文集』、一三巻『佐渡国史稿本・佐渡幕末維新御触書・黒瀬家文書・吉田東伍「大日本地名辞書」(佐渡国)』、昭和五十四年一四巻『佐渡明治史料集2』、昭和五十五年一五巻『佐渡神社誌・竹窓日記』、昭和五十六年別冊『佐渡新聞』、五十七年一六巻『佐渡紀行・佐渡渡海道之記・佐渡古典文芸集』が刊行されている。その後、編集者兼発行者の山本修之助が、平成五年八九歳で没して、現在に至っている。【関連】 山本修之助(やまもとしゅうのすけ)【執筆者】 山本修巳
・佐渡地志(さどちし)
一巻、「佐渡古跡考」ともいい、相川町の医師横地島狄子の著。「佐渡地志」は、元禄八年(一六九五)水戸の徳川光圀が、佐渡奉行所に佐渡の国誌について下問した時、相川の医師横地島狄子玄常(正時)がその命をうけて著述献上したもので、当時そのような書物がなかったため、横地が祖父の記録によって著述し献上した。原本は現在も水戸彰考館に伝存している。現存最古の佐渡地誌。内容は、佐渡の式内社九社と、他の主要な神社九社、主要な寺堂二八、名所九、これに小倉実起の配所鹿伏村、国の田地年貢高、金山、奉行所諸役人について記している。殊に小倉実起についての記述が目立ち、横地島狄子と実起との関係をうかがわせる。【関連】 横地島狄子(よこちとうてきし)・小倉実起(おぐらさねおき【参考文献】 萩野由之『佐渡人物志』【執筆者】 児玉信雄
・佐渡鐔
佐渡で作られた鐔のことで、一般的には江戸三左衛門とその一族が作った鐔を指し、三左衛門鐔ともいう。初代三左衛門は、延宝二年(一六七四)七月、かたりの罪で江戸から流刑され、相川町四町目で餝屋として生活した。正徳五年(一七一五)、赦免で一たん江戸へ赴いたが、再び相川へ帰り、奉行北条新左衛門氏如の指導を受けて鐔を作り始め、三左衛門鐔として自他国に売りはじめた。鉱石を掘る鑽のまくれ落ちる鋼(モゲという)で鐔を錬立て、チョコレート色で鉄質は硬く、鍛えも良かった。二代利英・三代利貞・四代利姓とつづき、五代平六は名をなさなかった。初代は好古と刻んだとみられ、同系統の鐔に好古銘のものがある。作風は、鉄地・丸形・透彫が多いが、木瓜形や変り形などもあり、金銀象嵌や、まれに赤銅鐔もある。菊花・稲穂・米俵・大根・葦・葵・梅・桐・松・柊・鶴・雁・鷹羽・龍・馬・ほたて貝・定紋・扇・擂鉢・引戸手・錠前・カッチャ(鉱山道具)・山水楼閣など、洗練された図柄で、地方鐔として異彩を放ち、中央でも需要が多く評価が高かった。江戸で人気の金工師・遊洛斎赤文が、布袋図を鋤出した利英銘の鐔もあり、江戸文化との交流がうかがえる。三左衛門の姓は、「服部」とするのが通説で、菩提所は相川町米屋町の、一向宗願泉寺(現在廃寺)であったが、相川町山之神の一向宗総源寺には、「猪股」姓として一族がまつられていて、「猪股利姓」銘の鐔もあり、何らかの理由で改姓したものであろうか。【関連】 江戸三左衛門(えどさんざえもん【参考文献】 計良勝範「佐渡鐔について」(『佐渡博物館々報』一二号)、同「江戸三左衛門」(『佐渡流人史』郷土出版)【執筆者】 計良勝範
・佐渡同好会(さどどうこうかい)
大隈重信らによって、明治十四年(一八八一)に結成された立憲改進党のながれをくむ政党。国会開設が迫った明治二十年、県下の改進党系の活動家は、北辰自由党に対抗して殖産協会を結成して、党勢拡大を図った。佐渡ではまず、改進党員として論陣をはった有田真平の出身地でもある相川に小崎懋らを派遣し、明治二十九年九月に政談演説会を開いた。しかし、この時は入党者を得るまでには至らなかった。翌二十一年十一月、改進党色を強めた同好会を結成すると、同月十六日に再び相川で、小崎懋や県会議員の内藤久寛らの演説会を開催し、柄沢寛や浅香周次郎など一二六名の入会者を得て、同好会相川支部を結成した。さらに翌二十二年までには、新町・畑野・羽茂の各支部を結成し、会員も二九六名にのぼった。同好会は、同年越佐議政会と改称し、その後民党連合として自由党系と合同したこともあったが、越佐会(明治二十八年)、進歩党(明治二十九年)、憲政本党(明治三十一年)、国民党(明治四十二年)、民政党(昭和二年)と党名を変えながらも、昭和十五年(一九四○)の解党まで続いた。【関連】 佐渡自由党(さどじゆうとう)・佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)・小崎懋(おざきつとむ【参考文献】 石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2)、斉藤長三『佐渡政党史稿』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡トキ保護センター(さどときほごせんたー)
新穂村長畝三七七ー四に所在する、トキ保護増殖をはかるため、環境庁が新潟県に委託した施設。旧トキ保護センターは、昭和四十二年(一九六七)十一月二十一日、新穂村小佐渡山中の清水平に開設され、トキの人工増殖と、野生トキ保護活動の中心として機能し、捕獲トキの飼育・人工受精・ホルモン試験などの研究を行い、大型飼育ケージ・管理棟・研究棟・ドジョウ養殖池があった。現在のトキ保護センターは、旧センターが老朽化したことなどから、国仲平野の長畝内巻にある白山神社の森をひらき、平成五年十一月十二日、移轉開所したもの。大型飼育ケージ・管理・増殖・研究棟・検疫棟があり、専任職員は、センター長近辻宏帰、トキ保護専門員(獣医)二名の三名。トキ保護センター周辺は、新穂村トキの森公園として整備され、村営のトキ資料展示館がある。昭和四十二年十一月、フク・フミ・ヒロの飼育にはじまり、四十三年三月、キン飼育。四十五年一月、能登のノリ飼育。五十六年一月、佐渡の野生トキ全鳥五羽捕獲飼育(緑・白・赤・青・黄)。五十七年三月、ミドリ♂とシロ♀のペアリング。その後、五組のペアリングがある。六十年十月、中国からホアホア♂借用。平成六年九月、中国からロンロン♂とフォンフォン♀借用。七年四月、ミドリとフォンフォンのペアリングで、五個産卵(全て無精卵)。平成十一年一月には、中国から天皇陛下に贈られた友友♂と洋洋♀の飼育がはじまり、四個産卵のうち、五月、人工孵化によりヒナ一羽誕生。七月、この二世トキの名前公募で、優優と命名された。平成十二年二月現在、中国のトキは野生を含めて約二○○羽。佐渡トキ保護センターでは、キンを含めて四羽である。【参考文献】 近辻宏帰「トキ保護センター一六年の記録」(『トキ』教育社)【執筆者】 計良勝範
・佐渡と能謡(さどとのうよう)
佐渡の能楽の歴史を紹介した最初の出版物。著者は相川町下戸に住んでいた椎野広吉。昭和二十五年十月、新穂村の仲野書店からの刊行(非売品)である。「佐渡の能謡は、其の源流を観世二代太夫、世阿弥元清の流寓に基因すと伝えられる。依って世阿弥の流系から収載することとせり」の書き出しから始まっていて、目次の数が一九○ほど。二七○頁におよぶ著述で、当時としてはかなりの労作といえる。内容の個々の評価はともかくとして、著者の誠実な人柄が全編から読みとられ、この島に能を盛行させた江戸時代から近代にいたる、多くのかくれた人とその業績が紹介されている。佐渡の能の盛衰をふりかえる人には、欠かせない報告書であり、戦後刊行された若井三郎氏(県能楽連盟常任理事)の、『佐渡の能舞台』『佐渡の能組』の労作二著に記される以前の、この島の能の消息をたどっていく上で貴重である。よく知られる潟上本間家と、相川の遠藤家の、佐渡二大能楽師の家系が、わりと詳しく紹介されていて参考になり、西三川の金子家によって起った加賀宝生の佐渡宗家と、潟上本間家との争い、両派の握手によって佐渡能楽会が大正八年ごろ創立されていく経緯なども、こまめに記述されている。観世・宝生の歴代宗家のときたまの来島、農業をしながら能に一生を捧げた感じの川上三吉翁(新穂)・小杉忠三郎翁(二宮)・松本栄太郎翁(真野)などの事蹟、ならびに佐渡に残る鷺流狂言とその伝承者にも、ていねいな解説をしている。【関連】 椎野広吉(しいのひろきち)・佐渡の能舞台(さどののうぶたい)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡日誌(さどにっし)
江戸後期の北方探検家、松浦武四郎の来島日記。佐渡へ渡ったのは弘化四年(一八四七)で、四○日ほど滞在した。佐渡中をくまなく歩きまわり、海府の嶮路も踏査し金北山にも登っている。江戸の俳人で「如草」という人と二人連れだった。両津港で武四郎を出迎えたのは、夷の画家本間陵山と溟北・圓山葆ら三人。溟北は夷で学古塾を開いていて、武四郎とは同年の文政元年生まれの三○歳。佐渡奉行所の高官で知友の藤木武助(實斉)が、溟北らを武四郎に紹介し、溟北は加茂湖や羽黒山正光寺などを案内している。武四郎は三重県の出身で日本国中を遊学したが、とりわけクナシリ・エトロフ島をはじめ北方各地を調査してたくさんの著作を残した。北方通が買われて北海道開拓判官にも登用され、北海道の道名や郡名のほとんどを選定している。が、明治政府のアイヌ政策に失望して官職を去り、以来全国を遊歴して著述生活を送り、明治三十一年(一八九八)二月に七一歳で東京で没した。『佐渡日誌』では、鷲崎や相川春日崎など、海岸防備のために全島に配備された台場や、遠見番所の砲術の大小や数量も調べて詳しく記述している。日本近海に異国船が接近して、国防への関心が高かった時代である。村や町別の人口・戸数・石高・物産はじめ、鉱物・植物・動物・風俗・港湾などにも目配りした、博物学的な記述が特徴である。【関連】 藤木実斉(ふじきじっさい)・圓山溟北(まるやまめいほく)【参考文献】 松浦武四郎『佐渡日誌』【執筆者】 本間寅雄
・佐渡日報(さどにっぽう)
大正三年(一九一四)八月二十五日、浅香寛によって創刊された日刊新聞。主幹が浅香寛で、主筆には児玉龍太郎、編輯人には富田霜人、営業には平岡栄太郎があたり、発行所は相川町大字八百屋町の浅香家の屋敷内に置かれた。このころ、相川町からは「佐渡新聞」・「佐渡毎日新聞」の二紙が発行されていたので、あらたな購読者を獲得するために、表紙や欄画を川上凉花・酒井億尋・岡常次など新進の青年画家による絵で飾ったり、最新式ポイント活字を使用したりして、斬新な紙面の装いを工夫し、気軽に読める大衆紙を目指した。発行部数は約一○○○部で、政治的には、創刊当時は中立を揚げていたが、大正四年春ころから同志会(後の民政党)系の新聞となった。昭和十五年(一九四○)、言論統制による新聞の整理統合によって十一月三十日付をもって廃刊となった。【関連】 浅香 寛(あさかひろし)・佐渡新聞(さどしんぶん)・佐渡毎日新聞(さどまいにちしんぶん)・平岡栄太郎(ひらおかえいたろう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡年代記(さどねんだいき)
一九巻・二二冊。原本は慶長六年(一六○一)から嘉永四年(一八五一)まで、二五一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、江戸幕府の佐渡支配を知る根本史料。著者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本に、明雅の没後、同じ地役人であった原田久通が書き続けたものといわれる。さらに嘉永五年(一八五二)から明治七年(一八七四)までの二三年は、『佐渡年代記続輯』として、また、『佐渡年代記』に全く脱漏したもの、および不完全な部分を萩野由之が編纂して『佐渡年代記拾遺』として、昭和十年以降佐渡郡教育会から出版した。『佐渡年代記』は、『佐渡風土記』『佐渡志』(田中葵園)『佐渡四民風俗』『佐渡相川志』(永弘寺松堂)とともに、佐渡五史書と呼ばれて重視されてきた。佐渡教育会の刊本は、佐渡支庁本を底本として、両津市鵜飼文庫本、真野町荏川文庫本によって校訂し出版されたが、ほかに萩野由之蒐集の舟崎文庫本が優れている。刊本は羽田清次が編纂主任となり、矢田求・山本半蔵・北見喜宇作がこれに参加して完成した。【執筆者】 児玉信雄
・佐渡年中行事(さどねんちゅうぎょうじ)
中山徳太郎・青木重孝共編の、佐渡で生まれた本格的民俗誌の一つである。その出版は、昭和十三年(一九三八)、柳田国男が主宰する民間伝承の会から、「佐渡民間伝承叢書」の第一集として刊行され、その序文は十数頁にわたって柳田国男が寄稿し、佐渡の事例を基に、たとえば、マユダマの榎木使用、六月朔日の歯がためと巨旦太夫の骨、正月の羽子板遊びの羽根など、その変遷の歴史を組立てる、民俗学的方法を説いている。そして最後に、佐渡年中行事の功績は、単に一郷土の過去文化の為に、好個の記念塔を打立てたというに止まらず、総国の学問に向って、これまで利用せられなかった、一つの進路を指示してくれたと、讃辞を送っている。当時の佐渡には、佐渡郷土研究会・佐渡民俗研究会などの組織があり、昭和十一年には、民間伝承の会佐渡支部が結成され、教育会では昭和五年以降、郷土教育への実戦が推進されていた。そのような状況のもとで、佐渡の郷土史・民俗の研究家と、佐渡郡教育会が連携し、この年中行事の編集事業が進められた。初版入手はなかなか困難だったこの稀覯本が、平成十一年高志書院から再版され、初版当時の年中行事調査標目が巻末に載っており、その緻密さに驚く。本文には、今は姿を消しつつある行事の数々が収録されており、佐渡の庶民生活を知る貴重な資料である。【執筆者】 浜口一夫
・佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)
農業共同組合の前身は、明治三十三年公布された産業組合法により生まれた産業組合である。相川町内のものを拾ってみると、旧相川町の「自彊購買販売組合」が明治四十二年(一九○九)六月設立され、事業不振のため大正四年三月解散。その後大正八年三月、「相川信用販売購買利用組合」を設立。旧二見村の「西浜信用組合」は、明治四十四年三月設立。事業不振で大正四年一月解散。大正十五年三月、「二見村信用販売購買利用組合」を設立。旧高千村は、大正元年三月「石名信用購買組合」を設立し、大正十三年四月、「下高千信用購買販売組合」に改組。さらに大正十二年十月設立された、「上高千信用購買組合」と合併改組して、大正十四年四月「高千信用購買販売利用組合」となる。旧金泉村の「金泉信用購買販売利用組合」は、大正十四年七月設立。旧二見村の「二見村信用販売購買利用組合」の設立は、大正十五年三月である。旧外海府村の「外海府信用購買販売利用組合」は、昭和十三年二月設立された。さて、大正十五年、佐渡一円を区域とした郡連(畧称佐連)が設立され、さらに昭和十五年には、県の連合会(新連合会)に合併される。そして日華事変・太平洋戦争へと、次第に戦時体制への統制経済は進み、昭和十八年の農業団体法の公布により農業会が発足し、農業団体の統合がなされ、終戦を迎える。戦後は、農地改革と農村の変化の中で、昭和二十二年十一月、農業共同組合法が公布され、各地に農協が乱立し、その後統廃合がなされ、佐渡では昭和四十七年、佐渡農協合併推進協議会が発足(会長本間一雄)し、四十九年(一九七四)三月、現在の佐渡農業協同組合への姿を整えている。【参考文献】 『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡の海岸(さどのかいがん)
佐渡は、その鼓型平面形の凹みの部分を除いては、岩石質海岸が卓越し景勝地がすこぶる多い。上記凹みは、東側両津湾・西側真野湾に相当し、各々礫浜および砂浜の平滑な湾奥をつくる。一般的には隆起海岸線の特徴を示し、段丘崖や山地斜面基部が直接海波に接する粗々しい磯浜を呈する。海岸線の出入りは余り著しくはないが、微視的には岩石の硬軟により、波食の進みに差異を生じて、その結果小岬角や小湾入が交互に現出する。外海府海岸では、二ツ亀島・大野亀島・関岬・入崎・春日岬などの大小の突角の間には、矢柄や高千など各集落の位置する浦々の浅い湾入があり、「佐渡海府海岸」として(昭和九年五月)国の名勝として指定を受けている。尖閣湾の付近や南仙峡の小木海岸等では、鋭い湾入に縁取られて海食崖が囲み、七浦海岸等では小島が沖合近くに点在したりして美景を呈する。又小木半島の沿岸一帯や二見半島長手岬には、幅広い裸岩の隆起波食台が広がり、二見の台ノ鼻や戸中の平根崎には海食甌穴群が見られ、所々に海食洞が穿たれる。小佐渡松ケ崎の載る鴻ノ瀬鼻尖角岬や、小木城山の陸繋島等砂礫州のつくる地形も多種に亘る。真野湾に臨む素浜は、段丘崖下にありながら段丘砂層の再堆積による砂浜や砂丘であり、羽茂平野の臨海部の越ノ高浜にも砂浜が発達する。黒島・赤島・白島・青島等沖合の小島を含め、海岸の露岩の色彩の変化も多様である。【参考文献】 九学会編『人類科学第一四集』(新生社)、同『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、佐渡地理研究会編『佐渡誌』【執筆者】 式正英
・佐渡国寺社境内案内帳(さどのくにじしゃけいだいあんないちょう)
「佐渡国寺社帳」「宝暦寺社帳」などとも呼ばれ、上巻に寺院の開基・由緒・境内面積・除地・除米・所在郷村名・本寺・寺家・末寺等を記す。下巻は神社の由緒、神主から鍵取の名前、境内・除地・除米・所在郷村名などが記されている。本書は編者も不明だが、成立年代も正確には不明である。宝暦頃の成立かという説があるが、宝暦(一七五一)・明和(一七六四)・安永(一七七二)頃の記述が多出することからみて、安永以降に成立したとみる方が正しい。この寺社帳には、「天正十六子年改の寺社帳」「元禄の寺社帳」「寺社帳」などからの引用が多くあり、現在では滅んで存在しないこれらいくつかの寺社帳や、寺の過去帳を資料に編集されたものであろう。いずれにしても『子山佐渡志』に比べて、記述がはるかに詳細刻明でよくまとめられている。【参考文献】 子山『佐渡志』【執筆者】 児玉信雄
・佐渡国略記(さどのくにりゃっき)
三四巻。『佐渡古実略記』七巻と一体をなす。『佐渡古実略記』は、神代から寛永十一年(一六三四)まで、『佐渡国略記』は、寛永十二年から天保七年(一八三六)までを収める佐渡国の編年体記録。著者は相川町年寄伊藤三右衛門。三右衛門は故実に明かるく、自らも『相川町年寄伊藤三右衛門日記』をのこす。一八世紀の半ば宝暦の頃、佐渡奉行の要請を受けて『佐渡国略記』の編纂にとりかかり、天保年間に書きあげる。本書の特徴は、従来の佐渡史書たとえば『佐渡年代記』等が、佐渡奉行所の記録に基いて編纂されているのに比較して、奉行所記録はもとより、市井の情報・記録等を極めて多く採用して編纂している点である。しかも奉行所記録・民間情報記録とも、『佐渡年代記』等にくらべて驚くほど豊富に、しかも濃密に調査採用して記録しているため、当時の佐渡の政治・経済はもとより、社会文化などを知るうえで、きわめて史料的価値が高い。これは、伊藤三右衛門が相川町年寄として町方役所に詰め、佐渡全島の情報や記録を得やすい立場にあったためと考えられる。例えば、人の婚姻・死亡・隠居などをはじめ、盗難事件・心中・殺傷事件・風水害・角力・歌舞伎の来島・米その他の相場・天災など、些細と思われることも落とさずに記録にとどめ、他書の追随を許さない。佐渡奉行がこの書の編纂を求めたのは、享保改革の行き詰まりが寛延一揆で噴出したあと、宝暦での改革が要請された事情があった。享保改革が、時代の情勢の変化に逆行する旧守的な政策を強行したため時勢にあわなくなり、寛延一揆をひきおこした。これによって奉行所は島民の要求を容れて、国産品の他国移出を大幅に緩和し、佐渡を銀山のためのお囲い村から、全国的市場経済の場に解放し、商工業発展策に切り変える政策に転換した。佐渡奉行石谷清昌が、高田備寛に命じて『佐渡四民風俗』を編纂させたのも、まづ佐渡の過去の歴史と現状認識をうる手掛かりを得るためであったが、本書もそれと機を一にするものである。【関連】 佐渡古実略記(さどこじつりゃっき)・伊藤三右衛門(いとうさんうえもん)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡の鉱物(さどのこうぶつ)
島津光夫「佐渡産の鉱物」(一九七七)には、現在まで知られている佐渡産の鉱物が、約八○種報告され、鉱物はつぎの三つの産状に区別されている。1佐渡鉱山などの金銀鉱脈に産するもの、2火山岩中に産するもの、3泥岩・砂岩・石灰岩などの、砕屑岩と火山砕屑岩中に産するもの。ここでは各産状の鉱物のなかで、代表的なものを選んで列挙すると、1自然金・自然銀・輝銀鉱・黄銅鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・黄鉄鋼・蛍石。2かんらん石・透輝石・普通輝石・紫蘇輝石・普通角閃石・黒雲母・斜長石・正長石・石英・玉ずい・オパール・めのう・磁鉄鉱・チタン鉄鉱。3方解石・苦灰石・重晶石・鉄明ばん石、変質鉱物として緑れん石・各種沸石・ 緑泥石・絹雲母・サポーナイト・モンモリロナイト・カオリナイト・アンチゴライト・クリソタイルなどである。【参考文献】 島津光夫「佐渡産の鉱物」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】 神蔵勝明
・佐渡の古民謡(さどのこみんよう)
古民謡の境界の線びきを、どこに置いたらよいのかわからないが、かって盛んにうたわれた盆踊り唄の「甚句」や、「そうめんさん」「やんさ」「投げだし」や、労作唄の「田植唄」「粉すり唄」「麦つき唄」「木挽唄」「漁師節」などを、うたえる古老が少なくなった。『佐渡相川の歴史』(資料集九)に、それら一部の五線符の採録などあるが、それらの歌詞の一部を二、三記してみる。当町でうたわれていた甚句には、「相川甚句」「七浦甚句」「海府甚句」などがあるが素朴なもので、特に別名「ノーヤ節」といわれる「海府甚句」は、素朴でテンポがおそく哀調を秘めており、古風だといわれている。古い形の「秋田甚句」に似ているともいわれている。船乗衆が運んだものかと思われる。このほか「そうめんさん」「やんさ」「投げだし」などの古謡がうたわれた。「そうめんさん出どこ 能登の輪島か蛸島か」「そうめんさんの出どこ 西が曇れば雨となる」(以上そうめんさん)、「やんさの声聞けば 糸も車も手につかん」「やんさにりょうて 皮をむけらげぇた手の皮を」(やんさ)、「投げだし踊り 習うて踊れば面白い」「投げだし踊り ゴカン出ぇても習いたい」。次に、後いざり植えがなされていた頃(明治末期前後)うたわれていた田植唄、「ツボに入っても大だちひくな これも大事なねんごの田だわぇ」「植えためでたい穂に穂が下る 枡でまどろし斗ではかる」。次は「粉すり唄」と「麦つき唄」、「粉すり婆みじょうだ 尻と脛の皮すりむいた」「麦つきでなじんだ なじみたか来い麦つきに」。最後に「木挽唄」と「漁師節」を記す。「番匠番匠といばるな番匠 木挽なければ家ゃ建たぬ」「思うてみさんし案じるまいものか 板子一枚下地獄」。【関連】 佐渡の民謡(さどのみんよう)【参考文献】 『佐渡の民謡』、『高千村史』、『佐渡相川の歴史』(資料集九)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡の三郡(郡衙・郡司を含む)(さどのさんぐん)
大化の制によって行政組織が国郡里制に定められると、佐渡島も一国一郡(佐渡国・雑田郡)として認められたと思われる。そして各国郡には政務担当の地方官僚として国司や郡司が任命されることになるが、律令制初期における佐渡の国司や郡司については不明である。国司は中央から派遣される役人であるが郡司はその地方の有力氏族が当てられることになっていたという。佐渡国では古く成務天皇代(四世紀中ころ)佐渡国造として大荒木直なる者が任命されたという(「先代旧事本紀」)が、この子孫あたりの人が初期雑太郡司に任命されたかもしれない。雑太郡が分割され、羽茂郡・雑太郡・賀茂郡の三郡となるのが養老五年(七二一)のことである(「続日本紀」)。郡司の勢力の増大を除くことと、戸口の増加によって生じる支配のむずかしさによるもので、各地に幾つかこのような郡分割の記録がみられる。この佐渡の三郡制は、例えば天平勝宝四年(七五二)から約一○年間、佐渡が越後国に併合された時期も変わらなかった。そして明治二十九年、三郡を佐渡一郡に統合するまで続く。律令政下の佐渡三郡の郡司の政庁(郡家・郡衙)の所在地はどこか、今は全く不明である。ただ羽茂郡の場合は羽茂須川台地付近、雑太郡の場合は真野吉岡台地、加茂郡の場合は加茂歌代の陣ノ腰台地あたりに比定する説があるが今後の調査にまたねばならない。郡司名の現われる記録は全く少ない。ただ一つ、奈良正倉院に納められている天応元年(七八一)の調布で作った袴に記された佐渡国司・郡司名とみられる墨書の中に、「国司守従六位上□□□□虫養」「郡司擬大領外従八位下□□□□舎人」の文字があるのは貴重な史料である。また承和元年(八三四)に佐渡国が郡ごとに権任員(補助員)を一人ずつ増してほしいと申し出、許可されている。郡司一人では事務がさばききれないという理由である。しかし郡司や権任員の名はわからない(「続日本後紀」)。【執筆者】 山本仁
・佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)
明治の初め、藩閥政治に反対して民主政治を確立しようとした政治運動。明治七年(一八七四)、板垣退助らが民撰議院設立建白書を政府へ提出したのを契機に、国会開設運動が全国に広がり、明治十三年十一月、東京で国会期成同盟第二回大会を開催する計画を進めていた。佐渡でもこの動きに呼応して、明治十三年四月五日新潟で開かれた「第一回国会開設懇望協議会」に、夷町の若林玄益と湊町の神原清典が出席し、加茂郡を中心に運動を進めて四七名の署名を集め、懇望協議会の代表山際七司にこれを託した。同年六月頃になると、竹田村(現真野町竹田)の羽生郁次郎や相川町の丸岡重五郎らを中心に雑太郡でも運動が起こり、十月二十八・二十九の両日、河原田で三郡大親睦会を開き、会長に丸岡重五郎を選出した。この時出京委員に選ばれた羽生郁次郎は、翌十一月二日、二九○名が署名した「国会開設哀願書」を携えて上京した。これに対して、政府は弾圧を強めるいっぽう、十年後に国会を開く約束をした。そこで佐渡の民権家たちは、政談演説会などを中心に運動を行なっていたが、明治二十年頃から自由党系・改進党系の政党を組織し、再び活発な運動を展開した。【関連】 佐渡自由党(さどじゅうとう)・佐渡同好会(さどどうこうかい)・丸岡重五郎(まるおかじゅうごろう)・若林玄益(わかばやしげんえき)【参考文献】 石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡の能舞台(さどののうぶたい)
佐渡には昭和初期まで、五○か所以上にもおよぶ能舞台があった。また、能が演じられた場所は学校の体育館など、臨時に用いられた場所も含めると、二○○か所以上を数えるといわれる。そうした能の盛んな土地柄を反映してか、現在でも三三棟の能舞台が、佐渡島内に現存している。現存する能舞台は、本間家の所有する能舞台をのぞき、すべてが神社に存在している。村々の神社では、能は神事能として神に奉納されてきた。ここに佐渡における能の奉納能としての伝承形態と、能舞台の存在する特徴が見られる。佐渡の能舞台は、江戸末期から明治期にかけて建てられたものである。これらの能舞台は、標準とされる江戸城内本丸表の能舞台と比べると、本舞台や地謡座・後座なども狭かったり、床面から天井までの高さが低かったりするものが多い。しかし、裏通路を設けた橋掛りなどに見られるように、標準の舞台より狭くても、それなりに機能的に使用できる工夫が見られることも特徴である。また屋根にも萱葺のものがみられる。能舞台の存在する神社は、拝殿と能舞台の配置関係が、絶妙によいバランスを伴っているし、萱葺の屋根がまた佐渡らしい景観と雰囲気を醸し出している。独立した能舞台ではないが、能舞台と拝殿とが兼用になった、能舞台としても使用できる機能を備えたものも建てられ現存している。【関連】 佐渡と能謡(さどとのうよう)【執筆者】 池田哲夫
・佐渡の日次(さどのひなみ)
天保十二年(一八四一)に相川に在住した佐渡奉行・久須美六郎左衛門の日記である。江戸の子息に送ったもので、赴任から帰府までを綴っており、当時の佐渡を知る貴重な資料と云える。天保十二年四月十九日から翌年五月二十七日まで、いわゆる赴任から帰府までの一年間のできごとを綴っている。まず赴任の道中記に始まり、佐渡の陣屋についての感想、魚の味と食事の様子、年中行事・鉱山・刑罰・巡村記・異国船動向・奉行所内のできごと、相川の様子など、どれをとっても参考になり、とくに日常の気温の記述については、類例に乏しく珍しい。相川に着いて眼の悪い者が多いのは、鉱山の公害と憤慨し、犬や馬の小さいのは島国の性と憐れみ、タラの刺身を食べて品川の漁師を思い出し、北海の幸を賞でる。なお、スケトやイカの豊漁で、自然の恵みによる増税に感激し、巡村中の老人に対する思いやりの措置など、子息に対しての述懐は、性格や思想を知る上で貴重である。このほか、公文書を綴った「佐渡日記」などがある。几帳面と筆まめさは、読む人の心を洗って止まない。【関連】 久須美祐明(くすみすけあき)【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡の民謡(さどのみんよう)
山本修之助の編著で、昭和五年(一九三○)八月の発行(東京・地平社書房)。本書は、編者山本修之助が父君山本静古の志を継ぎ、静古が多年収集した佐渡古民謡の歌詞を土台に、佐渡の古歌謡二○○○首を、集大成した名著である。出版当時、中央にても好評さくさく、大新聞でもこれを取りあげ、たとえば読売新聞(昭和5・8・16)では、「佐渡の山本家は、土地随一の旧家であり、素封家である。その一家に人となった著者修之助氏は、佐渡の古い歌謡を集めるのに、特別の便宜があったのであろう。昔こがね花咲くと歌われた此島には、民謡の発達もすばらしいものがあった。その幾千首が校訂されて、此一冊にまとまっている。然も“その多い方言や口碑に、一々細註を施しているのはうれしい”とは、高野辰之博士の心からの賛辞である」と述べている。なお、山本修之助の『佐渡の民謡』の別冊として、『相川音頭集成』(昭和三十年刊)、その改訂本の『相川音頭全集』(昭和五十年刊)、それに創作民謡『波も唄うよ』(昭和五十八年刊)、童謡の追加『佐渡のわらべ唄』(昭和六十年刊)、旧版『佐渡の民謡』から選抜し、鑑賞文を添えた『野のうた 恋のうた』(平成元年刊)などがある。【関連】 佐渡の古民謡(さどのこみんよう)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡の昔のはなし(さどのむかしのはなし)
編著者の松田与吉は、文久三年(一八六三)生れの、西三川の人である。明治十五年以来、小学校の教職にあり、主として僻地校の北片辺小学校・北小学校・大小小学校・小村小学校などを歴任。ちょうどその頃、島内でも郷土研究熱が高まった時代で、与吉もその影響をうけ、まず鉱石採集から考古学に興味を持ち、その後、直行の名で短歌に関心を寄せ、羽茂の一の宮宮司、美濃部 の教えを受けたりした。与吉の戒名は翠煙直行居士、位牌の裏に「国文学・和歌を能くし、直行と号す云々」とあるという。村びとの習俗や、民間伝承に興味を持つのは、かなり後のことで、晩年になり不苦楽庵などの筆名で、佐渡の新聞や研究誌に稿を寄せた。この『佐渡の昔のはなし』も、佐渡日報紙(大正十四年ー昭和六年)に「古手帳」と題して書き続けたものをまとめ、最初『佐渡の昔ばなし』と題したが、いわゆる、とんと昔の一定の型をもつ昔話との混同をさけ、再版に際して改題したものだという。つまり、この『佐渡の昔のはなし』は、しいて云えば、口承文芸・民話の中の世間話に位置づけられるものではないかと思う。とにかく、与吉翁が筆まめにまとめた実話ふうの多くの古譚は、一読興の盡きないものがある。初版は昭和十二年、真野・新町の池田商店出版部より出版され、さらに昭和五十八年、本間雅彦・池田哲夫の両氏により、復刻版(三刷)が刊行された。【関連】 松田与吉(まつだよきち)【参考文献】 『佐渡郷土文化』(八九号)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡の貉神(さどのむじながみ)
佐渡には名前のついた貉が、全島にひろく分布する。昭和初年ころ山本修之助の採集した「佐渡名貉録」によると、百ほど数えることができる。また「十二権現」「十二さん」と言われ、集落の氏神にもなって、それぞれ伝承を残している。相川の二つ岩団三郎は、江戸時代に窪田松慶という医師が、貉の刀疵を治療した話や金を貸した話。真野町新町のおもやという屋敷貉が、盗賊から家を守った話。相川町関の寒戸という貉は、相川の団三郎との縁があって、船荷にして物を運んだという話。赤泊村徳和東光寺の禅達という貉は、和尚と禅問答したという話。新穂村潟上の湖鏡庵の財喜坊という貉は、田地の水の番や盗人から庵を守ったという話。こうした話は百の貉にある。相川の団三郎が貉神の親分で、おもやの源助・関の寒戸・東光寺の禅達・湖鏡庵の財喜坊を、四天王と言っている。団三郎が親分になったのは、団三郎のいる相川が、佐渡奉行が交代で江戸から派遣され、相川在住の役人が採掘された金銀を、江戸に送るという交流の深さのために、相川の文人石井夏海等によって、団三郎の情報は江戸にもたらされ、滝沢馬琴の「烹雑の記」や、「燕石雑誌」に記載されているからである。むじな神の名前のつけられ方や分布の傾向を見ると、むじなの名前は地名や場所をつけてよばれ、岩・滝・橋・川・木・穴などが多いのは、むじなの出やすいところ、そして岩や滝は、岩を信仰し滝を行場とする修験との関係が考えられている。また、むじなのことを佐渡全島で「トンチボ」と言う。「頓智坊」であり、財喜坊・不動坊などの名前や、神社や寺とのつながりを持つむじなも多い。佐渡が稲荷信仰でなく、むじな信仰の地域になったのは、鉱山のフイゴ用にむじなを使ったことが、身近に多くいるむじなを、修験が霊力の媒介としやすかったのではないかと考えられている。【関連】 二ツ岩団三郎(ふたついわだんさぶろう)・おもやの源助(おもやのげんすけ)・関の寒戸(せきのさぶと)【参考文献】 山本修之助編『佐渡の貉の話』【執筆者】 山本修巳
・佐渡廃寺始末(さどはいじしまつ)
佐和田町沢根五十里の満行寺住職・根木教轍が著した、明治初年の寺院廃合に関する書物で、明治二十五年(一八九二)十月に出版されている。原本の題名は「すみれ草」で、副題が「佐渡廃寺始末」、半紙判よりやや小さく、二五字詰・一六行・二段組・九六頁からなっている。明治元年十一月に参謀兼民政方として来島した奥平謙輔は、同月二十一日に寺院の廃合令を発して、五三八か寺の寺院を八○か寺に整理統合したが、各宗寺院の再興運動によって、明治三年新貞老権知事の時に五五か寺が再興され、その後も徐々に再興されて行った。本書には、奥平謙輔の寺院の整理統合政策と寺院側の対応、明治十五年までの各宗派の再興運動と再興寺院の実態等がくわしく記述されている。著者の根木教轍は、文久元年(一八六一)佐和田町石田の名畑喜左衛門の三男に生まれ、真宗大谷派満行寺に養われた。圓山溟北に就いて漢学を学び、のち京都の高倉学寮で修業、満行寺住職となった。本書は彼が三二歳の時の著作である。その後北海道に渡り、東本願寺函館別院・旭川別院などをまわって、大正四年(一九一五)に再び満行寺の住職となり、昭和五年(一九三○)三月二十四日、七○歳で没している。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・新貞老(あたらしさだおい)【参考文献】 山本修之助編『佐渡叢書』(一巻)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、石瀬佳弘「佐渡における寺院の廃合過程」(『越後佐渡の史的構造』)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡博物館(さどはくぶつかん)→財団法人佐渡博物館(ざいだんほうじんさどはくぶつかん)
・佐渡幕末奇事(さどばくまつきじ)
相川の地役人、漁村こと渡邊 (しゅう)があらわした著書。明治十八年に完結したことが「自序」からうかがえる。明治元年(一八六八)十一月に、参謀民政方として佐渡受領に来島した奥平謙輔が、翌明治二年九月に離島するまでの、施政および個人的な性格、行状の一部始終をつぶさに記述していて、昭和十八年一月発行の『佐嶋遺事』にも収録されている。一五歳で維新に遭遇した漁村は、治府が河原田に移ったため、そこの屯所(現在の県立佐渡高校のある高台)で謙輔のそば近くに仕え、相川から移った旧修教館生一○人の一人に加わって勉学に励んでいた。この書で謙輔という人の表情を「面色銅の如く」と記し、髪には梳(くし)を入れず、常に一衣一袴あるのみと書いていて、ときおり近郊を馬で馳せまわり、民情を視察する、その姿は「一見一兵士の如し」とも述べている。謙輔二八歳のときである。謙輔はある夜、局長井上某の邸宅に大刀を持って突然侵入し、家人を驚かせる。目をさました井上の枕元に、菊の紋章の提灯を持った謙輔が立っている。官吏は清廉でなければならず、賄賂をむさぼる者あらば三尺の剣あるのみ、と言ったとあるから、高級役人の私生活や挙動の偵察だったらしい。謙輔は意をよく民事に用い、政務は簡潔にして一切の訴願は文書によらず、自ら出廷して面告で済ませたから「民大いにこれを便とす」と、漁村は回想している。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・渡辺漁村(わたなべぎょそん)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡版画村美術館(さどはんがむらびじゅつかん)
昭和五十九年(一九八四)七月十五日開館。両津高校教諭であった画家高橋信一を講師にした、真野町公民館での年賀状版画講習会(昭和四十七年)に参加した人達が、公民館講座だけではもの足りなくなり、その後も教えを乞い、これらの作品が新潟県展への出品で、県展賞・奨励賞の受賞となり、これが佐渡版画村のスタートとなった。高橋信一は、大正十一年(一九一七)両津市に生まれ、昭和十一年(一九三六)に佐渡農学校を卒業すると、県立青年学校教員養成所へ進み、同十三年から佐渡郡沢根町立沢根青年学校を振り出しに教職に就いた。戦後、学制改革により両津高等学校に勤務し、昭和五十一年両津高校を定年退職後、同時に真野町静山「山の版画村」に続いて、羽茂・両津大川・小倉の「版画クラブ」・「相川海の版画村」など、一三の版画グループを誕生させた。昭和五十七年、この地域活動がサントリー地域文化賞の受賞となり、これがキッカケで自分達の作品を、常設展示する美術館を創る運動となって、旧相川裁判所跡に、佐渡版画村美術館を設立し、社団法人佐渡版画村の発足となった。全国で唯一の版画専門の美術館は、会員の活動拠点であり、また、観光道路に面すという立地条件にも恵まれ、訪れる学生たちや観光客の、体験学習の場ともなっている。高橋信一は、これらの素晴らしい業蹟を残し、昭和六十一年(一九八六)十二月十六日、六九歳で亡くなった。【執筆者】 三國隆敏
・佐渡奉行(さどぶぎょう)
江戸幕府の遠国奉行の職名の一つ。慶長六年(一六○一)佐渡の徳川氏直轄化と共に、沢根の鶴子(佐和田町)に陣屋を設け、田中清六・河村彦左衛門らの四人制の代官支配が行れたのが濫觴、しかし四人が年貢増徴で農民の愁訴により失脚した後、同八年(一六○三)から相川(相川町)に陣屋を移し、同十八年まで大久保長安の時代となる。当初から幕末まで一○二名が任命されたが、佐渡奉行と称したのは元和四年(一六一八)以降の鎮目惟明・竹村嘉理の時代からである。奉行は一人制と二人制(在府・在島の隔年交代)がとられた。大久保・鎮目と伊丹康勝・曽根吉正・鈴木重祐・荻原重秀・河野通重・泉本正助らは長期在任であり、特に伊丹と荻原は勘定頭(勘定奉行)としての兼任であったが、他は平均二年半位の在任が多かった。また、竹村・伊丹・荻原・飯塚・篠山は父子で、各家二代が佐渡奉行に就任している。奉行所の機構は、鎮目の時代に整備された。奉行は老中支配に属し、勘定奉行の指導をうけ、金銀山の管理と島内一三万石の民政を主な職掌としたが、江戸後期は外国船の監視など、海防も重要任務となった。一時期は、陸奥半田銀山(福島県桑折町)支配も兼任した。奉行は役高千石、役料千五百俵、百人扶持が給され、江戸城芙蓉間詰である。奉行所の機構は、正徳三年(一七一三)の改革以降は役人の数も減少化したが、与力三○騎・同心七○人・地役人は留守居(月番役・広間役)を筆頭に、山方役・町方役・在方役・吟味方役さらに定役・並役(平役)・使役など二百数十人が付属し、独自の支配体制によって島内を管轄した。なお、宝暦三年(一七五三)から明和五年(一七六八)までの間、代官制をしき、地方・金銀山支配を担当させたこともあった。【関連】 代官(だいかん)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、西川明雅他『佐渡年代記』、『佐渡相川の歴史』(資料集七)、『新潟県史』(通史編三)【執筆者】 村上直
・サドヒナゲンゲ(さどひなげんげ)
魚類で、佐渡という接頭語をもった和名の魚類は、本種一種だけである。ヒナ(雛)すなわち小さい愛らしいゲンゲ(玄華)の意をもつ。ゲンゲは、新潟県西部(能生町など)でゲンギョ(玄魚または幻魚)と呼ばれている魚で、深海にすむ底魚である。サドヒナゲンゲは、昭和二十九年(一九五四)に本間義治が発見し、京都大学の松原喜代松教授と共著で発表する予定であった。しかし、同教授が歿せられたのが原因で、発表が延び延びになってしまった。当初は水津沖をはじめとする佐渡沖から取れていたが、その後石川県沖からも取れた。そこで、昭和五十五年(一九八○)になって、豊島貢博士と完・副模式標本ともに石川県沖のものを当て、種小名に佐渡にあやかりサドエンシス、和名にも佐渡を用い、念願を果して発表した。全長は一五㌢で、生態は不明のままである。めったに取れないことと、食品価値が低いので、佐渡の人にもなじみがうすい魚である。この仲間のノロゲンゲは、ぶつ切りにして汁種にしたり、干物にして利用される。タナカゲンゲ(魚学の泰斗田中茂穂博士に因む)は九○㌢に成長するので、汁種のほか刺身にして食べられ、底引網にまとまって入ることがある。【参考文献】 『図説 佐渡島』(佐渡博物館)【執筆者】 本間義治
・佐渡奉行所跡(さどぶぎょうしょあと)
相川町広間町に所在する。慶長八年(一六○三)に大久保長安が佐渡奉行に任命されると、鶴子銀山にあった陣屋を相川へ移転することを決めた。相川の鉱脈が優秀なことと、物資の輸送や町づくりに地の利を得ていると考えたからであろう。以来、相川は島の府中として奉行所は幕末まで続いた。当初の陣屋敷地は文書によると広いと思われるものの、具体的面積は不明。宝暦初年には惣囲地三三一三坪とある。宝暦九年(一七五九)に、地役人の拝領地を没収して面積を広げ、金銀の精錬工場を集め、作業の効率化と密売防止をはかった。これを「寄勝場」と称する。寄勝場敷地は三二六六坪余とあり、以前の囲地に没収地を加えた面積である。寛政七年(一七九五)に揚柄山勝場を廃し、文政十二年(一八二九)に跡地は同心町になり、町同心が居住した。明治維新で新政府になって相川県が置かれると、陣屋は大改修して相川県庁舎に利用され、江戸から派遣の広間役宅は湘北小学校となり、御金蔵跡には相川警察署が置かれ、寄勝場跡には相川中学校が新築され、奉行所跡は文教地区として利用が続いた。【関連】 寄勝場(よせせりば)【参考文献】 岩木拡『佐渡国誌』、西川明雅他『佐渡年代記』、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡奉行所跡の発掘(さどぶぎょうしょあとのはっくつ)
相川町広間町にあり、平成六年から発掘調査が行なわれ、満五年間で終った。発掘は役所跡・御金蔵跡・陣屋跡、宝暦九年の勝場跡は粉成場ばかりで、金銀練所跡・小判所跡は、明治に入り道路を造ったため民有地となり除外された。御金蔵跡からは、享保三年(一七一八)に掘った鉛の土坑にぶつかり、一七二枚とそれに縛ってあった木管が出土した。鉛は寛永年間に埋めたもので、寛文に若林奉行が掘り出し、曾根奉行が延宝三年に、同じ品を買い埋め直した。これを享保三年に北条奉行が、金山の零落に伴い掘り出したが、古来の鉛の行方が分からぬままに放置した。今回発掘した鉛は一八七四貫余であり、古来より埋めた鉛は一八七六貫余である。貫目もわずかしか違はず、寛永に埋めた鉛の公算が大きい。奉行の陣屋前の使者の間に大きな池があるが、その下に赤く焼けた炉跡が出てきた。当初は舌状台地に別れていたようで、灰原は土手に流れる。奉行所で山師から買った段階に埋立たもので、池の底は埋めた上になる。土手からは唐津Ⅰ期の小皿と、志野・美濃の小碗や皿が出る。どうも奉行が購入する前の遺物のような気がしてならない。そのほか、炉の形態や遺物など分からぬものが多い。池の底からは、焼塩壷や唐津Ⅱ期の碗・皿と、瀬戸・美濃の登窯製品等が出土する。奉行所で座敷の前に炉跡をつくることは考えられず、奉行所前の工作物と考えたい。役所の白洲の隅に穴蔵があるが、これは寛延の文献に出てくるが、建築年代は不明。また棚跡が一直線に出たり、門柱の根があったり、陶磁器は中国や唐津、伊万里や備前の摺鉢等があったりで、様式も江戸期を通じる。勝場は、明治に入り洋式化をすすめたが失敗する。洋式化はそのまま進められ、明治半ばに成功する。それまでの間は旧法に復したが、舟や笊・羽口・井戸・水路は、出土するものの年代は不明である。大正年間の女学校建設で、基礎は深く一部は壊れてしまったが、上にある舟は明治のものと思われる。入口を深く掘ったが、これも自然に周囲を埋め立て平らにしているようで、根元に雑草の一群が見える。山の続きか水の流れが激しい。石磨の物配りは大きく変り、上磨から下磨へ移行する。今まで数本あったのが一本にまとまる。扣石も眼鏡石と呼ばれ、丸い穴が一面に二つ宛あったのが、四角い穴に変る。これは丸い穴底が見えるので、四角の穴底が新しいと分かるが、いつの時点か、理由も分からぬままに変っている。【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡奉行所の沿革(さどぶぎょうしょのえんかく)
家康が江戸幕府を開いた慶長八年(一六○三)から九年にかけて、大久保長安が築いた。旧相川のほぼ中央台地の先端で海抜約四五・五㍍。南沢と北沢の谷を天然の要害とし、相川湾が一望にできるよい地形が選ばれている。開町以前は「半田」「清水ケ窪」と称し、水田と原野だった。建築は播州明石の大工水田政次(與左衛門)が、まわりの石垣は越中からきた播磨五郎兵衛、もろもろの石細工は小泊の石工惣左衛門が請負って完成した(「御作事方入用日記」)。長安の失脚後鎮目惟明(市左衛門)が、元和四年(一六一八)に贅沢な造りを改め、書院・茶屋・花畠などを取り払った。江戸から後藤庄三郎の手代が来島し、小判を鋳造する後藤役所がこの跡地に造られる。正保四年(一六四七)六月、新五郎町から出た火災で、諸役所・後藤役所ともに焼失した。当時の建坪は「七百二十五坪」とあり、「石見陣屋」ともいわれた最初の奉行所は姿を消した。寛延元年(一七四八)七月にも、四十物町から出た火災で全焼し、再建された建坪は「五百坪余」で、往時より縮少されている。奉行の二人制によって、正徳三年(一七一三)に増築された最初の「向陣屋」もこのとき焼失した。宝暦九年(一七五九)には、北側に隣接して「寄勝場」が設けられ、町内に散在していた選鉱・製錬工程を構内に取りこんでいる。このとき寄勝場への出入口に、「辰巳口御番所」が新設された。奉行所の役宅の西側にあった板塀を取り払い、石垣と土塀でかためたのは文政十二年(一八二九)で、沖合を通る異国船に備えた海防上の理由からだった。天保五年(一八三四)九月にも一部類焼し、翌年の再建では役所の建坪はかなり広げられている。安政五年(一八五八)七月には、南沢町から出火して奉行所をはじめほぼ全町に飛火し、町家など千二百戸余を焼く空前の大火があった。合わせて五度奉行所は焼失していて、翌六年に再建した諸御役屋・大御門・裏御門・御金蔵などの建物は、しだいに姿を消したものの、慨格は昭和十七年までは残っていた。【関連】 佐渡奉行所跡(さどぶぎょうしょあと)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、西川明雅他『佐渡年代記』、『佐渡相川の歴史』(資料集三)【執筆者】 三浦啓作
・佐渡風土記(さどふどき)
上中下三巻。相川の地役人永井次芳(歌古園・鳳波と号す)が、延享三年(一七四六)に完成した。明治三十二年まで作者がわからなかったが、子孫の永井晋によって次芳であることが立証された。上巻は上杉景勝の領国となる天正十七年(一五八九)以前、中巻は同年より慶安五年(一六五二)小比叡騒動の終結まで、下巻は承応二年(一六五三)より寛延三年(一七五○)までを収めている。内容は書名と異り、郡村・山川・寺社・物産などの記述はいちじるしく少く、すべて歴史的記述で構成される。ただ、上巻は史料が乏しいため、おおよその時代をおって配列しており、中・下巻は毎年の記事をおって編年体で記述され、時代が下るにつれ詳細である。次芳は、高野信治の子ではじめ半十郎といい、のち永井四郎兵衛仲雄の養子となり、手形改役・目付・山方役を歴任し、宝暦十四年(一七六四)四三歳で死去した。父仲雄は月番役で、父子ともに奉行所の記録閲覧の便があったと思われ、著者はそれによって佐渡の年代記を編纂しようとしたらしく、中・下巻を「佐渡国年代略記」と名づけた写本があることによっても、このことが裏づけられる。『佐渡地志』についで、早く成立した佐渡史書として貴重である。【関連】 永井次芳(ながいつぐよし)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡藤塚貝塚(さどふじつかかいづか)
国中平野を望む小佐渡山地の段丘縁には、多数の縄文遺跡が存在する。その中で、貝塚を伴うものはいくつかあり、藤塚貝塚もその一つで、真野町大字新町、俗称藤塚に位置する。新町は真野湾に沿って町並がならぶが、背後は水田となって段丘がいく段か続き、徐々に高さを増しながら、小佐渡山塊につらなる。貝塚は礫層で、形成された低い段丘上(標高約二○㍍)にあり、上部はローム質の粘土が堆積し、さらに上は砂層で被覆されている。貝層は佐渡シジミが主体で、ハマグリ・サルボウ・レイシが混じる。純貝層から、混土貝層・純貝層と三層が見られる。土器は、口辺に平行線をめぐらすのを基本に、連続懸垂文や隆帯文を施す。また、縄文・撚糸文・条痕文のみのものや、無文の存在も大きい。器形は深鉢形が殆どであり、口辺部がキャリパー状を呈す。中期末が主体で、これを藤塚式と名ずけたが、小木町長者ケ平に類例が見られる。二二ケの人骨群の中では、胎児期一・発育期一・成人期二○で、男子と推定七、女子と推定四・不明一一ケである。藤塚人は短頭で、横に広い顔で、身長は小さかったと出土人骨は教える。【参考文献】 「佐渡藤塚貝塚」(真野町教育委員会)【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡牧畜会社(さどぼくちくかいしゃ)
明治十七年(一八八四)十一月に設立された酪農事業を目的とした株式会社。当時、畜産の振興を図ろうと考えていた金井町の植田五之八・石塚秀策・橘善吉・児玉長内らは、乳牛の飼育と乳製品の販売を企業化する計画を立て、新保(現金井町新保宮畑)に佐渡牧畜株式会社を設立した。設立当時の資本金が一万三四四○円(一株二○円)で、外に佐渡興産共有金より三○○○円を拝借した。施設は社屋・事務所・牛舎・牧場などからなり、牛の数は明治二十四年一月現在で一四七頭、相川に出張所を置いたとある。事業内容は、繁殖・搾乳(製乳・コンデンスミルク・バター)・屠殺(製肉・佃煮・甘露煮)となっている。初代社長には児玉長内が就任して支配人が橘善吉、明治二十年から同二十四年までは橘善吉が社長をつとめている。明治二十二年七月には、御料局長品川弥次郎が視察している。しかし、当時の人々は牛乳の栄養価についての認識が十分でなく、経営が行き詰って明治三十三年に解散した。この後、金井町の茅原丈吉・中川与右衛門らが施設等を買収して、佐渡牧畜合資会社を設立したが、これも経営に失敗して、明治四十年七月に解散した。【関連】 植田五之八(うえだごのはち)【参考文献】 『金井町史』(近代篇)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡方向(さどほうこう)
佐渡島の大地形を支配している主要な方向は、北東から南西を結ぶ直線である。大佐渡・小佐渡の海岸線も、大佐渡山地の主稜線の方向も、小佐渡山地の主稜線の方向も、また国中平野の長軸線も概してこの方向をとっている。大佐渡山地の新第三紀層を切る断層線の主方向も、小佐渡山地羽茂川流域に見られる褶曲軸の方向も、北東ー南西方向を示す。佐渡島を取り巻く海底の水深二○○㍍以浅の部分の概形も、この方向に伸びた形である。佐渡島の地形・地質構造の支配的な方向である北東ー南西方向を、「佐渡方向」と言い換えて表現する場合がしばしばある。【参考文献】 佐渡地理研究会編『佐渡誌』、新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)【執筆者】 式正英
・佐渡毎日新聞(さどまいにちしんぶん)
明治三十五年(一九○二)六月三十日、幅野長蔵によって創刊された新聞。当時の「佐渡新聞」が官吏侮辱罪で告発されたり、進歩党やそれと結びつく資産家を激しく攻撃して、論調が過激であったためこれに対抗して当時佐渡随一の資産家であった幅野長蔵が、浅香周次郎や畑野町小倉の青木永太郎らと相談して発刊した。社主が幅野長蔵で主幹には浅香周次郎が当たり、進歩党系で穏健な論調の新聞を目指した。当初は「佐渡新聞」への対抗意識が強く、明治三十六年に北一輝が「国民対皇室の歴史的観察」という論文を「佐渡新聞」に連載すると、直ちに不敬との批判記事を掲載し、その論争は一か月におよんだ。しかし発行部数は四、五○○部程度から伸びず経営が苦しくなったため、幅野長蔵は新聞社を買取り、自ら経営に乗り出した。大正三年(一九一四)には幅野色や進歩党色を一掃し、それまでの菊八倍の小新聞型を普通型に拡張して、活字を明調に入れ替え紙面を一変させた。これによって発行部数も大幅に増加し、一時は一○○○部にも達した。しかし、「佐渡日報」の発行もあって、大正八年には佐渡新聞社に買収合併された。【関連】 幅野長蔵(はばのちょうぞう)・佐渡新聞(さどしんぶん)・佐渡日報(さどにっぽう)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・サドマイマイ(さどまいまい)
サドマイマイ(佐渡舞舞螺)は、大佐渡の外海府海岸の相川町と、両津市の境界付近から、少し両津市寄りのところに限局分布する、割と小型のカタツムリで、生息場所は世界中で、ここだけである。貝類研究家の平瀬与一郎が、明治三十五年(一九○二)十~十一月に、中田次平らに佐渡島全体の陸貝採集を依頼した。その際の採集品を、アメリカ国立自然史博物館のピルスブリー博士に送り、同博士と平瀬との共著として、七種を新種として命名記載したが(一九○三)、サドマイマイはその中の一種である。昭和八年(一九三三)に、昆虫研究家の馬場金太郎博士が採集した、一個の標本を内部解剖を加え、江村重雄が再発見として報告し、注目を浴びるようになった右巻きの貝で、佐渡特産種である。系統類縁は、ツシママイマイに近いものといわれている。木に上ったり、地上を這い廻ったりしているが、外海府地区の開発と、採集者による乱獲のため、個体数は減り、生息地は狭まってきている。早急な保護策と、より詳細な遺伝質等の研究が必要である。【参考文献】 『新潟県陸水動物図鑑』、『図説 佐渡島』(佐渡博物館)【執筆者】 本間義治
・佐渡昔話集(さどむかしばなししゅう)
編著者は鈴木棠三である。鈴木は、昭和十一年(一九三六)四月十八日佐渡に渡り、昔話採集の旅がはじまる。まずその日は、河原田の中山徳太郎翁の客となり、次の日から佐渡の民俗研究者などと、真野・西三川・相川などを歩き、二十一日高千村北片辺にいたり、二十五日まで六日間も滞在(松屋旅館)。同地の老女たちから毎夜約一○話を聞き、その収かくを喜ぶ。その後再び国仲に出て、小木の小比叡、前浜の多田・岩首さらに両津町・鷲崎をまわり、外海府の矢柄を経て再び五月の六日、馴染の北片辺に二泊し、残りの昔話を聞く。鈴木は巻末の「佐渡採訪記」のなかで、「最後の夜の如きは(中畧)送別のノヤ節の哀調に眼底あつく、忘れ得ぬ印象を得たり」と記し、栄治リツ女の心づくし、サッコリ(裂織の山着)をみやげにいただき、八日佐和田に向かい、その晩また中山翁の宅にお世話になり、翌日佐渡を去った。この『佐渡昔話集』は、昭和十四年六月「佐渡民間伝承叢書」第二輯として出版されたが、中山徳太郎翁の大きな私費の援助があったという。その後、三省堂から日本昔話記録5として、昭和四十八年十月再版が出され、巻末に山本修之助「“夕鶴”のふるさと」が載せられている。なお、この『佐渡昔話集』のほかに、昭和十七年、三省堂から同じ鈴木棠三の全国昔話記録『佐渡島昔話集』が出版されているが、内容はほぼ同じで、前者は一二九話を収め、後者は八五話にしぼっている。排列の順序に工夫のあとが見られる。これらの昔話集には、道下ヒメの語る有名な「夕鶴」の原話「鶴女房」が載っており、これに似た両津の山本秋葉の「雉女房」も載っている。この「夕鶴」の原話に魅せられて、多くの民話研究者や愛好家たちが、このひなびた里(北片辺)を訪れている。【関連】鈴木棠三(すずきとうぞう)・道下ヒメ(みちしたひめ)・夕鶴の碑(ゆうづるのひ)【参考文献】 記念誌『夕鶴の碑』【執筆者】 浜口一夫
・佐渡貉(さどむじな)→二ツ岩団三郎(ふたついわだんざぶろう)
・佐渡名勝(さどめいしょう)
明治三十四年(一九○一)九月に発行された、佐渡案内のガイドブック。佐渡新聞社の発行で、相川出身の萩野由之と、柏倉一徳の両氏が序文を寄せている。著者は『佐渡国誌』『相川町誌』など編さんした岩木拡。硬派の歴史学者の執筆で、柏倉一徳は「郷土の名勝旧跡を叙して細大遣す所なし」(序文)と書き、萩野由之は「佐渡山水記」「佐渡古跡考」「佐渡名所集」「佐渡名勝志」「佐渡名所歌集」など、それまでの発行本を例にあげるが、「かく数種あれども、博約にして要を得たるは、この書に若(し)くはなし」(同)と書いていて、地志としても特徴があるとした。全体として、「古跡」と「名勝」の紹介を中心に、ほぼ全島におよぶ。人物も多く出ている。相川では圓山溟北・丸岡南陔・幅野長蔵・田中弘道(葵園)など近代の人たちから、大久保長安や鎮目市左衛門・大岡源三郎(流人)のような人にもおよぶ。そうした人物・古跡・名勝を、古今の著名人の詩歌を添えて紹介する手法で、岩木の文学的素養の深さがうかがえる。伊藤博文が辞職し、桂内閣が成立した年で、商業活動もようやく盛んになり、広告にもそれが反映している。琢斎・藍堂・常山・赤水などの工芸作家はむろんだが、「旅人宿」と「旅館」が混在し、葡萄酒・ビール、すし屋の開店や「和洋料理」の広告も多い。本荘了寛著とした「新訂佐渡地図」も売れゆきが好調らしく、夷と河原田・相川に、計四軒の売捌所が出ている。佐渡案内書のはしりであろう。【関連】 岩木 拡(いわきひろむ)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡名勝志(さどめいしょうし)
佐渡の代表的歴史書。本書は、佐渡奉行所地役人須田富守が、三○年にわたり収集・整理した史料の一切を、上総国土気庄大木戸村(現千葉市)出身の浪人伊玄基隆敬に託し、隆敬はこれを基に、奉行所の文書・記録等を加えて全八巻に編述して、延享元年(一七四四)に完成されたものである。内容は、地誌・沿革・支配・系譜・寺社・合戦・流人・名所旧跡・産物など多岐に及び、奉行所所在地の相川町に関しては、特に一巻を充てて詳述している。史書として「史論が豊富・斬新なこと、出典が明示されていること、日蓮旧跡への優れた記述等を持つ、古今唯一の存在」(橘法老)との評価を得ている。長年の間、写本しか存在しないものとされていたが、平成八年七月に原本が発見され、現在は新潟県立佐渡高等学校同窓会の所蔵となっている。写本は、山本本(山本修巳所蔵)・舟崎本(佐渡高等学校所蔵「舟崎文庫」)・教育財団本(相川町所蔵)の三本があり、教育財団本を底本に『附註佐渡名勝志』(橘法老編・昭和十四年刊行)が印行されている。平成九年七月佐渡高等学校同窓会は、新たに発見された原本を底本に、橘法老の注を適宜再録して『佐渡名勝志』を発刊した。【関連】 須田富守(すだとみもり)【執筆者】 本間恂一
・佐渡薬種二十四品(さどやくしゅにじゅうよんぴん)
佐渡幕府による薬種の本格的な調査が行れたのは享保五年(一七二○)、丹波正伯ら幕府の医官が来島したのは享保七年(一七二二)。相川銀山につき村々をまわり 薬種二四品が定められ、佐渡国物産として他国へ売られる。この薬種は民間薬として用いられるものでなく、漢方処方による漢方薬の材料、すなはち生薬として売られたものである。ここに二四品の名をあげるが( )内は現在の和名である。○海桐皮ボウダラ(ハリギリ)○淫羊 イカリソウ(トキワイカリソウ)○辛夷コブシ(キタコブシ・タムシバ)○黄蓮(オウレン)○北五味子マツブドウ○旋覆花ヲクルマ(オグルマ)○遠志ススメハキ(ヒメハギ)○前胡イワウセリ(ノダケ)○ 活サイキ(シシウド)○莵糸子ナツユキ(ハマネナシカズラ)○萎 アマトコロ(アマドコロ)○沙参トトキ(ツリガネニンジン)○防風イワウニンジン(ハマボウフウ)○杜仲マサキノカズラ(テイカカズラ)○威霊仙ヤマツヅミ(クガイソウ)○沢瀉ナナトウグサ(ヘラオモダカ)○藜蘆シュロソウ(シュロソウ)○当皈(イワテトウキ)○鬼臼ヤグルマソウ(ヤグルマソウはまちがいでサンカヨウ)○升麻モクタ(サラシナショウマ○草烏頭ブス(ヤマトリカブト)○細辛(サイシン)○萆薢カンドコロ(トコロ)○黒三稜ツクモ(ミクリ)。【関連】 薬草(やくそう)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡薬草風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・サバフク(ゴマフグ)(さばふく)
佐渡の方言でサバフク(鯖河豚)と呼ばれている魚は、和名のゴマフグ(胡麻河豚)で、いずれも色彩斑紋の状態から名付けられた。サバフクに毒が少ないとは、すでに田中葵園の『佐渡志』に記してある。しかし、和名のサバフグ(シロサバフグ)は無毒であるので、注意を要する。ゴマフグは、日本列島全体の沿岸から沖合いに広く分布し、黄海やシナ海にもみられる。佐渡へは、初夏の産卵期に大きな群れをつくって回遊してくるので、定置網に大量に入ることがある。焼いたり煮たり、クロモジの小枝をいれて吸い物にして食べる。干物や鰭酒にも利用したり、卵巣の塩漬けも、荒天の冬の相川地区における食品である。金沢(石川県)では、卵巣の粕漬製品が出廻っているが、長く漬けるほど毒は薄まる。「タイの子」という製品に、サバやゴマフグの卵巣を用いることが多い。フグ毒のテトロドトキシンは、呼吸麻痺を起こさせ、死に至らしめるもので、ある種の細菌のつくる毒素である。これを、餌を通じてフグの筋肉や、ことに内臓に蓄積することで有毒となる。この毒は、ほかの動物でも貯える種類があり、養殖フグでは持っていない。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治
・寒戸崎風穴植生(さぶとざきふうけつしょくせい)
風穴とは、自然のかざあな(風穴)のことで、夏期に冷めたい風を吹き出す洞穴のことである。岩山・渓谷・崖脚など、岩礫の崩壊地にみられるが、規模はさまざまである。累積された岩の間から吹き出る冷気により、まわりは盛夏でも気温は低く、同じ海抜でも高地要素・北方要素の植物が生育する。また冬季でも周辺の気温より暖かく、暖地・南方要素植物が生育する場合もある。また冷気は霧を発生させ、空中湿度を高める結果、多くの植物を豊産させる。寒戸崎風穴植生は、相川町関の寒戸崎にある。後の知行山の崩壊によって生じた岩石の累重する岩石海岸岬で、海抜二○㍍。風穴地は、またタヌキの生息する洞窟でもある。タヌキ(佐渡方言ムジナ)信仰により寒戸神社が建つ。神社の周辺三○×一○○平方㍍が風穴地。一九九○・八・一の測定では外気気温二三・四度、本殿前の冷気温は九度。寒地性のオヒョウ林・エゾイタヤ林・オシダ・ハナイカダ・サラシナショウマ・ナナカマド・キバナノカワラマツバ・オシダ・コタニワタリ・ヒモカズラなど、他の地方の風穴地に共通する構成要素をもつ。また一方、テイカカズラ・ヒサカキ・ヤブラン・ウチワゴケ・ツルマサキ・キズタなどの暖地植物が生育する。風穴地は冬の気温を下降させず、暖地植物を生育させる立地であることの証ともなる。佐渡島には、もうひとつ風穴植生がみられる。畑野町小倉の小倉川右岸の海抜二○○ー二五○㍍の風穴地(一○○×五○○平方㍍)で、オヒョウーコキンバイ林である。海抜は二五○㍍と低海抜にかかわらず、北方要素(オヒョウ)、高山要素(コキンバイ)など集中分布する。特殊立地・特殊植生としての、風穴植生は極めて貴重である。【関連】 関の寒戸(せきのさぶと【参考文献】 伊藤邦男「佐渡小倉風穴地の植生」(『新潟県植物保護』一八号)、同「寒戸崎の植物」(『佐渡の植物ガイド』)【執筆者】 伊藤邦男
・サメの化石(さめのかせき)
軟骨魚類の板鰓亜綱であり、石灰化した骨をもたないこともあって、化石として残るものは、ほとんどが歯である。椎骨の化石がまれに産出する。佐渡では、中新世前期末~中新世中期の下戸層及び鶴子層から産出する。相川町平根崎の石灰質砂岩からは、シロワニ属・ホホジロザメ属のカルカロクレス メガロドン・アオザメ属・メジロザメ属の歯化石が産出する。このほか、赤泊村に分布する鶴子層、相川沖の海底からカルカロクレス メガロドンが採取された。サメの歯は、カルカロクレスを除いて一㌢以下の大きさで、偏平な三角形、あるいは細長い牙状をしている。サメは回転歯という歯の発生様式をもち、一生の間にきわめて多数の歯をつくり、ある程度使用すると、歯は脱落する。サメが生きていたときには歯の色は乳白色であったが、古い時代の化石になると、暗褐色にかわる。【関連】 下戸層(おりとそう)・鶴子層(つるしそう)【参考文献】 佐渡海棲哺乳動物化石研究グループ『佐渡博物館研究報告』(七集)、小林巖雄・笹川一郎『佐渡博物館研究報告』(九集)、矢部英生・小林巖雄『新潟県地学教育研究会誌』(二八号)【執筆者】小林巖雄
・鮫の守り(トラザメの卵鞘)(さめのまもり)
サメノマモリという語と品物は、よほど古い時代から使われ、知られていたらしい。江戸の住人武井周作の『魚鑑』天保二年(一八三一)にもみられるが、佐渡関係の書物としては、滝沢馬琴の『燕石雑誌』文化八年(一八一一)、『烹雑乃記』文化八年、田中葵園の『佐渡志』(文化三~十三年)などに載っている。ことに『烹雑乃記』には、「鮫の守り魚にあらず、海ほうつきといふものの如し─」と記してあり、巻貝の卵鞘(ウミホオズキ)になぞらえているのは興味深い。さらに「そのかたち藤まめに似たり」、さらに付図には「海藻の類歟」と説明している。その画は、明らかにトラザメの卵殻(鞘)である。両隅に二本づつの細長いつるを計四本もち、海藻などに巻きつけて産む。卵殻の長さは五㌢ほどで、殻内の卵は発生を続け、孵出するまでに二五○日前後を要する。西欧でも、ニシトラザメ(西虎鮫)の卵殻を「マーメイド(人魚)の財布」と呼んで注目されてきた。トラザメは五○㌢ほどの小型のおとなしいサメで、食用にしないが、実験材料に好適で、しかも北海道から九州、さらにシナ海の浅海底に広く分布する普通種である。相川町沖のトラザメは、実験材料としてよく研究されている。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)、本間他『新潟県生物教育研究会誌』(二八号)【執筆者】 本間義治
・左門町(さもんまち)
上京町から南へ入り、慶民坂を経て六右衛門町へ至り、南は大床屋町に通ずる小さな町である。町内には、安永七年(一七七八)に金山の水替無宿を初めて受け入れ、相川で病死した本目隼人奉行の墓が眠る蓮光寺がある。蓮光寺は浄土真宗の京都東本願寺末で、慶長八年(一六○三)に越中権照寺四世によって開基し、明和二年(一七六五)に年始礼を勤めるほどの格式の高い寺であった。正徳元年と寛保二年に、火災で焼失したが浄財で再建。境内三畝六歩が除地とある。蓮光寺横の小路を行くと、奥に元和三年(一六一七)に開基した西念寺にぶつかる。当初は下寺町にあったが、貞享元年(一六八四)に今の地へ移ったという。浄土宗で、明治元年に廃寺になったが間もなく復興し、昭和二十二年に法然寺に併合した。本堂がなく、墓が数基残るのみで当時の面影はない。町の長さは四九間で、陣屋まで三町五二間二尺五寸を数える。『相川墨引絵図』では、地役人の拝領地はなく、御抱地が上京町との境いに若干見られ、大半は日雇や勝場で働く者で占めている。【関連】 蓮光寺(れんこうじ)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集五 付録)【執筆者】 佐藤俊策
・雜太郡(さわたぐん)
養老五年(七二一)四月二十日に、賀茂・羽茂の二郡を併置するまでは、佐渡は一国一郡で、佐渡国は即雜太郡であった。その後およそ二○○年をへた承平年中(九三一ー三七)に書かれた『倭名類聚鈔』に載せられた郡ごとの郷名をみると、[羽茂郡]越太・大目(於保女)・駄大・菅生(須加布)・八桑(也久波)・松前(万都佐木)・星越(保之古之)・高家(多家倍)・水湊(美奈也)[雑太郡]岡・石田・與知・高家(多介倍)・八多・竹田・小野・雑田(佐波多)[賀茂郡]井栗・賀茂・動知・大野・佐為となっている。これらすべての郷が、現在のどこに当るのかは正確に知ることはできないが、誰がみてもその位置が明らかとされる郷名もあるので、それらとの関係からみると、雑太郡と賀茂郡の境は、東では現新穂村と畑野町境のほぼ国仲の中央部、西は旧西三川村と真野村境、南は松ケ崎以西で、江戸期の区分と大きな違いはないのに対し、北部が高千地区ではなくて、沢根あたりに感じられる点が異っている。ただし右記した『倭名類聚鈔』は、「元和古活字本」に拠ったもので、「高山寺本」などによると雑太郡には、岡・與知・竹田・小野の郷名はなく、羽茂郡では越太・駄大を欠いている。【執筆者】 本間雅彦
・三ケ一百姓(さんがいちひゃくしょう)
関の慶長検地帳加筆分には、中使四郎左衛門ほか一三人の古百姓を「三分一」とある。また、同地岩崎長右衛門家文書にも、「三ケ一百姓源左衛門」とある。三分一と三ケ一とは区分されていない。佐渡では一般的言い方でなかったが、村の草分け百姓につけられた特別の名称。三ケ一は、寺社などの書上げに除地・除米の特権として近世期によくつかわれたが、慶長検地の刈高にたいしての得分のある百姓という意味であろうか。関村では、三分一百姓は一三軒。これを本百姓といっていた。外に「又もの百姓」として、分家二人記載されている。また別に、三分一を三人一人前とみた小前百姓につかわれる場合もあるが、関村の三ケ一百姓といわれた有力農民は、それぞれに地神を祀っていた。一三人百姓(一三人衆)の筆頭、本間四郎左衛門家は中使であり名主であった。通称関のオオヤといわれている。村鎮守の二宮神社の社人であり、別に地神として大杉神社の宮守をしてきた。一方、真言系の山伏の系統をひく岩崎長右衛門家は、能登船の船頭が建立したという伝説をもつ観音堂の別当をしていた。正月十六日に行われる二宮神社の的射の神事は、的にぬる土は観音堂の仏供田の土、的につける杉の葉は、大杉神社の杉ときめられていた。三ケ一は、かって海稼ぎにかかわった百姓につけられた名称であると推測される。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】 佐藤利夫
・算額(さんがく)
江戸時代、数学の学力向上祈願や実力の誇示などで、神社佛閣に奉掲した数学の絵馬を「算額」という。算額に関する最古の記事は、佐渡で百川流を学び、後江戸に出て大成した、村瀬義益の『算法勿憚改』(一六七三)にみられる。算題を見てこれに答えたり、より高度な問題を算額にしたりするこの風習は、和算の発達に大きく寄与した。相川には天明三年(一七八三)、大坂の銅屋で宅間流内田秀富門人妻野佳助重供が、相川弥十郎町の天神社に掲額、同六年その答術のない第二問に、左門町の名主三郎兵衛が答えていることや、三郎兵衛の斜向いに住む奉行所雇大吹師で、妻野と同門の伏見孫吉の算額があったことなどがわかっている。何れも現物はないが、前者は安養寺村(金井町)大蔵悟策の蔵書『諸術算法記』に、後者は関流六伝小野栄重(群馬)の稿本『算額解』に記録されている。後者には、小野が伊能忠敬の佐渡測量に従って相川へ到着した享和三年(一八○三)九月一日、孫吉の算題に施した術と、この時既に「張紙」してあった「藤田先生術」と、その根拠となる解が記されている。子嘉言が各地の算額を編集した『神壁算法』(一七八九)の閲者であり、江戸に住む当代関流の第一人者藤田貞資の張紙が、孫吉の算額の傍らにあったことは注目に価する。なお掲額は明治以降も続いている。【参考文献】 金子勉「伏見孫吉の算題について」(『数学史研究』一四○号)、金子勉「佐渡の算額」(日本数学史学会第一八回総会)【執筆者】 金子勉
・三角屋(さんかくや)
羽田町にあった旅館。かたわら、乗合馬車や自動車営業も行っていた。赤水窯の真向かい、現在のカトレア喫茶店のところにあった。相川ー沢根間の馬車営業を始めたのは大正二年(一九一三)ごろとされる。このころは新潟市内でも乗合馬車が走っていた。市内均一で五銭(料金)、豆腐屋のラッパに似たものを吹き鳴らしていたとある。佐渡で馬車が走り出すのはそれより早やく、明治二十二年(一八八九)五月の『北溟雑誌』には、白川紋蔵という相川人が、二頭立馬車二台と、良馬八頭を買った。相川ー両津間を六月上旬から開業の予定と報じている。明治十八年に、旧中山道の西側に、人力車の通れる堀割新道が完成したのに呼応したものだ。ところで大正十三年六月の『佐渡日報』紙上に、「旅人宿、三角屋事坂本留作」とあって、三角屋は前年の十二年から自動車部を設け、二台を新調し、従来の客馬車とともに、御客の便宜をはかるむねの広告が出ている。この年は延長三六三㍍の中山トンネルが完通した年で、これに備えて自動車営業をも準備していた。翌大正十四年刊の『佐渡案内写真大集』(赤泊村優美堂発行)には、「御旅館、自動車、客馬車業」と説明があって、大きな構えの玄関に、お客を満載した乗合馬車と自動車が停車している光景が写真で出ている。このころ羽田町では野原乙松という人が馬車営業していた。【執筆者】 本間寅雄
・山荷葉(さんかよう)
【科属】 メギ科サンカヨウ属 深山の名花、幻の花である。大佐渡の東北部の尾根周辺の沢沿いに生える。カタクリ・キクザキイチゲ・シラネアオイの咲く頃である。タムシバもチラホラ咲いて、水たまりにサンショウウオの卵塊のある頃である。『山の花』(一九六九)に、サンカヨウについて「雪解けとともに芽吹き、芽が伸びだしたと思うと、もう翌日にはバッチリと目を覚ましたような美しい花を開き、三日目には葉が出て、四日目にはもう完全な葉を精一杯広げて歓迎してくれる」と解説される。花の命は短くて、花のちょうどよい頃にはなかなか会えない。そういった意味でも幻の花である。サンカヨウ(山荷葉)の名まえはなにに由るのか。蓮はハスの実のこと、荷はハスの葉のこと。サンカヨウは山にある荷(ハスの葉)に似た大きな葉をつける植物の意味。切れ込みのある大きな葉が二枚互生する。この沢で出会ったサンカヨウは、目の届く範囲に五○株。葉の幅は三○㌢ほど。二枚の葉のつく茎の頂に、純白の花が一八花ついている。カタクリ・ニリンソウ・キクザキイチゲ・ザゼンソウの花咲くこの沢に君臨する春の精はサンカヨウである。【花期】 五~六月【分布】 北・本【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・三観紀行(さんかんきこう)
幕末・明治前期の科学者・博物学者、松森胤保(たねやす)の佐渡日記。「三観」とは松島と東京と佐渡をさした。このうち佐渡紀行については「(明治十二年の)五月廿四日東京ヲ発シ、佐州ヲ一覧シ、同年六月七日家ニ帰ルマテヲ記スモノナリ」(三観紀行目録)とあって、佐渡へ渡ったのは明治十二年五月三十日。出雲崎から小木に渡り、六月二日赤泊港から寺泊へと渡った。五五歳のとき。胤保は、鶴岡の二百人町に生れた。庄内藩士の長男で、文久三年(一八六三)から松山藩付の家老となり、慶応三年(一八六七)に江戸薩摩藩邸焼打ちに藩兵を率いて参加、戊辰戦争では藩の軍務総裁として、各地を転戦している。その後の業績は、現在の物理学・天文学・動植物学・考古学など広い分野におよび、ほとんど独学だった。酒田市の市立光丘文庫や鶴岡市の松森家に、多くの著作が保存されている。佐渡では植物・動物・鉱物・風俗などについて記述していて、佐渡の人に片目が多いとした。とくに女子で、道で逢った一○人のうち二、三人がそれ。人に聞くとその原因に、魚の過食・銭湯のムシ風呂・悪疾・良医がいないなどを列挙する。「人物短小」とも述べていて、近親結婚の故か、とする。小木港から堂ノ釜村に着行し、神官の金子星輝宅で一泊、そこから船で沢根へ。相川の鉱山では、坑内でそのころ稼動していた珍らしい「馬絞(うましぼり)車」などを図解して残した。文と図で佐渡を紀行して歩いた点では、弘化四年の松浦武四郎に似ている。「三観紀行」(三冊)の全文は、光丘文庫に稿本のまま残っている。【関連】 馬絞車(うましぼりしゃ)【参考文献】 本間義治「松森胤保の〈両羽博物図譜〉」(その一~三)【執筆者】 本間寅雄
・山居越え(さんきょごえ)
ほんらいの山居道は、岩谷口から小河内川沿に登って泊川を渡り、立が平山の北をへて山居池の南側に至り、北小浦に降りる道であるが、いまでは舗装路が伸びて、整備されている真更川ー山居ー北小浦の山越え道が、山居越えの常道のようになっている。山居池に近い光明仏寺にこもった、木喰戒行者の関係資料や伝承が、真更川の土屋三十郎家や、西光庵などに伝えられているので、山居ー真更川の道も、早くから通じていたことはまちがいない。岩谷口からは平面図では、より近い黒姫越えがあるが、山居は約四○○㍍の標高なので、遠回りながら北小浦に出るこの道が利用され、上方詣りや出征兵士の見送りなどで両津に出たという。この道から二○分ほど歩いた辺りに、七ツ滝と呼ばれる七段になっている大滝があって、島内一といわれている。【関連】 檀特山(だんとくせん)【執筆者】 本間雅彦
・左義長(さんぎりちょう)
小正月行事の火祭り、トウドヤのことを別名サンギリチョウ・トウド・お松さんはやしなどともいう。相川の年中行事を描いた『天保年間相川十二ケ月』(石井文海筆)の中にも、「さぎてう」として描かれ、その説明文として、「正月十一日の早天、町々にとうどといへるものたつ。五彩の紙もて袋を作り、底にくさぐさの縫物として是をつなぐ。十四日の朝海浜にもち出て、家々の飾り松と共に焚。これを左義長と唱」と記されている。ここでいう左義長は三毬杖とも書き、もともとは昔、宮中において春の始めに年木をもって毬を打ち、その年の吉凶をうらなった後、その年木(杖)を三つ組合せて焼いたのが、この名の残りだといわれている。相川ではこのとうど焼きを、十四日の朝海浜で、飾り松と一緒に焼いたと書かれてあるが、現在のお松さんはやしも、十四日の朝である。二見元村・片辺、それに金泉地区(小川は松はやしをせず、田植の飯をたくとき燃やす)なども十四日の朝である。そのほか十五日の朝はやす(燃やす)所(稲鯨・高瀬・高下・千本他)もある。このとうど焼きの火は神聖視され、書ぞめなども一緒に焼くが、高く舞いあがれば手があがるといい、餅やいかなどを焼いて食べると息災になるといった。また黒くこげた焼残りのお松さんを、家の屋根や門口におくと、火災よけや悪魔よけになるといった。【関連】 相川十二ケ月(あいかわじゅうにかげつ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『佐渡百科辞典稿本Ⅵ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫
・産金輸送(さんきんゆそう)
鉱山で産出された金銀荷を、江戸城内の御金蔵に上納することをいう。産出量が多かった江戸前期は、年に数回上納したが、享保年間(一七一六ー三五)の後半から年一度の上納になり、海上がおだやかな五、六月に、宰領役人二人がつき添って北国街道(信州路)から中山道を経て江戸へ運んだ。越後・信濃・上州・武州・江戸と、現在の一都四県を通る長旅で、出雲崎から江戸城までは、一一日間ほどかけている。金銀荷は「灰吹銀」がもっとも多く、金は「筋金」と「小判」の両方に分け、「砂金」はそのままか、一部は小判にして送った。筋金のうち、純金に近い精良な「焼金」も、元禄五年(一六九二)から送られている。小判は江戸の金座、後藤庄三郎の手代が佐渡へ渡り、元和八年(一六二二)から製造を始めたもので、文政二年(一八一九)ごろまで佐渡での製造が続いた。上納の宰領者が選ばれるのは、原則として正月の十一日で、出立に先立って同僚や在方の人たちから、かなりの餞別の品々が届けられる。「葛粉」や「干鰒(ほしあわび)」「あらめ」「無名異」(薬用)など、主として江戸への土産となる。宝永年間(一七○四ー一○)をさかいに、前は将軍の朱印状、後は老中証文を携帯したので、道中の「人足継ぎ」「馬継ぎ」は無賃で輸送ができた。幕府の重要荷物とされたからで、その特権の反面、沿道の宿場では搬送に苦労した。道中宰領の役人は、最初は江戸到着後一○日間ほど滞在して江戸見物などして帰ったが、宝暦十一年(一七六一)から、金銀荷の宰領と天領会計決算を同時にすませることになったため、一年間の江戸滞在に改められた。この滞在期間中に、学問や武芸を学んで帰った。上納の記録や金銀荷の数、宰領者の名前は、連年にわたって残っているが、大久保長安在勤時代の、慶長八年以降同十七年まで、また奉行所が焼失した正保四年(一六四七)の大火のため、寛永元年から同十一年までの計二一年間の上納記録は残っていない。【関連】 上納金(じょうのうきん)【参考文献】 桑原孝「佐渡御金荷の輸送」、麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】 本間寅雄
・三宮貝塚(さんぐうかいづか)
畑野町大字三宮の三宮神社境内にある、汽水性のサドシジミを主体とした、縄文後期初頭から晩期前半の遺跡。小佐渡側の国仲に張り出した、標高一○㍍の台地先端部に立地する。大正九年(一九二○)の鳥居竜蔵博士の発掘調査から数度の発掘があり、昭和三十六年には、立教大学博物館学講座・新潟大学解剖学教室・佐渡博物館共催で発掘調査が行なわれた。出土遺物は、土器・石鏃・尖頭器・石匙・石錐・石棒・蛇紋岩製大珠などの石器、骨角器・貝輪などがあり、既往遺物では、石冠・石剣・ヒスイ製勾玉などがある。また、土壙墓に横臥か俯臥伸展葬された、抜歯のある熟年男性一体があった。自然遺物では、貝類ではサドシジミが九○%以上を占め、古国仲湖の時期に形成された貝塚であることを物語る。哺乳類では、イノシシ・タヌキ・ニホンイヌ・サドノウサギなどがみられ、魚類では、サメ・マダイ・ススキなど。鳥類では、ワシやオオハムなどがある。なかでもイノシシの遺存骨が多く、狩猟の中心で、ニホンイヌは家犬とみられ、三宮縄文人の生活環境を物語る。他に弥生土器・須恵器などを出土する地域もある。畑野町指定史跡。【参考文献】 『新潟県佐渡三宮貝塚の研究』(『佐渡博物館研究報告』四集)【執筆者】 計良勝範
・三宮神社(さんぐうじんじゃ)
高瀬字浜端。元禄検地帳・寺社境内案内帳には、高瀬村神社の記載がない。明治十六年(一八八三)『神社明細帳』には、「寛文九年創立、当村ノ産土神タリ。祭神成嶋親王・伊弉諾尊」とある。浜端にあった熊野神社を明治三十九年に合併、伊弉諾尊は熊野神社の祭神とみられる。熊野神社はもと十二権現社であろう。例祭日は旧九月八日。三月八日の祈年祭には、漁付け祈祷が神社で行われ、和布刈神事の祖型であるオンベ祭りがある。集落の中央に観音堂があり、本尊の聖観音は、越後柏崎の椎谷の観音と二体一対といわれる。橘と同様、佐々木・宇田・榎田の三つの集団によって形成されているとみられるが、各集団の小宮が合併して三宮神社となったものか不明。【参考文献】 矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・三宮神社(橘)(さんぐうじんじゃ)
『佐渡国寺社境内案内帳』には、「開基大永元年、社地八畝一六歩除、社僧定福寺」とある。祭神成嶋親王。明治三十九年荒沢神社合併。由緒によれば、順徳天皇第三皇子を祀る畑野町三宮神社より、橘光行(三喜)が当地に来て勧請し、石造の御神体を彫刻して当社を創立したという。橘三喜が来島したのが延宝四年(一六七六)、社壇を開いて、各地の神社の社号を改めるなどをしている。開基年を大永元年とした理由は不明であるが、三宮の親王大明神(三宮神社)は別当長徳寺、開基長徳元年とあり、親王大明神の勧請は慶長八年という書付がある。両三宮神社の関連性はみられない。橘三喜によって、成嶋親王(第三皇子千歳宮)を祭神にしたものと考えられる。貞享四年(一六八七)新境取極め文書には、橘村・宮の浦村は別村となっており、三宮神社の元宮は宮の浦の北、長手岬にあった。元禄初年に、宮の浦・橘・差輪の三か村が合併したとき、産土神として三宮となったのを、順徳天皇の第三皇子の神社と説明されたものであろう。三宮大明神の社僧は定福寺、開基は明確でないが、元禄期には権吉が社人であった。例祭日は十月十五日。【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・三郡公立中学佐渡黌(さんぐんこうりつちゅうがくさどこう)
明治十五年(一八八二)、新穂村に設立された中等教育機関。明治十四年八月、相川に佐渡で最初の公立相川中学校が開校した。ところが、多額の地元負担が必要であったために維持が難しくなり、三郡町村連合会が各町村に交渉したところ、新穂村が移転に応じることになった。そこで、明治十五年十二月に移転を決議し、名称も「三郡公立中学佐渡黌」と改めて、新穂村馬場の乗光坊(現管明寺)を仮校舎として開校した。主席訓導は圓山溟北、名誉校長は経営にも当たっていた後藤五郎次であった。明治十六年に起工し、翌十七年には四八坪、洋風二階建ての新校舎が落成した。しかし、依然として経営は苦しく、病を得た圓山溟北の跡を継いだ丸岡南 も二年ほどで亡くなり、教授陣も手薄になった。このような中、明治十九年四月に中学校設立制限の勅令が出され、同年八月閉鎖された。以後、明治三十年六月に佐渡中学校が設立されるまで、佐渡には中等教育機関が存在しなかった。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『佐渡高等学校百年史』(佐渡高等学校)【執筆者】 石瀬佳弘
・山菜(さんさい)
糧葉(かてば)は主食を補った糧(かて)にした葉。菜(な)は副食、汁の実にした菜である。『佐渡山菜風土記』(一九九二)には、野草三五種・海辺の菜六種・山菜二六種・糧もの一五種・木の実三六種・果木七種・野菜一二種・筍四種・海藻一○種の、計一五一種について解説される。佐渡は日本海側に位置しながら少雪の島。積雪がみられるのは一月と二月の二か月間。雪があっても、畑の青ものは冬でも利用できる。冬の菜としてのアオモノ(山菜)を採り、貯える風土でなかったから、山菜利用は概して少くなかった。なによりも春の味がするフキノトウ、佐渡の山菜は越後にくらべ、エグミが強いという。雪でのマウントの少くないからであろう。春の野で摘まれたのが、ノビル・ナズナ・セリ・アマドコロ。アマドコロの若芽の和えもの、根茎の味噌づけ、カヤムグリ(コウゾリナの若菜)やヨメナ(ノコンギクの若芽)もよく食べられた。「春はヨメナと食べられて秋は野菊の花と咲く」は佐渡の俚言。水田に生えるタネツケバナは食べない。山のオオタネツケバナは人気がある。山の岩場のユキノシタや、海辺のオカヒジキは食べない。タラの芽はたべるが、コシアブラの若芽をたべない。アケビの新づるも、モミジガサの若葉も食べない風土である。佐渡の三大糧葉は、ロウボウ(リョウブの葉)・イボナ(ハナイカダの葉)・ウツギバ(タニウツギの葉)で、昭和二十年代まで利用した。【参考文献】 伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・三町目(さんちょうめ)
羽田町の中心街から南に向って下戸に至る間を、旧相川街道を順に一町目から四町目(下戸町の北端を五町目と俗に呼ぶ)まで、ほぼ等間隔に区分されている。『佐渡相川志』によると、「町長サ六十壱間、御陣屋迄六十四丁七間三尺五寸、町屋敷四反五畝廿七歩。」となっている。東は五郎左衛門町、西は三町目浜町をへて三町目新浜町であったが、近年海浜の埋立てでさらに栄町が加わった。三町目浜町までは、元禄検地帳に記載されており、町屋敷一七か所があった。現況では、松栄家が三町目と同浜町地内にかけて広い宅地を所有し、また川島家の宅地もかなりの面積なので、他に一五、六軒の住宅・店舗・旅館を数えるのみとなっている。松栄家は明治期までは味噌製造を、川島家は醤油製造を業としていたため、広い仕事場があったと思われる。【執筆者】 本間雅彦
・三町目新浜町(さんちょうめしんはままち)
町域の西南部に位置し、相川湾と向い合った臨海地域。昭和初期のころ、鉱山の浜石採取で人家はすべて立ち退いた。相川公園など、公共用地として整備され、ひところは宿泊観光客に、鮮魚・野菜・地産の土産物などを直売する朝市が立った。宝暦五年(一七五五)の町名一覧に出てくる町で、江戸中期前後の成立であろう。西側は、離島公有地造成護岸等整備事業で、海岸埋立工事が進んでいる。【関連】 浜石(はまいし)【執筆者】 本間寅雄
・三町目浜町(さんちょうめはままち)
慶安年間(一六四八ー五一)の相川地子銀帳には、町名が記載してある。成立は古い。東側は一般住宅で、南北に走る県道佐渡一周線をはさんで、西側には佐渡会館。隣接して国の合同庁舎があり、相川税務署・新潟地方法務局相川支局・相川測候所が同一ビルに同居する。佐渡会館は、佐渡おけさ・相川音頭・鬼太鼓などの民謡・芸能の公開施設で、新潟交通佐渡営業所が同居する。入り口南側はレストラン「日本海」がある。県道東側の住宅街には、女性初の元国連代理大使の久保田きぬ子の生家があり、元佐渡汽船社長、松栄家の広い邸宅がある。【執筆者】 本間寅雄
・さんぱ船(さんぱぶね)
海府方面で荷物の運搬用につかわれた船。中世以来の「おもき造り」の平底船体のどぶね系統の船。長さ三八尺(一一・四㍍)、幅九尺(二・七㍍)、櫓が三丁の五人乗りの船であった。小野見・石名から北にこの船が多かった。近世初期には、このさんぱに似たどぶねが、外海府の木材を相川へ運んでいたが、中期以降には薪炭を運ぶのにさんぱをつかった。関は働き者がいた集落であった。四貫目(一五㌔)入りの炭を二○○俵さんぱに積んで相川を往復して、四㌔の奥山へ行きアテビ板を挽いて帰ったという者もいた。外海府からは、相川だけでなく鷲崎や沢崎方面まで荷物を運んだ。鷲崎には新潟の炭商人が、沢崎には北前船が寄港していた。てんと船と同じように、近距離の荷物輸送につかわれた地廻わりの小型廻船であった。【関連】 天当船(てんとぶね)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 佐藤利夫
・三昧堂(さんまいどう)
新穂村大字大野にある日蓮宗根本寺境内の仁王門の近くにある。三昧堂とは、配流先で日蓮が最初に謫居した粗末な建物で、寺の縁起によると、江戸期の頃にはその建物はなく、天保期には塚だけがあったと記されている。堂宇が建った動機は、将軍家の侍女が刻んだ祖像を安置するためで、天保五年(一八三四)のことだという。堂宇以前に埋葬地や墓を意味する塚があったということは、「三昧」の呼称にふさわしい。日蓮自身が書いた手紙の中に、「塚原と申御三昧所あり。」(『妙法比丘尼御返事』)や、また「塚原と申て洛陽の蓮台野の様に死人を送る三昧原の─。」(『波木井殿御書』)の文字がみえ、塚・埋葬地・死体捨場・三昧が、一連の事象の形容であったことがわかる。サンマイの音をもつ方言も、今では火葬場もしくは墓場の意味で、全国でほぼ共通して用いられている。もともと梵語のサンマディから出た訛音で、法華三昧とか念仏三昧の用法からみると、墓地や埋葬地の傍らで死者の供養をする者がいて、題目や念佛を唱えていたことが想像される。宗派によっては、近年まで土葬を行っていたところがあるので、そこが普通の人の埋葬地であっても、僅かな盛り土状になっているのをみかけることができた。根本寺三昧堂の向って左手に戒壇塚または経塚と呼ぶ、花崗岩の立派な塔婆が石囲いの中に立っている。塚跡である。【関連】 根本寺(こんぽんじ)・日蓮(にちれん)【参考文献】 東條操編『全国方言辞典』(東京堂出版)、富田海音『塚原誌』(根本寺)、橘正隆『日蓮聖人佐渡霊跡研究』(佐渡農業高等学校)【執筆者】 本間雅彦
・鱪付け(しいらづけ)
夏から秋に最盛期を迎える魚の代表が鱪である。佐渡では暑い夏にとれる魚という意味で鱪と書く。鱪漁はツケに集めて沖合いで釣る漁法で、島根県沖から日本海を北上してくる魚群を、大佐渡の沖合いで釣る。姫津漁師は、石見国(島根県西部)から近世初頭に渡来したと伝えられているが、冬季は鱈漁をし、夏はこの鱪付け漁をした。かって姫津では鱪付けの株をもった漁師が、この漁を独占していたのは鱈の場合と同じである。七月末頃に、孟宗竹をかためて束ねたツケを藁俵に砂をつめ、一八○○尋(二七○○㍍)の長さの綱をつけて錘にし、深さ五○○尋(七五○㍍)の沖合いで、長さ一五㍍ほどの桐の木の浮をつけて、ツケを設置した。水津方面でも、この方法を習って行っていた。時期によって、梅雨鱪・盆鱪・帰り鱪などと名前がついている。鱪は夏魚のため加工される割合が少なく、酢でころして食べるか、塩づけにする。鱪なますと塩鱪にした。文政九年(一八二六)稲鯨で二七○○貫(約一○㌧)水揚げされた。大量に漁獲されることがよくあったから、上等魚の扱いはうけなかった。漁村ではじょうずに海水でさらして刺身で食べる。【参考文献】 佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】 佐藤利夫
・塩竈神社(しおがまじんじゃ)
宝暦の寺社帳によると、島内には塩竈社が二社ある。相川江戸沢と歌見村である。うち後者は、明治三十六年(一九○三)に十二の宮と合併して、現在は熊野神社となっているから、現在は塩竈社は相川だけということになる。はじめ塩屋町にあったが、慶長元年(一五九六)に塩屋町の山ぎわ、長坂登り口付近に牢屋が建てられたので、汚穢にふれるのを恐れて江戸沢に移された。現在も、元社地跡と思われる辺りに小祠があって、塩釜社は土俗的な形で伝えられている。塩竈社の本社は宮城県塩釜市で、社前には大型の製塩用平釜がいくつも奉納されているから、本来は塩焼きの神であったことはまちがいないが、製塩が専売制となりその余波のためか、今日では安産の神としての性格が主流をなしている。『佐渡神社誌』では、当社は江戸沢町・羽田町・塩屋町・新材木町・羽田浜町・一丁目・同裏町・同浜町・羽田村の産土神で、「明細帳」によると氏子数四八四戸とある。祭神は塩土老翁神と、猿田比古命である。当社は、江戸沢の天台宗の本昌寺の社僧によって管理されていたので、同寺の寺社帳の記事には、「当社往古は塩屋町にて塩を焚き当社を勧請。寛永六巳年当寺へ遷す」とある。例祭日は五月十五日で、神楽を奉す(付 塩焼きは、両津市・真野町ほか各地で行われているが、それらの塩神についてはすべて省く)。【参考文献】 『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)、山本修之助編『佐渡叢書』(五巻)【執筆者】 本間雅彦
・塩屋町(しおやまち)
上羽田町と石扣町の間の町。『佐渡相川志』では、「町長サ四十五間四尺、御陣屋迄二丁十七間三尺、町屋敷四反三畝」とある。また別記に、「塩屋町ハ塩浜ニテ上羽田中程ニ塩竈ノ社アリ。寛永六年相川町割定ムル時、農家ハ下戸村ヘ引キ、塩竈ノ社ハ江戸沢本昌寺境内ヘ移セリ」とある。相川町が成立する前は、塩屋町の海岸は揚浜式製塩以前の直煮法による塩釜のあった場所で、そこに町屋が建つと、塩商人などが集って塩屋町が形成された。町の草分けは、近江国出身といわれる岩佐嘉右衛門家。当初は塩商人として入り、その後、廻船で入る積荷の取引、明暦三年(一六五七)頃より町年寄制度ができると、四人町年寄の一人となる。塩竈神社は陸奥一の宮、塩竈神社から文禄元年(一五九二)の勧請といわれる。中世までの佐渡における塩生産地は、内・外海府であり、鉱山町相川の誕生によって、塩は能登より廻船で入った。北から大間湊・板町・材木町・塩屋町・羽田浜通りと、南へ海岸通りが続き、米は大間、材木類は北国と海府より板町と材木町へ、塩や諸物資は羽田浜へ上った。海岸に、浜・蔵・納屋・家屋が細長く軒を並べる町屋ができた。享保七年(一七二二)の済口証文(下相川区有文書)では、下相川と相川の海は、沖の大瀬みねケ島より塩屋町嘉右衛門小路を限り境とした。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】 佐藤利夫
・地方役所(じかたやくしょ)
佐渡奉行所の内局。旧相川町以外の町村に関する政務をとる。長が二人いて、在方掛広間役という。在方掛広間役は、元禄七年(一六九四)検地のときはじめて置かれ、当時は地方元締役と言い定員二人だった。その後享保五年(一七二○)在方役と改称したが、役所は地方役所と称し、十余人の地方掛が事務を分担した。宝暦改革で、代官が二人江戸より派遣され地方支配を行った時期は、代官手代が代官所で事務をとったので、地方掛は役所に詰めなかった。租税徴収が最も重要な任務であったが、その他山林・堤防・道路・訴願など、農村に関することにはすべて関与し、民事・刑事に関する訴訟の下調べから、警察事務にまで携った。【関連】 在方役(ざいかたやく)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】 児玉信雄
・直山(じきやま)
鉱山の所有者である、幕府や領主が直接管理・経営するもの。直山では支配の奉行が派遣され、直接運上諸役を取り立てた。佐渡の直山は、公方山あるいは公儀山とも呼ばれた。直山は、公納の形態から運上山・荷分山に分けられた。運上山は、普請・切取・採鉱稼行の順で行われた。間歩ごとに、着脈までの費用弁済のために、着脈後の一定期間の採鉱を、運上なしで許可した。その後、全山の山師に期間ごとの運上額を競わせて、落札者に一番山・二番山というように、採鉱稼行をさせた。大久保長安の支配した慶長期からは、荷分山が主流となり、炭・留木・鑚・紙・蝋燭などの生産資材の無料給付と、扶持米が山師に与えられ、陣屋(奉行所)お抱えの御手大工を、間歩の取り明け普請に投入したりした。一○日毎の採鉱は克明に記帳され、後に陣屋主導で、奉行所分と山師分が荷分された。が、晩年には生産コストの上昇で破綻した。田辺十郎左衛門の時は、二分の一公納としながら、山師分から生産資材分を差し引いた。鎮目市左衛門と竹村九郎右衛門の、元和・寛永期からは、一○日毎に二分の一公納、盛山では三分の二公納、涌水多く排水費用のかさむ間歩では、三分の一以下の公納となった。【関連】 請山(うけやま)・山師(やまし)【執筆者】 小菅徹也
・紫金丹(しきんたん)
坑内で採鉱作業のとき、体内をむしばむ粉塵による病気を、「山よわり」(珪肺病)という。このための解毒剤が「紫金丹」で、延宝(一六七三ー八○)のころ、相川の医者益田玄皓が初めて処方した。地役人田中葵園の『佐渡奇談』という書物に、玄皓は実直誠実な人で貧しい人からは薬代や謝礼はとらない。ただ金穿りの病むのを憐んでこの薬を作った。銀山繁昌のときだったので、門前市をなすありさまであった、などと記してある。『珪肺の歴史』(久保田重孝)によると、玄皓が発明した紫金丹は、珪肺に対する日本で最初の対症療法であり、この薬法はのちに相川の医者松岡玄盛に伝えられた。その末裔である松岡元盛(三菱金属鉱業生野鉱業所病院長)所有の資料によると、紫金丹の処方は「竹節人參」「甘草末」「紫金末」「胡桝末」など五種類の調合で、紫金というのは「しまごん」(紫磨金)といって紫色を帯びた精良な黄金のことだという。なお文化十年(一八一三)に松岡家の元祖の二百年忌があり、冥加(みょうか)として上相川から大工町に住む鉱山稼ぎの人たちに計八百包の紫金丹を、また在方(国仲)で難義している人たちに九百包をそれぞれ贈ったことが『佐渡国略記』に出ている。このときの当主は松岡友粛とある。なお相川には「紫金丹屋」という屋号の家が近年まで新材木町に残っていた。益田玄皓は、相川出身で三井財閥の大番頭だった益田孝(鈍翁)の遠い先祖すじに当たる。【関連】 益田玄晧(ますだげんこう)【執筆者】 本間寅雄
・地獄谷(じごくたに)
奉行所囲いの南端から北西の方向に、段丘の開析谷が広がる。『佐渡相川志』では「先年此処斬罪ノ場所ナリシ故、俗ニ地獄谷ト称セルヲ名トス」とあり、相川始って以来地獄谷で名が通った。地獄谷から西南の先を城の腰と云い、奉行所の腰を巡るように帯刀坂に繋がる道があって、勇仙小路で石扣町へ出ることができ、海府番所へ行くのに都合がよかった。勇仙小路を下りないで北へ向かうと小判所道に通じ、さらに勘定町へ繋がった。宝暦九年(一七五九)に城の腰東側の平地に、外吹買石の勝場と見張りの坂本口番所が出来、寛政七年(一七九五)に廃止されるまで、奉行所寄勝場の一曲輪で機能した。町同心の居宅は町内に分散し、指導系統が統一できず、非常時の召集や取締に不便を来たすため、文政十二年(一八二九)に外吹買石の勝場跡を町同心の屋敷とし、一か所に集めて同心町と改名した。同心一人に二八坪の土地を拝領させ、引越料は奉行所で負担し、十一月までに移りを完了している。維新後、地獄谷から城の腰・牢屋一帯は、新西坂町と改名し現在に至っている。【参考文献】 西川明雅他『佐渡年代記』、萩野由之『佐渡年代記拾遺』【執筆者】 佐藤俊策
・獅子城(ししがじょう)
東福城、別名獅子城ともいう。佐和田町大字石田、現佐渡高等学校の校地にあった。古代の石田郷、江戸期の石田村にあるが、近くに商業・交通の要衝である河原田町があるため、河原田城と呼ばれた。佐渡本間惣領家の本間氏(雑太本間氏、一説に波多本間氏)の庶子家の居城。築城年代は不明だが、城郭の構造から戦国期と考えられている。領城は時代により相違があるが、『佐渡名勝志』は本間佐渡守高統領分として、中原・石田・片貝・二宮・青野・山田・沢崎・真光寺・永野・市野沢(近藤正教預ル)・窪田(藍原と入会)・神田とするが、『佐渡古実略記』は、前記の他に沢根・白崩を加える。天正十七年(一五八九)の上杉景勝の佐渡攻略により落城、河原田本間氏も滅亡した。上杉景勝は、家臣青柳隼人・黒金尚信を代官として河原田陣屋に置く。江戸幕府の支配になり、慶長八年大久保長安は池田喜右衛門・堀口弥右衛門を河原田代官に任じ、「御代官所目録」(『佐渡国略記』)によると、河原田城付として現佐和田町を中心に、四○五三石余を支配させた。その後元和四年(一六一八)、幕府の方針により城廓を破壊、城地を払い地にし、払下げを受けた農民の畑地となる。幕末海防問題が逼迫すると文久二年(一八六二)、幕府は石田屯所を建設、異国船来襲に備えた。【関連】 石田屯所(いしだとんしょ)・異国船の来航(いこくせんのらいこう)【参考文献】 『二宮村誌』、『佐和田町史』【執筆者】 児玉信雄
・時鐘(じしょう)
報時鐘とも俗に時の鐘ともいった。鐘楼は味噌屋町にある。むかしは奉行所内の四畳の間(太鼓の間)に太鼓を置いて時をしらせていたが、荻原重秀奉行の指示で、正徳二年(一七一二)四丁目鍛冶三左衛門・八幡村平兵衛が山之神にて時の鐘を鋳た。それを六右衛門町広伝寺境内(丸山)に鐘堂を建て、町民に時刻を知らせた。相川における時の鐘の始めである。間もなく撞鐘が破れ、ふたたび下戸浜手にて鋳造したが成就せず、同三年五月越後高田住、藤原家次と弟子七人が渡来し、佐渡産出の銅で鋳造、味噌屋町の鐘楼を改築して六月六日に登せ、その日の九ツ(正午)より撞きはじめた。この費用約二○貫目余であった。同年四丁目浜町に、公儀より二反一畝余の長屋を建て市町とし、この屋賃をもって時の鐘の撞料とした。市町では毎朝市が立ち、四丁目武右衛門が長屋の宿賃を請負い、鐘撞料はこの人より納められた。鐘楼は万延元年(一八六○)に改築され、近年また外側を修理した。鐘は明治の初めまで撞いていた。国指定史跡、相川金山遺跡の一つ。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 佐藤利夫
・次助町(じすけまち)
上寺町のさらに上のほう(北側)にあって、その北側は庄右衛門町に、西側は大工町および諏訪町に接する。通称、上相川の台地上に位置し、鉱山開発の初期の頃には、鉱山労働者の居住地であった。上手のもと法久寺のあった付近の堺沢(境沢とも書く)には、元禄検地のときに畑壱反八畝廿四歩、町屋敷四反四畝廿二歩あったが、現在住民はいない。もとあった日蓮宗覚性寺の墓地には、江戸水替無宿の墓があって、墓碑には江戸八丁堀の文字が刻まれている。大工町からの道が、近くの鐘楼とともによく整備され、墓碑の周辺は公園化していて、訪れる人も多い。【関連】 江戸無宿の墓(えどむしゅくのはか)【執筆者】 本間雅彦
・地蔵寺(じぞうじ)
入川にあり、真言宗智山派。本尊は胎蔵界大日如来で、山号は延命山である。慶長四年(一五九九)二月、二石一斗余りの除地米を有する地蔵堂の別当として、真光寺門徒慈眼寺で開基。寺社帳に開基・明応元年(一四九二)とあるのは、地蔵堂の開基であると考えられる。寛文の頃(一六六○年代)寺名を地蔵寺に変える。元禄七年(一六九四)九月、入川のほぼ中央に位置する現在の勘十郎家の所にあった同寺を、現在地に移転する。明和四年(一七六七)それまで本尊であった地蔵菩薩を御堂に納め、胎蔵界大日如来を本尊とし、安永二年(一七七三)門徒から真光寺の新末寺になる。明治二年、隣にあった真言宗・生河山宝蔵寺(通称下の寺)とともに廃仏毀釈で廃寺となるが、明治十二年重檀家の勘十郎が拾円を寄進し、真言宗智山派本山智積院に差し出し、末寺となり再興する。過去帳は寛文の頃から記載されており、地蔵寺の重檀家は甚十郎等で、宝蔵寺の重檀家は半十郎等である。檀家は入川・北立島・北川内・後尾等にある。【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『高千村史』【執筆者】 近藤貫海
・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
観音さまとともに、衆生済度の菩薩として、庶民の信仰をひろく集めている。平安中期ころから末法思想がひろまり、近世にはいり民間信仰とそれが結びつき、地蔵信仰は大きく伸びた。そして地蔵さんは、石仏の代名詞みたいな存在となり、目洗い地蔵(小川・達者)、身代り地蔵(二見元村・鹿伏・紙屋町)、子安地蔵(高瀬)、八助坂地蔵(橘・漁師八助の水死供養)、平産地蔵(戸地・安産祈願、地蔵さんをワラツガエでしばる)、延命地蔵(米郷・海士町・関では寿命地蔵という)、目の地蔵(関、目の悪い者が「め」の字を年の数だけ書いて奉納する。また紙屋町の北向地蔵や二見元村の地蔵堂の地蔵も眼病をなおすご利益があるといわれた)、六地蔵(鹿伏・海士町・高下)など、その数は多い。両津市の、祝勇吉の克明な佐渡の石仏調査によると、大小さまざまの石造物数は四万にも及ぶが、その中で多いのは、だんぜん地蔵尊である。全島の六地蔵の数は、一六二組で九七二体、また大まかに数えて、小さい地蔵の数は三五四八体、その他の地蔵が九七○六体あるという(『両津市誌』上巻)。高瀬の地蔵堂では、八月二十三日に地蔵盆を行ない、年中行事の一つとなっており、また大浦では、毎月二十日に老婆たちが集り、地蔵講をしていた。坂下町厳浄寺坂の吉野地蔵には、鉱山トロッコにひかれて死んだ子を供養したり、井戸で死んだ子供を供養した地蔵もある。地蔵は、子供と深く結びついており、両津市願の賽の河原(地蔵和讃)は有名である。【関連】 中山の六地蔵(なかやまのろくじぞう)・浄金妙福地蔵(じょうきんみょうふくじぞう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『日本を知る事典』(社会思想社)【執筆者】 浜口一夫
・脂燭(しそく)
燈火器の一つ。佐渡鉱山では、坑内用のあかりに用いた。もっとも原始的な照明法で、紙燭と書くばあいもある。「是ハ檜(ひのき)ノ木ヲ幅一寸余、長サ三、四尺位、紙ノ如ク薄ク削リ、火縄ニヨリ、是ニ油ヲ湿シ、長キ木ニ巻キ付ケ、火ヲ点ジ、敷内ヲ通行ス」(入川「柏倉家文書」)とある。『佐渡相川志』は「檜ノ木ヲ三尺斗リニ切リ、鉋(かんな)ニテ削リ、縄トシ、夫ヲ油ニ浸シ、火ヲ灯シ、敷内ノ闇ヲ照ス。昔ハ紙燭屋二○余軒アリ。当時大工町宇右衛門・味噌屋町久兵衛、唯二軒ノミナリ」と書き、紙燭屋が相川に二○軒ほどあったとする。慶長年間(一五九六ー一六一四)の、鉱山の鉱況など記した両津市和木の「川上家文書」には、御直山に渡す「蝋燭渡帳」があり、「壱万丁、赤塚源七間歩」「貮万丁、明石文右衛門間歩」などとあって、おびただしい蝋燭が鉱山の坑内で使用されていたことをうかがわせる。すべて運上屋(官庫)から渡されていることや、番所の移入品目に「蝋燭」(税額一貫目につき銭一四八文)が見えるので、他国から大量に買入れて支給していたらしい。ただし「敷ニテ灯ス松蝋燭」のことを、「竹ノ子ノ皮ヲ蝋燭の格合として、中へ松やにを入堅メ、火先を拵へて灯スなり」(『佐渡風土記』)などとあって、慶長のころ使用されていたのは松蝋燭が主流だった。檜とは別に和紙を撚って上部に油をしみこませた「紙燭」が、江戸時代にあったことが『和漢三才図会』などにも見えている。【参考文献】 関重広「燈火の変遷」(科学新書)【執筆者】 本間寅雄
・下立野遺跡(したたてのいせき)
相川町大字二見の緩斜面上に位置し、山林で北は法事川に接する。低位と中位段丘の境いにあり、縄文中期から後期初頭の貝殻条痕文土器を主体とする。道路を挟んだ向い側の中位段丘には、縄文中期の立野遺跡があり、中位段丘上面には、弥生主体の上立野遺跡が存在し、再下部が縄文後期主体の遺跡となる。縄文時代の貝殻条痕文土器は、中期に山陰地方に発生したといわれ、能登半島まで北上が認められ、後期中半以後は越後・佐渡に広がりを見せるが、中期末の佐渡分布は特筆すべき現象である。ほかに須恵器の甕片も採集され、重複遺跡が確認される。【参考文献】 上林章造・中川喜代治・金沢和夫「二見半島における縄文文化」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】 佐藤俊策
・シタダミ(オオコシダカガンガラ)(しただみ)
シタダミ(小羸子、細螺)という方言は、佐渡に限らず使われているが、佐渡では磯の岩礁帯に、たくさん生息しているオオコシダカガンガラを主として、クボガイやヘソアキクボガイを指して呼んでいる。これらは、軟体動物腹足綱に属す、螺塔(殻の高さ)の高い小型の巻貝であり、海藻を餌としている。昼間は岩の下や隙間に潜んでいるが、夜になると這い出て、浅い方まで来て採餌する。このサザエと同じような習性を利用して、夜の岩場帯を灯火をたよりに、岩の表面を撫でさすって貝を採取する。これを佐渡では訛って「夜なれ」と称し、風物詩の一つとなっている。オオコシダカガンガラは、太平洋岸にすむバテイラの日本海型、すなわち亜種である。日本海型は、螺塔がもっと高く尖り、殻の畝がはっきりしていることが特徴。ゆでて、食用にする。田中葵園の『佐渡志』には、「扁螺ハ方言シタヽミ」と記してある。【執筆者】 本間義治
・七福神演能絵馬(しちふくじんえんのうえま)
下山之神町の大山祗神社に奉納されたもので、從一五○糎、横一一六糎で大型の絵馬である。昭和四十九年八月町の有形文化財に指定された。能舞台の絵馬は全国的にも珍らしく、「天保四年」(一八三三)の年号のほか、七人の奉納者が墨書で記されている。七人とも佐渡奉行所の地役人で、水田惟政・細野元則・渡邊安信・赤江橋賢吉・清水政清・小宮山千吉・井上恵迪である。ともに能に堪能な人たちであったろう。舞台上部正面に「金銀山」の文字額、橋掛りのところに「大盛」の文字が大書されている。このやしろは、慶長十年(一六○五)に鉱山の総鎮守として、大久保長安の手で建立されているので、通常の能舞台とは違った鉱山色の強い性格を持っていたと思われる。「金銀山」「大盛」などの大筆の文字をかかげる舞台は、ほかには例がない。橋掛りが舞台と直角に描いてあったり、囃し方も演能者も、ともに七福神の仮装で登場している。能のきまりからははずれた絵だが、金銀山の繁栄の祈願のほかに特別の祝いごとなどもあって、実際にこうした能が催された可能性もある。能ファンが多かったらしく、大勢の観客がまわりを埋めていて、「御能だんご」を売り歩く何人かの人が描いてあり、能を見ながら団子を食べる習慣が古くからあったという、町の古老たちの伝承をも裏づけている。古くは三月二十三日の祭礼日が、同社の定例能の日であったが、明治二十年代には能舞台もなくなって、近くの教寿院に新しい舞台ができた記事が『北溟雑誌』(二十二年五月)に見える。【関連】 相川の能(あいかわののう)【執筆者】 本間寅雄
・実相寺(じっそうじ)
日蓮宗寺院。山号は御松山。佐和田町市野沢の、舌状台地先端にある。日蓮が台地下の、堂の沢の奥の阿弥陀堂(現妙照寺)に謫居していたとき、毎早暁この丘に来て、東方の空に昇る朝日を迎え、故郷安房の両親を追慕しながら、題目を唱えたと伝えられる場所である。日蓮が思親拝日の際、手を清め口をすすぐために、外した袈裟を掛けたという松が、代々植えつがれている。実相寺縁起では、日蓮が塚原から一谷(市野沢)に移った文永九年(一二七二)日蓮自身の開基というが、『佐渡国寺社境内案内帳』には「当寺開基より三世迄歴代不知四世日心 貞治元寅年五月廿三日遷化」とあるので、実際の開創は貞治元年(一三六二)をややさかのぼるころであろう。堂宇は向かって左から、庫裏・本堂・祖師堂・妙見堂が、横一列に並ぶめずらしい配置で、慶長年間(一五九六~一六一四)の建築といわれる。本堂内陣の、欅の柱が円柱であるのも、佐渡ではめずらしい。また、妙見山頂の祠は、妙見大菩薩を安置するここの妙見堂の奥の院という。境内の西端、小丘上に立つ巨大な望郷思親の日蓮像は、昭和五十三年(一九七八)日蓮赦免七百年を記念して建立された。【関連】 日蓮(にちれん)・妙照寺(みょうしょうじ)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、本間守拙『日蓮の佐渡越後』【執筆者】 酒井友二
・級織り具(しなおりぐ)→佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)
・芝草原(しばそうげん)
ドンデンのすばらしさは、八○○㌶に及ぶ広大なシバ草原の美しさにある。放牧された牛によって成立した放牧草原であるが、ドンデンだけでない。大佐渡山地には、大塚山・ジャバミ・間峰・夏雪山など一二地区、放牧総面積八二○○㌶、推定放牧頭数八二○○頭(以上一九五八年頃)の放牧シバ草原がみられた。シバ草原を成立させる条件はふたつ。ひとつはブナの成立限界である年平均気温六℃の亜高山気候。もうひとつは、牛や馬によって常に食われていることである。シバは食われることに非常に強い植物。成長点は地表すれすれの所にあり、食われてもすぐ新芽を出して伸びる。大佐渡山系の放牧の歴史は、一千年以上と長い。放牧頭数の最も多かったのは二○○○頭。牛馬による一千年以上の休むことない喫食。喫食に弱い植物は消え、喫食に強いシバは、純度と均質度を高めた。昭和四十一年(一九六六)、生態学者の沼田真氏は「シバの均質度と純度の極めて高い日本のシバ草原のなかの典型的なもの」と診断された。ドンデンの美しさは、広い草原に島となり樹海となって展開する、四季折り折りに彩るブッシュの花。レンゲツツジ・ウラジロヨウラク・ホツツジなどは、いずれもツツジ科で有毒植物。低木林をおおうセンニンソウ、低木林のふちに咲くヤマトリカブト・エゾユズリハも有毒。有毒なるがゆえに、喫食されず純度を高め、群落を広げた花たちである。【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、『佐渡花紀行』【執筆者】 伊藤邦男
・柴町(しばまち)
町の長さ一七一間、町屋敷は一町八反二畝二○歩であった。善知鳥神社神輿の御旅所があり、山鉾がここまで来た。神輿は小路から入って磯際に鎮座し、神楽を奏するのを慣しとしていた。水金川を挟んで北は相川府外の下相川村となり、町の東側は享保年間に遊廓街となった水金町と隣合せであった。東の小高い丘には、元和八年(一六二二)開基の禅宗大泉寺、元和六年開基の浄土宗専光寺があり、南には寛永三年(一六二六)創建の風宮神社と、慶長十年(一六○五)創建の天満宮があった。天満宮は昭和二十九年に風宮神社と併合し、大泉寺は明治元年に廃寺となり、あとを小学校に転用し、今は柴町の信和会館になっており、仏具は信和会館で保管している。専光寺は浄土宗の法然寺と併合し、現在に至っている。浜側には慶長十一年(一六○六)にできた海府番所(柴町番所)があり、海府から入る薪や柴・炭を陸揚げした。湊は底が砂地であるけれど左右は岩場が多く、一丁ほどは浅瀬で、漁船のほか廻船は 掛りできなかった。他国から来た船は、材木町へ着き留木・材木を陸揚げし、海府から柴木を積んだ船を相手にした。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 佐藤俊策
・師範相川伝習所(しはんあいかわでんしゅうしょ)
明治初年、相川町に開設された教員養成機関。明治五年(一八七二)に学制が発布されると、明治六年八月、まず相川小学校が誕生し、順次各地に広まった。しかし、新しい学校が出来ても、教員の確保が容易ではなかった。新潟県に官立師範学校が設立されるのは明治七年で、相川小学校に宮城師範学校を卒業した正式の教員、鹿股秀治が来たのが同八年三月である。県は翌九年に、大工町に開設されていた南 校に師範仮講習所を設置し、鹿股秀治はその教師も兼ねて教員の養成に当たった。「仮講習所規則」によると、第一条に「此校ハ管内小学教員タル者ヲシテ二ケ月以内ヲ以テ授業法ヲ講習セシムル事」、第二条には「生徒ハ別ニ寄宿所を設ケズト雖モ検束ノ為メ相当ノ宿所ヲ撰シ之ニ入ラシムヘキ事」とあり、島内の小学校に勤務している教員を集めて、新しい教育内容と授業法を学ばせたことがわかる。この講習所は、後に相川伝習所と改称し、明治十三年まで続いた。仮講習所の生徒名簿には、若林玄益・石塚秀策・萩野由之ら、後に各界で活躍する三○名の名前があり、森知幾は明治十二年五月十四日に、相川伝習所を卒業している。【関連】 相川小学校(あいかわしょうがっこう)・森 知幾(もりちき)【参考文献】 『相小の百年』(相川小学校)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・死人柱(しびとばしら)
死人が硬直しないうちに、死体をヨセる柱のことを、相川町の北田野浦や北立嶋では、スミバシラといった。納戸とオマエ(居間)の、座敷寄りの隅の柱である。両津市真更川や河崎・赤玉地方では、これをシビトバシラといった。ヨセるときには、ヨセナワをかけると云い、北田野浦などでは、アラナワまたはスッコキ(六尺の帯)を首から脚のももにかけ、しゃがんだかっこうにしてしばった。ヨセると仏(遺体)にかならず合掌をくませた。男の合掌は左の親指が上、女はその反対(同町入川・高千)にした。北田野浦ではそのようなヨセかたが、大正十年(一九二一)ごろまで続いていたという。このように、死体にヨセナワをかけ棺に入れるのは、棺に入れやすいためだとか、生まれかわりにヨセて小さくしてやると、都合がよいなどと佐渡の古老たちはいうが、実は死体をしばりあげるこの習俗については、霊魂さえていねいにまつれば、そのぬけがらの死体は、さほど重視していなかったためだとか、あるいはこのような扱いは、死霊に対する恐怖からくるものだ(井之口章次『日本の葬式』)とかの説がある。【参考文献】 山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)【執筆者】 浜口一夫
・シマシロクラハゼ(しましろくらはぜ)
シマシロクラハゼ(縞白黒沙魚)を、新種として命名記載されたのは、現明仁天皇と目黒侍従であり、昭和六十三年(一九八八)のことであった。本間(一九五七)、ホンマ(一九五七)、本間・田村(一九七二)は、相川町達者で採れた四㌢の標本をシロクラハゼと同定し、発表した。この論文に付けられた写真を御覧になった当時の明仁親王は、これをシロクラハゼとは別種のものと査定された。そこで、青森県津軽半島三厩で採れた標本を完模式標本、達者産を副模式標本に指定されて発表されたのである。シロクラハゼでは、項のところの白帯が幅広いが、シマシロクラハゼでは狭いことで区別される。副模式標本は、新潟大学理学部附属臨海実験所に保存されている。明仁天皇は、ハゼ科魚類の分類・系統・形態に関する論文や図鑑などを、三○篇余も発表しておられる。【参考文献】 『図説 佐渡島』(佐渡博物館)、本間・田村『新潟県生物教育研究会誌』(八号)【執筆者】 本間義治
・島根のすさみ(しまねのすさみ)
佐渡奉行、川路三左衛門聖謨の佐渡在勤日記。原本は宮内庁書陵部にあって、昭和四十八年二月、平凡社発行の東洋文庫に収録されて、初めて刊行された。編者は、同書陵部に勤めていた川田貞夫氏。天保十一年(一八四○)六月、勘定吟味役から佐渡奉行に任命され、同七月から翌天保十二年五月までの、ほぼ一年間にわたる日記で、日々書き記して江戸にいる母に送った。「旅中の日記を審(つまびら)かに記し、母上へ奉り候数々」と書き、「専ら佐渡のことを記せしかば、島根のすさみと題して一篇の書となせし也」と裏書きしている。母は、豊後(大分県)の国の日田の代官所の属吏、高橋小太夫誠種という人の娘で、父の内藤吉兵衛歳由が、同代官所に勤めていた関係で結ばれたという。この日記が書かれたとき、母は六一歳で還暦を過ぎていた。川路は四○歳である。川路が有能な幕吏だったことは広く知られているが、勤務を通して観察した佐渡の政治・経済・社会を、軽妙酒脱な筆致で詳細につづっている。とりわけ奉行恒例の巡村記は、描写が適格で、この島の国情がよく出ている。「佐渡は文字ある国」と記し、島びとの能好みに驚いている記述などもある。ほかに「長崎日記・下田日記」を残している。【関連】 川路聖謨(かわじとしあきら)【執筆者】 本間寅雄
・しまのくらし(しまのくらし)
「生活をつづる会」の機関誌。戦後の混乱期に芽生えた文化運動の一つ。中央での“生活記録”運動の影響もあり、当時、県の社教主事であった島川鉄二と、磯部寅雄の呼びかけで、小間口貞子・三浦啓作(相川)、石川忍(両津)、笹木行雄(金井)、左京栄治・内田アサノ・渡辺庚二(畑野)、若林正・右近久武(真野)、佐々木越江(羽茂)、菊地太一(赤泊)の一三名が集まり、昭和三十三年(一九五八)七月六日の、第一回準備会で、「生活をつづる会」が誕生し、文集『しまのくらし』第一号(表紙高橋信一の版画、ガリ版刷)を、同九月十四日に発行した。文集は季刊で、会員は全島規模のため、文集発行の都度、合宿で合評会を開催した。各地区に世話人をおき、地域の文化活動にも積極的に加わり、新入会員の呼びかけ・会費・原稿などの協力をお願いし、各地区ごとの集会も、散発的ではあったがとりくみがあり、落書き帳の回覧などで、会員同志の交流もはかった。会員数も多いときで一七○名を越え、「新潟日報」にも数回にわたり連載され、野間宏(作家)の批評があった。一○年を経過した頃から原稿難に見舞われ、文集三八号の合評会(昭和四十五年八月二日)を最後に、自然消滅した。【参考文献】 『しまのくらし』(生活をつづる会)【執筆者】 三浦啓作
・下相川(しもあいかわ)
相川町初期に誕生した鉱山集落。上相川にたいして付けられた名称。初期の金山町(相川町)は、上相川・間山・下相川を結ぶ山より海までの範囲を指していた。慶長八年、佐渡奉行所(陣屋)敷地を、山主山崎宗清から五百両で買いとり、上町から追われた野田千刈の百姓らに、下相川段丘の約八町歩の地を替え地に与えて移動させた。これが下相川で、戸川沢の北にある海府百姓町である。元和三年(一六一七)の下相川村屋敷検地帳には、屋敷持百姓五六人と非屋敷持者一一がいる。後者は播磨などから渡来した石切らと思われる。また金銀山で鉱石製錬業が盛んになると、戸川沢に多数製炭業者が集り、炭焼き藤五郎伝説も生まれた。富崎には善知鳥神社の元屋敷がある。もと住吉大明神であったと伝え、相川の都市化が進行すると下戸(現在地)に移り、跡地に戸河神社が下りてきた。戸川沢には、真野より日蓮宗本興寺が永正年中に入ったと伝える。金銀山で働く者や、資材の調達・供給などの任務をになった外海府の大中使(大名主)村田与三兵衛がいた。元禄検地帳では、村高二七三石余、田高一六八石余、畑高一○四石余、田畑それぞれ一二町余。重立百姓の屋敷面積は三畝歩前後で、町づくりに地割をして居住させた。石切町では製錬用の磨石を切り出し、貞享二年(一六八五)の石切は、平三郎・又右衛門ら七人であった。金銀山の景気に左右され、人の出入りの多い近郊村であった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・下京町(しもきょうまち)
京町の上・中につづく下端にあって、鐘楼の近くまでが下京町である。文政九年(一八二六)の相川町墨引の絵図によると、夜番所・郷宿・町年寄・定人足頭・御抱地など、公的役柄に関わる建物や肩書きが目につく。ほかに小間物や清酒を売る店、蕎麦屋・日雇取などの文字がみえるが、八百屋町や会津町との境界がはっきりしないため、職種別数字を示せない。ここは奉行所にも近く、北側の四十物町、西側の米屋町・八百屋町など、生活用品を扱う商店街との関係位置からみて、初期住宅街であったことがわかる。そして、町割りも整然としており、広間町に御陣屋が建てられた頃には、城下町的性格の町であったと想像される。【執筆者】 本間雅彦
・下寺町(しもてらまち)
間切川左岸にある相川カトリック教会のところから、南東に石段をつたっていくと、下寺町から中寺町へつづく。寺だけの集落で、江戸中期の相川町絵図に、この町の俯瞰図として、樹木にかこまれた各寺院が写生的に描かれているが、文政九年(一八二六)の相川町墨引の切絵図からは除外されていて、境内の様子を知ることができない。俯瞰図では、浄土宗の法界寺だけが、腰廻りに手すりのある回廊がめぐらされていて、特別な寺であったことを示している。宝暦の頃(一七五一ー六三)の書『佐渡相川志』によると、法界寺には広竜山一乗院の肩書があり、当国一宗(浄土宗)の触頭也とある。同寺は應仁の頃からの古い開基を伝えているが、相川に移った経過はわかっていない。右書では、当時下寺町には二○か寺があったと記されている。それを宗派別にみると、真言宗二・禅宗六・浄土宗五・日蓮宗七となっていて、日蓮宗や浄土宗など、中世の浄土系寺院が多く、真言宗が少ないという点で、国仲農村部との違いがみられる。【関連】 相川カトリック教会(あいかわカトリックきょうかい)【執筆者】 本間雅彦
・下寺町石坂(しもてらまちいしさか)
大安寺わきを流れる南沢川を渡って、相川町保育所横から下寺町に至る、延長約一四五㍍の石段道である。石段は巾約二㍍、高さは一○㌢から二○㌢位、奥行は約五○㌢で、およそ三個の加工した小礫まじりの凝灰岩と安山岩によって組まれていて、現在は二四六段が数えられる。『佐渡相川志』に「下寺町石坂」として、「明暦ノ頃迄坂幅三尺斗リ。石段モナク狭キ道ナリ。小六町道伝ト言フ者、伊勢ヘ志シテ遂ニ趣キ得ル事不能引返シテ帰リ来リ、持参金ヲ以テ越前石ヲ買ヒ、此坂ヲ両方ヘ広メ石坂トス。石段ノ数三百三十三階アリ。此者小六町西側ニ居ス。遊女ヲ多ク抱ヘ置ク。家作リ宜シ庭ニ泉水茶屋掛リ、築山ノ形天和・貞享ノ頃迄アリケルトナン。今シカト其所ヲ知リタル者ナシ。」とあり、道伝の求めた越前石は凝灰岩であろう。石段道の左右には安養寺(廃寺)・高安寺・昌安寺(廃寺)・福泉寺があり、登り口の高安寺の反対側には、大久保石見守長安の逆修塔の石質と同じ、越前石(笏谷石)と思われる凝灰岩製の宝塔観音(丸彫座像)がまつられている。石坂を登ると、観音寺・本典寺・法然寺・蓮長寺などが並ぶ下寺町にいたる。相川町には他に、下山之神町の総源寺脇より北沢へ下る、総源寺玄妙が開いた玄妙坂には、元文年中に江戸の回国三左衛門が築いた石径があり、新五郎町の北側から夕白町へ下る蔵人坂は、山師豊部新五郎(後に蔵人)が開いて石段を築いたとする。下寺町石坂は、西坂および厳常寺坂とともに、昭和四十九年(一九七四)八月一日、相川町史跡に指定された。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 計良勝範
・下畑玉作遺跡(しもばたたまつくりいせき)
佐渡の国仲平野に分布する、弥生時代の佐渡玉作遺跡の一つ。畑野町大字畑本郷の水田地帯にあり、通称下畑という。昭和四十六年(一九七一)と四十七年に、基盤整備事業による緊急発掘調査が、畑野町教育委員会によって行なわれた。櫛目文を主体とした、弥生中期中葉から後期にかけての土器と、石鏃・石斧、および管玉・勾玉・石鋸・砥石・石針などの玉作資料、炭火米などがあり、特に五基の土壙墓の検出があった。土壙墓のうち、第一号土壙墓は最も長く、四・八五㍍、幅約五、六○㌢で割竹形木棺、第四号土壙墓は組合せ式木棺とみられた。この五基の土壙墓はそれぞれ近接してあり、主軸はほぼ北西ー南東に向いていて、弥生玉作集団の墓制を知る墓域が検出されたものである。昭和四十八年、県指定史跡として保存された。【参考文献】 『下畑玉作遺跡 第一次緊急調査概要』(畑野町教育委員会)、『下畑玉作遺跡 第二次緊急調査概要』(畑野町教育委員会)【執筆者】 計良勝範
・下山之神町(しもやまのかみまち)
通称「山の神」の名で呼ばれる神社で、佐渡鉱山の総鎮守社である大山祇神社(『佐渡相川志』の付図には「山の神」の文字をしるしてある)と、相川町の産土神善知鳥神社とならんで、流鏑馬の行事を伝える武神八幡神社などの有力者はじめ、愛宕神社がこの町にある。寺院としては、禅宗の総源寺、真言宗の大乗寺、日蓮宗の法泉寺があり、下相川町の県立相川高校の東南側道路沿いに住宅地がならぶ。そしてそのすぐ東側には、相川高校の「山の神グラウンド」がある。江戸中期には右記寺院のほかに、天台宗の大光院と教寿院、禅宗の長泉寺、浄土宗の厳浄寺、真言宗の遍照院があって、南沢の寺町界隈と同じように、寺院が集中していた。大乗寺墓地には、良寛の母おのぶの実家橘屋の墓地や、鉱山技師スコット夫人の墓が、総源寺墓地には佐渡奉行たちの墓が、そして愛宕山には漢学者圓山溟北の墓がある。【関連】 良寛の母おのぶ(りょうかんのははおのぶ)・スコット・圓山溟北(まるやまめいほく)【執筆者】 本間雅彦
・砂金(しゃきん)
古くは沙金とも書く。山中や川底の砂礫の中にふくまれる金で、『続日本紀』の天平勝宝元年(七四九)に、陸奥の国から砂金を堀り出して、初めて官庫に貢いだ記事が、文献上の初見だろうとされている。人類が知り得たもっとも古い金属が、金であるといい、砂金洗い取りによる採取法は、記録以前の原始の時代から始まっていたと思われる。佐渡でも平安時代末期には、金(砂金)が採れていたことが、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』の記述からもうかがわれ、鉄(砂鉄)を採る能登の人たちが、佐渡から、金を持ち帰った話が出ている。その場所は、西三川川一帯(真野町)とするのが通説のようで、日本の産金法といえば、中世末までは、おおむね砂金であった。もともと金をふくんだ岩石や鉱床が、侵蝕や風化作用で破砕され、ほかの鉱物から金粒が遊離し、流れに運ばれる。砂鉄などほかの鉱物より重いから、川底や海岸などに沈積して残った。西三川砂金山のばあいは、もともとの鉱床がどこにあったかが不明だが、平安時代から明治の初めまで稼かれるほど、大量の砂金が埋蔵されていたのである。昭和二十三年の冬、西三川一帯をボーリング調査した新潟県資源課技師の、百武松児らによる「砂金調査報告」によると、同地の砂金の形状は、西三川・笹川べりでは塊状・楕円状・扁平粒状・棒状などが多く、色彩は水中だと黄金色、乾くと表面がにぶい金色になり、海岸部で得た漂砂金は、板状・球状・針状のものがあり、色彩は白味を帯びたのが多かったという。【関連】 西三川砂金山(にしみかわしゃきんざん)・笹川十八枚村(ささがわじゅうはちまいむら)【参考文献】 磯部欣三「カネ堀りの村ー三河砂金山」【執筆者】 本間寅雄
・しゃく(しゃく)
【科属】 セリ科シャク 古名サク。サクはシシウドのこと。それに似て小形なのでコサク。それがコシャクとなり、現在はシャクになったは牧野富太郎説。サクは神事に使う赤米で、シャクの果実が似ているからとは、前川文夫説である。五月に咲くからかさ状の花序は、径八㍉の白色五弁花の集りで、ニンジンとそっくり。葉もニンジン葉に似るので、佐渡ではヤマニンジンと呼ぶ。佐渡では希産。相川町大浦の尾平神社(海抜二○㍍)、関(三○㍍)、金井町千種(一九○㍍)、赤泊徳和浜(一○㍍)と沿海地と分布は限られる。新潟県下でも、佐渡・弥彦・角田・青海・阿賀野川流域にのみ分布する。新潟市・長岡市・上越市の一帯は、ポッカリ穴が空いた様に分布してない。オドリコソウの分布そっくりの、おもしろい分布型である。五月上旬、尾平神社に通ずる道はオドリコソウ・ホウチヤクソウ・ヤブニンジン・シャクなどの花盛り。シャクの太いがみずみずしい茎はポッキリと折れてうまそう。「ヤブニンジンの新芽は食べられる。根は薬になるので相川の仲買人に売りに行った」と村人はいう。生薬名は峨参(がさん)。消化促進・強壮・老人の頻尿に効く。【花期】 四~五月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・杓子渡し(しゃくしわたし)
相川町関では、大年の晩一升枡に米を入れ、新しいシャモジを添え、姑から嫁に「これからおめぇが、家事一切をきりもりせぇ」といって渡された。それをカカワタシといった。カカワタシは主婦権委譲のことで、シャクシワタシとも云い、大年の晩に行われる所が多い。この晩は、シャクシ渡しの世代交代に、最もふさわしい節日であったのだろう。赤泊村腰細では大年の晩、メシジャクシ一本を洗い清め、白の木綿糸を添えて渡したという。また長野県北安曇郡でも、この晩シャクシをなべぶたの上にのせ、手拭い一本添えて渡し、岩手県遠野地方では、なべぶたに大小二本のヘラ(シャクシ)を並べ、その大きなヘラで囲炉裏のかぎをたたいてから渡したという(井之口章次他『ふるさとの民俗』)。佐渡に「嫁と名がつきゃ姑がいじる、カカになりたいビンカカに」(ビンカカはイヌツゲの木の俗称)という古謡がある。みじめな嫁の立場から、カカの座への昇格は久しく望んでいた夢である。カカになれば、その家の主婦である。家事一切のきりもりがまかされる。そのカカ座の権限は、いわば食物の管理権であり分配権でもあった。そのため、かっての自給自足の農家にあっては、米びつはもちろん、麦・小豆などの穀物類一切について、カカ以外の人は勝手にさわったり処分したりはできなかったのである。【参考文献】 浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、山本修之助『佐渡民俗ことば事典』【執筆者】 浜口一夫
・地役人(じやくにん)
佐渡奉行の支配地で勤務する条件の許に、現地採用された下級役人で、抱え筋の身分であった。譜代とちがい一代限りの採用で、幕府の御家人でありながら、いかに能力・手腕にすぐれても、昇進は広間役までであり、島から抜け出れない仕組みであった。戦国期に滅亡して渡海した浪人を採用したが、甲州武田の家臣が多いのが目をひく。慶長・元和・寛永と、佐渡に奉行所が設置された江戸初期の採用が多い。抱え筋の一代限りの採用とはいいながら、結果は譜代と同じ跡目相続による世襲で就職する場合が多く、親の功や永年勤続の恩賞で譜代格になった者もいる。地役人には、並役と定役の職制があった。並役は平役人であり、定役は格付役人で、衣服や役金の差は勿論、身分は与力格に準じた。広間役は継裃で勤務し、礼服は熨斗目・白帷子・麻裃で、在出の供連れは若党・槍持・挟箱持・草履取の四人を召し連れ、具足を持たせ、長棒の駕籠に乗ることができた。宿泊する場合は入口に幕を張るなど、与力格では有利な待遇であった。定役から広間役に昇進し、これが地役人の最高職制となったが、時代により人数に変りがあった。並役の下には部屋住・見習があり、跡目の若い者が経験のために着いた。【参考文献】 佐藤俊策「地役人」(『佐渡相川の歴史』資料集七)【執筆者】 佐藤俊策
・修教館(しゅうきょうかん)
文政八年(一八二五)、地役人田中從太郎(葵園)によって設立された、佐渡奉行所付 の学問所。これより先文化二年(一八○五)、田中は同志と私塾広業堂を開設して、地役人の子弟に素読・輪講を行っていたが、私塾には限界があり、地役人の教化のため、官立の学問所の必要を痛感していた。そのため同八年(一八一一)、佐渡奉行金沢瀬兵衛に学問所の設立を建白したが、これはすぐには実現せず、同十年佐渡奉行水野藤右衛門は、従来町会所で行っていた素読指南を、奉行所構内に素読所を設置して、ここで指導することにした。しかし、これは、子弟の初歩的学習の場でしかなく、田中の考えている学問所には、遠く及ばないものであった。そのため田中は、文政五年・六年と続けて学問所設立を建白した。歴代奉行が設立を躊躇したのは、幕府財政逼迫の時期に、莫大な費用を要する学問所建設に、中央の承認が得られないと考えたからであった。翌七年、泉本正助・勝勘兵衛両奉行は、費用は地役人の貯蓄した出目銭から支出するという、田中の意見書を可として、幕府に申請して許可を得、翌年八月に学問所・武術所・医学所が竣工し開校した。さらに、文政十二年孔廟を落成、「校則八箇条」を制定した。この間泉本の懇望で、紀州藩主徳川斉順の染筆による、「金聲玉振」「修教館」の扁額も掲げられ、広間役二人・学問所預一人・勤番頭取一人・書籍預り一人・学頭二人・目付役二人・医学所世話煎医師四人の職員も決定した。学問所の授業は、経書講習・武術・素読・医学などで、学則に朱子の「白鹿洞書院学規」を範としているように、林家朱子学に拠るもので、修教館は幕府の昌平坂学問所を模範として設立されたものである。主な教師として、田中葵園・丸山遜卿・本間默斎、のち圓山溟北らがいた。入学者は、旗本・御家人・地役人・医師に限られたが、講釈だけは庶民にも聴聞を許した。学田三町二反余を大和田村に有し、経営資金とした。天保五年(一八三四)火災、同十三年再建したが、安政五年の相川大火で焼失、再建後翌六年三たび火災で焼失、昔日の結構を失った。【関連】 田中葵園(たなかきえん)・泉本正助(いずみもとしょうすけ)【参考文献】 西川明雅他『佐渡年代記』、『佐渡近世近代史料集学問所記録』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 児玉信雄
・重泉寺(じゅうせんじ)
小田にあり、真言宗智山派。本尊は大日如来で、山号は明星山である。開基は知れずとあるが、古くから伝えられる仏具に、康暦二年(一三八○)の書付があったと、元禄七年(一六九四)の奉行所への書き上げに記載されている。今はないが、境内に虚空蔵堂があったことから、その別当寺として成立したもので、虚空蔵は建原次郎右衛門の持仏で、境内地も次郎右衛門の地所であったと伝えられる。また小田の字大塚には、石名清水寺持ちの廟所があり、重泉寺は清水寺の末寺であったと伝えられる。元禄の書き上げは、真光寺門徒とあるが真光寺の記録にはなく、清水寺から独立しようとする気運が読みとれる。清水寺より遅れて享保二年(一七一七)真光寺の末寺になった。明治の廃仏毀釈では廃寺となったが、明治十五年再興した。【関連】 清水寺(せいすいじ)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 近藤貫海
・十二権現(じゅうにごんげん)
社名としての十二権現社は、今では島内に存在しないが、かって十二神信仰があって、江戸期に十二権現社を名乗っていたところは、全島で四五社を数えることができる。越後平野では、現在も「十二」を冠した社がおびただしく多く、明治二十年(一八八七)の調査では八七○もあった。佐渡ではそのときすでに、大方は熊野神社に改名していたので、四五社はその中に入っていない。相川下戸の熊野神社は、その改名社のひとつであるが、もともとこの社の所在地が「十二ノ木」という地名で、古代信仰の痕跡を今に伝えている。島には他に、北方・久知河内・歌見に同地名があり、「木」以外に十二に伴う地名となると、五○例に及ぶ。つまり佐渡は、十二信仰の古型の保存では、他地のどこよりも多出地なのである。十二社が山の神や狢神であったり、熊野十二神に結びつけられたりするようになるのは、江戸中期以降のことであり、起源追求上で学問的にはあまり意味のないことなので、そのような次元ですり代えてしまって、研究の対象から外さないことが必要である。このように、全国の十二神信仰の中心は新潟県であり、右記したようにそのうち佐渡が最も密度も濃く、特徴的でもあるので、将来の民族学的・考古学的研究を、俗説でゆがめないためである。【関連】 熊野神社(くまのじんじゃ・下戸村)【参考文献】 本間雅彦『牛のきた道』(未来社)【執筆者】 本間雅彦
・宿根木(しゅくねぎ)
小木町大字宿根木。弘安八年(一二八五)本間宣定と重久との木野浦郷の小名の帰属をめぐる相論に、宿禰宜がでてくる。宣定は羽茂本間氏とみられ、建武三年(一三三六)の宿根木戦争で勝利し、それ以降、上杉氏支配まで羽茂殿の船宿が宿根木に置かれた。文和四年(一三五五)三月、時宗遊行八世渡船が佐渡へ布教のため渡ったとき、最初の着岸地は宿根木であり、時宗称光寺はすでに存在していた。宿根木は小木三崎の中世の湊であった。古くから、海食洞窟の岩屋山は観音霊場となり、のち時宗によって浄土信仰が加わり、中世廻船の湊となっていた。宿根木の産土神の起源は「古事伝聞記」によると、「嘉元二年(一三○四)ニ海中ヨリ石塚権兵衛所持ノ浜、榎ノ岸ニ御神体ガ上リ、白山妙理大権現社ヲ建立シタ」とあり、また建治三年(一二七七)に高津兵衛太郎が、加賀国白山本宮から分霊を請い、嘉元二年に社殿を建立したと『佐渡国神社帳』にある。慶長十九年(一六一四)小木湊が佐渡奉行所指定の渡海場となると、宿根木は寄港地小木にたいする近世廻船の基地となり、船大工はじめ諸職人の集まる湊となった。明和四年(一七六七)、沢根浜田屋大黒丸・二五○石積(弁才船)を宿根木にてはじめて新造、以後相ついで新造船が建造された。高津勘四郎船・白山丸が新造されたのは安永三年(一七七四)で、産土神の名をとった宿根木船新造の嚆矢であった。近世末から明治二十年代にかけて、宿根木船は北前交易により、佐渡最大の富を貯える湊となった。平成三年に、かっての集落の景観を保存するため、重要伝統的建物群保存地区の選定を受け、その保存事業が始まった。【関連】 小木港( おぎこう)【参考文献】 『佐渡小木町史』(「村の歴史」下)、『千石船の里 宿根木』(創刊号 佐渡国小木民俗博物館)【執筆者】 佐藤利夫
・守隨秤(しゅずいはかり)
幕府が秤座について、全国を東西に分け、東国三三か国を守隨家に、西国三三か国を神(じん)家に管掌させたのは、承応二年(一六五三)六月とされている。したがって佐渡は守隨氏の、いわゆる「江戸秤座」管轄下に入ることになる。守隨氏は甲州武田家以来の古い秤細工人で、家康の時代には三河・駿河・甲斐など、五か国の秤の製作を独占する家柄であった。佐渡には手代の「吉兵衛」が慶長十九年(一六一四)に、二代吉兵衛も相次いで来島し、どちらも下寺町の禅宗円通寺(廃寺)に葬られたと記録された。守隨秤所、いわゆる「佐渡秤座」が早く相川に開設されていたことがわかる。守隨氏の手代ではなく、守隨家三代の正次(彦右衛門)が、佐渡へ「秤御用」のため来島して、寛文十年(一六七○)四月二十五日に病死し、相川鹿伏の光明寺に葬られた(守隨家系譜)ことも近年わかった。初名を兵三郎といい「受職六二年」とあるから、二代目の死亡した翌慶長十四年(一六○九)から、守隨家を統率していて、同十九年にはそれまでの「甲州秤座」から、関八州の権衡支配の独占権を幕府から得た人であった。手代の吉兵衛親子が、そのために佐渡へ詰めることになる。佐渡秤所が特設されるほどだから、秤の需要、その定期的な秤目の検査・検印などの公務が、金山による経済発展を背景に繁雑をきわめたことがわかる。なお延宝元年(一六七三)に佐渡で秤改めがあったとき、守隨家では越後高田の次郎左衛門という者を雇って来島させていて、佐渡秤所はいくどか廃絶することがあったらしい。のち佐渡の秤改めは、越後高田秤座の名代で馬場氏という者によって管掌されたと伝える。【参考文献】 林英夫「秤座」、西川明雅他『佐渡年代記』【執筆者】 本間寅雄
・巡見使(じゅんけんし)
江戸幕府の臨時職制で、巡検使には諸国巡見使と、国々御料所村々巡見使の二つがある。諸国巡見使は寛永十年(一六三三)が最初で、この時は全国を六地区に分け、各地区三人一組で巡国して、大名監察を主たる目的にしたが、佐渡は幕領のためか来島しなかった。佐渡来島の初見は、寛文七年(一六六七)甲斐庄喜右衛門外二人である。のち天和元年(一六八一)以後は全国を八地区に分け、将軍の代替わりごとに発遣する例となり、七代将軍徳川家継を除いて天保九年(一八三八)まで行われ、発遣区域とコースは定着した。国々御料所村々巡見使の派遣は、正徳二年(一七一二)から全国の天領を対象に行われ、八代将軍徳川吉宗のとき中断したが、延享二年(一七四五)以後天保九年まで、諸国巡見使同様将軍代替わりごとに発遣された。佐渡への来島の初見は、延享三年勘定多田与八郎外二人である。【参考文献】 『国史大辞典』(吉川弘文館)【執筆者】 児玉信雄
・浄永石塔(じょうえいせきとう)
大安寺境内の、歴代上人石塔の一隅にある。角柱形に加工した凝灰岩で作られているが、風化剥落が大きい。巾二六㌢、横面巾二○㌢。高さは向って右上端が残っているようで、一二四㌢を計り、小泊の石英安山岩と思われる加工した基礎の上に立っている。正面は殆んど欠け落ちて文字が読めないが、南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれていたものであろうか、最後の文字が、塔面の下端にわずかに痕跡をのこす。向って右側面には、「干時慶長拾六□暦□月」、左側面には「□□(日カ)寺願主浄永」と刻まれている(従前「當寺願主浄永」と判読されているが、「當寺」は「□□(日カ)寺」と、寺名が彫られているらしい)。左右側面の文字は、大安寺の宗岡佐渡守名号石塔にみるような、大ぶりののびやかな書体を示し、正面の文字も、それに共通していたと思われる。慶長十六年(一六一一)は、浄土宗大安寺を建立した大久保長安が、当寺内に逆修塔を建てた年に当る。もともとこの石塔が、大安寺に伴うものであれば、大安寺開基聖誉貞安と願主長安、またはその関係者との関連性は無視できない。しかし、「願主浄永」は記録に表れておらず、「浄永」は誰か、現在確定されていない。破損が大きいが、数少ない佐渡の慶長年石塔の一つである。【関連】 大安寺(だいあんじ)【執筆者】 計良勝範
・庄右衛門町(しょうえもんまち)
市街地から旧佐渡鉱山に向って、すぐ手前の北沢川の渓谷沿いに、近年まで木造の鉱山労働者の飯場が立ち並んでいた辺りが、庄右衛門町である。現在はすべて取壊されて、わずかな畑地のほか原野になっている。南は諏訪町の万照寺(浄土真宗)や、次助町の江戸無宿の墓に近い辺りまでが境いで、北は佐渡鉱山跡の第三駐車場の南を流れる小流までである。文政九年(一八二六)の「相川町墨引」をみると、上相川道の方向に幅広い道が描かれ、二十数軒の家並みがある。そして北端のあたりで、東に向いた「桐ノ木沢道」が記入されている。【執筆者】 本間雅彦
・浄金妙福地蔵(じょうきんみょうふくじぞう)
大安寺山門前の参道左側わきにまつられている、石造の地蔵菩薩である。もとは浄土宗安養寺にあったもので、『佐渡相川志』に、「安養寺 下寺町ノ石坂今ノ高安寺南側境内四反三畝大安寺末。寛永十癸酉年(一六三三)開基ス。延宝三乙卯年滅亡ス。寺地ハ本寺ヨリ支配。元文四己未年三月十一日下戸町立願寺ニ譲リ、本尊ハ新穂中川次郎右衛門位牌所ノ堂ニ安置ス。安養寺境内ニ年久シキ石像ノ地蔵アリ。享保ノ頃念性ト言フ道心者夢ノ告ニ依テ今大安寺境内ニ移ス。世ニ妙福地蔵ト称ス。施主妙福ト彫刻セシ故也。」とある。これによって、この石地蔵は寛永年に開基した安養寺にあったもので、享保年に大安寺に移されたものであることがわかる。石地蔵は、頂を山形にした、高さ一六○㌢、巾七○㌢、厚さ一六㌢の板碑形に、板彫状に近い地蔵を半肉彫にしているが、石質は石英安山岩の小泊石であろう。像高は一三五㌢、肩巾四四・五㌢で、大形で稚拙な彫刻を示し、室町後期らしい線を省略した簡素さが特徴である。顔相は、眼を大きく彫りくぼめて見開き、鼻と口は小さく、耳は大きい。両肩を張り、手はあるかなしかに小さく、足もただ棒状にしている。右手に錫杖、左手には宝珠を持つ。衣は袴と着物をはおった様な大雑把な姿で、全体に細かい縦の細線(縦縞)を刻む。像の下部左右には、向って右側に「浄金禅定門」、左側に「妙福禅定尼」と刻んでいる。浄土宗の五重相伝の行を得た男が禅定門、女が禅定尼の称号を贈られるが、この場合は夫婦であろう。相川では他に、大安寺に河村彦左衛門の「清岳浄栄大禅定門」がみえ、相川金銀山そのものをたたえた戒名の如くにも思える。佐渡石仏の室町風のものと言えるものであり、室町末から江戸初期に造顕された石仏であろう。なお現在、施主不明となった墓石を集めて、コンクリートで固めた祠内に安置されているが、その祠の前端両はじに石塔があって、向って右塔には「南無阿弥陀仏」、左塔には「南無阿弥陀仏 源空(花押)」「精蓮社進阿建立」(裏側)と刻まれている。この二本の石塔は、中寺町にあった大超寺(大安寺と合併)にあったものであるらしく、祠が作られる(大正年)以前は、大安寺山門前に立てられていて、この「浄金妙福地蔵」とは関係ない。【関連】 大安寺(だいあんじ)【執筆者】 計良勝範
・浄厳名号塔(じょうごんみょうごうとう)
浄厳の名号を刻んだ塔。浄厳が佐渡を離れた天保年間中頃から建立され、年号の判る塔では、天保八年(一八三七)から明治三十三年(一九○○)までに及んでいる。名号塔は、浄厳が自ら彫ったものではなく、浄厳やその弟子の明聴などから授かった木版刷りの名号符をもとに信者が建立し、発願の内訳は、その家の先祖代々供養と、日課念仏の満願達成である。唯一浄厳が、自ら彫らせたと思われる名号は、岩谷口の岩谷山洞窟の壁面名号だけである。名号の分布は、山居から岩谷口周辺が最も多く八基を数え、次いで金井町吉井本郷西方庵周辺に六基、旧相川町に四基、講中の先達が本間三郎平と安土万助の二人居た北川内に三基、この他講中のあった千本に二基、後尾・石花・北片辺・南片辺に各一基あり、佐和田町五十里に二基、両津市浦川・歌見・水津にも講中の塔が一基ずつあって、現在三二基が確認できる。高千地区に講中が多いのは、良質の木材を産出した山居周辺に、高千の木挽きが入って仕事をするうち信仰するようになったと伝えられ、先達三郎平には、巾三○㌢高さ八○㌢の名号二幅と、巾三○㌢高さ七○㌢の浄厳の描いた「弾誓上人降魔の図」が伝えられている。また小木町光善寺墓地には、字が素晴らしいとのことで、昭和四年某家の墓石に、浄厳名号が使用されている。【参考文献】 田中圭一『帳箱の中の江戸時代史』(下巻)【執筆者】 近藤貫海
・浄厳利剣名号塔(じょうごんりけんみょうごうとう)
お不動さんが持っている剣が利剣で、煩悩を突き破る剣といわれる。利剣について、中国浄土教の大成者「善導」は、「阿弥陀仏には、罪業を断つすぐれた徳が具わっており、その利剣は阿弥陀仏の名号のみである」と説かれておることから、南無阿弥陀仏の六字名号には、鋭い剣の形をした名号も書かれてある。また、江戸時代の本には、弘法大師が書いた利剣名号が伝えられており、徳本も書いているが、利剣名号を残した人の数は少ない。だが浄厳名号塔には、利剣名号が二二基を数え、数多く残されているのが特徴といえる。【執筆者】 近藤貫海
・尚歯会(しょうしかい)
明治十四年(一八八一)七月に、相川の圓山溟北・丸岡南 ・坪井雲僊が呼びかけて、島内で一芸に秀でた高齢者を招いて開かれた会。相川一町目裏の元中教院跡(いまのあいかわ幼稚園)に、「尚歯会碑」が残っている。尚歯は、唐の白楽天の故事によって生まれた高齢者を尊重する、という意味で、溟北らは古稀以上の高齢者で、一芸以上に秀でた名前のある人たち一二人を表彰した。相川の白鳳禅師(八八歳・挿花・点茶)、渡部鉄斎(八一歳・書)、海老名義明(七八歳・連歌)、飯島吾吉こと梧翁(能楽)。また羽茂の氏江元彦(七五歳・謡曲・冶刀)、羽生致孝(七二歳・和歌)、夷の安藤世彦(八○歳・絵画・謡曲・能楽)、石田の名畑拘樓(七六歳・謡曲・能楽)、新町の山本雪亭(七四歳・囲碁・書・筆)、大野の土屋松渓(七七歳・書)、湊の中村春彦(七五歳・和歌)たちである。能好みの老人が多いことは、佐渡の能文化の層の厚さを示している。このうち相川の飯島は、遠藤可啓に師事した観世流のワキ方で、柏崎でも五十余人の門弟がいた。明治十七年に七六歳で没したが、大きな体格から「コッテイ翁」(肥大した牡牛の方言)と晩年呼ばれる。尚歯会碑は、高さ一三五糎・幅六一糎。右側から背面にかけて溟北の序文、左壁面に丸岡南 の頌文が彫りこまれている。【参考文献】 椎野広吉『佐渡と能謡』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 本間寅雄
・城島岩陰遺跡(じょうじまいわかげいせき)
相川町大字大浦一四四六ー一に所在し、水田耕作の便を考え整備中の平成二年(一九九○)に、佐藤俊策により発見されたものである。地表に出ている岩は東西に横たわり、扇状に弯曲して広がりを見せ、南の遺跡は冬期の季節風を遮ぎる好条件を備えている。岩盤は角礫凝灰岩で、地下一帯に広がりを見せ、上は田畑、下は水田に利用されている。上には古墳が散在し、四㍍余直立する岩に遮られた遺跡は一段低く海に近く、かっては城島と云われ、海中に防備を固めた城島が浮ぶ。現在の遺跡は、上手の県道から海側へ曲り、岩の斜面を縫って八㍍下の海岸に着くが、岩陰の四㍍下に古式土師片が挟まることから、元は堆積土が斜めにあり、古式土師器の面が当時の文化面と思われる。古式土師器は複合口縁が多く、底は径が小さく、大きく開いて立上るのと、仰角度六○度の急なものとに別れる。外面・底面を櫛状工具で整形し、底を親指で押圧したような、五領期特有な手法を持つものも見られる。本遺跡の出土品は、島内では金井町の千種・旗射崎、真野町の浜田・下国府、相川町の浜端洞穴遺跡から出土している。とくに口縁が長く外へ開き、口唇に稜を持つのは、佐渡特有の形態と考えられる。年代は、五領末から和泉期に併行する可能性が強い。【参考文献】 佐藤俊策・飯山弘「二見半島城島遺跡発見」(『佐渡考古歴史』)【執筆者】 佐藤俊策
・猩々袴(しょうじょうばかま)
【科属】 ユリ科ショウジョウバカマ属 県下では海岸近くの低地(垂直分布下限五㍍)から、高山(上限二○四○㍍)まで広く分布する。湿地を好む特性が、雪国の風土にあうのであろう。渓谷や沢沿いの湿度が高く、常にしぶきがかかるような場所では、岩場や沢辺一面を占拠する。根生葉の葉の先が、地面に接すると無性芽と根を出し、新株となり、まわりに群落を広げる。花房の色は濃い紅紫から淡い紫白と株によりさまざま。ザランザランと垂れ下る花房に着目して、越後ではカンザシバナ、佐渡ではコメゼエバナ(細かい花から細かい雄しべが突き出して“細割花”となる)という。根生葉の中央から伸びた三~四㌢の低い花茎の先にも花がつく。花のあと花茎は長く伸びて四○㌢にもなるが、種子徹布のためか。水のじとつく川端にあるのでカワバタ、長く伸びた花茎を干してカンカン鳴らしをするのでカワタンポポ、白花(シロバナショウジョウバカマ)をキツネノタンポポと呼ぶ。和名は、紅紫色の花を猩々の赤い顔に、葉を袴に見たてたは牧野富太郎説。春や秋に根生葉は紅紫色に色づいて「猩々色の袴」となる。名まえは「根生葉が猩々色」とする説もある。【花期】 四~五月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・澄心道標(しょうしんみちしるべ)
弘化四年(一八四七)、徳島県三好郡井内谷村野住に生まれた念仏行者「笠掛澄心」が、山居・光明仏寺への道路を整備し、建立した道標。そのため光明山中興開山法印と呼ばれる。澄心はまた弾誓に、「換骨の秘儀」を行った天照・八幡・春日・住吉・熊野五社の善神塔や、浄厳の名号塔を光明仏寺に建立しており、弾誓に厚く帰依し、浄厳の足跡を訪ねて佐渡に来たことが判る。光明仏寺へ通じる山居道は、岩谷口・真更川・北鵜島・願・鷲崎・見立・北小浦・虫崎などの、山下八か村からあり、相川町では岩谷口からの登山道に道程の石塔があったが、砂防ダム工事後は確認できない。現在は山居の池周辺に二か所と、光明仏寺山門跡に一か所、この他北小浦道などに何か所か確認できる。澄心の墓は、真更川の浄蓮坊川を見下ろす段丘上にあり、明治四十年(一九○七)二月十六日寂。行年六一歳とある【関連】 光明仏寺(こうみょうぶつじ)【執筆者】 近藤貫海
・相川歌集(しょうせんかしゅう)
高田慎蔵の歌集。「相川」はその号。大正二年(一九一三)四月刊、二百八十余首を収める石版刷り和綴じで、同年五月刊の『恥堂遺稿』とともに帙に納められている。慎蔵は明治三年(一八七○)、一九歳で佐渡県派遣の無給英語研究生として東京に出て以来、刻苦勉励して高田商会を設立し、貿易を営んで巨万の富を得たが、還暦を過ぎた大正初期社務を子婿に譲り、和歌・墨画・旅行を楽しむ自適の生活に入った。晩学ながら作品の数は三千首にも及んだという。歌の師佐々木信綱は序文の中に、「父君恥堂の血すじと、実業界で鍛えた即戦即決の力によるのであろう」という意味のことを述べている。「恥堂」は慎蔵の実父、地役人で広間役も勤めた天野孫太郎の号で、文芸に趣味を持ち、漢詩・和歌・連歌に携ったが、とくに漢詩を得意とした。『恥堂遺稿』は、慎蔵が三十余年ぶりに佐渡へ錦を飾るについて、友人知己への土産に編んだ自らの歌集と、併せて出版した亡父の作品集で、漢詩一○六首・短歌四六首・発句二六を収める。なお、号の「相川」は、「生まれ故郷をしのぶあまりにつけた」と慎蔵自身が跋のなかに書いている。【関連】 高田慎蔵(たかだしんぞう)・天野孫太郎(あまのまごたろう)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 酒井友二
・常徳寺(じょうとくじ)
浄土真宗西本願寺派。羽田町東側。当寺過去帳によると、開基は元和元年(一六一五)明専、越前福井出身とある。『相川町誌』には「開基後四年、本山に請うて別院となり、世に御坊と称し輪番所たり」とある。金銀山が隆盛となって信徒が集まり、寺収入が多かったためという。その後、戸口減少し、寺運振わず別院をやめ、元禄年中、大坂道頓堀の常徳寺より元世が来て、寺号を常徳寺と定めた。明治中、紙屋町の勝善寺を併せて今日に至る。明治十二年相川警察署をここに仮設したが、火災にあい堂塔什宝焼失、いまの寺を新築した。初期の門徒に北陸出身者が多かった。寛永期だけで四五人。越前出身一九人・越中一一人・若狭一○人・能登五人。『佐渡風土記』元和五年の条に「越前の菰かぶり、庄内の駄賃持、各大勢来り北沢に住居す」という記事がある。金銀山の全盛期に、菰かぶりといわれた渡来民のなかに門徒が多数いた。金銀山の主要坑、割間歩の開発で入った者もこの中にいた。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、佐藤利夫「北陸真宗門徒と佐渡鉱山」(『日本海地域の歴史と文化』【執筆者】 佐藤利夫
・城と製塩(じょうとせいえん)
佐渡の北の海岸(海府地方)に、「釜屋」とか「釜戸」などの地名がよくみられる。中世の製塩の行われた場所であり、城との関わりが深い。石花の親方百姓(在家主)の一人永野民部は村の鎮守の社人、この人の先祖は吉井から入村した永野釜人といい、石花の海岸で塩を焼き城に納め、また分家も石花の山で炭を焼き城に納めたという。また関の大屋で、村の鎮守の社人である本間四郎左衛門の先祖も、吉井の人であったが石花に入り、連れてきた左近という鍛冶に、釜を作らせ塩を焼いて吉井殿に納めたという。こうした伝承は、石花殿が吉井藍原氏の代官として、製塩業を管理した村殿であったことを示す例であろう。達者釜所に住む本間伝兵衛は、河原田殿に納める塩を焼いていた。この伝兵衛の手引で、釜所へ入ってきた山本小三郎は、河原田中原神社(河原田地頭本間氏の鎮守若一王子社)にあった薬師仏を、分村姫津に奉移したというような話は、河原田殿と海府海岸の村との結びつきを示すものと思われる。このようにみると海府海岸の城は、戦争のために設けられた施設というより、村の生産物を管理する役所的性格をもったものとみるべきでなかろうか。以上のようにみてくると、海府海岸筋の城は、塩の村の支配者の拠点とみてよいのではないかと考える。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集二・四)、山本仁『佐渡古城史』【執筆者】 山本仁
・称念寺(しょうねんじ)
浄土真宗東本願寺派。下戸炭屋浜町。『佐渡相川志』・『佐渡国寺社境内案内帳』には、紙屋町にあった願竜寺旧寺屋敷を買い取り、正徳三年(一七一三)建立とある。寺は明治元年廃寺になり、同十年復興して、下戸炭屋浜町字長屋に移転した。『相川町誌』によれば、開基寛永八年(一六三一)五十里称念寺の隠居所として、相川山ノ内左沢に建立、後、岡部栄運という者が寺を譲り受け、旧寺山号を用いて相続し、紙屋町の願竜寺屋敷へ出た、という。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 佐藤利夫
・上納金(じょうのうきん)
江戸城への金の上納をいう。金のほか大量の銀も運ばれていて、「灰吹銀」と称し、銀鉱に鉛を合わせて灰吹炉で熱し、鉛を灰に吸収させて、モチ状の銀塊にして採る方法。「山吹銀」とも「山出し銀」ともいった。金は「筋金」といって、竹を割った中に、灰吹法で製錬した金を溶かして、流しこんで固めた。「延金」とも「竿金」とも、また「竹流し金」などと呼んでいた。今日では、現物があまり見られないが、元和七年(一六二一)に奉行所の御金蔵から、「筋金八十五本」が盗難にあった記事(『佐渡年代記』など)があり、国中の漁船や他国船の出航をさしとめて探索した。このときの記録によると長さが「六寸」で、量目が三○○から四○○目(匁)の、長方形の金塊だったとある。小判のほか秤量貨幣としても使われた。金は「筋金」のほかに「小判」(元和八年から佐渡で鋳造された)で上納されており、「砂金」は主として西三川で産出したものをそのままか、または小判にして送っている。筋金のうち、純金に近く精良な金に「焼金」があり、これは元禄五年(一六九二)から送られている。江戸城内には「蓮池御金蔵」と、「奥御金蔵」の二か所があり、佐渡の金銀は蓮池のほうで四棟あって、勘定奉行の管理。以上の佐渡金銀荷は、役人たちの宰領日記によると、「坂下御門」から運び入れるのが慣例だったが、綱吉の時代の元禄八年(一六九五)の記録では、「平河御門」ともある。【関連】 産金輸送(さんきんゆそう)【執筆者】 本間寅雄
・正福寺(しょうふくじ)
南片辺にあり、真言宗智山派。本尊は大日如来で、山号は遍海山である。開基は文禄四年(一五九五)と寺社帳にある。高千村史では、寛保元年(一七四一)住職快安の代に造立されたとあるが、元禄六年(一六九三)の大興寺文書には、正福寺は大興寺の隠居であるとあり、快安の造立は、南片辺の南はずれにあった正福寺を現在地に移転造立したものであると思われる。慶長五年(一六○○)創立の白山神社の別当寺である。伝承によれば、隠居するとき南片辺と石花の半分を貰ったと伝えられるが、その頃はまだ檀家制度が確立されておらず、大興寺の供養田をつけて貰ったものである。真光寺門徒であったが、享和元年(一八○一)真光寺の新末寺になっている。明治の廃仏毀釈では、廃寺となり大興寺に併合されようとしたが、当時の住職中川文秀の尽力で免れ、智山派で再興した。【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『高千村史』ほか【執筆者】近藤貫海
・定福寺(じょうふくじ)
橘の浜戸にあり、真言宗豊山派。本尊は大日如来で山号は泡海山である。開基は不知と寺社帳にある。元和九年(一六二三)一説には天文十九年(一五五○)、本寺・曼茶羅寺の栄遍法印により、法流の伝授を受けたとあり、大永元年(一五二一)勧請の三宮神社の別当であった。古くは興福善寺といったが、曼茶羅寺の末寺になったとき、定福寺と寺名を改めたという。伝承によれば、この時寺を建てようとしたが、材木が足りず困っていると、三月十五日の凪の良い日に材木を一杯積んだ難破船が流れ着いたので、これは仏さんのお授けだといい、この材木で本堂を建てたという。境内には隠居の観音堂がある【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】近藤貫海
・縄文遺跡(じょうもんいせき)
縄文遺跡は前期から晩期まで幅が広く、年代も長い。密集地域は台地の先端部に多く立地するが、外海府に発達する段丘上は、フレーク・チップ等が少量採集される小規模なものが大半を占め、キャンプ等に使用された一時的遺跡の可能性が強い。反対側の加茂村とは対照的様相を呈する。外海府地方は季節風がシベリアから吹き付け、永住が困難で季節的な遺跡であったと思われる。その中にあって、二見半島だけは気候の影響が少なく、層も厚くて永住した可能性が残る。佐渡でも遺跡の多い地域である。佐渡では早期の遺跡が小木半島で確認されており、前期末も小木や国仲各地で検出されている。相川で最も古いのは、中期初頭の立野遺跡のみで、他は中期末から後期・晩期に属するものばかりとなる。晩期は縄文海進と云われるように、気候の寒冷化が進み、水位の上昇が激しく洞穴遺跡が多くなり、一般平地には遺跡が極端に少なくなる。当時の住居では寒さは防げなかったのであろう。「日本石器時代地名表」では遺跡の名が登載されるものの、現在は所在不明な遺跡がある。これは調査で確認したばかりではなく、聞書きや土地の変化によるものもあったと推察される。【参考文献】佐藤俊策・鈴木俊成「佐渡の分布調査を終って」(『新潟考古学会連絡誌』)、上林章造・中川喜代治・金沢和夫「二見半島における縄文文化」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】佐藤俊策
・植生(しょくせい)
佐渡は南北の植物の境界線とされる北緯三八度線が中央を通過しているため、寒暖両系の植物がすみわけ、そのコントラストは鮮烈である。シダ植物以上の植物数(植相)も、一七○○種と豊かである。対馬暖流がぶつかる岸には、人々が最初に住みついたタブの黒森があり、ツバキ・トベラ・ツワブキなどの花が咲き、南国の椰子の実やモダマの種子が漂着する。タブの後背地にはシイの森がある。リマン海流により冷たくなった冬の冷水塊がぶつかる海辺には、トビシマカンゾウ・ハマナス・ハマベンケイソウなどの寒地要素の植物が生育し花が咲く。島の北端の二ツ亀の海には、トド島・大トド礁があり、北の海獣トドが漂着する。暖地植物の北限の島である。分布北限となる暖地植物は、アカガシ・シキミ・トベラ・ムベ・スダジイ(シイ)・ヤマザクラ・ゴンズイ・ネコノシタ・ヤマトグサ・ヒメウズ・ツワブキ・マメズタ・ヒロハノヤブソテツ・コモチシダ・クリハランの一五種。寒地植物の南限は、エゾノノコギリソウ・エゾツルキンバイ・シオマツバの三種である。海岸塩生地のシオマツバや、山地のヤマトグサ・海岸のコハマナス(ハマナスとノイバラの交雑種)などは、越後に分布せず佐渡にのみ分布する隔離種である。【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『草木の風土記』、同「歴史紀行」[2](『佐渡』)【執筆者】伊藤邦男
・諸役人勤書(しょやくにんつとめがき)
正徳四年(一七一四)佐渡奉行河野勘右衛門通重・神保新五左衛門長治によって作られた佐渡奉行所の役職に関する記録で、三三の役職について、定員・職務内容・管轄する御雇町人の定員などが記されている。『佐渡四民風俗』が、幕初以来元禄頃までは「定役も少なく万端手軽」だったと述べるように、佐渡奉行所の機構は簡単で実際的であった。宝永六年(一七○九)新井白石が政権を掌握すると、形式を重んじ制度を整えることを重視する政策が始まり、佐渡にもそれが反映した。河野・神保両奉行は、着任するとすぐ佐渡奉行所の支配機構を検討し、江戸時代はじまって最初の、本格的な機構改革に着手した。留守居役を月番役と改め、従来番頭と称した役名を定番役、町奉行を町方役、山奉行を山方役、惣目付を廃して目付役、また、これまで代官手代と称した六人の御雇町人を廃して、地方役一二人で、羽田・小木・大野・夷の、四組の地方事務をとり行わせる。このようにして役職を定め、職務内容・定員を定め法制化したのが『諸役人勤書』で、以後宝暦改革における代官制の採用など、部分的、一時的な改正はあったが、基本的には幕末までこの形で佐渡支配が行われた。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七)、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】児玉信雄
・白根葵(しらねあおい)
【科属】シラネアオイ科シラネアオイ属 白根葵の名は栃木県の白根山に多く、花がタチアオイに似ることに由る。高山植物。海抜六○○メートル前後の低山である小佐渡山地には分布しない。大佐渡の深山には、群れて群れて、咲いて咲いての花の道や沢が今も残っている。淡い紅紫の萼は花びらを思わせる。花びらの繊細なひだとふくらみ、シベの愛らしさ、ちりめん状に波うつ葉のソフトさ、山草の女王の気品を漂わせる。日本固有種で一科一属一種。日本の多くの植物は、列島誕生の二千五百万年前に誕生し分化発展した。シラネアオイ属は、もっと古い時代の古第三紀の初めの七千五百万年前に誕生した。七千五百万年間に多くの種を分化し栄え、その多くが滅亡した。生きつづけてみると、仲間は誰もいない。自分ひとり。地球上で日本、しかも日本海側のブナ林床という特殊な立地に生き残った“遺存種(生き残り)・固有種”である。七千五百万年生きつづけた一科一属の命運を集め花を咲かせる。生き残りというより、生きつづける輝きをこの花にみる。「白根葵咲きてありきと思ひでて 見上ぐる崖に今年も咲けり」植松寿樹。【花期】五~六月【分布】北・本州(中部以北・日本海側)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の植物ー春』【執筆者】伊藤邦男
・死霊と石臼(しれいといしうす)
湯潅後、死者を棺に納め座敷に移すと、死者の寝ていた納戸へ石臼(男の死者の場合は上臼、女は逆に下臼)を持ちこみ、左まわしに三回まわし、大きな音をどすんとたてて倒した。すると死者の魂がその部屋からたち去り、こわくないという所が多い。相川町関では、その倒した石臼を枕に、後家嬶を頼んで寝るまねをしてもらったという。同町北片辺では、その石臼を葬式のとき、ソウレン(棺)の後方に置き、出棺後、座敷の四隅をごろごろまわし、ヒラキの縁で倒し外に出した。同町矢柄では、このとき使った石臼はしばらく伏せておき、三山駆けした者に頼んで足で起こしてもらい、それから使ったという。同町高千では、石臼はふだん片方離しておくものでないという。佐渡の民俗にくわしい青木重孝は「葬制と石臼」(「民間伝承」六ー五)の中で、石臼に死霊を抑える力を感じている旨のことを述べているが、うなずけることばである。【参考文献】最上孝敬『霊魂の行方』(名著出版)、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】浜口一夫
・白島(しろしま)
二見半島西側の高瀬集落の沖合西○・六キロメートルにある、白色の裸岩の小島。付近の七浦海岸の景勝のポイントの一つである。高さ約一五メートル、海岸段丘由来の台状の島で、急崖に囲まれる。新第三紀層相川層群真更川層下部の、石英安山岩質凝灰岩から成る。暴浪の時は、全島がしぶきや波の浸食を受けるためか、岩面には蜂の巣構造が頂部まで認められる。【参考文献】式 正英『地形地理学』(古今書院)、新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】式 正英
・白花蒲公英(しろばなたんぽぽ)
【科属】キク科タンポポ属 頭花が白色のシロバナタンポポ、別名シロタンポポ。越後には分布しない。タンポポは黄色花と思いこんでいるから、佐渡の白花をみて感心する。在来種は越後・佐渡とも黄花のエゾタンポポ、本州中部以北・北海道に分布する北方種である。シロバナタンポポは、本州関東以西に分布する南方種。近畿・四国・九州の人は、タンポポは白色だと思いこんでいる。蕉村(一七八三)作の『春風馬堤曲』に『蒲公英(たんぽぽ)咲けり三々五五。五五は黄に三々は白なり」の一節にのべられるとおり、丹後あたりは黄花と白花の両種が分布していた。シロバナタンポポは越後に分布しないのに、なぜ佐渡に分布するのか。それは佐渡奉行所の薬草園に薬種として栽培されたものが、逸出野生し相川を中心に島内に広がっていったのである。新潟市では白花は寺の境内にみられるが、薬種として栽培された名残りである。生薬名は蒲公英。産後の体力回復や乳汁の分泌促進に用いる。戦後帰化したセイヨウタンポポや、アカミタンポポによって、在来種のエゾタンポポは駆遂されていったが、シロバナタンポポは特に増減がない。【花期】三~五月【分布】本(関東以西)・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』、同『佐渡山野植物ノート』【執筆者】伊藤邦男
・地分けの親類(じわけのしんるい)
土地を分けた親類という意味。外海府ではオオヤ隠居の場合をいうが、石花・北片辺・南片辺では、娘が縁づく際に、ネリゴメ田(乳児の米汁をとる田)を付けてやった家を指す。これは具体例で、一般的にいえば、婚姻にともなって土地の分与がなされた間柄を指している。「血統の親類は縁が切れても、地分けの親類は切れない」といわれるように、土地を付けない普通の婚姻の場合、縁類は死者が五十年忌を過ぎればオモシンルイでなくなり、地分けの親類はオオヤ・隠居と同様、永続的な親類とされている。地分けの親類は重要な親類とみなされ、祝言には一番の正座、葬式には受納場にすわる。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】佐藤利夫
・神宮寺(じんぐうじ)
新穂村井内一三八にある寺院。真言宗、佐渡国分寺末、山号は薬王山。新穂村の山王日吉神社七社のうち、四ノ宮である井内の八王子権現の別当寺。山門・本堂・薬王殿・宝蔵庫・鐘楼・庫裏があり、檀家数は現在一二○程。本尊は大日如来。薬王殿は薬師如来をまつり、もとは奥の院で八王子権現の下にあった。元禄の寺社帳に、「当寺開基文暦元午年(一二三四)、中興俊祐再建立、境内壱反弐畝八歩、御除米壱斗四升五合、此の反歩壱反五畝弐拾四歩、三ケ一御除」とある。神宮寺という名は、神社に付属して置かれた寺院のことで、他にも多くある。鐘楼の銅鐘は、鎌倉時代永仁三年(一二九五)のもので、重要文化財。全高一○四センチ。刻銘に「佐州羽黒山正光寺 奉施入推鐘一口長三尺 右奉鋳志者為陸奥守平朝臣御祈祷并結縁助成乃至天下法界平等利益故也 銅匠藤原家重 沙弥能主 院主僧信性 敬白」「永仁三年乙未九月日」とある。この銅鐘はもと、羽吉(両津市)の羽黒山正光寺にあったもので、明治五年(一八七二)廃寺のおり、鵜飼郁次郎の斡旋で、明治三十年、神宮寺檀家である新穂村瓜生屋の、末武喜八郎・コウ夫妻寄進の二百両によって買い受けたものである。うち百両は鐘、他百両は鐘楼などに使用。その旨の追刻銘がある。他に、安政五年(一八五八)六月、羽黒山大権現(佐和田町山田か)に奉納した八角鐘(全高五三センチ)があり、五十里篭町(佐和田町)の本間六兵衛(初代琢斎)鋳造である(寺伝では東福城の半鐘という)。また、新穂城主本間和泉守の墓(自然石、仮埋葬場という)と伝えるものや、天明八年(一七八八)の宝筐印塔などがある。【執筆者】計良勝範
・しんげぇ(しんげぇ)
シンガイ・シンゲェ銭・シンガェ田・シンゲェ子・シンゲェ牛などという言葉がある。シンゲェは、私ごと・内証・隠しごとなどの意味あいを持つ語である。シンゲェ銭は個人で自由に出来る金、シンガェ田は家の田に対し、荒れ地を自分の手間で耕し子に与えた田、つまりその語源は「新開」の田ではないかといわれている。シンゲェ子は父親不明の私生児。シンゲェ牛は、嫁にくるとき実家からもらってくる牛で、その牛が子を産むと、その売った金は嫁のシンゲェゼンになり、小遣いとなる。この風習はおそくまで海府地方に残っていた。またこのシンゲェ牛が子を産むと「たねがえし」といい、子牛を一匹実家に返した。なお、これに似た言葉に、ヘソクリ・ホマチなどがある。ヘソクリは、麻糸が衣類の大事な素材であった頃、女たちは自分の才覚で、私用の分をヘソという糸巻きの器具に巻いておいた。ヘソクリという言葉は、そこから出たといわれている。またホマチは、回船の頃、船頭などの帆待ちの間の私的なかせぎ、ワタクシアキナイから出たとの古い解釈がある。これらの言葉のその裏には、内密でためる隠し金というひびきがある。【参考文献】山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、『日本民俗資料事典』(第一法規)ほか【執筆者】浜口一夫
・新五郎町(しんごろうまち)
山師豊部新五郎が住んだことから、町の名がついた。後に豊部蔵人と名を改めている。上京町と大工町に挟まれた坂の町であり、上京町を過ぎると勾配が急にきつくなる。上京町と踵を接する西北の坂を蔵人坂と呼び、石段を蔵人個人が築き、夕白町へ通じた。南の坂を中町といい、山師が造った六右衛門町へ出た。六右衛門町は、夕白町の蓮光寺から広伝寺へ通じる坂の上になり、北は蔵人坂と交った。大工町の南側の坂は春林小路と云って、盲目の町医者がいた。春林の父は越中の生まれで、寛文の頃には大沢善行寺前に大買石がいた。六右衛門町は、かっての相川拘置所の上で、草が生い茂っているが見晴らしはよく、礎石も残り町跡が分る。『佐渡相川志』には、「元禄検地に町屋敷五反九畝二十四歩」とある。山師豊部蔵人は元和七年八月に、江戸宗遊と自分入用を以て山を稼ぎ、また滝の下間歩を、備前夕白とともに稼いでいた。戦後、金山の全盛期には鉱山の社宅が建っていたが、相川拘置所時代には、官舎に変って拘置所関係者が住んだ。『佐渡古実略記』には、「慶長・元和の頃京町より新五郎町まで皆三階屋に造り、雨降りにも往来の者庇の内を通り、別而南沢・北沢・水金沢・愛宕町空地も無く、谷々には吉野造りと申て大木を渡、其上に家を立人数弐拾壱万五百七拾弐人居住す。然所寛永二丑九月二七日、下寺町円徳寺より出火、大工町前後の町筋桐木沢迄焼失ー後略ー」とあって、人口の密集していることを誇っている。【執筆者】佐藤俊策
・新材木町(しんざいもくまち)
『佐渡相川志』には町長四五間五尺、陣屋まで二丁二七間三尺、町屋敷一反三畝二三歩とあり、薪納屋が六畝二四歩あって、総数二反二三歩になる。西小路は羽田浜へ通じ、登ると塩屋町境いになり、さらに長坂・西坂を経て上町台地へ出、陣屋へ通じる。北の小路は石拓町・材木町へと続く。元禄七年(一六九四)の検地では、相川を上中下の四段に分けたが、新材木町は最下部の四ノ位に格付けされている。四ノ位は、下戸炭屋浜町・馬町・水金沢町・下山之神町・江戸沢町・八百屋町・米屋町から四町目浜・一町目浜へと続き、上相川を含めて一番多く、二九町あった。一ノ位が一七町、二ノ位は九町、三ノ位が一七町であり、合せて七二町が格付けされていた。文政九年(一八二六)の墨引絵図では、薪納屋は浜側に多いものの、両側にびっしり民家が建っている。しかし、勝場や坑内の水揚者のほか日雇者が多く、商人は数えるほど少ない。地役人の拝領地もなかった。【参考文献】伊藤三右衛門『佐渡国略記』、『佐渡相川の歴史』(資料集五・付録)【執筆者】佐藤俊策
・新佐渡(しんさど)
大正四年(一九一五)九月五日に創刊された旬刊誌。大正三年に森知幾が亡くなると、その頃「佐渡新聞」の編集に携わっていた知幾の娘婿森守蔵や小木町の塚原徹らは、編集方針の改革を企てた。しかしこの改革は受入れられず、森と塚原は退社して、旬刊の評論雑誌「新佐渡」を発刊した。創刊当時の編集兼発行人は小沢直吉、印刷人が中村丈作で、発行所は相川町下戸七八に置かれたが、翌五年十一月には河原田町に移して日刊紙とした。表紙には酒井億尋の斬新な絵を使い、塚原と佐渡中学の同期であった青野季吉や、俳句を通じて親しかった猪股津南雄らも寄稿している。一貫して不偏不党を堅持し、社会批判と教育・文化の発展、産業の振興を目指す記事と評論を掲載して品格のある紙面づくりに努めたため、多くの読者を得て最盛期には三二○○部にも達した。昭和十二年(一九三七)五月廃刊した。【関連】佐渡新聞(さどしんぶん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・壬申戸籍(じんしんこせき)
明治五年(一八七二)に編製された戸籍で、この年の干支が壬申であることから、壬申戸籍と呼ぶ。江戸時代には、宗門人別帳が戸籍の役割を果たしていた。ところが、近代国家が成立すると国民一人一人を確実に掌握することが必要になり、明治政府は明治二年二月に、戸籍の編製を府県の仕事の一つとした。しかし、全国的にはほとんど手がつけられなかった。そこで政府は、明治四年四月に戸籍法を公布し、翌五年二月に作成された。ところが佐渡では、明治元年末に近代的な戸籍を作成するようにとの布告を出して、明治二年には編製作業が開始され、さらに同三年、同四年にも作成されている。これは、戸籍制度を幕末すでに採用していた長州藩出身の奥平謙輔が、佐渡県へ持込んだものと考えられる。明治二年の戸籍は、人別帳の形式を受継ぎながらも、職業や財産を明確にし、四年の戸籍になると姓が付き、地番順となっている。壬申戸籍になると、身分の差別が無くなって全ての国民が記載され、檀那寺に加えて氏神も記載されるようになった。【関連】佐渡県(さどけん)・奥平謙輔(おくだいらけんすけ)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・壬申地券(じんしんちけん)
明治五年(一八七二)に公布された地券で、この年の干支が壬申であることから、壬申地券と呼ぶ。明治五年七月四日、政府は全国の土地全てに地券を交付することを決め、同年十月までに作業を完了するように、府県に指令した。しかし、この交付作業は難渋を極めたため、政府はこの作業を中断し、明治六年七月に地租改正法を交付して、地租改正事業に取組むことにした。ところが佐渡では、明治六年十二月に壬申地券の交付が開始され、同八年までに山林・原野を除いて完了している。これによって佐渡では、壬申地券の交付終了後に地租改正事業に着手し、他の地域より遅れることになった。この地券は、土地の丈量は省かれ、検地帳を参考に作業が進められ、それぞれに地価が記入されている。【関連】地租改正(ちそかいせい)・相川県(あいかわけん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・荏川文庫(じんせんぶんこ)
真野町新町、山本半右衛門家の所蔵資料の呼称。山本半右衛門家は江戸時代の初期、越前福井藩士が浪人となり、相川金山に稼ぎ、のち新町に移住し、廻船などによって産を成し、学芸の道にも励むようになった。特に六代半右衛門(子温)は、京都で碩学那波魯堂の教えを受け、抽栄堂という堂号を贈られたが、十代半蔵(静古)が、「抽」の字がなじみにくいということから、家の横に江川が流れていたのにちなんで、江川を荏川と風流に書きかえ、音読みにして「じんせん」とし、荏川草堂の堂号を称し、所蔵資料を荏川文庫とした。資料は、主に江戸時代の酒造・廻船・薬種・地主などの家史に関わるもの、六代半右衛門(子温)・八代半右衛門(雪亭)から十代半蔵によってまとめられた江戸時代の儒家・書家・画家・浮世絵師・歌人・連歌師・国文学者・俳人・茶人・医家・天文家・勤王家・狂歌師・戯作者・陶工・佐渡奉行・佐渡先哲などに関わる書画・書簡、和・漢書、また、十代半蔵・十一代修之助によって収集された近代の日本や佐渡の文人墨客の書画・書簡、また、半蔵収集の国分寺瓦、修之助収集の極印ほか、佐渡に関わる書籍などが多い。【関連】山本半蔵(やまもとはんぞう)・山本修之助(やまもとしゅうのすけ)【参考文献】山本修之助「荏川文庫所蔵国文学関係資料調査」(『佐渡郷土文化』四号)【執筆者】山本修巳
・新西坂町(しんにしさかまち)
地獄谷・城ノ腰一帯を、新西坂町と云う。城の腰は、宝暦九年(一七五九)に寄勝場といって外吹買石勝場を置き、坂本口の口留番所を作って見張りを厳にした。ここから坂道の小路があり、勇仙小路と呼んだ。勇仙という町医師が住んだことからついた名で、石扣町へ出て材木町番所へ行くのに近かった。地獄谷は、西坂と分れて北へ下がる。斬罪の場所から、俗に地獄谷といったのが、何時の間にか名前がついた。城ノ腰は地獄谷を巡る道で、陣屋の腰を通ることから名づけられた。宝暦二年から拝領地になった。この道を行くと、小判所・勘定町へ出ることができた。宝暦八年暮れに寄勝場の一郭となり、外吹買石の勝場を造るため、拝領地を没収して工事をすすめ、翌年に坂本口番所を置いて仕事を始めた。外吹買石の勝場は、寛政七年(一七九五)に廃止され、そのあとを文政十二年(一八二九)に町同心が住むようになって、同心町と呼ばれた。古い同心町は広間町にあったが、組頭の役宅で没収され無くなっている。【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】佐藤俊策
・真如院(しんにょいん)
下寺町にある古義真言宗の医王山真如院は、薬師如来を本尊とし、高野山一乗院末(昔は平等院末)で、慶長十八年(一六一三)に開基したとされている。しかし寺伝によると、寛文三年(一六六三)の流人、北条道益の開基とあるので、慶長説には疑いがある。ただ一説によると、その頃住職であったのは道益の兄朝慶(貞享元年〈一六八四〉死去)とも言われているので、そのあたりに混線の理由があったかもしれない。道益自身も僧職にあったが、その後医師に転じ、やがて泉村(現金井町)に移り、その子孫が現存している家屋は、国の重要文化財となっている。【関連】北条道益(ほうじょうどうえき)【執筆者】本間雅彦
・ジンバソウ(じんばそう)[アカモク]
日本列島全体の沿岸岩礁帯から、砂岩のところに繁茂する褐藻で、ホンダワラ科に属し、佐渡でも多産する。ジンバソウ(神馬藻)という方言は、他所ではホンダワラ(馬尾藻)と呼んでいるが、佐渡では近縁種のアカモク(赤藻屑・方言ナガモク)も指している。アカモクは、他所の土地ではホンダワラのようには食用にされず、肥料にしたり、ヨードを製品化するさいの原料とされている。佐渡では真野湾地区をはじめ、アカモクを食品に用いている。ことに汁種にすることが多く、叺に積めて他所へ売り出している。アカモクの体は非常に長く、一メートルは普通で、四メートルに達することもある。茎も一メートルほどになり、茎の下の方には刺が生えていたりする。葉は篦形で、体の部分によって異なり、下の方の葉には切れこみがある。気胞は細長い円筒状で一センチ以上あり、ホンダワラの気胞が丸っぽいのと異なる。雌雄異株。【執筆者】本間義治
・甚兵衛窯(じんべえがま)
伊藤家は加賀の出身で、延宝二年(一六七四)に相川町大沢に移り住んだ。伊藤家は、代ごとに伊兵衛・甚兵衛を繰り返し名乗った。慶安頃から羽口焼成を始めたらしい。羽口は鉱石の精錬に用いる鞴に使った。二代伊兵衛は、正徳四年(一七一四)に羽口の傍ら素焼物を造った。南沢へ移ったのは三代甚兵衛の頃である。四代伊兵衛は、安永四年(一七七五)に奉行の斡旋によって江戸へ行き今戸で瓦、梅堀で万古焼の類を習い覚えた。瑞仙寺の土蔵を葺いたのが最初と云われる。七代甚兵衛は、文政二年(一八一九)に無名異を混ぜて楽焼を始めた。八代伊兵衛は、安政中に甚兵衛と改名し、南渓・清風亭・弄花堂等の雅号を有し、手製には羽甚、また、奉行から貰った「佐」の字の極印を押印した。俳句・茶道・挿花に勝れ、茶碗・盃などの意匠に新しい考えを取り入れた。明治になり、焼物の職業を辞めて農業に従事した。無名異の元祖と云われたが、明治になり無名異の高温焼成に成功して、無名異焼と名乗ったのが、三浦常山や伊藤赤水である。伊藤赤水は、三代甚兵衛の分家になる。【関連】羽口屋甚兵衛(はぐちやじんべえ)【参考文献】川上喚濤「陶工としての伊藤家」(『佐渡群書類従』)【執筆者】佐藤俊策
・新保川東遺跡(しんぼかわひがしいせき)
金井町大字新保字川東の水田地帯にある、弥生時代中期中葉から後期の玉作遺跡。農業構造改善事業に伴う基盤整備中に発見され、昭和四十三年(一九六八)十二月二日~三日、金井町教育委員会により、緊急発掘調査が行なわれた。東西二○○メートル、南北三○○メートルに遺物散布が確認され、E地点(新保二八三)からは、佐渡玉作遺跡で初めて、七メートル方形平床の玉作工房址が検出された。玉作工房址は、内側の北側よりに径一メートル位の凹味があり、周辺からは鉄石英の小破片が散布していた。多くの土器片とともに、細形管玉の未成品や完成品の他、石針・石鋸・砥石なども出土し、A地点(新保一九の子)は古墳前期を含み、B地点(新保二八五ー一)は碧玉を主体としていて、周辺に弥生時代玉作遺跡がひろがっていたものとみられる。近くに、二丹田遺跡・城の貝塚・藤津遺跡などの、同時代玉作遺跡が分布している。出土遺物は、金井町歴史民俗資料館に収蔵されている。【参考文献】『金井町史』【執筆者】計良勝範
・神木(しんぼく)
神さん木ともいう。神社の境内や、山や湧水池などの信仰域にあって、神霊宿るとされる樹木で、注連が張られる場合がある。のろいの釘などがうたれた釘あとがあるものもある。金井町新保八幡宮の本殿、右側のスギの大樹は神木で注連が張られ、のろいの釘あとがある。金井町吉井本郷の普門寺の境内のシイの大木(高さ一三メートル、幹径一・七メートル)の下に小さな祠があり、この地の地神が竜神となり、シイの大樹に乗り移って住んでいると伝えられる。佐和田町中原の中原神社の社林はタブ林である。裏参道にカサヅカ(傘塚)と呼ばれる塚に、樹冠が傘状に広がるタブの大樹があり、木の下に稲荷様を祀る祠がある。商売繁盛の神宿るカサヅカの神木とされた。相川町大浦の尾平神社の鳥居をくぐって、右側にあるクロマツの大樹は御神木で、のろいの釘あとがある。昭和六十年代伐採された。赤泊村の村の木はカヤ(榧)である。赤泊村徳和の大椋神社の境内にそそり立つカヤの大木(雄株・樹高三○メートル、幹周四・五メートル)は御神木で、注連が張られ、樹幹にはのろいの釘あとが多くみられる。赤泊下川茂の五所神社の御神木はスギの大木、注連が張られ、樹高三○メートル、幹周五・二一メートル。神社の裏山の大杉山には、天然スギの巨木の切株(長径三間、短径二間)がある。両津市赤玉の杉池、湧水池の元池のわきに林立する三本幹の天然杉は注連が張られ御神木。近くに杉大明神を祀る祠がある。小木町宿根木などで、寺の境内に生えているタブの大木を伐る場合は、樹に宿っている地神さまを他所に移すため、樹のまわりに円形にローソクと線香を立て、読経をしてから伐る。地神が宿っている木をそのまま伐るとたたるという。またツバキは神さん木で伐らないことにしている。決して舟材にしないが、舟材にすると海神さんが怒り、たたるという。【参考文献】伊藤邦男『南佐渡小木の植物』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】伊藤邦男
・迅雷隊(じんらいたい)
慶応四年(一八六八)閏四月に結成された佐幕同盟。慶応四年一月に、鳥羽・伏見の戦が起こって徳川勢が敗れると、会津藩から協力の要請、北陸道鎮撫総督からは奉行へ出頭命令が下った。当時佐渡支配を任されていた組頭中山修輔は、この難局を切り抜けるには、局外中立以外に無いと考え、双方に使者を送って佐渡の国情を説明させるいっぽう、島民の結束を図るために、佐幕党を旗印とする迅雷隊を結成した。迅雷隊は、一五歳から四○歳までの地役人をはじめ広く島民からも同志を募って結成された。隊長が中山修輔、小隊長には広間役の高野信吉・松原小藤太と、武術所定役の早川源次郎が任命された。約百名の隊員の中には、一○名を越える町人や医師等が含まれていた。閏四月十一日、山ノ神の東照宮別当教寿院に糾合した隊員は、血判を押して二心無きを誓い合い、圓山溟北作の「祖廟斎盟記」が読み上げられている。隊長中山修輔は、越後の情勢なども考慮して、佐幕同盟を掲げながらも奥羽越列藩同盟には加担しなかった。このため、山西百太郎(敏弥)らのように、佐渡を脱出して薩長軍と戦おうとした者もいた。維新後は、早川源次郎が隊長となって地役人を帰農させるための開墾を行なっている。【関連】中山修輔(なかやましゅうすけ)・山西敏弥(やまにしとしや)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、山西敏弥『幕末遭難記』(舟崎文庫)【執筆者】石瀬佳弘
・森林帯(しんりんたい)
冬の季節をさけた島の東南面は暖帯的であり、丘陵帯には海辺から内陸にむけて、タブ林・スダジイ林・ウラジロガシ林の原植生を今に残している。磯はタブの黒森、海に労つく人々の最初に住みついた森。日本の磯が失った黒森を、佐渡では社寺林や屋敷林に残していて、黒森のレリックの島である。大佐渡山地は金北山(海抜一一七二メートル)を主峰に、海抜一○○○メートル前後の峰が起伏し連らなる。山頂部は季節風をうけ海抜が低いにもかかわらず、強い山頂効果が生じて高山景観をなし、ハクサンシャクナゲ・ゴゼンタチバナ・サンカヨウ・ムラサキヤシオなどの、高山植物が集中分布する。丘陵地(海抜一○○メートル)はヤブツバキ帯、山麓(一○○ー四○○メートル)はコナラ帯、山腹(四○○ー一○○○メートル)はミズナラ・ブナ帯、山頂(一○○○メートル以上)はミヤマナラ帯と推移する。標高差一○○○メートルのせまい差の中で、大佐渡山地の国仲斜面では、ヤブツバキ帯→コナラ帯→ミズナラ・ブナ帯→ミヤマナラ帯と、五つの森林(植生)帯が推移する。海洋に孤立した島の山におこる垂直分布の圧縮された(寸づまり現象)が、佐渡の森林植生帯の特徴である。【参考文献】伊藤邦男「佐渡草木覚え書き」(『嶋の花』一○号)、同『佐渡花紀行』【執筆者】伊藤邦男
・水学(すいがく)
【生没】生・没年不詳 佐渡鉱山に、アルキメデス・ポンプの「水上輪」を伝えた水利学者、からくり巧者。京都または大坂の人とされているが、経歴も生い立ちも正確なことは伝わっていない。寛永十三年(一六三六)に長崎港外神島沖に沈没していたポルトガル船から、からくりを用いて銀六百貫余を引揚げた記事(長崎志)に見えるのがほぼ最初で、これに協力したのが、日本で初めて西洋式の航海術書である『元和航海書』を著わした池田好運だった。好運はポルトガル船の船体構造にくわしく、水学はからくり術にたけていたことが、その後のいろいろな書物からわかっている。承応二年(一六五三)に水上輪を初めて鉱山に伝えたとき、本名が水学宗甫、俗名を木原佐助といい、水上輪の作り方を籠(牢)坂番匠の忠右衛門・加賀勘兵衛・同太郎左衛門の三人に教えたと、『佐渡国略記』などに記されている。山師味方孫太夫(治助)が佐渡へ招いたもので、やがて割間歩に八十艘、明暦元年(一六五五)には百八十艘の樋(水上輪)を作って仕掛けたとされる。坑内排水に効果があり、鉱石一荷(五貫目)について銭三文、のちに三人扶持が水学に特許料の意味で与えられた。水学については、大坂の中津川や淀川にからくりを用いたと思われる「早船」を仕掛けた記事が、西鶴の「独吟百韵自註」(元禄五年刊)に出ており、延宝二年(一六七四)のころ島根県の出雲であった洪水後の田畑開墾に、上方から水学が招かれた記事(荒懇権輿)が見える。造船をはじめ、主として水利に秀でていた。この術は長崎渡来の南蛮系の学問を、好運らと学んだことによるらしく、名前は一般に水学で通っていた。【関連】水上輪(すいしょうりん)【参考文献】前田金五郎「水学ー元禄時代技術史料」【執筆者】本間寅雄
・水車(すいしゃ)
「みずぐるま」とも呼ぶ。水力を用いて大型の石臼を廻したり、自動的に杵を上下させて、穀類を搗いたり精白したりする施設である。相川市街に仕掛けられた水車は、農漁村部のものに先んじていたと想像される。相川には、江戸初期に水上輪(アルキメデスポンプのこと)が伝えられ、その揚水機は水車と共に、オランダからの伝播だからである。鉱山技術者の中には、オランダ人技師がいたことが伝えられ、切支丹関係資料からも裏づけられる。しかし民間の水車は、文献で確認できるのは意外に新しく、江戸後期以後である。最初はやはり鉱山で、鉱石の粉成用に水車を用いていた。『佐渡年代記』によると、寛永三年(一六二六)に戸地川に設置した。また元禄十年(一六九七)に、相川一丁目と二丁目の境の川通りもできたとあるが、これが官用か民間かわからないのである。下戸の林伊三郎家では、江戸末期から大正十三年頃まで、海士町川の水を利用して、四つの杵搗き臼で米と麦を搗いていた。赤川でも、下寺町の登り口にかかる石橋のところに、いくつかの水車がかかっていた。上流から、加藤車・福井車・古藤車・小田車などと呼んでいた。加藤車は最後のもので、すし米などの上質米から、飼料用の砕け米までを搗いていたといわれる。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間雅彦
・水上輪(すいしょうりん)
江戸前期、承応二年(一六五三)に佐渡鉱山にもたらされた坑内排水(揚水)ポンプ。紀元前一世紀のころ、ギリシャの哲学者・物理学者のアルキメデスが考案したアルキメデス・ポンプが祖形とされる。木製の細長い円筒の内部に螺旋竪軸が装置され、上部についたハンドルを回転させると、水がじゅんじゅんに吸み上げられる。ナイル川のほとりでは、灌漑用ポンプとしていまでも使用されており、佐渡でものちに農家に払下げられて、「樋」または「蛇腹樋」といわれて威力を発揮した。なお中国では「竜尾車」と呼び、竜が水のシンボルであるところから水象輪に転じ、日本では「水上輪」と呼ばれた。「みずあげわ」と書くのはまちがいで、「すいしょうりん」が正しい。中国を経由して佐渡に入ったと思われるが、これを佐渡鉱山に伝えたのは、京都(大坂ともいう)にいた水学宗甫という盲人で、その時期を寛永十四年とする説もあるが、近年は承応二年説が支持されつつある。山師の味方治助(三代目孫太夫)が、水没した割間歩の取明けをくわだてて、京都から水学を呼び寄せ、作り方を相川牢坂(現在の長坂)番匠に伝授したという。江戸時代は、通常「九尺」がこのポンプの長さの標準で、農家に払下げてから長短いろいろに造られ使用された。滋賀県の琵琶湖西岸でも、江戸時代から農用に使われ「さざえから」などと呼んだとされる。が、佐渡鉱山以前に国内で使用された史証はまだなく、この西洋技術は、佐渡がもっとも早やく受入れたことになる。【関連】水学(すいがく)・樋引(といびき)【参考文献】小葉田淳「続日本鉱山史の研究」、吉田光邦「機械」【執筆者】本間寅雄
・瑞仙寺(ずいせんじ)
高名な山師味方但馬家次(二代目)が、元和九年(一六二三)四月に、京都で没した亡父但馬家重(初代)の菩提所として、寛永元年(一六二四)に建てた日蓮宗の寺。新穂村大野根本寺末だが、古くは京都妙覚寺の末寺で、山号は光栄山。寺号は家重の法名「瑞仙院日栄」によったと思われる。創建当時は、奥州(青森県)から運んだヒノキ材で建てたと伝わり、残っている建物では二王門がもっとも古く、元禄時代の造りが見られるという。根本寺末一一か寺の觸頭を勤め、代々学徳の高い住職が多かったと、古書は伝えている。境内にある「日親堂」は、京都本法寺の開山で「折状正義抄」などの著作で知られ、日蓮宗不受不施思想のさきがけを作ったといわれる久遠院日親をまつる。俗称「鍋(なべ)かむり日親」とも呼ばれた高僧で、彩色の「日親上人畧伝記」の画幅一二幅が、信者の寄進で宝蔵されている。祖師日蓮の木彫立像(本尊)は、寛永六年(一六二九)の作銘が見える。また味方但馬の末裔で、新潟市の味方重憲氏が所蔵する、家康などから但馬が拝領した胴衣・扇子・茶碗および、但馬の肖像画や手紙など、数多い史料が保管されている。家康拝領品は、銀山開発の功労により、拝謁のおりにもらった品々である。石州浜田の産で、鉱山で産をなし、沢根へ移って廻船問屋の「浜田屋」を起こす笹井家、元地役人の末裔で学習院大学の教授をした岡常次博士の先祖に当たる、岡家の墓などがある。【関連】味方但馬(みかたたじま)【執筆者】本間寅雄
・須恵器窯跡(すえきかまあと)
二見半島には、現在五か所の古窯跡が知られる。大浦・石地河内・高瀬・苗代の腰・穴窯・橘・伝助畑・二見・納戸沢であったが、納戸沢は佐和田町に所属することが分かり、登録を移転した。須恵器は五世紀頃に日本へ渡来したと伝わる。最初は大阪府の丘陵地帯、陶邑古窯址群で、朝鮮から技術が渡ったとされ、古墳時代以降日常什器として人々に使用された。佐渡では小泊窯跡群が九世紀中頃から焼かれ、遠く北海道や富山県に流通していることで名が知られる。他に両津市北松ケ崎・真野町経ケ峰・大木戸の三か所であり、小泊も真野町の窯も、寺院・官衙の瓦を焼く特徴を備えている。相川の古窯址群は、苗代の腰・石地河内で八世紀前半に焼き始め、高瀬・穴窯が中葉、石地河内の新しいものでも九世紀前半まで焼かれ、九世紀中葉に小泊窯址群が発生し、一○世紀後半まで続く。二見半島は、佐渡では最も古い窯址と云える。納戸沢が畿内の系譜を持ち、他の二見半島は、東海地方の系譜下で成立した窯ではないかと想定される。【参考文献】坂井秀弥・鶴間正昭・春日真実「佐渡の須恵器」(『新潟考古』)、金子拓男「律令制下の越後・佐渡国」(『新潟県史』)【執筆者】佐藤俊策
・杉島聖観音磨崖仏(すぎしましょうかんのんまがいぶつ)
相川町大字橘字差輪の杉島に彫られた、半肉彫聖観音の磨崖仏である。差輪の県道二見線ぞいの海岸に、高さ八、九メートルもある、杉島と呼ぶ凝灰岩の筍状の巨岩がつき立っていて、その杉島の海を背にして、南面する岸壁に彫られたもので、大師堂と言う建物に覆われていて、外からは見えない。像高は一四五センチの、全体に量感のある立像である。背後に浅い舟形光背の彫り込みがあり、足下には、陰刻の蓮弁をもつ蓮花座がある。面相は摩滅が多いが、切れながな眉と目がうかがえる。両腕を胸前に置き、左手には蓮花を持ち、右手は掌をたてているようである。衣文はふくらみを持たせた沈線の表現が特徴的で、両手首から下る天衣は、腰の外側にふくらんで垂下し、その末端は足の甲高さで外側に丸まってひるがえる。仏頭頂の上方に、径一○センチ位の「サ」(または「ア」か)の種子が陰刻される。像の向って左側には「宗蓮作」(または「宗道作」か「宗藍作」か)の刻字がある。推定年代は、藤原時代地方作とする説が、磨崖仏として発見された当初示されたが(計良一九六六)、陰刻の蓮花座の形式との組合せなど、村上市・岩船郡・北蒲原郡などに見られる、一四世紀南北朝時代の石仏分布圏の中でつくられたものとする説(京田一九七二)が有力である。縁日は、旧暦の三月・七月・十月の各二十一日で、自然に現われたとも、弘法大師作とも言って、土地の信仰があつい。佐渡の磨崖仏は、以前、小木町宿根木の岩屋さん磨崖仏のみが知られていたが、現在は、この杉島磨崖仏の他に、下相川の富崎線彫不動磨崖仏・春日崎の線彫地蔵磨崖仏・平田磨崖仏(小像)などが発見されている。【関連】春日崎線彫地蔵磨崖仏(かすがざきせんぼりじぞうまがいぶつ)・富崎線彫不動磨崖仏(とみざきせんぼりふどうまがいぶつ)【参考文献】計良勝範「二見半島の石仏」(『二見半島考古歴史調査報告第一輯』相川博物館報五号)、京田良志「佐渡相川町の杉島聖観音磨崖仏」(『史迹と美術』四二四号)【執筆者】計良勝範
・簀菰(すごも)
縄で茅を編んで菰をつくり、底をつけた運搬用の籠。炭菰から転用した用具。小木三崎では「すご」という。普通の大きさは幅七○センチ、奥行四○センチ、深さ五○センチ。五本の藁縄で編み、底も茅と縄でつけてある。用途によって大きさが異なる。和牛を飼育している家で、牛の「つぼ」(飼料)を入れるために作ったものは大きく、畑仕事などに持っていくものは小さく作ってある。苗籠のような小さい物入れにたいして、乾燥した若和布や椎茸を入れて持ち運ぶのに新しい簀菰をつかう。軽くて嵩のある品物の運搬に用いるが、背中当か、おいこをつけて負う場合が多い。しかし外海府ではあまり使わない。その理由はわからない。炭焼が盛んなため、転用はなくて、もっぱら炭俵に利用されたようである。片辺あたりでもっともよく見かけるが、冬の納屋仕事で作成した真新しい簀菰は食べ物の運搬につかわれ、古くなると畑作物やごみを入れたりしている。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)
石花のセトにあり、この宮は、かって牛頭天王蘇民将来を祀っていたが、その勧請年月は不詳。明治四年(一八七一)、蘇民将来は外来人なるが故に、祭神にはふさわしからずとの理由で、素盞鳴尊を祀るようになったという。蘇民将来については、海府の古民謡ソウメンさんに、「ソウメンさんの出どこ、西が曇れば雨となる」というのがあるが、このソウメンさんの出所は、食物のソウメンの産地、能登の輪島かタコ島をさす説と、石花の産土神だったソウメン(蘇民のなまり)の出所、つまり朝鮮半島をさすとの、二つの説があったが、くわしいことは不明である。どちらも当地から見れば、西にあたるわけである。蘇民将来は、かって家の戸口に、災厄防御の護符としてはられたり、疫病除けの茅の輪くぐりの行事とも関連するなど、なじみぶかい神である。また『備後国風土記逸文』には、北海の武塔神が、南海の女のもとへ求婚に出かけた途中、日が暮れ、巨旦将来と蘇民将来に宿を乞う、まれ人説話が見える。『佐渡国寺社境内案内帳』には、石花の蘇民将来の社人は民部、祭礼は毎年九月十八日とあり、現在は四月十五日、鬼太鼓が奉納される。この鬼太鼓は、大正の頃、両津市玉崎から習ったものだという。【関連】蘇民将来(そみんしょうらい)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『高千村史』【執筆者】浜口一夫
・寿司嘉(すしか)
相川町一丁目本町通りの西側にあった高級料亭。明治三十四年(一九○一)九月発行の『佐渡名勝』(佐渡新聞社刊)に、「寿司嘉、和洋御料理」と広告が出ている。創業は未祥。大正十二年六月発行の『佐渡案内』によれば「電話五番」とあって、早いころの開業と思われる。この広告には「割烹・寿鹿、主・原田寿山福海」と主人の名が出ている。亭主の「寿山」は雅号で、本名は原田安太郎。明治五年の生まれで、三島郡西越村字小崎の出身とされ、原田家を継いだといい、「三層楼新築、百餘畳の大広間」が評判となったのは昭和に入ってから。安太郎の風ぼうは乃木将軍に似ていて、別名を「佐渡の乃木さん」といったという。作家の江見水蔭が書いた『佐渡へ佐渡へ』(昭和七年十二月発行)に、この乃木さんのことが記されていて、「其所(高田屋)へ原田寿山翁がきた。相川、といふよりも佐渡一流料亭の主人で、かって大町桂月が佐渡の乃木さんと如才なき命名、いよいよ佐渡一の名物男。この頃佐渡乃木さん、自ら腮(あご)髪を長く伸して、面相上からは乃木さんでなくなりかけている」とし、いつぞやの選挙で全島こぞって山本悌二郎に投票した中に、寿山老の得票が二票あった、そういう人気男、といったことを書いている。「(寿志嘉の)入口の門柱に、元鉱山用の石の挽石を重ねたのが、目に立った」とも記していて、この石臼の塀は近年まで残っていた。【執筆者】本間寅雄
・鈴木部屋(すずきべや)
鈴木菊次が経営していた、鉱山の大部屋の一つ。大塚部屋と同じく、古くは銀山町に飯場や邸宅があったと伝えている。大工町へ移るのは、明治二十三年四月ごろとされ、菊次の前戸主は鈴木コウ。文久元年(一八六一)九月生れの菊次が、明治四十五年ごろに相続して、部屋を盛り立てたと思われる。菊次は、福島県田村郡三春町字中山の出身とされている。大工町の富田毅が所蔵していた「鈴木部屋戸籍調書」には、抱え坑夫・人夫三一○人の記載がある。ただし福島県出身は四人しかいない。反対に長野県出身が一○三人で、大塚部屋をしのいでいた。これは鈴木(先代か、二代目)が、もとは大塚部屋に所属していた人で、のちに独立して鈴木部屋を持ったという事情(大塚平吉の親族・今井チヨ談)によるらしい。もともと福島出の人は全体として少なく、各部屋に共通して長野出が多かった。地縁的なつながりにもまさるような、鉱山稼ぎを多く出す事情が、養蚕なども盛んだった長野という地方の、体質にもあったとみられる。鈴木部屋抱え坑夫・人足のうちの、三○八人の平均年齢は二七・五歳。一九歳未満が三九人、二○から二四歳が七八人、二五から二九歳が八四人で、部屋労働者の大半を、二十代の若者たちが占めていた。鈴木菊次は、大正十三年十一月に没している。下寺町の日蓮宗妙円寺に、親方および所属労働者の「坑夫人足供養塔」が残っている。【関連】部屋制度(へやせいど)【執筆者】本間寅雄
・炭屋町(すみやまち)
相川の濁川をすこし上ったあたりの右岸に、炭屋町がある。近くには紙屋町・板町・材木町・塩屋町などの問屋街が接していて、大間の湊を中心とした経済取引の要地であったことがわかる。そしてもう一か所、旧下戸村にも炭屋町・炭屋裏町・炭屋浜町があり、前者よりはるかに広いが、元禄検地以降の新地もある。相川は消費人口が大きい上に、木炭使用料の多い製錬所をひかえているので、木炭の需要が格別であった。炭屋町を名乗る町名のところは、沢根や金泉・高千方面などにもあるが、そちらのほうは生産地的性格の炭屋の集団地であろう。下戸炭屋町は、検地時の屋敷面積は一町一反一畝六歩と、濁川の炭屋町の約三倍に近い。『佐渡相川志』によると、この町のはじまりは炭屋孫左衛門という者によって開発されたという。ほかにもこの町内には、長原屋市兵衛・難波屋宗兵衛・十郎左衛門・勘左衛門・宇兵衛・治兵衛など、商人らしい名をもつ者や大きな屋敷持の名が書かれている。たぶん他地での成功者によって炭屋町の名がつけられたが、薪炭業者の町であったかどうかは分らない。右書の、濁川の炭屋町については「検地ニ町屋敷三反三畝九歩。此所慶長・元和ノ頃町々入用ノ炭売買此処ニ限レリ」とある。右記事は、慶長十五庚戌の『佐渡年代記』にある「炭薪は炭屋町材木町、紙類は紙屋町にて商ひ、外にての商売を免さす──」とあるのにも見合っている。【執筆者】本間雅彦
・住吉古墳(すみよしこふん)
両津市大字住吉の住吉神社わきで、海抜約五メートルの海岸砂丘地から発見された、六世紀後半の二基の古墳をいう。昭和三十七年(一九六二)十一月八日、両津高等学校住吉校舎の校庭整地中に出土。一号墳は石室の最下部側壁をのこすのみで、大半がすでに破壊され、二号墳は玄室と羨道一部の最下部側壁が残されていた。両古墳とも、横穴式石室の円墳で、二号墳の玄室中央部には、長方形の石囲みがあった。出土遺物は、一号墳から須恵器甕数片・金環三点・直刀一振・鉄鏃三点・馬具鉄轡片数点。二号墳からは、須恵器蓋二点・直刀一振(石囲内)・金環三点・成人男子頭蓋骨片と、脚部骨片である。佐渡の古墳(後期古墳)はおよそ四○基で、真野湾沿岸の真野側と二見半島側に多く、羽茂の大石海岸・国仲平野部・両津湾沿岸部にもある。両津湾沿岸は、住吉古墳と河崎の水尾神社境内にある河崎古墳の三基で、住吉古墳は砂丘地の立地と、二号墳の玄室内の石囲に特徴性を指摘できる。二号墳の玄室は保存されている。【参考文献】椎名仙卓「海辺に築かれた古墳」(『考古学雑誌』五三巻四号)【執筆者】計良勝範
・諏訪神社(すわじんじゃ)
高下の家の元にある。祭神は健御名方命、社人は高下兵助である。『佐渡国寺社境内案内帳』には、天正十六年(一五八八)に勧請されたとある。なお同書には、合祀の十二権現、文禄元年(一五九二)勧請。社人は佐兵衛とある。「高下村立始り由緒書覚」によると、高下村の草分けは、高野下次郎兵衛(現在の高下兵助の先祖)という者で、真更川のオオヤ三十郎家の弟で、高下に入る際、真更川の諏訪神社を分霊勧請したといわれている。そのため、昔は正月のお松さん迎えには、わざわざ親村の真更川まで行ったものだと、古老たちは語る。祭日は四月十五日、獅子と太鼓が奉納され、各戸をまわる。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)、『高千村史』【執筆者】浜口一夫
・諏訪町(すわまち)
大工町の坂をのぼりつめて、すこし北側に傾斜している坂を降りていくと、一向宗(浄土真宗)の万照寺がある。一般民家はなく、一寺だけの町である。元禄検地帳では、屋敷六反五畝十五歩とあるから、その頃には数十軒はあったと考えられる。『佐渡相川志』によると、「此所慶長年中ニ信州諏訪ノ者当国ヘ来リテ開発ス。因テ諏訪町ト言フ。此者銀山ヲ稼ク。是ヲ諏訪間歩ト言フ。比類ナキ大力ニテ人畏レ、諏訪殿ト言ヘリ」とある。文政九年(一八二六)の「相川町墨引」には、四○戸余の屋敷があって、すでに空家も四か所ほどみえる。住人の肩書きに「石えり」三人・「川石ゑり」一人があるので、のちの選砿場のような仕事をしていたのであろうか。【執筆者】本間雅彦
・製塩遺跡(せいえんいせき)
昭和三十年代後半から二見台ケ鼻付近を中心に、製塩遺跡の調査が開始された。県内では最初の調査となった。相川の海岸に立地する製塩遺跡は、廃棄された細片が多量で、広範囲に散布している。年代は八世紀初頭から九世紀前半に及ぶと推定される。一覧表に示せば、旧二見村では「宮の川・二見元村西・月不見池・送り坂・送り崎・弁天岩・片谷・二見崎・台ケ鼻東・台ケ鼻・塩ツ田・城ケ鼻・砂原(A・B・C)・砂原神明社・目観音川群・二見群・かまんど・大魚・助岩岩陰・日観音堂・塩ケ崎・鬼ケ岩・浜戸・杉島岩陰・紋兵衛・差輪」があり、旧相川町では「吹上・どろの 」の二つ。金泉村では「井戸島の根・向・達者中村・釜屋」の四つ、高千村は「北河内熊野内・藻浦岬・中ノ川」の三つ。外海府村では「アンジャの浜・小僧の川・小田南・小田浜田・関公民館前・釜の元」の六つがあり、二見半島が総数の五○%を越え、圧倒的な多さを誇る。この中には波風による風化や、護岸工事で消滅したものもある。例えば、鹿ノ浦中ノ川遺跡は、台帳に中ノ川口に遺物包含層が露出しているとあるが、平成五年に確認調査を行なった結果、文化層は見えず、護岸工事や波浪で浸蝕された可能性が強く、二見半島弁天岩遺跡は、平成七年(一九九五)に確認調査を行なったが、これも護岸工事で遺跡は湮滅し、新たに奥の層中から縄文末~古式土師器が出土し、新しい遺跡が発見された。【参考文献】金沢和夫「製塩遺跡」、佐藤俊策「中ノ川遺跡確認調査報告」・「弁天岩遺跡確認調査報告」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】佐藤俊策
・清新亭(せいしんてい)
相川にあった高級料亭。明治三十年の創業で文人・墨客が多く訪れた。『佐渡名勝』(明治三十四年九月発行、佐渡新聞社)によると、このころ四丁目にあって一部三階建てだった。「会席御料理・和洋御料理」と広告が出ている。現中塚家の経営で、古くは「紅屋」という屋号の染物屋であったという。同三十六年には一丁目(正確には江戸沢)に移っていて、大正十二年(一九二三)六月発行の『佐渡案内』の広告欄では、「和・洋御料理、清新亭」とある。同年の「相川各営業案内」のチラシにも、「御料理、一丁目、清新亭」と出ている。場所は新潟交通相川営業所(現在は町営駐車場)のあったところで、写真では木造一部三階建てである。民謡団体の「立浪会」ができたのは大正十三年で、翌十四年には相川音頭・佐渡おけさのレコード(ヒコーキ印)吹込みや、久邇宮殿下の来町などがあったがこの創立当時の会員たちの稽古場が清新亭であり、一晩稽古にゆくと「畳賃として十銭づつ置いてきた」と、同会の本田虎次郎や木島栄太郎らが語ったことがある。いまの会津町にある清新亭は、昭和三十年ごろ佐渡鉱山長社宅を譲りうけて開業したもので、平成十一年十月に廃業した。川端康成・“ドナルド・キーン”・吉村昭・津村節子・永六輔・随筆家の岡部伊都子らが投宿している。【参考文献】『立浪会史』(立浪会)【執筆者】本間寅雄
→◆「参考資料(文献・書籍)」(写真等あり)
・清水寺(せいすいじ)
新穂村大字大野一二四ー一にある真言宗寺院。山号は東光山。「清水寺由緒」によると、大同三年(八○八)、賢応を開基とする。本尊は千手観音で、観音堂(本堂・元和八年建立)に安置する秘佛。もと、越後西津の吉祥寺末で、元禄三年(一六九○)に江戸の護持院末に改め、のち護国寺末となる。奈良の長谷寺が本山。境内一一町歩余り、田地三町歩余りの大寺であった。観音堂(救世殿)、方丈・庫裏・田村堂・開山堂・多聞堂(白山堂)・大師堂・地蔵堂・宝蔵・経蔵・二王門・中門・鐘楼などがあり(田村堂・開山堂・多聞堂は現存しない)、観音堂には舞台がつく。寺家は大野の錫杖寺・臨川寺・慈眼寺、末寺は大野の報恩寺と長安寺(両津市久知河内、天正兵乱後末寺)。門徒は大野の来迎寺・樹林寺・地蔵寺・神宮寺・宝泉寺・公樹寺と、十禅寺(舟下)・宝満寺(舟下)・宝性院(久知河内)があったが、現在は慈思寺(慈眼寺と地蔵寺が報恩寺に合併)・弘樹寺・樹林寺・長安寺の、四か寺のみとなっている。什宝に、本尊千手観音・薬師如来座像・地蔵菩薩・毘沙門天などの木像、恵果筆両部種子曼荼羅・弘法筆両部彩画曼荼羅・智證筆十三仏・興教筆不動明王・智證筆愛染明王・唐筆の涅槃像など。文永十年(一二七三)、京都三宝院の「結縁灌頂」の記録。明応九年(一五○○)銘の観音堂鰐口など、他に慶長五年(一六○○)の「佐州大野村清水寺領御検地帳」「佐州大野村寺社御検地帳」「佐州大野村御検地帳」(以上新穂村文化財)が大野区に残り、山門前の中河家には、大銀杏(村文化財)や同家出土の黄瀬戸小皿(一七枚)、瀬戸天目茶碗・高麗青磁などがある。【参考文献】『新穂村史』、『山と川と大地』(大野史)、計良勝範「再発見された新穂村大野清水寺の鰐口」(『越佐研究』五五集)【執筆者】計良勝範
・清水寺(せいすいじ)
石名にあり、高野山真言宗。本尊は大日如来で、山号は檀特山、坊号を普門坊と称した。寺社帳によれば、大同二年(八○七)弘法大師草創とあり、さらに仙人ケ滝(場所は不明)の両曼陀羅および大日不動などの諸尊に、「大同二亥年空海」と石に刻んであり、天正二年(一五七四)教善が再建したが、寛永元年(一六二四)縁起什物等焼失とある。また『名勝志』によれば、開基知れず。中興教善の位牌に天正二年とあり、しかし佐渡三霊山の一檀特山の別当寺が、何故真光寺の末寺なのか知る人はいないとある。末寺となったのは元禄十三年(一七○○)で、それまで門徒ではなかったが真光寺とは密接な関係にあり、真光寺最後の住職「賢理」は、清水寺の出身で慶応二年(一八六六)入山。真光寺廃寺の後は金北山神社の神官となり、明治二十八年没している。寺格が上であったことから、明治の廃仏毀釈では廃寺を免れ、高下の金剛寺が廃寺になったため、高下の人々はみな清水寺の檀家になった。また天明元年(一七八一)木喰行道が檀特山に残した薬師・地蔵仏のほか数々の遺品が安置されている。【関連】石名清水寺の大イチョウ(いしなせいすいじのおおいちょう)・重泉寺(じゅうせんじ)・檀特山(だんとくせん)【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『高千村史』【執筆者】近藤貫海
・清水寺の大銀杏(せいすいじのおおいちょう)
【別称】石名清水寺の大イチョウ(いしなせいすいじのおおいちょう)
・清楽社(せいらくしゃ)
和歌結社。最後の佐渡奉行で、維新後再び相川県参事(のち権県令)として来島した、鈴木重嶺を指導者に仰いで、相川に結成された和歌愛好者の集団。旧奉行所地役人や、その子弟が所属した。重嶺は、後に明治三六歌仙に数えられる歌人でもあり、その門人は相川に限らず、佐渡全島に及んでいた。重嶺が権県令を辞任して帰京した明治九年(一八七六)以後は、用人としてついて来て、重嶺離任後も相川にとどまった三河清観が、幹事となって指導した。清観はもともと鷺流狂言師であったが、和歌にもすぐれていた。明治三十年代に、新派和歌運動を起こす山田穀城(花作)・長谷川清(楽天)・上月喬(桂男)等も、少年時代から父や祖父に伴われて出席していたという。明治期の佐渡には、この清楽社以外にも両津に熱串彦神社神官中村春彦が指導する「花月社」、畑野に医師の生田裕が率いる「春風社」、金井に石塚秀策を中心とする「茶話会」などの結社があったが、いずれもリーダーの死亡や和歌革新運動の波に呑まれて、明治後期までに消滅した。【関連】鈴木重嶺(すずきしげね)【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』、酒井友二「佐渡短歌史抄」1~3(『佐渡郷土文化』五七~五九号)【執筆者】酒井友二
・関(せき)
南は関崎の禿の高、北は寒戸崎にはさまれた集落で、背後にはトドノ峰と知行山がけわしくそびえている。関崎は標高一○○メートル余の巨大な岩山で、石灰岩からなる「木の葉石」と呼ばれる化石などが出るが、禿の高隧道(昭和三十五年)完成までは、海府道の一大難所であった。寒戸崎は、背後の知行山が中世に岩崩れを起こし浜を埋め出来た岬で、ムジナ伝説をもつ寒戸神社(大杉神社)がある。関崎と寒戸崎の中間には、弘法伝説をもつ鍔峰の禅棚岩がある。ここには弘法大師の足跡や護摩をたいた岩跡があるといわれ、弘法大師の名を借りた行者たちの活動がうかがえる。村の草分については、大家といわれる本間四郎左衛門と弟の安藤孫左衛門が、佐和田の二宮からやってきて、その後、二人を頼って一一人がやってきたと伝えられる。そのため鎮守の二宮神社も、地名の二宮からきたものともいわれ、社人は大家の四郎左衛門である。関は神仏の多い村である。重立の多くは、それぞれ神社や堂をもち、カギトリをつとめている。たとえば安藤孫左衛門の諏訪神社、山下弥七郎の十二神社、岩崎長右衛門の観音堂、相馬万太郎の大師堂、林四郎兵衛の権現さん、橋本三右衛門の地蔵堂、浜田五郎右衛門の大金大明神、大家本間四郎左衛門のもう一つの大杉神社などである。『佐渡国寺社境内案内帳』には、二宮明神・諏訪明神・十二権現は、ともに永禄三年(一五六○)の勧請と伝えているが、この頃それぞれの地神をもった各集団により、この集落はできたものと思われる。関は現在(平成七年)世帯数四五戸、人口一○九人である。宝暦元年(一七五一)の「村明細帳」には、戸口三五軒、人口二二七人、馬一二疋・牛八五疋と記されている。近年(平成七年)禿の高の景勝地に国民休暇村も建設され、民宿もふえ、観光地としての開発が進んでいる。国の重要無形民俗文化財・文弥人形芝居の関栄座もある。【関連】文弥人形(ぶんやにんぎょう)・禅棚岩(ぜんだないわ)・関の寒戸(せきのさぶと)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫
・関越え(せきごえ)
関から旧加茂村の歌見に至る歌見越えとは別に、関からマトネを南に下って、北松ケ崎に至る関越えがある。前者には、両津湾側の歌見の村名がつけられているのに対して、後者のほうには、海府側の関の名がつけられているのが、成立の経過によるちがいを示すのであろう。本誌の「大倉越え」の項で、大倉から浦川に至る道と、関から北松ケ崎ないし馬首に至る道とが、マトネの南側で十字路をなしている珍らしい現象をとりあげたのが、右記の事情とかかわりがあるのかもしれない。【関連】大倉越え(おおくらごえ)【執筆者】本間雅彦
・関越えの仁王杉(せきごえのにおうすぎ)
一五年前(一九七五)大佐渡の関越えの山中、(大倉越えより北東へ三キロ地点の尾根の九合目)海抜八○○メートルの天然杉の林の中で出会った杉の巨木は、今も鮮やかに覚えている。こんな巨木が佐渡にあるとは、思いもかけないことであった。樹高四○メートル余、樹冠幅一七メートル。天をおおい地を圧するとはこのことをいう。近づくにつれてその巨幹に圧倒される。胸高幹径なんと一・五間(二・七メートル)。この杉を「関越えの仁王杉」と名ずけたが、現存する佐渡天然杉の中で、第二の巨木である。天然杉の森。それは若い小杉と大杉(親杉)と、天をおおい地を圧する樹齢一○○○年にも達するスギの巨木たちの同居する森である。『佐渡の天然杉巨木ベスト8・胸高幹周順位(一九八八)』注、(天)は天然記念物指定「[1]金峰神社の大杉ー両津市北五十里(町・天)幹周八・五m 樹高四○m」、「[2]関越えの仁王杉ー相川町関(無指定)幹周七・三m 樹高四○m」、「[3]毘沙門天の百足杉ー金井町平清水(町・天)幹周六・七m 樹高三六m」、「[4]実相寺の三光杉ー佐和田町市野沢(町・天)幹周六・五m 樹高三○m」、「[5]長谷の三本杉ー畑野町長谷(県・天)幹周六・四m 樹高四○m」、「[6]牛尾神社の安産杉ー新穂村潟上(村・天)幹周六・二m 樹高三○m」、「[7]稲荷神社の大杉ー真野町下黒山(無指定)幹周五・七m 樹高三○m」、「[8]五所神社の大杉ー赤泊村下川茂(村・天)幹周五・二m 樹高三○m」。【参考文献】伊藤邦男『佐渡花の風土記ー花・薬草・巨木美林』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】伊藤邦男
・脊椎動物の化石(せきついどうぶつのかせき)
佐渡島の新第三系海成層から発見された脊椎動物化石は、魚類・爬虫類の海亀・鳥類・哺乳類である。魚化石は軟骨魚の板鰓類(サメ)と硬骨魚のニシン科などである。相川町中山峠付近、羽茂町川茂付近などに分布する鶴子層の泥岩から産出する。海亀化石は小木町堂釜海岸で、鶴子層に由来するノジュールの転石の中に発見された。鳥化石はハト科の一種で、相川町中山峠付近で鶴子層の泥岩から発見された。哺乳類の大型四肢動物であるパレオパラドキシアが、下戸層から産出した。海生ほ乳類の鯨目アカボウクジラ科とイルカ類、鰭脚目アロデスムスが、いずれも鶴子層の泥岩中に含まれているドロマイト質団塊の中から産出した。これらは頭蓋骨・肋骨・椎骨などの骨格で、保存状態もかなり良い。【関連】サメの化石(さめのかせき)・パレオパラドキシア【参考文献】『佐渡博物館研究報告』(七・九集)【執筆者】小林巖雄
・関の木の葉石(せきのこのはいし)
「木の葉石」は、樹木をはじめ草などの葉の化石のことで、おもに細かい層理が発達した泥岩に産出する。佐渡では、相川町関の植物化石が文献上で明治中頃から知られている。その後、藤岡一男と西田彰一によって「関植物化石群」と命名され、詳細に研究された。一七科二三属三五種の、葉・種子が識別されている。種類はシラカンバ科・カエデ科が多く、ヤナギ科・クルミ科・ニレ科・カツラ科・シナノキ科・ブナ科・シャクナゲ科・モクセイ科などであり、それにマツ科・モミ科が加わる。古いブナであるアンチポブナ(ファガス アンチポフィー)は、日本周辺の中新統から広く産出する。シラカバ属のベチュラ サドエンシスのように、この関で最初に命名された種も多く、サドエンシスあるいはセキエンシスの種名が付けられている。マツ・モミなどの常緑針葉樹を混じえる、広葉落葉樹の林が復元されており、この植生は現在の温帯北部の森林相に近いといえる。日本における中新世前期の地層から産出し、広葉落葉樹を主体とする「阿仁合型植物化石群」に含められている。この植物群は、北海道から九州まで広く分布していた。温暖な気候になった中新世前期の末~中新世中期初頭に比べると、冷涼な気候であったと考えられている。【参考文献】藤岡一男・西田彰一『佐渡博物館研究報告』(三集)【執筆者】小林巖雄
・関の寒戸(せきのさぶと)
二つ岩団三郎の四天王として相川町関には、寒戸(佐武徒とも書く)というむじなの神をまつる大杉神社がある。大杉は「お杉」のことで、関の知行山の岩山が、七○○年近く前に海岸にくずれた時、生き埋めになった娘のお杉のことで、お杉は大船の船頭となかよくなり、この地で逢っているうちに岩山がくずれ、お杉の両親は遺体も見つからなかったので、杉の木を一本植えて供養にしたと言われる。また、相川の二つ岩団三郎が女性に化けて、関から相川へ木炭や薪を運んだ帰りの船に荷物をことづけ、関の寒戸むじなは蓑笠姿で受けとったと言われる。相川から関の寒戸へ荷物を預かると、いつも追い風が吹き、船頭は櫓をこがなくともよかったという。また関の人が、相川の「二つ岩さん」をお詣りに行った時、団三郎から関の寒戸へ品物を預かり、その礼として銅銭をもらい、「最後の一文だけ残しておけばどんなに使ってもなくなることはないと、そしてだれにも話すな」と言われ、たしかに、その通りであったが、あまりの不思議さに、つい他人に話したところ、この銅銭はただの銅銭になったという。さまざまな霊験のあるむじな神である。【関連】二ツ岩団三郎(ふたついわだんざぶろう)・佐渡の貉神(さどのむじながみ)【参考文献】山本修之助『佐渡の貉の話』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫
・関の地辷り(せきのじすべり)
相川町北部の関集落と、禿の高の間の海に接する緩傾斜面は、もともと常習的地辷り地であった。海抜一○○メートル以下の棚田の部分で、六○○年前・三○○年前、及び一九四○年代に大規模な地辷りが起きた。一九四一年には水平に四~五メートル、垂直に一~二メートル変位し、土塊の回転運動により沖合には小島を生じた。その後水抜き工事等が行われて、目立っては動かなくなり、現在の海岸線は整備された漁港に変わっている。地質は、新第三紀層中新統の真更川層下部の、凝灰角礫岩とシルト質頁岩の互層である。頁岩には葉理が発達し、植物化石(「木の葉石」)を多産する。緩斜面の南東を限る、北東ー南西方向の直線状の急斜面は断層崖であり、「鏡岩」と呼ぶ断層鏡肌面が見られる。地辷り面積は二二・二ヘクタール、水田は内九・六ヘクタールある。
【関連】鏡岩(かがみいわ)【参考文献】九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】式 正英
・関原紋兵衛(せきはらもんべえ)
【生没】生・没年不詳 相川旧奉行所下のモンペイ坂の語源となった関原紋兵衛(主兵衛とも)は、「在相川医師諸町人由緒」(『佐渡相川の歴史』資料集二)によると、「生国甲州、後ニ帰国、九月十二日卒、主兵衛山主相勤後ニ宗清ト云、相川居住之所今ニ主兵衛坂ト云フ、──」とある。『佐渡年代記』の慶長八年(一六○三)の項には、「相川の内字半田清水か窪と云田地を、持主山崎宗清と云ものより、価の金子五百両にて買取て陣屋を築く」と書いており、前記『資料集二』の注解では、山崎は姓ではなく山先(山主)の意で、宗清は関原宗清にあてている。つまり主兵衛は、江戸初期にはすでに相川で土地を手に入れていたことになる。宗清の養子は、馬場村(現畑野町畉田)の河原森右衛門の生れで、宗清の娘(姉とも)と結婚したらしい。またその子与五右衛門は、竹田村伊藤善兵衛の娘をめとった。また何代目かの玄瑞およびその子玄道は、元文五年(一七四○)に医者となった(『沢根町史第二集』)。畉田の河原家は通称「八坂」といい、同家には先祖が京都の祇園からの移住を伝えており、分家の河原与三兵衛家(現在伊東姓)は寛延の義民で、相川の橘屋とは親しい間柄であった。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集二)、『波多』(畑野町史)【執筆者】本間雅彦
・セコノ浜洞窟遺跡(せこのはまどうくついせき)
両津市大字鷲崎字宮山、通称セコノ浜にあった、佐渡最北端の弥生時代海岸洞窟遺跡。鷲崎の台地からわずかに海につき出た断崖に形成された遺跡で、昭和二年(一九二七)四月、池田寿・川上喚涛・渋谷菅蔵・松田與吉・近藤福雄らの調査がある。現在は漁港道路工事で淫滅しているが、矢崎隧道(鷲崎湾側入口)あたりである。洞窟といっても発見当時の現状は、二つ折の隅屏風の様に屹立した岩壁のすき間状部に残された遺跡で、かってはその前面に、間口八間(一八・四メートル)、奥行六間(一○・八メートル)ぐらいの三角形状の寄洲があり、その奥詰の岸壁に、間口六尺(一・八メートル)、奥行五尺(一・五メートル)、高さ六尺(一・八メートル)の傾斜した三角形の包含層を残していて、表面に土砂五寸(一五センチ)程を覆った貝塚であった(川上喚涛「鷲崎貝塚の発見」)。すぐ近くの岬状先端部には、三個の小洞窟(シルクチ穴と呼ぶ)があるが、遺跡の確認はない(清野謙次「佐渡紀行」)。それをセコノ浜洞窟とするものがあるが(『両津市誌』他)、間違いである。出土遺物は、弥生時代の中期後半から後期の竹ノ花式土器、後期後半の本州東北南部の天王山式土器、古墳時代初頭期の千種式土器。石鏃・石槌・碧玉製の半截溝のある小石片。骨槍、シカの肩胛骨製卜骨(一点)、歯根に小孔のある小型馬の歯(一点)(同定、長谷川)。牛科の臼歯舌側破片(一点)(同定、長谷川)、イノシシ・ニホンイヌ・シカ・ウサギ・アシカ・サメ・タイ・サザエ・アワビ・カキ・シジミなどの自然遺物である(同定、直良)。またわずかに人骨(歯)があり、ニホンイヌの出土は家犬を持っていたことが知れる。なお、他に縄文中期初頭の蓮華文のある土器口辺部破片一点と黒曜石製石鏃一点が、佐渡博物館収蔵の近藤福雄収集遺物の中に含まれている。湾内の海底から、錘形石棒(石錘か)一点の収集もある。(註)小型馬の歯と牛科の臼歯舌側破片の同定は、横浜国立大学教育学部地質学教室、長谷川善和教授、(昭和五十七年六月)。【参考文献】川上喚涛「鷲崎貝塚の発見」(『佐渡史苑』二号)、清野謙次「佐渡紀行」(『佐渡史苑』三号)、新潟県『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告』(七輯)【執筆者】計良勝範
・説経節(せっきょうぶし)
室町時代末から江戸時代初期にかけて、盛んに語られた。僧侶の説経に端を発したといい、代表的な話に「苅萱」「しゆんとく丸」「小栗判官」などがあり、佐渡でもなじみ深い「さんせう大夫」もその一つ。人の多く集まる街頭芸人としての説経語りから、やがて劇場にも進出し、三味線なども用いて浄瑠璃化した。佐渡へは享保年間(一七一六ー三五)に、新穂村瓜生屋の須田五郎左衛門が上方に登り、公卿から浄瑠璃の伝授を受け、人形一組を購入して帰ったのが始まりとされ、同所「広栄座」の人形がそれであるという。文弥節より一時代早い古浄瑠璃で、人形は腰串に首がくっつく「デッツク人形」。上下にうなづく形の「ガクガク人形」(文弥人形)とは対比される。いずれも文楽よりはるかに古い一人遣い方式で、三味線も伴奏ではなく拍子をとるだけ。文弥節の三味線より古色を感じさせる。間狂言の「のろま人形」の首の造形もそうだが、「乳人」(説経首)などには享保ビナと共通したものがあり、台本も慨して上方系が多い。説経節は、説経祭文として寛政頃(一七八九ー一八○○)に、八王子など関東地方に伝えられた後期説経節と、佐渡に伝わった前期説経節に大別されて残っている。内容は社寺の縁起譚などが主で、信仰色が強い。「さんせう大夫」説話の伝播によって、佐渡へは早やくから地蔵信仰が広がったと思われるフシがある。相川にも古く「大倉の五郎助人形」「後尾の知教院人形」「大浦の中川儀兵衛人形」入川の「マツヨム人形」などの説経座があったが、のちに廃絶または文弥人形座に転身したとされる。【関連】広栄座(こうえいざ)・のろま人形(のろまにんぎょう)・文弥人形(ぶんやにんぎょう)・霍間幸雄(つるまさちお)【参考文献】『民衆芸能・説経節集』、佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』【執筆者】本間寅雄
・石斛(せっこく)
【科属】ラン科セッコク属 佐渡の野生ランおよそ五五種のうち、着生ランはこのセッコクだけである。江戸期、「佐渡石斛」は物産(生薬)であった。古い時代、岩薬とよばれたのも本種である。その薬効は「陰を強くし、精を益し、胃中の虚熱を治し、筋肉を壮にす」とされる。中国産のホンセッコクは、チョウセンニンジン以上に高価で、強精・強壮薬の代表種。『佐渡志』(一八一六)に「石斛、深山中岩石上に生す。採り得るものは稀なれば、険阻を憚りてなるべし。相川銀山及び加茂郡入川村中にあり」と記される。当時薬用に採られ、カマスに詰められ島外に出荷された。現在は希産種。金井町中興の植田正司さんによれば「自生地は大佐渡の断崖絶壁で、ウチョウランと混じりススキの根元に生えていた。花は五月、白色ないし桃色で芳香がある。茎長は一○センチほど。新しい芽をだし葉をつけ、三年目の秋に葉を落とすが、翌年その葉のない三年目の茎に花がつく」と。植田さんは、市販のヘゴ材の上にミズゴケをうすく敷き、その上にセッコクの根を広げて殖やしている。「根を空気に触れさせることを心がければ、好い結果がでる」と。【花期】五~六月【分布】本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・シタダミ(しただみ)[オオコシダカガンガラ]
シタダミ(小螺子、細螺)という方言は、佐渡に限らず使われているが、佐渡では磯の岩礁帯に、たくさん生息しているオオコシダカガンガラを主として、クボガイやヘソアキクボガイを指して呼んでいる。これらは、軟体動物腹足綱に属す、螺塔(殻の高さ)の高い小型の巻貝であり、海藻を餌としている。昼間は岩の下や隙間に潜んでいるが、夜になると這い出て、浅い方まで来て採餌する。このサザエと同じような習性を利用して、夜の岩場帯を灯火をたよりに、岩の表面を撫でさすって貝を採取する。これを佐渡では訛って「夜なれ」と称し、風物詩の一つとなっている。オオコシダカガンガラは、太平洋岸にすむバテイラの日本海型、すなわち亜種である。日本海型は、螺塔がもっと高く尖り、殻の畝がはっきりしていることが特徴。ゆでて、食用にする。田中葵園の『佐渡志』には、「扁螺ハ方言シタヽミ」と記してある。【執筆者】本間義治
・浄永石塔(じょうえいせきとう)
大安寺境内の、歴代上人石塔の一隅にある。角柱形に加工した凝灰岩で作られているが、風化剥落が大きい。巾二六センチ、横面巾二○センチ。高さは向って右上端が残っているようで、一二四センチを計り、小泊の石英安山岩と思われる加工した基礎の上に立っている。正面は殆んど欠け落ちて文字が読めないが、南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれていたものであろうか、最後の文字が、塔面の下端にわずかに痕跡をのこす。向って右側面には、「干時慶長拾六□暦□月」、左側面には「□□(日カ)寺願主浄永」と刻まれている(従前「當寺願主浄永」と判読されているが、「當寺」は「□□(日カ)寺」と、寺名が彫られているらしい)。左右側面の文字は、大安寺の宗岡佐渡守名号石塔にみるような、大ぶりののびやかな書体を示し、正面の文字も、それに共通していたと思われる。慶長十六年(一六一一)は、浄土宗大安寺を建立した大久保長安が、当寺内に逆修塔を建てた年に当る。もともとこの石塔が、大安寺に伴うものであれば、大安寺開基聖誉貞安と願主長安、またはその関係者との関連性は無視できない。しかし、「願主浄永」は記録に表れておらず、「浄永」は誰か、現在確定されていない。破損が大きいが、数少ない佐渡の慶長年石塔の一つである。【関連】大安寺(だいあんじ)【執筆者】計良勝範
・浄金妙福地蔵(じょうきんみょうふくじぞう)
大安寺山門前の参道左側わきにまつられている、石造の地蔵菩薩である。もとは浄土宗安養寺にあったもので、『佐渡相川志』に、「安養寺 下寺町ノ石坂今ノ高安寺南側境内四反三畝大安寺末。寛永十癸酉年(一六三三)開基ス。延宝三乙卯年滅亡ス。寺地ハ本寺ヨリ支配。元文四己未年三月十一日下戸町立願寺ニ譲リ、本尊ハ新穂中川次郎右衛門位牌所ノ堂ニ安置ス。安養寺境内ニ年久シキ石像ノ地蔵アリ。享保ノ頃念性ト言フ道心者夢ノ告ニ依テ今大安寺境内ニ移ス。世ニ妙福地蔵ト称ス。施主妙福ト彫刻セシ故也。」とある。これによって、この石地蔵は寛永年に開基した安養寺にあったもので、享保年に大安寺に移されたものであることがわかる。石地蔵は、頂を山形にした、高さ一六○センチ、巾七○センチ、厚さ一六センチの板碑形に、板彫状に近い地蔵を半肉彫にしているが、石質は石英安山岩の小泊石であろう。像高は一三五センチ、肩巾四四・五センチで、大形で稚拙な彫刻を示し、室町後期らしい線を省略した簡素さが特徴である。顔相は、眼を大きく彫りくぼめて見開き、鼻と口は小さく、耳は大きい。両肩を張り、手はあるかなしかに小さく、足もただ棒状にしている。右手に錫杖、左手には宝珠を持つ。衣は袴と着物をはおった様な大雑把な姿で、全体に細かい縦の細線(縦縞)を刻む。像の下部左右には、向って右側に「浄金禅定門」、左側に「妙福禅定尼」と刻んでいる。浄土宗の五重相伝の行を得た男が禅定門、女が禅定尼の称号を贈られるが、この場合は夫婦であろう。相川では他に、大安寺に河村彦左衛門の「清岳浄栄大禅定門」がみえ、相川金銀山そのものをたたえた戒名の如くにも思える。佐渡石仏の室町風のものと言えるものであり、室町末から江戸初期に造顕された石仏であろう。なお現在、施主不明となった墓石を集めて、コンクリートで固めた祠内に安置されているが、その祠の前端両はじに石塔があって、向って右塔には「南無阿弥陀仏」、左塔には「南無阿弥陀仏 源空(花押)」「精蓮社進阿建立」(裏側)と刻まれている。この二本の石塔は、中寺町にあった大超寺(大安寺と合併)にあったものであるらしく、祠が作られる(大正年)以前は、大安寺山門前に立てられていて、この「浄金妙福地蔵」とは関係ない。【関連】大安寺(だいあんじ)【執筆者】計良勝範
・銭座(ぜにざ)[ぜんざ]
正徳二年(一七一二)佐渡の出銅で銭を鋳造することになり、江戸糸屋八左衛門が請負い、江戸より職人四二人を連行して、翌三年から下戸炭屋町に工場を設けて、事業を開始した。しかし、採算がとれず一年で止め、その後享保二年(一七一七)河野通重奉行が、銭の払底を緩和するため、幕府の許可を得て奉行所直営で鋳造した。この時は一町目浜町の旧銅床屋を銭座とし、銭座役二人を置いて管理させた。新銭鋳立の主法は、銅一万貫に白目錫三○○貫・上錫一○○○貫・鉛二八○○貫を加え、表に寛永通宝の四文字を彫り、裏に「佐」の字を表わした。主原料の銅は、鶴子鉱山の出銅を主とした。以後享保十九年まで稼業したが、同年請負に改められ、相川町宗兵衛が請負い一年間一万貫で、不足銅八○○○貫は出羽・奥州より調達した。この鋳銭は、寛保元年(一七四一)江戸からの命令で中止した。その後再び明和七年(一七七○)銭払底のため、鉄銭鋳造を幕府に願い出たが、銅銭鋳造を命ぜられ相川町善兵衛ら五人が請負い、一町目浜通り忠兵衛持屋敷に工場を建設、一か年一万貫を鋳造し、天明元年(一七八一)まで続けられたが不良品が多く、運上二七○○貫の滞納ができ廃止された。【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』【執筆者】児玉信雄
・狭地つぶし(せまつぶし)
狭い田地を広くすること。「狭地なおし」ともいう。一説には「千枚つぶし」だという者もいる。また、小さい田の畦をぬいて大きな田地にするところから「あぜぬき」ともいう。傾斜地を田地にするには、等高線にそって不整形な形になる。また用水路の水口田は三角形に、水渡し田は細長くなる。この自然発生的な田地を広くするには、水路をつくり替え、田地の交換分合をして、せまつぶしの条件を整えねばならない。この田地の区画整理がはじまったのは、大正期からの耕地整理が行われるようになってからである。小川のせまつぶしは、真光寺から婿にきた人が教えたという。せまつぶしの仕事は、秋祭りが終わると始まった。田仕事の仕末がすみ、沖漁は終って、磯ねぎ以外はこの仕事が春まで続いた。工事には親方がいて人足をつかって行うが、片辺の例では六反歩余の面積に、四○~五○枚の田地があった。それを五畝歩の大きさの田にした。ひと冬に二反歩くらいしかできないので、三年かけて完成した。畔と畦を固めるのに、「たこうち」という厄介な仕事があった。四本の長い縄を持って、四人が掛け声をかけて持ち上げて放す。楽な仕事ではなかった。工事の完成を「かいでき」といい、親方は施主に招待され、餅を搗いて祝った。【参考文献】『山里の人びと』(大崎郷土史研究会)、佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・勝場(せりば)
床屋ともいい、江戸時代の製錬所で、鉱石を砕き淘汰して製錬するところ。これを業とするものを買石といった。寛永の頃、大床屋・小床屋・分床屋と分業が進み、大床屋は主として搗砕淘汰をなし、小床屋は主に淘汰を終えた砂鉱を製錬して金銀塊となし、分床屋は銀塊からさらに金を分析して回収した。寛永十九年(一六四二)には、大床屋五軒・小床屋五四軒・分床屋が九軒あった。【関連】買石(かいいし)・床屋(とこや)・寄勝場(よせせりば)【参考文献】岩木拡『相川町誌』【執筆者】小菅徹也
・尖閣湾(せんかくわん)
昭和八年(一九三三)脇水鉄五郎の命名。相川町姫津から北狄までの約四キロメートルの海岸にみられる、五つの小湾の総称。それぞれ第一湾は幽仙峡湾、第二湾は立雲峡湾、第三湾は金鋼峡湾、第四湾は膳棚峡湾、第五湾は大岬峡湾とよばれ、海からの遠望に優れている。相川層に貫入する斜長流紋岩の貫入岩体からなり、貫入岩体中に発達する流理構造に沿って侵食がすすみ、高さ約三○メートルの絶壁が形成されている。その上面には、広々とした海岸段丘面が発達し、絶壁と段丘面のコントラストがみごとである。揚島(北狄)と達者から海中透視船が就航しており、佐渡島の代表的景勝地のひとつとなっている。当湾は国指定の名勝佐渡海府海岸の一部であり、佐渡弥彦米山国定公園の一部である。【参考文献】本間周敬『佐渡郷土辞典』【執筆者】神蔵勝明
・選鉱場おけさ(せんこうばおけさ)
鉱山の石撰り、いわゆる選鉱場で唄われていたハンヤ節をいう。選鉱場おけさといういい方は、大正十三年(一九二四)に創立された立浪会によって、「正調おけさ」が一般に広まってから、それと区別するために、いい始めたように思う。それまでは「選鉱場節」といわれていて、おけさ節よりテンポが早やく、「ハアー、朝の早ようからカンテラ下げてヨ」など、主として鉱山の作業唄(節はハンヤ節)が、揚鉱場の職工や、選鉱場ではたらく女工たちのあいだで、唄いつがれていた。現在の佐渡おけさのルーツは、九州・天草島の南端、牛深のみなとに生まれた「ハエの風」(南の風)を語源とした、ハンヤ節とされている。異論もあるが、それが小木おけさ・相川おけさの、もともとの由来であろう。船乗りの酒盛り唄として、和船時代に佐渡に伝わった。このハンヤ節を、いち早やく相川に受入れたのが、佐渡鉱山の選鉱場で働く女工たちだった。選鉱場節のあとに、同じハンヤにルーツを持つおけさ節が、いまの唄い方に似た、ややハイカラな調子で相川へ入り、これが立浪会の人たちによって、より洗練されたいまの正調おけさになった。選鉱場節が「ハンヤくづし」といわれたのは、おけさよりも、よりハンヤの節廻しを濃く残していたからで、昭和四年の金鳥レコードでは「選鉱場節」で、同六年のビクターレコードでは「選鉱場おけさ」として、村田文三によって吹込まれている。踊りは、佐渡おけさと同じ十六足踊りで、いまではテンポを早めた踊りにしてある。【執筆者】本間寅雄
・千石船(せんごくぶね)
千石ほどの米(一五○トン)を積み込める船、大きな船という意味合いの、和船に対する通称である。ここで言う和船は江戸時代中ごろ、瀬戸内海で発達した「弁財船」といわれる型の木造船であり、明治中頃まで日本の近海運送の主流であった。一般的に言われる、北前船・菱垣回船・樽回船も同じ型の船である。特徴は造船技術の発達により、板の継ぎ足しが可能であり大型の船が造れること、帆や舵の改良により、操船が楽になり乗組員が少なくてよい、荷物の積み卸しが容易であることなどの利点があった。一方短所として、航海には風向きによる制約が強かったこと、舵のもろさ、水密性の低さなどが上げられるが、鎖国時代の近海航路の木造船としては、ほぼ完成された機能を持っていたものと思われる。小木町によって、平成十年三月に完成を見た千石船「白山丸」は、安政五年(一八五八)宿根木の石塚市三郎が、地元の船大工に造らせた「幸栄丸」の板図(設計図)が、佐渡国小木民俗博物館に所蔵されていたので、それを元にして、寸分のちがいもなく復元したものである。板図は側面図だけのものが通常であるが、「幸栄丸」の場合は平面図がセットとなっているもので、全国的にも稀な一級品の資料であった。したがってこれまで、全国各地で造られていた模型制作の中で、疑問とされていた平面の線が、確実にとらえられている点も大きな特徴である。造船には、岩手県気仙地方の「気仙船匠会」が主体となり、これに小木町の船大工が加わり、九か月で完成した。全長二三・七五メートル、積石数五一二石、帆の大きさは一五五畳である。【関連】佐渡国小木民俗博物館(さどこくおぎみんぞくはくぶつかん)【執筆者】高藤一郎平
・千畳敷(せんじょうじき)
相川町市街地の北端、下相川の海側にある平坦な岩礁。裸岩の広がりが大きいので、昔から着目されて千畳敷と命名されて来た。浅い平坦な海底がとり巻いており、渡って遊べる様に昭和九年(一九三四)に架橋された。隆起波食台の地形で、古くから相川の街近くの名勝地として知られていた。背後の崖にはいくつか海食洞が穿たれ、その地質は相川層群真更川層の玄武岩質安山岩溶岩・集塊岩であり、黒ずんだ岩石である。【参考文献】新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』二集、「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】式 正英
・膳棚岩(ぜんだないわ)
「禅棚岩」と書く場合もあるが、古い資料では「膳棚岩」が多い。相川町関の鍔峰(つばみね)の先端にみられる巨岩。鍔峰の一帯は、デイサイトの自破砕溶岩(真更川層)が分布しているが、鍔峰の先端部のみ流理構造の発達したデイサイトの塊状溶岩(真更川層)からなる。この流理構造が、たまたま水平方向に発達しているため、波浪による浸食作用で写真のような平板状の岩体となり、「お膳の棚」のように見えている。地元には、膳棚岩は弘法大師が扁平な岩盤を積み重ねて作った石棚であるとか、弘法大師の護摩皿といわれる焦げ跡とか、弘法大師の足跡などの弘法大師伝説がある。高さ五メートル、幅一○メートル、長さ四○メートル。【関連】真更川層(まさらがわそう)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集九)【執筆者】神蔵勝明・寺崎紘一
・千日念仏地蔵(せんにちねんぶつじぞう)
下寺町の浄土宗法然寺境内にある石仏の地蔵。頭光をつける丸彫坐像で、顔は半肉彫、体躯は板彫状とし、全体が稚拙な造形で、顔相はきつく、大安寺の浄金妙福地蔵に類似する。像高一一八センチ、頭光まで一三三センチ。鉢形の蓮華坐は五段の蓮弁で、高さ四六センチ。五輪塔の地輪を思わす基礎は、巾六一センチ、高さ六七センチ。石質は石英安山岩。基礎の正面と向って左面に、風化で判読がむずかしい部分もあるが、大ぶりなのびやかな書体で次の銘文をきざむ。正面「(キリーク)千日成就 本国越前府中 住人□(本カ)□(偵カ)道□(構カ) 佐州鮎川□(寺カ)町 法園寺□□□」、左面「寛永十四□(年)□(卯カ)月十□日 石切□左衛門──」。『相川志』の「昭栄山法円寺」に、「下寺町法界寺末。開基越前府中ノ産香桔ト言フ僧、慶長十六辛亥年千日念仏成就シテ、元和八壬戌年寺号山号免許アリ。」、『佐渡国寺社境内案内帳』には、「開基越前国府中の産香播、慶長十一午年千日念仏成就して法界寺に石塔あり」とある。「香桔」と「香播」、石塔判読では「道□(構カ)」。「慶長十一年」(一六○六)と「慶長十六年」(一六一一)、石塔は「寛永十四年」(一六三七)と相違点があるが、右記録の石塔に当る。法円寺(廃寺、法然寺のすぐ上にあった)が元和八年(一六二二)、寺号山号を法界寺(現法然寺)より免許されたのち、この石塔が建立され、千日念佛した阿弥陀本尊の信仰対象仏として、地蔵像を安置したものであろう。石地蔵は、蓮華座とともに、佐渡の江戸初期の時代相を表わしている。【執筆者】計良勝範
・千仏堂(せんぶつどう)
相川町戸地にあり、本尊は大聖不動明王で、開基年代不詳、古文献には不動堂とあり、最初の修験者が、境内の奥にかかる滝の近くに、大聖不動明王を勧請して苦行したのが、始まりという(この滝は眼によいと伝えられている)。また南片辺大興寺の本尊(不動明王)の開基は天正五年(一五七七)で、千仏堂の分かれとの伝承もある。その後文禄(一五九二ー九五)の頃、弾誓上人が真更川の山居へ籠る前に立ちより、念仏を唱えながら仏像を刻み、さらに元禄(一六八八ー一七○三)の頃には、弾誓木喰行法を追慕して上野の国より、書と彫刻の得意な天空和尚(のち大巧坊)が来て千体仏を刻んだので、千仏堂と呼ぶようになった。幕末頃には、武術に優れた正覚坊が来て、村人に武術の形を教えたのが、熊野神社の祭礼行事「白刃」となったという。弾誓上人の三幅対真筆・木喰上人の木刻像など、そのほかの史料は、明治四十年(一九○七)の大火に焼け、翌年堂は再建された。祭りは旧正月二十八・九日である。本堂の横にあった松の大木は、松くい虫被害を考慮して伐採された。境内には、ほかに観音堂(本尊は聖観世音)と阿弥陀堂があり、様々な地神が祀られている。【関連】不動信仰(ふどうしんこう)【執筆者】三浦啓作
・千本(せんぼ)
村の草分けは、入川村から入ってきた武内万四郎といわれ、千本村は古くは下入川村と呼ばれ、入川の出村だったという。そのことについて薬泉寺の縁起書に、本尊薬師如来十二神は、至徳元年(一三八四)の春、漁夫の網にかかり海中より出てきもので、明徳二年(一三九一)の旱魃の際、入崎浜に千本の塔婆をたて、この秘仏を請して雨乞いの法を修めたため、この年より千本村と改めたとのことが記されている。いわゆる千駄焚きなどといわれる雨乞い呪願からきた改称なのである。元禄七年(一六九四)の検地帳では、田一六町七反余・畑四町五反余とあり、宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』には、家数三八軒・人数二一八人とある。参考までに現在(平成七年)の世帯数は五五戸、人口は一五二人である。入崎沖合の沖の神子岩の岩礁地帯は、豊富な天然わかめの産地である。享保二十年(一七三五)、このわかめ採取をめぐって千本・高下両村と、北田野浦村の三か村で入会権争いとなり、再三佐渡奉行所役人の現地見分けの末、一番なぎは千本、二番なぎは高下、三番なぎは北田野浦と、わかめ刈りの順番が決められ、長く守られたが、明治十年の町村合併後、千本・高下が一緒(高千)になってからは、千本・高下が一番刈り、北田野浦が二番刈りとなり、現在に至っている。入崎には、北田野浦の片岡儀左衛門の地神だったという入野神社があり、帆下げ伝説をもっている。沖の御子一帯は航海難所で、かって若狭の回船が難破した伝承などをもつ。千本の鎮守は八幡神社で、熊野・白山神社も合祀されている。祭りは四月十五日、赤泊(または石花)から習ったという鬼太鼓が奉納される。近年入崎はその景勝を生かし、ドライブイン入崎などの観光施設も整い、夏は観光客でにぎわう。【関連】沖の御子(おきのみこ)・薬泉寺(やくせんじ)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『高千村史』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫
・千本城址(せんぼじょうし)
入川川河口の北側、段丘突出部が千本城址である。元禄年間(一六八八ー一七○三)の入川川を挟んだ北側の入川村と、南側の千本村の水田面積や百姓戸数を比較すると、千本村は入川村の半分弱である。入川村に中世の城がみられなくて、小さい千本村になぜ城があったのか。これは以前千本村が、「下入川村」と呼ばれた入川の出村であって、もともとは一つの村であったからである。千本にある城址には「城ノ腰」の地名があり、一般には「城平」とも呼ばれている。段丘突出部先端は、三角状に盛り上った小山で、背後は沢で切られた独立した小郭である。後方の段丘上は標高五○メートルほどあるが、ここの突出部にも小さいもう一郭がみられる。城というより見張所的な感じのする場所である。この城の主はわからない。小山頂上部は池田氏が所有し、入川草分けの一人池田蔵人(江戸初期中使・宝生権現社人)が築いたものか。【参考文献】『高千村史』、山本仁『佐渡古城史』【執筆者】山本 仁
・千枚田(せんまいだ)
島内で「千枚田」といえば、畑野町小倉の通称千枚田こと「大ひらき」のことをいう。慶長期に始まる相川鉱山町の人口急増に伴って、米不足が起ったとき、佐渡奉行は新田開発によって対処を試みた。その新田の多くは山つきの村で、地形や水利の点で条件のわるいところが多かった。小倉の大ひらきは、かなりの傾斜地である上に、水源地のない天水田であった。旧小倉村の資料によると、新田開発は慶安三年(一六五○)に始まって漸増し、貞享元年(一六八四)にピークをみたが、大ひらきの開墾は寛文年間であった。同四年(一六六四)から延宝元年(一六七三)までの一○年間に、一二八枚で五反八畝が開かれている。つまり一枚の広さは、平均一三坪ほどの微細田であった。その後に、元禄御水帳に書かれたときには、それらの田は六七筆(枚)に合筆され、面積は約三倍の一町九反余となった。田の枚数は、およそ八○○枚くらいあったといわれていたが、現況では合筆と減反で激減した。標高では五○○メートル近い上に、村の居住地から離れていたが、大型車の通る道路ができて、耕作には便利になった。小倉は岩山が多く、強水がかりであるため米の味がよく、すし米などとして定評を得てきた。【参考文献】『波多』(畑野町史)【執筆者】本間雅彦
・相運寺(そううんじ)
中寺町にある真言宗の延命山相運寺は、地蔵菩薩を本尊とし、沢根の曼陀羅寺末である。はじめ上相川にあって、地蔵寺・慈眼寺・金剛院などの門徒を支配していたが、慶安年中(一六四八ー五一)いちど廃寺となった。それを曼陀羅寺の尊誉が中興の祖となり、檀家にはかって地蔵・慈眼両寺を併せ、本尊を地蔵菩薩として復興した。以来、金剛院とともに曼陀羅寺末となった。地蔵寺は、慶長十二年(一六○七)祐遍によって開かれた。相運寺の弘法大師像は大師の直作と伝えられ、讃州延生寺より吉田作兵衛なる者が持参して納めたと伝えられる。【執筆者】本間雅彦
・雑蔵(ぞうぐら)
『佐渡相川志』巻之一に、印銀所・御米蔵とならんで、「雜蔵」の項がある。そして巻之二の「相川中町々地理之図」の三枚目には、門兵衛坂を登りつめて東南の道をすこし行くと、山中に四つの建物が描かれ、「雜蔵」の文字が読みとれる。雑蔵の項に書かれている説明を要約すると、「いま雑蔵があるのは、中京町の味方与次右衛門屋敷の続きで、山師が用いる材料の油・桧木・竹・鉛・煙硝などを収容する倉庫である。雑蔵役は、享保四年(一七一九)から始められた。雑蔵の敷地は四百拾坪ほどである。」ということになる。【執筆者】本間雅彦
・総源寺(そうげんじ)
相川下山之神台地にある曹洞宗寺院で吉井剛安寺末。元和五年(一六一九)開基、瑚月周珊大和尚(本山六世)建立という。寛永六年(宝歴寺社帳・佐渡相川志は七年とする)八月十三日、佐渡曹洞宗の惣録所に定まる。末寺三か寺。本堂内には佐渡奉行鎮目市左衛門(寛永四年七月)、同河野豊前道重(享保九年十一月)、同小浜志摩守久隆(享保十二年九月)、同井戸伊勢弘隆(寛保二年九月)の位牌が安置されており、また境内墓地には、佐渡奉行飯塚伊兵衛・篠山十兵衛・鈴木傳市郎の墓碑や清音比丘尼の墓標などがある。薬師堂は享保十九年(一七三四)六月建立。「総源寺縁起」によると、天正の役で石花城主石花将監は、一族郎党等を姫津から海路各地に落し、家老等には土地器財を分け帰農させ、自らは吉井剛安寺に走り髪をおろして行脚僧となり、二○年の後帰国して剛安寺六世をつぎ、総源寺の開基となったという。総源寺初代(剛安寺六代)瑚月周珊は、石花将監の後の姿であったわけである。石花殿の家老本間惣右衛門・本間喜兵衛・本間五郎右衛門などの家は総源寺檀家で、とくに惣右衛門家は総源寺の別席として扱いを受けてきている。【関連】石花将監(いしげしょうげん)・鎮目市左衛門(しずめいちざえもん)【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、山本仁『佐渡古城史』【執筆者】山本 仁
・総社裏遺跡(そうじゃうらいせき)
総社裏遺跡は真野町大字吉岡にあり、小佐渡山脈の山麓台地、標高一八メートルに位置する。周辺の遺跡では、畑野町の三宮貝塚、真野町の藤塚貝塚・浜田遺跡・竹田沖条理遺構・下国府遺跡が発掘されている。昭和六十一年(一九八六)六月二十日から七月二十五日まで、佐渡考古歴史学会が中心となって調査された。調査の結果、縄文住居四棟が弧を描くように並んで発見された。出土遺物の結果、縄文前期末から中期初頭と見られ、佐渡では最も古い住居址となる。縄文の前期末土器は、南関東の十三菩提式、中部高地の晴ケ峰式、富山県朝日下層式、石川県福浦上層式の影響が認められ、佐渡では小木町長者ケ平の土器に類似する。縄文中期前葉土器は、中部山岳地帯の踊場、梨久保や北陸の新保式に似る。石器では、佐渡初見の三角形岩版の呪術具が出土し、黒曜石の石鏃は、京都大学原子炉実験所の藁科哲男と、東村武信に鑑定依頼したところ、長野県霧ケ峰産だったことが分った。また遺跡は、縄文前期末から中期前葉が主体で、佐渡では数少ない遺跡と判明した。【参考文献】「吉岡総社裏遺跡」(真野町教育委員会)【執筆者】佐藤俊策
・宗太夫坑(そうだいふこう)
坑名から、岩下惣太夫を想い起こす。大久保長安の家臣として、一七世紀初頭の慶長年間に、佐渡鉱山の開発に活躍した人で『川上家文書』(両津市和木、川上二六氏蔵)に、しばしば惣太夫の名前が登場する。この人を除いて、長安時代の佐渡鉱山は語れないほどの、かなりの人物だったと思われるが、来歴はあまり知られていないがこの坑の開発に、なんらかの関与をしていたのであろう。同時期に活躍した同僚格の宗岡佐渡の名も、「宗岡間歩」の坑名になって絵図に残っている。宗太夫坑は、坑口の高さが約三メートル。幅二メートル。坑道の断面が大きく、全体として大型坑道である。むろん江戸初期の開坑だが、鉱石の運搬機能と技術が発達した一六九○年代(元禄時代初頭)、荻原重秀が進めた鉱山再開発のころも主力間歩の一つであったと思われる。部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、探鉱用の小さい狸穴、天井にぬける空気坑、長さ六○メートルにおよぶ斜坑、「釜ノ口」と呼ばれる坑口と、その飾りなど、江戸期の旧坑の諸条件を完備していて、大形の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。脈幅・走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端に当たる「割間歩」坑の一鉱区として開発された。その内部一一七・五一五平方メートルの地積は、平成六年(一九九四)五月二十四日国の史跡に指定された。県道大佐渡スカイラインの沿線にあって、一般公開されている。【執筆者】本間寅雄
・宗徳町(そうとくまち)
惣徳町とも書く。江戸期から昭和年代後半までつづいた佐渡鉱山の中心部が宗徳町にあった。現況では、明治中期から政府の払い下げをうけて経営していた三菱金属鉱業社から離れ、その子会社である佐渡金山株式会社の手に移っている。同社事務所の北側には、観光のためのゴールデン佐渡とよぶ諸施設があって、三か所に分れた大きな駐車場ができている。町名は、慶長年中(一五九六ー一六一四)に初代佐渡奉行大久保長安に仕えた山師、田中小左衛門宗徳(惣徳)の開発に由来する。宗徳は徳川家康に遣わされた廻船商人、田中清六の一門といわれている。その娘おはなは長安に抱えられ、おはな間歩があった。明治前期の政府直営の頃に、鉱山事務長であった大島高任による竪坑(深さ六五○メートル)があり、彼の名を冠した高任神社は、のちの鉱山祭の元宮となっている。【関連】大島高任(おおしまたかとう)【執筆者】本間雅彦
・外海府海岸(そとかいふかいがん)
相川北部、下相川から願(両津市)までの大佐渡北部海岸を外海府、両津湾側の白瀬より鷲崎までを内海府と称し、それぞれ下相川と白瀬に大中使(大名主)をおいて、地域をまとめていた。内・外海府は、自然景観と地域性は対称的で、外海府は浸食谷によって分断されているが、海岸段丘は発達し、段丘面は川水を引水して水田に開き、海岸は岩石海岸となり、男性的景観を呈している。海府はもと海人族の生活の場で、古代には海辺の低地で藻塩を焚いた製塩や、山地の船木・船山の地名などから、船材の生産地と考えられる。中世末には、石花に土豪石花将監が、海府二四か村をおさえ支配したが、佐渡が幕府領となると、金山町相川の近郊村として、米・海産物・炭・留木などの供給地となった。『佐渡四民風俗』では、海府の地域性を「村々の者、いずれも家業によくはまり候。風俗強情に候儀は風雨荒き土地柄の自然に候や、海猟もこれあり候へども、荒磯ゆえ内海府と違い候」と記述している。明暦三年(一六五七)「外海府御年貢御地子小物成留帳」(下相川・本間又右衛門家文書)によると、外海府全体で年貢七三一石余、地子七七石余、山役銀二貫三五○匁、いか役四万五○○○枚、串貝役(蚫)二三○○盃、若和布役三三○把、海苔役五斗六升、山枡役九斗五升、稗三斗七升を納めていた。金泉と高千地区を結ぶ鹿野浦トンネルは昭和九年に開通、それ以前は出崎や山が交通の障害になり、行商人や遍路以外は訪れる者も少なく、自然の景勝地が遅くまで残った。昭和九年、「佐渡海府海岸」が国の名勝地の指定をうけ、尖閣湾の景勝地、平根崎(戸中)には、波浪によって浸食された波食甌穴群(国指定天然記念物)がある。【関連】尖閣湾(せんかくわん)・平根崎(ひらねさき)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集一・四)、『新潟県風土記』【執筆者】佐藤利夫
・外海府中学校(そとかいふちゅうがっこう)
昭和二十二年(一九四七)五月十五日、外海府中学校の本校(三教室)は外海府小学校(五十浦)にて、小田分校(二教室)は外海府小学校の小田分校で、北鵜島分校(二教室)は同北鵜島分校にて併設開校をなした。本校の借用校舎が腐朽し、五十浦の校地(県道のうえ)に新校舎が竣工するのは、昭和二十四年二月である。更に矢柄に独立新校舎が落成するのは、昭和三十七年で、新校舎での授業開始は五月十五日であった。なお、同三十八年三月には体育館の建築も竣工した。校歌(作詩庵原健・作曲仲田信)と校章が制定され、校旗が樹立されるのは、昭和三十二年七月である。同四十一年から郷土芸能・文弥人形クラブを開始。翌四十二年三月には、NHK教育テレビで本校の文弥人形が放映される。その間、郷土の文弥人形芝居の名人浜田守太郎(矢柄出身の相川町名誉町民)の指導を受ける。同四十二年には、佐渡地区科学研究発表会にて、「外海府地区における塩害の基礎研究」が県賞受賞、続いて翌年も同発表会で「空気の汚染」が同賞受賞、更に次の年は「魚肉のアンモニア発生とPHの研究」で県教委賞を受賞した。その後も同四十九年十二月、佐渡会館にて文弥人形クラブの発表会、同五十年には佐渡地区科学発表会にて「アサガオのつるのまき方」奨励賞、翌五十一年には科学研究発表会で「いわたけの研究」が郡の部奨励賞、県の部では県教育長賞優秀賞を獲得。更に同五十五年の科学発表会では「波の研究」(第一分野)・「外海府のヒダリマキマイマイ」(第二分野)が共に県教育委員会の優秀賞を受賞し、その活躍が注目された。しかし過疎による生徒の激減には抗しきれず、昭和五十七年三月二十二日閉校、高千中学校に合併した。【参考文献】「外海府中学校三十年の歩み」(外海府中学校)、「外海府中学校沿革誌」(外海府中学校)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】浜口一夫
・外海府農業協同組合(そとかいふのうぎょうきょうどうくみあい)
所在地大倉、設立は昭和二十三年(一九四八)六月。旧外海府村九か集落のうち、願・北鵜島・真更川・岩谷口・五十浦の五集落が「外海府村北部農業協同組合」を作り、北鵜島に事務所を置く。また残りの関・矢柄・大倉・小田の四集落は、「外海府村南部農業協同組合」を結成し、事務所を小田に置いたが、農業会の資産分割により、昭和二十五年十月、大倉に事務所を移した。その後、昭和二十九年水力発電所建設の際、岩谷口・五十浦の両集落が加わり、組織が拡大された。昭和三十一年九月、町村合併により「外海府農業協同組合」に名称を変更。昭和三十六年第二室戸台風により、発電所の施設電柱等大被害をうける。昭和四十六年、高千農協の有線放送電話に加入。同四十六年八月、石油製品販売業務を開始する。【関連】佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)【参考文献】『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)【執筆者】浜口一夫
・外海府の小学校(そとかいふのしょうがっこう)
明治七年(一八七四)九月、相川県管下加茂郡第三大区小ノ九区に、小田庠舎が開かれ、矢柄・関・岩谷口・真更川・北鵜島・願などに分教場を置く。同九年小田庠舎は、簡易科小田小学校(小田の重宣寺)と改称。更に同十年には、小田小学校と呼び名が変る。明治二十五年四月には、岩谷口の弥勤寺を借りて、外海府尋常小学校が創立され、分教場を小田・矢柄・関・真更川・北鵜島に置く。同三十七年九月、五十浦の地に新校舎が建つ。それと同時に関分教場が統合される。同四十五年には、矢柄分教場も廃され、小田分教場に合併される。大正三年小田分教場が新しく建てなおされる。外海府尋常小学校に、二年制の高等科が併設されたのは、大正十五年四月である。昭和二十四年、小田分教場が独立し、小田小学校となる。同年北鵜島分校も独立。願分校は北鵜島小学校の分校となる。同二十五年、外海府小学校の新校舎が竣工。同六十一年九月、へき地複式研究会を開催。平成元年三月、過疎化による児童数の激減のため閉校し、高千小学校に統合された。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「追憶の外海府・小田小学校」(越後・外海府・小田の会)、閉校記念誌『外海府』(外海府小学校)【執筆者】浜口一夫
・外海府村(そとかいふむら)
明治二十二年(一八八九)の町村合併で、外海府村は、願村から小田村までの九か村で構成された。このときの町村合併は、行政的にも財政的にも、維新後の新しい地方自治体制に堪えうる戸数三○○戸以上の町村の誕生をめざしていた。参考までに、当時のようすを『新潟県町村合併誌』を基にみてみよう。願村の戸数は二一戸・人口は一五○人、北鵜島は二五戸・一六五人、真更川は二二戸・一三六人、岩谷口は二八戸・一七二人、五十浦は一八戸・一二九人、関は四二戸・二三三人、矢柄は二四戸・一五四人、大倉は三五戸・一九二人、小田は四五戸・二五七人、計二六○戸・一五八八人だった。合併の理由は、各村とも小村落にて独立の資力なく、交通不便で他に合併すべき村落もなかったので九か村が合併した。その名称は、この地方一帯を昔から外海府といっていたのでその名称を採った。明治三十四年の戸数八○○戸以上をめざす新しい町村合併には、外海府村はそのまま据え置かれ、昭和三十一年九月には相川町に合併し、さらに同三十二年十一月には、旧外海府村の北部三か集落(真更川・北鵜島・願)が相川町を離れ、両津市に編入された。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】浜口一夫
・蕎麦鰌(そばどじょう)
そば食の一つ。そばの原初的な食べ方は、そば粉を熱湯で練って、だんご状にして食べる「そばがき」であったが、雑穀・野菜などの増量材として、練って棒状にして短く切断して、煮しめや雑穀の粉に混ぜて炊団にして食べた。この短く切ったそばだんごを、どじょうといった。形がどじょうに似ているとは考えにくいが、農村では夏中は体力増強のために、どじょう汁をよく食べた。冬は囲炉裏の火を囲みながら、どじょうの代りにそばだんごを入れて食べたところから、このように言われたのであろう。ある夜、今晩はそばどじょうにしなさいと姑に言われた嫁が、いっしょうけんめいにそばでどじょうを作ったという笑い話があった。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』、同「佐渡の焼蒔とソバ」(『高志路』三○九号)【執筆者】佐藤利夫
.蘇民将来(そみんしょうらい)
佐渡の寺院の中には、正月に護符として「蘇民将来子孫門戸也」というお礼を出すところがいくつもある。春祈祷の前後に配られてくるこの紙札を家々では、戸口や小屋の柱に貼って疫病などを祓う。相川町の石花には、蘇民将来神社がある。江戸後期には牛頭天王社に、さらに明治四年(一八七一)には素戔鳴神社と呼び替えていた。改名の理由は、むかし石花川の川口に朝鮮の蘇民族がいて、それを祭神にしたのはよくないという攘夷思想からくるものであった。先年、石花の潟湖跡といわれる馬場遺跡が発掘されたとき、騎馬民俗が用いる帯の金具が出土したことから、渤海使節の来島が取沙汰され、その頃に防疫の役割を果していたのではないかと考えられている。もともと蘇民将来の語彙は、鎌倉中期の書『釈日本紀』に記されており、出自はいまは現存しない『備後風土記』とされているが、内容は兄弟の兄に与えられた武塔神(素戔鳴)からの除疫力の由来である。南佐渡に伝わる民謡の「そうめんさん節」のソウメンは蘇民のことで、蘇民とは神名になる以前には、前記した石花の伝説にあるように、民俗名にかかわりがあることばであろう。【関連】素戔鳴神社(すさのおじんじゃ)・馬場遺跡(ばんばいせき)【参考文献】有本隆『蘇民将来概説』、本間雅彦『牛のきた道』【執筆者】本間雅彦
・ぞんざ(ぞんざ)
紺染め無地(めくら地)の木綿布に、裏地をつけて刺しつけた仕事着。日常着にもなった。丈夫にするため、二枚以上の木綿布を刺して作ってある。「刺しこ」の一種。金泉では「どんざ」という。「ぞんざ」に似た仕事着に、国中で「じばん」がある。長江では「さしつけ」という。「ぞんざ」の古い形は、前身頃に衽をつけてないが、女性用になると衽をつける。長さは腰きりで、平袖である。女性は下着に「肌じばん」をつけ、下半身は「はだそ」(おこし)をつけて、脚に「はばき」をはいている。昭和初年頃まではこんな恰好で仕事をしていた。高千では他所へ嫁に出す娘には、横刺しぞんざを持たせた。この横刺しは、町場やあらたまったときの「ぞんざ」で、たて刺しは仕事着にした。袖は半平袖になっており、端が立つようになっている。小木町宿根木のように、たて刺しのないところもあり、反対に琴浦は横刺しがない。「ぞんざ」は仕事着の代名詞のように使われていたが、刺し方、目の大小、呼び方など、佐渡の中でも一様ではない。冠婚葬祭などに、刺してない「ぞんざ」を着ることがある。これを「はんてん」といっていた。「ぞんざ」は木綿布を重ねて縫い合わせているから、生地を補強した「さしこ」である。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
★た行★
・田遊神事(たあそびしんじ)
主に正月、その年の豊作を祈願して、農事を模擬的に演じる予祝神事。土地によって御田・御田植神事などと呼ぶ。現在、佐渡にはこの神事が三か所に伝承されている。畑野町大久保の〔白山神社田遊神事〕、赤泊村下川茂の〔五所神社御田植神事〕、小木町小比叡の〔小比叡神社田遊神事〕がそれで、それぞれに異なる演出がみられる。白山神社の田遊び神事は、毎年旧正月三日(現在は二月三日)。神事には、決まった家柄のオオヤとインキョの二名と、厄年の男六名が奉仕する。三日の夕刻、真禅寺で潔斎の後、餅鍬を担いで社前のモチヤキ石で鍬をあぶりヤキをいれ、やがて拝殿内で苗代・田回り・水口・畦ぬり・大足・代田打ち、そしてユズリ葉を車田植えふうにまいて式を終了する。五所神社のそれは、毎年旧正月六日(現在二月六日)。苗取り式・朝飯式・田打ち式・昼飯式・大足式・などから構成され、宮方七人がこれをつとめる。鍬(エブリ)には桑、苗には松葉を用いる。小比叡の田遊びは、五所神社同様、毎年二月六日に執行される。頭取一人、田人四人により、田打ち・水加減・苗草ふり・種蒔き・苗取り・苗持ち(苗運び)・田植えと、田仕事を模擬的に演じることは、前述白山神社・五所神社と同様。ただ、ここでは、モグラ・カラスが登場し、田仕事を邪魔するという趣向は、より芸能的な演出である。苗は松葉。なお、「御田」の呼称は、両津市久知八幡宮の〔花笠踊り〕に「御田踊り」として登場。また田遊びの歌は、『越佐史料』の正元元年(一二五九)の項に、「是月、佐渡八幡宮神主、田植ノ歌ヲ録ス」とあるように、田遊神事も島内に広く行なわれていたものであろう。【参考文献】 『祭りと芸能の旅2 関東・甲信越』(ぎょうせい)、『新潟県の民俗芸能』(新潟県教育委員会)【執筆者】 近藤忠造
・大安寺(だいあんじ)
浄土宗。江戸沢町にある。山号は長栄山、院号は法広院、そして寺号の大安寺から、大久保長安が逆修寺として、生前に建てたことを明らかにしてくれる。法広院は、「法広院殿一的朝覚大居士」の長安の戒名に関係しよう。開基は慶長十一年(一六○六)とされ、開山は高名な京都大雲院の貞安上人。逆修とは死後の往生菩提のため、生前にあらかじめ善根功徳を修しておくことに由来した。長安の名・戒名・造立年を刻む宝篋印塔(慶長十六年銘)は、越前の朝倉義景、加賀の前田利家ら大名の墓と同形式の「越前石宝篋印塔」で、長安の生前に建てた墓が残るのは諸国でここだけである。当初の本堂は、十二間に十間の大伽藍で、学寮があり、所化十数人を養成し、長安が米五百石を寄進したとされ、大久保山城・宗岡佐渡・吉岡出雲の三人が、破損料として米百俵と金五拾両を寄進して維持したという。享保十四年(一七二九)の火災で、「三尊二十五菩薩、二祖大師、貞安形像、長安位牌厨」が焼けたと『佐渡相川志』は伝える。長安の前の佐渡代官、河村彦左衛門の五輪塔(慶長十三年銘)、長安の手代、宗岡佐渡が寄進した、六字名号塔(慶長十四年銘)「願主浄永」の文字が読みとれる六字名号塔(慶長十六年銘)など、一七世紀初頭の石塔が多く残る。また佐渡奉行所を建てた兵庫県明石出身の水田与左衛門・佐渡奉行岡松八右衛門・地役人岩間半左衛門などの一族、近代に入って森知幾(「佐渡新聞」の創設者)・岩木拡(『佐渡国誌』の編纂者)・戯作者中川赤水(「相川音頭」の作者)などの菩提所でもある。【関連】 大久保長安(おおくぼながやす)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集二)【執筆者】 本間寅雄
・大安寺のタブ林(だいあんじのたぶりん)
日本の磯山がタブの森でおおわれていたように、相川の磯山もまたタブの黒森でおおわれていた。慶長のはじめ、十数戸の村から発展した相川は、元和八年(一六二二)には人口およそ三万五○○○人前後、家数四○○○軒を数える大鉱山都市に成長していた。忽然と出現した黄金の鉱山都市「相川」。山相も原形をとどめ得ぬほど変化され、原植生(自然林)も姿を消した。ただ、寺は一一○か寺。寺社林が原植生を今に残してくれる。江戸沢町の大安寺。大浦の尾平神社。いずれもみごとなタブ社寺林である。大安寺は、初代佐渡奉行の大久保長安が建てた寺。相川の金銀山の史蹟を今に残す寺でもあるが、日本の磯山の原植生を今に伝える寺でもある。相川町指定の天然記念物、新潟県指定のすぐれた植物自然の地域・群落であり、環境庁指定の重要植物群落でもある。タブ林面積四○○平方㍍。樹高二○㍍の原生林。高木層はタブ優占し、胸高幹径は一七ー七八㌢、林内は暖地要素の植物が生育する。中木層は、ヤブツバキ・シロダモ・モチノキ、林内はマサキ・キズタ・ベニシダ・ツワブキ・ヤブラン。暖地系のつる木のテイカカズラ・イタビカズラ。私たち日本人が、庭木とし垣根とする植物の多くがタブ林にみられる。タブは、日本民族のふるさとの森。一大鉱山都市であった相川にとっても、ふるさとの森であったことには変らない。【関連】 大安寺(だいあんじ)【参考文献】 伊藤邦男「佐渡相川金銀山の植生」(『金山の町相川』相川町教育委員会)、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】 伊藤邦男
・台ケ鼻(だいがはな)
二見半島南端、真野湾の湾口の北端に位置する岬。二見元村が北に、米郷が西北西に各一キロメートル離れてあるが、周囲には段丘上に灯台があるだけで人家はない。段丘崖下には、隆起波食台が広がり、暴浪の時は波を被り、台上には大小の円形の波食甌穴が生じており、見物や磯遊びに訪れる人が多い。地質は、新第三紀中新統相川層群最上部の真珠岩質石英安山岩溶岩や、同質の凝灰角礫岩であり、甌穴を生じ易い剥離構造等を持っている。甌穴は直径一㍍以上、深さ一㍍以上に及ぶものを含め、大小様々である。燈台下の海抜一八㍍の尾根上の「台ケ鼻古墳」は、昭和三十六年(一九六一)九学会が発掘調査を行った。昭和四十八年三月名勝として県の指定を受けている。【関連】 台ケ鼻古墳(だいがはなこふん)【参考文献】 新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)【執筆者】 式 正英
・台ケ鼻古墳(だいがはなこふん)
相川町大字米郷五五一の、海岸段丘傾斜地に位置する。昭和四十八年三月に、県史跡として文化財の指定を受け、昭和三十六年(一九六一)に九学会で発掘調査を実施した。東西一五、南北一五㍍を遺跡地として周知しているが、石室等は掘ったまま露出している。この古墳は明治時代に盗掘され、天井戸と奥壁の一部が取り去られていた。当時の出土遺物は、須恵器・刀・人骨が出土したと伝える。石室は尾根鞍部を幅四、深さ二㍍に立ち割って築く。玄室は長さ三・六、幅二、高さ二㍍を測る両袖式である。主軸は北東を向き、羨道は長さ三、幅○・八、高さ一・五㍍あり、玄門に間じきりを施している。石室の四隅は、三角状の石を持ち送りの手法を用い、中央部では胴張りが認められた。石室の外側は、土を板築状に水平な層で積まれ、床に玉石が敷かれてあった。石材は、海岸にある転石を加工して使ったものと推定される。持送り式天井は県内初の例で、能登島須會の蝦夷穴古墳に似ており、高句麗との関係を指摘して、能登島は七世紀後半頃の築造と述べている。遺物は直刀の破片一個だけだった。【関連】 台ケ鼻(だいがはな)【参考文献】 中川成夫・本間嘉晴・椎名仙卓・岡本勇・加藤晋平「考古学からみた佐渡」(『佐渡』)、松田与吉「佐渡古墳巡礼」、中川成夫・村井富雄「佐渡の古墳文化」(『人類学雑誌』)【執筆者】 佐藤俊策
・代官(だいかん)
①天正十七年(一五八九)より慶長五年(一六○○)までの、上杉氏の佐渡代官。上杉景勝は佐渡制圧後、国府に黒金安芸尚信、中原に青柳隼人(『管窺武鑑』には須賀修理)、小木に富永備中長綱、沢根に椎野与市(前書には河村彦左衛門)、新穂に大井田監物、湊に須賀修理、寺田に鳥羽十左衛門、貝塚に石井八右衛門を代官として配置し、佐渡を支配した。この外に、文禄頃に小林・登坂・籠島・佐藤・高野らが、佐渡代官として赴任していたことが認められる。②四代官 慶長八年(一六○三)初代佐渡奉行に大久保長安が就任する以前、田中清六・中川主税・吉田佐太郎・河村彦左衛門の四人が、佐渡代官として徳川家康から佐渡を預り、鉱山・地方などの政務を分担した。四奉行ともいう。③大久保長安をはじめ、寛永頃までの佐渡奉行を佐渡代官とも呼ぶ。長安は幕府代官頭で、佐渡金山経営のため慶長九年四月赴任、相川に代官陣屋を置き、佐渡を支配した。④大久保長安の家来大久保山城(のち長安の跡をうけ二代佐渡奉行となり、田辺十郎左衛門宗政と改名)小宮山民部・宗岡佐渡が、佐渡代官として政務を分担した。⑤大久保長安が大久保山城・小宮山・宗岡の下に、従来からの家臣や新たに召抱えた浪人を代官に取り立て、地方の要所に配置して佐渡を支配した。すなわち、河原田代官池田喜右衛門と堀口弥右衛門、小木代官原土佐、鶴子代官に保科喜右衛門、赤泊代官に横地所左衛門、湊代官に服部伊豆、大野代官に鳥井嘉左衛門を配置した。⑥宝暦三年(一七五三)佐渡奉行の外に二人の佐渡代官を置き、佐渡を奉行・二代官の三人による分割支配としたが、公平を欠くなど問題が多く、早くも宝暦九年一代官を、さらに明和五年(一七六八)代官制を撤廃して旧に復し、佐渡奉行の一円支配となった。【関連】 佐渡奉行(さどぶぎょう)【執筆者】 児玉信雄
・大願寺(だいがんじ)
時宗。神奈川県藤沢の清浄光寺末。寺の由緒書では「一説には貞和年中遊行七代度賀上人代僧を以て開基、また文和四年遊行八代渡船上人渡海して開基すとも云う」としている。文和四年(一三五五)の「遊行八世巡国之記」(隨従した弟子による日記)に、この年三月、渡船は遊行衆を引きつれ、佐渡での始めての布教に来島した。直江津より船十数艘に分乗し、あらしに悩まされながら十三日夜半に岬(宿根木)に上陸。ここにはかねて渡っていた越後広声寺時衆が一堂一宇を建てていた(現在の宿根木称光寺)。ここで一○日ばかり布教、やがて府中の本間佐渡守(国の守)に招かれ、府中橋本の道場(現在の大願寺、貞和のころ開基と伝えるのはこの道場か)を基地に、国中に布教した。七月九日、府中を発ち、三河(赤泊か)という所に寄り、再び宿根木の港から出船、柏崎に向ったことを記している。佐渡に時宗が根づいたのはこの一四世紀半ば、大願寺を中心としてであった。大願寺は「佐渡高野」とも呼ばれ、島内各地から家族の分骨が納められ、三月彼岸の中日には、肉親の霊供養に集った人々のため市が立った。これが大願寺市(彼岸市)であるという。天正十七年上杉勢に攻められ、六○坊あったという伽藍も焼かれ、全山が一時失われたが、慶長十四年大久保石見守長安により本坊が再建されている。本尊阿弥陀如来は、県文化財に指定されている。門前百姓一七軒があり、これが現在の四日町(真野町)の前身という。相川の大願寺(廃寺)は、相模国清浄光寺末で、四日町大願寺一六世了任によって慶長十三年(一六○八)弥十郎町に開基。明治元年(一八六八)廃寺となる。毎月二十五日に歌会が催され、連歌が奉納されたという。【執筆者】 山本 仁
・大工(だいく)
坑夫のことである。佐渡では普通の大工を、番匠或いは家大工といった。鎚とタガネを用いて鏈(鉱石)を掘り取ることを職分として、金児(金子)に使役される鉱山労働者。専業者を地大工といい、農漁民などが農閑期に臨時に大工働きをするのを、「かけ穿大工」と呼んだ。一○日間定めの通り入坑するものを、「差組大工」といい、定めに違い不参するものを、「逃げ大工」とも「番欠大工」ともいった。昼は差組大工として働き、夜他山へ働きに行くものを、「またぎ大工」と呼んだ。明六ツ時に入坑するのを朝一番といい、六ツより四ツ迄二ツ時、二番の大工入れ代わり四ツ時より八ツ時迄、三番の大工八ツより暮六ツ時迄、これを大工三人にて、六ツ時穿るのを六ツの稼ぎという。大工二人で朝五ツ時より二ツ時宛て代わり合い、七ツ時迄四ツ時穿るのを、四ツの稼ぎという。三人にて一ツ時代わりに稼ぐのを、六ツの稼ぎという。夜の稼ぎも同じ、大工一人にて穿る敷を、すっぽという。大工一人二ツ時を一枚肩、大概一貫五○○目より三貫目程。【関連】 大工町(だいくまち)【参考文献】 「佐渡金銀山稼方取扱一件」【執筆者】 小菅徹也
・大工町(だいくまち)
坑夫の住んだ町で、町部山側の鉱山に近い高台に立地している。新五郎町を経て京町通りに下る昔のメインストリートの、現在は諏訪町に次いで始点に位置する。鉱石を掘る坑夫を古くは「大工」といい、「慶長ヨリ寛永ノ頃迄、此所銀山銀穿リノ大工多ク居住ス」(『佐渡相川志』)とした記述によって、この町の成立の由来がわかるが、鉱山の大工たちがすべてこの町に居住したわけではない。普通大工は、町内各地に住む山師たちに従属して、山師とともにかたまって住んでいた。別に大工町は、公儀で雇入れて必要に応じて山師の採掘に加勢として出向く「御手大工」が、かたまって住んだ町であるとされている。慶長期の鉱山史料を集めた「川上家文書」に「大工町衆、大かた御出候」「大工すくなく御座候間、百人かせい(加勢)を入れ、切られせ申候」などとあって、山師に付属する大工とは違った使命を持つ、公儀の採鉱集団がいたことがこの記述でもうかがわれる。昭和十四年(一九三九)の平沼内閣、同十五年の米内内閣で外務大臣を勤めた有田八郎は、この大工町で質屋を営んだ有田家の養子である。氏神は天神社で、口碑によるとここに奉納される鬼太鼓は、古くから大工町衆によって伝承されてきたといわれ、古く安永元年(一七七二)に最初の記事が見られる。佐渡各地に伝わる鬼太鼓組みのルーツの一つであろうとされ、相川では十月の善知鳥神社の祭礼(相川祭り)に奉納され、町内をねり歩く。【関連】 大工(だいく)・川上家文書(かわかみけもんじょ)【執筆者】 本間寅雄
・大興寺(だいこうじ)
南片辺にあり、真言宗智山派、本尊は不動明王、山号は宝内山である。寺社帳では開基は天正五年(一五七七)で、当初は水上坊と称したとあり、『高千村史』では大同三年(八○八)元祖弘長により創立とある。伝承によれば、木食弾誓が立ち寄り、千体仏を納めるまでは不動堂であった戸地の千仏堂が、藻浦崎の観音岩の所にあった西光寺が退転したので、本尊の観音さんを別にお堂を建てて納め、お不動さんを安置して水上坊を開いたという。この西光寺は、石花将監の菩提所金井町吉井の剛安寺につながりを持つ寺であったが、天正十七年(一五八九)上杉景勝の佐渡攻めにより、将監滅亡後退転したもので、天正五年は西光寺の開基かと思われる。宝暦九年(一七五九)本寺・真光寺の帳面にある寺名の水上坊を、大興寺に改めたいと佐渡奉行などに願い出たが、許可されなかった。しかし元禄以降の文書には、水上坊・大興寺両方の名が見える。明和八年(一七七一)真光寺門徒から新末寺となる。明治の廃仏毀釈では、佐渡奉行の御休所など、諸御用を勤めたことから廃寺を免れた。寺宝に木喰行道が天明四年(一七八四)製作した高さ五五㌢、楠一木造りの佐渡では珍しい、左手に錫杖を持った弘法大師像がある。【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『佐和田町史』【執筆者】 近藤貫海
・第四銀行相川支店(だいしぎんこうあいかわしてん)
相川町に開設された佐渡で最初の銀行。明治九年(一八七六)四月、相川県が新潟県に合併されると、新潟県は第四国立銀行に佐渡支庁の取扱う出納事務を命じ、同銀行は八月三十日、佐渡支庁内に出張所を設けて業務を開始した。同十一年一月支店に昇格、本・支店間の為替業務も行なったが、翌十二年五月佐渡支庁が廃止されて佐渡三郡役所が置かれると、支店は閉鎖されて税金や郡役所・相川裁判所・佐渡鉱山などの公金は、派出所を設けて取扱うことになった。明治二十年代になると、産業や商業の発展により為替業務が増え、第四銀行も預金・貸出・為替など、商業金融を積極的に推進、明治二十二年三月一日、再び相川支店を三町目四番地に開設した。さらに同年三月三十一日に佐渡鉱山が皇室財産に移管されると、その為替方であった三井銀行の代理店も引受けた。同二十九年九月に、佐渡鉱山が三菱合資会社へ払下げられて公金の取扱いが減少すると、第四国立銀行が普通銀行へ転換したこともあって、同年十二月十八日相川支店を廃止し、公金取扱い業務は相川銀行へ譲渡した。大正十三年(一九二四)九月一日相川銀行が閉鎖されると、その業務を引継いで再開し、今日に至っている。 【関連】 相川銀行(あいかわぎんこう)・佐渡銀行(さどぎんこう)【参考文献】 『第四銀行百年史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・岱赭墨(たいしゃずみ)
相川下戸町の幅野今八家で製造販売していた、絵画に用いる朱墨。ガンマンをふくむ赤い鉄鉱が風化した分解物を粉にしたもので、原石を岱赭石ともいう。研麿剤の原料にもなり、帯褐色の粉米状の顔料も岱赭と呼ばれる。薬物や陶工にも用いた無名異に似て、酸化鉄と同じ系質である。広告に「岱赭絵具製造本舗、玉瀾堂・幅野今八謹製、佐渡国相川町」とあり、岱赭墨の現物が相川郷土博物館に寄贈されていて、中身には「佐渡特産・別製岱赭墨」(長さ六・七糎、経一・八糎)とあり、箱に「佐渡特産・別製岱赭墨・幅野今八」(長さ七・八糎、経二・五糎)の文字が印刷されている。広告文には「佐渡に於ける岱赭墨は、遠く文政年間、先々代今八が金北山脈の一支峯に於て偶々酸化鉄を発見し、試みに之れを精製して江湖に販売せしを淵源とせるが、其の原料の良好なる、加工の精到、価格の低廉と相まちて─」などと記されている。なお相川の絵師、加藤文琢を紹介した岩木拡の『相川町誌』によると、「文琢かつて金北山に登りし時、妙見山ノ近傍ニテ岱赭の原石ヲ発見シ、之ヲ下戸町の幅野今八ニ教ヘ其ノ製法ヲモ口授セシト云フ」とあって、原石の発見者を文琢としてある。江戸では谷文晁・青木南湖などの画家もこれを激賞し、佐渡岱赭の名が広まった、としている。今八は富豪幅野長蔵家の本家で、別に「銀花散」という歯みがき粉も製造していた。【関連】 加藤文琢(かとうぶんたく)【参考文献】 萩野由之『佐渡人物志』、『町のにぎわい』(相川郷土博物館特別展報告書)【執筆者】 本間寅雄
・大乗寺(だいじょうじ)
下山之神町にある真言宗豊山派の相栄山大乗寺は、慶長十七年(一六一二)に宥詮による開基を伝えている。当時は常州智足院末であったが、のち武州護持院末となり、さらにのち東京護国寺末となった。宝暦の寺社帳によると、境内壱町九反七畝廿歩、畑一畝弐歩とあるが、『相川町誌』では、境内四反二畝十四歩、田三町五反二十歩、畑一町一反二畝七歩となっている。この辺りはかって松原であったので、当寺を「松原寺」あるいは「松原大乗寺」と唱えたことがある。本尊の聖観音は、伊丹播磨守康勝奉行の臣、岡村伝右衛門義見(承応元年〈一六五二〉没)の持仏を寄進したもので、寛永中その観音の御供料として、小川村に七反余の新田が開かれた。境内には、西国三十三観音像・仁王像・四国八十八ケ所石仏・大師堂・聖天堂・庚申堂などがあり、良寛の母おのぶの実家橘屋代々のお墓が残っている。【関連】 相川橘屋(あいかわたちばなや)【執筆者】 本間雅彦
・大神宮(たいじんぐう)
夕白町に残る旧村社。創建の年代は未詳。文亀年間説(『佐渡神社誌』)があるが、疑わしい。古くは北沢川の北側の山岸にあったという。そのころの社地は、買石(製錬業者)池島甚兵衛の所有地だったが、ある日半左衛門という者が霊夢をみて銀山を見立て、大盛りを得た。その報賽として、神明社(皇大神宮を祀る)を勧請したのに始まるとされる。過ぎて元禄十五年(一七○二)の五月、社殿を地主甚兵衛に返還し、以後山伏大行院が別当を勤めた。夕白町は、古く山師備前遊(夕)白が開発した町であり、ここに移ったのは延享三年(一七四六)十月のことという(『佐渡相川志』ほか)。祭神は大日霊貴尊。『佐渡神社誌』には、「文政十一年三月再建、当町十六ケ村の産土神たり。明治六年九月村社に列す。同廿一年十月十三日再築とあり」と記す。夕白町移転後は、上町一帯(現在は長坂町から新五郎町まで、約一八○世帯)を氏子とし、広い信仰を集めていて、善知鳥神社の祭礼の、御輿の御旅所にもなっている。神明さんとも呼ばれ、本殿は、屋根が切妻、柱は堀立式の神明造りである。安永四年(一七七五)銘のある鳥居が残っていて、笠木の上部を刀背状にした、新明鳥居の名残りが一部見られる。祭礼は八月一日(古くは六月一日)。神楽と大黒舞いが奉納された。境内に桜の古木が数本、拝殿のうしろは杉の木立で薄暗く、落着いた景観のやしろである。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】 本間寅雄
・大神宮(だいじんぐう)
稲鯨大神宮。稲鯨字砂原。近世は神明宮という。『佐渡国寺社境内案内帳』には、天文二十一年(一五五二)勧請とある。社人六郎左衛門。明治十六年『神社明細帳』には、「村社。祭神天照皇大神。後鳥羽天皇が天叢雲剣の写を千振作らしめ給いし内、その一振を神体とした、と口碑にあり。慶長の頃、吉田兼治当国下行の事あり。その砌、右の御剣を改めて勧請し奉る」とある。大神宮の氏子は砂原に多く、浄土真宗専得寺の門徒。伝説では御神体の太刀は、鱈場で網にかかって上った太刀ともいう。鱈場漁師が宮の浦浪切不動尊と同じように、寄り神であることを氏子の伝承として残す。元和三年(一六一七)二見半島沖の下鱈場に、九艘の御役鱈場船があって、一艘に干鱈一○○枚の御役を納めていた。これらの鱈漁師の鎮守には、寄り神の伝承がみられる。稲鯨の字中村に、無格社であった北野神社がある。集落内には、組ごとに別に神仏を祀るが、集落の例祭は八月二十五日、北野神社の祭礼日に行い、大神宮では一月十六日の祈年祭に、大般若祈祷と神楽を隔年に行うことになっている。【参考文献】 矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・胎蔵寺(たいぞうじ)
北狄にあり、真言宗智山派。本尊は大日如来で、山号は狄石山である。開基は天正元年(一五七三)実相院により建立されたと寺社帳にある。また寺が開かれた際、小川から北見家が転任してきたと言われる。北狄には、海府地域に檀家制度が確立したと思われる元禄期から、宝暦期以前の貞享三年(一六八六)の墓碑があり、建立の頃から北狄の檀那によって庇護されていたと思われる。承応二年(一六五三)違勅の罪で佐渡に流された伊勢祭主藤波友忠が、万治四年(一六六一)奉納の絵馬や、朱塗りの調度品が什物で残されている。宝暦八年(一七五八)真光寺門徒から新末寺になる。【関連】 藤波友忠(ふじなみともただ【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『佐渡流人史』(郷土出版社)【執筆者】 近藤貫海
・大神宮(だいじんぐう)
米郷大神宮、米郷字西。開基知れず。神明社、社人忠右衛門(『佐渡国寺社境内案内帳』)。明治十六年『神社明細帳』には、「米郷大神宮、祭神天照皇大神、米郷村産土神たり。元文三年(一七三八)再建の棟札あり。口碑によれば慶長十二年(一六○七)吉田兼治、当国へ渡海の時勧請するといえり」とある。米郷の沖合いには、伊勢神宮への神饌用の若和布を採取したとみられる「たかおんべ」・「ひらおんべ」という島があり、台ケ鼻から城ケ鼻までの間は、魚貝類の豊富な場所で、延喜式大膳職・内膳の海藻・魚貝の貢進物も採取されたと思われる。元文期(一七三六~四○)からの長崎俵物の蚫・海鼠は、この海域でさかんに採っている。例祭日は六月十六日。【参考文献】 矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・大提灯(だいちょうちん)
旧相川町の氏子祭(小祭りとも)、いわゆる氏神の祭礼、およびその宵宮に、往来に掲げる献灯の大提灯。道路両側の、家の軒から軒へはしごを渡し、その上に横断幕をはるような形で、大提灯をのせてローソクを入れる。ローソクの火がともされると、提灯の絵を見物してまわる人々で町中が賑わった。提灯を管理するのは若者衆の役目で、大雨や風で絵が破れないように、見張りをしてまわった。一つの町内に二、三か所、大きい町では四、五か所に掲げられたという。提灯の大きさはタテ一・五㍍、ヨコ約四㍍、厚さ五○㌢ほどあり、絵は武者絵が多かった。残っている絵に、「源平八島大激戦図」「大江山福寿酒盛」「石橋山合戦」「粟津ケ原合戦」、また佐渡史にちなんだ「阿新丸」「日蓮」、民話の「舌切り雀」など。雄こんな絵柄と彩色の豊かさが見事で、中川鮎川・村田至周・古土北海・岩佐半仙などの絵師の署名が見える。石扣町町内会の一三点をはじめ、柴町・材木町・四町目・三町目・濁川町で掲げたものが残っているという。石扣町町内会の大提灯絵は、昭和四十九年(一九七四)八月に町文化財(工芸)に指定された。【関連】 中川鮎川(なかがわあゆかわ)・岩佐半仙(いわさはんせん)【参考文献】 『相川町の文化財』(相川町教育委員会)【執筆者】 本間寅雄
・鯛の婿源八(マツカサウオ)(たいのむこげんぱち)
小型な発光魚として有名な、和名マツカサウオ(松毬魚)のことを、各地で古くから色々と呼び慣らしてきた。佐渡で鯛の婿源八と呼ぶことは、滝沢馬琴の『燕石雑誌』と『烹雑乃記』に出てくるが、田中葵園の『佐渡志』にはない。越後では、鯛の婿源三郎(丸山元純の『越後名寄』、小田島允武の『越後野志外集』)と呼んでいたが、現在はタイノオジやゴンパチ(権八)である。体がタイに似たところがあるのに、大きな硬い鱗で覆われて、ごつごつしているところからの類推であろう。近縁種のエビスダイは、赤くて大きな美しい食用魚であるが、マツカサウオの肉も白身で味がよいという。マツカサウオは、せいぜい一五㌢にしかならないが、全体が黄色で、鱗板は黒く縁取られ、顎の下も黒い。顎下が発光することの発見は、富山県の魚津水族館で、大正五年(一九一六)八月の停電中のことだった。ここに、発光バクテリアを共生させているのである。暖海系の沿岸魚で、北海道南部から、九州・台湾を経てインド洋や、さらに西部太平洋からオーストラリアの北西岸にも分布する。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治
・大福寺(だいふくじ)
浄土真宗西本願寺派。相川丸山六右衛門町。『佐渡国寺社境内案内帳』には、「慶長十七年開基、宗俊越中富山称名寺より来り、延宝三年遷化」とある。寺縁起では「本願寺五代綽如上人によって越中井波瑞泉寺がひらかれると、三世の舎弟瑞俊が、関東稲田からもってきた名号を本尊として、砺波の城が崎に称名寺を建てた」とある。越中富山ではなく、砺波城が崎の称名寺である。開基宗俊については、『富山県寺院明細帳』には「開基宗俊、東本願寺宣如上人の弟子となり、元和九年砺波郡石田村に道場を創建し、寛永七年大福寺と相成り、同郡山田村大窪新村へ移転する」となっている。来歴に混乱があるが、宗俊は延宝四年(一六七六)に九二歳で没しているから、時期が少し早い。おそらく慶長初年に濁川付近に入ったものだろう。関東稲田からの古い名号本尊(十五光仏)とは別に、東本願寺の教如上人より名号本尊が下附されて、慶長十七年丸山に開基された。そのとき宗俊は二八歳で、また越中へもどった。明暦元年(一六五五)、越中から佐渡の嫡子宗玄に「─遠境の地、海路を隔てていて対面することは叶わないが、浄土にて再会することがあろう」と、晩年の心境を手紙に認めている。古い門徒に、越中井波四郎左衛門・越中忠兵衛らがおり、六右衛門町の石見六右衛門や、濁川・大間町の遠藤氏や伊藤氏、下相川の石切職人らも檀家である。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)、永弘寺松堂『佐渡相川志』、佐藤利夫「北陸真宗門徒と佐渡銀山」(『日本海地域の歴史と文化』)【執筆者】 佐藤利夫
・高田一方精(たかだいっぽうせい)
相川大工町の高田平五郎家(高田一方精本舗)で、調剤して広く発売されていた大衆漢方薬。同家家蔵の効能書によると、「気つけ」「めまい」「気ふさぎ」「胃のいたみ」「ぜんそく」「たんせき」「気管支病」「おうど」「口熱」「虫歯」「しゃくり」「しゃく」「食あたり」「切りきず」「あかぎれ」「打身」「はれもの」「二日酔い」「産前産後」「りゅうまち」「船くるま酔い」などと広範囲で、「救急良剤」として一般家庭で重宝がられた。持ち運びが簡単な箱入りのガラス瓶に入っていて、切り傷などは綿にしめして傷口に当てる、虫歯の痛みなどには筆にひたしてぬる、服用のばあいは水に和して飲む、などの用法が記されていて、大瓶・中瓶・小瓶の三種類があった。高田家の先祖は大坂の人で、代々平左衛門とも平兵衛ともいい、のちに平五郎を襲名した。椎野広吉の『佐渡の能謡』に、「有福なる町人にて多能多芸」の人として高田梅顛(四代目)のことが紹介されていて、能楽師遠藤可啓に師事して謡曲に堪能、また義太夫(節)にも習熟して三味線が弾け、そして本領は俳諧を以て名があったと記してある。明治十年(一八七七)九月に八四歳で没したという。なお一方精は、北蒲原郡中条在の庄屋から養子入りした五代目銕之助が、実家の家伝の薬をもとに処方したのに始まるという。七代目定(さだむ─昭和十七年没)八代目三治(昭和五十五年没。いずれも平五郎襲名)の代には、北海道・樺太などに販路を広げ、大戦中南方方面にも輸出された。この家には、文人墨客の来訪も多かったらしく、与謝野寛・晶子夫妻なども訪ねて、多くの歌軸を残している。 【執筆者】 本間寅雄
・高田屋(たかだや)
相川町羽田町東側にあった高級ホテル。現在は佐州ホテルになっていて、木造一部三階建の建物が残っている。「自分たちの泊ったのは高田屋といふので、三階から日本海の入日を見る奇観は、紅葉(尾崎紅葉)も筆を極めて賞していた。主人を根村忠五郎と呼び、紅葉の事を種々話して呉れた。有名な“蚊帳釣りて鎖さぬ御代に相川や”は此家での(紅葉の)吟である」と書いたのは江見水蔭(昭和七年「佐渡へ佐渡へ」)。創業年月は未祥だが、明治三十四年(一九○一)九月の『佐渡名勝』に「御旅館、高田屋忠五郎」の広告が見える。紅葉が来泊した二年あとの発行。昭和十三年六月発行の『佐渡名鑑』(佐渡毎日新聞社刊)には、「第二師団舞鶴要港部」「東京地方逓信局・仙台地方逓信局」「三菱佐渡鉱山」のそれぞれ指定旅館であるとの広告が見え、「高田屋旅館」としてある。昭和十五年十一月に佐渡へ渡った作家の太宰治は、高田屋に投宿したことを「宿屋が上等だと新潟の生徒から聞いていた。せめて宿屋だけでも上等なところへ泊りたい。濱田屋(高田屋の仮名)は、すぐに見つかった。かなり大きな宿屋である。やはり、がらんとしてゐた。私は、三階の部屋に通された。障子をあけると、日本海が見える」(「佐渡」)と書いている。「三階上段の間に、ここから海上の夕陽を眺めるのが壮観」だと江見水蔭も記しているから、紅葉の泊ったのもこの三階の間であろう。【関連】 煙霞療養(えんかりょうよう)【執筆者】 本間寅雄
・高千鉱山(たかちこうざん)
高千鉱山の呼び名ができたのは、大正元年(一九一二)からである。明治四十四年、三菱合資会社が民営の入川鉱山を買収し、翌年赤岩本坑に於て大直利(富鉱帯)に着脈し、立島二番坑に於ても上鉱を産したので、之を併せ佐渡鉱山の支山として、高千地方一円を管轄した鉱山である。開発は江戸時代に遡る。寛文四年(一六六四)入川御直山・田野浦御直山として、文献上の初見がある。相川金銀山の盛りに合わせて、断続的に探査された模様で、明治十八年(一八八五)に立島坑が再開された。同二十九年に、御料局から前揚三菱社が払下げを受け、以降大正初年にかけて、小野見鉱山から鹿ノ浦鉱山まで、周辺一帯の探査が進んだ。当地の鉱床は、何れも列罅充填鉱床の含金銀石英脈であり、鹿ノ浦はこれに銅・亜鉛鉱を伴う。産出の主流は、入川赤岩・立島・桜沢の三坑である。地元の人が鉱山で働き出したのは、大正十一年(一九二二)からである。手選された鉱石は、入川は軌道で、立島は単線鉄索によって海岸置場に運搬の上、海路相川の本山及び直島製煉所に運送された。当時従業員の総収入は、高千村の農業生産額に次いで第二位(二割強)を占めたという。昭和十二年(一九三七)、蘆溝橋事変による戦略物資調達等で、金の需要が高まって大増産し、為に同十七年には鉱量枯渇を招いた。時を同じくして、太平洋戦争勃発による国の政策の転換に伴い、同十八年(一九四三)閉山となった。ちなみに、明治三十九年(一九○六)から閉山まで、三七年間の総産出量は、精鉱一九万二○○○㌧・含有量金二三二二㌔・銀八万二四四五㌔である。【参考文献】 「鉱山内部資料」、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『高千村史』【執筆者】 池田達也
・高千鉱山(地質)(たかちこうざん)
相川町立島および入川流域に位置する。西から東へ、立島・桜沢・入川の有力鉱脈が分布する。立島坑から入川坑までの東西延長は、一七○○㍍、最大脈幅二㍍、深度四五○㍍、母岩は入川層および相川層である。一六一○年、徳川幕府の直営で開発されたが、稼業休止を繰り返した。その後、一九○六~四二年間に稼業され、総鉱量は約二九万㌧、金七・八㌧、銀二七○㌧と品位に富んでいる。【参考文献】 坂井定倫・大場みのる「佐渡鉱山の地質鉱床」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】 神蔵勝明
・高千村史(たかちそんし)
書名のサブタイトルに、「農民の生活と物の考え方」とあり、扉には、「このつたなき村史を、この村に生き、この村に死んだ、名もなき多くの農民の霊に捧げる」と記し、この村史の性格と内容を、ずばり云いあらわしている。目次はまず序にかえてで、村のあらまし(村の自然環境と社会経済環境)を述べ、第一部は、村の民俗(年中行事・民謡・昔話・俗信)をさぐり、土に生き、土に死んだ多くの村びとの心象風景にせまっている。第二部は、村の歴史(村の誕生と形成、きびしい検地、重い年貢、虐げられた生活、村の構造と行政、生活向上へのあゆみ、明治諸改革と村、村の近代化、昭和恐慌とその後の村)で、農地と農民の、生産生活の流れを中心に述べている。執筆編者は、当時高千中学校教諭浜口一夫(社会科)が中心となり、当中学校の教師や、相川高校高千分校教諭佐藤利夫(社会科)の諸氏が、全面的に協力した。それらのことについては、「編者のことば」にくわしい。なお、本書の調査・編纂について、野の史家橘法老の存在が大きい。氏は本書の「跋」を執筆し、次のように述べている。まず史料採集のいきさつを述べ、「初めて科学的村史が佐渡に出現した。科学的な村史の生命は、不滅に近いものといえましょう」と最大過分の讃辞を記している。【執筆者】 浜口一夫
・高千中学校(たかちちゅうがっこう)
昭和二十二年(一九四七)五月二十日、高千小学校の南側六教室を借用し開校式を行なう。初代校長は羽豆政吉、教職員八名、生徒数は二九六名だった。翌二十三年七月、二教室増築。翌二十四年には生徒は三七三名、九学級編成となる。待望の独立校舎第一期工事の竣工は、昭和二十八年三月末であった。続いて第二期工事の体育館が新築されるのは同三十年二月八日、さらに第三期工事の校舎建築の竣工は、同三十三年一月十日である。校章とバッチの制定は、同二十二年に職員と生徒の合作でなされ、校旗の樹立は翌二十三年、地元の海運業者(安田長栄)が寄贈。校歌の制定(作詩山本和夫・作曲平山寮)は、同三十三年である。終戦直後の高千地区は、なぜか呼吸器患者が多かった。初代の羽豆校長は心を痛め、体育の奨励に力を入れた。そのためクラブ活動の対外試合には目をみはるものがあり、昭和二十三年の郡中学校水泳大会や、同排球大会にはみごと優勝。相撲は第二位と、その年度の総合点は第一位を獲得し、一躍その名をとどろかせた。その後もその伝統は続き、羽球・駅伝・陸上競技など「赤シャツ高千」と呼ばれ、その名をほしいままにした。文化方面でも、全国綴方コンクール(読売新聞)やNHK全国めぐり作文に当選したり、郷土調査の「文弥人形」、「村の歴史ー社会学習の一資料ー」更に『高千村史』の編纂などは、特筆すべき快挙であった。なお、戦後間もない昭和二十四、五年に郡中と郷教研共催の「生徒会の指導」や、「ホームルーム」つまり戦後生まれた新しい教育領域の研究会を催し、その成果を世に問うている。過疎化による外海府中学校との合併は、昭和五十八年四月一日からである。校名を相川町立北部中学校と改称。鉄筋コンクリート三階建ての新校舎は、前年の五十八年三月に竣工。新体育館は同年十月完成。同五十九年三月七日、複雑な事情で校名をもとの高千中学校に変更する。新校歌と校章は同六十三年、校旗は平成元年に樹立。同六年四月から、いきいきスクール推進事業を開始する【参考文献】 「高中十年のあゆみ」(高千中学校)、「高千中学校沿革誌」(高千中学校)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・高千農業協同組合(たかちのうぎょうきょうどうくみあい)
所在地高千、設立は昭和二十三年(一九四八)六月。「高千村農業協同組合」(高下)と「高千村第一農業協同組合」(北川内)の二組合が設立されたが、昭和二十四年九月、両者が合併し「高千村農業協同組合」となる。同二十八年十月、佐渡総合病院高千診療所(北川内)を開設。翌二十九年、小野見川第二水力発電所運転開始(二○○㌔㍗)。同三十年、小野見川火力発電所運転開始(四○㌔㍗)。同三十一年九月、相川町との町村合併により「高千農業協同組合」に名称変更。同三十五年十一月、有線放送施設竣工開局、同三十七年八月、北川内火力発電所運転開始(一○○㌔㍗)。同三十八年六月、島内初の農薬空散実施。同三十九年、北川内と小野見の火力発電所閉鎖。同四十四年十二月、高千診療所を現在地の北川内一○五一番地に移転し、佐渡総合病院より週一回出張診療をうける。同四十七年、小野見第二発電所の事業閉鎖。同四十九年二月、農機具修理業務を開始する。【関連】 佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)【参考文献】 『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)、『高千村史』【執筆者】 浜口一夫
・高千の小学校(たかちのしょうがっこう)
明治三年(一八七○)ころ、北立島・入川・高下・北田野浦・小野見などに郷学があった。明治十一年、新潟県第一六中学区第二九小学区第九番小学校・小田校の附属校として、小野見分校・高千分校・北立島分校があった。同十四年には、小田小学校より分離して、北立島小学校と高千小学校(高下)が誕生する。そして小野見分校は高千小学校の分場となり、同三十九年には石名に移り、同四十五年に独立して、石名尋常小学校と改称される。明治三十四年、北海村の一部が高千村に編入され、石花校を北片辺に移し、北片辺尋常小学校と呼ぶようになる。明治二十二年、高千小学校が簡易科高千小学校と改称され、北立島小学校はその分場となる。同二十四年北立島分校が独立して北立島尋常小学校(修業年限は四か年)と改称される。なお、同三十五年に高等科(修業年限二か年)を併置し、北立島尋常高等小学校となる。同二十五年には簡易科高千小学校を高千尋常小学校と改称。大正四年、北立島尋常高等小学校の分場として、入川字船か沢に入川鉱山坑夫の子弟のための入川分教場(一・二年生)が建つ。大正十一年には、北片辺尋常小学校・北立島尋常高等小学校・高千尋常小学校・石名尋常小学校の四か校を廃し、新たに入川の現在地に、高千尋常高等小学校を設置し、南(北片辺)と北(石名)および入川鉱山に分場を置いた。入川に本校新校舎が落成(第一期および第二期工事の一部)したのは大正十四年一月である。昭和十三年八月、校舎内の児童文庫が開館され、同十四年校歌が制定される。同十五年紀元二六○○年記念事業として、校庭県道側に勤労奉仕により土手を築く。同三十年南側校舎を使い、相川高等学校高千分校を設置する。同三十一年、高千小学校の両分教場を、北校舎・南校舎と名称がえをする。同三十五年北校舎独立して、高千北小学校となる。北小学校は書道教育に力を入れ、昭和四十年に新潟大学書道教育研究会主催の書初大会に、連続三年の団体賞を受け、その後もなん回か金賞・銀賞を得、同四十一年には日本習字教育連盟の学校賞を受けている。なお、同四十九年には、子供貯金が県知事表彰に輝く。同六十年三月、過疎による児童激減のために閉校。高千小学校に合併される。同四十年南校舎を廃止、全児童バス通学となる。同四十六年、郡小研の算数研究会開催。同五十年子供貯金、大蔵大臣ならびに日本銀行総裁より表彰される。同五十二年、創立百周年記念式典を挙行。記念像「たかちの像」設置する。昭和六十年四月、高千北小学校を統合。さらに平成元年四月、小田小学校と外海府小学校も高千小学校に統合。児童数一三八名、学級数六学級となる。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「たかちの百年」(高千小学校)【執筆者】 浜口一夫
・高千村(たかちむら)
江戸時代の村は、今の大字にあたるものが一つの行政単位になっていたが、明治維新後は、新しい地方自治制と中央集権的な政策を推進するための、町村合併がなん回も行なわれた。たとえば、明治十年(一八七七)の戸長所整理のための町村統合には、高下と千本が統合され、両方の頭文字をとり高千と改名。この年、現相川町関係では、戸地と戸地炭町が統合され、戸地と改名している。明治二十二年の町村合併には、石名から北川内までの七村が合併し、新しい高千村を作っている。『新潟県町村合併誌』を基に当時のようすを記すと、石名の戸数六四戸・人口四一二人、小野見は戸数三八戸・人口二一五人、北田野浦は九○戸・四五九人、高千は一○二戸・五九九人、入川は八八戸・四七三人、北立島は六二戸・三○八人、北川内は四九戸・二七七人となっている。そして、合併の理由は、各村資力なくして独立あたわず、その地形・人情同一。戸長所轄も同じゆえ合併を便とす。新町村名は大村の名称(高千)を採るとある。役場は高千に置かれた。さらに明治三十四年の町村合併には、高千村に北海村の一部(後尾・石名・北片辺・南片辺)が合併し、新しい高千村(戸数七五○戸、地価九万四○○○円)となり、役場を北立島に移した。この合併の際、北海村は全村挙げての合併を主張したが、戸地・戸中との片辺山越えがじゃまをし、高千村と金泉村への両方へ分離した合併となった。昭和三十一年九月には相川町に合併、現在に至る。【関連】 北海村(きたみむら)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『高千村史』、橘法老『野沢翁の語る遭逢夢の如し五十年』【執筆者】 浜口一夫
・高千郵便局(たかちゆうびんきょく)
開局は明治十年(一八七七)一月、後尾にあり後尾郵便局と称したが、大正八年高千郵便局に改称した。当初は郵便局といっても、普通の民家の一部屋を借り、郵便事務は家族で処理するというものであった。初代の局長(当時は郵便取扱役といった)は、渡辺利喜蔵であった。開局当時は郵便物のみ扱ったが、同二十九年には貯金、三十二年には為替と小包、四十三年には電信、大正十五年には保険・年金、昭和八年には電話交換(局の事務用の電話は昭和四年に取りつける)というふうに、次第に仕事の内容は充実していった。その後電通の合理化により、電信・電話(交換)は昭和五十三年二月佐和田電報電話局へ吸収された。同地区には、ほかに無集配局の北田野浦郵便局(田辺孫太郎)があり、大正六年北田野浦に開局と同時に、為替・貯金業務を開始、翌年電信、昭和六年には電話交換業務を開始したが、昭和五十三年二月に電通の合理化で、電信・電話(交換)は佐和田電報電話局へ吸収された。また昭和六十二年十一月に、小田郵便局が郵政の合理化により無集配となり、高千局で岩谷口までの集配業務を取扱うことになった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『高千村史』【執筆者】 浜口一夫
・高任水力発電所(たかとうすいりょくはつでんしょ)
鉱山の高任水力発電所ができたのは明治三十三年(一九○○)で、高任にあった選鉱場で選鉱機械の動力として使っていたペルトン水車を利用して、十一月から点火した。ペルトン水車は明治三年に米国で考案されていて、早やくから佐渡鉱山の動力として入っていた。回転体の周辺に椀形の水受、すなわちバケットを等間隔に多数取付け、ノズル(噴出口)から噴出する水を、つぎつぎに水受に衝突させて回転体を回転させる水車で、少ない水量で高落差の場合に適した小形水車である。一分間約三○○回転で、二五馬力を起し得た。昼間は選鉱機の原動とし、夜間は発電機に伝動させたのである。その発電機は、東京の芝浦製作所から運んだらしく、当時下戸から鉱山通いしていた椎野広吉氏(「佐渡と能謡」の著者)が、芝浦に派遣された出張命令書が残っている。ときの鉱山長は原田鎮治氏である。出力は「一五㌔㍗」。当時としてはかなりの電力量で、五○㍗の白球電球で三○○個分に相当した。水源は相川東方の白子嶺下の渓流を集めて、木樋によって水槽に導き、九インチから一二インチの鉄管をもって、「九百尺」の長さで水車まで落下させた。鉄管の傾斜は「一二度」、水量は一分間平均「八十六立方尺」としてある。珍らしく当時の写真が一部残っていて、水は道遊の割戸の中腹まで送水され、割戸西側の急斜面を利用して落下させたと思われる。新潟県内では、明治三十九年二月に完成した現妙高高原町の「蔵々発電所」が最初とされているから、高任発電所は県内の第一号であり、発電事業黎明期の記念すべき大事業であった。元宮崎大学工学部教授の大岡広氏は、「選鉱用動力として使っていたペルトン水車を、夜間は発電機として動かすのは巧みな着想で、水力発電草分け時代の快挙ともいえる」と評価している。【関連】 椎野広吉(しいのひろきち)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 本間寅雄
・高任選鉱場(たかとうせんこうば)
濁川上流、右沢と左沢が分岐する「間の山」地区の北崖に位置し、高任竪坑・道遊坑がある道遊平に隣接する選鉱場である。明治十八年(一八八五)に、佐渡鉱山局長として大島高任が就任すると、鉱山の拡張計画を作成し、実行に移した。その第一が、新規に竪坑(高任坑)を開鑿することであり、第二が、道遊の大露頭の採鉱、第三が、そこから採掘される鉱石を処理できる機械選鉱場の新設であった。高任選鉱場は、大島の後任渡辺渡によって、明治二十二年下期に着工され、翌年の三月に運転を開始した。在来の選鉱場は、大切坑口と大立竪坑の二箇所に設けられており、破砕と手選を主としたものであったが、高任選鉱場は、当時ドイツで行われていた無極帯を用いた手選帯を装置した斬新なもので、わが国「創始の新規なる選鉱法」であった。選鉱能力は、一日九時間運転で粗鉱量一○○㌧、動力は一五馬力の易搬汽罐であった。その後改革が繰り返されながら、平成元年(一九八九)の閉山まで使用され、現在も昭和十年代に設置された回転チップラー・貯鉱舎・粗砕場・ベルトコンベアー・鉱倉等の一連の施設が保存されている。【関連】 大島高任(おおしまたかとう)・渡辺 渡(わたなべわたる)【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』、『新潟県の近代化遺産』(新潟県教育委員会)【執筆者】 石瀬佳弘
・高任竪坑(たかとうたてこう)
相川町惣徳町にあり、明治二十年(一八八七)四月八日起工、同二十二年五月十九日に竣工した竪坑。計画の立案に当たった佐渡鉱山局長大島高任の功績を称えて、高任竪坑と命名された。この竪坑は、水没していた割間歩を再開発するために掘られ、掘削にはランド削岩機、排水にはノールス直立掘下蒸気卿筒を設置して工事を進めた。起工から約一年後の明治二十一年六月の記録に、地表から約九三㍍の地点に第一坑道、約一六八㍍の地点に第二坑道、その下約四五㍍に第三坑道を掘ったとある。構造は幅三・六尺と四・二尺、長さ五・六尺とある。その後さらに開削が進められて、明治三十六年には第五番坑道(約三○○㍍)まで掘り下げられ、昭和十年代の産金奨励政策によってさらに掘削され、設備の増強も図られた。同十七年一月の佐渡鉱山の記録によると、最終深度は坑口より第九番坑まで約四六○㍍、そこからさらに第二竪坑が、第一五番坑まで約一九八㍍掘り下げられて合計六五九㍍、海面下五三○㍍に達している。設備では、巻上櫓を鉄製にし、竪坑内をコンクリートに改修、従来の月五○○○㌧の巻揚能力を、一万五○○○㌧に引上げている。【関連】 大島高任(おおしまたかとう)【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』、『三菱佐渡鉱山要覧』、「採鉱電気関係図」【執筆者】 石瀬佳弘
・高野家文書(たかのけもんじょ)→日詠(にちえい)
・鑚(たがね)
採鉱用のノミ。手堀り大工が用いた。鋼鉄製で、鉱山では各番所が大きな間歩の入口毎に設けられていて、番所の構内には建場があり、鍛冶小屋が付属していた。タガネのほか、打撃用のハンマーや、鑚をはさむ鉄ばさみなど、鉄製の道具はすべてここでこしらえたが、坑内で使用ずみの鑚の先を、焼き直す仕事も多かった。鉄は御雑蔵から支給され、元鑚といって一本の鉄目は、九○匁ほどあったという。これを二つ・三つ切りにもしてこしらえ、平均して一本の鑚の目形は、三五匁ほどだった(「金銀山取扱一件」)。「タガネ」の呼称が佐渡鉱山で見えるのは、一六、一七世紀初めの「川上家文書」が最初のようで、一十日(ひととをか─十日間)で数万本といった単位の鑚が、各山主たちに交付されていた。絵巻物などで見ると、「連々鑚」などといって大石を割るのは別として「鏈穿鑚」、いわゆる採鉱タガネはみな親指ほどの短さで、それを上田箸などの鉄ばさみで、はさんで打ちこんでいる。短いほうが、エネルギーのロスが少なくなり打撃力が高まるが、鉄が当時貴重で、量不足もあったのだと思われる。タガネのみに頼る手堀りの時代は、一般に裂開性に富んだ鉱石は堀りやすいが、堅緻で均質なばあいは、タテと横に碁盤の目のように切りこみを入れて、こわしとるなどの方法があった。炭火を起こして、鉱石面の水分を発散させてから堀る方法は、佐渡や別子銅山・伊豆縄地銀山などでも、江戸中期以降から行なわれたといい、こうした火入採掘の図が、別子銅山などに残っている。【執筆者】 本間寅雄
・高瀬(たこせ)
二見半島の西岸。橘の北に位置。農耕と漁業の異なる生業の集落が結合して近世村を形成した例。元禄検地では、村高二二二石余、田高九八石、畑方一二四石。神社の書上はなく、寛文九年(一六六九)創建の三宮神社がある。熊野神社を合祀したと伝えるから、古くは熊野十二権現社か。段丘上の岩野に垣の内があり、湧水がある。水田はここから始まったと思われるが、海岸から屋敷・海食崖の平・段丘上の耕地を、草分け百姓が所有していた。村中央に観音堂があるが、本尊聖観音立像は、越後椎谷の観音と二体一対であるといわれる。垣の内農民は佐々木、観音講中は宇田であったとみられる。下鱈場漁師一二艘のうち、高瀬二艘分は宇田次郎左衛門らの持分であろう。また山伏宗覚院がいた。別系統に沢根須川から入村したという榎田や、北側の大浦の方から入村したと思われる中川・渡部がいる。寛政年間(一七八九~一八○○)に、河原田本町の法華長兵衛(勝三郎)が、開発の遅れた段丘上に入って、一四町八反余を開いている。稲鯨村でも新開を願い出たが反対され失敗した。のち開発地は隣村の橘村へ売却した。【関連】 法華長兵衛(ほっけちょうべえ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・扣石(たたきいし)
坑内で採取した鉱石を、細かくするための粉成方法の一つで、黒石に丸い穴を二つ穿ち、鉄鎚で鏈石を打ち砕く。穿った穴が眼鏡状を呈するため眼鏡石と呼ぶが、一面だけでなく四面に穿ったものもある。勝場の中で、金場と称し三尺四方を石で築き、向う高に土を塗り、堅い黒石を縄で固定させる。黒石は玄武岩質安山岩で、俗名を油石と呼び、千畳敷付近に産する。この石の周囲に縄の輪を掛け、上に鉱石を置いて金場鎚と云う重さ三~四貫目程の鉄鎚で打ち砕く。細かくなったものをさらに石磨で挽き、粉末状にして床屋へ送り、精錬する。通常丸い穴で眼鏡状を呈するが、勝場上部から検出するのは、細長く矩形状に掘ってある。しかも、眼鏡石を穿り直したもので、丸い穴の底が残ったものも見られる。幕末に変化したものと思われ、勝場上部からの出土が多い。擦石に変化したのかと思ったが、擦った痕跡が見えない。明治になって西洋方式が積極的に取り入れられ、選鉱や精錬方法が変化して、扣石は使われなくなる。穴が丸から矩形に変った理由が不明である。【参考文献】 「本途勝場床屋粉成吹手続大概」(舟崎文庫)、「飛渡里安留記」【執筆者】 佐藤俊策
・立念仏(たちねんぶつ)
冬至から数えて一五日目を寒の入り(一月五日頃)といい、年中でもっとも寒い時期。寒の入りの日に新仏の家では、その家族や親族が新仏供養の念仏のために、早朝に集落から七つの川と寺堂をまわる。賽銭の米・竹の杓・椿の枝を持って歩く。これを立念仏という。むかしは三年間行ったが、しだいに簡略化している。この行事が行われている地域は、高千・外海府地域である。「立念仏」といっているから、浄土系の行者が広めたものかもしれない。寒の水はもっとも澄んだ水で、縁者は早朝出発する前に水をあび身を清めたという。川や寺堂では米と椿の葉をまき、最後の川辺では竹の杓を左手に持って、逆方向に水をかけ精霊を弔い、立てて帰った。いまは車を利用して短時間で終わるが、むかしは早朝に出て午後までかかった。一行が帰ってくると、疲れた体を甘酒であたため、そば振舞いをした。立念仏と言ったのは、家の中で座って念仏する供養にたいして、遍路のように外を歩いて行なうからである。同日には相川の日蓮講中が寒行をしてまわる。新年の精霊供養の行事の一つである。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 佐藤利夫
・橘(たちばな)
二見半島の西岸、外浦に位置。元橘・宮浦・差輪の三集落よりなる。貞享四年(一六八七)の羽生村との境界争論証文では、橘村・宮浦村とあり、差輪は橘村に入っていた。元禄検地では橘村に統合。村高四二二石余、田高二三二石余、田畑屋敷面積三四町三反のうち田方一四町二反、四一%を占め、二見半島でもっとも石盛(一石八斗)が高い村。神社は三宮大明神・荒沢神社、他に真言宗定福寺・観音堂・地蔵堂などがある。低位段丘上にある大野地区に古田が集まり、垣の内・沢見・野の田・垣越などがある。水源は「権現さんの水」という清水である。毎年、田子は三月十五日に水まつりを行う。三宮神社の元宮は長手岬側にあり、元橘・宮浦・差輪の鎮守となったのは一七世紀末頃。元和三年(一六一七)、下鱈場漁師に三郎右衛門つけ場が図示され、宮浦白坂にいた山本三郎左衛門とみられている。同家の先祖が、下鱈場の延縄に浪切不動尊がかかったと伝える。地蔵堂に納めてある。差輪の大屋は坂下佐五平家で、もと荒沢神社の社人。中世の製塩業と関係があるという。近世はじめまで、生業を異にしていた組々が検地を期に、近世的な村落を形成した例である。近代に入り、大正年間より段丘上の開析谷に溜池を多数造成し、中位段丘上に水田を開いた。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・橘古墳(たちばなこふん)
三宮神社の裏手にあり、小高い畑地で蝦夷塚と呼ばれていたが、昭和三十一年(一九五六)に本間嘉晴によって古墳と判明した。盗掘を受けたようで、天井石が露出し、奥壁に近い石が二枚、石室内に崩落していた。海岸から一○○㍍入った標高一八㍍の海岸段丘上に造られた、径一二、高さ二・五㍍の円墳である。横穴式石室は、長さ四、幅一・二、高さ一・八㍍の玄室と、その前面に長さ三㍍の羨道が設けられていた。玄門には間仕切りの石組があり、主軸は北西を向いている。石室の上を一○㌢の粘土で被覆し、奥壁は大きな一枚石で構築したらしく、石室の外側は五○㌢の厚さに砂利が裏づめされていた。石室の平面は袖無型で、多少の胴張りが認められ、床には砂利を敷いていた。遺物は盗掘により散乱状態で発見された。玄室から人骨が若干、碧玉製管玉・ガラス製切子玉・滑石製臼玉の装身具・直刀・鉄鏃・鍔の武器・鎌・鍬頭の農具と、土師器椀の容器が出土した。とくに朱塗椀が、玄室の両隅に埋置かれていた。人骨は、壮年男子が二体以上あったと云う。七世紀以降の構築と見る。【参考文献】 中川成夫・本間嘉晴・椎名仙卓・岡本勇・加藤晋平「考古学からみた佐渡」(『佐渡』)、本間嘉晴・椎名仙卓「佐渡の古墳について」(『考古学雑誌』【執筆者】 佐藤俊策
・達者(たっしゃ)
集落は海辺にあり、南北に二分する形で達者川(約二・五㌔)が、大高野山渓から海に注いでいる。段丘上に田畑が広がり、たばせ垣ノ内の地名も残り、須恵器も出土。海辺は広大な砂浜で湾形をなし、現在は海水浴で賑わう。この浜の北側に釜所の地名が残り、製塩土器も出土することから、古代製塩の釜跡と思われる。口碑によると長禄二年(一四五八)に、本間源左衛門が大野村(新穂村)から移り住み、氏神の白山神社(白山姫命)を勧請したという。同社は『寺社境内案内帳』によると、天正十八年(一五九○)勧請、社人源左衛門と申す者、達者村の開祖とある。また達者川の上流に、寛永二十年(一六四三)頃稼行された小莚山鉱山跡の女人伝説は、神社の白山姫命が鉱山の発見に、白山修験者の関与があったことを伝えたもの、といわれている。熊野神社(伊弉諾命)は、大正十二年に白山神社に合併された。祭日は十月十二日である。段丘上の耕地開発は早く進み、元禄七年(一六九四)の検地帳に、田畑反別合計六三町四反余りとある。南端の山麓の中腹に湧水があり、延命地蔵が祀られ、安寿伝説にまつわる目洗地蔵で名がある。北側の海岸は約二㌔に亘る景勝地で、尖閣湾と呼ばれ国指定名勝地。昭和二十六年(一九五一)有志の出資で、尖閣湾観光株式会社が設立され、シーズン中海上遊覧船が就航している。南側海岸近くには、新潟大学理学部附属臨海実験所があり、また金泉村役場も、相川町役場に合併される昭和二十九年まであった。【関連】 尖閣湾(せんかくわん)・新潟大学理学部附属臨海実験所(にいがただいがくりがくぶふぞくりんかいじっけんしょ)・向所(むかいじょ)【参考文献】 『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『新潟県の地名』(平凡社)【執筆者】 三浦啓作
・韃靼塚(だったんづか)
相川町の鹿野浦(旧高千村南片辺)に、通称「安寿塚」と呼ばれる塚と小祠がある。車の通る県道すじから浜手の方をみると、崖下にみえるのがそれである。近年になって、崖の下り口ふきんの道幅のある位置に、新たに安寿の碑と、やや離れたところに「ダッタン人の墓」と刻まれた、小型の墓碑(以前から道脇の地蔵の祠のように置かれた石廓)を移し、後者の位置を示す大型の「韃靼塚」碑を建てた。ここを「韃靼塚」と呼ぶようになったのは、大正期以後のことらしく、明治三十四年(一九○一)に岩木擴が書いた『佐渡名勝』(佐渡新聞社発行)にも、また同四十一年に川上喚涛が書いた『佐渡案内』(佐渡水産組合発行)にも、鹿野浦の項にこの件を掲げてはいない。鹿野浦に伝わる安寿姫伝承は、すでに享和三年にみられた(『畑野町史』信仰篇一七頁)。これに韃靼人伝説を加えた初出と思われるのは、大正六年に羽田清次が書いた『佐渡案内』で、そこにはこう述べている。「鹿ノ浦の中ノ川畔に、土俗の韃靼人の墓というものあり。欽明天皇の朝に此地に漂着せし粛慎人を埋めたるものなるか、今其の證を得難し」。 粛慎と韃靼との関係は、安寿の場合と同様、人形浄瑠璃の「国性爺合戦」に出てくるダッタン国と、大陸民族のミシハセ人との混同によるとみることで理解できる。シュクシンにしても、ミシハセにしても、この外来語の発音はまだ村人になじんでおらず、文弥節でききなれているダッタンのほうが、身近な話題であったということなのであろう。【関連】 粛慎人来着(みしはせびとらいちゃく)・鹿野浦(かのうら)【参考文献】 本間雅彦『鬼の人類学』(高志書院)【執筆者】 本間雅彦
・達者草鞋(たっしゃわらんじ)
達者で作っている草鞋。達者草鞋を特産にして売り出すようになったのは、鉱山用の草鞋として大量に納めたことから始まった。達者からは鉱石の負い児として、敷(坑内)に入った者が多い。幕末になると、松前藩(蝦夷地ー北海道)での鰊漁用に移出するようになり、まつめぇ(松前)わらんじといった。それは大正期末まで続いた。当時のわらんじ値段は一足一銭、一梱一円二○銭であった。所有田地の少ない家は、藁を手に入れるのに田地の多い家へ、春・秋の農仕事の手伝いをして確保した。草鞋作りは女の仕事で、仕事宿をきめて、根をつめてやる人は一日に一五足も作ったが、一○足は家に出し、のこりは自分のしんげ(内証の金)にできた。いまは長靴の上に履く、釣り人用の草鞋として作る者が少しいる。【参考文献】 佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】 佐藤利夫
・立浪会(たつなみかい)
大正十三年(一九二四)六月十日に創立された「相川音頭」の保存を主とした、同好者の集りである。第一回めの音頭会は、羽田浜の鉱山倉庫跡の広場で、集った同好の士は約五○名。会長は風岡藤作、副会長は丸岡藤作、演芸部長曽我真一・庶務本田虎次郎だった。旧盆の十五・六日は、「音頭流し」をして全町を歩いた。その創立当時の会員の顔ぶれは、印刷業・家具商・鉱山勤務・金融業・郵便局勤務・傘製造・木挽・呉服商、その他さまざまな職種の人たちで、音頭やおけさを根っから好きな人たちの集りであった。相川音頭と佐渡おけさが、愛宕山のNHKラジオの電波に初めてのったのは、大正十五年四月二十一日。最初の放送が本間市蔵の「金掘節、やはらぎ」、次が村田文三の「相川音頭」。鼓は千歳、三味線はみよしと沢吉だった。続いて村田文三と松本丈一の「佐渡おけさ」が流れた。その後、なん回かの放送やステージを重ねるが、大正十五年、曽我真一演芸部長引率の村田文三一行たちの、満州・朝鮮方面の演奏旅行をはじめ、樺太・台湾など全国への、おけさ・音頭等の宣伝行脚が精力的に続けられた。【関連】 佐渡おけさ(さどおけさ)・立浪会史(たつなみかいし)・村田文三(むらたぶんぞう)【参考文献】 『立浪会史ー三十五年のあゆみー』(立浪会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・立浪会史(たつなみかいし)
昭和三十四年(一九五九)十二月、本間寅雄を顧問に曽我真一など幹部全員で編纂した、立浪会三十五年の歩み(一八四頁)である。内容は、同好者(相川音頭・佐渡おけさ)からの手記・回想を編んだ多彩なもので、その主なるものを拾ってみると、町田嘉章は「立浪会が初めて放送した頃のこと」と題して、大正十五年四月二十一日、相川立浪会の連中が、初めてNHKのマイクの前に立ったこと、そしてその会は同地の曽我真一が主宰者で、家業の雑貨屋をそっちのけで、おけさの宣伝に夢中になっていたことなどを記している。また中川雀子は、「佐渡おけさ」の名称選びのいきさつについて、山本修之助はさらに、「おけさ」そのものの文字の初出文献や、「おけさ節」の起源伝説や元唄の考証をなしている。立浪会の初代会長は風岡藤作(一角堂)であるが、この立浪会の名称は、彼が「源平軍談」の一節から選んだものだと、元町長の松栄俊三はその回想記で述べている。また児玉竜太郎(元県会議員)の回想によると、立浪会のおけさ踊りは、会が設立された当時、小木の十六足踊を、浅香寛(当時「佐渡日報」の社長)と二人で、小木の高砂屋という料理屋に三日も居続けて習い、それをとり入れた旨のことが記されている。【関連】 佐渡おけさ(さどおけさ)・曽我真一(そがしんいち)【参考文献】 『立浪会史ー三十五年のあゆみー』(立浪会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・立野遺跡(たてのいせき)
相川町大字二見二四六他の海抜約三○㍍を測る中位段丘畑中にあり、東西四○㍍、南北一○○㍍の範囲内に遺物が散布する。正式な発掘調査はされていないが、古くから表面採集が行なわれ、「日本石器時代地名表」に記載されるなど、全島に名を知られる。爪形文が多く見られ、最盛期は縄文中期であるが、蓮華文も数点見られ、中期後葉まで遺跡が存在したと判断される。これらは越後を含む北陸地域で成立した文化と云われ、爪形文を有する遺跡は、島内では金井町「堂の貝塚」・真野町「藤塚・大工町」・小木町「長者ケ平」遺跡に見られ、越後では加治川村「貝塚」・三島町「千石原」・新井市「大貝」・吉川町「長峰」遺跡に多く、石川県新崎遺跡に類似する。石器は石鏃・石錐・石錘・石皿など多様であり、鉄石英を多く見るなど、地元産の利用が多いが、一部国仲産の石も混じる。遺跡の東方には須恵器片が分布し、平安期の擢鉢・甕が多く、遺跡が重なっている。【参考文献】 本間嘉晴・椎名仙卓「小木半島周辺の考古学的調査」(『南佐渡』)【執筆者】 佐藤俊策
・谷空木(たにうつぎ)
【科属】 スイカズラ科タニウツギ属 風薫る五月。深緑の中でタニウツギ(谷空木)が咲く。なまえは雪崩の生ずる谷や沢に群生し、茎が中空なことに由る。花房となって咲くピンクの花を、若い娘さんになぞらえてアネサンバナとも呼ぶ。日本海側の雪国植物で、雪崩崩壊地の標微種。崩壊地のパイオニア植物である。またこの花は、春の田仕事を告げる花で、アラキバナ(荒起花)・キリタバナ(切田花)・タコナシバナ(田こなし花)・タウエバナ(田植花)と呼ばれる。村の大田植え(村人を頼んでのその家の田植え)には、苗三束を三方にのせ神棚に供え、アズギバナ(小豆花・タニウツギの方言)と小豆飯を供え豊作を祈る。山の沢の荒田は、腰までぬかる深田である。荒田故に、深田故に、今年の天候が作が気にかかる。しかしどんな荒年でも、どんな崩壊地にも、めぐりくる春に谷を埋めて、華麗なる花をたわわに咲かせるタニウツギ。花の活霊が荒田に命吹きこみ、苗に大いなる生命をみなぎらせる。それは花に神意をみ、花に穀霊の宿りをみた人々。今年の豊作を予祝する花であった。【花期】 五~六月【分布】 北・本(日本海側)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・タブの木群落(たぶのきぐんらく)→大安寺のタブ林(だいあんじのタブりん)
・辛夷(たむしば)
【科属】モクレン科モクレン属 「真白に行手うずめて辛夷かな」高野素十。大佐渡スカイライン沿いに、小佐渡エコーライン沿いに、白花を咲かせるコブシ。佐渡では、コブシとかヤマコブシと呼んでいるが、そのほとんどはタムシバである。コブシは、樹高一○メートル以上にもなる高木。それに比べ、タムシバは樹高三~四メートルと小さく、花は純白で紅味をおびない。花の下に、コブシのように葉がつかない。コブシは、蕾の形が子どもの拳に似ることに由るが、タムシバは噛柴の転じたもので、柴(枝)を噛むと非常によい香りがすることに由る。南佐渡では、「クロモンジャ(オオバクロモジ)よりうんと強く香るのがシロモンジャ(タムシバ)。枝を束ねて湯に入れるが、強く香って長者様の湯になる」という。江戸期の「佐渡国薬種二十四品」のひとつに、辛夷がある。コブシと考えがちだが、昔も今も辛夷はタムシバである。その蕾は、頭痛を伴う急慢性の鼻炎、特に蓄膿症に効き煎じて飲む。「コブシの花が咲くと鰯がとれる」は、佐渡の東海岸に伝わる漁事暦。花酒は最高の美酒、ただ二か月たったら花を除くこと。【花期】四~五月【分布】本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・多聞院(たもいん)
小川にあり、真言宗智山派。本尊は毘沙門天で、山号は吉祥山である。毘沙門天は独尊で祀られる場合の名であり、四天王の一多聞天である。本尊が寺名となっており、神使は百足であることから、檀家の者は百足を殺さないという。開基は寺社帳に天正十八年(一五九○)とあり、伝承によれば隣寺金剛寺の隠居「長忍」が、毘沙門堂を開いたのが始まりだという。寛政十二年(一八○○)の開基御除地書上帳によれば、同じく小川にあった金剛寺の開基が文亀元年(一五○一)、極楽寺の開基が文亀二年とあり、何れも除地・除米がついているが、開基の新しい多聞院は除地・除米がない。しかし、寺社帳では寺格の高い「格院」になっている。これは金剛寺・極楽寺が真光寺門徒でその支配下にあったのに対し、隠居の多聞院は身軽さがあり、幕府の寺院法度の一「本末制度」に素早く対応し、高野山普門院の末寺になったことによるものと思われる。明治の廃仏毀釈で隣の二か寺は廃寺になったが多聞院は免れた。のち極楽寺は金剛寺を合併し金剛山極楽寺として再興したが、昭和二十七年廃寺となり多聞院へ合併された。
【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『佐渡名勝志』【執筆者】近藤貫海
・タルイカ(たるいか)[ソデイカ]
毎冬十一月から一月にかけて来遊し、時化の後に浜辺へ漂着するソデイカ(袖烏賊)については、古くから知られていたらしい。個体によっては、套(胴)長が一メートルにもなる本邦最大の食用イカで、体重一五キロのものも記録されている。外套縁全体にわたって、大きな三角形状の鰭が付いているところから、袖の名が付けられた。しかし、日本海沿岸では、タルイカ(樽烏賊)と呼ぶことが多い。田中葵園の『佐渡志』には、「稀ニ大ナルモノヲタルイカト云フ」と記してある。丸山元純の『越後名寄』には、「多留烏賊 形チ大ナルハ二、三貫アリ─」とある。夫婦一番で来遊するという俗説があり、刺身にして喜ばれた。我が国全体の沖合いだけでなく、地中海にも分布する。樽イカ流しという方法で、漁獲する。明治四十年(一九○七)十月二十二日に発行した「新潟新聞」に、「女教師大烏賊を捕ふ」の見出しで、相川町三丁目浜町の児玉ヨネ(二見尋常小学校訓導)が、二見海岸カラカハ橋付近で、鯨尺で三尺二寸のタルイカを発見し、家に持ち帰ったところ、見物客が多かったという記事が載っている。【参考文献】本間・三浦『日本海の鯨たち』(四号)【執筆者】本間義治
・弾誓寺(だんせいじ)
相川町四丁目にある。山号の帰命山は、この寺を開基した木食長音の師但唱に依るという。相模国浄発願寺の末寺で、寛永十三年(一六三六)の開基と伝える。弾誓二世の但唱は、作物聖として大仏を刻んだが、その弟子長音が作った阿弥陀如来の座像は六尺二寸、台座から後光まで一丈五尺で「此の如き巨像は、当時佐渡一国中に有らざりしかば、世に当寺を大仏(おおぼとけ)と称し来れり」とある。そして長音には何人もの弟子がいたが、そのうちの清眼も薬師如来を刻み、新穂村瓜生屋の大日堂の本尊など、各地に仏像を残した。弾誓寺の阿弥陀如来像は、元治元年(一八六四)の火災で焼失したが、当時としてはまれな大型仏像であったので、「オオボトケ」の名で全島に知られた。そして旧六月十五日には大仏の回向が行われ、多くの信者が集まった。弾誓寺の常念仏は寛文六年に始まり、元禄二年、一万日回向が行なわれた。この寺は、百姓たちの訴訟時の寄り合いの場であり、逃亡した鉱夫の駆け込み寺でもあった。明治十二年(一八七九)の、コレラ流行で死んだ二七二人の供養塔がある。また境内に佐渡奉行角南主膳の墓が残る。【関連】木食弾誓(もくじきたんせい)・木食長音(もくじきちょうおん)【参考文献】宮島潤子『万治石仏の謎』(角川書店)【執筆者】本間雅彦
・弾誓名号(たんせいみょうごう)
木食弾誓の書いた名号。現在佐渡で確認される弾誓名号は、両津市河崎の菊地氏宅の庭に、天保十三年(一八四二)建立の塔と、弘化四年(一八四七)佐渡国中の講中で建てた、弥陀名号一億二十五万千九百遍塔の二基があり、山居の光明仏寺に、川崎村菊地源右衛門が先祖供養の為、天保八年(一八三七)に建てた供養塔がある。河崎の菊地一族が建てたと思われるが、弾誓名号真筆の入手については不明である。この他、相川町岩谷口の「弘法の投げ筆」伝説で知られる岩谷山洞窟入口天井に、壁面名号がある。地上より四~五メートルはあると思われる高さの名号は、弘法大師が空高く筆を投げ上げて、すらすらと名号を書いたと伝えられるが、この話は浄厳より後の明聴や澄心が流布したものと思われる。書家で、弾誓直筆の書の発見者でもある、民間信仰史研究家の宮島潤子氏は、間違いなく弾誓の名号であると断言され、このような大きな名号は、ほかに佐渡島内で見たことはないが、弾誓に帰依し喜捨した信者の数が、想像を超えるほど大勢であったことはたしかであると述べられている。【関連】光明仏寺(こうみょうぶつじ)【参考文献】宮島潤子『万治石仏の謎』(角川書店)、同『謎の石仏』(角川選書)【執筆者】近藤貫海
・檀特山(だんとくせん)
檀特山は、金北山・金剛山と共に佐渡三霊山といわれている。標高九○七メートルの山頂近くには、真言宗寺院である石名の清水寺、奥の院・釈迦堂が祀られている。天明三年(一七八三)に、木喰行道が建てたものである。木喰行道は、江戸初期の慶長九年(一六○四)十月十五日に、この山で修業をしていた浄土宗捨世派の僧弾誓が、阿弥陀如来より直伝をうけたのを慕って檀特山に登った。檀特山が弾誓の山居する以前から、山岳信仰の対象であったかどうかはわかっていないが、弾誓のこの山での修業は一二年(宮島潤子説では六年間)であったという。冬期は積雪で生活できないので、その間は岩谷山の洞窟で過していたことが、田中圭一の研究で明らかになっている。弾誓は天文二十年(一五五一)ころ尾張に生まれた。美濃国で一七年間修業し、近江・京都・神戸・熊野などを遍歴して、四○歳のとき相川に来た。やがて河原田の常念寺で僧となり、徒衆に嫌われて四一歳の冬に檀特山に入った。四七歳で島を去り、信濃・江戸・相模・遠州などで布教した。作仏聖の円空に影響を与え、真更川の山居には弾誓二世の但唱・三世長音による光明仏寺が、相川には長音によって天台宗の弾誓寺が建てられた。【関連】木食弾誓(もくじきたんせい)・清水寺(せいすいじ)【参考文献】宮島潤子『万治石仏の謎』(角川書店)【執筆者】本間雅彦
・檀風城(だんぷうじょう)
雑太城の別称で、江戸時代に生まれた呼称であろう。名称の由来は、正中の変で佐渡へ流され、雑太城主本間山城入道に預けられていた日野中納言資朝が、つれづれのままに城外に出て、「秋たけし檀の梢吹く風に、雑太の里は紅葉しにけり」と、詠んだ歌からつけられたと伝えられている。『太平記』の中では、資朝を預った「その国の守護本間山城入道」の居所を、「本間の館」と記しており、これが通称「檀風城」と呼ばれる城館である。今「檀風城址」と呼ばれている場所は、竹田川に向って突き出た低位段丘先端部の一画を占め、周囲には土塁が残り、南端を空堀で切られている、一ヘクタール足らずの居館址である。中世初期の居館は、このような割合低い地に、単郭築造されているのが普通で、鎌倉末から南北朝期にかけては、やや高い丘陵に館を設け、後方山地に山城を築くようになる。戦国期に入れば、さらに高い段丘上に移り数郭を揃えた広大なものとなり、周辺に小支城を配するといった形態に変わる。近年、檀風城の東方約一キロメートルの一段高い段丘先端部に、檀風城とほぼ同じ規模で残る竹田城(通称「又助の城」)を、雑太城(守護代居城)とみる説が出ている。それは鎌倉時代末に、阿仏坊を新保より城の傍へ呼び寄せた本間泰昌の城跡とみることと、この段丘下の竹田川辺に、日野公斬首の伝説が残ることからであろう。ここも単郭で周囲に土塁が残り、郭の三方に空堀がめぐらされている。日野資朝や阿新丸に関する遺跡は、果してどちらの城であろうか。【執筆者】山本 仁
・千種遺跡(ちぐさいせき)
金井町大字千種にある。国府川の支流、大野川・新保川・中津川の合流する附近で、昭和二十七年、国府川改修工事中に発見された弥生時代末期から、古墳時代初頭期の低湿地遺跡。新潟県教育委員会と、佐渡古代文化研究会共催で発掘調査が行なわれ、多数の土器・木器・自然遺物などが、散乱した状態で発見され、遺構では井戸址・排水溝・矢板列などがあった。土器は甕・壷・長頸坩・高坏・器台・広口 ・甑などで、千種式土器と命名された。木器には、たも網枠・櫂・舟形木器・丸木弓・竪杵・土掘子・ ・板状木器(鳴子)・竹製ザル・織機の一部や、建築用材などがあり、鉄製ナイフ一点、骨角鏃、卜骨一点もあった。自然遺物では、炭化米や籾・マクワウリ・ユウガオ・ヒョウタン・トウナス・モモなどの栽培種子。ニホンジカ・サギなどの骨。海産のアシカ・マダイなどの骨。サドシジミなどの淡水性の貝。スギ・アカマツ・ヤブツバキ・クリなどの樹木類が出土した。低湿地わきの自然堤にひらかれた集落址で、水田稲作を行い、狩猟・漁撈をし、時に卜骨で吉凶を占った生活状況が知れる。【参考文献】『千種』(新潟県教育委員会)【執筆者】計良勝範
・竹窓日記(ちくそうにっき)
金井町本屋敷の得勝寺住職、本荘了寛が明治十三年(一八八○)五月七日から十二月三十一日までを記した漢文の日記。本書は、日記の体裁をとりながらも司馬凌海・柴田収蔵の小伝や、小沢蘆庵と中山千鶴との歌の贈答、自作の漢詩をはじめ、順徳院や日野資朝の歌から佐渡人たちの漢詩・和歌・俳諧などを紹介しており、完成された作品となっている。また六月頃からは、自由民権運動で活躍した羽生郁次郎や若林玄益・中山春三・石塚秀策・高橋又三郎らが登場して、国会開設運動に関する会合や演説会のことが記述されているため、貴重な研究史料ともなっている。著者がこの日記を書いたのは三四歳の時で、当時小学校の教師をしていた。出版されたのは明治十八年七月、出版人は後の博文館主で当時越佐新聞社を経営していた長岡の大橋新太郎で、佐渡で最初の活字本出版物とされている。【関連】本荘了寛(ほんじょうりょうかん)・佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)【参考文献】本荘了寛『竹窓日記』【執筆者】石瀬佳弘
・地租改正(ちそかいせい)
明治六年(一八七三)七月に交付された地租改正条例によって実施された土地・租税改革。明治新政府は、地価の三%を地租とする税制により、安定的な国家収入を確保することが可能となるが、同時に土地所有権者・面積と収穫高の確定など、幕藩制下の検地帳・石高制の抜本的変更を要する土地改革を随伴した。新潟県の地租改正の事業は、西半部(旧柏崎県)・東半部(旧新潟県)・佐渡(旧相川県)・新潟町の四地区で実施された。佐渡の地租改正は明治八年九月に開始され、十一年三月の山林原野の改正事業終了をもって完了した。幕藩制下の徳川時代の佐渡は、重租税の地域といわれたが、地租改正の結果、田の総税額は地租改正以前より三八%も減額となり、畑・宅地は三二%の増額であったが、田・畑・宅地の総額では三二%の減額となった。新潟県の他地区が、いずれも大幅増額になったのとは対照的であった。しかし佐渡の場合、税額の大幅減額が必ずしも農民負担の軽減とはならず、幕藩時代の破免検見や安石代などの、農民救済慣行の消滅と相殺された。地租改正には、佐渡のもつ土地慣行の独自性を喪失させる側面もあったのである。【関連】明治維新(めいじいしん)【執筆者】本間恂一
・茶屋町(ちゃやまち)
上相川二二町の一つ。茶屋町は鉱山立始りのころの飲食街で、その町名の由来を、「此ノ処ヨリ茶屋坂迄、昔銀山盛ノ時茶屋ヲ立テ、飲食ヲ商フモノ多カリシ故、茶屋町、茶屋坂ト言フトゾ」(『佐渡相川志』)と書いている。上相川台地の最下方に位置し、東は柄杓町、北側に奈良町があった。柄杓町は、内密に春を売る熊野比丘尼が多く住んでいた町とされ、この一帯が茶屋町・茶屋坂と隣接することから、そのころは歓楽街として賑わっていたことを想像させる。鉱山の稼ぎ人が多く集まる町に「茶屋町」ができる例は、西三川の笹川砂金山に残る「茶屋川」や、沢根の鶴子銀山への道筋に残る「茶屋」の地名、入川鉱山の古絵図にも「茶屋」が描かれていて、元禄四年(一六九一)には濃金間歩の取明けを祝って、「茶屋と申所にて終日祝いこれあり」などの文面がその中に見える。祝いの酒盛りをしたというのである。上相川の茶屋町は、町屋敷が二反二畝歩余、畑五畝歩ほどの広さ。その下方の坂が茶屋坂といわれた。『佐渡年代記』(上巻)に、「山崎(先)町は今の会津町のことだが、慶長のころの山崎町といいしは、今の上相川茶屋坂の辺を山崎町といって繁昌した」などの記述がある。山先町は遊廓街だから、会津町のところに移るまでは、上相川で柄杓町と並んでくるわ街として栄えていたことになる。【関連】山先町(やまさきまち)【執筆者】本間寅雄
・中教院(ちゅうきょういん)
神仏合併による国民教化と教導職の教育・養成のために設置された施設で、中央に大教院、府県に中教院、その下に小教院を置いた。民間の団体であるが国家制度の色彩がつよく、教部省の所管となっていた。相川県では明治五年(一八七二)四月に、相川県典事として来島した磯部最信が、翌六年六月に執行された大教院開講式に出席してのち、積極的にその設置が進められた。場所は、廃寺となっていた五郎左衛門町の浄土宗広源寺跡地(現相川幼稚園)、規模は方二間の神殿と、八間と一○間の講堂・門・華表と、一一間と七間半の皇学寮、二間と二間半の書庫という設計で、教部省の認可を得ている。建設資金を得るために献金募集が行なわれ、同年九月には四七四七円余に達している。開講式は明治七年六月十五日、当初は説教会も盛んに行なわれたが、神仏各宗合併布教の禁止など、政府の政策転換によって急速に衰え、明治八年五月には神道事務分局となって、神道だけの施設となった。【関連】磯部最信(いそべさいしん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・中使(ちゅうじ)
[1]中世末戦国期より、寛文四年(一六六四)までの村役人の名称。同年幕令により名主と改称された。室町期の郷村制成立過程のなかで、国人─在地小領主──層の領地支配は、ムラの殿原百姓(長百姓)の中の最有力者である村殿を、家臣団に編成することによって成り立ち、殿原衆は村殿を介して国人領主の給人になり、軍役・貢租負担をつとめた。中使は、この村殿が任ぜられ世襲する場合が多く、領主から中使免・堰免など、その任務や用水管理に対する免田(非課税地)が給与された。上杉氏支配時代に入っても、上杉氏はこの郷村支配機構をうけ継ぎ、佐渡を支配した。慶長六年(一六○一)佐渡が江戸幕府の支配に帰して後も、幕府は金銀山経営上急激な近世的郷村支配を避けて、太閤検地方式の導入を控え、刈高制・畑年貢非課税を、元禄七年検地までもち越した。それは徳川家康が、上杉氏の家臣で慶長検地を実施した河村彦左衛門を、家臣として召し抱えたことにも現われ、実測検地でなく中使に検地させた指出検地が、元禄検地まで基本的に生きていたことによっても知られる。ただ慶長検地段階で、すでに中使特権であった中使免・堰免は取りあげられ、上杉氏の支配権の強化を認めることができる。寛文四年の中使制の廃止─名主制の採用は、佐渡の中世的郷村支配の廃止を意図したもので、中使・殿原衆の地位も、本百姓数の増加により一層低下し、郷村制は名実ともに、近世村落成立へとすすむことになった。[2]江戸初期、相川の町々に置かれた町役人の名称で、町名主を補佐し、奉行所が町年寄を通じて下す伝達・徴税事務などを行った。[3]江戸時代、海府・前浜諸村の名主のうえに大中使を置き統轄させたが、時代とともに有名無実の職となった。【参考文献】田中圭一『天領佐渡』【執筆者】児玉信雄
・長安寺(ちょうあんじ)
両津市久知河内にある真言宗の古刹。天長八年(八三一)の開基と伝え、初め天長寺と称したという。室町期、久知郷領主本間氏の祈願寺となり大いに栄えた。慶安三年(一六五○)新穂村大野の清水寺末となった。本尊の阿弥陀如来像(平安後期作、国重要文化財、明治三十九年国宝)及び若狭の海から揚ったと伝える朝鮮鐘(李朝ー鎌倉期作という、国重要文化財、明治三十九年国宝)は、今収蔵庫に納められている。他に文永・観応・応安などの、年号を記す古文書も保管されている。天正の乱(天正十七年越後上杉氏侵攻の際)に、順徳上皇宸筆と伝える「陽雲山」の額は、越後勢古藤清雲軒という将が、故郷上田に持ち帰り雲洞庵に納めたという。現在は、雲洞庵にはこの額はない。また朝鮮鐘も、上杉景勝によって真光寺(佐和田町)に移されていたが、明治維新の際、長安寺に復帰したものという。山門の仁王門の二王像は、蓮華峰寺(小木町)の二王像と共に島内では古いものといわれる。一○か寺の寺家を有したが、天正の乱に焼かれたと伝えられ、これらは今農家として残る。【参考文献】橘正隆『河崎村史料編年志』【執筆者】山本 仁
・長久寺(ちょうきゅうじ)
大倉にあり、高野山真言宗。本尊は不動明王で、山号は円平山である。開基は文禄三年(一五九四)と寺社帳にある。開基檀家は阿弥陀堂持ちの梶原平蔵などで、寺地を寄進したのは不動堂を持っていた菊地吉衛門の本家三太夫だという。正徳二年(一七一二)真言宗の須光法師という僧によって、長久寺という名が付いたと伝えられているのは、このとき不動堂別当真光寺門徒長久寺が成立したものと思われる。延享四年(一七四七)改めて真光寺新末寺になっている。明治の廃仏毀釈では、廃寺となったが後再興した。【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】近藤貫海
・長谷寺(畑野)(ちょうこくじ)
チョウコクジと発音する。ただし、寺のある集落名は「はせ」であるし、当寺が大和(奈良)の長谷寺(はせでら)とかかわりの深いことから、島外の者は殆んどがハセデラと読み、近年は地元でも同調する傾向がみえている。現在は真言宗の豊山派に属するが、同寺来由記などによると、天台宗の慈覚(円仁)や、奈良仏教、そして新義真言宗とのかかわりなどが述べられてあり、それを裏づけるかのように、本堂には浄土系の阿弥陀如来が、本尊は十一面観音が、そして別棟になっている弘法堂は、観音堂の横から左の丘を登ったかなり離れた場所に、さらに真言宗の重視する大日如来像は、その途中の五智堂に、薬師・宝生などと共に祀られていて、長い寺の歴史と、真言宗に至る成立の複雑さを語っている。入口の仁王門から、正面奥の観音堂に至る石段の両側には、右手に長谷寺が、左手に遍照坊(院)・宝蔵坊・東光坊・慶蔵坊・泉蔵坊と、五坊の寺家が塔頭をなしていたが、現在は遍照院と慶蔵・泉蔵が合寺した、泉慶寺との三か寺がある。江戸初期には、島内有数の大寺であったため、寛永十七年(一六四○)に相川の武家すじの者が奉納した、大絵馬(一一○×一二五センチ)が掲げられており、上杉景勝時代の代官・鳥羽備前守、佐渡奉行・竹村九郎右衛門らにまつわる遺物や伝承がいくつかある。境内に三本杉・高野槙の巨木があり、また奈良の長谷寺と同じように、当寺も参道などに牡丹を多く植え、訪れる観光客も多い。【執筆者】本間雅彦
・長者ケ平遺跡(ちょうじゃがだいらいせき)
縄文時代の土器・石器を多量に出土する大遺跡として、明治期より全国に知られていた。昭和三十一年(一九五六)八月、新潟県教育委員会による「佐渡小木半島周辺の考古学的調査」で、後期旧石器時代第二期(約二万五○○○年ー一万四○○○年前)に盛行したナイフ形石器(長者ケ平で採集、羽茂町藤井浅次郎氏寄贈)が発見され、縄文の時代は縄文前期末ー中期初頭(遺物遺構が最も多い)ー中期中葉の火焔様式土器ー中期末葉の土器・石器が出土し、重要な遺跡であることが確認された。国学院大学小林達雄教授を団長とする調査団は、昭和五十五年七月から五十七年七月まで、第一次から第三次にわたる発掘調査を実施した。出土土器は縄文前期末ー中期初頭ー中期前葉ー中期中葉ー中期後葉であり、中期を中心とする重要な大遺跡であることを確認した。また縄文草創期(約一万二○○○年ー九五○○年前)の有舌尖頭器(長者ケ平で中学生が採集寄贈したもの)の出土していることも確認された。昭和五十九年七月二十一日付で国指定史跡となった。【参考文献】本間嘉晴・椎名仙卓「佐渡小木半島周辺の考古学的調査」(『南佐渡ー学術調査報告ー』新潟県文化財年報二)、『長者ケ平遺跡』(1・2・3・4)及び『長者ケ平』(小木町教育委員会)【執筆者】本間嘉晴
・長明寺(ちょうみょうじ)
浄土真宗東本願寺派。南沢。開基浄清(浄誓)越中より来リ、慶長十九年(一六一四)建立と諸書にある。当寺聖徳太子真影の裏書に、「慶長十九年七月六日、佐州雑太郡鮎川村長明寺、願主浄誓」とあり、東本願寺の教如より下付されているから、この年寺格を得たことになる。過去帳覚書に「越中国射水郡堀岡村、堀江茂三郎ト云フアリ。当寺開基ノ出生地ナランカ。越中ヨリ慶長十八年ニ佐渡ヘ渡リシ者ニテ、暫時片辺村ニ居レリ。長明寺屋敷ト称スル所アリ」とある。明治十三年の書上げには「開基正誓(浄誓)は越中国新川郡堀江郷 村ニ住シ堀江郷堀江氏ナリ」とある。とにかく堀江氏は越中放生津近くの有力者で、その分族が佐渡へ来ている。堀江氏の元祖は楠正種と伝えられ、代々の住職は正の字がついていたという。約三○センチの阿弥陀仏が伝えられているが、開基仏といわれ、渡来のとき持参したものだろう。片辺村に居たのは近くに炭釜新町があり、檀家に炭請負商人らがいたからと思われる。寺は、たび重なる相川大火にも被災をまぬかれてきた。明治以降、間山五郎右衛門町の称名寺を合寺。同寺も東本願寺末。慶長十八年、開基浄心は越中船橋より渡来、教如上人御寿像を申し請け、五郎右衛門町へは宝永元年(一七○四)に移る。また寛永九年(一六三二)ともいう。有力門徒に間山惣助がいる。【関連】間山惣助(あいのやまそうすけ)・内陣欄間と御拝(ないじんらんまとぎょはい)【参考文献】佐藤利夫「北陸真宗門徒と佐渡銀山」(『日本海地域の歴史と文化』)【執筆者】佐藤利夫
・町立あいかわ幼稚園(ちょうりつあいかわようちえん)
相川街部には、キリスト教系の私立幼稚園が二園(「相川」と「海星保育」)あったが、本園は昭和四十八年(一九七三)四月、仮園舎を相川小学校蜂の巣校舎一階の三教室を充て、島内三園目の公立幼稚園として発足した。五歳児一年保育の二学級、園児数四八名で、園長は小学校長が兼務し、教諭三名・用務員一名でスタートした。同年十月一日、旧佐渡支庁跡の高台に新築していた、本造園舎が完成すると同時に、現在地に移転した。幼稚園は四時間保育が原則だが、発足当時の地域の実情を考慮し、午後四時までの長時間保育とした。昭和五十年には、四・五歳児の二年保育となり、更に五十三年に、一教室増設されて三学級編制となり、教諭が一名増員された。昭和五十七年に保健室が増設されると共に、創立十周年事業の一環として、園歌・園章・園名旗が制定された。園では教え込む保育ではなく、幼児の自主・自発性を育む保育を主眼に、周囲の豊かな自然を生かした保育活動を推進している。また、外部講師を招いての保育研究や、親への学習会を継続している。近年、園児数の激減で存続が危ぶまれたが、町当局の理解と保育者の幼児教育への熱望もあり、平成八年(一九九六)四月からは、三・四・五歳児による三年保育を実施し、今日に至っている。【執筆者】古藤宗雄
・月番役(つきばんやく)
佐渡奉行所の職名。広間役の前身であるが、宝暦八年(一七五八)に広間役と改称するまで、名称・定員がたびたび変わった。月番役の初設は寛永十二年(一六三五)、当時は御判方役と称し、奉行裁可の裏御判を押したことからこの名称が用いられたらしい。御判方役は定員一名であったが、その後正保年中(一六四四ー四七)に、留守居役と改称して三人制となる。留守居役は、元来佐渡奉行が幕府の要職を兼任したとき、家臣や地役人数名を留守居役に任じて、自らは在府しながら留守居を介して佐渡支配を行うため、職務を代行させた。正徳三年(一七一三)の佐渡奉行所職制改革のとき、留守居役は廃止され、新たに月番役定員三名が置かれ、のちさらに一○名に増員された。その後、宝暦八年に月番役は広間役と改称され、定員一○名のうち四名を減らし、残り六名のうち二人は江戸より旗本を派遣することとした。【関連】広間役(ひろまやく)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】児玉信雄
・土船ジョウ(つちぶねじょう)
岩谷口の中央、小川を境に北側を岩谷ジョウ、南側を土船ジョウという。ツチブネ衆の住む場所の意。もとはツチブネ衆でなく、ドブネ衆と呼ばれたのではないかとみられる。ドブネは、越後や北陸の海岸に最近まで定置網用の船につかわれており、幅の広い大型木造船である。ドブネ衆は近世はじめまで、木材・炭などを運ぶ地回わりの廻船で、その水主衆が定住して集落化した場所と思われる。土船衆は、船登源兵衛家はじめ小左衛門・弥右衛門・吉蔵・又左衛門の各家が、海岸の川原という場所に住んでいたという。北部の岩谷衆は農耕民であり、南部の土船衆は海稼ぎを生業にして、二つの集団が結合して、岩谷口村をつくった。相川金山の急激な開発により、土船衆は外海府の資材を相川へ海上輸送するために集落化したと考えられるが、木材資源の多い津軽方面との関係が深かった。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】佐藤利夫
・釣鐘人参(つりがねにんじん)
【科属】キキョウ科ツリガネニンジン属 花の形を釣鐘に、太い根をチョウセンニンジンに例えた名前である。高さ七○センチほど、枝先に、青紫色の釣鐘形の花が、輪生状に下垂する。俳句や歌では、釣鐘草・風鈴草とも呼ぶ美しい花。平清水(金井町)では、ヤマギキョウと呼ぶ。いろいろと変異があり、佐渡にも、海岸性で照葉で、全草に毛がないハマシャジンや、全草に毛が密生するシラゲシャジン(品種・佐渡方言ケトトキ)がある。シャジン(沙参)は、ツリガネニンジンの慣用漢名である。大佐渡山地の尾根部の砂礫場のものは、花はずんぐりした広鐘型で節間つまり、高山型のハクサンシャジン(タカネツリガネニンジン)型である。「山でうまいものはオケラにトトキ、嫁に食わすに惜しゅうござる」と俚謡にうたわれる。「嫁にいくと、食われなくなるからせっせとお食べ」に登場するトトキは、春の根生葉の若葉のこと。トトキ(朝鮮語)と呼び、「トトキゴマ和え、ウドなます」といわれ、ゴマ和えがいちばん旨い。トトキのゴマ和えは、雛の節句のいちばんの馳走であった。【花期】六~九月【分布】北・本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・釣り車道(つりしゃどう)
佐渡鉱山の高任製錬所と、大間湾の間に架設してあった架空索道。大正中ばころの写真にも、まだその光景が映っている。距離は「三千六百尺」(約一・一キロ)で、空中ケーブルでつながれた。いわゆるロープウエイ形式で、動力は鉱山の蒸気機関を用い、明治二十年(一八八七)の竣工で、日本では初めての架設だった。町の人たちは空中を走る抗車を「釣り車道」と呼んだ。十八年にドイツから帰朝した渡辺渡が、ドイツ・フライブルク鉱山の複線式架空索道の模型を作り、翌二十一年に東京上野公園であった東京府工芸共進会に、渡辺が所属していた東京帝大の工科大学から出品して紹介したのが人々の目をひき、佐渡でさっそく実用化した。佐渡鉱山局長として赴任していた大島高任が、二十年十一月に大蔵省に出した工事進渉報告の中に、「此綱(つな)車道の事たる、我国にては創始の業にして、経験に乏しきより、諸事意の如くならず、再三の試験を経て漸く完全の功を奏するに至り」とあって五、六か月の工事予定が十か月を要し、難工事になったことを報告している。鉱石搬送ではなくて、高任製錬所や高任竪抗の新設等による、敷地切取りの土砂運搬が主である。十九年に起工し二十五年一月に竣工した、大間築港の埋立てに必要な土砂の調達も、計画に入っていた。方線は高任を起点にして、間ノ山の搗鉱場から、濁川添いに、北沢の旧選鉱場の上空を通り、大間に達したと思われる。渡辺は同二十年六月には、佐渡鉱山局技師として来島している。大島高任が招いたものである。【関連】渡辺渡(わたなべわたる)・大島高任(おおしまたかとう)【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間寅雄
・鶴差上御用(つるさしあげごよう)
御鷹御用に似た上納例に、鶴を捕えて江戸城に送りこむしきたりがあった。慶安二年(一六四九)九月の記録に、「当九月、鶴四羽、江戸表へ差出す処、順斎(佐渡奉行伊丹順斎)より御城へ献上」(『佐渡年代記』)と記されている。これが初見で、将軍家光の時代である。次いで承応二年(一六五三)七月、将軍家綱の時代に四羽が献上された。これは「枠」(鳥籠)二つに入れ、道中切手(手形)を添えて送ったことが記されてある(『佐渡年代記』・『佐渡風土記』)。佐渡奉行は順斎の子息、伊丹蔵人のときで、ただし両度とも上納の理由・輸送路・宰領した侍の名前などは記されていない。この承応二年の例では、秋のころに初めて打ち留めた者には褒美として銀壱枚、二番鶴の場合は銀拾匁をつかわすことを、佐渡留守居衆から在府の蔵人に申し立てたとある。鶴は渡り鳥なので、巣中で捕獲ということにはならず、鉄砲で打ち留めたか。生きたまま、または死亡した鶴を江戸表へ献上したことか、どちらかになる。古来から「瑞鳥」「霊鳥」などと貴重がられた鳥であった。が江戸での用途についても記載がない。また献上記事も、承応以降はあまり見当らない。佐渡で鶴を打った記録は、寛延元年(一七四八)三月に、城之腰村の森右衛門が「白き鶴」を、同月に八幡村の鉄砲打が「薄墨の鶴」を一羽、また安永七年(一七七八)九月に、二方潟村の甚兵衛が「タンテウ鶴」を打ち、セリにかけ銭五百文で大工町の平五郎に落札したという。したがって江戸表への献上は、御鷹御用同様に、早い時期で終った。【関連】御鷹御用(おたかごよう)【執筆者】本間寅雄
・鶴子銀山(つるしぎんざん)
天文十二年(一五四三)の開発と伝えられる。鉱区は五十里山・沢根山の東西に伸び、北の峠を境に相川山へとつながる。相川金銀山の先駆をなす銀山である。越後の商人外山茂右衛門の発見伝説をもち、沢根城主本間攝津守に稼行を願い出て、一か月銀百枚を納めたという。現在、百枚・元百枚と呼ばれる地名が残る。天正十七年(一五八九)、佐渡が上杉景勝の領国になると、鶴子外山に陣屋(代官所)を設け、上杉の目代、山口右京が鶴子銀山を支配した。文禄四年(一五九五)島根県石見銀山の山主が渡来して、鶴子本口間歩を開いた。鶴子開発当初の採鉱は、地表に露呈した鉱石を採取する露頭堀りであったが、彼等が導入した技術は、鉱脈を追って坑道を開鑿する新しい坑道堀りの技術であった。この技術によって本格的な開発が進み、鶴子千軒と形容される繁栄は、慶長・元和・寛永期まで続いた。同時に相川山開発の契機となり、金銀山の中心は急激に相川へ移った。陣屋も慶長八年(一六○三)相川へ移る。その後盛衰をくり返し、天保年間一時活況を呈したが、文久三年(一八六三)弥十郎間歩の稼行を最後に全山閉鎖となる。明治の洋式技術の導入などで、明治十五年(一八八二)百枚坑の再開、明治二十六年(一八九三)に鶴子百枚・弥十郎坑の再開発がなされたが、昭和二十一年(一九四六)閉山した。【関連】鶴子陣屋跡(つるしじんやあと)【参考文献】『佐渡古実略記』、西川明雅他『佐渡年代記』、『佐和田町史』【執筆者】土屋龍太郎
・鶴子陣屋跡(つるしじんやあと)
沢根(佐和田町)の鶴子銀山は、天文十一年(一五四二)の発見といわれる。沢根領主本間摂津守によって経営が維持されてきたが、天正十七年(一五八九)佐渡が越後上杉領となるや、上杉氏の管理とかわった。『佐渡年代記』は、上杉景勝が鶴子の外山に陣屋を立て、目代山口右京を置いて銀山を管掌させたとしている。江戸時代佐渡が徳川領となるや、銀山代官として保科喜右衛門が置かれた。慶長九年(一六○四)陣屋が相川に移されるまで、鶴子陣屋は存続していた。陣屋の跡は明治年間の図面に、「代官屋敷」という地名で載る。播摩川の沢頭に当たる山陵頂上部にその遺構が残る。平成五年・六年の遺構調査によって、一○区に区切られた郭跡が現われた。主郭(代官役所)を中心に、前側面に四郭、背面に四郭がみられる。主郭の両側面には土塁が残っている。これらの郭整地の際、多くの遺物も採集された。唐津焼き片をはじめ陶磁器片が主で、青銅製小分銅も発見されている。郭群の両側には沢が入り、とくに西側の沢は「堀」の地名があり、人工的な沢となっている。なお、郭より東方約五○メートルには、天狗岩という大岩があり、周辺には鉱滓の出土が多い。またこの付近に二か所の井戸跡も確認されている。【関連】鶴子銀山(つるしぎんざん)【参考文献】『佐和田町史』、本間周敬『佐渡郷土辞典』【執筆者】山本 仁
・鶴子層(つるしそう)
歌代勤(一九五○)の命名。模式地は佐和田町鶴子で、下位の下戸層に整合で重なる。中期中新世の地層である。硬質頁岩および暗灰色泥岩からなり、しばしば苦灰岩ノジュールを含んでいる。相川町では中山峠およびその周辺に分布し、層厚は二○○メートル前後である。魚類化石や外洋・半深海生の貝化石(パリオラム ペッカーミ)を含み、大型海生哺乳動物(クジラ・イルカ)化石・サメ類化石・有孔虫化石を産する。下戸層の地層が浅海相を示すのに対し、鶴子層は粗粒堆積物をほとんど含まず、半深海相を示すことから、古日本海の深化と拡大がおこったことがわかる。【参考文献】佐渡海棲哺乳動物化石研究グループ「新潟県佐渡における中新統鶴子層に関する地史学的・古生物学的研究1」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】神蔵勝明
・蔓日日草(つるにちにちそう)
【科属】キョウチクトウ科ニチニチソウ属 南欧・北アフリカの地中海沿岸原産。明治二十年(一八八七)以前に渡来。日々、花を咲きつづけ、つるを引くのでこの名がある。花をつける茎は一○~二○センチと短いが、花をつけない茎はつるとなり、一メートル以上にもなる。園芸名ビンカは、学名ビンカ・マーヨルに由る。ビンカは「結ぶ」、マーヨルは葉が「大きい」の意味。旺盛につるを伸ばし、すき間なく地面をおおうから、庭園のグランドカバーに用いられる。永田芳男は『春の野草』(一九九一)に、「特に砂地と相性がよいのか、それとも競争相手が少ないからか、海岸で大繁殖している。日本海側ではこの傾向が強く、新潟県から島根県あたりの海岸にかけて多くみかける」と記す。佐渡も、屋敷内・人里・沿海地に群生繁茂する。来島した関東の人も福島の人も、逸出野生の繁茂ぶりははじめてと驚く。五月に咲く直径三センチほどの紫花、品よく清楚で東洋風、茶花につかわれる。葉の縁に、淡黄色の斑のあるフクリンニチニチソウもあるが、野生はしてない。俳句では蔓桔梗の名で呼ぶ。「相川は石垣の町蔓桔梗」、「金とりし石臼ころび蔓桔梗」は、相川の西本一都の句である。【花期】五~六月【分布】帰化【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・ツルモ(つるも)
褐藻類ツルモ科ツルモ属。北海道から九州に至る太平洋・日本海両岸の、波の静かな内湾などの干潮線下に直立して生ずる。和名ツルモは、ツル(蔓)状の長いモ(藻)の意味である。長さ一ー四メートル、直径二ー五ミリで枝わかれしない。幼いつるは内部は充実しているが、成長するにつれ内部は中空となりガスをふくむ。そのため海中で真っすぐ立つことができる。刈りとったものを束ねて乾かして貯蔵する。『牧野新日本植物図鑑』(一九六一)には、「特に佐渡地方ではホシツルモとして貯え、食用に供せられる」と紹介する。真浦(赤泊村)、昔は真浦村、その昔は藻浦村。海藻の豊産する浦であった。特に昔から、ここのツルモは「真浦ツルモ」と呼ばれ名産だった。産額が多いためではない。とても柔かく、香りが高く、風味がよいことで佐渡国一のツルモである。真浦は、流されて佐渡にあった日蓮の赦免船が出立した浦である。この村では、ツルモを「日蓮ツルモ」とよんでいる。【参考文献】佐渡奉行所編『佐渡志』、福島徹夫「海藻と暮らし」、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】伊藤邦男
・石蕗(つわぶき)
【科属】キク科ツワブキ属 ツワブキは艶葉蕗に由る。つややかな光沢ある葉がフキに似る。亜熱帯・暖帯の海辺をふるさとにして北上するが、佐渡はツワブキの日本の北限。高野素十の句「石蕗の花対馬暖流沖を行く」のとおり、暖流のおかげである。冬の季節風をさけた海辺の村には、黒森が残っている。黒森はタブの森。高木層はタブ、中木層はヤブツバキ、低木層はヤツデ・マサキ、草木層はツワブキ・オモト・ヤブランの配置される暖帯林。樹冠は黒々と遠望される。村の鎮守の森、魚付林、山あての森である。この森がいちばんはなやぐのは、十月のなかばから十一月のなかばで、ツワブキの花で埋まる。花径は五○センチぐらい、花房に二○花もつける。太平洋岸では葉と葉柄を食べるが、佐渡ではいっさい食べず、葉を薬とした。葉を火にあぶってデキモノにつけ膿を吸い出す。神経痛にも効く。魚の中毒には煎汁を飲む。昔は子堕ろし草、クキ(葉柄)を子宮に挿入した。村には子おろし婆さんがいた。昔のことである。【花期】十~十一月【分布】本(中部以南)・四・九・沖【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー秋』【執筆者】伊藤邦男
・手籠(てご)
海岸段丘地帯特有の運搬用具で、腰につけたり肩にかけたりする。手籠から転じたと考えられるが、腰につけるので「腰つけ袋」という。藁縄で作ったものを「つかり」というところ(片辺)もある。腰つけ袋は、左側の腰に白い木綿の帯をつけてしばる。国中では見られないが、田を起しているとき、山畑の仕事に蒔きものや拾いものを入れておく。藁で編んで長い紐のついたものを「てご」といっているところもあるが、これは肩に掛けている。藁縄で作った大型の「つかり」や「てご」は、男が山仕事の道具を入れるときにも利用するが、丈夫さを考えて作ったものである。近時は横の編み糸に、ビニール紐をつかったものがふえた。婦人のつけている「てご」に、昔の「しながや」をほどいて作ったものをよく見かける。海村で生活する人たちに藁製品が普及するのは、樹皮繊維利用の習俗より遅れてはじまったものであろうが、日常、海辺で拾いものがある地域の固有の日常用具である。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・デスモスチルス(ですもすちるす)
新世代中新世に、環北太平洋沿岸に生息した大型哺乳動物。歯の形から束柱目に属し、最初はデスモスチルス科の一科だけであったが、パレオパラドキシア属を中心とする、パレオパラドキシア科と二つの科に分けられた。束柱目は、臼歯の形が鉛筆状の柱が束になった形が最大の特徴で、デスモスはギリシャ語で束ねる、スチロスは柱の意味である。謎の多い化石で、絶滅種である。日本のデスモスチルスは、旧日本領の南樺太を含めると、五十数か所から、パレオパラドキシアは三○か所から化石が発見されていて、デスモスチルスに比べると、より南の地域に多い。大正十二年(一九二二)、中山トンネルの相川側出口附近から発見された臼歯の化石は三個あり、そのうちの二個は早稲田大学へ送られて、デスモスチルスとして発表(大正十二年、小沢儀明)されたが、のち、デスモスチルス類の研究の進展にしたがい、パレオパラドキシアと改められた。早稲田大学へ送られた臼歯の化石は、昭和二十年(一九四五)の戦災によって現存していないが、のこりの一個は現場監督によって収集され、相川小学校へ寄贈され、現在、相川郷土博物館に保管されている。佐渡博物館では、昭和三十六年に臼歯の化石を借用展示したが、そのおり、南樺太気屯町初雪沢発見のデスモスチルスの全身骨格を、北海道大学の好意で、石膏模型標本を作成して併せて展示し、さらに昭和五十六年には、県立自然科学博物館とともに、この臼歯化石の複製標本を作成した。【関連】パレオパラドキシア【執筆者】計良勝範
・鉄火裁判(てっかさいばん)
赤く熱した鉄棒をにぎって、その焼け具合で事の正邪を判断すること。クカタチという裁判の方法が上代にあった。盟神探湯と書く。事の正邪を決めるため神に誓って、熱湯に手を入れ探らせ、罪のある者は大やけどをするが、正しい者はやけどをしないと信じられていた。熱した鉄棒をにぎるのもクカタチの一種で、元和十年(一六二四)南・北片辺村で奥山の境界争いが起きたとき、両村の中使(名主)が焼けた鉄棒をにぎって、手の焼け具合で決着しようとした。その証文は次のようになっている。「─奥山は前々両村入相にて候由申し候に付て、終に落着いたさず候故、当春鉄火を双方へ仰付られ候処に、両村の中使の手、大方同じ様にやけ申し候、然る上は奥山は両村入相に仰せ付られ御尤に候」。中世には両片辺は同じ郷村で、鹿野浦より藻浦崎へ集落が移動して、北片辺村が成立すると、片辺山の入会権をめぐって争いとなったもので、両村中使の手が同じくらい焼けたので、争いの山は入会山となって、喧嘩両成敗にした。事の判断を、クカタチという古式のやり方をしためずらしい例。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】佐藤利夫
・テナガタコイカ(てながたこいか)
テナガタコイカ(手長蛸烏賊)は、成体になると一対の触腕が無くなるので、タコと同じ八本足であるが、イカに属すドスイカの仲間で、北方冷水系。日本海から北太平洋を経て、カリフォルニアにまで分布する。スルメイカ釣りの際に、鉤(擬餌針)を少し深く入れると、肉質が軟かく、皮膚の剥け易いドスイカが釣れることがある。ドスイカと同じく、タコイカ・テナガタコイカ・ニッポンタコイカなどは、二○○メートル以深から採れるが、ごく希である。これらのイカの腕にある吸盤は、スルメイカの円盤状のものと異なり、三角状の歯を備えた鉤となっており、変ったイカとして注目されるようになった。佐渡沖でも、スルメイカ(方言マイカ)釣りの漁業者が持ち帰り、学者の研究に供された。【執筆者】本間義治
・天辺(てへん)
坑内で用いた江戸時代の保安帽。その用途は、「兜の天辺(てへん)の如く組立てて、敷(坑)内往還の節、頭を打たぬためかぶり申し候」などと書かれてある。てへんは、戦国社会の武者たちがかぶった兜のいただきの部分の「天辺」かららしく、てっぺん、つまりいただきをいう。坑内で実際に使っていた実物の形状は円形で、径は一八糎、重さが約五○○グラム。かぶったとき、アゴでしめるヒモの長さが五五糎位。和紙を細長く裂いて作ったコヨリで編んであり、真ん中に径一・五糎ほどの小さい風孔がある。戦国時代の兜は、いただきの鉢形の部分を「八幡座」という。八幡の神が宿るという意味があり、八幡の神は古来武神としてあがめられた。「兜の天辺に、熊手をうちかけて」(平治物語)などとあって、ねらわれやすい部分だ。鉱山では、落盤や落石で頭を打たれることを絶えず覚悟しないといけない。てへんの名称は、だから危ないときの神だのみをも期待した名前であろう。坑内でかぶるのは、広間役・山方役・御目付役・御番所役・山師などに限られ、「その外はかぶり候こと、相なり申さず候」とした記録がある。上級職専用の帽子だが、外の貴金属鉱山ではてへんの使用はあまり報告されていない。嘉永五年(一八五二)に、佐渡鶴子銀山の坑内を見学した吉田大二郎(松陰)も、「縄で帯をし、短刀を從にしてさし、頭に天辺をかぶった。これは紙屑で作ったものである」(『東北遊日記』)と回想し、これをかぶって入坑している。【関連】鉱具(こうぐ)【執筆者】本間寅雄
・手堀り(てぼり)
鑿岩機が明治に入ってから、佐渡鉱山にも導入された。それ以前の鉱石採掘は、すべて素手に頼っていた。これを手堀りといい、それに従事した大工が「手堀り大工」といわれた。が、明治になって一般化した火薬による鉱石採取のうち、鑿岩機はその火薬を詰める穴を掘る役目を持つ道具で、鑿岩機自体の役目は限られていた。しかし火薬採掘によって、江戸時代からの手堀り作業は大幅に減るのである。ただし濃密で優秀な富鉱脈に火薬を仕掛ると、良鉱が発破で飛散するから、当該箇所は従来の手掘り方式で、ていねいに採掘することがあり、手掘り作業は熟錬作業の一つとして、近年まで残っていた。手掘り大工の用いるタガネには、「クチキリ」「二番(三番)タガネ」「トメタガネ」があり、まわりの大石などを割る「サキタガネ」「ワキ」などがあった。ハンマーにも、「片手」「セットー」「大ハンマー」など幾種類かが使われた。手掘り用語として近年まで残っていたものに、タガネの打ち方によって変わる姿勢から、「アゲアナ」(天井低いとき上を掘る)「クモアナ」「カツギアナ」「オトシアナ」「ヘノコアナ」などの掘り方があった。切羽が狭いので、鼓を打つような形で、後ろ向きに掘るのが「カツギアナ堀り」で、ヘノコアナ堀りとは、正面のマタの下あたりへタガネを打つことからいわれた。江戸時代にあった「かんむり(冠)穿り」「ひったて(引立)穿り」「ふまえ(踏前)穿り」などが、近代に入ってさらに細分化した掘り方に変っていったことが、以上の用語からわかる。「ヘノコ」とは、関西方面では男子のシンボルをさした。【執筆者】本間寅雄
・寺坂(てらさか)
古くは石坂(『佐渡相川志』)とも呼んだ。大安寺のある江戸沢町から、下寺町の法然寺前へ登る急斜面の長い坂で、一七世紀の中ごろ(明暦年間)までは、道幅三尺ほどで石段はなかった。永弘寺(現永宮寺)の松堂が著述した『佐渡相川志』(舟崎文庫)によると、小六町に道伝というくるわの楼主がいた。伊勢神宮への参詣を志して出かけたが、ゆき着くことができなくて引返し、所持した持参金をもって「越前石」を買い求め、道幅をも広げて石段とした。石段の数は三百三十三段あったと記している。そのように古くからいい伝えていたらしい。道伝は小六町の西側に住んでいて、庭には泉水や茶屋を作り、その築山の形が天和・貞享(一六八一ー八七)のころまで残っていた。が、いまはしかとその場所を知る者すらいない、とも加えている。石坂はいまも残っていて、江戸沢の海星愛児園前から、カトリック教会を右に見て坂道を登り、高安寺門前を経て福泉寺前を登り、高台の寺町通り、法然寺前に出る。石段の数の「三百三十三段」は、西国三十三所や三十三観音などの縁起を考えての数であり、実際には二百八十段前後である。凝灰岩と石英安山岩が多い。石英安山岩は、佐渡の小泊(羽茂町)から運んだ小泊石と思われ、「越前石」(笏谷石)とは異なる。昭和四十九年八月、「寺町に至る石段」の名称で、町指定文化財(史跡)となった。坂の中途に「観世音菩薩、鉄壁山銀山寺」と刻んだ、慶長元年(一五九六)の開基と伝わる、古い寺の寺塔が残っている。【執筆者】本間寅雄
・寺町に至る石段(てらまちにいたるいしだん)
【別称】寺坂(てらさか)
・テンツ飯(てんつめし)
ホンダワラの一種であるテンツを、米のなかにまぜた御飯。米が十分に食べられなかった時代、食べ物を増量するために入れた海藻めし。これをカテメシといい、大根・ホシナ・チソ・ササギ・ワラビ・クコ・ヒエ・茶などがあった。山村ではリョウボメシがあり、海村ではテンツのほかにカジメ・ワカメなどもあった。若いホンダワラをジンバソウといって、カテにした場合もあったが、量的に多いテンツが海藻のカテの代表。春のテンツは、山のリョウボと秋の大根のつなぎのカテメシであった。テンツメシはシコシコしてうまかったという。六月前、口明け日に採った。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・天当船(てんとぶね)
「てんとう」ともいう。高千・金泉に多かった。長さ二四尺(七・二メートル)、幅五尺五寸(一・七メートル)くらいの船。足の速い船でゴザ帆もつけた。ワキ櫓・マエ櫓・トモ櫓の三丁櫓で櫂が二つついた。福井県敦賀方面では伝渡船といった。江戸時代から機械船がつかわれるまでの、近距離の客と荷物運搬船。佐渡では海府と相川、内海府と夷湊などを連絡する船であった。陸上交通が未発達な時代には、海上の輸送がおもな運搬手段であり、到着時間の遅速、荷物の多少などによって船をつかいわけた。材木や薪炭・米などは「はがせ船」・「どぶね」・「さんぱ」・「弁才船」などを、所用・市日の買物・病人などの輸送に「てんと」をつかった。佐渡の各湊へ弁才船やはがせ船で持ち込んだ荷物は、その湊の廻船問屋で小分けにされ、「てんと」や「さんぱ」で村々の商店に廻漕する。そのために商店は小型廻船を所有していた。その船が「てんと」である。船型は一本水押の船体に、垣立・屋形なしの簡素なもので、村々には数艘浜に待機していた。【関連】さんぱ船(さんぱぶね)【参考文献】石井謙治『図説和船史話』(至誠堂)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】佐藤利夫
・天保の一揆(てんぽのいっき)
【別称】佐渡義民殿(さどぎみんでん)
・天満宮(てんまんぐう)
大工町に残る北野神社をさす。祭神は菅原道真。祭日は、古くは五月二十五日。のち六月十日に変わり、近年まで神楽が奉納された。天正年間(一五七三ー九一)の創立とするいい伝えがあり、沢根村の白山城の城中に勸請されたのに始まるという。廃城のあと、相川の治(次)助町に移転した。同町にあった浄土宗の西光寺(元和元年開基、慶応三年廃寺)の境内に隣接した場所で、古くから「天神社」と呼ばれたが、江戸時代の相川の漢学者・田中葵園は、その御神体が五位の装束なので、菅公ではなくて、沢根殿である本間攝津守永州(白山城主)が先祖を祀ったのに始る、としたという(岩木拡『相川町誌』)。大工町に移転したのは、大正末から昭和初年のことで、境内の水鉢に文政九年(一八二六)九月とあり、「江戸施主 哥次郎、喜八」と芸人らしい人の名が刻まれる。また狛犬は、天保十四年(一八四三)五月とあり「治助町若者中」などとある。御神燈は明治二十三年五月の寄進で、一四人の寄進者の名が刻まれているが、ともに治助町に住んだ鉱山関係者たちらしい。つまり移転のとき、これらの石造物もそのまま運ばれた。善知鳥神社の祭礼に出る相川鬼太鼓は「太鼓組」と称して、治助町・南沢・大工町の廻り番で保存されていた。現在は大工町が管理している。甲冑・薙刀・棒・豆蒔き・鬼面・太鼓などの道具類は、神社に保管されている。祭礼のときの打出しも、この神社から始まる。とりわけ甲冑は、江戸時代でもかなり古いものであるという。【関連】善知鳥神社祭礼行事(うとうじんじゃさいれいぎょうじ)【執筆者】本間寅雄
・天領(てんりょう)
江戸幕府の直轄領(幕府領)の俗称。幕末に旧幕府領を庶民が天朝御料(領)と称したが、その略語が溯って一般的呼称となった。江戸時代の法令や史書には、御料(御領)・御料所・公領と称した。天領は幕府財政の根幹をなし、政治・経済基盤であった。徳川氏の蔵入地が拡充されたもので、元禄年間(一六八八ー一七○四)には四百万石となり、全国の四七か国に分布した。さらに関東・畿内・海道・北国・奥羽筋を中心に、地域開発や大名の改易などにより増加し、主として貢租の基幹をなす米や商品作物の生産地帯、鉱山及び木材の供給地である山林地帯、交通・運輸の結節点の都市や港湾・河川の周辺などに設定された。職制上は勘定奉行配下の郡代・代官の管轄を中心に、老中支配の遠国奉行や諸藩の大名預地を加えた三つの支配形態によりながら掌握された。このうち遠国奉行では、鉱山採掘と民政や外国船監視の役割を担った佐渡奉行支配の十三万石が最大の領地であった。天領は江戸時代を通して、延享元年(一七四四)の四百六十三万石が最高で、以後漸減の傾向をたどり幕末に至っている。幕府が広大な天領を領有したことが、諸大名に対する圧倒的な政治・経済上の優位を確保することになり、また大名間に交錯して分布したことが、外様大名の動きを牽制する重要な役割を果たした。天領は奉行所や代官・郡代役所を中心に、それぞれ地域性を示しながら、幕府に集権的に掌握されていたことに特色があるが、幕府の政治機構とともに、国家的支配の基礎として機能したことに注目する必要がある。天領は明治政府の鎭撫総督軍によって、戊辰戦争の最中または直後に順次接収されたが、明治元年(一八六八)閏四月の府県の設置により、そのまま新政府の直轄支配に継承された。【参考文献】村上 直『天領』、藤野保編「天領と支配形態」(『論集幕藩体制史』四巻)、大野瑞男『江戸幕府財政史論』【執筆者】村上 直
・樋引(といびき)
鉱山の坑内で、地下水をくみ上げる揚水ポンプを操作する人をいい、通常は水上輪(アルキメデス・ポンプ)をあやつる人を呼んだ。樋といえば水上輪を呼ぶことが多かったためである。『金銀山取扱一件』という書物に、水上輪は坑内の広さ狭さ、水の深さ、浅さによって百本も二百本も立て、樋一本に人一人掛りで水を引揚げる、などと記してあるが、ときと場所によっては一本(挺)に二人ないし三人がつき添い、交代でくみあげることもあったらしい。そうした樋引作業のようすは、金銀山絵巻などに詳しく描かれている。延宝年間(一六七三ー八○)のころ、鉱山の割間歩が水で大変苦しんでいた。樋請(というけ)を専業とする与五右衛門という人がいて、佐渡の近在から暮れとお正月に花や松飾り、ゆずり葉などを売りに相川へ出てくる人たちに中飯をふるまっていた。そして割間歩がある鉱山まで、手紙をとどけてくれるように頼む。売り子たちがなに気なく登山すると、入口に「人指し」といって、樋引たちを差配する人が待ちかまえていて、むりやり坑内に連れこみ、その作業をさせた、などの話が『佐渡国略記』という書に記されてある。人出不足のためこのころ樋引の賃銀は一日四、五百文、大晦日や元旦は人出不足で六、七百文にも高騰したという。なお正徳四年(一七一四)のころの『諸役人勤方帳』の中に、樋引賃銀を決めるについては、御広間(奉行所)で人を集めてセリをさせ、安く札を入れた人に、作業を請負わせたとある。このころは、水上輪による水替に、請負制がとられていたらしい。【関連】水替(みずかえ)・水上輪(すいしょうりん)【執筆者】本間寅雄
・搗鉱製煉所(とうこうせいれんじょ)
「間の山」地区の、濁川右岸山腹に位置する。御料局佐渡支庁長渡辺渡によって、設計・建設された製煉施設で、当初、カリフォルニア式搗鉱機製煉法が用いられた。選鉱場から送られた下鉱を、搗鉱機で粉砕し、同時に水銀による汞化作用によって、アマルガムを作り金銀を抽収した。これによって、従来廃鉱としていた貧鉱(金銀含有量の少ない鉱石)も利用できるようになった。第一工場は、明治二十三年(一八九○)に着工して翌二十四年完成、成績が大変よかったので、明治二十六年に第二工場を竣工した。その後改革を繰り返したが、昭和二十七年(一九五二)の大縮小で閉鎖された。現在は、鉱倉のコンクリート側壁と、床基礎部分だけが残存している。【関連】渡辺 渡(わたなべわたる)【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、『明治工業史』【執筆者】石瀬佳弘
・道祖神(どうそしん)
道祖神は道を守る神である。塞の神ともいい、サエはさえぎることであり、村境に立ち、悪霊の侵入を防ぐ神である。佐和田町八幡の八幡宮前の十字路には、文政年間(一八一八ー二九)の道祖神の石塔が建っており、石塔の右側面に小木道、左側面に松ケ崎道と記され、道しるべ役もつとめている。この神は、『古事記』や『日本書紀』などに、フナドの神と記され、天孫降臨神話の、ニニギノミコト一行の道案内役をつとめた、猿田彦をそれに擬している。道祖神と記された石塔が、沢根曼陀羅寺前の地蔵堂近くにもあるが、そのほか、道を守る道祖神とみなされる猿田彦大神塔が、稲鯨・北野神社に、また大浦の庚申堂には、猿田彦大神像の掛軸が、さらに海士町・不動堂、下山之神・八幡宮や下相川・戸川神社にも、猿田彦大神塔が建っている。なお、道祖神は村境や道を守り、疫神の侵入を防ぐほか、仏教との習合により、道祖神の本地は、村はずれや辻に立つ地蔵菩薩といわれたり、双体道祖神像(小泊・真野)から、男女の縁結びの神として親しまれたり、小正月のドンド・サギチョウなどの火祭りに登場したり、かなり複雑な性格を帯びている。【参考文献】大島建彦『道祖神と地蔵』(三弥井書店)、山崎省三『道祖神は招く』(新潮社)、北見俊夫『旅と交通の民俗』(岩崎美術社)【執筆者】浜口一夫
・堂ノ貝塚(どうのかいづか)
金井町大字貝塚四七四附近一帯に所在する、縄文時代中期前葉から中葉にかけての、シジミガイを主体とする貝塚。国仲平野に張り出した舌状台地上で、標高約一六メートル。沢をはさんで相対した位置に、後期を主体とした西ノ沢遺跡がある。昭和四十四年(一九六九)、金井町教育委員会で発掘調査を行い、多数の土器や、石鏃・石斧・石剣・石棒・骨角器・イノシシなどの骨やシジミガイなどの他、立石や屈葬の七基の土壙墓と、土壙墓を伴なわない人骨一体、計八体の人骨の発見があった。土壙墓のうち、第六号人骨は、仰臥屈葬の壮年から熟年男性で、頭の斜め上に、蛋白石と鉄石英製の一三本の特製無柄石鏃が副葬され、胸部にはイタチザメ歯牙製垂飾が置かれていた。石鏃の副葬はめずらしく、イタチザメは日本海側では希種である。縄文時代は古国仲潟湖の時期で、潟湖周辺には堂ノ貝塚をはじめ、城ノ貝塚・泉貝塚・三宮貝塚・浜田貝塚などの貝塚があり、当時の生活環境を知ることができる。【参考文献】『堂ノ貝塚』(金井町教育委員会・佐渡考古歴史学会)【執筆者】計良勝範
・東北遊日記(とうほくゆうにっき)
東北地方を遊学したときの吉田大二郎(のちの松陰)の日記。佐渡滞在中の見聞も記されている。江戸藩邸を無断で出奔して、水戸・会津・仙台を経て青森・弘前を廻り、日本海側の秋田・山形を歩いて新潟入りし、厳冬の佐渡へ渡ったのは嘉永五年(一八五二)の二月二十七日で、出雲崎から小舟で小木港へ渡航、一二日間ほど滞在して三月十日離島した。二三歳のときで、肥後の宮部鼎蔵(のち元治元年に池田屋騒動で新撰組に襲われて自刄)といっしょだった。真野の順徳上皇陵を参詣して相川へ向い、広間役蔵田太中(茂樹)を訪れている。蔵田は国学者、また歌人で『鄙の手振』などの著書があった。松原小藤太(蔵田の二男)の案内で屏風沢(佐和田町沢根)の銀山へ登り、坑内もつぶさに見学した。「吾が輩は衣を脱ぎ、一短弊衣を着、縄を以て帯と為し、竪に短刀を帯ぶ」といった服装で入坑した。強健な人も、一○年にもなれば「気息えんえん、或は死に至る」と、労働者たちの短命なことなど記し、また相川へ帰って春日崎の砲台などを見学している。異国船が日本の近海に接近して緊張した時期で、海防事情にも関心を持っていた。松陰が蔵田を訪ねたのは、江戸の歌人(旗本)で臼井采女(秋澄)という人が紹介状を書いてくれたためで、采女と蔵田とは歌友だちであったとされるが、采女と松陰との関係については未詳である。【関連】蔵田茂樹(くらたしげき)・吉田松陰(よしだしょういん)【参考文献】日本思想大系『吉田松陰』、磯部欣三『幕末明治の佐渡日記』【執筆者】本間寅雄
・道遊の割戸(どうゆうのわれと)
佐渡鉱山の優良鉱脈のひとつである道遊脈の、江戸時代の露天掘りあと。道遊の割戸は、相川町春日崎や相川市街から佐渡鉱山に至る道路より、小さい山の中央をV字型に割ったようなかたちで眺めることができ、佐渡鉱山のシンボルとなっている。道遊脈は、高任立坑から東にのび、稼業延長一二○メートル、稼業深度一五○メートル、平均脈幅一○メートル、金:銀=一:一○、金含有量五グラム/トンであり、相川層の庚申塚溶結凝灰岩のなかを、八○度の角度で北に傾斜している。平均脈幅一○メートルは佐渡鉱床の主要脈のなかで最大であり、にわかに信じがたいほどに大きい。【関連】青柳割戸(あおやぎわれと)【参考文献】坂井定倫・大場実「佐渡鉱山の地質鉱床」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】神蔵勝明
・燈籠(とうろう)
八月一日の早朝、新仏(にいぼとけ或いはしんぼとけ)のある家では親類衆が集り、トウロウをたてる。トウロウは高いほどよい、仏さんがトウロウめがけて下りてくるから(相川町高千)とか、仏さんはトウロウの先へきて止まる(同町関)などといわれ、このトウロウの竿は、主に杉のマセグイを用い、高いマセグイの上方に横木を一本しばりつけ、その両端とマセグイの先端に杉の葉(またはアテビの葉)をつけ、縄でそれらを連携し、家の前の庭などにたてる。そして、その根もとには浜の玉砂利などを拾ってきて敷き、簡単な棚を設け、盆花の山萩を供え、水を手向け、香をたき(同町北狄)夜はチョウチンを下げる。これは新仏を迎えるための依代なのである。正月に歳徳神を迎えるためにたてる依代のカドマツと、共通した感覚をもつものなのである。参考までに他町村のものを拾ってみると、佐和田町長木のトウロウは至って簡素で、海府のものに良く似ている。南佐渡の赤泊村柳沢のものは、トウロウのつり縄が三本あって、そのどれにも、杉葉を一二か所つけてあった。一年の月の数という訳か、旧暦で一三か月ある年は、一三に増すという。前記関と同じように、新仏がトウロウの横木に腰をかけるという。両津市片野尾では、トウロウのつり縄を一二本も下げ、トウロウの高いマセグイを一二本の割り竹で囲み、それを縄でしばりつけるという。新仏に、それに伝わってこいというのだという。【参考文献】浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、青木菁児『青木重孝郷愁・佐渡』(2)【執筆者】浜口一夫
・トウロウ取り(とうろうとり)
小正月行事の一つで、小若衆のトウロウを取りあう喧嘩遊びである。海府地方の石花(石花城跡のある集落)に、終戦当時(昭和二十年代)まで残っていたが、危険をともなうので中止となった。トウロウ取りは、集落を南と北の二組に分け、正月四日にトウロウ作りを開始する。まず四日から六日まで、全員でタンザクを下げるコヨリを約千本作る。タンザクの色紙は、六日の春詣りに相川の町へ行く人に頼む。トウロウをたてるのは十日であるが、その日まで、トウロウマセを用意したり、割り竹を作ったり、鍬形かぶとに金紙(表)や銀紙(裏)をはったり、おお忙しである。女の子は袋を作って、トウロウに下げる。裁縫が上手になるといった。戦斗が開始されるのは、十日の晩から十四日までである。石ころを投げたり、組ついたり、なぐったり、実にすさまじいトウロウの奪いあいがはじまり、多くのけが人が出たが「トウロウの神はけんか神さん」といわれ、けがをしてもお互いに許しあう不文律があった。トウロウ(鍬形かぶと)を奪いとった組は、かちどき勇ましく宿へ帰り、一方負けた方は、翌朝、代表者が手をついてもらいに行った。以上が石花集落のトウロウ取りのあらましであるが、海府方面の入川・北立島・北田野浦などでは、トウロウを取った方は、その年、豊作だといい、北片辺ではトウロウに、稲の花を形どった色紙をつけたり、豊年袋を下げたりする。これらはトウロウなるものが、稲作と関係深い、豊作を祈る予祝行事の一部であったことを物語るのではないかと思われる。【参考文献】『高千村史』【執筆者】浜口一夫
・毒空木(どくうつぎ)
【科属】ドクウツギ科ドクウツギ属 葉は単葉であるが複葉にみえる。ウツギ(ウノハナ)に樹姿が似るが、毒性がありこの名となった。山野の陽地の崩壊地のパイオニア植物。花は淡い黄緑色で小さい。七月、鮮やかな紅い実が目をひく。小さな花弁が花のあと大きくなって果実をとりかこみ、鮮やかな紅色をへて黒紫色となる。赤い皮(花弁)は、甘い汁をふくみ無毒であるが、皮につつまれる果実が、猛毒で命をうばう。甘い紅実が子どもを誘い、多くの命をうばった。戦前の中毒死は年間三○○件。うち六○%は毒キノコ、一○%はドクウツギであった。激しく吐き、激しくケイレンし、呼吸が止まり死に到る。佐渡奉行所編の『佐渡志』(一八一六)に、「民間フロシキツツミととなえ、方言ナベワレウツギという。これもその毒酷烈畏るべきものなり。この国の小民、輙くもすれば、小児あやまつこともあるをもって、ここに(絵図)をかいて出す」と注意をうながしている。赤~紫黒色の皮が、五つの果実をつつむありさまが、フロシキヅツミに似る。果実を上からみると、五つの割れ目があり、鍋の割れ目にみえるのでナベワレウツギともいう。【果期】七~八月【分布】北・本(近畿以北)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・東照宮(とうしょうぐう)
徳川家康を祭神として祀る東照大権現は、徳川家の天領である佐渡では、十一代目奉行伊丹播磨守の代の寛永十三年(一六三六)に、下山之神町に創立した。社名は後水尾天皇の勅諡であったが、正保三年(一六四六)将軍家光が、日光に祖父の廟を建て東照宮と命名したので、全国に散在する東照社が、東照宮と改称した。『佐渡神社誌』では、「明治維新前は御霊屋と称し神社には非ざりけん、当時の寺社帳に其名見えざれども」とある。そして慶安四年(一六五一)に、輪王寺の守澄法親王から親筆の神号が納められ、「従前社殿造営及祭典費等一切幕府より附与の処維新に至りて止む」とある。相川郷土博物館には孔子廟関係の展示があって、優れた美術品がみられるので、儒教を重んじた幕府の政策に従って、相川でも在来の神社扱いではなく、御霊屋(廟)と呼んでいたのであろうか。小木町の小比叡蓮華峰寺の境内にも、東照大権現の神殿が祀られている。宝暦寺社帳の同寺の項では、「東照大権現御神殿 台徳院殿 尊儀御霊屋 右者正保四年奉造畢──」とある。台徳院は二代将軍秀忠の諡である。【参考文献】『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)、山本修之助編『佐渡叢書』(五巻)【執筆者】本間雅彦
・戸河神社(とがわじんじゃ)
炭焼長者の伝説は中世に始まって、全国各地に同じような話として分布している。佐渡では、長者の名は戸川藤五郎と呼ばれて、下相川富崎の戸河神社に、祭神として祀られている。全国的な炭焼伝説の多くは、黄金の発見と結びついていて、この相川の戸川藤五郎にも、その痕跡がみられる。『佐渡神社誌』が伝える藤五郎の人物像によると、永禄の頃(一五五八~六九)に駿河から来て、下相川の日蓮宗寺院本光寺境内に住んだとある。さらに没年は、元亀中(一五七○~七二)という。これは相川の市街地形成や、金銀山開発の年代からみて、かなり早い時機なので、直接に黄金発見の文字はなくても、薪炭の役割りからいって、鉱山を対象として伝えられていることは疑いない。本光寺(寺社帳では本興寺)の山号は戸川山であり、駿河国富士郡の本門寺末とあるので、詳細に調べていけば伝承と史実の境目が、しだいに明らかにされていくであろう。戸河神社の合祀社に、須勢理姫命を祀る百足山神社がある。ムカデは鉱脈の象徴でもあり、山之神の大山祗社ともかかわっている。『民俗学辞典』(東京堂刊)では、炭焼長者伝説は、もと鋳物師の仲間が運搬したものらしいと推定している。例祭日は六月十五日。【関連】炭焼藤五郎(すみやきとうごろう)【参考文献】柳田国男「炭焼小五郎が事」(『海南小記』所収)、『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】本間雅彦
・朱鷺(とき)
学名ニッポニア・ニッポン。国際保護鳥・特別天然記念物・新潟県民の鳥、の肩書をもつ。江戸時代の初め、主に関東・東北の一部や、北海道に分布していたが、次第に分布域を全国に広げ、田畑に被害が出る程になった。その後乱獲されて、明治に入り減少の一途をたどり、大正の終りには絶滅したものと思われていた。昭和四年(一九二九)石川県内で一羽が誤殺され、昭和七年(一九三二)五月、加茂村和木(現両津市)で巣が発見された。そのころの佐渡の生息数は、百羽位と推定されているが、その後も減少して、昭和三十四年(一九五九)には四羽になった。幸い翌年新穂山中で繁殖が確認され、周辺一帯が国有林となり、入山を禁止するなど保護に努めたため、昭和四十七年(一九七二)には十二羽にまで増えた。しかしその後再び減ったので、昭和五十六年(一九八一)環境庁は、野生五羽の全鳥を捕獲し、前からいた愛称「キン」と合せて六羽の飼育を行ったが、残念なことに五羽はつぎつぎと死亡し、一九六七年生れの「キン」一羽となっていたが、平成十一年(一九九九)、中国から一つがいのとき「ヤンヤン」と「ヨウヨウ」の寄贈をうけ、翌十二年(二○○○)には、「メイメイ」が来日して増殖に成功し、現在佐渡トキ保護センターには十八羽が飼育されている。【参考文献】安田健「トキの文献」【執筆者】佐藤春雄
・徳本名号(とくほんみょうごう)
【生没】一七五八ー一八一八 「とくごう」とも呼ばれる。浄土宗捨世派の僧。捨世派とは、既成の寺檀関係や共同体に制約されない布教活動を行う、脱体制派である。全国各地に足跡を残すが、佐渡に来た記録はない。宝暦八年、和歌山県日高郡志賀谷久志村に生れる。四歳の時隣家の子供の死を見て、無常を観じ念仏を唱えたという。二五歳の時、近くの往生寺で得度。その後千津川村に庵を構え身には袈裟一つ、一日に豆少々を食べ、昼夜を問わず四、五千回の念仏を唱える荒行を、七年間勤める。名声を聞き、上は将軍の生母からさては漁師や樵まで、あらゆる階層の人々が集まると、南無阿弥陀仏の名号を渡し、ひたすら日課念仏を勧めた。後に本山増上寺に乞われて、全国を布教する。佐渡には五つの講中があり、このうち相川町には、柴町講中・大安寺講中・立岩寺講中の三つがあった。佐渡に現存する名号塔は、水金町専光寺跡に一基と、佐和田町常念寺に一基確認される。与えられる名号は、唱える念仏の回数により大小があり、講中では布教順路の先々で待ち受け貰ったという。その光景は「道路に寸地なし」と伝えられた。文政元年寂。【参考文献】戸松啓真編『徳本行者全集』【執筆者】近藤貫海
・トコヒレ(とこひれ)[トクビレ]
江戸時代に、トクビレのような寒帯深海性底魚が、どのような手段によって得られたかは不明であるが、特異な形態から注目されたらしい。諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』、滝沢馬琴の『燕石雑誌』『烹雑乃記』、田中葵園の『佐渡志』、さらに江戸の人武井周作の『魚鑑』などに、いずれも載せてある。馬琴は、トコヒレの方言に禿骨曄列や、長髯の字を当てているが、越後や北海道では、ワカマツ(若松)・ハッカク(八角)・マツヨ(松魚)などの方言もある。細長い体は、硬い骨質板で覆われ、断面が角張り八角をなし、骨板には硬くて強い棘が並んでいる。雄では、背鰭と臀鰭が長く全長五○センチに達する。肉は白身で美味いので、皮を剥いて刺身や汁種にして賞味される。江戸時代から乾燥して、置物にされてきた。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・床屋(とこや)
床屋は、鉱山で金銀銅を精錬する場所をいう。相川には「大床屋町」、春日崎に「銅床屋」、一丁目浜町に「銅床屋」のあったことが記録にみえる。鹿伏村の床屋は、元禄末年まで稼業した。【関連】勝場(せりば)【執筆者】田中圭一
・戸地(とじ)
集落は海岸沿いにあり、慶長五年(一六○○)の検地帳には、「海府之内登地村」「刈高七八三束」とあり、戸地川に近い北側には、他の村落に比べて広い「垣之内」の地名がある。村に残る元応二年(一三二○)「うとう七うら大さかひ之事」の文書に「本間大野殿」とあって、大野本間に関係をもった土地柄だという。近世初期の有力な重立衆を意味する六軒竈があり、平兵衛宮(文禄二年創立)・四郎左衛門宮(元和八年創立)、ほかに源兵衛宮、武右衛門家では不動堂をもつなど、家ごとに異った宮を祭祀していたが、明治六年(一八七三)これらを合祀して熊野神社とした。このうち源兵衛宮は、延宝七年(一六七九)に相川下山之神町の大山祇神社の神主、安岡長門守の勧請といわれ、鉱山との関係が深く、慶安三年には中使も勤めた。金津家は、越前金津より来島して、家系をいまに伝える。寛文期には、用水路や溜池を利用して新田開発が進み、元禄七年(一六九四)の検地帳では、田三四町八反余、畑一二町六反余。年貢皆済目録によると、磯ねぎ沖漁の依存度が高いという。文政五年(一八二二)の佐渡一国分限帳・御巡村御用日記では、戸口が六七軒、四百十余人とある。明治十年には、戸地炭町を合併した。【関連】戸地車町・炭町(とじくるままち・すみまち)・戸地川(とじがわ)・戸地祭り(とじまつり)【参考文献】『金泉郷土史』、『新潟県の地名』(平凡社)【執筆者】三浦啓作
・戸地川(とじがわ)
金北山西方二ノ嶽付近を水源にして、戸地・戸中集落のほぼ境界線を流れる。全長五・二キロで、水量の豊富さでは全郡で六位、急流の点では第一位といわれ、この水力を利用して、佐渡金山の大盛りの頃、寛永三年(一六二六)より、享保の初めまで、相川金山から約一二キロを馬で鍵(鉱石)を廻送して、水車により粉成、吹立もした。寛永四年には、時の佐渡奉行鎮目市左衛門が視察に訪れ、一説には鱒狩中誤って川の中にはまり死亡したと伝えられ、川魚が多いことでも知られる。正徳三年(一七一三)の絵図で、戸地川の上流約四キロ余りの本流と支流二か所に、「魚留滝」の地名が見え、元禄年代諸運上書上帳に「戸地川、鮎五年請負運上銀六匁」の記録もあり、鮎も豊富だったことが判る。川鱒は昭和の初期までは多く獲れ、一回にカマスで五荷も獲れ、相川の鉱山へ廻送したと、古老は話した。また佐渡鉱山の近代化に伴い電力需要に迫られ、明治二十九年頃より水力発電の計画があり、大正四年に第一発電所、同八年に第二発電所が竣工し、相川鉱山へ送電を開始した。三キロ位上流には、前記絵図に出てくる清水(県の名水百選)の出る「大せうず」(大清水)の地名があり、現在この清水を、戸地・戸中・北狄の水道水として利用している。【関連】戸地車町炭町(とじくるままち・すみまち)・戸地第一第二発電所(とじだいいち・だいにはつでんしょ)【参考文献】『金泉郷土史』、「戸地区有文書」【執筆者】三浦啓作
・ドスイカ(どすいか)
スルメイカ(鯣烏賊)に形は似ているが、鰭が大きめで、肉質は軟かく、皮膚が剥け易い。利用価値は低いが、大型になるアカイカと共に、加工用に廻されたりする。スルメイカ漁の際に、鉤(擬餌針)が深所に届くと釣れるところから、正体が明らかになってきた。テナガタコイカ(手長蛸烏賊)と同じ仲間であるが、腕には三角形の歯を備えた鉤は無く、小さい吸盤のみである。日本海で繁殖することが明らかとなってきた中型クジラのメソプロドン(オウギハクジラ・扇歯鯨)は、四~五○○メートルの深海にまで潜水する。ドスイカは、このメソプロドンの食餌として重要である。相川町沖のイカ場でもドスイカは獲れるが、相川海岸では、メソプロドンの冬~春先における漂着もまま見られる。【執筆者】本間義治
・戸地第一・第二発電所(とじだいいち・だいにはつでんしょ)
新潟県で最初の水力発電は、佐渡鉱山の高任に明治三十三年(一九○○)九月、一五キロワットが起動したが、佐渡鉱山の近代化が進むにつれて、大量の電力が必要となるため、その五年前の明治二十八年十月、御料局より戸地へ技師を派遣し調査を進めて、翌年八月には、佐渡郡役所より北海村村長宛に、「電気応用計画について」(「戸地区有文書」)の文書が残るが、その後、御料局より払下げを受けた三菱合資会社による地元との交渉の中で、戸地川中流域にかかる農業用水に必要な、江戸時代からの木製掛樋(約一四メートル)を、鉄筋の入った「めがね橋」にすることで、地元の了解をとりつけ、大正四年(一九一五)九月、戸地川河口より約三キロ上流に、出力九六○キロワットの第一発電所が完成した。有効落差は二七五メートルで全国第三位だと、当時の「佐渡日報」は伝えた。大正五年二月に、同社で募集した佐渡名勝八景の中に、戸地第一発電所が入るなど、洋式建造物と山頂へのびる送水管の長さは、目をみはるものがあった。このあと第二発電所が、河口付近の江戸時代初期から、佐渡鉱山とかかわりの深い「戸地車町」跡地に、大正八年一月、出力四八○キロワットで竣成した。第一・第二共すぐ近くに、それぞれ棟続きの三世帯の職員住宅(集会所含)があったが、鉱山の衰退と施設の老朽化により、昭和五十二年(一九七七)五月末日をもって閉所となり、「第一」は間もなくすべての施設を撤去したが、「第二」は建物と発電機を残した。【関連】戸地川(とじがわ)【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】三浦啓作
・戸地祭り(とじまつり)
祭礼は十月十九日。前日、熊野神社の宵宮に、古式ゆかしい古武術「神道土俗白刃」が奉納される。その伝来については、昔、戸地の千仏堂に住んでいた大光坊という住職が、書画・彫刻と武芸にすぐれ、その武術をムラびとに伝授したものだという。その後、嘉永年間に、千仏堂に住んだ羽茂出身で武術に秀でた正覚坊(明山勝蔵)が、鬼太鼓の動きを巧みに武芸の形に組みあわせ、今日の形を作りあげ、それがムラの若い衆に代々うけ継がれ、今日に至ったのだという。この「神道土俗白刃」の組大刀は、半棒・小薙刀・大薙刀・陣鎌・大棒の太刀と五つのわざがあり、三二の変化を取り入れてある。が、その鱗足鱗体・半身構え・体ごなしなど、昔の武術をしのばせる貴重なものだという。そのほかに、つがいの「獅子舞」と「鬼太鼓」「豆蒔」がそれぞれ演じられ(太鼓のリズムと豆蒔の舞方は、相川善知鳥祭りと類似している)、翌本祭りにムラのお堂などでも奉納され、約七○戸の集落を、厄払いや豊かな実りを祈り演じてまわり、最後は代々「白刃」の道場を務めていた、大辻治郎右衛門家で終りとなる。昭和五十五年には集落の有志により、「戸地白刃保存会」が結成され、後継者の確保と育成につとめている。昭和六十一年(一九八六)一月、「熊野神社祭礼行事」として相川町の「無形民俗文化財」に指定された。【関連】熊野神社(くまのじんじゃ・戸地)【参考文献】「十周年記念誌」(戸地白刃保存会)、『相川町の文化財』(相川町教育委員会)、新潟日報佐渡特別取材班編『佐渡紀行』(恒文社)【執筆者】浜口一夫
・戸中(とちゅう)
南側のトンネルから、北側の海岸段丘の崖下に民家があり、次第に上の方に広がったとも考えられるが、近年くじら谷と呼ばれる南側台地上の、旧道に沿った藤左衛門の畑より、中世の集落跡を伺わせる地点に、室町末期とみられる五輪塔が、完全な形で二基出土した。戸中村は口碑によると、天正年間(一五七三ー九一)に、畑野から源右衛門が移住して漁業を営み、鶴子銀山からは孫十郎が来て、鉱山を稼いだのが、村の始まりと伝える。源右衛門は立蓮寺(新穂村)の有力檀徒で、天正十七年上杉景勝の佐渡攻めで、門徒が四散したおり、戸中に移り住んだとみられ、家号は「大家」である。孫十郎家も、鶴子銀山に寺基を構えていた専得寺の檀徒であり、近年まで、立蓮寺・専得寺の真宗道場もあった。相川鉱山よりも古いといわれる戸中鉱山は、嘉右衛門・大綱・清蔵の各間歩など、四八の坑口があったが、明治四十四年(一九一一)三菱金属佐渡鉱山に売却、その後廃坑となった。慶長五年(一六○○)の検地帳中、請人百姓正源は、村内に真宗の道場をもつ、岩間源十郎家の先祖だという。ふなきの地名は、中世に舟材を供給する村であったことを伺わせる。元禄七年(一六九四)の検地帳では、田三六町八反余、畑一二町二反余とあり、文政五年(一八二二)の佐渡一国分限帳・巡村御用日記には、「戸口八五軒・四四○余人で、海漁が盛ん」とある。神社は大山祇神社で、祭神は大山祇命。戸地川下流の車町(鉱山集落)にあったが、享保元年(一七一六)六月、洪水で流失したので、同二年三月現在地に移転した。例祭日は十月十八日。戸地ー戸中間道路については、戸中トンネル開通以前、山道か浜道(引潮のとき)のため、波浪による遭難者が多かったが、明治十年から昭和五年(一九三○)にかけて、四回にわたる掘削工事により、長さ二一四メートルのトンネルが完成。その後拡張工事が進み現在に至る。また文化十二年の記録に、「平根崎という沖より湯出る」とあり、昭和四十五年海中温泉試掘、現在「ホテルひらね」で利用している。【関連】戸地車町・炭町(とじくるままち・すみまち)・平根崎(ひらねさき)【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)、『新潟県の地名』(平凡社)【執筆者】三浦啓作
・刀根(とね)
比較的高い山地で、背梁部がけわしい尾根筋のこと。大佐渡山地や小佐渡の一部の尾根越えを「刀根越え」という。尾根を刀根というのは、両側から登ってくる山道が尾根筋を境にしてはっきりと区分されるからで、分水界が明確になっている地形を指している。刀根筋の道は、それぞれ枝分れに尾根道がつながっており、近世以前から利用された道で、古道といわれる歴史の道は、このような道であった。この刀根道にたいして、両側から刀根を越える道は刀根越え道といった。国中から海府への刀根越えは、海府側の集落の名をつけて呼ぶ場合が多い。特別な意味はないが、この刀根越え道は海府の集落の人の方が必要であった。刀根越え道は「かえこと」(物資交換)の通路として、また牛の放牧・木挽の山歩き・炭焼き道となり、夏場は郵便配達や用事をもった人の往来に利用された。また海がしけた時や急用の場合につかわれ、海岸に車道ができるまでは生活道路になっていた。峠という言い方は、青野峠・中山峠などごく一部で言われる程度で、時代が新しくなってからの呼称である。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】佐藤利夫
・飛島萱茸(とびしまかんぞう)
【科属】ユリ科ワスレグサ属 佐渡の海辺のカンゾウは、トビシマカンゾウとよばれるもの。発見地の山形県の飛島と、酒田海岸と佐渡だけに分布する特産種。群落のみごとさは佐渡がきわだち、サドカンゾウと名付けたいほど、群生地は冬の季節風に直面する海岸草原、しかもカヤ場。毎年の刈りとりと、火入れに強いカンゾウとススキが純群落化し、六月はカンゾウ原に、秋はススキが純群落化し、村のカヤ場となる。ニッコウキスゲに似るが、草丈高く、花期早く、一本の花茎につく花の数も十数花と多く、花柄が短いのが特徴で、ニッコウキスゲの島嶼型とも考えられる。海辺のカンゾウを、ユーラメ・ヨーラメという。魚(ユー)孕み(ハラミ)花(バナ)の略。この花の咲く頃、磯に卵を孕んだ魚がやってくる。ユーラメが咲くと、タイ(マダイ)・サバフグ(ゴマフグ)・コイカ(スルメイカの小さいもの)・コチがやってくる。「この花が咲くと海は活きかえり、魚は生きかえり村にやってくる。村に豊漁をもたらす」と村人はいう。佐渡群生地は北の海辺の大野亀。六月上旬の日曜日、大野亀でカンゾウ祭りが行なわれる。【花期】五~六月【分布】山形県飛島・酒田海岸・佐渡【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『佐渡山野植物ノート』【執筆者】伊藤邦男
・トビヨ(とびよ)[トビウオ]
佐渡では和名のトビウオは獲れず、最も多いのは大型のツクシトビウオ(筑紫飛魚、方言カクトビ・角飛)と、少し小型のホソトビウオ(細飛魚、方言マルトビ・丸飛)である。六月頃から対馬暖流に乗って、産卵しながら北上し、一年半という短かい一生を終える。成長が早いので、一年で成魚となる。卵は、海藻などにびっしりと産み付けられる。産卵群は、佐渡沿岸の定置網や浮き刺網に入り、塩焼き・フライ・干物(出し)・刺身・酢の物にして食べられる。卵も海藻ごと酢の物にして食べられる。孵化した幼魚は、短い胸鰭を広げたまま、水面上を滑るようにして泳ぐ。ツクシトビウオ幼魚の顎の下には、黒いひげが二本あるが、ホソトビウオでは一本である。ツクシトビウオは三五センチ、ホソトビウオは二○~三○センチに成長する。佐渡では、古くから漁獲利用されてきたと思われるのに、古文書には表わされていない。九月になると、小型のアリアケトビウオ(有明飛魚)が来遊するが、個体数は少なく漁獲対象にはならない。本種の幼魚は顎の下にひげが無く、また成魚では胸鰭が紫黒色なので、他のトビウオ類と区別できる。江戸時代には、トビウオに文搖(正しくは”魚”偏)魚の字を当てている。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・富崎線彫不動磨崖仏(とみざきせんぼりふどうまがいぶつ)
下相川富崎の岸壁にある、線彫の不動磨崖仏。善宝寺の石殿がある岩の頂きの背後で、わずかに直立する崖に彫られているが、風化と一部剥落でわかりにくい。向ってやや左向きの両眼を開く座像で、像高はおよそ三七センチ、右手に宝剣、左手に羂索をほぼ像の中ほどに持つ。像背後の火焔光と、像下の蓮華座の蓮弁もかすかにうかがえる。右側には、斜め上方に「大」、像の右横に「(キリーク)備中国 良海上人」、左横に「(バン)武州 鑁上人」(「(キリーク)良海上人・備中国」と「(バン)鑁上人・武州」はそれぞれ二行書)と刻み、三尊仏形式としている。他に宝珠形や二・三の文字があるが、判読できない。『佐渡相川志』の「戸川権現」に、「今ハ戸川ノ社地、或ル行人住ス。──当社北側岩ノ向フニ長サ弐尺余ノ不動ノ像左右ニ大備中国良海上人ト彫入レテアリ。右ノ村人彫付ケタリト言フ。」とあり、また『佐渡国寺社境内案内帳』の「戸河権現」には、「中古紀州熊野山の行人当国へ渡海して、此の地の西の立岩に不動の形像と月日を穿り附け置き、今にこれあり」とあるものに当る。「大」は太陽(大日如来)を象徴し、「良海上人」は室町初期の唐招提寺五十四世良海上人(一四一一ー九六)をあらわすか。「鑁上人」は覚鑁上人(伝教大師、一○九五ー一一四三)にあやかった人名と思われ、大和の長谷寺にある弥勒菩薩(木彫座像、約二尺五寸)の墨書銘「武州住人鑁上人作 天正十六年四月」と同人と見られる(奈良 太田古朴師教示)。「中古紀州熊野山の行人」が誰かが興味深い問題であるが、金銀山が開発される前後、桃山期頃のものであろう。【関連】春日崎線彫地蔵磨崖仏(かすがざきせんぼりじぞうまがいぶつ)【執筆者】計良勝範
・戸宮神社(小川)(とみやじんじゃ)
高野にあり、旧称戸宮大権現。祭神は大彦命。文武天皇二年創立(『平成佐渡神社誌』)とあるが定かではない。承応三年(一六五四)高瀬の蓮華院から神子をゆずりうけ、別当になった。この蓮華院は、戸地の千日という神子で鉱山と関係があり、北狄・達者の宮も配下にしていたという。戸宮神社を祀っているのは上小川の人々で、元禄八年の棟札には、小川村菊地市十郎が建立したとある。この家は大正の頃まで、この宮の世話をし、注連飾りをしていたという。上小川は近世の初め、菊地一族が中心となり、小川鉱山開発で渡って来た人々が開いた村だといわれていて、正月になっても松飾りをしないという、下小川とは異った慣習がある。「修験寺帰農」(廃仏毀釈)の余波で、明治二年廃社となったが、同四年復旧許可され、六年八月村社となる。例祭日は十月二十四日。宵宮には、厄年(二五・四二・六一歳)の男衆がお宮に集り、厄払いをする。【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】三浦啓作
・鳥越間歩(とりごえまぶ)
地積は下相川村。岡惣囲九○○坪。小屋頭喜伝次。立ち始まりの年月不詳。山師山根弥三右衛門が、天和元年から元禄元年(一六八一~八八)まで稼ぐ。立合まで八○間余切り継ぐ、元禄四年五月に本立合に切継ぎ大盛りを得る。この山の番所より青盤間歩番所まで、一二五間二尺余り。宝暦三年(一七五三)の山師は、松木久右衛門・秋田権右衛門・下田利右衛門・寺崎太郎右衛門。帳付、大工町善兵衛、新間歩、弥吉。油番三丁目、所左衛門。山留頭、嘉左衛門町・弥二兵衛、炭屋町、治左衛門(以上、『相川志』)。惣敷地九○五坪余、御番所建坪五二坪五歩、鍛冶小屋建坪三八坪二歩五厘、建場小屋三軒。この間歩天和元年の開発、以後三度中絶。元禄四年再興、以後天保年間(一八三○~四三)まで中絶なし。釜ノ口より三ツ合まで、一四七間。当時御稼ぎ三敷。山師松木当一・秋田権右衛門・下田理左衛門・寺崎貞太郎。帳付二人・油番一人・穿子遣頭一人・山留頭三人・穿子遣二人・山留三人・荷ノ番一人・小遣二人・かなこ三人(以上、「佐渡金銀山稼方取扱一件」)。相川金銀山で唯一、銀・銅脈に富む。【執筆者】小菅徹也
・鳥の化石(とりのかせき)
昭和四十四年(一九六九)、相川町旧中山峠付近に分布する鶴子層から、市川満によって発見された。淡褐色シルト岩からなる鶴子層は中新世中期の深海成層で、海生の軟体動物類・鳥類・哺乳類の化石を産出する。鳥類の化石はきわめて重要な発見であった。この化石は全身骨格ではないにしても、頭骨の一部・脊椎骨・肋骨・後肢骨などの一個体分が、骨の配列状態を残した形で産出した。骨格の研究から、シギ・チドリのような海岸性渉禽類と考えられたこともあるが、骨の特徴から判断して、ハト目ハト科の一種に同定されている。第三紀のハト科の化石は、世界的にみても数個体しかなく、佐渡島から産出した骨格化石は貴重な標本である。【参考文献】菊池勘左衛門『佐渡博物館報』(二○集)、小野慶一・上野輝弥『国立科学博物館専報』(一八号)【執筆者】小林巖雄
・殿付百姓(どんつきひゃくしょう)
北狄の重立百姓にたいする呼称。「殿付百姓一五軒」といった。近世村成立の過程で、元禄検地によって本百姓が確定したが、同時に草分け百姓、重立百姓の軒数が決められた村が多い。一七世紀までは、村落内の組(ジョウ・ジュウ)社会がまだ機能しており、検地を機に組の有力者を殿付百姓とした。関では三分一(三ケ一)百姓などといい、一般にこれらの有力者をオヤッサン(親父さん)といっている。「どん」がついた理由は、北狄の「とまり」の段丘上に「松ケ崎どん」、金泉中学校のあたりを「鎌倉どん」という地頭がいたという伝承があり、いずれも「屋敷」という場所であるから、中世名主の居住地であろう。慶長五年(一六○○)検地に、「殿付百姓一五軒」に該当する百姓がみられ、村の「一五人山」の所有は、一五軒百姓のものだったと思われる。【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)【執筆者】佐藤利夫
・どんでん山(どんでんざん)
県道両津入川線の分水嶺ふきんの山越え道や、池周辺の芝生の小盆地状高原を、「どんでん山」と呼んではいるが、屹立した山頂の名称ではない。峠名は「あおねば越え」であるし、国土地理院の地形図では、大佐渡ロッヂの北側に九三四・二メートルの三角点と、さらにすこし北側に標石のない、九四○メートルの数字が記入されており、池の東北には八七二・六の三角点がみえても、これが山名の「どんでん」であるという印象はない。島内で、「峠」と公称するのは、相川付近の中山峠・青野峠・小仏峠などで、このような地形の呼称は、一般には「○○越え」と直截的な表現をし、所によってはトネと呼ぶこともある。アオネバ越えは、青色粘土を意味する地味の特徴をさした地名で、青粘土はアオイクジともいわれる。ドンデンは、佐渡訛りのラ行とダ行の混用で、ロンデン(論田)つまり系争のあった土地の意と説明されてきたが、伝説では赤鬼がこの山で鉄を鍛えたときに、そのような音がしたと語られたりする。あおねば越えの高いところに、海辺のハマナスの植生がみられるが、登山家の藤島玄は『峠』(串田孫一編・有紀書房・昭三六)の中で、これは海府方面から山越えする人々が携えてきた、ハマナスの実を食べて捨てた種子が、根をおろしたものと書いている。ドンデン池のサンショウオや、湿地にみられるモウセンゴケなど、自然の楽しみが多いが、芝生が放牧の激減で少なくなっているという研究報告もある。どんでん山が、一般者の登山の対象となったのは、昭和八年(一九三三)に写真家の近藤福雄らによって佐渡山岳会ができ、この山の楽しさが口伝えでひろがってからで、のちに湖畔の近くに山小屋も建てられた。【執筆者】本間雅彦
★な行★
・内陣欄間と御拝(向拝)(ないじんらんまとぎょはい)
越中国(富山県)から渡来した堀江浄誓が、慶長十九年(一六一三)に開基した相川町南沢町長明寺(浄土真宗)は、いくどかの相川大火からまぬがれ、江戸時代初期の社寺建築の姿を残し、本願寺の教如から出された聖徳太子真影、浄誓が越中国から持ってきた阿弥陀如来像などが伝えられ、中でも寺の正面階段の上に張りだしたひさしの部分を御拝(向拝)と呼ぶが、その御拝の上部をささえて、前方に鶴、後方は竹で、深みのある見事な透し彫の蟇股があり、また本堂に入ると、本尊を安置してある内陣の上部の欄間には、飛天と獅子の浮彫がみえる。このふたつは、豪壮絢爛であった桃山美術の一端を見せてくれるものである。御拝の蟇股は、赤・緑・白などの極彩色で、内陣の欄間は金色に装飾されていて美しく、これらは昭和四十九年八月、町の有形文化財に指定された。【関連】 長明寺(ちょうみょうじ)
【参考文献】 『相川町の文化財』(相川町教育委員会)【執筆者】 三浦啓作
・中尾間歩(なかおまぶ)
地積は下相川村。岡惣囲五○四坪。小屋頭弥兵衛。元和三年(一六一七)伏見又左衛門・京庄五郎・不破茂右衛門が採掘。寛永八年(一六三一)山師江戸宗遊・糸川甚内が新切山、同十一年前立合に切り当て大盛り。寛文年中(一六六一~七二)の山師片山勘兵衛。同十年山の稼ぎを雲鼓・外山茂右衛門間歩へ立替え。宝永六年(一七○九)六月再開発、正徳元年(一七一一)二月鉱脈に切りつける。この山の番所より三ツ合まで七三間三尺、割間歩釜口へ七六間二尺五寸。宝暦三年(一七五三)の山師秋田権右衛門・小川吉郎右衛門・喜多喜左衛門。帳付□□町文次郎。油番新五郎町・円蔵。山留頭庄右衛門町・滝右衛門(以上、『相川志』)。惣敷地五○四坪余、御番所建坪五一坪、鍛冶小屋建坪一四坪五歩五厘、建場小屋二軒。寛永三年(一六二六)の開発以後二度中絶。宝永六年(一七○九)再興、享和二年(一八○二)に御休間歩。しかし、探鉱坑道を続け文化十年(一八一三)六月再開発普請、十一月初十日より追々稼ぎ入り、翌年七月普請完了。同十三年三月初十日より直山稼ぎで新規御雇あり。釜ノ口より三ツ合まで三一七間。当時御稼ぎ四敷。山師小川金左衛門・喜多平八・秋田権左衛門、文政七年より味方孫太夫も。帳付一人・油番一人・穿子遣頭一人・山留頭一人・穿子遣四人・山留四人・荷ノ番一人・小遣二人・かなこ四人。(以上、「金銀山稼方取扱一件」)。【執筆者】 小菅徹也
・中京町(なかきょうまち)
京町は、台地の上のほうから上京町・中京町・下京町と東西に長くつづいている。以前には江戸沢町の大安寺のところから、会津町や八百屋町をへて、京町通りを上って、新五郎町・大工町から上相川に至る主要道路沿いの町であった。江戸中期の町絵図をみると、家大工・左官・桶屋・絵師などの職人はじめ、薬屋・商人たちが軒を並べている。江戸初期には、京都の西陣織りの店があって、京町の名がつけられたという。京風の格子戸やべにがら塗りの腰板はいまも残っている。幕末の儒学者、田中葵園の生家もここにあったので、町道の交差点のところに柱状の碑が建っている。現況では、商店街の性格は失われて住宅地と変わっており、戸数において比較的旧態が保たれ、ほかに上水道配水池がある。【関連】 田中葵園(たなかきえん)【執筆者】 本間雅彦
・長坂の阿弥陀(ながさかのあみだ)
中山の阿弥陀ともいう。阿弥陀如来の座像の石仏であるが、いま長坂の阿弥陀堂内に安置されている。もとは中山峠にまつられていたもので、『佐渡相川志』に「峠 此所下戸村ノ内也。南側ニ五兵衛ト言フ民家アリ。峠ノ五兵衛ト言フ。此沢ノ形船ニ似タレバトテ、船カ沢ト名ク。北側ニ宝永七庚寅年(一七一○)山崎町仁兵衛石地蔵ヲ立ツ。享保八癸卯年地蔵破損ス。下寺町定善寺境内ヘ引ク。今石像ノ阿弥陀アリ。壱丁目広源寺一誉弟子大工町浄音元文三戊年三月三日立ツ。爰ハ毎年相川ヨリ旅行ノ者此峠ニテ送ル。洛東蹴上ノ如シ。」。『佐渡国略記』には、元文三年二月に「同廿二日より廿八日迄、壱町目広源寺ニて石仏弥陀供養相勤、三月三日中山峠へ移安置、下寺町定善寺弟子浄音施主」とある。定印を結ぶ像高一四○㌢の丸彫座像で、台石正面に「南無阿弥陀仏」(横書)、後面に「安誉浄穏 勧化導師西光寺見誉 元文三戊午歳」とあり、左右面にも文字がある。また蓮花座の蓮弁にも、人名と思われる小さな刻字が多くある。堂内には、この正面の阿弥陀石仏と共に、右側に中山にあった地蔵立像の石仏、左側には小岩さんの神棚がまつられているが、昭和に入って北狄の人に、中山の地蔵が里へ出たいという夢のお告があり、その時にその近くにあったこの阿弥陀も峠から下ろされ、現在位置に一緒に安置されたという(小岩さんは堂守が亡くなって下ろされた)。スズメ追いの信仰や、事変がある時には、全身汗をかくなどのお告があるとされ、峠にあった時は石祠内にまつられていて、峠の人を送り、往来の人達を見守った。縁日は毎月十六日である。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』【執筆者】 計良勝範
・長坂番匠(ながさかばんじょう)
『佐渡相川志』によると、慶長八年(一六○三)に相川陣屋を造営したときの棟梁は、播州明石の水田与左衛門と、備州富山の飛田助左衛門で、その外に石州からきた三人の弟子の名が書かれている。この年は、初代佐渡奉行大久保長安が着任した年で、船手役の辻と加藤が、多勢の水主や船番匠を連れてきた年でもあった。水田・飛田の棟梁たちは、当時籠坂(牢坂)と呼ばれていた相川奉行所のすぐ下の、牢屋のあった坂のあたりに住んでいたので、ロウ坂番匠といわれていたが、正徳三年(一七一三)以後に、長坂番匠の呼称が用いられるようになった。こうして長坂の官辺すじの番匠集団は、上方から都市建築の技術をもちこんだが、陣屋が完成してのちは、村々の寺社建築にたずさわるようになった。つまりこれが佐渡の宮大工(番匠)の始まりである。その後、元和・寛永にも、鉱山師の味方但馬家の造営のために、大阪・加賀などから宮番匠が招きよせられ、長坂に住んだらしい。江戸中期以降になると、島内の者が長坂番匠の弟子となり、また江戸に出て番匠修業をする者もできて、羽茂・潟上・沢根五十里などで棟梁となって、弟子を育てるようになった。明治期になると、島内の宮大工の主力は、沢根五十里に移っていた。【関連】 長坂町(ながさかまち)・水田与左衛門(みずたよざえもん)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集七)、本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】 本間雅彦
・長坂町(ながさかまち)
長坂については、「長坂番匠」の項で別記してあるので、その個所を参照してほしい。ここでは重複しない部分だけを記す。鉱山用語で「大工」というのは、建物をつくる家大工のことではなくて、鉱石を穿る金穿りのことをさしていう。家大工は「番匠」と呼ぶ。長坂は、後者の家大工である番匠の町であった。『佐渡年代記』によると、以前に沢根の五十里ろう町(現かご町)にあった牢屋を、慶長十一年(一六○六)に相川に移したとある。同書の慶長八年(一六○三)の記事をみると、相川陣屋の造営はこの年に、大久保長安の指図によって行なわれており、『佐渡相川志』によると、其の棟梁は播州明石の水田与左衛門・備州富山の飛田助左衛門・石州の重左衛門・四郎左衛門・七左衛門が、各弟子を多く伴って来島したとある。彼ら番匠集団が住んだのが、長坂町であった。文政九年(一八二六)の町墨引の絵図をみると、約三○戸ほどのうち、番匠の数は一三人(うち棟梁一・普請所番匠一・鞴番匠二)のほか左官一・畳刺し一と、建築関係者の集団居住地の性格は、その頃までつづいていたことがわかる。【関連】 長坂番匠(ながさかばんじょう)【執筆者】 本間雅彦
・長崎俵物(ながさきたわらもの)
江戸時代長崎において、中国貿易で日本から銅代物替輸出品となった海産物。俵物は干蚫・煎海鼠・鱶鰭などの海産物を俵に詰めて輸送したため起った呼称。元禄十二年(一六九九)幕府は中国貿易を金銀で決済したが流出が増加したため、金銀に代えて銅を輸出することにし、その銅代物替として俵物によって決済した。幕府領の佐渡は佐渡奉行の経験のある長崎奉行萩原伯耆守の「唐人渡し干鮑佐州にても出来可致哉」の問い合せに応じ、元文五年(一七四○)海士町磯西茂左衛門・刀根仁兵衛に命じて俵物の請負い製造をさせた。同年、両人の在方役への口上書によると、1見本品の干蚫の通りに出来る、2干蚫は二千斤分請負う、3代銀は金一両文銀六○匁にて一斤相川渡文銀三匁五分で仰せ付けてほしい、4代銀の半分は前渡しにしてほしい、となっている。初年は長崎より罷り越し、翌年より下関または大坂俵物会所へ積送り、延享年間(一七四四~四七)幕府は長崎町人に俵物一手請方を命じて以来、俵物独占集荷体制を成立させた。この頃より串貝生産(串に刺し干立てた蚫)は中止し、干蚫の生産となり、一か年の干蚫・煎海鼠を仕立て、その余は出来次第に納めることとなった。宝暦三年(一七五三)より自他国とも外売禁止となり、同十三年金銀の輸入に際して、幕府は俵物を銅とともに決済にあてたため、俵物の重要性は決定的となり、明和二年(一七六五)よりは一万斤の請負高になった。天明五年(一七八五)幕府は長崎俵物一手請方問屋による集荷をやめ、長崎会所の下に俵物役所を設置し、俵物の直仕入となった。佐渡の俵物も斤数が増大し長崎へ直送した。以後は幕府の俵物独占集荷体制は俵物役所による貢租品の一種として買い上げるようになった。明和四年~八年(一七六七~七一)五か年平均の俵物は煎海鼠五四七二斤・代銀一六貫九六三匁、大干蚫七九四四斤・代銀二二貫六四○匁、小蚫五二八斤・代銀八九七匁、合計一万三九四四匁・代銀四○貫五○○匁であった。寛政六年(一七九四)に至り請負高は一万四千六百斤に及んだ。佐渡からの長崎廻り俵物は幕末まで継続し、請負高に割増配当、該当村に五十石の一割安地払米の特恵を与えた。
【関連】海士町(あままち)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集五・七)、岩木拡『佐渡国誌』、『歴史大辞典』(古川弘文館)【執筆者】佐藤利夫
・菜糧(なかて)
『佐渡嶋菜薬譜』は、佐渡における江戸期の菜糧・海藻・果類・薬種・稲・雑穀・菌類・竹類・木部類などを記した文書。佐渡奉行荻原源左衛門の佐渡在勤(一七三二ー三六)中につくられ、江戸城に差し出されたものを、天明四年(一七八四)に写し取った文書で「舟崎文庫」に所蔵される。菜糧の「菜・な」は汁の実、副食に利用したもの。「糧・かて」は主食に混ぜて主食を補ったもので、種類は豊富で一○○種をこす。方言で記されたものは、現在つかわれている和名で記す。アサツキ・ニンニク・ノビル・タデ・トウガラシ・ワラビ・ゼンマイ・ホド・サトイモ・ツクネイモ・ヤマノイモ・チサ・フキ・ヒユ・スベリヒユ・シャク・セリ・ハマボウフウ・ミツバゼリ・アザミ・ホオキギ・ミョウガ・ツクシ・ウド・ツリガネニンジン・トリアシショウマ・ハコベ・タンポポ・ハルノノゲシ・イタドリ・コウゾリナ・ニラ・アブラナ・ユリ・アカザ・カンゾウ・マタタビ・クコ・ヨモギ・クサギ・タケノコ・レンコン・リョウブ・トコロ・オオバコ・シソ・サルトリイバラ・タラの芽・フキノトウ・ホオコグサ・オモダカ・アキノノゲシ・スギナ・フジ葉・ミゾソバ・クズ・ダイモンジソウ・ハナイカダ・エノキの実・ナナカマド・カワラヨモギ・ギボウシ・ハマゼリ・カラスノエンドウ・エンレイソウ・ミズナ・カタクリ・イヌドウナ。
【参考文献】伊藤邦男『佐渡山菜風土記』、同『佐渡薬草風土記』、同『佐渡の花ー春・夏・秋』【執筆者】伊藤邦男
・長手岬の植物(ながてみさきのしょくぶつ)
相川町橘の岩礁海岸の小さな岬。手の指のように岩礁が点在する景勝地。『佐渡名所百選』(一九七八)には「佐渡の海岸美はさまざまで、豪壮雄大なのは大野亀・二つ亀。舟を浮かべて見るべきは尖閣湾。平坦な岩伝いに海中を徒歩して、直接海藻や小貝を採取できるのは長手岬であって、ひねもす海水にたわむれて、あくことを知らぬ景勝地である」と紹介される。岩礁伝いに歩けるが、“月面世界”とよばれるグリーン・タフ(緑色凝灰岩)の海蝕台地の広がりは異界である。岩かげにハチジョウナ(稀産)の黄花。岩礁の外海側には、イワユリの大群落。岩場にメノマンネングサ・アサツキ・ハマボッス・ハマハタザオ・ハマイブキボウフウが生育する。海辺にはハマナスが帯状分布し、帰化植物のセイヨウミヤコグサ・マンテマが浜辺を彩る。
【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春・夏・秋』【執筆者】伊藤邦男
・中寺町(なかてらまち)
江戸中期の中寺町には、真言宗寺院として相運寺が、浄土宗としては大超寺・法蓮寺、そして日蓮宗の瑞仙寺と妙伝寺の五か寺があった。宝暦の書『佐渡相川志』では、その頃すでに廃寺となっていた寺として、真言宗の慈眼寺・見性寺・地蔵寺と、日蓮宗の妙栄寺の名をあげている。瑞仙寺は佐渡銀山の有力な山師、味方但馬の菩提寺で、同寺は但馬が用いていた徳川家康から拝領の胴衣・扇子などを所蔵している。この寺の門を出た南東側の近くの墓地には、明治二十三年(一八九○)の相川暴動で中心的な人物であった鉱夫、小川久蔵の墓がある。現況では、瑞仙寺と相運寺の二か寺がある。近年下寺町との間を結ぶ町史跡の歩道が整備された。
【関連】味方但馬(みかたたじま)・小川久蔵(おがわきゅうぞう)【執筆者】本間雅彦
・ナガモ(ながも)
ナガモは、まさに長い藻である。和名アカモク。アカモクのモクはホンダワラの総称で、赤いホンダワラということになる。藻の枝々に小さな気泡(浮き袋)が多くつく。ナガモの長さは、ふつう三ー四メートルで最大長八メートル余ともなる。一年生のナガモがこのような長藻(ナガモ)となる。北海道から台湾に至る各地の沿岸の干潮線下に繁茂する。海中を占拠し、海面を占有する一大海藻林である。「小木のカイタク沖や二見港の沢根寄りあたりは、春さきになるとナガモがのたうちまわるように生えて、船の行き来もできんほどだった」は、佐渡まわりの小さな機帆船に乗っていた高千の岩城仁蔵老の話である。戦後、秋田や東北のナガモ船が飛島・粟島・越後・佐渡にナガモを採りにきた。豚の餌にするといって俵につめて持ち去ったが、豚の餌ではない。春の山菜の出まわるまでのつなぎの食べものであった。ナガモは冬の海藻。二月から採れる。こまかく切ったナガモに熱い汁をそそぐ。あざやかな緑色になる。そしてトロ味がでる。ナガモはトロロモの名でも呼ぶ。トロ味を出す粘液は、円柱状の実(卵子や精子の入っている生殖巣)から出たものである。
【参考文献】佐渡奉行所編『佐渡志』、福島徹夫「海藻と暮らし」、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】伊藤邦男
・中山新道(なかやましんどう)
明治十八年(一八八五)に完成した、沢根と相川を結ぶ堀割新道。近世から明治初年にかけて、相川から国仲に通じる主要陸路は中山道であった。明治九年の太政官布達によって道路の等級が定められ、佐渡では赤泊ー相川、夷ー河原田、小木ー新町の三路線が県道に認定されたが、道路の状態は江戸時代のままであった。ところが、時代と共に交通機関が発達し、人力車や馬車などが導入されると、道路の改修が急務となった。特に沢根から相川に至る中山峠は勾配が急で、新しい交通機関が利用できる状態ではなかった。そこで明治十四年、相川町と沢根町の有志が相談して、中山道とは別に下戸宇津橋から沢根の河内へ通じる堀割新道を開削する計画をたてた。この計画は、明治十五年三月の臨時県会でも議決され、工費一万八七○○円余の内、五○○○円を地方税より補助されることになったが、残りは地元負担となり、相川町・沢根町・五十里町で負担することになった。工事は明治十七年に始まり、翌十八年に竣工した。【関連】中山道(なかやまみち)・中山トンネル(なかやまとんねる)【参考文献】岩木拡『相川町誌』、同『佐渡国誌』【執筆者】石瀬佳弘
・中山層(なかやまそう)
渡辺久吉(一九三二)の命名。模式地は佐和田町中山で、下位の鶴子層に整合で重なる。中期中新世~前期鮮新世にかけての地層で、全層厚は三○○メートルである。相川町では中山峠の東側にわずかに分布する。黒色の珪藻質泥岩からなり、陸域から流れてくる砂や礫などの、粗粒堆積物をほとんど含まない。珪藻質泥岩は、海面付近で繁殖した珪藻などのプランクトンが、海底に堆積したものである。この珪藻質泥岩は、ほとんど続成作用を受けておらず、ほぼ堆積当時のまま残っており、全国的にもめずらしいものである。珪藻化石のほか、有孔虫化石や貝化石がしめすこの時代の環境は、半深海相~深海相であり、佐渡島に分布する地層の中で、最も深い環境に堆積した。【参考文献】秋葉文雄「佐渡島中山峠セクションの新第三系珪藻化石層序」および「船川遷移面」山野井との関係(『佐渡博物館研究報告』九集)【執筆者】神蔵勝明
・中山峠(なかやまとうげ)
旧中山道のほぼ中間で、標高約一五○メートルの台地にある。佐和田町沢根と相川との境界線に当たるが、地籍は相川で、正確には「相川町下戸字峠」がその所在地である。東方にキリシタン塚があり、その下方の平地一帯も峠にふくまれる。中山峠の呼称は古くからあり、『佐渡相川志』の「峠」の項には「毎年相川ヨリ旅行ノ者、此峠ニテ送ル。洛東蹴上ノ如シ」とあり、南側に「五兵衛」という民家があったとしている。おそらく茶屋であろう。文化十二年(一八一五)の記録では、八百屋町の庄七という者が、往来の旅人のために役所に願い出て家作りし、煮売りを始めたと伝えている。文政十年(一八二七)のころ作られる相川音頭では、茶屋の店先で酒・肴・お菓子が売られていて、水替人足として送られてくる諸国の無宿者たちに、峠で甘酒がふるまわれたといい伝えた。茶屋とは別に、佐渡奉行が峠で休む「小休所」という建物もあったらしく、天保十一年(一八四○)にここを通過した川路三左衛門聖謨は、「相川の町を見はらして、八壘の間とそのほか三間程ある。供の者はここで紋付・羽織・小袴に着換え、自分も長旅によごれた衣を着換えた」(『島根のすさみ』)と書いている。明治十八年(一八八五)には、平行して西側に人力車が走る掘割りの中山新道が完成して、茶屋もしだいにその姿を消した。【関連】キリシタン塚(きりしたんづか)・中山道(なかやまみち)【執筆者】本間寅雄
・中山トンネル(なかやまとんねる)
大正十三年(一九二四)に中山峠を掘削して完成したトンネル。大正二年、佐渡にも自動車が導入され、次第に普及していった。しかし、明治十八年に中山峠を掘削して出来た中山新道は、勾配が急で自動車は通れなかった。相川町では、毎年道路の改修を郡会や県会に要望していたが、実現には至らなかった。大正六年に川島藤三郎が町長に就任すると、有志と共に中山新道改修期成同盟会を組織してその実現に奔走したが、翌七年病におかされて殉職した。しかしその遺志は引継がれ、はじめ中山新道をさらに掘り下げて、勾配を緩やかにする計画であったが、大正九年にはトンネルを掘ることに計画を改め、翌十年九月十二日に起工式を行い、同十三年七月十三日に竣工式を挙行した。総工費は約二四万円、トンネルの長さ約三六三メートル、幅約六メートル、両側に下水溝を掘り、内側を煉瓦やコンクリートで巻き、沢根口側には一七個の電燈を取付け、当時としては新しい技術を駆使したものであった。現在のトンネルは、昭和六十二年(一九八七)の竣工である。【関連】中山新道(なかやましんどう)・川島藤三郎(かわしまとうざぶろう)・中山道(なかやまみち)【参考文献】「佐渡日報」、岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・中山道(なかやまみち)
江戸期から明治にかけての「中山街道」は、沢根西端の質場を通る現在のバス道路のことではない。国仲から相川への道は、相川町の初期の開発が、鶴子銀山の延長のような仕方でなされたことに関連し、また鶴子に陣屋が置かれたこと、そして旧上相川の位置などによって、沢根町から田中・鶴子・中山などの集落を、北に向ういくつかの道を考えにおかなければならない。中山道はそのひとつで、明治期の県道開通までに、最もよく利用された相川道というべきであろう。大正十三年(一九二四)に中山トンネルが完成してからは、近在の村人だけが利用する旧道になったが、江戸期以来の相川文化の遺物・遺跡が豊富なので、いまも旧道あるきを味わう人は珍らしくない。国仲からの中山道の現在の登り口は、沢根町西よりの専得寺の手前、梅月理髪店と消防器具置場の間の道を川沿いに一キロほど上り、左折して中山集落を通って、旧中山トンネルの真上をへて下戸に至る(中山旧道は、昭和四十九年八月、町の史跡に指定された)。中山トンネルは、平成期に自動車数の増加と大型化に応えて、西側に平行して新しくつくり変えられた。トンネルの辺りの中山峠には、江戸初期に多ぜいの切支丹を処刑したという、いわゆるキリシタン塚があって、現在カトリック教会の墓地になっている。【関連】切支丹塚(きりしたんづか)・中山新道(なかやましんどう)・中山トンネル(なかやまトンネル)・中山峠(なかやまとうげ)【執筆者】本間雅彦
・流れ潅頂(ながれかんじょう)
海府方面では難産で死ぬと、川端に約三○センチ四方に杭を打ちこみ、赤い布を巻きつける。そしてその側に竹のひしゃくと椿の小枝を添え置くと、道行く人びとが椿の葉をちぎってたむけ、そりしゃくで赤い布に水をかけていく。五○日ほどしてその布の色があせれば、死者も成仏するのだという(相川町小田)。同町二見元村では、色あせたその布を墓に納めた。そのことをアライザラシという。そのことについてこんな古謡がある。「アライザラシに水かけおいて、ナナツ小袖の袖をしぼる」。また産死者のほかに水死人や変死者の場合も“流れ潅頂”が行われた。海府では水死人があると、出棺後、川端に特殊な板塔婆をたて、その根もとから華鬘結びにした縄を川へ流し、僧侶が読経の間、イロキが川の中に入り、念仏を唱えながら縄の結び目をときほぐし、しごいて流した。縄がまっすぐに流れると死者が成仏し、浮かばれるといった。相川町二見元村では、波打ちぎわに屋台をつくり、坊さんがお経を読みながら、特殊な塔婆を沖へ流した。また同町大浦では、釜崎沖で水死人があったとき、筏に花やダンゴなどを積み、その現場を通り、供え物をしながら死人の悪口をさかんにいった。同情的なことをいうと、他の者がまた海にひっぱりこまれるからだという。そして、流れ潅頂の葬儀には、わら人形を入棺させたという。【参考文献】浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、山本修之助『佐渡民俗ことば事典』【執筆者】浜口一夫
・中山の六地蔵(なかやまのろくじぞう)
海士町の六地蔵ともいう(中山峠の六地蔵ではない)。相川町の海士町から、旧道中山峠への赤坂を登ると観音堂があり、その道すじに並んで石造の六地蔵がまつられている。比較的大きな石組の祠で、高さ二メートル余り、巾三・三○メートルもある。中央部に、それぞれ舟形光背に半肉彫で、説法相(施無畏・与願印)の阿弥陀如来坐像と延命地蔵坐像を置き、その左右に三躰ずつ、六地蔵を安置する。六地蔵は舟形光背に半肉彫の立像で、像高七五センチ・光背高九二センチ(幢持ち像の寸法)。頭光は円形に彫り凹め、本来彩色仏で色彩がのこる。蓮華坐と台石があり、そのうち三躰の台石には「志佛施主 二宮村九兵衛、長木村五兵衛」ら、一○名位ずつの人名を刻む。石質は石英安山岩。石祠は中ほどを二本の角柱(高さ一四八センチ・巾三六センチ)でささえ、その内側にも径二○センチの円柱二本を立てる。角柱正面には、この六地蔵のいわれを左右の柱一ぱいに刻む。「(カ)六地蔵 建立之意趣者為 (延命地蔵経の偈) 未年死罪流罪□□聖霊 惣者有縁無縁法界萬霊 佛果菩提 宝暦十一辛巳歳 八月吉祥日 沢根村曼荼羅───願主甚可 同即心」(向って右柱) 「(大日如来真言種子)(光明真言種子) 奉建立供養六地蔵尊──」(向って左柱)などとある。宝暦十一年(一七六一)の建立で、それより以前の未年は、寛延辛未四年(宝暦元年)に当り、寛延百姓一揆で処刑された義民、辰巳村太郎右衛門・椎泊村弥次右衛門ら、および地役人たちの供養のために立てられた六地蔵であることがわかる。横手には、享和元年(一八○一)銘の念仏車もある。『佐渡道中音頭』には、「関所番所の橋うちこして 濡れて乾かぬ海士町通り さてもこれからげに獄門の 道のしるべに立ち六地蔵」とうたいこまれている。【関連】地蔵菩薩(じぞうぼさつ)【執筆者】計良勝範
・内陣欄間と御拝(向拝)(ないじんらんまとぎょはい)
越中国(富山県)から渡来した堀江浄誓が、慶長十九年(一六一三)に開基した相川町南沢町長明寺(浄土真宗)は、いくどかの相川大火からまぬがれ、江戸時代初期の社寺建築の姿を残し、本願寺の教如から出された聖徳太子真影、浄誓が越中国から持ってきた阿弥陀如来像などが伝えられ、中でも寺の正面階段の上に張りだしたひさしの部分を御拝(向拝)と呼ぶが、その御拝の上部をささえて、前方に鶴、後方は竹で、深みのある見事な透し彫の蟇股があり、また本堂に入ると、本尊を安置してある内陣の上部の欄間には、飛天と獅子の浮彫がみえる。このふたつは、豪壮絢爛であった桃山美術の一端を見せてくれるものである。御拝の蟇股は、赤・緑・白などの極彩色で、内陣の欄間は金色に装飾されていて美しく、これらは昭和四十九年八月、町の有形文化財に指定された。【関連】長明寺(ちょうみょうじ)【参考文献】『相川町の文化財』(相川町教育委員会)【執筆者】三浦啓作
・中尾間歩(なかおまぶ)
地積は下相川村。岡惣囲五○四坪。小屋頭弥兵衛。元和三年(一六一七)伏見又左衛門・京庄五郎・不破茂右衛門が採掘。寛永八年(一六三一)山師江戸宗遊・糸川甚内が新切山、同十一年前立合に切り当て大盛り。寛文年中(一六六一~七二)の山師片山勘兵衛。同十年山の稼ぎを雲鼓・外山茂右衛門間歩へ立替え。宝永六年(一七○九)六月再開発、正徳元年(一七一一)二月鉱脈に切りつける。この山の番所より三ツ合まで七三間三尺、割間歩釜口へ七六間二尺五寸。宝暦三年(一七五三)の山師秋田権右衛門・小川吉郎右衛門・喜多喜左衛門。帳付 町文次郎。油番新五郎町・円蔵。山留頭庄右衛門町・滝右衛門(以上、『相川志』)。惣敷地五○四坪余、御番所建坪五一坪、鍛冶小屋建坪一四坪五歩五厘、建場小屋二軒。寛永三年(一六二六)の開発以後二度中絶。宝永六年(一七○九)再興、享和二年(一八○二)に御休間歩。しかし、探鉱坑道を続け文化十年(一八一三)六月再開発普請、十一月初十日より追々稼ぎ入り、翌年七月普請完了。同十三年三月初十日より直山稼ぎで新規御雇あり。釜ノ口より三ツ合まで三一七間。当時御稼ぎ四敷。山師小川金左衛門・喜多平八・秋田権左衛門、文政七年より味方孫太夫も。帳付一人・油番一人・穿子遣頭一人・山留頭一人・穿子遣四人・山留四人・荷ノ番一人・小遣二人・かなこ四人。(以上、「金銀山稼方取扱一件」)。【執筆者】小菅徹也
・中京町(なかきょうまち)
京町は、台地の上のほうから上京町・中京町・下京町と東西に長くつづいている。以前には江戸沢町の大安寺のところから、会津町や八百屋町をへて、京町通りを上って、新五郎町・大工町から上相川に至る主要道路沿いの町であった。江戸中期の町絵図をみると、家大工・左官・桶屋・絵師などの職人はじめ、薬屋・商人たちが軒を並べている。江戸初期には、京都の西陣織りの店があって、京町の名がつけられたという。京風の格子戸やべにがら塗りの腰板はいまも残っている。幕末の儒学者、田中葵園の生家もここにあったので、町道の交差点のところに柱状の碑が建っている。現況では、商店街の性格は失われて住宅地と変わっており、戸数において比較的旧態が保たれ、ほかに上水道配水池がある。【関連】田中葵園(たなかきえん)【執筆者】本間雅彦
・長坂の阿弥陀(ながさかのあみだ)
中山の阿弥陀ともいう。阿弥陀如来の座像の石仏であるが、いま長坂の阿弥陀堂内に安置されている。もとは中山峠にまつられていたもので、『佐渡相川志』に「峠 此所下戸村ノ内也。南側ニ五兵衛ト言フ民家アリ。峠ノ五兵衛ト言フ。此沢ノ形船ニ似タレバトテ、船カ沢ト名ク。北側ニ宝永七庚寅年(一七一○)山崎町仁兵衛石地蔵ヲ立ツ。享保八癸卯年地蔵破損ス。下寺町定善寺境内ヘ引ク。今石像ノ阿弥陀アリ。壱丁目広源寺一誉弟子大工町浄音元文三戊年三月三日立ツ。爰ハ毎年相川ヨリ旅行ノ者此峠ニテ送ル。洛東蹴上ノ如シ。」。『佐渡国略記』には、元文三年二月に「同廿二日より廿八日迄、壱町目広源寺ニて石仏弥陀供養相勤、三月三日中山峠へ移安置、下寺町定善寺弟子浄音施主」とある。定印を結ぶ像高一四○センチの丸彫座像で、台石正面に「南無阿弥陀仏」(横書)、後面に「安誉浄穏 勧化導師西光寺見誉 元文三戊午歳」とあり、左右面にも文字がある。また蓮花座の蓮弁にも、人名と思われる小さな刻字が多くある。堂内には、この正面の阿弥陀石仏と共に、右側に中山にあった地蔵立像の石仏、左側には小岩さんの神棚がまつられているが、昭和に入って北狄の人に、中山の地蔵が里へ出たいという夢のお告があり、その時にその近くにあったこの阿弥陀も峠から下ろされ、現在位置に一緒に安置されたという(小岩さんは堂守が亡くなって下ろされた)。スズメ追いの信仰や、事変がある時には、全身汗をかくなどのお告があるとされ、峠にあった時は石祠内にまつられていて、峠の人を送り、往来の人達を見守った。縁日は毎月十六日である。【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』【執筆者】計良勝範
・長坂番匠(ながさかばんじょう)
『佐渡相川志』によると、慶長八年(一六○三)に相川陣屋を造営したときの棟梁は、播州明石の水田与左衛門と、備州富山の飛田助左衛門で、その外に石州からきた三人の弟子の名が書かれている。この年は、初代佐渡奉行大久保長安が着任した年で、船手役の辻と加藤が、多勢の水主や船番匠を連れてきた年でもあった。水田・飛田の棟梁たちは、当時籠坂(牢坂)と呼ばれていた相川奉行所のすぐ下の、牢屋のあった坂のあたりに住んでいたので、ロウ坂番匠といわれていたが、正徳三年(一七一三)以後に、長坂番匠の呼称が用いられるようになった。こうして長坂の官辺すじの番匠集団は、上方から都市建築の技術をもちこんだが、陣屋が完成してのちは、村々の寺社建築にたずさわるようになった。つまりこれが佐渡の宮大工(番匠)の始まりである。その後、元和・寛永にも、鉱山師の味方但馬家の造営のために、大阪・加賀などから宮番匠が招きよせられ、長坂に住んだらしい。江戸中期以降になると、島内の者が長坂番匠の弟子となり、また江戸に出て番匠修業をする者もできて、羽茂・潟上・沢根五十里などで棟梁となって、弟子を育てるようになった。明治期になると、島内の宮大工の主力は、沢根五十里に移っていた。【関連】長坂町(ながさかまち)・水田与左衛門(みずたよざえもん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七)、本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】本間雅彦
・長坂町(ながさかまち)
長坂については、「長坂番匠」の項で別記してあるので、その個所を参照してほしい。ここでは重複しない部分だけを記す。鉱山用語で「大工」というのは、建物をつくる家大工のことではなくて、鉱石を穿る金穿りのことをさしていう。家大工は「番匠」と呼ぶ。長坂は、後者の家大工である番匠の町であった。『佐渡年代記』によると、以前に沢根の五十里ろう町(現かご町)にあった牢屋を、慶長十一年(一六○六)に相川に移したとある。同書の慶長八年(一六○三)の記事をみると、相川陣屋の造営はこの年に、大久保長安の指図によって行なわれており、『佐渡相川志』によると、其の棟梁は播州明石の水田与左衛門・備州富山の飛田助左衛門・石州の重左衛門・四郎左衛門・七左衛門が、各弟子を多く伴って来島したとある。彼ら番匠集団が住んだのが、長坂町であった。文政九年(一八二六)の町墨引の絵図をみると、約三○戸ほどのうち、番匠の数は一三人(うち棟梁一・普請所番匠一・鞴番匠二)のほか左官一・畳刺し一と、建築関係者の集団居住地の性格は、その頃までつづいていたことがわかる。【関連】長坂番匠(ながさかばんじょう)【執筆者】本間雅彦
・泣き女(なきおんな)
昔、相川町戸中では、葬式のとき前もって泣き上手な者に頼んでおくと、その泣き女はイロカヅキ(イロキ用の衣類)をかぶり、その片袖から顔を出しソウレン泣きをしたという。この泣き女について、『金泉郷土史』(昭和十二年刊)には、「ソウレン泣きと称し、一種独特の形式をもつ泣き方が、戸地・戸中・姫津などに、明治の末ごろまで残っていたという。そして、それを一升泣き、五合泣きなどといった」と書かれている。おそらくこの習俗は、旧金泉地区以外の海府一帯にあったものと思われる。「節泣きなら上手、海府一升泣きまねできぬ」との古謡がある。海府泣き女の節をつけて泣く、物言い泣きの一例をあげると、1昨日の昨日まで山へいっとったのんに、急に死んでしもうたえー、アバだちゃ、死ぬような病気をしたのんに、死なんで生きとるのんにえー。2なになにを食いたぇちゅうとったのんに、それも食わずに死んでしもうたえー。3したい、したいちゅうたけも、させなんだ、納戸の繻子の帯を。おぇ、むごつけなぇえー。などである。これによく似た「弔い老嫗」の泣き方が、能登七尾付近にあるという。近世における回船による影響かと思われる。【参考文献】浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】浜口一夫
・長桶(なごけ)
蓋が開閉できる細長い樽型の運搬具。小木三崎では負い樽という。国中でははやく使われなくなったが、農道の開通が遅れた段丘地帯では、現在も使われている。新調の長桶は、食べ物や生活品の運搬・収納に使うが、古くなるとたが(正しくは”竹”冠に”輪”脚)を掛け替え畑に運ぶ「げすごえ」の運搬用に使った。このこえは大・小便を混合したもので、勝手場の汚水(せしなげ)で薄めることもある。長桶の高さは六、七○センチ、直径三五センチくらいで、大型は男桶、小型は女桶の区別をするところ(小木三崎)もある。容量は二斗入り。長桶の背負い具は土地により異なるが、海府では「せなこうじ」を使う。小木三崎では「おいこ」といっている。「せなこうじ」は、福島方面に出稼ぎに行った者が持ち込んだというが、これを更に背負い易く改良したのが「おいこ」だという。長桶の耐用年数は一○年くらい。たがを替え、「くれ」を補修する必要があり、集落には かけ職人や樽職人がいた。厚い背中当が使われている海府は耕地への距離は遠く、それだけ労働も激しい土地柄であるが、町場へ出て米(肥し米)と交換に、人糞尿を手に入れるのも仕事の一つであった。牛に長桶を二つ付けて運んで、山の畑の三尺物(直径三尺の桶)に入れておいて、熟成して春になり畑にまいた。【参考文献】佐藤利夫「三崎記聞」(新潟日報連載)、同『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・梨の木地蔵(なしのきじぞう)
真野町の豊田集落(旧渋手村)から、川茂をへて赤泊港に至る旧赤泊街道を、約三キロほど登りつめた峠に、通称「梨の木地蔵」が祀られている。言い伝えによると、渋手村の船が沖に出ると船をとめる場所があり、漁師たちを困らせていた。あるとき、そこに何があるのか確かめようと海の底をみると、一尺ほどの石地蔵が沈んでいるのがみえた。それを拾い揚げて村内の丘の上に、漁場の方向にむけて祠を建てて安置したが、それでも船をとめることができなかった。ところがためしに西向きに建て直してみたら、それ以来船をとめる事がなくなった。そこで地蔵は西の方に行きたがっていると思い、村の西はずれに近い梨の木という所に祀ることになったのがその縁起である。伝説上で、船や馬を停めるという「船どめ」「駒どめ」の話は至る所できかれるが、とめるのは神仏のたぐいで、それを手厚く祀ることによって災難をのがれる筋書きとなっている。梨の木の場合は地蔵信仰であった。佐渡で地蔵信仰が盛んになるのは江戸期からで、そのもとになっている十王信仰からの派生である。村々の十王堂の建立や、木彫の十王像の製作年代が墨書されている場合の殆んどは江戸前期で、石像は同後期に近くなってからのものが多い。梨の木地蔵を世に紹介したのは、赤泊の写真家・信田周敬が大正十五年(一九二六)に出版した『佐渡写真大集』が早く、その説明に石地蔵の数が万単位で書かれている。【執筆者】本間雅彦
・菜大根半竈(なでぇこんはんかまど)
菜大根を相川に売りに出て、その収入は生活費の半分になるという例えことば。相川から南、二見半島の集落は畑百姓が多く、畑作物を相川で現金化することが多かった。なかでも鹿伏は磯ねぎ漁師が多く、その海産物を相川で換金してくらしていた。『佐渡四民風俗』では、西浜は「小魚・海草等を相川へ持ち出で、米ざい(糠の内よりふるいとった米)、足もと(米搗のあとで掃き集めた米)などに替えて夫食に致し候」とある。米不足の鹿伏の段丘に、水田開発がはじまったのは、元和二年(一六一六)越前の金津から永宮寺の岩倉ら門徒が渡来して、溜池を築きながら開いてからである。収入の不足分を、畑作の菜大根売りで生計をたてていた。このほか、肥し米という言い方もあった。相川へ小便や大便のくみ取りに行き、一年間の分、小便約長桶八○本分くらい、大便約二本分を米二升と交換したという。この米を肥し米といい、大正年間まで続いていた。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集五・八)【執筆者】佐藤利夫
・七浦(ななうら)
二見半島の、二見・米郷・稲鯨・橘・高瀬・大浦・鹿伏の七集落の呼称。七浦は七曲りなどと同じく、いくつもの浦という意。同地域を西浜ともいう。国中よりみて西方に当る。また善知鳥郷七浦がある。元応二年(一三二○)畠助より本間大野宛の「うとう七うら大さかひ之事」(「戸地区有文書」)の、善知鳥文書にみられる七浦である。下戸・羽田・相川・小川・達者・北狄・戸地、あるいは片辺浦・鹿野浦・戸地戸中浦・北狄浦・達者浦・小川浦・羽田浦を当てる説もある。善知鳥文書はじめ、善知鳥郷七浦の根拠に疑問点があり、善知鳥郷の存在も、近世の善知鳥神社創建以後のことである。古くはいずれも海府の中に含まれていたが、近世以降は相川の近郊村として、経済的に相川に依存していた地域。鹿伏の春日崎は慶長年中、春日明神を勧請し、出入りの廻船の安全を祈願したところからの地名。元和五年(一六一九)に、社地は下戸村に移された。【関連】春日崎(かすがざき)【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】佐藤利夫
・七浦海岸(ななうらかいがん)
二見半島西部一帯の景勝地海岸の総称名。七つの臨海集落ー鹿伏・大浦・高瀬・橘・稲鯨・米郷・二見元村ーの、各浦の沿岸や沖合を含める。北西に春日崎、南西に長手岬、南に二見崎の突出部があり、その間は僅かに海岸線が後退して、浦々の集落が位置する。沖合○・一~○・六キロメートルの範囲には、無人の小島が多数散在し美景の一要素となる。白島・青島・夫婦岩・双股岩・弁天岩等がある。又南部の台ケ鼻・城ケ鼻・長手岬には、段丘崖下に平坦で裸岩の隆起波食台が広がる。冬の北西季節風が強く、その為波食が盛んに働いて、外海府同様の美景奇景を造る。新第三紀中新統相川層群下部の変質安山岩・火山円礫岩等、上部の角閃石石英安山岩や火砕岩等の、主に火山岩が露出している。【参考文献】渡辺光ら編『日本地名大事典四・中部』(朝倉書店)、新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】式正英
・七浦甚句(ななうらじんく) ➡相川甚句(あいかわじんく)の項
・鉛座(なまりざ)
初期相川に、灰吹製錬などに必要な鉛が大量に輸入されていて、それを一手に引請ける「鉛座」があったことが、記録からうかがえる。「鉛座。申三月より同極月迄、千五拾両ニ越中清兵衛、同国長太夫御請申すべき由願候所、片山勘兵衛千百五十両にせり上げ御受申上候」とある、元和六年(一六二○)の記録などが初見である。鎮目市左衛門奉行の時代で、山師片山が百両上積みしてせり勝った。このころ鉛は、越後の村上藩から買下していて、翌七年に藩主堀丹後守直寄から、家臣への手紙には、佐渡から井上新左衛門が鉛御用でくるので瀬波において引渡せ、とし、約一万貫の売渡しが指示されている(「堀主膳家文書」)。井上は鎮目と竹村(九郎右衛門)奉行とともに、元和三年に入国した幕府勘定所の要人で、鉛の確保に幕府が干渉し、村上鉛もその統制下におかれる。村上藩が勝手に取引きすることは禁じられていた。年不詳の堀直寄書状(新潟大学蔵)には、佐渡鉛座の松木という人が、鎮目の書状を持って、鉛買いにくる、旨のことが記されていて『佐渡風土記』によれば、元和八年に「小判千四百五拾両貮分、鉛座請役、松木五兵衛、越中清兵衛」とある。右の手紙に対応した記録らしく、松木は甲州出身の山師か、または鉛商人だったらしい。村上藩からの買付けは、寛永九年の三万五○六貫、慶安四年の四万貫、承応三年の「金千両分」などと続いた。これ以後は、羽州最上・加賀・越中からの買下しが多くなっている。【参考文献】小村 弌「近世初期の佐渡海運」【執筆者】本間寅雄
・鉛灰吹法(なまりはいぶきほう)
砂状にくだいた鉱砂を、馬毛篩でふるいわける。それを汰り板にかけて水中でゆすると、自然金はもっとも手元にのこり(水筋)、自然銀は中央にたまる(汰物)。つぎに銀をとる方法が、灰吹床である。灰吹床は真中に鍋を置き、その中に灰をいれて炉を作る。はじめ炉滓と柄実をまぜてとかし、柄実をとり鉛と鉄をはさむ。そこに汰物をのせ、ふいごを差す。火を除き水を打って柄実をとり、この柄実を砕いて、もう一度炉上に返して吹きたてる。かくて銀は鉛の中に熔け、他は柄実になる。この銀鉛のとけたものに蓋をして、上から水をかける。それを灰吹床へ送り、炉の中へいれ火を置き鞴を差し、熔けたところで火を除き、ふいご羽口に火箸をわたし、この上に長い炭をわたしかけ、炭の上に火をのせ、ふいごを差す。こうして銀を得る。【参考文献】「飛渡里安留記」、田中圭一『佐渡金銀山の史的研究』(史料一一)【執筆者】田中圭一
・奈良町(ならまち)
相川市街地からゴールデン佐渡にいたる、すぐ手前の旧佐渡鉱山(第三駐車場)の坂を迂回しながら東の台地を登っていくと、奈良町と柄杓町など上相川に通ずる町がつづく。この辺りから、嘉左衛門町・五郎右衛門町・宗徳町などを含めて、左右の大山の間という意味で、「間の山」と総称してきた。奈良町は、間の山から上相川にいたる入口の町だったのである。現況では住居はないが、全域が民有地で、針葉樹の植林がなされている。宝暦の書『佐渡相川志』には、「畑五畝廿一歩、町屋敷二反二畝廿五歩」とある。【執筆者】本間雅彦
・ナンドキ(なんどき)[アラレタマキビ]
ナンドキという名称は、諸国産物誌の一つ『佐渡州物産』や、田中葵園の『佐渡志』に出ている。この名は、軟体動物腹足綱に属す小型の岩礁性巻貝を指し(ウミニナ・イシダタミ・タマキビ・アラレタマキビなど)、特定の一種に限っていない。しかし、『佐渡州物産』の記述や挿絵をみると、アラレタマキビ(タマキビを含む)を呼んでいるようである。そして、その強靱な生活力により、イツマデガイという方言もある。現在、イツマデガイと呼ばれているのは、相川町関の寒戸崎を模式産地とする小型の陸貝で、サドオカマメタニシとか、サドミゾマメタニシという別名をもつ種である。【参考文献】『新潟県陸水動物図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・南方要素の植物(なんぽうようそのしょくぶつ)
暖地要素の植物、暖帯林要素の植物ともいう。日本の暖帯気候区(年平均気候一三℃~一八℃)の西南日本を主要な生活域にする植物で、タブ林・シイ林・カシ林で代表される昭葉樹林を構成する植物である。これらの暖帯要素は海岸沿いに北上するが、その北限線はスダジイ線である。年平均気温一三度、冬の二月の平均気温三度以上がシイの北限線で、佐渡・粟島まで分布する種群で、粟島を北限とするウラジロガシ・イタビカズラ、佐渡を北限とするシダのクリハラン・コモチシダ・ヒロハヤブソテツ・マメヅタ、草本のツワブキ・ヒメウズ・ヤマトグサ・ネコノシタ、落葉樹のゴンズイ・ヤマザクラ、常緑樹のスダジイ・ムベ・トベラ・シキミなど、一四種の暖地要素の北限線は、村上市を北限とするマルバシャリンバイの北限も包含する種群である。暖帯要素北限線。年平均気温一○度線で、暖帯要素のタブ(日本海側北限は青森県の艫作崎)・ヒサカキ・シロダモ・カラスザンショウなどの分布北限線。広分布するタブノキを代表させて、タブノキ線と仮称する。佐渡では、北西の冬の季節風をさけた海岸の丘や、国仲の丘に暖帯林が発達する。丘の海岸はタブ林、内陸側はシイ・カシ林。寺社林や古い屋敷林には、暖帯林の原植生が残存される。原植生の林は巨木が育ち、各階層ごとに暖帯要素が配置される。タブ林の高木層はタブ、亜高木層はヤブツバキ、低木層はヤツデ・マサキ・キズタ、草本層はヤブラン・オモト・ツワブキ。ムベやイタビカズラのつる木がからみつく。いずれも暖帯林要素。佐渡は暖帯林の島。暖帯林域を生活の場にした島である。【参考文献】近藤治隆「南方系(暖地系)の植物」(『佐和田町史』通史編1)、伊藤邦男「佐渡の暖地系植物」(『佐渡植物誌』)【執筆者】伊藤邦男
・新潟県相川合同庁舎(にいがたけんあいかわごうどうちょうしゃ)
広間町にあって、相川県・佐渡県・郡役所と移り変り、新潟県に併合後は県の佐渡支庁となって、一町目裏に庁舎が新築され、昭和三年(一九二八)に移転した。昭和三十年に支庁が廃止となり、下越支庁佐渡分室が置かれ、駐在員制度となった。縦割り行政で独立した事務所は、県と直結した。まさに合同庁舎であった。昭和三十三年に下越支庁が廃止され、分室は県の直轄になり、総務課・産業課を設置した。昭和四十一年に佐渡支庁が復活し、総務課・産業課の二課制となる。昭和四十五年に産業課を農政課に改称し、係数を増やす。翌年二町目浜に相川合同庁舎を建設することになり、昭和四十六年暮れに合同庁舎が完成した。四十七年(一九七二)一月に引越を終え、執務を開始する。当時の部屋割を見ると、一階が佐渡社会福祉事務所と組合事務所・生協売店・警備員室のほか機械が入り、二階は相川財務事務所と佐渡支庁・佐渡農業改良普及所相川支所、三階が相川土木事務所、四階が相川林業事務所と教育庁佐渡出張所のほか会議室が置かれ、相川保健所は別棟で新築し、廊下で繋いだ。玄関前は小公園と外来車の駐車場になり、車庫は別棟で一町目浜に新築し、自動車運転員は車庫の二階が事務室となった。【関連】佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)・佐渡支庁(さどしちょう)【参考文献】『佐渡支庁時代の回想』(佐渡支庁)【執筆者】佐藤俊策
・新潟県佐渡会館(にいがたけんさどかいかん)
相川町三丁目浜町一八に、昭和四十三年(一九六八)一月、県立観光会館として本設計に入り、正式名称「新潟県佐渡会館」で四月に起工式があり、翌年四月十六日にオープンした。当時島内最大規模の集会施設であり、佐渡観光の殿堂として、また離島佐渡の後進性を克服するために、重要な役割を果たすよう、多くの期待が寄せられた。管理運営は相川町に委託され、佐渡観光を兼ねた大会、各種会議・講習会・文化活動など、広く一般の利用に供し、地域の開発に役立てようというもので、施設の内容は、ホール(固定椅子四三二名・移動椅子三七八名)・大会議室(六○名)・小会議室(応接セット一七名)・中会議室(四五名)、ほかに放送・映写設備があり、また利用者の便宜を計るため食堂“日本海”が営業している。観光期(五月~十月)に入ると、ホールを夜間に「立浪会」が利用し、観光に寄与している。【執筆者】三浦啓作
・新潟県立相川高等学校(にいがたけんりつあいかわこうとうがっこう)
旧制の町立相川中学校が設立されたのは、大正十二年(一九二三)である。開校式は同年五月一日、相川尋常高等小学校の一部を借りて呱々の声をあげた。初代校長は大西正太郎。建学の精神は「質実剛健・自治・明朗闊達の持主になろう」であった。当時、町立中学校といえば、全国でもその数は僅少な存在で、新入生は四五名のところその志願者は六五名(一・四倍)の狭き門で、町内の生徒が多かった。相川尋常高等小学校の間借り生活も一年あまり、大正十三年十月八日には、広間町にあった元郡立相川実科高等女学校が河原田へ移転したため、その校舎跡へ移転した。そして、同月十一日校舎移転式と同時に校旗樹立が行われた。ここ広間が丘はもと佐渡奉行所跡の高台で、眼下に相川湾が望まれる絶景の地であるが、昭和十七年十二月一日、校舎全焼の不幸に見舞われる。焼跡の広間が丘に粗末な仮校舎が建ったのは、終戦後の同二十一年十二月である。今まで小学校やお寺に分散していた各教室から、生徒たちはこのさむざむとした仮校舎に集まってきた。同二十二年十月には「相川高等学校昇格期成同盟会」が発足。翌二十三年四月から新制度による町立相川高等学校が、相川高等女学校(相川小学校の校舎より分離)と合併し発足した。新しい高等学校の発足にともない校章(三国久の図案)が制定され、同二十五年には待望の屋内運動場も竣工した。そしてこの頃、放置されてた下相川のプールが修理され、水泳部顧問の市野重治の赴任をまって、県や東北高等学校水泳大会(昭二八年)などでの、華々しい優勝をみるのである。相川高校の定時制過程は、昭和二十三年県立佐渡高校定時制相川分校として発足したが、翌二十四年四月からは、町立相川高校の定時制(夜間制)として看板を変えた。相川高校は、同二十九年四月から県立高校に移管され、七月広間が丘から山之神の新校舎に移った。県立相川高校定時制高千分校が誕生するのは、昭和三十年四月である。新入生は四四名(男子一九名・女子二五名)。校舎は高千小学校の一隅を借用した。廃校は同五十八年三月三十一日である。【参考文献】『相川高等学校五十年史』(相川高等学校同窓会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『佐渡博物館々報』(一八号)【執筆者】浜口一夫
・新潟県立佐渡高等学校(にいがたけんりつさどこうとうがっこう)
明治二十九年(一八九六)六月、第三九臨時県会にて、佐渡三郡町村組合立佐渡尋常中学校設立可決、十月二十一日設置認可。先行県立新潟、同年の組合立長岡・高田・新発田に続く創立で、佐和田町石田(獅子ケ城跡)に開校した。郡立を経て、三十三年県立移管。翌年八月、新潟県立佐渡中学校と改称。佐渡奉行所役人子弟の教育機関修教館を頂点とする教育風土の上に、明治の大変革期に際して、国家の近代化に相応じた、島民の試行と熱意の成果であった。学制発布前後から、全国的に教育振興が図られた中で、目的・対象・規模・形態・内容・校地・財源等、様々な議論や運動の末の、佐渡における初等・中等教育の帰着点であった。国策に応える一方、自主自律の校風は、霊秀金北・神潔真野湾の風光と相俟って、同窓の精神的支柱となり、あまたの逸材を世に送り出した。昭和二十三年(一九四八)、新制高等学校に改編、新潟県立佐渡高等学校と改称。新憲法に基づく定時制課程の設置(中心校、真野・沢根等の分室・分校を経て五十三年最終的に募集停止)、及び二十五年の新潟県立河原田女子高等学校(相川町立実科高等女学校・県立河原田高等女学校)との統合を経て、今日に至る。平成八年(一九九六)、創立百周年記念式典。舟崎文庫を所蔵する同窓会の刊行書籍も、江湖の評価が極めて高い。【執筆者】坂口昭一
・新潟県立佐渡女子高等学校(にいがたけんりつさどじょしこうとうがっこう)
前身は明治四十四年(一九一一)八月十八日設立認可され、佐渡最初の女学校として、金沢高等小学校内に開校した佐渡実科高等女学校。佐渡尋常中学校が設立された明治二十九年(一八九六)以後、佐渡教育会は女子中等学校の設置を、郡当局に建議していたが容易に実現しなかった。当時の金沢村の有識者たちは、次善の策として三十九年以来、同村の高等小学校に二年制の補習科を併設していたが、四十三年、高等女学令が一部改正され、小学校に実科高等女学校を併設できるようになったので、早速申請して実現に至った。大正二年(一九一三)四か年課程に延長、同六年金沢村・吉井村・河原田町・二宮村・八幡村五か町村組合立、同十一年本科四か年課程の高等女学校組織に変更、昭和十三年(一九三八)金沢・吉井二か村組合立に改組などの変遷を経て、昭和二十三年学制改革に伴い、佐渡中央高等学校と改称して、男女共学校となった。同二十八年県立に移管されて、新潟県立金沢高等学校となったが、同四十一年(一九六六)再び女子校として再発足、佐渡女子高等学校となった。開校以来、平成十一年度(一九九九)までの卒業生累計は、募集停止となった定時制課程・専攻科課程を含めて、一万一五○○人余に上る。【参考文献】『金井町史』、『金井を創った百人』(金井町教育委員会)【執筆者】酒井友二
・新潟県立佐渡総合高等学校(にいがたけんりつさどそうごうこうとうがっこう)
【別称】新潟県立佐渡農業高等学校(にいがたけんりつさどのうぎょうこうとうがっこう)
・新潟県立佐渡農業高等学校(にいがたけんりつさどのうぎょうこうとうがっこう)
明治四十一年(一九○八)に戊申詔書が出されたのを記念して、新穂・畑野両村が共同して、組合立乙種農学校を設立した(創立は同四十三年)。開校は新穂村大野の報恩寺を仮校舎とし、校名は新穂村畑野村組合立佐渡農学校であった。独立校舎は、翌四十四年に畑野村栗野江字郷蔵に落成し、同年中に佐渡郡立となって、郡立佐渡農学校と改称した。大正十年に郡制が廃止されたのに伴って県営に移管され、新潟県立佐渡農学校となった。甲種農学校に昇格したのは昭和三年で、その頃不況は農村にも及んで、生徒不足に苦しんだが、この時代には当校の教育が充実して、学術・美術・体育などに逸材を相ついで輩出し、自営農家でも公けの役職でも、農学校出身者が多くを占めていた。太平洋戦後の学制改革で、高等学校となった。当校は、開校当初から男女同学と珍らしがられることもあったが、事実上は男子部と女子部に分れていて、教室を別にしていた。教室を同じくした男女同学になったのは、食品化学科が設けられ、さらには園芸科が新設されて数年後のことで、事実上の共学は定時制(河崎と松ケ崎の分校を合せた三教室)だけであった。平成十三年(二○○一)四月一日より、「新潟県立佐渡総合高等学校」に校名がかわり、農業科・食品科学科募集停止。新らしく「総合学科」を設置して、普通科目と専門科目の中から主体的に選択し、各種資格等の取得・上級学校への進学指導が行われることになった。【執筆者】本間雅彦
・新潟県立羽茂高等学校(にいがたけんりつはもちこうとうがっこう)
県立羽茂高等学校は昭和十年(一九三五)、村立の羽茂専修農学校から創まった。マルダイ味噌合資会社の社長で、村長も勤めた本間瀬平翁の「このままでは地域が遅れる」という提唱に、町民は動かされた。当時、中等学校は国仲にしかなく、進学者は一級に数人であった。専修農学校は、青年学校令による全日制の学校で、翌十一年、実業学校令による乙種(三年生)農学校に、同十八年には甲種(四年生)農学校、二十二年には新潟県立羽茂農学校と、県立に移管されたが、この村営の一三年間、村は苦しい経営を余儀なくされた。昭和二十三年(一九四八)、制度の改正で農業高等学校になり、小木・赤泊に定時制分校(夜間)設置、以後、生徒数の急増で普通科・家政科を増設したり、農業の落ち込みで農業科を園芸科に変えたりしたが、五十四年からは家政科を切り、園芸科も普通科に改めて普通科高校になり、小木の定時制分校は廃止されたが、赤泊は全日制分校になって残った。現在の校舎は、昭和五十六年に新築移転したもので、三度目の移転である。【参考文献】『羽茂高等学校五十年史』、『羽茂町誌』【執筆者】藤井三好
・新潟県立両津高等学校(にいがたけんりつりょうつこうとうがっこう)
佐渡東部地区唯一の中等教育機関。昭和二十一年(一九四六)三月、文部省から直接、設立許可を得て、同年五月両津国民学校(現両津小学校)にて開校式、授業が開始された。校名は、新潟県町立両津高等女学校。学制改革のあった昭和二十二年四月の、両津大火により存廃問題が生じたが、昭和二十三年、両津町加茂村組合立両津高等学校として発足し(普通科三学級)、昭和二十四年白山に校舎建築、移転した。昭和二十八年に県立移管され、新潟県立両津高等学校となった。定時制課程は、昭和二十四年から昭和二十九年まで。昭和二十九年に被服科が併置、商業科・漁業科・水産製造科がこれに続き、昭和三十三年、総合制としての全容が整った。苦難に満ちた、創立当時の地域住民の熱い思いがここに花開き、これ以後、各学科が切磋琢磨して、質量ともに充実した時期を迎えた。住吉一般校舎建築は昭和三十八年。現在の白山鉄筋校舎建築は、昭和五十一年に着工、昭和五十七年に終了し、足掛け七年に及ぶ長い工事であった。全島的な過疎化・少子化に伴い、被服科・漁業科・水産製造科と相次いで閉科となり、平成十三年度には、佐渡農業高校が佐渡総合高校と改組されたのに伴い、商業科・情報経理科が募集停止、普通科のみの募集となった。【執筆者】本橋克
・新潟交通佐渡営業所(にいがたこうつうさどえいぎょうしょ)
昭和十八年(一九四三)に、新潟市周辺のバス会社数社を統合して設立された新潟交通株式会社の佐渡営業所。佐渡に初めて乗合自動車が入ったのが大正二年(一九一三)、当初両津ー相川間の輸送に当たる予定であったが、中山峠が越えられなくて両津周辺を走っていたという。大正五年には小木町の高津昇之助が、次いで同七年には相川町米郷の渡辺七十郎が営業を開始、その後各地に会社が設立されて競争となったが、昭和六年これらが合併して佐州合同自動車株式会社(昭和八年佐渡乗合自動車株式会社と改称)と赤泊自動車合名会社となった。この頃新潟でも統合が進んで、昭和七年に新潟合同自動車株式会社が設立され、佐渡島内の会社が内部の主導権争いや乱脈経営などで、島民の不信をこうむったこともあって、昭和十二年に佐渡乗合自動車が、同十七年には赤泊自動車が、それぞれ新潟合同自動車に統合され、河原田に営業所が置かれた。初代所長は東海林藤太郎。昭和十八年に新潟合同自動車が新潟交通となり、今日に至っている。【関連】中山トンネル(なかやまとんねる)・渡辺七十郎(わたなべしちじゅうろう)【参考文献】『新潟交通二十年史』(新潟交通株式会社)【執筆者】石瀬佳弘
・新潟大学農学部付属佐渡演習林(にいがただいがくのうがくぶふぞくさどえんしゅうりん)
相川町大倉より岩谷口に至る標高二七○メートル~九四七メートル(大部分は六○○メートル以上)・約五○○ヘクタールの演習林で、一部は両津市の東側斜面にも延び、総面積の八割以上が天然林。スギ・ヒバ・アカマツ等の針葉樹のほか、サワグルミ・ミズナラ・カエデ等の広葉樹が成育する県有模範林である。スギが優占する天然林は、日本海に分布する天然林の特徴を良く示し、学術参考林としての価値が高い。特に関越の山中にある通称「小杉立」(標高八○○メートル)に、樹高四○メートル余、樹冠一七メートル、胸高幹径二・七メートルのスギの巨木があり、「関越の仁王杉」とよばれ、この杉をふくむ小杉立の天然杉林は、「重要植物群落」として県指定になった。これらを一括して昭和三十年(一九五五)三月、新潟大学農学部に寄付され、付属演習林となる。同三十三年四月に、宿泊棟も寄付されて大倉に設置、さらに倉庫や研究室・講義室・事務室などが増築された。これらの施設は、平成四年(一九九二)六月小田に移転し、その後食堂・厨房棟や宿泊棟が増設されて、年間多くの学生や研究者が訪れ、気象観測・天然林の立地環境などの試験・研究や、森林環境科学・砂防・森林生態学などの実習を行っている。日本海北部に位置する山岳演習林としては、日本で唯一のもので、学術的な評価も高い。【関連】小杉立の天然杉林(こすぎだてのてんねんすぎりん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「佐渡演習林の森林について」(新潟大学農学部)【執筆者】三浦啓作
・新潟大学理学部付属臨海実験所(にいがただいがくりがくぶふぞくりんかいじっけんしょ)
日本海側での、海洋生物に対する教育・研究を行う目的で、相川町達者海岸に、昭和二十九年(一九五四)三月二十六日、木造の研究棟と宿泊棟が落成したが、北西の季節風をもろに受けるため、傷みが激しく老朽化して、昭和六十一年(一九八六)六月改築した。建物は、鉄筋コンクリート二階建タイル張りで、研究棟・宿泊棟(三十数名)と、採収船用の挺庫があり、研究棟内には、標本室や水族室も組み込まれており、佐渡沿岸生物の分類・分布・生態的研究、寄生性小型甲殻類の研究などが行われ、学生は勿論、国の内外から研究者が来所し、佐渡島産生物の研究に打込んでおり、佐渡における海洋生物のメッカである。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】三浦啓作
・新穂銀山(にいぼぎんざん)
鶴子銀山に続く、佐渡で第二の銀山。およそその範囲は、東西は新穂川と大野川に挟まれた山地、北は新穂第一ダムの堰堤の延長線と、南は蛭河内の延長。鉱脈の走行は、南北。元文三年(一七三八)の新穂村滝沢銀山惣岡絵図(味方孫太夫所持)では、右沢には白土・大師・大船・八貫目・潟上・竹蔵。左沢に二つの水貫・兵庫・伊藤・伊賀・吉井・新保・大切山・五郎右衛門・勘右衛門・与右衛門・喜助・田の沢・伊勢屋・関東・玄弦。支流の黄金沢には、天文十一年(一五四二)以後、間もない開坑と思われる百枚間歩がある。鶴子銀山の百枚間歩が、崩落により内部が確認出来ないのに対して、この百枚間歩は、採鉱当初の姿を三○㍍以上も立入って確認できる。天文期の坑道の内部を見ることの出来る、国内唯一の遺構である。近距離の銀山稜線部の老母坂上や、対岸の左沢と右沢の間の稜線部には、すり鉢型の露頭掘り跡が無数存在。𨫤追い掘り坑道と混在した、古い露頭掘りの姿を伝えている。右沢の中心部に、弘治二年(一五五六)築城の北方山城、大工沢の出口に、上新穂城(新穂山城)。銀山の東と西には、青木山城が二つ存在。山城の防衛機能プラス、生産管理機能を雄弁に語っている。【参考文献】 「新穂銀山シンポ」【執筆者】 小菅徹也
・新穂玉作遺跡(にいぼたまつくりいせき)
佐渡の国仲平野に点在し、主として碧玉および鉄石英の細形管玉を製作した、弥生時代中期中葉から後期にかけての遺跡を、佐渡玉作遺跡と総称し、新穂村にある竹ノ花遺跡・桂林遺跡・平田遺跡・城ノ畠遺跡を、新穂玉作遺跡とする。新穂玉作遺跡は、計良由松によって発見され、遺物収集と分類研究が行なわれ、桂林遺跡の一部は昭和二十四年(一九四九)十一月に計良由松が、昭和三十五年と三十六年の八月には九学会による発掘調査があった。出土する遺物は、櫛目文土器を主体とし、石鏃・石斧・石錐・石包丁、管玉の未成品および完成品、石鋸・砥石・石針などの玉作工具、角玉・勾玉などである。細形管玉の製作は、原石打割→施溝→半截→側稜剥離→研磨→穿孔→完成の七工程に分類され、最後の工程で穿孔する高度の技術を有した。平成六年からの圃場整備に伴う遺跡調査で、竹ノ花・桂林・平田遺跡はつながり、四七万平方メートル以上の面積をもつ、弥生時代国内最大の玉作遺跡であることが明らかとなった。昭和二十七年十二月、新潟県文化財史跡に指定。計良由松収集の細形管玉製作工程を示す資料は、昭和五十三年六月に国指定重要文化財となっている。なお、平田遺跡に隣接して、大型礎盤をもつ建物址(第一号建物址)や枕木のある建物址(布掘、第五号建物址)などの特別の建物址とともに内行花文鏡や珠文鏡および銅鏃などが出土した蔵王遺跡も発見されている。【関連】蔵王遺跡(ざおういせき)【参考文献】計良由松『佐渡における新穂村文化のはじめ 附玉作遺跡発掘調査報告』、計良由松「佐渡玉造遺跡に於ける玉の原料について」(『佐渡史学』一集)、計良由松・計良勝範「佐渡新穂玉作遺跡遺物の研究」(『佐渡史学』三・四集合併号)【執筆者】計良勝範
・新穂村歴史民俗資料館(にいぼむられきしみんぞくしりょうかん)
新穂村大字瓜生屋四九二番地に所在する、村立の資料館である。当初は、大野ダム建設事務所であった建物を利用して、昭和五十五年(一九八○)十月一日に開館し、新穂村に関する資料を中心に収集して、トキ・考古・農具・生活・桶屋道具・消防用具の各部屋があった。現在の建物は、それらの資料をさらに有効に利用活用させ充実するために、改めて鉄筋コンクリート造二階建の、本格的資料館が建設されたものであり、昭和六十一年十一月一日起工、昭和六十二年十一月二日竣工、三日から開館した。初代館長は計良由松。一階床面積六八○平方メートル、二階床面積二四二平方メートル、延面積九二二平方メートルで、トキの飛ぶ姿をイメージしている。一階にトキ・芸術・伝統芸能など、二階には考古と歴史、村のくらしの各展示室などがある。なかでも、国際保護鳥トキは、新潟県トキ保護センターと直接映像装置で結び、飼育中のトキ(キンと優優など)をテレビモニターで観察できる。さらに、弥生時代の重要文化財指定新穂玉作資料、内行花文鏡や珠文鏡を出土した蔵王遺跡の資料、縄文時代の矢田ケ瀬遺跡や垣ノ内遺跡の出土品、村内の城館址や経塚資料、県指定文化財の広栄座説経人形およびのろま人形、鬼太鼓・能楽・日本画家土田麦僊と文明批評家土田杏村資料、各種の農具と生活用具などが展示されている。【関連】広栄座(こうえいざ)【執筆者】計良勝範
・二宮神社(にくうじんじゃ)
相川町関の川向こうにあり、オヤガミサンまたはオボスナサマと呼ばれ、オオヤの本間四郎左衛門がカギトリをつとめている。祭神は天児屋根命、祭日は九月十六日(旧)であるが、正月十六日(現在は新)に的射りの神事があったり、昔は一月八日と九日の二晩、「神拝式」といい、二五歳と四二歳の、厄年の男たちのオコモリがあった。正月十六日早朝の、境内での的射りの神事は、享和三年(一八○三)の書き上げによると、古代は観音堂で行われていたらしく、弓の的にぬる土は、旧観音堂のあった古田の土を的につける、杉の葉は大杉社のものを使うことになっている。これは異なる地神を祀っていた二つの一族が、一緒になったことを暗示しているものである。的は夜明けと同時に、オオヤの主人が射り、真中に当ると、一年間縁起がよいとされた。昔、九月十五日の祭礼の宵宮には、矢柄の勧行院の法印さんと奥さんが来て、お宮で神楽を舞ったという。二宮神社には宮田があり、二宮神社と大杉神社に供える供物は、この田の米を用いている。この宮田の所有と管理は、オオヤの本間家がしており、人糞はやらず、小便は禁物、月厄の女性は入れなかったという。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】浜口一夫
・濁川町(にごりかわまち)
海岸に注ぐ濁川の両岸の町を云う。東は坂下町から北沢町となり、北で紙屋町と炭屋町に接する。奉行所の真下に当り、帯刀坂で結ばれる。川の両岸は石垣で守られ、普請は公儀によりなされた。慶長頃は石垣がなく、洪水で破壊されたことが数度に及ぶ。上流は、左沢と右沢を流れる川が宗徳町で落ち合い日本海に注ぐ。相川の名はここから出たとする説が強く、左沢と右沢の間が初期金山の中心で、上相川千軒と云われて賑わった町並が、山の中腹に広がりを見せる。紙屋町へ渡る濁川の橋は、太鼓形の板橋で高欄がつき、幅もあって見事な出来栄えで、他にかかる橋を圧倒した。元禄検地によると、町屋敷五反二畝一五歩とあり、文政九年(一八二六)の墨引では家が五六軒あって、拝領地や町人が入り混って住んだが、町人は金山関係の従事者が多く、小六町や大間町へ通ずる本通りには商人が住んでおり、小六町との境にはそば屋が見える。戦中に排出したセリカスが海岸に溜り、海岸線は長く海へ出るのが容易でない上、海藻も生えず死んだような海であったが、いまは侵蝕されて見る陰もない。【参考文献】「文政九年、相川墨引」、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】佐藤俊策
・西坂(にしさか)
享保四年(一七一九)に奉行所の腰を廻るように、囲内の南端から牢屋の上を通って長坂を降り、下町へ通ずる坂道を開設した。上町台地と下町を結ぶ大事な坂道であり、しかも奉行所脇から城の腰を通る道で、利用者が多かった。坂の登り口に小川が流れ、石橋がかかっていた。牢屋内では処刑が一般的であり、処刑人の冥福を祈って通行人が手を合わせたことから、この石橋を合掌橋と呼んだ。いままで善知鳥神事には神輿が長坂を登っていたが、勾配を緩くした坂の開設により、以後は山鉾・神輿は、この坂を通って陣屋の前へ行き、御祓をするようになった。奉行所敷地の南前には、高級地役人の役宅が七軒並んでいたので、これを七軒屋と云っており、坂道の開設工事が終ると、この石坂を七軒坂と名付けたが、翌年には西坂と改名するよう御触れが出ている。この工事の後で、坂道の傍の空き地には地役人の拝領地ができたが、後年には民間人が住むようになった。文政の絵図には、職人の家が四軒描かれている。西坂は昭和四十九年八月、町の史跡に指定された。【参考文献】伊藤三右衛門『佐渡国略記』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、西川明雅他『佐渡年代記』【執筆者】佐藤俊策
・西三川砂金山(にしみかわしゃきんざん)
十二世紀のはじめに成立したとされる『今昔物語』の巻二六の一五話に、能登の国の鉄とりが、佐渡の国へ金をとりに行った話が載っている。ついで『佐渡相川志』には、西三河砂金山は寛正元年(一四六○)にはじめられ、永正十年(一五一三)に中絶していたところ、文禄二年(一五九三)から、ふたたび稼がれるようになったと記述されている。戦国末から江戸初期にかけては、一か月に一八枚づつ砂金を運上したために、村名が笹川一八枚村となったという。【関連】笹川十八枚村(ささがわじゅうはちまいむら)・砂金(しゃきん)【参考文献】田中圭一『佐渡金山史』【執筆者】田中圭一
・二町目(にちょうめ)
赤川から南へ三町目までの間の県道に沿った町が、二町目である。大きな建物としては、北端の山側にホテルやアパートがあり、医院・飲食店・家具仏壇店・畳屋などが、一般住宅と混り合う静かな町である。現戸数は三三戸。浜町と新浜町が海手に平行しているが、山手は裏町ではなく五郎左衛門町になっている点で、一町目とは異なっている。浜町には、保健所や県合同庁舎・駐車場がある。元禄七年(一六九四)の検地帳では、町の面積は五反四畝八歩である。【執筆者】本間雅彦
・二町目新浜町(にちょうめしんはままち)
相川湾の湾入部の、ほぼ中央に位置する臨海地帯。昭和初期の、鉱山の浜石採取で住宅は立ち退き、現在は臨海バイパス町道が南北に走る。東側は佐渡会館の裏手に当たり、新潟交通観光案内所があって、定期観光バスの乗り場である。宝暦五年(一七五五)の町名に初めて出てくる。江戸中期の成立であろう。【関連】浜石(はまいし)【執筆者】本間寅雄
・二町目浜町(にちょうめはままち)
慶安年間(一六四八ー五一)の相川地子銀帳に町名が出ている。古くからあった町で、二町目本町とともに、寛永期には成立していたと思われる。北は一町目浜町、南は三町目浜町と隣り合い、東側に人家が建てこむ。前を県道佐渡一周線(主要地方道両津・鷲崎・佐和田線)が南北に走る。道路を隔てた西側は、新潟県相川合同庁舎が建つ。相川土木事務所・相川財務事務所・相川林業事務所・佐渡社会福祉事務所・下越教育事務所佐渡出張所のほか、佐渡町村会・佐渡観光協会が同居し、庁舎北側は県相川保健所が棟続きにある。【執筆者】本間寅雄
・荷俵負い(にどらおい)
腰に荷俵をつけて長い木材を負うときの負い方。「ながもん負い」ともいう。林道がつく以前の大型木材の運搬法で、もっぱら婦人の仕事。道具は、シナやフジの皮で縁どりをしたセナコウジ・太い荷縄・荷俵・ワタコ(セナコウジの下に着る)・支え杖など。この負い方の特徴は、腰に荷俵を入れて負うことで、荷俵は木の芯を中に入れて、一五センチ位の藁製の俵。セナコウジは、藁で厚く織った背中当で、縁取りをシナやフジでするのは、縁を保護するためである。ワタコは、厚目に綿を入れた座布団。海府では一四歳くらいになると、母親について山へ入る。二○歳過ぎになると、末口七寸(二一センチ)、長さ一三尺(約四メートル)の木材を負うた。このように二間以上の木材になると、腰に荷俵をつけないと負えない。六尺(一・八メートル)前後の短い材の負い出しは「だちん負い」といって区別した。昭和三十二、三年(一九五七、八)頃、海府から六尺のパルプ材や鉄道の枕木が伐り出された。賃仕事に多数の婦人が従事していた。大佐渡の山仕事の多い地域の独特の負い方で、家普請になると木挽といっしょに山へ入って材を出した。【関連】木挽き(こびき)・海府木挽(かいふこびき)【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』、『新潟県史』(資料編二三・民俗文化財二)【執筆者】佐藤利夫
・日本海要素の植物(にほんかいようそのしょくぶつ)
日本海側の多雪地を主たる分布域とする植物のこと。雪国要素の植物、裏日本要素の植物ともいう。「新潟県の日本海要素植物仮目録」(一九八七)には、およそ一五○種が記録され、そのうち「佐渡の日本海要素植物」はおよそ一○○種である。佐渡に少くないのは、越後に比べ日本海型気候、特に積雪の程度が低いことに由る。日本海要素の分布の多くは、ほぼ一月の積雪五○センチ線が分布境界とされ、次の様な特徴をもつ。1常緑樹群の低木化。茎や枝がしなやかで、低木化・ほふく型化は雪圧への適応で、太平洋側分布の直立型に対応する。( )内は太平洋側の対応種。チャボガケ(カヤ)・ハイイヌガヤ(イヌガヤ)・ハイイヌツゲ(イヌツゲ)・ヒメモチ(モチ)・ユキツバキ(ヤブツバキ)。2落葉樹の葉の大形・広葉化と薄肉化、日照量の不足に対する適応型。マルバマンサク(マンサク)・オオバクロモジ(クロモジ)、ヒロハゴマギ(ゴマギ)・チシマザサ(スズタケ)・スミレサイシン(ナガバノスミレサイシン。3固有属の存在。シラネアオイ・オサバグサ・トガクシショウマの三種は、三種とも一属一種の日本特産の固有種で、現在は日本列島の日本海側の多雪地のブナ林に保存される。日本の多くの植物は二五○○万年前に誕生したが、これら三属は古第三紀の初めの七五○○万年前に誕生した古い植物で、日本海側のブナ林床という特殊な立地に生き残った、遺存種(生き残り)固有種である。【参考文献】伊藤邦男「佐渡の日本海要素」(『佐渡植物誌』)、同『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・入川(にゅうがわ)
現在(平成七年)の世帯数は九二戸、人口は二三○人である。宝暦年代(一七五一~六三)に書かれたという『佐州巡村記』によれば、家数は七八軒、人口は四四一人である。海岸段丘上の開発は、近世前期にその大部分がなされ、元禄七年(一六九四)の検地帳では、田三六町二反余、畑六町七反余となっている。段丘上の平坦さは海府きってといわれ、入川川から取水する用水で賄っている。入川川は長さ六キロメートル、水量豊富で水力発電(昭和四年完成)にも利用され、ドンデン麓の孫次郎山附近の渓谷は変化に富み、春の新緑、秋の紅葉がみごとである。渓谷に沿ってドンデン山経由の県道両津入川線が通じており、観光客にも利用されている。ドンデンはもともとは論天山か、山の裏の村に田を論じた書類(『新潟県の地名』野島出版)があるという。またドンデン山には、赤い肌をした大入道が居り、タタラ峰にある池のほとりで、ドーン、デーンと灼けた鉄を鎚で打っていたとの伝承(本間雅彦『鬼の人類学』)もある。タタラは鞴と関係ある古語といわれ、古い鉱山とのかかわりが考えられる。ドンデン山への渓谷の道は、かって(大正三年)入川銀山赤岩から海岸までの川岸を開鑿した鉱車軌道跡を拡巾したものである。入川村の草分は、池田九郎津や池野甚十郎らの七人衆といわれ、九郎津は寛正四年(一四六三)勧請といわれる宝生権現を祀り、甚十郎は加賀からの船乗りとの伝承をもち、観音堂を祀る。宝生神社の祭神は、木花開耶姫命と大山祇命の鉱山神である。祭日は旧八月十日であったが、今は四月十五日、御輿と子供樽御輿が出る。【関連】宝生神社(ほうしょうじんじゃ)・高千鉱山(たかちこうざん)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫
・入川層(にゅうがわそう)
大佐渡研究グループ(一九七○)の命名。模式地は入川の中流で、大佐渡北端・入川上中流域・佐渡鉱山に分布し、基盤岩を不整合におおう。漸新世の地層である。灰緑色のデイサイト質火砕岩からなり、変質が激しい。粘版岩や花崗岩の岩片を含む、溶結凝灰岩を主体とする。層厚は相川鉱山周辺で五○○メートルである。佐渡鉱山地域では、大立凝灰岩・大切凝灰岩とも呼ばれている。火砕岩を主とするため化石は未発見で、溶結凝灰岩が多いことから、陸域での火山活動で堆積した地層であると考えられる。【参考文献】大佐渡研究グループ「大佐渡南部の新第三系」(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】神蔵勝明
・入崎の海岸植物(にゅうざきのかいがんしょくぶつ)
相川町入川。入川(河川名)の川口近くにある岬が入崎である。夏の海水浴やキャンプ客でにぎわう観光地である。キャンプ場の西側の砂浜には、オカヒジキ・ウンラン・コウボウムギ・スナビキソウ・ハマイブキボウフウ・ハマエンドウ・ハマダイコン・ハマヒルガオ・ハマボッス・ハマゼリ、海岸低木のハマナス・ハマゴウなど、海岸植物の主要種はほとんどみられる。踏みつけの強いキャンプ場には、海岸植物は点在的となる。このような立地に、いちはやく侵入し群落をつくるのが、帰化植物である。ムラサキツメクサ・シロツメクサ・セイヨウタンポポ・セイヨウミヤコグサ・オオイヌノフグリ・シロザ・ヒメスイバ・ヘラオオバコ・マンテマなどが主要種である。入崎の北端の大岩塊の岩場の入口は鳥井建ち、注蓮の張られる神域で弁財天がまつられる。五月、岩場を埋めるように咲くイワユリの群生は壮観である。岩のすき間には海岸岩隙植物であり乾生植物でもあるメノマンネングサ・キリンソウ・ハマボッス・ハマハタザオ・ハマイブキボウフウ・ハマゼリなどが豊産する。遠望される北西向きの海岸段丘の海岸風衝林の主要種は、クロマツ・カシワ・エノキ・エゾイタヤなどである。【参考文献】『佐渡植物ガイド』【執筆者】伊藤邦男
・入野神社(にゅうのじんじゃ)
千本の入崎にあり、祭神は伊裝冊尊。社人は北田野浦の片岡儀左衛門である。『佐渡神社誌』には、天正十四年(一五八六)、儀左衛門が大和の吉野郡丹生川上神社より勧請したとある。また、享保年間(一七一六ー三五)の沖の神子岩のわかめ争動の文書にも、「田野浦村儀左衛門が入野神社の宮守である」と記されているから、長い間儀左衛門の宮であったことがわかる。現在も境内の草はり、冬の宮構いなどを行っている。この神社は、沖を通る船が帆を下げねばならぬ伝説を持っており、そのことに不都合を感じた能登か出羽の大船が、山形県庄内湯野浜の、隣の加茂という所へ、ご神体を持ち去ったといわれ、今はご神体のない宮である。宮の沖合の暗礁・沖の神子は、海府わかめの名産地であるが、沖を通る船の難所の一つであった。そのため、若狭の船が難破した若狭と名付けられた暗礁などがある。祭りは八月二十日で、神主を招き、ムラの役づき一○人ほどが集り、オコナイをした。盆の十七日には、境内で草ずもうなどがたった。社の横には大きな忠魂碑が建っている。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】浜口一夫
・二輪草(にりんそう)
【科属】キンポウゲ科イチリンソウ属 「一輪咲いて一輪草 二輪咲いて二輪草 三輪咲いて三輪草」は白秋の歌。いずれもイチリンソウ属の春告花で、山地の林内、林縁、沢沿いに群生する。イチリンソウは、対岸の角田・弥彦山に多産するが、佐渡にはない。サンリンソウも自生しない。ニリンソウは多産し大群生する。ひとつの茎に二輪咲かせるのでこの名があるが、必ずしも二輪でなく、一輪も三輪もある。ユキワリソウやキクザキイチゲは早春三月、山の雪を割って咲く花であるのに対し、ニリンソウは里の桜が爛漫と咲く春たけなわの頃、山に咲く。里山から奥山まで広く分布し、充分な湿りがあればどこにでも大群生する。ドンデン(両津市)に登るアオネバ越え(旧道)は、梅津川上流沿いの自然の保たれた沢、ニリンソウ・キクザキイチゲ・ユキワリソウ・カタクリが大群生する花園渓谷である。これら春季植物は、いずれもスプリング・エフェメラル(春の短命の植物)で、樹々の葉が繁る頃姿を消す。キンポウゲ科に属しながら全草食べられる山菜。江戸時代の菜糧のリストにフクベラの名で記されるが、ニリンソウのことである。【花期】四~五月【分布】北・本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・荷分制(にわけせい)
鉱山には、自分山と御直山があった。自分山は、出す税額をきめて納付するのに対して、御直山は、採掘鉱石を奉行所と採掘者が一定の割合で分けることをいう。『佐渡年代記』(慶長九年)に、「金銀山出鏈の内、荷分ということ此頃より始まりしと見えたり、是は出方の多少又は山師の貧富により、出鏈の内、或は半分に引分け、又は三分の一、四分の一など割合を計ひて、たとへば半分は公納とし、残りを山仕かなこへ宛行ふ事なり」とあって、その頃は荷分けの割合は確定していなかった。享保期(一七一六ー三五)の史料をみると、四分上納・六分はかなこ、一分は山師の領前と決められている。
【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】田中圭一
・塗師(ぬっち)
漆塗り職人を一般にヌシというが、佐渡ではヌッチと訛って呼んでいる。離島や半島部では、湿気が多いためウルシの木がよく育ち、漆塗りのあとの乾燥が早い。ウルシは、湿度の高いところのほうがよく乾燥するためである。佐渡はいわゆる漆器の産地ではないが、漆の生産や消費量は産地に劣らないほど多い。それは佐渡では膳椀などの小物ではなくて、仏壇や家屋の戸柱に漆を塗る習俗があることによる。しかし江戸後期には、現在の能登・会津などの漆器産地と同じように、新穂膳・新町椀そして小川漆などで、良品を産していたことは『四民風俗』の記事から読みとれる。ところがその後に、他地ではいっそう質の向上があったのに、佐渡漆器は技法の工夫に欠けていたため、市場競争におくれをとって売れなくなり、その上唐津・瀬戸などから、陶器が大量に移入されると、日常食器としての島内産漆器は、完全に市場を失った。ウルシの木の栽植は、羽茂川沿いの大崎・滝平・川茂と、小倉川上流地域で早くから行なわれていて、後山村は慶長期に三六本、小倉村では享保十三年(一七二八)には一一八六本が記録されている。
【関連】小川塗師(おがわぬっち)【参考文献】本間雅彦「漆と塗師」(『佐渡史学』一○集)、『波多』(畑野町史)【執筆者】本間雅彦
・ぬれ仏(ぬれぼとけ)
明治四十一年(一九○八)に川上喚涛翁が書いた『佐渡案内』(佐渡水産組合編纂)には、「字小川の原野にある青銅の坐像にして、常に雨露に晒さるヽを以て此名あり、此辺の田野を澪佛野と云ふ」とある。その後約一○年たって、相川の浅香寛が出版した同名の書では、ほぼ同文章で地名だけは「澪佛野」と言い替えてあり、今日ではヌレボトケの発音を多く用いるようになっている。仏像は阿弥陀如来の座像である。上小川の水田地帯に、このアミダ像が祀られるようになった経過について、つぎのような伝承がある。むかし十二体の仏を乗せた船が小川沖で難船し、一体を海中に落してしまった。その仏がある人の夢枕に立って、「磯によっているから、多聞院に祀ってくれ」といったので、はじめ寺にあげた。ところが牛込で狢が出て困るので、寺ではこの地に移すことにした。『金泉郷土史』によると、仏像の台座には明和九年(一七七二)作の銘があったという。
【執筆者】本間雅彦
・ねこ流し(ねこながし)
砂金山で含金砂泥の中から、金を採取するために行う選鉱行程の一つ。ゆり板を使って、微細な含金砂泥を水中で比重選鉱し、砂金を取り上げるための前行程。水流のある川底に数枚の猫筵を縦に並べ敷き、含金砂泥を釣子という鍬で、猫筵の裏表に万遍なく流しかけ、筵の目に留まった微細な含金砂泥を、洗い出してゆり板に移すまでの作業。金銀山では、鉱石を粉砕した鉱砂を、水中でゆり板を使って比重選鉱し、水筋という金粒を採取する。これを何度もくり返した後、残った微細な鉱砂を、木綿を敷いたすべり台の床に水流と共に流しかけ、木綿の目に硫化銀を主体とした汰物を留める。数回流しかけた後に水流を止め、木綿を巻き取って大きな水桶に洗い込んで、桶底に汰物を貯める。汰物は、大床・灰吹床・分床で製錬することにより金や銀を採取するが、金銀山の場合は、ゆり板以後大床にかけるまでの行程が、ねこ流しである。
【関連】砂金(しゃきん)【執筆者】小菅徹也
・鼠草紙(ねずみぞうし)
慶安五年(一六五二)三月、佐渡小木町小比叡の蓮華峰寺に立てこもった奉行所役人辻藤左衛門や、住職快慶らが引き起こした事件は、一般に小比叡騒動と称した。『鼠草紙』は、この事件を戯曲化したもので、明治二十九年(一八九六)八月、史林雑誌社から発行された。これには巻末に、「寛政八辰年六月写之、後尾村智挙院」とある。作者は不明であるが、寛政より以前の著作である。小比叡騒動を、一匹の鼠が語り出すことから、その書名がつけられた。
【関連】小比叡騒動(こびえいそうどう)【参考文献】山本修之助編『佐渡叢書』(四巻)【執筆者】田中圭一
・根付き漁(ねつきりょう)
浮魚を対象にした漁業にたいして、磯に根づいてあまり移動しない魚を捕採する漁業。根付き漁の対象となる魚の代表は、ハチメ(メバル)である。年中釣れる魚で、沖合いでも釣れる。数釣りが楽しめ、磯ではツツジの花が咲く頃が最盛期で、ツツジバチメといわれ、春告魚である。岩虫を餌として釣る場所では、虫バチメともいう。水深が一五メートル以下なので、ガラス箱で見て釣る。一般に浅くなるほど黒味が加わる。タケノコの頃釣れるのを、タケノコメバルともいう。深さが増すと赤味を帯びてくる。古来、年中行事の神への供え物には、黒い磯バチメ(黒バチメ)がつかわれたのは、根付き魚の代表で、浅い磯の魚を獲って食べていたことを示している。沖バチメは、七○本から八○本の釣り針をつけ、胴突き仕掛けでおこなっている。沖バチメは、和名はウスメバルであるが、佐渡ではアカバチメ(”魚”偏に”赤”)あるいはタカノハバチメという。晩秋の磯バチメは炭火で焼き、秋風に乾燥させて、保存食として冬の蛋白源にしていたが、人寄りや祭りの御馳走でもあった。
【参考文献】中堀均『佐渡の釣り今昔』、佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・ねまり機(ねまりばた)
佐渡では座ることをねまるという。つまり座って織る、原始的な地機のこと。ねまり機にたいして「たちはた」(たかはた)があり、腰を掛けて木綿織りや絹織りをする以前の、古い型式の機織り道具。この種のねまり機は、対馬の宗像神社にある奈良時代の地機模型に似ており、大陸伝来の機であろうといわれている。中越地方の、越後上布を織る地機とは型式が異なり、機の骨格が垂直になっているのにたいし、傾斜しているところから西日本型に属し、垂直型は東日本にみられる地機である。佐渡は西日本型機の分布域である。ねまり機は機と脚が分離できて、腰掛板も固定されず、腰をおろして右足を強く引っぱり、上下に経糸を動かし、大きな杼をつかい緯糸を入れて、筬でしめてから杼で打ちつけしめていく。ねまり機がもっとも遅くまで残っていたのは海府で、昭和五十年(一九七五)頃まで生活実用品を織るためつかっていた。近世までは、麻あるいは樹皮繊維の級や藤の皮をつかい平織りにして、衣料品・かや・漁網・綱などにした。その後、近代に入って木綿・化繊が進出すると、主役の座をゆずって、「しきの」(蒸し器のなかへ入れる布)や腰つけ袋などの二次製品に転用された。このねまり機が消えないで残ったのは、技能にすぐれた伝承者がいたからであるが、緯糸に木綿布を裂いて糸状にして織り込む裂織りが、敷物・こたつ掛あるいは現代的インテリア用品として人気があったからで、経糸に裂糸を強く打ち込むには、ねまり機が適しているのである。【関連】裂き織り(さきおり)・佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)【参考文献】『佐渡・相川の織物』(相川町教育委員会)、佐藤利夫「佐渡海府の木綿以前」(『日本民俗学』九九号)・同「佐渡織物誌」(『社会科研究紀要』一五集)【執筆者】佐藤利夫
・ねまり遍路(ねまりへんろ)
ねまりは、佐渡方言の座るの意である。遍路はふつう札所を巡礼者たちが、かたまって巡拝して歩くのが常であるが、「ねまり遍路」は「いざり遍路」ともいい、講の者が堂や寺などに集り、座ったまま霊場のご詠歌をとなえ、真言を繰ったり、念仏を唱えたりするものをいう。相川町橘の大師堂の縁日は、三・八・十月の二十一日で、土地の年寄りたちが集って「ねまり遍路」をする。世話役(坂下作助)のドウトリで、西国三十三番・四国八十八か所の御詠歌、光明真言・南無大師遍照金剛・不動様の真言・七十二番曼陀羅寺大日如来・地蔵真言・南無阿弥陀仏を、それぞれ二一遍ずつ唱えるという。またこの時に「星おき」といい、年まわりの悪い者は厄払いをしたり、漁師の人たちが漁つけを頼むこともあるという。ねまり遍路の行われる寺堂では、八十八か所や三十三番などの、石仏を安置する所がある。小木町宿根木の、岩尾山洞窟の入口の石像群や、新穂村瓜生屋の善光寺、金井町吉井の安養寺、真野町三滝の不動堂などにそれがみられ、石仏の台座の下には、西国・四国霊場のお土砂を納めたものだという。【参考文献】『海府の研究』(両津市郷土博物館)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『佐渡百科辞典稿本2』(佐渡博物館)【執筆者】浜口一夫
・野坂鉱山(のざかこうざん)
佐和田町沢根の野坂にある鉱山。坑道は高瀬への刀根下に一つ、滝の沢にもう一つの坑道がある。前者は下向きの階段掘りで、内部で分岐しているが共に途中で水没している。後者は水平坑道であるが、直進後右折したところで水没している。しかし、水中を覗くと小さな穴で奥の水没坑道と接続している。この坑道が横相による排水坑道であったことがわかる。横相の技術による水没坑道の取り明かし方を、具体的に今日に伝える貴重な遺跡であるといえる。高瀬刀根より野坂の方に下る道と、滝の沢からの水路沿いの道が合流した地点から近い地名「金山」に近接して、金属を製錬した穴窯炉が二基ある。この炉の沢向かいに山仕平という一帯があり、江戸初期または前期頃と思われる山師の居住区が存在する。高瀬刀根下の坑道内部から出土した唐津焼きの燈皿が、江戸初期のものであったことからも、この地の鉱山業の古さが知れる。滝の沢からの水路が沢根城まで引水されているといわれるが、横相の伝来は文禄四年(一五九五)五月の鶴子本口間歩以前には考えられない。事実とすれば上杉氏の番城時代のことになる。【参考文献】「二見の鉱山」(『鉱山史報』三号)【執筆者】小菅徹也
・ノロマケンドン(のろまけんどん)[アサヒアナハゼ]
褐藻など、海藻の生えた岩場にじっと動かないでいるので、ノロマケンドンやケンドンの方言がついた。江戸中期の諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』には、ホウゼウ(方丈)という方言が載せてあるが、これは一丈の部屋から転じて、住職のことを指すので、やはりじっとしている様を言い表わしている。付図は彩色なので、これより察すると、和名のアサヒアナハゼのことらしい。体つきと体側が銀白に光っているところから、旭穴沙魚の名が付けられたのであろうが、カジカの仲間である。眼上や鼻孔上に皮質の突起があり、前鰓蓋骨に鉤状に曲がった棘が一本ある。また、雄の交尾器の先端が三分岐している。一五センチほどに成長するが、ほとんど食用にしない。近縁種に、アナハゼやオビアナハゼがいる。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・のろま人形(のろまにんぎょう)
昔の高幕の説経人形の時代には、間の狂言として盛んに遣われていた。海府方面では、それをふつう「狂言」と呼んでいた。この「のろま人形」は、遣い手たちが、めいめい佐渡弁で、即興的なせりふのやりとりをした。佐渡に現在残っているのは、新穂村瓜生屋の「広栄座」だけとなったが、広栄座ののろま人形は、木之助が中心で、他に下の長・仏師・お花などが登場する。代表的な出しものは「生地蔵」で、四国詣りに出かける下の長に、女房お花が生き地蔵のみやげを所望する。ところが、帰りに腹黒い仏師にだまされ、木之助ふんするにせ地蔵を背負わされ、それが途中で露見し、木之助は裸にむかれ、男のシンボルを出して小便をするところで、幕となる筋書きである。このほか、「そば畑」「木之助座禅」「お花の嫁入り」「五輪仏」などのレパートリーもある。かっての海府方面での出しものは、その場限りの即興的なものが多く、好んで取りあげたものは、爺さんが参宮参りに行ったすきをねらって、真光寺の老僧が婆さんの所へはいりこむ話とか、若い衆の夜ばいこき失敗談など、村の噂の色ごとなどであった。そのため、中川閑楽翁の話によると、明治四十年(一九○七)頃、当局からその露骨な猥褻性を注意されたことがあったという。しかし、のろま人形のこのような艶笑譚的要素には、五穀豊穣を祈る古代の心が宿っているのかも知れぬ、との説もある。【関連】広栄座(こうえいざ)・説経節(せっきょうぶし)・文弥人形(ぶんやにんぎょう)【参考文献】佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】浜口一夫
★は行★
・バイガイ(ばいがい)
バイガイと俗称されている巻貝類は、軟体動物腹足綱のエゾバイ科に属す。雌雄二型で、雄は陰茎が突き出ているので、簡単に区別できる。いずれの種も食用に供されている。佐渡でも、真野湾のような砂泥底の深さ二○メートル位のところまでは、殻が硬くて艶のあるバイ(”虫”偏に”貝”)が多産する。肉は硬く、それ程美味ではない。深海(百米以深)には、小型のツバイがたくさん生息する。殻は軟かく、汚れて黒ずんでいることが多い。美味で、家庭の食卓だけでなく、酒の肴としても喜ばれる。大型のカガバイ(加賀)やエッチュウバイ(越中バイ(”虫”偏に”貝”))は、高級品として取扱われ、刺身も喜ばれる。その他チヂミエゾボラ(縮蝦夷去螺)も数は少ないが、利用される。佐渡近海では、これらエゾバイ類に近縁なテングニシ(天狗螺)も食べられる。なお、エゾバイ科のミガキボラは、殻が厚く、沿岸岩礁帯にすむ。エゾバイ類は、バイ籠で獲る。バイを食べて、越後の寺泊で中毒を起こしたことがある。なお、ツバイの名は富山の方言で、小さいを意味する「ちんこばい」に由来するという。【執筆者】本間義治
・灰吹銀(はいふきぎん)
鉱石を粉成し、水中で比重選鉱した硫化銀主体の汰物を、灰吹した銀。山吹銀・山出し銀と同じ。灰吹きとは、汰物を焼釜で蒸焼し、出来るだけ硫化銀を金属銀にする。大吹床の炉の中に炉滓(酸化鉛)を入れて吹き溶かし、そこへ金属銀化した焼汰物を加えて吹き溶かし、鉄分を主体とするカラミを加えると、硫化銀は完全に金属銀となり、金属鉛と合金になる。鉄鍋の中に灰を入れ、中央に骨灰の炉を作り、その中に銀鉛の合金を入れて周囲に火を置き、鞴を差してよく溶けたところで火を除く。鞴羽口のところに横に棒鉄を渡し、その上に大きな炭を渡しかけて、炭の上に火を乗せる。炉の周りにも火を並べて、湯色が見えるようにして鞴を差す。酸化した鉛は次第に灰に染み込み、炉底に灰吹銀が残る。この銀を須灰で固めた炉の中に入れ、溶けやすくするため半分量の鉛を加えて溶かし、湯になったら硫黄の粉を加えて、亜硫酸ガスにならないように木製の棒で攪拌し、鉛と銀を硫化物として金と分離する。硫化銀は薬抜床に入れ吹き溶かし、硫黄を分離除去して灰吹銀を得る。この灰吹銀は、ほぼ純銀である。【参考文献】国際金属歴史学会編『BUMAー4』【執筆者】小菅徹也
・萩流し(はぎながし)
盂蘭盆の八月十六日午後、戸地で行われる精霊流し。佐渡の盆の精霊流しは、月おくれの八月十六日に行う。精霊流しのことを「萩流し」というのは、家に迎えた先祖や新仏の供物・香花の中心が、萩であるところからきており、当日の送り盆の供物がおわると、各戸から供花の萩・ウマウシ・果物・その他仏具などが浜に持ち出され、当番が作った精霊船に乗せて火をつけ、海岸では講中の真言と題目の奉唱に送られる。精霊船は水泳のできる青年・子供たちに引かれながら沖へ流し、集落の人たちが見送る。相川では、萩流しを灯籠流しといい、紙の小舟に火をつけて流す(日蓮宗)。浄土真宗では行わないが、高千以北では、浜で石の上にダンゴと米をのせ、萩を砂に立てて真言を唱えながら、小さな精霊船を各戸でつくって海へ流す。この精霊船は、むかしは麦わらでつくったが、現在は板製にして、供物だけを流して船はもってかえる。また内海府では、組ごとに流す黒姫のようなやり方もあり、小木三崎の琴浦のように、「この日のゴンセン」といっているところもあり、地域ごとに特徴がある。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】佐藤利夫
・白山石楠花(はくさんしゃくなげ)
佐渡のシャクナゲは、ハクサンシャクナゲと呼ばれる高山性のシャクナゲ、この一種しか自生してない。小佐渡山地のナギ(シャクナゲ)の沢のものは絶滅し、大佐渡山地にのみ自生。大佐渡スカイライン沿い、金北山~ドンデン山縦走路、ドンデンなどが群生地である。花期は六月~七月。佐渡の最高峰金北山(海抜一一七二メートル)は、御山と呼ばれる神おわす峰。御山の神は、白雲の中で白い馬にまたがり、手に純白のナギの花をもつと言い伝えられている。ナギの花は神の花。ナギは儺木で、人にふりかかる難を追いはらう神木の意味で、シャクナゲの古名である。昔は男七才になると父に連れられ御山参をした。山頂で手折ったナギの枝葉は、御山詣りの証である。このナギを神棚に供え、赤飯をたき近隣親戚にくばり、わが子七才の御山詣りを祝った。「石楠花握り御山詣でし睡し子よ」は、真野町の金子のぼるさんの句。大佐渡山地のドンデン。広大なシバ草原に、島状に海状に広がるシャクナゲ群落。放牧地なるが故に、有毒植物のシャクナゲが牛に食われず、純群落化し大群生した。【花期】六~七月【分布】北・本(中・北部)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・白山神社(達者)(はくさんじんじゃ)
宮ノ前にあり、白山姫命・伊弉冊命を祀る。旧名白山権現と称す。開創年代は諸説があり、『宝暦寺社帳』には、天正十八年(一五九○)勧請、社人源左衛門とあり、明治二十五年の「書上」には、この源左衛門は、「大野村(新穂村)の大野殿・本間小次郎の子孫で、達者村の開祖にて、この社を祀る」とある。また御神体は、三寸程の金属性で、三浦藤吉の祖先が畑地を耕作中、出現したと伝えられている。この三浦氏は、中村に屋敷をもち、「たばせ垣の内」の水利権をもっていたことから、達者では中心的な百姓であり、本間氏とともに達者の鉱山稼ぎに来て、鉱山が衰退すると水田を開発したものと思われる。一方、釜所地区(北側)には熊野神社(祭神は伊弉冊命)があった。塩焼きを生業としていた地域で、創立年代は諸説があり定かではない。白山神社より古いという説もある。この宮は、明治十一年(一八七八)十二月、白山神社に合併された。白山神社の祭日は、旧九月十二日とあったが、今は十月十二日。芸能は、鬼太鼓・豆蒔き・獅子・富山流薙刀と棒術を奉納する。安政三年八月悪病流行の際、真光寺法導院の山伏が五郎平に宿泊し、若者の要望に答え、鬼太鼓及薙刀を伝授したのが始まりという。【参考文献】『金泉郷土史』、矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】三浦啓作
・羽口屋(はぐちや)
『佐渡相川志』に、「羽口はすべて吹所の吹車に用いる土細工なり。先年は大沢に善右衛門・三九郎・市左衛門・五左衛門・惣次郎・孫次郎・与兵衛あり。中頃伊兵衛・善四郎・長兵衛・八右衛門・長左衛門、当時は南沢に伊兵衛、同善光寺前の長兵衛、羽口の外砂鍋土器を焼く。往古に是等土器も他国より来たれり。」とある。羽口は吹所(鉱石精錬場)用の鞴の先につける道具で、専門の職人七人が焼いていた。当初は買石・山師が使用したが、後年は主として買石が使った。後に大沢ばかりでなく南沢等へ散り、業者数も少なくなった。江戸前期から専門業者を羽口屋と呼ぶようになったが、幕末には伊藤甚兵衛家も羽口屋を屋号に使っている。羽口屋と云えば、伊藤甚兵衛を指す者が多いのも頷ける。『佐渡相川志』に云う南沢の伊兵衛は、伊藤伊兵衛のことを云うのであろう。【関連】羽口屋甚兵衛(はぐちやじんべえ)【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】佐藤俊策
・バクトゥ(ばくとぅ)[キュウセン] バクトゥが、博徒に由来するか否かは不明であるが、キュウセン(求仙)というベラの一種に付けられた方言としては、全国で佐渡だけらしい。北海道から南日本まで、広く日本の沿岸に分布する魚であるが、個体数は佐渡ではホンベラ(本遍罹)より少ない。雄と雌で体色が異なり、色彩に応じて、佐渡では雄をアオバク、雌をアカバクと呼び、さらにその遊泳行動からシマメグリ(嶋巡り)とも呼ぶ。幼魚時代は橙色で、初めは卵巣が発達して雌として機能し、その後に精巣が発達して雄になる。すなわち、雌性先熟の性転換を行う。ベラ類には、性転換を行う種が多く、老幼によっても体色や斑紋の異なる種もある。キュウセンやホンベラ(エトリ・餌取りの名がある)は、夕方になると砂中に潜って眠り、明け方に起き出して索餌行動に入るという、変った習性をもっている。しかし、ニッカリとかタッカリと呼ばれているササノハベラは、砂中へ潜らない。ベラ類は、釣りの対象として人気があり、焼き干しにしてだしに利用されたり、焼き魚を砂糖醤油で煮たり、秋祭りの魚として賞味されたりする。なお、バクトゥの名は、江戸の諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』や、田中葵園の『佐渡志』に出ている。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・羽黒神社(はぐろじんじゃ)
北片辺の産土神で、倉稲魂命を祀る。例祭日は四月十五日。『佐渡国寺社境内案内帳』では、「文禄元年(一五九二)勧請。社地二畝二五歩。社人豊右衛門」となっている。同地には別に、山王権現・社地四歩・社人権兵衛、若宮権現・社地四歩・社人次郎兵衛がある。社人豊右衛門は百姓でなかったから、神社の鍵取りとして専属で神事を勤めたと考えられる。山王社の社人権兵衛、若宮社の次郎兵衛ともに百姓で、それぞれ二、三か所に居屋敷がある。その土地に住んだ時期が近世初頭とみられるから、羽黒神社の勧請も記録通りであろう。羽黒神社は北狄にもあるが、羽吉(両津市)・安養寺(金井町)の羽黒神社はじめ、山田(佐和田町)・野浦(両津市)・柳沢(赤泊村)・大泊(羽茂町)にあり、八か所にすぎない。羽吉の羽黒神社の祭神は、夜長浜に上陸した寄り神で、神体山は五月雨山といわれており、佐渡の最初の羽黒神社と考えられる。北片辺の場合は、藻浦崎の南部を中心にして鮑採取をしていた、海士たちの守り神として祀ったのかもしれない。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】佐藤利夫
・羽黒神社(北狄)(はぐろじんじゃ)
前の田にあり、祭神は倉稲魂命。天正六年(一五七八)創立。旧名羽黒権現、嘉永四年羽黒神社と改称。明治五年(一八七二)の書上状には、「北狄・姫津弐ケ村入会鎮守」とあり、当時は姫津も氏子だったという。宮守りの佐治兵衛家は、羽黒本社のある羽前田川郡の豪族、斉藤氏の流れをくむといわれ、羽茂町三瀬の羽黒神社所伝の、「羽黒山に座す出羽神社より奉還の際、海路に於て船底破損し海水侵入しければ、鮑数多く破損箇所に螺集し、海水の侵入を免れ上陸せり。依って当時神誓をなし、氏子一同鮑を食わざる事、今尚昔の如し」が、斉藤家に伝わる「鮑食わず」の口碑に酷似しているといわれている。斉藤氏の中の万五郎は、流人の伊勢祭主を世話したという。例祭日は十月十九日。境内には、脇宮として「風宮神社」(祭神・級長戸辺命)がある。【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、矢田求他『平成佐渡神社誌』【執筆者】三浦啓作
・箱番匠(はこばんじょう)
近年まで地方在住の番匠(大工)には、まだ十分な分業がみられず、普通の番匠(家大工)・宮番匠・船番匠など、大ざっぱな分け方しかできなかった。その中で、比較的早く分業をみた箱番匠がある。いまわかっているのは、佐和田町八幡で砂防林の松林が成長して、砂畑を利用した野菜つくりが主業となり、その副業を兼ねて桐栽培をするようになってからである。つまり桐箪笥や桐箱の副業から、専業の箱番匠の村が成立した。桐材は、耐火性・耐湿性と軽量という長所があって、衣類・書類を保管する箪笥が普及しだしたのは、一七世紀中葉の明暦(一六五五ー五七)の頃からである。都市部では、長持・長櫃など大型家財の収納が先行し、箱ものに移行したらしい。桐は軟材とはいえ、扱う刃物はかえって鋭利性が要求されるので、ノミやカンナなどが構造的に異なっていて、そこにも分業の動機があった。その点で、建築付属家具の建具とは共通するかにみえて、本質的に動機が別であり、建具職の歴史が比較的新しいのはそのためである。明治中期に松ケ崎から北海道に移出した品のうち、箱物は硯箱・文庫・銭箱など一六種目あるが、木製建具はみあたらない。【参考文献】『万都佐木』(畑野町史)【執筆者】本間雅彦
・ハコフグ(はこふぐ)
ハコフグ(箱河豚)の名と画は、滝沢馬琴の『烹雑乃記』や、田中葵園の『佐渡志』に載っており、江戸時代から珍希なフグとして、注目されてきたことが分る。暖海南方系の魚類であるが、幼魚は佐渡沿岸でも採れ、冬季に浜辺へ打ち上げられたりする。体が硬い甲板で覆われ、断面が四角であることが特徴で、体色は黄色がかり、青色の斑紋が沢山ある。肉は白身で無毒であり、食用にされる。しかし、佐渡や越後では乾燥して、置物に利用する程度にすぎない。新潟県内では、ハコフグの仲間として、ハマフグ・コンゴウフグ・ウミスズメ・ラクダハコフグ・ミナミハコフグなど、いずれも珍希な種類が記録されている。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・はしご乗り(はしごのり)
【別称】相川相壱会(あいかわあいいちかい)
・播種場(はしゅじょう)
明治十年代に各郡に設置された、近代農法の研究と普及のための機関。新潟県会では、各地の土地・気候条件に適応した農法の研究と普及を目指し、明治十三年(一八八○)一月に、「各郡へ播種場ヲ置キ、新潟農事試験場ノ付属トナス」ことを決議した。そして、各地で栽培されている作物の種子で、優良なものを試験栽培し、広く一般の農家へ配付することにした。佐渡三郡でも、この県会の決議に基づいて、明治十三年四月の三郡戸長会議で設置を決議している。資金は、共有金(奉行所時代に蓄えられていた金や穀物で、三郡連合会が引継いだもの)の内の興産資金を充てることにし、八幡村(現佐和田町八幡)に開設された。開設の時期は明確ではないが、明治十四年三月の「新潟県勧業報告第七号」に記事があることから、これ以前であることがわかる。明治十五年三月二十日、新潟農事試験場で新しい農学と技術を学んだ植田五之八が、担当人(場長)に就任した。しかし、経済的理由もあって播種場が明治十七年頃に閉鎖されると、植田は施設や器具類一切を譲り受け、自分の屋敷内に私設の農事試験場を開設した。【関連】植田五之八(うえだごのはち)【参考文献】石瀬佳弘「明治期の勧農政策と佐渡における稲作技術の発達」(『佐渡史学』13)、『新潟県勧業報告』【執筆者】石瀬佳弘
・波食甌穴群(はしょくおうけつぐん)
英語のポットホールの訳語として、カメ(甌・甕)型の穴の意で、甌穴が用いられて来た。一般に甌穴は、急流河川の河岸や河床の、堅い岩面に穿たれる円形の深いカメ型の穴で、水流によって浸食される河食型が多い。一方岩石質の海岸、つまり磯浜の岩面に穿たれる同様の穴の場合が波食甌穴である。これは打ち寄せる海波が、磯の形状によって局部的に渦流を生じ、その水流が浸食を及ぼすと共に、渦流に巻き込まれた岩屑が削磨材となって、円形の穴を穿つ。潮間帯に多く、その上下数メートルの位置に形成される。穴の大きさや深さが二ー三メートルに及ぶものもあるが、一メートル以内が多い。凝灰角礫岩の様な、削磨材の生じ易い地質の場合に、多数の甌穴を形成し、波食甌穴群となる。佐渡では相川町の平根崎、同二見半島南西端の台ケ鼻、小木町宿根木相馬崎に好例が見られる。【関連】平根崎(ひらねざき)【参考文献】伊藤隆吉『日本のポットホール』(古今書院)、地団研地学事典編集委員会『地学事典』(平凡社)【執筆者】式正英
・波食台(はしょくだい)
岩石質の海岸に於いて、急な海食崖(波食崖)下の浅海底に生じ、沖合に向かって広がる平坦な又は緩傾斜な台状の地形。潮間帯(高潮位と低潮位の間)の平坦な部分を、波食棚として区別する場合もあるが、この部分は波食に干陸時の風化が加わり平坦となる。浅海底に、波食により台状の地形の造られる深さは二○メートル以内迄、普通海岸から沖数百メートル位の範囲である。徐々に隆起する海岸で、波食台の幅が大きくなる傾向がある。隆起波食台は、地盤の隆起運動によって干陸化した波食台であり、海岸段丘の下位を構成する事が多い。佐渡島の海岸線は隆起傾向にあるため、波食台の地形が海崖下に多く見られ、磯漁業に利用され易い。とくに小木半島・二見半島南西端・千畳敷沿岸には、隆起波食台と共に波食台の発達がよい。【参考文献】『地形学辞典』(二宮書店)、茅根創・吉川虎雄「房総半島南東岸における現成・離水浸食海岸地形の比較研究」(『地理評』五九巻一号【執筆者】式 正英
・八幡宮(はちまんぐう)
下山之神。『佐渡国寺社境内案内帳』には、「正和三年、相川大間町浜の神岩より臨光ありて、柴町上方と申す所に勧請、その後、慶長五年より炭屋町北方院山と申す所に鎮座。寛永二年九月十二日当時の祠官屋敷の東に遷した」とある。この間の来歴には、諸書で多少の違いがみられるが、海からの寄り神である。佐渡金銀山の盛況にともない、住民の崇敬を広くうけた。現在地へは、享保四年(一七一九)七月二十四日に移ってきた。祭礼は、鎮目市左衛門・竹村九郎右衛門奉行時代より執り行なわれ、幕領時代には社殿の普請・修復費および宮建立には、白銀・材木などが下された。また神職には、二割安米の買受を許されていた。祭礼は八月十五日。幕槍を出し、町同心を派遣して警護にあたらせた。現祭礼六月十五日。流鏑馬・神楽がある。【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、矢田求他『平成佐渡神社誌』【執筆者】佐藤利夫
・八幡神社(はちまんじんじゃ)
千本の村袋にある。祭神は誉田別命を祀る。社人は宗右衛門。『佐渡国寺社境内案内帳』に、当社は永禄十一年(一五六八)の勧請とある。なお同書には、千本村に十二権現があり、勧請は永禄四年(一五六一)、社人は宇右衛門となっている。もと千本は下入川といわれ、その草分けは、武内万四郎と言い伝えられている。また言い伝えでは、明徳二年(一三九一)の夏、日照りが続き、入崎浜に千本の塔婆をたて、雨乞いをしたので、千本という地名になったともいう。別にあった熊野白山合殿は、明治四十三年(一九一○)八月十五日本社造営の際、八幡社に合併奉祀した。祭典は四月十五日、鬼太鼓を奉納し、各戸をまわる。この鬼太鼓は石花から習ったという。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)、『高千村史』、『海府の研究』(両津市郷土博物館)【執筆者】浜口一夫
・八升ケ平遺跡(はっしょうがだいらいせき)
羽茂町大字村山字八升ケ平にある、縄文中期から後期の遺跡。遺物は多くないが、土器・石鏃・石槍・石斧・石錐などがあり、なかに後期旧石器と縄文早創期の石槍がある。後期旧石器の石槍は、小木町の佐渡考古資料館保存で、両端が少し欠ける黒曜石製、長さ一九・五㌢の大形のもの。舟底状に湾曲し、北海道紋別郡の白滝遺跡の石槍に類似する。縄文早創期の石槍は、羽茂町史編纂室保管で、珪質凝灰岩製、長さ一五・四㌢の木葉形。草創期前半の特徴的形態で、越後の小瀬ケ沢洞窟にも類例がある。他に島内では、後期旧石器のナイフ形石器一点が、小木町の長者ケ平遺跡から、縄文早創期では、長者ケ平遺跡から有舌尖頭器一点、真野町倉谷の小布勢遺跡から、石槍断片一点などがあり、小佐渡南西部(小木半島側)の段丘に偏在して発見されている。【参考文献】 本間嘉晴・椎名仙卓「佐渡小木半島周辺の考古学的調査」(『南佐渡』新潟県教育委員会)、計良勝範「古代文化のあけぼの」(『羽茂町誌』二巻)、本間嘉晴『佐渡における旧石器・縄文草創期の文化』(「第一回佐渡島学習大学」佐渡博物館)【執筆者】 計良勝範
・八百比丘尼(はっぴゃくびくに)
八百比丘尼の伝説は、「不老長寿の人魚の肉を食べた娘が、八百歳の長寿を保つた」というもので、全国的に関係のない都道府県はないくらい多いという。しかし、生まれたという所は少ないらしい。佐渡では、羽茂に次のような話がある。むかし、大石村の浜講中の人たちが、竜宮城のような所で大変な御馳走になり、土産に人魚の肉をもらってくる。それは、この前の講中の酒盛りの時、仲間に入れてやった男のお返しであったが、その肉はみな気味悪がって浜に捨てて帰った。ところが、田屋の老人だけはほろ酔い気嫌で持ち帰り、戸棚の上に置いたまま眠ってしまう。翌朝、これを食べた一七歳の娘がそのまま歳を取らなくなり、変わり行く世の中に無情を感じて、諸国行脚の比丘尼となる。八百歳のとき若狭国(福井県)小浜で、残り二百歳の寿命を国主に献じ、入寂する。小浜市の空印寺には、洞穴があって入寂の地とされ、今も八百姫明神と崇め祀られているという。羽茂では古くから八百比丘尼には、生家の田屋を冠し「田屋の八百比丘尼」と言い、また、「粛慎の隈」を教えたという話が入るのが特徴である。田屋家は大石に現存し、大石熊野神社の社人として、元亨二年(一三二二)の棟札に、藤井宗正という先祖の名を残し、屋敷内に元禄検地帳に載る薬師堂を持っている。【参考文献】 『日本伝説叢書佐渡篇』、『羽茂村誌』、「八百比丘尼サミット資料・福井県小浜市」【執筆者】 藤井三好
・初山駆け(はつやまかけ)
佐渡の最高峯金北山(一一七二㍍)は、佐渡びとからオヤマと呼ばれ、古くから信仰の山であった。昔は女人禁制で、男子七歳になるとハツヤマかけといい、男親と一緒に、頂上の金北山神社にお参りした。登り口は、相川・小川・達者・北狄・戸中・南片辺・石花・北川内・入川・沢根・五十里・真光寺・中興・新保・吉井本郷・加茂など、至る所にあった。相川町北狄では、男の子が七歳になると、七月二十四日の金北山祭りをめどに、まず海で身を清め、自分の年齢だけの浜の小石をふところに入れ、夜中の一時ごろ男親と連れだって出発した。上り下り八里(三二㌔)の道のりである。北狄川からゲンノハゲ・ウチコシ峠・長坂尻へと登り、そこで相川からくる道と合流した。達者や小川のものは大平へ登り、そこから峰づたいに金北山へ。戸地・戸中のものは、戸地川沿いに南片辺の船山付近まで登り、片辺・石花方面からくる道と合流した。山頂に着くと、浜から持ってきた小石をそこへまき、祠に参った。山が高くなるといった。帰りには、シャクナゲを数本折って持ち帰る風習があり、それを神棚に供えたり、軒下につるしておくと魔よけになるといった。親類衆へは、みやげとして餅などそえて配った。ハツヤマカケをすると、その子が丈夫になるといった。【参考文献】 浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、山本修之助『佐渡民俗ことば事典』【執筆者】 浜口一夫
・馬頭観音(ばとうかんのん)
一般には馬の守護神は馬頭観音であり、牛の守護神は大日如来や牛頭天王とされていた。造立目的の多くは、馬の供養と結びつき、頭上の馬の顔から、馬の無病息災や供養が連想される。造立者の多くは、馬に関係した人たちの信仰によるものである。相川町北狄の馬頭観音は、胎蔵寺境内の大師堂に祀られている。むかし中川権右衛門家の者が、浜の田んぼの田守りにいくと、浜で呼び声がした。近寄ってみると、馬の頭によく似た石であった。これは馬頭観音にちがいないと背負い帰って、寺山の「松の平」に祀った。ところが、沖の船止めをして困ったので、現在の大師堂に移したという。関の馬頭観音も、大波で岩崎長右衛門の田に上った大石だという。この観音堂の祭日は一月十八日で、むかし馬を飼っている男たちが、十七日の晩からおこもりをして真言をくり、高千方面からも参詣者がきたという。相川海士町の観音堂にも、馬頭観音の石塔がたっている。牛の守護神・大日如来を祀る大日堂は、相川海士町や石花(地蔵堂)にあり、牛の石像を祀っている。新穂村瓜生屋の大日霊社は、牛飼いの牛神として有名である。越後の栃尾市には、頭上に牛の頭を載せた牛頭観音があるという。【関連】 牛の信仰(うしのしんこう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八、通史編 近・現代)、石田哲弥『石仏学入門』(高志書院)、『海府の研究』(両津市郷土博物館)【執筆者】 浜口一夫
・花籠(はなかご)
昔は三歳(岩谷口・小泊・金丸・小倉)または七歳以下(滝平・腰細・大和)の子供が死ぬと、家のカドグチやムラの四辻などに、高さ四尺ほどの竹の棒に、竹であんだじょうご形の小さな籠をつけたハナカゴをたてた。なお、そのハナカゴには、子供のゾウリ・オモチャ・戒名札などをつけ、そのそばに椿の葉と水とヒシャクを添えておく。道行く人は哀れを誘われ、その椿を三枚入れ、ソリジャクで三ばい水をかけていく。死んだ幼児の花の役を手伝うのだという。そのハナカゴを相川町二見元村では、三十五日がすむと、墓場の隅で焼き、羽茂町滝平では四十九日間たてておき、五十日めに川へ流した。「賽の河原和讃」によると、親に先だち早死にした幼児は、その罪をとわれ、あの世において花の役や石積みの役をいいつけられるのだという。両津市願のぶきみな賽の河原が、その石積みで有名である。【参考文献】 浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、山本修之助『佐渡民俗ことば事典』【執筆者】 浜口一夫
・羽田城址(はねだじょうし)
相川小学校の北側、標高五○㍍の段丘先端舌状突出部が、「城が平」と呼ばれる羽田城の跡である。段丘下を流れ羽田浜に注ぐ滝ノ沢(大仏川)を天然の堀とし、海岸に向って突出した舌状部の末端は、人工的な空堀で横断している。主部は一○○㍍×一五㍍ほどの細長い形で、その先端に二段の小郭がみられ、北斜面には腰郭が付属する小規模な城址である。城の後方、鶴子へ通ずる旧道上には、三か所の木戸を置いていたことが地名の上から知られる。城に接続する後方台地は、「稲干場」の地名で湧水点をもつ。さらにこの後方の一段上の丘陵上には、旧道を挟んで「天神」「富士権現」という地名もある。垣の内集落の存在したことがうかがわれる。『佐渡名勝志』や『相川町誌』には、相川鉱山開発前に農民小集落が存在したことを述べているが、こうした集落(羽田村元禄検地帳には「垣の内」の地名が二四筆載る)の代表者が羽田城の城主であり、鶴子銀山を所有した沢根本間氏の配下の城であったであろうことを思わせる。今、この城址を中心とした地帯は、「城址公園」として整備されている。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四)、山本仁「羽田村の垣ノ内・城跡について」(『相川郷土博物館報』三号)【執筆者】 山本 仁
・羽田町(はねだまち)
相川町役場に近く、郵便局や警察署のある中心街が羽田町である。北どなりは塩屋町、南どなりは江戸沢と一丁目で、塩屋町側を上羽田町、一丁目側を下羽田町と呼んでいた。鉱山開発以前は、「羽田村」という漁士村(『佐渡相川志』では農人地)であったが、急速に市街地化したらしく、寛永十二年(一六三五)の大火では、瀬戸物町まで四八軒が焼失している。大火があった一二年後の正保四年(一六四七)に、京町から商人が移り住んで、京都から絹ものを仕入れて(これを買下しという)国仲に売り出した。その後、相川の重立った町人の多くは羽田町に住むようになったが、正徳の頃(一七一一以降)より「買売減少セリ(『相川志』)」とある。文政十年(一八二七)の町墨引の絵図をみると、約六○軒ほどのうち、はっきり店構えをしていたとみられる家はおよそ半分で、四人の家大工・番匠はじめ、日雇取二人・医師三人・鉄砲師二人・針灸三人・針仕事などのほかは、名主・中使・世話煎・御番所用人などとなっている。なお同図では、現警察署の位置に廣恵倉御役所が、浜通りには材木町御番所や大きな御用炭御納屋が二棟みえている。【執筆者】 本間雅彦
・羽田村(はねだむら)
相川町(金山町)は、この村より成立。相川四寒村、相川・羽田・下戸・鹿伏の元村。慶長五年(一六○○)羽田村検地帳には、「佐州海府の内羽田村金山町当起」(『佐渡古実略記』)とある。羽田村総刈高は、本刈二五一九刈、見出九○五刈、計三四二四刈。この羽田村について『佐渡古実略記』は、「相川、元ハ海府、羽田村ノ内金山町ト云フ。往古ハ人家モナク山林竹木茂リ、今ノ羽田町ノ処ニ百姓家五、六軒アリ」と記している。鎮守は塩釜神社とみられる。文禄元年(一五九二)創建と伝える。中世までの羽田村には、上相川台地や南沢上流部に垣の内農民がいたが、海岸では塩屋町あたりは古式の製塩地であった。また金山町誕生前の寺院は、医王寺(天正十一年・鹿伏村・天台宗)、観音寺(慶長以前・鹿伏村・真言宗)、銀山寺(永正年中・下寺町・浄土宗)、高田寺(文禄元年・江戸沢・一向宗)、本興寺(永正年中・下相川・法華宗)などであったといわれ、これ以後、多数の寺院が建った。奉行所敷地は半田・清水ケ窪といわれ、ここにいた百姓は移動して、北の海府百姓町を形成し、塩屋町・南沢・上相川の方にいた百姓は、南の羽田百姓町(羽田村)に移った。文化十三年(一八一六)羽田村大絵図では、下戸町の山手側に二六軒の家が建っていた。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・脛巾脱ぎ(はばきぬぎ)
交通機関の発達してなかった昔の旅は、辛苦と危険の多いものだった。そのため四国遍路や上方詣りの長旅に出かける場合は、永の別れを予想し、親族・知己との水盃を交わすことが常だった。ハバキはハバキモ(脛巾裳)の畧で、昔の旅などに脛に巻きつけたもので、その後の脚絆にあたる。はばきぬぎは、そのハバキをぬぐこと、つまり無事旅を終え、そのことを知人(同行者など)と喜び、祝宴を開くことをいう。ハバキヌギに似たことばにサカムカエがある。これは旅に出た者の帰りを、親族や知己が村境まで出迎えて、飲食をともにして祝う習俗である。旅立ちを送る祝宴はサカオクリである。長野県北安曇郡などでは、よそ者が村に定住する場合の保証人をハバキ親というし、東北地方では一般に佐渡と同じように、旅から帰ったときにする祝いを、ハバキヌギなどというそうである。【参考文献】山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、大間知篤三他『民俗の事典』(岩崎美術社)【執筆者】浜口一夫
・浜石(はまいし)
相川町の海岸一帯の浜砂から採取した金鉱鉱石。北沢川(濁川)などの上流の金銀山から、鉱床が風蝕して流れ出した金銀をつつむ脈石(石英)が、永い間波にもまれて破砕され、水流によって運ばれ、白く美しい砂礫の浜を作った。含金砂礫層から採取する砂金掘りも、浜川流しと呼んで同じ海岸で行なわれたが、浜石採取とは区別される。この浜石採取が大がかりに始まったのは、金銀銅などの「重要鉱物増産法」が公布された昭和十三年以降で、部分的には昭和七年ころから始められていた。海岸に眠る浜石の量は、約一○○万トンと推定され、金銀をふくむ莫大な地下資源であった。当時の記録によると、浜石の推積層は四、五メートルから六メートルの深さに達し、地表から二・五ないし三メートルで海水面に達した。海面下はポンプ排水で採取したものの、坑内採掘に比べると低コストで、区域は一丁目以南から下戸浜までの南北一・四八キロの長さで、面積はほぼ二万坪。このうち半分の地積は家屋が建ち並んでいて、約二五○世帯が買収によって立退いたといわれる。相川の海岸は人と機械で一大工場化した。このころ坑内の金品位は、一トン当たり約二・七グラム、銀が七○グラム程度だったが、浜石は平均して金四グラム、銀八○グラムの実収だった。昭和十八年の金山整備まで続いた。戦争国策によったものである。この採取で海岸線の景観は大きくさま変わりした。【関連】浜流し(はまながし)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間寅雄
・浜伊吹防風(はまいぶきぼうふう)
【科属】セリ科イブキボウフウ属 夏の相川町の観光景勝地は、長手岬・春日崎・尖閣湾・入崎と、いずれも岩礁海岸の美しい所である。これらの岩礁海岸を彩る夏の花といえば、岩場に咲くハマイブキボウフウである。セリ科特有のカラカサ状の散形花序の白花が、紺碧の海に映える。夏の岩場を、わたしの天下といわんばかりに群生する。イブキボウフウは、滋賀県の伊吹山に多く、薬草として栽培される中国原産のボウフウに似ているので、この名がつけられたが、その生育地は山地である。このイブキボウフウに似て、海岸に生えるのがハマイブキボウフウである。イブキボウフウより葉は厚く、葉の裂片が広いので、ヒロハイブキボウフウと呼ばれるが、分類的にはイブキボウフウの海岸型の品種である。かって来島した牧野富太郎は、ヒロハエゾノイブキボウフウと教示されたが、現在はこの名はつかわない。佐渡の海岸に多産するハマイブキボウフウは、越後にいっさい分布しないのは不思議なことである。越後には山地にイブキボウフウ、高山にタカネイブキボウフウ(垂直分布の上限一九六○メートル、葉の裂片は糸状で長い)が分布する。【花期】七~八月【分布】北・本【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・浜豌豆(はまえんどう)
【科属】マメ科レンリソウ属 浜に生え、エンドウに似た実をつけるのでこの名がある。浜辺をはい茎葉がびっしり浜をおおい、紫紅色の蝶形花をびっしりつける。砂浜にも岩石海岸にも大群生して、浜のお花畑となる。若い実は莢ごと食べるが、石ころの多い海岸に生える小川(相川町)では、イシエンドウと呼ぶ。「故郷や浜えんどうもなつかしき」。この句碑は河原田小学校の玄関前に建つが、佐々木象堂の句。象堂は蝋型鋳金作家。『瑞鳥』、『采花』などが代表作。人間国宝に指定(一九六○)された。明治十五年(一八八二)河原田本町に生まれ、河原田小学校入学。裏はクロマツ林。林をぬけるとハマナス薮。広く長い砂浜がつづく。早春三月、ここに一群ここに一団と眼をひく真紅の芽生えは、ハマエンドウの芽生え。大地の復活、命の復活である。少年象堂は、胸おどらせてこの芽生えをみたにちがいない。花咲くのは五月。ひしめき咲く濃紅紫色の花は、目くらむほど強烈である。“浜えんどう今も沖には未来あり”。少年象堂だけでない。どの時代も少年たちは花の命に心躍らせ、沖に未来をみた。【花期】五月【分布】日本全土【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・浜田遺跡(はまだいせき)
真野町大字豊田に所在し、圃場整備によって、佐渡考古歴史学会の協力を得て、昭和四十九年(一九七四)七月二十一日から一か月間、発掘調査を実施した。真野町は佐渡の西側に位置し、国府川が平野の中心を流れるが、遺跡は山に連なり、南の海岸地に豊田の漁村集落がある。遺跡の中から1号2号の住居址と、1号2号の古墳を検出し、その下部から縄文後期初頭の土器群が集中していた。1号住居址からは、古式土師器を中心に管玉未成品が5、銅鏃1が出土した。2号住居址からは、須恵器と土師器であるが、土師器は細片のみで図示できない。須恵器は平安初期に位置づけられる。1号古墳の石室は、南に向けて開口する横穴式で、短冊形を呈していたものと推定される。玄室の一部と羨道部は、破壊されていた。遺物は馬具の金具の一部と、刀子・管玉・金環・ガラス小玉である。2号古墳は、水田造成時に破壊され、石室側壁の一部が残っているに過ぎない。遺物はなかった。浜田遺跡は、後期初頭の縄文土器の刺突文の一群や、橋状把手の鉢形土器は、三十稲場式や中葉の三仏生式に類似する。また古式土師から、古墳時代後期の横穴式石室、平安時代初期の住居址やそれに伴う遺物など、4期にわたり断続的に遺跡が形成されている。【参考文献】「浜田遺跡」(真野町教育委員会)【執筆者】佐藤俊策
・浜流し(はまながし)
川流しというのは銀山川通りの、浜流しというのは河口の砂の中にある砂金を採取する作業のこと。浜砂を深く堀込み、涌き出す川水や海水を、水上輪を立てて汲み出しながら、川底の含金砂礫を掘り、もっこで流し場に運び出す。次に水流を引き分けた水路の中に、猫筵を敷並べて含金砂礫を流しかけ、筵目に細かい砂を仕付ける。この砂をゆり板の中に洗い込んで移し、水を張った半切り桶の中で、ゆり板を前後左右に揺すって、比重選鉱し砂金を採取した。ただし、砂金といっても一般的な砂金ではなく、金銀鉱石を粉砕処理した鉱砂が、洪水その他で流失したものから回収したものである。正しくは、鉱石から分離して間のない金粒というべきものである。同時に、金粒が肉眼で確認できるような鉱石の浜石も拾い集められ、粉砕された後、ゆり板で比重選鉱された。汰物は床屋に回された。【関連】浜石(はまいし)【参考文献】『佐渡金銀山絵巻』(相川郷土博物館)【執筆者】小菅徹也
・ハマナス(はまなす)
【科属】バラ科バラ属 北海道の海辺を、花綵の様に彩る北の海辺のハマナス。南下して、太平洋側では房総を南限とし、日本海岸沿いに南下して佐渡に分布、さらに伸びて鳥取砂丘を南限とする。ハマナスは浜梨の転訛というが、佐渡ではハマナスと呼ぶ。岩石海岸では、冬の波にさらされる海岸前線に分布せず、そのすぐ後ろの冬の波にさらされない場所に、帯となって生態配置する。「浜なすは己の位置を失わず」(荒沢勝太郎)の句のとおり。長塚節の佐渡への旅は、明治三十九年(一九○六)九月。小木の宿のランプの下で、宿の女との情景を『佐渡島』に次の様に記す。「どこでとった花かと聞くので、西三川の海岸でとったのだというと“美しいものでございますノ、花というものは花を見て居ると、なんにも要らん気がいたします”といいながら、花弁をかき分けながら鼻へあてたりして“こういう花が海辺にひとりで咲くのでございましょうか”といって驚いている。女は指の先まで白い。“少しも賎しい葉ではございませんノ”といって感に堪えたさまである」。節にとって佐渡は“ハマナスと美しい人の島”であった。【花期】五ー八月【分布】北・本(中・北部)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花』【執筆者】伊藤邦男
・浜旗竿(はまはたざお)
【科属】アブラナ科ハタザオ科 ハタザオは旗竿の意味。ロゼット葉の中心から、細くてまっすぐな花茎を旗竿のように立てる。「花をつけながら、サヤをつけながらドンドン伸びる。これほど上を向いて伸びるものは知らない。タケノコもかなわない」といわれるハタザオ。まさにテンツキ(天に向かって伸びる草木のこと)である。ハマハタザオは浜に生える旗竿の意味。佐渡の海岸のほとんどが岩礁海岸。海に点在する岩礁の岩肌が、真白に遠望されるのがハマハタザオの群生、花盛りである。ハタザオのように丈は高くならず、岩場に生えるものは二○センチぐらい。岩場の乾燥と貧養に耐え、塩風・風衝の風に耐え、岩場一面を占有する。葉も茎もがっしりとしてたくましい。茎や葉には粗い星状毛が密生し、葉も厚っぽい。茎の先にアブラナ科特有の十字形の白花を結び、やがて長い果実の莢ができるが、横向きにならず茎に沿って天を向く。佐渡にはハマハタザオ(花は白色、種子は一列に並ぶ)、ハタザオ(花は黄白色、種子は二列に並ぶ)以外に、山の屋根の岩場にイワハタザオが、大佐渡の尾根の神子岩やドンデンのザレ場に、ミヤマハタザオが分布する。【花期】四~五月【分布】北・本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』
・浜端洞穴遺跡(はまばたどうけついせき)
相川町大字高瀬字浜端一二三五ー一に所在し、四○一平方㍍が昭和四十八年(一九七三)三月二十九日新潟県史跡に指定される。国定公園地域内にあり、主軸は北西方向で、奥行一・七㍍、幅二㍍を数えるが、前面は洞穴の一部が崩落して奥行が短かくなっている。大佐渡山系台地の先端部に位置し、標高四㍍、海岸まで三六㍍を測り、段丘基盤は緑色凝灰岩で、風浪の侵蝕により形成された洞穴である。昭和四十三年と四十四年の両年に、相川郷土博物館が主体となって発掘調査を実施した。堆積層は約四㍍で九層の文化層に大別され、中に黒色炭化物層が五層認められ、当時の生活層と考えられ、土器・石器をはじめ鳥獣骨や貝類片が詰っていた。堆積土はすべて掘らず途中で中止したが、止めた部分に縄文晩期の土器を含んでいるので、縄文遺跡が存在すると思はれる。獣骨はウサギ・イヌ・シカ・イノシシがあり、海獣ではクジラが見られた。鳥骨はカケス・ヒメウ・ウ類・ミズナギドリ・オオハム・キジと多種にわたるが、さすがに水鳥が多い。魚骨ではハリセンボン・フグ・カンダイ・イシダイ・マダイ・スズキ・サバ・ウグイ・エイが認められ、その他にウニ・カニ・マイマイがあった。人骨は壮年期の男性、新生児期・性別不明と成人期以後で男性?、成人期以前・性別不明の四個体が出土し、古墳時代の人骨で、丈が高く屈強な人と判明した。なお、上部の四層からは長一○・六㌢、幅六・八㌢の鹿の肩胛骨を利用した卜骨の出土を見た。卜骨には火を受けた痕跡があり、同じ佐渡の千種遺跡のほか、神奈川県・千葉県・静岡県・大阪府・島根県の遺跡からも出土しており、全国的に数少ない出土例である。また、長二・六㌢、幅七㍉の剥離痕を残す赤玉石の管玉未製品が出土し、国仲方面ばかりの製作ではなく相川にも及んでいることから、佐渡全島で製作した可能性を示唆する。弥生式土器では、浜端式・竹ノ花式・千種式など後晩期が主体を占め、土師器では五領や和泉式など土器は古いが、波蝕洞穴だけあって海に近く、食料に供したシタダミ・ガンガイ・サザエ・アワビ等の貝殻片が圧倒的に多い。しかも現代では想像もつかない大形品が目につく。【参考文献】 「二見半島考古歴史調査報告」(『相川郷土博物館報』)、「佐渡の洞穴文化」(立教大学考古学研究室)【執筆者】 佐藤俊策
・羽茂郡(はもちぐん)
賀茂郡(のち加茂郡)と、他の二郡との境界はまだ理解は容易であるが、羽茂郡は残った島の西半分を、さらに南北に分けるのに複雑な線引きが必要になる。まず大ざっぱにいうと、新町と豊田間を流れる小川内川を遡って、赤泊村境づたいに東に経塚山に至り、そこから飯出山ー小倉トネー東境山に達する線以南が羽茂郡となる。江戸期の村名でいうと、西寄りの側から、渋手村・下黒山村・下川茂村・上川茂村・外山村・山田村・丸山村・河内村・多田村・松ケ崎村となる。当時は、小川内・静平・小泊新谷などの村名はなかったから、現地名で区分をしてみても正確な表示はできにくい。また外山と丸山の間には真野町飛地があって、江戸期の村名では区分できないなど、複雑さを加えている。羽茂の読み方は、ハモ、ハモチがあり、粛慎の故実からウム(ウモ)で表現されることもあるが、現状ではハモチが一般的である。文化年間の書『佐渡志』によると、郡勢は三郡中、面積も収穫高も羽茂郡は目立って少ないが、延喜式の式内社の記載では、近畿との距離のためか羽茂郡がはじめに書かれていて、筆頭社の度津社が佐渡国一ノ宮として扱われているし、また一○世紀の郷の数は三郡中で一番多かった。【関連】雑太郡(さわたぐん)【執筆者】本間雅彦
・春駒(はりごま)
正月や春祭の日に、町や村の家々を門付けして歩く土俗的な芸能。各地にあったが、現在は何らかの形で伝えられている所は、山梨県・沖縄県・群馬県・静岡県と佐渡が知られている。佐渡では「はりごま」と呼ぶ。佐渡の春駒は、舞方と地方の二人が組になって、地方の唄と舞方のアドリブを混へた台詞と、交互に掛合いながら舞う。舞方は、ゼイゴ(農村部)では白面をかぶり、右手に鈴(古型では一六個)が手綱についている木製の小さな駒形(約二五センチくらい。手駒)を持って舞う。相川の市街地で行われた春駒は、黒褐色の頬のゆがんだ面をかぶり、かなり大形の馬の頭部を胸から下げ、馬の尻を背後につけて、乗馬の形をして舞う。近年、前者を女春駒とか夏駒とか呼ぶ習慣ができて、後者の男春駒と分けて呼ぶ者があるが、成立の過程や芸態からみて、手駒型と乗馬型の呼称のほうがよいかと思う。男女とか春夏の区別には、根拠がないからである(註・乗馬型にまつわる味方但馬伝説には、朝鮮の仮面劇「両班〔ヤンパン〕」の影響が感じられる)。春駒の起源には、宮中の白馬の節会説がつよいが、土俗的には養蚕の予祝に関係があり、佐渡春駒にもその痕跡がある。【参考文献】石井文海『天保年間相川十二ケ月』(曽我真一編)、蔵田茂樹『鄙の手振』、本間雅彦『春駒の文化史』【執筆者】本間雅彦
・ハリセンボ(はりせんぼ)[ハリセンボン]
家の軒下に魔除けとして、乾燥品がぶら下げられているのでなじみ深い。ハリセンボン(針千本)は、ハリフグという方言もあるように、フグの仲間で、しかも無毒である。普段は長卵形の体も、膨れるとゴム毬状になり、体全体に生えている棘を立て、外敵に襲われないようになる。この棘は、実は千本では無く、四○○本以下にすぎない。熱帯から亜熱帯で産まれ育ったハリセンボンの幼魚は、世界中の暖海に広く分布し、日本海側でも北海道南部や、極東沿海州にまで運ばれる。大集団で暖流に乗って、高緯度の地に達するのであるが、佐渡ではちょうど冬で、定置網に大量に入ったり、低水温に遭い、凍死ないし仮死状態で、時化の後に浜辺へ打ち上げられたりする。これを、死滅回遊といい、死出の旅路を歩んだことになる。この仲間では、ネズミフグ・ヤセハリセンボン・ヒトヅラハリセンボンも漂着する。これら四種は、南の海ではいずれも三○センチから六○センチにも成長するので、沖縄では食用に供する。その他、イシガキフグや、メイタイシガキフグも漂着することがある。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・春の七草(はるのななくさ)
セリ・ナズナ・ゴギョウ(ホオコグサ)・ハコベラ(ハコベ)・ホトケノザ(タビラコ)・スズナ(カブ)・スズシロ(ダイコン)、この七草が「春の七草」である。『佐渡志』(一八一六)に「薺 和名なづなー正月七種の粥に供す」とでている。また「繁縷・和名はこべー正月七種の粥に供す」とある。『佐渡志』に、初春七種の粥に供すとしてのべられているものは、セリ・ハコベ・タビラコ(ホトケノザ)とアブラナの五草にカブ(スズナ)・ダイコン(スズシロ)を加えた七種、江戸期の「佐渡の春の七草」である。正月七日の朝、七草粥をつくる。「唐土の鳥と日本の鳥の渡らぬ先に 七草はやす ステテコ ステテコ」と、まな板の上の七草を、包丁の柄でたたきながらの、七草粥づくりであった。かっては裃・袴の正装で、七草を刻んだというから、よほど神聖な行事だったにちがいないが、いまはすっかり姿を消した。現在は七草全部は集めないが、セリ・ハコベ・ナズナ・カブ・ダイコン、そしてトウフ・コンニャク・ゴボウなど、七品を入れて七草粥を作る家が相当ある。「なづな粥二膳の箸のつつましく 夫亡き春を母といくたび」(渡辺やす)。【参考文献】 佐渡奉行所編『佐渡志』、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・パレオパラドキシア(ぱれおぱらどきしあ)
脊椎動物哺乳綱の一属。大正十二年(一九二三)に道路工事の際、相川町旧中山トンネルの西側入り口付近で発見された。数個の臼歯が採取されたが、学術雑誌に公表された二個の標本は焼失した。しかし、他の一つは相川小学校に長く保管されていて、現在相川町郷土博物館に収蔵されている。この化石は発見当初、近縁のデスモスチルスと判断されていた。徳永重康によるその後の詳細な研究で、この標本はコルンワリウス タバタイと命名されたが、さらにこれを模式として、パレオパラドキシア属がレインハルト(一九五九)によって提唱され、種名がパレオパラドキシア タバタイに改名された。歯の形にちなんで命名された束柱目に属し、海牛類・長鼻類・有蹄類に近縁と考えられている。現存する標本は、歯根部が欠損するものの保存良好な臼歯である。岐阜県瑞浪・埼玉県秩父で発見されたパレオパラドキシアは、体長数㍍の大型の四肢哺乳動物である。この動物は、近縁種とされるデスモスチルスに似た生態をもつといわれ、海岸に群れをなして生活していたと考えられている。歯は一生に二回生えかわる二生歯性で、デスモスチルスと違い垂直に交換する。歯の形態から、草食及び雑食性の動物とされている。産出地は、北海道南部から中国地方まで広く分布する。この種類が生存した時代は中新世である。【関連】 脊椎動物の化石(せきついどうぶつのかせき)・デスモスチルス
参考文献】 徳永重康『矢部長克教授還暦記念論文集』(一巻英文)【執筆者】 小林巖雄
・番所(ばんしょ)
他国との交易を認められた佐渡の各湊に置かれ、役銀の徴収・密出入国や抜荷の監視、出判業務および問屋の監督、湊の警備などを行った。当初は口屋または十分一役所といわれ、この呼び方は元禄初年まで続いた。十分一は上荷の十分の一の役銀を現物で徴収することで、これを色役といった。上杉支配時代からの臨時物は銀貨で徴収した。沢根五十里番所は慶長以前の設置であるが、他は佐渡が幕府領になり、金銀山の町、相川を中心にして設置されている。相川には材木町番所(慶長九年・木町十分一)、当初は羽州庄内より薪炭・諸材木が入津した。羽田番所は慶長の頃三丁目東側に建ち、元和八年(一六二二)羽田町に移り、諸国のたばこ・酒・塩・油などが入り、色役で徴収した色取物の土蔵があった。柴町番所(慶長十一年・海府十分一)は沖合いが浅瀬で廻船の掛りがなく、地廻わり船で海府から柴・薪・割木が入った。下戸番所は慶長年中に始まったとされるが、まだ一~四丁目の埋立てが行われておらず場所は不明。寛永六年(一六二九)下戸町ができると御番所橋詰に六坪の番所ができた。国中よりの人馬往来のある場所で、元禄四年(一六九一)まで十分一の色役を徴収したという。大間番所は相川湊ではもっとも遅れ、慶長十三年(一六○八)に設置、米・大豆・雑穀・木綿・茶などが水揚され、付属建物に米蔵や色役の「役物蔵」と勝町(商品を評価する場所)があり、米船が出入りした。また、鉱山地にあり、人や金銀鏈の抜荷の監視に当る上相川番所があり、合わせて六か所の番所があった。相川以外は、小木・赤泊・松ケ崎・夷湊・沢根の各番所。上杉支配以来の五十里番所は元禄四年(一六九一)に廃止。相川金銀山には、坑内出入の監視所として間之山番所のほか、六十枚・甚五四ツ留・鳥越四ツ留・青盤四ツ留・中尾の各番所があった。元和八年(一六二二)一か年分諸番所御役納り高は、大間二五五貫一七九匁・海府三○貫七七○匁・上相川四貫八八七匁・五十里二一貫八二五匁・小木一三貫九六七匁・赤泊五貫六八五匁・夷湊二四貫四六七匁・松ケ崎三貫二五五匁・羽田八六貫四二六匁・材木町二八貫三六六匁・沢根一○五貫八五三匁であった。番所は湊出入の通関税徴収の機能がつよく、その役銀は相当な財源になった。番所役人を口屋衆といい、揚荷の評価や徴税事務を行うほか、番所付問屋(水揚)とともに商品の買入れを行った。【参考文献】永井次芳編『佐渡風土記』、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】佐藤利夫
・バンジョウ(ばんじょう)[サンマ]
田中葵園の『佐渡志』に、「夏至ノ後サンマ有リ、方言バンジャウト云フ」とあるが、佐渡特有のバンジョウの名が、番匠(大工)から由来するかどうかは確としない。外洋性の魚で、大群を形成して回遊するが、太平洋側では動物プランクトンをたっぷりと食って、脂肪ののった味の良いサンマ(秋刀魚)である。一方、日本海側は佐渡を含め、産卵のための北上群であるので、不味である。対馬や佐渡では、このサンマの産卵習性を利用して、手づかみにする特有の漁法がある。五~六月の凪の日に、小舟のそばに浮かべたこもやむしろに、褐藻をしばりつけておいて、両手の入る穴をあけ、産卵に寄ってきたサンマを、指の間に挟んで捕えるのである。太平洋側で、光に集まる習性を利用して、強烈な灯火による棒受網で一網打尽するのと、大いに異なっている。サンマの体側に黒点がみられることがあるが、これは小型甲殻類の橈脚類(かいあし類・コペポダ)の、一種の寄生跡である。サンマは、サヨリやトビウオに近い魚であり、形態も互いに似ている。サンマは、四○センチに成長するが、佐渡産のものは塩蔵して、冬季出漁できない時の食品としている。【参考文献】『図説 佐渡島』(佐渡博物館)、『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)、池田哲夫『水産業研究(六巻)』(韓国誌)【執筆者】本間義治
・半田銀山(はんだぎんざん)
半田銀山は、奥州伊達郡半田村にある。戦国大名の伊達氏は、この付近伊達から出て強大な戦国大名となった。金銀の産出が、大名をうみだしたのである。延享四年(一七四七)、銀山は幕府領となって佐渡奉行が支配することになり、役人・山師・買石(精錬業者)を、佐渡から派遣することになった。奉行所からは、山方役三人が派遣された。しかし寛延二年(一七四九)には、佐渡奉行支配を止めて代官支配となり、石見・但馬等の銀山から役人が派遣された。【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】田中圭一
・馬場遺跡(ばんばいせき)
相川町大字北片辺一四七で、石花川川口から約二○○メートル遡った左岸段丘斜面下部の砂丘上に位置し、標高約一四メートルを測る。かって石花川は潟湖の時代があり、昭和三十三年(一九五八)には鎌倉期の丸木舟が出土し、周辺低地が潟湖であったことを物語る。海岸には製塩遺跡があり、後方の山は石花将監の城で、天正年間には海府二二か村を支配していたと云う。佐渡の高峰金北山の裏側にあたり、海に突き出た生浦崎は、潟湖の港へ入る絶好の目印となり、大陸との交通も盛んであったと想定される。昭和五十七年に、町教育委員会の主体で発掘調査を行なった。遺構では床が幾層も表れ、土に黄白土が敷かれ、遺物に鉄片・鉄滓・羽口・彩色土器・製塩土器・可搬カマド・有孔脚台・支脚・丹塗土器・馬歯骨などのほか、焼土・焼砂があり、石川県羽咋市の寺家遺跡や、福井県敦賀市の松原遺跡と同じ出土を見る。帯金具や祭祠用の小形壺等から考えると、七世紀から八世紀にかけての、渤海国使節受け入れの客院があったのではないかと見られる。【関連】粛慎人来着(みしはせびとらいちゃく)【参考文献】「馬場遺跡」(相川町教育委員会)、金沢和夫・山本仁・小菅轍也「相川町片辺周辺文化財調査報告」(『佐渡文化』)【執筆者】佐藤俊策
・ハンヤ節(はんやぶし)
佐渡に伝わる「おけさ節」の元唄となったと思われる唄。元来、九州の田助(長崎県)や牛深(熊本県)・阿久根(鹿児島県)などの港を中心に流行した騒ぎ唄。これがいつ頃佐渡に伝わったかは定かでないが、小木港が北前船で出船千艘入船千艘で賑わった江戸時代の中期頃であろう。遠く九州に発したこの唄は、日本海を北上し、各地の港々に定着した。〔浜田節〕(島根)・〔宮津ハイヤ節〕(京都)・〔白峰ハイヤ〕(石川)・〔庄内ハイヤ〕(山形)・〔津軽あいや節〕(青森)・〔南部あいや節〕(岩手)などがそれで、土地により、「ハイヤ」・「アイヤ」と種々呼ばれるが、佐渡のハンヤ節も〔鹿児島ハンヤ節〕とともにその一つである。ハンヤは出船の掛声ともいわれる。近松作の浄瑠璃『松風村雨束帯鑑』(元禄七年大坂竹本座初演)に、「綾が千反錦が千反、唐物を積みたたへてはんや、ハッアこりゃこりゃ」とある。と同時に、その曲名の起こりは、「ハンヤエー」あるいは「ハイヤエー」という歌い出す、その歌い出しによるものであるが、これがやがて佐渡の小木や越後の柏崎や出雲崎・寺泊に上陸して歌われているうちに「オケサエー」へと変化し、ハイヤ節系〔おけさ節〕を生み出したのである。
(歌)ハンヤー いやそれ枕はいらぬヨ 互い違いの ソーレお手枕 (歌)ハンヤハンヤで 一夜を明かすヨ 一夜明けても 名はハンヤ。【関連】佐渡おけさ(さどおけさ)【参考文献】『日本民謡全集3関東・中部編』(雄山閣)【執筆者】近藤忠造
・柄杓町(ひしゃくまち)
上相川千軒と呼称がある上相川台地の下方で、その最南西部に位置する。現在は人家はなく、山野原野と化した。町名の由来は「ひしゃく」(柄杓)からきていて、熊野の比丘尼がかたまって一町をつくり、勧進のさいに持ち歩いた柄杓から起こった。慶長十八年(一六一三)の相川地子銀帳に、「山先柄杓役」という税目が見えることが『佐渡四民風俗』に記されている。山先役は山先町の遊女から、柄杓役は比丘尼から取り立てた売春税で、相川を勧進した熊野比丘尼が、落ちぶれて公認の遊女に転落していくようすがうかがわれる。「柄杓役」という税目は、のちに港町の小木遊女に課す税目にもなった。公認されない娼婦に課せられるのが、柄杓役だった。元和二年(一六一六)以降、比丘尼の売春は禁じられるらしく、すぐ上隣りの上相川九郎左衛門町に集団移転した。明暦二年(一六五六)の同町宗門帳(教育財団文庫蔵)には、「熊野比丘尼、伊勢清室、年四十六」をはじめ、三○人の比丘尼の生国、来島(出生)年などが見え、この比丘尼と同居していた山伏、伊勢常学院に伝わったという金銅の懸仏や笈(おい)、比丘尼が往来で絵解きに用いた熊野十法界絵図など二幅が、金井町の後藤金吾家に伝えられている。柄杓町には修験の万宝院と三光院の二院のほか、法華寺(日蓮宗)があったが、いずれも廃絶した。【関連】清音比丘尼(せいおんびくに)【執筆者】本間寅雄
・引掛け負い(ひっかけおい)
相川のような坂の多い場所の荷物の負い方。負う者をオイコといった。農村でナゴケ(長桶・負い樽ともいう)を負うとき、また山地の木材運搬のニドラ(荷俵)負いも、荷縄を荷物に引掛けて負うので、引掛け負いである。相川では、米俵・薪・炭・ヤギなどを運搬するのに、この負い方をした。負い具は、地下タビまたはワラジに木綿のキャハン、ゾンザ(サシコ)にオコシ、前掛けをして、肩に丈夫に織ったハッサク木綿を引掛け、背中当をして負うた。米俵は腰に重心をおき、背中にくっつかないように垂直に負うた。薪はバイタといって、海府からバイタ船で積んできて、浜に投げ上げてあった。米は食糧営団にたのまれ、大工町にあった鉱山宿舎へ、バイタは風呂屋へ、炭は吹炭と鍛冶炭があり、鉱山へ運んだ。戦後はこのようなオイコは、自動車の普及で姿を消した。【参考文献】佐藤利夫「ヒッカケ負い」(広報「あいかわ」)【執筆者】佐藤利夫
・人里植物(ひとざとしょくぶつ)
春、開花する人里の植物の主なものには、オオイヌノフグリ・タチイヌノフグリ・エゾタンポポ・セイヨウタンポポ・アカミタンポポ・ナズナ・タネツケバナ・ヒメオドリコソウ・カキドオシ・ホトケノザ・ウマゴヤシ・イヌガラシ・ミヤコグサ・ハルジョオン・オオバコ・カタバミ・オニタビラコ・カラスノエンドウ・スズメノエンドウ・ハコベ・ウシハコベ・ハルノノゲシ・ノボロギクなどがある。人里とは人間の生活する空間で、住宅地・道路・グランド・工場・公園などの造営物の周辺に生活するのが、人里植物である。人里は、人間の影響力が強く作用する場所で、工事などで土地が攪乱される。除草などで成長がとだえる。光が強すぎる。湿気が不足する。常に踏まれる。貧栄養地であるなど、人里植物に働きかける自然は本来の自然とはいえず、作り出された人工的な自然である。踏みつけという過酷な条件に、人里植物は次の様な特徴をそなえている。[1]草たけが低く、茎や葉に強い繊維をもつ(スズメノカタビラなど)[2]茎が地下にあり踏まれても傷つきにくい(オオバコなど)[3]茎は地面すれすれをはい、茎の途中から根を出して伸びていく(シロツメクサ・シバなど)[4]踏まれて固くなり、酸素の少なくなった土の中でも、根が生きつづけられる[5]養分の少ない、やせた土地でも生活できる[6]乾燥や人間の出す汚染物質にも耐えて生きられる。このように、自然界のストレス(悪条件)克服の生態戦略を身につけているのが、人里植物たちである。【執筆者】伊藤邦男
・一人静(ひとりしずか)
【科属】センリョウ科センリョウ属 花も美しい。名も美しい。「君が名か一人静といひにけり」。山かげにひっそり咲くヒトリシズカ。その出会いに“ああおまえが一人静か”と、声のんだ室生犀星の句である。静御前の白拍子(しらびょうし)姿に例えてこの名があるが、義経と別れる際に舞った静の気高いまでの美しさ。私のアルバムの中で最も多いのがヒトリシズカ。いつもこの花の魅力に負けてシャッターを押す。清楚なる山の姫こそヒトリシズカでありましよう。ユキワリソウ・フクジュソウ・キクザキイチゲなどが、早春の山を彩る花とすれば、ヒトリシズカはミヤマカタバミ・ミヤマキケマンなどと晩春の山を彩る花。「ひとりまた一人静にかがみ見る」久下史石。この人もヒトリシズカを好きになるにちがいない。花穂は小さな白花が多く集まってつく。ルーペで見ると、トックリのようなものがひとつあるがメシベ。そばの長い三本の白い糸状のものはオシベ。オシベは一本だが三つの花糸にわかれ、うち二本が葯。清楚な白い花穂をつくる花が、花びらも萼もなく裸の雌しべと裸の雄しべでできているストリップ・フラワー(裸花)である。【花期】四~五月【分布】北・本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・鄙の手振(ひなのてふり)
佐渡奉行所の広間役の蔵田茂樹は、国学者でもあり歌界の貢献者でもあったが、文政十三年(一八三○)に奉行の鈴木伝一郎に求められて、相川の年中行事を著わし、この書名を『鄙の手振』と題した。さし絵は、相川の絵師石井文海が描いた。書名はのちに『恵美草』と改められ、今に伝わっている。【関連】恵美草(ゑみそう)・蔵田茂樹(くらたしげき)・石井文海(いしいぶんかい)【執筆者】本間雅彦
・姫津(ひめづ)
相川町姫津は、慶長年間(一五九六ー一六一四)に、大久保長安が石見の国の漁師を呼んで一村を開き、鑑札を与えて島中勝手次第に漁を許したという。石見から来たのは、徳左衛門・与三右衛門・久八の三人で、達者地内の姫崎先端の を開発「姫津」と命名し、転住したことに始まるとする。寛政十二年(一八○○)の高一五石三斗余はすべて畑で、家数一二三・人数六五六・沖漁船六四艘など、古くは沖漁が中心だったようで、明暦三年(一六五七)の「小物成留帳」には、鮑役はあるが烏賊役はない。石見の漁師によってもたらされた漁法は、主にスケト延縄・サメ綱・シイラづけ漁などの西国の先進技術で、大久保長安により、下相川から願村までの干鱈役・干 役が免除されるなど、特権が与えられた。鮑漁師も、元禄十四年(一七○一)に二二人もいて、海中七尋以上から採る大型鮑は、隣村の磯ねぎ漁とは異なる漁法だったという。櫓も佐渡ではここだけの左櫓である。寛永五年(一六二八)廻船掛り に指定され、翌六年には横目付が置かれ、享保七年(一七二二)に戸地村にあった浦目付所が移された。廻船相手の船宿も賑わいをみせた。明治に入っても港としての機能は衰えず、佐渡物産の移出入も多かった。和船時代の終りと漁獲不振で、明治以降は北洋方面(サケ・マス・カニ工船)への出稼者が多く、昭和十年(一九三五)の遠洋漁業従事者は一一二人もいた。地内の薬師堂は、天正六年(一五七八)の開基と伝え、慶長七年の棟札が残り、石見漁師の到来前に、村の成立基盤があったことを思わせる。本尊の薬師如来は、河原田の本間佐渡守の兜の守神であったという。祭礼は旧暦四月八日。姫津より北狄、約二キロにわたる海岸美は、「尖閣湾」と呼ばれ観光の名所である。【関連】尖閣湾(せんかくわん)・万福寺(まんぷくじ)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)【執筆者】三浦啓作
・姫津大火(ひめづたいか)
昭和四十年(一九六五)四月一日午後一○時五○分ごろ、風呂屋の煙突より出火、瞬間風速一二・八メートルの強い北西風にあおられ、水利不便も加はり、消火が思うように進まず、風下の住宅に飛火し、密集した集落の中心部を焼きつくし、約五時間余りも燃え続けて、午前四時ごろ鎮火した。被害は、住宅六○戸、ほかに公会堂・漁協・納屋など一三戸、被害世帯数六五・被災者三五八人となり、老女一人ショック死、一一人が重軽傷を負った。男の出稼ぎの多い漁村のため、女子消防班の活躍にめざましいものがあった。姫津集落では、大正元年(一九一二)の五一戸、昭和二十一年(一九四六)の一六戸についで、三度目の大火である。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「新潟日報」、加賀三次「回想録」【執筆者】三浦啓作
・姫津郵便局(ひめづゆうびんきょく)
明治九年(一八七六)一月に、五等郵便局として姫津に開設。切手類を売り、郵便物引受事務を取扱ったが、その他は相川郵便局で取扱った。初代局長は西野善平である。明治四十年三月無集配三等郵便局となり、郵便為替と貯金の取扱いを開始する。やがて同四十三年十二月からは、電信の取扱いを始め、さらに簡易保険(大正五年)郵便年金(大正十五年)、公衆電話取扱い(昭和四年)電話交換事務(昭和九年)など、次第に業務内容を充実し、昭和十一年三月には、旧金泉全区(小川~戸中)の郵便物集配を開始し、集配局となる。その後電通の合理化により、昭和四十六年十月電信・電話業務(交換)は、佐和田電報電話局に吸収された。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『金泉郷土史』【執筆者】浜口一夫
・姫檜扇水仙(ひめひおうぎずいせん)
【科属】アヤメ科ヒメトウショウブ属 なまえは姫檜扇水仙の意味。園芸名はモントブレッチャ。南アフリカ原産のヒオウギズイセンと、ヒメトウショウブの交雑種。フランスで交雑され、初めて花を咲かせたのは一八八○年という。日本には、明治の中頃の一八九○年頃渡来した。佐渡にも、大正時代に観賞花として庭に植えられていた。日本西南部の暖地では、野生化し大群落をつくるが、佐渡でも人里に多く野生化している。夏、枝先に緋赤色の花を、総状に多くつける。花は小さな金魚そっくりの形で、佐渡ではキンギョソウと呼び、盆花として佛前に供えた。鹿児島では“癌の花”と呼び、球根を煎じて胃癌患者に飲ませて治したの報告がある。新潟市の人から、「胃癌患者に飲ませたら激痛がなくなり、腹水も引き、会話もできる様になり、退院した」の話が伝わり、佐渡では平成四年以降、静かなブームをおこしている。地下の球根は、幅二センチ、高さ二センチの大きさ。一回量は、球根一個をすりおろし、二七○㏄の水で煎じる。一日三回服用。胃癌の痛みだけでなく、首の頸骨間ヘルニアの激痛にもよく効くという。【花期】七~八月【分布】帰化植物【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『佐渡薬草風土記』【執筆者】伊藤邦男
・漂着植物(ひょうちゃくしょくぶつ)
「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ」。ヤシの実が四○○個も漂着した年がある。昭和十年(一九三五)頃、大佐渡の入川海岸である。あまりにも多いので、ヤシの実を満載した船が遭難したのではないかといわれたが、北上する対馬暖流が運んだものである。漂着植物が多いのも、佐渡の植物相の特徴である。漂着植物は、ヤシ・ニッパヤシ・ゴバンノアシの果実、モダマ・グンバイヒルガオの種子、いずれも熱帯~亜熱帯をふるさとにする南の植物である。昭和六十年九月、二見半島の高瀬の猫岩の浜に漂着したグンバイヒルガオは、五○センチにもなる長いつるを八本も伸ばし、軍配そっくりのピカピカした葉を一○○枚あまりつけ、南国の若い王子を思わせる元気な株であった。四国以北では越冬できず命果てるが、翌年は姿がなかった。モダマの種子を一個持っている。北の海辺の藻浦に漂着したもので径五センチ、厚さ二センチの濁黒紫色の光沢ある楕円体の種子。海藻に混って浜に打ち上げられるので、海藻の種子とされたが、熱帯産の陸生の常緑マメ科のつる木。一メートルの長いサヤをつける。モダマの色つやは南の色つや。耳にあてると南の潮騒が聞こえてくる。【花期】夏【分布】沖・小笠原【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー秋』【執筆者】伊藤邦男
・開(ひらき)
鹿伏の海岸段丘上の地名。近世初頭に開発されたため「開」と称した。相川が、金銀山の町として繁栄すると、各地から人が集まり、需要の急増した米を確保するために開発された。金津市永宮寺(浄土真宗)住職とともに、越前国足羽郡上文珠村岩倉幸助(了祐)・加賀多兵衛・今井助左衛門他一名・金津甚兵衛・同甚太郎・土屋庄左衛門ら七名が、元和二年(一六一六)夏、相川に渡来し、翌三年、岩倉らは鹿伏の段丘上に、奉行所より開墾許可をとった(岩倉家文書)。今井は相川、金津は戸地、土屋は北田野浦へ、それぞれ入村している。現在、開には岩倉家と萩野家の二軒のみであるが、文化十三年(一八一六)鹿伏村絵図には、作兵衛・惣兵衛や、屋敷跡として十兵衛屋敷・六助屋敷などもあり、当初には一○軒くらいあり、「ひらき村」として別村になっていた。船手役の辻一族の墓地もある。寛永年間の身売り証文によると、摂津国助五郎が開の畑と女房を質に入れ、山主片山勘兵衛から生活費を借りていた。金山が不況になると、開発した土地を人手に渡している。相川の近郊地域は、金銀山の好不況につよく影響された。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】佐藤利夫
・平城遺跡(ひらじょういせき)
赤泊村大字赤泊字中浜および平城の海岸段丘に所在する、縄文後期主体の遺跡。荒町川と中の川に区切られた範囲で、赤泊小学校のところ(中浜、標高二○メートルの低位段丘)と、その裏手台地(平城、標高四○メートルの中位段丘、以前オボネといった)で、両者をあわせて平城遺跡という。明治四十年(一九○七)、赤泊小学校敷地整地中などで遺物が出土したが、中浜地域は堙滅した。縄文中期の土器が若干あるが、後期前葉の三十稲場式から中葉の三仏生式が中心をなし、晩期もみられる。石器は、石鏃・石斧・石槍・石錐・石匙・石皿・敲石・環石・石錘・石棒・有孔石斧などがある。平城遺跡の左側台地(標高六○メートル)には、城山と呼ぶ赤泊本間氏の赤泊城址があるが、赤泊小学校のところが平時居館の平城地で、縄文時代平城遺跡の中心域でもあった。一帯からは、中世の焼物や須恵器なども出土している。【参考文献】『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告 第七輯』(新潟県)、『新潟県史』(資料編1 原始・古代一 考古編)、『赤泊村史』(下巻)【執筆者】計良勝範
・平根崎(ひらねざき)
相川町戸中集落の北側に、防波堤の様に西に突き出す小半島。三○メートルの高さの海岸段丘面の海に接する斜面は、地層の層面が地形の背面となるケスタ地形を呈する。地質は新第三紀中新統中期の下戸層の石灰質砂岩・礫岩の互層であり、走向は北東ー南西・北西に二○度傾斜し地形も平行している。石灰質は、ホタテガイ等の貝殻の集積して生じた貝殻石灰岩で、その露出地として貴重である。また高潮面と低潮面との間、及びその上下の位置に、見事な波食甌穴群が見られる。五○○メートルの区間の南部と北部に甌穴が集中し、合計七八個に及ぶ。平面形は円形で、径二メートル以上の穴が一四個もあり、深さは直径の一・五倍もある。平根崎の波食甌穴群は、昭和十五年(一九四○)に国の天然記念物指定を受けている。
【関連】波食甌穴群(はしょくおうけつぐん)【参考文献】渡部景隆編『日本の天然記念物六 地質・鉱物』(講談社)、伊藤隆吉『日本のポットホール』(古今書院)、「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】式正英
・広間町(ひろままち)
奉行所構内および付属施設のあった場所で、無税のため町屋から除外されていた。佐渡奉行所跡・相川病院・帯刀坂の一部を指す。かっては、南北組頭役宅・後藤役所・佐渡奉行所跡・同心町が入り、剣術道場・学問所・孔廟(裁判所跡)は米屋町、外吹買石勝場は新西坂町になる。明治になり、広間町には県庁舎・警察署・測候所・小学校・旧制女学校などが置かれ、政・文教地区で繁栄した。また、向いは鉱山病院を設置して鉱山従業員ばかりでなく、一般町民を対称に治療したが、鉱山閉鎖後は相川病院となった。大久保長安は、鶴子銀山から陣屋の移転を決め、山師の所有する土地を購入して、慶長九年(一六○四)に佐渡奉行所をつくり、渡海には大勢を従えて入国した。当時の敷地は広く、施設は贅の限りを尽くした。元和四年(一六一八)に鎮目奉行によって現在の敷地に縮小し、後を後藤役所や組頭の役宅に利用した。また、施設も取り払って身分相応に建て替えた。現在、奉行所復元のための工事が進められ(二○○一)一部公開されている。【関連】佐渡奉行所跡(さどぶぎょうしょあと)【執筆者】佐藤俊策
・広間役(ひろまやく)
佐渡奉行所の職名。佐渡奉行所の最高幹部で、佐渡奉行を補佐する組頭のもとで、佐渡支配の重要政務を統轄した。広間とはその執務する部屋で、奉行所の中央にあり、広間役の名前はこれに由来する。組頭・広間役・目付役・書役がここで政務をとった。広間役の職名は、宝暦八年(一七五八)に初めて用いられ、その前身は寛永十二年(一六三五)に置かれた御判方役である。これは定員一人で、奉行裁可の裏御判を押したことから付けられた名称と考えられる。その後、正保年中(一六四四ー四七)に留守居役、正徳三年(一七一三)に月番役と改称され、宝暦八年に広間役となった。広間役は、この時定員一○人を六人に減らし、その六人の内二人を江戸より派遣することにした。六人の広間役は、広間の他に町方・在方・山方・勘定方・公事方の六つの役所に配属され、例えば町方掛広間役と呼ばれ、町方役所の事務を統轄し代表・責任者であった。のち、さらに広間役助一人、ついで同当分助一人を置いて広間役を補佐させた。地役人から就任した広間役四人は、地役人として最高の職で、給与も二十人扶持四十~九十俵と、地役人の並高が二十俵三人扶持であった中では優遇され、優れた人材があてられた。職務内容は、銀山・地方・町方その他諸役所からの御用を受理して原案を作成し、奉行決裁を受けて各役所へ申し渡すこと、金銀納め方・払い方證文(金銀出納)、諸御入用物渡し手形の吟味のうえ裏判(許可印)を押すこと、諸役所からの諸帳簿の受理、公事訴訟・出判・諸番所からの報告、御公納鏈の売却など多岐にわたっている。【関連】留守居役(るすいやく)・月番役(つきばんやく)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】児玉信雄
・風神(ふうじん)
相川町関のトドノ峰や知行山には、風の神さまを祀っている。また、ムラの諏訪神社(カギトリは安藤孫左衛門)にも風の神さまを祀り、祭日は共に七月二十七日と二百十日の両日で真言あげ、昔は諏訪神社に、小さな鎌の刃を糸でつるしてあったという。同じ海府の、真更川の諏訪神社も風神を祀り、多くの鎌が奉納されている。諏訪社はそのほか、高下・小田・二ツ亀などにもあり、季節風の強い海府方面の、風除け祈願の強さを示しているようである。なお、下相川の青池近くに大岩があるが、これを風の神といい、九月一日が祭りで祝詞をあげ、その後、重立と神主が飲み食いをした。入川の富士権現も風の神さんで、祭日は九月九日、沖を通る船は帆下げをした。北田野浦では八朔の日に、若い衆が間峯(大佐渡山脈の山名)の風の神「風の三郎さん」に参詣し、取入れ期間中、大風の吹かぬよう祈った。越後の湯沢や秋成には、風袋を背負う風神の石像が残っているという。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『高千村史』、『日本石仏事典』(庚申懇話会)【執筆者】浜口一夫
・吹上(ふきあげ)
相川市街地の東北端、石工町から小川に行く途中の浜に、弁慶の挟み岩や、鎮目市左衛門奉行の墓がある。ここが吹上である。石工町の名は、この浜で鉱山用の石臼や石塔などを切り出していたことによる。鎮目奉行の墓が、大量の切石の積み上げによって立派に出来ているのも、採石地であったという事情もあるが、奉行の治績に対する町民の感謝の表われと、後世の地元民はみている。相川出身の浅香寛は、『佐渡案内』(大正十二年、佐渡日報社刊)で、吹上の鎮目奉行の墓について、「相川の民、今尚ほ其徳を追慕し、毎年旧四月十四日の忌日には墓前に賽詣して、香華を供する者多し」と書いている。また『佐渡相川志』は、「此処ニ新八・弥次兵衛トテ非人小屋アリ。弥次兵衛ガ後ノ岩ニ四尺二三間斗リノ穿石アリ。是ハ昔小川殿ノ塩風呂ノ由。元禄年中ニ古キ馬具アリ。」としている。吹上に石切場を開いたのは、播磨生れで越中に住んでいた五郎兵衛という石工の棟梁で、この人は慶長八年(一六○三)に、初代佐渡奉行大久保長安の指図で相川陣屋が築かれるとき、堀の石垣をとる目的で来島したと、磯部欣三の研究で明らかにされている。【関連】 鎮目市左衛門(しずめいちざえもん)【執筆者】 本間雅彦
・吹上流紋岩(ふきあげりゅうもんがん)
相川町吹上周辺の南北約二キロメートル、東西約一キロメートルの範囲に分布し、相川層に貫入している流紋岩の岩体。紫灰色~灰色で流理構造がよく発達する。一部に球顆構造が形成しており、そのような部分は球顆流紋岩と呼ばれる。佐渡島には流紋岩の貫入岩体は数多く存在するが、尖閣湾の貫入岩体とともに、代表的な岩体である。【関連】尖閣湾(せんかくわん)【執筆者】神蔵勝明
・福寿草(ふくじゅそう)
【科属】 キンポウゲ科フクジュソウ属 日本の野生品と同じものが、東シベリアや中国大陸に分布し、アムール・アドニヌ(アムールの美少年)の英名で呼ばれるが、幸福と長寿のむすびついた日本名の福寿草の名がいちばんよい。佐渡金銀山の奉行川路聖謨も「この国の金山の福寿草は銘物なり」とし、「福(さいわい)の寿じ春に千よや経む こがね花咲くこの山の草」と、黄金山での採金が、千代に栄えむの願いを歌に託した。「福寿草家のどこかに母のゐて 五行」「妻の座の日向ありけり福寿草 波郷」。母がいて、妻がいて、福寿草の花がまぶしくて、なによりの新年である。正月に花を咲かせるには、鉢植えを年末三日間夜だけ浴槽に箱を浮かべて乗せておく。フタで密閉しないこと。元旦は三分咲き。次々とゆっくり咲かせるのがよい。佐渡でも、冬の季節風に直面する北西むきの海岸、カシワ林内に大群生する。冷たく寒いことが好きな花である。和木では「フキンジョ(フクジュソウの角芽)が出ると野良仕事」という。鷲崎・願・北鵜島では、開花が嫁の外仕事を告げる花。ムギの肥えくれの長桶負いがはじまる。この花をヨメナカセと呼んでいる。【花期】 三~四月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・福泉寺(ふくせんじ)
下寺町石坂にあり、真言宗単立。近世の頃は佐和田町談議所坊長福寺末。現在は佐和田町の円照寺が兼務。本尊は不動明王で山号は慈眼山である。開基は慶長十七年(一六一二)と寺社帳にあり、最初は下の墓地の所にあったが、貞享元年(一六八四)浄土宗の西念寺が左門町に移転したので、その跡地に建てたと伝えられる。【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】近藤貫海
・福浦遺跡(ふくらいせき)
両津市大字加茂歌代の福浦地帯にある、縄文後期を主体とする遺跡。加茂湖に面した海抜五メートル内外の洪積層台地で、ゆるやかに傾斜して加茂湖岸にいたる。現在は市街地化されて殆んど淫滅し、遺跡のおもかげはうしなわれているが、福浦の国道北側台地一帯にひろがる、大きな遺跡であった。昭和二年(一九二七)四月に清野謙次、同六年八月に斎藤秀平らによる発掘調査があったが、斎藤善兵衛宅(元NTT両津支店)を中心に、土器と石器が混合出土し、西方一帯は土器が多く、東方一帯は石器が多く出土した。縄文土器は『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告 第七輯』(昭和十二年)によると、坪穴式・長者ケ原式・塔ケ崎式・三十稲場式・三仏生式の中期から後期のものがみられ、土製耳栓形彫刻文耳飾一点(後期)もある。石器は、石鏃・石斧・石槍・石匙・石棒・石剣・石槌・石錐・石錘・石皿・凹石・管玉などである。貝塚は明らかでないが、一部に貝層があったとみられ、ハマグリ・サザエ・シジミなどを混在し、なかでもシジミが最も多いとする記載があり(本間周敬『佐渡郷土辞典』)、イノシシの獣骨も出土している。また貯蔵穴からは、炭化したクリが多数発見されている(本間嘉晴「佐渡の原始・古代」)。【参考文献】新潟県『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告』(三輯)、池田寿「鴨湖畔の石器時代遺跡」(『佐渡史苑』二号)、清野謙次「佐渡紀行」(『佐渡史苑』三号)【執筆者】計良勝範
・富士権現(ふじごんげん)
富士権現は、現在小学校の前を流れる馬町川の上流にあって、水田の上は畑作地帯であり、近くには寺の礎石の跡や、小石を積んだ塚があったといわれる。南沢の三寺家で祀っており、三寺の先祖は山伏であった。三人で当地へ来て、それぞれ寺を建てた。それで三寺という姓が生まれたという。最初は富士権現に建て、信仰すれば家が栄えるといわれ、九月十二日が祭礼日と伝わり、この日には赤飯を供えるのが通例であった。また盆や彼岸には、お参りする風習が続いた。山伏は古代から存在し、深山幽谷を霊場としていた。富士権現は、名前から江戸時代の霊山信仰にはじまったと推測され、金山の発見に貢献したかも知れない。むしろ相川金山の発見につながる公算が強い。石井文海の描いた「相川十二ケ月」に、富士権現大根曳の図があり、説明書きに「十月、富士権現といへる山畑より、大根若干を曳出し市にうる、このあたり、下町の家続より春日崎の遠望、所々の木すえ紅葉して好景あり」と見え、下町の家並みと春日崎が遠望できる。水田の上に畑と道がつき、大きな木々が生えて付近は山畑であった。『佐渡四民風俗』は「相川南沢の上、富士権現と申す所の土、此の辺にては宜しく候へ共」とあるのを見ても、良土がいっぱいあったことが分る。土は第二酸化鉄を多く含み、無名異焼によく使われた。また鉄分の少ない白い「うまのう」土と呼ばれる良質粘土があったが、取り過ぎて今は見られない。「伊藤赤水家文書」にも、幕末に「うまのう」土を掘り取って自宅へ運搬した記録がある。これは芸術品をつくる場合に使い大事にしていた。釉薬は「からみ」という鉱滓を多く使い、金銀銅のほかいろんな鉱物が色を出した。富士権現は、名前から江戸時代に祈祷がはじまったと見たい。修験者が加持祈祷を中心とする、蜜教寺院と結託して祈祷札を配布し、家内繁盛・息災延命・五穀豊穣を祈ったのではなかろうか。【関連】無名異(むみょうい)【執筆者】佐藤俊策
・フタスジカジカ(ふたすじかじか)
フタスジカジカ(二筋杜父魚)は、佐渡真野湾産の個体が、模式標本(完・副とも)に指定され、昭和五十五年(一九八○)に、新種としての命名記載が行われた小型魚である。北米太平洋岸にのみ生息すると思われていたこの小型カジカが、日本にも分布することが分った意義は大きい。瀬戸内海の山口県沿岸と、日本海兵庫県の香住海岸にもいることが分った。二筋とは、背側に走っている鱗列が二列であることと、この櫛鱗列と体側の側線以外に、鱗列がないことによる。四~六センチにしか成長しないし、個体数が少ないので、食用としては全く顧り見られず、学術上の価値が高いだけである。【参考文献】『図説 佐渡島』(佐渡博物館)【執筆者】本間義治
・二つ岩団三郎(ふたついわだんざぶろう)
二つ岩団三郎は、むじなの神の親分で、相川町関の寒戸、真野町新町のおもやの源助、赤泊村徳和の禅達、新穂村潟上の才喜坊を四天王と言い、名前が付けられたむじなが百匹ほど知られている。むじなの神は、現世のご利益があると信じられ、相川の二つ岩団三郎の毎月十二日の縁日には参詣者が多く、大願成就すると、鳥居が参道の上に奉納され、奉納者の名が書かれる。団三郎が親分となったのは、江戸時代相川が佐渡の文化の中心で信仰者も多く、文化年間(一八○四ー一七)に活躍した相川の石井夏海などの教示によって、江戸の戯作者滝沢馬琴によって、『燕石雑誌』(文化八年刊)に図版入りで、大きく紹介されたことなどのためと思われる。『怪談藻塩草』(安永年間刊)には、団三郎の伝承は多いが、相川の柴町に住んでいた窪田松慶という医師が駕籠に乗せられ、玄関には床飾りがあり、武者道具がある御殿のようなところに連れていかれた。そして金屏風のなかから、五○歳ほどの主人が出て挨拶した。その家の少年の刀傷の治療をして、膏薬を渡して帰ろうとすると、酒や吸物でもてなされたという話である。主人は、団三郎であったと思われている。こうした伝承から、不可思議な霊力をもつ“むじな”の神が、人々に信じられることになった。【関連】関の寒戸(せきのさぶと)・おもやの源助(おもやのげんすけ)【参考文献】山本修之助『佐渡の貉の話』【執筆者】山本修巳
・二ッ亀(ふたつがめ)
二ッ亀島とも言う。両津市に属する。佐渡島の北端、弾崎とほぼ同緯度にあり、陸繋砂州(トンボロ)で連結された陸繋島である。手前の亀は頭を西に、沖の亀は頭を東に向けて接する二尾の大亀に見える島で、高さは各八○メートルと六七メートルである。粗粒玄武岩の柱状節理が海崖に露出し、見事な景観をなす。岩石の貫入時期は、新第三紀中新統真更川層下部と考えられている。崖や海岸の裸地以外は植生に被われるが、北方系植物の混じるのが特徴である。付近にキャンプ場やロッジ等があって、周辺の観光拠点となっている。二ッ亀を含み願集落までの海岸植生は、一九三四年国指定の名勝地「佐渡海府海岸・特別規制地区」になった。又二ッ亀は、新潟県の「すぐれた自然・地形地質のすぐれた自然」に一九八三年選定された。【参考文献】「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)、相川町・両津市教育委員会編「名勝佐渡海府海岸保存管理計画策定報告書」【執筆者】式 正英
・双股岩(ふたまたいわ)
二見半島南端沖合にある顕岩礁。台ケ鼻の南西○・七キロメートル、城ケ鼻の南○・四キロメートルの所に位置する。かっての二見半島の南端を示す名残りの地形で、波食により陸地の海岸線は現在位置まで後退し、双股岩は離れ島として残った。地質は、台ケ鼻付近と同じ相川層群上部の、石英安山岩質岩石と推定される。【参考文献】 新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】 式 正英
・二見(ふたみ)
二見半島の東岸、真野湾側の集落。元村と新地に分れる。永徳元年(一三八一)の本間道喜申状ならびに足利義満(カ)の袖判安堵状写によると、道喜が「蓋見半分」の地頭職を安堵されている(本田寺文書)。戦国期には、沢根本間氏の領有。二見は、半島尖端の双股岩に由来するが、古来より真野湾側は湊として利用され、鶴子銀山時代は、沢根本間氏の湊であった。元禄検地帳は保存されていない。寛政元年(一七八九)「道中案内帳」には、村高一一六石余、田畑反別一二町八反、中宮大明神(二見神社)、真言宗龍吟寺、家数四四軒、人別一六四人とある。中世の湊は龍吟寺前の大泊で、近世には元村に移り、「佐渡雑志」(文政年間)に、「船掛り澗、深サ五尋余、但、西風ハ大風ニテモ当ラズ、東風ノミ悪シ、甚ダ能キ澗ナリ」とある。東風を待って上方に向う回船の湊であった。段丘上の「のさん」にあった光蓮坊は、龍吟寺の前身と伝えられるが、重要文化財の同寺の金銅聖観音は、双股岩近くにあがったと伝える。中世に、各地から寄り集って成立した湊集落。元村の阿弥陀堂には、沖合いの阿弥陀礁から上った一石表裏地蔵坐像があり、近くに「八房の梅」・「月見ずの池」などの順徳院伝説もある。寛永五年(一六二八)、相川の補助港となり、相川から稜線ぞいの旧道があった。近世、元村には十数軒の遊廓があり、のち明治四年、旧大泊地域を埋め立て新地と称し、ここに新しい町屋を建てた。【関連】 二見港(ふたみこう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・二見港(ふたみこう)
二見新地の南岸に、戦後埋め立てによる二見新港ができた。近世以前は、二見神社(中宮神社)前は砂浜で、大泊といわれた中世の湊があった。近世には、西側の出崎の赤岩から西に二見元村ができ、二見村の中心となり、ここが相川の外港として利用され、半島の尾根道で相川に通じていた。外海の相川にたいし、近世の二見湊は良港であった。文政年間(一八一八~二九)の「佐渡雑志」にあるように西風のとき停泊する湊であった。寛永五年(一六二八)姫津村と二見村は、相川に入る廻船の補助湊となり、上方廻船の入津が多くなったが、近世中期以降、北前船の寄港地となってから、いちだんと湊はにぎわった。二見元村には十数軒の廓もあった。二見新地は、佐渡奉行所の地役人であった家系の藤沢幸吉らが、明治四年、渡城より友崎までの三二五間の埋め立て計画を立て、国に二万両の借入れを申請したが受理されず、越後商人や佐渡四十物商組合の融資をうけて、明治五年(一八七二)に完成した。現在の新港は、四回目の二見港整備である。二見港は、佐渡金山から産出された鉱石の積出港であったが、平成元年(一九八九)金の採掘が中止され、利用状況は変化した。近年は建設資材、東北電力相川火力発電所の燃料移入の船舶の入港が増え、地方港湾の一つに指定されている。【関連】藤沢維宝(ふじさわよしとし)・亀崎新地(かめざきしんち)【参考文献】小泉其明「佐渡雑志」、「相川町役場資料」【執筆者】佐藤利夫
・二見鉱山(ふたみこうざん)
相川町二見の鉱山。二見神社の裏山に坑道が一つある。内部で三本に分かれ、いずれも坑口から九メートル程の試掘坑道である。地元の話では、昔の坑道跡を戦前に再開発しようとしたものという。最初の採掘が何時か、どんな鉱石を採掘したかも定かではないが、野坂鉱山や大浦鉱山と同じく、銀山であった可能性が高い。
【関連】野坂鉱山(のざかこうざん)・大浦鉱山(おおうらこうざん)【参考文献】田中圭一編『佐渡金山史』【執筆者】小菅徹也
・二見古墳群(ふたみこふんぐん)
佐渡が島には真野古墳群と並んで、二つの古墳群がある。真野湾中心の海岸台地に群集するものと、二見半島を中心にするのがそれである。平成元年(一九八九)の一斉調査により、二見半島では一一基の古墳所在が判明したが、なお、道路拡幅や開発で失い記帳できないものも多い。二見半島も海岸台地縁辺に立地し、海上から眺めると偉容を誇るのは、真野古墳群と同じである。現存あるいは遺物を残し、所在の知れるものを地区ごとに列挙すると、大浦に七基・橘二基・稲鯨一基・米郷一基の計一一基が知られているが、消滅で所在の不明なもの、調査の結果そうでなかったものは、登録名簿から除いてある。春日崎の岩鼻には、いくつかの古墳が数えられたが開発で消滅したと伝えるし、二見台ケ鼻のエゾ塚は、調査により古墳でないことが判明している。とくに二見半島の古墳は、六世紀から八世紀に亘り、谷地塚古墳のように、六世紀二・四半期に属する佐渡で最も古いものがあり、真野古墳群より全般的に時代が古くなる。なぜ両者に古墳が集中するのか明らかにはできないが、海岸に製塩遺跡が集中することも見逃す訳にはいかないだろう。
【参考文献】中川成夫・本間嘉晴・椎名仙卓・岡本勇・加藤晋平「考古学から見た佐渡」(『佐渡』)、松田与吉「佐渡古墳巡礼」【執筆者】佐藤俊策
・二見神社(ふたみじんじゃ)
『佐渡国寺社境内案内帳』では、「中宮大明神、元和四年京都吉田卜部家より補任これあり。社人権兵衛」とある。明治六年(一八七三)、大小区制により第一大区五小区の郷社となり、社号を二見神社と改称した。祭神は中宮大明神。国常立尊、例祭日は六月二十一日。郷域の一四か村は、中世の本間摂津守永州の所領だったという。明治十六年『神社明細帳』によると、氏子は二見村一○六戸、沢根村五四戸、口碑に「往古、二見村字片谷ニアリテ即チ、承久帝(順徳天皇)ノ官女、右衛門佐渡局、片谷明神トモ中宮大明神トモ称シ奉レリ。然ルニ天正十七年上杉景勝ノ時代、藤田信吉打入ノ節、故有テ烏有ニ帰ストイヘドモ、程ナク隣村雑太郡沢根村(羽二生)デ祀ル所ノ社トナル。祭神国常立尊、今ノ境内ニ移シ祀ル」との記載がある。現在地は二見新地の山ぎわに建っているが、中世にはここは大泊といわれており、二見元村以前の古い湊であった。神社の旧社地は、台ケ鼻と送り岬の間の明神沢にあったといわれ、この近くの二双岩、かめのまたの海に、国指定重要文化財の龍吟寺の金銅仏観音像が出現したという伝承を残しており、両神仏の関連が考えられる。境内社には稲荷神社がある。【関連】龍吟寺(りゅうぎんじ)【参考文献】矢田求他『平成佐渡神社誌』(続)、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】佐藤利夫
・二見神社社叢(ふたみじんじゃしゃそう)
【別称】二見神社のシイ林(ふたみじんじゃのしいりん)
・二見神社のシイ林(ふたみじんじゃのしいりん)
相川町指定(一九七四)の天然記念物。所在地は相川町二見。二見郵便局のすぐ前にある。後は二見半島が冬の季節風をさえぎり、前は真野の入江。社殿は海抜四○㍍の海辺の丘に建つが、社林はシイの老巨木で鬱蒼としている“シイの極相林”である。極相林とは、その土地で遷移が進み、極相すなはちクライマックスになった林で、自然林とはこのような極相林を指す。この社林は、島内で最もよく保存されたシイの極相林。樹高二○ー二五㍍、胸高幹径五○ー九○㌢、大きいものは胸高幹周四・一㍍、根元幹周七・七㍍見あげる樹冠は、大きく空をおおい林内は暗い。幹径一㍍をこすタブの巨木も混じる。高木層はシイ、中木層はヤブツバキ、低木層はヤブツバキ・ヒメアオキ・ヤツデ、草本層はベニシダ・ヤブコウジ・カラタチバナなど、いずれも暖地要素の常緑植物である。この地は、約六○○年前には二見番城のあった所で、約三○○年前に二見元村からこの神社が移転されたといわれるが、そうした歴史を背景に、番所林、鎮守の森として親しまれ保存されてきたのであろう。この林を訪れるたびに、三百年・四百年をへた極相の森の原始の息に身をゆだねる。林内は暗く、重く、ムンムンとした森である。縄文人の暮らした暖帯の森は、このような森であったのであろう。シイの幹にはマメズタ(暖地のシダ)が密生し、暖地の常緑のつる木のイタビカズラがからみつき、暖地の常緑のアケビであるムベもつるを伸ばし、子どもたちはムベのつる木でターザンごっこをして遊ぶ。「カケス カケス シイ落とせ」と、子どもたちは歌いながらシイの実拾いをした。秋になると、黒紫色に熟したメエメエ(イタビカズラの方言)の実を採り食べた。能登が北限とされたムベが佐渡に自生し、その北限は北進した。シイも佐渡が日本の北限である。分布を決めるのは冬の暖かさ、冬二月の平均気温の二℃が分布境界とされる。【参考文献】 伊藤邦男『佐渡巨木と美林の島』、同「二見神社のシイ林」(『相川町の文化財』)【執筆者】 伊藤邦男
・二見地区の小学校(ふたみちくのしょうがっこう)
二見地区の小学校のはしりは、明治六年に創立された橘庠舎で、明治二十年(一八八七)五月、公立簡易科橘小学校と改称される。そして鹿伏の観音寺に鹿伏分場、大浦と稲鯨には雪中派出場を設ける。同二十一年五月、高瀬に簡易科高瀬小学校が新築される。明治二十二年、字二見が旧沢根村より分離し、二見村に合併したため、公立簡易科橘小学校の派出所を、当初龍吟寺を借りて設ける。同二十五年には、橘の簡易科小学校が稲鯨へ移り、村立稲鯨尋常小学校と改称される。なお同二十五年四月、大浦尋常小学校(鹿伏・大浦・高瀬)も誕生。学区を二分し、その一つを鹿伏・大浦・高瀬とし、もう一つを橘・稲鯨・米郷・二見として、本校は稲鯨尋常小学校とし、二見に常設分教場を置く。同三十四年、字鹿伏が相川町に合併される。同三十五年に二見尋常小学校が設置される。学区は二見と米郷。校舎は平屋の九○坪余、同三十六年竣工した。その後増築を経て、昭和二十八年校舎新築落成。同三十年には郡市複式教育研究会を開催。同三十三年郵政省より子ども郵便局の表彰。同四十六年には、よい歯の優良校として県より表彰される。明治三十五年には、大浦尋常小学校も設置される。学区は大浦と高瀬であるため、その頭文字をとり、明治四十一年大高尋常小学校と改称した。同三十六年九月、新校舎(平屋七八坪)が竣工。昭和四年校歌制定。昭和五十年三月閉校、相川小学校に合併する。稲鯨尋常小学校は、明治二十九年、児童数増加のため校舎の増築。大正十三年稲鯨尋常小学校に高等科を併設、村立七浦尋常高等小学校と改称する。昭和二十九年校歌制定。同五十一年、子ども郵便局が郵政大臣より表彰。同五十八年十月、佐渡地区小・中学校学習指導研究発表会を開催する。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「創立七十周年記念要項」(二見小学校)、「学校要覧」(七浦小学校)、「大高小学校沿革」(大高小学校)【執筆者】浜口一夫
・二見中学校(ふたみちゅうがっこう)
昭和二十二年(一九四七)五月十五日、二見村立七浦小学校に併設開校。四学級・職員六名、新校舎の落成は同二十四年十二月で、普通教室六と図書室だった。翌二十五年三月増築校舎(音楽教室・礼法室・校長室)落成。同三十一年八月、ようやく独立校舎第一期工事の落成をみる。普通教室四・図書室・理科室・仮設建物などである。その後、体育館落成(昭三三・五)、四教室増築(昭三六・七)、体育館増築(昭三八・三)、給食室完成(昭四三・八)と、次第に校舎の設備も整っていった。学校の象徴である校旗のできたのは、昭和二十七年五月であり、校歌(作詩庵原健・作曲山田正与)は同三十四年三月である。二見中学校の初代校長近松行雄は自ら画筆を握り、美術教育への造詣も深かったが、新学制発足後間もない昭和二十三年に、郡図工科研究発表会を自校で開催している。なお、同二十五年には、産業教育の県指定校となり、同二十七年七月、東京大学の宮原誠一教授を招いて、研究発表会を催している。更に同二十八年には、僻地校でありながら、文部省の産業教育研究指定校に選ばれたことは特筆すべきことである。
【参考文献】「八重潮ー創立四十周年記念特集号ー」(二見中学校生徒会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】浜口一夫
※二見中学校は、平成15年3月31日廃校となりました。平成15年度から学区の生徒たちは相川中学校へ通っています。
・二見七浦の海岸植物(ふたみななうらのかいがんしょくぶつ)
大佐渡西南部の二見半島。この半島の大浦から稲鯨にかけての六キロメートル海岸は七浦海岸とよばれ、海岸浸食を受けた岩石が点在し、景勝地となっている。この海岸の代表的岩石はグリンタフである。第三紀中新世のグリンタフ海岸火山活動によって形成された“緑色凝灰岩”で、海食により奇岩状となるが、特に有名なのは夫婦岩・白島で、いずれも緑色凝灰岩である。昭和五十八年(一九八三)、新潟のすぐれた自然(地形地質のすぐれた自然)に、「二見海岸のグリンタフ」として指定される。グリンタフ海岸であるとともに「岩礁海岸の植物」も豊産する“すぐれた植物地域”でもある。段丘の縁や斜面の海岸風衝樹林は、クロマツ・カシワ・エノキ。海岸植物は、イワユリ・トビシマカンゾウ・ハマハタザオ・メノマンネングサ・アサツキ・ハマヒルガオ・ハマボッス・シオツメクサ・ハマエノコロなど。海岸草原には、ススキ・クズ・ナデシコ・ノコンギク・ノアザミ・ネジバナ・アキカラマツ・ハイメドハギ・エビズル。海岸低木は、ハマナス・ハマゴウ・アキグミなど。夫婦岩のまわりの塩生地には、ウミミドリ・ドロイ・ヒメヌマハリイなどの塩生植物。昭和五十七年(一九八二)高瀬の猫岩の礫海岸で、南方系のグンバイヒルガオの漂着を発見。五○㌢のつるを八本伸ばし、葉を一○○枚つけたが越冬できず、花を咲かせないまま姿を消した。【参考文献】 『新潟のすぐれた自然』、『佐渡島』【執筆者】 伊藤邦男
・二見農業協同組合(ふたみのうぎょうきょうどうくみあい)
所在地は稲鯨、設立は昭和二十三年(一九四八)七月で、稲鯨と米郷の集落を地区とし、稲鯨漁協の一隅を借りて発足。同三十二年七月、「二見村農業協同組合土地改良事業施行規約」を設定し、農道の新設事業を行う(徴集人頭割五○%・反別割五○%)。同三十八年麦類種子団地を引き受け、大麦ならびに菜種の共販を実施。同四十年、ビール大麦の栽培を推進する。【関連】 佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)【参考文献】 『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)【執筆者】 浜口一夫
・二見半島(ふたみはんとう)
大佐渡山地の南西への軸線方向の端にある半島である。ほぼ沢根と相川を結ぶ県道から西の地域にあたる。半島の最高所一八四㍍の部分を含め、ほぼ南北に連なる脊稜まで、全半島が海岸段丘に由来する地形から成る。約一五○㍍、九○㍍、六五㍍、四○㍍、二五㍍の高さに、計五段の段丘面があり、それぞれ崖か急斜面に隔てられる。基盤の地質は、新第三紀中新統相川層群の、安山岩溶岩・凝灰角礫岩・凝灰質砂岩等の、陸成の火山噴出物が複雑に分布するが、段丘面はこれを切って発達し、薄い砂礫層と褐色土層を載せる。四○㍍、六○㍍の段丘面は連続性が良く、水田や畑に開かれる。集落は海面に近い隆起波食台上にあり、北から鹿伏・大浦・高瀬・橘・稲鯨・米郷・二見の順に、一~二キロメートルおきに位置している。もと二見村であったが、一九五四年以来相川町に編入された。北西側に地形の障壁がなく、冬の北西風をまともに受ける為、集落に風囲いが目立つ。流域に山地がなく水資源に乏しい為、大正ー昭和初期の多数の溜池築造まで水田に乏しかった。半島面積一○・六二平方キロメートルの三○%は耕地で、水田対畑地の比は、現在は六対四であるが、稲鯨等南半の集落は水田率が小さい。海岸線には北西に春日崎、西に長手岬、南に台ケ鼻の突出部があり、どこも磯浜で美景を呈し七浦海岸と呼ばれる。集落は機能的に農漁村であり、相川の街との関連が密接である。【参考文献】 「二見半島の地理と歴史」(『相川郷土博物館報』七号)、「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】 式正英
・二見道(ふたみみち)
二見道とは、相川の海士町から旧測候所の脇を通って、佐和田町境沿いに二見港に至る、台地上の道のことである。この道は、中山道から分れた細道ともつながっている。半島部の、浜沿いの村々をつなぐ現在の県道は、大浦から橘までの七浦北部は、浜道としてよく使われていたが、他の村では、集落からノサン道などと呼ばれる山通りの道をへて、相川道につながっていた。稲鯨まで郡道が開かれたのは、大正五年(一九一六)のことである。同六年に書かれた「二見村是」によると、沢根から二見までが県道で、稲鯨からさきの「残ル道路ハ険悪ニシテ交通不便ヲ感ズルモ──(略)──従来沢根及相川方面ヘノ荷物過半ハ漁船ヲ以テ運搬シツツアリシ」とある。台地上を縦走する二見道を脊骨とし浜沿いの村に、それぞれに枝骨でつながっていた形は小木半島で、金田新田経由の沢崎道と枝道との関係によく似ている。両地の類似は、大浦の集落名尾平(小平)の社名灯台などにもみられるが、海岸道路の開発では二見のほうが早かった。二見道から枝岐れしている道は、一般的にノサン(野山)道といわれているが、稲鯨から二見への道は「産土街道」、橘から曼荼羅寺方面に出る道には、「椎ノ木線」の名がつけられている。【執筆者】 本間雅彦
・二見村(ふたみむら)
現在相川町に属する二見半島の旧自治体。鹿伏・大浦・高瀬・橘・稲鯨・米郷・二見の七か村は、明治二十二年~昭和二十九年の間、佐渡郡二見村。明治三十四年、七か村のうち鹿伏は相川町へ編入。二見村七か村は七浦といわれた。古来、南西からの暖流の影響をうけて、小木三崎と同じ寄り神の多い土地柄で、国中からは西浜といわれ、地域的特徴がある。永徳元年(一三八一)本間九郎左衛門道喜が、二見半分の地頭職安堵(本田寺文書)、応永十四年(一四○七)本間詮忠譲状に、子息有泰に大浦郷を譲った(古書書上帳)ことなどの記録があるが、この頃、他の村の多くは成立していた。近代に入ると二見村郷社として、二見中宮神社が明治六年二見神社となり、役場は橘、郵便局は二見および稲鯨に置かれ、明治二十二年町村制施行にともない、二見村が成立した。近世以来、相川金山の稼行にともない、相川と社会的・経済的つながりは、きわめて深い関係にあった。合併前、昭和二十八年「二見村村勢要覧」によると、人口男一八九○人・女二一三○人、世帯数六五六、職業別戸数は農業二七七、漁業一八六、商業二七、土建業三○、その他一三六となっている。水稲生産高二九四五石、作付面積一五五町歩、漁業生産高のうち魚類一二万貫、藻類三万三○○○貫で、総収入高の半分を占めていた。昭和二十九年三月三十一日、金泉村とともに相川町に合併した。【参考文献】 『二見村村勢要覧』【執筆者】 佐藤利夫
・二見郵便局(ふたみゆうびんきょく)
局舎は二見にあり、開局は明治十年(一八七七)一月である。初代局長(七等郵便取扱役)は藤沢重用。まず郵便集配事務の取扱いからはじまり、明治十八年には貯金事務、同二十五年には為替事務、三十三年には小包郵便、三十四年は電信、四十一年には電話交換、大正五年には簡易保険の取扱いと、その業務を広げていったが、電信電話業務は昭和五十年電通の合理化により、佐和田電報電話局に吸収された。同地区に無集配の稲鯨郵便局が開局したのは、大正六年二月(宮下久助)であり、同時に為替・貯金業務を開始、同八年二月より電信・電話業務を取り扱ったが、昭和三十年十月、電信・電話は二見局へ吸収された。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・不動信仰(ふどうしんこう)
不動明王は、大日如来の変身された仏さまである。右手に宝剣を持ち忿怒の顔で、滝や沢などの岩座に立つものが目につく。江戸時代以降、これらの石仏の多くは、個人や講中などで造立したらしい。相川町戸地の不動明王は、滝の不動明王ともいい、千仏堂境内の小さな滝のかたわらに立っている。この滝の水は目によいと伝えられ、滝の上の田地への下肥は禁忌となっている。不動さまは、「湧き水の神さま」「目の神さま」などといわれるが、同町大倉の不動さまは、最初大幡神社のあるコビラの滝に祀ってあったが、後に菊地吉右衛門家の屋敷に、堂を建て祀ったというが、ここでも滝で修行した修験と、不動明王との関連に思いが動く。北立島の間右衛門不動は、目の不自由な先祖の目をなおしたので、渡辺間右衛門が祀った。大浦の海山不動は鯛網にかかったが、夢枕にたち「不動だから滝に行きたい」といい、現在の滝の所に祀ったという。なお、稲鯨の「久三郎不動」はハエナワにかかり、橘の「波切り不動」は、タラ場でつりあげたものだという。また不動明王は、火伏せのひと役もかっており、橘・夕白町・南片辺・千本・北田野浦・石名・小田の不動さんが、ムラの大火事を防いだという。【関連】 千仏堂(せんぶつどう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、石田哲弥『石仏学入門』(高志書院)【執筆者】 浜口一夫
・船絵馬(ふなえま)
船主が、海上安全を祈って神社などに奉納する。馬ではなく、持船が描かれるのが普通である。海上安全だけでなく、遭難して九死に一生を得た船主、または船乗りが、助かったことを感謝して、奉納する場合もある。大漁を祈願した船絵馬も見られる。「郷土の船絵馬」(西窪顕山編・一九七六年刊)によると、県内の船絵馬の調査では、画材が和船と洋船のものをふくめて四九四点。うち佐渡が一二八点を数えたという。主として幕末から明治の奉納が多く見られ、沿岸の神社に多く残っているとしている。佐渡では、畑野町小倉の御梅堂に残る安永二年(一七七三)が古く、同町栗野江の加茂神社の「松尾丸」(文化元年)、佐和田町実相寺の「富吉丸」(文化九年)、赤泊村の個人所有の「江差丸」(文政四年)、小木町木崎神社の「永宝丸」(天保十一年)の船絵馬がこれに続いている。古い船絵馬が、沿岸部でなく小倉や栗野江など、山地のやしろに残るのは、一つは火災をまぬがれたこともあろう。奉納の時期は下るが、小木町の木崎神社や、船主たちの信仰を集めた、相川町の金毘羅神社などには、かなりの数の船絵馬が残っている。専門の絵馬師として、高名な「絵馬藤」が描がいた船絵馬の、もっとも多いのは沢根の白山神社で、約二○点がすべてこの人の絵であるという。なお北前船以前の一七世紀初頭から、諸国の廻船の入津で賑わった相川では、塩釜神社に残る、明治年代の船絵馬より古いものが残っておらず、相ついだ江戸時代の大火で、焼失したことが考えられる。船絵馬は、移り変わる船の構造の研究には貴重で、造船史・海運史・航海民俗史を見ていく上で、大切な史料である。【関連】 金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)【参考文献】 『佐渡相川の絵馬』(相川郷土博物館)【執筆者】 本間寅雄
・舟崎文庫(ふなざきぶんこ)
旧東京帝国大学教授萩野由之博士が蒐集した、佐渡関係の史料・書籍・鉱山絵図・写真等を、第二次世界大戦後令孫端が売却するにあたり、真野町金丸出身の当時衆議院議員だった舟崎由之が、一八万円の巨費を投じて買取り、その後昭和二十八年、舟崎が母校佐渡高等学校同窓会に寄贈したものである。佐渡高等学校同窓会は、寄贈者の名に因んで「舟崎文庫」と命名した。舟崎は、佐渡関係の貴重な史料が佐渡に保管されることを望み、母校同窓会に寄贈したが、寄贈の条件として耐火性書庫を作ること、一切持出しを禁ずることを条件とした。その後昭和四十一年舟崎は、萩野由之が生涯をかけて蒐集した秘蔵の「先哲手簡」「先賢手簡」「蘐園五家書簡」「先哲書翰希蹟」等を、同窓会の希望を容れて追加寄贈した。これらは多く近世を代表する思想家・文人・政治家の書簡である。舟崎文庫は、萩野由之が長年月にわたって蒐集しただけあって、その内容は広範囲にわたり、写本はもとより多くの原本・絵図・古文書を収めており、佐渡の近世・近代史研究資料の宝庫といえる。昭和四十九年、舟崎由之の遺族の基金で『舟崎文庫目録』が出版されている。【関連】 舟崎由之(ふなざきよしゆき)・佐渡群書類従(さどぐんしょるいじゅう)【参考文献】 『舟崎文庫目録』(佐渡高等学校)、『佐渡高等学校百年史』(佐渡高等学校)【執筆者】 児玉信雄
・船箪笥(ふなだんす)
船箪笥は、江戸期から大正期にかけて、北前船(正確には弁財船、俗に千石船)の船頭たちが用いていた物入れである。この名称は、民芸運動の提唱者・柳宗悦が用いていた総称が一般化したもので、それまでは、懸硯・帳箱・半櫃と種類ごとの名称で呼ばれていた。家具研究家の小泉和子氏によると、船箪笥が陸上用から船用に変ったのは一八世紀半ば過ぎで、産地は最初は大阪らしいという。その後に様式に変遷があり、産地も分散した。そのうち佐渡の小木が時期的に早く、明治期には山形県の酒田と福井県の三国が、そして江戸を含めて著名な産地が形成された。船箪笥は、弁財船が明治後期に激減し、その改良船が大正期に終焉すると共に制作は終った。小泉氏が調べた小木町の屋号人名簿によると、大正十五年(一九二六)に箱細工職は一人である。船箪笥の材料はケヤキで、厚手の鉄製金具がついている。金具は小木の鍛冶職も手がけたが、佐和田町の鍛冶町には、専業の錺職人がいて、隣接する八幡村のキリ箪笥用のものに加えて、船箪笥用金具も刻んでいた。それも最後の職人中村定蔵の死去で終ったが、近年古美術品の復元を試みる家具職や研究者が出現して、新作が趣味家を対象として制作されている。【関連】 八幡箪笥(やはただんす)【参考文献】 小泉和子『箪笥』(法政大学出版局)、柳宗悦『船箪笥』(春秋社)【執筆者】 本間雅彦
・船手屋敷(ふなてやしき)
初代佐渡奉行の大久保長安は、慶長八年に紀州で八○挺立ての新宮丸と小鷹丸を作らせ、その御船手役として、攝州から辻将監と加藤和泉を任命して赴任させ、その者らに定下番六○人と水主一六○人を抱えさせた。彼らは下戸番所に近い、炭屋浜町と蜑人町の中間ふきんに船手屋敷を構えて、両家が東側に加藤家と水主一五軒が、西側に辻家と水主一五軒が住みついた。両家は二五石三人扶持という低い家禄ながら、門構えのある不相応なほどの広い屋敷であった。これは多くの水主を抱えていたことと、浜手には右記した御船を囲っていたためである。船手役は、御船の操縦をして官業に服するのが主な役目であるが、航海に動員しない者たちは、造船業に従事していたらしい。『相川志』に記載されている船手役の名前をみると、のちに船番匠になった者や、その先祖の名がみえる。また血すじの有無ははっきりとはわからないが、加藤姓を名乗る船大工や、船材を育てている家すじに、加藤和泉の子孫の伝承を伝える者がいる。それらのうち、佐和田町の河原田小学校南隣りに住む加藤家は、和泉から数えて十三代目であることを示す系図や、葵紋のついた手箱を所蔵していて、船手役の後裔であることに疑念はない。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 本間雅彦
・船番匠(ふなばんじょう)
番匠は大工の古称である。したがって船番匠とは船大工のことで、船が専業の職人によってつくられるようになって以後の名称である。佐渡の舟つくりについては、『続日本紀』の七○九年(和銅二年)の項に、「越前・越中・越後・佐渡の四国に船百艘を征狄所に送る」とある。軍事用だから徴発したのであろうが、それにしても戦争に湛える舟をつくる者がいたということで、はじめて舟が徴発できるわけである。それ以降で船つくりのわかる文献資料は、『佐渡年代記』の慶長八年(一六○三)の項にみえている。「佐州の御船二艘紀州において造作せしめ、辻将監・加藤和泉に御預となり、佐州へ廻す二艘共櫓数八十挺立云々」は紀州造船ではあるが、辻と加藤は大阪の舟番匠を伴って、船手役として佐渡に赴任して定着したあと船つくりを指導し、その水主の中から多くの船番匠が生まれた。こうした官製船の番匠ではなく、民間漁舟の船番匠は、村々でどのような徒弟を組み、どんな技術をもっていたかは明らかでないが、どの村にもいたということではなかった。南佐渡では、宿根木・小木・大杉・莚場・多田・松ケ崎・片野尾など、北佐渡では稲鯨・小川などに、そして国仲では豊田のほか静平・小倉の山間部でも、その痕跡は残っている。【関連】 水主長屋(かこながや)【参考文献】 本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】 本間雅彦
・フナムシ(ふなむし)
フナムシ(海蛆・船虫)は、漢字のごとく「ウジ」を意味するが、フナムシの名は諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』に載っている。甲殻類等脚目に属す小型動物で、五㌢大。磯辺や舟板の上を素早く走り廻っているが、海水中にはすまず、完全な陸上生活者である。岩の割れ目や、時には表面に群れているが、冬にはかなり内陸の方まで入りこんで、越冬するので、岩場からみられなくなる。食餌は雑食性なので、打ち上げられた海藻でも、動物の屍体でも、群らがって摂食する。フナムシは釣りの餌に利用されるが、『佐渡州物産』にも、「漁人捕之餌トス」と出ている。【執筆者】 本間義治
・舟山(ふなやま)
舟材にする木は、海に近い村にあるとは限らない。小佐渡山中の山村である旧小倉村の宮の河内の奥には、「舟ノ木」・「舟ケ沢」・「焼ケ舟」の地名がある。そしてその河内入口に祀られているのは、湊(海)の神・住吉社である。焼ケ舟とは、刳り舟をつくるときに焼きくぼめた痕跡かと思われる。山中の舟ノ木地名は、相川町達者・同戸中・真野町静平・赤泊村三川などにもある。これらの土地は舟材を産するだけではなく、その地で舟を完成させ、土ぞりや雪ぞりを用いたり、船底を橇代りにして曵いたりしたであろうということは、他地の例から想像できる。刳り舟ではなく、板に挽いてそれをつなぎ合わせる(船底にあたるシキの部分に何本ものフナバリをとりつけ、それにタナイタを張り重ねていく)構造船の時代になると、運材がかなり容易になるので、浜に近いところでダイノセ(造船の土台を組むこと)をするようになる。赤泊村の海村のように、冬の季節風の害がなく、比較的すなおな樹木の成長が可能なところでは、舟材は海辺の近くにもあったらしく、集落名の大杉・杉野浦などにもそのことが窺われるが、北佐渡の場合、舟山は段丘のかなり奥でないとみられない。【参考文献】 本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】 本間雅彦
・舟山の天然杉林(ふなやまのてんねんすぎりん)
佐渡は日本海側名うての天然杉の島、舟木伐る山をもつ“舟木の島”であった。大佐渡山地の大塚山(海抜九六二㍍)を要として、海抜五○○~八○○㍍の間にほぼ扇状形に広がる“舟山”(相川町南片辺)。舟山の森林面積は一九二㌶。うち、スギ林九六㌶、およそ五○%を占める。このうち天然スギ林は四九㌶で、これが「舟山の天然スギ林」である。樹高二五㍍、胸高直径三○~七○㌢、平均幹径三四㌢、樹齢八○~一五○年の、直生したみごとなスギの美林である。天然に放置された大佐渡の「小杉立(関)の天然スギ林」は、スギ以外にミズナラ・ホオノキ・ヒノキアスナロ(方言アテビ)が混生し、巨杉・大杉・小杉が共存するが、舟山のスギは高木・亜高木層とも多種を混じえないスギの純林で、植林したかと思えるほど、よく揃った美しいスギ林。古老によれば、「少なくとも明治以降は、杉苗植林はいっさいしていない。択伐(生長量に見合う木を択んで伐採し、林の更新をはかること)は目的に合う立木のみと制限した。ただ広葉樹の伐採とスギの不良木の淘汰はしっかり行った」。新潟大学農学部林学科によれば「本来、天然杉林であった。目的にあった択伐と、天然力を主とする更新により、生産性ある天然のスギ純林に誘導した数少ない成功例で、林学上貴重な林とする」と診断した。【関連】 新潟大学農学部付属演習林(にいがただいがくのうがくぶふぞくえんしゅうりん)・小杉立の天然杉林(こすぎだてのてんねんすぎりん)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡花の風土記ー花・薬草・巨木美林』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】 伊藤邦男
・浮遊選鉱場(ふゆうせんこうば)
昭和十五年(一九四○)北沢に完成した、選鉱と製錬の施設。昭和十二年に日中戦争が始まると、国は戦時大増産政策を実行し、翌十三年三月には金銀銅などの「重要鉱物増産法」を公布した。当時、佐渡鉱山の坑内鉱の品位は低落傾向にあり、昭和十年で一㌧当たり三・六㌘にまで下がっていた。そこで、同七年頃から始められていた浜石採取を本格的に行なうことになった。これによって約二五○戸の住民が、土地を買収されて立退いたといわれる。浜石の品位は平均で金が四㌘、銀が八○㌘と、坑内鉱よりはるかに高かった。この大量の鉱石を処理するために建設されたのが、東洋一といわれた大浮遊選鉱場で、第一期工事は昭和十三年十月に完成して、十一月から操業が開始され、昭和十五年には全施設が完成した。中心施設の本部選鉱場には、手選帯をはじめバスケットエレベーター・浮遊機・濃縮機など、大小の機械が並んで敷地は七三○○平方㍍に及び、山ノ神側には五○㍍シックナーや、付属施設が配置された。軌道は海岸まで延長され、トンネルで選鉱場とつないだ。これによって、最盛期には月五万㌧の鉱石を処理し、同年の産金高は一五三七キログラムと、明治後期以来の最高を記録した。昭和十八年には従業員一三○○人を数えたが、戦局が厳しくなって銅などの軍需金属の増産に切換えられた。【関連】 大間発電所(おおまはつでんしょ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『新潟県の近代化遺産』(新潟県教育委員会)【執筆者】 石瀬佳弘
・振矩師(ふりかねし)
佐渡奉行所雇の、鉱山の測量師を振矩師という。鉱石の採掘場所である敷が深くなるにつれ気絶(通気不良)や、湧水による水敷(水没した敷)が多くなる。これを避るための煙貫(通気坑道)や水貫(排水坑道)工事、探鉱坑道の延長工事等々には、つねに具体的な測量が不可欠である。地上や地中の各地点間の方角・勾配・距離を測定し、精密な計算等を経て、その位置関係を定めるのが、振矩師の職分である。振矩師の下に、振矩師見習・振矩師助・同助見習などの身分があり、宝暦~文政年間(一七五一~一八三九)には振矩師に二人扶持(一日米一升)、一か月銭一貫三百四十八文が支給され、文政の例では、振矩師助にもなにがしかの給銭が与えられたが、助見習は無給であった。ただし、水貫工事などで特別な業績があったときには、増給や身分の昇格もあった。また幕末~明治初年には、「算術指南方」を兼務する者もあり、これには別に手当が出た。なお、振矩師には大略次の人たちがいた(ただし、○印は振矩師助である)。樋野半三・持田半左衛門(後に地役人に昇格)・静野与右衛門・品川平左衛門・古川門左衛門・山下数右衛門(初代~四代)・○青木忠四郎(青木次助・羽田町青木家の祖先)・阿部六平・阿部坤三・山本仁右衛門。【関連】山下数右衛門(やましたかずうえもん)・阿部六平(あべろくべい)・樋野半三(といのはんぞう)【参考文献】金子 勉「振矩師雑記」(『佐渡郷土文化』)、「酒井家覚書」【執筆者】金子勉
・文弥人形(ぶんやにんぎょう)
佐渡の人形芝居には、「説経人形」「文弥人形」「のろま人形」と呼ばれるものが三つある。その中で「説経人形」が最も古く、語りは説経節であった。「のろま人形」は、「説経人形」や「文弥人形」の中間に出る間狂言で、太夫の語りはなく、人形遣いが生の佐渡弁で、即興的におもしろおかしく「生地蔵」などを演じた。明治以前の文弥節は、盲人の座語りとして伝承されており、それが人形と結びつき、文弥人形を成立させたのは明治三年で、沢根の文弥語り伊藤常盤一と、小木の人形遣い大崎屋松之助との、提携によるものといわれている。佐渡の人形芝居は、かっての佐渡びとにとっては、かけがえのない娯楽の一つであった。古くは蔵田茂樹の『鄙の手振』(文政十三年ー一八三○)や、ややおいて石井文海の『天保年間相川十二ケ月』には、相川塩釜明神での人形芝居のことが載っており、また『相川砂子』(舟崎文庫)の年中行事には、達者白山神社での人形芝居の記事がある。幕末から明治にかけて、佐渡で活躍した人形座の数は約三○座ほどあり、そのうち相川関係のものは、関の閑栄座・矢柄の繁栄座・入川の文楽座など、八つもの人形座があったという。これらは「佐渡の人形芝居」として、国の重要無形民俗文化財に指定(昭和五十一年八月二十三日)された。【関連】 説経節(せっきょうぶし)・広栄座(こうえいざ)・のろま人形(のろまにんぎょう)【参考文献】 佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・臍の緒(へそのお)
海府の奥の真更川では、ヘソノオを切るときは、赤子の腹から、ふた握りおいて先を切り、両端を麻糸でしばりまるめておいた。七日ほどたつと自然にとれた。それを鎌、古くは竹刀で二つに切り、和紙に包んで針箱や行李の中にしまっておき、その兒がここ一番の病気になったときなめさせたという。相川町高千では、ヘソノオは長く切ると、その児の寿命が長くなり、短く切ると短命になるとか、小便が近くなるなどといった。羽茂町滝平では、ヘソノオを一番めの子のときは豆一つ、次の子のときには二つ添え保存したという。その子がマメ(丈夫)になるようにとのマジナイである。相川町岩谷口では、ウブゲオトシの毛を一緒に、ヘソノオとともに保存した。また、お産の神、尾平神社のある同町大浦では、三十三日めにヘソノオを神社へ持っていき、神前の格子戸の下に投げこんだものだという。これはヘソノオをその子の霊魂のかたわれと考え、産まれ児の息災長寿を祈るとともに、その子の氏子入りのマジナイをも兼ねたものと思われる。【参考文献】 浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】 浜口一夫
・ベニズワイガニ(べにずわいがに)
ベニズワイガニ(紅楚蟹)は、アメリカ水産局の調査船アルバトロス号が、日本海へ周航調査した明治三十九年(一九○六)に、佐渡沢崎沖南方九八○㍍の海底から得た標本を、昭和七年(一九三二)にラスバン博士が、新種として命名記載したものである。それまで、ズワイガニより深いところから、たまさか獲れる濃い赤色のカニを、漁業者は身入りの悪いところから、ズワイガニの病気のものと思い込み、海へ捨て去っていた。第二次大戦後、ズワイガニに人為漁獲圧が加わり、資源量が激減してから、ベニズワイガニが注目され、コシジガニ(越路蟹)の名で売り出されるようになった。北米から北部太平洋、日本海に分布し、佐渡沖では四五○~二五○○㍍の深さにまで生息し、カニ籠によって漁獲する。ズワイという名称は、古語の小枝を意味する楚(すわい)に由来すると思われ、ズワイガニ類の脚の細くすんなりしたことを表現している。学名の種小名に用いられたギリシャ語のオピリオも、細長い脚を意味し、洋の東西で一致していることは興味深い。ベニズワイガニもズワイガニも、雄は一六回、雌は一一回脱皮するので、雄の方が大きく成長し、ことにズワイガニの雄は高価に取引きされ、また賞味される。【執筆者】 本間義治
・部屋制度(へやせいど)
親方制度ともいい、この反対が直轄制度である。労働者が鉱山と直接雇用関係を持つのが後者で、前者は親方に従属して飯場から鉱山へ通う。金属鉱山では、「飯場」、炭山では「納屋」と呼んだところが多かった。相川では「部屋」が通称で、そこで働らく人たちを「ヒヤ(部屋)モン」と呼んだりした。大塚・鈴木・安田の大部屋のほかに、太田・佐藤といった小部屋があり、大塚部屋は治助町に、安田部屋は庄右衛門町に、鈴木部屋は大工町に部屋があった。親方の苗字からそう呼んだのである。各部屋には、親方の下に小頭という数人の配下(子分)がいて、全国から働く人たちを募集し、部屋に寄留させ、食事の世話から、坑内へ差組んだあとの作業の監督も行なった。鉱山に対して身元保証をし、生活上・労務上の勤怠もきびしく監視した。鉱山労務者の供給請負業といった性格を持つものであったが、「事業ノ請負ヲ為シテ、所属鉱夫ニ稼行セシムルコト」とあるように、部屋頭が金銀採掘を請負うことも、明治三十三年(一九○○)ごろまで見られた。親方はまた、鉱夫募集の代償として一定の報酬が支払われ、また鉱夫の賃金を一括して鉱山から受領していたので、その配分支払いに当って、いわゆる頭はねが行なわれ、配下の労働者と争いが起こったこともある。明治二十三年の資料によると、鉱場課に所属する従業員は一八八五人で、このうち「他国」が九五○人、「地国」が四九二人とある。直轄に対する部屋労働者の比率は、六五・八八%を占めていた。この封建色の強い部屋制度が解体し、オール直轄制度に代わったのは、ようやく昭和十年とされている。【関連】 鈴木部屋(すずきべや)・大塚部屋(おおつかべや)・安田部屋(やすだべや)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 本間寅雄
・弁天岩遺跡(べんてんいわいせき)
相川町大字二見五六四ー一ー四、五六五の海岸に面した弁天岩の近くにあり、包含層が露出し、製塩土器などが無数に採取できると台帳にあり、周知の遺跡として登録されている。二見半島の海岸には製塩遺跡の所在が多く、とくに本遺跡周辺に多い。大佐渡山系が海岸まで連なる緩斜面域で、平地は海岸面に細く連なる。緩斜面と平地は水田であるが、田の高低が激しく、南の小川は溢れて湿地帯を形成し、減反政策のためか田は放置されている。平成七年(一九九五)に確認調査を行なったが、弁天岩を除いた両側は護岸工事が施されて、台帳にある包含層の露出は見えず、製塩遺跡は波浪による侵蝕か護岸工事の影響によるのか消滅している。トレンチでは、上面が粘土層で生活面はなく、下面は波浪による侵蝕か大小の石が多い砂礫層である。石は角がなく丸まっており、波の影響をうけている。還元した青い砂礫層に、二重口縁の古式土師器片と縄文晩期の土器片が混在していた。主体は土師器であり、製塩遺跡とは関係がない縄文末から古墳前期の文化層である。【参考文献】 金沢和夫「製塩遺跡」・佐藤俊策「弁天崎遺跡確認調査報告」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】 佐藤俊策
・弁天崎(べんてんざき)
相川市街地の西部には春日崎があって、町のほぼ全容を遠望することができる。いっぽう北東部には弁天崎(別名冨崎)があって、別な角度から美しい町並みが見られるので、両地は町人や文人たちの行楽の地として利用されてきた。弁天崎の名は、ここに弁財天の祠があるところからつけられた。岬上は一面の芝生で夏は涼しく、千畳敷の景勝はじめ、横島・一里島が近くにあって風光明媚の地である。『天保年間相川十二ケ月』では、六月のところで天神社のあたりから冨崎の遠景が描かれ、その解説では、柴田天神の祭礼について、此の月は六日に冨崎弁天(厳島神社)、十五日に風宮神社、十六日鹿伏神明神社(大神宮)に次ぐ此の天神祭りと、殊の外柴町・下相川方面の住民に取っては、恵まれたお祭りの季節、と書いてある。このように恵まれた景勝のほかに、信仰の上でも大切な土地であった。【執筆者】 本間雅彦
・宝生神社(ほうしょうじんじゃ)
入川の坂の脇にあり、木花開耶姫命を祭神とし、大山祇尊を配祀している。ともに鉱山の神である。入川はかって寛永年間(一六二四ー四三)、鉱山が発見され、その後、鉛山として開発された。社人は池田九郎津(蔵人)と池田兵四郎といわれ、九郎津は入川の草分けとの伝承があり、九郎津の妻が難産の時、願かけをし、「宝生神社を建て、木花候と姫を祀った」といわれている。『佐渡国寺社境内案内帳』には、当社の勧請は寛政四年(一七九二)とある。祭日は以前旧八月十日(その前は六月十五日)であったが、現在は四月十五日で、子供樽神輿が出る。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】 浜口一夫
・法泉寺(ほうせんじ)
下山之神町にある日蓮宗の法栄山法泉寺は、寛永元年(一六二四)の開基で、大野の根本寺末である。はじめ栴(梅とも)檀院日行によって五十里(佐和田町)に建てられたが、寛永六年下山之神町の当時天野家屋敷に移し、さらに宝永元年(一七○四)現在地に移された。寺宝に、祖師の曼陀羅と、伊藤隆敬の描いた経文の涅槃像があり、境内には、地役人須田六左衛門・天野孫太郎の墓がある。【関連】 須田六左衛門(すだろくざえもん)・天野孫太郎(あまのまごたろう)【執筆者】 本間雅彦
※原書に『 須田六左衛門(すだろくざえもん)』の項目はありません。
・ボウソウ(ギンポ)(ぼうそう)
江戸中期の諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』に、「ナギリ、方言ガツナキ」と記載されている魚は、付けられた彩色図と合わせて、和名がギンポ(銀宝)という種と判断される。浅海の岩場や砂利、時には砂場におり、体をぐねぐねと蛇のように動かしている。頭が小さく、背鰭は背中線全体にわたってついており、全部が棘で軟条でないので、触るとちくちくする。『佐渡州物産』に「背上有細刺」と記してあるが、この状態を表わしている。体色は、すみ場所によって異なり、黒っぽいもの、褐色がかったもの、緑色の強いものや、黄緑色の個体などが知られている。卵塊を体で巻いて保護する習性があり、春にその習性がみられる。近似種にタケギンポがおり、眼の下に輪郭のはっきりした横帯があるので、ギンポと区別できる。東京ではギンポの天麩羅を賞味するが、本県では利用しない。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治
・法然寺(ほうねんじ)
山号は広龍山、本尊は阿弥陀仏で浄土宗鎮西派。相川下寺町にある。開基は寂蓮社行念で、河原田に一寺を建て法界寺と号した。第九世堪誉のとき今の場所に移る。過去帳には、開基年を文禄二年(一五九三)としている。寛永十一年浄土宗一国の触頭となり、金襴袈裟を免許される。法蓮寺・法円寺・銀山寺・霊山寺は法然寺の末寺、墓地には大熊善太郎(奉行)の墓と、伊丹康勝(奉行)の供養塔、田中従太郎(葵園)・蔵田茂樹・黒沢金太郎の墓がある。【関連】 伊丹康勝(いたみやすかつ)・田中葵園(たなかきえん)・蔵田茂樹(くらたしげき)・黒沢金太郎(くろさわきんたろう)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』【執筆者】 田中圭一
・法輪寺(ほうりんじ)
下寺町にある日蓮宗の覚鷲山法輪寺は、慶長九年(一六○四)五月に大乗院日達(同九年死去)による開基。はじめ妙蓮寺といい、不受不施派の京都妙覚寺末であったが、寛文九年(一六六九)に妙輪寺と改名し、大野の根本寺末となる。元禄年間に再建したあと、享保二年(一七一七)に出水をうけ、寛保元年(一七四一)には火災に遭い焼失。明治初年には廃寺、同十年復興。三本橋からの移転などが重なる多難な寺歴を重ね、のち上寺町にあった法久寺(元和八年日興上人により創立)も合併し、昭和十七年(一九四二)法輪寺と改称した。【執筆者】 本間雅彦
・宝暦寺社帳(ほうれきじしゃちょう)
全三巻。正しくは『佐渡国寺社境内案内帳』。「宝暦寺社帳」の名称は、いつ頃から使われたか不明だが、宝暦の記事があるので付けられたといわれている。しかし、宝暦以後の明和・安永・天明年間の記事も一再ならず認められ、宝暦年間の成立とは認め難く、少なくとも天明以降の編集によって、成立したことは間違いない。上巻・中巻は寺院、下巻は神社を収載している。寺院は、宗派別に本寺・末寺ごとに開基・本尊・由緒・境内反別・除地・除米・什宝等を記録している。類書に、藤沢子山の『佐渡志』の下巻、伊藤隆敬の『佐渡名勝志』の巻三慈室部等があり、いずれも『宝暦寺社帳』より早く成立しているが、両者は名刹だけに限られており、それにくらべ本書は全島の寺社を網羅し、記事も豊富である。真言宗二九九、禅宗六五、法華宗五八、一向宗四九、浄土宗三七、天台宗一四、合計二九九か寺を収める。神社は郡別に、雑太一○九・加茂郡一五九・羽茂郡九六、計三五四社について、開基・祭神・由緒・除地・除米・神主などを記す。本書記事中に、「天正十六子年改の寺社帳」「元禄の寺社帳」の名が見え、本書の成立以前に、これら寺社帳があったことが推測されるが現存しない。島内の相当数の区有文書寺院文書などに、元禄五年(一六九二)の寺院書上げの控が伝存するのは、元禄寺社帳の存在したことを裏付けている。【参考文献】『佐渡叢書』(五巻)【執筆者】児玉信雄
・宝暦の改革(ほうれきのかいかく)
寛延一揆後就任した、松平忠隆および石谷清昌を中心にすすめられた一連の改革で、従前の幕府の佐渡支配を、大きく転換させることになった。松平奉行による改革は、寛延一揆訴状で指弾された、数かずの役人の不正や不合理な施政について、松平奉行は改廃粛正した。佐渡の弊政の原因は、劣悪な役人の待遇にあると考えた松平は、役人の借銀・借米の棄損、役宅の下付、役人在出時の伝馬扶持と役替時の伝馬・人足賃の支給、昇給昇格による待遇改善を行い、百姓からの賄いや人馬徴発を廃止した。特に重要なことは、幕初以来禁制であった国産の他国移出を解禁し、竹木藁細工・大豆・小豆・竹木・薪・茶・たばこ・塩等の移出を許し、海産物六品の移出を無役とした。また、年貢収納事務を老中直属の佐渡奉行から、勘定奉行支配の代官二人に移管し、新たに広間役一○人を置いて、重要政務にあずからせた。次に宝暦六年(一七五六)就任した石谷奉行は、同年の大飢饉を御救米支給で乗り切り、飢饉の原因が年貢の過重負担にあると考え、村々の奉行所からの拝借米銀をすべて棄損し、抵当の田畑・屋敷を、無償で元の所有者に返した。また、松平奉行が導入した代官制が、佐渡を奉行と二代官で分割支配するため不公平となり、農民の不満・混乱の原因とみて、同八年一代官を廃止し、奉行二人制を一人制に復することを建白した。これは幕府の容れる所とならなかったが、広間役一○人の内六人を無役とし、残る地役人四人と、江戸から赴任する二人の旗本の、計六人に業務を分担させた。石谷奉行の諸改革の中でもっとも重要な施策は、市中の床屋(精錬業者)を一か所に集めて、精錬させる寄勝場を新設したことと、国産の生産および移出を奨励し、島民が茶・たばこ等他国産を使わず国産を使用して、貨幣の流出を防ぐ方策を強力にすすめたことである。この宝暦の改革で、江戸後期の佐渡の産業の発展は大いにすすんだ。【関連】石谷清昌(いしがやきよまさ)・佐渡義民殿(さどぎみんでん)【参考文献】田中圭一『天領佐渡』、『金井を創った百人』(金井町教育委員会)【執筆者】児玉信雄
・帆掛岩(ほかけいわ)
二見半島七浦海岸大浦付近の海岸の地先にある岩塔状の岩礁。高さ一○メートルほど。先端が二つに割れて、丁度帆掛舟が帆を掛けた様に岩の形が見える。新第三紀中新統相川層群下部石花川層の変質安山岩溶岩から成る。
【参考文献】新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】式 正英
・帆掛島(ほかけじま)
相川町高千近くの岬の千本鼻(入崎)の沖○・二キロメートル離れてある小島、帆掛舟様の形状から名付けられた。高さ一五㍍、幅は五○㍍程である。地質は新第三紀中新統真更川層下部の、灰緑色の石英安山岩類であり、対岸の入崎付近が同種の火山角礫岩で構成されているので、同様の岩相であろう。【参考文献】 「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】 式正英
・北辰隊(ほくしんたい)
戊辰北越戦争に際して結成された草莽隊の一つ。蒲原郡下興野新田(現豊栄市)の遠藤七郎を隊長に、幹部は水原町の伊藤退蔵、臼井村(白根市)の西潟八雲、下興野新田の星野帰一・越三作、小須戸町の吉沢千柄らであった。遠藤らは、既に新発田藩管下の各村で、警備等に当たっていた尊皇の志の厚い地主層であった。慶応四年(一八六八)六月、新発田藩が奥羽越列藩同盟の要請で出兵した時に阻止行動をとり、同年七月二十五日に、新政府軍が松ケ崎浜・大夫浜に上陸すると新政府軍側に参加し、長州藩干城隊に属して、各地の戦闘で活躍した。十一月には新政府に正式に取り立てられ、遠藤七郎が隊長に任命され、北辰隊の名称を授けられた。隊員は一七九人(明治二年十月現在)を数え、阿賀野川周辺の農民を結集していたが、十月十七日に新発田にあった総督府本営から佐渡警備を命じられて、参謀兼民政方の奥平謙輔の指揮下で佐渡の施政に参加し、奥平の施策の推進に、重要な役割を果たした。北辰隊員は二年八月に帰郷して葛塚(現豊栄市)に頓集していたが、三年二月に上京して第三遊軍に編成され、東京警備に当たった。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)【参考文献】 『新潟県史』(通史編6近代一)、真水淳「佐渡県と北辰隊」(『新潟県歴史教育論考』一)、同「北辰隊名簿について」(『新潟史学』一二号)
・北溟雑誌(ほくめいざっし)
佐渡の明治二十年代の雑誌。第一号は明治二十年(一八八七)十一月二十三日、最終の第百十二号は明治二十九年三月二十五日、第二号からは毎月二十五日発行。発行所は、佐渡国雑太郡中興村に持主(発行人)茅原鉄蔵、編集人生田裕、印刷人斎藤長三となっている。第三一号から発行人が本荘了寛、第六九号からは発行人・編集人が佐渡国畑野村畑本郷の生田裕、印刷人も中川栄次郎に変わっているなど移動が見られ、第七一号から編集人に森知幾、第九七号から細野啓蔵、百十三号から発行兼編集人に本間慶四郎、印刷人に細野啓蔵、百十四号から高野問蔵、百十六号からは発行人に友部周次郎がなっている。「北溟雑誌」廃刊のあと、明治三十年に日刊の「佐渡新聞」に森知幾等によって、引きつがれる。雑誌の大きさは縦二一㌢・横一五㌢、ページは約二○㌻~五○㌻で、活字は創刊号から第六号まで四号活字、一段組。第七号からは五号活字二段組。定価は創刊号から最終号まで一部四銭。玄米一石、六円当時として高いというほどではなく、定期刊行物として珍らしかったので評判もよかった。しかし、小学校への就学率も低いころで買う人は少なく、発行部数は五百部以上にならなかったと言う。『北溟雑誌』の一か月の収入は二○円くらいで、島内の有志者から寄付を集め、購読料の四○%であったという。『北溟雑誌』の目的は、そのころ国会開設前で自由民権運動が盛んであったので、政見の発表をせず、産業や学芸一般の発展に寄与しようという、本荘了寛の意向があったのであろう。この『北溟雑誌』の内容は、「論説」「雑録」「中外雑報」「文苑」「統計」などの項目に分けられ、「論説」「雑録」は寄稿で埋め、「中外雑報」はニュースである。寄稿者は萩野由之・山本悌二郎・生田秀・渡辺渡・神田礼治・内村鑑三・西村茂樹・小中村清矩等がいる。現在『北溟雑誌』の全巻揃いは、「舟崎文庫」と「荏川文庫」が所蔵しているが、山本修之助が「荏川文庫」本を昭和五十年九月二十四日に復刻し、佐渡近代史の基礎資料として活用されている。なお「舟崎文庫」本と「荏川文庫」本は、付図などに多少の異同がある。【参考文献】 山本修之助『佐渡の百年』【執筆者】 山本修巳
・細葉朮(ほそばおけら)
【科属】 キク科オケラ属 「山でうまいものはオケラにトトキ」といわれるが、オケラは元旦の屠蘇の主材料にする薬草でもある。オケラにくらべ、葉には全く柄がなく、葉が細長いのがホソバオケラで、中国原産の薬草。日本には自生しない。江戸時代の八代将軍の享保年間(一七一六ー三五)は、サツマイモの普及、タバコ栽培の自由化、オタネニンジンの栽培(佐渡薬草園で成功)、ホソバオケラの輸入など、国をあげての殖産興業の時代であった。渡来したホソバオケラは、佐渡奉行所の薬草園で初栽培された。大和・尾張・佐渡などでつくられたが、現在残っているのは佐渡だけである。根茎が薬となり、胃腸病・神経痛・息切れなどに、漢方処方された。生薬名は、佐渡蒼朮(さどそうじゅつ)・サドオケラとも呼ばれた。ただ日本に渡来したのは雌株で、花は咲くが種子はできなく、繁殖は根茎を切りはなして殖やす。佐渡の各村で栽培され、佐渡蒼朮として、江戸や浪花の漢薬市場で名をなした。太平洋戦争中、山中に野生化している根茎が、多く掘りだされ供出された。栽培の盛んであった羽茂町では、町の花に指定した。役場前には栽培され、秋、白花がみられる。【花期】 九~十月【分布】 中国原産・佐渡【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花』、同『佐渡薬草風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・蛍葛(ほたるかずら)
ホタルカズラ(蛍葛)は、ルリ色に輝く花を蛍の光にたとえたもの。カズラはつるのこと。分布は少なく、県下では佐渡・粟島・越後の、海抜一○~一五○メートルの低海抜地に分布し、内陸部には少ない。佐渡では、ネズミサシ・ツゲ・メノマンネングサなどの生える、陽あたりのよい乾いた岩山に生える。花茎はやや立ち上がって一五センチほど。葉は濃緑色で硬く冬も枯れない。葉はポチポチした小凸起伏の毛でざらつく。花茎の先につく花の径は二センチほど。花の下部は筒となり、上部は五つに裂けて平開する。花の裂片の中央に盛りあがった白い縦のすじが星形となる。ルリ色の花弁と中央の白い星模様で、花はチカチカと輝いてみえる。ルリ色の宝石の輝きにもみえる。別名のルリソウもよい名である。大佐渡の北の海辺の村人は、ヒメナソウ(姫名草)と呼ぶ。京の都より高貴な姫が小舟で流れついた。美しい姫に村の男たちは、狂ったように姫にいいより互いに争った。助けてくれた村人にできることは姿を消すことと、姫は大ざれ川に身を投じた。姫のなきがらを葬った丘に、みたことのないルリ色の美しい花が咲いた。姫名草である。【花期】四~五月【分布】日本全土【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・渤海使節来着(ぼっかいしせつらいちゃく)
八世紀から一○世紀までの間に、計三四回(他に非公式が三回)の使節を派遣した渤海国は、朝鮮半島北部から旧満州および沿海州にかけての、広範な地を領していた文化国家であった。民族としては、粛慎の後裔とされる狩猟民ツングース族系の靺鞨人が中心で、日本と同じく唐文化を吸収して、活力ある国となっていた。使節の日本への到着地は、当初は出羽から能登・加賀など北陸以東で、佐渡への来着は第三回目で、天平勝宝四年(七五二)十一月九日であった。佐渡国はその九年前の天平十五年に、越後国に合併されていたのを、使節来朝の年にしかも同じ十一月に佐渡国に復帰となった。使節は翌五年の春に上京して天皇に謁見し、七月十六日に日本を離れた。このような事情からみると、佐渡への来着は不本意な漂着なのではなく、何かの意図があって、予定の行動であったと考えられる。来着したのは、相川町北片辺の馬場遺跡のところであることが、昭和三十八年の発掘調査の結果、出土品その他の資料でほぼ確定的である。『図説・佐渡島』(佐渡博物館編・一九九三)は、この遺跡の北西に広がる潟湖が来着地であり、潟湖は木船の停泊には最もよい条件をそなえていたと述べている。佐渡への来島時の使節の名は慕施蒙で、総勢七五人であった。その人数と、当時の船の構造からみて、数艘の分乗であったと推測されている。渤海国と日本国との交流は、遣使節があったときには、当方からも返使節が送られて、弘仁二年(八一一)の第一五回の頃までは、ほぼ来朝の都度、送使の形がとられていた。渤海使の渡航の時季は、北西の季節風に乗り易い季節が選ばれるので、船の破損が多くて、送りの船を必要としたということもあったらしい。九世紀以後に送使がないのは、渤海国の造船技術が向上して、破損がなくなったためとされている。【参考文献】 上田雄著『渤海国の謎』(講談社現代新書)【執筆者】 本間雅彦
・蛍袋(ほたるぶくろ)
【科属】 キキョウ科ホタルブクロ属 蛍の飛びかう季節。ホタルブクロの咲く頃である。「ホタロこい 茶のましょ 山伏こい 宿かしょう」、佐渡の真野のホタル狩りの唄。山伏は山辺の大きな蛍、ゲンジボタルである。強く明滅する山伏の宿はホタルブクロの花。花を透かしてホタルが明滅する。ホタルの宿の蛍袋はロマンがあるが、語源としては蛍は火垂るで提灯のこと、火垂袋はチョウチンブクロの意味。佐渡でもチョウチンバナと呼ぶ。本土のホタルブクロは紅紫色が普通だが、佐渡のものは全部白色。「この島は蛍袋の白きとこ」。ホタルブクロには、花の萼片と萼片の間に付属物があり、そり返るホタルブクロと、付属物がないヤマホタルブクロの二種があるが、両種を区別なくホタルブクロという。ヤマホタルブクロは本州中央部だけに分布し、山の崩壊地や裸地にいち早く侵入するパイオニア植物、佐渡にはこの種が多い。佐渡ではオイヨバナ(大魚花)という。大魚とは体長二㍍、体重一○○㌔にもなる巨大な大魚、ハタ科イシナギのこと。大魚の到来を告げる漁告花である。【科属】 六~七月【分布】 ホタルブクロは北・本・四・九、ヤマホタルブクロは本(東北~近畿)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男
・北方要素の植物(ほっぽうようそのしょくぶつ)
島の北端の村の藻浦(両津市)には、毎年二月おびただしいシラカンバの樹皮が漂着する。北方・寒地系の植物を、リマン寒流が北の国から運んだものである。島の北端の海辺の二つ亀、その東側の海駅岩、北方系の海獣トド(アシカ科)の漂着する岩である。島の北端の海辺、藻浦ー二つ亀ー大野亀ー海府大橋をつなぐ海辺は、植物相(フロラ)の上からも北方色が強い。二つ亀草原に咲くエゾノコギリソウ。二つ亀や大野亀で発見され南限が南進、佐渡は日本海の南限となる。ハマベンケイソウ・ハマハコベ・オオバナノミミナグサ・オオアキノキリンソウ・ハマアカザなど北方色の強い植物が優勢に分布する。北方要素の南限の分布前線のハマベンケイ線が、この海辺に達する。ラインの提唱者は池上義信(新潟市・植物学)。岩船北部ー佐渡北部ー能登北端をむすぶ北方要素南限線を“ハマベンケイ線(一九七二)と命名した。冬の季節風と、リマン海流による冷水塊のぶつかるこの海岸。海崖のカシワ、林縁のギョウジャニンニク・ハマナス・トビシマカンゾウなど、この線上に優勢分布する北方要素である。「新潟県北方植物仮目録」(一九八七)には一四二種が記載され、そのうち一一二種が佐渡に分布する。佐渡分布の北方要素には、エゾツルキンバイ(南限)・ウミミドリ(南限)・エゾヒナノウスツボ・エゾクロウメモドキ・オオハナウド・オオイタドリ・コタニワタリ・エゾフユノハナワラビ・エゾヒメクラマゴケ・アラゲヒョウタンボク・アマニュウ・オシダなどがある。【参考文献】 近藤治隆「北方系(寒冷系)の植物」(『佐和田町史』通史編Ⅰ)、伊藤邦男『佐渡の北方系植物』、同「草木の風土記ー寒地の植物」(『歴史紀行②佐渡』原書房)【執筆者】 伊藤邦男
・本光寺(ほんこうじ)
金井町大字泉甲三七七番地に所在する。日蓮宗、山号は法教山。寺宝には、承久の乱で流された順徳上皇の御守本尊と伝えられる、木造聖観音立像(平安時代後期の作 国指定重要文化財)や、延慶三年(一三一○)・正和元年(一三一二)に書かれた二点の、日興上人自筆曼荼羅(町指定文化財)などがある。本光寺は、日蓮上人在島中、高弟の日興上人に帰依した、泉本間氏の寺として成立した。寺伝によれば、正和元年大和房日性の開基という。日性は、金井町中興の地頭、本間次郎安連の嫡男であった。寺は戦国の乱世を迎えると、戦塵をさけ尊像を奉じて、各地に転々とした。慶長七年(一六○二)に、日興上人開基の駿州本門寺日健上人より、本光寺大円房日正へ曼荼羅が授与された。寛永年間(一六二四ー四三)第十二世日円大徳のときに、「観音平」から今の「畑田」に移り、山門・本堂が建立され、このことがきっかけとなり、慶安五年(一六五二)には駿州本門寺末に改められるが、のち再び竹田(現真野町)の世尊寺末となった。本堂は明暦年間(一六五五ー五七)に再興され、庫裏と廊下は、安永年間(一七七二ー八○)第二十世日研上人の手で再興された。明治二年(一八六九)に廃寺となるが、世尊寺の助力のもとに、檀徒は同十一年に復された。檀家は、江戸時代前・中期成立の家が比較的多く、その分布地域は、泉・中興が圧倒的に多い。近くには順徳上皇配所の、黒木御所跡がある。【関連】 順徳上皇(じゅんとくじょうこう)【参考文献】 北見喜宇作「金沢村誌稿本」、『金井町史』【執筆者】 北見継仁
・本興寺(ほんこうじ)
日蓮宗駿河富士本門寺末。下相川。開基は元亀三年(一五七二)とあるが、『相川町誌』では永正三年(一五○六)。本尊は曼荼羅で、駿河富士本門寺末。寺号は、竹田村の世尊寺第十四世本興院日儀の開基からくる。昔、駿河国より戸川某、佐渡へ流罪、この場所にて死して、本興寺境内に戸川権現を勧請した。その後、神社は富崎に移転し、下相川村の鎮守とした。山号の戸川山はそこからきている。下相川には鉱山稼ぎ人が多数集まり、鉱石製錬用の薪炭の需要が急増すると、戸川沢には製炭業者が集中した。戸河藤五郎の伝説が生まれたのは、これらの背景があった。金山町の都市計画がはじまり、善知鳥神社(住吉神社)が下戸へ移ると、この跡地に戸川神社が下りてきた。本興寺の重檀家に村田与三兵衛がおり、寺の西側に広い屋敷地を持ち、現参道は同家の寄進である。村田与三兵衛は、鉱山関係者として炭・薪の生産にも関与し、外海府一帯の大中使(大名主)の役についていた。また段丘上の新田開発者や、石切町・金泉方面にも檀家が多数いる。明治元年廃寺となるが、同三年再興。金山近郊村の寺として現在に至った。【関連】 炭焼藤五郎(すみやきとうごろう)・村田与三兵衛(むらたよそべえ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 佐藤利夫
・本陣(ほんじん)
本陣とは江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人などが宿泊した公認の宿舎。佐渡では、新町(真野町)の山本半右衛門家(現戸主山本修巳)が、公津の小木と相川の佐渡奉行所の中間にある宿場にあって、往還の奉行が宿泊した。参勤交代の大名の宿泊する本陣とは趣を異にしているが、本陣と言いならわしている。新町は、江戸時代になって、相川産出の金銀輸送や、物や人の本土への交通に、本土に近い小木の港湾の整備がされ、それに伴って、相川・小木間の宿場として発達した。山本家は、越前(福井県)藩士の庶士で、相川の金銀山に稼ぎ、寛文十年(一六七○)、新町に移住し、滝脇鉱山を採掘し、酒造業や廻船など商人として発展し、正徳三年四月二十四日、河野勘右衛門佐渡奉行が、はじめて山本家に宿泊した。それまでは、村役人が「御茶屋」にて接待し、宿泊していた。以来幕末の慶応二年十月に中村石見守奉行が立ち寄って、お茶を召しあがった記録が最後である。現在、奉行が宿泊した時に門口に掛けた宿札が、約五○枚残っている。また、奉行が顔を洗ったと言われる金盥があり、奉行宿泊の時の「入用扣」などが残っている。奉行の江戸往還だけでなく、島内巡村の時や西三川砂金山の視察などにも泊まられたと思われ、宿札が四枚も残っている奉行もいる。なお、奉行の宿所は、慶応元年(一八六五)八月二十五日類焼し焼失したが、土蔵と納屋は類焼をまぬがれた。しかし、奉行宿所の間取り図は残っている。現在の家屋には、明治元年廃寺になった旦那寺光照寺の庫裏の一部を移築した部分がある。【参考文献】 「佐渡山本半右衛門家年代記」(『佐渡叢書』七巻)、「佐渡山本半右衛門家史料集」(『佐渡叢書』八巻)【執筆者】 山本修巳
・ホンダワラ(ほんだわら)
褐藻類ホンダワラ科ホンダワラ属。佐渡ではホンダワラ(和名)と呼ばず、ギンバソウ・ジンバソウの名で呼ぶ。これがなまったギバザ・ギバソ・シバザ・ジバソの名でも呼ぶ。ジンバソウは人馬藻の意味ともいう。昔、平家が西国に落ち伸びたとき、人も馬も飢えに耐えかね、浜に打ちあがったギンバソウを食い食い走った。それから人も馬も食った海藻ということで、ジンバソウ(人馬草)になったという。佐渡の国仲の村々で多く食べられた海藻はワカメ。もっぱらワカメ汁である。第二はジンバソウ、味噌で味つけした油いため、またジンバソウの味噌漬け、弁当のおかずとしてよく食べさせられた。佐渡奉行所の編した『佐渡嶋菜薬譜』(一七三六)に、ホンダワラについて「ホダワラ、方言 キバサ、賎民の糧なり」と記される。同じく佐渡奉行所編の『佐渡志』(一八三六)に、「なのりそー備荒の用をなす」と記される。“なのりそ”はホンダワラの古名。ホンダワラに限らず多くの海藻は、菜(な・副食)としただけでなく糧(かて・主食を補ったもの)としたのである。【参考文献】 福島徹夫「海藻と暮らし」、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・本典寺(ほんでんじ)
下寺町東側にある日蓮宗本門派の栄光山(普光山改め)本典寺は、元和九年(一六二三)本山二十一世の日躰による開基。本山は京都要法寺である。当時京町に住んでいた山田吉左衛門という資産家が帰依して本願主となり、堂宇を建てて寄進したのを、来島した日躰が山号を与えて寺としたという。吉左衛門は京都の人で、要法寺檀那であった。同人は寛永十八年(一六四一)に死去し、日躰は慶安四年(一六五一)に死去したが、ともに当寺に葬った。寛文年中(一六六一ー七二)に、上相川にあって退転した同宗の本行寺境内を併合した。当時の境内には、享保二十年(一七三五)に死去した奉行荻原源八郎乗秀の墓、およびその父近江守重秀(正徳三年〈一七一三〉死去)の供養塔がある。【関連】山田吉左衛門(やまだきちざえもん)・荻原重秀(おぎはらしげひで)【執筆者】本間雅彦
・本途稼ぎ(ほんとかせぎ)
佐渡奉行が、必要な経費を支給し、その公費によって間歩を稼行する仕法をいう。出鉱高によって、あらかじめ定めていた公納率にしたがって、奉行所が一定率の収益を回収する。佐渡では「直山」(奉行所が直営)同様の意味に用いられている。「御仕入れ稼ぎ」(山師が仕入れ銭を前借りして稼行する自分山)に対していわれた。久しく成績が不振で、自分山ないし御仕入れ稼ぎだった間歩が、その後好況を持ち直し、収益増が確実になった間歩は、佐渡奉行が幕府に願出て「本途稼ぎ」に昇格した例が多い。鶴子屏風沢の「弥十郎間歩」などに、その典型的な例が見られる。【関連】 御仕入れ稼ぎ(おしいれかせぎ)【執筆者】 本間寅雄
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★ま行★
・澗
小木港付近の湾入の東側を「外ノま」、西側を「内ノま」と言うが、この場合は湾の船着場を意味する「ま」である。より一般的には磯浜に見られる尖鋭な小湾入が「ま」である。深浦・犬神平・沢崎等の「ま」は、水深が深く漁港や船の寄港地となる。波食台の露岩上の節理に沿って浸食が速く進み、大小様々な規模の「ま」が形成される。佐渡島の海岸線は、岩石質の部分が多く「ま」も多い。
【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』、式 正英『地形地理学』(古今書院)【執筆者】式正英
・曲師屋(まげしや)
桶・樽が一般に用いられるようになったのは、鎌倉後期から室町期にかけてのことである。それまでの液体の容器はマゲモノであった。そのマゲモノをつくる職人が曲師屋である。一三世紀末に描かれた一遍上人絵伝には、庶民生活の場に、桶とマゲモノがいっしょに並べられている。つまりこの頃が、マゲモノから桶への移行期であったことを示している。マゲモノは、鋸の使用以前の、いわゆる割り木工の時代の民具で、材料はタテワリのしやすい、スギ・ヒノキ・アテビなどが用いられる。相川塩屋町の「まげしや商店」では、昭和四十年代にも店頭の商品の中に、マゲモノの丸型弁当箱が置かれてあった。当時の店主の話によると、相川鉱山では来賓があると、昼食をこれに詰めて接待していたという。つまり使い捨てであったのである。そのときのマゲモノ弁当箱は、蓋の外径一七・八センチ、高さ八・三センチで、底と天端は接着剤で、側面は本体・蓋ともに桜の皮でとめてある。材はスギの柾目が用いられている。現在も村々の定期市では、マゲモノの蒸しジュウや、篩が売られている。ワッパとかメンパなどと呼ばれる食器は、用途がなくなるのに伴って姿を消しつつある。【執筆者】本間雅彦
・真更川層(まさらがわそう)
大佐渡研究グループ(一九七○)の命名、島津光夫ほか(一九七七)により再定義されている。模式地は両津市真更川で、相川層を不整合でおおっている。中新世前期の地層である。両津市から相川町北部を中心に、相川町全域に分布し、層厚は最大で約一○○○メートルと厚い。デイサイト質の火砕岩・溶岩を主体とし、玄武岩質の火砕岩・溶岩、安山岩質の溶岩・円礫岩・泥岩からなる。デイサイト質火砕岩には、各地で溶結構造がみとめられ、その多くは火砕流堆積物である。相川町戸地海岸で代表的な火砕粒堆積物を観察できる(戸地の溶結凝灰岩)。相川町関周辺には、玄武岩質の火砕岩が分布し、その中に珪藻質泥岩層が挟まれている。この泥岩は湖成層で、植物化石(関植物化石群)を多産し、ほかに昆虫化石や淡水生魚類化石*も発見されている。関の化石群と火砕流堆積物が多いことから、真更川層の火山活動も陸域でおこったことがわかる。
【関連】相川層(あいかわそう)・戸地の溶結凝灰岩(とじのようけつぎょうかいがん)・関の木の葉石(せきのこのはいし)・昆虫の化石(こんちゅうのかせき)【参考文献】大佐渡研究グループ「大佐渡南部の新第三系」(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】神蔵勝明
・またぎ大工(またぎだいく)
だいくは「大工」で、タガネで鉱石を掘る坑夫をそう称した。佐渡では、江戸時代一般に通っていた呼び名である。佐渡鉱山の古謡に、「大工商売乞食にまさる、乞食は夜ねて昼かせぐ」とある。大工という職業には、夜も昼もなかったことを逆に皮肉ったともとれる歌で、「大工すりや細る、二重廻りが三重まわる」に連続する内容で、労働のきびしさを歌っている。江戸時代には、「昼番」とか「夕入大工」などの区別で、時間交代制が、いつのころからか始まっていた。文政年間(一八一八ー二九)のころ、「昼番」といえば朝五ツ時(午前八時)から七ツ時(午後四時)まで。「夕入大工」は、夜五ツ時(午後八時)から暁七ツ時(午前四時)まで、それぞれ八時間労働で二交代制であった。安政年間(一八五四ー五九)には、昼間は三交代制で「朝一番方」は明六つ(午前六時)から四ツ時(同十時)まで。「二番方」は四ツ時から八ツ時(午後二時)まで。「三番方」は八ツ時から暮六ツ(午後六時)までの四時間制。夜間もこれに準じたと思われる。二タ時(四時間)の仕事を「肩一枚」といって、肩一枚の採掘量を、通常一貫五○○目ないし三貫目とし、賃金もそれに応じて肩一枚を「七十六文」とした記録がある。またぎ大工とは、昼の一番方に差組まれた大工が、夕方から他の坑の夜番にも稼ぎに出ることをいった。賃金ほしさからこれが流行して、健康をさらにそこねる人たちが多かった。【執筆者】本間寅雄
・真竹(まだけ)
【科属】タケ科マダケ属 佐渡は竹の島。日本の三大有用竹であるマダケ・ハチク・モウソウチクは、佐渡でも三大有用竹で、その大部分はマダケで、新潟県の竹林面積の七三%が佐渡に分布している。マダケは、佐渡・粟島・岩船・角田などに分布し、冬の季節と西日をさけた洪積段丘面や斜面に、タケヤブとなって群生する。南佐渡には良林が多く、大佐渡にも季節風をさけた沢辺等にみられる。昭和四十年(一九六五)、羽茂の竹林の生態調査が、千葉の沼田真(現在は日本自然保護協会会長)によって行なわれ「竹林の樹冠型からは良竹、桿の枝葉に対する重量比や、下枝のつく高さの割合からみて最良竹、竹林中の親竹や切株の分散から判断して、非常によく管理されている竹林と診断された。生態学上、最良竹のマダケ林と診断された竹林は、タケノコもまた生態的に最良のタケノコ。極めてうまいだろう」と話された。冬の季節風をさけたシイ・カシ林などの暖帯林域はマダケ林域。島の風土の自然が、マダケ林をうみだしたのも事実。しかし「金銀山で使う竹が増加すると、未利用の崖のふちに各種の加工用の竹が植えられた。岩首村では、竹は貴重だから、竹を伐ったら竹の根を植えようと掲示がある。『島は竹におおわれています。竹林があることをみても、島の暖かいことがわかります』という説明が行われる。その通りなのだが、崖をおおう竹やぶが、昔人手で植えられ、輪竹・ざる・かごに加工されて、貧しい村人の生計を助けてきたことを語ってくれたら、もっと島の竹が心に残るに違いない」と、歴史学者の田中圭一は『佐渡ー金山と島社会』(一九七四)にのべている。【参考文献】伊藤邦男「羽茂のマダケ林」、同『佐渡山菜風土記』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】伊藤邦男
・股佛(またぼとけ)
三十三年忌には、栗や桜の皮づきの股木でマタボトケを作り、墓にたてる所が多い。両津市月布施では、マタボトケの股木は、クロメ(年の暮)前に切れといい、マタボトケの上部に要をこわした扇子を、麻糸で巻きつける。このマタボトケの股木は、生まれかわって木の芽が出るように、また帰ってこいとの意味。また麻糸は、白髪になるまで長生きをとの意味だという。佐和田町真光寺などでは、このマタボトケをカナメモドシ、またはホトケモドシなどといい、三十三年忌を境に仏はご先祖様に昇格し、子孫を見守るのだという。羽茂町羽茂本郷では、三十三年忌をトムライアゲというが、これは最終年忌を意味することばである。小木町田野浦などでは、ていねいな家は五十年忌にマタボトケをたてた。赤泊村腰細や小木町沢崎では、三十三年忌にマタボトケをたて、さらに五十年忌に角塔婆より大きいダラニトウバをたてる家もあった。五十年忌になると追善に生魚を出したが、それ以前の追善はかならず精進料理だった。たとえば相川町大浦などは、オヒラ(油あげやナスのゴマアエ)、オツボ(ニシメやアラメまたはキザミコブ・イゴネリ)、大根ナマスの酢のもの、それにソバ・オクワ・アンモチなどであった。【参考文献】青木菁児『青木重孝郷愁・佐渡』(2)、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】浜口一夫
・町方役(まちかたやく)
佐渡奉行所の職名。慶長九年(一六○四)初代佐渡奉行大久保長安が、家臣の野田監物・河野覚助を町奉行に任じたのが最初。同十八年から元和まで在勤の佐渡奉行が兼任したが、元和中初めて町奉行定員二人に定めた。正徳三年(一七一三)町方役と改め、さらに宝暦八年(一七五八)にはこれも廃止し、広間役六人のうち二人を町方掛とした。この町方掛広間役は町方役所の課長で、平常は広間に勤務し、役所には目付役二人・町同心二○人・町年寄四人が詰め、相川町の市政全般を司掌した。広間役(町方掛)は市政全般を統轄し、目付役はその下で民事・刑事に関する警察・監察の事務を管掌し、町同心は町方掛広間役・目付役の下で、主として相川市中の治安・警察の任にあたった。町年寄は町人身分で家禄がなく、役料一か月米五斗と筆墨料一か年銭一貫五○○文支給された。町年寄の職務は治安維持、流人および切支丹類族の監視(正徳年中に廃止)、宗門改め、地所売買・道路橋梁に関すること、小役銀の徴収など多岐にわたった。【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集七)、岩木拡『相川町誌』
・町同心(まちどうしん)
佐渡奉行所の職名。慶長九年(一六○四)初代佐渡奉行大久保長安が来島した時、町同心二○人を町奉行(正徳以後町方役)二人の下に配属させ、相川市中の警備に当たらせた。『佐渡古実略記』の「相川府中開発之事」に、「慶長八卯年宗岡弥右衛門渡海、 子外山ノ陣屋ヲ相川ニ移シ、長安翌年渡海此陣屋ニ移リ、府中ニ開発シテ、家来野田監物・川村覚助町奉行ヲ定、同心二十人抱(中略)、山先町ハ山崎同心住居」とある。また、『佐渡相川志』には、「慶長九甲辰年大久保長安同心百人ヲ召連レラレ、是ヲ 鍬同心ト云フ、後ニ山崎同心ト云フ、今弥十郎町、同心町住居ハ元和年中ヨリナリ」とあり、小田切仁右衛門組と岩崎新左衛門組の二人の町奉行に、それぞれ一○人ずつ配属された町同心の姓名と、召抱えられた年代を記している。幕初町同心は、嶋同心とも山崎同心とも称したというが、嶋同心の名は相川市中の治安のみならず、一旦有事の時は、島内全域に出動したための呼称であろう。それは、『佐渡国略記』『佐渡年代記』などに、慶安四年(一六五一)の辻藤左衛門の起こした小比叡騒動の時、二人の町奉行に随って一八人の町同心が出動し、内一人が戦死した記事がみられるのをはじめ、島内各所の大小様々の事件に出動していることによって知られる。平時における町同心の勤務場所は、町方役二人の執務する弥十郎町と、同心町の町方役所で、宝暦年間町方役が廃止されて、町方掛り広間役二人が置かれると、同役は広間詰めとなったが、町同心は従前同様旧町方役所に詰め、両組それぞれ昼間二人、夜間一人が勤番した。【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】児玉信雄
・マトネ(まとね)
「石名越え」の項で、マトネとは峠の分水嶺にあたる場所であると、一般的な用法について書いた。ところが大佐渡山系のほぼ中央部で、ドンデン山の約二キロメートル西方には、標高九三七・五㍍の「マトネ」という山が実在する。ここは相川町と両津市との境界線上でもある。金北山の西側には、戸中や片辺からの山越え道が、「新保ドネ」で金北山ー妙見山道と合流するが、同じように東側のマトネ山の西では、石花から入川までの五本の山道が縦走道路と合流する。このマトネ山の標高九三七・五㍍は、島内では金北山(一一七一・八)・妙見山(一○四二・二)・金剛山(九六二・二)・山毛欅ケ平山(九四七・一)についで、五番目に高い山なのである。それだけの高さのある山であるのにかかわらず、他の山々のように土俗信仰的な、あるいは植生を示す対象とはなりにくかったせいか、地形を表わすマトネの固有名詞となったものと思われる。【関連】 石名越え(いしなごえ)【執筆者】 本間雅彦
・間歩(まぶ)
現代の鉱山の「坑」にあたる。慶長以前は、請負人がすべてで一山を請負ったので、「駒沢山」とか「鶴子山」とか山名で読ばれた。文禄期(一五九二ー九五)をむかえて坑道堀りが普及すると、一つの坑を単位としての採掘がおこなわれ、その坑が間歩とよばれ、間歩を稼ぐ者は金児と呼ばれた。【執筆者】田中圭一
・マルバシャリンバイ(まるばしゃりんばい)
【別称】小川の円葉車輪梅(おがわのまるばしゃりんばい)
・万照寺(まんしょうじ)
浄土真宗東本願寺派、本尊は阿弥陀如来である。諏訪町鉛坂にあり、万行寺と専照寺が、昭和十七年に合併して万照寺とした。現在の寺地は、万行寺があった場所。万行寺は開基空乗、元和五年(一六一九)建立。山ノ内一本松近くの証成寺・安楽寺を元禄年中に併せ、浄願寺も合寺する。また専照寺は元和元年(一六一五)祐恩が渡来、奈良町に建立。祐恩は近江国堅田出身の長浜源左衛門。一時、播州姫路にいて、祐恩と改名し、各地を遍歴し佐渡へ来た。「専照寺宝物縁起」によると、源左衛門は越中砺波の北野村にしばらく留まり、のち京都に上って教如上人御真影を拝受した。裏書に「越中国利波郡北野村専照寺常什物」とある。祐恩によって、北野村から入った寺であることがわかる。祐恩は教如上人御真影をもって、京都から敦賀、能登の福浦を経て二見湊に入り、上相川の奈良町に来た。ここにいて京都本願寺へ、進納金の懇志が送られていた。万行寺には、慶安事件に連座した丸橋忠弥に加担して、配流となった大岡源右衛門・源三郎父子の墓が建てられた。『慶長年録』にも、金山繁昌した佐渡の様子が記されており、その鉱山労働者を信徒にする浄土真宗寺院は、慶長・元和期に佐渡に入った例が多い。【関連】大岡源三郎(おおおかげんざぶろう)【参考文献】岩木拡『相川町誌』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・マンダラ(まんだら)[カツオ]
マンダラカツオの名は、田中葵園の『佐渡志』に載っており、マツヨ(松魚)が方言と記している。マンダラには真名鱈の字を当てているが、果して往時に佐渡で行われたマンダラ釣りが、真のカツオ(鰹)のみを指しているのか、マルソウダなども指しているのかは不明である。江戸末期には、随分とたくさん釣れたという記録が残っており、積極的に夏は回遊性のカツオを求めて出漁したらしい。佐渡では万の鱈にも、一尾の鰹が勝るということから、マンダラの名が付いたというが、マンダラの名は、北陸から北海道まで用いられている。カツオの近似種にハガツオがいるが、漁獲高は少ない。佐渡では、これをスジマンダラと呼ぶ。カツオを佐渡では、ハナガツオと呼ぶことがあり、鰹節に作ることからの連想であろう。現在、佐渡で多獲される種はマルソウダ、次いでヒラソウダであり、カツオより小型で、むしろサバに近い。カツオは一メートルを超えるものがあるが、マルソウダは五○センチ大である。佐渡では、珊瑚礁をすみ場とするイソマグロが獲れたことがある。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・万福寺(まんぷくじ)
真言宗智山派。姫津。本尊阿弥陀如来。慶長七年(一六○二)北狄胎蔵寺六世快弁開基。境内に薬師堂・虚空蔵堂がある。当寺は、薬師堂別当として建立されたと考えられる。同年薬師堂棟札には、「本願主佐州大間通小池六右衛門、大工清水嘉右衛門、住僧快弁」とある。薬師堂の鍵取りは、達者の山本小三郎家であったと伝え、薬師如来は河原田殿の兜の守り神であったとも、「佐渡寺社細見」には、石田の若一王子社(中原神社)の御神体であったとの記述がある。達者の山本も薬師堂も、熊野社と関係が深く、山本が塩やきの村、達者釜所に居住していたのは、河原田殿の塩生産の場所であったことを示す。また同寺境内にある虚空蔵堂は、「堂の上」の松のそばにあった。万福寺過去帳には、「薬師堂建立の節、住僧快弁住居仕り候。当村の儀鎮守は虚空蔵尊なり。慶長七年より薬師堂建立候より産土神は薬師如来となり候」とある(『金泉郷土史』)。慶長七年は、大久保長安が漁業技術の優秀な漁師を石見より移住させ、漁村姫津が成立した年である。小池六右衛門は大間の付船問屋で、四十物業者であろう。【関連】姫津(ひめづ)【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)【執筆者】佐藤利夫
・身売証文(みうりしょうもん)
人身売買を、一般に「身売り」と称した。身売りは表向きは禁じられていて、佐渡では元和年間(一六一五ー二三)の幕府の禁令が、『佐渡年代記』などにも見えている。このため証文では、名目は身売りを「奉公」とし、身代金を「給金」と書いたものが多い。給金はしかし、奉公期間中の対価報酬と考えられがちだが、実際は借金なのであって、借金の利子だけが奉公によって消えて、年期明けのときに本銀、すなわち借金を返さないと解放されないが、または解放されても借金が残る仕組みになっていた。だから身売りのときの身代金が、年期の一○年なら一○年が終ったときに、消滅したと考えるのはまちがいである。売り主である親たちも、将来元利とも返済して、娘たちをもらいうけるといった権利意識はなく、売り主たちのいっさいの権利を放棄させることに、買い主たちは契約の重点を置いて、書かせることが多かった。佐渡が、よそとくらべて身売り王国だったわけではないが、金銀山の開発は、女性たちの商品価値を飛躍的に増大させていた。初期のころは、身売りの契約を固くするために、「天下一国の徳政御座候とも」などと書いたのが多い。奉行や代官が変わって、人返しの徳政があっても、この女性については別である。というのである。海府のある廻船商人の家には、国仲の男や娘を労働力として、買いとった証文が数多く残っている。廻船稼業のため、「他国へ硫黄・鉛・たばこなど、御法度の品は持って出ないこと、などが書き加えてある。一方、売る側の理由の中には、年貢が納められないとか、「樋(とい)銀」の工面ができない、といった文面などもある。島中の百姓が、鉱山の水替人夫に強制徴発されていて、労働が辛いからお金(樋銀)を工面して、人足をまぬかれる。そのお金の調達に、子を売るなどの事例もまた多かったのである。【関連】身代金(みのしろきん)【執筆者】本間寅雄
・ミオジプシナ(みおじぷしな)
原生動物有孔虫目の一属で、殻は数ミリと大きく成長し、石灰質で、複雑に分かれた室をもつ大型有孔虫の一種。外形はほぼ凸レンズ形をしていて、室は扇状・同心状に配列する。日本の各地からオパキュリナとしばしば一緒に産出し、中新世前期~中新世中期の示準化石である。暖海にすんでいたと考えられる。佐渡島に分布する下戸層から産出し、とりわけ真野町西三川の海岸周辺に露出する層厚約一メートルの石灰質砂岩層は、あたかも沖縄の「星砂」を想起させる。また、相川町平根崎の下戸層からも産出が報告されている。このミオジプシナは、ミオジプシナ コトオイ コトオイと命名されている。【関連】オパキュリナ・下戸層(おりとそう)【参考文献】半澤正四郎『東北帝国大理科報告』(一八巻)、松丸国照『土編』【執筆者】小林巖雄
・粛慎人来着(みしはせびとらいちゃく)
粛慎人は、やまとことばでは「みしはせびと」と読む。日本で最初に記録された外来の鬼で、『日本書紀』第十九の欽明紀(五四四)の頃に、次のように書かれている。
五年十二月越の国言さく 佐渡の島の北の御名部の碕岸に粛慎人あり 一つ船舶に乗りて淹留る 春夏は魚を捕って食に充つ 彼の島の人 人に非ずと言ひ亦鬼魅なりと言ひて敢て之に近づかず 島の東禹武の邑の人 椎子を採拾ひ熟し喫わにと欲して 灰の裏に著いて炮る 其皮甲化して二人となり 火上に飛騰ること一尺余計 時を経て相闘う 邑人深く以て異しと為し 取て庭に置く 亦前の如く相闘ひて己まず人ありて占ひて云う 是れ邑人必ず魃鬼の為に迷惑されんと 久しからずして言の如く其の抄掠を被る 是に於て粛慎人瀬河浦に移り就く 浦の神厳に忌み人敢て近つかず渇して其の水を飲み死する者且に半ばならんとし骨巌岫に積む 俗粛慎の隈と呼ぶ也 鬼と書かれてはいるが、民族学上では大陸の沿海州北部から、旧満州にかけて住んでいた狩猟民の、ツングース族とする説に定着しつつあり、古記には蝦夷ないしアイヌ説もみられる。右記中の地名、「御名部」「禹武」「瀬河浦」がどこであるかには、諸説があって定まらないが、佐渡博物館編『図説・佐渡島』では、東は藻浦から西は橘海岸などが挙げられ、北片辺の馬場遺跡の発掘によって、石花川河口付近に上陸地が比定されたりしている。右記した欽明紀は、実録によったものではなく、それ以前の口碑伝承を、越の国の者が報告する形式で書かれている。それゆえ鬼魅や魃鬼が抄掠したとして、蛮族の暴力的行為をうけたことになってはいる点については、中国人が用いた漢字表記では、「粛」も「慎」もむしろ穏やかで、つつしみ深い意味があるので、他の個所の記述と比較しながら、真実を見極める必要がある。【関連】馬場遺跡(ばんばいせき)・韃靼塚(だったんづか)【執筆者】本間雅彦
・水替(みずかえ)
坑内の排水の仕事をいう。地底のいちばん深いところでの作業なので、坑内労働ではもっとも難儀なものとされた。坑内は絶え間なく地下水がわいて出る。水は川となって坑道を流れ、豪雨ともなれば地上の洪水が坑内に流れこんで、人が坑道もろとも埋まることもあった。世界のどこの鉱山も、開発に当って直面する第一の仕事が水との闘いとされ、奥村正二氏は、「産業革命の端緒となった蒸気機関の発明も、実は鉱山の地下水汲上用ポンプの動力として生まれている」(「火縄銃から黒船まで」)と書いて、鉱山と水との関係に注意している。排水法でもっとも原始的で一般的なのが、手操(てぐり)水替といって「つるべ」(釣瓶)によるくみあげだ。少し進んだ方法は、家庭の車井戸と同じ仕組みで、井車を坑内の上部に仕掛けて、両端の綱につけた二つの釣瓶でくみ上げた。これを「車引き」といい、車の滑りを利用したものだ。坑内は広さが限られていて、細工物では取付けが難しい上に、故障が多いためである。細工物(器具)で慶長年間から使われたのは「寸方樋」(すっぽんどい)で、これは木製のピストン・ポンプである。鉱山の絵巻物にも見えている。つぎに西洋式の「水上輪」が承応二年(一六五三)以降、幕末まで使用される。もっとも精良なポンプだった。天明二年(一七八二)になってオランダ水突道具の「フランスカホイ」が、初めて青盤坑内で用いられる。老中田沼氏の腹心だった勘定奉行松本伊豆守が所持していたのを、試みに佐渡に運んで使ったものだ。九州大学工学部所蔵の「金銀山敷岡稼方図」にも実物が描かれているが、近年まで島内各地でも使われていた、天秤式手押消防ポンプとほぼ同じものだった。水上輪と同様に鉱山のポンプが、やがて農家に灌漑用または消防用として普及した事例の一つとなる。【関連】樋引(といびき)・水上輪(すいしょうりん)【執筆者】本間寅雄
・水金謂書(みずかねいわれしょ)
水金町から、町の歴史について、古来からのいい伝えや、くるわのしきたりなどをまとめ、奉行所に報告した綴りである。活字にはなっていないが、「宝暦八寅年十一月改之候、雑太郡相川、水金町」と表紙されていて、「水金謂書」としてある。この町のなり立ちをかいま見る上で、基礎的史料の一つである。内容を大別すると、山先町(現会津町)にあったくるわが、享保年間(一七一六ー三五)に水金町へ移転した経緯、山先町という町名の由来、水金町に対する古来からの課税と、その変遷、水金町の町名の由来、下相川本興寺門前と、柴町の専光寺門前にはさまれていたくるわ周辺の往来と、その門限の取りきめ、などである。また、相川町々および在方で、私娼(無許可営業)が見つかった場合の取締りと、その逮捕の事例、およびその法的な根拠となる、奉行所の通達などが年別に記されている。なお末尾に「水金町由来」とあって、慶長のころ小六町にくるわが誕生し、元和のころ柄杓町(上相川)、続いて山先町にくるわが出来ていった経緯が述べてある。以上はすべて毛筆書きで和紙に綴られ、原本は相川郷土博物館で保存してある。【関連】水金町(みずかねまち)【執筆者】本間寅雄
・水金沢疎水(みずかねざわそすい)
疎(そ)は一般に通水路をいう。鉱山のばあいは排水用のためのトンネル(坑道)で、もっとも古いのが、元和八年(一六二二)に山師味方但馬が掘られたという、「割間歩水貫間切」(延長三四五米)である。これは「高さ一丈七尺、横一丈三尺」もあり、「大水貫」と呼ばれたが、背(断面)の大きい排水坑であった。割間歩の位置から想像すると、北沢の斜面に坑口を設け、水は北沢に捨てたのではないかと思われる。ただしこの痕跡は残っていない。寛永三年(一六二六)になって、やはり割間歩の湛水処理のため、水金沢を坑口とした「水金沢水貫間切」(延長八七二米)が計画され、同十五年に完通した。これは坑口が近年まで見られたが、戦後の水金沢ダム工事によって埋没してしまった。元鉱山技術課長の大場実氏が語ったところによると、坑道の断面は「正方形に近かった」という。先の割間歩水貫は、工期が何年かかったかの記載がなく、この水金沢水貫は、坑道の加背が、当時の記録に記載されていない。ともあれ、のちの元禄九年(一六九六)に、四年一○か月ぶりに完通した、有名な「南沢疎水」(延長約九二二米)に次ぐ長い排水坑で、完成までに一二年かかっている。「寛永ノ頃、水金ヨリ割間歩ヘ水抜キ掘ル。此所上下ニ切向フ。是ヲ手カ子(たがね)間切ト言フ」(『佐渡相川志』)の記述から、内(坑内)と外(坑外)の両方から、迎い堀りで堀りぬくという工法だった。このほかの疎水に、天保二年(一八三一)十月に完成した「中尾間歩水貫」(延長二七三米)がある。これは文政七年(一八二四)の着工で、六年一○か月の工期だった。【関連】南沢疎水(みなみざわそすい)【執筆者】本間寅雄
・水金町(みずかねまち)
江戸中・後期の遊女町。享保二年(一七一七)に、山先町の傾城屋がここに移転して出来た。少し前の元禄七年(一六九四)検地帳では、「水金沢」とあって屋敷は二反歩余。遊女町の町造りが始まって、下相川村の田地八反歩もふくめた町屋敷が完成する。『佐渡相川志』という書物には、「此川筋ニテ昔ハ水金(すいぎん)ヲ流ス。仍テ名トス。其頃コノ川上ヲ平戸沢ト云フ。万治ノ頃迄此ノ所ニ大ナル買石(製錬工場)アリ」とあって、町名ノ由来が初めて記録される。「水金川」の川名もそれに由来しよう。川上に川水を利用した、大きい製錬施設があったことがわかる。鉱山で水銀アマルガム製錬が行なわれたのは、一七世紀初頭の慶長年間で、両津市和木の「川上家文書」にも、「水銀床屋、海府口小立ノ上ニ立申候」とある。「海府口」は現在の柴町北端をさし、古く海府番所がここに置かれていた。「木立ノ上」はその山側をさし、水金町がその区域に当たる。隣接する水金川河口部左岸の、浄土宗・専光寺(廃寺)は山号が「水金山」で、かってこの川筋で行なわれた水銀製錬の名残りを伝えている。ただし、この寺は元和六年(一六二○)の開基と伝えていて、水銀製錬より遅れてこの地に建つことになるらしい。【関連】水金遊廓(みずかねゆうかく)・水金謂書(みずかねいわれしょ)【執筆者】本間寅雄
・水金遊廓(みずかねゆうかく)
山先町(現会津町)にあったくるわが、享保二年(一七一七)七月に集団移転してできた。「此川筋ニテ水金(銀)ヲ流ス。依テ名トス」(『佐渡相川志』)が町名の由来となる。移転時のくるわ数は一一軒、遊女は三○人で、営業権の譲渡でくるわの名前はしばしば変わったが、一一軒の数は幕末・明治まで増減がなかった。町割は中央の水金川をはさんで南北に区画され、南側の入り口には吉原風に大門が立ち、本町通りと呼ばれる道幅八尺の通路が水金川までほぼ直線でのび、両側にくるわが建っていて、川には「忍橋」といって円形の橋がかけられ、その川筋にも何軒かが並んでいた。幕末元治元年(一八六四)三月の宗門帳(山本修之助蔵)によると、一一軒の楼名は「夷屋」「平野屋」「海老屋」「大黒屋」「坂本屋」「蔦屋」「松坂屋」「板橋屋」「東屋」「松本屋」「桑名屋」で、遊女は一六歳から二六歳までの四四人。慶長年間に幕府が「公訴」して生まれたくるわであり、その由緒を伝えて吉原ふうにみな源氏名を用いている。「若菊」「東雲」「梅ケ枝」「夕霧」など。現存する身売証文などから遊女の出身地は、江戸時代には島内の娘たちがほとんどで、楼主たちには私娼の捜索や逮捕、ときには課税免除などの特権が与えられていた。「黄金花咲くくるわの全盛」など、はなやかな「名所」として口説節などにもしばしばうたいこまれた反面、「水金怪談」などの哀しい逸話も多く語りつがれている。【関連】水金町(みずかねまち)【執筆者】本間寅雄
・水
★さ行★
・在相川医師諸町人由緒(ざいあいかわいししょちょうにんゆいしょ)
史料価値の高い由緒書の集成。県佐渡支庁に保管されてあった「教育財団文庫」に、毛筆の写本で一冊にとじられてあったものを、『佐渡相川の歴史』(資料集二『墓と石造物』)を刊行したさい、初めて活字化された。題名の通り佐渡奉行所の地役人など侍をのぞく、医師・町人・山師・有力商人などのルーツで、いわば江戸時代の佐渡全島の「紳士録」である。侍も部分的にふくまれているが、この書の成立の動機は、基本的には地役人をのぞいた一般諸町人のために編まれたことが知られる。その点で、「佐州地役人分限由緒書」(同町史収載)などと対比できる史料の一つであろう。医師のほか山尾政円・古川平助などの絵師、山田吉左衛門・山本(橘屋)重右衛門・浜田屋権左衛門などの豪商、菊地喜兵衛などの廻船商人もその由緒が記されていて、秤屋の守隨吉兵衛、流人で測量師や細工職人として自活した古川平助、かざり屋(江戸)三左衛門などにおよんでいて、多彩な人物の履歴が紹介されている。この書はおおよそ宝暦~明和のころ、十八世紀後半ごろを下限に書かれたらしく、生国・現住所・家族・没年・法名など、書き上げ方に統一された形式も見られるので、上からの指示によって、ある時期に陣屋へ提出されたものであろう。ただし名前だけのもの、宗門人別改帳だけのものなどあって、成立した動機と、補充されて一冊にまとめられる動機は、別々の時点と考えられる。【執筆者】 本間寅雄
・在方役(ざいかたやく)
在方役は、元禄七年(一六九四)荻原重秀奉行の一国検地のとき、検地御用の役職として、初めて設置された。当初は地方元締役と称し、検地業務の中枢業務を掌る要職で、検地の計画・指揮、検地帳の作成・訂正などを管掌したが、元禄検地後の享保五年(一七二○)、在方役と改称した。定員二人。延享四年(一七四七)以後、在方役のうち一人が奥州半田銀山在勤となり定員三人となる。寛延三年(一七五○)一人減員、宝暦二年(一七五二)より翌年まで月番役兼帯。同三年以後、幕末にいたるまで二人。在方役は、地方役と業務上関係が深く、両者とも農村支配を担当し、年貢徴収を最も重要としたが、地方役は村方支配に関わる、広範な業務全般を司ったのに対し、在方役は主として、年貢割付状・同皆済状・検地帳の作成交付など、年貢・諸役関係などの業務を担当した。在方役は広間詰であったが、地方役所へも立合い、地方役などと一緒に在出するなど、業務を共同で行ったようである。【関連】 荻原重秀(おぎはらしげひで)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】 児玉信雄
・財団法人佐渡博物館(ざいだんほうじんさどはくぶつかん)
昭和二十六年(一九五一)東京国立博物館学芸部長石田茂作、同二十七年文化財保護委員斉藤忠両氏の来島の折、佐渡博物館建設の必要性について発言があり、島内識者間に設立運動の機運が高まった。昭和三十年(一九五五)五月、佐渡郡町村会は博物館設立の協力を約し、風岡相川町長・富田畑野村長二名の委員を選出した。同三十年七月十七日金井村公民館に、佐渡郡内各種団体代表八○名が参集し、佐渡博物館設置促進委員会結成大会が開催され、役員・常任委員・幹事等を選出した。かくして学識経験者が主導となり、佐渡郡町村会・新潟交通・佐渡汽船などの協力合意により、設立運営されることになった。昭和三十一年十二月、佐渡博物館本館工事着工準備(新潟交通事業)、同三十二年九月一日竣工、財団法人佐渡博物館として開館式を挙行。内部は、歴史・考古・動植物・民俗・美術・地質・芸能・産業の八部門に分けて展示されている。綜合博物館である。平成四年(一九九二)十二月から増改築が行われ、新に土田麦僊素描展示室が設置され、翌年七月一日から開館した。【関連】 土田麦僊(つちだばくせん)【参考文献】 本間嘉晴「佐渡博物館の開館に至るまで」(『佐渡博物館々報』一号)【執筆者】 本間嘉晴
・サイナガ(ヤリイカ)(さいなが)
サイナガという方言は、鞘長すなわち外套(胴)部が長く、胴に付く鰭(俗に耳と呼ぶ)も長く、全体が尖った筒状にみえることに由来する。佐渡のイカ漁の主体をなすのは、俗にマイカ(真烏賊)と呼ばれている和名スルメイカ(鯣烏賊)であり、眼球が直接海水と接している開眼類である。一方、和名のヤリイカ(槍烏賊)は、眼に被膜のある閉眼類である。田中葵園の『佐渡志』に、サイナゴイカの名で出てくるヤリイカは、胴長が四○㌢にも達する大型イカで、ほとんどが刺身として賞味されるが、ケンサキイカと共に、スルメに作られることもある。二月頃から佐渡の岩礁地帯に、産卵のため大群が押し寄せるので、灯火を利用した棒受網で、大量に漁獲される。漁は小木半島に始まり、相川町の外海府で終わる。卵は、長くて白い寒天質の袋に数十個が入っており、岩陰や褐藻に産み付けられる。多量に房がぶら下っている様は見事である。産卵後、親イカは斃死するので、死体が海底に小山を成すほどに重なることもある。佐渡の古語にある「瀬取りイカ場」は、ヤリイカ産卵群の接近状況を表わしたものであろう。【参考文献】 「佐渡のイカ漁ーその周辺のことなど」(『神奈川大学日本常民文化調査報告』七集)【執筆者】 本間義治
・西方寺(さいほうじ)
北田野浦にあり、真言宗豊山派。本尊は大日如来で、山号は光明山である。開基は寛正三年(一四六二)と寺社帳にあるが、同寺の縁起には寛弘五年(一○○八)相州・小田原出身の、源兼房寛了という者が北田野浦に来て三年の間とどまり、阿弥陀如来を安置して帰ったという。これが同寺の奥の院「阿弥陀堂」の始まりで、寛正三年は阿弥陀堂が南之坊という僧によって再興された年だと伝えられる。この後阿弥陀堂の別当として、真光寺門徒西方寺が成立したものと思われる。今の本尊は、阿弥陀堂の近くにあった同寺が、明治の初め頃火事で焼けたため、今の場所に寺を建つとき京都の寺から持ってきて納めたと伝えられるが、寛政四年(一七九二)真光寺の新末寺に改まっており、この頃本尊は大日如来に替わったものかと思われる。なお同寺には、毎年正月北田野浦の七人衆が集まり、「マンダラ蒔」といわれる佐渡島内にも例を見ない秘法が伝えられている。【関連】 北田野浦城址(きたたのうらじょうし)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『高千村史』【執筆者】 近藤貫海
・賽の河原(さいのかわら)
この習俗は全国的なもので、『広辞苑』でひくと、仏教用語として「小児が死んでから赴き、苦をうけるところ。冥途の三途の河原で、小児の亡者が石を拾って父母供養のため塔を造ろうとすると鬼が来てこわす。これを地蔵菩薩が救うという。西院(斎院)の河原」と書いてある。外海府の願の集落から、二つ亀方向に浜道を約五○○㍍ほどいった出崎を廻わるとすぐのところにある。死んだ子供を供養する霊跡である。さほど深くない洞窟になっていて、石積みや石地蔵や供え物が岩の外に溢れて、浜辺にも散在している。八十八か所の海府遍路の札所では、番外となっていながら参詣者は甚だ多い。浄土系の賽の河原和讃がよく唄われ、近年は小型の水子地蔵がたくさん納められている。『綜合日本民俗語彙』(昭三○・平凡社)では、「賽の河原と呼ばれる地は現在極めて多い。その多くは小児の死に関連した石積みの話を伝え─(中略)その以前の形があったはずである。おそらく葬送地のひとつ」云々とある。同書の写真説明によると、越後の西蒲原郡角田村のサイノカワラは洞窟内にあって、日蓮が悪竜を済度したところと伝えているが、福井県三方郡三方町では、幼児の死後四十九日間まつるのは、小川の流れの中につくられた棚の上となっている。願集落の賽の河原は、現在鷲崎の観音寺が管理しており、毎年七月二十四日の縁日には、地蔵祭が行なわれている。子供を失なった島人のほかに、関東ほか各地からの参詣者がある。【執筆者】 本間雅彦
・材木町(ざいもくまち)
『佐渡相川志』に、町長サ一三八間五尺、御陣屋迄三丁一三間二尺、居宅は町の東側にあり、五反二畝歩余を数えた。海に面した西側八反六畝九歩は薪納屋が続き、番所の荷揚げ場で空間が設けられた。慶長九年(一六○四)に、板町との境の浜に番所が建てられたが、元禄の中頃まで十分一役場と呼ばれ、役人を口屋衆、問屋を水揚と云った。寛永元年(一六二四)に焼失し、再建された。その後、呼び名が材木町番所に変り、幕末まで続いた。金銀山で必要な留木や薪・材木・板類を、出羽・庄内より買い付け、陸揚げで賑わいを見せた。文政九年(一八二六)の「墨引絵図」には、浜側にも民家があるが大半は空家か薪納屋である。『佐渡国寺社境内案内帳』によれば、善知鳥神社の社地であったが、町造り計画で下戸村へ移転し、これより社造営には材木等を下されるようになった。寛永二十年(一六四三)から善知鳥神社の祭礼が始まり、山鉾などが町内より出、神輿・神楽などが奉行所前へ行き、佐渡一の祭りとして賑やかに執り行なわれた。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡国寺社境内案内帳【執筆者】 佐藤俊策
・佐越航海史要(さえつこうかいしよう)
昭和二十二年(一九四七)に佐渡汽船株式会社は、明治初年から八○年間の船舶の発達、航海の状態、港津の盛衰等を輯録して、「佐越航海史」を編さんすることを計画し、それを郷土史家の橘正隆(通称法老)に依嘱した。依嘱は、同社の顧問格で取締役であった野沢卯市から直接なされたもので、野沢はそれまでに三か年にわたって集めた資料すべてを橘に提供し、橘自身の調べた資料を加えて、自由にまとめるよう要望した。橘は昭和十一年(一九三六)に日蓮遺跡研究を目的に来島して、最初は金泉村にいたが、翌年村史編さんの仕事が赤泊ではじまったとき、同村に招かれた。野沢はその赤泊の出身者で、早くから両者は昵懇の間柄であり、橘は後日野沢の伝記ともいうべき『遭逢夢の如し五○年』を書いている。橘は会社の要望した「佐越航海史」に、「要」を加えて次の八章にまとめた。「①緒言②海洋文化時代③流人島時代④徳川領時代⑤黎明時代⑥佐越航海競営時代⑦佐越航海統一時代⑧官公費補助始末」。同書は、昭和二十二年(一九四七)に五○○部が非売品として佐渡汽船株式会社から出され、また昭和四十八年(一九七三)に同社の創立六十周年を記念して、『六十年のあゆみ』を発刊したときにB5版に拡大して再版され、同じ凾に収め非売品として、関係者に配布された。【関連】 橘正隆(たちばなまさたか)【執筆者】 本間雅彦
・蔵王遺跡(ざおういせき)
新穂村大字下新穂に所在し、弥生時代中期~古墳時代前期に、佐渡島全体で大規模に玉作りが行われ、その中心的な遺跡であると考えられている、新穂村玉作遺跡群の一つである。発掘調査の結果、玉作資料や石鏃・石包丁などの各種石器、木製品など多くの遺物が発見されている。環濠と考えられる溝が検出されており、佐渡島に環濠集落が存在していたことを証明した。また、環濠の中から木製品が大量に出土し、ほとんどが建物の廃材であるが、容器・祭祀具・農耕具等も出土している。建物跡は九棟検出されており、その中でも大型礎板を持つ建物跡と、枕木を持つ建物跡の二棟が注目される。この二棟の建物の柱などを、年輪年代測定した結果、西暦二九○年代に伐採された可能性が高いことがわかっている。枕木が設置されていた建物跡付近から、佐渡島内で初めて内行花文鏡・珠文鏡・銅鏃が出土しており、遺物から神殿と考えられる貴重な建物跡として、全国から注目されている。日常生活を感じさせない、特殊な建物跡や遺物の多さから、玉作遺跡群の中で、祭祀的な場所だと考えられる。【執筆者】 小川忠明
・栄町(さかえまち)
埋立造成地。平地に恵まれない相川町にあって、町民の福祉向上、町政の発展、そして今後の観光開発を主とする、関連産業の振興を目的とした、総合開発計画の基礎的要件として、土地の確保が重要な課題となり、公有水面を埋立て、公有地の造成を決定した。着工は昭和五十一年(一九七六)度で、大間町~五丁目までの沿岸域を、約一○○㍍の沖合いに、県・国が護岸・消波工を設置し、その背後を相川町が、公有水面埋立免許を取得、埋立造成を進めた。一期工事(大間海岸~羽田浜)七二○㍍、二期工事(一丁目浜~五丁目浜)四三○㍍と進み、埋立総面積は一二万六○○○平方㍍となり、平成八年(一九九六)度に完成した。町名は一般公募(三六○件)の中から、町がますます繁栄するようにという願いをこめて、「栄町」とした。土地利用計画の中には、相川町民体育館(昭和五十六年度)・大佐渡開発総合センター(同五十八年度)・テニスコート・ゲートボール場(同五十九年度)・多目的運動広場(同六十年度)・駐車場(同六十三年度)・漁業センター(平成元年度)・町営住宅栄町団地(同三年度)・文化社会教育施設・町民健康増進施設・相川浄化センター・観光交通ターミナル・役場庁舎などがある。【執筆者】 三浦啓作
・坂下町(さかしたまち)
町は濁川に沿った両側が主で、西の下流は濁川町、南は帯刀坂に分れて、厳常寺坂に続き、下山之神町へ繋がった。濁川町との境から小路を隔てて炭屋町となり、東は川に沿って北沢町があった。『佐渡相川志』は、町の長さ七八間、町屋敷九反四歩と書く。帯刀坂の下りと厳常寺坂の登口は坂下町であり、濁川に架かる橋は公儀で修復したが、町にかかる小橋は町の負担であった。当初は川に石垣がなく、雨による水害で被害にたびたび逢い、家が濁流に流されたこともあった。明治に入り、金銀山の所有が徳川から国に変ると、北沢町の大半は鉱山の建物が次々に建ち、製鉱所となって諸施設が並んだ。町の至る所が、門や柵で締切られ、部外者の立ち入りを禁止する状態であった。明治から大正・昭和と鉱山の施設が新しくでき、町の様相が一変し、昔の面影を偲ぶ間がないほどめまぐるしく変化した。他に例がないほど変りようが激しかった。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、「坂下・下山之神・北沢土量絵図」(村川利章【執筆者】 佐藤俊策
・魚の化石(さかなのかせき)
脊椎動物の硬骨魚類では骨と鱗の化石が、また軟骨魚類では歯とまれに椎骨の化石が産出する。佐渡島の中新世前期の真更川層と、中新世前期~中期の下戸層・鶴子層は、魚の骨・歯・鱗の化石などを含む。相川町関に分布し、多量の植物化石を含む真更川層の泥岩は、淡水魚の化石をまれに産出する。これはコイ科の魚と推定されている。また相川町下戸東方に分布し、細かい層理が発達した鶴子層の泥岩は、海にすむ魚の骨・鱗の化石を含む。多く産出する硬骨魚類は、ニシン科のエオサルディネラヒシナイエンシスと命名された種類である。体長五~一○㌢ほどの大きさで、頭骨・脊椎骨・肋骨・鰓骨などの骨格が体型を保って残されている。また、同種の鱗の化石がみいだされる。ほか、硬骨魚類のアイナメ科、カサゴ科メバル属の鱗、また軟骨魚類のサメの歯が、下戸層・鶴子層からかなり多く発見されている。【関連】 真更川層(まさらがわそう)・下戸層(おりとそう)・鶴子層(つるしそう)・サメの化石(さめのかせき【参考文献】 佐渡海棲哺乳動物化石研究グループ『佐渡博物館研究報告』(七集)、小野慶一・上野輝弥『国立科学博物館専報』(一八号)、佐藤陽一・上野輝弥『国立科学博物館専報』(一八号)【執筆者】 小林巖雄
・裂き織り(さきおり)
経糸に木綿を細く裂いて織った仕事着を「つづれ」という。裂き織りと「つづれ」は同義語につかっていたが、現在では「つづれ」という人は少ない。「つづれ」という地域は海府と能登である。近世前半期まで能登と海上交通で密接に結びついており、文化性も共通点が少なくない。本来の用途を替えて加工し、木綿の二次製品として再製したものが「つづれ」であるので、高級品という感じはない。高千以北では「つづれ」というが、相川に近くなると「さっこり」という。また戸中では「さっきり」といっている。「つづれ」と裂き織りを使い分けているわけではない。木綿布が入手しにくい地域ほど「つづれ」という用語が残っている。裂き織りと「ねまり機」とは共存関係にあり、経糸にきつく織り込む地機として使われてきた。海府方面に裂き織りが残ったのは木挽の山着(どうぶく)、漁船上の防寒具など、激しくかつ耐久性のある着物として必要であったからである。つづれ地帯に「つづれ帯」が使われたのはそれなりの理由がある。古謡に「いくら隠しても、海府の者は知れる。白のツヅレ帯たてむすび」というのがある。婦人の仕事姿は「ぞんざ」(「どんざ」とも)に「つづれ帯」を腰に巻いて仕事をした。帯がゆるまないで仕事がしやすかったからである。木綿の裂き織りくさに和紙をまぜた「紙さっこり」があった(戸地・戸中)。木綿だけより軽く保温力があった。また作業内容に合わせて「短かさっこり」、木挽がたんぜんのようにして着た「おおそで」もあった。木綿布の不足分は相川市にでて「つぎ」を買入れてきて間に合わせた。この木綿ぎれは北前船で上方から「裂織りぐさ」といって運び込まれていた。裂き織り製品として最後まで残ったのは、背負い具としてつかわれた「さっこり」と「こたつ掛け」で、国中方面に海府の製品として売り出されていた。この伝統的紡織習俗は記録の作成、糸織用具や製品の収集を行ない、昭和五十年(一九七五)国指定重要有形民俗文化財となった。【関連】 ねまり機(ねまりばた)・相川町技能伝承展示館(あいかわまちぎのうでんしょうてんじかん)・佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)【参考文献】 『佐渡相川の織物』(相川町教育委員会)、佐藤利夫『佐渡嶋誌』、同「さど・あるくみるきく」(「新潟日報」連載)【執筆者】 佐藤利夫
・鷺流狂言(さぎりゅうきょうげん)
鷺流宗家は、能楽シテ方の観世流に属する狂言方として、幕府の御用をつとめ隆盛をきわめた流派である。しかし、明治維新という社会的変動は、能・狂言師たちに俸祿の打切りという経済的苦難をもたらした。鷺流はこのことがきっかけとなって衰退の途をたどり、明治二十八年鷺流宗家十九世・鷺権之丞の死によって、家元は廃絶し再興もかなわず、大正末年には中央狂言界から完全に姿を消してしまい、現在ではわずかに山口県と佐渡に、その命脈を保っている。佐渡の鷺流狂言は、江戸後期に潟上村の葉梨源内によってはじめられた。源内は、文政四年(一八二一)に江戸で鷺流宗家・仁右衛門定賢に師事し帰郷、佐渡で鷺流を広めたといわれる。幕末には、佐渡奉行・鈴木重嶺の用人として鷺流宗家の高弟、逆水五郎兵衛に師事した三河静観が来島し、明治維新後もそのまま残り、佐渡での鷺流の興隆につくしている。これとは別に、明治十八年真野町の鶴間兵蔵が、東京で宗家やその弟子から狂言を学び帰郷し、自身の主宰する笛畝会の門人たちに狂言を伝授した。それが現在でも真野町に伝承されており、昭和五十九年(一九八四)には県の無形文化財に指定され、佐渡鷺流狂言研究会によって伝承活動が行われている。【執筆者】 池田哲夫
・サケガシラ(さけがしら)
体が細長い帯芯のようなところから、紐体類と呼ばれる魚類に入れられている。体色は銀白色で、皮膚に鱗は無いが、いぼ状の突起が散らばっている。学名の属名トラキプテルスは、この状態を表わした粗い翼の意味である。普段は、中部太平洋の深海の中層にすみ、立ち泳ぎをしているが、時には暖流に乗って運ばれ、日本海へも入る。北西の季節風の卓越した時化の後に、浜辺へ漂着することがあり、珍しがられる。相川町の海岸へは、三月を中心にして発見され、新聞種になることが多い。サケガシラ(鮭頭)という和名は、北米原住民がサケの頭として崇めたことに由来する。肉は白身で柔かく、うまくないので利用されない。この仲間のリュウグウノツカイには、人魚伝説があり、肉を食すと長生きすると言われている。日本海でも産卵することがあるが、幼魚は育たないので、無効分散となる。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治
・下げ紙(さげがみ)
正月の神棚の前に下げる伝承的な切り紙のことであるが、白紙のままの家も多い。呼び方にも、ほかにタレガミ・マエダレガミ・ハカマガミ・キリサゲガミ・キリスカシ・オカザリガミ・シデガミなどがある。普及したのは、歴史的にはさほど古くからのことではない。石井文海の『天保年間相川年中行事』に、それらしきものはみえないし、昭和十三年(一九三八)の『佐渡年中行事』(中山徳太郎・青木重孝著)では、柱松や注連縄に昆布やスルメといっしょに、扇型の切り紙を結ぶマツノハナの行事が、泉・河原田・多田・徳和にみられるにすぎない。しかし民俗学研究所の『綜合日本民俗語彙』(昭和三十年刊)の「ハカマガミ・袴紙」の項には、佐渡での行事として載せてある。その後『海府の研究』(両津郷土博物館・昭和六十一年)には「切り紙」として、ツルカメ・大黒・エビスなどの縁起ものを切り抜いた紙を買ってきて下げるとして、両津の秀方仙之助が切った二○種ほどの見本を掲げ、同氏は四○年前に小木で習った旨書いてある。さらにこのさげ紙は、高野山で始まって北前航路で運ばれたとも書いているので、一般化はないとしても一部の者には、かなり以前に伝えられていたとみてよいであろう。神棚に下げるようになる前には、前記した柱松にハリセンベイといって、麸状の型で起した薄いせんべいなどといっしょに、縁起ものを切り抜いた紙を下げる習俗が、昭和初期にはかなり見られたから、それからの移行ともいえる。じょうぶな和紙が入手しにくくなってからは、薄手の習字紙が多く用いられているが、これは純白さが好まれる上、市販するようになってから、重ね切りの枚数が多くできるなどの利点があるためと思われる。【執筆者】 本間雅彦
・笹川十八枚村(ささがわじゅうはちまいむら)
江戸時代の村名。現在の真野町西三川字笹川集落で、明治五年(一八七二)の閉山まで、砂金山として諸国に知られた。明治十年六月、西三川村に合併して、「大字笹川」となって「十八枚」が消えたが、砂金流しを月額十八枚で請けて、運上を納めたのに由来するとされる。砂金一枚は十両であり、重さにして四五匁とされた。請負い額だから、実際の産額はその数倍あったと思われる。国道から西三川川に沿って四、五㌔ほど登った山間に家が点在する。川は、赤泊村下川茂に発して、上流を笹川といい、金山川・茶屋川を経て、下流の高崎で海に注いでいる。砂金は古来から、この川すじで採取され、右岸の「番屋平」「金堀山」「外輪」「諏訪坂」「中田」「梅ノ木」。左岸の「角力瀬」「高仙」「石原」などが、砂金稼ぎの多かったところであった。登って笹川に入ると、「立残山」「中柄山」「虎丸山」「鵜峠」といった堀り場が残っていて、砂金山遺構の豊富な点では、全国でも屈指のところである。公民館や庚申塚がある「中瀬」のあたりからで集落が二分され、北側が「金山」、南側が「笹川」と区別されて呼んでいる。金山には、大山祇神社・代官所跡・旧名主の金子勘三郎家など。笹川地区には、法名院塚・旧勝興寺跡・虎丸山・西三川小笹川分校などがある。両方合わせて三十数戸のムラで、中には「かなこ」と呼ばれる砂金堀りを先祖とする家が多い。明治五年の閉山以降は、ほとんどが農家に転じて、家系が続いている。【関連】 西三川砂金山(にしみかわさきんざん)【執筆者】 本間寅雄
・佐志羽神(さしはのかみ)
「三代実録」(清和・陽成・光孝の三代天皇の実録ー八五七~八八七)の記事の中に、貞観十六年(八七四)十二月、佐渡国花村神が、元慶二年(八七八)十一月、佐渡国佐志羽神が、元慶七年三月、佐渡国大庭神がそれぞれ正六位上から従五位下に叙せられたことが載っている。これらの神の名もその神跡も、どこであるか現在は全くわからない。このうち佐志羽神は、相川町橘の差輪がその神跡でないかとする矢田求の説がある。サシワは鷹で、上代佐渡では名鷹を産し公用に供したことがあって、その守神として住吉神を佐志羽神社と称したので、二見の橘のサスワであろうというものである。また『佐渡相川の歴史』(資料集五)には、次のような記事を載せている。差輪の坂下五平家は荒沢神社を管理してきた家で、さすわ沢と橘・羽二生線が交差するあたりの尾畑に、荒沢神社の元宮があった。ここに一つの伝説が残る。それは同家の先祖の代に、娘が宮の近くで吹雪倒れになった。それで社人の娘を助けられないような神はいらぬと、御神体を海へ流した。御神体は北に流れて大倉に着き、大幡神社となったと。この荒沢神社が佐志羽神社と関係があったか、興味ある問題である。【参考文献】 『佐渡志』、本間周敬『佐渡郷土辞典』【執筆者】 山本仁
・佐州官途栞(さしゅうかんとしおり)
一巻 表紙共八一枚。作者・成立年代とも不明だが、記事の最新年代が天保十二年(一八四一)であることと、冒頭に「佐州御手限にて差略これあり、江戸御伺ニ振候廉」と題する、佐渡支配に関する問題点十五か条の、幕府に対する意見書を掲げている点から考えて、天保十三年後に在任した大屋図書明啓(天保十三~弘化二)が作者かと推測される。これ以外では、直山と請山、御直粉成(直営精錬)と引請粉成(請負精錬)、天保五年より同十二年までの直山(青盤・鳥越・中尾・清次・雲子の五間歩)の銀生産高、諸役人の役金(給料)の支給月、水金町、時鐘、市町の由来、金銀細工の禁令、他国出し停止の商品、出入国人改め覚など詳細に記している。後半も定御問吹所壁書、銅床屋壁書、大吹所え張置候御書付、金銀吹分所壁書並びに張出これあり候御書付、山出筋金 直内訳、本目位規則之事、焼金小判ニ仕立候御入用積、砂金色々割合出目入目並びに御払代之訳、御入用目録差出候節書面認め方、笹吹銀並びに印銀の起立及び金銭引替相場、印銀由来之事の十一項目が記され、すべて金銀精錬に関するものと、金銀貨に関する詳細な記録になっている。写本は、佐渡高等学校舟崎文庫所蔵。【参考文献】 「佐州官途栞」(舟崎文庫)【執筆者】 児玉信雄
・佐州巡村記(さしゅうじゅんそんき)
三巻。巡村記は、佐渡奉行が新たに着任し、島内町村を巡回する際の手引書で、約二六○か町村すべてについて、家数・人数・石高・年貢高・見取田畑・御林・秣場・寺社・堂・郷蔵・用水・古跡・出先機関が記されている。類書が多く、本書は宝暦年間のものと推定され現存最古のもので、荏川文庫の所蔵である。類書には「お国巡り巡村記」(延享三年)、「佐州巡村記」(文化十年)、「佐渡一国巡村記」(天保七年)、「佐渡国巡村記」(天保十三年か)、「佐渡巡村記」(弘化二年)、巡村記(年不詳)などがある。巡村記とセットで使用されたものに「御巡村絵図」がある。【参考文献】 「佐州巡村記」(『佐渡叢書』一○巻所収)【執筆者】 児玉信雄
・座禅草(ざぜんそう)
【科属】 サトイモ科ザゼンソウ属「座禅草 臙脂(えんじ)の衣の達麿かな 井児」。達麿大師が座禅を組む姿に見たててこの名がある。「ザゼンソウとの出会いで山歩きをするようになった」「サンカヨウとの出会いがきっかけ」と、花の出会いが人をとりこにする。ザゼンソウもまた、強いインパクトを人々に与える。大佐渡のドンデン周辺。色とりどりの春告花の咲く花園。白骨の池と呼ばれる湿原は、ザゼンソウの群生地。赤茶色の部分は仏炎苞といい、内部にある黄色の花の集りを包み守っている。仏炎は仏に供える炎、大きなローソクの炎形である。同じ仲間のミズバショウは、白い仏炎苞。苞は葉の変形したもので、苞葉とも言い、蕾や花を包み保護する葉のことで、鱗片状にもなり、また本種のように色づいて、花弁状になるものもある。苞の内にたつ黄色の肉質の棒状のものが花の集りで、肉穂花序と呼ばれる。ポツポツと点在するものが一個の花で、四枚の小さな花びらが、雌しべと四本の雄芯を囲んでいる。花には強烈な悪臭がある。そのため英名スカンクキャベジン、仏炎苞が黄色のものを、イエロー・スカンクキャベジンという。【花期】 四~五月【分布】 北・本【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・撮要年代記(さつようねんだいき)
吉井剛安寺十五世潮音の編書で、元文五年(一七四○)に成立した。江戸時代に成立した佐渡史書には、『佐渡年代記』『佐渡年代略記』『佐渡国略記』『佐渡風土記』『佐渡志』など佐渡奉行所の地役人か奉行所付き医師、町年寄など奉行所御雇いの者によって書かれたものが多いが、この書は奉行所と関係がない地方の一寺院の住職によって書かれた点で異色である。潮音は島内各地の寺社の縁起を多く手がけており、古実に明るかった。成立年代も佐渡史書中比較的早く元文五年であるが、奉行所の記録も使用していること、殊に在野の史料、聞き書きも多く採用していること、江戸・上方に関する記事が多いことが特徴である。宗一検校の書いた『佐渡故実物語』の序文も潮音が書いたものである。潮音は加茂郡玉川村の加藤安兵衛家の出で、椿村常慶寺で剃髪、同寺住職となり、のち吉井剛安寺住職となった。宝暦頃隠居し、明和二年(一七六五)二月十二日死去した。【参考文献】 「撮要年代記」(『佐渡叢書』四巻)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡(さど)
青野季吉の著作である。青野は、佐渡の真野湾にのぞんだ佐和田町沢根に生まれ、早稲田大学英文科卒業(大正四年)後、読売新聞社や大正日々新聞その他につとめ、その後、左翼文壇の指導的評論家・芸術院会員・日本文芸家協会会長などとして活躍した。青野季吉の『佐渡』は、昭和十七年(一九四二)十一月に、小山書店から出されており、その後記に「私は佐渡に生れて、佐渡を喪った一人だ。しかし喪ったことは、忘れたことではない。この五月、私はじつに久し振りに、墓参に佐渡へ帰った。そして、五月雨にぬれた墓前の雑草のなかで、この書をかく決心がほんたうについた。(中畧)喪った故郷を再び見出し度いと云ふのが、この書をかく念願だったからだ。」と述べている。目次内容は、「佐渡の夢」・「三つの佐渡」・「佐渡の順徳院」・「佐渡の世阿弥」・「佐渡人」・「佐渡五題」(自然・民家・人形・回想・新佐渡)となっている。「三つの佐渡」では、佐渡の文化を、相川中心の武士文化、国中平野は、流人などによる通俗的意味での貴族文化、小木港の町人文化に分け、論じている。また佐渡への流人については、悲劇の帝順徳院に涙を流し、七二歳の老齢で流された世阿弥に、深い同情と関心を寄せている。「佐渡人」や「佐渡五題」のなかでの、人形や春駒に寄せる回想にも、佐渡人ならではの温かいまなざしをそそいでいる。晩年、ふるさとの沢根に「ペンの碑」がたてられ、愛用のペンをうめた。碑には「この美しい入江の岸辺にぼんやり立っていた 何も待つことなしに」と、記されている。【関連】 青野季吉(あおのすえきち)【参考文献】 『越佐が生んだ日本的人物』(新潟日報社)、玉木哲・山本修之助『新潟県人』(新人物往来社)、山本修之助『佐渡の百年』【執筆者】 浜口一夫
・佐渡相川合同庁舎(さどあいかわごうどうちょうしゃ)
国の機関の合同庁舎として、平成七年(一九九五)十一月、三丁目新浜町に新築した、鉄筋コンクリート造四階建、塔屋一階、延べ面積二、八八八・二七平方㍍で、相川税務署・相川測候所・新潟地方法務局相川支局が入居。一階と二階に「相川税務署」が入り、一階が個人課税部門で、所得税・消費税・贈与税・地価税などの、相談の指導及び調査を行い、法人課税部門では、法人税・消費税・源泉所得税・酒税・印紙税などの相談・指導及び調査を行っている。二階には総務課があり、税務広報・租税教育などを行い、管理徴収担当で税金の納付などを行っている。三階は、「新潟地方法務局相川支局」が入り、不動産・商業・法人などの登記、及び登記簿の謄抄本・証明書の発行など、各種登記に関する業務、市町村の戸籍事務の指導監督、外国人の帰化・国籍取得及び離脱などの、戸籍・国籍に関する業務、供託・人権擁護・国の訴訟に関する業務、その他公証に関する業務を行っている。四階は、「相川測候所」が入り、佐渡地方における気象災害の防止、交通の安全確保・産業の発展をはかるため、毎日の天気予報・注意報・警報、大雨や台風に関する情報の作成・発表、気象及び地震の観測の通報・統計、津波の観測・予報及び警報の発表、気象などに関する情報の収集・調査・発表、気象証明書の交付などを行っている。【関連】 相川税務署(あいかわぜいむしょ)・相川区裁判所(あいかわくさいばんしょ)・佐渡裁判所(さどさいばんしょ)・相川測候所(あいかわそっこうしょ)【参考文献】 「佐渡相川合同庁舎 入居官署とその業務内容」【執筆者】 三浦啓作
・佐渡相川志(さどあいかわし)
全五巻。相川町浄土真宗永弘寺(現永宮寺)十二世松堂の著。松堂は、河原田真宗光福寺八世了運の弟として、元禄八年(一六九五)に生まれ、明和九年(一七七二)十一月七八歳で死去した。巻一は、佐渡地頭・諸所城主・鶴子陣屋・相川陣屋を記述して、中世から近世への推移を概観し、歴代佐渡奉行・代官・各役所・番所の開設年代と変遷、旧勤名録を詳細に記している。巻二は、相川金銀山の起こり、間ノ山・六十枚両番所から主要間歩までの道法、古間歩の名前、山師の由緒、買石・金子・羽口屋・紙燭等の職人、相川町々の名主・中使、五ケ所番所・高札・訴訟箱・牢・兵法道場・町会所・時鐘・後藤屋敷・留木納屋等の施設、それに相川町々の絵図。巻三は、諸学・諸道をはじめ造庭・大工・木挽・鍛冶・塗師から、酒屋・湯屋・魚屋等にいたるまで、五一種について記述している。巻四は、相川の社寺堂・修験で、神社は大山祇神社以下二○社、寺院は真言(七)・天台(六)・禅(一○)・浄土(二○)・真宗(一八)・日蓮(二○)・時宗(一)合計九二か寺・堂(五)、修験当山・本山両派で一六院を記す。巻五は、相川町の年中行事・観音巡礼札所・諸家秘伝妙薬・相川八景を収めている。内閣文庫蔵の「相川砂子」は、本書をもとに編集されたものと考えられている。【関連】 相川砂子(あいかわすなご)・松堂(しょうどう)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡相川の歴史(さどあいかわのれきし)
昭和四十五年(一九七○)四月より、相川町町史編纂事業が編纂委員長を町長として委員一一人、調査委員会、部門別調査員・特別調査員・指導顧問の構成で発足、『金泉近世文書』資料集一、四十六年十一月に発行。相川町にはすでに『相川町誌』・『金泉郷土史』・『高千村史』などがあったが、新町史はこれら町村史を基礎資料としながら、町村合併による新町を一本にした、相川の歴史を編纂することを企図した。新町史の編纂について「広く町民、とくにこれから町を背負う青少年のために、郷土を懐かしみ、郷土の自然と文化をたいせつにし、その発展の示唆を与えるものでありたい」と、新町史のねらいとして述べている。各部門別に専門家の指導を得ながら、通史編は一○か年の事業として出発したが、貴重な調査・収集の史料を、まず資料集として刊行することになり、担当部門毎に資料集を編集・刊行することが先行した。四十七年『佐渡金山史料』(資料集三)、四十八年『墓と石造物』(資料集二)、四十九年『相川県史』(資料集六)、五十一年『高千・外海府近世文書』(資料集四)、五十三年『佐渡一国天領』(資料集七)、五十六年『民俗資料集Ⅱ』(口承文芸編 資料集九)、五十八年『二見・相川近世文書』(資料集五)、五十九年『金銀山水替人足と流人』(資料集一○)、六十一年『民俗資料集Ⅰ』(資料集八)の計一○巻が刊行された。編纂事務局を相川町文書館に移し、当初予定された通史編の編纂に取りかかる。基礎的・学術的な資料集と異なり、読みやすく親しみの持てる内容の編纂のため手間どり、平成七年二月に近・現代編が完成した。近・現代編には、明治維新以後、行政の中心的地位を維持しながら、鉱山の縮少・諸官庁の移転問題に直面した激動と苦悩の世紀の相川の歩みを、戦後の町村合併まで記している。なお、予定された部門別の自然・考古・社寺資料編および近世通史編は刊行されていない。本書『佐渡相川郷土史事典』は、通史・資料集を合わせた総合編として発行された。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集一~一○、通史編 近・現代)【執筆者】 佐藤利夫
・佐渡一巡記(さどいちじゅんき)
民俗学者の柳田国男は、大正九年(一九二○)六月十六日に両津に着き、翌日小型の発動機船で鷲崎に往き木村屋に一泊した。同十八日徒歩で相川に向い、途中入川の服部旅館に泊った。十九日に相川に着いて高田屋に泊り、そこからは人力車を雇って、河原田・新町をへて小木に出た。二十一日の朝小木から再び発動機船で松ケ崎へ、そして松ケ崎から和船で両津に帰ってきた。そのあと、国仲は新穂と中興を半周しただけで離島した。つまり島の外縁ぞいに一巡したわけである。「佐渡一巡記」は、そのときの記録をもとに、一二年後の昭和七年(一九三二)になって書きあげ、雑誌「旅と伝説」に掲載したものである。この記事は同じ年のうちに、神田の梓書房から出版した『秋風帖』の、一二七頁から一五八頁までに収録された。なお秋風帖には、つづいて「佐渡の海府」という大正九年(一九二○)に、「歴史と地理」誌に出した記事も併載されている。【関連】 柳田国男(やなぎだくにお)【執筆者】 本間雅彦
・佐嶋遺事(さとういじ)
萩野由之の著作を中心に、岩木拡・渡辺 ・上月喬らの著作も合わせて、新穂村教育会が昭和十五年、紀元二千六百年奉祝記念事業として出版したもの。編集の実務を担当したのは羽田清次である。著書名の『佐嶋遺事』は、収載する萩野由之の一篇の題名からとったものである。萩野著作の「佐嶋遺事」は本来二巻あったが、出版当時すでに滅び、本書に収められたものは、『北溟雑誌』に同じ題名で連載されたもので、随筆風に古代から江戸時代までを、概観して記述されている。萩野の著作では、この外に「佐渡史談慕郷録」と「佐渡国地名考」があるが、前者は地名考証で矢田求・羽田清次の「追補」が付されており、後者は萩野が在京中「佐渡新聞」に寄稿したものを主とし、小倉実起・圓山溟北・本間默斎など、多くの人物の伝記と随筆合わせて二四篇を収めている。本書にはこのほかに渡辺 (漁村)の「佐渡幕末奇事」、岩木拡の「奥平氏の事蹟大略」、付録として「佐渡奉行の片影」と「佐渡奉行歴代」がつけられている。「佐渡奉行片影」は六篇を収め、そのうち「佐渡奉行の遺事」が萩野、他は岩木・上月喬の著作である。全体として小篇を集載したものであるが、他に見ることができない貴重なものを多く含んでいる。【参考文献】 『北溟雑誌』、「佐渡雑爼一~一○号」(舟崎文庫所蔵)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡牛(さどうし)
その土地の名を冠して、南部牛・見島牛・近江牛などというときには、体型や毛色や肉質などの特色を表しているが、佐渡牛は黒牛で目立って小柄であることと、美味であることがきわだった特色になっている。小柄なことについて長塚節は、『佐渡島』の中で「チンコロでもあるかと思ふ程小さいものばかり」と書いている。佐渡牛のさらに大きな特色は、飼い方にある。大佐渡山系周辺の村々では、初夏の頃から秋の終りまで、林間放牧をする点である。これは家畜史でいう移牧の一種で、日本では他地ではあまり例をみない飼育形式であり、佐渡牛の美味の理由も、それと関連があるとされる。飼育頭数は、元禄期の六七八四頭から明治中期六九二七頭までに、ほぼ同数が記録され、昭和期に減少しはじめ、平成四年(一九九二)には、肉用牛一二八八頭と減少した。純系の佐渡牛は、昭和二十年代まではまだ少しはみかけたが、その後に神石系などの移入がふえて、改良や淘汰によって絶滅した。佐渡牛の写真は、大正・昭和前期の写真集『佐渡万華鏡』(近藤福雄撮影)に記録されている。【参考文献】 『佐渡牛調査書』(農商務省農務局)、『楽苦我記ー橘法老佐渡史話』(佐渡農業高等学校)、『佐渡島のあらましと農林水産業』(農政事務所)【執筆者】 本間雅彦
・佐藤部屋(さとうべや)
鉱山の部屋の一つで、部屋頭は佐藤金太郎である。上相川の上り口である奈良町の真宗「専照寺」跡に、高さ約二米ほどある大きな石塔が、草群に転がっている。「無縁塔」と正面に刻み、左側面に「佐藤金太郎」の文字が見える。所属の坑夫・人足の供養のために建てたものである。同じ専照寺の墓地に「佐藤家之墓」がある。右側面に「明治三三年七月」、左側面に「佐藤金太郎再造」とあって、この墓の左右両隣りに、天明から天保の年号を刻んだ、先祖の墓が残っている。したがって佐藤家は、代々相川に住んだ家らしく、明治になって金太郎の代に部屋を起したのであろう。飯場は最初銀山町にあって、のち諏訪町に移ったという。明治二十三年(一八九○)一月の「人夫請負人誓約証」に、「大塚平吉・安田安平・鈴木菊次・太田範七・佐藤金太郎」と、相川の五大部屋頭の名前が見え、佐藤部屋もそれらと肩を並べていた。【執筆者】 本間寅雄
・佐渡送り(さどおくり)
「島送り」ともいい、遠島などの刑罰によって送られる流人と区別する意味でいわれた。流人は「島流し」とするのである。佐渡鉱山の水替人夫として、江戸・大坂・長崎など「幕府直轄地」から送りこまれた無宿者たちをさすが、「島送り」「さど送り」も、ともに江戸時代の用語ではなく、近代に入って便宜的に使われたことばである。【関連】 江戸無宿(えどむしゅく)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡おけさ(さどおけさ)
おけさ節の起源として、古くから化け猫説が伝わっているが、それは歌詞にまつわる伝説にすぎず、曲型からいうと、江戸時代に北九州に流行した俚謡ハイヤ節が、北前船などの船乗衆によって、越後の出雲崎や寺泊、そして佐渡の赤泊や小木港に上陸し、それが変化しおけさ節になったといわれている。いまうたわれている正調おけさともいうべき「佐渡おけさ」は、民謡団体・立浪会の曽我真一が小木で採録し、会員の名民謡歌手・村田文三に工夫させた「文三おけさ」というべきもので、この文三おけさに対し、俗に「選鉱場おけさ」とか「相川おけさ」などと呼ばれるものがある。明治の中頃から相川鉱山の選鉱場でさかんに歌われていたもので、これも小木から流れこんだはんやくずしのおけさ節である。そしてこのおけさはまた小木へ逆もどりし「小木おけさ」ともいわれた。おけさ踊りには、流し踊り・十六足踊り・組踊り・三つ拍子・さし踊りなどがある。流し踊りは明治三十年(一八九七)の鉱山祭りに始まったもので、多くの人が群をなし、町を浮かれ踊り流すもの。十六足踊りは、相川おけさ(選鉱場おけさ)が流行した頃、小木芸者が座敷踊りとして振りつけしたものといわれ、大正十三年(一九二四)、相川に立浪会が結成されると、早速小木芸者から手ほどきを受けた、十六足踊りを受けいれている。その橋渡し役は、浅香寛や児玉龍太郎の両氏で、小木の料理屋(高砂屋)に三日も居続け、習い覚えてきたものだという。現在呼ばれている「佐渡おけさ」という名称は、大正九年(一九二○)東京神田の青年会館で開催された、第一回全国民謡大会に出演する際、民謡研究家の中川雀子らが選名したものだという。【関連】 村田文三(むらたぶんぞう)・立浪会(たつなみかい)・ハンヤ節(はんやぶし)【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅱ・Ⅵ』(佐渡博物館)、『立浪会史』(立浪会)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)
昭和五十一年(一九七六)に国の重要有形民俗文化財の指定を受ける。指定紡織用具二七四点(材料採集用具三二点・製糸用具二七点・機織用具二一五点)、製品二五四点(糸三八点・布地三九点・製品一二七点・食生活に関するもの一四点・住生活に関するもの一○点・生業に関するもの二六点)、ほかに紡織にともなうその他の資料一四点である。衣生活の急変により、民具および伝統的紡織技術が消滅しつつあることにたいする対応として、昭和四十七年から、海府の紡織用具・衣類の調査・収集を、相川郷土博物館中心に行ない国指定を受けた。以後、毎年紡織の実演と講習会を開く。五十四年には、指定物件の文化財収蔵庫を建設。五十五年より国補助事業として、民俗文化財地域伝承活動を始める。金山の相川に入った綿布や古木綿は、近郊村の海府の山野に自生する山苧や級・藤の繊維を加工して、独特の仕事着を作り出した。また、この繊維を経糸にして、木綿布を裂いて緯糸にして織る裂織を考案した。国指定品は、この伝統的紡織習俗と諸道具一式である。六十一年に、付属施設として相川町技能伝承展示館が開館して、裂織りの普及と伝承活動により、以後、裂織りの商品化を推進し、特産開発に取り組んでいる。【関連】 相川町技能伝承展示館(あいかわまちぎのうでんしょうてんじかん)・裂き織り(さきおり)・ねまり機(ねまりばた)【参考文献】 『相川の織物』(相川町教育委員会)【執筆者】 佐藤利夫
・佐渡海府方言集(さどかいふほうげんしゅう)
民俗学研究者、倉田一郎著『佐渡海府方言集』は、太平洋戦争末期の昭和十九年八月五日に、中央公論社から出版された(註 初版は二○○○部、昭五二年図書刊行会版も出されている)。同社は、柳田国男の編さんで全国方言集を企画し、それまですでに喜界島・大隅・伊豆・周防・伊豫などを刊行し、右書はその第六冊目として出されたものである。著者の倉田は、明治三十九年(一九○六)に富山県の蒔絵師の家に生まれ、日本大学を卒業した。それ以前の大正後期には、菊地寛の文芸春秋社にいて、『太陽は輝けり』という長編小説を書いていた。昭和九年春から、柳田国男邸で催されていた木曜会に出席して、民俗学研究をはじめた。昭和十二年(一九三七)に佐渡に二度訪れて、おもに相川から高千・外海府・内海府を調査、採集した。この調査は、日本学術振興会の補助を得て、柳田の海府調査の一環としてなされたものである。当時の佐渡には、中山徳太郎・青木重孝らすぐれた民俗学研究者がおり、伝承者としても小田の稲葉美作久・本間佐吉、片辺の宿「松屋」周辺に在住する老婆らの協力によって、この方言集は完成した。倉田が北小浦で採集した資料は、彼が昭和二十二年(一九四七)に急死したあと、柳田国男によって『北小浦民俗誌』として出版された。【関連】 北小浦民俗誌(きたこうらみんぞくし)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡島(さどがしま(さどしま))
北緯三八度付近の日本海上にうかぶ大型の山地島。面積は沖縄本島に次いで二番目に大きく八五七平方キロメートル、周囲は二二七キロメートルある。対岸の角田岬との間三二キロメートル幅の佐渡海峡を隔て本州と相対する。本州東北弧に並行する地形構造を示し、北東ー南西を長軸として、大佐渡山地・国中平野・小佐渡山地が北から順に並ぶ。古生層は島の北端と南東岸中央部に露出して、海岸線に相対的凸部を造るが、山地の殆どは新第三紀中新統の礫岩・砂岩・シルト岩・頁岩等海成層と、玄武岩・安山岩・石英粗面岩・凝灰角礫岩・凝灰岩等各種の火山活動起源の岩石から成る。これらの火山岩は、新第三紀のグリーンタフ変動に伴う陸上或いは海底の火山の噴出物や貫入岩体であり、佐渡には新期の火山地形は見あたらない。巨視的には、国中の向斜軸を挟む両側の背斜運動が継続して造山に至ったと考えられるが、大佐渡・小佐渡両山地ともに主山稜が東に偏り、南東側斜面に急で北西側斜面に緩やかな、言わば傾動地塊状である。最近のプレート説の解釈によれば、糸魚川ー静岡構造線の延長は日本海へ延びて、佐渡の西沖から奥尻島の西沖を連ねユーラシアプレートの沈み込み帯を形成していると言う。その為か東に接するプレートがもち上げられ、佐渡にも奥尻にも海岸段丘の発達が好く、新期の地盤隆起運動が顕著である。東北日本と共通しながら、幅三○キロメートル程の間に二山地一低地を容れるので、褶曲の波長はかなり小さい。国中平野には洪積層・沖積層が分布し、海抜三○㍍以下の平坦な台地と殆どが五㍍以下の沖積低地をつくる。東側は加茂湖で最深所八・五㍍の潟湖、西側は国府川低地で同様の潟湖が自然に埋積されて生じた。小佐渡の南西部には、別に小規模な羽茂川低地がある。近世既に一○万を越え、現在も八万以上の人口をもつ佐渡の人々の活動の主な拠点は、上述の平野や海岸段丘に集中している。大佐渡山地・加茂湖・小木半島の地域は、海岸景勝地を特色とする佐渡弥彦国定公園に指定されている。【参考文献】 九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、式正英『地形地理学』(古今書院)、奈須紀幸・西川治編『日本の自然』(放送大学教育振興会)【執筆者】 式正英
・佐渡が島人形ばなし(さどがしまにんぎょうばなし)
文弥人形芝居に関する、数ある著作の中で、この本は群を抜く名著である。この本は文弥人形を中心に、佐渡はもちろん全国各地(薩摩・日向・加賀・越後)を、長年かけて足で調べあげ、まとめたものである。その内容は、説経高幕人形・のろま人形の変遷。文弥節(座語り)や文弥御殿人形の成立と、その人形座の変遷。そして、佐渡の文弥節が、全国的に注目されはじめるのは明治の末であるが、そのいきさつについての文弥上京。尾崎紅葉と人形芝居の関係、さらに文弥人形に好意を寄せ、宣伝にひと役買った新潟交通(雨森博司)のこと。首を作る人たちや保存会の人々、人形芝居のゆくえ、文弥役節の五線譜など、実に至れり盡せりの密度の濃い内容である。この本の初版は平成八年三月であるが、一年余でたちまちなくなり、再版は平成十年六月である。再版には新たに、あまほっこり座談会の「佐渡の人形芝居の昨日・今日・明日」が掲載されており、意義深い。【関連】 佐々木義栄(ささきよしふさ)【参考文献】 山本修之助『佐渡の人形芝居』、河竹繁俊編『諸国の人形芝居』(講談社)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡学会連合会(さどがっかいれんごうかい)
明治二十三年(一八九○)に、二宮村養気会の呼びかけによって組織された各地の研修団体の連合体。明治二十年頃から、各地に青年たちを中心とする自主的な研修団体が組織され、全島に広まった。その会則をみると、①智識の交換、②徳義の修養、③学術の研究などを通して、地域社会の改良を図ることを目的とし、講義や演説・討論会・談話会・雑誌の発行・図書の購入と巡回などの活動を行っている。十一月二十三日、二宮村石田(現佐和田町石田)の石田会堂を会場に、第一回佐渡学会連合懇親会が開催されたが、この時一二の団体に案内を出し、二宮村養気会・相川致力会・沢根同友会・河原田行餘青年会・金沢遷喬会・平泉同志研究会・多田一致会・夷金蘭会の八団体の代表三六名が集まっている。その後も毎年一、二回開催されて、参加団体も二○を越えた時もあった。ここから明治後半から大正にかけての村や地域の指導者層が育っていったが、明治末には行政の指導による青年会・青年団に組込まれた。明治二十七年三月の規約には、会の名称「佐渡学会連合会」、会の目的「各学会ノ親交ヲ保チ併テ風俗ノ矯正ヲ謀ルモノトス」とある。当時相川からは、相川致力会(代表味方友次郎)・佐渡青年協会(代表森知幾)・佐渡青年学会(代表山田倬)などが参加している。【参考文献】 「佐渡学会連合懇親会記録」(金井町泉公民館蔵)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡歌謡集(さどかようしゅう)
編者は新穂村長畝生まれの郷土史家、羽田清次である。跋執筆の本間林蔵(妻の父)によれば、岳父は古稀をこえてからの編纂であり、山本修之助の『佐渡の民謡』に漏れた船唄全部を載せ、『佐渡国名所歌集』の収録も珍らしく貴重なり、という。発行は昭和十三年(一九三八)、佐渡叢書刊行会からである。内容は、「佐渡音頭集」「佐渡俚謡集」「佐渡の舟唄」「佐渡国名所歌集」「付録」(佐渡の盆踊考・佐渡盆踊の各地各態)となっている。「佐渡音頭集」の緒言では、音頭の七七調の創意とその美文をほめ、編者の聞知せる三十余種から一四種を選び、簡潔な解説をなしている。後年発行され、その採録数も増した山本修之助の『相川音頭集成』(昭和三十年刊)や『相川音頭全集』(昭和五十年刊)を併せ読むとよい。「佐渡俚謡集」は、大正六年初版本の再版である。これも山本修之助『佐渡の民謡』(昭和五年)の併読をすすめたい。なお、これに似た俚謡集に、川上喚濤「民謡集」(墨書、佐渡群書文庫蔵)などがある。「佐渡の船唄」は、江戸幕府時代に官船にて用いた歌詞で、岩木拡自書の原本を写したものだという。「佐渡国名所歌集」は、相川県権参事・磯部最信が編輯し、高橋以一が木版にて、明治六年発行した珍本を複刻したものである。【関連】 佐渡の民謡(さどのみんよう)・羽田清次(はねだせいじ)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡義会(さどぎかい)
教育・殖産・時事問題に関して論究するために組織された会。明治二十年代の佐渡では、自由党系と改進党系、それに自由党から分れた国権党などが互いに離合集散を繰返し、争いが絶えなかった。このような中、川上賢吉や竹本多平らは不偏不党の立場で、教育や産業・時事問題について誰にも遠慮すること無く大胆に論究する会合を組織しようと、明治二十六年(一八九三)七月一日金沢村中興の深山亭に集まって、佐渡義会を発足させた。その目的には、「飽くまでも討究してこれが矯正者となり、刺激者となり、嚮導者となりて、以て此国の弊風を矯め、社会の改良を謀る」とある。初代の会長には川上賢吉が、副会長には竹本多平が選ばれ、幹事には佐竹守太郎・岩原仁三郎・明石瑩・斉藤長三・藤井一蔵らの名前があがっている。しかし、次第に政党の影響を受けるようになり、消滅した。【関連】 川上賢吉(かわかみけんきち)【参考文献】 斉藤長三『佐渡政党史稿』【執筆者】 石瀬佳弘 ※原書に『 川上賢吉(かわかみけんきち)』の項目はありません。
・佐渡汽船会社(さどきせんかいしゃ)
明治十八年(一八八五)、佐渡島民による初めての汽船会社「越佐汽船会社」(大正七年新潟汽船会社と改称)が設立され、当初は島民の利便を第一に考えた経営を行なった。ところが、次第に重役陣を新潟出身者が独占し、本社も新潟に移して利益優先の経営を行なうようになった。こうした状況に奮起した湊町(両津市湊)の星野和三次らは、明治二十四年九月に「両津丸」を就航させたが、資力と組織力には勝てず失敗に終わった。こうした中、当時の佐渡郡長深井康邦らが、公共性の高い汽船会社の設立を勧め、大正二年(一九一三)佐渡商船会社が設立されて、初代社長に両津町の土屋六右衛門が就任した。両社は運賃の値下げなどで激しく争い、大正十二年に前佐渡汽船会社(昭和二年越佐商船会社と改称)が設立されて、小木・赤泊・多田・松ケ崎・新潟航路を開設すると、三社の間で激しい競争が展開された。このような抗争を県も見逃せなくなり、昭和七年(一九三二)二月の県会で越佐航路の県営を決議し、同年四月佐渡商船会社を主体に三社を合併し、県が資本金五○%を負担する半官半民の「佐渡汽船会社」が誕生した。初代社長には佐渡商船の古川長四郎、取締役には相川町の松栄俊三外四名の佐渡出身者が就任している。現在両津・新潟、小木・直江津航路にカーフェリーとジェットフォイル、赤泊・寺泊航路にカーフェリーを就航させている。【関連】 越佐航路(えっさこうろ)・秋田藤十郎(あきたとうじゅうろう)・松栄俊三(まつばえしゅんぞう)【参考文献】 橘法老『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社)、『六十年のあゆみ』(佐渡汽船株式会社)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡奇談(さどきだん)
田中従太郎(葵園)が「佐渡志」編纂(文化年間・一八○四ー一七)の際、見聞した奇談三六話を編んだもので、和本上中下の三巻よりなっている。下相川の「炭焼藤五郎(戸川大権現)の事」、新保村の「新保山大蛇の事」、片野尾村の「風島弁天の事」、新穂長畝二方潟両村の大年の晩、棺桶をあずかり長者になった話(「河上五郎右衛門大金を得る事」)、これは「大年の客」として、今なお語られる有名な昔話である。また「加茂村武右衛門が事」などは、加茂湖干拓の史実に基づく「武右衛門流し」や、「武右衛門地蔵堂」と関連する伝説で、山本修之助の『佐渡の伝説』などと併わせ読めば興味ぶかい。「石井八弥霊魂の事」は、古人の遊魂信仰を知る好資料で、文化文政の頃のものと推定される著者不明の『怪談藻汐草』の「萩野善左衛門怪異の火を追いし事」などと共に併読するとよい。『佐渡奇談』の編著者田中葵園は、奉行所の地役人である。若い頃江戸に遊学し、帰島後、広間役など勤め、文政六年(一八二三)幕府に建議して「広恵倉」を設け、町民の福利につとめ、さらに「修教館」を創立し、子弟の教育に尽した。弘化二年(一八四五)五月病歿。享年六四歳だった。【関連】 田中葵園(たなかきえん)・修教館(しゅうきょうかん)・広恵倉(こうえいそう)【参考文献】 本間周敬『佐渡郷土辞典』、岩間徳太郎『佐渡郷土史料』(三集)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡狐(さどぎつね)
能の狂言の曲名。主役(シテ)である佐渡の百姓と、脇役(アド。能のワキにあたる)である越後の百姓と、小脇(アド)役である奏者が登場する。話のすじは、両国の百姓が年貢を納めにいく途中で道づれになった。越後百姓が、佐渡は離れ島でなにごとにつけて不自由であろうというのをきいて、佐渡の百姓は、「佐渡には何でもある」と強がりをいう。しかし「狐はおるまい」とほんとのところを衝かれて、「いや狐もおる」といってしまう。いやおるまい、いやおると、お国自慢が言い争いになり、とうとう「ひと腰賭ける(腰の刀を一本賭けるの意)」ことになる。その勝負の判定は奏者に頼むことにする。佐渡の百姓は、じっさいには狐がどんなものかを知らないので、こっそり奏者に賄賂をつかって狐のなり格好を教えてもらった。そして奏者の前に出て佐渡の百姓は、狐の形・毛色・口つき・尾などを示して、見たことがある証拠としたので勝ちを宣せられ、相手の腰のものを一本とって行こうとすると、相手はどうも怪しいとにらんで、さらに狐のなき声はどうかと訊いた。奏者からその点を聞きもらしていた佐渡の百姓は、いいかげんな声で答えたので、越後の百姓は有無をいわせず、二腰を奪って去るということになる。【執筆者】 本間雅彦
・佐渡義民殿(さどぎみんでん)
江戸期の、慶長から天保までの義民のうち、代表的な二六名を合祀した佐渡一国義民堂が、畑野町栗野江の城か平の山頂にある。昭和八年に、島内の百姓一揆を研究し、『佐渡義民伝』を著わし、義民劇の上演などに協力していた新穂村青木の伊藤治一を中心に、一二九名が発起人となって建設が始まり、昭和十二年に落成したものである。島内の農民騒動の発端は、慶長六年(一六○一)に佐渡が徳川家の直轄領と定められ、上杉支配のときから居残った代官の河村彦左衛門に加え、新たに田中清六・中川主税・吉田佐太郎が代官に任命され、四人支配の下に本途(本年貢)の五割増という急激な増税策が出されたのに対して、島の有識者たちが抵抗したことにある。この最初の一揆の結末は、首謀者の新穂村半次郎・北方村豊四郎・羽茂村勘兵衛の三人が江戸に出向いて、幕府に直訴したのが効を奏し、吉田は切腹、中川は免職、河村と田中は改易となり、全面勝訴となったのである。その後一世紀半ほどは、良吏の派遣などもあって平穏であったが、享保四年(一七一九)の定免制(収穫に関係なく定められた年貢を徴集する制度)の実施に伴なう増税に加え、同八年以後の鉱山経営の不振が住民の生活に圧迫を来し、村々の有識者の連帯を強めた。寛延三年(一七五○)の一揆は、そうした背景の中で、辰巳村太郎右衛門・川茂村弥三右衛門らを首謀者として起った。このときも、島ぬけして訴状を江戸の勘定奉行に手渡すことに成功して、幕府は訴状に認められた二八か条の要求の正しさを認めて、佐渡奉行・鈴木九十郎は免職となった。しかし訴人は、他の多くの役人にも非のあることを再度、佐渡奉行・幕府巡見(検)使らに訴えて、諸役人の不正が暴露され、在方役・地方役・米蔵役などに、斬罪一・死罪二・遠島七・重追放三・中追放一・軽追放一・暇五・押込二六・役義取放一・急度叱五の計五二名が刑を受けた。いっぽう訴人の側も刑を受け、太郎右衛門は獄門に、椎泊村弥次右衛門は死罪、椎泊村七左衛門は遠島、弥三右衛門は重追放、吉岡村七郎左衛門・新保村作右衛門・和泉村久兵衛は軽追放のほか、二○八か村の名主が被免、二○○名以上の百姓が急度叱りの処分となった。明和三年(一七六六)から同七年にかけて、大雨による洪水、浮塵子の大発生で中稲・晩稲が全滅状態になったとき、村々ではその実情を立毛検分するよう請願したが、けっきょく四日町・馬場・北村・猿八の四か村に年貢被免、船代・下村・畑方・畑本郷・武井・金丸・金丸本郷の七か村に三分一の未納・年賦・石代納の措置がとられただけで、他の村々には恩恵がなかった。その上、当時は代官制がしかれて、奉行に加え二重支配となったため、願いや届に煩雑なる手数がかかり百姓たちを苦しめた。さらに、代官の下役で年貢米取立ての御蔵奉行谷田又四郎と百姓の間に起きた摩擦がしだいに悪化し、谷田の苛酷さを非難する訴状が佐渡奉行所にもちこまれた。訴状は名主ら村役人たちによってしたためられたが、願いの筋がきき届けられないので、百姓どものこらず御陣屋へ押かけようとするのをなだめすかしたこと、要求がいれられなければ江戸表へまかり出て直訴しなければならないので出判をお渡しくださるようなど書いてある。谷田は、相川金銀山の衰微に伴って、米の消費が減少し、余剰米の大阪回米が市場で不評であり、その佐渡米の商品価値を高めようとして、米質や包装改良を求めて百姓と摩擦を生じたもので、良吏とされた人物であったが、百姓がわでは、それを賄賂をとるためとする誤解が生まれて事件を深めることになった。一揆にいたる前哨戦として、沢根町に相ついで起った付け火が挙げられる。米価の高騰で爆発した相川の鉱山稼ぎの者が、中山峠を越えて沢根方面の富裕な商家を襲ったのであるが、米価の引き下げなどの処置で、この時は大きな騒動にはならなかった。この明和の一揆は、首謀者の呼びかけで、栗野江の賀茂社境内に集結した民衆が、二度めの集結を察知され、六人が捕えられ、成功にいたらなかった。裁きの末、通りすがりにすぎなかった長谷村の遍照坊住職・智専が自ら罪を負う形となって死罪となり、他は牢死・お預け・釈放などの微罪で落着した。智専は「憲盛法印」のおくり名で今も農民の崇敬をうけている。天保九年の全島的な一揆は、島内で最大の規模で起ったので「一国騒動」と呼ばれている。惣代の羽茂郡上山田村の善兵衛を願主とする訴状には、百姓・商人などの要求十六か条が書かれていたが、上訴した巡見使から返答がないまま善兵衛らが捕えられ、善兵衛は獄門に、宮岡豊後の死罪、ほか遠島・所払いなど極めて多数の受刑者やとがめを受けて終った。この天保一揆についての記録としては、江戸末期の川路聖謨奉行による『佐州百姓共騒立ニ付吟味落着一件留』(佐渡高校・舟崎文庫所蔵)があり、同校同窓会が刊行している。【関連】 智専(ちせん)・中川善兵衛(なかがわぜんべえ)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡金銀山史話(さどきんぎんざんしわ)
佐渡鉱山の創業から幕府領有時代を経て、維新後官営となり、明治二十九年(一八九六)三菱に払下げとなるまでの、二九五年間の佐渡金銀山に関する、はじめての本格的な歴史書である。刊行は、昭和三十一年(一九五六)八月。三菱金属鉱山株式会社社長羽仁路之の社命に応じた、同社嘱託麓三郎の著書である。単なる社史の域に止どまらず、佐渡鉱山の稼行の推移を、時代的背景と共に余す事なく著述した。佐渡金銀山史の総合的な研究書である。巻末に元同社参事平井栄一の、技術史の「旧幕時代の鉱山技術」「佐渡の金銀産出量に就いて」を収録したことによって、さらに同書の学術書としての価値は不動のものとなっている。以後の佐渡金銀山史研究のみならず、日本における鉱山史研究の範となった一書である。また、同書完成の背後には、日本鉱山史研究の第一人者、小葉田淳の絶えざる指導が預かって大きかった。その後、同書に導かれた鉱山史研究は、昭和四十五年(一九七○)の田中圭一編『佐渡金山史』の刊行で新しい展開を見せるが、依然として同書の佐渡金銀山史研究上における、学術的価値と影響力は今も絶大である。【執筆者】 小菅徹也
・佐渡銀行(さどぎんこう)
明治三十年(一八九七)十月六日開業。明治二十九年第四銀行相川支店に閉鎖の動きが出ると、島民の手による銀行を設立しようという運動が活発になった。島内の有志はさっそく発起人会を開き、同年八月「株式会社佐渡銀行」の発起認可申請書・仮定款等を作成、本店を夷町、支店を相川町に置くことにした。発起人は相川町の三国久敬を筆頭に新穂村の後藤五郎次・二見村の渡辺七十郎・金沢村の伊藤円蔵・夷町の土屋六右衛門など一四名である。ところが同年八月八日相川支店で開かれた設立組織会で、本店の設置場所(夷と相川)や株券の金額、発起人の負担額などで相川町と夷町や国仲の有志の意見が対立し、その後何回かの会議を経て翌三十年三月創立総会を開催したが、ここでも相川町と夷町の有志が対立して、相川町の有志は脱退した。同年十月六日、佐渡銀行は資本金八万円で夷町夷一六五番戸に開業した。創立時の専務取締役には土屋六右衛門、取締役には伊藤円蔵・後藤五郎次等五人が就任した。大正八年(一九一九)大口融資をしていた佐渡商船会社の経営不振などで、大正十五年十月一日第四銀行に合併され、同銀行の両津支店となった。【関連】 第四銀行相川支店(だいしぎんこうあいかわしてん)・相川銀行(あいかわぎんこう)・土屋六右衛門(つちやろくうえもん)【参考文献】 『第四銀行百年史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡国仲の昔話(さどくになかのむかしばなし)
編著者は丸山久子、昭和四十五年(一九七○)二月、三弥井書店から発行される。編著者は昭和二十九年十月二十八・九日の両日、畑野町の本間雅彦夫妻の手びきで、同町の岩井キサ(八三歳)から録音その他で採集した、昔話五二話がおさめられている。冒頭の解説では、岩井キサ媼とのめぐりあい、佐渡の昔話とその背景などについて記し、キサ媼の話の大部分は、姑さんで猿八という山村の、庄屋の家から嫁いで来た、岩井シキ婆さまから聞いたものだといい、この姑のシキ婆さまは、多くの昔話を知っており、クロメ(年末)や正月には、近所から「ムカシ云いに来てくれ」と頼まれたものだという。本文資料の各昔話の末尾には、日本昔話名彙、日本昔話集成、A・Tとの関連が示され、鈴木棠三『佐渡昔話集』の類話や、難解な佐渡方言には註が付記され、親切である。なお、巻末には山本修之助採集の「外海府の昔話」(一五話)が添えられ、この昔話に幅と深みを持たせている。ふつう民話はその型と内容により、昔話・伝説・世間話に分類されているが、参考までに佐渡に関する既刊の、主なる昔話集のみを記しておく。鈴木棠三『佐渡昔話集』(昭和十四年)、浜口一夫『鶴女房』(昭和五一)、大谷女子大学説話文学研究会『両津市昔話集』上・下巻(昭和五四)、新潟県教育委員会『新潟県の昔話と語り手』(昭和五四)、両津教育委員会『りょうつの民話』(昭和五八)、浜口一夫『南佐渡の民話』(昭和六三)、山本修之助『佐渡外海府の昔話』(平成二)、大谷女子大学説話文学研究会『佐渡・佐和田町昔話集』(平成三)、国学院大学民俗文学研究会「伝承文芸第一八号」(平成五)。【関連】 佐渡昔話集(さどむかしばなししゅう)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡金山遺跡(さどきんざんいせき)
平成六年(一九九四)五月二十四日付文部省告示第七三号により、文化財保護法第六九條第一項の規定に基づき、次の七か所が国の史跡に指定された。「宗太夫間歩」(相川町下相川)、「南沢疎水道」(相川町南沢町・大床屋町・左門町)、「佐渡奉行所跡」(相川町広間町)、「大久保長安逆修塔・河村彦左衛門供養塔」(相川町江戸沢町)、「鐘楼」(相川町八百屋町)、「御料局佐渡支庁跡」(相川町坂下町)、「道遊の割戸」(相川町銀山町)。このうち佐渡奉行所址は、昭和四年(一九二九)十二月十七日付で史蹟名勝天然記念物保存法第一條により、国から史蹟の指定を受けたが、昭和十七年(一九四二)十二月一日の火災で全焼したため、翌年七月に指定解除になった。佐渡奉行所の復元計画により、国・県指導の下に、平成六年から発掘調査が五か年継続の予定で行なわれている。【参考文献】 「佐渡金山遺跡、保存管理計画策定書」(「官報」)【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡郡会(さどぐんかい)
郡役所の設置に伴って置かれた決議機関。明治十二年(一八七九)に三郡役所が置かれると、翌十三年四月、三郡戸長会議が開かれて三郡連合の決議機関を設けることを決めた。三郡連合会は、各町村の持込戸長より三名の議員を選出し、同年五月に第一回の会議を開いている。その後毎年通常会を開き、緊急の議案のある時は臨時会を開いた。明治二十二年三月には、学事と土木が分けられ、学事は連合三郡町村会、土木は連合広間町外七二か町村会が担当した。明治二十九年に中学校設立の問題が起こると、全町村組合会が組織された。明治二十三年五月に郡制が公布され、決議機関として郡会と郡参事会を設けることになったが、新潟県の場合は郡の統合等の問題で遅れ、同二十九年四月一日、三郡を統合して佐渡郡を置くことになると、翌三十年に佐渡郡役所と共に佐渡郡会が設置された。第一回郡会は、明治三十年三月に開かれている。この郡会では、道路の改修・整備、初等・中等教育の振興、港湾・航路の整備、勧業・授産等、佐渡全島の振興にかかわる問題について審議し、ある程度の自治権をもった地方議会としての役割を果たした。大正十五年(一九二六)佐渡郡役所が廃止されたのに伴って廃止となった。【関連】 佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)・佐渡支庁(さどしちょう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、石瀬佳弘「佐渡における郡制の推移とその実態」(『新潟県文化財収蔵館報』2)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡郡教育会(さどぐんきょういくかい)
明治二十二年(一八八九)に設立された教育の研究推進団体で、明治十九年に組織された有志佐渡教育会が発展的に改組されたものである。会員の多くは小・中学校の教育者であったが、一般の有識者も加入し、柏倉一徳(大正五年)や松栄俊三(昭和二年)も会長に就任している。会則には「教育の改良と上達を図るを以て目的とす」(昭和二年改正)とあり、夏期講習会・通俗講演会・国内外の教育視察・研究会・講習会・出版物の刊行等、学校教育及び社会教育を包含した、幅広い活動を行なった。出版物の刊行としては、『佐渡人物志』(昭和二年)、『佐渡先哲事蹟』(昭和七年)、『佐渡年代記』(昭和十年)、『佐渡風土記』(昭和十六年)などがあり、いずれも今日でも基本文献として活用されている。戦後は学校教育と社会教育の研究団体に分れ、学校教育の研究団体としては、昭和二十四年に小・中学校の教員のみで組織する佐渡郡教育研究会が設立され、現在では佐渡郡小学校教育研究会・同中学校教育研究会・両津市教育研究会・佐渡地区高等学校教育研究会などに細分化されて活動している。【関連】 佐渡人物志(さどじんぶつし)・佐渡年代記(さどねんだいき)・佐渡風土記(さどふどき)【参考文献】 『概観佐渡』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡郡酒造組合(さどぐんしゅぞうくみあい)
酒造者が製造方法を改良し、営業上の弊害を矯正するために設置した組合組織。明治二十年(一八八七)六月、佐渡酒造営業者組合が発足した。初代組合長には、石田村(現佐和田町石田)の近藤吉左衛門が就任した。明治三十二年に新潟県酒造組合に加盟して佐渡支部となったが、同三十八年一月に法令の改正があって県酒造組合が解散となり、佐渡郡酒造組合が設立された。主な活動内容としては、清酒及び麹の品評会の開催、優良従業員の表彰・実地試醸・銘醸地視察・濫売矯正等の審査と協議などを行い、酒造業の改善と発展に大きな役割を果たした。昭和十年十月、中山五郎組合長の時に、『佐渡酒誌』を発行している。現在は、新潟県酒造組合佐渡支部として、佐和田町窪田の佐渡酒造会館に事務所を置いている。【関連】 中山小四郎(なかやまこしろう)【参考文献】 『佐渡酒誌』(佐渡郡酒造組合)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡群書類従(さどぐんしょるいじゅう)
佐渡郡相川町出身の、旧東京帝国大学教授萩野由之博士が、長期にわたって収集された、佐渡の古代から近代にかけての史料を中心とする、歴史史料である。氏が、『佐渡年代記続』『佐渡人物志』『佐渡編年史』などを執筆するために収集した史料を中心として、いずれ『佐渡群書類従』という史料集として刊行を予定されながら、未刊に終わった史料群でもある。第二次大戦後、佐渡郡真野町出身の舟崎由之氏が、郷里に伝えたいと御遺族から買取り、新潟県立佐渡高等学校同窓会に寄付したことにより、以来、新潟県立佐渡高等学校同窓会所蔵「舟崎文庫」として今日に伝えられ、活用されている。昭和四十九年(一九七四)七月に刊行した『舟崎文庫目録』があり、整理番号一三一一までの全容を知ることができる。萩野由之編『佐渡叢書』一~五○、『佐渡叢書追加』一~四、『佐渡叢書目録』、『佐渡年代記』以下の佐渡史書類、佐渡奉行所公文書類、鉱山関係文書・絵図類・佐渡地誌類・佐渡絵図類・文学・芸能書類、江戸時代に日本を代表する学者・文人・経世家の書簡集である『先哲手簡並ニ先賢手簡』などが、主な内容である。【関連】 舟崎文庫(ふなざきぶんこ)・舟崎由之(ふなざきよしゆき)【執筆者】 小菅徹也
・佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)
相川支庁の廃止によって設置された行政機関。明治十一年(一八七八)七月「郡区町村編制法」が公布され、区制が廃止されて元の郡制・町村制が復活することになった。これによって、今までの第二六大区が加茂郡、第二七大区が雑太郡、第二八大区が羽茂郡となり、明治十二年四月、三郡連合で相川町広間町の旧奉行所に、雑太・加茂・羽茂郡役所(佐渡三郡役所)が置かれることになり、同年五月十六日に開庁した。初代郡長には、鹿児島県士族西田弥四郎が就任している。明治三十年には、郡制の施行に伴って郡の統合が行なわれ、三郡が佐渡郡となって佐渡郡役所を置くことになった。その後郡制が廃止されて、大正十五年(一九二六)に佐渡支庁が置かれるまでの約三○年間、県と町村の中間的行政機関として、郡長を中心に地域の産業開発、交通・道路の整備、初等・中等教育の振興等に大きな役割を果たした。【関連】 佐渡郡会(さどぐんかい)・相川支庁(あいかわしちょう)・官庁移転運動(かんちょういてんうんどう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、石瀬佳弘「佐渡における郡制の推移とその実態」(『新潟県文化財収蔵館報』2)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡県(さどけん)
明治初期、佐渡に置かれた県。慶応四年(一八六八)四月、新政府は佐渡に裁判所を置いて、総督に北陸道鎮撫副総督滋野井公寿を任命したが、赴任には至らなかった。続いて同年九月二日、佐渡県を置いて政府直轄県とし、知県事に井上聞多(後の馨)、判事に吉井源馬を任命したが両名とも赴任せず、佐渡の支配は中山修輔らに任されていた。明治元年(九月八日改元)十一月五日、佐渡県を新潟府の管轄として民政方役所を置き、参謀奥平謙輔を民政方に任命して、その配下の北辰隊(隊長遠藤七郎)と共に佐渡に派遣することにした。奥平の来島は同年十一月十三日である。翌二年二月二十二日に、佐渡県は越後府(二月八日新潟府を改称)の管轄となり、奥平謙輔は越後府権判事となって引続き佐渡を治めた。明治二年七月二十三日、佐渡県は独立した。これによって同年八月十二日に奥平は任を解かれて北辰隊と共に佐渡を去り、同年九月二十日に新五郎(貞老)が権知事として来島した。佐渡県は、明治九年四月十八日に相川県と改称された。新は相川県権令となったが、同年十二月に免ぜられて佐渡を去った。県庁は奥平謙輔の時に一時石田屯所に移されたが、それ以外は相川の奉行所跡に置かれていた。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・北辰隊(ほくしんたい)・新貞老(あたらしさだおい)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集六、通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡鉱山史(さどこうざんし)
元佐渡鉱山採鉱課長の平井栄一の編著。まだ未公開で、稿本のまま相川町史編纂室に保存されている。ただしコピーで、原本の所在はわからない。内容の一部は、昭和三十一年(一九五六)八月発行の『佐渡金銀山史話』(麓三郎著、三菱金属鉱業発行)に「旧幕時代の鉱山技術」「佐渡の金銀山産出量に就いて」の二章が収録されている。同三菱金属の羽仁路之元社長の回想によると、社長在任中に佐渡鉱山の変遷と興亡の跡を、まとめて後代への記念にしたいと考え、永年佐渡鉱山に在勤した平井に起稿を頼んだ。昭和二十五年に完結したが、技術方面や統計資料が多かったので、さらにこれを一般読物にしたいと考え、生野鉱山史などの著作で造詣が深かった麓三郎(三菱鉱業監査役)に依頼した、という。同書に一部収録されたのは、平井の草稿の江戸時代に関する記述で、明治・大正・昭和にわたる部分は、スペースの関係で除かれた。明治初期の金銀貨幣問題、三菱への鉱山払下頴末、三菱移管後の佐渡鉱山製煉法、課制および所属人員と施設の概況、鉱夫親方制度の来歴などのほか、大正から昭和時代の採掘法の沿革、労働争議と労務係の新設、浮遊選鉱場の建設、近年に於ける探鉱・採鉱の状況などが、かなりくわしく綴られていて、技術・経営史としてとりわけ貴重である。この草稿は、そのコピーが昭和五十一年一月に、麓三郎から北海学園大学(札幌)の大場四千男教授の手に渡り、平成元年に相川町史編纂室に寄贈された。【関連】 平井栄一(ひらいえいいち)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡鉱山長(さどこうざんちょう)
佐渡鉱山が、三菱合資会社に移管された明治二十九年(一八九六)十一月一日以降の職名で、佐渡鉱山の現地での最高責任者を指す。歴代鉱山長は「表一」の通りである。職名は時代と共に変ったが、その時々の現地最高責任者を鉱山長と呼ぶこともある。今、資料で明かな者をまとめると「表二」の通りとなる。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、麓三郎『佐渡金銀山史話』、『工部省沿革報告』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡鉱山の同盟罷業(さどこうざんのどうめいひぎょう)
三菱合資会社の経営合理化に反対して起こった、佐渡鉱山の労働争議。御料局時代の佐渡鉱山は、模範鉱山としての性格もあり、労務管理もゆるやかな面があった。明治二十九年(一八九六)十一月に三菱合資会社に払下げられると、経営の合理化が断行され、従業員が大幅に削減されてきびしい労務管理と労働強化が行なわれた。これに対して労働者が反発し、明治三十二年七月に鉱夫が暴動を起こし、さらに翌三十三年三月十八日には、職工の約半数に当たる六百余名が同盟罷業に突入した。この争議は、労働者側が各課に「かしら職工」を置いて結束を固め、全権委員を選んで会社との交渉にあたらせるなど、組織的で統率のとれたものであった。この事態を憂慮した相川町長や町の有志らは、佐渡郡長や県知事らの協力も得て調停に乗り出し、同年四月三日首謀者を処罰しないこと、会社において相応の恩恵を施すことなどを条件に妥結した。そして、ある程度労働者に譲歩した改革が行なわれた。しかし、その後も争議は続き、大きなものだけでも、明治四十一年二月・大正六年三月の争議がある。【関連】 御料局佐渡鉱山(ごりょうきょくさどこうざん)・原田鎭治(はらだしんじ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡鉱山の地質(さどこうざんのちしつ)
相川町惣徳町、濁川中流に位置する。一六○一年の開発開始から一九八九年の閉山までの生産量は、粗鉱量一五三○万㌧、金七七㌧(江戸四一㌧・明治八㌧・大正七㌧・昭和二一㌧)、銀二三三○㌧(江戸一七八一㌧・明治一三二㌧・大正八○㌧・昭和三○七一㌧)であり、日本の金銀鉱山の過去の実績では第一位である。前期中新世の暗緑色に変質した安山岩・同質火砕岩に発達した断層を充填する石英脈が、金銀鉱床となっている。佐渡鉱床の主要鉱脈は、道遊脈・青盤脈・大立脈・中尾脈・西栄脈・大切・鳥越脈・鰐口脈・七助脈・中立脈などであり、入川層・相川層に貫入している。青盤脈はその代表で、佐渡鉱山駐車場の奥の大岩壁は、青盤脈の露天掘りあとである。青盤脈は、稼業延長二一○○㍍、稼業深度五○○㍍、平均脈幅六㍍の規模を持ち、東西方向の断層を埋めるかたちで存在する。青盤脈の金銀比は金:銀=一:二○、金含有量平均値は六㌘/㌧(六ppm)である。これは普通の岩石の金含有量平均値○・○○一㌘/㌧(○・○○一ppm)と比較して、金の含有量が六○○○倍も高い。この金の濃集は、地下一○○○㍍程度に存在したマグマによる熱水循環によっておこなわれた。地下深くしみこんだ雨水や海水が、マグマの熱で加熱され熱水となり、地表まで達する断層をとおって地表に吹き出す。このとき高温の熱水は岩石と反応し、石英や金・銀・銅・亜鉛などを溶かしだす。熱水が上昇し、深度数百㍍程度、温度二五○℃程度となったとき、熱水に溶けていた石英が結晶となって析出する。石英脈はこうしてできるが、このとき金や銀も熱水から同時に沈殿し含金石英脈となる。この熱水循環の影響を受け、蒸し焼き状態になった岩石が、暗緑色に変質した安山岩であり、当時の地熱帯を構成していた岩石である。金が熱水に溶けだすには、熱水にふくまれる硫化水素の作用もあると考えられている。硫化水素を含むような還元的環境では、熱水に溶解する金の濃度は、三○○℃で○・○○一~○・○一ppmぐらいまで高くなるとされている。石英や金が溶けこんだ熱水は、断層に沿って上昇するが、地温の低下により石英の結晶が析出し、また上昇にともなう圧力低下で沸騰がおこり、硫化水素を失われ金が沈殿する。佐渡鉱山の場合には、地下数百㍍で、二五○℃ぐらいの熱水から金が沈澱したことがわかっている。このときの金の濃度は四ppm~五ppm程度であり、金鉱石中の金含有量とほぼ同程度である。なお、金鉱床が形成されるに必要な熱水循環の期間は、一般に数万年程度と見積もられ、火山活動の継続時間に比べれば、比較的短時間である。主な鉱石鉱物のうち、初生鉱物は自然金・輝銀鉱・黄鉄鉱・閃亜鉛鉱・方鉛鉱・黄銅鉱・白鉄鉱・濃紅銀鉱・脆銀鉱・輝安銀銅鉱・淡紅銀鉱・四面銅鉱、二次鉱物は斑銅鉱・孔雀石・藍銅鉱・自然銅・銅藍・褐鉄鉱である。鉱脈鉱物は、石英・玉髄・紫水晶・方解石・菱マンガン鉱・重晶石・石膏・氷晶石・絹雲母である。【参考文献】 坂井定倫・大場実「佐渡鉱山の地質鉱床」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】 神蔵勝明
・佐渡国小木港の社会経済史的研究(さどこくおぎこうのしゃかいけいざいしてきけんきゅう)
著者渡部次郎。昭和二十六年(一九五一)小木町公民館発行、一○○頁。渡部次郎は相川出身。明治四十二年佐渡中学校、慶応義塾大学理財科卒業後、東京にて保険会社に勤め、戦時中、房州北条町から昭和十七年佐渡へ疎開、小木町長塚原徹から小木町史の編纂を依嘱された人。昭和二十二年まで小木に滞在。その間、塚原町長の奨めで「佐渡は郷土史料が豊富で、小木と限定せず、佐渡の郷土史を研究してみたら─」と言われ執筆し、小木町史に替わる書物として刊行。九州に転移した昭和二十六年夏、原稿を書き直し書名をつけた。社会・経済史的視点で旧形を脱して、戦後の新しい史観で記述している。目次は、一 小木町の発展史、二 小木町の問屋衆、三 小木女郎、四 港湾施設「三味線堀」始末と町割計画、五 日本越後佐渡両国渡船商社始末、附録から成る。一では、初期は小木湊を鉱山町相川の湊としての発展ととらえ、その後寛文十二年(一六七二)河村瑞賢による出羽国最上郡の官米輸送の西廻航路寄港地としての小木、次は北前船時代の「春下り」・「夏上り」の湊として栄えた小木を、日本海交易の視点からみている。二は、小木の問屋・船宿・小宿について、成立過程と問屋・船宿の株仲間的性格を記し、小木問屋は委託問屋・買付問屋・宿屋の営業であると述べる。三の小木女郎では、港湾・河口の湊町で栄える町の芸妓の特徴を述べ、筑前平戸近郊の田助浦の田助女郎に及び、小木女郎の性格は、公娼として一定の型をもたない家庭的な女房性が本質である、とある。戦後郷土史の新方向を示した好著。【参考文献】 青野季吉『佐渡』、橘正隆『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社)【執筆者】 佐藤利夫
・佐渡国小木民俗博物館(さどこくおぎみんぞくはくぶつかん)
小木町立の登録博物館。本館は、木造平屋建ての旧宿根木小学校校舎である。現在は町指定文化財でもあるが、町内小学校統合による、廃校という時代の流れの中で、当博物館は誕生した。昭和四十五年(一九七○)四月から、資料収集活動を始めている。校舎のその後の活用方法は種々取りざたされたのであるが、当時武蔵野美術大学教授であった、故宮本常一先生の強い指導によって、今の身の回りにあるもので使われないものを集め、保存するという施設に利用されることとなった。当時は、民具とか民俗資料といった概念は一般的ではなく、さながらガラクタを集めているという光景の作業であった。収集した資料の中から、昭和四十九年二月に「船大工道具及び磯船」九六八点、同年十一月「南佐渡の漁労用具」一二九三点が、重要民俗資料として国の指定を受けた。文化庁が、民俗資料館建設に対する補助制度を発足させた時代である。当館の収蔵庫はこの補助を受けて、昭和五十一年に完成している。また五十九年には、新館が完成し農林漁業の資料を整理展示する。平成十年三月、千石船とその展示館が併設され現在に至っている。収蔵資料は、衣に関するもの二○○○点、食に関するもの三○○○点、住に関するもの二○○○点、生産・生業に関するもの一万五○○○点、交通・運輸・通信に関するもの一○○○点、信仰・年中行事に関するもの一万五○○○点となっている。【関連】 千石船(せんごくぶね)【執筆者】 高藤一郎平
・佐渡国誌(さどこくし)
一巻、大正十一年(一九二二)二月刊。明治四十年(一九○七)、佐渡郡教育会会員中山小四郎が発議した国誌編纂は郡会に承認され、時の郡長深井康邦は、編纂主任に岩木拡、顧問に萩野由之を委嘱した。当初は、「地文」「人文」「地方誌」三編の出版を計画し、岩木は川上賢吉らの協力を得て、精力的に資料の収集にあたった。はじめ三年で完成する予定のところ、調査が困難で進行せず、郡会は経費上の理由で大正四年度をもって事業の中止を決定した。同五年(一九一六)七月岩木は解任されたが、それまでに脱稿して萩野由之博士のところへ校閲に回されていた「人文」編だけが、大正十一年になって『佐渡国誌(全)』として発刊された。内容は、「沿革」「政教」「鉱山」の大分類の下にそれぞれ小項目を設け、上古から明治末年までの史資料を載せる。岩木は編集方針について、「本書ハ専ラ事実ヲ記述スルニ務メタリ。唯其史実ノ晦渋ナル所ニハ之ヲ解釈若クハ評論スヘク、私意ヲ述ヘタル所アルノミ」と述べているが、古来の史書の引用や解説が適切で、興味深く読める郷土史書である。【参考文献】 『佐渡近世近代史料集ー岩木文庫(上・下)』(金井町教育委員会)【執筆者】 酒井友二
・佐渡国府(さどこくふ)
延長五年(九二七)に成立した「延喜式」に、「佐渡国、国府在雑太郡、管三郡、羽茂、雑太 佐波太国府、賀茂」とある。また十世紀中ばころの成立という「和名類聚抄」に、「佐渡国郡、管三羽茂、雑太 佐波太国府、賀茂」と同じ記載がみられる。さらに平安末ころといわれる「色葉字類抄」も、「佐渡、三郡、羽茂、雑太府、賀茂」、また鎌倉中期ころのものという「拾芥抄」も、「佐渡 三郡、羽茂、雑太府、賀茂」とする。これらは十世紀以後の書であるが、いずれも雑太郡内に国府が存在したことを述べる。しかしその位置は、記録の上ではわからない。そしてこの国府が、律令制初期から同じ場所にあったかどうかもわからない。ただその所在地が雑太とあるからには、雑太郡内も雑太郷の内(真野町)にあったのではないかと推察される。その一つの根拠として、国分寺の位置との関係である。天平十三年(七四一)の諸国国分寺建立の詔勅の中で、その占地条件の一つとして、国府に近いとこであることがある。そうすると逆に言えば、国分寺(跡)の近くに国府がなければならないことになる。佐渡の国府址は、佐渡国分寺の近くに求められる所以である。その場所が現在では、「下国府遺跡」を含む竹田台地先端平坦部(四~五町四方)の地点でないかと考えられている。近辺には、「国府川」「総社神社」「府中八幡」なども存在する。国府(中心都市)の中に、国衙(政庁)があるわけであるが、今はそれもわからない。【執筆者】 山本 仁
・佐渡国分寺(さどこくぶんじ)
天平十三年(七四一)、聖武天皇の諸国国分寺建立勅願によって、佐渡国国分寺も建立された。しかしこの大工事開始の時期も、完成の時期も明らかでない。当時は各国共、それぞれの国の事情によって建立の時期が遅れるが、佐渡国も同じであったとみられる。完成時期については諸説があるが、天平宝字八年(七六四)とみる説が現在有力である。それはこの年、国より佐渡国国分寺へ金光明最勝王経、法華経各一部が施納されている(「大日本古文書」)記事からである。律令制が衰退すると、その精神的基盤であった国分寺の機能も低下または消滅し、寺院は姿を消すもの、一般的寺院化するものなどが出てくるが、佐渡国分寺はどうなったか。寺伝によると七重塔は正安(一二九九ー一三○一)の雷火で焼失、伽藍も戦国の争乱で失ったという。本尊薬師如来(平安初期、国重文、明治三十九年)は現在残る。創建当時の本尊については不明である。旧国分寺境内(国指定史跡、昭和四年)は方二町四方と想定され、その中に金堂跡・中門跡・廻廊跡・南大門跡・七重塔跡などの礎石が整然と残っている。小規模ながら東大寺式伽藍配置の建物群であったことがわかる。ただ後年の開発によって、鐘楼・経蔵・講堂・僧房などの跡が残っていない。史跡内からは多数の布目瓦片が採集されており、中には人物画瓦や文字瓦・紋瓦などが含まれている(今の所、中世の遺物は採集されていない)。瓦の製産地は、国分寺に接する東側の経ケ峯瓦窯跡、南に遠く離れた小泊須恵器窯跡(羽茂町)などである。現国分寺は、史跡国分寺跡の東隣にある。本尊の安置されていた瑠璃堂の建立が寛文六年(一六六六)であるが、他の建築物が現地に移転したのはいつのころであったろうか。【執筆者】 山本 仁
・佐渡国分寺跡(さどこくぶんじあと)
遺跡は、国中平野を北側に見おろす、真野町大字国分寺の台地にある。現国分寺に接する西側、松林中(字経ケ峰)のほぼ二町四方域内に、南面する伽藍遺構が広がる。「佐渡志」(文化年間編)の中に「初て天平に作られし寺は正安のころ雷火に焼け、再び建てしも享禄二年己丑災にかかりて悉く焼けぬ。今も寺のあたりの地を穿ちて稀に瓦を得ることあり。古色観つべし。─」とある記事が、国分寺旧跡に関する初見である。昭和二年(一九二七)、県史跡調査委員山本半蔵氏や、郷土史家本間周敬氏・原田広作氏らの数回に亘る調査によって、礎石の点在が確認され、同年内務省調査官らの調査によって、建物跡の概要が判明、昭和四年十二月国の史跡として、指定保存地に指定された。第二次大戦後の昭和二十七年、斉藤忠博士を中心として再調査が行われ、建築遺構の大部分が明らかにされた。報告書によると、建築物としては、金堂・中門・廻廊・南大門・七重塔の中心軸がほぼ南北に並び(金堂東側に中心軸より一二度東偏した新堂址がある)、東大寺式伽藍配置であったことが知られる。寺域の地割は、天平尺三十三尺を基準としている。ただ残念なことには、金堂背面に存在したであろう経蔵・鐘楼・講堂・僧房の礎石は、後世の土地開発のため発見されていない。現在、国の重要文化財(史跡)指定。なお、建立当初の建物に載せられた瓦の焼成窯跡は、現国分寺(東向き)の前方経ケ峰瓦窯跡、その後の修理用瓦の窯跡は、小泊須恵器窯跡で焼かれたものとみられている。【参考文献】 今井浤二「佐渡国分寺」(『国分寺の研究』)、斉藤忠「佐渡国分寺の諸建築物跡とその規模」(『越佐研究』五・六合併号)【執筆者】 山本仁
・佐渡古実略記(さどこじつりゃっき)
七巻。一巻~四巻は、神代より慶長六年(一六○一)の相川銀山の立ち始まりまで、五巻~七巻は、慶長八年の大久保長安支配開始から設楽長兵衛の寛永十一年(一六三四)までを収める。『佐渡古実略記』七巻は、『佐渡国略記』三四巻と一体をなすもので、編者は相川町町年寄伊藤三右衛門が、佐渡奉行石谷清昌の要請で編纂したものと推測される。一巻は『日本書紀』の国生み伝説、当国村郡始之事・当国九社之事・当国惣鎮守金北山之事・当国江流罪人之事・当国名所寄などを収め、二・三巻は鎌倉・室町時代にあたり、佐渡本間氏など地頭たちの支配・系図を中心に収めている。四巻は、上杉景勝の佐渡支配を中心に、河村彦左衛門由緒書・同系図、郷村・寺社領の支配、慶長五年から同八年までの徳川幕府の四奉行(田中清六・河村彦左衛門・吉田佐太郎・中川主税)支配、西三川金山・鶴子銀山の創業などを収めている。五巻は大久保長安の支配から鎮目の就任まで、六巻は鎮目市左衛門・竹村九郎右衛門の支配、七巻は寛永元年(一六二四)より同十一年までが収められている。【関連】 佐渡国略記(さどのくにりゃっき)・石谷清昌(いしがやきよまさ)【参考文献】 伊藤三右衛門『佐渡国略記』【執筆者】 児玉信雄
・佐渡古典叢書(さどこてんそうしょ)
昭和二十六年(一九五一)に郷土史家の橘正隆(通称は法老)は、金井町中心街の尾花崎で、印刷事業を行っていた産青連印刷所の三十周年記念事業として、同会と提携して佐渡史関係の古典書の刊行をはじめた。第一巻は『相川県史』で、そこへ「寺社帖」が付されていた。第二巻は、「四民風俗」と「いが栗」が収録され、いずれも好評を得て郷土史愛好者たちに、叢書の発行が期待されていたが、事情があって打ち切られてしまった。そのため『佐渡古典叢書』は中断したまま、幻の叢書となってしまった。【関連】 橘正隆(たちばなまさたか)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡小判(さどこばん)
佐渡で小判を鋳造したのは、元和七年(一六二一)に始まって七○年継続し、元禄四年(一六九一)これを停止して、正徳四年(一七一四)復興して享保十年(一七二五)まで行われ、翌享保十一年また停止、延享四年(一七四七)から文政元年(一八一八)まで七二年間継続し、その後は行われなかった。佐渡小判は、背面の右肩に丸に佐の字の印があり、同じく左下方の極印の上にあるのは六、或いは馬、或いは砂の字で、下にあるのは神、或いは當の字である。六は大賀六郎兵衛、馬は相馬五兵衛、砂は佐藤次右衛門という小判師の印で、神は片山甚兵衛、當は上原藤左衛門という吹所役人の印である。正徳以後は、小判師はこの国に居ないので、筋の字を用いた。元和の小判は、縦二寸三分一厘、横一寸二分八厘、重量四匁七分六厘ある(以上『佐渡郷土辞典』)。上記は『佐渡志』巻之四、食貨の金の項目(佐渡小判)の記述を基にしたものと思われるが、若干の採録違いがあるので、読み合わせが必要。なお、『佐渡金銀山史話』の第三章第一節の、「佐渡小判の鋳造」「小判鋳造の変遷」が参考になる。【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』、『佐渡志』【執筆者】 小菅徹也
・佐渡御用覚書(さどごようおぼえがき)
「天」「地」「人」の三巻よりなる。正徳五年(一七一五)より享保七年(一七二二)までの佐渡奉行北条新左衛門氏如が、在任中を中心に公文書と公務の覚書を収録したもの。江戸の老中・勘定奉行からの奉書・達書、また佐渡奉行から老中・勘定奉行への報告書、佐渡奉行より諸役人への通達・触書、相役である河野通重奉行との交代引継などが含まれており、正徳・元禄期の政治・社会を知るうえで貴重である。天・地・人の三部からなり、「天」では諸役人扶持切米覚・佐渡往還休泊覚、他に佐州米改・相川町中および諸役人の宗門改・島内巡見の書付・諸種の御触書・佐州御船造替・囚人宰領注進・拝借金等四九点。「地」は島内巡見、河野勘右衛門申送口上之覚・正徳五・享保元年佐州新規申候覚、将軍家継死去による諸通達、穿子・大工の規定書、巡見に付仰出され候書付、切支丹類族病死之時差上候証文控等二七点。「人」は諸制札・山之内道法・起請文前書の覚、小倉実起配流の覚、佐渡国開基、神保新五左衛門様御渡被成候在々百姓共ニ可申聞書付、御陣屋武具目録等六○点、と広範な分野にわたっている。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡裁判所(さどさいばんしょ)
維新期に新政府が設置した行政機関。新政府は、慶応四年(一八六八)一月二十八日、大阪鎮台を大阪裁判所と改称し、つづいて各地の天領を直轄地にして裁判所を置き、「専ら人心の鎮定を図り、(中略)安んじて業を営ましむ」ことにした。佐渡に裁判所を置く方針が決定されたのは四月頃で、佐渡奉行所にこの知らせが届いたのは、五月二十二日である。在京の組頭竹川竜之助が、閏四月十九日に北陸道総督府参謀に呼出され、「佐渡に裁判所を置き、総督に北陸道副総督滋野井公寿、参謀に津田山三郎(肥後藩士)と小林柔吉(安芸藩医師)を任命したので遠からず着任する。」と告げられた。滋野井総督の辞令は、四月二十四日付となっている。竹川は直ちに岩間郁蔵を佐渡へ帰し、このことを知らせた。中山修輔は、広間役岩間郁蔵・井上大蔵に顧問として丸岡南 を付けて京都へ派遣し、佐渡の国情を説いて赴任を思いとどまるよう懇願させることにした。岩間らは五月二十九日に相川を出発し、ほぼ目的を達成して八月十二日に帰っている。かくして佐渡裁判所の設置は実現せず、間もなく地方行政が府・県・藩に分けられることになって、行政機関としての裁判所は消滅した。【関連】 岩間郁蔵(いわまいくぞう)・丸岡南陔(まるおかなんがい)【参考文献】 『国史大辞典』(吉川弘文館)、『佐渡相川の歴史』(資料集六、通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡災異誌(さどさいいし)
昭和三十七年(一九六二)七月二十五日に、相川測候所は創立五十周年を機に、『佐渡災異誌』を刊行した。当時の相川測候所長の府中国一は、冒頭の言の書きだしに、「最近の気象官署における重要な仕事の一つは、異常な気象現象の発現の場合に、適切な気象予警報を発表し、もって担当区域内の防災対策に、幾分でも寄与することである。」として、その判断に資する資料を、過去の歴史上の記録から編集した経路を述べている。そのうち中心的な資料は『佐渡年代記』で、その他の古文書を骨とし、市町村誌を肉として書かれているが、それらいわゆる郷土誌関係書以外にも、日本気象史料や新潟県地震誌・石川県災異誌など、業内資料も用いられた。書の内容は第一部が年表形式で、津波・雷・長雨、鳥類の異常渡来、なだれ・雪・風ほか、オーロラ・たつまき・いん石・虫害など、三五項目にわたっている。第二部は、統計・グラフ・分布図などで、対象となっているのは、気温・湿度・気圧・風・降水・季節の六項目である。同書は上巻にあたるもので、明治以降はあらためて(下)として刊行予定と書いてある。【執筆者】 本間雅彦
・佐渡志(さどし)
藤沢子山(名は周)の著書、田中葵園(従太郎)の『佐渡志』と混同されやすいので、ふつう『子山 佐渡志』という。本書はもと三巻あったが、第一巻と第二巻が火事で焼失したので、この第三巻「寺社部」だけしかない。天明から寛政(一七八一~一八○○)頃の成立という。内容は寺院・山伏・神祠からなり、寺院は、真言・天台・浄土・禅・日蓮・一向・時宗の七宗の別に有力寺院をあげ、その由緒・本寺名・寺家(子院)名・末寺(会下)名・境内の面積・除地除米高・堂宇・什物・寺領検地その他の古証文類などを記す。山伏は、当山派(三宝院所属)七四人と本山派(聖護院所属)一五三人の別に分けて、その居住する郷村名を記す。神祠は、寺院同様佐渡の有力神社である、度津神社・式内九社・金北山神社・大山祇神社などについて、由緒・除地・除米・境内・古証文・神官・別当寺・合祠をあげ、一般の寺院は所在郷村名と神官名を記す。成立は『佐渡国寺社境内案内帳』より新しいが、これよりも古くて現存しない元禄寺社帳の形をとどめている。【関連】 藤沢子山(ふじさわしざん)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡叢書』(巻五)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡志(さどし)
一五巻、同附録図一巻。佐渡奉行所広間役田中從太郎(美清・葵園と号す)が、文化年中奉行の命を受けて、同じ地役人西川明雅(藤兵衛・恒山の子)とともに編集した地誌。葵園の生前には、文化十三年(一八一六)までを、それ以後は二男藤木実斎(名は穂、実斎・竹窓と号す)が、先志を継いで弘化年中に完成した。内容は、本編の巻順で、建置・形勝・田土・食貨・風俗・官員・武備・戸口・祥異・神祠・仏寺・古蹟・遷流・遺事・物産の一五巻と附録図でなり、各巻とも可能なかぎり古代からの記録を採用し、自らも寺社・民家の記録を採訪して著述している。引用書目は、記紀以下六国史・増鏡・梅松論・延喜式・今昔物語・遊行渡海記など、島内だけでなく中央の史料まで引用し、その数は六○種をこえている。このために、葵園が文化三年(一八○六)二五歳のとき、江戸の塙保巳一に佐渡関係史料所載の古文献の調査を依頼した書簡がのこっている。本書を完成させた藤木実斎は、二部作成し、一部を修教館におさめ、一部を家蔵したが、明治七年葵園の孫美暢が明治政府に献納し、現在は二部とも内閣文庫が所蔵している。【関連】 田中葵園(たなかきえん)【参考文献】 『新潟県史』(通史編3近世一)、麓三郎『佐渡金銀山史話』、田中圭一『天領佐渡』【執筆者】 児玉信雄
・佐渡式内社(さどしきないしゃ)
延喜五年(九○五)から編さんの始まった『延喜式』の「神名帳」に記載されている、二八六一社を式内社という。そのうち佐渡国は九座あって、郡ごとに「羽茂郡ー度津・大目、雑太郡ー引田部・物部・御食・飯持・越敷、賀茂郡ー大幡・阿都久志比古」となっている。雑太郡の五座は、波多郷およびその周辺に集中している点が特徴的である。右社名をもつ九社はみな現存してはいるが、その社が延喜式の神名帳記載のものとは限らず、伝承が途切れていたのを、近世にいたって僭称したところもあるとされている。社名の記載には、位格などに拠って序列があると考えられてきたので、羽茂郡度津社が筆頭社として、「佐渡一の宮」と呼ばれる習慣ができているが、一の宮の判定には異説もある。また最初の鎮座の位置から遷移したことが、記録や伝承によって明らかなところもあり、伝承や所説はあっても、確証のない社などさまざまである。前者の例は、三宮村から寛文中(一六六一~七二)に猿八村に移ったとされる越敷社で、後者の例としては大幡社などがあるが、推測の域をでない。【関連】 大幡神社(おおはたじんじゃ)【参考文献】 『角川日本史辞典』(角川書店)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡支庁(さどしちょう)
佐渡郡役所の廃止によって設置された行政機関。大正十年(一九二一)四月、「郡制廃止に関する法律」が公布された。これは、府県や町村の行政組織が整備されて、両者の中間にあった郡の役割が薄れてきたためである。大正十二年四月一日には郡制廃止が実施されて、郡は地理的名称と化し、大正十五年七月一日の郡長・郡役所廃止によって、歴史的役割を終えた。それまで郡営で行なわれていた事業は、県または町村へ移管された。ただ、郡役所廃止によって住民に大きな不便を与える地域については、支庁または出張所の設置が許され、新潟県では離島である佐渡にのみ支庁を置くことが認められた。かくして大正十五年七月一日、新潟県佐渡支庁が誕生し、前岩船郡長であった関威雄が初代支庁長に就任した。庁舎ははじめ広間町の佐渡郡役所に置いたが、昭和三年一町目裏に新庁舎を建てて移転した。その後の行政の機構改革によって、昭和三十年(一九五五)から下越支庁佐渡分室、同三十三年からは佐渡分室と変り、同四十一年には再び佐渡支庁となって、同六十年に廃止されるまで続き、県と市町村の中間行政機関としての役割を果たした。【関連】 佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)・新潟県相川合同庁舎(にいがたけんあいかわごうどうちょうしゃ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「佐渡支庁の沿革」【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡四民風俗(さどしみんふうぞく)
宝暦六年(一七五六)佐渡奉行所在方役の高田備寛は、奉行命によって島内の各村々の生活ぶりを二巻の書に記述し、これを『佐渡四民風俗』と名づけた。その後天保十一年(一八四○)に、広間役の原田久通が追補したものが明治二十八年(一八九五)に矢田求の解題で、下巻の一部を省いて史林社から刊行(同書は昭和四年にも出された)。戦後昭和二十六年(一九五一)に佐渡古典叢書として橘正隆の、さらに同四十四年に田中圭一の解説で、三一書房から出版された。上巻は中世の本間能久支配の頃から、江戸前期までの歴史の概要を述べたあと、「当国農家風俗の儀」として、上杉景勝支配以後の村の様子を記してある。記述の順序は、沢根町・河原田町・辰巳村・八幡村・四日町村と真野沿いにはじまって、終りは両津湾沿いの内海府村々となっている。下巻は職人についての記述で、樋職人・番匠・鍔師・金具師など、あらゆる職種に及んでいて、追加分を併せると、江戸前期・中期の島内の工芸事情が詳細に把握できる。筆者の高田備寛は、地方の役人とはいえ、江戸詰の機会が享保から元文にかけて前後五回もあって、江戸在住および往復の旅の経験や見聞がひろく、その視野の広さから、高度の民俗誌を書き上げることができたものと考えられる。【関連】 高田備寛(たかだびかん)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡自由党(さどじゆうとう)
板垣退助らによって、明治十四年(一八八一)に結成された自由党のながれをくむ政党。明治十五年四月、県下の各自由党組織の連合体性格をもつ北辰自由党が結成された。そして、同党の招きで同年十一月に自由党員の高橋基一(東京府士族)らが来島し、小木・中興・夷・相川・本郷の五か所で政談演説会が開催されたが、夷町での演説会によって、若林玄益ら十余名が入党した。しかし、その後の活動は活発とは言えなかった。政党の活動が盛んになるのは、国会開設が迫った明治二十年頃からで、明治二十一年十月には、自由党系の大同派が越後から山際七司らを招いて演説会を開き、両津や国仲に勢力を広げた。翌二十二年三月に越佐同盟会が結成されるが、ここには原黒の鵜飼郁次郎、中興の石塚秀策、河原田の高橋元吉、皆川の池野最平らが参加している。その後自由党系の政党は、明治二十五年に鵜飼郁次郎らの国権党が分れたり、民党連合として合同したこともあったが、佐渡自由倶楽部(明治二十六年)、憲政党(明治三十一年)、立憲政友会(明治三十三年)と党名を変えながら、昭和十五年(一九四○)の解党まで続いた。【関連】 佐渡同好会(さどどうこうかい)・佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)・鵜飼郁次郎(うがいいくじろう)【参考文献】 石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2)、斉藤長三『佐渡政党史稿』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡状(さどじょう)
佐渡流罪中に、大和ないし京都にいたと思われる娘婿の、金春大夫氏信(禅竹)に宛てた世阿弥の手紙。直筆の手紙は二通しか現存しておらず、その中の一通がこれで、奈良県文化財。佐渡で書いた『金島書』は、写本で伝わったものだから、世阿弥滞島中の筆跡は、この手紙が唯一のものであり、流人としての世阿弥の息づかいが感じられ、貴重である。昭和十六年、能楽研究家の川瀬一馬氏が、奈良県生駒市の宝山寺で発見した今春家伝書群の中に、世阿弥自筆能本などといっしょにまじっていた。楮紙二枚をはりあわせた横五五・七糎、從二○・四糎の手紙で、「世阿弥が佐渡流謫中のものなり、稀代の資料といふべし」と、川瀬氏は発見したときの驚きを記している。「六月八日」の日付があり、配流の翌永享七年(一四三五)に発信したものと見られている。文面は、佐渡では人目も外聞も、とくに問題なく暮していること、氏信から銭一○貫文が届いたことと、妻の寿椿を預かってもらっていることへの謝辞、また佐渡は「不思議の田舎」なので、料紙なども不足していて、妙法諸経のありがたい教えも、稾筆で書くためしもあるというから、道の大事(鬼能のこと)を書くこの手紙は、金紙とお考えになって下さい、などと結んでいる。禅竹から「鬼の能」について、質問した手紙が届いたことへの返信も兼ねているらしく、「(鬼の能に関しては)砕動までに限られ、力動なんぞは他流のことにて候」と、つっぱねている。鬼の能の力量が、役者評価の基準にされるような風調が、そのころ都で生まれていたらしく、形式的・外面的な能の俗化をいましめた手紙ともうけとられ、配処にあってもなお、能への情熱を失ってはいないようすがうかがえる。「世阿弥佐渡状の碑」(題字、二十六世観世宗家・観世清和書)が、この手紙を直筆のまま刻んで、佐渡博物館の玄関前に平成九年に建立された。【関連】 観世元清(かんぜもときよ)・金島書(きんとうしょ)【参考文献】 表 章・加藤周一『世阿弥・禅竹』【執筆者】 本間寅雄
・佐渡事略(さどじりゃく)
佐渡奉行石野平蔵廣通(天明元年~天明六年まで在勤)が、天明二年(一七八二)に著わしたもの。上・下・別録の三巻があって、上巻は、佐渡の大概を記し、下巻は、佐渡における見聞を記し、別録は金銀山のことを記している。その時代の佐渡の国勢・気象・物産・風俗・鉱山の様子が知られる。佐渡人に対する見方は、「人物辺鄙の気質温和ならずといへども、大平の化行はれて、重立ちたるものは義信礼譲あり、下等のものは奸曲讒阿、或は密訴を企て、又は妬情の心あり、色欲深く、物に心をとどめず、業に精しからず、土を掘り石を拾ひて利を得んことをおもふ。」(萩野由之『佐嶋遺事』)とあり、また、天明二年九月十九日善知鳥明神の祭礼に「作り物を出し、鉾を出し、猿田彦、獅子もあり、鬼太鼓といふて金堀共打つ」などの記録もある。当時、武家三歌人の一人と言われた観察眼をもち、博識の人の書である。【参考文献】 萩野由之『佐嶋遺事』【執筆者】 山本修巳
・佐渡人物志(さどじんぶつし)
一巻。萩野由之の著書。大正十年(一九二一)完成したものを、昭和二年に佐渡郡教育会より出版。内容は、慶長から大正までの約三百年の佐渡出身者、または他国人でも佐渡で死去した、史上著名な人物の伝記である。ただし流謫の公卿、もしくは在任中に没した官吏は入れていない。事実はみな本拠のあるものを採っており、その出所を註記し精確を期している。この書は、萩野が二○歳頃在島中から諸家の記録、古老からの聞き採り、上京後水戸・京阪等各地で得た材料が用いられている。収載人物は、一 善行・二 良吏・三 漢学・四 医術・五 数学・六 音韻学・七 蘭学及地理学・八 神道及歌文・九 連歌及俳諧・十 書画・十一 産業及技芸・十二 義侠・十三 沙門・十四 女流・十五 雑学の、一五部門に分けている。原本は、佐渡高等学校同窓会「舟崎文庫」が所蔵する。【関連】 萩野由之(はぎのよしゆき)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡新聞(さどしんぶん)
明治三十年(一八九七)九月三日、森知幾によって創刊された佐渡で最初の本格的新聞。当初は隔日刊であったが、同三十五年から日刊となった。発行兼編輯人が友部周次郎、印刷人細野啓蔵、主筆には「新潟新聞」の記者をしていた大竹忠次郎を迎えて発足したが、実際には主幹の森知幾が編集と発行に当たった。発行所は当初羽田町にあったが、のち下戸炭屋浜町へ移転した。以前から島民による新聞の発行を企図していた知幾は、畑野町の本間慶四郎や「江差新聞」の記者をしていた伊達喜太郎らと相談して六月発刊の予定にしていたが、本間と伊達の間で支持政党の対立が起こって、三か月近く遅れた。知幾は、人民の自由・平等と独立をかかげて地方分権を主張し、官尊民卑の姿勢が強かった当時の吉屋雄一郡長と激しく対立、その姿勢を糾弾する論陣を張った。そのため官吏侮辱罪で六か月間の拘留(のち無罪判決)となったが、この間一時退社していた伊達喜太郎が新聞社を支えた。同紙はこうした弾圧に屈することなく、廃娼論や被差別部落の解放、佐渡鉱山のストライキ解決のための論陣を張り、佐渡の近代化と産業の振興に大きく貢献し、最盛期には発行部数が二○○○部にも達した。大正三年(一九一四)、社主の知幾が没すると、一時山本悌二郎に経営が託されたが、その後知幾の子供たちが受け継ぎ、昭和十五年(一九四○)九月に新聞の整理統合によって廃刊となった。【関連】 森知幾(もりちき)・伊達喜太郎(だてきたろう)・本間慶四郎(ほんまけいしろう)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、森 幾『森知幾ー地方自治・分権の先駆』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡新報(さどしんぽう)
『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)によると、明治大正期に佐渡では、四つの日刊紙が発行されていたが、太平洋戦下の昭和十五年(一九四○)に、言論統制による整理統合がなされ、最後まで残った「佐渡日報」も、同年十一月三十日をもって廃刊となっていた。戦後に言論の自由な空気が広がるのにそって、佐渡新報・佐渡民報・佐渡タイムス・佐渡評論・佐渡文化新聞・佐渡報知新聞・佐渡時事新聞・佐渡観光新聞などが続出した。「佐渡新報」社は昭和二十一年(一九四六)九月二十日に創立、同十月二十一日に金沢村尾花で創刊した。初代社長は、二宮村窪田で耳鼻咽喉科医を開業していた医師北見角太郎であった。二代目は東京在住の舟崎由之が継ぎ、本間庫次(のち畑野町長)・本間朝之衛が常勤に近い形で編集に当っていたが、帯刀金蔵(浜河内の建設業社長)とその子息弥寿正社長のときに、佐和田町東大通りに移転した。その頃から佐渡汽船や通信手段のスピード化、自家用車の普及、中央紙地方版の新設、とくに新潟日報佐渡版の充実などで、島内新聞の経営が困難になった。その結果、日刊紙は佐渡新報だけとなり、中央紙の配達が後れる南佐渡に、第三種郵便として細々とつづいていたが、平成十一年(一九九九)に廃刊となった。【執筆者】 本間雅彦
・佐渡人名辞書(さどじんめいじしょ)
大正四年(一九一五)に真野町新町の眼科医、筆名洒川こと本間周敬によって著わされ、東京の弘文堂で発行された。同書の自序によると、その二年前に新穂で、先哲遺墨展覧会をみて感動し、「爾来業務の余暇諸書を渉猟し旧記を討尋し、伝説に稽へ遺裔に糺し、苟も一技一芸に秀て、篤行奇績の伝ふべきものあれば得るに隨ひて録し、稿を更むること六回、蒐集の人物四百五十余を採りて以て世に向ふ」とある。その頃同氏は、千葉町猪鼻台に仮寓していた。また凡例のなかに、「本書編纂に就きては、山本半造君・山本植蔵君・岩木擴君・守屋泰君・川上賢吉君・茅原鉄蔵君・本荘了寛君・牛窪弘善君、及び遺裔関係諸氏の指導校訂を受けしもの甚だ多し。」とある。とくに牛窪には多くの資料を得たり、極力史料をさがしてもらったともある。島の出身者牛窪は東京在住者、他は在郷の研究家や篤学の士である。内容は、子弟関係の系統図にはじまり、人名はいろは順に挙げられ、八二頁から九六頁までは外伝が、以下附録として年表が、また古書の解題が三頁ほどあって、一一一頁で終わっている。著者には他に『佐渡上代史考』・『佐渡郷土辞典』・『佐渡の史蹟』などの良書がある。【関連】 本間周敬(ほんましゅうけい)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡水難実記(さどすいなんじっき)
明治三十年(一八九七)に、金沢村本屋敷の得勝寺住職本荘了寛が著した、佐渡を襲った大水害の記録書で、大正二年(一九一三)七月十五日に東京小石川の博文館から出版された。当時佐渡新聞や雑誌「佐山」に掲載されたものを、明治三十五年(一九○二)にまとめ、絵師麦僊のさし絵、萩野由之の序文、名士の加筆をえて書物とした。記述は、羽茂川すじから始めて海岸線ぞいに、そして国府川方面に及んでいる。実記には、当時の郷土研究家として著名な川上賢吉(喚涛)の随筆や、岩木擴の考証も加えられている。本書の経済的な援助者として、内藤久寛・斉藤恒・青木永太郎・野沢卯市・森知幾・嵐城嘉平の名前が挙げられている。【関連】 本荘了寛(ほんじょうりょうかん)【執筆者】 本間雅彦
・佐渡政党史稿(さどせいとうしこう)
斎藤長三が、昭和十五年(一九四○)頃から同十八年にかけて著した稿本。謄写版印刷で数部作成し、「各位御一覧之上可否善悪を御書き加へ可成早く御返し被下度御願申上候」との添紙を付けて関係者に配布し、寄せられた意見をもとに加筆を行っていたようであるが、途中で没したために発刊には至らなかった。したがって、完成されたものはないが、県立図書館と橘鶴堂文庫に一部が保存されている。それによると、構成は明治政党之巻・大正政党之巻・昭和政党之巻・新潟県会之巻・衆議院及内閣之巻となっているが、三郡町村組合会や郡会、有田真平の不敬事件や相川暴動・官庁移転問題などの島内で起きた大きな出来事、『北溟雑誌』「佐渡新聞」「佐渡毎日新聞」などの新聞雑誌の発刊とそれぞれにかかわる人物についても、くわしく記述されている。【関連】 斎藤長三(さいとうちょうぞう)【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅵ』(佐渡博物館)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡銭(さどせん)→銭座(ぜにざ)
・佐渡総合病院(さどそうごうびょういん)
昭和十年(一九三五)に開設された、佐渡で最初の総合病院。昭和初年から始まる農村不況によって、医者にも診てもらえない農民が増えてきた。そこで、当時佐渡産業組合連合会の会長であった本間長治や、主事の川上久一郎らが中心となって、昭和七年十一月産業組合の事業に、医療組合設立を加えることを決議した。これに対して、佐渡郡医師会や組合員の一部が反対したが、産業組合青年連盟などの熱心な活動によって、昭和八年八月六日に医療組合病院の設立が決議された。翌九年一月には、難航した建設位置も金沢村千種に決定し、昭和十年十月十八日に開院式が挙行されて、同月二十一日から診療が開始された。初代院長には佐野龍雄、副院長には伊藤清太郎をそれぞれ東京大学から招いた。開院当時は、内科・外科・眼科の三科であったが、その後順次増設され、現在は当初の三科の外に、小児科・精神科・整形外科・産婦人科・耳鼻咽喉科・神経内科・放射線科・歯科などを備えた総合病院となっている。現在の建物は、昭和四十三年(一九六八)に竣工したものである。【関連】 郡立病院(ぐんりつびょういん)【参考文献】 「四五年のあゆみ」(『年史』佐渡総合病院)、『佐渡郡産業組合史』(二)、『金井町史』(近代篇)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡叢書(さどそうしょ)
佐渡の基礎的史料を復刻した叢書。現在、一六巻・別巻一・別冊一が刊行されている。昭和三十二年(一九五七)、金井町の佐渡産青聯印刷所が、佐渡叢書刊行会の発行元となり、真野町の山本修之助が編集者として、川路聖謨『島根のすさみ』、昭和三十三年に第二巻『佐渡志』、昭和四十一年第三巻『佐渡国「皇国地誌」』が続刊されたが、昭和四十八年四巻『撮要佐渡年代記・小比叡騒動史料・佐渡流人寄帳』から、発行元を編集者の山本修之助に移し、自費出版として続刊された。昭和四十九年五巻『佐渡地誌・子山佐渡志・佐渡国寺社境内案内帳』、六巻『佐渡維新日記・佐渡海防史料』、七巻「佐渡山本半右衛門家年代記」別巻『北溟雑誌』、昭和五十一年八巻『佐渡山本半右衛門家史料集』、九巻『佐渡明治資料集1』、昭和五十二年一○巻『佐州巡村記・佐渡四民風俗・市郷上ゲ金一件・天保十五年佐渡奉行所普請所出火一件』、昭和五十三年一一巻『佐渡史苑』、一二巻『佐渡人物志・佐渡碑文集』、一三巻『佐渡国史稿本・佐渡幕末維新御触書・黒瀬家文書・吉田東伍「大日本地名辞書」(佐渡国)』、昭和五十四年一四巻『佐渡明治史料集2』、昭和五十五年一五巻『佐渡神社誌・竹窓日記』、昭和五十六年別冊『佐渡新聞』、五十七年一六巻『佐渡紀行・佐渡渡海道之記・佐渡古典文芸集』が刊行されている。その後、編集者兼発行者の山本修之助が、平成五年八九歳で没して、現在に至っている。【関連】 山本修之助(やまもとしゅうのすけ)【執筆者】 山本修巳
・佐渡地志(さどちし)
一巻、「佐渡古跡考」ともいい、相川町の医師横地島狄子の著。「佐渡地志」は、元禄八年(一六九五)水戸の徳川光圀が、佐渡奉行所に佐渡の国誌について下問した時、相川の医師横地島狄子玄常(正時)がその命をうけて著述献上したもので、当時そのような書物がなかったため、横地が祖父の記録によって著述し献上した。原本は現在も水戸彰考館に伝存している。現存最古の佐渡地誌。内容は、佐渡の式内社九社と、他の主要な神社九社、主要な寺堂二八、名所九、これに小倉実起の配所鹿伏村、国の田地年貢高、金山、奉行所諸役人について記している。殊に小倉実起についての記述が目立ち、横地島狄子と実起との関係をうかがわせる。【関連】 横地島狄子(よこちとうてきし)・小倉実起(おぐらさねおき【参考文献】 萩野由之『佐渡人物志』【執筆者】 児玉信雄
・佐渡鐔
佐渡で作られた鐔のことで、一般的には江戸三左衛門とその一族が作った鐔を指し、三左衛門鐔ともいう。初代三左衛門は、延宝二年(一六七四)七月、かたりの罪で江戸から流刑され、相川町四町目で餝屋として生活した。正徳五年(一七一五)、赦免で一たん江戸へ赴いたが、再び相川へ帰り、奉行北条新左衛門氏如の指導を受けて鐔を作り始め、三左衛門鐔として自他国に売りはじめた。鉱石を掘る鑽のまくれ落ちる鋼(モゲという)で鐔を錬立て、チョコレート色で鉄質は硬く、鍛えも良かった。二代利英・三代利貞・四代利姓とつづき、五代平六は名をなさなかった。初代は好古と刻んだとみられ、同系統の鐔に好古銘のものがある。作風は、鉄地・丸形・透彫が多いが、木瓜形や変り形などもあり、金銀象嵌や、まれに赤銅鐔もある。菊花・稲穂・米俵・大根・葦・葵・梅・桐・松・柊・鶴・雁・鷹羽・龍・馬・ほたて貝・定紋・扇・擂鉢・引戸手・錠前・カッチャ(鉱山道具)・山水楼閣など、洗練された図柄で、地方鐔として異彩を放ち、中央でも需要が多く評価が高かった。江戸で人気の金工師・遊洛斎赤文が、布袋図を鋤出した利英銘の鐔もあり、江戸文化との交流がうかがえる。三左衛門の姓は、「服部」とするのが通説で、菩提所は相川町米屋町の、一向宗願泉寺(現在廃寺)であったが、相川町山之神の一向宗総源寺には、「猪股」姓として一族がまつられていて、「猪股利姓」銘の鐔もあり、何らかの理由で改姓したものであろうか。【関連】 江戸三左衛門(えどさんざえもん【参考文献】 計良勝範「佐渡鐔について」(『佐渡博物館々報』一二号)、同「江戸三左衛門」(『佐渡流人史』郷土出版)【執筆者】 計良勝範
・佐渡同好会(さどどうこうかい)
大隈重信らによって、明治十四年(一八八一)に結成された立憲改進党のながれをくむ政党。国会開設が迫った明治二十年、県下の改進党系の活動家は、北辰自由党に対抗して殖産協会を結成して、党勢拡大を図った。佐渡ではまず、改進党員として論陣をはった有田真平の出身地でもある相川に小崎懋らを派遣し、明治二十九年九月に政談演説会を開いた。しかし、この時は入党者を得るまでには至らなかった。翌二十一年十一月、改進党色を強めた同好会を結成すると、同月十六日に再び相川で、小崎懋や県会議員の内藤久寛らの演説会を開催し、柄沢寛や浅香周次郎など一二六名の入会者を得て、同好会相川支部を結成した。さらに翌二十二年までには、新町・畑野・羽茂の各支部を結成し、会員も二九六名にのぼった。同好会は、同年越佐議政会と改称し、その後民党連合として自由党系と合同したこともあったが、越佐会(明治二十八年)、進歩党(明治二十九年)、憲政本党(明治三十一年)、国民党(明治四十二年)、民政党(昭和二年)と党名を変えながらも、昭和十五年(一九四○)の解党まで続いた。【関連】 佐渡自由党(さどじゆうとう)・佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)・小崎懋(おざきつとむ【参考文献】 石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2)、斉藤長三『佐渡政党史稿』【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡トキ保護センター(さどときほごせんたー)
新穂村長畝三七七ー四に所在する、トキ保護増殖をはかるため、環境庁が新潟県に委託した施設。旧トキ保護センターは、昭和四十二年(一九六七)十一月二十一日、新穂村小佐渡山中の清水平に開設され、トキの人工増殖と、野生トキ保護活動の中心として機能し、捕獲トキの飼育・人工受精・ホルモン試験などの研究を行い、大型飼育ケージ・管理棟・研究棟・ドジョウ養殖池があった。現在のトキ保護センターは、旧センターが老朽化したことなどから、国仲平野の長畝内巻にある白山神社の森をひらき、平成五年十一月十二日、移轉開所したもの。大型飼育ケージ・管理・増殖・研究棟・検疫棟があり、専任職員は、センター長近辻宏帰、トキ保護専門員(獣医)二名の三名。トキ保護センター周辺は、新穂村トキの森公園として整備され、村営のトキ資料展示館がある。昭和四十二年十一月、フク・フミ・ヒロの飼育にはじまり、四十三年三月、キン飼育。四十五年一月、能登のノリ飼育。五十六年一月、佐渡の野生トキ全鳥五羽捕獲飼育(緑・白・赤・青・黄)。五十七年三月、ミドリ♂とシロ♀のペアリング。その後、五組のペアリングがある。六十年十月、中国からホアホア♂借用。平成六年九月、中国からロンロン♂とフォンフォン♀借用。七年四月、ミドリとフォンフォンのペアリングで、五個産卵(全て無精卵)。平成十一年一月には、中国から天皇陛下に贈られた友友♂と洋洋♀の飼育がはじまり、四個産卵のうち、五月、人工孵化によりヒナ一羽誕生。七月、この二世トキの名前公募で、優優と命名された。平成十二年二月現在、中国のトキは野生を含めて約二○○羽。佐渡トキ保護センターでは、キンを含めて四羽である。【参考文献】 近辻宏帰「トキ保護センター一六年の記録」(『トキ』教育社)【執筆者】 計良勝範
・佐渡と能謡(さどとのうよう)
佐渡の能楽の歴史を紹介した最初の出版物。著者は相川町下戸に住んでいた椎野広吉。昭和二十五年十月、新穂村の仲野書店からの刊行(非売品)である。「佐渡の能謡は、其の源流を観世二代太夫、世阿弥元清の流寓に基因すと伝えられる。依って世阿弥の流系から収載することとせり」の書き出しから始まっていて、目次の数が一九○ほど。二七○頁におよぶ著述で、当時としてはかなりの労作といえる。内容の個々の評価はともかくとして、著者の誠実な人柄が全編から読みとられ、この島に能を盛行させた江戸時代から近代にいたる、多くのかくれた人とその業績が紹介されている。佐渡の能の盛衰をふりかえる人には、欠かせない報告書であり、戦後刊行された若井三郎氏(県能楽連盟常任理事)の、『佐渡の能舞台』『佐渡の能組』の労作二著に記される以前の、この島の能の消息をたどっていく上で貴重である。よく知られる潟上本間家と、相川の遠藤家の、佐渡二大能楽師の家系が、わりと詳しく紹介されていて参考になり、西三川の金子家によって起った加賀宝生の佐渡宗家と、潟上本間家との争い、両派の握手によって佐渡能楽会が大正八年ごろ創立されていく経緯なども、こまめに記述されている。観世・宝生の歴代宗家のときたまの来島、農業をしながら能に一生を捧げた感じの川上三吉翁(新穂)・小杉忠三郎翁(二宮)・松本栄太郎翁(真野)などの事蹟、ならびに佐渡に残る鷺流狂言とその伝承者にも、ていねいな解説をしている。【関連】 椎野広吉(しいのひろきち)・佐渡の能舞台(さどののうぶたい)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡日誌(さどにっし)
江戸後期の北方探検家、松浦武四郎の来島日記。佐渡へ渡ったのは弘化四年(一八四七)で、四○日ほど滞在した。佐渡中をくまなく歩きまわり、海府の嶮路も踏査し金北山にも登っている。江戸の俳人で「如草」という人と二人連れだった。両津港で武四郎を出迎えたのは、夷の画家本間陵山と溟北・圓山葆ら三人。溟北は夷で学古塾を開いていて、武四郎とは同年の文政元年生まれの三○歳。佐渡奉行所の高官で知友の藤木武助(實斉)が、溟北らを武四郎に紹介し、溟北は加茂湖や羽黒山正光寺などを案内している。武四郎は三重県の出身で日本国中を遊学したが、とりわけクナシリ・エトロフ島をはじめ北方各地を調査してたくさんの著作を残した。北方通が買われて北海道開拓判官にも登用され、北海道の道名や郡名のほとんどを選定している。が、明治政府のアイヌ政策に失望して官職を去り、以来全国を遊歴して著述生活を送り、明治三十一年(一八九八)二月に七一歳で東京で没した。『佐渡日誌』では、鷲崎や相川春日崎など、海岸防備のために全島に配備された台場や、遠見番所の砲術の大小や数量も調べて詳しく記述している。日本近海に異国船が接近して、国防への関心が高かった時代である。村や町別の人口・戸数・石高・物産はじめ、鉱物・植物・動物・風俗・港湾などにも目配りした、博物学的な記述が特徴である。【関連】 藤木実斉(ふじきじっさい)・圓山溟北(まるやまめいほく)【参考文献】 松浦武四郎『佐渡日誌』【執筆者】 本間寅雄
・佐渡日報(さどにっぽう)
大正三年(一九一四)八月二十五日、浅香寛によって創刊された日刊新聞。主幹が浅香寛で、主筆には児玉龍太郎、編輯人には富田霜人、営業には平岡栄太郎があたり、発行所は相川町大字八百屋町の浅香家の屋敷内に置かれた。このころ、相川町からは「佐渡新聞」・「佐渡毎日新聞」の二紙が発行されていたので、あらたな購読者を獲得するために、表紙や欄画を川上凉花・酒井億尋・岡常次など新進の青年画家による絵で飾ったり、最新式ポイント活字を使用したりして、斬新な紙面の装いを工夫し、気軽に読める大衆紙を目指した。発行部数は約一○○○部で、政治的には、創刊当時は中立を揚げていたが、大正四年春ころから同志会(後の民政党)系の新聞となった。昭和十五年(一九四○)、言論統制による新聞の整理統合によって十一月三十日付をもって廃刊となった。【関連】 浅香 寛(あさかひろし)・佐渡新聞(さどしんぶん)・佐渡毎日新聞(さどまいにちしんぶん)・平岡栄太郎(ひらおかえいたろう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡年代記(さどねんだいき)
一九巻・二二冊。原本は慶長六年(一六○一)から嘉永四年(一八五一)まで、二五一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、江戸幕府の佐渡支配を知る根本史料。著者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本に、明雅の没後、同じ地役人であった原田久通が書き続けたものといわれる。さらに嘉永五年(一八五二)から明治七年(一八七四)までの二三年は、『佐渡年代記続輯』として、また、『佐渡年代記』に全く脱漏したもの、および不完全な部分を萩野由之が編纂して『佐渡年代記拾遺』として、昭和十年以降佐渡郡教育会から出版した。『佐渡年代記』は、『佐渡風土記』『佐渡志』(田中葵園)『佐渡四民風俗』『佐渡相川志』(永弘寺松堂)とともに、佐渡五史書と呼ばれて重視されてきた。佐渡教育会の刊本は、佐渡支庁本を底本として、両津市鵜飼文庫本、真野町荏川文庫本によって校訂し出版されたが、ほかに萩野由之蒐集の舟崎文庫本が優れている。刊本は羽田清次が編纂主任となり、矢田求・山本半蔵・北見喜宇作がこれに参加して完成した。【執筆者】 児玉信雄
・佐渡年中行事(さどねんちゅうぎょうじ)
中山徳太郎・青木重孝共編の、佐渡で生まれた本格的民俗誌の一つである。その出版は、昭和十三年(一九三八)、柳田国男が主宰する民間伝承の会から、「佐渡民間伝承叢書」の第一集として刊行され、その序文は十数頁にわたって柳田国男が寄稿し、佐渡の事例を基に、たとえば、マユダマの榎木使用、六月朔日の歯がためと巨旦太夫の骨、正月の羽子板遊びの羽根など、その変遷の歴史を組立てる、民俗学的方法を説いている。そして最後に、佐渡年中行事の功績は、単に一郷土の過去文化の為に、好個の記念塔を打立てたというに止まらず、総国の学問に向って、これまで利用せられなかった、一つの進路を指示してくれたと、讃辞を送っている。当時の佐渡には、佐渡郷土研究会・佐渡民俗研究会などの組織があり、昭和十一年には、民間伝承の会佐渡支部が結成され、教育会では昭和五年以降、郷土教育への実戦が推進されていた。そのような状況のもとで、佐渡の郷土史・民俗の研究家と、佐渡郡教育会が連携し、この年中行事の編集事業が進められた。初版入手はなかなか困難だったこの稀覯本が、平成十一年高志書院から再版され、初版当時の年中行事調査標目が巻末に載っており、その緻密さに驚く。本文には、今は姿を消しつつある行事の数々が収録されており、佐渡の庶民生活を知る貴重な資料である。【執筆者】 浜口一夫
・佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)
農業共同組合の前身は、明治三十三年公布された産業組合法により生まれた産業組合である。相川町内のものを拾ってみると、旧相川町の「自彊購買販売組合」が明治四十二年(一九○九)六月設立され、事業不振のため大正四年三月解散。その後大正八年三月、「相川信用販売購買利用組合」を設立。旧二見村の「西浜信用組合」は、明治四十四年三月設立。事業不振で大正四年一月解散。大正十五年三月、「二見村信用販売購買利用組合」を設立。旧高千村は、大正元年三月「石名信用購買組合」を設立し、大正十三年四月、「下高千信用購買販売組合」に改組。さらに大正十二年十月設立された、「上高千信用購買組合」と合併改組して、大正十四年四月「高千信用購買販売利用組合」となる。旧金泉村の「金泉信用購買販売利用組合」は、大正十四年七月設立。旧二見村の「二見村信用販売購買利用組合」の設立は、大正十五年三月である。旧外海府村の「外海府信用購買販売利用組合」は、昭和十三年二月設立された。さて、大正十五年、佐渡一円を区域とした郡連(畧称佐連)が設立され、さらに昭和十五年には、県の連合会(新連合会)に合併される。そして日華事変・太平洋戦争へと、次第に戦時体制への統制経済は進み、昭和十八年の農業団体法の公布により農業会が発足し、農業団体の統合がなされ、終戦を迎える。戦後は、農地改革と農村の変化の中で、昭和二十二年十一月、農業共同組合法が公布され、各地に農協が乱立し、その後統廃合がなされ、佐渡では昭和四十七年、佐渡農協合併推進協議会が発足(会長本間一雄)し、四十九年(一九七四)三月、現在の佐渡農業協同組合への姿を整えている。【参考文献】 『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡の海岸(さどのかいがん)
佐渡は、その鼓型平面形の凹みの部分を除いては、岩石質海岸が卓越し景勝地がすこぶる多い。上記凹みは、東側両津湾・西側真野湾に相当し、各々礫浜および砂浜の平滑な湾奥をつくる。一般的には隆起海岸線の特徴を示し、段丘崖や山地斜面基部が直接海波に接する粗々しい磯浜を呈する。海岸線の出入りは余り著しくはないが、微視的には岩石の硬軟により、波食の進みに差異を生じて、その結果小岬角や小湾入が交互に現出する。外海府海岸では、二ツ亀島・大野亀島・関岬・入崎・春日岬などの大小の突角の間には、矢柄や高千など各集落の位置する浦々の浅い湾入があり、「佐渡海府海岸」として(昭和九年五月)国の名勝として指定を受けている。尖閣湾の付近や南仙峡の小木海岸等では、鋭い湾入に縁取られて海食崖が囲み、七浦海岸等では小島が沖合近くに点在したりして美景を呈する。又小木半島の沿岸一帯や二見半島長手岬には、幅広い裸岩の隆起波食台が広がり、二見の台ノ鼻や戸中の平根崎には海食甌穴群が見られ、所々に海食洞が穿たれる。小佐渡松ケ崎の載る鴻ノ瀬鼻尖角岬や、小木城山の陸繋島等砂礫州のつくる地形も多種に亘る。真野湾に臨む素浜は、段丘崖下にありながら段丘砂層の再堆積による砂浜や砂丘であり、羽茂平野の臨海部の越ノ高浜にも砂浜が発達する。黒島・赤島・白島・青島等沖合の小島を含め、海岸の露岩の色彩の変化も多様である。【参考文献】 九学会編『人類科学第一四集』(新生社)、同『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、佐渡地理研究会編『佐渡誌』【執筆者】 式正英
・佐渡国寺社境内案内帳(さどのくにじしゃけいだいあんないちょう)
「佐渡国寺社帳」「宝暦寺社帳」などとも呼ばれ、上巻に寺院の開基・由緒・境内面積・除地・除米・所在郷村名・本寺・寺家・末寺等を記す。下巻は神社の由緒、神主から鍵取の名前、境内・除地・除米・所在郷村名などが記されている。本書は編者も不明だが、成立年代も正確には不明である。宝暦頃の成立かという説があるが、宝暦(一七五一)・明和(一七六四)・安永(一七七二)頃の記述が多出することからみて、安永以降に成立したとみる方が正しい。この寺社帳には、「天正十六子年改の寺社帳」「元禄の寺社帳」「寺社帳」などからの引用が多くあり、現在では滅んで存在しないこれらいくつかの寺社帳や、寺の過去帳を資料に編集されたものであろう。いずれにしても『子山佐渡志』に比べて、記述がはるかに詳細刻明でよくまとめられている。【参考文献】 子山『佐渡志』【執筆者】 児玉信雄
・佐渡国略記(さどのくにりゃっき)
三四巻。『佐渡古実略記』七巻と一体をなす。『佐渡古実略記』は、神代から寛永十一年(一六三四)まで、『佐渡国略記』は、寛永十二年から天保七年(一八三六)までを収める佐渡国の編年体記録。著者は相川町年寄伊藤三右衛門。三右衛門は故実に明かるく、自らも『相川町年寄伊藤三右衛門日記』をのこす。一八世紀の半ば宝暦の頃、佐渡奉行の要請を受けて『佐渡国略記』の編纂にとりかかり、天保年間に書きあげる。本書の特徴は、従来の佐渡史書たとえば『佐渡年代記』等が、佐渡奉行所の記録に基いて編纂されているのに比較して、奉行所記録はもとより、市井の情報・記録等を極めて多く採用して編纂している点である。しかも奉行所記録・民間情報記録とも、『佐渡年代記』等にくらべて驚くほど豊富に、しかも濃密に調査採用して記録しているため、当時の佐渡の政治・経済はもとより、社会文化などを知るうえで、きわめて史料的価値が高い。これは、伊藤三右衛門が相川町年寄として町方役所に詰め、佐渡全島の情報や記録を得やすい立場にあったためと考えられる。例えば、人の婚姻・死亡・隠居などをはじめ、盗難事件・心中・殺傷事件・風水害・角力・歌舞伎の来島・米その他の相場・天災など、些細と思われることも落とさずに記録にとどめ、他書の追随を許さない。佐渡奉行がこの書の編纂を求めたのは、享保改革の行き詰まりが寛延一揆で噴出したあと、宝暦での改革が要請された事情があった。享保改革が、時代の情勢の変化に逆行する旧守的な政策を強行したため時勢にあわなくなり、寛延一揆をひきおこした。これによって奉行所は島民の要求を容れて、国産品の他国移出を大幅に緩和し、佐渡を銀山のためのお囲い村から、全国的市場経済の場に解放し、商工業発展策に切り変える政策に転換した。佐渡奉行石谷清昌が、高田備寛に命じて『佐渡四民風俗』を編纂させたのも、まづ佐渡の過去の歴史と現状認識をうる手掛かりを得るためであったが、本書もそれと機を一にするものである。【関連】 佐渡古実略記(さどこじつりゃっき)・伊藤三右衛門(いとうさんうえもん)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡の鉱物(さどのこうぶつ)
島津光夫「佐渡産の鉱物」(一九七七)には、現在まで知られている佐渡産の鉱物が、約八○種報告され、鉱物はつぎの三つの産状に区別されている。1佐渡鉱山などの金銀鉱脈に産するもの、2火山岩中に産するもの、3泥岩・砂岩・石灰岩などの、砕屑岩と火山砕屑岩中に産するもの。ここでは各産状の鉱物のなかで、代表的なものを選んで列挙すると、1自然金・自然銀・輝銀鉱・黄銅鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・黄鉄鋼・蛍石。2かんらん石・透輝石・普通輝石・紫蘇輝石・普通角閃石・黒雲母・斜長石・正長石・石英・玉ずい・オパール・めのう・磁鉄鉱・チタン鉄鉱。3方解石・苦灰石・重晶石・鉄明ばん石、変質鉱物として緑れん石・各種沸石・ 緑泥石・絹雲母・サポーナイト・モンモリロナイト・カオリナイト・アンチゴライト・クリソタイルなどである。【参考文献】 島津光夫「佐渡産の鉱物」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】 神蔵勝明
・佐渡の古民謡(さどのこみんよう)
古民謡の境界の線びきを、どこに置いたらよいのかわからないが、かって盛んにうたわれた盆踊り唄の「甚句」や、「そうめんさん」「やんさ」「投げだし」や、労作唄の「田植唄」「粉すり唄」「麦つき唄」「木挽唄」「漁師節」などを、うたえる古老が少なくなった。『佐渡相川の歴史』(資料集九)に、それら一部の五線符の採録などあるが、それらの歌詞の一部を二、三記してみる。当町でうたわれていた甚句には、「相川甚句」「七浦甚句」「海府甚句」などがあるが素朴なもので、特に別名「ノーヤ節」といわれる「海府甚句」は、素朴でテンポがおそく哀調を秘めており、古風だといわれている。古い形の「秋田甚句」に似ているともいわれている。船乗衆が運んだものかと思われる。このほか「そうめんさん」「やんさ」「投げだし」などの古謡がうたわれた。「そうめんさん出どこ 能登の輪島か蛸島か」「そうめんさんの出どこ 西が曇れば雨となる」(以上そうめんさん)、「やんさの声聞けば 糸も車も手につかん」「やんさにりょうて 皮をむけらげぇた手の皮を」(やんさ)、「投げだし踊り 習うて踊れば面白い」「投げだし踊り ゴカン出ぇても習いたい」。次に、後いざり植えがなされていた頃(明治末期前後)うたわれていた田植唄、「ツボに入っても大だちひくな これも大事なねんごの田だわぇ」「植えためでたい穂に穂が下る 枡でまどろし斗ではかる」。次は「粉すり唄」と「麦つき唄」、「粉すり婆みじょうだ 尻と脛の皮すりむいた」「麦つきでなじんだ なじみたか来い麦つきに」。最後に「木挽唄」と「漁師節」を記す。「番匠番匠といばるな番匠 木挽なければ家ゃ建たぬ」「思うてみさんし案じるまいものか 板子一枚下地獄」。【関連】 佐渡の民謡(さどのみんよう)【参考文献】 『佐渡の民謡』、『高千村史』、『佐渡相川の歴史』(資料集九)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡の三郡(郡衙・郡司を含む)(さどのさんぐん)
大化の制によって行政組織が国郡里制に定められると、佐渡島も一国一郡(佐渡国・雑田郡)として認められたと思われる。そして各国郡には政務担当の地方官僚として国司や郡司が任命されることになるが、律令制初期における佐渡の国司や郡司については不明である。国司は中央から派遣される役人であるが郡司はその地方の有力氏族が当てられることになっていたという。佐渡国では古く成務天皇代(四世紀中ころ)佐渡国造として大荒木直なる者が任命されたという(「先代旧事本紀」)が、この子孫あたりの人が初期雑太郡司に任命されたかもしれない。雑太郡が分割され、羽茂郡・雑太郡・賀茂郡の三郡となるのが養老五年(七二一)のことである(「続日本紀」)。郡司の勢力の増大を除くことと、戸口の増加によって生じる支配のむずかしさによるもので、各地に幾つかこのような郡分割の記録がみられる。この佐渡の三郡制は、例えば天平勝宝四年(七五二)から約一○年間、佐渡が越後国に併合された時期も変わらなかった。そして明治二十九年、三郡を佐渡一郡に統合するまで続く。律令政下の佐渡三郡の郡司の政庁(郡家・郡衙)の所在地はどこか、今は全く不明である。ただ羽茂郡の場合は羽茂須川台地付近、雑太郡の場合は真野吉岡台地、加茂郡の場合は加茂歌代の陣ノ腰台地あたりに比定する説があるが今後の調査にまたねばならない。郡司名の現われる記録は全く少ない。ただ一つ、奈良正倉院に納められている天応元年(七八一)の調布で作った袴に記された佐渡国司・郡司名とみられる墨書の中に、「国司守従六位上□□□□虫養」「郡司擬大領外従八位下□□□□舎人」の文字があるのは貴重な史料である。また承和元年(八三四)に佐渡国が郡ごとに権任員(補助員)を一人ずつ増してほしいと申し出、許可されている。郡司一人では事務がさばききれないという理由である。しかし郡司や権任員の名はわからない(「続日本後紀」)。【執筆者】 山本仁
・佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)
明治の初め、藩閥政治に反対して民主政治を確立しようとした政治運動。明治七年(一八七四)、板垣退助らが民撰議院設立建白書を政府へ提出したのを契機に、国会開設運動が全国に広がり、明治十三年十一月、東京で国会期成同盟第二回大会を開催する計画を進めていた。佐渡でもこの動きに呼応して、明治十三年四月五日新潟で開かれた「第一回国会開設懇望協議会」に、夷町の若林玄益と湊町の神原清典が出席し、加茂郡を中心に運動を進めて四七名の署名を集め、懇望協議会の代表山際七司にこれを託した。同年六月頃になると、竹田村(現真野町竹田)の羽生郁次郎や相川町の丸岡重五郎らを中心に雑太郡でも運動が起こり、十月二十八・二十九の両日、河原田で三郡大親睦会を開き、会長に丸岡重五郎を選出した。この時出京委員に選ばれた羽生郁次郎は、翌十一月二日、二九○名が署名した「国会開設哀願書」を携えて上京した。これに対して、政府は弾圧を強めるいっぽう、十年後に国会を開く約束をした。そこで佐渡の民権家たちは、政談演説会などを中心に運動を行なっていたが、明治二十年頃から自由党系・改進党系の政党を組織し、再び活発な運動を展開した。【関連】 佐渡自由党(さどじゅうとう)・佐渡同好会(さどどうこうかい)・丸岡重五郎(まるおかじゅうごろう)・若林玄益(わかばやしげんえき)【参考文献】 石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡の能舞台(さどののうぶたい)
佐渡には昭和初期まで、五○か所以上にもおよぶ能舞台があった。また、能が演じられた場所は学校の体育館など、臨時に用いられた場所も含めると、二○○か所以上を数えるといわれる。そうした能の盛んな土地柄を反映してか、現在でも三三棟の能舞台が、佐渡島内に現存している。現存する能舞台は、本間家の所有する能舞台をのぞき、すべてが神社に存在している。村々の神社では、能は神事能として神に奉納されてきた。ここに佐渡における能の奉納能としての伝承形態と、能舞台の存在する特徴が見られる。佐渡の能舞台は、江戸末期から明治期にかけて建てられたものである。これらの能舞台は、標準とされる江戸城内本丸表の能舞台と比べると、本舞台や地謡座・後座なども狭かったり、床面から天井までの高さが低かったりするものが多い。しかし、裏通路を設けた橋掛りなどに見られるように、標準の舞台より狭くても、それなりに機能的に使用できる工夫が見られることも特徴である。また屋根にも萱葺のものがみられる。能舞台の存在する神社は、拝殿と能舞台の配置関係が、絶妙によいバランスを伴っているし、萱葺の屋根がまた佐渡らしい景観と雰囲気を醸し出している。独立した能舞台ではないが、能舞台と拝殿とが兼用になった、能舞台としても使用できる機能を備えたものも建てられ現存している。【関連】 佐渡と能謡(さどとのうよう)【執筆者】 池田哲夫
・佐渡の日次(さどのひなみ)
天保十二年(一八四一)に相川に在住した佐渡奉行・久須美六郎左衛門の日記である。江戸の子息に送ったもので、赴任から帰府までを綴っており、当時の佐渡を知る貴重な資料と云える。天保十二年四月十九日から翌年五月二十七日まで、いわゆる赴任から帰府までの一年間のできごとを綴っている。まず赴任の道中記に始まり、佐渡の陣屋についての感想、魚の味と食事の様子、年中行事・鉱山・刑罰・巡村記・異国船動向・奉行所内のできごと、相川の様子など、どれをとっても参考になり、とくに日常の気温の記述については、類例に乏しく珍しい。相川に着いて眼の悪い者が多いのは、鉱山の公害と憤慨し、犬や馬の小さいのは島国の性と憐れみ、タラの刺身を食べて品川の漁師を思い出し、北海の幸を賞でる。なお、スケトやイカの豊漁で、自然の恵みによる増税に感激し、巡村中の老人に対する思いやりの措置など、子息に対しての述懐は、性格や思想を知る上で貴重である。このほか、公文書を綴った「佐渡日記」などがある。几帳面と筆まめさは、読む人の心を洗って止まない。【関連】 久須美祐明(くすみすけあき)【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡の民謡(さどのみんよう)
山本修之助の編著で、昭和五年(一九三○)八月の発行(東京・地平社書房)。本書は、編者山本修之助が父君山本静古の志を継ぎ、静古が多年収集した佐渡古民謡の歌詞を土台に、佐渡の古歌謡二○○○首を、集大成した名著である。出版当時、中央にても好評さくさく、大新聞でもこれを取りあげ、たとえば読売新聞(昭和5・8・16)では、「佐渡の山本家は、土地随一の旧家であり、素封家である。その一家に人となった著者修之助氏は、佐渡の古い歌謡を集めるのに、特別の便宜があったのであろう。昔こがね花咲くと歌われた此島には、民謡の発達もすばらしいものがあった。その幾千首が校訂されて、此一冊にまとまっている。然も“その多い方言や口碑に、一々細註を施しているのはうれしい”とは、高野辰之博士の心からの賛辞である」と述べている。なお、山本修之助の『佐渡の民謡』の別冊として、『相川音頭集成』(昭和三十年刊)、その改訂本の『相川音頭全集』(昭和五十年刊)、それに創作民謡『波も唄うよ』(昭和五十八年刊)、童謡の追加『佐渡のわらべ唄』(昭和六十年刊)、旧版『佐渡の民謡』から選抜し、鑑賞文を添えた『野のうた 恋のうた』(平成元年刊)などがある。【関連】 佐渡の古民謡(さどのこみんよう)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡の昔のはなし(さどのむかしのはなし)
編著者の松田与吉は、文久三年(一八六三)生れの、西三川の人である。明治十五年以来、小学校の教職にあり、主として僻地校の北片辺小学校・北小学校・大小小学校・小村小学校などを歴任。ちょうどその頃、島内でも郷土研究熱が高まった時代で、与吉もその影響をうけ、まず鉱石採集から考古学に興味を持ち、その後、直行の名で短歌に関心を寄せ、羽茂の一の宮宮司、美濃部 の教えを受けたりした。与吉の戒名は翠煙直行居士、位牌の裏に「国文学・和歌を能くし、直行と号す云々」とあるという。村びとの習俗や、民間伝承に興味を持つのは、かなり後のことで、晩年になり不苦楽庵などの筆名で、佐渡の新聞や研究誌に稿を寄せた。この『佐渡の昔のはなし』も、佐渡日報紙(大正十四年ー昭和六年)に「古手帳」と題して書き続けたものをまとめ、最初『佐渡の昔ばなし』と題したが、いわゆる、とんと昔の一定の型をもつ昔話との混同をさけ、再版に際して改題したものだという。つまり、この『佐渡の昔のはなし』は、しいて云えば、口承文芸・民話の中の世間話に位置づけられるものではないかと思う。とにかく、与吉翁が筆まめにまとめた実話ふうの多くの古譚は、一読興の盡きないものがある。初版は昭和十二年、真野・新町の池田商店出版部より出版され、さらに昭和五十八年、本間雅彦・池田哲夫の両氏により、復刻版(三刷)が刊行された。【関連】 松田与吉(まつだよきち)【参考文献】 『佐渡郷土文化』(八九号)【執筆者】 浜口一夫
・佐渡の貉神(さどのむじながみ)
佐渡には名前のついた貉が、全島にひろく分布する。昭和初年ころ山本修之助の採集した「佐渡名貉録」によると、百ほど数えることができる。また「十二権現」「十二さん」と言われ、集落の氏神にもなって、それぞれ伝承を残している。相川の二つ岩団三郎は、江戸時代に窪田松慶という医師が、貉の刀疵を治療した話や金を貸した話。真野町新町のおもやという屋敷貉が、盗賊から家を守った話。相川町関の寒戸という貉は、相川の団三郎との縁があって、船荷にして物を運んだという話。赤泊村徳和東光寺の禅達という貉は、和尚と禅問答したという話。新穂村潟上の湖鏡庵の財喜坊という貉は、田地の水の番や盗人から庵を守ったという話。こうした話は百の貉にある。相川の団三郎が貉神の親分で、おもやの源助・関の寒戸・東光寺の禅達・湖鏡庵の財喜坊を、四天王と言っている。団三郎が親分になったのは、団三郎のいる相川が、佐渡奉行が交代で江戸から派遣され、相川在住の役人が採掘された金銀を、江戸に送るという交流の深さのために、相川の文人石井夏海等によって、団三郎の情報は江戸にもたらされ、滝沢馬琴の「烹雑の記」や、「燕石雑誌」に記載されているからである。むじな神の名前のつけられ方や分布の傾向を見ると、むじなの名前は地名や場所をつけてよばれ、岩・滝・橋・川・木・穴などが多いのは、むじなの出やすいところ、そして岩や滝は、岩を信仰し滝を行場とする修験との関係が考えられている。また、むじなのことを佐渡全島で「トンチボ」と言う。「頓智坊」であり、財喜坊・不動坊などの名前や、神社や寺とのつながりを持つむじなも多い。佐渡が稲荷信仰でなく、むじな信仰の地域になったのは、鉱山のフイゴ用にむじなを使ったことが、身近に多くいるむじなを、修験が霊力の媒介としやすかったのではないかと考えられている。【関連】 二ツ岩団三郎(ふたついわだんさぶろう)・おもやの源助(おもやのげんすけ)・関の寒戸(せきのさぶと)【参考文献】 山本修之助編『佐渡の貉の話』【執筆者】 山本修巳
・佐渡廃寺始末(さどはいじしまつ)
佐和田町沢根五十里の満行寺住職・根木教轍が著した、明治初年の寺院廃合に関する書物で、明治二十五年(一八九二)十月に出版されている。原本の題名は「すみれ草」で、副題が「佐渡廃寺始末」、半紙判よりやや小さく、二五字詰・一六行・二段組・九六頁からなっている。明治元年十一月に参謀兼民政方として来島した奥平謙輔は、同月二十一日に寺院の廃合令を発して、五三八か寺の寺院を八○か寺に整理統合したが、各宗寺院の再興運動によって、明治三年新貞老権知事の時に五五か寺が再興され、その後も徐々に再興されて行った。本書には、奥平謙輔の寺院の整理統合政策と寺院側の対応、明治十五年までの各宗派の再興運動と再興寺院の実態等がくわしく記述されている。著者の根木教轍は、文久元年(一八六一)佐和田町石田の名畑喜左衛門の三男に生まれ、真宗大谷派満行寺に養われた。圓山溟北に就いて漢学を学び、のち京都の高倉学寮で修業、満行寺住職となった。本書は彼が三二歳の時の著作である。その後北海道に渡り、東本願寺函館別院・旭川別院などをまわって、大正四年(一九一五)に再び満行寺の住職となり、昭和五年(一九三○)三月二十四日、七○歳で没している。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・新貞老(あたらしさだおい)【参考文献】 山本修之助編『佐渡叢書』(一巻)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、石瀬佳弘「佐渡における寺院の廃合過程」(『越後佐渡の史的構造』)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡博物館(さどはくぶつかん)→財団法人佐渡博物館(ざいだんほうじんさどはくぶつかん)
・佐渡幕末奇事(さどばくまつきじ)
相川の地役人、漁村こと渡邊 (しゅう)があらわした著書。明治十八年に完結したことが「自序」からうかがえる。明治元年(一八六八)十一月に、参謀民政方として佐渡受領に来島した奥平謙輔が、翌明治二年九月に離島するまでの、施政および個人的な性格、行状の一部始終をつぶさに記述していて、昭和十八年一月発行の『佐嶋遺事』にも収録されている。一五歳で維新に遭遇した漁村は、治府が河原田に移ったため、そこの屯所(現在の県立佐渡高校のある高台)で謙輔のそば近くに仕え、相川から移った旧修教館生一○人の一人に加わって勉学に励んでいた。この書で謙輔という人の表情を「面色銅の如く」と記し、髪には梳(くし)を入れず、常に一衣一袴あるのみと書いていて、ときおり近郊を馬で馳せまわり、民情を視察する、その姿は「一見一兵士の如し」とも述べている。謙輔二八歳のときである。謙輔はある夜、局長井上某の邸宅に大刀を持って突然侵入し、家人を驚かせる。目をさました井上の枕元に、菊の紋章の提灯を持った謙輔が立っている。官吏は清廉でなければならず、賄賂をむさぼる者あらば三尺の剣あるのみ、と言ったとあるから、高級役人の私生活や挙動の偵察だったらしい。謙輔は意をよく民事に用い、政務は簡潔にして一切の訴願は文書によらず、自ら出廷して面告で済ませたから「民大いにこれを便とす」と、漁村は回想している。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・渡辺漁村(わたなべぎょそん)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡版画村美術館(さどはんがむらびじゅつかん)
昭和五十九年(一九八四)七月十五日開館。両津高校教諭であった画家高橋信一を講師にした、真野町公民館での年賀状版画講習会(昭和四十七年)に参加した人達が、公民館講座だけではもの足りなくなり、その後も教えを乞い、これらの作品が新潟県展への出品で、県展賞・奨励賞の受賞となり、これが佐渡版画村のスタートとなった。高橋信一は、大正十一年(一九一七)両津市に生まれ、昭和十一年(一九三六)に佐渡農学校を卒業すると、県立青年学校教員養成所へ進み、同十三年から佐渡郡沢根町立沢根青年学校を振り出しに教職に就いた。戦後、学制改革により両津高等学校に勤務し、昭和五十一年両津高校を定年退職後、同時に真野町静山「山の版画村」に続いて、羽茂・両津大川・小倉の「版画クラブ」・「相川海の版画村」など、一三の版画グループを誕生させた。昭和五十七年、この地域活動がサントリー地域文化賞の受賞となり、これがキッカケで自分達の作品を、常設展示する美術館を創る運動となって、旧相川裁判所跡に、佐渡版画村美術館を設立し、社団法人佐渡版画村の発足となった。全国で唯一の版画専門の美術館は、会員の活動拠点であり、また、観光道路に面すという立地条件にも恵まれ、訪れる学生たちや観光客の、体験学習の場ともなっている。高橋信一は、これらの素晴らしい業蹟を残し、昭和六十一年(一九八六)十二月十六日、六九歳で亡くなった。【執筆者】 三國隆敏
・佐渡奉行(さどぶぎょう)
江戸幕府の遠国奉行の職名の一つ。慶長六年(一六○一)佐渡の徳川氏直轄化と共に、沢根の鶴子(佐和田町)に陣屋を設け、田中清六・河村彦左衛門らの四人制の代官支配が行れたのが濫觴、しかし四人が年貢増徴で農民の愁訴により失脚した後、同八年(一六○三)から相川(相川町)に陣屋を移し、同十八年まで大久保長安の時代となる。当初から幕末まで一○二名が任命されたが、佐渡奉行と称したのは元和四年(一六一八)以降の鎮目惟明・竹村嘉理の時代からである。奉行は一人制と二人制(在府・在島の隔年交代)がとられた。大久保・鎮目と伊丹康勝・曽根吉正・鈴木重祐・荻原重秀・河野通重・泉本正助らは長期在任であり、特に伊丹と荻原は勘定頭(勘定奉行)としての兼任であったが、他は平均二年半位の在任が多かった。また、竹村・伊丹・荻原・飯塚・篠山は父子で、各家二代が佐渡奉行に就任している。奉行所の機構は、鎮目の時代に整備された。奉行は老中支配に属し、勘定奉行の指導をうけ、金銀山の管理と島内一三万石の民政を主な職掌としたが、江戸後期は外国船の監視など、海防も重要任務となった。一時期は、陸奥半田銀山(福島県桑折町)支配も兼任した。奉行は役高千石、役料千五百俵、百人扶持が給され、江戸城芙蓉間詰である。奉行所の機構は、正徳三年(一七一三)の改革以降は役人の数も減少化したが、与力三○騎・同心七○人・地役人は留守居(月番役・広間役)を筆頭に、山方役・町方役・在方役・吟味方役さらに定役・並役(平役)・使役など二百数十人が付属し、独自の支配体制によって島内を管轄した。なお、宝暦三年(一七五三)から明和五年(一七六八)までの間、代官制をしき、地方・金銀山支配を担当させたこともあった。【関連】 代官(だいかん)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、西川明雅他『佐渡年代記』、『佐渡相川の歴史』(資料集七)、『新潟県史』(通史編三)【執筆者】 村上直
・サドヒナゲンゲ(さどひなげんげ)
魚類で、佐渡という接頭語をもった和名の魚類は、本種一種だけである。ヒナ(雛)すなわち小さい愛らしいゲンゲ(玄華)の意をもつ。ゲンゲは、新潟県西部(能生町など)でゲンギョ(玄魚または幻魚)と呼ばれている魚で、深海にすむ底魚である。サドヒナゲンゲは、昭和二十九年(一九五四)に本間義治が発見し、京都大学の松原喜代松教授と共著で発表する予定であった。しかし、同教授が歿せられたのが原因で、発表が延び延びになってしまった。当初は水津沖をはじめとする佐渡沖から取れていたが、その後石川県沖からも取れた。そこで、昭和五十五年(一九八○)になって、豊島貢博士と完・副模式標本ともに石川県沖のものを当て、種小名に佐渡にあやかりサドエンシス、和名にも佐渡を用い、念願を果して発表した。全長は一五㌢で、生態は不明のままである。めったに取れないことと、食品価値が低いので、佐渡の人にもなじみがうすい魚である。この仲間のノロゲンゲは、ぶつ切りにして汁種にしたり、干物にして利用される。タナカゲンゲ(魚学の泰斗田中茂穂博士に因む)は九○㌢に成長するので、汁種のほか刺身にして食べられ、底引網にまとまって入ることがある。【参考文献】 『図説 佐渡島』(佐渡博物館)【執筆者】 本間義治
・佐渡奉行所跡(さどぶぎょうしょあと)
相川町広間町に所在する。慶長八年(一六○三)に大久保長安が佐渡奉行に任命されると、鶴子銀山にあった陣屋を相川へ移転することを決めた。相川の鉱脈が優秀なことと、物資の輸送や町づくりに地の利を得ていると考えたからであろう。以来、相川は島の府中として奉行所は幕末まで続いた。当初の陣屋敷地は文書によると広いと思われるものの、具体的面積は不明。宝暦初年には惣囲地三三一三坪とある。宝暦九年(一七五九)に、地役人の拝領地を没収して面積を広げ、金銀の精錬工場を集め、作業の効率化と密売防止をはかった。これを「寄勝場」と称する。寄勝場敷地は三二六六坪余とあり、以前の囲地に没収地を加えた面積である。寛政七年(一七九五)に揚柄山勝場を廃し、文政十二年(一八二九)に跡地は同心町になり、町同心が居住した。明治維新で新政府になって相川県が置かれると、陣屋は大改修して相川県庁舎に利用され、江戸から派遣の広間役宅は湘北小学校となり、御金蔵跡には相川警察署が置かれ、寄勝場跡には相川中学校が新築され、奉行所跡は文教地区として利用が続いた。【関連】 寄勝場(よせせりば)【参考文献】 岩木拡『佐渡国誌』、西川明雅他『佐渡年代記』、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡奉行所跡の発掘(さどぶぎょうしょあとのはっくつ)
相川町広間町にあり、平成六年から発掘調査が行なわれ、満五年間で終った。発掘は役所跡・御金蔵跡・陣屋跡、宝暦九年の勝場跡は粉成場ばかりで、金銀練所跡・小判所跡は、明治に入り道路を造ったため民有地となり除外された。御金蔵跡からは、享保三年(一七一八)に掘った鉛の土坑にぶつかり、一七二枚とそれに縛ってあった木管が出土した。鉛は寛永年間に埋めたもので、寛文に若林奉行が掘り出し、曾根奉行が延宝三年に、同じ品を買い埋め直した。これを享保三年に北条奉行が、金山の零落に伴い掘り出したが、古来の鉛の行方が分からぬままに放置した。今回発掘した鉛は一八七四貫余であり、古来より埋めた鉛は一八七六貫余である。貫目もわずかしか違はず、寛永に埋めた鉛の公算が大きい。奉行の陣屋前の使者の間に大きな池があるが、その下に赤く焼けた炉跡が出てきた。当初は舌状台地に別れていたようで、灰原は土手に流れる。奉行所で山師から買った段階に埋立たもので、池の底は埋めた上になる。土手からは唐津Ⅰ期の小皿と、志野・美濃の小碗や皿が出る。どうも奉行が購入する前の遺物のような気がしてならない。そのほか、炉の形態や遺物など分からぬものが多い。池の底からは、焼塩壷や唐津Ⅱ期の碗・皿と、瀬戸・美濃の登窯製品等が出土する。奉行所で座敷の前に炉跡をつくることは考えられず、奉行所前の工作物と考えたい。役所の白洲の隅に穴蔵があるが、これは寛延の文献に出てくるが、建築年代は不明。また棚跡が一直線に出たり、門柱の根があったり、陶磁器は中国や唐津、伊万里や備前の摺鉢等があったりで、様式も江戸期を通じる。勝場は、明治に入り洋式化をすすめたが失敗する。洋式化はそのまま進められ、明治半ばに成功する。それまでの間は旧法に復したが、舟や笊・羽口・井戸・水路は、出土するものの年代は不明である。大正年間の女学校建設で、基礎は深く一部は壊れてしまったが、上にある舟は明治のものと思われる。入口を深く掘ったが、これも自然に周囲を埋め立て平らにしているようで、根元に雑草の一群が見える。山の続きか水の流れが激しい。石磨の物配りは大きく変り、上磨から下磨へ移行する。今まで数本あったのが一本にまとまる。扣石も眼鏡石と呼ばれ、丸い穴が一面に二つ宛あったのが、四角い穴に変る。これは丸い穴底が見えるので、四角の穴底が新しいと分かるが、いつの時点か、理由も分からぬままに変っている。【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡奉行所の沿革(さどぶぎょうしょのえんかく)
家康が江戸幕府を開いた慶長八年(一六○三)から九年にかけて、大久保長安が築いた。旧相川のほぼ中央台地の先端で海抜約四五・五㍍。南沢と北沢の谷を天然の要害とし、相川湾が一望にできるよい地形が選ばれている。開町以前は「半田」「清水ケ窪」と称し、水田と原野だった。建築は播州明石の大工水田政次(與左衛門)が、まわりの石垣は越中からきた播磨五郎兵衛、もろもろの石細工は小泊の石工惣左衛門が請負って完成した(「御作事方入用日記」)。長安の失脚後鎮目惟明(市左衛門)が、元和四年(一六一八)に贅沢な造りを改め、書院・茶屋・花畠などを取り払った。江戸から後藤庄三郎の手代が来島し、小判を鋳造する後藤役所がこの跡地に造られる。正保四年(一六四七)六月、新五郎町から出た火災で、諸役所・後藤役所ともに焼失した。当時の建坪は「七百二十五坪」とあり、「石見陣屋」ともいわれた最初の奉行所は姿を消した。寛延元年(一七四八)七月にも、四十物町から出た火災で全焼し、再建された建坪は「五百坪余」で、往時より縮少されている。奉行の二人制によって、正徳三年(一七一三)に増築された最初の「向陣屋」もこのとき焼失した。宝暦九年(一七五九)には、北側に隣接して「寄勝場」が設けられ、町内に散在していた選鉱・製錬工程を構内に取りこんでいる。このとき寄勝場への出入口に、「辰巳口御番所」が新設された。奉行所の役宅の西側にあった板塀を取り払い、石垣と土塀でかためたのは文政十二年(一八二九)で、沖合を通る異国船に備えた海防上の理由からだった。天保五年(一八三四)九月にも一部類焼し、翌年の再建では役所の建坪はかなり広げられている。安政五年(一八五八)七月には、南沢町から出火して奉行所をはじめほぼ全町に飛火し、町家など千二百戸余を焼く空前の大火があった。合わせて五度奉行所は焼失していて、翌六年に再建した諸御役屋・大御門・裏御門・御金蔵などの建物は、しだいに姿を消したものの、慨格は昭和十七年までは残っていた。【関連】 佐渡奉行所跡(さどぶぎょうしょあと)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、西川明雅他『佐渡年代記』、『佐渡相川の歴史』(資料集三)【執筆者】 三浦啓作
・佐渡風土記(さどふどき)
上中下三巻。相川の地役人永井次芳(歌古園・鳳波と号す)が、延享三年(一七四六)に完成した。明治三十二年まで作者がわからなかったが、子孫の永井晋によって次芳であることが立証された。上巻は上杉景勝の領国となる天正十七年(一五八九)以前、中巻は同年より慶安五年(一六五二)小比叡騒動の終結まで、下巻は承応二年(一六五三)より寛延三年(一七五○)までを収めている。内容は書名と異り、郡村・山川・寺社・物産などの記述はいちじるしく少く、すべて歴史的記述で構成される。ただ、上巻は史料が乏しいため、おおよその時代をおって配列しており、中・下巻は毎年の記事をおって編年体で記述され、時代が下るにつれ詳細である。次芳は、高野信治の子ではじめ半十郎といい、のち永井四郎兵衛仲雄の養子となり、手形改役・目付・山方役を歴任し、宝暦十四年(一七六四)四三歳で死去した。父仲雄は月番役で、父子ともに奉行所の記録閲覧の便があったと思われ、著者はそれによって佐渡の年代記を編纂しようとしたらしく、中・下巻を「佐渡国年代略記」と名づけた写本があることによっても、このことが裏づけられる。『佐渡地志』についで、早く成立した佐渡史書として貴重である。【関連】 永井次芳(ながいつぐよし)【執筆者】 児玉信雄
・佐渡藤塚貝塚(さどふじつかかいづか)
国中平野を望む小佐渡山地の段丘縁には、多数の縄文遺跡が存在する。その中で、貝塚を伴うものはいくつかあり、藤塚貝塚もその一つで、真野町大字新町、俗称藤塚に位置する。新町は真野湾に沿って町並がならぶが、背後は水田となって段丘がいく段か続き、徐々に高さを増しながら、小佐渡山塊につらなる。貝塚は礫層で、形成された低い段丘上(標高約二○㍍)にあり、上部はローム質の粘土が堆積し、さらに上は砂層で被覆されている。貝層は佐渡シジミが主体で、ハマグリ・サルボウ・レイシが混じる。純貝層から、混土貝層・純貝層と三層が見られる。土器は、口辺に平行線をめぐらすのを基本に、連続懸垂文や隆帯文を施す。また、縄文・撚糸文・条痕文のみのものや、無文の存在も大きい。器形は深鉢形が殆どであり、口辺部がキャリパー状を呈す。中期末が主体で、これを藤塚式と名ずけたが、小木町長者ケ平に類例が見られる。二二ケの人骨群の中では、胎児期一・発育期一・成人期二○で、男子と推定七、女子と推定四・不明一一ケである。藤塚人は短頭で、横に広い顔で、身長は小さかったと出土人骨は教える。【参考文献】 「佐渡藤塚貝塚」(真野町教育委員会)【執筆者】 佐藤俊策
・佐渡牧畜会社(さどぼくちくかいしゃ)
明治十七年(一八八四)十一月に設立された酪農事業を目的とした株式会社。当時、畜産の振興を図ろうと考えていた金井町の植田五之八・石塚秀策・橘善吉・児玉長内らは、乳牛の飼育と乳製品の販売を企業化する計画を立て、新保(現金井町新保宮畑)に佐渡牧畜株式会社を設立した。設立当時の資本金が一万三四四○円(一株二○円)で、外に佐渡興産共有金より三○○○円を拝借した。施設は社屋・事務所・牛舎・牧場などからなり、牛の数は明治二十四年一月現在で一四七頭、相川に出張所を置いたとある。事業内容は、繁殖・搾乳(製乳・コンデンスミルク・バター)・屠殺(製肉・佃煮・甘露煮)となっている。初代社長には児玉長内が就任して支配人が橘善吉、明治二十年から同二十四年までは橘善吉が社長をつとめている。明治二十二年七月には、御料局長品川弥次郎が視察している。しかし、当時の人々は牛乳の栄養価についての認識が十分でなく、経営が行き詰って明治三十三年に解散した。この後、金井町の茅原丈吉・中川与右衛門らが施設等を買収して、佐渡牧畜合資会社を設立したが、これも経営に失敗して、明治四十年七月に解散した。【関連】 植田五之八(うえだごのはち)【参考文献】 『金井町史』(近代篇)【執筆者】 石瀬佳弘
・佐渡方向(さどほうこう)
佐渡島の大地形を支配している主要な方向は、北東から南西を結ぶ直線である。大佐渡・小佐渡の海岸線も、大佐渡山地の主稜線の方向も、小佐渡山地の主稜線の方向も、また国中平野の長軸線も概してこの方向をとっている。大佐渡山地の新第三紀層を切る断層線の主方向も、小佐渡山地羽茂川流域に見られる褶曲軸の方向も、北東ー南西方向を示す。佐渡島を取り巻く海底の水深二○○㍍以浅の部分の概形も、この方向に伸びた形である。佐渡島の地形・地質構造の支配的な方向である北東ー南西方向を、「佐渡方向」と言い換えて表現する場合がしばしばある。【参考文献】 佐渡地理研究会編『佐渡誌』、新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)【執筆者】 式正英
・佐渡毎日新聞(さどまいにちしんぶん)
明治三十五年(一九○二)六月三十日、幅野長蔵によって創刊された新聞。当時の「佐渡新聞」が官吏侮辱罪で告発されたり、進歩党やそれと結びつく資産家を激しく攻撃して、論調が過激であったためこれに対抗して当時佐渡随一の資産家であった幅野長蔵が、浅香周次郎や畑野町小倉の青木永太郎らと相談して発刊した。社主が幅野長蔵で主幹には浅香周次郎が当たり、進歩党系で穏健な論調の新聞を目指した。当初は「佐渡新聞」への対抗意識が強く、明治三十六年に北一輝が「国民対皇室の歴史的観察」という論文を「佐渡新聞」に連載すると、直ちに不敬との批判記事を掲載し、その論争は一か月におよんだ。しかし発行部数は四、五○○部程度から伸びず経営が苦しくなったため、幅野長蔵は新聞社を買取り、自ら経営に乗り出した。大正三年(一九一四)には幅野色や進歩党色を一掃し、それまでの菊八倍の小新聞型を普通型に拡張して、活字を明調に入れ替え紙面を一変させた。これによって発行部数も大幅に増加し、一時は一○○○部にも達した。しかし、「佐渡日報」の発行もあって、大正八年には佐渡新聞社に買収合併された。【関連】 幅野長蔵(はばのちょうぞう)・佐渡新聞(さどしんぶん)・佐渡日報(さどにっぽう)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・サドマイマイ(さどまいまい)
サドマイマイ(佐渡舞舞螺)は、大佐渡の外海府海岸の相川町と、両津市の境界付近から、少し両津市寄りのところに限局分布する、割と小型のカタツムリで、生息場所は世界中で、ここだけである。貝類研究家の平瀬与一郎が、明治三十五年(一九○二)十~十一月に、中田次平らに佐渡島全体の陸貝採集を依頼した。その際の採集品を、アメリカ国立自然史博物館のピルスブリー博士に送り、同博士と平瀬との共著として、七種を新種として命名記載したが(一九○三)、サドマイマイはその中の一種である。昭和八年(一九三三)に、昆虫研究家の馬場金太郎博士が採集した、一個の標本を内部解剖を加え、江村重雄が再発見として報告し、注目を浴びるようになった右巻きの貝で、佐渡特産種である。系統類縁は、ツシママイマイに近いものといわれている。木に上ったり、地上を這い廻ったりしているが、外海府地区の開発と、採集者による乱獲のため、個体数は減り、生息地は狭まってきている。早急な保護策と、より詳細な遺伝質等の研究が必要である。【参考文献】 『新潟県陸水動物図鑑』、『図説 佐渡島』(佐渡博物館)【執筆者】 本間義治
・佐渡昔話集(さどむかしばなししゅう)
編著者は鈴木棠三である。鈴木は、昭和十一年(一九三六)四月十八日佐渡に渡り、昔話採集の旅がはじまる。まずその日は、河原田の中山徳太郎翁の客となり、次の日から佐渡の民俗研究者などと、真野・西三川・相川などを歩き、二十一日高千村北片辺にいたり、二十五日まで六日間も滞在(松屋旅館)。同地の老女たちから毎夜約一○話を聞き、その収かくを喜ぶ。その後再び国仲に出て、小木の小比叡、前浜の多田・岩首さらに両津町・鷲崎をまわり、外海府の矢柄を経て再び五月の六日、馴染の北片辺に二泊し、残りの昔話を聞く。鈴木は巻末の「佐渡採訪記」のなかで、「最後の夜の如きは(中畧)送別のノヤ節の哀調に眼底あつく、忘れ得ぬ印象を得たり」と記し、栄治リツ女の心づくし、サッコリ(裂織の山着)をみやげにいただき、八日佐和田に向かい、その晩また中山翁の宅にお世話になり、翌日佐渡を去った。この『佐渡昔話集』は、昭和十四年六月「佐渡民間伝承叢書」第二輯として出版されたが、中山徳太郎翁の大きな私費の援助があったという。その後、三省堂から日本昔話記録5として、昭和四十八年十月再版が出され、巻末に山本修之助「“夕鶴”のふるさと」が載せられている。なお、この『佐渡昔話集』のほかに、昭和十七年、三省堂から同じ鈴木棠三の全国昔話記録『佐渡島昔話集』が出版されているが、内容はほぼ同じで、前者は一二九話を収め、後者は八五話にしぼっている。排列の順序に工夫のあとが見られる。これらの昔話集には、道下ヒメの語る有名な「夕鶴」の原話「鶴女房」が載っており、これに似た両津の山本秋葉の「雉女房」も載っている。この「夕鶴」の原話に魅せられて、多くの民話研究者や愛好家たちが、このひなびた里(北片辺)を訪れている。【関連】鈴木棠三(すずきとうぞう)・道下ヒメ(みちしたひめ)・夕鶴の碑(ゆうづるのひ)【参考文献】 記念誌『夕鶴の碑』【執筆者】 浜口一夫
・佐渡貉(さどむじな)→二ツ岩団三郎(ふたついわだんざぶろう)
・佐渡名勝(さどめいしょう)
明治三十四年(一九○一)九月に発行された、佐渡案内のガイドブック。佐渡新聞社の発行で、相川出身の萩野由之と、柏倉一徳の両氏が序文を寄せている。著者は『佐渡国誌』『相川町誌』など編さんした岩木拡。硬派の歴史学者の執筆で、柏倉一徳は「郷土の名勝旧跡を叙して細大遣す所なし」(序文)と書き、萩野由之は「佐渡山水記」「佐渡古跡考」「佐渡名所集」「佐渡名勝志」「佐渡名所歌集」など、それまでの発行本を例にあげるが、「かく数種あれども、博約にして要を得たるは、この書に若(し)くはなし」(同)と書いていて、地志としても特徴があるとした。全体として、「古跡」と「名勝」の紹介を中心に、ほぼ全島におよぶ。人物も多く出ている。相川では圓山溟北・丸岡南陔・幅野長蔵・田中弘道(葵園)など近代の人たちから、大久保長安や鎮目市左衛門・大岡源三郎(流人)のような人にもおよぶ。そうした人物・古跡・名勝を、古今の著名人の詩歌を添えて紹介する手法で、岩木の文学的素養の深さがうかがえる。伊藤博文が辞職し、桂内閣が成立した年で、商業活動もようやく盛んになり、広告にもそれが反映している。琢斎・藍堂・常山・赤水などの工芸作家はむろんだが、「旅人宿」と「旅館」が混在し、葡萄酒・ビール、すし屋の開店や「和洋料理」の広告も多い。本荘了寛著とした「新訂佐渡地図」も売れゆきが好調らしく、夷と河原田・相川に、計四軒の売捌所が出ている。佐渡案内書のはしりであろう。【関連】 岩木 拡(いわきひろむ)【執筆者】 本間寅雄
・佐渡名勝志(さどめいしょうし)
佐渡の代表的歴史書。本書は、佐渡奉行所地役人須田富守が、三○年にわたり収集・整理した史料の一切を、上総国土気庄大木戸村(現千葉市)出身の浪人伊玄基隆敬に託し、隆敬はこれを基に、奉行所の文書・記録等を加えて全八巻に編述して、延享元年(一七四四)に完成されたものである。内容は、地誌・沿革・支配・系譜・寺社・合戦・流人・名所旧跡・産物など多岐に及び、奉行所所在地の相川町に関しては、特に一巻を充てて詳述している。史書として「史論が豊富・斬新なこと、出典が明示されていること、日蓮旧跡への優れた記述等を持つ、古今唯一の存在」(橘法老)との評価を得ている。長年の間、写本しか存在しないものとされていたが、平成八年七月に原本が発見され、現在は新潟県立佐渡高等学校同窓会の所蔵となっている。写本は、山本本(山本修巳所蔵)・舟崎本(佐渡高等学校所蔵「舟崎文庫」)・教育財団本(相川町所蔵)の三本があり、教育財団本を底本に『附註佐渡名勝志』(橘法老編・昭和十四年刊行)が印行されている。平成九年七月佐渡高等学校同窓会は、新たに発見された原本を底本に、橘法老の注を適宜再録して『佐渡名勝志』を発刊した。【関連】 須田富守(すだとみもり)【執筆者】 本間恂一
・佐渡薬種二十四品(さどやくしゅにじゅうよんぴん)
佐渡幕府による薬種の本格的な調査が行れたのは享保五年(一七二○)、丹波正伯ら幕府の医官が来島したのは享保七年(一七二二)。相川銀山につき村々をまわり 薬種二四品が定められ、佐渡国物産として他国へ売られる。この薬種は民間薬として用いられるものでなく、漢方処方による漢方薬の材料、すなはち生薬として売られたものである。ここに二四品の名をあげるが( )内は現在の和名である。○海桐皮ボウダラ(ハリギリ)○淫羊 イカリソウ(トキワイカリソウ)○辛夷コブシ(キタコブシ・タムシバ)○黄蓮(オウレン)○北五味子マツブドウ○旋覆花ヲクルマ(オグルマ)○遠志ススメハキ(ヒメハギ)○前胡イワウセリ(ノダケ)○ 活サイキ(シシウド)○莵糸子ナツユキ(ハマネナシカズラ)○萎 アマトコロ(アマドコロ)○沙参トトキ(ツリガネニンジン)○防風イワウニンジン(ハマボウフウ)○杜仲マサキノカズラ(テイカカズラ)○威霊仙ヤマツヅミ(クガイソウ)○沢瀉ナナトウグサ(ヘラオモダカ)○藜蘆シュロソウ(シュロソウ)○当皈(イワテトウキ)○鬼臼ヤグルマソウ(ヤグルマソウはまちがいでサンカヨウ)○升麻モクタ(サラシナショウマ○草烏頭ブス(ヤマトリカブト)○細辛(サイシン)○萆薢カンドコロ(トコロ)○黒三稜ツクモ(ミクリ)。【関連】 薬草(やくそう)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡薬草風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・サバフク(ゴマフグ)(さばふく)
佐渡の方言でサバフク(鯖河豚)と呼ばれている魚は、和名のゴマフグ(胡麻河豚)で、いずれも色彩斑紋の状態から名付けられた。サバフクに毒が少ないとは、すでに田中葵園の『佐渡志』に記してある。しかし、和名のサバフグ(シロサバフグ)は無毒であるので、注意を要する。ゴマフグは、日本列島全体の沿岸から沖合いに広く分布し、黄海やシナ海にもみられる。佐渡へは、初夏の産卵期に大きな群れをつくって回遊してくるので、定置網に大量に入ることがある。焼いたり煮たり、クロモジの小枝をいれて吸い物にして食べる。干物や鰭酒にも利用したり、卵巣の塩漬けも、荒天の冬の相川地区における食品である。金沢(石川県)では、卵巣の粕漬製品が出廻っているが、長く漬けるほど毒は薄まる。「タイの子」という製品に、サバやゴマフグの卵巣を用いることが多い。フグ毒のテトロドトキシンは、呼吸麻痺を起こさせ、死に至らしめるもので、ある種の細菌のつくる毒素である。これを、餌を通じてフグの筋肉や、ことに内臓に蓄積することで有毒となる。この毒は、ほかの動物でも貯える種類があり、養殖フグでは持っていない。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治
・寒戸崎風穴植生(さぶとざきふうけつしょくせい)
風穴とは、自然のかざあな(風穴)のことで、夏期に冷めたい風を吹き出す洞穴のことである。岩山・渓谷・崖脚など、岩礫の崩壊地にみられるが、規模はさまざまである。累積された岩の間から吹き出る冷気により、まわりは盛夏でも気温は低く、同じ海抜でも高地要素・北方要素の植物が生育する。また冬季でも周辺の気温より暖かく、暖地・南方要素植物が生育する場合もある。また冷気は霧を発生させ、空中湿度を高める結果、多くの植物を豊産させる。寒戸崎風穴植生は、相川町関の寒戸崎にある。後の知行山の崩壊によって生じた岩石の累重する岩石海岸岬で、海抜二○㍍。風穴地は、またタヌキの生息する洞窟でもある。タヌキ(佐渡方言ムジナ)信仰により寒戸神社が建つ。神社の周辺三○×一○○平方㍍が風穴地。一九九○・八・一の測定では外気気温二三・四度、本殿前の冷気温は九度。寒地性のオヒョウ林・エゾイタヤ林・オシダ・ハナイカダ・サラシナショウマ・ナナカマド・キバナノカワラマツバ・オシダ・コタニワタリ・ヒモカズラなど、他の地方の風穴地に共通する構成要素をもつ。また一方、テイカカズラ・ヒサカキ・ヤブラン・ウチワゴケ・ツルマサキ・キズタなどの暖地植物が生育する。風穴地は冬の気温を下降させず、暖地植物を生育させる立地であることの証ともなる。佐渡島には、もうひとつ風穴植生がみられる。畑野町小倉の小倉川右岸の海抜二○○ー二五○㍍の風穴地(一○○×五○○平方㍍)で、オヒョウーコキンバイ林である。海抜は二五○㍍と低海抜にかかわらず、北方要素(オヒョウ)、高山要素(コキンバイ)など集中分布する。特殊立地・特殊植生としての、風穴植生は極めて貴重である。【関連】 関の寒戸(せきのさぶと【参考文献】 伊藤邦男「佐渡小倉風穴地の植生」(『新潟県植物保護』一八号)、同「寒戸崎の植物」(『佐渡の植物ガイド』)【執筆者】 伊藤邦男
・サメの化石(さめのかせき)
軟骨魚類の板鰓亜綱であり、石灰化した骨をもたないこともあって、化石として残るものは、ほとんどが歯である。椎骨の化石がまれに産出する。佐渡では、中新世前期末~中新世中期の下戸層及び鶴子層から産出する。相川町平根崎の石灰質砂岩からは、シロワニ属・ホホジロザメ属のカルカロクレス メガロドン・アオザメ属・メジロザメ属の歯化石が産出する。このほか、赤泊村に分布する鶴子層、相川沖の海底からカルカロクレス メガロドンが採取された。サメの歯は、カルカロクレスを除いて一㌢以下の大きさで、偏平な三角形、あるいは細長い牙状をしている。サメは回転歯という歯の発生様式をもち、一生の間にきわめて多数の歯をつくり、ある程度使用すると、歯は脱落する。サメが生きていたときには歯の色は乳白色であったが、古い時代の化石になると、暗褐色にかわる。【関連】 下戸層(おりとそう)・鶴子層(つるしそう)【参考文献】 佐渡海棲哺乳動物化石研究グループ『佐渡博物館研究報告』(七集)、小林巖雄・笹川一郎『佐渡博物館研究報告』(九集)、矢部英生・小林巖雄『新潟県地学教育研究会誌』(二八号)【執筆者】小林巖雄
・鮫の守り(トラザメの卵鞘)(さめのまもり)
サメノマモリという語と品物は、よほど古い時代から使われ、知られていたらしい。江戸の住人武井周作の『魚鑑』天保二年(一八三一)にもみられるが、佐渡関係の書物としては、滝沢馬琴の『燕石雑誌』文化八年(一八一一)、『烹雑乃記』文化八年、田中葵園の『佐渡志』(文化三~十三年)などに載っている。ことに『烹雑乃記』には、「鮫の守り魚にあらず、海ほうつきといふものの如し─」と記してあり、巻貝の卵鞘(ウミホオズキ)になぞらえているのは興味深い。さらに「そのかたち藤まめに似たり」、さらに付図には「海藻の類歟」と説明している。その画は、明らかにトラザメの卵殻(鞘)である。両隅に二本づつの細長いつるを計四本もち、海藻などに巻きつけて産む。卵殻の長さは五㌢ほどで、殻内の卵は発生を続け、孵出するまでに二五○日前後を要する。西欧でも、ニシトラザメ(西虎鮫)の卵殻を「マーメイド(人魚)の財布」と呼んで注目されてきた。トラザメは五○㌢ほどの小型のおとなしいサメで、食用にしないが、実験材料に好適で、しかも北海道から九州、さらにシナ海の浅海底に広く分布する普通種である。相川町沖のトラザメは、実験材料としてよく研究されている。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)、本間他『新潟県生物教育研究会誌』(二八号)【執筆者】 本間義治
・左門町(さもんまち)
上京町から南へ入り、慶民坂を経て六右衛門町へ至り、南は大床屋町に通ずる小さな町である。町内には、安永七年(一七七八)に金山の水替無宿を初めて受け入れ、相川で病死した本目隼人奉行の墓が眠る蓮光寺がある。蓮光寺は浄土真宗の京都東本願寺末で、慶長八年(一六○三)に越中権照寺四世によって開基し、明和二年(一七六五)に年始礼を勤めるほどの格式の高い寺であった。正徳元年と寛保二年に、火災で焼失したが浄財で再建。境内三畝六歩が除地とある。蓮光寺横の小路を行くと、奥に元和三年(一六一七)に開基した西念寺にぶつかる。当初は下寺町にあったが、貞享元年(一六八四)に今の地へ移ったという。浄土宗で、明治元年に廃寺になったが間もなく復興し、昭和二十二年に法然寺に併合した。本堂がなく、墓が数基残るのみで当時の面影はない。町の長さは四九間で、陣屋まで三町五二間二尺五寸を数える。『相川墨引絵図』では、地役人の拝領地はなく、御抱地が上京町との境いに若干見られ、大半は日雇や勝場で働く者で占めている。【関連】 蓮光寺(れんこうじ)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集五 付録)【執筆者】 佐藤俊策
・雜太郡(さわたぐん)
養老五年(七二一)四月二十日に、賀茂・羽茂の二郡を併置するまでは、佐渡は一国一郡で、佐渡国は即雜太郡であった。その後およそ二○○年をへた承平年中(九三一ー三七)に書かれた『倭名類聚鈔』に載せられた郡ごとの郷名をみると、[羽茂郡]越太・大目(於保女)・駄大・菅生(須加布)・八桑(也久波)・松前(万都佐木)・星越(保之古之)・高家(多家倍)・水湊(美奈也)[雑太郡]岡・石田・與知・高家(多介倍)・八多・竹田・小野・雑田(佐波多)[賀茂郡]井栗・賀茂・動知・大野・佐為となっている。これらすべての郷が、現在のどこに当るのかは正確に知ることはできないが、誰がみてもその位置が明らかとされる郷名もあるので、それらとの関係からみると、雑太郡と賀茂郡の境は、東では現新穂村と畑野町境のほぼ国仲の中央部、西は旧西三川村と真野村境、南は松ケ崎以西で、江戸期の区分と大きな違いはないのに対し、北部が高千地区ではなくて、沢根あたりに感じられる点が異っている。ただし右記した『倭名類聚鈔』は、「元和古活字本」に拠ったもので、「高山寺本」などによると雑太郡には、岡・與知・竹田・小野の郷名はなく、羽茂郡では越太・駄大を欠いている。【執筆者】 本間雅彦
・三ケ一百姓(さんがいちひゃくしょう)
関の慶長検地帳加筆分には、中使四郎左衛門ほか一三人の古百姓を「三分一」とある。また、同地岩崎長右衛門家文書にも、「三ケ一百姓源左衛門」とある。三分一と三ケ一とは区分されていない。佐渡では一般的言い方でなかったが、村の草分け百姓につけられた特別の名称。三ケ一は、寺社などの書上げに除地・除米の特権として近世期によくつかわれたが、慶長検地の刈高にたいしての得分のある百姓という意味であろうか。関村では、三分一百姓は一三軒。これを本百姓といっていた。外に「又もの百姓」として、分家二人記載されている。また別に、三分一を三人一人前とみた小前百姓につかわれる場合もあるが、関村の三ケ一百姓といわれた有力農民は、それぞれに地神を祀っていた。一三人百姓(一三人衆)の筆頭、本間四郎左衛門家は中使であり名主であった。通称関のオオヤといわれている。村鎮守の二宮神社の社人であり、別に地神として大杉神社の宮守をしてきた。一方、真言系の山伏の系統をひく岩崎長右衛門家は、能登船の船頭が建立したという伝説をもつ観音堂の別当をしていた。正月十六日に行われる二宮神社の的射の神事は、的にぬる土は観音堂の仏供田の土、的につける杉の葉は、大杉神社の杉ときめられていた。三ケ一は、かって海稼ぎにかかわった百姓につけられた名称であると推測される。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】 佐藤利夫
・算額(さんがく)
江戸時代、数学の学力向上祈願や実力の誇示などで、神社佛閣に奉掲した数学の絵馬を「算額」という。算額に関する最古の記事は、佐渡で百川流を学び、後江戸に出て大成した、村瀬義益の『算法勿憚改』(一六七三)にみられる。算題を見てこれに答えたり、より高度な問題を算額にしたりするこの風習は、和算の発達に大きく寄与した。相川には天明三年(一七八三)、大坂の銅屋で宅間流内田秀富門人妻野佳助重供が、相川弥十郎町の天神社に掲額、同六年その答術のない第二問に、左門町の名主三郎兵衛が答えていることや、三郎兵衛の斜向いに住む奉行所雇大吹師で、妻野と同門の伏見孫吉の算額があったことなどがわかっている。何れも現物はないが、前者は安養寺村(金井町)大蔵悟策の蔵書『諸術算法記』に、後者は関流六伝小野栄重(群馬)の稿本『算額解』に記録されている。後者には、小野が伊能忠敬の佐渡測量に従って相川へ到着した享和三年(一八○三)九月一日、孫吉の算題に施した術と、この時既に「張紙」してあった「藤田先生術」と、その根拠となる解が記されている。子嘉言が各地の算額を編集した『神壁算法』(一七八九)の閲者であり、江戸に住む当代関流の第一人者藤田貞資の張紙が、孫吉の算額の傍らにあったことは注目に価する。なお掲額は明治以降も続いている。【参考文献】 金子勉「伏見孫吉の算題について」(『数学史研究』一四○号)、金子勉「佐渡の算額」(日本数学史学会第一八回総会)【執筆者】 金子勉
・三角屋(さんかくや)
羽田町にあった旅館。かたわら、乗合馬車や自動車営業も行っていた。赤水窯の真向かい、現在のカトレア喫茶店のところにあった。相川ー沢根間の馬車営業を始めたのは大正二年(一九一三)ごろとされる。このころは新潟市内でも乗合馬車が走っていた。市内均一で五銭(料金)、豆腐屋のラッパに似たものを吹き鳴らしていたとある。佐渡で馬車が走り出すのはそれより早やく、明治二十二年(一八八九)五月の『北溟雑誌』には、白川紋蔵という相川人が、二頭立馬車二台と、良馬八頭を買った。相川ー両津間を六月上旬から開業の予定と報じている。明治十八年に、旧中山道の西側に、人力車の通れる堀割新道が完成したのに呼応したものだ。ところで大正十三年六月の『佐渡日報』紙上に、「旅人宿、三角屋事坂本留作」とあって、三角屋は前年の十二年から自動車部を設け、二台を新調し、従来の客馬車とともに、御客の便宜をはかるむねの広告が出ている。この年は延長三六三㍍の中山トンネルが完通した年で、これに備えて自動車営業をも準備していた。翌大正十四年刊の『佐渡案内写真大集』(赤泊村優美堂発行)には、「御旅館、自動車、客馬車業」と説明があって、大きな構えの玄関に、お客を満載した乗合馬車と自動車が停車している光景が写真で出ている。このころ羽田町では野原乙松という人が馬車営業していた。【執筆者】 本間寅雄
・山荷葉(さんかよう)
【科属】 メギ科サンカヨウ属 深山の名花、幻の花である。大佐渡の東北部の尾根周辺の沢沿いに生える。カタクリ・キクザキイチゲ・シラネアオイの咲く頃である。タムシバもチラホラ咲いて、水たまりにサンショウウオの卵塊のある頃である。『山の花』(一九六九)に、サンカヨウについて「雪解けとともに芽吹き、芽が伸びだしたと思うと、もう翌日にはバッチリと目を覚ましたような美しい花を開き、三日目には葉が出て、四日目にはもう完全な葉を精一杯広げて歓迎してくれる」と解説される。花の命は短くて、花のちょうどよい頃にはなかなか会えない。そういった意味でも幻の花である。サンカヨウ(山荷葉)の名まえはなにに由るのか。蓮はハスの実のこと、荷はハスの葉のこと。サンカヨウは山にある荷(ハスの葉)に似た大きな葉をつける植物の意味。切れ込みのある大きな葉が二枚互生する。この沢で出会ったサンカヨウは、目の届く範囲に五○株。葉の幅は三○㌢ほど。二枚の葉のつく茎の頂に、純白の花が一八花ついている。カタクリ・ニリンソウ・キクザキイチゲ・ザゼンソウの花咲くこの沢に君臨する春の精はサンカヨウである。【花期】 五~六月【分布】 北・本【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・三観紀行(さんかんきこう)
幕末・明治前期の科学者・博物学者、松森胤保(たねやす)の佐渡日記。「三観」とは松島と東京と佐渡をさした。このうち佐渡紀行については「(明治十二年の)五月廿四日東京ヲ発シ、佐州ヲ一覧シ、同年六月七日家ニ帰ルマテヲ記スモノナリ」(三観紀行目録)とあって、佐渡へ渡ったのは明治十二年五月三十日。出雲崎から小木に渡り、六月二日赤泊港から寺泊へと渡った。五五歳のとき。胤保は、鶴岡の二百人町に生れた。庄内藩士の長男で、文久三年(一八六三)から松山藩付の家老となり、慶応三年(一八六七)に江戸薩摩藩邸焼打ちに藩兵を率いて参加、戊辰戦争では藩の軍務総裁として、各地を転戦している。その後の業績は、現在の物理学・天文学・動植物学・考古学など広い分野におよび、ほとんど独学だった。酒田市の市立光丘文庫や鶴岡市の松森家に、多くの著作が保存されている。佐渡では植物・動物・鉱物・風俗などについて記述していて、佐渡の人に片目が多いとした。とくに女子で、道で逢った一○人のうち二、三人がそれ。人に聞くとその原因に、魚の過食・銭湯のムシ風呂・悪疾・良医がいないなどを列挙する。「人物短小」とも述べていて、近親結婚の故か、とする。小木港から堂ノ釜村に着行し、神官の金子星輝宅で一泊、そこから船で沢根へ。相川の鉱山では、坑内でそのころ稼動していた珍らしい「馬絞(うましぼり)車」などを図解して残した。文と図で佐渡を紀行して歩いた点では、弘化四年の松浦武四郎に似ている。「三観紀行」(三冊)の全文は、光丘文庫に稿本のまま残っている。【関連】 馬絞車(うましぼりしゃ)【参考文献】 本間義治「松森胤保の〈両羽博物図譜〉」(その一~三)【執筆者】 本間寅雄
・山居越え(さんきょごえ)
ほんらいの山居道は、岩谷口から小河内川沿に登って泊川を渡り、立が平山の北をへて山居池の南側に至り、北小浦に降りる道であるが、いまでは舗装路が伸びて、整備されている真更川ー山居ー北小浦の山越え道が、山居越えの常道のようになっている。山居池に近い光明仏寺にこもった、木喰戒行者の関係資料や伝承が、真更川の土屋三十郎家や、西光庵などに伝えられているので、山居ー真更川の道も、早くから通じていたことはまちがいない。岩谷口からは平面図では、より近い黒姫越えがあるが、山居は約四○○㍍の標高なので、遠回りながら北小浦に出るこの道が利用され、上方詣りや出征兵士の見送りなどで両津に出たという。この道から二○分ほど歩いた辺りに、七ツ滝と呼ばれる七段になっている大滝があって、島内一といわれている。【関連】 檀特山(だんとくせん)【執筆者】 本間雅彦
・左義長(さんぎりちょう)
小正月行事の火祭り、トウドヤのことを別名サンギリチョウ・トウド・お松さんはやしなどともいう。相川の年中行事を描いた『天保年間相川十二ケ月』(石井文海筆)の中にも、「さぎてう」として描かれ、その説明文として、「正月十一日の早天、町々にとうどといへるものたつ。五彩の紙もて袋を作り、底にくさぐさの縫物として是をつなぐ。十四日の朝海浜にもち出て、家々の飾り松と共に焚。これを左義長と唱」と記されている。ここでいう左義長は三毬杖とも書き、もともとは昔、宮中において春の始めに年木をもって毬を打ち、その年の吉凶をうらなった後、その年木(杖)を三つ組合せて焼いたのが、この名の残りだといわれている。相川ではこのとうど焼きを、十四日の朝海浜で、飾り松と一緒に焼いたと書かれてあるが、現在のお松さんはやしも、十四日の朝である。二見元村・片辺、それに金泉地区(小川は松はやしをせず、田植の飯をたくとき燃やす)なども十四日の朝である。そのほか十五日の朝はやす(燃やす)所(稲鯨・高瀬・高下・千本他)もある。このとうど焼きの火は神聖視され、書ぞめなども一緒に焼くが、高く舞いあがれば手があがるといい、餅やいかなどを焼いて食べると息災になるといった。また黒くこげた焼残りのお松さんを、家の屋根や門口におくと、火災よけや悪魔よけになるといった。【関連】 相川十二ケ月(あいかわじゅうにかげつ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『佐渡百科辞典稿本Ⅵ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫
・産金輸送(さんきんゆそう)
鉱山で産出された金銀荷を、江戸城内の御金蔵に上納することをいう。産出量が多かった江戸前期は、年に数回上納したが、享保年間(一七一六ー三五)の後半から年一度の上納になり、海上がおだやかな五、六月に、宰領役人二人がつき添って北国街道(信州路)から中山道を経て江戸へ運んだ。越後・信濃・上州・武州・江戸と、現在の一都四県を通る長旅で、出雲崎から江戸城までは、一一日間ほどかけている。金銀荷は「灰吹銀」がもっとも多く、金は「筋金」と「小判」の両方に分け、「砂金」はそのままか、一部は小判にして送った。筋金のうち、純金に近い精良な「焼金」も、元禄五年(一六九二)から送られている。小判は江戸の金座、後藤庄三郎の手代が佐渡へ渡り、元和八年(一六二二)から製造を始めたもので、文政二年(一八一九)ごろまで佐渡での製造が続いた。上納の宰領者が選ばれるのは、原則として正月の十一日で、出立に先立って同僚や在方の人たちから、かなりの餞別の品々が届けられる。「葛粉」や「干鰒(ほしあわび)」「あらめ」「無名異」(薬用)など、主として江戸への土産となる。宝永年間(一七○四ー一○)をさかいに、前は将軍の朱印状、後は老中証文を携帯したので、道中の「人足継ぎ」「馬継ぎ」は無賃で輸送ができた。幕府の重要荷物とされたからで、その特権の反面、沿道の宿場では搬送に苦労した。道中宰領の役人は、最初は江戸到着後一○日間ほど滞在して江戸見物などして帰ったが、宝暦十一年(一七六一)から、金銀荷の宰領と天領会計決算を同時にすませることになったため、一年間の江戸滞在に改められた。この滞在期間中に、学問や武芸を学んで帰った。上納の記録や金銀荷の数、宰領者の名前は、連年にわたって残っているが、大久保長安在勤時代の、慶長八年以降同十七年まで、また奉行所が焼失した正保四年(一六四七)の大火のため、寛永元年から同十一年までの計二一年間の上納記録は残っていない。【関連】 上納金(じょうのうきん)【参考文献】 桑原孝「佐渡御金荷の輸送」、麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】 本間寅雄
・三宮貝塚(さんぐうかいづか)
畑野町大字三宮の三宮神社境内にある、汽水性のサドシジミを主体とした、縄文後期初頭から晩期前半の遺跡。小佐渡側の国仲に張り出した、標高一○㍍の台地先端部に立地する。大正九年(一九二○)の鳥居竜蔵博士の発掘調査から数度の発掘があり、昭和三十六年には、立教大学博物館学講座・新潟大学解剖学教室・佐渡博物館共催で発掘調査が行なわれた。出土遺物は、土器・石鏃・尖頭器・石匙・石錐・石棒・蛇紋岩製大珠などの石器、骨角器・貝輪などがあり、既往遺物では、石冠・石剣・ヒスイ製勾玉などがある。また、土壙墓に横臥か俯臥伸展葬された、抜歯のある熟年男性一体があった。自然遺物では、貝類ではサドシジミが九○%以上を占め、古国仲湖の時期に形成された貝塚であることを物語る。哺乳類では、イノシシ・タヌキ・ニホンイヌ・サドノウサギなどがみられ、魚類では、サメ・マダイ・ススキなど。鳥類では、ワシやオオハムなどがある。なかでもイノシシの遺存骨が多く、狩猟の中心で、ニホンイヌは家犬とみられ、三宮縄文人の生活環境を物語る。他に弥生土器・須恵器などを出土する地域もある。畑野町指定史跡。【参考文献】 『新潟県佐渡三宮貝塚の研究』(『佐渡博物館研究報告』四集)【執筆者】 計良勝範
・三宮神社(さんぐうじんじゃ)
高瀬字浜端。元禄検地帳・寺社境内案内帳には、高瀬村神社の記載がない。明治十六年(一八八三)『神社明細帳』には、「寛文九年創立、当村ノ産土神タリ。祭神成嶋親王・伊弉諾尊」とある。浜端にあった熊野神社を明治三十九年に合併、伊弉諾尊は熊野神社の祭神とみられる。熊野神社はもと十二権現社であろう。例祭日は旧九月八日。三月八日の祈年祭には、漁付け祈祷が神社で行われ、和布刈神事の祖型であるオンベ祭りがある。集落の中央に観音堂があり、本尊の聖観音は、越後柏崎の椎谷の観音と二体一対といわれる。橘と同様、佐々木・宇田・榎田の三つの集団によって形成されているとみられるが、各集団の小宮が合併して三宮神社となったものか不明。【参考文献】 矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・三宮神社(橘)(さんぐうじんじゃ)
『佐渡国寺社境内案内帳』には、「開基大永元年、社地八畝一六歩除、社僧定福寺」とある。祭神成嶋親王。明治三十九年荒沢神社合併。由緒によれば、順徳天皇第三皇子を祀る畑野町三宮神社より、橘光行(三喜)が当地に来て勧請し、石造の御神体を彫刻して当社を創立したという。橘三喜が来島したのが延宝四年(一六七六)、社壇を開いて、各地の神社の社号を改めるなどをしている。開基年を大永元年とした理由は不明であるが、三宮の親王大明神(三宮神社)は別当長徳寺、開基長徳元年とあり、親王大明神の勧請は慶長八年という書付がある。両三宮神社の関連性はみられない。橘三喜によって、成嶋親王(第三皇子千歳宮)を祭神にしたものと考えられる。貞享四年(一六八七)新境取極め文書には、橘村・宮の浦村は別村となっており、三宮神社の元宮は宮の浦の北、長手岬にあった。元禄初年に、宮の浦・橘・差輪の三か村が合併したとき、産土神として三宮となったのを、順徳天皇の第三皇子の神社と説明されたものであろう。三宮大明神の社僧は定福寺、開基は明確でないが、元禄期には権吉が社人であった。例祭日は十月十五日。【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・三郡公立中学佐渡黌(さんぐんこうりつちゅうがくさどこう)
明治十五年(一八八二)、新穂村に設立された中等教育機関。明治十四年八月、相川に佐渡で最初の公立相川中学校が開校した。ところが、多額の地元負担が必要であったために維持が難しくなり、三郡町村連合会が各町村に交渉したところ、新穂村が移転に応じることになった。そこで、明治十五年十二月に移転を決議し、名称も「三郡公立中学佐渡黌」と改めて、新穂村馬場の乗光坊(現管明寺)を仮校舎として開校した。主席訓導は圓山溟北、名誉校長は経営にも当たっていた後藤五郎次であった。明治十六年に起工し、翌十七年には四八坪、洋風二階建ての新校舎が落成した。しかし、依然として経営は苦しく、病を得た圓山溟北の跡を継いだ丸岡南 も二年ほどで亡くなり、教授陣も手薄になった。このような中、明治十九年四月に中学校設立制限の勅令が出され、同年八月閉鎖された。以後、明治三十年六月に佐渡中学校が設立されるまで、佐渡には中等教育機関が存在しなかった。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『佐渡高等学校百年史』(佐渡高等学校)【執筆者】 石瀬佳弘
・山菜(さんさい)
糧葉(かてば)は主食を補った糧(かて)にした葉。菜(な)は副食、汁の実にした菜である。『佐渡山菜風土記』(一九九二)には、野草三五種・海辺の菜六種・山菜二六種・糧もの一五種・木の実三六種・果木七種・野菜一二種・筍四種・海藻一○種の、計一五一種について解説される。佐渡は日本海側に位置しながら少雪の島。積雪がみられるのは一月と二月の二か月間。雪があっても、畑の青ものは冬でも利用できる。冬の菜としてのアオモノ(山菜)を採り、貯える風土でなかったから、山菜利用は概して少くなかった。なによりも春の味がするフキノトウ、佐渡の山菜は越後にくらべ、エグミが強いという。雪でのマウントの少くないからであろう。春の野で摘まれたのが、ノビル・ナズナ・セリ・アマドコロ。アマドコロの若芽の和えもの、根茎の味噌づけ、カヤムグリ(コウゾリナの若菜)やヨメナ(ノコンギクの若芽)もよく食べられた。「春はヨメナと食べられて秋は野菊の花と咲く」は佐渡の俚言。水田に生えるタネツケバナは食べない。山のオオタネツケバナは人気がある。山の岩場のユキノシタや、海辺のオカヒジキは食べない。タラの芽はたべるが、コシアブラの若芽をたべない。アケビの新づるも、モミジガサの若葉も食べない風土である。佐渡の三大糧葉は、ロウボウ(リョウブの葉)・イボナ(ハナイカダの葉)・ウツギバ(タニウツギの葉)で、昭和二十年代まで利用した。【参考文献】 伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・三町目(さんちょうめ)
羽田町の中心街から南に向って下戸に至る間を、旧相川街道を順に一町目から四町目(下戸町の北端を五町目と俗に呼ぶ)まで、ほぼ等間隔に区分されている。『佐渡相川志』によると、「町長サ六十壱間、御陣屋迄六十四丁七間三尺五寸、町屋敷四反五畝廿七歩。」となっている。東は五郎左衛門町、西は三町目浜町をへて三町目新浜町であったが、近年海浜の埋立てでさらに栄町が加わった。三町目浜町までは、元禄検地帳に記載されており、町屋敷一七か所があった。現況では、松栄家が三町目と同浜町地内にかけて広い宅地を所有し、また川島家の宅地もかなりの面積なので、他に一五、六軒の住宅・店舗・旅館を数えるのみとなっている。松栄家は明治期までは味噌製造を、川島家は醤油製造を業としていたため、広い仕事場があったと思われる。【執筆者】 本間雅彦
・三町目新浜町(さんちょうめしんはままち)
町域の西南部に位置し、相川湾と向い合った臨海地域。昭和初期のころ、鉱山の浜石採取で人家はすべて立ち退いた。相川公園など、公共用地として整備され、ひところは宿泊観光客に、鮮魚・野菜・地産の土産物などを直売する朝市が立った。宝暦五年(一七五五)の町名一覧に出てくる町で、江戸中期前後の成立であろう。西側は、離島公有地造成護岸等整備事業で、海岸埋立工事が進んでいる。【関連】 浜石(はまいし)【執筆者】 本間寅雄
・三町目浜町(さんちょうめはままち)
慶安年間(一六四八ー五一)の相川地子銀帳には、町名が記載してある。成立は古い。東側は一般住宅で、南北に走る県道佐渡一周線をはさんで、西側には佐渡会館。隣接して国の合同庁舎があり、相川税務署・新潟地方法務局相川支局・相川測候所が同一ビルに同居する。佐渡会館は、佐渡おけさ・相川音頭・鬼太鼓などの民謡・芸能の公開施設で、新潟交通佐渡営業所が同居する。入り口南側はレストラン「日本海」がある。県道東側の住宅街には、女性初の元国連代理大使の久保田きぬ子の生家があり、元佐渡汽船社長、松栄家の広い邸宅がある。【執筆者】 本間寅雄
・さんぱ船(さんぱぶね)
海府方面で荷物の運搬用につかわれた船。中世以来の「おもき造り」の平底船体のどぶね系統の船。長さ三八尺(一一・四㍍)、幅九尺(二・七㍍)、櫓が三丁の五人乗りの船であった。小野見・石名から北にこの船が多かった。近世初期には、このさんぱに似たどぶねが、外海府の木材を相川へ運んでいたが、中期以降には薪炭を運ぶのにさんぱをつかった。関は働き者がいた集落であった。四貫目(一五㌔)入りの炭を二○○俵さんぱに積んで相川を往復して、四㌔の奥山へ行きアテビ板を挽いて帰ったという者もいた。外海府からは、相川だけでなく鷲崎や沢崎方面まで荷物を運んだ。鷲崎には新潟の炭商人が、沢崎には北前船が寄港していた。てんと船と同じように、近距離の荷物輸送につかわれた地廻わりの小型廻船であった。【関連】 天当船(てんとぶね)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 佐藤利夫
・三昧堂(さんまいどう)
新穂村大字大野にある日蓮宗根本寺境内の仁王門の近くにある。三昧堂とは、配流先で日蓮が最初に謫居した粗末な建物で、寺の縁起によると、江戸期の頃にはその建物はなく、天保期には塚だけがあったと記されている。堂宇が建った動機は、将軍家の侍女が刻んだ祖像を安置するためで、天保五年(一八三四)のことだという。堂宇以前に埋葬地や墓を意味する塚があったということは、「三昧」の呼称にふさわしい。日蓮自身が書いた手紙の中に、「塚原と申御三昧所あり。」(『妙法比丘尼御返事』)や、また「塚原と申て洛陽の蓮台野の様に死人を送る三昧原の─。」(『波木井殿御書』)の文字がみえ、塚・埋葬地・死体捨場・三昧が、一連の事象の形容であったことがわかる。サンマイの音をもつ方言も、今では火葬場もしくは墓場の意味で、全国でほぼ共通して用いられている。もともと梵語のサンマディから出た訛音で、法華三昧とか念仏三昧の用法からみると、墓地や埋葬地の傍らで死者の供養をする者がいて、題目や念佛を唱えていたことが想像される。宗派によっては、近年まで土葬を行っていたところがあるので、そこが普通の人の埋葬地であっても、僅かな盛り土状になっているのをみかけることができた。根本寺三昧堂の向って左手に戒壇塚または経塚と呼ぶ、花崗岩の立派な塔婆が石囲いの中に立っている。塚跡である。【関連】 根本寺(こんぽんじ)・日蓮(にちれん)【参考文献】 東條操編『全国方言辞典』(東京堂出版)、富田海音『塚原誌』(根本寺)、橘正隆『日蓮聖人佐渡霊跡研究』(佐渡農業高等学校)【執筆者】 本間雅彦
・鱪付け(しいらづけ)
夏から秋に最盛期を迎える魚の代表が鱪である。佐渡では暑い夏にとれる魚という意味で鱪と書く。鱪漁はツケに集めて沖合いで釣る漁法で、島根県沖から日本海を北上してくる魚群を、大佐渡の沖合いで釣る。姫津漁師は、石見国(島根県西部)から近世初頭に渡来したと伝えられているが、冬季は鱈漁をし、夏はこの鱪付け漁をした。かって姫津では鱪付けの株をもった漁師が、この漁を独占していたのは鱈の場合と同じである。七月末頃に、孟宗竹をかためて束ねたツケを藁俵に砂をつめ、一八○○尋(二七○○㍍)の長さの綱をつけて錘にし、深さ五○○尋(七五○㍍)の沖合いで、長さ一五㍍ほどの桐の木の浮をつけて、ツケを設置した。水津方面でも、この方法を習って行っていた。時期によって、梅雨鱪・盆鱪・帰り鱪などと名前がついている。鱪は夏魚のため加工される割合が少なく、酢でころして食べるか、塩づけにする。鱪なますと塩鱪にした。文政九年(一八二六)稲鯨で二七○○貫(約一○㌧)水揚げされた。大量に漁獲されることがよくあったから、上等魚の扱いはうけなかった。漁村ではじょうずに海水でさらして刺身で食べる。【参考文献】 佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】 佐藤利夫
・塩竈神社(しおがまじんじゃ)
宝暦の寺社帳によると、島内には塩竈社が二社ある。相川江戸沢と歌見村である。うち後者は、明治三十六年(一九○三)に十二の宮と合併して、現在は熊野神社となっているから、現在は塩竈社は相川だけということになる。はじめ塩屋町にあったが、慶長元年(一五九六)に塩屋町の山ぎわ、長坂登り口付近に牢屋が建てられたので、汚穢にふれるのを恐れて江戸沢に移された。現在も、元社地跡と思われる辺りに小祠があって、塩釜社は土俗的な形で伝えられている。塩竈社の本社は宮城県塩釜市で、社前には大型の製塩用平釜がいくつも奉納されているから、本来は塩焼きの神であったことはまちがいないが、製塩が専売制となりその余波のためか、今日では安産の神としての性格が主流をなしている。『佐渡神社誌』では、当社は江戸沢町・羽田町・塩屋町・新材木町・羽田浜町・一丁目・同裏町・同浜町・羽田村の産土神で、「明細帳」によると氏子数四八四戸とある。祭神は塩土老翁神と、猿田比古命である。当社は、江戸沢の天台宗の本昌寺の社僧によって管理されていたので、同寺の寺社帳の記事には、「当社往古は塩屋町にて塩を焚き当社を勧請。寛永六巳年当寺へ遷す」とある。例祭日は五月十五日で、神楽を奉す(付 塩焼きは、両津市・真野町ほか各地で行われているが、それらの塩神についてはすべて省く)。【参考文献】 『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)、山本修之助編『佐渡叢書』(五巻)【執筆者】 本間雅彦
・塩屋町(しおやまち)
上羽田町と石扣町の間の町。『佐渡相川志』では、「町長サ四十五間四尺、御陣屋迄二丁十七間三尺、町屋敷四反三畝」とある。また別記に、「塩屋町ハ塩浜ニテ上羽田中程ニ塩竈ノ社アリ。寛永六年相川町割定ムル時、農家ハ下戸村ヘ引キ、塩竈ノ社ハ江戸沢本昌寺境内ヘ移セリ」とある。相川町が成立する前は、塩屋町の海岸は揚浜式製塩以前の直煮法による塩釜のあった場所で、そこに町屋が建つと、塩商人などが集って塩屋町が形成された。町の草分けは、近江国出身といわれる岩佐嘉右衛門家。当初は塩商人として入り、その後、廻船で入る積荷の取引、明暦三年(一六五七)頃より町年寄制度ができると、四人町年寄の一人となる。塩竈神社は陸奥一の宮、塩竈神社から文禄元年(一五九二)の勧請といわれる。中世までの佐渡における塩生産地は、内・外海府であり、鉱山町相川の誕生によって、塩は能登より廻船で入った。北から大間湊・板町・材木町・塩屋町・羽田浜通りと、南へ海岸通りが続き、米は大間、材木類は北国と海府より板町と材木町へ、塩や諸物資は羽田浜へ上った。海岸に、浜・蔵・納屋・家屋が細長く軒を並べる町屋ができた。享保七年(一七二二)の済口証文(下相川区有文書)では、下相川と相川の海は、沖の大瀬みねケ島より塩屋町嘉右衛門小路を限り境とした。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】 佐藤利夫
・地方役所(じかたやくしょ)
佐渡奉行所の内局。旧相川町以外の町村に関する政務をとる。長が二人いて、在方掛広間役という。在方掛広間役は、元禄七年(一六九四)検地のときはじめて置かれ、当時は地方元締役と言い定員二人だった。その後享保五年(一七二○)在方役と改称したが、役所は地方役所と称し、十余人の地方掛が事務を分担した。宝暦改革で、代官が二人江戸より派遣され地方支配を行った時期は、代官手代が代官所で事務をとったので、地方掛は役所に詰めなかった。租税徴収が最も重要な任務であったが、その他山林・堤防・道路・訴願など、農村に関することにはすべて関与し、民事・刑事に関する訴訟の下調べから、警察事務にまで携った。【関連】 在方役(ざいかたやく)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】 児玉信雄
・直山(じきやま)
鉱山の所有者である、幕府や領主が直接管理・経営するもの。直山では支配の奉行が派遣され、直接運上諸役を取り立てた。佐渡の直山は、公方山あるいは公儀山とも呼ばれた。直山は、公納の形態から運上山・荷分山に分けられた。運上山は、普請・切取・採鉱稼行の順で行われた。間歩ごとに、着脈までの費用弁済のために、着脈後の一定期間の採鉱を、運上なしで許可した。その後、全山の山師に期間ごとの運上額を競わせて、落札者に一番山・二番山というように、採鉱稼行をさせた。大久保長安の支配した慶長期からは、荷分山が主流となり、炭・留木・鑚・紙・蝋燭などの生産資材の無料給付と、扶持米が山師に与えられ、陣屋(奉行所)お抱えの御手大工を、間歩の取り明け普請に投入したりした。一○日毎の採鉱は克明に記帳され、後に陣屋主導で、奉行所分と山師分が荷分された。が、晩年には生産コストの上昇で破綻した。田辺十郎左衛門の時は、二分の一公納としながら、山師分から生産資材分を差し引いた。鎮目市左衛門と竹村九郎右衛門の、元和・寛永期からは、一○日毎に二分の一公納、盛山では三分の二公納、涌水多く排水費用のかさむ間歩では、三分の一以下の公納となった。【関連】 請山(うけやま)・山師(やまし)【執筆者】 小菅徹也
・紫金丹(しきんたん)
坑内で採鉱作業のとき、体内をむしばむ粉塵による病気を、「山よわり」(珪肺病)という。このための解毒剤が「紫金丹」で、延宝(一六七三ー八○)のころ、相川の医者益田玄皓が初めて処方した。地役人田中葵園の『佐渡奇談』という書物に、玄皓は実直誠実な人で貧しい人からは薬代や謝礼はとらない。ただ金穿りの病むのを憐んでこの薬を作った。銀山繁昌のときだったので、門前市をなすありさまであった、などと記してある。『珪肺の歴史』(久保田重孝)によると、玄皓が発明した紫金丹は、珪肺に対する日本で最初の対症療法であり、この薬法はのちに相川の医者松岡玄盛に伝えられた。その末裔である松岡元盛(三菱金属鉱業生野鉱業所病院長)所有の資料によると、紫金丹の処方は「竹節人參」「甘草末」「紫金末」「胡桝末」など五種類の調合で、紫金というのは「しまごん」(紫磨金)といって紫色を帯びた精良な黄金のことだという。なお文化十年(一八一三)に松岡家の元祖の二百年忌があり、冥加(みょうか)として上相川から大工町に住む鉱山稼ぎの人たちに計八百包の紫金丹を、また在方(国仲)で難義している人たちに九百包をそれぞれ贈ったことが『佐渡国略記』に出ている。このときの当主は松岡友粛とある。なお相川には「紫金丹屋」という屋号の家が近年まで新材木町に残っていた。益田玄皓は、相川出身で三井財閥の大番頭だった益田孝(鈍翁)の遠い先祖すじに当たる。【関連】 益田玄晧(ますだげんこう)【執筆者】 本間寅雄
・地獄谷(じごくたに)
奉行所囲いの南端から北西の方向に、段丘の開析谷が広がる。『佐渡相川志』では「先年此処斬罪ノ場所ナリシ故、俗ニ地獄谷ト称セルヲ名トス」とあり、相川始って以来地獄谷で名が通った。地獄谷から西南の先を城の腰と云い、奉行所の腰を巡るように帯刀坂に繋がる道があって、勇仙小路で石扣町へ出ることができ、海府番所へ行くのに都合がよかった。勇仙小路を下りないで北へ向かうと小判所道に通じ、さらに勘定町へ繋がった。宝暦九年(一七五九)に城の腰東側の平地に、外吹買石の勝場と見張りの坂本口番所が出来、寛政七年(一七九五)に廃止されるまで、奉行所寄勝場の一曲輪で機能した。町同心の居宅は町内に分散し、指導系統が統一できず、非常時の召集や取締に不便を来たすため、文政十二年(一八二九)に外吹買石の勝場跡を町同心の屋敷とし、一か所に集めて同心町と改名した。同心一人に二八坪の土地を拝領させ、引越料は奉行所で負担し、十一月までに移りを完了している。維新後、地獄谷から城の腰・牢屋一帯は、新西坂町と改名し現在に至っている。【参考文献】 西川明雅他『佐渡年代記』、萩野由之『佐渡年代記拾遺』【執筆者】 佐藤俊策
・獅子城(ししがじょう)
東福城、別名獅子城ともいう。佐和田町大字石田、現佐渡高等学校の校地にあった。古代の石田郷、江戸期の石田村にあるが、近くに商業・交通の要衝である河原田町があるため、河原田城と呼ばれた。佐渡本間惣領家の本間氏(雑太本間氏、一説に波多本間氏)の庶子家の居城。築城年代は不明だが、城郭の構造から戦国期と考えられている。領城は時代により相違があるが、『佐渡名勝志』は本間佐渡守高統領分として、中原・石田・片貝・二宮・青野・山田・沢崎・真光寺・永野・市野沢(近藤正教預ル)・窪田(藍原と入会)・神田とするが、『佐渡古実略記』は、前記の他に沢根・白崩を加える。天正十七年(一五八九)の上杉景勝の佐渡攻略により落城、河原田本間氏も滅亡した。上杉景勝は、家臣青柳隼人・黒金尚信を代官として河原田陣屋に置く。江戸幕府の支配になり、慶長八年大久保長安は池田喜右衛門・堀口弥右衛門を河原田代官に任じ、「御代官所目録」(『佐渡国略記』)によると、河原田城付として現佐和田町を中心に、四○五三石余を支配させた。その後元和四年(一六一八)、幕府の方針により城廓を破壊、城地を払い地にし、払下げを受けた農民の畑地となる。幕末海防問題が逼迫すると文久二年(一八六二)、幕府は石田屯所を建設、異国船来襲に備えた。【関連】 石田屯所(いしだとんしょ)・異国船の来航(いこくせんのらいこう)【参考文献】 『二宮村誌』、『佐和田町史』【執筆者】 児玉信雄
・時鐘(じしょう)
報時鐘とも俗に時の鐘ともいった。鐘楼は味噌屋町にある。むかしは奉行所内の四畳の間(太鼓の間)に太鼓を置いて時をしらせていたが、荻原重秀奉行の指示で、正徳二年(一七一二)四丁目鍛冶三左衛門・八幡村平兵衛が山之神にて時の鐘を鋳た。それを六右衛門町広伝寺境内(丸山)に鐘堂を建て、町民に時刻を知らせた。相川における時の鐘の始めである。間もなく撞鐘が破れ、ふたたび下戸浜手にて鋳造したが成就せず、同三年五月越後高田住、藤原家次と弟子七人が渡来し、佐渡産出の銅で鋳造、味噌屋町の鐘楼を改築して六月六日に登せ、その日の九ツ(正午)より撞きはじめた。この費用約二○貫目余であった。同年四丁目浜町に、公儀より二反一畝余の長屋を建て市町とし、この屋賃をもって時の鐘の撞料とした。市町では毎朝市が立ち、四丁目武右衛門が長屋の宿賃を請負い、鐘撞料はこの人より納められた。鐘楼は万延元年(一八六○)に改築され、近年また外側を修理した。鐘は明治の初めまで撞いていた。国指定史跡、相川金山遺跡の一つ。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 佐藤利夫
・次助町(じすけまち)
上寺町のさらに上のほう(北側)にあって、その北側は庄右衛門町に、西側は大工町および諏訪町に接する。通称、上相川の台地上に位置し、鉱山開発の初期の頃には、鉱山労働者の居住地であった。上手のもと法久寺のあった付近の堺沢(境沢とも書く)には、元禄検地のときに畑壱反八畝廿四歩、町屋敷四反四畝廿二歩あったが、現在住民はいない。もとあった日蓮宗覚性寺の墓地には、江戸水替無宿の墓があって、墓碑には江戸八丁堀の文字が刻まれている。大工町からの道が、近くの鐘楼とともによく整備され、墓碑の周辺は公園化していて、訪れる人も多い。【関連】 江戸無宿の墓(えどむしゅくのはか)【執筆者】 本間雅彦
・地蔵寺(じぞうじ)
入川にあり、真言宗智山派。本尊は胎蔵界大日如来で、山号は延命山である。慶長四年(一五九九)二月、二石一斗余りの除地米を有する地蔵堂の別当として、真光寺門徒慈眼寺で開基。寺社帳に開基・明応元年(一四九二)とあるのは、地蔵堂の開基であると考えられる。寛文の頃(一六六○年代)寺名を地蔵寺に変える。元禄七年(一六九四)九月、入川のほぼ中央に位置する現在の勘十郎家の所にあった同寺を、現在地に移転する。明和四年(一七六七)それまで本尊であった地蔵菩薩を御堂に納め、胎蔵界大日如来を本尊とし、安永二年(一七七三)門徒から真光寺の新末寺になる。明治二年、隣にあった真言宗・生河山宝蔵寺(通称下の寺)とともに廃仏毀釈で廃寺となるが、明治十二年重檀家の勘十郎が拾円を寄進し、真言宗智山派本山智積院に差し出し、末寺となり再興する。過去帳は寛文の頃から記載されており、地蔵寺の重檀家は甚十郎等で、宝蔵寺の重檀家は半十郎等である。檀家は入川・北立島・北川内・後尾等にある。【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『高千村史』【執筆者】 近藤貫海
・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
観音さまとともに、衆生済度の菩薩として、庶民の信仰をひろく集めている。平安中期ころから末法思想がひろまり、近世にはいり民間信仰とそれが結びつき、地蔵信仰は大きく伸びた。そして地蔵さんは、石仏の代名詞みたいな存在となり、目洗い地蔵(小川・達者)、身代り地蔵(二見元村・鹿伏・紙屋町)、子安地蔵(高瀬)、八助坂地蔵(橘・漁師八助の水死供養)、平産地蔵(戸地・安産祈願、地蔵さんをワラツガエでしばる)、延命地蔵(米郷・海士町・関では寿命地蔵という)、目の地蔵(関、目の悪い者が「め」の字を年の数だけ書いて奉納する。また紙屋町の北向地蔵や二見元村の地蔵堂の地蔵も眼病をなおすご利益があるといわれた)、六地蔵(鹿伏・海士町・高下)など、その数は多い。両津市の、祝勇吉の克明な佐渡の石仏調査によると、大小さまざまの石造物数は四万にも及ぶが、その中で多いのは、だんぜん地蔵尊である。全島の六地蔵の数は、一六二組で九七二体、また大まかに数えて、小さい地蔵の数は三五四八体、その他の地蔵が九七○六体あるという(『両津市誌』上巻)。高瀬の地蔵堂では、八月二十三日に地蔵盆を行ない、年中行事の一つとなっており、また大浦では、毎月二十日に老婆たちが集り、地蔵講をしていた。坂下町厳浄寺坂の吉野地蔵には、鉱山トロッコにひかれて死んだ子を供養したり、井戸で死んだ子供を供養した地蔵もある。地蔵は、子供と深く結びついており、両津市願の賽の河原(地蔵和讃)は有名である。【関連】 中山の六地蔵(なかやまのろくじぞう)・浄金妙福地蔵(じょうきんみょうふくじぞう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『日本を知る事典』(社会思想社)【執筆者】 浜口一夫
・脂燭(しそく)
燈火器の一つ。佐渡鉱山では、坑内用のあかりに用いた。もっとも原始的な照明法で、紙燭と書くばあいもある。「是ハ檜(ひのき)ノ木ヲ幅一寸余、長サ三、四尺位、紙ノ如ク薄ク削リ、火縄ニヨリ、是ニ油ヲ湿シ、長キ木ニ巻キ付ケ、火ヲ点ジ、敷内ヲ通行ス」(入川「柏倉家文書」)とある。『佐渡相川志』は「檜ノ木ヲ三尺斗リニ切リ、鉋(かんな)ニテ削リ、縄トシ、夫ヲ油ニ浸シ、火ヲ灯シ、敷内ノ闇ヲ照ス。昔ハ紙燭屋二○余軒アリ。当時大工町宇右衛門・味噌屋町久兵衛、唯二軒ノミナリ」と書き、紙燭屋が相川に二○軒ほどあったとする。慶長年間(一五九六ー一六一四)の、鉱山の鉱況など記した両津市和木の「川上家文書」には、御直山に渡す「蝋燭渡帳」があり、「壱万丁、赤塚源七間歩」「貮万丁、明石文右衛門間歩」などとあって、おびただしい蝋燭が鉱山の坑内で使用されていたことをうかがわせる。すべて運上屋(官庫)から渡されていることや、番所の移入品目に「蝋燭」(税額一貫目につき銭一四八文)が見えるので、他国から大量に買入れて支給していたらしい。ただし「敷ニテ灯ス松蝋燭」のことを、「竹ノ子ノ皮ヲ蝋燭の格合として、中へ松やにを入堅メ、火先を拵へて灯スなり」(『佐渡風土記』)などとあって、慶長のころ使用されていたのは松蝋燭が主流だった。檜とは別に和紙を撚って上部に油をしみこませた「紙燭」が、江戸時代にあったことが『和漢三才図会』などにも見えている。【参考文献】 関重広「燈火の変遷」(科学新書)【執筆者】 本間寅雄
・下立野遺跡(したたてのいせき)
相川町大字二見の緩斜面上に位置し、山林で北は法事川に接する。低位と中位段丘の境いにあり、縄文中期から後期初頭の貝殻条痕文土器を主体とする。道路を挟んだ向い側の中位段丘には、縄文中期の立野遺跡があり、中位段丘上面には、弥生主体の上立野遺跡が存在し、再下部が縄文後期主体の遺跡となる。縄文時代の貝殻条痕文土器は、中期に山陰地方に発生したといわれ、能登半島まで北上が認められ、後期中半以後は越後・佐渡に広がりを見せるが、中期末の佐渡分布は特筆すべき現象である。ほかに須恵器の甕片も採集され、重複遺跡が確認される。【参考文献】 上林章造・中川喜代治・金沢和夫「二見半島における縄文文化」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】 佐藤俊策
・シタダミ(オオコシダカガンガラ)(しただみ)
シタダミ(小羸子、細螺)という方言は、佐渡に限らず使われているが、佐渡では磯の岩礁帯に、たくさん生息しているオオコシダカガンガラを主として、クボガイやヘソアキクボガイを指して呼んでいる。これらは、軟体動物腹足綱に属す、螺塔(殻の高さ)の高い小型の巻貝であり、海藻を餌としている。昼間は岩の下や隙間に潜んでいるが、夜になると這い出て、浅い方まで来て採餌する。このサザエと同じような習性を利用して、夜の岩場帯を灯火をたよりに、岩の表面を撫でさすって貝を採取する。これを佐渡では訛って「夜なれ」と称し、風物詩の一つとなっている。オオコシダカガンガラは、太平洋岸にすむバテイラの日本海型、すなわち亜種である。日本海型は、螺塔がもっと高く尖り、殻の畝がはっきりしていることが特徴。ゆでて、食用にする。田中葵園の『佐渡志』には、「扁螺ハ方言シタヽミ」と記してある。【執筆者】 本間義治
・七福神演能絵馬(しちふくじんえんのうえま)
下山之神町の大山祗神社に奉納されたもので、從一五○糎、横一一六糎で大型の絵馬である。昭和四十九年八月町の有形文化財に指定された。能舞台の絵馬は全国的にも珍らしく、「天保四年」(一八三三)の年号のほか、七人の奉納者が墨書で記されている。七人とも佐渡奉行所の地役人で、水田惟政・細野元則・渡邊安信・赤江橋賢吉・清水政清・小宮山千吉・井上恵迪である。ともに能に堪能な人たちであったろう。舞台上部正面に「金銀山」の文字額、橋掛りのところに「大盛」の文字が大書されている。このやしろは、慶長十年(一六○五)に鉱山の総鎮守として、大久保長安の手で建立されているので、通常の能舞台とは違った鉱山色の強い性格を持っていたと思われる。「金銀山」「大盛」などの大筆の文字をかかげる舞台は、ほかには例がない。橋掛りが舞台と直角に描いてあったり、囃し方も演能者も、ともに七福神の仮装で登場している。能のきまりからははずれた絵だが、金銀山の繁栄の祈願のほかに特別の祝いごとなどもあって、実際にこうした能が催された可能性もある。能ファンが多かったらしく、大勢の観客がまわりを埋めていて、「御能だんご」を売り歩く何人かの人が描いてあり、能を見ながら団子を食べる習慣が古くからあったという、町の古老たちの伝承をも裏づけている。古くは三月二十三日の祭礼日が、同社の定例能の日であったが、明治二十年代には能舞台もなくなって、近くの教寿院に新しい舞台ができた記事が『北溟雑誌』(二十二年五月)に見える。【関連】 相川の能(あいかわののう)【執筆者】 本間寅雄
・実相寺(じっそうじ)
日蓮宗寺院。山号は御松山。佐和田町市野沢の、舌状台地先端にある。日蓮が台地下の、堂の沢の奥の阿弥陀堂(現妙照寺)に謫居していたとき、毎早暁この丘に来て、東方の空に昇る朝日を迎え、故郷安房の両親を追慕しながら、題目を唱えたと伝えられる場所である。日蓮が思親拝日の際、手を清め口をすすぐために、外した袈裟を掛けたという松が、代々植えつがれている。実相寺縁起では、日蓮が塚原から一谷(市野沢)に移った文永九年(一二七二)日蓮自身の開基というが、『佐渡国寺社境内案内帳』には「当寺開基より三世迄歴代不知四世日心 貞治元寅年五月廿三日遷化」とあるので、実際の開創は貞治元年(一三六二)をややさかのぼるころであろう。堂宇は向かって左から、庫裏・本堂・祖師堂・妙見堂が、横一列に並ぶめずらしい配置で、慶長年間(一五九六~一六一四)の建築といわれる。本堂内陣の、欅の柱が円柱であるのも、佐渡ではめずらしい。また、妙見山頂の祠は、妙見大菩薩を安置するここの妙見堂の奥の院という。境内の西端、小丘上に立つ巨大な望郷思親の日蓮像は、昭和五十三年(一九七八)日蓮赦免七百年を記念して建立された。【関連】 日蓮(にちれん)・妙照寺(みょうしょうじ)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、本間守拙『日蓮の佐渡越後』【執筆者】 酒井友二
・級織り具(しなおりぐ)→佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)
・芝草原(しばそうげん)
ドンデンのすばらしさは、八○○㌶に及ぶ広大なシバ草原の美しさにある。放牧された牛によって成立した放牧草原であるが、ドンデンだけでない。大佐渡山地には、大塚山・ジャバミ・間峰・夏雪山など一二地区、放牧総面積八二○○㌶、推定放牧頭数八二○○頭(以上一九五八年頃)の放牧シバ草原がみられた。シバ草原を成立させる条件はふたつ。ひとつはブナの成立限界である年平均気温六℃の亜高山気候。もうひとつは、牛や馬によって常に食われていることである。シバは食われることに非常に強い植物。成長点は地表すれすれの所にあり、食われてもすぐ新芽を出して伸びる。大佐渡山系の放牧の歴史は、一千年以上と長い。放牧頭数の最も多かったのは二○○○頭。牛馬による一千年以上の休むことない喫食。喫食に弱い植物は消え、喫食に強いシバは、純度と均質度を高めた。昭和四十一年(一九六六)、生態学者の沼田真氏は「シバの均質度と純度の極めて高い日本のシバ草原のなかの典型的なもの」と診断された。ドンデンの美しさは、広い草原に島となり樹海となって展開する、四季折り折りに彩るブッシュの花。レンゲツツジ・ウラジロヨウラク・ホツツジなどは、いずれもツツジ科で有毒植物。低木林をおおうセンニンソウ、低木林のふちに咲くヤマトリカブト・エゾユズリハも有毒。有毒なるがゆえに、喫食されず純度を高め、群落を広げた花たちである。【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、『佐渡花紀行』【執筆者】 伊藤邦男
・柴町(しばまち)
町の長さ一七一間、町屋敷は一町八反二畝二○歩であった。善知鳥神社神輿の御旅所があり、山鉾がここまで来た。神輿は小路から入って磯際に鎮座し、神楽を奏するのを慣しとしていた。水金川を挟んで北は相川府外の下相川村となり、町の東側は享保年間に遊廓街となった水金町と隣合せであった。東の小高い丘には、元和八年(一六二二)開基の禅宗大泉寺、元和六年開基の浄土宗専光寺があり、南には寛永三年(一六二六)創建の風宮神社と、慶長十年(一六○五)創建の天満宮があった。天満宮は昭和二十九年に風宮神社と併合し、大泉寺は明治元年に廃寺となり、あとを小学校に転用し、今は柴町の信和会館になっており、仏具は信和会館で保管している。専光寺は浄土宗の法然寺と併合し、現在に至っている。浜側には慶長十一年(一六○六)にできた海府番所(柴町番所)があり、海府から入る薪や柴・炭を陸揚げした。湊は底が砂地であるけれど左右は岩場が多く、一丁ほどは浅瀬で、漁船のほか廻船は 掛りできなかった。他国から来た船は、材木町へ着き留木・材木を陸揚げし、海府から柴木を積んだ船を相手にした。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 佐藤俊策
・師範相川伝習所(しはんあいかわでんしゅうしょ)
明治初年、相川町に開設された教員養成機関。明治五年(一八七二)に学制が発布されると、明治六年八月、まず相川小学校が誕生し、順次各地に広まった。しかし、新しい学校が出来ても、教員の確保が容易ではなかった。新潟県に官立師範学校が設立されるのは明治七年で、相川小学校に宮城師範学校を卒業した正式の教員、鹿股秀治が来たのが同八年三月である。県は翌九年に、大工町に開設されていた南 校に師範仮講習所を設置し、鹿股秀治はその教師も兼ねて教員の養成に当たった。「仮講習所規則」によると、第一条に「此校ハ管内小学教員タル者ヲシテ二ケ月以内ヲ以テ授業法ヲ講習セシムル事」、第二条には「生徒ハ別ニ寄宿所を設ケズト雖モ検束ノ為メ相当ノ宿所ヲ撰シ之ニ入ラシムヘキ事」とあり、島内の小学校に勤務している教員を集めて、新しい教育内容と授業法を学ばせたことがわかる。この講習所は、後に相川伝習所と改称し、明治十三年まで続いた。仮講習所の生徒名簿には、若林玄益・石塚秀策・萩野由之ら、後に各界で活躍する三○名の名前があり、森知幾は明治十二年五月十四日に、相川伝習所を卒業している。【関連】 相川小学校(あいかわしょうがっこう)・森 知幾(もりちき)【参考文献】 『相小の百年』(相川小学校)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・死人柱(しびとばしら)
死人が硬直しないうちに、死体をヨセる柱のことを、相川町の北田野浦や北立嶋では、スミバシラといった。納戸とオマエ(居間)の、座敷寄りの隅の柱である。両津市真更川や河崎・赤玉地方では、これをシビトバシラといった。ヨセるときには、ヨセナワをかけると云い、北田野浦などでは、アラナワまたはスッコキ(六尺の帯)を首から脚のももにかけ、しゃがんだかっこうにしてしばった。ヨセると仏(遺体)にかならず合掌をくませた。男の合掌は左の親指が上、女はその反対(同町入川・高千)にした。北田野浦ではそのようなヨセかたが、大正十年(一九二一)ごろまで続いていたという。このように、死体にヨセナワをかけ棺に入れるのは、棺に入れやすいためだとか、生まれかわりにヨセて小さくしてやると、都合がよいなどと佐渡の古老たちはいうが、実は死体をしばりあげるこの習俗については、霊魂さえていねいにまつれば、そのぬけがらの死体は、さほど重視していなかったためだとか、あるいはこのような扱いは、死霊に対する恐怖からくるものだ(井之口章次『日本の葬式』)とかの説がある。【参考文献】 山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)【執筆者】 浜口一夫
・シマシロクラハゼ(しましろくらはぜ)
シマシロクラハゼ(縞白黒沙魚)を、新種として命名記載されたのは、現明仁天皇と目黒侍従であり、昭和六十三年(一九八八)のことであった。本間(一九五七)、ホンマ(一九五七)、本間・田村(一九七二)は、相川町達者で採れた四㌢の標本をシロクラハゼと同定し、発表した。この論文に付けられた写真を御覧になった当時の明仁親王は、これをシロクラハゼとは別種のものと査定された。そこで、青森県津軽半島三厩で採れた標本を完模式標本、達者産を副模式標本に指定されて発表されたのである。シロクラハゼでは、項のところの白帯が幅広いが、シマシロクラハゼでは狭いことで区別される。副模式標本は、新潟大学理学部附属臨海実験所に保存されている。明仁天皇は、ハゼ科魚類の分類・系統・形態に関する論文や図鑑などを、三○篇余も発表しておられる。【参考文献】 『図説 佐渡島』(佐渡博物館)、本間・田村『新潟県生物教育研究会誌』(八号)【執筆者】 本間義治
・島根のすさみ(しまねのすさみ)
佐渡奉行、川路三左衛門聖謨の佐渡在勤日記。原本は宮内庁書陵部にあって、昭和四十八年二月、平凡社発行の東洋文庫に収録されて、初めて刊行された。編者は、同書陵部に勤めていた川田貞夫氏。天保十一年(一八四○)六月、勘定吟味役から佐渡奉行に任命され、同七月から翌天保十二年五月までの、ほぼ一年間にわたる日記で、日々書き記して江戸にいる母に送った。「旅中の日記を審(つまびら)かに記し、母上へ奉り候数々」と書き、「専ら佐渡のことを記せしかば、島根のすさみと題して一篇の書となせし也」と裏書きしている。母は、豊後(大分県)の国の日田の代官所の属吏、高橋小太夫誠種という人の娘で、父の内藤吉兵衛歳由が、同代官所に勤めていた関係で結ばれたという。この日記が書かれたとき、母は六一歳で還暦を過ぎていた。川路は四○歳である。川路が有能な幕吏だったことは広く知られているが、勤務を通して観察した佐渡の政治・経済・社会を、軽妙酒脱な筆致で詳細につづっている。とりわけ奉行恒例の巡村記は、描写が適格で、この島の国情がよく出ている。「佐渡は文字ある国」と記し、島びとの能好みに驚いている記述などもある。ほかに「長崎日記・下田日記」を残している。【関連】 川路聖謨(かわじとしあきら)【執筆者】 本間寅雄
・しまのくらし(しまのくらし)
「生活をつづる会」の機関誌。戦後の混乱期に芽生えた文化運動の一つ。中央での“生活記録”運動の影響もあり、当時、県の社教主事であった島川鉄二と、磯部寅雄の呼びかけで、小間口貞子・三浦啓作(相川)、石川忍(両津)、笹木行雄(金井)、左京栄治・内田アサノ・渡辺庚二(畑野)、若林正・右近久武(真野)、佐々木越江(羽茂)、菊地太一(赤泊)の一三名が集まり、昭和三十三年(一九五八)七月六日の、第一回準備会で、「生活をつづる会」が誕生し、文集『しまのくらし』第一号(表紙高橋信一の版画、ガリ版刷)を、同九月十四日に発行した。文集は季刊で、会員は全島規模のため、文集発行の都度、合宿で合評会を開催した。各地区に世話人をおき、地域の文化活動にも積極的に加わり、新入会員の呼びかけ・会費・原稿などの協力をお願いし、各地区ごとの集会も、散発的ではあったがとりくみがあり、落書き帳の回覧などで、会員同志の交流もはかった。会員数も多いときで一七○名を越え、「新潟日報」にも数回にわたり連載され、野間宏(作家)の批評があった。一○年を経過した頃から原稿難に見舞われ、文集三八号の合評会(昭和四十五年八月二日)を最後に、自然消滅した。【参考文献】 『しまのくらし』(生活をつづる会)【執筆者】 三浦啓作
・下相川(しもあいかわ)
相川町初期に誕生した鉱山集落。上相川にたいして付けられた名称。初期の金山町(相川町)は、上相川・間山・下相川を結ぶ山より海までの範囲を指していた。慶長八年、佐渡奉行所(陣屋)敷地を、山主山崎宗清から五百両で買いとり、上町から追われた野田千刈の百姓らに、下相川段丘の約八町歩の地を替え地に与えて移動させた。これが下相川で、戸川沢の北にある海府百姓町である。元和三年(一六一七)の下相川村屋敷検地帳には、屋敷持百姓五六人と非屋敷持者一一がいる。後者は播磨などから渡来した石切らと思われる。また金銀山で鉱石製錬業が盛んになると、戸川沢に多数製炭業者が集り、炭焼き藤五郎伝説も生まれた。富崎には善知鳥神社の元屋敷がある。もと住吉大明神であったと伝え、相川の都市化が進行すると下戸(現在地)に移り、跡地に戸河神社が下りてきた。戸川沢には、真野より日蓮宗本興寺が永正年中に入ったと伝える。金銀山で働く者や、資材の調達・供給などの任務をになった外海府の大中使(大名主)村田与三兵衛がいた。元禄検地帳では、村高二七三石余、田高一六八石余、畑高一○四石余、田畑それぞれ一二町余。重立百姓の屋敷面積は三畝歩前後で、町づくりに地割をして居住させた。石切町では製錬用の磨石を切り出し、貞享二年(一六八五)の石切は、平三郎・又右衛門ら七人であった。金銀山の景気に左右され、人の出入りの多い近郊村であった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・下京町(しもきょうまち)
京町の上・中につづく下端にあって、鐘楼の近くまでが下京町である。文政九年(一八二六)の相川町墨引の絵図によると、夜番所・郷宿・町年寄・定人足頭・御抱地など、公的役柄に関わる建物や肩書きが目につく。ほかに小間物や清酒を売る店、蕎麦屋・日雇取などの文字がみえるが、八百屋町や会津町との境界がはっきりしないため、職種別数字を示せない。ここは奉行所にも近く、北側の四十物町、西側の米屋町・八百屋町など、生活用品を扱う商店街との関係位置からみて、初期住宅街であったことがわかる。そして、町割りも整然としており、広間町に御陣屋が建てられた頃には、城下町的性格の町であったと想像される。【執筆者】 本間雅彦
・下寺町(しもてらまち)
間切川左岸にある相川カトリック教会のところから、南東に石段をつたっていくと、下寺町から中寺町へつづく。寺だけの集落で、江戸中期の相川町絵図に、この町の俯瞰図として、樹木にかこまれた各寺院が写生的に描かれているが、文政九年(一八二六)の相川町墨引の切絵図からは除外されていて、境内の様子を知ることができない。俯瞰図では、浄土宗の法界寺だけが、腰廻りに手すりのある回廊がめぐらされていて、特別な寺であったことを示している。宝暦の頃(一七五一ー六三)の書『佐渡相川志』によると、法界寺には広竜山一乗院の肩書があり、当国一宗(浄土宗)の触頭也とある。同寺は應仁の頃からの古い開基を伝えているが、相川に移った経過はわかっていない。右書では、当時下寺町には二○か寺があったと記されている。それを宗派別にみると、真言宗二・禅宗六・浄土宗五・日蓮宗七となっていて、日蓮宗や浄土宗など、中世の浄土系寺院が多く、真言宗が少ないという点で、国仲農村部との違いがみられる。【関連】 相川カトリック教会(あいかわカトリックきょうかい)【執筆者】 本間雅彦
・下寺町石坂(しもてらまちいしさか)
大安寺わきを流れる南沢川を渡って、相川町保育所横から下寺町に至る、延長約一四五㍍の石段道である。石段は巾約二㍍、高さは一○㌢から二○㌢位、奥行は約五○㌢で、およそ三個の加工した小礫まじりの凝灰岩と安山岩によって組まれていて、現在は二四六段が数えられる。『佐渡相川志』に「下寺町石坂」として、「明暦ノ頃迄坂幅三尺斗リ。石段モナク狭キ道ナリ。小六町道伝ト言フ者、伊勢ヘ志シテ遂ニ趣キ得ル事不能引返シテ帰リ来リ、持参金ヲ以テ越前石ヲ買ヒ、此坂ヲ両方ヘ広メ石坂トス。石段ノ数三百三十三階アリ。此者小六町西側ニ居ス。遊女ヲ多ク抱ヘ置ク。家作リ宜シ庭ニ泉水茶屋掛リ、築山ノ形天和・貞享ノ頃迄アリケルトナン。今シカト其所ヲ知リタル者ナシ。」とあり、道伝の求めた越前石は凝灰岩であろう。石段道の左右には安養寺(廃寺)・高安寺・昌安寺(廃寺)・福泉寺があり、登り口の高安寺の反対側には、大久保石見守長安の逆修塔の石質と同じ、越前石(笏谷石)と思われる凝灰岩製の宝塔観音(丸彫座像)がまつられている。石坂を登ると、観音寺・本典寺・法然寺・蓮長寺などが並ぶ下寺町にいたる。相川町には他に、下山之神町の総源寺脇より北沢へ下る、総源寺玄妙が開いた玄妙坂には、元文年中に江戸の回国三左衛門が築いた石径があり、新五郎町の北側から夕白町へ下る蔵人坂は、山師豊部新五郎(後に蔵人)が開いて石段を築いたとする。下寺町石坂は、西坂および厳常寺坂とともに、昭和四十九年(一九七四)八月一日、相川町史跡に指定された。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 計良勝範
・下畑玉作遺跡(しもばたたまつくりいせき)
佐渡の国仲平野に分布する、弥生時代の佐渡玉作遺跡の一つ。畑野町大字畑本郷の水田地帯にあり、通称下畑という。昭和四十六年(一九七一)と四十七年に、基盤整備事業による緊急発掘調査が、畑野町教育委員会によって行なわれた。櫛目文を主体とした、弥生中期中葉から後期にかけての土器と、石鏃・石斧、および管玉・勾玉・石鋸・砥石・石針などの玉作資料、炭火米などがあり、特に五基の土壙墓の検出があった。土壙墓のうち、第一号土壙墓は最も長く、四・八五㍍、幅約五、六○㌢で割竹形木棺、第四号土壙墓は組合せ式木棺とみられた。この五基の土壙墓はそれぞれ近接してあり、主軸はほぼ北西ー南東に向いていて、弥生玉作集団の墓制を知る墓域が検出されたものである。昭和四十八年、県指定史跡として保存された。【参考文献】 『下畑玉作遺跡 第一次緊急調査概要』(畑野町教育委員会)、『下畑玉作遺跡 第二次緊急調査概要』(畑野町教育委員会)【執筆者】 計良勝範
・下山之神町(しもやまのかみまち)
通称「山の神」の名で呼ばれる神社で、佐渡鉱山の総鎮守社である大山祇神社(『佐渡相川志』の付図には「山の神」の文字をしるしてある)と、相川町の産土神善知鳥神社とならんで、流鏑馬の行事を伝える武神八幡神社などの有力者はじめ、愛宕神社がこの町にある。寺院としては、禅宗の総源寺、真言宗の大乗寺、日蓮宗の法泉寺があり、下相川町の県立相川高校の東南側道路沿いに住宅地がならぶ。そしてそのすぐ東側には、相川高校の「山の神グラウンド」がある。江戸中期には右記寺院のほかに、天台宗の大光院と教寿院、禅宗の長泉寺、浄土宗の厳浄寺、真言宗の遍照院があって、南沢の寺町界隈と同じように、寺院が集中していた。大乗寺墓地には、良寛の母おのぶの実家橘屋の墓地や、鉱山技師スコット夫人の墓が、総源寺墓地には佐渡奉行たちの墓が、そして愛宕山には漢学者圓山溟北の墓がある。【関連】 良寛の母おのぶ(りょうかんのははおのぶ)・スコット・圓山溟北(まるやまめいほく)【執筆者】 本間雅彦
・砂金(しゃきん)
古くは沙金とも書く。山中や川底の砂礫の中にふくまれる金で、『続日本紀』の天平勝宝元年(七四九)に、陸奥の国から砂金を堀り出して、初めて官庫に貢いだ記事が、文献上の初見だろうとされている。人類が知り得たもっとも古い金属が、金であるといい、砂金洗い取りによる採取法は、記録以前の原始の時代から始まっていたと思われる。佐渡でも平安時代末期には、金(砂金)が採れていたことが、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』の記述からもうかがわれ、鉄(砂鉄)を採る能登の人たちが、佐渡から、金を持ち帰った話が出ている。その場所は、西三川川一帯(真野町)とするのが通説のようで、日本の産金法といえば、中世末までは、おおむね砂金であった。もともと金をふくんだ岩石や鉱床が、侵蝕や風化作用で破砕され、ほかの鉱物から金粒が遊離し、流れに運ばれる。砂鉄などほかの鉱物より重いから、川底や海岸などに沈積して残った。西三川砂金山のばあいは、もともとの鉱床がどこにあったかが不明だが、平安時代から明治の初めまで稼かれるほど、大量の砂金が埋蔵されていたのである。昭和二十三年の冬、西三川一帯をボーリング調査した新潟県資源課技師の、百武松児らによる「砂金調査報告」によると、同地の砂金の形状は、西三川・笹川べりでは塊状・楕円状・扁平粒状・棒状などが多く、色彩は水中だと黄金色、乾くと表面がにぶい金色になり、海岸部で得た漂砂金は、板状・球状・針状のものがあり、色彩は白味を帯びたのが多かったという。【関連】 西三川砂金山(にしみかわしゃきんざん)・笹川十八枚村(ささがわじゅうはちまいむら)【参考文献】 磯部欣三「カネ堀りの村ー三河砂金山」【執筆者】 本間寅雄
・しゃく(しゃく)
【科属】 セリ科シャク 古名サク。サクはシシウドのこと。それに似て小形なのでコサク。それがコシャクとなり、現在はシャクになったは牧野富太郎説。サクは神事に使う赤米で、シャクの果実が似ているからとは、前川文夫説である。五月に咲くからかさ状の花序は、径八㍉の白色五弁花の集りで、ニンジンとそっくり。葉もニンジン葉に似るので、佐渡ではヤマニンジンと呼ぶ。佐渡では希産。相川町大浦の尾平神社(海抜二○㍍)、関(三○㍍)、金井町千種(一九○㍍)、赤泊徳和浜(一○㍍)と沿海地と分布は限られる。新潟県下でも、佐渡・弥彦・角田・青海・阿賀野川流域にのみ分布する。新潟市・長岡市・上越市の一帯は、ポッカリ穴が空いた様に分布してない。オドリコソウの分布そっくりの、おもしろい分布型である。五月上旬、尾平神社に通ずる道はオドリコソウ・ホウチヤクソウ・ヤブニンジン・シャクなどの花盛り。シャクの太いがみずみずしい茎はポッキリと折れてうまそう。「ヤブニンジンの新芽は食べられる。根は薬になるので相川の仲買人に売りに行った」と村人はいう。生薬名は峨参(がさん)。消化促進・強壮・老人の頻尿に効く。【花期】 四~五月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・杓子渡し(しゃくしわたし)
相川町関では、大年の晩一升枡に米を入れ、新しいシャモジを添え、姑から嫁に「これからおめぇが、家事一切をきりもりせぇ」といって渡された。それをカカワタシといった。カカワタシは主婦権委譲のことで、シャクシワタシとも云い、大年の晩に行われる所が多い。この晩は、シャクシ渡しの世代交代に、最もふさわしい節日であったのだろう。赤泊村腰細では大年の晩、メシジャクシ一本を洗い清め、白の木綿糸を添えて渡したという。また長野県北安曇郡でも、この晩シャクシをなべぶたの上にのせ、手拭い一本添えて渡し、岩手県遠野地方では、なべぶたに大小二本のヘラ(シャクシ)を並べ、その大きなヘラで囲炉裏のかぎをたたいてから渡したという(井之口章次他『ふるさとの民俗』)。佐渡に「嫁と名がつきゃ姑がいじる、カカになりたいビンカカに」(ビンカカはイヌツゲの木の俗称)という古謡がある。みじめな嫁の立場から、カカの座への昇格は久しく望んでいた夢である。カカになれば、その家の主婦である。家事一切のきりもりがまかされる。そのカカ座の権限は、いわば食物の管理権であり分配権でもあった。そのため、かっての自給自足の農家にあっては、米びつはもちろん、麦・小豆などの穀物類一切について、カカ以外の人は勝手にさわったり処分したりはできなかったのである。【参考文献】 浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、山本修之助『佐渡民俗ことば事典』【執筆者】 浜口一夫
・地役人(じやくにん)
佐渡奉行の支配地で勤務する条件の許に、現地採用された下級役人で、抱え筋の身分であった。譜代とちがい一代限りの採用で、幕府の御家人でありながら、いかに能力・手腕にすぐれても、昇進は広間役までであり、島から抜け出れない仕組みであった。戦国期に滅亡して渡海した浪人を採用したが、甲州武田の家臣が多いのが目をひく。慶長・元和・寛永と、佐渡に奉行所が設置された江戸初期の採用が多い。抱え筋の一代限りの採用とはいいながら、結果は譜代と同じ跡目相続による世襲で就職する場合が多く、親の功や永年勤続の恩賞で譜代格になった者もいる。地役人には、並役と定役の職制があった。並役は平役人であり、定役は格付役人で、衣服や役金の差は勿論、身分は与力格に準じた。広間役は継裃で勤務し、礼服は熨斗目・白帷子・麻裃で、在出の供連れは若党・槍持・挟箱持・草履取の四人を召し連れ、具足を持たせ、長棒の駕籠に乗ることができた。宿泊する場合は入口に幕を張るなど、与力格では有利な待遇であった。定役から広間役に昇進し、これが地役人の最高職制となったが、時代により人数に変りがあった。並役の下には部屋住・見習があり、跡目の若い者が経験のために着いた。【参考文献】 佐藤俊策「地役人」(『佐渡相川の歴史』資料集七)【執筆者】 佐藤俊策
・修教館(しゅうきょうかん)
文政八年(一八二五)、地役人田中從太郎(葵園)によって設立された、佐渡奉行所付 の学問所。これより先文化二年(一八○五)、田中は同志と私塾広業堂を開設して、地役人の子弟に素読・輪講を行っていたが、私塾には限界があり、地役人の教化のため、官立の学問所の必要を痛感していた。そのため同八年(一八一一)、佐渡奉行金沢瀬兵衛に学問所の設立を建白したが、これはすぐには実現せず、同十年佐渡奉行水野藤右衛門は、従来町会所で行っていた素読指南を、奉行所構内に素読所を設置して、ここで指導することにした。しかし、これは、子弟の初歩的学習の場でしかなく、田中の考えている学問所には、遠く及ばないものであった。そのため田中は、文政五年・六年と続けて学問所設立を建白した。歴代奉行が設立を躊躇したのは、幕府財政逼迫の時期に、莫大な費用を要する学問所建設に、中央の承認が得られないと考えたからであった。翌七年、泉本正助・勝勘兵衛両奉行は、費用は地役人の貯蓄した出目銭から支出するという、田中の意見書を可として、幕府に申請して許可を得、翌年八月に学問所・武術所・医学所が竣工し開校した。さらに、文政十二年孔廟を落成、「校則八箇条」を制定した。この間泉本の懇望で、紀州藩主徳川斉順の染筆による、「金聲玉振」「修教館」の扁額も掲げられ、広間役二人・学問所預一人・勤番頭取一人・書籍預り一人・学頭二人・目付役二人・医学所世話煎医師四人の職員も決定した。学問所の授業は、経書講習・武術・素読・医学などで、学則に朱子の「白鹿洞書院学規」を範としているように、林家朱子学に拠るもので、修教館は幕府の昌平坂学問所を模範として設立されたものである。主な教師として、田中葵園・丸山遜卿・本間默斎、のち圓山溟北らがいた。入学者は、旗本・御家人・地役人・医師に限られたが、講釈だけは庶民にも聴聞を許した。学田三町二反余を大和田村に有し、経営資金とした。天保五年(一八三四)火災、同十三年再建したが、安政五年の相川大火で焼失、再建後翌六年三たび火災で焼失、昔日の結構を失った。【関連】 田中葵園(たなかきえん)・泉本正助(いずみもとしょうすけ)【参考文献】 西川明雅他『佐渡年代記』、『佐渡近世近代史料集学問所記録』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 児玉信雄
・重泉寺(じゅうせんじ)
小田にあり、真言宗智山派。本尊は大日如来で、山号は明星山である。開基は知れずとあるが、古くから伝えられる仏具に、康暦二年(一三八○)の書付があったと、元禄七年(一六九四)の奉行所への書き上げに記載されている。今はないが、境内に虚空蔵堂があったことから、その別当寺として成立したもので、虚空蔵は建原次郎右衛門の持仏で、境内地も次郎右衛門の地所であったと伝えられる。また小田の字大塚には、石名清水寺持ちの廟所があり、重泉寺は清水寺の末寺であったと伝えられる。元禄の書き上げは、真光寺門徒とあるが真光寺の記録にはなく、清水寺から独立しようとする気運が読みとれる。清水寺より遅れて享保二年(一七一七)真光寺の末寺になった。明治の廃仏毀釈では廃寺となったが、明治十五年再興した。【関連】 清水寺(せいすいじ)【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 近藤貫海
・十二権現(じゅうにごんげん)
社名としての十二権現社は、今では島内に存在しないが、かって十二神信仰があって、江戸期に十二権現社を名乗っていたところは、全島で四五社を数えることができる。越後平野では、現在も「十二」を冠した社がおびただしく多く、明治二十年(一八八七)の調査では八七○もあった。佐渡ではそのときすでに、大方は熊野神社に改名していたので、四五社はその中に入っていない。相川下戸の熊野神社は、その改名社のひとつであるが、もともとこの社の所在地が「十二ノ木」という地名で、古代信仰の痕跡を今に伝えている。島には他に、北方・久知河内・歌見に同地名があり、「木」以外に十二に伴う地名となると、五○例に及ぶ。つまり佐渡は、十二信仰の古型の保存では、他地のどこよりも多出地なのである。十二社が山の神や狢神であったり、熊野十二神に結びつけられたりするようになるのは、江戸中期以降のことであり、起源追求上で学問的にはあまり意味のないことなので、そのような次元ですり代えてしまって、研究の対象から外さないことが必要である。このように、全国の十二神信仰の中心は新潟県であり、右記したようにそのうち佐渡が最も密度も濃く、特徴的でもあるので、将来の民族学的・考古学的研究を、俗説でゆがめないためである。【関連】 熊野神社(くまのじんじゃ・下戸村)【参考文献】 本間雅彦『牛のきた道』(未来社)【執筆者】 本間雅彦
・宿根木(しゅくねぎ)
小木町大字宿根木。弘安八年(一二八五)本間宣定と重久との木野浦郷の小名の帰属をめぐる相論に、宿禰宜がでてくる。宣定は羽茂本間氏とみられ、建武三年(一三三六)の宿根木戦争で勝利し、それ以降、上杉氏支配まで羽茂殿の船宿が宿根木に置かれた。文和四年(一三五五)三月、時宗遊行八世渡船が佐渡へ布教のため渡ったとき、最初の着岸地は宿根木であり、時宗称光寺はすでに存在していた。宿根木は小木三崎の中世の湊であった。古くから、海食洞窟の岩屋山は観音霊場となり、のち時宗によって浄土信仰が加わり、中世廻船の湊となっていた。宿根木の産土神の起源は「古事伝聞記」によると、「嘉元二年(一三○四)ニ海中ヨリ石塚権兵衛所持ノ浜、榎ノ岸ニ御神体ガ上リ、白山妙理大権現社ヲ建立シタ」とあり、また建治三年(一二七七)に高津兵衛太郎が、加賀国白山本宮から分霊を請い、嘉元二年に社殿を建立したと『佐渡国神社帳』にある。慶長十九年(一六一四)小木湊が佐渡奉行所指定の渡海場となると、宿根木は寄港地小木にたいする近世廻船の基地となり、船大工はじめ諸職人の集まる湊となった。明和四年(一七六七)、沢根浜田屋大黒丸・二五○石積(弁才船)を宿根木にてはじめて新造、以後相ついで新造船が建造された。高津勘四郎船・白山丸が新造されたのは安永三年(一七七四)で、産土神の名をとった宿根木船新造の嚆矢であった。近世末から明治二十年代にかけて、宿根木船は北前交易により、佐渡最大の富を貯える湊となった。平成三年に、かっての集落の景観を保存するため、重要伝統的建物群保存地区の選定を受け、その保存事業が始まった。【関連】 小木港( おぎこう)【参考文献】 『佐渡小木町史』(「村の歴史」下)、『千石船の里 宿根木』(創刊号 佐渡国小木民俗博物館)【執筆者】 佐藤利夫
・守隨秤(しゅずいはかり)
幕府が秤座について、全国を東西に分け、東国三三か国を守隨家に、西国三三か国を神(じん)家に管掌させたのは、承応二年(一六五三)六月とされている。したがって佐渡は守隨氏の、いわゆる「江戸秤座」管轄下に入ることになる。守隨氏は甲州武田家以来の古い秤細工人で、家康の時代には三河・駿河・甲斐など、五か国の秤の製作を独占する家柄であった。佐渡には手代の「吉兵衛」が慶長十九年(一六一四)に、二代吉兵衛も相次いで来島し、どちらも下寺町の禅宗円通寺(廃寺)に葬られたと記録された。守隨秤所、いわゆる「佐渡秤座」が早く相川に開設されていたことがわかる。守隨氏の手代ではなく、守隨家三代の正次(彦右衛門)が、佐渡へ「秤御用」のため来島して、寛文十年(一六七○)四月二十五日に病死し、相川鹿伏の光明寺に葬られた(守隨家系譜)ことも近年わかった。初名を兵三郎といい「受職六二年」とあるから、二代目の死亡した翌慶長十四年(一六○九)から、守隨家を統率していて、同十九年にはそれまでの「甲州秤座」から、関八州の権衡支配の独占権を幕府から得た人であった。手代の吉兵衛親子が、そのために佐渡へ詰めることになる。佐渡秤所が特設されるほどだから、秤の需要、その定期的な秤目の検査・検印などの公務が、金山による経済発展を背景に繁雑をきわめたことがわかる。なお延宝元年(一六七三)に佐渡で秤改めがあったとき、守隨家では越後高田の次郎左衛門という者を雇って来島させていて、佐渡秤所はいくどか廃絶することがあったらしい。のち佐渡の秤改めは、越後高田秤座の名代で馬場氏という者によって管掌されたと伝える。【参考文献】 林英夫「秤座」、西川明雅他『佐渡年代記』【執筆者】 本間寅雄
・巡見使(じゅんけんし)
江戸幕府の臨時職制で、巡検使には諸国巡見使と、国々御料所村々巡見使の二つがある。諸国巡見使は寛永十年(一六三三)が最初で、この時は全国を六地区に分け、各地区三人一組で巡国して、大名監察を主たる目的にしたが、佐渡は幕領のためか来島しなかった。佐渡来島の初見は、寛文七年(一六六七)甲斐庄喜右衛門外二人である。のち天和元年(一六八一)以後は全国を八地区に分け、将軍の代替わりごとに発遣する例となり、七代将軍徳川家継を除いて天保九年(一八三八)まで行われ、発遣区域とコースは定着した。国々御料所村々巡見使の派遣は、正徳二年(一七一二)から全国の天領を対象に行われ、八代将軍徳川吉宗のとき中断したが、延享二年(一七四五)以後天保九年まで、諸国巡見使同様将軍代替わりごとに発遣された。佐渡への来島の初見は、延享三年勘定多田与八郎外二人である。【参考文献】 『国史大辞典』(吉川弘文館)【執筆者】 児玉信雄
・浄永石塔(じょうえいせきとう)
大安寺境内の、歴代上人石塔の一隅にある。角柱形に加工した凝灰岩で作られているが、風化剥落が大きい。巾二六㌢、横面巾二○㌢。高さは向って右上端が残っているようで、一二四㌢を計り、小泊の石英安山岩と思われる加工した基礎の上に立っている。正面は殆んど欠け落ちて文字が読めないが、南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれていたものであろうか、最後の文字が、塔面の下端にわずかに痕跡をのこす。向って右側面には、「干時慶長拾六□暦□月」、左側面には「□□(日カ)寺願主浄永」と刻まれている(従前「當寺願主浄永」と判読されているが、「當寺」は「□□(日カ)寺」と、寺名が彫られているらしい)。左右側面の文字は、大安寺の宗岡佐渡守名号石塔にみるような、大ぶりののびやかな書体を示し、正面の文字も、それに共通していたと思われる。慶長十六年(一六一一)は、浄土宗大安寺を建立した大久保長安が、当寺内に逆修塔を建てた年に当る。もともとこの石塔が、大安寺に伴うものであれば、大安寺開基聖誉貞安と願主長安、またはその関係者との関連性は無視できない。しかし、「願主浄永」は記録に表れておらず、「浄永」は誰か、現在確定されていない。破損が大きいが、数少ない佐渡の慶長年石塔の一つである。【関連】 大安寺(だいあんじ)【執筆者】 計良勝範
・庄右衛門町(しょうえもんまち)
市街地から旧佐渡鉱山に向って、すぐ手前の北沢川の渓谷沿いに、近年まで木造の鉱山労働者の飯場が立ち並んでいた辺りが、庄右衛門町である。現在はすべて取壊されて、わずかな畑地のほか原野になっている。南は諏訪町の万照寺(浄土真宗)や、次助町の江戸無宿の墓に近い辺りまでが境いで、北は佐渡鉱山跡の第三駐車場の南を流れる小流までである。文政九年(一八二六)の「相川町墨引」をみると、上相川道の方向に幅広い道が描かれ、二十数軒の家並みがある。そして北端のあたりで、東に向いた「桐ノ木沢道」が記入されている。【執筆者】 本間雅彦
・浄金妙福地蔵(じょうきんみょうふくじぞう)
大安寺山門前の参道左側わきにまつられている、石造の地蔵菩薩である。もとは浄土宗安養寺にあったもので、『佐渡相川志』に、「安養寺 下寺町ノ石坂今ノ高安寺南側境内四反三畝大安寺末。寛永十癸酉年(一六三三)開基ス。延宝三乙卯年滅亡ス。寺地ハ本寺ヨリ支配。元文四己未年三月十一日下戸町立願寺ニ譲リ、本尊ハ新穂中川次郎右衛門位牌所ノ堂ニ安置ス。安養寺境内ニ年久シキ石像ノ地蔵アリ。享保ノ頃念性ト言フ道心者夢ノ告ニ依テ今大安寺境内ニ移ス。世ニ妙福地蔵ト称ス。施主妙福ト彫刻セシ故也。」とある。これによって、この石地蔵は寛永年に開基した安養寺にあったもので、享保年に大安寺に移されたものであることがわかる。石地蔵は、頂を山形にした、高さ一六○㌢、巾七○㌢、厚さ一六㌢の板碑形に、板彫状に近い地蔵を半肉彫にしているが、石質は石英安山岩の小泊石であろう。像高は一三五㌢、肩巾四四・五㌢で、大形で稚拙な彫刻を示し、室町後期らしい線を省略した簡素さが特徴である。顔相は、眼を大きく彫りくぼめて見開き、鼻と口は小さく、耳は大きい。両肩を張り、手はあるかなしかに小さく、足もただ棒状にしている。右手に錫杖、左手には宝珠を持つ。衣は袴と着物をはおった様な大雑把な姿で、全体に細かい縦の細線(縦縞)を刻む。像の下部左右には、向って右側に「浄金禅定門」、左側に「妙福禅定尼」と刻んでいる。浄土宗の五重相伝の行を得た男が禅定門、女が禅定尼の称号を贈られるが、この場合は夫婦であろう。相川では他に、大安寺に河村彦左衛門の「清岳浄栄大禅定門」がみえ、相川金銀山そのものをたたえた戒名の如くにも思える。佐渡石仏の室町風のものと言えるものであり、室町末から江戸初期に造顕された石仏であろう。なお現在、施主不明となった墓石を集めて、コンクリートで固めた祠内に安置されているが、その祠の前端両はじに石塔があって、向って右塔には「南無阿弥陀仏」、左塔には「南無阿弥陀仏 源空(花押)」「精蓮社進阿建立」(裏側)と刻まれている。この二本の石塔は、中寺町にあった大超寺(大安寺と合併)にあったものであるらしく、祠が作られる(大正年)以前は、大安寺山門前に立てられていて、この「浄金妙福地蔵」とは関係ない。【関連】 大安寺(だいあんじ)【執筆者】 計良勝範
・浄厳名号塔(じょうごんみょうごうとう)
浄厳の名号を刻んだ塔。浄厳が佐渡を離れた天保年間中頃から建立され、年号の判る塔では、天保八年(一八三七)から明治三十三年(一九○○)までに及んでいる。名号塔は、浄厳が自ら彫ったものではなく、浄厳やその弟子の明聴などから授かった木版刷りの名号符をもとに信者が建立し、発願の内訳は、その家の先祖代々供養と、日課念仏の満願達成である。唯一浄厳が、自ら彫らせたと思われる名号は、岩谷口の岩谷山洞窟の壁面名号だけである。名号の分布は、山居から岩谷口周辺が最も多く八基を数え、次いで金井町吉井本郷西方庵周辺に六基、旧相川町に四基、講中の先達が本間三郎平と安土万助の二人居た北川内に三基、この他講中のあった千本に二基、後尾・石花・北片辺・南片辺に各一基あり、佐和田町五十里に二基、両津市浦川・歌見・水津にも講中の塔が一基ずつあって、現在三二基が確認できる。高千地区に講中が多いのは、良質の木材を産出した山居周辺に、高千の木挽きが入って仕事をするうち信仰するようになったと伝えられ、先達三郎平には、巾三○㌢高さ八○㌢の名号二幅と、巾三○㌢高さ七○㌢の浄厳の描いた「弾誓上人降魔の図」が伝えられている。また小木町光善寺墓地には、字が素晴らしいとのことで、昭和四年某家の墓石に、浄厳名号が使用されている。【参考文献】 田中圭一『帳箱の中の江戸時代史』(下巻)【執筆者】 近藤貫海
・浄厳利剣名号塔(じょうごんりけんみょうごうとう)
お不動さんが持っている剣が利剣で、煩悩を突き破る剣といわれる。利剣について、中国浄土教の大成者「善導」は、「阿弥陀仏には、罪業を断つすぐれた徳が具わっており、その利剣は阿弥陀仏の名号のみである」と説かれておることから、南無阿弥陀仏の六字名号には、鋭い剣の形をした名号も書かれてある。また、江戸時代の本には、弘法大師が書いた利剣名号が伝えられており、徳本も書いているが、利剣名号を残した人の数は少ない。だが浄厳名号塔には、利剣名号が二二基を数え、数多く残されているのが特徴といえる。【執筆者】 近藤貫海
・尚歯会(しょうしかい)
明治十四年(一八八一)七月に、相川の圓山溟北・丸岡南 ・坪井雲僊が呼びかけて、島内で一芸に秀でた高齢者を招いて開かれた会。相川一町目裏の元中教院跡(いまのあいかわ幼稚園)に、「尚歯会碑」が残っている。尚歯は、唐の白楽天の故事によって生まれた高齢者を尊重する、という意味で、溟北らは古稀以上の高齢者で、一芸以上に秀でた名前のある人たち一二人を表彰した。相川の白鳳禅師(八八歳・挿花・点茶)、渡部鉄斎(八一歳・書)、海老名義明(七八歳・連歌)、飯島吾吉こと梧翁(能楽)。また羽茂の氏江元彦(七五歳・謡曲・冶刀)、羽生致孝(七二歳・和歌)、夷の安藤世彦(八○歳・絵画・謡曲・能楽)、石田の名畑拘樓(七六歳・謡曲・能楽)、新町の山本雪亭(七四歳・囲碁・書・筆)、大野の土屋松渓(七七歳・書)、湊の中村春彦(七五歳・和歌)たちである。能好みの老人が多いことは、佐渡の能文化の層の厚さを示している。このうち相川の飯島は、遠藤可啓に師事した観世流のワキ方で、柏崎でも五十余人の門弟がいた。明治十七年に七六歳で没したが、大きな体格から「コッテイ翁」(肥大した牡牛の方言)と晩年呼ばれる。尚歯会碑は、高さ一三五糎・幅六一糎。右側から背面にかけて溟北の序文、左壁面に丸岡南 の頌文が彫りこまれている。【参考文献】 椎野広吉『佐渡と能謡』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 本間寅雄
・城島岩陰遺跡(じょうじまいわかげいせき)
相川町大字大浦一四四六ー一に所在し、水田耕作の便を考え整備中の平成二年(一九九○)に、佐藤俊策により発見されたものである。地表に出ている岩は東西に横たわり、扇状に弯曲して広がりを見せ、南の遺跡は冬期の季節風を遮ぎる好条件を備えている。岩盤は角礫凝灰岩で、地下一帯に広がりを見せ、上は田畑、下は水田に利用されている。上には古墳が散在し、四㍍余直立する岩に遮られた遺跡は一段低く海に近く、かっては城島と云われ、海中に防備を固めた城島が浮ぶ。現在の遺跡は、上手の県道から海側へ曲り、岩の斜面を縫って八㍍下の海岸に着くが、岩陰の四㍍下に古式土師片が挟まることから、元は堆積土が斜めにあり、古式土師器の面が当時の文化面と思われる。古式土師器は複合口縁が多く、底は径が小さく、大きく開いて立上るのと、仰角度六○度の急なものとに別れる。外面・底面を櫛状工具で整形し、底を親指で押圧したような、五領期特有な手法を持つものも見られる。本遺跡の出土品は、島内では金井町の千種・旗射崎、真野町の浜田・下国府、相川町の浜端洞穴遺跡から出土している。とくに口縁が長く外へ開き、口唇に稜を持つのは、佐渡特有の形態と考えられる。年代は、五領末から和泉期に併行する可能性が強い。【参考文献】 佐藤俊策・飯山弘「二見半島城島遺跡発見」(『佐渡考古歴史』)【執筆者】 佐藤俊策
・猩々袴(しょうじょうばかま)
【科属】 ユリ科ショウジョウバカマ属 県下では海岸近くの低地(垂直分布下限五㍍)から、高山(上限二○四○㍍)まで広く分布する。湿地を好む特性が、雪国の風土にあうのであろう。渓谷や沢沿いの湿度が高く、常にしぶきがかかるような場所では、岩場や沢辺一面を占拠する。根生葉の葉の先が、地面に接すると無性芽と根を出し、新株となり、まわりに群落を広げる。花房の色は濃い紅紫から淡い紫白と株によりさまざま。ザランザランと垂れ下る花房に着目して、越後ではカンザシバナ、佐渡ではコメゼエバナ(細かい花から細かい雄しべが突き出して“細割花”となる)という。根生葉の中央から伸びた三~四㌢の低い花茎の先にも花がつく。花のあと花茎は長く伸びて四○㌢にもなるが、種子徹布のためか。水のじとつく川端にあるのでカワバタ、長く伸びた花茎を干してカンカン鳴らしをするのでカワタンポポ、白花(シロバナショウジョウバカマ)をキツネノタンポポと呼ぶ。和名は、紅紫色の花を猩々の赤い顔に、葉を袴に見たてたは牧野富太郎説。春や秋に根生葉は紅紫色に色づいて「猩々色の袴」となる。名まえは「根生葉が猩々色」とする説もある。【花期】 四~五月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・澄心道標(しょうしんみちしるべ)
弘化四年(一八四七)、徳島県三好郡井内谷村野住に生まれた念仏行者「笠掛澄心」が、山居・光明仏寺への道路を整備し、建立した道標。そのため光明山中興開山法印と呼ばれる。澄心はまた弾誓に、「換骨の秘儀」を行った天照・八幡・春日・住吉・熊野五社の善神塔や、浄厳の名号塔を光明仏寺に建立しており、弾誓に厚く帰依し、浄厳の足跡を訪ねて佐渡に来たことが判る。光明仏寺へ通じる山居道は、岩谷口・真更川・北鵜島・願・鷲崎・見立・北小浦・虫崎などの、山下八か村からあり、相川町では岩谷口からの登山道に道程の石塔があったが、砂防ダム工事後は確認できない。現在は山居の池周辺に二か所と、光明仏寺山門跡に一か所、この他北小浦道などに何か所か確認できる。澄心の墓は、真更川の浄蓮坊川を見下ろす段丘上にあり、明治四十年(一九○七)二月十六日寂。行年六一歳とある【関連】 光明仏寺(こうみょうぶつじ)【執筆者】 近藤貫海
・相川歌集(しょうせんかしゅう)
高田慎蔵の歌集。「相川」はその号。大正二年(一九一三)四月刊、二百八十余首を収める石版刷り和綴じで、同年五月刊の『恥堂遺稿』とともに帙に納められている。慎蔵は明治三年(一八七○)、一九歳で佐渡県派遣の無給英語研究生として東京に出て以来、刻苦勉励して高田商会を設立し、貿易を営んで巨万の富を得たが、還暦を過ぎた大正初期社務を子婿に譲り、和歌・墨画・旅行を楽しむ自適の生活に入った。晩学ながら作品の数は三千首にも及んだという。歌の師佐々木信綱は序文の中に、「父君恥堂の血すじと、実業界で鍛えた即戦即決の力によるのであろう」という意味のことを述べている。「恥堂」は慎蔵の実父、地役人で広間役も勤めた天野孫太郎の号で、文芸に趣味を持ち、漢詩・和歌・連歌に携ったが、とくに漢詩を得意とした。『恥堂遺稿』は、慎蔵が三十余年ぶりに佐渡へ錦を飾るについて、友人知己への土産に編んだ自らの歌集と、併せて出版した亡父の作品集で、漢詩一○六首・短歌四六首・発句二六を収める。なお、号の「相川」は、「生まれ故郷をしのぶあまりにつけた」と慎蔵自身が跋のなかに書いている。【関連】 高田慎蔵(たかだしんぞう)・天野孫太郎(あまのまごたろう)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 酒井友二
・常徳寺(じょうとくじ)
浄土真宗西本願寺派。羽田町東側。当寺過去帳によると、開基は元和元年(一六一五)明専、越前福井出身とある。『相川町誌』には「開基後四年、本山に請うて別院となり、世に御坊と称し輪番所たり」とある。金銀山が隆盛となって信徒が集まり、寺収入が多かったためという。その後、戸口減少し、寺運振わず別院をやめ、元禄年中、大坂道頓堀の常徳寺より元世が来て、寺号を常徳寺と定めた。明治中、紙屋町の勝善寺を併せて今日に至る。明治十二年相川警察署をここに仮設したが、火災にあい堂塔什宝焼失、いまの寺を新築した。初期の門徒に北陸出身者が多かった。寛永期だけで四五人。越前出身一九人・越中一一人・若狭一○人・能登五人。『佐渡風土記』元和五年の条に「越前の菰かぶり、庄内の駄賃持、各大勢来り北沢に住居す」という記事がある。金銀山の全盛期に、菰かぶりといわれた渡来民のなかに門徒が多数いた。金銀山の主要坑、割間歩の開発で入った者もこの中にいた。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、佐藤利夫「北陸真宗門徒と佐渡鉱山」(『日本海地域の歴史と文化』【執筆者】 佐藤利夫
・城と製塩(じょうとせいえん)
佐渡の北の海岸(海府地方)に、「釜屋」とか「釜戸」などの地名がよくみられる。中世の製塩の行われた場所であり、城との関わりが深い。石花の親方百姓(在家主)の一人永野民部は村の鎮守の社人、この人の先祖は吉井から入村した永野釜人といい、石花の海岸で塩を焼き城に納め、また分家も石花の山で炭を焼き城に納めたという。また関の大屋で、村の鎮守の社人である本間四郎左衛門の先祖も、吉井の人であったが石花に入り、連れてきた左近という鍛冶に、釜を作らせ塩を焼いて吉井殿に納めたという。こうした伝承は、石花殿が吉井藍原氏の代官として、製塩業を管理した村殿であったことを示す例であろう。達者釜所に住む本間伝兵衛は、河原田殿に納める塩を焼いていた。この伝兵衛の手引で、釜所へ入ってきた山本小三郎は、河原田中原神社(河原田地頭本間氏の鎮守若一王子社)にあった薬師仏を、分村姫津に奉移したというような話は、河原田殿と海府海岸の村との結びつきを示すものと思われる。このようにみると海府海岸の城は、戦争のために設けられた施設というより、村の生産物を管理する役所的性格をもったものとみるべきでなかろうか。以上のようにみてくると、海府海岸筋の城は、塩の村の支配者の拠点とみてよいのではないかと考える。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集二・四)、山本仁『佐渡古城史』【執筆者】 山本仁
・称念寺(しょうねんじ)
浄土真宗東本願寺派。下戸炭屋浜町。『佐渡相川志』・『佐渡国寺社境内案内帳』には、紙屋町にあった願竜寺旧寺屋敷を買い取り、正徳三年(一七一三)建立とある。寺は明治元年廃寺になり、同十年復興して、下戸炭屋浜町字長屋に移転した。『相川町誌』によれば、開基寛永八年(一六三一)五十里称念寺の隠居所として、相川山ノ内左沢に建立、後、岡部栄運という者が寺を譲り受け、旧寺山号を用いて相続し、紙屋町の願竜寺屋敷へ出た、という。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 佐藤利夫
・上納金(じょうのうきん)
江戸城への金の上納をいう。金のほか大量の銀も運ばれていて、「灰吹銀」と称し、銀鉱に鉛を合わせて灰吹炉で熱し、鉛を灰に吸収させて、モチ状の銀塊にして採る方法。「山吹銀」とも「山出し銀」ともいった。金は「筋金」といって、竹を割った中に、灰吹法で製錬した金を溶かして、流しこんで固めた。「延金」とも「竿金」とも、また「竹流し金」などと呼んでいた。今日では、現物があまり見られないが、元和七年(一六二一)に奉行所の御金蔵から、「筋金八十五本」が盗難にあった記事(『佐渡年代記』など)があり、国中の漁船や他国船の出航をさしとめて探索した。このときの記録によると長さが「六寸」で、量目が三○○から四○○目(匁)の、長方形の金塊だったとある。小判のほか秤量貨幣としても使われた。金は「筋金」のほかに「小判」(元和八年から佐渡で鋳造された)で上納されており、「砂金」は主として西三川で産出したものをそのままか、または小判にして送っている。筋金のうち、純金に近く精良な金に「焼金」があり、これは元禄五年(一六九二)から送られている。江戸城内には「蓮池御金蔵」と、「奥御金蔵」の二か所があり、佐渡の金銀は蓮池のほうで四棟あって、勘定奉行の管理。以上の佐渡金銀荷は、役人たちの宰領日記によると、「坂下御門」から運び入れるのが慣例だったが、綱吉の時代の元禄八年(一六九五)の記録では、「平河御門」ともある。【関連】 産金輸送(さんきんゆそう)【執筆者】 本間寅雄
・正福寺(しょうふくじ)
南片辺にあり、真言宗智山派。本尊は大日如来で、山号は遍海山である。開基は文禄四年(一五九五)と寺社帳にある。高千村史では、寛保元年(一七四一)住職快安の代に造立されたとあるが、元禄六年(一六九三)の大興寺文書には、正福寺は大興寺の隠居であるとあり、快安の造立は、南片辺の南はずれにあった正福寺を現在地に移転造立したものであると思われる。慶長五年(一六○○)創立の白山神社の別当寺である。伝承によれば、隠居するとき南片辺と石花の半分を貰ったと伝えられるが、その頃はまだ檀家制度が確立されておらず、大興寺の供養田をつけて貰ったものである。真光寺門徒であったが、享和元年(一八○一)真光寺の新末寺になっている。明治の廃仏毀釈では、廃寺となり大興寺に併合されようとしたが、当時の住職中川文秀の尽力で免れ、智山派で再興した。【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『高千村史』ほか【執筆者】近藤貫海
・定福寺(じょうふくじ)
橘の浜戸にあり、真言宗豊山派。本尊は大日如来で山号は泡海山である。開基は不知と寺社帳にある。元和九年(一六二三)一説には天文十九年(一五五○)、本寺・曼茶羅寺の栄遍法印により、法流の伝授を受けたとあり、大永元年(一五二一)勧請の三宮神社の別当であった。古くは興福善寺といったが、曼茶羅寺の末寺になったとき、定福寺と寺名を改めたという。伝承によれば、この時寺を建てようとしたが、材木が足りず困っていると、三月十五日の凪の良い日に材木を一杯積んだ難破船が流れ着いたので、これは仏さんのお授けだといい、この材木で本堂を建てたという。境内には隠居の観音堂がある【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】近藤貫海
・縄文遺跡(じょうもんいせき)
縄文遺跡は前期から晩期まで幅が広く、年代も長い。密集地域は台地の先端部に多く立地するが、外海府に発達する段丘上は、フレーク・チップ等が少量採集される小規模なものが大半を占め、キャンプ等に使用された一時的遺跡の可能性が強い。反対側の加茂村とは対照的様相を呈する。外海府地方は季節風がシベリアから吹き付け、永住が困難で季節的な遺跡であったと思われる。その中にあって、二見半島だけは気候の影響が少なく、層も厚くて永住した可能性が残る。佐渡でも遺跡の多い地域である。佐渡では早期の遺跡が小木半島で確認されており、前期末も小木や国仲各地で検出されている。相川で最も古いのは、中期初頭の立野遺跡のみで、他は中期末から後期・晩期に属するものばかりとなる。晩期は縄文海進と云われるように、気候の寒冷化が進み、水位の上昇が激しく洞穴遺跡が多くなり、一般平地には遺跡が極端に少なくなる。当時の住居では寒さは防げなかったのであろう。「日本石器時代地名表」では遺跡の名が登載されるものの、現在は所在不明な遺跡がある。これは調査で確認したばかりではなく、聞書きや土地の変化によるものもあったと推察される。【参考文献】佐藤俊策・鈴木俊成「佐渡の分布調査を終って」(『新潟考古学会連絡誌』)、上林章造・中川喜代治・金沢和夫「二見半島における縄文文化」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】佐藤俊策
・植生(しょくせい)
佐渡は南北の植物の境界線とされる北緯三八度線が中央を通過しているため、寒暖両系の植物がすみわけ、そのコントラストは鮮烈である。シダ植物以上の植物数(植相)も、一七○○種と豊かである。対馬暖流がぶつかる岸には、人々が最初に住みついたタブの黒森があり、ツバキ・トベラ・ツワブキなどの花が咲き、南国の椰子の実やモダマの種子が漂着する。タブの後背地にはシイの森がある。リマン海流により冷たくなった冬の冷水塊がぶつかる海辺には、トビシマカンゾウ・ハマナス・ハマベンケイソウなどの寒地要素の植物が生育し花が咲く。島の北端の二ツ亀の海には、トド島・大トド礁があり、北の海獣トドが漂着する。暖地植物の北限の島である。分布北限となる暖地植物は、アカガシ・シキミ・トベラ・ムベ・スダジイ(シイ)・ヤマザクラ・ゴンズイ・ネコノシタ・ヤマトグサ・ヒメウズ・ツワブキ・マメズタ・ヒロハノヤブソテツ・コモチシダ・クリハランの一五種。寒地植物の南限は、エゾノノコギリソウ・エゾツルキンバイ・シオマツバの三種である。海岸塩生地のシオマツバや、山地のヤマトグサ・海岸のコハマナス(ハマナスとノイバラの交雑種)などは、越後に分布せず佐渡にのみ分布する隔離種である。【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『草木の風土記』、同「歴史紀行」[2](『佐渡』)【執筆者】伊藤邦男
・諸役人勤書(しょやくにんつとめがき)
正徳四年(一七一四)佐渡奉行河野勘右衛門通重・神保新五左衛門長治によって作られた佐渡奉行所の役職に関する記録で、三三の役職について、定員・職務内容・管轄する御雇町人の定員などが記されている。『佐渡四民風俗』が、幕初以来元禄頃までは「定役も少なく万端手軽」だったと述べるように、佐渡奉行所の機構は簡単で実際的であった。宝永六年(一七○九)新井白石が政権を掌握すると、形式を重んじ制度を整えることを重視する政策が始まり、佐渡にもそれが反映した。河野・神保両奉行は、着任するとすぐ佐渡奉行所の支配機構を検討し、江戸時代はじまって最初の、本格的な機構改革に着手した。留守居役を月番役と改め、従来番頭と称した役名を定番役、町奉行を町方役、山奉行を山方役、惣目付を廃して目付役、また、これまで代官手代と称した六人の御雇町人を廃して、地方役一二人で、羽田・小木・大野・夷の、四組の地方事務をとり行わせる。このようにして役職を定め、職務内容・定員を定め法制化したのが『諸役人勤書』で、以後宝暦改革における代官制の採用など、部分的、一時的な改正はあったが、基本的には幕末までこの形で佐渡支配が行われた。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七)、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】児玉信雄
・白根葵(しらねあおい)
【科属】シラネアオイ科シラネアオイ属 白根葵の名は栃木県の白根山に多く、花がタチアオイに似ることに由る。高山植物。海抜六○○メートル前後の低山である小佐渡山地には分布しない。大佐渡の深山には、群れて群れて、咲いて咲いての花の道や沢が今も残っている。淡い紅紫の萼は花びらを思わせる。花びらの繊細なひだとふくらみ、シベの愛らしさ、ちりめん状に波うつ葉のソフトさ、山草の女王の気品を漂わせる。日本固有種で一科一属一種。日本の多くの植物は、列島誕生の二千五百万年前に誕生し分化発展した。シラネアオイ属は、もっと古い時代の古第三紀の初めの七千五百万年前に誕生した。七千五百万年間に多くの種を分化し栄え、その多くが滅亡した。生きつづけてみると、仲間は誰もいない。自分ひとり。地球上で日本、しかも日本海側のブナ林床という特殊な立地に生き残った“遺存種(生き残り)・固有種”である。七千五百万年生きつづけた一科一属の命運を集め花を咲かせる。生き残りというより、生きつづける輝きをこの花にみる。「白根葵咲きてありきと思ひでて 見上ぐる崖に今年も咲けり」植松寿樹。【花期】五~六月【分布】北・本州(中部以北・日本海側)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の植物ー春』【執筆者】伊藤邦男
・死霊と石臼(しれいといしうす)
湯潅後、死者を棺に納め座敷に移すと、死者の寝ていた納戸へ石臼(男の死者の場合は上臼、女は逆に下臼)を持ちこみ、左まわしに三回まわし、大きな音をどすんとたてて倒した。すると死者の魂がその部屋からたち去り、こわくないという所が多い。相川町関では、その倒した石臼を枕に、後家嬶を頼んで寝るまねをしてもらったという。同町北片辺では、その石臼を葬式のとき、ソウレン(棺)の後方に置き、出棺後、座敷の四隅をごろごろまわし、ヒラキの縁で倒し外に出した。同町矢柄では、このとき使った石臼はしばらく伏せておき、三山駆けした者に頼んで足で起こしてもらい、それから使ったという。同町高千では、石臼はふだん片方離しておくものでないという。佐渡の民俗にくわしい青木重孝は「葬制と石臼」(「民間伝承」六ー五)の中で、石臼に死霊を抑える力を感じている旨のことを述べているが、うなずけることばである。【参考文献】最上孝敬『霊魂の行方』(名著出版)、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】浜口一夫
・白島(しろしま)
二見半島西側の高瀬集落の沖合西○・六キロメートルにある、白色の裸岩の小島。付近の七浦海岸の景勝のポイントの一つである。高さ約一五メートル、海岸段丘由来の台状の島で、急崖に囲まれる。新第三紀層相川層群真更川層下部の、石英安山岩質凝灰岩から成る。暴浪の時は、全島がしぶきや波の浸食を受けるためか、岩面には蜂の巣構造が頂部まで認められる。【参考文献】式 正英『地形地理学』(古今書院)、新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】式 正英
・白花蒲公英(しろばなたんぽぽ)
【科属】キク科タンポポ属 頭花が白色のシロバナタンポポ、別名シロタンポポ。越後には分布しない。タンポポは黄色花と思いこんでいるから、佐渡の白花をみて感心する。在来種は越後・佐渡とも黄花のエゾタンポポ、本州中部以北・北海道に分布する北方種である。シロバナタンポポは、本州関東以西に分布する南方種。近畿・四国・九州の人は、タンポポは白色だと思いこんでいる。蕉村(一七八三)作の『春風馬堤曲』に『蒲公英(たんぽぽ)咲けり三々五五。五五は黄に三々は白なり」の一節にのべられるとおり、丹後あたりは黄花と白花の両種が分布していた。シロバナタンポポは越後に分布しないのに、なぜ佐渡に分布するのか。それは佐渡奉行所の薬草園に薬種として栽培されたものが、逸出野生し相川を中心に島内に広がっていったのである。新潟市では白花は寺の境内にみられるが、薬種として栽培された名残りである。生薬名は蒲公英。産後の体力回復や乳汁の分泌促進に用いる。戦後帰化したセイヨウタンポポや、アカミタンポポによって、在来種のエゾタンポポは駆遂されていったが、シロバナタンポポは特に増減がない。【花期】三~五月【分布】本(関東以西)・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』、同『佐渡山野植物ノート』【執筆者】伊藤邦男
・地分けの親類(じわけのしんるい)
土地を分けた親類という意味。外海府ではオオヤ隠居の場合をいうが、石花・北片辺・南片辺では、娘が縁づく際に、ネリゴメ田(乳児の米汁をとる田)を付けてやった家を指す。これは具体例で、一般的にいえば、婚姻にともなって土地の分与がなされた間柄を指している。「血統の親類は縁が切れても、地分けの親類は切れない」といわれるように、土地を付けない普通の婚姻の場合、縁類は死者が五十年忌を過ぎればオモシンルイでなくなり、地分けの親類はオオヤ・隠居と同様、永続的な親類とされている。地分けの親類は重要な親類とみなされ、祝言には一番の正座、葬式には受納場にすわる。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】佐藤利夫
・神宮寺(じんぐうじ)
新穂村井内一三八にある寺院。真言宗、佐渡国分寺末、山号は薬王山。新穂村の山王日吉神社七社のうち、四ノ宮である井内の八王子権現の別当寺。山門・本堂・薬王殿・宝蔵庫・鐘楼・庫裏があり、檀家数は現在一二○程。本尊は大日如来。薬王殿は薬師如来をまつり、もとは奥の院で八王子権現の下にあった。元禄の寺社帳に、「当寺開基文暦元午年(一二三四)、中興俊祐再建立、境内壱反弐畝八歩、御除米壱斗四升五合、此の反歩壱反五畝弐拾四歩、三ケ一御除」とある。神宮寺という名は、神社に付属して置かれた寺院のことで、他にも多くある。鐘楼の銅鐘は、鎌倉時代永仁三年(一二九五)のもので、重要文化財。全高一○四センチ。刻銘に「佐州羽黒山正光寺 奉施入推鐘一口長三尺 右奉鋳志者為陸奥守平朝臣御祈祷并結縁助成乃至天下法界平等利益故也 銅匠藤原家重 沙弥能主 院主僧信性 敬白」「永仁三年乙未九月日」とある。この銅鐘はもと、羽吉(両津市)の羽黒山正光寺にあったもので、明治五年(一八七二)廃寺のおり、鵜飼郁次郎の斡旋で、明治三十年、神宮寺檀家である新穂村瓜生屋の、末武喜八郎・コウ夫妻寄進の二百両によって買い受けたものである。うち百両は鐘、他百両は鐘楼などに使用。その旨の追刻銘がある。他に、安政五年(一八五八)六月、羽黒山大権現(佐和田町山田か)に奉納した八角鐘(全高五三センチ)があり、五十里篭町(佐和田町)の本間六兵衛(初代琢斎)鋳造である(寺伝では東福城の半鐘という)。また、新穂城主本間和泉守の墓(自然石、仮埋葬場という)と伝えるものや、天明八年(一七八八)の宝筐印塔などがある。【執筆者】計良勝範
・しんげぇ(しんげぇ)
シンガイ・シンゲェ銭・シンガェ田・シンゲェ子・シンゲェ牛などという言葉がある。シンゲェは、私ごと・内証・隠しごとなどの意味あいを持つ語である。シンゲェ銭は個人で自由に出来る金、シンガェ田は家の田に対し、荒れ地を自分の手間で耕し子に与えた田、つまりその語源は「新開」の田ではないかといわれている。シンゲェ子は父親不明の私生児。シンゲェ牛は、嫁にくるとき実家からもらってくる牛で、その牛が子を産むと、その売った金は嫁のシンゲェゼンになり、小遣いとなる。この風習はおそくまで海府地方に残っていた。またこのシンゲェ牛が子を産むと「たねがえし」といい、子牛を一匹実家に返した。なお、これに似た言葉に、ヘソクリ・ホマチなどがある。ヘソクリは、麻糸が衣類の大事な素材であった頃、女たちは自分の才覚で、私用の分をヘソという糸巻きの器具に巻いておいた。ヘソクリという言葉は、そこから出たといわれている。またホマチは、回船の頃、船頭などの帆待ちの間の私的なかせぎ、ワタクシアキナイから出たとの古い解釈がある。これらの言葉のその裏には、内密でためる隠し金というひびきがある。【参考文献】山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、『日本民俗資料事典』(第一法規)ほか【執筆者】浜口一夫
・新五郎町(しんごろうまち)
山師豊部新五郎が住んだことから、町の名がついた。後に豊部蔵人と名を改めている。上京町と大工町に挟まれた坂の町であり、上京町を過ぎると勾配が急にきつくなる。上京町と踵を接する西北の坂を蔵人坂と呼び、石段を蔵人個人が築き、夕白町へ通じた。南の坂を中町といい、山師が造った六右衛門町へ出た。六右衛門町は、夕白町の蓮光寺から広伝寺へ通じる坂の上になり、北は蔵人坂と交った。大工町の南側の坂は春林小路と云って、盲目の町医者がいた。春林の父は越中の生まれで、寛文の頃には大沢善行寺前に大買石がいた。六右衛門町は、かっての相川拘置所の上で、草が生い茂っているが見晴らしはよく、礎石も残り町跡が分る。『佐渡相川志』には、「元禄検地に町屋敷五反九畝二十四歩」とある。山師豊部蔵人は元和七年八月に、江戸宗遊と自分入用を以て山を稼ぎ、また滝の下間歩を、備前夕白とともに稼いでいた。戦後、金山の全盛期には鉱山の社宅が建っていたが、相川拘置所時代には、官舎に変って拘置所関係者が住んだ。『佐渡古実略記』には、「慶長・元和の頃京町より新五郎町まで皆三階屋に造り、雨降りにも往来の者庇の内を通り、別而南沢・北沢・水金沢・愛宕町空地も無く、谷々には吉野造りと申て大木を渡、其上に家を立人数弐拾壱万五百七拾弐人居住す。然所寛永二丑九月二七日、下寺町円徳寺より出火、大工町前後の町筋桐木沢迄焼失ー後略ー」とあって、人口の密集していることを誇っている。【執筆者】佐藤俊策
・新材木町(しんざいもくまち)
『佐渡相川志』には町長四五間五尺、陣屋まで二丁二七間三尺、町屋敷一反三畝二三歩とあり、薪納屋が六畝二四歩あって、総数二反二三歩になる。西小路は羽田浜へ通じ、登ると塩屋町境いになり、さらに長坂・西坂を経て上町台地へ出、陣屋へ通じる。北の小路は石拓町・材木町へと続く。元禄七年(一六九四)の検地では、相川を上中下の四段に分けたが、新材木町は最下部の四ノ位に格付けされている。四ノ位は、下戸炭屋浜町・馬町・水金沢町・下山之神町・江戸沢町・八百屋町・米屋町から四町目浜・一町目浜へと続き、上相川を含めて一番多く、二九町あった。一ノ位が一七町、二ノ位は九町、三ノ位が一七町であり、合せて七二町が格付けされていた。文政九年(一八二六)の墨引絵図では、薪納屋は浜側に多いものの、両側にびっしり民家が建っている。しかし、勝場や坑内の水揚者のほか日雇者が多く、商人は数えるほど少ない。地役人の拝領地もなかった。【参考文献】伊藤三右衛門『佐渡国略記』、『佐渡相川の歴史』(資料集五・付録)【執筆者】佐藤俊策
・新佐渡(しんさど)
大正四年(一九一五)九月五日に創刊された旬刊誌。大正三年に森知幾が亡くなると、その頃「佐渡新聞」の編集に携わっていた知幾の娘婿森守蔵や小木町の塚原徹らは、編集方針の改革を企てた。しかしこの改革は受入れられず、森と塚原は退社して、旬刊の評論雑誌「新佐渡」を発刊した。創刊当時の編集兼発行人は小沢直吉、印刷人が中村丈作で、発行所は相川町下戸七八に置かれたが、翌五年十一月には河原田町に移して日刊紙とした。表紙には酒井億尋の斬新な絵を使い、塚原と佐渡中学の同期であった青野季吉や、俳句を通じて親しかった猪股津南雄らも寄稿している。一貫して不偏不党を堅持し、社会批判と教育・文化の発展、産業の振興を目指す記事と評論を掲載して品格のある紙面づくりに努めたため、多くの読者を得て最盛期には三二○○部にも達した。昭和十二年(一九三七)五月廃刊した。【関連】佐渡新聞(さどしんぶん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・壬申戸籍(じんしんこせき)
明治五年(一八七二)に編製された戸籍で、この年の干支が壬申であることから、壬申戸籍と呼ぶ。江戸時代には、宗門人別帳が戸籍の役割を果たしていた。ところが、近代国家が成立すると国民一人一人を確実に掌握することが必要になり、明治政府は明治二年二月に、戸籍の編製を府県の仕事の一つとした。しかし、全国的にはほとんど手がつけられなかった。そこで政府は、明治四年四月に戸籍法を公布し、翌五年二月に作成された。ところが佐渡では、明治元年末に近代的な戸籍を作成するようにとの布告を出して、明治二年には編製作業が開始され、さらに同三年、同四年にも作成されている。これは、戸籍制度を幕末すでに採用していた長州藩出身の奥平謙輔が、佐渡県へ持込んだものと考えられる。明治二年の戸籍は、人別帳の形式を受継ぎながらも、職業や財産を明確にし、四年の戸籍になると姓が付き、地番順となっている。壬申戸籍になると、身分の差別が無くなって全ての国民が記載され、檀那寺に加えて氏神も記載されるようになった。【関連】佐渡県(さどけん)・奥平謙輔(おくだいらけんすけ)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・壬申地券(じんしんちけん)
明治五年(一八七二)に公布された地券で、この年の干支が壬申であることから、壬申地券と呼ぶ。明治五年七月四日、政府は全国の土地全てに地券を交付することを決め、同年十月までに作業を完了するように、府県に指令した。しかし、この交付作業は難渋を極めたため、政府はこの作業を中断し、明治六年七月に地租改正法を交付して、地租改正事業に取組むことにした。ところが佐渡では、明治六年十二月に壬申地券の交付が開始され、同八年までに山林・原野を除いて完了している。これによって佐渡では、壬申地券の交付終了後に地租改正事業に着手し、他の地域より遅れることになった。この地券は、土地の丈量は省かれ、検地帳を参考に作業が進められ、それぞれに地価が記入されている。【関連】地租改正(ちそかいせい)・相川県(あいかわけん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・荏川文庫(じんせんぶんこ)
真野町新町、山本半右衛門家の所蔵資料の呼称。山本半右衛門家は江戸時代の初期、越前福井藩士が浪人となり、相川金山に稼ぎ、のち新町に移住し、廻船などによって産を成し、学芸の道にも励むようになった。特に六代半右衛門(子温)は、京都で碩学那波魯堂の教えを受け、抽栄堂という堂号を贈られたが、十代半蔵(静古)が、「抽」の字がなじみにくいということから、家の横に江川が流れていたのにちなんで、江川を荏川と風流に書きかえ、音読みにして「じんせん」とし、荏川草堂の堂号を称し、所蔵資料を荏川文庫とした。資料は、主に江戸時代の酒造・廻船・薬種・地主などの家史に関わるもの、六代半右衛門(子温)・八代半右衛門(雪亭)から十代半蔵によってまとめられた江戸時代の儒家・書家・画家・浮世絵師・歌人・連歌師・国文学者・俳人・茶人・医家・天文家・勤王家・狂歌師・戯作者・陶工・佐渡奉行・佐渡先哲などに関わる書画・書簡、和・漢書、また、十代半蔵・十一代修之助によって収集された近代の日本や佐渡の文人墨客の書画・書簡、また、半蔵収集の国分寺瓦、修之助収集の極印ほか、佐渡に関わる書籍などが多い。【関連】山本半蔵(やまもとはんぞう)・山本修之助(やまもとしゅうのすけ)【参考文献】山本修之助「荏川文庫所蔵国文学関係資料調査」(『佐渡郷土文化』四号)【執筆者】山本修巳
・新西坂町(しんにしさかまち)
地獄谷・城ノ腰一帯を、新西坂町と云う。城の腰は、宝暦九年(一七五九)に寄勝場といって外吹買石勝場を置き、坂本口の口留番所を作って見張りを厳にした。ここから坂道の小路があり、勇仙小路と呼んだ。勇仙という町医師が住んだことからついた名で、石扣町へ出て材木町番所へ行くのに近かった。地獄谷は、西坂と分れて北へ下がる。斬罪の場所から、俗に地獄谷といったのが、何時の間にか名前がついた。城ノ腰は地獄谷を巡る道で、陣屋の腰を通ることから名づけられた。宝暦二年から拝領地になった。この道を行くと、小判所・勘定町へ出ることができた。宝暦八年暮れに寄勝場の一郭となり、外吹買石の勝場を造るため、拝領地を没収して工事をすすめ、翌年に坂本口番所を置いて仕事を始めた。外吹買石の勝場は、寛政七年(一七九五)に廃止され、そのあとを文政十二年(一八二九)に町同心が住むようになって、同心町と呼ばれた。古い同心町は広間町にあったが、組頭の役宅で没収され無くなっている。【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】佐藤俊策
・真如院(しんにょいん)
下寺町にある古義真言宗の医王山真如院は、薬師如来を本尊とし、高野山一乗院末(昔は平等院末)で、慶長十八年(一六一三)に開基したとされている。しかし寺伝によると、寛文三年(一六六三)の流人、北条道益の開基とあるので、慶長説には疑いがある。ただ一説によると、その頃住職であったのは道益の兄朝慶(貞享元年〈一六八四〉死去)とも言われているので、そのあたりに混線の理由があったかもしれない。道益自身も僧職にあったが、その後医師に転じ、やがて泉村(現金井町)に移り、その子孫が現存している家屋は、国の重要文化財となっている。【関連】北条道益(ほうじょうどうえき)【執筆者】本間雅彦
・ジンバソウ(じんばそう)[アカモク]
日本列島全体の沿岸岩礁帯から、砂岩のところに繁茂する褐藻で、ホンダワラ科に属し、佐渡でも多産する。ジンバソウ(神馬藻)という方言は、他所ではホンダワラ(馬尾藻)と呼んでいるが、佐渡では近縁種のアカモク(赤藻屑・方言ナガモク)も指している。アカモクは、他所の土地ではホンダワラのようには食用にされず、肥料にしたり、ヨードを製品化するさいの原料とされている。佐渡では真野湾地区をはじめ、アカモクを食品に用いている。ことに汁種にすることが多く、叺に積めて他所へ売り出している。アカモクの体は非常に長く、一メートルは普通で、四メートルに達することもある。茎も一メートルほどになり、茎の下の方には刺が生えていたりする。葉は篦形で、体の部分によって異なり、下の方の葉には切れこみがある。気胞は細長い円筒状で一センチ以上あり、ホンダワラの気胞が丸っぽいのと異なる。雌雄異株。【執筆者】本間義治
・甚兵衛窯(じんべえがま)
伊藤家は加賀の出身で、延宝二年(一六七四)に相川町大沢に移り住んだ。伊藤家は、代ごとに伊兵衛・甚兵衛を繰り返し名乗った。慶安頃から羽口焼成を始めたらしい。羽口は鉱石の精錬に用いる鞴に使った。二代伊兵衛は、正徳四年(一七一四)に羽口の傍ら素焼物を造った。南沢へ移ったのは三代甚兵衛の頃である。四代伊兵衛は、安永四年(一七七五)に奉行の斡旋によって江戸へ行き今戸で瓦、梅堀で万古焼の類を習い覚えた。瑞仙寺の土蔵を葺いたのが最初と云われる。七代甚兵衛は、文政二年(一八一九)に無名異を混ぜて楽焼を始めた。八代伊兵衛は、安政中に甚兵衛と改名し、南渓・清風亭・弄花堂等の雅号を有し、手製には羽甚、また、奉行から貰った「佐」の字の極印を押印した。俳句・茶道・挿花に勝れ、茶碗・盃などの意匠に新しい考えを取り入れた。明治になり、焼物の職業を辞めて農業に従事した。無名異の元祖と云われたが、明治になり無名異の高温焼成に成功して、無名異焼と名乗ったのが、三浦常山や伊藤赤水である。伊藤赤水は、三代甚兵衛の分家になる。【関連】羽口屋甚兵衛(はぐちやじんべえ)【参考文献】川上喚濤「陶工としての伊藤家」(『佐渡群書類従』)【執筆者】佐藤俊策
・新保川東遺跡(しんぼかわひがしいせき)
金井町大字新保字川東の水田地帯にある、弥生時代中期中葉から後期の玉作遺跡。農業構造改善事業に伴う基盤整備中に発見され、昭和四十三年(一九六八)十二月二日~三日、金井町教育委員会により、緊急発掘調査が行なわれた。東西二○○メートル、南北三○○メートルに遺物散布が確認され、E地点(新保二八三)からは、佐渡玉作遺跡で初めて、七メートル方形平床の玉作工房址が検出された。玉作工房址は、内側の北側よりに径一メートル位の凹味があり、周辺からは鉄石英の小破片が散布していた。多くの土器片とともに、細形管玉の未成品や完成品の他、石針・石鋸・砥石なども出土し、A地点(新保一九の子)は古墳前期を含み、B地点(新保二八五ー一)は碧玉を主体としていて、周辺に弥生時代玉作遺跡がひろがっていたものとみられる。近くに、二丹田遺跡・城の貝塚・藤津遺跡などの、同時代玉作遺跡が分布している。出土遺物は、金井町歴史民俗資料館に収蔵されている。【参考文献】『金井町史』【執筆者】計良勝範
・神木(しんぼく)
神さん木ともいう。神社の境内や、山や湧水池などの信仰域にあって、神霊宿るとされる樹木で、注連が張られる場合がある。のろいの釘などがうたれた釘あとがあるものもある。金井町新保八幡宮の本殿、右側のスギの大樹は神木で注連が張られ、のろいの釘あとがある。金井町吉井本郷の普門寺の境内のシイの大木(高さ一三メートル、幹径一・七メートル)の下に小さな祠があり、この地の地神が竜神となり、シイの大樹に乗り移って住んでいると伝えられる。佐和田町中原の中原神社の社林はタブ林である。裏参道にカサヅカ(傘塚)と呼ばれる塚に、樹冠が傘状に広がるタブの大樹があり、木の下に稲荷様を祀る祠がある。商売繁盛の神宿るカサヅカの神木とされた。相川町大浦の尾平神社の鳥居をくぐって、右側にあるクロマツの大樹は御神木で、のろいの釘あとがある。昭和六十年代伐採された。赤泊村の村の木はカヤ(榧)である。赤泊村徳和の大椋神社の境内にそそり立つカヤの大木(雄株・樹高三○メートル、幹周四・五メートル)は御神木で、注連が張られ、樹幹にはのろいの釘あとが多くみられる。赤泊下川茂の五所神社の御神木はスギの大木、注連が張られ、樹高三○メートル、幹周五・二一メートル。神社の裏山の大杉山には、天然スギの巨木の切株(長径三間、短径二間)がある。両津市赤玉の杉池、湧水池の元池のわきに林立する三本幹の天然杉は注連が張られ御神木。近くに杉大明神を祀る祠がある。小木町宿根木などで、寺の境内に生えているタブの大木を伐る場合は、樹に宿っている地神さまを他所に移すため、樹のまわりに円形にローソクと線香を立て、読経をしてから伐る。地神が宿っている木をそのまま伐るとたたるという。またツバキは神さん木で伐らないことにしている。決して舟材にしないが、舟材にすると海神さんが怒り、たたるという。【参考文献】伊藤邦男『南佐渡小木の植物』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】伊藤邦男
・迅雷隊(じんらいたい)
慶応四年(一八六八)閏四月に結成された佐幕同盟。慶応四年一月に、鳥羽・伏見の戦が起こって徳川勢が敗れると、会津藩から協力の要請、北陸道鎮撫総督からは奉行へ出頭命令が下った。当時佐渡支配を任されていた組頭中山修輔は、この難局を切り抜けるには、局外中立以外に無いと考え、双方に使者を送って佐渡の国情を説明させるいっぽう、島民の結束を図るために、佐幕党を旗印とする迅雷隊を結成した。迅雷隊は、一五歳から四○歳までの地役人をはじめ広く島民からも同志を募って結成された。隊長が中山修輔、小隊長には広間役の高野信吉・松原小藤太と、武術所定役の早川源次郎が任命された。約百名の隊員の中には、一○名を越える町人や医師等が含まれていた。閏四月十一日、山ノ神の東照宮別当教寿院に糾合した隊員は、血判を押して二心無きを誓い合い、圓山溟北作の「祖廟斎盟記」が読み上げられている。隊長中山修輔は、越後の情勢なども考慮して、佐幕同盟を掲げながらも奥羽越列藩同盟には加担しなかった。このため、山西百太郎(敏弥)らのように、佐渡を脱出して薩長軍と戦おうとした者もいた。維新後は、早川源次郎が隊長となって地役人を帰農させるための開墾を行なっている。【関連】中山修輔(なかやましゅうすけ)・山西敏弥(やまにしとしや)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、山西敏弥『幕末遭難記』(舟崎文庫)【執筆者】石瀬佳弘
・森林帯(しんりんたい)
冬の季節をさけた島の東南面は暖帯的であり、丘陵帯には海辺から内陸にむけて、タブ林・スダジイ林・ウラジロガシ林の原植生を今に残している。磯はタブの黒森、海に労つく人々の最初に住みついた森。日本の磯が失った黒森を、佐渡では社寺林や屋敷林に残していて、黒森のレリックの島である。大佐渡山地は金北山(海抜一一七二メートル)を主峰に、海抜一○○○メートル前後の峰が起伏し連らなる。山頂部は季節風をうけ海抜が低いにもかかわらず、強い山頂効果が生じて高山景観をなし、ハクサンシャクナゲ・ゴゼンタチバナ・サンカヨウ・ムラサキヤシオなどの、高山植物が集中分布する。丘陵地(海抜一○○メートル)はヤブツバキ帯、山麓(一○○ー四○○メートル)はコナラ帯、山腹(四○○ー一○○○メートル)はミズナラ・ブナ帯、山頂(一○○○メートル以上)はミヤマナラ帯と推移する。標高差一○○○メートルのせまい差の中で、大佐渡山地の国仲斜面では、ヤブツバキ帯→コナラ帯→ミズナラ・ブナ帯→ミヤマナラ帯と、五つの森林(植生)帯が推移する。海洋に孤立した島の山におこる垂直分布の圧縮された(寸づまり現象)が、佐渡の森林植生帯の特徴である。【参考文献】伊藤邦男「佐渡草木覚え書き」(『嶋の花』一○号)、同『佐渡花紀行』【執筆者】伊藤邦男
・水学(すいがく)
【生没】生・没年不詳 佐渡鉱山に、アルキメデス・ポンプの「水上輪」を伝えた水利学者、からくり巧者。京都または大坂の人とされているが、経歴も生い立ちも正確なことは伝わっていない。寛永十三年(一六三六)に長崎港外神島沖に沈没していたポルトガル船から、からくりを用いて銀六百貫余を引揚げた記事(長崎志)に見えるのがほぼ最初で、これに協力したのが、日本で初めて西洋式の航海術書である『元和航海書』を著わした池田好運だった。好運はポルトガル船の船体構造にくわしく、水学はからくり術にたけていたことが、その後のいろいろな書物からわかっている。承応二年(一六五三)に水上輪を初めて鉱山に伝えたとき、本名が水学宗甫、俗名を木原佐助といい、水上輪の作り方を籠(牢)坂番匠の忠右衛門・加賀勘兵衛・同太郎左衛門の三人に教えたと、『佐渡国略記』などに記されている。山師味方孫太夫(治助)が佐渡へ招いたもので、やがて割間歩に八十艘、明暦元年(一六五五)には百八十艘の樋(水上輪)を作って仕掛けたとされる。坑内排水に効果があり、鉱石一荷(五貫目)について銭三文、のちに三人扶持が水学に特許料の意味で与えられた。水学については、大坂の中津川や淀川にからくりを用いたと思われる「早船」を仕掛けた記事が、西鶴の「独吟百韵自註」(元禄五年刊)に出ており、延宝二年(一六七四)のころ島根県の出雲であった洪水後の田畑開墾に、上方から水学が招かれた記事(荒懇権輿)が見える。造船をはじめ、主として水利に秀でていた。この術は長崎渡来の南蛮系の学問を、好運らと学んだことによるらしく、名前は一般に水学で通っていた。【関連】水上輪(すいしょうりん)【参考文献】前田金五郎「水学ー元禄時代技術史料」【執筆者】本間寅雄
・水車(すいしゃ)
「みずぐるま」とも呼ぶ。水力を用いて大型の石臼を廻したり、自動的に杵を上下させて、穀類を搗いたり精白したりする施設である。相川市街に仕掛けられた水車は、農漁村部のものに先んじていたと想像される。相川には、江戸初期に水上輪(アルキメデスポンプのこと)が伝えられ、その揚水機は水車と共に、オランダからの伝播だからである。鉱山技術者の中には、オランダ人技師がいたことが伝えられ、切支丹関係資料からも裏づけられる。しかし民間の水車は、文献で確認できるのは意外に新しく、江戸後期以後である。最初はやはり鉱山で、鉱石の粉成用に水車を用いていた。『佐渡年代記』によると、寛永三年(一六二六)に戸地川に設置した。また元禄十年(一六九七)に、相川一丁目と二丁目の境の川通りもできたとあるが、これが官用か民間かわからないのである。下戸の林伊三郎家では、江戸末期から大正十三年頃まで、海士町川の水を利用して、四つの杵搗き臼で米と麦を搗いていた。赤川でも、下寺町の登り口にかかる石橋のところに、いくつかの水車がかかっていた。上流から、加藤車・福井車・古藤車・小田車などと呼んでいた。加藤車は最後のもので、すし米などの上質米から、飼料用の砕け米までを搗いていたといわれる。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間雅彦
・水上輪(すいしょうりん)
江戸前期、承応二年(一六五三)に佐渡鉱山にもたらされた坑内排水(揚水)ポンプ。紀元前一世紀のころ、ギリシャの哲学者・物理学者のアルキメデスが考案したアルキメデス・ポンプが祖形とされる。木製の細長い円筒の内部に螺旋竪軸が装置され、上部についたハンドルを回転させると、水がじゅんじゅんに吸み上げられる。ナイル川のほとりでは、灌漑用ポンプとしていまでも使用されており、佐渡でものちに農家に払下げられて、「樋」または「蛇腹樋」といわれて威力を発揮した。なお中国では「竜尾車」と呼び、竜が水のシンボルであるところから水象輪に転じ、日本では「水上輪」と呼ばれた。「みずあげわ」と書くのはまちがいで、「すいしょうりん」が正しい。中国を経由して佐渡に入ったと思われるが、これを佐渡鉱山に伝えたのは、京都(大坂ともいう)にいた水学宗甫という盲人で、その時期を寛永十四年とする説もあるが、近年は承応二年説が支持されつつある。山師の味方治助(三代目孫太夫)が、水没した割間歩の取明けをくわだてて、京都から水学を呼び寄せ、作り方を相川牢坂(現在の長坂)番匠に伝授したという。江戸時代は、通常「九尺」がこのポンプの長さの標準で、農家に払下げてから長短いろいろに造られ使用された。滋賀県の琵琶湖西岸でも、江戸時代から農用に使われ「さざえから」などと呼んだとされる。が、佐渡鉱山以前に国内で使用された史証はまだなく、この西洋技術は、佐渡がもっとも早やく受入れたことになる。【関連】水学(すいがく)・樋引(といびき)【参考文献】小葉田淳「続日本鉱山史の研究」、吉田光邦「機械」【執筆者】本間寅雄
・瑞仙寺(ずいせんじ)
高名な山師味方但馬家次(二代目)が、元和九年(一六二三)四月に、京都で没した亡父但馬家重(初代)の菩提所として、寛永元年(一六二四)に建てた日蓮宗の寺。新穂村大野根本寺末だが、古くは京都妙覚寺の末寺で、山号は光栄山。寺号は家重の法名「瑞仙院日栄」によったと思われる。創建当時は、奥州(青森県)から運んだヒノキ材で建てたと伝わり、残っている建物では二王門がもっとも古く、元禄時代の造りが見られるという。根本寺末一一か寺の觸頭を勤め、代々学徳の高い住職が多かったと、古書は伝えている。境内にある「日親堂」は、京都本法寺の開山で「折状正義抄」などの著作で知られ、日蓮宗不受不施思想のさきがけを作ったといわれる久遠院日親をまつる。俗称「鍋(なべ)かむり日親」とも呼ばれた高僧で、彩色の「日親上人畧伝記」の画幅一二幅が、信者の寄進で宝蔵されている。祖師日蓮の木彫立像(本尊)は、寛永六年(一六二九)の作銘が見える。また味方但馬の末裔で、新潟市の味方重憲氏が所蔵する、家康などから但馬が拝領した胴衣・扇子・茶碗および、但馬の肖像画や手紙など、数多い史料が保管されている。家康拝領品は、銀山開発の功労により、拝謁のおりにもらった品々である。石州浜田の産で、鉱山で産をなし、沢根へ移って廻船問屋の「浜田屋」を起こす笹井家、元地役人の末裔で学習院大学の教授をした岡常次博士の先祖に当たる、岡家の墓などがある。【関連】味方但馬(みかたたじま)【執筆者】本間寅雄
・須恵器窯跡(すえきかまあと)
二見半島には、現在五か所の古窯跡が知られる。大浦・石地河内・高瀬・苗代の腰・穴窯・橘・伝助畑・二見・納戸沢であったが、納戸沢は佐和田町に所属することが分かり、登録を移転した。須恵器は五世紀頃に日本へ渡来したと伝わる。最初は大阪府の丘陵地帯、陶邑古窯址群で、朝鮮から技術が渡ったとされ、古墳時代以降日常什器として人々に使用された。佐渡では小泊窯跡群が九世紀中頃から焼かれ、遠く北海道や富山県に流通していることで名が知られる。他に両津市北松ケ崎・真野町経ケ峰・大木戸の三か所であり、小泊も真野町の窯も、寺院・官衙の瓦を焼く特徴を備えている。相川の古窯址群は、苗代の腰・石地河内で八世紀前半に焼き始め、高瀬・穴窯が中葉、石地河内の新しいものでも九世紀前半まで焼かれ、九世紀中葉に小泊窯址群が発生し、一○世紀後半まで続く。二見半島は、佐渡では最も古い窯址と云える。納戸沢が畿内の系譜を持ち、他の二見半島は、東海地方の系譜下で成立した窯ではないかと想定される。【参考文献】坂井秀弥・鶴間正昭・春日真実「佐渡の須恵器」(『新潟考古』)、金子拓男「律令制下の越後・佐渡国」(『新潟県史』)【執筆者】佐藤俊策
・杉島聖観音磨崖仏(すぎしましょうかんのんまがいぶつ)
相川町大字橘字差輪の杉島に彫られた、半肉彫聖観音の磨崖仏である。差輪の県道二見線ぞいの海岸に、高さ八、九メートルもある、杉島と呼ぶ凝灰岩の筍状の巨岩がつき立っていて、その杉島の海を背にして、南面する岸壁に彫られたもので、大師堂と言う建物に覆われていて、外からは見えない。像高は一四五センチの、全体に量感のある立像である。背後に浅い舟形光背の彫り込みがあり、足下には、陰刻の蓮弁をもつ蓮花座がある。面相は摩滅が多いが、切れながな眉と目がうかがえる。両腕を胸前に置き、左手には蓮花を持ち、右手は掌をたてているようである。衣文はふくらみを持たせた沈線の表現が特徴的で、両手首から下る天衣は、腰の外側にふくらんで垂下し、その末端は足の甲高さで外側に丸まってひるがえる。仏頭頂の上方に、径一○センチ位の「サ」(または「ア」か)の種子が陰刻される。像の向って左側には「宗蓮作」(または「宗道作」か「宗藍作」か)の刻字がある。推定年代は、藤原時代地方作とする説が、磨崖仏として発見された当初示されたが(計良一九六六)、陰刻の蓮花座の形式との組合せなど、村上市・岩船郡・北蒲原郡などに見られる、一四世紀南北朝時代の石仏分布圏の中でつくられたものとする説(京田一九七二)が有力である。縁日は、旧暦の三月・七月・十月の各二十一日で、自然に現われたとも、弘法大師作とも言って、土地の信仰があつい。佐渡の磨崖仏は、以前、小木町宿根木の岩屋さん磨崖仏のみが知られていたが、現在は、この杉島磨崖仏の他に、下相川の富崎線彫不動磨崖仏・春日崎の線彫地蔵磨崖仏・平田磨崖仏(小像)などが発見されている。【関連】春日崎線彫地蔵磨崖仏(かすがざきせんぼりじぞうまがいぶつ)・富崎線彫不動磨崖仏(とみざきせんぼりふどうまがいぶつ)【参考文献】計良勝範「二見半島の石仏」(『二見半島考古歴史調査報告第一輯』相川博物館報五号)、京田良志「佐渡相川町の杉島聖観音磨崖仏」(『史迹と美術』四二四号)【執筆者】計良勝範
・簀菰(すごも)
縄で茅を編んで菰をつくり、底をつけた運搬用の籠。炭菰から転用した用具。小木三崎では「すご」という。普通の大きさは幅七○センチ、奥行四○センチ、深さ五○センチ。五本の藁縄で編み、底も茅と縄でつけてある。用途によって大きさが異なる。和牛を飼育している家で、牛の「つぼ」(飼料)を入れるために作ったものは大きく、畑仕事などに持っていくものは小さく作ってある。苗籠のような小さい物入れにたいして、乾燥した若和布や椎茸を入れて持ち運ぶのに新しい簀菰をつかう。軽くて嵩のある品物の運搬に用いるが、背中当か、おいこをつけて負う場合が多い。しかし外海府ではあまり使わない。その理由はわからない。炭焼が盛んなため、転用はなくて、もっぱら炭俵に利用されたようである。片辺あたりでもっともよく見かけるが、冬の納屋仕事で作成した真新しい簀菰は食べ物の運搬につかわれ、古くなると畑作物やごみを入れたりしている。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)
石花のセトにあり、この宮は、かって牛頭天王蘇民将来を祀っていたが、その勧請年月は不詳。明治四年(一八七一)、蘇民将来は外来人なるが故に、祭神にはふさわしからずとの理由で、素盞鳴尊を祀るようになったという。蘇民将来については、海府の古民謡ソウメンさんに、「ソウメンさんの出どこ、西が曇れば雨となる」というのがあるが、このソウメンさんの出所は、食物のソウメンの産地、能登の輪島かタコ島をさす説と、石花の産土神だったソウメン(蘇民のなまり)の出所、つまり朝鮮半島をさすとの、二つの説があったが、くわしいことは不明である。どちらも当地から見れば、西にあたるわけである。蘇民将来は、かって家の戸口に、災厄防御の護符としてはられたり、疫病除けの茅の輪くぐりの行事とも関連するなど、なじみぶかい神である。また『備後国風土記逸文』には、北海の武塔神が、南海の女のもとへ求婚に出かけた途中、日が暮れ、巨旦将来と蘇民将来に宿を乞う、まれ人説話が見える。『佐渡国寺社境内案内帳』には、石花の蘇民将来の社人は民部、祭礼は毎年九月十八日とあり、現在は四月十五日、鬼太鼓が奉納される。この鬼太鼓は、大正の頃、両津市玉崎から習ったものだという。【関連】蘇民将来(そみんしょうらい)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『高千村史』【執筆者】浜口一夫
・寿司嘉(すしか)
相川町一丁目本町通りの西側にあった高級料亭。明治三十四年(一九○一)九月発行の『佐渡名勝』(佐渡新聞社刊)に、「寿司嘉、和洋御料理」と広告が出ている。創業は未祥。大正十二年六月発行の『佐渡案内』によれば「電話五番」とあって、早いころの開業と思われる。この広告には「割烹・寿鹿、主・原田寿山福海」と主人の名が出ている。亭主の「寿山」は雅号で、本名は原田安太郎。明治五年の生まれで、三島郡西越村字小崎の出身とされ、原田家を継いだといい、「三層楼新築、百餘畳の大広間」が評判となったのは昭和に入ってから。安太郎の風ぼうは乃木将軍に似ていて、別名を「佐渡の乃木さん」といったという。作家の江見水蔭が書いた『佐渡へ佐渡へ』(昭和七年十二月発行)に、この乃木さんのことが記されていて、「其所(高田屋)へ原田寿山翁がきた。相川、といふよりも佐渡一流料亭の主人で、かって大町桂月が佐渡の乃木さんと如才なき命名、いよいよ佐渡一の名物男。この頃佐渡乃木さん、自ら腮(あご)髪を長く伸して、面相上からは乃木さんでなくなりかけている」とし、いつぞやの選挙で全島こぞって山本悌二郎に投票した中に、寿山老の得票が二票あった、そういう人気男、といったことを書いている。「(寿志嘉の)入口の門柱に、元鉱山用の石の挽石を重ねたのが、目に立った」とも記していて、この石臼の塀は近年まで残っていた。【執筆者】本間寅雄
・鈴木部屋(すずきべや)
鈴木菊次が経営していた、鉱山の大部屋の一つ。大塚部屋と同じく、古くは銀山町に飯場や邸宅があったと伝えている。大工町へ移るのは、明治二十三年四月ごろとされ、菊次の前戸主は鈴木コウ。文久元年(一八六一)九月生れの菊次が、明治四十五年ごろに相続して、部屋を盛り立てたと思われる。菊次は、福島県田村郡三春町字中山の出身とされている。大工町の富田毅が所蔵していた「鈴木部屋戸籍調書」には、抱え坑夫・人夫三一○人の記載がある。ただし福島県出身は四人しかいない。反対に長野県出身が一○三人で、大塚部屋をしのいでいた。これは鈴木(先代か、二代目)が、もとは大塚部屋に所属していた人で、のちに独立して鈴木部屋を持ったという事情(大塚平吉の親族・今井チヨ談)によるらしい。もともと福島出の人は全体として少なく、各部屋に共通して長野出が多かった。地縁的なつながりにもまさるような、鉱山稼ぎを多く出す事情が、養蚕なども盛んだった長野という地方の、体質にもあったとみられる。鈴木部屋抱え坑夫・人足のうちの、三○八人の平均年齢は二七・五歳。一九歳未満が三九人、二○から二四歳が七八人、二五から二九歳が八四人で、部屋労働者の大半を、二十代の若者たちが占めていた。鈴木菊次は、大正十三年十一月に没している。下寺町の日蓮宗妙円寺に、親方および所属労働者の「坑夫人足供養塔」が残っている。【関連】部屋制度(へやせいど)【執筆者】本間寅雄
・炭屋町(すみやまち)
相川の濁川をすこし上ったあたりの右岸に、炭屋町がある。近くには紙屋町・板町・材木町・塩屋町などの問屋街が接していて、大間の湊を中心とした経済取引の要地であったことがわかる。そしてもう一か所、旧下戸村にも炭屋町・炭屋裏町・炭屋浜町があり、前者よりはるかに広いが、元禄検地以降の新地もある。相川は消費人口が大きい上に、木炭使用料の多い製錬所をひかえているので、木炭の需要が格別であった。炭屋町を名乗る町名のところは、沢根や金泉・高千方面などにもあるが、そちらのほうは生産地的性格の炭屋の集団地であろう。下戸炭屋町は、検地時の屋敷面積は一町一反一畝六歩と、濁川の炭屋町の約三倍に近い。『佐渡相川志』によると、この町のはじまりは炭屋孫左衛門という者によって開発されたという。ほかにもこの町内には、長原屋市兵衛・難波屋宗兵衛・十郎左衛門・勘左衛門・宇兵衛・治兵衛など、商人らしい名をもつ者や大きな屋敷持の名が書かれている。たぶん他地での成功者によって炭屋町の名がつけられたが、薪炭業者の町であったかどうかは分らない。右書の、濁川の炭屋町については「検地ニ町屋敷三反三畝九歩。此所慶長・元和ノ頃町々入用ノ炭売買此処ニ限レリ」とある。右記事は、慶長十五庚戌の『佐渡年代記』にある「炭薪は炭屋町材木町、紙類は紙屋町にて商ひ、外にての商売を免さす──」とあるのにも見合っている。【執筆者】本間雅彦
・住吉古墳(すみよしこふん)
両津市大字住吉の住吉神社わきで、海抜約五メートルの海岸砂丘地から発見された、六世紀後半の二基の古墳をいう。昭和三十七年(一九六二)十一月八日、両津高等学校住吉校舎の校庭整地中に出土。一号墳は石室の最下部側壁をのこすのみで、大半がすでに破壊され、二号墳は玄室と羨道一部の最下部側壁が残されていた。両古墳とも、横穴式石室の円墳で、二号墳の玄室中央部には、長方形の石囲みがあった。出土遺物は、一号墳から須恵器甕数片・金環三点・直刀一振・鉄鏃三点・馬具鉄轡片数点。二号墳からは、須恵器蓋二点・直刀一振(石囲内)・金環三点・成人男子頭蓋骨片と、脚部骨片である。佐渡の古墳(後期古墳)はおよそ四○基で、真野湾沿岸の真野側と二見半島側に多く、羽茂の大石海岸・国仲平野部・両津湾沿岸部にもある。両津湾沿岸は、住吉古墳と河崎の水尾神社境内にある河崎古墳の三基で、住吉古墳は砂丘地の立地と、二号墳の玄室内の石囲に特徴性を指摘できる。二号墳の玄室は保存されている。【参考文献】椎名仙卓「海辺に築かれた古墳」(『考古学雑誌』五三巻四号)【執筆者】計良勝範
・諏訪神社(すわじんじゃ)
高下の家の元にある。祭神は健御名方命、社人は高下兵助である。『佐渡国寺社境内案内帳』には、天正十六年(一五八八)に勧請されたとある。なお同書には、合祀の十二権現、文禄元年(一五九二)勧請。社人は佐兵衛とある。「高下村立始り由緒書覚」によると、高下村の草分けは、高野下次郎兵衛(現在の高下兵助の先祖)という者で、真更川のオオヤ三十郎家の弟で、高下に入る際、真更川の諏訪神社を分霊勧請したといわれている。そのため、昔は正月のお松さん迎えには、わざわざ親村の真更川まで行ったものだと、古老たちは語る。祭日は四月十五日、獅子と太鼓が奉納され、各戸をまわる。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)、『高千村史』【執筆者】浜口一夫
・諏訪町(すわまち)
大工町の坂をのぼりつめて、すこし北側に傾斜している坂を降りていくと、一向宗(浄土真宗)の万照寺がある。一般民家はなく、一寺だけの町である。元禄検地帳では、屋敷六反五畝十五歩とあるから、その頃には数十軒はあったと考えられる。『佐渡相川志』によると、「此所慶長年中ニ信州諏訪ノ者当国ヘ来リテ開発ス。因テ諏訪町ト言フ。此者銀山ヲ稼ク。是ヲ諏訪間歩ト言フ。比類ナキ大力ニテ人畏レ、諏訪殿ト言ヘリ」とある。文政九年(一八二六)の「相川町墨引」には、四○戸余の屋敷があって、すでに空家も四か所ほどみえる。住人の肩書きに「石えり」三人・「川石ゑり」一人があるので、のちの選砿場のような仕事をしていたのであろうか。【執筆者】本間雅彦
・製塩遺跡(せいえんいせき)
昭和三十年代後半から二見台ケ鼻付近を中心に、製塩遺跡の調査が開始された。県内では最初の調査となった。相川の海岸に立地する製塩遺跡は、廃棄された細片が多量で、広範囲に散布している。年代は八世紀初頭から九世紀前半に及ぶと推定される。一覧表に示せば、旧二見村では「宮の川・二見元村西・月不見池・送り坂・送り崎・弁天岩・片谷・二見崎・台ケ鼻東・台ケ鼻・塩ツ田・城ケ鼻・砂原(A・B・C)・砂原神明社・目観音川群・二見群・かまんど・大魚・助岩岩陰・日観音堂・塩ケ崎・鬼ケ岩・浜戸・杉島岩陰・紋兵衛・差輪」があり、旧相川町では「吹上・どろの 」の二つ。金泉村では「井戸島の根・向・達者中村・釜屋」の四つ、高千村は「北河内熊野内・藻浦岬・中ノ川」の三つ。外海府村では「アンジャの浜・小僧の川・小田南・小田浜田・関公民館前・釜の元」の六つがあり、二見半島が総数の五○%を越え、圧倒的な多さを誇る。この中には波風による風化や、護岸工事で消滅したものもある。例えば、鹿ノ浦中ノ川遺跡は、台帳に中ノ川口に遺物包含層が露出しているとあるが、平成五年に確認調査を行なった結果、文化層は見えず、護岸工事や波浪で浸蝕された可能性が強く、二見半島弁天岩遺跡は、平成七年(一九九五)に確認調査を行なったが、これも護岸工事で遺跡は湮滅し、新たに奥の層中から縄文末~古式土師器が出土し、新しい遺跡が発見された。【参考文献】金沢和夫「製塩遺跡」、佐藤俊策「中ノ川遺跡確認調査報告」・「弁天岩遺跡確認調査報告」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】佐藤俊策
・清新亭(せいしんてい)
相川にあった高級料亭。明治三十年の創業で文人・墨客が多く訪れた。『佐渡名勝』(明治三十四年九月発行、佐渡新聞社)によると、このころ四丁目にあって一部三階建てだった。「会席御料理・和洋御料理」と広告が出ている。現中塚家の経営で、古くは「紅屋」という屋号の染物屋であったという。同三十六年には一丁目(正確には江戸沢)に移っていて、大正十二年(一九二三)六月発行の『佐渡案内』の広告欄では、「和・洋御料理、清新亭」とある。同年の「相川各営業案内」のチラシにも、「御料理、一丁目、清新亭」と出ている。場所は新潟交通相川営業所(現在は町営駐車場)のあったところで、写真では木造一部三階建てである。民謡団体の「立浪会」ができたのは大正十三年で、翌十四年には相川音頭・佐渡おけさのレコード(ヒコーキ印)吹込みや、久邇宮殿下の来町などがあったがこの創立当時の会員たちの稽古場が清新亭であり、一晩稽古にゆくと「畳賃として十銭づつ置いてきた」と、同会の本田虎次郎や木島栄太郎らが語ったことがある。いまの会津町にある清新亭は、昭和三十年ごろ佐渡鉱山長社宅を譲りうけて開業したもので、平成十一年十月に廃業した。川端康成・“ドナルド・キーン”・吉村昭・津村節子・永六輔・随筆家の岡部伊都子らが投宿している。【参考文献】『立浪会史』(立浪会)【執筆者】本間寅雄
→◆「参考資料(文献・書籍)」(写真等あり)
・清水寺(せいすいじ)
新穂村大字大野一二四ー一にある真言宗寺院。山号は東光山。「清水寺由緒」によると、大同三年(八○八)、賢応を開基とする。本尊は千手観音で、観音堂(本堂・元和八年建立)に安置する秘佛。もと、越後西津の吉祥寺末で、元禄三年(一六九○)に江戸の護持院末に改め、のち護国寺末となる。奈良の長谷寺が本山。境内一一町歩余り、田地三町歩余りの大寺であった。観音堂(救世殿)、方丈・庫裏・田村堂・開山堂・多聞堂(白山堂)・大師堂・地蔵堂・宝蔵・経蔵・二王門・中門・鐘楼などがあり(田村堂・開山堂・多聞堂は現存しない)、観音堂には舞台がつく。寺家は大野の錫杖寺・臨川寺・慈眼寺、末寺は大野の報恩寺と長安寺(両津市久知河内、天正兵乱後末寺)。門徒は大野の来迎寺・樹林寺・地蔵寺・神宮寺・宝泉寺・公樹寺と、十禅寺(舟下)・宝満寺(舟下)・宝性院(久知河内)があったが、現在は慈思寺(慈眼寺と地蔵寺が報恩寺に合併)・弘樹寺・樹林寺・長安寺の、四か寺のみとなっている。什宝に、本尊千手観音・薬師如来座像・地蔵菩薩・毘沙門天などの木像、恵果筆両部種子曼荼羅・弘法筆両部彩画曼荼羅・智證筆十三仏・興教筆不動明王・智證筆愛染明王・唐筆の涅槃像など。文永十年(一二七三)、京都三宝院の「結縁灌頂」の記録。明応九年(一五○○)銘の観音堂鰐口など、他に慶長五年(一六○○)の「佐州大野村清水寺領御検地帳」「佐州大野村寺社御検地帳」「佐州大野村御検地帳」(以上新穂村文化財)が大野区に残り、山門前の中河家には、大銀杏(村文化財)や同家出土の黄瀬戸小皿(一七枚)、瀬戸天目茶碗・高麗青磁などがある。【参考文献】『新穂村史』、『山と川と大地』(大野史)、計良勝範「再発見された新穂村大野清水寺の鰐口」(『越佐研究』五五集)【執筆者】計良勝範
・清水寺(せいすいじ)
石名にあり、高野山真言宗。本尊は大日如来で、山号は檀特山、坊号を普門坊と称した。寺社帳によれば、大同二年(八○七)弘法大師草創とあり、さらに仙人ケ滝(場所は不明)の両曼陀羅および大日不動などの諸尊に、「大同二亥年空海」と石に刻んであり、天正二年(一五七四)教善が再建したが、寛永元年(一六二四)縁起什物等焼失とある。また『名勝志』によれば、開基知れず。中興教善の位牌に天正二年とあり、しかし佐渡三霊山の一檀特山の別当寺が、何故真光寺の末寺なのか知る人はいないとある。末寺となったのは元禄十三年(一七○○)で、それまで門徒ではなかったが真光寺とは密接な関係にあり、真光寺最後の住職「賢理」は、清水寺の出身で慶応二年(一八六六)入山。真光寺廃寺の後は金北山神社の神官となり、明治二十八年没している。寺格が上であったことから、明治の廃仏毀釈では廃寺を免れ、高下の金剛寺が廃寺になったため、高下の人々はみな清水寺の檀家になった。また天明元年(一七八一)木喰行道が檀特山に残した薬師・地蔵仏のほか数々の遺品が安置されている。【関連】石名清水寺の大イチョウ(いしなせいすいじのおおいちょう)・重泉寺(じゅうせんじ)・檀特山(だんとくせん)【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『高千村史』【執筆者】近藤貫海
・清水寺の大銀杏(せいすいじのおおいちょう)
【別称】石名清水寺の大イチョウ(いしなせいすいじのおおいちょう)
・清楽社(せいらくしゃ)
和歌結社。最後の佐渡奉行で、維新後再び相川県参事(のち権県令)として来島した、鈴木重嶺を指導者に仰いで、相川に結成された和歌愛好者の集団。旧奉行所地役人や、その子弟が所属した。重嶺は、後に明治三六歌仙に数えられる歌人でもあり、その門人は相川に限らず、佐渡全島に及んでいた。重嶺が権県令を辞任して帰京した明治九年(一八七六)以後は、用人としてついて来て、重嶺離任後も相川にとどまった三河清観が、幹事となって指導した。清観はもともと鷺流狂言師であったが、和歌にもすぐれていた。明治三十年代に、新派和歌運動を起こす山田穀城(花作)・長谷川清(楽天)・上月喬(桂男)等も、少年時代から父や祖父に伴われて出席していたという。明治期の佐渡には、この清楽社以外にも両津に熱串彦神社神官中村春彦が指導する「花月社」、畑野に医師の生田裕が率いる「春風社」、金井に石塚秀策を中心とする「茶話会」などの結社があったが、いずれもリーダーの死亡や和歌革新運動の波に呑まれて、明治後期までに消滅した。【関連】鈴木重嶺(すずきしげね)【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』、酒井友二「佐渡短歌史抄」1~3(『佐渡郷土文化』五七~五九号)【執筆者】酒井友二
・関(せき)
南は関崎の禿の高、北は寒戸崎にはさまれた集落で、背後にはトドノ峰と知行山がけわしくそびえている。関崎は標高一○○メートル余の巨大な岩山で、石灰岩からなる「木の葉石」と呼ばれる化石などが出るが、禿の高隧道(昭和三十五年)完成までは、海府道の一大難所であった。寒戸崎は、背後の知行山が中世に岩崩れを起こし浜を埋め出来た岬で、ムジナ伝説をもつ寒戸神社(大杉神社)がある。関崎と寒戸崎の中間には、弘法伝説をもつ鍔峰の禅棚岩がある。ここには弘法大師の足跡や護摩をたいた岩跡があるといわれ、弘法大師の名を借りた行者たちの活動がうかがえる。村の草分については、大家といわれる本間四郎左衛門と弟の安藤孫左衛門が、佐和田の二宮からやってきて、その後、二人を頼って一一人がやってきたと伝えられる。そのため鎮守の二宮神社も、地名の二宮からきたものともいわれ、社人は大家の四郎左衛門である。関は神仏の多い村である。重立の多くは、それぞれ神社や堂をもち、カギトリをつとめている。たとえば安藤孫左衛門の諏訪神社、山下弥七郎の十二神社、岩崎長右衛門の観音堂、相馬万太郎の大師堂、林四郎兵衛の権現さん、橋本三右衛門の地蔵堂、浜田五郎右衛門の大金大明神、大家本間四郎左衛門のもう一つの大杉神社などである。『佐渡国寺社境内案内帳』には、二宮明神・諏訪明神・十二権現は、ともに永禄三年(一五六○)の勧請と伝えているが、この頃それぞれの地神をもった各集団により、この集落はできたものと思われる。関は現在(平成七年)世帯数四五戸、人口一○九人である。宝暦元年(一七五一)の「村明細帳」には、戸口三五軒、人口二二七人、馬一二疋・牛八五疋と記されている。近年(平成七年)禿の高の景勝地に国民休暇村も建設され、民宿もふえ、観光地としての開発が進んでいる。国の重要無形民俗文化財・文弥人形芝居の関栄座もある。【関連】文弥人形(ぶんやにんぎょう)・禅棚岩(ぜんだないわ)・関の寒戸(せきのさぶと)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫
・関越え(せきごえ)
関から旧加茂村の歌見に至る歌見越えとは別に、関からマトネを南に下って、北松ケ崎に至る関越えがある。前者には、両津湾側の歌見の村名がつけられているのに対して、後者のほうには、海府側の関の名がつけられているのが、成立の経過によるちがいを示すのであろう。本誌の「大倉越え」の項で、大倉から浦川に至る道と、関から北松ケ崎ないし馬首に至る道とが、マトネの南側で十字路をなしている珍らしい現象をとりあげたのが、右記の事情とかかわりがあるのかもしれない。【関連】大倉越え(おおくらごえ)【執筆者】本間雅彦
・関越えの仁王杉(せきごえのにおうすぎ)
一五年前(一九七五)大佐渡の関越えの山中、(大倉越えより北東へ三キロ地点の尾根の九合目)海抜八○○メートルの天然杉の林の中で出会った杉の巨木は、今も鮮やかに覚えている。こんな巨木が佐渡にあるとは、思いもかけないことであった。樹高四○メートル余、樹冠幅一七メートル。天をおおい地を圧するとはこのことをいう。近づくにつれてその巨幹に圧倒される。胸高幹径なんと一・五間(二・七メートル)。この杉を「関越えの仁王杉」と名ずけたが、現存する佐渡天然杉の中で、第二の巨木である。天然杉の森。それは若い小杉と大杉(親杉)と、天をおおい地を圧する樹齢一○○○年にも達するスギの巨木たちの同居する森である。『佐渡の天然杉巨木ベスト8・胸高幹周順位(一九八八)』注、(天)は天然記念物指定「[1]金峰神社の大杉ー両津市北五十里(町・天)幹周八・五m 樹高四○m」、「[2]関越えの仁王杉ー相川町関(無指定)幹周七・三m 樹高四○m」、「[3]毘沙門天の百足杉ー金井町平清水(町・天)幹周六・七m 樹高三六m」、「[4]実相寺の三光杉ー佐和田町市野沢(町・天)幹周六・五m 樹高三○m」、「[5]長谷の三本杉ー畑野町長谷(県・天)幹周六・四m 樹高四○m」、「[6]牛尾神社の安産杉ー新穂村潟上(村・天)幹周六・二m 樹高三○m」、「[7]稲荷神社の大杉ー真野町下黒山(無指定)幹周五・七m 樹高三○m」、「[8]五所神社の大杉ー赤泊村下川茂(村・天)幹周五・二m 樹高三○m」。【参考文献】伊藤邦男『佐渡花の風土記ー花・薬草・巨木美林』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】伊藤邦男
・脊椎動物の化石(せきついどうぶつのかせき)
佐渡島の新第三系海成層から発見された脊椎動物化石は、魚類・爬虫類の海亀・鳥類・哺乳類である。魚化石は軟骨魚の板鰓類(サメ)と硬骨魚のニシン科などである。相川町中山峠付近、羽茂町川茂付近などに分布する鶴子層の泥岩から産出する。海亀化石は小木町堂釜海岸で、鶴子層に由来するノジュールの転石の中に発見された。鳥化石はハト科の一種で、相川町中山峠付近で鶴子層の泥岩から発見された。哺乳類の大型四肢動物であるパレオパラドキシアが、下戸層から産出した。海生ほ乳類の鯨目アカボウクジラ科とイルカ類、鰭脚目アロデスムスが、いずれも鶴子層の泥岩中に含まれているドロマイト質団塊の中から産出した。これらは頭蓋骨・肋骨・椎骨などの骨格で、保存状態もかなり良い。【関連】サメの化石(さめのかせき)・パレオパラドキシア【参考文献】『佐渡博物館研究報告』(七・九集)【執筆者】小林巖雄
・関の木の葉石(せきのこのはいし)
「木の葉石」は、樹木をはじめ草などの葉の化石のことで、おもに細かい層理が発達した泥岩に産出する。佐渡では、相川町関の植物化石が文献上で明治中頃から知られている。その後、藤岡一男と西田彰一によって「関植物化石群」と命名され、詳細に研究された。一七科二三属三五種の、葉・種子が識別されている。種類はシラカンバ科・カエデ科が多く、ヤナギ科・クルミ科・ニレ科・カツラ科・シナノキ科・ブナ科・シャクナゲ科・モクセイ科などであり、それにマツ科・モミ科が加わる。古いブナであるアンチポブナ(ファガス アンチポフィー)は、日本周辺の中新統から広く産出する。シラカバ属のベチュラ サドエンシスのように、この関で最初に命名された種も多く、サドエンシスあるいはセキエンシスの種名が付けられている。マツ・モミなどの常緑針葉樹を混じえる、広葉落葉樹の林が復元されており、この植生は現在の温帯北部の森林相に近いといえる。日本における中新世前期の地層から産出し、広葉落葉樹を主体とする「阿仁合型植物化石群」に含められている。この植物群は、北海道から九州まで広く分布していた。温暖な気候になった中新世前期の末~中新世中期初頭に比べると、冷涼な気候であったと考えられている。【参考文献】藤岡一男・西田彰一『佐渡博物館研究報告』(三集)【執筆者】小林巖雄
・関の寒戸(せきのさぶと)
二つ岩団三郎の四天王として相川町関には、寒戸(佐武徒とも書く)というむじなの神をまつる大杉神社がある。大杉は「お杉」のことで、関の知行山の岩山が、七○○年近く前に海岸にくずれた時、生き埋めになった娘のお杉のことで、お杉は大船の船頭となかよくなり、この地で逢っているうちに岩山がくずれ、お杉の両親は遺体も見つからなかったので、杉の木を一本植えて供養にしたと言われる。また、相川の二つ岩団三郎が女性に化けて、関から相川へ木炭や薪を運んだ帰りの船に荷物をことづけ、関の寒戸むじなは蓑笠姿で受けとったと言われる。相川から関の寒戸へ荷物を預かると、いつも追い風が吹き、船頭は櫓をこがなくともよかったという。また関の人が、相川の「二つ岩さん」をお詣りに行った時、団三郎から関の寒戸へ品物を預かり、その礼として銅銭をもらい、「最後の一文だけ残しておけばどんなに使ってもなくなることはないと、そしてだれにも話すな」と言われ、たしかに、その通りであったが、あまりの不思議さに、つい他人に話したところ、この銅銭はただの銅銭になったという。さまざまな霊験のあるむじな神である。【関連】二ツ岩団三郎(ふたついわだんざぶろう)・佐渡の貉神(さどのむじながみ)【参考文献】山本修之助『佐渡の貉の話』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫
・関の地辷り(せきのじすべり)
相川町北部の関集落と、禿の高の間の海に接する緩傾斜面は、もともと常習的地辷り地であった。海抜一○○メートル以下の棚田の部分で、六○○年前・三○○年前、及び一九四○年代に大規模な地辷りが起きた。一九四一年には水平に四~五メートル、垂直に一~二メートル変位し、土塊の回転運動により沖合には小島を生じた。その後水抜き工事等が行われて、目立っては動かなくなり、現在の海岸線は整備された漁港に変わっている。地質は、新第三紀層中新統の真更川層下部の、凝灰角礫岩とシルト質頁岩の互層である。頁岩には葉理が発達し、植物化石(「木の葉石」)を多産する。緩斜面の南東を限る、北東ー南西方向の直線状の急斜面は断層崖であり、「鏡岩」と呼ぶ断層鏡肌面が見られる。地辷り面積は二二・二ヘクタール、水田は内九・六ヘクタールある。
【関連】鏡岩(かがみいわ)【参考文献】九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】式 正英
・関原紋兵衛(せきはらもんべえ)
【生没】生・没年不詳 相川旧奉行所下のモンペイ坂の語源となった関原紋兵衛(主兵衛とも)は、「在相川医師諸町人由緒」(『佐渡相川の歴史』資料集二)によると、「生国甲州、後ニ帰国、九月十二日卒、主兵衛山主相勤後ニ宗清ト云、相川居住之所今ニ主兵衛坂ト云フ、──」とある。『佐渡年代記』の慶長八年(一六○三)の項には、「相川の内字半田清水か窪と云田地を、持主山崎宗清と云ものより、価の金子五百両にて買取て陣屋を築く」と書いており、前記『資料集二』の注解では、山崎は姓ではなく山先(山主)の意で、宗清は関原宗清にあてている。つまり主兵衛は、江戸初期にはすでに相川で土地を手に入れていたことになる。宗清の養子は、馬場村(現畑野町畉田)の河原森右衛門の生れで、宗清の娘(姉とも)と結婚したらしい。またその子与五右衛門は、竹田村伊藤善兵衛の娘をめとった。また何代目かの玄瑞およびその子玄道は、元文五年(一七四○)に医者となった(『沢根町史第二集』)。畉田の河原家は通称「八坂」といい、同家には先祖が京都の祇園からの移住を伝えており、分家の河原与三兵衛家(現在伊東姓)は寛延の義民で、相川の橘屋とは親しい間柄であった。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集二)、『波多』(畑野町史)【執筆者】本間雅彦
・セコノ浜洞窟遺跡(せこのはまどうくついせき)
両津市大字鷲崎字宮山、通称セコノ浜にあった、佐渡最北端の弥生時代海岸洞窟遺跡。鷲崎の台地からわずかに海につき出た断崖に形成された遺跡で、昭和二年(一九二七)四月、池田寿・川上喚涛・渋谷菅蔵・松田與吉・近藤福雄らの調査がある。現在は漁港道路工事で淫滅しているが、矢崎隧道(鷲崎湾側入口)あたりである。洞窟といっても発見当時の現状は、二つ折の隅屏風の様に屹立した岩壁のすき間状部に残された遺跡で、かってはその前面に、間口八間(一八・四メートル)、奥行六間(一○・八メートル)ぐらいの三角形状の寄洲があり、その奥詰の岸壁に、間口六尺(一・八メートル)、奥行五尺(一・五メートル)、高さ六尺(一・八メートル)の傾斜した三角形の包含層を残していて、表面に土砂五寸(一五センチ)程を覆った貝塚であった(川上喚涛「鷲崎貝塚の発見」)。すぐ近くの岬状先端部には、三個の小洞窟(シルクチ穴と呼ぶ)があるが、遺跡の確認はない(清野謙次「佐渡紀行」)。それをセコノ浜洞窟とするものがあるが(『両津市誌』他)、間違いである。出土遺物は、弥生時代の中期後半から後期の竹ノ花式土器、後期後半の本州東北南部の天王山式土器、古墳時代初頭期の千種式土器。石鏃・石槌・碧玉製の半截溝のある小石片。骨槍、シカの肩胛骨製卜骨(一点)、歯根に小孔のある小型馬の歯(一点)(同定、長谷川)。牛科の臼歯舌側破片(一点)(同定、長谷川)、イノシシ・ニホンイヌ・シカ・ウサギ・アシカ・サメ・タイ・サザエ・アワビ・カキ・シジミなどの自然遺物である(同定、直良)。またわずかに人骨(歯)があり、ニホンイヌの出土は家犬を持っていたことが知れる。なお、他に縄文中期初頭の蓮華文のある土器口辺部破片一点と黒曜石製石鏃一点が、佐渡博物館収蔵の近藤福雄収集遺物の中に含まれている。湾内の海底から、錘形石棒(石錘か)一点の収集もある。(註)小型馬の歯と牛科の臼歯舌側破片の同定は、横浜国立大学教育学部地質学教室、長谷川善和教授、(昭和五十七年六月)。【参考文献】川上喚涛「鷲崎貝塚の発見」(『佐渡史苑』二号)、清野謙次「佐渡紀行」(『佐渡史苑』三号)、新潟県『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告』(七輯)【執筆者】計良勝範
・説経節(せっきょうぶし)
室町時代末から江戸時代初期にかけて、盛んに語られた。僧侶の説経に端を発したといい、代表的な話に「苅萱」「しゆんとく丸」「小栗判官」などがあり、佐渡でもなじみ深い「さんせう大夫」もその一つ。人の多く集まる街頭芸人としての説経語りから、やがて劇場にも進出し、三味線なども用いて浄瑠璃化した。佐渡へは享保年間(一七一六ー三五)に、新穂村瓜生屋の須田五郎左衛門が上方に登り、公卿から浄瑠璃の伝授を受け、人形一組を購入して帰ったのが始まりとされ、同所「広栄座」の人形がそれであるという。文弥節より一時代早い古浄瑠璃で、人形は腰串に首がくっつく「デッツク人形」。上下にうなづく形の「ガクガク人形」(文弥人形)とは対比される。いずれも文楽よりはるかに古い一人遣い方式で、三味線も伴奏ではなく拍子をとるだけ。文弥節の三味線より古色を感じさせる。間狂言の「のろま人形」の首の造形もそうだが、「乳人」(説経首)などには享保ビナと共通したものがあり、台本も慨して上方系が多い。説経節は、説経祭文として寛政頃(一七八九ー一八○○)に、八王子など関東地方に伝えられた後期説経節と、佐渡に伝わった前期説経節に大別されて残っている。内容は社寺の縁起譚などが主で、信仰色が強い。「さんせう大夫」説話の伝播によって、佐渡へは早やくから地蔵信仰が広がったと思われるフシがある。相川にも古く「大倉の五郎助人形」「後尾の知教院人形」「大浦の中川儀兵衛人形」入川の「マツヨム人形」などの説経座があったが、のちに廃絶または文弥人形座に転身したとされる。【関連】広栄座(こうえいざ)・のろま人形(のろまにんぎょう)・文弥人形(ぶんやにんぎょう)・霍間幸雄(つるまさちお)【参考文献】『民衆芸能・説経節集』、佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』【執筆者】本間寅雄
・石斛(せっこく)
【科属】ラン科セッコク属 佐渡の野生ランおよそ五五種のうち、着生ランはこのセッコクだけである。江戸期、「佐渡石斛」は物産(生薬)であった。古い時代、岩薬とよばれたのも本種である。その薬効は「陰を強くし、精を益し、胃中の虚熱を治し、筋肉を壮にす」とされる。中国産のホンセッコクは、チョウセンニンジン以上に高価で、強精・強壮薬の代表種。『佐渡志』(一八一六)に「石斛、深山中岩石上に生す。採り得るものは稀なれば、険阻を憚りてなるべし。相川銀山及び加茂郡入川村中にあり」と記される。当時薬用に採られ、カマスに詰められ島外に出荷された。現在は希産種。金井町中興の植田正司さんによれば「自生地は大佐渡の断崖絶壁で、ウチョウランと混じりススキの根元に生えていた。花は五月、白色ないし桃色で芳香がある。茎長は一○センチほど。新しい芽をだし葉をつけ、三年目の秋に葉を落とすが、翌年その葉のない三年目の茎に花がつく」と。植田さんは、市販のヘゴ材の上にミズゴケをうすく敷き、その上にセッコクの根を広げて殖やしている。「根を空気に触れさせることを心がければ、好い結果がでる」と。【花期】五~六月【分布】本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・シタダミ(しただみ)[オオコシダカガンガラ]
シタダミ(小螺子、細螺)という方言は、佐渡に限らず使われているが、佐渡では磯の岩礁帯に、たくさん生息しているオオコシダカガンガラを主として、クボガイやヘソアキクボガイを指して呼んでいる。これらは、軟体動物腹足綱に属す、螺塔(殻の高さ)の高い小型の巻貝であり、海藻を餌としている。昼間は岩の下や隙間に潜んでいるが、夜になると這い出て、浅い方まで来て採餌する。このサザエと同じような習性を利用して、夜の岩場帯を灯火をたよりに、岩の表面を撫でさすって貝を採取する。これを佐渡では訛って「夜なれ」と称し、風物詩の一つとなっている。オオコシダカガンガラは、太平洋岸にすむバテイラの日本海型、すなわち亜種である。日本海型は、螺塔がもっと高く尖り、殻の畝がはっきりしていることが特徴。ゆでて、食用にする。田中葵園の『佐渡志』には、「扁螺ハ方言シタヽミ」と記してある。【執筆者】本間義治
・浄永石塔(じょうえいせきとう)
大安寺境内の、歴代上人石塔の一隅にある。角柱形に加工した凝灰岩で作られているが、風化剥落が大きい。巾二六センチ、横面巾二○センチ。高さは向って右上端が残っているようで、一二四センチを計り、小泊の石英安山岩と思われる加工した基礎の上に立っている。正面は殆んど欠け落ちて文字が読めないが、南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれていたものであろうか、最後の文字が、塔面の下端にわずかに痕跡をのこす。向って右側面には、「干時慶長拾六□暦□月」、左側面には「□□(日カ)寺願主浄永」と刻まれている(従前「當寺願主浄永」と判読されているが、「當寺」は「□□(日カ)寺」と、寺名が彫られているらしい)。左右側面の文字は、大安寺の宗岡佐渡守名号石塔にみるような、大ぶりののびやかな書体を示し、正面の文字も、それに共通していたと思われる。慶長十六年(一六一一)は、浄土宗大安寺を建立した大久保長安が、当寺内に逆修塔を建てた年に当る。もともとこの石塔が、大安寺に伴うものであれば、大安寺開基聖誉貞安と願主長安、またはその関係者との関連性は無視できない。しかし、「願主浄永」は記録に表れておらず、「浄永」は誰か、現在確定されていない。破損が大きいが、数少ない佐渡の慶長年石塔の一つである。【関連】大安寺(だいあんじ)【執筆者】計良勝範
・浄金妙福地蔵(じょうきんみょうふくじぞう)
大安寺山門前の参道左側わきにまつられている、石造の地蔵菩薩である。もとは浄土宗安養寺にあったもので、『佐渡相川志』に、「安養寺 下寺町ノ石坂今ノ高安寺南側境内四反三畝大安寺末。寛永十癸酉年(一六三三)開基ス。延宝三乙卯年滅亡ス。寺地ハ本寺ヨリ支配。元文四己未年三月十一日下戸町立願寺ニ譲リ、本尊ハ新穂中川次郎右衛門位牌所ノ堂ニ安置ス。安養寺境内ニ年久シキ石像ノ地蔵アリ。享保ノ頃念性ト言フ道心者夢ノ告ニ依テ今大安寺境内ニ移ス。世ニ妙福地蔵ト称ス。施主妙福ト彫刻セシ故也。」とある。これによって、この石地蔵は寛永年に開基した安養寺にあったもので、享保年に大安寺に移されたものであることがわかる。石地蔵は、頂を山形にした、高さ一六○センチ、巾七○センチ、厚さ一六センチの板碑形に、板彫状に近い地蔵を半肉彫にしているが、石質は石英安山岩の小泊石であろう。像高は一三五センチ、肩巾四四・五センチで、大形で稚拙な彫刻を示し、室町後期らしい線を省略した簡素さが特徴である。顔相は、眼を大きく彫りくぼめて見開き、鼻と口は小さく、耳は大きい。両肩を張り、手はあるかなしかに小さく、足もただ棒状にしている。右手に錫杖、左手には宝珠を持つ。衣は袴と着物をはおった様な大雑把な姿で、全体に細かい縦の細線(縦縞)を刻む。像の下部左右には、向って右側に「浄金禅定門」、左側に「妙福禅定尼」と刻んでいる。浄土宗の五重相伝の行を得た男が禅定門、女が禅定尼の称号を贈られるが、この場合は夫婦であろう。相川では他に、大安寺に河村彦左衛門の「清岳浄栄大禅定門」がみえ、相川金銀山そのものをたたえた戒名の如くにも思える。佐渡石仏の室町風のものと言えるものであり、室町末から江戸初期に造顕された石仏であろう。なお現在、施主不明となった墓石を集めて、コンクリートで固めた祠内に安置されているが、その祠の前端両はじに石塔があって、向って右塔には「南無阿弥陀仏」、左塔には「南無阿弥陀仏 源空(花押)」「精蓮社進阿建立」(裏側)と刻まれている。この二本の石塔は、中寺町にあった大超寺(大安寺と合併)にあったものであるらしく、祠が作られる(大正年)以前は、大安寺山門前に立てられていて、この「浄金妙福地蔵」とは関係ない。【関連】大安寺(だいあんじ)【執筆者】計良勝範
・銭座(ぜにざ)[ぜんざ]
正徳二年(一七一二)佐渡の出銅で銭を鋳造することになり、江戸糸屋八左衛門が請負い、江戸より職人四二人を連行して、翌三年から下戸炭屋町に工場を設けて、事業を開始した。しかし、採算がとれず一年で止め、その後享保二年(一七一七)河野通重奉行が、銭の払底を緩和するため、幕府の許可を得て奉行所直営で鋳造した。この時は一町目浜町の旧銅床屋を銭座とし、銭座役二人を置いて管理させた。新銭鋳立の主法は、銅一万貫に白目錫三○○貫・上錫一○○○貫・鉛二八○○貫を加え、表に寛永通宝の四文字を彫り、裏に「佐」の字を表わした。主原料の銅は、鶴子鉱山の出銅を主とした。以後享保十九年まで稼業したが、同年請負に改められ、相川町宗兵衛が請負い一年間一万貫で、不足銅八○○○貫は出羽・奥州より調達した。この鋳銭は、寛保元年(一七四一)江戸からの命令で中止した。その後再び明和七年(一七七○)銭払底のため、鉄銭鋳造を幕府に願い出たが、銅銭鋳造を命ぜられ相川町善兵衛ら五人が請負い、一町目浜通り忠兵衛持屋敷に工場を建設、一か年一万貫を鋳造し、天明元年(一七八一)まで続けられたが不良品が多く、運上二七○○貫の滞納ができ廃止された。【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』【執筆者】児玉信雄
・狭地つぶし(せまつぶし)
狭い田地を広くすること。「狭地なおし」ともいう。一説には「千枚つぶし」だという者もいる。また、小さい田の畦をぬいて大きな田地にするところから「あぜぬき」ともいう。傾斜地を田地にするには、等高線にそって不整形な形になる。また用水路の水口田は三角形に、水渡し田は細長くなる。この自然発生的な田地を広くするには、水路をつくり替え、田地の交換分合をして、せまつぶしの条件を整えねばならない。この田地の区画整理がはじまったのは、大正期からの耕地整理が行われるようになってからである。小川のせまつぶしは、真光寺から婿にきた人が教えたという。せまつぶしの仕事は、秋祭りが終わると始まった。田仕事の仕末がすみ、沖漁は終って、磯ねぎ以外はこの仕事が春まで続いた。工事には親方がいて人足をつかって行うが、片辺の例では六反歩余の面積に、四○~五○枚の田地があった。それを五畝歩の大きさの田にした。ひと冬に二反歩くらいしかできないので、三年かけて完成した。畔と畦を固めるのに、「たこうち」という厄介な仕事があった。四本の長い縄を持って、四人が掛け声をかけて持ち上げて放す。楽な仕事ではなかった。工事の完成を「かいでき」といい、親方は施主に招待され、餅を搗いて祝った。【参考文献】『山里の人びと』(大崎郷土史研究会)、佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・勝場(せりば)
床屋ともいい、江戸時代の製錬所で、鉱石を砕き淘汰して製錬するところ。これを業とするものを買石といった。寛永の頃、大床屋・小床屋・分床屋と分業が進み、大床屋は主として搗砕淘汰をなし、小床屋は主に淘汰を終えた砂鉱を製錬して金銀塊となし、分床屋は銀塊からさらに金を分析して回収した。寛永十九年(一六四二)には、大床屋五軒・小床屋五四軒・分床屋が九軒あった。【関連】買石(かいいし)・床屋(とこや)・寄勝場(よせせりば)【参考文献】岩木拡『相川町誌』【執筆者】小菅徹也
・尖閣湾(せんかくわん)
昭和八年(一九三三)脇水鉄五郎の命名。相川町姫津から北狄までの約四キロメートルの海岸にみられる、五つの小湾の総称。それぞれ第一湾は幽仙峡湾、第二湾は立雲峡湾、第三湾は金鋼峡湾、第四湾は膳棚峡湾、第五湾は大岬峡湾とよばれ、海からの遠望に優れている。相川層に貫入する斜長流紋岩の貫入岩体からなり、貫入岩体中に発達する流理構造に沿って侵食がすすみ、高さ約三○メートルの絶壁が形成されている。その上面には、広々とした海岸段丘面が発達し、絶壁と段丘面のコントラストがみごとである。揚島(北狄)と達者から海中透視船が就航しており、佐渡島の代表的景勝地のひとつとなっている。当湾は国指定の名勝佐渡海府海岸の一部であり、佐渡弥彦米山国定公園の一部である。【参考文献】本間周敬『佐渡郷土辞典』【執筆者】神蔵勝明
・選鉱場おけさ(せんこうばおけさ)
鉱山の石撰り、いわゆる選鉱場で唄われていたハンヤ節をいう。選鉱場おけさといういい方は、大正十三年(一九二四)に創立された立浪会によって、「正調おけさ」が一般に広まってから、それと区別するために、いい始めたように思う。それまでは「選鉱場節」といわれていて、おけさ節よりテンポが早やく、「ハアー、朝の早ようからカンテラ下げてヨ」など、主として鉱山の作業唄(節はハンヤ節)が、揚鉱場の職工や、選鉱場ではたらく女工たちのあいだで、唄いつがれていた。現在の佐渡おけさのルーツは、九州・天草島の南端、牛深のみなとに生まれた「ハエの風」(南の風)を語源とした、ハンヤ節とされている。異論もあるが、それが小木おけさ・相川おけさの、もともとの由来であろう。船乗りの酒盛り唄として、和船時代に佐渡に伝わった。このハンヤ節を、いち早やく相川に受入れたのが、佐渡鉱山の選鉱場で働く女工たちだった。選鉱場節のあとに、同じハンヤにルーツを持つおけさ節が、いまの唄い方に似た、ややハイカラな調子で相川へ入り、これが立浪会の人たちによって、より洗練されたいまの正調おけさになった。選鉱場節が「ハンヤくづし」といわれたのは、おけさよりも、よりハンヤの節廻しを濃く残していたからで、昭和四年の金鳥レコードでは「選鉱場節」で、同六年のビクターレコードでは「選鉱場おけさ」として、村田文三によって吹込まれている。踊りは、佐渡おけさと同じ十六足踊りで、いまではテンポを早めた踊りにしてある。【執筆者】本間寅雄
・千石船(せんごくぶね)
千石ほどの米(一五○トン)を積み込める船、大きな船という意味合いの、和船に対する通称である。ここで言う和船は江戸時代中ごろ、瀬戸内海で発達した「弁財船」といわれる型の木造船であり、明治中頃まで日本の近海運送の主流であった。一般的に言われる、北前船・菱垣回船・樽回船も同じ型の船である。特徴は造船技術の発達により、板の継ぎ足しが可能であり大型の船が造れること、帆や舵の改良により、操船が楽になり乗組員が少なくてよい、荷物の積み卸しが容易であることなどの利点があった。一方短所として、航海には風向きによる制約が強かったこと、舵のもろさ、水密性の低さなどが上げられるが、鎖国時代の近海航路の木造船としては、ほぼ完成された機能を持っていたものと思われる。小木町によって、平成十年三月に完成を見た千石船「白山丸」は、安政五年(一八五八)宿根木の石塚市三郎が、地元の船大工に造らせた「幸栄丸」の板図(設計図)が、佐渡国小木民俗博物館に所蔵されていたので、それを元にして、寸分のちがいもなく復元したものである。板図は側面図だけのものが通常であるが、「幸栄丸」の場合は平面図がセットとなっているもので、全国的にも稀な一級品の資料であった。したがってこれまで、全国各地で造られていた模型制作の中で、疑問とされていた平面の線が、確実にとらえられている点も大きな特徴である。造船には、岩手県気仙地方の「気仙船匠会」が主体となり、これに小木町の船大工が加わり、九か月で完成した。全長二三・七五メートル、積石数五一二石、帆の大きさは一五五畳である。【関連】佐渡国小木民俗博物館(さどこくおぎみんぞくはくぶつかん)【執筆者】高藤一郎平
・千畳敷(せんじょうじき)
相川町市街地の北端、下相川の海側にある平坦な岩礁。裸岩の広がりが大きいので、昔から着目されて千畳敷と命名されて来た。浅い平坦な海底がとり巻いており、渡って遊べる様に昭和九年(一九三四)に架橋された。隆起波食台の地形で、古くから相川の街近くの名勝地として知られていた。背後の崖にはいくつか海食洞が穿たれ、その地質は相川層群真更川層の玄武岩質安山岩溶岩・集塊岩であり、黒ずんだ岩石である。【参考文献】新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』二集、「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】式 正英
・膳棚岩(ぜんだないわ)
「禅棚岩」と書く場合もあるが、古い資料では「膳棚岩」が多い。相川町関の鍔峰(つばみね)の先端にみられる巨岩。鍔峰の一帯は、デイサイトの自破砕溶岩(真更川層)が分布しているが、鍔峰の先端部のみ流理構造の発達したデイサイトの塊状溶岩(真更川層)からなる。この流理構造が、たまたま水平方向に発達しているため、波浪による浸食作用で写真のような平板状の岩体となり、「お膳の棚」のように見えている。地元には、膳棚岩は弘法大師が扁平な岩盤を積み重ねて作った石棚であるとか、弘法大師の護摩皿といわれる焦げ跡とか、弘法大師の足跡などの弘法大師伝説がある。高さ五メートル、幅一○メートル、長さ四○メートル。【関連】真更川層(まさらがわそう)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集九)【執筆者】神蔵勝明・寺崎紘一
・千日念仏地蔵(せんにちねんぶつじぞう)
下寺町の浄土宗法然寺境内にある石仏の地蔵。頭光をつける丸彫坐像で、顔は半肉彫、体躯は板彫状とし、全体が稚拙な造形で、顔相はきつく、大安寺の浄金妙福地蔵に類似する。像高一一八センチ、頭光まで一三三センチ。鉢形の蓮華坐は五段の蓮弁で、高さ四六センチ。五輪塔の地輪を思わす基礎は、巾六一センチ、高さ六七センチ。石質は石英安山岩。基礎の正面と向って左面に、風化で判読がむずかしい部分もあるが、大ぶりなのびやかな書体で次の銘文をきざむ。正面「(キリーク)千日成就 本国越前府中 住人□(本カ)□(偵カ)道□(構カ) 佐州鮎川□(寺カ)町 法園寺□□□」、左面「寛永十四□(年)□(卯カ)月十□日 石切□左衛門──」。『相川志』の「昭栄山法円寺」に、「下寺町法界寺末。開基越前府中ノ産香桔ト言フ僧、慶長十六辛亥年千日念仏成就シテ、元和八壬戌年寺号山号免許アリ。」、『佐渡国寺社境内案内帳』には、「開基越前国府中の産香播、慶長十一午年千日念仏成就して法界寺に石塔あり」とある。「香桔」と「香播」、石塔判読では「道□(構カ)」。「慶長十一年」(一六○六)と「慶長十六年」(一六一一)、石塔は「寛永十四年」(一六三七)と相違点があるが、右記録の石塔に当る。法円寺(廃寺、法然寺のすぐ上にあった)が元和八年(一六二二)、寺号山号を法界寺(現法然寺)より免許されたのち、この石塔が建立され、千日念佛した阿弥陀本尊の信仰対象仏として、地蔵像を安置したものであろう。石地蔵は、蓮華座とともに、佐渡の江戸初期の時代相を表わしている。【執筆者】計良勝範
・千仏堂(せんぶつどう)
相川町戸地にあり、本尊は大聖不動明王で、開基年代不詳、古文献には不動堂とあり、最初の修験者が、境内の奥にかかる滝の近くに、大聖不動明王を勧請して苦行したのが、始まりという(この滝は眼によいと伝えられている)。また南片辺大興寺の本尊(不動明王)の開基は天正五年(一五七七)で、千仏堂の分かれとの伝承もある。その後文禄(一五九二ー九五)の頃、弾誓上人が真更川の山居へ籠る前に立ちより、念仏を唱えながら仏像を刻み、さらに元禄(一六八八ー一七○三)の頃には、弾誓木喰行法を追慕して上野の国より、書と彫刻の得意な天空和尚(のち大巧坊)が来て千体仏を刻んだので、千仏堂と呼ぶようになった。幕末頃には、武術に優れた正覚坊が来て、村人に武術の形を教えたのが、熊野神社の祭礼行事「白刃」となったという。弾誓上人の三幅対真筆・木喰上人の木刻像など、そのほかの史料は、明治四十年(一九○七)の大火に焼け、翌年堂は再建された。祭りは旧正月二十八・九日である。本堂の横にあった松の大木は、松くい虫被害を考慮して伐採された。境内には、ほかに観音堂(本尊は聖観世音)と阿弥陀堂があり、様々な地神が祀られている。【関連】不動信仰(ふどうしんこう)【執筆者】三浦啓作
・千本(せんぼ)
村の草分けは、入川村から入ってきた武内万四郎といわれ、千本村は古くは下入川村と呼ばれ、入川の出村だったという。そのことについて薬泉寺の縁起書に、本尊薬師如来十二神は、至徳元年(一三八四)の春、漁夫の網にかかり海中より出てきもので、明徳二年(一三九一)の旱魃の際、入崎浜に千本の塔婆をたて、この秘仏を請して雨乞いの法を修めたため、この年より千本村と改めたとのことが記されている。いわゆる千駄焚きなどといわれる雨乞い呪願からきた改称なのである。元禄七年(一六九四)の検地帳では、田一六町七反余・畑四町五反余とあり、宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』には、家数三八軒・人数二一八人とある。参考までに現在(平成七年)の世帯数は五五戸、人口は一五二人である。入崎沖合の沖の神子岩の岩礁地帯は、豊富な天然わかめの産地である。享保二十年(一七三五)、このわかめ採取をめぐって千本・高下両村と、北田野浦村の三か村で入会権争いとなり、再三佐渡奉行所役人の現地見分けの末、一番なぎは千本、二番なぎは高下、三番なぎは北田野浦と、わかめ刈りの順番が決められ、長く守られたが、明治十年の町村合併後、千本・高下が一緒(高千)になってからは、千本・高下が一番刈り、北田野浦が二番刈りとなり、現在に至っている。入崎には、北田野浦の片岡儀左衛門の地神だったという入野神社があり、帆下げ伝説をもっている。沖の御子一帯は航海難所で、かって若狭の回船が難破した伝承などをもつ。千本の鎮守は八幡神社で、熊野・白山神社も合祀されている。祭りは四月十五日、赤泊(または石花)から習ったという鬼太鼓が奉納される。近年入崎はその景勝を生かし、ドライブイン入崎などの観光施設も整い、夏は観光客でにぎわう。【関連】沖の御子(おきのみこ)・薬泉寺(やくせんじ)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『高千村史』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫
・千本城址(せんぼじょうし)
入川川河口の北側、段丘突出部が千本城址である。元禄年間(一六八八ー一七○三)の入川川を挟んだ北側の入川村と、南側の千本村の水田面積や百姓戸数を比較すると、千本村は入川村の半分弱である。入川村に中世の城がみられなくて、小さい千本村になぜ城があったのか。これは以前千本村が、「下入川村」と呼ばれた入川の出村であって、もともとは一つの村であったからである。千本にある城址には「城ノ腰」の地名があり、一般には「城平」とも呼ばれている。段丘突出部先端は、三角状に盛り上った小山で、背後は沢で切られた独立した小郭である。後方の段丘上は標高五○メートルほどあるが、ここの突出部にも小さいもう一郭がみられる。城というより見張所的な感じのする場所である。この城の主はわからない。小山頂上部は池田氏が所有し、入川草分けの一人池田蔵人(江戸初期中使・宝生権現社人)が築いたものか。【参考文献】『高千村史』、山本仁『佐渡古城史』【執筆者】山本 仁
・千枚田(せんまいだ)
島内で「千枚田」といえば、畑野町小倉の通称千枚田こと「大ひらき」のことをいう。慶長期に始まる相川鉱山町の人口急増に伴って、米不足が起ったとき、佐渡奉行は新田開発によって対処を試みた。その新田の多くは山つきの村で、地形や水利の点で条件のわるいところが多かった。小倉の大ひらきは、かなりの傾斜地である上に、水源地のない天水田であった。旧小倉村の資料によると、新田開発は慶安三年(一六五○)に始まって漸増し、貞享元年(一六八四)にピークをみたが、大ひらきの開墾は寛文年間であった。同四年(一六六四)から延宝元年(一六七三)までの一○年間に、一二八枚で五反八畝が開かれている。つまり一枚の広さは、平均一三坪ほどの微細田であった。その後に、元禄御水帳に書かれたときには、それらの田は六七筆(枚)に合筆され、面積は約三倍の一町九反余となった。田の枚数は、およそ八○○枚くらいあったといわれていたが、現況では合筆と減反で激減した。標高では五○○メートル近い上に、村の居住地から離れていたが、大型車の通る道路ができて、耕作には便利になった。小倉は岩山が多く、強水がかりであるため米の味がよく、すし米などとして定評を得てきた。【参考文献】『波多』(畑野町史)【執筆者】本間雅彦
・相運寺(そううんじ)
中寺町にある真言宗の延命山相運寺は、地蔵菩薩を本尊とし、沢根の曼陀羅寺末である。はじめ上相川にあって、地蔵寺・慈眼寺・金剛院などの門徒を支配していたが、慶安年中(一六四八ー五一)いちど廃寺となった。それを曼陀羅寺の尊誉が中興の祖となり、檀家にはかって地蔵・慈眼両寺を併せ、本尊を地蔵菩薩として復興した。以来、金剛院とともに曼陀羅寺末となった。地蔵寺は、慶長十二年(一六○七)祐遍によって開かれた。相運寺の弘法大師像は大師の直作と伝えられ、讃州延生寺より吉田作兵衛なる者が持参して納めたと伝えられる。【執筆者】本間雅彦
・雑蔵(ぞうぐら)
『佐渡相川志』巻之一に、印銀所・御米蔵とならんで、「雜蔵」の項がある。そして巻之二の「相川中町々地理之図」の三枚目には、門兵衛坂を登りつめて東南の道をすこし行くと、山中に四つの建物が描かれ、「雜蔵」の文字が読みとれる。雑蔵の項に書かれている説明を要約すると、「いま雑蔵があるのは、中京町の味方与次右衛門屋敷の続きで、山師が用いる材料の油・桧木・竹・鉛・煙硝などを収容する倉庫である。雑蔵役は、享保四年(一七一九)から始められた。雑蔵の敷地は四百拾坪ほどである。」ということになる。【執筆者】本間雅彦
・総源寺(そうげんじ)
相川下山之神台地にある曹洞宗寺院で吉井剛安寺末。元和五年(一六一九)開基、瑚月周珊大和尚(本山六世)建立という。寛永六年(宝歴寺社帳・佐渡相川志は七年とする)八月十三日、佐渡曹洞宗の惣録所に定まる。末寺三か寺。本堂内には佐渡奉行鎮目市左衛門(寛永四年七月)、同河野豊前道重(享保九年十一月)、同小浜志摩守久隆(享保十二年九月)、同井戸伊勢弘隆(寛保二年九月)の位牌が安置されており、また境内墓地には、佐渡奉行飯塚伊兵衛・篠山十兵衛・鈴木傳市郎の墓碑や清音比丘尼の墓標などがある。薬師堂は享保十九年(一七三四)六月建立。「総源寺縁起」によると、天正の役で石花城主石花将監は、一族郎党等を姫津から海路各地に落し、家老等には土地器財を分け帰農させ、自らは吉井剛安寺に走り髪をおろして行脚僧となり、二○年の後帰国して剛安寺六世をつぎ、総源寺の開基となったという。総源寺初代(剛安寺六代)瑚月周珊は、石花将監の後の姿であったわけである。石花殿の家老本間惣右衛門・本間喜兵衛・本間五郎右衛門などの家は総源寺檀家で、とくに惣右衛門家は総源寺の別席として扱いを受けてきている。【関連】石花将監(いしげしょうげん)・鎮目市左衛門(しずめいちざえもん)【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、山本仁『佐渡古城史』【執筆者】山本 仁
・総社裏遺跡(そうじゃうらいせき)
総社裏遺跡は真野町大字吉岡にあり、小佐渡山脈の山麓台地、標高一八メートルに位置する。周辺の遺跡では、畑野町の三宮貝塚、真野町の藤塚貝塚・浜田遺跡・竹田沖条理遺構・下国府遺跡が発掘されている。昭和六十一年(一九八六)六月二十日から七月二十五日まで、佐渡考古歴史学会が中心となって調査された。調査の結果、縄文住居四棟が弧を描くように並んで発見された。出土遺物の結果、縄文前期末から中期初頭と見られ、佐渡では最も古い住居址となる。縄文の前期末土器は、南関東の十三菩提式、中部高地の晴ケ峰式、富山県朝日下層式、石川県福浦上層式の影響が認められ、佐渡では小木町長者ケ平の土器に類似する。縄文中期前葉土器は、中部山岳地帯の踊場、梨久保や北陸の新保式に似る。石器では、佐渡初見の三角形岩版の呪術具が出土し、黒曜石の石鏃は、京都大学原子炉実験所の藁科哲男と、東村武信に鑑定依頼したところ、長野県霧ケ峰産だったことが分った。また遺跡は、縄文前期末から中期前葉が主体で、佐渡では数少ない遺跡と判明した。【参考文献】「吉岡総社裏遺跡」(真野町教育委員会)【執筆者】佐藤俊策
・宗太夫坑(そうだいふこう)
坑名から、岩下惣太夫を想い起こす。大久保長安の家臣として、一七世紀初頭の慶長年間に、佐渡鉱山の開発に活躍した人で『川上家文書』(両津市和木、川上二六氏蔵)に、しばしば惣太夫の名前が登場する。この人を除いて、長安時代の佐渡鉱山は語れないほどの、かなりの人物だったと思われるが、来歴はあまり知られていないがこの坑の開発に、なんらかの関与をしていたのであろう。同時期に活躍した同僚格の宗岡佐渡の名も、「宗岡間歩」の坑名になって絵図に残っている。宗太夫坑は、坑口の高さが約三メートル。幅二メートル。坑道の断面が大きく、全体として大型坑道である。むろん江戸初期の開坑だが、鉱石の運搬機能と技術が発達した一六九○年代(元禄時代初頭)、荻原重秀が進めた鉱山再開発のころも主力間歩の一つであったと思われる。部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、探鉱用の小さい狸穴、天井にぬける空気坑、長さ六○メートルにおよぶ斜坑、「釜ノ口」と呼ばれる坑口と、その飾りなど、江戸期の旧坑の諸条件を完備していて、大形の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。脈幅・走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端に当たる「割間歩」坑の一鉱区として開発された。その内部一一七・五一五平方メートルの地積は、平成六年(一九九四)五月二十四日国の史跡に指定された。県道大佐渡スカイラインの沿線にあって、一般公開されている。【執筆者】本間寅雄
・宗徳町(そうとくまち)
惣徳町とも書く。江戸期から昭和年代後半までつづいた佐渡鉱山の中心部が宗徳町にあった。現況では、明治中期から政府の払い下げをうけて経営していた三菱金属鉱業社から離れ、その子会社である佐渡金山株式会社の手に移っている。同社事務所の北側には、観光のためのゴールデン佐渡とよぶ諸施設があって、三か所に分れた大きな駐車場ができている。町名は、慶長年中(一五九六ー一六一四)に初代佐渡奉行大久保長安に仕えた山師、田中小左衛門宗徳(惣徳)の開発に由来する。宗徳は徳川家康に遣わされた廻船商人、田中清六の一門といわれている。その娘おはなは長安に抱えられ、おはな間歩があった。明治前期の政府直営の頃に、鉱山事務長であった大島高任による竪坑(深さ六五○メートル)があり、彼の名を冠した高任神社は、のちの鉱山祭の元宮となっている。【関連】大島高任(おおしまたかとう)【執筆者】本間雅彦
・外海府海岸(そとかいふかいがん)
相川北部、下相川から願(両津市)までの大佐渡北部海岸を外海府、両津湾側の白瀬より鷲崎までを内海府と称し、それぞれ下相川と白瀬に大中使(大名主)をおいて、地域をまとめていた。内・外海府は、自然景観と地域性は対称的で、外海府は浸食谷によって分断されているが、海岸段丘は発達し、段丘面は川水を引水して水田に開き、海岸は岩石海岸となり、男性的景観を呈している。海府はもと海人族の生活の場で、古代には海辺の低地で藻塩を焚いた製塩や、山地の船木・船山の地名などから、船材の生産地と考えられる。中世末には、石花に土豪石花将監が、海府二四か村をおさえ支配したが、佐渡が幕府領となると、金山町相川の近郊村として、米・海産物・炭・留木などの供給地となった。『佐渡四民風俗』では、海府の地域性を「村々の者、いずれも家業によくはまり候。風俗強情に候儀は風雨荒き土地柄の自然に候や、海猟もこれあり候へども、荒磯ゆえ内海府と違い候」と記述している。明暦三年(一六五七)「外海府御年貢御地子小物成留帳」(下相川・本間又右衛門家文書)によると、外海府全体で年貢七三一石余、地子七七石余、山役銀二貫三五○匁、いか役四万五○○○枚、串貝役(蚫)二三○○盃、若和布役三三○把、海苔役五斗六升、山枡役九斗五升、稗三斗七升を納めていた。金泉と高千地区を結ぶ鹿野浦トンネルは昭和九年に開通、それ以前は出崎や山が交通の障害になり、行商人や遍路以外は訪れる者も少なく、自然の景勝地が遅くまで残った。昭和九年、「佐渡海府海岸」が国の名勝地の指定をうけ、尖閣湾の景勝地、平根崎(戸中)には、波浪によって浸食された波食甌穴群(国指定天然記念物)がある。【関連】尖閣湾(せんかくわん)・平根崎(ひらねさき)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集一・四)、『新潟県風土記』【執筆者】佐藤利夫
・外海府中学校(そとかいふちゅうがっこう)
昭和二十二年(一九四七)五月十五日、外海府中学校の本校(三教室)は外海府小学校(五十浦)にて、小田分校(二教室)は外海府小学校の小田分校で、北鵜島分校(二教室)は同北鵜島分校にて併設開校をなした。本校の借用校舎が腐朽し、五十浦の校地(県道のうえ)に新校舎が竣工するのは、昭和二十四年二月である。更に矢柄に独立新校舎が落成するのは、昭和三十七年で、新校舎での授業開始は五月十五日であった。なお、同三十八年三月には体育館の建築も竣工した。校歌(作詩庵原健・作曲仲田信)と校章が制定され、校旗が樹立されるのは、昭和三十二年七月である。同四十一年から郷土芸能・文弥人形クラブを開始。翌四十二年三月には、NHK教育テレビで本校の文弥人形が放映される。その間、郷土の文弥人形芝居の名人浜田守太郎(矢柄出身の相川町名誉町民)の指導を受ける。同四十二年には、佐渡地区科学研究発表会にて、「外海府地区における塩害の基礎研究」が県賞受賞、続いて翌年も同発表会で「空気の汚染」が同賞受賞、更に次の年は「魚肉のアンモニア発生とPHの研究」で県教委賞を受賞した。その後も同四十九年十二月、佐渡会館にて文弥人形クラブの発表会、同五十年には佐渡地区科学発表会にて「アサガオのつるのまき方」奨励賞、翌五十一年には科学研究発表会で「いわたけの研究」が郡の部奨励賞、県の部では県教育長賞優秀賞を獲得。更に同五十五年の科学発表会では「波の研究」(第一分野)・「外海府のヒダリマキマイマイ」(第二分野)が共に県教育委員会の優秀賞を受賞し、その活躍が注目された。しかし過疎による生徒の激減には抗しきれず、昭和五十七年三月二十二日閉校、高千中学校に合併した。【参考文献】「外海府中学校三十年の歩み」(外海府中学校)、「外海府中学校沿革誌」(外海府中学校)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】浜口一夫
・外海府農業協同組合(そとかいふのうぎょうきょうどうくみあい)
所在地大倉、設立は昭和二十三年(一九四八)六月。旧外海府村九か集落のうち、願・北鵜島・真更川・岩谷口・五十浦の五集落が「外海府村北部農業協同組合」を作り、北鵜島に事務所を置く。また残りの関・矢柄・大倉・小田の四集落は、「外海府村南部農業協同組合」を結成し、事務所を小田に置いたが、農業会の資産分割により、昭和二十五年十月、大倉に事務所を移した。その後、昭和二十九年水力発電所建設の際、岩谷口・五十浦の両集落が加わり、組織が拡大された。昭和三十一年九月、町村合併により「外海府農業協同組合」に名称を変更。昭和三十六年第二室戸台風により、発電所の施設電柱等大被害をうける。昭和四十六年、高千農協の有線放送電話に加入。同四十六年八月、石油製品販売業務を開始する。【関連】佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)【参考文献】『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)【執筆者】浜口一夫
・外海府の小学校(そとかいふのしょうがっこう)
明治七年(一八七四)九月、相川県管下加茂郡第三大区小ノ九区に、小田庠舎が開かれ、矢柄・関・岩谷口・真更川・北鵜島・願などに分教場を置く。同九年小田庠舎は、簡易科小田小学校(小田の重宣寺)と改称。更に同十年には、小田小学校と呼び名が変る。明治二十五年四月には、岩谷口の弥勤寺を借りて、外海府尋常小学校が創立され、分教場を小田・矢柄・関・真更川・北鵜島に置く。同三十七年九月、五十浦の地に新校舎が建つ。それと同時に関分教場が統合される。同四十五年には、矢柄分教場も廃され、小田分教場に合併される。大正三年小田分教場が新しく建てなおされる。外海府尋常小学校に、二年制の高等科が併設されたのは、大正十五年四月である。昭和二十四年、小田分教場が独立し、小田小学校となる。同年北鵜島分校も独立。願分校は北鵜島小学校の分校となる。同二十五年、外海府小学校の新校舎が竣工。同六十一年九月、へき地複式研究会を開催。平成元年三月、過疎化による児童数の激減のため閉校し、高千小学校に統合された。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「追憶の外海府・小田小学校」(越後・外海府・小田の会)、閉校記念誌『外海府』(外海府小学校)【執筆者】浜口一夫
・外海府村(そとかいふむら)
明治二十二年(一八八九)の町村合併で、外海府村は、願村から小田村までの九か村で構成された。このときの町村合併は、行政的にも財政的にも、維新後の新しい地方自治体制に堪えうる戸数三○○戸以上の町村の誕生をめざしていた。参考までに、当時のようすを『新潟県町村合併誌』を基にみてみよう。願村の戸数は二一戸・人口は一五○人、北鵜島は二五戸・一六五人、真更川は二二戸・一三六人、岩谷口は二八戸・一七二人、五十浦は一八戸・一二九人、関は四二戸・二三三人、矢柄は二四戸・一五四人、大倉は三五戸・一九二人、小田は四五戸・二五七人、計二六○戸・一五八八人だった。合併の理由は、各村とも小村落にて独立の資力なく、交通不便で他に合併すべき村落もなかったので九か村が合併した。その名称は、この地方一帯を昔から外海府といっていたのでその名称を採った。明治三十四年の戸数八○○戸以上をめざす新しい町村合併には、外海府村はそのまま据え置かれ、昭和三十一年九月には相川町に合併し、さらに同三十二年十一月には、旧外海府村の北部三か集落(真更川・北鵜島・願)が相川町を離れ、両津市に編入された。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】浜口一夫
・蕎麦鰌(そばどじょう)
そば食の一つ。そばの原初的な食べ方は、そば粉を熱湯で練って、だんご状にして食べる「そばがき」であったが、雑穀・野菜などの増量材として、練って棒状にして短く切断して、煮しめや雑穀の粉に混ぜて炊団にして食べた。この短く切ったそばだんごを、どじょうといった。形がどじょうに似ているとは考えにくいが、農村では夏中は体力増強のために、どじょう汁をよく食べた。冬は囲炉裏の火を囲みながら、どじょうの代りにそばだんごを入れて食べたところから、このように言われたのであろう。ある夜、今晩はそばどじょうにしなさいと姑に言われた嫁が、いっしょうけんめいにそばでどじょうを作ったという笑い話があった。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』、同「佐渡の焼蒔とソバ」(『高志路』三○九号)【執筆者】佐藤利夫
.蘇民将来(そみんしょうらい)
佐渡の寺院の中には、正月に護符として「蘇民将来子孫門戸也」というお礼を出すところがいくつもある。春祈祷の前後に配られてくるこの紙札を家々では、戸口や小屋の柱に貼って疫病などを祓う。相川町の石花には、蘇民将来神社がある。江戸後期には牛頭天王社に、さらに明治四年(一八七一)には素戔鳴神社と呼び替えていた。改名の理由は、むかし石花川の川口に朝鮮の蘇民族がいて、それを祭神にしたのはよくないという攘夷思想からくるものであった。先年、石花の潟湖跡といわれる馬場遺跡が発掘されたとき、騎馬民俗が用いる帯の金具が出土したことから、渤海使節の来島が取沙汰され、その頃に防疫の役割を果していたのではないかと考えられている。もともと蘇民将来の語彙は、鎌倉中期の書『釈日本紀』に記されており、出自はいまは現存しない『備後風土記』とされているが、内容は兄弟の兄に与えられた武塔神(素戔鳴)からの除疫力の由来である。南佐渡に伝わる民謡の「そうめんさん節」のソウメンは蘇民のことで、蘇民とは神名になる以前には、前記した石花の伝説にあるように、民俗名にかかわりがあることばであろう。【関連】素戔鳴神社(すさのおじんじゃ)・馬場遺跡(ばんばいせき)【参考文献】有本隆『蘇民将来概説』、本間雅彦『牛のきた道』【執筆者】本間雅彦
・ぞんざ(ぞんざ)
紺染め無地(めくら地)の木綿布に、裏地をつけて刺しつけた仕事着。日常着にもなった。丈夫にするため、二枚以上の木綿布を刺して作ってある。「刺しこ」の一種。金泉では「どんざ」という。「ぞんざ」に似た仕事着に、国中で「じばん」がある。長江では「さしつけ」という。「ぞんざ」の古い形は、前身頃に衽をつけてないが、女性用になると衽をつける。長さは腰きりで、平袖である。女性は下着に「肌じばん」をつけ、下半身は「はだそ」(おこし)をつけて、脚に「はばき」をはいている。昭和初年頃まではこんな恰好で仕事をしていた。高千では他所へ嫁に出す娘には、横刺しぞんざを持たせた。この横刺しは、町場やあらたまったときの「ぞんざ」で、たて刺しは仕事着にした。袖は半平袖になっており、端が立つようになっている。小木町宿根木のように、たて刺しのないところもあり、反対に琴浦は横刺しがない。「ぞんざ」は仕事着の代名詞のように使われていたが、刺し方、目の大小、呼び方など、佐渡の中でも一様ではない。冠婚葬祭などに、刺してない「ぞんざ」を着ることがある。これを「はんてん」といっていた。「ぞんざ」は木綿布を重ねて縫い合わせているから、生地を補強した「さしこ」である。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
★た行★
・田遊神事(たあそびしんじ)
主に正月、その年の豊作を祈願して、農事を模擬的に演じる予祝神事。土地によって御田・御田植神事などと呼ぶ。現在、佐渡にはこの神事が三か所に伝承されている。畑野町大久保の〔白山神社田遊神事〕、赤泊村下川茂の〔五所神社御田植神事〕、小木町小比叡の〔小比叡神社田遊神事〕がそれで、それぞれに異なる演出がみられる。白山神社の田遊び神事は、毎年旧正月三日(現在は二月三日)。神事には、決まった家柄のオオヤとインキョの二名と、厄年の男六名が奉仕する。三日の夕刻、真禅寺で潔斎の後、餅鍬を担いで社前のモチヤキ石で鍬をあぶりヤキをいれ、やがて拝殿内で苗代・田回り・水口・畦ぬり・大足・代田打ち、そしてユズリ葉を車田植えふうにまいて式を終了する。五所神社のそれは、毎年旧正月六日(現在二月六日)。苗取り式・朝飯式・田打ち式・昼飯式・大足式・などから構成され、宮方七人がこれをつとめる。鍬(エブリ)には桑、苗には松葉を用いる。小比叡の田遊びは、五所神社同様、毎年二月六日に執行される。頭取一人、田人四人により、田打ち・水加減・苗草ふり・種蒔き・苗取り・苗持ち(苗運び)・田植えと、田仕事を模擬的に演じることは、前述白山神社・五所神社と同様。ただ、ここでは、モグラ・カラスが登場し、田仕事を邪魔するという趣向は、より芸能的な演出である。苗は松葉。なお、「御田」の呼称は、両津市久知八幡宮の〔花笠踊り〕に「御田踊り」として登場。また田遊びの歌は、『越佐史料』の正元元年(一二五九)の項に、「是月、佐渡八幡宮神主、田植ノ歌ヲ録ス」とあるように、田遊神事も島内に広く行なわれていたものであろう。【参考文献】 『祭りと芸能の旅2 関東・甲信越』(ぎょうせい)、『新潟県の民俗芸能』(新潟県教育委員会)【執筆者】 近藤忠造
・大安寺(だいあんじ)
浄土宗。江戸沢町にある。山号は長栄山、院号は法広院、そして寺号の大安寺から、大久保長安が逆修寺として、生前に建てたことを明らかにしてくれる。法広院は、「法広院殿一的朝覚大居士」の長安の戒名に関係しよう。開基は慶長十一年(一六○六)とされ、開山は高名な京都大雲院の貞安上人。逆修とは死後の往生菩提のため、生前にあらかじめ善根功徳を修しておくことに由来した。長安の名・戒名・造立年を刻む宝篋印塔(慶長十六年銘)は、越前の朝倉義景、加賀の前田利家ら大名の墓と同形式の「越前石宝篋印塔」で、長安の生前に建てた墓が残るのは諸国でここだけである。当初の本堂は、十二間に十間の大伽藍で、学寮があり、所化十数人を養成し、長安が米五百石を寄進したとされ、大久保山城・宗岡佐渡・吉岡出雲の三人が、破損料として米百俵と金五拾両を寄進して維持したという。享保十四年(一七二九)の火災で、「三尊二十五菩薩、二祖大師、貞安形像、長安位牌厨」が焼けたと『佐渡相川志』は伝える。長安の前の佐渡代官、河村彦左衛門の五輪塔(慶長十三年銘)、長安の手代、宗岡佐渡が寄進した、六字名号塔(慶長十四年銘)「願主浄永」の文字が読みとれる六字名号塔(慶長十六年銘)など、一七世紀初頭の石塔が多く残る。また佐渡奉行所を建てた兵庫県明石出身の水田与左衛門・佐渡奉行岡松八右衛門・地役人岩間半左衛門などの一族、近代に入って森知幾(「佐渡新聞」の創設者)・岩木拡(『佐渡国誌』の編纂者)・戯作者中川赤水(「相川音頭」の作者)などの菩提所でもある。【関連】 大久保長安(おおくぼながやす)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集二)【執筆者】 本間寅雄
・大安寺のタブ林(だいあんじのたぶりん)
日本の磯山がタブの森でおおわれていたように、相川の磯山もまたタブの黒森でおおわれていた。慶長のはじめ、十数戸の村から発展した相川は、元和八年(一六二二)には人口およそ三万五○○○人前後、家数四○○○軒を数える大鉱山都市に成長していた。忽然と出現した黄金の鉱山都市「相川」。山相も原形をとどめ得ぬほど変化され、原植生(自然林)も姿を消した。ただ、寺は一一○か寺。寺社林が原植生を今に残してくれる。江戸沢町の大安寺。大浦の尾平神社。いずれもみごとなタブ社寺林である。大安寺は、初代佐渡奉行の大久保長安が建てた寺。相川の金銀山の史蹟を今に残す寺でもあるが、日本の磯山の原植生を今に伝える寺でもある。相川町指定の天然記念物、新潟県指定のすぐれた植物自然の地域・群落であり、環境庁指定の重要植物群落でもある。タブ林面積四○○平方㍍。樹高二○㍍の原生林。高木層はタブ優占し、胸高幹径は一七ー七八㌢、林内は暖地要素の植物が生育する。中木層は、ヤブツバキ・シロダモ・モチノキ、林内はマサキ・キズタ・ベニシダ・ツワブキ・ヤブラン。暖地系のつる木のテイカカズラ・イタビカズラ。私たち日本人が、庭木とし垣根とする植物の多くがタブ林にみられる。タブは、日本民族のふるさとの森。一大鉱山都市であった相川にとっても、ふるさとの森であったことには変らない。【関連】 大安寺(だいあんじ)【参考文献】 伊藤邦男「佐渡相川金銀山の植生」(『金山の町相川』相川町教育委員会)、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】 伊藤邦男
・台ケ鼻(だいがはな)
二見半島南端、真野湾の湾口の北端に位置する岬。二見元村が北に、米郷が西北西に各一キロメートル離れてあるが、周囲には段丘上に灯台があるだけで人家はない。段丘崖下には、隆起波食台が広がり、暴浪の時は波を被り、台上には大小の円形の波食甌穴が生じており、見物や磯遊びに訪れる人が多い。地質は、新第三紀中新統相川層群最上部の真珠岩質石英安山岩溶岩や、同質の凝灰角礫岩であり、甌穴を生じ易い剥離構造等を持っている。甌穴は直径一㍍以上、深さ一㍍以上に及ぶものを含め、大小様々である。燈台下の海抜一八㍍の尾根上の「台ケ鼻古墳」は、昭和三十六年(一九六一)九学会が発掘調査を行った。昭和四十八年三月名勝として県の指定を受けている。【関連】 台ケ鼻古墳(だいがはなこふん)【参考文献】 新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)【執筆者】 式 正英
・台ケ鼻古墳(だいがはなこふん)
相川町大字米郷五五一の、海岸段丘傾斜地に位置する。昭和四十八年三月に、県史跡として文化財の指定を受け、昭和三十六年(一九六一)に九学会で発掘調査を実施した。東西一五、南北一五㍍を遺跡地として周知しているが、石室等は掘ったまま露出している。この古墳は明治時代に盗掘され、天井戸と奥壁の一部が取り去られていた。当時の出土遺物は、須恵器・刀・人骨が出土したと伝える。石室は尾根鞍部を幅四、深さ二㍍に立ち割って築く。玄室は長さ三・六、幅二、高さ二㍍を測る両袖式である。主軸は北東を向き、羨道は長さ三、幅○・八、高さ一・五㍍あり、玄門に間じきりを施している。石室の四隅は、三角状の石を持ち送りの手法を用い、中央部では胴張りが認められた。石室の外側は、土を板築状に水平な層で積まれ、床に玉石が敷かれてあった。石材は、海岸にある転石を加工して使ったものと推定される。持送り式天井は県内初の例で、能登島須會の蝦夷穴古墳に似ており、高句麗との関係を指摘して、能登島は七世紀後半頃の築造と述べている。遺物は直刀の破片一個だけだった。【関連】 台ケ鼻(だいがはな)【参考文献】 中川成夫・本間嘉晴・椎名仙卓・岡本勇・加藤晋平「考古学からみた佐渡」(『佐渡』)、松田与吉「佐渡古墳巡礼」、中川成夫・村井富雄「佐渡の古墳文化」(『人類学雑誌』)【執筆者】 佐藤俊策
・代官(だいかん)
①天正十七年(一五八九)より慶長五年(一六○○)までの、上杉氏の佐渡代官。上杉景勝は佐渡制圧後、国府に黒金安芸尚信、中原に青柳隼人(『管窺武鑑』には須賀修理)、小木に富永備中長綱、沢根に椎野与市(前書には河村彦左衛門)、新穂に大井田監物、湊に須賀修理、寺田に鳥羽十左衛門、貝塚に石井八右衛門を代官として配置し、佐渡を支配した。この外に、文禄頃に小林・登坂・籠島・佐藤・高野らが、佐渡代官として赴任していたことが認められる。②四代官 慶長八年(一六○三)初代佐渡奉行に大久保長安が就任する以前、田中清六・中川主税・吉田佐太郎・河村彦左衛門の四人が、佐渡代官として徳川家康から佐渡を預り、鉱山・地方などの政務を分担した。四奉行ともいう。③大久保長安をはじめ、寛永頃までの佐渡奉行を佐渡代官とも呼ぶ。長安は幕府代官頭で、佐渡金山経営のため慶長九年四月赴任、相川に代官陣屋を置き、佐渡を支配した。④大久保長安の家来大久保山城(のち長安の跡をうけ二代佐渡奉行となり、田辺十郎左衛門宗政と改名)小宮山民部・宗岡佐渡が、佐渡代官として政務を分担した。⑤大久保長安が大久保山城・小宮山・宗岡の下に、従来からの家臣や新たに召抱えた浪人を代官に取り立て、地方の要所に配置して佐渡を支配した。すなわち、河原田代官池田喜右衛門と堀口弥右衛門、小木代官原土佐、鶴子代官に保科喜右衛門、赤泊代官に横地所左衛門、湊代官に服部伊豆、大野代官に鳥井嘉左衛門を配置した。⑥宝暦三年(一七五三)佐渡奉行の外に二人の佐渡代官を置き、佐渡を奉行・二代官の三人による分割支配としたが、公平を欠くなど問題が多く、早くも宝暦九年一代官を、さらに明和五年(一七六八)代官制を撤廃して旧に復し、佐渡奉行の一円支配となった。【関連】 佐渡奉行(さどぶぎょう)【執筆者】 児玉信雄
・大願寺(だいがんじ)
時宗。神奈川県藤沢の清浄光寺末。寺の由緒書では「一説には貞和年中遊行七代度賀上人代僧を以て開基、また文和四年遊行八代渡船上人渡海して開基すとも云う」としている。文和四年(一三五五)の「遊行八世巡国之記」(隨従した弟子による日記)に、この年三月、渡船は遊行衆を引きつれ、佐渡での始めての布教に来島した。直江津より船十数艘に分乗し、あらしに悩まされながら十三日夜半に岬(宿根木)に上陸。ここにはかねて渡っていた越後広声寺時衆が一堂一宇を建てていた(現在の宿根木称光寺)。ここで一○日ばかり布教、やがて府中の本間佐渡守(国の守)に招かれ、府中橋本の道場(現在の大願寺、貞和のころ開基と伝えるのはこの道場か)を基地に、国中に布教した。七月九日、府中を発ち、三河(赤泊か)という所に寄り、再び宿根木の港から出船、柏崎に向ったことを記している。佐渡に時宗が根づいたのはこの一四世紀半ば、大願寺を中心としてであった。大願寺は「佐渡高野」とも呼ばれ、島内各地から家族の分骨が納められ、三月彼岸の中日には、肉親の霊供養に集った人々のため市が立った。これが大願寺市(彼岸市)であるという。天正十七年上杉勢に攻められ、六○坊あったという伽藍も焼かれ、全山が一時失われたが、慶長十四年大久保石見守長安により本坊が再建されている。本尊阿弥陀如来は、県文化財に指定されている。門前百姓一七軒があり、これが現在の四日町(真野町)の前身という。相川の大願寺(廃寺)は、相模国清浄光寺末で、四日町大願寺一六世了任によって慶長十三年(一六○八)弥十郎町に開基。明治元年(一八六八)廃寺となる。毎月二十五日に歌会が催され、連歌が奉納されたという。【執筆者】 山本 仁
・大工(だいく)
坑夫のことである。佐渡では普通の大工を、番匠或いは家大工といった。鎚とタガネを用いて鏈(鉱石)を掘り取ることを職分として、金児(金子)に使役される鉱山労働者。専業者を地大工といい、農漁民などが農閑期に臨時に大工働きをするのを、「かけ穿大工」と呼んだ。一○日間定めの通り入坑するものを、「差組大工」といい、定めに違い不参するものを、「逃げ大工」とも「番欠大工」ともいった。昼は差組大工として働き、夜他山へ働きに行くものを、「またぎ大工」と呼んだ。明六ツ時に入坑するのを朝一番といい、六ツより四ツ迄二ツ時、二番の大工入れ代わり四ツ時より八ツ時迄、三番の大工八ツより暮六ツ時迄、これを大工三人にて、六ツ時穿るのを六ツの稼ぎという。大工二人で朝五ツ時より二ツ時宛て代わり合い、七ツ時迄四ツ時穿るのを、四ツの稼ぎという。三人にて一ツ時代わりに稼ぐのを、六ツの稼ぎという。夜の稼ぎも同じ、大工一人にて穿る敷を、すっぽという。大工一人二ツ時を一枚肩、大概一貫五○○目より三貫目程。【関連】 大工町(だいくまち)【参考文献】 「佐渡金銀山稼方取扱一件」【執筆者】 小菅徹也
・大工町(だいくまち)
坑夫の住んだ町で、町部山側の鉱山に近い高台に立地している。新五郎町を経て京町通りに下る昔のメインストリートの、現在は諏訪町に次いで始点に位置する。鉱石を掘る坑夫を古くは「大工」といい、「慶長ヨリ寛永ノ頃迄、此所銀山銀穿リノ大工多ク居住ス」(『佐渡相川志』)とした記述によって、この町の成立の由来がわかるが、鉱山の大工たちがすべてこの町に居住したわけではない。普通大工は、町内各地に住む山師たちに従属して、山師とともにかたまって住んでいた。別に大工町は、公儀で雇入れて必要に応じて山師の採掘に加勢として出向く「御手大工」が、かたまって住んだ町であるとされている。慶長期の鉱山史料を集めた「川上家文書」に「大工町衆、大かた御出候」「大工すくなく御座候間、百人かせい(加勢)を入れ、切られせ申候」などとあって、山師に付属する大工とは違った使命を持つ、公儀の採鉱集団がいたことがこの記述でもうかがわれる。昭和十四年(一九三九)の平沼内閣、同十五年の米内内閣で外務大臣を勤めた有田八郎は、この大工町で質屋を営んだ有田家の養子である。氏神は天神社で、口碑によるとここに奉納される鬼太鼓は、古くから大工町衆によって伝承されてきたといわれ、古く安永元年(一七七二)に最初の記事が見られる。佐渡各地に伝わる鬼太鼓組みのルーツの一つであろうとされ、相川では十月の善知鳥神社の祭礼(相川祭り)に奉納され、町内をねり歩く。【関連】 大工(だいく)・川上家文書(かわかみけもんじょ)【執筆者】 本間寅雄
・大興寺(だいこうじ)
南片辺にあり、真言宗智山派、本尊は不動明王、山号は宝内山である。寺社帳では開基は天正五年(一五七七)で、当初は水上坊と称したとあり、『高千村史』では大同三年(八○八)元祖弘長により創立とある。伝承によれば、木食弾誓が立ち寄り、千体仏を納めるまでは不動堂であった戸地の千仏堂が、藻浦崎の観音岩の所にあった西光寺が退転したので、本尊の観音さんを別にお堂を建てて納め、お不動さんを安置して水上坊を開いたという。この西光寺は、石花将監の菩提所金井町吉井の剛安寺につながりを持つ寺であったが、天正十七年(一五八九)上杉景勝の佐渡攻めにより、将監滅亡後退転したもので、天正五年は西光寺の開基かと思われる。宝暦九年(一七五九)本寺・真光寺の帳面にある寺名の水上坊を、大興寺に改めたいと佐渡奉行などに願い出たが、許可されなかった。しかし元禄以降の文書には、水上坊・大興寺両方の名が見える。明和八年(一七七一)真光寺門徒から新末寺となる。明治の廃仏毀釈では、佐渡奉行の御休所など、諸御用を勤めたことから廃寺を免れた。寺宝に木喰行道が天明四年(一七八四)製作した高さ五五㌢、楠一木造りの佐渡では珍しい、左手に錫杖を持った弘法大師像がある。【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『佐和田町史』【執筆者】 近藤貫海
・第四銀行相川支店(だいしぎんこうあいかわしてん)
相川町に開設された佐渡で最初の銀行。明治九年(一八七六)四月、相川県が新潟県に合併されると、新潟県は第四国立銀行に佐渡支庁の取扱う出納事務を命じ、同銀行は八月三十日、佐渡支庁内に出張所を設けて業務を開始した。同十一年一月支店に昇格、本・支店間の為替業務も行なったが、翌十二年五月佐渡支庁が廃止されて佐渡三郡役所が置かれると、支店は閉鎖されて税金や郡役所・相川裁判所・佐渡鉱山などの公金は、派出所を設けて取扱うことになった。明治二十年代になると、産業や商業の発展により為替業務が増え、第四銀行も預金・貸出・為替など、商業金融を積極的に推進、明治二十二年三月一日、再び相川支店を三町目四番地に開設した。さらに同年三月三十一日に佐渡鉱山が皇室財産に移管されると、その為替方であった三井銀行の代理店も引受けた。同二十九年九月に、佐渡鉱山が三菱合資会社へ払下げられて公金の取扱いが減少すると、第四国立銀行が普通銀行へ転換したこともあって、同年十二月十八日相川支店を廃止し、公金取扱い業務は相川銀行へ譲渡した。大正十三年(一九二四)九月一日相川銀行が閉鎖されると、その業務を引継いで再開し、今日に至っている。 【関連】 相川銀行(あいかわぎんこう)・佐渡銀行(さどぎんこう)【参考文献】 『第四銀行百年史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘
・岱赭墨(たいしゃずみ)
相川下戸町の幅野今八家で製造販売していた、絵画に用いる朱墨。ガンマンをふくむ赤い鉄鉱が風化した分解物を粉にしたもので、原石を岱赭石ともいう。研麿剤の原料にもなり、帯褐色の粉米状の顔料も岱赭と呼ばれる。薬物や陶工にも用いた無名異に似て、酸化鉄と同じ系質である。広告に「岱赭絵具製造本舗、玉瀾堂・幅野今八謹製、佐渡国相川町」とあり、岱赭墨の現物が相川郷土博物館に寄贈されていて、中身には「佐渡特産・別製岱赭墨」(長さ六・七糎、経一・八糎)とあり、箱に「佐渡特産・別製岱赭墨・幅野今八」(長さ七・八糎、経二・五糎)の文字が印刷されている。広告文には「佐渡に於ける岱赭墨は、遠く文政年間、先々代今八が金北山脈の一支峯に於て偶々酸化鉄を発見し、試みに之れを精製して江湖に販売せしを淵源とせるが、其の原料の良好なる、加工の精到、価格の低廉と相まちて─」などと記されている。なお相川の絵師、加藤文琢を紹介した岩木拡の『相川町誌』によると、「文琢かつて金北山に登りし時、妙見山ノ近傍ニテ岱赭の原石ヲ発見シ、之ヲ下戸町の幅野今八ニ教ヘ其ノ製法ヲモ口授セシト云フ」とあって、原石の発見者を文琢としてある。江戸では谷文晁・青木南湖などの画家もこれを激賞し、佐渡岱赭の名が広まった、としている。今八は富豪幅野長蔵家の本家で、別に「銀花散」という歯みがき粉も製造していた。【関連】 加藤文琢(かとうぶんたく)【参考文献】 萩野由之『佐渡人物志』、『町のにぎわい』(相川郷土博物館特別展報告書)【執筆者】 本間寅雄
・大乗寺(だいじょうじ)
下山之神町にある真言宗豊山派の相栄山大乗寺は、慶長十七年(一六一二)に宥詮による開基を伝えている。当時は常州智足院末であったが、のち武州護持院末となり、さらにのち東京護国寺末となった。宝暦の寺社帳によると、境内壱町九反七畝廿歩、畑一畝弐歩とあるが、『相川町誌』では、境内四反二畝十四歩、田三町五反二十歩、畑一町一反二畝七歩となっている。この辺りはかって松原であったので、当寺を「松原寺」あるいは「松原大乗寺」と唱えたことがある。本尊の聖観音は、伊丹播磨守康勝奉行の臣、岡村伝右衛門義見(承応元年〈一六五二〉没)の持仏を寄進したもので、寛永中その観音の御供料として、小川村に七反余の新田が開かれた。境内には、西国三十三観音像・仁王像・四国八十八ケ所石仏・大師堂・聖天堂・庚申堂などがあり、良寛の母おのぶの実家橘屋代々のお墓が残っている。【関連】 相川橘屋(あいかわたちばなや)【執筆者】 本間雅彦
・大神宮(たいじんぐう)
夕白町に残る旧村社。創建の年代は未詳。文亀年間説(『佐渡神社誌』)があるが、疑わしい。古くは北沢川の北側の山岸にあったという。そのころの社地は、買石(製錬業者)池島甚兵衛の所有地だったが、ある日半左衛門という者が霊夢をみて銀山を見立て、大盛りを得た。その報賽として、神明社(皇大神宮を祀る)を勧請したのに始まるとされる。過ぎて元禄十五年(一七○二)の五月、社殿を地主甚兵衛に返還し、以後山伏大行院が別当を勤めた。夕白町は、古く山師備前遊(夕)白が開発した町であり、ここに移ったのは延享三年(一七四六)十月のことという(『佐渡相川志』ほか)。祭神は大日霊貴尊。『佐渡神社誌』には、「文政十一年三月再建、当町十六ケ村の産土神たり。明治六年九月村社に列す。同廿一年十月十三日再築とあり」と記す。夕白町移転後は、上町一帯(現在は長坂町から新五郎町まで、約一八○世帯)を氏子とし、広い信仰を集めていて、善知鳥神社の祭礼の、御輿の御旅所にもなっている。神明さんとも呼ばれ、本殿は、屋根が切妻、柱は堀立式の神明造りである。安永四年(一七七五)銘のある鳥居が残っていて、笠木の上部を刀背状にした、新明鳥居の名残りが一部見られる。祭礼は八月一日(古くは六月一日)。神楽と大黒舞いが奉納された。境内に桜の古木が数本、拝殿のうしろは杉の木立で薄暗く、落着いた景観のやしろである。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】 本間寅雄
・大神宮(だいじんぐう)
稲鯨大神宮。稲鯨字砂原。近世は神明宮という。『佐渡国寺社境内案内帳』には、天文二十一年(一五五二)勧請とある。社人六郎左衛門。明治十六年『神社明細帳』には、「村社。祭神天照皇大神。後鳥羽天皇が天叢雲剣の写を千振作らしめ給いし内、その一振を神体とした、と口碑にあり。慶長の頃、吉田兼治当国下行の事あり。その砌、右の御剣を改めて勧請し奉る」とある。大神宮の氏子は砂原に多く、浄土真宗専得寺の門徒。伝説では御神体の太刀は、鱈場で網にかかって上った太刀ともいう。鱈場漁師が宮の浦浪切不動尊と同じように、寄り神であることを氏子の伝承として残す。元和三年(一六一七)二見半島沖の下鱈場に、九艘の御役鱈場船があって、一艘に干鱈一○○枚の御役を納めていた。これらの鱈漁師の鎮守には、寄り神の伝承がみられる。稲鯨の字中村に、無格社であった北野神社がある。集落内には、組ごとに別に神仏を祀るが、集落の例祭は八月二十五日、北野神社の祭礼日に行い、大神宮では一月十六日の祈年祭に、大般若祈祷と神楽を隔年に行うことになっている。【参考文献】 矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・胎蔵寺(たいぞうじ)
北狄にあり、真言宗智山派。本尊は大日如来で、山号は狄石山である。開基は天正元年(一五七三)実相院により建立されたと寺社帳にある。また寺が開かれた際、小川から北見家が転任してきたと言われる。北狄には、海府地域に檀家制度が確立したと思われる元禄期から、宝暦期以前の貞享三年(一六八六)の墓碑があり、建立の頃から北狄の檀那によって庇護されていたと思われる。承応二年(一六五三)違勅の罪で佐渡に流された伊勢祭主藤波友忠が、万治四年(一六六一)奉納の絵馬や、朱塗りの調度品が什物で残されている。宝暦八年(一七五八)真光寺門徒から新末寺になる。【関連】 藤波友忠(ふじなみともただ【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『佐渡流人史』(郷土出版社)【執筆者】 近藤貫海
・大神宮(だいじんぐう)
米郷大神宮、米郷字西。開基知れず。神明社、社人忠右衛門(『佐渡国寺社境内案内帳』)。明治十六年『神社明細帳』には、「米郷大神宮、祭神天照皇大神、米郷村産土神たり。元文三年(一七三八)再建の棟札あり。口碑によれば慶長十二年(一六○七)吉田兼治、当国へ渡海の時勧請するといえり」とある。米郷の沖合いには、伊勢神宮への神饌用の若和布を採取したとみられる「たかおんべ」・「ひらおんべ」という島があり、台ケ鼻から城ケ鼻までの間は、魚貝類の豊富な場所で、延喜式大膳職・内膳の海藻・魚貝の貢進物も採取されたと思われる。元文期(一七三六~四○)からの長崎俵物の蚫・海鼠は、この海域でさかんに採っている。例祭日は六月十六日。【参考文献】 矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・大提灯(だいちょうちん)
旧相川町の氏子祭(小祭りとも)、いわゆる氏神の祭礼、およびその宵宮に、往来に掲げる献灯の大提灯。道路両側の、家の軒から軒へはしごを渡し、その上に横断幕をはるような形で、大提灯をのせてローソクを入れる。ローソクの火がともされると、提灯の絵を見物してまわる人々で町中が賑わった。提灯を管理するのは若者衆の役目で、大雨や風で絵が破れないように、見張りをしてまわった。一つの町内に二、三か所、大きい町では四、五か所に掲げられたという。提灯の大きさはタテ一・五㍍、ヨコ約四㍍、厚さ五○㌢ほどあり、絵は武者絵が多かった。残っている絵に、「源平八島大激戦図」「大江山福寿酒盛」「石橋山合戦」「粟津ケ原合戦」、また佐渡史にちなんだ「阿新丸」「日蓮」、民話の「舌切り雀」など。雄こんな絵柄と彩色の豊かさが見事で、中川鮎川・村田至周・古土北海・岩佐半仙などの絵師の署名が見える。石扣町町内会の一三点をはじめ、柴町・材木町・四町目・三町目・濁川町で掲げたものが残っているという。石扣町町内会の大提灯絵は、昭和四十九年(一九七四)八月に町文化財(工芸)に指定された。【関連】 中川鮎川(なかがわあゆかわ)・岩佐半仙(いわさはんせん)【参考文献】 『相川町の文化財』(相川町教育委員会)【執筆者】 本間寅雄
・鯛の婿源八(マツカサウオ)(たいのむこげんぱち)
小型な発光魚として有名な、和名マツカサウオ(松毬魚)のことを、各地で古くから色々と呼び慣らしてきた。佐渡で鯛の婿源八と呼ぶことは、滝沢馬琴の『燕石雑誌』と『烹雑乃記』に出てくるが、田中葵園の『佐渡志』にはない。越後では、鯛の婿源三郎(丸山元純の『越後名寄』、小田島允武の『越後野志外集』)と呼んでいたが、現在はタイノオジやゴンパチ(権八)である。体がタイに似たところがあるのに、大きな硬い鱗で覆われて、ごつごつしているところからの類推であろう。近縁種のエビスダイは、赤くて大きな美しい食用魚であるが、マツカサウオの肉も白身で味がよいという。マツカサウオは、せいぜい一五㌢にしかならないが、全体が黄色で、鱗板は黒く縁取られ、顎の下も黒い。顎下が発光することの発見は、富山県の魚津水族館で、大正五年(一九一六)八月の停電中のことだった。ここに、発光バクテリアを共生させているのである。暖海系の沿岸魚で、北海道南部から、九州・台湾を経てインド洋や、さらに西部太平洋からオーストラリアの北西岸にも分布する。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治
・大福寺(だいふくじ)
浄土真宗西本願寺派。相川丸山六右衛門町。『佐渡国寺社境内案内帳』には、「慶長十七年開基、宗俊越中富山称名寺より来り、延宝三年遷化」とある。寺縁起では「本願寺五代綽如上人によって越中井波瑞泉寺がひらかれると、三世の舎弟瑞俊が、関東稲田からもってきた名号を本尊として、砺波の城が崎に称名寺を建てた」とある。越中富山ではなく、砺波城が崎の称名寺である。開基宗俊については、『富山県寺院明細帳』には「開基宗俊、東本願寺宣如上人の弟子となり、元和九年砺波郡石田村に道場を創建し、寛永七年大福寺と相成り、同郡山田村大窪新村へ移転する」となっている。来歴に混乱があるが、宗俊は延宝四年(一六七六)に九二歳で没しているから、時期が少し早い。おそらく慶長初年に濁川付近に入ったものだろう。関東稲田からの古い名号本尊(十五光仏)とは別に、東本願寺の教如上人より名号本尊が下附されて、慶長十七年丸山に開基された。そのとき宗俊は二八歳で、また越中へもどった。明暦元年(一六五五)、越中から佐渡の嫡子宗玄に「─遠境の地、海路を隔てていて対面することは叶わないが、浄土にて再会することがあろう」と、晩年の心境を手紙に認めている。古い門徒に、越中井波四郎左衛門・越中忠兵衛らがおり、六右衛門町の石見六右衛門や、濁川・大間町の遠藤氏や伊藤氏、下相川の石切職人らも檀家である。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)、永弘寺松堂『佐渡相川志』、佐藤利夫「北陸真宗門徒と佐渡銀山」(『日本海地域の歴史と文化』)【執筆者】 佐藤利夫
・高田一方精(たかだいっぽうせい)
相川大工町の高田平五郎家(高田一方精本舗)で、調剤して広く発売されていた大衆漢方薬。同家家蔵の効能書によると、「気つけ」「めまい」「気ふさぎ」「胃のいたみ」「ぜんそく」「たんせき」「気管支病」「おうど」「口熱」「虫歯」「しゃくり」「しゃく」「食あたり」「切りきず」「あかぎれ」「打身」「はれもの」「二日酔い」「産前産後」「りゅうまち」「船くるま酔い」などと広範囲で、「救急良剤」として一般家庭で重宝がられた。持ち運びが簡単な箱入りのガラス瓶に入っていて、切り傷などは綿にしめして傷口に当てる、虫歯の痛みなどには筆にひたしてぬる、服用のばあいは水に和して飲む、などの用法が記されていて、大瓶・中瓶・小瓶の三種類があった。高田家の先祖は大坂の人で、代々平左衛門とも平兵衛ともいい、のちに平五郎を襲名した。椎野広吉の『佐渡の能謡』に、「有福なる町人にて多能多芸」の人として高田梅顛(四代目)のことが紹介されていて、能楽師遠藤可啓に師事して謡曲に堪能、また義太夫(節)にも習熟して三味線が弾け、そして本領は俳諧を以て名があったと記してある。明治十年(一八七七)九月に八四歳で没したという。なお一方精は、北蒲原郡中条在の庄屋から養子入りした五代目銕之助が、実家の家伝の薬をもとに処方したのに始まるという。七代目定(さだむ─昭和十七年没)八代目三治(昭和五十五年没。いずれも平五郎襲名)の代には、北海道・樺太などに販路を広げ、大戦中南方方面にも輸出された。この家には、文人墨客の来訪も多かったらしく、与謝野寛・晶子夫妻なども訪ねて、多くの歌軸を残している。 【執筆者】 本間寅雄
・高田屋(たかだや)
相川町羽田町東側にあった高級ホテル。現在は佐州ホテルになっていて、木造一部三階建の建物が残っている。「自分たちの泊ったのは高田屋といふので、三階から日本海の入日を見る奇観は、紅葉(尾崎紅葉)も筆を極めて賞していた。主人を根村忠五郎と呼び、紅葉の事を種々話して呉れた。有名な“蚊帳釣りて鎖さぬ御代に相川や”は此家での(紅葉の)吟である」と書いたのは江見水蔭(昭和七年「佐渡へ佐渡へ」)。創業年月は未祥だが、明治三十四年(一九○一)九月の『佐渡名勝』に「御旅館、高田屋忠五郎」の広告が見える。紅葉が来泊した二年あとの発行。昭和十三年六月発行の『佐渡名鑑』(佐渡毎日新聞社刊)には、「第二師団舞鶴要港部」「東京地方逓信局・仙台地方逓信局」「三菱佐渡鉱山」のそれぞれ指定旅館であるとの広告が見え、「高田屋旅館」としてある。昭和十五年十一月に佐渡へ渡った作家の太宰治は、高田屋に投宿したことを「宿屋が上等だと新潟の生徒から聞いていた。せめて宿屋だけでも上等なところへ泊りたい。濱田屋(高田屋の仮名)は、すぐに見つかった。かなり大きな宿屋である。やはり、がらんとしてゐた。私は、三階の部屋に通された。障子をあけると、日本海が見える」(「佐渡」)と書いている。「三階上段の間に、ここから海上の夕陽を眺めるのが壮観」だと江見水蔭も記しているから、紅葉の泊ったのもこの三階の間であろう。【関連】 煙霞療養(えんかりょうよう)【執筆者】 本間寅雄
・高千鉱山(たかちこうざん)
高千鉱山の呼び名ができたのは、大正元年(一九一二)からである。明治四十四年、三菱合資会社が民営の入川鉱山を買収し、翌年赤岩本坑に於て大直利(富鉱帯)に着脈し、立島二番坑に於ても上鉱を産したので、之を併せ佐渡鉱山の支山として、高千地方一円を管轄した鉱山である。開発は江戸時代に遡る。寛文四年(一六六四)入川御直山・田野浦御直山として、文献上の初見がある。相川金銀山の盛りに合わせて、断続的に探査された模様で、明治十八年(一八八五)に立島坑が再開された。同二十九年に、御料局から前揚三菱社が払下げを受け、以降大正初年にかけて、小野見鉱山から鹿ノ浦鉱山まで、周辺一帯の探査が進んだ。当地の鉱床は、何れも列罅充填鉱床の含金銀石英脈であり、鹿ノ浦はこれに銅・亜鉛鉱を伴う。産出の主流は、入川赤岩・立島・桜沢の三坑である。地元の人が鉱山で働き出したのは、大正十一年(一九二二)からである。手選された鉱石は、入川は軌道で、立島は単線鉄索によって海岸置場に運搬の上、海路相川の本山及び直島製煉所に運送された。当時従業員の総収入は、高千村の農業生産額に次いで第二位(二割強)を占めたという。昭和十二年(一九三七)、蘆溝橋事変による戦略物資調達等で、金の需要が高まって大増産し、為に同十七年には鉱量枯渇を招いた。時を同じくして、太平洋戦争勃発による国の政策の転換に伴い、同十八年(一九四三)閉山となった。ちなみに、明治三十九年(一九○六)から閉山まで、三七年間の総産出量は、精鉱一九万二○○○㌧・含有量金二三二二㌔・銀八万二四四五㌔である。【参考文献】 「鉱山内部資料」、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『高千村史』【執筆者】 池田達也
・高千鉱山(地質)(たかちこうざん)
相川町立島および入川流域に位置する。西から東へ、立島・桜沢・入川の有力鉱脈が分布する。立島坑から入川坑までの東西延長は、一七○○㍍、最大脈幅二㍍、深度四五○㍍、母岩は入川層および相川層である。一六一○年、徳川幕府の直営で開発されたが、稼業休止を繰り返した。その後、一九○六~四二年間に稼業され、総鉱量は約二九万㌧、金七・八㌧、銀二七○㌧と品位に富んでいる。【参考文献】 坂井定倫・大場みのる「佐渡鉱山の地質鉱床」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】 神蔵勝明
・高千村史(たかちそんし)
書名のサブタイトルに、「農民の生活と物の考え方」とあり、扉には、「このつたなき村史を、この村に生き、この村に死んだ、名もなき多くの農民の霊に捧げる」と記し、この村史の性格と内容を、ずばり云いあらわしている。目次はまず序にかえてで、村のあらまし(村の自然環境と社会経済環境)を述べ、第一部は、村の民俗(年中行事・民謡・昔話・俗信)をさぐり、土に生き、土に死んだ多くの村びとの心象風景にせまっている。第二部は、村の歴史(村の誕生と形成、きびしい検地、重い年貢、虐げられた生活、村の構造と行政、生活向上へのあゆみ、明治諸改革と村、村の近代化、昭和恐慌とその後の村)で、農地と農民の、生産生活の流れを中心に述べている。執筆編者は、当時高千中学校教諭浜口一夫(社会科)が中心となり、当中学校の教師や、相川高校高千分校教諭佐藤利夫(社会科)の諸氏が、全面的に協力した。それらのことについては、「編者のことば」にくわしい。なお、本書の調査・編纂について、野の史家橘法老の存在が大きい。氏は本書の「跋」を執筆し、次のように述べている。まず史料採集のいきさつを述べ、「初めて科学的村史が佐渡に出現した。科学的な村史の生命は、不滅に近いものといえましょう」と最大過分の讃辞を記している。【執筆者】 浜口一夫
・高千中学校(たかちちゅうがっこう)
昭和二十二年(一九四七)五月二十日、高千小学校の南側六教室を借用し開校式を行なう。初代校長は羽豆政吉、教職員八名、生徒数は二九六名だった。翌二十三年七月、二教室増築。翌二十四年には生徒は三七三名、九学級編成となる。待望の独立校舎第一期工事の竣工は、昭和二十八年三月末であった。続いて第二期工事の体育館が新築されるのは同三十年二月八日、さらに第三期工事の校舎建築の竣工は、同三十三年一月十日である。校章とバッチの制定は、同二十二年に職員と生徒の合作でなされ、校旗の樹立は翌二十三年、地元の海運業者(安田長栄)が寄贈。校歌の制定(作詩山本和夫・作曲平山寮)は、同三十三年である。終戦直後の高千地区は、なぜか呼吸器患者が多かった。初代の羽豆校長は心を痛め、体育の奨励に力を入れた。そのためクラブ活動の対外試合には目をみはるものがあり、昭和二十三年の郡中学校水泳大会や、同排球大会にはみごと優勝。相撲は第二位と、その年度の総合点は第一位を獲得し、一躍その名をとどろかせた。その後もその伝統は続き、羽球・駅伝・陸上競技など「赤シャツ高千」と呼ばれ、その名をほしいままにした。文化方面でも、全国綴方コンクール(読売新聞)やNHK全国めぐり作文に当選したり、郷土調査の「文弥人形」、「村の歴史ー社会学習の一資料ー」更に『高千村史』の編纂などは、特筆すべき快挙であった。なお、戦後間もない昭和二十四、五年に郡中と郷教研共催の「生徒会の指導」や、「ホームルーム」つまり戦後生まれた新しい教育領域の研究会を催し、その成果を世に問うている。過疎化による外海府中学校との合併は、昭和五十八年四月一日からである。校名を相川町立北部中学校と改称。鉄筋コンクリート三階建ての新校舎は、前年の五十八年三月に竣工。新体育館は同年十月完成。同五十九年三月七日、複雑な事情で校名をもとの高千中学校に変更する。新校歌と校章は同六十三年、校旗は平成元年に樹立。同六年四月から、いきいきスクール推進事業を開始する【参考文献】 「高中十年のあゆみ」(高千中学校)、「高千中学校沿革誌」(高千中学校)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・高千農業協同組合(たかちのうぎょうきょうどうくみあい)
所在地高千、設立は昭和二十三年(一九四八)六月。「高千村農業協同組合」(高下)と「高千村第一農業協同組合」(北川内)の二組合が設立されたが、昭和二十四年九月、両者が合併し「高千村農業協同組合」となる。同二十八年十月、佐渡総合病院高千診療所(北川内)を開設。翌二十九年、小野見川第二水力発電所運転開始(二○○㌔㍗)。同三十年、小野見川火力発電所運転開始(四○㌔㍗)。同三十一年九月、相川町との町村合併により「高千農業協同組合」に名称変更。同三十五年十一月、有線放送施設竣工開局、同三十七年八月、北川内火力発電所運転開始(一○○㌔㍗)。同三十八年六月、島内初の農薬空散実施。同三十九年、北川内と小野見の火力発電所閉鎖。同四十四年十二月、高千診療所を現在地の北川内一○五一番地に移転し、佐渡総合病院より週一回出張診療をうける。同四十七年、小野見第二発電所の事業閉鎖。同四十九年二月、農機具修理業務を開始する。【関連】 佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)【参考文献】 『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)、『高千村史』【執筆者】 浜口一夫
・高千の小学校(たかちのしょうがっこう)
明治三年(一八七○)ころ、北立島・入川・高下・北田野浦・小野見などに郷学があった。明治十一年、新潟県第一六中学区第二九小学区第九番小学校・小田校の附属校として、小野見分校・高千分校・北立島分校があった。同十四年には、小田小学校より分離して、北立島小学校と高千小学校(高下)が誕生する。そして小野見分校は高千小学校の分場となり、同三十九年には石名に移り、同四十五年に独立して、石名尋常小学校と改称される。明治三十四年、北海村の一部が高千村に編入され、石花校を北片辺に移し、北片辺尋常小学校と呼ぶようになる。明治二十二年、高千小学校が簡易科高千小学校と改称され、北立島小学校はその分場となる。同二十四年北立島分校が独立して北立島尋常小学校(修業年限は四か年)と改称される。なお、同三十五年に高等科(修業年限二か年)を併置し、北立島尋常高等小学校となる。同二十五年には簡易科高千小学校を高千尋常小学校と改称。大正四年、北立島尋常高等小学校の分場として、入川字船か沢に入川鉱山坑夫の子弟のための入川分教場(一・二年生)が建つ。大正十一年には、北片辺尋常小学校・北立島尋常高等小学校・高千尋常小学校・石名尋常小学校の四か校を廃し、新たに入川の現在地に、高千尋常高等小学校を設置し、南(北片辺)と北(石名)および入川鉱山に分場を置いた。入川に本校新校舎が落成(第一期および第二期工事の一部)したのは大正十四年一月である。昭和十三年八月、校舎内の児童文庫が開館され、同十四年校歌が制定される。同十五年紀元二六○○年記念事業として、校庭県道側に勤労奉仕により土手を築く。同三十年南側校舎を使い、相川高等学校高千分校を設置する。同三十一年、高千小学校の両分教場を、北校舎・南校舎と名称がえをする。同三十五年北校舎独立して、高千北小学校となる。北小学校は書道教育に力を入れ、昭和四十年に新潟大学書道教育研究会主催の書初大会に、連続三年の団体賞を受け、その後もなん回か金賞・銀賞を得、同四十一年には日本習字教育連盟の学校賞を受けている。なお、同四十九年には、子供貯金が県知事表彰に輝く。同六十年三月、過疎による児童激減のために閉校。高千小学校に合併される。同四十年南校舎を廃止、全児童バス通学となる。同四十六年、郡小研の算数研究会開催。同五十年子供貯金、大蔵大臣ならびに日本銀行総裁より表彰される。同五十二年、創立百周年記念式典を挙行。記念像「たかちの像」設置する。昭和六十年四月、高千北小学校を統合。さらに平成元年四月、小田小学校と外海府小学校も高千小学校に統合。児童数一三八名、学級数六学級となる。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「たかちの百年」(高千小学校)【執筆者】 浜口一夫
・高千村(たかちむら)
江戸時代の村は、今の大字にあたるものが一つの行政単位になっていたが、明治維新後は、新しい地方自治制と中央集権的な政策を推進するための、町村合併がなん回も行なわれた。たとえば、明治十年(一八七七)の戸長所整理のための町村統合には、高下と千本が統合され、両方の頭文字をとり高千と改名。この年、現相川町関係では、戸地と戸地炭町が統合され、戸地と改名している。明治二十二年の町村合併には、石名から北川内までの七村が合併し、新しい高千村を作っている。『新潟県町村合併誌』を基に当時のようすを記すと、石名の戸数六四戸・人口四一二人、小野見は戸数三八戸・人口二一五人、北田野浦は九○戸・四五九人、高千は一○二戸・五九九人、入川は八八戸・四七三人、北立島は六二戸・三○八人、北川内は四九戸・二七七人となっている。そして、合併の理由は、各村資力なくして独立あたわず、その地形・人情同一。戸長所轄も同じゆえ合併を便とす。新町村名は大村の名称(高千)を採るとある。役場は高千に置かれた。さらに明治三十四年の町村合併には、高千村に北海村の一部(後尾・石名・北片辺・南片辺)が合併し、新しい高千村(戸数七五○戸、地価九万四○○○円)となり、役場を北立島に移した。この合併の際、北海村は全村挙げての合併を主張したが、戸地・戸中との片辺山越えがじゃまをし、高千村と金泉村への両方へ分離した合併となった。昭和三十一年九月には相川町に合併、現在に至る。【関連】 北海村(きたみむら)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『高千村史』、橘法老『野沢翁の語る遭逢夢の如し五十年』【執筆者】 浜口一夫
・高千郵便局(たかちゆうびんきょく)
開局は明治十年(一八七七)一月、後尾にあり後尾郵便局と称したが、大正八年高千郵便局に改称した。当初は郵便局といっても、普通の民家の一部屋を借り、郵便事務は家族で処理するというものであった。初代の局長(当時は郵便取扱役といった)は、渡辺利喜蔵であった。開局当時は郵便物のみ扱ったが、同二十九年には貯金、三十二年には為替と小包、四十三年には電信、大正十五年には保険・年金、昭和八年には電話交換(局の事務用の電話は昭和四年に取りつける)というふうに、次第に仕事の内容は充実していった。その後電通の合理化により、電信・電話(交換)は昭和五十三年二月佐和田電報電話局へ吸収された。同地区には、ほかに無集配局の北田野浦郵便局(田辺孫太郎)があり、大正六年北田野浦に開局と同時に、為替・貯金業務を開始、翌年電信、昭和六年には電話交換業務を開始したが、昭和五十三年二月に電通の合理化で、電信・電話(交換)は佐和田電報電話局へ吸収された。また昭和六十二年十一月に、小田郵便局が郵政の合理化により無集配となり、高千局で岩谷口までの集配業務を取扱うことになった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『高千村史』【執筆者】 浜口一夫
・高任水力発電所(たかとうすいりょくはつでんしょ)
鉱山の高任水力発電所ができたのは明治三十三年(一九○○)で、高任にあった選鉱場で選鉱機械の動力として使っていたペルトン水車を利用して、十一月から点火した。ペルトン水車は明治三年に米国で考案されていて、早やくから佐渡鉱山の動力として入っていた。回転体の周辺に椀形の水受、すなわちバケットを等間隔に多数取付け、ノズル(噴出口)から噴出する水を、つぎつぎに水受に衝突させて回転体を回転させる水車で、少ない水量で高落差の場合に適した小形水車である。一分間約三○○回転で、二五馬力を起し得た。昼間は選鉱機の原動とし、夜間は発電機に伝動させたのである。その発電機は、東京の芝浦製作所から運んだらしく、当時下戸から鉱山通いしていた椎野広吉氏(「佐渡と能謡」の著者)が、芝浦に派遣された出張命令書が残っている。ときの鉱山長は原田鎮治氏である。出力は「一五㌔㍗」。当時としてはかなりの電力量で、五○㍗の白球電球で三○○個分に相当した。水源は相川東方の白子嶺下の渓流を集めて、木樋によって水槽に導き、九インチから一二インチの鉄管をもって、「九百尺」の長さで水車まで落下させた。鉄管の傾斜は「一二度」、水量は一分間平均「八十六立方尺」としてある。珍らしく当時の写真が一部残っていて、水は道遊の割戸の中腹まで送水され、割戸西側の急斜面を利用して落下させたと思われる。新潟県内では、明治三十九年二月に完成した現妙高高原町の「蔵々発電所」が最初とされているから、高任発電所は県内の第一号であり、発電事業黎明期の記念すべき大事業であった。元宮崎大学工学部教授の大岡広氏は、「選鉱用動力として使っていたペルトン水車を、夜間は発電機として動かすのは巧みな着想で、水力発電草分け時代の快挙ともいえる」と評価している。【関連】 椎野広吉(しいのひろきち)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 本間寅雄
・高任選鉱場(たかとうせんこうば)
濁川上流、右沢と左沢が分岐する「間の山」地区の北崖に位置し、高任竪坑・道遊坑がある道遊平に隣接する選鉱場である。明治十八年(一八八五)に、佐渡鉱山局長として大島高任が就任すると、鉱山の拡張計画を作成し、実行に移した。その第一が、新規に竪坑(高任坑)を開鑿することであり、第二が、道遊の大露頭の採鉱、第三が、そこから採掘される鉱石を処理できる機械選鉱場の新設であった。高任選鉱場は、大島の後任渡辺渡によって、明治二十二年下期に着工され、翌年の三月に運転を開始した。在来の選鉱場は、大切坑口と大立竪坑の二箇所に設けられており、破砕と手選を主としたものであったが、高任選鉱場は、当時ドイツで行われていた無極帯を用いた手選帯を装置した斬新なもので、わが国「創始の新規なる選鉱法」であった。選鉱能力は、一日九時間運転で粗鉱量一○○㌧、動力は一五馬力の易搬汽罐であった。その後改革が繰り返されながら、平成元年(一九八九)の閉山まで使用され、現在も昭和十年代に設置された回転チップラー・貯鉱舎・粗砕場・ベルトコンベアー・鉱倉等の一連の施設が保存されている。【関連】 大島高任(おおしまたかとう)・渡辺 渡(わたなべわたる)【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』、『新潟県の近代化遺産』(新潟県教育委員会)【執筆者】 石瀬佳弘
・高任竪坑(たかとうたてこう)
相川町惣徳町にあり、明治二十年(一八八七)四月八日起工、同二十二年五月十九日に竣工した竪坑。計画の立案に当たった佐渡鉱山局長大島高任の功績を称えて、高任竪坑と命名された。この竪坑は、水没していた割間歩を再開発するために掘られ、掘削にはランド削岩機、排水にはノールス直立掘下蒸気卿筒を設置して工事を進めた。起工から約一年後の明治二十一年六月の記録に、地表から約九三㍍の地点に第一坑道、約一六八㍍の地点に第二坑道、その下約四五㍍に第三坑道を掘ったとある。構造は幅三・六尺と四・二尺、長さ五・六尺とある。その後さらに開削が進められて、明治三十六年には第五番坑道(約三○○㍍)まで掘り下げられ、昭和十年代の産金奨励政策によってさらに掘削され、設備の増強も図られた。同十七年一月の佐渡鉱山の記録によると、最終深度は坑口より第九番坑まで約四六○㍍、そこからさらに第二竪坑が、第一五番坑まで約一九八㍍掘り下げられて合計六五九㍍、海面下五三○㍍に達している。設備では、巻上櫓を鉄製にし、竪坑内をコンクリートに改修、従来の月五○○○㌧の巻揚能力を、一万五○○○㌧に引上げている。【関連】 大島高任(おおしまたかとう)【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』、『三菱佐渡鉱山要覧』、「採鉱電気関係図」【執筆者】 石瀬佳弘
・高野家文書(たかのけもんじょ)→日詠(にちえい)
・鑚(たがね)
採鉱用のノミ。手堀り大工が用いた。鋼鉄製で、鉱山では各番所が大きな間歩の入口毎に設けられていて、番所の構内には建場があり、鍛冶小屋が付属していた。タガネのほか、打撃用のハンマーや、鑚をはさむ鉄ばさみなど、鉄製の道具はすべてここでこしらえたが、坑内で使用ずみの鑚の先を、焼き直す仕事も多かった。鉄は御雑蔵から支給され、元鑚といって一本の鉄目は、九○匁ほどあったという。これを二つ・三つ切りにもしてこしらえ、平均して一本の鑚の目形は、三五匁ほどだった(「金銀山取扱一件」)。「タガネ」の呼称が佐渡鉱山で見えるのは、一六、一七世紀初めの「川上家文書」が最初のようで、一十日(ひととをか─十日間)で数万本といった単位の鑚が、各山主たちに交付されていた。絵巻物などで見ると、「連々鑚」などといって大石を割るのは別として「鏈穿鑚」、いわゆる採鉱タガネはみな親指ほどの短さで、それを上田箸などの鉄ばさみで、はさんで打ちこんでいる。短いほうが、エネルギーのロスが少なくなり打撃力が高まるが、鉄が当時貴重で、量不足もあったのだと思われる。タガネのみに頼る手堀りの時代は、一般に裂開性に富んだ鉱石は堀りやすいが、堅緻で均質なばあいは、タテと横に碁盤の目のように切りこみを入れて、こわしとるなどの方法があった。炭火を起こして、鉱石面の水分を発散させてから堀る方法は、佐渡や別子銅山・伊豆縄地銀山などでも、江戸中期以降から行なわれたといい、こうした火入採掘の図が、別子銅山などに残っている。【執筆者】 本間寅雄
・高瀬(たこせ)
二見半島の西岸。橘の北に位置。農耕と漁業の異なる生業の集落が結合して近世村を形成した例。元禄検地では、村高二二二石余、田高九八石、畑方一二四石。神社の書上はなく、寛文九年(一六六九)創建の三宮神社がある。熊野神社を合祀したと伝えるから、古くは熊野十二権現社か。段丘上の岩野に垣の内があり、湧水がある。水田はここから始まったと思われるが、海岸から屋敷・海食崖の平・段丘上の耕地を、草分け百姓が所有していた。村中央に観音堂があるが、本尊聖観音立像は、越後椎谷の観音と二体一対であるといわれる。垣の内農民は佐々木、観音講中は宇田であったとみられる。下鱈場漁師一二艘のうち、高瀬二艘分は宇田次郎左衛門らの持分であろう。また山伏宗覚院がいた。別系統に沢根須川から入村したという榎田や、北側の大浦の方から入村したと思われる中川・渡部がいる。寛政年間(一七八九~一八○○)に、河原田本町の法華長兵衛(勝三郎)が、開発の遅れた段丘上に入って、一四町八反余を開いている。稲鯨村でも新開を願い出たが反対され失敗した。のち開発地は隣村の橘村へ売却した。【関連】 法華長兵衛(ほっけちょうべえ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・扣石(たたきいし)
坑内で採取した鉱石を、細かくするための粉成方法の一つで、黒石に丸い穴を二つ穿ち、鉄鎚で鏈石を打ち砕く。穿った穴が眼鏡状を呈するため眼鏡石と呼ぶが、一面だけでなく四面に穿ったものもある。勝場の中で、金場と称し三尺四方を石で築き、向う高に土を塗り、堅い黒石を縄で固定させる。黒石は玄武岩質安山岩で、俗名を油石と呼び、千畳敷付近に産する。この石の周囲に縄の輪を掛け、上に鉱石を置いて金場鎚と云う重さ三~四貫目程の鉄鎚で打ち砕く。細かくなったものをさらに石磨で挽き、粉末状にして床屋へ送り、精錬する。通常丸い穴で眼鏡状を呈するが、勝場上部から検出するのは、細長く矩形状に掘ってある。しかも、眼鏡石を穿り直したもので、丸い穴の底が残ったものも見られる。幕末に変化したものと思われ、勝場上部からの出土が多い。擦石に変化したのかと思ったが、擦った痕跡が見えない。明治になって西洋方式が積極的に取り入れられ、選鉱や精錬方法が変化して、扣石は使われなくなる。穴が丸から矩形に変った理由が不明である。【参考文献】 「本途勝場床屋粉成吹手続大概」(舟崎文庫)、「飛渡里安留記」【執筆者】 佐藤俊策
・立念仏(たちねんぶつ)
冬至から数えて一五日目を寒の入り(一月五日頃)といい、年中でもっとも寒い時期。寒の入りの日に新仏の家では、その家族や親族が新仏供養の念仏のために、早朝に集落から七つの川と寺堂をまわる。賽銭の米・竹の杓・椿の枝を持って歩く。これを立念仏という。むかしは三年間行ったが、しだいに簡略化している。この行事が行われている地域は、高千・外海府地域である。「立念仏」といっているから、浄土系の行者が広めたものかもしれない。寒の水はもっとも澄んだ水で、縁者は早朝出発する前に水をあび身を清めたという。川や寺堂では米と椿の葉をまき、最後の川辺では竹の杓を左手に持って、逆方向に水をかけ精霊を弔い、立てて帰った。いまは車を利用して短時間で終わるが、むかしは早朝に出て午後までかかった。一行が帰ってくると、疲れた体を甘酒であたため、そば振舞いをした。立念仏と言ったのは、家の中で座って念仏する供養にたいして、遍路のように外を歩いて行なうからである。同日には相川の日蓮講中が寒行をしてまわる。新年の精霊供養の行事の一つである。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 佐藤利夫
・橘(たちばな)
二見半島の西岸、外浦に位置。元橘・宮浦・差輪の三集落よりなる。貞享四年(一六八七)の羽生村との境界争論証文では、橘村・宮浦村とあり、差輪は橘村に入っていた。元禄検地では橘村に統合。村高四二二石余、田高二三二石余、田畑屋敷面積三四町三反のうち田方一四町二反、四一%を占め、二見半島でもっとも石盛(一石八斗)が高い村。神社は三宮大明神・荒沢神社、他に真言宗定福寺・観音堂・地蔵堂などがある。低位段丘上にある大野地区に古田が集まり、垣の内・沢見・野の田・垣越などがある。水源は「権現さんの水」という清水である。毎年、田子は三月十五日に水まつりを行う。三宮神社の元宮は長手岬側にあり、元橘・宮浦・差輪の鎮守となったのは一七世紀末頃。元和三年(一六一七)、下鱈場漁師に三郎右衛門つけ場が図示され、宮浦白坂にいた山本三郎左衛門とみられている。同家の先祖が、下鱈場の延縄に浪切不動尊がかかったと伝える。地蔵堂に納めてある。差輪の大屋は坂下佐五平家で、もと荒沢神社の社人。中世の製塩業と関係があるという。近世はじめまで、生業を異にしていた組々が検地を期に、近世的な村落を形成した例である。近代に入り、大正年間より段丘上の開析谷に溜池を多数造成し、中位段丘上に水田を開いた。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・橘古墳(たちばなこふん)
三宮神社の裏手にあり、小高い畑地で蝦夷塚と呼ばれていたが、昭和三十一年(一九五六)に本間嘉晴によって古墳と判明した。盗掘を受けたようで、天井石が露出し、奥壁に近い石が二枚、石室内に崩落していた。海岸から一○○㍍入った標高一八㍍の海岸段丘上に造られた、径一二、高さ二・五㍍の円墳である。横穴式石室は、長さ四、幅一・二、高さ一・八㍍の玄室と、その前面に長さ三㍍の羨道が設けられていた。玄門には間仕切りの石組があり、主軸は北西を向いている。石室の上を一○㌢の粘土で被覆し、奥壁は大きな一枚石で構築したらしく、石室の外側は五○㌢の厚さに砂利が裏づめされていた。石室の平面は袖無型で、多少の胴張りが認められ、床には砂利を敷いていた。遺物は盗掘により散乱状態で発見された。玄室から人骨が若干、碧玉製管玉・ガラス製切子玉・滑石製臼玉の装身具・直刀・鉄鏃・鍔の武器・鎌・鍬頭の農具と、土師器椀の容器が出土した。とくに朱塗椀が、玄室の両隅に埋置かれていた。人骨は、壮年男子が二体以上あったと云う。七世紀以降の構築と見る。【参考文献】 中川成夫・本間嘉晴・椎名仙卓・岡本勇・加藤晋平「考古学からみた佐渡」(『佐渡』)、本間嘉晴・椎名仙卓「佐渡の古墳について」(『考古学雑誌』【執筆者】 佐藤俊策
・達者(たっしゃ)
集落は海辺にあり、南北に二分する形で達者川(約二・五㌔)が、大高野山渓から海に注いでいる。段丘上に田畑が広がり、たばせ垣ノ内の地名も残り、須恵器も出土。海辺は広大な砂浜で湾形をなし、現在は海水浴で賑わう。この浜の北側に釜所の地名が残り、製塩土器も出土することから、古代製塩の釜跡と思われる。口碑によると長禄二年(一四五八)に、本間源左衛門が大野村(新穂村)から移り住み、氏神の白山神社(白山姫命)を勧請したという。同社は『寺社境内案内帳』によると、天正十八年(一五九○)勧請、社人源左衛門と申す者、達者村の開祖とある。また達者川の上流に、寛永二十年(一六四三)頃稼行された小莚山鉱山跡の女人伝説は、神社の白山姫命が鉱山の発見に、白山修験者の関与があったことを伝えたもの、といわれている。熊野神社(伊弉諾命)は、大正十二年に白山神社に合併された。祭日は十月十二日である。段丘上の耕地開発は早く進み、元禄七年(一六九四)の検地帳に、田畑反別合計六三町四反余りとある。南端の山麓の中腹に湧水があり、延命地蔵が祀られ、安寿伝説にまつわる目洗地蔵で名がある。北側の海岸は約二㌔に亘る景勝地で、尖閣湾と呼ばれ国指定名勝地。昭和二十六年(一九五一)有志の出資で、尖閣湾観光株式会社が設立され、シーズン中海上遊覧船が就航している。南側海岸近くには、新潟大学理学部附属臨海実験所があり、また金泉村役場も、相川町役場に合併される昭和二十九年まであった。【関連】 尖閣湾(せんかくわん)・新潟大学理学部附属臨海実験所(にいがただいがくりがくぶふぞくりんかいじっけんしょ)・向所(むかいじょ)【参考文献】 『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『新潟県の地名』(平凡社)【執筆者】 三浦啓作
・韃靼塚(だったんづか)
相川町の鹿野浦(旧高千村南片辺)に、通称「安寿塚」と呼ばれる塚と小祠がある。車の通る県道すじから浜手の方をみると、崖下にみえるのがそれである。近年になって、崖の下り口ふきんの道幅のある位置に、新たに安寿の碑と、やや離れたところに「ダッタン人の墓」と刻まれた、小型の墓碑(以前から道脇の地蔵の祠のように置かれた石廓)を移し、後者の位置を示す大型の「韃靼塚」碑を建てた。ここを「韃靼塚」と呼ぶようになったのは、大正期以後のことらしく、明治三十四年(一九○一)に岩木擴が書いた『佐渡名勝』(佐渡新聞社発行)にも、また同四十一年に川上喚涛が書いた『佐渡案内』(佐渡水産組合発行)にも、鹿野浦の項にこの件を掲げてはいない。鹿野浦に伝わる安寿姫伝承は、すでに享和三年にみられた(『畑野町史』信仰篇一七頁)。これに韃靼人伝説を加えた初出と思われるのは、大正六年に羽田清次が書いた『佐渡案内』で、そこにはこう述べている。「鹿ノ浦の中ノ川畔に、土俗の韃靼人の墓というものあり。欽明天皇の朝に此地に漂着せし粛慎人を埋めたるものなるか、今其の證を得難し」。 粛慎と韃靼との関係は、安寿の場合と同様、人形浄瑠璃の「国性爺合戦」に出てくるダッタン国と、大陸民族のミシハセ人との混同によるとみることで理解できる。シュクシンにしても、ミシハセにしても、この外来語の発音はまだ村人になじんでおらず、文弥節でききなれているダッタンのほうが、身近な話題であったということなのであろう。【関連】 粛慎人来着(みしはせびとらいちゃく)・鹿野浦(かのうら)【参考文献】 本間雅彦『鬼の人類学』(高志書院)【執筆者】 本間雅彦
・達者草鞋(たっしゃわらんじ)
達者で作っている草鞋。達者草鞋を特産にして売り出すようになったのは、鉱山用の草鞋として大量に納めたことから始まった。達者からは鉱石の負い児として、敷(坑内)に入った者が多い。幕末になると、松前藩(蝦夷地ー北海道)での鰊漁用に移出するようになり、まつめぇ(松前)わらんじといった。それは大正期末まで続いた。当時のわらんじ値段は一足一銭、一梱一円二○銭であった。所有田地の少ない家は、藁を手に入れるのに田地の多い家へ、春・秋の農仕事の手伝いをして確保した。草鞋作りは女の仕事で、仕事宿をきめて、根をつめてやる人は一日に一五足も作ったが、一○足は家に出し、のこりは自分のしんげ(内証の金)にできた。いまは長靴の上に履く、釣り人用の草鞋として作る者が少しいる。【参考文献】 佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】 佐藤利夫
・立浪会(たつなみかい)
大正十三年(一九二四)六月十日に創立された「相川音頭」の保存を主とした、同好者の集りである。第一回めの音頭会は、羽田浜の鉱山倉庫跡の広場で、集った同好の士は約五○名。会長は風岡藤作、副会長は丸岡藤作、演芸部長曽我真一・庶務本田虎次郎だった。旧盆の十五・六日は、「音頭流し」をして全町を歩いた。その創立当時の会員の顔ぶれは、印刷業・家具商・鉱山勤務・金融業・郵便局勤務・傘製造・木挽・呉服商、その他さまざまな職種の人たちで、音頭やおけさを根っから好きな人たちの集りであった。相川音頭と佐渡おけさが、愛宕山のNHKラジオの電波に初めてのったのは、大正十五年四月二十一日。最初の放送が本間市蔵の「金掘節、やはらぎ」、次が村田文三の「相川音頭」。鼓は千歳、三味線はみよしと沢吉だった。続いて村田文三と松本丈一の「佐渡おけさ」が流れた。その後、なん回かの放送やステージを重ねるが、大正十五年、曽我真一演芸部長引率の村田文三一行たちの、満州・朝鮮方面の演奏旅行をはじめ、樺太・台湾など全国への、おけさ・音頭等の宣伝行脚が精力的に続けられた。【関連】 佐渡おけさ(さどおけさ)・立浪会史(たつなみかいし)・村田文三(むらたぶんぞう)【参考文献】 『立浪会史ー三十五年のあゆみー』(立浪会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・立浪会史(たつなみかいし)
昭和三十四年(一九五九)十二月、本間寅雄を顧問に曽我真一など幹部全員で編纂した、立浪会三十五年の歩み(一八四頁)である。内容は、同好者(相川音頭・佐渡おけさ)からの手記・回想を編んだ多彩なもので、その主なるものを拾ってみると、町田嘉章は「立浪会が初めて放送した頃のこと」と題して、大正十五年四月二十一日、相川立浪会の連中が、初めてNHKのマイクの前に立ったこと、そしてその会は同地の曽我真一が主宰者で、家業の雑貨屋をそっちのけで、おけさの宣伝に夢中になっていたことなどを記している。また中川雀子は、「佐渡おけさ」の名称選びのいきさつについて、山本修之助はさらに、「おけさ」そのものの文字の初出文献や、「おけさ節」の起源伝説や元唄の考証をなしている。立浪会の初代会長は風岡藤作(一角堂)であるが、この立浪会の名称は、彼が「源平軍談」の一節から選んだものだと、元町長の松栄俊三はその回想記で述べている。また児玉竜太郎(元県会議員)の回想によると、立浪会のおけさ踊りは、会が設立された当時、小木の十六足踊を、浅香寛(当時「佐渡日報」の社長)と二人で、小木の高砂屋という料理屋に三日も居続けて習い、それをとり入れた旨のことが記されている。【関連】 佐渡おけさ(さどおけさ)・曽我真一(そがしんいち)【参考文献】 『立浪会史ー三十五年のあゆみー』(立浪会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・立野遺跡(たてのいせき)
相川町大字二見二四六他の海抜約三○㍍を測る中位段丘畑中にあり、東西四○㍍、南北一○○㍍の範囲内に遺物が散布する。正式な発掘調査はされていないが、古くから表面採集が行なわれ、「日本石器時代地名表」に記載されるなど、全島に名を知られる。爪形文が多く見られ、最盛期は縄文中期であるが、蓮華文も数点見られ、中期後葉まで遺跡が存在したと判断される。これらは越後を含む北陸地域で成立した文化と云われ、爪形文を有する遺跡は、島内では金井町「堂の貝塚」・真野町「藤塚・大工町」・小木町「長者ケ平」遺跡に見られ、越後では加治川村「貝塚」・三島町「千石原」・新井市「大貝」・吉川町「長峰」遺跡に多く、石川県新崎遺跡に類似する。石器は石鏃・石錐・石錘・石皿など多様であり、鉄石英を多く見るなど、地元産の利用が多いが、一部国仲産の石も混じる。遺跡の東方には須恵器片が分布し、平安期の擢鉢・甕が多く、遺跡が重なっている。【参考文献】 本間嘉晴・椎名仙卓「小木半島周辺の考古学的調査」(『南佐渡』)【執筆者】 佐藤俊策
・谷空木(たにうつぎ)
【科属】 スイカズラ科タニウツギ属 風薫る五月。深緑の中でタニウツギ(谷空木)が咲く。なまえは雪崩の生ずる谷や沢に群生し、茎が中空なことに由る。花房となって咲くピンクの花を、若い娘さんになぞらえてアネサンバナとも呼ぶ。日本海側の雪国植物で、雪崩崩壊地の標微種。崩壊地のパイオニア植物である。またこの花は、春の田仕事を告げる花で、アラキバナ(荒起花)・キリタバナ(切田花)・タコナシバナ(田こなし花)・タウエバナ(田植花)と呼ばれる。村の大田植え(村人を頼んでのその家の田植え)には、苗三束を三方にのせ神棚に供え、アズギバナ(小豆花・タニウツギの方言)と小豆飯を供え豊作を祈る。山の沢の荒田は、腰までぬかる深田である。荒田故に、深田故に、今年の天候が作が気にかかる。しかしどんな荒年でも、どんな崩壊地にも、めぐりくる春に谷を埋めて、華麗なる花をたわわに咲かせるタニウツギ。花の活霊が荒田に命吹きこみ、苗に大いなる生命をみなぎらせる。それは花に神意をみ、花に穀霊の宿りをみた人々。今年の豊作を予祝する花であった。【花期】 五~六月【分布】 北・本(日本海側)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・タブの木群落(たぶのきぐんらく)→大安寺のタブ林(だいあんじのタブりん)
・辛夷(たむしば)
【科属】モクレン科モクレン属 「真白に行手うずめて辛夷かな」高野素十。大佐渡スカイライン沿いに、小佐渡エコーライン沿いに、白花を咲かせるコブシ。佐渡では、コブシとかヤマコブシと呼んでいるが、そのほとんどはタムシバである。コブシは、樹高一○メートル以上にもなる高木。それに比べ、タムシバは樹高三~四メートルと小さく、花は純白で紅味をおびない。花の下に、コブシのように葉がつかない。コブシは、蕾の形が子どもの拳に似ることに由るが、タムシバは噛柴の転じたもので、柴(枝)を噛むと非常によい香りがすることに由る。南佐渡では、「クロモンジャ(オオバクロモジ)よりうんと強く香るのがシロモンジャ(タムシバ)。枝を束ねて湯に入れるが、強く香って長者様の湯になる」という。江戸期の「佐渡国薬種二十四品」のひとつに、辛夷がある。コブシと考えがちだが、昔も今も辛夷はタムシバである。その蕾は、頭痛を伴う急慢性の鼻炎、特に蓄膿症に効き煎じて飲む。「コブシの花が咲くと鰯がとれる」は、佐渡の東海岸に伝わる漁事暦。花酒は最高の美酒、ただ二か月たったら花を除くこと。【花期】四~五月【分布】本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・多聞院(たもいん)
小川にあり、真言宗智山派。本尊は毘沙門天で、山号は吉祥山である。毘沙門天は独尊で祀られる場合の名であり、四天王の一多聞天である。本尊が寺名となっており、神使は百足であることから、檀家の者は百足を殺さないという。開基は寺社帳に天正十八年(一五九○)とあり、伝承によれば隣寺金剛寺の隠居「長忍」が、毘沙門堂を開いたのが始まりだという。寛政十二年(一八○○)の開基御除地書上帳によれば、同じく小川にあった金剛寺の開基が文亀元年(一五○一)、極楽寺の開基が文亀二年とあり、何れも除地・除米がついているが、開基の新しい多聞院は除地・除米がない。しかし、寺社帳では寺格の高い「格院」になっている。これは金剛寺・極楽寺が真光寺門徒でその支配下にあったのに対し、隠居の多聞院は身軽さがあり、幕府の寺院法度の一「本末制度」に素早く対応し、高野山普門院の末寺になったことによるものと思われる。明治の廃仏毀釈で隣の二か寺は廃寺になったが多聞院は免れた。のち極楽寺は金剛寺を合併し金剛山極楽寺として再興したが、昭和二十七年廃寺となり多聞院へ合併された。
【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『佐渡名勝志』【執筆者】近藤貫海
・タルイカ(たるいか)[ソデイカ]
毎冬十一月から一月にかけて来遊し、時化の後に浜辺へ漂着するソデイカ(袖烏賊)については、古くから知られていたらしい。個体によっては、套(胴)長が一メートルにもなる本邦最大の食用イカで、体重一五キロのものも記録されている。外套縁全体にわたって、大きな三角形状の鰭が付いているところから、袖の名が付けられた。しかし、日本海沿岸では、タルイカ(樽烏賊)と呼ぶことが多い。田中葵園の『佐渡志』には、「稀ニ大ナルモノヲタルイカト云フ」と記してある。丸山元純の『越後名寄』には、「多留烏賊 形チ大ナルハ二、三貫アリ─」とある。夫婦一番で来遊するという俗説があり、刺身にして喜ばれた。我が国全体の沖合いだけでなく、地中海にも分布する。樽イカ流しという方法で、漁獲する。明治四十年(一九○七)十月二十二日に発行した「新潟新聞」に、「女教師大烏賊を捕ふ」の見出しで、相川町三丁目浜町の児玉ヨネ(二見尋常小学校訓導)が、二見海岸カラカハ橋付近で、鯨尺で三尺二寸のタルイカを発見し、家に持ち帰ったところ、見物客が多かったという記事が載っている。【参考文献】本間・三浦『日本海の鯨たち』(四号)【執筆者】本間義治
・弾誓寺(だんせいじ)
相川町四丁目にある。山号の帰命山は、この寺を開基した木食長音の師但唱に依るという。相模国浄発願寺の末寺で、寛永十三年(一六三六)の開基と伝える。弾誓二世の但唱は、作物聖として大仏を刻んだが、その弟子長音が作った阿弥陀如来の座像は六尺二寸、台座から後光まで一丈五尺で「此の如き巨像は、当時佐渡一国中に有らざりしかば、世に当寺を大仏(おおぼとけ)と称し来れり」とある。そして長音には何人もの弟子がいたが、そのうちの清眼も薬師如来を刻み、新穂村瓜生屋の大日堂の本尊など、各地に仏像を残した。弾誓寺の阿弥陀如来像は、元治元年(一八六四)の火災で焼失したが、当時としてはまれな大型仏像であったので、「オオボトケ」の名で全島に知られた。そして旧六月十五日には大仏の回向が行われ、多くの信者が集まった。弾誓寺の常念仏は寛文六年に始まり、元禄二年、一万日回向が行なわれた。この寺は、百姓たちの訴訟時の寄り合いの場であり、逃亡した鉱夫の駆け込み寺でもあった。明治十二年(一八七九)の、コレラ流行で死んだ二七二人の供養塔がある。また境内に佐渡奉行角南主膳の墓が残る。【関連】木食弾誓(もくじきたんせい)・木食長音(もくじきちょうおん)【参考文献】宮島潤子『万治石仏の謎』(角川書店)【執筆者】本間雅彦
・弾誓名号(たんせいみょうごう)
木食弾誓の書いた名号。現在佐渡で確認される弾誓名号は、両津市河崎の菊地氏宅の庭に、天保十三年(一八四二)建立の塔と、弘化四年(一八四七)佐渡国中の講中で建てた、弥陀名号一億二十五万千九百遍塔の二基があり、山居の光明仏寺に、川崎村菊地源右衛門が先祖供養の為、天保八年(一八三七)に建てた供養塔がある。河崎の菊地一族が建てたと思われるが、弾誓名号真筆の入手については不明である。この他、相川町岩谷口の「弘法の投げ筆」伝説で知られる岩谷山洞窟入口天井に、壁面名号がある。地上より四~五メートルはあると思われる高さの名号は、弘法大師が空高く筆を投げ上げて、すらすらと名号を書いたと伝えられるが、この話は浄厳より後の明聴や澄心が流布したものと思われる。書家で、弾誓直筆の書の発見者でもある、民間信仰史研究家の宮島潤子氏は、間違いなく弾誓の名号であると断言され、このような大きな名号は、ほかに佐渡島内で見たことはないが、弾誓に帰依し喜捨した信者の数が、想像を超えるほど大勢であったことはたしかであると述べられている。【関連】光明仏寺(こうみょうぶつじ)【参考文献】宮島潤子『万治石仏の謎』(角川書店)、同『謎の石仏』(角川選書)【執筆者】近藤貫海
・檀特山(だんとくせん)
檀特山は、金北山・金剛山と共に佐渡三霊山といわれている。標高九○七メートルの山頂近くには、真言宗寺院である石名の清水寺、奥の院・釈迦堂が祀られている。天明三年(一七八三)に、木喰行道が建てたものである。木喰行道は、江戸初期の慶長九年(一六○四)十月十五日に、この山で修業をしていた浄土宗捨世派の僧弾誓が、阿弥陀如来より直伝をうけたのを慕って檀特山に登った。檀特山が弾誓の山居する以前から、山岳信仰の対象であったかどうかはわかっていないが、弾誓のこの山での修業は一二年(宮島潤子説では六年間)であったという。冬期は積雪で生活できないので、その間は岩谷山の洞窟で過していたことが、田中圭一の研究で明らかになっている。弾誓は天文二十年(一五五一)ころ尾張に生まれた。美濃国で一七年間修業し、近江・京都・神戸・熊野などを遍歴して、四○歳のとき相川に来た。やがて河原田の常念寺で僧となり、徒衆に嫌われて四一歳の冬に檀特山に入った。四七歳で島を去り、信濃・江戸・相模・遠州などで布教した。作仏聖の円空に影響を与え、真更川の山居には弾誓二世の但唱・三世長音による光明仏寺が、相川には長音によって天台宗の弾誓寺が建てられた。【関連】木食弾誓(もくじきたんせい)・清水寺(せいすいじ)【参考文献】宮島潤子『万治石仏の謎』(角川書店)【執筆者】本間雅彦
・檀風城(だんぷうじょう)
雑太城の別称で、江戸時代に生まれた呼称であろう。名称の由来は、正中の変で佐渡へ流され、雑太城主本間山城入道に預けられていた日野中納言資朝が、つれづれのままに城外に出て、「秋たけし檀の梢吹く風に、雑太の里は紅葉しにけり」と、詠んだ歌からつけられたと伝えられている。『太平記』の中では、資朝を預った「その国の守護本間山城入道」の居所を、「本間の館」と記しており、これが通称「檀風城」と呼ばれる城館である。今「檀風城址」と呼ばれている場所は、竹田川に向って突き出た低位段丘先端部の一画を占め、周囲には土塁が残り、南端を空堀で切られている、一ヘクタール足らずの居館址である。中世初期の居館は、このような割合低い地に、単郭築造されているのが普通で、鎌倉末から南北朝期にかけては、やや高い丘陵に館を設け、後方山地に山城を築くようになる。戦国期に入れば、さらに高い段丘上に移り数郭を揃えた広大なものとなり、周辺に小支城を配するといった形態に変わる。近年、檀風城の東方約一キロメートルの一段高い段丘先端部に、檀風城とほぼ同じ規模で残る竹田城(通称「又助の城」)を、雑太城(守護代居城)とみる説が出ている。それは鎌倉時代末に、阿仏坊を新保より城の傍へ呼び寄せた本間泰昌の城跡とみることと、この段丘下の竹田川辺に、日野公斬首の伝説が残ることからであろう。ここも単郭で周囲に土塁が残り、郭の三方に空堀がめぐらされている。日野資朝や阿新丸に関する遺跡は、果してどちらの城であろうか。【執筆者】山本 仁
・千種遺跡(ちぐさいせき)
金井町大字千種にある。国府川の支流、大野川・新保川・中津川の合流する附近で、昭和二十七年、国府川改修工事中に発見された弥生時代末期から、古墳時代初頭期の低湿地遺跡。新潟県教育委員会と、佐渡古代文化研究会共催で発掘調査が行なわれ、多数の土器・木器・自然遺物などが、散乱した状態で発見され、遺構では井戸址・排水溝・矢板列などがあった。土器は甕・壷・長頸坩・高坏・器台・広口 ・甑などで、千種式土器と命名された。木器には、たも網枠・櫂・舟形木器・丸木弓・竪杵・土掘子・ ・板状木器(鳴子)・竹製ザル・織機の一部や、建築用材などがあり、鉄製ナイフ一点、骨角鏃、卜骨一点もあった。自然遺物では、炭化米や籾・マクワウリ・ユウガオ・ヒョウタン・トウナス・モモなどの栽培種子。ニホンジカ・サギなどの骨。海産のアシカ・マダイなどの骨。サドシジミなどの淡水性の貝。スギ・アカマツ・ヤブツバキ・クリなどの樹木類が出土した。低湿地わきの自然堤にひらかれた集落址で、水田稲作を行い、狩猟・漁撈をし、時に卜骨で吉凶を占った生活状況が知れる。【参考文献】『千種』(新潟県教育委員会)【執筆者】計良勝範
・竹窓日記(ちくそうにっき)
金井町本屋敷の得勝寺住職、本荘了寛が明治十三年(一八八○)五月七日から十二月三十一日までを記した漢文の日記。本書は、日記の体裁をとりながらも司馬凌海・柴田収蔵の小伝や、小沢蘆庵と中山千鶴との歌の贈答、自作の漢詩をはじめ、順徳院や日野資朝の歌から佐渡人たちの漢詩・和歌・俳諧などを紹介しており、完成された作品となっている。また六月頃からは、自由民権運動で活躍した羽生郁次郎や若林玄益・中山春三・石塚秀策・高橋又三郎らが登場して、国会開設運動に関する会合や演説会のことが記述されているため、貴重な研究史料ともなっている。著者がこの日記を書いたのは三四歳の時で、当時小学校の教師をしていた。出版されたのは明治十八年七月、出版人は後の博文館主で当時越佐新聞社を経営していた長岡の大橋新太郎で、佐渡で最初の活字本出版物とされている。【関連】本荘了寛(ほんじょうりょうかん)・佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)【参考文献】本荘了寛『竹窓日記』【執筆者】石瀬佳弘
・地租改正(ちそかいせい)
明治六年(一八七三)七月に交付された地租改正条例によって実施された土地・租税改革。明治新政府は、地価の三%を地租とする税制により、安定的な国家収入を確保することが可能となるが、同時に土地所有権者・面積と収穫高の確定など、幕藩制下の検地帳・石高制の抜本的変更を要する土地改革を随伴した。新潟県の地租改正の事業は、西半部(旧柏崎県)・東半部(旧新潟県)・佐渡(旧相川県)・新潟町の四地区で実施された。佐渡の地租改正は明治八年九月に開始され、十一年三月の山林原野の改正事業終了をもって完了した。幕藩制下の徳川時代の佐渡は、重租税の地域といわれたが、地租改正の結果、田の総税額は地租改正以前より三八%も減額となり、畑・宅地は三二%の増額であったが、田・畑・宅地の総額では三二%の減額となった。新潟県の他地区が、いずれも大幅増額になったのとは対照的であった。しかし佐渡の場合、税額の大幅減額が必ずしも農民負担の軽減とはならず、幕藩時代の破免検見や安石代などの、農民救済慣行の消滅と相殺された。地租改正には、佐渡のもつ土地慣行の独自性を喪失させる側面もあったのである。【関連】明治維新(めいじいしん)【執筆者】本間恂一
・茶屋町(ちゃやまち)
上相川二二町の一つ。茶屋町は鉱山立始りのころの飲食街で、その町名の由来を、「此ノ処ヨリ茶屋坂迄、昔銀山盛ノ時茶屋ヲ立テ、飲食ヲ商フモノ多カリシ故、茶屋町、茶屋坂ト言フトゾ」(『佐渡相川志』)と書いている。上相川台地の最下方に位置し、東は柄杓町、北側に奈良町があった。柄杓町は、内密に春を売る熊野比丘尼が多く住んでいた町とされ、この一帯が茶屋町・茶屋坂と隣接することから、そのころは歓楽街として賑わっていたことを想像させる。鉱山の稼ぎ人が多く集まる町に「茶屋町」ができる例は、西三川の笹川砂金山に残る「茶屋川」や、沢根の鶴子銀山への道筋に残る「茶屋」の地名、入川鉱山の古絵図にも「茶屋」が描かれていて、元禄四年(一六九一)には濃金間歩の取明けを祝って、「茶屋と申所にて終日祝いこれあり」などの文面がその中に見える。祝いの酒盛りをしたというのである。上相川の茶屋町は、町屋敷が二反二畝歩余、畑五畝歩ほどの広さ。その下方の坂が茶屋坂といわれた。『佐渡年代記』(上巻)に、「山崎(先)町は今の会津町のことだが、慶長のころの山崎町といいしは、今の上相川茶屋坂の辺を山崎町といって繁昌した」などの記述がある。山先町は遊廓街だから、会津町のところに移るまでは、上相川で柄杓町と並んでくるわ街として栄えていたことになる。【関連】山先町(やまさきまち)【執筆者】本間寅雄
・中教院(ちゅうきょういん)
神仏合併による国民教化と教導職の教育・養成のために設置された施設で、中央に大教院、府県に中教院、その下に小教院を置いた。民間の団体であるが国家制度の色彩がつよく、教部省の所管となっていた。相川県では明治五年(一八七二)四月に、相川県典事として来島した磯部最信が、翌六年六月に執行された大教院開講式に出席してのち、積極的にその設置が進められた。場所は、廃寺となっていた五郎左衛門町の浄土宗広源寺跡地(現相川幼稚園)、規模は方二間の神殿と、八間と一○間の講堂・門・華表と、一一間と七間半の皇学寮、二間と二間半の書庫という設計で、教部省の認可を得ている。建設資金を得るために献金募集が行なわれ、同年九月には四七四七円余に達している。開講式は明治七年六月十五日、当初は説教会も盛んに行なわれたが、神仏各宗合併布教の禁止など、政府の政策転換によって急速に衰え、明治八年五月には神道事務分局となって、神道だけの施設となった。【関連】磯部最信(いそべさいしん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・中使(ちゅうじ)
[1]中世末戦国期より、寛文四年(一六六四)までの村役人の名称。同年幕令により名主と改称された。室町期の郷村制成立過程のなかで、国人─在地小領主──層の領地支配は、ムラの殿原百姓(長百姓)の中の最有力者である村殿を、家臣団に編成することによって成り立ち、殿原衆は村殿を介して国人領主の給人になり、軍役・貢租負担をつとめた。中使は、この村殿が任ぜられ世襲する場合が多く、領主から中使免・堰免など、その任務や用水管理に対する免田(非課税地)が給与された。上杉氏支配時代に入っても、上杉氏はこの郷村支配機構をうけ継ぎ、佐渡を支配した。慶長六年(一六○一)佐渡が江戸幕府の支配に帰して後も、幕府は金銀山経営上急激な近世的郷村支配を避けて、太閤検地方式の導入を控え、刈高制・畑年貢非課税を、元禄七年検地までもち越した。それは徳川家康が、上杉氏の家臣で慶長検地を実施した河村彦左衛門を、家臣として召し抱えたことにも現われ、実測検地でなく中使に検地させた指出検地が、元禄検地まで基本的に生きていたことによっても知られる。ただ慶長検地段階で、すでに中使特権であった中使免・堰免は取りあげられ、上杉氏の支配権の強化を認めることができる。寛文四年の中使制の廃止─名主制の採用は、佐渡の中世的郷村支配の廃止を意図したもので、中使・殿原衆の地位も、本百姓数の増加により一層低下し、郷村制は名実ともに、近世村落成立へとすすむことになった。[2]江戸初期、相川の町々に置かれた町役人の名称で、町名主を補佐し、奉行所が町年寄を通じて下す伝達・徴税事務などを行った。[3]江戸時代、海府・前浜諸村の名主のうえに大中使を置き統轄させたが、時代とともに有名無実の職となった。【参考文献】田中圭一『天領佐渡』【執筆者】児玉信雄
・長安寺(ちょうあんじ)
両津市久知河内にある真言宗の古刹。天長八年(八三一)の開基と伝え、初め天長寺と称したという。室町期、久知郷領主本間氏の祈願寺となり大いに栄えた。慶安三年(一六五○)新穂村大野の清水寺末となった。本尊の阿弥陀如来像(平安後期作、国重要文化財、明治三十九年国宝)及び若狭の海から揚ったと伝える朝鮮鐘(李朝ー鎌倉期作という、国重要文化財、明治三十九年国宝)は、今収蔵庫に納められている。他に文永・観応・応安などの、年号を記す古文書も保管されている。天正の乱(天正十七年越後上杉氏侵攻の際)に、順徳上皇宸筆と伝える「陽雲山」の額は、越後勢古藤清雲軒という将が、故郷上田に持ち帰り雲洞庵に納めたという。現在は、雲洞庵にはこの額はない。また朝鮮鐘も、上杉景勝によって真光寺(佐和田町)に移されていたが、明治維新の際、長安寺に復帰したものという。山門の仁王門の二王像は、蓮華峰寺(小木町)の二王像と共に島内では古いものといわれる。一○か寺の寺家を有したが、天正の乱に焼かれたと伝えられ、これらは今農家として残る。【参考文献】橘正隆『河崎村史料編年志』【執筆者】山本 仁
・長久寺(ちょうきゅうじ)
大倉にあり、高野山真言宗。本尊は不動明王で、山号は円平山である。開基は文禄三年(一五九四)と寺社帳にある。開基檀家は阿弥陀堂持ちの梶原平蔵などで、寺地を寄進したのは不動堂を持っていた菊地吉衛門の本家三太夫だという。正徳二年(一七一二)真言宗の須光法師という僧によって、長久寺という名が付いたと伝えられているのは、このとき不動堂別当真光寺門徒長久寺が成立したものと思われる。延享四年(一七四七)改めて真光寺新末寺になっている。明治の廃仏毀釈では、廃寺となったが後再興した。【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡名勝志』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】近藤貫海
・長谷寺(畑野)(ちょうこくじ)
チョウコクジと発音する。ただし、寺のある集落名は「はせ」であるし、当寺が大和(奈良)の長谷寺(はせでら)とかかわりの深いことから、島外の者は殆んどがハセデラと読み、近年は地元でも同調する傾向がみえている。現在は真言宗の豊山派に属するが、同寺来由記などによると、天台宗の慈覚(円仁)や、奈良仏教、そして新義真言宗とのかかわりなどが述べられてあり、それを裏づけるかのように、本堂には浄土系の阿弥陀如来が、本尊は十一面観音が、そして別棟になっている弘法堂は、観音堂の横から左の丘を登ったかなり離れた場所に、さらに真言宗の重視する大日如来像は、その途中の五智堂に、薬師・宝生などと共に祀られていて、長い寺の歴史と、真言宗に至る成立の複雑さを語っている。入口の仁王門から、正面奥の観音堂に至る石段の両側には、右手に長谷寺が、左手に遍照坊(院)・宝蔵坊・東光坊・慶蔵坊・泉蔵坊と、五坊の寺家が塔頭をなしていたが、現在は遍照院と慶蔵・泉蔵が合寺した、泉慶寺との三か寺がある。江戸初期には、島内有数の大寺であったため、寛永十七年(一六四○)に相川の武家すじの者が奉納した、大絵馬(一一○×一二五センチ)が掲げられており、上杉景勝時代の代官・鳥羽備前守、佐渡奉行・竹村九郎右衛門らにまつわる遺物や伝承がいくつかある。境内に三本杉・高野槙の巨木があり、また奈良の長谷寺と同じように、当寺も参道などに牡丹を多く植え、訪れる観光客も多い。【執筆者】本間雅彦
・長者ケ平遺跡(ちょうじゃがだいらいせき)
縄文時代の土器・石器を多量に出土する大遺跡として、明治期より全国に知られていた。昭和三十一年(一九五六)八月、新潟県教育委員会による「佐渡小木半島周辺の考古学的調査」で、後期旧石器時代第二期(約二万五○○○年ー一万四○○○年前)に盛行したナイフ形石器(長者ケ平で採集、羽茂町藤井浅次郎氏寄贈)が発見され、縄文の時代は縄文前期末ー中期初頭(遺物遺構が最も多い)ー中期中葉の火焔様式土器ー中期末葉の土器・石器が出土し、重要な遺跡であることが確認された。国学院大学小林達雄教授を団長とする調査団は、昭和五十五年七月から五十七年七月まで、第一次から第三次にわたる発掘調査を実施した。出土土器は縄文前期末ー中期初頭ー中期前葉ー中期中葉ー中期後葉であり、中期を中心とする重要な大遺跡であることを確認した。また縄文草創期(約一万二○○○年ー九五○○年前)の有舌尖頭器(長者ケ平で中学生が採集寄贈したもの)の出土していることも確認された。昭和五十九年七月二十一日付で国指定史跡となった。【参考文献】本間嘉晴・椎名仙卓「佐渡小木半島周辺の考古学的調査」(『南佐渡ー学術調査報告ー』新潟県文化財年報二)、『長者ケ平遺跡』(1・2・3・4)及び『長者ケ平』(小木町教育委員会)【執筆者】本間嘉晴
・長明寺(ちょうみょうじ)
浄土真宗東本願寺派。南沢。開基浄清(浄誓)越中より来リ、慶長十九年(一六一四)建立と諸書にある。当寺聖徳太子真影の裏書に、「慶長十九年七月六日、佐州雑太郡鮎川村長明寺、願主浄誓」とあり、東本願寺の教如より下付されているから、この年寺格を得たことになる。過去帳覚書に「越中国射水郡堀岡村、堀江茂三郎ト云フアリ。当寺開基ノ出生地ナランカ。越中ヨリ慶長十八年ニ佐渡ヘ渡リシ者ニテ、暫時片辺村ニ居レリ。長明寺屋敷ト称スル所アリ」とある。明治十三年の書上げには「開基正誓(浄誓)は越中国新川郡堀江郷 村ニ住シ堀江郷堀江氏ナリ」とある。とにかく堀江氏は越中放生津近くの有力者で、その分族が佐渡へ来ている。堀江氏の元祖は楠正種と伝えられ、代々の住職は正の字がついていたという。約三○センチの阿弥陀仏が伝えられているが、開基仏といわれ、渡来のとき持参したものだろう。片辺村に居たのは近くに炭釜新町があり、檀家に炭請負商人らがいたからと思われる。寺は、たび重なる相川大火にも被災をまぬかれてきた。明治以降、間山五郎右衛門町の称名寺を合寺。同寺も東本願寺末。慶長十八年、開基浄心は越中船橋より渡来、教如上人御寿像を申し請け、五郎右衛門町へは宝永元年(一七○四)に移る。また寛永九年(一六三二)ともいう。有力門徒に間山惣助がいる。【関連】間山惣助(あいのやまそうすけ)・内陣欄間と御拝(ないじんらんまとぎょはい)【参考文献】佐藤利夫「北陸真宗門徒と佐渡銀山」(『日本海地域の歴史と文化』)【執筆者】佐藤利夫
・町立あいかわ幼稚園(ちょうりつあいかわようちえん)
相川街部には、キリスト教系の私立幼稚園が二園(「相川」と「海星保育」)あったが、本園は昭和四十八年(一九七三)四月、仮園舎を相川小学校蜂の巣校舎一階の三教室を充て、島内三園目の公立幼稚園として発足した。五歳児一年保育の二学級、園児数四八名で、園長は小学校長が兼務し、教諭三名・用務員一名でスタートした。同年十月一日、旧佐渡支庁跡の高台に新築していた、本造園舎が完成すると同時に、現在地に移転した。幼稚園は四時間保育が原則だが、発足当時の地域の実情を考慮し、午後四時までの長時間保育とした。昭和五十年には、四・五歳児の二年保育となり、更に五十三年に、一教室増設されて三学級編制となり、教諭が一名増員された。昭和五十七年に保健室が増設されると共に、創立十周年事業の一環として、園歌・園章・園名旗が制定された。園では教え込む保育ではなく、幼児の自主・自発性を育む保育を主眼に、周囲の豊かな自然を生かした保育活動を推進している。また、外部講師を招いての保育研究や、親への学習会を継続している。近年、園児数の激減で存続が危ぶまれたが、町当局の理解と保育者の幼児教育への熱望もあり、平成八年(一九九六)四月からは、三・四・五歳児による三年保育を実施し、今日に至っている。【執筆者】古藤宗雄
・月番役(つきばんやく)
佐渡奉行所の職名。広間役の前身であるが、宝暦八年(一七五八)に広間役と改称するまで、名称・定員がたびたび変わった。月番役の初設は寛永十二年(一六三五)、当時は御判方役と称し、奉行裁可の裏御判を押したことからこの名称が用いられたらしい。御判方役は定員一名であったが、その後正保年中(一六四四ー四七)に、留守居役と改称して三人制となる。留守居役は、元来佐渡奉行が幕府の要職を兼任したとき、家臣や地役人数名を留守居役に任じて、自らは在府しながら留守居を介して佐渡支配を行うため、職務を代行させた。正徳三年(一七一三)の佐渡奉行所職制改革のとき、留守居役は廃止され、新たに月番役定員三名が置かれ、のちさらに一○名に増員された。その後、宝暦八年に月番役は広間役と改称され、定員一○名のうち四名を減らし、残り六名のうち二人は江戸より旗本を派遣することとした。【関連】広間役(ひろまやく)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】児玉信雄
・土船ジョウ(つちぶねじょう)
岩谷口の中央、小川を境に北側を岩谷ジョウ、南側を土船ジョウという。ツチブネ衆の住む場所の意。もとはツチブネ衆でなく、ドブネ衆と呼ばれたのではないかとみられる。ドブネは、越後や北陸の海岸に最近まで定置網用の船につかわれており、幅の広い大型木造船である。ドブネ衆は近世はじめまで、木材・炭などを運ぶ地回わりの廻船で、その水主衆が定住して集落化した場所と思われる。土船衆は、船登源兵衛家はじめ小左衛門・弥右衛門・吉蔵・又左衛門の各家が、海岸の川原という場所に住んでいたという。北部の岩谷衆は農耕民であり、南部の土船衆は海稼ぎを生業にして、二つの集団が結合して、岩谷口村をつくった。相川金山の急激な開発により、土船衆は外海府の資材を相川へ海上輸送するために集落化したと考えられるが、木材資源の多い津軽方面との関係が深かった。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】佐藤利夫
・釣鐘人参(つりがねにんじん)
【科属】キキョウ科ツリガネニンジン属 花の形を釣鐘に、太い根をチョウセンニンジンに例えた名前である。高さ七○センチほど、枝先に、青紫色の釣鐘形の花が、輪生状に下垂する。俳句や歌では、釣鐘草・風鈴草とも呼ぶ美しい花。平清水(金井町)では、ヤマギキョウと呼ぶ。いろいろと変異があり、佐渡にも、海岸性で照葉で、全草に毛がないハマシャジンや、全草に毛が密生するシラゲシャジン(品種・佐渡方言ケトトキ)がある。シャジン(沙参)は、ツリガネニンジンの慣用漢名である。大佐渡山地の尾根部の砂礫場のものは、花はずんぐりした広鐘型で節間つまり、高山型のハクサンシャジン(タカネツリガネニンジン)型である。「山でうまいものはオケラにトトキ、嫁に食わすに惜しゅうござる」と俚謡にうたわれる。「嫁にいくと、食われなくなるからせっせとお食べ」に登場するトトキは、春の根生葉の若葉のこと。トトキ(朝鮮語)と呼び、「トトキゴマ和え、ウドなます」といわれ、ゴマ和えがいちばん旨い。トトキのゴマ和えは、雛の節句のいちばんの馳走であった。【花期】六~九月【分布】北・本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・釣り車道(つりしゃどう)
佐渡鉱山の高任製錬所と、大間湾の間に架設してあった架空索道。大正中ばころの写真にも、まだその光景が映っている。距離は「三千六百尺」(約一・一キロ)で、空中ケーブルでつながれた。いわゆるロープウエイ形式で、動力は鉱山の蒸気機関を用い、明治二十年(一八八七)の竣工で、日本では初めての架設だった。町の人たちは空中を走る抗車を「釣り車道」と呼んだ。十八年にドイツから帰朝した渡辺渡が、ドイツ・フライブルク鉱山の複線式架空索道の模型を作り、翌二十一年に東京上野公園であった東京府工芸共進会に、渡辺が所属していた東京帝大の工科大学から出品して紹介したのが人々の目をひき、佐渡でさっそく実用化した。佐渡鉱山局長として赴任していた大島高任が、二十年十一月に大蔵省に出した工事進渉報告の中に、「此綱(つな)車道の事たる、我国にては創始の業にして、経験に乏しきより、諸事意の如くならず、再三の試験を経て漸く完全の功を奏するに至り」とあって五、六か月の工事予定が十か月を要し、難工事になったことを報告している。鉱石搬送ではなくて、高任製錬所や高任竪抗の新設等による、敷地切取りの土砂運搬が主である。十九年に起工し二十五年一月に竣工した、大間築港の埋立てに必要な土砂の調達も、計画に入っていた。方線は高任を起点にして、間ノ山の搗鉱場から、濁川添いに、北沢の旧選鉱場の上空を通り、大間に達したと思われる。渡辺は同二十年六月には、佐渡鉱山局技師として来島している。大島高任が招いたものである。【関連】渡辺渡(わたなべわたる)・大島高任(おおしまたかとう)【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間寅雄
・鶴差上御用(つるさしあげごよう)
御鷹御用に似た上納例に、鶴を捕えて江戸城に送りこむしきたりがあった。慶安二年(一六四九)九月の記録に、「当九月、鶴四羽、江戸表へ差出す処、順斎(佐渡奉行伊丹順斎)より御城へ献上」(『佐渡年代記』)と記されている。これが初見で、将軍家光の時代である。次いで承応二年(一六五三)七月、将軍家綱の時代に四羽が献上された。これは「枠」(鳥籠)二つに入れ、道中切手(手形)を添えて送ったことが記されてある(『佐渡年代記』・『佐渡風土記』)。佐渡奉行は順斎の子息、伊丹蔵人のときで、ただし両度とも上納の理由・輸送路・宰領した侍の名前などは記されていない。この承応二年の例では、秋のころに初めて打ち留めた者には褒美として銀壱枚、二番鶴の場合は銀拾匁をつかわすことを、佐渡留守居衆から在府の蔵人に申し立てたとある。鶴は渡り鳥なので、巣中で捕獲ということにはならず、鉄砲で打ち留めたか。生きたまま、または死亡した鶴を江戸表へ献上したことか、どちらかになる。古来から「瑞鳥」「霊鳥」などと貴重がられた鳥であった。が江戸での用途についても記載がない。また献上記事も、承応以降はあまり見当らない。佐渡で鶴を打った記録は、寛延元年(一七四八)三月に、城之腰村の森右衛門が「白き鶴」を、同月に八幡村の鉄砲打が「薄墨の鶴」を一羽、また安永七年(一七七八)九月に、二方潟村の甚兵衛が「タンテウ鶴」を打ち、セリにかけ銭五百文で大工町の平五郎に落札したという。したがって江戸表への献上は、御鷹御用同様に、早い時期で終った。【関連】御鷹御用(おたかごよう)【執筆者】本間寅雄
・鶴子銀山(つるしぎんざん)
天文十二年(一五四三)の開発と伝えられる。鉱区は五十里山・沢根山の東西に伸び、北の峠を境に相川山へとつながる。相川金銀山の先駆をなす銀山である。越後の商人外山茂右衛門の発見伝説をもち、沢根城主本間攝津守に稼行を願い出て、一か月銀百枚を納めたという。現在、百枚・元百枚と呼ばれる地名が残る。天正十七年(一五八九)、佐渡が上杉景勝の領国になると、鶴子外山に陣屋(代官所)を設け、上杉の目代、山口右京が鶴子銀山を支配した。文禄四年(一五九五)島根県石見銀山の山主が渡来して、鶴子本口間歩を開いた。鶴子開発当初の採鉱は、地表に露呈した鉱石を採取する露頭堀りであったが、彼等が導入した技術は、鉱脈を追って坑道を開鑿する新しい坑道堀りの技術であった。この技術によって本格的な開発が進み、鶴子千軒と形容される繁栄は、慶長・元和・寛永期まで続いた。同時に相川山開発の契機となり、金銀山の中心は急激に相川へ移った。陣屋も慶長八年(一六○三)相川へ移る。その後盛衰をくり返し、天保年間一時活況を呈したが、文久三年(一八六三)弥十郎間歩の稼行を最後に全山閉鎖となる。明治の洋式技術の導入などで、明治十五年(一八八二)百枚坑の再開、明治二十六年(一八九三)に鶴子百枚・弥十郎坑の再開発がなされたが、昭和二十一年(一九四六)閉山した。【関連】鶴子陣屋跡(つるしじんやあと)【参考文献】『佐渡古実略記』、西川明雅他『佐渡年代記』、『佐和田町史』【執筆者】土屋龍太郎
・鶴子陣屋跡(つるしじんやあと)
沢根(佐和田町)の鶴子銀山は、天文十一年(一五四二)の発見といわれる。沢根領主本間摂津守によって経営が維持されてきたが、天正十七年(一五八九)佐渡が越後上杉領となるや、上杉氏の管理とかわった。『佐渡年代記』は、上杉景勝が鶴子の外山に陣屋を立て、目代山口右京を置いて銀山を管掌させたとしている。江戸時代佐渡が徳川領となるや、銀山代官として保科喜右衛門が置かれた。慶長九年(一六○四)陣屋が相川に移されるまで、鶴子陣屋は存続していた。陣屋の跡は明治年間の図面に、「代官屋敷」という地名で載る。播摩川の沢頭に当たる山陵頂上部にその遺構が残る。平成五年・六年の遺構調査によって、一○区に区切られた郭跡が現われた。主郭(代官役所)を中心に、前側面に四郭、背面に四郭がみられる。主郭の両側面には土塁が残っている。これらの郭整地の際、多くの遺物も採集された。唐津焼き片をはじめ陶磁器片が主で、青銅製小分銅も発見されている。郭群の両側には沢が入り、とくに西側の沢は「堀」の地名があり、人工的な沢となっている。なお、郭より東方約五○メートルには、天狗岩という大岩があり、周辺には鉱滓の出土が多い。またこの付近に二か所の井戸跡も確認されている。【関連】鶴子銀山(つるしぎんざん)【参考文献】『佐和田町史』、本間周敬『佐渡郷土辞典』【執筆者】山本 仁
・鶴子層(つるしそう)
歌代勤(一九五○)の命名。模式地は佐和田町鶴子で、下位の下戸層に整合で重なる。中期中新世の地層である。硬質頁岩および暗灰色泥岩からなり、しばしば苦灰岩ノジュールを含んでいる。相川町では中山峠およびその周辺に分布し、層厚は二○○メートル前後である。魚類化石や外洋・半深海生の貝化石(パリオラム ペッカーミ)を含み、大型海生哺乳動物(クジラ・イルカ)化石・サメ類化石・有孔虫化石を産する。下戸層の地層が浅海相を示すのに対し、鶴子層は粗粒堆積物をほとんど含まず、半深海相を示すことから、古日本海の深化と拡大がおこったことがわかる。【参考文献】佐渡海棲哺乳動物化石研究グループ「新潟県佐渡における中新統鶴子層に関する地史学的・古生物学的研究1」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】神蔵勝明
・蔓日日草(つるにちにちそう)
【科属】キョウチクトウ科ニチニチソウ属 南欧・北アフリカの地中海沿岸原産。明治二十年(一八八七)以前に渡来。日々、花を咲きつづけ、つるを引くのでこの名がある。花をつける茎は一○~二○センチと短いが、花をつけない茎はつるとなり、一メートル以上にもなる。園芸名ビンカは、学名ビンカ・マーヨルに由る。ビンカは「結ぶ」、マーヨルは葉が「大きい」の意味。旺盛につるを伸ばし、すき間なく地面をおおうから、庭園のグランドカバーに用いられる。永田芳男は『春の野草』(一九九一)に、「特に砂地と相性がよいのか、それとも競争相手が少ないからか、海岸で大繁殖している。日本海側ではこの傾向が強く、新潟県から島根県あたりの海岸にかけて多くみかける」と記す。佐渡も、屋敷内・人里・沿海地に群生繁茂する。来島した関東の人も福島の人も、逸出野生の繁茂ぶりははじめてと驚く。五月に咲く直径三センチほどの紫花、品よく清楚で東洋風、茶花につかわれる。葉の縁に、淡黄色の斑のあるフクリンニチニチソウもあるが、野生はしてない。俳句では蔓桔梗の名で呼ぶ。「相川は石垣の町蔓桔梗」、「金とりし石臼ころび蔓桔梗」は、相川の西本一都の句である。【花期】五~六月【分布】帰化【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・ツルモ(つるも)
褐藻類ツルモ科ツルモ属。北海道から九州に至る太平洋・日本海両岸の、波の静かな内湾などの干潮線下に直立して生ずる。和名ツルモは、ツル(蔓)状の長いモ(藻)の意味である。長さ一ー四メートル、直径二ー五ミリで枝わかれしない。幼いつるは内部は充実しているが、成長するにつれ内部は中空となりガスをふくむ。そのため海中で真っすぐ立つことができる。刈りとったものを束ねて乾かして貯蔵する。『牧野新日本植物図鑑』(一九六一)には、「特に佐渡地方ではホシツルモとして貯え、食用に供せられる」と紹介する。真浦(赤泊村)、昔は真浦村、その昔は藻浦村。海藻の豊産する浦であった。特に昔から、ここのツルモは「真浦ツルモ」と呼ばれ名産だった。産額が多いためではない。とても柔かく、香りが高く、風味がよいことで佐渡国一のツルモである。真浦は、流されて佐渡にあった日蓮の赦免船が出立した浦である。この村では、ツルモを「日蓮ツルモ」とよんでいる。【参考文献】佐渡奉行所編『佐渡志』、福島徹夫「海藻と暮らし」、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】伊藤邦男
・石蕗(つわぶき)
【科属】キク科ツワブキ属 ツワブキは艶葉蕗に由る。つややかな光沢ある葉がフキに似る。亜熱帯・暖帯の海辺をふるさとにして北上するが、佐渡はツワブキの日本の北限。高野素十の句「石蕗の花対馬暖流沖を行く」のとおり、暖流のおかげである。冬の季節風をさけた海辺の村には、黒森が残っている。黒森はタブの森。高木層はタブ、中木層はヤブツバキ、低木層はヤツデ・マサキ、草木層はツワブキ・オモト・ヤブランの配置される暖帯林。樹冠は黒々と遠望される。村の鎮守の森、魚付林、山あての森である。この森がいちばんはなやぐのは、十月のなかばから十一月のなかばで、ツワブキの花で埋まる。花径は五○センチぐらい、花房に二○花もつける。太平洋岸では葉と葉柄を食べるが、佐渡ではいっさい食べず、葉を薬とした。葉を火にあぶってデキモノにつけ膿を吸い出す。神経痛にも効く。魚の中毒には煎汁を飲む。昔は子堕ろし草、クキ(葉柄)を子宮に挿入した。村には子おろし婆さんがいた。昔のことである。【花期】十~十一月【分布】本(中部以南)・四・九・沖【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー秋』【執筆者】伊藤邦男
・手籠(てご)
海岸段丘地帯特有の運搬用具で、腰につけたり肩にかけたりする。手籠から転じたと考えられるが、腰につけるので「腰つけ袋」という。藁縄で作ったものを「つかり」というところ(片辺)もある。腰つけ袋は、左側の腰に白い木綿の帯をつけてしばる。国中では見られないが、田を起しているとき、山畑の仕事に蒔きものや拾いものを入れておく。藁で編んで長い紐のついたものを「てご」といっているところもあるが、これは肩に掛けている。藁縄で作った大型の「つかり」や「てご」は、男が山仕事の道具を入れるときにも利用するが、丈夫さを考えて作ったものである。近時は横の編み糸に、ビニール紐をつかったものがふえた。婦人のつけている「てご」に、昔の「しながや」をほどいて作ったものをよく見かける。海村で生活する人たちに藁製品が普及するのは、樹皮繊維利用の習俗より遅れてはじまったものであろうが、日常、海辺で拾いものがある地域の固有の日常用具である。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・デスモスチルス(ですもすちるす)
新世代中新世に、環北太平洋沿岸に生息した大型哺乳動物。歯の形から束柱目に属し、最初はデスモスチルス科の一科だけであったが、パレオパラドキシア属を中心とする、パレオパラドキシア科と二つの科に分けられた。束柱目は、臼歯の形が鉛筆状の柱が束になった形が最大の特徴で、デスモスはギリシャ語で束ねる、スチロスは柱の意味である。謎の多い化石で、絶滅種である。日本のデスモスチルスは、旧日本領の南樺太を含めると、五十数か所から、パレオパラドキシアは三○か所から化石が発見されていて、デスモスチルスに比べると、より南の地域に多い。大正十二年(一九二二)、中山トンネルの相川側出口附近から発見された臼歯の化石は三個あり、そのうちの二個は早稲田大学へ送られて、デスモスチルスとして発表(大正十二年、小沢儀明)されたが、のち、デスモスチルス類の研究の進展にしたがい、パレオパラドキシアと改められた。早稲田大学へ送られた臼歯の化石は、昭和二十年(一九四五)の戦災によって現存していないが、のこりの一個は現場監督によって収集され、相川小学校へ寄贈され、現在、相川郷土博物館に保管されている。佐渡博物館では、昭和三十六年に臼歯の化石を借用展示したが、そのおり、南樺太気屯町初雪沢発見のデスモスチルスの全身骨格を、北海道大学の好意で、石膏模型標本を作成して併せて展示し、さらに昭和五十六年には、県立自然科学博物館とともに、この臼歯化石の複製標本を作成した。【関連】パレオパラドキシア【執筆者】計良勝範
・鉄火裁判(てっかさいばん)
赤く熱した鉄棒をにぎって、その焼け具合で事の正邪を判断すること。クカタチという裁判の方法が上代にあった。盟神探湯と書く。事の正邪を決めるため神に誓って、熱湯に手を入れ探らせ、罪のある者は大やけどをするが、正しい者はやけどをしないと信じられていた。熱した鉄棒をにぎるのもクカタチの一種で、元和十年(一六二四)南・北片辺村で奥山の境界争いが起きたとき、両村の中使(名主)が焼けた鉄棒をにぎって、手の焼け具合で決着しようとした。その証文は次のようになっている。「─奥山は前々両村入相にて候由申し候に付て、終に落着いたさず候故、当春鉄火を双方へ仰付られ候処に、両村の中使の手、大方同じ様にやけ申し候、然る上は奥山は両村入相に仰せ付られ御尤に候」。中世には両片辺は同じ郷村で、鹿野浦より藻浦崎へ集落が移動して、北片辺村が成立すると、片辺山の入会権をめぐって争いとなったもので、両村中使の手が同じくらい焼けたので、争いの山は入会山となって、喧嘩両成敗にした。事の判断を、クカタチという古式のやり方をしためずらしい例。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】佐藤利夫
・テナガタコイカ(てながたこいか)
テナガタコイカ(手長蛸烏賊)は、成体になると一対の触腕が無くなるので、タコと同じ八本足であるが、イカに属すドスイカの仲間で、北方冷水系。日本海から北太平洋を経て、カリフォルニアにまで分布する。スルメイカ釣りの際に、鉤(擬餌針)を少し深く入れると、肉質が軟かく、皮膚の剥け易いドスイカが釣れることがある。ドスイカと同じく、タコイカ・テナガタコイカ・ニッポンタコイカなどは、二○○メートル以深から採れるが、ごく希である。これらのイカの腕にある吸盤は、スルメイカの円盤状のものと異なり、三角状の歯を備えた鉤となっており、変ったイカとして注目されるようになった。佐渡沖でも、スルメイカ(方言マイカ)釣りの漁業者が持ち帰り、学者の研究に供された。【執筆者】本間義治
・天辺(てへん)
坑内で用いた江戸時代の保安帽。その用途は、「兜の天辺(てへん)の如く組立てて、敷(坑)内往還の節、頭を打たぬためかぶり申し候」などと書かれてある。てへんは、戦国社会の武者たちがかぶった兜のいただきの部分の「天辺」かららしく、てっぺん、つまりいただきをいう。坑内で実際に使っていた実物の形状は円形で、径は一八糎、重さが約五○○グラム。かぶったとき、アゴでしめるヒモの長さが五五糎位。和紙を細長く裂いて作ったコヨリで編んであり、真ん中に径一・五糎ほどの小さい風孔がある。戦国時代の兜は、いただきの鉢形の部分を「八幡座」という。八幡の神が宿るという意味があり、八幡の神は古来武神としてあがめられた。「兜の天辺に、熊手をうちかけて」(平治物語)などとあって、ねらわれやすい部分だ。鉱山では、落盤や落石で頭を打たれることを絶えず覚悟しないといけない。てへんの名称は、だから危ないときの神だのみをも期待した名前であろう。坑内でかぶるのは、広間役・山方役・御目付役・御番所役・山師などに限られ、「その外はかぶり候こと、相なり申さず候」とした記録がある。上級職専用の帽子だが、外の貴金属鉱山ではてへんの使用はあまり報告されていない。嘉永五年(一八五二)に、佐渡鶴子銀山の坑内を見学した吉田大二郎(松陰)も、「縄で帯をし、短刀を從にしてさし、頭に天辺をかぶった。これは紙屑で作ったものである」(『東北遊日記』)と回想し、これをかぶって入坑している。【関連】鉱具(こうぐ)【執筆者】本間寅雄
・手堀り(てぼり)
鑿岩機が明治に入ってから、佐渡鉱山にも導入された。それ以前の鉱石採掘は、すべて素手に頼っていた。これを手堀りといい、それに従事した大工が「手堀り大工」といわれた。が、明治になって一般化した火薬による鉱石採取のうち、鑿岩機はその火薬を詰める穴を掘る役目を持つ道具で、鑿岩機自体の役目は限られていた。しかし火薬採掘によって、江戸時代からの手堀り作業は大幅に減るのである。ただし濃密で優秀な富鉱脈に火薬を仕掛ると、良鉱が発破で飛散するから、当該箇所は従来の手掘り方式で、ていねいに採掘することがあり、手掘り作業は熟錬作業の一つとして、近年まで残っていた。手掘り大工の用いるタガネには、「クチキリ」「二番(三番)タガネ」「トメタガネ」があり、まわりの大石などを割る「サキタガネ」「ワキ」などがあった。ハンマーにも、「片手」「セットー」「大ハンマー」など幾種類かが使われた。手掘り用語として近年まで残っていたものに、タガネの打ち方によって変わる姿勢から、「アゲアナ」(天井低いとき上を掘る)「クモアナ」「カツギアナ」「オトシアナ」「ヘノコアナ」などの掘り方があった。切羽が狭いので、鼓を打つような形で、後ろ向きに掘るのが「カツギアナ堀り」で、ヘノコアナ堀りとは、正面のマタの下あたりへタガネを打つことからいわれた。江戸時代にあった「かんむり(冠)穿り」「ひったて(引立)穿り」「ふまえ(踏前)穿り」などが、近代に入ってさらに細分化した掘り方に変っていったことが、以上の用語からわかる。「ヘノコ」とは、関西方面では男子のシンボルをさした。【執筆者】本間寅雄
・寺坂(てらさか)
古くは石坂(『佐渡相川志』)とも呼んだ。大安寺のある江戸沢町から、下寺町の法然寺前へ登る急斜面の長い坂で、一七世紀の中ごろ(明暦年間)までは、道幅三尺ほどで石段はなかった。永弘寺(現永宮寺)の松堂が著述した『佐渡相川志』(舟崎文庫)によると、小六町に道伝というくるわの楼主がいた。伊勢神宮への参詣を志して出かけたが、ゆき着くことができなくて引返し、所持した持参金をもって「越前石」を買い求め、道幅をも広げて石段とした。石段の数は三百三十三段あったと記している。そのように古くからいい伝えていたらしい。道伝は小六町の西側に住んでいて、庭には泉水や茶屋を作り、その築山の形が天和・貞享(一六八一ー八七)のころまで残っていた。が、いまはしかとその場所を知る者すらいない、とも加えている。石坂はいまも残っていて、江戸沢の海星愛児園前から、カトリック教会を右に見て坂道を登り、高安寺門前を経て福泉寺前を登り、高台の寺町通り、法然寺前に出る。石段の数の「三百三十三段」は、西国三十三所や三十三観音などの縁起を考えての数であり、実際には二百八十段前後である。凝灰岩と石英安山岩が多い。石英安山岩は、佐渡の小泊(羽茂町)から運んだ小泊石と思われ、「越前石」(笏谷石)とは異なる。昭和四十九年八月、「寺町に至る石段」の名称で、町指定文化財(史跡)となった。坂の中途に「観世音菩薩、鉄壁山銀山寺」と刻んだ、慶長元年(一五九六)の開基と伝わる、古い寺の寺塔が残っている。【執筆者】本間寅雄
・寺町に至る石段(てらまちにいたるいしだん)
【別称】寺坂(てらさか)
・テンツ飯(てんつめし)
ホンダワラの一種であるテンツを、米のなかにまぜた御飯。米が十分に食べられなかった時代、食べ物を増量するために入れた海藻めし。これをカテメシといい、大根・ホシナ・チソ・ササギ・ワラビ・クコ・ヒエ・茶などがあった。山村ではリョウボメシがあり、海村ではテンツのほかにカジメ・ワカメなどもあった。若いホンダワラをジンバソウといって、カテにした場合もあったが、量的に多いテンツが海藻のカテの代表。春のテンツは、山のリョウボと秋の大根のつなぎのカテメシであった。テンツメシはシコシコしてうまかったという。六月前、口明け日に採った。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・天当船(てんとぶね)
「てんとう」ともいう。高千・金泉に多かった。長さ二四尺(七・二メートル)、幅五尺五寸(一・七メートル)くらいの船。足の速い船でゴザ帆もつけた。ワキ櫓・マエ櫓・トモ櫓の三丁櫓で櫂が二つついた。福井県敦賀方面では伝渡船といった。江戸時代から機械船がつかわれるまでの、近距離の客と荷物運搬船。佐渡では海府と相川、内海府と夷湊などを連絡する船であった。陸上交通が未発達な時代には、海上の輸送がおもな運搬手段であり、到着時間の遅速、荷物の多少などによって船をつかいわけた。材木や薪炭・米などは「はがせ船」・「どぶね」・「さんぱ」・「弁才船」などを、所用・市日の買物・病人などの輸送に「てんと」をつかった。佐渡の各湊へ弁才船やはがせ船で持ち込んだ荷物は、その湊の廻船問屋で小分けにされ、「てんと」や「さんぱ」で村々の商店に廻漕する。そのために商店は小型廻船を所有していた。その船が「てんと」である。船型は一本水押の船体に、垣立・屋形なしの簡素なもので、村々には数艘浜に待機していた。【関連】さんぱ船(さんぱぶね)【参考文献】石井謙治『図説和船史話』(至誠堂)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】佐藤利夫
・天保の一揆(てんぽのいっき)
【別称】佐渡義民殿(さどぎみんでん)
・天満宮(てんまんぐう)
大工町に残る北野神社をさす。祭神は菅原道真。祭日は、古くは五月二十五日。のち六月十日に変わり、近年まで神楽が奉納された。天正年間(一五七三ー九一)の創立とするいい伝えがあり、沢根村の白山城の城中に勸請されたのに始まるという。廃城のあと、相川の治(次)助町に移転した。同町にあった浄土宗の西光寺(元和元年開基、慶応三年廃寺)の境内に隣接した場所で、古くから「天神社」と呼ばれたが、江戸時代の相川の漢学者・田中葵園は、その御神体が五位の装束なので、菅公ではなくて、沢根殿である本間攝津守永州(白山城主)が先祖を祀ったのに始る、としたという(岩木拡『相川町誌』)。大工町に移転したのは、大正末から昭和初年のことで、境内の水鉢に文政九年(一八二六)九月とあり、「江戸施主 哥次郎、喜八」と芸人らしい人の名が刻まれる。また狛犬は、天保十四年(一八四三)五月とあり「治助町若者中」などとある。御神燈は明治二十三年五月の寄進で、一四人の寄進者の名が刻まれているが、ともに治助町に住んだ鉱山関係者たちらしい。つまり移転のとき、これらの石造物もそのまま運ばれた。善知鳥神社の祭礼に出る相川鬼太鼓は「太鼓組」と称して、治助町・南沢・大工町の廻り番で保存されていた。現在は大工町が管理している。甲冑・薙刀・棒・豆蒔き・鬼面・太鼓などの道具類は、神社に保管されている。祭礼のときの打出しも、この神社から始まる。とりわけ甲冑は、江戸時代でもかなり古いものであるという。【関連】善知鳥神社祭礼行事(うとうじんじゃさいれいぎょうじ)【執筆者】本間寅雄
・天領(てんりょう)
江戸幕府の直轄領(幕府領)の俗称。幕末に旧幕府領を庶民が天朝御料(領)と称したが、その略語が溯って一般的呼称となった。江戸時代の法令や史書には、御料(御領)・御料所・公領と称した。天領は幕府財政の根幹をなし、政治・経済基盤であった。徳川氏の蔵入地が拡充されたもので、元禄年間(一六八八ー一七○四)には四百万石となり、全国の四七か国に分布した。さらに関東・畿内・海道・北国・奥羽筋を中心に、地域開発や大名の改易などにより増加し、主として貢租の基幹をなす米や商品作物の生産地帯、鉱山及び木材の供給地である山林地帯、交通・運輸の結節点の都市や港湾・河川の周辺などに設定された。職制上は勘定奉行配下の郡代・代官の管轄を中心に、老中支配の遠国奉行や諸藩の大名預地を加えた三つの支配形態によりながら掌握された。このうち遠国奉行では、鉱山採掘と民政や外国船監視の役割を担った佐渡奉行支配の十三万石が最大の領地であった。天領は江戸時代を通して、延享元年(一七四四)の四百六十三万石が最高で、以後漸減の傾向をたどり幕末に至っている。幕府が広大な天領を領有したことが、諸大名に対する圧倒的な政治・経済上の優位を確保することになり、また大名間に交錯して分布したことが、外様大名の動きを牽制する重要な役割を果たした。天領は奉行所や代官・郡代役所を中心に、それぞれ地域性を示しながら、幕府に集権的に掌握されていたことに特色があるが、幕府の政治機構とともに、国家的支配の基礎として機能したことに注目する必要がある。天領は明治政府の鎭撫総督軍によって、戊辰戦争の最中または直後に順次接収されたが、明治元年(一八六八)閏四月の府県の設置により、そのまま新政府の直轄支配に継承された。【参考文献】村上 直『天領』、藤野保編「天領と支配形態」(『論集幕藩体制史』四巻)、大野瑞男『江戸幕府財政史論』【執筆者】村上 直
・樋引(といびき)
鉱山の坑内で、地下水をくみ上げる揚水ポンプを操作する人をいい、通常は水上輪(アルキメデス・ポンプ)をあやつる人を呼んだ。樋といえば水上輪を呼ぶことが多かったためである。『金銀山取扱一件』という書物に、水上輪は坑内の広さ狭さ、水の深さ、浅さによって百本も二百本も立て、樋一本に人一人掛りで水を引揚げる、などと記してあるが、ときと場所によっては一本(挺)に二人ないし三人がつき添い、交代でくみあげることもあったらしい。そうした樋引作業のようすは、金銀山絵巻などに詳しく描かれている。延宝年間(一六七三ー八○)のころ、鉱山の割間歩が水で大変苦しんでいた。樋請(というけ)を専業とする与五右衛門という人がいて、佐渡の近在から暮れとお正月に花や松飾り、ゆずり葉などを売りに相川へ出てくる人たちに中飯をふるまっていた。そして割間歩がある鉱山まで、手紙をとどけてくれるように頼む。売り子たちがなに気なく登山すると、入口に「人指し」といって、樋引たちを差配する人が待ちかまえていて、むりやり坑内に連れこみ、その作業をさせた、などの話が『佐渡国略記』という書に記されてある。人出不足のためこのころ樋引の賃銀は一日四、五百文、大晦日や元旦は人出不足で六、七百文にも高騰したという。なお正徳四年(一七一四)のころの『諸役人勤方帳』の中に、樋引賃銀を決めるについては、御広間(奉行所)で人を集めてセリをさせ、安く札を入れた人に、作業を請負わせたとある。このころは、水上輪による水替に、請負制がとられていたらしい。【関連】水替(みずかえ)・水上輪(すいしょうりん)【執筆者】本間寅雄
・搗鉱製煉所(とうこうせいれんじょ)
「間の山」地区の、濁川右岸山腹に位置する。御料局佐渡支庁長渡辺渡によって、設計・建設された製煉施設で、当初、カリフォルニア式搗鉱機製煉法が用いられた。選鉱場から送られた下鉱を、搗鉱機で粉砕し、同時に水銀による汞化作用によって、アマルガムを作り金銀を抽収した。これによって、従来廃鉱としていた貧鉱(金銀含有量の少ない鉱石)も利用できるようになった。第一工場は、明治二十三年(一八九○)に着工して翌二十四年完成、成績が大変よかったので、明治二十六年に第二工場を竣工した。その後改革を繰り返したが、昭和二十七年(一九五二)の大縮小で閉鎖された。現在は、鉱倉のコンクリート側壁と、床基礎部分だけが残存している。【関連】渡辺 渡(わたなべわたる)【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、『明治工業史』【執筆者】石瀬佳弘
・道祖神(どうそしん)
道祖神は道を守る神である。塞の神ともいい、サエはさえぎることであり、村境に立ち、悪霊の侵入を防ぐ神である。佐和田町八幡の八幡宮前の十字路には、文政年間(一八一八ー二九)の道祖神の石塔が建っており、石塔の右側面に小木道、左側面に松ケ崎道と記され、道しるべ役もつとめている。この神は、『古事記』や『日本書紀』などに、フナドの神と記され、天孫降臨神話の、ニニギノミコト一行の道案内役をつとめた、猿田彦をそれに擬している。道祖神と記された石塔が、沢根曼陀羅寺前の地蔵堂近くにもあるが、そのほか、道を守る道祖神とみなされる猿田彦大神塔が、稲鯨・北野神社に、また大浦の庚申堂には、猿田彦大神像の掛軸が、さらに海士町・不動堂、下山之神・八幡宮や下相川・戸川神社にも、猿田彦大神塔が建っている。なお、道祖神は村境や道を守り、疫神の侵入を防ぐほか、仏教との習合により、道祖神の本地は、村はずれや辻に立つ地蔵菩薩といわれたり、双体道祖神像(小泊・真野)から、男女の縁結びの神として親しまれたり、小正月のドンド・サギチョウなどの火祭りに登場したり、かなり複雑な性格を帯びている。【参考文献】大島建彦『道祖神と地蔵』(三弥井書店)、山崎省三『道祖神は招く』(新潮社)、北見俊夫『旅と交通の民俗』(岩崎美術社)【執筆者】浜口一夫
・堂ノ貝塚(どうのかいづか)
金井町大字貝塚四七四附近一帯に所在する、縄文時代中期前葉から中葉にかけての、シジミガイを主体とする貝塚。国仲平野に張り出した舌状台地上で、標高約一六メートル。沢をはさんで相対した位置に、後期を主体とした西ノ沢遺跡がある。昭和四十四年(一九六九)、金井町教育委員会で発掘調査を行い、多数の土器や、石鏃・石斧・石剣・石棒・骨角器・イノシシなどの骨やシジミガイなどの他、立石や屈葬の七基の土壙墓と、土壙墓を伴なわない人骨一体、計八体の人骨の発見があった。土壙墓のうち、第六号人骨は、仰臥屈葬の壮年から熟年男性で、頭の斜め上に、蛋白石と鉄石英製の一三本の特製無柄石鏃が副葬され、胸部にはイタチザメ歯牙製垂飾が置かれていた。石鏃の副葬はめずらしく、イタチザメは日本海側では希種である。縄文時代は古国仲潟湖の時期で、潟湖周辺には堂ノ貝塚をはじめ、城ノ貝塚・泉貝塚・三宮貝塚・浜田貝塚などの貝塚があり、当時の生活環境を知ることができる。【参考文献】『堂ノ貝塚』(金井町教育委員会・佐渡考古歴史学会)【執筆者】計良勝範
・東北遊日記(とうほくゆうにっき)
東北地方を遊学したときの吉田大二郎(のちの松陰)の日記。佐渡滞在中の見聞も記されている。江戸藩邸を無断で出奔して、水戸・会津・仙台を経て青森・弘前を廻り、日本海側の秋田・山形を歩いて新潟入りし、厳冬の佐渡へ渡ったのは嘉永五年(一八五二)の二月二十七日で、出雲崎から小舟で小木港へ渡航、一二日間ほど滞在して三月十日離島した。二三歳のときで、肥後の宮部鼎蔵(のち元治元年に池田屋騒動で新撰組に襲われて自刄)といっしょだった。真野の順徳上皇陵を参詣して相川へ向い、広間役蔵田太中(茂樹)を訪れている。蔵田は国学者、また歌人で『鄙の手振』などの著書があった。松原小藤太(蔵田の二男)の案内で屏風沢(佐和田町沢根)の銀山へ登り、坑内もつぶさに見学した。「吾が輩は衣を脱ぎ、一短弊衣を着、縄を以て帯と為し、竪に短刀を帯ぶ」といった服装で入坑した。強健な人も、一○年にもなれば「気息えんえん、或は死に至る」と、労働者たちの短命なことなど記し、また相川へ帰って春日崎の砲台などを見学している。異国船が日本の近海に接近して緊張した時期で、海防事情にも関心を持っていた。松陰が蔵田を訪ねたのは、江戸の歌人(旗本)で臼井采女(秋澄)という人が紹介状を書いてくれたためで、采女と蔵田とは歌友だちであったとされるが、采女と松陰との関係については未詳である。【関連】蔵田茂樹(くらたしげき)・吉田松陰(よしだしょういん)【参考文献】日本思想大系『吉田松陰』、磯部欣三『幕末明治の佐渡日記』【執筆者】本間寅雄
・道遊の割戸(どうゆうのわれと)
佐渡鉱山の優良鉱脈のひとつである道遊脈の、江戸時代の露天掘りあと。道遊の割戸は、相川町春日崎や相川市街から佐渡鉱山に至る道路より、小さい山の中央をV字型に割ったようなかたちで眺めることができ、佐渡鉱山のシンボルとなっている。道遊脈は、高任立坑から東にのび、稼業延長一二○メートル、稼業深度一五○メートル、平均脈幅一○メートル、金:銀=一:一○、金含有量五グラム/トンであり、相川層の庚申塚溶結凝灰岩のなかを、八○度の角度で北に傾斜している。平均脈幅一○メートルは佐渡鉱床の主要脈のなかで最大であり、にわかに信じがたいほどに大きい。【関連】青柳割戸(あおやぎわれと)【参考文献】坂井定倫・大場実「佐渡鉱山の地質鉱床」(『佐渡博物館研究報告』七集)【執筆者】神蔵勝明
・燈籠(とうろう)
八月一日の早朝、新仏(にいぼとけ或いはしんぼとけ)のある家では親類衆が集り、トウロウをたてる。トウロウは高いほどよい、仏さんがトウロウめがけて下りてくるから(相川町高千)とか、仏さんはトウロウの先へきて止まる(同町関)などといわれ、このトウロウの竿は、主に杉のマセグイを用い、高いマセグイの上方に横木を一本しばりつけ、その両端とマセグイの先端に杉の葉(またはアテビの葉)をつけ、縄でそれらを連携し、家の前の庭などにたてる。そして、その根もとには浜の玉砂利などを拾ってきて敷き、簡単な棚を設け、盆花の山萩を供え、水を手向け、香をたき(同町北狄)夜はチョウチンを下げる。これは新仏を迎えるための依代なのである。正月に歳徳神を迎えるためにたてる依代のカドマツと、共通した感覚をもつものなのである。参考までに他町村のものを拾ってみると、佐和田町長木のトウロウは至って簡素で、海府のものに良く似ている。南佐渡の赤泊村柳沢のものは、トウロウのつり縄が三本あって、そのどれにも、杉葉を一二か所つけてあった。一年の月の数という訳か、旧暦で一三か月ある年は、一三に増すという。前記関と同じように、新仏がトウロウの横木に腰をかけるという。両津市片野尾では、トウロウのつり縄を一二本も下げ、トウロウの高いマセグイを一二本の割り竹で囲み、それを縄でしばりつけるという。新仏に、それに伝わってこいというのだという。【参考文献】浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、青木菁児『青木重孝郷愁・佐渡』(2)【執筆者】浜口一夫
・トウロウ取り(とうろうとり)
小正月行事の一つで、小若衆のトウロウを取りあう喧嘩遊びである。海府地方の石花(石花城跡のある集落)に、終戦当時(昭和二十年代)まで残っていたが、危険をともなうので中止となった。トウロウ取りは、集落を南と北の二組に分け、正月四日にトウロウ作りを開始する。まず四日から六日まで、全員でタンザクを下げるコヨリを約千本作る。タンザクの色紙は、六日の春詣りに相川の町へ行く人に頼む。トウロウをたてるのは十日であるが、その日まで、トウロウマセを用意したり、割り竹を作ったり、鍬形かぶとに金紙(表)や銀紙(裏)をはったり、おお忙しである。女の子は袋を作って、トウロウに下げる。裁縫が上手になるといった。戦斗が開始されるのは、十日の晩から十四日までである。石ころを投げたり、組ついたり、なぐったり、実にすさまじいトウロウの奪いあいがはじまり、多くのけが人が出たが「トウロウの神はけんか神さん」といわれ、けがをしてもお互いに許しあう不文律があった。トウロウ(鍬形かぶと)を奪いとった組は、かちどき勇ましく宿へ帰り、一方負けた方は、翌朝、代表者が手をついてもらいに行った。以上が石花集落のトウロウ取りのあらましであるが、海府方面の入川・北立島・北田野浦などでは、トウロウを取った方は、その年、豊作だといい、北片辺ではトウロウに、稲の花を形どった色紙をつけたり、豊年袋を下げたりする。これらはトウロウなるものが、稲作と関係深い、豊作を祈る予祝行事の一部であったことを物語るのではないかと思われる。【参考文献】『高千村史』【執筆者】浜口一夫
・毒空木(どくうつぎ)
【科属】ドクウツギ科ドクウツギ属 葉は単葉であるが複葉にみえる。ウツギ(ウノハナ)に樹姿が似るが、毒性がありこの名となった。山野の陽地の崩壊地のパイオニア植物。花は淡い黄緑色で小さい。七月、鮮やかな紅い実が目をひく。小さな花弁が花のあと大きくなって果実をとりかこみ、鮮やかな紅色をへて黒紫色となる。赤い皮(花弁)は、甘い汁をふくみ無毒であるが、皮につつまれる果実が、猛毒で命をうばう。甘い紅実が子どもを誘い、多くの命をうばった。戦前の中毒死は年間三○○件。うち六○%は毒キノコ、一○%はドクウツギであった。激しく吐き、激しくケイレンし、呼吸が止まり死に到る。佐渡奉行所編の『佐渡志』(一八一六)に、「民間フロシキツツミととなえ、方言ナベワレウツギという。これもその毒酷烈畏るべきものなり。この国の小民、輙くもすれば、小児あやまつこともあるをもって、ここに(絵図)をかいて出す」と注意をうながしている。赤~紫黒色の皮が、五つの果実をつつむありさまが、フロシキヅツミに似る。果実を上からみると、五つの割れ目があり、鍋の割れ目にみえるのでナベワレウツギともいう。【果期】七~八月【分布】北・本(近畿以北)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・東照宮(とうしょうぐう)
徳川家康を祭神として祀る東照大権現は、徳川家の天領である佐渡では、十一代目奉行伊丹播磨守の代の寛永十三年(一六三六)に、下山之神町に創立した。社名は後水尾天皇の勅諡であったが、正保三年(一六四六)将軍家光が、日光に祖父の廟を建て東照宮と命名したので、全国に散在する東照社が、東照宮と改称した。『佐渡神社誌』では、「明治維新前は御霊屋と称し神社には非ざりけん、当時の寺社帳に其名見えざれども」とある。そして慶安四年(一六五一)に、輪王寺の守澄法親王から親筆の神号が納められ、「従前社殿造営及祭典費等一切幕府より附与の処維新に至りて止む」とある。相川郷土博物館には孔子廟関係の展示があって、優れた美術品がみられるので、儒教を重んじた幕府の政策に従って、相川でも在来の神社扱いではなく、御霊屋(廟)と呼んでいたのであろうか。小木町の小比叡蓮華峰寺の境内にも、東照大権現の神殿が祀られている。宝暦寺社帳の同寺の項では、「東照大権現御神殿 台徳院殿 尊儀御霊屋 右者正保四年奉造畢──」とある。台徳院は二代将軍秀忠の諡である。【参考文献】『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)、山本修之助編『佐渡叢書』(五巻)【執筆者】本間雅彦
・戸河神社(とがわじんじゃ)
炭焼長者の伝説は中世に始まって、全国各地に同じような話として分布している。佐渡では、長者の名は戸川藤五郎と呼ばれて、下相川富崎の戸河神社に、祭神として祀られている。全国的な炭焼伝説の多くは、黄金の発見と結びついていて、この相川の戸川藤五郎にも、その痕跡がみられる。『佐渡神社誌』が伝える藤五郎の人物像によると、永禄の頃(一五五八~六九)に駿河から来て、下相川の日蓮宗寺院本光寺境内に住んだとある。さらに没年は、元亀中(一五七○~七二)という。これは相川の市街地形成や、金銀山開発の年代からみて、かなり早い時機なので、直接に黄金発見の文字はなくても、薪炭の役割りからいって、鉱山を対象として伝えられていることは疑いない。本光寺(寺社帳では本興寺)の山号は戸川山であり、駿河国富士郡の本門寺末とあるので、詳細に調べていけば伝承と史実の境目が、しだいに明らかにされていくであろう。戸河神社の合祀社に、須勢理姫命を祀る百足山神社がある。ムカデは鉱脈の象徴でもあり、山之神の大山祗社ともかかわっている。『民俗学辞典』(東京堂刊)では、炭焼長者伝説は、もと鋳物師の仲間が運搬したものらしいと推定している。例祭日は六月十五日。【関連】炭焼藤五郎(すみやきとうごろう)【参考文献】柳田国男「炭焼小五郎が事」(『海南小記』所収)、『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】本間雅彦
・朱鷺(とき)
学名ニッポニア・ニッポン。国際保護鳥・特別天然記念物・新潟県民の鳥、の肩書をもつ。江戸時代の初め、主に関東・東北の一部や、北海道に分布していたが、次第に分布域を全国に広げ、田畑に被害が出る程になった。その後乱獲されて、明治に入り減少の一途をたどり、大正の終りには絶滅したものと思われていた。昭和四年(一九二九)石川県内で一羽が誤殺され、昭和七年(一九三二)五月、加茂村和木(現両津市)で巣が発見された。そのころの佐渡の生息数は、百羽位と推定されているが、その後も減少して、昭和三十四年(一九五九)には四羽になった。幸い翌年新穂山中で繁殖が確認され、周辺一帯が国有林となり、入山を禁止するなど保護に努めたため、昭和四十七年(一九七二)には十二羽にまで増えた。しかしその後再び減ったので、昭和五十六年(一九八一)環境庁は、野生五羽の全鳥を捕獲し、前からいた愛称「キン」と合せて六羽の飼育を行ったが、残念なことに五羽はつぎつぎと死亡し、一九六七年生れの「キン」一羽となっていたが、平成十一年(一九九九)、中国から一つがいのとき「ヤンヤン」と「ヨウヨウ」の寄贈をうけ、翌十二年(二○○○)には、「メイメイ」が来日して増殖に成功し、現在佐渡トキ保護センターには十八羽が飼育されている。【参考文献】安田健「トキの文献」【執筆者】佐藤春雄
・徳本名号(とくほんみょうごう)
【生没】一七五八ー一八一八 「とくごう」とも呼ばれる。浄土宗捨世派の僧。捨世派とは、既成の寺檀関係や共同体に制約されない布教活動を行う、脱体制派である。全国各地に足跡を残すが、佐渡に来た記録はない。宝暦八年、和歌山県日高郡志賀谷久志村に生れる。四歳の時隣家の子供の死を見て、無常を観じ念仏を唱えたという。二五歳の時、近くの往生寺で得度。その後千津川村に庵を構え身には袈裟一つ、一日に豆少々を食べ、昼夜を問わず四、五千回の念仏を唱える荒行を、七年間勤める。名声を聞き、上は将軍の生母からさては漁師や樵まで、あらゆる階層の人々が集まると、南無阿弥陀仏の名号を渡し、ひたすら日課念仏を勧めた。後に本山増上寺に乞われて、全国を布教する。佐渡には五つの講中があり、このうち相川町には、柴町講中・大安寺講中・立岩寺講中の三つがあった。佐渡に現存する名号塔は、水金町専光寺跡に一基と、佐和田町常念寺に一基確認される。与えられる名号は、唱える念仏の回数により大小があり、講中では布教順路の先々で待ち受け貰ったという。その光景は「道路に寸地なし」と伝えられた。文政元年寂。【参考文献】戸松啓真編『徳本行者全集』【執筆者】近藤貫海
・トコヒレ(とこひれ)[トクビレ]
江戸時代に、トクビレのような寒帯深海性底魚が、どのような手段によって得られたかは不明であるが、特異な形態から注目されたらしい。諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』、滝沢馬琴の『燕石雑誌』『烹雑乃記』、田中葵園の『佐渡志』、さらに江戸の人武井周作の『魚鑑』などに、いずれも載せてある。馬琴は、トコヒレの方言に禿骨曄列や、長髯の字を当てているが、越後や北海道では、ワカマツ(若松)・ハッカク(八角)・マツヨ(松魚)などの方言もある。細長い体は、硬い骨質板で覆われ、断面が角張り八角をなし、骨板には硬くて強い棘が並んでいる。雄では、背鰭と臀鰭が長く全長五○センチに達する。肉は白身で美味いので、皮を剥いて刺身や汁種にして賞味される。江戸時代から乾燥して、置物にされてきた。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・床屋(とこや)
床屋は、鉱山で金銀銅を精錬する場所をいう。相川には「大床屋町」、春日崎に「銅床屋」、一丁目浜町に「銅床屋」のあったことが記録にみえる。鹿伏村の床屋は、元禄末年まで稼業した。【関連】勝場(せりば)【執筆者】田中圭一
・戸地(とじ)
集落は海岸沿いにあり、慶長五年(一六○○)の検地帳には、「海府之内登地村」「刈高七八三束」とあり、戸地川に近い北側には、他の村落に比べて広い「垣之内」の地名がある。村に残る元応二年(一三二○)「うとう七うら大さかひ之事」の文書に「本間大野殿」とあって、大野本間に関係をもった土地柄だという。近世初期の有力な重立衆を意味する六軒竈があり、平兵衛宮(文禄二年創立)・四郎左衛門宮(元和八年創立)、ほかに源兵衛宮、武右衛門家では不動堂をもつなど、家ごとに異った宮を祭祀していたが、明治六年(一八七三)これらを合祀して熊野神社とした。このうち源兵衛宮は、延宝七年(一六七九)に相川下山之神町の大山祇神社の神主、安岡長門守の勧請といわれ、鉱山との関係が深く、慶安三年には中使も勤めた。金津家は、越前金津より来島して、家系をいまに伝える。寛文期には、用水路や溜池を利用して新田開発が進み、元禄七年(一六九四)の検地帳では、田三四町八反余、畑一二町六反余。年貢皆済目録によると、磯ねぎ沖漁の依存度が高いという。文政五年(一八二二)の佐渡一国分限帳・御巡村御用日記では、戸口が六七軒、四百十余人とある。明治十年には、戸地炭町を合併した。【関連】戸地車町・炭町(とじくるままち・すみまち)・戸地川(とじがわ)・戸地祭り(とじまつり)【参考文献】『金泉郷土史』、『新潟県の地名』(平凡社)【執筆者】三浦啓作
・戸地川(とじがわ)
金北山西方二ノ嶽付近を水源にして、戸地・戸中集落のほぼ境界線を流れる。全長五・二キロで、水量の豊富さでは全郡で六位、急流の点では第一位といわれ、この水力を利用して、佐渡金山の大盛りの頃、寛永三年(一六二六)より、享保の初めまで、相川金山から約一二キロを馬で鍵(鉱石)を廻送して、水車により粉成、吹立もした。寛永四年には、時の佐渡奉行鎮目市左衛門が視察に訪れ、一説には鱒狩中誤って川の中にはまり死亡したと伝えられ、川魚が多いことでも知られる。正徳三年(一七一三)の絵図で、戸地川の上流約四キロ余りの本流と支流二か所に、「魚留滝」の地名が見え、元禄年代諸運上書上帳に「戸地川、鮎五年請負運上銀六匁」の記録もあり、鮎も豊富だったことが判る。川鱒は昭和の初期までは多く獲れ、一回にカマスで五荷も獲れ、相川の鉱山へ廻送したと、古老は話した。また佐渡鉱山の近代化に伴い電力需要に迫られ、明治二十九年頃より水力発電の計画があり、大正四年に第一発電所、同八年に第二発電所が竣工し、相川鉱山へ送電を開始した。三キロ位上流には、前記絵図に出てくる清水(県の名水百選)の出る「大せうず」(大清水)の地名があり、現在この清水を、戸地・戸中・北狄の水道水として利用している。【関連】戸地車町炭町(とじくるままち・すみまち)・戸地第一第二発電所(とじだいいち・だいにはつでんしょ)【参考文献】『金泉郷土史』、「戸地区有文書」【執筆者】三浦啓作
・ドスイカ(どすいか)
スルメイカ(鯣烏賊)に形は似ているが、鰭が大きめで、肉質は軟かく、皮膚が剥け易い。利用価値は低いが、大型になるアカイカと共に、加工用に廻されたりする。スルメイカ漁の際に、鉤(擬餌針)が深所に届くと釣れるところから、正体が明らかになってきた。テナガタコイカ(手長蛸烏賊)と同じ仲間であるが、腕には三角形の歯を備えた鉤は無く、小さい吸盤のみである。日本海で繁殖することが明らかとなってきた中型クジラのメソプロドン(オウギハクジラ・扇歯鯨)は、四~五○○メートルの深海にまで潜水する。ドスイカは、このメソプロドンの食餌として重要である。相川町沖のイカ場でもドスイカは獲れるが、相川海岸では、メソプロドンの冬~春先における漂着もまま見られる。【執筆者】本間義治
・戸地第一・第二発電所(とじだいいち・だいにはつでんしょ)
新潟県で最初の水力発電は、佐渡鉱山の高任に明治三十三年(一九○○)九月、一五キロワットが起動したが、佐渡鉱山の近代化が進むにつれて、大量の電力が必要となるため、その五年前の明治二十八年十月、御料局より戸地へ技師を派遣し調査を進めて、翌年八月には、佐渡郡役所より北海村村長宛に、「電気応用計画について」(「戸地区有文書」)の文書が残るが、その後、御料局より払下げを受けた三菱合資会社による地元との交渉の中で、戸地川中流域にかかる農業用水に必要な、江戸時代からの木製掛樋(約一四メートル)を、鉄筋の入った「めがね橋」にすることで、地元の了解をとりつけ、大正四年(一九一五)九月、戸地川河口より約三キロ上流に、出力九六○キロワットの第一発電所が完成した。有効落差は二七五メートルで全国第三位だと、当時の「佐渡日報」は伝えた。大正五年二月に、同社で募集した佐渡名勝八景の中に、戸地第一発電所が入るなど、洋式建造物と山頂へのびる送水管の長さは、目をみはるものがあった。このあと第二発電所が、河口付近の江戸時代初期から、佐渡鉱山とかかわりの深い「戸地車町」跡地に、大正八年一月、出力四八○キロワットで竣成した。第一・第二共すぐ近くに、それぞれ棟続きの三世帯の職員住宅(集会所含)があったが、鉱山の衰退と施設の老朽化により、昭和五十二年(一九七七)五月末日をもって閉所となり、「第一」は間もなくすべての施設を撤去したが、「第二」は建物と発電機を残した。【関連】戸地川(とじがわ)【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】三浦啓作
・戸地祭り(とじまつり)
祭礼は十月十九日。前日、熊野神社の宵宮に、古式ゆかしい古武術「神道土俗白刃」が奉納される。その伝来については、昔、戸地の千仏堂に住んでいた大光坊という住職が、書画・彫刻と武芸にすぐれ、その武術をムラびとに伝授したものだという。その後、嘉永年間に、千仏堂に住んだ羽茂出身で武術に秀でた正覚坊(明山勝蔵)が、鬼太鼓の動きを巧みに武芸の形に組みあわせ、今日の形を作りあげ、それがムラの若い衆に代々うけ継がれ、今日に至ったのだという。この「神道土俗白刃」の組大刀は、半棒・小薙刀・大薙刀・陣鎌・大棒の太刀と五つのわざがあり、三二の変化を取り入れてある。が、その鱗足鱗体・半身構え・体ごなしなど、昔の武術をしのばせる貴重なものだという。そのほかに、つがいの「獅子舞」と「鬼太鼓」「豆蒔」がそれぞれ演じられ(太鼓のリズムと豆蒔の舞方は、相川善知鳥祭りと類似している)、翌本祭りにムラのお堂などでも奉納され、約七○戸の集落を、厄払いや豊かな実りを祈り演じてまわり、最後は代々「白刃」の道場を務めていた、大辻治郎右衛門家で終りとなる。昭和五十五年には集落の有志により、「戸地白刃保存会」が結成され、後継者の確保と育成につとめている。昭和六十一年(一九八六)一月、「熊野神社祭礼行事」として相川町の「無形民俗文化財」に指定された。【関連】熊野神社(くまのじんじゃ・戸地)【参考文献】「十周年記念誌」(戸地白刃保存会)、『相川町の文化財』(相川町教育委員会)、新潟日報佐渡特別取材班編『佐渡紀行』(恒文社)【執筆者】浜口一夫
・戸中(とちゅう)
南側のトンネルから、北側の海岸段丘の崖下に民家があり、次第に上の方に広がったとも考えられるが、近年くじら谷と呼ばれる南側台地上の、旧道に沿った藤左衛門の畑より、中世の集落跡を伺わせる地点に、室町末期とみられる五輪塔が、完全な形で二基出土した。戸中村は口碑によると、天正年間(一五七三ー九一)に、畑野から源右衛門が移住して漁業を営み、鶴子銀山からは孫十郎が来て、鉱山を稼いだのが、村の始まりと伝える。源右衛門は立蓮寺(新穂村)の有力檀徒で、天正十七年上杉景勝の佐渡攻めで、門徒が四散したおり、戸中に移り住んだとみられ、家号は「大家」である。孫十郎家も、鶴子銀山に寺基を構えていた専得寺の檀徒であり、近年まで、立蓮寺・専得寺の真宗道場もあった。相川鉱山よりも古いといわれる戸中鉱山は、嘉右衛門・大綱・清蔵の各間歩など、四八の坑口があったが、明治四十四年(一九一一)三菱金属佐渡鉱山に売却、その後廃坑となった。慶長五年(一六○○)の検地帳中、請人百姓正源は、村内に真宗の道場をもつ、岩間源十郎家の先祖だという。ふなきの地名は、中世に舟材を供給する村であったことを伺わせる。元禄七年(一六九四)の検地帳では、田三六町八反余、畑一二町二反余とあり、文政五年(一八二二)の佐渡一国分限帳・巡村御用日記には、「戸口八五軒・四四○余人で、海漁が盛ん」とある。神社は大山祇神社で、祭神は大山祇命。戸地川下流の車町(鉱山集落)にあったが、享保元年(一七一六)六月、洪水で流失したので、同二年三月現在地に移転した。例祭日は十月十八日。戸地ー戸中間道路については、戸中トンネル開通以前、山道か浜道(引潮のとき)のため、波浪による遭難者が多かったが、明治十年から昭和五年(一九三○)にかけて、四回にわたる掘削工事により、長さ二一四メートルのトンネルが完成。その後拡張工事が進み現在に至る。また文化十二年の記録に、「平根崎という沖より湯出る」とあり、昭和四十五年海中温泉試掘、現在「ホテルひらね」で利用している。【関連】戸地車町・炭町(とじくるままち・すみまち)・平根崎(ひらねさき)【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)、『新潟県の地名』(平凡社)【執筆者】三浦啓作
・刀根(とね)
比較的高い山地で、背梁部がけわしい尾根筋のこと。大佐渡山地や小佐渡の一部の尾根越えを「刀根越え」という。尾根を刀根というのは、両側から登ってくる山道が尾根筋を境にしてはっきりと区分されるからで、分水界が明確になっている地形を指している。刀根筋の道は、それぞれ枝分れに尾根道がつながっており、近世以前から利用された道で、古道といわれる歴史の道は、このような道であった。この刀根道にたいして、両側から刀根を越える道は刀根越え道といった。国中から海府への刀根越えは、海府側の集落の名をつけて呼ぶ場合が多い。特別な意味はないが、この刀根越え道は海府の集落の人の方が必要であった。刀根越え道は「かえこと」(物資交換)の通路として、また牛の放牧・木挽の山歩き・炭焼き道となり、夏場は郵便配達や用事をもった人の往来に利用された。また海がしけた時や急用の場合につかわれ、海岸に車道ができるまでは生活道路になっていた。峠という言い方は、青野峠・中山峠などごく一部で言われる程度で、時代が新しくなってからの呼称である。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】佐藤利夫
・飛島萱茸(とびしまかんぞう)
【科属】ユリ科ワスレグサ属 佐渡の海辺のカンゾウは、トビシマカンゾウとよばれるもの。発見地の山形県の飛島と、酒田海岸と佐渡だけに分布する特産種。群落のみごとさは佐渡がきわだち、サドカンゾウと名付けたいほど、群生地は冬の季節風に直面する海岸草原、しかもカヤ場。毎年の刈りとりと、火入れに強いカンゾウとススキが純群落化し、六月はカンゾウ原に、秋はススキが純群落化し、村のカヤ場となる。ニッコウキスゲに似るが、草丈高く、花期早く、一本の花茎につく花の数も十数花と多く、花柄が短いのが特徴で、ニッコウキスゲの島嶼型とも考えられる。海辺のカンゾウを、ユーラメ・ヨーラメという。魚(ユー)孕み(ハラミ)花(バナ)の略。この花の咲く頃、磯に卵を孕んだ魚がやってくる。ユーラメが咲くと、タイ(マダイ)・サバフグ(ゴマフグ)・コイカ(スルメイカの小さいもの)・コチがやってくる。「この花が咲くと海は活きかえり、魚は生きかえり村にやってくる。村に豊漁をもたらす」と村人はいう。佐渡群生地は北の海辺の大野亀。六月上旬の日曜日、大野亀でカンゾウ祭りが行なわれる。【花期】五~六月【分布】山形県飛島・酒田海岸・佐渡【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『佐渡山野植物ノート』【執筆者】伊藤邦男
・トビヨ(とびよ)[トビウオ]
佐渡では和名のトビウオは獲れず、最も多いのは大型のツクシトビウオ(筑紫飛魚、方言カクトビ・角飛)と、少し小型のホソトビウオ(細飛魚、方言マルトビ・丸飛)である。六月頃から対馬暖流に乗って、産卵しながら北上し、一年半という短かい一生を終える。成長が早いので、一年で成魚となる。卵は、海藻などにびっしりと産み付けられる。産卵群は、佐渡沿岸の定置網や浮き刺網に入り、塩焼き・フライ・干物(出し)・刺身・酢の物にして食べられる。卵も海藻ごと酢の物にして食べられる。孵化した幼魚は、短い胸鰭を広げたまま、水面上を滑るようにして泳ぐ。ツクシトビウオ幼魚の顎の下には、黒いひげが二本あるが、ホソトビウオでは一本である。ツクシトビウオは三五センチ、ホソトビウオは二○~三○センチに成長する。佐渡では、古くから漁獲利用されてきたと思われるのに、古文書には表わされていない。九月になると、小型のアリアケトビウオ(有明飛魚)が来遊するが、個体数は少なく漁獲対象にはならない。本種の幼魚は顎の下にひげが無く、また成魚では胸鰭が紫黒色なので、他のトビウオ類と区別できる。江戸時代には、トビウオに文搖(正しくは”魚”偏)魚の字を当てている。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・富崎線彫不動磨崖仏(とみざきせんぼりふどうまがいぶつ)
下相川富崎の岸壁にある、線彫の不動磨崖仏。善宝寺の石殿がある岩の頂きの背後で、わずかに直立する崖に彫られているが、風化と一部剥落でわかりにくい。向ってやや左向きの両眼を開く座像で、像高はおよそ三七センチ、右手に宝剣、左手に羂索をほぼ像の中ほどに持つ。像背後の火焔光と、像下の蓮華座の蓮弁もかすかにうかがえる。右側には、斜め上方に「大」、像の右横に「(キリーク)備中国 良海上人」、左横に「(バン)武州 鑁上人」(「(キリーク)良海上人・備中国」と「(バン)鑁上人・武州」はそれぞれ二行書)と刻み、三尊仏形式としている。他に宝珠形や二・三の文字があるが、判読できない。『佐渡相川志』の「戸川権現」に、「今ハ戸川ノ社地、或ル行人住ス。──当社北側岩ノ向フニ長サ弐尺余ノ不動ノ像左右ニ大備中国良海上人ト彫入レテアリ。右ノ村人彫付ケタリト言フ。」とあり、また『佐渡国寺社境内案内帳』の「戸河権現」には、「中古紀州熊野山の行人当国へ渡海して、此の地の西の立岩に不動の形像と月日を穿り附け置き、今にこれあり」とあるものに当る。「大」は太陽(大日如来)を象徴し、「良海上人」は室町初期の唐招提寺五十四世良海上人(一四一一ー九六)をあらわすか。「鑁上人」は覚鑁上人(伝教大師、一○九五ー一一四三)にあやかった人名と思われ、大和の長谷寺にある弥勒菩薩(木彫座像、約二尺五寸)の墨書銘「武州住人鑁上人作 天正十六年四月」と同人と見られる(奈良 太田古朴師教示)。「中古紀州熊野山の行人」が誰かが興味深い問題であるが、金銀山が開発される前後、桃山期頃のものであろう。【関連】春日崎線彫地蔵磨崖仏(かすがざきせんぼりじぞうまがいぶつ)【執筆者】計良勝範
・戸宮神社(小川)(とみやじんじゃ)
高野にあり、旧称戸宮大権現。祭神は大彦命。文武天皇二年創立(『平成佐渡神社誌』)とあるが定かではない。承応三年(一六五四)高瀬の蓮華院から神子をゆずりうけ、別当になった。この蓮華院は、戸地の千日という神子で鉱山と関係があり、北狄・達者の宮も配下にしていたという。戸宮神社を祀っているのは上小川の人々で、元禄八年の棟札には、小川村菊地市十郎が建立したとある。この家は大正の頃まで、この宮の世話をし、注連飾りをしていたという。上小川は近世の初め、菊地一族が中心となり、小川鉱山開発で渡って来た人々が開いた村だといわれていて、正月になっても松飾りをしないという、下小川とは異った慣習がある。「修験寺帰農」(廃仏毀釈)の余波で、明治二年廃社となったが、同四年復旧許可され、六年八月村社となる。例祭日は十月二十四日。宵宮には、厄年(二五・四二・六一歳)の男衆がお宮に集り、厄払いをする。【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】三浦啓作
・鳥越間歩(とりごえまぶ)
地積は下相川村。岡惣囲九○○坪。小屋頭喜伝次。立ち始まりの年月不詳。山師山根弥三右衛門が、天和元年から元禄元年(一六八一~八八)まで稼ぐ。立合まで八○間余切り継ぐ、元禄四年五月に本立合に切継ぎ大盛りを得る。この山の番所より青盤間歩番所まで、一二五間二尺余り。宝暦三年(一七五三)の山師は、松木久右衛門・秋田権右衛門・下田利右衛門・寺崎太郎右衛門。帳付、大工町善兵衛、新間歩、弥吉。油番三丁目、所左衛門。山留頭、嘉左衛門町・弥二兵衛、炭屋町、治左衛門(以上、『相川志』)。惣敷地九○五坪余、御番所建坪五二坪五歩、鍛冶小屋建坪三八坪二歩五厘、建場小屋三軒。この間歩天和元年の開発、以後三度中絶。元禄四年再興、以後天保年間(一八三○~四三)まで中絶なし。釜ノ口より三ツ合まで、一四七間。当時御稼ぎ三敷。山師松木当一・秋田権右衛門・下田理左衛門・寺崎貞太郎。帳付二人・油番一人・穿子遣頭一人・山留頭三人・穿子遣二人・山留三人・荷ノ番一人・小遣二人・かなこ三人(以上、「佐渡金銀山稼方取扱一件」)。相川金銀山で唯一、銀・銅脈に富む。【執筆者】小菅徹也
・鳥の化石(とりのかせき)
昭和四十四年(一九六九)、相川町旧中山峠付近に分布する鶴子層から、市川満によって発見された。淡褐色シルト岩からなる鶴子層は中新世中期の深海成層で、海生の軟体動物類・鳥類・哺乳類の化石を産出する。鳥類の化石はきわめて重要な発見であった。この化石は全身骨格ではないにしても、頭骨の一部・脊椎骨・肋骨・後肢骨などの一個体分が、骨の配列状態を残した形で産出した。骨格の研究から、シギ・チドリのような海岸性渉禽類と考えられたこともあるが、骨の特徴から判断して、ハト目ハト科の一種に同定されている。第三紀のハト科の化石は、世界的にみても数個体しかなく、佐渡島から産出した骨格化石は貴重な標本である。【参考文献】菊池勘左衛門『佐渡博物館報』(二○集)、小野慶一・上野輝弥『国立科学博物館専報』(一八号)【執筆者】小林巖雄
・殿付百姓(どんつきひゃくしょう)
北狄の重立百姓にたいする呼称。「殿付百姓一五軒」といった。近世村成立の過程で、元禄検地によって本百姓が確定したが、同時に草分け百姓、重立百姓の軒数が決められた村が多い。一七世紀までは、村落内の組(ジョウ・ジュウ)社会がまだ機能しており、検地を機に組の有力者を殿付百姓とした。関では三分一(三ケ一)百姓などといい、一般にこれらの有力者をオヤッサン(親父さん)といっている。「どん」がついた理由は、北狄の「とまり」の段丘上に「松ケ崎どん」、金泉中学校のあたりを「鎌倉どん」という地頭がいたという伝承があり、いずれも「屋敷」という場所であるから、中世名主の居住地であろう。慶長五年(一六○○)検地に、「殿付百姓一五軒」に該当する百姓がみられ、村の「一五人山」の所有は、一五軒百姓のものだったと思われる。【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)【執筆者】佐藤利夫
・どんでん山(どんでんざん)
県道両津入川線の分水嶺ふきんの山越え道や、池周辺の芝生の小盆地状高原を、「どんでん山」と呼んではいるが、屹立した山頂の名称ではない。峠名は「あおねば越え」であるし、国土地理院の地形図では、大佐渡ロッヂの北側に九三四・二メートルの三角点と、さらにすこし北側に標石のない、九四○メートルの数字が記入されており、池の東北には八七二・六の三角点がみえても、これが山名の「どんでん」であるという印象はない。島内で、「峠」と公称するのは、相川付近の中山峠・青野峠・小仏峠などで、このような地形の呼称は、一般には「○○越え」と直截的な表現をし、所によってはトネと呼ぶこともある。アオネバ越えは、青色粘土を意味する地味の特徴をさした地名で、青粘土はアオイクジともいわれる。ドンデンは、佐渡訛りのラ行とダ行の混用で、ロンデン(論田)つまり系争のあった土地の意と説明されてきたが、伝説では赤鬼がこの山で鉄を鍛えたときに、そのような音がしたと語られたりする。あおねば越えの高いところに、海辺のハマナスの植生がみられるが、登山家の藤島玄は『峠』(串田孫一編・有紀書房・昭三六)の中で、これは海府方面から山越えする人々が携えてきた、ハマナスの実を食べて捨てた種子が、根をおろしたものと書いている。ドンデン池のサンショウオや、湿地にみられるモウセンゴケなど、自然の楽しみが多いが、芝生が放牧の激減で少なくなっているという研究報告もある。どんでん山が、一般者の登山の対象となったのは、昭和八年(一九三三)に写真家の近藤福雄らによって佐渡山岳会ができ、この山の楽しさが口伝えでひろがってからで、のちに湖畔の近くに山小屋も建てられた。【執筆者】本間雅彦
★な行★
・内陣欄間と御拝(向拝)(ないじんらんまとぎょはい)
越中国(富山県)から渡来した堀江浄誓が、慶長十九年(一六一三)に開基した相川町南沢町長明寺(浄土真宗)は、いくどかの相川大火からまぬがれ、江戸時代初期の社寺建築の姿を残し、本願寺の教如から出された聖徳太子真影、浄誓が越中国から持ってきた阿弥陀如来像などが伝えられ、中でも寺の正面階段の上に張りだしたひさしの部分を御拝(向拝)と呼ぶが、その御拝の上部をささえて、前方に鶴、後方は竹で、深みのある見事な透し彫の蟇股があり、また本堂に入ると、本尊を安置してある内陣の上部の欄間には、飛天と獅子の浮彫がみえる。このふたつは、豪壮絢爛であった桃山美術の一端を見せてくれるものである。御拝の蟇股は、赤・緑・白などの極彩色で、内陣の欄間は金色に装飾されていて美しく、これらは昭和四十九年八月、町の有形文化財に指定された。【関連】 長明寺(ちょうみょうじ)
【参考文献】 『相川町の文化財』(相川町教育委員会)【執筆者】 三浦啓作
・中尾間歩(なかおまぶ)
地積は下相川村。岡惣囲五○四坪。小屋頭弥兵衛。元和三年(一六一七)伏見又左衛門・京庄五郎・不破茂右衛門が採掘。寛永八年(一六三一)山師江戸宗遊・糸川甚内が新切山、同十一年前立合に切り当て大盛り。寛文年中(一六六一~七二)の山師片山勘兵衛。同十年山の稼ぎを雲鼓・外山茂右衛門間歩へ立替え。宝永六年(一七○九)六月再開発、正徳元年(一七一一)二月鉱脈に切りつける。この山の番所より三ツ合まで七三間三尺、割間歩釜口へ七六間二尺五寸。宝暦三年(一七五三)の山師秋田権右衛門・小川吉郎右衛門・喜多喜左衛門。帳付□□町文次郎。油番新五郎町・円蔵。山留頭庄右衛門町・滝右衛門(以上、『相川志』)。惣敷地五○四坪余、御番所建坪五一坪、鍛冶小屋建坪一四坪五歩五厘、建場小屋二軒。寛永三年(一六二六)の開発以後二度中絶。宝永六年(一七○九)再興、享和二年(一八○二)に御休間歩。しかし、探鉱坑道を続け文化十年(一八一三)六月再開発普請、十一月初十日より追々稼ぎ入り、翌年七月普請完了。同十三年三月初十日より直山稼ぎで新規御雇あり。釜ノ口より三ツ合まで三一七間。当時御稼ぎ四敷。山師小川金左衛門・喜多平八・秋田権左衛門、文政七年より味方孫太夫も。帳付一人・油番一人・穿子遣頭一人・山留頭一人・穿子遣四人・山留四人・荷ノ番一人・小遣二人・かなこ四人。(以上、「金銀山稼方取扱一件」)。【執筆者】 小菅徹也
・中京町(なかきょうまち)
京町は、台地の上のほうから上京町・中京町・下京町と東西に長くつづいている。以前には江戸沢町の大安寺のところから、会津町や八百屋町をへて、京町通りを上って、新五郎町・大工町から上相川に至る主要道路沿いの町であった。江戸中期の町絵図をみると、家大工・左官・桶屋・絵師などの職人はじめ、薬屋・商人たちが軒を並べている。江戸初期には、京都の西陣織りの店があって、京町の名がつけられたという。京風の格子戸やべにがら塗りの腰板はいまも残っている。幕末の儒学者、田中葵園の生家もここにあったので、町道の交差点のところに柱状の碑が建っている。現況では、商店街の性格は失われて住宅地と変わっており、戸数において比較的旧態が保たれ、ほかに上水道配水池がある。【関連】 田中葵園(たなかきえん)【執筆者】 本間雅彦
・長坂の阿弥陀(ながさかのあみだ)
中山の阿弥陀ともいう。阿弥陀如来の座像の石仏であるが、いま長坂の阿弥陀堂内に安置されている。もとは中山峠にまつられていたもので、『佐渡相川志』に「峠 此所下戸村ノ内也。南側ニ五兵衛ト言フ民家アリ。峠ノ五兵衛ト言フ。此沢ノ形船ニ似タレバトテ、船カ沢ト名ク。北側ニ宝永七庚寅年(一七一○)山崎町仁兵衛石地蔵ヲ立ツ。享保八癸卯年地蔵破損ス。下寺町定善寺境内ヘ引ク。今石像ノ阿弥陀アリ。壱丁目広源寺一誉弟子大工町浄音元文三戊年三月三日立ツ。爰ハ毎年相川ヨリ旅行ノ者此峠ニテ送ル。洛東蹴上ノ如シ。」。『佐渡国略記』には、元文三年二月に「同廿二日より廿八日迄、壱町目広源寺ニて石仏弥陀供養相勤、三月三日中山峠へ移安置、下寺町定善寺弟子浄音施主」とある。定印を結ぶ像高一四○㌢の丸彫座像で、台石正面に「南無阿弥陀仏」(横書)、後面に「安誉浄穏 勧化導師西光寺見誉 元文三戊午歳」とあり、左右面にも文字がある。また蓮花座の蓮弁にも、人名と思われる小さな刻字が多くある。堂内には、この正面の阿弥陀石仏と共に、右側に中山にあった地蔵立像の石仏、左側には小岩さんの神棚がまつられているが、昭和に入って北狄の人に、中山の地蔵が里へ出たいという夢のお告があり、その時にその近くにあったこの阿弥陀も峠から下ろされ、現在位置に一緒に安置されたという(小岩さんは堂守が亡くなって下ろされた)。スズメ追いの信仰や、事変がある時には、全身汗をかくなどのお告があるとされ、峠にあった時は石祠内にまつられていて、峠の人を送り、往来の人達を見守った。縁日は毎月十六日である。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』【執筆者】 計良勝範
・長坂番匠(ながさかばんじょう)
『佐渡相川志』によると、慶長八年(一六○三)に相川陣屋を造営したときの棟梁は、播州明石の水田与左衛門と、備州富山の飛田助左衛門で、その外に石州からきた三人の弟子の名が書かれている。この年は、初代佐渡奉行大久保長安が着任した年で、船手役の辻と加藤が、多勢の水主や船番匠を連れてきた年でもあった。水田・飛田の棟梁たちは、当時籠坂(牢坂)と呼ばれていた相川奉行所のすぐ下の、牢屋のあった坂のあたりに住んでいたので、ロウ坂番匠といわれていたが、正徳三年(一七一三)以後に、長坂番匠の呼称が用いられるようになった。こうして長坂の官辺すじの番匠集団は、上方から都市建築の技術をもちこんだが、陣屋が完成してのちは、村々の寺社建築にたずさわるようになった。つまりこれが佐渡の宮大工(番匠)の始まりである。その後、元和・寛永にも、鉱山師の味方但馬家の造営のために、大阪・加賀などから宮番匠が招きよせられ、長坂に住んだらしい。江戸中期以降になると、島内の者が長坂番匠の弟子となり、また江戸に出て番匠修業をする者もできて、羽茂・潟上・沢根五十里などで棟梁となって、弟子を育てるようになった。明治期になると、島内の宮大工の主力は、沢根五十里に移っていた。【関連】 長坂町(ながさかまち)・水田与左衛門(みずたよざえもん)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集七)、本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】 本間雅彦
・長坂町(ながさかまち)
長坂については、「長坂番匠」の項で別記してあるので、その個所を参照してほしい。ここでは重複しない部分だけを記す。鉱山用語で「大工」というのは、建物をつくる家大工のことではなくて、鉱石を穿る金穿りのことをさしていう。家大工は「番匠」と呼ぶ。長坂は、後者の家大工である番匠の町であった。『佐渡年代記』によると、以前に沢根の五十里ろう町(現かご町)にあった牢屋を、慶長十一年(一六○六)に相川に移したとある。同書の慶長八年(一六○三)の記事をみると、相川陣屋の造営はこの年に、大久保長安の指図によって行なわれており、『佐渡相川志』によると、其の棟梁は播州明石の水田与左衛門・備州富山の飛田助左衛門・石州の重左衛門・四郎左衛門・七左衛門が、各弟子を多く伴って来島したとある。彼ら番匠集団が住んだのが、長坂町であった。文政九年(一八二六)の町墨引の絵図をみると、約三○戸ほどのうち、番匠の数は一三人(うち棟梁一・普請所番匠一・鞴番匠二)のほか左官一・畳刺し一と、建築関係者の集団居住地の性格は、その頃までつづいていたことがわかる。【関連】 長坂番匠(ながさかばんじょう)【執筆者】 本間雅彦
・長崎俵物(ながさきたわらもの)
江戸時代長崎において、中国貿易で日本から銅代物替輸出品となった海産物。俵物は干蚫・煎海鼠・鱶鰭などの海産物を俵に詰めて輸送したため起った呼称。元禄十二年(一六九九)幕府は中国貿易を金銀で決済したが流出が増加したため、金銀に代えて銅を輸出することにし、その銅代物替として俵物によって決済した。幕府領の佐渡は佐渡奉行の経験のある長崎奉行萩原伯耆守の「唐人渡し干鮑佐州にても出来可致哉」の問い合せに応じ、元文五年(一七四○)海士町磯西茂左衛門・刀根仁兵衛に命じて俵物の請負い製造をさせた。同年、両人の在方役への口上書によると、1見本品の干蚫の通りに出来る、2干蚫は二千斤分請負う、3代銀は金一両文銀六○匁にて一斤相川渡文銀三匁五分で仰せ付けてほしい、4代銀の半分は前渡しにしてほしい、となっている。初年は長崎より罷り越し、翌年より下関または大坂俵物会所へ積送り、延享年間(一七四四~四七)幕府は長崎町人に俵物一手請方を命じて以来、俵物独占集荷体制を成立させた。この頃より串貝生産(串に刺し干立てた蚫)は中止し、干蚫の生産となり、一か年の干蚫・煎海鼠を仕立て、その余は出来次第に納めることとなった。宝暦三年(一七五三)より自他国とも外売禁止となり、同十三年金銀の輸入に際して、幕府は俵物を銅とともに決済にあてたため、俵物の重要性は決定的となり、明和二年(一七六五)よりは一万斤の請負高になった。天明五年(一七八五)幕府は長崎俵物一手請方問屋による集荷をやめ、長崎会所の下に俵物役所を設置し、俵物の直仕入となった。佐渡の俵物も斤数が増大し長崎へ直送した。以後は幕府の俵物独占集荷体制は俵物役所による貢租品の一種として買い上げるようになった。明和四年~八年(一七六七~七一)五か年平均の俵物は煎海鼠五四七二斤・代銀一六貫九六三匁、大干蚫七九四四斤・代銀二二貫六四○匁、小蚫五二八斤・代銀八九七匁、合計一万三九四四匁・代銀四○貫五○○匁であった。寛政六年(一七九四)に至り請負高は一万四千六百斤に及んだ。佐渡からの長崎廻り俵物は幕末まで継続し、請負高に割増配当、該当村に五十石の一割安地払米の特恵を与えた。
【関連】海士町(あままち)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集五・七)、岩木拡『佐渡国誌』、『歴史大辞典』(古川弘文館)【執筆者】佐藤利夫
・菜糧(なかて)
『佐渡嶋菜薬譜』は、佐渡における江戸期の菜糧・海藻・果類・薬種・稲・雑穀・菌類・竹類・木部類などを記した文書。佐渡奉行荻原源左衛門の佐渡在勤(一七三二ー三六)中につくられ、江戸城に差し出されたものを、天明四年(一七八四)に写し取った文書で「舟崎文庫」に所蔵される。菜糧の「菜・な」は汁の実、副食に利用したもの。「糧・かて」は主食に混ぜて主食を補ったもので、種類は豊富で一○○種をこす。方言で記されたものは、現在つかわれている和名で記す。アサツキ・ニンニク・ノビル・タデ・トウガラシ・ワラビ・ゼンマイ・ホド・サトイモ・ツクネイモ・ヤマノイモ・チサ・フキ・ヒユ・スベリヒユ・シャク・セリ・ハマボウフウ・ミツバゼリ・アザミ・ホオキギ・ミョウガ・ツクシ・ウド・ツリガネニンジン・トリアシショウマ・ハコベ・タンポポ・ハルノノゲシ・イタドリ・コウゾリナ・ニラ・アブラナ・ユリ・アカザ・カンゾウ・マタタビ・クコ・ヨモギ・クサギ・タケノコ・レンコン・リョウブ・トコロ・オオバコ・シソ・サルトリイバラ・タラの芽・フキノトウ・ホオコグサ・オモダカ・アキノノゲシ・スギナ・フジ葉・ミゾソバ・クズ・ダイモンジソウ・ハナイカダ・エノキの実・ナナカマド・カワラヨモギ・ギボウシ・ハマゼリ・カラスノエンドウ・エンレイソウ・ミズナ・カタクリ・イヌドウナ。
【参考文献】伊藤邦男『佐渡山菜風土記』、同『佐渡薬草風土記』、同『佐渡の花ー春・夏・秋』【執筆者】伊藤邦男
・長手岬の植物(ながてみさきのしょくぶつ)
相川町橘の岩礁海岸の小さな岬。手の指のように岩礁が点在する景勝地。『佐渡名所百選』(一九七八)には「佐渡の海岸美はさまざまで、豪壮雄大なのは大野亀・二つ亀。舟を浮かべて見るべきは尖閣湾。平坦な岩伝いに海中を徒歩して、直接海藻や小貝を採取できるのは長手岬であって、ひねもす海水にたわむれて、あくことを知らぬ景勝地である」と紹介される。岩礁伝いに歩けるが、“月面世界”とよばれるグリーン・タフ(緑色凝灰岩)の海蝕台地の広がりは異界である。岩かげにハチジョウナ(稀産)の黄花。岩礁の外海側には、イワユリの大群落。岩場にメノマンネングサ・アサツキ・ハマボッス・ハマハタザオ・ハマイブキボウフウが生育する。海辺にはハマナスが帯状分布し、帰化植物のセイヨウミヤコグサ・マンテマが浜辺を彩る。
【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春・夏・秋』【執筆者】伊藤邦男
・中寺町(なかてらまち)
江戸中期の中寺町には、真言宗寺院として相運寺が、浄土宗としては大超寺・法蓮寺、そして日蓮宗の瑞仙寺と妙伝寺の五か寺があった。宝暦の書『佐渡相川志』では、その頃すでに廃寺となっていた寺として、真言宗の慈眼寺・見性寺・地蔵寺と、日蓮宗の妙栄寺の名をあげている。瑞仙寺は佐渡銀山の有力な山師、味方但馬の菩提寺で、同寺は但馬が用いていた徳川家康から拝領の胴衣・扇子などを所蔵している。この寺の門を出た南東側の近くの墓地には、明治二十三年(一八九○)の相川暴動で中心的な人物であった鉱夫、小川久蔵の墓がある。現況では、瑞仙寺と相運寺の二か寺がある。近年下寺町との間を結ぶ町史跡の歩道が整備された。
【関連】味方但馬(みかたたじま)・小川久蔵(おがわきゅうぞう)【執筆者】本間雅彦
・ナガモ(ながも)
ナガモは、まさに長い藻である。和名アカモク。アカモクのモクはホンダワラの総称で、赤いホンダワラということになる。藻の枝々に小さな気泡(浮き袋)が多くつく。ナガモの長さは、ふつう三ー四メートルで最大長八メートル余ともなる。一年生のナガモがこのような長藻(ナガモ)となる。北海道から台湾に至る各地の沿岸の干潮線下に繁茂する。海中を占拠し、海面を占有する一大海藻林である。「小木のカイタク沖や二見港の沢根寄りあたりは、春さきになるとナガモがのたうちまわるように生えて、船の行き来もできんほどだった」は、佐渡まわりの小さな機帆船に乗っていた高千の岩城仁蔵老の話である。戦後、秋田や東北のナガモ船が飛島・粟島・越後・佐渡にナガモを採りにきた。豚の餌にするといって俵につめて持ち去ったが、豚の餌ではない。春の山菜の出まわるまでのつなぎの食べものであった。ナガモは冬の海藻。二月から採れる。こまかく切ったナガモに熱い汁をそそぐ。あざやかな緑色になる。そしてトロ味がでる。ナガモはトロロモの名でも呼ぶ。トロ味を出す粘液は、円柱状の実(卵子や精子の入っている生殖巣)から出たものである。
【参考文献】佐渡奉行所編『佐渡志』、福島徹夫「海藻と暮らし」、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】伊藤邦男
・中山新道(なかやましんどう)
明治十八年(一八八五)に完成した、沢根と相川を結ぶ堀割新道。近世から明治初年にかけて、相川から国仲に通じる主要陸路は中山道であった。明治九年の太政官布達によって道路の等級が定められ、佐渡では赤泊ー相川、夷ー河原田、小木ー新町の三路線が県道に認定されたが、道路の状態は江戸時代のままであった。ところが、時代と共に交通機関が発達し、人力車や馬車などが導入されると、道路の改修が急務となった。特に沢根から相川に至る中山峠は勾配が急で、新しい交通機関が利用できる状態ではなかった。そこで明治十四年、相川町と沢根町の有志が相談して、中山道とは別に下戸宇津橋から沢根の河内へ通じる堀割新道を開削する計画をたてた。この計画は、明治十五年三月の臨時県会でも議決され、工費一万八七○○円余の内、五○○○円を地方税より補助されることになったが、残りは地元負担となり、相川町・沢根町・五十里町で負担することになった。工事は明治十七年に始まり、翌十八年に竣工した。【関連】中山道(なかやまみち)・中山トンネル(なかやまとんねる)【参考文献】岩木拡『相川町誌』、同『佐渡国誌』【執筆者】石瀬佳弘
・中山層(なかやまそう)
渡辺久吉(一九三二)の命名。模式地は佐和田町中山で、下位の鶴子層に整合で重なる。中期中新世~前期鮮新世にかけての地層で、全層厚は三○○メートルである。相川町では中山峠の東側にわずかに分布する。黒色の珪藻質泥岩からなり、陸域から流れてくる砂や礫などの、粗粒堆積物をほとんど含まない。珪藻質泥岩は、海面付近で繁殖した珪藻などのプランクトンが、海底に堆積したものである。この珪藻質泥岩は、ほとんど続成作用を受けておらず、ほぼ堆積当時のまま残っており、全国的にもめずらしいものである。珪藻化石のほか、有孔虫化石や貝化石がしめすこの時代の環境は、半深海相~深海相であり、佐渡島に分布する地層の中で、最も深い環境に堆積した。【参考文献】秋葉文雄「佐渡島中山峠セクションの新第三系珪藻化石層序」および「船川遷移面」山野井との関係(『佐渡博物館研究報告』九集)【執筆者】神蔵勝明
・中山峠(なかやまとうげ)
旧中山道のほぼ中間で、標高約一五○メートルの台地にある。佐和田町沢根と相川との境界線に当たるが、地籍は相川で、正確には「相川町下戸字峠」がその所在地である。東方にキリシタン塚があり、その下方の平地一帯も峠にふくまれる。中山峠の呼称は古くからあり、『佐渡相川志』の「峠」の項には「毎年相川ヨリ旅行ノ者、此峠ニテ送ル。洛東蹴上ノ如シ」とあり、南側に「五兵衛」という民家があったとしている。おそらく茶屋であろう。文化十二年(一八一五)の記録では、八百屋町の庄七という者が、往来の旅人のために役所に願い出て家作りし、煮売りを始めたと伝えている。文政十年(一八二七)のころ作られる相川音頭では、茶屋の店先で酒・肴・お菓子が売られていて、水替人足として送られてくる諸国の無宿者たちに、峠で甘酒がふるまわれたといい伝えた。茶屋とは別に、佐渡奉行が峠で休む「小休所」という建物もあったらしく、天保十一年(一八四○)にここを通過した川路三左衛門聖謨は、「相川の町を見はらして、八壘の間とそのほか三間程ある。供の者はここで紋付・羽織・小袴に着換え、自分も長旅によごれた衣を着換えた」(『島根のすさみ』)と書いている。明治十八年(一八八五)には、平行して西側に人力車が走る掘割りの中山新道が完成して、茶屋もしだいにその姿を消した。【関連】キリシタン塚(きりしたんづか)・中山道(なかやまみち)【執筆者】本間寅雄
・中山トンネル(なかやまとんねる)
大正十三年(一九二四)に中山峠を掘削して完成したトンネル。大正二年、佐渡にも自動車が導入され、次第に普及していった。しかし、明治十八年に中山峠を掘削して出来た中山新道は、勾配が急で自動車は通れなかった。相川町では、毎年道路の改修を郡会や県会に要望していたが、実現には至らなかった。大正六年に川島藤三郎が町長に就任すると、有志と共に中山新道改修期成同盟会を組織してその実現に奔走したが、翌七年病におかされて殉職した。しかしその遺志は引継がれ、はじめ中山新道をさらに掘り下げて、勾配を緩やかにする計画であったが、大正九年にはトンネルを掘ることに計画を改め、翌十年九月十二日に起工式を行い、同十三年七月十三日に竣工式を挙行した。総工費は約二四万円、トンネルの長さ約三六三メートル、幅約六メートル、両側に下水溝を掘り、内側を煉瓦やコンクリートで巻き、沢根口側には一七個の電燈を取付け、当時としては新しい技術を駆使したものであった。現在のトンネルは、昭和六十二年(一九八七)の竣工である。【関連】中山新道(なかやましんどう)・川島藤三郎(かわしまとうざぶろう)・中山道(なかやまみち)【参考文献】「佐渡日報」、岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘
・中山道(なかやまみち)
江戸期から明治にかけての「中山街道」は、沢根西端の質場を通る現在のバス道路のことではない。国仲から相川への道は、相川町の初期の開発が、鶴子銀山の延長のような仕方でなされたことに関連し、また鶴子に陣屋が置かれたこと、そして旧上相川の位置などによって、沢根町から田中・鶴子・中山などの集落を、北に向ういくつかの道を考えにおかなければならない。中山道はそのひとつで、明治期の県道開通までに、最もよく利用された相川道というべきであろう。大正十三年(一九二四)に中山トンネルが完成してからは、近在の村人だけが利用する旧道になったが、江戸期以来の相川文化の遺物・遺跡が豊富なので、いまも旧道あるきを味わう人は珍らしくない。国仲からの中山道の現在の登り口は、沢根町西よりの専得寺の手前、梅月理髪店と消防器具置場の間の道を川沿いに一キロほど上り、左折して中山集落を通って、旧中山トンネルの真上をへて下戸に至る(中山旧道は、昭和四十九年八月、町の史跡に指定された)。中山トンネルは、平成期に自動車数の増加と大型化に応えて、西側に平行して新しくつくり変えられた。トンネルの辺りの中山峠には、江戸初期に多ぜいの切支丹を処刑したという、いわゆるキリシタン塚があって、現在カトリック教会の墓地になっている。【関連】切支丹塚(きりしたんづか)・中山新道(なかやましんどう)・中山トンネル(なかやまトンネル)・中山峠(なかやまとうげ)【執筆者】本間雅彦
・流れ潅頂(ながれかんじょう)
海府方面では難産で死ぬと、川端に約三○センチ四方に杭を打ちこみ、赤い布を巻きつける。そしてその側に竹のひしゃくと椿の小枝を添え置くと、道行く人びとが椿の葉をちぎってたむけ、そりしゃくで赤い布に水をかけていく。五○日ほどしてその布の色があせれば、死者も成仏するのだという(相川町小田)。同町二見元村では、色あせたその布を墓に納めた。そのことをアライザラシという。そのことについてこんな古謡がある。「アライザラシに水かけおいて、ナナツ小袖の袖をしぼる」。また産死者のほかに水死人や変死者の場合も“流れ潅頂”が行われた。海府では水死人があると、出棺後、川端に特殊な板塔婆をたて、その根もとから華鬘結びにした縄を川へ流し、僧侶が読経の間、イロキが川の中に入り、念仏を唱えながら縄の結び目をときほぐし、しごいて流した。縄がまっすぐに流れると死者が成仏し、浮かばれるといった。相川町二見元村では、波打ちぎわに屋台をつくり、坊さんがお経を読みながら、特殊な塔婆を沖へ流した。また同町大浦では、釜崎沖で水死人があったとき、筏に花やダンゴなどを積み、その現場を通り、供え物をしながら死人の悪口をさかんにいった。同情的なことをいうと、他の者がまた海にひっぱりこまれるからだという。そして、流れ潅頂の葬儀には、わら人形を入棺させたという。【参考文献】浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、山本修之助『佐渡民俗ことば事典』【執筆者】浜口一夫
・中山の六地蔵(なかやまのろくじぞう)
海士町の六地蔵ともいう(中山峠の六地蔵ではない)。相川町の海士町から、旧道中山峠への赤坂を登ると観音堂があり、その道すじに並んで石造の六地蔵がまつられている。比較的大きな石組の祠で、高さ二メートル余り、巾三・三○メートルもある。中央部に、それぞれ舟形光背に半肉彫で、説法相(施無畏・与願印)の阿弥陀如来坐像と延命地蔵坐像を置き、その左右に三躰ずつ、六地蔵を安置する。六地蔵は舟形光背に半肉彫の立像で、像高七五センチ・光背高九二センチ(幢持ち像の寸法)。頭光は円形に彫り凹め、本来彩色仏で色彩がのこる。蓮華坐と台石があり、そのうち三躰の台石には「志佛施主 二宮村九兵衛、長木村五兵衛」ら、一○名位ずつの人名を刻む。石質は石英安山岩。石祠は中ほどを二本の角柱(高さ一四八センチ・巾三六センチ)でささえ、その内側にも径二○センチの円柱二本を立てる。角柱正面には、この六地蔵のいわれを左右の柱一ぱいに刻む。「(カ)六地蔵 建立之意趣者為 (延命地蔵経の偈) 未年死罪流罪□□聖霊 惣者有縁無縁法界萬霊 佛果菩提 宝暦十一辛巳歳 八月吉祥日 沢根村曼荼羅───願主甚可 同即心」(向って右柱) 「(大日如来真言種子)(光明真言種子) 奉建立供養六地蔵尊──」(向って左柱)などとある。宝暦十一年(一七六一)の建立で、それより以前の未年は、寛延辛未四年(宝暦元年)に当り、寛延百姓一揆で処刑された義民、辰巳村太郎右衛門・椎泊村弥次右衛門ら、および地役人たちの供養のために立てられた六地蔵であることがわかる。横手には、享和元年(一八○一)銘の念仏車もある。『佐渡道中音頭』には、「関所番所の橋うちこして 濡れて乾かぬ海士町通り さてもこれからげに獄門の 道のしるべに立ち六地蔵」とうたいこまれている。【関連】地蔵菩薩(じぞうぼさつ)【執筆者】計良勝範
・内陣欄間と御拝(向拝)(ないじんらんまとぎょはい)
越中国(富山県)から渡来した堀江浄誓が、慶長十九年(一六一三)に開基した相川町南沢町長明寺(浄土真宗)は、いくどかの相川大火からまぬがれ、江戸時代初期の社寺建築の姿を残し、本願寺の教如から出された聖徳太子真影、浄誓が越中国から持ってきた阿弥陀如来像などが伝えられ、中でも寺の正面階段の上に張りだしたひさしの部分を御拝(向拝)と呼ぶが、その御拝の上部をささえて、前方に鶴、後方は竹で、深みのある見事な透し彫の蟇股があり、また本堂に入ると、本尊を安置してある内陣の上部の欄間には、飛天と獅子の浮彫がみえる。このふたつは、豪壮絢爛であった桃山美術の一端を見せてくれるものである。御拝の蟇股は、赤・緑・白などの極彩色で、内陣の欄間は金色に装飾されていて美しく、これらは昭和四十九年八月、町の有形文化財に指定された。【関連】長明寺(ちょうみょうじ)【参考文献】『相川町の文化財』(相川町教育委員会)【執筆者】三浦啓作
・中尾間歩(なかおまぶ)
地積は下相川村。岡惣囲五○四坪。小屋頭弥兵衛。元和三年(一六一七)伏見又左衛門・京庄五郎・不破茂右衛門が採掘。寛永八年(一六三一)山師江戸宗遊・糸川甚内が新切山、同十一年前立合に切り当て大盛り。寛文年中(一六六一~七二)の山師片山勘兵衛。同十年山の稼ぎを雲鼓・外山茂右衛門間歩へ立替え。宝永六年(一七○九)六月再開発、正徳元年(一七一一)二月鉱脈に切りつける。この山の番所より三ツ合まで七三間三尺、割間歩釜口へ七六間二尺五寸。宝暦三年(一七五三)の山師秋田権右衛門・小川吉郎右衛門・喜多喜左衛門。帳付 町文次郎。油番新五郎町・円蔵。山留頭庄右衛門町・滝右衛門(以上、『相川志』)。惣敷地五○四坪余、御番所建坪五一坪、鍛冶小屋建坪一四坪五歩五厘、建場小屋二軒。寛永三年(一六二六)の開発以後二度中絶。宝永六年(一七○九)再興、享和二年(一八○二)に御休間歩。しかし、探鉱坑道を続け文化十年(一八一三)六月再開発普請、十一月初十日より追々稼ぎ入り、翌年七月普請完了。同十三年三月初十日より直山稼ぎで新規御雇あり。釜ノ口より三ツ合まで三一七間。当時御稼ぎ四敷。山師小川金左衛門・喜多平八・秋田権左衛門、文政七年より味方孫太夫も。帳付一人・油番一人・穿子遣頭一人・山留頭一人・穿子遣四人・山留四人・荷ノ番一人・小遣二人・かなこ四人。(以上、「金銀山稼方取扱一件」)。【執筆者】小菅徹也
・中京町(なかきょうまち)
京町は、台地の上のほうから上京町・中京町・下京町と東西に長くつづいている。以前には江戸沢町の大安寺のところから、会津町や八百屋町をへて、京町通りを上って、新五郎町・大工町から上相川に至る主要道路沿いの町であった。江戸中期の町絵図をみると、家大工・左官・桶屋・絵師などの職人はじめ、薬屋・商人たちが軒を並べている。江戸初期には、京都の西陣織りの店があって、京町の名がつけられたという。京風の格子戸やべにがら塗りの腰板はいまも残っている。幕末の儒学者、田中葵園の生家もここにあったので、町道の交差点のところに柱状の碑が建っている。現況では、商店街の性格は失われて住宅地と変わっており、戸数において比較的旧態が保たれ、ほかに上水道配水池がある。【関連】田中葵園(たなかきえん)【執筆者】本間雅彦
・長坂の阿弥陀(ながさかのあみだ)
中山の阿弥陀ともいう。阿弥陀如来の座像の石仏であるが、いま長坂の阿弥陀堂内に安置されている。もとは中山峠にまつられていたもので、『佐渡相川志』に「峠 此所下戸村ノ内也。南側ニ五兵衛ト言フ民家アリ。峠ノ五兵衛ト言フ。此沢ノ形船ニ似タレバトテ、船カ沢ト名ク。北側ニ宝永七庚寅年(一七一○)山崎町仁兵衛石地蔵ヲ立ツ。享保八癸卯年地蔵破損ス。下寺町定善寺境内ヘ引ク。今石像ノ阿弥陀アリ。壱丁目広源寺一誉弟子大工町浄音元文三戊年三月三日立ツ。爰ハ毎年相川ヨリ旅行ノ者此峠ニテ送ル。洛東蹴上ノ如シ。」。『佐渡国略記』には、元文三年二月に「同廿二日より廿八日迄、壱町目広源寺ニて石仏弥陀供養相勤、三月三日中山峠へ移安置、下寺町定善寺弟子浄音施主」とある。定印を結ぶ像高一四○センチの丸彫座像で、台石正面に「南無阿弥陀仏」(横書)、後面に「安誉浄穏 勧化導師西光寺見誉 元文三戊午歳」とあり、左右面にも文字がある。また蓮花座の蓮弁にも、人名と思われる小さな刻字が多くある。堂内には、この正面の阿弥陀石仏と共に、右側に中山にあった地蔵立像の石仏、左側には小岩さんの神棚がまつられているが、昭和に入って北狄の人に、中山の地蔵が里へ出たいという夢のお告があり、その時にその近くにあったこの阿弥陀も峠から下ろされ、現在位置に一緒に安置されたという(小岩さんは堂守が亡くなって下ろされた)。スズメ追いの信仰や、事変がある時には、全身汗をかくなどのお告があるとされ、峠にあった時は石祠内にまつられていて、峠の人を送り、往来の人達を見守った。縁日は毎月十六日である。【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』【執筆者】計良勝範
・長坂番匠(ながさかばんじょう)
『佐渡相川志』によると、慶長八年(一六○三)に相川陣屋を造営したときの棟梁は、播州明石の水田与左衛門と、備州富山の飛田助左衛門で、その外に石州からきた三人の弟子の名が書かれている。この年は、初代佐渡奉行大久保長安が着任した年で、船手役の辻と加藤が、多勢の水主や船番匠を連れてきた年でもあった。水田・飛田の棟梁たちは、当時籠坂(牢坂)と呼ばれていた相川奉行所のすぐ下の、牢屋のあった坂のあたりに住んでいたので、ロウ坂番匠といわれていたが、正徳三年(一七一三)以後に、長坂番匠の呼称が用いられるようになった。こうして長坂の官辺すじの番匠集団は、上方から都市建築の技術をもちこんだが、陣屋が完成してのちは、村々の寺社建築にたずさわるようになった。つまりこれが佐渡の宮大工(番匠)の始まりである。その後、元和・寛永にも、鉱山師の味方但馬家の造営のために、大阪・加賀などから宮番匠が招きよせられ、長坂に住んだらしい。江戸中期以降になると、島内の者が長坂番匠の弟子となり、また江戸に出て番匠修業をする者もできて、羽茂・潟上・沢根五十里などで棟梁となって、弟子を育てるようになった。明治期になると、島内の宮大工の主力は、沢根五十里に移っていた。【関連】長坂町(ながさかまち)・水田与左衛門(みずたよざえもん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七)、本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】本間雅彦
・長坂町(ながさかまち)
長坂については、「長坂番匠」の項で別記してあるので、その個所を参照してほしい。ここでは重複しない部分だけを記す。鉱山用語で「大工」というのは、建物をつくる家大工のことではなくて、鉱石を穿る金穿りのことをさしていう。家大工は「番匠」と呼ぶ。長坂は、後者の家大工である番匠の町であった。『佐渡年代記』によると、以前に沢根の五十里ろう町(現かご町)にあった牢屋を、慶長十一年(一六○六)に相川に移したとある。同書の慶長八年(一六○三)の記事をみると、相川陣屋の造営はこの年に、大久保長安の指図によって行なわれており、『佐渡相川志』によると、其の棟梁は播州明石の水田与左衛門・備州富山の飛田助左衛門・石州の重左衛門・四郎左衛門・七左衛門が、各弟子を多く伴って来島したとある。彼ら番匠集団が住んだのが、長坂町であった。文政九年(一八二六)の町墨引の絵図をみると、約三○戸ほどのうち、番匠の数は一三人(うち棟梁一・普請所番匠一・鞴番匠二)のほか左官一・畳刺し一と、建築関係者の集団居住地の性格は、その頃までつづいていたことがわかる。【関連】長坂番匠(ながさかばんじょう)【執筆者】本間雅彦
・泣き女(なきおんな)
昔、相川町戸中では、葬式のとき前もって泣き上手な者に頼んでおくと、その泣き女はイロカヅキ(イロキ用の衣類)をかぶり、その片袖から顔を出しソウレン泣きをしたという。この泣き女について、『金泉郷土史』(昭和十二年刊)には、「ソウレン泣きと称し、一種独特の形式をもつ泣き方が、戸地・戸中・姫津などに、明治の末ごろまで残っていたという。そして、それを一升泣き、五合泣きなどといった」と書かれている。おそらくこの習俗は、旧金泉地区以外の海府一帯にあったものと思われる。「節泣きなら上手、海府一升泣きまねできぬ」との古謡がある。海府泣き女の節をつけて泣く、物言い泣きの一例をあげると、1昨日の昨日まで山へいっとったのんに、急に死んでしもうたえー、アバだちゃ、死ぬような病気をしたのんに、死なんで生きとるのんにえー。2なになにを食いたぇちゅうとったのんに、それも食わずに死んでしもうたえー。3したい、したいちゅうたけも、させなんだ、納戸の繻子の帯を。おぇ、むごつけなぇえー。などである。これによく似た「弔い老嫗」の泣き方が、能登七尾付近にあるという。近世における回船による影響かと思われる。【参考文献】浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】浜口一夫
・長桶(なごけ)
蓋が開閉できる細長い樽型の運搬具。小木三崎では負い樽という。国中でははやく使われなくなったが、農道の開通が遅れた段丘地帯では、現在も使われている。新調の長桶は、食べ物や生活品の運搬・収納に使うが、古くなるとたが(正しくは”竹”冠に”輪”脚)を掛け替え畑に運ぶ「げすごえ」の運搬用に使った。このこえは大・小便を混合したもので、勝手場の汚水(せしなげ)で薄めることもある。長桶の高さは六、七○センチ、直径三五センチくらいで、大型は男桶、小型は女桶の区別をするところ(小木三崎)もある。容量は二斗入り。長桶の背負い具は土地により異なるが、海府では「せなこうじ」を使う。小木三崎では「おいこ」といっている。「せなこうじ」は、福島方面に出稼ぎに行った者が持ち込んだというが、これを更に背負い易く改良したのが「おいこ」だという。長桶の耐用年数は一○年くらい。たがを替え、「くれ」を補修する必要があり、集落には かけ職人や樽職人がいた。厚い背中当が使われている海府は耕地への距離は遠く、それだけ労働も激しい土地柄であるが、町場へ出て米(肥し米)と交換に、人糞尿を手に入れるのも仕事の一つであった。牛に長桶を二つ付けて運んで、山の畑の三尺物(直径三尺の桶)に入れておいて、熟成して春になり畑にまいた。【参考文献】佐藤利夫「三崎記聞」(新潟日報連載)、同『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・梨の木地蔵(なしのきじぞう)
真野町の豊田集落(旧渋手村)から、川茂をへて赤泊港に至る旧赤泊街道を、約三キロほど登りつめた峠に、通称「梨の木地蔵」が祀られている。言い伝えによると、渋手村の船が沖に出ると船をとめる場所があり、漁師たちを困らせていた。あるとき、そこに何があるのか確かめようと海の底をみると、一尺ほどの石地蔵が沈んでいるのがみえた。それを拾い揚げて村内の丘の上に、漁場の方向にむけて祠を建てて安置したが、それでも船をとめることができなかった。ところがためしに西向きに建て直してみたら、それ以来船をとめる事がなくなった。そこで地蔵は西の方に行きたがっていると思い、村の西はずれに近い梨の木という所に祀ることになったのがその縁起である。伝説上で、船や馬を停めるという「船どめ」「駒どめ」の話は至る所できかれるが、とめるのは神仏のたぐいで、それを手厚く祀ることによって災難をのがれる筋書きとなっている。梨の木の場合は地蔵信仰であった。佐渡で地蔵信仰が盛んになるのは江戸期からで、そのもとになっている十王信仰からの派生である。村々の十王堂の建立や、木彫の十王像の製作年代が墨書されている場合の殆んどは江戸前期で、石像は同後期に近くなってからのものが多い。梨の木地蔵を世に紹介したのは、赤泊の写真家・信田周敬が大正十五年(一九二六)に出版した『佐渡写真大集』が早く、その説明に石地蔵の数が万単位で書かれている。【執筆者】本間雅彦
・菜大根半竈(なでぇこんはんかまど)
菜大根を相川に売りに出て、その収入は生活費の半分になるという例えことば。相川から南、二見半島の集落は畑百姓が多く、畑作物を相川で現金化することが多かった。なかでも鹿伏は磯ねぎ漁師が多く、その海産物を相川で換金してくらしていた。『佐渡四民風俗』では、西浜は「小魚・海草等を相川へ持ち出で、米ざい(糠の内よりふるいとった米)、足もと(米搗のあとで掃き集めた米)などに替えて夫食に致し候」とある。米不足の鹿伏の段丘に、水田開発がはじまったのは、元和二年(一六一六)越前の金津から永宮寺の岩倉ら門徒が渡来して、溜池を築きながら開いてからである。収入の不足分を、畑作の菜大根売りで生計をたてていた。このほか、肥し米という言い方もあった。相川へ小便や大便のくみ取りに行き、一年間の分、小便約長桶八○本分くらい、大便約二本分を米二升と交換したという。この米を肥し米といい、大正年間まで続いていた。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集五・八)【執筆者】佐藤利夫
・七浦(ななうら)
二見半島の、二見・米郷・稲鯨・橘・高瀬・大浦・鹿伏の七集落の呼称。七浦は七曲りなどと同じく、いくつもの浦という意。同地域を西浜ともいう。国中よりみて西方に当る。また善知鳥郷七浦がある。元応二年(一三二○)畠助より本間大野宛の「うとう七うら大さかひ之事」(「戸地区有文書」)の、善知鳥文書にみられる七浦である。下戸・羽田・相川・小川・達者・北狄・戸地、あるいは片辺浦・鹿野浦・戸地戸中浦・北狄浦・達者浦・小川浦・羽田浦を当てる説もある。善知鳥文書はじめ、善知鳥郷七浦の根拠に疑問点があり、善知鳥郷の存在も、近世の善知鳥神社創建以後のことである。古くはいずれも海府の中に含まれていたが、近世以降は相川の近郊村として、経済的に相川に依存していた地域。鹿伏の春日崎は慶長年中、春日明神を勧請し、出入りの廻船の安全を祈願したところからの地名。元和五年(一六一九)に、社地は下戸村に移された。【関連】春日崎(かすがざき)【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】佐藤利夫
・七浦海岸(ななうらかいがん)
二見半島西部一帯の景勝地海岸の総称名。七つの臨海集落ー鹿伏・大浦・高瀬・橘・稲鯨・米郷・二見元村ーの、各浦の沿岸や沖合を含める。北西に春日崎、南西に長手岬、南に二見崎の突出部があり、その間は僅かに海岸線が後退して、浦々の集落が位置する。沖合○・一~○・六キロメートルの範囲には、無人の小島が多数散在し美景の一要素となる。白島・青島・夫婦岩・双股岩・弁天岩等がある。又南部の台ケ鼻・城ケ鼻・長手岬には、段丘崖下に平坦で裸岩の隆起波食台が広がる。冬の北西季節風が強く、その為波食が盛んに働いて、外海府同様の美景奇景を造る。新第三紀中新統相川層群下部の変質安山岩・火山円礫岩等、上部の角閃石石英安山岩や火砕岩等の、主に火山岩が露出している。【参考文献】渡辺光ら編『日本地名大事典四・中部』(朝倉書店)、新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】式正英
・七浦甚句(ななうらじんく) ➡相川甚句(あいかわじんく)の項
・鉛座(なまりざ)
初期相川に、灰吹製錬などに必要な鉛が大量に輸入されていて、それを一手に引請ける「鉛座」があったことが、記録からうかがえる。「鉛座。申三月より同極月迄、千五拾両ニ越中清兵衛、同国長太夫御請申すべき由願候所、片山勘兵衛千百五十両にせり上げ御受申上候」とある、元和六年(一六二○)の記録などが初見である。鎮目市左衛門奉行の時代で、山師片山が百両上積みしてせり勝った。このころ鉛は、越後の村上藩から買下していて、翌七年に藩主堀丹後守直寄から、家臣への手紙には、佐渡から井上新左衛門が鉛御用でくるので瀬波において引渡せ、とし、約一万貫の売渡しが指示されている(「堀主膳家文書」)。井上は鎮目と竹村(九郎右衛門)奉行とともに、元和三年に入国した幕府勘定所の要人で、鉛の確保に幕府が干渉し、村上鉛もその統制下におかれる。村上藩が勝手に取引きすることは禁じられていた。年不詳の堀直寄書状(新潟大学蔵)には、佐渡鉛座の松木という人が、鎮目の書状を持って、鉛買いにくる、旨のことが記されていて『佐渡風土記』によれば、元和八年に「小判千四百五拾両貮分、鉛座請役、松木五兵衛、越中清兵衛」とある。右の手紙に対応した記録らしく、松木は甲州出身の山師か、または鉛商人だったらしい。村上藩からの買付けは、寛永九年の三万五○六貫、慶安四年の四万貫、承応三年の「金千両分」などと続いた。これ以後は、羽州最上・加賀・越中からの買下しが多くなっている。【参考文献】小村 弌「近世初期の佐渡海運」【執筆者】本間寅雄
・鉛灰吹法(なまりはいぶきほう)
砂状にくだいた鉱砂を、馬毛篩でふるいわける。それを汰り板にかけて水中でゆすると、自然金はもっとも手元にのこり(水筋)、自然銀は中央にたまる(汰物)。つぎに銀をとる方法が、灰吹床である。灰吹床は真中に鍋を置き、その中に灰をいれて炉を作る。はじめ炉滓と柄実をまぜてとかし、柄実をとり鉛と鉄をはさむ。そこに汰物をのせ、ふいごを差す。火を除き水を打って柄実をとり、この柄実を砕いて、もう一度炉上に返して吹きたてる。かくて銀は鉛の中に熔け、他は柄実になる。この銀鉛のとけたものに蓋をして、上から水をかける。それを灰吹床へ送り、炉の中へいれ火を置き鞴を差し、熔けたところで火を除き、ふいご羽口に火箸をわたし、この上に長い炭をわたしかけ、炭の上に火をのせ、ふいごを差す。こうして銀を得る。【参考文献】「飛渡里安留記」、田中圭一『佐渡金銀山の史的研究』(史料一一)【執筆者】田中圭一
・奈良町(ならまち)
相川市街地からゴールデン佐渡にいたる、すぐ手前の旧佐渡鉱山(第三駐車場)の坂を迂回しながら東の台地を登っていくと、奈良町と柄杓町など上相川に通ずる町がつづく。この辺りから、嘉左衛門町・五郎右衛門町・宗徳町などを含めて、左右の大山の間という意味で、「間の山」と総称してきた。奈良町は、間の山から上相川にいたる入口の町だったのである。現況では住居はないが、全域が民有地で、針葉樹の植林がなされている。宝暦の書『佐渡相川志』には、「畑五畝廿一歩、町屋敷二反二畝廿五歩」とある。【執筆者】本間雅彦
・ナンドキ(なんどき)[アラレタマキビ]
ナンドキという名称は、諸国産物誌の一つ『佐渡州物産』や、田中葵園の『佐渡志』に出ている。この名は、軟体動物腹足綱に属す小型の岩礁性巻貝を指し(ウミニナ・イシダタミ・タマキビ・アラレタマキビなど)、特定の一種に限っていない。しかし、『佐渡州物産』の記述や挿絵をみると、アラレタマキビ(タマキビを含む)を呼んでいるようである。そして、その強靱な生活力により、イツマデガイという方言もある。現在、イツマデガイと呼ばれているのは、相川町関の寒戸崎を模式産地とする小型の陸貝で、サドオカマメタニシとか、サドミゾマメタニシという別名をもつ種である。【参考文献】『新潟県陸水動物図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・南方要素の植物(なんぽうようそのしょくぶつ)
暖地要素の植物、暖帯林要素の植物ともいう。日本の暖帯気候区(年平均気候一三℃~一八℃)の西南日本を主要な生活域にする植物で、タブ林・シイ林・カシ林で代表される昭葉樹林を構成する植物である。これらの暖帯要素は海岸沿いに北上するが、その北限線はスダジイ線である。年平均気温一三度、冬の二月の平均気温三度以上がシイの北限線で、佐渡・粟島まで分布する種群で、粟島を北限とするウラジロガシ・イタビカズラ、佐渡を北限とするシダのクリハラン・コモチシダ・ヒロハヤブソテツ・マメヅタ、草本のツワブキ・ヒメウズ・ヤマトグサ・ネコノシタ、落葉樹のゴンズイ・ヤマザクラ、常緑樹のスダジイ・ムベ・トベラ・シキミなど、一四種の暖地要素の北限線は、村上市を北限とするマルバシャリンバイの北限も包含する種群である。暖帯要素北限線。年平均気温一○度線で、暖帯要素のタブ(日本海側北限は青森県の艫作崎)・ヒサカキ・シロダモ・カラスザンショウなどの分布北限線。広分布するタブノキを代表させて、タブノキ線と仮称する。佐渡では、北西の冬の季節風をさけた海岸の丘や、国仲の丘に暖帯林が発達する。丘の海岸はタブ林、内陸側はシイ・カシ林。寺社林や古い屋敷林には、暖帯林の原植生が残存される。原植生の林は巨木が育ち、各階層ごとに暖帯要素が配置される。タブ林の高木層はタブ、亜高木層はヤブツバキ、低木層はヤツデ・マサキ・キズタ、草本層はヤブラン・オモト・ツワブキ。ムベやイタビカズラのつる木がからみつく。いずれも暖帯林要素。佐渡は暖帯林の島。暖帯林域を生活の場にした島である。【参考文献】近藤治隆「南方系(暖地系)の植物」(『佐和田町史』通史編1)、伊藤邦男「佐渡の暖地系植物」(『佐渡植物誌』)【執筆者】伊藤邦男
・新潟県相川合同庁舎(にいがたけんあいかわごうどうちょうしゃ)
広間町にあって、相川県・佐渡県・郡役所と移り変り、新潟県に併合後は県の佐渡支庁となって、一町目裏に庁舎が新築され、昭和三年(一九二八)に移転した。昭和三十年に支庁が廃止となり、下越支庁佐渡分室が置かれ、駐在員制度となった。縦割り行政で独立した事務所は、県と直結した。まさに合同庁舎であった。昭和三十三年に下越支庁が廃止され、分室は県の直轄になり、総務課・産業課を設置した。昭和四十一年に佐渡支庁が復活し、総務課・産業課の二課制となる。昭和四十五年に産業課を農政課に改称し、係数を増やす。翌年二町目浜に相川合同庁舎を建設することになり、昭和四十六年暮れに合同庁舎が完成した。四十七年(一九七二)一月に引越を終え、執務を開始する。当時の部屋割を見ると、一階が佐渡社会福祉事務所と組合事務所・生協売店・警備員室のほか機械が入り、二階は相川財務事務所と佐渡支庁・佐渡農業改良普及所相川支所、三階が相川土木事務所、四階が相川林業事務所と教育庁佐渡出張所のほか会議室が置かれ、相川保健所は別棟で新築し、廊下で繋いだ。玄関前は小公園と外来車の駐車場になり、車庫は別棟で一町目浜に新築し、自動車運転員は車庫の二階が事務室となった。【関連】佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)・佐渡支庁(さどしちょう)【参考文献】『佐渡支庁時代の回想』(佐渡支庁)【執筆者】佐藤俊策
・新潟県佐渡会館(にいがたけんさどかいかん)
相川町三丁目浜町一八に、昭和四十三年(一九六八)一月、県立観光会館として本設計に入り、正式名称「新潟県佐渡会館」で四月に起工式があり、翌年四月十六日にオープンした。当時島内最大規模の集会施設であり、佐渡観光の殿堂として、また離島佐渡の後進性を克服するために、重要な役割を果たすよう、多くの期待が寄せられた。管理運営は相川町に委託され、佐渡観光を兼ねた大会、各種会議・講習会・文化活動など、広く一般の利用に供し、地域の開発に役立てようというもので、施設の内容は、ホール(固定椅子四三二名・移動椅子三七八名)・大会議室(六○名)・小会議室(応接セット一七名)・中会議室(四五名)、ほかに放送・映写設備があり、また利用者の便宜を計るため食堂“日本海”が営業している。観光期(五月~十月)に入ると、ホールを夜間に「立浪会」が利用し、観光に寄与している。【執筆者】三浦啓作
・新潟県立相川高等学校(にいがたけんりつあいかわこうとうがっこう)
旧制の町立相川中学校が設立されたのは、大正十二年(一九二三)である。開校式は同年五月一日、相川尋常高等小学校の一部を借りて呱々の声をあげた。初代校長は大西正太郎。建学の精神は「質実剛健・自治・明朗闊達の持主になろう」であった。当時、町立中学校といえば、全国でもその数は僅少な存在で、新入生は四五名のところその志願者は六五名(一・四倍)の狭き門で、町内の生徒が多かった。相川尋常高等小学校の間借り生活も一年あまり、大正十三年十月八日には、広間町にあった元郡立相川実科高等女学校が河原田へ移転したため、その校舎跡へ移転した。そして、同月十一日校舎移転式と同時に校旗樹立が行われた。ここ広間が丘はもと佐渡奉行所跡の高台で、眼下に相川湾が望まれる絶景の地であるが、昭和十七年十二月一日、校舎全焼の不幸に見舞われる。焼跡の広間が丘に粗末な仮校舎が建ったのは、終戦後の同二十一年十二月である。今まで小学校やお寺に分散していた各教室から、生徒たちはこのさむざむとした仮校舎に集まってきた。同二十二年十月には「相川高等学校昇格期成同盟会」が発足。翌二十三年四月から新制度による町立相川高等学校が、相川高等女学校(相川小学校の校舎より分離)と合併し発足した。新しい高等学校の発足にともない校章(三国久の図案)が制定され、同二十五年には待望の屋内運動場も竣工した。そしてこの頃、放置されてた下相川のプールが修理され、水泳部顧問の市野重治の赴任をまって、県や東北高等学校水泳大会(昭二八年)などでの、華々しい優勝をみるのである。相川高校の定時制過程は、昭和二十三年県立佐渡高校定時制相川分校として発足したが、翌二十四年四月からは、町立相川高校の定時制(夜間制)として看板を変えた。相川高校は、同二十九年四月から県立高校に移管され、七月広間が丘から山之神の新校舎に移った。県立相川高校定時制高千分校が誕生するのは、昭和三十年四月である。新入生は四四名(男子一九名・女子二五名)。校舎は高千小学校の一隅を借用した。廃校は同五十八年三月三十一日である。【参考文献】『相川高等学校五十年史』(相川高等学校同窓会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『佐渡博物館々報』(一八号)【執筆者】浜口一夫
・新潟県立佐渡高等学校(にいがたけんりつさどこうとうがっこう)
明治二十九年(一八九六)六月、第三九臨時県会にて、佐渡三郡町村組合立佐渡尋常中学校設立可決、十月二十一日設置認可。先行県立新潟、同年の組合立長岡・高田・新発田に続く創立で、佐和田町石田(獅子ケ城跡)に開校した。郡立を経て、三十三年県立移管。翌年八月、新潟県立佐渡中学校と改称。佐渡奉行所役人子弟の教育機関修教館を頂点とする教育風土の上に、明治の大変革期に際して、国家の近代化に相応じた、島民の試行と熱意の成果であった。学制発布前後から、全国的に教育振興が図られた中で、目的・対象・規模・形態・内容・校地・財源等、様々な議論や運動の末の、佐渡における初等・中等教育の帰着点であった。国策に応える一方、自主自律の校風は、霊秀金北・神潔真野湾の風光と相俟って、同窓の精神的支柱となり、あまたの逸材を世に送り出した。昭和二十三年(一九四八)、新制高等学校に改編、新潟県立佐渡高等学校と改称。新憲法に基づく定時制課程の設置(中心校、真野・沢根等の分室・分校を経て五十三年最終的に募集停止)、及び二十五年の新潟県立河原田女子高等学校(相川町立実科高等女学校・県立河原田高等女学校)との統合を経て、今日に至る。平成八年(一九九六)、創立百周年記念式典。舟崎文庫を所蔵する同窓会の刊行書籍も、江湖の評価が極めて高い。【執筆者】坂口昭一
・新潟県立佐渡女子高等学校(にいがたけんりつさどじょしこうとうがっこう)
前身は明治四十四年(一九一一)八月十八日設立認可され、佐渡最初の女学校として、金沢高等小学校内に開校した佐渡実科高等女学校。佐渡尋常中学校が設立された明治二十九年(一八九六)以後、佐渡教育会は女子中等学校の設置を、郡当局に建議していたが容易に実現しなかった。当時の金沢村の有識者たちは、次善の策として三十九年以来、同村の高等小学校に二年制の補習科を併設していたが、四十三年、高等女学令が一部改正され、小学校に実科高等女学校を併設できるようになったので、早速申請して実現に至った。大正二年(一九一三)四か年課程に延長、同六年金沢村・吉井村・河原田町・二宮村・八幡村五か町村組合立、同十一年本科四か年課程の高等女学校組織に変更、昭和十三年(一九三八)金沢・吉井二か村組合立に改組などの変遷を経て、昭和二十三年学制改革に伴い、佐渡中央高等学校と改称して、男女共学校となった。同二十八年県立に移管されて、新潟県立金沢高等学校となったが、同四十一年(一九六六)再び女子校として再発足、佐渡女子高等学校となった。開校以来、平成十一年度(一九九九)までの卒業生累計は、募集停止となった定時制課程・専攻科課程を含めて、一万一五○○人余に上る。【参考文献】『金井町史』、『金井を創った百人』(金井町教育委員会)【執筆者】酒井友二
・新潟県立佐渡総合高等学校(にいがたけんりつさどそうごうこうとうがっこう)
【別称】新潟県立佐渡農業高等学校(にいがたけんりつさどのうぎょうこうとうがっこう)
・新潟県立佐渡農業高等学校(にいがたけんりつさどのうぎょうこうとうがっこう)
明治四十一年(一九○八)に戊申詔書が出されたのを記念して、新穂・畑野両村が共同して、組合立乙種農学校を設立した(創立は同四十三年)。開校は新穂村大野の報恩寺を仮校舎とし、校名は新穂村畑野村組合立佐渡農学校であった。独立校舎は、翌四十四年に畑野村栗野江字郷蔵に落成し、同年中に佐渡郡立となって、郡立佐渡農学校と改称した。大正十年に郡制が廃止されたのに伴って県営に移管され、新潟県立佐渡農学校となった。甲種農学校に昇格したのは昭和三年で、その頃不況は農村にも及んで、生徒不足に苦しんだが、この時代には当校の教育が充実して、学術・美術・体育などに逸材を相ついで輩出し、自営農家でも公けの役職でも、農学校出身者が多くを占めていた。太平洋戦後の学制改革で、高等学校となった。当校は、開校当初から男女同学と珍らしがられることもあったが、事実上は男子部と女子部に分れていて、教室を別にしていた。教室を同じくした男女同学になったのは、食品化学科が設けられ、さらには園芸科が新設されて数年後のことで、事実上の共学は定時制(河崎と松ケ崎の分校を合せた三教室)だけであった。平成十三年(二○○一)四月一日より、「新潟県立佐渡総合高等学校」に校名がかわり、農業科・食品科学科募集停止。新らしく「総合学科」を設置して、普通科目と専門科目の中から主体的に選択し、各種資格等の取得・上級学校への進学指導が行われることになった。【執筆者】本間雅彦
・新潟県立羽茂高等学校(にいがたけんりつはもちこうとうがっこう)
県立羽茂高等学校は昭和十年(一九三五)、村立の羽茂専修農学校から創まった。マルダイ味噌合資会社の社長で、村長も勤めた本間瀬平翁の「このままでは地域が遅れる」という提唱に、町民は動かされた。当時、中等学校は国仲にしかなく、進学者は一級に数人であった。専修農学校は、青年学校令による全日制の学校で、翌十一年、実業学校令による乙種(三年生)農学校に、同十八年には甲種(四年生)農学校、二十二年には新潟県立羽茂農学校と、県立に移管されたが、この村営の一三年間、村は苦しい経営を余儀なくされた。昭和二十三年(一九四八)、制度の改正で農業高等学校になり、小木・赤泊に定時制分校(夜間)設置、以後、生徒数の急増で普通科・家政科を増設したり、農業の落ち込みで農業科を園芸科に変えたりしたが、五十四年からは家政科を切り、園芸科も普通科に改めて普通科高校になり、小木の定時制分校は廃止されたが、赤泊は全日制分校になって残った。現在の校舎は、昭和五十六年に新築移転したもので、三度目の移転である。【参考文献】『羽茂高等学校五十年史』、『羽茂町誌』【執筆者】藤井三好
・新潟県立両津高等学校(にいがたけんりつりょうつこうとうがっこう)
佐渡東部地区唯一の中等教育機関。昭和二十一年(一九四六)三月、文部省から直接、設立許可を得て、同年五月両津国民学校(現両津小学校)にて開校式、授業が開始された。校名は、新潟県町立両津高等女学校。学制改革のあった昭和二十二年四月の、両津大火により存廃問題が生じたが、昭和二十三年、両津町加茂村組合立両津高等学校として発足し(普通科三学級)、昭和二十四年白山に校舎建築、移転した。昭和二十八年に県立移管され、新潟県立両津高等学校となった。定時制課程は、昭和二十四年から昭和二十九年まで。昭和二十九年に被服科が併置、商業科・漁業科・水産製造科がこれに続き、昭和三十三年、総合制としての全容が整った。苦難に満ちた、創立当時の地域住民の熱い思いがここに花開き、これ以後、各学科が切磋琢磨して、質量ともに充実した時期を迎えた。住吉一般校舎建築は昭和三十八年。現在の白山鉄筋校舎建築は、昭和五十一年に着工、昭和五十七年に終了し、足掛け七年に及ぶ長い工事であった。全島的な過疎化・少子化に伴い、被服科・漁業科・水産製造科と相次いで閉科となり、平成十三年度には、佐渡農業高校が佐渡総合高校と改組されたのに伴い、商業科・情報経理科が募集停止、普通科のみの募集となった。【執筆者】本橋克
・新潟交通佐渡営業所(にいがたこうつうさどえいぎょうしょ)
昭和十八年(一九四三)に、新潟市周辺のバス会社数社を統合して設立された新潟交通株式会社の佐渡営業所。佐渡に初めて乗合自動車が入ったのが大正二年(一九一三)、当初両津ー相川間の輸送に当たる予定であったが、中山峠が越えられなくて両津周辺を走っていたという。大正五年には小木町の高津昇之助が、次いで同七年には相川町米郷の渡辺七十郎が営業を開始、その後各地に会社が設立されて競争となったが、昭和六年これらが合併して佐州合同自動車株式会社(昭和八年佐渡乗合自動車株式会社と改称)と赤泊自動車合名会社となった。この頃新潟でも統合が進んで、昭和七年に新潟合同自動車株式会社が設立され、佐渡島内の会社が内部の主導権争いや乱脈経営などで、島民の不信をこうむったこともあって、昭和十二年に佐渡乗合自動車が、同十七年には赤泊自動車が、それぞれ新潟合同自動車に統合され、河原田に営業所が置かれた。初代所長は東海林藤太郎。昭和十八年に新潟合同自動車が新潟交通となり、今日に至っている。【関連】中山トンネル(なかやまとんねる)・渡辺七十郎(わたなべしちじゅうろう)【参考文献】『新潟交通二十年史』(新潟交通株式会社)【執筆者】石瀬佳弘
・新潟大学農学部付属佐渡演習林(にいがただいがくのうがくぶふぞくさどえんしゅうりん)
相川町大倉より岩谷口に至る標高二七○メートル~九四七メートル(大部分は六○○メートル以上)・約五○○ヘクタールの演習林で、一部は両津市の東側斜面にも延び、総面積の八割以上が天然林。スギ・ヒバ・アカマツ等の針葉樹のほか、サワグルミ・ミズナラ・カエデ等の広葉樹が成育する県有模範林である。スギが優占する天然林は、日本海に分布する天然林の特徴を良く示し、学術参考林としての価値が高い。特に関越の山中にある通称「小杉立」(標高八○○メートル)に、樹高四○メートル余、樹冠一七メートル、胸高幹径二・七メートルのスギの巨木があり、「関越の仁王杉」とよばれ、この杉をふくむ小杉立の天然杉林は、「重要植物群落」として県指定になった。これらを一括して昭和三十年(一九五五)三月、新潟大学農学部に寄付され、付属演習林となる。同三十三年四月に、宿泊棟も寄付されて大倉に設置、さらに倉庫や研究室・講義室・事務室などが増築された。これらの施設は、平成四年(一九九二)六月小田に移転し、その後食堂・厨房棟や宿泊棟が増設されて、年間多くの学生や研究者が訪れ、気象観測・天然林の立地環境などの試験・研究や、森林環境科学・砂防・森林生態学などの実習を行っている。日本海北部に位置する山岳演習林としては、日本で唯一のもので、学術的な評価も高い。【関連】小杉立の天然杉林(こすぎだてのてんねんすぎりん)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「佐渡演習林の森林について」(新潟大学農学部)【執筆者】三浦啓作
・新潟大学理学部付属臨海実験所(にいがただいがくりがくぶふぞくりんかいじっけんしょ)
日本海側での、海洋生物に対する教育・研究を行う目的で、相川町達者海岸に、昭和二十九年(一九五四)三月二十六日、木造の研究棟と宿泊棟が落成したが、北西の季節風をもろに受けるため、傷みが激しく老朽化して、昭和六十一年(一九八六)六月改築した。建物は、鉄筋コンクリート二階建タイル張りで、研究棟・宿泊棟(三十数名)と、採収船用の挺庫があり、研究棟内には、標本室や水族室も組み込まれており、佐渡沿岸生物の分類・分布・生態的研究、寄生性小型甲殻類の研究などが行われ、学生は勿論、国の内外から研究者が来所し、佐渡島産生物の研究に打込んでおり、佐渡における海洋生物のメッカである。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】三浦啓作
・新穂銀山(にいぼぎんざん)
鶴子銀山に続く、佐渡で第二の銀山。およそその範囲は、東西は新穂川と大野川に挟まれた山地、北は新穂第一ダムの堰堤の延長線と、南は蛭河内の延長。鉱脈の走行は、南北。元文三年(一七三八)の新穂村滝沢銀山惣岡絵図(味方孫太夫所持)では、右沢には白土・大師・大船・八貫目・潟上・竹蔵。左沢に二つの水貫・兵庫・伊藤・伊賀・吉井・新保・大切山・五郎右衛門・勘右衛門・与右衛門・喜助・田の沢・伊勢屋・関東・玄弦。支流の黄金沢には、天文十一年(一五四二)以後、間もない開坑と思われる百枚間歩がある。鶴子銀山の百枚間歩が、崩落により内部が確認出来ないのに対して、この百枚間歩は、採鉱当初の姿を三○㍍以上も立入って確認できる。天文期の坑道の内部を見ることの出来る、国内唯一の遺構である。近距離の銀山稜線部の老母坂上や、対岸の左沢と右沢の間の稜線部には、すり鉢型の露頭掘り跡が無数存在。𨫤追い掘り坑道と混在した、古い露頭掘りの姿を伝えている。右沢の中心部に、弘治二年(一五五六)築城の北方山城、大工沢の出口に、上新穂城(新穂山城)。銀山の東と西には、青木山城が二つ存在。山城の防衛機能プラス、生産管理機能を雄弁に語っている。【参考文献】 「新穂銀山シンポ」【執筆者】 小菅徹也
・新穂玉作遺跡(にいぼたまつくりいせき)
佐渡の国仲平野に点在し、主として碧玉および鉄石英の細形管玉を製作した、弥生時代中期中葉から後期にかけての遺跡を、佐渡玉作遺跡と総称し、新穂村にある竹ノ花遺跡・桂林遺跡・平田遺跡・城ノ畠遺跡を、新穂玉作遺跡とする。新穂玉作遺跡は、計良由松によって発見され、遺物収集と分類研究が行なわれ、桂林遺跡の一部は昭和二十四年(一九四九)十一月に計良由松が、昭和三十五年と三十六年の八月には九学会による発掘調査があった。出土する遺物は、櫛目文土器を主体とし、石鏃・石斧・石錐・石包丁、管玉の未成品および完成品、石鋸・砥石・石針などの玉作工具、角玉・勾玉などである。細形管玉の製作は、原石打割→施溝→半截→側稜剥離→研磨→穿孔→完成の七工程に分類され、最後の工程で穿孔する高度の技術を有した。平成六年からの圃場整備に伴う遺跡調査で、竹ノ花・桂林・平田遺跡はつながり、四七万平方メートル以上の面積をもつ、弥生時代国内最大の玉作遺跡であることが明らかとなった。昭和二十七年十二月、新潟県文化財史跡に指定。計良由松収集の細形管玉製作工程を示す資料は、昭和五十三年六月に国指定重要文化財となっている。なお、平田遺跡に隣接して、大型礎盤をもつ建物址(第一号建物址)や枕木のある建物址(布掘、第五号建物址)などの特別の建物址とともに内行花文鏡や珠文鏡および銅鏃などが出土した蔵王遺跡も発見されている。【関連】蔵王遺跡(ざおういせき)【参考文献】計良由松『佐渡における新穂村文化のはじめ 附玉作遺跡発掘調査報告』、計良由松「佐渡玉造遺跡に於ける玉の原料について」(『佐渡史学』一集)、計良由松・計良勝範「佐渡新穂玉作遺跡遺物の研究」(『佐渡史学』三・四集合併号)【執筆者】計良勝範
・新穂村歴史民俗資料館(にいぼむられきしみんぞくしりょうかん)
新穂村大字瓜生屋四九二番地に所在する、村立の資料館である。当初は、大野ダム建設事務所であった建物を利用して、昭和五十五年(一九八○)十月一日に開館し、新穂村に関する資料を中心に収集して、トキ・考古・農具・生活・桶屋道具・消防用具の各部屋があった。現在の建物は、それらの資料をさらに有効に利用活用させ充実するために、改めて鉄筋コンクリート造二階建の、本格的資料館が建設されたものであり、昭和六十一年十一月一日起工、昭和六十二年十一月二日竣工、三日から開館した。初代館長は計良由松。一階床面積六八○平方メートル、二階床面積二四二平方メートル、延面積九二二平方メートルで、トキの飛ぶ姿をイメージしている。一階にトキ・芸術・伝統芸能など、二階には考古と歴史、村のくらしの各展示室などがある。なかでも、国際保護鳥トキは、新潟県トキ保護センターと直接映像装置で結び、飼育中のトキ(キンと優優など)をテレビモニターで観察できる。さらに、弥生時代の重要文化財指定新穂玉作資料、内行花文鏡や珠文鏡を出土した蔵王遺跡の資料、縄文時代の矢田ケ瀬遺跡や垣ノ内遺跡の出土品、村内の城館址や経塚資料、県指定文化財の広栄座説経人形およびのろま人形、鬼太鼓・能楽・日本画家土田麦僊と文明批評家土田杏村資料、各種の農具と生活用具などが展示されている。【関連】広栄座(こうえいざ)【執筆者】計良勝範
・二宮神社(にくうじんじゃ)
相川町関の川向こうにあり、オヤガミサンまたはオボスナサマと呼ばれ、オオヤの本間四郎左衛門がカギトリをつとめている。祭神は天児屋根命、祭日は九月十六日(旧)であるが、正月十六日(現在は新)に的射りの神事があったり、昔は一月八日と九日の二晩、「神拝式」といい、二五歳と四二歳の、厄年の男たちのオコモリがあった。正月十六日早朝の、境内での的射りの神事は、享和三年(一八○三)の書き上げによると、古代は観音堂で行われていたらしく、弓の的にぬる土は、旧観音堂のあった古田の土を的につける、杉の葉は大杉社のものを使うことになっている。これは異なる地神を祀っていた二つの一族が、一緒になったことを暗示しているものである。的は夜明けと同時に、オオヤの主人が射り、真中に当ると、一年間縁起がよいとされた。昔、九月十五日の祭礼の宵宮には、矢柄の勧行院の法印さんと奥さんが来て、お宮で神楽を舞ったという。二宮神社には宮田があり、二宮神社と大杉神社に供える供物は、この田の米を用いている。この宮田の所有と管理は、オオヤの本間家がしており、人糞はやらず、小便は禁物、月厄の女性は入れなかったという。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】浜口一夫
・濁川町(にごりかわまち)
海岸に注ぐ濁川の両岸の町を云う。東は坂下町から北沢町となり、北で紙屋町と炭屋町に接する。奉行所の真下に当り、帯刀坂で結ばれる。川の両岸は石垣で守られ、普請は公儀によりなされた。慶長頃は石垣がなく、洪水で破壊されたことが数度に及ぶ。上流は、左沢と右沢を流れる川が宗徳町で落ち合い日本海に注ぐ。相川の名はここから出たとする説が強く、左沢と右沢の間が初期金山の中心で、上相川千軒と云われて賑わった町並が、山の中腹に広がりを見せる。紙屋町へ渡る濁川の橋は、太鼓形の板橋で高欄がつき、幅もあって見事な出来栄えで、他にかかる橋を圧倒した。元禄検地によると、町屋敷五反二畝一五歩とあり、文政九年(一八二六)の墨引では家が五六軒あって、拝領地や町人が入り混って住んだが、町人は金山関係の従事者が多く、小六町や大間町へ通ずる本通りには商人が住んでおり、小六町との境にはそば屋が見える。戦中に排出したセリカスが海岸に溜り、海岸線は長く海へ出るのが容易でない上、海藻も生えず死んだような海であったが、いまは侵蝕されて見る陰もない。【参考文献】「文政九年、相川墨引」、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】佐藤俊策
・西坂(にしさか)
享保四年(一七一九)に奉行所の腰を廻るように、囲内の南端から牢屋の上を通って長坂を降り、下町へ通ずる坂道を開設した。上町台地と下町を結ぶ大事な坂道であり、しかも奉行所脇から城の腰を通る道で、利用者が多かった。坂の登り口に小川が流れ、石橋がかかっていた。牢屋内では処刑が一般的であり、処刑人の冥福を祈って通行人が手を合わせたことから、この石橋を合掌橋と呼んだ。いままで善知鳥神事には神輿が長坂を登っていたが、勾配を緩くした坂の開設により、以後は山鉾・神輿は、この坂を通って陣屋の前へ行き、御祓をするようになった。奉行所敷地の南前には、高級地役人の役宅が七軒並んでいたので、これを七軒屋と云っており、坂道の開設工事が終ると、この石坂を七軒坂と名付けたが、翌年には西坂と改名するよう御触れが出ている。この工事の後で、坂道の傍の空き地には地役人の拝領地ができたが、後年には民間人が住むようになった。文政の絵図には、職人の家が四軒描かれている。西坂は昭和四十九年八月、町の史跡に指定された。【参考文献】伊藤三右衛門『佐渡国略記』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、西川明雅他『佐渡年代記』【執筆者】佐藤俊策
・西三川砂金山(にしみかわしゃきんざん)
十二世紀のはじめに成立したとされる『今昔物語』の巻二六の一五話に、能登の国の鉄とりが、佐渡の国へ金をとりに行った話が載っている。ついで『佐渡相川志』には、西三河砂金山は寛正元年(一四六○)にはじめられ、永正十年(一五一三)に中絶していたところ、文禄二年(一五九三)から、ふたたび稼がれるようになったと記述されている。戦国末から江戸初期にかけては、一か月に一八枚づつ砂金を運上したために、村名が笹川一八枚村となったという。【関連】笹川十八枚村(ささがわじゅうはちまいむら)・砂金(しゃきん)【参考文献】田中圭一『佐渡金山史』【執筆者】田中圭一
・二町目(にちょうめ)
赤川から南へ三町目までの間の県道に沿った町が、二町目である。大きな建物としては、北端の山側にホテルやアパートがあり、医院・飲食店・家具仏壇店・畳屋などが、一般住宅と混り合う静かな町である。現戸数は三三戸。浜町と新浜町が海手に平行しているが、山手は裏町ではなく五郎左衛門町になっている点で、一町目とは異なっている。浜町には、保健所や県合同庁舎・駐車場がある。元禄七年(一六九四)の検地帳では、町の面積は五反四畝八歩である。【執筆者】本間雅彦
・二町目新浜町(にちょうめしんはままち)
相川湾の湾入部の、ほぼ中央に位置する臨海地帯。昭和初期の、鉱山の浜石採取で住宅は立ち退き、現在は臨海バイパス町道が南北に走る。東側は佐渡会館の裏手に当たり、新潟交通観光案内所があって、定期観光バスの乗り場である。宝暦五年(一七五五)の町名に初めて出てくる。江戸中期の成立であろう。【関連】浜石(はまいし)【執筆者】本間寅雄
・二町目浜町(にちょうめはままち)
慶安年間(一六四八ー五一)の相川地子銀帳に町名が出ている。古くからあった町で、二町目本町とともに、寛永期には成立していたと思われる。北は一町目浜町、南は三町目浜町と隣り合い、東側に人家が建てこむ。前を県道佐渡一周線(主要地方道両津・鷲崎・佐和田線)が南北に走る。道路を隔てた西側は、新潟県相川合同庁舎が建つ。相川土木事務所・相川財務事務所・相川林業事務所・佐渡社会福祉事務所・下越教育事務所佐渡出張所のほか、佐渡町村会・佐渡観光協会が同居し、庁舎北側は県相川保健所が棟続きにある。【執筆者】本間寅雄
・荷俵負い(にどらおい)
腰に荷俵をつけて長い木材を負うときの負い方。「ながもん負い」ともいう。林道がつく以前の大型木材の運搬法で、もっぱら婦人の仕事。道具は、シナやフジの皮で縁どりをしたセナコウジ・太い荷縄・荷俵・ワタコ(セナコウジの下に着る)・支え杖など。この負い方の特徴は、腰に荷俵を入れて負うことで、荷俵は木の芯を中に入れて、一五センチ位の藁製の俵。セナコウジは、藁で厚く織った背中当で、縁取りをシナやフジでするのは、縁を保護するためである。ワタコは、厚目に綿を入れた座布団。海府では一四歳くらいになると、母親について山へ入る。二○歳過ぎになると、末口七寸(二一センチ)、長さ一三尺(約四メートル)の木材を負うた。このように二間以上の木材になると、腰に荷俵をつけないと負えない。六尺(一・八メートル)前後の短い材の負い出しは「だちん負い」といって区別した。昭和三十二、三年(一九五七、八)頃、海府から六尺のパルプ材や鉄道の枕木が伐り出された。賃仕事に多数の婦人が従事していた。大佐渡の山仕事の多い地域の独特の負い方で、家普請になると木挽といっしょに山へ入って材を出した。【関連】木挽き(こびき)・海府木挽(かいふこびき)【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』、『新潟県史』(資料編二三・民俗文化財二)【執筆者】佐藤利夫
・日本海要素の植物(にほんかいようそのしょくぶつ)
日本海側の多雪地を主たる分布域とする植物のこと。雪国要素の植物、裏日本要素の植物ともいう。「新潟県の日本海要素植物仮目録」(一九八七)には、およそ一五○種が記録され、そのうち「佐渡の日本海要素植物」はおよそ一○○種である。佐渡に少くないのは、越後に比べ日本海型気候、特に積雪の程度が低いことに由る。日本海要素の分布の多くは、ほぼ一月の積雪五○センチ線が分布境界とされ、次の様な特徴をもつ。1常緑樹群の低木化。茎や枝がしなやかで、低木化・ほふく型化は雪圧への適応で、太平洋側分布の直立型に対応する。( )内は太平洋側の対応種。チャボガケ(カヤ)・ハイイヌガヤ(イヌガヤ)・ハイイヌツゲ(イヌツゲ)・ヒメモチ(モチ)・ユキツバキ(ヤブツバキ)。2落葉樹の葉の大形・広葉化と薄肉化、日照量の不足に対する適応型。マルバマンサク(マンサク)・オオバクロモジ(クロモジ)、ヒロハゴマギ(ゴマギ)・チシマザサ(スズタケ)・スミレサイシン(ナガバノスミレサイシン。3固有属の存在。シラネアオイ・オサバグサ・トガクシショウマの三種は、三種とも一属一種の日本特産の固有種で、現在は日本列島の日本海側の多雪地のブナ林に保存される。日本の多くの植物は二五○○万年前に誕生したが、これら三属は古第三紀の初めの七五○○万年前に誕生した古い植物で、日本海側のブナ林床という特殊な立地に生き残った、遺存種(生き残り)固有種である。【参考文献】伊藤邦男「佐渡の日本海要素」(『佐渡植物誌』)、同『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・入川(にゅうがわ)
現在(平成七年)の世帯数は九二戸、人口は二三○人である。宝暦年代(一七五一~六三)に書かれたという『佐州巡村記』によれば、家数は七八軒、人口は四四一人である。海岸段丘上の開発は、近世前期にその大部分がなされ、元禄七年(一六九四)の検地帳では、田三六町二反余、畑六町七反余となっている。段丘上の平坦さは海府きってといわれ、入川川から取水する用水で賄っている。入川川は長さ六キロメートル、水量豊富で水力発電(昭和四年完成)にも利用され、ドンデン麓の孫次郎山附近の渓谷は変化に富み、春の新緑、秋の紅葉がみごとである。渓谷に沿ってドンデン山経由の県道両津入川線が通じており、観光客にも利用されている。ドンデンはもともとは論天山か、山の裏の村に田を論じた書類(『新潟県の地名』野島出版)があるという。またドンデン山には、赤い肌をした大入道が居り、タタラ峰にある池のほとりで、ドーン、デーンと灼けた鉄を鎚で打っていたとの伝承(本間雅彦『鬼の人類学』)もある。タタラは鞴と関係ある古語といわれ、古い鉱山とのかかわりが考えられる。ドンデン山への渓谷の道は、かって(大正三年)入川銀山赤岩から海岸までの川岸を開鑿した鉱車軌道跡を拡巾したものである。入川村の草分は、池田九郎津や池野甚十郎らの七人衆といわれ、九郎津は寛正四年(一四六三)勧請といわれる宝生権現を祀り、甚十郎は加賀からの船乗りとの伝承をもち、観音堂を祀る。宝生神社の祭神は、木花開耶姫命と大山祇命の鉱山神である。祭日は旧八月十日であったが、今は四月十五日、御輿と子供樽御輿が出る。【関連】宝生神社(ほうしょうじんじゃ)・高千鉱山(たかちこうざん)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫
・入川層(にゅうがわそう)
大佐渡研究グループ(一九七○)の命名。模式地は入川の中流で、大佐渡北端・入川上中流域・佐渡鉱山に分布し、基盤岩を不整合におおう。漸新世の地層である。灰緑色のデイサイト質火砕岩からなり、変質が激しい。粘版岩や花崗岩の岩片を含む、溶結凝灰岩を主体とする。層厚は相川鉱山周辺で五○○メートルである。佐渡鉱山地域では、大立凝灰岩・大切凝灰岩とも呼ばれている。火砕岩を主とするため化石は未発見で、溶結凝灰岩が多いことから、陸域での火山活動で堆積した地層であると考えられる。【参考文献】大佐渡研究グループ「大佐渡南部の新第三系」(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】神蔵勝明
・入崎の海岸植物(にゅうざきのかいがんしょくぶつ)
相川町入川。入川(河川名)の川口近くにある岬が入崎である。夏の海水浴やキャンプ客でにぎわう観光地である。キャンプ場の西側の砂浜には、オカヒジキ・ウンラン・コウボウムギ・スナビキソウ・ハマイブキボウフウ・ハマエンドウ・ハマダイコン・ハマヒルガオ・ハマボッス・ハマゼリ、海岸低木のハマナス・ハマゴウなど、海岸植物の主要種はほとんどみられる。踏みつけの強いキャンプ場には、海岸植物は点在的となる。このような立地に、いちはやく侵入し群落をつくるのが、帰化植物である。ムラサキツメクサ・シロツメクサ・セイヨウタンポポ・セイヨウミヤコグサ・オオイヌノフグリ・シロザ・ヒメスイバ・ヘラオオバコ・マンテマなどが主要種である。入崎の北端の大岩塊の岩場の入口は鳥井建ち、注蓮の張られる神域で弁財天がまつられる。五月、岩場を埋めるように咲くイワユリの群生は壮観である。岩のすき間には海岸岩隙植物であり乾生植物でもあるメノマンネングサ・キリンソウ・ハマボッス・ハマハタザオ・ハマイブキボウフウ・ハマゼリなどが豊産する。遠望される北西向きの海岸段丘の海岸風衝林の主要種は、クロマツ・カシワ・エノキ・エゾイタヤなどである。【参考文献】『佐渡植物ガイド』【執筆者】伊藤邦男
・入野神社(にゅうのじんじゃ)
千本の入崎にあり、祭神は伊裝冊尊。社人は北田野浦の片岡儀左衛門である。『佐渡神社誌』には、天正十四年(一五八六)、儀左衛門が大和の吉野郡丹生川上神社より勧請したとある。また、享保年間(一七一六ー三五)の沖の神子岩のわかめ争動の文書にも、「田野浦村儀左衛門が入野神社の宮守である」と記されているから、長い間儀左衛門の宮であったことがわかる。現在も境内の草はり、冬の宮構いなどを行っている。この神社は、沖を通る船が帆を下げねばならぬ伝説を持っており、そのことに不都合を感じた能登か出羽の大船が、山形県庄内湯野浜の、隣の加茂という所へ、ご神体を持ち去ったといわれ、今はご神体のない宮である。宮の沖合の暗礁・沖の神子は、海府わかめの名産地であるが、沖を通る船の難所の一つであった。そのため、若狭の船が難破した若狭と名付けられた暗礁などがある。祭りは八月二十日で、神主を招き、ムラの役づき一○人ほどが集り、オコナイをした。盆の十七日には、境内で草ずもうなどがたった。社の横には大きな忠魂碑が建っている。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】浜口一夫
・二輪草(にりんそう)
【科属】キンポウゲ科イチリンソウ属 「一輪咲いて一輪草 二輪咲いて二輪草 三輪咲いて三輪草」は白秋の歌。いずれもイチリンソウ属の春告花で、山地の林内、林縁、沢沿いに群生する。イチリンソウは、対岸の角田・弥彦山に多産するが、佐渡にはない。サンリンソウも自生しない。ニリンソウは多産し大群生する。ひとつの茎に二輪咲かせるのでこの名があるが、必ずしも二輪でなく、一輪も三輪もある。ユキワリソウやキクザキイチゲは早春三月、山の雪を割って咲く花であるのに対し、ニリンソウは里の桜が爛漫と咲く春たけなわの頃、山に咲く。里山から奥山まで広く分布し、充分な湿りがあればどこにでも大群生する。ドンデン(両津市)に登るアオネバ越え(旧道)は、梅津川上流沿いの自然の保たれた沢、ニリンソウ・キクザキイチゲ・ユキワリソウ・カタクリが大群生する花園渓谷である。これら春季植物は、いずれもスプリング・エフェメラル(春の短命の植物)で、樹々の葉が繁る頃姿を消す。キンポウゲ科に属しながら全草食べられる山菜。江戸時代の菜糧のリストにフクベラの名で記されるが、ニリンソウのことである。【花期】四~五月【分布】北・本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・荷分制(にわけせい)
鉱山には、自分山と御直山があった。自分山は、出す税額をきめて納付するのに対して、御直山は、採掘鉱石を奉行所と採掘者が一定の割合で分けることをいう。『佐渡年代記』(慶長九年)に、「金銀山出鏈の内、荷分ということ此頃より始まりしと見えたり、是は出方の多少又は山師の貧富により、出鏈の内、或は半分に引分け、又は三分の一、四分の一など割合を計ひて、たとへば半分は公納とし、残りを山仕かなこへ宛行ふ事なり」とあって、その頃は荷分けの割合は確定していなかった。享保期(一七一六ー三五)の史料をみると、四分上納・六分はかなこ、一分は山師の領前と決められている。
【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】田中圭一
・塗師(ぬっち)
漆塗り職人を一般にヌシというが、佐渡ではヌッチと訛って呼んでいる。離島や半島部では、湿気が多いためウルシの木がよく育ち、漆塗りのあとの乾燥が早い。ウルシは、湿度の高いところのほうがよく乾燥するためである。佐渡はいわゆる漆器の産地ではないが、漆の生産や消費量は産地に劣らないほど多い。それは佐渡では膳椀などの小物ではなくて、仏壇や家屋の戸柱に漆を塗る習俗があることによる。しかし江戸後期には、現在の能登・会津などの漆器産地と同じように、新穂膳・新町椀そして小川漆などで、良品を産していたことは『四民風俗』の記事から読みとれる。ところがその後に、他地ではいっそう質の向上があったのに、佐渡漆器は技法の工夫に欠けていたため、市場競争におくれをとって売れなくなり、その上唐津・瀬戸などから、陶器が大量に移入されると、日常食器としての島内産漆器は、完全に市場を失った。ウルシの木の栽植は、羽茂川沿いの大崎・滝平・川茂と、小倉川上流地域で早くから行なわれていて、後山村は慶長期に三六本、小倉村では享保十三年(一七二八)には一一八六本が記録されている。
【関連】小川塗師(おがわぬっち)【参考文献】本間雅彦「漆と塗師」(『佐渡史学』一○集)、『波多』(畑野町史)【執筆者】本間雅彦
・ぬれ仏(ぬれぼとけ)
明治四十一年(一九○八)に川上喚涛翁が書いた『佐渡案内』(佐渡水産組合編纂)には、「字小川の原野にある青銅の坐像にして、常に雨露に晒さるヽを以て此名あり、此辺の田野を澪佛野と云ふ」とある。その後約一○年たって、相川の浅香寛が出版した同名の書では、ほぼ同文章で地名だけは「澪佛野」と言い替えてあり、今日ではヌレボトケの発音を多く用いるようになっている。仏像は阿弥陀如来の座像である。上小川の水田地帯に、このアミダ像が祀られるようになった経過について、つぎのような伝承がある。むかし十二体の仏を乗せた船が小川沖で難船し、一体を海中に落してしまった。その仏がある人の夢枕に立って、「磯によっているから、多聞院に祀ってくれ」といったので、はじめ寺にあげた。ところが牛込で狢が出て困るので、寺ではこの地に移すことにした。『金泉郷土史』によると、仏像の台座には明和九年(一七七二)作の銘があったという。
【執筆者】本間雅彦
・ねこ流し(ねこながし)
砂金山で含金砂泥の中から、金を採取するために行う選鉱行程の一つ。ゆり板を使って、微細な含金砂泥を水中で比重選鉱し、砂金を取り上げるための前行程。水流のある川底に数枚の猫筵を縦に並べ敷き、含金砂泥を釣子という鍬で、猫筵の裏表に万遍なく流しかけ、筵の目に留まった微細な含金砂泥を、洗い出してゆり板に移すまでの作業。金銀山では、鉱石を粉砕した鉱砂を、水中でゆり板を使って比重選鉱し、水筋という金粒を採取する。これを何度もくり返した後、残った微細な鉱砂を、木綿を敷いたすべり台の床に水流と共に流しかけ、木綿の目に硫化銀を主体とした汰物を留める。数回流しかけた後に水流を止め、木綿を巻き取って大きな水桶に洗い込んで、桶底に汰物を貯める。汰物は、大床・灰吹床・分床で製錬することにより金や銀を採取するが、金銀山の場合は、ゆり板以後大床にかけるまでの行程が、ねこ流しである。
【関連】砂金(しゃきん)【執筆者】小菅徹也
・鼠草紙(ねずみぞうし)
慶安五年(一六五二)三月、佐渡小木町小比叡の蓮華峰寺に立てこもった奉行所役人辻藤左衛門や、住職快慶らが引き起こした事件は、一般に小比叡騒動と称した。『鼠草紙』は、この事件を戯曲化したもので、明治二十九年(一八九六)八月、史林雑誌社から発行された。これには巻末に、「寛政八辰年六月写之、後尾村智挙院」とある。作者は不明であるが、寛政より以前の著作である。小比叡騒動を、一匹の鼠が語り出すことから、その書名がつけられた。
【関連】小比叡騒動(こびえいそうどう)【参考文献】山本修之助編『佐渡叢書』(四巻)【執筆者】田中圭一
・根付き漁(ねつきりょう)
浮魚を対象にした漁業にたいして、磯に根づいてあまり移動しない魚を捕採する漁業。根付き漁の対象となる魚の代表は、ハチメ(メバル)である。年中釣れる魚で、沖合いでも釣れる。数釣りが楽しめ、磯ではツツジの花が咲く頃が最盛期で、ツツジバチメといわれ、春告魚である。岩虫を餌として釣る場所では、虫バチメともいう。水深が一五メートル以下なので、ガラス箱で見て釣る。一般に浅くなるほど黒味が加わる。タケノコの頃釣れるのを、タケノコメバルともいう。深さが増すと赤味を帯びてくる。古来、年中行事の神への供え物には、黒い磯バチメ(黒バチメ)がつかわれたのは、根付き魚の代表で、浅い磯の魚を獲って食べていたことを示している。沖バチメは、七○本から八○本の釣り針をつけ、胴突き仕掛けでおこなっている。沖バチメは、和名はウスメバルであるが、佐渡ではアカバチメ(”魚”偏に”赤”)あるいはタカノハバチメという。晩秋の磯バチメは炭火で焼き、秋風に乾燥させて、保存食として冬の蛋白源にしていたが、人寄りや祭りの御馳走でもあった。
【参考文献】中堀均『佐渡の釣り今昔』、佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・ねまり機(ねまりばた)
佐渡では座ることをねまるという。つまり座って織る、原始的な地機のこと。ねまり機にたいして「たちはた」(たかはた)があり、腰を掛けて木綿織りや絹織りをする以前の、古い型式の機織り道具。この種のねまり機は、対馬の宗像神社にある奈良時代の地機模型に似ており、大陸伝来の機であろうといわれている。中越地方の、越後上布を織る地機とは型式が異なり、機の骨格が垂直になっているのにたいし、傾斜しているところから西日本型に属し、垂直型は東日本にみられる地機である。佐渡は西日本型機の分布域である。ねまり機は機と脚が分離できて、腰掛板も固定されず、腰をおろして右足を強く引っぱり、上下に経糸を動かし、大きな杼をつかい緯糸を入れて、筬でしめてから杼で打ちつけしめていく。ねまり機がもっとも遅くまで残っていたのは海府で、昭和五十年(一九七五)頃まで生活実用品を織るためつかっていた。近世までは、麻あるいは樹皮繊維の級や藤の皮をつかい平織りにして、衣料品・かや・漁網・綱などにした。その後、近代に入って木綿・化繊が進出すると、主役の座をゆずって、「しきの」(蒸し器のなかへ入れる布)や腰つけ袋などの二次製品に転用された。このねまり機が消えないで残ったのは、技能にすぐれた伝承者がいたからであるが、緯糸に木綿布を裂いて糸状にして織り込む裂織りが、敷物・こたつ掛あるいは現代的インテリア用品として人気があったからで、経糸に裂糸を強く打ち込むには、ねまり機が適しているのである。【関連】裂き織り(さきおり)・佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)【参考文献】『佐渡・相川の織物』(相川町教育委員会)、佐藤利夫「佐渡海府の木綿以前」(『日本民俗学』九九号)・同「佐渡織物誌」(『社会科研究紀要』一五集)【執筆者】佐藤利夫
・ねまり遍路(ねまりへんろ)
ねまりは、佐渡方言の座るの意である。遍路はふつう札所を巡礼者たちが、かたまって巡拝して歩くのが常であるが、「ねまり遍路」は「いざり遍路」ともいい、講の者が堂や寺などに集り、座ったまま霊場のご詠歌をとなえ、真言を繰ったり、念仏を唱えたりするものをいう。相川町橘の大師堂の縁日は、三・八・十月の二十一日で、土地の年寄りたちが集って「ねまり遍路」をする。世話役(坂下作助)のドウトリで、西国三十三番・四国八十八か所の御詠歌、光明真言・南無大師遍照金剛・不動様の真言・七十二番曼陀羅寺大日如来・地蔵真言・南無阿弥陀仏を、それぞれ二一遍ずつ唱えるという。またこの時に「星おき」といい、年まわりの悪い者は厄払いをしたり、漁師の人たちが漁つけを頼むこともあるという。ねまり遍路の行われる寺堂では、八十八か所や三十三番などの、石仏を安置する所がある。小木町宿根木の、岩尾山洞窟の入口の石像群や、新穂村瓜生屋の善光寺、金井町吉井の安養寺、真野町三滝の不動堂などにそれがみられ、石仏の台座の下には、西国・四国霊場のお土砂を納めたものだという。【参考文献】『海府の研究』(両津市郷土博物館)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『佐渡百科辞典稿本2』(佐渡博物館)【執筆者】浜口一夫
・野坂鉱山(のざかこうざん)
佐和田町沢根の野坂にある鉱山。坑道は高瀬への刀根下に一つ、滝の沢にもう一つの坑道がある。前者は下向きの階段掘りで、内部で分岐しているが共に途中で水没している。後者は水平坑道であるが、直進後右折したところで水没している。しかし、水中を覗くと小さな穴で奥の水没坑道と接続している。この坑道が横相による排水坑道であったことがわかる。横相の技術による水没坑道の取り明かし方を、具体的に今日に伝える貴重な遺跡であるといえる。高瀬刀根より野坂の方に下る道と、滝の沢からの水路沿いの道が合流した地点から近い地名「金山」に近接して、金属を製錬した穴窯炉が二基ある。この炉の沢向かいに山仕平という一帯があり、江戸初期または前期頃と思われる山師の居住区が存在する。高瀬刀根下の坑道内部から出土した唐津焼きの燈皿が、江戸初期のものであったことからも、この地の鉱山業の古さが知れる。滝の沢からの水路が沢根城まで引水されているといわれるが、横相の伝来は文禄四年(一五九五)五月の鶴子本口間歩以前には考えられない。事実とすれば上杉氏の番城時代のことになる。【参考文献】「二見の鉱山」(『鉱山史報』三号)【執筆者】小菅徹也
・ノロマケンドン(のろまけんどん)[アサヒアナハゼ]
褐藻など、海藻の生えた岩場にじっと動かないでいるので、ノロマケンドンやケンドンの方言がついた。江戸中期の諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』には、ホウゼウ(方丈)という方言が載せてあるが、これは一丈の部屋から転じて、住職のことを指すので、やはりじっとしている様を言い表わしている。付図は彩色なので、これより察すると、和名のアサヒアナハゼのことらしい。体つきと体側が銀白に光っているところから、旭穴沙魚の名が付けられたのであろうが、カジカの仲間である。眼上や鼻孔上に皮質の突起があり、前鰓蓋骨に鉤状に曲がった棘が一本ある。また、雄の交尾器の先端が三分岐している。一五センチほどに成長するが、ほとんど食用にしない。近縁種に、アナハゼやオビアナハゼがいる。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・のろま人形(のろまにんぎょう)
昔の高幕の説経人形の時代には、間の狂言として盛んに遣われていた。海府方面では、それをふつう「狂言」と呼んでいた。この「のろま人形」は、遣い手たちが、めいめい佐渡弁で、即興的なせりふのやりとりをした。佐渡に現在残っているのは、新穂村瓜生屋の「広栄座」だけとなったが、広栄座ののろま人形は、木之助が中心で、他に下の長・仏師・お花などが登場する。代表的な出しものは「生地蔵」で、四国詣りに出かける下の長に、女房お花が生き地蔵のみやげを所望する。ところが、帰りに腹黒い仏師にだまされ、木之助ふんするにせ地蔵を背負わされ、それが途中で露見し、木之助は裸にむかれ、男のシンボルを出して小便をするところで、幕となる筋書きである。このほか、「そば畑」「木之助座禅」「お花の嫁入り」「五輪仏」などのレパートリーもある。かっての海府方面での出しものは、その場限りの即興的なものが多く、好んで取りあげたものは、爺さんが参宮参りに行ったすきをねらって、真光寺の老僧が婆さんの所へはいりこむ話とか、若い衆の夜ばいこき失敗談など、村の噂の色ごとなどであった。そのため、中川閑楽翁の話によると、明治四十年(一九○七)頃、当局からその露骨な猥褻性を注意されたことがあったという。しかし、のろま人形のこのような艶笑譚的要素には、五穀豊穣を祈る古代の心が宿っているのかも知れぬ、との説もある。【関連】広栄座(こうえいざ)・説経節(せっきょうぶし)・文弥人形(ぶんやにんぎょう)【参考文献】佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】浜口一夫
★は行★
・バイガイ(ばいがい)
バイガイと俗称されている巻貝類は、軟体動物腹足綱のエゾバイ科に属す。雌雄二型で、雄は陰茎が突き出ているので、簡単に区別できる。いずれの種も食用に供されている。佐渡でも、真野湾のような砂泥底の深さ二○メートル位のところまでは、殻が硬くて艶のあるバイ(”虫”偏に”貝”)が多産する。肉は硬く、それ程美味ではない。深海(百米以深)には、小型のツバイがたくさん生息する。殻は軟かく、汚れて黒ずんでいることが多い。美味で、家庭の食卓だけでなく、酒の肴としても喜ばれる。大型のカガバイ(加賀)やエッチュウバイ(越中バイ(”虫”偏に”貝”))は、高級品として取扱われ、刺身も喜ばれる。その他チヂミエゾボラ(縮蝦夷去螺)も数は少ないが、利用される。佐渡近海では、これらエゾバイ類に近縁なテングニシ(天狗螺)も食べられる。なお、エゾバイ科のミガキボラは、殻が厚く、沿岸岩礁帯にすむ。エゾバイ類は、バイ籠で獲る。バイを食べて、越後の寺泊で中毒を起こしたことがある。なお、ツバイの名は富山の方言で、小さいを意味する「ちんこばい」に由来するという。【執筆者】本間義治
・灰吹銀(はいふきぎん)
鉱石を粉成し、水中で比重選鉱した硫化銀主体の汰物を、灰吹した銀。山吹銀・山出し銀と同じ。灰吹きとは、汰物を焼釜で蒸焼し、出来るだけ硫化銀を金属銀にする。大吹床の炉の中に炉滓(酸化鉛)を入れて吹き溶かし、そこへ金属銀化した焼汰物を加えて吹き溶かし、鉄分を主体とするカラミを加えると、硫化銀は完全に金属銀となり、金属鉛と合金になる。鉄鍋の中に灰を入れ、中央に骨灰の炉を作り、その中に銀鉛の合金を入れて周囲に火を置き、鞴を差してよく溶けたところで火を除く。鞴羽口のところに横に棒鉄を渡し、その上に大きな炭を渡しかけて、炭の上に火を乗せる。炉の周りにも火を並べて、湯色が見えるようにして鞴を差す。酸化した鉛は次第に灰に染み込み、炉底に灰吹銀が残る。この銀を須灰で固めた炉の中に入れ、溶けやすくするため半分量の鉛を加えて溶かし、湯になったら硫黄の粉を加えて、亜硫酸ガスにならないように木製の棒で攪拌し、鉛と銀を硫化物として金と分離する。硫化銀は薬抜床に入れ吹き溶かし、硫黄を分離除去して灰吹銀を得る。この灰吹銀は、ほぼ純銀である。【参考文献】国際金属歴史学会編『BUMAー4』【執筆者】小菅徹也
・萩流し(はぎながし)
盂蘭盆の八月十六日午後、戸地で行われる精霊流し。佐渡の盆の精霊流しは、月おくれの八月十六日に行う。精霊流しのことを「萩流し」というのは、家に迎えた先祖や新仏の供物・香花の中心が、萩であるところからきており、当日の送り盆の供物がおわると、各戸から供花の萩・ウマウシ・果物・その他仏具などが浜に持ち出され、当番が作った精霊船に乗せて火をつけ、海岸では講中の真言と題目の奉唱に送られる。精霊船は水泳のできる青年・子供たちに引かれながら沖へ流し、集落の人たちが見送る。相川では、萩流しを灯籠流しといい、紙の小舟に火をつけて流す(日蓮宗)。浄土真宗では行わないが、高千以北では、浜で石の上にダンゴと米をのせ、萩を砂に立てて真言を唱えながら、小さな精霊船を各戸でつくって海へ流す。この精霊船は、むかしは麦わらでつくったが、現在は板製にして、供物だけを流して船はもってかえる。また内海府では、組ごとに流す黒姫のようなやり方もあり、小木三崎の琴浦のように、「この日のゴンセン」といっているところもあり、地域ごとに特徴がある。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】佐藤利夫
・白山石楠花(はくさんしゃくなげ)
佐渡のシャクナゲは、ハクサンシャクナゲと呼ばれる高山性のシャクナゲ、この一種しか自生してない。小佐渡山地のナギ(シャクナゲ)の沢のものは絶滅し、大佐渡山地にのみ自生。大佐渡スカイライン沿い、金北山~ドンデン山縦走路、ドンデンなどが群生地である。花期は六月~七月。佐渡の最高峰金北山(海抜一一七二メートル)は、御山と呼ばれる神おわす峰。御山の神は、白雲の中で白い馬にまたがり、手に純白のナギの花をもつと言い伝えられている。ナギの花は神の花。ナギは儺木で、人にふりかかる難を追いはらう神木の意味で、シャクナゲの古名である。昔は男七才になると父に連れられ御山参をした。山頂で手折ったナギの枝葉は、御山詣りの証である。このナギを神棚に供え、赤飯をたき近隣親戚にくばり、わが子七才の御山詣りを祝った。「石楠花握り御山詣でし睡し子よ」は、真野町の金子のぼるさんの句。大佐渡山地のドンデン。広大なシバ草原に、島状に海状に広がるシャクナゲ群落。放牧地なるが故に、有毒植物のシャクナゲが牛に食われず、純群落化し大群生した。【花期】六~七月【分布】北・本(中・北部)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・白山神社(達者)(はくさんじんじゃ)
宮ノ前にあり、白山姫命・伊弉冊命を祀る。旧名白山権現と称す。開創年代は諸説があり、『宝暦寺社帳』には、天正十八年(一五九○)勧請、社人源左衛門とあり、明治二十五年の「書上」には、この源左衛門は、「大野村(新穂村)の大野殿・本間小次郎の子孫で、達者村の開祖にて、この社を祀る」とある。また御神体は、三寸程の金属性で、三浦藤吉の祖先が畑地を耕作中、出現したと伝えられている。この三浦氏は、中村に屋敷をもち、「たばせ垣の内」の水利権をもっていたことから、達者では中心的な百姓であり、本間氏とともに達者の鉱山稼ぎに来て、鉱山が衰退すると水田を開発したものと思われる。一方、釜所地区(北側)には熊野神社(祭神は伊弉冊命)があった。塩焼きを生業としていた地域で、創立年代は諸説があり定かではない。白山神社より古いという説もある。この宮は、明治十一年(一八七八)十二月、白山神社に合併された。白山神社の祭日は、旧九月十二日とあったが、今は十月十二日。芸能は、鬼太鼓・豆蒔き・獅子・富山流薙刀と棒術を奉納する。安政三年八月悪病流行の際、真光寺法導院の山伏が五郎平に宿泊し、若者の要望に答え、鬼太鼓及薙刀を伝授したのが始まりという。【参考文献】『金泉郷土史』、矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】三浦啓作
・羽口屋(はぐちや)
『佐渡相川志』に、「羽口はすべて吹所の吹車に用いる土細工なり。先年は大沢に善右衛門・三九郎・市左衛門・五左衛門・惣次郎・孫次郎・与兵衛あり。中頃伊兵衛・善四郎・長兵衛・八右衛門・長左衛門、当時は南沢に伊兵衛、同善光寺前の長兵衛、羽口の外砂鍋土器を焼く。往古に是等土器も他国より来たれり。」とある。羽口は吹所(鉱石精錬場)用の鞴の先につける道具で、専門の職人七人が焼いていた。当初は買石・山師が使用したが、後年は主として買石が使った。後に大沢ばかりでなく南沢等へ散り、業者数も少なくなった。江戸前期から専門業者を羽口屋と呼ぶようになったが、幕末には伊藤甚兵衛家も羽口屋を屋号に使っている。羽口屋と云えば、伊藤甚兵衛を指す者が多いのも頷ける。『佐渡相川志』に云う南沢の伊兵衛は、伊藤伊兵衛のことを云うのであろう。【関連】羽口屋甚兵衛(はぐちやじんべえ)【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】佐藤俊策
・バクトゥ(ばくとぅ)[キュウセン] バクトゥが、博徒に由来するか否かは不明であるが、キュウセン(求仙)というベラの一種に付けられた方言としては、全国で佐渡だけらしい。北海道から南日本まで、広く日本の沿岸に分布する魚であるが、個体数は佐渡ではホンベラ(本遍罹)より少ない。雄と雌で体色が異なり、色彩に応じて、佐渡では雄をアオバク、雌をアカバクと呼び、さらにその遊泳行動からシマメグリ(嶋巡り)とも呼ぶ。幼魚時代は橙色で、初めは卵巣が発達して雌として機能し、その後に精巣が発達して雄になる。すなわち、雌性先熟の性転換を行う。ベラ類には、性転換を行う種が多く、老幼によっても体色や斑紋の異なる種もある。キュウセンやホンベラ(エトリ・餌取りの名がある)は、夕方になると砂中に潜って眠り、明け方に起き出して索餌行動に入るという、変った習性をもっている。しかし、ニッカリとかタッカリと呼ばれているササノハベラは、砂中へ潜らない。ベラ類は、釣りの対象として人気があり、焼き干しにしてだしに利用されたり、焼き魚を砂糖醤油で煮たり、秋祭りの魚として賞味されたりする。なお、バクトゥの名は、江戸の諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』や、田中葵園の『佐渡志』に出ている。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・羽黒神社(はぐろじんじゃ)
北片辺の産土神で、倉稲魂命を祀る。例祭日は四月十五日。『佐渡国寺社境内案内帳』では、「文禄元年(一五九二)勧請。社地二畝二五歩。社人豊右衛門」となっている。同地には別に、山王権現・社地四歩・社人権兵衛、若宮権現・社地四歩・社人次郎兵衛がある。社人豊右衛門は百姓でなかったから、神社の鍵取りとして専属で神事を勤めたと考えられる。山王社の社人権兵衛、若宮社の次郎兵衛ともに百姓で、それぞれ二、三か所に居屋敷がある。その土地に住んだ時期が近世初頭とみられるから、羽黒神社の勧請も記録通りであろう。羽黒神社は北狄にもあるが、羽吉(両津市)・安養寺(金井町)の羽黒神社はじめ、山田(佐和田町)・野浦(両津市)・柳沢(赤泊村)・大泊(羽茂町)にあり、八か所にすぎない。羽吉の羽黒神社の祭神は、夜長浜に上陸した寄り神で、神体山は五月雨山といわれており、佐渡の最初の羽黒神社と考えられる。北片辺の場合は、藻浦崎の南部を中心にして鮑採取をしていた、海士たちの守り神として祀ったのかもしれない。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】佐藤利夫
・羽黒神社(北狄)(はぐろじんじゃ)
前の田にあり、祭神は倉稲魂命。天正六年(一五七八)創立。旧名羽黒権現、嘉永四年羽黒神社と改称。明治五年(一八七二)の書上状には、「北狄・姫津弐ケ村入会鎮守」とあり、当時は姫津も氏子だったという。宮守りの佐治兵衛家は、羽黒本社のある羽前田川郡の豪族、斉藤氏の流れをくむといわれ、羽茂町三瀬の羽黒神社所伝の、「羽黒山に座す出羽神社より奉還の際、海路に於て船底破損し海水侵入しければ、鮑数多く破損箇所に螺集し、海水の侵入を免れ上陸せり。依って当時神誓をなし、氏子一同鮑を食わざる事、今尚昔の如し」が、斉藤家に伝わる「鮑食わず」の口碑に酷似しているといわれている。斉藤氏の中の万五郎は、流人の伊勢祭主を世話したという。例祭日は十月十九日。境内には、脇宮として「風宮神社」(祭神・級長戸辺命)がある。【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、矢田求他『平成佐渡神社誌』【執筆者】三浦啓作
・箱番匠(はこばんじょう)
近年まで地方在住の番匠(大工)には、まだ十分な分業がみられず、普通の番匠(家大工)・宮番匠・船番匠など、大ざっぱな分け方しかできなかった。その中で、比較的早く分業をみた箱番匠がある。いまわかっているのは、佐和田町八幡で砂防林の松林が成長して、砂畑を利用した野菜つくりが主業となり、その副業を兼ねて桐栽培をするようになってからである。つまり桐箪笥や桐箱の副業から、専業の箱番匠の村が成立した。桐材は、耐火性・耐湿性と軽量という長所があって、衣類・書類を保管する箪笥が普及しだしたのは、一七世紀中葉の明暦(一六五五ー五七)の頃からである。都市部では、長持・長櫃など大型家財の収納が先行し、箱ものに移行したらしい。桐は軟材とはいえ、扱う刃物はかえって鋭利性が要求されるので、ノミやカンナなどが構造的に異なっていて、そこにも分業の動機があった。その点で、建築付属家具の建具とは共通するかにみえて、本質的に動機が別であり、建具職の歴史が比較的新しいのはそのためである。明治中期に松ケ崎から北海道に移出した品のうち、箱物は硯箱・文庫・銭箱など一六種目あるが、木製建具はみあたらない。【参考文献】『万都佐木』(畑野町史)【執筆者】本間雅彦
・ハコフグ(はこふぐ)
ハコフグ(箱河豚)の名と画は、滝沢馬琴の『烹雑乃記』や、田中葵園の『佐渡志』に載っており、江戸時代から珍希なフグとして、注目されてきたことが分る。暖海南方系の魚類であるが、幼魚は佐渡沿岸でも採れ、冬季に浜辺へ打ち上げられたりする。体が硬い甲板で覆われ、断面が四角であることが特徴で、体色は黄色がかり、青色の斑紋が沢山ある。肉は白身で無毒であり、食用にされる。しかし、佐渡や越後では乾燥して、置物に利用する程度にすぎない。新潟県内では、ハコフグの仲間として、ハマフグ・コンゴウフグ・ウミスズメ・ラクダハコフグ・ミナミハコフグなど、いずれも珍希な種類が記録されている。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・はしご乗り(はしごのり)
【別称】相川相壱会(あいかわあいいちかい)
・播種場(はしゅじょう)
明治十年代に各郡に設置された、近代農法の研究と普及のための機関。新潟県会では、各地の土地・気候条件に適応した農法の研究と普及を目指し、明治十三年(一八八○)一月に、「各郡へ播種場ヲ置キ、新潟農事試験場ノ付属トナス」ことを決議した。そして、各地で栽培されている作物の種子で、優良なものを試験栽培し、広く一般の農家へ配付することにした。佐渡三郡でも、この県会の決議に基づいて、明治十三年四月の三郡戸長会議で設置を決議している。資金は、共有金(奉行所時代に蓄えられていた金や穀物で、三郡連合会が引継いだもの)の内の興産資金を充てることにし、八幡村(現佐和田町八幡)に開設された。開設の時期は明確ではないが、明治十四年三月の「新潟県勧業報告第七号」に記事があることから、これ以前であることがわかる。明治十五年三月二十日、新潟農事試験場で新しい農学と技術を学んだ植田五之八が、担当人(場長)に就任した。しかし、経済的理由もあって播種場が明治十七年頃に閉鎖されると、植田は施設や器具類一切を譲り受け、自分の屋敷内に私設の農事試験場を開設した。【関連】植田五之八(うえだごのはち)【参考文献】石瀬佳弘「明治期の勧農政策と佐渡における稲作技術の発達」(『佐渡史学』13)、『新潟県勧業報告』【執筆者】石瀬佳弘
・波食甌穴群(はしょくおうけつぐん)
英語のポットホールの訳語として、カメ(甌・甕)型の穴の意で、甌穴が用いられて来た。一般に甌穴は、急流河川の河岸や河床の、堅い岩面に穿たれる円形の深いカメ型の穴で、水流によって浸食される河食型が多い。一方岩石質の海岸、つまり磯浜の岩面に穿たれる同様の穴の場合が波食甌穴である。これは打ち寄せる海波が、磯の形状によって局部的に渦流を生じ、その水流が浸食を及ぼすと共に、渦流に巻き込まれた岩屑が削磨材となって、円形の穴を穿つ。潮間帯に多く、その上下数メートルの位置に形成される。穴の大きさや深さが二ー三メートルに及ぶものもあるが、一メートル以内が多い。凝灰角礫岩の様な、削磨材の生じ易い地質の場合に、多数の甌穴を形成し、波食甌穴群となる。佐渡では相川町の平根崎、同二見半島南西端の台ケ鼻、小木町宿根木相馬崎に好例が見られる。【関連】平根崎(ひらねざき)【参考文献】伊藤隆吉『日本のポットホール』(古今書院)、地団研地学事典編集委員会『地学事典』(平凡社)【執筆者】式正英
・波食台(はしょくだい)
岩石質の海岸に於いて、急な海食崖(波食崖)下の浅海底に生じ、沖合に向かって広がる平坦な又は緩傾斜な台状の地形。潮間帯(高潮位と低潮位の間)の平坦な部分を、波食棚として区別する場合もあるが、この部分は波食に干陸時の風化が加わり平坦となる。浅海底に、波食により台状の地形の造られる深さは二○メートル以内迄、普通海岸から沖数百メートル位の範囲である。徐々に隆起する海岸で、波食台の幅が大きくなる傾向がある。隆起波食台は、地盤の隆起運動によって干陸化した波食台であり、海岸段丘の下位を構成する事が多い。佐渡島の海岸線は隆起傾向にあるため、波食台の地形が海崖下に多く見られ、磯漁業に利用され易い。とくに小木半島・二見半島南西端・千畳敷沿岸には、隆起波食台と共に波食台の発達がよい。【参考文献】『地形学辞典』(二宮書店)、茅根創・吉川虎雄「房総半島南東岸における現成・離水浸食海岸地形の比較研究」(『地理評』五九巻一号【執筆者】式 正英
・八幡宮(はちまんぐう)
下山之神。『佐渡国寺社境内案内帳』には、「正和三年、相川大間町浜の神岩より臨光ありて、柴町上方と申す所に勧請、その後、慶長五年より炭屋町北方院山と申す所に鎮座。寛永二年九月十二日当時の祠官屋敷の東に遷した」とある。この間の来歴には、諸書で多少の違いがみられるが、海からの寄り神である。佐渡金銀山の盛況にともない、住民の崇敬を広くうけた。現在地へは、享保四年(一七一九)七月二十四日に移ってきた。祭礼は、鎮目市左衛門・竹村九郎右衛門奉行時代より執り行なわれ、幕領時代には社殿の普請・修復費および宮建立には、白銀・材木などが下された。また神職には、二割安米の買受を許されていた。祭礼は八月十五日。幕槍を出し、町同心を派遣して警護にあたらせた。現祭礼六月十五日。流鏑馬・神楽がある。【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、矢田求他『平成佐渡神社誌』【執筆者】佐藤利夫
・八幡神社(はちまんじんじゃ)
千本の村袋にある。祭神は誉田別命を祀る。社人は宗右衛門。『佐渡国寺社境内案内帳』に、当社は永禄十一年(一五六八)の勧請とある。なお同書には、千本村に十二権現があり、勧請は永禄四年(一五六一)、社人は宇右衛門となっている。もと千本は下入川といわれ、その草分けは、武内万四郎と言い伝えられている。また言い伝えでは、明徳二年(一三九一)の夏、日照りが続き、入崎浜に千本の塔婆をたて、雨乞いをしたので、千本という地名になったともいう。別にあった熊野白山合殿は、明治四十三年(一九一○)八月十五日本社造営の際、八幡社に合併奉祀した。祭典は四月十五日、鬼太鼓を奉納し、各戸をまわる。この鬼太鼓は石花から習ったという。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)、『高千村史』、『海府の研究』(両津市郷土博物館)【執筆者】浜口一夫
・八升ケ平遺跡(はっしょうがだいらいせき)
羽茂町大字村山字八升ケ平にある、縄文中期から後期の遺跡。遺物は多くないが、土器・石鏃・石槍・石斧・石錐などがあり、なかに後期旧石器と縄文早創期の石槍がある。後期旧石器の石槍は、小木町の佐渡考古資料館保存で、両端が少し欠ける黒曜石製、長さ一九・五㌢の大形のもの。舟底状に湾曲し、北海道紋別郡の白滝遺跡の石槍に類似する。縄文早創期の石槍は、羽茂町史編纂室保管で、珪質凝灰岩製、長さ一五・四㌢の木葉形。草創期前半の特徴的形態で、越後の小瀬ケ沢洞窟にも類例がある。他に島内では、後期旧石器のナイフ形石器一点が、小木町の長者ケ平遺跡から、縄文早創期では、長者ケ平遺跡から有舌尖頭器一点、真野町倉谷の小布勢遺跡から、石槍断片一点などがあり、小佐渡南西部(小木半島側)の段丘に偏在して発見されている。【参考文献】 本間嘉晴・椎名仙卓「佐渡小木半島周辺の考古学的調査」(『南佐渡』新潟県教育委員会)、計良勝範「古代文化のあけぼの」(『羽茂町誌』二巻)、本間嘉晴『佐渡における旧石器・縄文草創期の文化』(「第一回佐渡島学習大学」佐渡博物館)【執筆者】 計良勝範
・八百比丘尼(はっぴゃくびくに)
八百比丘尼の伝説は、「不老長寿の人魚の肉を食べた娘が、八百歳の長寿を保つた」というもので、全国的に関係のない都道府県はないくらい多いという。しかし、生まれたという所は少ないらしい。佐渡では、羽茂に次のような話がある。むかし、大石村の浜講中の人たちが、竜宮城のような所で大変な御馳走になり、土産に人魚の肉をもらってくる。それは、この前の講中の酒盛りの時、仲間に入れてやった男のお返しであったが、その肉はみな気味悪がって浜に捨てて帰った。ところが、田屋の老人だけはほろ酔い気嫌で持ち帰り、戸棚の上に置いたまま眠ってしまう。翌朝、これを食べた一七歳の娘がそのまま歳を取らなくなり、変わり行く世の中に無情を感じて、諸国行脚の比丘尼となる。八百歳のとき若狭国(福井県)小浜で、残り二百歳の寿命を国主に献じ、入寂する。小浜市の空印寺には、洞穴があって入寂の地とされ、今も八百姫明神と崇め祀られているという。羽茂では古くから八百比丘尼には、生家の田屋を冠し「田屋の八百比丘尼」と言い、また、「粛慎の隈」を教えたという話が入るのが特徴である。田屋家は大石に現存し、大石熊野神社の社人として、元亨二年(一三二二)の棟札に、藤井宗正という先祖の名を残し、屋敷内に元禄検地帳に載る薬師堂を持っている。【参考文献】 『日本伝説叢書佐渡篇』、『羽茂村誌』、「八百比丘尼サミット資料・福井県小浜市」【執筆者】 藤井三好
・初山駆け(はつやまかけ)
佐渡の最高峯金北山(一一七二㍍)は、佐渡びとからオヤマと呼ばれ、古くから信仰の山であった。昔は女人禁制で、男子七歳になるとハツヤマかけといい、男親と一緒に、頂上の金北山神社にお参りした。登り口は、相川・小川・達者・北狄・戸中・南片辺・石花・北川内・入川・沢根・五十里・真光寺・中興・新保・吉井本郷・加茂など、至る所にあった。相川町北狄では、男の子が七歳になると、七月二十四日の金北山祭りをめどに、まず海で身を清め、自分の年齢だけの浜の小石をふところに入れ、夜中の一時ごろ男親と連れだって出発した。上り下り八里(三二㌔)の道のりである。北狄川からゲンノハゲ・ウチコシ峠・長坂尻へと登り、そこで相川からくる道と合流した。達者や小川のものは大平へ登り、そこから峰づたいに金北山へ。戸地・戸中のものは、戸地川沿いに南片辺の船山付近まで登り、片辺・石花方面からくる道と合流した。山頂に着くと、浜から持ってきた小石をそこへまき、祠に参った。山が高くなるといった。帰りには、シャクナゲを数本折って持ち帰る風習があり、それを神棚に供えたり、軒下につるしておくと魔よけになるといった。親類衆へは、みやげとして餅などそえて配った。ハツヤマカケをすると、その子が丈夫になるといった。【参考文献】 浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、山本修之助『佐渡民俗ことば事典』【執筆者】 浜口一夫
・馬頭観音(ばとうかんのん)
一般には馬の守護神は馬頭観音であり、牛の守護神は大日如来や牛頭天王とされていた。造立目的の多くは、馬の供養と結びつき、頭上の馬の顔から、馬の無病息災や供養が連想される。造立者の多くは、馬に関係した人たちの信仰によるものである。相川町北狄の馬頭観音は、胎蔵寺境内の大師堂に祀られている。むかし中川権右衛門家の者が、浜の田んぼの田守りにいくと、浜で呼び声がした。近寄ってみると、馬の頭によく似た石であった。これは馬頭観音にちがいないと背負い帰って、寺山の「松の平」に祀った。ところが、沖の船止めをして困ったので、現在の大師堂に移したという。関の馬頭観音も、大波で岩崎長右衛門の田に上った大石だという。この観音堂の祭日は一月十八日で、むかし馬を飼っている男たちが、十七日の晩からおこもりをして真言をくり、高千方面からも参詣者がきたという。相川海士町の観音堂にも、馬頭観音の石塔がたっている。牛の守護神・大日如来を祀る大日堂は、相川海士町や石花(地蔵堂)にあり、牛の石像を祀っている。新穂村瓜生屋の大日霊社は、牛飼いの牛神として有名である。越後の栃尾市には、頭上に牛の頭を載せた牛頭観音があるという。【関連】 牛の信仰(うしのしんこう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八、通史編 近・現代)、石田哲弥『石仏学入門』(高志書院)、『海府の研究』(両津市郷土博物館)【執筆者】 浜口一夫
・花籠(はなかご)
昔は三歳(岩谷口・小泊・金丸・小倉)または七歳以下(滝平・腰細・大和)の子供が死ぬと、家のカドグチやムラの四辻などに、高さ四尺ほどの竹の棒に、竹であんだじょうご形の小さな籠をつけたハナカゴをたてた。なお、そのハナカゴには、子供のゾウリ・オモチャ・戒名札などをつけ、そのそばに椿の葉と水とヒシャクを添えておく。道行く人は哀れを誘われ、その椿を三枚入れ、ソリジャクで三ばい水をかけていく。死んだ幼児の花の役を手伝うのだという。そのハナカゴを相川町二見元村では、三十五日がすむと、墓場の隅で焼き、羽茂町滝平では四十九日間たてておき、五十日めに川へ流した。「賽の河原和讃」によると、親に先だち早死にした幼児は、その罪をとわれ、あの世において花の役や石積みの役をいいつけられるのだという。両津市願のぶきみな賽の河原が、その石積みで有名である。【参考文献】 浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、山本修之助『佐渡民俗ことば事典』【執筆者】 浜口一夫
・羽田城址(はねだじょうし)
相川小学校の北側、標高五○㍍の段丘先端舌状突出部が、「城が平」と呼ばれる羽田城の跡である。段丘下を流れ羽田浜に注ぐ滝ノ沢(大仏川)を天然の堀とし、海岸に向って突出した舌状部の末端は、人工的な空堀で横断している。主部は一○○㍍×一五㍍ほどの細長い形で、その先端に二段の小郭がみられ、北斜面には腰郭が付属する小規模な城址である。城の後方、鶴子へ通ずる旧道上には、三か所の木戸を置いていたことが地名の上から知られる。城に接続する後方台地は、「稲干場」の地名で湧水点をもつ。さらにこの後方の一段上の丘陵上には、旧道を挟んで「天神」「富士権現」という地名もある。垣の内集落の存在したことがうかがわれる。『佐渡名勝志』や『相川町誌』には、相川鉱山開発前に農民小集落が存在したことを述べているが、こうした集落(羽田村元禄検地帳には「垣の内」の地名が二四筆載る)の代表者が羽田城の城主であり、鶴子銀山を所有した沢根本間氏の配下の城であったであろうことを思わせる。今、この城址を中心とした地帯は、「城址公園」として整備されている。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四)、山本仁「羽田村の垣ノ内・城跡について」(『相川郷土博物館報』三号)【執筆者】 山本 仁
・羽田町(はねだまち)
相川町役場に近く、郵便局や警察署のある中心街が羽田町である。北どなりは塩屋町、南どなりは江戸沢と一丁目で、塩屋町側を上羽田町、一丁目側を下羽田町と呼んでいた。鉱山開発以前は、「羽田村」という漁士村(『佐渡相川志』では農人地)であったが、急速に市街地化したらしく、寛永十二年(一六三五)の大火では、瀬戸物町まで四八軒が焼失している。大火があった一二年後の正保四年(一六四七)に、京町から商人が移り住んで、京都から絹ものを仕入れて(これを買下しという)国仲に売り出した。その後、相川の重立った町人の多くは羽田町に住むようになったが、正徳の頃(一七一一以降)より「買売減少セリ(『相川志』)」とある。文政十年(一八二七)の町墨引の絵図をみると、約六○軒ほどのうち、はっきり店構えをしていたとみられる家はおよそ半分で、四人の家大工・番匠はじめ、日雇取二人・医師三人・鉄砲師二人・針灸三人・針仕事などのほかは、名主・中使・世話煎・御番所用人などとなっている。なお同図では、現警察署の位置に廣恵倉御役所が、浜通りには材木町御番所や大きな御用炭御納屋が二棟みえている。【執筆者】 本間雅彦
・羽田村(はねだむら)
相川町(金山町)は、この村より成立。相川四寒村、相川・羽田・下戸・鹿伏の元村。慶長五年(一六○○)羽田村検地帳には、「佐州海府の内羽田村金山町当起」(『佐渡古実略記』)とある。羽田村総刈高は、本刈二五一九刈、見出九○五刈、計三四二四刈。この羽田村について『佐渡古実略記』は、「相川、元ハ海府、羽田村ノ内金山町ト云フ。往古ハ人家モナク山林竹木茂リ、今ノ羽田町ノ処ニ百姓家五、六軒アリ」と記している。鎮守は塩釜神社とみられる。文禄元年(一五九二)創建と伝える。中世までの羽田村には、上相川台地や南沢上流部に垣の内農民がいたが、海岸では塩屋町あたりは古式の製塩地であった。また金山町誕生前の寺院は、医王寺(天正十一年・鹿伏村・天台宗)、観音寺(慶長以前・鹿伏村・真言宗)、銀山寺(永正年中・下寺町・浄土宗)、高田寺(文禄元年・江戸沢・一向宗)、本興寺(永正年中・下相川・法華宗)などであったといわれ、これ以後、多数の寺院が建った。奉行所敷地は半田・清水ケ窪といわれ、ここにいた百姓は移動して、北の海府百姓町を形成し、塩屋町・南沢・上相川の方にいた百姓は、南の羽田百姓町(羽田村)に移った。文化十三年(一八一六)羽田村大絵図では、下戸町の山手側に二六軒の家が建っていた。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・脛巾脱ぎ(はばきぬぎ)
交通機関の発達してなかった昔の旅は、辛苦と危険の多いものだった。そのため四国遍路や上方詣りの長旅に出かける場合は、永の別れを予想し、親族・知己との水盃を交わすことが常だった。ハバキはハバキモ(脛巾裳)の畧で、昔の旅などに脛に巻きつけたもので、その後の脚絆にあたる。はばきぬぎは、そのハバキをぬぐこと、つまり無事旅を終え、そのことを知人(同行者など)と喜び、祝宴を開くことをいう。ハバキヌギに似たことばにサカムカエがある。これは旅に出た者の帰りを、親族や知己が村境まで出迎えて、飲食をともにして祝う習俗である。旅立ちを送る祝宴はサカオクリである。長野県北安曇郡などでは、よそ者が村に定住する場合の保証人をハバキ親というし、東北地方では一般に佐渡と同じように、旅から帰ったときにする祝いを、ハバキヌギなどというそうである。【参考文献】山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、大間知篤三他『民俗の事典』(岩崎美術社)【執筆者】浜口一夫
・浜石(はまいし)
相川町の海岸一帯の浜砂から採取した金鉱鉱石。北沢川(濁川)などの上流の金銀山から、鉱床が風蝕して流れ出した金銀をつつむ脈石(石英)が、永い間波にもまれて破砕され、水流によって運ばれ、白く美しい砂礫の浜を作った。含金砂礫層から採取する砂金掘りも、浜川流しと呼んで同じ海岸で行なわれたが、浜石採取とは区別される。この浜石採取が大がかりに始まったのは、金銀銅などの「重要鉱物増産法」が公布された昭和十三年以降で、部分的には昭和七年ころから始められていた。海岸に眠る浜石の量は、約一○○万トンと推定され、金銀をふくむ莫大な地下資源であった。当時の記録によると、浜石の推積層は四、五メートルから六メートルの深さに達し、地表から二・五ないし三メートルで海水面に達した。海面下はポンプ排水で採取したものの、坑内採掘に比べると低コストで、区域は一丁目以南から下戸浜までの南北一・四八キロの長さで、面積はほぼ二万坪。このうち半分の地積は家屋が建ち並んでいて、約二五○世帯が買収によって立退いたといわれる。相川の海岸は人と機械で一大工場化した。このころ坑内の金品位は、一トン当たり約二・七グラム、銀が七○グラム程度だったが、浜石は平均して金四グラム、銀八○グラムの実収だった。昭和十八年の金山整備まで続いた。戦争国策によったものである。この採取で海岸線の景観は大きくさま変わりした。【関連】浜流し(はまながし)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間寅雄
・浜伊吹防風(はまいぶきぼうふう)
【科属】セリ科イブキボウフウ属 夏の相川町の観光景勝地は、長手岬・春日崎・尖閣湾・入崎と、いずれも岩礁海岸の美しい所である。これらの岩礁海岸を彩る夏の花といえば、岩場に咲くハマイブキボウフウである。セリ科特有のカラカサ状の散形花序の白花が、紺碧の海に映える。夏の岩場を、わたしの天下といわんばかりに群生する。イブキボウフウは、滋賀県の伊吹山に多く、薬草として栽培される中国原産のボウフウに似ているので、この名がつけられたが、その生育地は山地である。このイブキボウフウに似て、海岸に生えるのがハマイブキボウフウである。イブキボウフウより葉は厚く、葉の裂片が広いので、ヒロハイブキボウフウと呼ばれるが、分類的にはイブキボウフウの海岸型の品種である。かって来島した牧野富太郎は、ヒロハエゾノイブキボウフウと教示されたが、現在はこの名はつかわない。佐渡の海岸に多産するハマイブキボウフウは、越後にいっさい分布しないのは不思議なことである。越後には山地にイブキボウフウ、高山にタカネイブキボウフウ(垂直分布の上限一九六○メートル、葉の裂片は糸状で長い)が分布する。【花期】七~八月【分布】北・本【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】伊藤邦男
・浜豌豆(はまえんどう)
【科属】マメ科レンリソウ属 浜に生え、エンドウに似た実をつけるのでこの名がある。浜辺をはい茎葉がびっしり浜をおおい、紫紅色の蝶形花をびっしりつける。砂浜にも岩石海岸にも大群生して、浜のお花畑となる。若い実は莢ごと食べるが、石ころの多い海岸に生える小川(相川町)では、イシエンドウと呼ぶ。「故郷や浜えんどうもなつかしき」。この句碑は河原田小学校の玄関前に建つが、佐々木象堂の句。象堂は蝋型鋳金作家。『瑞鳥』、『采花』などが代表作。人間国宝に指定(一九六○)された。明治十五年(一八八二)河原田本町に生まれ、河原田小学校入学。裏はクロマツ林。林をぬけるとハマナス薮。広く長い砂浜がつづく。早春三月、ここに一群ここに一団と眼をひく真紅の芽生えは、ハマエンドウの芽生え。大地の復活、命の復活である。少年象堂は、胸おどらせてこの芽生えをみたにちがいない。花咲くのは五月。ひしめき咲く濃紅紫色の花は、目くらむほど強烈である。“浜えんどう今も沖には未来あり”。少年象堂だけでない。どの時代も少年たちは花の命に心躍らせ、沖に未来をみた。【花期】五月【分布】日本全土【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・浜田遺跡(はまだいせき)
真野町大字豊田に所在し、圃場整備によって、佐渡考古歴史学会の協力を得て、昭和四十九年(一九七四)七月二十一日から一か月間、発掘調査を実施した。真野町は佐渡の西側に位置し、国府川が平野の中心を流れるが、遺跡は山に連なり、南の海岸地に豊田の漁村集落がある。遺跡の中から1号2号の住居址と、1号2号の古墳を検出し、その下部から縄文後期初頭の土器群が集中していた。1号住居址からは、古式土師器を中心に管玉未成品が5、銅鏃1が出土した。2号住居址からは、須恵器と土師器であるが、土師器は細片のみで図示できない。須恵器は平安初期に位置づけられる。1号古墳の石室は、南に向けて開口する横穴式で、短冊形を呈していたものと推定される。玄室の一部と羨道部は、破壊されていた。遺物は馬具の金具の一部と、刀子・管玉・金環・ガラス小玉である。2号古墳は、水田造成時に破壊され、石室側壁の一部が残っているに過ぎない。遺物はなかった。浜田遺跡は、後期初頭の縄文土器の刺突文の一群や、橋状把手の鉢形土器は、三十稲場式や中葉の三仏生式に類似する。また古式土師から、古墳時代後期の横穴式石室、平安時代初期の住居址やそれに伴う遺物など、4期にわたり断続的に遺跡が形成されている。【参考文献】「浜田遺跡」(真野町教育委員会)【執筆者】佐藤俊策
・浜流し(はまながし)
川流しというのは銀山川通りの、浜流しというのは河口の砂の中にある砂金を採取する作業のこと。浜砂を深く堀込み、涌き出す川水や海水を、水上輪を立てて汲み出しながら、川底の含金砂礫を掘り、もっこで流し場に運び出す。次に水流を引き分けた水路の中に、猫筵を敷並べて含金砂礫を流しかけ、筵目に細かい砂を仕付ける。この砂をゆり板の中に洗い込んで移し、水を張った半切り桶の中で、ゆり板を前後左右に揺すって、比重選鉱し砂金を採取した。ただし、砂金といっても一般的な砂金ではなく、金銀鉱石を粉砕処理した鉱砂が、洪水その他で流失したものから回収したものである。正しくは、鉱石から分離して間のない金粒というべきものである。同時に、金粒が肉眼で確認できるような鉱石の浜石も拾い集められ、粉砕された後、ゆり板で比重選鉱された。汰物は床屋に回された。【関連】浜石(はまいし)【参考文献】『佐渡金銀山絵巻』(相川郷土博物館)【執筆者】小菅徹也
・ハマナス(はまなす)
【科属】バラ科バラ属 北海道の海辺を、花綵の様に彩る北の海辺のハマナス。南下して、太平洋側では房総を南限とし、日本海岸沿いに南下して佐渡に分布、さらに伸びて鳥取砂丘を南限とする。ハマナスは浜梨の転訛というが、佐渡ではハマナスと呼ぶ。岩石海岸では、冬の波にさらされる海岸前線に分布せず、そのすぐ後ろの冬の波にさらされない場所に、帯となって生態配置する。「浜なすは己の位置を失わず」(荒沢勝太郎)の句のとおり。長塚節の佐渡への旅は、明治三十九年(一九○六)九月。小木の宿のランプの下で、宿の女との情景を『佐渡島』に次の様に記す。「どこでとった花かと聞くので、西三川の海岸でとったのだというと“美しいものでございますノ、花というものは花を見て居ると、なんにも要らん気がいたします”といいながら、花弁をかき分けながら鼻へあてたりして“こういう花が海辺にひとりで咲くのでございましょうか”といって驚いている。女は指の先まで白い。“少しも賎しい葉ではございませんノ”といって感に堪えたさまである」。節にとって佐渡は“ハマナスと美しい人の島”であった。【花期】五ー八月【分布】北・本(中・北部)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花』【執筆者】伊藤邦男
・浜旗竿(はまはたざお)
【科属】アブラナ科ハタザオ科 ハタザオは旗竿の意味。ロゼット葉の中心から、細くてまっすぐな花茎を旗竿のように立てる。「花をつけながら、サヤをつけながらドンドン伸びる。これほど上を向いて伸びるものは知らない。タケノコもかなわない」といわれるハタザオ。まさにテンツキ(天に向かって伸びる草木のこと)である。ハマハタザオは浜に生える旗竿の意味。佐渡の海岸のほとんどが岩礁海岸。海に点在する岩礁の岩肌が、真白に遠望されるのがハマハタザオの群生、花盛りである。ハタザオのように丈は高くならず、岩場に生えるものは二○センチぐらい。岩場の乾燥と貧養に耐え、塩風・風衝の風に耐え、岩場一面を占有する。葉も茎もがっしりとしてたくましい。茎や葉には粗い星状毛が密生し、葉も厚っぽい。茎の先にアブラナ科特有の十字形の白花を結び、やがて長い果実の莢ができるが、横向きにならず茎に沿って天を向く。佐渡にはハマハタザオ(花は白色、種子は一列に並ぶ)、ハタザオ(花は黄白色、種子は二列に並ぶ)以外に、山の屋根の岩場にイワハタザオが、大佐渡の尾根の神子岩やドンデンのザレ場に、ミヤマハタザオが分布する。【花期】四~五月【分布】北・本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』
・浜端洞穴遺跡(はまばたどうけついせき)
相川町大字高瀬字浜端一二三五ー一に所在し、四○一平方㍍が昭和四十八年(一九七三)三月二十九日新潟県史跡に指定される。国定公園地域内にあり、主軸は北西方向で、奥行一・七㍍、幅二㍍を数えるが、前面は洞穴の一部が崩落して奥行が短かくなっている。大佐渡山系台地の先端部に位置し、標高四㍍、海岸まで三六㍍を測り、段丘基盤は緑色凝灰岩で、風浪の侵蝕により形成された洞穴である。昭和四十三年と四十四年の両年に、相川郷土博物館が主体となって発掘調査を実施した。堆積層は約四㍍で九層の文化層に大別され、中に黒色炭化物層が五層認められ、当時の生活層と考えられ、土器・石器をはじめ鳥獣骨や貝類片が詰っていた。堆積土はすべて掘らず途中で中止したが、止めた部分に縄文晩期の土器を含んでいるので、縄文遺跡が存在すると思はれる。獣骨はウサギ・イヌ・シカ・イノシシがあり、海獣ではクジラが見られた。鳥骨はカケス・ヒメウ・ウ類・ミズナギドリ・オオハム・キジと多種にわたるが、さすがに水鳥が多い。魚骨ではハリセンボン・フグ・カンダイ・イシダイ・マダイ・スズキ・サバ・ウグイ・エイが認められ、その他にウニ・カニ・マイマイがあった。人骨は壮年期の男性、新生児期・性別不明と成人期以後で男性?、成人期以前・性別不明の四個体が出土し、古墳時代の人骨で、丈が高く屈強な人と判明した。なお、上部の四層からは長一○・六㌢、幅六・八㌢の鹿の肩胛骨を利用した卜骨の出土を見た。卜骨には火を受けた痕跡があり、同じ佐渡の千種遺跡のほか、神奈川県・千葉県・静岡県・大阪府・島根県の遺跡からも出土しており、全国的に数少ない出土例である。また、長二・六㌢、幅七㍉の剥離痕を残す赤玉石の管玉未製品が出土し、国仲方面ばかりの製作ではなく相川にも及んでいることから、佐渡全島で製作した可能性を示唆する。弥生式土器では、浜端式・竹ノ花式・千種式など後晩期が主体を占め、土師器では五領や和泉式など土器は古いが、波蝕洞穴だけあって海に近く、食料に供したシタダミ・ガンガイ・サザエ・アワビ等の貝殻片が圧倒的に多い。しかも現代では想像もつかない大形品が目につく。【参考文献】 「二見半島考古歴史調査報告」(『相川郷土博物館報』)、「佐渡の洞穴文化」(立教大学考古学研究室)【執筆者】 佐藤俊策
・羽茂郡(はもちぐん)
賀茂郡(のち加茂郡)と、他の二郡との境界はまだ理解は容易であるが、羽茂郡は残った島の西半分を、さらに南北に分けるのに複雑な線引きが必要になる。まず大ざっぱにいうと、新町と豊田間を流れる小川内川を遡って、赤泊村境づたいに東に経塚山に至り、そこから飯出山ー小倉トネー東境山に達する線以南が羽茂郡となる。江戸期の村名でいうと、西寄りの側から、渋手村・下黒山村・下川茂村・上川茂村・外山村・山田村・丸山村・河内村・多田村・松ケ崎村となる。当時は、小川内・静平・小泊新谷などの村名はなかったから、現地名で区分をしてみても正確な表示はできにくい。また外山と丸山の間には真野町飛地があって、江戸期の村名では区分できないなど、複雑さを加えている。羽茂の読み方は、ハモ、ハモチがあり、粛慎の故実からウム(ウモ)で表現されることもあるが、現状ではハモチが一般的である。文化年間の書『佐渡志』によると、郡勢は三郡中、面積も収穫高も羽茂郡は目立って少ないが、延喜式の式内社の記載では、近畿との距離のためか羽茂郡がはじめに書かれていて、筆頭社の度津社が佐渡国一ノ宮として扱われているし、また一○世紀の郷の数は三郡中で一番多かった。【関連】雑太郡(さわたぐん)【執筆者】本間雅彦
・春駒(はりごま)
正月や春祭の日に、町や村の家々を門付けして歩く土俗的な芸能。各地にあったが、現在は何らかの形で伝えられている所は、山梨県・沖縄県・群馬県・静岡県と佐渡が知られている。佐渡では「はりごま」と呼ぶ。佐渡の春駒は、舞方と地方の二人が組になって、地方の唄と舞方のアドリブを混へた台詞と、交互に掛合いながら舞う。舞方は、ゼイゴ(農村部)では白面をかぶり、右手に鈴(古型では一六個)が手綱についている木製の小さな駒形(約二五センチくらい。手駒)を持って舞う。相川の市街地で行われた春駒は、黒褐色の頬のゆがんだ面をかぶり、かなり大形の馬の頭部を胸から下げ、馬の尻を背後につけて、乗馬の形をして舞う。近年、前者を女春駒とか夏駒とか呼ぶ習慣ができて、後者の男春駒と分けて呼ぶ者があるが、成立の過程や芸態からみて、手駒型と乗馬型の呼称のほうがよいかと思う。男女とか春夏の区別には、根拠がないからである(註・乗馬型にまつわる味方但馬伝説には、朝鮮の仮面劇「両班〔ヤンパン〕」の影響が感じられる)。春駒の起源には、宮中の白馬の節会説がつよいが、土俗的には養蚕の予祝に関係があり、佐渡春駒にもその痕跡がある。【参考文献】石井文海『天保年間相川十二ケ月』(曽我真一編)、蔵田茂樹『鄙の手振』、本間雅彦『春駒の文化史』【執筆者】本間雅彦
・ハリセンボ(はりせんぼ)[ハリセンボン]
家の軒下に魔除けとして、乾燥品がぶら下げられているのでなじみ深い。ハリセンボン(針千本)は、ハリフグという方言もあるように、フグの仲間で、しかも無毒である。普段は長卵形の体も、膨れるとゴム毬状になり、体全体に生えている棘を立て、外敵に襲われないようになる。この棘は、実は千本では無く、四○○本以下にすぎない。熱帯から亜熱帯で産まれ育ったハリセンボンの幼魚は、世界中の暖海に広く分布し、日本海側でも北海道南部や、極東沿海州にまで運ばれる。大集団で暖流に乗って、高緯度の地に達するのであるが、佐渡ではちょうど冬で、定置網に大量に入ったり、低水温に遭い、凍死ないし仮死状態で、時化の後に浜辺へ打ち上げられたりする。これを、死滅回遊といい、死出の旅路を歩んだことになる。この仲間では、ネズミフグ・ヤセハリセンボン・ヒトヅラハリセンボンも漂着する。これら四種は、南の海ではいずれも三○センチから六○センチにも成長するので、沖縄では食用に供する。その他、イシガキフグや、メイタイシガキフグも漂着することがある。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・春の七草(はるのななくさ)
セリ・ナズナ・ゴギョウ(ホオコグサ)・ハコベラ(ハコベ)・ホトケノザ(タビラコ)・スズナ(カブ)・スズシロ(ダイコン)、この七草が「春の七草」である。『佐渡志』(一八一六)に「薺 和名なづなー正月七種の粥に供す」とでている。また「繁縷・和名はこべー正月七種の粥に供す」とある。『佐渡志』に、初春七種の粥に供すとしてのべられているものは、セリ・ハコベ・タビラコ(ホトケノザ)とアブラナの五草にカブ(スズナ)・ダイコン(スズシロ)を加えた七種、江戸期の「佐渡の春の七草」である。正月七日の朝、七草粥をつくる。「唐土の鳥と日本の鳥の渡らぬ先に 七草はやす ステテコ ステテコ」と、まな板の上の七草を、包丁の柄でたたきながらの、七草粥づくりであった。かっては裃・袴の正装で、七草を刻んだというから、よほど神聖な行事だったにちがいないが、いまはすっかり姿を消した。現在は七草全部は集めないが、セリ・ハコベ・ナズナ・カブ・ダイコン、そしてトウフ・コンニャク・ゴボウなど、七品を入れて七草粥を作る家が相当ある。「なづな粥二膳の箸のつつましく 夫亡き春を母といくたび」(渡辺やす)。【参考文献】 佐渡奉行所編『佐渡志』、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・パレオパラドキシア(ぱれおぱらどきしあ)
脊椎動物哺乳綱の一属。大正十二年(一九二三)に道路工事の際、相川町旧中山トンネルの西側入り口付近で発見された。数個の臼歯が採取されたが、学術雑誌に公表された二個の標本は焼失した。しかし、他の一つは相川小学校に長く保管されていて、現在相川町郷土博物館に収蔵されている。この化石は発見当初、近縁のデスモスチルスと判断されていた。徳永重康によるその後の詳細な研究で、この標本はコルンワリウス タバタイと命名されたが、さらにこれを模式として、パレオパラドキシア属がレインハルト(一九五九)によって提唱され、種名がパレオパラドキシア タバタイに改名された。歯の形にちなんで命名された束柱目に属し、海牛類・長鼻類・有蹄類に近縁と考えられている。現存する標本は、歯根部が欠損するものの保存良好な臼歯である。岐阜県瑞浪・埼玉県秩父で発見されたパレオパラドキシアは、体長数㍍の大型の四肢哺乳動物である。この動物は、近縁種とされるデスモスチルスに似た生態をもつといわれ、海岸に群れをなして生活していたと考えられている。歯は一生に二回生えかわる二生歯性で、デスモスチルスと違い垂直に交換する。歯の形態から、草食及び雑食性の動物とされている。産出地は、北海道南部から中国地方まで広く分布する。この種類が生存した時代は中新世である。【関連】 脊椎動物の化石(せきついどうぶつのかせき)・デスモスチルス
参考文献】 徳永重康『矢部長克教授還暦記念論文集』(一巻英文)【執筆者】 小林巖雄
・番所(ばんしょ)
他国との交易を認められた佐渡の各湊に置かれ、役銀の徴収・密出入国や抜荷の監視、出判業務および問屋の監督、湊の警備などを行った。当初は口屋または十分一役所といわれ、この呼び方は元禄初年まで続いた。十分一は上荷の十分の一の役銀を現物で徴収することで、これを色役といった。上杉支配時代からの臨時物は銀貨で徴収した。沢根五十里番所は慶長以前の設置であるが、他は佐渡が幕府領になり、金銀山の町、相川を中心にして設置されている。相川には材木町番所(慶長九年・木町十分一)、当初は羽州庄内より薪炭・諸材木が入津した。羽田番所は慶長の頃三丁目東側に建ち、元和八年(一六二二)羽田町に移り、諸国のたばこ・酒・塩・油などが入り、色役で徴収した色取物の土蔵があった。柴町番所(慶長十一年・海府十分一)は沖合いが浅瀬で廻船の掛りがなく、地廻わり船で海府から柴・薪・割木が入った。下戸番所は慶長年中に始まったとされるが、まだ一~四丁目の埋立てが行われておらず場所は不明。寛永六年(一六二九)下戸町ができると御番所橋詰に六坪の番所ができた。国中よりの人馬往来のある場所で、元禄四年(一六九一)まで十分一の色役を徴収したという。大間番所は相川湊ではもっとも遅れ、慶長十三年(一六○八)に設置、米・大豆・雑穀・木綿・茶などが水揚され、付属建物に米蔵や色役の「役物蔵」と勝町(商品を評価する場所)があり、米船が出入りした。また、鉱山地にあり、人や金銀鏈の抜荷の監視に当る上相川番所があり、合わせて六か所の番所があった。相川以外は、小木・赤泊・松ケ崎・夷湊・沢根の各番所。上杉支配以来の五十里番所は元禄四年(一六九一)に廃止。相川金銀山には、坑内出入の監視所として間之山番所のほか、六十枚・甚五四ツ留・鳥越四ツ留・青盤四ツ留・中尾の各番所があった。元和八年(一六二二)一か年分諸番所御役納り高は、大間二五五貫一七九匁・海府三○貫七七○匁・上相川四貫八八七匁・五十里二一貫八二五匁・小木一三貫九六七匁・赤泊五貫六八五匁・夷湊二四貫四六七匁・松ケ崎三貫二五五匁・羽田八六貫四二六匁・材木町二八貫三六六匁・沢根一○五貫八五三匁であった。番所は湊出入の通関税徴収の機能がつよく、その役銀は相当な財源になった。番所役人を口屋衆といい、揚荷の評価や徴税事務を行うほか、番所付問屋(水揚)とともに商品の買入れを行った。【参考文献】永井次芳編『佐渡風土記』、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】佐藤利夫
・バンジョウ(ばんじょう)[サンマ]
田中葵園の『佐渡志』に、「夏至ノ後サンマ有リ、方言バンジャウト云フ」とあるが、佐渡特有のバンジョウの名が、番匠(大工)から由来するかどうかは確としない。外洋性の魚で、大群を形成して回遊するが、太平洋側では動物プランクトンをたっぷりと食って、脂肪ののった味の良いサンマ(秋刀魚)である。一方、日本海側は佐渡を含め、産卵のための北上群であるので、不味である。対馬や佐渡では、このサンマの産卵習性を利用して、手づかみにする特有の漁法がある。五~六月の凪の日に、小舟のそばに浮かべたこもやむしろに、褐藻をしばりつけておいて、両手の入る穴をあけ、産卵に寄ってきたサンマを、指の間に挟んで捕えるのである。太平洋側で、光に集まる習性を利用して、強烈な灯火による棒受網で一網打尽するのと、大いに異なっている。サンマの体側に黒点がみられることがあるが、これは小型甲殻類の橈脚類(かいあし類・コペポダ)の、一種の寄生跡である。サンマは、サヨリやトビウオに近い魚であり、形態も互いに似ている。サンマは、四○センチに成長するが、佐渡産のものは塩蔵して、冬季出漁できない時の食品としている。【参考文献】『図説 佐渡島』(佐渡博物館)、『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)、池田哲夫『水産業研究(六巻)』(韓国誌)【執筆者】本間義治
・半田銀山(はんだぎんざん)
半田銀山は、奥州伊達郡半田村にある。戦国大名の伊達氏は、この付近伊達から出て強大な戦国大名となった。金銀の産出が、大名をうみだしたのである。延享四年(一七四七)、銀山は幕府領となって佐渡奉行が支配することになり、役人・山師・買石(精錬業者)を、佐渡から派遣することになった。奉行所からは、山方役三人が派遣された。しかし寛延二年(一七四九)には、佐渡奉行支配を止めて代官支配となり、石見・但馬等の銀山から役人が派遣された。【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】田中圭一
・馬場遺跡(ばんばいせき)
相川町大字北片辺一四七で、石花川川口から約二○○メートル遡った左岸段丘斜面下部の砂丘上に位置し、標高約一四メートルを測る。かって石花川は潟湖の時代があり、昭和三十三年(一九五八)には鎌倉期の丸木舟が出土し、周辺低地が潟湖であったことを物語る。海岸には製塩遺跡があり、後方の山は石花将監の城で、天正年間には海府二二か村を支配していたと云う。佐渡の高峰金北山の裏側にあたり、海に突き出た生浦崎は、潟湖の港へ入る絶好の目印となり、大陸との交通も盛んであったと想定される。昭和五十七年に、町教育委員会の主体で発掘調査を行なった。遺構では床が幾層も表れ、土に黄白土が敷かれ、遺物に鉄片・鉄滓・羽口・彩色土器・製塩土器・可搬カマド・有孔脚台・支脚・丹塗土器・馬歯骨などのほか、焼土・焼砂があり、石川県羽咋市の寺家遺跡や、福井県敦賀市の松原遺跡と同じ出土を見る。帯金具や祭祠用の小形壺等から考えると、七世紀から八世紀にかけての、渤海国使節受け入れの客院があったのではないかと見られる。【関連】粛慎人来着(みしはせびとらいちゃく)【参考文献】「馬場遺跡」(相川町教育委員会)、金沢和夫・山本仁・小菅轍也「相川町片辺周辺文化財調査報告」(『佐渡文化』)【執筆者】佐藤俊策
・ハンヤ節(はんやぶし)
佐渡に伝わる「おけさ節」の元唄となったと思われる唄。元来、九州の田助(長崎県)や牛深(熊本県)・阿久根(鹿児島県)などの港を中心に流行した騒ぎ唄。これがいつ頃佐渡に伝わったかは定かでないが、小木港が北前船で出船千艘入船千艘で賑わった江戸時代の中期頃であろう。遠く九州に発したこの唄は、日本海を北上し、各地の港々に定着した。〔浜田節〕(島根)・〔宮津ハイヤ節〕(京都)・〔白峰ハイヤ〕(石川)・〔庄内ハイヤ〕(山形)・〔津軽あいや節〕(青森)・〔南部あいや節〕(岩手)などがそれで、土地により、「ハイヤ」・「アイヤ」と種々呼ばれるが、佐渡のハンヤ節も〔鹿児島ハンヤ節〕とともにその一つである。ハンヤは出船の掛声ともいわれる。近松作の浄瑠璃『松風村雨束帯鑑』(元禄七年大坂竹本座初演)に、「綾が千反錦が千反、唐物を積みたたへてはんや、ハッアこりゃこりゃ」とある。と同時に、その曲名の起こりは、「ハンヤエー」あるいは「ハイヤエー」という歌い出す、その歌い出しによるものであるが、これがやがて佐渡の小木や越後の柏崎や出雲崎・寺泊に上陸して歌われているうちに「オケサエー」へと変化し、ハイヤ節系〔おけさ節〕を生み出したのである。
(歌)ハンヤー いやそれ枕はいらぬヨ 互い違いの ソーレお手枕 (歌)ハンヤハンヤで 一夜を明かすヨ 一夜明けても 名はハンヤ。【関連】佐渡おけさ(さどおけさ)【参考文献】『日本民謡全集3関東・中部編』(雄山閣)【執筆者】近藤忠造
・柄杓町(ひしゃくまち)
上相川千軒と呼称がある上相川台地の下方で、その最南西部に位置する。現在は人家はなく、山野原野と化した。町名の由来は「ひしゃく」(柄杓)からきていて、熊野の比丘尼がかたまって一町をつくり、勧進のさいに持ち歩いた柄杓から起こった。慶長十八年(一六一三)の相川地子銀帳に、「山先柄杓役」という税目が見えることが『佐渡四民風俗』に記されている。山先役は山先町の遊女から、柄杓役は比丘尼から取り立てた売春税で、相川を勧進した熊野比丘尼が、落ちぶれて公認の遊女に転落していくようすがうかがわれる。「柄杓役」という税目は、のちに港町の小木遊女に課す税目にもなった。公認されない娼婦に課せられるのが、柄杓役だった。元和二年(一六一六)以降、比丘尼の売春は禁じられるらしく、すぐ上隣りの上相川九郎左衛門町に集団移転した。明暦二年(一六五六)の同町宗門帳(教育財団文庫蔵)には、「熊野比丘尼、伊勢清室、年四十六」をはじめ、三○人の比丘尼の生国、来島(出生)年などが見え、この比丘尼と同居していた山伏、伊勢常学院に伝わったという金銅の懸仏や笈(おい)、比丘尼が往来で絵解きに用いた熊野十法界絵図など二幅が、金井町の後藤金吾家に伝えられている。柄杓町には修験の万宝院と三光院の二院のほか、法華寺(日蓮宗)があったが、いずれも廃絶した。【関連】清音比丘尼(せいおんびくに)【執筆者】本間寅雄
・引掛け負い(ひっかけおい)
相川のような坂の多い場所の荷物の負い方。負う者をオイコといった。農村でナゴケ(長桶・負い樽ともいう)を負うとき、また山地の木材運搬のニドラ(荷俵)負いも、荷縄を荷物に引掛けて負うので、引掛け負いである。相川では、米俵・薪・炭・ヤギなどを運搬するのに、この負い方をした。負い具は、地下タビまたはワラジに木綿のキャハン、ゾンザ(サシコ)にオコシ、前掛けをして、肩に丈夫に織ったハッサク木綿を引掛け、背中当をして負うた。米俵は腰に重心をおき、背中にくっつかないように垂直に負うた。薪はバイタといって、海府からバイタ船で積んできて、浜に投げ上げてあった。米は食糧営団にたのまれ、大工町にあった鉱山宿舎へ、バイタは風呂屋へ、炭は吹炭と鍛冶炭があり、鉱山へ運んだ。戦後はこのようなオイコは、自動車の普及で姿を消した。【参考文献】佐藤利夫「ヒッカケ負い」(広報「あいかわ」)【執筆者】佐藤利夫
・人里植物(ひとざとしょくぶつ)
春、開花する人里の植物の主なものには、オオイヌノフグリ・タチイヌノフグリ・エゾタンポポ・セイヨウタンポポ・アカミタンポポ・ナズナ・タネツケバナ・ヒメオドリコソウ・カキドオシ・ホトケノザ・ウマゴヤシ・イヌガラシ・ミヤコグサ・ハルジョオン・オオバコ・カタバミ・オニタビラコ・カラスノエンドウ・スズメノエンドウ・ハコベ・ウシハコベ・ハルノノゲシ・ノボロギクなどがある。人里とは人間の生活する空間で、住宅地・道路・グランド・工場・公園などの造営物の周辺に生活するのが、人里植物である。人里は、人間の影響力が強く作用する場所で、工事などで土地が攪乱される。除草などで成長がとだえる。光が強すぎる。湿気が不足する。常に踏まれる。貧栄養地であるなど、人里植物に働きかける自然は本来の自然とはいえず、作り出された人工的な自然である。踏みつけという過酷な条件に、人里植物は次の様な特徴をそなえている。[1]草たけが低く、茎や葉に強い繊維をもつ(スズメノカタビラなど)[2]茎が地下にあり踏まれても傷つきにくい(オオバコなど)[3]茎は地面すれすれをはい、茎の途中から根を出して伸びていく(シロツメクサ・シバなど)[4]踏まれて固くなり、酸素の少なくなった土の中でも、根が生きつづけられる[5]養分の少ない、やせた土地でも生活できる[6]乾燥や人間の出す汚染物質にも耐えて生きられる。このように、自然界のストレス(悪条件)克服の生態戦略を身につけているのが、人里植物たちである。【執筆者】伊藤邦男
・一人静(ひとりしずか)
【科属】センリョウ科センリョウ属 花も美しい。名も美しい。「君が名か一人静といひにけり」。山かげにひっそり咲くヒトリシズカ。その出会いに“ああおまえが一人静か”と、声のんだ室生犀星の句である。静御前の白拍子(しらびょうし)姿に例えてこの名があるが、義経と別れる際に舞った静の気高いまでの美しさ。私のアルバムの中で最も多いのがヒトリシズカ。いつもこの花の魅力に負けてシャッターを押す。清楚なる山の姫こそヒトリシズカでありましよう。ユキワリソウ・フクジュソウ・キクザキイチゲなどが、早春の山を彩る花とすれば、ヒトリシズカはミヤマカタバミ・ミヤマキケマンなどと晩春の山を彩る花。「ひとりまた一人静にかがみ見る」久下史石。この人もヒトリシズカを好きになるにちがいない。花穂は小さな白花が多く集まってつく。ルーペで見ると、トックリのようなものがひとつあるがメシベ。そばの長い三本の白い糸状のものはオシベ。オシベは一本だが三つの花糸にわかれ、うち二本が葯。清楚な白い花穂をつくる花が、花びらも萼もなく裸の雌しべと裸の雄しべでできているストリップ・フラワー(裸花)である。【花期】四~五月【分布】北・本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・鄙の手振(ひなのてふり)
佐渡奉行所の広間役の蔵田茂樹は、国学者でもあり歌界の貢献者でもあったが、文政十三年(一八三○)に奉行の鈴木伝一郎に求められて、相川の年中行事を著わし、この書名を『鄙の手振』と題した。さし絵は、相川の絵師石井文海が描いた。書名はのちに『恵美草』と改められ、今に伝わっている。【関連】恵美草(ゑみそう)・蔵田茂樹(くらたしげき)・石井文海(いしいぶんかい)【執筆者】本間雅彦
・姫津(ひめづ)
相川町姫津は、慶長年間(一五九六ー一六一四)に、大久保長安が石見の国の漁師を呼んで一村を開き、鑑札を与えて島中勝手次第に漁を許したという。石見から来たのは、徳左衛門・与三右衛門・久八の三人で、達者地内の姫崎先端の を開発「姫津」と命名し、転住したことに始まるとする。寛政十二年(一八○○)の高一五石三斗余はすべて畑で、家数一二三・人数六五六・沖漁船六四艘など、古くは沖漁が中心だったようで、明暦三年(一六五七)の「小物成留帳」には、鮑役はあるが烏賊役はない。石見の漁師によってもたらされた漁法は、主にスケト延縄・サメ綱・シイラづけ漁などの西国の先進技術で、大久保長安により、下相川から願村までの干鱈役・干 役が免除されるなど、特権が与えられた。鮑漁師も、元禄十四年(一七○一)に二二人もいて、海中七尋以上から採る大型鮑は、隣村の磯ねぎ漁とは異なる漁法だったという。櫓も佐渡ではここだけの左櫓である。寛永五年(一六二八)廻船掛り に指定され、翌六年には横目付が置かれ、享保七年(一七二二)に戸地村にあった浦目付所が移された。廻船相手の船宿も賑わいをみせた。明治に入っても港としての機能は衰えず、佐渡物産の移出入も多かった。和船時代の終りと漁獲不振で、明治以降は北洋方面(サケ・マス・カニ工船)への出稼者が多く、昭和十年(一九三五)の遠洋漁業従事者は一一二人もいた。地内の薬師堂は、天正六年(一五七八)の開基と伝え、慶長七年の棟札が残り、石見漁師の到来前に、村の成立基盤があったことを思わせる。本尊の薬師如来は、河原田の本間佐渡守の兜の守神であったという。祭礼は旧暦四月八日。姫津より北狄、約二キロにわたる海岸美は、「尖閣湾」と呼ばれ観光の名所である。【関連】尖閣湾(せんかくわん)・万福寺(まんぷくじ)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)【執筆者】三浦啓作
・姫津大火(ひめづたいか)
昭和四十年(一九六五)四月一日午後一○時五○分ごろ、風呂屋の煙突より出火、瞬間風速一二・八メートルの強い北西風にあおられ、水利不便も加はり、消火が思うように進まず、風下の住宅に飛火し、密集した集落の中心部を焼きつくし、約五時間余りも燃え続けて、午前四時ごろ鎮火した。被害は、住宅六○戸、ほかに公会堂・漁協・納屋など一三戸、被害世帯数六五・被災者三五八人となり、老女一人ショック死、一一人が重軽傷を負った。男の出稼ぎの多い漁村のため、女子消防班の活躍にめざましいものがあった。姫津集落では、大正元年(一九一二)の五一戸、昭和二十一年(一九四六)の一六戸についで、三度目の大火である。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「新潟日報」、加賀三次「回想録」【執筆者】三浦啓作
・姫津郵便局(ひめづゆうびんきょく)
明治九年(一八七六)一月に、五等郵便局として姫津に開設。切手類を売り、郵便物引受事務を取扱ったが、その他は相川郵便局で取扱った。初代局長は西野善平である。明治四十年三月無集配三等郵便局となり、郵便為替と貯金の取扱いを開始する。やがて同四十三年十二月からは、電信の取扱いを始め、さらに簡易保険(大正五年)郵便年金(大正十五年)、公衆電話取扱い(昭和四年)電話交換事務(昭和九年)など、次第に業務内容を充実し、昭和十一年三月には、旧金泉全区(小川~戸中)の郵便物集配を開始し、集配局となる。その後電通の合理化により、昭和四十六年十月電信・電話業務(交換)は、佐和田電報電話局に吸収された。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『金泉郷土史』【執筆者】浜口一夫
・姫檜扇水仙(ひめひおうぎずいせん)
【科属】アヤメ科ヒメトウショウブ属 なまえは姫檜扇水仙の意味。園芸名はモントブレッチャ。南アフリカ原産のヒオウギズイセンと、ヒメトウショウブの交雑種。フランスで交雑され、初めて花を咲かせたのは一八八○年という。日本には、明治の中頃の一八九○年頃渡来した。佐渡にも、大正時代に観賞花として庭に植えられていた。日本西南部の暖地では、野生化し大群落をつくるが、佐渡でも人里に多く野生化している。夏、枝先に緋赤色の花を、総状に多くつける。花は小さな金魚そっくりの形で、佐渡ではキンギョソウと呼び、盆花として佛前に供えた。鹿児島では“癌の花”と呼び、球根を煎じて胃癌患者に飲ませて治したの報告がある。新潟市の人から、「胃癌患者に飲ませたら激痛がなくなり、腹水も引き、会話もできる様になり、退院した」の話が伝わり、佐渡では平成四年以降、静かなブームをおこしている。地下の球根は、幅二センチ、高さ二センチの大きさ。一回量は、球根一個をすりおろし、二七○㏄の水で煎じる。一日三回服用。胃癌の痛みだけでなく、首の頸骨間ヘルニアの激痛にもよく効くという。【花期】七~八月【分布】帰化植物【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『佐渡薬草風土記』【執筆者】伊藤邦男
・漂着植物(ひょうちゃくしょくぶつ)
「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ」。ヤシの実が四○○個も漂着した年がある。昭和十年(一九三五)頃、大佐渡の入川海岸である。あまりにも多いので、ヤシの実を満載した船が遭難したのではないかといわれたが、北上する対馬暖流が運んだものである。漂着植物が多いのも、佐渡の植物相の特徴である。漂着植物は、ヤシ・ニッパヤシ・ゴバンノアシの果実、モダマ・グンバイヒルガオの種子、いずれも熱帯~亜熱帯をふるさとにする南の植物である。昭和六十年九月、二見半島の高瀬の猫岩の浜に漂着したグンバイヒルガオは、五○センチにもなる長いつるを八本も伸ばし、軍配そっくりのピカピカした葉を一○○枚あまりつけ、南国の若い王子を思わせる元気な株であった。四国以北では越冬できず命果てるが、翌年は姿がなかった。モダマの種子を一個持っている。北の海辺の藻浦に漂着したもので径五センチ、厚さ二センチの濁黒紫色の光沢ある楕円体の種子。海藻に混って浜に打ち上げられるので、海藻の種子とされたが、熱帯産の陸生の常緑マメ科のつる木。一メートルの長いサヤをつける。モダマの色つやは南の色つや。耳にあてると南の潮騒が聞こえてくる。【花期】夏【分布】沖・小笠原【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー秋』【執筆者】伊藤邦男
・開(ひらき)
鹿伏の海岸段丘上の地名。近世初頭に開発されたため「開」と称した。相川が、金銀山の町として繁栄すると、各地から人が集まり、需要の急増した米を確保するために開発された。金津市永宮寺(浄土真宗)住職とともに、越前国足羽郡上文珠村岩倉幸助(了祐)・加賀多兵衛・今井助左衛門他一名・金津甚兵衛・同甚太郎・土屋庄左衛門ら七名が、元和二年(一六一六)夏、相川に渡来し、翌三年、岩倉らは鹿伏の段丘上に、奉行所より開墾許可をとった(岩倉家文書)。今井は相川、金津は戸地、土屋は北田野浦へ、それぞれ入村している。現在、開には岩倉家と萩野家の二軒のみであるが、文化十三年(一八一六)鹿伏村絵図には、作兵衛・惣兵衛や、屋敷跡として十兵衛屋敷・六助屋敷などもあり、当初には一○軒くらいあり、「ひらき村」として別村になっていた。船手役の辻一族の墓地もある。寛永年間の身売り証文によると、摂津国助五郎が開の畑と女房を質に入れ、山主片山勘兵衛から生活費を借りていた。金山が不況になると、開発した土地を人手に渡している。相川の近郊地域は、金銀山の好不況につよく影響された。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】佐藤利夫
・平城遺跡(ひらじょういせき)
赤泊村大字赤泊字中浜および平城の海岸段丘に所在する、縄文後期主体の遺跡。荒町川と中の川に区切られた範囲で、赤泊小学校のところ(中浜、標高二○メートルの低位段丘)と、その裏手台地(平城、標高四○メートルの中位段丘、以前オボネといった)で、両者をあわせて平城遺跡という。明治四十年(一九○七)、赤泊小学校敷地整地中などで遺物が出土したが、中浜地域は堙滅した。縄文中期の土器が若干あるが、後期前葉の三十稲場式から中葉の三仏生式が中心をなし、晩期もみられる。石器は、石鏃・石斧・石槍・石錐・石匙・石皿・敲石・環石・石錘・石棒・有孔石斧などがある。平城遺跡の左側台地(標高六○メートル)には、城山と呼ぶ赤泊本間氏の赤泊城址があるが、赤泊小学校のところが平時居館の平城地で、縄文時代平城遺跡の中心域でもあった。一帯からは、中世の焼物や須恵器なども出土している。【参考文献】『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告 第七輯』(新潟県)、『新潟県史』(資料編1 原始・古代一 考古編)、『赤泊村史』(下巻)【執筆者】計良勝範
・平根崎(ひらねざき)
相川町戸中集落の北側に、防波堤の様に西に突き出す小半島。三○メートルの高さの海岸段丘面の海に接する斜面は、地層の層面が地形の背面となるケスタ地形を呈する。地質は新第三紀中新統中期の下戸層の石灰質砂岩・礫岩の互層であり、走向は北東ー南西・北西に二○度傾斜し地形も平行している。石灰質は、ホタテガイ等の貝殻の集積して生じた貝殻石灰岩で、その露出地として貴重である。また高潮面と低潮面との間、及びその上下の位置に、見事な波食甌穴群が見られる。五○○メートルの区間の南部と北部に甌穴が集中し、合計七八個に及ぶ。平面形は円形で、径二メートル以上の穴が一四個もあり、深さは直径の一・五倍もある。平根崎の波食甌穴群は、昭和十五年(一九四○)に国の天然記念物指定を受けている。
【関連】波食甌穴群(はしょくおうけつぐん)【参考文献】渡部景隆編『日本の天然記念物六 地質・鉱物』(講談社)、伊藤隆吉『日本のポットホール』(古今書院)、「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】式正英
・広間町(ひろままち)
奉行所構内および付属施設のあった場所で、無税のため町屋から除外されていた。佐渡奉行所跡・相川病院・帯刀坂の一部を指す。かっては、南北組頭役宅・後藤役所・佐渡奉行所跡・同心町が入り、剣術道場・学問所・孔廟(裁判所跡)は米屋町、外吹買石勝場は新西坂町になる。明治になり、広間町には県庁舎・警察署・測候所・小学校・旧制女学校などが置かれ、政・文教地区で繁栄した。また、向いは鉱山病院を設置して鉱山従業員ばかりでなく、一般町民を対称に治療したが、鉱山閉鎖後は相川病院となった。大久保長安は、鶴子銀山から陣屋の移転を決め、山師の所有する土地を購入して、慶長九年(一六○四)に佐渡奉行所をつくり、渡海には大勢を従えて入国した。当時の敷地は広く、施設は贅の限りを尽くした。元和四年(一六一八)に鎮目奉行によって現在の敷地に縮小し、後を後藤役所や組頭の役宅に利用した。また、施設も取り払って身分相応に建て替えた。現在、奉行所復元のための工事が進められ(二○○一)一部公開されている。【関連】佐渡奉行所跡(さどぶぎょうしょあと)【執筆者】佐藤俊策
・広間役(ひろまやく)
佐渡奉行所の職名。佐渡奉行所の最高幹部で、佐渡奉行を補佐する組頭のもとで、佐渡支配の重要政務を統轄した。広間とはその執務する部屋で、奉行所の中央にあり、広間役の名前はこれに由来する。組頭・広間役・目付役・書役がここで政務をとった。広間役の職名は、宝暦八年(一七五八)に初めて用いられ、その前身は寛永十二年(一六三五)に置かれた御判方役である。これは定員一人で、奉行裁可の裏御判を押したことから付けられた名称と考えられる。その後、正保年中(一六四四ー四七)に留守居役、正徳三年(一七一三)に月番役と改称され、宝暦八年に広間役となった。広間役は、この時定員一○人を六人に減らし、その六人の内二人を江戸より派遣することにした。六人の広間役は、広間の他に町方・在方・山方・勘定方・公事方の六つの役所に配属され、例えば町方掛広間役と呼ばれ、町方役所の事務を統轄し代表・責任者であった。のち、さらに広間役助一人、ついで同当分助一人を置いて広間役を補佐させた。地役人から就任した広間役四人は、地役人として最高の職で、給与も二十人扶持四十~九十俵と、地役人の並高が二十俵三人扶持であった中では優遇され、優れた人材があてられた。職務内容は、銀山・地方・町方その他諸役所からの御用を受理して原案を作成し、奉行決裁を受けて各役所へ申し渡すこと、金銀納め方・払い方證文(金銀出納)、諸御入用物渡し手形の吟味のうえ裏判(許可印)を押すこと、諸役所からの諸帳簿の受理、公事訴訟・出判・諸番所からの報告、御公納鏈の売却など多岐にわたっている。【関連】留守居役(るすいやく)・月番役(つきばんやく)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】児玉信雄
・風神(ふうじん)
相川町関のトドノ峰や知行山には、風の神さまを祀っている。また、ムラの諏訪神社(カギトリは安藤孫左衛門)にも風の神さまを祀り、祭日は共に七月二十七日と二百十日の両日で真言あげ、昔は諏訪神社に、小さな鎌の刃を糸でつるしてあったという。同じ海府の、真更川の諏訪神社も風神を祀り、多くの鎌が奉納されている。諏訪社はそのほか、高下・小田・二ツ亀などにもあり、季節風の強い海府方面の、風除け祈願の強さを示しているようである。なお、下相川の青池近くに大岩があるが、これを風の神といい、九月一日が祭りで祝詞をあげ、その後、重立と神主が飲み食いをした。入川の富士権現も風の神さんで、祭日は九月九日、沖を通る船は帆下げをした。北田野浦では八朔の日に、若い衆が間峯(大佐渡山脈の山名)の風の神「風の三郎さん」に参詣し、取入れ期間中、大風の吹かぬよう祈った。越後の湯沢や秋成には、風袋を背負う風神の石像が残っているという。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『高千村史』、『日本石仏事典』(庚申懇話会)【執筆者】浜口一夫
・吹上(ふきあげ)
相川市街地の東北端、石工町から小川に行く途中の浜に、弁慶の挟み岩や、鎮目市左衛門奉行の墓がある。ここが吹上である。石工町の名は、この浜で鉱山用の石臼や石塔などを切り出していたことによる。鎮目奉行の墓が、大量の切石の積み上げによって立派に出来ているのも、採石地であったという事情もあるが、奉行の治績に対する町民の感謝の表われと、後世の地元民はみている。相川出身の浅香寛は、『佐渡案内』(大正十二年、佐渡日報社刊)で、吹上の鎮目奉行の墓について、「相川の民、今尚ほ其徳を追慕し、毎年旧四月十四日の忌日には墓前に賽詣して、香華を供する者多し」と書いている。また『佐渡相川志』は、「此処ニ新八・弥次兵衛トテ非人小屋アリ。弥次兵衛ガ後ノ岩ニ四尺二三間斗リノ穿石アリ。是ハ昔小川殿ノ塩風呂ノ由。元禄年中ニ古キ馬具アリ。」としている。吹上に石切場を開いたのは、播磨生れで越中に住んでいた五郎兵衛という石工の棟梁で、この人は慶長八年(一六○三)に、初代佐渡奉行大久保長安の指図で相川陣屋が築かれるとき、堀の石垣をとる目的で来島したと、磯部欣三の研究で明らかにされている。【関連】 鎮目市左衛門(しずめいちざえもん)【執筆者】 本間雅彦
・吹上流紋岩(ふきあげりゅうもんがん)
相川町吹上周辺の南北約二キロメートル、東西約一キロメートルの範囲に分布し、相川層に貫入している流紋岩の岩体。紫灰色~灰色で流理構造がよく発達する。一部に球顆構造が形成しており、そのような部分は球顆流紋岩と呼ばれる。佐渡島には流紋岩の貫入岩体は数多く存在するが、尖閣湾の貫入岩体とともに、代表的な岩体である。【関連】尖閣湾(せんかくわん)【執筆者】神蔵勝明
・福寿草(ふくじゅそう)
【科属】 キンポウゲ科フクジュソウ属 日本の野生品と同じものが、東シベリアや中国大陸に分布し、アムール・アドニヌ(アムールの美少年)の英名で呼ばれるが、幸福と長寿のむすびついた日本名の福寿草の名がいちばんよい。佐渡金銀山の奉行川路聖謨も「この国の金山の福寿草は銘物なり」とし、「福(さいわい)の寿じ春に千よや経む こがね花咲くこの山の草」と、黄金山での採金が、千代に栄えむの願いを歌に託した。「福寿草家のどこかに母のゐて 五行」「妻の座の日向ありけり福寿草 波郷」。母がいて、妻がいて、福寿草の花がまぶしくて、なによりの新年である。正月に花を咲かせるには、鉢植えを年末三日間夜だけ浴槽に箱を浮かべて乗せておく。フタで密閉しないこと。元旦は三分咲き。次々とゆっくり咲かせるのがよい。佐渡でも、冬の季節風に直面する北西むきの海岸、カシワ林内に大群生する。冷たく寒いことが好きな花である。和木では「フキンジョ(フクジュソウの角芽)が出ると野良仕事」という。鷲崎・願・北鵜島では、開花が嫁の外仕事を告げる花。ムギの肥えくれの長桶負いがはじまる。この花をヨメナカセと呼んでいる。【花期】 三~四月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男
・福泉寺(ふくせんじ)
下寺町石坂にあり、真言宗単立。近世の頃は佐和田町談議所坊長福寺末。現在は佐和田町の円照寺が兼務。本尊は不動明王で山号は慈眼山である。開基は慶長十七年(一六一二)と寺社帳にあり、最初は下の墓地の所にあったが、貞享元年(一六八四)浄土宗の西念寺が左門町に移転したので、その跡地に建てたと伝えられる。【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】近藤貫海
・福浦遺跡(ふくらいせき)
両津市大字加茂歌代の福浦地帯にある、縄文後期を主体とする遺跡。加茂湖に面した海抜五メートル内外の洪積層台地で、ゆるやかに傾斜して加茂湖岸にいたる。現在は市街地化されて殆んど淫滅し、遺跡のおもかげはうしなわれているが、福浦の国道北側台地一帯にひろがる、大きな遺跡であった。昭和二年(一九二七)四月に清野謙次、同六年八月に斎藤秀平らによる発掘調査があったが、斎藤善兵衛宅(元NTT両津支店)を中心に、土器と石器が混合出土し、西方一帯は土器が多く、東方一帯は石器が多く出土した。縄文土器は『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告 第七輯』(昭和十二年)によると、坪穴式・長者ケ原式・塔ケ崎式・三十稲場式・三仏生式の中期から後期のものがみられ、土製耳栓形彫刻文耳飾一点(後期)もある。石器は、石鏃・石斧・石槍・石匙・石棒・石剣・石槌・石錐・石錘・石皿・凹石・管玉などである。貝塚は明らかでないが、一部に貝層があったとみられ、ハマグリ・サザエ・シジミなどを混在し、なかでもシジミが最も多いとする記載があり(本間周敬『佐渡郷土辞典』)、イノシシの獣骨も出土している。また貯蔵穴からは、炭化したクリが多数発見されている(本間嘉晴「佐渡の原始・古代」)。【参考文献】新潟県『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告』(三輯)、池田寿「鴨湖畔の石器時代遺跡」(『佐渡史苑』二号)、清野謙次「佐渡紀行」(『佐渡史苑』三号)【執筆者】計良勝範
・富士権現(ふじごんげん)
富士権現は、現在小学校の前を流れる馬町川の上流にあって、水田の上は畑作地帯であり、近くには寺の礎石の跡や、小石を積んだ塚があったといわれる。南沢の三寺家で祀っており、三寺の先祖は山伏であった。三人で当地へ来て、それぞれ寺を建てた。それで三寺という姓が生まれたという。最初は富士権現に建て、信仰すれば家が栄えるといわれ、九月十二日が祭礼日と伝わり、この日には赤飯を供えるのが通例であった。また盆や彼岸には、お参りする風習が続いた。山伏は古代から存在し、深山幽谷を霊場としていた。富士権現は、名前から江戸時代の霊山信仰にはじまったと推測され、金山の発見に貢献したかも知れない。むしろ相川金山の発見につながる公算が強い。石井文海の描いた「相川十二ケ月」に、富士権現大根曳の図があり、説明書きに「十月、富士権現といへる山畑より、大根若干を曳出し市にうる、このあたり、下町の家続より春日崎の遠望、所々の木すえ紅葉して好景あり」と見え、下町の家並みと春日崎が遠望できる。水田の上に畑と道がつき、大きな木々が生えて付近は山畑であった。『佐渡四民風俗』は「相川南沢の上、富士権現と申す所の土、此の辺にては宜しく候へ共」とあるのを見ても、良土がいっぱいあったことが分る。土は第二酸化鉄を多く含み、無名異焼によく使われた。また鉄分の少ない白い「うまのう」土と呼ばれる良質粘土があったが、取り過ぎて今は見られない。「伊藤赤水家文書」にも、幕末に「うまのう」土を掘り取って自宅へ運搬した記録がある。これは芸術品をつくる場合に使い大事にしていた。釉薬は「からみ」という鉱滓を多く使い、金銀銅のほかいろんな鉱物が色を出した。富士権現は、名前から江戸時代に祈祷がはじまったと見たい。修験者が加持祈祷を中心とする、蜜教寺院と結託して祈祷札を配布し、家内繁盛・息災延命・五穀豊穣を祈ったのではなかろうか。【関連】無名異(むみょうい)【執筆者】佐藤俊策
・フタスジカジカ(ふたすじかじか)
フタスジカジカ(二筋杜父魚)は、佐渡真野湾産の個体が、模式標本(完・副とも)に指定され、昭和五十五年(一九八○)に、新種としての命名記載が行われた小型魚である。北米太平洋岸にのみ生息すると思われていたこの小型カジカが、日本にも分布することが分った意義は大きい。瀬戸内海の山口県沿岸と、日本海兵庫県の香住海岸にもいることが分った。二筋とは、背側に走っている鱗列が二列であることと、この櫛鱗列と体側の側線以外に、鱗列がないことによる。四~六センチにしか成長しないし、個体数が少ないので、食用としては全く顧り見られず、学術上の価値が高いだけである。【参考文献】『図説 佐渡島』(佐渡博物館)【執筆者】本間義治
・二つ岩団三郎(ふたついわだんざぶろう)
二つ岩団三郎は、むじなの神の親分で、相川町関の寒戸、真野町新町のおもやの源助、赤泊村徳和の禅達、新穂村潟上の才喜坊を四天王と言い、名前が付けられたむじなが百匹ほど知られている。むじなの神は、現世のご利益があると信じられ、相川の二つ岩団三郎の毎月十二日の縁日には参詣者が多く、大願成就すると、鳥居が参道の上に奉納され、奉納者の名が書かれる。団三郎が親分となったのは、江戸時代相川が佐渡の文化の中心で信仰者も多く、文化年間(一八○四ー一七)に活躍した相川の石井夏海などの教示によって、江戸の戯作者滝沢馬琴によって、『燕石雑誌』(文化八年刊)に図版入りで、大きく紹介されたことなどのためと思われる。『怪談藻塩草』(安永年間刊)には、団三郎の伝承は多いが、相川の柴町に住んでいた窪田松慶という医師が駕籠に乗せられ、玄関には床飾りがあり、武者道具がある御殿のようなところに連れていかれた。そして金屏風のなかから、五○歳ほどの主人が出て挨拶した。その家の少年の刀傷の治療をして、膏薬を渡して帰ろうとすると、酒や吸物でもてなされたという話である。主人は、団三郎であったと思われている。こうした伝承から、不可思議な霊力をもつ“むじな”の神が、人々に信じられることになった。【関連】関の寒戸(せきのさぶと)・おもやの源助(おもやのげんすけ)【参考文献】山本修之助『佐渡の貉の話』【執筆者】山本修巳
・二ッ亀(ふたつがめ)
二ッ亀島とも言う。両津市に属する。佐渡島の北端、弾崎とほぼ同緯度にあり、陸繋砂州(トンボロ)で連結された陸繋島である。手前の亀は頭を西に、沖の亀は頭を東に向けて接する二尾の大亀に見える島で、高さは各八○メートルと六七メートルである。粗粒玄武岩の柱状節理が海崖に露出し、見事な景観をなす。岩石の貫入時期は、新第三紀中新統真更川層下部と考えられている。崖や海岸の裸地以外は植生に被われるが、北方系植物の混じるのが特徴である。付近にキャンプ場やロッジ等があって、周辺の観光拠点となっている。二ッ亀を含み願集落までの海岸植生は、一九三四年国指定の名勝地「佐渡海府海岸・特別規制地区」になった。又二ッ亀は、新潟県の「すぐれた自然・地形地質のすぐれた自然」に一九八三年選定された。【参考文献】「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)、相川町・両津市教育委員会編「名勝佐渡海府海岸保存管理計画策定報告書」【執筆者】式 正英
・双股岩(ふたまたいわ)
二見半島南端沖合にある顕岩礁。台ケ鼻の南西○・七キロメートル、城ケ鼻の南○・四キロメートルの所に位置する。かっての二見半島の南端を示す名残りの地形で、波食により陸地の海岸線は現在位置まで後退し、双股岩は離れ島として残った。地質は、台ケ鼻付近と同じ相川層群上部の、石英安山岩質岩石と推定される。【参考文献】 新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】 式 正英
・二見(ふたみ)
二見半島の東岸、真野湾側の集落。元村と新地に分れる。永徳元年(一三八一)の本間道喜申状ならびに足利義満(カ)の袖判安堵状写によると、道喜が「蓋見半分」の地頭職を安堵されている(本田寺文書)。戦国期には、沢根本間氏の領有。二見は、半島尖端の双股岩に由来するが、古来より真野湾側は湊として利用され、鶴子銀山時代は、沢根本間氏の湊であった。元禄検地帳は保存されていない。寛政元年(一七八九)「道中案内帳」には、村高一一六石余、田畑反別一二町八反、中宮大明神(二見神社)、真言宗龍吟寺、家数四四軒、人別一六四人とある。中世の湊は龍吟寺前の大泊で、近世には元村に移り、「佐渡雑志」(文政年間)に、「船掛り澗、深サ五尋余、但、西風ハ大風ニテモ当ラズ、東風ノミ悪シ、甚ダ能キ澗ナリ」とある。東風を待って上方に向う回船の湊であった。段丘上の「のさん」にあった光蓮坊は、龍吟寺の前身と伝えられるが、重要文化財の同寺の金銅聖観音は、双股岩近くにあがったと伝える。中世に、各地から寄り集って成立した湊集落。元村の阿弥陀堂には、沖合いの阿弥陀礁から上った一石表裏地蔵坐像があり、近くに「八房の梅」・「月見ずの池」などの順徳院伝説もある。寛永五年(一六二八)、相川の補助港となり、相川から稜線ぞいの旧道があった。近世、元村には十数軒の遊廓があり、のち明治四年、旧大泊地域を埋め立て新地と称し、ここに新しい町屋を建てた。【関連】 二見港(ふたみこう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫
・二見港(ふたみこう)
二見新地の南岸に、戦後埋め立てによる二見新港ができた。近世以前は、二見神社(中宮神社)前は砂浜で、大泊といわれた中世の湊があった。近世には、西側の出崎の赤岩から西に二見元村ができ、二見村の中心となり、ここが相川の外港として利用され、半島の尾根道で相川に通じていた。外海の相川にたいし、近世の二見湊は良港であった。文政年間(一八一八~二九)の「佐渡雑志」にあるように西風のとき停泊する湊であった。寛永五年(一六二八)姫津村と二見村は、相川に入る廻船の補助湊となり、上方廻船の入津が多くなったが、近世中期以降、北前船の寄港地となってから、いちだんと湊はにぎわった。二見元村には十数軒の廓もあった。二見新地は、佐渡奉行所の地役人であった家系の藤沢幸吉らが、明治四年、渡城より友崎までの三二五間の埋め立て計画を立て、国に二万両の借入れを申請したが受理されず、越後商人や佐渡四十物商組合の融資をうけて、明治五年(一八七二)に完成した。現在の新港は、四回目の二見港整備である。二見港は、佐渡金山から産出された鉱石の積出港であったが、平成元年(一九八九)金の採掘が中止され、利用状況は変化した。近年は建設資材、東北電力相川火力発電所の燃料移入の船舶の入港が増え、地方港湾の一つに指定されている。【関連】藤沢維宝(ふじさわよしとし)・亀崎新地(かめざきしんち)【参考文献】小泉其明「佐渡雑志」、「相川町役場資料」【執筆者】佐藤利夫
・二見鉱山(ふたみこうざん)
相川町二見の鉱山。二見神社の裏山に坑道が一つある。内部で三本に分かれ、いずれも坑口から九メートル程の試掘坑道である。地元の話では、昔の坑道跡を戦前に再開発しようとしたものという。最初の採掘が何時か、どんな鉱石を採掘したかも定かではないが、野坂鉱山や大浦鉱山と同じく、銀山であった可能性が高い。
【関連】野坂鉱山(のざかこうざん)・大浦鉱山(おおうらこうざん)【参考文献】田中圭一編『佐渡金山史』【執筆者】小菅徹也
・二見古墳群(ふたみこふんぐん)
佐渡が島には真野古墳群と並んで、二つの古墳群がある。真野湾中心の海岸台地に群集するものと、二見半島を中心にするのがそれである。平成元年(一九八九)の一斉調査により、二見半島では一一基の古墳所在が判明したが、なお、道路拡幅や開発で失い記帳できないものも多い。二見半島も海岸台地縁辺に立地し、海上から眺めると偉容を誇るのは、真野古墳群と同じである。現存あるいは遺物を残し、所在の知れるものを地区ごとに列挙すると、大浦に七基・橘二基・稲鯨一基・米郷一基の計一一基が知られているが、消滅で所在の不明なもの、調査の結果そうでなかったものは、登録名簿から除いてある。春日崎の岩鼻には、いくつかの古墳が数えられたが開発で消滅したと伝えるし、二見台ケ鼻のエゾ塚は、調査により古墳でないことが判明している。とくに二見半島の古墳は、六世紀から八世紀に亘り、谷地塚古墳のように、六世紀二・四半期に属する佐渡で最も古いものがあり、真野古墳群より全般的に時代が古くなる。なぜ両者に古墳が集中するのか明らかにはできないが、海岸に製塩遺跡が集中することも見逃す訳にはいかないだろう。
【参考文献】中川成夫・本間嘉晴・椎名仙卓・岡本勇・加藤晋平「考古学から見た佐渡」(『佐渡』)、松田与吉「佐渡古墳巡礼」【執筆者】佐藤俊策
・二見神社(ふたみじんじゃ)
『佐渡国寺社境内案内帳』では、「中宮大明神、元和四年京都吉田卜部家より補任これあり。社人権兵衛」とある。明治六年(一八七三)、大小区制により第一大区五小区の郷社となり、社号を二見神社と改称した。祭神は中宮大明神。国常立尊、例祭日は六月二十一日。郷域の一四か村は、中世の本間摂津守永州の所領だったという。明治十六年『神社明細帳』によると、氏子は二見村一○六戸、沢根村五四戸、口碑に「往古、二見村字片谷ニアリテ即チ、承久帝(順徳天皇)ノ官女、右衛門佐渡局、片谷明神トモ中宮大明神トモ称シ奉レリ。然ルニ天正十七年上杉景勝ノ時代、藤田信吉打入ノ節、故有テ烏有ニ帰ストイヘドモ、程ナク隣村雑太郡沢根村(羽二生)デ祀ル所ノ社トナル。祭神国常立尊、今ノ境内ニ移シ祀ル」との記載がある。現在地は二見新地の山ぎわに建っているが、中世にはここは大泊といわれており、二見元村以前の古い湊であった。神社の旧社地は、台ケ鼻と送り岬の間の明神沢にあったといわれ、この近くの二双岩、かめのまたの海に、国指定重要文化財の龍吟寺の金銅仏観音像が出現したという伝承を残しており、両神仏の関連が考えられる。境内社には稲荷神社がある。【関連】龍吟寺(りゅうぎんじ)【参考文献】矢田求他『平成佐渡神社誌』(続)、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】佐藤利夫
・二見神社社叢(ふたみじんじゃしゃそう)
【別称】二見神社のシイ林(ふたみじんじゃのしいりん)
・二見神社のシイ林(ふたみじんじゃのしいりん)
相川町指定(一九七四)の天然記念物。所在地は相川町二見。二見郵便局のすぐ前にある。後は二見半島が冬の季節風をさえぎり、前は真野の入江。社殿は海抜四○㍍の海辺の丘に建つが、社林はシイの老巨木で鬱蒼としている“シイの極相林”である。極相林とは、その土地で遷移が進み、極相すなはちクライマックスになった林で、自然林とはこのような極相林を指す。この社林は、島内で最もよく保存されたシイの極相林。樹高二○ー二五㍍、胸高幹径五○ー九○㌢、大きいものは胸高幹周四・一㍍、根元幹周七・七㍍見あげる樹冠は、大きく空をおおい林内は暗い。幹径一㍍をこすタブの巨木も混じる。高木層はシイ、中木層はヤブツバキ、低木層はヤブツバキ・ヒメアオキ・ヤツデ、草本層はベニシダ・ヤブコウジ・カラタチバナなど、いずれも暖地要素の常緑植物である。この地は、約六○○年前には二見番城のあった所で、約三○○年前に二見元村からこの神社が移転されたといわれるが、そうした歴史を背景に、番所林、鎮守の森として親しまれ保存されてきたのであろう。この林を訪れるたびに、三百年・四百年をへた極相の森の原始の息に身をゆだねる。林内は暗く、重く、ムンムンとした森である。縄文人の暮らした暖帯の森は、このような森であったのであろう。シイの幹にはマメズタ(暖地のシダ)が密生し、暖地の常緑のつる木のイタビカズラがからみつき、暖地の常緑のアケビであるムベもつるを伸ばし、子どもたちはムベのつる木でターザンごっこをして遊ぶ。「カケス カケス シイ落とせ」と、子どもたちは歌いながらシイの実拾いをした。秋になると、黒紫色に熟したメエメエ(イタビカズラの方言)の実を採り食べた。能登が北限とされたムベが佐渡に自生し、その北限は北進した。シイも佐渡が日本の北限である。分布を決めるのは冬の暖かさ、冬二月の平均気温の二℃が分布境界とされる。【参考文献】 伊藤邦男『佐渡巨木と美林の島』、同「二見神社のシイ林」(『相川町の文化財』)【執筆者】 伊藤邦男
・二見地区の小学校(ふたみちくのしょうがっこう)
二見地区の小学校のはしりは、明治六年に創立された橘庠舎で、明治二十年(一八八七)五月、公立簡易科橘小学校と改称される。そして鹿伏の観音寺に鹿伏分場、大浦と稲鯨には雪中派出場を設ける。同二十一年五月、高瀬に簡易科高瀬小学校が新築される。明治二十二年、字二見が旧沢根村より分離し、二見村に合併したため、公立簡易科橘小学校の派出所を、当初龍吟寺を借りて設ける。同二十五年には、橘の簡易科小学校が稲鯨へ移り、村立稲鯨尋常小学校と改称される。なお同二十五年四月、大浦尋常小学校(鹿伏・大浦・高瀬)も誕生。学区を二分し、その一つを鹿伏・大浦・高瀬とし、もう一つを橘・稲鯨・米郷・二見として、本校は稲鯨尋常小学校とし、二見に常設分教場を置く。同三十四年、字鹿伏が相川町に合併される。同三十五年に二見尋常小学校が設置される。学区は二見と米郷。校舎は平屋の九○坪余、同三十六年竣工した。その後増築を経て、昭和二十八年校舎新築落成。同三十年には郡市複式教育研究会を開催。同三十三年郵政省より子ども郵便局の表彰。同四十六年には、よい歯の優良校として県より表彰される。明治三十五年には、大浦尋常小学校も設置される。学区は大浦と高瀬であるため、その頭文字をとり、明治四十一年大高尋常小学校と改称した。同三十六年九月、新校舎(平屋七八坪)が竣工。昭和四年校歌制定。昭和五十年三月閉校、相川小学校に合併する。稲鯨尋常小学校は、明治二十九年、児童数増加のため校舎の増築。大正十三年稲鯨尋常小学校に高等科を併設、村立七浦尋常高等小学校と改称する。昭和二十九年校歌制定。同五十一年、子ども郵便局が郵政大臣より表彰。同五十八年十月、佐渡地区小・中学校学習指導研究発表会を開催する。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「創立七十周年記念要項」(二見小学校)、「学校要覧」(七浦小学校)、「大高小学校沿革」(大高小学校)【執筆者】浜口一夫
・二見中学校(ふたみちゅうがっこう)
昭和二十二年(一九四七)五月十五日、二見村立七浦小学校に併設開校。四学級・職員六名、新校舎の落成は同二十四年十二月で、普通教室六と図書室だった。翌二十五年三月増築校舎(音楽教室・礼法室・校長室)落成。同三十一年八月、ようやく独立校舎第一期工事の落成をみる。普通教室四・図書室・理科室・仮設建物などである。その後、体育館落成(昭三三・五)、四教室増築(昭三六・七)、体育館増築(昭三八・三)、給食室完成(昭四三・八)と、次第に校舎の設備も整っていった。学校の象徴である校旗のできたのは、昭和二十七年五月であり、校歌(作詩庵原健・作曲山田正与)は同三十四年三月である。二見中学校の初代校長近松行雄は自ら画筆を握り、美術教育への造詣も深かったが、新学制発足後間もない昭和二十三年に、郡図工科研究発表会を自校で開催している。なお、同二十五年には、産業教育の県指定校となり、同二十七年七月、東京大学の宮原誠一教授を招いて、研究発表会を催している。更に同二十八年には、僻地校でありながら、文部省の産業教育研究指定校に選ばれたことは特筆すべきことである。
【参考文献】「八重潮ー創立四十周年記念特集号ー」(二見中学校生徒会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】浜口一夫
※二見中学校は、平成15年3月31日廃校となりました。平成15年度から学区の生徒たちは相川中学校へ通っています。
・二見七浦の海岸植物(ふたみななうらのかいがんしょくぶつ)
大佐渡西南部の二見半島。この半島の大浦から稲鯨にかけての六キロメートル海岸は七浦海岸とよばれ、海岸浸食を受けた岩石が点在し、景勝地となっている。この海岸の代表的岩石はグリンタフである。第三紀中新世のグリンタフ海岸火山活動によって形成された“緑色凝灰岩”で、海食により奇岩状となるが、特に有名なのは夫婦岩・白島で、いずれも緑色凝灰岩である。昭和五十八年(一九八三)、新潟のすぐれた自然(地形地質のすぐれた自然)に、「二見海岸のグリンタフ」として指定される。グリンタフ海岸であるとともに「岩礁海岸の植物」も豊産する“すぐれた植物地域”でもある。段丘の縁や斜面の海岸風衝樹林は、クロマツ・カシワ・エノキ。海岸植物は、イワユリ・トビシマカンゾウ・ハマハタザオ・メノマンネングサ・アサツキ・ハマヒルガオ・ハマボッス・シオツメクサ・ハマエノコロなど。海岸草原には、ススキ・クズ・ナデシコ・ノコンギク・ノアザミ・ネジバナ・アキカラマツ・ハイメドハギ・エビズル。海岸低木は、ハマナス・ハマゴウ・アキグミなど。夫婦岩のまわりの塩生地には、ウミミドリ・ドロイ・ヒメヌマハリイなどの塩生植物。昭和五十七年(一九八二)高瀬の猫岩の礫海岸で、南方系のグンバイヒルガオの漂着を発見。五○㌢のつるを八本伸ばし、葉を一○○枚つけたが越冬できず、花を咲かせないまま姿を消した。【参考文献】 『新潟のすぐれた自然』、『佐渡島』【執筆者】 伊藤邦男
・二見農業協同組合(ふたみのうぎょうきょうどうくみあい)
所在地は稲鯨、設立は昭和二十三年(一九四八)七月で、稲鯨と米郷の集落を地区とし、稲鯨漁協の一隅を借りて発足。同三十二年七月、「二見村農業協同組合土地改良事業施行規約」を設定し、農道の新設事業を行う(徴集人頭割五○%・反別割五○%)。同三十八年麦類種子団地を引き受け、大麦ならびに菜種の共販を実施。同四十年、ビール大麦の栽培を推進する。【関連】 佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)【参考文献】 『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)【執筆者】 浜口一夫
・二見半島(ふたみはんとう)
大佐渡山地の南西への軸線方向の端にある半島である。ほぼ沢根と相川を結ぶ県道から西の地域にあたる。半島の最高所一八四㍍の部分を含め、ほぼ南北に連なる脊稜まで、全半島が海岸段丘に由来する地形から成る。約一五○㍍、九○㍍、六五㍍、四○㍍、二五㍍の高さに、計五段の段丘面があり、それぞれ崖か急斜面に隔てられる。基盤の地質は、新第三紀中新統相川層群の、安山岩溶岩・凝灰角礫岩・凝灰質砂岩等の、陸成の火山噴出物が複雑に分布するが、段丘面はこれを切って発達し、薄い砂礫層と褐色土層を載せる。四○㍍、六○㍍の段丘面は連続性が良く、水田や畑に開かれる。集落は海面に近い隆起波食台上にあり、北から鹿伏・大浦・高瀬・橘・稲鯨・米郷・二見の順に、一~二キロメートルおきに位置している。もと二見村であったが、一九五四年以来相川町に編入された。北西側に地形の障壁がなく、冬の北西風をまともに受ける為、集落に風囲いが目立つ。流域に山地がなく水資源に乏しい為、大正ー昭和初期の多数の溜池築造まで水田に乏しかった。半島面積一○・六二平方キロメートルの三○%は耕地で、水田対畑地の比は、現在は六対四であるが、稲鯨等南半の集落は水田率が小さい。海岸線には北西に春日崎、西に長手岬、南に台ケ鼻の突出部があり、どこも磯浜で美景を呈し七浦海岸と呼ばれる。集落は機能的に農漁村であり、相川の街との関連が密接である。【参考文献】 「二見半島の地理と歴史」(『相川郷土博物館報』七号)、「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】 式正英
・二見道(ふたみみち)
二見道とは、相川の海士町から旧測候所の脇を通って、佐和田町境沿いに二見港に至る、台地上の道のことである。この道は、中山道から分れた細道ともつながっている。半島部の、浜沿いの村々をつなぐ現在の県道は、大浦から橘までの七浦北部は、浜道としてよく使われていたが、他の村では、集落からノサン道などと呼ばれる山通りの道をへて、相川道につながっていた。稲鯨まで郡道が開かれたのは、大正五年(一九一六)のことである。同六年に書かれた「二見村是」によると、沢根から二見までが県道で、稲鯨からさきの「残ル道路ハ険悪ニシテ交通不便ヲ感ズルモ──(略)──従来沢根及相川方面ヘノ荷物過半ハ漁船ヲ以テ運搬シツツアリシ」とある。台地上を縦走する二見道を脊骨とし浜沿いの村に、それぞれに枝骨でつながっていた形は小木半島で、金田新田経由の沢崎道と枝道との関係によく似ている。両地の類似は、大浦の集落名尾平(小平)の社名灯台などにもみられるが、海岸道路の開発では二見のほうが早かった。二見道から枝岐れしている道は、一般的にノサン(野山)道といわれているが、稲鯨から二見への道は「産土街道」、橘から曼荼羅寺方面に出る道には、「椎ノ木線」の名がつけられている。【執筆者】 本間雅彦
・二見村(ふたみむら)
現在相川町に属する二見半島の旧自治体。鹿伏・大浦・高瀬・橘・稲鯨・米郷・二見の七か村は、明治二十二年~昭和二十九年の間、佐渡郡二見村。明治三十四年、七か村のうち鹿伏は相川町へ編入。二見村七か村は七浦といわれた。古来、南西からの暖流の影響をうけて、小木三崎と同じ寄り神の多い土地柄で、国中からは西浜といわれ、地域的特徴がある。永徳元年(一三八一)本間九郎左衛門道喜が、二見半分の地頭職安堵(本田寺文書)、応永十四年(一四○七)本間詮忠譲状に、子息有泰に大浦郷を譲った(古書書上帳)ことなどの記録があるが、この頃、他の村の多くは成立していた。近代に入ると二見村郷社として、二見中宮神社が明治六年二見神社となり、役場は橘、郵便局は二見および稲鯨に置かれ、明治二十二年町村制施行にともない、二見村が成立した。近世以来、相川金山の稼行にともない、相川と社会的・経済的つながりは、きわめて深い関係にあった。合併前、昭和二十八年「二見村村勢要覧」によると、人口男一八九○人・女二一三○人、世帯数六五六、職業別戸数は農業二七七、漁業一八六、商業二七、土建業三○、その他一三六となっている。水稲生産高二九四五石、作付面積一五五町歩、漁業生産高のうち魚類一二万貫、藻類三万三○○○貫で、総収入高の半分を占めていた。昭和二十九年三月三十一日、金泉村とともに相川町に合併した。【参考文献】 『二見村村勢要覧』【執筆者】 佐藤利夫
・二見郵便局(ふたみゆうびんきょく)
局舎は二見にあり、開局は明治十年(一八七七)一月である。初代局長(七等郵便取扱役)は藤沢重用。まず郵便集配事務の取扱いからはじまり、明治十八年には貯金事務、同二十五年には為替事務、三十三年には小包郵便、三十四年は電信、四十一年には電話交換、大正五年には簡易保険の取扱いと、その業務を広げていったが、電信電話業務は昭和五十年電通の合理化により、佐和田電報電話局に吸収された。同地区に無集配の稲鯨郵便局が開局したのは、大正六年二月(宮下久助)であり、同時に為替・貯金業務を開始、同八年二月より電信・電話業務を取り扱ったが、昭和三十年十月、電信・電話は二見局へ吸収された。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・不動信仰(ふどうしんこう)
不動明王は、大日如来の変身された仏さまである。右手に宝剣を持ち忿怒の顔で、滝や沢などの岩座に立つものが目につく。江戸時代以降、これらの石仏の多くは、個人や講中などで造立したらしい。相川町戸地の不動明王は、滝の不動明王ともいい、千仏堂境内の小さな滝のかたわらに立っている。この滝の水は目によいと伝えられ、滝の上の田地への下肥は禁忌となっている。不動さまは、「湧き水の神さま」「目の神さま」などといわれるが、同町大倉の不動さまは、最初大幡神社のあるコビラの滝に祀ってあったが、後に菊地吉右衛門家の屋敷に、堂を建て祀ったというが、ここでも滝で修行した修験と、不動明王との関連に思いが動く。北立島の間右衛門不動は、目の不自由な先祖の目をなおしたので、渡辺間右衛門が祀った。大浦の海山不動は鯛網にかかったが、夢枕にたち「不動だから滝に行きたい」といい、現在の滝の所に祀ったという。なお、稲鯨の「久三郎不動」はハエナワにかかり、橘の「波切り不動」は、タラ場でつりあげたものだという。また不動明王は、火伏せのひと役もかっており、橘・夕白町・南片辺・千本・北田野浦・石名・小田の不動さんが、ムラの大火事を防いだという。【関連】 千仏堂(せんぶつどう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、石田哲弥『石仏学入門』(高志書院)【執筆者】 浜口一夫
・船絵馬(ふなえま)
船主が、海上安全を祈って神社などに奉納する。馬ではなく、持船が描かれるのが普通である。海上安全だけでなく、遭難して九死に一生を得た船主、または船乗りが、助かったことを感謝して、奉納する場合もある。大漁を祈願した船絵馬も見られる。「郷土の船絵馬」(西窪顕山編・一九七六年刊)によると、県内の船絵馬の調査では、画材が和船と洋船のものをふくめて四九四点。うち佐渡が一二八点を数えたという。主として幕末から明治の奉納が多く見られ、沿岸の神社に多く残っているとしている。佐渡では、畑野町小倉の御梅堂に残る安永二年(一七七三)が古く、同町栗野江の加茂神社の「松尾丸」(文化元年)、佐和田町実相寺の「富吉丸」(文化九年)、赤泊村の個人所有の「江差丸」(文政四年)、小木町木崎神社の「永宝丸」(天保十一年)の船絵馬がこれに続いている。古い船絵馬が、沿岸部でなく小倉や栗野江など、山地のやしろに残るのは、一つは火災をまぬがれたこともあろう。奉納の時期は下るが、小木町の木崎神社や、船主たちの信仰を集めた、相川町の金毘羅神社などには、かなりの数の船絵馬が残っている。専門の絵馬師として、高名な「絵馬藤」が描がいた船絵馬の、もっとも多いのは沢根の白山神社で、約二○点がすべてこの人の絵であるという。なお北前船以前の一七世紀初頭から、諸国の廻船の入津で賑わった相川では、塩釜神社に残る、明治年代の船絵馬より古いものが残っておらず、相ついだ江戸時代の大火で、焼失したことが考えられる。船絵馬は、移り変わる船の構造の研究には貴重で、造船史・海運史・航海民俗史を見ていく上で、大切な史料である。【関連】 金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)【参考文献】 『佐渡相川の絵馬』(相川郷土博物館)【執筆者】 本間寅雄
・舟崎文庫(ふなざきぶんこ)
旧東京帝国大学教授萩野由之博士が蒐集した、佐渡関係の史料・書籍・鉱山絵図・写真等を、第二次世界大戦後令孫端が売却するにあたり、真野町金丸出身の当時衆議院議員だった舟崎由之が、一八万円の巨費を投じて買取り、その後昭和二十八年、舟崎が母校佐渡高等学校同窓会に寄贈したものである。佐渡高等学校同窓会は、寄贈者の名に因んで「舟崎文庫」と命名した。舟崎は、佐渡関係の貴重な史料が佐渡に保管されることを望み、母校同窓会に寄贈したが、寄贈の条件として耐火性書庫を作ること、一切持出しを禁ずることを条件とした。その後昭和四十一年舟崎は、萩野由之が生涯をかけて蒐集した秘蔵の「先哲手簡」「先賢手簡」「蘐園五家書簡」「先哲書翰希蹟」等を、同窓会の希望を容れて追加寄贈した。これらは多く近世を代表する思想家・文人・政治家の書簡である。舟崎文庫は、萩野由之が長年月にわたって蒐集しただけあって、その内容は広範囲にわたり、写本はもとより多くの原本・絵図・古文書を収めており、佐渡の近世・近代史研究資料の宝庫といえる。昭和四十九年、舟崎由之の遺族の基金で『舟崎文庫目録』が出版されている。【関連】 舟崎由之(ふなざきよしゆき)・佐渡群書類従(さどぐんしょるいじゅう)【参考文献】 『舟崎文庫目録』(佐渡高等学校)、『佐渡高等学校百年史』(佐渡高等学校)【執筆者】 児玉信雄
・船箪笥(ふなだんす)
船箪笥は、江戸期から大正期にかけて、北前船(正確には弁財船、俗に千石船)の船頭たちが用いていた物入れである。この名称は、民芸運動の提唱者・柳宗悦が用いていた総称が一般化したもので、それまでは、懸硯・帳箱・半櫃と種類ごとの名称で呼ばれていた。家具研究家の小泉和子氏によると、船箪笥が陸上用から船用に変ったのは一八世紀半ば過ぎで、産地は最初は大阪らしいという。その後に様式に変遷があり、産地も分散した。そのうち佐渡の小木が時期的に早く、明治期には山形県の酒田と福井県の三国が、そして江戸を含めて著名な産地が形成された。船箪笥は、弁財船が明治後期に激減し、その改良船が大正期に終焉すると共に制作は終った。小泉氏が調べた小木町の屋号人名簿によると、大正十五年(一九二六)に箱細工職は一人である。船箪笥の材料はケヤキで、厚手の鉄製金具がついている。金具は小木の鍛冶職も手がけたが、佐和田町の鍛冶町には、専業の錺職人がいて、隣接する八幡村のキリ箪笥用のものに加えて、船箪笥用金具も刻んでいた。それも最後の職人中村定蔵の死去で終ったが、近年古美術品の復元を試みる家具職や研究者が出現して、新作が趣味家を対象として制作されている。【関連】 八幡箪笥(やはただんす)【参考文献】 小泉和子『箪笥』(法政大学出版局)、柳宗悦『船箪笥』(春秋社)【執筆者】 本間雅彦
・船手屋敷(ふなてやしき)
初代佐渡奉行の大久保長安は、慶長八年に紀州で八○挺立ての新宮丸と小鷹丸を作らせ、その御船手役として、攝州から辻将監と加藤和泉を任命して赴任させ、その者らに定下番六○人と水主一六○人を抱えさせた。彼らは下戸番所に近い、炭屋浜町と蜑人町の中間ふきんに船手屋敷を構えて、両家が東側に加藤家と水主一五軒が、西側に辻家と水主一五軒が住みついた。両家は二五石三人扶持という低い家禄ながら、門構えのある不相応なほどの広い屋敷であった。これは多くの水主を抱えていたことと、浜手には右記した御船を囲っていたためである。船手役は、御船の操縦をして官業に服するのが主な役目であるが、航海に動員しない者たちは、造船業に従事していたらしい。『相川志』に記載されている船手役の名前をみると、のちに船番匠になった者や、その先祖の名がみえる。また血すじの有無ははっきりとはわからないが、加藤姓を名乗る船大工や、船材を育てている家すじに、加藤和泉の子孫の伝承を伝える者がいる。それらのうち、佐和田町の河原田小学校南隣りに住む加藤家は、和泉から数えて十三代目であることを示す系図や、葵紋のついた手箱を所蔵していて、船手役の後裔であることに疑念はない。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 本間雅彦
・船番匠(ふなばんじょう)
番匠は大工の古称である。したがって船番匠とは船大工のことで、船が専業の職人によってつくられるようになって以後の名称である。佐渡の舟つくりについては、『続日本紀』の七○九年(和銅二年)の項に、「越前・越中・越後・佐渡の四国に船百艘を征狄所に送る」とある。軍事用だから徴発したのであろうが、それにしても戦争に湛える舟をつくる者がいたということで、はじめて舟が徴発できるわけである。それ以降で船つくりのわかる文献資料は、『佐渡年代記』の慶長八年(一六○三)の項にみえている。「佐州の御船二艘紀州において造作せしめ、辻将監・加藤和泉に御預となり、佐州へ廻す二艘共櫓数八十挺立云々」は紀州造船ではあるが、辻と加藤は大阪の舟番匠を伴って、船手役として佐渡に赴任して定着したあと船つくりを指導し、その水主の中から多くの船番匠が生まれた。こうした官製船の番匠ではなく、民間漁舟の船番匠は、村々でどのような徒弟を組み、どんな技術をもっていたかは明らかでないが、どの村にもいたということではなかった。南佐渡では、宿根木・小木・大杉・莚場・多田・松ケ崎・片野尾など、北佐渡では稲鯨・小川などに、そして国仲では豊田のほか静平・小倉の山間部でも、その痕跡は残っている。【関連】 水主長屋(かこながや)【参考文献】 本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】 本間雅彦
・フナムシ(ふなむし)
フナムシ(海蛆・船虫)は、漢字のごとく「ウジ」を意味するが、フナムシの名は諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』に載っている。甲殻類等脚目に属す小型動物で、五㌢大。磯辺や舟板の上を素早く走り廻っているが、海水中にはすまず、完全な陸上生活者である。岩の割れ目や、時には表面に群れているが、冬にはかなり内陸の方まで入りこんで、越冬するので、岩場からみられなくなる。食餌は雑食性なので、打ち上げられた海藻でも、動物の屍体でも、群らがって摂食する。フナムシは釣りの餌に利用されるが、『佐渡州物産』にも、「漁人捕之餌トス」と出ている。【執筆者】 本間義治
・舟山(ふなやま)
舟材にする木は、海に近い村にあるとは限らない。小佐渡山中の山村である旧小倉村の宮の河内の奥には、「舟ノ木」・「舟ケ沢」・「焼ケ舟」の地名がある。そしてその河内入口に祀られているのは、湊(海)の神・住吉社である。焼ケ舟とは、刳り舟をつくるときに焼きくぼめた痕跡かと思われる。山中の舟ノ木地名は、相川町達者・同戸中・真野町静平・赤泊村三川などにもある。これらの土地は舟材を産するだけではなく、その地で舟を完成させ、土ぞりや雪ぞりを用いたり、船底を橇代りにして曵いたりしたであろうということは、他地の例から想像できる。刳り舟ではなく、板に挽いてそれをつなぎ合わせる(船底にあたるシキの部分に何本ものフナバリをとりつけ、それにタナイタを張り重ねていく)構造船の時代になると、運材がかなり容易になるので、浜に近いところでダイノセ(造船の土台を組むこと)をするようになる。赤泊村の海村のように、冬の季節風の害がなく、比較的すなおな樹木の成長が可能なところでは、舟材は海辺の近くにもあったらしく、集落名の大杉・杉野浦などにもそのことが窺われるが、北佐渡の場合、舟山は段丘のかなり奥でないとみられない。【参考文献】 本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】 本間雅彦
・舟山の天然杉林(ふなやまのてんねんすぎりん)
佐渡は日本海側名うての天然杉の島、舟木伐る山をもつ“舟木の島”であった。大佐渡山地の大塚山(海抜九六二㍍)を要として、海抜五○○~八○○㍍の間にほぼ扇状形に広がる“舟山”(相川町南片辺)。舟山の森林面積は一九二㌶。うち、スギ林九六㌶、およそ五○%を占める。このうち天然スギ林は四九㌶で、これが「舟山の天然スギ林」である。樹高二五㍍、胸高直径三○~七○㌢、平均幹径三四㌢、樹齢八○~一五○年の、直生したみごとなスギの美林である。天然に放置された大佐渡の「小杉立(関)の天然スギ林」は、スギ以外にミズナラ・ホオノキ・ヒノキアスナロ(方言アテビ)が混生し、巨杉・大杉・小杉が共存するが、舟山のスギは高木・亜高木層とも多種を混じえないスギの純林で、植林したかと思えるほど、よく揃った美しいスギ林。古老によれば、「少なくとも明治以降は、杉苗植林はいっさいしていない。択伐(生長量に見合う木を択んで伐採し、林の更新をはかること)は目的に合う立木のみと制限した。ただ広葉樹の伐採とスギの不良木の淘汰はしっかり行った」。新潟大学農学部林学科によれば「本来、天然杉林であった。目的にあった択伐と、天然力を主とする更新により、生産性ある天然のスギ純林に誘導した数少ない成功例で、林学上貴重な林とする」と診断した。【関連】 新潟大学農学部付属演習林(にいがただいがくのうがくぶふぞくえんしゅうりん)・小杉立の天然杉林(こすぎだてのてんねんすぎりん)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡花の風土記ー花・薬草・巨木美林』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】 伊藤邦男
・浮遊選鉱場(ふゆうせんこうば)
昭和十五年(一九四○)北沢に完成した、選鉱と製錬の施設。昭和十二年に日中戦争が始まると、国は戦時大増産政策を実行し、翌十三年三月には金銀銅などの「重要鉱物増産法」を公布した。当時、佐渡鉱山の坑内鉱の品位は低落傾向にあり、昭和十年で一㌧当たり三・六㌘にまで下がっていた。そこで、同七年頃から始められていた浜石採取を本格的に行なうことになった。これによって約二五○戸の住民が、土地を買収されて立退いたといわれる。浜石の品位は平均で金が四㌘、銀が八○㌘と、坑内鉱よりはるかに高かった。この大量の鉱石を処理するために建設されたのが、東洋一といわれた大浮遊選鉱場で、第一期工事は昭和十三年十月に完成して、十一月から操業が開始され、昭和十五年には全施設が完成した。中心施設の本部選鉱場には、手選帯をはじめバスケットエレベーター・浮遊機・濃縮機など、大小の機械が並んで敷地は七三○○平方㍍に及び、山ノ神側には五○㍍シックナーや、付属施設が配置された。軌道は海岸まで延長され、トンネルで選鉱場とつないだ。これによって、最盛期には月五万㌧の鉱石を処理し、同年の産金高は一五三七キログラムと、明治後期以来の最高を記録した。昭和十八年には従業員一三○○人を数えたが、戦局が厳しくなって銅などの軍需金属の増産に切換えられた。【関連】 大間発電所(おおまはつでんしょ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『新潟県の近代化遺産』(新潟県教育委員会)【執筆者】 石瀬佳弘
・振矩師(ふりかねし)
佐渡奉行所雇の、鉱山の測量師を振矩師という。鉱石の採掘場所である敷が深くなるにつれ気絶(通気不良)や、湧水による水敷(水没した敷)が多くなる。これを避るための煙貫(通気坑道)や水貫(排水坑道)工事、探鉱坑道の延長工事等々には、つねに具体的な測量が不可欠である。地上や地中の各地点間の方角・勾配・距離を測定し、精密な計算等を経て、その位置関係を定めるのが、振矩師の職分である。振矩師の下に、振矩師見習・振矩師助・同助見習などの身分があり、宝暦~文政年間(一七五一~一八三九)には振矩師に二人扶持(一日米一升)、一か月銭一貫三百四十八文が支給され、文政の例では、振矩師助にもなにがしかの給銭が与えられたが、助見習は無給であった。ただし、水貫工事などで特別な業績があったときには、増給や身分の昇格もあった。また幕末~明治初年には、「算術指南方」を兼務する者もあり、これには別に手当が出た。なお、振矩師には大略次の人たちがいた(ただし、○印は振矩師助である)。樋野半三・持田半左衛門(後に地役人に昇格)・静野与右衛門・品川平左衛門・古川門左衛門・山下数右衛門(初代~四代)・○青木忠四郎(青木次助・羽田町青木家の祖先)・阿部六平・阿部坤三・山本仁右衛門。【関連】山下数右衛門(やましたかずうえもん)・阿部六平(あべろくべい)・樋野半三(といのはんぞう)【参考文献】金子 勉「振矩師雑記」(『佐渡郷土文化』)、「酒井家覚書」【執筆者】金子勉
・文弥人形(ぶんやにんぎょう)
佐渡の人形芝居には、「説経人形」「文弥人形」「のろま人形」と呼ばれるものが三つある。その中で「説経人形」が最も古く、語りは説経節であった。「のろま人形」は、「説経人形」や「文弥人形」の中間に出る間狂言で、太夫の語りはなく、人形遣いが生の佐渡弁で、即興的におもしろおかしく「生地蔵」などを演じた。明治以前の文弥節は、盲人の座語りとして伝承されており、それが人形と結びつき、文弥人形を成立させたのは明治三年で、沢根の文弥語り伊藤常盤一と、小木の人形遣い大崎屋松之助との、提携によるものといわれている。佐渡の人形芝居は、かっての佐渡びとにとっては、かけがえのない娯楽の一つであった。古くは蔵田茂樹の『鄙の手振』(文政十三年ー一八三○)や、ややおいて石井文海の『天保年間相川十二ケ月』には、相川塩釜明神での人形芝居のことが載っており、また『相川砂子』(舟崎文庫)の年中行事には、達者白山神社での人形芝居の記事がある。幕末から明治にかけて、佐渡で活躍した人形座の数は約三○座ほどあり、そのうち相川関係のものは、関の閑栄座・矢柄の繁栄座・入川の文楽座など、八つもの人形座があったという。これらは「佐渡の人形芝居」として、国の重要無形民俗文化財に指定(昭和五十一年八月二十三日)された。【関連】 説経節(せっきょうぶし)・広栄座(こうえいざ)・のろま人形(のろまにんぎょう)【参考文献】 佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫
・臍の緒(へそのお)
海府の奥の真更川では、ヘソノオを切るときは、赤子の腹から、ふた握りおいて先を切り、両端を麻糸でしばりまるめておいた。七日ほどたつと自然にとれた。それを鎌、古くは竹刀で二つに切り、和紙に包んで針箱や行李の中にしまっておき、その兒がここ一番の病気になったときなめさせたという。相川町高千では、ヘソノオは長く切ると、その児の寿命が長くなり、短く切ると短命になるとか、小便が近くなるなどといった。羽茂町滝平では、ヘソノオを一番めの子のときは豆一つ、次の子のときには二つ添え保存したという。その子がマメ(丈夫)になるようにとのマジナイである。相川町岩谷口では、ウブゲオトシの毛を一緒に、ヘソノオとともに保存した。また、お産の神、尾平神社のある同町大浦では、三十三日めにヘソノオを神社へ持っていき、神前の格子戸の下に投げこんだものだという。これはヘソノオをその子の霊魂のかたわれと考え、産まれ児の息災長寿を祈るとともに、その子の氏子入りのマジナイをも兼ねたものと思われる。【参考文献】 浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】 浜口一夫
・ベニズワイガニ(べにずわいがに)
ベニズワイガニ(紅楚蟹)は、アメリカ水産局の調査船アルバトロス号が、日本海へ周航調査した明治三十九年(一九○六)に、佐渡沢崎沖南方九八○㍍の海底から得た標本を、昭和七年(一九三二)にラスバン博士が、新種として命名記載したものである。それまで、ズワイガニより深いところから、たまさか獲れる濃い赤色のカニを、漁業者は身入りの悪いところから、ズワイガニの病気のものと思い込み、海へ捨て去っていた。第二次大戦後、ズワイガニに人為漁獲圧が加わり、資源量が激減してから、ベニズワイガニが注目され、コシジガニ(越路蟹)の名で売り出されるようになった。北米から北部太平洋、日本海に分布し、佐渡沖では四五○~二五○○㍍の深さにまで生息し、カニ籠によって漁獲する。ズワイという名称は、古語の小枝を意味する楚(すわい)に由来すると思われ、ズワイガニ類の脚の細くすんなりしたことを表現している。学名の種小名に用いられたギリシャ語のオピリオも、細長い脚を意味し、洋の東西で一致していることは興味深い。ベニズワイガニもズワイガニも、雄は一六回、雌は一一回脱皮するので、雄の方が大きく成長し、ことにズワイガニの雄は高価に取引きされ、また賞味される。【執筆者】 本間義治
・部屋制度(へやせいど)
親方制度ともいい、この反対が直轄制度である。労働者が鉱山と直接雇用関係を持つのが後者で、前者は親方に従属して飯場から鉱山へ通う。金属鉱山では、「飯場」、炭山では「納屋」と呼んだところが多かった。相川では「部屋」が通称で、そこで働らく人たちを「ヒヤ(部屋)モン」と呼んだりした。大塚・鈴木・安田の大部屋のほかに、太田・佐藤といった小部屋があり、大塚部屋は治助町に、安田部屋は庄右衛門町に、鈴木部屋は大工町に部屋があった。親方の苗字からそう呼んだのである。各部屋には、親方の下に小頭という数人の配下(子分)がいて、全国から働く人たちを募集し、部屋に寄留させ、食事の世話から、坑内へ差組んだあとの作業の監督も行なった。鉱山に対して身元保証をし、生活上・労務上の勤怠もきびしく監視した。鉱山労務者の供給請負業といった性格を持つものであったが、「事業ノ請負ヲ為シテ、所属鉱夫ニ稼行セシムルコト」とあるように、部屋頭が金銀採掘を請負うことも、明治三十三年(一九○○)ごろまで見られた。親方はまた、鉱夫募集の代償として一定の報酬が支払われ、また鉱夫の賃金を一括して鉱山から受領していたので、その配分支払いに当って、いわゆる頭はねが行なわれ、配下の労働者と争いが起こったこともある。明治二十三年の資料によると、鉱場課に所属する従業員は一八八五人で、このうち「他国」が九五○人、「地国」が四九二人とある。直轄に対する部屋労働者の比率は、六五・八八%を占めていた。この封建色の強い部屋制度が解体し、オール直轄制度に代わったのは、ようやく昭和十年とされている。【関連】 鈴木部屋(すずきべや)・大塚部屋(おおつかべや)・安田部屋(やすだべや)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 本間寅雄
・弁天岩遺跡(べんてんいわいせき)
相川町大字二見五六四ー一ー四、五六五の海岸に面した弁天岩の近くにあり、包含層が露出し、製塩土器などが無数に採取できると台帳にあり、周知の遺跡として登録されている。二見半島の海岸には製塩遺跡の所在が多く、とくに本遺跡周辺に多い。大佐渡山系が海岸まで連なる緩斜面域で、平地は海岸面に細く連なる。緩斜面と平地は水田であるが、田の高低が激しく、南の小川は溢れて湿地帯を形成し、減反政策のためか田は放置されている。平成七年(一九九五)に確認調査を行なったが、弁天岩を除いた両側は護岸工事が施されて、台帳にある包含層の露出は見えず、製塩遺跡は波浪による侵蝕か護岸工事の影響によるのか消滅している。トレンチでは、上面が粘土層で生活面はなく、下面は波浪による侵蝕か大小の石が多い砂礫層である。石は角がなく丸まっており、波の影響をうけている。還元した青い砂礫層に、二重口縁の古式土師器片と縄文晩期の土器片が混在していた。主体は土師器であり、製塩遺跡とは関係がない縄文末から古墳前期の文化層である。【参考文献】 金沢和夫「製塩遺跡」・佐藤俊策「弁天崎遺跡確認調査報告」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】 佐藤俊策
・弁天崎(べんてんざき)
相川市街地の西部には春日崎があって、町のほぼ全容を遠望することができる。いっぽう北東部には弁天崎(別名冨崎)があって、別な角度から美しい町並みが見られるので、両地は町人や文人たちの行楽の地として利用されてきた。弁天崎の名は、ここに弁財天の祠があるところからつけられた。岬上は一面の芝生で夏は涼しく、千畳敷の景勝はじめ、横島・一里島が近くにあって風光明媚の地である。『天保年間相川十二ケ月』では、六月のところで天神社のあたりから冨崎の遠景が描かれ、その解説では、柴田天神の祭礼について、此の月は六日に冨崎弁天(厳島神社)、十五日に風宮神社、十六日鹿伏神明神社(大神宮)に次ぐ此の天神祭りと、殊の外柴町・下相川方面の住民に取っては、恵まれたお祭りの季節、と書いてある。このように恵まれた景勝のほかに、信仰の上でも大切な土地であった。【執筆者】 本間雅彦
・宝生神社(ほうしょうじんじゃ)
入川の坂の脇にあり、木花開耶姫命を祭神とし、大山祇尊を配祀している。ともに鉱山の神である。入川はかって寛永年間(一六二四ー四三)、鉱山が発見され、その後、鉛山として開発された。社人は池田九郎津(蔵人)と池田兵四郎といわれ、九郎津は入川の草分けとの伝承があり、九郎津の妻が難産の時、願かけをし、「宝生神社を建て、木花候と姫を祀った」といわれている。『佐渡国寺社境内案内帳』には、当社の勧請は寛政四年(一七九二)とある。祭日は以前旧八月十日(その前は六月十五日)であったが、現在は四月十五日で、子供樽神輿が出る。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】 浜口一夫
・法泉寺(ほうせんじ)
下山之神町にある日蓮宗の法栄山法泉寺は、寛永元年(一六二四)の開基で、大野の根本寺末である。はじめ栴(梅とも)檀院日行によって五十里(佐和田町)に建てられたが、寛永六年下山之神町の当時天野家屋敷に移し、さらに宝永元年(一七○四)現在地に移された。寺宝に、祖師の曼陀羅と、伊藤隆敬の描いた経文の涅槃像があり、境内には、地役人須田六左衛門・天野孫太郎の墓がある。【関連】 須田六左衛門(すだろくざえもん)・天野孫太郎(あまのまごたろう)【執筆者】 本間雅彦
※原書に『 須田六左衛門(すだろくざえもん)』の項目はありません。
・ボウソウ(ギンポ)(ぼうそう)
江戸中期の諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』に、「ナギリ、方言ガツナキ」と記載されている魚は、付けられた彩色図と合わせて、和名がギンポ(銀宝)という種と判断される。浅海の岩場や砂利、時には砂場におり、体をぐねぐねと蛇のように動かしている。頭が小さく、背鰭は背中線全体にわたってついており、全部が棘で軟条でないので、触るとちくちくする。『佐渡州物産』に「背上有細刺」と記してあるが、この状態を表わしている。体色は、すみ場所によって異なり、黒っぽいもの、褐色がかったもの、緑色の強いものや、黄緑色の個体などが知られている。卵塊を体で巻いて保護する習性があり、春にその習性がみられる。近似種にタケギンポがおり、眼の下に輪郭のはっきりした横帯があるので、ギンポと区別できる。東京ではギンポの天麩羅を賞味するが、本県では利用しない。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治
・法然寺(ほうねんじ)
山号は広龍山、本尊は阿弥陀仏で浄土宗鎮西派。相川下寺町にある。開基は寂蓮社行念で、河原田に一寺を建て法界寺と号した。第九世堪誉のとき今の場所に移る。過去帳には、開基年を文禄二年(一五九三)としている。寛永十一年浄土宗一国の触頭となり、金襴袈裟を免許される。法蓮寺・法円寺・銀山寺・霊山寺は法然寺の末寺、墓地には大熊善太郎(奉行)の墓と、伊丹康勝(奉行)の供養塔、田中従太郎(葵園)・蔵田茂樹・黒沢金太郎の墓がある。【関連】 伊丹康勝(いたみやすかつ)・田中葵園(たなかきえん)・蔵田茂樹(くらたしげき)・黒沢金太郎(くろさわきんたろう)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』【執筆者】 田中圭一
・法輪寺(ほうりんじ)
下寺町にある日蓮宗の覚鷲山法輪寺は、慶長九年(一六○四)五月に大乗院日達(同九年死去)による開基。はじめ妙蓮寺といい、不受不施派の京都妙覚寺末であったが、寛文九年(一六六九)に妙輪寺と改名し、大野の根本寺末となる。元禄年間に再建したあと、享保二年(一七一七)に出水をうけ、寛保元年(一七四一)には火災に遭い焼失。明治初年には廃寺、同十年復興。三本橋からの移転などが重なる多難な寺歴を重ね、のち上寺町にあった法久寺(元和八年日興上人により創立)も合併し、昭和十七年(一九四二)法輪寺と改称した。【執筆者】 本間雅彦
・宝暦寺社帳(ほうれきじしゃちょう)
全三巻。正しくは『佐渡国寺社境内案内帳』。「宝暦寺社帳」の名称は、いつ頃から使われたか不明だが、宝暦の記事があるので付けられたといわれている。しかし、宝暦以後の明和・安永・天明年間の記事も一再ならず認められ、宝暦年間の成立とは認め難く、少なくとも天明以降の編集によって、成立したことは間違いない。上巻・中巻は寺院、下巻は神社を収載している。寺院は、宗派別に本寺・末寺ごとに開基・本尊・由緒・境内反別・除地・除米・什宝等を記録している。類書に、藤沢子山の『佐渡志』の下巻、伊藤隆敬の『佐渡名勝志』の巻三慈室部等があり、いずれも『宝暦寺社帳』より早く成立しているが、両者は名刹だけに限られており、それにくらべ本書は全島の寺社を網羅し、記事も豊富である。真言宗二九九、禅宗六五、法華宗五八、一向宗四九、浄土宗三七、天台宗一四、合計二九九か寺を収める。神社は郡別に、雑太一○九・加茂郡一五九・羽茂郡九六、計三五四社について、開基・祭神・由緒・除地・除米・神主などを記す。本書記事中に、「天正十六子年改の寺社帳」「元禄の寺社帳」の名が見え、本書の成立以前に、これら寺社帳があったことが推測されるが現存しない。島内の相当数の区有文書寺院文書などに、元禄五年(一六九二)の寺院書上げの控が伝存するのは、元禄寺社帳の存在したことを裏付けている。【参考文献】『佐渡叢書』(五巻)【執筆者】児玉信雄
・宝暦の改革(ほうれきのかいかく)
寛延一揆後就任した、松平忠隆および石谷清昌を中心にすすめられた一連の改革で、従前の幕府の佐渡支配を、大きく転換させることになった。松平奉行による改革は、寛延一揆訴状で指弾された、数かずの役人の不正や不合理な施政について、松平奉行は改廃粛正した。佐渡の弊政の原因は、劣悪な役人の待遇にあると考えた松平は、役人の借銀・借米の棄損、役宅の下付、役人在出時の伝馬扶持と役替時の伝馬・人足賃の支給、昇給昇格による待遇改善を行い、百姓からの賄いや人馬徴発を廃止した。特に重要なことは、幕初以来禁制であった国産の他国移出を解禁し、竹木藁細工・大豆・小豆・竹木・薪・茶・たばこ・塩等の移出を許し、海産物六品の移出を無役とした。また、年貢収納事務を老中直属の佐渡奉行から、勘定奉行支配の代官二人に移管し、新たに広間役一○人を置いて、重要政務にあずからせた。次に宝暦六年(一七五六)就任した石谷奉行は、同年の大飢饉を御救米支給で乗り切り、飢饉の原因が年貢の過重負担にあると考え、村々の奉行所からの拝借米銀をすべて棄損し、抵当の田畑・屋敷を、無償で元の所有者に返した。また、松平奉行が導入した代官制が、佐渡を奉行と二代官で分割支配するため不公平となり、農民の不満・混乱の原因とみて、同八年一代官を廃止し、奉行二人制を一人制に復することを建白した。これは幕府の容れる所とならなかったが、広間役一○人の内六人を無役とし、残る地役人四人と、江戸から赴任する二人の旗本の、計六人に業務を分担させた。石谷奉行の諸改革の中でもっとも重要な施策は、市中の床屋(精錬業者)を一か所に集めて、精錬させる寄勝場を新設したことと、国産の生産および移出を奨励し、島民が茶・たばこ等他国産を使わず国産を使用して、貨幣の流出を防ぐ方策を強力にすすめたことである。この宝暦の改革で、江戸後期の佐渡の産業の発展は大いにすすんだ。【関連】石谷清昌(いしがやきよまさ)・佐渡義民殿(さどぎみんでん)【参考文献】田中圭一『天領佐渡』、『金井を創った百人』(金井町教育委員会)【執筆者】児玉信雄
・帆掛岩(ほかけいわ)
二見半島七浦海岸大浦付近の海岸の地先にある岩塔状の岩礁。高さ一○メートルほど。先端が二つに割れて、丁度帆掛舟が帆を掛けた様に岩の形が見える。新第三紀中新統相川層群下部石花川層の変質安山岩溶岩から成る。
【参考文献】新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】式 正英
・帆掛島(ほかけじま)
相川町高千近くの岬の千本鼻(入崎)の沖○・二キロメートル離れてある小島、帆掛舟様の形状から名付けられた。高さ一五㍍、幅は五○㍍程である。地質は新第三紀中新統真更川層下部の、灰緑色の石英安山岩類であり、対岸の入崎付近が同種の火山角礫岩で構成されているので、同様の岩相であろう。【参考文献】 「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】 式正英
・北辰隊(ほくしんたい)
戊辰北越戦争に際して結成された草莽隊の一つ。蒲原郡下興野新田(現豊栄市)の遠藤七郎を隊長に、幹部は水原町の伊藤退蔵、臼井村(白根市)の西潟八雲、下興野新田の星野帰一・越三作、小須戸町の吉沢千柄らであった。遠藤らは、既に新発田藩管下の各村で、警備等に当たっていた尊皇の志の厚い地主層であった。慶応四年(一八六八)六月、新発田藩が奥羽越列藩同盟の要請で出兵した時に阻止行動をとり、同年七月二十五日に、新政府軍が松ケ崎浜・大夫浜に上陸すると新政府軍側に参加し、長州藩干城隊に属して、各地の戦闘で活躍した。十一月には新政府に正式に取り立てられ、遠藤七郎が隊長に任命され、北辰隊の名称を授けられた。隊員は一七九人(明治二年十月現在)を数え、阿賀野川周辺の農民を結集していたが、十月十七日に新発田にあった総督府本営から佐渡警備を命じられて、参謀兼民政方の奥平謙輔の指揮下で佐渡の施政に参加し、奥平の施策の推進に、重要な役割を果たした。北辰隊員は二年八月に帰郷して葛塚(現豊栄市)に頓集していたが、三年二月に上京して第三遊軍に編成され、東京警備に当たった。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)【参考文献】 『新潟県史』(通史編6近代一)、真水淳「佐渡県と北辰隊」(『新潟県歴史教育論考』一)、同「北辰隊名簿について」(『新潟史学』一二号)
・北溟雑誌(ほくめいざっし)
佐渡の明治二十年代の雑誌。第一号は明治二十年(一八八七)十一月二十三日、最終の第百十二号は明治二十九年三月二十五日、第二号からは毎月二十五日発行。発行所は、佐渡国雑太郡中興村に持主(発行人)茅原鉄蔵、編集人生田裕、印刷人斎藤長三となっている。第三一号から発行人が本荘了寛、第六九号からは発行人・編集人が佐渡国畑野村畑本郷の生田裕、印刷人も中川栄次郎に変わっているなど移動が見られ、第七一号から編集人に森知幾、第九七号から細野啓蔵、百十三号から発行兼編集人に本間慶四郎、印刷人に細野啓蔵、百十四号から高野問蔵、百十六号からは発行人に友部周次郎がなっている。「北溟雑誌」廃刊のあと、明治三十年に日刊の「佐渡新聞」に森知幾等によって、引きつがれる。雑誌の大きさは縦二一㌢・横一五㌢、ページは約二○㌻~五○㌻で、活字は創刊号から第六号まで四号活字、一段組。第七号からは五号活字二段組。定価は創刊号から最終号まで一部四銭。玄米一石、六円当時として高いというほどではなく、定期刊行物として珍らしかったので評判もよかった。しかし、小学校への就学率も低いころで買う人は少なく、発行部数は五百部以上にならなかったと言う。『北溟雑誌』の一か月の収入は二○円くらいで、島内の有志者から寄付を集め、購読料の四○%であったという。『北溟雑誌』の目的は、そのころ国会開設前で自由民権運動が盛んであったので、政見の発表をせず、産業や学芸一般の発展に寄与しようという、本荘了寛の意向があったのであろう。この『北溟雑誌』の内容は、「論説」「雑録」「中外雑報」「文苑」「統計」などの項目に分けられ、「論説」「雑録」は寄稿で埋め、「中外雑報」はニュースである。寄稿者は萩野由之・山本悌二郎・生田秀・渡辺渡・神田礼治・内村鑑三・西村茂樹・小中村清矩等がいる。現在『北溟雑誌』の全巻揃いは、「舟崎文庫」と「荏川文庫」が所蔵しているが、山本修之助が「荏川文庫」本を昭和五十年九月二十四日に復刻し、佐渡近代史の基礎資料として活用されている。なお「舟崎文庫」本と「荏川文庫」本は、付図などに多少の異同がある。【参考文献】 山本修之助『佐渡の百年』【執筆者】 山本修巳
・細葉朮(ほそばおけら)
【科属】 キク科オケラ属 「山でうまいものはオケラにトトキ」といわれるが、オケラは元旦の屠蘇の主材料にする薬草でもある。オケラにくらべ、葉には全く柄がなく、葉が細長いのがホソバオケラで、中国原産の薬草。日本には自生しない。江戸時代の八代将軍の享保年間(一七一六ー三五)は、サツマイモの普及、タバコ栽培の自由化、オタネニンジンの栽培(佐渡薬草園で成功)、ホソバオケラの輸入など、国をあげての殖産興業の時代であった。渡来したホソバオケラは、佐渡奉行所の薬草園で初栽培された。大和・尾張・佐渡などでつくられたが、現在残っているのは佐渡だけである。根茎が薬となり、胃腸病・神経痛・息切れなどに、漢方処方された。生薬名は、佐渡蒼朮(さどそうじゅつ)・サドオケラとも呼ばれた。ただ日本に渡来したのは雌株で、花は咲くが種子はできなく、繁殖は根茎を切りはなして殖やす。佐渡の各村で栽培され、佐渡蒼朮として、江戸や浪花の漢薬市場で名をなした。太平洋戦争中、山中に野生化している根茎が、多く掘りだされ供出された。栽培の盛んであった羽茂町では、町の花に指定した。役場前には栽培され、秋、白花がみられる。【花期】 九~十月【分布】 中国原産・佐渡【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花』、同『佐渡薬草風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・蛍葛(ほたるかずら)
ホタルカズラ(蛍葛)は、ルリ色に輝く花を蛍の光にたとえたもの。カズラはつるのこと。分布は少なく、県下では佐渡・粟島・越後の、海抜一○~一五○メートルの低海抜地に分布し、内陸部には少ない。佐渡では、ネズミサシ・ツゲ・メノマンネングサなどの生える、陽あたりのよい乾いた岩山に生える。花茎はやや立ち上がって一五センチほど。葉は濃緑色で硬く冬も枯れない。葉はポチポチした小凸起伏の毛でざらつく。花茎の先につく花の径は二センチほど。花の下部は筒となり、上部は五つに裂けて平開する。花の裂片の中央に盛りあがった白い縦のすじが星形となる。ルリ色の花弁と中央の白い星模様で、花はチカチカと輝いてみえる。ルリ色の宝石の輝きにもみえる。別名のルリソウもよい名である。大佐渡の北の海辺の村人は、ヒメナソウ(姫名草)と呼ぶ。京の都より高貴な姫が小舟で流れついた。美しい姫に村の男たちは、狂ったように姫にいいより互いに争った。助けてくれた村人にできることは姿を消すことと、姫は大ざれ川に身を投じた。姫のなきがらを葬った丘に、みたことのないルリ色の美しい花が咲いた。姫名草である。【花期】四~五月【分布】日本全土【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男
・渤海使節来着(ぼっかいしせつらいちゃく)
八世紀から一○世紀までの間に、計三四回(他に非公式が三回)の使節を派遣した渤海国は、朝鮮半島北部から旧満州および沿海州にかけての、広範な地を領していた文化国家であった。民族としては、粛慎の後裔とされる狩猟民ツングース族系の靺鞨人が中心で、日本と同じく唐文化を吸収して、活力ある国となっていた。使節の日本への到着地は、当初は出羽から能登・加賀など北陸以東で、佐渡への来着は第三回目で、天平勝宝四年(七五二)十一月九日であった。佐渡国はその九年前の天平十五年に、越後国に合併されていたのを、使節来朝の年にしかも同じ十一月に佐渡国に復帰となった。使節は翌五年の春に上京して天皇に謁見し、七月十六日に日本を離れた。このような事情からみると、佐渡への来着は不本意な漂着なのではなく、何かの意図があって、予定の行動であったと考えられる。来着したのは、相川町北片辺の馬場遺跡のところであることが、昭和三十八年の発掘調査の結果、出土品その他の資料でほぼ確定的である。『図説・佐渡島』(佐渡博物館編・一九九三)は、この遺跡の北西に広がる潟湖が来着地であり、潟湖は木船の停泊には最もよい条件をそなえていたと述べている。佐渡への来島時の使節の名は慕施蒙で、総勢七五人であった。その人数と、当時の船の構造からみて、数艘の分乗であったと推測されている。渤海国と日本国との交流は、遣使節があったときには、当方からも返使節が送られて、弘仁二年(八一一)の第一五回の頃までは、ほぼ来朝の都度、送使の形がとられていた。渤海使の渡航の時季は、北西の季節風に乗り易い季節が選ばれるので、船の破損が多くて、送りの船を必要としたということもあったらしい。九世紀以後に送使がないのは、渤海国の造船技術が向上して、破損がなくなったためとされている。【参考文献】 上田雄著『渤海国の謎』(講談社現代新書)【執筆者】 本間雅彦
・蛍袋(ほたるぶくろ)
【科属】 キキョウ科ホタルブクロ属 蛍の飛びかう季節。ホタルブクロの咲く頃である。「ホタロこい 茶のましょ 山伏こい 宿かしょう」、佐渡の真野のホタル狩りの唄。山伏は山辺の大きな蛍、ゲンジボタルである。強く明滅する山伏の宿はホタルブクロの花。花を透かしてホタルが明滅する。ホタルの宿の蛍袋はロマンがあるが、語源としては蛍は火垂るで提灯のこと、火垂袋はチョウチンブクロの意味。佐渡でもチョウチンバナと呼ぶ。本土のホタルブクロは紅紫色が普通だが、佐渡のものは全部白色。「この島は蛍袋の白きとこ」。ホタルブクロには、花の萼片と萼片の間に付属物があり、そり返るホタルブクロと、付属物がないヤマホタルブクロの二種があるが、両種を区別なくホタルブクロという。ヤマホタルブクロは本州中央部だけに分布し、山の崩壊地や裸地にいち早く侵入するパイオニア植物、佐渡にはこの種が多い。佐渡ではオイヨバナ(大魚花)という。大魚とは体長二㍍、体重一○○㌔にもなる巨大な大魚、ハタ科イシナギのこと。大魚の到来を告げる漁告花である。【科属】 六~七月【分布】 ホタルブクロは北・本・四・九、ヤマホタルブクロは本(東北~近畿)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男
・北方要素の植物(ほっぽうようそのしょくぶつ)
島の北端の村の藻浦(両津市)には、毎年二月おびただしいシラカンバの樹皮が漂着する。北方・寒地系の植物を、リマン寒流が北の国から運んだものである。島の北端の海辺の二つ亀、その東側の海駅岩、北方系の海獣トド(アシカ科)の漂着する岩である。島の北端の海辺、藻浦ー二つ亀ー大野亀ー海府大橋をつなぐ海辺は、植物相(フロラ)の上からも北方色が強い。二つ亀草原に咲くエゾノコギリソウ。二つ亀や大野亀で発見され南限が南進、佐渡は日本海の南限となる。ハマベンケイソウ・ハマハコベ・オオバナノミミナグサ・オオアキノキリンソウ・ハマアカザなど北方色の強い植物が優勢に分布する。北方要素の南限の分布前線のハマベンケイ線が、この海辺に達する。ラインの提唱者は池上義信(新潟市・植物学)。岩船北部ー佐渡北部ー能登北端をむすぶ北方要素南限線を“ハマベンケイ線(一九七二)と命名した。冬の季節風と、リマン海流による冷水塊のぶつかるこの海岸。海崖のカシワ、林縁のギョウジャニンニク・ハマナス・トビシマカンゾウなど、この線上に優勢分布する北方要素である。「新潟県北方植物仮目録」(一九八七)には一四二種が記載され、そのうち一一二種が佐渡に分布する。佐渡分布の北方要素には、エゾツルキンバイ(南限)・ウミミドリ(南限)・エゾヒナノウスツボ・エゾクロウメモドキ・オオハナウド・オオイタドリ・コタニワタリ・エゾフユノハナワラビ・エゾヒメクラマゴケ・アラゲヒョウタンボク・アマニュウ・オシダなどがある。【参考文献】 近藤治隆「北方系(寒冷系)の植物」(『佐和田町史』通史編Ⅰ)、伊藤邦男『佐渡の北方系植物』、同「草木の風土記ー寒地の植物」(『歴史紀行②佐渡』原書房)【執筆者】 伊藤邦男
・本光寺(ほんこうじ)
金井町大字泉甲三七七番地に所在する。日蓮宗、山号は法教山。寺宝には、承久の乱で流された順徳上皇の御守本尊と伝えられる、木造聖観音立像(平安時代後期の作 国指定重要文化財)や、延慶三年(一三一○)・正和元年(一三一二)に書かれた二点の、日興上人自筆曼荼羅(町指定文化財)などがある。本光寺は、日蓮上人在島中、高弟の日興上人に帰依した、泉本間氏の寺として成立した。寺伝によれば、正和元年大和房日性の開基という。日性は、金井町中興の地頭、本間次郎安連の嫡男であった。寺は戦国の乱世を迎えると、戦塵をさけ尊像を奉じて、各地に転々とした。慶長七年(一六○二)に、日興上人開基の駿州本門寺日健上人より、本光寺大円房日正へ曼荼羅が授与された。寛永年間(一六二四ー四三)第十二世日円大徳のときに、「観音平」から今の「畑田」に移り、山門・本堂が建立され、このことがきっかけとなり、慶安五年(一六五二)には駿州本門寺末に改められるが、のち再び竹田(現真野町)の世尊寺末となった。本堂は明暦年間(一六五五ー五七)に再興され、庫裏と廊下は、安永年間(一七七二ー八○)第二十世日研上人の手で再興された。明治二年(一八六九)に廃寺となるが、世尊寺の助力のもとに、檀徒は同十一年に復された。檀家は、江戸時代前・中期成立の家が比較的多く、その分布地域は、泉・中興が圧倒的に多い。近くには順徳上皇配所の、黒木御所跡がある。【関連】 順徳上皇(じゅんとくじょうこう)【参考文献】 北見喜宇作「金沢村誌稿本」、『金井町史』【執筆者】 北見継仁
・本興寺(ほんこうじ)
日蓮宗駿河富士本門寺末。下相川。開基は元亀三年(一五七二)とあるが、『相川町誌』では永正三年(一五○六)。本尊は曼荼羅で、駿河富士本門寺末。寺号は、竹田村の世尊寺第十四世本興院日儀の開基からくる。昔、駿河国より戸川某、佐渡へ流罪、この場所にて死して、本興寺境内に戸川権現を勧請した。その後、神社は富崎に移転し、下相川村の鎮守とした。山号の戸川山はそこからきている。下相川には鉱山稼ぎ人が多数集まり、鉱石製錬用の薪炭の需要が急増すると、戸川沢には製炭業者が集中した。戸河藤五郎の伝説が生まれたのは、これらの背景があった。金山町の都市計画がはじまり、善知鳥神社(住吉神社)が下戸へ移ると、この跡地に戸川神社が下りてきた。本興寺の重檀家に村田与三兵衛がおり、寺の西側に広い屋敷地を持ち、現参道は同家の寄進である。村田与三兵衛は、鉱山関係者として炭・薪の生産にも関与し、外海府一帯の大中使(大名主)の役についていた。また段丘上の新田開発者や、石切町・金泉方面にも檀家が多数いる。明治元年廃寺となるが、同三年再興。金山近郊村の寺として現在に至った。【関連】 炭焼藤五郎(すみやきとうごろう)・村田与三兵衛(むらたよそべえ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 佐藤利夫
・本陣(ほんじん)
本陣とは江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人などが宿泊した公認の宿舎。佐渡では、新町(真野町)の山本半右衛門家(現戸主山本修巳)が、公津の小木と相川の佐渡奉行所の中間にある宿場にあって、往還の奉行が宿泊した。参勤交代の大名の宿泊する本陣とは趣を異にしているが、本陣と言いならわしている。新町は、江戸時代になって、相川産出の金銀輸送や、物や人の本土への交通に、本土に近い小木の港湾の整備がされ、それに伴って、相川・小木間の宿場として発達した。山本家は、越前(福井県)藩士の庶士で、相川の金銀山に稼ぎ、寛文十年(一六七○)、新町に移住し、滝脇鉱山を採掘し、酒造業や廻船など商人として発展し、正徳三年四月二十四日、河野勘右衛門佐渡奉行が、はじめて山本家に宿泊した。それまでは、村役人が「御茶屋」にて接待し、宿泊していた。以来幕末の慶応二年十月に中村石見守奉行が立ち寄って、お茶を召しあがった記録が最後である。現在、奉行が宿泊した時に門口に掛けた宿札が、約五○枚残っている。また、奉行が顔を洗ったと言われる金盥があり、奉行宿泊の時の「入用扣」などが残っている。奉行の江戸往還だけでなく、島内巡村の時や西三川砂金山の視察などにも泊まられたと思われ、宿札が四枚も残っている奉行もいる。なお、奉行の宿所は、慶応元年(一八六五)八月二十五日類焼し焼失したが、土蔵と納屋は類焼をまぬがれた。しかし、奉行宿所の間取り図は残っている。現在の家屋には、明治元年廃寺になった旦那寺光照寺の庫裏の一部を移築した部分がある。【参考文献】 「佐渡山本半右衛門家年代記」(『佐渡叢書』七巻)、「佐渡山本半右衛門家史料集」(『佐渡叢書』八巻)【執筆者】 山本修巳
・ホンダワラ(ほんだわら)
褐藻類ホンダワラ科ホンダワラ属。佐渡ではホンダワラ(和名)と呼ばず、ギンバソウ・ジンバソウの名で呼ぶ。これがなまったギバザ・ギバソ・シバザ・ジバソの名でも呼ぶ。ジンバソウは人馬藻の意味ともいう。昔、平家が西国に落ち伸びたとき、人も馬も飢えに耐えかね、浜に打ちあがったギンバソウを食い食い走った。それから人も馬も食った海藻ということで、ジンバソウ(人馬草)になったという。佐渡の国仲の村々で多く食べられた海藻はワカメ。もっぱらワカメ汁である。第二はジンバソウ、味噌で味つけした油いため、またジンバソウの味噌漬け、弁当のおかずとしてよく食べさせられた。佐渡奉行所の編した『佐渡嶋菜薬譜』(一七三六)に、ホンダワラについて「ホダワラ、方言 キバサ、賎民の糧なり」と記される。同じく佐渡奉行所編の『佐渡志』(一八三六)に、「なのりそー備荒の用をなす」と記される。“なのりそ”はホンダワラの古名。ホンダワラに限らず多くの海藻は、菜(な・副食)としただけでなく糧(かて・主食を補ったもの)としたのである。【参考文献】 福島徹夫「海藻と暮らし」、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男
・本典寺(ほんでんじ)
下寺町東側にある日蓮宗本門派の栄光山(普光山改め)本典寺は、元和九年(一六二三)本山二十一世の日躰による開基。本山は京都要法寺である。当時京町に住んでいた山田吉左衛門という資産家が帰依して本願主となり、堂宇を建てて寄進したのを、来島した日躰が山号を与えて寺としたという。吉左衛門は京都の人で、要法寺檀那であった。同人は寛永十八年(一六四一)に死去し、日躰は慶安四年(一六五一)に死去したが、ともに当寺に葬った。寛文年中(一六六一ー七二)に、上相川にあって退転した同宗の本行寺境内を併合した。当時の境内には、享保二十年(一七三五)に死去した奉行荻原源八郎乗秀の墓、およびその父近江守重秀(正徳三年〈一七一三〉死去)の供養塔がある。【関連】山田吉左衛門(やまだきちざえもん)・荻原重秀(おぎはらしげひで)【執筆者】本間雅彦
・本途稼ぎ(ほんとかせぎ)
佐渡奉行が、必要な経費を支給し、その公費によって間歩を稼行する仕法をいう。出鉱高によって、あらかじめ定めていた公納率にしたがって、奉行所が一定率の収益を回収する。佐渡では「直山」(奉行所が直営)同様の意味に用いられている。「御仕入れ稼ぎ」(山師が仕入れ銭を前借りして稼行する自分山)に対していわれた。久しく成績が不振で、自分山ないし御仕入れ稼ぎだった間歩が、その後好況を持ち直し、収益増が確実になった間歩は、佐渡奉行が幕府に願出て「本途稼ぎ」に昇格した例が多い。鶴子屏風沢の「弥十郎間歩」などに、その典型的な例が見られる。【関連】 御仕入れ稼ぎ(おしいれかせぎ)【執筆者】 本間寅雄
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★ま行★
・澗
小木港付近の湾入の東側を「外ノま」、西側を「内ノま」と言うが、この場合は湾の船着場を意味する「ま」である。より一般的には磯浜に見られる尖鋭な小湾入が「ま」である。深浦・犬神平・沢崎等の「ま」は、水深が深く漁港や船の寄港地となる。波食台の露岩上の節理に沿って浸食が速く進み、大小様々な規模の「ま」が形成される。佐渡島の海岸線は、岩石質の部分が多く「ま」も多い。
【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』、式 正英『地形地理学』(古今書院)【執筆者】式正英
・曲師屋(まげしや)
桶・樽が一般に用いられるようになったのは、鎌倉後期から室町期にかけてのことである。それまでの液体の容器はマゲモノであった。そのマゲモノをつくる職人が曲師屋である。一三世紀末に描かれた一遍上人絵伝には、庶民生活の場に、桶とマゲモノがいっしょに並べられている。つまりこの頃が、マゲモノから桶への移行期であったことを示している。マゲモノは、鋸の使用以前の、いわゆる割り木工の時代の民具で、材料はタテワリのしやすい、スギ・ヒノキ・アテビなどが用いられる。相川塩屋町の「まげしや商店」では、昭和四十年代にも店頭の商品の中に、マゲモノの丸型弁当箱が置かれてあった。当時の店主の話によると、相川鉱山では来賓があると、昼食をこれに詰めて接待していたという。つまり使い捨てであったのである。そのときのマゲモノ弁当箱は、蓋の外径一七・八センチ、高さ八・三センチで、底と天端は接着剤で、側面は本体・蓋ともに桜の皮でとめてある。材はスギの柾目が用いられている。現在も村々の定期市では、マゲモノの蒸しジュウや、篩が売られている。ワッパとかメンパなどと呼ばれる食器は、用途がなくなるのに伴って姿を消しつつある。【執筆者】本間雅彦
・真更川層(まさらがわそう)
大佐渡研究グループ(一九七○)の命名、島津光夫ほか(一九七七)により再定義されている。模式地は両津市真更川で、相川層を不整合でおおっている。中新世前期の地層である。両津市から相川町北部を中心に、相川町全域に分布し、層厚は最大で約一○○○メートルと厚い。デイサイト質の火砕岩・溶岩を主体とし、玄武岩質の火砕岩・溶岩、安山岩質の溶岩・円礫岩・泥岩からなる。デイサイト質火砕岩には、各地で溶結構造がみとめられ、その多くは火砕流堆積物である。相川町戸地海岸で代表的な火砕粒堆積物を観察できる(戸地の溶結凝灰岩)。相川町関周辺には、玄武岩質の火砕岩が分布し、その中に珪藻質泥岩層が挟まれている。この泥岩は湖成層で、植物化石(関植物化石群)を多産し、ほかに昆虫化石や淡水生魚類化石*も発見されている。関の化石群と火砕流堆積物が多いことから、真更川層の火山活動も陸域でおこったことがわかる。
【関連】相川層(あいかわそう)・戸地の溶結凝灰岩(とじのようけつぎょうかいがん)・関の木の葉石(せきのこのはいし)・昆虫の化石(こんちゅうのかせき)【参考文献】大佐渡研究グループ「大佐渡南部の新第三系」(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】神蔵勝明
・またぎ大工(またぎだいく)
だいくは「大工」で、タガネで鉱石を掘る坑夫をそう称した。佐渡では、江戸時代一般に通っていた呼び名である。佐渡鉱山の古謡に、「大工商売乞食にまさる、乞食は夜ねて昼かせぐ」とある。大工という職業には、夜も昼もなかったことを逆に皮肉ったともとれる歌で、「大工すりや細る、二重廻りが三重まわる」に連続する内容で、労働のきびしさを歌っている。江戸時代には、「昼番」とか「夕入大工」などの区別で、時間交代制が、いつのころからか始まっていた。文政年間(一八一八ー二九)のころ、「昼番」といえば朝五ツ時(午前八時)から七ツ時(午後四時)まで。「夕入大工」は、夜五ツ時(午後八時)から暁七ツ時(午前四時)まで、それぞれ八時間労働で二交代制であった。安政年間(一八五四ー五九)には、昼間は三交代制で「朝一番方」は明六つ(午前六時)から四ツ時(同十時)まで。「二番方」は四ツ時から八ツ時(午後二時)まで。「三番方」は八ツ時から暮六ツ(午後六時)までの四時間制。夜間もこれに準じたと思われる。二タ時(四時間)の仕事を「肩一枚」といって、肩一枚の採掘量を、通常一貫五○○目ないし三貫目とし、賃金もそれに応じて肩一枚を「七十六文」とした記録がある。またぎ大工とは、昼の一番方に差組まれた大工が、夕方から他の坑の夜番にも稼ぎに出ることをいった。賃金ほしさからこれが流行して、健康をさらにそこねる人たちが多かった。【執筆者】本間寅雄
・真竹(まだけ)
【科属】タケ科マダケ属 佐渡は竹の島。日本の三大有用竹であるマダケ・ハチク・モウソウチクは、佐渡でも三大有用竹で、その大部分はマダケで、新潟県の竹林面積の七三%が佐渡に分布している。マダケは、佐渡・粟島・岩船・角田などに分布し、冬の季節と西日をさけた洪積段丘面や斜面に、タケヤブとなって群生する。南佐渡には良林が多く、大佐渡にも季節風をさけた沢辺等にみられる。昭和四十年(一九六五)、羽茂の竹林の生態調査が、千葉の沼田真(現在は日本自然保護協会会長)によって行なわれ「竹林の樹冠型からは良竹、桿の枝葉に対する重量比や、下枝のつく高さの割合からみて最良竹、竹林中の親竹や切株の分散から判断して、非常によく管理されている竹林と診断された。生態学上、最良竹のマダケ林と診断された竹林は、タケノコもまた生態的に最良のタケノコ。極めてうまいだろう」と話された。冬の季節風をさけたシイ・カシ林などの暖帯林域はマダケ林域。島の風土の自然が、マダケ林をうみだしたのも事実。しかし「金銀山で使う竹が増加すると、未利用の崖のふちに各種の加工用の竹が植えられた。岩首村では、竹は貴重だから、竹を伐ったら竹の根を植えようと掲示がある。『島は竹におおわれています。竹林があることをみても、島の暖かいことがわかります』という説明が行われる。その通りなのだが、崖をおおう竹やぶが、昔人手で植えられ、輪竹・ざる・かごに加工されて、貧しい村人の生計を助けてきたことを語ってくれたら、もっと島の竹が心に残るに違いない」と、歴史学者の田中圭一は『佐渡ー金山と島社会』(一九七四)にのべている。【参考文献】伊藤邦男「羽茂のマダケ林」、同『佐渡山菜風土記』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】伊藤邦男
・股佛(またぼとけ)
三十三年忌には、栗や桜の皮づきの股木でマタボトケを作り、墓にたてる所が多い。両津市月布施では、マタボトケの股木は、クロメ(年の暮)前に切れといい、マタボトケの上部に要をこわした扇子を、麻糸で巻きつける。このマタボトケの股木は、生まれかわって木の芽が出るように、また帰ってこいとの意味。また麻糸は、白髪になるまで長生きをとの意味だという。佐和田町真光寺などでは、このマタボトケをカナメモドシ、またはホトケモドシなどといい、三十三年忌を境に仏はご先祖様に昇格し、子孫を見守るのだという。羽茂町羽茂本郷では、三十三年忌をトムライアゲというが、これは最終年忌を意味することばである。小木町田野浦などでは、ていねいな家は五十年忌にマタボトケをたてた。赤泊村腰細や小木町沢崎では、三十三年忌にマタボトケをたて、さらに五十年忌に角塔婆より大きいダラニトウバをたてる家もあった。五十年忌になると追善に生魚を出したが、それ以前の追善はかならず精進料理だった。たとえば相川町大浦などは、オヒラ(油あげやナスのゴマアエ)、オツボ(ニシメやアラメまたはキザミコブ・イゴネリ)、大根ナマスの酢のもの、それにソバ・オクワ・アンモチなどであった。【参考文献】青木菁児『青木重孝郷愁・佐渡』(2)、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】浜口一夫
・町方役(まちかたやく)
佐渡奉行所の職名。慶長九年(一六○四)初代佐渡奉行大久保長安が、家臣の野田監物・河野覚助を町奉行に任じたのが最初。同十八年から元和まで在勤の佐渡奉行が兼任したが、元和中初めて町奉行定員二人に定めた。正徳三年(一七一三)町方役と改め、さらに宝暦八年(一七五八)にはこれも廃止し、広間役六人のうち二人を町方掛とした。この町方掛広間役は町方役所の課長で、平常は広間に勤務し、役所には目付役二人・町同心二○人・町年寄四人が詰め、相川町の市政全般を司掌した。広間役(町方掛)は市政全般を統轄し、目付役はその下で民事・刑事に関する警察・監察の事務を管掌し、町同心は町方掛広間役・目付役の下で、主として相川市中の治安・警察の任にあたった。町年寄は町人身分で家禄がなく、役料一か月米五斗と筆墨料一か年銭一貫五○○文支給された。町年寄の職務は治安維持、流人および切支丹類族の監視(正徳年中に廃止)、宗門改め、地所売買・道路橋梁に関すること、小役銀の徴収など多岐にわたった。【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集七)、岩木拡『相川町誌』
・町同心(まちどうしん)
佐渡奉行所の職名。慶長九年(一六○四)初代佐渡奉行大久保長安が来島した時、町同心二○人を町奉行(正徳以後町方役)二人の下に配属させ、相川市中の警備に当たらせた。『佐渡古実略記』の「相川府中開発之事」に、「慶長八卯年宗岡弥右衛門渡海、 子外山ノ陣屋ヲ相川ニ移シ、長安翌年渡海此陣屋ニ移リ、府中ニ開発シテ、家来野田監物・川村覚助町奉行ヲ定、同心二十人抱(中略)、山先町ハ山崎同心住居」とある。また、『佐渡相川志』には、「慶長九甲辰年大久保長安同心百人ヲ召連レラレ、是ヲ 鍬同心ト云フ、後ニ山崎同心ト云フ、今弥十郎町、同心町住居ハ元和年中ヨリナリ」とあり、小田切仁右衛門組と岩崎新左衛門組の二人の町奉行に、それぞれ一○人ずつ配属された町同心の姓名と、召抱えられた年代を記している。幕初町同心は、嶋同心とも山崎同心とも称したというが、嶋同心の名は相川市中の治安のみならず、一旦有事の時は、島内全域に出動したための呼称であろう。それは、『佐渡国略記』『佐渡年代記』などに、慶安四年(一六五一)の辻藤左衛門の起こした小比叡騒動の時、二人の町奉行に随って一八人の町同心が出動し、内一人が戦死した記事がみられるのをはじめ、島内各所の大小様々の事件に出動していることによって知られる。平時における町同心の勤務場所は、町方役二人の執務する弥十郎町と、同心町の町方役所で、宝暦年間町方役が廃止されて、町方掛り広間役二人が置かれると、同役は広間詰めとなったが、町同心は従前同様旧町方役所に詰め、両組それぞれ昼間二人、夜間一人が勤番した。【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】児玉信雄
・マトネ(まとね)
「石名越え」の項で、マトネとは峠の分水嶺にあたる場所であると、一般的な用法について書いた。ところが大佐渡山系のほぼ中央部で、ドンデン山の約二キロメートル西方には、標高九三七・五㍍の「マトネ」という山が実在する。ここは相川町と両津市との境界線上でもある。金北山の西側には、戸中や片辺からの山越え道が、「新保ドネ」で金北山ー妙見山道と合流するが、同じように東側のマトネ山の西では、石花から入川までの五本の山道が縦走道路と合流する。このマトネ山の標高九三七・五㍍は、島内では金北山(一一七一・八)・妙見山(一○四二・二)・金剛山(九六二・二)・山毛欅ケ平山(九四七・一)についで、五番目に高い山なのである。それだけの高さのある山であるのにかかわらず、他の山々のように土俗信仰的な、あるいは植生を示す対象とはなりにくかったせいか、地形を表わすマトネの固有名詞となったものと思われる。【関連】 石名越え(いしなごえ)【執筆者】 本間雅彦
・間歩(まぶ)
現代の鉱山の「坑」にあたる。慶長以前は、請負人がすべてで一山を請負ったので、「駒沢山」とか「鶴子山」とか山名で読ばれた。文禄期(一五九二ー九五)をむかえて坑道堀りが普及すると、一つの坑を単位としての採掘がおこなわれ、その坑が間歩とよばれ、間歩を稼ぐ者は金児と呼ばれた。【執筆者】田中圭一
・マルバシャリンバイ(まるばしゃりんばい)
【別称】小川の円葉車輪梅(おがわのまるばしゃりんばい)
・万照寺(まんしょうじ)
浄土真宗東本願寺派、本尊は阿弥陀如来である。諏訪町鉛坂にあり、万行寺と専照寺が、昭和十七年に合併して万照寺とした。現在の寺地は、万行寺があった場所。万行寺は開基空乗、元和五年(一六一九)建立。山ノ内一本松近くの証成寺・安楽寺を元禄年中に併せ、浄願寺も合寺する。また専照寺は元和元年(一六一五)祐恩が渡来、奈良町に建立。祐恩は近江国堅田出身の長浜源左衛門。一時、播州姫路にいて、祐恩と改名し、各地を遍歴し佐渡へ来た。「専照寺宝物縁起」によると、源左衛門は越中砺波の北野村にしばらく留まり、のち京都に上って教如上人御真影を拝受した。裏書に「越中国利波郡北野村専照寺常什物」とある。祐恩によって、北野村から入った寺であることがわかる。祐恩は教如上人御真影をもって、京都から敦賀、能登の福浦を経て二見湊に入り、上相川の奈良町に来た。ここにいて京都本願寺へ、進納金の懇志が送られていた。万行寺には、慶安事件に連座した丸橋忠弥に加担して、配流となった大岡源右衛門・源三郎父子の墓が建てられた。『慶長年録』にも、金山繁昌した佐渡の様子が記されており、その鉱山労働者を信徒にする浄土真宗寺院は、慶長・元和期に佐渡に入った例が多い。【関連】大岡源三郎(おおおかげんざぶろう)【参考文献】岩木拡『相川町誌』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫
・マンダラ(まんだら)[カツオ]
マンダラカツオの名は、田中葵園の『佐渡志』に載っており、マツヨ(松魚)が方言と記している。マンダラには真名鱈の字を当てているが、果して往時に佐渡で行われたマンダラ釣りが、真のカツオ(鰹)のみを指しているのか、マルソウダなども指しているのかは不明である。江戸末期には、随分とたくさん釣れたという記録が残っており、積極的に夏は回遊性のカツオを求めて出漁したらしい。佐渡では万の鱈にも、一尾の鰹が勝るということから、マンダラの名が付いたというが、マンダラの名は、北陸から北海道まで用いられている。カツオの近似種にハガツオがいるが、漁獲高は少ない。佐渡では、これをスジマンダラと呼ぶ。カツオを佐渡では、ハナガツオと呼ぶことがあり、鰹節に作ることからの連想であろう。現在、佐渡で多獲される種はマルソウダ、次いでヒラソウダであり、カツオより小型で、むしろサバに近い。カツオは一メートルを超えるものがあるが、マルソウダは五○センチ大である。佐渡では、珊瑚礁をすみ場とするイソマグロが獲れたことがある。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治
・万福寺(まんぷくじ)
真言宗智山派。姫津。本尊阿弥陀如来。慶長七年(一六○二)北狄胎蔵寺六世快弁開基。境内に薬師堂・虚空蔵堂がある。当寺は、薬師堂別当として建立されたと考えられる。同年薬師堂棟札には、「本願主佐州大間通小池六右衛門、大工清水嘉右衛門、住僧快弁」とある。薬師堂の鍵取りは、達者の山本小三郎家であったと伝え、薬師如来は河原田殿の兜の守り神であったとも、「佐渡寺社細見」には、石田の若一王子社(中原神社)の御神体であったとの記述がある。達者の山本も薬師堂も、熊野社と関係が深く、山本が塩やきの村、達者釜所に居住していたのは、河原田殿の塩生産の場所であったことを示す。また同寺境内にある虚空蔵堂は、「堂の上」の松のそばにあった。万福寺過去帳には、「薬師堂建立の節、住僧快弁住居仕り候。当村の儀鎮守は虚空蔵尊なり。慶長七年より薬師堂建立候より産土神は薬師如来となり候」とある(『金泉郷土史』)。慶長七年は、大久保長安が漁業技術の優秀な漁師を石見より移住させ、漁村姫津が成立した年である。小池六右衛門は大間の付船問屋で、四十物業者であろう。【関連】姫津(ひめづ)【参考文献】『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)【執筆者】佐藤利夫
・身売証文(みうりしょうもん)
人身売買を、一般に「身売り」と称した。身売りは表向きは禁じられていて、佐渡では元和年間(一六一五ー二三)の幕府の禁令が、『佐渡年代記』などにも見えている。このため証文では、名目は身売りを「奉公」とし、身代金を「給金」と書いたものが多い。給金はしかし、奉公期間中の対価報酬と考えられがちだが、実際は借金なのであって、借金の利子だけが奉公によって消えて、年期明けのときに本銀、すなわち借金を返さないと解放されないが、または解放されても借金が残る仕組みになっていた。だから身売りのときの身代金が、年期の一○年なら一○年が終ったときに、消滅したと考えるのはまちがいである。売り主である親たちも、将来元利とも返済して、娘たちをもらいうけるといった権利意識はなく、売り主たちのいっさいの権利を放棄させることに、買い主たちは契約の重点を置いて、書かせることが多かった。佐渡が、よそとくらべて身売り王国だったわけではないが、金銀山の開発は、女性たちの商品価値を飛躍的に増大させていた。初期のころは、身売りの契約を固くするために、「天下一国の徳政御座候とも」などと書いたのが多い。奉行や代官が変わって、人返しの徳政があっても、この女性については別である。というのである。海府のある廻船商人の家には、国仲の男や娘を労働力として、買いとった証文が数多く残っている。廻船稼業のため、「他国へ硫黄・鉛・たばこなど、御法度の品は持って出ないこと、などが書き加えてある。一方、売る側の理由の中には、年貢が納められないとか、「樋(とい)銀」の工面ができない、といった文面などもある。島中の百姓が、鉱山の水替人夫に強制徴発されていて、労働が辛いからお金(樋銀)を工面して、人足をまぬかれる。そのお金の調達に、子を売るなどの事例もまた多かったのである。【関連】身代金(みのしろきん)【執筆者】本間寅雄
・ミオジプシナ(みおじぷしな)
原生動物有孔虫目の一属で、殻は数ミリと大きく成長し、石灰質で、複雑に分かれた室をもつ大型有孔虫の一種。外形はほぼ凸レンズ形をしていて、室は扇状・同心状に配列する。日本の各地からオパキュリナとしばしば一緒に産出し、中新世前期~中新世中期の示準化石である。暖海にすんでいたと考えられる。佐渡島に分布する下戸層から産出し、とりわけ真野町西三川の海岸周辺に露出する層厚約一メートルの石灰質砂岩層は、あたかも沖縄の「星砂」を想起させる。また、相川町平根崎の下戸層からも産出が報告されている。このミオジプシナは、ミオジプシナ コトオイ コトオイと命名されている。【関連】オパキュリナ・下戸層(おりとそう)【参考文献】半澤正四郎『東北帝国大理科報告』(一八巻)、松丸国照『土編』【執筆者】小林巖雄
・粛慎人来着(みしはせびとらいちゃく)
粛慎人は、やまとことばでは「みしはせびと」と読む。日本で最初に記録された外来の鬼で、『日本書紀』第十九の欽明紀(五四四)の頃に、次のように書かれている。
五年十二月越の国言さく 佐渡の島の北の御名部の碕岸に粛慎人あり 一つ船舶に乗りて淹留る 春夏は魚を捕って食に充つ 彼の島の人 人に非ずと言ひ亦鬼魅なりと言ひて敢て之に近づかず 島の東禹武の邑の人 椎子を採拾ひ熟し喫わにと欲して 灰の裏に著いて炮る 其皮甲化して二人となり 火上に飛騰ること一尺余計 時を経て相闘う 邑人深く以て異しと為し 取て庭に置く 亦前の如く相闘ひて己まず人ありて占ひて云う 是れ邑人必ず魃鬼の為に迷惑されんと 久しからずして言の如く其の抄掠を被る 是に於て粛慎人瀬河浦に移り就く 浦の神厳に忌み人敢て近つかず渇して其の水を飲み死する者且に半ばならんとし骨巌岫に積む 俗粛慎の隈と呼ぶ也 鬼と書かれてはいるが、民族学上では大陸の沿海州北部から、旧満州にかけて住んでいた狩猟民の、ツングース族とする説に定着しつつあり、古記には蝦夷ないしアイヌ説もみられる。右記中の地名、「御名部」「禹武」「瀬河浦」がどこであるかには、諸説があって定まらないが、佐渡博物館編『図説・佐渡島』では、東は藻浦から西は橘海岸などが挙げられ、北片辺の馬場遺跡の発掘によって、石花川河口付近に上陸地が比定されたりしている。右記した欽明紀は、実録によったものではなく、それ以前の口碑伝承を、越の国の者が報告する形式で書かれている。それゆえ鬼魅や魃鬼が抄掠したとして、蛮族の暴力的行為をうけたことになってはいる点については、中国人が用いた漢字表記では、「粛」も「慎」もむしろ穏やかで、つつしみ深い意味があるので、他の個所の記述と比較しながら、真実を見極める必要がある。【関連】馬場遺跡(ばんばいせき)・韃靼塚(だったんづか)【執筆者】本間雅彦
・水替(みずかえ)
坑内の排水の仕事をいう。地底のいちばん深いところでの作業なので、坑内労働ではもっとも難儀なものとされた。坑内は絶え間なく地下水がわいて出る。水は川となって坑道を流れ、豪雨ともなれば地上の洪水が坑内に流れこんで、人が坑道もろとも埋まることもあった。世界のどこの鉱山も、開発に当って直面する第一の仕事が水との闘いとされ、奥村正二氏は、「産業革命の端緒となった蒸気機関の発明も、実は鉱山の地下水汲上用ポンプの動力として生まれている」(「火縄銃から黒船まで」)と書いて、鉱山と水との関係に注意している。排水法でもっとも原始的で一般的なのが、手操(てぐり)水替といって「つるべ」(釣瓶)によるくみあげだ。少し進んだ方法は、家庭の車井戸と同じ仕組みで、井車を坑内の上部に仕掛けて、両端の綱につけた二つの釣瓶でくみ上げた。これを「車引き」といい、車の滑りを利用したものだ。坑内は広さが限られていて、細工物では取付けが難しい上に、故障が多いためである。細工物(器具)で慶長年間から使われたのは「寸方樋」(すっぽんどい)で、これは木製のピストン・ポンプである。鉱山の絵巻物にも見えている。つぎに西洋式の「水上輪」が承応二年(一六五三)以降、幕末まで使用される。もっとも精良なポンプだった。天明二年(一七八二)になってオランダ水突道具の「フランスカホイ」が、初めて青盤坑内で用いられる。老中田沼氏の腹心だった勘定奉行松本伊豆守が所持していたのを、試みに佐渡に運んで使ったものだ。九州大学工学部所蔵の「金銀山敷岡稼方図」にも実物が描かれているが、近年まで島内各地でも使われていた、天秤式手押消防ポンプとほぼ同じものだった。水上輪と同様に鉱山のポンプが、やがて農家に灌漑用または消防用として普及した事例の一つとなる。【関連】樋引(といびき)・水上輪(すいしょうりん)【執筆者】本間寅雄
・水金謂書(みずかねいわれしょ)
水金町から、町の歴史について、古来からのいい伝えや、くるわのしきたりなどをまとめ、奉行所に報告した綴りである。活字にはなっていないが、「宝暦八寅年十一月改之候、雑太郡相川、水金町」と表紙されていて、「水金謂書」としてある。この町のなり立ちをかいま見る上で、基礎的史料の一つである。内容を大別すると、山先町(現会津町)にあったくるわが、享保年間(一七一六ー三五)に水金町へ移転した経緯、山先町という町名の由来、水金町に対する古来からの課税と、その変遷、水金町の町名の由来、下相川本興寺門前と、柴町の専光寺門前にはさまれていたくるわ周辺の往来と、その門限の取りきめ、などである。また、相川町々および在方で、私娼(無許可営業)が見つかった場合の取締りと、その逮捕の事例、およびその法的な根拠となる、奉行所の通達などが年別に記されている。なお末尾に「水金町由来」とあって、慶長のころ小六町にくるわが誕生し、元和のころ柄杓町(上相川)、続いて山先町にくるわが出来ていった経緯が述べてある。以上はすべて毛筆書きで和紙に綴られ、原本は相川郷土博物館で保存してある。【関連】水金町(みずかねまち)【執筆者】本間寅雄
・水金沢疎水(みずかねざわそすい)
疎(そ)は一般に通水路をいう。鉱山のばあいは排水用のためのトンネル(坑道)で、もっとも古いのが、元和八年(一六二二)に山師味方但馬が掘られたという、「割間歩水貫間切」(延長三四五米)である。これは「高さ一丈七尺、横一丈三尺」もあり、「大水貫」と呼ばれたが、背(断面)の大きい排水坑であった。割間歩の位置から想像すると、北沢の斜面に坑口を設け、水は北沢に捨てたのではないかと思われる。ただしこの痕跡は残っていない。寛永三年(一六二六)になって、やはり割間歩の湛水処理のため、水金沢を坑口とした「水金沢水貫間切」(延長八七二米)が計画され、同十五年に完通した。これは坑口が近年まで見られたが、戦後の水金沢ダム工事によって埋没してしまった。元鉱山技術課長の大場実氏が語ったところによると、坑道の断面は「正方形に近かった」という。先の割間歩水貫は、工期が何年かかったかの記載がなく、この水金沢水貫は、坑道の加背が、当時の記録に記載されていない。ともあれ、のちの元禄九年(一六九六)に、四年一○か月ぶりに完通した、有名な「南沢疎水」(延長約九二二米)に次ぐ長い排水坑で、完成までに一二年かかっている。「寛永ノ頃、水金ヨリ割間歩ヘ水抜キ掘ル。此所上下ニ切向フ。是ヲ手カ子(たがね)間切ト言フ」(『佐渡相川志』)の記述から、内(坑内)と外(坑外)の両方から、迎い堀りで堀りぬくという工法だった。このほかの疎水に、天保二年(一八三一)十月に完成した「中尾間歩水貫」(延長二七三米)がある。これは文政七年(一八二四)の着工で、六年一○か月の工期だった。【関連】南沢疎水(みなみざわそすい)【執筆者】本間寅雄
・水金町(みずかねまち)
江戸中・後期の遊女町。享保二年(一七一七)に、山先町の傾城屋がここに移転して出来た。少し前の元禄七年(一六九四)検地帳では、「水金沢」とあって屋敷は二反歩余。遊女町の町造りが始まって、下相川村の田地八反歩もふくめた町屋敷が完成する。『佐渡相川志』という書物には、「此川筋ニテ昔ハ水金(すいぎん)ヲ流ス。仍テ名トス。其頃コノ川上ヲ平戸沢ト云フ。万治ノ頃迄此ノ所ニ大ナル買石(製錬工場)アリ」とあって、町名ノ由来が初めて記録される。「水金川」の川名もそれに由来しよう。川上に川水を利用した、大きい製錬施設があったことがわかる。鉱山で水銀アマルガム製錬が行なわれたのは、一七世紀初頭の慶長年間で、両津市和木の「川上家文書」にも、「水銀床屋、海府口小立ノ上ニ立申候」とある。「海府口」は現在の柴町北端をさし、古く海府番所がここに置かれていた。「木立ノ上」はその山側をさし、水金町がその区域に当たる。隣接する水金川河口部左岸の、浄土宗・専光寺(廃寺)は山号が「水金山」で、かってこの川筋で行なわれた水銀製錬の名残りを伝えている。ただし、この寺は元和六年(一六二○)の開基と伝えていて、水銀製錬より遅れてこの地に建つことになるらしい。【関連】水金遊廓(みずかねゆうかく)・水金謂書(みずかねいわれしょ)【執筆者】本間寅雄
・水金遊廓(みずかねゆうかく)
山先町(現会津町)にあったくるわが、享保二年(一七一七)七月に集団移転してできた。「此川筋ニテ水金(銀)ヲ流ス。依テ名トス」(『佐渡相川志』)が町名の由来となる。移転時のくるわ数は一一軒、遊女は三○人で、営業権の譲渡でくるわの名前はしばしば変わったが、一一軒の数は幕末・明治まで増減がなかった。町割は中央の水金川をはさんで南北に区画され、南側の入り口には吉原風に大門が立ち、本町通りと呼ばれる道幅八尺の通路が水金川までほぼ直線でのび、両側にくるわが建っていて、川には「忍橋」といって円形の橋がかけられ、その川筋にも何軒かが並んでいた。幕末元治元年(一八六四)三月の宗門帳(山本修之助蔵)によると、一一軒の楼名は「夷屋」「平野屋」「海老屋」「大黒屋」「坂本屋」「蔦屋」「松坂屋」「板橋屋」「東屋」「松本屋」「桑名屋」で、遊女は一六歳から二六歳までの四四人。慶長年間に幕府が「公訴」して生まれたくるわであり、その由緒を伝えて吉原ふうにみな源氏名を用いている。「若菊」「東雲」「梅ケ枝」「夕霧」など。現存する身売証文などから遊女の出身地は、江戸時代には島内の娘たちがほとんどで、楼主たちには私娼の捜索や逮捕、ときには課税免除などの特権が与えられていた。「黄金花咲くくるわの全盛」など、はなやかな「名所」として口説節などにもしばしばうたいこまれた反面、「水金怪談」などの哀しい逸話も多く語りつがれている。【関連】水金町(みずかねまち)【執筆者】本間寅雄
・水