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2015-09-18

「相川郷土史辞典」

★あ行★

・相川相壱会(あいかわあいいちかい)
 消防はしご乗りの保存会。町内第一分団のはしご乗りの一人であった加藤理夫(二町目・靴屋業)らが、伝統の行事の消滅を嘆いて昭和六十二年(一九八七)七月に結成した。五十九年十一月に、相川消防本部の中川東太郎消防係長の引率で、有志五人が新潟市の保存会「一番会」(野口吉泰代表)のもとに出向き、同市内白山神社ではしご乗りの技法、まといのふり方など、初歩からの秘芸の数々を習って帰った。まとい・半天などの新調のため町内から寄附金を募り、新調したまといなど披露し、消防団から独立して正式な保存会を発足させた。加藤代表のほか石塚博史・柴崎日出夫・本間克巳ら当時一四、五人の会員で、年間の主な活動は新年一月三日の善知鳥神社初詣の奉納、春と秋の火災予防週間で妙技を披露した。江戸時代に始まる町方火消し組が伝えてきた木遣り・まとい・はしご立ての技法の継承によって、住民の消防意識を高めるのが目的で、有志の涙ぐましい努力が続いている。県内では村松町(中蒲)・板倉町(中頚)・新潟市でこの技法が伝承されていて、佐渡では相川だけである。相川の始発年代はよくはわからないが、明治末の記念写真には、その乗り手らしい所作・服装の者が見え、昭和二十七年ころまでは五本のはしご乗りが旧相川全域の出初式に見られた。その後合併による団の編成替えで第一分団のみとなり、いつの間にか後輩に芸を教える指導者もなくなり、乗り手の減少に拍車がかかっていた。相川町の無形文化財に指定されている。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代編)【執筆者】 本間寅雄

・相川演劇研究会(あいかわえんげきけんきゅうかい)
 第二次世界大戦中に、相川町羽田の金子治作・高沢武吉等の商店主を中心とした、町内の家族慰安活動が前身。演目は、歌舞伎・新派劇からが主であった。戦後は、佐渡演劇連盟発足と同時に加盟(昭和二十二年)し、新しい演劇情報を獲得し、また指導者に岩佐嘉夫も加わり、演劇理論もその活動も一段と深まりを見せた。佐渡演劇連盟主催の「佐渡演劇コンクール」には、第三回に二宮千尋作「月冴ゆ」、第四回に山田時子作「良縁」で出場。次いで第五回二宮千尋作「陽尖」(大瀬紀一演出)の出場を最後に、相川演劇研究会の実質的な活動は幕を降ろしている。【参考文献】 『佐渡演劇』(佐渡演劇連盟機関誌)、文芸懇話会編『近代』(二号)【執筆者】 本間瑰

・相川音頭(あいかわおんど)
 踊りに用いる歌謡を、一般に音頭と読んだ。「音頭取り」といえば、盆踊りなどの歌いつぎをリードする役目で、相川音頭はもともと盆踊りの歌謡として生まれたと思われる。その歌詞は、羽田清次の『佐渡歌謡集』(昭和十三年)で早くから紹介され、山本修之助の『相川音頭集成』(昭和三十年)によって、詳細にまとめられた。ほとんどが江戸時代の中期以降にできたと思われ、内容を大きく分けると、①「謡曲百番くづし」や「源平軍談」のような、古典趣味的なもの、②お上の掟(倹約令)や地震・地名など、時事に托したものや、「鼠口説」「徳利口説」といった滑稽なもの、③現実にこの島で起った男女の相対死を扱った「兵十郎・花世心中妹背の虫づくし」「おさん・仙次郎心中濃茶染」などの、艶ものなどである。いずれも「うめにうぐいす、やなぎにつばめ」といった七・七調の韻文形式で、結びが「ないてうきよへ、つげわたる」と、七・五調で納めてある。この単純な七・七・七の繰返しが、口説といわれる音頭の特色だが、長編の歌物語にもなっていて、主として化政期(文化・文政)に、相川などで町人の間で大流行し、盆踊りだけでなく、毛筆書きの音頭本が店頭でも売られたりした。作者は多くはわからないが、地役人の辻守遊・同山田良範、町人で吹分所職人だった中川赤水などが知られている。謡曲の題名をちりばめた『謡曲百番くづし』、源平盛衰記に取材した『源平軍談』の二つは、奉行の面前での御前踊りに歌われ、心中ものでは中川赤水の『小川心中ー番匠松蔵・機織お竹春の夜の夢物語』など、一連の作品が傑作と評されている。踊りの風景は、文政四年(一八二一)奉納の音頭絵馬にも描かれ、相川の「立浪会」では、無地濃紺の紋付・元禄袖・博多帯・白足袋・折編笠でアレンジした、凛とした感じの男踊りとして、いまに伝えている。【関連】 御前踊り(ごぜんおどり)・口説節(くどきぶし)・中川赤水(なかがわせきすい)【執筆者】 本間寅雄

「謡曲百番(うたいひゃくばん)くずし」
歌は家隆*(かりゅう)の流(なが)れを伝え
昔語(かた)れば山姥たまの
恋と無常のいりわり*聞くに
人の命はげに浮舟の
寄辺(よるべ)さだめぬ難波(なにわ)の葦(あし)の
そよとばかりに身のゆくすえを
知らで井筒(いづつ)の年々ごとに
齢(よわい)ふけては早白髭と
なりて姿もさて老松の
顔の面(おもて)に皺(しわ)頼政や
杖にすがりて三輪*朽(く)ちもせず
身には色よき錦木着ても
底(そこ)の心は安達ヶ原の
鬼をこめたる貪慾心(どんよくしん)に
ひとは殊勝(しゅしょう)と三井寺まいり
千手(せんじゅ)あわせて仏ヶ原に
申す念仏百万遍の
ならす兼平(かねひら)当麻*もなくて
ついに弘誓(ぐせい)の船橋渡り
末は仏になろうも知らで
つねに志賀なき心を持ちて
人の噂(うわさ)をただ夕顔の
二人静に仲子*(なかご)と云うて
くねる心や咲く女郎花(おみなえし)
まわりまわりて恥杜若(かきつばた)
さては采女(うねめ)のかわらけとりて
肴(さかな)たくさん通盛(みちもり)なれや
さいつさされつ野々宮過ぎて
酔(よい)の戯(たわむ)れさて色ばなし
浮名竜田の神かけまくも
変るまいとの誓願寺をば
遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の姿にめでて
熊野(ゆや)の文(ふみ)をもはや書き散らす
心鵜羽(うのは)となかだち頼む
鸚鵡小町(おうむこまち)のその返歌(へんか)より
君が便(たよ)りを松風なれや
田村がけなる恋路はつらや
人目いろ目は涙に呉服(くれは)
わしが思いは胸にも海士(あま)り
いつか情(なさけ)の蟻通(ありとおし)ぞと
閨(ねや)のとぼそ*の芭蕉の風を
君がつて加茂(かも)さてなつかしく
通(かよい)小町のその宵々は
小袖曽我をも身に引きまとい
月の光りの清経(きよつね)なれば
人目しのぶの檜垣(ひがき)を越えて
垣間(かいま)見る目にそもじ*の姿
源氏供養の紫式部
または聞えし楊貴妃(ようきひ)まえも
竹生島(ちくぶしま)なる弁財天も
君にまさらぬげに玉葛(たまかずら)
定家かずらの髪結いぶりや
着たる小袖の染め色模様
西行桜や小塩(おしお)のさくら
紋は梅ヶ枝咲く花筐(はながたみ)
裾の流しは散る桜川
簾(すだれ)まきあげ人待つ宵は
月にうつろう景清らかに
見れば心も関寺小町
そよと立ちよりのうみずからは
忍び兼ねたる軒端の梅*の
開く間もなき心の恋は
室(むろ)の八嶋や咸陽宮(かんようきゅう)の
もゆる煙りを今はらさせて
解(と)けて砕けて氷室(ひむろ)のこおり
さてもこのごろ千束(ちづか)の文(ふみ)の
数も積(つも)れる葛城(かつらぎ)山や
よそに見られぬ姨捨(うばすて)山の
月の今宵に契りを結ぶ
夢も五十路(いそじ)やげに邯鄲(かんたん)の
枕引きよせはや睦語(むつがた)り
静御前の船弁慶や
雲林院なる伊勢物語
柏崎なるいにしえごとや
外(そと)の浜辺の善知鳥(うとう)の袖も
子ゆえものをやげに思わする
浮かれ涙で語ればついに
月も洩れくる班女(はんじょ)の扇
鐘も響くや大原の山
鶏(とり)も八声のはや後朝*(きぬぎぬ)に
阿漕(あこぎ)々々と慕いしかいも
浪の江口の音静かにて
明(あ)くるあしたの天鼓(てんこ)の鼓(つづみ)
時を知らする鵜飼の船の
よするしるべやわがもの思い
恋と無常のそのいりわりは
筆も及ばじ白楽天(はくらくてん)も
浪路はるかに東岸居士(とうがんこじ)や
自然居士(じねんこじ)なる喝食*(かつじき)までも
迷い迷える世の中々に
まして皇帝俊寛僧都(そうず)
文武二道の忠度(ただのり)卿や
主馬(しゅめ)の盛久(もりひさ)実盛(さねもり)なども
卒都婆小町(そとばこまち)に逢うてののちは
色に迷わぬたぐいもあらじ
夜討曽我なる十郎なども
虎*に心を鞍馬の天狗
是界(ぜかい)坊さえ心を染むる
恋は九世(ぐせ)の戸げに紅葉狩
鬼の心を靡かすことも
深き玉の井契りを結ぶ
月の心は高砂なれや
雲の上なる右近の馬場の
桜いろよき玉藻(たまも)の前も
のちは那須野の殺生石(せっしょうせき)
なりて浮身は藤戸の浦に
沈みこそすれげに浮き沈む
鵺(ぬえ)は啼くなり夜毎につらや
ひとり藁屋にすむ蟬丸が
琵琶の調べもげに恋の曲
これも浮世の戯(たわむ)れ草よ
まこと心は安宅(あたか)の松よ
年も若やぐ養老水を
結ぶ契りは末々までも
変るまいとの約束なれば
げにや勇武の朝長(ともなが)なども
美濃の長者が情(なさけ)によるも
深き縁(えにし)の有明(ありあけ)月に
慣れて潮くむ融(とおる)の大臣(おとど)
船の仕上はげに唐船の
あとを慕いし松浦(まつら)の姫が
恋の石とて今世に残る
よしや迷いをみな振り捨てて
釈迦(しゃか)の大会(だいえ)に御法(みのり)を木賊(とくさ)
春日竜神あらありがたや
色も情も真如(しんにょ)の月の
照らす御影(みかげ)もげに隅田川
きりは鶴亀御代(みよ)の松
*家隆=藤原家隆(いえたか) 保元三年〜嘉禎三年、元久二年後鳥羽天皇の勅命をうけ、定家等と共に「新古今集」を編述した
*いりわり=道理
*三輪=「身は」にかかる
*当麻(たいま)=絶間(たえま)にかかる
*仲子=中ぐらいの年ごろの稚児(ちご)
*とぼそ=枢、転じて扉や戸のこと
*そもじ=あなた(夫人語)
*「軒端の梅」を宝生流では「東北」という
*後朝=男女の別れ
*かつじき=有髪の侍童
*虎=虎御前
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「源平軍談(げんぺいぐんだん)初段「宇治川先陣 佐々木の功名」」

嘉肴*(かこう)あれども食(くら)わずしては
酸(す)いも甘いもその味知らず
武勇ありても治(おさ)まる世には
忠も義心もその聞えなし
ここにいにしえ元暦*(げんりゃく)のころ
旭(あさい)将軍木曽義仲は
四方(よも)にその名も照り輝きて
野辺の草木も靡(なび)かぬはなし
されば威勢に驕(おご)りが添いて
日々に悪逆いや増しければ
木曽が逆徒(ぎゃくと)を討(う)ち鎮(しず)めよと
綸旨*(りんし)院宣*(いんぜん)蒙(こうむ)りたれば
お受け申して頼朝公は
時を移さば悪(あ)しかりなんと
蒲(かば)の範頼*(のりより)大手*(おおて)へまわし
九郎義経搦手*(からめて)よりも
二万五千騎(き)二(ふ)た手に分かる
時に義経下知*(げじ)して曰(いわ)く
佐々木*梶原*この両人は
宇治の川越え先陣せよと
下知を蒙りすわわれ一(いち)と
進む心は咲く花の春
ころは睦月*(むつき)の早末つかた
四方の山々長閑(のど)けくなりて
川のほとりは柳の糸の
枝を浸(した)せる雪代(ゆきしろ)水に
源太景季先陣をして
末の世までも名を残さんと
君の賜(たま)いし磨墨(するすみ)という
馬にうち乗り駈(か)け出しければ
あとにつずいて佐々木の四郎
馬はおとらぬ池月(いけづき)なれば
いでや源太に乗り勝(か)たんとて
扇開いてうち招きつつ
いかに梶原景季殿と
呼べば源太は誰なるらんと
思うおりしも佐々木が曰く
馬の腹帯(はるび)ののび候(そうろう)ぞ
鞍(くら)をかえされ怪我(けが)召(め)さるなと
聞いて景季そはあやうしと
口に弓弦(ゆんづる)ひっくわえつつ
馬の腹帯に諸手(もろて)をかけて
ずっと揺りあげ締めかけるまに
佐々木得(え)たりとうちよろこんで
馬にひと鞭(むち)はっしとあてて
先の源太に乗り越えつつも
川にのぞみて深みへ入れば
水の底には大綱小綱
綱のごとくに引き張り廻し
馬の足並あやうく見えし
川の向うは逆茂木*高く
鎧(よろ)うたる武者六千ばかり
川を渡さば射落(いおと)すべしと
鏃(やじり)揃えて待ちかけいたり
佐々木もとより勇士の誉(ほまれ)
末の世までの名も高綱は
宇治の川瀬の深みに張りし
綱を残らず切り流しつつ
馬を泳がせ向うの岸へ
さっと駈けつけ大音(だいおん)あげて
宇多(うだ)の天皇九代ののちの
近江(おうみ)源氏のその嫡流*(ちゃくりゅう)に
われは佐々木の高綱なりと
蜘蛛出*(くもで)加久縄*(かぐなわ)また十文字
敵の陣中人なきごとく
斬(き)って廻りしその勢いに
敵も味方も目を驚かし
褒(ほ)めぬ者こそなかりけれ

*嘉肴=うまい肴(さかな)
 「嘉肴ありと雖も食らはずんばその旨きを知らず」(礼記学記)=大人物も用いなければその器量を知ることができないことのたとえ、「仮名手本忠臣蔵」の冒頭にもこの一句がある
*元暦元年=寿永三年(一一八四)
*綸旨=天皇のおことばを書いた文書
*院宣=上皇、法皇のおことばを書いた文書
*蒲の冠者(かんじゃ)=源範頼の異名。遠江国蒲村の生まれという
*大手=城の表門
*搦手=城の裏門
*下知=命令
*佐々木=佐々木四郎高綱
*梶原=梶原源太景季
*睦月=陰暦正月の異称(この時は寿永三年一月二十日である)
*逆茂木=敵をふせぐために、いばらの枝を逆立てた垣
*嫡流=総本家の家筋
*蜘蛛手=蜘蛛の足のようにひろがること
*加久縄=かぐのなわのように、結びまわりめぐらすこと
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「源平軍談(げんぺいぐんだん)二段目「粟津の合戦 巴がはたらき」」

かくて宇治川先陣佐々木
二陣景季なおつずきしは
秩父(ちちぶ)足利(あしかが)三浦の一家(いっけ)
われもわれもと川うち渡り
勇み進んで戦いければ
防ぐ手だても新手(あらて)の勢に
備えくずれて乱るる中に
楯(たて)の六郎*根(ね)の井(い)の小弥太*
二人ともはや討死(うちじに)すれば
これを見るよりちりちりばっと
風に吹き散る木の葉のごとく
落ちて四方へ逃げ行く敵を
追うて近江の粟津(あわず)が原に
木曽の軍勢敗北(はいぼく)すれば
鬨(とき)をあげたる鎌倉勢に
巴御前(ともえごぜん)はこの勝鬨に
敵か味方かおぼつかなしと
駒(こま)をひかえてためろうところ
返せ戻せと五十騎ばかり
あとを慕うて追い来る敵(かたき)
巴すわやと駒たてなおし
好む薙刀(なぎなた)振り廻しつつ
木曽の身内に巴と呼ばる
女武者ぞと名乗りもあえず
群れる敵(かたき)の多勢が中を
蹴立(けた)て踏み立て駈け散じつつ
とんぼ返しや飛鳥(ひちょう)の翔(かけ)り
女一人に斬り立てられて
崩れかかりし鎌倉勢の
中を進んで勝武者一騎
声を張りあげ巴が武術
男まさりと聞きおよびたり
われは坂東(ばんどう)一騎の勇士
秩父重忠見参(けんざん)せんと
むずと鎧の草摺(くさず)り*を取り
引けば巴はにっこりと笑い
男まさりと名をたてられて
強み見するは恥かしけれど
坂東一なる勇士と聞けば
われを手柄に落してみよと
云うに重忠心に怒り
おのれ巴を引き落さんと
さては馬とも揉(も)みつぶさんと
声を力にえいやと引けど
巴すこしも身動きせねば
ついに鎧の草摺り切れて
どっと重忠しりえ*にたおる
内田家吉(うちだいえよし)これ見るよりも
手柄功名ぬけがけせんと
みんな戦(いくさ)の習いとあらば
御免候え重忠殿と
手綱(たづな)かいぐり駈け来る馬は
これや名におう足疾鬼*(そくしつき)とて
虎にまさりて足早かりし
巴御前が乗りたる馬は
名さえのどけき春風なれや
いずれおとらぬ名馬と名馬
空を飛ぶやら地を走るやら
追いつまくりつ戦(たたか)いけるが
内田ひらりと太刀(たち)なげすてて
馬を駈けよせ巴をむずと
組んでかかればあらやさしやと
巴薙刀(なぎなた)こわきにはさみ
内田次郎が乗りたる馬の
鞍(くら)の前輪に押しあてつつも
力まかせに締めつけければ
動くものとて目の玉ばかり
娑婆(しゃば)のいとまを今とらすると
首を引き抜き群がる敵の
中へ礫(つぶて)になげ入れければ
さても凄(すさ)まじあの勇力(ゆうりき)は
男まさりと恐れをなして
逃ぐる中より一人の勇士
和田の義盛馬進ませて
手柄功名相手によると
生(お)うる並木の手ごろの松を
根よりそのまま引き抜き持ちて
馬の双脛(もろずね)なぎたおしつつ
搦(から)め取らんと駈け来たるにぞ
巴御前は馬乗り廻し
敵を蹄(ひずめ)に駈けたおさんと
熊の子渡し燕の捩(もじ)り
獅子の洞入(ほらい)り手綱の秘密
馬の四足(しそく)も地につかばこそ
いずれおとらぬ馬上の達者
かかる折しも敵(かたき)の方(かた)に
旭将軍木曽義仲を
石田次郎が討ち取ったりと
木曽の郎党*(ろうとう)今井の四郎
馬の上にて太刀くわえつつ
落ちて自害とよばわる声に
巴たちまち力を落し
ひるむところを得(え)たりと和田は
馬の双足(もろあし)力にまかせ
横に薙(な)ぐればたまりもあえず
前にうつ伏し足折る馬の
上にかなわで真逆(まつさか)さまに
落つる巴に折り重(かさ)なりて
縄を打ちかけ鎌倉殿へ
ひいて行くこそゆゆしけれ

*楯六郎=楯親忠(幸親の子)
*根井小弥太=根井幸親
*草摺り=鎧の胴の下に垂れているもの
*しりえ=うしろの方
*足疾鬼=羅刹(らせつ)、悪鬼の総名、速疾大力で人をまどわし人を食うという
*郎党=郎等、けらい
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「源平軍談(げんぺいぐんだん)三段目「那須の与市 弓矢の功名」」

蛇(へび)は蛙(かわず)を呑(の)み食らえども
蛇を害するなめくじり*あり
旭将軍木曽義仲も
ついに蜉蝣*(ふゆう)のひと時ならん
滅び給いて鎌倉殿の
威勢旭ののぼるがごとし
されば源氏のそのいにしえの
仇(あだ)をむくわん今この時と
平家追討綸旨(りんし)をうけて
蒲(かば)の範頼義経二将
仰せ蒙り西国(さいこく)がたへ
時を移さず押し寄せ給う
武蔵(相模むさしさがみ)は一二の備え
かくて奥州十万余騎は
大手搦手二(ふた)手に分る
風にたなびく旗差物*(はたさしもの)は
雲か桜かげに白妙(しろたえ)の
中にひらめく太刀(たち)打物(うちもの)は
野辺に乱るる薄(すすき)のごとく
ここぞ源平わけめのいくさ
進め者ども功名せよと
総(そう)の大将軍配(ぐんはい)あれば
ここの分捕(ぶんど)りかしこの手柄
多き中にも那須のの与市
末の世までのほまれといっぱ*
四国讃岐(さぬき)の屋島(やしま)の浦で
平家がたでは沖なる舟に
的(まと)に扇を立てられければ
九郎判官(ほうがん)これ御覧(ごろう)じて
いかに味方の与市はいぬか
与市々々と宣(のたま)いければ
与市御前(ごぜん)にかしらを下(さ)げて
なんの御用とうかがいければ
汝(なんじ)召(め)すこと余(よ)の儀にあらず
あれに立てたる扇の的を
早く射取れと下知し給えば
畏(かしこま)りしとおんうけ申し
弓矢とる身の面目(めんぼく)なりと
与市心によろこびつつも
やがて御前をたちしりぞいて
与市その日の晴(は)れ装束(しょうぞく)は
肌に綾織(あやおり)小桜縅(おどし)
二領重ねてざっくと着なし
五枚冑(かぶと)の緒(お)を引きしめて
誉田栗毛(こんだくりげ)というかの駒に
梨地浮絵(なしじうきえ)の鞍おかせつつ
その身軽気(かろげ)にゆらりと乗りて
風もはげしく浪高けれど
的も矢頃*(やごろ)に駒泳(およ)がせて
浪に響ける大音(だいおん)あげて
われは生国(しょうこく)下野(しもつけ)の国*
今年生年(しょうねん)十九歳にて
なり*は小兵*(こひょう)に生れを得たる
那須の与市が手並(てなみ)のほどを
いでや見せんと云うより早く
家に伝えし重藤(しげとう)の弓
鷹の白羽の鏑箭(かぶらや)ひとつ
とってつがえて目をふさぎつつ
南無(なむ)や八幡正大菩薩(はちまんしょうだいぼさつ)
那須の示現(じげん)の大明神(だいみょうじん)も
われに力を添え給われと
まことこころに祈念をこめて
眼(まなこ)開けば浪静まりて
的もすわればあらうれしやと
こぶし固めてねらいをきわめ
切って放せばあやまたずして
的の要(かなめ)をはっしと射切(いき)る
骨は乱れてばらばら散れば
平家がたでは舷(ふなばた)たたき
源氏がたでは箙(えびら)をならし
敵も味方もみな一同に
褒めぬ者こそなかりけれ

*なめくじり=なめくじの佐渡方言
*蜉蝣=かげろう、かげろうは朝生れて夕べに死ぬという
*旗差物=鎧の背にさして戦場で目じるしとする小旗
*いっぱ=「いうは」の促音化
*矢頃=矢を射るにちょうどよいほど
*下野の国=栃木県
*なり=身長
*小兵=身体の小さいこと
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「源平軍談(げんぺいぐんだん)四段目「嗣信が身替り 熊谷が菩提心」」

さても屋島のその戦いは
源氏平家と入り乱れつつ
海と陸(くが)との竜虎(りょうこ)の挑(いど)み
時に平家の兵船(ひょうせん)ひとつ
汀(みぎわ)ま近く漕ぎ寄せつつも
船の舳先(へさき)につっ立ちあがり
これは平家の大将軍に
能登の守(かみ)名は教経(のりつね)なるが
卒爾(そつじ)ながら*も義経公へ
お目にかからん験(しるし)のために
腕に覚えの中差*(なかざし)ひとつ
受けて見給えいざ参(まい)らすと
聞いて義経はや陣頭に
駒を駈けすえあらものものし
能登が弓勢*(ゆんぜい)関東までも
かくれなければその矢を受けて
あわれ九郎が鎧の実(さね)を
試(ため)しみんとて胸ゆび指して
ここが所望と宣(のたま)いければ
すわや源平両大将の
安否(あんぴ)ここぞと片唾(かたず)をのんで
敵も味方も控(ひか)えしところ
桜縅(おどし)の黒鹿毛(くろかげ)の駒
真一文字に味方の陣を
さっと乗り分け矢面(やおもて)に立ち
われは源氏の股肱(ここう)の家臣*(かしん)
佐藤嗣信(つぎのぶ)教経公の
望むその矢をわれ受けてみん
君と箭坪(やつぼ)は同然なれば
不肖(ふしょう)ながらもはや射給えと
にこと笑うてたち控(ひか)ゆれば
能登も智仁(ちじん)の大将ゆえに
さすが感じて射給わざるを
菊王しきりにすすむるゆえに
今は実(げ)にもと思われけるが
五人張りにて十五束なる
弓は三五の月*よりまろく
征矢*(そや)をつがえて引き絞りつつ
しばしねらいて声もろともに
がばと立つ矢に血煙り立てど
佐藤兵衛も弓うちつがい
当の矢返し放たんものと
四五度しけれど眼(まなこ)もくらみ
息も絶えだえ左手(ゆんで)の鎧(あぶみ)
踏みもこらえず急所の傷手(いたで)
右手(めて)へかっぱと落ちけるところ
菊王すかさず汀(みぎわ)におりて
首を取らんと駈け来るところ
佐藤忠信射て放(はな)つ矢に
右手(めて)の膝皿(ひざさら)いとおしければ
どうと倒(たお)るる菊王丸を
能登は飛び下り上帯(うわおび)つかみ
船へはるかに投げ入れければ
間(ま)なく船にて空(むな)しくなれり
されば平家の一門はみな
船に飛び乗り波間に浮かむ
ここにあわれは無官(むかん)の大夫*(たゆう)
年は二八の初陣(ういじん)なるが
駒の手綱もまだ若桜
花に露持つみめかたちをば
美人草(びじんそう)とも稚児桜(ちござくら)とも
たぐい稀(まれ)なるおん装(よそお)いや
すわや出船か乗り遅れじと
手綱かい繰(く)り汀(みぎわ)に寄れば
船ははるかに漕ぎいだしつつ
ぜひも渚(なぎさ)にためろうところ
馬を飛ばして源氏の勇士
扇開いてさし招きつつ
われは熊谷直実(くまがいなおざね)なるぞ
返せ戻せと呼ばわりければ
さすが敵(かたき)に声かけられて
駒の手綱をまた引っ返し
波の打物(うちもの)するりと抜いて
三打ち四打ちは打ち合いけるが
馬の上にてむんずと組んで
もとの渚に組み落ちけるを
取って押さえて熊谷次郎
見れば蕾のまだ若桜
花の御髪(おぐし)をかきあげしより
猛(たけ)き武勇の心もくだけ
ついに髻(もとどり)ふっつと切りて
思いとまらぬ世を捨衣(ころも)
墨に染めなす身は烏羽玉*(うばたま)の
数(かず)をつらぬく数珠(じゅず)つま繰(ぐ)りて
同じ蓮(はちす)の蓮生法師(れんじょうほうし)
菩提信心新黒谷(しんくろだに)へ
ともに仏道成りにける

*卒爾ながら=にわかなことではあるが
*中差=箙に盛りたる総矢
*弓勢=弓を射る力の強さ
*股肱の家臣=最もたよりとすべき家来
*三五の月=十五夜の月
*征矢=戦場でもちいる矢
*無官の大夫=四位五位の位で官職のない人、ここでは平敦盛のこと
*打物=打ちきたえた武器、刀槍の類
*烏羽玉=ぬばたま、ここでは墨染にかかる枕詞(まくらことば)
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「源平軍談(げんぺいぐんだん)五段目「景清が錏引 義経の弓流し 稀代の名馬 知盛の碇かつぎ」」

かくて源氏のその勢いは
風にうそぶく猛虎のごとく
雲を望める臥竜(がりょう)にひとし
天魔鬼神(てんまきじん)もおそれをなして
仰ぎうやまう大将軍は
藤の裾濃*(すそご)のおん着長*(きせなが)に
赤地錦の垂衣(ひたたれ)を召し
さすが美々しくいでたち給う
時に平家の大将軍は
勢(せい)を集めて語りて曰(いわ)く
去年播磨(はりま)の室山(むろやま)はじめ
備州水嶋(みずしま)ひよどり越や
数度(すど)の合戦(かせん)に味方の利なし
これはひとえに源氏の九郎
智謀武略の弓ひきゆえぞ
どうぞ九郎を討つべき智略
あらまほしやとのたまい給う
時に景清座を進みいで
よしや義経鬼神(おにがみ)とても
命捨てなば易(やす)かりなんと
能登に最期(さいご)の暇(いとま)を告(つ)げて
陸(くが)にあがれば源氏の勢は
のがすまじとて喚(おめ)いてかかる
それと見るより悪七兵衛
ものものしやと夕日の影に
波の打物ひらめかしつつ
斬ってかかればたまりもあえず
刃向(はむ)いたる武者四方へばっと
逃(に)ぐる仇(かたき)を手取りにせんと
あんの打物小脇にはさみ
遠き者には音にも聞けよ
近き者には仰いでも見よ
われは平家の身内(みうち)において
悪七兵衛景清なりと
名乗りかけつつ追い行く敵の
中に遅れじ三尾屋(みおのや)四郎
あわい*間近くなりたりければ
走りかかって手取りにせんと
敵の冑(かぶと)の錏(しころ)のはしへ
しかも二三度はかけたれど
ついにはずしてとりとめられず
されど無念と悪七兵衛
思う仇ぞのがさじものと
飛んで冑の錏(しころ)をつかみ
足を踏みしめえいやと引けば
命かぎりと三尾屋(みおのや)も引く
引きつ引かれつ冑の錏
切れて兵衛が手にとどまれば
敵は逃げのびまたたちかえり
さてもゆゆしき腕(かいな)の強さ
腕(うで)の強さとほめたりければ
景清はまた三尾屋殿の
頚(くび)の骨こそ強かりけると
どっと笑うて立つ波風の
荒きおりふし義経公は
いかがしつらん弓取り落し
しかも引(ひ)く潮(しお)矢よりも早く
浪にゆられてはるかに遠き
弓を敵(かたき)に渡さじものと
駒を浪間に打ち入れ給い
泳ぎ泳がせ敵前近く
流れ寄る弓取らんとすれば
敵は見るより船さし寄せて
熊手*(くまで)取りのべ打ちかくるにぞ
すでにあやうく見え給いしに
されど熊手を切り払いつつ
ついに浪間の弓取りかえし
もとの汀(みぎわ)にあがらせ給う
ときに兼房(かねふさ)御前(ごぜん)に出でて
さてもつたなきおん振舞(ふるまい)や
たとえ秘蔵(ひぞう)のおん弓にして
千々(ちじ)の黄金(こがね)をのべたりとても
君の命が千万金に
代えらりょうやと涙を流し
申しあぐれば否(いな)とよそれは
弓をおしむと思うはおろか
もしや敵(かたき)に弓取られなば
末の世までも義経こそは
不覚者ぞと名を汚(けが)さんは
無念至極ぞよしそれ故に
討(う)たれ死なんは運命なりと
語り給えば兼房はじめ
諸軍勢みな鎧の袖を
濡らすばかりに感歎しけり
さてもあわれを世にとどめしは
ここに相国(しょうこく)新中納言
おん子知章(ともあき)監物(けんもつ)太郎
主従三騎に打ちなされけり
さらば冥途(めいど)のみやげのために
命かぎりと戦いければ
親を討たせてかなわじものと
子息知章駈(か)けふさがりて
父を救いて勇気もついに
あわれはかなき二八の花の
盛り給いしおんよそおいも
ついに討死さて知盛(とももり)の
召され給いし井上黒(いのうえぐろ)は
二十余町の沖なる船へ
泳ぎ渡りて主君をたすけ
陸(くが)にあがりて船影(ふなかげ)を見て
四足縮めて高いななきし
主(しゅう)の別れを慕いしことは
古今稀なる名馬といわん
かかるところへ敵船二艘
安芸(あき)の小太郎おなじく次郎
能登は何処(いずく)ぞ教経(のりつね)いぬか
勝負決して冑を脱げと
呼べば能登殿あらやさしやと
二騎を相手に戦いけるを
よそに見なして知盛公は
もはや味方の運尽(つ)きぬれば
とても勝つべき戦(いくさ)にあらず
かくてながらえ何かはせんと
大臣(おとど)殿*へもお暇(いとま)申し
冑二刎(ふたはね)鎧も二領
取って重(かさ)ねてざっくと着なし
能登に代りておもてをひろげ
安芸の小太郎左手(ゆんで)に挟(はさ)み
おのれ冥土の案内せよと
右手(めて)に弟の次郎を挟み
なおもその身を重からせんと
舁(かつ)ぐ碇(いかり)は十八貫目
海へかっぱと身を沈めつつ
浮かむたよりも如渡得船(にょどとくせん)の
船も弘誓*(ぐせい)の舵(かじ)取りなおし
到(いた)り給えやとく*かの岸へ
浪も音なく風静まりて
国も治まり民安全に
神と君との恵みもひろき
千代の春こそめでたけれ

*裾濃=上を淡く下を濃くした染色
*着長=鎧または具足(大将着用のものにかぎる)
*あわい=あいだ
*熊手=長い柄のさきに熊の爪のような鉄爪のある武器
*大臣殿はここでは平宗盛
*弘誓=ひろく衆生を済度しようとする仏の誓願
*とく=早く
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「新板 小川の心中 番匠松蔵 機織お竹 春の夜の夢物語 初段「村習い 寝宿の小屋入り」」

恋の出花の下相川に
流れ続きの小川*の村に
げにも名に負(お)う金銀山の
盛(さか)りいや増す相川近き
ところがとてその風俗も
今は昔にみなひきかえて
とうねしなだて*縄帯つかり*
いつかすたりてみじん*の青梅*(おうめ)
伊達(だて)を小倉*(こくら)の帯とは野暮(やぼ)と
ねしょう*めらまで気がたかぶりて
いも*やととき*やぜんまいわらび
野蒜(のびる)餅草*独活(うど)さいしょうば*
呼(よ)ばる声にも仔細(しさい)がつけば
まして男は後向(あとむ)き手繰(てぐり)
鉱山(やま)で銭とるその勢(いきおい)に
こんめつこうやきわるの声も
豊後*(ぶんご)潮来*(いたこ)とうつればかわる
ときの習いと云えどもさすが
いつも変らぬところの定め
二十四か浦海府*の掟(おきて)
村の若手の男と女
まじる寝宿(ねやど)の夜業(よなべ)のあとは
師匠(ししょう)なくてもついいつのまに
寺の小僧が習わぬ経か
恋の手習いいろはにほへと
筆の持ちよう誰(だれ)教えねど
色と云う字のその筆法(ひつほう)は
和様唐様(わようからよう)さまざまあれば
好(す)いた流儀を書くそのうちに
能書愚筆(のうじょぐひつ)の分(わか)ちはあれど
筆をとらぬはなき世の中の
神の昔も今末の世も
恋の闇路(やみじ)にみな踏み迷う
佐藤兵十郎園部の花世
さては二丁目仙次郎おさん
添うに添われぬ二人の仲は
恋のいろはを書き損(そこな)うて
筆の命毛(いのちげ)捨てたるためし
悪い手本の筆意(ひつい)を学び
あたら二人が冥土(めいど)の旅へ
ついにおもむくそのいりわり*の
もとの起(おこ)りをほのかに聞くに
下(した)の小川の太郎兵衛家(いえ)の
弟息子(おととむすこ)の松蔵というて
幼達(おさなだち)から牛追うことや
野山稼(のやまかせ)ぎは嫌(きら)いとみえて
ほえやばいた*で木地(きじ)くり細工
腕(うで)が覚(おぼ)えてしぜんとのちは
ここの牛小屋かしこの藁屋(くずや)
いつのまにやらつい建てそめて
今は村でも番匠*(ばんじょう)と呼ばれ
しごく律儀(りちぎ)な正直者も
色はまことに思案(しあん)のほかか
同じあたりの次郎兵衛家(いえ)の
妹娘のその名はおたけ
年は二八の今色ざかり
ともに寝宿のいろりの端(はた)で
灰の草紙(そうし)に火箸の筆で
恋のいろはをつい書きそめて
おらはそなたにさんずい「ま」の字*
むりな「ほ」の字で書きにくければ
おらが手をとりどがい*になりと
どうぞ教えてくださいしゃと
云えば松蔵も「へ」の字になりて
おらもいつからそなたにどうぞ
云うて見たいと近(ちこ)うのうちに
神明詣りと家をば出かけ
鹿伏*(かぶせ)戻りにかの一丁目
二十四文で名算置*(めいさんおき)に
問(と)うて見ようと思うていたが
まことしんじつそう思うなら
すぐに今夜は小屋入りせんと
あらき造(つく)りの山出し娘
横にころがし枕を入れて
おのが道具(どうぐ)の鑿木槌(のみさいづち)で
枘*(ほぞ)の鑿穴(のみあな)いざえぐらんと
筵屏風(むしろびょうぶ)の小屋入りはじめ
手斧(ちょうな)だてをぞはじめける

*小川(おがわ)=相川から北方三キロの部落
*とうねしなだて=シナの仕事着
*みじん=こまかい
*おうめ=東京都青梅市から産出のツムギ縞
*こくら=福島県小倉市から産出する織物
*ねしょう=女の佐渡方言
*いも=山のいも
*ととき=つるにんじんの方言
*餅草=よもぎ
*さいしょうば=山椒の方言
*豊後=豊後節
*潮来=潮来節
*海府は昔二十四の村々があった
*いりわり=道理
*ほえ・ばいた=薪のこと
*番匠=大工のこと
*さんずい「ま」の字=ほれたの「ほ」の字
*どがい=どのようにの海府方言
*鹿伏=相川町の町名 神明社は鹿伏にある
*名算置=有名なうらない置きのこと
*ほぞ=木材など合わせる時突起のところと孔(あな)をいう
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「新板 小川の心中 番匠松蔵 機織お竹 春の夜の夢物語 二段目「恋と義理との なかずみ」」

人の心と阿漕(あこぎ)が浦の
古きためしを引く水縄*(みずなわ)の
ながき契(ちぎ)りは幾千代までも
変るまいぞと二人の者は
夜なべ仕事の工手間(くでま)の数が
一夜二夜(ひとよふたよ)と度重(たびかさ)なりて
ぱっと浮名が素建(すた)ちとなれど
眠り目をする二人の親が
慈悲の情(なさけ)もげに世の中へ
ならいなるかな花には嵐
月にむら雲さわりができて
飽(あか)ぬ二人が心のほかの
中を隔(へだて)て別れとなりし
そのま起りはどうしたわけと
聞けば相川五丁目へんに
一人息子の名は長松と
蝶よ花よと育てしかいも
夜半(よわ)の嵐に吹き誘われて
親の嘆きの日数(ひかず)もたてば
云うて帰らぬわが子の代(かわ)り
おもの二代*(にだい)は誰彼(だれかれ)よりも
下の小川の太郎兵衛家の
弟息子は年ごろもよし
先祖代々重縁(じゅうえん)なれば
よもやいやとの返事はせじと
ひとり合点(がてん)でかの松蔵が
夜なべ細工のないしょう仕事
日数積むほど工手間(くでま)もかかり
決(け)して手抜けのならぬも知らで
親へひたすら貰いにかかり
どうで*一度は他身(たしん)の飯(めし)と
云えどこなたは親類うちの
じさまばさまの位牌(いはい)へ対し
ぜひに貰わにゃ楢(なら)の木ばいた*
ねきりはきりに親類なりと
切るも切らぬも返答しだい
どうでごんすと説(と)きつめられて
げにもなるほどしごくの理屈
委細(いさい)承知と両親(ふたおや)はじめ
二代ともども返事があれば
そこでさらりと契約できて
帰るあとには囲爐裡(いろり)の端(はた)に
親子話の中道(なかみち)ずたい
仕事しもうてかの松蔵は
帰るわが家の板縁先に
おろす道具の箱かたよせて
ひ□いせたりの国役(くにやく)仕事
今日でようようまず墨壺(すみつぼ)と
腰の胴乱(どうらん)ひねくりまわし
煙草(たばこ)くゆらすいろりの端(はた)に
座るまもなくこれやい*こんど
われをほしいともらいにこられ
先(さき)は相川親類うちの
いやと云われぬ五丁目なれば
くれてやろうと即座の返事
堅(かと)う約束きわめたうえは
われも今からその心得で
何かそれぞれ支度(したく)をせいと
思いがけなき寝耳(ねみみ)に水の
話聞くよりびっくりせしが
胸に手をおき考えみるに
親と兄とが合点(がてん)の返事
それを今さら変改(へんがえ)ならじ
されど一応わが胸のうち
差図板(さしずいた)をも相談の上
とくと切り組みしそうな事を
あまり気早い即座の返事
堅い約束石場(いしば)もすめば
ことにとさま*が金梃(かなてこ)性で
いやと今さらこじ返しても
どうでなかなか動きはせまじ
さても難儀な受け取り普請(ぶしん)
ほかに工夫(くふう)も荒鉋(あらかんな)にて
削(けず)るつらさやわが胸板を
三目錐*(みつめぎり)にて揉(も)まるる思い
あけて云われぬ内証おかた*
昨日(きのう)今日とて工手間(くでま)もかかり
月は重(かさ)なる身は重(おも)くなり
腹がふくれてもうこのごろは
しめる帯紐短(みじ)こうなれば
夜なべ仕事が思いのほかに
はかがゆきてや*つく鑿先(のみ)で
さぐりみたれば手足もできて
もはや人形になりかたまれば
それを見捨てて行かれもせまじ
ほんにさりとは思いもよらぬ
胸の尺杖*(しゃくづえ)今さらできて
とつつ追いつの思案(しあん)に迷う
恋と義理とのその中墨*(なかずみ)に
引くに引かれずどうしたものと
心ひとつに思いのあまり
いずれ今夜は寝宿でとくと
かれが胸をもよく聞きさだめ
そして分別(ふんべつ)きわめんものと
夜食早々(やしょくそうそう)忙しそうに
肩へ手拭うちかけかねを
かけて裏路(うらじ)の背戸道(せどみち)ずたい
寝宿めがけて走りゆく

*水縄=水ばかり
*二代=あとつぎ
*どうで=どうせの方言
*ばいた=薪
*これやい=発語
*とさま=父様
*三目錐=刃が三稜をなす錐
*おかた=女房 方言
*はかがゆく=早く進むこと(佐渡方言)
*尺杖=一尺を基準とした物さし、癪(しゃく)とのかけことば
*中墨=墨縄の中央
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「新板 小川の心中 番匠松蔵 機織お竹 春の夜の夢物語 三段目「工夫(くふう)した 絡繰(からくり)仕事」」

すでにその夜も寝時(ねどき)になれば
夜なべしもうて一間(ひとま)のうちへ
おのがさまざまうち伏しければ
あとにおたけは糸かたずけて
もうし松さん今夜はどうか
ようすありそなその顔つきは
なにが苦労でどういうわけか
云うて聞かせて下さいしゃと
云えば松蔵溜息ついて
されば苦労もほかではないが
おらが家とは親類うちの
息子二代が死んだるあとへ
おらをやろとの相談できた
あとでわが身へとさまや兄が
行かにゃならぬと無理往生に
すすめられては辞退もならず
それがそだとておぬし*を捨てて
ほかへ行く気は内証の事を
人のうわさでみな知りながら
知らぬ顔して相談奇態(きたい)
おらに行けとはあんまりひどい
情(なさけ)知らずとうらみるこち*が
曲尺(まがりがね)とは思うてみても
しようもようも内証細工
どうもおざえも出されぬ手際(てぎわ)
どうで懐(ふところ)たもとでかくす
しかたなければおぬしもともに
工夫(くふう)しやれと語ればおたけ
やんれ*そうだかみなおらゆえに
いかい*こなたに苦労をかける
これも前世(ぜんせ)の因縁(いんねん)ずくよ
おらはねしょう*で足(た)らわぬながら
今の工夫を考えみるに
とさま*あんのう*が気にいるように
まずはしばらく身をかたずけて
女房持たずに居(い)てくれるなら
おらも相川一丁目へんに
ゆかりもとめて請取機屋(うけとりはたや)
つずれさしもの*賃糸取りて
ともに二人が相川ずまい
縁(えん)と時節(じせつ)を待つにはしかじ
おらがかわいとただ一筋の
糸の車に引きからまりて
親へ返事の日が延びたなら
さぞやとさまの気は立機(たちばた)の
横にせかれて桛(かせ)かく思い
思いまわせばこれまで親の
恩のかけたを今ふみこわし
あらぬ気揉(きも)みをさせます事は
そらま*よくよく不孝でごんす
おらはこのように子車(こぐるま)できて
荷方車(にかたぐるま)の太鼓の腹も
ひかず繰綿(くりわた)はやそのうちに
もしや績麻*(うみそ)の臍(へそ)の緒(お)切らば
しのれ*まくり*やさいれ*のくさで
まいて育てるつぐら*の世話も
夜なべ仕事の内証なれば
みんなをら□るひとりの苦労
それはともあれまずこなさんは
今の手管(てくだ)をよく考えて
おらをだまいて*相川などで
ほかのねしょうに心を移し
見離(みはな)さんすと恨みんすぞと
女ながらもさすがに知恵が
わく*のいとしさ悲しさつらさ
涙はらはら語れば松蔵
やんれなるほどよい思いつき
さらばしばらくわが身の上を
かりにかたずけ居暮(いくら)すうちに
やがておぬしも相川へ来て
末にどうでも添われぬ時は
先(さき)の舅(しゅうと)の気に入らぬよう
朝寝夜歩き昼寝も気まま
そして飽(あ)かれて出されるように
こちが仕掛けて暇とる手管
憎い仕方と舅の恨み
家のとさまが糠(ぬか)腹立てて
もしやていろう勘当(かんどう)などと
りきみ*かからば是非その時は
覚悟きわめてわが身はひとり
死んでしもうと思うているが
おのしゃ*心はどうだと問えば
おらはこなたに委せたからだ
こなたしだいにどうでもなると
ともに心がおおがねなれば
胸の尺杖(しゃくづえ)すこしはさがり
そこでようよう手管の糸の
つなぎ按配(あんばい)からくり細工
表向きでは二人の者が
縁の切り組み仕組みもできて
どだい*じふく*もかたまりたれば
腰をかけや*の仮屋(かりや)と思い
心ならねどかの相川へ
ともに軒下(のきした)桁行(けたゆき)まどり
工手間(くでま)かかれば建前(たてまえ)までは
すこし日数(ひかず)のあるそのうちに
なおも思案(しあん)をせんくさびにて
しめてかためて動かぬように
胸の石場(いしば)をよく定めんと
言葉交して二人の者は
あかぬ名残の袖引きわけて
涙ながらに別れ行く

*おぬし=お前
*こち=こちら
*やんれ=発語
*いかい=大変
*ねしょう=女のこと(女性)
*とさま=父様
*あんのう=兄様
*つずれさしもの=製織(さきおり)の仕事着
*そらま=そらまあ
*うみそ=績んだ麻糸
*しのれ=しのね、まくり=海人草 ともに昔初生児に飲ませた薬草
*さいれ=さいで(裂帛)の訛
*つぐら=いつめ(飯詰)
*だまいて=だましての訛
*わく=糸をまきとる用具と知恵が湧くをかける
*りきむ=ちからをいれること
*おのしゃ=お前
*どだい=土台又もともとの副詞
*じふく=建物の基礎工事の地盛り
*かけや=掛矢
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「新板 小川の心中 番匠松蔵 機織お竹 春の夜の夢物語 四段目「破れたる 親子の中垣」」

げにや思えば浮世の果てと
水の流れは定まらぬ世の
ならいなるかなかの松蔵は
千代とちぎりし妹脊(いもせ)の仲を
しばし別れてかの相川へ
さらに行く気も内証のたくみ
かねてあるとも白髪(しらが)のおやじ
さきの舅もうちよろこんで
ともに千秋万歳楽(せんしゅうまんざいらく)の
銚子盃(ちょうしさかずき)納(おさ)めたうえで
もはやこれから世帯が大事
まめで達者で稼ぐがおもよ
それにつけては一つの頼み
おれが娘で乳呑児(ちのみご)の時
ほかへくれたを呼び迎えとり
嫁にしたいとかねてののぞみ
そちの心にかなわぬ事が
すこしあろうとみな何事も
さきの世からの因縁なりと
思いあきらめ得心(とくしん)をして
添うて女房にして下されと
頼む親より頼まるる身は
胸にきりもみしらるる*思い
どうで*このよなことでもあろと
かねて覚悟はきわめていれば
なんの今さら驚くことも
内証仕事の下目論見*(もくろみ)を
さらばそろそろくわだてんとて
嘘の腹帯いたみもせぬに
なんば骨接(ほねつぎ)けんぴき*などと
朝は朝寝に夜歩き昼寝
おのが気ままもかねてのたくみ*
無理と病(やまい)にかたれぬ親も
のちはしだいに秋風立ちて
ついに不縁(ふえん)の寺判*(てらはん)までも
添えて小川へ出されて行けば
親の太郎兵衛目をいからして
おのれ野郎奴(やろうめ)だんだんわけを
聞けば聞くほどにっくいしかた
さきの舅(しゅうと)に無理とてはなし
みんなおのれが根性からよ
それにこのごろ世間のうわさ
聞けば内々寝宿の細工
人の大事なその生娘(きむすめ)に
手斧(ちょうな)だてして節穴(ふしあな)えぐり
ついにあとでは鉞(まさかり)傷を
つけたばかりかがき*までできて
さきのねしょうもおのれがあとを
追うて相川一丁目へんに
ゆかり*もとめて請取糸(うけとりいと)や
人の賃機(ちんばた)おりふしわれと
小宿場(こやどば)入りの沙汰(さた)まで聞いた
さらば定めてそのねしょうめに
こしのしりばけおし動かされ
とんとうでごに巻き込まれつつ
おのがへぐい*がぐらつきだして
不縁したのもそのねしょうめが
みんなまえじり*つついた細工
もはや親子の仲わくちぎり
たたきこわしてへいと*の縁(えん)を
切って七世(ひちせ)の勘当なれば
どこへなりとも出て失(う)せおろと
声を荒(あら)らげいろりの中へ
松の丸太の燃えぼたくい*を
取って投げんとするのを婆(ばば)が
これは短気と手を押えだけ
こらまどういう騒動だろう
さてももっけ*なことしでかいて*
おのればかりか親兄弟の
面(つら)もまっかな紅殻じまの
糸のあやだけあやまり機(はた)だ
おのが根性の足(た)らわぬゆえと
婆(ばば)がいろいろとりなししても
聞かぬ太郎兵衛しばらくにても
家に置くこともう楢(なら)の木で
脛(すね)をかつ*ぞと短気の親の
生れつきには是非なくなくも
家を逃げ出てしるべのかたに
忍びかくれて居(い)るとのうわさ
聞いておたけはあるにもあらぬ
心いきせき立ち帰りつつ
かねて覚悟と思えどあまり
ひどい仕方も藻に棲(す)む虫の
みんなわれから*出た身の錆(さび)と
思いながらもかくなるうえは
広い相川七十二町
仕事先までかまわれたれば
ほかに渡世(とせい)も今さらなにを
せんと鑢(やすり)にすらるる難儀
つらい悲しい憂きめをかさね
なんのながらえ居るかいもなき
身をば野はたに置く白露と
消えてしもうて未来へいたり
たとえ剣(つるぎ)の山にもさんし*
そこを忍ぶがまこととまこと
死んで花実(はなみ)は咲かぬと云えど
蓮のうてなに乗るとも聞けば
生きて生恥晒(いきはじさら)そうよりも
いっそ死ぬのがましお*のすすき
招(まね)く因果(いんが)の身のなり果てと
思いあきらめわたしは覚悟
きわめましたと語れば松蔵
げにもおぬしが言葉のごとく
生きて生恥(いきはじ)垣根の草の
露の命をなに惜しむべき
されどおぬしはまさかの時に
女心で狂いはせぬか
どうかこうかと案じていたが
さほど気強(つよ)う覚悟の上は
胸を定めて書き置きしつつ
あとへ心の残らぬように
したくしやれと夕告鳥(ゆうつげどり)の
声もぼうぼうはやあかつきの
鐘の響きも無情の告(つ)げと
今は互いに気も春の世は
花にしらむかげに千金に
かえぬ二人が身の捨てどころ
どこがよかろぞ卵塔崎*(らんとうざき)の
岩のはざまの深みにせんと
交す言葉もげに夢の夜の
夢かうつつかいざ白浪の
底の藻屑(もくず)となりぬらん

*しらるる=せらるる
*どうで=どうせ
*下目論見=最初の設計
*けんぴき=けんぺき(肩癖)
*たくみ=たくらみ
*寺判=江戸時代キリシタン信徒でないことを証明し壇那寺で戸籍をとりあつかっていた。その宗旨証文
*がき=子供の賤称
*ゆかり=縁
*へぐい=立糸を編成する紡績用具
*まえじり=女陰
*へいと=タテ糸に編成した糸、この糸がハタで一番だいじな糸
*ぼたくい=ボタ山の杭(くい)
*もっけ=たいへん
*しでかいて=しでかして
*かつ=打つの方言
*われから=自分からと藻に棲む虫にかけてある
*さんし=しても
*ましお=ますお、まそお(真赭)、「赤い土」から「赤い色」に転じ、さらに「すすきの穂」にいう
*卵塔崎は相川町小川の海岸にある
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

「新板 小川の心中 番匠松蔵 機織お竹 春の夜の夢物語 五段目「浮き沈む 涙の血の池」」

すでにきさらぎ*十一日の
朧月夜の影もろともに
西へおもむく二人の者は
あわれなるかな羊のあゆみ
たどりたどりて卵塔崎の
岩のはざまに座をとりつつも
男云うようこれのうおたけ
かねて覚悟をきわめしうえは
あだし浮世にもう露ほども
心残りはあるまいけれど
今は互いに知死期*(ちしご)となりて
この世あの世の命のさかい
もしや云いたき事をもあらば
云うて晴らして懺悔(ざんげ)もしようし
われはもとより心を定め
たとえこの世は縁うすくして
添われまいとも未来はながく
千代も八千代もちぎりをこめて
ともに二人が二葉(ふたば)の松と
枯れて落ちても離れはせじと
思いすばせば迷いの雲は
晴れて行けども黄泉(よみじ)の障(さわ)り
心がかりはただ年寄りし
親に先立(さきだ)つこの身の不幸
死んだあとではさぞ明け暮れに
泣いてばっかりさぞ明け暮れに
ひまもなかなかその罪科(つみとが)で
浮(う)かむ瀬もなき冥途(めいど)の苦患(くげん)
思いやるさえそらおそろしと
云えばおたけも涙をおさへ
それはお前もわたしとともに
親のなげきはみな同じこと
云うて帰らぬ女の愚痴(ぐち)な
こころからとは思わんしょうが
せめて一日お前とわしが
ほんの夫婦(めおと)と浮世を広う
添うて死ぬならすこしは胸も
晴れて冥途の土産(みやげ)となるに
添わでやみやみ死ぬとはほんに
いつの因果のむくいの罪が
めぐりめぐりて今日このごろは
親の手前や世間の人に
顔も向けえぬつらさは胸に
燃ゆるいろりの緋桜(ひざくら)ならで
ともにださるるわが家桜(いえざくら)
花の盛りに逢うまも浪の
底の藻屑と沈みしあとは
なおもかれこれ世間の口に
かかる因果も定まりごとか
それにまだまだ悲しいことは
わしが身重(みおも)の日も重(かさ)なりて
やがて産月(うみづき)ほど近けれど
まめでこの子を産(う)みさんもせで
死ねばこの身は血の池地獄
さては焦熱(しょうねつ)大焦熱の
池で煮らるるその苦しみも
こらえしのぶがむごい*はこの子
惜しやかわいや月の目日の目
見せで闇(やみ)やみ冥途の闇(やみ)の
暗きよりなお暗きに迷う
親の降雨(ふるさめ)子にかかるとは
知らで不憫(ふびん)や未来へいたり
賽(さい)の河原(かわら)のお地蔵さまの
御手(みて)を頼りに積む石垣も
一つ積んでは父親のため
二つ三つ四つ五(い)つ浮かむ瀬も
泣いて乳房をさがすであろと
思いまわせば身の骨々(ほねほね)を
刻(きざ)まるるより苦しき思い
誰(だれ)にこうとも岩打つ浪の
おのれのみただ砕けてものを
思い入るさの月影もはや
西へ傾くころにもなれば
早く最期(さいご)のしたくをせんと
云えば男も泣く目を払い
ほんにいつまで限りも果ても
あらぬ嘆きに地獄も過ぎて
月もいつしか流るる潮(しお)の
落つるあかつきほど近ければ
さらば最期におもむかんとて
さしも嶮(けわ)しき卵塔崎の
沖の出岬(でざき)へうち出(い)でつつも
西へ向いて諸手(もろて)を合(あわ)せ
南無や十方三世(さんぜ)の諸仏
今のわれらがこの罪科(つみとが)を
救いとらせて御法(みのり)の船に
乗せて二人が身をかの岸へ
送り給えや南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)の
声もろともに手を取り組みて
二人ざんぶと千尋(ちひろ)の浪の
底に沈めばはや東雲(しののめ)も
白らみかかりて夜明けのからす
かわいかわいと東や西へ
黄楊(つげ)の小櫛(おぐし)のあかつきの鐘
諸行無常(しょぎょうむじょう)のひびきにつれて
夢と驚くところの者や
親の嘆きは岩打つ浪の
底へともども入りたき思い
ぜひもなくなくかい亡骸(なきがら)を
あぐる力も荒磯島(あらいそじま)の
浪にもまれてうつればかくる
花のよそおい緑の髪を
乱れ乱れて無常の風が
吹いて散らせし若木の桜
惜しやかわいとげにこころなき
蜑(あま)のみるめ*もそぞろに涙
村の若手(わかて)の友達どもも
ともに涙の袖打ちおおい
念仏題目(ねんぶつだいもく)みな声々に
回向(えこう)ながらの見物なれや
さぞや二人(ふたり)は心の闇も
晴れてゆくえはげに紫の
雲のひかえを待ち得て今は
西の空へとはや急ぎ行き
弥陀(みだ)の教えをただ一筋に
二人手に手を引き合いつつも
三つの境を離れて四出*(しで)の
山を越ゆれば五つの雲の
障(さわ)りなき身はげに六道(りくどう)を
のがれのがれて七難滅し
八重(やえ)のはちすのうてなに乗りて
九品浄土(くはんじょうど)へいたらんのちは
十の罪やまぬかれん

*きさらぎ=如月 陰暦二月の異称
*知死期=死にぎわ
*むごい=かわいそう
*みるめ=見る目と海松(みるめ)をかけてある
*四出=死出
(山本修之助 編著『相川音頭全集』より)

・相川音頭絵馬(あいかわおんどえま)
 江戸後期の盆踊りの風景を描いたもので、從・横ともに九七・五糎の正方形。杉の寄板に彩色で、わりと精巧な筆致で描いてある。中央に鼓・三味線の囃し方および音頭取りが、その周囲に仮装した踊り子たちが、円陣をつくって踊っている。みな覆面をしているので男女の見分けがつきにくく、山車や棚飾りに似せて、頭上にエビや船・灯籠など型取ったものをのせたり、武士ふうの者、奴っこふう、また伊達姿、尼さん風俗の人もいて、服装からは上下の階層も、身分的な意識もあまりうかがえない。相川の盆踊りの起こりははっきりしないが「今年御広間に踊りあり。町々より金銀の厳物指上げ、昔尽し、別して山師、買石より金鍔を大竹の技に結付け、御門の前に立つる」(『異本佐渡年代記』)などとあって、寛永十八年(一六四一)のころには始まっていた。「御門」は奉行所の門で、門前の広間で奉行が踊りを見物する。その「御前踊」を記した記事である。この絵馬は江戸沢町の塩竈神社に奉納されていたもので、裏書に「文政四辛巳年 八朔 前田郡次」と奉納者および年号が記してあって、右下隅に「藤原蘭英作」と絵師の名と押印が見える。化政期は町人文化が栄えた時期であるが、この時期の相川の「風流」ぶりを見る上でも貴重で、芸能史および美術史の好個の資料ともいえる。町の指定文化財。なお盆踊りに顔をかくして踊る風習は古くからあり、死者に化身し、死者とまじわることで、仏を迎え入れる信仰に由来するという。【関連】 相川音頭(あいかわおんど)【執筆者】 本間寅雄

・相川音頭集成(あいかわおんどしゅうせい)
 主に江戸時代に、盆踊りの時に唱われた詞章を集めたもの。山本修之助編。山本修之助は昭和五年(一九三○)『佐渡の民謡』出版の時に、「佐渡音頭」の表題で刊行の予定であった。その時の計画のように勘定流風の平仮名だけで、実際の音頭本に似せて、体裁を横綴にした。表題が「佐渡音頭」から「佐渡音頭本集成」に変わり、さらに昭和三十年(一九五五)十二月『相川音頭集成』が刊行になったのは、民謡団体の相川町「立浪会」の創立三十周年記念事業の一つとしての援助があり、その希望によった。また音頭の詞章は、佐渡の各地で同じものが唱われているが、相川音頭は、佐渡に残っている音頭のうち、最も古い歴史を持っており、節調も日本的に宣伝され、詞章も多く相川町から取材しているためでもあった。なお、山本修之助はこの書の巻頭に「佐渡に於ける音頭について」の論考を記しているが、蔵田茂樹の『鄙の手振』(『恵美草』ともいう)の文月十三日に、当時の盆踊り風景を描写しているが、「おさん・仙次郎心中濃茶染」の文句の一節「 年は三五の振袖ざかり、月のさはりもしら歯の娘、結ぶまもなきその下紐も、 」を引用しているので、この頃盛んに唄われたものであろうとしている。本書には、そうした時代を反映してか「心中物」が多く、現在唱われている「源平軍談」などの「武勇物」は少ない。ほかに「謡曲くずし」や「佐渡道中音頭」「水金女郎名くずし」など、佐渡を素材にしたもののほか「信濃地震善光寺くどき」や、全国に広く流布している「主水くどき」なども載っている。なお、本書が歴史的仮名使いで、すべて平仮名のため読みずらかったので、山本修之助によって、漢字をまじえて現代仮名使いに改め、二編を追加して、昭和五十年(一九七五)七月に、『相川音頭全集』普及版として刊行された。【執筆者】 山本修巳

・相川家畜診療所(あいかわかちくしんりょうしょ)
 大佐渡林間放牧場を背後にひかえた当町海府地区は、佐渡きっての牛の生産地であった。佐渡の林間放牧の最盛期(大正時代)は、牛馬合せて約四○○○頭といわれたが、昭和四十四年(一九六九)頃には、牛を主体に一三○○頭ほどの放牧となり(剣持計夫『新潟県畜産誌』)、その数は次第に減少している。そのうち、海府方面での牛市は、大正年間北片辺の藻浦崎や、千本入崎の入野神社境内などでひらかれ、その後、現在の北川内に高千家畜市場ができたのは、昭和十年である。大佐渡山系の林間放牧場は、粗放原始的形態なので、自然交尾が盛んに行われ、資質が低下し、繁殖障害病(トリコモナス病)などが蔓延して困り、昭和二十六年、地域町村が大佐渡放牧組合をつくり、放牧地の改良、牛の健康管理、放牧中の監視など、放牧形態の改善が進められた。そして昭和二十七年には、高千農業共同組合が、家畜人工受精所(事務所は高千農業共同組合)と家畜診療所(高千村役場内)設置に、積極的に乗り出すのである。その当初の人工受精業務は、島田佐一が中心になりあたっていた。【参考文献】 『生活誌・高千の牛とくらし』(高千地区生きがいあるむらづくり推進協議会)、剣持計夫『新潟県畜産誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・相川カトリック教会(あいかわかとりっくきょうかい)
 下寺町の、旧高安寺の下手にあった。建設の時期は未詳であるが、昭和三年(一九二八)十一月十八日附の「佐渡日報」紙に、日本新潟教区天主教宣教社団から申請があった、相川カトリック教会所の設立の件が、「今回縣より許可された」との記事が見える。カトリック相川教会の、創設を示す記事である。ただしこの場所には、大正十四年にはプロテスタント(新教)の日曜学校があったことが相川の旧地図に見られる。相川カトリック教会の伝道士だった、濁川在住の高橋紫山(伝一)の回想記によると、両津町夷の教会に、天主公教会神言会のポンセレト神父が赴任して伝道していたが、同会の方針で、離島への神父の派遣は、二人以上が望ましいとして、相川にも会堂を建てることになり、ドイツ人・グリンドゲス神父が、初代司祭として新しく来島した。これが四丁目にある、日本キリスト教団相川教会のある建物で、昭和の初めごろであった。下寺町の教会は、福島県田村郡の出身で、早稲田大学を出て新聞社勤めだった石井佐助(泗山)が、大正四年に「佐渡日報」主筆に招かれて来島し、自宅の屋敷内に建てたのが始まりで、グリンドゲス神父から、四丁目の教会と交換してほしいと奬められた。カトリック教会は、諸国でも山手に建てられたところが多い。石井は、元来がプロテスタントであるが、自分の建てた会堂を去るのに忍びず、昭和三年のクリスマスイブに、信者全員とともにカトリックに改宗したという(高橋伝一「佐渡の天主公教」)。高橋の伝道期間は、昭和初年から二十一年まで及んでいて、石井とも親しかった。教会記録にのる石井の改宗も、「昭和三年十二月二十五日」とあって、高橋説を裏付けている。カトリックとプロテスタントが、教会の建物を交換するという、珍らしいことが起こった。カトリック相川教会は、平成十一年九月に閉鎖し、教会の洋風の建物も、この年に取り壊された。両津教会のキンダー・ホール(海星幼稚園の前身)にしたがって、相川にも教会の下手に、同様の保育施設(海星愛児園)があったが、現在は相川保育園として、相川町が経営をひき継いでいる。【関連】 石井佐助(いしいさすけ)・相川キリスト教会(あいかわキリストきょうかい)【執筆者】 本間寅雄

・相川館(あいかわかん)
 二丁目裏町にあった常設劇場。大正四年(一九一五)七月に開館した。二見橘の実業家渡部七十郎が、旧中教院(現在のあいかわ幼稚園)の下にあった浅田某の宅地である元萬歳亭跡を買取って建設した。このときの棟梁は、清田甚平・田畑倉蔵・村中小太郎・佐々木音次郎・川島民蔵・小杉信蔵・田畑立蔵など。請負人名簿にそう記されている。大きさおよび構造は、二丁目の裏通りを正面にし、間口は七間半、奥行は一五間で二階建ての洋風造り。旧中教院の用材は使わず、すべて新しい材木で、内部は階下の正面が舞台、右に本花道、左は仮花道で、中央が「坪」。また階上にも「坪」と立見所があり、舞台の背面の階上と階下は楽屋。茶屋・警官席・湯殿も設けられていた。総工費は五千円で、七月十三日の恩賜金記念祭に舞台開きが行なわれ、翌十四日から二十日までオープン興行として、東京名代歌舞伎劇場の「錦座松本錦枝」一行三十数人が直江津港から来島、初日の狂言は「富士の桝扇曽我」六幕で、廻り舞台で演じた。ちなみに木戸銭は大人一二銭・小人七銭。桝席と坪席があり、割桝席は一等一○銭・二等五銭、坪席は一等八○銭・二等六○銭・三等四○銭・四等が二○銭。映画・演劇・浪曲・民謡などの相川唯一の常劇場であつたが、経営難もあって経営者も変わることがあり、三三年ほどあとの昭和二十三年(一九四八)の火災で焼失した。【参考文献】 「佐渡日報」【執筆者】 本間寅雄

・相川北岳のブナ林(あいかわきただけのぶなりん)
 大佐渡北岳のブナ林は、佐渡における最高海抜(一○○○メートル)の、島内最大規模のブナ純林である。佐渡の最高峰金北山(一一七二メートル)の西南方向四キロメートルに位置する北岳は、全山ブナでおおわれている。その東側斜面(国仲側)は四○○×二○○(斜面方向)メートル、広さ八ヘクタールのブナ林は金井町指定の天然記念物である。その西側(南片辺側)斜面の五○○メートル×二○○メートル、広さ一○ヘクタールは、相川町指定の天然記念物で、計一八ヘクタールのブナ林である。この北岳のブナ林は尾根を東西にまたいでおり、その西側(南片辺側)斜面は冬季の卓越した季節風のためブナはわい小化し、高さ八㍍、枝はくねって風衝樹形となる。それに対し南片辺側斜面の林内のブナ林も風衝の立地によく反応したブナ風衝樹林である。日本海側のブナ林は、太平洋側のブナ林とは異った日本海側特有な植物(日本海要素・雪国要素)が生育する。すなはちブナ・ミズナラ・コシアブラ・イタヤカエデ・コバノトネリコ・オオイワカガミ・ツクバネソウなどは、日本のブナ林に広くみられるブナ林要素であり、タムシバ・チシマザサ・オオバクロモジ・ハウチワカエデ・オオカメノキ・エゾユズリハ・スミレサイシンなどは、日本海型・雪国型ブナ林の構成種である。西側斜面(南片辺側)のブナ林は、草本層にマルバフユイチゴ・ツクバネソウ・ミヤマイタチシダ・ヤマソテツが生育し、霧がよく発生し、湿潤で空中濃度の高い立地をよく反映している。【参考文献】 本間建一郎「北岳のブナ林」(『金井町の文化財』)、伊藤邦男「佐渡におけるブナ自然林」(『佐渡植物風土記』)、同「大佐渡北岳のブナ林」(『新潟県植物保護』一七号)【執筆者】 伊藤邦男

・相川郷土博物館(あいかわきょうどはくぶつかん)
 明治二十二年、宮内省御料局佐渡支庁の建物を利用して、昭和三十一年(一九五六)七月開館。同時に郷土博物館設置条例が制定され、鉱山縮少後の鉱山および歴史史跡の保存と、郷土調査・館報の発行を年次ごとに行ってきた。昭和三十三年、佐渡支庁の建物を含む遺跡七か所が「相川金山遺跡」として県の文化財指定。敷地内に良寛の母の碑を建立。三十五年館報第一号発行。開館以来、観光地相川の主要な施設として皇太子殿下はじめ皇族の来館があった。四十一年有田八郎記念館を建設、その遺品などを展示、博物館の付属施設となる。展示室は平屋建、本館は鉱山関係資料(鉱山労働の様子・道具・佐渡奉行所の機構・生活)、別棟一階・二階は古文書・やきもの・考古・民俗資料などを展示、来館者へのユニークな案内者がいることで評判となった。三十九年より四十三年まで二見半島考古歴史調査を行ない、調査報告書第五・六・七号を発行する。同四十七年より教育委員会に博物館係と学芸員を置く。本館展示室内部を改装、特別展示室を増築する。五十年に第一回特別展(遊女)を開催する。四十九年よりの仕事着・民具の収集品のうち紡織関係品を整理し「佐渡・海府の紡織用具と製品」として国の重要有形民俗文化財の指定を受ける。同時に特別展「佐渡の裂織り」を開催し、五十四年民俗文化財収蔵庫を新設。また紡織習俗伝承活動が開始され、六十一年には技能伝承展示館開館。裂織りと陶芸実習がはじまる。毎年収蔵品の研究整理を兼ねて特別展を開催し、その報告書を刊行してきた。平成六年佐渡金山遺跡が国指定史跡となったとき、旧佐渡支庁の当博物館も指定された。【関連】 相川町技能伝承展示館(あいかわまちぎのうでんしょうてんじかん)・佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)・御料局佐渡支庁(ごりょうきょくさどしちょう)・有田記念館(ありたきねんかん)【参考文献】 「相川郷土博物館のあゆみ」【執筆者】 佐藤利夫

・相川キリスト教会(あいかわきりすときょうかい)
 四町目西側で、一部二階建て。六六坪。玄関などに洋風の造りが残っている。プロテスタントの相川での最初の教会堂は、昭和初年ごろ相川の石井佐助(佐渡新聞主筆)が、下寺町にあった一一七七坪の屋敷内に、三二坪の教会を建てたのに始まる。が、当時の牧師が山手を嫌い、下町の目抜き通りを望んだので、石井は四町目に新しい教会を建てて寄贈した。前後して新潟のチェスカ神父を訪ねて、カトリックに傾いた石井は、下寺町の教会を返却してもらい、信者一同とカトリックに改宗した。四町目に教会ができる以前は、「相川講議所」と称した。明治三十五年(一九○二)ごろ、宮城県人で東京伝道学校を出た池野又七という修道士が主任をしており、二十八年秋には大和田清晴という牧師がきて、池野に協力した。このころ市川徳蔵・塩野尚三・池田治作・池田熊蔵らが相次いで受洗していて、塩野は鉱山の技師であり、相川の伝道が活気を帯びた時期であった。公開の講演会も盛んで、明治二十五年八月には五郎左衛門町の萬歳亭で、また三十二年六月には二町目の旧中教院跡で、池野や大和田をはじめ米国神学博士などによる基督教演説会が開かれ、中教院跡での聴衆は「百五十餘名」(「新潟新聞」)と報じられている。明治四十二年に来島した高名な小野村林蔵(のちの札幌北一条教会牧師)によると、講議所は「相川の本町通りにある島倉旅館の裏通りに面した離れの八疂の間」(「豊平物語」)にあった。林蔵の妻「ぜん」は、相川の地役人蔵田茂樹の末裔に当たる。大正に入ると、四町目で呉服商などしていた深山佐太郎(のち牧師・神学博士)が責任者だった。一高在学中に内村鑑三の感化を受け、植村環から受洗した嶺直貫という先生が、旧制佐渡中学に赴任していた。当時の校長は、相川出の柏倉一徳。深山は嶺から聖書の講義を受けた一人で、いわゆる「自由主義教育」で柏倉が校長を追われたあとの大正五年ごろ、嶺も相川に滞在して伝道に当ったとされている。【関連】 相川カトリック教会(あいかわカトリックきょうかい)・石井佐助(いしいさすけ)【参考文献】 本間雅彦「佐渡プロテスタント史」、角田三郎「佐渡地方のプロテスタント伝道」【執筆者】 本間寅雄

・相川銀行(あいかわぎんこう)
 明治三十年(一八九七)九月一日開業。明治二十九年に第四銀行相川支店閉鎖の動きが出ると、島民の手による銀行の設立が企図され、同年八月「株式会社佐渡銀行」の発起認可申請書・仮定款等が作成された。ところが同年八月八日に相川支店で開かれた設立組織会で、本店の設置場所(夷と相川)や株券の金額、発起人の負担額などで相川町と夷町や国仲の有志の意見が対立してまとまらなかった。その後何回かの会議を経て、翌三十年三月に創立総会を開催したが、ここでも相川町と夷町の有志の妥協がならず、相川町の有志は脱退して同年三月二十五日、久保田金五郎を中心に相川銀行設立総会を開き、資本金八万円で九月一日に開業した。本店は大正二年に羽田町二四番地に建てられ、支店を羽茂本郷に置き、のち湊町・新町・赤泊にも置いた。創立時の専務取締役には、久保田金五郎(本店担当)と羽茂本郷の風間与八郎(羽茂支店担当)、取締役には浅香周次郎・三国久敬・梶井五郎左衛門ら九名が就任した。当初は第四銀行相川支店から公金取扱業務を引継ぎ順調であったが、佐渡銀行との過当な競争や取付け騒ぎ等によって次第に経営が行き詰り、大正十三年(一九二四)九月一日第四銀行に合併され、同銀行の相川支店となった。【関連】 第四銀行相川支店(だいしぎんこうあいかわしてん)・佐渡銀行(さどぎんこう)・渡辺七十郎(わたなべしちじゅうろう)【参考文献】 『第四銀行百年史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘

・相川区裁判所(あいかわくさいばんしょ)
 佐渡に初めて司法官所としての裁判所が置かれたのは、明治九年(一八七六)六月である。これより先、慶応四年(一八六八)四月に佐渡裁判所が置かれたが、これは維新政府が設置した行政機関であった。裁判所が設置される以前の訴訟は、佐渡県や相川県に置かれた聴訟方が扱っていた。その後明治九年四月に相川県が新潟県に合併されたため、相川に新潟地方裁判所の第五支庁が同月開庁され、民事・刑事の両事務を扱うことになった。庁舎は、広間町五番地の相川県権参事、磯部最信の官舎を払い下げて使用した。明治十年一月、第五支庁は相川支庁兼相川区裁判所となり、同十五年一月には、相川支庁は廃止されて相川治安裁判所と改称し、さらに翌十六年二月に、新潟始審裁判所相川支庁及相川治安裁判所と改称した。明治二十年二月、ここに登記所をはじめて設置し、翌二十一年四月には、前年より着工していた新庁舎(現在の佐渡版画村)が落成し、執達吏を置いた。同年十一月新潟裁判所及相川区裁判所と改称、同三十一年八月戸籍事務を取り扱うこととした。大正三年三月支部を廃止し、予審事務を取り扱うこととした。新庁社は総建坪が三四七坪の平屋建てで、総工費約八五○五円を要したという(建物・煉瓦屏など、旧相川裁判所跡として、昭和五十九年三月、町の史跡に指定された)。その後法改正や機構改革で、名称と取扱う内容は変わり、昭和四十四年(一九六九)四月佐和田町に移転した。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 児玉信雄

・相川警察署(あいかわけいさつしょ)
 明治五年(一八七二)一月十二日に、強壮の者を選んで巡邏組を組織し、町内外を警戒させたのがそのはじまりである。明治六年四月には邏卒と改め、同九年三月相川に警察出張所を置き、畑本郷・小木町・夷港に屯所を、河原田・赤泊・水津に分屯所を置いた。同十年一月警察制度が統一されて、相川警察署、夷・赤泊・小木・新穂・河原田・二見分署となった。大正十五年(一九二六)七月一日両津(旧夷)・小木・河原田の各分署が独立の警察署となり、四警察署で佐渡の治安を守った。昭和二十三年(一九四八)三月七日警察制度の改革により自治体警察が置かれることになり、相川警察署は廃止されて相川町のみを管轄区域とする相川町警察署となり、両津町・小木町・真野町を除く地域は、国警佐渡地域警察署が管轄した。同二十六年十月に自治体警察が廃止されると、相川町警察署も廃止されて国警が引継ぎ、相川地区警察署と改められた。昭和二十九年七月一日警察法が改められて、県警察の相川警察署となって現在に至っている。本庁舎は、当初県庁もしくは支庁内に置かれたが、同十二年に独立して羽田町(常徳寺内)に仮設され、同十七年奉行所跡に新築、昭和九年に羽田浜に移転した。また相川地区には、相川警察署管轄の駐在所が、橘・北狄・北立島の三か所にある。【参考文献】 岩木拡『佐渡国誌』、『佐渡百科辞典稿本』(佐渡博物館)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘

・相川劇作研究会(あいかわげきさくけんきゅうかい)
 昭和二十八年(一九五三)に産声。演劇の脚本を書くことを目的とした「鉛筆の会」が前身。何本かの作品の中、磯部欣三作「深い疵」以外は、陽の目を見たものは少なかった。相川演劇研究会が実質的に活動を停止した昭和三十年(一九五五)、「書くより演劇」へと方向転換をし、佐渡演劇連盟主催、第八回演劇コンクールに内木文英作「ある死に神の話」、第九回に浜崎宏己作「立ち売り詰所」で参加。程なく佐渡演劇連盟も活動を停止するが、相川劇作研究会は、それ以降十数年にわたって、佐渡唯一の自立演劇集団として活躍する。この間の公演としては、昭和三十四年(一九五九)磯部欣三作「深い疵」、三十六年シモン・ギャンチョン作「娼婦マヤ」、三十八年早船ちよ作「キューポラのある街」、四十年佐々俊之作「暗い谷間」、四十二年木下順二作「夕鶴」など、一五本がある。地道な演劇活動は、マスコミにも何度か取り上げられた。町民有志は勿論、官公庁の町として、当時活発な労働運動を展開していた地区労の支援も大きなものがあった。【参考文献】 文芸懇話会編『近代』(二号)、『佐渡演劇』(佐渡演劇連盟機関誌)【執筆者】 本間瑰

・相川県(あいかわけん)
 明治初期、佐渡に置かれた県。新政府は慶応四年(一八六八)に佐渡裁判所、同年九月二日には佐渡県を置いて佐渡の統治を行なった。明治四年(一八七一)七月十四日に廃藩置県が断行されると、越後は新潟県と柏崎県にまとめられ、佐渡には相川県が置かれた。長官には、当初佐渡県権知事新貞老が権令となって就任したが、同年十二月九日に最後の佐渡奉行を勤めた鈴木重嶺(稲城)が相川県参事として再び就任した。相川県は、明治九年四月十八日に新潟県に合併されたが、この約五年間は明治の新しい体制づくりが推進された時期で、地租改正・戸籍の編成・学校の開設・大区小区制による行政組織の編成、鉱山の近代化などが着実に実行された。鈴木重嶺は明治六年七月十九日権令となり、廃県を目前にした明治九年三月、病気におかされて佐渡を去った。彼の後を継いで合併事務を行なったのは権参事磯部最信で、同年四月十八日に告示が出され、五月十一日に管内土地・人民の新潟県への引渡しを完了した。これによって相川県は消滅し、佐渡は新潟県相川支庁の管轄となった。【関連】 佐渡県(さどけん)・相川支庁(あいかわしちょう)・相川県史(あいかわけんし)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集六、通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘

・相川県史(あいかわけんし)
 明治初期、佐渡に置かれた行政機関の公文諸記録集。相川県は明治四年(一八七一)七月に設置され、明治九年四月に新潟県へ合併されたが、本書には、明治元年に佐渡を佐渡奉行の所管から新政府に引渡す顛末から新潟県に合併されるまでの諸記録が、件別に整理編集されている。明治政府は、明治七年十一月十日全国各府県に「維新以来地方施政沿革等」の編纂を命じた。相川県は、「地誌編輯掛兼国史編輯調」を置いて編纂に着手したが、明治九年新潟県に合併したために作業が中断された。新潟県では明治十六年から、松田秀次郎を編輯主任に委嘱して本格的に取組み、『新潟県史』『柏崎県史』と共に『相川県史』も明治十八年七月頃完成した。内容は政治部と制度部に分れ、県治・拓地・勧農・工業・刑罰・褒賞・学校・租法・禁令・会計など二二編と附録・補遺からなっており、佐渡近代史の重要史料であるばかりでなく、地方政治の変革や公文書形式の移り変わりの面からも貴重である。昭和五十年二月、『佐渡相川の歴史』(資料集六)として刊行されている。【関連】 相川県(あいかわけん)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集六)【執筆者】 石瀬佳弘

・ 相川地子帳(あいかわじしちょう)
 慶安二年(一六四九)の十一月分として、相川に六七町(上相川区域を除く)の町名と、一六五九軒(外に六軒空屋敷)の家が記録され、この地子銀が「八百九拾七匁八分六厘」(外に空屋敷分壱匁六分四厘)とあったという(『佐渡相川志』)。家数があって坪数などの記載もあるので、家屋税の一種と考えられる。三年後の慶安五年四月分の帳簿もあって、ここには上相川地域として二二町、家数五一三軒(外に空屋敷一軒)、この地子銀として「百六拾六匁六分」(外に弐分四厘空屋敷分)と記載されていた。以上の数字から、相川に八九の町名と二一七二軒の家屋があったことが知られる。ただし勘定町・同心町は役宅で、また下山ノ神町および下寺・中寺・上寺町の四町は、寺院のみの町なのでそれぞれ地子が免除されていて記載されておらず、これも加えると合計九五の町が存在していたことになる。これらの町名は、昭和二年刊の『相川町誌』(岩木拡編)に、別項のように全部掲載してあり、このころまでは現物または写しが残っていたらしい。相川の町の成立と、一七世紀初頭の成立当初の町,について知識が得られる。在方にはなかった都市型の課税で、万治元年(一六五八)四月には「相川退転の体(てい)にて、地子御負之儀、町人度々訴訟申し上げ、一円御免」になったとある。「舟崎文庫」には「羽田横町」など寛永期の珍らしい地子帳数枚が現物で残っている。【執筆者】 本間寅雄

・相川支庁(あいかわしちょう)
 相川県の廃止によって設置された行政機関。明治九年(一八七六)四月十八日「相川県を廃して新潟県へ合併」するとの告示が出され、同年五月十一日に引渡し事務が完了した。これによって佐渡三か大区は、第一大区が第二七大区、第二大区が第二八大区、第三大区が第二六大区というように、新潟県の大区に編入されて治められることになった。ところが佐渡は、離島で往来や通信に不便であるとして、同年六月十三日付で相川支庁が設置されることになった。初代支庁長に就任した小倉幸光は、岐阜県大垣藩の士族で、戊辰戦争では東山道先鋒総督軍に属し、白河で分隊長を勤めた人物である。明治三年新潟県権少属に就任以来引続き新潟県に奉職し、明治十二年に北蒲原郡長、同二十二年には新潟市の初代市長に就任している。相川支庁の権限については、支庁で決定あるいは実施できる行政事務を三四項目あげ、それらについては一か月ごとに取りまとめて報告することになっており、かなりの裁量権が認められていたようである。ところが明治十一年七月に、大区・小区制を廃して郡・町村を復活することになり、翌十二年五月に郡役所が開設されたため廃止となった。
【関連】 相川県(あいかわけん)・佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『新潟県史』(通史編六)【執筆者】 石瀬佳弘

・相川実科高等女学校(あいかわじっかこうとうじょがっこう)
 明治四十五年(一九一二)四月、相川小学校の一部を仮校舎として、町立実科高等女学校が誕生。大正六年広間が丘に新校舎を落成して移転。この年の十二月、町立から郡立に移管され、実科高等女学校は高等女学校の課程に改められる。その後、郡制廃止にともなう県立移管の問題で、金沢の実科女学校と郡立問題以来再び争うこととなり、結局けんか両成敗で、大正十二年河原田に、県立河原田高等女学校が設立され、郡立相川高等女学校は消滅した。生徒は河原田の高等女学校の新校舎に移り、郡立相川高等女学校の校舎へは、相川小学校の一部を借りていた旧制相川中学校が移動した。さて、再び町立相川実科高等女学校が設立されるのは、昭和四年五月である。当時実科女学校は、制度上小学校に併設するものとされていたので、相川小学校の校舎内に開校した。初代校長は相川小学校長川島陸平が兼務した。この実科高女は四か年制で、家政に役立つ知識技能を重視、良妻賢母の育成を目標とした。そのため家事裁縫(被服家庭)の時数を多くし、女芸一般を実習させる工夫がなされていた。昭和十八年学制改革により、校名が町立相川高等女学校と改称され、教育課程も変更された。更に同二十三年には、新制度による高等学校が発足し、旧制町立相川中学校と併合し、町立相川高等学校となったのである。【参考文献】 『相川高等学校五十年史』(相川高等学校同窓会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『佐渡博物館々報』(一八号)【執筆者】 浜口一夫

・相川十二ケ月(あいかわじゅうにかげつ)
 江戸後期の絵師・石井文海が、相川の市街地で行なわれていた、天保時代の年中行事を描いた絵図が、同町の浅香家および三浦常山家にあり、その写本が舟崎文庫(佐渡高等学校保管)にある。浅香家の絵は、昭和三十七年(一九六二)に曽我真一らの提案で刊行会がつくられ、当時相川郷土博物館におられた森三郎の解説で出版され、また新潟日報紙が昭和五十九年(一九八四)一月の佐渡版に、一三回にわたって連載した。年中行事といっても、一か月に一枚の企画なので、次の行事がメインになっていた。「一月ーさぎてう、二月ー春駒、三月ー浜ゆさん、四月ー猿楽、五月ー米馬人形、六月ー柴町天神・花火、七月ー盆躍、八月ー八幡社矢ぶさめ、九月ー善知鳥祭礼、十月ー富士権現畠大根曵、十一月ー御蔵附・下戸番所、十二月ー大雪・セキ女郎」となっていて、それぞれに二・三行ほどの説明がついている。ほかに「雑」として、羽田市の図が、「無題」として春駒の拡大図および「爆竹之図」として、傘鉾の図が部分的に描かれてある。舟崎文庫のものは彩色してあるが、印刷のほうはモノクロの線画である。【参考文献】 石井文海『天保年間相川十二ケ月』(曽我真一編)【執筆者】 本間雅彦

・相川消防署(あいかわしょうぼうしょ)
 元禄四年(一六九一)六月、時の荻原奉行よりの「火事有之時之定」をもって、初めて火消し組が組織化される。明治二十年(一八八七)四月、官制による三部制の消防組を組織した定置消防手を任命する。昭和十四年四月には、警防団令公布により消防組を廃止し、相川町警防団を創設した。さらに戦後の同二十三年四月には、消防組織法の施行により、消防は警察から完全に分離独立し、自治体消防として、相川町消防団と改称した。昭和二十九年四月、当町は第一次町村合併を行い、二見村と金泉村の消防団と合併し、団員数は四一○人となる。同二十九年十月、大型消防車を購入し、役場車庫に定置する。同三十一年九月、第二次町村合併を行い、高千村・外海府村の一部の消防団を吸収し、五分団三二部となり、団員数は六三○人となる。同四十年四月、姫津大火七六戸全焼・二戸半焼、災害救助法の適用を受ける。同四十年八月橘火災五戸全焼、同九月相川町一丁目火災三戸全焼、同四十一年四月羽田町火災、四戸全焼一戸半焼。同年十二月高千出張所設置、消防車一台配置。翌四十二年相川町消防署設置、職員一二名、消防車二台、同四十四年二月金泉北小学校全焼。同年五月北狄火災、一四戸全焼非住家七戸焼失。同四十八年十二月、相川町一丁目火災、五戸全焼・二戸半焼。同五十三年七月消防庁舎完成。同五十八年十月高千出張所庁舎完成。平成五年一月、金泉小学校旧体育館火災全焼。同年十一月高千農協火災。同六年二月橘火災三戸全焼する。【参考文献】 「消防年報」【執筆者】 浜口一夫

・相川女紅場(あいかわじょこうば)
 明治初年、子女に裁縫等の仕事を教えるために設置された授産施設で、転業しようとする芸娼妓や没落した士族など、貧しい家庭の子女が通った。相川女紅場は、明治十年(一八七七)十一月に、元地役人の三国久敬(栄作)や山田和秀らが開設した相川授産所にはじまる。彼らは、相川町の貧しい家庭の婦女子に、織方や裁縫を教えて生業に付かせようと、三十余名の有志から資金を集めて、授産所を設立した。しかし、資金不足から経営が行き詰ってしまった。翌十一年十一月、新潟県へ相川女紅場の設立と資金の借用を願出て認められ、同十二年に五郎左衛門町に広大な建物を新築して開場した。教師には新潟女紅場の機織教師をしていた宮田与平を招き、生徒取締りには細木シンがあたって成果を上げた。同十三年には公立相川女紅場となり、事業内容も拡張して明治十四年に開催された第二回内国勧業博覧会に出品して褒状をもらうまでに至っている。しかし、十年代後半になると、各地に大規模な繊維工場が建てられ、さらにデフレ政策の影響もあって経営が行き詰り、明治二十年代には衰微して閉鎖された。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘

・相川甚句(あいかわじんく)
 佐渡には甚句と呼ばれる俚謡が、相川をはじめ、両津・国仲・七浦・海府など数多くある。「相川甚句」は、古くは「相川二上り甚句・さし踊り」といい、御前踊りの項でも触れたように、寛永(一六二四ー四三)の頃よりうたわれていたらしい。この甚句は、音頭とりの唄い手が唄い終ると、踊り手が第二節だけを繰り返し唱和し、第一節のあとにシャンシャンといれる囃子と同じように、この第二節の繰り返し唱和のあとも、ハァーシャンシャンと囃子をいれる。踊りは「おけさ」や「音頭」と異なり、右まわりに進み、平易で踊りやすい。「七浦甚句」は、七浦一帯の漁師に、酒盛の際よく唄われた甚句で、以前は「南部節」ともいわれ、漁師たちが、下北南部地方や北海道の松前方面にイカ漁の出稼ぎにいき、覚えて帰り、七浦に根ざした甚句に作りかえ、育てたものだという。【関連】 海府甚句(かいふじんく)・御前踊り(ごぜんおどり)【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅰ』(佐渡博物館)、『佐渡相川の歴史』(資料集九)【執筆者】 浜口一夫

・相川信用組合(あいかわしんようくみあい)
 大正八年(一九一九)三月十八日に、旧相川町に設立された金融機関。渡部三郎平・久保田金五郎・井上栄吉ら旧相川町の商工業者二九名が発起人となって信用組合設立の運動を起こし、一月二十八日県知事に申請して「有限責任相川信用組合」が開業した。初代組合長には渡部三郎平が就任、事務所を大間町六八番地の自宅に置いて貯金と貸付金を取扱った。昭和二年(一九二七)に椎野広吉が組合長に就任すると、事務所を羽田町に移し、購買事業も行なって「相川信用購買組合」と改称し、農民も加えて肥料や雑貨も取扱った。同八年井上栄吉が組合長に就任すると「保証責任」に変更して「相川信用購買販売組合」と改称、同十三年には利用部を加えて、医療利用組合佐渡病院の委託診療も行なった。昭和十九年四月、戦時体制強化によって解散させられ、事業は新設された相川町農業会に引継がれた。相川町にはこの外、明治から大正にかけて自彊購買販売組合・西浜信用組合・二見村信用販売購買組合・金泉村信用購買販売組合・石名信用購買組合・高千信用購買組合・外海府利用購買販売組合が設立されている。【関連】 久保田金五郎(くぼたきんごろう)【参考文献】 『佐渡郡産業組合史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘

・相川森林組合(あいかわしんりんくみあい)
 昭和四十七年(一九七二)三月に、高千森林組合(旧高千~外海府)は、相川町森林組合(旧二見~金泉)を吸収合併し、「相川森林組合」と改称し、相川町全域を包括する森林組合となった。その沿革のあらましを記すと、高千村森林組合が設立されたのは、昭和十七年(一九四二)三月である。場所は北立島、初代組合長は渡辺源次(後尾)である。高千村は大佐渡山脈を背に持ち、佐渡一に山が深くて広い。そのねらいは、地区森林の保護育成にあり、その主な事業は、森林の造成、産物の保管と販売、苗樹の養成、林道開設、組合員への資金の貸付などであった。その後、昭和四十三年三月、外海府森林組合と合併し、高千森林組合と改称。更に先に記したように、昭和四十七年、相川町森林組合を吸収合併し、現在に至っている。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・相川税務署(あいかわぜいむしょ)
 明治二十二年(一八八九)四月、新潟県収税部相川出張所として相川町下京町に置かれたのがそのはじまりである。徴税事務は、はじめ県庁の収税部が担当して佐渡三郡役所に取扱わせていたが、この年郡役所から徴税事務を分離して、県庁の直轄としたことによる。翌二十三年には相川直間税分署と改称し、明治二十四年長坂町に移転した。相川税務署と改称されたのは、同二十九年十一月に大蔵省の所管となって、新潟税務管理局が設置されたことによる。その後長野税務監督局・新潟財務局・東京財務局・関東信越財務局と所管が移り、昭和二十四年六月からは、関東信越国税局の管轄となって現在に至っている。昭和六年(一九三一)十二月長坂町一六に、洋風の美観に工夫をこらした木造二階建の庁舎が完成したが、昭和四十五年には三町目浜町に新庁舎を建てて移転し、平成七年七月からは、三町目新浜町の国の合同庁舎に置かれている。【関連】 佐渡三郡役所(さどさんぐんやくしょ)【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本』(佐渡博物館)、『新潟県の近代化遺産』(新潟県教育委員会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘 ※原書に『 佐渡三郡役所(さどさんぐんやくしょ)』の項目はありません。

・相川砂子(あいかわすなご)
 全四巻。内閣文庫蔵。この写本は、佐渡奉行川路聖謨の蔵本であった。佐渡高等学校同窓会所蔵の舟崎文庫本は、内閣文庫本の写本である。本書は、編者・成立年代とも不詳であるが、永弘寺(現永宮寺)松堂の『佐渡相川志』と内容が類似しており、これをもとに編集したと考えられる。成立年代については、歴代奉行の最後が、寛政六年(一七九四)に就任した朝比奈昌始で終っているから、寛政六年以後離任した同十年までの間であろう。内容は、江戸期の佐渡の治府相川に関する行政、金銀山・相川諸町・諸芸・諸師・諸職人・諸町人・神社・仏寺・堂・神社・修験などを収めている。巻一は、地頭時代・上杉氏支配時代は簡略にして、江戸時代に入って、佐渡奉行所・歴代奉行・歴代組頭・各役所および役人・御雇町人等。巻二は、相川金銀山の間歩・山師の由緒・町年寄と町役人・諸施設・町々の長さと反別および由緒・各町の絵図。巻三は、兵法・鑓・鉄砲・医師・学者・碁・将棋・俳諧・連歌・琴・三味線・湯屋にいたるまで、七十余種の諸学・諸芸・諸職について。巻四は、神社二○社・寺院八十余か寺・修験を記述する。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 児玉信雄

・相川層(あいかわそう)
 中島謙造(一八八九)の命名、島津光夫ほか(一九七七)により再定義され現在に至っている。模式地は相川で、入川層に不整合に重なる。前期中新世の地層である。模式地では、左沢凝灰岩頁岩互層・庚申塚溶結凝灰岩層・水金沢凝灰角礫岩層にわけられる。相川町全域のほか、大佐渡山地・小佐渡山地に広く分布し、層厚は最大で約一○○○㍍と非常に厚い。安山岩質の溶岩・火砕岩・凝灰岩・溶結凝灰岩を主体とし、礫岩・泥岩をともなっている。安山岩質の溶岩・火砕岩は、いずれも陸上の火山活動によるもので、真更川層・金北山層の堆積時に、プロピライト変質と呼ばれる熱水変質を受けて、暗緑色を呈している。とくに相川鉱山や高千鉱山などの周辺地域は非常に強い変質を受け、優良な金銀鉱床が形成されている。礫岩(片辺礫岩など)・泥岩層は、二見半島から北片辺にかけての相川層下部に挟在し、まれに植物化石を含む。これらの地層も海で堆積した証拠は見あたらない。各所で流紋岩(吹上流紋岩など)が相川層に貫入している。【関連】真更川層(まさらがわそう)・金北山層(きんぽくさんそう)・片辺礫岩(かたべれきがん)・吹上流紋岩(ふきあげりゅうもんがん)【参考文献】 大佐渡団体研究グループ「大佐渡南半部の新第三系」(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】 神蔵勝明

・相川層群(あいかわそうぐん)
 相川層・真更川層・金北山層をあわせて、相川層群と呼ぶ。前期中新世の地層で、全層厚は約二○○○㍍と非常に厚い。大佐渡山地や小佐渡山地は、ほぼこれらの地層で構成されている。陸域で活動した火山岩や火山砕屑岩を主とし、一部に湖沼などに堆積した礫岩・砂岩・泥岩がみられる。淡水生珪藻化石・大型植物化石や昆虫化石などを産し、海生生物の化石は発見されていない。これらの地層は、日本海が誕生する以前の地層であり、大陸縁につづく地溝帯に点在する湖沼や火山の堆積物で、この地溝帯はやがて古い日本海へと変わっていったと解釈されることが多い。日本海の形成に関係し、興味が持たれている地層群である。また、佐渡鉱山を代表とする佐渡島各地の金銀鉱床は、このときの火山活動にともない形成されたものであり、鉱床の年代測定結果は、約二千万年前をしめしている。【関連】 相川層(あいかわそう)・真更川層(まさらがわそう)・金北山層(きんぽくさんそう)【参考文献】 大佐渡団体研究グループ「大佐渡南半部の新第三系」(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】 神蔵勝明

・相川測候所(あいかわそっこうしょ)
 明治四十四年(一九一一)四月一日、暴風雨災害および船舶気象災害防除の必要から、広間町の佐渡郡役所内に郡立佐渡測候所として創設された。大正五年(一九一六)四月には新潟県に移管されて新潟県測候所相川出張所と改称され、昭和十三年(一九三八)十月国営となって中央気象台相川測候所となり、翌十四年九月一日には相川町下戸村向野三五四に移転した。昭和十五年官制改正により相川測候所と改称、同十八年には文部省から運輸通産省に移管され、現在は運輸省の外局である気象庁の下部組織となっている。同三十八年十月には佐渡空港分室(両津市秋津)を設立、同四十二年佐渡空港出張所と改称された。平成七年七月からは、三町目新浜町の国の合同庁舎に置かれている。【関連】 佐渡郡役所(さどぐんやくしょ)【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本』(佐渡博物館)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘

・相川橘屋(あいかわたちばなや)
 大間町にあった米問屋。越後出雲崎の名主で廻船問屋の橘屋から分家してできた家で、「相川橘屋」と便宜上区別して呼ばれる。初代は重右衛門で、分家の時期は慶長十六年(一六一一)とわかっていて、主として越後や最上(山形)米を取扱う問屋が多かった大間町での、筆頭米問屋が橘屋。米や廻船でためた資本で銅山(達者銅山)をも稼いでいた。重右衛門は慶安四年(一六五一)五月にはなくなるが、下山之神町の真言宗大乗寺に、当人はじめ代々の墓が残っている。重右衛門の五輪塔はわりと重厚な造りで、各輪ごとに五大種子を刻み、下輪(地輪)の正面に蓮華の添え彫りをし「芳橘」の法名が見える。この寺の観音堂に安置される三十三観音仏(木製)は、橘屋庄兵衛(五代目)の発願で納められたことが、寺の記録から判明する。近年同家から「おその」と「おのぶ」と二代続いて出雲崎橘屋に嫁入りしたことが、『佐渡国略記』(舟崎文庫)の記述からわかった。享保十五年(一七三○)八月には、まず「おその」が橘屋の新左衛門に嫁ぎ、跡取りが生まれなかったため、二○年後の寛延三年(一七五○)六月に、姪に当たる「おのぶ」が新左衛門の養子の橘屋新次郎(新津の人)に嫁ぎ、のち生き別れして新木重内(三島郡与板出身)と再婚し、おのぶと重内の長男として宝暦八年(一七五八)に、高名な良寛(栄蔵)が誕生することになる。【関連】 良寛の母の碑(りょうかんのははのひ)・良寛の母おのぶ(りょうかんのははおのぶ)【執筆者】 本間寅雄

・相川中学校(あいかわちゅうがっこう)
 昭和二十二年(一九四七)四月から、六・三・三制の新学制が発足し、新しく三年制の中学校が誕生した。開校(授業開始)は五月十五日であるが、教室は相川小学校からの間借りで、机や腰掛も十分にない、ないないづくしの窮屈な出発であった。その後、昭和二十九年七月、相川高等学校が山之神の新校舎へ移転した後をうけて、広間町の校舎へ移転。同年八月、陶芸室を増築。同三十一年十二月には、新校舎第一期工事が完成した。ついで同三十三年一月、新校舎第二期工事完成。同年二月には生徒用便所工事、同年五月にはグランド整地、同三十六年三月には体育館新築を完成した。校地の広間が丘は、県の史跡指定(昭和三十三年三月二十二日)を受けた奉行所跡の所在地である。江戸時代には私学広業堂や修教館が設立され、明治以降は佐渡における最初の小学校が開設され、更に旧制中学校や高等女学校などが設置された由緒ある土地であった。ところが校舎の老朽化や相川鉱山遺跡保存の諸問題などとかかわり、現在の下戸村の新校舎へ移転したのは、平成六年(一九九四)四月からである。さて、新制相川中学校が誕生し、校章が制定(三国久考案)されるのは、昭和二十三年四月、校旗樹立は同二十五年七月。校歌制定は同三十二年十一月である。ないないづくしから出発した新制中学校も、次第に施設・設備が整い、その教育内容が充実し、昭和三十六年には、産業教育研究指定校、翌三十七年には科学教育ならびに技術家庭科研究指定校に指定された。なお、その後も特殊教育(昭四三)・給食教育(昭四六)その他の研究校に指定され、同四十六年には、県学校給食優良校に表彰される。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『佐渡博物館々報』(一八号)、「相川中学校の教育」(平成九年度)【執筆者】 浜口一夫

・相川町誌(あいかわちょうし)
 一巻、旧相川町の郷土史。大正七年(一九一八)相川町教育会が、憲法発布三十周年記念事業として、町誌編纂を町長に建議、町議会は翌大正八年二月可決し、事業一切を教育会に委託した。教育会は、さきに『佐渡国誌』編纂に携った岩木拡に編集を委任、岩木は以後七年を費して、大正十五年(一九二六)に脱稿、昭和二年(一九二七)刊行された。全四五五頁。内容は、総説・地理・沿革・鉱山・政治・警備・消防・租税・倉庫・鋳貨・交通・産業・神社・宗教・教育・衛生・文芸・技芸・武技・人物・風俗・事変・名勝の、各項目に分類されている。特色は、相川町発生の基盤であった鉱山と、その鉱山運営を中心にしながら、天領佐渡を支配した奉行所地役人の治績、および佐渡の中心地として発達した文化面の記述が多いことで、とくに「文芸」から「人物」までの四項目には、全体の三割にあたる一四○頁を割いて、それぞれの分野で功績を上げた人物の伝記となっていることである。これらの記述は、「明治維新ノ際」「新制ヲ施行スルニ急ニシテ」「文書ハ多ク散逸シ」「史実ハ終ニ湮滅シ了ランコトヲ恐」れた、岩木の編集方針(著者「緒言」)によるものであろう。【関連】 岩木拡(いわきひろむ)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』【執筆者】 酒井友二

・相川の市(あいかわのいち)
 一般に市とは、きまった期日と、きまった場所に人びとが集まり、物資の交換、売買を行なうこと(場)をいう。相川町には現在定期市として、毎月開かれる十日市と、二十二日市、それに八月の盂蘭盆に、仏前に供える草花などを売る花市などがある。また佐渡一を誇る高千の牛市は、四・七・十一月のそれぞれ二日である。相川の十日市については、『佐渡年代記』宝暦三年の条に「下戸町市町隔月市立を免ずる」旨の記載があり、その後いつまで続いたかは不明だが、途中廃れ、文化九年に以前とは異なった市がたったことについて、同書は「相川市中へ一ケ月一度つつ市立差免、場所の儀は相川羽田町より札の辻赤川通り羽田浜へかけ、毎月十日市日相定、来る十一月十日より交易の積り、反物荒物諸道具穀物類都て何品に不限持出し可令商売旨触出す云々」とある。佐渡の市を開市時期により分類すると、毎月開かれる月市と一~二回の年市とがあるが、月市では相川市のほかに河原田市・新町市・畑野市・新穂市・尾花市などがあり、年市では社寺の祭礼や、牛市などの特定日に開かれる四日町の大願寺市・同町祇園市・吉井の嫁市(市場にての配偶者見つけ)・河原田や海府石花(昭和初年まで)の牛市などが有名であった。【参考文献】 北見俊夫『市と行商の民俗』、高千地区生きがいあるむらづくり推進協議会『生活誌・高千の牛とくらし』、『佐渡百科辞典稿本Ⅰ・Ⅱ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫

・相川の絵馬(あいかわのえま)
 慶長十年(一六○五)にできる大山祗神社(下山ノ神町)に、大久保長安によって歌仙絵馬が奉納され、「嵯峨与市筆跡」と記されている。与市は京都の豪商角倉素庵(名前が与市)で、本阿弥光悦とならんで「寛永の三筆」といわれた高名な書家である。長安とも面識のあった人で、この歌仙絵馬は現物は残っていないものの、この町の絵馬の初見である。元和元年(一六一五)五月には、春日神社(下戸村)に、京都の安宅市郎左衛門という人の「絵馬大判鹿」が奉納された記録があり、また寛永元年(一六二四)九月、愛宕神社(下山ノ神町)に坂下町の医師大平作兵衛によって歌仙絵馬が奉納される。「御筆跡花山院絵師、狩野久左衛門」とあって、この人は京都狩野派の狩野久左衛門吉信であることが近年わかった。「禁上ノ御用相勤メ」(古画備考)たという高名な絵師である。同じ春日社には、寛永年間に地役人高田六郎兵衛が、また享保六年(一七二一)には佐渡奉行北条新左衛門が、それぞれ絵馬を奉納したとある。惜しいことに以上はみな現物は残っていない。年代が下ってからの各種の絵馬については、相川郷土博物館の『佐渡相川の絵馬』(昭和五十五年刊)に詳細な報告があるが、下山ノ神町の大乗寺観音堂、江戸沢町の塩釜神社などに数多い絵馬が見られ、歌仙絵馬では万延元年(一八六○)十二月に、北野神社に奉納された歌仙絵馬の現物が残っている。この絵師は相川の絵師山尾定政で、二枚(小野小町と壬生忠岑)が欠失しているものの、美しい彩色絵馬である。なお単一の絵馬で佐渡で最も古いのは、長谷寺(畑野町)に奉掛されて残る寛永十七年(一六四○)のもので、かすかな墨書によって、相川の人の奉納とわかる。【関連】 観音堂絵馬(かんのんどうえま)【執筆者】 本間寅雄

・相川の修験(あいかわのしゅげん)
 修験は真言宗修験を当山派(京都醍醐三宝院)、天台宗修験を本山派という(京都聖護院)。両派共触頭をもち、その下を袈裟下という。相川の夕白町妙楽山大行院は金常寺といい、一国触頭をつとめ袈裟下七○か院をもつ。大行院の元祖は文禄年間(一五九二ー九五)佐渡にわたり西三川に住居し、のち鶴子にうつって行歳院と号し、慶長年間に相川に転じて般若院となり、のち夕白町に移って大行院となる。慶長年間、金襴袈裟事件をおこして本山派定覚院と争い、家康によってそれが認められて有力となり、延享中から太神宮の別当となった。相川にはこのほか、万宝院(奈良町)・一学院(江戸沢)・良蔵院(下戸)・玄養院(鹿伏)・密教院(紙屋町)・一乗院(柴町)・本学院(濁川)・安養院(坂下町)・不動院(紙屋町)・和光院(柴町)がある。本山派は河原田千手院を触頭とし、相川には定覚院(上相川九郎左衛門町)・法教院(大工町)・大福院(江戸沢)・教学院(六右衛門町)・正善院(大間)がある。島全体で一五○院に及んだ。明治元年、奥平謙輔は神仏混淆を厳禁し、両部神道を唱えた修験者の多くは職をやめた。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』【執筆者】 田中圭一

・相川の小学校(あいかわのしょうがっこう)
 明治六年(一八七三)八月、相川小学校が広間町仮中学校内にはじめて誕生した。佐渡で最初の小学校である。学制発布後、一年ちょっと後のことだ。その後、米屋町の廃寺願泉寺に移り、米街庠舎と呼んだ。庠舎は学校の意味で、相川町の第一小学校である。同年十一月、続いて第二から第四までの小学校は各廃寺を利用して開き、南 (長明寺、後に大福寺へ)・柴街(大泉寺)・折戸(立岩寺)などの庠舎とした。明治九年に相川県が廃され、新潟県に合併されるが、この時、庠舎の呼び名を校と改め、米街校・折戸校などと呼ぶようになる。その後児童数の増加により、明治十一年から十二年にかけ四つの校舎を統し、湘北校(同二十五年、相川第一尋常小学校と改称)と折柴校(同年相川第二尋常小学校と改称)の二校を設立した。湘北校は広間町の仮中学校の校舎を増築して利用し、折柴校は火災にあった一丁目裏の永宮寺跡に新校舎を建てた。その後、簡易科などの校名の変更を経て、明治二十三年、当時の町長秋田藤十郎が、私費で広間町に高等小学校を新築、有年私黌と名づけた。同二十六年、私立の有年私黌を公立の相川高等小学校とし、広間町の第一尋常小学校に併設した。さらに学校の統廃合を経て、現在の大字馬町に相川尋常高等小学校が設立されたのは、明治四十四年(一九一一)である。総工費五万三百余円(当時の大工日当五五銭)、和洋折衷の二階建て口の字型の本格的な学校建築で、郡内はもとより、県下にもまれなるりっぱな校舎であった。翌四十五年四月、町立相川実科高等女学校を併設し、同校が河原田へ移転(大正十三年)後、再び昭和四年五月、町立相川実科高等女学校を併設した。その後、昭和十六年、「国民学校令」により相川国民学校、同二十二年、六・三制の発足により、相川町立相川小学校と校名は変更され、昭和三十六年、金泉小学校小川分校が相川小学校小川分校となり、昭和五十年には旧二見村の大高小学校も統合される。モダンで珍しい蜂の巣校舎が新築されたのは同四十二年、さらに同四十八年には創立百周年記念事業として、校庭整備緑化や名誉町民有田八郎揮毫の「何より平和」の記念碑設立などを行った。現在、学校の特色ある設備としては、相川郷土資料・日本産佐渡産鉱物岩石標本・プラネタリュム教室などがある。【参考文献】 『相小の百年』(相川小学校)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『佐渡博物館々報』(一八号)【執筆者】 浜口一夫

・相川の能(あいかわののう)
 この町の能の初見は、大久保長安が慶長九年(一六○四)に、和州(奈良)からつれてきた「常太夫」と、「杢太夫」の二人の能師に始まる。「石見陣屋ニテ能アリ」(『佐渡相川志』)とあるから、佐渡奉行所が能のできる造りを、創建当時から持っていたことをうかがわせる。「上相川大山祇ニモ(能)アリ」とあって、翌慶長十年に大久保長安が建てる大山祇や、春日神社でも能が催されたらしく、春日社で正保二年(一六四五)に佐渡で初めて能舞台ができる以前から、能はにぎわっていた。常太夫・杢太夫の死後、貞享年間(一六八四ー八七)に越前福井から中島可久という人が、また宝永六年(一七○九)に京都から仏師の左近という者がきて、春日神社の能師を勤めたという。佐渡へ赴任の歴代奉行には能好きの人が多かったが、正徳三年(一七一三)から在勤した河野勘右衛門が、たいそう仕舞を好んだので侍一般にも広がったとされ、岡崎から大久保平右衛門という人がきて、これも仕舞の指範をしたと伝えている。こうした能の盛行の陰に、潟上本間家(宝生)や矢馳村に住んでいた遠藤家(のち観世流の佐渡の祖となる)による出張指導の影響も大きかった。遠藤家三代の可頭が、正徳三年に相川へ移ったのは、神保五左衛門奉行の指図であり、十代目可啓の時代に、潟上本間家と並んで能太夫を許され、潟上とともに神事能のシテ役を代々勤め、かつ相川に観世流が広まることになる。明治以降は、謡曲愛好家でもあった佐渡鉱山御料局長、渡辺渡などが赴任し、官邸で各課長など招いて稽古につとめ、維新以後おとろえていた能の復興が始まる。三菱金属に移管されたのちも鉱山長の原田鎮治らを迎えて謡曲素謡月並会などが常時開かれた。遠藤可啓と可清(十一代)による、幕末・明治の相川の門弟数は、百数十人を数えるという盛況ぶりで、能太夫可啓は越後水原や高田にも出張指導して、観世流を広めている。【関連】 海謡会(かいようかい)・春日社神事能(かすがしゃしんじのう)・遠藤清之進(えんどうせいのしん)【参考文献】 椎野広吉『佐渡の能謡』【執筆者】 本間寅雄

・相川病院(あいかわびょういん)
 佐渡にできた最初の近代的医療機関。県営(佐渡県立)で明治三年(一八七○)に設立された。場所は相川町の広間町(旧佐渡奉行所があったところ)で、明治十二年の郡区改正で、雑太・羽茂・加茂の三郡が一つになって、佐渡郡役所ができた。翌十三年から、その郡立の病院に移管され、加茂郡は夷に、羽茂郡は小木に分院を設けた。明治十一年二月の「公立病院設願書並ニ相川病院仮規則」(真野町笹川、金子勘三郎家所蔵)によると、このときの副医長として、東京生れの高野晃造(長崎で蘭医のボードイン氏に、東京で英医のウルウユス氏に学んだ内・外科医)が来島、相川から藤沢三省(一町目住。東京両国の薬研堀で林洞海に学んで種痘術を修業し、安政三年に相川で初めて種痘をした)松岡正之(米屋町住。東京で戸塚静甫から洋法医学内・外科、横浜で米国医ヘブロン氏から内・外科を習得)らが副直医として雇われている。また副直医試補として、今城至道(羽田町の開業医)の名が記されていて、西洋医学に経験のある医師が、医局を構成(副医長以下五人)していた。薬剤掛は三人の構成である。この公立病院は、明治十七年四月、三郡組合会の決議で廃止され、それまで貯えた基金・薬品・器具は売却し、代金を三郡の共有として、郡役所で保管したという。代って三菱金属の経営にかかる鉱山病院が、同地にできたのが同三十六年。その跡地に、昭和二十八年に発足するいまの町立相川病院が医療をひき継いだ。【関連】 鉱山病院(こうざんびょういん)・郡立病院(ぐんりつびょういん)【執筆者】 本間寅雄

・相川八景(あいかわはっけい)
 旧相川の八つの佳景をいい、道遊秋月・弾誓寺晩鐘・富崎晴嵐・鹿伏夜雨・春日崎落雁・才神暮雪・下戸夕照・横嶋帰帆である。最初にこれを定めたのは佐渡奉行の田付又四郎(景厖)で、この人は江戸城御書院番から元文四年(一七三九)に佐渡へ転任し、寛保二年(一七四二)に長崎奉行に転出した。知行三百五十石で、のちに阿波守を受領している。岩木拡はこの人物を評して、とりたてて国学にも歌文にも勝れていたとは見えない(『相川町誌』)、と書いている。定めたのは離島一年前の寛保元年(一七四一)のころであるらしく、この年自ら記した「佐渡国相川八景序」の中で、絵師山尾政圓にこの佳景を描かせて、弥十郎町にあった大願寺の天満宮に献じたとある。絵師山尾政圓は、宝暦七年(一七五七)の二月に五二歳で没しているから、三六歳のときの作画となる。政圓のこの絵は現存しないが、その末裔である山尾定政が、文政十年(一八二七)に描いた彩色の相川八景図(八枚)が、菩提所の大安寺に檀家から寄贈されて残っている。近江八景・金沢八景など、諸国にもいろいろ八景が残るが、中国湖南省洞庭湖の南にある瀟水と湘水の、二水付近の八か所の景色から起っていて、日本でもこれにならっている。ちなみに佐渡には、「佐渡八景」「小倉八景」「八幡八景」などが残る。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 本間寅雄

・相川暴動(あいかわぼうどう)
 明治二十三年(一八九○)の六月末に起こった、全国最大規模の米騒動。相川から始まったので、新聞は相川暴動と報じた。打ち壊しなどの被害を受けた町村は、全島で一五、被害戸数は七七戸におよび、鎮圧のため新発田から一箇中隊が海を渡った。発端は米価騰貴で、二十二年九月からほぼ全国規模で起った。佐渡では、同月二十八日に夷町で貧民四百余人が、廻船問屋と米商人五軒に乱入して、米の積出しをやめさせる「津止め」の証書をとるなどの騒ぎになり、翌二十九日に相川に波及した。一升七、八銭の米価が、十二銭に騰貴したためで、町内の米屋・廻船問屋・質屋・金貸業・酒造業・四十物商・精米業など、一八戸が壊される。相川がもっとも被害が大きかった。翌三十日は、二見・沢根・河原田・金沢、また八幡から新町を経て畑野へ向う一隊があり、第一回衆院選が行なわれた七月一日は、南片辺から小田村まで、海府一帯の地主層が襲われ、島中がパニック状態におちいった。『北溟雑誌』によると、このころ小木港でも「細民頻りに動揺し、頗ル不穏の景况」で、重立ち衆が二千円を三か月無利子で細民に貸しつけることで、「鎮静」に向った。真野町では、新町浜からの米の津出しをやめさせたほか、重立ちが都合千二百円を供出し、「右金ニテ相当値段ヲ以テ米穀ヲ買入シ、買値段ヨリ三割引ヲ以テ町内ノ人民ニ売渡スベク実施」するなどの救済策がとられ、暴動をまぬがれたとある。相川ではそのような事前の救援策がなかったことが、暴動拡大のひきがねにもなっていた。相川湾から、度津丸で新潟に連行された検挙者は二○○人を超えた。新潟地方裁判所の判決によると、沢根の港から大坂へ米を積み出していた九百石積の和船「万徳丸」に、石油で放火した三五歳の坑夫が、重禁錮一二年でいちばん重い判決を受け、指揮者とみなされた二二歳の鉱山坑夫小川久蔵は、軽懲役七年。服役中に獄死した。【関連】 小川久蔵(おがわきゅうぞう)・相川暴動顛末記(あいかわぼうどうてんまつき)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 本間寅雄

・相川暴動顛末記(あいかわぼうどうてんまつき)
 明治二十三年(一八九○)六月二十九日から七月一日にかけて、佐渡全島を震撼させた米騒動の詳報。昭和十五年一月に、相川区裁判所検事として赴任した小泉輝三朗が、『佐渡日報』に連載したもので、暴動直後にこの事件を報道した『北溟雑誌』の記述とならぶ事件記録である。とりわけ、起訴され処罰された一三三人(うち半数強の七二人が鉱山労働者)の住所・職業・年齢が実名入りで掲載されていて、新潟重罪裁判所(当時)の判決記録を、職務上閲覧する機会を得ていたことがわかり、資料として貴重なものとなった。この空前の暴動の起因を、①明治十九年以来のコレラの流行、不漁・不景気、同二十三年春からの米価騰貴などによる生活上の理由、②改進党の本拠地相川と大同派(自由党)の多い河原田・国仲との政争が、七月一日の第一回衆院選の投票日と、その前日に火熱する形で爆発した、③明治二十年七月、相川の裁判所を河原田に、翌二十一年八月、県庁の佐渡支庁を同様に河原田へ移転せよという運動が過熱していた、などをあげ「暴動の大体の線は②と③の原因に沿ったもの」と結論づけた。国仲の有産階級の家に、打ちこわしなどの被害が多かったことから、相川の人たちの選挙の妨害、または官庁移転阻止の示威が背景にあったとした点に特色がある。実際の被害は、相川がもっとも甚大だった。事件直後の『北溟雑誌』(七月二十五日発行)は、原因を政党の怨恨、あるいは郡衙移転説の影響とするのは「技葉をとらえて根底を評するもの」とし、米価の高騰で細民を苦しめたことがこの暴動の第一要因と報じていた。また大同派の幹部で、官庁河原田移転の熱心な推進者だった斉藤長三(元二宮村長)は、移転運動の回顧の中で小泉論文をきびしく批判し、「暴動は全く単純な米騒動にて、いわれるような政党等とは何等関係がなかった」とした。新潟裁判所の判決が、『北溟雑誌』等の論調にすりよる形で事実関係だけにしぼられ、検事側の政党・官衙移転教唆説を、ことごとくしりぞけたことに、小泉は職業柄納得できなかったらしい。【関連】 相川暴動(あいかわぼうどう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 本間寅雄

・相川保健所(あいかわほけんしょ)
 保健衛生のための行政機関。昭和十八年(一九四三)五月一日に示された厚生省の「各種保健指導施設の統合整備方針」に基づき、それまでの河原田健康相談所などが統合されて、相川町下戸宇津橋に相川保健所が設置された。その後、昭和二十二年に相川細菌検査所を併置、同二十四年七月に両津支所を設置し、同三十二年には相川町二町目浜町に移転した。現在の鉄筋コンクリート三階建の庁舎は、昭和四十三年の竣工である。初代所長は内務部衛生課長の小沢竜が兼務したが、昭和十九年二月からは、相川町で開業していた医学博士若林東一郎が就任した。公衆衛生行政の第一線機関として衛生思想の普及徹底を図るいっぽう、精神衛生・成人病対策・公害・環境問題等の新たな課題にも取組んでいる。【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅲ』(佐渡博物館)、『概観佐渡』【執筆者】 石瀬佳弘

・相川町(あいかわまち)
 佐渡北西岸に位置。江戸初期以降の町名。慶長五年(一六○○)羽田村検地帳に、「佐州海府之内羽田村金山町当起」とある。羽田村のなかに金山町として誕生した。一方相川金銀山の発見伝説では、鶴子銀山の山師三人が慶長六年に相川山の六十枚間歩・道遊・父の割戸を稼いだと伝える。北沢の上流、右沢に地字相川があり、上相川一六町のうちに相川町がある。慶長五年より幕府領となり、慶長八年大久保長安により相川陣屋が建ち、町並が次々にできた。明治二十二年以降、海士町・羽田村・下戸村を加え、さらに下相川・鹿伏を明治三十四年に編入し、戦後昭和二十九年二見村・金泉村、同三十一年高千村・外海府村南半を編入し、現在は七五町三三大字となる。古来、外海府といわれ、近世初頭の金銀山の開発によって一変し、相川町域全体は金山町の近郊地化した。以来山林・海資源の商品化、海岸段丘の水田化が進んだ。旧相川町は、全盛期には人口五万人に及ぶ町となり、慶安の地子帳では九四町。元禄検地帳では七二町、家数三○八六軒・人数一二、四四九人。明治六年には七三町、家数三一三五軒・人数一一、五五○人。旧二見村は、半島部に古墳群があり、中世には大浦郷と称しはやく開けた。下相川より北、金泉村・高千村・外海府村の旧村は海府二四浦と称されて、中世末には石花将監が支配した。近世は相川に佐渡奉行所があったことにより、奉行などの江戸との交流、地役人や諸国からの渡来者・諸商人によって、金山都市文化が栄えた。明治に至っては佐渡県庁・相川県庁・新潟県相川支庁・三郡役所・佐渡郡役所・新潟県佐渡支庁などが置かれ、明治十年設置の相川区裁判所もあった。相川税務署は現在に至っている。相川の経済的基盤となっていた佐渡鉱山は政府御料局時代から、明治二十九年三菱合資会社に払い下げられ、昭和二十七年の大縮小を経て、平成元年全面休山となった。金山町相川誕生以来、四百年を迎えた。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『角川日本地名大辞典・新潟県』(角川書店)、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫

・相川町技能伝承展示館(あいかわまちぎのうでんしょうてんじかん)
 相川町北沢町二に、昭和六十一年(一九八六)六月に完成した。木造平屋建・延床面積六○九平方㍍。パブリックスペース・裂織実習室・陶芸実習室・資料展示室、別棟に登り窯を備え、陶芸実習室には土練機一・バーナー一・たたら板製作機一・電動ろくろ一○・手廻しろくろ一五を備え、また裂織実習室には、ねまり機一五・たち機一がある。その後実習室が手狭となり、平成七年二月に別館(一階五三平方㍍、二階四九・六九平方㍍)を、裏手登り窯に並び増築した。資料展示室は、中央に町内陶芸作家の代表的な初期の作品などを展示し、周囲には島内の現存している作家の作品と、裂織り(しな織り)の資料などを展示している。陶芸・裂織りの実習室は、陶芸や裂織りの手づくりに挑戦することで、町の文化的創造と、地域コミュニティの形成に役立てるとともに、島内外の観光客を問わず、最近は学生(小学上級~中学生)の体験学習の場となり、好評である。【関連】 裂き織り(さきおり)・佐渡海府の紡織用具と製品(さどかいふのぼうしょくようぐとせいひん)・ねまり機(ねまりばた)【執筆者】 三浦啓作

・相川町教育会(あいかわまちきょういくかい)
 明治四十二年(一九○九)十月、旧相川町の有志川辺源太郎・上月喬・曽我専吉・三国豊吉・下山堯安らが発起人となって小学校の教員らに呼び掛け、同年十一月に設立した。設立当初の会員数は二八○名で、内一一○名は教員以外の特別会員であった。事業としては、通俗講話会・夜学会・特殊部落講話・壮丁予備教育・衛生品及び教育品展覧会・功労者篤行者表彰・夏季海水浴会場・短期講習会・敬老会など多岐にわたり、大正九年(一九二○)三月には相川文庫を設けて図書閲覧の便を図ったが、同十一年十月に相川町図書館が開設されるとそこに図書を寄贈した。また、昭和二年には『相川町誌』を刊行している。【関連】 相川町誌(あいかわちょうし)【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『相小の百年』(相川小学校)【執筆者】 石瀬佳弘

・相川町公民館(あいかわまちこうみんかん)
 旧相川町に公民館が設置されたのは、昭和二十三年(一九四八)で、条例の制定、専任職員の設置に意をそそぎ、同二十九年には、町村合併に際し旧相川町地区に独立館を設け、更に三十四年には、新しい独立建物を竣功した。金泉公民館は、二十三年四月に、金泉小学校内に併設され、館長には中学校長や村長が兼務をした。二十五年ごろから青年学級が盛んになり、二十八年には、文部省の指定学級に選ばれ、翌二十九年には県の指定学級になった。高千公民館は二十三年一月、役場の一隅に机を置き、公民館の看板を掲げた。いわゆる看板公民館である。活動は生活の実態調査とその生活改善であった。外海府公民館は二十四年に設置された。二十七年度より青年学級、三十三年度から婦人学級が開設された。当時、佐渡の各地で取り組んでいた公民館活動の主な内容は、農休日運動(月一回、一日休日運動)・映写会・生活改善運動・青年団や婦人学級の活動などであり、三十五年には二見地区が、新生活運動農林大臣表彰をうけた。【参考文献】 『新潟県公民館誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・相川町自然休養村管理センター(あいかわまちしぜんきゅうようそんかんりセンター)
 自然休養村管理センターは、旧金泉・高千地区で整備をすすめている自然休養村整備事業の中核施設として、高千一○一四ノ一に、昭和五十二年(一九七七)七月に完成した。鉄筋コンクリート二階建・敷地面積二八○○平方㍍・延床面積九九五平方㍍で、主な施設としては、一階に会議室・ロビー・総合案内室(現在相川町役場高千支所として使用)・食堂・展示資料室・救護室(現在家畜診療所として使用)、二階には会議室・研修室・休憩室・民芸品作業室などがある。地区住民の農林漁業の研修や、各種集会は勿論、海に近く都会児童の自然学園となったり、観光客の自然探勝の基地としても活用されている。【執筆者】 三浦啓作

・相川町墨引(あいかわまちすみびき)
 正式には相川町町墨引。文政九年(一八二六)作成。佐渡の町々では、年貢・高掛物・小物成のない町小役の課税のために、職業・戸主名を町ごとにまとめておく必要があった。この墨引は、上相川七町・間山五町・上町二○町・下山之神一町・下町三三町、計六六町が記載、元禄検地時の町数七二町より六町減少している。上相川と間山の町数が減少したからである。窯数二七二八、内地役人並町同心一七八・除地並寺院四七・社人二・修験一三・陰陽師一・御役所詰医師二○・町医師六・後藤座役人並吹屋七一・平町人二三八三・その他七。平町人が八七%を占めていた。町人のうち多い職業をみると、勝場床屋仕事師二八二人・日雇二六二人・商人一八一人・針仕事師一六九人・家大工一一七人・出入奉公一一三人などが多く、勝場床屋仕事師も勝場・大吹・床屋・銀山・銅勝場など多数にわかれ、商人は普通の商人・小商人・小商い・本買出商人・買下商人のごとく区分して記録し、職人の種類は五○以上に及んでいる。奉行所所在地と鉱山町らしい職業構成が墨引からうかがえる。文政九年相川町宗門人別帳寺判取揃えに、町会所において一括して寺院呼出調印して差出すように手続きを簡略した。この頃から、町在ともに町年寄・名主が村町別宗門人別寄を取りまとめるようになった。そのため相川町会所でわかりやすい戸主の職業別の墨引(略図)を作成した。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)、伊藤三右衛門『佐渡国略記』(下巻)、沖田勝「文政九年相川町々墨引」(相川高校郷土部『鉱山史報』四号)【執筆者】 佐藤利夫

・相川町第一農業協同組合(あいかわまちだいいちのうぎょうきょうどうくみあい)
 所在地は橘、創立は昭和二十三年(一九四八)六月、「農業会」の解散後、旧二見村の大浦・高瀬・橘の三集落が、同年「第一二見村農業協同組合」を、米郷・稲鯨は「二見村農業協同組合」を、さらに二見集落では、「相川町第三農業協同組合」を設立したが、昭和三十七年解散し、かっての「二見農家組合」と合併し、呼称を「二見農家組合」としたが、さらに「相川町第一農協」との吸収合併をなす。昭和二十九年の、相川町との町村合併により、「第一二見村農業協同組合」は、「相川町第一農業協同組合」と名称を変更する。同三十九年九月、プロパンガスの取り扱いを開始。同四十二年七月、農協が事業主体となり、旧二見村全域に農集電話を普及する。同四十九年五月、新事務所竣工。【関連】 佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)【参考文献】 『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)【執筆者】 浜口一夫

・相川町大火(あいかわまちたいか)
 家並が連なり、瓦葺が少ない相川は江戸と同じで、しばしば大火に見舞われた。古い時代は、記録が曖昧で確証を得られないが、概ね次表のとおりとなる。しかし、五○棟以下は省略するものの、一○年に一度は大火の憂き目に逢っているようである。このほかに、奉行所も五回類焼している。それを示すと次のとおりとなる。正保四年(一六四七)に新五郎町から火が出て、間の山・庄右衛門町から牢坂まで上町を全焼する大火となり、奉行所もこの火災で全焼する。二回目は寛延元年(一七四八)の七月で、米屋町から出火して同心町・弥十郎町・思案橋下両側を焼き尽くす。奉行所は使役長屋三軒・御金蔵一・土蔵二・稲荷堂一棟を残して類焼する。三回目が寛政十一年(一七九九)五月で、組頭役宅から火が出て奉行所へ飛火し、御金蔵三・土蔵一・定問吹所・小判所・本途床屋を残して類焼し、四回目は天保五年(一八三四)に構内普請所小屋から出火した火災で、上下部屋・向陣屋・作事方役所・鏈納屋・大御門・広間役長屋を残し、味噌屋町・八百屋町・長坂町・会津町・左門町・米屋町・京町を全焼する大火に発展した。五回目が安政五年(一八五八)七月の火災で、相川始まって以来の大火となり、上町全部と、下は羽田町から北の下相川村までを焼き尽くす惨事となり、奉行所も全焼の憂き目を見る。【参考文献】 佐藤俊策「佐渡奉行所」(「歴史の道相川街道」)、西川明雅他『佐渡年代記』、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 佐藤俊策

・相川町町民体育館(あいかわまちちょうみんたいいくかん)
 相川町栄町(公有地造成地)に、公共施設第一号の町民体育館が、昭和五十七年(一九八二)四月に完成した。体育館は、鉄筋コンクリート造り二階建て、延床面積は三一○九平方㍍で、一階は公認規格のバスケットボールコート二面・バレーボールコート二面・バトミントンコート六面がとれる大きな体育館のほか、医務室・小会議室・男女更衣室(シャワー室)・管理人室・水飲場・用具室・身体障害者用の便所やスロープなどが設けられている。また二階は、一周一五○㍍(幅二㍍)の走路を設け、観客席は移動式ロールバックを設置、使用しないときは折りたたんでトレーニング室として利用し、卓球台六面を備えることができるなどの、近代的な設備をとり入れ、真に町民の体力づくりと、リェクリェーションのセンターとして、町内外の多くの方々から利用されている。【執筆者】 三浦啓作

・相川町年寄伊藤氏日記(あいかわまちどしよりいとうしにっき)
 全一六巻 原本の表題は「御用留」で、「相川町年寄伊藤氏日記」は、旧所蔵者萩野由之が付けたものである。伊藤三右衛門は、相川町二丁目で手広く商売を行う有力町人で、はじめ吉兵衛を名乗り、のち家督を相続してから家名の三右衛門を名乗った。早くから佐渡の故実に興味をもち、『佐渡故実略記』七巻・『佐渡国略記』三四巻を著したが、これらには佐渡奉行所が所蔵する記録を多く活用していることから、三右衛門が相川町年寄という職務柄、佐渡奉行所も三右衛門に、いろいろ便宜をはかったことが推察することができる。また、前記二史書も『相川町年寄伊藤氏日記』も、自分が管掌する相川町管内だけでなく、広く佐渡全域に関する記事が多見されるのは、町方役所を中心に、情報を得やすい立場にあったからであろう。『相川町年寄伊藤氏日記』も、三右衛門が「御用留」と題しているように、相川町の施政や商品流通・貨幣流通その他万般にわたって知り得た事柄を記録しているが、それだけでなく佐渡の農漁村地域や、他国との流通・情報等についても記録している。このように、本書の内容は詳細・精緻で広範にわたっているので、江戸中期の佐渡や、相川の状況を知るうえで重要である。第一巻は宝暦六年(一七五六)から筆を起こし、第一五巻が安永十年(一七八一 天明元)で結び、最後の第一六巻は「御用附込」と表記されており、これは相川町の「毎月小役銀高」「御蔵米値段」「相川御修復場所」「塵芥捨所」「御船水主請負直段」「単木綿并地織産物」「町入用書上帳」など、便覧に供するための付録である。宝暦から天明期は、享保改革期の幕府財政再建のための、緊縮財政と年貢増微策を見なおして、殖産興業策の推進と、国産の他国移出政策に重点をおいた政策転換の時期で、江戸後期の佐渡の社会・経済の方向を定めた時期として、重要な時代であった。本書第一巻の宝暦六年は、この政策の基礎をつくった石谷清昌が、佐渡奉行に就任した年であった。【関連】 伊藤三右衛門(いとうさんうえもん)【執筆者】 児玉信雄

・相川町農業協同組合(あいかわまちのうぎょうきょうどうくみあい)
 所在地は市町二六番地。創立は昭和二十三年(一九四八)六月、「農業会」解散の後を受けてである。ところが同二十五年、経営の問題から解散話が出されたが、時の町長松栄俊三の説得により再起を期すこととなり、同二十八年四月、事務所を二丁目三一番地に移す。同三十三年八月には、四丁目浜の町有地を借りいれ、農業倉庫を建てる。同三十五年四月には、相川町市町二六番地の借地に、事務所を建設した。町の中央部をはさんで、北の下相川と南の鹿伏集落が農耕を主とし、平均耕作面積も割合と高い。【関連】 佐渡農業協同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)【参考文献】 『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)【執筆者】 浜口一夫

・相川町の化石(あいかわまちのかせき)
 相川町に分布する新第三紀の地層(新第三系)は、有孔虫・軟体動物・ウニ・フジツボ・サメ・ニシンなど、海にすむ動物の化石のほか、昆虫・鳥・大型脊椎動物のパレオパラドキシア・植物の葉(関の木の葉石)・珪藻など、さまざまな種類の化石を産出する。これらの化石から、地層が堆積した年代や環境、その時代の生物相を復元できる。化石を産出するおもな場所と地層は、⑴相川町関に分布する真更川層では、層理の発達した白色の泥岩からなる陸水成層から、珪藻・植物の葉・淡水魚・昆虫の化石が産出する。これらは約二千万年前に、湖沼とその周辺に生存した動植物の様子を示す。⑵相川町平根崎の下戸層では、砂岩・細礫岩・石灰質砂岩からなる浅海成層から、有孔虫・フジツボ・二枚貝・巻貝・腕足貝・ウニ・サメなどの、海にすむ動物の化石が産出する。⑶相川町下戸東方に分布する下戸層では、礫岩・砂岩からなる海成層から、有孔虫・軟体動物・哺乳動物の化石が産出する。これらは前記の化石とともに、約一千五百万年前に古日本海を形成した大海進と、そこにすんでいた熱帯~亜熱帯の生物の様子を示す。⑷相川町の鶴子層では、層理がよく発達した暗灰色泥岩からなる深海成層から、有孔虫・魚骨・魚鱗・鳥・哺乳動物の化石が産出する。これらは約一千四百五十万年前に古日本海が深海に移行し、そこに生息した外洋生物・深海生物の様子を示す。⑸このほか、相川町に分布する相川層群の砂岩・泥岩・凝灰岩から、大型植物や珪藻の化石が産出している。【関連】 有孔虫の化石(ゆうこうちゅうのかせき)・サメの化石(さめのかせき)・昆虫の化石(こんちゅうのかせき)・鳥の化石(とりのかせき)・パレオパラドキシア・関の木の葉石(せきのこのはいし)・珪藻の化石(けいそうのかせき)・真更川層(まさらがわそう)・相川層(あいかわそう)・下戸層(おりとそう)・鶴子層(つるしそう)【参考文献】 『佐渡博物館研究報告』(七・九集)【執筆者】 小林巖雄

・相川町の漁業協同組合(あいかわまちのぎょぎょうきょうどうくみあい)
 現在の漁業協同組合は、昭和二十三年(一九四八)の水産協同組合法の施行に基づき誕生した。この漁業協同組合の前身ともいうべき漁業組合は、昭和十八年の水産団体法により解散し、戦時中、国の強力な統制下の漁業会と名称を変え、終戦後(昭和二十三年)の、民主的な漁業者二○人以上ほどの旗あげがあれば成立するという、漁業協同組合の誕生となるのである。現在当町で組織されている漁業協同組合は、二見漁協(二見~二見元村)・稲鯨漁協(米郷~稲鯨)・西浦漁協(橘~大浦)・相川漁協(鹿伏~下相川)・金泉南部漁協(小川~達者)・姫津漁協(姫津)・金泉漁協(北狄~戸中)・高千漁協(南片辺~石名)・外海府中央漁協(小田~岩谷口)となっている。さて、この漁業組合は、今までの漁業会の財産や事業を引き継ぎ、海の資源の管理、漁民の必要な物資の供給、漁獲物の加工・販売、共同利用施設の活用など、また相川漁協・金泉漁協・外海府中央漁協を除き、新潟県信用漁業協同組合連合会の代理店として、金融機関もあり、各地域の漁業従事者の生活の中核となっている。【執筆者】 浜口一夫

・相川町の地形(あいかわまちのちけい)
 相川の町域は、大佐渡の西側斜面の殆どを占め、南北約三八キロメートル、東西幅約五キロメートルの長大な広がりで、面積は一九二・五平方キロメートルある。真更川から北の部分を除く大佐渡山地の西側斜面と、南部の二見半島の大部分を含んでいる。海沿いの地形は連続的に発達している海岸段丘で、海抜二○○㍍以下の部分がこれに当る。段丘面は五~六段あって、互いに段丘崖に隔てられる。最も下位の崖下には、隆起波食台等に由来する小平地が付随し、臨海の集落とこれ等を結ぶ道路の殆どがここに立地する。大佐渡山地の斜面を下る河川は、いずれも直線的な必従谷で比較的短小である。北から順に、関川・大倉川・石名川・入川・石花川・戸地川等の中小の河川が一~二キロメートルおきに並走し、段丘地を塊状に分断する。段丘上は、川の上流から用水が引水され、よく開田されている。二見半島沿岸の七浦海岸を含め外海府海岸、大佐渡の山稜部は国定公園に、また佐渡海府海岸は国の名勝に指定され、自然保護の対象となっているが、海崖や岬角や岩礁・小島のつくる沿岸部の景色は多彩で優れている。山地から海岸部まで、基盤の地質は第三紀中新統の安山岩溶岩・凝灰角礫岩・シルト岩等、主に火山岩から成る複雑な構成であり、これに激烈な海食作用が加わって、海岸美の変化がもたらされる。大佐渡山地は、中起伏~大起伏の壮年山地で急斜面が多く、東斜面より西斜面の支山稜は、緩やかであるが河谷に深く刻まれる。主山稜の高度は九○○~一○○○㍍に達し、主峰は金北山(一一七二㍍)・妙見山(一○四二㍍)・タダラ峰(九四○㍍)等であるが、山稜部は冬の北西風を受ける風障地で、低木林や裸地・草地となる。山地内部は古くから牛馬の林間放牧地としても利用されてきたが、戦後は車道も山頂まで通じ、観光客をも引きつけている。尚港湾の為の埋立て等人工の海岸線は、相川の市街地と二見港付近に認められるに過ぎない。【参考文献】 新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)、相川町・両津市教育委員会編『名勝佐渡海府海岸保存管理計画策定報告書』【執筆者】 式 正英

・相川町の地層(あいかわまちのちそう)
 下位から順に、入川層・相川層・真更川層・金北山層・下戸層・鶴子層・中山層からなる。相川層~金北山層は、相川層群と一括されることもある。相川町に分布する地層は、入川層~金北山層までと、下戸層~中山層までの地層に大別される。前者は、日本海形成以前に活動した火山のさんぶつである火山岩を主とする陸成層であるのに対し、後者は、古日本海の海底に堆積した海成層である。金北山層以下の地層と下戸層のあいだに大きな不整合が存在し、この環境の激変は相川町平根崎・下戸のほか、島内の各地で確認することができる。入川層~金北山層までの地層は、相川町全域に広く分布し、大佐渡山地を構成している。その全層厚は、約二○○○㍍に達する膨大なものである。これらの地層は、熱水変質を受けており、とくに相川鉱山や高千鉱山などの周辺地域は、非常に強い変質を受け、優良な金銀鉱床が形成されている。各地で流紋岩が相川層に貫入している。下戸層~中山層の全層厚は、五○○㍍以下で薄く、相川町での分布は平根崎・下戸~中山トンネル周辺に限られている。下戸層は、古日本海にはじめて堆積した浅海成の地層であり、鶴子層は半深海域に、中山層は深海域にそれぞれ堆積した地層である。したがって、下戸層から中山層までの地層に、日本海が深化していった過程が記録されているといえる。【関連】 入川層(にゅうがわそう)・相川層(あいかわそう)・真更川層(まさらがわそう)・金北山層(きんぽくさんそう)・下戸層(おりとそう)・鶴子層(つるしそう)・中山層(なかやまそう【執筆者】 神蔵勝明

・相川町文書館(あいかわまちもんじょかん)
 この建物は大正二年(一九一三)に、株式会社「相川銀行」の行舎として羽田町に建てられたが、同十三年九月第四銀行に合併、昭和四十八年(一九七三)まで、第四銀行相川支店の行舎として使っていたもので、改築直前に「明治風の珍らしい建築物」として、持田千秋らの努力により町がもらい受け、移築費用四百万円の内、第四銀行より二百万円の寄付を受けて、昭和五十一年(一九七六)に、町立郷土博物館の小高い中庭に移築した。名称については、当時相川町史編纂事務局長の中川重蔵が、町史編纂にかかわる膨大な史料の収集整理の場として、当面の必要性を考え、県内でも初の「文書館」として再現された。建物は屋根が入母屋(いりもや)造りで、破風板の部分は洋風の飾りつけを施し、窓はタテに長く、煉瓦には相川を象徴する「A」の横文字を刻むなど、明治の開花思想もうかがえる。材は欅が多くつかわれ、木造平屋建て、六六平方㍍の大きさである。木造なので、古文書などの原本の保存には適さないが、町史編さん室などで収集整理した複製史料の閲覧室としても利用されてきた。【関連】 中川重蔵(なかがわじゅうぞう)・相川銀行(あいかわぎんこう)【執筆者】 三浦啓作

・相川町役場(あいかわまちやくば)
 明治十七年(一八八四)五月に、戸長を官選とする町村制の改革が行われ、当町は次の連合町村にまとめられ、連合戸長役場が設置された。明治二十一年に市制・町村制が公布され、翌年相川町はそれぞれ、相川町(七四町二村)・二見村(鹿伏~二見)・金泉村(下相川~北狄)・北海村(戸地~後尾)・高千村(北河内~石名)・外海府村(小田~願)の新しい町村に合併され、町村役場も、相川町では羽田町の空家、金泉村では達者の市兵衛家の空家、北海村は南片辺、高千村は高千(高下)などに新設された。新しい町村には、町村長・助役・収入役の三役が置かれ、町村長と助役は無給の名誉職であった。明治三十四年には、更に大規模な町村合併がなされ、それぞれの新町村の役場は、相川町は羽田、二見村は高瀬、金泉村は達者、高千村は北立島、外海府村は岩谷口に設置された。現在の相川町は、昭和二十九年(一九五四)三月に、相川町と金泉村と二見村が合併し、更に同三十一年九月に高千村と外海府村が合併して誕生した。しかし、その後の同三十二年十一月、外海府地区の大字真更川・北鵜島・願が両津市へ分離した。それらの合併時の役場は、旧相川町は羽田、金泉村は達者、二見村は橘、高千村は北立島、外海府村は関にあった。【関連】 相川町(あいかわまち)・二見村(ふたみむら)・金泉村(かないずみむら)・高千村(たかちむら)・外海府村(そとかいふむら)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・相川最寄小学校教育研究会(あいかわもよりしょうがっこうきょういくけんきゅうかい)
 明治三十八年(一九○五)に設立された教育研究会。同年五月十三日相川尋常小学校に、二見村・相川町・金泉村の教員三十数名が集まって設立した。初代会長には、相川尋常高等小学校の守屋泰校長が選ばれて以来、歴代の会長には相川小学校の校長が就任し、会場は各小学校の持回りとした。相川町教育会が、教員以外の会員も加わって社会教育も含めた幅広い活動を行なったのに対して、この研究会の会員は教員に限られ、「本会ハ普通教育ニ関スル事項ヲ研究スル」ことを目的として、日々の授業や訓育に役立つ具体的な課題が取上げられた。この研究会を母体として、昭和二十二年には相川町教育研究会が組織され、今日に至っている。【関連】 相川町教育会(あいかわまちきょういくかい)【参考文献】 『相小の百年』(相川小学校)【執筆者】 石瀬佳弘

・相川雇役御納御帳(あいかわやといやくおさめおんちょう)
 正確には「佐州相河雇役御納御帳」と表記されている。相川の「山先町」と「小六町」にあった遊女屋の税金の納帳で、寛永二十一年(一六四四)の「四月分」のものである。山先町には、加賀平兵衛・越後加左衛門・意仙かか・外山伝次・伊勢三郎右衛門・佐渡伝十郎・外山与八郎・外山次郎七・越後九郎兵衛・三河重右衛門・佐渡甚太夫・佐渡五郎助・越後徳衛門・大坂庄右衛門の一四軒のくるわが見え、遊女は一軒に二人以上八人まで名前が検出でき、総勢四二人となる。楼主が、加賀・越後・三河・伊勢・大坂など佐渡以外の人が多く、佐渡人も三人いて「外山」姓が三人いるが、鶴子銀山の外山から移ってきた商人か。ほかに海辺の小六町にもくるわがあり、楼主は京太左衛門。京出身の人らしく一○人の遊名の名が見える。遊女一人の税額は「五匁」で、一か月の税額らしい。遊女の生国はすべて佐渡で、「伏見」「小藤」「長門」「もみじ」「左馬助」「石州」「吉野」「伊折」など、源氏名まがいの名前の女性が半数を占めている。このころ必要な遊女が、佐渡の娘たちで充足されていたことを示し、鉱山の繁栄による他国人口の増加で、島の女性たちが商品価値を高めるという皮肉な結果を生んでいた。「大坂庄右衛門」「京太左衛門」などは、鉱山の著名な山師であり、兼業としてくるわを営んでいたことがうかがえ、一七世紀の佐渡の風俗史料として、この帳簿(「舟崎文庫」)は貴重である。
【関連】 山先町(やまさきまち)・小六町(ころくまち)【執筆者】 本間寅雄

・相川郵便局(あいかわゆうびんきょく)
 相川町に郵便制度が導入されたのは明治五年(一八七二)七月で、この時新潟県で三八か所、相川県では相川・新町・小木・赤泊の四か所に郵便取扱所が置かれた。相川町の初代郵便取扱人は谷口彦三郎で、毎月六回郵便物を取扱った。明治八年には、新潟・高田と共に為替業務を開始し、同十二年貯金業務を開始、以後同十五年郵便函(ポスト)並びに切手売捌所設置、同二十四年電信業務開始、同二十六年小包郵便業務開始というように、郵便制度は急速に整備された。集配区域であった小川~戸中(金泉村)は、昭和十一年三月より姫津局へ移管された。また明治四十二年、市内電話の開設から始まった電信電話交換業務も、昭和四十五年の合理化により佐和田電報電話局に吸収された。局舎は、設立当初は味噌屋町にあったが、明治二十一年に羽田町に移転し、現在に至っている。この外、明治三十七年大工町(富田善吉)に、同四十年下戸(伊藤庄八)にそれぞれ無集配局が置かれ、開局と同時に為替業務・郵便貯金業務を取扱った。大工町の無集配局は昭和四十六年相川上町局と名称が変ったが、上町の過疎化により利用率が激減し、昭和五十八年に廃局となった。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「三国隆敏家文書」【執筆者】 石瀬佳弘

・相川洋学校(あいかわようがっこう)
 明治維新後の教育制度改革により、明治四年(一八七一)、相川町の漢学局(前身は修教館)と皇学局を合併して県学校と改称。さらに翌五年八月に中学制が発布され、相川県学校は仮中学校と改称される。そしてそれを機に、仮中学校の一部に洋学校を広間町に設置した。教師には、夷港に来任していた通訳官河合美成を教授として兼務させ、その下に、岡田・池田・松岡・酒井(名前不詳)の四人の助教を置いた。最初学校は南沢の相川病院内の一隅に開設し、「仮洋学校」の門標を掲げたが、のち広間町に移した。相川洋学校のそもそもの起りは、明治五年長谷川元良が相川町南沢に病院を設立したことに始まる。長谷川元良は、相川町の漢方医長谷川元庵(相川町北立嶋の小松儀助の弟で、幼名を勇助といった)の長子(幼名粛、天保六〈一八三五〉年生まれ)で、若い頃長崎で蘭方医学を学び帰国し、南沢に病院を設立したが、若者たちが西洋の文化を学ぶための洋学の必要を痛感、洋学校の設立に盡力奔走し、最初の洋学校の教室に南沢の病院の一隅を提供したのである。さて、洋学校は開校したものの教材は乏しく、生徒用の教科書もなく、河合美成は自費で木製の活字を彫らせ、アルファベットを印刷し生徒に与えたり、その後長谷川元良と計って、相川鉱山の硝子製煉方の石橋良益の協力を得て、鉛活字鋳造に成功し、待望の「単語篇・会話篇」の印刷にとりかかるなど苦心惨憺の末、県内最初といわれる洋学校の経営を軌道に乗せていったのである。しかし、翌七年、長谷川は東京の医学校に招聘され、河合は病いで歿し、かわりに近藤真良を招いたが、洋学校は明治九年相川県廃止とともに消失した。【関連】 長谷川元良(はせがわげんりょう)・河合美成(かわいよしなり)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『佐渡百科辞典稿本Ⅱ』(佐渡博物館)、『相川高等学校五十年史』(相川高校同窓会)【執筆者】 浜口一夫

・相対死記録(あいたいじにきろく)
 元禄時代から享保の初期に、上方で心中事件が多く起った。近松や紀海音などの文学の影響とされ、「男女心中といって共に死すること京大坂の風なりしか、今はいつしか江戸に移りて年々絶えず」(卯花園漫録)と、しだいに広がりを見せる。この流行が風俗頽廃の大きい原因とされ、将軍(八代)吉宗の代の享保七年(一七二二)には、「心中」という言葉が忠義の「忠」にまぎらわしいので、「相対死」と改めさせた。双方存命なら三日さらし、非人手下。一方存命なら下手人。また不義にて相対死した者の死骸は取捨て、弔ってはならないという厳罰をもって対応した。佐渡における相対死の記録は、翌享保八年四月、上京町の法久寺境内であった「兵十郎(伊右衛門)・花世(はつ)」が早いほうで、近松の『心中天の網島』が、大坂の竹本座で上演されて喝采を浴びた三年あとで起った。相川口説(音頭)にも詠みこまれ、「二十六夜の夜はほのぼのと、朱にそめたる二人の死骸」などの詞章で、町の盆踊りでもうたい、かつ踊った。身分制の強い現世では結ばれないが、来世にこそ夢を託した二人への追善供養であり、人々は別の目で心中に同情を示した。あらたな町人文化の胎頭が見られる。宝暦六年(一七五六)十月の、下寺町大龍寺境内での庄吉とさんの相対死、また幕末の安政六年(一八九五)五月に、下相川本興寺境内であった虎吉と柳川(さん)の相対死も、ともに口説に詠みこまれて町の盆踊りをにぎわせた。こうした相対死記録は島内全域に見られ、『佐渡年代記』や『佐渡国略記』に散発的に記載されていて、虎吉・柳川の相対死など数件については、役人の詳細な検死記録が『岩木文庫』(金井町図書館)に残っている。【参考文献】 山本修之助編『相川音頭集成』、井戸田博史「江戸時代の相対死に関する一考察」【執筆者】 本間寅雄

・会津町(あいづまち)
 下京町の東に接し、南は南沢町である。元禄七年(一六九四)の検地帳には「山先町」となっている。『佐渡相川志』によると、「此処先年山崎同心役居住ス。町々ヨリ山崎役ヲ取立テ大山祇ヘ納ム。依テ山崎町ト言フ。中頃町屋十四軒ニ配分ス。其後遊女町トナル。享保二丁酉年四月ヨリ七月迄ニ此処ノ傾城屋水金沢ヘ引ク。翌戌年五月十四日山崎町ヲ会津町ニ改ム。北側役屋敷二ケ所南側拝領地トナル」とある。延宝六年(一六七八)の『色道大鏡』には、京都島原・長崎丸山町とならんで「佐洲鮎川山崎町」が載せられている。拝領地になってからここに住んでいた役人のひとり高野氏の娘は、赤穂浪士の赤埴源蔵の母である。現況では、六戸の住宅があり、町内の南東部を囲むようにして、南沢に降りる坂道が迂回している。【関連】 日詠(にちえい)・山先町(やまさきまち)【執筆者】 本間雅彦

・相年(あいどし)
 同年輩の友だちのことをいう。佐渡の古謡に、「同じ齢はいやだ、一つ増すともおとるとも」というのがあり、あいどしの結婚をきらった。また、あいどしの者が死ぬと、死の忌みにひきこまれ、それをかぶることを恐れ、両耳にミミフタギモチをあて、「ええことは聞いても、悪いことは聞くな」と三回唱え、それを後向きで海に投げ捨て、後をふりむかずひきかえす習俗があった。二見方面では、それをミミフタギモチといい、二見元村では、平べったいだんごを用い、高瀬では小さいにぎりめし、稲鯨は酒で耳を洗ったという。海府方面の小野見や高下ではミミアテメシといい、にぎりめしを用いた。小木町田野浦では、タカミ(箕)を前にたて、だんごまたはにぎりめしを両耳にあて、「悪いこと聞くな、ええこと聞け」と三回唱え、それを海に捨てた。両津市月布施では、目の多いものは魔よけになるといい、ざるをかぶった。同市赤玉ではシキヌノ(赤飯など蒸す布)をかぶり、畑野町小倉では餅をむすオケゴをかぶった。ともに同年齢の死者の忌みを、身のまわりからふり落とそうとするマジナイである。これらのミミフタギのマジナイは、室町時代の公卿などの間でも行われていたという(平山敏治郎「耳ふたぎ史料」)。【参考文献】 浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、『佐渡百科辞典稿本』(佐渡博物館)、山本修之助『佐渡民俗ことば事典』【執筆者】 浜口一夫

・間の風(あいのかぜ)
 海府地方は北風をいい、国仲地方では東風をいう。『越後名寄』には子(真北の方角)と、巳(南東の方角)との間で、子に近い方角から吹く風なので、アイノカゼ(間の風)というとある。風の名と方向は、土地により若干の差はあるが、海府のアイノカゼは、奥能登の鼻、鵜入あたりのものとその方向がよく似ている(『能登ー寄り神と海の村』)。柳田国男の『風位考』は、各地の風の呼び名を集め興味ぶかいが、アイはアエの転じたものといい、アエモノ、饗宴を意味し、アイノカゼが吹くと、海辺に珍しいものが打ち寄せられるので、海辺の民にとっては恵みの風となったのであろうという。海府地方でアイノカゼのことを、別名アイまたはシモゲともいうが、その「アイのこわぶき、ヤマセのもとだ」ということばがある。秋から冬にかけて、アイノカゼが吹くと魚が騒ぎよく獲れるが、正月から春の彼岸にかけて、その反対の風向きになると、魚が獲れなくなるので、それを「クダリケ(南風)になると獲れん」という。またヤマセ(東風、山から吹き出す風)が吹きはじめると、なぜか磯魚のくいが悪くなる。相川町関では、旧七月二十七日に、とろん峠(とど峯)で風祭が行なわれ、強風が吹かないよう祈願した。同町北田野浦奥の間峯でも、八朔の日に、北田野浦の若い衆が、頂上の風の神の祠にお参りした。両津市真更川の諏訪神社の風の神さんには、多くの草刈鎌が奉納され、なかには数㌢㍍位の小さな鎌をつけた絵馬もある。昔強風よけに、竿の先や屋根の棟に草刈鎌(風切鎌)をたてる風習が、海府地方にあった。相川町柴町にも風の宮(風宮神社)があり、祭日は毎年六月十五日である。【参考文献】 倉田一郎『佐渡海府方言集』(中央公論社)、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、『佐渡百科辞典稿本Ⅲ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫

・間ノ山(あいのやま)
 この名前の行政村落があったわけではなく、宗(総)徳町・嘉左衛門町・五郎右衛門町・清右衛門町・庄右衛門町の五町の総称で、すぐ上の上相川台地と、下方の北沢(北沢千軒ともいわれた)台地にはさまれた谷合いに生まれた町域である。元禄検地によると、五町合わせた屋敷面積は十七町五反歩ほど。上相川の繁栄のあとの、相川町における第二の繁華街で、その盛んな時期は文禄・慶長(一五九二ー一六一五)のころであろう。地名の由来は「此所左右大山ノ間ヲ往来ス、依テ間ノ山ト言フ」(『佐渡相川志』)とあるが、こうした地形説よりも「間」は「合」からきたのではあるまいか。左沢と右沢の二つの沢川の合流点に開けたところで、相川という地名がそうした合流点の「合川」から生まれたとされるように、間ノ山も同様に「合」川の伝播地名と解するほうがよいようである。鉱山創業期のころ宗徳町では山師田中宗徳が、庄右衛門町では同様に大坂庄右衛門が、五郎右衛門町では、石見の港から渡ってきた川上五郎右衛門などがはぶりをきかせていた。五郎右衛門町に残る「関東稲荷」は、元禄時代に間ノ山五町の産土神として勧請されたものである。町勢がおとろえた幕末のころは、「間ノ山河原」といわれて江戸水替の小屋場があり、その処刑場になっていた記録がある。五郎右衛門町には、真宗称名寺・安田部屋・道遊茶屋などが、近代まで残っていた。【関連】 間山惣助(あいのやまそうすけ)【執筆者】 本間寅雄

・四十物(あいもの)
 相物または間物から転じた字。干魚や塩魚類の総称。「あいもの」は、魚の捕採期と捕採期の中間の加工魚の意から、鮮魚と乾物の中間の魚類となり、鮮魚の無塩魚にたいして加工魚類全体を指すようになった。魚のむらがり集まっている沿岸の漁場のことを五十集と書き、その魚が加工されると四十物となるなど、面白いつかいわけをする。四十物の売買をする町を、四十物町といった。『佐渡相川志』によると、相川四十物町には、享保の頃(一七一六~三五)まで魚屋があったという。慶長年代、佐渡銀山を差配していた岩下惣太夫から、駿府にいる戸田藤左衛門宛の手紙に「四十物油断なくとりあつめ、うり申し候」とあり、人口の急増する相川で、動物蛋白源であった魚に強い関心が向けられていた。元和年代になると、静目市左衛門奉行の小物成の徴税施策は変わり、四十物の現物納が代銀納となる。それまで現物納(色役)であった魚を、四十物に加工して売り出す町であった四十物町は仕事を失い、五十集から捕採した魚を町方の四十物商に販売するようになった。文政十一年(一八二八)各町の四十物師(籠振・干物買含む)の数は、相川九一・海士町一・鹿伏二・大浦四・高瀬四・橘二・稲鯨一四・米郷四・二見二・矢柄一・小田一・北田野浦一・高下一・北河内一・北立島一・南片辺三・姫津一六・小川一計一五○人であった(他町村除く)。【関連】 四十物町(あいものまち)【参考文献】 佐藤利夫『佐渡嶋誌』、『新潟県史』(資料編二三)【執筆者】 佐藤利夫

・四十物町(あいものまち)
 四十物と書いてアイモノと読む。アイモノは保存用の塩魚のことで、鮮魚と干魚の間の意味である。広間町の奉行所から佐渡鉱山に向って、わずかのぼりかけたところにあって、現在県職員住宅があり、弥十郎町と鈍角に道を分れた付近が、四十物町である。文政九年(一八二六)の相川町墨引の絵図によると、南御役宅のところから弥十郎町通りに平行して、四十物町通りがあり、その北側に空家をふくめて三七軒、南側には教諭所御囲内にはじまって、二八軒ほど描かれている。そこに肩書きされている職種をみると、医師・水替・せんたく師・湯屋などの文字がみえ、他町と変るところはない。【関連】 四十物(あいもの)【執筆者】 本間雅彦

・青木蝦夷ケ平古墳(あおきえぞがだいらこふん)
 新穂村大字青木字蝦夷ケ平一八四三に所在する後期古墳。新穂ダムに向って左側の小佐渡山地が、平野にはり出した蝦夷ケ平と呼ぶ平坦な部分で、そのわきに入り込む「いやが沢」に面した南側側縁部にある。盗掘されていて、石室の一部がのこる。昭和四十八年(一九七三)四月八日、佐渡考古歴史学会が試掘調査した。石室の石組は割り石を用い、巾一・一㍍、現長四・七㍍で、天井石などは残っていなく、出土遺物も発見されなかった。後日、須恵器甕破片一点(表は細かいカゴ目文、裏は青海被文)が収集(佐渡玉作遺跡研究室保管)されているが、大正九年来島の鳥居竜蔵は、現地調査して須恵器片を収集したという。また、青木の熊野神社境内には、石橋に利用したという石が一個保存されている。この古墳から、およそ一○○㍍はなれた上手の同じ蝦夷ケ平山地平坦面に、一○個ぐらいの巨石が径二○㍍ぐらいの範囲で、不規則に集るところがあり、土地の人はエゾの墓と言い伝えている。佐渡の古墳は、後期古墳が約四○基あり、大半が真野湾沿岸に分布し、両津湾沿岸には二か所三基、国仲平野部からは青木蝦夷ケ平古墳の他、両津市立野字江戸塚の安養寺古墳、畑野町坊ケ浦字エゾ塚の坊ケ浦エゾ塚古墳、真野町豊田字小坪の浜田古墳二基、佐和田町沢根の沢根古墳が確認されている。昭和六十一年十月一日、新穂村文化財史跡に指定。【参考文献】 『新穂村の文化財』(新穂村教育委員会)【執筆者】 計良勝範

・青粘越え(あおねばごえ)
 高千地区の入川から、川沿いに渓谷を登りつめ、タダラ峰(九三四・二㍍)を越えて両津市の梅津に降りる道を、青粘越えという。アオネバは青色粘土のことで、佐渡ことばで粘土は、ネバツチあるいはイクジというのでこの名がつけられた。いまでは全線が舗装されて、高千地区の者たちは、鷲崎廻りや相川廻りの迂回路から開放された。峠でエンジンを冷やす時間をみても、二時間もあれば両津に出られるようになったのである。串田孫一編『峠』(昭三六・有紀書房)には、登山家の藤島玄の「佐渡の峠」として、青粘越えの記事が載せられているが、高千・外海府の女たちが、海産物を背負って両津に売りにいく話が書かれている。彼女らは、日の出の三時間前に出発しても、夜明けまでに、まだ標高四○○㍍の大清水の休場までしか達しない。荷を売り終えて、峠に帰るのは昼すぎだという。藤島は出会った女から、若い頃はこの道を二往復したともきいている。昭和三十六年(一九六一)に、金北山のスカイラインが完成したあとも、この状態はつづいていたのである。タダラ峰の頂上ふきんにハマナスが生えているのは、むかし行商の女たちが浜でもいできた種子を、知らずに運び上げたのであろうと、右著には書いてある。【参考文献】 藤島玄「佐渡の峠」(串田孫一編『峠』有紀書房)【執筆者】 本間雅彦

・青野峠(あおのとうげ)
 佐渡で「峠」の文字が公称されるようになったのは近年のことで、青野峠・小仏峠などは明治前期に、軍の陸地測量部(現国土地理院の全身)が五万分の一地形図を作製したときにつけたという説がある。それまでは、せいぜいトネという発音で呼ばれるか、一般的には「○○越え」、「△△道」と名づけられていた(註 宝暦の書『佐渡相川志』には、下戸の一部や南沢に、峠と名のつくところがあったと記されている)。明治四十一年(一九○八)に、佐渡水産組合が出版した『佐渡案内』に付してある地図では、青野峠ではなく、「白子ト子」(羽田清次の同名書では白子刀根)と記入してある。また小仏峠は、スミツカであった。白子の発音がもしシラネであれば、葵の自生でもあったのであろうか。青野の語源は、佐和田町青野と無関係ではないであろう。青野峠の位置は、相川市街地から平面距離で約三㌔である。上相川が栄えていた頃はさらに近く、天和元年(一六八一)に間ノ山番所から二二丁とあり、古間歩の名に白子間歩も古書に記されている。したがって江戸前期までは、沢根・河原田に通ずる道は、このトネ道が往還であったと考えられる。『相川町史』には、戸地や北狄から佐和田・沢根に至るのに、青野峠越えをしたとある。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 本間雅彦

・アオノリ・アオサ(あおのり・あおさ)
 磯辺に生える食用にされる海藻が磯菜である。磯菜にはアオノリ・アオサの二種がある。海藻の分類の上からアオノリという種はない。アオノリは、緑藻類アオサ科アオノリ属の総称である。アオノリ属は体はひも状・糸状である。佐渡で普通にみられるのがヒラアオノリ、長さ五ー一五㌢、幅一ー二㍉、やや薄くて緑色。これに似たものにやや大きいボウアオノリがある。磯菜には葉状のものがありアオサという。海藻の分類上アオサという種はない。緑藻類アオサ科アオサ属の総称で、主要種はアナアオサである。体は大きく二○ー三○㌢にもなり、楕円形または円形で紙のように薄く、ヘリは波立っている。葉面には大小さまざまな穴があいていて、これが名前の由来となる。糸状のアオノリも葉状のアオサも磯菜であり、早春採って食べた。初春の磯に香りをいっぱいただよわせる磯菜。「酒の粕の味噌汁とイソナはよく合う。まず酒の粕を沸騰させ、その中へきざんだイソナを落とし、さっと火からおとす。そして熱いお汁をフゥフゥふきながら吸うのが一番うまい。とにかく磯の香りを楽しむ海藻である」と、浜口一夫は『佐渡の味ー食の民俗ー』(一九七八)に紹介する。【参考文献】 佐渡奉行所編『佐渡志』、福島徹夫「海藻と暮らし」、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男

・青柳割戸(あおやぎわれと)
 「道遊の割戸」の旧名。割間歩、六拾枚間歩とともに、鉱山発見の端緒になったとする発見伝説を持つヤマで、切り裂いたように立ち割られているのは、露頭鉱(湧き上り)を堀り進んだ跡。ヤマの悠大さにくわえて、日本最大級の露頭坑跡とされている。頂上部分で海抜二五二㍍。山麓からだと一三二㍍、頂上の割れた部分の左右幅が三○㍍、左側の頂上より右側のいただきが一五㍍ほど低い。クサビ形の割れ目の深さは七○㍍にも達する。古い絵図では「青柳割戸」と記されていて、その割れ目の下の方に、「道遊」と記した坑口(釜ノ口)が描かれてある。つまり道遊は坑口の名前で、道遊間歩であった。割戸自体は、だから青柳割戸と古くから呼ばれていたことがわかる。幕末に近いころになって道遊の割戸の呼び方が一般化したらしい。「青柳」が地質用語なのか、人名かはわかりにくいが、「青柳隼人」という人物が上杉氏の家臣として佐渡に在勤していた。「宗太夫坑」が、大久保長安の家臣の岩下惣太夫に関係した坑名と推定できるので、青柳も人名と解したがよいと思われる。「道遊」は不明だが、「道伝」と名乗る浪人が相川の小六町の遊廓を経営していた。道遊も、人名に由来する名前だったのではあるまいか。佐渡鉱山の鉱場課長神田礼治が、明治十年代に記した『佐渡鉱山道遊坑の記』(工学会雑誌)によると、こうした見事な山容が採掘されないで放置されることになった理由について、脈石がきわめて硬く脈中の金銀が稀薄である。斜面が急で、下向きや上向きの階段堀りが技術的に難しい、などもあげて、採掘は試みたものの採算がとれなかった、と述べている。このために見事な山容が後世に残った。江戸時代には「相川八景」(道遊秋月)の一つであり、多くの詩歌にも詠みこまれた。平成六年(一九九四)五月二十四日、国の史跡に指定される。【関連】 道遊の割戸(どうゆうのわれと)【執筆者】 本間寅雄

・青盤間歩(あおばんまぶ)
 地積は下相川村。『相川志』によると、岡惣囲四七九坪。小屋頭庄兵衛。慶長九年(一六○四)九月、味方孫太夫開発の坑道。その後、同与次右衛門に渡り、寛永五~七年(一六二八~三○)に大盛り。元禄四年(一六九一)四月十八日、与次右衛門の願いで奉行所直轄の直山となる。宝暦三年(一七五三)の山師、味方与次右衛門・村上善太夫・大坂惣左衛門・嶋川宗兵衛。帳付、南沢元右衛門・新五郎町治兵衛。油番、京町半十郎。山留頭、嘉左衛門町作兵衛・同町辰兵衛・同町多兵衛・六右衛門町辰右衛門とあり、また「金銀山稼方取扱一件」には、惣鋪地四八○坪、御番所建坪五○坪、鍛冶小屋建坪二八坪、建場小屋一軒。この間歩慶長九年開発、以後盛衰により三度中絶、元禄四年再興、以後天保年間(一八三○~四三)まで中絶なし。釜之口より三ツ合まで、七三間。当時御稼ぎ三敷。山師、味方与次右衛門・村上槇之助・嶋川左右兵衛・大坂庄右衛門。帳付一人・油番一人・穿子遣頭三人・同助一人・山留頭一人・山留四人・荷ノ番一人・小遣二人・かなこ二人とある。これは、左沢の俗に東青盤間歩のことである。【執筆者】 小菅徹也

・赤川(あかがわ)
 下寺町と中寺町の間の南沢を流れる間切川が、一町目に出るあたりから河口までを「赤川」と呼んでいる。これは南沢疎水が、旧中教院の北側にある塩竃神社のすこし下で、川底から湧き出し、川の水と合流し、酸化鉄を含んだ赤味のある水となって、海へ注いでいることでつけられた名称である。大正十四年作製の「相川市街略図」(柏崎の猪爪三郎治発行)によると、この赤川湧水点から上には、製米・製粉用の水車が設けられていた。その持主の名として、加藤・古藤・小田の名を冠して記入してある。【執筆者】 本間雅彦

・赤玉石(あかだまいし)
 佐渡の代表的な銘石。赤褐色のかたい岩石で、大きいものは庭石として、小さなものは研磨され、鑑賞石として珍重されている。両津市赤玉地区において、土木工事中に転石として数多く産出した。小規模なものは、細脈として新第三紀中新世の火山岩中に、しばしば観察される。成分はsio2(二酸化珪素・無水珪酸・珪酸・シリカなどと呼ばれ、ガラスの主成分)で、含まれる不純物によって、赤色・褐色・褐黄色・緑色・黒色を呈する。赤色は、不純物として含まれる酸化鉄(Ⅲ)(顔料のベンガラもおなじ物質)による発色であり、褐黄~緑色は酸化鉄(Ⅱ)によるものである。sio2が肉眼で認められるほど大きな結晶に成長したものが石英(クォーツ)で、火成岩中に普通に認められる。火山活動にともなう熱水が、断層や割れ目を満たして上昇した場合、普通に石英が成長する温度よりも低い温度で、微細な石英の集合体や、繊維状の石英が形成されることがある。その外観は多種多様であり、玉ずい(カルセドニー)・碧玉(ジャスパー)・メノウ・蛋白石(オパール)などと呼ばれている。これらは、鉱物学的には同一ないしはほぼ同一のものである。赤玉石は、不純物として酸化鉄(Ⅲ)を含む碧玉、または、玉ずいである。また畑野町猿八地区は、青玉石の産地として有名である。青玉石は、同様の熱水が流紋岩の岩体をながれて、流紋岩岩体の一部が、著しく珪化(sio2成分が多くなること)したものである。赤玉と青玉は、岩脈であるか、岩体の一部であるかの差はあるものの、両者とも熱水活動によるものであることで、成因的には似ている。【参考文献】 島津光夫『離島 佐渡 その過去・現在・近未来』(野島出版)【執筆者】 神蔵勝明

・赤泊港(あかどまりこう)
 小佐渡南岸の要港。越佐間の最短距離にあり、古くから対岸との交流が盛んであった。港近くの禅長寺には、「玉葉集」の編者京極為兼の配流着船伝説が残る。江戸時代になると、大久保長安は慶長九年(一六○四)代官横地所左衛門を派遣、十分一役所(後の番所)や、番所付きの問屋五軒を設けるなど、港の整備がなされた。長安最初の佐渡来国上陸地は、従来松ケ崎港とされていたが、伊勢屋九郎兵衛文書(関西大学図書館蔵)などから、赤泊へ上陸したと思われる。正徳三年(一七一三)以降、小木・出雲崎を往復していた佐渡奉行は、佐渡赴任には寺泊から赤泊へ渡海するようになった。また文政十年(一八二七)には、旅客対象の押渡早船が設けられ、主として人の渡海港として栄えた。さらに佐渡牛の積出しや、松前稼ぎ商人の港でもあった。明治十八年から二十三年には、同港出身で北海道で成功した田辺九郎兵衛が自費で港を修築、明治二十八年には冬期間、赤泊・寺泊間に定期航路が開設され、昭和九年まで続いた。昭和十五年から、小木・赤泊・多田・新潟の定期航路が開設、昭和四十八年からは、赤泊・寺泊にカーフェリーによる定期航路が再開され、現在に及んでいる。【執筆者】 八木千恵子

・秋の七草(あきのななくさ)
 山上憶良は、秋の七草を次のように詠んでいる。「秋の野に咲きたる花を指折りて かき数ふれば七種の花」。この歌の対句として歌われる花の名まえ( )内は現在の和名。「萩(ハギ)の花・尾花(ススキの花の穂)・嬰麦(ナデシコ)の花・女郎花(オミナエシ)また藤袴(フジバカマ)・朝顔(キキョウ)の花」。詠まれる“朝顔”の花は、古来より今のアサガオ・ヒルガオ・ムクゲ・キキョウなどの諸説がなされたが、キキョウにきまったようである。歌われる秋の七草は、広く日本の里や里山に広がる、ススキ草原に咲く秋の花である。春の七草が、早春の野で摘まれる菜とした草であるのに対し、秋の七草は、秋の野を彩る個性ある美しい花たちであり、生態的にはススキ草原の主要構成種でもある。秋風になびき、秋光に輝くススキの穂が尾花である。秋にさきがけ咲くハギの花、咲きながら散っている。盆花として欠かせない花である。グレープジュースの匂いがする、クズの紫紅色の花総。撫でなでしたい可愛いい女の子の風情をもつナデシコの花。キリキリシャンと咲く、紫のキキョウの花。この花も盆花として佛前に進ぜる。フジバカマは、奈良時代以前に中国より渡来した薬種。大和地方に逸出野生するが、関東にも新潟県にも分布しない。ただ、同属のヨツバヒヨドリなどを、フジバカマと称している。オミナエシは、現在山野からすっかり姿を消した。【参考文献】 伊藤邦男『佐渡草木ノート』【執筆者】 伊藤邦男

・秋葉山信仰(あきばさんしんこう)
 秋葉山は古い往還のかたわらに、庚申塔などと共によく見うけられる。かっての庶民信仰・火伏せの神の祈念塔である。相川町橘では、秋葉山講の日、講仲間が集り、団子を食べ酒を飲んだという。秋葉権現信仰の本拠は、静岡県周智郡犬居村秋葉山の秋葉神社で、祭神は火之迦具土神、つまり火難よけの神である。【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅰ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫

・揚島の植物(あげしまのしょくぶつ)
 相川町の姫津崎から、北狄の大崎に至る海岸段丘一帯は、海岸美の王座とされる佐渡の景勝地で「尖閣湾」と呼ばれる。この名は、昭和八年(一九三三)文部省の委嘱で、外海府と小木の海岸風景を調査した理学博士脇水鉄五郎の命名したものである。船に乗って海岸から迎ぎ見てもよい。大崎の突端にある「揚島」から見おろすもよい。岸から揚島に渡る橋もあり、大崎には灯台が建ち、水族館もある。この揚島を彩るのが四季折り折りの「揚島の植物」である。冬の季節風に直面し、海岸風衝樹林の主要樹は、クロマツ・カシワ・エノキなどである。揚島の岩場を彩る花は、イワユリ・トビシマカンゾウ・カセンソウ・アサツキ・メノマンネングサ・ハマイブキボウフウ、いずれも岩石海岸の岩隙間植物である。トビシマカンゾウの開花は、佐渡の鯛漁を告げる花。イワユリを採ると海神怒り海荒れると伝承される。アサツキは古く漁村に栽培されたものが、逃げだし野生化したもの。その他岩場には、ハマボッス・シオツメクサ・オニヤブソテツなどがみられる。岩場のすき間には、女の子が髪結い遊びをした長く細い草のオオウシノケグサが繁茂している。【関連】 尖閣湾(せんかくわん)【執筆者】 伊藤邦男

・上ケ金(あげきん)
 献(上)納金のこと。幕府諸藩は、幕末内外情勢が緊迫するにつれ、海防のための経費が激増し、豪商・豪農はもとより、一般庶民にも説得を重ねて、半ば強制的に上納金を出させた。佐渡奉行所は、ペリー来航の嘉永六年(一八五三)の十一月、「近来異国船度々渡来(中略)御備筋御入用の内へ身分相応の上納金」を募る御触書を出した。文中、「尤も強て上金申し達し候事に相ならず候様」(強制してはならない)と述べているが、実態は役人が個人や村々を巡回説得して勧誘した。佐渡奉行所も、翌安政元年はじめて上ケ金に着手し、広間役二人と地方掛三人が専任になって、巡村説得にあたり四千百両余を集金、この金は鉱山の用途に向け、全部を消費せず、運転資金として活用することにした。その後も、慶応元年(一八六五)の長州征伐の軍費調達のための上ケ金徴収がおこなわれ、組頭中山修輔が専任となり、広間役以下一○人で巡村、最低一両として、およそ三万五千両を集めた。この時には、村高に応じ割当てている。【参考文献】 『新潟県史』(通史編近代六)、田中圭一『天領佐渡』【執筆者】 児玉信雄

・足洗い(あしあらい)
 嫁の行列が婚家に着くと、相川町北片辺では、嫁はその家の勝手場に近いトノグチ(戸の口)から入り、オマエにあがる。そして婿方の親と重親類衆にあいさつをすると、酒が出る。それをアシアライといい、今まで実家でならした足を洗って、いよいよ婚家の者になるというものである。同町金泉地方でもこれに似たことをする。国仲地方では、嫁入りしてから三年間、三番草の草取りに実家から婚家の親類や近所に餅を配る。これをアシアライという。佐和田町では、盆の十四日の朝、仏様に供える白粥をアシアライガユという。先祖の霊が十三日の晩、あの世からやってきて、足も洗わず急いであがるので、翌朝これを供えるのだという。また羽茂町大崎などでは、旧十一月二十四日の大師講の朝、大師講のアシアライガユといい、白粥を供えたという。【参考文献】 山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、中山徳太郎・青木重孝『佐渡年中行事』(民間伝承の会)、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】 浜口一夫

・足尾山(あしおうさん)
 相川町鹿伏の海寄りの道端に、足尾神と刻まれた石碑が建っている。佐渡では、足尾神・足尾山などと書くが、信仰内容からみて、他処でいう足王様のことであろう。鹿伏には、毎月朔日と十五日に、花や榊を供える老婆がいたし、祈願して足がなおった人たちは、お礼にワラジや白い脚絆・腰巻などを供えたという。両津市久知の足尾山には、足や手の絵または模型、キャハンやコテなどなどが供えられたという。つまり、足尾神は、足が丈夫で、無事道往きが続けられるようにと、祈った路傍の旅の神なのである。大きなワラジのことを、「足尾山のワラジのようだ」とのたとえが残っている。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『佐渡百科辞典稿本Ⅰ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫

・足踏み(あしぶみ)
 古い素朴な婚姻儀礼の一つで、アシイレ・ナカマヅカイ・アシガタメなどとも呼ばれた。この「足入れ婚」を、相川町の大浦や二見元村などでは、「ダイドコロメシを食う」といい、日暮れがた、おなご親がちょうちんをさげ、娘はふだん着のまま寝具を負い、酒一升に干いか二枚を添えて持参し相手方の家へいく。相手方はヤウチ(家族)だけで、赤飯・白まま・ツボ・ヒラ・尾頭づきの魚で酒をくみ、夕飯を共にする。嫁はその晩から泊る。また実家が手不足の場合などには、「半分貸してくれ」といい、ある期間、十日ほどずつ行ったり来たりした。これをナカマヅカイとか、ハンツキヅカイなどといった。相川町関などもこれとほぼ同じで、だいたい大正の中ごろから嫁入り行列などをし、式を挙げるようになったという。また同町小川では、嫁が婚家の台所で、アシブミの嫁のイッパイメシを食うことを、ハシトリといった。【参考文献】 山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】 浜口一夫

・愛宕神社(あたごじんじゃ)
 下山之神町に現存する。祭神は伊弉諾命・伊弉冉命ほか。佐渡奉行所の鬼門鎮護のため、大久保長安の時の慶長十二年(一六○七)に、京都へ官船を派遣し、吉田兼治(神道官領長)を招いて創建したと伝える。古くは愛宕山権現と称した。東照宮・北野神社をふくめてこの三社は、新築・修覆とも全額官費で当てるのが、江戸時代の慣例だった。寛永元年(一六二四)九月、大平作兵衛という医師が、「花山院絵師狩野久左衛門」という人の描いた三十六歌仙絵馬を、このやしろに奉納した記録が残っている。大平作兵衛は、坂下町に住んでいた大平道悦という医者の先祖で、「願主、道三門下医師摂津国住人」と、絵馬の裏書にあったとされるから、京都の医者で一六世紀のころ、日本医学の頂点にいたといわれる曲直瀬道三の門弟であったと思われる。また絵師の狩野久左衛門は、京都狩野派の高弟、狩野吉信をさし、「禁上ノ御用相勤」(『古画備考』)とある。かなり高名な人たちの作画絵馬が、このころ相川に運ばれていたことをうかがわせる。ただし現物は残っていない。京都市右京区嵯峨の山上にある愛宕神社は、全国各地にある愛宕社の本社で、一般に火伏せの神(鎮火神)とされ、古来から朝廷および武門の信仰にささえられてきたという。同じ下山之神町にあった天台宗教寿院(廃寺)は、東照宮と、このやしろの別当を勤めていた。【執筆者】 本間寅雄

・愛宕山(あたごやま)→ 愛宕神社(あたごじんじゃ)

・当檜(あてび)
【科属】 ヒノキアスナロ科 ヒノキはわが国では最高級の建築材。木曽のヒノキ(二万㌶)は有名だが、北陸・東北・北海道には分布しない。ヒノキに匹敵するのがアスナロで、東北南部から九州に分布するが、ヒノキもアスナロも新潟県には分布しない。分布するのはアスナロの変種のヒノキアスナロ。関東北部から東北・北海道渡島半島に分布する北方系のアスナロ。アスナロの球果は、鱗片の先が突き出し外に反りかえるが、ヒノキアスナロは外へ突き出さない。佐渡ではアテビ、林業ではヒバという。用材を考える場合、最高良材のヒノキを基準とする。ヒノキとアスナロは大変似ていて、その差は一夜の差、明日になればヒノキになる位で、アスヒの別名がつけられた。“明日はヒノキになろう”でアスナロの名が生まれた。アテビは当檜、ヒノキに当ててもよいの意味である。市販される「檜材」で一方は高値(ヒノキ)、もう一方は半値(アスナロ・ヒノキアスナロ)となる。土地の業者は語る。「最高の建築材はアテビ。それも海府アテビがよい。金北山より北側のもの、石花より北側のものがよく、相川側のものはよくない。最高のものは檀特山のもの。柱材としては四○~五○年もの。重さや水に対する強度は杉より勝る。木目はつんでいて密度が大きい。材でよいものはピンク色、獨得な匂いもよい。素材としてアテビはスギの倍から三倍だ」と。【参考文献】 伊藤邦男「佐渡のアテビ(1)~(3)」(『佐渡草木ノート』佐渡新報社)、同「西山田のアテビ・小股のアテビ」(『佐渡大野史』)【執筆者】 伊藤邦男

・穴釜窯跡(あながまかまあと)
 相川町大字高瀬二六五の高位段丘西側斜面にあり、台地に焚口と煙道の凹みが見られ、小川の底に須恵の破片がいっぱい散乱していた。窯は台地周辺を巡るようにいくつかあったが、水田の拡幅工事で消滅してしまったのが残念である。土地の古老によれば、台地の周辺に五か所の焚口が見えたと云う。実際にはこれ以上の窯があったろうと推察される。昭和四十四年(一九六九)に、相川町教育委員会と佐渡考古歴史学会で発掘調査が計画されたが、現地は水田拡幅工事が終って消滅していた。採集した遺物は、坏蓋・無台坏・鉢・横瓶・壺・甕などである。坏蓋には擬宝珠形の鈕があり、壺は小形手づくね品で口縁部が「く」の字状に外反する。最大径は胴部中央で巻上げ成形し、調整に指押痕が明瞭に残る。甕の叩きは平行と格子目の双方が見られる。採集した遺物から見ると、八世紀中頃に属し、石地河内より若干新しくなる。しかし、遺物で判断したのみで、もっと古いものがあるのかも知れない。いずれにしても小泊とは差があり、佐渡では古い窯跡に属する。【参考文献】 坂井秀弥・鶴間正昭・春日真実「佐渡の須恵器」(『新潟考古』)、佐藤俊策「穴釜出土の手づくね土器」(『佐渡考古歴史』)【執筆者】 佐藤俊策

・阿仏五重塔(あぶつごじゅうのとう)
 真野町の日蓮宗阿仏坊妙宣寺境内にある新潟県下唯一の五重塔で、国の重要文化財。完成は文政八年(一八二五)三月で、棟梁は相川町の茂三右衛門とその婿養子金蔵と伝えられ、親子二代三○年がかりで築造したものという。木造純和様建築で、柱は杉、上物は松、組物は欅の材を使用、規模は一辺三・六㍍、高さ三四㍍。各層とも勾欄のない縁をめぐらし、中央間が棧唐戸、脇間が連子窓となっている。また斗拱は三手先で、中備えは三間共 股、軒は五層の扇捶で彫刻が多い。屋根は桟瓦で相輪は江戸風である。この塔の設計図といわれるものが、金蔵(羽茂町寺田出身)の師匠鴉田家に保管されている。この五重塔の位置には、もともと開山堂(日得上人・千日尼像を安置)があったが、時の住職二十五世日念が、朽ちた堂を三重屋根の重ね棟の開山堂として再建したい旨、享保二十一年(一七三六)に奉行所に願い出たが、宝暦七年(一七五七)に没した。それから約九○年後、三十一世日体の代に五重塔として完成したわけである。日体は塔建立の資金を得るため、文政五年には江戸浅草まで六○日間の出開帳を行っている。文政十一年ころ、異流の祈祷をしたとして奉行所に捕えられ、八丈島へ流罪となったが、帰島後は相川大沢善行寺預りとなり、やがて病を得て天保二年(一八三一)六七歳で没している。なお、棟梁茂左衛門の墓は相川下寺町の法輪寺にある。【関連】 妙宣寺(みょうせんじ)・長坂茂三右衛門(ながさかもさうえもん)【参考文献】 『新潟県の文化財』、『真野町史』、『羽茂町史』【執筆者】 山本仁

・油木・油草(あぶらぎ・あぶらぐさ)
 昔の灯油や食油は、木の実やこえぶし(松の根の脂)からとっていた。のちにナタネ油などが使われるようになってからも、栽培の手間のいらない山野のアブラギ(油木)やアブラグサ(油草)は、村の暮らしに欠かせないものであった。江戸時代の寛政七年(一七九五)に、「油木や油草の実」について値段をつけたお触れ書が、新穂の帳箱に保存されていたので紹介する。( )内は油木などの現在の和名(標準名)と科名である。「○菜種(アブラナ・アブラナ科)一升に付き五十二文 ○榧(カヤ・イチイ科)同二十四文 ○椿実(ヤブツバキ・ツバキ科)同二十四文 ○白木(シラキ・トウダイグサ科)同三十六文 ○犬山椒(イヌザンショウ・ミカン科)同十文 ○ひょうび(ハイイヌツゲ・モチノキ科)同十文 ○漆実(ウルシ・ウルシ科・中国原産)同五十二文 ○黒ダモの実(タブ・クスノキ科)同七十二文 ○黒胡麻(ゴマ・ゴマ科)一升ニ付六十文宛 ○荏子(エゴマ・シソ科)同五十文 ○荏桐(アブラギリ・トウダイグサ科)同三十六文 ○蒲白(シロダモ・クスノキ科)同四十八文 ○茶之実(チャ・ツバキ科)同八文 ○ツサノ実(エゴノキ・別名チシャノキ・エゴノキ科)同十文 ○山漆ノ実(ヤマウルシ・ウルシ科)同二十八文 ○紅花ノ実(ベニバナ・キク科・エジプト原産)卯年より相止申候」。【参考文献】 『新穂村史』、『佐渡大野史』【執筆者】 伊藤邦男

・海士貝(あまがい)
 海士が捕採する蚫。明暦二年(一六五六)外海府御年貢御地子小物成留帳(本間又右衛門家文書)によると、大佐渡北岸の村々では、ほとんどの村が串貝役という串刺しの干蚫を、小物成(雑税)として現物納(色納)している。海苔・若和布などと海府から国に納められる海産物であった。近世にもこの小物成を納める慣行は残り、蚫役は加工されて串貝役として課せられた。海府一帯は隆起海岸で岩礁のため、磯近くで蚫を捕採することができた。船上から鉤で蚫を採る方法は、むかしからの伝統的な漁法であった。しかし、姫津村だけは漁船一艘につき五○盃ずつの海士貝を納める定めになっていた。姫津は達者地内の姫崎に、近世初頭に石見国より渡来した鱈沖漁師が開いた村といわれている。先住の海人族にたいして、金銀山の開発によって諸国から集った海士(または海女)が相川近郊に住みついた。この西国より渡来した海士が捕採した蚫を海士貝といった。相川町の南郊に海士町があり、串貝生産のため政策的に町立てがなされた。延享年間(一七四四~四七)頃から串貝生産を中止して、長崎俵物として廻漕するために干蚫生産となった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集一)、佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】 佐藤利夫

・雨乞い念仏(あまごいねんぶつ)
 灌漑用水のまだ完備されてない昔は、日照り続きで干魃になると、降雨を祈る共同呪願が、各集落でさかんに行われた。たとえば、相川町千本入崎における千把焚き、両津市真更川山居の池での雨乞い念仏、佐和田町乙和池の、水神への雨をよぶ念仏などがそれである。千本入崎の、うず高く積みあげた千把の焚木から、千本との地名が生まれたとの伝承があり、真更川山居の池での、雨乞い念仏の水のかけあいには、終戦前まで真更川の大屋(土屋三十郎家)の男と、鷲崎の大屋(渋谷三郎左衛門家)の女が、ふんどしと腰巻姿で出場したという。また、乙和池と関係ふかい長福寺の記録によると、江戸時代から長福寺の和尚が中心となり、さかんに雨乞いの念仏祈祷をやったものだという。また雨乞いには、村の鎮守や寺院にこもって祈願するものもある。新穂村潟上の牛尾神社には、雨乞いの翁面があり、金井町泉の正法寺には、世阿弥ゆかりといわれる(一説には和泉殿の所持品)雨乞いの面。そして同金井町平清水の貴船神社には、順徳帝が雨乞いをした話を伝えている。【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅰ・Ⅲ』(佐渡博物館)、山本修之助『佐渡の伝説』【執筆者】 浜口一夫

・雨乞いの面(あまごいのめん)
 金井町泉の禅宗、正法寺に宝蔵される鬼面。ただし面の分類に「雨乞いの面」というのはなく、正しくは鬼面、または鬼神面と呼ぶのがよいようである。干天続きのとき、境内にある「月ささずの池」の池畔に持ち出して読経念仏すると、霊顕があって雨が降ると伝えた。普通雨乞いに用いる面は「翁面」か「鬼面」で、島内牛尾神社(潟上)の翁および三番叟面(二面)も、古くは雨乞い習俗との関係を伝えている。寺伝によると、永享六年(一四三四)に、配流の世阿弥が都から持参して配処で使用していたとされ、伎楽面とした説があった。大ぶりの面で、長形二二・四糎、横形一五・九糎、重さが二八○㌘。材質はヒノキかホホの木とされ、頭部は冠形に作り、ひたいはV字型の深いしわを刻む。眉は太くはね上り、目は瞋目型。頬も高く、強い顔立ちで、口は能面のべしみ風に閉じている。べしみや飛出の面は、能面が誕生する以前は、陰陽に発していたといわれ、この面は、鎌倉から室町時代にかけて、広く流布していた陰陽面に関係があると、昭和女子大の後藤淑はいい、南北朝から室町初期の作かと見る。慶応大の西川新次は、「能面のべしみに定型化されていく形を残しながらも、能面完成期にかなり先行する」として、鎌倉後期の作かとされ、元早大教授の本田安次は、「猿楽面であろう」とし、鎌倉中期まで製作時期はさかのぼるのではないかとされた。なお京都文化短大教授の中村保雄は、「世阿弥の配流以前からあったとすれば、世阿弥が見ていた可能性があり、配所へおもむく不安から護身用に持参することも、まったくないわけではない」とされた。新潟県では最古の鬼面で、県指定文化財(彫刻)である。【参考文献】 後藤 淑『民間仮面史の基礎的研究』、磯部欣三『世阿弥配流』【執筆者】 本間寅雄

・甘菜(あまな)
【科属】 ユリ科アマナ属 大佐渡の外海に面する海辺の村々は、佐渡牛の産地である。背後の段丘斜面は村の草刈り場。まだ芽ぶいていない食パン色の枯れ草の間に、いち早く花を開くアマナ。花の径は二㌢ほど。陽をうけて開く六弁の白花には、紫の縦すじが走っている。学名はアマナ(甘菜)・エデュリス(食べられる)は、食べられる甘い山菜の意味。長さ二○㌢ほどの根生葉も、汁の実になるが佐渡では食べない。地下の白いまるい鱗茎は、甘味があって生でもおいしい。すっと伸びた葉は麦の葉に似て、球根がママ(飯)になるのでムギノママと呼ぶ。「春早くシラ(草刈場)に白い花がいっぱい咲く。こいだ花を手にもってムギノママを食う。甘ほっこりしてうまかった」と村人はいう。大佐渡山地にみられるドンデン・平城畑・桐花・大倉シラ場などのシバ草原は、牛の自然放牧地。五月、この草原のあちこちに、消え残る雪か、霜の降りたかと思える白い大小のまだらがみえる。「消え残る雪かと見れば山慈姑(あまな)かな」流水。アマナの白花の大群生である。【花期】 四~五月【分布】 本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』、同『佐渡山野植物ノート』【執筆者】 伊藤邦男

・海士町(あままち)
 下戸の消防署近くの急カーブの辺りから、西に下ったすぐのところに海士町がある。北側は、海士町川をはさんで下戸田町や下戸炭屋町に接する。海士は、女性の海女に対する男たちの潜水漁師のことで、『佐渡相川志』では「蛋人」の文字を用いている。同書は、「元禄七戌年検地之町屋敷ハ一反一畝九歩。高九斗三升一合。此所相川府外也。宝暦三癸酉年八月四日横尾六右衛門支配所。此所ノ蛋人慶長ノ頃、石見・出雲ノ両国ヨリ戸根仁兵衛・磯西茂左衛門ニ随伴シテ来ル。始メハ一丁目辺ニ住ス。元和ノ頃此所ヘ移ル。是ヨリ蛋町ト言フ。」として、蛋人がとった長アワビを江戸に、干アワビを長崎経由で支那に売出した旨記してある。いまも、刀根・磯西の姓をうけつぐ者が住んでいる。戸数一七戸。【執筆者】 本間雅彦

・アマルガム法(水銀ながし)(あまるがむほう)
 銀の精錬術で、鉛灰吹法に替えて慶長十一年(一六○六)ころから数年間相川でおこなわれた。「川上家文書」には、水銀ながしの史料が数点含まれている。そこでは「床屋御吹立念を入申候、殊に水銀ながしに勘定いたし見申所に、過分の御徳まいり候間、本の床屋をやめ水銀床屋、かいふ口木立の上に立申候、わきわきの衆もこれを承り、皆々水銀床屋に可致候由申候て、伊勢の与右衛門などははやながし候事」とあって、その有利さが強調されている。この水銀床屋の置かれた町が「水金町」である。水金床屋が稼働したのは、慶長十一年のことのように思われるが、慶長十四年、徳川家康は朱座を設置して水銀の自由売買を禁ずる。「伊勢屋九郎兵衛文書」によると、大久保長安が水銀を得た相手は、イスパニア人であることがわかる。「川上家文書」に、「山中かい石仕り候者共、水銀入次第御かしなさるべく候由、則申聞せ候」とあることから、水銀は陣屋から買石へ必要量だけ供給(かし)していることがわかる。【関連】 川上家文書(かわかみけもんじょ)【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】 田中圭一

・海士町地蔵(あままちじぞう)
 相川町海士町の大日堂前にある、石造の地蔵。大日堂の入口に、山門様の堂があり、向って右側にまつられている。左側は石造の十王などである。右側の海士町地蔵は、舟形光背に板彫に近い半肉彫の立像で、像高は一三七㌢、光背高一五三㌢の大形の石仏。石質は石英安山岩(小泊・椿尾石)で、正面に剥離部分がある。低い反花座を有する基礎は、縁下に覆われている。像の左右光背部に年号が刻まれていて、向って右側は「正保三暦丙戌六月廿四日建立」、左側は「天和二暦壬戌七月」とある。また台石には、正面に幾人かの人名、向って右側には「毎日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦無仏世界度衆生 今世後世能引導」の、延命地蔵経の偈が刻まれている。左側にも文字があるが読めない。『相川志』の「大日堂」に、「寛永年中小川村出生ノ道心爰ニ堂ヲ立て大日如来ヲ安置ス。天和二壬戌年七月廿四日庵主清涼再建立。今入口ノ石地蔵ハ、正保三丙戌年六月廿四日下戸村金光寺ニ建立ス。貞享五戊辰年五月十九日、証順ト言フ道心者此所ヘ移ス。」とある。正保三年(一六四六)、下戸の金光寺に造立され、貞享五年(一六八八)にここへ移された地蔵であることがわかる。天和二年(一六八二)の年号は、大日堂再建年号を追刻したもの。地蔵は錫杖が高く、宝珠は像の中央部に刻まれ、顔相は目鼻立が大きい。法然寺千日念仏地蔵などに類似し、江戸初期の佐渡風地蔵石仏のおもかげをとどめる。海士町の子供達を守る地蔵として信仰がある。お産のときは、藁つげで地蔵に腹おびをすると、すぐ産気づくという。生まれると、その藁つげを解いて前の海士町川へ流す。【執筆者】 計良勝範

・阿弥陀如来(あみだにょらい)
 仏教の広まりの中で、阿弥陀信仰はその主流をなしてきた。阿弥陀如来の功徳により、極楽往生できるというこの浄土思想は早くからあり、平安中期に空也・源信が浄土教を唱え、末期に法然が浄土宗を、鎌倉初期に親鸞が浄土真宗を開いてから、阿弥陀信仰は最高に達した。海に面した、当町の落日の光景は美しく、神秘的である。その夕焼空を眺めながら、わたしたちの祖先は、西方の彼方に極楽浄土を夢みたにちがいない。相川町の阿弥陀如来を祀る堂宇は、細長く海ぞいのムラにちらばっている。二見元村の阿弥陀如来は、ムラに重病人が出ると、老婆たちが堂に集り、太鼓をたたいて一日中念仏を申したという。戸中の阿弥陀堂は道場(浄土真宗)ともいわれ、慶長八年(一六○三)建てられた。本尊の阿弥陀仏は、草分けの一人といわれる渡辺孫十郎らが、鶴子銀山から持ってきたものといわれている。北片辺の阿弥陀仏は、慶長の頃の作といわれ、十月に回向祭りをし、一週間にわたりおこもりをした。後尾の阿弥陀堂は、永正七年(一五一○)の開基といわれ、境内に田中田中家の墓がある。祭日は、七日正月と七日盆である。千本の阿弥陀堂の祭日は、正月十六日である。北田野浦の阿弥陀堂は、北田野浦七人衆の一人、友崎九郎左衛門が寄進したので、信仰者の彼らを阿弥陀七人衆ともいった。世話人は、山本勘五郎。堂内に、乳の型を模した絵馬が奉納されている。大倉の阿弥陀さまは一尺三寸ほどの木像で、大家の梶原平蔵家で祀っている。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『日本石仏事典』(庚申懇話会)、石田哲弥『石仏学入門』(高志書院)【執筆者】 浜口一夫

・アメ(ジイガセゴウ)(あめ)
 和名はヒザラガイ(火皿貝・膝皿貝)・軟体動物門・ヒザラガイ綱に属す八枚の貝殻をもつ動物で、荒磯の岩盤にへばりついて生活している。大きな個体は、長径が六㌢に達する。体は小判型で、背の方がゆるやかに高まっている。貝殻を囲んでいる肉帯に、細かい円柱状の小さな棘がびっしり生えている。この肉帯は、褐色と灰白色の横縞模様となっており、他の種類との区別点の一つとなっている。北海道の南部から九州南部、さらに屋久島にまで広く分布している。佐渡の沿岸にも普通にみられ、時には食用にされることもある。岩から剥がすと、腹側の方に曲がるので「爺が背」の名が付けられた。アメ(阿女)という呼び名は現在用いられていないが、ジイガセは、使われている。ジイガセゴウの名は、『佐渡州物産』(または『佐渡産物志』『佐州圖』など)、江戸中期享保年間に編纂された『諸国産物帳』の一つや、栗本丹洲の表わした『千蟲譜』文化八年(一八一一)に載せられている。ゴウは蜈蚣(ムカデ)に似ていることに由来する。【参考文献】 「『佐渡州物産上下』に載せられた動物」(『新潟県生物教育研究会誌』二六号)【執筆者】 本間義治

・アラメ(ツルアラメ)(あらめ)
 海藻類の褐藻コンブ科の一種で、和名はツルアラメ(蔓荒布)。日本海特産の種類で、北九州から北海道南部、朝鮮半島など、対馬暖流域の岩礁帯に繁茂する。深さ一○㍍から二○○㍍のところに、群落をつくって生育している。葉は長さ二○㌢ほどになり、板状で、両へりからとげとげの突起が出ていたり、羽状に分かれたものをいくつも出したりしており、葉の両面は皺がたくさんある。茎は細長く円柱ないし針金状で、五㌢から二○㌢に達し、根元(基部)から蔓のように這った根を何本も出している。これらの根の途中や末端からさらに小根が分かれ、岩に付着している。佐渡では、鎌で刈り取り、刻んでそのまま乾燥したり、刻んだものを型枠に入れ長方形に固め、食品として島外へも売り出している。これを板アラメというが、太平洋側の刻みアラメの原料は、近似種のアラメであるが、佐渡には分布しない。板アラメは、調理の前に一旦水に戻してから煮て、醤油や砂糖で味付けする惣菜であるが、祭りの馳走にも欠かせない。【執筆者】 本間義治

・有田記念館(ありたきねんかん)
 相川町坂下町の相川郷土博物館に連結して、昭和四十一年(一九六六)十月三十一日完成した。博物館の中に入り、右側奥の階段を上ると、特別に増築した有田記念館展示室(六間×三間)があり、入口に「本建造物は、当町出身の故元外務大臣有田八郎先生の意志を受けて、畔上輝井夫人が先生の遺徳を偲び、旁々郷土の文化向上に資さんとする、一片耿々の特志によって、建立をみたものである」と説明書がかかる。入館して先ず目につくのが、平和を愛した有田八郎の直筆「何より平和」の色紙で、母校相川小学校の校庭に、この碑が建っている。室内のそれぞれのケースには、有田八郎が活躍した頃(昭和十三年)の各新聞記事・写真・書簡類・恩賜品のかずかずがあり、その中でも天皇陛下に宛てた「戦争終結に関する上奏文」(昭和二十年七月九日)、総理大臣・海軍大臣宛の意見書の写しなどがあり、有田がいかに自分の地位と生命をかけて、平和を実践したかを思い出させる。そのほかには、槌目釜・阿古陀形手焙・耳付花瓶と、その上に「無私」と、大きく書かれた額がかかり、その横に畔上輝井夫人の写真(壁面一杯)、陶磁器類・掛軸、そして日常愛用したチャンチャンコが一枚かかり、質素な生活の一端を伺はせる。【関連】 有田八郎(ありたはちろう)・相川郷土博物館(あいかわきょうどはくぶつかん)【執筆者】 三浦啓作

・安寿塚(あんじゅづか)
 相川からのバスで、鹿野浦トンネルをぬけると、海寄りの田圃のなかに安寿塚が見える。以前は近くの「中の川」の上流に安寿の墓といわれるものがあったと説く古老もいるが、文化十四年(一八一七)の北片辺村大絵図には、安寿塚といわれるその田圃のなかの岩場の上には、「平三宮」と呼ばれる十二権現社が記されている。つまり確たる資料はないが、いつの世にか、古い十二権現が、山本河内掾の文弥節「山椒太夫」(佐渡に写本あり)などの影響を受け、安寿塚伝説にころもがえされたのかも知れない。最古といわれる説経の寛永版「さんせう太夫」には、母の売られいく土地は「ゑぞ」となっているが、寛文版になると、はじめて佐渡に売られ、さらに前記元禄年間の山本河内掾の文弥節になると、安寿姫が佐渡が島へやってくる筋になっている。当地に残るこの安寿伝説は、すでに江戸の頃からあったらしく、寛延三年(一七五○)の『佐渡風土記』(永井次芳編)や宝暦六年(一七五六)に書かれた『佐渡四民風俗』(高田備寛著)、それに文政年間に小泉蒼軒が著わしたという『佐渡国雑志』や、天保十二年(一八四一)佐渡奉行の川路聖謨が書いた『島根のすさみ』などに載っている。【関連】 鹿野浦(かのうら)【参考文献】 『日本伝説大系(三巻)』(みずうみ書房)、『佐渡相川の歴史』(資料集九)、『図説 佐渡の歴史』(郷土出版社)【執筆者】 浜口一夫

・安政の大火(あんせいのたいか)
 安政五年(一八五八)七月二十七日、未ノ刻(八ツ頃・午後二時過ぎ)に南沢町、三之助方から出火して、東南の風に乗り忽ちにして四辺に燃え広がり、上町全部と、下町は羽田町から北を全部焼尽くす、相川始まって以来の大火となった。焼失した記録を見ると、御役所では陣屋・御普請所・辰巳口番所・金銀改役所・惣勝場並荷蔵・床屋・御問吹所・小判所・吹分所・前貸所地方御土蔵・御武具蔵・書物蔵・御金蔵役所・御長屋二軒・御役宅二軒・学問所・牢屋・海府番所であり、その他に地役人の役家一二六軒・使役六軒・町同心一九軒・牢守一軒・寺院一○軒・修験八軒・詰医師七軒・後藤役人五軒・山師五軒・町年寄三軒・御雇町人七一軒・後藤吹所二軒・町会所一軒・鐘撞堂一軒・町屋九一一軒の総数一一七六軒となり、寵数一四八二ケ所・土蔵五二棟であった。この外に府外であった下相川村四三軒の民家と、寺院の本興寺・戸川堂を加えなければならない。奉行内藤茂之助の江戸への報告では、地役人住宅一三五軒、町数三○町の内、家数一三三一軒・寺院一○ケ寺・社一ケ所・山伏家八軒・土蔵五二ケ所、他に下相川村が加わっている。類焼の町名を見ると、南沢町・新五郎町・上京町・中京町・下京町・八百屋町・味噌屋町・会津町・夕白町・弥十郎町・勘四郎町・四十物町・米屋町・長坂町・同心町・羽田町・同浜町・石扣町・小六町・塩屋町・材木町・新材木町・板町・大間町・柴町・水金町・濁川町・下山之神町・北沢町・炭屋町・紙屋町・須灰谷・井戸多兵衛宅迄、下相川村で三三軒、死者四人を出す惨事であったが、牛馬の被害はなかった。小前の者へ救米二五○石を下げ渡した。【参考文献】 「安政五年の火災」(「教育財団文庫・雑書綴り」)、西川明雅他『佐渡年代記』(続輯)【執筆者】 佐藤俊策

・ 安養寺(あんようじ)
 大浦にあり、真言宗豊山派。本尊は阿弥陀如来で山号は金竜山である。開基不知と寺社帳にあり、享保二年(一七一七)佐和田町曼茶羅寺の末寺に改めたとある。享保二十年、それまで無量山といっていた山号を、今の金竜山に改めたという。同寺の縁起によれば、本尊は応永三年(一三九六)、中村惣吉の先祖宗太夫が、本尊岩の海中から拾い阿弥陀浜に揚げ、城ケ沢の安養坊に安置したのが始まりという。この本尊は弘法大師の作で、四国阿波の宗心院に奉ってあったものを、修理のため輸送中に船が難破し、流れて来たという。その後宗心院が来て持ち帰ろうとしたが、「大浦に居たい」と本尊がいったので、宗心院も一緒に大浦に住んだという。年を経て段丘上から現在の地に移ったが、城ケ沢には、「宗心作り」という清水が湧き出ている。【参考文献】 『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 近藤貫海

・安養寺穴釜(あんようじあながま)
 金井町大字安養寺字穴釜六四に所在する、古代砂鉄製錬炉とみられる遺跡。地持院川支流が流れる東またの、やや開かれた沢に面し、安養寺上組の裏山の傾斜面に二基並んであり、そのうちの一基は昭和三十九年(一九六四)十二月六日・七日、金井町教育委員会が発掘調査した。山の傾斜面に、巾約一・二㍍、高さ約一・五㍍、奥行約一・二㍍の横穴がのこり、奥壁には煤が附着して、焼けた径二○㌢のエントツ状の孔があり、天井部には焼けているが、煤がついていない径三○㌢の孔が、それぞれ山の上面にぬけている。横穴の前部は天井部が残らないが、床面は前方に傾斜し、横穴前部へ側壁とともにつづき、さらに奥壁部をまわって左右側壁ぎわには、巾一○㌢の溝が設けられている。また、横穴前部の左右側壁には、位置をずらして一か所ずつ、縦に巾三○㌢位の凹部がある。奥壁から床面と、側壁のつづく横穴前部までの全長は、およそ四㍍ぐらいとなり、横穴前部は操業後、天井壁がとりのぞかれたものであろう。横穴内外には、鉄滓と木炭が多量に出土し、木炭による放射性炭素14の年代測定は、一一五○年 九○年であった。一九五○年を基準年とした、それ以前の年代測定値で、西暦七一○年~八九○年を示す。同様な横穴状遺構は、他に金井町大字大和田の鍛冶ケ沢穴釜、佐和田町大字野坂の野坂穴釜、両津市大字加茂歌代の井戸沢穴釜、加茂歌代の穴釜山穴釜などがあり、安養寺穴釜の相い向いの山地には、安養寺古墳が残る。【参考文献】 計良勝範「安養寺穴釜発掘調査概報」(『佐渡考古歴史』三号)、計良勝範・田中圭一「佐渡国平安期製鉄遺跡の考察ーいわゆる「穴釜」についてー」(『たたら研究』十五号)、同「佐渡の穴釜は古代製鉄跡」(『金属』六二一)【執筆者】 計良勝範

・安養寺古墳(あんようじこふん)
 両津市大字立野字江戸塚五六五にある後期古墳。元禄検地では「エゾ塚」とあり、一部は金井町にかかる。金北山山麓の山間地で、安養寺堤の下方約一○○㍍、地持院川支流の安養寺川左岸台地上、標高約八○㍍に位置する。昭和四十三年(一九六八)十一月二日・三日、山地造林のため、金井町教育委員会によって緊急発掘調査が行なわれた。盗掘されていて、破壊が大きいが、径約一三㍍、高さ約一・五㍍の円墳中央部に、石組の石室一部が残る。石室(玄室)の天井石はすでになく、奥壁に接した東側壁と西側壁の一部、前壁の一部、前壁に接した東側壁の一部がみられるのみで、現存石室の高さ約一・三㍍、巾一・五㍍、長さ三・七㍍である。羨道部は残されていなく、『金井町史』(昭和五十四年一月)では、羽子板型(両袖式)横穴式石室とするが、明瞭ではない。石室内からは、若干の人骨片・土師器の高坏・盌・坏の各破片・須恵器の壷・坏の破片・金環一点・刀子二点・鉄鏃一点が出土し、南側の封土からは、土師器高坏片と土師器盌二点・須恵器片一片の出土があり、七世紀の円墳とみられた。なお安養寺川をはさみ、開かれた水田の相向いの山裾に、安養寺穴釜と呼ぶ砂鉄製錬址とみられる遺構がある。【参考文献】 『金井町史』【執筆者】 計良勝範

・五十浦(いかうら)
 寒戸崎の北側の陰になる小さな村で、延享三年(一七四六)の宗門改帳には、戸口一七軒(本百姓一一・間人一・名子五)、人数一二三人(男六七人・女五六人)、馬一一疋、牛四八疋とある。現在(平成七年)の世帯数は一六戸、人口は三二人である。この村は渋谷弥兵衛が草分といわれ、能登の天平寺(現石川県鹿島郡鹿島町)からきたとの伝承をもつ。地蔵堂は弥兵衛の持仏(本尊は木造の観音様)といわれ、彼は鎮守熊野神社(かっては十二権現という)の鍵取でもあるが、氏神参りの際は、かならずこの持仏の地蔵堂を拝んでから行くことになっていたという。なお、この地蔵堂には不動様も祀ってある。弥兵衛の屋敷は垣ノ内にあり、家の前に水量豊かなヤナ清水が湧く。この清水は、通りがかりの弘法大師が濁り水を清水にかえたとの伝説をもち、「関は澗でもつ岩谷口は浜で、中の五十浦水でもつ」と古謡に歌い継がれてきた。この清水は、村びとの大事な飲み水以外に、新田開発の用水としても貢献してきた。元禄七年(一六九四)の検地帳では、田五町三反余、畑九反余の村であるが、弥兵衛の田畑面積がその内の一町八反余で、村全体の約三○%を占めている。弥兵衛以外に垣ノ内を所有する四郎左衛門・与兵衛それに反別の多い五郎兵衛などが、古い草分衆ではないかといわれている。【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】 浜口一夫

・いが栗(いがぐり)
 江戸時代、寛政十年(一七九八)ころの風俗人情の様子を、三一文字の歌にして、諷刺的に綴ったもの。著者は、谷柄明、通称は谷左中、寛政元年(一七八九)二月から十一年九月まで、佐渡奉行所組頭の職にあった。ほかに、『岩間の水』一巻をあらわしている。引用すると、「多き物医者と寺院と赤とんぼ臼の挽きがら眼やみ瘡かさ」「少なきは火事と地震と気違ひと煙草嫌ひと下戸と銑鉄」「誠実につとむるものは地役人三百人のうちに四五にん」「悪様にいひ立てらるる役人は実意の勤めする者と知れ」などと、その頃の佐渡の様子を、短かく印象深く記している。【関連】 谷左中(たにさちゅう)【参考文献】 『佐渡古典叢書』(一巻)、『佐渡国寺社境内案内帳(全)』、高田備寛『佐渡四民風俗』【執筆者】 山本修巳

・異国船の来航(いこくせんのらいこう)
 一九世紀に入り、ロシア・イギリス・アメリカなどの船が、日本近海にしばしば出没するようになってきたが、嘉永二年(一八四九)七月十九日に、外海府願村沖にアメリカ船とおぼしき異国船が出現した。発見したのは相川海士町の漁師達で、すぐさま真更川浦目付番所に注進された。船から漕ぎ出された二艘の艀に対して、浦目付牧野新三郎が水樽を渡すと、返礼としてビスケット様の菓子一○枚を贈られた。異人の様子は、「面躯白キものも有之、赤キものも有之、肥肉厚く髪之毛ちぢれ色赤く乱髪ニ而、牡丹付之筒抜を着」ていたが、その中に一人、裸で前垂れ様のものだけをかけた奴隷らしき黒人がおり、人々の注目を集めた。佐渡に異国船が出現したという噂はすぐに広まり、新潟表でも大変な評判となった。その後、安政二年(一八五五)四月十七日に、異国船が一里程沖に発見された事が『佐渡年代記』に記載されている。また安政六年には、新潟開港問題に伴ない、その補助港として佐渡の港が注目されて、イギリス船の来航が相次いだ。九月三十日から十月五日にかけて、二隻が夷・小木両港の見分のため来航し、浜梅津から夷湊一帯の測量を行なった。また十月十一日には沢崎港に二隻が着船し、四人が陸路小木番所に現れて、越後今町迄の方角・里数などを尋ねた。更に十月十七日には、松ケ崎港に現れて松ケ崎番所を訪れ、新潟奉行所宛て書簡の送付を依頼して、同日出航した、という記録が見られる。【関連】 獅子城(ししがじょう)【参考文献】 萩野由之編『佐渡年代記拾遺』(続輯)、小泉蒼軒「異国船佐渡渡来一件」(新津図書館所蔵)、『敬信録』(相川町教育財団)【執筆者】 余湖明彦

・石磨(いしうす)
 鉱石粉成用に使う石磨で、上・下セットで挽き、穀物用の石臼とは大きさが異なる。下磨の形態は平均指渡一尺四~五寸、高二尺ばかりで、周囲を少し丸く仕立てる。真ん中に三寸ばかりの穴を穿ち、それに真鉄と云って五六寸の細く打延した鉄を立て、上磨へ輪鉄がはまるようにする。下磨に細工する石は堅く、外海府片辺村鹿ノ浦の、花崗岩質礫岩を用いる。上磨は指渡一尺三~四寸で、高一尺七~八寸ばかりで、周囲を丸く仕立てる。真ん中に指渡三寸程の丸い穴を穿抜く。これは鏈粉を送る穴であり、下に輪鉄をはめ、上・下磨を組み合わせて挽く。上磨の四方に車木と云う丸い穴を穿った木をはめて、この穴にやり木をはめ変えができるように仕込む。やり木は長さ一間程に仕立る。寛永三年(一六二六)からは戸地川で水車により挽いたが、人力より三割大きかったと云う。人力は勝場で廻して粉成するが、粉を細かくするために馬之尾篩で渡し、桶の濁水をねこで流し、同じことを数回繰り返して選鉱する。普通は上と下磨の腰に縄を巻き水を入れて擦るが、銀磨は縄を巻かず乾いたままで摺る。銀磨と他の磨との差は不明である。奉行所の寄勝場跡からは、一五○○個以上の石磨片が出土した。【参考文献】 「本途勝場床屋粉成吹手続大概」(舟崎文庫)【執筆者】 佐藤俊策

・石切町(いしきりまち)
 石細工の町で、下相川村を二つに分けた形で北側をそう呼び、南側は百姓町に区分されていた。現在の相川町大字下相川で、生業のまったく違う石切と百姓が、隣り合って一町が形成されている。ただし現在石屋は三木苗字の「たんごや」(屋号)一軒のみとなった。慶長(一五九六ー一六一四)のころ越中(富山)から「五郎兵衛」という石工頭が来島し、奉行所や山師味方但馬の屋敷の石垣など築いたほか、諸方の石細工もし、しだいに弟子が多くなって石切町が誕生する。五郎兵衛は六右衛門町の大福寺(真宗)檀家で過去帳では「播磨五郎兵衛」とある。見影石で知られる播磨(兵庫)に生まれて越中を経て渡ってきたことになり、大福寺の開山宗俊も越中の礪波から渡っている。前後して見影から「四兵衛」と「源右衛門」の二人が来島し、石切町に住んで元和から寛永(一六一五ー四三)のころ片辺の鹿野浦に新しい石切丁場を開いた。鉱山町で石細工の需要がもっとも多かったのは鉱石搗砕用の石磨で、鹿野浦では下磨用に片辺礫岩を、下相川の吹上げ海岸からは上磨用の吹上流紋岩が大量に切り出された。長坂町や西坂など急斜面にも家がたくさん建ち、屋根石や土台石をはじめ寺社の石垣石など、おびただしい石細工が坂道・傾斜地の多い鉱山町の需要を満した。狭い土地に多くの人が住んだ関係もあって石細工の特別多い町になり、諸国から渡ってきた石切職人によって石切専業の町ができることになる。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集二)【執筆者】 本間寅雄

・石花(いしげ)
 金北山麓に源流をもつ石花川は、延長四キロメートル、下流の灌漑用水や水力発電に利用されている。石花川沿いに走る林道は金北山近くまで延び、途中、平城畑などの遊歩山岳景勝地が広がる。石花の現在(平成七年)の世帯数は五二戸、人口は一七三人である。弘化二年(一八四五)の『佐渡国雑志』によると、その頃の戸口は五九軒、人口は三○○人余とある。素盞鳴神社が現在の社号になったのは明治四年(一八七一)で、それ以前は蘇民将来社といい、朝鮮半島の午頭山麓の午頭天王蘇民将来を祀っていたが、外来人なるが故に変えたという。社人は永野民部家である。以前海府一帯では、戸の口(入口)に蘇民将来と記した厄除けの護符を貼っていた。祭日は四月十五日。鬼太鼓が奉納される。明治の頃、両津市玉崎のものを習ったという。石花城跡は石花北端の段丘上にあり、戦国末期の地頭石花将監の居城であった。海府二二か村(一説には二四か村)を治めていたが、天正十七年(一五八九)、上杉景勝佐渡侵略の際、敗北して吉井の剛安寺に走り、出家して後、諸国を行脚し剛安寺六世を襲職した。なお相川町総源寺は彼の開基である。石花の地蔵堂には土で作られた牛の像が二頭祀られており、相川町海士町の大日堂と共に、牛の信仰・立願かけなどでにぎわった。海府きっての文弥節の古い座語りの太夫佐野一は、石花の土屋清蔵家の出身で、幼くして目を病い、按摩や灸で身をたて、「後尾人形」の太夫岩本快善などの弟子を育てた。【関連】 石花城址(いしげじょうし)・蘇民将来(そみんしょうらい)・石花将監(いしげしょうげん)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・石花城址(いしげじょうし)
 戦国期、外海府一帯の地域を支配した石花将監の居城である。石花集落の北端の段丘先端にあり、二郭よりなる。石花海岸に面した標高三五㍍ばかりの段丘突出部にある小郭は、「城ケ平」の地名をもつ三○㍍×五㍍ほどの楕円形をした畑地で見張所と伝えられている。家老であったという本間惣右衛門家の所持であったため、土地の人は「惣右衛門城」とも呼んでいる。郭の後端は空堀で横断され、この空堀は郭両側斜面へおちる。第二部はこの後方約二○○㍍にあり、標高五八㍍ほどの第二段丘先端に設けられた八○㍍×四○㍍の大きな長方形の水田である。以前は畑であったらしく、「兵五郎畑」の地名をもつ。城主居館の場所は段丘下にあったかもしれないが、この第二郭は主郭的な性格をもった場所と考えられる。城に水がないので、城の女中が下から水を持って上がったのを敵に見られ、夜攻めに逢ったという伝承をもつ。段丘上の城の欠陥を示した伝承である。また相川総源寺では、「将監の城跡は家老本間三家で分けて管理しているが、総源寺が食えなくなったら城址の畑から穫れるもので食ってよい。このことは本間三家とも確認している」と語り伝えている。【参考文献】 『高千村史』、山本仁『佐渡古城史』【執筆者】 山本 仁

・石花炭釜新町(いしげすみがましんまち)
 石花川左岸の川口近くに立地。慶安二年(一六四九)地子帳では「石花炭釜新町」とあり、明暦三年(一六五七)御年貢御地子小物成留帳には「北片辺炭町」とある。元禄検地では、北片辺村に吸収され町は消滅した。慶安二年には地子米六斗六升九合、戸数一四、田畑は所有していない。同種の炭町には、戸地川の左岸にもあり、「戸地炭町」といわれた。いずれも銀山向け入用炭を供給する町。石花炭釜新町とあるが、北片辺地内に立地。近くに近世以前の馬場遺跡、中世末と思われる浄土真宗長明寺屋敷跡などがあり、湊として町屋が建つ。炭町は初期には買石による製錬が行われた可能性があるが、のち相川で行われるようになると炭座商人の町になった。高千方面で生産された炭は、相川の銀山炭役所に送られた。近世中期以降は、炭は村請で生産されるようになったため、炭町は不用になった。製錬用の炭は、野焼法で作ったぼや炭、銅床屋・大吹役所納め炭は堅炭であった。新町には、地子米以外は課せられていないから、銀山に関係する町屋であった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集一・四)【執筆者】 佐藤利夫

・石地河内窯跡(いしじかわちかまあと)
 相川町大字大浦一三七ー一四○の高位段丘南端に位置する。多町川右岸の緩斜面で、標高六○㍍を測る。相鱈池と称する溜池の北側水田下にあって、水田の畦下から遺物が採集できる。遺物の中には、形が整はず曲って使用に堪ない物や、土器の重焼失敗作が出土する。約二○○㍍下には、近世の金掘沢金山跡がある。土地の人の言では、大正年間(一九一二ー二五)に水田の溜池工事の際に完形品などが沢山出土し、減水時には赤く焼けた壁体が見えたと語る。遺物出土の状況から、窯は数体所在したと推定される。器種には、坏蓋・有台坏・無台坏・横瓶・甕がある。坏蓋は外面ロクロ削りで、かえしがかすかに見られる。無台坏の底部は丸みを帯び、外面にロクロ痕が明瞭に残る。甕は叩き整形で、平行具や青海波具を使っている。八世紀前半に属し、九世紀前半まで操業したと考えられ、佐渡で最も古い窯跡で、小泊窯と一世紀の差がある。律令制下における手工業生産体制の整備により、技術導入があったのであろう。技術系譜は、幾内ないし北陸の影響と云うより、東海の可能性が強く、佐渡の須恵器生産は一様ではない。【参考文献】 上林章造・金沢和夫・中川喜代治「須恵器窯址」(『相川郷土博物館報』)、坂井秀弥・鶴間正昭・春日真実「佐渡の須恵器」(『新潟考古』)【執筆者】 佐藤俊策

・石田屯所(いしだとんしょ)
 安政六年(一八五九)河原田本間氏の居城跡に建てられた、海防のための屯所。佐渡奉行の中川忠潔は、安政五年の相川大火で奉行所が全焼したのを機に、相川の奉行所を縮小して河原田に屯所を建設し、武器・食料などを配備して異国船襲来に備え、あわせて越後三藩から援兵の駐屯場所にすることを幕府に建白し、容れられて安政六年に着工した。文久二年(一八六二)に完成すると、同年さっそく新発田藩兵一七八人が来島して、内七五人が屯所に入った。翌三年三月には、高田藩兵二八六人が駐屯し、慶応四年(一八六八)四月二十六日から同年五月九日までは、会津藩士(実は水戸藩脱走兵が主力)約一○○名が駐屯した。明治と改元された十一月に、参謀兼民政方として来島した奥平謙輔は、同月二十一日に相川の陣屋をここに移して民政方役所とし、明治二年(一八六九)九月に来島した佐渡県権知事新貞老が、再び相川へ戻すまで行政の中心が置かれた。現在は、ここに明治三十年六月に開校した県立佐渡高等学校が建っている。【関連】 奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・新貞老(あたらしさだおい)・獅子城(ししがじょう)【参考文献】 『佐渡近世・近代史料集』(『岩木文庫』上)、『佐和田町史』(通史編Ⅱ)【執筆者】 石瀬佳弘

・石田郷(いしだごう)
 大化改新によって律令制が実施されたが、その行政組織として「国郡里」制が施行された(里はその後天平十一年に郷と改称)。里は地方行政単位の末端組織であり、五○戸を以て一里(一郷)とされた。天平初年ころのものといわれる「律書残篇」によると、当時全国では四○一二の郷があり、このうち佐渡は一三郷であった。また十世紀前半ころに編纂された「和名抄」では、全国の郷数を三八○四、佐渡の郷数を二三(高山寺本では一九)としている。「和名抄」の佐渡の郷は、羽茂郡九(高山寺本七)郷、雑太郡八(六)郷、賀茂郡五(五)郷であり、雑太郡の中に「石田郷」がみられる。この石田郷の範囲は、現在の佐和田町全域ほどのものとみられる。現在も佐和田町の内に「石田川」や、大字「石田」などの一部名称が使われている。古代において「石田郷」の郷名が、具体的にみられる史料としては、天平十一年(七三九)に佐渡から納められた調布(正倉院所蔵)の中に、「佐渡国雑太郡石田郷曽根里戸丈部得麻呂」の墨書銘のある一巻である。古代郷は、中世には分解変質するが、佐渡の中世郷名としての「石田郷」の名称は、鎌倉時代の建治元年(一二七五)、身延の日蓮聖人から佐渡の一谷入道に送られた書状の中にみえる「文永九年の夏の比、佐渡の国石田の郷一谷と云いし処に有りしに 」(京都本国寺文書)や、南北朝期康永三年(一三四四)の「石田郷・長木郷・二宮保」(古代の石田郷のうちであろう)三か郷の年貢結解状(本田寺文書)、また同じく貞和四年(一三四八)の虎松(本間季綱)への譲状(夷本間家文書)の中に、「石田郷の内山城左衛門知行の跡」とみえるものや、また室町時代の永享十年(一四三八)、本間季直領地安堵状の中に石田郷金丸半分などがみえる。郷は中世を通して、農村支配単位・農村結合単位として続くが、太閣検地により消えていく。【執筆者】 山本 仁

・石名(いしな)
 現在(平成七年)戸数は五七世帯、人口は一五一人である。宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』には、家数五七軒、人数三六七人となっている。草分は土屋佐次右衛門、通称南といわれ、天文二十一年(一五五二)の創立と伝える観音堂(清水寺に向って右側)を再建し、元禄期(一六八八~一七○三)の名主である。慶長五年(一六○○)の検地帳では式部となってでており、二六八束刈の百姓である。通称北とよばれる安藤甚左衛門は不動堂を祀り、三○八束刈である。そのほか五郎兵が四○○束刈、八郎左衛門が四○一束刈、九郎左衛門が三四一束刈で刈高が多く、古田を有し、村の草分衆と思われる。なお、氏神熊野神社はむかし十二権現といい、本間弥九郎が祀り、石動権現は山口弥五郎、八幡社は山本又十郎が祀り、それぞれの神々をたずさえてきた人々により、村は形成されていった。石名川の上流にある檀特山(九○七㍍)は、清水寺の奥の院で、古謡に「お山(金北山)・檀特山・米山薬師(金剛山)、三山かけます佐渡三宮」と歌われた大佐渡三霊山であり、修験たちの霊場であった。清水寺の脇には檀特山に源をもつ清水が湧き、道行く人ののどをうるおしている。本堂前の両脇には、樹齢七○○年という二本のイチョウの大木がそびえ、かって寺の火災を鎮火したとのいい伝えをもつ。清水寺は『佐渡国寺社境内案内帳』によると、開基は弘法大師、大同二年(八○七)草創と伝える。【関連】 清水寺(せいすいじ)・檀特山(だんとくせん)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、山本修巳・酒井友二『佐渡古寺巡礼』(新潟日報事業社)【執筆者】 浜口一夫

・石名越え(いしなごえ)
 石名から、加茂地区の馬首に至るトネ越えの道である。両津湾側からいえば、馬首越えということになるのだが、馬首からは大倉・矢柄・関に通ずる道もある。石名越えは、石名川沿いにかなり奥まで登ると、カンバ沢に達する。そこから檀特山道と馬首越え道とに分れ、左手(東側)の道が石名越えとなる。沢の近くまで山田があるので、その辺りまでは農作業や堰番の者が通う、よい道であった。山田の近くには、地蔵の石仏が立っていて道しるべになっていた。マトネ(峠の分水嶺にあたる場所「マトネ」の項をみよ。)のすこし手前に大山平があり、さらに手前には休み場もある。マトネの標高は六七五㍍で、檀特山頂は九○七㍍であるから、ちょうど西側に檀特山や金剛山(九六二・二)の山頂を望みながら、馬首川の方向に降ることになる。峠ふきんには、石楠花の群生がみられる。【関連】 マトネ(まとね)【執筆者】 本間雅彦

・石名清水寺の大イチョウ(いしなせいすいじのおおいちょう)
 相川町石名の、清水寺の境内にある大イチョウ。本堂の前に相対してある二本のイチョウの大木であるが、二本とも雌株でギンナンをつける(平成十一年六月、相川町の天然記念物に指定)。このイチョウについて、羽茂森林組合の発刊した『佐渡郡名木抄』(昭和二十四年・一九四九)には、次のように記される。一番のイチョウは新穂清水寺門前屋敷の「弘法のイチョウ」(胸周二五尺、七・五㍍)、二番は小比叡蓮華峰寺の「弘法のイチョウ」(胸周一七尺、五・一㍍)、三番は高千村の「石動神社のイチョウ」(幹周一五尺、四・五㍍)。四番がこの石名の「清水寺のイチョウ」で(幹周一四尺、四・二㍍)。大正十四年(一九二五)の調査では、一五尺と一四の二本あり、樹高六○尺(一六㍍)、推定樹齢三○○年と記される。その沿革について「清水寺に於て元禄初期(一六九○頃)の頃植裁したもので、目下記録等不明なるも、本寺の至宝のひとつに数えられて居る」と。また明治年代に、石名の村を三分の一焼失する大火があり、その時既に大木となっていたイチョウが、水を吹いて村を守ったと伝えられている。【関連】 清水寺(せいすいじ)【参考文献】 伊藤邦男「佐渡巨木と美林の島」【執筆者】 伊藤邦男

・石扣町(いしはたきまち)
 古記では「石碎町」と書いた。「いしゃたく」は「いしはたく」の訛音で、「はたく」は「たたく」の方言である。町名は、鉱石を碎石する者たちの居住によるものと思われる。町役場のある塩屋町のほうから石扣町に入ると、ここから道幅が狭くなり小六町までつづく。東側の崖上に、新西坂町のホテルがあり、さらにその上は広間町に接する。天理教分教会・ホテル・整骨院などがあり、店舗と民家が混在する三二世帯ほどの町である。文政九年(一八二六)の「相川町墨引」によると、銅床屋定番役・同世話煎・勝場仕事師などの肩書がみえるほかは、特別な職種の者はみあたらない。【執筆者】 本間雅彦

・石動神社(いするぎじんじゃ)
 後尾の梅川にあり、祭神は火潜尾命である。『佐渡国寺社境内案内帳』には、当社の勧請は天文七年(一五三八)とある。海府筋には、願・北鵜島・小田・石名・小野見などに石動権現が見え、本社は石川県と富山県境にある石動山(高さ七○○㍍)上にある伊須流岐比古神社という、式内古社であるという(『海府の研究』)。寛文十二年(一六七二)の「後尾区有文書」には、後尾村の立ちはじまりの氏神は、熊野権現・日野尾権現(白山権現)・石動権現・羽黒権現・十二権現の五社があげられ、修験の多くが後尾村に関係し、山伏の拠点地を思わせる。後尾村は佐渡一高い金北山の影をうつすという、影の神の巨岩信仰もあり、影の神はかって、金北山権現の海府側の里宮であったともいわれ(『島の神・島の仏1』)、女人を遠ざけた女人禁制の霊地でもある。石動神社は、沖を通る和船の帆下げ伝説を持ち、祭日は以前九月十二日だったが、今は四月十五日、鬼太鼓を奉納する。鬼太鼓は各戸をまわり、天狗とアメゼエが加わる。【関連】 影の神(かげのかみ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】 浜口一夫

・伊勢常学院(いせじょうがくいん)
 本山派(聖護院末)山伏。明治四十年ごろ廃絶したとされる。そのころ大工町にいて「熊野山聖王寺、織田常学院」と称したが、文政九年(一八二六)の「相川町々墨引」でも「修験・常学院」とあって、大工町にすでに移っている。もともとは上相川九郎左衛門町にいたらしく、同町の明暦二年(一六五六)の宗門帳から、かなりの来歴を読みとることができる。「熊野山伏・伊勢常学院」とあって、初代は寛永八年(一六三一)熊野山(和歌山)からの来島で、当時三四歳。伊賀左京(三五歳)という山伏も同行した。同じ年に伊勢清くん(四七歳)同国慶宝(四八歳)同国清景(三二歳)伊賀利貞(四五歳)同国智養(三四歳)の五人の女性も来島したらしく、それぞれ九郎左衛門町に住んでいる。熊野の山岳信仰を布教するための山伏が、熊野比丘尼とつれだって相川へ集団出稼ぎしていたことを示し、以前は同じ上相川の柄杓町にかたまって住んでいたとも伝えている。相川にあらわれた修験は、文政九年まで本山派・当山派合わせて一三軒が残り、鉱山繁栄の祈祷などを業としていた。文化十三年(一八一六)の記録では、北狄・戸地・北川内・入川・千本・高下・小田の七村が常学院の檀那場で、家々の荒神祓(はらい)をし、初穂米一石七斗を得ている。なお常学院は山師の依頼で明治元年(一八六八)に稲荷大明神、同二年に間歩の鎮守祭にも招かれて、それぞれ永代祈祷をしている。金井町泉の後藤家は、常学院の遠縁に当たるとされ、この山伏が伝えた「那智参詣曼茶羅」「熊野観心十界図」の二軸のほか、本尊如意輪観世音菩薩立像・懸仏・熊野山の山号図・神楽道具など数多い宗教資料を家蔵している。【関連】 柄杓町(ひしゃくまち)【参考文献】 榎本千賀「佐渡と熊野比丘尼」、萩原龍夫『巫女と仏教史ー熊野比丘尼の使命と展開』【執筆者】 本間寅雄

・磯うつ波(いそうつなみ)
 佐渡の観光宣伝の先駆者ともいえる、眼科医川辺時三が中心となって組織した、佐渡みやげ物研究会の会報。大正十一年(一九二二)に、新潟で開催された全国みやげもの陳列会に参加した川辺は、佐渡産物の発展の必要を考えた。翌年、「佐渡土産の研究に依る佐渡郡の芸術及び産業の発展」を目的として研究会を発足させ、事務所を金井町大字中興の川辺宅に置いた。大正十三年に第一回の総会を開催、賛助者には、本間琢斎・宮田藍堂・伊藤赤水・三浦常山らがいた。会報は、順徳上皇が真野で詠まれた「いざさらば磯打つ波にこと問はむ おきの方には何事かある」の御歌にちなみ、「磯うつ波」と名付けられた。大正十四年七月四日、創刊号(六八頁)が発行され、執筆者には岩木擴・柏倉一徳・竹中成憲・夏目洗蔵・石井四山・中川喜一郎・臼杵長次郎・本間琢斎等が寄稿し、民謡団体「あらなみ会」の記事が掲載された。翌年の九月二十五日に発行された第二号(八四頁)には、川辺時三・竹中成憲・佐々木象堂・石綿政治・斎藤侃・原信之が寄稿している。佐渡みやげ物研究会会則では、年二回の会報発行と、必要に応じての増刊号の発刊をうたっていたが、発行は遅れがちで、第二号誌上で内容予告されている第三号・第四号が、実際発行されたかどうかは確認できない。【関連】 川辺時三(かわべときぞう)【参考文献】 本間雅彦「荒波会と眼科医の川辺時三」(『あまほっこり』八号)、北見継仁「川辺時三翁ー佐渡観光宣伝の先駆者」(『いきいきライフ』一号)【執筆者】 北見継仁

・磯ねぎ(いそねぎ)
 磯近くでする漁のことをいう。水津~岩首あたりでは磯なぎという。漁船はカンコまたは磯船といい、小木三崎の一部ではハンギリをつかう。漁獲物は若和布などの海藻・蚫・栄螺などの貝類、蛸や根つき魚などを採る。漁獲物が商品化される前は、海村では陸上に耕地を開いて、生業の中心が農業に移ってからは、農閑期の自給用の漁業であった。さらに中古の時代にさかのぼれば、海辺で捕採された海藻や漁貝類は、神饌用に供せられるために行われていた。若和布の採取は「おんべ」という慣行を伝えているし、若和布や蚫は神饌用に中央に送られた。祝い魚に磯ハチメを供えるところが少なくないことも、磯ねぎは単なる漁業ではなかった。神に仕える弥宜・祝などの氏を称する者は、かって自ら海に出て神饌を採っていた者であろう。両津市平沢の祝、小木半島の宿根木などの先祖もそうだったのであろうか。この磯ねぎがやりやすくなった道具に、ガラス箱の発明がある。海底をさぐるに便利なガラス箱は、宿根木の船乗りが大坂から持ち込んでからだといい、小川の漁師が冬漁に内海府へ行って、夷からガラスを買い求めて帰ってからだというが、いずれも明治二十年代のことである。【参考文献】 佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】 佐藤利夫

・板取り(いたどり)
 「本途勝場床屋粉成吹手続大概」に「板取之事」の記事がある。それによると、「板取の者が使う汰板は朴か桂で、一尺四五寸四方に縁を三寸ばかりつけ、中凹みに仕上げる。磨やねこ流しの磨りものを汰るのに使う。汰板で汰ると、砂は先へ落ち、汰物は板に留まる。これを小板鉢という桶に溜めて汰返すと、さらに砂は先へ落ち、汰物の内より水筋は板の前へ汰寄り、汰物は中程に溜るので、汰物を小板鉢に入れ、板の前に寄った水筋は、まだ汰物が混じっているので、水筋鉢に入れて溜め置く。水筋の溜り具合により、板で汰ると水筋と汰物が分離する。これを筋揉と云い、水筋は前の器物に入れ、汰物は銀に吹立る。しかしこの汰物は他の汰物と違い、少し筋気があるため別にして吹く。汰物は買石が仕事を終り次第に目方を掛け、帳面付けして役所で改め、戸前へ符印を付けて汰物置場へ入れる」とある。板取は勝場粉成の中で、汰板を使って汰ることを仕事にする者を云い、汰板は朴か桂を用いて四五㌢四方に縁を付け、中凹みに造り汰ることになる。【参考文献】 「本途勝場床屋粉成吹手続大概」(舟崎文庫)【執筆者】 佐藤俊策

・板町(いたまち)
 大間町・小六町と材木町にはさまれた、四戸ほどの小さな町が板町。大佐渡スカイラインの入口の角にある、「板町橋」の南側に位置する。『相川町誌』によれば、「板町は当時陸地頗る広く、慶長の末、西側に光楽寺を創建し基地をも設けたる程なりしが、其の後風浪の浸蝕する処となり」とある。昭和二十年代までは、道路の浜手側にも人家があったが、高波の浸食などがあって立退いたあと埋立てられて、現在は町民体育館が建っている。【執筆者】 本間雅彦

・板屋(いたや)
 板で葺いた屋根。茅葺きの家が多いところでは、板屋は特別な家であったので屋号にもなった。文化十三年(一八一六)村大絵図にも板屋根とクズ屋根(茅葺き屋根)の家は区別してあり、村大屋が板屋根の場合が多かった。大佐渡の北海岸は北西風が強く、クズ屋根は不向きで、国中にくらべて早くクズ屋根は消滅し、海府は板屋根に変わった。板屋は木の薄板(木羽)で葺いたもので、村大屋の板屋は大板葺か栩板葺・小板葺であって、持山から伐りだした材料で葺き、それを横木で押えたものであった。後世になると木羽葺き・石置き屋根といって、長さ一尺三寸(三九㌢)、幅三寸(九㌢)、厚さ八分位(二・四㌢)の薄い板(木羽)を三寸くらい重ねて葺く。材料は丈夫な栗の木が多かった。文化年の板屋は石置き屋根ではなかった。石は木羽が風で吹きとばぬために置くのであって、三年おきに屋根をはぐって悪い木羽を補修するので釘は使わない。木羽屋根の葺き替えは五、六軒が結(ゆいのこと)にして夏に行う。葺き替えは一日で終了する。海府は大正中期頃まではクズ屋根が多く、その後木羽になり戦前にはほとんどが木羽屋根になった。戦後になると瓦葺きにする家が急増した。各集落には木羽葺き職人がいて手に入れやすかった。葺き替えに労力交換による自前の葺き替えが行われていたことに特徴がある。クズ屋根葺きも同様であった。【参考文献】 佐藤利夫「住い紀行」(『佐渡国』)【執筆者】 佐藤利夫

・市町(いちまち)
 四町目浜町と、新浜町の間にある小さな町。住宅や飲食店など数戸のほか、Aコープ・修養団道場などがある。宝暦(一七五一ー六三)頃の書『佐渡相川志』に、米屋町で魚屋を営んでいた庄三が、在郷から魚売りにくる者から魚役の徴集を請負ったこと、また在郷の青物売りたちの朝市が立ったので、市町と名づけたことが書かれている。【執筆者】 本間雅彦

・一里塚(いちりづか)
 公路の両側に対で一里ごとに設けられた塚で、一種の路程標である。その最初は、一般的には徳川秀忠が慶長九年(一六○四)江戸日本橋を基点とし、東海・東山・北陸三道に設けたものという。旅行者に益することも少なく次第に廃壊し、天明ころ(一七八○年代)には原形を失うもの大半に及んだといわれる。佐渡の一里塚の築造は大部遅れる。「佐渡年代記」には、承応二年(一六五三)相川羽田町札ノ辻を基点として一里塚を築くとあり、「佐渡志」には明暦(一六五五~五七)に伊丹奉行が三郡郡界を定め一里塚を築いたとある。一里塚は、小木道中・赤泊道中の二線が主であるが、それ以外にも遺構や地名がみられるものがある。小木道中では、沢根中山(両側)ー窪田(消失)ー八幡辰巳(消失)ー豊田(消失)ー大須(消失)ー西三川(片側)ー小泊(片側)ー村山(両側)ー小木(両側)。赤泊道中では、豊田の次が静平(消失)ー川茂(消失)ー浦津(消失)となっている。他に松ケ崎道中・前浜道中にも地名が残るし、海府道中では達者と後尾に一里塚の地名がある。明治維新後、一里塚の里程が往々不正確なものがあるためこれを改定したが、同九年(一八七六)内務省令によって、各街道の一里塚の適宜廃壊を府県に令達し、無害有益のものだけを存置したといわれる。【参考文献】 本間周敬『佐渡郷土辞典』、本間三次「佐渡一里塚考」(『佐渡誌』)【執筆者】 山本 仁

・一町目(いっちょうめ)
 市街地中央部の羽田町の南につづく主要な商業地域。山手に裏町が、そして海手に浜町があって町名を別にしている。一町目の歩道にはアーケードがかけられ、毎月の十日と二十二日の羽田市には、ここにも露店がならぶ。また七月二十五日の鉱山祭には、おけさ流しの民謡広場にもなる。現況では建物が四○棟近くたち、ビルや階上貸店舗・住宅など合せると、五○世帯ほどが居住している。元禄七年(一六九四)の検地帳では、町屋敷七反六畝二四歩とある。山手の一町目裏町は、すでに慶安の地子帳に載っているが、同浜町の名はない。【執筆者】 本間雅彦

・一町目浜町(いっちょうめはままち)
 町中央部の臨海地帯。東側を県道佐渡一周線が南北に走り、この県道を隔てて西側に、新潟県建設業協会相川支部が建つ。建設業労災防止協会新潟支部佐渡分会・新潟県火薬類保安協会佐渡支部が同居する。このあたりは、戦前まで人家が建てこんでいたが、昭和初期の浜石採取で立ち退いた。ガレージを隔てた南端は、県相川土木事務所の倉庫、材木店などがある。元禄七年(一六九四)の屋舖検地帳には町名が見えるが、それ以前の慶安期の地子銀帳には、見当らない町である。【関連】 浜石(はまいし)【執筆者】 本間寅雄

・一町目裏町(いっちょうめうらまち)
 繁華街「天領通り」の、一町目の裏側。北が羽田通り、南は赤川(間切川)をはさんで二町目裏町と隣り合う。南北に通る狭い町道の両側に人家が建ち、西側が主に住宅街、東側に町営駐車場・歯科医院・浄土真宗の永宮寺などが建ち、山手の江戸沢町に接続する。慶安二年(一六四九)の地子銀帳には「一丁目後町」とあり、元禄七年(一六九四)の検地帳では、「裏町」と変わっている。【執筆者】 本間寅雄

・出雲屋(いづもや)
 相川の宿屋でもっとも古い歴史を持っていた。終始二町目の東側にあって、近年廃業したが、その地にホテル「天領」が開業した。屋号は、先祖の出身地「出雲」(島根県)の国名に由来する。屋号御免になったのは文政二年(一八一九)のことで、「旅人宿、貮町目、庄右衛門」と記述されている。出雲からの来島の時期はわからないが、宝暦年間の羽田番所の問屋名簿に「出雲屋庄右衛門」が見え、すでに屋号を持っていたことがわかる。問屋業も営んでいた。この町の郷宿の一つになるのは宝暦三年(一七五三)で、郷宿は五軒指定されていて、訴訟や願いごとで相川へ出向く在郷の人たちが、地域によって泊り宿を割り当てられる。隣接してあった「たつみや」なども、古くはその郷宿の一つだった。他国からの旅行客が泊る、いわゆる「他国旅人宿」も、奉行所からの許可制だったらしく、文政十年(一八二七)六月の記事に、二町目の大和屋運平・出雲屋庄右衛門、四町目の茂右衛門の三軒が許されている。大正十二年発行の『佐渡案内』(佐渡日報社)に、「竹雲館、いづもや」と変った広告が出ている。著名人が多く宿泊していて、天明元年(一七八一)の五月二十八日から六月一日まで、高名な木食行道が止宿したことが、木食自筆の「国々御宿帳」に見える。また昭和十三年の「佐渡名鑑」(佐渡毎日新聞刊)の広告では、当主竹田栄太郎の紹介で「佐渡最古の旅館」とし「吉田松陰・蒲生君平らが宿泊した歴史を持つ」などと述べてある。【執筆者】 本間寅雄

・出判(いではん)
 出御判ともいう。近世、佐渡だけに設けられた他国出入人取締りのための制度。年切の出帰出判と、帰国しない出切出判があった。江戸初期には、金銀の濫出と鉱山従業者の流出を防ぐ目的で設けられた制度であるが、他国へ身上稼ぎに出る者が増加する時代になると、「正徳三年諸役人勤書」にみられるように、他国出判割付人数が定められた。村高百石につき一人とし、高人数七五九人、内町方五一人・在方四三五人・松前行の者二七三人とした。この外高外出判許可者は、諸役人・飛脚・御雇町人・医師・僧侶神職修験・廻船乗組人・身上稼ぎ人・職人・病気療養湯治人などであった。本人の村・名前・年齢・目的・帰国期月が記され申請し、奉行所の出判役が毎月一・五日の日に他国出(出帰)切手といわれた旅行証を発行した。これを湊の番所または浦目付所へ差出して、乗船の許可を受け出国した。享保期(一七一六ー三五)には、荷物改を行ったこともある。嘉永元年(一八四八)五十里本郷村金子弥五右衛門の旅日記では、「三月八日出立、十月切松前稼の出判を申し受け、菩提所常念寺より諸国宿々の寺往来持参致す」とある。旅行中は菩提所発行の往来手形も持参した。帰国の際には、この切手を番所または浦目付所に出し検査を受けて帰宅した。【参考文献】 橘法老『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社)、岩木拡『佐渡国誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】 佐藤利夫

・稲鯨(いなくじら)
 二見半島の南端の集落。純漁村集落として中世末に成立。元禄検地帳には村高二二七石余、うち田高一九石余・畑高二○八石余。寛政元年(一七八九)、漁船一○○艘、戸数一八六、人口七四七。神社は神明社、三ケ一除米はない。享保十六年(一七三一)、稲鯨・橘・高瀬各村の鱈延縄漁師一二艘が、下鱈場つけ場所の山当てによる協定をしている。近世初頭のつけ場所の再確認をしたものであった。この鱈場の権利は、各村の草分け百姓が所有していた。集落は、この鱈場漁師が渡来した時期に成立した。屋敷地は、北から砂原・西・中の間・中家・東および新田となっており、それぞれに一○人衆といわれる重立が居住していた。古漁師は砂原・西の方に住み、中の間・中家は湊、東はイソネギ漁師。新田は近世中期以降の成立。新田・東以外は、浄土真宗専得寺檀家。いずれも各地からの寄留者で、多くは能登・越前・若狭方面からと想像されるが、紀州岩崎村ともいわれる。鎮守は、当初は砂原の神明社であったが、のち北野天神が祀られた。いずれも寄り神で、小木三崎の場合と同様、海からのかかわりが深い。東地区は農業も行なっているが、段丘崖下にある権現清水を利用。能登の石動山の山伏が渡来して、百日の日照りに水が湧き出たものという。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五・八)【執筆者】 佐藤利夫

・稲鯨祭り(いなくじらまつり)
 祭日は八月二十五日で、鎮守は北野神社である。参加する芸能は、砂原・西組の屋台、東・中村組の太鼓と豆まき、新田組の獅子。天狗(猿田彦)は各地区のもちまわりである。祭り当日の朝、まず神輿がムラはずれの御旅所に渡御される。御旅所は、新田と砂原の二か所にあり、往復の順路は毎年交代となる。この渡御のはじめ、しめ縄を切るのは中村の太鼓組である。この太鼓は、相川・善知鳥祭の大工町の太鼓によく似ている。太鼓組の次に出るのが、西組のタナ(屋台)である。タナの上で芝居や踊りの芸をする。それに続いて砂原組のタナが出る。次は東組の太鼓であるが、昔は太鼓と共に豆まきや棒振りも出たという。最後は、新田の獅子舞でしめくくられる。これらの芸能が一応奉納されると、神輿の渡御となる。神輿の還御は夜の行事となる。神輿が各組を通っていくと、各組とも神輿を長く止めおこうと還輿のじゃまをし、押しあいとなり、けんかさわぎになることが多かった。そのため「けんか祭り」の別名があった。還御の神輿かつぎは白装束で、キヤリの唄にあわせ、それらを押しのけ、一進一退を続けながら、夜あけがたムラはずれの御旅所にたどりついた。昭和四十九年(一九七四)八月一日、相川町の「無形民俗文化財」に指定された。【関連】 北野神社(きたのじんじゃ・稲鯨)【参考文献】 田中圭一編『佐渡芸能史(下)』(中村書店)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 浜口一夫

・入会(いりあい)
 山林・原野・河海などで、一村または複数の村々の住民が、同一区域(水域)を利用して、生活・生産資材を取得することまたはその区域をいう。佐渡においては、山林・原野の入会地は「入会野山」「入会山」「村仲間山」「村仲間秣場」などの用語が使われた。江戸時代の入会山は、海辺の村で多くみられる一村の住民が共同で利用する形と、国仲地方に見られる数か村から一○か村を超す村々の住民が、共同で利用する形があった。新保山・新穂山・和泉山・吉井山などは、後者の例である。一村住民の入会山の中には、はじめ有力農民にだけ入会権を認める形のものもあったが、時代とともに全住民に入会権を認めるようになる。江戸時代に入って、人口増加・新田開発、特に相川鉱山の繁栄による林産資源の需要増加と、御林(幕府直轄林)の増設などによって山林の利用がすすみ、一七世紀に入ると隣接する入会山間の競合から、山論が各所で発生した。山論は当事者間の話し合いで解決できず、訴訟になる場合が少なくなかった。沿岸漁場の入会権は、その郷村の地先水域において、一村住民全員の入会権が認められ、他村の地先を侵犯することは違法とされた。ただし姫津村の漁師は、初代佐渡奉行大久保長安から、佐渡沿岸水域すべてにおける漁業権を認められ、また相川海士町漁師は、江戸中期以後長崎廻し俵物の生産のため、海鼠・鮑漁を全島沿岸水域で漁獲する特権が認められていた。【執筆者】 児玉信雄

・色着(いろき)
 イロとは葬式のとき、死者の近親者がつける喪服に対する忌みことばといわれ、葬儀に参列する近親者のことを「イロ着」という。昔は男のイロ着は、三角の紙を鉢巻にはさみ(後には襟にはさむ)、女はイロキガミ(タバネガミまたはサェヅチともいった)を結い、白い布のイロボウシをかぶった。相川町大倉では、白いイロボウシをかぶらぬイロキの女は、オキテテヌグイといい、黒い鉢巻をしめた。同町稲鯨では、男は手拭い大のサラシを首にかけ、先を結んだりした。ノベオクリの濃いイロキは、男女とも藁のツガエオビをし、裸足の所が多かった。が、その後時代が進むにつれ、ゾウリ・ゲタ・靴などを履くようになった。ノベオクリにゾウリを履くようになると、相川町岩谷口では、コワワラでアシナカゾウリを二足作り、その一足を棺に入れ、残り一足を喪主が履き、ランバ(焼き場)でそのゾウリを焼き捨て、喪主も帰りは裸足になった。濃いイロキは往復とも裸足であった。同町橘では、ノベノオクリに使うゾウリをノゾウリといい、ゾウリの尻を切って履いた。同町達者ではソウレンゾウリといい、鼻緒に白い紙を巻いた。海府方面では、葬式のとき、イロを着る家の名前をイロチョウ(香典帳)に記してもらうことを、イロツナギという。【参考文献】 山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)、『佐渡百科辞典稿本』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫

・岩木文庫(いわきぶんこ)
 史料(四一○点)。金井町立金井図書館所蔵。明治四十年(一九○七)佐渡郡役所が、佐渡郡教育会の建議をいれて『佐渡国誌』編纂事業を開始したが、その時編纂の任に当たった岩木拡が収集した郷土史料。国誌編集は、当初の計画が大巾に延び、ついに大正四年度をもって中止となり、作業終了の一巻のみが刊行されるにとどまった。その後岩木は佐渡を離れ、残された史料は、旧佐渡支庁二階廊下の書棚に保管されていたが、戦後金沢村立図書館(現金井図書館)に移管され、現在にいたっている。史料は、昭和二十八年(一九五三)に橘正隆(法老)が整理して目録を作成したが、その後田中圭一らによって再整理された調査目録が、平成三年に金井町から刊行されている。さらに平成六年から七年(一九九四~九五)にかけて、近世近代の史料の中から、史料価値の高いものを選び、『佐渡近世・近代史料集ー岩木文庫』上下二巻が、金井町教育委員会から出版された。【関連】 岩木拡(いわきひろむ)【参考文献】 『岩木拡文庫調査目録』(金井町教育委員会)、『佐渡近世近代史料集ー岩木文庫(上・下)』(金井町教育委員会)【執筆者】 酒井友二

・岩崎町(いわさきまち)
 『佐渡相川志』によると、相川町の旧市街地の町名には、岩崎町と呼ぶ町名と、それとは別に次助町の一角にも、岩崎町と呼ばれるところがあったように書かれている。前者は、上相川の茶屋平というところの下のほうとなっているから、すでに居住地としては死語となっていて、地図で確認する以外に位置を知ることはできないが、次助町というのもそことは地つづきなので、同一地名なのかもしれない。その次助町のほうは、大工町から上って諏訪町の手前で右へ折れ、元の日蓮宗・覚性寺や妙伝寺(ともにのちに上寺町にあって、前者は朽壊、後者は福島県磐城に移る)のあった辺りの町名である。『佐渡国寺社境内案内帳』によると、「妙伝寺は根本寺末、開基慶長九辰年日清といふ僧攝州より渡海、上相川岩崎町に菴を建て法花堂と云ふ。云云」と書いてあるから、この寺跡こそが岩崎町であることがわかる。しかし同寺はその後大坂町に遷った。【執筆者】 本間雅彦

・イワノリ(ウップルイノリ)(いわのり)
 岩海苔は、海藻類の紅藻に属し、一般にアサクサノリと呼ばれている種の仲間で、ウップルイノリ・スサビノリ・クロノリなど、岩礁に自然に繁茂しているものの総称である。日本海側の岩礁では、ウップルイノリがもっとも多く着生するので、コンクリートで海苔場を造成して、冬季に着生し易いようにし、採取する。これらアサクサノリ類は、夏は発芽した胞子が糸状体のまま、死んだ貝殻などの中で過ごす。秋にまた胞子となって放出され、岩や「海苔ひび」などに付着して幼体となり、冬に生育する。薄く紙状にすいて干しのりにしたり、佃煮にして食用とする。佐渡では、正月の雑煮の具としても欠かせない。【関連】 雪海苔(ゆきのり)【執筆者】 本間義治

・岩間の水(いわまのみず)→ 岩間半左衛門(いわまはんざえもん)

・岩谷口(いわやぐち)
 現在(平成七年)の世帯数は二四戸、人口は五九(男二八・女三一)名である。宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』には、家数二四軒、人数二二一人となっており、幕末の慶応三年(一八六七)の「宗門人別帳」には、戸口二五軒、人口一五二名(男八一・女七一)、牛一○二疋、馬一二疋となっている。現相川町の最北端の集落であるが、海浜は広い砂浜で、夏場はキス漁と海水浴客でにぎわい、民宿も多い。集落の北側は大佐渡山系の岩山が断崖となって海に落ち、跳坂(古謡の白眉「跳坂の石も殿が踏んだかとなでてみる」がある)とよばれる陸路の難所となっていたが、昭和四十四年、両津市真更川へ向けての基幹線林道の開設で、バスが通るようになった。跳坂の突端、押出岬から岩谷口・関崎方面への眺望はすぐれ、与謝野鉄幹の「波寄せて海府の海のふくらめば、岩踊るあり歌へるもあり」の歌碑がたつ。岩谷口は村の中央を流れる小川をはさんで、北側の岩谷衆と南側の土船衆とが集ってできた村といわれ、岩谷口の村落名の起源は、この岩谷衆の存在によるといわれている。岩谷衆の草分は、谷口弥藤右衛門・矢部源四郎・田中治左衛門などといわれ、弥藤右衛門は岩谷大明神を祀り、源四郎は岩谷洞穴前の観音堂をもつ。土船衆の草分は、土船大明神を祀る船登源兵衛といわれ、古くは海稼ぎを主とした集団といわれている。村の中央の段丘崖下に船登岩陰遺跡がある。北側のはずれの岩谷山洞窟には、弘法の投げ筆伝説があり、この洞窟は小木町の宿根木の岩屋山に通じているともいわれている。そしてこの洞窟は、夏場、真更川の山居の地で修業した弾誓・浄厳などの、木食行者たちの冬籠りの場ではなかったかといわれている。【関連】 岩谷口岩陰遺跡(いわやぐちいわかげいせき)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、田中圭一他『佐渡』(原書房)、『佐渡相川の歴史』(資料集九)【執筆者】 浜口一夫

・岩谷口岩陰遺跡(いわやぐちいわかげいせき)
 相川町大字岩谷口字二ツ岩七九の丑にある岩陰遺跡。船登源兵衛家宅地裏で、大佐渡山脈の山裾の集塊岩を浸食してできた、洞窟状の岩陰に形成された遺跡で、昭和二十七年(一九五二)一月、計良由松が発見し、船登家の名前をとって船登岩陰遺跡としたが、岩谷口岩陰遺跡ともいう。海岸からは約一五○㍍の位置で、岩陰は入口巾七㍍、高さ三・七㍍、奥行五・二㍍で、奥に行くに従い低く、最奥部は五○㌢にも達しない。東側隅からは湧水がある。昭和二十七年七月、佐渡古代文化研究会によって発掘調査が行われている。第一層の表土からは、土師器および須恵器の破片と、やや下層からは弥生式土器(千種期)や、獣骨・魚骨・貝類がみられ、二層と三層の間層をおいて、最下層の第四層は黒色砂層をなし、縄文晩期(大洞A式)の土器片と、石鏃・石錐などが発見された。また、この最下層からは大小不揃の自然石を、不整形に配置した遺構も発見された。船登岩陰遺跡は、外海府海岸の岩陰に、縄文晩期・弥生末期・土師器および須恵器の時期に、断続的に利用された遺跡としての特色をもつ。他に製塩土器の破片の出土もあった。【参考文献】 亀井正道「佐渡岩谷口岩陰遺跡について」(『石器時代』三号)【執筆者】 計良勝範

・岩谷口磨崖仏(いわやぐちまがいぶつ)
 相川町大字岩谷口の海岸に、海に向って直角で南面して、高さおよそ三○㍍の断崖があり、その裾に二つの洞窟がある。洞窟はいずれも入口の高さ五、六㍍、間口三、四㍍で、海側から奥の第二の洞窟に、六字名号の磨崖仏が二躰刻まれている。そのうち一躰は、洞窟入口頭上岩壁にあって、「南無阿弥陀仏」の文字の下に蓮華座も刻み、弘法大師の投げ筆によるものと伝説している。もう一躰は、洞窟内の右壁にあり、浄厳上人の利剣名号で、「南無阿弥陀仏」の他に、「浄厳(花押)」や印形の彫り込みもある。浄厳上人は、浄土宗総本山知恩院七十二世となった上人とする説があり、天保年間に佐渡へ来ている。洞窟入口頭上岩壁に刻まれた名号磨岩仏は、天正十八年(一五九○)に佐渡へ渡った弾誓上人が、慶長年に檀特山に籠って、悟りを開いたおりに刻んだか、また、浄厳上人が後に弾誓自筆名号の写しを刻ませたとする見方もある。【参考文献】 田中圭一「佐渡近世念仏教団覚書」(『佐渡ー島社会の形成と文化』地方史研究協議会・雄山閣)、宮島潤子『万治石仏の謎』(角川書店)【執筆者】 計良勝範

・岩屋山洞窟遺跡(いわやさんどうくついせき)
 昭和四十七年(一九七二)三月二十八日、岩屋山洞窟とその周辺は、県の史跡として指定された。昭和五十七年長者ケ平遺跡の第三次調査に来町していた小林達雄氏は、昭和四十二年の佐渡考古歴史学会による一次調査で、岩屋山洞窟から出土した遺物中に、東北常世式(福島県常世遺跡)土器片(三点)のあることを発見した。縄文早期中葉の沈線文系土器(約八○○○年前)の土器であり、各方面に大きな反響を呼んだ。昭和五十九年七月下旬、小林達雄教授を団長とする洞窟遺跡発掘調査団によって、調査(二次調査)が実施された。この洞窟は、縄文時代早期中葉から近世に至るまで使用されていた。縄文時代は生活空間として、中世から近世にかけては、墓域・信仰の場として利用されている。洞窟で発見された縄文土器は、四十二年(一次)の三点と五十九年(二次)の二九点を合せた三二点である。中でも常世式土器(関東田戸上層式併行)及び前期初頭(繊維系土器・土器胎土に繊維を含む。約六一○○年前)の羽状縄文をもつ土器が、比較的まとまって検出されている。洞窟左右側壁に、八体の磨崖仏が半肉彫れている。洞窟向って左側の三体の如来像については、元奈良国立博物館長石田茂作氏は、藤原期の作と推定している。【参考文献】 『岩屋山洞窟遺跡』(小木町教育委員会)【執筆者】 本間嘉晴

・岩百合(いわゆり)
【科属】 ユリ科ユリ属 海辺の岩場に咲くのでイワユリ。小木ではハマユリ、外海府ではゲンレンボウズ・シマユリと呼ぶ。花を真上から見ると、花びらと花びらの間に隙間があるスカシユリ(透し百合)である。日本海側のものをイワユリ、太平洋側のものをイワトユリ(岩戸百合)と呼ぶが、イワトユリの開花期は七~八月とイワユリより遅い。スカシユリは花茎や蕾はほぼ無毛であるが、北海道や青森に多いエゾスカシユリは、花の色は赤みが強く、蕾や花茎に著しい綿毛が生えるのが特徴。イワユリは高さ二○ー四○㌢で、一~数個の花をつける。海辺の風衝作用で丈は伸びない。子の誕生を記念してイワユリの鱗茎を植える。子の歳の数と花の数が一致するという。鱗茎の大きさと花の数の間には、強い相関関係がありしばしば一致する。花の朱紅色のイワユリを母種とし、赤紅・黄金色の園芸種サドスカシが多く誕生した。「イワユリを採ると海神様が怒り海が荒れる」とされ、保護されてきた。「岩百合や島に始まる烏賊の漁季」桃井三郎。開花はスルメイカの漁季を告げる漁告花である。大佐渡の海辺の観光地の長手岬・尖閣湾・入崎・二ツ亀などにはみごとな群落が多い。【花期】 五~六月【分布】 新潟県から青森県【参考文献】 伊藤邦男『植物とくらし』、同『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男

・印銀(いんぎん)
 佐渡一国のみ通用の銀貨。銀面に徳通定印の極印を打ってあるので極印銀といった。元和五年(一六一九)、金穿大工の賃銀・金銀吹立入用などの支払いに、鎮目市左衛門奉行が伺の上、銀八百貫を吹立て流通した。元和初年までは銭貨の通用はなく、小判・砂金と笹吹銀という打ち延した私鋳の銀貨であった。印銀の品位は、銀六分・銅鉛合わせて四分の割合で、笹吹銀に比して品位は劣っていた。紙幣代用として鋳貨したもので、他国へ流出するのを防止するために極印が打ってある。印銀の両替は印銀所において、一両につき印銀六○匁の規定であったが、のち民間では八○匁・一○○匁の相場になった。正保四年(一六四七)の火災で印銀所は焼け、印銀が熔解したので補鋳し、慶安四年(一六五一)印銀の贋造者があらわれ、贋印銀の品位が悪かったので上銀を加え吹き直し、吹き立て印銀一九三八貫余を得た。正保二年(一六四五)出極印銀(佐渡出印)の制ができ、他国出の上銀(後藤銀)に他国出改めの極印を打って、商人は銀持ち出しをした。上銀にたいし印銀四二引にして渡された。印銀はいつとなく他国流出となり、正徳二年(一七一二)には印銀は後藤銀に八分引となった。前年島内印銀不足となり、流通量を確保するため吹き替えを行ない、印銀元高が八○二貫余、古印銀より六、七割も悪く吹かせたので、吹立印銀一三四八貫余となった。そのため古印銀の他国抜け出しとなり、京都の商家の内には印銀の引換え相場があった。宝暦期(一七五一ー六三)のはじめ金一両につき印銀八九匁、印銀一匁に銭四八文替に定めたが通用せず、元文期(一七三六ー四○)以前の印銀一匁銭二六文にもどしたが、宝暦十一年(一七六一)に印銀使用差し止めとなった。印銀は吹き潰して江戸へ上納した。【参考文献】 岩木拡『相川町誌』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、高田備寛『佐渡四民風俗』ほか【執筆者】 佐藤利夫

・上田箸(うえだばし)
『佐渡相川志』(宝暦年間)に、上田箸の由来を解説して「是は鏈(鉱石)穿り候時、鑚(たがね)を直ちに手に持ち候ては手痛候に付、鑚の元をはさみ持ち候鉄なり。もっともはさみの能(よき)様に、形をつけ候ものなり」とあって、「以前信州上田銀山の大工当国へ参り候時持参いたし候より用ひ来り、夫より名付け候由申し伝え候」と記している。長野県には上田市があり、鍛冶場細工が盛んだった。ただしこの「信州上田」は、越後・魚沼の「上田銀山」を誤り伝えた、との説もある。越後の上田からも、大勢の大工が渡ってきていた。上田箸に似た形状の道具は、近年まで通常の鍛冶屋でも使っていて、熱した鉄をはさむ鉄ばさみ。その用途は『佐渡相川志』の通りだが、切羽で鉱石をはつりとる鑚は、鉱山絵巻に描いてあるのを見るとごく短かく、長さが一○糎そこそこのものが多い。短かいのは鉄が貴重なためでもあるが、セットウ(ハンマー)で打ちこむとき、短いほうが打撃の力が加わる。または鉱脈への打ちこみが容易で、かつ鉱石が飛散するのを防ぐのに、短いと効果があったらしい。上田箸については、諸国のほかの鉱山で同じ名称の、同様のはさみを使用していたかどうかは、あまり報告を聞かない。【執筆者】 本間寅雄

・鵜飼文庫(うかいぶんこ)
 佐渡の国会開設運動を主導し、衆議院議員を二期務めた鵜飼郁次郎が、私財を投じて収集した書籍・文書などを保管した文庫をいう。鵜飼は青年期に圓山溟北の塾に入り、さらに新潟師範学校・東京高等師範学校で学んだ好学の士であり、政治活動の傍ら、巨額の私財を投じて和漢書等を収集した。書籍等は、桐箱・桧箱に整然と格納され、両津市大字原黒の鵜飼家の土蔵に保管されている。書籍・文書は、大日本史・六国史・延喜式・神皇正統記等の史書、露国形勢総覧・アイヌ語字典・日英新条約義解・東亜各港誌・西比利亜鉄道論・鉄砲伝来録等の対外関係書籍、佐渡叢書・北溟雑誌・国会開設哀願書等の佐渡関係文献・文書、平家物語・伊勢物語・うつぼ物語・徒然草・雨月物語・宇治拾遺物語・御伽草子等の物語、新潟県管内実測図・江戸絵図・大日本国郡全図・支那全図等の地図類などをはじめ多岐にわたるとともに、後白河院法皇御所持御扇子・後藤象二郎書等の書画類・古銭・土器・石器類などに及ぶ。また隣村住吉村の地主石川彦左衛門寄贈の和漢書も収納されており、鵜飼文庫に収録されている書籍・文書等の数量は約六五○○点、書画約三○点、古銭・土器・石器約二四○点である。【関連】 鵜飼郁次郎(うかいいくじろう)【参考文献】 「鵜飼文庫蔵書目録」【執筆者】 本間恂一

・浮世噺(うきよばなし)
 寛政十一年(一七九九)から慶応元年(一八六五)までの聞き書き集。奉行所の役人が私的につけた日記であるが、著者は不詳とされる。話の中には、嘉永元年(一八四八)五月二十八日より六月十三日迄、鹿伏村春日神社の境内で江戸大相撲があったこと、勧進元が佐渡夷町出身の、佐渡ケ嶽沢右衛門であることがしられる。また、弘化五年改め嘉永元年、鶴子沢で鉄砲大筒鋳立て、一貫目筒三挺、三百目追々鋳立てる由とある。浮世噺には「弘化四年二月、薩摩の国へイギリス船五・六艘も入船し、薩摩よりイギリス船に石火矢をうちかけ、イギリス人五○○人ばかりも即死」などとある。さらに、安政三年四月には、甲冑の調練がおこなわれ、その日には沢山の見物人が相川につめかけた。その調練の内、見苦しかったのは熊木寛七郎と富田庄太夫であったとある。その外に、真更川にあらわれた異国船の記事など世相がおもしろくえがかれる。【執筆者】 田中圭一

・請山(うけやま)
 山師が、幕府や領主などの鉱山の所有者に、一定期間の運上を納めて鉱山を請負稼行するもの。一般的に請負期間は長く、年単位が中心で一山を請け切るのが本来。が、月単位のものや、一○日単位で間歩を請負う自分山もあった。前者の例として、天文期の鶴子銀山や新穂銀山の百枚間歩のように、一年間の運上を銀一○○枚(銀四貫三○○匁─銀一六・一二五キログラム)としたものがある。後者の例としては、元和四年(一六一八)以後の記録に現れる自分山の場合、一○日毎に一○○○荷(佐渡の場合、一荷は鉱石五貫目入りの叺)以内は四分の一、一○○○荷以上はどれだけ盛山であっても、三分の一公納と荷分の定率化をはかった事例がある。以後はこれが常例となったが、享保八年(一七二三)の佐渡奉行小浜志摩守上申書には、「請山というのは、諸色を始め一切山師の入用をもって稼ぎ、採掘した鏈(鉱石)はその良否によって十分の一、或いは七八分の一を上納、残余は山師の所得分」とある。江戸期、佐渡金銀山の主体である相川金銀山は、御直山と自分山が主流であり、鶴子銀山・新穂銀山・田切須銀山・大須銀山・西三川砂金山・入川銀山・田野浦銀山などの地方鉱山は、請山が一般的であった。【関連】 山師(やまし)・直山(じきやま)【執筆者】 小菅徹也

・牛市(うしいち)
 徳川の頃(宝暦~天保年間)書かれた『佐渡四民風俗』のなかに、「外海府は──野山に牛馬を多く放し飼候に付、馬口労と唱へ候牛馬売買渡世の者買請け、国仲所々市立の節商ひ他国へも売出し候は、重に外海府産の由に御座候」とある。昔から海府方面は牛の有力な生産地であったが、その商い法は、「袖の下取引き」といわれ、馬口労が袖のなかで、売り手の指をつかんで値を決める、隠符調で行われた。海府方面に牛市らしい市が始まるのは、大正十年(一九二一)頃、北片辺の藻浦崎周辺で開設された野天市である。またある古老は、大正の頃、千本入崎の入野神社境内や、高千小学校下の浜などにもあったという。北片辺から石花へ牛の市場が移るのは、二年後の大正十二年頃といわれ、市日はともに十一月八日(九日または二十五日ともいう)であった。しかしその頃はまだ競市ではなく、売り買いする人が酒を飲みながら値段を決める、関西市場方式といわれる相対取引が主であった。現在の北川内にある、高千家畜市場ができたのは昭和十年(一九三五)である。佐渡きっての牛の生産地を背景に、生産地市場として栄えてきた。市は、四月・七月・十一月のそれぞれ二日である。牛市は、昔の面影は全くなくなり、競売りによる公開市場となり、施設も整備された。佐渡の中央に、地の利を得ている河原田市は、明治四十四年(一九一一)定期市場を設置し、国仲一帯の農家とつながる、集散地市場として栄えてきた。国仲方面にはこのほかに、四日町・大願寺の彼岸市、旧加茂村の玉崎市や椿市、新穂村の塚原市、旧金沢村の荒貴市や中興市などがあった。【関連】 北川内(きたかわち)【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅱ』(佐渡博物館)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・牛の信仰(うしのしんこう)
 新穂村瓜生屋と、相川海士町の大日様は、牛馬の守護神として、島内農民の信仰を集めた。瓜生屋・大日様の縁日は師走(十二月)八日であるが、昭和のはじめ頃まで、佐渡の各地から大勢の人が集った。特に牛の産地である海府方面からは、多くの献牛がなされた。大正年間(一九一二ー二五)、海府方面(石名)から小牛を献納した話だが、朝暗いうちに牛を追うて納屋を出、トネを越えて馬首へ、そして両津を経て、日暮れがたようやく瓜生屋の大日様に着いた。牛をもらった大日堂では、献牛者を一晩泊め、酒食を振舞い歓待した。大日堂から出されるお礼の数と、その種類は多い。たとえば、牛馬の御影札・牛馬繁昌の納屋守・牛馬守護の札・家内安全の札・家守の札・男の掛け守・女不浄の時の掛け守・安産御守・火難除け守・田畑の虫除け札・一般不浄除け守・年守の札などである。相川の海士町の大日堂には、実物大の牛の石像が安置されており、牛が病気になると立願をかける者が多かった。また相川町石花の地蔵堂にも、土で作られた大きな牛の像が二頭祀られており、同町石名の清水寺でも、昔、大日様のお祭りを行ない、酒を飲ませたという。だいたい「牛のつぼ」が献納されている寺堂の本尊は、大日如来の場合が多い。【参考文献】 青木菁児『青木重孝郷愁・佐渡』(Ⅱ)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・後尾(うしろお)
 現在(平成七年)の世帯数は四八戸、人口は一一六名である。弘化二年(一八四五)の『佐渡国雑志』によると、当時の戸口は六一軒、人口は三二○余人である。古謡に「後尾と川内、川がなけりや一村だ」とあるように、桜川をはさんで北川内集落と隣接している。なお桜川の南側の後尾村は雑太郡、北側の北川内村は加茂郡に属し、その郡境となっていた。後尾村に残る寛文十二年(一六七二)の訴状に、「後尾村立ちはじまりの氏神、熊野権現・日野尾権現・ゆするぎ権現・羽黒権現・十二権現・五社御座候」とあり、中世の頃佐渡への教線を拡大した修験の多くが入村した様子が考えられ、後尾はいわば山伏の村であった。当地には現在、智挙(教)院・金剛院の二家の山伏家があり、ともに当山派(大佐渡側に吉野系の当山派が多く、小佐渡側に熊野系の本山派が多いといわれている)である。享和三年(一八○三)の由緒書上帳(石花区有)によると、金剛院は一時当山派の佐渡の触頭を勤めたという。智教院の山伏岩本快善(明治四十三年没)は、明治の頃、後尾の文弥人形座の太夫を勤め、一座をひきいていた。海中の巨巌影の神は日の出の際、金北山頂の祠堂の影が巌に映るので名付けたと伝えられ、巨岩の南西に洞穴があり、その奥に石仏が安置され、空海秘法の壇上跡かともいわれ、海府の人びとの信仰を集めていた。祭日は旧六月十五日、村人は赤飯をたいて祝った。石動神社は天文七年(一五三八)の創立。沖を通る船の帆下げ伝説をもつ。祭日は古くは九月十二日だったが、今は四月十五日。鬼太鼓を奉納する。【関連】 石動神社(いするぎじんじゃ)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 浜口一夫

・歌見越え(うたみごえ)
 関からは、北松が崎に至る関越えと、歌見に至る歌見越えの、二つの山越え道がある。前者は七九○㍍、後者は七七○㍍でマトネを越えるので、いずれも九四七・一㍍の山毛欅ケ平山の山頂からは、かなり下がったところを通ることになる。山越え道は、山毛欅ケ平山から流れ出る関川沿に登るが、降りる道は右記したように、歌見川に向う道と、馬首川の東一㌔ほどの辺りを、平行につけられた山道とに分かれる。この付近の山は、「マトネ」の呼称が示しているように、二重・三重(あるいは二段・三段)に峠状の地形が重層し合っていて、里に近い「戴山」とは別に、もうひとつの小トネがある。歌見戴山は標高五四五・九㍍で、北松が崎道に近い平松戴山は、六五二㍍である。日常生活に直結している山は、イタダキサンの愛称で呼ばれる山の神のほうで、峠道はそこへの往復路の延長なのであろう。【執筆者】 本間雅彦

・羽蝶蘭(うちょうらん)
【科属】 ラン科ハクサンチドリ属 ウチョウランは羽蝶蘭の意味。谷あいの陽あたりのよい岩場に咲き、イワランともいう。赤紫の蝶が、岩場に飛ぶかにみえる。羽蝶も胡蝶もチョウの異名、コチョウランともいう。大佐渡の北の海辺の、いくつかの渓谷。北の渓谷であるが、季節風をさけた谷は暖かい。モヤが谷間をたちこめ、岩場はジトジトと濡れる。しかも陽あたりがよく、排水もよい。この岩場に生える。岩壁一面のウチョウランがみれたのは、昭和四十年代後半までである。野生ランブームも、二○年もたつと多くのランは姿を消して、幻の花となる。エビネ属と同じく、美しく人気ものの本種もまた、典型的な幻の花となった。外花被(萼)3・内花被(花弁)3。内花被の中央弁は、唇状で唇弁(リップ)となり、深く裂した唇弁が赤紫の翅をひろげた蝶に似ている。愛好家はいう。「湿り気のある東ないし北向きの岩壁、イワヒバやセッコクの自生地でもある。礫に植えたり、イワヒバと植えこむとよい。水排けをよくし、十分に日光にあてる。光量不足は、間伸びしてだらしない姿となり、花づきもわるい。六月中旬から咲いて一か月間楽しめる」と。【花期】 六~七月【分布】 本(関東以西)、四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男

・善知鳥神社(うとうじんじゃ)
 大正十五年(一九二六)に刊行した『佐渡神社誌』の相川町の部には、一九社が掲げられている。その中で善知鳥神社は、下戸から戸地までの七郷の氏神で、相川町の總鎮守としてある。また宝暦の書『佐渡相川志』は、社名の「善知鳥」は郷の名にして神号には非ずとし、神体は住吉大明神となっている。当社は相川に移される以前には、金泉村戸中の洞屋上に鎮まっていたという橘法老説がある(『金泉村史』・『佐越航海史要』)。相川下戸村の現在地に納まるまでにも、位置や社領に変遷があった。創建は仁平元年(一一五一)で、社殿造営の最初は慶長五年(一六○○)となっている。同社の祭礼神事が始まったのは、寛永二十年(一六四三)であるから、社ができてから約半世紀近くは、のちにみる華麗な相川祭というものは、行なわれていなかったわけである。氏子の数は概数ながら二○○○戸示され、これとは別に崇敬者として、六○○戸とつけ加えてある。つまり氏子のほかに善知鳥社を信仰している者が、島内にそれだけいるという意味であろう。これは氏子を記載せず、崇敬者一五○○人としている大山祗神社と比較したとき、両社の性格のちがいを知ることができる。十月十九日の善知鳥社祭りが、島内最大の祭礼となっている背景には、この氏子の多さに関連しよう。【関連】 善知鳥神社祭礼行事(うとうじんじゃさいれいぎょうじ)【参考文献】 橘法老『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社)、『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】 本間雅彦

・靱草(うつぼぐさ)
【科属】 シソ科ウツボグサ属 大佐渡のドンデン、海抜九○○㍍。広大なシバ草原のつづく牛の放牧場である。草原にここに一群れ、ここに一群れとウツボグサが点在する。牛の不食によって残された群落。人にとっては薬草であるが、牛は食べない。佐渡では低地から山頂まで、広くよくみられる。なまえは靱草の意味。紫の唇形花を密生させる花穂を、靱に見たてたもの。靱とは、武士が矢を盛って背負うかごで、時に毛皮をつけて、矢が雨に濡れるのを防いだという。佐渡奉行所編の『佐渡志』(一八一六)に、「夏枯草和名うるき 方言すいばな 山野自生のものあり」と記される。“うるき”は古名。“すいばな”は吸い花のことで、子どもがチチスイバナ・スイスイバナともいう、蜜吸花のこと。夏枯草は生薬名。春の美しい紫色の花穂は、夏に入ると黒褐色に変わる。重なるように着く花穂の黒変に由る。この穂を猫の糞にみたてて、ネコノクソバナともいう。全草を煎じ飲む。成分に、解毒・消炎・利尿の効果がある。風邪気味・小便心地の悪い時・暑気あたりに飲むが、こんなに効く薬はないという。消渇(膀胱炎)・子宮病に由るおりものの婦人病によく効く。【花期】 六~八月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男

・善知鳥神社祭礼行事(うとうじんじゃさいれいぎょうじ)
 『佐渡年代記』の寛永二十年(一六四三)の項には、「一、九月十九日善知鳥明神の神事始る」とある。そして祭りの区域は、下戸村より戸地村までの七郷であった。その年に伊丹奉行の寄進になる神輿ができ、その渡御に伴って西坂を登って、陣屋の前を通ることがとりきめられ、その行列は風流(ふりゅう)となって、しだいに盛大になっていった。その祭礼の様子は、延享三年(一七四六)の同社祭礼絵巻の中にすべて納められている。天保期の祭礼は、絵師石井文海によって、いっそう詳細に描かれている。そこにはこのように記されている。「九月十九日相川の鎮守善知鳥明神の祭礼あり、銀山の大工といへるもの、かね穿り所作に贋せて太鼓を打つ、是を鬼太鼓と云う、其余豆蒔・よけ馬・長刀・棒遣ひなど云ふ事をなす、町々より作りものの台を出せり」。そして絵には、風流の前後に大きな福助・牛をのせたネブタや竿灯、五台のダンジリ(山車)が描かれている。このように善知鳥社祭礼は、京都祇園会などの影響が窺われるが、さらに島内の村々が相川祭を見ならって、その様式が伝播したことをしることも可能である。この祭礼行事は、昭和四十九年八月、町の民俗文化財に指定された。【関連】 善知鳥神社(うとうじんじゃ)【参考文献】 『相川善知鳥社祭礼絵巻』(森幾蔵)、石井文海『天保年間相川十二ケ月』(曽我真一編)【執筆者】 本間雅彦

・馬絞車(うましぼりしゃ)
 昭和十四年(一九三九)に鉱山に入社した伊沢克衛(最後の佐渡鉱山長)の回想記に、五十嵐という苗字の助手(職頭ともいう。坑夫出で係員の補助役)で、「馬さん」というアダ名の年配の人がいたことが書いてある。馬さんは父親といっしょに、通洞(道遊坑)の函車(鉱車)を馬に曳かせて鉱石を運搬したので、このアダ名があとあとまで残った。馬で函車を曳かせた明治十二年(一八七九)ごろの写真(京都大学名誉教授、小葉田淳蔵)を、鉱山史に詳しい葉賀七三男が『資源・素材学会誌』(一○五号)に発表したことがある。大切坑の坑口で撮影したもので、ただしこれは坑外での運搬である。明治二十六年二月の『鉱業会誌』(第九六号)には、工学士神田礼治が、佐渡鉱山在勤中のこととして、馬による坑内の捲上げのようすを、図とともに詳細に述べている。「佐渡鉱山最新の馬絞車」と題するこの報告は、青盤坑内その他で行なわれていたもので、人を使って捲上げると、鉱石一㌧に金五拾銭を要したのに、馬に曳かせて行なう馬絞車だと、わずかに金五銭。費用に十倍の差があると述べている。その馬絞車の構造が、図解されていて便利である。なお佐渡鉱山の馬絞車は、明治十二年五月に渡った庄内藩士で博物家、松森胤保の『三観紀行』(佐渡日記)にも、図解で紹介されていて、このころには始まっていた。【関連】 三観紀行(さんかんきこう)【執筆者】 本間寅雄

・馬町(うままち)
 中山トンネルの方向から下戸の坂を降ってくると、最後のカーブの右手にあるのが馬町である。相川小学校とはそのすぐ北側に接し、細い路地ぞいの教材店を含む八戸ほどの住宅地となっている。小学校は東側の円型校舎がよく目立ち、校庭には名誉町民有田八郎の揮毫による、「何より平和」の石碑が建っている。宝暦(一七五一ー六三)の書『佐渡相川志』には、「元禄ノ検地ニ町屋敷弐反六畝拾九歩。此所相川附出シ伝馬十八疋相勤ム。」とある。馬町の町名が、その伝馬に由来することがわかる。【関連】 有田八郎(ありたはちろう)【執筆者】 本間雅彦

・ウミウマ(タツノオトシゴ)(うみうま)
 「海馬」の名で紹介されているのは、滝沢馬琴の『烹雑乃記』文化八年(一八一一)の中である。「佐渡ならでもあり大きなるは稀なり」と記してある。田中葵園の『佐渡志』文化三年~十三年(一八○六~一六)にも、「海馬ハ方言タツノオトシコ西濱ノ二見村ニ多シ身ノ長ケ一寸計リ赤色ナルモノ稀ナリト云フ」と紹介されている。山形県庄内出身の大博物学者松森胤保の稿本『両羽博物図譜』明治十五年~二十五年(一八八二~九二)には、「方言龍ノ荒シ子─虫ニ体シ─」と記し、爬虫類の巻に入れている。北は北海道から南日本まで、広く分布する魚類で、和名はタツノオトシゴ、浅海の藻場にすみ、海藻よりむしろアジモなど海草の繁茂したところに多い。佐渡では、真野湾でよくみられる。大きさは八㌢ほどで、頭は体から曲がってつき、頭の上に冠のような突起がある。体全体が骨のような節からできており、尾は細く、尾で海草類の茎に巻きつく。背びれを動かして、立ち泳ぎをする。動物プランクトンを、吸いこんで食べる。雄は、腹のふくろに雌の産んだ卵を収容して育て、親と似た形の九㍉ほどの小魚を、ふくろの裂け目から放出する。観賞魚となるが、安産のお守りにする土地もある。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治

・海緑(うみみどり)
【科属】 サクラソウ科ウミミドリ属 ウミミドリは海緑の意味。根元が海水に漬かる海岸塩沼地に生え、緑を失わないことに由る。シオマツバ(塩松葉)ともいう。波の影響の少ない潮の干満によって、定期的に冠水する塩沼地に生育するのが塩沼植物。その代表はアツケシソウであるが、波の影響が大きく潮の干満の小さな日本海側には生育しない。日本海側の塩沼植物は、ウミミドリで代表される。北の海辺をふるさとにするウミミドリは、南下して佐渡に分布するが、佐渡はウミミドリの南限。越後に分布せず、佐渡にのみ分布する。佐渡の海岸は岩礁が多い。波は岩礁でさえぎられ岩礁の間に内陸より淡水がそそぎ、泥も供給される岩礁間塩沼地。この塩沼地の代表種がウミミドリで、ドロイ・シオクグ・ヒメヌマハリイを伴う。塩沼地の塩分濃度が高いとウミミドリが優占し、塩分濃度が低くなるとドロイが優占する。ドロイも越後には分布せず、県下では佐渡だけである。ウミミドリは高さ一○~二○㌢、海水に耐える肉質の厚い光沢のある葉をつける。花の径は一㌢以下、白色または淡紅色。花冠はなく、花冠のようにみえるのは萼片である。【花期】 五~六月【分布】 北・本(中部以北)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男

・浦目付所(うらめつけしょ)
 相川ほか六か所にある番所以外に、番所の業務を補完する役所として浦目付所があった。正徳四年(一七一四)諸役人勤書によると、浦目付所は橘(扱下・大浦・橘・高瀬)、二見(二見・稲鯨・米郷)、窪田(田中・五十里本郷・窪田・河原田・八幡)、渋手(四日町・長石・新町・渋手・滝脇・背合)、倉谷(大須・小立・大立・倉立・田切須・西三川・高崎・椿尾・小泊・亀脇・堂釜)、沢崎(井坪・大浦・木流・田野浦・江積・白木・沢崎)、深浦(犬神平・深浦)、宿根木(強清水・宿根木)、大泊(清士岡・西方・大泊・大石・野崎・大杉・杉野浦・新保・柳沢・真浦・赤岩)、腰細(徳和・東光寺・腰細・山田・莚場)、野浦(鵜島・柿野浦・小浦・尾戸・立間・赤玉・蚫・立島・強清水・野浦)、水津(月布施・片野尾・水津)、大川(大川・羽二生・両尾)、河崎(椎泊・河崎・久知川内・下久知・城腰・住吉)、椿(平沢・加茂・歌代・釜屋・長江・籠米・梅津・羽黒・住吉・椿・北五十里・白瀬・小松)、浦川(玉川・坊ケ崎・和木・馬首・松ケ崎・平松・浦川・歌見・黒姫)、鷲崎(虫崎・小浦・見立・鷲崎・願・鵜島・真更川)、高下(岩谷口・五十浦・関・矢柄・小田・石名・小野見・田野浦・高下・大倉・千本・入川・立島・川内)、姫津(後尾・石花・北片辺・南片辺・戸中・戸地・狄・姫津・達者・小川)以上一九の浦目付所があった。それぞれ番所の扱下に属し一部内陸の村を含み、佐渡海岸村をすべて監督下に入れていた。倉谷・亀脇・河崎・尾戸・大泊・椿・戸地・橘はのち廃止し、新たに羽二生と真更川に新設した。浦目付所は、指定の浦目付所では廻船の 役を取り立て(水主一人に付銀七分宛)ることと、往来手形見届・御法度品調べ・荒天時走り掛り廻船の届出・浦々の警備があり、役人が常駐していた。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集七)、『佐渡名勝志』【執筆者】 佐藤利夫

・瓜生崎製塩遺跡(うりうざきせいえんいせき)
 羽茂町大字小泊字瓜生崎の海岸にある製塩遺跡。小泊の澗の、やや張り出した崖の裾にある洞窟から、製塩土器が発見されたもので、昭和五十九年(一九八四)三月十九日、羽茂町教育委員会と佐渡考古歴史学会が調査した。洞窟は入口が二つに分かれていて、およそ巾五㍍と四㍍の入口があり、奥行は二六㍍強で、巾六㍍の一つの洞窟になっている。奥部での天井の高さは、五・三○㍍を計る。最奥部の砂礫の堆積層上層から、製塩土器片約三○○点と、格子目文のある須恵器甕片一点が収集され、製塩土器は平底の鉢型をなし、八世紀から九世紀前半頃のものとみられる。洞窟のある海岸は岩礁地帯であるが、洞窟直前の砂礫地帯で製塩が行なわれ、のち波浪によって、砂礫とともに製塩土器が奥部に堆積したものと考えられる。太平洋戦争後には、向って右側入口の洞窟内で、塩釜製塩を行っている。瓜生崎からつながる素浜砂丘海岸からも、製塩遺跡が発見されている。【参考文献】 計良勝範「羽茂の製塩遺跡」(『古代中世の羽茂』羽茂町誌二巻)【執筆者】 計良勝範

・上立野遺跡(うわたてのいせき)
 相川町大字二見字立野二四九ー三の中位段丘上面に位置し、周辺は畑耕作されている。東西一五○㍍、南北一○○㍍を遺跡に指定している。プレ縄文・縄文・弥生遺跡として登録されているが、ポイント・ブレード等が出土し、技法が古いことから旧石器時代と判断し、佐渡における旧石器時代遺跡として名を馳せたが、洪積層と沖積層の地層がはっきりせず、旧石器時代には疑問を残している。一方、調査の結果、弥生式土器や石鏃の出土を見、弥生時代高地性集落遺跡の認識で有名になった。そういえば、畑中に環濠の跡らしい掘り込みが見られ、また下段の中位段丘には縄文中期の立野遺跡があって、石川県新崎式土器に類似する爪形文と蓮華紋を有する土器を含む。このことから、高地性集落の可能性が強くなってきた。平成五年に「ふるさとの森」事業による道路拡幅工事で、遺跡端にあたる東部分の確認調査を行なったが、石鏃とフレークを検出したばかりで、土器の出土はなかった。石鏃は土地産の石を使用した有柄が多く、弥生も後半期と思はれる。その後、調査区域外の畑中から土器片を採集したが、磨耗が甚だしく文様が不明のため、時代判定が困難である。【参考文献】 上林章造・金沢和夫・中川喜代治「二見半島における旧石器文化」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】 佐藤俊策

・運上(うんじょう)
 近世における雑税の一種。商・工業者・漁業者などに賦課した。本来はこれら各種の営業に対して、一定の税率を定めて納税させるものを運上、これと逆に税率が一定せず、免許を得て営業する者に金銭を上納させるものを冥加といった。しかし、時代を経るにしたがい同義に用いられるようになり、佐渡では四十物運上・たばこ運上・塩浜運上・国府川水系諸村の鮎運上・酒運上などが認められる。また天保一揆のとき、訴状に掲げられた板木商売・薬草栽培・建木商売(搾油業)・酒造業者など、佐渡奉行所の鑑札で営業する商工業者や、年貢割付状で課税する糀室役などは、いずれも運上であった。【参考文献】 『日本史大辞典』(吉川弘文館)【執筆者】 児玉信雄

・ 永宮寺(えいぐうじ)
 浄土真宗東本願寺派。一丁目裏町。相川永宮寺系図には「元和二年夏(一説に秋)、越前国金津を去て、当国相川に一宇を建立す」とある。『相川町誌』によると、元和三年(一六一七)、金津の永宮寺より了祐来リ、石扣町に寺基を創め、寛永七年(一六三○)いまの地に移った、となっている。永宮寺十二世松堂の著『佐渡相川志』をもとに記すと、越前時代は明徳三年(一三九二)教恵開基。俗姓ト部幸左衛門といい、越前の武士。金津に営立する。寺の前身は時宗、北国穏かならずして加賀の大聖寺に移り、その後、石扣町に一宇を建立、その人が第五世了祐である。承応二年(一六五三)一丁目へ移る、となっている。最初は永宮寺、中古は永弘寺、宝暦十一年(一七六一)に旧号に復せりという。また「永宮寺縁起」に「─佐渡ノ国ヘ渡海イタシ、相川三丁目五郎左衛門町檀特山ニ寺ヲ建立シ、御船手役辻将監・加藤和泉ノ屋敷跡ヲ求メ、永宮寺ヲ再建ス。当国ヘ渡リ候ヨリ平木(開)山ヲ見立、此所ニ居住候」とある。伝承では七人の門徒が同行したといわれ、岩倉幸助(了祐)・加賀多兵衛・今井助左衛門他一名・金津甚兵衛・同甚太郎・土屋庄左衛門らであったという。寺には慶長十一年(一六○六)了祐が請けた教如上人御寿像がある。寺宝は多く散逸、火災でも類焼したという。順永(松堂)は博学高徳、能筆家として著名。【関連】 松堂(しょうどう)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、岩木拡『相川町誌』、佐藤利夫「北陸真宗門徒と佐渡銀山」(『日本海地域の歴史と文化』)【執筆者】 佐藤利夫

・エゴノリ(えごのり)
 佐渡ではイゴまたはイゴグサ。ねって食用とした製品がイゴネリである。イゴは正しくはエゴ、イゴノリでなくエゴノリである。紅藻類イギス科エゴノリ属エゴノリ。全国の沿岸に産する。主にホンダワラ類のヤツマタに着生する。細長い円柱状の体が次々と枝わかれし、径一㍉ぐらいの糸状となり、互いにからみあって大きなかたまりになる。春は濃紅色、老成すると褐色から黄色に変る。エゴノリも、貯えのきく江戸期よりの救荒食糧。ただ多食すると必ず体が浮腫となる。佐渡奉行所も心配して、「イゴという海藻は飢荒に備えるべきものであるが、流水によく浸して食べなければ、必ずムクミ(浮腫)がおきる」と通達している。塩分の取り過ぎで腎臓がやられるのである。九州博多の人々が、一日一回は食べるといわれるほど好まれるオキュートは、エゴノリが原藻。佐渡でもイゴネリと呼ばれ、盛んに食べられる。人気土産品のひとつ。【参考文献】 佐渡奉行所編『佐渡志』、伊藤邦男『佐渡山菜風土記』、福島徹夫「海藻と暮らし」【執筆者】 伊藤邦男

・餌笊籠(えざるかご)
 魚籠の一種。稲鯨など漁村でつかった魚籠。天秤棒で前後にエザルカゴを下げて魚売りに出た。入れるものは生魚が多かったが、場合によっては干魚・塩魚もあった。魚の販売につかう棒手振籠の一種。普通の籠より大きく底が深い。綱を口辺の前後に四本つけて、腰の上で負う。上部に底の浅い籠を重ねてあることもあった。四十物師は魚運搬用に、底が倍ぐらい深い御用カゴのような、持ち手のついた竹籠を使っていた。エザルカゴは、はじめ磯釣り漁師が生餌を入れ、釣った魚を入れておく籠であったと思われる。腰に付けて負う前は、頭上運搬の時代があったかもしれない。漁村が半農半漁になると、畑仕事にもつかわれるようになり、坂道を歩くのに都合よいように腰に付けたものだろう。磯魚を延縄で釣るとき、釣鉤を納めておく籠をナワカゴという。目の荒い、平らなカゴである。佐渡の海村は、海人族の習俗を伝えていると思われ、頭上運搬からの移行があったかもしれない。二○年位前の市日の竹細工類は、エザルカゴ・ボテカゴ・ドジョウカゴ・タカミ・口付ザル・口切りザル・モミ通し・御用カゴ・田植カゴ・ソバ揚げザル・スイノウ・竹ボウキ・手カギなどであった。現代では、日常の道具から消えつつある。【参考文献】 佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】 佐藤利夫

・絵図師(えずし)
 鉱山で必要とした絵図を描く仕事で、山方役(山奉行)の指図を受けて、坑内坑外を問わず、いわゆる「絵図御用」を勤めた。一か月の報酬を「二人扶持、給銭一貫三百七十二文」とした記事があり、坑内外の測量に当たる「振矩師」よりは、いくらか高給であった。振矩師は「二人扶持、給銭一貫三百四十八文」とあるからである。佐渡鉱山で絵図師を新規採用しはじめたのは、享保二十年(一七三五)十月のことで、江戸の中期ころからである。職制では振矩師よりはるかに遅れていて、最初は古川門左衛門という人だった。この人は養父に当たる門左衛門(古川平助)が振矩職で、金銀巧者であり、古今の稼ぎ場などもよく知っている上、絵図にも堪能であることが買われて、絵図師登用が決まった。こうした事情から、それまでは振矩職が絵図師も兼ねていたらしいことがうかがわれる。門左衛門の採用によって、振矩と絵図師職が分業化されたことになる。この人と二年ほど遅れて、元文二年(一七三七)に山尾衛守(政圓)という人が絵図師となり、絵図師が二人制となる。二人に増員する必要が鉱山に生じていた。諸国に残る佐渡金銀山の「稼方図」や「金銀採製図」絵巻の中に、絵図師山尾一族の作図と思われるものが見られる。また絵図師以前に、南沢疎水の測量を担当した与右衛門(姓・静野)などによる詳細な坑内図も数多い。鉱山の採掘だけでなく経営ならびに開発にも、測量や作図作画業務は、きわめて重要な仕事であった。
【関連】 山尾鶴軒(やまおかくけん)【参考文献】 『佐渡と金銀山絵巻』(相川郷土博物館)【執筆者】 本間寅雄

・蝦夷紫陽花(えぞあじさい)
【科属】 ユキノシタ科アジサイ属 佐渡に自生するアジサイはエゾアジサイ。北海道(エゾ)南部より奥羽(ムツ)をへて、日本海側の山地を山陰まで分布する日本海要素。別名ムツアジサイ。太平洋側で関東以西、四国・九州に分布する太平洋要素はヤマアジサイ。エゾアジサイに比べ葉の長さも五~一○㌢と小さく、まわりをとりまく装飾花も小型で淡い紫色。それに対しエゾアジサイは、葉の長さも一五㌢と大きく、装飾花も大きく紫花の色も濃い。雪に閉ざされる裏日本、しかし自然はこの地に雪国特有な美しい花を配してくれた。それはエゾアジサイであり、オオミスミソウ(雪国のユキワリソウ)でユキツバキである。雪の少ない小佐渡の山には少なく、雪の多い大佐渡の山に多い。山腹から山頂のミズナラーブナ林域に多い。佐渡ではヤマアジサイと呼ぶ。またエンサバナとかアンサバナと呼ぶ。アジサイバナの訛ったものか。年若い女をアネサンというが、アネサンバナが訛ったものか。佐渡に伝わる俚諺に「人の振りみてわが振りなおせ エンサバナみて色なおせ」がある。母は娘にくりかえしいいきかせて娘をしつけた。【花期】 六~七月【分布】 北・本(日本海側)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男

・蝦夷大葉子(えぞおおばこ)
【科属】 オオバコ科オオバコ属
 蝦夷、すなはち北海道に多いところからこの名がつけられた。南下し東北より日本海側を山陰、九州北部の福岡、長崎まで分布する日本海要素である。越後では海岸低地の岩船・新潟・巻の角田岬・柏崎に分布。佐渡では大佐渡にあって、小佐渡に分布しない。大佐渡では海岸・尾根部ともに分布。いずれも風衝・砂礫地である。葉に白い軟毛が密生し、厚っぽくビロウド状で感触がよい。佐渡でもケオンバコ・シロオンバコという。大佐渡のドンデン・マトネの高地のものは小さく、春日崎や長手崎の低地のものは大きい。葉のビロード状の白毛は雨や霧をよせつけず、風衝・寒冷のきびしい環境に耐える。佐渡奉行川路聖謨の在島日記『島根のすさみ』(一八四一)に、「春日崎に、車前草(オオバコ)の葉の裏に白毛ある奇品があると取りよせてみた。毛があるだけ。田舎のもの土地を誇ること、みなこの類と笑いこけた」とあるが、表日本にはない奇品で、笑う方がどうかしている。二見では、葉を菜、汁の実、めしに混ぜ糧葉にした。その白粥は病人食であった。その煎液は、咳・風邪・腹痛・便秘の薬。【花期】 四~五月【分布】 北・本(日本海側)・九(北部)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男

・越佐航路(えっさこうろ)
 越後ー佐渡間の海上交通路。古代から中世にかけては、松ケ崎港が佐渡の表玄関(公津)に指定され、越後の寺泊港とつなぐ航路が、主要な海上交通路であった。近世になって佐渡金銀山が栄えると、金銀を輸送するために小木・出雲崎航路が開かれ、元和六年(一六二○)には定期化したようである。いっぽう旅客の輸送には、主に小木・出雲崎と赤泊・寺泊の二航路が使われていたが、文政十年(一八二七)に押切り船(四挺だての大型帆掛け船)が赤泊港に登場すると、佐渡・越後の最短距離ということもあってここが中心となり、明治十三、四年頃までにぎわった。和船の頃に栄えた小木港も、明治十年代になって汽船時代を迎えると次第に衰微し、明治十四年に出雲崎渡船会社が設立されて「占魁丸」を小木・出雲崎航路に就航させたが成功しなかった。近代になると、これら古くからの港にかわって夷港が登場した。夷港は明治元年(一八六八)十一月十九日に開港場新潟の補助港として開港し、新潟港との間を蒸気船が往復した。明治十八年には越佐汽船会社が設立され、新造船「度津丸」が就航して越後ー佐渡間の主要航路となった。【関連】 秋田藤十郎(あきたとうじゅうろう)・佐渡汽船会社(さどきせんかいしゃ)・両津港(りょうつこう)【参考文献】 田中圭一編『佐渡海運史』、橘法老『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社)、『六十年のあゆみ』(佐渡汽船株式会社)【執筆者】 石瀬佳弘

・越後雉筵(えちごきじむしろ)
【科属】 バラ科キジムシロ属 新潟県下では、海岸(垂直下限二㍍)から亜高山(上限)まで広く分布する。越後の名がつけられたのは、本州の日本海側の新潟県以北に分布する、日本海要素であるからである。五弁の黄花は鮮烈。日当たりのよい山野の道ばた、林の緑、草原などによく生える。同じ仲間に三種ある。ひとつはエチゴツルキジムシロで、長くつるを引く。越後の妙高山・苗場山など、海抜一二○○㍍と分布は限られる。小佐渡に分布欠き、大佐渡山地の海抜八○○㍍以上と分布は限られる。もうひとつはキジムシロで、エチゴキジムシロにくらべ分布の密度は低い。葉の形で区分するが、いずれも奇数羽状複葉で、エチゴキジムシロは小葉は五枚、下の一対は小さく、時に消失する。キジムシロの小葉は五~七枚、下の二~三対の小葉は小さくならない。和名は、地面に広がる株を雉の坐る筵に例えたという。大佐渡の平城畑(六五四㍍)のシバ草原は五月、エチゴキジムシロの黄花で埋まる。イエロー・カーペットを敷きつめたよう。雉筵でなく、むしろ「黄地筵」の景観である。放牧頭数が少なくなるにつれシバ草原は荒れて、エチゴキジムシロ草原となる。
【花期】 五~六月【分布】 本(日本海側)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男

・江戸沢町(えどざわまち)
 元新潟交通の営業所や自動車置場(現在は町の駐車場)から、赤川の左岸にある塩竃神社を含んで、大安寺裏の坂道までの飲食店街や住宅地など、二五戸ほどのやや広い町内である。西側は羽田町、南側は一町目および一町目裏町に接する。地形的な制約があって、赤川からすこし上のカーブのあたりから羽田町にでる区間は、狭い道幅がつづく。浄土宗大安寺は、大久保長安が生前に立てた逆修墓や、越後上杉占領時代からの代官河村彦左衛門の大型五輪塔などがあり、江戸初期からの重要な寺院であったことを窺わせる。元禄七年(一六九四)の検地帳では、町屋敷三反二畝廿二歩となっている。【関連】 大久保長安(おおくぼながやす)・河村彦左衛門(かわむらひこざえもん)【執筆者】 本間雅彦

・江戸無宿(えどむしゅく)
 安永七年(一七七八)から佐渡鉱山に送りこまれた無宿者をいう。坑内の湧水を処理する水替人夫として働いた。なまって「えどむしく」などと呼んだと、古老たちは伝えている。歴史家の橘正隆氏は、この人たちを「島送り」といって、流人として流されてくる「島流し」とは区別している。島送りの発案者は、佐渡奉行からのちに勘定奉行になる石谷備後守で、有名な田沼意次が将軍家治のもとで権勢を誇っていた田沼時代に、この島送りが始まる。都市の治安を考えた保安拘禁で、江戸・長崎・大坂の天領直轄地で無宿狩りが行なわれ、唐丸籠に入れて佐渡へ送った。江戸からが多かったので総称して「江戸水替」と呼んだ。のち幕府は、寛政二年(一七九○)から江戸の石川島に、「加役方人足寄場」を設けて無宿者を収容した。ここでは、佐渡と違って立ち直るための手作業など習わせた。更生のための一種の授産所である。これは田沼が失脚したあと、代わって登場した松平定信の裁可で実現した寄場制度で、佐渡鉱山で使役するだけでは本当の解決策にはならないという反省が、幕閣内でも起こっていた。佐渡鉱山では、構内の間の山に水替小屋を建てて、常時二○○人ほどを収容し、一昼夜交代で入坑して水替作業に従事させた。改悛したとみられる者は「平人」とした。平人には、「他国出」と「当国平人」の二つがあり、帰国しても身元引受人のない者は、当国平人となって町方居住が許された。治助町の元覚性寺という寺の跡に、江戸無宿たちの共同墓地が残っている。【関連】 江戸無宿の墓(えどむしゅくのはか)・佐渡送り(さどおくり)・無宿(むしゅく)【参考文献】 「佐渡金銀山水替人足と流人」(『佐渡相川の歴史』資料集一○)【執筆者】 本間寅雄

・江戸無宿の墓(えどむしゅくのはか)
 相川町大字治助町の、日蓮宗覚性寺址にある、安永七年(一七七八)から送られて来た、江戸水替無宿の三基の供養塔。普通、江戸無宿の墓と呼ぶ。向って右側は、天明三年(一七八三)、最初に建てられた石塔残欠で、正面に江戸の「戸」、左面(現正面)に安永七年・八年・九年没の一二名の戒名・没年月日・名前、後面には五名が判読でき、天明二年(一七八二)、「道すがら雪折竹の名残かな」の辞世句を残して処刑された「多十」の名もみえる。一番奥には、頂部を山形にした、全高三二二㌢の大形の角柱塔婆があり、「南無妙法蓮華経」および「江戸」の文字の他、天明三年の石塔が破壊したので、天保十五年(一八四四)に再建したとする銘文などを刻む。中央の石塔は全高一七六㌢のかまぼこ形で、塔身正面中央に「南無妙法蓮華経」、その左右に一四名ずつ、二段に分けて、計二八名の戒名・名前・出身地・没年を刻む。亡者の年齢は二二歳から四七歳。出身地は赤城巴・三ツ木巴・山城町・細戸巴・小石川・紙鋪巴・高根巴・神田・越後・久喜町・小金巴・伊賀・野州・上州・常州・江戸・石州・尾州・伊勢・下総・喜兵 新田・巣鴨・信州・三州・板橋の二五地方におよぶ。右側面には「嘉永六丑歳 七月十八日」とある。基礎は正面の中央に「百組」、向って右側に「江戸 八町堀」、左側に「差配人 與吉」と刻む。嘉永六年(一八五三)七月十七日、青盤間歩で江戸水替無宿が煙死する事件があり、翌十八日、元江戸火消であった差配人與吉が救出の働きをし、時の奉行都築金三郎より金五両を拝領し(『浮世噺』)、供養の石塔が建てられた。「百組」は差配人與吉の前職、江戸八町堀火消組「百組」をあらわす(計良一九七八)。覚性寺は、江戸水替無宿の旦那寺の性格をもつ。なお、相川町四丁目の弾誓寺にも、青盤間歩で没した江戸無宿の人達を供養する石塔が一基ある。【関連】 江戸無宿(えどむしゅく)【参考文献】 磯部欣三「水替無宿論抄ー相川鉱山到着まで」(『佐渡博物館々報』五号)、計良勝範「江戸水替無宿の墓」(『いしぼとけ』一○号)、『佐渡相川の歴史』(資料集一○)【執筆者】 計良勝範

・狄越え(えびすごえ)
 エビスという発音は、江戸期の奉行支配下で、両津の夷とのかねあいから、相川のエビスは北狄の文字があてられてきたが、伝承的な事に関しては、古習のままに伝えられている。したがって狄越えとは、北狄から青野峠をへて、佐和田町の鍛冶町に至る山越え道をさしている。戸地からの道はけわしくて、直接トネ越えができないので、この狄越えが用いられた。北狄から、妙見山西側の屋敷平に出る道は、標高七七八㍍ほどあり、青野峠道は標高四一九㍍であるから、河原田方面に出るためだけの目的であったのなら、かなり無駄歩きのようにも思える。しかし旧金泉村地区と、旧二宮村方面との文化的な交流があったことは、輪倉姓と和倉姓・北見姓などの、双方の分布からも感じられる。【関連】 妙見山道(みょうけんさんみち)【執筆者】 本間雅彦

・夷神社(えびすじんじゃ)
 小田の小山にあり、蛭子命を祀る。神社のカギトリは新五郎という者であったが、ある時期から本間左内にかわったという。ご神体は、イカ釣りに出た漁師のトンボ(釣具)にかかった石で、そのご神体の石にちなんで、土地の人びとは「釣石神社」、または「ドベイシ神社」とも呼んでいた。この神社の由緒書には、豊漁祈願のため、永享十年(一四三八)攝津の西宮より分霊したとの、口碑が記されてある。そして西宮のご神体も、漁師の網にかかったものだといわれ、ともに寄り神伝承が一致していることが興味をひく。境内には、稲場左衛門太郎の祀る石動神社もある。これも、ご神体は佐渡に多い寄り神の光る石で、浜に打寄せられていたが、どうしても動かず、アラメを下に敷いたら、楽々と動いたという伝承を持つ。なお浜に打寄せられ、動かなかった場所にちなんだ「あしやすめ」という田が、元小学校下の浜にあり、近くに製塩の古釜もあったという。さらに夷神社には、本多長兵衛の祀る、牛王神社も合祀されており、小田集落は、これらの地神を祀る人びとにより、形成されたムラなのである。祭日は四月十五日。会津から習ったという、「麦蒔き」などの芸能を奉納する。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)、『図説 佐渡島歴史散歩』(河出書房新社)【執筆者】 浜口一夫

・海老根(えびね)
【科属】 ラン科エビネ属 佐渡の野生ランは五十余種。特に人気があるのはエビネである。エビネ(海老根)は、バルブとよぶ偽球根が連ってエビのようにみえることに由る。学名はカランス(美しい)・ディスコロ(花弁や萼片などの異った色)で、エビネの魅力をしっかりあらわしている。花は花弁五枚(萼片の三枚と側花弁の二枚)と、唇片一枚の六枚からできている。花弁の基本色は褐色、そこに紅・茶・黄・緑色がかかる。唇弁の基本色は白色、そこに紅・黄色がかかる。花弁・唇弁・距の色と形の組みあわせは千変万化。一株ごとにどこか異なっていて、集めだしたら人をとりこにする。羽茂本郷での話。「昭和三十一年長男誕生。この年、珍しい花の群生に出会う。一㍍四方に、葉がまるで鶏の羽根のように地面をおおい、スイスイと数十本の花茎がのびて、舌を出したような形の花が、三番叟の鈴のように咲いていた。花は地味な色だがハッと息をのむ出会い。息子誕生の記念花として、二株ほど持ちかえってから一○年、空前のエビネブームがやってきて、エビネの名はそのとき知った」と。島内の群生地と、名花の数々の地エビネは激減した。【花期】 五~六月【分布】 日本全土【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男

・恵美草(ゑみそう)
 相川の年中行事を記述した蔵田茂樹の著作。最初「鄙の手振」と題したが、京都の師、加茂季鷹に示したところ「ゑら/\とわらふ手ぶりは天さかるひなに残れり笑ふてぶりは」の歌を添えてきたので、恵美草と改題したとされている。文政十三年(一八三○)三月の作で自序と、季鷹の跋があり、江戸時代には公刊されることがなく、写本で流布した。国会図書館・東京都立中央図書館・桜山文庫(鹿島則幸氏蔵)、佐渡の舟崎文庫などに、数種類の写本で残っている。さし絵は石井文海(一本に中川鉄斉とある)とされ「左義長」「春駒」「塩釜社の田舎あやつり」(人形)「盆踊り」「善知鳥社の祭り」(鬼太鼓)の五葉が載っている。化政期の相川の芸能や民俗をふりかえる上で貴重で、千疂敷の舟遊び、風の宮社の花火、十月のハタハタ漁、師走の虎魚(ハリセンボ)、物乞いして歩く節季女郎など、ひなびた風俗も紹介されている。国会図書館本の末尾には「天保十三年三月写之、みなもとのたか子」とある。これは天保十年(一八三九)に江戸城への金銀上納で上京した茂樹が、歌会の席で旗本の妻の井関隆子と知り合い、そのおり隆子が恵美草を借りて前後二回にわたって筆写し、同書が江戸でも流布することになる。これをきっかけにこの女性と茂樹の文通は、生涯続いた。【関連】 鄙の手振(ひなのてふり)・蔵田茂樹(くらたしげき)参考文献】 深沢秋男「井関隆子研究覚え書」(『文学研究』)ほか【執筆者】 本間寅雄

・沿海日記(えんかいにっき)
 江戸後期の地理学者、伊能忠敬の測量日記。佐原(千葉)の出身で、寛政六年(一七九四)江戸に出て一九歳下の高橋作左衛門至時から天文学を学んだ。高橋の勧めで蝦夷地の測量を志し、同十二年に蝦夷東南海岸などを測量し、その地図を幕府に献上した。その後測量は全国におよび、佐渡へ渡ったのは享和三年(一八○三)の八月二十六日。出雲崎から小木港に着き、高弟の平山郡蔵と二手に別れて、忠敬は新町・沢根を経て相川へ、相川から沿道諸村を通って小木・赤泊・松ケ崎・野浦・水津・両尾・夷・新穂を経て、九月十四日に新町へ。平山は小木から沢崎・白木・亀脇・新町を経て相川に。次いで姫津・北片辺・小田・真更川・鷲崎・浦川・夷へ出て新穂を通過、新町で忠敬の一行と落合った。離島したのは九月十七日で、越後寺泊を経て三国路通りで江戸へ帰った。測量の主な目的は、師の高橋至時から与えられた緯度一度の距離の測定、ひいては地球の大きさの測定であった。佐渡測量の一部始終は『沿海日記』(下巻)にまとめられていて、詳細な佐渡全図とともに佐原市の伊藤忠敬記念館で保存されている。相川では濁川町の「名主庄三郎」方で止宿したが、このとき「測量御用に当国え渡海の御届」のため、奉行所にも出向き、その足で鉱山も見学したことが記されている。日記は測量順路など、慨して事務的な記述に終始していて、地理・地形・測量方法・人との会話などが省略されているのは、当然とはいえ惜しまれる。【関連】 伊能忠敬(いのうただたか)【執筆者】 本間寅雄

・円行寺(えんぎょうじ)
 五郎左衛門町にある、日蓮宗の寺。山号は光得山。開基は寛永元年(一六二四)ともいい、現在地への移転がこの年、とする説もある。開基は円行院日進といい、『佐渡相川志』によると、延宝二年(一六七四)十二月十七日に没したとされ、善行坊日達によって現在地に再建されたとも伝える。江戸中期ころ、寺の田は「五反四畝八歩」山林が「六畝六歩」、境内を「十間・十一間」とした記事がある。阿仏房妙宣寺末で、文政十年(一八二七)のころ、本寺に五重塔が建立されたとき、院代を勤めていた。この塔は開山堂(日得上人、千日尼)を目的として、享保二十一年(一七三六)に建立願が出され、奉行所の認可が下りていたが、資金難や歴代住職の死亡で着工が遅れていた。妙宣寺文書によると、文政五年に院代である円行寺と、觸頭兼帯の善行寺(中寺町)から、再建願が出されている。過ぎて同十年には立塔が完了したらしく、この年円行寺が奉行所に呼び出され、五重造りの構想が願書にはなかったことが指弾されている。妙宣寺住職、普門院日體が、相川に所払いになるのはこの翌十一年で、善行寺預りとなり、天保二年(一八三一)七月に相川で没している。墓は善行寺の境内に残るが、いまは廃寺で、位牌などは円行寺に引継がれている。【関連】 長坂茂三右衛門(ながさかもさうえもん)・阿仏五重塔(あぶつごじゅうのとう)【執筆者】 本間寅雄

・煙霞療養(えんかりょうよう)
 紀行文。『金色夜叉』執筆中、神経衰弱にかかった尾崎紅葉が、その療養のため新潟の親戚に誘われて、越後・佐渡を訪れた旅行記で、明治三十二年(一八九九)九月から十一月にかけ、読売新聞に連載された。紅葉は同年七月一日、上野駅から出発して赤倉に二泊、新潟に七日まで滞在、八日に佐渡へ渡って来た。佐渡では十日まで両津、十一日河原田に宿泊、十二日から相川に入るが、記述はその第一日目の、製鉱所・高任坑見学の模様で終っている。しかし、この旅行のメモである紅葉自身の「佐渡日記」によれば、この後も十八日まで相川にいて、鉱山祭りを見たり、春日崎や千畳敷で遊んだりして、十九日から二十九日まで小木に逗留、さらに新町・新穂・夷でそれぞれ二、三泊、八月五日夜出帆の渡津丸で佐渡を離れている。この間、小木町角屋滞在中の紅葉と、貸座敷権左屋の芸妓「いと」とのロマンスは、つとに有名で、紅葉はいとの三味線の胴に、「来いちゃ来いちゃで二度だまされた またもこいちゃでだますのか」という古謡を書いたりした。「十千万」と号する俳人でもあった紅葉は、行くさきざきで俳句を詠んだ。この旅の行程半分足らずの『煙霞療養』にも、明治紀念堂で詠んだ「眉つくる小佐渡の風の薫る哉」など、三十数句がちりばめられている。【参考文献】 『紅葉全集第一一巻』(岩波書店)【執筆者】 酒井友二

・延齢草(えんれいそう)
【科属】 ユリ科エンレイソウ属 「かの山のかの木のもとのひとむらのえんれい草も愛さむひとつ」。友人の佐和田町の近藤治隆さんは、年賀状にこの歌と花の版画を寄せてくれた。咲きはじめは紫花がピンクを帯び、うつむいていてういういしい。まさに“愛さむひとつ”である。エンレイソウは延齢草の意味。古名は延年草。初々しい花が咲くまで“齢を延ぶる”こと一五年余もかかり、名まえもここから生まれた。属名トリリウムは三基数のユリの意味。雌しべの子房三室・花柱三、雄しべは外に三、内に三、花びら状の紫の萼三、輪生葉三となっている。『佐渡志』に「延年草 方言がせつな 山中渓間に生ず 形王孫(和名ツクバネソウ)に似て大なり」と記される。現在は輪生する食べられる三葉にもとづくミツナ・ヤマミツナの名で呼び春の山菜とするが、こんなにうまいものが山にあるかと思うほどうまい。葉の中央に黒実の熟すのは六月。ミツナノボボ・サワイチゴ・クロンボ・パンパンイチゴ・パンパングリと、さまざまに呼んでいる。野兎や小鳥に食べられない前にと、子どもたちはすぐ口にほうりこむ。甘ずっぱい。口の中は紫色になる。【花期】 四~五月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』、同『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男

・大赤花(おおあかばな)
【科属】 アカバナ科アカバナ属
 アカバナは赤花と書く。花が赤色と思うがちがう。花は淡い赤紫色、一見ピンク色、花もうんと小さくアカバナのイメージがない。花の咲く夏秋の頃、葉が紅紫色になるのでこの名がある。種名はフイルコロビウム(赤色の種毛)で、種子に生える毛も赤い。アカバナ属は日本に一三種あるが、幻のアカバナといわれるのがオオアカバナである。本種は高さ一・五㍍、花の径三㌢と、この仲間で最も大きく、紅紫色の美花を咲かせフヨウアカバナともいう。分布は青森・会津・能登・佐渡(越後に分布しない)の四か所に限られ、隔離分布する希産種。ユーラシア・アフリカ北部に広く分布するこの花が、日本ではなに故に隔離分布するのか。まだ解明されていない。佐渡の分布は、大佐渡の戸地・片辺・後尾・入川・梅津などの川の河川敷。梅津川のものは、昭和五十七年(一九八二)の河川改修で消滅した。種子が細かく、風と流水によって運ばれるので、アカバナ類は、河川敷では年によって生育地が移動する。また増水や河川改修によって、自然河原は一変し、河原の植生も消滅する。【花期】 七~八月【分布】 本州(希産)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男

・大岩鏡(おおいわかがみ)
【科属】 イワウメ科イワウメ属 イワカガミは岩鏡の意味。高山や亜高山の岩場に生え、葉は鏡のようにツラツラしているからである。佐渡はほとんどがオオイワカガミ。イワカガミは、大佐渡の金北山(海抜一一七二㍍)やドンデン(九○○㍍)の尾根部の季節風に直面する岩場や、砂礫場などの限られた高山立地にのみ分布する。イワカガミの葉は特にクチクラ化し、長さも幅も三~六㌢ほどで小さく、花房の花の数もすくない。オオイワカガミの葉は、長さ幅とも一○㌢をこし大きく、イワカガミの数倍の大きさ。北海道の南部から東北・中部地方の日本海側のブナ林域に分布し、イワカガミの変種とされるが、葉の大きさは連続的で中間形の区分はむずかしい。『新潟県植物分布図集・六集』(一九八五)は、両種を区別せずイワカガミとしている。佐渡は全山に普通に広く分布する。日当たりのよい場所の葉は赤くなる。佐渡では、ムジナノザブトンとかムジナノフトンという。ムジナは狢でタヌキの方言。花の色は濃い紅から淡いピンク色までさまざま。下向きにつく花の横の恰好が、狐の横顔に似るのでキツネノカオツキとも呼ぶ。シロバナオオイワカガミ(品種)も佐渡にある。【花期】 五~六月【分布】 北・本(日本海側)【執筆者】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』

・大浦(おおうら)
 二見半島の西海岸、春日崎の南に位置。応永十四年(一四○七)、本間氏とみられる左衛門尉詮忠譲状に、子の有泰に「大浦郷」を譲ったことが記されている(山田本間家文書)。戦国期は、二見とともに沢根本間氏の領有となったと考えられる。元禄検地帳は保存されていないが、文化十三年(一八一六)の書上げには、細田・平・坂しから・大道・家上・松中・宮ノ上・かしがやぶ・岩塚・谷地・かつみ沢・じゃばみ・つちぶね・東ノ前などがあり、段丘の各地に水田が分散している。中世は農村がなく、イソネギ漁を行い、海産物を商品化した、半農半漁村であった。集落は四つの江川により、六つの集団にわかれ、それぞれに重立百姓がいて、同族集団化していた。親方は屋敷地・水田を所有し、段丘上の用水源も支配するという、一定の開発方法がみられた。鎮守は慶長六年(一六○一)創建の尾平神社。安産の神といわれた。真言宗豊山派の安養寺があり、本尊の阿弥陀如来は弘法大師作といわれ、応永元年(一三九四)、宗太夫(宗心)という者が海底より拾い上げたという。安養寺後の上方に、城ケ沢という地名と湧水があり、「宗心作り」という古田があった。近世以降、相川の近郊村として続き、現在も同様である。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫

・大浦鉱山(おおうらこうざん)
 相川町大浦と、同町高瀬の境の金掘沢上流にあった。現在では、下向き階段掘りの坑口が一つ、水没して井戸のように見えるだけである。元禄三年(一六九○)の村境絵図に坑道が明記されているので、それなりの古さは窺い知ることができる。金山であったか、銀山であったか、あるいは銅山であったかも不明であるが、野坂鉱山と同じく江戸初期の銀山開発と思われるが、詳細は不明である。この鉱山跡のある沢に面した高瀬地積に「穴釜」地名があるが、そこには古代の須恵器窯の跡があり、周辺に須恵器片が散乱しているので、この穴釜は野坂のものと違って金属製錬の穴窯炉ではない。【関連】 野坂鉱山(のざかこうざん)【参考文献】 田中圭一編『佐渡金山史』【執筆者】 小菅徹也

・大浦郷地頭職(おおうらごうじとうしき)
 大浦郷は中世に成立した郷名で、現在の二見半島一帯の地域であろうと考えられる。この地域に地頭職が成立するのは、南北朝期後半(一四世紀後半)ころと考えられるが、それはこの地域の開発が進み、村落体制が整ったことを示すものであろう。「本田寺文書」によると、永徳元年(一三八一)本間九郎左衛門道喜(河原田系本間氏であろう)が、足利義満から蓋見(二見)半分の地頭職を安堵されている。道喜(季綱)はこれより三○年ほど以前の貞和四年(一三四八)には、石田郷のうち本間山城左衛門の跡を譲り受けている。道喜の地頭職を得た二見半分の地がどこかははっきりしないが、水田地帯の状況からみて、真野湾側であったかもしれない。室町時代にはいると大浦郷は、別の本間氏(これも河原田系本間氏であろうか)の知行地となる。「片貝本間家文書」によると、応永十四年(一四○七)本間詮忠が長木保三分一・三宮保四分一・中興保七分一・金丸保半分・雑太郷十二分一・宿祢宜浦及び大浦郷を子息有泰に、そして永享九年(一四三七)には同知行地を有泰が子息淳泰に、さらに宝徳三年(一四五一)に同じ知行地を淳泰が子息の泰時に譲り渡している。もっともこの宝徳の譲状では、大浦郷が西浜と記されている。こうして南北朝以来、二見半島の地域は河原田系本間氏の知行地となってきたが、戦国期にはいると、沢根の地に成長した土豪沢根本間摂津守の領地と変わっていくのである。【参考文献】 橘正隆編『河崎村史料編年志』(河崎公民館)、山本 仁「二見半島調査報告」(『中世の二見半島』)【執筆者】 山本 仁

・大浦城址(おおうらじょうし)
 大浦の集落は海辺に並ぶが、中世の大浦城は背後の段丘上にあった。集落の中に安養寺という真言寺院があるが、北側脇に寺の川という小川が流れる。段丘から落ちる滝の上方を城ケ沢という。段丘上の沢の所に城があったことが推測される。今は段丘上(標高三○㍍)一帯は水田地帯と変わっているが、中世には畑地帯が広がっていたのではないだろうか。城ケ沢の付近には古田がみられ、最奥部には清水が湧出ている。中世の名(村)があった地点であろう。村の寺、安養寺は段丘上にあったものが、後に海辺の現地に下りたと伝える。この安養寺の本尊阿弥陀如来は、応永元年(一三九四)寺の川を挟んだ北隣の中村惣太夫の先祖が上げたものという。惣太夫は村の有力者(親方)の一人で、今もこの家の周辺には中村一族が住む。中世には段丘上の城の付近で、水田経営をしていた一族であったかもしれない。また安養寺の付近には渡部氏も住んでいる。これは海辺の生活が中心だった一族と思われる(鎮守尾平神社の社人も渡部氏である)。大浦城主は中村氏であったのではなかろうか。なお、大浦の入江の中に「城ノ島」と呼ぶ岩場があるが、城と関係のある場所であったかもしれない。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 山本 仁

・大垣(おおがき)
 大佐渡林間放牧場のまわりに、牛が野に出て田畑を荒さぬように、はりめぐらされた延長約三○里(一二○㌔)の垣のことで、この大垣は既に寛文年間(一六六一ー七二)からあったらしく、南片辺に「垣破り牛」の古文書がある。大垣の修理は、各集落毎に春(春垣)と秋(秋垣)に村びとが協力して行った。大垣の管理については、各集落に村内規約があり、それにより管理された。参考までに高下の規約を掲げてみると、放牧期間は八十八夜後一○日迄は放牧しないこと。大垣を破ったときは、玄米一升取ること(大正十年頃より)。大垣修理費は反別割とすること。大垣は秋九月より十月頃迄、一か月ないし一か月半以上垣番をつけ、大垣の見廻りをさせ、もし逸走牛馬あるときは、これをとりおさえ、牛込場に引き入れること。垣番の給料は一日玄米一升とするなどと記されている。これらの大垣は丸太や杭を打ちこみ、雑木の横木をしばりつけ、山路の要所には開閉自在の「木戸」をつけたものであったが、昭和三十八年(一九六三)末、米軍レーダー基地よりの補償金により、大佐渡を取り巻く一二○キロメートルの大垣を、有刺鉄線で張りめぐらせた。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・大切坑(おおきりこう)
 寛永十一年(一六三四)に、山師味方与次右衛門が切り始めた大型坑道。「六月六日より切り始め」(『佐渡年代記』)と、開発を始めた日取りが後世に残っている。佐渡鉱山の北西部で、下相川地内の大佐渡スカイライン沿線に、坑口が残っている。与次右衛門は味方但馬家重の弟と伝わっているが、詳しくはわからない。その名跡(二代)を継いだ次郎四郎(禅門して仲慶)は、越中(富山)の産といわれる。延宝二年(一六七四)十月に没したが「殊ノ外山ノ事ニ出精ス」とある。この坑の開発は、初代と二代の継続事業だったと思える。目ざす大切脈に着脈したのは正保四年(一六四七)で、開削を始めて一四年の歳月を要した。公費でなく自力で切り延べたもので、正保二年には資金が続かず、伊丹康勝(佐渡奉行)に三年間の運上金免除を申請したが、一年だけ免除された記録が残っている。それでも工事は困難をきわめたらしく、同四年五月から「御直山」(公費開発)となり、ひき続き与次右衛門が山主として切り延べが続いた。この時点で「本道一五八間、添煙一八○間」の長さになり、これまでの入用銀が「八○○貫余」要したという。この坑道の特徴は、本坑道に雁行させて別にもう一本の「添煙」(通気坑道)を堀り、両坑道をところどころ連結させて、外からの空気まわりをよくした点で、距離が全体として四○○㍍も長いこともあって、断面を大く掘ってある。与次右衛門は寛永四年(一六二七)ごろ、青盤間歩の稼行で大盛りを得、多くの収益をあげた。その資力で大切脈の開発を手がけたと伝えられている。下寺町の日蓮宗法輪寺に、一族の大型の五輪塔が林立して残っている。【関連】 味方与次右衛門(みかたよじうえもん)【参考文献】 伊藤三右衛門『佐渡国略記』、西川明雅他『佐渡年代記』(上巻)【執筆者】 本間寅雄

・大久保長安逆修塔(おおくぼながやすぎゃくしゅうとう)
 相川町大字江戸沢町の浄土宗大安寺にある、慶長十六年(一六一一)銘の大久保石見守長安逆修塔。越前式宝篋印塔で、石室(覆殿)内に安置する。石質は緑色凝灰岩(笏谷石・越前石ともいう)。石室は切石を組んだ切妻平入造りで、安政三年(一八五六)の修復時(「大久保長安公 御石塔修理再建勧化帳」)にとり替えられた安山岩質がまざる。石室背後の板石三枚のうち、左右二枚の内側にはそれぞれ、蓮華座に如来形の立像を半肉彫する。向って右は智拳印を結ぶ金剛界大日如来、左は施無畏・与願印の如来像(釈迦か阿弥陀)であろう。逆修塔は、巾約五○㌢、高さ四四㌢の立方形切石(安山岩)を台石とし、その上に基礎・塔身・笠を組み、さらに一石造りの伏鉢・請花・宝珠を乗せる。基礎は巾四一・五㌢、高さ三三㌢で、上面は二段の造り出しとし、正面のみに田の字形の四ツ目文に区分して文様を刻む。四ツ目文の上の二ツには八本の竪連子文、下の二ツはふちどりのあるお椀形の格狭間文をうすく刻む。また、田字形の向って右側の縦線から、「大久保石見守殿」、中央に「法廣院殿一的□(朝)□(覚)」、左側に「干時慶長拾六亥暦」とあり、上の横線には向って右から「逆修」と刻む。塔身は正面に、蓮華座と周囲に蓮弁を彫り付けた月輪をうすく浮彫りし、月輪内にはやや上よりに薬研彫りの種子「キリーク」を刻む。笠は下面を二段、上は七段とし、隅飾突起は二弧造りとし、直線的に斜に開く。伏鉢・請花・宝珠は高さ二二㌢、全高は一一○㌢。本来、相輪(九輪)があったが欠損し、とりのぞいて宝珠形に加工したものと見られる。『佐渡国略記』には、明和五年(一七六八)四月、歴代の墓とともに、本堂北側の現在位置へ移したことが記されているが、元の場所は南側前部あたりであろう。平成八年、補修強化のため搬出され、五月二十五日に直された。その間、四月八日から十一日にかけて、地下の発掘調査があり、人骨の入る高取焼甕三個が出土したが、長安のものではない。平成六年五月二十四日、国指定史跡となる。【関連】 大久保長安(おおくぼながやす)・大安寺(だいあんじ)【参考文献】 計良勝範「大久保石見守長安の逆修塔」(『いしぼとけ』創刊号)、京田良志「越前式宝筐印塔ー大久保長安逆修塔ー」(『佐渡相川の歴史』資料集二)、斉藤本恭・佐藤俊策「大久保長安逆修塔地下の調査」(『相川浜石』四号)【執筆者】 計良勝範

・大倉(おおくら)
 現在(平成七年)の世帯数は三五戸、人口は七七人である。宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』には、家数三三軒、人数一七九人とあり、田畑は一四町八反九畝二二歩とある。さらに「此村内往還海際岩伝ひ四五丁程ワシリト云難所アリ、山通リ廻リ道ニ而拾三町余有リ」とある。このワシリは、岩の根伝いに波で足をぬらす難所で、波の高い時には山越えの廻り道をした。大倉走の開鑿工事は、明治末年から昭和にかけて、こ刻みにくり返され、現在の大倉トンネルができたのは平成三年である。海府と旧内海府方面を結ぶトネ越え道には、大倉越え(大倉~馬首)・黒姫越え(岩谷口~黒姫)・石名越え(石名~馬首)・アオネバ越え(入川~梅津)などあるが、大倉越えは、昔、小田と浦川の郵便局を結ぶ郵便ミチとして、最もよく活用された。大倉は菊池一族と梶原一族により開かれた村といわれ、その草分は、阿弥陀堂をもつ梶原平蔵、不動を祀る菊池三太夫、賽の神を祀る源左衛門、大家とよばれる権兵衛などの七人衆といわれている。大幡神社の祭神は、大幡主命または大股主命ともいわれ、もと県社でかっては海府二四か村の総鎮守であった。『佐渡国寺社境内案内帳』には貞観三年(八六一)の創立という。祭日は四月十一日、浜での流鏑馬行事(町無形民俗文化財)が有名である。大倉川沿いに奥まで林道がのび、新潟大学農学部付属佐渡演習林があり、杉・松の造林事業が盛んである。文禄三年(一五九四)の開基と伝える長久寺は真言宗である。【関連】 大幡神社(おおはたじんじゃ)・大倉祭り(おおくらまつり)・大倉越え(おおくらごえ)・新潟大学農学部付属佐渡演習林(にいがただいがくのうがくぶふぞくさどえんしゅうりん)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】 浜口一夫

・大倉越え(おおくらごえ)
 大倉から馬首までの山越え道が、大倉越えである。大倉川(大川ともいう)沿いにかなり登ったあたりで、西からくる支流と合流するが、本流沿いになお進むと、切場池の西側に至る。そこからさらに二㌔ほど登ったところが、標高六九八㍍のマトネになる。その先は上の平というところで、平松戴山の東側から浦川に至る道と、西に向かって馬首に至る道とに分かれる。平松戴山の北側では、関から北松ケ崎や馬首に通ずる関越えの道と、十字路ふうに交差する。このような山中の踏みつけ道での交差路は、めったに見られない現象なので、何か特別な事情があるのかもしれない(註 関越えの項を参照)。大倉とは村つづきの小田には郵便局があるので、郵便物はトネ越えで逓送されていた。『佐渡相川の歴史』(資料集八)では、小田局勤務の局員たちが、浦川局まで往復したときの「郵便ミチ」の話が掲載されている。また女たちが、内浦や両津へワカメを売りに出るときにも、大倉越えは使われた。【関連】 関越え(せきごえ)【執筆者】 本間雅彦

・大倉城址(おおくらじょうし)
 集落の北端、大倉走りという海岸の難所に突き出た岬の頂上部が、「城ノ平」と呼ばれている。標高一一○㍍余りで、頂上部は広大な平坦地の畑地となっており、後方段丘上は水田地帯が広がる。郭の形態は不整形であるが、前面の小郭を含めて二郭から成る。先端部から八○㍍ほどで空堀で区切り、その後方二五○㍍で末端を区切る大きな空堀を入れる。段丘北側には矢柄川が流れ海に注ぐ。矢柄に残る区有文書(寛保三年・一七四三)の中に、明暦二・三年(一六五六ー五七)、両年大倉村と矢柄村の境争論について述べてある。そこに「城ケ平垣ノ内」──大倉村半左衛門持所の秣場とか、大倉村半左衛門持所の秣場「城ケ平」と申す内─とかあり、明暦ころは半左衛門という人の所有地であったようである。土地の人は、村の大屋梶原平蔵の土地であったと言っている。梶原平蔵家は、村の草分け五人衆の筆頭で、江戸初期は不明であるが、寛文十一年(一六七一)ころからは名主を勤めている大地主である。中世から村の親方として、大倉城の主人であったのではないかと思われる。【参考文献】 山本仁『佐渡古城史』【執筆者】 山本 仁

・大倉祭り(おおくらまつり)
 祭日は、かっては旧の九月十一日だったが、現在は四月十一日である。祭りには流鏑馬のほかに、薙刀・棒振り・獅子(雄雌)・箱馬・豆まき・鬼などの芸能がある。早朝、「奉納大幡大明神」の幟が浜の入口にたてられ、やがて大幡社で打つ太鼓のひびきと共に、ムラびとは宮へ上る。太鼓打ちは、昔は一五、六歳の小若衆であった。太鼓がはじまると、薙刀が鳥井にはられたしめ縄を切る。すると二人の「棒振り」が、棒を振りながらそこから境内に入ってくる。装束は黒紋付で白たすきがけ、棒は五尺余り、この棒振りは、神輿渡御の際には、四辻や橋などに止って棒を打ちあわせながら踊り、古風な露払いの姿をしのばせる。棒振りに続いて、「箱馬」と「獅子」が入ってきて、互いにまつわり、からみあう。それが終ると、こんどは「豆まき」である。五合枡を持った豆まきと、錫杖を持った黒鬼の、軽妙なからみあいを演ずる。最後はまた二人の「薙刀」が登場し、みごとな薙刀のさばきを見せる。そして、次は神輿のオハマオリ(お浜下り)となり、浜の祭場に向かって、薙刀・鉾・太鼓・神官・射手と、馬・箱馬・棒振りの順に列を作り進む。祭場に着くと、お旅所にはられたしめ縄を、ツユハライの薙刀が切り、お旅所に安置された神輿の前で、巫女舞いや神楽が奉納され、その後、流鏑馬が行われる。巫女舞いは「扇の舞い」や「榊の舞い」が舞われ、神楽は「猿田彦」「恵比須の舞い」「剣の舞い」などが舞われたという。祭場の管理は、ムラのオモダチ衆があたり、戦前まではその席順もきびしかったという。流鏑馬の射手も、古くはオモダチの家の男の子が選ばれた。流鏑馬は、三本の的板が五㍍ほどの間隔にたてられ、射手は馬に乗り小走りさせながら的を射る。射手の装束は、黒紋付・白だすきがけで金色にぬられ、色紙で飾られた笠をかぶる。射手の前籠りは、古くは神官とともに七日間で、宮に籠り、海で禊をした。この籠りの期間の食事は、メシバン(飯番)といわれる木戸文左衛門がうけもった。「大幡神社の祭礼行事」は、昭和四十九年(一九七四)に相川町の「無形民俗文化財」に指定された。【関連】 大幡神社(おおはたじんじゃ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、田中圭一編『佐渡芸能史(下)』(中村書店)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)【執筆者】 浜口一夫

・大倉走り(おおくらわしり)
 戸中の洞屋・関の銚子口と共に、海府三難所の一つ。現在はトンネル(平成三年三月開通)が通じ、大型観光バスも通れるようになったが、明治四十五年に相川町下相川の藤平なる者が請負い、両隧道とその間の掘鑿工事をしたという。工事にあたっては元止木などを使用し、その後なん回かの改修がなされたというが、鉱山工夫の技術によったものといわれている。天保十二年(一八四一)佐渡奉行・川路聖謨が、佐渡巡見をされた記録(『島根のすさみ』)があるので、大倉走りの箇所を掲げてみよう。「大くら村のはしりという所は、所謂親しらず子しらずというにて、波の間にはしる故にはしりという也。絶壁のきわ迄波うちよせる、其内を行く也。扨其はしり二町計を経て、岩おにのぼるに、岩おを二尺ばかりにみちを附けて、そこを伝い行く也。某が行くうちは人足数十人出て、もしや踏外したらんには途中にて救う心なるべし、みちより下、壱間許の所に、岩おに壱人宛ならびて、虫の梢に這附きたるごとくなし居る也。され共下は海にて、岩石数十丈なれば、なかなかふみ外したらんには防ぐべき様なし、幸にこヽは微雨にて、凌ぎよかりし也。」と記されてある。ここ大倉はしりを通り過ぎたのは三月十日で、「風雨、夕がたより雨止む」とある。大変な道中であったらしい。【参考文献】 川路聖謨『島根のすさみ』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・大坂廻米(おおさかかいまい)
 佐渡の廻船業は金銀山による需要の影響をうけ、交易先がしばしば変動したが、その好景気が一段落すると、商品の販売先を新潟に求め、信濃川・阿賀野川口の新潟湊に集った米・大豆など(穀物)を船問屋を通じて買い取らせ、蔵敷料を払い、翌春、手持廻船で敦賀・小浜に運んで販売する、地域間格差をねらった交易が行われた。北国と敦賀・大津・京大坂を結ぶ穀物ルートは、間もなく寛文十二年(一六七二)河村瑞賢の整備した幕府米輸送の西廻わり航路によって、直接大坂に穀物を廻漕するようになった。この大坂廻米は、各藩によって対応の違いはあるが、加賀藩は正保四年(一六四七)以来、上方廻船で廻米をはじめ大坂市場と直結していた。代表的佐渡船の船登源兵衛船の船頭忠兵衛は、各湊の付船問屋である。酒田は根上善右衛門、新潟は北村又左衛門、敦賀は壷屋甚右衛門・丹後屋彦右衛門、下関は尼崎屋市十郎、兵庫は北風七兵衛、大坂は薩摩屋市左衛門などと取引した。強清水村の佐藤九郎兵衛船は、新潟高木市右衛門・小浜塩屋弥右衛門らと取引をし、各湊の相場書をみながら船を動かした。佐渡米が市場に一定販売されるようになった時期は、荻原重秀が佐渡奉行兼帯となった元禄三年(一六九○)以降である。元禄元年には大坂堂島米市場ができ、三年に二万五千石他国払いになったのは、米穀取引所の開設と関係があろう。荻原奉行は同四年佐渡巡村ののち、御蔵米相場一石、銀三二匁の時価半値の年貢半銀納の指示を出し、年貢米は倍増された。この年貢銀納分が市場に流れ、大坂廻米を促進した。船登忠兵衛船が大坂廻米をしたのは元禄八年(一六九五)である。【参考文献】 佐藤利夫「北国米の流通」(『日本海地域史研究』一四輯)、西川明雅他『佐渡年代記』【執筆者】 佐藤利夫

・大桜草(おおさくらそう)
【科属】 サクラソウ科サクラソウ属 佐渡奉行所編の『佐渡志』(一八一六)に記されるツツジ。「北山にあり桃色花をつけるという、草木の諸書にも記されてなく、天が生じさせた」と記される、幻のツツジとされたのはムラサキヤシオのこと。幻といっても、現在は多くの人々がよく知っている。佐渡の花のなかで、幻の中の幻の花といえばオオサクラソウ。「佐渡山草会」「佐渡博物学会」の会員で花の好きなひとびとの多くは、この花をみたことはない。それもそのはず、本州中部では白山から飯豊山までみられるが、それより北にはない亜高山帯の花。県内分布も、県北では飯豊連峰(北股岳二○一五㍍・県内垂直分布の上限)、県南では妙高山近くの焼山(一九○○㍍)など、分布はごく限られている。大佐渡山地の東北部の尾根周辺、相川町関越の山地(海抜七七○㍍県内垂直分布の下限)。空中湿度の極めて高い、天然スギ林のふちの半陰地に散生する。全草大きく花も美しいが、ハクサンコザクラのように大群生しない。「佐渡高山目録」(一九八七)には五六種が記されるが、最も希産で、めったにしか遭遇しない高山の名花は、オオサクラソウとアオノツガザクラである。【花期】 五~六月【分布】 本州(中部以北)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男

・大佐渡開発総合センター(おおさどかいはつそうごうせんたー)
 相川町栄町(海岸埋立地)に、昭和五十八年(一九八三)八月に完成した。このセンターは、地域の産業振興及び社会教育の実施、保健福祉・生活便益の確保・離島文化の保存・保護などの、多目的機能を有する総合的な施設である。建物は鉄筋コンクリート二階建て、延床面積は二○六八・五五平方㍍。一階にはステージ付の大集会室、裂織りや陶芸の実習室、特産品や各種資料の展示ホール、老人集会室(和室)などが設けられ、二階には約六○人収容の研修室、調理実習室のほか、図書室が設けられ、一階の管理室は、相川町教育委員会で使用している。玄関入口を入った右壁面には、相川窯業組合の製作による「夕鶴」をデザインした、タテ二・○六㍍、ヨコ八・五七㍍の陶壁があり、大集会室のどん帳は、地元のお母さんたちにより、赤地に白で相川の海をデザインし、伝統技術を活かした“裂き織り”で作られている。ホールの奥、右に曲ると、北隣りに前年度完成した町民体育館と、渡り廊下でつながっている。【関連】 夕鶴の碑(ゆうづるのひ)・裂き織り(さきおり)【執筆者】 三浦啓作

・大佐渡山地(おおさどさんち)
 佐渡島の西側を占める中起伏の山地。東側の小佐渡山地と国中平野を隔てて相対し、高度・起伏・傾斜共により大きい。金北山(一一七二㍍)を主峰に、主山稜は北東ー南西方向に連なり、南西に妙見山(一○四二㍍)・北東にタダラ峰(ドンデン・九三四㍍)・金剛山(九六二㍍)・壇特山(九○七㍍)等が突起する。国中平野から望むと障壁の様に聳え、冬の北西季節風を遮る役割を果す。河川は山体を刻む必従河川が主で、主稜線から直角方向の北西又は南東に向く。北西には大倉川・小野見川・入川・石花川・戸地川等が落ち、南東には梅津川・長江川・新保川・藤津川・石田川等が落ちる。主稜線はやや東に偏り総じて東側に急、西側に緩の傾動地塊的断面を示す。真更川より北の北端部に、古生層の千枚岩化した砂岩・粘板岩が露出するが、地質は新第三紀中新統の火山岩類を主とする。谷が深く急斜面の多い一方、ドンデンや上ノ平など、山頂や山腹に団塊状に緩斜面が散在するので、早壮年山形と言える。山頂や脊稜部は季節風の影響を受け、高度はさほどでないがハクサンシャクナゲ群落やミヤマナラ低木材、シバ草原等高山的植生景観が見られる。大佐渡山地の山腹の林地やシバ草原は、古くから山麓の集落で飼う牛馬の林間放牧地として利用されて来た。【参考文献】 新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)、九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)【執筆者】 式正英

・大ざれの滝(おおざれのたき)
 両津市真更川南端の大ざれ川の滝。大ざれ川は、東側山中の山居池近くから流れる開析谷の川で、V字型の谷が下流まで続き、標高一○○㍍あたりからザレ地になり、海岸に約四○㍍の滝となり流下する。隆起海岸線の段丘崖は、山地基部が海に接する岩石の急崖となり、そこが滝になる。かって真更川は、大ざれの滝近くの海辺にあったといわれ、両津市河崎の真更川と同じように、川口の集落であったといわれる。真更川は、中世末に現在地に集落移動したと想像される。「はしりくだり」という元村には、堂屋敷跡や石垣・古田跡など、及び川口の南には古井戸もあるという(『両津市誌』町村編下)。岩谷口より真更川へ通じる旧道は、標高一○○㍍の場所まで上がり、大ざれ川を徒歩渡りをして、急崖を登って笠取峠を経る道であった。現在は、真直に永久橋・海府大橋が下流に掛けられている。海府大橋の北に砂畑という場所があるが、ここからは土師器や石鏃が出土している。大ざれ川の上流山居池は、かっては水草やブナ・ナラノキなどの生えた湿地で、堤防を築いて溜池として、水田開発の水源にした。山居池には、真更川と鷲崎のオオヤ(草分けの家)で生まれた男女が夫婦になって、干魃の夏にこの池で雨乞いをしたという伝説がある。【参考文献】 『両津市誌』(町村編下)、『地域学習双書Ⅱ』(両津市教育委員会)【執筆者】 佐藤利夫

・大立坪菫(おおたちつぼすみれ)
【科属】 スミレ科スミレ属 自然は雪国に美しい花たちを配置させてくれた。ユキツバキ(対応種は太平洋要素のヤブツバキ)・オオミスミソウ(ミスミソウ)・ナニワズ(ナツボウズ)・スミレサイシン(ナガバノスミレサイシン)・オオバキスミレ(キスミレ)、そしてオオタチツボスミレ(タチツボスミレ)・テリハタチツボスミレ(タチツボスミレ)などの、雪国・日本海要素の花たちである。本種もスミレサイシンと同じく、分布は本州では最高積雪量五○㌢以上の地域内とする。タチツボスミレの雪国型で、タチツボスミレと区別しにくいものが多い。葉がいちばんの特徴で、タチツボスミレの葉はほぼ心形で、長さも幅も四㌢以下。オオタチツボスミレの葉は、ほぼ円形で長さも幅も五㌢以上と大きく、葉脈がへこむのでよく目立つ。オオタチツボスミレの花は、根生せずふつう茎上にのみ、タチツボスミレの花は、根生しまた茎上にも生ずる。同じく日本海要素のテリハタチツボスミレは、クチクラが発達し光沢あり濃緑で、大佐渡山地の海抜一○○○㍍以上と、分布は限られる。【花期】 四~五月【分布】 北・本(日本海側)・四・九(北部)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男

・大立坑(おおだてこう)
 明治八年(一八七五)垂直竪坑の大立竪坑開削。左沢の北辺海抜五九○尺余の地点から、大切・青盤・大立の三鉱脈に着脈することを計画したもの。一八尺に八尺の矩形で深さ五○○尺余、その間約一五○尺毎に三段の坑道をもつもので、約三年を費やして明治十年(一八七七)に完成。この企画推進の中心には、独人開坑師アドルフ・レーの活躍があったと考えられる。以後、鳥越坑及び大切坑などにも、旧坑を利用して竪坑が下ろされ、旧坑の整理統合が行われた。捲揚機械としては、馬絞車といわれる馬力巻き上げが行われた。『明治工業史』によれば、「当初佐渡鉱山に於いて竪坑の開削に際して、大切・鳥越及び大立の三竪坑に、木製縦軸の太鼓を具へたる旧式の馬絞車を採用せしが、明治二十一年吉尾九郎横軸鉄製の太鼓を具へたる米式馬絞車を製作し」とあり、当初は木製縦軸の太鼓による、馬絞車による巻き上げであったものが、横軸鉄製の太鼓に改良された変遷が知れる。一方、明治十三年鋼製丸縄と、改良型蒸気機関による捲揚機を使用ともいう。鉱石一屯の人力負揚げ費用を六円と試算した場合、汽機捲揚費用は五・六銭という。【関連】 馬絞車(うましぼりしゃ)【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】 小菅徹也

・大田部屋(おおたべや)
 鉱山の部屋の一つで、諏訪町にあった。詳細はわからないが、古い戸籍台帳によれば「前戸主、大田半右衛門、明治三年五月十三日絶家、諏訪町七番地」とあって、諏訪町にあった大田家が、明治三年(一八七○)に廃絶した。続いて「大田半右衛門長男、母不詳、大田範七、弘化四年五月二十一日生。明治三十二年三月一日戸主トナル」としている。部屋を経営していたのは、この範七で、戸主となった明治三十二年は、五三歳に当たるから、以前から飯場を持っていたのであろう。父の家が「絶家」し、三○年近くたって、長男がその家の「戸主」となる事情は、よくわからないが、父の半右衛門は、江戸時代から相川に住んでいた人のようである。相川の大安寺墓地に「明治三十二年十月三日歿、宮下範七之墓、大正四年三月建之」とある墓が、大田部屋の部屋頭と関係がある、とする説もある。【執筆者】 本間寅雄

・大塚部屋(おおつかべや)
 大塚平吉親方が経営していた。治助町に、戦後まで部屋頭の邸宅が残っていた。古くは銀山町二六番戸に部屋があり、明治二十六年(一八九三)九月二十三日に、治助町に移転したことが記録に残っている。移転の理由は、水害のためと伝えている。二代目平吉親方は、先代が平吉でその長男として、安政三年(一八五六)六月十日に生まれた。出生地はわからないが、明治十六年六月に家を相続して、平吉を襲名した。母は、長野県佐久郡田ノ口村の生まれといい、その夫である亡父の初代平吉も、長野の出身ではないかといわれているが、明らかではない。が「大塚部屋台帳」(新保七二氏蔵)に載る部屋労働者の数は三九四人を数え、もっとも多い出身地が「長野」。次いで「新潟」で、親方の出身地とその周辺から、地縁的な結合で多くの坑夫・人夫が集められる傾向が、どの部屋にも共通してみられたのである。大塚部屋ができるのは亡父平吉の代で、明治十四年までは「南畑(なんばた)平吉」で通っていた。二代平吉が相続した明治十六年以前が、大部屋としてもっとも幅をきかせた時代で、さらに二代から三代平吉(庄吉)と、続いて財をなしたとされている。明治四十年十月十三日の「週間社会新聞」(投書欄)に、「佐渡鉱山鉱場課部内鉱石採掘坑夫は、土着三分、他国人七分という割で、この七分の坑夫は大塚平吉・安田弥作・鈴木菊治三人の一手販売」と見える。部屋の規模では、大塚が一番大きかった。諏訪町の真宗万照寺に、明治十四年七月に南畑平吉が建てた所属労働者の「供養塔」が残っている。【関連】 部屋制度(へやせいど)【執筆者】 本間寅雄

・大床屋町(おおどこやまち)
 鉱山では、鉱石を粉砕・磨砕・淘汰する仕事を粉成(こなし)といい、砕いた鉱石を金・銀に製煉(錬)する仕事を吹立(ふきたて)といった。これを経営する職業の人が買石(かいし)であり、買石の経営下で設備された場所、すなわち工場を勝場(せりば)といった。勝場は古くは買石の自宅が多かったから金や銀をかくしたり、密売するのを取締るために厳重な監視も受けていた。町内各地にあった勝場が佐渡奉行所の北側に集められて「寄勝場」といわれるようになったのは宝暦年間(一七五一ー六三)からである。大床屋町の「大床」は、前記勝場の工程の中の「吹立」(ふきたて)をする製煉の場所をいい、鉱石淘汰の粉成とならぶ主要業務であった。南は柄実(からみ)坂を経て南沢に、北は蓮光寺のある左門町に通ずる傾斜地に造成された町である。慶安五年(一六五二)の相川地子銀帳には、上相川の台地に「上床屋町」が見えるが、現在の大床屋町は「左門床町」とあって、左門町の区画内にあり、独立した町名ではなかった。過ぎて元禄七年(一六九四)の検地帳には「大床屋町」と独立した町名で出ていて、元禄以降は上相川茶屋町・大床屋町・板町が床屋の多かったところで、幕末に近いころ治助町にも買石床屋ができていた。上相川の上床屋町が早やくその機能を失なったのに対し、大床屋町はその町名および床屋としての機能を、幕末まで保ち続けていたことになる。柄実坂の地名も絵図などに記載されて残っている。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 本間寅雄

・大野亀(おおのがめ)
 外海府の海岸景勝地のポイントの一つ。大野亀島とも呼び一見島に見えるが、段丘面で大佐渡山地の斜面と繋がる半島である。二ッ亀の西南西二・五キロメートルの位置にあり、同じく粗粒玄武岩から成る。その貫入時期は、新第三紀中新世前期と推定されている。最高点一六六・八㍍の丘と、東の麓に高さ五○㍍の広い段丘面が付随する。この段丘面が大野であり、野草地が広がりトビシマカンゾウの大群落が、五~六月黄色の花を着け見事な景色になる。草地は、従来採草地や牛の放牧地に利用されて来た。丘頂部を囲んで、急峻で壮大な海崖が発達し、柱状節理が露出する部分がある。高さ一五○㍍付近に、風障により低木になったカシワ林が分布する。大野亀は、西の願集落と、大野川を挟んで南の北鵜島集落との間にあり、背後の上記段丘面上を県道が走るので近づき易い。【参考文献】 「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)、相川町・両津市教育委員会編「名勝佐渡海府海岸保存管理計画策定報告書」【執筆者】 式正英

・大年(おおとし)
 としや・とりとり・おおみそかなどともいう。この日、年棚に年神(歳徳神)を迎えるための門松や内松(神棚)、それに仏壇には花松が飾られた。門松は年神を招き寄せるための依り代なのである。この日は大年メシといい、早めに夕飯を食べた。しかし早く寝ると早く年をとり、その反対におそくまで起きていると長生きするといい、遅くまで起きていた。これは夜中に降臨される年神に対し、不謹慎に眠ったりなどしないで、神にかしずいて新しい年を迎えようとした、祖先たちの物の考えから出たものであろう。そして、この夜語られた「大年の火」や、「大年の客」などの昔話も、古くは神にささげるものであったにちがいない。トシヤの晩、夜食を食うことが一般に重んじられ、トシヤソバ・寿命ソバなどと呼ばれ、この晩夜食をとると身代がのびるとか、寿命がのびるとかいわれた。これは神の降臨をまち、神との共食により、その加護をうけ、身代や寿命がのびるとの考えから出たもので、つまり神とのナオラエ(直食)をなそうとする、遠い祖先の原始的な信仰が、この作法の底に流れていたのである。なお、この晩は納屋の牛や馬にも、草餅などの夜食をあたえ、さらにいたずらもののネズミ(フクジョサン)にさえ、米や餅のかけらなどをあたえたりした(片辺・五十浦)。これは、彼らにも人間なみに、年神とナオラエをともにさせようとした、祖先のほのぼのとした情感のあらわれであろう。【参考文献】 中山徳太郎・青木重孝『佐渡年中行事』(民間伝承の会)、浜口一夫『佐渡風物誌』(未来社)、『佐渡百科辞典稿本Ⅱ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫

・大幡神社(おおはたじんじゃ)
 旧外海府村の大倉に祀られている大幡神社は、創建の年代も古く、延喜式に記載されている式内社として、由緒ある社である。元禄寺社帳には、貞観三巳年(八六一)の創設とある。式内社では、第八社の記載ではあるが、賀茂郡では阿都久志比古社に先んじて筆頭社であるため、国仲からの遷座説なども耳にする。しかし確証はない。『佐渡神社誌』の由緒の項では、「往時は佐渡北部二十四ケ村の總鎮守たりし也」とある。そして祭神を大股主命といい、四道将軍のひとり大彦命は、叔父であると書いてある。九世紀ころの北佐渡の様子が明らかでないので、このような古社がこの地に祀られていた事情を、理解するのは容易ではない。とはいえ、佐渡が雑太郡だけであったのを、羽茂・賀茂二郡を加えて三郡にしたのは、養老五年(七二一)であるから、今後の考古学的発見や、民族学的資料の研究によっては、意外に早い時代の開発が実証されないとも限らず、大幡神社の存在は、何よりも重要な資料となり得るであろう。古来からの例祭日は四月十一日で、この日は浜辺に菱形の的板を建て、子供の射手が馬上で弓をひく。その的が北の方向にあたるので、古来の北狄を意識しているかにみえる。【関連】 大倉祭り(おおくらまつり)・佐渡式内社(さどしきないしゃ)【参考文献】 『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】 本間雅彦

・大幡神社祭礼行事(おおはたじんじゃさいれいぎょうじ)→ 大倉祭り(おおくらまつり)

・大花独活(おおはなうど)
【科属】 セリ科ハナウド属
ハナウド(関東以西分布、佐渡に自生せず)に似るが、ずっとジャンボで高さは二㍍をこす。花茎の先につく白花の集まりは、カラカサ状で壮大。この様な花の集りを散形花序といい、セリ科の特徴である。なまえは大花独活の意味。ウドといっても食用ウド(ウコギ科)でなく、シシウド(セリ科)に似ることに由る。大きな葉は常に三出葉。花茎を出し花を開くまで四~五年はかかり、開花結実をすると枯れる一稔性草(多年草でも一回だけ開花結実して枯れる草)である。生育地は、大佐渡海岸の季節風に直面する海岸草原。海岸を北上するに従い大群落となる。大佐渡で季節風のあたらない海岸と、小佐渡には分布しない。県内の垂直分布の最高地は、県南の火打山の二四六○㍍。また越後の海岸沿いに広く分布し最低地は0㍍。オオハナウドは、高山にも海岸にも生育するが、高山植物でも海岸植物でもない。寒冷に耐える寒地・北方の植物である。海上に孤立した島で季節風にさらされる北の海辺は、最も寒冷な場所。佐渡のものは、葉の裏に毛の多い北方系のウラゲハナウド(別称)である。【花期】 五~六月【分布】 北・本(近畿以北)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男

・大仏(おおぼとけ)
→弾誓寺(だんせいじ)

・大間港(おおまこう)
 相川に金銀山が開かれると間もなく開港され、慶長十年代には御番所が置かれて、主として他国米が陸揚げされていた。明治十八年(一八八五)大島高任が佐渡鉱山局長に就任し、北沢の両岸を掘削・整地して大製鉱所を建設した。この時切り取った土砂を架空索道で大間湾に運んで埋立て、ここにトラス構造の橋梁を設置した瓢箪型の大間港が築かれた。この時架設された索道は、一○九一㍍に及んだという。着工は明治十九年、完成したのは同二十五年一月である。築港には、本格的なコンクリート使用以前の工法「たたき工法」が用いられている。埋立地には倉庫を数棟建設し、鉱産物の貯蔵と需要資材の受け入れ場所とした。ただ、大型船は接岸できないため小舟で沖合まで運び、風浪の恐れがあるときは二見港にいったん陸揚げして、小舟で大間港へ回送した。昭和十年代に入ると火力発電所も建設され、それにともなって鉱産物や需要物資の移出入が急激に増加した。そのため、倉庫の増設、重油タンクの設置、一・二㌧クレーンの設置、鉄筋コンクリート製ローダー橋の設置などが行われた。現在でも、鉱山用港湾としての基本形状が、ほぼ築港時そのままに残っている。【関連】 大島高任(おおしまたかとう)・大間発電所(おおまはつでんしょ)【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』、『新潟県の近代化遺産』(新潟県教育委員会)【執筆者】 石瀬佳弘

・大間発電所(おおまはつでんしょ)
 昭和十五年(一九四○)に、大間港に隣接して建設された火力発電所。昭和十二年に日中戦争が始まり、佐渡鉱山も戦時大増産体制に組込まれた。同年から本格的な浜石採取が行なわれ、同十三年北沢に東洋一といわれた大浮遊選鉱場の第一期工事が完成すると、大量の電力が必要になった。それに応えて建設されたのが大間発電所で、昭和十四年に着工し、翌十五年に完成した。汽力はユングストロームタービンで燃料は石炭、一四○○㌔㍗の発電機一台、四二○○㌔㍗の発電機二台、合計出力九八○○㌔㍗という、最新型の施設であった。戦後解体されて、対外賠償施設としてフィリピンへ運ばれた。【関連】 浮遊選鉱場(ふゆうせんこうば)・大間港(おおまこう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『新潟県の近代化遺産』(新潟県教育委員会)【執筆者】 石瀬佳弘

・大間町(おおままち)
 大間は、大きな澗(湊)を意味する。下相川にも接し、市街地の北端に近い旧湊町であった。北側は柴町に、東側は紙屋町に接する。近年の埋立によって、西側浜手に栄町が造成され、アパート・駐車場・町民体育館・運動広場などができ、湊時代のおもかげは薄れて、濁川河口の船揚場にわずかに形跡をとどめている。元禄七年(一六九四)の検地帳では、四一人の名請人があり、町屋敷一町余とある。江戸後期の書『佐渡名勝志』には、建家四十五、人数二四五人とある。慶長十一年(一六○六)には大間番所が置かれ、越後からの米船などの出入業務を管理させた。文政九年(一八二六)の相川町墨引に書かれている肩書きをみると、八一軒のうち「駄賃持」という職種の者が二六人もいる。これは船の荷積や荷おろしをする仲仕のことである。大間番所は宝暦八年(一七五八)に廃されたが、その後も湊の機能はつづいていたことがわかる。維新後も佐渡鉱山の鉱石搬出がこの湊で行なわれ、太平洋戦争後にもなお、瀬戸内の直島の製錬所に向けた粗鉱や、ガラス工場に送られる石英の粉末などを浜出ししていた。【執筆者】 本間雅彦

・大山祗神社(おおやまずみじんじゃ)
 大山祗神社は、慶長十年(一六○五)に初代奉行大久保長安によって、山之神町に建てられた官営社である。建立の目的は、金銀山の繁盛祈願が第一であったことは、祭神が山嶽を司る大山祗命であることからもわかる。官営社として建てられたのち、社殿の修造などはいっさい官費でまかなわれた。明治二十年(一八八七)に鉱山が帝室御料となって、初穂金や神酒などをうけていたが、同二十九年に三菱家の手に移るに及んで、同社から金銭の奉納や神輿の寄進、改築や境内の修営がなされた。明治六年(一八七三)には、相川のもうひとつの大社、善知鳥神社が郷社となったのに対して、大山祗社は県社に列せられたのである。これは同社が、官公的性格を一貫して保ってきたことの表われである。大正十五年(一九二六)に編さんされた『佐渡神社誌』では、各社の調査項目の最後の部分に、氏子の戸数が記載されているが、大山祗社には氏子の欄がなく、崇敬者一五○○人となっている。これは当時も相川鉱山の公的な社の性格が、そのまま民間企業に移行し、氏子に支えられる一般社との違いを示している。十月十九日の善知鳥社祭礼が相川祭であるのに対し、七月十三日ー十五日(現在は七月二十五日ー二十七日)の大山祗社祭礼は、山の神祭あるいは鉱山祭と呼ばれる所以である。【関連】 鉱山祭り(こうざんまつり)・安岡成政(やすおかなりまさ)【参考文献】 『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】 本間雅彦

・大屋(おおや)
 どのムラでも、本家のことをオオヤ、分家のことをインキョというのが一般的である。インキョはふつう本家から土地や屋敷などを分与された家で、相川の各ムラでは、「マッケー(あるいは血筋の親類)は切れても、オオヤインキョは切れない」などといい、そのつきあいは末長く続き、祝儀・不祝儀などには、重要なオモシンルイとして、例えば葬儀の場合など互いにジノバ(オマエにシンルイ数人がすわり、弔問者へ挨拶する)に並ぶ。そのほか、インキョにはオオヤに対し、田植や稲刈、暮のススハキなど手伝い、盆・暮・正月・節句などの礼や付届けなどのつとめがあった。だいたい金泉以南のムラ、殊に二見地区には、オオヤ・インキョのいわゆる本分家関係で結ばれた家の存在が目だち、外海府や高千地区は村落の成立や発展の上で、他の地区同様、いくつかの旧家から親族が分出しているはずであるが、家同士の出自や系譜的関係の記憶はうすれ、明治以降の分家が目だつ。但しなかには近世期に分かれたとされる家もあり、その多くは、親が財産分けして分出する形態の分家であって、関・矢柄・小田・高下などではオヤインキョと呼び、次・三男などが分出する普通のインキョと区別している。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『佐渡百科辞典稿本Ⅱ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫

・大山祇神社(戸中)(おおやまずみじんじゃ)
 勧請年代不詳。明治六年、下山之神の大山祇神社と社名が重複するので、“大”の字を削り、「山祇神社」としたが、その十二月に現称に改め、今日に至るという。祭神は大山祇命。最初は隧道上の平地にあったともいわれ、その後慶長年間に、相川金山より鉱石を運び、粉成などで開発された戸地車町に遷宮されたが、享保元年(一七一六)六月の大洪水で人家が悉く流され、当社だけが残り、その翌年戸中へ移座したと口碑に残る。記録(「戸中沿革史」)によると、「戸中は天正のころ、加茂神社(畑野町)のふもとより、源右衛門なるものが漁を好み、また弥十郎なるものが沢根の鶴子銀山からきて、大戸中を開いた」とある。源右衛門が宮守りをしていることから、源右衛門は漁のためではなく、戸地鉱山を稼ぐ有力者であり、鉱山で貯めた財力で新田開発につぎこみ、ムラオオヤといわれるようになったという。祭日は九月十八日。【関連】 戸中(とちゅう)【参考文献】 『金泉郷土史』、矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 三浦啓作

・小川(おがわ)
 集落は、下小川と段丘上の上小川に分れ、近世には相川鉱山の近郊村落として発展した。慶長十一年(一六○六)には当村でも羽賀山、正保三年(一六四六)には庄右衛門間歩が開発され、銅鉱山として知られた。耕地の開発も早く、慶安三年(一六五○)に新田開発願書が出され、明暦三年(一六五七)の村高は、一一四石三斗余で当時海府各村の中では最高であり、元禄七年(一六九四)の検地帳では、田三九町九反余でこの田地開発のための江道には、鉱山で用いた木製の掛樋などの鉱山技術が応用され、溜池なども作られた。また海岸は岩礁が多く、磯ねぎ漁に恵まれ、特に鮑の漁獲が多く、明暦三年の留帳に烏賊二五○○枚・串貝二○○盃・山椒一斗などとあり、外海府方面では姫津に次いで多い。『佐渡四民風俗』は、「男は耕作の隙に相川銀山に働いたり、薪・炭を作り、女は裂織・山苧・級・藤布・木綿等を織り、磯草等を取り、糧にした」と、暮らしぶりや、漆塗り職人を多く出したこと、享保の初め「佐陽来国次」という、刀鍛冶がいたことも伝えている。寺は別記「多聞院」のほかに、「極楽寺」(開基不明)があったが、寺地の一部が県道拡幅工事に買収されたため廃寺となり、昭和三十七年「多聞院」に合併された。「戸宮神社」は祭神大彦命、「金北山神社」の祭神は軻遇突智命、口碑によるといずれも文武二年(六九八)の創立で、例祭日は十月二十四日、小川集落の産土神である。教育面では、明治九年姫津小学校小川分教場が開校、同二十四年独立、同三十九年金泉村立南尋常小学校と改称、大正十四年同南分教場となり、昭和三十八年相川小学校に合併閉校となる。南側海食崖上には、幕末の異国船に備え、大砲三門が置かれた台場跡が残り、北端の丘陵地には、明和九年の作といわれ種々の伝説をもつ、青銅の阿弥陀如来の座像があり「ぬれ仏」の名で呼ばれている。【関連】 小川塗師(おがわぬっち)・多聞院(たもいん)・小川台場(おがわだいば)・ぬれ仏(ぬれぶつ)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)ほか【執筆者】 三浦啓作

・ 小川城址(おがわじょうし)
 小川には二か所に城址がある。元禄検地帳に載る「嶋城」という所と、「あら城」という所である。「嶋城」は小川の村の北はずれの、標高六○㍍ほどの海岸段丘先端部にあり、その先端は小さい岩石突出部となっている。南側の沢を「城ケ沢」といい、城址末端部に「城ノ後」の地名がある。検地帳上の面積は、二反歩ばかり(五筆)の狭い水田である。伝承では小川殿の城といい、古井戸もあったという。小川殿については不明であるが、あるいは慶安三年(一六五○)の文書にみられる中使彦八郎(上小川本間彦三郎家か)あたりが子孫でないかと考えられる。一方、「あら城」は北山権現社の脇、標高五○㍍ほどの段丘舌状突出部にある。南北五○㍍、幅一○~一五㍍ほどの細長い楕円状の畑地で、丘陵続きの末端を空堀で切っている。郭の東縁半分ほどに土塁が残っている。以上の二つの城の関係はわからないが、次の二つのことが推測される。その一つは「嶋城」が上小川の村の城であり、「あら城」が下小川の城であるとする見方。もう一つは両者とも小川殿の城であり、「あら城」は文字通り「新城」で小川殿の新しい城、あるいは砦的な性格のものでなかったかとする考え方である。【参考文献】 『金泉郷土史』、山本仁『佐渡古城史』【執筆者】 山本仁

・ 小川台場(おがわだいば)
 上小川の通称「原」と呼ばれる海岸段丘上に立地し、眼前に日本海が一望できる。完全な姿で残るのは珍しい。文化元年のロシアの南下政策により、黒船が日本海にも姿を見せるようになり、黒船の動向探査が奉行の任務に加わって、海岸防備に力を入れた。文化五年(一八○八)には浦目付所数を増やし、弾崎・春日崎に遠見番所、海岸に台場を設置して防備に万全を期した。この時は殿見崎に台場があったようで、天保十三年(一八四二)の、石井彩助の海岸絵図には殿見崎とあって、海の深浅測量も併せて行なっている。原台場は、鶴子で一貫目玉の大筒を製作し、鷲崎・春日崎・小川・奉行所へ配置したものの、当初は海府番所に置く予定であったが、岩場続きで不便なため小川に変更し、嘉永三年(一八五○)に配備を終っている。台場延長四五㍍、高さ平均六○㌢で、上端が平で半円形を呈し、海上が広がりを見せる。陸部に両側と中央に登り口があり、三つの砲眼が置けたようである。また中には、人間が走れる程の犬走状の通路があり、弾薬の弾込場や、人の一斉射撃に利用したかも知れない。通路は、砲架の引上に用いたと推察される。「御台場」として、平成十一年六月相川町の史跡指定を受け、同十四年三月県指定となった。【参考文献】 石井彩助「村々海底深浅」、同「石井家文書」(㈱ゴールデン佐渡)、同「海岸通測量野帳」(新潟県立図書館)【執筆者】 佐藤俊策

・小川塗師(おがわぬっち)
 旧金泉村の小川は、鉱山都市相川に隣接した、近郊集落としての利点を多くもっていた。漆塗り職人を多く出したのも、そのひとつである。ただ相川の町の歴史が新しいから、その恩恵をうけた小川塗師のはじまりも、江戸期以後であることはまちがいない。本書の塗師の項で述べられているように、佐渡漆の歴史は中世に遡る。とくに局地的に降雨量の多い羽茂川ぞいの村々では、早くからウルシノキを植え塗師もいた。のちに羽茂から越中桜井をへて能登に移住した、地頭本間家の子孫が経営する、飯田港の博物館・喜兵衛どんには、そのとき持参したとされる、漆塗り什器が展示されている。国仲の新穂・畑野・新町の漆塗りも、江戸前期にはすでに栄えていた。寺院の須弥壇から各種仏具をみても、その技法がすぐれていたことを感ずるが、村々の定期市などには、新穂膳や新町椀が売られていた。小川塗師の仕事は、そうした什器類よりも、家屋の戸柱の漆塗りに特色があった。相川の町屋には、京都風にベンガラを塗る習慣は近年まで残っていたが、旧家の漆塗りはまだ残っていて、今もみることができる。宝暦の書『四民風俗』には、小川に漆かきをやる者がいると書いてある。【関連】 塗師(ぬっち)【参考文献】 本間雅彦「漆と塗師」(『佐渡史学』一○集)【執筆者】 本間雅彦

・ 小川のシナの木林(おがわのしなのきばやし)
 シナノキ科の落葉樹林。相川の小川段丘の赤岩を背にして山をみると、五月山に開花する白~淡紅の桜はカスミザクラで、山肌の二○%を占める。いわゆるタケ色のすがすがしい樹冠の群れが、およそ六○%を占めるシナノキ林。緑が濃いエゾイタヤは一○%、残りはアカマツで一○%である。佐渡の海岸風衝林でよく目につくカシワ林が、海岸風衝林の自然林とされたが、自然林はシナノキ林・シナノキ伐採後の二次林が、カシワ林である。海岸風衝地で、カシワ・シナノキの林がみられる村々は、「シナ繊り」の村である。佐渡奉行所編の『佐渡志』(一八一六)に、「しなの木 海辺の山野に生ず。賎民採製して、精なるを以て船の綱にうち、粗なるを裂織の経として用ゆ」とある。佐渡の農事暦に「夏五月(旧暦)ジュンサイ取るベしシナ皮むくべし」とされた。樹皮をはぎ内皮をはぎ、アクで煮て繊維をとった。それを細く裂いてオウミして、糸車につむいで糸を作り布にするが、これがシナ布である。漁師は漁網・ロープなどにした。赤飯を蒸すときにつつむ布もシナ布、シナで織った重い蚊帳もあった。海府の古い民謡に「海府のあねたちゃ 級のはらそで すねこする」がある。身につけるハラソ(腰巻)までも、シナ布であったと歌う。「小川のシナノキ林」は、新潟県指定(一九七八)の重要植物群落である。【参考文献】 新潟県『日本の重要植物群落』、伊藤邦男『シナ織りの里 シナノキ』(「佐渡草木ノート三一三」佐渡新報社)【執筆者】 伊藤邦男

・小川の円葉車輪梅(おがわのまるばしゃりんばい)
【科属】 バラ科シャリンバイ属 濃緑の厚い円みの葉を枝先に車輪状につけ、白い五弁の花が梅に似るので、“円葉車輪梅”の名がつけられた(マルバシャリンバイとして、昭和四十九年八月相川町の天然記念物の指定を受けた)。暖地の九州・四国の海辺をふるさとにし、北上し日本海側では山形県の温熱町を北限とする。佐渡は鷲崎(両津市)、北狄・小川(相川町)、八幡(佐和田町)の海岸に分布するが、群生のみごとなのは下小川の岸壁のもの(町文化財)。南向きの傾斜五○度の急勾配の岩肌は、幅二○㍍・長さ二○○㍍にわたり、すき間なく群生してみごとである。最大株は樹高一・五㍍、樹冠幅四㍍、根元幹径二○㌢。根は岩の亀裂にそって伸びている。「潮風に強い木だ。陽の木だ。岩を割って根を伸ばし、岩を割り養分と水を吸う」と古老はいう。花の咲きはじめは五月の半ばすぎ、五月の終りに満開となる。純白の花がひしめき咲いて、岸壁一面は霜がおりたようになる。タマツバキ(玉椿)・コウセンヅキ(香煎搗)というが、実を粉に搗いて糧(香煎)にしたのかも知れない。寝汗・寝小便ぐせの子に、炒った実を煎じて飲ませた。小川の玉椿は、若狭の国の二粒のタネからもたらせたと伝えられる。【花期】 五ー六月【分布】 本(山形県・宮城県以西)・四・九・沖【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】 伊藤邦男

・ 小木おけさ(おぎおけさ)
 佐渡郡小木町地方に伝わる盆踊り歌。騒ぎ唄でもある。小木の港は、元来対岸の港出雲崎に対して開かれた港であるという。慶長九年(一六○四)、徳川家康によって公の港に指定され、和船時代には出船千艘入船千艘とうたわれ、日本海交通の港の一つであり、佐渡の表玄関として栄えた。その頃の唄の文句に、「小木は澗でもつ 相川ア山で 夷港は漁でもつ」というのがあるが、まさしく小木は、日本海貿易の中継港であり、越中・能登・関西方面からの船は、決まってここに停泊したという。現行の〔おけさ節〕の原調といわれる九州の〔ハイヤ節〕(小木ではハンヤ節と呼ぶ)が、小木港を経て上陸し、佐渡に入ったとするのが、今日の定説である。旋律的には、お座敷調の〔佐渡おけさ〕に対して、テンポも早く素朴さを残している。三絃は二上り。
 ハアー小木の (ハ アリャサ) 三崎の四所御所桜ヨ (ハ アリャアリャアリャサ)枝は越後へ 葉は佐渡へ
 なお、「ハアー来いちゃ来いちゃで二度だまされてヨ またも来いちゃでだます気か」の歌詞は、明治三十三年(一九○○)に、小木で遊んだ文豪尾崎紅葉の即興になるものという。【関連】 佐渡おけさ(さどおけさ)【参考文献】 『日本民謡大観・中部篇』(日本放送協会)、『日本民謡全集3関東・中部編』(雄山閣)【執筆者】 近藤忠造

・ 小木港(おぎこう)
 港の形をととのえるのは、佐渡鉱山の開発と、ほぼ時期を同じくする。駿府や江戸へ上納する金銀が、ここから船出した。大久保長安の入国は慶長九年(一六○四)で、松ケ崎へ入津していて、小木は渡海場としての機能を、まだ持っていなかった。長安は信州筑摩郡出の原宗遊をして、築港および港の管理に当らせる。内の澗が整備され、小木番所が設置された。同十三年には、港のそばに金銀輸送の航海安全を祈願する木崎神社が建ち、慶長十九年(一六一四)には、松ケ崎に代って小木が渡海場に定められる。同時に、相川から小木に向う街道整備も進んだ。が、小木港の発展は、産金輸送としてではなく、一七世紀後半にはじまる北前海運の寄港地としてだろう。日本海交通の、商品流通の恩恵をもろに受けることになる。それ以前は、多くの商船は相川めがけて入津していた。帆船時代の小木は、地形的に恵まれ、越後にも近かった。港口は東南(越後側)に向けて開かれ、岬状に五○○㍍も突出した城山(高さ三七㍍)があって、かげになる西側が内の澗で、「上りの澗」とも呼んだのは、石川や富山に向う上りの船が、北東の風を追風に利用できるからだった。東側の外の澗は、南西の風に強い。酒田や松前に向う下り船が、南西の風を追い風にできた。八百石から千石船が利用できる水深も持っていた。昭和四十九年(一九七四)に、重要港湾(商港)の指定を受けている。『海路細見記』という書物に、「ここ(能登)より出羽・松前へ下る船は、越中・越後の地方へはのらず、すぐ佐渡へわたるべし。小木といふ最上のみなとあり」とした記事が見えている。【関連】 宿根木(しゅくねぎ)【執筆者】 本間寅雄

・小木街道(おぎかいどう)
 近世から明治初年に、県・郡道ができるまでの呼称。相川~小木間の往還を指す。近世には街道とは呼ばず、小木道・小木道中あるいは往還といった。街道といわれたのは明治に入ってからで、政府で編纂した『皇国地誌』には小木街道とある。小木道あるいは小木街道は、八幡・現真野町地域より南、小木側で言われた呼称で、他は行き先の地名をつけて、相川道・夷道・水津道・松ケ崎道・赤泊道などと呼んだ。『佐渡年代記』では、慶長十九年(一六一四)小木町を開き渡海場に定めたとあり、小木湊が公津となったことを記している。小木道で小木に至り、越後出雲崎に渡り、北国街道で江戸に至る佐渡産出金銀の輸送路であった。江戸期以降の佐渡奉行の赴任には、江戸・北国街道・越後寺泊・赤泊・殿様道・梨ノ木道(赤泊道)で相川に至り、帰府は産金輸送路と同じ道をとるのが普通であった。近代に入り、両津が佐渡の玄関口になる前は、小木は上納金銀積出湊・出国湊・西廻わり航路の寄港地・新潟湊への日和待湊などになり、相川~小木の街道は赤泊道・松ケ崎道とともに最重要な道であった。島内の道しるべも小木道を標示したものが多い。八幡の八幡宮三叉路の道祖神に、小木道(右)・松ケ崎道(左)、椿尾南端の三叉路の供養塔台座に、相川道・小木道と刻まれている。江戸時代、もっとも往来の多かった道である。【参考文献】 西川明雅他『佐渡年代記』、『佐渡の街道』(新潟県教育委員会)【執筆者】 佐藤利夫

・ 小木御番所(おぎごばんしょ)
 番所は、人の往来をチェックする、関所的な機能を持ったものというより、船で陸揚げされる商品に対して、関税を徴収する役所と考えるほうがよいようである。今日の税関である。「十分の一役場」などともいい、そこで徴収する税を「入役」ともいった。船が港に着き、商品の取引きが行なわれる。その取引価格の十分の一、つまり一割を「入役」として、佐渡奉行が徴収した。のちにはその税率が、二十分の一となったこともある。小木港に、小木御番所が出来たのは慶長十一年(一六○六)で、内ノ澗のほぼ中央部の、波打際に描かれている。のちに外ノ澗(現在の佐渡汽船発着所)にも「下ノ番所」ができて、番所が二つになった。「上ノ番所」開設から、八○年近くを経た天和二年(一六八二)のことで、船の大型化や、外ノ澗の周辺の人口増加が原因である。下ノ番所の位置は、現在の小木警察署あたりに当るとされている。元和八年(一六二二)の小木番所の「入役」は「銀拾三貫九百六拾七匁」で、佐渡島内十一番所の四位、赤泊や松ケ崎を上回っていたが、沢根や五十里・夷などよりはるかに少なかった。北前航路以前はそうだった。が、慶安二年(一六四九)の八月、澗掛りしていた四百余隻の廻船が難破した記事があり、元和年間以降に、江戸への産金輸送が、相川ー小木ー出雲崎ー江戸とルートが決ったのと、西廻り航路の開設もあって、驚異的な発展をとげるようになる。なお番所には、門・高札場・値打場・役家・問屋詰所などが建てられ、入役は「色役」と呼ばれる現物で徴収される。そのために、「値打場」が機能した。【参考文献】 『小木町史』(上巻)、磯部欣三「番所について」(『郷土相川』二集)【執筆者】 本間寅雄

・沖言葉(おきことば)
 沖に出て漁師が忌みきらい、使ってはならない言葉を、オキコトバという。蛇は漁師たちにとって縁起のよいものとされ、蛇の夢(相川町北川内)や、蛇が船に入っている(同町後尾)と、漁があるなどといわれるが、沖で蛇という言葉は忌詞になっており、ナガモンとかナガムシという言葉が使われた。海上では、惣じて陸の四足を嫌う傾向があるが、むじなのことを、トンとかヤマノモンという。猿については、獲物が「去る」ことを連想し、猫は魔性を感じさせるため、きらわれるらしい。海豚は漁を妨げ網を破るが、その反面魚群を追いこんでくるので、オエビスさんともいう。鯨も同じく魚群を追いかためてくれるので、クジラオベスサンなどという。亀の沖言葉はガメである。船霊さんがカメというのを嫌うのは、亀がくるとしけて漁がないからだという。【参考文献】 倉田一郎『佐渡海府方言集』(中央公論社)【執筆者】 浜口一夫

・ 沖の御子(おきのみこ)
 相川町千本の、入崎沖約二粁にある、広いすそを持つ暗礁群をいう。わかめの名産地で、対馬海流の北上する下り潮と、南下する上り潮の潮流がはげしく、昔は航海の難所であった。若狭の大船(回船)が乗りあげ難破した暗礁などがあり、今も若狭の名で呼ばれている。享保二十年(一七三五)に、ここのわかめ資源をめぐって、千本・高下・北田野浦の三か村がはげしく争ったことがある。沖の御子の磯には、北田野浦の片岡儀左衛門が社人である入野神社があり、北田野浦では、その地先の沖の御子岩が、御神体であることを主張した。それに対し、千本・高下は反対し、佐渡奉行所の地方役に、現地見分け吟味を訴え、いろいろ吟味の末、わかめ刈りは順番を決め、一番なぎは千本・二番なぎは高下・三番なぎは北田野浦ということになり、一件落着となった。そして面白いことには、この申し渡しが現在もほぼ忠実に守られていることだ。ただし、明治十年(一八七七)の町村合併後、千本・高下が一緒になってからは、千本・高下が一番なぎ、北田野浦が二番なぎとなり、現在に至っているが、その口あけの主導権は、依然として千本が握っている。村落共同体の、掟の息の長さにまず驚く。【参考文献】 『高千村史』、浜口一夫『佐渡の味ー食の民俗ー』(野島出版)【執筆者】 浜口一夫

・送り崎遺跡(おくりざきいせき)
 相川町大字二見六五一の海浜に位置する製塩遺跡で、昭和三十九年(一九六四)に相川町教育委員会の主体で発掘調査された。東西二○㍍、南北一○㍍を遺跡範囲としている。製塩土器が大部分を占め、焼石・炭化物・焼土と少量の須恵器・土師器片が出土した。上層に竃状遺構が、下層からはアワビ・サザエなどの貝類や魚骨類を検出し、海浜の生活を伺い知ることができた。地山を三~四㍍円形か楕円形に深皿状に掘り込む。壁面や底部は、二○~四○㌢の自然石で揚固めた上を、粘土で塗って整形する。この遺構内部に、塩水を入れた製塩土器を数多く並べるが、転倒を防ぐため支台で押さえる。包含層中に焼石の塊りが姿を見せるが、これが支台と考えられる。この支台は焼成作用を著しく受けている。これを繰り返して竃を構築するため、幾層にも壁や焼土層ができる。製塩土器は焼成が強いため、細かく割れて原型を留めないものが多いが、深鉢型土器の復元と遺構の検出に成功し、上記のことが理解できた。一緒に出土した須恵器片から、七~八世紀に属する製塩土器と判断される。【参考文献】 金沢和夫「送り崎遺跡発掘調査報告」(『相川郷土博物館報』)【執筆者】 佐藤俊策

・筬葉草(おさばぐさ)
【科属】 ケシ科オサバグサ属
佐渡の山草展には、毎年出品される人気ものの山野草のひとつ。花ものもよいが葉ものもよい。オサバグサ(筬葉草)は、シダのシシガシラのような葉を、機織に使う筬に見立てての名である。小佐渡のミズナラ林の下生に、大佐渡では天然杉の林縁でみた。白い花を下向きに咲かせる、清楚な花である。オサバグサ・シラネアオイ・トガクシショウマ(佐渡に自生せず)の三種は、いずれも一属一種の日本の特産固有種である。日本列島の中でも、日本海側の多雪地帯に分布がかたよっている雪国・日本海要素。日本列島の多くの植物たちは、列島誕生およそ二千五百万年前に誕生した。それに対し一属一種の植物たちは、もっと古い時代の古第三紀のはじめの七千五百万年前に誕生した。誕生の頃は、世界中に多くの仲間がいた。生きつづけてみると、仲間は誰もいない。地球上で日本、しかも日本海側のブナ林床に生き残ったものだけである。積雪下で保護され、湿潤なマイルドな環境なるが故に、生き残った遺存種である。越後にはほとんど分布せず、佐渡のオサバグサは、遺存(生き残り)・固有・隔離種として注目される。【花期】 五月【分布】 本(日本海側)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男

・長百姓(おさびゃくしょう)
 村落内の農民階層の名称の一つ。佐渡では「おさびゃくしょう」と呼んだが、全国的には「おとなびゃくしょう」と呼んだ地方もあった。佐渡では近世文書には多見するが、中世地方史料が乏しいため見られない。「長」はおそらく中世からの名称で、村落の指導層の農民を指す言葉として、佐渡でも広く使われたと考えられる。佐渡では村落の長を、中世末から江戸時代寛文四年(一六六四)まで中使と呼んだが、同年名主と改称した。「おさびゃくしょう」の「おさ」は「むらおさ(村長)」の「おさ」で、村落の長すなわち中使・名主を指し、長百姓は中使・名主を勤める階層の百姓の意である。一八世紀に入ると、村落の内部構造に変化がおこり、平百姓の地位が向上して村方騒動が各所でおこり、平百姓の中からも名主が選ばれるようになる。この時期頃から、重立という言葉が村落の指導層の農民を指す用語として頻出するが、長百姓とやや意味がちがい、長百姓は重立よりもより上層の農民を指す感じをうける。重立は持高の少い小前にたいし、持高が大きい村落の中堅層の農民をさす名称で、小前と併称することが多い。【執筆者】 児玉信雄

・ 納級(おさめしな)
 江戸時代、小物成として奉行所に納められた科の木の皮。科を佐渡では級と書いた。シナノキ科の落葉高木。樹皮の繊維で布を織り、廻船用の綱を作った。奉行所の官船用として村々に石役が課せられており、延享三年(一七四六)岩谷口村の小物成の明細によると、奉行所の官船用として御船苫代・御渡海銀・納級などが書上げられている。納級は三尺二寸(九六㌢)の縄でしばり、一束四貫八百匁、六束六分を御船御用として納めているから、船の綱としてつかわれたことがわかる。海府は級山が山麓一帯にたくさんある。羽茂川・小倉川・大野川などの奥山にも群生している。奉行所では御林として「しなの木山」を育成していた。寛文八年(一六六八)船登源兵衛船が新潟船宿櫛屋弥次兵衛に木しな(級の皮)三七貫目、代銀四一匁で販売している。これも廻船の綱用であろう。納級もこの木しなで、山から採ってきた級の樹皮の上皮をとっただけのもので、灰で処理する前の級である。元禄七年(一六九四)内海府の北小浦村百姓が、岩谷口村で納級用に仕立てた山へ入って級皮を剥取ったことから争いとなったこともある。級山をめぐってあちこちで争論が起きた。近世前半期は、下相川村大名主村田与三兵衛が集荷の統括をしていたが、後半期は納級代金を奉行所で支払うようになった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四)、佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】 佐藤利夫

・御仕入稼ぎ(おしいれかせぎ)
 鉱山の経営者が、稼行のための資金を、奉行所(幕府)から借りて経営するもので、弘化四年(一八四七)甚五間歩・市の勢間歩で、御仕入稼ぎがおこなわれている。【関連】 本途稼ぎ(ほんとかせぎ)【執筆者】 田中圭一

・御台場(おだいば)→小川台場(おがわだいば)

・御太頭坂(おたいとうざか)
 帯刀坂とも書く。佐渡奉行所のある広間町から、北側の濁川べりにあった坂下町へ下る坂道をいい、現在は一四一段あまりの石段が残っている。これを「御太頭坂」と呼ぶようになる由来について『佐渡風土記』(慶長九年の項)は、山師たちが鉱山へ登山するさい、馬・挾箱・槍などを若党に持たせ、上下一六人程で登った。近国では山師とはいわず、御太頭衆といい、そのころは上辺(上町一帯)には山師は家居せず、濁川辺に多く住んでいて、その道筋にあったので、そう呼んだとしていて、奉行所が完成した慶長年間には、この坂が開かれたらしい。『佐渡相川志』によると、山師の名は初めは御太頭衆といい、元和のころ(一六一五ー二三)山主・山仕と変わり、正徳三年(一七一三)から山師と改めたとある。のちに「帯刀坂」と書きかえられるのは、山師が苗字帯刀を許されていて、帯刀姿で登るのにちなんだ地名と解したことによるらしい。しかし『佐渡風土記』が、山師が濁川辺に多く家居したというのは、記録ではあまり見られず、北沢辺に若狭源兵衛・越中清兵衛などの「買石衆」が多くいたほかは、山師は味方孫太夫(但馬)を数えるだけで、のち北沢から会津町・南沢・左門町へと、味方は転居している。あるいは御太頭(山師)は、高名な味方但馬の登山に由来したものか。文政七年(一八二四)九月、「帯刀坂御附替工事」があり、坂下町へ下る坂の途中から、東側に新道を開き、新しい橋をかけて北沢へ下ることにした。善知鳥神社の御輿の通行に、道幅が狭いという理由の附替工事であった。【参考文献】 伊藤三右衛門『佐渡国略記』(下巻)【執筆者】 本間寅雄

・ 御鷹御用(おたかごよう)
 江戸城へ佐渡から鷹を輸送すること。鷹を飼いならして遊獵に供するしきたりは、わが国では古からあった。信長や家康も(鷹狩りを)好んだ。犬公方の綱吉はこれを厳禁したが、八代将軍吉宗によって復興する。その吉宗の時代の享保六年(一七二一)の四月、佐渡奉行所の使役藤木武兵衛が、沢崎村に派遣されて鷹の子三居(すえ)を捕えた。近郷から餌飼いの鳥を集めて飼いならし、藤木ほか渡辺(部)佐市・佐野長太夫および餌飼い手伝の門番喜兵衛同伴で、鳥籠四ツに入れて江戸へ輸送し、御鷹匠に引き渡している。ただし二居が道中で死んだ。翌七年の四月にも、交代で帰府する奉行小浜志摩守に随行して、藤木・渡部市郎治の二人が宰領し、二居を輸送している。二年おいた同十年の六月に一居、十一年にも一居、十二年の六月には四居が、いずれも藤木らによって江戸へ送られ、「御鷹御用骨折」の御褒美として藤木に金五両、佐野惣兵衛という者に金四両が交付された記録がある。佐渡からの輸送はこの年で終っていて、永年御鷹御用を勤めた藤木武兵衛が、その功労によって使役から並役人に昇格したのは享保十年(一七二五)のことで、御切米二十俵三人扶持に取立てられている。藤木一族の墓は、下寺町の真言宗相運寺に残っている。滝沢馬琴の『烹雑の記』(文化八年刊)によると、佐渡の鷹の主な生息地は二見・北狄・岩谷口・関・深浦・沢崎・大杉等で、佐渡産の鷹は「はいたか」と「隼(はやぶさ)」が多かった。捕獲の方法は、巣中のヒナを捕える「巣鷹」が一般的であった。【関連】 鶴差上御用(つるさしあげごよう)【参考文献】 永井次芳編『佐渡風土記』、山本成之助「佐渡より献上の鷹」(『郷土文化』)、西川明雅他『佐渡年代記』【執筆者】 本間寅雄

・尾高高雅(おだかたかまさ)
【生没】 一八一二ー八七 歌人。文化九年六月八日生れ。地役人堀口弥右衛門の第三子(堀口松庵の弟)、幼名俊助、後小山氏の養子となり、富蔵と改名し、富太郎と称した。早くより海野遊園の門に入り、和歌の才を認められていたが、天保十四年(一八四三)佐渡奉行所地方掛の時江戸詰となり、橘守部に就いて国学を学んだ。一年間の任期が満ちても病と称して帰国せず養家を離籍、官職も辞した。更に京に上って、大江広海に従学の後諸国を遍歴したが、再び関東に戻り名を尾高高雅と改めて、川越に私塾を開き近傍の子弟の教育に当った。高雅の学才を聞いた徳島蜂須賀侯が招聘しようとしたが、時の川越侯松平斉典は七人扶持を与え、和歌の相手に留めたという。松平家の移封に従って前橋に移り、維新後は郡奉行・権少参事を務めたが、廃藩置県を機に勇退し、梔園と号して自適の生活に入った。元来多芸で歌道の外、壮年の頃は剣に長じ、書画・生花・茶道・聞香・囲碁にも達していたといわれる。明治十三年中風によって半身不随になり、自ら人との交わりを絶ち、同二十年六月二日没した。前橋市隆浄寺に葬られ、碑陰に鈴木重嶺の撰文が刻まれている。のち明治三六歌仙に数えられた。【関連】 堀口松庵(ほりぐちしょうあん)【参考文献】 萩野由之『佐渡人物志』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 酒井友二

・小田切禎助(おだぎりていすけ
【生没】 一八六八ー一九三六 明治元年七月二十八日、相川町八百屋町に住む地役人小田切孝栄の長男として生まれる。同十四年に圓山溟北の塾に入り、皇・漢学を学んだ。明治十五年新潟学校中学部へ入学、病気のために一旦退学したが同十九年に再入学、翌二十年に同校が廃校となったため新潟尋常師範学校へ編入し、同二十三年二月に卒業した。卒業と同時に高等科佐渡小学校訓導に任ぜられ、その後相川小学校・金沢高等小学校訓導などを歴任し、明治三十二年には金沢高等小学校長となった。その後中学校へ移り、明治三十三年佐渡中学校、同三十五年には村上中学校の教員を勤めたが、同四十年には再び初等教育界に戻った。大正元年(一九一二)からは教育行政方面に移り、古志郡・岩船郡・南蒲原郡などの視学を歴任した。大正八年再び故郷に帰って相川尋常高等小学校長となり、相川実科補習学校長を兼務して同十五年退職した。相川尋常高等小学校長在任中には、郡小学校長会長・郡教育会長などをつとめ、退職後は相川町教育会長となり、昭和二年(一九二七)に『相川町誌』を発刊した。その後中野財団理事に就任して育英事業にも貢献したが、昭和十一年九月二日病没した。【関連】 相川町誌(あいかわちょうし)【参考文献】 『佐渡百科辞典稿本Ⅱ』(佐渡博物館)、「職員履歴書」(相川小学校)【執筆者】 石瀬佳弘

・御種人参(おたねにんじん)
【科属】 ウコギ科トチバニンジン属 別名チョウセンニンジン・コウライニンジン。生薬名は人参。江戸時代、栽培者は幕府から種子と肥料を無料で貸与されたが、貸与された種子に御の字をつけ、オンタネと敬称したことによる。日本には朝鮮の栽培種を輸入していたが、元禄の頃は価格急騰し品不足になった。八代将軍吉宗は国産化を決断。享保八年(一七二三)朝鮮から贈られた人参の生の根八本を、佐渡へ四本、日光山へ二本、東都薬園に植えさせた。佐渡に届けられた人参のうち、一本は長谷村に、二本は大野村に、一本は栗之江村に植えられる。そのうち長谷村東光坊境内のものが三年目以降実を付け、奉行所御金蔵裏門のあたりの薬園と鹿伏の薬園に植えられた。享保八年に始まり、寛保四年(一七四四)に到る人参栽培により、人参の株数は一○○以上を維持し、最高九○○本を越え、生人参九十余本と、種子四五○粒余が江戸に送られている。上意と国是に、みごとに応えた佐渡奉行所の快挙である。人参の薬効について将軍吉宗は、「人参は病気に対する特効薬でなく、元気を引き立てるばかりの功」と、極めてクールに考えていた。新潟薬科大学教授の安江政一は「中国の専門家も人参の成分が、どう効くのか科学的にわかっていないが、人参を投与すると明らかに回復が早いから投与する」というが、吉宗の評価と一致する。【参考文献】 伊藤邦男『佐渡薬草風土記』、小村弌「近世越後佐渡における朝鮮人参栽培覚え書き」(『越佐研究』五六号)【執筆者】 伊藤邦男

・乙和池(おとわいけ)
 俗にいう妙見山の乙和池は、旧二宮村の山田地内にある大型の自然池である。海抜五六○㍍の位置にあって、浮島や植物が新潟県の天然記念物に指定されている。池の名は、近年「乙和」の文字が冠せられるようになったが、大正期までの旧記では、すべて「音羽」であった(例 浅香寛『佐渡案内』・羽田清次『佐渡案内』・佐渡水産組合『佐渡案内』・藤沢衛彦『日本の伝説集』)。畑野町小倉の岩根沢の頂上にある通称大婆池は、大番池とも書かれるが、地元民の在来の発音は、「ウウバイケ」・「ウウバンイケ」である。これは語源が「姥ケ池」であったことを示している。山本修之助は『佐渡の伝説』で、小倉のオオバ(姥)池と書いているが、乙和池に関してはすべて「おとわ池」とかな書きにした。乙和池ではなく、もし音羽の表記が原形であるなら、姥に通ずることになり、小倉の姥ケ池と同じような、池の主(大蛇)・寺僧・女などで共通し、三輪伝説型の原話から出ているといえる。両津市赤玉の山奥にある杉池にも、貴公子・大蛇・姥の登場する伝説があるが、このほうは木地屋の伝説、杓子の呪文と結びついて複雑さが加わっている。乙和池伝説の寺僧は、河原田の談議所こと長福寺和尚となっている。【参考文献】 『佐和田町史』(通史編Ⅰ)【執筆者】 本間雅彦

・ 小野見(おのみ)
 『高千村史』によれば、小野見村は、永禄四年(一五六一)小野見方と大谷方の両族が合併した村落で、合併の際、小野見方が多くの土地をもっていたので、村名を小野見としたという。小野見村は両族合併後、湧水などを見立て田地の開墾に精出すようになる。小野見方は、天満宮社人の民部(斉藤佐右衛門)や、十二権現社人の斉藤八兵衛などが草分といわれ、一説には斉藤佐右衛門家は、石名の土屋佐次右衛門のわかれで、中世末大塚川近くの小野見の山際に移住したという(『佐渡相川の歴史』資料集四)。「来いというが行こか、小野見佐右衛門どんの二番嫁に」という古謡があるが、佐右衛門は小野見の大家ともいわれ、江戸時代、奉行巡村の際宿所をつとめた海府屈指の旧家であった。元禄七年(一六九四)の検地帳では、田八反八畝・畑五反三畝、計一町四反一畝の耕地を所有している。小野見川(古くは大谷川という)中流域の段丘上、坊ノ浦一帯に住んでいた大谷方は、熊野権現を祀る大谷松右衛門・久左衛門や、石動権現社人の大谷後藤内らが一族の中心と伝えられ、後に小野見川口一帯の土地を開発し、海ぞいに居を移したらしい。なお、もといた坊ノ浦近くの山際にタダラという地名があるが、大谷一族はもともと山稼ぎや製鉄業の従事者だった可能性も考えられる。小野見には平家の落人長兵衛が、金の目玉のだるまを背負ってやってきた伝説や、能登の上臈(身分の高い婦人)がうつぼ船で流れ寄った話などがある。現在(平成七年)の世帯数は三一戸、人口は八三人。宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』には、家数三五軒、人数一二七人と記されてあり、さほど大きな差はない。【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集九)【執筆者】 浜口一夫

・小野見鉱山(おのみこうざん)
 小野見橋より約四キロメートル上流の西ノ沢に、一番坑から六番坑までの六つの坑道がある。柱山ノ沢(中ノ沢)の西側にあたり、最初は田野浦鉱山といわれた。各坑道の枷は、縦二・七㍍、横二㍍の馬蹄形。二番坑は北から南へ五○㍍、四番坑は北西から南東に二○○㍍、六番坑は西北西から東に二五○㍍。六番坑と五番坑は竪坑でつながり、六番坑の上には狸掘りがある。金は屯中一五~二○㌘、銀は一○○倍から二○○倍あったという。金が屯中七㌘あれば採算内、機械化以前は屯中金三○㌘なければ不採算とのこと。脈幅六六㌢の複成脈を、脈にそって西ノ沢から柱山ノ沢の古間歩に向かって採掘したが、脈の向きが悪く地下水の吹き出しも多くて、採鉱はかなり困難であった。鉱石は最初高下まで負い下げ、後に小野見へ負い下げて舟で相川まで運んだという。寛永四年から八年(一六二七~三一)頃、相川の山師松木久右衛門が入川銀山を稼いだが、この時に田野浦の柱山松木間歩も稼いだ。柱山の利根の坂にある、下向き階段掘りの二つの古間歩がそれである。【参考文献】 「高千の鉱山」(『鉱山史報』三号)【執筆者】 小菅徹也

・ 小野見越え(おのみごえ)
 小野見から白瀬、あるいは和木に至る山越え道が、小野見越えである。小野見の集落から、石名川と小野見川の中間あたりの尾根道をへて、まず岳山(五二一・二㍍)の頂上付近に至る。もう一本は集落の後方で、御池の北東を乙女坂に出て、そこから道人山(九三二㍍)の東側で、石名道と合流する。マトネの位置は、道人山よりわずか高い九三九㍍である。峠を越えて加茂地区に出ると、東の和木川沿いの道と、南側の白瀬川沿いの道とに分れる。檀特山から金剛山(九六二・二㌔)までの平面距離は凡そ二㌔で、金剛山から白瀬に降りる道は、白瀬川の発電所用水を利用する水田のあたりで、玉崎道と合流する。和木から金剛山までの道は、利用者が多くないながら、地元の人によると通行できるということである。【執筆者】 本間雅彦

・オパキュリナ(おぱきゅりな)
 原生動物有孔虫目の一属で、殻の径が数㍉以上で、複雑な室に分かれた石灰質の殻をもつ大型有孔虫の一種である。外形は薄い円板状をしていて、室が平巻状に配列する。第三紀以降の熱帯~暖帯の浅海に生息していたと考えられている。佐渡島に分布する新第三紀中新世前期末~中新世中期初頭の地層に産出する。ミオジプシナとしばしば一緒に産出する。真野町西三川の海岸周辺に露出する下戸層に含まれ、とくに西三川集落には、層厚約一㍍の石灰質砂岩からなる地層が露出している。この砂岩の粒子は、ほとんどがオパキュリナとミオジプシナの化石である。ウニなどの化石も含まれるが、その数はきわめてすくない。相川町平根崎の下戸層から、オパキュリナ コンプラナータ ジャポニカが産出する。ミオジプシナとともに、中新世中期の初めをしめす示準化石とされている。【関連】 ミオジプシナ・下戸層(おりとそう)【参考文献】 半澤正四郎『東北帝国大理科報告』(一八巻)、松丸国照『土編』【執筆者】 小林巖雄

・ 御林(おはやし)
 領主直轄の山林。中世から領主が用材確保のため、領内山林の一部を直轄し、これを「お立林」と称し、江戸初期までこの称が用いられた。江戸幕府はこれを継承して「御林」と呼ぶようになる。御林には、古御林と新御林の区別があり、天和元年(一六八一)の御林改めの記録によると、九四か所の御林の内、新御林が三三か所であった。その後元禄八年(一六九五)には、古御林一○五か所とあり、享保六年(一七二一)に御林総数二七七か所だったから、その差一六二か所が、元禄八年から享保六年までの間に新設されたことになる。幕末には二二九か所とあるから、その後減少したことになる。御林は前記の他に、奉行所や付属施設・番所などの出先機関、大社寺の普請、架橋・河川・溜池・港湾改修など、公共事業の用材に用いられ、その管理は名主・山守などによって行われ、木数改めの役人が派遣され厳重に保護された。佐渡奉行所の山林政策は厳しく、民有林の木であっても、必ず地方役所の根伐切手が必要とされ、枝葉であっても御林の木を伐ってはならないとされた。良材を出す平清水堂林・川茂御林・加茂の羽黒御林・赤泊徳和の栢の木御林などが特に重要であった。明治維新後国有林(官林)となったが、のち村や大字に払下げられた。【参考文献】 『吉井本郷史』、『新潟県史』(通史編三・近世一)【執筆者】 児玉信雄

・尾平神社(おひらじんじゃ)
 大浦。旧称尾平(小平)権現。祭神は鸕鷀草葺不合尊。慶長六年(一六○一)開基。大浦・鹿伏の産土神であったが、のち大浦村の氏神となる。例祭日は十月十八日。産屋の神として、近在の信仰者が多かった。祭神が海神を母とする天孫の子として、海辺の産屋で生まれたという神話からきている。『佐渡国寺社境内案内帳』では、亀脇村・堂釜村・大浦村(小木町)の神社はともに「おびら権現」とあり、当社と同じ呼び方。いずれも天孫族系の神である。小木三崎の大浦尾平権現は、大浦・木流両村の産土神として、神官西野家の舎弟が二見七浦の大浦を開き、その氏神を分祀した(『平成佐渡神社誌』)とある。それぞれ祭神が異なり、七浦大浦開発説は神社成立後の由緒か。当社は、明治三十九年愛宕神社(祭神軻遇突智命)・稲荷神社(倉稻魂命)を合併。尾平神社の神官西野次郎左衛門家は、屋敷の後に観音堂を持ち、神社に近く、神仏習合時代の信仰のようすを残す。【参考文献】 矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫

・ 尾平神社のタブ林(おひらじんじゃのたぶりん)
 相川町指定(一九七四)の天然記念物で、所在地は相川町大浦。大佐渡南西側の、北西の季節風に強く当る大浦(尾平神社社林)・江戸沢町(大安寺寺林)・小川(小さな谷間)において、風陰の段丘斜面に生育し、樹冠は低く枝は屈曲して風衝形をなし、段丘上面には出ない。ことに小川のタブ林は小さな谷間に生育するもので、この傾向は著しい。これより北方の、達者の段丘上のヤブツバキ林に数本みられる程度で、この附近が大佐渡海岸におけるタブの北限地となる。大浦にタブ林が成立するのは、村の北方に突出する春日崎があり、さらに海岸が湾入していて、冬の季節風がやわらぐことによる。村の後にある段丘斜面はタブの林でおおわれるが、村の北端は尾平神社、村の中央は安養寺とよばれる村の菩提寺付近までのおよそ三○○㍍の間は、村の寺社林として手つかずのまま保存されたタブの自然林である。タブの樹高はおよそ一五㍍、幹径は三○~六○㌢、タブとして特に大木はないが、群落の大きさとしては、島内一のタブ林である。高木層の優占種はタブ、亜高木層はヤブツバキ、低木層はヤブツバキ・ヒメアオキ・マサキ・ヤツデ、草本層はオニヤブソテツ・ヤブラン・ツワブキ・ベニシダなどが生育する。林立するタブの高木と、林の四層階層構造と構成種を観察するのに、最も適した林である。『相川町の文化財 改訂版』(一九八六)には「天然記念物タブの木群落」として「南方系のこの植物は、氷間期の残存植物と考えられる。一九五○年代には、胸高周囲五・八㍍を越えるものがあったが、伐採されてしまった。この植物の自生するところは必ず玄武岩の土壌か、麦土の下層(根のとどく所)に玄武岩がある」と解説される。尾平神社がはなやぐのは二回ある。四月の末から五月のはじめにかけて、本堂右側一帯はシャク(セリ科・方言ヤマニンジン)の花で埋まる。十一月、タブの林縁にツワブキの花が満開し群生する。【参考文献】 伊藤邦男「尾平神社のタブ林」(『相川町の文化財』)【執筆者】 伊藤邦男

・ 御松迎え(おまつむかえ)
 十二月の二十日から二十八日までに、山から御松を迎えてくる。芯の立ったシンマツ(芯松・アカマツ)の三階ものを迎えてくるが、お松さん迎えの松は、無断で誰の山から切ってもよいとされた。北田野浦(相川町)は中山までカヤ原であったため、秋があがると雪がこぬ中にトネまでアテビ松(ヒノキアスナロ・佐渡方言アテビ)を迎えにいった。アテビ松は、普通の松に比べなかなか枯れないためである。小野見(相川町)では、恵比須さまだけにアテビ松を飾るという。お迎えした松を神棚に供える。いよいよ正月がやってくる。「正月さん正月さんはやくこい」と子どもたちは叫んだものだ。「正月さん正月さんどこまでござった すり鉢を笠にしてスリコンギをつえにして、トシナワ(しめなわ)を帯にして きりきり山の腰までござった」と子どもたちは正月を待った。正月さんのもってくる土産は「羽根と羽子板アンコロモチ」(真野町新町)であり「アンコロモチにトチモチ、ネコノマタ(干魚)に串柿」(佐和田町五十里)であったりした。正月さんは山のかなたからお出になる。“キリキリ山”は限限山で、いちばん高い山である。もうキリキリ山の麓まできている。正月はもうすぐだと子どもたちにいいきかせた。正月さまの到来、それは正月神の到来である。正月神のよりしろがお迎えしてきた御松なのである。【参考文献】 浜口一夫「年中行事」(『高千村史』)、伊藤邦男『佐渡花の民俗』【執筆者】 伊藤邦男

・御水帳(おみずちょう)
 検地帳の別名。検地の結果を、村ごとにまとめた土地台帳。佐渡で現在判明している最初の検地は、天正二十年(一五九二)の上杉氏検地であるが、一部の寺社領の検地帳(検地一紙)以外は現存しない。最初の一国検地といわれる慶長五年(一六○○)検地は、同じ上杉氏支配下で、代官河村彦左衛門吉久によって行われ、三二点の検地帳が伝存する。慶長検地は、別名中使検地といわれるように、近隣の村の中使によって行われたが実測せず、一種の指出検地であった。検地帳は、「本」と新たに検出された「見出」を、刈高で表示しているが、その合計刈高は、一○○刈が京枡八斗四升の年貢高表示で、生産高表示ではない。その後、元和三年(一六一七)に屋敷検地帳、慶安二年(一六四九)の慶安石直し帳を作成したが、本格的な近世郷村支配の確立をみたのは、元禄七年(一六九四)の荻原重秀による元禄検地である。元禄検地帳は、田・畑・屋敷を実測し、一筆ごとに地字・地目・品位・面積・名請人を記載し、田・畑は上上・上・中・下・下下の五段階に分け、石盛は上上田二○(二石)・上上畑一○(一石)とし、一段階下がるごとに二ツ(二斗)ずつ下げた。末尾にその集計と、寺社堂の除地・除米・御林数・百姓持山数・村仲間持山・秣場などを記載している。【関連】 慶長検地(けいちょうけんち)・元和検地(げんなけんち)・元禄検地(げんろくけんち)【参考文献】 『新潟県史』(通史編三・近世一)【執筆者】 児玉信雄

・ 重立衆(おもだちしゅう)→長百姓(おさびゃくしょう)

・おもやの源助(おもやのげんすけ)
 真野町新町、通称おもや山本半右衛門家の屋敷貉神。相川の二つ岩団三郎の四天王。現在は、山本家十世半蔵が屋敷地から昭和六年(一九三一)九月十二日に、新町大神宮神殿横に石塔を作り祀られている。山本半右衛門家は、安永年間(一七七二~八○)酒造業をしていた。ある日杜氏が酒倉へ酒をとりに行ったところ、急にものに憑かれたようになった。そして、主人に四つ這いの貉のかっこうで、「屋敷貉の源助であるが、今日相川の二つ岩団三郎親分のところから、西三川の鵜懸の長老のところへ嫁入りがあり、代々本陣のこの屋敷で昼飯の酒盛りの最中に、杜氏が土足で入ってきたので憑いた」と言ったところ、主人が「そんなものは棲家をとりこわしてしまう」と怒ったという。杜氏の源助はあやまり、「棲家も今までと同じようにおいて下さい。そのご恩はご当家を末代まで守護し、夜番をつとめ盗賊などを入れません」と言い、裏の木戸から川岸に出て倒れ、しばらく蒲団をかけておくと正気にもどった。その後、弘化・嘉永(一八四四~五三)のころ、「佐渡の鼠小僧」といわれた吾吉という大盗賊が捕えられた時、「山本半右衛門家へ入ったところ、人の咳払いや人影が見えたりして、何も取ることができなかった」と白状したという。源助の約束の実行であろうと語りつがれている。【関連】 二ツ岩団三郎(ふたついわだんざぶろう)【参考文献】 山本修之助『佐渡の貉の話』、「山本半右衛門年代記」(『佐渡叢書』七巻)【執筆者】 山本修巳

・ 御役所年中行事(おやくしょねんちゅうぎょうじ)
 佐渡奉行所の一年間の行事予定。『相川町誌』では、相川年中行事と御役所年中行事を分けて紹介してある。前者は、『佐渡相川志』に収められた宝暦年間(一七五一ー六三)をもとに抄出したもの。後者は、文化年間(一八○四ー一七)に編まれたもので、『佐渡相川志』には御役所年中行事は記載されていない。主な行事を抄出すると、一月元旦は東照宮御霊屋(歴代将軍廟)・大山祇・八幡社・稲荷社(陣屋内)を、奉行・組頭が式装束で参拝する。四日は銀山の稼ぎおよび勝場などの仕事始め。この間諸役人・山師・御雇町人などの参詣や、陣屋への年賀が続く。十一日は御金蔵開き。江戸への上納金銀および御勘定仕上げの宰領役人が決まる。十八日が目安箱の出し始め。二十三日は奉行・組頭も出席して、公事方(民事)裁許が始まる。毎月の三日・七日・十八日・二十三日・二十七日が裁判の定例日。五月は五日が端午の禮で一同礼服。畑方の石代銀の納税は、この月の一日から取立てを始める。七月は七日が七夕の礼で一同礼服。この月猟師の鉄砲検査があり、諸運上物・請負いの年限などの入札が觸出される。八月は十五日が八幡・大山祇・春日社の神事。町同心が祭礼警護に出廻る。九月は九日が重陽の節句。善知鳥神社の祭礼。槍・高張提灯を出し、目付役二人が礼服で神輿の通行に加わる。奉行は陣屋の物見台へ。神酒・初穂を供へ、銀山・勝場とも休業。この月御年貢御蔵納めが始まり、村々へ觸れる。十一月は相川中の酒屋・糀屋より、仕入米を御米蔵に通知する。大概帳の仕上げ、また寺社の除米を申渡す。十二月(師走)は一日が諸役所の門松の飾り、縄などの買上げで入札を觸れる。十三日は御役所の煤払い。二十八日が歳暮の礼で一同礼服。二十九日から諸役所・床屋など、仕事場を締切り符印。晦日は御役所の泊番定役は上下(かみしも)、並役以下は羽織はかま。奉行・組頭は、東照宮などに歳暮の拝禮。この月一国人別・家数などの書上げがある。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、岩木拡『相川町誌【執筆者】 本間寅雄

・ 御役鱈場(おやくたらば)
 江戸時代、肴役として貢納する鱈を延縄で釣る場所として定められていた漁場。主としてその漁場は沢崎沖から北東方向、二見半島の沖合にかけてあった。沢崎沖からサンパチバ・ナカサイバ・イボダシ・カミタラバ・オオツカヅカイ・マエタラバ・シンニョウバ・シモタラバなどがあった。なかでも二見半島沖のカミタラバ・マエタラバ・シモタラバが好漁場であった。元和三年(一六一七)下鱈場の延縄つけ場所図によると、そのなかで「三郎右衛門つけ」が特定されており、先祖が鱈漁師であったという山本三郎左衛門鱈場であろうという。この下鱈場は、二見・米郷・稲鯨・橘・高瀬の五か村の鱈役用の鱈場で、慶安三年(一六五○)には二見・米郷村がはずれて一二艘の鱈場になった。イボダシは小木三崎の鱈漁師の鱈場で、しばしば御役鱈場間で漁場の争いがあった。鱈は色役(無塩魚)で納められたが、近世になると干鱈に加工して貢納し、のち代銀納になった。御役鱈場の独占的操業は、有力な漁業資源をにぎることによって村内の指導的立場をつよめ、その漁家に神仏の寄り神伝説を残している例が少なくない。山本三郎左衛門家の場合は、先祖が鱈場にでて波切不動尊が延縄にかかってきたといい、集落の地蔵堂にまつっている。また鱈場は沖漁のため、カワサキといわれた漁船で六人または一二人で操業した。そのため御役鱈場に出漁する漁民の村は、つよい共同体意識をもっていた。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)、『佐渡入門Ⅳ』(両津市教育委員会)【執筆者】 佐藤利夫

・御雇町人(おやといちょうにん)
 佐渡奉行所が、鉱山経営・町方支配・郷村支配・産業・商品流通等で必要とする町人を、「御雇」と称して指名採用し、それぞれの業務に就かせた。御雇町人の中で後藤役所(小判座)の後藤三右衛門が年寄役でもっとも地位が高く、圧倒的に鉱山関係の仕事に携る者が多く、山師・大吹師・銀見・銀掛・絵図師・振矩師・銀山方御入用向下改・銀山帳付・床屋下改・定問吹所用達・銅床屋下改・御用炭世話煎・吹分所吹大工・銀鞴番所・銀山油番・穿子遣頭・山留頭・買石頭・浜川流請負人・西三川金山世話煎等である。町方関係では、相川・夷・湊・新穂・新町・小木の各町年寄・相川町中名主・同中使・銀山内小屋頭。流通関係では、掛屋・相川両替屋・在々両替屋・御米蔵番・小揚頭・雑蔵番・浜手三番所問屋頭取・夷湊廻船改・長崎廻俵物請負人・相川重立町人・小木外五か所番所問屋・小木・沢根・夷湊・水津・松ケ崎・赤泊・新穂・河原田の各名主・在々鍛冶問屋・郷宿・かたくり世話煎等、その外では、能太夫・御普請所定人足頭・同棟梁番匠・学問所教授・陣屋付医師などがあった。奉行所の各方面の業務は、これらの御雇町人なくしては運営できなかったのである。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集七)【執筆者】 児玉信雄

・オヨ(オオクチイシナギ)(およ)
 オヨは大魚の意で、スズキ科の魚である。和名のオオクチイシナギには、大口石投の字が当てられる。日本列島全体にわたって分布するが北日本に多く、四○○~五○○㍍の深海の岩場にすんでいる。幼魚のときは、暗褐色の体色に、白色のしまが、頭から尾にかけて走っているが、成長につれてなくなり、老成魚ではみられない。大きさは二㍍、畳一枚ほどの大きさに達するものもある。美味なことと、引きが強いので、釣り人に喜ばれ、深海延縄・一本釣りなどで獲られるが、若魚は底引き網にも入る。佐渡では、アラと共に、漁師の爼う魚の一種である。五~六月には、少し浅いところへ来て産卵する。田中葵園の『佐渡志』に毒魚であると記してあり、驚くべき卓見で、これは肝臓にビタミンAの蓄積量が多いことに起因する。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治

・下戸炭屋浜町(おりとすみやはままち)
 町の南西部。相川湾南端の臨海地域で、西側を主要地方道両津鷲崎線が走り、バス停「御番所橋前」がある。南は鹿伏、北は下戸浜町、東は下戸炭屋町に隣接し、県営下戸団地・町営下戸団地などのアパートの建物のほか、県相川土木事務所下戸倉庫がある。古くは東側の海士町(蜑人町)から当町にかけて、船手屋敷があり、船構い場のほかに、加藤組・辻組の両船手役はじめ、水主長屋(各一五軒づつ)があったとされる。船手屋敷は、もと一丁目裏町にあったものが、宝暦期(一七五一ー六三)に当町に移転してきたとされ、この前後に成立した町であろう。弘化四年(一八四七)に来島した松浦武四郎の『佐渡日誌』に、「此処、公辺の御船頭、水主ども住せり。又海に沿て竹垣有。中ニ御船蔵有。皆目附(役の)預り也」とした描写がある。真宗称念寺が残っていて、高名な歴史学者岩木拡(号枰陵)が居住した町。【関連】 岩木拡(いわきひろむ)【執筆者】 本間寅雄

・ 下戸炭屋町(おりとすみやまち)
 町の南西部。北は下戸町、南は銭座。東側は下戸炭屋裏町で、南北に走る町道をはさんで、東西に集落が密集する住宅地域。海士町川右岸に開けた町で、慶安(一六四八ー五一)年間の相川地子銀帳には、町名がすでに見えている。西側は、下戸炭屋浜町になる。相川ー沢根間を中山旧道で結んでいたころ、海士町を下ると当町南端に下戸御番所があり、海士町川にかかる橋名が「御番所橋」で、当町の名残りを残している。明治に入ると、国仲方面から運ばれる米の集積地となり、米屋営業の家が多かった。高名な萩野由之(東京帝大教授)が当町に生まれている。【関連】 萩野由之(はぎのよしゆき)【執筆者】 本間寅雄

・ 下戸層(おりとそう)
 歌代勤(一九五○)の命名。模式地は相川町下戸で、下位の金北山層に不整合で重なる。前期中新世末~中期初頭の地層である。相川町では、下戸周辺と平根崎に分布する。礫岩・砂岩・石灰質砂礫岩からなり、層厚は一○~三○㍍で薄い。内湾~浅海生の貝化石を多産し、パレオパラドキシアなどの大型海生ほ乳動物、サメ類・有孔虫などの多数の化石が発見されている(相川町の化石)。佐渡島の地史のなかでもっとも重大なできごとは、日本海の形成であると思われるが、日本海への海進にともなって、はじめて堆積した地層が下戸層である。とくに平根崎は、下戸層をよく観察することができ、地質学者に広く知られている場所である。ここでの化石の研究から、できたばかりの日本海が、カキなどがすむ内湾環境から、ホタテガイなどがすむ外洋に面した浅海環境に変わっていった事が証明されている。【関連】 パレオパラドキシア・貝の化石(かいのかせき)・サメの化石(さめのかせき)・有孔虫の化石(ゆうこうちゅうのかせき)・相川町の化石(あいかわまちのかせき)【参考文献】 『佐渡博物館研究報告』(七集)、木村和子・小林巌雄「新潟県佐渡に分布する下戸層の古生物学的研究」(その一)【執筆者】 神蔵勝明

・ 下戸浜町(おりとはままち)
 町南西部に位置し、南は下戸炭屋浜町、北は市町、東は下戸町と隣接し、西に相川湾が広がる臨海地域。佐和田町からくる主要地方道相川佐和田線と、二見海岸からくる主要地方道両津鷲崎線(佐渡一周線)が交差する。大手ホテル・東北電力サービスセンター・鉄工場・水産加工処理場・商店の倉庫などが、浜伝いに家並をつくる。元禄七年(一六九四)の屋舗検地帳には町名は見えず、宝暦五年(一七五五)の帳簿(『相川町誌』)には見えている。【執筆者】 本間寅雄

・下戸町(おりとまち)
 下戸は古くは折戸と書いたという。下戸村のうちに、下戸町・下戸浜町・下戸炭屋町・北銭座・岩町・仲町があるが、この頃では狭義の下戸町で、俗称の五町目・仲ノ町という鹿伏に至る旧道の相川・佐和田線でいえば、下戸の坂を下って万長ホテル手前の信号をはさんだ北側、および南側について記す。県道から北側の、俗に五町目と呼ばれる所は、東に馬町と羽田村仲町が、西に下戸浜町がある。山手の馬町・仲町側には銀行支店・ホテルや商店が、浜町の側にはおもに商店があって、住宅が入り混っている。そして仲ノ町と呼ばれる県道の南側の下戸町には、数戸の店舗と工場を含む住家が、海手側には下戸郵便局・官舎・商店に数戸の住宅が共存していて、山手側より間口が広い家が目につく。元禄検地帳では、『佐渡相川志』によると、下戸町の屋敷は弐町一畝廿二歩とかなり大きな面積であったから、下戸炭屋町の南端までが町域であったかと思われる。【執筆者】 本間雅彦

・下戸村(おりとむら)
 旧相川町の南端部に位置し、北は小仏川、南は海士町川を村境としている。慶長五年(一六○○)の河村彦左衛門による一国検地の頃に、羽田村から分村したといわれる。寛永六年(一六二九)頃、中山道が開かれるとここが交通の要衝となり、次第に町割が出来た。『佐渡相川志』によると、下戸に番所が置かれ、「当役慶長年中ニ始マル。寛永八年ヨリ元禄四年迄御役十分ノ一ノ色取リナリ。」とある。このことは、江戸の初期には徴税機能を持たない番屋的なものであったが、中山道が開け、海岸部に町割ができた寛永八年頃になると、本来の番所機能を備えたと考えられる。文政九年(一八二六)の「相川町々墨引」によると、下戸町・下戸浜町・下戸炭屋町・下戸炭屋浜町・下戸炭屋裏町の五つの区画からなっており、竃数二九二、人数一二五六人とある。炭屋町は海岸に面し、海府方面から船で運ばれる炭を荷受けする炭問屋が並んだ。また、御米蔵が置かれて国仲方面からの米が運び込まれ、海府方面からは四十物が集散して海産物の加工でにぎわった。寺社としては、熊野神社・北野神社・春日神社・善知鳥神社・立岩寺がある。【関連】 中山道(なかやまみち)・番所(ばんしょ)・善知鳥神社(うとうじんじゃ)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、石瀬佳弘・佐藤利夫「相川の近郊村落下戸村の変遷」(『鉱山史報』4)【執筆者】 石瀬佳弘

・ 恩賜金(おんしきん)
 佐渡鉱山が皇室財産から民間へ払下げられるに当たって、交付された下賜金のこと。佐渡鉱山は、明治二十二年(一八八九)四月、生野鉱山と共に皇室財産に編入されて御料局佐渡鉱山となった。ところが、明治二十九年四月の宮内省帝室経済会議は、佐渡鉱山を生野鉱山や大阪製錬所と一括民間へ払下げることを決定した。その主な理由は、現在経営は順調であるが、今後これを維持していくためには巨額な投資が必要であるということであった。同年五月御料局長岩村通俊は、払下げの理由を公表し、払下げ方法は一般競争入札とし、売却が決まれば「若干の金品」を両鉱山付近の人民に下賜することを望む、と述べている。この報が地元相川に伝わると、同年五月八日、当時の相川町長森知幾を中心に、払下げ反対の町民大会を開き、渡辺佐渡支庁長をはじめ御料局長などへの嘆願を繰返した。しかし、同年九月十六日に入札が行なわれ、佐渡鉱山は一七三万円で岩崎久弥に落札されて、十一月一日から三菱合資会社に移管された。これにともなって、宮内省から七万円の下賜金が交付された。森町長は、「恩賜基本財産規則」を制定して町の将来に備え、町ではこの規則が告示された七月十三日を、恩賜金記念祭として今日に伝えている。【関連】 御料局佐渡鉱山(ごりょうきょくさどこうざん)・渡辺渡(わたなべわたる)・森知幾(もりちき)【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 石瀬佳弘

・鬼太鼓(おんでえこ)
 一般には「鬼太鼓」と書き、相川では「御太鼓」の文字を用いている。京の都の文書では、室町期に「穏太鼓」の文字が書かれているので、この芸能は佐渡の固有の名称とは限らない。鬼太鼓の起源については、かって宮内省役人が唱えた、奈良期に大陸から渡来したという説が定着していて、今もそのように考えている者は少なくないが、それを裏づけるような資料はまだ見あたらない。口承では、享保年代に潟上の能太夫・本間右京清房が、能の舞を振付けして牛頭天王社に奉納したことになっている。これは俗にいう国仲流・潟上流といわれる、勇壮な鬼舞のほうである。いっぽう相川流といわれる風雅で格調ある豆蒔型の御太鼓は、江戸中期の延享以前にはみえていないので、郷土史家であった橘法老などは、相川の善知鳥神社祭礼から始まったのではないかとみていた。豆蒔型に関する限りは、この橘説を否定できないだろう。鬼面は、古いものは概して能面のうち、ベシミ・シカミ系のものが多いが、明治期以降になると、宮大工間島杢太郎の刻んだ、強靱な顎に特徴のある形が目立つようになった。また村によっては、般若面や熊坂・武悪ふうの面を用いている。装束は、これも能衣装の三角をつらねた鱗文様が圧倒的に多い。【参考文献】 田中圭一編『佐渡芸能史(上)』(中村書店)、北川鉄夫他編『佐渡の芸能』(文理閣)、『佐渡祭組』(サード社【執筆者】 本間雅彦

・御海部(おんべ)
 春、海藻採取にあたって初物を海神に贈って、神と人間が饗食して豊漁を祈る大贄の行事。佐渡の海人族の活動の舞台であった海府・小木半島・二見半島に、御海部島または御海部瀬といわれている島や礁がある。かって、この行事の行われた場所である。鹿伏では、昭和四十一年(一九六六)「御海部雑用割出帳」によると、諸経費は清酒三本・ぶどう酒一本・魚(魚屋から現物寄付)・米三升、計八四○○円かけて行っている。御海部の日は、御海部瀬に生えている若和布を刈る。この場所の若和布だけは、集落の漁師全員が出て刈り取ることになっている。その収穫物は集落全員に配分する。海村では「海は村のもの」という考えがあり、特定の場所と日時の採取物は、全体で配分するという慣行がある。この日は竜宮祭りを兼ねており、若和布刈りが終ると、漁師惣代の家に集って直会が行われる。鹿伏の御海部瀬は、約三五㍍四方の深さ三㍍くらいの浅瀬で、良質の若和布が生えている。朝廷に貢祖として献上した古代の佐渡鰒や若和布は、こうした場所で採取したものと思われる。【参考文献】 佐藤利夫『佐渡嶋誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫

・オンベコ(アメフラシ)(おんべこ)
 和名のアメフラシは雨降らしの意で、方言のオンベコは海牛の意、ベコダコは牛蛸である。和名は、刺激すると紫色の汁を出すことに、方言は形状や行動に由来する。軟体動物門、腹足綱の後鰓類に属し、仲間には小型の美麗種が多い。我が国の岩礁地帯にごく普通にみられ、寿命は一年、春先から初夏までよく目につき、雌雄同体なので、何尾も連なって互いに交尾しているのんびりした光景が見受けられる。岩礁に産みつけられた卵塊は、ウミゾウメンと呼ばれているが、食べると下痢をする。対馬や隠岐では成体を茹でて酢味噌あえにしたり、砂糖醤油で味付けして食用とするが、佐渡では利用しない。巻貝の仲間なので、背面にまだ二枚の小さな殻が残っている。近似種のアマクサアメフラシは、白っぽい汁を出すし、小型のクロヘリアメフラシは、背側の外套腔周辺が黒いので、アメフラシと区別できる。餌は海藻。【執筆者】 本間義治

★か行★

・買石(かいいし)
 方言ではケイシという。鉱石を買って製錬する専門業者のことを買石といった。また銀山敷内の出鏈を、人夫をつかって金銀に吹立るを山買石、自分で廉鏈、捨石や川通りを流して、椀の蓋で淘り立てるを御器買石という。慶長より寛永の頃、買石六○○人。一軒の人数、五・六○口。その外に、新穂滝沢・鶴子・入川、寛永三年(一六二六)戸地の水車買石あり。その後金銀山衰え、寛文の頃二○○人。延宝八年(一六八○)八○人、享保八年(一七二三)金銀自分吹立停止の節、五四人。その後、本買石二四人、外吹買石二五人。以後宝暦三年(一七五三)まで変わらなかった。宝暦九年になると、佐渡奉行石谷清昌は、鉱石の不当な廉買いや金銀の密造・密売を防ぐため、奉行所構内にすべての製錬を集中管理して、その弊を改めた。【関連】 勝場(せりば)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、本間周敬『佐渡郷土辞典』【執筆者】 小菅徹也

・海岸段丘(かいがんだんきゅう)
 山地や丘陵の斜面が、海面に接する沿岸に形成される階段状の地形。沖の方に傾く緩傾斜または平坦な段丘面と、段丘崖とから成る。背後の段丘崖は、段丘面形成と同時期の旧海食崖で、当時の汀線は崖下の段丘面の内縁にあった事を示す。浅海底で形成された波食面が、地盤の隆起運動あるいは海面変化による海水位の低下、または両者の合成された影響を受けて、高い位置にもたらされて段丘面となる。新しい海面を基準に、周囲には波食が作用して新海食崖をめぐらす様になり、これが繰り返されて階段状地形が形成される。段丘面上は薄い砂礫層を留めるか、波食で削平された基盤岩が露出する。佐渡の段丘面の表層の多くは、赤褐色の風化土層で厚く被われ、水田・畑・果樹園・集落などが立地する。東北日本の日本海側の島や半島は、海岸段丘の発達が好く、佐渡の沿岸も殆ど海岸段丘に囲まれている。特に海岸段丘が顕著に見られるのは、外海府など北西向きの沿岸と二見半島・小木半島であり、発達の規模が小さく断片的であるのは、内海府と東浦・前浜(佐渡海峡側)など、南東向きの沿岸である。佐渡の海岸段丘の中で最高所は、大佐渡北端の二重平の海抜三○○㍍であるが、一般的には二○○㍍以下二○㍍の間の高さに、二ないし六段が認められる。より低位迄含め、八段識別できる部分もある。【参考文献】 九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、同『人類科学第一四集』(新生社)、『地形学辞典』(二宮書店)【執筆者】 式正英

・海岸平野(かいがんへいや)
 沿岸の浅い海底の中で堆積した地層が、その後の海水準の低下や地盤隆起の影響で、海面上に現れて形成された低平な平野の地形。海岸近くにある平野と言うだけでは、海岸平野は当てはめられない。海岸近くに形成されても、扇状地や三角州ならば河成であり、海岸平野は海成である点が異なり、砂層やシルト層の堆積相や化石に海成の特徴が示される。佐渡では、浅海底堆積層である洪積統の国中層から成る部分が海岸平野に当り、国中平野の概形がほぼ相当する。国中平野は、国府川低地等の低地と台地から成るが、国中層は低地沖積層の基底をなし、周辺の台地を構成する。加茂湖周辺台地の地層は、砂層・シルト質粘土層・礫層の互層で、部分的に偽層(クロスラミナ)を呈し泥炭の薄層を挟み、潟湖底の堆積環境であった事を示す部分もあるが、総体には浅海底から潟湖へと経過した結果と考えられる。この台地は、中央部で海抜二五ー三○㍍と平坦であり、低地や湖との間には一○ー二○㍍の高さの崖があり、台地面は国中平野の東西の分水界でもある。【参考文献】 九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、歌代勲ら「佐渡国中平野の第四系」(『新潟大学教育学部紀要』一一号)、『地形学辞典』(二宮書店)【執筆者】 式正英

・海食洞(かいしょくどう)
 大佐渡海府海岸には数か所の海食洞があるうち、宗教的霊地となったのは、岩谷口の海府洞(岩谷洞窟)である。岩谷口北端、大川(岩谷口川)の右岸にある。左右二つの洞窟のうち、右側は大きく深く、入口に矢部源四郎家の観音堂がある。はやくから観音霊場となり、近世以降には墓地となっている。洞窟の観音信仰は、小木三崎の岩屋山(宿根木)観音との結びつきが生じ、宿根木で犬を追い込むと岩谷口に出たという伝説となり、犬守観音ともいわれた。大川の左岸には、丸家三十郎家の薬師堂がある。『弾誓上人畧伝』によると、弾誓は天正十八年(一五九○)佐渡へ渡り、河原田の常念寺で得度し、翌十九年、檀特山の岩窟に籠って修行をしたという。その弾誓ゆかりの地の一つが、岩谷洞窟といわれている。洞窟の入口の岸壁に「弘法の投げ筆」と地元で伝えられてきた、弾誓の名号書が彫られている。古くから真言密教系の聖とのかかわりがあった。ここの洞窟信仰は、念仏聖たちの山居の霊地にふさわしい。洞窟からは谷にそって北東に、光明仏寺への山居道がある。【関連】 木食弾誓(もくじきたんせい)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、宮島潤子『謎の石仏』(角川選書)【執筆者】 佐藤利夫

・開析扇状地(かいせきせんじょうち)
 山地が平野に接する山麓部の谷口に、河川の運搬して来た砂礫を堆積して扇状地を形成する場合、搬出される砂礫の量が減少したり、海面の位置が相対的に低下する等によって、河川の下方浸食が盛んになると、河道沿いに崖を生じて開析され、開析扇状地となる。佐渡島では、国中平野に面する大佐渡・小佐渡山地の山麓寄りの台地部は、殆ど開析扇状地をなすと考えてよい。海面の低下の原因には、佐渡の場合地盤の隆起運動が大きく影響していると見られるので、これらの開析扇状地は隆起扇状地でもある。両津湾に、北から流入する梅津川の流域には、梅津川開析扇状地が広がり、末端は弧形の扇状地海岸線を呈し海崖で終る。大佐渡側には、他に新保川・藤津川の開析扇状地が広がり、いずれも扇頂は海抜一六○㍍、谷底との比高四○㍍程で、扇面は緩傾斜し扇端は国中低地に小崖で臨む。小佐渡側は比較的に小規模で、小倉川等の谷口から同様の開析扇状地が広がるが、扇頂は海抜一○○㍍、谷底との比高は四○㍍を越えず、扇端は国中低地へと漸移する。【参考文献】 九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、式正英『地形地理学』(古今書院)、『地形学辞典』(二宮書店)【執筆者】 式正英

・廻船(かいせん)
 江戸時代、和船による各国間の商品流通のための海運が画期的な発展をとげた。この主役を果したのが廻船であった。日本海を往来する廻船には、佐渡では江戸時代前半期は近・中距離の交易で、地廻わりはツチブネ(ドブネ)・テント・サンパなど、他国間ではハガセ船がつかわれた。当時、城郭や城下町の建設に必要な材木を大量輸送するために、大型の北国船もあった。佐渡の廻船業者は小資本船主で、なかでも複数艘所有していた船主には、松ケ崎の菊池喜兵衛、小木の風間長左衛門、相川の山田吉左衛門、岩谷口の船登源兵衛、強清水の佐藤九郎兵衛、宿根木の高津勘七(勘四郎)などが記録にでてくる。正保期(一六四四ー四七)風間長左衛門が船頭勘兵衛に能登御蔵塩を買付けるよう指示している事例がある(「岩木文庫」)し、万治二年(一六五九)能登七尾米町又右衛門商船、船頭与次右衛門が塩三○俵を相川へ運んだ積荷状がある(「船登源兵衛家文書」)。佐渡へ出入する廻船取引は、廻船業者の所有する小型の商船によって行われていた。寛文期(一六六一ー七二)以降は、廻船の交易は西廻わり航路の整備もあって、佐渡の廻船は津軽・出羽・新潟・敦賀間を回漕する中距離の海運に移行し、船型もハガセ船が主流となった。しかし瀬戸内から日本海へ入ってくる弁才船の影響をうけて、航海の迅速化・漕櫓から帆走・積載量増大・乗組水主数の削減が進み、やがて日本海特有の北前型弁才船時代となった。佐渡奉行所の方針が変わり、宝暦元年(一七五一)他国差留品が解禁となり、佐渡の各地に北前型弁才船新造の時代を迎えた。佐渡船の第二の活躍期に入り、安永二年(一七七三)松ケ崎廻船主よりはじまり、宿根木・沢根などで新造船ができた。以後、蝦夷地の江差と大坂を結ぶ北前船時代に入っていく。【参考文献】 石井謙治『図説和船史話』(至誠堂)、橘法老『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社)、小村弌『幕藩成立史の基礎的研究』ほか【執筆者】 佐藤利夫

・廻船問屋(かいせんどんや)
 廻船の積荷は湊の廻船問屋を経由して取引された。宝暦期(一七五一ー六三)記述の『佐渡相川志』には、番所付当時問屋と問屋旧勤にわけ、番所付問屋は必ずしも世襲ではなく入れ替えられた。羽田番所の旧勤は若狭屋新兵衛・尾張屋勘左衛門・信濃屋与右衛門・越後屋喜兵衛・伊勢屋甚左衛門・松坂屋庄左衛門・小浜屋長右衛門・若狭屋吉兵衛とあり、旧勤は取引先より出身国を示すと思われるが、宝暦(当時)になると、枡屋清左衛門・越中屋又兵衛・絹屋半蔵・住吉屋善左衛門・若松屋吉兵衛・米屋作左衛門・出雲屋庄右衛門・清水屋半右衛門・長浜屋嘉兵衛・長門屋喜平次となる。この頃には、相川の番所入港の廻船は年間百艘未満で、十分一の入役も少なく、番所問屋だけでは商買が成り立たなくなっていた。大間番所の問屋旧勤のなかに京屋次右衛門がいる。もとは京都からの衣料品などの買下し商人らしく、大間では米を主として取り扱っており、各地の湊へ米相場を伝えた書状が残っている(「佐藤九郎兵衛家文書」)。また羽田番所付の枡屋清左衛門は、下京町山田吉左衛門の出入商人であった枡屋六右衛門五代の清左衛門である。旧勤の番所付問屋でなく、山田吉左衛門の指示で数艘の商船をもって、新潟・敦賀・京大坂方面と取引していた廻船問屋であった。この商船の一つに、岩谷口の船登源兵衛船があった。船登船はこの関係のなかで利益をあげた。相川以外、小木・赤泊・夷湊・沢根その他、水津・大川・浦川・二見などにも廻船問屋があった。問屋旧勤の時代は相川、宝暦後はその他の湊の問屋へ出入りする廻船が多く、利益も多かった。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集二)【執筆者】 佐藤利夫

・カイダコ(アオイガイ)(かいだこ)
 和名は、美しい貝殻の形状の類似から、アオイガイ(葵貝)と付けられているが、貝の中に雌ダコが入っているので、貝蛸の別名がある。しかし、滝沢馬琴の『燕石雑誌』『烹雑乃記』、田中葵園の『佐渡志』、越後寺泊の医師丸山元純の『越後名寄』などに蛸船、水原の書籍商小田島允武の『越後野志外集』に章魚介の名で、毎冬漂着することが紹介されている。熱帯の海から、集団で暖流によって運ばれてくるが、雌ダコは太い腕から石灰質を分泌しながら貝殻をつくり、その腕でかかえ、中に卵を産むが、漏斗から海水を吹き出して、殻を進めることもできる。低温の日本海では、孵出した子ダコは育たない(無効分散という)。白い薄質の殻は置物にされたりするが、一○~三○㌢にもなる。雌ダコは一五~三○㌢の大きさに成長するが、雄ダコは一~一・五㌢ほどしかない小さいもので、雌との交接のさいに、長い生殖腕だけを雌の体の中に置いて、去ってしまう(性的二型)。近似種のタコブネ、別名フネダコは、殻が一○㌢ほどにしかならず、飴色で、しかも厚めで硬い。浜辺へ漂着する個体数は、アオイガイよりうんと少ない。拾ったタコを煮つけて食べることもあるが、味はよくない。両種の浜辺への打ち上げは、初冬の佐渡の風物詩でもある。【執筆者】 本間義治

・貝の化石(かいのかせき)
 軟体動物の二枚貝・巻貝・ツノ貝など、貝殻をもつ種類の化石である。軟体動物は、海から陸域まで広く分布し、数多くの種類に分かれている。相川町に産出する貝化石は、海生種の二枚貝と巻貝である。相川町平根崎及び下戸では、中~細粒砂岩・礫質砂岩からなる中新世中期初頭の下戸層から、二枚貝・巻貝化石を多産する。平根崎では、殻高二○㌢以上の大型で厚殻のカキであるオストリア グラビテスタや、この時代に特徴的に産出する巻貝のビカリアが、潮間帯~浅海上部に生息する種類とともに、下部の地層に含まれる。上部の地層は石灰質砂岩からなり、キムラホタテ・ノムラホタテなど、浅海にすんでいた種類が多く含まれる。これらは下戸層の堆積時代に起きた大海進を示している。この海進は規模が大きく、世界的でもある。さらに、日本周辺は強い暖流の影響下に入り、暖かい海にいるイモガイなど多くの貝類が浅海にすんでいたし、また能登付近までマングローブ林が海岸に繁茂していた。つぎの時代の、泥岩からなる中新世中期の鶴子層は、深海に生きていたとみられる小型で薄殻の二枚貝、パリオラム ペッカーミーを特徴的に産出する。このほか、佐渡島の新第三紀鮮新世~第四紀の地層である河内層・貝立層・質場層からも、多くの種類の貝化石が産出する。【関連】 下戸層(おりとそう)・カキの化石(かきのかせき)・鶴子層(つるしそう)【参考文献】 『佐渡博物館研究報告』(七・九集)【執筆者】 小林巖雄

・怪談藻汐草(かいだんもしおぐさ)
 安永七年(一七七八)より一○年ほど前からの書を、太 という人が書き筆写したとあり、著者ははっきりしない。さらに、その書を文政十年(一八二七)六月、静間義敬が筆写したものが流布していた。内容は三九篇の怪談ばなしを記録したもの。特に貉の怪異談が多い。「窪田松慶療治に行きし事」「高田備寛狸の火を見し事」「百地弥三右衛門狸の謡を聞きし事」「鶴子の三郎兵衛狸の行列を見し事」「真木の五郎鰐に乗りし事」「上山田村安右衛門鰐を手捕りにせし事」「霊山寺山へ大百足出でし事」「大蛸馬に乗りし事」「小川権助河童と組みし事」などである。とりとめもなき怪談であるが、そのころ広く知られていた話であり、当時の世間の様子や人情の一端を見ることができる。【参考文献】 「佐渡奇談」「怪談藻汐草」「鄙の手振」(『佐渡郷土史料』三集)【執筆者】 山本修巳

・海府(かいふ)
 行政上の区分で厳密にいうなら、海府とは旧外海府村と旧内海府村のことである。しかし、国仲や前浜など小佐渡側の者が、佐渡なまりでケエフと呼ぶ区域の多くは、旧金泉村・旧高千村(旧加茂村の北五十里以北鷲崎間を除いて)を含んだ広域の総称である。それも通称であるから、中には少し狭めて相川方向からは、旧高千村以北と考える人もいるなど流動的である。内外の海府の呼称は、地形から出たものかどうかはわからない。小木岬端の内外の例からみても、成立や開発の事情が反映しているとみるべきであろう。越後の海府は、上と下に区分されていて、山形県寄りの山北町のほうが下海府で、それより南の村上市のほうが上海府であるのは、管轄する府内からの遠近によるもので、旧国鉄の上り下りのように、行政中心の呼称といってよい。その点、佐渡の内海府・外海府が、奉行所の位置からすれば逆になっているのは、この呼称は前者は吉住殿の、後者が羽黒殿の支配下にあった頃の、両地頭の支配地からのせいであると『海府の研究』(両津市郷土博物館)は書いている。海府の文字を用いているのは新潟県だけで、他は徳島県の海部町、大坂西区の海部町、京都の海部村など、「部」の文字があてられる。海士・海女の潜水漁法は、日本海側では新潟県が北限とみられており、佐渡では海士町のほか、出稼ぎ的に外海府の願や北鵜島などで行われたことがあった。【執筆者】 本間雅彦

・海府木挽(かいふこびき)
 鉱山町相川が誕生すると、木材や木挽・大工(番匠)の需要は急増した。木材は北国または海府から、大工などの職人は西国から入り、相川の籠坂に住んでいた。樹木の伐り兒や用材の木取りや、一次加工の職人である木挽は地元の人がなった。佐渡にはむかしから船大工がいたので、この職人間の技術交流がどうであったかは不明であるが、ドブネ・テント・サンパの船大工は、木挽と関係は密であった。近世に入ってからは、農間稼ぎに山に入って木挽をした者が炭焚きも兼業して、木挽専業ではなかった。いわゆる海府木挽といわれた人たちが、現役で仕事をしていたのは昭和四十年(一九六五)頃までで、明治三十年頃生まれの人たちである。昭和四十八年に、小田の坂本作次が船板を前挽で挽いたのが最後である。小柄で腕のたった南片辺の坂下栄次郎は、戦争が終るまで木挽だった。坂下は一六歳の秋から、同集落の親方について山へ入り、一八歳で一人前になった。山には「山おやじ」がいて、その人の指示で仕事をした。木挽は木を伐り、それを「ころ」(角に挽く)にして、それを「りんば」(仕事小屋)に持ち込んで、注文の厚さに挽く仕事をした。木挽の挽いた材は、女どもが「六尺負い」や「にどら負い」で浜に出し、船で注文先へ送った。山へ入る時期は一年に四回あり、春山(田植え前)・夏山(田植え後)・秋山(稲刈り前)・冬山(歳末)合計八○日くらい山にいた。仕事が厳しいから、四日半日続けて働いて半日休み、小屋振舞いといってぼたもちを食べた。元気盛りの海府木挽は、越後・東北・北海道方面へ出稼に出た人が多い。また内海府や国中の普請に、大工に頼まれて出かけた。【関連】 荷俵負い(にどらおい)・木挽(こびき)・林場(りんば)【参考文献】 佐藤利夫『佐渡嶋誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 佐藤利夫

・海府甚句(かいふじんく)
 むせび泣くような哀調をおびた甚句である。唄の囃子から土地の人は「ノーヤー」ともいう。実に素朴な甚句で、太鼓も笛もなく、浜辺での盆踊りには、踊り手の砂浜を蹴る音と、磯打つ波が伴奏役である。佐渡では古い形の甚句といわれ、古い形の「秋田甚句」と似ているという。北前船のもたらした影響だろうか。歌詞は七七七五調の二六音で、「外の海府は夏よい所、冬は四海の波がたつ」「片辺山越え二里半ござる、ゴンゾわらじが夜に二足」「連子小窓のもがりの下に、殿がきたかや下駄のあと」などがある。この「海府甚句」は、昔、海府方面で「ソウメンサン」「ヤンサ」「ナゲダシ」などの唄と共に、盆踊りなどで盛んに歌われた。その唄を二、三拾ってみると、「ソウメンの出どこ、能登の輪島か蛸島か」「ソウメンさんの出どこ、西が曇れば雨となる」(ソウメンサン)。「ヤンサの声を聞けば、糸も車も手につかん」「ヤンサにりょうて、皮をむけらげぇた手の皮を」(ヤンサ)。「ナゲダシ踊り、習うて踊れば面白い」「ナゲダシ踊り、ゴカン(五○銭)出ぇても習いたい」(ナゲダシ)などがある。【参考文献】 『高千村史』、『佐渡相川の歴史』(資料集九)、『佐渡百科辞典稿本Ⅵ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫

・海府道(かいふみち)
『佐渡相川の歴史』(資料集八)によると、近世には小川村から願村までを、外海府と総称したとある。海府道とはその道をいう。交通量においても道路事情においても、「街道」の文字による表現がしにくいのは、途中に多くの難所があって、近年までは街道にふさわしい交通路ではなかったことによる。主な難所を相川側から挙げてみると、姫津坂・戸地の隠し坂・戸中の洞屋・鹿野浦手前の四十二曲り・大倉ワシリ・関のハンゲ坂・岩谷口の跳坂・真更川手前の大ザレなどがある。相川から自転車・荷車・馬車で、高千方面に行かれるようになったのは、昭和九年(一九三四)四月に鹿野浦トンネルが開通して以後のことである。それまでに相川から小川間に、小川から北狄間にというふうに、徐々に郡道が伸びて戸中に達したのが、大正七年(一九一八)であった。また大倉・片辺間に客馬車が走り、高千地区だけの乗合バスが用いられて、相川へは中継ぎ運転をした時代があった。その後に禿の高トンネルが開通し、海府大橋が架橋した上、集落内の狭い道を避けて、浜側にバイパスが設けられるところが多くなり、自動車の往来が容易になった。一方、両津市地内の内海府道路も整備されて、両津から鷲崎廻りをしても、半日でらくに相川に出られるようになった。【執筆者】 本間雅彦

・海謡会(かいようかい)
 観世流能・謡は、鉱山と深いかかわりがある。金山奉行大久保長安は、慶長九年(一六○四)大和の能師常大夫(観世流)ほか、いわゆる三役等を大勢連れてきたが、これが佐渡に能楽がはじまる発端である。脇師遠藤家三代可頭は、正徳年間(一七一一ー一五)時の佐渡奉行神保新五左衛門のすすめで、佐和田町矢馳村から相川小六町に居を移した。下って幕末から明治にかけて、相川に能をよみがえらせたのは、同家十代可啓とその子可清である。可啓は観世清孝(宗家二十二代)、可清は梅若実・山階滝五郎両家に入門免許を得ている。明治維新後、可清は政府の芸能を抑圧する風潮に落胆して、一旦は廃業転職したが、明治二十一年(一八八八)帰島し、能の再興に励んだ。明治二十年代・三十年代には、時の鉱山長に招かれて素謡月並会を公開し、同三十五年(一九○二)にはその数六、七十人となったが、十余年で自然消滅した。可清亡き後、昭和八年(一九三三)観世・宝生各流諸志相提携して月並会を複興し、之に会するもの七、八十人に及び盛会をなしたが、東亜の風雲急となり、戦争勃発によって中断した。戦後謡曲人口も復元し、昭和二十年代前半には、謡曲本不足の為、ガリ版刷りで間に合せるなど、第三の山を形成した。鉱山も衰微した昭和五十年頃には、三つの会派と之に属さない個人など三十余人を以て、月一回相川観世会を催していた。指導者は、何れも可清ー椎野広吉の流れを汲む名誉師範池田三郎・山本秀一郎(秀謡会)・公民館主導の三寺畯である。池田達也は東京で同流職分松平義男(故人)に師事した。帰郷後同好者相集り、海謡会と称して之に加わった。平成九年現在、組織立った活動は「海謡会」のみとなった。【参考文献】 『能楽今昔ものがたり』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 池田達也

・海陸道順達日記(かいりくどうじゅんたつにっき)
 文化十年(一八一三)沢根浜田屋治右衛門こと笹井伊助(秀山)が、西国への一四四日の旅に出て書いた道中日記。本家笹井治左衛門の「笹井氏先祖由来」には石見国浜田の住人とあり、近世の始めころに河上伊左衛門・久保新右衛門の三人で渡来、笹井治左衛門家(河上権左衛門)は沢根にて廻船業を明治初年まで行っていた。西国への旅の目的は、若死した兄の仏の回向のためと、伜岩之助の痔疾の手術、自家浜田屋の商品仕入れなどの目的があった。和綴にして一五巻。巻一佐渡ヨリ能登渡并北国登リ、巻二海陸大和廻リ、巻三大和紀ノ国記、巻四大和廻道之記、巻五・六大和伊勢道中記、巻七難波天満祭礼記、巻八摂州妙見山、巻九都ヨリ伏見難波迄、巻十播州海岸廻リ、巻十一瀬戸小渡記、巻十二厳島并周防錦帯橋、巻十三瀬戸日記、巻十四九州筑前、巻十五北国下り(佐渡路着岸迄)など。京都に滞在中、本国寺玉照院にて三年忌の仏の回向をした。浜田屋は熱心な日蓮宗信者であった。痔の治療は、当時最高の外科医といわれた華岡隨賢のいる紀州平山の春林軒で行ない、上方での商売は京大坂の問屋先で行い、荷物は浜田屋の手船、大黒丸に積み西廻わりで佐渡へ送った。秀山は生来几帳面な性格で、道中は野取帳のように覚書風に書き綴り宿でまとめている。出立は四月十九日、帰郷は九月十六日、ほぼ廻船の稼動期間と同じであった。道中の諸支払いや小遣いの記述はないが、秀山・伴の佐平治・伜の三人で二五両位であろう。興にのったときは、日常的な用語を入れ情感をつたえる狂歌をつくり、旅に滑稽さと諧謔性を加えた他に類をみない旅日記である。【参考文献】 佐藤利夫「佐渡沢根町浜田屋の廻船業」(柚木学編『日本海水上交通史』)、同『海陸道順達日記』(法政大学出版局)【執筆者】 佐藤利夫

・鏡岩(かがみいわ)
 断層運動にともなう摩擦のため、断層にそう岩盤上に光沢のある面ができることがあり、鏡肌(スリッケンサイド)という。鏡岩は、相川町関に存在する大きな断層面の露頭に見られる鏡肌である。断層は、どどの峰を構成するデイサイトの貫入岩体と、関岬周辺に分布する玄武岩質火砕岩(真更川層)を境し、北東-南西方向に走る。玄武岩質の火砕岩中には、珪藻質泥岩がはさまり、植物化石を産する(関植物化石群)。垂直に切り立った鏡岩の表面には、岩盤の運動方向を示す平行なスジが何本も観察され、その方向は垂直下向きである。この断層を生じさせた地震は特定されていない。「大きな地滑りによって生じた断層」とする説明もあるが不適当である。相川町天然記念物。【関連】 関の木の葉石(せきのこのはいし)・関の地辷り(せきのじすべり)【執筆者】 神蔵勝明

・カキの化石(かきのかせき)
 軟体動物二枚貝綱の種類で、鱗片状突起の多い石灰質の殻を左右にもつ。カキの多くは汽水から海水域にいたる潮間帯・潮下帯の礫や岩に、殻で固着している。また砂泥底の堆積物の表面近くに生きている種類もある。佐渡島の中新世前期末~中新世中期初頭の下戸層は、長さ約二○㌢の大型で厚い殻をもつカキの一種であるオストレア グラビテスタを産出する。これは相川町平根崎・両津市長江川に分布する下戸層の砂質泥岩の中に含まれる。厚く膨らんだ左殻を泥中に沈め、右殻を海底の表面に露出させた姿勢で、生活していたと考えられる。この種類は暖海にすみ、中国・北陸・東海・奥羽など、日本各地に分布する同時代の地層から報告されている。【関連】 下戸層(おりとそう)【参考文献】 『佐渡博物館研究報告』(七集)【執筆者】 小林巖雄

・垣ノ内遺跡(かきのうちいせき)
 新穂村大字大野一○四一を中心とする、大野川左岸台地上にある、縄文時代後期前半の遺跡。一名、出口遺跡とも言われ、大正九年(一九二○)に来島した鳥居竜蔵博士は、一部を試掘し、イノシシらしい獣骨片などを掘り出している。大野川左岸台地上には、さらに上流へ約四五○㍍に、縄文中期後半の矢田ケ瀬遺跡があり、さらに約七○○㍍には棚田遺跡(縄文時代、時期不詳)があって、大野川ぞいと、その南側にひろがる大野台地の自然環境が、生活の場であった。昭和五十五年、新穂村南部地区県営圃場整備事業に伴い、新穂村教育委員会によって緊急発掘調査が行なわれ、縄文土器・石鏃・石斧・凹石・敲石・石皿・石槍・錐・石棒などの他、不規則に三○個の柱穴、一部に立石遺構や人骨細片の出土もあった。なお矢田ケ瀬遺跡は、昭和五十四年に緊急発掘調査が行なわれている。出土遺物は、いずれも新穂村歴史民俗資料館に保管展示されている。【参考文献】 『垣ノ内遺跡』(新穂村教育委員会・佐渡考古歴史学会)、『矢田ケ瀬遺跡』(新穂村教育委員会)【執筆者】 計良勝範

・掛樋(かけどい)
 杉の大木を一面を切り落してU字型の溝をつけ、水を掛けわたすために作った樋。掛樋は鉱山の砂金採取のねこた流しにもつかわれた。これには板を箱型にした樋であったが、長く水量の多い樋は大木を刳りぬいた樋で、高低のある地形の場所に掛けわたした。この銀山の技術が、洪積台地や海岸段丘の水田開発の水路に応用された。大規模な掛樋が掛けられた場所は、戸地川の支流小股川と、新保川から引いた殿江である。寛保三年(一七四三)小股川掛樋願書(戸地区有文書)によると、羽黒山御林の杉、一丈廻り(三㍍)の木の伐採許可を得て、長さ八間三尺(一五・三㍍)、幅二尺五寸(七五㌢)、深一尺余(三○㌢)の樋にした。また殿江は、貝塚の内藤野の開発のために既設の用水路上を掛け渡すためのもので、巨木が必要であった。規模の大小があるが、洪積台地や海岸段丘上の水田化には、掛樋が各地に掛けられていた。掛樋の材料の供給地は奉行所管理の御林であり、掛樋の安定のための石垣、水路の開削技術、製作の職人が必要になり、鉱山技術が農村に応用された例は、この掛樋ばかりではない。【参考文献】 『金井町史』【執筆者】 佐藤利夫

・水主長屋(かこながや)
「船手屋敷」の項で述べられているように、船手役の辻・加藤両家には、隣接して水主長屋が並んで建てられてあった。絵図によると、東側の水主長屋に加藤家所属の一五軒が、西側に辻家所属の一五軒が入っていた。『佐渡相川志』には、その名が次のように記してある。「加藤孫左衛門政俊組ー岩木文右衛門 木村市兵衛 猪股惣七 天野作兵衛 勝見仁兵衛 深見七郎兵衛 岩木彦右衛門 明石善六 坂本彦兵衛田邉喜兵衛 田崎戸助 鈴木甚兵衛 風岡五助 森弥理久 小木船番市川岸右衛門。辻吉兵衛守綱組ー平井文次郎 金子権右衛門 森喜左衛門 松見磯右衛門 渡部市右衛門 寺尾紋兵衛 蔭山勘左衛門 市野覚十郎 本間嘉右衛門 井口又四郎 小塚平五郎 小熊市十郎 西川久助 村田弥藤次 小木船番慈坂善右衛門」。これらの水主たちの子孫は、その後に島内の村々に移り住んで船番匠・家番匠になり、あるいは廻船業などにかかわった者が、ある程度知られている。右書には、船手屋敷ははじめ壱丁目裏町にあって、元禄六年((一六九三)以後に下戸に移ったと付記してある。【関連】 船番匠(ふなばんじょう)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 本間雅彦

・影の神(かげのかみ)
外海府海岸の中央付近、藻浦崎と千本崎(入崎)との間にある島。一衣帯水を隔て、後尾集落西端の陸地が接する。高さ二○㍍程で、裸岩の急崖をめぐらす岩塔状の島である。相川層群真更川層上部の石英安山岩質溶岩から成り、垂直の流理構造が認められることから、火山岩頸と見なされる。元旦の日の出の時、金北山の影が岩面に落ちるので名付けられたとされる。【参考文献】 新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】式正英

・嘉左衛門町(かざえもんまち)
上相川の旧相川町(狭義の古称)のやや西よりの辺りに、「間の山」という町内があった。間の山というのは、惣徳町・嘉左衛門町・五郎右衛門町・清右衛門など五つの町すじの総称で、そのうち間の山番所のすぐ前で、町の長さや戸数の多いのが嘉左衛門町であった。『佐渡相川志』によると、古間歩の名前の中に「惣徳間歩」・「嘉左衛門間歩」・「清右衛門間歩」などというところがあるから、町名の嘉左衛門も山師の名であろう。そして同書には、同項につづいて「山留頭 嘉左衛門」の文字も書かれてあるので、嘉左衛門とはそのような役柄の人物であったのであろう。文政九年(一八二六)町墨引の絵図には、この町すじに「山留」の肩書きの者が六人みえている。また近くの庄右衛門町には、山留頭として庄五郎の名もみえる。「間の山」の名称について『佐渡相川志』は、左右大山の間だからつけられた名であると説明している。左右の地名は、上相川六十枚番所通りを右沢、間の山番所通りを左沢とするときにも用いられており、「先年ハ左右両沢ノ外間ノ山上相川ノミニ民家千軒余アリ」などと書いてある。【執筆者】本間雅彦

・鍛冶町(かじまち)
中世までの鍛冶集団のいたことを示す地名は、国仲の各地にみられる。とくに旧金沢地区の、西部からの移住者によってつくられたことが伝えられる佐和田町の鍛冶町は、東福城の近くにあって、城下町のような印象がある。現在では、原野となっている元の上相川地区には、鍛冶沢・鍛冶沢裏町・鍛冶町というところがあった。それぞれに町屋敷として数反歩が記されているので、かなりの家数があったと想像される。『佐渡相川志』には、鍛冶沢と鍛冶町について、次のように書いてある。「鍛冶沢ー町長サ七十五間。御陣屋迄廿丁廿二間三尺五寸。元禄検地ニ畑壱反六畝十三歩、町屋敷三反三畝一歩。鍛冶町ー町長サ七十五間。御陣屋迄十七丁十四間三尺五寸。元禄七年ノ検地ニ畑七畝五歩、町屋敷五反七畝五歩。先年他国ヨリ鍛冶多ク来リ此所ニ居住ス。銀山入用ノ細工ヲナス。是ヲ町鍛冶ト言ヒ、鍛冶沢ノ鍛冶ヲ沢鍛冶ト言ヘリ」。同書には「鍛冶小屋」の項があって、「是は鍛冶之者昼計相詰鑚焼立候処也」とある。「鑚」はタガネのことである。小屋の位置は御番所の表とある。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 本間雅彦

・鍛冶屋(かじや)
近世には職人のうち、鍛冶・番匠・大鋸引・木挽などは、奉行所から保護あるいは小役銀納入の義務を負った。奉行所で諸職人が必要としたのは、鉱山用の鑽・御用船・御役所建造の釘などを確保するためであったが、荻原重秀奉行による元禄四年(一六九一)の改革により、職人の扱いが変わった。近世の佐渡鍛冶の祖は、慶長八年(一六○三)大久保長安に随従して渡来した石田村鍛冶町の中村清助だという。清助の来住によって、各地の地頭のもとにいた鍛冶衆が石田に移住したらしい。清助は摂州尼ケ崎の出身で、急増する鉄道具の需要に応ずるために招かれたという。一国の鍛冶頭取となり、鍛冶職以外の鋳物師や錺職などの諸職の支配もした。鉱山用の納鑽は奉行所の金物奉行の管理に入り、慶長・元和の頃は二人ずつ上相川の鍛冶町に居住していた。山主に遅滞なく供給する役割があった。天保期(一八三○~四三)には篠原善蔵が相川鍛冶頭取になり、家大工道具を打ち出したこともある。元禄四年以前には、鍛冶九九人・番匠六五人・大鋸引四七人・木挽二人が石役といって、手当米を支給されていた。この石役(国役)の職人は、公儀の諸普請には二○日または一二日間の夫役が課せられていた。下相川村石切町の石工も鍛冶役(小役銀)を納めていたが、明暦頃には鉱山が不景気になり、鍛冶役の宥免を願いでている。江戸後期には、町鍛冶といわれた相川町鍛冶の小役銀は、一軒一か月銀四匁二分八厘六毛、下相川村など外村小役銀は、銀二匁一分四厘三毛であった。【参考文献】 『佐和田町史』(通史編Ⅱ)、永弘寺松堂『佐渡相川志』、『近世の羽茂』(通史編)【執筆者】 佐藤利

・春日崎(かすがざき)
鹿伏の岬端にある海岸段丘で、相川市街地のほぼ全景が展望できる、景勝の地である。能楽師でもあった初代奉行大久保長安は、春日信仰をもち、在島中に松ケ崎港その他に春日社が勧請されたが、現在下戸村にある春日神社は、慶長十年(一六○五)に姫大神宮の名でこの春日崎に建てられ、元和五年(一六一九)に現在地に移された。そのため同社の神楽や演能は、春日崎で勤める習わしが後代までつづいた。寛永五年(一六二八)に、廻船の航行のために、毎夜ここで燈明をともした。いまも燈篭が残っていて、その前の広場は立浪会などの踊りの光景で知られている。弘化四年(一八四七)に来島した探検家の松浦武四郎の『佐渡日誌』によると、春日崎には遠見番所が置かれ、大筒(大砲)など二門が置かれていたとある。終戦後の昭和二十三年に米軍がここに進駐し、同二十九年に金沢村(金井町)の平基地に移転した。【関連】 春日崎灯明台(かすがざきとうみょうだい)【執筆者】 本間雅彦

・春日崎線彫地蔵磨崖仏(かすがざきせんぼりじぞうまがいぶつ)
 相川町鹿伏の、春日崎の海崖に張り出した崖にある、線彫地蔵磨崖仏二躰である。直立する崖に上下斜に彫られていて、いずれも合掌形立像。向って左斜め上の像は、像高五九㌢、全高七四㌢。頭光を大きな菱形に、身光を三角状に組合せたような光背を彫る。両足は向って左側に向けている。右斜め下像は像高六三㌢、全高七三㌢。頭光をつけ、衣は袂と裾が左右にひらき、足は衣に覆われていて彫らない。下像の向って右側に、「明ニ」らしい文字があるが明確でない。上下の形像には違いがあり、彫られた時代に差があると思われ、上像は桃山期から江戸初期、下像は江戸時代と推定される。記録や伝承がない。土地の人たちによってみつけられ、お大師さんとしてねまり遍路の信仰があったが、今は止んでいる。その頃とりつけられた木造の祠のほぞ穴が、像のまわりにところどころに残る。像下から四㍍位のところの崖に、二㍍四方位の平場が設けられている。富崎線彫不動磨崖仏などと共に、相川海岸地帯の磨崖石仏信仰圏を知る資料。【関連】 富崎線彫不動磨崖仏(とみざきせんぼりふどうまがいぶつ)【参考文献】 計良勝範「二見半島の石仏」(『二見半島考古歴史調査報告』相川郷土博物館)【執筆者】 計良勝範

・春日崎灯明台(かすがざきとうみょうだい)
 相川湾の西南に突き出た春日崎の台地にあり、寛永五年(一六二八)に、沖を通る船の安全をはかるために設置された古い灯台である。この辺りは岩礁が多く、事故が多発したため、三月から九月まで毎日点灯して事故を防止した。寛文年間に鹿伏の医王寺が、春日崎の畑の交換条件に点灯を約束したが、春日神社に点灯を任せているとの理由で、奉行所は却下している。春日神社に残る「御修復留」には春日崎灯明所とあって、灯明台を覆う建造物が建っており、冬の季節風が強く、灯籠や屋根修理の回数が多いのが目立つ。現在の石積は江戸後年に築き直したのであろうが、石の切方や積方を見ると古くはない。しかし、風化により破損が甚だしく、中央に凸みを持ち、石に亀裂が入り、また石の崩れが目立つなど、このままでは長く支える力がないと考えられる。原材は近くの岩を壊した緑色凝灰岩で、高さ四・○七㍍あり、その内、石積部分は一・七六㍍を測る。周辺は天然芝に覆われ、おけさ踊りの背景になるなど観光面で活躍している。【参考文献】 「春日崎灯明台の調査」(「相川浜石」相川近世考古談話会)、「春日神社所有文書」【執筆者】 佐藤俊策

・春日崎の植物(かすがざきのしょくぶつ)
 春日崎は相川町の西南に突出した海岸段丘で、昔の鹿伏村にある。岬の台地上は二三㌶の草原で「春日崎海岸草原」と呼ばれる。古く春日神社の神域だったため、この名が付けられたが、神社は元和五年(一六一九)下戸に移転した。幕末異国船の接岸に備えて、文化五年(一八○八)に遠見張番所を新築して大筒を備えつけた。今も残る大石灯ろうは、海上守護の八丈竜天を祭る善宝寺で、神社と灯台とを兼ねたものである。段丘より日本海がのぞまれ、相川の町が一望され、鉱山の道遊の割戸もみえる海岸絶景地。冬の季節風に直面し、海岸風衝樹のクロマツ・カシワは低ー中木となって散在する。草原の茂みは、ススキ・ヨモギやオオイタドリ類、これらをマントしてクズが繁茂し、エビズル・センニンソウのつる植物もみられる。広いシバ草原には、ムラサキツメクサ・シロツメクサ・セイヨウミヤコグサ・アカミタンポポなどの帰化植物や、ネジバナ・ノアザミ・オトギリソウ・ツリガネニンジン・ヒメヤブラン・ヒメハギ・ハイメドハギ・カセンソウなどが混生する。海岸草原を彩る五月の美花はトビシマカンゾウ、夏の花はハマイブキボウフウ、初秋の花はノコンギク・ナデシコなど。岩場にはメノマンネングサ・キリンソウ・ハマボッスなどの、海岸乾生植物もみられる。【関連】 春日崎(かすがざき)【参考文献】 小松辰蔵『佐渡名所百選』、伊藤邦男「二見七浦の海岸植生」(『佐渡巨木と美林の島』)【執筆者】 伊藤邦男

・春日社神事能(かすがしゃしんじのう)
 相川町下戸の春日神社の能をいう。鹿伏村の春日崎に同社が建つのは慶長十年(一六○五)だが、元和五年(一六一九)には現在の下戸に移され、四月五日の祭礼には神楽が奉納されていた。社前で能が奉納されるのは正保二年(一六四五)からで、「春日神社能楽の沿革」によれば、舞台は下戸町の甲賀六左衛門の寄進。境内北側にあって東に向い、橋掛り・鏡ノ間などすべて本式に作られた、とある。佐渡での能舞台建立の最初の記事だが、出典はわからない。甲賀氏はおそらく有力商人の一人であろう。甲賀姓の者が相川には残っている。四月五日の祭礼に、奉納された春日社の能については、正保三年から『佐渡風土記』に、連年にわたって番組みおよび役者名がくわしく掲載されている。同年の記事に「四月五日春日神事能始ル」とあって、「翁」(三番叟)「志賀」(兵之丞)「清経」(権太郎)「井筒」(権右衛門)「葵上」(次郎左衛門)「班女」(権右衛門)「項羽」(権太郎)「祝言・高砂」とある。また「四月十七日、大山祇神事能」とあって、番組みも記されているが、大山祇社の能は、この年以降は掲載がない。春日能は、幕末まで休みなく続いたわけではなく、「寛保十三年、本間右近が再興」「寛延元年阿部奉行のすすめで春日・大山祇社能楽再興」などとした記事がある。明治以降は春日社祭禮は「宮祭」を停められ、能も自然に衰退し、大正六年(一九一七)には能舞台再建のための協讃会設立の動きなどが報じられた。春日演能については、石井文海の『天保年間相川十二ケ月』に描写があり、この島の十七世紀中ばの能楽史料として貴重である。【関連】 春日神社(かすがじんじゃ)・本間能太夫(ほんまのうだゆう)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、椎野広吉『佐渡と能謡』【執筆者】 本間寅雄

・春日神社(かすがじんじゃ)
 島内には独立した春日神社は、五社を数えるだけである。その所在地は、相川下戸・沢根川内・赤泊三川・松ケ崎・加茂歌代で、うち沢根は春日若宮社、松ケ崎は現在は松前神社と呼んでいる。いずれも祭神が、天兒屋根命ということで共通している。外海府の関にも、この祭神を祀る社があるが、社名は二宮神社である。相川下戸の春日神社は、慶長十年(一六○五)に勧請したときは姫大神と称していた。同十二年八月に、京都の神祇官領長上ト部朝臣吉田兼治が下向した際、武甕槌命・斎主命・天津兒屋根命を勧請して、春日大明神と称した。姫大神宮は、鹿伏村の春日崎にあったが、新社になったあと、元和五年(一六一九)に下戸に遷った。京都から、吉田兼治が下向して大山祗神社を勧請したのは、その二○日前の七月二十二日であったから、春日社も佐渡奉行大久保長安の意向が加わったことで創建されたであろうことは、その後の祭典(四月五日)・造営費が大山社同様、一切官費でまかなわれたことから疑いない。とくに春日社は、松ケ崎ともに長安の信仰厚く、能楽の奉納の舞台が設けられて、演能の習慣は後代まで続いており、能楽師でもあった長安のかげが濃い。【関連】 春日社神事能(かすがしゃしんじのう)【参考文献】 『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】 本間雅彦

・風宮神社(かぜのみやじんじゃ)
 柴町に残る旧村社。寛永元年(一六二四)の創建とされるが、同三年の説もある。現在地に移る前は、今より上の台地で「耳岩」と呼ばれる場所に鎮座していた。祭神は級長戸邊命と、級長津彦命で、ともに伊弉諾命の子で風の神様として知られ、三重県伊勢市の皇大神宮の別宮・風日祈宮と祭神が同じで、外宮城に鎮座する別宮の「風宮」宮も、同様の祭神を祀っている。柴町から下相川が入江をなした良い港で、慶長九年(一六○四)には柴町番所(海府番所)ができ、炭や薪が海府方面から運びこまれたほか、大間の港も接続している。航海安全を願う航海業者の崇敬を集めたことが想像される。造りの美しいやしろで、小高い山の中腹にあって、相川湾が一望できる。北側にある水金町と、二町の産土神で、六月十五日の旧祭礼では、花火で広く知られていた。参詣客は砂浜に仮屋を建て、海上には小舟を浮かべて、納涼の客にこたえたという。水金のくるわ街とも関係が濃く、文政十三年(一八三○)の「水金町年中行事」によると、「風宮ハ水金町ノ氏神ニテ、何レモ二階に桃灯ヲ上ゲ、サナガラ盆中ノゴトシ」と、宵祭りの賑わいを記している。合祀の北野神社(祭神・菅原道真)は、慶長七年(一六○二)に山主渡辺次郎左衛門が、甲斐国(山師)から移祀したと伝え、もともと柴町個有の産土神だった。昭和二十七年の合祀で、境内には百度石があり、百度詣で病気の平癒を祈る習俗を伝えていた。また下相川の富崎にあった弁天さん(祭神・厳島姫命)は、財福の神として近郷の信仰を集めていた。たびたびの高浪で修復する人がなく、平成五年(一九九三)八月に、当社に合併された。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 本間寅雄

・片栗(かたくり)
【科属】 ユリ科カタクリ属 ピンクの蕾は上から下へ向きを変え、うつむきのまま花を開く。そのうつむき姿が可憐。ピンと強く反りかえる六弁花にかこまれた黒い雄しべの葯は、少女のまつ毛を思わせる。シロバナカタクリも自生する。万葉集ではカタカゴと呼ぶ。うつむいて咲く花を“傾いた篭(かご)”に見たてての名。島の古老は、カタカゴ・カタバナ(傾花)の名で呼ぶ。大佐渡山地に大群生する。山麓のコナラ林、山腹から山頂にかけてのミズナラ・ブナ林。これらの雑木林の下に、足のふみ場もないほど大群生し、訪れた人々は“日本一の群生”と賞賛する。花が開くまで八年かかる。はじめは細く小さな一枚葉。二年以降はまるい一枚葉。やがて二枚葉となるが、八年立たないと花茎が出ず花が咲かない。地下に鱗茎を着けるが、毎年ごとに垂下現象をおこし、年ごとに深い所にタマをつける。一年間で鱗茎のできる土層の共生菌をつかい果すので、新しい下の土層で新しい共生菌のもと鱗茎をつくることに由る。硅酸の多い土に、ポン酢一○%溶液を施すと垂下現象がおきず、平鉢栽培もできる。佐渡のものは葉にほとんど斑入りがない。【花期】 四~五月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男

・片辺道(かたべみち)
 北片辺・南片辺から金北山をへて、新保・吉井など国仲へ出る道は、大佐渡の最高地点近くを越える山越え道であるにかかわらず、利用度の高いために踏みつけ道の状態から早く脱出して車道となっている。登り口の南片辺の道は、鹿野浦に近いところから、また別にもう一本の北片辺から石花川に平行した道は車道ではないが、いずれも大塚山に向かっている。大塚山の近くでは戸中からの道とも合流し、その先は、金北山と妙見山の中間ふきんにある新保ドネで、スカイラインに達する。『佐渡相川の歴史』(資料集八)では、この道を金北山ミチ・妙見山ミチとして扱っていて、「南片辺から新保への道は、金北山道の山道を、横吹というところから右折して嶺越えし──」と書いてある。山の名を道路名にしている例は、青野峠越えや青粘越え・山居越えにもみられるが、山越え道の多くは海府すじの村の名をつけて呼び、両津湾側の村名がついているのは、黒姫越え・歌見越えぐらいである。【執筆者】 本間雅彦

・片辺礫岩(かたべれきがん)
 相川町戸中~北片辺までの約五キロメートルにわたって分布する他にあまり例を見ない礫岩層で、相川層の下部に挟在する。礫種は八○~九○%が花崗岩で、とくに巨礫が多い。礫は、最大二㍍に達する亜角礫が主体で、著しく不淘汰である。地溝帯のような大きな凹地の崖下に発達する崖錘のような産状をしめしている。産状を総合すると、この礫岩層の堆積当時は、広く花崗岩が分布していたこと、巨大な断層によってできた花崗岩の急崖が存在し、花崗岩礫がほとんど移動することなく急速に堆積したこと、この礫岩層の堆積後に、膨大な陸域での火山活動がおこったことなどがわかる。堆積環境は、まだ十分明らかになってはいないが、この地層が日本海の誕生以前の地層であることから、前述の地溝帯状の凹地は、日本海のでき始めの断裂の一部であったと考える人もいる。【参考文献】 大佐渡団体研究グループ「大佐渡南半部の新第三系」(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】 神蔵勝明

・学古塾(がっこじゅく)
 学古とは、丸山遜卿の号で、遜卿は出羽国(山形県)鶴岡藩士であったが、三○歳の時、両津市夷に住し、医を業とするかたわら塾を開いた。その塾の名である。この塾の名は、遜卿の養子溟北に継承された。溟北はのち、相川町の奉行所の内の「修教館」で教えることになって、相川に移住し、「修教館」で教えながら、自宅で「学古塾」を開いた。この塾は、溟北が明治十五年(一八八二)からしばらく新穂村の「佐渡黌」に教えるため、新穂村に転住したのを除いて、明治二十五年溟北が相川町で亡くなるまでつづいた。近代の佐渡において、政治・文化・教育などで広く島の内外に活躍した鵜飼郁二郎・後藤五郎次・磯部八五郎・柏倉一徳・岩木拡・葛西周禎や、東京帝国大学教授萩野由之、農林大臣になった山本悌二郎のような人も、この塾の出身者でないものはいないと言われた。溟北の門人で、羽茂町度津神社宮司の美濃部楨や同じく門人の真野町山本半蔵などの記憶によって、約七○名の門人の氏名がわかっている。【関連】 圓山溟北(まるやまめいほく)【参考文献】 山本修之助『佐渡の百年』、同「圓山溟北門人録」(『佐渡郷土文化』二九号)【執筆者】 山本修巳

・糧飯(かてめし)
 むかしの主食はカテメシだった。カテメシのカテはカテル、つまり加える意味で、米に大根・菜っぱ・ウツギ・リョウブ・カジメ・ワカメ・テンツなどを多量にまぜたメシのことである。カテメシの王様はダイコンメシで、大根をこまかくサイコロ状にきざんで米にまぜた。あったかいうちは、なんとか食えたが、冷えると水っぽく、大根のにおいが鼻をついた。ナメシは大根の葉っぱを乾かし、きざんでカテにした。ウツギやリョウブは山野の樹木の葉っぱである。桑の葉やスッポンの葉も食べた。海藻もよくカテに利用され、カジメメシ・ワカメメシ・テンツメシになった。テンツはギンバソウに似た海藻で、乾かし粉にして保存し、まぜて食べたり、なまのものをきざんで、飯と一緒にふかして食べたりした。マメメシ・ムギメシ・コメシなどもよく食べたが、ムギメシはカテメシのなかでは上等の部類で、ススハキの晩などは「麦飯にトロロイモ」といいご馳走にかぞえられていた。これらのカテメシは明治の末ごろ、おそくは大正の頃まで続き、白飯はモノ日や晴れの日しか食べなかった。カテメシに関して、ナカヘギメシということばが残っているが、ハガマのなかのカテメシのまんなかの部分の白飯をへぎとることをいい、それを病人やお客、または家のおやじなどに食わせた。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、浜口一夫『佐渡の味ー食の民俗ー』(野島出版)【執筆者】 浜口一夫

・金泉郷土史(かないずみきょうどし)
 昭和十二年(一九三七)、金泉小学校の教員一同の手により、創立六十周年を記念して、編纂された労作である。時あたかも教育界に、郷土教育の推進が強調されており、たまたま金泉村に逗留(日蓮の霊跡研究)していた野の史家、橘法老の助言と協力を得て誕生したものである。そして、その序の中で「愛国心の基流は愛郷心にあり、正しく強い愛郷心の涵養は、これを郷土の史的認識に求むべきである」と、郷土資料の教育的価値を、高らかにうたいあげている。その内容は、地理・沿革・神社及び宗教・行政及び兵備、兵事及び教育、交通及び通信、産業及び経済、郷望、生活実態、土俗となっている。なお、郷土教育の風潮に乗って、当町関係では、高千外海府教員協議会で、翌十三年、これも教員自らの手で『郷土読本』(ガリ版刷り)を発刊し、その緒言に「今回県当局の郷の研究に関する奨励に基いて、郷土読本を編纂した。青年学校及び小学校高等科の教材並びに課外読物に資せんとするものである」と述べている。その内容には、河東碧悟桐「海府めぐり」、北見秀夫「大佐渡植物景観」、良寛「佐渡が嶋」、広田貞吉「佐渡方言」その他が載っている。そのほか、昭和十一年の『外海府郷土史』(基本調査)や『高千村誌』(昭和十二年)など、教材用と思われるものが作られている。【執筆者】 浜口一夫

・金泉中学校(かないずみちゅうがっこう)
 昭和二十二年(一九四七)五月、金泉小学校に併設して開校。新築独立校舎(北狄中道に移転)第一期の竣工は、同三十一年八月である。続いて第二期工事の体育館一部竣工(昭三三・一)、四教室増築(同三六・七)、同三十九年七月から体育館残部敷地とグランドの整地を、でこぼこの岩場に発破をかけながら進める。作業中発破の端片が校舎の屋根をぶちぬいたりした難工事であった。そのようなグランド拡張工事が竣工したのは、同四十三年十一月である。体育館の残部ステージの竣工は、同四十一年八月である。その後、給食室(昭四四・一○)や技術室(昭四五・一○)の整備、通学路の舗装(昭四六・一○)など次第に校地・校舎の整備が進んだ。金泉中学校の校歌(作詩安達本政・作曲大給正夫)が誕生するのは昭和二十七年、校旗の樹立は卒業生の寄贈により同二十八年である。さて、教育活動面に目を移すと、昭和六十年、女子のバレーボールと男子の野球が、郡市大会でみごと優勝。同六十三年には佐渡地区学習指導研究会を盛会裡に催している。なお、平成元年には全日本リコーダーコンテスト銀賞、同三年続いて四年には金賞。翌五年にはまた銀賞と、目をみはるような成績をあげている。【参考文献】 「教育計画」(金泉中学校)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 浜口一夫

・金泉農業協同組合(かないずみのうぎょうきょうどうくみあい)
 所在地は北狄、設立は昭和二十三年(一九四八)七月。当初、小川・達者・姫津の三集落で「金泉村南部農業協同組合」を設立し、北狄・戸地・戸中の三集落では、「金泉村北部農業協同組合」を設立しようと、その準備を進めていたが、それは組織の弱体化と、将来南北対立を生む恐れがあるとし、小川に支所の設置を条件に一体化を図り、昭和二十三年四月、「金泉村農業協同組合」を創立した。同二十九年六月、相川町との町村合併により、「金泉農業協同組合」と名称変更。同三十八年十二月、石油製品販売業務を開始。同四十年二月には、プロパンガスの取り扱いを始め、同四十一年六月、有線放送開局。同四十二年、干害応急対策事業として揚水機施設を設置。同四十九年、水稲共同育苗を始める。【関連】 佐渡農業共同組合(さどのうぎょうきょうどうくみあい)【参考文献】 『協同の年輪』(佐渡農業協同組合)【執筆者】 浜口一夫

・金泉村(かないずみむら)
 明治二十二年(一八八九)三月六日、県令甲第二二号を以て、町村の区域及び名称が改められ、四月一日より実施となり、下相川・小川・達者・姫津・北狄を大字にした「金泉村」が生まれ、その役場を達者村市兵衛家の空家に仮設し、俗称「市兵衛役場」と呼ばれた。その後役場の位置は、同じ達者地内の「向所」から「川原」へと移転した。さらに、明治三十四年十月、新潟県告示第一八二号を以て、町村の廃置分合があり、「下相川」は相川町へ、北海村の内「戸地・戸中」は、金泉村に編入された。このとき、下相川人民惣代(金泉村会議員)有田秀蔵ほか、重立二○名連名で、内務大臣内海忠勝宛に、相川町への合併反対の陳情書が出ている。それによると、「下相川は農村であり、相川町とは全く利害が相反し、言語・風俗・習慣・貧富の差・民情・水利交通・地形なども、情状を異にし、過去二回も(明治十三年以降)相川町に合併したが、その不利益を自覚して分離した」と、いうものである。がこれは却下された。そのあと、町村合併促進法により、昭和二十九年(一九五四)三月三十一日、金泉村は二見村と共に相川町に合併され、現在に至る。【関連】 北海村(きたみむら)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「相川区裁判所沿革誌」、『金泉郷土史』【執筆者】 三浦啓作

・金泉の小学校(かないずみのしょうがっこう)
 明治七年(一八七四)八月、姫津に私立小学校が設けられ、萬福寺を仮校舎にあてた。明治九年三月からは、第六大学区新潟県管内第九中学区第十番小学姫津校と改称される。学区は小川より戸中まで、姫津に本校を置き各字に分教場を設けた。明治十三年に姫津校は新潟県管下雑太郡公立小学第一番姫津校、同二十一年には簡易科姫津小学校、同二十三年には村立姫津尋常小学校、同三十九年には金泉村立中央尋常小学校などと呼び名を改め、大正三年四月からは修業年限二か年の高等科を併設し、金泉村中央尋常高等小学校となり、さらに大正十四年一月、南・北狄・戸地・北の四校を併わせ金泉村尋常高等小学校となった。さて、この年の合併以前の四校の略歴を記しておこう。前南尋常小学校は、明治九年以降姫津小学校小川分教場であったが、同二十四年、独立して村立小川尋常小学校となり、同三十九年には金泉村立南尋常小学校と改称。大正十四年の学校統合で、金泉尋常高等小学校南分教場となり、昭和二十五年南分校々舎を新築した。また、前北狄尋常小学校は、はじめ姫津小学校北狄分教場と呼ばれていたが、明治四十四年独立し、北狄尋常小学校となり、大正十四年の学校統合で、金泉村金泉尋常高等小学校北狄假教場となる。前戸地尋常小学校は、元金泉村北尋常小学校戸地教場として開校し、明治四十二年独立、金泉村戸地尋常小学校となる。大正十四年の学校統合で北分教場戸地教場となり、更に昭和六年、戸地と戸中の両校を統合し、校舎は戸地に置き、金泉尋常高等小学校北分教場と改称した。前北尋常小学校は明治九年(または同十二年)の創立で、戸中教場と称し姫津校の一分教場。明治十八年北海村に併合せられ、戸地・戸中は北海村簡易科石花小学校に属し、その分教場となったが、同二十五年に独立して北海村戸中尋常小学校となり、戸地は戸中校の分場となる。更に同三十四年町村分合の結果、金泉村に合併せられ金泉村戸中尋常小学校となる。同三十八年には金泉村立北尋常小学校と改称され、大正十四年の学校統合の際は、金泉村金泉尋常高等小学校北分教場戸中教場となり、昭和六年戸地へ合併して北分場と改称した。同二十四年四月、北小学校と称して独立。昭和四十四年三月全焼、金泉小学校に統合される。昭和八年、金泉尋常高等小学校では、創立六十周年を記念し、郷土学習の資料として『金泉郷土史』(同十二年刊)の編纂に着手する。同十六年新校舎竣工。同三十六年小川分校が相川小学校小川分校となる。同年子供郵便局が大蔵大臣の表彰を受ける。同四十八年郡市学童水泳大会優勝、同五十三年県学視連研究大会(国語・道徳・特活会場)、同五十一年百周年記念式典挙行。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「かないずみ」(金泉小学校)【執筆者】 浜口一夫

・金井歴史民俗資料館(かないれきしみんぞくしりょうかん)
 金井町大字泉甲三七五番地一に所在する、町立の資料館である。昭和四十六年頃より、地域住民有志によって、失われかけていた農耕具・農民生活用具等の収集が始められ、廃校となった平泉小学校跡に収納されていた。これをきっかけに、昭和四十九年に国庫補助を得て、広く佐渡国仲平野における、農耕文化資料の保存を目的とした資料館の建設に着手、昭和五十年(一九七五)三月に竣工した。これと平行して、歴史民俗資料館運営委員会が組織され、町内に七○名におよぶ資料収集委員が委嘱されて、収集活動が続けられた。昭和五十年九月一日、二○○○平方㍍の敷地内に、鉄筋コンクリート平屋瓦葺、一四四平方㍍の収蔵庫が開館した。その後、郷倉(金井町指定文化財)が両津市大字上横山から移築され、展示館(一三六平方㍍)が、地元区民及び平泉文化財保存会の援助により建てられた。収蔵品は、藁加工品と農耕の四季を示す民俗資料(農耕文化を示す農耕具・生活用具等、約二○○○点)と、考古資料(縄文・弥生・古墳・平安時代の遺物、約四○○○点)である。考古資料は、縄文時代の貝塚の遺跡である「堂の貝塚遺跡」、弥生時代の終わりから古墳期にかけての「千種遺跡」、玉作りの遺跡である「藤津遺跡」等の出土品を中心に展示され、歴史民俗資料館の刊行物として、「金井歴史民俗資料館収蔵品図録集」が発行されている。【執筆者】 北見継仁

・金児(かなこ)
 鉱山の一鉱区、あるいは一坑を請負い、鉱税を納めて採掘する者をいう。昔は金銀山を稼ぐ者を間ノ山衆といい、その後「かなこ」と改め、中頃世に知れた者に、関東渡部弥右衛門、間ノ山に梶川弥二兵衛、庄右衛門町に今井善兵衛、大工町に安田仁兵衛などがいた。一間歩二丈程の敷領分を稼ぎ、山師の手につき勤めた一敷の主。【参考文献】 本間周敬『佐渡郷土辞典』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】 小菅徹也

・金堀節(かなほりぶし)
 新穂長畝に在住の羽田清次が、大正六年(一九一七)に刊行した『佐渡歌謡集』に、「金堀節」として一七首が載っている。金堀節として発表した最初であろう。「扇や目出たい末広がりて、重ね重ねのよろこびだ」など、蓬莱三ツ物といわれた「やはらぎ」神事の祝歌三首をふくめての一七首で、それ以下は「大工すりや細る、二重(ふたえ)廻りが三重まわる」「鑚(たがね)番槌(つがいつち)はあばらの毒よ、叩たきや新床でも埃(ごみ)が立つ」などの、鉱山の労働歌である。金堀節というのは、羽田清次によると「昔は坑夫が鉱石を採るとき、かならず鑚を打つ。それに和して歌ったもの」だとしていて、その節を「やはらぎ」とも名付けたとある。硬い鉱脈が、少しでもやわらぐのを頼んでのことばが「やはらぎ」で、暗黒の坑内で坑夫が歌う哀音をひとたび聞けば、「愁人ならざるも、断腸(だんちょう)せざるは無かりしとぞ」と解説を加えていて、「今は坑夫の此節を識(し)らざるは、其の苦を知らざる故か」と記している。「大工するちふて親怨(うら)みるな、親は大工の種蒔かぬ」といった、苦しい坑内労働の故の、自嘲めいた歌も、昔は唄われていた。こうした金堀節は、のちに採集範囲が広がって、山本修之助氏の『佐渡の民謡』(昭和五年刊)には、四三種を載せている。山本氏はこのほか、鉱山で唄われていた「水換節」の珍らしい歌詞をも発表している。【関連】 羽田清次(はねだせいじ)【執筆者】 本間寅雄

・金堀絵馬(かなほりえま)
 鉱山の坑内労働者のようすを、リアルに描写したユニークな絵馬で、鉱山の町相川でないと見られない。下寺町の日蓮宗法輪寺に奉納されたもので、弘化三年(一八四六)の年号が裏書きに見える。「奉納 弥十郎間歩、かなこ市郎兵衛手附、若者仲間」とも記されていて、弥十郎間歩といえば、沢根の鶴子銀山の屏風沢にあった鉱山である。そこの労働者たちが、金を出しあって製作し奉納したことになる。「かなこ」とは、山師の下にいる採掘の現場責任者。採鉱作業にたずさわるさまざまなようす、たとえばタガネで鉱石を掘る人、下駄ばしごといって丸太に足かかりをつけた細い梯子を登る人、釣りと呼ばれる坑内照明用灯皿をかざして歩るく人、掘られた鉱石を集めてカマスに詰める人、煙草をふかして休憩をとる人などで、鉱山の絵巻物などにみる風景や人物の様式化や類形化がなく、迫力の感じられる色彩豊かな彩色絵馬だ。上部両端に描いてある二匹のムカデ(百足)の絵は、鉉をムカデに見立てたという、鉱山の古い記録や伝承と一致する。ムカデは足が多い。「アシ」は「銭」にも通じ、よい鉱脈をあらわすのである。ムカデを福の神とみる一般家庭の信仰も、日本の鉱山の古い信仰に起源が求められるのかも知れない。從が八○糎、横一一○糎の大きさで、町立郷土博物館に展示され、平成十一年六月町の民俗文化財として指定された。【参考文献】 『佐渡相川の絵馬』(相川郷土博物館)【執筆者】 本間寅雄

・ カネタタキ(マトウダイ)(かねたたき)
 卵形で薄い体と、大きな口をもち、体色は全体が青みがかった灰色である。体側の中央に、淡い縁取りのある黒い斑紋があるので、和名のマトウダイ(的鯛)、佐渡の方言カネタタキ(鉦敲魚)、新潟の方言クルマダイ(車鯛)の名が付けられた。カネタタキの名称は、諸国産物帳の一つ『佐渡州物産』、滝沢馬琴の『燕石雑誌』『烹雑乃記』、田中葵園の『佐渡志』の中にみられるが、江戸時代はめったに取れないので、珍らしがられたのであろう。暖海系の魚であるが、北海道にも産し、インド洋や大西洋にまで分布する。浅海魚で、一○○㍍より浅い砂泥底にすみ、春に浮遊卵を産む。白身の味の良い魚で、刺し身が喜ばれる。底引網や定置網に入り、近似種に的の無いカガミダイ(鏡鯛)がいるが、数は少ない。【参考文献】 『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】 本間義治

・鹿野浦(かのうら)
 旧高千村の南端。旧金泉村戸中と接する北片辺と南片辺地籍。戸中から海府道中の難所の一つ四十二曲りを越え鹿野浦に入る。カノまたはカノヤキは焼畑を指し、開発の当初は焼畑地であったことを示すが、中古から塩生産地になったとみられる。『佐渡風土記』には、「昔佐渡の次郎と申す者の旧跡なり。此者人買にて津志王丸と申す人の老母を買来り─」とあり、近世中期頃から山椒太夫伝説が定着した。北片辺村大絵図(文化十四年)によると、鹿野平三郎家の田地に十二権現が祀られて、通称「平三宮」といわれており、のち安寿塚と称された。鹿野浦には、南から鹿野浦川(境川)・中の川・スリウス川があり、海岸一帯を下平、段丘上を上平といった。下平は塩焚きの浜、上平は焼畑地で、下平に平三郎家を中心として中世集落があった。そこからは製塩地とみられる土釜や陶器・宋銭などが出土している。近世後期の「佐渡雑志」の記述には、「─粟の鳥を追せし旧跡の由、毒水流るる由申し伝う」とある。近世になり製塩がおこなわれなくなると、現在の北片辺の海岸に集落移動したといわれる。「片辺鹿野浦、中の川の水のむな、毒が流れる日に三度」と、転住をこのように俗謠に残している。旧道ぞいに韃靼塚があった。【関連】 安寿塚(あんじゅづか)・韃靼塚(だったんづか)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四)、『新潟県の地名』(平凡社)【執筆者】 佐藤利夫

・鹿伏(かぶせ)
 二見半島北端、相川の南西部の近郊農村。明治三十四年までは旧二見村。二見半島、南の二見より北の鹿伏までは西浜(七浦)といわれる。中世の大浦郷の一部。集落は海岸と段丘上に分れる。元禄検地では、土船・かつみ沢・赤松・長はか・松中・ひらき・中津川などの地名があり、かつみ沢や土船は古田地帯、ひらき(開)は赤松・長はかなどに溜池を築き開発した近世集落。おもな集落は海岸の中津川に集住する。村高二八六石余、田高八八石余・六町五反余で、水田は約二割にすぎなかった。寺社は神明社・観音寺・医王寺・薬師堂。現在、鎮守は熊野神社(十二権現)であるが、かって大浦の尾平神社支社といい若宮と称した。神明社(大神宮)は天文年中(一五三二~五四)鶴子に創建、相川大床屋町から元和元年(一六一五)現在地へ移った。集落地は中津川であるが、元和二年に越前国岩倉から渡来した永宮寺門徒の岩倉らが、段丘上に入って「開」を開発した。貞享年(一六八四~八七)銅床屋が建つ。文政七年(一八二四)に段丘上に薬園を取りたてた。医王寺は永正十一年(一五一四)恵道が、次に慶長十一年(一六○六)大坂天王寺塔中、宥乗が来て医王寺と改めたという。明治に廃寺となったが、藩州番匠の水田与左衛門らとの関係が深かった。観音寺には県指定、小倉大納言持仏、聖観音立像がある。【関連】 観音菩薩立像(かんのんぼさつりつぞう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫

・鎌倉どん遺跡(かまくらどんいせき)
 相川町大字北狄一六二○の海岸段丘先端部にあって、須恵・土師器片を出土する。海岸には揚島やホテルがあって観光客の訪れが激しく、向いは金泉中学校が建っている。北西に面した緩斜面は畑に利用しているが、包含層は薄く、遺物も以前に比べて採取できる数が少なくなった。土地の人は城跡と認識しているが、『金泉郷土史』は、粛慎人の漂着地と推定し、また台地上方は大野地頭本間重連の分族、源太右衛門の居館跡とも記す。全面に褐色粘土層が広がるが、耕作で包含層は破壊されたものの、この層中に縄文後期~平安時代の遺物が採集できるので、文化層があったと想定されるが、発掘調査が行なわれていないため、遺構等の確認はできない。また、珠洲焼の陶片等も混在することから、言い伝えに云う、室町から桃山にかけての城跡ではないかと推定される。【関連】 北狄城址(きたえびすじょうし)【参考文献】 『金泉郷土史』、金沢和夫「相川町埋蔵文化財包蔵地一覧」(『佐渡文化』)【執筆者】 佐藤俊策

・がまずみ(がまずみ)
【科属】 スイカズラ科ガマズミ属 秋光に輝くガマズミの実。それは神のあたえてくれた、まばゆいばかりの真紅の実である。ガマズミを神つ実(かみつみ)とした古代人の思いが伝ってくる。「ガマズミが赤実がたくさんついた年は豊年」と小佐渡の山村の小倉(畑野町)でいう。虫にくわれず赤い実がたわわについた年は、確かに豊年である。稲作もよかった。ヤマブドウやヤマナシ(ナツハゼの実)もクリも豊作だった。それを象徴するように、ガマズミの深紅の実が輝く。ガマズミの名は、神つ実に由るという。『佐渡志』(一八一六)に「山中自生にがまずみあり、莢 なり秋月実を結ふ、南天燭(なんてん)の実より大に観つべきものあり、山家の小児熱するを待て採り食ふ」とある。江戸時代だけでない。明治・大正・昭和の子どもたちも食べた。うまいものがママ(飯)である。佐渡ではイワユリの球根がユリノママ、アマナの球根がムギノママであり、ガマズミの赤い実がアカママ(相川町米郷の方言)である。二見(相川町)ではこの木をベンノキ(紅の木)、この実をベン(紅)という。かって子どもたちは、ベラ(舌)をベン色にしてよく食べた。【果期】 九~十一月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー秋』、同『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男

・釜ノ口(かまのくち)
 坑道の入口のこと。この坑口の左右に各二本柱を立て、その上に桁を渡し、柱や桁と岩肌の間に細木を並べて土石が落ちないように囲う。屋根の所は細木の木口を揃えて並べ、上に石垣を小高く並びよく築き、これを釜ノ口化粧棚といった。主要坑道の坑口は、すべてこのように化粧された。坑口に柱四本を建てて山を留めたので、以前は四ツ留ともいった。【関連】 化粧棚(けしょうだな)【参考文献】 「金銀山稼方取扱一件」【執筆者】 小菅徹也

・釜所(かまんじょ)
 達者の北部半分の地名。中世まで製塩の釜場のあった場所。鎮守は十二権現社(熊野神社)。多数の製塩土器が出土した。製塩地であったことを示す地名に古釜・塩釜・釜屋などもある。古代の藻塩を焼く製塩から、鉄釜で海水を煮つめる方法に変わってからの製塩地である。佐渡の鉄釜には、平底の平釜・深底の釣釜の二種があった。寛文八年(一六六八)、戸中の古土源右衛門家所有の製塩業者に貸し出していた釜は、一斗五升たきの平釜であった。釜所は二宮殿の製塩地とみられ、配下の山本小三郎が、二宮殿の守り神であった薬師如来を勧請して居住していた。山本家は、二宮殿滅亡後は達者に帰農することになる。近世のはじめ釜所の北、姫崎に石見から沖漁の延縄漁師が入ってきて、姫津村をたてた。釜所は近世に入ると、白山神社氏子の南部半分と合併し達者村となった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集一)【執筆者】 佐藤利夫

・上相川千軒(かみあいかわせんげん)
 鉱山の創業期に誕生した。旧相川町の発祥の地。現在は山林や原野と化し、一軒の人家もない。町部の高位段丘に位置し、南は青野嶺を経て鶴子銀山に通じ、北は右沢・左沢などの小渓谷を隔てて佐渡鉱山に隣接する。慶安五年(一六五二)の地子銀帳(『佐渡四民風俗』)によると二二町から成り家数は五一三軒を数えた。全盛期がすでに過ぎていた時代である。「七軒町」「尾張町」「九郎左衛門町」「上床屋町」「奈良町」「鍛冶町」「田町」「番屋町」「外記町」「柄杓町」「茶屋町」などがあり「相川町」の町名もすでに生れていた。二つの川が交わるようなところに「アイカワ」(合川)という地名が生まれるのが諸国の例である。台地東南端には「上相川番所」が慶長年間には設置され、鶴子銀山や国仲筋からの人馬の出入口で賑わった。「番所」は人と物資を監視する税関的な役所である。元禄七年(一六九四)の屋敷検地によると町数は一六町に減り、屋敷面積は約五㌶。往時の半分以下となる。『佐渡相川志』という書物は「上相川ハ十六町ノ惣名ナリ」と伝え、文政九年(一八二六)の「相川町々墨引」では家数は三七軒。このころ鉱山町としての繁栄は下方の台地に移っていった。「上相川千軒」や「北沢千軒」の呼び名は、鉱山草創期のころの賑わいをさしていて、専念寺・源徳寺・法華寺・専照寺・妙音寺をはじめ、修験の万宝院・三光院といった寺院の跡と、井戸や石垣が、わずかに昔日の繁栄の面影を残すのみとなった。【関連】 上相川町(かみあいかわまち)【執筆者】 本間寅雄

・上相川の火薬庫(かみあいかわのかやくこ)
 慶応四年(一八六八)一月に、幕府御雇として来島した英国人技師ガワーが、火薬による採掘法をはじめて佐渡鉱山に導入し、その後次第に普及していった。明治十八年度の「佐渡鉱山局概要」には、一か月の消費量が、火薬五○○貫・ダイナマイト五○○磅となっている。これらを貯蔵しておく火薬庫については、大正八年(一九一九)の『佐渡鉱山採掘事業報告』に、中尾山腹に火薬庫があり、その他に大立・高任に各一庫の支庫があったとあり、主に廃坑が使われていたようである。昭和十年代になって、国の産金政策による大規模な改革が行われると、同十五年(一九四○)に、初期鉱山集落の上部、大山祇神社跡の下方に火薬庫が建設された。周囲を土塁に囲まれた平坦部に、最大九・六×五・六㍍、最小五・六×五・六㍍の建物が後方に三棟、前方に二棟の計五棟が、一棟毎に周囲を石垣の土塁に囲まれて建っている。建物は、平屋の鉄筋コンクリート造りであるが、屋根は崩壊していて材料は不明である。当時は、火薬庫の周囲を水が常に回る仕組みになっていて、防火体制に細心の注意を払っていたようである。【関連】 ガワー【参考文献】 麓三郎『佐渡金銀山史話』、「相川浜石」(一号)【執筆者】 石瀬佳弘

・上相川町(かみあいかわまち)
 『佐渡四民風俗』に書かれている慶安五年(一六五二)の地子銀帳によると、上相川は二二か町からなっていて、家数は五一三となっている。これは相川鉱山が立ち初まってから約半世紀後の記録であるから、最盛期には「上相川千軒」ということばが伝えられたとしても、謂われのないことではない。宝暦(一七五一ー六三)の書『佐渡相川志』によると、「上相川ハ十六町ノ惣名ナリ。山之神町・鍛冶沢・鍛冶町・田町・弥左衛門町・九郎左衛門町・同裏町・上床屋町・外記町・番屋町・本町・小右衛門町・相川町・柄杓町・茶屋町・奈良町、以上。」とある。同書に付された絵図をみると、右記の町名はおよそ奥の方(沢根の鶴子の方向)から書かれており、「江戸中期相川町絵図」(『佐渡相川の歴史』資料集五、小林栄吉氏蔵)の町名に見合っている。慶安の二二の町名から、『佐渡相川志』ではすでに消えている六町名のうち、田町後町・九郎左衛門後町と鍛冶町後町、三町がわかっており、他の三町名は松入町・七軒町・尾張町のことらしい(注 『相川町誌』の資料による)。上相川町は、青野峠をへて中世末期までに発見された沢根の鶴子銀山に通じている。『相川町誌』には、「相川鉱山ノ創始ニ就テハ、官辺ノ記録ヲ始メ其他大抵ノ諸書共ニ、皆慶長六年七月十五日鶴子鉱山ノ金児(鉱区ヲ請負ヒ実地ニ経営スル者ノ称)三浦治兵衛・渡辺弥次右衛門・渡辺儀兵衛ノ三人相伴ヒ、相川山中ヲ探検ノ際、父ノ割戸ノ地上鉱脈ヲ発見云々」としるしているが、当時の地名は鮎川であったのを、慶長以前に改めたことや、他の記録から慶長以前より金銀山はあり、鶴子とほぼ同期に発見されたらしいと書いてあるのが注目される。【関連】 上相川千軒(かみあいかわせんげん)【執筆者】 本間雅彦

・上京町(かみきょうまち)
 文字通り京町の一番上にあり、北は夕白町、南は左門町、そして東は新五郎町に接する。文政九年(一八二六)の相川町墨引の絵図では、夜番所・空き家一軒を含めて四六軒をかぞえ、他の京町より戸数は多かった。職種では勝場関係者と役人をはじめ、山師・銀山関係者・家大工・水揚樋番匠・鉄砲師・紺屋・髪結・針仕事などの手仕事や、質屋・搗売屋など商人もいた。道ずしの南側中ほどに、番太の肩書きがみえる。大工町の番太は夜番所と同じ軒にいるので、ここでもたぶん夜廻りのことかと思われる。現況では二○戸足らずで間口の広い家が多く、番地もとびとびになっているのをみると、近年になって合筆がなされてきたことを想像させる。北側の中央部には、相川上町簡易郵便局や、もと相川鉱山長住宅がある。【執筆者】 本間雅彦

・上寺町(かみてらまち)
 宝暦(一七五一ー六三)の書『佐渡相川志』によると、北側に隣接する次助町境沢というところに、日蓮宗の法久寺(旧名法円寺であったのを寛文年中〈一六六一ー七二〉に改名した)が、また次助町稗畑に同宗の妙伝寺があった。江戸中期に描かれた相川町絵図では、やはり同宗の妙法寺(『佐渡相川志』では「寛永六己巳年、今ノ妙法寺ノ上ノ台ヘ建立ス」とある)の上のほうに法久寺を、また妙伝寺は同宗覚性寺の北側に並べて描いてある。現況では両寺ともなく、寺の跡地を示す墓石のほかは、無人の原野として町名だけを伝えている。【執筆者】 本間雅彦

・亀崎新地(かめざきしんち)
 相川町二見で、明治五年(一八七二)七月に埋立てによって造成された商業新地。二見新地とも呼ばれた。同三年に県官の上原時弥・藤沢維宝から、佐渡県に出された同地開拓の建議文によると、江戸時代の二見は、他国船が多く 掛りし、出帆のさい引舟などの心配がなく、天然自然の浮き囲いにもなり、北国筋唯一の良港だとしている。ここに約一万五○○坪の新地を造成して、他国品の輸入、国産品の輸出などをはかるとし、金融商社を設立してその利益金ならびに、新地を希望者に分譲する利益金から、国からの拝借金(二万五○○○円)を返済していくとある。計画だと、同港の「渡り城」から「友崎」までの「南北五○○間」の海面を、「四○間幅」で築立てする。平均水深は「二尺三分」、水面からは「四尺」の高さとし、「一万四七○坪余」を造成するというもので、新権知事から大蔵省にも稟議された。しかし翌四年に、佐渡県が相川県に変わって、計画は三分の一前後に減らされ、最終的には商社設立に三○○○円の貸し出しがあったものの、工事費の全額は、相川ならびに国仲の四十物仲間や、商家の献金で工事が始まった。埋立に必要な石垣石は、米郷村から「一八○○個」、倉谷村から「六○○個」が廻漕されたとある(「二見開拓一件」)。新地造成後、山側と海側にそれぞれ二○軒前後の商家が移住してきた。妓楼・料理屋・酒屋・結髪・船大工、また廻船問屋などが、やがて軒をつらねることになる。相川県が「亀崎新地」と命名したのは、「出崎ニ亀形ニ似タル巌アリシモ、又一奇ナリ。是コノ地ノ永世繁栄ノ祥瑞ナリトテ」が理由とされた。【関連】 藤沢維宝(ふじさわよしとし)・二見港(ふたみこう)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)ほか【執筆者】 本間寅雄

・紙屋町(かみやまち)
 相川市街地の羽田町の通りを、石扣町・小六町と北上して、濁川をわたったところからさき柴町までの間が紙屋町である。慶安五年(一六五二)の地子銀帳に記載されている江戸初期からの町で、現世代数三三戸(昭五三)。『佐渡相川志』には、慶長年中(一五九六ー一六一四)に「紙類当町ニ限リテ売買ス。依テ名トス。元和年中他町ノ願ニ困テ外々ニ紙売始マル」とある。いまその紙の問屋街の面影はないが、道幅の狭い家並みに名残をとどめ、江戸期からの系譜を伝える古い家が多い。濁川左岸の道路は未拡幅ながら、旧相川鉱山をへて大佐渡スカイラインに通ずる重要な道路となっている。元禄七年(一六九四)の相川町屋敷検地帳では、屋敷五反余、家数二六軒、二八人とある。また文政九年(一八二六)の相川町墨引には七三戸がみられ、内三戸は称念寺・不動院・宝教院の真宗寺と当山派修験であった。それ以前には、やはり真宗の順光寺・妙願寺があったが、維新時の改革ですべて廃寺・廃坊となり、うち称念寺が明治十一年再興したが、現在は下戸炭屋浜町にある。【執筆者】 本間雅彦

・亀塚(かめつか)
 浜辺へ漂着したウミガメ(海亀)を憐れみ、葬り、時には墓石を建てて記念したものが、新潟県内にはいくつか残っている。佐渡では、相川町戸地海岸に一基、相川町五郎左衛門町日蓮宗玉泉寺の敷地内に一基あり、相川町下寺町日蓮宗蓮長寺本堂前に 亀碑が建てられていたが、現在は無い。戸地の墓石の墓碑銘には、「甲文久四年、為亀如是菩提、正月二十六日」と刻んである。一八六四年三月三日ということになる(明治元年は一八六八)。種類やいきさつは不明である。墓は、戦後集落に沿う旧道から、新しい県道側(海辺寄り)の岩礁上に移されたが、献花が絶えない。玉泉寺の墓石の墓碑銘には「嘉永元申祀三月三日、亀墓、石見屋順平」と彫ってある。一八四八年四月六日ということになるが、この方も種名やいきさつはふめいである。【関連】 亀碑(かめのひ)【参考文献】 本間義治『両生爬虫類研究会誌』(三九号)、本間義治・佐藤春雄・三浦啓作『両生爬虫類研究会誌』(四一号)、『図説 佐渡島』(佐渡博物館)【執筆者】 本間義治

・亀碑(かめのひ)
 亀塚や亀祠とは別に、佐渡相川町下寺町の日蓮宗蓮長寺には、「瘞亀碑」が建てられていた。現在は、この碑がどのように処分されたか不明であるが、拓本が掛軸にして残されている。縦一二五㌢、幅八五㌢という大きなもので、碑文には経緯が記されている。文政二年(一八一九)己卯春に、渋手浦(真野町豊田)に漂着したウミガメ(種不明)を、佐渡奉行所の役人飯田近義が買い取った。碑文は相川町の島□(川嶋)充睦が書き、島家の菩提寺へ埋葬した。現在は、碑石の跡に亀石が置かれている。これは、沢根海岸にみられる凝結凝灰岩で、表面に多数の生痕(カモメガイ・ニオガイモドキなどの穿孔の痕)をもつ、底辺一・二㍍、高さ六○㌢、幅三○㌢あり、亀の甲型を呈している。昭和六十一年(一九八六)には、赤泊村柳沢にオサガメの碑が建てられた。【関連】 亀塚(かめつか)【参考文献】 本間義治・佐藤春雄・三浦啓作『両生爬虫類研究会誌』(四一号)、本間義治・北見健彦『新潟県生物教育研究会誌』(三二号)、本間義治・石見喜一『新潟県生物教育研究会誌』(三六号)【執筆者】 本間義治

・加茂郡(かもぐん)
 八世紀初頭までの佐渡は、雑太郡の一郡だけであったのが、養老五年(七二一)四月二十日に「佐渡国雑太の郡を分ち始めて、賀茂・羽茂の二郡を置く。」として、雑太とともに三郡制とすることにしたと『続日本紀』に書いてある。当時の郡境は、地図上に線引きして記入できるような性質のものではなく、はじめは「里」を、のちには「郷」を一定数とりまとめて分けていたにすぎない。この状態は一七世紀中ばまで続いていて、明暦元年(一六五五)に佐渡奉行によって、三郡境界を制定したのが史上初めてのことだった。このとき加茂郡の区域は、後尾ー金北山ー栗野江ー金立神社ー東境山ー松ケ崎・岩首境から東側であることが確定した。ただし杓子定規に、無理を押してとりきめたというわけではなく、「目安」としたにすぎなかったことは、伝承によると金立社の戌亥の柱という表現があることや、後尾村のどこを基準とするか、そして途中の吉井本郷・大和などは、線引きによる村内の分断の矛盾が生ずることからみて明らかである(註 実際には栗野江・後尾は雑太郡、吉井本郷・大和は加茂郡に属す)。『佐渡年代記』によると、「是迄は沢根迄加茂郡なりしか、古しへ此辺は雑太の付属なりしを、いつの頃にか紛乱して古制を失ひし故改し事と聞ゆ」とある。いっぽう前浜地域でも、岩首・水津方面までが羽茂郡となっていたことがあったりしているから、明暦時に東西ふうの線を、南北の線につけ替えたような傾きもある。【関連】 雑太郡(さわたぐん)【執筆者】 本間雅彦

・亀祠(かめのほこら)
 漂着したウミガメ類を神格化し、または神体として小さな祠に祀ったものは、佐渡に三社ある。外海府(両津市)の北鵜島と藻浦に各々一社、赤泊村大杉に一社である。北鵜島の祠は、昭和十三年旧二月一日(一九三八年三月一日)に、種不明のウミガメを、同集落の水本ツネさんが拾得し、甲などを箱に納めて祀ったもの、当初は下の方にあったが、落石により、高台にある北鵜島神社(石動神社)に面する場所に新設された(一九八一年七月)。旧二月一日には、祠前に幟を立てたり、御神酒や赤飯を供え、参拝する。富亀明神と呼ばれている。藻浦のものは、昭和三~四年頃(一九二八~二九)に、同集落の本間ツヤさんが拾得した種不明のウミガメを、市橋英蔵氏が祀った。祠は、同集落鎮守の順徳皇大神の傍に建立してある。これにより、傾いていた市橋家の家運が隆盛に向かったという。大杉海岸の、青龍大権現の右側に建立された祠へ祀られたウミガメも、種不明である。昭和四年五月十三日以前に、沖合に漂泳していたアオウミガメらしいものを持ち帰ったら、その後二~三日タイの豊漁が続いた。白い角柱には「大亀の祠」と記してあり、昭和四十七年(一九七二)壬子年二月十日建立とあり、この亀が豊漁をもたらしたことを讃える木簡が添えてある。【参考文献】 佐藤春雄・本間義治『新潟県生物教育研究会誌』(二七号)、本間義治・三浦啓作『新潟県生物教育研究会誌』(二八号)【執筆者】 本間義治

・加茂湖(かもこ)
 国中平野の北東側にある潟湖。両津湾の湾奥部の海面が、湾央礫州の発達により封じ込められて生じた、自然成の潟湖。面積四・八六平方キロメートル、湖岸線長一七キロメートル、南北に細長く、水深五㍍を越える部分が殆どであるが、最深所は八・五㍍に過ぎず、南に偏してある。明治三十年(一八九七)の豪雨時の洪水被害を契機に、現在の湖口の開鑿工事が進められ、一九○二年以降淡水から次第に鹹水へと変化した。淡水湖の時代には、ワカサギ・コイ・フナ・シジミが豊富であったが、昭和六年(一九三一)以降現在にいたるまで、垂下式筏によるカキ養殖が盛んである。流入河川は、北端近くに貝喰川・長江川、南端に天王川があり、それぞれ河口に小デルタを造る。北東岸は両津砂礫州で、夷・湊の両津市街地を載せる。【参考文献】 九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、『週刊朝日百科○四三世界の地理 日本中部』(朝日新聞社)【執筆者】 式 正英

・鴉田番匠(からすだばんじょう)
 島内の宮番匠の源流は、相川の長坂にあったが、そのほうは官辺すじの番匠系で、別格の趣きがあった。民間で早くから名を知られていたのは、羽茂町天沢の鴉田番匠であった。松田与吉の『佐渡の昔のはなし』には、飛騨の匠が佐渡にきて多くの弟子ができ、その中から二人の名工が出たとある。その二人とは、鴉田と村山の高野だという。鴉田は屋上の伝を、高野は屋外の伝を授けられたともある。『四民風俗』でも、飛騨の匠が佐渡にきて、渋手村(現真野町豊田)の薬師堂を建てたとある。番匠といえば飛騨が特別に著名なので、本土のどこから来たのであっても、そのように伝えられ易いのであるが、鴉田の名は、上新穂の通称村上家(計良七郎左衛門)に保管されている天文元年(一五三二)の「畑両村之内本宮山熊野大権現神田諸役目録」の中に、烏田左京として書かれている。烏田左京は羽茂知郡の人で、三郡の宮行事の長をつとめる家柄という、意味のことが書かれているのである。烏田左京が鴉田番匠の先祖であるとする確証はないが、中世地頭の庇護を得ていた神職が、地頭支配を失なって自立に追いこまれたときに宮番匠になるか、他国の番匠を抱えこむ可能性は高い。最後の鴉田こと藤井家の宮番匠の仕事は、太平洋戦争中に戦死され中断した。【参考文献】 『波多』(畑野町史)、本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】 本間雅彦

・カラスノキンタマ(シロナマコ)(からすのきんたま)
 カラスノキンタマ(烏の金玉)という方言は、真野湾に臨む相川町二見地区と、佐和田町の沢根地区に用いられているだけと思われ、全国的にも珍らしい呼び名である。シロナマコ(白海鼠)は、体色が淡いピンクがかった白色であることから付けられた名である。体は前半の紡錘形状のふくれた部分と、後半の細く毛のようになった部分とから成り、体壁にはリング状に横皺がある。皮膚には、いくつも孔のあいた八角形状ないし星形の骨片が埋まっており、分類上の区別点となる。浅海の砂泥底にすみ、砂泥上に肛門から放出した砂泥で、高さ五㌢ほどの高まり(小丘)をつくる。そこに肛門を出し、体を砂泥中に横たえる。体長は二○㌢以上に達する個体もある。体表に、マナマコのようないぼいぼが、無いことが特徴である。北海道南部から、青森県の陸奥湾・山形県庄内海岸・新潟市・佐渡・能登半島から、さらに中国の山東半島や、ニュージーランド・チリにまで分布する。陸奥湾では、五月と十一月が産卵期といわれているが、佐渡では確かめられていない。大時化の後に、砂浜へ打ち上げられたりする。食用にはしない。【執筆者】 本間義治

・カルカロドン(かるかろどん)
 軟骨魚類ネズミザメ目の絶滅属の一つ。最近カルカロクレス属に改名された。江戸時代の書物である木内石亭著「雲根誌」(一七七三~一八〇一)では、あたかも爪のような形をしていることから、「天狗爪石」という名で記述されている。この本に能登国・越後国とともに、佐渡国においても産出すると書かれている。また、松森胤保著『三觀記行 第三佐渡記行』に、「小木町堂釜から産出す」と記述されている。ヨーロッパでは、舌のような形から「舌石」の名で呼ばれてきた。産出する化石は歯の部分で、それは幅と厚みのある正三角形に近い外形をもち、歯としてはかなり大きく、長さ一○㌢ほどである。このサメは、体長が約一五㍍と推定される巨大なサメで、日本の産出地は、北海道から沖縄まで知られ、世界各地の中新世から鮮新世の地層でも、数多く発見される。一八四三年にアガシー(一八○七~七三)によって命名されたカルカロドン メガロドンは、絶滅種である。【参考文献】 佐渡海棲哺乳動物化石研究グループ『佐渡博物館研究報告』(七集)、小林巖雄・笹川一郎『佐渡博物館研究報告』(九集)、矢部英生・小林巖雄『新潟県地学教育研究会誌』(二八号)【執筆者】 小林巖雄

・川上家文書(かわかみけもんじょ)
 「川上家文書」は、川上喚涛が大正六年(一九一七)、某所よりゆずり受けた史料である。史料は、慶長十年(一六○五)から同十八年までの鉱山の帳簿で、鍛冶炭渡帳・蝋燭渡帳・大久保長安への留書などである。大久保長安の下代で、石見からきた岩下惣太夫・草間内記から、駿府の長安の家老戸田藤左衛門に宛てて出された報告書を中心として、江戸からの書翰を含む文書群である。文書は屏風の下張りになっていたらしく、大小の紙片に裁断されており、それが適宜に二三冊につづられている。昭和四十八年、相川町から『佐渡相川の歴史』(「佐渡金山史料」)として出版された。平成十一年三月、県指定文化財となる。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集三)【執筆者】 田中圭一

・河崎村史料編年志(上巻)(かわさきむらしりょうへんねんし)
 昭和三十四年(一九五九)に、両津市河崎公民館が編集者・橘正隆(俗に筆名の法老で呼ばれる)の名で刊行したので、書名は「河崎村」の名を冠してあるが、事実上は「佐渡全島の編年史」である。法老の諸著作のうちでは最も利用度が高く、佐渡の歴史関係の研究者にとっては、必読の書として評価されている。刊行されたのは上巻で、西暦五四四年の肅慎人の佐渡島抄掠にはじまって、一六○○年(慶長五年)の慶長検地(吉井の一部・椎泊村・両尾・羽入村等)の頃までの文献史料が、年譜の形式で掲げられ、法老翁による解説や考証が、ほぼ全編に詳述されている。江戸期以降の執筆も予定されていたが、それを果すことなく、死去によって中断してしまった。橘自身が書いた長文の巻頭言の書き出しの部分には、「私は歴史家や地方史家ではありませぬ。」にはじまって、この編年志ができた経過が、詳細に記されている。そして末尾には、「丸裸の私が飢えず凍えず」として、職に就かず、定収のない研究者としての稀有の境遇を、高野素十の「旅人に 佐渡は野菊の濃きところ」の句で結んである。本書の原稿は、刊行の五年前の昭和三十九年九月に脱稿し、新潟の青木印刷所に渡されていたが、同十月一日の新潟大火で印刷所も焼け出され、原稿は灰燼に帰した。しかしそれにも窟することなく、初めから書き直すという、超人的な努力の結晶によって完成した。本文は六五八頁で、それに一三二頁の本間氏系図・苗字・紋章・家名などの付録がついている。【関連】 橘正隆(たちばなまさたか)【執筆者】 本間雅彦

・皮細工(かわざいく)
 中世の佐渡は皮沓の産地であった。このことは、室町期の教科書であった『庭訓往来』によって知ることができる。この書には、全国の著名な産物六○品が挙げられていて、他に履物はないから、「佐渡沓」が都の貴族層や武家の者たちに重宝されていたことがわかる。皮沓が全国規模での産物として定評を得るのには、その背後に牛の大量飼育がなければならず、さらに皮なめしや縫合などの技術も、平行して行なわれていなければならない。佐渡で早くから牛を大量に飼っていたことは、江戸期以降についてははっきりしているが、それがどこまで遡れるのか、皮細工はどの村で行われたのか、その職人たちはその後どうなったのかなどについては、研究の緒口がすこしできた程度である。近世以降の皮細工人をとりしきっていたのは、先祖が能登から移り住んだと伝えられる相川の非人頭・久六(旧称六兵衛)であった。この名前は、明治初年まで世襲的に用いられていたが、同四年(一八七一)の騒動で殺害され消息が絶えたので、資料も得られにくい。維新以後は、越後長岡藩などから旧士族が来島し、河原田などで靴の製造を行なったのが早い。履物以外では、神事・仏事用に太鼓の需要が多い島であるが、皮張りも胴刳りも近年までは島内でまかなっていた。【参考文献】 本間雅彦『牛のきた道』(未来社)【執筆者】 本間雅彦

・河原田本間氏(かわはらだほんまし)
 河原田の名称の初見は、室町時代の文安三年(一四四六)で、以後この地域の領主は、河原田本間氏としてあらわれる。河原田は、石田郷の中心地帯(石田川流域)に生じた地名であろう。これより以前は、石田郷地頭本間氏と呼ばれていた。その初見は、日蓮遺文中の文永九年のものである。石田郷地頭本間氏は、佐渡本間惣領家(雑太本間氏)より分かれた庶子家であるといわれる。文永ころにすでに石田郷地頭としてあらわれるから、割合古い庶子家とみられる。石田郷(河原田)本間氏の系譜はあまりはっきりしない。本間各系図に不一致の点がみられるからである。ただ各系図を総合してみる場合、頼綱なる人がその祖とみられる。佐渡本間氏は、相模の本間能忠の子能久を祖とする。大部分の本間系図は、その系流を能忠ー能久ー忠綱ー頼綱(左衛門八郎又は八郎左衛門尉・石田住)とし、以下はここで切れたり、いろいろな人が代々に入ってくる。天正十七年(一五八九)上杉氏の佐渡攻略によって滅亡した最後の城主名さえ貞兼(本間系図佐渡本)、高統(本間系図丸山本)と異なる。河原田本間氏の史料にあらわれるものとしては、「河原田本田寺文書」の口宣案にみえる応永二十八年(一四二一)の任佐渡守源時直、寛正四年(一四六三)の任近江守源高直、天文十二年(一五四三)の任佐渡守源貞直や、「夷本間家文書」文安五年(一四四八)の一揆誓約状にみえる河原田季直(この名は「近藤古調書」に書き留められている享徳二年・同三年の河原田城主安堵状の中にもみえる。)などである。石田郷地頭時代の居館の置かれていた場所は明らかでないが、河原田地頭時代の城は、河原城(現在の佐渡高等学校敷地)の地であった。【参考文献】 『佐和田町史』、山本仁『佐渡古城史』、下出積興「佐渡本間遺文桜井家文書」【執筆者】 山本仁

・河村彦左衛門五輪塔(かわむらひこざえもんごりんとう)
 慶長六年(一六○一)から八年まで、四奉行の一人であった河村彦左衛門吉久の五輪塔で、相川町江戸沢町の浄土宗大安寺にある。石英安山岩製。大形で全高二九八㌢、基壇三○㌢、地輪高八○㌢、巾九○㌢、水輪高さ七二㌢、火輪高さ五五㌢、巾九二㌢、風空輪は一石で、風輪高二八㌢、空輪高三三㌢、径五三㌢。水輪が大きく、火輪が比較的小さい感じで、全体が不均衡な感じがする。各輪正面にア・バ・ラ・カ・キャの種子を薬研彫し、地輪正面には向って右側から、「厥以右志者為俗名河村彦左衛門 逝去廣岳院殿 清吽浄栄大禅定門 頓證大菩提也 干時慶長拾三戊申穏今月 施主敬白」向って左面には「切工也 小泊村 大工 惣左エ門 新左エ門 甚□ 人足 □左エ門 □□郎 □人□」と刻む。大安寺過去帳の二十一日に、「慶長十三申七月 御奉行 清岳浄栄大禅定門 河村彦左衛門殿墓有之」内過去帳には「覚月妙本信女 慶長十巳年五月 御奉行河野彦左衛門家老妻」につづいて、「廣覚院殿清岳浄栄大居士 慶長十三申星七月廿一日 河野彦左衛門殿事」とある。『佐渡古実略記四』の「河村彦左衛門由緒書」には、「吉久慶長十三申七月廿一日於越後卒法号清岳浄栄大禅定門ト改相川大安寺ニ石塔有、吉久室慶長十三戌申十一月十六日卒法号了瑞院妙善佐州大野村根本寺施主本寿院日久ト有之」(根本寺の五輪塔は慶長十五年銘)とある。大安寺は慶長十一年(一六○六)、初代佐渡奉行大久保石見守長安が開基した寺であるが、大安寺石塔中、長安の逆修塔の慶長十六年に先立って建立され、大安寺最古の石塔である。彦左衛門五輪塔が、当初どこかに建てられたものが、のちに大安寺へ運ばれたとか、長安没の慶長十八年以後、在住の有志によって建てられた供養塔とする説(「寺と墓と墓制」)があるが、長安が佐渡入国前の佐渡支配者として、業績のある縁を以って五輪塔の年号どうりに、当初から大安寺に建立された墓塔であろう。地輪側面の銘は、小木町小比叡の蓮華峯寺にある快宥の慶長十二年銘大五輪塔とともに、慶長年、小泊(羽茂町)石工の惣左衛門らの存在を知る資料である。平成六年(一九九四)五月二十四日、国の史跡に指定された。【関連】 河村彦左衛門(かわむらひこざえもん)【参考文献】 計良勝範「相川の石仏」(『いしぼとけ』三号・佐渡石仏会)、『佐渡相川の歴史』(資料集二)【執筆者】 計良勝範

・カワリアナハゼ(かわりあなはぜ)
 ハゼという名が付いているが、カジカ科に属す珍希魚で、日本海固有種である。明治三十九年(一九○六)に、アメリカ水産局の調査船アルバトロス号(アホウドリの学名の種小名と英名)が日本周航の際、新潟寄りの佐渡海峡で、小型カジカを採集した。昭和十一年(一九三六)になって、同じ米国のボリン博士が、新属新種として記載した。学名の属名に用いられたアトポコッタスは、変りもののカジカの意味をもつ。全長三㌢足らず、鰓は三枚(種小名のトリブランキウスで表現、普通の魚は五枚)。側線は体のごく前の方にしかない。しかし、当時の日本の学者は誰もみた者がなく、再発見の記載は、昭和三十五年(一九六○)に本間義治博士によって行われ、熟卵をもっていることが明らかにされた。最近、島根県浜田沖からも取れている。北米太平洋沿岸に分散の中心をもつ、フタスジカジカ属のカジカから分化したものといわれ、学術的価値は高いが、佐渡の人にはなじみがない魚である。【参考文献】 『図説 佐渡島』(佐渡博物館)、『日本動物学彙報』(三三巻二号)【執筆者】 本間義治

・勧業卒育方(かんぎょうそついくかた)
 明治初年に佐渡県が置いた役職。幕末の頃、外海府や高千の村々は膨大な借金に苦しんでいた。佐渡県は、これらの村々の再興を図るために、明治二年(一八六九)勧業卒育方を置き、地方の資産家をこれに充てた。これによって明治二年に、小田村の梶井五郎左衛門と大倉村の梶原平蔵が関村、翌三年には梶井五郎左衛門と平城平三郎が北立島村、同四年には梶井五郎左衛門が石名村の勧業卒育方に任命された。その再興方法を北立島村の場合でみると、①質流れ地・質入れ地を元金を返済して元の所有者に返すこと、②元金を返せない者には卒育方が立替えること、③この利息は三年間無利子とし以後は月一歩とすること、④証文類は卒育方で預ること、⑤農・漁業や薪炭製造に励み、酒など飲まず家業に精を出すよう勧めること、などとなっている。これによって村々は再興されたが、いっぽう借りた元金が返せない者の土地は、立替えた卒育方に質流れしていくことになった。【関連】 佐渡県(さどけん)・梶井五郎左衛門(かじいごろうざえもん)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代、資料集六)、石瀬佳弘「佐渡の地主」(『佐渡ー島社会の形成と文化』)【執筆者】 石瀬佳弘

・勘四郎町(かんしろうまち)
 勘四郎町は、現在の町名にも伝えられている。相川病院のある弥十郎町につづいて、東側の濁川左岸がそれである。鉱山道でいえば、相川病院の角を左折して、県営職員住宅のある道路の北側(左手)が勘四郎町である。『佐渡相川志』に、「慶長・元和ノ頃、京町ヨリ新五郎町迄、皆々三階屋ニ造リ、雨降リニモ往来ノ者、庇ノ内ヲ通リ、別シテ南沢・北沢・水金沢・愛宕町・空地モナク、谷々ニハ吉野造リト申シテ、大木ヲ渡シ、其ノ上ニ家ヲ立ツ」とある。建築条件からいえば、家の後ろに濁川の低地をひかえている勘四郎町は、最もわるい位置にある町すじのひとつであるから、吉野造りときくとき、この界隈が想い出されやすい。慶長十一年(一六○六)ごろの記録には、山師の名として備前勘四郎の名がみえる。同じ山師仲間の名としては、弥左衛門・外記・宗徳(惣徳)・新五郎・弥十郎・遊白(夕白)などの名もあり、これらはことごとく町名になっているから、勘四郎町の語源も、備前勘四郎の名前からきているとみてよいであろう。なお『佐渡年代記』では、慶長十五庚戌年の頃に、「南沢・北沢・水金沢・山之神辺など空地もなく、谷々には吉野作りとて大木を渡し其上に家を建──」とある。【執筆者】 本間雅彦

・観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
 観音は地蔵と並んで、ひろく民間に信仰されている菩薩の一つで、菩薩は悟りを求める人の訳とされ、聖・千手・十一面などの、各種の観世音があり、衆生の願いごとを聞くから、観世音(観音)といわれるのだという。相川町の聖観音は、二見の竜吟寺と鹿伏の観音寺、下山の神の大乗寺、石名の観音堂などに祀られている。竜吟寺の聖観音は、むかし二股岩に漂着した、順徳上皇の持仏といわれ、観音寺のものは、小倉大納言の持仏、大乗寺のものは、佐渡奉行伊丹播磨守の家老、岡林伝右衛門の持仏であったという。石名の聖観音は、安産祈願や子供の病気平癒の願かけをした。聖観音以外の、変化観音といわれる千手観音には、鹿伏の千手観音(鹿伏の瀬に寄りつく)、下相川海岸近くの観音堂(ムカデ伝説の霊山寺跡)のもの、海士町の大日堂のものなどがある。また十一面観音には、海士町の観音堂(馬頭観音の石塔もある)、入川地蔵寺の脇立の十一面観音などがある。そのほか、小川の大岩の上にある中の浜観音は漁付けをし、近くに善宝寺さんもある。高下の観音堂の十一面観音は、お産を助け沖の船の帆下げもさせた。また高瀬には、眼病をなおす目観音があり、小野見の観音堂には、達磨大師を祀り帆下げをさせ、岩谷口の観音堂は、岩谷山の洞窟の入口にあり、小木の宿根木の岩屋山につながり、犬を追いこんだら通じたので、犬守観音といっている。【関連】 馬頭観音(ばとうかんのん)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『日本石仏事典』(庚申懇話会)【執筆者】 浜口一夫

・貫属(かんぞく)
 元来は戸籍の存在する土地の意味であるが、明治期には、その人がある地方自治体の管轄下にあることを意味した。明治二年(一八六九)十二月の太政官布告によって、政府は中下大夫以下を士族・卒と称することにした。さらに禄制を改めて地方官貫属とし、地行所を上地させて稟米を下賜することにした。この時佐渡の地役人は、佐渡県貫属士族が一七○名、同卒が五七名となった。さらに翌三年十一月、政府は給米を減じるいっぽう、帰農する者には生産資本として一時給米に換えて御手当金を支給するという布告を出した。当時の佐渡県権知事新貞老は、佐渡の地役人が小禄で、他に収入の途も無いことから、帰農させることが得策と考えて勧誘に努めた。初めは抵抗していた地役人たちも、次第にその勧めに応じ、明治四年一月下旬には、全てが帰農願を提出し終え、二万四七五○両(二○○両四人・一五○両三三人・一○○両一九○人)の御手当金が給付された。これによって、佐渡の地役人で士族・卒を称する者は皆無となった。【関連】 新貞老(あたらしさだおい)・地役人(じやくにん)【参考文献】 石瀬佳弘「明治維新と地役人の動向」(『佐渡史学』一四)、本間周敬『佐渡郷土辞典』【執筆者】 石瀬佳弘

・官船(かんせん)
 奉行所所有の御船。佐渡より江戸への(主として小木ー出雲崎)運上金銀の輸送や、奉行および役人送迎用に使用されたが、その水主は渡海御用以外は陣屋門番警備を兼帯した。佐渡奉行所最初の御船は、慶長八年(一六○三)紀州において二艘(新宮丸・小鷹丸)造作せしめ、辻将監・加藤和泉に御預けとなり佐渡へ回漕した(『佐渡年代記』)。『佐渡相川志』・『佐渡国誌』などによると、慶長九年五月八日辻・加藤が御船手役として渡来し、船櫓八○挺立二艘・同六○挺立六艘・計八艘、さらに元和六年(一六二○)四○挺立御運上船(大小早船)二艘、二○挺立小早船二艘を新造し、合わせて一二艘となった。御船は海士町川の川口、御船手役屋敷の浜側の御囲場に置かれていた。渡海に使用するため、小木の木崎神社隣にも御船囲場があった。御船手役支配下の水主は当初一六○人、八○挺櫓の御船は掛櫓床に一本、一人こぎの船であつたことがわかる。『和漢船用集』では、四○挺立以上の船を大小早船(関船)、以下を小早船と区分している。正保四年(一六四七)櫓八○挺立・六○挺立の御船は操船が不便のため解船し、四○挺立大小早船二艘と二○挺立小早船二艘にし、定水主は四○人となった。宝暦元年(一七五一)さらに三○人に減らした。御船の修理・造替などの普請は、国中船大工の国役(石役)で行った。元禄四年(一六九一)に佐渡に八人の石役の船大工がいて、この大工を御大工といい、柳沢村の善左衛門が棟梁をしていた。櫓四○挺立御船長六丈三尺(一八・九㍍)・幅一丈三尺(三・九㍍)・深四尺一寸(一・二㍍)、二○挺立御船長五丈一尺六寸(一五・五㍍)・幅一丈四尺(四・二㍍)・深二尺九寸(八七㌢)。【参考文献】 西川明雅他『佐渡年代記』、岩木拡『佐渡国誌』【執筆者】 佐藤利夫

・官庁存置運動(かんちょうぞんちうんどう)
 相川町にある国・県などの諸官衙を、中央部の国仲(主として河原田)へ移転せよという運動がしばしば起こり、反対にそれを存置するための相川町と近郊の村々の防衛運動もそのつど起った。初発は明治十年(一八七七)十一月で、前年相川県が廃止され、新潟県相川支庁(初代支庁長、小倉幸光)が相川に置かれた。国仲の戸長らが県令永山盛輝に請願するなど、支庁の争奪運動が事前に激しく起った。明治十二年のときは、前年の郡区改正で佐渡が雑太・加茂・羽茂の三郡になり、郡毎に役所を置くことになったものの、財政難など理由に三郡総轄の郡役所を相川に置いた。このときも、国仲代表は上京して内務大臣伊藤博文に河原田誘致を請願。これは却下され、夷に出張所を置いた(のち閉鎖)。初代郡長は西田弥四郎。相川は高名な漢学者丸岡南 が総代となり、存置の起草文を県に提出している。明治二十年は、老巧化した相川監獄所の改築を機会に、監獄署もふくめた郡衙争奪戦が二十三、二十六年と繰り返され、二十六年十二月坂口仁一郎県会議長が、県会議決をもとに郡衙・警察署・監獄署の移転を、内務大臣井上馨に訴えた。ついで明治二十九年は、佐渡鉱山が国営から三菱の民営に移管される。相川に諸官衙があるのは、幕府と明治国家経営の鉱山があったからで、「その事業はいまや一私人の手に帰した」から、政庁を相川に置く理由はなくなったというのが国仲側の提言。過ぎて大正十五年は、郡制の廃止で県佐渡支庁(初代支庁長、関威雄)が置かれることになり、その支庁舎新設で庁舎の争奪が激しく争われ、内務大臣の内命で三松武夫県知事が実情視察に来島したりしたために庁舎の建築が遅れた。高台の元中教院跡に佐渡支庁が二万数千円の予算で建てられたのは昭和三年。そして戦後もこの争いは繰返され、相川にあった新潟地裁相川支部と相川拘置署が、昭和四十四年四月に佐和田町へ移転した。が、他の官庁は存置された。【参考文献】 斉藤長三『佐渡の諸官庁と河原田町』、野沢卯一『遭逢夢の如し五十年』【執筆者】 本間寅雄

・関東稲荷(かんとういなり)
 元村社で稲荷神社。明治六年(一八七三)に村社となる前は、関東稲荷と呼ばれた。創立は元禄二年(一六八九)とされ、間ノ山区域の五郎右衛門町(やしろの所在地)のほか、清右衛門町・惣徳町・嘉右衛門町・庄右衛門町の五町の氏神として信仰を集めた。相川の人、関東弥右衛門の勧請で、元禄のはじめごろ京都三条通四丁目の稲荷屋勘太夫という者の茶店に安置されていた御神体を、霊夢によって佐渡の現在地へ移した。もともとは関東という所の字(あざ)久安という所にあり、京都へ移る前は紀州(和歌山)の紀伊郡に安置されていたとも伝える。「関東」はそれに由来するが、この人の住んだ稲荷神社周辺が、その苗字をとって関東という地名になったとも考えられる。なお弥右衛門は鉱山の鳥越間歩の中の「助吉敷」を稼ぐ金児(かなこ)。身上を潰して大晦日の夜、借金取りから逃れるため助吉敷に入って鉱石を探していた。良鉱脈に当りばく大な富を得て立ち直り、家の作りも美々しく、平日使う印銀(貨幣)を四斗入りの油の空樽に入れて出し入れするほどだったと、『佐渡四民風俗』が伝えている。間ノ山は鉱山で働らく人のベット・タウンとして賑わった地域で、文政二年(一八一九)の記事に、「間ノ山関東稲荷、当廿三日祭礼ニ付、小供角力取組みさせ申したき旨、安岡長門(大山祇神社神官)願出」とあって、境内で小供角力が立ったりした。祭礼の「二十三日」は、神社造営の「元禄二年二月二十三日」によるものであろう。一○四段の急勾配な石段を登りつめると社殿があり、水鉢に「文政十三年」の造立年と、「中尾間歩大輔、若者中、世話人間ノ山、栄治郎」と彫られている。左門町の蓮光寺に一族の墓地があり、下戸町の屋号「関東屋」(渡部姓)は、この系譜につながる家とされる。【執筆者】 本間寅雄

・観音寺(かんのんじ)
 真言宗。相川町鹿伏にある。慶長十三年(一六○八)の建立説がある。開基年代は不明。『佐渡相川志』に「沢根村曼茶羅寺門徒」としてある。山号は「泊藤山」。霊元天皇のとき大納言小倉実起、嫡男の参議公連、二男の竹淵刑部大輔季伴の三人が違勅の罪で流され、鹿伏に謫居していたことがある。このおりの公連の歌詠に、「寒風岸に吹いて浪の聲かまびすし、鹿伏山辺北海の灘(なだ)、今日洛陽安定静かなり、心頭多くの思ひを欄干(らんかん)と涙す」とある。小倉家の紋所の「八ツ藤」が山号の由来とされる。実起の遺品とされる冠纓・扇子・振鈴・歌軸なども宝蔵している。七世紀後半、白鳳時代の金銅仏の特色を持つ銅造観音菩薩立像(新潟県文化財)は、実起の守本尊とされ、享保四年(一七一九)に当時から奉行所に提出された書状に、「唐仏之観音一体、是ハ小倉大納言実起公守本尊ニテ拙僧方ニ納メラレ置候」とある。像高一五・三糎の一鋳造りで美しい小像。本堂裏には、実起と公連の板碑型の墓碑が残っている。風化していまは判読が難しいが、「故左遷人藤原氏之墓」(実起)「藤原氏一舟之墓」(公連)とあったとされる。どちらも戒名とは異なる墓碑銘。京風の庭園の面影を残す庭石や泉水が近年まで残っていて、実起が慰さみに築いたものと伝えていた。【関連】 小倉実起(おぐらさねおき)・小倉公連(おぐらきみつら)・観音菩薩立像(かんのんぼさつりつぞう)【参考文献】 「佐渡の秘宝」(佐渡博物館)【執筆者】 本間寅雄

・観音寺(かんのんじ)
 下寺町に残る曹洞宗の寺。山号は圓通山。本尊は聖観音。長野県根津の定律院の末寺で、慶長十九年(一六一四)の開基とされる。大坂冬の陣のあった年で、開山は定律院七世の年室宗長。その弟子の蔵山広沢という僧が来島して開基した。広沢は正保一年十一月(一説に元和五年十一月)に没したといい、この人に帰依した後藤寛翁(法号)という越後の人が、寺を寄進したと伝えている。隣接する法然寺(浄土宗)の北東隣りにあった金昌寺(慶長十九年開基)は、維新のとき廃絶したが、観音寺の兄弟寺(本寺が定律院)で、その寺跡が観音寺の墓地となって残っている。寺宝に天保十年(一八三九)、紀州徳川家から寄進したと伝える千手観音像があり、いまも残っているが、その厨子が精巧な細工で、近隣の評判であった。江戸時代の記録があまり残っていないが、相川曹洞宗の「学問寺」の性格の濃い寺だったとのいい伝えがある。地役人中山四郎右衛門・宇佐美忠右衛門・藤井米右衛門、医師の本多勇仙などの檀家寺として知られる。【執筆者】 本間寅雄

・観音堂絵馬(かんのんどうえま)
 下山之神町の真言宗大乗寺境内にある。堂内に三十三観音の像(木彫)がまつられている。その中心に安置される観音像は、佐渡奉行の伊丹康勝の用人として来島した岡林伝右衛門義見(留守居役)が、寛永年間(一六二四ー四三)にここに納めたとされ、義見も相川で没してこの寺に葬られた。まわりに三十三観音がまつられるのは享保年間(一七一六ー三五)のことで、筆頭檀家だった大間町橘屋の山本庄兵衛らが発願して、像の寄進者を集めた。同寺にある「西国巡礼観音之施主並堂内造営助成之檀越」の中に、そうした人たちの一覧が記してある。この堂の特色は、拝殿に奉掛されたたくさんの絵馬で、慶安二年から元禄期(一六四九ー一七○三)の古いものが多い。たとえば慶安二年の「乗馬」「竜退治」、慶安三年の「はだか馬」、慶安五年の「牛若」、明暦二年の「つなぎ馬」、元禄八年の「合戦図」などで、一括して町の指定文化財になっている。多く武士階級の人たちが奉納したものだ。このころはまだ絵馬信仰がしもじもまではおよんでいないらしく、その図柄から庶民の切なる願いがよみとれるようになるのは、江戸時代も後期のころまで待たないといけない。絵馬は彩色や画題の美しさ、志向の多様さもあって、堂内を一種の美術画廊にしている。相川では江戸沢町の塩竈神社、下山之神町の大山祗神社などにも、かってはたくさんの絵馬が見られた。【関連】 相川の絵馬(あいかわのえま)【参考文献】 『佐渡相川の絵馬』(相川郷土博物館)【執筆者】 本間寅雄

・観音菩薩立像(かんのんぼさつりつぞう)
 相川町鹿伏の観音寺にある。県指定文化財(彫刻)。総高一七・五糎、像高一五・三糎の小像で、蝋型原形から一鋳してある。頭部は三面頭飾で、右手で宝珠をささげ、垂下した左手で天衣の半ばをつかむ。この手法は、奈良法隆寺の木造観音菩薩立像(百済観音)にルーツが求められる。顔は小さく痩身で、丸くふくらんだ頬、いくぶん吊り上がる眉、ほほえみを浮かべた丸顔や、体にまとった薄く、流れるように垂れ下る衣文が、さわやかな律動感をあたえる。慶応大学の西川新次教授(故人)は、装身具の形、鋳造技術なども合わせ考えて、中国の隋の時代の彫刻を祖形とし、わが国での簡素化と整理が加えられて作られた、七世紀後半白鳳時代の金銅仏の特色をあらわしている、とする。正確には「銅造観世音菩薩立像」で、昭和五十九年に県文化財になった。観音寺から貞享四年(一六八七)二月に、羽田組地方役所に出された願書に「唐物の観音一体」とあって、小倉大納言実起卿(天和元年配流)が御守り本尊としていたのを、嫡男の公連卿が菩提寺の当寺に奉納した。本堂再建の借銀返済のため、実起卿の命月日に当る三月十七日から三七日の間開帳し、その収入をもって返済に当てたい、としてある。宮廷流人・実起が奉持していたことがわかる。昭和三十一年十一月から、東京国立博物館で開いた「日本金銅展」にも出品されたといい、相川町二見の竜吟寺に宝蔵される「金銅聖観音菩薩立像」(国指定)とともに、佐渡の小金銅仏を代表する一つである。【関連】 観音寺(かんのんじ)・小倉実起(おぐらさねおき)・小倉公連(おぐらきみつら)【参考文献】 西川新次「佐渡相川町観音寺の銅造観音菩薩立像について」【執筆者】 本間寅雄

・願竜寺(がんりゅうじ)
 浄土真宗東本願寺派。大間町。慶長七年(一六○二)二月開基。明専河原田郷鶴子に建立と『佐渡相川志』にある。『佐渡国寺社境内案内帳』には良典、田中村に建立とある。このことは当寺什物、祖師像裏書に「澤田郡川原田郷鶴子村願龍寺願主明専」、また七高僧裏書「相河村片貝山願龍寺願主良伝(良典カ)」によるものと考えられる。最初から大間にあったのでなく、宝永二年(一七○五)以降で、相川では弥十郎町、紙屋町順光寺を合寺して正保年中に紙屋町に移り、三転して現在地にきた。青森県津軽の十三湊に願竜寺がある。同寺の古過去帳に「当山雪典法師は生国佐渡国相川、大間願龍寺長子也。慶長元年四月、当国十三湊へ留錫、当山を開き願龍寺を創立、山号を深津山と称し候なり」とある。佐渡願竜寺は慶長七年創立とあるから、鶴子の道場時代に十三湊に渡ったことになる。古過去帳の記述は、後年、伝承の備忘として記したものと思われる。十三湊願竜寺門前に佐渡屋忠兵衛家があり、同寺の重檀家で商人であった。鶴子銀山時代から、津軽の米や木材が運び込まれたとみられる。忠兵衛もまた佐渡からの移住であろう。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡国寺社境内案内帳』、佐藤利夫「近世前期における佐渡の廻船商人」(『日本海地域史研究』一輯)【執筆者】 佐藤利夫

・帰化植物(きかしょくぶつ)
 帰化植物とは自然の力(風や渡り鳥伝播)によらず、人の力(輸入品や人体に付着伝播)により外国から持ちこまれ、野生状態になった植物をいう。長田武正の『日本産帰化植物仮目録』(一九七六)に七一六種、近藤治隆の『佐和田町の帰化植物リスト』(一九八八)に八九種、中川清太郎の『佐渡産帰化植物仮目録』(一九八四)には一八三種が報告されるが、今後の佐渡も国際化・都市化によって、さらに増加することが予想される。明治維新にはじまる日本の近代化と戦後の近代化は、帰化植物の数を急激に増加させた。佐和田町における帰化率(全植物数に対する帰化植物の種数の割合・%)は、一九八八年調査によれば、路傍や公園で三三ー四八%、校庭や空地で二六ー三六%。この佐渡でも、人里で目にふれる植物の四分の一ないし二分の一は帰化植物である。オオイヌノフグリ・タチイヌノフグリ・セイヨウタンポポ・オニノノゲシ・ノボロギク・オランダミミナグサ・アメリカセンダングサ・ヒメムカシヨモギ・オオアレチノギク・ヨウシュヤマゴボウ・エゾノギシギシ・ハルジオン・ヒメジョオン・コニシキソウ・ノジシャなど、いずれも帰化植物で、平成の現在、人里の空地や道傍を広く占有している。【参考文献】 長田武正「帰化植物」(『雑草の文化史』保育社)、近藤治隆「帰化植物」(『佐和田町史』通史編)、中川清太郎「佐渡の帰化植物」【執筆者】 伊藤邦男

・黄烏瓜(きからすうり)
【科属】 ウリ科カラスウリ属 佐渡には赤実をつけるカラスウリは野生せず、黄色の実をつけるキカラスウリが野生するが、単にカラスウリと呼ぶ。開花は夏の夜。夕方から咲きはじめ、午後八時頃に満開、夜明け頃にしぼむ。カール状に、内にまいた花びらがほぐれて開く。花冠の先が白いレースとなり、糸が扇のようにひろがる。雌雄異株。花は強く香り、夜の蛾を誘って受粉する蛾媒花。青い実はお盆の頃からみられるが、長さ一○㌢ほどの楕円体。実の呼び名は、カラスノフングリ(小川)・カラスビ(相川)・フンドン(高千)・フングリ(外海府)とさまざまである。子どもたちは、実の中をくりぬいて柄をつけヒシャクにする。また目・鼻・口を彫って、なかにローソクを立てて、お化けチョウチンにして夏の闇の中で遊んだ。若い実は塩漬け、味噌漬けとして食べた。シモヤケの手に、実を煮てドロドロにして塗って手当てした。肥厚した根は、径二○㌢・長さ一㍍にもなる。根のデン粉は、クズより歩止りはよかった。腰の強いカラスウリデン粉は旨かった。白粉は天瓜粉、皮膚につけて汗もを治すだけでなく、風邪の熱を去るとされ、乳にまぜて飲ました。【花期】 七~八月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男

・菊咲一華(きくざきいちげ)
【科属】 キンポウゲ科イチリンソウ属 早春花キクザキイチゲ(菊咲一華)、キクザキイチリンソウともいう。花の色は白が多いが紫花をルリイチゲという。清楚で凛と咲き、あっという間に姿を消すスプリング・エフェメラル(春のはかない短命の植物)で、生態上〈春季植物〉である。島の南端小木岬の深浦(小木町)ではサムサムバナ(寒々花)と呼ぶ。粉雪の散らつく風花の日にも咲く。またこの花をヨメナカセ(嫁泣かせ)ともいい、嫁たちの春の山入りを告げる花である。岬の春は早い。沢辺に雪が残り、粉雪のちらつく寒い日があってももう春だ。枝々にツバキはもう花をつけ、キクザキイチゲも咲いているではないか。「ヨメナカセが咲いたのー 山入りだノー」。の顔はきりりとひきしまる。一年間の必要な柴木づくりは嫁仕事。炊事・風呂以外に海苔を乾かすため多くの柴木が必要であった。ヨメナカセのよび名から、嫁の怨念を思うかもしれぬ。怨念ではない。嫁仕事といいながら今日の山は寒かろう。うちの嫁も寒かろう。嫁へのいたわりが、この名をうんだ。【花期】 三~五月【分布】 北・本(近畿以北)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』、同『佐渡山野植物ノート』【執筆者】 伊藤邦男

・北狄(きたえびす)
 慶長五年(一六○○)の検地帳に「えひす村」とあり、苅高ほぼ二○町歩で、「垣の内」の地名もみえ、須恵器も出土。元禄七年(一六九四)の検地帳では、田六三町四反余、畑二六町九反余で、水田開発の早さがわかる。小物成は、明暦三年(一六五七)の御年貢御地子小物成留帳に、烏賊八○○枚、串貝八○盃のほか、若布・海苔・山椒・稗など。宝永三年(一七○六)の年貢割付帳には、船数二五艘とある。集落の北側に流れる北狄川の上流に、寛永元年(一六二四)川内鉱山、享保十一年(一七二六)には吉兵衛鉱山が開発された。また大正十五年に水力発電(一一四㌔㍗)が可動し、東北電力により運転されている。南側中腹にある観音堂に、石英安山岩を丸彫りした観音坐像が祀られる。真言宗智山派の胎蔵寺は、違勅の罪で流された伊勢神宮の祭主、藤波友忠の遺物などがある。羽黒神社は、『佐渡神社誌』によると天正十六年創立で、祭神は倉稲魂命。祭りは十月十九日。南側台地上には金泉中学校があり、田園が広がる。沖合には周囲二○○㍍、高さ二○㍍程の揚島へ橋がかかり、尖閣湾(国指定名勝)を一望できる。六月頃は岩ユリが咲き乱れ、昭和二十六年には地区民の出資で、尖閣湾揚島観光株式会社を設立し、「揚島水族館」があり、シーズンには透視船などで賑わう。【関連】 北狄の生貫観音(きたえびすのはえぬきかんのん)・胎蔵寺(たいぞうじ)・尖閣湾(せんかくわん)【参考文献】 『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集一)、『新潟県の地名』(平凡社)【執筆者】 三浦啓作

・北狄城址(きたえびすじょうし)
 北狄には「城」に関する地名はない。ただ伝承として、二か所の城があったとされている。一か所は、揚島の上(金泉中学校脇)の「鎌倉殿」と呼ばれる所、もう一か所は、集落の北端小泊という澗の上の段丘上、「松ケ崎殿」と呼ばれる所である。〔鎌倉どん〕中学校の建つ第二段丘(標高五○㍍)先端部に、「屋敷」という地名の畑地付近から、この南側の「鉄砲塚」という、小山の付近までが屋敷址とみられる。「鉄砲塚」の脇には「鎌倉」の地名もある。一帯から須恵器や珠州焼きなどが採集される。北狄の村は中世大野殿の領地で、その一族本間源太左衛門という人が支配したという伝承をもつ。そうした武士の居館があったものか。〔松ケ崎どん〕小泊の澗の上の標高五○㍍の段丘突出部にある。北側を北狄川が流れる。先端部に五○㍍×四○㍍ほどの小郭があり、背後の尾根続きを空堀で切る。郭の後端に土塁が残る。後方は広い水田地帯となっており、この水田を多くもつのが北見氏である。北狄の慶長ころの中使が将監という人(北見市左衛門)であり、元禄ころも市左衛門が小泊の水田を一番多く持っている。すると城主は北見氏であったかもしれない。【関連】 鎌倉どん遺跡(かまくらどんいせき)【参考文献】 『金泉郷土史』、山本仁『佐渡古城史』【執筆者】 山本 仁

・北狄のトベラ林(きたえびすのとべらりん)
 相川町北狄にトベラの自生が発見(一九九五)され、日本海側の北限(小木町犬神平)が北進された。トベラ(トベラ科)は、暖地系の常緑小高木で雌雄異株。花期は六月。枝先に多くの花をつけ、はじめは白色、やがて濃黄色に変る。花は強烈に香り、枝葉を焼くと強烈な悪臭を発する。和名“トベラ”は“扉にはさむ”意味のトビラノキがなまったもので、西南日本では大晦日の夜、枝葉を扉にはさみ来る新年の疫鬼払いをしたことに由るが、佐渡ではこのような行事はしない。従来のトベラの北限は、太平洋側は岩手県の広田湾の青松島。日本海側は能登、石川県の舳倉島。トベラの自然分布は越後になく、佐渡が島の小木町犬神平だけであった。このトベラが発見されたのは、昭和二十九年(一九五四)。発見されたトベラは大きく、幹は根元で二本に分かれ、樹高五㍍、樹冠幅八㍍にも広がって鬱蒼としていたが、その後この株は台風で倒れ枯死した。現存するトベラは、村の段丘上の一株のみで、胸高直径一八㌢と一四㌢の二支幹に分かれる。発見されたトベラは、北狄の北東向きの段丘(吹きつけコンクリート崖の上縁)、海抜四○㍍、三株づつ距離をおいて三か所に生育し、合計九株。樹高四㍍、幹径六ー二○㌢、樹冠四×四㍍で、推定樹齢四○年以下。北狄の斉藤長三郎の所有地である。ヤブツバキ・シロダモ・マサキ・ヤダケが混生する。日本海側の北限の希産の林として保護したい。相川町として、町の天然記念物に指定したい。【参考文献】 本間建一郎「佐渡におけるトベラの自生」(『植生調査報告書』)、伊藤邦男「犬神平のトベラ林」(『新潟県のすぐれた自然・植物編』)、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】 伊藤邦男

・北片辺(きたかたべ)
 現在(平成七年)の世帯数六八戸、人口二二四人。元禄七年(一六九四)の検地帳では、戸口七五軒、人口は三二○人余である。この集落は近世のはじめ頃、鹿野浦からの移入者と石花川岸に住んでいた炭釜新町の人たちにより、その姿を整えたといわれ、集落のほぼ中央部に生浦城跡があり、付近には垣の内地名も残る。言い伝えでは、生浦治郎右衛門家がその草分けという。また石花川河口の北片辺寄りからは、馬場遺跡も発掘され、また河口付近からは、古代製塩遺跡や古い丸木舟も出土している。生浦崎は北片辺の美しい岬である。岬の突端の巌上に祠があり、漁の神、リュウゴンさん(龍王大明神)を祀っている。祭日は六月六日、各家で赤飯をたき、夜は岬で踊りがたった。昔、放牧の牛馬を襲った山犬狩りには、鍬・鎌・竹槍などで山犬を追い出し、生浦崎に追いつめ退治したという。片辺は、昔から放牧の繁殖牛の盛んな所である。海府方面の牛市らしい市のはじまりは、大正十五年頃の生浦崎市で、その後石花や千本入崎、そして北川内市へと移っていった。生浦崎のつけ根の旧保育所跡に、民話劇の名作「夕鶴」の碑(昭和六十二年秋)が建っている。原作者木下順二の揮毫になるものである。当地は昔話伝承の密度の濃い里であった。氏神の羽黒神社は坂城にあり、倉稲魂命を祀る。大山咋命を祭神とする三王権現を合併し、祭日は四月十五日である。アワビ食わずの伝承をもつ。【関連】 藻浦崎(もうらざき)・夕鶴の碑(ゆうづるのひ)・馬場遺跡(ばんばいせき)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、記念誌『夕鶴の碑』、『佐渡島昔話集』(三省堂)【執筆者】 浜口一夫

・北狄の生貫観音(きたえびすのはいぬきかんのん)
 相川町北狄字畠福にあり、観音堂内に安置されている丸彫石造の聖観音坐像。北狄の北見五郎作所有地であることから、一名五郎作観音ともいう。生貫は、岩盤から続きで作り出されたことを言うが、実際は観音堂の床下にある別の台石上に安置された丸彫りであり、蓮華座から一石の約二㍍の大作であることから、そう言われるようになったものであろう。丸彫石仏では佐渡最大。蓮華座の高さは低く、約二○㌢。像高は一八一㌢。左手に未敷蓮華を持ち、右手は肩まであげて一指と二指を結ぶ。頭上は宝髻を結い、両耳は中ほどに山形の頭髪をまく。彩眼。面相はすこぶる写実的で、大和の長谷寺弥勒菩薩(木造)の「武州住人鑁上人作 天正十六年四月」と、銘があるものに共通するという(奈良佛師 太田古朴師教示)。両肩の天衣のかぶりは大きく、腰の裳は前垂れ部が長く、蓮弁を覆っている。蓮弁は両側から折り返す。正面全体は後年の彩色がある。石質は石英安山岩質で、銘はない。元禄七年(一六九四)の胎蔵寺書上には、観音堂建立を慶長三年(一五九八)とする(『金泉郷土史』)ことなどから、桃山時代頃の作であろう。当初、北狄の胎蔵寺持ちの堂であったが、現在観音講が管理し、一月十八日と七月十八日が祭日である。言い伝えでは行基菩薩作として信仰があつく、村の凶事には汗をかいて知らせるといい、畑野町の長谷寺大地蔵と姉妹で、生貫観音は姉という伝えもある。【執筆者】 計良勝範

・北片辺城址(きたかたべじょうし)
石花川に面した北片辺段丘先端(標高五○㍍)に、「勘四郎城」(大谷勘四郎家所持の畑であった。現在水田)と呼ぶ一郭がある。郭は八○㍍×八○㍍ほどのやや梯形をした形で、東側に「早乙め沢」、西側に古川の落ちる小さい沢が入り、後端は堀状の水田(沢見田)によって限られている。この郭の北側は海岸に向って細く突き出た地形で、ここは「新左衛門城(北条新左衛門持ちの畑で今は鉄塔が立つ)と呼ばれ見張所でなかったかという。城地は、現在は「藻浦の上」と呼ばれているが、江戸時代の絵図の中では、郭の前方上部に「城ノ上」とみえる。石花城配下の家臣の城とみられ、城主は藻浦左京(現在次郎兵衛)でなかったかと思われる。この家は村の八幡社をもち、「上の大屋」と土地の人から呼ばれていた。【参考文献】 山本仁「北片辺城址発掘調査報告書」、同『佐渡古城史』【執筆者】 山本仁

・北川内(きたかわち)
 現在(平成七年)の世帯数は六八戸、人口は一九九人である。宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』では、家数三八軒・人口四四九人である。北川内村は、近世前半までは川内村または河内村と記されていたが、正徳五年(一七一五)の山境絵図などに北川内村と記したものが見え、文政年間(一八一八ー二九)以降北川内村が一般的となった。桜川の右岸段丘には、中世における田中氏の居城跡があり、集落北側の源兵衛川(または平城川)の右岸には、本間勘解由左衛門の居城といわれる平城跡がある。北川内に、現在の高千家畜市場ができたのは昭和十年である。佐渡きっての牛の生産地を背景に、生産地市場として栄えてきた。市日は四月・七月・十一月のそれぞれ二日である。市日には島外からの家畜商人の顔も見える。北川内は、昭和初期における梨やリンゴの果樹園栽培の特産地であった。海府方面の果樹園の草分けは、北川内の山本一三と入川の池野甚之丞である。昭和のはじめころ、当時の農業技術員伊瀬亮一(二宮の人)のすすめによるものである。西三川の佐々木伝左衛門家の果樹園などを熱心に見学し、栽培技術と知識を習得した。熊野神社は、かっては白山とか十二権現であったという。ご神体は寄り神の伝承をもち、浜に光っていた白石を祀ったものだという。祭日は四月十五日。小獅子舞が奉納される。【関連】 牛市(うしいち)・北川内の祭り(きたかわちのまつり)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 浜口一夫

・北片辺平城址(きたかたべひらじょうし)
 平城は平地に置かれた武士の居館である。南片辺と北片辺の境付近の海辺に、通称「平城」と呼ぶおよそ六○平方㍍余の広さの場所がある。元禄検地帳にみえる「城ノ内」とか「城の堀」などの地名は、ここを指すものと思われる。戦国時代のころ、ここに南片辺の村を代表する石花の家臣が居住したものであろう。その平城の主が本間五郎左衛門でなかったかと考えられる。本間五郎左衛門は、石花殿の四人家老の一人といわれ、石花の住人であった。戦国のころ五郎左衛門は南片辺のうちに新開地を広げ、南片辺の有力者として住みついたものであろう。上杉氏の佐渡支配により、五郎左衛門をはじめ各地の城に住んだ人たちは、城の地から他へ移らなければならなかった。この時五郎左衛門は平城を出て、すぐ近くの「居屋敷」に移ったらしい。そして代わりに「平城」の場所へ入ってきたのは、中使をつとめた惣左衛門(本間)や平左衛門(平城)らであったようである。元禄検地帳では、この場所は「山岸 惣左衛門」(二筆)「浜 兵左衛門」「浜 次郎右衛門」となっている。五郎左衛門に代って近世の村の代表者となった者たちの屋敷となったのである。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四)、山本仁『佐渡古城史』、同「北片辺城址発掘調査報告書」【執筆者】 山本 仁

・北河内城址(きたかわちじょうし)
 後尾と北河内の境を流れ、海に注ぐ河内川(桜川)の河口に近い段丘の舌状部で、「竹ノ腰」の地名をもつ場所にある。「田中城」と呼ばれているが、後尾の田中多仲(左衛門四郎)家の所有地であるための名称であろう。城主は不明であるが、あるいは平城にいた本間源兵衛が石花に移ったのち、代わって村の親方となった人の城であったかも知れない。それがだれであるか。元禄七年(一六九四)検地帳に、「浜」という所に二筆の屋敷を所有している将監という人がいるが(間野内庄次郎家あたりか)、そうした人が戦国期末に村の親方となり、城を持つようになったものであるかもしれない。城は海辺に向って突出した、標高五○㍍ほどの舌状部にある小規模なものである。郭の形態は砲弾状をした畑地で、先端部から末端部までが三○㍍、中央部幅が二○㍍の単郭で、前面に脇郭がある。末端部は空堀で横断している。郭の南側から末端縁(東側)にかけて、土塁が残されている。北側には、清水ケ沢という沢が入る。なお北河内村の一里ばかりの山奥に、「城ケ平」という地名がみられる。上部は官林、腰は共有林で、もともと一四人山(現在一二人)であったという。「河内城」の山城か「平城」の山城か、今後の調査に待たなければならない。【参考文献】 山本仁『佐渡古城史』【執筆者】 山本 仁

・北川内の祭り(きたかわちのまつり)
 祭日は四月十五日。その宵宮に小獅子舞が出る。鎮守は熊野神社(明治七年までは白山神社)で、かっては十二権現とも呼ばれていたという。この小獅子舞は、明治の初年頃、浜野栄蔵(家号作平)が赤泊村より習得してきて、若い衆にしこんだものといわれ、一説には赤泊ではなく赤玉(花笠踊りの小獅子舞)ではないかとの説もある。十四日の夕方、小獅子舞の舞い手は浜で潮垢離をとり、宮守り宅にて衣装を整える。八時ごろ、境内から太鼓が打ちならされると、これにあわせ翁姿の「豆まき」が登場し、両手をひろげ、後あしをはねあげ、はげしく土俵のなかで踊る。これは小獅子舞の一種の露払いなのであろうか。やがて小獅子の舞が、神官のお祓いをうけ、境内の踊り場(土俵場)で踊る。小獅子舞に付随し、「つぶろ」と「棒振り」も出る。以前は「馬つかい」(木製の馬の首に鈴がわりに当百銭をつけ、それを手首にかぶせ使う)も出て、棒振とともに踊り場の混雑を整理したという。このほか、大太鼓・長刀なども出た。翌十五日の本祭りには、小獅子以外のそれらの芸能が、各家々を門付けしてまわった。【関連】 熊野神社(くまのじんじゃ・北川内)【参考文献】 『ふるさと』(新潟県教育委員会)、『佐渡の小獅子舞』(新潟県教育委員会)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 浜口一夫

・北河内平城址(きたかわちひらじょうし)
 北河内の北端、立嶋との入会地付近に住んでいた村の親方(開発名主)の一人本間源兵衛は、戦国期末ころ、屋敷・畑・かや野など子方百姓に貸して石花へ移っていった。この源兵衛のいた屋敷が平城と呼ばれていた。およそ八○平方㍍ほどの区域である。源兵衛が武士的身分をもった百姓であったことを示している。明治の村絵図面をみると、平城の地は「そり畑」の地名をもつ畑となっており、勘解由左衛門(本間勘十郎ー熊野神社社人)持ちとなっている。そして、そり畑と接続する海側の「あかうど」という地名の、およそ四○○平方㍍の水田は、源兵衛持ちとなっている。平城の脇を流れる川は平城川(源兵衛川)と呼ばれ、源兵衛が所有していた水田の用水源でもあった。源兵衛が石花の家臣として石花へ移った後は、一族とみられる勘解由左衛門が平城のあるじとして入り、のち熊野権現を勧請し、現在の宮の前の「平の前」へ移ったものだろう。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四)【執筆者】 山本 仁

・北小浦民俗誌(きたこうらみんぞくし)
 昭和二十二年(一九四九)に柳田国男によって設立された民俗学研究所の「初期の事業」の一つとして、「全国の隅々の、最も世に知られない小地域の採訪記録を世に残す」ために計画された「各地民俗誌」の一冊として、昭和二十四年三省堂より刊行。昭和十二年の春と秋の二度「離島及び沿海諸村における郷土生活の調査」として、海府を訪れた倉田一郎の採集手帳をもとに柳田国男が著述したもので、柳田の著した唯一の民俗誌である。この記述にあたって、柳田は一度も現地に赴かず倉田の手帳から自己の仮説に基づき取捨選択し、再構成してこれを著しているところに、民俗誌の記述をめぐる論議がある。柳田の大正九年六月の佐渡の旅で得た知見が随所にとりいれられており、あとがきでも「倉田一郎君を勧めて、前後二度までもこの地方をあるかせ、その手帳を誰よりも先に精読して感歎し、さらに全国方言集の一冊に、『海府方言集』を出すことにしたのも、隠れた一つの動機には、こういう古い心残りが働いているのであった」と記し、さらに「佐渡の内外海府は、民俗学的に興味の多い土地である」と結んでいる。【関連】 佐渡海府方言集(さどかいふほうげんしゅう)・柳田国男(やなぎだくにお)【参考文献】 篠原徹「世に遠い一つの小浦」(『国立歴史民俗博物館研究報告』二七号)、福田アジオ編『柳田国男の世界ー北小浦民俗誌を読む』、岩野邦康「『北小浦民俗誌』にみる前提としての民俗学」(『日本民俗学』二一一号)【執筆者】 池田哲夫

・北沢窯(きたざわがま)
 昭和四十八年(一九七三)に窯元有志により、共同組合設立の必要性が話し合れた結果、設立計画がまとまった。全窯元が集まることはできなかったが、伊藤赤水・清水文平・山本鮎川・岩崎徳平・長浜数義の五名が、発起人となって設立を申請し、四十九年一月十一日付で、相川無名異焼共同組合が認可された。設立の趣旨は、①陶磁器の共同生産②経済的地位の改善③事業に対する経費・技術の向上④福利厚生の推進、が大きな柱となる。そして、組合の共同事業「北沢窯」が発足したのである。理事長には清水文平、専務理事に山本鮎川がつき、二人は自宅の窯から離れて、北沢窯の運営にあたることになった。北沢窯は家内工業的な窯業から、近代工業的な運営に改め、従業員を雇って分業制を確立し経営している。島内の若者ばかりではなく、島外からの従業員希望も多く、腕を研いて巣立って行った者も見受けられる。即売会に出品するなど、販売に懸命な努力を続けており、発展に期待が持てる。【関連】 無名異(むみょうい)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 佐藤俊策

・北沢火力発電所(きたざわかりょくはつでんしょ)
 明治四十一年(一九○八)に完成した佐渡で最初の火力発電所。佐渡鉱山では、明治三十三年に高任選鉱場に水力発電所を設置し、電灯用の電力を供給した。ついで明治四十一年、北沢の製鉱所構内に出力五○○㌔㍗のスチームタービン一基を備えた火力発電所が設置された。これは、五○㍗の電球一万個分に相当する発電施設で、これによって各工場の小さな蒸気機関が電動機に改められた。大正二年(一九一三)の報告によると、汽缶室・タービン及び発電機室・エコノマイザー室の三棟からなり、汽缶はバブコックウイルコックス会社製、発電機は神戸三菱造船所製で三三○○ボルト、82・5アンペア、500㌔㍗とある。その後さらに施設が増強されて、昭和初年頃の記録には、気力がユングストロームタービン・パーソンスタービンで、出力一八○○㌔㍗となっている。現在は三棟の内汽缶室のあった建物(煉瓦造・地下一階地上二階・切妻造・瓦葺四八七五坪)だけが当初の外観のまま残され、ゴルフ練習場の事務所として活用されている。【関連】 高任水力発電所(たかとうすいりょくはつでんしょ)・大間発電所(おおまはつでんしょ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『新潟県の近代化遺産』(新潟県教育委員会)、西村啓造「佐渡鉱山製煉法報告」(東京大学理学部)【執筆者】 石瀬佳弘

・ 北沢川(きたざわがわ)
 佐渡奉行所のあった上町台地の北側を流れる川。川口南側は小六町、北側は炭屋町。中流域に坂下町・北沢町がある。上流を古くは銀山川、川口部を濁川とよぶ。北沢の由来は相川町が成立してからと考えられ、もとは南北、羽田村と小川村の入会地を流れる川で、銀山地域に間山があり、鉱山地域の中心部を流れる間川から相川となった。元禄七年相川町中畑屋敷検地帳には、北沢町に三人・屋敷五筆、坂下町二七人・四八筆、濁川町二三人・三五筆と記載されている。『佐渡相川志』には、それぞれ(北沢)「川原ノ両側、先年買石屋敷ニテ若狭源兵衛ら大買石一軒人数百四人余」、(坂下)「橋、長サ四間・幅一丈二尺、公儀ヨリ修復」、(濁川)「川両側石垣公儀普請ナリ。慶長以前ハ石垣ナシ」とある。濁川の北側に大間番所へ流れでる川筋があったが、慶安二年(一六四九)の洪水で濁川に合流した。北側台地にかけて大買石の屋敷が並んでいた。『佐渡風土記』には「越前の菰かぶりや庄内の駄賃持がおおぜい来て、北沢に居住する」(元和五年)の記事がある。明治四年、北沢に洋式の水銀製錬法による製鉱所、昭和十年代には、鉱石処理用の東洋一の浮遊選鉱場が建設されたが、戦後、企業縮小で施設は撤去された。【関連】 浮遊選鉱場(ふゆうせんこうば)・北沢町(きたざわまち)【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)、『新潟県の地名』(平凡社)【執筆者】 佐藤利夫

・北沢町(きたざわまち)
 市街地の北寄りを流れる濁川のすこし上流を北沢川と呼ぶ。その川沿いの氾濫原にできたのが北沢町である。北沢の名は、南の間切川(赤川)の谷あいの南沢に対するもので、いずれも山から平地への出口に位置する。江戸後期の『佐渡名勝志』によると、町の長さ二五間、道幅七尺、建家一○軒、人数五五人とあって、当時から狭い町域であった。宝暦(一七五一ー六三)の書『佐渡相川志』では、町の長さは七八間と約三倍も長かった。さらに「元禄ノ検地ニ、下畑一畝二歩・町屋敷二反六畝十四歩。此所今川原ノ両側先年買石屋敷ニテ、若狭源兵衛・越中清兵衛・三河多兵衛・近江徳助・越中又兵衛・加賀彦左衛門各大買石一軒人数百四人余、今ノ青庄屋ノ跡ヨリ入込、源蔵ト言フ大買石アリ、依テ総源寺ノ出崎ヲ源蔵ケ崎ト言フ。」とある。つまり買石業者の集団居住地であったが、現況では住民はいない。現在は旧浮遊選鉱場跡に、相川町無名異焼組合・相川ゴルフセンター・観光バス駐車場・ゴールデン佐渡売店がある。北沢川の下流を濁川と呼ぶのは、買石屋たちが経営していた床屋や勝場の排水によって、濁水となっていたからである。ただし、いまではかなり上流まで濁川の名が用いられている。【関連】 北沢川(きたざわがわ)【執筆者】 本間雅彦

・北立島(きたたつしま)
 この集落は、もともとは立島という名の村だったが、享保(一七一六ー三五)のはじめ頃から、小佐渡海岸の立島と区別するため、北立島と呼ぶようになった。村の草分けは、近世初期の中使蔵見源六郎といわれている。宝暦年代(一七五一ー六三)のものといわれる『佐州巡村記』には、村の家数四五軒、人数二四四人となっており、現在(平成七年)は世帯数五九戸、人口一四七名である。立島銀山の開発は、寛永八年(一六三一)前後といわれ(『高千村史』)、『佐渡年代記』には、承応三年(一六五四)の廃山再開の記事がみえる。また明和六年(一七六九)の村絵図(北立島区有)や、文化年間(一八○四ー一七)の「佐渡一国海岸図」などにも、北立島銀山坑口の記載がみえ、近世における断続的な稼業のようすがうかがえる。維新後の北立島鉱山の開発は、大島高任が佐渡鉱山の局長時代の明治十八年からで、二十二年に鉱山は大蔵省から宮内省に移管され、二十九年には三菱合資会社に払下げとなる。同四十五年には、入川・立島坑を合わせて高千坑(高千支山)と改称される。なお立島坑においては、大正の初年、選鉱場より大島海岸までの間に、蒸気力による単線鉱索を新設しその設備を整えた。閉山は昭和十八年十二月である。熊野神社は「宝暦寺社帳」によると、慶長三年(一五九八)の勧請という。もとは十二権現といい高ツコウにあって、沖を通る船が帆を下げぬと船止めをしたという。祭日は四月十五日、鬼太鼓が奉納される。この鬼太鼓は戦後、千本から習得したものだという。【関連】 高千鉱山(たかちこうざん)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、田中圭一『先駆ける群像(下)』(刀水書房)【執筆者】 浜口一夫

・北田野浦(きたたのうら)
 海府一帯では大きな集落で、現在(平成七年)世帯数は八六戸、人口は二三八人である。宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』には、家数八五軒・人口四一○人となっている。氏神の御礼智神社は天正十六年(一五八八)の勧請(『佐渡国寺社境内案内帳』)で、社人は金子六兵衛である。ご神体は浜に流れ寄った杉の株で、これを見つけた草分七人衆の一人である六兵衛と庄次郎がとりがちになり、のこぎりで分けようとしたら血がにじんだので、あらたかなものと思い、神に祀ったという。そのため氏子は正月には杉葉を焚かず、産後は杉の箸を使わなかったという。明治三十五年にこの御礼智神社に、北山権現や白山権現などを合祀した。祭日は四月十五日。宵宮には町無形文化財の花笠踊が奉納される。花笠踊は、まず宮守りの宿で一庭舞い、渡り太鼓で神社へむかい、二庭舞い、元宮跡、踊り場、西方寺へと移り、一庭ずつ踊る。小野見川に面する段丘北端に「城ノ鼻」と称する中世末期の城跡があり、城主は京極殿と掃部殿といわれ、氏神御礼智神社の社人金子六兵衛などと草分七人衆の一人という。この七人衆は、毎年、大晦日の除夜から二日早朝にわたり西方寺の奥の院、阿弥陀堂に集り、オコナイという密法を祈願し、その結束をかためる習わしがある。なお、小野見上流に田野浦銀山があり、そのことが『佐渡年代記』の寛永二十年(一六四三)の記事に見える。【関連】 北田野浦祭り(きたたのうらまつり)・御礼智神社(ごれいちじんじゃ)【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『相川町の文化財』(相川町教育委員会)【執筆者】 浜口一夫

・北田野浦城址(きたたのうらじょうし)
 北田野浦西方寺の阿弥陀堂には、中世から続いている珍しい堂座が残っている。そしてこれを運営するのが、西方寺大檀那の草分け七人衆である。西方寺の「座敷之次第」によると座順は、左上座から将監(榎坂庄次郎・上の大屋)、万四郎(末武)、次郎左衛門(膳頭)、右上座から九郎左衛門(友崎)、又重郎(京極)、権十郎(長石)、掃部(大久保)となっている(今は大久保に代わり金子六兵衛)中世の殿原百姓層であるが、このうち筆頭の将監が村の代表者で、村殿といわれる立場の者であった。北田野浦の城は集落の北端、もとの北小学校上の、標高約九五㍍の段丘先端突出部に置かれている。「城ケ鼻」の地名を持ち、二○㍍×三○㍍ほどの小単郭(果樹園)で、後端に土塁と空堀が設けられている。「城ノ腰」「城ノ下」の地名も残る。村では次のような伝承がある。京極という殿様は、村人が山へ入って採集してきたシナを、山の下り口で待ち、一人から一把ずつ納めさせお城に納めた。また掃部という殿様は、村人が釜戸の浜でとった塩の一部を納めさせ、お城へ納めたというものである。村殿の代官としての性格がうかがわれる。【関連】 西方寺(さいほうじ)【参考文献】 山本仁『佐渡古城史』【執筆者】 山本 仁

・北田野浦祭り(きたたのうらまつり)
 祭日は四月十五日で、その宵宮に、花笠踊りが出る。鎮守は御礼智神社で、かっての白山神社などを合祠している。花笠踊りに登場するのは、唄うたい一名・笠鉾一名(唄の切れめに鈴をふる)・笛吹き一名・槍持ち二名・ならし二名・獅子三名・ささらすり六名・芸打ち二名・棒振り二名・太鼓持ち一名・世話役一名、そして高張提灯持ち数十名である。伝承経路は、約三五○年ほど前、上方詣りに行った人たちが習得し、ムラに持ち帰ったものだという。佐渡の花笠踊りといえば、両津市の城腰や、赤玉のものが有名であるが、共に花笠踊りと小獅子の舞が組み合わされており、どちらかといえば、北田野浦のものは、赤玉の花笠踊りに類似している。ささらすりは、女装の男六人が花笠をかぶり、各人がささらを持ち、踊りながらささらをする。ささらは、中世の頃からの古い呪術的な楽器である。獅子は鹿の頭を形どったものをかぶり、夫婦の獅子と一匹の小獅子が踊る。共に小さな太鼓を腹部につけている。踊る所は、宿・宮・踊り場・寺などである。まず宮守りの宿で一庭舞い、渡り太鼓で神社へ向う。そこで一庭舞った後、もとの宮跡で厄年の者が芸打ち太鼓を叩いて、槍持ちが祓いをする。次の踊り場は海岸端の空き地である。そして最後は、西方寺で舞い納めとなる。昭和五十二年(一九七七)六月一日、相川町の無形民俗文化財となる。【関連】 御礼智神社(ごれいちじんじゃ)【参考文献】 『佐渡の小獅子舞』(新潟県教育委員会)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 浜口一夫

・北野神社(きたのじんじゃ)
 下戸村。同地にあった金光寺の鎮守として創建された。『佐渡国寺社境内案内帳』によれば、金光寺は「開基慶長六年。境内一反三畝二五歩除。寛永七年大和国より陽禅坊という僧当国へ流罪。当寺に住居して、同二十一年に弁財天を勧請した」という。当社が金光寺と変わった理由は、常陸国水戸、祐順法印が寛政元年(一七八九)、同地に神仏混淆では相成らぬ旨に従い、金光寺を真野国分寺に合併させ、北野神社を下戸村および下戸炭屋浜町の産土神としたため、境内社であった天神は元和九年(一六二三)、鎮目市左衛門奉行の庇護により社殿を造営し、寺域の南隅に建てられた。祭神は菅原道真。例祭日六月二十五日。廃仏毀釈で、明治元年金光寺が廃され、旧寺領全部を社有財産とした。社殿は、旧弁財天堂を改造したものという。鳥居の額は、永弘寺(永宮寺)十二世松堂の筆蹟。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 佐藤利夫

・北野神社(きたのじんじゃ)
 稲鯨字中村。明治十六年『神社明細帳』には無格社。祭神菅原道真とある。由緒には「神体菅公ノ像ハ稲鯨村八郎左衛門ト云シモノ、元禄九年海上ニ於テ拾ヒ上ゲ奉リ、居宅ニ移シ奉ルト雖モ、在家殊ニ漁業ヲ常トナスニヨリ憚ル事多ケレバ、享保六年七月、社ヲ居宅内ニ建立シテ勧請シ奉リ、其後、安永五年再建、明治十年神社据置許可ヲ受ク」とある。この天神伝説は、別に「ある日、早朝海上に異光を発するものを認め、水竿で引き寄せてみると、箱があり、中に木像と一巻の書類があった。木像は山形県最上のある社の御神体で、彩色のため京都に向う途中、船が佐渡沖で遭難し漂着したものだ」(岩崎石松「天神さん」七浦小『ねがい』三号)という話がある。神明社と同じ海からの寄り神である。明治以降神明社は村社となり、北野神社は無格社で、例祭日はそれぞれ六月十六日、八月(七月)二十五日に行われていたが、のち稲鯨祭りとして八月二十五日に行われるようになる。集落の西から砂原・西・中村・東・新田の各組にわかれ、西部は浄土真宗門徒(沢根専得寺)、漁民が多く、東部は真言宗(橘定福寺・二見竜吟寺)で半農半漁である。それぞれ前者は神明社、後者は北野神社の氏子でもあった。このほか重立家の地神・持仏の小祭が行われている。【参考文献】 矢田求他『平成佐渡神社誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集五・八)【執筆者】 佐藤利夫

・北野神社(姫津)(きたのじんじゃ)
 薬師堂脇にあり、祭神は菅原道真朝臣。享保十年(一七二五)九月二十五日の創立とされ、例祭日は旧四月八日。北野神社は漁の神ではないが、稲鯨の北野神社と伝承が類似していて、同じ漁業中心の村らしく、ご神体を海から上げたという伝承がある。『金泉郷土史』によると、「ある時、姫津の沖に夜になると光が見える。村人がおそれて近づかないと、夢枕に立ち、ご神体が自分を引き上げてくれというので、翌日網で引き上げた」とある。このほかにも、戸地の平兵衛宮(北野宮)が、享保元年の大洪水で流失し、北見某なる人が、片辺の沖より迎え奉ったという伝聞もある。また『宝暦寺社帳』には、姫津の北野神社の記載はなく、明治五年(一八七二)の書上げ状を見ると、姫津は北狄の羽黒神社の氏子だったという。【関連】 姫津(ひめづ)【参考文献】 『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、矢田求他『平成佐渡神社誌』【執筆者】 三浦啓作

・北野神社祭礼行事(きたのじんじゃさいれいぎょうじ)→稲鯨祭り(いなくじらまつり)

・北前船(きたまえせん)
 日本海側から米・大豆・その他、また蝦夷地(北海道)の鰊・〆粕・昆布などを積んで瀬戸内へやってくる廻船のこと。佐渡からの船も北前船といわれ、文化十年(一八一三)沢根、浜田屋笹井秀山の『海陸道順達日記』には、「三田尻(山口県防府市)の に北まへ船は一つも居り申さず候」とあり、続いて「北前越後達」という記述もあり、北前佐渡船という言い方もあったと思われる。船型は、近世前期は北国船・ハガセ船などが主流であったが、中期以降は弁財船で、しだいに船首尾の反りが大きくなり、遠目でも外観上北前船とわかる特徴が出始めた。北前という言い方は、貞享二年(一六八五)越中へ下る塩飽廻船に雇われた備前国下津井の水主の「他国行願書」に「北前行願書」(『図説和船史話』)とあるのが初見である。佐渡船(岩谷口、船登源兵衛船)が瀬戸内に回航した最初は元禄七年(一六九四)で、越後船など北国方面の船も、まだこの時期は西回わりで、瀬戸内に入る船は少なかったと思われる。船登船はハガセ船、浜田屋船は北前型弁財船であった。日常的に、日本海から下関経由で大坂・兵庫に向う北前船がみられるようになるのは、一八世紀後半以降である。積荷は、北国各地から米・大豆など穀物が主で、蝦夷地へ渡るようになると海産物が加わり、帰り荷は塩・繰綿・綿布・諸雑貨などであった。北前は、北陸地方という狭義の意味でなく、日本海地域を指す凡称で、船型を指してはいない。【参考文献】 石井謙治『図説和船史話』(至誠堂)、佐藤利夫「北前船の道」【執筆者】 佐藤利夫

・北海村(きたみむら)
 明治二十一年(一八八八)、政府は地方自治制度の確立をめざし、新しい市制・町村制を公布した。新しい町村の標準戸数は三○○戸以上である。そのため同二十二年になると、今までのような戸長制度が廃され、新しい町村合併によって村役場が設けられ、村長・助役・収入役の三役がおかれ、今まで南片辺村にあった戸長役場の管轄村(石花村~戸地村)は、そのまま北海村となった。当時の各ムラのようすを参考までに(『新潟県町村合併誌』より)記すと、石花村の戸数は六二戸・人口は三六二人、後尾村は六一戸・人口は三五三人、北片辺村は八一戸・人口は四八八人、南片辺村は五二戸・人口は三○四人、戸中村は九六戸・人口は五四二人、戸地村は七八戸・人口は五○四人で、戸数の計は四三○戸・人口は二五五三人である。合併の理由は、今後、新町村として独立自治を図るためには、今まで戸長役場の所轄も同一で、生活・民情も似ている六か村が、ひとまとまりになるのがよいというのである。そして、新町村名選定の事由は、各村いずれも北海に面する海岸の村落なるに依るとある。ところが同三十四年になると、さらに戸数八○○戸以上か、地価二○万円以上を有する町村を標準とする新たな町村合併がなされ、北海村の戸地と戸中は金泉村(戸数七一○戸・地価六万二○○○円)へ、同北海村の残り南片辺・北片辺・石花・後尾は、高千村(戸数七五○戸・地価九万四○○○円)へ合併した。【関連】 金泉村(かないずみむら)・高千村(たかちむら)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『高千村史』【執筆者】 浜口一夫

・橘鶴堂文庫(きっかくどうぶんこ)
 越後の新発田出身(本籍は東京市麹町九段三の一六)の橘正隆(通称は法老)は、昭和十一年(一九三六)八月二十七日に佐渡にわたった。目的は日蓮遺跡研究であった。ところが来島して訪ねた霊跡と、島人に伝わる伝承とが著しく事実と相違していることに気づいて、根底から調べ直すことを決意した。そのため地方史研究に集中して、生活をそこにかけ、島ではじめての専業郷土史家となったのである。以来、昭和三十九年(一九六四)九月十四日に、七三歳の生涯を終えるまで、佐渡の歴史研究に終始した。その間、『附注佐渡名勝誌』・『佐渡兵制史話』・『佐越航海史要』・『遭逢夢の如し五○年』・『水津村史料編年志』・『河崎村史料編年志上』などを刊行し、そのほか『金泉郷土史』・『赤泊村史』・『課税の変遷と佐渡義民始末記』の編さんに協力し、『佐渡古典叢書』二巻を発刊した。そのために蒐集した古文書はじめ、絵図・写真・切抜帖から複写原稿および下書きに至るまでを、本人の意向もあって後援会の話し合いで、県立佐渡農業高校に保管することになり、「橘鶴堂文庫」と名づけた。同校は創立七十周年記念出版として、『橘法老佐渡史話・楽苦我記抄』を、同八十年には『日蓮聖人佐渡霊跡研究』を出版した。【関連】 橘正隆(たちばなまさたか)【執筆者】 本間雅彦

・教育財団文庫(きょういくざいだんぶんこ)
 財団法人佐渡郡教育事業団で所蔵していた書籍・資料等をさす。文政四年(一八二一)に、田中葵園の建議によって設立された広恵倉が天保年間に廃止されると、その益金を産業資金として貸付けたり、修教館の維持に充てた。明治維新後は佐渡県・相川県に引継がれ、新潟県へ合併後は興業殖産学資基金として三郡役所で保管・活用してきた。明治三十年(一八九七)郡制が施行されて佐渡郡が置かれると、興産資金と共有金を全て郡有財産とし、同三十三年には従来の積立金を「佐渡郡学資特別会計基本財産」と改称して、教育・殖産興業発展の資金とした。この時の総額は、約六万五五九七円であった。大正十年郡制の廃止が公布されると、翌十一年四月十日、基本財産として消費しないこと、利子は育英事業その他教育事業に使用すること、財団解散の場合は県に寄付することを条件に、「財団法人佐渡郡教育事業財団」へ約七万七八四円と、書棚・書箱・書籍三二一五冊を寄付することが県知事より許可され、同年十月同財団が設立された。その後寄附金等で資金を増額して、学資金貸与や巡回文庫設置等を行なったが、この財団の書籍・史料と『佐渡国誌』編纂に伴って収集した史料を教育財団文庫と称し、現在相川郷土博物館が所蔵している。【関連】 広恵倉(こうえいそう)・田中従太郎(たなかよりたろう)・佐渡国誌(さどこくし)【参考文献】 「財団法人佐渡郡教育事業財団沿革」【執筆者】 石瀬佳弘 ※原書に『 田中従太郎(たなかよりたろう)』の項目はありません。

・玉泉寺(ぎょくせんじ)
 五郎左衛門町にある日蓮宗の宝聚山玉泉寺は、慶長十一年(一六○六)京都妙顕寺十三世日紀(寺社帳では日紹)の開基になる。そのため本山は妙顕寺である。はじめ下寺町の西側に建てたが、寛永十四年(一六三七)に現在地に移した。ここにはもと閼伽井坊という、同心の所有する坊があったが、火災で焼失した跡を譲りうけたものである。鎮守の七面大明神(七面堂ともいう)は、元禄六年(一六九三)久保新左衛門による安置(『相川町誌』は寛保三年〈一七四三〉とあるが寄進者の名を欠く)とされる。『寺社帳』によると、安永二年(一七七三)日宣上人が祖師真筆の本尊を納めたとある。本尊の脇書きに、建治三年(一二七七)の日附があるという。【執筆者】 本間雅彦

・切支丹台帳(きりしたんだいちょう)
 「越後国岩船郡村上領切支丹類族死帳」というものが村上市に残っている。貞享四年(一六八七)におけるころび切支丹の類族八家族と、六三人の名前・死亡・埋葬場所などが記されている。その中に、佐渡から移り住んだという「兵助」と「助左衛門」の二人の切支丹(終身牢)のことが詳細に出ていて、村上藩の資料として作られたものらしい。これに該当するような切支丹の台帳が佐渡には残っておらず、正保四年(一六四七)以来、奉行所がたびたび類焼したことも、多くの公用書類が残り得なかった理由の一つにあげられている。ただ残り得た公文書の綴り「佐渡御用向覚書」の中の、享保十一年(一七二六)の目録に「古切支丹並類族死失帳」と「古切支丹類族存命帳」の二冊があったことが記されてある。この二冊ともむろん現存はしないが、それらから抜き書されたと思われるもので、加茂村に「古切支丹治左衛門」という人がいて、正徳四年(一七一四)二月に、その娘の「まつ」のつれ合いの夫で、「久五郎」という者が七六歳で病死し、旦那寺吉祥寺に葬られたとある。また翌年と思われる報告に、「まつ」の年齢が六八とあって、治左衛門の養子で「権太」という者が、五三歳になって相川米屋町で商売をしていると記されている。また正徳四年の「古切支丹類族病死之覚」という報告に、「古切支丹まん」という者の娘の「はつ」が、正月に七六歳で死亡し、その遺体は相川中寺町の法華寺と瑞仙寺(ともに日蓮宗)に取置いたと記してある。切支丹信者として、処罰または処刑されたと思われる人たちの類族が、そうしたリストに記録されて、その生死がのちのちまで幕府に報告されていた。 【関連】 切支丹塚(きりしたんづか)【執筆者】 本間寅雄

・切支丹塚(きりしたんづか)
 佐和田町沢根と相川の海士町を結ぶ、旧中山道のほぼ中間にある峠のいただきで、キリシタン塚といわれるのは、基低部の一辺が八米ほどある四方塚。円塚ではない。中央部で高さが四米ほど。前の半分が一段ひくく削平されていて、そこにいくつかの十字架が立っている。樹木をすかして南東に真野湾、北西に相川の家並の一部が眺められ、かっては見晴しのよい台地上に築かれたらしい。十字架は近代の埋葬者のしるしで、現在は佐渡カトリック教会の共同墓地である。ここがキリシタン塚、または「百人塚」と呼ばれるのはそう古い時期ではなく、一九一二年(大正一)以後、越後新発田の天主教伝道師だった大江雄松氏が、苦心の末にこの塚を発見して周辺を買収し、発掘も試みたことが一九二七年(昭和二)発行の『佐渡史苑』に、相川の史家岩木拡氏によって紹介されている。腰部から掘り下げて塚心(心臓部)に達したけれども、内部は土泥のみであった。ただし島原・天草の一揆があった寛永十四年(一六三七)に、「数十人」「百人計り」の信者が中山で処刑された記述が、『佐渡国略記』『佐渡風土記』などに残っていて、発掘に先立つ一九一七年(大正六)には、大江氏はこの史料によって新潟県知事北川信從に、「墓地新設許可願」を提出している。その文面に「天主教信者百貮拾人ヲ死刑ニシ、此ノ地ニ葬ッタト口碑ニ残ル古塚ガアル」とし、その場所は「相川町大字下戸字峠五百八拾七番ノ貮」と記した。したがって地籍は相川町に入る。江戸時代の中山が、刑場やさらし場として使用された史料が多いこともあって、以後大江氏発見のこの古塚が、キリシタン殉教の聖地として一般に定着した。【関連】 大江雄松(おおえたけまつ)・中山道(なかやまみち)【執筆者】 本間寅雄

・麒麟草(きりんそう)
【科属】 ベンケイソウ科マンネンソウ属 山や海辺のザレ場(砂礫場)・岩場・岩壁などに生育する。分布は、海岸から山頂までと広い。多肉と厚葉で風衝と乾燥に耐え、他の植物の入れないきびしい立地に侵入するパイオニア植物。大佐渡山系のドンデンは、タタラ峰と呼ばれる風蝕ザレ場の多い所、入川渓谷に集まった風は、自然のフイゴ(吹子)となってぶつかり、タタラ(風蝕によって露出したザレ場)を作る。このタタラの渓谷を埋めて群生するのがキリンソウである。花が黄色の輪のように咲くので、黄輪というのが白井光太郎説。「キリンは黄輪の意にして、花弁の黄色なるに取る。麒麟の意にあらず」と。麒麟草説は、深津正は「麒麟は中国の想像上の瑞獣で鹿の一種。麒はオス、麟はメス。尾は牛に蹄は馬に似て、背中は五彩の毛でおおわれる。瑞獣であるために、角は他を傷つけないように厚い肉でおおわれている」と。本種の多肉の葉を、麒麟の厚肉の角に見たてた。永田芳男は「葯の色、葉の幅、全体の姿などは、地域や環境によってかなりの差がある。典型的なキリンソウは、葯の色が黄色。葯の色が赤いものは、エゾノキリンソウと区別する学者もいる」と。【花期】 六~七月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』【執筆者】 伊藤邦男

・金銀木(きんぎんぼく)
【科属】 スイカズラ科スイカズラ属 樹高一・五㍍ほどの落葉低木。海岸風衝地に多い。佐渡の冬の季節風に直面する、北西むきの沿海地に多い。海岸地帯と、分布は限られる。枝わかれがひんぱんで、枝葉がこみあうのは風衝樹であるからである。初夏、葉のわきに短柄をだして、ロート形の二花が並んで咲かせる。花は、はじめ白色だが後で黄色に変り、花の新旧で銀と金が入りまじるので、キンギンボク(金銀木)という。七月に赤い実となる。実の径は、六㍉ほどの球形の二つ接着して瓢箪状になるので、ヒョウタンボクとも呼ばれる。赤い実がいっぱいついて目をひく。味は甘いが、実は劇毒である。子どもたちは、この実を食べて命を落とした。佐渡奉行所編の『佐渡志』に、「世俗にふたごなり(キンギンボクの方言)といふもの山中に生す 灌木にして高六~七尺計実二つ宛附て熟すれば赤し 小児のために殊に畏るべきものなり」と、図を掲げ注意を促している。「フタゴノミは食うといっときにいって(死んで)しもう。一週間も病む時もあるが、たいていはその晩にいってしもう。そりゃー苦しんでみておれん」は、古老の話。【果期】 七~八月【分布】 北・本(中部以北の日本海側)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】 伊藤邦男

・金光寺(きんこうじ) →北野神社(きたのじんじゃ)

・銀山町(ぎんざんまち)
 上相川町の東北側にある右沢浄水場に接するあたりから、宗徳町東部に接するあたりが銀山町である。比較的後世の成立で、宝暦五年(一七五五)には町名がなく、『相川町誌』(昭二刊)では、「天明以後に銀山町──出来れり」と書いてある。現況では、人家のない山野になっている。退転の年代は不明であるが、天明より約半世紀後の文政九年に描かれた「相川町墨引」には、宗徳町通りの西で五郎右衛門通りの、かなり北のほう北沢川上流右岸に、「是より北銀山通」の文字が記載されていて、人家の有無は不明ながら、町通りの名称として用いられていたことがわかる。【執筆者】 本間雅彦

・金山焼(きんざんやき)
 昭和二十年(一九四五)に日本が敗戦を迎えると、社会観が急変し、食料難・軍需産業の閉鎖などの条件によって、都会へ出ていた若者や復員兵などで相川も人口が増えた。昭和二十三年に、鉱山の分析課長を退任していた今井仙太郎は、分析技術を活かして新しい釉薬をつくり、無名異焼を大衆化し、町の活性化をはかるべく、曽我真一・三浦厳・風岡仁平次・古藤義雄らの有志を誘い、佐渡窯業㈱を設立し「金山窯」を開窯するに至った。当初は鉱石の精錬滓(カラミ)で煉瓦・瓦の焼成を考えたが、無名異焼になったという。陶工には常山工房の長尾紫水・片岡雅人らを中心にして、美術学校卒業の清水文平が絵付けを担当した。この工房では、根本良平・大滝水哉・山本鮎川らが育った。しかし、昭和二十年後半から三十年前半にかけて陶工の独立が相次ぎ、国仲から陶工を招いて作陶を続けたが、生産量は落ちるばかりで、廃窯状態に追い込まれた。金山窯は長く続かなかったが、若手の独立気運の上昇と、町民の焼物に対する理解を深めた意義は大きい。混乱期に果たした実績を忘れることはできない。【関連】 無名異(むみょうい)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】 佐藤俊策

・金島書(きんとうしょ)
 佐渡配流中に世阿弥が書いた紀行文ふうの小謡曲舞集。北蒲原郡安田町出身の地理学者で『大日本地名辞書』の編さんで知られる吉田東伍が、明治四十二年(一九○九)に発見し公刊した『世阿弥十六部集』(能楽会刊、池田信嘉代表)の中で初めて紹介され、世間を驚かせた。同書は世阿弥に関する学問的研究の端緒を開いたとされ、今日でも高い評価を受けているが、『金島書』(吉田氏は「金島集」と紹介している)の発見によって、世阿弥の配流が一般に知られることになり、この高名な芸術家の最晩年の動向、および室町時代の佐渡の国情をかいま見る貴重な書物ともなった。自筆の原本ではなく、他の世阿弥伝書と同様に、同一人によって一七世紀中ごろに書写されたもので、漢字を少しまじえたひら仮名書きである。加えてこの『金島書』は、同一の写本が他のどこからも発見されておらず、また関東大震災で焼失したので、現在は活字になった「吉田本」が残るのみとなった。「若州」「海路」「配処」「時鳥」「泉」「十社」「北山」の七篇の詞章から成り、最後に無題の「薪神事」一篇が奥書とともに添えてある。「海路」までが佐渡への道中で「配処」以下に滞島中の見聞が綴られ、「永享八年二月日、沙弥善芳」と結んでいる。沙弥善芳は世阿弥の道號である。配流が七二歳に当たる永享六年(一四三四)五月であり、翌々年の二月まで佐渡で生存していたことはわかるものの、その後の消息はわからない。わりと平静な気持ちで流謫生活を送ったらしいことが、文面からもうかがえる。【関連】 観世元清(かんぜもときよ)・佐渡状(さどじょう)【参考文献】 磯部欣三『世阿弥配流』ほか【執筆者】 本間寅雄

・近代(きんだい)
 佐渡に生まれた総合雑誌の雄である。発行は昭和二十九年(一九五四)から三十五年の間に、四号まで出している。発行所は文芸懇話会。編集兼発行人は船山博(一・二号)、本間林三・高橋進(三・四号)などである。『近代』はその名のとおり、佐渡の近代化に焦点をおいて編集されており、創刊号の巻頭文は、佐渡出身の文芸評論家青野季吉が、「佐渡の近代」と題して筆を執り、松井誠の米軍レーダー基地に関するルポルタージュ「金北山」や、本間林蔵の佐渡の文化を鋭く分析した「佐渡の文化は」、それに高橋進の「シャルル・ボオドレエル」、磯部欣三の「相川金山」などが載っており、読みごたえがある。第二号は、石田雄の「村の政治」、後藤奥衛の「佐渡政党史」(連載)、高橋進の「世阿弥」などの力作。第三号には、向坂逸郎の「佐渡と文化」、そして具体的な郷土文化の掘り出しものとして、佐々木義栄の「文弥人形の研究」、浜口一夫の「佐渡の民話」、本間嘉晴・椎名仙卓「岩の信仰と祭の遺跡」が載り、第四号には、松井誠「琴浦部落の集団農場」、佐藤利夫「農村の嫁の生活」、藤田赤二「死と精神と」、佐々木義栄「ある文弥人の一生」(中川閑楽伝)、磯部欣三「情死の墓」などが載っている。【執筆者】 浜口一夫

・金北山(きんぽくさん)
 大佐渡山地の主峰で、佐渡島の最高所、海抜一一七二・一㍍である。ほぼ山稜沿いに相川町の境界が敷かれるが、山頂は金井町新保に属す。山腹は急傾斜面が多く、起伏も大きい壮年山形を呈するが、山地内所々に緩斜面も目立つ。地質は、新第三紀中新統真更川層のしそ(紫蘇)輝石安山岩溶岩や、角閃石黒雲母石英安山岩から成る。稜線付近は風障の為、砂礫地やシバ草原やミヤマナラ・イチイ・ハクサンシャクナゲの低木林等、植生に特徴が見られる。中世から近世には、各派の修験の信仰の対象であり、古くは北山と呼んだ。金北山神社奥宮が山頂に祀られその里宮は、現在は佐和田町真光寺にある。戦前まで島内の男子は、七才になると父に伴われて登山する「初山かけ」の風習があった。登山口は、相川町相川・小川・戸中・入川等西側からも、又両津市・金井町・佐和田町の東側からも数か所にある。戦後、山頂にアメリカ軍によりレーダー基地が設けられたが、今は航空自衛隊の管轄下にあり、頂上まで車道が通じている。【参考文献】 『新潟県の地名』(平凡社)、『角川日本地名大辞典・新潟県』(角川書店)、新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)【執筆者】 式 正英

・金北山神社(小川)(きんぽくさんじんじゃ)
 上野にあり、軻遇突智命を祀る。旧名北山大権現。『宝暦寺社帳』には開基不詳とある。祭日は十月二十四日。古代の自然信仰の時代に、島内第一の金北山(古称は北山)が崇拝されたことは想像できるが、やがて崇神天皇の時に、北陸道の征討に派遣された四道将軍のひとり、大彦命を山頂に祀るようになり、今日に至っている。金北山麓の村々の中には、里宮もしくはそれに類した性格の社を祀るところが数社ある。そのうち、中世末の越後上杉支配の際に、里宮として特典の与えられた、佐和田町真光寺の金北山神社が、最も中心的な社である。また小川の戸宮神社は大彦命を祀り、北田野浦の御礼智神社でも、金北山神社を合祀している。島内では、他に新保の大彦神社があり、中興の中興神社は明治六年(一八七三)まで、北山大権現の社号であった。吉井本郷の唐崎神社も、宝暦寺社帳では北山権現と記載してある。さらに上横山の金峰神社にも、金北山神社が合祀され、大彦命の祭神がある。祭神の大彦命は、真光寺のように大毘古命と書かれることもあり、小川の金北山社や、北田野浦のように軻遇突智命のこともある。神像になっているのは、真光寺のように勝軍地蔵である。勝軍が将軍と同音なところから、四道将軍に擬えられたものである。月布施の北山神社及び長谷の愛宕山頂には、石造の勝軍地蔵が奉納されている。【参考文献】 『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】 本間雅彦

・金北山層(きんぽくさんそう)
 島津光夫ほか(一九七七)の命名。模式地は金北山・妙見山で、相川層を不整合に真更川層を一部不整合におおっている。前期中新世の地層である。大佐渡山地の東斜面に広く分布し、層厚は約三○○㍍である。おもにデイサイトの溶岩・火砕岩からなり、安山岩質溶岩・流紋岩質溶岩・火砕岩を含んでいる。大佐渡スカイラインの青野峠~金北山でよく観察できる。相川層・真更川層と同様に、陸域での火山活動によってできた地層で、溶岩を主とするため化石は発見されていない。【参考文献】 大佐渡研究グループ「大佐渡南部の新第三系」(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】 神蔵勝明

・金北山道(きんぽくさんみち)
 金北山(一一七二㍍)への登山道は、国仲側からと、高千・金泉の相川町海府側から、いくつもの道がある。普通は、金井町新保の大慶寺脇から登って、新保ダム・自衛隊のデイラ(平)基地の前を通り、白雲荘・祓川をへて山頂への道と合流する、いわゆる大佐渡スカイラインと呼ばれる自動車道路を利用するのが、主要道路となっている。この道は、昭和二十九年(一九五四)に米軍の分遣隊がデイラに基地を移し(それまでは相川春日崎にあった)、軍用道路として整備する以前から、「新保道」として親しまれていた、利用度の高い山道であった。大慶寺は、かって北山(金北山の古称)の別当寺であった長福寺をついでいるが、中世末の上杉景勝支配当時、真光寺村(現佐和田町)の金北山神社里宮に肩入れするなどがあって、旧二宮村から妙見山をへて山頂に至る「真光寺道」が、緩傾斜の利および乙和池への関心などと相まって、西南部の村々の人たちに利用されるようになった。吉井本郷から、安養寺の羽黒神社から広坂をへて山頂に至る「吉井道」が、新保道とほぼ平行していた。このふきんの村境に置かれていた観音像の石仏群は、近年になって広坂公園に集められている。国仲側からは他に、横山道・長江道・梅津道も利用された。今は梅津道が尾根道のような形で金北山に通じているが、他の小径は木が繁って通りにくくなっている。高千側からは、金北・妙見の中間点から北に下り、大塚山の西を廻って、鹿野浦の北部に至る自動車道があり、また大塚山から石花川左岸に平行して、北片辺に降る徒歩道もある。さらに大塚山から、戸中集落北部の平根崎温泉に通ずる細道が通じている。【関連】 片辺道(かたべみち)【執筆者】 本間雅彦

・吟味方役(ぎんみかたやく)
 江戸幕府の刑事裁判手続きにもとずいて、佐渡奉行所に置かれた役職で、享保八年(一七二三)新規に定員二人が置かれた。その後同十九年、延享四年(一七四七)・同五年に各一人増、寛延三年(一七五○)一人減員があって、定員四人となる。吟味方役は、被疑者を追及・審理・判断を行う。裁判官に当たる役人は遠国奉行である佐渡奉行で、吟味方役の審理・判断に基いて裁断し、佐渡島内の事件を裁判した。犯罪捜査は、密告・自首・被害の届出・検使の出願などにより始められることが多い。捜査は地方役の指揮の下で、町同心があたった。また捜査方法として、親族・町村役人に対して命ずる尋がある。法廷は奉行所の白洲で、冒頭手続きでは奉行が出席して人定尋問を行い、概略を調べ未決勾留の処置を決し、重い場合は牢屋に収監、手鎖を掛け、軽い場合は私人や村預にした。以後は吟味方役が奉行所大広間北側の御用所で、自白を得ることを目的に審理した。その犯罪事実の供述記録を口書と言い、吟味方役が奉行出席の白洲で、口書を読み聞かせ、押印させて、これによって刑罰を決定した。奉行には、専決できる刑罰の範囲が定められており、これを超える事件や決しがたい事件については、老中の指揮で江戸の評定所で評議し、評議書を参考に刑罰を決定した。判決は白洲で奉行から口頭で申し渡され、判決申し渡しを落着と言った。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】 児玉信雄

・枸杞(くこ)
【科属】 ナス科クコ属「佐渡の子に枸杞の実赤くなりにけり」。かって佐渡の海岸に、クコやぶとハマナスやぶが広がっていた。浜の子は誰もがクコの実や、ハマナスの実の味はしっていた。相川の西坂、佐渡奉行所跡に通ずる坂は、石段の続く道。坂のあたりは、クコやぶと家をめぐらすクコの生垣が目につく。“米沢はウコギ垣根に武家畠”といわれたが、米沢では武家屋敷の家を囲ぐらす生垣は、菜糧に欠かせないウコギであった。鉱山都市であった相川は、クコ垣根の町。葉を摘み、クコ飯をたべ、クコの若葉でゴマ和えをつくり、クコ茶を飲む人が今もいる。西坂に住む伊藤寅雄さん一家は、この二○年クコ茶を飲みつづけている。五月と十月の年二回の新芽どきに、御用かごに二杯も若葉を摘む。直射日光で半日乾かし、あと二~三日かげ干しをして、細くハサミで切って、そのあと二~三日かげ干しにし、ほうろくでいる。クコ茶は大きく二つの薬効がある。ひとつは便秘がぴたりと治ること、もうひとつは熟睡できることだと話す。相川の稲鯨などでは、紅い実をチカチカと呼び「チカチカ目(眼性疲労で目がチカチカする)を治す」といっている。【果期】 十一月~二月【分布】 日本全土【参考文献】 伊藤邦男『佐渡山菜風土記』、同『佐渡山野植物ノート』【執筆者】 伊藤邦男

・臭木(くさぎ)
【科属】 クマツヅラ科クサギ属 クサギは真夏の夜に咲く。熱気の残る夏の夕刻開く花は強く香る。両手をふくらましたような萼。花の開く前は白っぽいがやがて赤色をおびる。萼から突きだした花冠の筒部は紅色。先の五裂した白の筒状花。シベは外に長くとびだす。白い花が闇に浮かび、香りに誘われてスズメガ類がミツを吸いにくる。熱帯夜に花ひらく蛾媒花である。葉も強烈に臭い。葉の無数の腺毛から強いにおいを発散させる。クサギは臭木の意味である。果実は丸く藍色に熱し、果実をつつむ萼は紅紫色で、そのコントラストはみごとである。キリの葉を小さくしたような葉をバサバサつける。越後・東北、そして佐渡でもトウノキ(桐の木)とよぶ。佐渡の江戸時代の“かて物”を記した古文書に、りょうぼ(リョウブ)・うつぎ(タニウツギ)・ふじ・いぼな(ハナイカダ)とともに「とふの木のは」と記されるのは、クサギの葉である。ゆでれば臭みは消える。若葉は多量に摘める。干して年を越してたくわえ、クサギめしにたきこまれ、汁の実とされた。「家にクサギが一本あれば、つくだ煮屋を一軒かかえているようなもの」と重宝された。【花期】 七~八月【分布】 全土【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男

・草田破り(くさたやぶり)
 草田とは田の草取りの頃をいい、田植後一○日か一五日頃から昔は始まり、五番草(あげ草)まで取った。「三番草にやせた、殿は夏山の木にやせた」という草取唄がある。ヤブリは、ヤブイリ(藪入り)で、慰安の休日のこと。今は除草剤が普及し、昔のような苦労は軽減されたが、かっては「土用草取り」などといい、暑いさかりの土用まで草取りをした。相川町小田では、旧六月十三日、田に入り稲の葉で目を突くとなおらぬといい、この日は田を休み、クサタヤブリをした。このクサタヤブリは、互いに結いをする同年輩前後の嫁や娘や嬶たちが、それぞれ数人ずつグループになり、もちまわり宿で、飲み食いの材料ももち寄りで、ほねおり休みのじんのびをした。なお同じ海府の片辺でも、この十五日に稲で目をつくと治らぬといい、田の草取りに出ないで、「家中五サイク参り」といって、相川町の五つの宮に参拝したという。【参考文献】 山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、『佐渡百科辞典稿本Ⅳ』(佐渡博物館)、中山徳太郎・青木重孝『佐渡年中行事』(民間伝承の会)【執筆者】 浜口一夫

・草分け(くさわけ)
 村たち始まりからの旧家。土地を開拓して村の基礎をきずくことから転じて、その土地を開いた家を指す。中世までは垣の内の開発名主であったが、複数の開発組が結合した近世村が成立するときは草分け百姓の一人として、村の重立百姓となった。大佐渡の海村では南・北二軒の草分け百姓のいる村が目立ち、小佐渡では開発名主を中心とした組集落が結合して、村を形成した例が多い。草分け百姓は、上杉氏支配から寛文四年(一六六四)までは村中使となり、それ以後宝暦期(一七五一ー六三)頃までは、世襲名主となった村が多かったが、それ以後は平百姓も名主を務めるようになった。近世中期以降は、草分け百姓の地位と役割は相対的に低下した。【参考文献】 『綜合日本民俗語彙』(平凡社)【執筆者】 佐藤利夫

・公事方役(くじがたやく)
 佐渡奉行所の職名。民事・刑事の訴訟裁判に関する事務と被疑者の審問等をとる。現在の裁判所書記に相当する。『佐渡相川志』に、「当御役享保二十乙卯年八月朔日三人新規ニ被仰付、其後二人ニ成ル。御用所広間南十二畳ノ間、其後御白州東側ニ役所立ツ。寛延元戊辰年類焼、以後御内ノ内今ノ役所御作事ナリ」とあり、享保二十年に設置されたことがわかる。正徳の奉行所職制を記した「諸役人勤書」には、公事方役の職名は認められず、それ以前ごく早い時期には、相川町は町奉行(のち町方役)、在方は地方代官(のち地方役)が、それぞれの管轄下の民事・刑事事件の取調べを行い、そこからあがった調書を、奉行所幹部であった月番役・留守居・在方役・吟味方役など(のち広間役)が審理して判決原案を作成し、奉行から判決(裁許)が申し渡されたと考えられる。ただし重大事件は、江戸の勘定奉行に上申し、評定所で訴訟裁判が行われた。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 児玉信雄

・くじら谷五輪塔(くじらねごりんとう)
 昭和四十三・四年頃、相川町大字戸中の戸地川上流台地で、くじら谷と呼ぶ畑をひろげるため、土地所有者の清水藤左衛門家で山ぎわを崩した時、地下一㍍位から出土した三基の五輪塔。一基は後部に欠失部があるが全形が把握でき、一基は空風輪欠失、一基は風化がはげしく、地輪と火輪が残存する。骨蔵器に用いられた珠洲焼壷一個を伴出し、人骨片も付近に散在した。五輪塔はほぼ同大同形で、礫まじりの緑色凝灰岩製。全形がわかる一基は全高九五・五㌢、地輪高さ二九㌢、巾三一・五㌢、水輪高さ二一㌢、径二七㌢、火輪は背が適度に高く二二・五㌢で、軒口は厚く中央部巾六・五㌢。軒下端は反らし、巾八㌢で垂直に切る。屋根の曲線は弾力性をもって反らす。風空輪は一石造りで、風輪高さ九㌢。空輪は高さ一四㌢、径一五・七㌢で、背がやや高く蓮の蕾に似る。三基とも正面のみに、線刻の月輪内に、下からア・バ・ラ・カ・キャの種子を薬研彫する。さらに各月輪下部を二重輪郭線として五等分にきざみ、簡略化した蓮華座を表す。こうした表現法は類例がない。珠洲焼壷は素文で口辺部の大半を欠失するが、全高二一㌢、口径約一一㌢、胴巾一七㌢、底径八㌢。口辺は力強く外反し、口縁は面をとる。肩が張り、胴部は直線的にしぼみ、鎌倉後期(珠洲焼Ⅲ期、一三世紀後半。『珠洲の名陶』珠洲焼資料館、平成元年十二月)のものとみられ、真野町の真野公園からも同形式の壷の出土がある。五輪塔も同様に鎌倉後期か、またはやや下った南北朝から室町初頭期のものであろう。伝承や関連資料は全くないが、佐渡最古の中世五輪塔といえる。平成二年四月、相川郷土博物館へ寄贈された。【参考文献】 計良勝範「戸中くじら谷出土の五輪塔」(『佐渡相川の歴史』資料集二)【執筆者】 計良勝範

・葛(くず)
【科属】 マメ科クズ属 昔、大和の国栖の人が根からクズ粉をとって売り歩いたので、クズになったという。佐渡はクズバフジともいう。ヤブツバキの生育する暖帯域の林縁をおおうつる植物の代表種。林の伐採、道路の拡幅、土砂崩れなどの跡地に大繁茂する。秋の七草のひとつであるが、夏の炎天下に花が咲きはじめる。紅紫色の花房はグレープジュースの匂いがする。クズ粉づくりは全国各地で行われていた。現在でも奈良県の吉野ではクズ粉をつくっている。『佐渡志』(一八一六)に「葛 和名くず 家園に栽る家葛なり また山のに自生のものあり 民家採りて葛粉を製し市中に売るなり 吉野葛に亜くへし」とある。野生種だけでなく、家園に栽培していたのである。葛粉は佐渡奉行の江戸への土産のナンバーワンであった。江戸時代だけでなく、明治・大正・昭和と葛粉は村の物産であった。北方・大野村(現新穂村)は昭和にはいってもつくられた。初冬、山のクズ根掘りは男衆の仕事、一日五○貫掘って一人前とされた。クズ根は直径一○㌢・長さ六○㌢ほど。クズ粉作りは女衆の仕事。一五貫(五六キログラム)のクズ根から採れるクズ粉は四○○匁(一・五㌔)であった。【花期】 七ー九月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー秋』、同『佐渡山菜風土記』【執筆者】 伊藤邦男

・葛屋(くずや)
 主として茅を材料にして葺いた家のこと。屋根の強度を高めるために葭を一部使用する場合、材料不足の場合は藁を利用することもある。佐渡ではこの屋根を「くずや」といっている。近世の絵図には、普通の寺・堂・民家はほとんどがくずやであった。家が建て混んだ町場や風の強い海村は大正年間頃から、主家は板屋に変わっていったが、茅の入手の容易な場所、南向きの日当りのよい所では、このくずやは遅くまで残っている。慶応二年(一八六六)岩谷口村の矢部源四郎家の「田地仕附方」によると、納屋・雪隠(大便所)の屋根葺き替えは八月二十八日であった。同年代の別記録には小方百姓を動員して、秋稲刈り後に茅刈りを行っている。茅をためておいて結(ゆいのこと)で屋根の葺き替えを行った。くずやの場合は八軒くらいが結をする。原則的には茅の持ち寄りであるが、茅山がない家は所有者から分けてもらうが、それを労力で弁済するから村大屋のような資産家は村人の動員力があり、村の有力家が中心になって機能することの多い海村では、むかしの慣行を遅くまで残すことになる。むかしは茅屋根を葺く職人はいないで、結組のなかで手功者な人が中心になって葺いていたものが、棟のふき合わせや雨漏りや風にとばぬようにしたり、また美観も必要になってくると、要所は職人にゆだねるようになった。近代に入ってからは手伝い以外は屋根葺きを職人にまかすようになった。親方が職人を引きつれて農閑期に屋根を葺いてまわった。【参考文献】 佐藤利夫「住い紀行」(『佐渡国』)【執筆者】 佐藤利夫

・口説節(くどきぶし)
 口説節は明治の末ごろまで、盆踊りなどで盛んに歌われていた物語り唄である。口説の盆踊り唄には、名だたるものに伊勢音頭・河内音頭・新潟音頭などがあり、佐渡の音頭もまた口説の盆踊り唄で、相川音頭が有名で、そのほか国仲音頭・鷲崎音頭などがある。当時「音頭」と「口説」は大した区別がなかったらしく、二つあわせて「踊口説」などと呼ばれたという。相川音頭の「源平軍談」は、民謡の白眉として全国的に著名であるが、一時佐渡の音頭に心中物が盛んになったので、奉行所が人の心をひきしめさせるために奨励して作らせたものといわれ、作者は文政年間(一八一八ー二九)、奉行所の役人だった山田良範といわれ、また天保年間(一八三○ー四三)の中川赤水との説もある。心中物の口説には、「伊右衛門・おはつ心中紫鹿の子」「丘十郎・花代心中妹背の虫ずくし」「おさん・仙次郎心中濃茶染」などがある。が、心中濃茶染が心中物の中の傑作といわれている。これらの音頭本の写本を、昔は相川町羽田のなかつ屋などで売っていたといい、また河原田町には石灰屋という歌本屋があり、明治の末ごろ世の中の珍しいできごとを口説節に作り、祭礼や市場などで売っていたという。今の新聞に似た役めを果していたのである。【関連】 相川音頭(あいかわおんど)【参考文献】 山本修之助『相川音頭全集』、『佐渡百科辞典稿本Ⅳ』(佐渡博物館)【執筆者】 浜口一夫

・口屋番所(くちやばんしょ)
 近世、佐渡に置かれた湊の番所。相川に大間・羽田・材木町・海府(柴町)・上相川の五か所、他に沢根・五十里・小木・夷湊・赤泊・松ケ崎の計一一か所があった。相川にはのち下戸番所(寛永八年)が設置されたが、ほとんど慶長期、大久保長安時代に設けられた。口屋といわれたのは、通行人を監視する関所的な役割のほか、諸国から湊に入ってくる貨物にたいする、役銀を取り立てる業務があり、入役銀は十分の一であったので、十分一役所ともいった。番所を口屋という呼称は、元禄四年(一六九一)前の「佐渡国図」までみられる。どの口屋(番所)でも、荷受け業務にたずさわる問屋衆(水揚)がいて、口屋衆と呼ばれた番所役人を派遣して、脇売りを監視し、役銀を徴収した。例えば、大間口屋の問屋は、京屋次左衛門・橘屋重右衛門ほか九人、のち人数が削減された。同様に、羽田・材木町・柴町・下戸などにも問屋が置かれたが、岩谷口の船登船の積荷状などをみると、廻船の付船問屋が決っており、問屋は奉行所御用商人との一定の取引関係があった。船登船の場合は、羽田口屋の桝屋六右衛門を付船問屋にして、桝屋は御用商人の山田吉左衛門に商品を卸していた。また現物納入された入役(色役)は、番所の御蔵納蔵で保管され、大間の勝町でせり売りをして運上蔵に納入した。【参考文献】 永弘寺松堂『佐渡相川志』、磯部欣三「番所について」(『郷土相川』二集)、「船登源兵衛家文書」
【執筆者】 佐藤利夫

・国中平野(くになかへいや)
 大佐渡山地と小佐渡山地に挟まれ、佐渡島の中央に位置する平野。面積一三○平方キロメートル程、北東ー南西に長い方形の平面形で地溝状である。交通・経済上の中心地である。北東側は両津湾に注ぐ川の流域に属するが、南西側は国府川・石田川を始めとし、真野湾に注ぐ川の流域に属する。北東側には面積四・八平方キロメートルの加茂湖と、小低地及び両津市街地を載せる砂礫州がある。南西側は主に国府川の沖積低地で、海沿いは佐和田町河原田・八幡、真野町四日町等の市街を載せる浜堤や砂丘地となる。両者の境は、谷中分水界の加茂湖周辺台地で、二五㍍程の高さしかない。両側の山麓部に、扇状地性台地が付随するが、平野全体を島唯一の堆積盆地と見做し得る。台地は、礫・砂・シルトの洪積統国中層を主とし、堆積相は汽水成である。沖積層の基底は金丸で、地表から一五㍍程の所にあり、シルト質沖積層の下部は海成、上部は汽水成である。従って国府川下流域は、河川堆積物で埋積される前、八幡砂丘・浜堤の背後に潟湖が存在していた。国中平野の低地には、条里地割の水田が古代からの開拓の跡を示していたが、現在は耕地整理が徹底し、整然とした地割に変わった。弥生期の集落跡を含め、低地の居住地は洪水の害に悩まされて来たが、河道の付け替えやダムの築造により、洪水制御が可能となったのは近年である。【参考文献】 九学会編『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)、「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)【執筆者】 式 正英

・熊野神社(下戸村)(くまのじんじゃ)
 旧下戸村の字十二ノ木というところにある。オリトの発音が示すように、相川市街地の降りくちにあるが、ここは青野峠方向から、二つ岩を通る山道の降りくちでもある。もともとは、土俗的な「十二神」という山の神系の小祠であったらしく、江戸期に十二権現と名乗っていたのを、明治九年に現社名に改称した。十二神という土俗神は、山仕事をする杣(そま・木挽・臼刳り・椀師など)、猟師らの信仰対象で、相川の場合は、鉱山の精錬用の鞴の皮を提供する猟師が祀っていた。鞴皮には狢(むじな・貉)を用いるので、一般にはムジナ獲りが、十二神(俗にジュウニンサン)を祀っている。当社でも、そのムジナ獲りの専業者であった弾三郎(団三郎とも)の信仰が、伝説としてつたえられており、弾誓寺の所有地であったともいわれている。寛政のころ、ムジナ信仰の卑俗さを、ある役人(のち神職となる)から、著名な稲荷信仰に替えるようすすめられて、ひと時は社名までも稲荷神社としたことがあったが、現在ではその稲荷神は、社殿の左側に小祠を設けて、境内社として併祀してある。『佐渡神社誌』(矢田求編・大正十五年)によると、当社は永享十二年(一四四○)九月、当国羽茂郡飯岡村より遷座とある。一五世紀は、相川町はまだ羽田村という小漁村であったとされているので、神社誌の記載が正しいとすれば、総鎮守の善知鳥社の祖形と共に、重要な土俗神であったにちがいない。現社殿は、明治十九年(一八八六)十一月の落成で、祭日は九月十日である。【関連】 十二権現(じゅうにごんげん)【執筆者】本間雅彦

・熊野神社(戸地)(くまのじんじゃ)
 旧名十二権現。祭神は伊弉冊命・伊弉諾命。戸地には近世初期の有力な重立衆を意味する六軒竈という家柄があり、それぞれ地神を祀っていた。平兵衛・五兵衛が平兵衛宮(伊弉冊命・十二社大権現・北野宮ともいう。文禄二年四月創立)、弥右衛門・甚兵衛が四郎左衛門宮(伊弉諾命・十二社大明神、元和八年三月創立)、源兵衛宮(若宮という。勧請年月不詳)、そして武右衛門が不動堂を祀っていた。のちこれを二社に合祀、同じく十二権現と称したが、明治六年(一八七三)四月両社とも熊野神社と改称、大正九年八月廿日両宮を一社に合祀して現地に遷宮、今日に至る。十二権現は、天神七代・地神五代の祭祀とあり、これを諾・冊二柱の御神(大山祇命の親神)と改め祀ったのは、戸中の大山祇神社を意識した、優越感情の現われともいわれる。祭日は、旧九月十六日であったが、現在は十月十九日である。【関連】 戸地祭り(とじまつり)【参考文献】 『金泉郷土史』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)、矢田求他『平成佐渡神社誌』【執筆者】 三浦啓作

・熊野神社(くまのじんじゃ)
 鹿伏の産土神。元禄検地帳では神明社、同神主近江・屋敷二畝とあり、同社の書上はない。宝暦の『佐渡国寺社境内案内帳』には十二権現、社人忠兵衛、開基年暦知れず、一説には天和年中、小倉大納言父子当村へ御在居の節勧請ともいう、とある。元禄検地には忠兵衛は見当らない。おそらく宝暦までの間に、鹿伏村の産土神になったものであろう。金山最盛期は神明社で、この神明社は鶴子から大床屋町に移り、元和二年(一六一六)に鹿伏村に遷宮したもの。祠官佐々木右近は、生国は江州長浜であったため近江といわれ、田二畝二八歩・畑八反七畝二八歩を所有していた。由緒には、沢根地頭本間摂津守永州が銀山の鎮守として、伊勢より勧請したものとある。元禄期以降金山が衰微すると、鹿伏はもとの農村にもどり、古くからの産土神・十二権現にもどったものか。昭和十一年、善知鳥神社へ合併。熊野神社はのちの社号、小倉家勧請という説は十二権現ではないと考えられる。【参考文献】 矢田求他『平成佐渡神社誌』(続)、『佐渡国寺社境内案内帳』、『佐渡相川の歴史』(資料集五)【執筆者】 佐藤利夫

・熊野神社(くまのじんじゃ)
 石名の北にある。祭神は天神七代と、地神五代である。むかしは十二権現といい、本間弥九郎が祀っていたという。『佐渡国寺社境内案内帳』には、社人は八兵衛とあるが、かって石名と小野見は一村で、小野見はその分かれといわれているから、これは小野見の斉藤八兵衛のことだろうか。十二権現の勧請は寛正四年(一四六三)と記されている。このほか石名には、文明五年(一四七三)勧請の石動権現があり、社人は弥藤左衛門となっている。その後の伝承では、社人は山口弥五郎といわれている。そのほか山本又十郎の祀る八幡社もある。祭日は、以前は八月十日であったが、今は四月十五日である。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 浜口一夫

・熊野神社(くまのじんじゃ)
 五十浦の垣の内にあり、祭神は天神七代・地神五代。かって十二権現といい、渋谷弥兵衛が鍵取りをしていた。祭りは旧暦の九月十二日である。『佐渡国寺社境内案内帳』には、社人は六郎左衛門と記され、勧請は明応七年(一四九八)となっている。鍵取りの渋谷弥兵衛家は、集落の中核のたばね役をつとめ、元禄検地帳による田畑面積は一町八反余。集落全体の約三○%を占め、屋敷の段丘崖下には、豊富な湧き水の弥奈清水を持ち、あたりのたんぼをうるほしていた。弥奈清水には、通りがかりの僧(弘法大師)の杖により、きれいな澄んだ水になったとの伝説がある。「関は澗でもつ岩谷口は浦で、中の五十浦水でもつ」との古謡は、弥奈清水をうたったものである。祭りは九月十二日であった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】 浜口一夫

・熊野神社(くまのじんじゃ)
 小野見の腰前にある。祭神は天神七代と地神五代である。『佐渡国寺社境内案内帳』によると、勧請は延徳元年(一四八九)、社人は八兵衛となっている。以前は十二社といったが、大谷一族の熊野権現と合併し、熊野神社となった。御神体はカヤ株なので、カヤを箸にするなという。このほか小野見には、オオヤの斉藤佐右衛門の祀る天神社。この社は、永正元年(一五○四)の勧請で、山ぎわの湧水地点にある自然神である。また先にあげた、大谷一族のなかの大谷後藤内は、石動神社を祀っており、能登の石動社や、熊野修験とのかかわりが考えられる。また、このほか赤崎(石名と小田の間)には、小野見の斉藤三九郎の祀る諏訪大明神(享徳元年勧請)があり、小野見の地内には、オオヤ斉藤佐右衛門の祀る天満宮もある。祭神は天神様で、永正十年(一五一三)の勧請。正月二十五日は初天神といい、片辺から岩谷口までの村びとが参詣し、子供は書初めをあげ、若い女は「小野見天神堂の化粧参り」などといわれ、新しい着物を作り、きれいに化粧してお詣りした。熊野神社の祭日は、以前八月六日だったが、今は四月十五日である。

・熊野神社祭礼行事(くまのじんじゃさいれいぎょうじ) →戸地祭り(とじまつり)

・熊野神社(くまのじんじゃ)
 北川内の前平にある。祭神は櫛御気野命を祀り、事解男命を配祀する。かっては十二権現とか、白山といったという。勧請年月は不詳。『佐渡国寺社境内案内帳』には、十二権現・社人・重右衛門となっている。もとの宮は、平城にあったが、のち石畑へ移り、現在の場所へ移動したのは、大正九年(一九二○)のことだという。社人は、本間勘十郎がその後勤めてきた。熊野神社のご神体は、寄り神伝説をもち、浜に流れ寄り光っていた白石を拾い、祀ったものだという。神さまはウドがきらいだから、氏子はウドを食べてはならぬという。祭日は九月十一日だったが、現在は四月十五日である。十四日の宵宮には、小獅子舞いが奉納され、脇役としてつぶろと棒振が出たり、翁の豆蒔き、長刀などが登場する。翌十五日の本祭りには、小獅子舞い以外のこれらの芸能が、各家々を門付けしてまわる。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『ふるさとー暮らしと祭りと芸ー』(新潟県教育委員会)【執筆者】 浜口一夫

・熊野神社(くまのじんじゃ)
 北立嶋の小高い宮の平にあり、集落を見下している。櫛御気野命を祀る。社人は蔵見源六郎である。『佐渡国寺社境内案内帳』には、慶長三年(一五九八)勧請、社地六畝二○歩御除とある。もとは十二権現といい、高ツコウという山にあったが、沖を通る船を止め帆を下げさせたので、今の場所に移したという。祭日は以前九月十五日だったが、今は四月十五日。鬼太鼓が舞う。この鬼太鼓は、戦後、千本から習ったという。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】 浜口一夫

・組頭(くみがしら)
 佐渡奉行所の職名。宝暦八年(一七五八)佐渡奉行石谷清昌の時置かれ、定員二人。佐渡奉行を補佐する要職で、以後幕府滅亡までつづいた。寛延三年(一七五○)の江戸越訴後、幕府は代官制を導入して、佐渡奉行の外に二人の代官を江戸から派遣し、佐渡を三分してそれぞれが支配する支配強化策をとった。しかし、この代官制導入は、七十余の役職を三分割して佐渡奉行と二代官に所属させ、ことに地方支配を二代官に五万石余と七万石余に二分して支配させたため、幕初以来の佐渡奉行の一元的支配のもとで、有機的に機能した支配が不可能になり、地方支配も不公平を生ずるなど、かえって弊害が大きくなった。このため、宝暦七年奉行石谷清昌は、金銀山および相川周辺の地方一一○○石余の支配を佐渡奉行に復し、さらに翌年一代官を廃止して、地方五万石を奉行支配とし、明和五年(一七六八)残っていた一代官も廃止した。石谷奉行はさらに佐渡奉行二人制のもとでは、二人の佐渡奉行が隔年交代で赴任するため一貫性を欠き、その欠陥を補うために、江戸より資格御目見以上、席次勘定組頭の下、代官の上の旗本二人を派遣し、在任中在島して奉行を補佐させることとした。組頭は、役料三○○俵・役金一○○両を給せられ、庶務倉廩のことを管掌するとされたが、平常は広間に詰め広間役とともに執務し、重要政務を処理して奉行を補佐した。【関連】 石谷清昌(いしがやきよまさ)【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集九)、岩木拡『相川町誌』【執筆者】 児玉信雄

・礁(くり)
 ぐりともいう。小さい瀬のことで地形的表現をすれば狭い浅堆のこと。礁の形状や深さによって魚や海藻の棲息場所が異なるが、ここは海産物のもっとも豊かな場所で、腕のよい漁師はこの礁の場所を山当によって経験的に覚えていた。佐渡は隆起現象によって海岸段丘が形成されたが、周辺の海底も同じように海食台になっている。大佐渡の北海岸(海府海岸)・西三川海岸から小木半島の外三崎の海底はこの礁が多い。また越佐海峡の一段と深いところに越佐を連結するようにアカバチメ(メバル)やアラの棲息する礁がある。古来、このような礁と漁師とのかかわりを浦島太郎の説話として残した。日本海を移動して海の幸を求めた海人族がいた。生業を営むに好条件であれば定住をして集落をつくった。この生業上好ましい場所は各種の魚貝類・海藻が豊富にあることである。礁が多いほどその条件は満された。はちめ一本釣りの名人であった稲鯨東の岩崎栄蔵氏は「はちめくり」におよそ次のようなくりを覚えていた。上のおいよぐり・坂出し・沖広ぐりめ・へた広ぐりめ・吉六ぐり・新左衛門ぐり・ほいと穴・大はちめぐり・しよのくり・塚の沖のくり(九○ヒロ~一○○ヒロのくりのみ)。はちめは、大きく分けて浅い海のくろはちめと深海のあかばちめ(魚偏に赤)があり、いずれも瀬づき魚で回遊はしない。だから、むかしから祝いごとには鯛同様にはちめをつかった。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)、佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】 佐藤利夫

・車田(くるまだ)
 車形に植える古風な田植儀礼で、昭和三十三年(一九五八)、県教育委員会で詳細な調査(青木重孝)報告書を作製している。昭和五十四年二月、国の無形民俗文化財に指定された。車田は両津市北鵜島の旧家北村家(佐次右衛門)の所有田で、二畝歩ほどの広さである。車田の田植の朝、三ばの苗を床の間にすえ、にぎりめし三個を添える。このにぎりめしを早乙女が食べると、田植のとき腰が痛まぬとか、田植上手になるとかいう。三ばの苗を車田まで運ぶのは、その家のカカさんである。早乙女は三人で、一わずつ苗をうけとり、車田の中央に進み、半ばずつを三つがまえにまず中央に植え、それから三つどもえを描きながら、あぜばたで歌う老女の田植唄にあわせ、ソレ、ソレッとはやしながら、左まわりに、外へ外へとあとずさりしながら植える。田植唄をうたう老女たちは、白たびでやってきて、あぜばたに用意されたキナコのにぎりめしや、おみきをご馳走になりながら、次のような田植唄をうたう。「きょうは日もよしヨウ、天気もよいしョウ、植えた車田はヨウ 穂に穂がさがるヨウ、ダンエー カカヨー」「これは大事な年貢の田だ、マスはまどろし、斗ではからしゃれ」。これらの唄のなかに、年貢とか車田などのことばがはさまり、古風なものを感じさせる。この車田に似たものが、相川町の高瀬や千本・大倉などにもあったという。高瀬の源右衛門家のおおたでも、田の中央にさんば苗の一わをかためたまま植え、そのまん中にならの木をたて、それを中心に、残りの二わをわけて三人の早乙女が、車輪の矢のように放射状に植えてさがったというし、千本や大倉にも車植があったというが、詳細はわからない。【参考文献】 青木重孝「車田考」、「佐渡の車田」(『新潟県文化財調査報告書第四ー民俗資料ー』新潟県教育委員会)【執筆者】 浜口一夫

・黒鍬同心(くろくわどうしん)
 土木従事者。佐渡ではあまりなじみがないが、黒鍬とも畔(くろ)鍬とも書いて、戦国時代には主として城の築塁や、道路・橋の普請などに従事した。戦争中は小荷駄方に属したとされ、武器・兵粮などの運搬、戦死者の収容・埋葬に当たったという(『国史大辞典』)。佐渡では慶長九年(一六○四)の記事に、「江戸より黒鍬同心百人を遣わされける。此同心をば山崎町(今の会津町をいう)ニ置かれける。故に後には山崎同心と申けるなり」(『佐渡風土記』)とある。三河以来の黒鍬者が、家康によって幕府の職制に組み入れられたのは、江戸開府の慶長八年(一六○三)以後で、その翌九年に佐渡へ江戸から百人が送りこまれたことになる。江戸城内の土木工事や、作事・防火・清掃などの雑用に使役されたという。慶長九年は、前年から始まった佐渡奉行所の新築と、周辺の町割りが進められた時期であり、粘土質で湿地帯が多かった奉行所の台地を開拓する土木工事を、また諸方の警備などのために、幕府が専門の土木従事者を江戸から相川に派遣したことが知られる。なお奉行大久保長安は、関ケ原のいくさの信州攻めのさい、小荷駄奉行を勤めて軍事物資の搬送などに当っていた。黒鍬衆の派遣は、相川における長安の都市造りと、きわめて直接的な関係があったと思われる。天和元年(一六八一)には「黒鍬同心二百人」(吏徴別録)の記事があり、江戸城の黒鍬衆は幕末になると、総数四百七十人を数えた。【執筆者】 本間寅雄

・黒沢金太郎窯(くろさわきんたろうがま)→黒沢金太郎(くろさわきんたろう)

・黒沢金太郎供養塔(くろさわきんたろうくようとう)
 寛政十二年(一八○○)、佐渡で始めて本格的施釉陶器「金太郎焼」を起して広めた、初代黒沢金太郎の供養塔で、相川町下寺町の浄土宗法然寺にある。塔身の頂を三角の山状とした角塔婆で、正面は上部を花頭曲線として輪郭を彫り、中央に「専蓮社行誉求道西堂」、向って右側に「天保十二丑年正月廿六日」、左面に「黒澤氏」と刻む。塔頂までの塔身の高さ五四㌢。蓮華座・基礎・基壇とつづき、全長約一三○㌢。石質は相川石(凝灰岩)。法然寺過去帳には「天保十二年大巌寺起誉上人両脈相承 専蓮社行誉徳浄求道西堂 正月廿六日 黒沢金太郎こと七十二才 忠誉上人弟子ナリ」とある。忠誉上人は法然寺十八世。大巌寺は下総国(千葉県)にある浄土宗関東十八檀林の一。金太郎は法然寺十八世忠誉上人の弟子として修行し、大巌寺起誉上人から両脈(戒脈と宗脈)を伝授した。また、忠誉上人は法然寺十七世黄誉玄英上人の弟子である。黄誉上人の父は、法然寺過去帳に「釈顕教 宝暦十一巳年二月廿三日 黒沢四兵衛 玄英父」とあり、買石業であったが、宝暦十一年(一七六一)二月二十三日、抜筋金で死罪欠所となった。黄誉上人の兄で金太郎の父は、釈遙海(沢根 万行寺過去帳)であり、黄誉上人は金太郎の叔父、黒沢四兵衛(元の姓は出井)は祖父に当る。金太郎は晩年吉井に隠居して没したが、法然寺の叔父黄誉上人および師忠誉上人の関係によって、法然寺に石塔が建立されたといえる。昭和五十年頃、時岡二郎(金太郎焼研究家)によって発掘調査があったが、出土遺物はなかった。平成二年頃、山門向って右内側にあった石塔は右前へ移され、無名異焼の茶碗と金太郎焼の甕が埋納された。【関連】 黒沢金太郎(くろさわきんたろう)【参考文献】 計良勝範「黒沢金太郎の身辺ー彼の墓標と過去帳をとうしてー」(『佐渡史学』七集)【執筆者】 計良勝範

・黒姫越え(くろひめごえ)
 岩谷口から黒姫までの一五キロメートルの山越え道を、黒姫越えという。道すじは、岩谷口の大河内の川沿いに登り、マトネを越えてからは東南の道を降りて、黒姫川の中流から川沿いにくだる。大河内の辺りの地名は、鬼谷河内である。大佐渡山系を横断する山越え道としては、山居道についで二番に距離が短かく、最も大きな片辺道にくらべると、半分以下である。高さもマトネで五四五㍍と、これも金北山に比してはるかに低い。岩谷口から三キロメートルのあたりに、才の神石仏がある。炭焼きや山仕事の者が休む場所で、榊や杉の小枝をあげる風習があったという。鬼谷河内のあたりの傾斜面は、降雪期には雪渓のようになっていて、枝で滑り下りたという。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】 本間雅彦

・公事(くんじ)
 子方が親方の家に、一定の期日に労働に出向くこと。親方の家で労働の「工日」が決められることから、工日から転じたとする見方もある。近世の証文には、「くんじ」は親方の厚恩に報いる子方の義務と記され、厚恩にたいする子方の仕事を、一年に何工(何日)務めるかという契約事項が入っていた。くんじは中世の集落の成立事情と関係があり、とくに海村にあっては、陸上で農業に従事する際、草分け百姓を中心としてマキを形成するときに、くんじが発生したと思われる。子方が親方の家へ出向く日は、集落によって相違したが、田植え・稲刈り・籾摺りなど、一年に三日~一○日くらいであった。賃金は与えられないが、田植え白米一升・稲刈り稲一荷・籾摺り籾五升の例(北田野浦)があり、他に萓刈り・級へぎ・草取り・すすはきなどもあった。しだいに子方の独立性が増してくると、これらの労働は無償労働から賃金が支払われるようになった。元禄六年(一六九三)親方であった石花の本間源兵衛家は子方から、屋敷・畑・ヒラ(草刈場)のくんじ(地印とある)に、一年の日手間一人あるいは麦二升を得ていた。この年は元禄検地が行われ、水田は子方が検地請主となっていた。のちに、この慣行が土地貸借にもあらわれて、畑・船置場・草刈場などの地代の支払いに、借用者が労働奉仕をする例が、外海府の方にみられた。共同体的なしくみの強いところでは、「くんじとやみ(病)は先にすませ」といわれ、自家の都合より優先した。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集四・八)【執筆者】 佐藤利夫

・郡立病院(ぐんりつびょういん)
 佐渡に設置された最初の近代的な医療機関は、明治三年(一八七○)相川町に設立された佐渡県の運営する公立病院であった。その組織や規模は明らかではないが、明治四年三月、相川県から大蔵省への文書に「昨一月より更に医員も三人ニ減却一人ニ付月給三円ツツ官禄金之内より支給」とある。明治十二年四月に三郡制となったために三郡共立病院となり、翌十三年には小木町と夷町(現両津市夷)に分院を設けた。明治十六年五月に河原田町(現佐和田町河原田)に移転し、院長に酒井直一、眼科医に川辺時三を招いたが、経営が思わしくなく翌十七年に本院分院共廃止された。この後、いくつかの病院設立が試みられたが、いずれも経営難におちいって成功しなかった。したがって、佐渡総合病院が設立されるまでの総合的な医療機関としては、明治三十七年相川町に設立された鉱山病院と、昭和二年真野町に新設された結核療養所のみであった。【関連】 鉱山病院(こうざんびょういん)・佐渡総合病院(さどそうごうびょういん)・相川病院(あいかわびょういん)【参考文献】 『佐渡博物館報』(二四号)、西川明雅他『佐渡年代記』(続輯)【執筆者】 石瀬佳弘

・軍団(ぐんだん)
 律令制で、諸国に置かれた軍隊。大化改新で、以前の氏族の兵器を諸国の兵庫に収納させ、新たに兵を置いて治安に当らせた。文武朝に整備された、軍団制として出発する。正丁(男子二○歳~六○歳)三分一を徴発、隣接の数郡をまとめ一軍団とした。養老三年(七一九)にはその数を減じ、延暦十一年(七九二)には、陸奥・出羽・佐渡・太宰府の辺要地を除いて全国的に廃止、一定数の健児に替えた。これ以前の佐渡の軍団に関しては、具体的な記録はみられない。軍団関係の記録としては、貞観十三年(八七一)に佐渡国司から「兵庫」が震動したことの報告があったこと(「三代実録」)、元慶三年(八七九)雑太団校尉が争いにより殺されたこと(「同前」)や、元慶四年(八八○)佐渡に弩師(大弓の指揮者)一員が置かれたこと(「類聚三代格」)などがみえる程度である。佐渡の軍団がいつまで置かれ、いつから健児の制に替ったかは不明であるが、延長五年(九二七)に成った「延喜式」には、「佐渡国雑太団・軍毅に二町、主張に一町の職田」が与えられること、また「健児三○人(能登五○人・越中一○○人・越後一○○人)が置かれ甲・横刀・弓・征箭・えびらなどの武具が揃えられていたこと」が記載されている。佐渡三郡に一か所置かれた「雑太団」は、どこにあったか明らかでないが、雑太郡雑太郷(国府所在地)内にあったであろうことが推察されてきた。「佐渡志」は「その跡詳かならず、今雑太郡吉岡の西南のうちに兵庫という地名があれどもいかにやあるべき」としている。昭和三十年、真野町四日町の砂丘上「高野遺跡」(一○世紀)発掘で、「延喜通宝」「承知昌宝」などと共に、多くの須恵器・土師器などが出土し、「高」「軍」「団」などの墨書土器が混じっていることから、「軍団」の所在地を考える上に、貴重な遺跡とされている。【執筆者】 山本仁

・珪藻土(けいそうど)
 おもに珪藻の殻片からなる生物性砕屑岩で、水に溶かすとくずれて泥になる。佐渡では、泥岩からなる岩石を“イクジ”といい、珪藻土はみそのような色をしていることから、ミソイクジと呼ばれていた。大佐渡山地の東麓と、小佐渡山地の南部に分布する中山層は、この珪藻土からなる地層である。また、相川町関の植物化石を産出する白色泥岩(真更川層の一部の地層)の多くも、珪藻土といえるものが多い。中山層の珪藻土は、深海底に堆積した浮遊性珪藻を主体とする堆積物である珪藻質軟泥が、かたまってできた。浮遊性珪藻が繁茂する海域は、湧昇流が広く発生する地域であるといわれる。一方、関の白色泥岩は、湖沼に繁茂した浮遊性珪藻からなる。珪藻土はろ過材や増量材に使われているが、佐渡では七輪をつくる原料として利用されたことがある。【関連】 中山層(なかやまそう)【執筆者】 小林巖雄

・慶安の石直し(けいあんのこくなおし)
 慶安二年(一六四九)正月、幕府は検地条例を定めた。慶長五年(一六○○)検地苅帳を基礎に、この年石高帳に改め作成した名寄帳。表紙は「慶安二年 何村御年貢米名寄帳 丑三月 中使誰」となっているが、保存している村は少ない。『佐渡年代記』には、「慶長年中河村彦左衛門検地苅帳を不残石高に直し、去年迄の新田並稗新田をも米に直し帳面に仕立て、屋敷地子帳(元和三年)は別冊に記し、今年四月村々へ渡す」とある。寛永十九年(一六四二)同書に「郷中、新古の田畑並屋敷等を改め帳面に記し、江戸表へ可差出旨の伊丹播磨守下知せしによって、代官により改め五月二十八日帳面出す」とあるから、奉行所内では新古の田畑屋敷改め帳面は作ってあったはずである。なお寛文十年(一六七○)に、寛永二十年より寛文九年迄の新田を古新田と名付けたとある。この年に国中の田畑屋敷検地を行う予定であったが、年貢高二万四千石余とし御取箇四ツ三分として十万石と見積り、検地を取止めている。元禄四年の増年貢は、これを基礎にして賦課したと思われる。寛永期より以降の新田検地帳には、「村中立合い、田坪改め、棹入れをして御帳面を仕上げ候」と(『水津村編年記』)添書してあり、田畑丈量は早くから行われていた。それ以前の苅高表示を、百苅八斗四升に換算して年貢高を決め名寄帳を作成して村々に交付したのが慶安石直し帳である。【参考文献】 佐藤利夫「荻原重秀の検地とその社会経済的背景」(地方史研究叢書7『近世越後・佐渡史の研究』)、西川明雅他『佐渡年代記』、岩木拡『佐渡国誌』【執筆者】 佐藤利夫

・珪藻の化石(けいそうのかせき)
 黄色植物門珪藻綱に所属する藻類。細胞膜が珪酸鉱物で硬くなり殻を形成している。殻の形が円形で、放射相称の中心亜綱と、左右相称の羽状亜綱に分類される。広く海水から淡水の水域、ときに湿気のある苔などの上でも繁茂する。単体や群体をなして、草や石などにつく付着性珪藻、水中に浮ぶ浮遊性珪藻がいる。これらの殻は、高温に弱いが、地層中に残ることがあり、時代の決定や古環境の推定にかなり有効である。佐渡島に分布する新第三紀中新世の地層である真更川層・鶴子層・中山層、鮮新世~第四紀の地層である河内層・質場層・段丘堆積物層・沖積層から多産する。真更川層の白色泥岩は、淡水珪藻メロシラ属(アウラコセイラ属に改名)の殻片からなる珪藻土である。中山層は珪藻土で、ほとんど海生の浮遊性珪藻の殻、あるいはその破片からなる。おもな種類はコスシノデスカス属、デンティキュラ属などである。中山層の時代決定や対比にとってきわめて有効な化石といわれる。【関連】 珪藻土(けいそうど)【参考文献】 『佐渡博物館研究報告』(七・九集)【執筆者】小林巖雄

・慶長検地(けいちょうけんち)
 慶長五年(一六○○)当時、上杉景勝の代官であった河村彦左衛門吉久が行った、佐渡で最初の一国検地。すでに全国的には、太閤検地以後石高制になっていたが、この検地では中世以来の刈高制で実施された。対象は田地だけで畑と屋敷は行わず、田地一筆ごとに本刈に見出をつけたが、検地役人が実測するのではなく、近隣の中使(寛文以後の名主)に検地を行わせる、実質的には指出し検地にちかい検地であった。年貢高は百刈につき京枡で八斗四升であった。慶長検地帳が現存する村は三一か村である。ただ不思議なことは、畑方村などごく一部の村の検地帳は、刈高制でなく石高制を採用しているが、理由は不明である。寺社領の三ケ一引きや、半納などの特権は従来どおりとされ、その特権を認めたが、天正の上杉景勝によって始められた中使免や江料免などは、この検地のとき廃止された。慶長検地が、役人の竿入れを行わず中使検地で行われたのは、検地によって惹き起こされる農民の抵抗が、金銀山経営に悪影響をおよぼすことを懸念したためと考えられている。【参考文献】 『新潟県史』(近世資料編一・通史編三・近世一)【執筆者】 児玉信雄

・慶長の一揆(けいちょうのいっき)【別称】佐渡義民殿(さどぎみんでん)

・化粧棚(けしょうだな)
 鉱山の坑口、間歩の入り口の飾りをさし、遠方からみた門構えの形を、「大江山の鬼の住家の門前に類す」と評したのは、川路聖謨(奉行)である。鶴子銀山の弥十郎間歩のようすで、釜ノ口ともいい、金坑へ入る入口には、神をまつる額(扁額)があった。その額は、絵巻物などによれば「大山祇神」など、山の神の名が記されるのが多かった。カマドの形に似ているのが、釜ノ口名の由来らしく、四本の大柱が立つので、「四ツ留」の別名もあった。柱の一本一本は、天照皇太神・春日大明神・八幡大菩薩・山神宮。背後の二本目になると、稲荷大明神・不動明王などが宿るとされ、この主要な柱をとめる左右三六枚の八木は、他のもろもろの神を象徴した。総じてこれらの柱の飾りを、「化粧棚」と呼んでいた。柱は松の丸太が多く、佐渡鉱山では近年になって、主要坑道の宗太夫坑入口に、この化粧棚が復元されて残っている。完成したときの祝いを「釜ノ口結(ゆ)ひ」といい、川路奉行によると、浅い紅のちりめんの幕を打ち、神前を飾り、日月を染めた旗の如きものを立て、神主が祝詞をのべ、そのわきに金銀鉱の入ったカマスと、テヘン(坑内で役人が用うるかむりもの)などの類を飾り、山方役・広間役などの上役は、七合入りの盃・一升五合入りの銚子などで、神酒をいただく。吸物のほか島台もいくつもあり、山吹色のまんじゅうには「盛」の字が画かれ、樽かがみをぬいて、穿子など下々の人にも酒が配られた、とある。坑内は危険なところなので、忌みや神だのみの信仰が一段と強かった。「日月を染めた旗の如き」とあるのは、陽のささない地底で仕事をする人々の信仰の一つで、『生野史』(兵庫)などによると、坑夫が背中に太陽を象徴する円形を絞染めにした着物を着ることがあった、と伝えている。【関連】釜ノ口(かまのくち)参考文献】川路聖謨『島根のすさみ』、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】本間寅雄 

・気絶え(けたえ)
 鉱山の坑内衛生の悪化を表現した用語の一つ。「煙滞」と書いたものもある。タガネで鉱石を穿ちとるときの石粉や、灯火用油の不完全燃焼などで、坑内の衛生状態が悪くなり、入坑できないとき、あるいは酸素不足であかりがともらないばあいや、一酸化炭素による中毒死なども意味した。「けたへ間歩」といえばそのような坑道をさし、石見銀山などでは「けどへ」といったという。佐渡鉱山では、京新五郎という山主から吉岡出雲・宗岡佐渡などに宛てた「たつ五月十四日」(慶長九年)の手紙に、「大けたへ間歩五月十四日卯刻より同十九日卯刻まで、御運上参拾四貫目に御請申候」(教育財団文庫)とある。この「大けたへ間歩」が、佐渡での文献上の初見であり、すでにこのころから一酸化炭素の中毒死が懸念される坑道ができていた。しかも間歩の名前になっている。この状態を解決する方法の一つが「煙貫」で、これはけたへをとりのぞくために掘る通気坑道をいった。「尺八」といえばその通気坑道の一つで、採鉱坑道と平行、または上下しながらもう一本の坑道を雁行させ、中間に相互を連結させるいくつもの穴を掘る。これが尺八の形に似ているところからいわれた。相川では大切山の坑道などに、この空気坑道を雁行させた例がみられる。また農家の籾摺用に使う「唐箕」を、坑内へ空気を送りこむ手動扇風機として使用していたことが、鉱山絵巻などによって知られる。【関連】山よわり(やまよわり)【執筆者】本間寅雄

・下駄はしご(げたばしご)
 太い竪木の丸木に、大きな刻みをつけて梯子とした、坑内専用のはしごである。一般の梯子では、長期に使用すると梯子の桟が外れたり、腐食して折れやすい危険があるので、丸太に刻みをつけた梯子を、斜めに立てかけて使用した。長く使って丸太が痩せてもしなりがあり、長期の使用に耐える鉱山用の梯子である。【執筆者】小菅徹也

・下駄屋(げたや)
 農家ではいうまでもなく、町すじでも下駄をはく習慣は、それほど古くはなかった。ときに下駄・足駄をはくとしても、それは店で買うのではなく手作りであった。そのころの下駄材はホウノキ・スギノキなどで、鼻緒は竹の皮などを使った。島内で桐栽培が流行したのは、明治二十五年(一八九二)すぎである。桐は生長が早く、箪笥材としての需要が急増したのに応じて、青年会などの奨励活動が効を奏したものである。それまでは、履物といえばゾウリ・ワラジであって、小学校では生徒玄関に下駄箱を備えたけれども、実際には昭和期はじめにゴム靴が普及するまでは、殆んどがワラ製品であった。柳田国男は下駄についてこう書いている。「下駄屋は比較的新しい商売であった。それが江戸期の末の頃になって盛んに商品の種類を増加し、更に明治に入ってから突如として生産の量を加えた。桐の木の栽培は是が為に大に起り、しかも国内の需要を充すことが出来なかった」。こうして開業した下駄屋の多くは、短い営業期間ののち、ゴム靴・皮靴・ズックを扱う履物店に早変りをし、下駄職人から工場製品を商う商人に転身したのである。【参考文献】柳田国男『明治・大正・世相史』、潮田鉄雄『はきもの』(法政大学出版局)【執筆者】本間雅彦

・ゲナ(げな)[ミミズハゼ]
 ゲナラン・ゲナグリ・ゲンナグロなど、いろいろの方言があるが、和名のミミズハゼや、オオミミズハゼに対する呼び名である。佐渡島沿岸の岩場や、淡水の差す砂利場に潜んでいる、ヘビを小型にしたようなハゼで、頭は潰れてもぐり易くなっている。七センチほどになり、動物食なので、イカの切れはしなどで釣り上げたりして、釣り餌に用いられる。この食いつき習性を利用した捕獲法は、いかつい大きな口をもつオオミミズハゼの方で、よく利用されている。頭のうねやみぞは、オオミミズハゼの方で著しいので、ミミズハゼと区別できる。この仲間には、体が少し太めで赤っぽい体色をしたコマハゼや、井戸の中や海岸の陽のささない暗い地下水の中に、ひそんでいるイドミミズハゼもとれるが、ことにイドミミズハゼは少なく、珍らしい。ミミズハゼとオオミミズハゼは春、コマハゼは秋が産卵期である。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治

・家抱(けほう)
 近世の百姓身分につけられた名称の一つ。本百姓あるいは漁村の親方が土地などを貸与したときの、下人身分の家につけられた。本百姓が多かった国中では、早く消滅して海村にのみ残った。海村は半農半漁村と専業漁村にわけられるが、家抱は漁村におそくまでみられ、稲鯨村では元禄検地に記載されていた。同じ身分の分附百姓もあったが、同様な扱いの者であった。稲鯨は専業漁家の多かった砂原に家抱がみられ、草分け一○人衆のうちの、親方の久右衛門・三十郎家などに家抱がいた。家抱は屋敷地を借り、漁業に従事していた。のち、地主の親方は村の中央部の生活に便利な場所にでて、四十物業を営むようになった。同じ漁村の姫津では、草分け家は本家あるいは大屋面といわれ、それぞれに毛頭がいた。いずれも漁村特有の労働形態と、生活に起因する身分関係とみられる。しかし、同じ海村でも農業村であった五十浦村では、草分け百姓であった渋谷弥兵衛家では、五人の名子を有していた。名主であった渋谷家は垣の内に屋敷があり、村の土地開発をすすめ、労働力として名子を従えていた。また毛頭にあたるものに間人がいる。半独立の百姓で、屋敷・畑は所有しているが田地はなく、本家の小作をしていた。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集一・四・五)【執筆者】佐藤利夫

・間切(けんぎり)
 探鉱坑道のこと。切り延べの丈尺を、一か月何程と競らせて請負わせた。敷内に大道を開くの意味で、大道間切ともいった。これに対して、間切の小規模なものを切山といい、一○日間に延何尺いくらと競らせて請負わせた。【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】小菅徹也

・憲盛法印(けんせいほういん)→佐渡義民殿(さどぎみんでん)

・元和検地(げんなけんち)
 元和三年(一六一七)佐渡奉行安藤弥兵衛次吉が行った屋敷検地のこと。慶長検地のとき、対象からはずされた畑・屋敷のうち、畑は元禄検地まで待たねばならなかったが、屋敷検地は元和三年に、全島の村々で実施された。『佐渡年代記』に「田畑屋敷の検地あり」とあるのは誤りで、『佐渡風土記』に「地子検地水帳八月四日堀口弥右衛門・河村勘兵衛承出之」とあるのが正しく、この時の一国検地は屋敷だけであった。記載事項は、縦横の間数・面積・名請人で、末尾に総面積・総石高・検地役人名が記されている。石盛は九斗であったが、実際の納税は銀納で、上畑の扱いであった。屋敷持ちでありながら、検地帳に現れない農民がいたのは、田畑の持高が少かったり、無高だった零細な農民の負担軽減を配慮したものと思われる。【参考文献】『新潟県史』(資料編九・近世四・通史編三・近世一)【執筆者】児玉信雄

・元禄検地(げんろくけんち)
土地丈量による佐渡最初の一国検地。元禄六年(一六九三)に検地が行われ、翌七年各村に御検地水帳が交付された。この元禄検地によって、佐渡は幕府領として本格的地方支配が確立した。幕府勘定吟味役の荻原重秀が、佐渡奉行兼帯で入国した元禄四年五月、御勘定小組から二人を、検地御用目付として同道していることは、このとき検地を実施する計画をもっていたことを示している。翌五年には、留守居役・惣目付などを江戸へ召集し、検地の訓示をした。検地に当って、検地御条目・検地村請書・起請文などを村々に触出し、請書をとった。元禄六年三月十九日、国中の中原村より検地入りをし、九月十三日小倉村で終了した。間竿は六尺一間、二間竿を用い、一間に一分ずつ増し、一反は三百歩とした。田畑の位付け・石盛・除地・検地請主の決定など、一大事業である検地にしては短期間であった。例えば岩谷口村の船登源六より源兵衛宛書状に、「─位付けの義は何れの村も御打ち成され候分は、皆々上々田・上田と成し申し候、何れ共合点まいらず候事に候」(船登家文書)とあるように、実際には検地条目通りには行われなかった。検出された検地高は、高一三万三五五石九斗八合、内田一○万二七八二石八斗六升三合、畑二万七五七三石四升五合、反別九八○七町一反六畝二四歩、内田六三九三町四反五畝二五歩、畑三四一三町七反二九歩、取米四万五八七石九斗二升六合、内田方半米納半銀納・畑方皆銀納となった。実際には、荻原奉行入国年には各村方が増年貢となり、この年の取米高総量は四万五千石となり、検地後の取米高に近く、検地は増年貢の合理化をはかったとみられる。元禄検地によって、田畑屋敷面積と名請人が確定し、村役人のもとに年貢の村請体制が整った。【関連】荻原重秀(おぎはらしげひで)【参考文献】『新潟県史』(資料編九)、佐藤利夫「荻原重秀の検地とその社会経済的背景」(『近世越後・佐渡史の研究』)【執筆者】佐藤利夫

・講(こう)
 もともとは仏典を講説する集会・団体を意味する仏教用語であったが、いろいろと変化し、地方の村落では、さまざまな目的で構成された集団をさす呼び名となった。例えば、信仰を同じくする人々が集って作る庚申講・神明講・金毘羅講・二十三夜講・コウバラ講・善宝寺講・念仏講・地蔵講・太子講や、信仰とは関係なく、金融機関・経済機関としての役割をもった、頼母子講や無尽講などである。庚申講はオカネサンといい、干支の庚申(カノエサル)にあたる日に、まわり番の宿で行なう講である。神明講は伊勢の皇太神宮を祀る講であり、金毘羅講は金毘羅待ちがあり、輪番の宿で掛け図を下げ、真言をくった。二十三夜講は十三夜さんともいい、大浦では二十三日の夜、爺さんたちが組の宿に集った。コウバラ講は、火伏せの神を祀り、北狄では古峯ケ原真言を唱えた。善宝寺講は漁業の神で、橘では漁師仲間が漁付け祈願をした。念仏講は女性主体の講で、入川では毎月一日と十五日に、婆さんたちが地蔵堂で「南無阿弥陀仏」を唱えた。小野見では血の池講といった。地蔵講は六月二十四日に、北狄の胎蔵寺で行なわれ、住職が読経し、その後皆で真言をあげた。太子講は、石名では大工連中が二月二十三日宿に集まり、聖徳太子の掛軸を祀り、飲食をする。北狄では聖徳太子講という。頼母子講は、金銭や米穀の融通を目的とした講で、一定のかけ金やかけ米を出しあい、それを抽籤または入札で講員の一人に渡し、講員全部にひととおり渡し終えると、解散するしくみになっている。入川ではそのようにして、あたった者が金をとる組織を、大黒講といった。【関連】庚申(こうしん)【参考文献】『佐渡百科辞典稿本5』(佐渡博物館)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫

・高安寺(こうあんじ)
 下寺町の石段をのぼった最初の寺、曹洞宗の大嶺山高安寺は、釈迦如来を本尊とし、元和元年(一六一五)に吉井の剛安寺五世台翁(大翁とも。寛永十九年〈一六四二〉死去)による開基。三世梅庵は、相川に住んだ流人・小倉大納言実起と、その子宰相公連父子と交友があり、同父子の死去に際しては、梅庵が導師として葬儀をとり行った。また次男季伴(のち中納言となり熙季と改めた)とも親しく、赦免後もつづいた。境内には実起卿夫妻の供養塔がある。当時の釈迦像は、実起の守本尊であったものを、小倉家から寄進されたものである。また観音像は、奥州藤原秀衡の守本尊であったものを、酒井善兵衛という者によって納められたと『寺社帳』に書いてある。古くは、円通寺および昌安寺という末寺があったが、ともに廃寺となり、円通寺跡には宝塔が残っている。高安寺も、本堂など老巧化が進み無住のため廃寺となり、平成十二年六月に山の神総源寺に合併した。【関連】小倉実起(おぐらさねおき)【執筆者】本間雅彦

・広栄座(こうえいざ)
新穂村瓜生屋にある、説経人形座の名称。座長は霍間和夫氏。先代の幸雄は、説経節の佐渡最後の太夫で、平成八年(一九九六)二月、八七歳でなくなった。説経人形芝居の間狂言として演ずる「のろま人形」も、同座で所蔵しており、文弥人形をふくめて昭和五十二年五月、重要無形民俗文化財に指定されている。広栄座所蔵の人形首(かしら)のうち、「乳人」「般若」「神翁」「雷源」「ことわり人形」「白太夫」(以上説経)、「木之介」「下ノ長者」「お花」「仏師」(以上のろま)の一○個は、昭和三十四年三月、新潟県有形民俗文化財に指定された。説経の首は、一八世紀初頭の享保年間のころ、浄瑠璃と一緒に上方から伝えたとされ、「乳人」などの首には、享保ビナとの類似点が見られる。また腰幕の「藪越しの虎」の図柄は、一七世紀後半の延宝年間に、京都四条河原で金平(きんぴら)人形を演じていた、虎屋喜太夫座の櫓幕に似ているといい、高幕一枚の舞台も、元禄三年(一六九○)刊の、『人倫訓蒙図彙』に出てくる山本土佐掾の楽屋と同じ、と指摘する人もいて、享保移入説の裏付けともなっている。のろまの首四個のうち、「木之助」と「下ノ長」は首が上下に動く、「ガクガク人形」と呼ばれ、「お花」と「仏師」は「デッツク人形」と呼ばれて、固定式である。ともに木製の胴体に、首を串状に接続する古い形の人形で、日本の人形首の祖形に近い形式を伝えていて、貴重である。【関連】説経節(せっきょうぶし)・のろま人形(のろまにんぎょう)・文弥人形(ぶんやにんぎょう)・新穂村歴史民俗資料館(にいぼむられきしみんぞくしりょうかん)【参考文献】信田純一・斉藤清二郎『のろま・そろま狂言集成』ほか【執筆者】本間寅雄

・広永寺(こうえいじ)
浄土真宗東本願寺派。羽田町東側。慶長八年(一六○三)円照開基。円照は片貝村(中原村のうち)の出身。むかしは加賀専光寺の末寺、道場時代は中原にあったのかもしれない。明治維新後は東本願寺に属した。円照は万治元年(一六五八)遷化。元禄十年(一六九七)四月五日夜、御堂庫裏類焼する。翌十一年再建立。境内に圓山溟北の碑文・丸岡南 の墓があり、小川一灯の句碑がある。羽田町近辺の有力商人は広永寺檀家。【参考文献】岩木拡『相川町誌』、永弘寺松堂『佐渡相川志』【執筆者】佐藤利夫

・広恵倉(こうえそう)
 佐渡奉行所広間役田中從太郎(葵園)によって、文政六年(一八二三)に設立された佐渡奉行所の交易機関。当時佐渡奉行所の財政は、毎年四、五千万両の赤字であった。この窮状を打開するために、文政二年田中はのちの広恵倉仕法を建議し、翌三年より実施して予想以上の成果をあげることができた。田中は、ここに文政六年改めて佐渡奉行泉本正助に建白書を提出し、幕府の許可をえて広恵倉設立に着手、同年より開業した。広恵倉は佐渡一国一三万石余の郷村から、高一石当たり五二文の資金を徴集して、相川羽田浜(現在の相川警察署の位置)に倉庫および役所を建設し、相川市中の身元たしかな商人五人を選び、広恵倉がこれに融資して、小木港など諸港に入港する他国回船から、米・雑穀・板木その他有用の商品を仕入れさせ、他方佐渡の国産品を他国回船に販売させた。在方掛広間役二人、地方頭取など二人外を広恵倉掛り役人として置き、翌七年専属の回船一艘を新造して小木・相川間に就航させ、商品輸送に当たらせた。米をはじめ諸商品が過剰で値崩れして、商人・生産者が困るときには、広恵倉が買い支え、逆に凶作などで高騰したときは放出して、商品価格を安定させる。これによって国益を増し、生産者・消費者の生活を守ろうとしたのである。また、広恵倉はこのような価格調節機能を利用して、米価下落時に大量の米を買入れることにより、石代納(年貢の金納)の価格基準となる相川御蔵元書値段(米相場)を高水準に維持し、年貢収納高の減収を防ぐことができたため、奉行所にも大きな利益をもたらした。広恵倉の資金力は、民間商人の資金をはるかに凌駕していたから、それによって莫大な利益をあげ、商品流通を掌握した。文政十年には、金二○○○両・米一○○○石・籾二○○○石を蓄積し、孝子・貞婦など篤行者の褒賞・鉱山投資・学問所・武術所資金として、また年貢皆済困難な町村、貧窮農民に貸付けるなど金融業に事業を拡大した。凶作・飢饉に際しても御救米・廉売(御払米)を行い、名目を全うしている。しかし、年とともに広恵倉は利潤追求にはしるようになり、飢饉に放出される御救米は、年貢納入時一俵五斗二升だったのが四斗六、七升に減少し、また、奉行所の巨大資金にたち打ちできない零細な問屋商人の経営を圧迫するなど、民業の利益を奪う「不益の御倉」として天保九年の一揆訴状で攻撃され、事件後交易部門は廃止され、金融部門のみが地方役所に移されて明治維新を迎えた。【関連】田中從太郎(たなかよりたろう)・泉本正助(いずみもとしょうすけ)【参考文献】岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集七、通史編 近・現代)、田中圭一『天領佐渡』【執筆者】児玉信雄

・郷学校(ごうがっこう)
 明治二年(一八六九)二月、佐渡県は越後府に合併、前年来任した奥平謙輔が権判事として引続き在任し、相川・新穂・羽茂の三か所に郷学校を設けた。郷学校とは、各郷村に建てられる公立小学校の前身ともいうべきものである。さらに同三年には、新町(真野町)と五十里(佐和田町)に郷学校が設けられた。この時は既に越後府から独立して佐渡県(明治二年七月)が置かれ、新五郎貞老が県権知事だった時代である。明治四年七月、佐渡県が廃止され相川県となり、同年十二月鈴木重嶺が県参事として来任。彼は最後の佐渡奉行の経験者だから、佐渡の事情にくわしく、さらに次の二二か校を郷学校に指定し、校舎の建築を奨励した。それらの郷村は次の通りである。橘(相川町)・川原田町(佐和田)・二宮(佐和田)・金丸(真野町)・国分寺(同)・三宮(畑野町)・後山(同)・畑本郷(同)・目黒町(同)・小倉(同)・潟上(新穂村)・夷湊(両津市)・西三川(真野町)・小木(小木町)・羽茂(羽茂町)・赤泊(赤泊村)・徳和(同)・多田(畑野町)・松ケ崎(同)・北田野浦(相川町)・入川(同)・小田(同)ー羽茂は重複。この達しが出されてから間もなく、明治五年八月、文部省から近代的教育制度の出発点となる学制が発布されたので、以上記した郷学校の大半は、翌六年になって創立された。明治六年八月、相川県から文部省督学局へ届出た統計には、「公学校二○か所・公学校生徒数一九○○名・女一○名、私学校無之」とある。同六年八月末には、相川の仮中学校内に第一小学校(佐渡最初の小学校)が仮設され、佐渡の郷学校は小学校とする旨の通達(同六年十二月)が出された。【参考文献】『佐渡百科事典稿本5』(佐渡博物館)、『相小の百年』(相川小学校)、岩木拡『相川町誌』【執筆者】浜口一夫

・鉱具(こうぐ)
鉱山の坑内・坑外で使用された道具類。鉱石を掘るタガネから、坑内作業中に身につけた「てへん」(天辺)「こしあて」(腰当て)、そのほか水上輪などの排水器具、入坑のさいなど常時携帯した「大工手形」(木札)など。「相川金山鉱具」(有形民俗文化財)として計五五点が、昭和四十九年(一九七四)八月、町の指定文化財になった。指定物件の内訳は、「鑚」三点、「穿鎚・鎚」四点、「上田箸」一点、「腰当カマス」一点、「釣・灯皿・カンテラ類」三一点、「つるべ」一点、「水上輪」二点、「梯子」四点、「てへん」二点、「延尺」一点、「大工手形」二点、「鉱具絵馬」一点で、町立相川郷土博物館とゴールデン佐渡に、それぞれ保存されている。上田箸・釣り・灯皿・梯子・てへん・鑚類などは、慨して江戸時代に使用されたもので、坑内からの出土品もふくまれている。このうち「田」のマークが入ったカンテラは、明治四十一年(一九○八)に鉱山採鉱課長、田口源五郎が創案したアセチレン燈で、郷土博物館で所蔵する数少ないサンプルの一つ。「釣り」(鉄皿に油をいれて携帯)や、「灯皿」など、坑内照明の燃料が、「油」から初めて「ガス」にきりかえられ、坑内衛生を一新させた記念碑的な創案だった。【関連】天辺(てへん)【執筆者】本間寅雄

・郷蔵(ごうぐら)
 江戸時代村むらが納める年貢米を、相川・大石・夷にある幕府の御米蔵へ納めるまでの間、臨時的に保管する米蔵。二、三か村に一つくらいの割合で置かれ、郷蔵屋敷は免税地であった。郷蔵は幕初からあったか不明だが、元禄五、六年(一六九二ー九三)頃荻原重秀奉行が、農民の便を考え増設整備し、全島に九一か所設置した。毎年十月、年貢割付状が交付されると、名主は名寄帳に基いて、年貢高を公平に個人割りに配分した。秋収穫後、百姓は年貢米の郷蔵詰めをする。名主以下係が検査し、さらに相川から地方掛が来て、厳重な検査をして封印する。封印後は、名主から預り証文をとって、御蔵納めまで村役人の責任で保管し、十二月に入り指定期日までに、相川の御米蔵に納入する。大石・夷御蔵に指定された郷蔵米は翌春であった。輸送は、陸送は牛、海村は舟を多く使った。郷蔵は、本蔵と計り蔵からなり、土蔵ではなく茅葺きで土壁・土間であったから、火災・鼠害の危険があった。郷蔵に保管する米には郷蔵米の外に、奉行所の出先機関などの諸費用にあてるための御用米があり、保管のための村の負担が大きかった。普請の用材は御林から支給されたが、人足や工事費は組合村の負担であった。加茂郡に四七、羽茂郡に一四、雑太郡に三○か所、合計九一か所である。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七)、『赤泊村史』(上巻)【執筆者】児玉信雄

・コウグリ(こうぐり)[ウマズラハギ]
 越後の方言のコウグリが、商品取引の過程で佐渡へも広まったが、佐渡ではバクチコキとか、トウマが一般的である。和名は、頭部の形状と容貌に由来し、馬面剥の意で、皮が簡単に剥け、剥いてから調理する。しかし、コウグリの名はすでに滝沢馬琴の『烹雑乃記』に出ている。日本全国の沿岸に、普通にみられる温帯性の魚類で、佐渡では定置網でたくさん獲れるが、底引網にも入る。頭の上には、目の後ろの位置に、背鰭の棘が一本だけ離れて存在しており、体の背縁に浅い溝があるので、この棘を倒すことができる。フグ型の魚類なので、鰓孔は至って小さい。肉質もフグに似ているが、肝臓は無毒でくせがないので、肉と一緒に調理される。近似種のカワハギは磯にすみ、あまりまとまって獲れないが、味はよい。体は、長卵形のウマズラハギに比し、もっと円形に近く、雄の背鰭軟条の二~三番目のものが、糸状に長く伸びていることが特徴。ウマズラハギは二○センチほどにしか成長しないが、まれに取れるより南方系のウスバハギは、六○~七○センチに達する。磯の藻場には、七センチにしかならない愛くるしいアミメハギがすみ、観賞価値がある。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治

・高下(こうげ)
 入崎の陰になり湾入しているので、昔から和船の 掛りとして利用された。弘化二年(一八四五)「佐渡国雑志」に「船掛 深サ五尋余水底砂、船五、六艘掛、但東南之二方之風、一向不当相応之 也」と記されている。また寛永十九年(一六四二)頃には、高下浦目付所が置かれ、抜荷・密出入国の監視船 役銀徴収などが行なわれ、天保十三年(一八四二)頃には、異国船打払いのための大筒台場(大砲備付場)が、千本入崎・北片辺藻浦崎・矢柄村白島などとともに設置された。高下の草分は、弘長三年(一二六三)の「高下村立始由緒書覚」によると、承久元年(一二一九)に真更川村の大屋、三十郎の弟、高野下次郎兵衛が移住し、諏訪大明神を勧請。翌年甲州巨摩郡(現山梨県)生まれの大平九郎左衛門兄弟が入り、貞応二年(一二二三)に弟の勘解由左衛門が分家独立。寛元三年(一二四五)には、国仲の新穂村から飯野三郎右衛門。建長二年(一二五○)には、吉井村から平腰平左衛門が移住。これら五人の開発により、村が始まったという。村の創始者、高野下次郎兵衛の子孫は現在の高下兵助を指し、代々諏訪神社の氏子惣代を勤めている。かっては、正月のお松さん迎えは親村の真更川まで行ったという。高下の地名の語源も、高野下次郎兵衛の高野下からきたものとも考えられ、一般にコウゲ(高下)は高原・芝草地・荒毛などの語源と関連(鏡味完二、鏡味明克『地名の語源』角川書店)するといわれている。宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』には家数は四五軒、人口は二七八人とあり、現在(平成七年)の世帯数は五七戸・人口一五五人である。諏訪神社には熊野十二権現も併祀されている。祭日は四月十五日。獅子舞いが奉納される。【関連】浦目付所(うらめつけしょ)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『高千村史』【執筆者】浜口一夫

・広源寺(こうげんじ)
 浄土宗。南沢町字雑蔵。京都知恩院末。元和七年(一六二一)伊豆の専誉慕秀開基。当時の奉行竹村九郎右衛門が帰依し、当寺も創建した。本尊は、専誉が伊豆より守り来るという。伊豆寺ともいった。旧地は玉泉寺脇の川通り、一丁目・二丁目の境(元中教院の敷地)であった。願主竹村九郎右衛門は寛永八年(一六三一)、開基専誉は寛永十五年(一六三八)に遷化。元来、寺には寄進田地多く、堂塔仏具などは相川第一の壮麗な寺といわれた。竹村奉行を大旦那として、相川長坂町南側にあった光善寺を、寛永七年小木町へ移転せしめたのも同人であった。古檀家は上相川にも多く、すでに上相川鍛冶町に、専念寺(慶長元年開基)・玄徳寺(慶長十二年開基)などがあり、寺町に大超寺(元和九年開基)・法蓮寺(寛永元年開基)・定善寺(慶長年開基)などの数か寺があり、応仁年間(一四六七~六八)河崎猪股五郎兵衛家に入った行然ゆかりの法界寺を、河原田大坂町より、慶長十一年に下寺町に移し建立した。浄土宗信者は職人・水主衆が多く、湊町や鉱山集落に集まる傾向があった。明治元年廃寺、住僧覚俊は帰農したが、同十年復興した。【関連】竹村九郎右衛門(たけむらくろううえもん)【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、岩木拡『相川町誌』【執筆者】佐藤利夫

・鉱山学校(こうざんがっこう)
 明治二十三年(一八九○)一月、鉱山従業員の子弟を教育して有能な技術者に育てるため、御料局佐渡支庁(佐渡鉱山)に開設された学校。校長には渡辺渡支庁長が就任し、教授には神田礼治や山西敏弥らの御料局技師や技手など、一四名が名前をつらねている。修業年限は、予科三年・本科一年半で、予科では修身・読書・作文・習字・算術・地理・歴史・英語を課し、女子には特に、夜間の裁縫専修課を設けた。正課には、採鉱学科・冶金学科・機械学科・建築学科の四科を置き、ここでは数学・物理学・化学・地質学・鉱山学・冶金学・器械学・測量術等を教授した。授業は、予科は昼間のみとし、正課は昼間に実地修業、夜間に学科を三時間行った。このほか、渡辺校長の発意で特別に傷者救急法の講義が加えられた。また、ここを卒業した者は三年間佐渡鉱山に勤務することを義務づけた。講義は、実地を中心としながら理論を身につけるという方針であったが、速成的でなく、十分時間をかけた本格的な授業内容であった。開校初年の生徒数は、本科八七名・予科四一名・裁縫専修科三五名の多数にのぼっている。明治二十九年に三菱合資会社への移管によって渡辺支庁長が退任すると、第六回の卒業生を最後に廃校となった。【関連】渡辺 渡(わたなべわたる)・神田礼治(かんだれいじ)【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘

・鉱山叺(こうざんかます)
 一般的には藁で編んだ袋で、麦やモミ・米などを入れた容器だが、この場合は鉱山で鉱石を入れるのに用いたかますをいう。荒い莚を、縄で編い合わせて作る。タテ四尺、幅一尺五寸位の長方形で、袋状になっていて、坑内から搬出された鉱石を、この中に詰めることを「鏈荷作り」といった。それぞれの品位を調べて、買石がセリで買取るが、かます一荷の鉱石の重さは、五貫目が標準だった。鉱石を入れ終って、口を縫い納める縄を「ぬい縄」といい、坑内から荷揚げ穿子たちによって岡まで背負いあげるときも、ほぼ同じ大きさのかますが用いられた。やや形の大きいものが「上叺」(從四尺五寸、幅一尺六寸)、いくぶん小さいのを「並叺」(從三尺五寸、幅一尺四寸)と呼び、荷賣りのときは二とおりのかますが使用された。『金銀山稼方取扱一件』という書物に、「是は穿り候鏈(くさり─鉱石)を入れ候ものなり。幅壱尺五寸位、竪四尺位成る荒き莚を縄にて縫合せ候もの也」と説明されている。大切な鉱石を包む袋なので、古来このかますが信仰の対象にもなり、川路聖謨(奉行)によると、釜ノ口の結ひの祝いの日、坑内のかむり物の「てへん」や、採鉱用の鑚などといっしょに、このかますが神棚に飾られたと書いていて、正月に大山祇神社(鉱山の総鎮守)に奉納される「やわらぎ」(蓬莱)の神事では、祝儀唄をうたう金穿りたちが、かますで作った肩衣を着るならわしを伝えている。同じ相川の金毘羅神社の拝殿には、氏子たちが奉納した鉱山かますの現物が何枚も残っている。【執筆者】本間寅雄

・高山植物(こうざんしょくぶつ)
 森林限界線より上の高山帯(本州中部では海抜二五○○メートル以上)に発生し[1]高山帯を本来の生活域とする植物のみならず、[2]氷河の南下にともない南下し、現在高山帯に残存する植物(周極植物と同種または近縁種)及び[3]亜高山や低山帯に生活の本拠があっても、高山帯の環境に適応し生活する植物の[1][2][3]をあわせて、高山植物と呼ぶ。武田久吉の『日本高山植物図鑑』(一九七四)に、シダ植物以上の高山植物を四○○種記載する。大佐渡山地の最高峰の金北山は海抜一一七二メートル、大佐渡山地は海抜一○○○メートル前後で海抜は低く、海抜の上から亜高山、高山植物の生育は考えられない。しかし海洋に孤立する山塊においては、尾根の環境はきびしく(山頂効果)、低海抜であるのに亜寒帯気候(年平均気温六℃)で、大佐渡山系の妙見山ー金北山ードンデンー金剛山の東北部の脊稜部は、高山植物が集中分布する。「佐渡高山植物目録」(一九八七)には、五六種が記載される。佐渡の高山植物探訪には、金北山(一一七二メートル)ードンデン(九○○メートル)の尾根縦走路がよい。尾根はブナーミヤマナラ林域(日本海側の亜高山林)。ミネカエデ・ミネザクラ・ミヤマネズ・キタゴヨウ・イチイが散在分布する。ハクサンシャクナゲ・ツバメオモト・ゴゼンタケバナ・マイズルソウ・タケシマラン・シラネアオイ・サンカヨウ・オオサクラソウなどの、美花のみられる尾根である。ザレ(砂礫)には、イブキジャコウソウ・ミヤマコゴメグサ・ミヤママンネングサ・ミヤマハタザオ・ヒモカズラ・マンネンスギが生育する。尾根縦走路の北側は日本海、南側は国仲平野が展望される、絶景のつづく楽な尾根道である。【参考文献】佐久間瑛二『新潟県県民百科事典』(野島出版)、伊藤邦男「佐渡の高山植物」(『佐渡植物誌』)【執筆者】伊藤邦男

・鉱山払下げ米(こうざんはらいさげまい)
 鉱山で働く人達に、市価より安く食い米を販売して、鉱山で働く人たちを確保するためにとられた制度で、明治以後にあっても形骸をのこした。『佐渡国誌』には、「この制を設けしこと『佐渡年代記』『風土記』等の諸書には、其の年代を記さずして、寛永以後に始まりたるが如く想像せらるる記事も見ゆれど、古来相川町に伝はる口碑には、二割安払米は鎮目奉行の設定せる制度にして、毎年四月十四日の鎮目祭は其の報恩のためなりといひ、又「小田年代記」にはー元和八戌年(一六二二)相川町々人に二割安米下さるーとあるものあたかもこれに符合せり」とある。【関連】鎮目市左衛門(しずめいちざえもん)【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】田中圭一

・鉱山病院(こうざんびょういん)
 鉱山の従業員のために、明治三十七年建設された病院。佐渡に設置された最初の近代的な医療機関は、明治三年(一八七○)相川に設立された県営の病院で、主に坑夫らに利用されていた。しかし、医療思想が普及していなかったため経営難となり、明治十二年には三郡共立に移管、同十六年には河原田町に移され、翌十七年に廃止された。相川町から病院が撤退したあと、佐渡鉱山では相川町二町目浜町の医師時岡春台を鉱山局医官とし、明治二十年時岡医院の前に鉱山付属の病院を建てた。しかし、鉱山は危険な作業が多い上に、珪肺などの職業病にかかる者もいたため、鉱山専用の病院開設への要望が次第に高まり、広間町に鉱山病院を建設することを決めた。この病院は、明治三十六年六月着工して翌年四月に完成している。その規模は、木造平屋建瓦葺で、医局五五坪、病室七五坪、賄部屋二二坪余、平行する三棟を廊下でつなぎ、総坪数一六五坪余であったという。昭和二十七年の鉱山大縮小で相川町に払下げられ、同二十八年三月から相川町立相川病院となった。【関連】相川病院(あいかわびょういん)・時岡春台(ときおかしゅんたい)【参考文献】岩木拡『相川町誌』、平井栄一『佐渡鉱山史(稿)』【執筆者】石瀬佳弘

・鉱山祭り(こうざんまつり)
 相川町下山ノ神町の大山祇神社の祭礼。同社は慶長十年(一六○五)に大久保石見守長安が、鉱山の総鎮守として建てたとされ、『佐渡相川志』収載の年中行事によると、正月元旦の卯ノ刻(午前六時)には、在勤の佐渡奉行が東照宮と同社に、辰ノ刻(午前八時)から広間役以下諸定役が参詣するとある。祭礼日について、もっとも早い記事は正保三年(一六四六)の「四月十七日大山祇神事能」で、この日が祭礼だったと思われる。延享年間(一七四四ー四七)のころは三月二十三日、明治二十二年は五月十八日、また明治二十七年からは七月十三日と変わり、一定してなかった。鉱山祭りは、明治十八年に鉱山局長として赴任した大島高任が、明治二十年一月に「山神祭」として、久しくとだえていた祭禮を復活したのが始まりで、翌二十一年六月の「日本鉱業会誌」には、「我国の鉱山には、古来山の神を祭り、毎年其の祭典を行ひ、一は鉱山の繁昌を祈り、一は以て坑夫職工の労に酬(むく)ふるの例あり。西洋の鉱山には山の神こそ無けれ、毎年盛大の祝を為して、坑夫職工に快楽を与へて、人気を惹(ひ)き立るの一事に至ては、東西共に異なる処なし」といった祭りを再興する趣旨が説かれている。維新以来荒廃していた社殿を修築し、祭典はドイツのフライベルグ鉱山のベルグパラーデの法に習った行列体を主とし、軍隊に擬して隊列ごとに燈籠や山車を添え、賑やかな祭りを行った。当時の従業員は三千人を数えた。山ノ神では綱引き・角力・能楽などが催され、町内ではそれに呼応する形で花火が打ちあげられた。奉納される神事芸「やはらぎ」もこのとき復活され、正式な名は「蓬莱(ほうらい)」である。現在は七月二十五日から三日間に変わり、初日に「恩賜金記念式典」が町の主催で催される。【関連】大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)【執筆者】本間寅雄

・鉱山用語(こうざんようご)
 数多くの鉱山用語集が出版されている。鉱山が労働状況もふくめて一種の閉鎖社会であり、一般社会と違った特殊なことばが多いことと、採掘や製錬工程の近代化が進むにつれて、江戸時代にかわされたことばが、だんだんと死語になり、忘られていくためなのであろう。佐渡でいえば、南畑平吉(改姓して大塚平吉となる)部屋にはじまる「ナンバタ」のことばなど、一時はよく知られたことばが、近代では知る人も少なくなっている。「くさり」(鏈)は鉱石のことで、佐渡鉱山では銀の産額が多いので、それは銀鉱をさし、「すじ」(筋)といえば金鉱をいった。「つる」(鉉)は鉱脈のことで、「たてあい」(立合)などともいった。それに向って水平に堀り進むのが、「ひおし」(樋押し)である。「わきあがり」(湧き上り)は地表に顔を出した鉱脈、つまり露頭鉱のことで、鉱况がピークに達した状態を、「大盛り」などという。手堀りのころは、掘り方にもいろいろあって、「かんむりぼり」(冠穿り)といえば頭上を堀ることをいい、足元に向って堀るのが、「ふまえ」(台)穿り。切羽(採掘現場)で真正面に向ってタガネをふるうのが、「ひったて」(引立)穿りである。「まぶ」(間歩)はよくいう坑道のことで、「しき」(敷)は坑内を、「おか」(岡)は坑外を総称していった。坑口は「かまのくち」(釜ノ口)といい、神聖な場所なのでその入口をいろいろと飾る柱などの組立てを、「けしょうだな」(化粧棚)とも呼んだという。【関連】化粧棚(けしょうだな)【参考文献】「金銀山取扱一件」ほか【執筆者】本間寅雄

・紅紫会(こうしかい) 【別称】林儀作(はやしぎさく)

・庚申(こうしん)
 もともと道教の説からおこったものといわれ、人体に潜む三尸という虫が、庚申の日に天に昇り、人間の悪行を天神に告げ早死させるから、その夜は守庚申といい、眠らないで身を慎むのだという。この講は、ひろく各地に行なわれており、庚申塔があちこちに見られる。相川町関では、このオカネサン(庚申講)は重要な講だという。庚申講は、どのムラでも数軒が一組となって構成されており、宿はまわり番で掛軸を掛け、お神酒を供え、念仏を唱え夕飯を食べた。そして「話はオカネサンの晩」といわれ、神がお帰りになるまで寝てならぬといい、夜おそくまで世間話にはなを咲かせた。北川内ではオコシンサン(庚申)は猿だといい、高瀬では、猿・猿田彦・百姓の神だといい、橘では帝釈天と、それぞれの神格が与えられているが、実は本尊の名は、仏教の青面金剛だという。関では庚申講の料理や団子を、女は食べてはならぬといい、これを食べると不具の子を産むと伝えられている。庚申講で最も普遍的な禁忌は、同衾の禁である。その日宿った子は片輪になる。利口ならとても利口になり、馬鹿なら大馬鹿になり、また手が長く(盗人)なるなどという。オカネサンの御利益は、農作・防火・防盗・災難厄病よけ・金もうけ・無病息災などといわれ、稲鯨では、庚申の日にイカが三ばいとれれば、その月は大漁となるといった。【関連】講(こう)【参考文献】『佐渡百科辞典稿本5』(佐渡博物館)、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫

・荒神(こうじん)
 荒神はオカマサンとも呼ばれ、かまどの神であり、火の神である。近年は台所のようすが随分変ったが、終戦前までの多くの農家は、台所の続きの土間の片隅に竈を設けていた。竈はふだんの煮たきに使い、一番奥の片隅の大竈は、餅をつく時や振舞ごとのある時などに活用した。また牛馬の飼料を煮る時や、おろけ(桶風呂)の湯をわかす時も使用した。相川町関では、正月に法印が荒神の札を各家に持ってきた。同町石名では、コウジンマツリといい、正月に清水寺の住職が家々をまわり、幣束を切って真言をくった。オカマサン(竈)には、注連縄を輪にして供え、お神酒を供えた。石花では、荒神さんは自在鉤に宿るといい、正月には餅を供えた。戸地では、神主が荒神バライをして、幣束を切ってくれる。鹿伏では、荒神様を竈の側などに棚を作って祀っており、観音寺の住職が幣束を切ってくれる。大浦では、竈か囲炉裏の上に祠を作って荒神を祀り、安養寺で三宝荒神の札を切ってくれた。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)、『佐渡百科辞典稿本2』(佐渡博物館)【執筆者】浜口一夫

・ゴウダラフク(ごうだらふく)[ホテイウオ]
 フグ類に似て、体がずんぐりと膨れているが、軟かくて腹鰭が大きく、丸い吸盤となっていることが特徴。それで、越後ではイワフッツキと呼ぶ土地がある。また、厳冬季の一~二月の産卵期には、普段すんでいる一○○~一五○メートルの海底から、磯の岩礁帯へ寄ってくる。岩石の間に、二五、○○○粒以上もの卵を一塊にして産み、産卵後は死んで、岸辺へ打ち上げられたりする。それで、越後ではこの北日本に多い寒帯性の魚を、ヨキヨ(雪魚)と呼んだりする。和名のホテイウオは、姿態がふとった布袋様を思わせるところから命名された。北海道ではゴッコと呼び、ぶつ切りにした身と卵巣を、味噌汁にして賞味するが、佐渡では食用にしない。北米では、近似種のランプ・フィッシュの卵巣を、チョウザメ卵巣(キャビア)の模造品として利用している。ホテイウオは、三○センチほどに成長する。体色は淡い暗黄緑色をしており、黒っぽい斑紋があったりする。雌は雄より黒っぽく、吸盤は小さく、性的二型を示す。ホテイウオの仲間には、もっと小型のコンペイトウウオ(金平糖魚)がおり、二五○メートルの深海にすむ。卵塊を、深海底のエゾバイの仲間の貝殻に産むことが知られている。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治

・コウナゴ(こうなご)[イカナゴ]
 和名はイカナゴ(玉金魚)であるが、俗に広くコウナゴ(小女子)と呼ばれている。当て字に似ず、二五センチにも成長する。北海道から九州までの浅海底の砂の中に潜んですんでいるが、北の海に多い。時には大群となって海表面へ浮いてくる。これを「たかり」といい、往時は佐渡の外海府で、大きな「たかり場」が形成され、相川地区全集落から手槽ぎの船が集まり、「たも網」で掬ったという。これらを、大きさによりいろいろと調理して食したり、また〆粕にして肥料にした。ただし、たかり場は、マイワシやサンマでも形成された。イカナゴの産卵期は、南西日本では冬であるが、北海道では春であり、卵は砂粒につく。水温が高くなって、二○度を越えると砂中で過ごし、夏眠する。英名のサンド・ランス(砂・槍)は、この習性と形態をよくいい表わしている。現在は、幼魚は佃煮、成魚はてんぷらや、養魚の餌に用いられる。腹びれが無く、体側の皮膚にたくさんのひだがあることが特徴。亜熱帯の海にはタイワンイカナゴ、北海道より北の海には、キタイカナゴが分布する。佐渡の磯の藻場にすむシワイカナゴは、全く系統の違う小魚で、名前がまぎらわしい。【参考文献】『新潟県海の魚類図鑑』(新潟日報事業社)【執筆者】本間義治

・国府川(こうのかわ)
 「こくぶがわ」とも言う。佐渡島内最大の河川。全長一九・一キロメートル、源を小佐渡山地の国見山(六二九メートル)に発し北西流し、新穂ダムを経て国中平野に出て向きを変え、南西流して真野湾に注ぐ。上流側の新穂付近では、新穂川或いは瓜生屋川と呼ぶ。平野を流れる間、大佐渡山地からの支流、地持院川・新保川・中津川・藤津川と、小佐渡山地からの支流、大野川を合流した長谷川・小倉川・竹田川の水を集める。平面形が樹枝状の河系で、流域面積は約一五○平方キロメートル位ある。現在は、各支流の山地内部にダムが造られ、灌漑や水害予防に役立っているが、国中低地に開田が進められた奈良期以後、沿岸の集落や耕地は、歴史時代を通じ戦後まで繰り返し洪水の被害を被って来た。寛永四年(一六二七)の大洪水を機に、河口に近い長石付近の曲流部河道の直線化改修工事が何度か行われ、文化年間に完成した。各支流の落合う付近の河道改修工事は、戦後も継続されて来た。川の名は、沿岸に古代国府の立地した事による。又金井町地内に舟津、新穂村に舟下の地名のある所から、下流部は古い時代水運に利用されていた。【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『角川日本地名大辞典・新潟県』(角川書店)、渡辺光ら編『日本地名大事典四・中部』(朝倉書店)【執筆者】式 正英

・国府川辰巳井戸址(こうのがわたつみいどし)
 国府川右岸の、国府橋から落合橋間の辰巳側河川敷から発見された井戸址をいう。昭和三十年(一九五五)の国府川改修工事中に六基、三十一年に二基、四十三年に九基、五十四年に一基、五十七年に一基の発見があり、計一九基を数える井戸の密集地帯である。昭和四十三年発見の九基は、佐渡博物館で発掘調査をしたが、杉材の柱と桁を組んだ四角井戸、杉の丸木をくりぬいた丸木井戸・曲物丸井戸、杉の丸木柱と杉板で丸井戸を作り、その井戸底に曲物を置いた二重構造の井戸(第九号井戸、井戸枠は現地保存)があった。最も多いのは四角井戸である。出土遺物は、井戸址によって違いがあるが、須恵器・土師器・珠洲焼・曲物・箸・杓子・種子類などで、平安時代から室町初期頃にかけての井戸址とみられる。国府川辰巳井戸址は、八幡砂丘の後背低地、湧水域に設けられたもので、八幡砂丘は当時の生活の場であった。井戸址は他に、真野町金丸の与六淵遺跡、金井町千種の千種遺跡、新穂村の島、真野町の若宮遺跡、畑野町の後山遺跡からも出土がある。【参考文献】本間嘉晴「佐和田町の原始・古代」(『佐和田町史』通史編1)【執筆者】計良勝範

・孔廟(こうびょう)
 文政七年(一八二四)に、奉行所地つづきの広間町の一角に、子弟教育のために建てられた修教館には、その二年後に儒者たちが崇敬する孔子像を祀る廟が建てられた。現在の位置でいえば相川病院のところで、版画村美術館の方を向いて南東向きの建物であった。これを孔廟(孔子廟)という。天領佐渡では、徳川家が江戸本郷に設けた学問所・昌平黌近くに、湯島聖堂を建てたのに倣って孔廟を建てた。聖像は江戸の職人につくらせたが、完成まで三年を要したので、その間は亀田鵬斎讃のある摺本を代用していた。社寺ではなく廟を祀る趣旨は、儒教を重視した徳川家の家風に従ったもので、相川では寛永十三年に下山之神町に御霊屋として、東照宮を建て家康公を祀っていた。修教館建設を提案したのは、地方役人で漢学者であった田中従太郎(美清といい葵園と号した)であったが、孔廟は佐渡奉行所によって、江戸老中の認可を得て一○か月かけて竣工した。孔廟は天保五年(一八三四)に火災に会い同十三年再建したが、安政五年(一八五八)に再度罹災。再建せぬまま、焼失を免れた聖像は修教館に保管され、現在相川郷土博物館に展示されている。【執筆者】本間雅彦

・弘法堂(こうぼうどう)
 小木町の小比叡山蓮華峰寺にある。方三間の宝形づくりで、金堂西北の小高い山の中腹に建てられている。弘法大師をまつる。内部には須弥壇と厨子がつくりづけでできている。昭和三十年(一九五五)の解体修理のとき、軒化装裏板から見つかった墨書に慶長十四年(一六○九)の年号があり、棟札に「頭梁備前岡山・富田助次右衛門」に加えて、「大工播州明石之住・水田対馬守政次」と記されていた。この人は、五年前の慶長九年に佐渡陣屋(奉行所)が建てられたときの大工・水田与左衛門(初代)と同一人物であり、長安によって鉱山の開発が進んでいた時代、同年に小比叡神社も建てられる。与左衛門による建築は、小木の木崎神社・松ケ崎の松前明神など、島内に数多くあったことが記録されているが、現存する建物では弘法堂などわずかで、サンプルとしても貴重である。江戸前期の建造物としては、わりと飾りの少ない、端正な感じの造りである。のち、享保年間と文化年間に部分的な改修があった。骨堂・金堂とともに重要文化財。【関連】水田与左衛門(みずたよざえもん)・蓮華峰寺(れんげぶじ)【参考文献】『新潟県の文化財』(新潟県教育委員会)【執筆者】本間寅雄

・光明仏寺(こうみょうぶつじ)
 両津市真更川山中にある。辺り一帯を山居と言い、山居池と共に木食弾誓一派の修行地の伝承を伝える。「光明仏」は弾誓の異名であり、弾誓の寺の意味である。開基は元和六年(一六二○)とする説もあるが、光明仏寺縁起による元禄六年(一六九三)十月、真更川山中に念仏堂屋敷を村中より寄進の記事が、開基と見るのが妥当と思う。「弾誓上人絵詞伝」や「畧伝」が成立し、一般に流布したのは元禄の頃からであり、当然それは佐渡にも伝えられ、堂の建立に至ったものである。本尊の阿弥陀如来座像は、相川弾誓寺三世「音阿」(元禄十五年遷化)の作であると伝えられ、慶応四年(一八六八)まで弾誓寺が管理をしていた。しかし寺院・堂として除地は認められておらず、無住・無人の頃もあって、天明二年(一七八二)佐渡に滞在した、「木喰行道」によって再興された。また、天保年間の初め佐渡に来た「木食浄厳」は、ここを「浄土鎮西白旗流一向専修念仏道場・光明山念仏寺蓮華律院」と改め、日課念仏を広め、賦算・血脈の配布を行い大いに栄えた。その弟子で真更川土屋三十郎家の娘「明聴」は、吉井本郷に「西方庵」を開き、明治期に来た「笠掛澄心」は、山居道を整備して大いに繁栄をもたらした。現在の建物は、昭和三十一年に増改築したものである。【関連】木喰行道(もくじきぎょうどう)・木食浄厳(もくじきじょうごん)・木食弾誓(もくじきたんせい)・澄心道標(しょうしんみちしるべ)【参考文献】「弾誓寺文書」、小松辰蔵『佐渡の木食上人』、宮島潤子『謎の石仏』(角川選書)
【執筆者】近藤貫海

・高野遺跡(こうやいせき)
 昭和三十年(一九五五)八月、真野町大字四日町地内、国府川河口に近い砂丘上の畑地の発掘調査が行われた。地表から六○㌢ほど掘り下げた層から、多数の土器(須恵器・土師器)片や、瓦の破片・鉄滓等が出土した。さらにこの層の下二五㌢ほどの面から、皇朝十二銭の一つ「承和昌宝」一枚も発見された。これらの出土遺物は、だいたい九世紀ころのものとみられている。ところで、出土した土器(皿)の破片の内部や外側に、墨で一字ずつ文字の書かれたものが含まれていた。墨書土器という。その文字は「□(高カ)」二三点、「軍」「団」「舜」「厨」「□(駅カ)」など、各一点ずつである。ここで特に注目したいのは、「軍」「団」の文字である。「延喜式」(九二七編纂)の中に「佐渡国雑太団」のことが載る。軍団という一国の軍隊を指すものであり、それが雑太に置かれていたものである。軍団は大化のころからか、あるいは律令制の調った文武朝のころか、全国に配置された軍隊である。「雑太軍団」の存在した場所は、具体的にどこであったかは記録にはみえない。しかしこの高野(高家=郡役所?)遺跡から、「軍」「団」の文字の記入された土器が出土したということは、この地点が律令時代の「雑太軍団」の置かれていた所と、推測できるよい資料となる。他の墨書土器のうち、「厨」は食事に関する建物、「□(駅カ)」はあるいは延喜式に載る佐渡三駅の一つ、雑太の駅(役人の乗る馬・五匹が置かれた駅家)などを示すものでなかろうか。【執筆者】 山本仁

・郷宿(ごうやど)
 江戸時代、佐渡奉行所所在地相川に、村々百姓滞在のための定宿。宝暦初期編纂の『佐渡相川志』には、郷宿は羽田町長浜屋嘉兵衛三○ケ村・同絹屋平蔵三○ケ村・二丁目大坂屋宗七二六ケ村・同出雲屋庄右衛門三○ケ村・一丁目鶴屋彦兵衛一三ケ村、残りの村の郷宿は並町人、大間町富山屋文右衛門・同敦賀屋弥兵衛・同角屋吉郎左衛門・羽田町薬屋六兵衛、この外下宿は一丁目利三郎となっている。おもに村三役などを顧客とし訴訟などに宿泊したので、公事宿ともいわれた。村々指定の郷宿は時代により変わった。江戸前期は番所付問屋を兼ねた商人もいたが、「文政九年相川町墨引」をみると、上町の京町通りに多く集っている。奉行所に近かったためだろう。享和元年(一八○一)北片辺村と石花村の石花川水配分で争論となり、地方掛の出役で郷宿吉郎兵衛・嘉十郎が仲介に入って奥印形をした例がある。また文化五年(一八○八)岩谷口村と矢柄村で網漁の順番をめぐって争ったとき、下京町万屋善兵衛が両村の済口証文を取り替わす立合人になっている。その頃海府は万屋善兵衛が定宿で、寛政八年(一七九六)小田村名主らが公事のため、善兵衛に宿泊した五、六月二か月の宿泊日数は延一三五日、代銭一六貫八七二文、一泊一二五文であった。元禄期までは、公事調停は下相川村の大名主村田与三兵衛が行っており、あとでは郷宿がその仕事をうけついだ。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四・五・七)【執筆者】佐藤利夫

・光楽寺(こうらくじ)
 浄土真宗東本願寺派。炭屋町。慶長十九年(一六一四)行春開基。『相川町誌』には「開基僧行春ハ能州光楽寺ヨリ来リテ板町西側ニ創立セシニ、此地ハ風浪激シク、境内ハ漸次ニ侵蝕セラレシナリ。元禄中今ノ地ニ移建スト云フ」とある。開基行春は「光楽寺縁起」では行心とある。慶長十九年渡来のとき、「慶長八年加州河北郡笠野吉蔵村光楽寺、願主釈円誓」と裏書のある教如寿像を持参した。縁起では、慶長十九年住持、円誓の兄行心、始めて此の国に渡り、同年京師に上り、宗祖聖人の御影・七祖真影・聖徳太子真影を稟受し、寛永元年(一六二四)本尊木仏を免許す、とある。現在、本堂の両側に掲げられている。吉倉光楽寺系図では、行心は光楽寺四世とあり、円誓から行心は祖師御影を受けて佐渡へ来た。行心渡来のとき、門徒を引きつれて来たものだろう。光楽寺堂番の笠野典蔵の「光楽寺縁起」によると、板町は海に近く、しばしば波浪の害があり、境内が欠壊して居ることができず、元禄三年(一六九○)に炭屋町に移転した、という。石川県吉倉の光楽寺から昭和四十七年、はじめて門徒の一団が訪れ、先祖の仏縁を結んだ。【参考文献】佐藤利夫「北陸真宗門徒と佐渡銀山」(『日本海地域の歴史と文化』)、岩木拡『相川町誌』【執筆者】佐藤利夫

・唐来天南星(こうらいてんなんしょう)
【科属】 サトイモ科テンナンショウ属 毎年五月に開かれる佐渡山草展に、ムサシアブミ・ユキモチソウ(二種佐渡に自生せず)以外に、佐渡自生のコウライテンナンショウ・ヒロハテンナンショウ・ウラシマソウなどのテンナンショウ属の、鉢植えがよく出品される。花の中から、釣り条を垂らすのがウラシマソウで、これは誰もが間違いなく覚えられる。ヒロハテンナンショウは、五枚の小葉にわかれ、葉より低い位置に花がつく。コウライテンナンショウは二葉にわかれ、下の第一葉は小葉六枚ほど、上の第二葉は小葉九枚ほどで、葉より高く花がつく。『佐渡島菜薬譜』(一七三六)に、「天南星 方言ヘビノダイオウ」と記されるが、二種を区別してない。『佐渡志』(一八一六)に、「天南星 方言へびのだいおう 山中に生す 大(コウライテンナンショウ) 小(ヒロハテンナンショウ)の二種あり、薬に用いる小葉なるを佳とす」と、両種を区別している。球茎をすりおろし、腫れもの・肩こり・リュウマチに外用した。蛇のかまくびや、蛇の皮のイメージから、ヘビノダイオウ・ヘビノダイハチと呼ぶ。赤実は、ヘビノデンガク・ヘビノトウモロコシと呼ぶ。【花期】 四~五月【分布】 北・本・四・九【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の植物ー春』、同『佐渡薬草風土記』【執筆者】 伊藤邦男

・ゴールデン佐渡(ごーるでんさど)
 設立は昭和四十五年(一九七○)四月。佐渡鉱山の大幅縮少にともなう旧坑の宗太夫坑を中心とした史跡公開と、産金過程の模型展示および土産販売のため「史跡佐渡金山」をオープン。以後、関連事業として「ホテルひらね」(相川町戸中)を昭和四十七年開業。昭和四十九年、資本金五○○○万円。昭和五十四年、宗太夫坑新坑道の開窄完成。昭和五十六年、人形増設による坑内の展示を大改装。佐渡観光の好調により入場数が急増、全国の休鉱山の観光施設のモデルとなる。昭和五十九年、坑内の人形をコンピューター駆動の展示装置にかえ、実体感をだす。平成元年(一九八九)三月三十一日付で佐渡鉱山閉山、佐渡金山株式会社を吸収合併。また江戸無宿など、供養のため投げられた賽銭を資金に、無宿供養祭・鉱山敷地周辺の公園化・文学碑などの建立を進めた。平成十三年には開山四百年を記念して内部展示を充実した。【参考文献】「沿革」(株式会社ゴールデン佐渡)【執筆者】佐藤利夫

・石代納(こくだいのう)
 江戸時代貢租を、米穀で納める代わりに貨幣で納める納税法。近世の税制では、石高制の原則に立脚して米納年貢制が基本であったが、貨幣経済・商品流通の発達にともない、佐渡においても領主・領民双方の要請から、早い時期から石代納が行われた。すなわち、幕府は年貢米の輸送費と、海難の危険および蔵米売却の諸経費を節減でき、農民側でも、俵装・運搬の費用と手間が省くことができた。また、商品作物の生産や、農村家内工業の発達などによる、貨幣取得の機会が増え、特に凶作時の石代納は、米納の困難回避にも効果をもたらす利点があった。佐渡では、すでに室町時代に貫高制が行われ、年貢の銭納が行われており、江戸時代に入って元和三年(一六一七)の屋敷検地でも、地子(屋敷税)は銀納、本年貢(本途物成)も一七世紀半ばには、一部石代納が導入された。元禄七年(一六九四)の元禄検地以後、畑年貢は幕末まですべて銀納、田方年貢も時期により差はあるが、相当部分が銀による石代納であった。小物成・高掛物・冥加・運上なども、税目により石代納が行われた。【関連】元禄検地(げんろくけんち)【執筆者】児玉信雄

・国分寺瓦(こくぶんじがわら)
 国分寺境内から出土する古い瓦を、国分寺瓦と呼ぶ。裏側一面に布目が着くことから布目瓦とも呼び、また国分寺建立の天平年間ころ作られたことから、天平瓦などと呼ぶ場合もある。佐渡の国分寺旧境内からも、この瓦の完全な形をしたものや、破片などが多数出土する。国分寺の建物に乗せる瓦を焼く窯跡も、全国的に多く発見されているが、佐渡国分寺の瓦も、すぐ近くの経ケ峰瓦窯や、遠く離れた羽茂町小泊の須恵器窯で焼かれていた。経ケ峰窯址は、瓦専門に焼く窯で、現在数基が発見されており、小泊窯址は数は非常に多いが、主として須恵器を焼く窯で、それを利用して時には瓦も焼いたもののようである。経ケ峰瓦は古い様相を示し、小泊瓦はこれよりやや新しいものとみられている。恐らく国分寺建立当時の建物(金堂や塔)には、近くの経ケ峰瓦が用いられ、後に建物数の増加や補修用の瓦は、経ケ峰だけでは間に合わず、小泊窯を利用して焼いたものではないかという。瓦の形態は、平瓦と丸瓦があり、またそれぞれの瓦の軒先に着く模様の入った軒瓦がある。佐渡国分寺の建立も、全国的に遅かったようであるが、そうしたことからか、瓦も退化傾向のみられる粗末な模様である。軒瓦模様としては、軒丸瓦では蓮華文(変形して菊花状・剣刀状・柳葉状)で、子房の極く小さいもの、軒平瓦では唐草文(均正・偏行)や、幾何学文(山形・鋸歯形波状・菱形など)が主で、内外区の区別がなく単純な模様である。窯跡出土例でみれば、単弁蓮華文・偏行唐草文は経ケ峰で、素弁蓮華文、退化した均正唐草文・幾化学文は、小泊で焼かれた傾向がみられるという(「新潟考古学談話会会報」山本肇)。なお平瓦・丸瓦の表面・裏面に、文字や記号がヘラ書きされたものがたまにみられる。「七」「十」「左」「天」「キ」「北」「N」などがあり、また国分寺跡回廊付近から出土した丸瓦に、人物画(官人)と三国真人の文字がヘラ書きされたものは、貴重な史料である。【執筆者】山本 仁

・石水替(こくみずかえ)
 聞きなれないことばだが、鉱山の樋引(水替人夫)を、村々の石高に応じて「百石○○人」と割当てることを、そう呼んだ。佐渡の天領経営できわ立ってみえる特徴の一つに、炭や留木の供出とは別に、水替の人たちを二百数十か村の村々に強制的に割当てたことである。佐渡鉱山は、水に苦しむ個有の、ともいえる条件を持ってはいたが、諸国の天領でこうした強い政策のとられた例はないように思われる。「石水替」と記した文書は、佐和田町史編さん室に保管されていた「矢田家日記」で、明和九年(一七七二)のこと。村高百石について「二人三分」の人足を割当てて、国中から「三千人」が鉱山に送られた、とある。島の総石高はほぼ十三万石とされるから、そういう計算になるのである。いつこの「石水替」の割当基準ができたかはわからないが、農漁民が鉱山仕事にかり出されるのは寛文十年(一六七○)以来のことで、最初は人ではなくて、樋引人足にかかる費用を町方の人たちに割当て、それが在郷にも適用され、しだいに人足の供出へと拡大していった。水没した割間歩の取明けに、曽根吉正(佐渡奉行)が全力をあげるさし迫った時期であった。この石水替は幕末まで続き、村方と佐渡奉行所との緊張関係を高めた。島内の村々の帳箱文書の中には、この制度をやめてほしいという願書が、たいていの村々にも残っている。寛政元年(一七八九)に、江戸の御勘定吟味改役から佐渡奉行所組頭として赴任した谷左中(柄明)という人は、「村役に水替さする無道さよ民は天下の宝ならずや」(いが栗)と詠んで、これを悪政と批判した。【関連】曽根五郎兵衛(そねごろうべえ)・谷左中(たにさちゅう)【執筆者】本間寅雄

・小佐渡山地(こさどさんち)
 国中平野を挟み大佐渡山地に対し、その南東に位置する。その稜線高度は五ー六○○メートルで、山頂部は連峰をなさずにほぼ独立し、大隅山(六一○メートル)・国見山(六二九メートル)・大地山(六四五メートル)・経塚山(六三六メートル)等、小峰が北から南に配置する。その北東半は、大佐渡山地と同じく主山稜は東に偏し東浦側に急、国中側に緩の傾動地塊的断面を示すが、南西半は羽茂川が佐渡方向の褶曲軸に沿った縦谷を造るので、主山稜は二条に分岐する。その他のやや長大な川は、国中へ落ちる久知川・国府川(新穂川)・大野川・小倉川等であり、他は短小である。古生層の粘板岩・砂岩等の硬岩は岩首付近、東部海岸中央部に露出し海岸線を凸型にさせる。経塚山より北東の部分は、新第三紀層中新統下部の、主に陸成層の火山岩類から成り、南西の部分はその上部層にあたり、海成層の頁岩・シルト岩・砂岩・凝灰岩等から成る。緩斜面は特に南西半部に多くみられ、軟岩の地質に由来しており、千枚田や集落の立地場所となっている。北東半部は、急斜面が基調で緩斜面が山稜・山腹に分散し大佐渡山地に似るが、現況では林間放牧は行われていない。全体として中~小起伏で晩壮年山地を呈し、老年山形の部分も含む。【参考文献】新潟の自然刊行委員会編『新潟の自然』(二集)、九学会編『人類科学一四集』(新生社)、同『佐渡ー自然・文化・社会』(平凡社)【執筆者】式 正英

・腰当て(こしあて)
 鉱山の坑内で用いた。筵を、角形の從長に編んである。フチをつけ、藁紐か麻の紐をつけ、腰にぶらさげ、切羽などで腰をおろしたときに、腰が冷えるのを防ぐために考案された。袋状になっているので、火薬がなかった手堀りの時代には、この中にいっぱいの鉱石を堀るのが、一日のノルマだったという伝聞が残っている。袋状に作ってあるのはそのためであろう。近代に入ると、タガネやセットー(片手ハンマー)などを入れて、肩にかけて入坑することもあったという。空気まわりのいい敷(坑内)では、空気が冷たいので神経痛の多いヤマでは、保温のためにナンバン(唐辛し)をこの中に詰めて入る人もいて、ホカホカと腰廻りがあたたかかった。佐渡鉱山では、主として小川(相川町小川)の農家が作って、売りにきたという。古い人たちの話では、落石などで坑内にとじこめられたとき、この藁を食べて命をつないだ人もいたといい、秋田の細倉鉱山などでも、そうした伝承を残していた。近年では弁当入れにもなるので、腰当て用と二つ持つ人も多く、また「よごれよけ」という別名もあって、座ったとき腰につくドロの防止にもなった。佐渡鉱山では、「ケツ当て」「シリ当て」ともいい、生野や別子銅山では「シリスケ」、細倉では「あてシコ」、石見銀山では「松入」などと、違った呼び方をしていた。単純な作りだが、諸国の鉱山で重宝がられた。【執筆者】本間寅雄

・五色岩(ごしきいわ)
 相川町小川から達者に至るまでの間の、海岸付近の岩石景を呼ぶ名称。付近は海抜二五メートルから四○メートルの海岸段丘が直接海に臨み、険しい海食崖をつくり、急崖や岩塔・岩礁・離れ島等、複雑な地形を織りなしている。烈しい波食により裸岩を呈し、岩石固有の多彩な色が露出し、五色岩の名が付された。付近の小島にも、赤島・黒島の名が見られる。地質は新第三紀中新統石花川層の石英安山岩質、又は変質安山岩質凝灰角礫岩で、灰緑~緑色を呈する。「名勝佐渡海府海岸」の南端部にあたる。【参考文献】「佐渡島の地質」その一(『佐渡博物館研究報告』六集)、相川町・両津市教育委員会編『名勝佐渡海府海岸保存管理計画策定報告書』【執筆者】式正英

・小獅子舞(こじしまい)(南片辺) 【別称】南片辺祭り(みなみかたべまつり)

・小獅子舞(こじしまい)(北川内)【別称】北川内祭り(きたかわちまつり)

・越の寒葵(こしのかんあおい)
【科属】 ウマノスズクサ科カンアオイ属 カンアオイ属は、日本列島で多くの種を分化した植物の代表とされる。日本・中国・ベトナムに約五○種、日本には三○種にも及ぶ種が分布する。フジノカンアオイ(奄美大島)・オニカンアオイ(屋久島)・ツクシアオイ(九州)・トサノアオイ(四国)・カントウカンアオイ(関東)など、地方ごとに多くの種を分化させた。新潟県にはクロヒメカンアオイ(西部)・ミヤマアオイ(糸魚川市南部)・コシノカンアオイ(県全域)が分布するが、佐渡は本種のみ。山形県から福井県の日本海側の山地に分布する北陸種。岩船郡勝木で採集されたものが原標本である。この仲間は、狭い分布域をもつ地方固有種が多いのは、種子が蟻によって伝播され、分布速度の遅いことに由る。種子に蟻を誘う脂肪体がある。蟻の伝播速度は、一万年間に一~三キロメートルと非常に遅い。本土と隔する佐渡海峡は三○キロメートル、越佐陸橋時代に蟻伝播速度を一万年で三キロメートルとすると、伝播に十万年かかる。コシノカンアオイの長い一人旅である。葉は常緑で厚っぽい。暗紫色の花はガクの変形。萼筒は壺形で先は三裂する。佐渡方言ブンブクチャガマ。【花期】 三~五月【分布】 本(日本海側)【参考文献】 伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】 伊藤邦男

・小杉立の天然杉林(こすぎだてのてんねんすぎりん)
 天然杉の林は、親杉とそれをとり囲む若い小杉がみられる。それだけでなく樹齢一○○○年にもなる巨杉も同居する。林床は明るく春はヤマトユキザサが、冬は雪の中に赤実をつけるマルバフユイチゴがみられる。天然杉のまとまった林は大佐渡山系の北西斜面と、その分布は限られている。特にタタラ峰(ドンテンー海抜九○○メートル前後)から、大倉越え(七四○メートル)に至る海府側斜面には、五○○ヘクタールもの天然杉林がみられる。典型的な杉の天然林は、小杉立。新潟大学演習林の六林班である一七ヘクタールの林分。小杉立は、小さな杉が立つと書くが、これは林を訪れば自らわかってくる。親杉を中心にして小杉が、輪のようにとり囲み林立しているのである。親杉の胸高幹周は一~一・五メートルで、一抱えから二抱えもある大杉。この親杉の根もとから、放射状の五~八本の伏条がでては、そこから小杉が直立する。これが天然杉の特徴で、伏条更新と呼ばれる。佐渡では、天然杉をマカズオオリノキと呼ぶ。これは蒔かなくても、杉苗を植えなくても伏条更新によって小杉が次々に生ずるからである。屋久島も天然杉の島。屋久島でも伏条更新によって生じた杉を小杉、天然杉の林を小杉立と呼ぶ。この林の中の一○○○年以上の巨木を、屋久杉と呼んでいる。【関連】新潟大学農学部付属佐渡演習林(にいがただいがくのうがくぶふぞくさどえんしゅうりん)舟山の天然杉林(ふなやまのてんねんすぎりん)【参考文献】伊藤邦男『佐渡花の風土記ー花・薬草・巨木・美林』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】伊藤邦男

・御前踊り(ごぜんおどり)
 寛永十八年(一六四一)の『異本佐渡風土記』に、「今年大広間(今の広間町)に踊りがあり、町々より金銀の飾りものを指上げ芸を尽した。特に山師・買石たちは金鍔を大竹に結びつけて、御門の前にたてた」とある。多分これは盆踊りで、奉行御覧の御前踊りではないかと思われる。踊りの内容は、音頭踊りや甚句踊りであったかと思われるが、さだかではない。『相川略記』に、寛文十年(一六七○)七月「すっすおどり始まる」「これまではなもさおどりなり」とあるが、どのような踊りか不明である。が、その頃は「音頭踊り」と「甚句踊り」二種しかなかったというから、それらの踊りを指しているのかも知れない。その後、七月十五日(久須美裕明『佐渡の日次』天保十二年・一八四一)には、相川の奉行所前の広場に、例年のように盆踊りがたち、これを御前音頭と称したらしい。島内の音頭とりは、これに参加することをなによりの誇りとし、参加を競った。奉行は紫幕や青簾を垂れめぐらせ、毛氈を敷いた役所の物見からご覧になり、音頭とり・三味弾きなどに酒・肴、踊り子にはニギリメシ・煮しめなどを与え、労をねぎらうのが、毎年の例となっていたという。そして、これが現在の相川音頭の源流だといわれている。なお囃子ことばのハイハイは、奉行の御前を通るときの平伏、恐縮の意をあらわすものとの説もある。【関連】相川音頭(あいかわおんど)【参考文献】田中圭一編『佐渡芸能史(上)』(中村書店)、『佐渡百科辞典稿本1・5』(佐渡博物館)、山本修之助編『相川音頭全集』【執筆者】浜口一夫

・御前橘(ごぜんたちばな)
【科属】ミズキ科ゴゼンタチバナ属
 高山帯下部~亜高山帯の植物。亜高山帯の針葉樹林に多いが、高山帯のハイマツの下などにも生える。飯沼慾斉の『草木図説』(一八五六~六二)に、「白山最高の嶺ヲゴゼント称ス、此草ソノ地ニ産シ、実カラタチバナノ実ニ似タルヲ以テソノ名ガアリ」とあるように、加賀の白山の主峰、御前峰(二七○二メートル)に発見され、秋に熟する赤い実を、カラタチバナ(ミカンの古名)に例えての名まえ。加賀白山以南には、この白山を越す高山はない。本州の高山伝いに、北上し北海道の大雪山をへて、サハリン・カムチャッカ・北アメリカまで分布する。高山植物というより、北方・寒地植物である。新潟県では、県境の白馬岳連山・苗場山・駒ケ岳・飯豊連峰の海抜一○○○メートルから、二○○○メートルの山地・山岳地に分布する。分布上限二二○○メートル。大佐渡山地の東北部、尾根の金北山~ドンデンの尾根のブッシュ内に、点在分布する希産種。花をつけない茎では、対生する二枚の葉のわきに、また二枚の葉を対生し、一見四枚の葉を輪生するように見える。花をつける葉は、さらに茎の頂に二枚の葉を対生し、一見六枚葉を輪生するように見える。【花期】六月【分布】北・本(中部以北)・四(希)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー夏』、同『佐渡巨木と美林の島』【執筆者】伊藤邦男

・牛尊神社(ごそんじんじゃ)
 旧外海府村大字矢柄字平四九番地にある。旧称の矢柄神社を、明治八年五月に現在の名に改めた。祭神は素盞鳴尊である。スサノオは牛神でもあるから、「尊」の文字はミコトの名をとったのであろう。当町の石花の産土神・旧称スサノオ神社(現蘇民将来神社)は、以前に牛頭天王社と称していた。また新穂村潟上の牛尾神社も、祭神はやはりスサノオノ尊の牛神である。当社は、二五戸の氏子(『佐渡神社誌』による)に支えられる小社ではあったが、矢柄からは、中川閑楽(矢柄で生れのち関に)・北村宗演と浜田守太郎という、三人の文弥の名人を出している。それには、矢柄に半四郎人形を導入した三嶋八十吉という村の長老の、牛尊社に対する厚い信仰が大きな力となっていた。三嶋老人にとって文弥人形を遣うことは、ただの芸ごとではなく、村の鎮守を慰めることであって、ひいてはすべての村人に益をもたらす、かけがえのない手段なのであった。文弥人形と牛尊神社との並々ならぬ関係については、岩木擴に宛てた八十吉の、長い手紙(金井図書館蔵・岩木文庫)によく示されている。このような相つぐ名人たちの輩出には、村の社を介した伝統的な習俗を考慮する必要がある。例祭日は、旧九月六日。【関連】三嶋八十吉(みしまやそきち)【参考文献】『浜田守太郎の世界』(佐渡汽船株式会社)【執筆者】本間雅彦

・小田(こだ)
 現在(平成七年)の世帯数は四○戸、人口は九三人である。宝暦年代(一七五一~六三)のものといわれる『佐州巡村記』によれば、家数三三軒、人数一八九人である。田畑は合せ二一町五反九畝四歩である。草分は重立七人衆といわれる左衛門太郎・八郎右衛門・次郎左衛門・平左衛門・甚右衛門らで、稲場左衛門太郎家は通称南とよばれ、石動権現をもち、八郎右衛門は牛王の宮、次郎左衛門は夷の宮をもつ。『佐渡国寺社境内案内帳』によれば、いずれも中世の勧請という。集落石名寄りの段丘先端部には、通称小田城(石名村では石名の城という)とよばれる中世城跡がある。稲場左衛門太郎の祀る石動神社のご神体は、海からあがった光る石で、浜(元小田小学校下の「あしやすめ」)にあがっても動かず、アラメを下に敷いたら、するするっと動いたとの伝承をもつ。次郎左衛門のもつ夷の宮のご神体も光る大石で、沖のイカ場で釣りあげたもので、別名釣石神社ともいう。この夷神社には、八郎右衛門の牛王の宮も合祀されている。祭日は四月十五日、会津から習ったというヒョットコ・四つ切りの舞・麦まき・棒術などが奉納される。真言宗重泉寺は、石名清水寺末といわれ「元禄寺社帳」に開基は康暦二年(一三八○)とある。小田祭の芸能がこの寺にも奉納される。大倉川の相川寄りの海岸に「古釜」という地名があり、昔の塩釜跡かと思われる。海府の海岸で釜の名のつく地名は、達者の「釜所」「釜屋」、北田野浦の「釜のもと」などがある。ともに製塩跡といわれている。【関連】小田祭り(こだまつり)【参考文献】『新潟県の地名』(平凡社)、『佐渡相川の歴史』(資料集四)、『角川日本地名大辞典』(角川書店)【執筆者】浜口一夫

・小田城址(こだじょうし)
 小田と石名の境目、赤崎浜に向って突出した、標高八五メートルほどの段丘先端部が、「城ケ平」(「城の上」ともいう)という単郭城址である。頂上部は土錘状をした広大な畑地で、先端部から末端部まで一四○メートル、先端部幅四○メートル、中央部幅七○メートル、末端部幅五○メートルほどである。郭末端部には、土壇状の大きな土塁があり、その外側には幅一○メートルほどの空堀となっている。郭北側は立上沢、南側はノタカ沢が入る。城主は明らかでないが、村に残る本間六右衛門家が、城主子孫でないかと推察できる。本間家は村の草分けの一軒でもあり、当家の書物「本間家の譜」(元禄八年)によると、昔は五郎兵衛といい中使をしていたとしている。元屋敷は本間三郎兵衛屋敷の場所にいたが、江戸時代廻船のため浜へ移ったという。石名付近の伝承では、小田の本間六郎左衛門、石名の本間弥九郎(弥藤左衛門)、矢柄の本間太郎兵衛は石花殿の家臣であったという。小田の諏訪神社は、小野見・石名・小田三か村の鎮守というから、あるいは中世では、この三か村が一つの共同体(一郷)であったものであろう。【参考文献】山本仁『佐渡の古城址』2、同『佐渡古城史』【執筆者】山本 仁

・小田祭(こだまつり)
 祭典は四月十五日の午後である。二時過ぎになると、鎮守の夷神社に羽織袴の重立ち二人、祭典芸能姿に身を整えた出演者、それに一般の観覧者などがつめかけ、社殿での祭典の儀式が始まる。まず神主の大祓・巫女舞・祝詞・玉串奉奠などの儀式が進む。巫女舞は千早に緋袴姿で、鈴の音をひびかせながらの「三宝神楽」と「神明神楽」を舞う。神前には、三宝に載せた供えものの両脇に、この祭に出演する獅子頭が一頭ずつ供えられる。これは小木の小獅子舞などにみられる、「権現獅子」の流れをくむものだろうかと興味をひく。神殿にての儀式が終ると、重立ち、出演者一同外に出て社前に並び、神主から祝詞と大祓を受け、社前の参道広場で、「ササラ」「四つ切り舞」「豆まき」「棒術」などの諸芸能を奉納し、それが終ると小高い境内の坂道を下り、ムラなかに入り、各家々の門付けをして、家内安全と豊年満作を祈り祝うたが、近年はその門付けも簡略化され、重泉寺境内や公民館前の道路などで舞うだけになった。これらの芸能の由来については、明治の初年、福島県の会津から出稼ぎにきていた某大工が、小田の中村助九郎家に長逗留し、暇をみてはムラの若い衆に、会津地方の「ササラ」その他の諸芸能を伝えたものだという。そしてそれを代々受け継ぎ保存してきたのが、小田の青年たちの集り、「戊申会」(青年会)であったのだという。【関連】小田(こだ)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】浜口一夫

・小田郵便局(こだゆうびんきょく)
 明治三十四年(一九○一)三月、小田郵便受取所が小田の稲葉家(屋号南)の一室を利用して開設。大正二年六月、始めて集配三等小田郵便局と改称。稲場佐市が初代局長となる。昭和九年六月、木造平屋の局舎を新築(小田一七六番地)し移転する。取扱い事務は、郵便・貯金・為替のほか、明治四十三年電信、大正五年簡易保険、同十五年郵便年金、昭和六年電話と業務が拡張された。その後電信・電話(交換)は、電通の合理化により、昭和五十三年二月に佐和田電報電話局へ吸収された。外海府地区は遅くまで交通の便が悪く、大倉わしり・関の禿の高・岩谷口の跳坂などの難所が多く、真更川の郵便局へ行くにも不便なため、岩谷口や関などで集落をあげて、昭和二十六年頃、簡易郵便局開設の請願運動をなしたが、実を結ばなかった。大倉と浦川を結ぶ山越え道を、昔の人は郵便ミチといっているが、小田局勤務の藤間峯蔵翁や、そのあとの梶原仁吉翁(明治三十四年生まれ)などが、この道を利用していたという。現在の局舎(小田江ノ下)は、昭和四十四年十二月に新築したが、郵政の合理化により昭和六十二年十一月、集配業務は高千局に移り無集配となる。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『外海府村郷土史(基本調査)』(外海府村教育会)【執筆者】浜口一夫

・五段穿子(ごだんほりこ)
 江戸時代の鉱山用語で、大工(坑夫)や山留(支柱)などをのぞき、坑内の種々の雑役を分担した、最下級の労働者をさす。総じて六種類に分けられ、山留の手伝いとなって、坑内の危険箇所などを修繕補修する助手に、「手伝穿子」と「丁場穿子」がいた。この仕事が巧者になると、山留に登用される。大工が採鉱に使う鑚を、鍛冶小屋から坑内へ運び入れる職種の人たちは、「鑚通穿子」といった。昼夜交代制で、大工の多くいる敷内へは二人から三人、少ない所は一人で二つ三つの敷内を往還したという。坑口などにある鍛冶小屋で、鑚を焼き直したりする炉の鞴をさす人のことを、「鞴差穿子」といった。「荷揚穿子」といえば、敷々で堀りとられた鉱石を、岡(おか─坑外)まで負いあげる人たちで、通常カマスに入った五貫目の鉱石が、「一荷」だったという。それを一人で負い、下駄ばしごを伝って岡まで運び上げる。以上五種類の穿子を総称して、「五段穿子」といった。別に「水替穿子」といわれる人たちもいて、これを手桶などを使って、坑内の水をくみあげる。この桶は「鉄(かな)桶」ともいい、鉄製の輪をかけて頑丈に作ってあった。くみあげた水は、要所要所に設けた四角の「請船」に流し入れ、それを順々に上へとくみあげる。穿子は、「穿子請」といわれる頭が一般から募集して集め、その手代に当たる人に「穿子頭」がいて、各穿子を坑内に差組み、作業を監督した。【執筆者】本間寅雄

・鼓童(こどう)
 一九七○年(昭四五)八月に、小木町に、田耕(本名田尻耕三・鹿児島出身)の提唱による、夏期学校が開かれた。校長は宮本常一で、佐渡の史跡や芸能を学ぶのが目的であった。その時に参加した、四十余名中の一○名が主要メンバーとなって、翌年五月に畑野町で創設されたのが、佐渡国鬼太鼓座である。その後に真野町大小に移り、発足当時に目論んでいた、一○年に達したのを契機に、「次の一○年を、職人村の拠点づくりに向け、気持も新たに活動すべく、この運動体(季刊誌つくり)に、〈鼓童〉という名をつけ」た(創刊号・一九八一年・春刊。趣意書は、佐渡国鬼太鼓座 座員一同とある)。雑誌『鼓童』の第三号(十一月一日発行)は、発行者の名義を「佐渡国鼓童」に変更した。それは、主宰者・田耕が構想した映画製作に、座員たちの協力が得られなかったことが直接の動機となって、田が退座し、そのため座名を変更したことによる(田は島外で、新しいメンバーで鬼太鼓座を起すため、この座名の使用を拒んだ)。「鼓童」の誌名を座名として、再出発したときの人員は、これまでの仲間のうち一一名であった。借りていた元大小小学校の体操場には、騒音防止の設備はしてあったが、それでも十分でなかったことなどもあって、やがて小木町金田新田の山中に、家族用個別の民家を加え、生活と練習の専用建造物その他を建て、鼓童村と名づけそこに移転した。また二年制の研究所を、両津市柿野浦の元中学校々舎を借りて開設し、現在はその十余名の研修生を含めた五四名(一九九八年現在。他に子供十余名)が、大きな集団をなして活動している。近年は、毎夏に小木町木崎の公園を中心とした、アース・セレブレーションを催すのが恒例となり、海外からの参加者が多い。【執筆者】本間雅彦

・後藤役所(ごとうやくしょ)
 江戸時代のはじめには、山出銀(上納銀)は佐渡から江戸へ、鉱山の経費は江戸から佐渡に送られた。元和七年(一六二一)鎮目奉行の建議で、佐渡産の金で佐渡で小判を吹きたてることとなった。元和八年五月、幕府は金座後藤庄三郎の手代後藤庄兵衛・山崎三郎左衛門・浅香三十郎、それに小判師を佐渡に派遣した。鎮目は、奉行所のかこいの内に後藤役所をつくって金座を運営した。小判の鋳造は元禄四年まで続くが、元禄十二年から宝永四年の数年間は、佐渡後藤役所渡しとして、小判一万六千両宛を吹立てた。その後も稼働と停止をくりかえしたが、文政二年以後、小判の鋳造は止んだ。【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』【執筆者】田中圭一

・金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)
 薬師十二神将のひとり、宮毘羅大将または金毘羅童子の信仰で、香川県琴平に祀られたのが、北前船の就航や、四国参りの習俗などと共に伝播したもので、航海の安全を守る神として、船人の崇拝を集めるようになった。境内社などを除くと、島内では相川五郎左衛門町と、二見・稲鯨・沢根に独立の社があって、いずれも海辺の鎮座になっているが、二見は順徳天皇の口承があるも創紀不許、稲鯨は明治十三年(一八八○)据置可、沢根は宝永元年(一七○四)となっていて、比較的後世の開基を印象づけられる。その中で相川だけは、永禄三年(一五六○)と中世の伝承がある。相川五郎左衛門町の金刀比羅神社は、讃岐の金毘羅社から、同社別当の金剛寺の隠士・慶順が、諸国巡行の際に来島して、はじめ吉井村桧山に勧請したのを、弟子の宥順が寛永十七年(一六四○)に、現社殿の上の台地に遷して建立した。その後、延宝三年(一六七五)に五郎左衛門が願主となって、現在地に社殿を造営した。現在の社殿は、沢根の五十里篭町の宮番匠・明石近陽(本名近蔵、潟上生まれ)が、慶応二年(一八六六)に最初の仕事として建てたものである。【関連】船絵馬(ふなえま)【参考文献】『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)、名畑政治「初代明石近陽(騰写刷り)」【執筆者】本間雅彦

・小泊窯址群(こどまりようしぐん)
 羽茂町大字小泊一帯の段丘傾斜面に点在する、奈良時代後半(八世紀後半)から平安時代前半(一○世紀後葉)にかけて、須恵器を焼成した一大窯址群。高畑・栗の木沢・池の平・垣の内・宮田・南のそで・乃木輪・藤畠・深田・杢田谷地・下口沢・カメ畑・堂の上・後谷地・岩花・松倉・新畑・久保・亀川・奥田・江の下・ふすべ・野田・甕山の二四地区にわたり、明治末からの開田で大半は破壊されたが、その窯数はおよそ一○○基におよんだものとみられる。半地下式傾斜の窖窯で、甕・壷・横瓮・平瓶・坏・蓋・埦・風字硯・円面硯・瓦塔・瓦などが焼成された。昭和二十九年(一九五四)にカメ畑窯址の発掘調査があり、三基の窖窯が検出され、そのうち第二号窯跡は昭和三十年二月、新潟県文化財史跡に指定された。平成十年からはフスベ窯址の発掘調査が始まり、三基の窯址が掘り出されている。焼成物は、佐渡国衙や郡衙および佐渡国分寺などに供給され、疑問はあるが、島外輸出の可能性の指摘もある。【参考文献】 本間嘉晴・椎名仙卓「佐渡小木半島周辺の考古学的調査」(『南佐渡』新潟県教育委員会)、春日真実「古代佐渡小泊窯における須恵器の生産と流通」(『新潟考古学談話会会報』八号)、坂井秀弥「北海道出土・小泊産須恵器の問題点」(『新潟考古学談話会会報』一三号)【執筆者】 計良勝範

・木羽剥ぎ(こばへぎ)
 木羽剥ぎ職人のこと。木羽屋根は、木羽を三分の一重ね葺きにして葺く。葺いたあと数年たつと取り替えるため、木羽の需要は相当あった。木羽葺き屋根(石置き屋根)は佐渡の海村に多く、木羽を製造する木羽剥き職人も海村にいた。丸太(コロ)を八等分に割って、中心部の三角形の部分は取り除いて、木羽押えのカチガラという材料にし石をのせる。残りは八分~九分(二・四~二・七センチ)の厚さの柾目の板に剥ぎ取る。木羽の材料は栗または杉で、栗木羽の方が長持した。木羽剥ぎには棒剥ぎと鉈剥ぎがあり、棒で側頭部の力を利用して剥ぐやり方は古い技法で、鉈が出廻ってからは鉈剥ぎになった。屋根の葺き替えが近づくと、近辺から木羽剥ぎを頼んできて、三日位で一○~一三束(一束で一○○枚、三束で一荷)の木羽を剥いでもらい、屋根の葺き替えの準備をした。木羽剥ぎ職人が必要だった時期は戦争中(昭和十年代)までで、木羽代など屋根葺きに三○○円の経費がかかったという。瓦屋根に替わると木羽職人もいなくなった。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』【執筆者】佐藤利夫

・小早御船(こばやおふね)
 『佐渡年代記』の元和六年(一六二○)の項に、「上納金銀渡海のため御船二艘 櫓数七十挺立を造る外に 小早御船とて櫓数二十挺立をも造る──」とある。公用金の輸送のために、小早船という小型船が造られたのである。小早というのは、すでに造られていた四十挺立の大早に対する名称で、「早」の文字が示すように細身のスピード船であった。嘉永四年(一八五一)に味方孫太夫が書いた「地方覚書」という文書には、その平面図が描かれている。それによると、全長四丈八尺五寸に対して、艫と舳のカワラの長さ二丈一尺五寸で、その巾は二尺九寸となっている。江戸後期の文政十年(一八二七)に、赤泊と寺泊を結ぶ両泊航路に、「押切り船」(押渡り船)という渡航船が就航し、小木航路の不便さや費用高の欠点を軽減して、赤泊港の利用度を高めた。この押切り船のことを『四民風俗』は、「寺泊へ手早く渡海致し」と説明しているので、小早船と同じ性格という点で、影響をうけているかと思われるが確認できない。押切船以降、一般乗客は小木航路を用いる者が減少し、国仲から赤泊港に至る山越え道のうち、青坂越えという後山からの猿八ー外山道が繁盛した。【参考文献】西川明雅他『佐渡年代記』、田中圭一編『佐渡海運史』【執筆者】本間雅彦

・小比叡騒動(こびえいそうどう)
 慶安五年(一六五二)三月十三日に、小木町の小比叡山蓮華峰寺で起こった騒動。佐渡奉行所の小木番所定役だった辻信俊(藤左衛門)と、これに加担する同寺住職の快慶上人らが寺に立てこもり、奉行所から留守居役岡林伝左衛門を軍奉行、町奉行の坪井六右衛門らが軍監となって、同心など一八人の侍のほか、鉱山の山師とその手勢など総勢五○○人(うち七○人は騎馬)が、相川から攻め入った。いくさは一日で終わり、辻信俊(四二歳)長男市之丞(一九歳)二男新弥(一七歳)と若党五人など、一○人が陣中で討死し、快慶ら七人が生け捕られた。相川の中山では二○人の首がさらされた、とある。信俊は甲州の出。西三川砂金山の経営で視察にきた伊丹康勝(奉行)に認められ、相川へ出て町奉行になった。が「資性狷介」で留守居役など上役たちと相容れなかった(『佐渡年代記』・『風土記』)。ただし民間側の評価は、「政事清廉にして人の賂(わい)を受けず」「武勇累代の士、儒者のきこへあり」(「鼠草紙」・『撮要年代記』)と、評価がわかれる。由比正雪の慶安事変の直後だったので、幕府はあわてて長岡藩に助太刀を命じ、安田新兵衛を大将にして佐渡に軍勢を派遣した。この騒動で、客殿・庫裡・賦蔵・護摩堂・講堂・食廩・寮舎などが焼失した。信俊の法名は「刄山淨劍居士」、嫡子市之丞は「風厳常春信士」。事変後、信俊一族の命日の供養などしたという理由で、中村嘉左衛門と山内儀兵衛の二人の侍が、扶持を召し上げられている。【関連】辻藤左衛門(つじとうざえもん)・蓮華峰寺(れんげぶじ)・鼠草紙(ねずみそうし)【執筆者】本間寅雄

・木挽(こびき)
 木挽職が、伐木・運材を主業とする杣からも、また各種の番匠からも分れて独立の職種となったのは、佐渡の場合比較的に後世になってからのことである。寺社の場合、天保四年(一八三三)に建てた倉谷の智光坊境内金毘羅社のように、棟札にはっきりと二人の木挽の名が書かれている。この宮大工は、大工・脇大工・小工なども書き分けていて、分業が早かったことを示しているが、一般民家建築などは、近年まで木挽がホゾを切るところまでやっていて、番匠との区別がつきにくかった。棟上げの振舞では、大工と木挽は同列に扱われ、賃金は肉体労働で消耗の大きい木挽のほうが多いのが普通であった。木挽は番匠のように修業期間も不要で、その日からでも収入が得られたので、志望者が多く、とくに漁村で副業的に木挽が行われていた金泉・高千・外海府の村々からぞく出した。国仲では「ケイフ(海府)の木挽さん」と呼んで、農閑期に新築前の製材に招く習わしがあった。この地域では、古くから船をつくるための船材・船板を挽いていたことから挽き板の技術があり、縦挽鋸の採用も早かったと考えられる。『高千村史』には、「木挽さんとは名は下さがりだが、細工番匠の先に立つ」という木挽唄がのっている。【関連】海府木挽(かいふこびき)・荷俵負い(にどらおい)・林場(りんば)【参考文献】本間雅彦『舟木の島』(三一書房)【執筆者】本間雅彦

・小澗(古澗)(こま)
 下小川の南端に「こまの浜」がある。幕末の小川村絵図では「小間ノ浜」とあり、「小船出入ノ場所」となっている。海岸に佐兵衛屋敷八畝二六歩があり、一七世紀末には五軒の渡辺一族がいた。そのうちの一軒、作兵衛家は越後屋と名のり、相川商人や越後・上方まで商取引をしていた。海府筋に渡辺姓のある村は、他に達者・戸中・後尾など、二見半島には大浦・米郷などである。いずれも入海のよい湊の地形をしている。近世の中期以降は廻船が大型化し、大船は小澗には入ってこなかった。小川も廻船は北側の大きな澗をつかうようになり、小澗は小渡りの船が入るだけになった。歴史的にみれば、古澗と称してよいだろう。外海府では、小船の出入場所を「いり」といっている。海稼ぎが生業であった金山以前の海府では、船の出入り場所を「いり」といっていたと思われる。【参考文献】 『佐渡相川の歴史』(資料集一)【執筆者】 佐藤利夫

・米屋町(こめやまち)
 『佐渡相川志』では、「町長サ百六拾九間一尺御陣屋迄四十七間三尺、元禄検地ノ町屋敷九反二拾弐歩。昔ハ町々ノ飯米多クハ此町ノ搗売米ヲ買フ。搗売此処ニ限リテ外ニナシ。元和年中他町ノ願ニ依リテ脇売始ル。依テ米屋町ト言フ。」とある。周囲の町名は、北側は広間町、東は四十物町、南は中京町と下寺町、そして西は味噌屋町となって、東西に細長い町である。戦後に地方裁判所が河原田に移転するまでは、この町内の西端にあった。当時の建物はその侭で、佐渡版画村美術館に利用している。現況では、警察官々舎・町立病院住宅などを含め約四○世帯で、一○○人足らずの居住地域となっている。【執筆者】本間雅彦

・御用炭(ごようずみ)
 江戸幕府の直轄領時代、佐渡金銀山の金銀精錬過程で必要な炭をいう。銀塊から金分を精製する吹分所や、金分の純度を高めて小判にする小判所などで、火力の高い炭が必要であったので、銀山入用炭として御用炭役所が炭の集荷・供給を担当した。常時定量を確保するために、炭の生産地に炭座商人がいて相川へ積み回わした。元禄期(一六八八~一七○三)前後まであった片辺炭釜新町や戸地炭町は、炭座商人の町であった。相川には古い炭屋町が柴町近くにでき、のち下戸炭屋町に移った。御用炭の生産・流通・消費は、銀山の経営方法とも関係しており、直接経営の御直山中心時代は、炭座商人の役割は大きかったが、元禄期以降銀山向けの入用炭は、銀山炭役所の指示で村請生産に移行した。慶長十一年(一六○六)草間勝兵衛が山主に宛てた記録には「佐州銀山諸御直山鍛冶炭渡帳」となっている(「川上家文書」)。また元禄五年(一六九二)には小野見・田野浦両村の入会山で、小判座の炭を村請で焼いている(「小野見区有文書」)。以後、海府の各村の村請で焼いた記録が多くなる。明和七年(一七七○)小田村銀山入用炭の請負高は千俵、炭の焼立を条件に相川の炭座商人から、炭代八一貫文のうち二五貫文を手附銭として前借をして、炭代勘定のとき前借銭を差し引いて精算している。精錬用の炭は、野焼法で作った「ぼや炭」であった。山地に穴を堀り「ぼやとこば」を作り、原木を井桁に組み焼き上げ、土をかけてむし消しにした。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集三・四)、『新潟県史』(資料編9・近世四)【執筆者】佐藤利夫

・五葉の松(ごようのまつ) 【別称】南片辺の五葉松(みなみかたべのごようまつ)

・御料局佐渡支庁(ごりょうきょくさどしちょう)
 皇室財産当時の佐渡鉱山の呼称。佐渡鉱山は、明治二年(一八六九)四月以来政府直営の鉱山として近代化が進められたが、明治二十一年十月、生野鉱山と共に皇室財産に編入する方針が決定し、翌二十二年四月一日、宮内省御料局佐渡支庁が管轄することになった。このことは、工部省管轄時代(明治三年から同十八年)に西洋技術を取入れて、国内鉱山開発の指導的役割を担い、大蔵省管轄時代(明治十九年から同二十一年)には、紙幣を銀貨と兌換するための貨幣材料供給地であった佐渡鉱山が、高率な利潤収得を目的とする鉱山へ転換したことを意味した。初代佐渡支庁長には、明治二十年から鉱山改革に努めていた渡辺渡が就任し、同二十二年五月十八・十九の両日、山神祭典・高任坑と新製鉱所の竣工式と合せて盛大な祝賀会が行なわれた。しかし、明治二十九年九月に民間への払下げが決定し、同年十一月一日から三菱合資会社佐渡鉱山となった。【関連】渡辺渡(わたなべわたる)・恩賜金(おんしきん)・相川郷土博物館(あいかわきょうどはくぶつかん)【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘

・御礼智神社(ごれいちじんじゃ)
 北田野浦の前平北にあり、祭神は国常立尊である。『佐渡国寺社境内案内帳』によると、勧請は天正十六年(一五八八)。社人は金子六兵衛である。ご神体は浜に流れ寄った木の株だといわれ、伝承によると、あるとき、榎坂庄次郎が浜に寄った杉の株を見つけた。さっそく薪にしようと、ヨキ(斧)で割ろうとしたら血がにじみ出たので、これはあらたかなものだと思い、神に祀ったという。また一説には、同じ草分け七人衆の一人、金子六兵衛も浜でこの株を見つけ、ついにとりがち(奪いあい)になり、ノコギリで分けようとしたら、血がにじんだので驚き、そのまま神に祀ったという。そのため別名六兵衛宮というのだという人もいる。氏子はご神体が杉株なので、正月は杉葉を焚かないとか、お産後は杉の箸の使用を禁じられていたなどという。御礼智神社の境内には、かって五郎助宮とか庄次郎宮とかいわれた北山権現や、愛染明王堂も合祀されている。祭日は七月二十日であったが、現在は四月十五日である。宵宮には、町の文化財指定の「花笠踊り」が奉納される。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集八)、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)【執筆者】浜口一夫

・御礼智神社祭礼行事(ごれいちじんじゃさいれいぎょうじ) 【別称】北田野浦祭り(きたたのうらまつり)

・コレラ供養塔(これらくようとう)
 相川町四丁目の弾誓寺境内には、伝染病のコレラによる死亡者の供養塔が建てられている。高さ一・五メートルほどの自然石の上部傾斜面には、左の文字が刻まれている「明治十二年八月ヨリ九月迄 各霊供養塔 虎列剌病ニ罹死 二百七拾二人」そして下段の腰の部分や背面には、「有志名前」として町内ごとに氏名が記され、その数は約四○名ほどに及ぶ。右脇には、「當山十一世癲阿比丘實須代」とある。コレラはもとインドで発生し、病原菌がコッホらによって発見されて、対策がとられたのは一八八三年(明治十六年)であるから、それより四年以前のことである。日本では、二○万人の死者を出した江戸の大流行は、安政五年(一八五八)のことでそれ以後、明治期にも何度も大発生があったので、この相川の罹災もその一端なのであろう。この供養塔は俗に「コレラ地蔵」と呼ばれているが、寺にあるのは石碑だけで、コレラ地蔵の石仏は、寺から一里ほど上った山の中に祀られている。【関連】弾誓寺(だんせいじ)【執筆者】本間雅彦

・五郎右衛門町(ごろうえもんまち)
 市街地から「ゴールデン佐渡」に向って、同社の少し手前の左手(北側)に五郎右衛門町がある。そこは北沢川(濁川上流)の右岸にあたり、大佐渡スカイラインの通路である。現況ではすべて原野になっていて民家はないが、元禄七年(一六九四)の検地帳には、「町屋敷二反八畝二十一歩」と書かれ住宅地であった。その後の書『佐渡相川志』でも、「五郎右衛門沢。先年ハ民家アリ。延宝八庚申年八月十一日ノ洪水ニテ流サル」とある。そして町々の名主の頃には、「寛文四甲辰年六月十四日名主ヲ定ム。─略─五郎右衛門町 名主長兵衛」となっている。町名の由来はわからないが、川向うの庄右衛門町は山師大坂庄右衛門の開発によるもので、これに接する清右衛門町・宗徳町なども山師の開発とされるので、同じ界隈にある五郎右衛門町の名も、その辺りかと想像できる。【執筆者】本間雅彦

・小六町(ころくまち)
 江戸時代前期の遊女町。南側の紙屋町、北側の石扣町の間にある。西側は板町を隔てて相川湾が広がる。そのころ相川一の港だった大間町の近郊に成立した。『佐渡相川志』という書物に「此所、昔ハ遊女町ナリ」とある。加えて西側に道伝という大きい遊女屋があった。「遊女ヲ多ク抱ヘ置ク、家造リ宜シ。泉水・茶屋掛リ・築山ノ形、天和・貞享ノ頃迄アリケリトナン」と記し、一七世紀後半のころまでは繁栄のあとが残っていた。また地役人で手川源兵衛という遊女屋があったらしく、同書には「明暦三年源兵衛死ス。下相川吹上ニテ火葬セントスル時、火車死骸ヲ奪ツテ虚空ニ持去ル。野送リノ親類空シク立帰ルトゾ、此人世継ナクシテ断絶ス」と伝えている。この手川源兵衛は、慶長年間の『川上家文書』(両津市和木、川上家蔵)にも名前が記されていて、実在の人だったことがわかる。前述のように、大間町や材木町と隣りあっていることから、相川へ入津する廻船の人たちを多く顧客として成立した遊廓街だったことが知られるが、港の退転とともに遊女町としての機能は失なわれた。寛永二十一年(一六四四)の「佐州相河雇役納御帳」(舟崎文庫)には、同町に京太左衛門という遊女屋が一軒記載されていて、「小春」「小菊」「竹」など一○人の遊女の名が記されているものの、このあとの帳簿が切れていて、惜しいことに全体の姿はつかめない。【執筆者】本間寅雄

・五郎左衛門町(ごろざえもんまち)
 町の南西部にあって、旧主要道であった二町目の山手に平行した町である。『佐渡四民風俗』によると、慶安五年(一六五二)の地子銀帳にはこの町名で記載がある。宝暦年代(一七五一ー六三)の『佐渡相川志』では、「東片側長サ百弐拾九間。元禄ノ検地ニ、町屋敷四反三畝十八歩。寛永年中五郎左衛門ト言フ者開発ス、依テ名トス。」とあり、同誌絵図には北側から玉泉寺・来迎寺・金剛院・円行寺・万福院・金比羅と、寺社が集合している様子を描いてある。さらに金剛院と来迎寺の間の沢道の奥には、「檀特山」が描かれ、その説明に他国から猿廻しが来たこと、石名檀特山のこと、寛文年中(一六六一ー七二)に羽州湯殿山から正海という行人が来たこと、大安寺の隠居がいたことなどがしるしてある。現況では、寺社として日蓮宗玉泉寺・同宗円行寺・真言宗金剛院・金刀比羅神社があり、公共施設としては新潟県職員住宅が、民営のホテル・アパートと、民家が十数戸ある。【執筆者】本間雅彦

・権現清水(ごんげんしみず)
 稲鯨と橘の段丘上に、「権現清水」あるいは「権現さんの水」という湧水がある。いずれも、能登の石動山の天平寺の修験者とのかかわりがある。橘の岩崎才次郎家の話では「二つの清水は地下でつながっており、能登の石動山の水が流れてくる」と伝えられてきたという。橘の権現さんの水は、中位海岸段丘の海食崖から出る豊富な湧水である。毎年三月十五日には、江子が集って「水まつり」を行う。この清水の恩恵をうける田地は一二町余におよんでいるが、この水の関係者を「おおごく」と呼んで、古くからこの清水との関係が深かった。稲鯨の権現清水は高野四郎左衛門家の先祖が、ある日石動山の修験者に宿をして、その礼に授けてもらった清水だと伝え、高野家の田地三反四畝にかけられている。かってこの水は、眼病にきくといって目薬に製造したこともある。二見半島から外海府にかけては、段丘崖下に清水が多い。達者の目洗い地蔵・北狄の生貫観音・石名の梵字清水・五十浦のやな清水など、寺・堂宇あるいは旧家の清水として、信仰と生活用水として利用してきた。【参考文献】佐藤利夫『佐渡嶋誌』、『佐渡相川の歴史』(資料集八)【執筆者】佐藤利夫

・金剛院(こんごういん)
 五郎左衛門町にあり、真言宗豊山派。本尊は不動明王、山号は大悲山である。開基は元和七年(一六二一)と伝えられ、町を開発した山師、樋口五郎左衛門一族が係わった寺と思われる。寺社帳には、「留守居役奥野七郎衛門祈願所があって檀徒も多く、寛文九年(一六六九)奥野改易によって当寺も退転に及ぶ」とあるが、奥野は一向宗門徒で、一丁目の永弘寺(現・永宮寺)が菩提所であるので、真言宗に帰依したとは思えない。万治元年(一六五八)割間歩を稼いでいた五郎左衛門は、大量の出水で自滅しており、五郎左衛門の話が奥野に転化したものと思われる。五郎左衛門失脚後、寺は荒れるにまかせたが、近くの相川檀特山に、山形の湯殿山から来ていた正海という行人が、再興したといわれる。過去帳によれば、正海は貞享五年(一六八八)九月六日遷化している。開基当時は、中寺町相運寺の門徒であったが、慶安年中に沢根曼茶羅寺門徒になる。寺内に観音堂が一宇あって、宝永年間成立の相川観音巡礼第七番札所になる。明治元年の廃仏毀釈で廃寺となったが、同十年復興した。【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』、永弘寺松堂『佐渡相川志』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』ほか【執筆者】近藤貫海

・厳常寺坂(ごんじょうじざか)
 下山之神町と坂下町を繋ぐ、重要な坂道であった。濁川沿いに、北沢町から総源寺へ抜ける坂道の北西で、石段で造られた幅が広く、下町と下山之神町を連絡する大事な道路であった。右側には厳常寺が、左には長泉寺があって、上には法泉寺へ行く石段の坂道が通じ、法泉寺から下に須灰谷の米蔵へ行くことができた。下山之神町には寺社が多く、正月には奉行の参詣が欠かさず行なわれた。大乗寺の南側に、当初は買石が三○軒余あったという。明治十九年(一八八六)の土量絵図を見ると、坂の登口に宅地があり、坂の途中は厳常寺跡と長泉寺、墓地が続き、道幅・石段は昔と変らず、かっての面影を留めており、昭和四十九年八月一日町文化財の指定を受けた。厳常寺は浄土宗で、越前福井の信与貞波によって寛永五年(一六二八)に建立し、明治元年に廃仏棄釈で廃寺となり、専光寺が管理したものの、専光寺も廃寺となって法然寺に合併している。長泉寺は総源寺末の禅宗で、元和八年(一六二二)の開基である。廃寺となって、いまは総源寺に併合している。【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』、「下山之神・北沢・坂下町土量絵図」(村川利章蔵)【執筆者】佐藤俊策

・昆虫の化石(こんちゅうのかせき)
 節足動物の昆虫類。相川町関で「木の葉石」を産出する地層(真更川層)の白色泥岩の中に、昆虫化石がみいだされる。産出する昆虫化石は六目一七科にのぼり、トンボ目・革翅目(チビハサミムシ)・半翅目(アブラムシ・カメムシ)・鞘翅目(コガネムシ)・双翅目(ガガンボ・ケバエなど)・膜翅目(ヒメバチ・アリなど)などの種類が報告されている。ケバエ科の一種サドムカシケバエ(ビビオ サドエンシス)が新種として発表された。昆虫は温帯性種と考えられ、落葉広葉樹からなる林、あるいはその周辺にすむ種類で、現在の中部日本の山地に生きている種類に、きわめて類似しているといわれる。その多くは、現生種の中に類縁種をみることができるが、同じ種とは決めがたいほど形態が変化している。これは中新世前期の昆虫化石群として、日本を代表する貴重な資料の一つである。【関連】関の木の葉石(せきのこのはいし)・真更川層(まさらがわそう)【参考文献】藤山家徳『国立科学博物館専報』(一八号)【執筆者】小林巖雄

・昆虫の化石(こんちゅうのかせき)
 節足動物昆虫類である。相川町関の「木の葉石」を産出する地層である真更川層の白色泥岩の中に昆虫化石が数はおおくないが含まれる。産出する昆虫化石は六目一七科に達し、トンボ目・革翅目(チビハサミムシ)・半翅目(アブラムシ・カメムシ)・鞘翅目(コガネムシ)・双翅目(ガガンボ・ケバエなど)・膜翅目(ヒメバチ・アリなど)などの種類が報告されている。ケバエ科の一種サドムカシケバエ(ビビオ・サドエンシス)が新種として発表された。昆虫は温帯性種と考えられ、落葉広葉樹からなる林あるいはその周辺に生息する種類で、現在の中部日本の山地に生息する種類にきわめて類似しているといわれる。その多くは類縁種を現生種にみいだすことができるが、同じ種とは決めがたい形態的な変化を生じている。これは前期中新世の昆虫化石群として日本を代表する貴重な資料の一つである。【参考文献】藤山家徳(一九八五)国立科学博物館専報一八号【執筆者】小林巌雄

・金銅聖観音立像(こんどうせいかんのんりつぞう) 【別称】竜吟寺(りゅうぎんじ)

・根本寺(こんぽんじ)
 新穂村大野にある日蓮宗の塚原山根本寺は、倭名類聚鈔の旧地名では、加茂郡大野郷の内である。塚原を冠した山号は、日蓮遺文の『種々御振舞書』に記された「塚原と申す山野云々」によるものであろう。そこが最初に上人の落ち着いた、配所の所在地と伝えられる旧跡である。根本寺の開基に関して記した文献資料は数多いが、いずれも日蓮歿後三百年以上を経てのちに書かれたもので、不明不詳の部分があり、統一した記述がないので、根本寺住職の富田海音が纒めた『塚原誌』を中心に、その他の資料も参照しながら要約した。文永十一年(一二七四)に日蓮が鎌倉に帰参した後、大野村に正教寺が建てられた(『寺堂明細帳』ー橘法老の『日蓮上人佐渡霊跡研究』によると、永禄年中〈一五五八ー六九〉八世の日成が三昧堂を改めて正教寺を建つとある)。天正十五年に京都妙覚寺の日典上人が渡海し(『塚原誌』では同十八年)、日蓮遺文の「塚原」をこの地と判断して、根本寺を開基した。妙覚寺は不受不施派の大本山で、その事に関連して正教寺との合併(後述)があり、根本寺を名乗ったという。したがって当時の根本寺は妙覚寺末であった。『撮要年代記』には、「慶長二年丁酉佐渡大泉坊日朝塚原山根本寺を草創す」とある。この記録は、前記『寺社帳』にも付記してあるから、寺域かどの建造物かが、形を整えたことを指すのかもしれない。しかし『日蓮と佐渡』(中村書店・昭四六)は、慶長検地帳に寺名の記載のないことから、寺らしい感じをもつようになったのは、慶長十二年九月のことで、祖師堂の建立をさしているともみられ、建立者祐白は相川銀山の山師で、夕白町を開発した備前嘉兵衛の改名である。この祖師堂は、やがて大檀那となった味方但馬によって改築されている。その頃、正教寺を末寺としてきた京都妙覚寺は、同門の栴檀院日衍が慶長十七年に来島して、有力の檀那味方但馬の外護を得て山門の経営に尽力し、独立寺院の形をとったことを非難して、駿府に訴え出た。この訴詔は、家康の裁許によって日衍の勝訴となり、正教寺は独立した。根本寺との合併は、寛文三年卯年と『寺社帳』には記してあるが、『佐渡志』には「此寺ノ傍ニ慶長ノ頃或僧一寺ヲ建て正教寺ト名付寛文年中ニ廃スト云ウ」と註記してある。したがって、共に塚原にあった正教寺と根本寺との正確な相互関係については、今後の研究課題となる。なお、日典の来島の動機に関しては、天正十七年に佐渡を支配した上杉景勝の統率者、直江兼続による招待説(『日蓮と佐渡』)や、堺の法華行者仏寿坊が佐渡で得た情報を、日典は確める目的であった(『新穂村史』)、などがある。さらに『寺社帳』の書かれた宝暦の頃には、根本寺は身延山久遠寺・池上本門寺・中山法華寺の三か寺による、輪番所であったことが諸書にみえている。【関連】日蓮(にちれん)・三昧堂(さんまいどう)【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』(中巻)、橘正隆『日蓮上人佐渡霊跡研究』(佐渡農業高等学校)【執筆者】本間雅彦

・高野遺跡(こうやいせき)
 昭和三十年(一九五五)八月、真野町大字四日町地内、国府川河口に近い砂丘上の畑地の発掘調査が行われた。地表から六○センチほど掘り下げた層から、多数の土器(須恵器・土師器)片や、瓦の破片・鉄滓等が出土した。さらにこの層の下二五センチほどの面から、皇朝十二銭の一つ「承和昌宝」一枚も発見された。これらの出土遺物は、だいたい九世紀ころのものとみられている。ところで、出土した土器(皿)の破片の内部や外側に、墨で一字ずつ文字の書かれたものが含まれていた。墨書土器という。その文字は「□(高カ)」二三点、「軍」「団」「舜」「厨」「□(駅カ)」など、各一点ずつである。ここで特に注目したいのは、「軍」「団」の文字である。「延喜式」(九二七編纂)の中に「佐渡国雑太団」のことが載る。軍団という一国の軍隊を指すものであり、それが雑太に置かれていたものである。軍団は大化のころからか、あるいは律令制の調った文武朝のころか、全国に配置された軍隊である。「雑太軍団」の存在した場所は、具体的にどこであったかは記録にはみえない。しかしこの高野(高家=郡役所?)遺跡から、「軍」「団」の文字の記入された土器が出土したということは、この地点が律令時代の「雑太軍団」の置かれていた所と、推測できるよい資料となる。他の墨書土器のうち、「厨」は食事に関する建物、「□(駅カ)」はあるいは延喜式に載る佐渡三駅の一つ、雑太の駅(役人の乗る馬・五匹が置かれた駅家)などを示すものでなかろうか。【執筆者】山本 仁

・唐来天南星(こうらいてんなんしょう)
【科属】サトイモ科テンナンショウ属
 毎年五月に開かれる佐渡山草展に、ムサシアブミ・ユキモチソウ(二種佐渡に自生せず)以外に、佐渡自生のコウライテンナンショウ・ヒロハテンナンショウ・ウラシマソウなどのテンナンショウ属の、鉢植えがよく出品される。花の中から、釣り条を垂らすのがウラシマソウで、これは誰もが間違いなく覚えられる。ヒロハテンナンショウは、五枚の小葉にわかれ、葉より低い位置に花がつく。コウライテンナンショウは二葉にわかれ、下の第一葉は小葉六枚ほど、上の第二葉は小葉九枚ほどで、葉より高く花がつく。『佐渡島菜薬譜』(一七三六)に、「天南星 方言ヘビノダイオウ」と記されるが、二種を区別してない。『佐渡志』(一八一六)に、「天南星 方言へびのだいおう 山中に生す 大(コウライテンナンショウ) 小(ヒロハテンナンショウ)の二種あり、薬に用いる小葉なるを佳とす」と、両種を区別している。球茎をすりおろし、腫れもの・肩こり・リュウマチに外用した。蛇のかまくびや、蛇の皮のイメージから、ヘビノダイオウ・ヘビノダイハチと呼ぶ。赤実は、ヘビノデンガク・ヘビノトウモロコシと呼ぶ。【花期】四~五月【分布】北・本・四・九【参考文献】伊藤邦男『佐渡の植物ー春』、同『佐渡薬草風土記』【執筆者】伊藤邦男

・越の寒葵(こしのかんあおい)
【科属】ウマノスズクサ科カンアオイ属 カンアオイ属は、日本列島で多くの種を分化した植物の代表とされる。日本・中国・ベトナムに約五○種、日本には三○種にも及ぶ種が分布する。フジノカンアオイ(奄美大島)・オニカンアオイ(屋久島)・ツクシアオイ(九州)・トサノアオイ(四国)・カントウカンアオイ(関東)など、地方ごとに多くの種を分化させた。新潟県にはクロヒメカンアオイ(西部)・ミヤマアオイ(糸魚川市南部)・コシノカンアオイ(県全域)が分布するが、佐渡は本種のみ。山形県から福井県の日本海側の山地に分布する北陸種。岩船郡勝木で採集されたものが原標本である。この仲間は、狭い分布域をもつ地方固有種が多いのは、種子が蟻によって伝播され、分布速度の遅いことに由る。種子に蟻を誘う脂肪体がある。蟻の伝播速度は、一万年間に一~三キロメートルと非常に遅い。本土と隔する佐渡海峡は三○キロメートル、越佐陸橋時代に蟻伝播速度を一万年で三キロメートルとすると、伝播に十万年かかる。コシノカンアオイの長い一人旅である。葉は常緑で厚っぽい。暗紫色の花はガクの変形。萼筒は壺形で先は三裂する。佐渡方言ブンブクチャガマ。【花期】三~五月【分布】本(日本海側)【参考文献】伊藤邦男『佐渡の花ー春』【執筆者】伊藤邦男

・小泊窯址群(こどまりようしぐん)
 羽茂町大字小泊一帯の段丘傾斜面に点在する、奈良時代後半(八世紀後半)から平安時代前半(一○世紀後葉)にかけて、須恵器を焼成した一大窯址群。高畑・栗の木沢・池の平・垣の内・宮田・南のそで・乃木輪・藤畠・深田・杢田谷地・下口沢・カメ畑・堂の上・後谷地・岩花・松倉・新畑・久保・亀川・奥田・江の下・ふすべ・野田・甕山の二四地区にわたり、明治末からの開田で大半は破壊されたが、その窯数はおよそ一○○基におよんだものとみられる。半地下式傾斜の窖窯で、甕・壷・横瓮・平瓶・坏・蓋・椀(正しくは”土”偏)・風字硯・円面硯・瓦塔・瓦などが焼成された。昭和二十九年(一九五四)にカメ畑窯址の発掘調査があり、三基の窖窯が検出され、そのうち第二号窯跡は昭和三十年二月、新潟県文化財史跡に指定された。平成十年からはフスベ窯址の発掘調査が始まり、三基の窯址が掘り出されている。焼成物は、佐渡国衙や郡衙および佐渡国分寺などに供給され、疑問はあるが、島外輸出の可能性の指摘もある。【参考文献】本間嘉晴・椎名仙卓「佐渡小木半島周辺の考古学的調査」(『南佐渡』新潟県教育委員会)、春日真実「古代佐渡小泊窯における須恵器の生産と流通」(『新潟考古学談話会会報』八号)、坂井秀弥「北海道出土・小泊産須恵器の問題点」(『新潟考古学談話会会報』一三号)【執筆者】計良勝範

・小澗(古澗)(こま)
 下小川の南端に「こまの浜」がある。幕末の小川村絵図では「小間ノ浜」とあり、「小船出入ノ場所」となっている。海岸に佐兵衛屋敷八畝二六歩があり、一七世紀末には五軒の渡辺一族がいた。そのうちの一軒、作兵衛家は越後屋と名のり、相川商人や越後・上方まで商取引をしていた。海府筋に渡辺姓のある村は、他に達者・戸中・後尾など、二見半島には大浦・米郷などである。いずれも入海のよい湊の地形をしている。近世の中期以降は廻船が大型化し、大船は小澗には入ってこなかった。小川も廻船は北側の大きな澗をつかうようになり、小澗は小渡りの船が入るだけになった。歴史的にみれば、古澗と称してよいだろう。外海府では、小船の出入場所を「いり」といっている。海稼ぎが生業であった金山以前の海府では、船の出入り場所を「いり」といっていたと思われる。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集一)【執筆者】佐藤利夫



































































































































































































































































































































































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