2015-02-13
★鬼太鼓
「新穂」












「歴代の本間能太夫」
(記述について『佐渡の能舞台』には、小田季吉「佐渡能楽余録」宝生昭和43年7月より12月号によるとある。その他『吾潟郷土史』『佐渡能楽史序説』を参考に加筆した)
①初代本間秀信
1616~1651、本間能太夫家初代。父秀光=潟上弥太郎は、上杉景勝の家臣となって越後に渡り、さらに景勝と共に会津そして米沢に住んだ。16歳のとき家督を次男に譲って諸国遍歴の途中、奈良で薪能をみて感銘し、宝生家の門を叩き教えを受けたとされる。寛永18年(1641)佐渡に帰り梅ヶ沢に住み、能楽を家業とすることとした。慶安年中(4年=1651ともいう)佐渡奉行所より能太夫を命ぜられた。
②二代秀昌(1634~1666)
先代の嫡男で、父と共に梅ヶ沢に住んだ。後、源兵衛と改名。慶安5年(1653)世襲に当って八世宗家九郎将監重友より、謡本を贈られた。(『吾潟郷土史』では、「田中圭一氏によると、慶安4年(1651)に本間源兵衛が宝生九郎重政から『小野小町』の口伝書を貰い、それが残っているという」)
③三代杢昌継( ~1664)
二代秀昌の弟秀成の子。
④四代右京秀清( ~1669)
承応2年(1653)~寛文9年(1669)までの春日神社の神事能に出演。また、万治2年(1659)~寛文8年(1668)の間、子の権左ェ門と共に勤めている。
⑤五代権左ェ門秀継( ~1691)
万治2年(1659)~元和元年(1681)まで春日社の神事能を勤めた。
⑥六代右近秀精( ~1703)
権太郎ともいった。寛文12年(1672)~延宝3年(1675)まで春日社の神事能を勤めた。延宝3年(1675)潟上村左太夫は江戸宝生座にて鏡の間をつとめる。翌年9月20日中原村一王子社の神事能奉納。元禄15年(1702)春日社で一代能、大山祇神社で神事能を勤めた。
⑦七代権之丞昌房( ~1700)
春日社の神事能を勤めたのは寛文6(1766)・7・8・10年(1670)。短命で父より早く没す。
⑧八代右近昌方( ~1756)
享保2年(1717)8月1~3日沢根で勧進能を勤める。国仲の能が盛んになる反面、相川の神事能が神楽に替わられることを恐れ、享保13年(1728)春日社社祠 津田山城に願文を提出。(享保9年経費節約から定能をやめ神楽に改めた。そのため書面を神職に送って費用の一部を自分たちも負担するから神事能を復興してもらいたいと願い出た。なお、奉行によって能に興味のない者もいて一様に援助されていたわけではない)
⑨九代江助唯清( ~1746)
⑩十代右京清房( ~1756)
宝生宗家将監友晴の没後、四男暢栄を補佐した功によって永扇の称号を与えられ、内弟子格に取り立てられて子々孫々修行中は宝生家で負担することとした。また、最大の重習いである「定家」「木賊「「関寺小町」「乱」「乱拍子」の永世免許を受けた。宝暦3年(1753)鶴岡・新潟へ興業に出かけている。
⑪十一代右内繁由( ~1797)
⑫十二代右近由広( ~1813)
⑬十三代左京由春( ~1867)
先代の嫡子。天保4年(1833)宗家より能面を贈られ、弘化5年(1848)神田筋違橋で張行された宝生太夫友干(後の紫雪)の一生一代勧進能のときシテ方を2回勤めた。嘉永5年(1852)柏崎へ招かれ興業を行なっている。「佐渡人物誌」に、左京由春の時、佐渡宝生流は盛んを極めた と記されている。
⑭十四代右近由久( ~1872)
正徳3年(1713)に時の佐渡奉行神保五左衛門に認められ矢馳から相川に住まわせられワキ師として奉行所より払下米を給せられた遠藤家は、清之進(可啓)の時本間家のワキ方に甘んぜず、江戸へ上がり観世宗家観世清孝の直弟子となり、清之丞と命名された。しかも安政4年(1857)奉行所より能太夫を仰せつけられ佐渡観世流太夫の創始者となったことで、宝生流と観世流との競争・対立が始った。さらに明治維新により能楽が保護されなくなった中で家業といしての能を存続させた。
(遠藤可啓に門人多く、越後の高田・水原にも弟子があり、能太夫に昇格したとき越後の門人市島・佐藤などの富豪より能装束の寄贈もあった。二代目可清は、明治維新後能楽は没落し楽師も官給から離れてしまったことに憤慨。能の家業を廃業し上京。明治11年能装束一式を西三川派の金子柳太郎に時価200余円で売却。それで佐渡観世流は衰えた)
⑮十五代本間令蔵(1848~1915)
干孝、行孝、令桑(隠居名)などともいった。先代から謡を習い、宗家宝生九郎の薫陶を受け帰島。吾潟村独立当時(明治13年(1880)潟上村から越戸・田ノ浦・品浦・藤巻部落90戸をもって分離)連合戸長を務めたり、学田開墾を発議して事業の推進に努めたり、加茂湖の埋立事業を行なうなど社会事業家の面もあった。
本間家の弟子であった西三川の金子柳太郎(1836~1903)は、明治9年(1876)本間家と喧嘩別れし、相川県庶務局より興業許可を取得。明治11年43歳で加賀宝生流宗家宝生嘉内に入門。免許皆伝を許された翌年(明治16年)佐渡に帰り佐渡での加賀宝生初代太夫として免状を出す事態になった。明治17年6月金子柳太郎は能舞台を自宅の庭に設けた。
それに対抗すべく令蔵はその翌年自宅の能舞台を再建。「本間令蔵としては、負けてはいられなかった。200円の費用をかけて家屋を移築し、そのあとに豪壮な能舞台をつくった。費用は600円かかった。あわせて800円の出資」(『佐渡に舞う』)
同年10月令蔵は「債主(債権者)御一同様」という書き置きを残し末子七郎を伴い島を出た。明治19年12月高田商会に入社。社主の高田慎蔵は初め佐渡奉行所役人であった。同25年大阪麦酒(ビール:アサヒビールの前身)の大阪出張所販売係に転職。(同社生田秀は真野新町出身。ドイツ留学して醸造技術者となり後支配人となった。今日のアサヒビールでは、生田を「近代ビールの父」としている。生田とその長男は小鼓の胴に関心があり、長男は『鼓胴之研究』を出版)
帰島したのは明治33年。その16年間必要に応じては佐渡へ帰り、大膳神社の神事能などを勤めていた。
帰島後は、佐渡能楽倶楽部の結成にかかわった。「門弟の数は島内外を含めて400人余に及んだ」(『吾潟郷土史』)。(「明治42年門下生の協議の上、・・・佐渡能楽倶楽部を設立した」とある(『佐渡の能舞台』)が、明治37年3月15日付けの主要弟子の書状の「陳者佐渡能楽倶楽部創立以来・・・」文面から既に能楽倶楽部は結成されていた)
明治39年1月北海道函館東雲会に招かれ興行。函館で門家指導2ヶ月、札幌を経て小樽で2週間滞在して弟子獲得に努め、帰途新潟に立ち寄り旧社中の要請で6月新潟で「能楽謡曲研究会」の発足に係わった。規約には、「一、本会ハ能楽謡曲研究ノ為本間令蔵先生ヲ招聘スル事。一、本会ハ本間先生ヨリ毎日随意ニ師範ヲ受ける事一、会員ハ本会ノ維持費及先生ノ謝儀ニ充ツル為毎月金壱円ヅツ醵金スル事・・・」とうたわれている。
(参考)西三川派の創始者 金子柳太郎その後
柳太郎は、明治36年(1903)3月23日68歳で没する直前の2月10日金子高次郎(1880~1961)に皆伝免許を授け婿養子とし二代目を継がせた(『佐渡の能舞台』。『佐渡能楽史序説』では、「柳太郎の逝去後、相川町・・・の三男高次郎が柳太郎次女の婿養子となり、初め実父に謡を習い、のち畑福新三郎に師事、さらに明治35年には上京して10世波吉宮門の教えも受けて、芸事は養父柳太郎にも劣らぬものがあったといわれており、西三川派は、新興派閥の熱気と結束があり、高次郎を二世大夫に仰いで安泰であった」とある)
ところが、高次郎は大正7年(1918)になって能装束等を売却した。能装束は、群馬県高崎市で能楽の公演があった時に知り合った同市の多額納税勅選議員・桜井忠三郎に2万円で売却したという。能舞台は、同じく公演で知り合った京都の狂言師に売り払った。
売却が何の相談もなく密かに行なわれたので、門人たちは反発し「太夫」という敬称を止め佐渡能楽会を結成。出資金を集め、能装束を購入し充足を図った。(以降、潟上派と西三川派の実質的対立は、本間能太夫・佐渡能楽倶楽部会員と佐渡能楽会会員の対立となる)
その金子高次郎(以後「佳愛」)は、佐渡能楽会から排除され東京へ出て能の師匠などして生活していたが、食えなくなったのかやがて佐渡能楽会への入会を求めて来た。昭和3年(1928)佐渡能楽会は、過去の事を許し金子の入会を認めた。その年の12月16日佐渡能楽会創立10周年記念祝賀能を真野尋常小学校体育館で行い、佳愛が「安宅」を舞いそれが復帰の披露となった。なお、佳愛は芸と指導に優れているとの定評があり、佳愛を尊敬する多くの門弟がいた。楽謡会・佳鳳会は、金子佳愛の門弟グループ。
⑯十六代本間 凞(ひろし。 ~1941)
先代には五男二女があり、長男・次男は早逝・若死し三男は養子に行き、令蔵没後は四男・凞が後を継いだ。凞は本拠地が東京で、盆暮に佐渡へ帰り指導を行なった。大正12年と大正15年に宝生宗家一行を佐渡に招き本間家能舞台で演能を行なった。大正12年の時の費用が、同行した野村蘭作の話では、全費用3,000円で当時家が一軒買える値段という。入場料は1人3円で500人として1,500円。差額は、本間家と佐渡能楽倶楽部の負担。
⑰十七代本間友英(1902~1969)
先代には男子がなく女子だけであった。宝生宗家の分家九世宝生嘉内(1854~1921)の娘の子で昭和8年1月入籍、同8月披露能。家元宝生九郎重英とは叔父・甥の関係にある。昭和23年には70年以上にわたって対立した西三川派との和解が成立。戦前までは東京に居る方が多かったが、戦後は佐渡を本拠地に活動。
⑱十八代本間英孝(1934年生まれ)
幼少の頃より先代宗家・現宗家の薫陶を受ける。海外公演や米国各地の大学で指導実績がある。1975年重要無形文化財指定。
「畑野」











「羽茂」



「真野」
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より (芸能)
























『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より


『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より (スポーツ)






「新穂」












「歴代の本間能太夫」
(記述について『佐渡の能舞台』には、小田季吉「佐渡能楽余録」宝生昭和43年7月より12月号によるとある。その他『吾潟郷土史』『佐渡能楽史序説』を参考に加筆した)
①初代本間秀信
1616~1651、本間能太夫家初代。父秀光=潟上弥太郎は、上杉景勝の家臣となって越後に渡り、さらに景勝と共に会津そして米沢に住んだ。16歳のとき家督を次男に譲って諸国遍歴の途中、奈良で薪能をみて感銘し、宝生家の門を叩き教えを受けたとされる。寛永18年(1641)佐渡に帰り梅ヶ沢に住み、能楽を家業とすることとした。慶安年中(4年=1651ともいう)佐渡奉行所より能太夫を命ぜられた。
②二代秀昌(1634~1666)
先代の嫡男で、父と共に梅ヶ沢に住んだ。後、源兵衛と改名。慶安5年(1653)世襲に当って八世宗家九郎将監重友より、謡本を贈られた。(『吾潟郷土史』では、「田中圭一氏によると、慶安4年(1651)に本間源兵衛が宝生九郎重政から『小野小町』の口伝書を貰い、それが残っているという」)
③三代杢昌継( ~1664)
二代秀昌の弟秀成の子。
④四代右京秀清( ~1669)
承応2年(1653)~寛文9年(1669)までの春日神社の神事能に出演。また、万治2年(1659)~寛文8年(1668)の間、子の権左ェ門と共に勤めている。
⑤五代権左ェ門秀継( ~1691)
万治2年(1659)~元和元年(1681)まで春日社の神事能を勤めた。
⑥六代右近秀精( ~1703)
権太郎ともいった。寛文12年(1672)~延宝3年(1675)まで春日社の神事能を勤めた。延宝3年(1675)潟上村左太夫は江戸宝生座にて鏡の間をつとめる。翌年9月20日中原村一王子社の神事能奉納。元禄15年(1702)春日社で一代能、大山祇神社で神事能を勤めた。
⑦七代権之丞昌房( ~1700)
春日社の神事能を勤めたのは寛文6(1766)・7・8・10年(1670)。短命で父より早く没す。
⑧八代右近昌方( ~1756)
享保2年(1717)8月1~3日沢根で勧進能を勤める。国仲の能が盛んになる反面、相川の神事能が神楽に替わられることを恐れ、享保13年(1728)春日社社祠 津田山城に願文を提出。(享保9年経費節約から定能をやめ神楽に改めた。そのため書面を神職に送って費用の一部を自分たちも負担するから神事能を復興してもらいたいと願い出た。なお、奉行によって能に興味のない者もいて一様に援助されていたわけではない)
⑨九代江助唯清( ~1746)
⑩十代右京清房( ~1756)
宝生宗家将監友晴の没後、四男暢栄を補佐した功によって永扇の称号を与えられ、内弟子格に取り立てられて子々孫々修行中は宝生家で負担することとした。また、最大の重習いである「定家」「木賊「「関寺小町」「乱」「乱拍子」の永世免許を受けた。宝暦3年(1753)鶴岡・新潟へ興業に出かけている。
⑪十一代右内繁由( ~1797)
⑫十二代右近由広( ~1813)
⑬十三代左京由春( ~1867)
先代の嫡子。天保4年(1833)宗家より能面を贈られ、弘化5年(1848)神田筋違橋で張行された宝生太夫友干(後の紫雪)の一生一代勧進能のときシテ方を2回勤めた。嘉永5年(1852)柏崎へ招かれ興業を行なっている。「佐渡人物誌」に、左京由春の時、佐渡宝生流は盛んを極めた と記されている。
⑭十四代右近由久( ~1872)
正徳3年(1713)に時の佐渡奉行神保五左衛門に認められ矢馳から相川に住まわせられワキ師として奉行所より払下米を給せられた遠藤家は、清之進(可啓)の時本間家のワキ方に甘んぜず、江戸へ上がり観世宗家観世清孝の直弟子となり、清之丞と命名された。しかも安政4年(1857)奉行所より能太夫を仰せつけられ佐渡観世流太夫の創始者となったことで、宝生流と観世流との競争・対立が始った。さらに明治維新により能楽が保護されなくなった中で家業といしての能を存続させた。
(遠藤可啓に門人多く、越後の高田・水原にも弟子があり、能太夫に昇格したとき越後の門人市島・佐藤などの富豪より能装束の寄贈もあった。二代目可清は、明治維新後能楽は没落し楽師も官給から離れてしまったことに憤慨。能の家業を廃業し上京。明治11年能装束一式を西三川派の金子柳太郎に時価200余円で売却。それで佐渡観世流は衰えた)
⑮十五代本間令蔵(1848~1915)
干孝、行孝、令桑(隠居名)などともいった。先代から謡を習い、宗家宝生九郎の薫陶を受け帰島。吾潟村独立当時(明治13年(1880)潟上村から越戸・田ノ浦・品浦・藤巻部落90戸をもって分離)連合戸長を務めたり、学田開墾を発議して事業の推進に努めたり、加茂湖の埋立事業を行なうなど社会事業家の面もあった。
本間家の弟子であった西三川の金子柳太郎(1836~1903)は、明治9年(1876)本間家と喧嘩別れし、相川県庶務局より興業許可を取得。明治11年43歳で加賀宝生流宗家宝生嘉内に入門。免許皆伝を許された翌年(明治16年)佐渡に帰り佐渡での加賀宝生初代太夫として免状を出す事態になった。明治17年6月金子柳太郎は能舞台を自宅の庭に設けた。
それに対抗すべく令蔵はその翌年自宅の能舞台を再建。「本間令蔵としては、負けてはいられなかった。200円の費用をかけて家屋を移築し、そのあとに豪壮な能舞台をつくった。費用は600円かかった。あわせて800円の出資」(『佐渡に舞う』)
同年10月令蔵は「債主(債権者)御一同様」という書き置きを残し末子七郎を伴い島を出た。明治19年12月高田商会に入社。社主の高田慎蔵は初め佐渡奉行所役人であった。同25年大阪麦酒(ビール:アサヒビールの前身)の大阪出張所販売係に転職。(同社生田秀は真野新町出身。ドイツ留学して醸造技術者となり後支配人となった。今日のアサヒビールでは、生田を「近代ビールの父」としている。生田とその長男は小鼓の胴に関心があり、長男は『鼓胴之研究』を出版)
帰島したのは明治33年。その16年間必要に応じては佐渡へ帰り、大膳神社の神事能などを勤めていた。
帰島後は、佐渡能楽倶楽部の結成にかかわった。「門弟の数は島内外を含めて400人余に及んだ」(『吾潟郷土史』)。(「明治42年門下生の協議の上、・・・佐渡能楽倶楽部を設立した」とある(『佐渡の能舞台』)が、明治37年3月15日付けの主要弟子の書状の「陳者佐渡能楽倶楽部創立以来・・・」文面から既に能楽倶楽部は結成されていた)
明治39年1月北海道函館東雲会に招かれ興行。函館で門家指導2ヶ月、札幌を経て小樽で2週間滞在して弟子獲得に努め、帰途新潟に立ち寄り旧社中の要請で6月新潟で「能楽謡曲研究会」の発足に係わった。規約には、「一、本会ハ能楽謡曲研究ノ為本間令蔵先生ヲ招聘スル事。一、本会ハ本間先生ヨリ毎日随意ニ師範ヲ受ける事一、会員ハ本会ノ維持費及先生ノ謝儀ニ充ツル為毎月金壱円ヅツ醵金スル事・・・」とうたわれている。
(参考)西三川派の創始者 金子柳太郎その後
柳太郎は、明治36年(1903)3月23日68歳で没する直前の2月10日金子高次郎(1880~1961)に皆伝免許を授け婿養子とし二代目を継がせた(『佐渡の能舞台』。『佐渡能楽史序説』では、「柳太郎の逝去後、相川町・・・の三男高次郎が柳太郎次女の婿養子となり、初め実父に謡を習い、のち畑福新三郎に師事、さらに明治35年には上京して10世波吉宮門の教えも受けて、芸事は養父柳太郎にも劣らぬものがあったといわれており、西三川派は、新興派閥の熱気と結束があり、高次郎を二世大夫に仰いで安泰であった」とある)
ところが、高次郎は大正7年(1918)になって能装束等を売却した。能装束は、群馬県高崎市で能楽の公演があった時に知り合った同市の多額納税勅選議員・桜井忠三郎に2万円で売却したという。能舞台は、同じく公演で知り合った京都の狂言師に売り払った。
売却が何の相談もなく密かに行なわれたので、門人たちは反発し「太夫」という敬称を止め佐渡能楽会を結成。出資金を集め、能装束を購入し充足を図った。(以降、潟上派と西三川派の実質的対立は、本間能太夫・佐渡能楽倶楽部会員と佐渡能楽会会員の対立となる)
その金子高次郎(以後「佳愛」)は、佐渡能楽会から排除され東京へ出て能の師匠などして生活していたが、食えなくなったのかやがて佐渡能楽会への入会を求めて来た。昭和3年(1928)佐渡能楽会は、過去の事を許し金子の入会を認めた。その年の12月16日佐渡能楽会創立10周年記念祝賀能を真野尋常小学校体育館で行い、佳愛が「安宅」を舞いそれが復帰の披露となった。なお、佳愛は芸と指導に優れているとの定評があり、佳愛を尊敬する多くの門弟がいた。楽謡会・佳鳳会は、金子佳愛の門弟グループ。
⑯十六代本間 凞(ひろし。 ~1941)
先代には五男二女があり、長男・次男は早逝・若死し三男は養子に行き、令蔵没後は四男・凞が後を継いだ。凞は本拠地が東京で、盆暮に佐渡へ帰り指導を行なった。大正12年と大正15年に宝生宗家一行を佐渡に招き本間家能舞台で演能を行なった。大正12年の時の費用が、同行した野村蘭作の話では、全費用3,000円で当時家が一軒買える値段という。入場料は1人3円で500人として1,500円。差額は、本間家と佐渡能楽倶楽部の負担。
⑰十七代本間友英(1902~1969)
先代には男子がなく女子だけであった。宝生宗家の分家九世宝生嘉内(1854~1921)の娘の子で昭和8年1月入籍、同8月披露能。家元宝生九郎重英とは叔父・甥の関係にある。昭和23年には70年以上にわたって対立した西三川派との和解が成立。戦前までは東京に居る方が多かったが、戦後は佐渡を本拠地に活動。
⑱十八代本間英孝(1934年生まれ)
幼少の頃より先代宗家・現宗家の薫陶を受ける。海外公演や米国各地の大学で指導実績がある。1975年重要無形文化財指定。
「畑野」











「羽茂」



「真野」
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より (芸能)
























『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より


『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より (スポーツ)






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