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2021-01-11

★みい

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国小木村藤三郎の祖母である。天保十年(一八三九年)に九十五才になったので役所から老養扶持壱人扶持を与えられた。(佐渡年代記下巻)


★三浦綾子

みう三浦綾子 (2)  みう三浦綾子
大正11-平成11年。著名な小説家で、父方祖父母が真野金丸出身。祖父母は北海道苫前で雑貨屋を経営して成功する。三浦綾子の作品には『氷点』『ひつじが丘』『積木の箱』『塩狩峠』『道ありき』等があり、祖父母の波乱万丈の一生をモデルにした『嵐吹く時も』もある。
「島の新聞」索引(人名別)

三浦綾子諸情報(膨大な情報あり)


★三浦栄蔵

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
みう三浦榮蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みう三浦栄蔵


★三浦栄太郎(みうらえいたろう)

【生没】一九○○ー三六 明治三十三年七月十八日、金泉村(現相川町)戸地二○番戸三浦乙次郎の次男として生まれる。大正二年(一九一三)に相川町長坂の大工、伊藤音次郎に弟子入りしたが、棟梁にすすめられ同四年沢根五十里の宮大工、間嶋杢太郎に弟子入、宮大工として松崎神社や三宮神社(畑野町)などの建て替えに現場責任者として(弟弟子の山本嘉作語る)加わる。また二見神社の建て替えも戸地から木材を船で運び、三浦が棟梁をしたと当時戸地で材木商だった山本作次郎は語った。彫刻が得意で神棚や仏壇をのこし、相川の本興寺・蓮長寺などの修復にも加わったという。その後兵役三年があったが、昭和十一年三月十一日戸地第一発電所の水路工事で、その工事中落石事故により死亡した。
【参考文献】三浦和作・啓作「清和院栄山道盛居士」 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)


★三浦音一

新町大神宮の幟台
みう三浦音一


★三浦音識

『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
みう三浦音識 新潟県官民肖像録 明治41年


★三浦可吉

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・8・8・27 第7回県下中等学校水上・学童水上選手権大会(北越新報)悠久山プール
(金泉小)50背4位、200リレー1位 2.31.0、総合金泉1位 

★三浦一治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
み三浦一治

★三浦勝男
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 5心の温かみを醸し出す尊像 

★三浦啓作
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 
 42 秀山「海陸順達記」の道をたどる (1) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  43 秀山「海陸順達記」の道をたどる (2) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  44 秀山「海陸順達記」の道をたどる (3) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  45 秀山「海陸順達記」の道をたどる (4) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  46 秀山「海陸順達記」の道をたどる (5) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  47 秀山「海陸順達記」の道をたどる (6) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  48 秀山「海陸順達記」の道をたどる (7) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  49 秀山「海陸順達記」の道をたどる (8) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  51 秀山「海陸順達記」の道をたどる (9) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作
 52 秀山「海陸順達記」の道をたどる (10) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  53 秀山「海陸順達記」の道をたどる (11) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  55 秀山「海陸順達記」の道をたどる (12) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作  106 解体される「長谷川海太郎家」
「島の新聞」索引(人名別)

★三浦啓蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みう三浦啓蔵

★三浦研斎(みうらけんさい)
三浦研斎 初代
みう三浦研斎 初代
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
みう三浦研斎 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34
【生没】一八六六ー一九三九 鋳銅作家(銅器師)。相川町に生まれた。明治十一年(一八七八)一三歳のとき、沢根の初代本間琢斎に入門した。琢斎はこの前年、第一回内国勧業博覧会に出品した大花瓶が、宮内省に買上げられ名匠の評判が高かった。いつごろ独立したか分からないが、相川の西坂で工房を持ち、本格的な製作をはじめた。昭和十三年六月刊行の『佐渡名鑑』(佐渡毎日新聞社)では、「佐渡銅器の革命とされる斑紫銅の完成は、氏の創始になるものとされ」と紹介されている。詳細は分からない。西坂は、佐渡奉行所の真下にある町で、研斎が住んだとされる家と工房跡が、まだ残っている。昭和十四年一月、七四歳で没した。二代を継いだのは三男の研斎で、昭和二十五年(一九五○)十月に没したという。
【関連】本間琢斎(ほんまたくさい) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みう三浦研斎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
銅器作家。慶応二年(一八六六年)佐渡郡相川で生まれた。十三才の時、沢根の名匠本間琢斎の門にはいった。相川町西坂で独立し佐渡銅器の革命といわれる斑紫鋼の完成をなしとげた。花瓶、床置物等に独特の作風を示して重視された。(佐渡名鑑)


★三浦弘太郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]


★三浦幸太郎

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)


★三浦梢

 両津高校時代の1993年度(H5)10月、第8回全国臨書摸刻展(心芸墨美作家協会主催)心芸墨美作家協会賞
 1994年度(H6)10月、第9回全国臨書摸刻展(心芸豊美作家協会主催)特別賞


★三浦小平(みうらこへい)

佐渡博物館
みう三浦小平 佐渡博物館 (1) みう三浦小平 佐渡博物館 (2) みう三浦小平
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)
みう三浦小平 金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町 森幾
【生没】一八九八ー一九七二 相川町一丁目で、常山三代の次男として明治三十一年に出生する。日本美術学校で洋画を習得し、卒業後は父の業を手伝い陶業に精を出すが、昭和五年(一九三○)に羽田町に小平窯を創設して独立する。昭和二十三年には、鉱山で採取される無名異土を主体にした「いか紋花瓶」が日展に入選する。戦後、新潟や東京で個展を開くが、宣伝嫌いで画商を泣かせた。しかし、現代日本陶芸展・国際陶芸展に招待で出品をするなど、名声は高く、小平の名は広く知れ渡った。無名異焼ばかりでなく、全国の原土を使って自由に、しかも大作や繊細華麗な白磁・青磁を物にし、画才を如何なく発揮した。昭和四十七年九月八日に惜しまれつつ、この世を去ったが、勲六等単光旭日賞の栄誉を受ける。長男は父の死亡により小平窯を継ぐ。昭和八年に出生した彼は、東京芸大彫刻科を卒業し、芸大教授の傍ら東京で作品を造り、伝統工芸展の審査員を引き受けるなど、活躍の場が大きい。青磁では右に出る者がいないほど成長したが、佐渡の無名異の赤土から離れられない。
【関連】三浦小平二(みうらこへいじ)・三浦常山(みうらじょうざん) 【参考文献】山中観一「三浦常山・小平・小平二」(『佐渡の美術』)、三浦小平二『三浦常山・小平・小平二展』 【執筆者】佐藤俊策 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八九八-一九七二)(居住)羽田町(現在の「三浦小平二美術館」) 陶芸家。三代常山の次男として一町目に生れ、昭和五年、羽田町に小平窯を創設。荘子の「道は虚に集まる」を座右銘に、独自の境地の創作に没頭した。現代日本陶芸展、国際陶芸展に招待出品する。無名異焼きのほか、全国の陶土を使い白磁・青磁なども作る。河井寛次郎、浜田庄司、富本憲吉、清水六兵衛らよりも珍重・愛好されていると言われた。後を継いだ小平二は、重要無形文化財技術保持者、相川町名誉町民であった。

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みう三浦小平

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
陶芸家。三代三浦常山の二男で明治三十年に生まれた。はじめ上京して洋画を学んだが、帰郷して陶芸家に転じた。家業を助けていたが後一家を開き小平焼窯元の基礎を築いた。(佐渡名鑑)

『島の新聞』94号
1933年3月21日-2006年10月3日、73歳。相川出身。陶芸家。97年人間国宝に認定される。無名異焼の窯元三代常山の孫、三浦小平の長男。古代中国の南宋官窯に影響を受け、佐渡の朱色の土に青磁釉をかける独特の技法や、中近東や東アフリカ、アジアなどを巡り、人物や風物の色絵を青磁に組み合わせる作風を確立。東京芸術大学美術学部彫刻学科卒。同大学工芸科陶芸講教授・名誉教授。

★三浦小平二(みうらこへいじ)
「ウイキペディア」より 
みう三浦小平二
「島の新聞」21号(by 松本秀雄)
21みう三浦小平二 (4)
み三浦小平二 相川町名誉町民 みう三浦小平二
【生没】一九三三ー 陶芸家。重要無形文化財技術保持者。昭和八年三月二十一日、相川町羽田の「小平窯」、三浦小平の長男として生まれる。母はイシ。小平は三代三浦常山の子で、昭和五年(一九三○)に常山窯から枝別れして小平窯を開いた。小平二は初代常山を曾祖父に、三代常山を祖父とする伝統的な作陶家の家に生まれる。東京芸大彫刻科を卒業後「まず職人になれ」という父のアドバイスを受けて上京、日陶産業などで基礎技術を学び、芸大の副手になってから学内に陶芸研究会を新設。これが発展して昭和三十九年(一九六四)から正科の陶芸科が誕生する。青磁に志ざし、中国宋の時代の官窯青磁の美しさに憧れていたが、台北の故宮博物院で見た官窯青磁の土が、佐渡の無名異焼の土(朱泥土)と同質であることを発見して感動し、色調および作風に一段と磨きがかかった。五十一年(一九七六)の日本伝統工芸展に出品した青磁大鉢が文部大臣賞を、続いて陶磁協会金賞、MOA美術館の工芸大賞などつぎつぎと受賞する。シルクロードに憧れ、アフガニスタンなど世界各地を旅行、アフリカのマサイ族や遊牧民の生活にふれる。その風俗や人物を描いた色絵を、青磁に組合わせる大胆で独創的な「三浦青磁」を開拓し、平成九年青磁作家では初の人間国宝の認定を受け、同時に相川町の名誉町民(七号)となる。前東京芸大工芸科教授。【関連】三浦常山(みうらじょうざん)・三浦小平(みうらこへい) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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相川町名誉町民(4番目)
「ウィキペディア」より
三浦小平二(みうら こへいじ、1933年3月21日 - 2006年10月3日)は日本の陶芸家。1997年に人間国宝に認定された。
・略歴:新潟県佐渡郡相川町(現在の佐渡市)出身。生家は佐渡無名異焼の窯元であり、三代常山の孫、三浦小平の長男として生まれた。1955年東京芸術大学美術学部彫刻学科を卒業後、加藤土師萌の元で青磁の伝統技法を学ぶ。
1969年に中近東や東アフリカ、1978年に中国・モンゴルなどアジア各国を巡り、各国の磁器の研究や自らの作品への投影に励んだ。特に、古代中国の皇室御用達であった国営陶磁器製作所が生み出す南宋官窯に強い影響を受け、目標としながら研究を重ねた。その末に佐渡の朱色の土を下地とした器に青磁釉をかけるという独特な技法を開発する。更に色絵を組み合わせ、人物や風物を描くという独自の作風を確立した。器そのものの形にも感性が反映されており、その現代的な感覚は陶芸の世界の新たな展開を示すとして注目された。パリやニューヨークで個展を開催するなど、国際的な評価も高い。
1961年に新日展に初入選、翌1962年の現代日本陶芸展での朝日新聞社賞をはじめ、数々の賞を獲得。1973年に父が他界した後、小平窯を継承する。1976年日本伝統工芸展に「青磁大鉢」を出品し文部大臣賞受賞、文化庁買上作品に選出される。1985年には浩宮徳仁親王(現在の皇太子)より「青磁花瓶」がイギリス女王のエリザベス2世に留学記念として贈られている。
東京芸術大学工芸科陶芸講座助教授を経て、1990年同大学教授、2000年には名誉教授に就任。社団法人日本工芸会理事等を歴任し、次世代への指導教育に務めた。1992年には相川町に「三浦小平二 小さな美術館」を設立。1997年6月6日に重要無形文化財「青磁」保持者に認定された。1996年には紫綬褒章を受章。
2006年10月3日東京都国立市の自宅にて逝去、享年73。
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.1933-2006 昭和後期-平成時代の陶芸家。
昭和8年3月21日生まれ。三浦常山(じょうざん)の孫。加藤土師萌(はじめ)に師事。独自の青磁技法に色絵をくみあわせた作品により日本伝統工芸展などで受賞。平成2年母校東京芸大の教授。9年青磁で人間国宝。平成18年10月3日死去。73歳。新潟県出身。代表作に「青磁飾り壺(つぼ)」。
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「佐渡市HP」より
陶芸家◎1933〜2006年 東京藝術大学陶芸科創設者の一人、日本を代表する陶芸家
佐渡の無名異焼窯元三代目常山を祖父に、四代目小平の長男として生まれる。伝統的な技法に独自の創造的な手法を取り入れ、青磁に新しい生命を吹き込んだ。三浦青磁と呼ばれる独特の青が特徴で、その作品は世界の名だたる美術館に収蔵されている。平成9年に青磁の分野では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦小平二 
 99 個性とオリジナリティを  113 三浦小平二先生を悼む 山本修巳
「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)兄 小平二の素顔「8号」(平成19年1月)先輩 三浦小平二先生「生家の思い出」(島田治男 東京相川会会長)「21号」(平成22年4月)初の佐渡市名誉市民称号授与式(浅島誠・伊藤窯一・故三浦小平二)(山本修巳)
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035763.html?p=2

★三浦佐久
『続佐渡酒誌』(平成14年)
みう三浦佐久 『佐渡酒誌』(平成14年)

★三浦三郎治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永六年 生
真野村吉岡 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]

★三浦三久郎
→若林米蔵「笛畝会」参照


★三浦三次郎

→山本清左衛門「清諷会」参照


★三浦治兵衛

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
み三浦治兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
相川銀山開発者。慶長六年(一六〇一年)七月、鶴子銀山の山仕次兵衛は渡辺儀兵衛、同弥次右衛門と共に相川に銀鉱脈を発見し、開発した。次兵衛の開発した間歩を六拾枚といい、儀兵衛は道遊、弥次右衛門は割間歩を開発した。(佐渡年代記上巻)


★三浦秋太郎

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)
みう三浦秋太郎 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)(大正12年 佐渡日報社)
@新町大神宮
みう三浦秋太郎 新町大神宮


★三浦舜太郎(しゅんたろう)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みう三浦舜太郎

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
常山焼四代目、佐渡郡相川町一丁目で明治十九年に生まれた。大正十年美術学校を卒業その後八年間東京で美術研究に努力した。大正九年日本美術院展覧会に出品して注目された。昭和二年樗牛賞を受け、五年二科会々友に推された。四年帰郷、四代目常山となり、無名異陶器の革新につとめ、製作工程、色彩光沢描画に新機軸を出した。弟陶次郎もまた美術学校を卒菜、舜太郎をたすけて常山焼の声価をたかめた。(佐渡名鑑)

「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)


★三浦常山(みうらじょうざん)

「佐渡ふるさと百科」
みう三浦常山(初代)佐渡ふるさと百科

三浦常山 初代
みう三浦常山 初代
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)
みう三浦常山 金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町 森幾
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
みう三浦常山 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)
みう三浦常山 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)(大正12年 佐渡日報社)
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
みう三浦常山 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
みう三浦常山 佐渡案内写真大集
【生没】一八三五ー一九○三 初代常山は相川町一丁目に生まれ、名を行篤と云ったが、一三歳で父を失い、父の後を継いで小兵衛と改名し名主を勤めた。一六歳で母を亡くした。明治に入って失業者救済のため磁器製造を志し、会津から職人を招いたが順調に行かず打ち切った。鉱山から出る無名異を使用した赤焼は、羽口屋が楽焼に成功しているが、これを高温焼成により、中国の朱泥焼に劣らぬ美術品にしたいと、日夜研究に没頭した。明治十年(一八七七)に成功を見ることができ、東京内国博覧会に出品して称賛を得、明治三十四年には審査員となり、常山焼の名を高くした功績で、農商務大臣から功労賞を受けたが、明治三十六年十二月に六八歳で病没した。初代常山は風流で芸能を好み、挿花点茶や骨薫の鑑識に富み、書画にすぐれ和歌を詠じた。その作品は高尚で雅趣があった。初代は一生を試験研究に捧げたと云える。父の後を継いだ二代目常山は、父の生存中から勉強し研究を進めたが、明治四十年に四九歳で亡くなり、三代目は二代の弟が継ぎ、昭和四年に死亡した。四代目は二代の子が継いだものの、昭和四十一年に亡くなった。いずれも子供は一芸に秀で、常山窯の名声は年とともに高まりを見せた。しかし、常山窯は寿命が短く四代で姿を消してしまった。惜しまれてならない。
【関連】三浦小平(みうらこへい) 【参考文献】三浦小平二「常山年譜」(『常山・小平・小平二展』)、平井栄一「佐渡に於ける陶器の歴史」、佐々木勇『佐渡百話』 【執筆者】佐藤俊策 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡無名異焼を美術品としたのは初代常山である。家は代々相川の名主で質屋古着商であった。十三の時父を、十六の時母を失い家を継いだ。二十五の時、奉行から国産係を命じられ鉱山視察に釆た英人ガールや夷港に釆た英国公使パークスの接待役をつとめて海外事情を知り産業振興の必要を痛感した。また相川県知事より興業授産の計画を委任されたので勧業方として養蚕、製紙、製菓、雨がさ製作の職エを招いて振興をはかった。また佐渡に白磁器がないので会津から職工を招き、失業対策をはかろうとしたが、白土が少なく失敗した。それから窯業に力を入れ、無名異(南沢の伊藤雲山が文化年間〔二八〇四~十七年〕にはじめその子甚平が改良した)質が弱く実用にならないので苦心研究して硬質で美術品とした。明治十年である。十一年東京の博覧会に出品して受賞し、北陸御巡幸の時、天皇の御覧に入れた。以来朱紫泥焼は広く知られた。三十四年功労賞を農商務大臣から受けた。三十六年十二月六日に六十八才でなくなった。(佐渡人物志、相川町誌、佐渡大観、佐渡人名辞書)

「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1836-1903 明治時代の陶業家。
天保(てんぽう)7年生まれ。家は佐渡(新潟県)相川町の名主。維新後,洋式化にともなう佐渡金山離職者の救済のため製陶業をおこす。無名異(むみょうい)焼を改良し,明治9年朱泥(しゅでい)の堅牢な陶器の焼成に成功。常山焼と称し,4代までつづいた。明治36年10月死去。68歳。本名は小平治。

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八三五-一九〇三)(出生、居住)一町目(現在の「つるや」) 常山焼きの創始者。赤水の楽焼きを、苦心の末、明治十年、高温焼成による朱泥焼き・紫泥焼きとすることに成功し、東京内国博覧会で賞讃を得た。明治三十四年、東京内国博覧会の審査員になる。農商務大臣から功労賞を受ける。風流で多才。書画にも優れ、和歌を詠んだ。作品は高尚で雅びだった。中興の祖は三代清で、その逸話の一つとして「相川四景」の水墨画を森知幾家の襖四枚に、酒興のまま、一気に書き下ろしたという。四代目が昭和四十一年に亡くなり、常山窯は絶える。

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦常山 
 37 翠雨軒常山工房の職人たち、付・波山の急須   佐々木日出海
 99 「佐渡学」ノート (9) 司馬凌海、三浦常山 山本修巳

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
み三浦常山

み三浦常山 (2)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
み三浦常山 (3)

「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)


★三浦甚四郎

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
み三浦甚四郎

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
孝子三浦甚四郎と弟本間三郎兵衛
三浦甚九郎は大崎農業小竹の甚四郎の人である。羽茂本郷素蒔(すまき)の中川五左衛門の弟で、三浦家を継いだものである。甚九郎に二子があって、長子を甚四郎といい、次子は五三郎といって本間家を継いだ。甚九郎は足腰のたたぬ病気にかかり、その上脳をわずらい、恍惚の人となり、何度聞いてもすぐに忘れてしまうという有様であった。ある時山で木を伐る音をきき、「あれはなんだ」と尋ねたので木を伐る音だと答えるとしばらくしてまた問い返す。問うては忘れ、忘れては敵うこと日に幾度かであったが、甚四郎は少しも煩わしく思うこともな
く、いつもおなじように答えた。時に甚九郎の母は八〇歳の高齢で、素蒔の家におったが、甚九郎はふと思い出して、素蒔へ行きたいという。素蒔と大崎は羽茂川の渓谷を隔てたところである。現在の度津線の開通以前のことであるから、路は非常に悪く、はとんど人の通うことのないはどの道であった。甚四郎は父を負うてこの道を上り下りして、母のところへ連れていった。ある時、五左衛門で追善の法要を営み、甚九郎を招待した。甚四郎はこの山道を父を負う
て行った。やがて家に帰ろうというので負うて帰った。帰って暫らくすると「どうして素蒔へ連れて行かぬか」というので、また父を負うて行く。このように二度も三度も往復しても、ただ父の命に従うて、いささかもさかろうことはなかった。
ある時五三郎が兄に向って「父は不幸に病にかかり、まだ、お伊勢参りもしていない。父に万一のことがあった場合、自分達がお伊勢様にお参りしても本意でない。たとえ千里の遠い道なりと、二人で代る代る背負うたら、行けないこともなかろう」と父の伊勢参宮のことを提案した。兄の甚四郎は涙を流して喜び、やがて両人代る代る父を背負うて、遠い道を物ともせず、遂に伊勢参宮を終えて帰った。明治四年のことである。まことに孝子の鑑ともいうべき美談である。
度津神社宮司美濃部禎は、夙に二孝子の徳行を称賛し、さきに(明治二〇年頃)北溟雑誌にその記事を掲載して表彰したが、さらに稿を改めて孝子の伝を撰した。昭和四年八月その撰文による三浦翁昭孝碑を同家の庭に建てた。(大崎村誌草稿)

→「三浦翁昭孝碑」全文は『山里の人びと』(p427)に載る。


★三浦清吉(三代常山)

「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)


★三浦貴

「島の新聞」
75.jpg
「島の新聞」索引(人名別)


★三浦辰彦

みう三浦辰彦 (1)  みう三浦辰彦 (2)

下相川出身、銀座でスナック「美浦」を経営。銀座社交料飲協会(約1750店)会長、現在は名誉会長。

「ドンピエールみうら」  
新橋駅からコリドー街を通って歩くこと5分。7丁目の角、第26ポールスタービルの1階にバー「Dompierre(ドンピエール)みうら」がある。20坪ほどの店内にスペインの路地裏を再現。南欧風の瓦を葺いた屋根が迫り出し、煉瓦としっくい風の壁、石畳を敷き詰めた通路。照明を落とした店内は、そこだけ時間が止まっているかのような、なにか懐かしさを感じさせる。
 「自分が好きなスペインの路地裏のバル(バー)をイメージした。」と語るオーナーの三浦辰彦さんは、銀座で店を構えて34年。銀座では知る人ぞ知る存在だ。「元々は、この場所でクラブを経営していたんですが、平成6年に、気軽に入れるバーを始めました。」クラブ時代からの常連も多いが、カクテル1.200円からというリーズナブルな値段から、会社帰りに立ち寄る客も多い。
 テーブル席もあるが、カウンターの片隅で、バーテンダーと語りながら気に入ったカクテルを傾けるのがいい。バーテンダーは、男性2名、女性1名。まだ若いが、三浦さん仕込みの知識とこだわりがある。それぞれオリジナルカクテルがあり、飲み比べるのも楽しい。特にこの店のおすすめは、モスコミュールだ。モスコミュールの誕生当時のレシピを再現したウォッカ(スミノフ)をジンジャービヤーで割り、銅製のマグカップで飲むという本格的なもので、そこにさらに生の生姜を絞って入れる。さっぱりとした喉越しと生姜の香りがたまらない。また、ウイスキーにもこだわりがある。シングルモルトを中心に100種類程度おいており、ほかでは手に入りにくい「Strath Conon(ストラスコノン)」や「Glen GARIOOCH(グレンギリー)」など発売中止になったものさえ置いてある。さらに、世界各地のリキュールやワインなど三浦さんならではのこだわりの酒が楽しめる。食事は、パスタをはじめフィッシュ&チップスなど1.200円から1.500円程度でお腹にたまるものも用意してある。
[店名]ドンピエールみうら [カテゴリー]バー [電話番号]03-3572-0740 [住所]中央区銀座7-2-14第26ポールスタービル1F
[営業時間]月-金18:00-3:00 土18:00-23:00 [定休日]日・祝 [予算]5,000円~ [席数](テーブル)20席 (カウンター)10席 [フロアレディ]なし [カラオケ・生バンド]なし [予約]可能 [カード]可能 [開業年]1994年10月
「佐渡ジャーナル」関係記事:「10号」(平成19年7月)三浦辰彦氏名誉会長に就任-銀座社交料飲協会第16代会長-「15号」(平成20年10月)旭日単行章受章祝賀会-三浦辰彦氏(佐渡市相川出身)


★三浦民

佐渡ジャーナル h28 1月
みう三浦民 佐渡ジャーナル h28 1月


★三浦長蔵

左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)  右:新町大神宮にある石碑
みう三浦長蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)  みう三浦長蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
みう三浦長蔵


★三浦貞一

みう三浦貞一 (1) みう三浦貞一 (2)
『続佐渡酒誌』(平成14年7月 酒造組合佐渡支部)
みう三浦貞一 続佐渡酒誌 平成14年7月 酒造組合佐渡支部
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
みう三浦貞一 みう三浦貞一
みう三浦貞一 (1)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村徳和 ・昭1、佐渡立憲民衆党の創立[二年八月十八日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]


★三浦敏彦

「島の新聞」索引(人名別)


★三浦弘行

みう三浦弘行 (1) みう三浦弘行 (2) みう三浦弘行 (3)
1974年2月13日生れ、将棋棋士9段。父親康夫(故人 60歳で歿)は相川出身、実家は羽田の三浦酒店。父はアマ四段だった。
母方の祖父は元首相の福田赳夫と従兄弟同士(月刊宝石2002年10月号、湯川恵子の「将棋・ワンダーランド」)。
平成28年10月、対局中の度重なる退席が、控室でスマホでの研究ではないかとの疑念がもたれ日本棋院より一時的な出場停止措置受ける。
「ウィキペディア」より


★三浦甫吉

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)


★三浦正史

両津高校時代の1975年度(S50)11月、第9回全国高校生ポスター絵画写真コンクール学校特別賞 絵画部門 銅賞


★三浦正道

「島の新聞」索引(人名別)


★三浦光仁

みう三浦光仁


★三浦みどり

「島の新聞」索引(人名別)


★三浦茂十郎

→山本清左衛門「清諷会」参照


★三浦基裕(みうらもとひろ)

みう三浦基裕
みう三浦基裕 (1) みう三浦基裕 (2) みう三浦基裕 (3) みう三浦基裕 (4) みう三浦基裕 (5) みう三浦基裕 (6) みう三浦基裕 (7) みう三浦基裕 (8) みう三浦基裕 (9) みう三浦基裕 (10) みう三浦基裕 (11) みう三浦基裕 (12) みう三浦基裕 (13) みう三浦基裕 (14) みう三浦基裕 (15) みう三浦基裕 (16) みう三浦基裕 (17) みう三浦基裕 (18) みう三浦基裕 (19) みう三浦基裕 (20) みう三浦基裕 (21) みう三浦基裕 (22) みう三浦基裕 (23) みう三浦基裕 (24) みう三浦基裕 (25) みう三浦基裕 (26) みう三浦基裕 (27) みう三浦基裕 (28) みか三川秋一 新潟県人会カレンダー (1) みう三浦基裕
みう三浦基裕 (1) みう三浦基裕 (3) みう三浦基裕 (8) みう三浦基裕 (9) みう三浦基裕 (10)
r202月 財界新潟
みう三浦基裕 r202月 財界新潟 (1)
みう三浦基裕 r202月 財界新潟 (2)
みう三浦基裕 みう三浦基裕 (2) みう三浦基裕 (1)
1957年真野町四日町に生まれる。平成28年4月の佐渡市長選に出馬し、現職の甲斐元也氏を破って当選する。
真野中-佐渡高校を経て、1980年に上智大学文学部新聞科学を卒業。1980年、日刊スポーツ新聞社に入社し、大相撲・プロ野球担当記者となる。スポーツ部長、編集局長を歴任後、2006年取締役に就任、2009年には同社取締役社長に就任。11年に退任、以降経営アドバイザー。
「佐渡ジャーナル」関係記事:「36号」(平成26年1月)座談会 いかに雇用をうみだすか-浅島誠・石原武・宇留間和基・三浦基裕・武井千秋・岩田雅-「46号」(平成28年7月)・三浦基裕市長が初登庁・新市長 三浦基裕氏に聞く(聞きて・宇留間和基)「48号」(平成29年1月)・グラフ佐度(・市議会 住民投票条例案を賛成多数で可決・三浦市長 反対意見を付けて住民投票条例案提出)「60号」(令和2年1月)・藤木副市長に「辞職勧告決議」、三浦市長には「問責決議」

諸情報


★三浦容子

小平二の姉。画家、50年代に自由美術家協会展に入選。


★三浦吉太郎

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みう三浦吉太郎


★三浦与七

 →小黒ヨシ参照

★三浦良広
みう三浦良広050610 みう三浦良廣050610 みう三浦良広 みう三浦良広
「佐渡ジャーナル」関係記事:「65号」(令和3年4月)・いきる(三浦良廣) vol.25(蘭丸)

★三浦龍太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みう三浦龍太郎

★三浦亮惠
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
みう三浦亮惠 新潟県官民肖像録 明治41年

★三浦良平(二代常山)
「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)

★みゑ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国滝平村(羽茂町)市左衛門の祖母である。文政十二年(一八二九年)当年百才になり、稀なる長寿につき、鳥目拾貫文を与えちれた。(佐渡年代記中巻)

★味方但馬家重(みかたたじまいえしげ)
【生没】一五六二ー一六二三 味方氏は、織田信長の家臣村井長門守の末裔で、父は村井善左衛門、慶長九年(一六○四)四二歳のとき、佐渡にわたり山師として鉱山を稼いだ。「味方家由緒書」によると、摂州多田銀山・奥州南部・伊勢の鉱山をも稼いでいることが知られる。相川の瑞仙寺(日蓮宗)には、味方但馬が家康から与えられた胴服などが伝存し、文書史料も残している。また京都・江戸にも屋敷をかまえていた。元和年間、割間歩から長さ一九○間の水貫をつくって湧水を排水し、鉱山を活況におもむかせた。味方但馬家重は、元和九年六一歳で没したが、あとを継いだ二代孫太夫は、寛永年間、西三川砂金山の水路を開設した。その江は但馬江と名付けられるが、これは羽茂川の上流から江を引き、小佐渡の山脈を越えて、西三川砂金山に水を供給したもので、当時の水利技術の水準を知ることができる。また塚原根本寺・実相寺・妙照寺などの建立に大きな役割を果たした。【関連】瑞仙寺(ずいせんじ)・山師(やまし) 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
父は織田信長に仕え、晩年播州(兵庫県)三方に隠居し、三方を姓とした。関が原の戦後、浪人となって佐渡へ渡り鉱山を開発した。開発した鉱坑はおよそ五十七か所で「日に千貫、夜に千貫」といわれ、味方但馬の世盛りということわざさえ生れた。数十万貫を江戸幕府に上納したので徳川家康、秀忠父子は喜んで「これより味方なり、味方但馬と改めよ。」といい、家康の一字を与えて家重と改めさせた。元和年間(一六一五-二三年)に割間歩の排水工事を完成し、百九十間余の水道を私費で開通した。相川の邸宅は万一町にわたり、京都江戸にも数か所の邸宅をもっていた。寛永年間(一六二四~四三年)西三川砂金山の水路と各地の水田用水路数千間を開通した。岬野開発のための水路は村山の地が低いので中止して但馬江の名だけ残っている。元和九年(一六二三年)四月に六十一才でなくなった。(佐渡郷土辞典、佐渡人物志)
「朝日日本歴史人物事典」の解説.
生年: 永禄6 (1563) 没年: 元和9.4.8 (1623.5.7) 江戸前期,佐渡金山の著名な山師(鉱山の開発・経営者)。幼名小次郎,のち味方孫太夫家重。通称但馬は受領名の但馬守による。池田輝政に仕えた村井貞政(善左衛門)の長男。父が播磨国(兵庫県)三方に隠退して味方姓を名乗る。但馬は福島正則に仕えて関ケ原の戦の戦功で500石を得た。42歳のとき佐渡へ渡り,元和期(1615~24)に寸方樋という西洋技術を用いて,衰えていた相川最大の割間歩再生に成功,佐渡のほか摂州多田,南部,伊勢の鉱山で採掘,経営に才腕をふるい財を成した。子の家次,孫の家之も割間歩の採掘中に坑内の湧水に苦しみ,寛永14(1637)年に大坂からからくり巧者水学宗圃を呼び 水上輪(アルキメデスポンプ)の仕法を学んで国内鉱山で初めて試用するなど,3代にわたって鉱山技術の改良に業績を残した。水上輪は島内の灌漑に近代まで威力を発揮した。但馬は日蓮宗に帰依し,京都妙覚寺をはじめ佐渡のほとんどの日蓮宗寺院の伽藍の整備に助力した。京都で没し,墓は京都妙覚寺にある。<参考文献>小葉田淳『日本鉱山史の研究』,磯部欣三『佐渡金山』,田中圭一『佐渡金銀山の史的研究』
(磯部欣三・田中圭一)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
鉱業家、播磨の人、名は家重、はじめ村井孫太夫といった。相川鉱山の開発に功労があり、鉱山の盛衰は但馬の経営する割間歩の成績によるといわれた。また土地の開墾にも尽力し、今も味方江といってその開拓のあとがのこっている。但馬はひきつれて釆たエ匠を長坂に住ませ、各所のエ事に従わせた。佐渡工匠の模範となり、後世まで長坂番匠といって著名であった。(佐渡人名辞書、相川町誌)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
新潟市に住む味方重憲氏は鉱山の山師味方但馬の末裔である。
「戦国佐渡国人名辞典」より
【みかたいえしげ(1563~1623)】鉱山師。官途は但馬守。通称孫太夫。別名村井貞重。もと福島正則の家臣。浪人して佐渡国に渡り、金銀山の山師として活躍した。1619年、寸方樋などの排水設備を工夫し、金産出量を飛躍的に増大させた。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
み味方但馬家重
み味方但馬家重 (2)
「味方但馬のこと」(「福寿草」昭和56年10月)
あじ味方但馬のこと 福寿草(昭和56年10月) (1)
あじ味方但馬のこと 福寿草(昭和56年10月) (2)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
み味方但馬
「蓮華峰寺の解体修理」(「佐渡の百年」)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「29号」(平成24年4月)猪子兵介の由来譚-山師味方但馬と春駒 石磨-
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50047237.html?p=3
みか味方但馬050409

★味方但馬米蔵
『新穂村史』(昭和51年)より
根本寺の建築は、味方但馬の寄進によることが非常に多かったと伝えられている。根本寺には、但馬名を刻んだ梵鐘や水鉢などがあり、二代から四代までの味方家の塞がある。この味方但馬は大山師で相川金山では大いに稼ぎ大変な財をなした。この味方但馬は相川金山だけでなく新穂滝沢銀山が盛んであった時大いに稼いだものと思われる。味方但馬は慶長のころ相川金山割間歩をつとめ、元和九年(一六二三)六十一歳で京都で死んでいる。父の村井善左衛門は岡山の池田輝政に仕え、のち播磨の三方へ居住している。それが姓となったらしい。味方家由緒書によると家康にお目見えしたとき、家康が但馬をよい味方であるというので姓を三方から味方にかえさせたという話がある。
「佐渡年代記」によると但馬は慶長九年以前すでに佐渡へ渡っていたのではないかと思われ、味方但馬が孫太夫という名で史料に登場するのほ慶長十一年の「佐州銀山諸御直山鍛冶炭渡帳」である。この味方孫太夫が有名になったのは、元和期の割間歩稼ぎで「年代記」によると十日間に数万荷という鉱石を掘りだしたということである。なお、新穂滝沢銀山を知る貴重な史料である「新穂村銀山惣敷絵図」を残した人は味方孫太夫である。


★味方仲慶

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
み味方仲慶

(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡相川の人で、治部流の能書家である。
通称を与次右衛門といった。(佐渡人名辞書)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡相川の人で通称を与次右衛門といった。治部流は書にすぐれていた。(佐渡人名辞書)

★味方孫太夫→味方但馬

★味方与次右衛門(みかたよじうえもん)
 江戸前期の有力な山主(山師)で、山師由緒書(『佐渡相川志』)に、先祖与次右衛門が、慶長年間(一五九六ー一六一四)に、青盤という間歩を稼行したとしている。鎮目市左衛門奉行の時代を記録した「御仕置十ケ年之内御直山の覚」(寛文四年の作製)によると、与次右衛門はこのほかにも、「ケ代(けたへ)日向平」「間山さく際」の二か所の直山を稼行していた、二代目与次右衛門であろう。とりわけ青盤間歩は、一十日(十日間)に鏈(鉱石)千二、三百荷を出し、その銀目が七、八拾貫ないし百貫目程づつ、十ケ年続いたと記されている。青盤という間歩は、最初青盤十左衛門という人の開発であったとされる。それを初代与次右衛門がひき継いだことになる。青盤脈といえば佐渡鉱山最大の脈で、味方但馬などが稼いだとする有名な割間歩は、この脈をその西端でとらえたものであった。二代目与次右衛門は越中(富山)の人で、次郎四郎と称した。寛永十一年(一六三四)に、左沢に大切山という大型の坑道を堀ったのがこの人で、延宝二年(一六七四)十月に没した。味方但馬と同族で、その舎弟だったとも伝えられている。代々左門町に住み、のち中京町に移っている。下寺町の法輪寺に墓地があり「元和四午年十二月晦日、常智院日秀大居士」と判読できる五輪塔が、初代の墓であろう。
【関連】大切坑(おおきりこう)・山師(やまし) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「佐渡市教育委員会 世界遺産・文化振興課」
・味方与次右衛門
味方与次右衛門は江戸時代前期の有力な山師で、初代は慶長年間(1596~1614)に青盤(あおばん)と呼ばれる間歩を稼いでいたといわれています。その出自は明らかではありませんが、味方但馬守家重の弟舎弟とも伝えられています。初代を引き継いだ2代目与次右衛門は越中国(現富山県)出身で、名を次郎四郎といいました。2代目は初代に引き続き青盤間歩を稼業し、寛永5~7年(1628~30)頃に大盛りを迎えたといいます。この青盤間歩の稼業で莫大な収益を得た2代目は、寛永11年(1634)、左沢に大切山間歩と呼ばれる坑道の開発を手がけます。目指す鉱脈にたどり着いたのは正保4年(1647)で、延べ14年もの歳月をかけた大工事でした。この大切山間歩の特徴は、本坑道に平行させて別にもう一本の通気坑道を掘り、両者をところどころ連結させて外からの空気まわりをよくしたことにあり、本道158間(約284m)、通気坑道180間(約324m)にも達する佐渡最大の大型坑道でした。2代目は延宝2年(1674)に亡くなりましたが、大切山間歩の開設は公費ではなく全て自費で行ったことから、後の記録には「与次右衛門、殊の外山の事に精を出す」とうたわれています。3代目以降も山師として佐渡に根付いた与次右衛門一族でしたが、明治に入り、北海道開拓の折に佐渡を離れたといいます。そして現在、与次右衛門の子孫は埼玉県に在住しており、年に一度は菩提寺である相川下寺町の日蓮宗法輪寺を訪れるそうです。境内墓地には与次右衛門一族の墓があり、7基もの巨大な五輪塔が並んでいます。その中には、初代の墓と想定される「元和四年(1618)十二月晦日」の銘がある 五輪塔があり、江戸時代に名を轟かせた大山師の名残を今に伝えています。
『新穂村史』(昭和51年)より
相川金山の間歩と同じ名をもつ新穂滝沢銀山の間歩には、伊勢屋(伊勢屋伊右衛門)大切山(味方与次右衛門)関東・八貫目・大船屋(大船屋半左衛門、慶長六年まで沢根港の大廻船問屋をしていたがその後山主になる)などの各間歩があり、慶安二年(一六四九)銀山大盛の時の山主は孫右衛門で味方但馬の手代で、「年代記」に「享和三葵亥年、柿野浦村黄金山間歩、大野村白土と云所砂金有之趣にて相川町人自分稼を始る」とある。そのほか和田権右衛門など相川の山師との深い関連が考えられる。
みか味方与次右衛門 二代目 h290326 (2)
「蓮華峰寺の解体修理」(「佐渡の百年」)

★三上卓(たく・たかし)
みき三木卓
一輝の曽祖父北六郎次とクラの子供は三姉妹で、上からロク・トキ・リカ。リカは加茂歌代の斎藤家に嫁ぎ斎藤恵吉を生む。斎藤恵吉の兄(新:北鮮日日新聞社長)は佐賀の三上家に婿入りし、そこで生まれたのが三上卓。又、斎藤家の親戚からは大東塾友の斎藤忠も出ている。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus「三上卓」の解説
1905-1971 昭和時代の軍人,国家主義者。
明治38年3月22日生まれ。昭和7年海軍中尉のとき,五・一五事件で犬養毅(いぬかい-つよし)首相を射殺。禁固15年の刑をうけ,13年仮出獄,15年皇道翼賛青年連盟を結成。戦後は24年海烈号事件で検挙され,また36年川南豊作の三無(さんむ)事件に関係した(不起訴)。「昭和維新の歌」の作詞・作曲者。昭和46年10月25日死去。66歳。佐賀県出身。海軍兵学校卒。出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典内の三上卓の言及
【五・一五事件】より
…決起の最終計画は5月13日に決定された。 計画にしたがって,5月15日午後5時半ごろ三上卓中尉ら海軍将校4名,士官候補生5名の第1組が首相官邸に自動車で乗りつけ,日曜日の休養をとっていた犬養毅首相を襲った。犬養は〈話せばわかる〉と制したが,山岸宏中尉が〈問答無用,撃て〉と叫び,黒岩勇予備役少尉と三上がピストルで犬養を撃ち,犬養は午後11時26分絶命した。…
【三無事件】より
…初め国史会事件と呼ばれたが,グループの主張から三無事件と呼ばれるようになった。1961年12月12日までに,元川南工業社長川南豊作,元陸軍少将桜井徳太郎,元海軍中尉三上卓(五・一五事件の首謀者),元陸軍士官学校生徒小池一臣ら13人が逮捕され,つづいて4次まで検挙がおこなわれた。国史会グループは川南の主張する〈無戦争・無税・無失業〉の三無主義に共鳴し,現在の政府では共産革命を抑止することができないと,元同僚の自衛隊幹部にも呼びかけ,国会の開会する12月9日,国会の周辺を騒乱状態にして,閣僚や国会議員を暗殺する計画を立てた。
「ウイキペディア」より
青年日本の歌
「ウイキペディア」より
・青年日本の歌(せいねんにほんのうた)または昭和維新の歌(しょうわいしんのうた)は、1930年代に作られた日本の歌曲。作者は海軍中尉で、後の五・一五事件に関与した三上卓である[1]。歌詞中の詩句の多くは土井晩翠と大川周明の著作から剽窃、無断引用されている。
・概要:歌詞の内容は「国家改造」すなわち政界の元老、権臣や財閥などの排除を主張し、濃厚な軍国主義の色彩を帯びており、また、当時の日本社会の経済や貧富の格差の状況をある程度反映している[3][4]。発表以来、日本中に人気が出てきたが、1936年禁止となった。歌詞が暴力を煽って、昭和天皇の不満を招いたことが原因とされる。
歌詞冒頭の「汨羅」は、屈原が国を憂いて投身した汨羅江であり、これに続く「巫山の雲」とは、一般に男女の契り、すなわち性行為を表す慣用句である。
【軍歌】青年日本の歌(昭和維新の歌) 三上卓作詞

★三上利作
「加茂村誌」(昭和38年4月)
みか三上利作 「加茂村誌」(昭和38年4月)

★三亀政雄
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
みか三亀政雄 佐渡国泉の人物誌 h29年11月

★三川麻
「佐渡ジャーナル」関係記事:「51号」(平成29年10月)・お店紹介 mikawa 「52号」(平成30年1月)・いきる(三川麻) vol.13(蘭丸)

★三川秋一
みか三川秋一
みか三川秋一
佐渡高校同窓会報 r108月 39号
みか三川秋一 佐渡高校同窓会報 r108月 39号
みか三川秋一 新潟県人会カレンダー (2) みか三川秋一
金井泉出身、昭和33年佐渡高校卒、37年横浜国立大学卒。富士写真フイルム入社、筆頭専務取締役。
「佐渡ジャーナル」関係記事:「8号」(平成19年1月)デジカメの光と影「最近の写真事情」(富士写真フィルム元専務 三川秋一市が講演)

★三河静観(みかわせいかん)
【生没】生・没年不詳 能の狂言役者。相川町塩屋町に住んでいたという。佐渡最後の奉行、鈴木大之進(重嶺)の用人として来島したと伝える。鈴木奉行の赴任は慶応元年(一八六五)九月で、彼は明治元年廃官とともに帰京、同四年十二月に相川県権参事となって再び来島するが、静観を同伴したのは初回の来島のときか。静観は鈴木重嶺から和歌を学び、相川の歌学の結社「清楽社」の会頭をつとめて、歌道の興隆につくしたとされる。晩年は佐渡郡役所の書記、相川駆梅院書記などもした。能狂言は、鷺流(さぎりゅう)狂言の家元である鷺権之丞の高弟の逆水五郎兵衛に師事したとされていて、佐渡では相弟子に沢根町田上の畑福新三郎などがいた。静観の生いたちはよくわからないが、佐渡では狂言界の重鎮の一人とされている。なお畑福新三郎は宝生流の脇師で、潟上の本間家に師事した。明治三十六年に七三歳でなくなったが、自宅前に能舞台を作り、能で家財を傾けたほどの人だった。明治末年ころとみられる同舞台の写真が残っていて、個人持ちの舞台として珍しく能楽資料として貴重である。【関連】鈴木重嶺(すずきしげね) 【参考文献】池田哲夫「佐渡の鷺流狂言」、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
鷺流狂言で地方に残ったものの中でも、佐渡のは宗家直伝の正しいものだといわれている。明治初年に一九代宗家鷺権之丞が三河静観を頼って佐渡へ渡り、数年寄食して指導した。
さぎ鷺流狂言 (1)
さぎ鷺流狂言 (2)
さぎ鷺流狂言 (3)width="4011" height="1206" />
さぎ鷺流狂言 (4)

★坂野美枝子
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」(95号)

★三木勘作
「躍進日本」
みき三木勘作「躍進日本」

★三木伸
「島の新聞」索引(人名別)

★三木緑
みき三木緑 (2)
相川在住の詩人、新潟日報投稿等で知られる。「島の新聞」に随筆連載。
h28年7月22日 新潟日報
みき三木緑 h28722
「島の新聞」索引(人名別)

★三亀吉松
→鈴木卓苗 「佐渡高等学校百年史」

★三木露風
「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)

★三国暁男
両津湊の人、昭和20年生まれ。両津高校時代は相撲部選手として活躍し、一時バスケットボール部にも属した。
家業の三国食品を経営する一方で少年相撲教室(両津相撲教室-佐渡相撲教室)の監督として熱心に指導し、この教室から幾多の好選手を輩出した。卒業生には、幕下力士の魁渡、東洋大4年の寺沢樹(平成29年5月大学選手権宇佐大会で優勝)、鳴和中から金市工 東洋大の 辻、鳥取城北から日大の 金子竜也、鳥取城北の塚本(現在、早稲田大相撲部コーチ)、鳴和中から金市工の堀田、拓殖大の寺沢陸(樹弟)等が居る。

★三国一義
『両津市要覧(昭和33年)』より
みく三国一義

★三国勘兵衛
「島の新聞」索引(人名別)

★三国久敬
「地役人の系譜」(相川郷土博物館 平成15年)
「島の新聞」索引(人名別)
地役人の系譜(平成16年)

★三国敬止
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みく

★三国源吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、鵜飼郁次郎同志者を招待す[二十三年十月十日]

★三国五郎右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
み三国五郎右衛門

★三国助盛(すけもり)   
上横山の人、医師、旧姓は神蔵。神蔵嘉治氏の叔父?
慶応大医学部卒、新潟の三国家に入婿し、戦後数年間は湊若宮通り(金沢屋の数軒新穂側)で医院を経営していた。

★三国進   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡農高時代の第10回県下中等学校体育大会に参加。走幅跳(乙種)で1位、記録は5m44。

★三國隆敏
「島の新聞」索引(人名別)

★三国辰雄  
『両津市要覧(昭和33年)』より
みく三国辰雄

★三国藤内左衛門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みく三国藤内左衛門

★三国徳蔵
『両津市要覧(昭和33年)』より
みく三国徳蔵

★三國豊吉(みくにとよきち)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
みく三国豊吉 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
【生没】一八六七ー一九三四 明治・大正・昭和(一八九七~一九三四)前期にかけての相川郵便局長。慶応三年中頚城郡高城村で、高田藩士族田辺貫・シケの五男として生れる。明治十四年、西頚城郡平校授業生となったが、明治十五年佐渡三郡役所に勤める、実兄忠秋のもと相川町に来る。将来医師を希望し、相川病院見習生となり、後の三郡公立病院薬剤生となった。明治十八年(一八八五)、三国久敬の長女ゲンの婿養子となる。同年薬剤生を辞し、佐渡三郡役所雇となり、以後収税属として明治二十七年まで在勤、同年七月相川郵便局雇となり、明治三十年相川郵便局長となった。一方町政にかかわることも多く、明治二十九年鉱山払下、大正七年町立高等女学校の郡移管、中山トンネル建設等の陳情に同行している。大正十三年叙勲六等瑞宝章、昭和九年四月十八日、六七歳をもって没した。【関連】三國久(みくにひさし) 【執筆者】三國隆敏 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 相川町羽田町、郵便局長 ・大2、秦逓信次官来郡[十年七月十八日]・昭1、山本の入閣祝賀会[二年四月二十五日など] 「佐渡関係事典に載る」
➡三国久敬
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数70

★三國久(みくにひさし 百日紅)
「佐渡ふるさと百科」
みく三国久 佐渡ふるさと百科

みく三国久
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)
みく三国久 金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町 森幾
「島の新聞」12号(by 松本秀雄)
12みく三国久
【生没】一八八五ー一九六六 大正から昭和にかけての画家。明治十八年十二月二十日、佐渡相川町に三國豊吉・ゲンの長男として生まれた。明治三十七年佐渡中学校在学中選ばれて、新潟市に行啓中の皇太子殿下(大正天皇)の御前揮毫をする。明治四十五年、父豊吉が入学時から反対していた東京美術学校(現芸術大学)を卒業。大正三年の大正博覧会美術展に入賞、以後昭和初期にかけて帝展入選三回。昭和四年青山熊治・栗原忠二らと共に第一美術を創立、同人となる。昭和十一年海軍従軍画家として上海・南京方面に従軍し、石井柏亭・石川寅治とともに海軍館の壁画を描き、当時の作品は現在も保存されている。昭和二十年戦災に遇い、郷里相川に帰り画筆に親しむ。昭和二十一年、近松行雄・本間勝太郎らと共に狭門会を創立、同人となる。同年より四十一年四月まで、相川高校・相川中学校・河原田中学校の美術講師をつとめる。昭和三十七年四月、日本美術家祭にあたり、画壇の功績者として表彰される。昭和四十一年五月十八日逝去、享年八二歳。
【関連】三國豊吉(みくにとよきち) 【執筆者】三國隆敏 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
上京町。(一八八五-一九六六)(出生、居住)洋画家。明治三十七年、佐渡中学在学中、皇太子の御前揮毫をする。四十五年、東京美術学校を卒業して、大正三年の大正博覧会美術展に入賞。そのご、帝展入選三回。昭和四年、青山熊治らと「第一美術」を創立する。十一年、海軍従軍画家として上海・南京方面に従軍し、石井拍亭らと海軍館の壁画を措く。二十年、戦災で帰相し、二十一年、近松行雄、本間勝太郎らと狭門会を創立し、同時に、相川高校・同中学・河原田中学校の講師を二十年に旦り勤める。三十七年、日本美術家祭で、画壇の功労者として表彰される。

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みく三国久

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
洋画家。明治十八年十二月二十日に生まれた。東京美術学校を卒業、佐渡郡相川町新西坂町に住んだ。第一美術協会員である。(新潟県年鑑)

「佐渡高等学校百年史」より
佐渡中学4回生、大正天皇(当時皇太子)の越後巡幸の際中学三年生であったが、新潟師範で御前揮毫をしている。東京美術学校油絵科を卒業後、第一美術の創立会員となった。その後従軍画家となり、揚子江の敵前上陸作戦の際、高松宮殿下と共に巡洋艦那智に乗り組み「上陸作戦の絵」を、また、バリ島作戦に従軍して「ジャバ海戦の図」を描いたものが、海軍館に納められた。帝展出品。昭和二十年戦災にあい、郷里で絵筆を執った。佐渡中学4回生、

「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

「酒と放浪の画家」(「佐渡の百年」)

「天南星と鹿語」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)
➡三国久敬

★三国秀雄(五郎次)
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★三国武吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みく三国武吉

★三国真人広見
「新撰佐渡人名辞典」資料(山本修之助 )
みく三国真人「新撰佐渡人名辞典」資料(山本修之助 )
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
能登守従五下。 延暦四(七八五)佐渡に配流。謀反を謹告するに座す。延暦元年(七八二)越後国司、延暦三年(七八四)能登国司。赦免不明。(『続日本紀』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
能登守従五位下であった。延暦元年(七八二年)六月二十日に越後介となった。延暦四年(七八四年)十一月八日に、謀反に座し、死罪を一等減じられ佐渡に流された。(越佐史料)
『真野町史(上巻)』(昭和51年刊)
文字は「三国真人」の四文字で、真人の下にも文字があったらしいがこれも下部を欠いているので判読出来ない。
真人は姓(かばね)であるからその下に名前があったであろう。三国真人なる者は如何なる人物であろうか、三国氏は越前国(福井県)三国地方の豪族であるが、佐渡に関係のある者に三国真人広見がいる。従五位下能登守で延暦四年佐渡国に流された。流人が瓦に自画像や姓名を書き、国分寺に献納することが出来たかどうか。ともかくも、画も字も名筆である。「三国真人」と三国真人広見や瓦の人物像との関係、瓦の年代などが分ればいろいろな課題の解明に大きな役割を果たすであろう。

★三国政吉
両津市河崎に生まる。新潟医大の三国眼科は日本三大眼科の一つとうたわれた。医学博士、新潟大学病院長をつとめ、名誉教授。「佐渡と佐渡人」(廣田貞吉著)より
「略歴」
大正十三年三月 福岡県立中学明善校四年終了
大正十三年四月 第五高等学校入学
昭和四年四月 新潟医科大学入学
昭和八年三月 同校卒
      四月 同校眼科教室 副手
昭和十年六月 同校 講師
昭和十四年六月 医学博士
       十月 同校 助教授
昭和十六年八月 召集により仙台歩兵第四連隊入営。二等兵。
            四十日後軍医見習士官仙台陸軍病院勤務。
            南方派遣勇部隊に編入、工兵二連隊附。
昭和十七年   爪哇・ガ島
昭和十八年   ガ島・ブーゲンビル島・ラバウル・パラオ等を経て自宅療養、工兵二連隊留守隊勤務。
昭和十九年   軍医中尉
昭和二十年九月 召集解除
       十二月 新潟医科大学教授
以降、眼科の専門医としてご活躍されている。
グーグルで著者の名前を検索すると、眼科医の功績は一目瞭然である。

「著書」
『ガダルカナル日記 』(在ガ島時 工兵第二連隊付、陸軍軍医少尉、発効日昭和41年、頁数271頁、発行 新潟大学眼科同窓会)

『両津市要覧(昭和33年)』より
みく三国政吉

諸情報


★三国要太郎

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
みく三国要太郎

みく三国要太郎 (2)


★三国龍門

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三国龍門 64 新潟市で開いた私の作品展 -70年ぶりで逢った佐中同級生三国龍門君- 山本修之助


★三国良菴

『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
みく三国良菴新潟県官民肖像録 明治41年 (136)

★三雲重村
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
縫殿頭 寛文一二(1672)佐渡に配流。宮中で召し仕えていた女官との不義・密通の罪。延宝三年(一六七五)赦免。(『厳有院殿御実記』『佐渡国寺社境内案内帳』)








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