2021-01-10
★高橋愛子
両津高校時代の1982年度(S57)10月、第16回新潟県高等学校美術展工芸部門 奨励賞
★高橋昭
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
95 司馬凌海 生涯と遺跡についての若干の知見 121 名古屋時代の司馬凌海
★高橋明美
両津高校時代の1988年度(S63)11月、新潟県高等学校稔合文化祭文芸部門(『高校文芸』第3号) 俳句 優秀賞、第8回全国高校生読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催) 一ツ橋文芸教育振興会賞、学校賞(「日本の美術」ワンセット)
1989年度(H元)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第4号)俳句 奨励賞
★高橋郁江
両津高校時代の1995年度(H7)1月、第41回青少年読書感想文コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催)県審査 佳作
2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第10号)短歌 奨励賞
★高橋磯次郎
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★高橋一五
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋英司
両津高校時代の1963年度(S38)9月、第16回新潟県高等学校稔合体育大会陸上競技(男子稔合4位)槍投3位 1964年度(S39)6月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会県予選 五種競技2位
6月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会北信越地区予選(長野)(総合6位) 槍投3位
8月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会(大阪)出場(両高から4人)
9月、第17回新潟県高等学校総合体育大会陸上競技(男子総合2位)五種競技3位
★高橋快本
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋確太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・明4、佐渡自治会の決議[三十四年三月十八日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★髙橋和夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 126 山本修巳先生の俳句集『花麝香』を鑑賞して
★高橋和子
h287月 佐渡ジャーナル29号

★高橋かほる
明治時代に相川にあった短歌会「紅紫会」会員、若き林儀作等も会員だった。
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
★高橋義鑑
『故里つばき』


『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★高橋吉次
「葛西周禎と長谷川海太郎」(「徳和の口碑伝説その他(昭和45年 高木彦治 ))
★高橋久次郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋清
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50047237.html?p=3
★高橋金一郎

畑野小9代目校長
★高橋銀蔵
「岩首校百年誌」(昭和55年)


★高橋久美子
佐渡高校時代の平成6.8.24~25、バドミントン1・2年生大会県大会(五泉市)女子シングルス3位
平成7.6.2~4、バドミントン県高校結合体育大会(新潟市) 女子団体ベスト8 高橋久美子・大間美絵子組 女子ダブルスベスト8
★高橋系吾

明治43年11月~平成20年12月没(98歳)。兄は岩原一雄(→岩原一雄参照)。両津町夷243番地(築地、当時は隣に両津電灯会社)で生まれる。祖父の代まで地酒の醸造家(屋号 二井屋)だったが没落し、父爾仁三郎は若い時から役場に勤め30歳前に助役となる。父は突然「焼物に写真をつける仕事」に没頭し、退職して京都に出て語学と写真、瀬戸で焼き物修業するが43歳で歿(系吾の出生2ヶ月前)。
昭和6年新潟師範学校本科卒、小学校訓導。昭和16年、「吉池商店」高橋与平の娘婿となり、以降10年勤務。
昭和27年6月、道灌山幼稚園設置園長就任、昭和35年5月高松幼稚園設置園長就任。昭和41年道灌山学園教員養成所設置所長就任。昭和48年、全国幼稚園教員養成機関連合会会長。昭和60年、勲五等瑞宝章受章。
氏の関係で、「吉池」「道灌山幼稚園」「高松幼稚園」には佐渡関係者が多い。
また、両津高校創立時において、高橋与平氏の人脈が活かされ、経済的にも支援を受けた。
★高橋啓作
浜梅津の人、大正10年頃の生れ。小・中学教諭で両津小校長、両津市教育長等を歴任。平成6年(1994)、高橋保一等と共に浜梅津村展を始める。又、「ふるさとの歌を発掘・振興する会」会長として「ふるさと両津の歌まつり」を両津市民会館で開催。これは長年地元の人々からも忘れ去られ、埋もれて日の目も見ずにいた歌を発掘しようというもので、「両津小唄・鴨湖小唄」と共に「大川小唄」が再生され華々しく発表された。なお、「両津小唄・鴨湖小唄」は昭和7年故本間林三氏の作詞で、65年ぶりに日本クラウン㈱によって採譜され、歌手浅野麻里子さんの唄でめでたく再生された。他にも昭和43年、両津小校長時代に両津小の子供にもノーベル賞をやりたいと考え、当時の学校薬剤師斉藤喜八郎氏,PTA会長後藤英吉氏,学校医松永塊氏の3氏にお願いし拾万円ずつの浄財を募り,次の三賞を設立しました。・美術賞 ・作文賞 ・科学賞 (それぞれ,特賞・準賞各1名)。
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋元吉

大正3年4月30日死亡。河原田本町旧家又兵衛家の当主、酒造業河原田町長。学務委員 県会議員、政友会リーダー、憲政会のリーダー。
『続佐渡酒誌』(平成14年)

河原田の人、県議等を歴任し、同地の中山五兵衛等と協力し各種事業を行った。日本初の女性牧師高橋久野は実妹であり、彼女の佐渡におけるキリスト教布教にも尽力した。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
(明治2/3)慶応元年生 河原田町 ・明2、越佐に於ける条約改正中止の建白[二十二年七月二十日]・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明2、鵜飼郁次郎同志者を招待す[二十三年十月十日]・明3、鵜飼郁次郎の議会報告[二十四年六月十五日]・明3、鵜飼郁次郎等旧友と袂を断つ[二十四年十一月四日]・明3、第十四回通常縣会(國権派議員の辞職)[二十四年十一月二十四日]・明3、第九回選挙[二十五年三月]・明3、佐渡に於ける民党懇親会[二十五年三月十五日]・明3、板垣退助の渡航[二十五年八月八日]・明3、第拾回選挙[二十六年二月八日]・明3、佐渡自由倶楽部の創立[二十六年四月三十日]・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]・明3、第五回衆議院議員の選挙[三十一年三月十五日]・明3、佐渡自由党の解党[三十一年七月一日]・明3、憲政党新潟支部発会式[三十一年七月二十四日]・明3、佐渡憲政党の発会式[三十一年七月二十四日]・明3、憲政党新潟支部の大会[三十一年十月十八日]・明3、佐渡の自由派倶楽部設置の協議[三十三年四月十一日]・明3、政友会新潟支部の発会式[三十三年十二月二日]
(明治4)明4、高橋、鵜飼を伴い新潟に渡航せんとす[三十三年十二月一日]明4、自由党員の新年宴会[三十四年一月六日]明4、佐渡自治会の決議[三十四年三月十八日]明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、山本悌二郎、政界乗り出しの経路[三十五年四月]・明4、自由派の会合と交渉会[三十五年六月二十三日]・明4、佐渡独立選挙区について[三十五年七月]・明4、政友会の候補選定会[三十五年七月十二日]・明4、政友会の候補選定会[三十五年七月十二日]・明4、佐渡独立選挙区[三十五年八月十日]・明4、山本の送別会[三十五年八月十五日]・明4、山本の帰省[三十五年九月三日]・明4、鵜飼元代議士の追悼会[三十五年十月二十七日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、佐渡政友会員の会合[三十六年六月十四日]・明4、佐渡政友会員の会合[三十六年六月十四日]・明4、佐渡同志会(政友派)の政友会復党[三十七年二月十九日]・明4、第九回衆議院議員の選挙[三十七年三月一日]・明4、山本代議士の報告会[三十七年四月八日]・明4、日露媾和条約に対する県民大会[三十八年六月二十五日]・明4、第十五回選挙[四十年九月]・明4、佐渡政友派の会合[四十年九月十日]・明4、新潟県会の役員[四十年十月十五日]・明4、新潟県会の役員[四十年十月十五日]・明4、政友会新潟支部の役員[四十年十一月十七日]・明4、進歩党の集会[四十一年四月二十日]・明4、新潟県会議員補欠選挙[四十三年六月]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]
(大正)・大1、佐渡政友倶楽部の評議員会[二年二月二十六日]・大1、代議士山本悌二郎の辞職[二年四月二十一日]・大1、高橋元吉死去[三年四月三十日]・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]・大1、野澤卯市中蒲原郡より選出さる[四年九月二十五日]・大1、山本悌二郎帰省[五年八月二十二日]・大2、小木突堤の修繕工事[七年十一月]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日]・昭4、第十九回衆議院議員選挙[十一年二月二十日]・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]・昭4、縣会補欠選挙[十二年六月十五日]・昭4、民政党縣支部の大会[十二年十二月十三日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数26・53・59~・63・141
★高橋元昭

★高橋幸吉

『加茂村誌』(昭和38年)


『続佐渡酒誌』(平成14年)


『続佐渡酒誌』(平成14年)

『続佐渡酒誌』(平成14年7月 酒造組合佐渡支部)

『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)



(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


・昭和12年、県会議員に当選。昭和14年、加茂村村長に当選。昭和14年、県会議員に当選。昭和19年、加茂村村長に当選。
★高橋耕策
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、青木永太郎の脱党[十五年五月三十日]
★高橋幸二→本間幸二
★高橋高次
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★高橋交孚
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡河原田の入で字は文季、春逸と号した。有孚の二男である。江戸に出て伊藤端三に医学を学び、朝川善庵に儒を受けた。
嘉永四年(一六五一年)に二十七才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★高橋三平
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文化十五年(一八一八年)二月八日、西之丸納戸頭から佐渡奉行となった。
文政三年(一八二〇年)三月八日松前奉行に転役越前守と改め、百俵加増となった。佐渡奉行中は知行二百俵、役料干五百俵百白人扶持である。名は重賢という。(佐島遺事)
★高橋繁蔵
旧恋ケ浦村(真野)村長、明治三三・一一・二四~。
★高橋繁実
赤泊演劇クラブ

★高橋春蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋庄三
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋正平
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会において、棒高跳3位(3m15)
★高橋治作
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★高橋如竹
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★高橋二郎
『加茂村誌』(昭和38年)

明治30年頃、浜梅津生れ。佐渡開拓団団長。加茂農林卒後、県職員(農業改良普及所?)の後、40代?で帰京し、漁業に従事。沖の大船との連絡船である引き船業も行った。50歳代で没。次男であるが、長男が早く亡くなったので実際は長男として育った。
高橋保一(やすかず 浜梅津)の談:学校に来て満州について講演された。激寒で小便が凍ったなどの話を覚えて居る。
長男が高橋信一(版画家)、次男が本間幸二(人形店「みさお」店主)。
※高橋信一先生の妹が同じ浜梅津の渡辺家に嫁ぎ健在(平成30年現在)。
高橋二郎について
★高橋信一

・1917年両津浜梅津に生まれる、1986年逝去。1957年現代版画コンクール・佳作。 1959年日本版画協会賞 1960年恩地賞。 1966年仏・伊両政府の招聘により各地の美術大学で版画の技術指導。1976年 ザイロン国際版画展受賞。 1982年サントリー地域文化賞。 両津高校で卓越した美術教育を行い、佐渡の版画を広く全国に知らしめた。両津高校生が全国版画コンクールに次々と上位入選し、東京の美術出版社から「版画佐渡」が出版された。また高橋の尽力で「版画村美術館」が開設された。
著書に「捨てない教育」がある。
・佐渡版画村理事長として版画の制作、指導に尽力した版画家高橋信一は、12月16日午前5時15分、気管支ぜんそくによる気道閉そくのため、新潟県両津市の自宅で死去した。享年69。大正6(1917)年7月25日佐渡に生まれる。小学校在学中、図画教師中田吉三に学んで油絵を描き始め、のち、平塚運一の弟子笹井敏雄、斎藤正路に版画を学ぶ。昭和32(1957)年現代版画コンクール佳作賞受賞、34年日本版画協会展賞受賞。35年には日本版画協会展賞および恩地賞を受けて同会会友に推される。38年3ケ月間滞欧して13ケ国を巡遊。39年日本版画協会会員となる。41年フランス、イタリア政府の招きで国立美術大学教育者の講師として東洋絵画、版画の実技の指導に当たる。44年国画会版画部会員となる。クラコウ国際版画ビエンナーレなど国際展への出品も多く、51年スイス・ザイロン国際版画展では受賞している。常に郷里佐渡にあって制作するとともに、昭和23年より51年停年退職するまで、両津高校で教鞭をとり、版画指導に尽力。48年より島民への版画指導も始め、全島に版画制作の輪を広げ、佐渡版画村をおこして57年サントリー地域文化賞を受賞。59年7月には相川町に佐渡版画村美術館が設立された。仏教の二河白道に触発された「白い道」シリーズで知られ、トキをモティーフとして好んで描く。『佐渡名所百選』(51年、新潟日報事業社)、『高橋信一の世界』(58年、教育書籍)、『佐渡版画村作品集』(59年、教育書籍)、『捨てない教育』(59年、渓水社)などを刊行している。
高橋二郎について
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035763.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50045089.html
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 5佐渡版画村美術館」誕生に至るまで 5教え子らが作品集 5高橋信一先生は逝去されたけれども
「版画と佐渡」SADOMMUNE
諸情報
★高橋慎蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、山本悌二郎、政界乗り出しの経路[三十五年四月]
★高橋新八
夷保育園長

★高橋寿々子
『立浪会35年のあゆみ』(昭和34年)


★高橋進
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数113
松井誠、本間林三と共に佐渡で演劇活動を行う。佐和田郵便局局長であり、各種文化運動に関わった。郵便局長時代は、管理職ながら組合員と共に組合運動に参加したエピソードを持つ。叔母に日本初の女性牧師である高橋久野、叔父に佐和田の実力者で県会議員だった高橋元吉がいる。両津の若林朔汀は縁戚筋である。佐渡中学昭和3年卒、佐和田郵便局長。佐渡中教諭で知られる伊藤勉治は叔父、小山治吉は伯父にあたる。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高橋進
3 『海浜秘唱』について 16 天南星句碑建立祝辞 19 先人の跡 青野季吉先生臨終の模様を知らせる酒井千尋氏より三井松五郎氏宛書簡 26 特集 句集「海見ゆる坂」 命なりけり 39 茫々八十年 山本修之助先生の傘寿に寄せて 46 ふるさとを恋う-青野季吉先生と佐渡-
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「9号」(平成19年4月)この一冊-「日本のたたずまい」(高橋進著・彩流社)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数113
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p391
★高橋政吉
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★高橋清蔵
木本神社

★高橋節堂
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)



『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を伊左衛門、後に以一といった。に学び俳諧、和歌をよくした。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
★高橋千太郎
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋そて
『加茂村誌』(昭和38年)

★高橋大樹
両津高校時代の1991年度(H3)7月、第17回陸上競技県高校1年生大会兼国体予選会 走高跳 3位
★高橋孝夫
両津高校時代の1961年度(S36)9月、第14回新潟県高等学校稔合体育大会陸上競技 ハンマー投3位
★高橋隆
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)より
明治後期、佐渡中学校で修身を教えた教師でプロテスタント(プレエスブレンド派)、同僚の常葉金太郎(嶺直貫)と共に生徒にキリスト教の感化を与える。
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)
★高橋正
両津羽黒神社

★高橋保
両津高校時代の1960年度(S35)1月、第10回全日本年賀状版画コンクール(入選率全国一) 日本版画協会賞

「島の新聞」索引(人名別)
★高橋タミ
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★高橋長左衛門
羽黒大榮寺

★高橋長祐
両津羽黒神社

★高橋恒蔵
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★高橋泥舟
慶宮寺

★高橋禎昌
「躍進日本」

★高橋藤蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明3、辛卯倶楽部の設立[二十四年八月十二日]・明3、鵜飼の送別会[二十五年三月十九日]
★高橋利明
両津高校時代の1999年度(H11)、第15回全国高等学校簿記コンクール大会 高橋利明 坂口慎太郎 出場
★高橋俊夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高橋俊夫 48 荷風作「父の恩」の大久保秋蘋について
★高橋仁作
『加茂村誌』(昭和38年)

★高橋仁策
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂村梅津 ・明3、在京学徒鵜飼を訪問す[二十五年一月二十三日]・明3、大選挙区に於いて佐渡進歩派の会合[三十三年四月八日]・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・明4、第九回衆議院議員の選挙[三十七年三月一日]
★高橋春三
赤泊尋常高等小学校校長。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★高橋飛雄馬
両津高校時代の1996年度(H8)1月、高校文芸 短歌部門 優秀賞
★高橋久野(たかはしひさの)

【生没】一八七一ー一九四五(明治4-昭和20年) 明治四年に、河原田の酒造業高橋家に生まれる。兄の元吉は県会議員をつとめる政治家で、政友会の顔役であった。久野は若くして分家の高橋又二郎と結婚したが、夫の健康上のことなどがあって上京し、明治女学校に、のち東京女子高等師範学校に学ぶ。女高師では第一回生であった。明治二十五年(一八九二)に卒業。その年に、キリスト教プロテスタントとして洗礼を受けた。まもなく夫が死去し、青山学院女子部の教師をしながら、婦人伝道会の幹事もつとめた。その後女学校教師をやめ、伝道師の仕事を専心するため神学校に入り、大正二年(一九一三)に卒業、その年の十二月に按手礼を授けられた。これは日本での婦人牧師の第一号であった(註 俗説の植村環が最初の女性牧師であるとする説は誤り)。このとき久野は四二歳であった。牧師としての活動のほかに、文学・歴史研究も行って、とくに女高師時代には、源氏物語五四巻の書写・製本をして、そのために「佐渡の紫式部」といわれたりした。久野は郷里佐渡の伝道にも貢献し、有能な牧師の派遣などに尽力した。戦時中は昭和十六年まで佐渡教会(河原田)に、その後に台北にいた養子恭次郎のもとに移り、終戦の年に七四歳で死去した。
【参考文献】本間雅彦「佐渡プロテスタント小史」(『佐渡郷土文化』所収) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・お茶の水高等師範第一回卒業生、専門は歴史で青山学院高等部(女子部)の教師。
「婦人伝道会幹事」であり、この伝道会によって明治43年に小野村林蔵が佐渡に派遣された。
久野は兄に協力を仰いで小野村等の布教活動に助力してもらった。
林蔵は佐和田、相川を中心に中興その他で布教活動をする。
この辺りの状況は『豊平物語』(小野村林蔵 昭和38年刊)に詳しい。
実家は河原田郵便局を経営し、兄は県会議員で佐渡政友会の重鎮である高橋元吉。
当時の状況は『豊平物語』(小野村林蔵 昭和38年刊)に詳しく描かれる。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高橋久野 67 日本最初の婦人牧師 高橋久野の生涯-佐和田町出身-徳田美智子
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)
★高橋秀世
『続佐渡酒誌』(平成14年)


★高橋秀清
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡守である。建武元年(一三三四年)五月十八日に朝廷の恩賞方二番となり北陸方面のことを司り、記録所寄人となった。(新潟県史)
★高橋福次
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★高橋復二郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・明3、鵜飼郁次郎の議会報告[二十四年六月十五日]・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]
★高橋福太郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋正博
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋正視
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋マス
長谷寺

★高橋又三郎

明治28年3月14日死亡。河原田本町の旧家又右衛門家当主、初代河原田郵便局長。河原田町長。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・明2、佐渡新聞の計画[十七年四月]・明2、相川監獄移転の決議[二十年七月]・明2、監獄実地調査[二十一年六月]・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]・明2、越佐に於ける条約改正中止の建白[二十二年七月二十日]
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
・河原田郵便局長で元吉の叔父
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数34・55
★高橋亦蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★高橋ミヨ

★高橋美代井
両津高校時代の1987年度(S62)11月、第33回青少年読書感想文全国コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催) 佳作
★高橋素子
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋保一(やすかず)
両津梅津、令和3年1月没、93歳。両津浜梅津の人、ひょうたん作家として知られ、島内屈指の文化展である「浜梅津村展」の中心的存在。昭和2年生まれ、佐渡農学校卒。在校時は後の高名な詩人高野喜久雄と親しい友人であった。
平成28年2月2日(自作の獅子頭と)

「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=5
諸情報
★高橋勇市
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高橋勇市 94 「地理学者柴田収蔵」文献
★高橋祐子
両津高校時代の1996年度(H8)、秋季簿記県大会 団体2位(橋本一幸 伊藤由希子 小田亮平 安田道宏 本間雅子 高橋祐子)
★高橋有孚(ゆうふ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡河原田の人で商、通称を又右衛門、如文と号した。和歌連歌をよくし毎年京阪方面にいって風流人と交わった。
元治元年(一八六四年)六月に七十二才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★高橋洋介

★高橋要富
両津高校時代の1967年度(S42)6月、全国高校選抜相撲熊本大会全国優秀32選手賞
★高橋好男
県立佐渡高等学校12代校長(昭和63・4・1~平成3・3・31)、両津春日町の人。地蔵堂に下る春日町側海側角地で、母は教員退職後その地で「高橋屋」と言う学習塾をやっていた。
★高橋吉隆

アサヒビール創業者の一人で近代ビールの父と呼ばれる生田秀の孫。父龍太郎が秀の三女光子の夫。
★高橋芳太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋与平
御徒町の「吉池百貨店」創業者。娘婿に両津夷出身の岩原系吾氏を迎えた。その縁で、両津高校創立時には高橋与平氏の人脈や経済力が大いに活かされた。高橋系吾氏の実弟である岩原一雄氏が両津高校創立に奔走した人であった。
「島の新聞」


★高橋龍太郎


アサヒビール創業者、真野新町出身の生田秀の三女光子の夫。後に高橋家が代々アサヒビール社長となる。
「内子町歴史上の人物」
日本のプロ野球で唯一、個人名が入っていた球団があった。それは「高橋ユニオンズ」。昭和29(1954)年からわずか3年あまりで消滅したが、政財界のトップで活躍した人物が、私財をなげうって設立した球団だった。 その史上唯一の球団をつくったのが、「ビールの父」と呼ばれる高橋龍太郎。彼は生前自らの話題を口にすることを好まず、書き残すこともしなかったため、生い立ちなどはほとんど知られていない。 今回はその高橋龍太郎を紹介してみることにしよう。
高橋龍太郎は、明治8(1875)年、喜多郡内子村(現在の内子町)に父吉衡(よしひら)、母ミチ子の次男として生まれた。
高橋家は庄屋の分家で、広大な田畑を所有する一方で大規模な酒造業を営み、藩政時代、大洲藩の財政の一翼を支えるほど豊かな旧家であった。しかし、明治維新による廃藩で、藩札の価値が無くなると同時に没落してしまう。 龍太郎の父吉衡は、名家の当主ということもあり教養が高く、また人格者でもあった。内子にできた小学校の初代校長を務め、のちに内子聖人と呼ばれるほどの教育者であった。 また母のミチ子は、大洲の大きな商家の娘で、その兄は、当時の大貿易商社高田商会の支配人にまでなった人である。 次男に生まれた龍太郎であったが、兄が生後間もなく死亡していたので、実質的には長男として両親の寵愛を受けて育てられた。 龍太郎は、やがて旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に進学し、父の知り合いに下宿することとなる。その龍太郎を預かった数学教師は、なんと夏目漱石の小説「坊っちゃん」に登場する、体育会系で豪快な“山嵐”のモデルとなった人物なのである。 龍太郎は、極めて優秀な成績で中学校を卒業し、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進学する。しかし、病により転校を余儀なくされ、京都に新しくできた京都第三高等学校(現在の京都大学)工科に移る。そこで健康を取り戻した龍太郎は、学生生活を楽しみ、学業に励む傍ら、キリスト教への知識を深め、またボートの選手としても活躍した。 明治31年、龍太郎は第三高等学校を卒業後、大阪麦酒株式会社に就職する。 当時、日本のビール醸造は、ドイツ人技術者に頼らざる得ない状況だったが、非常に高給だったために「すべてを日本人の手で」という醸造会社の目標に合った工科出身の龍太郎が見込まれたのだ。 龍太郎は、入社半年後にはビールの本場ドイツに留学をし、6年間醸造技術を学ぶ。帰国後すぐに醸造現場で勤務し、醸造技術の習得・改良に取り組んだ。会社は、同業者同士の激しい競争で厳しかったが、やがて日露戦争が始まり、ビールの消費が爆発的に伸び、苦境から脱することができた。明治39年、日本・札幌麦酒と合併し、大日本麦酒株式会社が設立され、吹田工場長となる。 明治41年、社長の案内役として欧米各国の視察に旅立った龍太郎は、新しい知識を得て、帰国後経営手腕も発揮し、大正6年には大阪支店長となる。 大正10年には、45歳の若さで取締役に昇進、昭和8年、社長の死去とともに専務取締役となるが、実質的な経営責任者となり、昭和12年、社長に就任する。 日本が不況のさなかビール会社経営は困難を極めたが、樽やビールの原料であるホップ等の生産を行ない、完全国産化を成功させ、さらには満州支店の開設や桜麦酒との合併など、龍太郎の経営手腕により、当時の世界三大ビール会社の一つとなっていた。 ホップ国産化によって、太平洋戦争中も生産を続けた大日本麦酒株式会社は、政府の食料対策により原料が全くなくなるまでの、終戦一ヶ月前まで生産を続け、企業の多くが軍需産業に転換する中、ビール業を守り抜いた。 敗戦後、過度経済力集中排除法により、大日本麦酒株式会社は2社に分割され解散するが、相談役となり生涯をビール醸造業に捧げた。 日本の財界を支える一方で龍太郎は、高潔な人柄により貴族院・参議院議員に選ばれ、政治の道にも足を踏み入れた。 昭和26年には、第三次吉田内閣の下で通産大臣を務め、戦後の日本経済復興に尽力する。 ビール業界から退き、隠居生活を送る昭和28年、映画製作会社大映のオーナーでもあった、永田雅一パ・リーグ総裁に球団設立の話を持ちかけられる。 当時の球団経営は、娯楽の王者として君臨していた映画製作会社や、販売拡張を狙う新聞社、野球場への観客動員をメリットと考える電鉄会社によって行われていた。しかし、龍太郎は大の野球好きだったため、日本のプロ野球の隆盛のために個人出資で球団を持つことを決意する。それが高橋ユニオンズである。龍太郎78歳のときである。 ところがスタートしてみると、集まってくるのは1名の高校出のルーキー捕手を除き、各球団をお払い箱になった年をとった選手や、酒好きで監督から見放された選手ばかり。勝てるはずもなく、最初の1年は6位(8球団中)だったものの、2・3年目は最下位に終わった。
あまりの弱さに、当然のようにユニオンズファンは減っていき、藤井寺の近鉄戦では観客数が両軍選手より少ない22人という試合があったという。ユニオンズで唯一の明るい話題といえるのが、スタルヒン投手の300勝達成であった。 それでも龍太郎は球団を愛し、どんなに負けが込んでも毎試合、球場に足を運び、選手を激励した。そんな龍太郎を選手も皆尊敬していたという。 昭和32年、パ・リーグが6球団に整理統合され、球団の解散が決定。シーズンインを控え、岡山でキャンプ中だった選手はそのまま各球団に割り振られた。 プロ野球発展のために生まれた高橋ユニオンズは、プロ野球発展のために消え去った。 また、スポーツを愛する龍太郎は、日本サッカー(当時は蹴球)協会会長を務めたこともある。知られてはいないが、サッカー日本一の象徴である「天皇杯全日本選手権大会」の“天皇杯”は、龍太郎の尽力によるものなのだ。 龍太郎は、多芸多才で書に親しみ『在田』と号し、文人としての風格も備えていた。将棋は坂田三吉名人の人柄に惚れ込み、経済的な援助の一方で、後継者として直伝の棋風を持っていた。 龍太郎は政財界の長老として尊敬され、悠々自適の晩年を過ごす。昭和42年、92歳の長寿を全うしてこの世を去る。明治、大正、昭和と激動する近代日本の中で、威風堂々と志を貫いた豊かな人生であった。 龍太郎の生家は、長男故高橋吉隆氏(元アサヒビール株式会社会長)が、郷土である内子町への思いを寄せていたことにより、その遺族によって町へ寄贈され、現在は、文化交流ヴィラ「高橋邸」として一般公開されている。 「高橋邸」は、高橋氏の精神を引き継ぎ、遠来の客を迎えるゲストハウス・宿泊施設として、また、研修会や小会議、お茶・お華などの文化活動施設として活用され、女性グループ「FUGA」が運営に携わる。現在は、高橋家ゆかりの人たちや、大日本麦酒の流れをくむアサヒビールから、龍太郎ゆかりの写真やパネル、ビールジョッキなどが町に寄贈され、展示されている。
「ウィキペディア」より
高橋 龍太郎(たかはしりゅうたろう、1875年7月15日 - 1967年12月22日)は昭和期の実業家、政治家。日本のビール王と呼ばれる。
(来歴・人物)
愛媛県内子町生まれ。旧制松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、脚気の治療のための転地を兼ねて新設された第三高等学校(現京都大学)工学部機械工学科に転校、1898年同卒。大学卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒(現アサヒビール・サッポロホールディングス))に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。後に社長となり、ビールを日本の大衆文化に成長させた。大日本麦酒分裂後はサッポロビールの役員となっていたが、不調に終わったアサヒ・サッポロ両社の再統合に向け働きかけていたとされる。またプロ野球への造詣も深く、戦前にはイーグルス(現存しない東京の球団)、戦後には高橋ユニオンズ(1955年だけトンボユニオンズ。現存しない)のオーナーとなった。また戦死した子息が学生時代にサッカーをしていた縁もあり、第3代日本サッカー協会会長(1947年~1954年)に就任、2005年には第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。留学やビール、サッカーでの縁もあり、日独協会会長に就任(1955年4月~1965年7月)。政治家としての経歴は、1946年に貴族院勅選議員を務めるも、日本国憲法施行による改組のため翌1947年に参議院議員に転じ、1951年には通産大臣に就任した。また財界人としては、1947年に日本商工会議所会頭に就任した。上記各界での功績により、1964年に勲二等旭日重光章を受章。 1967年12月22日死去、享年92。長男・吉隆(1993年逝去)も、東京帝国大学卒業後住友銀行副頭取を経てアサヒビール入りし、1971年~1976年まで社長を務めた(後に会長に就任)。内子町にある生家は、長男吉隆が死去した後、遺族により内子町に寄贈され、現在は文化交流ヴィラ「高橋邸」として文化活動施設に活用されている。
「ビール醸造界の父」(「佐渡の百年」)
★高橋龍太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋良之輔
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★高橋禮作
『加茂村誌』(昭和38年)

『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高浜虚子
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)




本名、高濱清(たかはま・きよし) 愛媛県松山市生まれ。
俳号は同郷の師匠 正岡子規(1867~1902)から、「虚子(きよし)」の号をおくられた。
高野素十(すじゅう)、中田瑞穂、京極杞陽(きょうごくきよう)等と共に来島して句会を開き、佳句を残している。
■昭和13年(1938年)
・5 月17 日
・おけさ丸にて佐渡へ。加茂湖を経て真野御陵参拝。相川、いづもや旅館泊。長男の高浜年尾、新大教授の高野素十、中田みずほ等が同道する。相川「いずもや」泊。
・5 月18 日 ・鉱山一望。七浦、河原田を過ぎ黒木御所参拝。両津より乗船。船中一と句会。篠田旅館泊。ホトトギスに掲載すべき佐渡座談会を催す。
■昭和25年(1950年)
・5 月30 日
・佐渡に遊ぶ。加茂湖畔、潟上、本間能舞台(本間友英宅)で小句会。長女の真下真砂子、二女星野立子、京極紀陽、高野素十・富士子夫妻、中田みずほほか大勢で来る。
・5 月31 日 ・佐渡、潟上、本間能舞台滞在。この日新潟、篠田旅館に帰る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十七代友英(1902~1969)は在京時代より俳句を趣味とし、高浜虚子との親交を深めた。昭和25年、高浜虚子、星野立子、高
野素十等を招き句会を催した折の虚子の句が庭にある。
或時は江口の月のさしわたり 虚子(昭和二七年)
謡曲に「江口」があり、旅僧が西行の古歌「夜もすがら月こそ袖に宿りけれ昔の秋を思い出づれば」を懐かしんでいる時に江口の君の幽霊が現われ、世の無常を話させている。虚子も能を嗜んだ事から、謡曲を念頭に置いた句であると私は解釈した。
(高浜虚子 佐渡での俳句)
・大でまり 小でまり佐渡も 美しき
・藤垂れて 御あかしともる 御陵かな
・山藤の かかりて悲し 御陵道(真野公園内文学文学散歩道に句碑)
・陵守に 従ひ行けば 夏の露(鷲崎鶯山荘に句碑あり)
・鶯や 佐渡国分寺 跡とかや
・檀風の 城跡囲みて 田植かな
・金をひく 臼なりしとよ 雪の下
・春山を 二つに断てり 金ほると
・国中の 道平らに 田植かな
・浜茄子の さいて貧しき 漁村とか
・おおばこの 生えし加茂湖の 渚かな
・能舞台 裏に夏の山 入り来
・或る時は 江口の月の さしわたり(能舞台で知られる本間家に句碑がある)
謡曲に「江口」があり、旅僧が西行の古歌「夜もすがら月こそ袖に宿りけれ昔の秋を思い出づれば」を懐かしんでいる時に江口の君の幽霊が現われ、世の無常を話させている。
虚子も能を嗜んだ事から、謡曲を念頭に置いた句であろう。
※真野椿尾の安藤由紀夫氏宅庭内にも高浜虚子の下記句碑がある。
「この庭の遅日の石のいつまでも」
この句は京都龍安寺で詠んだものであるが、何故安藤家に句碑があるかは不明である。
安藤家の方に聞くと、当主の祖父が文人であったそうだ。
(新潟から見た佐渡)
・新潟の初夏はよろしや 佐渡も見え
(高浜虚子の孫にあたる俳人、星野椿の俳句)
・佐渡見えて 大海原の 遅日かな
(長塚節が世に出るきっかけを作った!)
長塚節(たかし)が文壇にデビューしたのは、小説『佐渡が島』で当時28歳。その小説が「ホトトギス」に掲載された。
虚子から「明治40年度の写生文の第一の傑作」と絶賛され、さらには滅多に人を評価しないことで有名な漱石をも感服させた。
その漱石の計らいで朝日新聞に長編小説『土』が連載されることになった。だが、結核という病魔に罹り、漱石が優秀な大学病院を世話して療養に努めたが、36歳の短い人生を閉じた。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
49 連載 閑々亭雑記 (8) 「佐渡詠」の虚子の短歌と節の俳句 山本修之助 54 連載 閑々亭雑記 (13) 高浜虚子の佐渡を詠んだ短歌 山本修之助 55 高浜虚子先生の句碑 児玉葭生 147 高浜虚子と佐渡 斎藤明雄
「虚子ときんぽうげ」(「佐渡の百年」)
「佐渡座談会」(「白樺」7号 昭和13年)
「俳句の里-亀田郷と俳人たち-」(蒲原宏氏講演)
「ウィキペディア」より
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=5
★高浜年尾
高浜虚子の実子。俳人。
昭和13年5月17~18日来島。高浜虚子・中田みずほ・高野素十・浜口今夜・田中憲二郎等と同道。
「佐渡座談会」(「白樺」7号 昭和13年)
「虚子ときんぽうげ」(「佐渡の百年」)
「ウィキペディア」より
★高藤一郎平
「エスライフ」2020年2・3月号



※「佐渡ジャーナル」関係記事:「58号」(令和1年7月)・特集:伝統技法で巨大な「木桶」完成※高藤一郎平
「島の新聞」索引(人名別)
★田上睦夫
平成24年より佐渡社会福祉協議会会長。

★田上善夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)田上善夫 127 佐渡の風の祭礼
★高峰秀子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「36号」(平成26年1月)グラフ佐度(・佐度ロケの効果・映画共演の佐田、高峰ブロンズ・主人公「お光の碑」)
★高村乙吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高村光太郎

「湖畔と不泣」(「佐渡の百年」)
「新潟日報」平成27年4月24日

(たかむら こうたろう、1883年(明治16年)3月13日 - 1956年(昭和31年)4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。
日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟は鋳金家の高村豊周であり甥は写真家の高村規。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
24 詩人で彫刻家の高村光太郎氏 ~大正7年佐渡来島~ 山本修之助
84 「渡辺湖畔への手紙」から その1 高村光太郎の来島
98 「渡辺湖畔への手紙」から その15 高村光太郎「蝉」の前後
両津高校時代の1982年度(S57)10月、第16回新潟県高等学校美術展工芸部門 奨励賞
★高橋昭
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
95 司馬凌海 生涯と遺跡についての若干の知見 121 名古屋時代の司馬凌海
★高橋明美
両津高校時代の1988年度(S63)11月、新潟県高等学校稔合文化祭文芸部門(『高校文芸』第3号) 俳句 優秀賞、第8回全国高校生読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催) 一ツ橋文芸教育振興会賞、学校賞(「日本の美術」ワンセット)
1989年度(H元)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第4号)俳句 奨励賞
★高橋郁江
両津高校時代の1995年度(H7)1月、第41回青少年読書感想文コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催)県審査 佳作
2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第10号)短歌 奨励賞
★高橋磯次郎
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★高橋一五
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋英司
両津高校時代の1963年度(S38)9月、第16回新潟県高等学校稔合体育大会陸上競技(男子稔合4位)槍投3位 1964年度(S39)6月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会県予選 五種競技2位
6月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会北信越地区予選(長野)(総合6位) 槍投3位
8月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会(大阪)出場(両高から4人)
9月、第17回新潟県高等学校総合体育大会陸上競技(男子総合2位)五種競技3位
★高橋快本
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋確太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・明4、佐渡自治会の決議[三十四年三月十八日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★髙橋和夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 126 山本修巳先生の俳句集『花麝香』を鑑賞して
★高橋和子
h287月 佐渡ジャーナル29号

★高橋かほる
明治時代に相川にあった短歌会「紅紫会」会員、若き林儀作等も会員だった。
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
★高橋義鑑
『故里つばき』


『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★高橋吉次
「葛西周禎と長谷川海太郎」(「徳和の口碑伝説その他(昭和45年 高木彦治 ))
★高橋久次郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋清
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50047237.html?p=3
★高橋金一郎

畑野小9代目校長
★高橋銀蔵
「岩首校百年誌」(昭和55年)


★高橋久美子
佐渡高校時代の平成6.8.24~25、バドミントン1・2年生大会県大会(五泉市)女子シングルス3位
平成7.6.2~4、バドミントン県高校結合体育大会(新潟市) 女子団体ベスト8 高橋久美子・大間美絵子組 女子ダブルスベスト8
★高橋系吾

明治43年11月~平成20年12月没(98歳)。兄は岩原一雄(→岩原一雄参照)。両津町夷243番地(築地、当時は隣に両津電灯会社)で生まれる。祖父の代まで地酒の醸造家(屋号 二井屋)だったが没落し、父爾仁三郎は若い時から役場に勤め30歳前に助役となる。父は突然「焼物に写真をつける仕事」に没頭し、退職して京都に出て語学と写真、瀬戸で焼き物修業するが43歳で歿(系吾の出生2ヶ月前)。
昭和6年新潟師範学校本科卒、小学校訓導。昭和16年、「吉池商店」高橋与平の娘婿となり、以降10年勤務。
昭和27年6月、道灌山幼稚園設置園長就任、昭和35年5月高松幼稚園設置園長就任。昭和41年道灌山学園教員養成所設置所長就任。昭和48年、全国幼稚園教員養成機関連合会会長。昭和60年、勲五等瑞宝章受章。
氏の関係で、「吉池」「道灌山幼稚園」「高松幼稚園」には佐渡関係者が多い。
また、両津高校創立時において、高橋与平氏の人脈が活かされ、経済的にも支援を受けた。
★高橋啓作
浜梅津の人、大正10年頃の生れ。小・中学教諭で両津小校長、両津市教育長等を歴任。平成6年(1994)、高橋保一等と共に浜梅津村展を始める。又、「ふるさとの歌を発掘・振興する会」会長として「ふるさと両津の歌まつり」を両津市民会館で開催。これは長年地元の人々からも忘れ去られ、埋もれて日の目も見ずにいた歌を発掘しようというもので、「両津小唄・鴨湖小唄」と共に「大川小唄」が再生され華々しく発表された。なお、「両津小唄・鴨湖小唄」は昭和7年故本間林三氏の作詞で、65年ぶりに日本クラウン㈱によって採譜され、歌手浅野麻里子さんの唄でめでたく再生された。他にも昭和43年、両津小校長時代に両津小の子供にもノーベル賞をやりたいと考え、当時の学校薬剤師斉藤喜八郎氏,PTA会長後藤英吉氏,学校医松永塊氏の3氏にお願いし拾万円ずつの浄財を募り,次の三賞を設立しました。・美術賞 ・作文賞 ・科学賞 (それぞれ,特賞・準賞各1名)。
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋元吉

大正3年4月30日死亡。河原田本町旧家又兵衛家の当主、酒造業河原田町長。学務委員 県会議員、政友会リーダー、憲政会のリーダー。
『続佐渡酒誌』(平成14年)

河原田の人、県議等を歴任し、同地の中山五兵衛等と協力し各種事業を行った。日本初の女性牧師高橋久野は実妹であり、彼女の佐渡におけるキリスト教布教にも尽力した。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
(明治2/3)慶応元年生 河原田町 ・明2、越佐に於ける条約改正中止の建白[二十二年七月二十日]・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明2、鵜飼郁次郎同志者を招待す[二十三年十月十日]・明3、鵜飼郁次郎の議会報告[二十四年六月十五日]・明3、鵜飼郁次郎等旧友と袂を断つ[二十四年十一月四日]・明3、第十四回通常縣会(國権派議員の辞職)[二十四年十一月二十四日]・明3、第九回選挙[二十五年三月]・明3、佐渡に於ける民党懇親会[二十五年三月十五日]・明3、板垣退助の渡航[二十五年八月八日]・明3、第拾回選挙[二十六年二月八日]・明3、佐渡自由倶楽部の創立[二十六年四月三十日]・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]・明3、第五回衆議院議員の選挙[三十一年三月十五日]・明3、佐渡自由党の解党[三十一年七月一日]・明3、憲政党新潟支部発会式[三十一年七月二十四日]・明3、佐渡憲政党の発会式[三十一年七月二十四日]・明3、憲政党新潟支部の大会[三十一年十月十八日]・明3、佐渡の自由派倶楽部設置の協議[三十三年四月十一日]・明3、政友会新潟支部の発会式[三十三年十二月二日]
(明治4)明4、高橋、鵜飼を伴い新潟に渡航せんとす[三十三年十二月一日]明4、自由党員の新年宴会[三十四年一月六日]明4、佐渡自治会の決議[三十四年三月十八日]明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、山本悌二郎、政界乗り出しの経路[三十五年四月]・明4、自由派の会合と交渉会[三十五年六月二十三日]・明4、佐渡独立選挙区について[三十五年七月]・明4、政友会の候補選定会[三十五年七月十二日]・明4、政友会の候補選定会[三十五年七月十二日]・明4、佐渡独立選挙区[三十五年八月十日]・明4、山本の送別会[三十五年八月十五日]・明4、山本の帰省[三十五年九月三日]・明4、鵜飼元代議士の追悼会[三十五年十月二十七日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、佐渡政友会員の会合[三十六年六月十四日]・明4、佐渡政友会員の会合[三十六年六月十四日]・明4、佐渡同志会(政友派)の政友会復党[三十七年二月十九日]・明4、第九回衆議院議員の選挙[三十七年三月一日]・明4、山本代議士の報告会[三十七年四月八日]・明4、日露媾和条約に対する県民大会[三十八年六月二十五日]・明4、第十五回選挙[四十年九月]・明4、佐渡政友派の会合[四十年九月十日]・明4、新潟県会の役員[四十年十月十五日]・明4、新潟県会の役員[四十年十月十五日]・明4、政友会新潟支部の役員[四十年十一月十七日]・明4、進歩党の集会[四十一年四月二十日]・明4、新潟県会議員補欠選挙[四十三年六月]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]
(大正)・大1、佐渡政友倶楽部の評議員会[二年二月二十六日]・大1、代議士山本悌二郎の辞職[二年四月二十一日]・大1、高橋元吉死去[三年四月三十日]・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]・大1、野澤卯市中蒲原郡より選出さる[四年九月二十五日]・大1、山本悌二郎帰省[五年八月二十二日]・大2、小木突堤の修繕工事[七年十一月]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日]・昭4、第十九回衆議院議員選挙[十一年二月二十日]・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]・昭4、縣会補欠選挙[十二年六月十五日]・昭4、民政党縣支部の大会[十二年十二月十三日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数26・53・59~・63・141
★高橋元昭

★高橋幸吉

『加茂村誌』(昭和38年)


『続佐渡酒誌』(平成14年)


『続佐渡酒誌』(平成14年)

『続佐渡酒誌』(平成14年7月 酒造組合佐渡支部)

『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)



(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)






・昭和12年、県会議員に当選。昭和14年、加茂村村長に当選。昭和14年、県会議員に当選。昭和19年、加茂村村長に当選。
★高橋耕策
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、青木永太郎の脱党[十五年五月三十日]
★高橋幸二→本間幸二
★高橋高次
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★高橋交孚
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡河原田の入で字は文季、春逸と号した。有孚の二男である。江戸に出て伊藤端三に医学を学び、朝川善庵に儒を受けた。
嘉永四年(一六五一年)に二十七才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★高橋三平
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文化十五年(一八一八年)二月八日、西之丸納戸頭から佐渡奉行となった。
文政三年(一八二〇年)三月八日松前奉行に転役越前守と改め、百俵加増となった。佐渡奉行中は知行二百俵、役料干五百俵百白人扶持である。名は重賢という。(佐島遺事)
★高橋繁蔵
旧恋ケ浦村(真野)村長、明治三三・一一・二四~。
★高橋繁実
赤泊演劇クラブ



★高橋春蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋庄三
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋正平
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会において、棒高跳3位(3m15)
★高橋治作
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★高橋如竹
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★高橋二郎
『加茂村誌』(昭和38年)

明治30年頃、浜梅津生れ。佐渡開拓団団長。加茂農林卒後、県職員(農業改良普及所?)の後、40代?で帰京し、漁業に従事。沖の大船との連絡船である引き船業も行った。50歳代で没。次男であるが、長男が早く亡くなったので実際は長男として育った。
高橋保一(やすかず 浜梅津)の談:学校に来て満州について講演された。激寒で小便が凍ったなどの話を覚えて居る。
長男が高橋信一(版画家)、次男が本間幸二(人形店「みさお」店主)。
※高橋信一先生の妹が同じ浜梅津の渡辺家に嫁ぎ健在(平成30年現在)。
高橋二郎について
★高橋信一






・1917年両津浜梅津に生まれる、1986年逝去。1957年現代版画コンクール・佳作。 1959年日本版画協会賞 1960年恩地賞。 1966年仏・伊両政府の招聘により各地の美術大学で版画の技術指導。1976年 ザイロン国際版画展受賞。 1982年サントリー地域文化賞。 両津高校で卓越した美術教育を行い、佐渡の版画を広く全国に知らしめた。両津高校生が全国版画コンクールに次々と上位入選し、東京の美術出版社から「版画佐渡」が出版された。また高橋の尽力で「版画村美術館」が開設された。
著書に「捨てない教育」がある。
・佐渡版画村理事長として版画の制作、指導に尽力した版画家高橋信一は、12月16日午前5時15分、気管支ぜんそくによる気道閉そくのため、新潟県両津市の自宅で死去した。享年69。大正6(1917)年7月25日佐渡に生まれる。小学校在学中、図画教師中田吉三に学んで油絵を描き始め、のち、平塚運一の弟子笹井敏雄、斎藤正路に版画を学ぶ。昭和32(1957)年現代版画コンクール佳作賞受賞、34年日本版画協会展賞受賞。35年には日本版画協会展賞および恩地賞を受けて同会会友に推される。38年3ケ月間滞欧して13ケ国を巡遊。39年日本版画協会会員となる。41年フランス、イタリア政府の招きで国立美術大学教育者の講師として東洋絵画、版画の実技の指導に当たる。44年国画会版画部会員となる。クラコウ国際版画ビエンナーレなど国際展への出品も多く、51年スイス・ザイロン国際版画展では受賞している。常に郷里佐渡にあって制作するとともに、昭和23年より51年停年退職するまで、両津高校で教鞭をとり、版画指導に尽力。48年より島民への版画指導も始め、全島に版画制作の輪を広げ、佐渡版画村をおこして57年サントリー地域文化賞を受賞。59年7月には相川町に佐渡版画村美術館が設立された。仏教の二河白道に触発された「白い道」シリーズで知られ、トキをモティーフとして好んで描く。『佐渡名所百選』(51年、新潟日報事業社)、『高橋信一の世界』(58年、教育書籍)、『佐渡版画村作品集』(59年、教育書籍)、『捨てない教育』(59年、渓水社)などを刊行している。
高橋二郎について
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035763.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50045089.html
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 5佐渡版画村美術館」誕生に至るまで 5教え子らが作品集 5高橋信一先生は逝去されたけれども
「版画と佐渡」SADOMMUNE
諸情報
★高橋慎蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、山本悌二郎、政界乗り出しの経路[三十五年四月]
★高橋新八
夷保育園長

★高橋寿々子
『立浪会35年のあゆみ』(昭和34年)


★高橋進
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数113
松井誠、本間林三と共に佐渡で演劇活動を行う。佐和田郵便局局長であり、各種文化運動に関わった。郵便局長時代は、管理職ながら組合員と共に組合運動に参加したエピソードを持つ。叔母に日本初の女性牧師である高橋久野、叔父に佐和田の実力者で県会議員だった高橋元吉がいる。両津の若林朔汀は縁戚筋である。佐渡中学昭和3年卒、佐和田郵便局長。佐渡中教諭で知られる伊藤勉治は叔父、小山治吉は伯父にあたる。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高橋進
3 『海浜秘唱』について 16 天南星句碑建立祝辞 19 先人の跡 青野季吉先生臨終の模様を知らせる酒井千尋氏より三井松五郎氏宛書簡 26 特集 句集「海見ゆる坂」 命なりけり 39 茫々八十年 山本修之助先生の傘寿に寄せて 46 ふるさとを恋う-青野季吉先生と佐渡-
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「9号」(平成19年4月)この一冊-「日本のたたずまい」(高橋進著・彩流社)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数113
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p391
★高橋政吉
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★高橋清蔵
木本神社


★高橋節堂
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)



『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を伊左衛門、後に以一といった。に学び俳諧、和歌をよくした。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
★高橋千太郎
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋そて
『加茂村誌』(昭和38年)

★高橋大樹
両津高校時代の1991年度(H3)7月、第17回陸上競技県高校1年生大会兼国体予選会 走高跳 3位
★高橋孝夫
両津高校時代の1961年度(S36)9月、第14回新潟県高等学校稔合体育大会陸上競技 ハンマー投3位
★高橋隆
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)より
明治後期、佐渡中学校で修身を教えた教師でプロテスタント(プレエスブレンド派)、同僚の常葉金太郎(嶺直貫)と共に生徒にキリスト教の感化を与える。
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)
★高橋正
両津羽黒神社


★高橋保
両津高校時代の1960年度(S35)1月、第10回全日本年賀状版画コンクール(入選率全国一) 日本版画協会賞

「島の新聞」索引(人名別)
★高橋タミ
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★高橋長左衛門
羽黒大榮寺

★高橋長祐
両津羽黒神社


★高橋恒蔵
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★高橋泥舟
慶宮寺

★高橋禎昌
「躍進日本」

★高橋藤蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明3、辛卯倶楽部の設立[二十四年八月十二日]・明3、鵜飼の送別会[二十五年三月十九日]
★高橋利明
両津高校時代の1999年度(H11)、第15回全国高等学校簿記コンクール大会 高橋利明 坂口慎太郎 出場
★高橋俊夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高橋俊夫 48 荷風作「父の恩」の大久保秋蘋について
★高橋仁作
『加茂村誌』(昭和38年)

★高橋仁策
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂村梅津 ・明3、在京学徒鵜飼を訪問す[二十五年一月二十三日]・明3、大選挙区に於いて佐渡進歩派の会合[三十三年四月八日]・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・明4、第九回衆議院議員の選挙[三十七年三月一日]
★高橋春三
赤泊尋常高等小学校校長。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★高橋飛雄馬
両津高校時代の1996年度(H8)1月、高校文芸 短歌部門 優秀賞
★高橋久野(たかはしひさの)

【生没】一八七一ー一九四五(明治4-昭和20年) 明治四年に、河原田の酒造業高橋家に生まれる。兄の元吉は県会議員をつとめる政治家で、政友会の顔役であった。久野は若くして分家の高橋又二郎と結婚したが、夫の健康上のことなどがあって上京し、明治女学校に、のち東京女子高等師範学校に学ぶ。女高師では第一回生であった。明治二十五年(一八九二)に卒業。その年に、キリスト教プロテスタントとして洗礼を受けた。まもなく夫が死去し、青山学院女子部の教師をしながら、婦人伝道会の幹事もつとめた。その後女学校教師をやめ、伝道師の仕事を専心するため神学校に入り、大正二年(一九一三)に卒業、その年の十二月に按手礼を授けられた。これは日本での婦人牧師の第一号であった(註 俗説の植村環が最初の女性牧師であるとする説は誤り)。このとき久野は四二歳であった。牧師としての活動のほかに、文学・歴史研究も行って、とくに女高師時代には、源氏物語五四巻の書写・製本をして、そのために「佐渡の紫式部」といわれたりした。久野は郷里佐渡の伝道にも貢献し、有能な牧師の派遣などに尽力した。戦時中は昭和十六年まで佐渡教会(河原田)に、その後に台北にいた養子恭次郎のもとに移り、終戦の年に七四歳で死去した。
【参考文献】本間雅彦「佐渡プロテスタント小史」(『佐渡郷土文化』所収) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・お茶の水高等師範第一回卒業生、専門は歴史で青山学院高等部(女子部)の教師。
「婦人伝道会幹事」であり、この伝道会によって明治43年に小野村林蔵が佐渡に派遣された。
久野は兄に協力を仰いで小野村等の布教活動に助力してもらった。
林蔵は佐和田、相川を中心に中興その他で布教活動をする。
この辺りの状況は『豊平物語』(小野村林蔵 昭和38年刊)に詳しい。
実家は河原田郵便局を経営し、兄は県会議員で佐渡政友会の重鎮である高橋元吉。
当時の状況は『豊平物語』(小野村林蔵 昭和38年刊)に詳しく描かれる。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高橋久野 67 日本最初の婦人牧師 高橋久野の生涯-佐和田町出身-徳田美智子
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)
★高橋秀世
『続佐渡酒誌』(平成14年)


★高橋秀清
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡守である。建武元年(一三三四年)五月十八日に朝廷の恩賞方二番となり北陸方面のことを司り、記録所寄人となった。(新潟県史)
★高橋福次
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★高橋復二郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・明3、鵜飼郁次郎の議会報告[二十四年六月十五日]・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]
★高橋福太郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋正博
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋正視
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋マス
長谷寺

★高橋又三郎

明治28年3月14日死亡。河原田本町の旧家又右衛門家当主、初代河原田郵便局長。河原田町長。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・明2、佐渡新聞の計画[十七年四月]・明2、相川監獄移転の決議[二十年七月]・明2、監獄実地調査[二十一年六月]・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]・明2、越佐に於ける条約改正中止の建白[二十二年七月二十日]
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
・河原田郵便局長で元吉の叔父
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数34・55
★高橋亦蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★高橋ミヨ

★高橋美代井
両津高校時代の1987年度(S62)11月、第33回青少年読書感想文全国コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催) 佳作
★高橋素子
「島の新聞」索引(人名別)
★高橋保一(やすかず)
両津梅津、令和3年1月没、93歳。両津浜梅津の人、ひょうたん作家として知られ、島内屈指の文化展である「浜梅津村展」の中心的存在。昭和2年生まれ、佐渡農学校卒。在校時は後の高名な詩人高野喜久雄と親しい友人であった。
平成28年2月2日(自作の獅子頭と)



「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=5
諸情報
★高橋勇市
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高橋勇市 94 「地理学者柴田収蔵」文献
★高橋祐子
両津高校時代の1996年度(H8)、秋季簿記県大会 団体2位(橋本一幸 伊藤由希子 小田亮平 安田道宏 本間雅子 高橋祐子)
★高橋有孚(ゆうふ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡河原田の人で商、通称を又右衛門、如文と号した。和歌連歌をよくし毎年京阪方面にいって風流人と交わった。
元治元年(一八六四年)六月に七十二才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★高橋洋介

★高橋要富
両津高校時代の1967年度(S42)6月、全国高校選抜相撲熊本大会全国優秀32選手賞
★高橋好男
県立佐渡高等学校12代校長(昭和63・4・1~平成3・3・31)、両津春日町の人。地蔵堂に下る春日町側海側角地で、母は教員退職後その地で「高橋屋」と言う学習塾をやっていた。
★高橋吉隆


アサヒビール創業者の一人で近代ビールの父と呼ばれる生田秀の孫。父龍太郎が秀の三女光子の夫。
★高橋芳太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋与平
御徒町の「吉池百貨店」創業者。娘婿に両津夷出身の岩原系吾氏を迎えた。その縁で、両津高校創立時には高橋与平氏の人脈や経済力が大いに活かされた。高橋系吾氏の実弟である岩原一雄氏が両津高校創立に奔走した人であった。
「島の新聞」


★高橋龍太郎





アサヒビール創業者、真野新町出身の生田秀の三女光子の夫。後に高橋家が代々アサヒビール社長となる。
「内子町歴史上の人物」
日本のプロ野球で唯一、個人名が入っていた球団があった。それは「高橋ユニオンズ」。昭和29(1954)年からわずか3年あまりで消滅したが、政財界のトップで活躍した人物が、私財をなげうって設立した球団だった。 その史上唯一の球団をつくったのが、「ビールの父」と呼ばれる高橋龍太郎。彼は生前自らの話題を口にすることを好まず、書き残すこともしなかったため、生い立ちなどはほとんど知られていない。 今回はその高橋龍太郎を紹介してみることにしよう。
高橋龍太郎は、明治8(1875)年、喜多郡内子村(現在の内子町)に父吉衡(よしひら)、母ミチ子の次男として生まれた。
高橋家は庄屋の分家で、広大な田畑を所有する一方で大規模な酒造業を営み、藩政時代、大洲藩の財政の一翼を支えるほど豊かな旧家であった。しかし、明治維新による廃藩で、藩札の価値が無くなると同時に没落してしまう。 龍太郎の父吉衡は、名家の当主ということもあり教養が高く、また人格者でもあった。内子にできた小学校の初代校長を務め、のちに内子聖人と呼ばれるほどの教育者であった。 また母のミチ子は、大洲の大きな商家の娘で、その兄は、当時の大貿易商社高田商会の支配人にまでなった人である。 次男に生まれた龍太郎であったが、兄が生後間もなく死亡していたので、実質的には長男として両親の寵愛を受けて育てられた。 龍太郎は、やがて旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に進学し、父の知り合いに下宿することとなる。その龍太郎を預かった数学教師は、なんと夏目漱石の小説「坊っちゃん」に登場する、体育会系で豪快な“山嵐”のモデルとなった人物なのである。 龍太郎は、極めて優秀な成績で中学校を卒業し、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進学する。しかし、病により転校を余儀なくされ、京都に新しくできた京都第三高等学校(現在の京都大学)工科に移る。そこで健康を取り戻した龍太郎は、学生生活を楽しみ、学業に励む傍ら、キリスト教への知識を深め、またボートの選手としても活躍した。 明治31年、龍太郎は第三高等学校を卒業後、大阪麦酒株式会社に就職する。 当時、日本のビール醸造は、ドイツ人技術者に頼らざる得ない状況だったが、非常に高給だったために「すべてを日本人の手で」という醸造会社の目標に合った工科出身の龍太郎が見込まれたのだ。 龍太郎は、入社半年後にはビールの本場ドイツに留学をし、6年間醸造技術を学ぶ。帰国後すぐに醸造現場で勤務し、醸造技術の習得・改良に取り組んだ。会社は、同業者同士の激しい競争で厳しかったが、やがて日露戦争が始まり、ビールの消費が爆発的に伸び、苦境から脱することができた。明治39年、日本・札幌麦酒と合併し、大日本麦酒株式会社が設立され、吹田工場長となる。 明治41年、社長の案内役として欧米各国の視察に旅立った龍太郎は、新しい知識を得て、帰国後経営手腕も発揮し、大正6年には大阪支店長となる。 大正10年には、45歳の若さで取締役に昇進、昭和8年、社長の死去とともに専務取締役となるが、実質的な経営責任者となり、昭和12年、社長に就任する。 日本が不況のさなかビール会社経営は困難を極めたが、樽やビールの原料であるホップ等の生産を行ない、完全国産化を成功させ、さらには満州支店の開設や桜麦酒との合併など、龍太郎の経営手腕により、当時の世界三大ビール会社の一つとなっていた。 ホップ国産化によって、太平洋戦争中も生産を続けた大日本麦酒株式会社は、政府の食料対策により原料が全くなくなるまでの、終戦一ヶ月前まで生産を続け、企業の多くが軍需産業に転換する中、ビール業を守り抜いた。 敗戦後、過度経済力集中排除法により、大日本麦酒株式会社は2社に分割され解散するが、相談役となり生涯をビール醸造業に捧げた。 日本の財界を支える一方で龍太郎は、高潔な人柄により貴族院・参議院議員に選ばれ、政治の道にも足を踏み入れた。 昭和26年には、第三次吉田内閣の下で通産大臣を務め、戦後の日本経済復興に尽力する。 ビール業界から退き、隠居生活を送る昭和28年、映画製作会社大映のオーナーでもあった、永田雅一パ・リーグ総裁に球団設立の話を持ちかけられる。 当時の球団経営は、娯楽の王者として君臨していた映画製作会社や、販売拡張を狙う新聞社、野球場への観客動員をメリットと考える電鉄会社によって行われていた。しかし、龍太郎は大の野球好きだったため、日本のプロ野球の隆盛のために個人出資で球団を持つことを決意する。それが高橋ユニオンズである。龍太郎78歳のときである。 ところがスタートしてみると、集まってくるのは1名の高校出のルーキー捕手を除き、各球団をお払い箱になった年をとった選手や、酒好きで監督から見放された選手ばかり。勝てるはずもなく、最初の1年は6位(8球団中)だったものの、2・3年目は最下位に終わった。
あまりの弱さに、当然のようにユニオンズファンは減っていき、藤井寺の近鉄戦では観客数が両軍選手より少ない22人という試合があったという。ユニオンズで唯一の明るい話題といえるのが、スタルヒン投手の300勝達成であった。 それでも龍太郎は球団を愛し、どんなに負けが込んでも毎試合、球場に足を運び、選手を激励した。そんな龍太郎を選手も皆尊敬していたという。 昭和32年、パ・リーグが6球団に整理統合され、球団の解散が決定。シーズンインを控え、岡山でキャンプ中だった選手はそのまま各球団に割り振られた。 プロ野球発展のために生まれた高橋ユニオンズは、プロ野球発展のために消え去った。 また、スポーツを愛する龍太郎は、日本サッカー(当時は蹴球)協会会長を務めたこともある。知られてはいないが、サッカー日本一の象徴である「天皇杯全日本選手権大会」の“天皇杯”は、龍太郎の尽力によるものなのだ。 龍太郎は、多芸多才で書に親しみ『在田』と号し、文人としての風格も備えていた。将棋は坂田三吉名人の人柄に惚れ込み、経済的な援助の一方で、後継者として直伝の棋風を持っていた。 龍太郎は政財界の長老として尊敬され、悠々自適の晩年を過ごす。昭和42年、92歳の長寿を全うしてこの世を去る。明治、大正、昭和と激動する近代日本の中で、威風堂々と志を貫いた豊かな人生であった。 龍太郎の生家は、長男故高橋吉隆氏(元アサヒビール株式会社会長)が、郷土である内子町への思いを寄せていたことにより、その遺族によって町へ寄贈され、現在は、文化交流ヴィラ「高橋邸」として一般公開されている。 「高橋邸」は、高橋氏の精神を引き継ぎ、遠来の客を迎えるゲストハウス・宿泊施設として、また、研修会や小会議、お茶・お華などの文化活動施設として活用され、女性グループ「FUGA」が運営に携わる。現在は、高橋家ゆかりの人たちや、大日本麦酒の流れをくむアサヒビールから、龍太郎ゆかりの写真やパネル、ビールジョッキなどが町に寄贈され、展示されている。
「ウィキペディア」より
高橋 龍太郎(たかはしりゅうたろう、1875年7月15日 - 1967年12月22日)は昭和期の実業家、政治家。日本のビール王と呼ばれる。
(来歴・人物)
愛媛県内子町生まれ。旧制松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、脚気の治療のための転地を兼ねて新設された第三高等学校(現京都大学)工学部機械工学科に転校、1898年同卒。大学卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒(現アサヒビール・サッポロホールディングス))に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。後に社長となり、ビールを日本の大衆文化に成長させた。大日本麦酒分裂後はサッポロビールの役員となっていたが、不調に終わったアサヒ・サッポロ両社の再統合に向け働きかけていたとされる。またプロ野球への造詣も深く、戦前にはイーグルス(現存しない東京の球団)、戦後には高橋ユニオンズ(1955年だけトンボユニオンズ。現存しない)のオーナーとなった。また戦死した子息が学生時代にサッカーをしていた縁もあり、第3代日本サッカー協会会長(1947年~1954年)に就任、2005年には第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。留学やビール、サッカーでの縁もあり、日独協会会長に就任(1955年4月~1965年7月)。政治家としての経歴は、1946年に貴族院勅選議員を務めるも、日本国憲法施行による改組のため翌1947年に参議院議員に転じ、1951年には通産大臣に就任した。また財界人としては、1947年に日本商工会議所会頭に就任した。上記各界での功績により、1964年に勲二等旭日重光章を受章。 1967年12月22日死去、享年92。長男・吉隆(1993年逝去)も、東京帝国大学卒業後住友銀行副頭取を経てアサヒビール入りし、1971年~1976年まで社長を務めた(後に会長に就任)。内子町にある生家は、長男吉隆が死去した後、遺族により内子町に寄贈され、現在は文化交流ヴィラ「高橋邸」として文化活動施設に活用されている。
「ビール醸造界の父」(「佐渡の百年」)
★高橋龍太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高橋良之輔
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★高橋禮作
『加茂村誌』(昭和38年)

『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高浜虚子
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)






本名、高濱清(たかはま・きよし) 愛媛県松山市生まれ。
俳号は同郷の師匠 正岡子規(1867~1902)から、「虚子(きよし)」の号をおくられた。
高野素十(すじゅう)、中田瑞穂、京極杞陽(きょうごくきよう)等と共に来島して句会を開き、佳句を残している。
■昭和13年(1938年)
・5 月17 日
・おけさ丸にて佐渡へ。加茂湖を経て真野御陵参拝。相川、いづもや旅館泊。長男の高浜年尾、新大教授の高野素十、中田みずほ等が同道する。相川「いずもや」泊。
・5 月18 日 ・鉱山一望。七浦、河原田を過ぎ黒木御所参拝。両津より乗船。船中一と句会。篠田旅館泊。ホトトギスに掲載すべき佐渡座談会を催す。
■昭和25年(1950年)
・5 月30 日
・佐渡に遊ぶ。加茂湖畔、潟上、本間能舞台(本間友英宅)で小句会。長女の真下真砂子、二女星野立子、京極紀陽、高野素十・富士子夫妻、中田みずほほか大勢で来る。
・5 月31 日 ・佐渡、潟上、本間能舞台滞在。この日新潟、篠田旅館に帰る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十七代友英(1902~1969)は在京時代より俳句を趣味とし、高浜虚子との親交を深めた。昭和25年、高浜虚子、星野立子、高
野素十等を招き句会を催した折の虚子の句が庭にある。
或時は江口の月のさしわたり 虚子(昭和二七年)
謡曲に「江口」があり、旅僧が西行の古歌「夜もすがら月こそ袖に宿りけれ昔の秋を思い出づれば」を懐かしんでいる時に江口の君の幽霊が現われ、世の無常を話させている。虚子も能を嗜んだ事から、謡曲を念頭に置いた句であると私は解釈した。
(高浜虚子 佐渡での俳句)
・大でまり 小でまり佐渡も 美しき
・藤垂れて 御あかしともる 御陵かな
・山藤の かかりて悲し 御陵道(真野公園内文学文学散歩道に句碑)
・陵守に 従ひ行けば 夏の露(鷲崎鶯山荘に句碑あり)
・鶯や 佐渡国分寺 跡とかや
・檀風の 城跡囲みて 田植かな
・金をひく 臼なりしとよ 雪の下
・春山を 二つに断てり 金ほると
・国中の 道平らに 田植かな
・浜茄子の さいて貧しき 漁村とか
・おおばこの 生えし加茂湖の 渚かな
・能舞台 裏に夏の山 入り来
・或る時は 江口の月の さしわたり(能舞台で知られる本間家に句碑がある)
謡曲に「江口」があり、旅僧が西行の古歌「夜もすがら月こそ袖に宿りけれ昔の秋を思い出づれば」を懐かしんでいる時に江口の君の幽霊が現われ、世の無常を話させている。
虚子も能を嗜んだ事から、謡曲を念頭に置いた句であろう。
※真野椿尾の安藤由紀夫氏宅庭内にも高浜虚子の下記句碑がある。
「この庭の遅日の石のいつまでも」
この句は京都龍安寺で詠んだものであるが、何故安藤家に句碑があるかは不明である。
安藤家の方に聞くと、当主の祖父が文人であったそうだ。
(新潟から見た佐渡)
・新潟の初夏はよろしや 佐渡も見え
(高浜虚子の孫にあたる俳人、星野椿の俳句)
・佐渡見えて 大海原の 遅日かな
(長塚節が世に出るきっかけを作った!)
長塚節(たかし)が文壇にデビューしたのは、小説『佐渡が島』で当時28歳。その小説が「ホトトギス」に掲載された。
虚子から「明治40年度の写生文の第一の傑作」と絶賛され、さらには滅多に人を評価しないことで有名な漱石をも感服させた。
その漱石の計らいで朝日新聞に長編小説『土』が連載されることになった。だが、結核という病魔に罹り、漱石が優秀な大学病院を世話して療養に努めたが、36歳の短い人生を閉じた。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
49 連載 閑々亭雑記 (8) 「佐渡詠」の虚子の短歌と節の俳句 山本修之助 54 連載 閑々亭雑記 (13) 高浜虚子の佐渡を詠んだ短歌 山本修之助 55 高浜虚子先生の句碑 児玉葭生 147 高浜虚子と佐渡 斎藤明雄
「虚子ときんぽうげ」(「佐渡の百年」)
「佐渡座談会」(「白樺」7号 昭和13年)
「俳句の里-亀田郷と俳人たち-」(蒲原宏氏講演)
「ウィキペディア」より
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=5
★高浜年尾
高浜虚子の実子。俳人。
昭和13年5月17~18日来島。高浜虚子・中田みずほ・高野素十・浜口今夜・田中憲二郎等と同道。
「佐渡座談会」(「白樺」7号 昭和13年)
「虚子ときんぽうげ」(「佐渡の百年」)
「ウィキペディア」より
★高藤一郎平
「エスライフ」2020年2・3月号




※「佐渡ジャーナル」関係記事:「58号」(令和1年7月)・特集:伝統技法で巨大な「木桶」完成※高藤一郎平
「島の新聞」索引(人名別)
★田上睦夫
平成24年より佐渡社会福祉協議会会長。

★田上善夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)田上善夫 127 佐渡の風の祭礼
★高峰秀子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「36号」(平成26年1月)グラフ佐度(・佐度ロケの効果・映画共演の佐田、高峰ブロンズ・主人公「お光の碑」)
★高村乙吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高村光太郎



「湖畔と不泣」(「佐渡の百年」)
「新潟日報」平成27年4月24日

(たかむら こうたろう、1883年(明治16年)3月13日 - 1956年(昭和31年)4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。
日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟は鋳金家の高村豊周であり甥は写真家の高村規。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
24 詩人で彫刻家の高村光太郎氏 ~大正7年佐渡来島~ 山本修之助
84 「渡辺湖畔への手紙」から その1 高村光太郎の来島
98 「渡辺湖畔への手紙」から その15 高村光太郎「蝉」の前後
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