2021-01-10
★宋教仁(そうきょうじん)
「Shiro's Site → History of Tama Art University」より


北一輝と深く交わった人物。北一輝と上海に滞在、一輝は宋教仁の唯一無二の理解者であった。
「年譜」
1905年 日露戦争における日本の勝利に刺激された孫文らの興中会は、中国革命同盟会を結成
1911年 黄興・宋教仁・北一輝らは、上海から武昌に到着
1912年 宋教仁らは、中国革命同盟会を改組して、群小政党を合併して国民党を結成
1913年 中国で最初の国会選挙が行われ 45%以上の議席を獲得し、立憲君主派に圧勝
袁世凱の使嗾により、上海で重傷を負い、後、死亡
山田猪三郎が、山田式3号飛行船を改造し、75hpエンジンを二基搭載した4号飛行船を中国(武昌都督 宋教人 名義)革命軍に売却。 中国に渡り、テスト飛行を行うが、契約を反故にされ多額の借金を背負う
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
ウイキペディアより
★惣右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川大床屋町の人である。よく孝養を尽くしたので、文政五年(一八二二年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★宗雲
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
天保のころ、弘仁寺に宗雲という住職がいた。五十八世の住職で、「歴代略記」では弁盛と記されている。
文政八年(1825)9月、本山智積院より弘仁寺従職を仰せつかっている。
この宗雲の代に山門が建てられ(天保3年)、仁王像が作られ(同年)、また天神堂が建てられ(天保五年)ている。なかなか積極的な住職であったようである。そして天保十二年(一入四一) のころ、薬師堂の再建がはかられることになる。たぶん従来の堂の破損が著しくなったためであろう。寺院や神社などでは、大きなまとまった金銭が入用な時は頼母子(無尽)によってその金額を調達することが行われていた。宗雲は薬師堂再建の金を求めるため頼母子を開くことにした。この頼母子を行うことに中心となって協力したのが市郎兵衛(氏江市左衛門元彦)と新兵衛(木戸の橋詰) の二人であったらしい。
さて、この頼母子の行い方に問題があった。それは当時、賭博行為と似ているということでお上より禁止されていた「取退無尽(とりのきむじん)」という違法のものであった。
「取退無尽」というのは、富くじのような方法で、第二回目以後の掛金を切り捨ててしまい、一回限りで解散して
しまうというもので、一種の賭博行為と見なされていたのであった。
この結果、宗雲や市郎兵衛・新兵衛は奉行所に捕われ、罪を得ることになる。「佐渡の日次」という当時の佐渡奉行久須美六郎左衛門の日記がある。この天保十三年(一八四二)四月二十五日の項に次のような記事がみえる。
「羽茂本郷養観寺にて富くじに似寄侯興行いたし候一件」
「同所弘仁寺において取退無尽に紛らわしき儀典行いたし侯一件」
これだけでは詳細についてはわからないが、きっと薬師堂再建のための頼母子一件のことであろう。以下「弘仁寺文書」でみよう。
宗雲が掲屋(僧侶らが入れられる牢)に入るのが、天保十三年二月二十八日、そして四月二十五日に裁判の結果次のような判決がなされる。
「弘仁寺住職 宗雲 弘仁寺追院
羽茂本郷百姓 市郎兵衛(市左衛門元彦) 十ケ年の国払
同 新兵衛 十ケ年の国払」
五月、無住となった弘仁寺の院代として末寺の赤泊村禅長寺が勤めることになる。
宗雲は追院となるが、弘仁寺地内に隠居しており、市郎兵衛は江戸本所相生町で山城屋を経営、農機具商で大成公武禁庭刀剣匠の免許を得ている。新兵衛については不明。
「氏江市郎平家文書」をみると、この間に何回も市郎兵衛・新兵衛両人の赦免について、身柄引受け寺、浅草大護院より本山東叡山御役所に赦免願いが出されている。
十年経った嘉永四年(一八五一)冬、市郎兵衛は赦免され、故郷へ帰る(新兵衛は不明)。
宗雲の追院も十月に赦免になった。しかし九月にはすで忙隠居の身分であった。年齢も重ね、からだの具合も良くなかった。一時病気全快の模様が見えた時(嘉永五年三月)門中、旦那惣代たちは宗雲に帰院を願い、また奉行所へ宗雲の弘仁寺復帰を願い出ている(同年六月)。その結果はどうであったかはわからない。嘉永七年(一八五四)八月十八日宗雲はこの世に別れを告げた。
★宗念
佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)

★相賀作一
『両津市要覧(昭和33年)』より

★惣吉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国相川下戸町の人である。文政十年(一八二七年)十二月十五日、相川浜で珍しい亀を拾い、奉行所に差出した。翌年二月十二日奉行所では幕府へ伺いを立てたところ、二月十八日御側衆土岐豊前守から将軍へ差上げるから惣吉に金壱両を与えるよう通知があった。(佐渡年代記中巻)
★宗札(そうさつ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
僧である。大永三年(一五二三年)七月、佐渡に遊んだ。(新潟県史、佐渡風土記)
連歌師、宗長の弟子。→下記資料のp659
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★惣三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国羽茂本郷惣右衛門の父である。九十五才以上になり長寿につき、文政十一年(一八四〇年)役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★惣七
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
姓は不明である。永仁二年(一二九三年)十二月七日に佐渡国河原田八幡宮の神主となった。(新潟県史)
★惣七
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川二丁目の人である。孝心奇特の趣相聞につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★惣助
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川下戸町の人である。小前のものをいたわり、病難死別等にて難儀の者を見継(みつ)いだので、文化十二年(一八一五年)役所へ呼出され、金子を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★宗忍
連歌師、宗祇の弟子。→下記資料のp659
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)宗忍
103 宗忍独吟千句連歌 (1) -諸写本の発見と翻刻- 大野 温于
107 宗忍独吟千句連歌 翻刻(二)大野温于
110 宗忍独吟千句連歌 翻刻(三)大野温于
111 宗忍独吟千句連歌 翻刻(四)大野温于
113 宗忍独吟千句連歌 翻刻(五)大野温于
115 宗忍独吟千句連歌 翻刻(六)大野温于
116 宗忍独吟千句連歌 翻刻(七)大野温于
118 宗忍独吟千句連歌 翻刻(八)大野温于
120 宗忍独吟千句連歌 翻刻(九)大野温于
122 宗忍独吟千句連歌 翻刻(一〇)大野温于
126 『宗忍千句』校勘記(その1)大野温于
★惣兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川小六町兼助事惣兵衛は古主之家筋三代之間、大切に心を尽す趣に付、天保六年(一八三五年)役所から、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★僧某
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
興福寺 康平六(1063)佐渡に配流。山陵の事に坐す。治暦二年(一〇六六)赦免。(『扶桑紀略』)
★相馬一正
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)相馬一正 89 点鬼簿(6) 中山守夫、本間敏雄、本間亮敬、斎藤良二郎、真木山幸二郎、小野久夫、本間フミ、山本惣次、若林吉堯、浅島治兵衛、相馬一正、宮崎萬平 山本修巳
★相馬喜藤二
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★相馬御風

来島は大正14年10月13日 「御風歌集」(大正15年 佐渡歌4首が載る)
佐渡高校校歌作詞 昭和4年完成。作曲は中山晋平。

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)155 山本家に残る相馬御風の書と真野公園文学散歩道に立つ御風歌碑の魅力 伊豆名晧美
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

「来島の越後の三作家」(「佐渡の百年」)
黒木御所跡・順徳帝文学公園ガイドブック
p15相馬御風
「ウィキペディア」より
★相馬徳次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★相馬秀蔵(そうまひでぞう)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=2
昭和30年頃

【生没】一八八四ー一九七六 明治十七年生まれで、関の仲川閑楽に誘われ、創立当時の「関人形」に入る。関人形の創始者は中川閑楽で、明治三十年ころ、説経高幕人形を大倉の辻五郎助から一五円で買い、石井小太郎と仲間持ちで歩いていたが、明治三十五年には、古い高幕人形を北川内の吉右衛門に譲り、五十里のアメ屋から一組の「御殿人形」を買い、小倉の新田伊作に組み立ててもらい、人形の遣い方も指南してもらった。名人新田伊作から指導してもらった相馬秀蔵の腕前はめきめきと上達し、後年秀蔵は女役を遣わさせると佐渡一といわれた。昭和二十八年の文部省主催の、芸能祭出演の文弥人形一行(太夫は中川閑楽と北村宗演、遣い手は一度照造・相馬秀蔵・浜田守太郎・東後壮治・葛原五兵衛)のベストメンバーに選ばれたほどで、名人一度照造より先に触れた女形と三番叟は、ずばぬけていたといわれている。晩年は新潟へ転居し、昭和五十一年十一月十二日、九三歳で亡くなった。新潟市神明町の延命寺が菩提寺である。
【関連】文弥人形(ぶんやにんぎょう)・中川閑楽(なかがわかんらく) 【参考文献】佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』 【執筆者】浜口一夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)

明治45年に来島し、大正9年に「新おけさ」を作詞作曲する。
「新おけさ」は戦前において、島内は元より、有名歌手によるレコーディングの影響もあって全国的に知られた新民謡であった。

「ウィキペディア」より
「Shiro's Site → History of Tama Art University」より






北一輝と深く交わった人物。北一輝と上海に滞在、一輝は宋教仁の唯一無二の理解者であった。
「年譜」
1905年 日露戦争における日本の勝利に刺激された孫文らの興中会は、中国革命同盟会を結成
1911年 黄興・宋教仁・北一輝らは、上海から武昌に到着
1912年 宋教仁らは、中国革命同盟会を改組して、群小政党を合併して国民党を結成
1913年 中国で最初の国会選挙が行われ 45%以上の議席を獲得し、立憲君主派に圧勝
袁世凱の使嗾により、上海で重傷を負い、後、死亡
山田猪三郎が、山田式3号飛行船を改造し、75hpエンジンを二基搭載した4号飛行船を中国(武昌都督 宋教人 名義)革命軍に売却。 中国に渡り、テスト飛行を行うが、契約を反故にされ多額の借金を背負う
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
ウイキペディアより
★惣右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川大床屋町の人である。よく孝養を尽くしたので、文政五年(一八二二年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★宗雲
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
天保のころ、弘仁寺に宗雲という住職がいた。五十八世の住職で、「歴代略記」では弁盛と記されている。
文政八年(1825)9月、本山智積院より弘仁寺従職を仰せつかっている。
この宗雲の代に山門が建てられ(天保3年)、仁王像が作られ(同年)、また天神堂が建てられ(天保五年)ている。なかなか積極的な住職であったようである。そして天保十二年(一入四一) のころ、薬師堂の再建がはかられることになる。たぶん従来の堂の破損が著しくなったためであろう。寺院や神社などでは、大きなまとまった金銭が入用な時は頼母子(無尽)によってその金額を調達することが行われていた。宗雲は薬師堂再建の金を求めるため頼母子を開くことにした。この頼母子を行うことに中心となって協力したのが市郎兵衛(氏江市左衛門元彦)と新兵衛(木戸の橋詰) の二人であったらしい。
さて、この頼母子の行い方に問題があった。それは当時、賭博行為と似ているということでお上より禁止されていた「取退無尽(とりのきむじん)」という違法のものであった。
「取退無尽」というのは、富くじのような方法で、第二回目以後の掛金を切り捨ててしまい、一回限りで解散して
しまうというもので、一種の賭博行為と見なされていたのであった。
この結果、宗雲や市郎兵衛・新兵衛は奉行所に捕われ、罪を得ることになる。「佐渡の日次」という当時の佐渡奉行久須美六郎左衛門の日記がある。この天保十三年(一八四二)四月二十五日の項に次のような記事がみえる。
「羽茂本郷養観寺にて富くじに似寄侯興行いたし候一件」
「同所弘仁寺において取退無尽に紛らわしき儀典行いたし侯一件」
これだけでは詳細についてはわからないが、きっと薬師堂再建のための頼母子一件のことであろう。以下「弘仁寺文書」でみよう。
宗雲が掲屋(僧侶らが入れられる牢)に入るのが、天保十三年二月二十八日、そして四月二十五日に裁判の結果次のような判決がなされる。
「弘仁寺住職 宗雲 弘仁寺追院
羽茂本郷百姓 市郎兵衛(市左衛門元彦) 十ケ年の国払
同 新兵衛 十ケ年の国払」
五月、無住となった弘仁寺の院代として末寺の赤泊村禅長寺が勤めることになる。
宗雲は追院となるが、弘仁寺地内に隠居しており、市郎兵衛は江戸本所相生町で山城屋を経営、農機具商で大成公武禁庭刀剣匠の免許を得ている。新兵衛については不明。
「氏江市郎平家文書」をみると、この間に何回も市郎兵衛・新兵衛両人の赦免について、身柄引受け寺、浅草大護院より本山東叡山御役所に赦免願いが出されている。
十年経った嘉永四年(一八五一)冬、市郎兵衛は赦免され、故郷へ帰る(新兵衛は不明)。
宗雲の追院も十月に赦免になった。しかし九月にはすで忙隠居の身分であった。年齢も重ね、からだの具合も良くなかった。一時病気全快の模様が見えた時(嘉永五年三月)門中、旦那惣代たちは宗雲に帰院を願い、また奉行所へ宗雲の弘仁寺復帰を願い出ている(同年六月)。その結果はどうであったかはわからない。嘉永七年(一八五四)八月十八日宗雲はこの世に別れを告げた。
★宗念
佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)

★相賀作一
『両津市要覧(昭和33年)』より

★惣吉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国相川下戸町の人である。文政十年(一八二七年)十二月十五日、相川浜で珍しい亀を拾い、奉行所に差出した。翌年二月十二日奉行所では幕府へ伺いを立てたところ、二月十八日御側衆土岐豊前守から将軍へ差上げるから惣吉に金壱両を与えるよう通知があった。(佐渡年代記中巻)
★宗札(そうさつ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
僧である。大永三年(一五二三年)七月、佐渡に遊んだ。(新潟県史、佐渡風土記)
連歌師、宗長の弟子。→下記資料のp659
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★惣三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国羽茂本郷惣右衛門の父である。九十五才以上になり長寿につき、文政十一年(一八四〇年)役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★惣七
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
姓は不明である。永仁二年(一二九三年)十二月七日に佐渡国河原田八幡宮の神主となった。(新潟県史)
★惣七
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川二丁目の人である。孝心奇特の趣相聞につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★惣助
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川下戸町の人である。小前のものをいたわり、病難死別等にて難儀の者を見継(みつ)いだので、文化十二年(一八一五年)役所へ呼出され、金子を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★宗忍
連歌師、宗祇の弟子。→下記資料のp659
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)宗忍
103 宗忍独吟千句連歌 (1) -諸写本の発見と翻刻- 大野 温于
107 宗忍独吟千句連歌 翻刻(二)大野温于
110 宗忍独吟千句連歌 翻刻(三)大野温于
111 宗忍独吟千句連歌 翻刻(四)大野温于
113 宗忍独吟千句連歌 翻刻(五)大野温于
115 宗忍独吟千句連歌 翻刻(六)大野温于
116 宗忍独吟千句連歌 翻刻(七)大野温于
118 宗忍独吟千句連歌 翻刻(八)大野温于
120 宗忍独吟千句連歌 翻刻(九)大野温于
122 宗忍独吟千句連歌 翻刻(一〇)大野温于
126 『宗忍千句』校勘記(その1)大野温于
★惣兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川小六町兼助事惣兵衛は古主之家筋三代之間、大切に心を尽す趣に付、天保六年(一八三五年)役所から、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★僧某
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
興福寺 康平六(1063)佐渡に配流。山陵の事に坐す。治暦二年(一〇六六)赦免。(『扶桑紀略』)
★相馬一正
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)相馬一正 89 点鬼簿(6) 中山守夫、本間敏雄、本間亮敬、斎藤良二郎、真木山幸二郎、小野久夫、本間フミ、山本惣次、若林吉堯、浅島治兵衛、相馬一正、宮崎萬平 山本修巳
★相馬喜藤二
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★相馬御風

来島は大正14年10月13日 「御風歌集」(大正15年 佐渡歌4首が載る)
佐渡高校校歌作詞 昭和4年完成。作曲は中山晋平。

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)155 山本家に残る相馬御風の書と真野公園文学散歩道に立つ御風歌碑の魅力 伊豆名晧美
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

「来島の越後の三作家」(「佐渡の百年」)
黒木御所跡・順徳帝文学公園ガイドブック
p15相馬御風
「ウィキペディア」より
★相馬徳次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★相馬秀蔵(そうまひでぞう)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=2
昭和30年頃

【生没】一八八四ー一九七六 明治十七年生まれで、関の仲川閑楽に誘われ、創立当時の「関人形」に入る。関人形の創始者は中川閑楽で、明治三十年ころ、説経高幕人形を大倉の辻五郎助から一五円で買い、石井小太郎と仲間持ちで歩いていたが、明治三十五年には、古い高幕人形を北川内の吉右衛門に譲り、五十里のアメ屋から一組の「御殿人形」を買い、小倉の新田伊作に組み立ててもらい、人形の遣い方も指南してもらった。名人新田伊作から指導してもらった相馬秀蔵の腕前はめきめきと上達し、後年秀蔵は女役を遣わさせると佐渡一といわれた。昭和二十八年の文部省主催の、芸能祭出演の文弥人形一行(太夫は中川閑楽と北村宗演、遣い手は一度照造・相馬秀蔵・浜田守太郎・東後壮治・葛原五兵衛)のベストメンバーに選ばれたほどで、名人一度照造より先に触れた女形と三番叟は、ずばぬけていたといわれている。晩年は新潟へ転居し、昭和五十一年十一月十二日、九三歳で亡くなった。新潟市神明町の延命寺が菩提寺である。
【関連】文弥人形(ぶんやにんぎょう)・中川閑楽(なかがわかんらく) 【参考文献】佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』 【執筆者】浜口一夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)

明治45年に来島し、大正9年に「新おけさ」を作詞作曲する。
「新おけさ」は戦前において、島内は元より、有名歌手によるレコーディングの影響もあって全国的に知られた新民謡であった。

「ウィキペディア」より
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