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2014-03-01

★椎亀次

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
椎亀治か ・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]・昭4、佐渡政友倶楽部の大会[十二年十一月十八日]


★椎賢二

しい椎賢二
水津の人、昭和16年生。両津高校11回生。母校水産科の教諭として多くの生徒達を指導した。



★椎井次郎左衛門

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しい椎井次郎左衛門


★椎隆信

しい椎隆信 (1) しい椎隆信
昭和9年、沢根生まれ(父が沢根大乗寺住職)。62歳で没。
相川役場観光課他に勤務し、得意の絵や切り絵を駆使して多くの佐渡観光イベントに関わった。
後年は沢根に別荘を持ち、友人の画家尾崎清氏等の友人達と過ごした。
父は水津の人で幼少時に当地椎家に入り僧侶となり、沢根大乗寺、相川大安寺住職となる。隆信は中学までは沢根で過ごしている。

諸情報


★椎弥平

『両津市要覧(昭和33年)』より
しい椎弥平


★椎泊村七左衛門→本間七左衛門


★椎泊村弥次右衛門→緒方弥次右衛門


★椎名仙卓(しいなのりたか)

1930年(昭和5年)12月8日 -日本の博物館学・博物館史学者。千葉県山武郡大網白里町(現大網白里市)生まれ。國學院大學文学部卒。昭和29年~31年(24歳~26歳)に両津高校に勤務し日本史・世界史を担当する。その後、両津高校2代目校長の菊地勘左衛門が佐渡博物館初代館長として就任すると佐渡博物館に移り参与として勤務する。後、国立科学博物館勤務、図書館長、教育普及事業を担当。千葉県八千代市郷土博物館協議会委員長、千葉大学図書館情報サービス課長、聖徳大学川並記念図書館副館長。財団法人佐渡博物館参与。1965年棚橋賞受賞。

(著書)
『日本博物館発達史』雄山閣出版 1988
『モースの発掘 日本に魅せられたナチュラリスト』恒和出版 1988
『明治博物館事始め』思文閣出版 1989
『図解博物館史』雄山閣出版 1993
『大正博物館秘話』論創社 2002
『日本博物館成立史 博覧会から博物館へ』雄山閣 2005
『近代日本と博物館 戦争と文化財保護』雄山閣 2010
『博物館の災害・事件史』雄山閣 2010

(共編著)
『博物館ハンドブック』加藤有次共編 雄山閣出版 1990
『博物館学年表 法令を中心に 1871-2012』青柳邦忠共著 雄山閣 2014
『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)


★椎野熊吉

『両津市要覧(昭和33年)』より
しい椎野熊吉


★椎野玄的

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
し椎野玄的

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の医家。宝暦三年(一七五三年)小松大学の門に学び、同五年奉行所並医師となった。(佐渡人名辞書)


★椎野正三

相川下寺町 妙園寺
しい椎野正三 相川下寺町 妙園寺 (1) しい椎野正三 相川下寺町 妙園寺 (2) しい椎野正三 相川下寺町 妙園寺 (3) しい椎野正三 相川下寺町 妙園寺 (4)


★椎野俊行

 両津高校時代の1985年度(S60)3月、第29回全国学芸科学コンクール(旺文社主催)学校に表彰状 デザイン部門 銀賞(旺文社赤尾好夫記念賞)


★椎野広吉(しいのひろきち)


『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
しい椎野廣吉 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
【生没】一八六七ー一九五九 鉱山技師。観世流の謡い手。『佐渡と能謡』の著者。慶応三年九月二十七日相川羽田村中町に生れる。父は次平、その長男。下戸校を卒業し、明治二十九年(一八九六)十月御料局佐渡支庁の仕揚工となり、鉱山が三菱に払下げられてからの三十年十一月鉱山雇となった。同三十五年三月、相川にあった鉱山学校機械学科を卒業し技師補となり、四十三年十月から技師に昇進した。このときの月給は五拾円。大正十二年九月退職するが、家蔵の辞令によると、手当金二万八千二百円。終身年金四百五十円を交付されている。この間の三十三年三月、原田鎮治鉱山長の命で「電燈機械製作据付方研究」のため、芝浦製作所に出張した。出力一五キロワットの水力発電所が、初めて鉱山の高任に誕生した。完成は九月で、その機械据付にたずさわった。県内での水力発電所の先がけである。能に親しんだのは明治四十年ころからとされ、相川の観世流師範、遠藤可清に師事した。「可清太夫に謡曲指南を受けること十三年。大正八年先生古稀を機として引退せられ以降、怠らず先生の教訓を守り」と自分の能歴を回想している。同三十三年に原田鎮治鉱山長を迎えて、渡辺渡鉱山長以来一時すたれていた相川の能の再興期に学んだ一人である。佐渡能楽史の研究で大きい足跡を残し、昭和三十四年十一月三十日、九二歳で没した。
【関連】「佐渡と能謡」(さどとのうよう)・高任水力発電所(たかとうすいりょくはつでんしょ) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)


★椎野与市

『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
沢根城に城将として在番することになるのが越後上田衆の一人、椎野与市である。彼についての佐渡における資料的な記録も少なく、その活動は明らかでない。ただ、上杉氏会津移封の年である慶長三年(1598)の山田村年貢納書があり、ここに椎野の名がみられる。景勝の会津移封が完了するのが三月末ころとみられるから、この年貢納書はそれ以後のものである。これについて『河崎村史料編年志』では監物を大井田とし、椎野を鶴子代官としている。すなわち、この年の山田村の年貢徴収の仕事は須賀修理の扱いとなっており、椎野与市は鶴子代官となっていることがわかる。山田村年貢のうちから椎野のもとに十九石三斗もの米が納められているものである。そして、翌慶長四年ころ、椎野は河村彦左衛門と共に川原田城に入っていたようである。

田中清六が家康の命で佐渡請取の交渉に冬の海を渡り、川原田の城にいる上杉代官河(川)村彦左衛門・椎野与市を説得する。そし三人はこれに同意するが、椎野は後に佐渡を渡すことに同意したことを残念に思い、度々清六を殺そうとしたが、逆に清六に殺されてしまった…‥・というものである。この椎野が殺された場所が川原田城であり殺した者が同僚である河村であったことは「上杉家御年譜」に記されている。千八百石を与えられ、河原田城にいた椎野与市が、河原田城を包囲され攻められて、慶長五年五月十一日に妻子と共に戦死したというものである。以下、「上杉家御年譜」による椎野氏の系図を載せよう。
椎野左京ー九右衛門豊忠ー清右衛門豊信ー弥七豊教ー九右衛門義忠ー甚五兵衛義久ー清右衛門義房

→「有力者苗字」(本間)


★志斐連永世

『佐渡流人史』(郷土出版社)より
 天文留学生少初任下 承和六(八三九)佐渡に配流。遣唐船に乗船させられることを知り、伴宿祢有仁(遣唐知乗船事従七位上)・刀岐直雄貞(暦請益従六位下)・佐伯直安通(暦留学生少初位下)と共謀して逃走し、捕まり死一等を減じて佐渡へ。伴宿祢有仁と刀岐直雄貞は承和七年二月一六日赦免。(『続日本後紀』)


★志う

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国相川下戸町庄八の妻である。両親へ孝心に仕う趣相聞るに付、弘化三年(-八四六年)役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)

★ジェームス・スコット→スコット

★ジェームス・テール→テール


★ジェロニモ・デ・アンジェリス

 元和五年(1619)、佐渡に初めて来島したキリシタン神父。 長期の滞在ではなく、この時を含めて二度来島し、どちらかにはジョアン・マテウス・アダミ神父が同道した。 相川鉱山関係者の中に何人かの信者が居り、彼らの洗礼を授ける旅だったらしい。
 上記は上智大ジョセフ・シュッテさんらの調査によるもので、「日本切支丹宗門史」では13年前の慶長10年となっている。 これ以前にも伏見から熱心な信者が相川にやって来ていた。
 参考:「佐渡プロテスタント小史」(本間雅彦)

『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)より
佐渡に渡った最初の外国人。一六二〇(元和六)年、マカオにあるポルトガルのイエズス会の極東本部(正しい名称ほ不明)に宛てた書簡がのこっていて、その文面からみて前年の夏に佐渡へ行ったことほまちがいないとされる。彼の佐渡布教は二度ほどあり、あまり長期の滞在ではなかったようですがそのどちらかの旅には、ジョアン・マテウス・アダミという神父が同行しております。このとき相川鉱山関係者の中には、すでに何人かの信者がきていて、彼らに洗礼を授けるための旅だったようだ。

『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)


★ジェニン→アレキシス・ジェニン

★ジェンキンス


ジェンキンス
ジェンキンス ジェンキンス3 ジェンキンス2 
ジェンキンス 300130
チャールズ・ロバート・ジェンキンス(Charles Robert Jenkins)、生誕:1940年2月18日-2017年12月11日没。 アメリカ合衆国 リッチスクエア、ノースカロライナ州。所属組織:アメリカ陸軍、軍歴:1955 - 1965 ノースカロライナ州軍 第1騎兵師団、最終階級:軍曹

チャールズ・ロバート・ジェンキンス(Charles Robert Jenkins、1940年2月18日 - )はアメリカ合衆国の軍人。最終階級は陸軍軍曹。
下士官として朝鮮半島軍事境界線に駐留中に北朝鮮側に投降、2004年まで同国に滞在していた[1]。北朝鮮による拉致被害者の一人である曽我ひとみと結婚しており、妻が日本への帰還を果たした後の2004年(北
朝鮮側への投降から39年後)、娘達を連れて自身も日本へ亡命した。同地で合衆国軍に出頭し、軍法会議を経て軍を退役した。

2017.12.12 08:43更新
拉致被害者の曽我ひとみさん夫、ジェンキンスさん死去 元米軍人 77歳
 新潟県佐渡市で昭和53年に北朝鮮に拉致され、平成14年に帰国した曽我ひとみさん(58)の夫、チャールズ・ジェンキンスさんが11日、同市で死去した。77歳だった。同日、体調が急変し、搬送先の病院で死亡が確認された。ジェンキンスさんは米軍人として韓国に駐留していた1965(昭和40)年、軍事境界線で任務中に北朝鮮側へ脱走。北朝鮮では80(同55)年に曽我さんと結婚し2人の娘が誕生。士官学校で英語を教え、ラジオの翻訳なども担当した。平成14年9月の日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認め曽我さんは翌10月、日本へ帰国。ジェンキンスさんと2人の娘も16年7月、北朝鮮を出国しインドネシアで曽我さんと再会した。ジェンキンスさんは日本へ入国すると在日米軍に出頭し、軍法会議で禁錮30日と除隊を言い渡された。日本では曽我さんの故郷の佐渡市に家族で居住。22年、永住許可を得た。一方でレバノンやタイ、ルーマニアの女性が北朝鮮に拉致され、脱走した元米兵と結婚していた事実などを詳細に証言。北朝鮮が各国で拉致を行ったことが明らかになり、問題への国際的関心を広げる契機となった。17年には北朝鮮での体験をまとめた著書「告白」を出版。日本での自由な暮らしへの感謝を記していた。普段は地元の観光施設に勤務し法被姿で販売を担当。観光客との記念撮影にも気さくに応じた。膠着する拉致問題に心を痛めていたといい、店の売り上げの一部は拉致被害者の救出運動のために寄付されていた。

「ウィキペディア」より

★塩嶋仁吉

前段右より・高野清八郎・瀬下清通・塩嶋仁吉 後段右より・柄沢四郎左衛門・柄沢寛・舟崎仁一
せじ瀬下清通
 

★塩津吉太郎

加賀市生、1911年頃、畑野の野高屋(のごや)に住みついた竹細工師。
北海道で畑野の金子大五郎の娘と出会い夫婦となり、妻の口から佐渡に竹林が多いことを聞いて佐渡に渡り、大五郎の世話で野高屋の今井喜四郎家に両養子として入る。
納屋を仕事場として籠類はじめ種々竹細工をやった。特に脱穀用の唐棹を佐渡で初めて製作し、北海道に出荷。村の人から「かご屋」と呼ばれ、喜四郎家の仕事場には弟子が絶えなかった。しかし、塩津は喜四郎家に縁がなく、妻子を残して湊に移った。
弟子に後に「小菅竹堂」を名乗る渡辺宇一が居る。

「佐渡広場」参照


★志か

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国相川大間町三平坂下町藤助の妻である。孝心奇特の趣相聞に付、天保四年(一八三三年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)


★志鎌精斎→新井精斎


★式亭三馬

「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)


★式場益平

『摩星棲歌帖抄』(歌集 550首 大正13・雄文堂)に佐渡を詠ったものが載る。
大正5年秋から12年末までの作品より選んだ歌集で、歌を作った季節によって四季に分類してある。凡例に作者は「越路五泉町摩星棲にて」と記している。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)


★式場 隆三郎(しきば りゅうざぶろう)

しき式場隆三郎 しき式場隆三郎4

しき式場隆三郎1 しき式場隆三郎3 しき式場隆三郎2 

1898年7月2日 - 1965年11月21日)は新潟県中蒲原郡生まれの日本の精神科医。専門は精神病理学。医学博士(新潟医科大学・1929年)
佐渡との関連では、新穂縁の山下清の才能を見出し支援し、また、同じく佐渡縁の本間一夫の活動の援助を行った。

『我が人生「日本点字図書館」』(本間一夫著 2001年 日本図書センター)より
(欧米の風にふれて)
第三回の世界盲人福祉会議が昭和三十九(一九六四)年の夏、ニューヨークで開かれるということば聞いていました。しかし、まだまだその日暮らしの図書館では、アメリカ行きの余裕など考えられません。ところが、その年の二月三日のことです。後援会長の式場隆三郎先生が久々でお見えになり、用談を終えて帰られようとした時、ふと私がこの会議のことをロにすると、先生は一度上げた腰をどっかと下ろし、「行きなさい。加藤さんと一緒に」と命令口調でおっしゃるのです。「お金がありません」「金の心配は後援会がします」といったやりとりがあって、あっという間に二人の渡米は決まってしまいました。それから半年、募金には我々も努力しましたが、式場先生が非常に頑張られ、航空運賃をアメリカ大使館がもってくれたのも加えれば、目標の二百万円の二倍も集まり、ヨーロッパへ回れることにもなりました。羽田出発は七月二十五日の夜、女子職員など華やかな見送りでした。ケネディ空港ではアメリカ国務省が派遣してくれた通訳のペリーさんに、いきなり日本語で話しかけられ・・

「私家版・精神医学用語辞典」より
式場隆三郎という精神科医がいる。別に日本の精神医学史に残るような業績は何一つないし、実際どんな精神医学書にも名前が出てくることはないのだけれど、この人は戦前から戦後にかけて、おそらく日本で最も有名だった精神科医である。
 私の手元には昭和36年に出版された『現代知性全集(49) 式場隆三郎集』という本(すごいタイトルだね)があるのだけれど、この全集に収められているメンバーはいえば、大宅壮一、和辻哲郎、小林秀雄、佐藤春夫、中谷宇吉郎……という面々。つまりは、当時はそうした錚々たるメンバーに伍する「知性」とみられていたということだ。
 この式場隆三郎先生、いちばん有名な業績はというと、あの「裸の大将」こと山下清を発見し、保護者兼プロデューサーとして売り出したこと。山下清作品集を何冊も刊行したり展覧会を開いたり、一緒にヨーロッパ旅行に出かけたりもしている。三島由紀夫とも親交があったらしく、三島は『仮面の告白』刊行直後、自らの同性愛傾向を認めた書簡を式場先生宛てにしたためている(何年か前にこの書簡が公開されて話題になりました)。
 生涯に書いた著書はなんと194冊。特にゴッホ研究の権威として知られ、ゴッホについては50冊以上の著書(まあ画集の解説文も含めてだけど)がある。『処女のこころ』『人妻の教養』などの女性向け実用書はベストセラーになり、「女性問題評論家」(って何?)としても知られていた……というのだけれど、おびただしい数の著書は今ではほとんど忘れ去られ、現在でも読まれている本はたったの一冊、「日本のシュヴァルの理想宮」とでもいうべき奇怪な建築について書いた『二笑亭綺譚』(ちくま文庫)のみ。
 しかも式場先生の活動はそんなものにはとどまらず、おそろしく多岐にわたっているのだ。若い頃には小説も出版しているし、民芸運動の父と言われる柳宗悦とともに日本民芸協会に参加したりもしている。昭和14年には頭脳薬品シキバ・ブレノンなる謎の薬品を創製、発売したりもしている。戦後になると、松方コレクションの返還と上野の国立西洋美術館設立に尽力したり、日刊紙「東京タイムス」を創刊して主筆兼社長になったり、日比谷出版社を創立して永井隆『長崎の鐘』をベストセラーにしたり、伊豆にホテル・オームロを建設して取締役社長に就任したり……という具合。なぜか帝国華道院会長に就任したり、日本ハンドボール協会会長になったりもしている。
 本業の精神科の方では昭和5年、32歳で静岡県大宮病院長に就任、38歳のときに市川市に国府台病院(現在の式場病院)を設立。どうも、医者としてはともかくとして、実業家、文筆家、芸術愛好家として、おそろしくエネルギッシュな人物だったようだ。
 彼が建てた式場病院は、今なお広大なバラ園で有名で、その庭は一般に開放されている。中井英夫の『とらんぷ譚』に登場する、バラ園のある精神病院「流薔園」は、この式場病院をヒントにしたものだろう。
 中井英夫は式場病院のバラ園について、いかにも幻想文学者らしく「それよりも何より嬉しいのはここが精神病院だということで、狂気と薔薇ぐらい互みに映り合い韻き合うものは少ないだろう」(「薔薇と狂気と」)と書いているのだけれど、式場隆三郎が自分の病院にバラ園を作った意図は、それとはまったく正反対のところにあったようだ。

 病院の敷地は一万二千坪ぐらいだが、そのうち約三千坪ぐらいをバラ園にした。(中略)バラは二千本ぐらいで、その種類は約六百種である。もとより、つるバラも多い。春の五月、秋の十月は病院の内外には、無数の美しいバラの花々が咲きそろう。(中略)精神病院らしい陰惨さをもたせないように、努力した。この意図はほぼ成功して、近くの子どもも親しんで入ってくるようになった。数年前の春のバラの頃、アメリカのある大学の精神病学者が視察に来たことがある。そのときちょうど市川市内の幼稚園のこどもたちが数百人も病院の庭へきて遊び、昼食をしているのだった。アメリカの医学者はびっくりしてしまった。世界中どこの精神病院も、いかめしい感じや、恐ろしい感じがして、おとなも近づかない。それなのにこの病院では、まるで遊山にでもいったように子どもたちが楽しく遊んでいるではないか。
(式場隆三郎「精神病院の緑化」 昭和35年)

 今でこそ地域との衝突や偏見の解消のため、精神病院の地域への開放が進められるようになってきたわけだけど、現在よりもはるかに精神病への偏見が強かった当時としてはきわめて先進的な発想といえるだろう。この一点だけでも、式場隆三郎は再評価されてもいいんじゃないかと思いますね。誰か式場隆三郎伝を書いてくれないものだろうか。
 ちなみに日本のレーサーの草分けである式場壮吉は彼の息子。そして、式場壮吉の妻である欧陽菲菲(『ラブ・イズ・オーバー』を歌った歌手)は義理の娘ということになる。

「ウイキペディア」より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E5%A0%B4%E9%9A%86%E4%B8%89%E9%83%8E


★式部作蔵

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
弘化三年生 澤根町澤根村 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、高等女学校[四十年三月二十日]・明4、佐渡水産学校[四十年三月二十日]


★式部長吉(しきぶながよし)

しき式部長吉 (1) しき式部長吉 (2) しき式部長吉 (3)


★時雨音羽(しぐれおとわ)

しぐ時雨音羽 (2) しぐ時雨音羽
(新潟大学 池田哲夫先生より)
父が旧佐渡郡高千村入川出身の池野邦蔵。音羽は5人兄弟の末っ子。父は佐渡から礼文島に亘って成功したと云う。
入川の実家は池田又兵衛であるが、すでに家は絶えている。入川の菩提寺(近藤住職)に墓が残る。
事情があって邦蔵は故郷を去ったようだ。
音羽の兄弟に池田重太郎がおり、「思いでの記」(1983年刊)を書いている。そこに、小学校の時、音羽が大怪我をし、母が自分の故郷である佐渡真野町の名医(接骨師?)の所に数か月間音羽を連れて行き治療したことが書かれている。

下記の歌に佐渡が詠われている。

「陣中唄くらべ」(作詞 時雨音羽 作曲 草笛圭三)

さても陣中唄比べ 髭の軍曹さん信濃路の 浅間間近な村育ち 
隊じゃ無敵の喉自慢  小諸出てみよ浅間の山によー

駿河生まれは兵長さん 富士の夕焼け思い出す 椰子で作った張り扇
ポンと叩いてお粗末を  上り下りの旅の笠  覗く燕も東海道  糸より細い雨の中

おけさ踊りは輪になって 躍るジャワの子マレーの子 伍長上手な音頭取り 思い出させる月が出る
 佐渡へ佐渡へと 漣越えて 鐘が聞こえる寺泊まり

「ウィキペディア」より
1899年(明治42年)3月19日 - 1980年(昭和55年)7月25日)は、昭和期の作詞家。本名池野音吉。

・経歴
北海道利尻島出身。新湊小学校、沓形小学校高等科卒業。
その後、沓形村役場に勤めていたが、1918年(大正7年)頃上京する。日本大学法科に検定で合格し、卒業後、大蔵省主税局織物課に勤めた。1925年(大正14年)、新大衆誌『キング』9月号に講談社の依頼で「朝日をあびて(後の出船の港)」を掲載。この詩は、中山晋平が作曲し藤原義江が歌ってヒットした。これがきっかけで、創設したばかりのビクターレコードに文芸顧問として入社。「君恋し」、「浪花小唄」とヒット曲を書き、レコード界草創期の流行歌作詞家となった。
1957年公開の東宝映画「雨情」の原作、歌舞伎座の脚本「最初の悪魔」、文藝春秋「樹下の一夜」など数々の脚本を手がけた。1969年、紫綬褒章を受章。
主な著作に、日本講演協会「塩と民族」、「島物語」、現代教養文庫「日本歌謡集 明治・大正・昭和の流行歌」などがる。

・作品
『出船の港』(昭和3年2月)[中山晋平作曲、歌:藤原義江]
『鉾をおさめて』(昭和3年7月)[中山晋平作曲、歌:藤原義江]
『君恋し』(昭和3年12月)[佐々紅華作曲、歌:二村定一]
『神田小唄』(昭和4年3月)[佐々紅華作曲、歌:二村定一]
『浪花小唄』(昭和4年6月)[佐々紅華作曲、歌:二村定一・藤本二三吉]
『摩天楼』(昭和4年11月)[佐々紅華作曲、歌:佐藤千夜子]
『さらば上海』(昭和7年4月)[古賀政男作曲、歌:関種子]
『海のセレナーデ』(昭和8年3月)[竹岡信幸作曲、歌:春山一夫]
『ゆるしてネ』(昭和10年3月)[江口夜詩作曲、歌:赤坂小梅]
『家なき児』(昭和10年5月)[田村しげる作曲、歌:東海林太郎]
『江戸節みやげ子守歌』(昭和11年3月)[阿部武雄作曲、歌:高田浩吉]
『チンライ節』(昭和13年8月)[田村しげる作曲、歌:樋口静雄]
『上海の踊り子』(昭和15年4月)[細川潤一作曲、歌:松島詩子]
『広東の踊り子』(昭和15年9月)[細川潤一作曲、歌:松島詩子]
『スキー』(昭和17年)[平井康三郎作曲]


★しけ

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国多田村(畑野町)の寡婦である。舅に仕えて貞信の理由で文化六年(一八〇九年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)


★次左衛門

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
町年寄。佐渡国沢根村(佐和田町)の重立である。平日町内取締宜敷に付、弘化三年(一八四六年)五月六日に役所から町年寄を申渡された。(佐渡年代記下巻)


★宍戸錠

しし宍戸錠
昭和34年『渡り鳥いつまた帰る』のロケ
しし宍戸錠 (1) しし宍戸錠 (2) しし宍戸錠 (3) しし宍戸錠 (4) しし宍戸錠 (5) しし宍戸錠 (6) しし宍戸錠 (7) しし宍戸錠 (8) しし宍戸錠 (9)


★静 與右衛門

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
し静與右衛門


★静野与右衛門(しずのようえもん)

【生没】(生・没年不詳) 寛文ー元禄頃の振矩師(測量師)。奉行曽根五郎兵衛の代官土田勘兵衛より、追手流算術を学び追手与右衛門とも、後、一昌ともいう。与右衛門の測量によって、割間歩から南沢滝の下まで、石中五百三間二尺(水平距離・後出「振矩絵図」他)の大水貫を、途中二か所より斜坑を掘り下げ、三工区に分け六方から工事を行い、元禄四年(一六九一)七月から九年五月までの約五年、他に類をみない短期間で完成、「金銀山あらん限りの大業」と称された。後に、滝の下より大安寺門前までの延長工事を行ったが、これが著名な南沢大疎水坑である。与右衛門の振矩の技術は、元禄八年の「佐州相川惣銀山地行間数并高下振矩絵図」ほか、多くの絵図にもみることができる。また、元禄十年に始まった水車による低品位鉱の粉成も、与右衛門の発案である。振矩師として著名でありながら、長らく晩年の消息が不明であったが、昭和五十年加茂市加茂真柄万兵衛家に、先祖は佐渡から移り住んだ静野与右衛門であるとの伝承があり、「振矩与右衛門」の「鶴子惣振矩図」(元禄十四年)、「佐州相川之図」(元禄八年)などが伝えられていることを確認したが、その後田中圭一氏が、同家の古過去帳の断片に、相川勘四郎町・小野見村などの記載を発見しているから、万兵衛家が与右衛門の系譜をひく家柄であることは間違いない。なお箱根(深良)用水の、友野与右衛門とは別人である。
【関連】振矩師(ふりかねし)・土田勘兵衛(つちだかんべい)・南沢疎水坑(みなみざわそすいこう) 【参考文献】田中圭一『佐渡金銀山文書の読み方・調べ方』、金子 勉「振矩師雑記」(『佐渡郷土文化』)、同「振矩師静野与右衛門について」(『佐渡史学』) 【執筆者】金子勉 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「朝日日本歴史人物事典」の解説.
生年: 生没年不詳  江戸前期の算学者。佐渡金山の測量技術者。佐渡相川の人。町人で,上田勘兵衛という者から追手流の算術を学んだ(『佐渡相川誌』)とあるが,生い立ちや技術の系譜は不明。元禄4(1691)年から,佐渡奉行荻原重秀のもとで,大量の地下水を日本海に流すため,4年10カ月かけて総延長1.1km余の地下排水路(南沢水貫間切)を掘削。工期を早めるため開始点と終点の中間に2本の竪穴を掘り下げて工区を3分し,それぞれ前後合計6カ所から掘進する画期的な工法がとられたが,与右衛門がその測量を行った。この工事の完成で金山は「元禄の大盛り」といわれる最盛期を迎え,坑道完成以前の約5倍,年間の運上銀はおよそ1200貫となる。この排水坑道は平成1(1989)年の閉山まで排水路としての機能を果たした。<参考文献>麓三郎『佐渡金銀山史話』,磯部欣三『佐渡金山』(磯部欣三)

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
し静野與右衛門

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人である。数学に詳しく、相川鉱山の測量師をつとめた。
元禄(一六八八~一七〇三年)年中、萩原孝行を助け、相川の割間歩鉱坑の排水工事を完成して功をたてた。(佐渡人名辞書)

『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
江戸時代なかば元禄のころ、相川に南沢大水貫というものができて相川の鉱山が生き返ったことがある。世に荻原近江守様時代といわれる時代である。このとき相川の海岸から道遊まで水貫坑道の測量をした人物が静野与右衛門である。その子孫がいま加茂市(新潟県)に住むが、その真柄家に静野与右衛門がつくった鶴子銀山の惣水貫測量図というものがある。


★静間義敬

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で和歌にすぐれていた。天保文芸集及名所歌集にその歌がのっている。(佐渡人名辞書)


★静馬長孝

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
し静馬長孝

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で州吏、
通称を甚右衛門といい、和歌をよくした。寛保元年(一七四一年)になくなった。(佐渡人名辞蕃)



★静間仁作

「岩首校百年誌」(昭和55年)
しず静間仁作 岩首校百年誌(昭和55年)


★静馬備種

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
し静馬備種

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人。連歌をよくした。(佐渡人名辞書)


★静間備恕 

連歌関係者 →下記資料のp680
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』


★静間勝

佐渡高校時代の昭和37、新潟県教育委員会主催「学生新開」コンクール、「佐高新開」第68号1位入賞の時の部長(参加校26校)


★鎮目市左衛門(しずめいちざえもん)

【生没】一五六四ー一六二七 名は惟明。佐渡奉行。元和四年(一六一八)より寛永四年まで支配。同年七月十四日佐渡において病死。下相川村吹上に葬る。先祖は甲斐国山梨郡鎮目村の出身。父は武田信玄、勝頼二代に仕え、武田家滅亡により隠居。惟明は幼名半次郎、二代将軍秀忠から市左衛門の名をもらう。関ケ原の役に秀忠の旗下、信州上田城攻めでは七本槍の一人として活躍した。この功で大番組頭に抜擢され、家禄千石をもらった。元和四年より、竹村九郎右衛門と同役で佐渡奉行。竹村は江戸在住が多かったといわれ、佐渡支配は鎮目の意見が採り入れられた。鎮目支配の十年間、即ち元和から寛永初期にかけては、『佐渡年代記』では「山出の金銀も前後無類の盛を得る」とあり、金銀山最大の盛行となった。鎮目の業績は、奉行陣屋の縮少と積極的産金政策や、相川での小判鋳造と佐渡一国通用の極印銀の発行などがあった。元和末期から衰退に向った金銀山の復興のために、山主への資金と資材の貸与、鉱山労働者への安米制度、御直山のたてなおしなどがあった。これらの政策転換にともない各番所の微税、港湾整備などの推進強化があり、同役の竹村九郎右衛門は、廻船・湊・流通面の役割を担っていた。寛永四年七月十四日、佐渡にて死亡。年六四歳。死因には諸説があるが、戸地村巡視の途中、急死したといわれる。下相川吹上浦に葬り(昭和三十三年三月、県の史跡指定となる)、法名は天山柏青大居士。菩提寺は山之神総源寺。
【関連】吹上(ふきあげ)・総源寺(そうげんじ) 【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、『佐渡相川の歴史』(資料集二) 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、元和四年(一六一八年)より寛永四年(一六二七年)まで在任した。惟明といい、知行ほ千石であった。田地の等位を改正して公平にし、寺社の除田除米を確定し、鉱山の発展をはかり通貨を鋳造した。五年七月十四日に佐渡でなくなった。相川町吹上総源寺に葬った。奉行任命は佐渡遺事によった。佐渡大観には元和三年とある。佐渡人名辞書にほ寛永四年七月に相川に於て卒す。享年六十四、とある。(佐島遺事、佐渡大観、佐渡人名辞書)

「ウィキペディア」より

鎮目惟明(しずめ これあき、永禄7年(1564年) - 寛永4年7月14日(1627年8月24日))
安土桃山時代から江戸時代初期の武将、佐渡奉行。幼名は半次郎、通称は市左衛門。上田七本槍の1人。
『寛政重修諸家譜』によれば鎮目氏は甲斐国山梨郡鎮目村(現在の笛吹市春日居町鎮目)の出自で、父は二代鎮目惟真、母は甘利虎泰の娘。鎮目氏は初代七郎右衛門以来、甲斐守護武田氏の家臣で、惟真は武田信玄・勝頼の二代に仕え、武田家滅亡とともに隠居し鎮目氏は武田浪人となり、惟明の代で徳川氏に仕える。子に長男の惟吉、次男の惟忠(藤兵衛)がいる。

・略歴
甲斐国に生まれる。『寛政譜』によれば武田氏滅亡後に徳川氏に仕え、徳川家康に近侍したという。豊臣政権期に徳川氏が関東移封されると父の惟真を残して甲斐を去り、文禄元年(1592年)に徳川秀忠付となる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠率いる徳川勢本隊に配属され上田合戦において活躍し、上田七本槍と称さるが、軍令違反であり処罰され、知行地があったと考えられている上野国吾妻郡に蟄居する。翌年許され、この功により大番組頭となり1,600石を給される。大坂の役では使番となり、首級1つを挙げた。
元和4年(1618年)、新将軍となった秀忠の刷新人事の一環として竹村九郎右衛門嘉理(嘉政)とともに佐渡奉行となる。惟明は佐渡へ渡り、惟明と同じ武田浪人であった大久保長安の改革による盛期を過ぎた佐渡金山の経営を復興させた。竹村は江戸在住期間が長く、惟明の手腕によるものと評価されている。竹村は主に港湾、船などの輸送、流通面を担当した。惟明は、諏訪間歩など33間歩に公費を投入し、「御直山」として取り立てたり、金山・銀山の山主の経営する「自分山」からの公納の定率化をはかり、山主の経営を安定させた。また、米を市価の二割安で全町民に安く提供したり、貨幣流通の円滑化および銀の島外流出を防ぐため、佐渡国しか通用しない極印銀や小判を造るなどした。これにより経済の活性化と生産量の増加により島の経済は活況を呈した。また惟明は、筋金のままだと日本海の荒波の中の輸送が困難を極める為、輸送しやすい小判にて運ぶことを上書した。元和7年(1621年)7月20日、後藤庄三郎は、惟明に伺いをたて、配下の後藤庄兵衛、浅香三十郎が初めて小判の鋳造を始めた。また、金銀の増産をはかるためにピストン式排水ポンプなど新技術を導入し、年間50t以上の銀、400kg近い金を産出するに至る。この時期が佐渡金山の全盛期で(「佐渡年代記」に「山出の金銀も前後無類の盛を得る」とある)、多くの善政を敷いた名奉行として近世までその功績を称える「鎮目祭」が行われていた。また金山に限らず、新田の開発もしたとする記録が残っている。
佐渡国戸地村の鉱山施設の巡視の途中に現在墓がある地点で急死した。享年64。川狩り(釣り)をしていたところ体調を崩したという(『佐渡国略記』)。死因については伝承があり、惟明が無類の釣好きで、相川・吹
上ヶ浦で大蛸を釣り上げた時に海に引きずりこまれそうになり、刀を抜いて自らの手を切断した時の傷が元でなくなったとか、巡視中に戸地川のトノフチで事故死したなど諸説ある。
墓は佐渡市下相川、位牌は佐渡市相川山之神総源寺にある。法名、天山柏青大居士。墓は惟明の死後、弘化2年(1845年)に長男惟吉の8代後の鎮目惟成、次男惟忠の8代後の鎮目喜一らにより現在の位置に建
てられた。墓は昭和33年3月5日に新潟県指定史跡になった。
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「世界大百科事典」内の鎮目市左衛門の言及.
【佐渡金山】より
…長安は谷底から水貫(みずぬき)を掘って水没した捨て間歩の復活をはかり,復活した間歩を山師に稼がせて出た鉱石を荷分けした。ついで17年(元和3)佐渡奉行となった鎮目市左衛門は直山(じきやま)を増やし,2割安米を渡すなど鉱山と鉱山民を保護し,再び鉱山は活況におもむいた。大山師味方但馬が活躍したのはこの時期である。…

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
し鎮目惟明(市左衛門)

新潟日報 h28年7月24日
しず鎮目市左衛門 h28724


★慈船

『加茂村誌』(昭和38年)
じせ慈船
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
じ慈船

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
禅僧。出生地はわからない。延宝(一六七三七~八〇年)のころ佐渡加茂村(両津市)富月寺の住職となった。
元禄四年(一六九一年)和泉正法寺に移り、はじめて佐渡へ石一切経を購入した。
享保(一七一六~三五年)のころ越後赤田(柏崎市)東福寺に移り、同十六年(一七三一年)になくなった。(佐渡人名静香)
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
じせ慈船和尚 佐渡国泉の人物誌 h29年11月


★信田伊左衛門

『佐渡酒誌』(平成14年)
しだ信田伊左衛門 『佐渡酒誌』(平成14年) (2)
しだ信田伊左衛門 『佐渡酒誌』(平成14年)


★志田静子

『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の茶の湯は裏千家流志田静子と会員約五十名、江戸千家流金沢フミ外五十名があり、一時佐藤徹次郎等の同好会四日会もあった。現在はわずかに大野杉山スエが自宅で、その他総合センターの講座等で教えている。


★志田七左衛門

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
しだ志田七左衛門 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)


★志田友吉

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
政党史では吉田友吉と誤記、相川 ・明3、在京学徒鵜飼を訪問す[二十五年一月二十三日]


★設楽長兵衛(しだらちょうべい)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、寛永八年(一六三一年)より十一年まで在任した。
貞清または嘉英といい、知行は千二百石であった。(佐島遺事)


★七右衛門

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国大須村(真野町)の旧家である。文政十二年(一八二九年)に小前百姓をいたわり困窮の者へは金銭米穀を与え、西三川かなこ共へも年来仕送りし、近郷の者も帰服し、取締にも相成趣相聞につき、役所に呼出されて褒賞された。(佐渡年代記中巻)


★七左衛門

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国松ケ崎村(畑野町)重立である。七左衛門外六人は専ら質朴を守り、文政十三年(一八三〇年)役所に呼出され、それぞれ白銀を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)


★七左衛門

「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)


★七兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
開拓者。佐渡郡小木町田町の人である。享和二年(一八〇二年)の大地震で干潟となった尾関浜二町四反二十四歩(二・四ヘクタール)余の土地を六兵衛と協力して開田した。(南佐渡のくらし)


★七兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川中京町の人である。夫婦共老母に孝養を尽くしたので、文政元年(一八-八年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)


★志苫裕(しとまゆたか)

『島の新聞』94号
1927年11月27日-2006年10月26日、78歳。両津町出身、旧社会党・社会民主党の参議院議員、県議を3期務め、74年
参議院新潟地方区で初当選。89年に県知事選に出馬するも敗れ、92年参議院に返り咲き4期21年間参院議員。98年引退。

「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より
しと志苫裕
「岩首校百年誌」(昭和55年)
しと志苫裕 岩首校百年誌(昭和55年)
「ウィキペディア」より
1927年11月29日 - 2006年10月26日)は、日本の政治家。元日本社会党・社会民主党参議院議員。
新潟県出身。新潟県立佐渡農学校卒業。1974年の参院選に社会党公認で新潟地方区から出馬し初当選。通算当選4回。3期目の途中の1989年、議員辞職し新潟県知事選に出馬したが、自民党が推薦する金子清に敗れ落選。3年後の1992年、参院議員に返り咲き、1998年、政界引退。党内では土井たか子に近い左派として知られ、1994年細川内閣が提出した小選挙区比例代表並立制を柱とする政治改革関連法案に反対票を投じ、「党員権100日停止」の処分を受けたことがある。「在日韓国人政治犯釈放の要望書」に署名。
2006年10月26日午後2時24分、脳内出血のため新潟市内の病院で死去。78歳。


★志な

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国北鵜島村(両津市)三七の母である。天保五年(一八三四年)に九十五才になったので役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記下巻)


★品川三郎

畑野出身、昭和21年生まれ。
佐渡高校卒、電報電話局勤務。
退職後、各種地域起こしボランティアとして活躍する。

「新潟日報」(平成26年7月8日)
しな品川三郎 (1)

しな品川三郎 (2)


★品川弥二郎

「不屈の少年・山本悌二郎」(「佐渡の百年」)


★信濃屋惣兵衛

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
あわ阿波屋徳左衛門他 (1)
あわ阿波屋徳左衛門他 (2)
あわ阿波屋徳左衛門他 (3)


★信田完明

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
しの信田完明


★信田源右衛門 

『赤泊村誌(上)』より
赤泊新谷(元々は新屋)の開発者。
承応三年(一六五四)九月、源右衛門が奉行所へ出した新屋の申請状がのこっている。それには、「赤泊村地のうち、かんばか山というところに新家を一軒建てたいと思うので御見分を願いたい。当年から三年目から御地子を分納させてもらいたい。」というもので、中使の理左衛門が承認の判を押している。奉行所はこの申請に対して「新屋所一ケ所の申請についてほ、ほかの人が障害がなければ中使・与頭が立合い見届けた上、その場所を本人に渡すように、もしこの跡(後)も他の人でそういう希望があればそれを受付けるように」と許可を与えたのであった。ついこの間までは個人が村の山を申請して開発し、自分の所有にするということは村人には考えられないことであった。それがいま、奉行所が画期的な新田開発方針を打ち出したことによって、赤泊地域の人たちが中世以来つづけてきた考えを変えるようになったことは確実である。
かんばか山に家を建てた源右衛門はそれからも開墾につとめた。そして一〇年後、源右衛門ほ子供の徳和村兵吉と、赤泊村源次郎に譲り分として田をくれたのであった。まず兵吉には、土橋の田一ケ所、よこめの田一ケ所を、源次郎には別当尾尻の田一ケ所、長尾尻の一ケ所をくれた。
この源右衛門は現在の信田・観波ケ山(かんばがやま)家の先祖である。観波ケ山家と徳和、山寺の沢家(信田氏) には、一つのいい伝えがある。観波ケ山の先祖はもとは沢家を継ぐべき人であったが、赤泊新谷へ行き、弟が沢家を継いだ。赤泊へ分れてくる時、家宝として三つの壷を持って釆たと。現在、観波ケ山家には江戸初期は下らないとされる信楽焼もしくは伊賀焼と思われる家宝の壷が残っている。
さて、この開墾は、子供の源次郎にもうけ継がれた。寛文七年(一六六七)七月、源次郎はかんばが山に水田の適地一ケ所を見付けて開田の申請をしている。
元禄検地で源右衛門の田畑をみると一代か二代の問に相当な田畑を開墾していることがわかる。


★信田早苗

佐渡高校時代の平成4,高校囲碁選手権県大会女子団体戦1位(栃倉範子・光村美紀・信田早苗)、高校囲碁選手権全国大会女子団体戦(栃倉・光村・信田)7位入賞


★信田三五郎

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
し信田三五郎

し信田三五郎 (2)


★信田周敬

佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
しの信田周敬
赤泊で信田写真館、優美堂を経営する。後者から大正14年発行の『佐渡観光写真大集』は大変な労作であり、後世の貴重な資料となっている。


★信田政臣

しだ信田政臣 (1) しだ信田政臣 (2) しだ信田政臣 (4)


★篠原豊

『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
しの篠原豊 新潟県官民肖像録 明治41年


★篠屋金兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国新町の人である。去る巳年(文政十二年)名主役を申しつけられたが、御用筋大切に取扱い、村方取締がよろしいので、文政十三年(一八三〇年)倅秀蔵を名主見習とし役所へ呼び出され、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)


★篠山景徳(しのやまかげのり)

 通称十兵衛。天保五年(一八三四)から同十一年までの佐渡奉行で、元佐渡奉行篠山景義の子。在任五年余で、この間天保飢饉・佐渡一国騒動(天保九年一揆)に遭遇した。相役は鳥居八右衛門正房で、天保一揆勃発のときの在勤は鳥居で篠山は在府していたが、五月に起こった一揆は八月になっても鎮まらず、打毀しは南佐渡各地に波及したため、篠山奉行は老中水野忠邦の命を受けて、同月江戸評定所留役・目付および高田藩兵二○○名を率いて渡海し、この軍事力を背景に一揆を鎮圧した。天保十一年十一月鳥居奉行の後任として、一揆の事後処理に来任した川路聖謨に事務を引継いだ。天保一揆の原因は、天保初年からの連年の飢饉だけでなく、広恵倉仕法など佐渡支配の積年の幣政にあった。しかし幕府は、一揆勃発時在勤の鳥居奉行の一揆への対応が、一旦入牢した頭取上山田村善兵衛を、一揆の要求を容れて釈放したこと、年貢収納事務に不適正があったことを理由に、鳥居正房を御役御免、小普請入、逼塞に処し、篠原景徳は処罰されなかった。
【関連】広恵倉(こうえいそう)・中川善兵衛(なかがわぜんべい) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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<日本歴史大辞典から>

佐渡の国天保9年一揆
 1831(天保2年)以来打ち続く凶作に佐渡の農民が免訴を願い出たが、奉行所は顧みなかった。上山田村の善兵衛は奉行所たのむにたらずとし、時機を待った。たまたま38年(天保9年)将軍交代の御料所巡見
使が渡島する触出があった。善兵衛は、同士村山村神官宮岡豊後ら数名と図り佐渡奉行所のひ政、地役人の悪習、農民の窮状を数カ条にしたため(内容不明)、訴状を作って巡見使を待った。 巡見使広木義太郎ら
は4月19日小木港へ到着、島内の巡見を終えて5月2日に佐渡を去ったがこの間に道中で訴状を提出され受理した。次いで甲使巡見使木下内記らが5月13日来島、巡見回村中に善兵衛らは更に二個条を追加して村山村市右衛門の名を以て提出した。奉行鳥居八右衛門は地役人に命じて、昨春大塩の乱のこともあり、農民に徒党の禁を犯さないことを諭し、善兵衛を召喚して事情をただそうとしたが、善兵衛が応じないので小木で捕らえて相川まで引き立て、取り調べたが黙秘しているのでやむなく投獄した。宮岡らはこれを不服として八幡宮社前に一万余の農民を集めて奉行所を襲い、善兵衛を奪い還そうとした。奉行所は驚いて直ちにこれを弾圧しようとしたが、地役人井口方義は農民の感情を察し、事の拡大を恐れ、善兵衛を釈放したのでいちじ事無くすんだ。し証、農民はかえって勢いに乗じて5月24日八幡村名主四郎吉宅を襲撃したのを始めとし、各地に問屋富豪を襲い、8月に入っても暴動が止まず、奉行所はその都度首謀者を捕らえて投獄した。8月篠山十兵衛奉行は高田藩兵200人を率いて相川につき、直ちに善兵衛ら7人を捕らえて糾明すると、地役人の姦曲が一揆の原因たることを知り、地役人7人を揚屋入りとし翌年3月審理を江戸奉行に引き渡した。江戸へ送られた地役人、農民12人は伝馬町の獄にあるうちに、多くは病死して、判決は翌11年6月に延びた。役人側では佐渡奉行2人差控となったほか64人が処罰され、農民側では善兵衛が獄門、宮岡豊後の死罪をはじめ遠島三人その他86人処刑、また連帯で村高に応じて過料に処せられたもの二百数十か村に及んだ。この一揆は首謀者は極刑を受けたが、地役人の不正が正されたので一揆の目的はなかば達した。


★篠山重兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文化十三年(一八一六年)十月八日、勘定吟味役より佐渡奉行となった。
名ほ景義、知行は二百俵、役料千五百俵百人扶持である。十四年八月二十三日、病死した。
相川山之神曹洞宗総源寺に葬った。(佐島遺事)


★篠山十兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、天保七年(一八三四年)四月八日、徒士頭より佐渡奉行となった。八年四月七日相川へ着任した。
名は伴景篤または景徳といい、知行は二百俵、役料は千五百俵百人扶持である。十一年十一月二十日に先手鉄砲頭へ転役となった。(佐島遺事)


★司馬亨太郎→司馬亨太郎(こうたろう)


★司馬亨太郎(こうたろう)

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司馬凌海の長男。母は肥前国松浦郡平戸の平戸藩医師・岡口等伝の娘。凌海は一時岡口家に婿入りした。その時の長男である。

「ウイキペディア」より
司馬 亨太郎(しば こうたろう、1862年‐1936年)は、ドイツ語学者、獨逸学協会中学校8代校長、理事。医学者・語学者の司馬凌海は父。 東宮御用掛、陸軍大学校陸軍教授、学習院教授、逓信官吏練習所教官を歴任。正五位勲三等。

(略歴)
文久元年(1862年):医学者・語学者の司馬凌海の長男として生まれる
明治16年(1883年):山口県中学校
昭和4年(1929年):獨逸学協会中学校校長
昭和11年(1936年)2月11日:東京帝国大学病院にて死去、享年74。
墓碑は東京都港区の青山霊園(一種イ6号4側)に「司馬家・小池家」として現存
(栄典)
1902年(明治35年)12月27日 - 勲五等瑞宝章[1]
1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章・明治三十七八年従軍記章[2]
1916年(大正5年)1月17日 - 正五位[3]
(著書)
海浴要覧 (香朶棲蔵版、明治21年4月)、松本順補
野外要務令問答 (八尾書店、明治28年12月)
露軍の一斑 絵入 (東洋文学会、明治36年11月)
実用独逸文法書 (南江堂、明治37年1月)
黄金村 立志小説 (訳、博文館、明治42年9月)
和独兵語辞彙 (精華書院、明治42年12月)
巴爾克戦術書

「七段の女流棋士」(「佐渡の百年」)


★斯波義淳(しばよしあつ)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国守護である。義豊の父でその死後に再び守護となった。永享五年(一四三三年)十二月二日になくなった。(新潟県史)


★斯波義郷(しばよしさと)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国の守護である。永享八年(一四三六年)十月三十日になくなった。(新潟県史)
  

★斯波義健(しばよしたけ)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国の守護である。享徳元年(一四五二年)九月一日になくなった。(新潟県史)


★斯波義豊(しばよしとよ)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国の守護で永享四年(一四三二年)六月十二日になくなった。
死後父の義淳(よしあつ)が再び政事をとったが、後に弟の義郷があと継ぎとなった。(新潟県史)


★斯波義持(しばよしもち)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
応永十七年(一四一〇年)四月七日に佐渡国守の現職でなくなった。義将ともいう。
足利尊氏の一族で北陸道方面の大将となり新田義貞、義顕父子を殺し越後の人びとも攻め殺された。
室町幕府の三管領となり六か国の守護を兼ねた。佐渡国守護となった年月日はわからない。(新潟県史)


★司馬凌海(しばりょうかい)

新町 円静寺墓
しば司馬凌海 新町 円静寺墓 (1) しば司馬凌海 新町 円静寺墓 (2) しば司馬凌海 新町 円静寺墓 (3)
真野公園文学碑
しば司馬凌海 真野公園文学碑
しば司馬凌海1 しば司馬凌海2 しば司馬凌海3 しば司馬凌海4 しば司馬凌海5
【生没】一八三九ー七九 日本初の『独和辞典』を刊行した語学者・蘭法医。天保十年十一月二十八日、雑太郡新町村(現真野町新町)に、島倉栄助・ラクの長男として生まれた。幼名を亥之助といい、祖父伊右衛門の意向によって、嘉永三
年(一八五○)一一歳の時、江戸に出て、唐津藩の山田寛について漢籍を、のち松本良甫に蘭学を、佐藤泰然に医学を学び、江戸滞在が六年におよび帰島する。しかし安政五年(一八五八)松本良甫の養子良順が、幕命を受け長崎に行き、オランダの医師ポンペに從学する時、凌海を伴った。この約三年間長崎滞在中に、医学とオランダ語の上達とともに、英語・ドイツ語・フランス語・中国語を身につけ、ロシア語・ラテン語・ギリシャ語も少しは心得るようになったと言われる。また、島倉姓を司馬と改め、諱は盈之、凌海は通称である。なお、この長崎滞在中に書いた『七新薬』を、文久二年(一八六二)に尚新堂から刊行しているが、日本の薬学史上重要なこととされている。凌海は、長崎から帰島するが、明治維新ころ佐渡を離れ、横浜で通訳をしていたところ医学校に迎えられ、明治三年(一八七○)には、少博士・正七位になった。また、このころ下谷練塀町に私塾「春風社」を開き、明治五年には日本最初の本格的な独和辞典『和訳独逸辞典』を出版し、明治九年には愛知県病院医および医学教師となったが、明治十二年三月十一日、三九歳で没した。司馬遼太郎の長編小説『胡蝶の夢』には、凌海こと伊之助が副主人公として登場する。
【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』、同『写真集・司馬凌海先生』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

『胡蝶の夢』
幕末・明治初年の近代医学の夜明けの群像を松本良願・関寛斎・島倉伊之助を中心に描く。佐渡出身の語学の天才・伊之助は後の司馬凌海。朝日新聞に連載された。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)

風間・藤川・林 ・柴田家系図(完成版)

司馬凌海 その他諸情報


★司馬遼太郎

『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)
しば司馬遼太郎 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年
しば司馬遼太郎 しば司馬凌海5

しば司馬遼太郎 (2)
佐渡を舞台にした作品に『胡蝶の夢』、『街道をゆく 佐渡のみち』がある。前者は主人公の一人が新町出身の司馬凌海である。
真野の山本修之助翁と親交があり、山本家には司馬遼太郎氏から寄せられた手紙等が残る。
・『胡蝶の夢』(1979年7 - 10月、新潮社)
・『街道をゆく』(1971年9月 - 96年11月、朝日新聞社、43巻目で絶筆)

「佐渡・司馬遼太郎の足跡」(佐渡観光協会)

司馬遼太郎が佐渡を訪れたのは1976年10月17日。2泊3日の日程で凌海の故郷である真野、柴田収蔵の故郷小木などを見て回りました。この時司馬遼太郎氏を案内したのは郷土史家の山本修之助(1903-1993)、修巳親子。

「2日目の午前中にうちへ来られ、父と2時間ほど話し込んでいました。ウマが合ったようで、その後も手紙や、時には電話でやり取りが続きました」と山本さん。山本家は江戸時代に真野で本陣を務め、「胡蝶の夢」に山本半右衛門、通称“はんねむさん"で登場する、まさにその家。道路拡幅などで敷地は狭くなり、火災で建て替えられているが、屋敷の位置は江戸時代のままだという。修之助氏が刊行していた「佐渡叢書」(16巻・別冊1巻、当時は8巻まで刊行済み)を司馬氏に贈ると「ずいぶん興味深くご覧になったようです。特にうちが廻船をやっていた時の記録。普通の人が面白がるようなものじゃないですけどね」と山本さん。そしてしばらくすると、お返しに司馬氏の著書がどかっと送られてきたという。

「司馬遼太郎氏一行の行程」
(17日)午後佐渡空港到着。熱串彦神社、二宮神社を見てホテル着。夜は山本親子を交えてホテルで会食。
(18日)山本家で歓談、その間同行した挿絵画家は真野でスケッチ。ホテルのマイクロバスで小木方面へ。途中県立佐渡博物館、倉谷の大わらじ、羽茂一里塚に寄り、蓮華峰寺。小木港で船を借り、海上から小木を見る。
(19日)相川市街、佐渡金山、奉行所跡(当時)を見て佐渡空港へ。

ウイキペディアより

諸情報


★柴井淳一 

 両津高校時代の1984年度(S59)11月、文庫による読書感想文全国コンクール(角川文化振興財団主催) 佳作、学校賞(「角川文庫ワンセット」35冊)   


★柴坂藤作

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しば柴坂藤作

しば柴坂藤作 (2)


★柴田鼎

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
小木港で古くから医業を営んでいた。

風間・藤川・林 ・柴田家系図(完成版)


★柴田金治  

h29年10月没 93歳、加茂歌代の人。長く両津市議を務め、人格者として知られた。二人の息子さんは医師となったが長男は事故死。


★柴田剛宜

佐和田の人、家業である国府証券勤務。鷺流狂言を伝える一人。また、大学時代、落語研究会に所属していたことで、近年(平成28年当時)、イベント等で落語を披露し人気を博している。
しば柴田 亜流伝亭たばやん h281120


★柴田繁

「加茂村誌」(昭和38年4月)
しば柴田繁 「加茂村誌」(昭和38年4月)
『続佐渡酒誌』(平成14年7月 酒造組合佐渡支部)
しば柴田繁 佐渡名勝史 昭和11年 山本幸作 山本商会出版部 しば柴田繁 続佐渡酒誌 平成14年7月 酒造組合佐渡支部
しば柴田繁 『続佐渡酒誌』 (平成14年)
しば柴田繁 『続佐渡酒誌』(平成14年)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
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『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
しば柴田繁
酒造業。両津町長柴田正一郎の父、土屋六衛門町長時代の有力者。

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
(大正)両津町加茂歌代、酒造業、明治九年 生 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大3、佐渡政友倶楽部の春期総會[十一年四月十八日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大3、政友会新潟縣支部大会[十二年十月十七日]・大3、佐渡政友倶楽部臨時大会[十三年二月八日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、佐渡護憲派の會合[十三年七月二日]・大3、政友倶楽部の大会[十三年九月九日]・大4、秦豊助の遊説[十四年十一月十四日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]
(昭和)・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭2、山本、政友倶楽部総裁の辞任[五年十月二十八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]・昭4、本間瀬平の縣会議員失格[十二年一月十四日]・昭4、縣会補欠選挙[十二年六月十五日]・昭4、山本悌二郎 薨去[十二年十二月十四日]・昭4、政友派の会合[十三年三月三十日]・昭4、山本悌二郎 無言の帰郷[十三年四月十二日]・昭4、佐渡政友倶楽部春季総会 齋藤長三初代会長となる[十四年五月五日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しば柴田繁


★柴田茂

『続佐渡酒誌』(平成14年)
しば柴田茂 『続佐渡酒誌』(平成14年)
しば柴田茂 『続佐渡酒誌』(平成14年) (1)


★柴田周斎

しば柴田周斎


★柴田収蔵(しばたしゅうぞう)

し新発田周蔵
【生没】一八二○ー五九 柴田収蔵は文政三年六月、宿根木村(現小木町宿根木)の長五郎家の長男として生まれた。長五郎家は若干の畑のほか漁船をもち、四十物師として村の有力者(八人百姓)の一人であった。二○歳の年、村の船
で大坂に行き金毘羅を参詣するが、その時大坂の船中で蘭医にあい、洋学に興味をもつ。やがて石井夏海のすすめで、高田藩の儒者中根半仙について篆刻の修行をするが、天保十四年(一八四三)には、蘭医伊東玄朴について蘭方医学を学び、やがて世界地図に興味をもつ。それが嘉永元年「新訂坤与略全図」としてあらわれる。卵形式の世界地図である。やがて安政元年には、「蝦夷接壌図」を完成させる。さらに天文方山路諧考の推挙で、安政三年天文方手伝となり、同四年には蕃書調所に絵図調出役を命ぜられた。安政六年、呼び年四○歳で江戸に没した。
【参考文献】田中圭一編『柴田収蔵日記』(平凡社) 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1820-1859 江戸時代後期の地理学者。
文政3年6月26日生まれ。中根半仙に漢学・書画を,伊東玄朴(げんぼく)に蘭方を,山路諧孝(ゆきたか)に天文地理をまなぶ。天文方手伝をへて,安政3年(1856)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の絵図調出役となる。「新訂坤輿(こんよ)略全図」などを作成。安政6年4月10日死去。40歳。佐渡(新潟県)出身。姓は新発田ともかく。名は耘(うん)。字(あざな)は士登。号は拗斎,半嶋漁人。

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡小木町宿根木の農家長五郎の長男である。名は𦔐、号は拗斎、一号を半島漁人、通称は昇蔵、後に収蔵という。
二十才をすぎて江戸に出、中根半仙に漢学、篆刻を学び天保十四年(一八四二年)伊東玄朴に蘭方医学を修め、かたわら天文地理を研究した。帰って医業を開いたが、後また江戸に出て幕府の天文方山路諧孝の門人となって研究した。嘉永元年(一八四八年)に新訂坤与略全図という卵形式世界地図を出版した。この地図には佐渡の所に相川、宿根木が記入してあり、識者の間でも評判がよかった。ペリーの来航前六年であった。安政元年(一八五四年)に蝦夷接攘摸図を作って国民を啓蒙した。翌二年山路諧孝が幕府の命により航海図を校正した時これを助けた。三年には天文手伝となり、四年洋学所を蕃書調所と改めたが、その絵図調出役となった。安政六年(一八五九年)四月十日に四十才でなくなった。(佐渡人物誌、佐渡大観、佐渡人名辞書、大日本人名辞書)

田中圭一講演集(第三集)「蘭学者 柴田収蔵」』より
収蔵は子供の噴から手先が器用であったらしく、米粒にイロハ四七文字を彫ったものが今でも小木町に残されております。彼のその才能を見出だした人物が、佐渡奉行所の絵図師、石井夏海であります。なぜ石井の眼に止まったかといいますと、父長五郎が宿根木村の名主でしたから、時おり佐渡奉行所に出向いておりまして、その用向きは村方が他国に出かけるときの願書に奉行所の請判をもらうとか、村の境界争いにかかわる訴訟文を作って提出するなどの、村の行政に関するものがほとんどで、たまたま提出文書の中に収蔵の描いた村絵図があり、その素晴らしさに夏海が瞠目したからなんです。
それで石井は長五郎に、収蔵を江戸に出して篆刻の技術を身につけさせるよう説得しみとめさせましたが、もしもこの時石井の勧めがなかったならば、おそらく
冊学者柴田収載は生まれなかったにちがいないと私は思います。

・子孫は西三川に住む板倉家である。(収蔵の二女が嫁いだ家)

『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)
しば新発田収蔵 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年 (1)
しば新発田収蔵 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年 (2) - コピー

柴田収蔵(田中圭一講演集より)


諸情報


★柴田正一郎

両津町町長。弱冠30歳代で就任し、両津高校開校や両津大火後の町復興に尽力した。佐渡大商、巴屋社長でもあった。

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しば柴田正一郎
『両津市要覧(昭和33年)』より
しば柴田正一郎

「島の新聞」
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・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p418


★柴田四郎右衛門

『続佐渡酒誌』(平成14年)
しば柴田四郎右衛門 『続佐渡酒誌』(平成14年)


「山本伝十郎家」



★柴田四郎次

『続佐渡酒誌』(平成14年) しば柴田四郎次 『続佐渡酒誌』(平成14年) (2)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しば柴田四郎次
『両津市要覧(昭和33年)』より
しば柴田四郎次
『続佐渡酒誌』(平成14年)
しば柴田四郎次 『続佐渡酒誌』(平成14年)


★柴田惣左衛門

「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)


★柴田直之

佐渡ジャーナル h28 1月
しば柴田直之 佐渡ジャーナル h28 1月


★柴田マスミ

 両津高校時代のs44年、総体ヨット女子A級ディンギー級3位(柴田マスミ、本間ミサ子、高野美智子)


★柴田松枝   

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭和15年、第10回県下女子中等学校体育大会(柏崎グランド)体力300mRで佐渡高女2位(計良アキ、伊藤与志乃、柴田松枝)46秒0


★柴田実  

柴田実
両津出身の医師、昭和24年生。両津加茂小-両津南中-佐渡高校ー新大医学部。父は長く両津市議を務められた柴田金治氏。→柴田金治

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(新潟中央病院hpより)
日本形成外科学会理事 日本手の外科学会理事 日本マイクロサージャリ学会元理事長
(略歴)
新潟大学医学部卒業/昭和51年医師免許取得  
1976.5-11 新潟大学医学部整形外科医員
1976.12-1977.8 山形大学医学部麻酔科助手
1977.9-1983.6 新潟大学整形外科関連病院勤務
1984.7-1987.3 アメリカ・ケンタッキー州・ルイビル大学 Harold E Kleinert先生の手の外科・マイクロサージャリーに留学し、リサーチ、クリニカルフェロー
1987.8-1995.12 新潟大学医学部附属病院整形外科助手
1996.1-1996.7 新潟大学医学部附属病院整形外科講師
1996.7-2011.3 新潟大学医学部附属病院形成外科教授
2011.4.1–2015.3 新潟大学医学部形成外科 教授
2015.4.1– 新潟大学名誉教授

(専門分野)
形成外科一般/整形外科一般/手の外科認定資格日本整形外科学会/専門医日本形成外科学会/専門医日本手外科学会/専門医日本皮膚腫瘍外科/専門医日本創傷外科/専門医
(コメント)
卒業後直ちに、新潟大学整形外科に入局し、故 田島達也名誉教授より手の機能再建を学び、整形外科専門医となる。アメリカ・ケンタッキー州、ルイビルで屈筋腱の一次修復の画期的な成績で有名なHarold E. Kleinert先生のもとで手の外科、マイクロサージャリーを学び、Graham Lister先生からは形成外科・手の外科指導を受け、整容を重視する手の外科に目覚める。帰国後、マイクロサージャリーを用いた再建外科を手がけ、形成外科専門医となる。綺麗な傷跡に仕上げる事にこだわり、手の外科、なかでも先天異常手の治療における“機能と整容の両立”を重視し、顔面神経麻痺の神経再建、眼瞼下垂手術も機能と整容の両立を目指している。
(趣味)
自転車、釣り


★柴田芳文

平成30年5月没。86歳。夷、巴屋商店社長。佐渡汽船役員、両津高校PTA会長、夷商店街役員等公私に亘り数々の要職を歴任した。庶民的な人柄で多くの人に愛された。趣味では書道もたしなんだ。義父(妻の父)は両津町長柴田正一郎。


★柴田龍蔵

『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
しば柴田龍蔵 新潟県官民肖像録 明治41年 (59)


★柴野万平

「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)


★柴原章江

佐渡高校時代の昭和63.10.2、軟式庭球県新人選抜大会(弥彦)ダブルス知本さおり・柴原章江組2位


★柴原行雄

新潟日報(h28年4月22日)
しば柴原行雄 h28422


★柴山暁鳥

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
しば <br />柴山暁鳥


★柴山忠右衛門

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
しば柴山忠右衛門 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)


★柴山忠治  

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治二十五・六年頃、饅頭屋忠右工門が、杉のへぎ木羽を石や竹を用いず、釘止めにして、とても奇麗な屋根にしたというので有名になって、遠くからわざわざ見にくる程だったといい、忠右工門のことを「板屋」と呼ぶようになった。後年、理髪業を開業、
町の俳句仲間であった柴山忠治君は「板屋」を俳号としていた。なお、昔は、借家している者の屋号を、板屋と呼んだことがある。柴山家は、江戸から元禄検地役人の一人として来島されたが、上役人との意見の相異で職を辞きれ、当町に居住されたと言われ
ているから、あるいはその初めは、借家人であって、板屋と呼ばれていたのが、後世、家持になって、木羽屋根の新形式を用いたことが、混同されているのではないかと思われるのである。


★柴山秀樹

新穂の人、昭和13年生まれ。新穂町の歴史に詳しく各種貴重な資料と収集し村史等も編纂に尽力した。


★渋手村三右衛門

(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
し渋手村三右衛門


★渋手村彦右衛門

(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
し渋手村彦右衛門


★渋谷秋守

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
し渋谷秋守

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
し渋谷秋守 (2)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡小木の医家。通称を主計といい、本居太平に学んで和歌をよくした。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)


★渋谷綾子

佐渡高校時代の平成4,全国高校生文章表現コンクール、意見・主張の部、課題「水」入選


★渋谷卯之吉

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しぶ渋谷卯之吉


★渋谷かえで

 両津高校時代の1991年度(H3)12月、第6回全国高等学校文芸コンクール(全国高等学校文化連盟主催) 短歌部門 入選、 1993年度(H5)5月、第7回学生短歌・高校生の部(短歌新聞社『短歌現代』5月号)入選  2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第8号)短歌 奨励賞  


★渋谷和子

しぶ渋谷和子


★渋谷管蔵

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
しぶ渋谷管蔵 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
しぶ渋谷管蔵


★渋谷佐吉

外海府村村長 五十浦
しぶ渋谷佐吉 外海府村村長 五十浦


★渋谷真清(さねきよ)

「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやさねきよ(15??~1589)】加茂郡加茂城主。通称十郎左衛門。夷、湊、加茂を領した。1589年、「加茂城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け滅亡した。


★渋谷真正(さねまさ)

「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやさねまさ(15??~1589)】加茂郡歌代城主。通称四郎左衛門。歌代を領した。1589年、「歌代城の戦い」で長尾景勝勢と戦い滅亡した。


★渋谷三郎左衛門

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
羽黒の人で、目黒町城主。「西光寺中興記」によると、渋谷は本間信濃守の旗下であったという。西光寺の西側にも館跡がある。これは渋谷の家老・金子弥七郎の居館で、弥七郎はのちに河原田に移って弥兵衛を名乗った。

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
しぶ渋谷十郎左衛門 (1)
しぶ渋谷十郎左衛門 (2)
しぶ渋谷十郎左衛門 (3)


★渋谷十郎左衛門真清

『両津町史』(昭和44年刊)
「佐渡風土記」には、加茂には渋谷十郎左衛門真清という地頭が住んで、湊、夷、加茂を領知している、とある。

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
しぶ渋谷十郎左衛門 (1)
しぶ渋谷十郎左衛門 (2)
しぶ渋谷十郎左衛門 (3)

しぶ渋谷十郎左衛門真清


★渋谷正太郎

草創期の佐渡中学英語教師。明治三十三年一月から同三十四年八月まで教鞭を執った。東京出身の渋谷は、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業したばかりで、流暢な発音で生徒を驚かせた。(「佐渡高等学校百年史」より)


★渋谷四郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、小作労働組合の會合[十三年二月七日]


★渋谷四郎左衛門直正

『加茂村誌』(昭和38年)
しぶ渋谷四郎左衛門直正
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
しぶ渋谷十郎左衛門 (1)
しぶ渋谷十郎左衛門 (2)
しぶ渋谷十郎左衛門 (3)


★渋谷四郎次

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡公政会の秋期総会[四年十月十六日]


★渋谷甚平

梅津の人。明治32年、馬首本間太郎八、和木石塚権平等と但馬牛加茂村内に導入し飼育した。


★渋谷助一

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
しぶ渋谷助一 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
・鷲崎の人、大正9年、内浦沿岸客船航路を開設。発動機船、栄徳丸



★渋谷政治   

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
高田師範時代の大正14年、全国中等学校陸上競技大会(2部)で走高跳2位。
同年、第2回明治神宮体育大会北陸予選会で三段跳3位。


★渋谷節子

 両津高校時代のS37、17回岡山国体 ボート部女子ナックル7位 (奥野郁子、宮川テル子、菊池節子、
渋谷節子、杉山道子) 、  S38、山口国体 ボート部女子ナックル3位(渋谷節子、菊池節子、三田敏枝、杉山道子、伊東千寿)

★渋谷武基(川崎、秩父氏)

1142年(康治2年)佐渡に配流。


★渋谷忠右衛門

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
しぶ渋谷忠右衛門


★渋谷智彦

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大2、道路認定運動[九年四月一日]


★渋谷豊蔵

『加茂村誌』(昭和38年)
しぶ渋谷豊蔵
しぶ渋谷豊蔵 (2)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、進歩党の集会[四十一年四月二十日]


★渋谷直清(十郎左衛門直清)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂那賀茂(両津市)の人で上杉時代の地頭である。十郎左衛門尉という。
夷、賀茂を領していた。(佐島遺事)
・1290(正応年中)、加茂に住す。


★渋谷直茂

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡梅津(両津市)の人で上杉時代の地頭である。半左衛門といった。
梅津、玉川、和木、小松、歌見、平松を領した。(佐島遺事)


★渋谷直住

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡羽黒の人で上杉時代の地頭である。三郎左衛門尉という。羽黒、目黒町、北五十里、小松の内、鷲崎の内、願、鵜島、真更川、玉川、椿の内を領した。(佐島遺事)


★渋谷直正

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡歌代(両津市)の人で上杉時代の地頭である。四郎左衛門尉といった。歌代を領した。(佐島遺事)


★渋谷半左衛門真茂

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
しぶ渋谷十郎左衛門 (1)
しぶ渋谷十郎左衛門 (2)
しぶ渋谷十郎左衛門 (3)


★渋谷尚武(しぶやひさたけ)

(写真左より) 
・Gene Shibuya  ・2000年頃、メタリカのカーク・ハメットとMIに  ・1990年、ローリングストーンズの日本での初ワールドツアー時に、ESPミュージカルアカデミーを訪問したギタリストのロン・ウッド氏と  ・2011年1月、NAMM(the National Association of Music Merchant)から業界発展の功績を認められ表彰された  ・ハリウッド・ブルバードにあるMIの校舎。緑の壁が特徴的だ

しぶ渋谷尚武 (1)  しぶ渋谷尚武 (2)  しぶ渋谷尚武 (3)

しぶ渋谷尚武 (4)  しぶ渋谷尚武 (5)

1937年(昭和12年)4月8日生まれ。両津市羽吉(羽黒神社近く)出身。加茂中ー両津高校(7回生 生物部部長)ー1961年同志社大学商学部卒業後、河合楽器製作所に入社。1967年に日本楽器製造(現ヤマハ)に転職。楽器販売会社フェルナンデスを経て、1975年に高級エレキギターの製造およびリペアのESPを設立。1983年に日本ギター製作学院を開校し、学校経営に参入。その後、日本創作音楽院、日本ピアノ調律師養成学院を開校。1987年に3つの学校を統合してESPミュージカルアカデミーと改称し、学校法人となる。1995年に渡米。特殊メイクの専門学校やダンス学校、日本語放送局UTBなどを次々と買収し、ハリウッドを拠点にエンターテインメントビジネスを展開中。
※弟の芳夫も同志社で学び、ESP社長を継ぐ。

(株式会社イー・エス・ピー(ESP Co.,Ltd.))

<会社概要>
業務内容:楽器製造・卸・小売・貿易、音楽・映像関連教育事業、出版、音楽ソフト制作・販売
代表取締役:渋谷尚武
従業員:300人(ESPグループ総社員数720人)
資本金:7500万円
年商:47億円(ESPグループ17社、総計171億円)
取引銀行:みずほ銀行高田馬場支店、三菱東京UFJ銀行高田馬場支店、りそな銀行早稲田支店、三井住友銀行高田馬場支店

本社所在地 101-0054 東京都千代田区神田錦町1-14-2
本部事務所 171-0033 東京都豊島区高田2-10-11
TEL (03)3982-0699(代)
東京営業本部 354-0046 埼玉県入間郡三芳町竹間沢東3-9
TEL (049)274-3810 / FAX (049)274-3811
大阪営業所 530-0016 大阪府大阪市北区中崎3-1-2 ESP梅田東ビル7F
TEL (06)6359-0455 / FAX (06)6359-5233

<代表取締役プロフィール>
大学卒業後、河合楽器製作所、日本楽器製造(現ヤマハ)、フェルナンデスに勤務し、そこで得た知識をもとに1975年に20代の若者3人と共にギターメーカーのESPを創業。その後教育事業、エンタテインメント事業と多角的に事業展開をする。

<社歴>
1975年 2月: 最高級エレクトリック・ギターの製造並びにギター・リペアマンの養成を目的に設立。
1977年 4月: 販売会社(株)エーアンドエスの設立。 並びに製造会社(株)クラフトマンを設立、 貿易業務も開始。
1978年 10月: 東京・神田錦町に本社ビルを購入し、同所にアンテナショップ「ESPテクニカルハウス」を開設。
1979年 3月: ギター用のボディ材、ネック材などの単体販売開始、並びに国内初のエレキ・ギターのフル・オーダーメイド・システムを開始。
1981年 3月: 米国ニューヨークにESP-USAを設立。販売会社の(株)エーアンドエスを(株)マッド・カンパニーに、 製造会社の(株)クラフトマンを(株)ファクトリー21に社名変更。
6月: 東京・豊島区高田1丁目に東京工場を開設。
1982年 3月: 名古屋に製造工場を開設。
12月: 東京・渋谷道玄坂2丁目にショップ購入。「ESPクラフトハウス」開業。
1983年 4月: ギター製作技術者養成及び修理技術者養成を目的とする「日本ギター製作学院」を開校。
5月: 米国の大手ギター・ピックアップ・メーカー、セイモアダンカン社のエージェント、(株)優美サウンドを買収。
1984年 4月: 東京・渋谷区道玄坂1丁目にビル購入。ショップ及びリハーサルスタジオを開設。
10月: ミュージシャン育成を目的とする音楽学校「日本創作音楽院」を開校。
1985年 4月: ピアノ技術者養成及び管楽器技術者養成を目的とする「日本ピアノ調律師養成学院」を開校。
大阪にショップ「シェルドンギターズ」開設。
10月: バイオリン製造会社(有)木曽鈴木バイオリンを買収し、(有)木曽バイオリンに社名変更。名古屋工場を長野県木曽に移設。
1986年 4月: 新潟県佐渡・両津市に敷地約6,600平方メートルの工場を開設。
8月: 仙台に「モンギービジネス」開設。
9月: 米国ニューヨークにギター・ショップ「48th st. Cusutom Guitars」を開設。
1987年 2月: 「日本ギター製作学院」と「日本創作音楽院」と「日本ピアノ調律師養成学院」とを統合して「ESPミュージカル・アカデミー」と改称し、学校法人 / 専門学校認可校となる。
また、「日本ギター製作学院」の一部を「ESPギタークラフトアカデミー」と改称し、併設する。
6月: 金沢にショップ「ギターショップ ザ カスタム」開設。
8月: 名古屋にショップ「クラフトカン」開設。
1988年 9月: 東京・豊島区高田2丁目に総合管理ビル完成。広告代理業務を行う(株)オフィス・アトーを設立。
10月: 東京・渋谷にオールド・ギター・ショップ「オールド・ギター・ガレージ」、バイオリン・ショップ「マリオルッチを開業。
1990年 6月: 米国ロスアンゼルスのギター・メーカー、シェクターUSAを買収。
10月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSS東京」開設。
1992年 3月: 中国・黒竜江省鶏西にESP-CHINAを設立。
7月: 京都にショップ「BIGBOSS京都」開設。「シェルドンギターズ」「クラフトカン」「モンキービジネス」「ギターショップ ザ カスタム」がそれぞれ、「BIGBOSS大阪」「BIGBOSS名古屋」「BIGBOSS仙台」「BIGBOSS金沢」に名称変更。
1993年 10月: 出版社(株)アリノス出版、アーティスト・マネージメント会社(株)アリノスマネージメント、音楽ソフト制作会社(株)アリノス企画を設立。
1995年 1月: 米国の音楽学校MI( ミュージシャンズ・インスティチュート)を買収。MI日本校、「MIジャパン東京校」、「MIジャパン大阪校」、「MIジャパン名古屋校」、「MIジャパン仙台校」を開校。
1996年 3月: 札幌にショップ「BIGBOSS札幌」開設。
8月: 広島にショップ「BIGBOSS広島」開設。
1997年 4月: 「MIジャパン札幌校」、「MIジャパン福岡校」を開校。
6月: 米国の日本語放送局UTB(ユナイテッド・テレビジョン・ブロードキャスティング)を傘下に収める。
12月: 米国において90年の歴史を誇る高名俳優養成学校「シアター・オブ・アーツ」(TOA)、ハリウッド映画で数々の卒業生が活躍する特殊メイクの専門学校「エレガンス・インターナショナル」を傘下に収める。
1998年 4月: 放送・ビデオ制作・映画制作スタッフ等の養成校「UTBアカデミー・ジャパン」を開校。
2000年 7月: 東京・渋谷にビル購入。MIジャパン東京校新校舎完成。
11月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSSフリークスマーケット」開設。
2001年 10月: (株)アリノス企画、(株)アリノス出版、(株)アリノスマネージメントを(株)トライスクルエンタテインメント、(株)トライスクル ミュージック、(株)トライスクル マネージメントに社名変更。
2002年 8月: 13店舗目の直営店ショップ「BIG BOSS福岡」 開設。
2003年 4月: 「ESPギタークラフトアカデミー仙台校」を開校。
2005年 4月: 総合エンタテインメント専門学校「ESPエンタテインメント」を大阪に開校。ダンスと声優の専門学校「原宿パフォーマンスビレッジ」を東京原宿に開校。
子供からお年寄りまでを対象とした新しいスタイルの音楽教室「ESPミュージックスクール」の全国展開を開始。
9月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSSサウンドライナー」開設。
2007年 4月: 「原宿パフォーマンスビレッジ」を「ESPパフォーマンスビレッジ」に名称変更。
2008年 6月: 東京工場を埼玉に移転し新東京工場とする。
2009年 11月: 「ESPミュージックスクール大阪校」を開校。
12月: 東京 神田駿河台にショップ「ESPギターワークショップ」開設。
2010年 5月: 東京 神田駿河台にショップ「VIPギターズ」開設。
2012年 4月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSSお茶の水駅前」開設。
5月: 東京 神田駿河台に「ESPミュージックスクール東京校」開校。
9月: 佐渡工場を埼玉に移転し新東京第二工場とする。
(株)トライスクルエンタテインメント、(株)トライスクル ミュージック、(株)トライスクル マネージメントを株式会社トライスクルに統合。
2013年 4月: 「ESPパフォーマンスビレッジ」を「ESPアニメーション声優専門学校」に名称変更。
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「武器は不屈の精神力。ハリウッドに新風を巻き起こす」
(QOLA Quality of Life in Los Angeles クオラ: アメリカから発信する世界中の日本人を応援するサイト 2015年6月号掲載)

すべては与太者の音楽から始まった
すべては与太者の音楽から始まった

 24歳の時に京都から上京し、新聞の求人広告を見て河合楽器製作所に応募して入社しました。一見、不良のような風貌だったので、当時、与太者の音楽と言われていたエレキギターの担当になったのがこの業界に入った始まり。実は、大学生の頃はギターとはほど遠く混声合唱団に所属しており、賛美歌を歌っていたので、求人広告を目にした時に「音楽が傍にあれば、少しはまともな人生が歩めるかもしれない」という気持ちになったことを憶えています。でも、もしピアノ担当になっていたら違う人生だったかもしれません(笑)。結局、上司と衝突して入社4年で辞めてしまいました。その後、仕事がなくて困っていた時に、知り合いだった業界紙の社長とばったり会いました。「どうしてる?」と聴かれたので、食えずに困っていると答えたら、ヤマハが人材を募集しているからということで、コネで中途採用してもらいました。

 ここでも4年間働きましたが、同じ業界の競合2社で働いてみると、お互いの隙や弱さが明確に見えてきます。そこで退職を決意し、その退職金80万円を元手にフェルナンデスという楽器メーカーの株を30%購入しました。そのままフェルナンデスに入社し、設立して間もない会社の売上げを10倍に跳ね上げました。フェルナンデスでは常務取締役まで務めましたね。その後、独立して渋谷の裏通りに楽器店をオープン。でも、ギター30本を仕入れるのがやっとで、店舗の半分しか埋まらなかったため、工作機械をタダでもらってきて空いているスペースに飾り、あたかもそこでギターを作っているように見せたんです。しばらくしてから、そこで国内初の修理と高級ギターのオーダーメイドを始めました。

 従業員を募集すると40名の応募があり、そこから1人だけ採用した社員が出社2日目に自転車泥棒で捕まってしまいまして…(笑)。面接なんて当てにならないと思いましたね。その時に「彼らの親たちが資金を出せるなら、こういう子を預かってあげられるな」と思ったのが、音楽専門学校創設のきっかけです。そして、同時に職人を養成する日本ギター製作学院を開校しました。最初はどのくらい生徒が集まるかなんて皆目検討もつきませんでしたが、蓋を開けたら73人の生徒が140万円という高い授業料を振り込んで入学してきたのです。それから、ミュージシャン養成学校の「日本創作音楽院」、管楽器の修理学校の「日本ピアノ調律師養成学院」も1985年に開校し、それを統合して「ESPミュージカルアカデミー」と総称しました。もし、あの時雇った子が自転車泥棒をしなければ今はなかったかもしれません。
57歳でアメリカに単身乗り込む
57歳でアメリカに単身乗り込む
2000年頃、メタリカのカーク・ハメットとMIにて

 アメリカに渡ってきたのは1995年。ちょうど20年前、57歳の時です。その頃には日本のエレキギター業界ではやりたいことをやり尽くしたし、このまま自分がいなくなったら会社はどうなるかと考えた時に、社員が自分たちで判断して運営する会社にしていかなければ先行きはないと思いました。また、買収したハリウッドの音楽学校Musicians Institute(MI)が赤字経営だったことに加え、その5年前に買収したギター製造・販売会社のシェクターも毎年慢性的な赤字を抱える経営状態だったので、「これは自分が前に出て行かないと軌道に乗らないだろうな」という内情もありました。

 当初、シェクターは7人の従業員で月間7本しか売れていなかったんです。膨大な赤字を垂れ流していても、売れないミュージシャンを囲ってリムジンを借り、フランス料理店を貸し切って派手にパーティとかしているわけですよ。それでも夢だけは立派に語る。この今までの悪しき慣習を断ち切らなければと思い立ち、赤字脱却の一案として「利益を出したら、最初の半年間は80%、その後は50%を分与する」と言ったら、なんと4カ月後に2万ドルの利益をもたらしました。この時に、アメリカ人は目標をはっきりと与えてあげないとダメなんだと悟りましたね。

 プロフィット・シェアを導入してからは、嘘みたいに利益を生み続けました。ところが、利益を半分も還元すると会社の取り分がほとんど残らないので、途中から3割に減らしたら、従業員から弁護士を立てて即訴えられました。「もうええわ。会社を売る。全員クビだ」と半ば投げやりになって言ったら、その訴えは嘘だったかのように、さらに利益が上がるようになりました。それからは、自分たちの利益が少なくなるからと、パーティも開かなくなるんですから。アメリカ人は危機感を与えないと本気で働かないんですよ。今では年間3万6000本は売り上げる優良メーカーです。

 一方MIは、なぜ赤字なのか理由ははっきりしていました。元来スタジオミュージシャンを養成する学校でしたが、コンピューターの発達でスタジオミュージシャンの仕事が激減する中、アーティストミュージシャン養成に舵取りを変えなければいけなかったはずなのに、それをしなかった。20年間かけて作り上げた古いカリキュラムを使っていたのです。私が日本から赴任すると聞き付けた従業員が、パールハーバーの日(12月7日)に労働組合を結成し、赤字経営なのに賃上げ要求をしてくる。だけど、「潰れそうな学校を買ってあなたたちの仕事を守っているのは俺だろう」と、一歩も譲りませんでした。しかし、あらゆる手段で脅されたり、ネガティブ・キャンペーンをLA Times含め他7紙に掲載され、気が気ではありませんでした。結果、軌道に乗せるまでに16年もかかりました。そのせいか、ハリウッドで“極悪人”、また楽器業界では“ミスター・コブラ”と言われていることは勲章だと思っています。

 アメリカでは、主張することはきちんと主張する。仕事をする上で、良い子になろうと思うのは大間違いです。その発想はこの国では自ら捨てなければいけません。そんな私ですが、赴任してすぐの頃はストレスから潰瘍性大腸炎を患いました。だけど、私の場合、日本でやってきたことを中途半端に修正しなかったことが良かった。日本ではワンマン経営で、口数が多く、すぐに従業員を殴っていました。今で言うとブラック企業(笑)ですが、だからこそ伸びていったんです。お金がない人が独立してビジネスを軌道に乗せるのは並大抵のことではないので、殴られても辞めないような社員を育てないといけないんです。アメリカに来てからも、日本の頃と変わらず毎週怒鳴っていましたね。「クビだ!」と副社長相手に机を叩いたこともあります。でも、ここまで闘えたのは私が単身でアメリカに渡ってきたからだと思います。もし、日本から家族を伴って来ていたらこんな風にはとことん闘えなかったでしょうね。
英語を話せるようになる必要はない
英語を話せるようになる必要はない

 ビジネスにおいて英語を話せないことが不利になることはありません。私も来た当初は英語を勉強しましたが、頭の中に英単語を入れて理解できたとしてもそれは幼稚園レベル。逆に英語を使うことでビジネスの勘が狂ってしまいます。これは絶対にまずい。ビジネスの勘を優先するため、中途半端に英語を話すことを止め、常に5人の通訳を置くことにしました。①日本語を英語にする人②その英語をチェックする人③英語を日本語にする人④それをチェックする人⑤全体の流れをチェックする人。これだけいれば、ほとんどの場面で同時進行できます。私は従業員を怒鳴る時も終始一貫して日本語です。

 アメリカでビジネスをする上でもう一つ大切なことは、「良い日本人と悪い日本人」を見分けること。今は日本政府の「クールジャパン」政策などもあってバブル期のような感覚で、甘い考えでやって来る日本人がたくさんいます。でも、残念ながらアメリカには良い日本人、悪い日本人、良い弁護士、悪い弁護士もたくさんいます。日本人だからと安心していると、近寄ってきた悪い日本人に騙されてしまうこともあるので、注意喚起が必要です。噂を聞けば大体わかりますが、渡米してすぐの頃は人脈がないので、その見極めは難しいですが、とても大切なことです。
ハリウッドから世界に発信していく
ハリウッドから世界に発信していく

 この20年間で日本語放送局の「UTB」、俳優養成学校の「シアター・オブ・アーツ」、特殊メイク専門学校の「エレガンス・インターナショナル」などを買収して傘下に入れてきました。でも、一番やりたかった夢は「フィルムアカデミー」の買収でした。まだインターネットがない時代にフィルムと音楽を合わせ、UTBでスチューデントムービーを流す構想を持っていました。ハリウッドに若い子たちを送り込みたかったんです。そうすれば、いずれハリウッドも変わってくるはずだと。当時、若者を育ててハリウッドに送り込むなんてことを本気でやっている人は誰もいなかった。MIを買収した当初は、周りから無謀だと言われましたが、この構想を話した業界人から「これは化けるな」と言われ、自信を持ちました。日本のESPアカデミーは卒業生がかなり力を持っていますが、それをここでも実現したかったんです。でも、労働組合の規制が厳しく、そのチャンスを一度は見失ってしまいました。

 MIは4年前にようやく軌道に乗りましたが、今度はアメリカ政府に予算がないので学校経営そのものに締め付けが厳しくなり、プロフィット・シェア制度が有効でなくなり、今はまた経営状態は少し落ち込んでいる状況です。そのため、これからは対象となる学生をアメリカ人から留学生に切り替えようとしているところです。留学生を受け入れるための寮なども整いつつあるので、これから学校自体も変わっていくと思いますよ。

 今、ハリウッドのハイランド・アベニュー周辺一帯の土地を買収し、一大エンターテインメント・タウン構想を進めています。ハリウッドに憧れている子たちがお金がなくても気軽に出演できるライブハウスを2つ、それにダンス学校や手狭になった特殊メイクの学校の新校舎も作る予定です。それに加えて、新しく幼児から15歳くらいの子供を対象にしたタレント養成コースの学校もスタートさせる計画です。今後、3年程の間にこの辺り一帯は私が持つグリーンの建物でいっぱいになるはずです。アメリカでは劇場やライブハウスの出演者控室をグリーンルームと呼んでいますよね。だから、私が所有する建物もグリーンに揃えたかったのです。

 人生も終わりに近づいてきているので、今後は夢だったフィルムアカデミーをやるつもりです。子供のタレント養成コースも、本気でプロを目指す子供たちを養成したいと、今から楽しみにしています。幼児の頃から手塩にかけ、高校を卒業したらそのままMIに入ってもらう。またはその前にデビューさせても良いですし。ライバルのバークリー音楽大学もそこまではやっていませんから、彼らと差別化する意味では幼児から大人まで一貫した養成コースがあることに意味があります。

 これら今やっていることすべては、20年前に思い描いていたことです。それが実現できたのは、ここがアメリカであっても、自分のやり方を曲げずに貫いてきたから。あとは、やはり社員のモチベーションを上げるために、プロフィット・シェア制度を導入したことも成功の秘訣だったと言えます。

 こんな私ですが、子供時代はとても大人しかったんですよ(笑)。イジメっ子にびくびくしている子供でした。でもある時、いざとなったら命も惜しくないと開き直ったんですね。それからずっと今まで好き放題してきましたが、よくぞここまでやってこれたと思います。今日まで本当にたくさんの方々に助けてもらいました。ものすごく運が良かったとしか言いようがありません。これまでに受けた恩義は後生大切にし、絶対に裏切らないと決めています。20代で無邪気にこの業界に足を踏み入れてから50年以上が経ちました。振り返ると闘いの歴史と武勇伝の数々。まともじゃない、ちょっとずれている業界だから自分には合っていたんでしょう。あとはこの仕事が私には天職だったのでしょうね。
~信条~
~信条~

ベスト・ウェイ

ビジネスには、アメリカ式、日本式は関係ない。常に自分にとってベストな方法を取ることです。「日本のやり方で通じる」と自信を持っていても、それを貫くことに抵抗を感じた時、それを打ち消すにはこの言葉しかありません。

・Musicians Institute President & CEO 渋谷尚武氏

■1937年4月8日生まれ。新潟県出身。1961年同志社大学商学部卒業後、河合楽器製作所に入社。1967年に日本楽器製造(現ヤマハ)に転職。楽器販売会社フェルナンデスを経て、1975年に高級エレキギターの製造およびリペアのESPを設立。1983年に日本ギター製作学院を開校し、学校経営に参入。その後、日本創作音楽院、日本ピアノ調律師養成学院を開校。1987年に3つの学校を統合してESPミュージカルアカデミーと改称し、学校法人となる。1995年に渡米。特殊メイクの専門学校やダンス学校、日本語放送局UTBなどを次々と買収し、ハリウッドを拠点にエンターテインメントビジネスを展開中
会社概要

社名: Musicians Institute
本社所在地: 6752 Hollywood Blvd., Hollywood, CA 90028
事業内容:●楽器製造・販売
     ●各種学校の経営
     ●日系テレビ局の経営
売上: 80億円
従業員数: 約600名
生徒数:約1,300名
創立: 1977年

「ウイキペディア」より



★渋谷平三

1383年(永徳元年)、渋谷平三の地頭職を本間太郎左衛門に渡付した。


★渋谷真清→渋谷真清(さねきよ)


★渋谷真住(まさずみ)

「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやまさずみ(15??~1589)】渋谷真経の男。通称三郎左衛門。1589年、「箕山城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け自刃した。


★渋谷真経(まさつね)

「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやまさつね(15??~15??)】加茂郡羽黒城主。通称三郎左衛門。羽黒、五十里、鷲崎、願、鵜島、真更川、椿、小松、目黒、玉川を領して渋谷四家の中では最大勢力を誇った。


★渋谷真茂(まさもり)

「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやまさもり(15??~1561)】
加茂郡梅津城主。通称半右衛門。梅津、玉川、和木、小松、歌見、平松を領した。1561年、「梅津城の戦い」で久知泰時勢の攻撃を受け自刃した。

★渋谷真正→★渋谷真正(さねまさ)


★渋谷勝

 両津高校時代の1960年度(S35)8月、北信越大会相撲の県代表に選出  10月、第15回国体 相撲の県代表 


★渋谷弥一

『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
両津市夷の人、弥-人形の創始者。


★渋谷彌吉

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
しぶ渋谷彌吉 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)


★渋谷弥藤兵衛

『両津町史』(昭和44年)
夷上町に住んだ船大工で、夷延命寺の有力檀家。延宝年間没。


★渋谷芳夫

両津羽黒の人、昭和17年生。エレキギターの世界的メーカーESP創業者の兄尚武と共に同社を経営する。
佐渡高校ー同志社大卒。


★渋谷義雄

しぶ渋谷義雄
昭和8年生、令和1年6月没。佐和田中校歌作曲。母は畑野の医師風間準平の子(木下田鶴枝)。父の風間医院の隣で進駐軍御用達の高級キャバレー「黒猫」を経営。(風間医院はその後渡部医院となり、医師の妻が道を挟んで向かいの「黒猫」の場所で「芙蓉」をいうバーを経営した。「黒猫」はその後、現「扇寿司」に移転した。)芥川賞最終候補になった中川芳郎『島の光』はこの店で起きた事件を題材としている。義雄は両津渋谷家へ婿入り。


★渋谷利一

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
しぶ渋谷利一 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)


★渋谷良折

『加茂村誌』(昭和38年)
しぶ渋谷良折
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
明治22年、秋津の人神尾玄益の死体解剖。明治28年、県会議員に当選。

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂歌代村 ・明2、大同派の当選祝賀会[二十三年九月一日]・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]・明3、第十一回選挙[二十八年三月]


★紫文軒波山

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
しぶ紫文軒波山 佐渡案内写真大集


★志保井重要

「成功した士族の商法」(「佐渡の百年」)


★島晃子し

佐渡にゆかりの歌人。
島晃子歌集 『月光丘』
     悲しみがあらたになりて暗みゆく海の白波夜叉のごと立つ
    飲みさしの夫の焼酎「百年の孤独」胃に沁む夜半の厨に
    射して来る春陽に光る嵬集品いづれもはかな割れ易きもの
    君は数十億年の愛を語り吾は白馬の王子失ふ
「六条御息所」 は言うまでもなく 『源氏物語』 の一節である。
 『源氏物語』 の優れた文学性が読む者を引き込み、歌わせる力となっていると思うが、背景に長年の研究があるから作品が強い。 以上は師 鶴岡美代子先生 ・ 跋より 帯の部分をご紹介させていただきました。
 島晃子様は現在 「軽雪」 編集委員 ・ 選者、「みなのせ会」 会員、「日本歌人クラブ会員」としてご活躍のお方で、大切な先輩です。 我が師鶴岡先生の跋より一部を転載してご紹介させていただきます。
 大学時代からの親友の島晃子さんが、いよいよ第一歌集 『月光丘』 を上梓することになった。
 (2011年8月9日発行)
 今は亡き土屋正夫先生の下でおよそ20年、そして今日、なお共に歩んでいることを思うと、この度の上梓はわがことのように、とても嬉しい。 大学時代の島晃子さんはペンクラブに入っていて小説家を夢見ていた。何を書いてもペンの滞ることがなく、私はいつも感心していた。 夫君の転勤先のニューヨークでも新聞社主催のエッセイストコンテストに入賞した事があった。
 物を書くのが好きなのは、ご両親が、教育者という環境も影響していたのだろう。
  (中略) 『月光丘』 の作品はおおよそ3つに分けられる。
 1つは文学に関しての作品、2つ目は自然や旅先に題材にしたもの、3つ目は家族や周囲の人、自身の人事詠である。
 先ず、文学関係の作品であるが、小説家志望だった作者であるから文学への関心は深く、しばしばその舞台となった地を訪問している。
    二本松智恵子の生家に佇みて夫に隠れて涙をぬぐふ     「智恵子の生家」
   本当に裁ち切りたかりし物は何 狂ひし智恵子の紙絵の鋏
   童女となりたる智恵子を目に追ひて光太郎佇みし磯松林   「九十九里の智恵子」
               (他4首ご紹介あり)
高村光太郎 ・ 智恵子を取材したものである。
文学の知識があって作歌するのであるが、あたかも自分が光太郎や智恵子と同じ立場にいるごとく悲しみを共有している。
次は 「紫式部」 に関する作品である。島さんは平成18年5月から 「軽雪」 誌上に 「紫式部」を連載していて、現在30回を数えている。それと併行しての作品である。
    中宮の出産間近き緊迫の描写に吾も息を詰めたり          「紫式部日記」
   出産を見守るあまたの女房ら犇(ひしめ)き合ひて泣くものもあり
   断ち切れぬ想ひに攻むるまなざしを身に受け黙す御息所は     「六条御息所」
   皇后の道閉ざされし身にあれどその魂の終に捨てえず
                (他6首ご紹介あり)
2つ目の特徴は、自然や旅を題材にしたものである。
土屋先生が生前、「よく観察し、よく描写しているのに、深く感じ入った」 と褒めた 「丹頂」 の一連を挙げる。
    声を吐く丹頂の嘴 (はし) は天を衝き頂 (いただき) のあか陽に極まれり
   雪原に翼大きく打ち合ひて番 (つがひ) の丹頂の華麗なる舞
   親丹頂と身の丈同じになりしかど薄茶の羽の心許無し  (他6首ご紹介あり)

   六集落三百六十戸を飲みしダム涙の湖(うみ)の深みどりの色
   沈みたる村の証と残りしはこの日本 (ふたもと) の桜と仰ぐ
   五十年経し今もなほ息子 (こ) の戦死認めぬ如く坐す 「母の像」
   慌しく戦地に発ちて還らねば恋人の像 「裸婦」 噫 (あい) 未完

岐阜県の 「御母衣ダム」 と長野県の 「無言館」 の作品である。土屋先生は 「読め、歩け」 と訓えていたから、島さんもそれを実践した。心眼で観ていることはこれらの作品にも言える。
次は人事詠を見てみよう。
    誉めらるることの少なき生徒らの塾教師吾に求めやまぬもの
   学校にも家にも落ち着く場のあらぬ生徒らの愚痴憩ふ時聞く
   求めゐるもの何ならむくしゃくしゃに丸めし答案投げつけてくる
   「だんだんと自分が嫌ひになってゆく」生徒の声の耳を離れず
学習塾を営んでいたときの作品である。現代の児童の持つ精神の渇きが詠まれている。
これらの作品からは、単に試験の点数を上げるための教育ではないものを目指している教師像が見えてくる。   (中  略)
こういう島さんの姿勢には次のことが関係しているのではないだろうか。
   彼の人を嫌ひと嘘でも言へと責むる娘に悲鳴上ぐ裡なるわが子
   胸底を凝視したれば裡なる子真白き繭に息詰めてゐる
   父の夢を健気に生きし十二歳の吾と思へば涙零るる      (他3首ご紹介あり)
島さんの体内にはもうひとりの子 「インナーチャイルド」 がいて、言ってはならないことや間違った事をしないように常に糺していたと言う。佐渡の旧家で生まれた著者は、周囲に対して恥ずかしくない行動を自らに課すことを、無言のうちに期待されていたのだろう。     (中  略)
   夫の声電話にやさしく響く夜は3万キロの隔たり悲し
   受話器の中より乾燥機の音聞こえ一人居の夫の休日偲ぶ
   「マイナスイオン出す」 と書き添へ母の日に息子が送り来し観葉植物     (他5首ご紹介あり)
夫の留守を守る緊張と責任は重く寂しかったと思う。手中の子が巣立ったのも人生の過程だ。
それらを経て自分がたくましくなり、充実したものを得たことも事実であろう。
島さんの人生を正直に語っているこの 『月光丘』 が、さらなる飛躍の契機となるべく、心より期待したい。
そして 『月光丘』 が多くの方に読んでいただけますことを希って筆を擱く。
以上、鶴岡先生のお言葉を拝読しながら、島様の作品を鑑賞させていただきました。
島様は 「本歌集はまだお元気だった平成18年に、土屋正夫先生の選を経た歌に最近作の中から自選したものを加えて四百三十六首を収録しました。歌集名の 『月光丘』 は、現在の私が佇んでいるに相応しいところと感じたことから選びました。」
と書き添えられておりました。HPには 「ながらみ書房」 を初め、多くの書店が 『月光丘』 のご紹介をされておりますことにと幸せを頂きました。作品の一首一首がとても丁寧に品格のある作品と感銘致しました。
又、「小野田少尉自らを語る」
   潜伏し二十九年の軍人には居場所居場所なかりしと嘆く小野田さん
   ブラジルに渡りて三十年馬上にて牛追ふ姿光の如し
以上他4首を心して拝読させていただきました。
戦後66年、戦争を知らない国民が多くなりました今日ですが、事実は事実として戦争の悲惨さは語り継がねばならないと考えております。何時も優しくご指導いただいております島様のますますのご活躍をお祈り申し上げますと共にご多忙の折りにお風邪など召しませんようにご健勝をお祈り申し上げましてお祝いの気持ちを綴らせて頂きました。
大切な歌集の  を頂きまして誠に有難うございました。
しま島晃子


★島きよし

しま島きよし (2) しま島きよし
しま島きよし1 +北原みれい しま島きよし2


★島川勘作

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
しま島川勘作


★島川實

しま島川實 (2) しま島川實


★島倉晃   

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
新潟師範時代の昭和9年、第4回県下男子中等学校体育大会(柏崎陸上競技場)で走高跳3位。
同年、明治神官体育大会北陸予選会で走高跳3位。
昭和10年、第5回県下男子中等学校競技大会(三条陸上競技場)で走高跳1位(1m58)、棒高跳1位(3m51)。
同年、第8回明治神宮競技大会兼全日本陸上競技選手権北陸予選会で走高跳3位(1m65)。
同年、全国中等学校陸上競技選手権大会(明治神宮外苑競技場)2部走高跳で1位(1m80)。
昭和11年、第6回県下男子中等学校競技大会で走高跳1位(1m70)、棒高跳1位(3m50)。
同年、昭・11全国中等学校陸上競技選手権大会(甲子園)2部で、走高跳2位、棒高跳3位。
昭和12年、第7回県下男子中等学校競技大会で走高跳1位(1m80)、棒高跳1位(3m70)。
同年、全国中等学校陸上競技選手権大会2部で走高跳1位(1m82)。
同年、全日本陸上競技選手権大会北陸予選で、棒高跳1位(3m80)。
同年、東京オリンピック候補となる。

(昭・12 東西対抗島倉晃新記録の新聞記事)
棒高跳 1島倉晃(東・新潟師)3㍍鮨(日本中等並本大会新配録)2和田(東・庵原中)3m60、3樋田(東・岡崎師)3㍍50、4杉山(西・岡山師)5井上(西・小野中)6北野(西・兵庫師)3米40で井上、北野が失格したのち3米50は四者それぞれ飛躍、3米60で樋田、杉山ならんで落ち3米70では和田また落とされた。かくて3米20で一席落しただけで各回とも一発をねらつて成功した島倉は悠々3米77の日本中等記飾を成るためバーを確78に上げれば1回目に余裕を見せつ征服、ついで3米85は第二回目に見事飛躍、余勢をもつて3m90に引上げたが1回目は腹で落し二回目は胸まで越えて駄目、いよいよ第三回目に入り慎重に助走を開始、棒を突っ込んだものの上体そつたため遂に成らなかつた、しかし島倉の超中等級の技術は称賛に博するものであつた。


★島倉伊右衛門

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
司馬凌海の甥で後山小学校長。昭和四年十二月に出来た三宮地区婦人会結成に法幢寺住職の斎藤穆栄と共に参加し指導した。

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しま島倉伊右衛門


★島倉伊右衛門

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
寺小屋の年中行事として新年の書初め、新町では毎月二五日天満宮へ奉納の清書をした。また、正月二五日には天神講と称し、少しずつお金を出しあって菅公祭を催した。
そのころ、寺小屋師匠として、新町には山本半右衛門・生田三折・山本桂・島倉伊右衛門など、吉岡には若林玄真、竹田には森玄達・小田与三兵衛、金丸に計良尚賢・若林文平、豊田に豊原快慶などがいた。寺小屋師匠の師弟の関係が深かったことは明治四年死亡した山本半右衛門の葬儀に、弟子として一三名の参列者があったという記録が残されていることからもわかる。
明治維新を経て、二年三月人民教育のため小学校の設置を奨励するという太政官布告にょり相川・新穂・羽茂に郷学校が設立され、三年には大中小学校規則にょり新町・五十里に郷学校が設けられた。


★島倉伊三武

「島の新聞」21号
21しま島倉伊三武 (1)
21しま島倉伊三武 (2)

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余
興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。

吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。
鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。
そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。
 いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。
やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。
 借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。


★島倉伊平

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
明治三年に山本半蔵・山本五平・山本藤八郎・島倉伊平・中川清三郎の五人が費用を出しあって「学問所」を開設し、のち、明治五年、この「学問所」が政府の許可を得て「新町郷校」と名称を改めた。先生として佐々木俊蔵(辰之助)を雇い、場所は司馬盈之(司馬凌海)旧宅であった。これが、現在の真野小学校のはじめである。この五人の有志たちが「学問所」の先生を迎えるについて、エピソードがある。心当たりを捜していると、たまたま北海道から釆て西三川村大倉谷の佐々木才三郎方に身を寄せていた佐々木俊蔵という人物が学才にたけているということを聞き、評判だけでは真価がわからないというので、新町の漢方医山本桂に大倉谷まで行かせ、人物試験をさせた。先生を迎えるのに人物試験をして迎えるところに、有志たちの意気が感じられる。

「逃亡藩士の郵便局長」(「佐渡の百年」)


★島倉勘十郎

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余
興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。


★島倉久次郎

しま島倉久次郎(北海道立志編) (2)
「北海道立志編」(明治36年刊)より
しま島倉久次郎(北海道立志編) (12)


★島倉七兵衛

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余
興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。


★島倉孝

前列左より:島倉孝、山本一郎、山本半蔵(静古)、山本悌二郎
後列左より:山本成之助、山餅修之助、山本宙蔵。※写真撮影は昭和10年
やま山本一郎 451kb
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
医師。明治二十二年一月五日、西三川で生まれた。千葉医学専門学校を卒業した。東京都新宿区下落合で開業、新宿区学校医会会長、日本医師会常任理事等になった。(新潟県年鑑) 真野新町の島倉家を継いだ。本間周敬は実兄。


★島倉盈(みつる)   

真野の人、島内を代表する俳人で新潟日報(佐渡版 俳句)選者を長く務めた。司馬凌海の子孫である。

『佐渡のスポーツ 賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会4部において、100m1位(12秒4)、800mR4位(佐渡中学)、砲丸投1位(10m78)。昭和14年、第9回県下男子中等学校総合体育大会において、砲丸投1位。


★島倉峰雄

「株式会社プロフェッショナル・ネットワークス」(略称:プロネッツ)代表取締役
(本社)東京都新宿区西新宿2-4-1 新宿NSビル28F
(拠点) NS情報センター 横浜オフィス 福岡支社

・設立 1990(平成2)年4月26日
・資本金 5,000万円
・役員 ・常務取締役 島倉農 ・取締役 原田正昭 ・取締役 平山代士 ・監査役 伊豆野泰弘
・従業員数 129名 ※2014年4月1日現在
・売上高 2013(平成25)年度 15億7,000万円 ※グループ連結

「株式会社シナジーパルス」代表者

・住所 東京都新宿区西新宿2-4-1 新宿NSビル28F
・設立年月日 2003年12月
・資本金 3000万
・事業内容 ・システムインテグレーションサービス ・システム投資プランをサポートするコンサルティングから設計、開発 ・テクニカルサポートサービス ・システムマネジメントサービス


★島倉祐次郎

旧新町(真野)村長、明治20年代。

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村新町 ・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]・明3、警備隊設置の請願[二十七年四月]・明3、松本八十八の祝賀会[二十七年四月□日]・明3、佐渡憲政党の分離[三十一年十二月二十六日]・昭4、山本悌二郎 薨去[十二年十二月十四日]


★島倉竜治

しま島倉龍治 (1)
しま島倉龍治 (2)
しま島倉龍治2 しま島倉龍治
明治三年真野町新町の貧しい家の二男に生れたが、小学校を卒業すると上京して苦学力行、東京法学院を卒業。三十三歳でようやく判検事試験に合格して司法官となる。後、那覇地方裁判所検事正となり、在勤中「沖縄一千年史」を出版した。昭和四年大審院判事で亡くなったが、学あり徳あり、郷土の文化事業にもつくした。立志伝中の偉材である。

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
検事正。明治三年五月二日に佐渡郡真野町新町で生まれた。小学校卒業後上京して多くの職業を転々とした後、働きながら東京法学院(中央大学の前身)に入学、明治二六年、二十四才で卒業した。同三十三年判検事試験に合格、司法官試補となった。若松、徳島各裁判所勤務を経て三十五年判事となり大阪に転任した。三十八年司法官嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄視察に渡米した。四十一年検事となり宇都宮へ赴任、さらに東京控訴院検事、千葉、浜松各裁判所検事、大正十年に沖縄の那覇裁判所検事正となつた。昭和四年大審院判事となりこの年の二月十日に六十才でなくなった。沖縄一千年史の著書があり、順徳天皇第三皇子寒巌尹ゼン禅師の事跡を調査して皇統に確立した。昭和七年遺児義雄により漢詩集「大拙詩稿」が出版された。(佐渡の百年)

1870年5月2日~1929年2月10日。島倉伊平次、千代の二男として佐渡郡真野町新町で生まれる。小学校を卒業するとすぐ上京。あらゆる職業を転々としたのち働きながら東京法学院(中央大学の前身)に通う。1893年に卒業。94年、神奈川県人石渡かよと結婚。このころ島倉は東京向島言間付近に住んでいた。妻かよは東京女子職業学校を卒業していて毛糸の編み物、針仕事で生計を助けていた。島倉が勉学に必要な書物を上野図書館から借りだし人通りの少ない夜道を往復した。1900年、島倉は判検事試験に合格。司法官試補として若松、徳島などの裁判所勤務。05年、司法省嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄の制度を視察するため渡米。

1908年、検事として宇都宮、東京控訴院、千葉、浜松勤務。1921年、那覇裁判所検事正。29年、大審院判事。

「大正の皇太子御来島」(「佐渡の百年」)

「苦学力行の検事正」(「佐渡の百年」)


★島薗順次郎(しまぞのじゅんじろう)

創立時の佐渡病院への医師派遣で尽力した東京帝大病院長。
内科学者で脚気(かっけ)の権威である、1877–1937)の旧蔵書である。内科学およびその関連領域の洋書900冊からなる。島薗順次郎は、1904年東京帝国大学医科大学を卒業し、陸軍軍医として日露戦争に従軍。東京帝国大学の内科学医局に入局後、1911~1913年ドイツに留学して神経病理学を研究した。帰国後、京都帝国大学教授を経て、1924年東京帝国大学教授に就任し、島薗内科を主宰。東京帝国大学附属病院長も務めた。1926年、緒方知三郎(おがた ともさぶろう、1883–1973)との共同研究「ビタミンB欠乏症についての実験的研究」で学士院賞を受賞。脚気の原因がビタミンB1欠乏によることを解明し、食事による予防法を打ち出した。1929年日本初の日独交換教授としてベルリン大学で1年間講義を行った。

「総合病院の誕生」(「佐渡の百年」)


★島村了

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しま島村了


★島崎脩省(しゅうせい)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
し島崎脩省

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を玄的と言う。
詩をよくし小倉実起が佐渡に流された時、その門に出入りした。(佐渡人名辞書)


★烏田佐京

『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
ここで、どうしても引っ掛かるのが鴉田大工と烏田佐京の関係である。烏田佐京は天文元年(一五三二)の新穂村「計良七郎左衛門(村上屋)家文書」に出る者で、同文書には次のような主旨が書いてある。
佐渡の三郡に、一郡一社の牛頭天王を祀り「羽茂知郡では島田佐京にその第一切を取り行わせる。廻船の役(税金)、塩釜の役、その他一切の役を取らせる。」とあるものである。これを書いたのは佐渡の中央を支配する雑太の本間大運。一郡一社の牛頭天王は、羽茂郡の八王子牛頭天王(草苅神社)、雑太郡の長石神社、加茂郡は潟上の牛尾神社(潟上の天王さん)であった。この島田佐京にかかわるかと思われる鴉田家が、元禄検地帳に二軒ある。どちらも、草苅神社西側の小さな丘陵南面に次のように屋敷を持っていた。
・・・・・・・・・
このうち久五郎が、今の屋号「鴉田」の藤井五郎右衛門番匠。勘四郎が今の屋号「四郎平」で姓は鴉田である。鴉田番匠の藤井家の方は、今、山の上の方へ上がっているが、その時期は元の住家新築の棟札の残る天明期(一七八〇年ころ)であろう。以上見てきたところでは烏田佐京につながるとすれば、その定着は中世であろうが、大工との関連は明らかにはされない。何代目か、いつの時代かに、大工とのかかわりが出来たのかもしれない。
羽茂に宮大工の一族が明らかに見え始めるのは、小比叡山蓮華峰寺が再建された近世初頭からと考えられる。弘法堂の墨書には次のように、羽茂大工の祖と思われる老の名が見える。(「小木町史史料編」より)
・・・・・・
→index「番匠」


★島田甚五郎

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、寛保二年(一七四二年)三月二十八日から延享二年(一七四五年)二月十五日御留居番へ転任するまでの間、在任した。
名は盛貞、知行は五百石、うち三百石加増、御役料千百俵百人扶持であった。(佐島通事)


★嶋田哲夫
 
 佐和田の人、「嶋田工芸」代表で、映画看板その他写実的な絵は島内至る所で見られる。
 「島の新聞」創刊時より、「佐渡八十八番霊場」の絵を担当した。
 昭和13年、満州生まれ。昭和18年、5歳の時帰国し、母の実家天草に落ち着き、父の死後羽茂の祖父の元で育つ。
 中原の看板屋「一光社」、新潟交通を経て独立し嶋田工芸を興す。


★島田治男

し島田治男 新潟県人会
東京相川会7代会長。
昭和8年生まれ。相川高校、明治大学卒。
日本橋の繊維メーカーに勤め常務取締役。


★嶋田冨美男(ふみお)

畑野の人、昭和9 年生、平成27年10月没。若い頃は流行歌手を目指し、三橋美智也とも共演。畑野みどり会の唄い手として活躍しその美声はよく知られ、特に両津甚句が得意だった。新潟交通発売のテープ「佐渡めぐり」に「国仲音頭」「七浦甚句」、キングレコード「正調佐渡の民謡」等多くのレコードを吹き込む。三味線や踊りも堪能で「砂金音頭」の振付も行う。


★島田磨佐記

しま島田磨佐記 (1) しま島田磨佐記 (2)
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
し島田磨佐記1

し島田磨佐記2

→鶴間笛畝(てきほ)参照


★島津光夫

しま島津光夫 300522


★島根千絵

本名チエ、大正六年生れ。
羽茂本郷大谷、金十郎家の人。「歌と評論」同人。

(歌碑:平成二十年三月建碑 樟石丈一、一八㍍)
        
○若きまま胸裏(うち)ふかく住む君ありて今に遥けき戦を恨む

ささやかながら幸せな青春の日々を一転、悲痛のどん底に突き落とした大東亜戦争。
生涯を共に過ごすを疑わなかった夫の招集、そして、一時は茫然自失となるも幼い二人の娘、老いゆく両親、特に萎えそうな時には夫の面影を心の支えに農を守り、どうにか平穏に老年を迎え、拙い短歌をまずまずの幸せとありがたく思っています。(自註)

『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より


★島元忠太郎

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
しま島元忠太郎 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
しま島本忠太郎
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
し島元忠太郎
し島元忠太郎 (2)
し島元忠太郎 (3)
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
しま嶋元忠太郎 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) しま嶋元忠太郎 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2)


★島元矩

「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)


★清水彰直

昭和28年佐渡高校卒。
NPO法人放射線線量解析ネットワーク理事長。


★清水勇

しみ清水勇
金井千草の人、島内を代表する川柳家で昭和初期の生れ。新潟日報県版や佐渡版に度々作品が掲載される。平成2年 新潟日報に初投句。平成3年「ウイークエンド佐渡」(後の「島の文芸」)に初投句。平成12年「すみさか川柳社」入会。平成18年 句集「ひとり旅」刊。平成23年「川柳にいがた」入会。句集「走馬灯」刊。平成25年「ふあすと社」誌友。平成26年 句集「万華鏡」刊。


★清水円平

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田 ・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]


★清水薫

しみ清水薫 しみ清水薫 (2) しみ清水薫1

しみ清水薫
1930年高千村生れ。島内での新潟日報記者を経て静岡第一テレビ報道局長。
退職後、佐渡の実家に戻り、ハヤブサの写真展他多方面で活躍する。映画「飛べ!ダコタ」制作にあたっては中心的な役割を担い、自ら見聞した出来事を掘り下げ、周辺取材を行って関係書を出版した。日本写真作家協会会員。著書:『静岡レジャー歳時記』(明文堂出版社)、『昭和の佐渡綴り』(若葉出版社)、『実録 ダコタ物語り』(2012年 佐渡ジャーナル出版局)
※当ブログ所収の近藤元次氏とは竹馬の友であった。(➡近藤元次に清水氏の回顧文あり)

フェイスブック「ようこそ、旅の人!佐渡を千倍愉しむっちゃ」2013年4月30日 ·
「実録 ダコタ物語」
著者の清水 薫氏に先日お目に掛かる機会があり、先に佐渡で公開され、東京等で10月5日から公開される映画「飛べ!ダコタ」の元になる書を記されたことを知った。 氏は当時16歳で、高千の青年学校にいた。その後、地元にこの事件関係の資料が一切保存されてないことを知った。体験者で、かつ記者出身として、当時の関係者を取材し、この書を残すことにした。
先に記した「飛べ!ダコタ」上映記を以下訂正、補足します。
なおこの映画は、是非全国で見て頂きたい。驚愕するような史実と共に、当時の国民思想、そして現代に続く反戦の理念が貫徹されています。
・ダコタが不時着した時には、香港の英国軍、大使館関係者6人(内タイピストの女性1人)及び機体のクルー5人が搭乗していて、皆無事だった。クルー以外の人間は翌日高千を離れている。
・機長達も直ぐ高千を離れることが出来たが、クルーとして残る選択をした。
・救援がスムーズにいったのは、高千の人々の個々にはわだかまりがあったものの、戦争はもう終わったという気持ちと、兵隊さんを助けてやろうという矜恃があった。さらに事故後の英国兵士の紳士的な態度にも負うことが大きい。
・事故後2日目には新潟の米軍基地と連絡が取れ、新潟日報に小さなベタ版で掲載されている。決して秘密ではなかった。
・当時の高千はまさに秘境、貧困極まれる地で、相川からも容易には近づけず、週に数便新潟との船があった。しかしここに北大へ行っていた学生が休暇で帰省しており、通訳として意思疎通が出来たし、小学校の当時20歳の女性教員が英国の歌を知っていて、蛍の光、埴生の宿、庭の千草などを演奏することで、小中学生と兵士達との交流が深まることが出来た。
・6日後に東京から英国の整備士が駆けつけて来た。彼が佐渡、高千と英国を結び付けるキーパーソンになる。彼は率先して宴会で佐渡おけさを踊り、彼の子息が将来高千を訪れることになる。
・当時の高千には玉じゃりのような石の海岸が1800mあったことが、ダコタの不時着を可能にした。
・懸命な修復作業により、40日間で長さ500m、幅50mの滑走路が完成する。最後は機体を軽くするためにクルー3人が搭乗し、他は新潟基地で到着を待った。ダコタは200m走って離陸に成功。別れを惜しみつつ新潟へ向かった。
・高千の有志により、2001年に記念碑が建てられ、英国大使館の書記官を招待した。
・そして2010年に先の整備士の子息が高千を訪問し、当時のお礼を述べた。これがメディアに伝わることになり、映画化に結びつくことになった。
最後に。当時村長として救援を決断し、自分の旅館に泊めてそのため軍靴で傷だらけになった床を、その後に兵役からようよう戻った長男は、父親の決定に反抗することもなく、自分の代になって床を全て修繕した。彼は鬼畜米英の精神で部下を指揮してきたもので、関係者の中で唯一、高千での史実を一切語らなかったと言われている。


★清水啓蔵

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
し清水啓蔵


★清水兼造(北狄の鳴神)   

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
大正14年、海軍軍人清水兼造(金泉)が靖国神社奉納第1回陸海軍人対関東学生相撲大会で個人優勝し、明治大学の佐藤秀次(両津)は関東相撲大会に優勝する。
明治30年生まれ、昭和43年没。年71歳。(1897年~1968年)清水兼造は、大正期前期に佐渡相撲に活躍した形跡がありますが、彼の真価を発揮したのは、海軍へ入団後である。遺族によれば詳しい資料は残っていないが、賞状と賞品が残っていると、送付された写真が後記掲載のものである。それによれば、大正14年4月靖国神社例大祭奉納の相撲大会で、陸軍・海軍・関東学生連盟対抗の競技の中で、海軍随一・三者対抗の個人優勝の栄誉を得ている。帰郷後も、北秋の大名乗りである鳴神を名乗って、佐渡相撲で活躍した。生存している古老の話でも、鳴神は大関相撲だったと記憶している人が数人いる。彼は講道館柔道も四段であったので、後年県立相川中学校の柔道教師の職を勤めた。もちろん同校の相撲部監督でもあった。これには愉快な話が残っていて、真野官奉納の三校対抗相撲(佐渡中学、相川中学、佐渡農学校)大会に集合した生徒の前で、試合方法について、佐渡中学尾崎柔道教師と、討論をするのを例としたという、生徒達はまた始まったぞと、前座試合を楽しんで聞いたものだと語り継いでいる。晩年子息の働いていた札幌市に移り住んで、昭和43年10月13日に胃癌で病没した。

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(相撲部門参照)昭・14、講道館柔道5段に列せられる。昭・43 北海道札幌で逝去。


★ 清水幸吉

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
相川町二丁目に、通称「はぐちや」清水幸吉がいた。筆者は昭和の初め、わざわざたずねて、製作の
福助を買ったことがある。「はぐち」というのは「素焼物」のことで、いつもはこの「はぐち」を焼いていた。そして、有卦の時だけ、福助をこしらえた。ほかに縁起物の恵比須・大黒の土製の面などもこしらえるということであつた。店頭には、日用品の素焼物のほか箱庭の時に使う家とか、橋とか、鳥居などがならべてあつた。
この「はぐちや」でつくった福助も、昔のものはよかった。八cmくらいのものを一個入手したが、眉や目が、太く大きい。そして、振ると音がするようになつていた。この時、買つたものは、緑と赤のエナメルを塗ってあつて土人形の本来の味が、さっぱりなく閉口した。二十㍉くらいの小さいものは珍し
い。

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)


★清水儀平

『佐渡酒誌』(平成14年)
しみ清水儀平 『佐渡酒誌』(平成14年)


★清水伍作

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎


★清水幸雄   

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
八幡の人、佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会4部において、800m5位(2分25秒4)。
新潟師範時代の昭和17年、第12回県下男子中等学校競技大会1500mで1位。
同年、全国中等学校陸上選手権大会800m、1500mで1位。
その後、清水幸雄(新記録証受賞)は加茂農林高校体育指導の充実を通じて県陸協の進展に寄与された。


★清水シュン

「大力の女と百六歳の老婆」(「佐渡の百年」)


★清水湘斎(しみずしょうさい)

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
しみ清水湘斎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
【生没】一八八七ー一九三九 銅器作家。昭和十四年二月、五二歳で没した。住まいは相川町三丁目で、若くして沢根の本間琢斎に師事、斑紫銅および斑黄銅などに、美しい作品を製作して一家をなし、とりわけ神仏像の彫刻ですぐれた技を持ち、「相川の銅器作家中随一」と評判が高かった。大正の初期から昭和の初めころ、全国物産品博覧会や内国勧業博覧会などに、花器・香炉などを出品し、受賞すること十数回におよんだという。大正五年(一九一六)七月、皇太子裕仁(昭和天皇)が来島されたおりに、御観賞を得た「斑紫銅芝屋香炉」が同殿下の御買上げになったほか、翌大正六年に出品した「斑紫銅無地花瓶」が、高松宮殿下のお買上げになったことも記録されていて、三丁目の自宅の裏に工房を持っていた。出品作に対する感謝状や賞状など、生前の作歴を示す三○点余が、屏風にして保存されている。本名は丈作。もう一つの雅号が孤松軒。夫人のミツイさんは元安田部屋の坂尻家の出で、長年産婆さんとして令名が高かった。陶芸作家の清水文平さん方が、湘斎家の本家に当たるという。
【参考文献】高屋次郎『佐渡名鑑』(佐渡毎日新聞社)・原 泉『佐渡郡肖像録』(博友社) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しみ清水湘斎

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
銅器鋳造作家。明治二十六年、佐渡郡相川町三丁目で生まれた。同郡沢根の二代本間琢斎の門下である。紫班銅、黄紫銅に一家の風をなした。各種博覧会に出品して賞状褒状を受けた。
神仏像にすぐれた作品がある。(佐渡名鑑)


★清水丈作

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]


★清水伸


しみ清水伸 300526

しみ清水伸
しみ清水伸 300108
新潟日報(平成26年12月20日)
しみ清水伸


★ 清水半平

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
しみ清水半平
佐渡の創作玩具も、つぎつぎに廃絶の運命をたどっていったが、昭和初年から人形師として現在もなお創作玩具の製作をつづけている人がいる。この人は、佐和田町沢根、清水半平である。小学校を卒業すると、同じ町に住む仏師二代山田与八の弟子となつて木彫家をこころざした。木彫家としては「日展」に、昭和三十二年「波紋」が、同四十年には「果樹」が入選した。また、昭和三十五年には、全日本人形作家連盟と朝日新聞社主催の「人形展」には「ぼたん雪」を出品、特選になった。これは、雪蓑をつけた三人のこどもが一団となって、ぼたん雪の降るのをながめている姿である。わらべ唄の「天井見りや 煤だ 下見りや 雪だーというのを思い出す。彼の制作する木彫りの作品もいつもこどもを題材にしている。ここにも人形師らしい彼を見ることができる。
彼の初期の創作玩具は「半平人形」のレッテルで売り出した。土製で、三個一組の編笠に浴衣姿のおけさ人形」であつた。これと同じ九cmくらいの土製で「盆踊人形」と「春駒人形」もあつた。 この「盆踊人形」は、普通「おけさ人形」ともいっているが、このごろのようにきれいに、着飾ったおけさ踊とは、まったく異にして、農村や漁村の老若男女が踊っている姿で、まず盆踊風景というところであろう。これこそ、佐渡の庶民の姿で野趣横溢している。人形は、頬かむりで踊る人と、太鼓たたきと、笛吹きの三人である。清水半平が、長い間つくつた人形の種類は多い。「おけさ人形」につづいで、三人一組の「春駒人形」をつくつた。「おけさ人形」と同じく高さ九cmで、春駒そのものは人形のモデルとしては難しい。鳥打ち帽をかむった太鼓たたきと、大きな福袋(もらった米など入れるもの)を肩にした付き添い人は、稚拙味があつて面白い。今なお製作をつづけているのは「のろま人形」と「のろま土鈴」である。
「のろま人形」は、小型四個の首人形で、竹を横に切ったものの中に藁をつめ、そこにさしてある。小型で、値段も安いので観光客から歓迎されている。しかし、エナメル塗りはなんとかならないものであろうか。小売店の注文かもしれないが、改良してほしいと思う。
「のろま土鈴」は四個一組であるが、小売店の注文で二個一組として箱入りである。これなども、もっと小さくして四個一組にしてほしい。人形芝居の「のろま人形」が四個で一座を組織しているからである。最近は製作をやめているが、「流人首人形」というものもあつて、小倉大納言、世阿弥、切られ与三郎、女人の四個組であった。このほか、張子の春駒面〔釣〕などもこしらえたが、これもなかなかよく出来ている。
こういうものを、もっとつくつてもらいたいと思うが、土産物屋などの注文であつて、作者の思うようにならないところに悩みがあるのであろう。一日、彼の工房をたずねたが、注文に応じられないほどだと、うれしい悲鳴をあげていた。若い次女悦子が、この人形づくりの後継者になるといっていたが、心づよいかぎりである。

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)


★清水祐治

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
しみ清水祐治


★清水与四平

『佐渡酒誌』(平成14年)
しみ清水与四平 『佐渡酒誌』(平成14年)
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