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2014-03-01

★ガワー→ガール

★河合絹吉

旧制佐渡中学5代目校長(大正1・10・11~大正3・2・18)、愛知県人。キリスト教に対しては厳しい態度で臨み、中学生の教会出入りを禁じ、学校でバイブルを持っている生徒を調べてバイブルを取り上げたと言う。佐渡民謡に関してこんなエピソードもある。「北は大佐渡南は小佐渡間(あい)の(なかの)国仲米どころ(川合絹吉)」、この歌詞は大正元年から佐渡中学に居た川合絹吉校長から「この唄を作り、「幽景楼」のおよしと言う老芸者に与えたもの」との手紙をもらったそうだ。「幽景楼」は現在の「裕景旅館」か。(『佐渡の百年』山本修之助「佐渡おけさの流行」による)

「佐渡高等学校百年史」(河合校長の着任)
明治における佐渡中学校は自由民権の風潮をつよく受け、また北一輝ら革命思想家の影響もあって、学校の雰囲気も言論・思想ともに自由であり、明治二、三十年代に高まった国家主義的傾向も柏倉校長の下では育たなかった。また逆に言えば、貧民教育を唱え、キリスト教的社会主義に共鳴する教師や、校友会誌『獅子ケ城』のなかで薩長藩閥攻撃の論陣を張る教師が活躍する学校であったからこそ、学校の雰囲気もまた自由闊達であったと言えよう。このような校風は、すでに日清・日露両戦争を経た明治末年の状況下では時代の風潮に逸脱しており、早晩『校風の刷新』を迫られるのは必至であった。このような情勢下の佐渡中学に送り込まれてきたのが第五代校長河合絹吉であった。
河合校長は八の字髭をはやし、丸顔で太った風采の人だった。何ごとも速断明快で行動力があり、厳格な印象を与えた反面、人情家でもあったという。蛮勇の聞こえ高かった森隆正新潟県知事の知遇を得て、校長としての職務は万事好都合に運んだという。漢詩が好きで自らも作詩し、退職後は『漢詩句法新説』という本を著している。
河合校長は、明治三十七年から大正元年まで八年におよぶ柏倉校長時代に築かれた質実剛健ではあるが自由闊達な校風を改革し、規律と良風を尊び統制と秩序のある学校にすべく努力を傾けた。その要点は次のようなものであった。(一)撃剣(剣道)・柔道を準正課とし、必修とした。(二)服装の整理(三)読書制限(四)公認下宿 従来寄宿舎に収容しきれない生徒は随意に下宿していたが、これが往々生徒過失の原因になるとみて公認下宿を指定し、これ以外を禁止した。
(五)風紀の取り締まり 従来風紀係の生徒三〇人を置いて規律を守らせることになっていたが、統一性がなかったため風紀係長および副長を置き、生徒同士で風紀を取り締まることとし、また、職員の監督を一層厳重にした。
 剣道は正課ではなかったが、創立当初から撃剣部が設けられ早川直昌師範を迎えて活発に活動していた。早川の次に撃剣師範として迎えられたのは溝口元太郎であった。溝口は新発田藩士の出で明治三十四年から大正三年まで一三年間佐中で剣道を教え、無言の中に生徒は大いに感化された。河合校長時代、溝口は夷の佐野某という剣道五段の壮年の者との模範試合をすることになった。この試合は道場破りともいうべき試合で、七〇歳の腰の曲がった溝口師範の勝てるはずはなく、全校生徒は涙を呑んだ。翌年同月同日朝、先生は端座して書き置きをのこし瞑目死された。前日放課後、将月(後藤)令助・矢田秀雄・秋野(渡部)亀太郎・秋山某ら高弟に自分の剣道具を分かち与えたという。矢田・将月・秋野はそれぞれ六段、五段となり大学や師範学校の主将となった。溝口師範は身をもって人のあり方を教えたのであろう。柔道は大正二年に着任した土佐林勇雄という東京高等師範学校出身の博物の教師が受け持った。それまでは五年生の金刺儀三郎が下級生を指導していた。専門の柔道教師が来任したのは、大正七年に岡田佐六という大日本武徳金武術専門学校を出た五段の免状をもつ教師が最初であった。三年生の本間(田辺)朝之衛が初段となったが、本間は佐中で最初の柔道有段者であった。生徒の服装は、河合校長着任の翌大正二年十月から全学年すべて紺木綿の洋服に白ボタンのついた白麻のゲートルと草の短靴が制服に指定された。それまでは和服に袴、下駄か草鞋ばきが一般であった。当時大人も子供も日常は和服を着用していたから、佐中生の制服が詰め衿の洋服に統一されたことは世間の注目するところとなった。読書については、以前は特に制限はなく自由であった。明治末年から大正時代にかけて文学界の主流となった自然主義文学は、島崎藤村の「破戒」や田山花袋の「蒲団」に象徴されるように個人主義の立場から封建的な家族制度や形式に挑戦し、それを否定した意義はあったが、一方では無道徳、無理想に流れるのではないかという批判的な見方もあった。河合校長が読書制限を設けたのは、自然主義文学が風紀上生徒に悪影響を及ぼすのではないかという懸念からであろう。

河合校長の時代は、ある意味では明治末年の柏倉校長時代の反動の時代といえる。それまで思想的にも行動面でも自由で、一人ひとりの生徒の個性が尊重される傾向が強かったのとは対照的に、河合校長の時代は、厳格な規律と軍隊式の続制をもち込み、校風を引き締めた時代であった。生徒は、それまでの自由でややもすれば緩んだ感じのする校風に比べ軍隊詞の厳しい規律に戸惑った反面、その新風を新時代の到来として喜んで受け止めた。河合校長が佐中を去るに際して『獅子ケ城』の編者が、「一年有半孜々として薫陶経営に努めらる、為に本校面目を一新する所あり」(『獅子ケ城』第二十一号としたのは当を得た評価であった。森正隆知事の信任が厚かった河合校長は、森が大正二年宮城児知事に任ぜられると翌三年二月宮城県立古川中学校校長に転出した。河合はその後、香川県立丸亀中学校、愛媛県立今治中学校校長を経て宮城県立仙台第二中学校校長になった。


「佐渡おけさの流行」(「佐渡の百年」)


★川合五兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の役人。正保二年(-六四五年)五兵衛は切支丹宗門であることが露顕し、死刑となった。(佐渡年代記上巻)

『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)より
相川の役人であったが、一六四五(正保二)年、キリシタソゆえ死罪となる。になっています。(「年代記」)

『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)


★河井清次郎

太鼓金春流名人河井彦兵衛の弟。明治維新で能学界が一時衰微したが、その当時に来島した。

「英文学者と太鼓の家元」(「佐渡の百年」)


★河合(井上)盛恵(もりえ)

母磯野初枝が両津湊(5丁目?)の人で、燕の鍔(つば)師河合一舟と結婚。横須賀、鎌倉に移住し、後者で盛恵が生まれた。盛恵は新派の女優として活躍し、東京の歌舞伎役者尾上松助(井上家「音羽屋」)に嫁ぐ。新派では水谷八重子の最後の弟子である。磯野嘉右衛門家の先祖は夷4丁目(石川書店辺)にあり、湊に移住し、蒲鉾製造を行っていたようである。磯野家の菩提寺は安照寺で墓は盛恵が世話をしている。息子が舞伎俳優の二代目尾上松也(おのえまつや、1985年1月30日 - )である。

左端が河合盛恵で安照寺住職夫妻と
おの尾上松也1 (4) かわ河合盛恵


→尾上松也


★河合美成(かわいよしなり)

【生没】(生年不詳)ー一八七四  東京の人。明治元年夷(両津市)が新潟港の補助港として開港して間もなく、通訳として愛知県から赴任した。たまたま明治五年(一八七二)相川町の医師長谷川元良は、南沢に病院を設立したが、かねてから欧米の学問が日本の近代化に不可欠と考えていたので相川に洋学校の設立を企てた。長谷川は太政官の許可を得ると、南沢の病院内に「仮洋学校」の門標を掲げ、夷港に来任していた河合美成を教授として迎えた。河合は、外国船の入港もほとんどなく暇であったので長谷川の依頼を容れ、夷から出張して講議した。開校と同時に洋学校は活況を呈し、一○○人余が入学した。しかし、当時佐渡では英語の教科書の入手は不可能で、東京・横浜などで入手しなければならなかったが、それも高価であるため、最初は生徒が一字一字教科書を筆写した。河合は自費で木の活字を彫らせて、英単語の教科書を作成したが、長文の英語には使えず、長谷川に相談して金属活字を作ることにした。しかし、佐渡には金属活字などを作る職人はおらず、長谷川は相川県権知事新貞老に相談、両人の尽力でもと相川鉱山の硝石製煉方に勤めていた、二見の石橋良益に依
頼した。石橋は河合から「アンチモニー鉛合剤の法」を翻訳してもらい、また「万宝玉手箱」などを参考に実験を重ね、鋳物師惣十郎と、鍛冶屋平野啓造の両人を助手にして苦心のすえ、明治五年七月アルファベットの大文字・小文字・数字など、およそ三○○箇の活字を製作した。印刷用紙も洋紙がないので、仙花紙にドウサ(礬沙汁)という墨やインクのにじみ防止の薬を刷毛でひいて作り、インクは栗の木の皮と硫酸鉄を混ぜて作った。この教科書は、萩野由之が使用したものが佐渡高等学校同窓会舟崎文庫に現存している。その後長谷川が医学修行のため、大学東校(東京大学の前身)に入学、上京したあと、河合美成は洋学校で教鞭をとったが、肺結核にかかり、翌明治七年病没した。墓は相川町鹿伏大神宮、宮司佐々木家の墓地に建っている。
【関連】長谷川元良(はせがわげんりょう)・相川洋学校(あいかわようがっこう) 参考文献】岩木拡『相川町誌』、山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

※病没地は鹿伏の佐々木家。

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川洋学校教授。東京出身で夷港(両津港)の通弁権中属、愛知県から転任してきた。明治五年相川町の医師、長谷川元良が役所の許可を得て病院を南沢に建て、ついで洋学校を病院内に建てることを相川県権知事新五郎に申請し許可された。美成は教授として迎えられ、助教に岡田、池田、松岡、酒井らが選ばれた。美成は英語書の少ないのを嘆き、新権知事の協力を得て二見村(相川町)の石橋良益という元鉱山用の硝石製煉方に勤めていた人に英活字の鋳造をさせた。鋳物師惣十郎とかじ屋の平野啓造が助手をつとめた。明治七年美成は肺結核でなくなり、相川町鹿伏大神宮、宮司佐々木家の墓地に墓がある。(佐渡の百年)

「島の新聞」
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「洋学校と英字鋳造」(「佐渡の百年」)

『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)より
切支丹禁制が解かれ、禁札撤去がなされたのは明治六年だが、佐渡にはそれ以前にカトリック信者がひとり確熱されている。それは明治元年に両津にきた江戸生れの河合美成という人で、この人は安政五年の仮条約で新潟港が開港になったとき、夷港が避難港として措定され異国人の出入りが公認されたため、その通訳官としてやってきた。その後明治五年相川に英学校ができると、当人は希望して教師となり明治七年に鹿伏の佐々木家で客死した。

『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)


★川内精一郎

かわ川内精一郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡民政倶楽部の発会式[四年九月二日]

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川内精一郎


★川内孫太郎

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
(羽茂大崎)宮本寺の山門は、もと報恩寺の山門であったが、合寺とともに当寺に移建したものである。移建費は中川仁吉が寄進し、棟領は和泉寛一である。山門の横に立って温顔を見せておられる地蔵は案内地蔵で、本堂前の石畳とともに、滝平村の川内孫太郎の寄進である。孫太郎は故精一郎の先々代に当る。川内家では孫太郎の代まで.二代、いずれも子供がなかったので、子供が授かるようにと寺に寄進をされたものといわれ、本堂の屋根改修の時に、その棟札に木材寄進のことも明記されていた。


★河内良和

東京柿野浦・東鵜島会2代会長(平成11年~平成18年)
「岩首校百年誌」(昭和55年)
かわ川内良和 岩首校百年誌(昭和55年)


★川上愛蔵

『佐渡酒誌』(平成14年)
かわ川上愛蔵 『佐渡酒誌』(平成14年) (2)
『佐渡酒誌』(平成14年)
かわ川上愛蔵 『佐渡酒誌』(平成14年)
金井 得勝寺石塔
かわ川上愛蔵 得勝寺


★川上伊左衛門

『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
慶長年間より少し前に、石見国(島根県)浜田より川上伊左衛門、久保新右衛門および川上権左衛門ら三人が渡来してきたという伝えが残っている。当時、石見には大森銀山という西国最大の銀山があった。徳川家康の直轄銀山になると大久保長安の支配地となり、この石見方面から銀山関係者や商人らが佐渡をめざして移動してきた。この大森銀山の港は温泉津(ゆのつ)湊であった。佐渡へ渡ってきたという三人も、この温泉津より便船に乗ってやってきたものであろう。

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ川上伊左衛門


★川上今次

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上今次 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) かわ川上今次 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2)


★川上可一
                                『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
か川上可一 かわ川上可一

明治17年(1884)8月15日~昭和32年(1957)。 川上喚濤の長男として誕生。幼少の頃より川上家の後継者として父喚濤から厳しく教育される。父の追想だけでなく、自らも和木やその周辺の出来事を書きとめた。父川上喚濤の酒造「和木川」を経営するが、戦時中、国の指導で両津の柴田酒造(「加茂川」)と合併する。
息子に京大名誉教授(農学博士)川上太左英(たさえ)が居る。
→川上太左英

※「川上可一の覚え書き」

 ◇川上(喚濤)と「尾崎紅葉」とは非常に仲悪し。 常に論ずるに足らずとなす。 其の原因は何れにあるか知らざれども恋愛的小説を書いた為か。 川上を尊敬する牛窪弘善は曰く、「汗なんぞふいて貰うて分かれけ
り」の句碑を立てるよりも、羽茂川へ鮭を盗みに行き野田菜をひいた処へ句碑を立つべきなりと評す。 又佐渡俚謡(りよう:ざれうたの意)集を貸したのに対して何か文士としての礼を忘れたのかも知れぬ。

 ◇明治19年、馬首村外11ヶ村戸長に任命された時、官選戸長と云う。 歌見より白瀬までを内浦村と新村名を付けたり。
 鵜飼(郁次郎:うがいいくじろう)は明治村と原黒方面の村名付けたのに対し嘲笑す。 金沢村は雑太(さわた)村にしてほしいと云う。

 ◇ 三郡郡役所には郡制実施前には三郡勧業委員と云う者数十人あり。 之は郡書記と郡会議員を兼ねるようなものにてなかなかの勢力あり。 鵜飼も川上も其の委員たり。
 川上は勧業委員として佐渡の水産開発の為外海府、前浜等を巡回して産業の発展を指導す。 其の当時佐渡俚謡集を編む。 又佐渡方言集、年中行事等を調査す。

 ◇明治22年 相川暴徒
 予が6歳の時の初夏の候。 二番草取りの頃、6月下旬と思う。 姉ヒデ女が小学生だった。 泉小学校より急いで戻り、相川の南畑(※相川の金山で働いていた乱暴な鉱夫頭の出身地から荒くれ者のことを「南畑」
と呼ばれるようになったという説有り)が父を殺すと云うて何時来るか判らぬと云うて早くも泉の町へ来て居ると云う事を聞いて戦慄せる事を覚えている。
 そして其の日か翌日か覚えて居らないが、大屋へ南畑が六七人程来て倉を案内せよと大屋の叔父(おっさん)を責める有様をば恐れて視る力も無かりしが恐る恐る大屋の土間に這い蹲って平身低頭して謝るを見た
覚えがある。
 其の時、他の南畑共は早くも倉の錠前を抉じ開けて米も何も甚だ少しが無かりし故か別に何も破壊的暴動はせず、紙緒草履一竿あったのを放り出し他の者に履き替えさせたのを覚えている。 そして石塚秀作の家
を案内せよと云うとそんな処は知りませんと平謝りに謝って早く退出させようするらしいのである。 そうこうする裡に中興(なかおく)の堀弥左衛門を破壊するのだと云う情報があり倉の扉を破る如何にもイヤな音が聞
こえたり。

 ※相川暴徒とは
 明治23年 (西暦1890年)6月28日に、相川町で数百人の暴徒が米穀商を襲撃、破壊をおこない、さらに外海府、沢根、二見、河原田の豪農を襲撃したという事件です。 両津でも夷湊の暴徒数十人が米穀商を襲
い暴行したが発生し、29日に郡長須藤賢與が鎮撫に努めました。 
 この暴動を鎮定するため、7月3日に県警28名が来島。 5日には新発田歩兵第16連隊1ヶ中隊が来島してようやく鎮圧しました(両津町史より)。 このとき和木の川上家にも暴徒の一派が来ましたが、川上喚濤の
細君トミの機転により事なきを得たという記録が残っています。


★川上桓吉

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />川上桓吉


★川上喚涛(かわかみかんとう)・賢吉

『続佐渡酒誌』(平成14年)
かわ川上賢吉 『続佐渡酒誌』 (平成14年)

『佐渡酒誌』(平成14年)
かわ川上賢吉 『佐渡酒誌』(平成14年)
『加茂村誌』(昭和38年)
かわ川上賢吉
か川上賢吉 (2)
左より:「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
かわ川上賢吉 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
左:『佐渡名勝史』(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部) 右:『続佐渡酒誌』(平成14年7月 酒造組合佐渡支部)
かわ川上賢吉 佐渡名勝史 昭和11年 山本幸作 山本商会出版部 かわ川上賢吉 続佐渡酒誌 平成14年7月 酒造組合佐渡支部
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
かわ川上賢吉 新潟県官民肖像録 明治41年
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上賢吉 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) かわ川上賢吉 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2)
【生没】一八五六ー一九三四 本名賢吉、喚涛は号、文馨・白水庵とも号した。旧金沢村泉、川上太左衛門家の田之吉の長男として、安政三年八月三日生まれる。父田之吉が同年病没したため、父の弟で広瀬淡窓の門人で医者でもあった文興が家を継ぎ、喚涛はその養子となる。青年時代、鵜飼郁次郎・橘善吉・石塚秀策・植田五之八らと、自由民権運動に奔走した。明治十八年(一八八五)県会議員に当選したが辞退、同年佐渡三郡勧業委員に任ぜられ、以後政治から離れ、もっぱら産業経済・文化面で活動する。委員在任中、農商務省技官水野某の鯣・干鱈の改良と漁業の講話を聞き、四十物組合の創立に奔走、加茂村和木に転住して内浦海産会社を設立、数十人が入居できる宿舎を建て漁夫の宿舎にあて、伝習生を先進地に派遣して鯣の改良を図ったが、漁業者の理解を得られず失敗した。そこで同地にて酒造業を営み、戸長兼馬首登記所所長を勤めながら研究調査をつみ、明治二十二年内浦海産合資会社を設立、この年早くも大日本水産会第三回品評会で四位に入賞、以後各種品評会・博覧会で上位入賞し、佐渡鯣の市場性を高めた。明治二十二年鳥取県、同二十四年島根県からイカ漁法伝習生の教育を委託され、佐渡のイカ漁法の優秀さを全国に広めた。喚涛は内浦(旧加茂村・内海府村)だけでは不十分と考え、同二十五年佐渡水産会を創設、三十三年佐渡郡鯣同業組合を結成、大
正五年佐渡水産組合長、昭和六年佐渡郡水産会長となり、佐渡の水産物産額を飛躍的に発展させた。同九年の生産額は一五○万円に達し、佐渡郡産業の首位になった。喚涛は、この他平泉小学校の創設、黒木の御所の保存、藤津川の治水事業、全島の竹林造成事業、弾崎灯台の建設などで、指導的役割を果たした。文化面では歴史学・考古学・民俗学に関心を持ち『佐渡国誌』の編纂にも協力、俳諧をよくした。昭和九年七月二十一日死去、享年七九歳。
【参考文献】矢部義雄『川上喚涛と北見喜宇作』、『金井町を創った百人』(金井町教育委員会) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

・昭和2年、「佐渡史苑」を刊行。

諸情報


★川上久一郎

新穂村史 s51年
かわ川上久一郎 新穂村史 s51年


★川上久敬

朱鷺保護活動の尽力で勲五等瑞宝章。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p401


★川上久左工門  

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
前川(中山)みきの唱えた「悪しきを払うて救い給え南無天理王の命」という天理教が、当地方に普及されたのは、明治二十九年頃で長畝の土屋甚太郎、青木(正明寺)の川上久左工門等が自宅を開放して布教に務めたことに始まるといわれ、明治三十三年に正明寺に教会を設立し上棟式を行ったという記録がある。それが後に長畝へ移ったのである。
他方、新発田生れの曽根幸八氏が河崎村の天理教会から分れて大野町や北方(市右工門借家)の民家で仮設教会を開いて布教に努め大正四年十月新穂橋の北側横宿線東側に移り、大正十四年十一月、日吉神社の西側、元宝蔵寺跡に各地の信者の寄進を得て立派な教会を新築して、父子三代にわたってこれが布教に従事し、現在の会長は曽根昭一氏(三代目)である。信者は畑野、真野、金沢方面にも多く、町内には十数名の熱心な信者がいる。昭和三年十一月、天理教新潟分教会佐渡支教会新穂宣教所として今日に至っているのである。


★川上銀三郎

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・6・23 第3回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)
(佐渡中・30点4位)200平➅
昭・15・7・26 第10回県中等学校水上選手権(県中体連・県水上競技連盟)佐中競泳地
(佐渡中 総合3位34点)100平④


★川上金二

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川上金二


★川上吟鳳

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上吟鳳 佐渡国泉の人物誌 h29年11月


★川上賢吉→川上喚濤


★川上玄順

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
加茂郡湊町の人。次男は真野竹田の医家森家を継ぎ玄達を名乗った、嘉永五(1852)年生まれの三男は金丸の若林家を継ぎ医師となった。
→若林文平
→森玄達

川上家の墓(安照寺)
かわ川上玄順 安照寺


★川上公紀

(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。
戦後の復興期には藤井真一が、昭和52年からは草木実、中川清治が始めたが惜しくも中断し、現在 川上公紀・川上良江・渡辺トモ子・西橋健の4人に支えられている。太夫は長尾閑月・白井清次で、ちなみに白井太夫は葛原五兵衛の甥、川上夫妻は大崎屋松之助の生家兵衛家の当主」

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
昭和二十四年(一四四九)村田豊次宅の火災により、同家に保管されていた人形一行李を焼失した。上の坊住職本間敵政は、かねてから余技として刻んだ人形を里見座に寄贈して、その不足を補った。その後、石渕由太郎は不幸病魔のため倒れ、渡辺伝蔵・村田豊治も共に歿し、また、昔日の面影はなく、わずかに座頭葛原五兵衛が今倉正太郎と共に、一座をささえている状態となった。しかるに、五兵衛また老境に入り、大崎の文弥人形の将来を危ぶむ声が起ってきた。かねてから藤井真一は岡本文司に師事して文弥を修業し、かたわら人形つかいの技を修め、また昭和五二年(一九七七)には草木実・中川清治・川上公紀・渡辺友子・川1芳枝・中原ムツらの若人が、五兵衛の指導を受けて大崎座の復興にのり出した。しかるに、不幸若手のホープとして嘱望された藤井真一・草木実の両名が相次いで死去の悲運に遭ったが、若い同志の固い結束により、文弥人形の保存と振興のために精進をつづけている。また、昭和五十三年には、文弥人形愛好の有志により、大崎文弥人形保存会を結成して協力しつつある現状である。

「山里の人びと」(文弥人形)


★川上廣次

『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
かわ川上廣次 新潟県官民肖像録 明治41年


★川上孤松(羊次)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治四年生 新穂村青木 ・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />川上孤松(羊次)


★河上五郎右工門  

かわ川上五郎右衛門(→伊左衛門)
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
これは寛文(一六六一-一六七二)の頃.約三百余年前・のはな
しで、「佐渡の昔噺」という本に二万潟村(今の長畝村は二方潟村七六軒、谷塚村上組五二軒同下組三二軒、長畝村五五軒が合併したものである) の長者、河上五郎右工門宅へ大晦日の夜中「菩提所へ行くのに折悪しくなったので、これを明朝まで預って貫いたい」と言って、背負って釆た棺桶を預けて行ったきり数日たっても取りに釆ないので、重立や村の衆が立会になって棺のふたを開けてみると、中に一ケの瓶があり、その中は金銀がぎっしりつまっていた。そこで五郎右工門は村の衆と相談の上、立会に集った人達に多少づつの金銀を分けてやり、残りは全部自分のものにすることが出来たので、一躍大金持になって栄えた」という「金の棺」の話が出ている。五郎右エ門については、今も彼が「タタラを踏んだ」(大きな足フィゴを使って金銀鉱を精錬すること)と伝える地所が残っていることから、彼は自分稼ぎの鉱山で、ひと儲けしたことのつくり話となったものであろうと思われる。


★河上権左衛門

『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より                                  
沢根町の笹井家の由緒によると、近世のはじめころ、石見国浜田から河上権左衛門が佐渡を訪れ相川の庄右衛門町に住んだがそののち沢根に居を移した。三代の権左衛門は笹井家から婿をもらい浜田屋と称し、天和年間(一六八一~一六八四)弁財船二艘をもって廻船を営んだという。
この由緒にしたがえば浜田屋の成立は天和に近い時点ということになるが、浜田屋屋敷の地名が天正以前の城と鶴子銀山を結ぶ道路上に存在することからみると、浜田屋の渡来は江戸時代よりはもう少しさかのばり、鉱石を西国へ積み出すころ沢根にやってきた商人と考えることの方が真実性がある。
同家にほふるく「甚」の字を名前につけている者がある。慶長三年(一五九八)伏見城作事(さくじ)がおこなわれるにあたって秋田実重は杉板を敦賀に輸送するのであるが、そのとき新潟や出雲崎の船主にまじって「沢板甚助」の名がみえる。他の例から推してこの甚助は沢根に居住する廻船問屋と思われるが、そういう点から浜田崖に甚の字をうけた人がいることは注意する必要がある

・慶長年間より少し前に、石見国(島根県)浜田より川上伊左衛門、久保新右衛門および川上権左衛門ら三人が渡来してきたという伝えが残っている。当時、石見には大森銀山という西国最大の銀山があった。徳川家康の直轄銀山になると大久保長安の支配地となり、この石見方面から銀山関係者や商人らが佐渡をめざして移動してきた。この大森銀山の港は温泉津(ゆのつ)湊であった。佐渡へ渡ってきたという三人も、この温泉津より便船に乗ってやってきたものであろう。
・笹井新屋家に残されている「笹井氏先祖由来」によると、慶長元年(一五九六)に、佐々井九之助と母妙真が渡来して、相川の庄右衛門町に住んだと記している。佐々井九之助は山師である。沢根町と同時期に、上相川周辺にたくさんの町屋ができた時代である。そして寛文三年(一六六三)に、この庄右衛門町より佐々井氏が沢根上町にでて、浜田屋権左衛門(二代川上権左衛門)という商人となった。つまり、川上権左衛門は佐々井氏から娘婿をもらって家業を継がせることにしたのである。笹井家の伝えによると、このときはじめ小船一艘を所有するようになったといわれているが、そのとき以降つかわれた船霊本尊が、笹井新屋家に保存されている日蓮宗曼荼羅である。二代川上権左衛門の没年は延宝三年(一六七五)である。そして、三代の時代に浜田屋は、家業も軌道にのり、渡海用の手船を一般所有するはどになった。元禄年中(1688-1703)には、沢根上町から下町に移ることになる。


★川上佐一郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村 ・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]


★川上三吉

いち市橋三吉 (1) いち市橋三吉 (2) いち市橋三吉 (3) いち市橋三吉 (4) いち市橋三吉 (5)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
潟上(吾潟)の本間梅ヶ沢家は代々能太夫の家で十二代左京由春、十四代令桑は殊に堪能で、村内外に弟子が多かった。かつて長畝の山田仁平、つづみ打の太田貞之亟、瓜生屋石井喜平治、田野沢の岩田浅治、下新穂の影山新右エ門、長畝の羽田清治、北方の菊池栄太郎、武井の高野幸吉、青木の斎藤儀太郎、川上福松等これをよくし現在は北方の菊池汎、青木の如月会の川上三吉、井内の昭諷会の後藤政治等が活躍している。

→野村蘭作「宝生二派の統一」参照

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
大正5年3月佐渡中学卒。学生時代、青年団時代に郡・県大会で長距離走選手として活躍した。


★川上子温

「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)


★川上周治

『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
(青木人形)
①明治三十五年ころから同四十二年ころまで:太夫 土屋三平(通称八左衛門、大正5年死亡、七十七歳)、役者 市橋吉兵衛・相田庄蔵・渡部善次郎
②明治四十三年ころから大正四年ころまで:太夫 土屋三平・山田周吉(通称善助、瓜生屋)役者 相田庄蔵・渡部善次郎・霍間太吉(通称善吉)・本間北蔵(通称稲葉)
③大正五年ころから昭和元年ころまで:太夫 山田周吉 役者 霍間太吉・本間北蔵・川上周治(通称多平)・渡辺善次郎(昭和8年10月18日死亡、96歳)
④昭和元年ころから昭和五年ころまで:太夫 山田周吉 役者 霍間太吉・川上周治・治助・藤助・土田郁蔵


★川上松石

『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)より(俳客伝)
か川上松石 俳客伝
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上松石 佐渡国泉の人物誌 h29年11月


★川上末治

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
かわ川上末治


★川上節子

佐渡高校時代の昭和38.2.16、全国児童生徒デザイン展入選 


★川上操一

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
かわ川上捜一 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
かわ川上操一 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢村泉、内科小児科医師 ・昭1、佐渡革政党の創立[二年十二月四日]・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]・昭1、山本代議士當選祝賀会[三年八月十八日] 『金井を創った百人』

「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
か川上操一
か川上操一 (2)
か川上操一 (3)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川上操一
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上操一 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2) かわ川上操一 佐渡国泉の人物誌 h29年11月
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
医師。明治二十一年十一月十日、佐渡郡金沢で生まれた。金沢医学専門学校を卒業して中興で開業した。佐渡郡医師会長、金井町教育長、金沢村議会議長等となった。昭和三十七年二月三日に七十五才でなくなった。(新潟県年鑑)

「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)


★川上瀧蔵

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川上瀧蔵

かわ川上瀧蔵 (2)


★川上太左英(たさえ)

「加茂村誌」(昭和38年4月)
かわ川上太佐英 「加茂村誌」(昭和38年4月)
か川上太左英  か川上太左英教授の創立百周年記念碑(馬首小) (2)

か川上太左英教授の創立百周年記念碑(馬首小)  か川上太左英教授の創立百周年記念碑(馬首小)

「おそい梅」(倉田藤五郎 h11年11月再版)より
かわ川上太左英 「おそい梅」 倉田藤五郎 h11年11月再版 (1)
かわ川上太左英 「おそい梅」 倉田藤五郎 h11年11月再版 (2)

1911年(明治44年)両津和木出身。農林省水産講習所製造科卒、京都大学農学部教授経て京都大学名誉教授、農学博士。滋賀県野洲郡野洲町に住む。祖父は川上喚濤、父は川上可一。川上喚濤は旧金沢村泉の川上太左衛門家の出自なのでこの名前をつけたのであろうか。著書に「漁業解析入門 (1981年)」「農林水産応用数学 (1958年)」等がある。
両津馬首小学校校庭に碑が残る。

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
京都大学教授。明治十四年九月十日、両津市で生まれた。水産講習所を卒業した。京都帝国大学教授となり農学博士である。舞鶴市余部下に住んだ。(新潟県年鑑)

「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)


★川上忠志

泉 正法寺
かわ川上忠志 (1) かわ川上忠志 (2)


★川上忠義

平山征夫新潟県知事時代の副知事。両津水津出身。


★川上忠太

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />川上忠太


★川上立蔵

『佐渡酒誌』(平成14年)
かわ川上立蔵 『佐渡酒誌』(平成14年)


★川上寅蔵

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
か川上寅蔵


★川上二三九

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上二三九 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) かわ川上二三九 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2)


★川上仁平次

かわ川上仁平次


★川上信貞

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />川上信貞

かわ <br />川上信貞 (2)


★川上信重

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />川上信重

かわ <br />川上信重 (2)


★河上肇

「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)


★川上備親(びしん) 

新穂長畝、川上五郎右衛門の人、連歌関係者。→下記資料のp685  
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』


★川上秀夫

「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)
かわ川上秀夫 「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)


★川上ひな子

「佐渡おけさ節」に「その道の堪能者」とある。「橋本屋」に居て「おけさ踊」(大正15
年刊)には数枚の写真付きで「全島屈指の名妓」と紹介。


★川上福松

『新穂村史』(昭和51年刊)より
潟上(吾潟)の本間梅ヶ沢家は代々能太夫の家で十二代左京由春、十四代令桑は殊に堪能で、村内外に弟子が多かった。かつて長畝の山田仁平、つづみ打の太田貞之亟、瓜生屋石井喜平治、田野沢の岩田浅治、下新穂の影山新右エ門、長畝の羽田清治、北方の菊池栄太郎、武井の高野幸吉、青木の斎藤儀太郎、川上福松等これをよくし現在は北方の菊池汎、青木の如月会の川上三吉、井内の昭諷会の後藤政治等が活躍している。


★川上文興

『金井を創った百人』(「明治・大正の開業医たち」)(金井町 平成12年)より
か川上文興(ぶんきょう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か川上文興
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上文興 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) かわ川上文興 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡金井町和泉の医師である。弘化二年(一八四五年)に長崎へ出て鳩居巣補に医学を学び、また豊後(大分県)の儒者広瀬淡窓の塾に二年、熊本の御船建貞、村井道春等に十一年師事して帰郷した。
明治八年になくなった。(佐渡人名辞書)


★川上文齊

『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(書家伝)より
か川上文齊 書家伝
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上文斎 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) かわ川上文斎 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2)


★川上文和(ぶんな)

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
か川上文和
か川上文和 (2)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か川上文和 (3)
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上文和 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) かわ川上文和 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2) かわ川上文和 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (3) かわ川上文和 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (4)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡金井町和泉の人で名は恒、字は士久、通称を文和、墨十庵喚我という。別に致遠斎、桃紅仙、雨声窓等の号がある。那波魯堂、頼春水について儒を修め、長崎に出て医を業とし、美濃(岐阜県)の以雪庵に俳諧を学び、俳譜の門人も頗る多かった。文化九年(-八一二年)六月、長崎で五十四才の一生を終わった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)

※川上喚濤の先祖にあたる。

「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)


「壱万部施本の奇僧」(「佐渡の百年」)


★川上正信

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />川上正信

かわ <br />川上正信 (2)

かわ <br />川上正信 (3)


★川上松太郎

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />川上松太郎

かわ <br />川上松太郎 (2)


★川上道夫

『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の詩歌俳句。近世からの延長として和歌は明治期にも盛んで、連歌の盛んであった長畝に「莬玖波会」という団体があり、毎月十一日に例会を開いたといわれる。青木にも土屋賢継を師とする和歌の会があった。明治中期から短歌といわれるようになり、昭和初頭より、故藤川忠治(羽茂出身)の「歌と評論」の支社として益田清、後藤億衛、一度精一、本間勇夫、近藤芳雄、池田元一郎、佐藤常済、土屋貞作、本多敏樹、川上道夫等が同人となり、盛んであった。藤川没後はやゝ下火となった。山田穂積(田野沢一八九五~一九五五)大正期にはその歌才が群を抜いていた。


★川上安治

か川上安治
岩首東京人会初代会長(平成22年4月~)


★川上羊次→川上孤松


★川上ヨシ

河原田高女卒。
下記の様に草創期の桜美林学園で数々の要職を歴任した。
1951年:第2代中学校長、1953年:第2代高等学校長。
桜美林大学旧チャペルのパイプオルガンや桜美林教会川上ヨシ記念館を寄贈された。 
旧チャペルのパイプオルガンは、平成29年現在も太平館でちゃんと使用されているそうです。


★川上芳江

(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。
戦後の復興期には藤井真一が、昭和52年からは草木実、中川清治が始めたが惜しくも中断し、現在 川上公紀・川上良江・渡辺トモ子・西橋健の4人に支えられている。太夫は長尾閑月・白井清次で、ちなみに白井太夫は葛原五兵衛の甥、川上夫妻は大崎屋松之助の生家兵衛家の当主」

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
昭和二十四年(一四四九)村田豊次宅の火災により、同家に保管されていた人形一行李を焼失した。上の坊住職本間敵政は、かねてから余技として刻んだ人形を里見座に寄贈して、その不足を補った。その後、石渕由太郎は不幸病魔のため倒れ、渡辺伝蔵・村田豊治も共に歿し、また、昔日の面影はなく、わずかに座頭葛原五兵衛が今倉正太郎と共に、一座をささえている状態となった。しかるに、五兵衛また老境に入り、大崎の文弥人形の将来を危ぶむ声が起ってきた。かねてから藤井真一は岡本文司に師事して文弥を修業し、かたわら人形つかいの技を修め、また昭和五二年(一九七七)には草木実・中川清治・川上公紀・渡辺友子・川1芳枝・中原ムツらの若人が、五兵衛の指導を受けて大崎座の復興にのり出した。しかるに、不幸若手のホープとして嘱望された藤井真一・草木実の両名が相次いで死去の悲運に遭ったが、若い同志の固い結束により、文弥人形の保存と振興のために精進をつづけている。また、昭和五十三年には、文弥人形愛好の有志により、大崎文弥人形保存会を結成して協力しつつある現状である。

「山里の人びと」(文弥人形)


★川上嘉人

佐渡高校時代の昭和62、全国高校囲碁選手権県大会、団体戦(加藤陽渾・川上嘉人・林浩一郎)1位 全国大会に出場


★川上より子

 両津高校時代の1979年度(S54)6月、第18回北信越高校陸上競技大会(長野市) 毛原洋、川上より子出場


★川上理文

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かわ川上理文 佐渡国泉の人物誌 h29年11月


★川上龍一

新穂村議三期、佐渡市議二期。
昭和21年10月13日、新穂村長畝の旧家に生れる。
行谷小-新穂中-佐渡農業高校卒後家業である農業に従事。
大規模なハウス栽培なども取り入れる。
また地元の文化運動にも尽力し、「新穂ふるさと講座」運営や、長畝集落を中心としたのろま人形「新青座」の一員としても活躍する。
※苗字は元々は「河上」であったらしいが、戸籍上では「川上」。


★川上龍司

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川上龍司


★河岸直樹

かわ河岸直樹
新潟県佐渡市(旧両津市)出身。幼少期から活発で高校までサッカー少年。
大学進学とともに上京し、大学の部活動で社交ダンスと出会う。在学中も数々のタイトルを獲得し活躍する。
プロ転向後も北海道で開催されたインターナショナルダンス選手権大会ラテンアメリカンの部門にB級ながら5位入賞と活躍。現在は新潟を拠点に活動中。身長170cm 血液型 B型。

「ツボタ・カワギシダンススクールHPより」
社交ダンスを専門にデモンストレーション・インストラクターとして新潟を拠点に活動しています。2017年11月より、旧ツボタダンススクールと共同経営をスタートいたしました。1人でも多くの方に社交ダンスの楽しさを知ってもらいたい!見てもらいたい!そして私たちの事を知ってもらいたい!そんな想いで精力的に活動をしています!少しでも社交ダンスを身近に感じて頂ければ幸いです。レッスン・デモンストレーションのご依頼、大歓迎!!お気軽にお問合せ下さい!


★川口院長  

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂病院は佐渡病院につぐ国仲地区の診療施設として目覚しい活動をしてきたのであるが、昭和三十年頃からの医師不足の影響を受けて、同三十四、五年頃から短期に派遣されるインターンを以って細々と診療を続ける状態となり、一時は佐渡病
院の診療所に格下げせねばならなくなったこともあり、その経営は次第に緊迫の度を加え、同四十八年遂いに佐渡病院の診療所として存続するか、村営病院として再建するかの大困難に遭遇し、与論も喧々轟々たるものがあり、しばらくは一時しのぎの施策と
して、元佐渡病院院長時代名医とうたわれた川口先生の個人経営に委嘱の措置をとってきたが、同医師の急死によってその後しばらくは後継者もなく、その施設は往年の姿もなく、廃屋同然の姿となってさびしくその姿を止めていたのである。
川口先生は、当地の診療に献身された功績が高く評価きれて名誉村民の名をおくられ村葬を以てその御冥福を祈ったのである。


★川内節次 

かわ川内節次


★川口宇平(翠嵐) 

(『羽茂村誌』1956年刊より)
当地(羽茂)の能楽は、天保年間の大崎の葛原五兵衛が潟上の本間家に学び、後江戸へ上って宝生宗家に就いて修道し、特に仕手方及拍子の技を学んで帰郷したのが始めであると伝えられている。
其後に(大崎の)川口宇平(1818~1876年)も又本間家に就き、後江戸の宝生家に遊学して帰り、加賀船から能装束並びに能面等を買求め、岡崎長左エ門(村山伊賀屋敷の人)と共に、当地方の能楽の普及に努めた佐渡南部に於ける能楽の隆盛はここに因しているのである。(大崎の)本間藤平(1830~1904年)も五兵衛、宇平等に能技を学び、更に本間左京に就いて仕手方の技を究め、太皷は金春惣治郎、又川合清次郎、高安英勝に、小皷は幸流に通じ、森田流の笛を能くし、このため明治時代の能楽は盛んになった。

「遣い人形は延宝より元禄期に入り盛大を極めたるものなるに(中略)わが大崎にて始めたるは天保の末頃、大崎の木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢、の5人也。この5人他国に行き見て直ちに其の技を全得し、手製の人形に渋紙の衣装などを着せ、萱薦を幕の代用として行いたり。当時の太夫(語り手)は兵衛の多聞なり、その後川口宇兵衛出て人形を巧に刻み、美服調へ操縦の技も一段の進歩を加えて、明治30年にいたりしか、当年の大洪水の為人形及び付属品を大部分流失せり云々、」(大崎村誌)とある。
・大崎松の助は、大崎、小木両時代を通じて彼は暇さえあれば人形を刻んでいたと伝えられる。川口宇兵衛の刻んだ人形と共に之を上演の具にしたが、小木へ移住する際之等の人形を二分して半数は大崎座に残し、半数を以て小木に松之助座を新しく起した。

(『佐渡広場』より)
(大崎の能の系譜)
葛原五兵衛(1804~1845)→川口宇平(1818~1876)→藤井泰延(1820~1889)→本間藤平(1830~1904)→大場喜太郎(1861~1933)→「今日名をなす者の多くは此の門下である」と1956年刊の『羽茂村誌』にある。また、(羽茂)本郷の三羽烏といわれた飯岡の金子厳、上山田の佐久間甚吉・若林郷太郎の3氏は、大場さんの下で謡曲の勉強をしていたとある(『佐渡広場』「佐渡の能楽45:外山久次翁の能楽人生」)。

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
・大崎の能楽は、天保の頃葛原五兵衛が、空の能楽師本間家に学び、後江戸に1って、宗家宝生太夫について修業し、仕手方・拍子方、並びに謡曲を修め、共に皆伝を受誓帰郷したのが始めであり、多数の門人があった(弘化二年七月十日没、享年四二歳)。その後、川口宇平も本間家に就いて学び、後江戸の宝生家に遊学して帰り、加賀船から能装束、能面などを買い求めた。
これらは明治三十年(一八九七)の洪水で惜しくも流失したが、その中、能面四面は幸いにも拾うことができて、現在同家に保管されている(明治九年没、享年五十三歳)。
・大崎白山神社の能舞台は明治の初年に、当地の能楽師本間藤平が舞台の必要を感じ、師匠の川口手兵衛と二人が主体となり、能楽愛好者、氏子の協賛を得で、建設されたものと伝えられる(本間ツマ談)。また、舞台背景の松は、年月を経て不鮮明となったので、昭和五一年(一九七六)葛原碧堂(足太)と孫正己の両名により描かれ復元された。

・明治初期の画家として、川口翠嵐(川口)がある。名は宇平といい、北海鶴翁について学ぶ。天分豊かな作品として珍重されている。
・子孫には茂吉、その子の正平、準吾がおり、三人とも羽茂村長となった。

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)

『山里の人びと』(俳壇)(昭和57年 大崎郷土史研究会)より

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
(宇平果報)
むかし(大崎)川口家の主人宇平は、貧しい水呑百姓であった。親孝行で評判もの。口は悪かったが、宇平を悪くいう者は誰もいなかった。ある冬の寒い荒模様の日に、宇平が大石の浜を通ると、烏が数羽集まって「宇平果報宇平果報」と鳴いていた。何だ烏めが俺の名を呼びあがって、それでも果報をつけて鳴くから、まあまあと思って見ていると、又同じ声で鳴きながら、何物かくわえたりおいたりしている。近寄ったらそれを置いて烏はとび去ってしまった。よく見ると金財布である。難船して溺死した者の金であろうと、持ち帰って厚く供養した。それから同家は栄えて、村内有数の資産家となったという。(羽茂村誌)

(大変な朝飯前)
明治の始めの頃の話である。川口の親爺(大崎 大谷下沢の生まれ)は、その朝の飯前に出かけて、午後の三時頃には、往復二〇里の金北登山を終えて帰った。隣家の人達がびっくりして話しかけると、「うん、これから朝飯にしようと思う。今朝ちょっと牡丹餅のまこや食い(間食)をして出掛けたので、まだたいして腹もへらんが-」といって、けろりとしていた。妻女にきいて見ると、三升炊きの牡丹餅をつまみ食いをして登山に出かけたとのことである。さては大変な朝飯前もあったものである。その後しばらくの間は「損のゆかぬ狂言」といった意味にまで広義化されて「川口のぢやんの金北登山」という言葉は、村人の間に親しまれ、通用されたそうである。またこの親爺、ある時近所の誰彼と飯の競食いをして、段違いに大食をした。食いまけた連中、「食うばかりが能か」と言うと、食うた目とはこんなもんだいと、前の川原へ下りて、二石目の石を軽る軽ると、前庭へかつぎ上げ、これで大食いのお許しを願いたいと、呵々大笑いしたと伝えられる。今同家の庭にある大石がそれである。(羽茂村誌)

諸情報




★河口菊治

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]


★河口菊造

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ河口菊造

「人力車から自動車へ」(「佐渡の百年」)


★川口周作

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川口周作


★川口正平

羽茂本郷、川口宇平家の人で、父は茂吉、弟が準吾で、三人共に羽茂村長となる。


★川口準吾

羽茂本郷、川口宇平家の人で、父は茂吉、兄が正平で、三人共に羽茂村長となる。俳句を趣味とし、俳号は流石である。
※下記『佐渡名観』には正平が父であるとある。
関係者の話によると、羽茂の漢学者葛西周徳や鴉田番匠、羽茂村山の伊賀家ともつながるようである。

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川口準吾

かわ川口準吾 (2)

➡川口宇平


★川口翠嵐 →川口宇平


★川口孝 →川口宇平

「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)
かわ川口孝 「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)


★川口武雄

「島の新聞」41・42号(by 松本秀雄)
41かわ川口武雄 (1)
41かわ川口武雄 (2)
42かわ川口武雄 (1)
42かわ川口武雄 (2)


★川口徳一

かわ川口徳一 かわ川口徳一1 かわ川口徳一2
両津両尾の人。東浜漁業参事から両津市長となる。初代、二代佐渡市長選に出馬したが惜敗する。
両津高校11代同窓会長(石楠会)、昭和52年~昭和54年。
大庄グループ総帥で新潟県人会会長の平辰氏とは刎頸の友と言われ、「文芸春秋」(「同級生交歓」)に二人で登場した。


★河口福松

左:『新潟県官民肖像録』(明治41年) 右:「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
かわ川口福松 新潟県官民肖像録 明治41年 かわ川口福松 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
かわ川口福松
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
万延元年生 松ヶ崎村多田 ・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]


★川口マリ子

 両津高校時代の1991年度(H3)11月、新潟県競書大会 特選  
 1992年度(H4)10月、第7回全国臨書摸刻展(心芸墨美作家協会主催) 審査員特別賞 


★川口茂吉

羽茂本郷、川口宇平家の人で、川口正平、川口準吾の父で羽茂村長。二人の息子も村長となった。
明治32年7月25日、鮎突きに来た尾崎紅葉が川口家に立ち寄る。「日記」には次のように載る。「一時頃より羽茂川に遡りて水を渡り、鮎突きを試み、千手村の口元迄行き、川口氏に帰りて一酌の上午後辞して出づ・・」。


★川越喜一

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・5 第7回県学童水上競技大会(県水上競技連盟・県小学校体育連盟)新潟中プール
(金泉小尋)100平①1.47.0新
昭和12年度県学童大会最高記録(県小学校体育連盟・県水上競技連盟)
100 平1.47.0(金泉)昭 2.8.4


★川崎和子

かわ川崎和子


★川崎吾一

金丸公民館
かわ川崎吾一


★川崎隆

 両津高校時代の1968年度(S43)11月、第2回全国ポスター絵画写真コンクール絵画部門銀賞


★川崎竜弁

六波羅密寺の住職で、嶺芳吉と共に土田麦僊が画家になる道を造った。

「舞妓芸術の麦僊」(「佐渡の百年」)


★川路聖謨(かわじとしあきら)

か川路
【生没】一八○一ー六八 川路聖謨は、享和元年豊後国日田の代官所、内藤吉兵衛の子として生まれた。一二歳のとき川路三左衛門光房の養子となり、一八歳ではじめて支配勘定出役に採用された。天保六年三五歳のとき、仙石騒動を審理して名声をほしいままにした。天保十一年(一八四○)、佐渡奉行となり、天保の百姓一揆(天保九年)の処理にあたった。翌十二年五月、川路は江戸に帰ることになるが、その間日記を母におくりつづけた。これが『島根のすさみ』である。嘉永五年勘定奉行となり、翌年長崎でロシア使節と折衝の任にあたった。嘉永六年七月、ロシア使節プチャーチンが長崎へ来航したとき、全権委員として談判にあたった。のち安政の大獄にあたって、一橋党ということで免職・隠居・差控えとなった。明治元年三月江戸開城の日、根岸の自邸でピストル自殺を遂げた。「天つ神に背もよかり蕨つみ飢し昔の人をおもへば」の辞世の句がある。
【関連】島根のすさみ(しまねのすさみ) 【参考文献】山本修之助編『佐渡叢書』(一巻) 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※「島根のすさみ」(しまねのすさみ)
 佐渡奉行、川路三左衛門聖謨の佐渡在勤日記。原本は宮内庁書陵部にあって、昭和四十八年二月、平凡社発行の東洋文庫に収録されて、初めて刊行された。編者は、同書陵部に勤めていた川田貞夫氏。天保十
一年(一八四○)六月、勘定吟味役から佐渡奉行に任命され、同七月から翌天保十二年五月までの、ほぼ一年間にわたる日記で、日々書き記して江戸にいる母に送った。「旅中の日記を審(つまびら)かに記し、母上
へ奉り候数々」と書き、「専ら佐渡のことを記せしかば、島根のすさみと題して一篇の書となせし也」と裏書きしている。母は、豊後(大分県)の国の日田の代官所の属吏、高橋小太夫誠種という人の娘で、父の内藤吉
兵衛歳由が、同代官所に勤めていた関係で結ばれたという。この日記が書かれたとき、母は六一歳で還暦を過ぎていた。川路は四○歳である。川路が有能な幕吏だったことは広く知られているが、勤務を通して観察
した佐渡の政治・経済・社会を、軽妙酒脱な筆致で詳細につづっている。とりわけ奉行恒例の巡村記は、描写が適格で、この島の国情がよく出ている。「佐渡は文字ある国」と記し、島びとの能好みに驚いている記述な
どもある。ほかに「長崎日記・下田日記」を残している。
【関連】川路聖謨(かわじとしあきら) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、天保十一年(一八四〇年)六月八日、勘定吟味役より佐渡奉行となった。
七月二十四日相川に着任し、篠山十兵衛、鳥居八右衛門両奉行の時おきた天保十一年の百姓騒動の処理をした。名は源聖謨、知行は二百俵、役科千五百俵と百人扶持である。十二年六月十三日小普請奉行へ転役、左衛門尉と改めた。勘定奉行となり、嘉永六年(一八五三年)長崎でロシヤ使節と会ってこれを帰らせ、安政元年(一八五四年)下田でロシヤ使節と会見して下田、長崎、函館三港に寄港することを許した。
四年には米使と会って告文中の疑義をたゞした。幕末の外交に活躍したが、志を得ず西之丸留守役となり安政六年大獄の時は職を追われてその家に屏居し、明治元年三月十五日世情を憤り自殺した。七十二才であった。大正元年十一月十二日従四位をおくられた。(佐島遺事、続愛国偉蹟)

「名奉行のピストル自殺」(「佐渡の百年」)

「ウィキペディア」より

諸情報


★川島愛蔵(愛水)

『加茂村誌』(昭和38年)
かわ川嶋愛水
かわ川嶋愛水 (2)
白瀬出身の教育者で文化人であった。川上喚濤や川辺時三等と親しく交わり、佐渡おけさ歌詞などにも名前が残る。
長男は力(ちから)で新潟大学(高田)の教授(英語)、次男は羽黒、安福(あんぷく)家を継ぎ、三男は両津市議の長田佳郎。
若林光伸氏(旧姓安福)の祖父である。


★川島栄吉

「相川暴動」(「佐渡の百年」)


★川嶋清


諸情報



★川嶋ギン

「若き女教師の焼死」(「佐渡の百年」)


★川島小鳥

「ウィキペディア」より
川島 小鳥(かわしま ことり、男性、1980年 - )は日本の写真家。

・経歴
東京都生まれ。早稲田大学第一文学部仏文科卒業。沼田元氣に師事。2006年に『BABY BABY』で第10回新風舎・平間至写真賞大賞を受賞し、翌年写真集を出版[1]。
2010年、佐渡島在住の友人の3歳の娘を被写体に撮影した『未来ちゃん』を出版。「BRUTUS」の表紙に起用されるなど話題を集めて9万部を超えるヒット作となり[2]、第42回講談社出版文化賞写真賞を受賞した。

・作品
写真集
BABY BABY 新風舎 2007年4月
未来ちゃん ナナロク社 2011年3月
BABY BABY(復刻版) 学研 2011年3月
明星 箕浦建太郎共著 ナナロク社 2012年8月
未来ちゃんの未来 ウィスット・ポンニミット共著 ナナロク社 2012年9月
トリコ 箕浦建太郎共著 東京ニュース通信社 2012年12月

・脚注
^ 写真家川島小鳥さんインタビュー
^ 川島小鳥写真展 「未来ちゃん」

かわ川島小鳥

平成27年9月 読売新聞
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★河島才右衛門

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所支配組頭。名は由負。天保七年(一八三六年)九月二十四日より同十二年十二月二十六日まで在勤した。青盤間歩敷内急破御普請皆出来御届幷掛り之者御褒美として十月二十一日、銀十五枚を与えられた。翌七年青盤間歩急破の時も十月二十一日に普請が終わり銀十五枚を褒美として受けた。(佐渡年代記下巻)


★川島如松

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か川島如松

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で名は恒、子は子聡、通称を藤七といった。画を小田海仙に学んだという。
嘉永元年(一八四八年)九月に四十六才でなくなった。(佐渡人名辞書)


★川島信蔵

「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))


★川島泰蔵

両津夷出身の小学校教員、大正一桁の生まれ。旧姓相川高校出身、両津小学校等島内各地で小学生に熱心イ野球の指導を行った。昭和十年代二十年代生まれの世代を中心に川島先生の指導を受けた野球少年が多い。記憶に残る野球指導者であった。


★川島大地→川島大地(ひろくに)


★川島立蔵

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川島立蔵


★川島力(ちから)

明治41年白瀬生まれ、新大(高田)の英文学教授。
文化人で教育者だった川島愛蔵の長男。次男は羽黒安福家に入り婿(若林光伸氏父)、三男は長田佳郎(両津市議)。


★川島藤三郎(かわしまとうざぶろう)

相川
かわ川嶋家 相川 (1) かわ川嶋家 相川 (2)
【生没】一八八九ー一九一八 明治二十二年八月十一日、相川町三町目の代々醤油醸造業を営む川島家に生まれる。佐渡中学校を卒業して慶応義塾大学に入学、主として理財学を学んだ。卒業後郷里に帰って家業を継ぎ、かたわら佐渡電燈株式会社などの役員に就任し、大正五年(一九一六)五月には、佐渡新聞の主幹に迎えられた。同六年十二月に相川町長に選ばれると、相川町立実科女学校を郡立に移管するために奔走し、その実現を果たした。ついで同七年七月に中山新道の改修を提唱、中山新道改修期成同盟会を結成して会長に就任し、近隣町村の賛同も得て、同年七月二十二日に中山新道改修請願書を新潟県知事に提出した。翌八月二日には町民大会を開催して挙町一致の体制を整え、同年十一月には三国豊吉や久保田金五郎らと共に上京して、三菱鉱業会社や高田商会から寄付を募るために奔走し、その運動中に流行性感冒にかかって同年十一月五日に宿舎で逝去した。三菱鉱業会社では、彼の熱意に動かされて毎年三○○○円を一○年間寄付すると回答し、遺骨はその回答書と共に帰町、同年十一月十七日に盛大な葬儀が行われた。彼の遺志は歴代町長や有志に受継がれ、大正十三年中山トンネルの完成となって実現した。
【関連】中山トンネル(なかやまとんねる)・相川実科高等女学校 【参考文献】「佐渡新聞」、「佐渡日報」 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二十二年生 相川町三丁目、佐渡新聞主幹 ・大1、渡部七十郎縣会議員を争はんとす[四年九月二十五日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日] 「佐渡関係事典に載る」

・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p379


★川島藤蔵

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]


★川島徳四郎

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川島徳四郎


★川島如松

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か川島如松


★川島大地(ひろくに)

新潟日報(平成27年8月28日)
かわ川島大地

新潟日報(h27. 4. 8)
かわ川島大地 日報h27 4 8

「シマイル」
かわ川島大地 (2)
かわ川島大地 (1)


★川島復斎

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
か川島復斎

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か川島復斎 (2)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で名は和卿、字は和刺、また貞夫、通称を藤作、復斎または書痴と号した。詩書をよくした。
天保七年(一八三六年)七月に五十五才でなくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)


★川島興作

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、佐渡新報の発刊[十四年十一月十日]


★川嶋陸平

相川小校長
かわ川嶋陸平 相川小校長


★川瀬巴水

かわ川瀬巴水
大正10年8月に来島し多くの作品を残す。

ウイキペディアより

大正10年8月
左より:小木 加茂湖 夷港
※右端の夷港の写真について:左側の橋の横に立つ大きな建物は両津警察書である。明治30年代に完成し、昭和30年代半ばまであった。その後は、両津南埠頭前に移転した。火見櫓も映っている。両津橋の加茂湖側直ぐ横に立っていたが、昭和3年の両津大火後、車が通れるように一軒分湊側に移動した。警察署の横にあった両津活版所が夷七の海側に移転した。両津大火後、土屋六右衛門町長により消防体制が見直され、自分の実家である両津活版に移転してもらった。
川瀬巴水 1921 小木 川瀬巴水 月明の加茂湖 大正10年 川瀬巴水 佐渡夷港 大正10年 
左より:真野 西三川 相川
川瀬巴水 真野湾 川瀬巴水 西三川の丘 川瀬巴水 相川町 大正10年8月18日 
左より:加茂村 小木 水揚げ樋
川瀬巴水 加茂村 大正10年8月 川瀬巴水 小木 川瀬巴水 水揚げ樋 


★川添敏郷

相川二丁目の弁護士 『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より 


★川添利郷

『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
かわ川添利卿 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
かわ川添利郷 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久元年生 相川町三丁目、弁護士 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・昭1、山本の入閣祝賀会[二年四月二十五日など]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川添利郷
かわ川添利郷 (2)


★川田甕江(かわだようこう)

「朱鷺」より
幸田露伴(「朱鷺」)

諸情報


★河内村太右衛門

「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))


★河内屋後藤左衛門

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
あわ阿波屋徳左衛門他 (1)
あわ阿波屋徳左衛門他 (2)
あわ阿波屋徳左衛門他 (3)


★川徳の奴

新穂の料亭「川徳」の芸妓で、大正12 年、小木の芸妓宝屋の豊子と共に上京して「佐渡おけさ」をレコードに吹き込む。(大正10 年頃説もある)。この時の日東(燕印)レコード会社のレコード売れ行き番付によれば、「佐渡おけさ」が「日本全国の民謡レコード全部をひとまとめにしてもこのレコードに及ばない」とある。又「「川徳の奴」は「相川の常さん」又は「ジャンスイの常さん」と呼ばれた法界節屋の娘で幼時から両親と共に門附けで芸を鍛えていた。常さんは背が高く浅黒い盲人で尺八や小型の琴を奏でる門付け芸人で小さな娘二人(義姉妹)が長い振袖で盲人の父の手を引きながら門前で歌っているのをよく見かけた。ジャンスイは楽器の音色だろうと記録にある。

「佐渡おけさの流行」(「佐渡の百年」)


★河奈治一

新穂村
かわ河原治一


★川波乙吉

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
か川波乙吉


★川波一八

佐渡高校時代の平成2.6.1-3、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)4×100mR(川波一八・相田桂一・中川克典・斎藤倫成)2位
平成2.6.22~24、陸上競技北信越大会(新潟市)4×100mR(川波・相田・中川・斎藤)6位
平成2.8.1~5、陸上競技全国高校総合体育大会(仙台市)相田桂一400m 4×100mR出場
平成3.5.31~6.2、陸上競技県高校結合体育大会(十日町市)男子総合2位、男子トラックの部1位、200ml位・400m6位、4×100mR(若林・中川・川波・斎藤)1位、4×400mR(飯田・市橋・中川・川波)2位 
平成3.6.21-23、陸上競技北信越大会(金沢市)男子総合4位、200m5位・400m8位、4×100mR(市橋伸・中川克典・川波一八・斎藤倫成)2位、4×400mR(飯田誠・市橋伸・斎藤倫成・川波一八)7位
平成3.8.2~5、陸上競技全国高校総合体育大会(静岡県草薙町)200m・4×100mR出場


★川野国蔵

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川端長治


★川野名孝雄

かわ川野名孝雄

人形芝居の真野真明座座長、北村宗演の実子(三男)。
かわ川野名孝雄 (2)  かわ川野名孝雄
佐渡「吉栄座」座長の川野名孝雄さんに猿八座の遣い手2名が加わり、渡部八太夫、中田惹八(三味線)の演奏と初共演します。川野名さんは私が加わる「真明座」の座長相川の北村宗演さんは、真明座の座長である川野名孝雄さんのお父様である。

新潟日報 h27年11月5日
かわ川野名孝雄 日報 h27 11 5

かわ川野名孝雄 日報 h27 11 5 (2)

「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))

市報佐渡(平成28年6月)
かわ川野名孝雄


★川野名庄五

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。
鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。
そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。
 いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。
やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。
 借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。


★川端克明

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)50背 38.6 川端克明(七浦)昭13


★川端千代吉

長谷寺前(柿野浦 川端千代吉とある)
かわ川端千代吉 柿ノ浦 長谷寺前


★川端博司

「岩首校年誌(昭和55年)」
かわ川端博司 岩首校年誌(昭和55年)


★川端正道

「佐渡高等学校百年史」(佐々木義栄-大正10年~15年佐中在籍-の「僕の自画像」)
英語の川端先生はハイカラさんで、よく犬をつれて散歩していた。正しい発音を指導するために発音記号をプリントしてくれたが、それがまた分らないのである。天王寺中学の出身とか教員だったとか、そんな話を開いたことがある。あるいは佐渡からそこへ転任したのかもしれない。髪が少し縮れていて、黒い顔が校本清張に似ていたことと、後に僕が終世の恩師として心に持ち続けるようになった折口信夫先生が、かって天王寺中学の教師をしていたことと結ばれて、わすれがたい思いを残したものとみえる。


★川端身和子

 両津高校時代の1997年度(H9)、17回全国高校生読書体験記コンクール 優良賞         


★河原田貞兼

「戦国佐渡国人名辞典」より
かわはらださだかね(15??~15??)】雑太郡河原田城主。官途は佐渡守。通称左馬允。別名本間貞兼。羽茂城主羽茂高季と対立、佐渡国を二分して佐渡南部(中原、石田、片貝、二宮、一谷、青野、窪田、山田、真光寺、沢崎、神田、永野)を支配下に置き1,600石を領した。長尾景虎が越後国を平定すると、佐渡国内の豪族衆と結び、長尾景虎と和議と対立を繰り返し独立を維持した。


★河原田諏訪町紋平娘さき

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
か河原田諏訪町紋平娘さき


★河原田高応

「戦国佐渡国人名辞典」より
河原田高統の次男。1589年、「河原田城の戦い」で父河原田高統と兄河原田統之が討死すると、家臣の磯田徳兵衛とともに会津の芦名盛重のもとに落延びた。


★河原田高統(たかつぐ)

「戦国佐渡国人名辞典」より
【かわはらだたかつぐ(1551~1589)】河原田貞兼の男。官途は佐渡守。別名本間高統。1584年、「河原田城の戦い」で長尾景勝の家臣藤田信吉勢を撃退した。羽茂高季と争うが、長尾景勝の家臣後藤勝元の仲介で一旦は和議を結ぶが再び争った。1589年、「河原田城の戦い」では、樋口兼続、沢根高秀、潟上秀高勢らの攻撃を受け落城して自刃した。


★河原田太郎左衛門尉

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で、天福元年(一二三三年)一月三日垸飯(おうまん)の行事に越後守北条朝時が奉行し、将軍藤原頼経へのみやげの馬を越後の人、本庄四郎左衛門尉、小伊手(小出)太郎左衛門尉、同三郎、佐渡の人河原田藤内左衛門尉等とともに預った。(新潟県史)

※椀飯(おうばん・埦飯・垸飯):他人を饗応する際の献立の一種。後には饗応を趣旨とする儀式・行事自体をも指した。(「ウィキペディア」より)


★河原田藤内左衛門尉

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)

佐渡の人で、天福元年(一二三三年)一月三日垸飯(おうまん)の行事に越後守北条朝時が奉行し、将軍藤原頼経へのみやげの馬を、越後の人、本庄四郎左衛門尉、小伊手(小出)太郎左衛門尉、同三郎、佐渡の人河原田太郎左衛門尉等とともに預った。(新潟県史)

※椀飯(おうばん・埦飯・垸飯):他人を饗応する際の献立の一種。後には饗応を趣旨とする儀式・行事自体をも指した。(「ウィキペディア」より)


★河原田町女てき

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
か河原田町女てき

か河原田町女てき2

★河原田町大阪町多市郎幷妻

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
か河原田町大阪町多市郎幷妻

か河原田町大阪町多市郎幷妻2


★河原田町名主源右衛門

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
か河原田町名主源右衛門


★河原田本町瀬下彌兵衛外八人

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
か河原田本町瀬下彌兵衛外八人


★河原田町年寄中山五兵衛

『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
か河原田町年寄中山五兵衛


★河原田統之(むねゆき)

「戦国佐渡国人名辞典」より
【かわはらだむねゆき(15??~1589)】河原田高統の男。1589年、「河原田城の戦い」では、長尾景勝勢の攻撃を受け父河原田高統とともに抵抗するも城は落城し、河原田高統とともに自刃した。



★河東碧梧桐

真野公園文学碑
かわ河東碧梧桐 真野公園文学碑
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)
かわ河東碧梧桐 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年
「朱鷺 41号」(r6月)
むら村川健吉 朱鷺 41号(r6月)

かわ川東壁悟道 (1) かわ川東壁悟道 (5) かわ川東壁悟道 (2) かわ川東壁悟道 (3)
かわ川東壁悟道 (4) かわ河東碧梧桐
明治40年11月9日から11月23日まで佐渡に長期逗留し、外海府も含めて各地を巡回する。『三千里』(新潟ー佐渡―長岡の項目)に描かれている。

『三千里』
「日本」明治39年8月9日~12月6日、「日本及日本人」明治40年1月~41年1月。明治39年8月6日から40年12月13日まで子規没後の俳壇に自派の新風を拡大・浸透させるべく行なった「第一次全国行脚」の記録。関東、東北、北海道、さらに東北を経て11月初めに佐渡へわたり、寺泊からの帰途長岡悠久山に遊び、目にし心にとめたものを詠句とともにつづる。
(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)

(佐渡で詠んだ句)
 ・蒲団二つ敷けば大佐渡小佐渡かな
 ・山茶花に真野山紅葉散りにけり
 ・能の残る寒き國なり佐渡ケ島
 ・佐渡でいふ国仲平小春かな
 ・離れ家離れ岩あり飛ぶ千鳥
 ・舟で立つと決めて夜話や浦千鳥
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「ウィキペディア」より
河東碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。

(経歴)
愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。少年の頃は正岡子規の友人で後に海軍中将となる秋山真之を「淳さん」と敬愛していた。1888年(明治21年)、伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。1889年(明治22年)、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。1893年(明治26年)、京都の第三高等学校入学。第二高等学校(現在の東北大学)に編入の後、中退。1902年(明治35年)に子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。1905年(明治38年)頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始め、1906年(明治39年)より1911年(明治44年)にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。1933年(昭和8年)3月25日、還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。1937年(昭和12年)1月、腸チフスを患い、更に敗血症を併発し、2月1日に65歳にて永眠。墓所は父母が眠る松山市の宝塔寺及び東京都台東区の梅林寺に分骨されている。

(作家論)
碧梧桐と虚子は「子規門下の双璧」と謳われたが、守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していた。新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動を共にした。しかし、1915年(大正4年)には井泉水と意見を異にし、層雲を去っている。碧梧桐はその年の3月、俳誌『海紅』を主宰。更にこれも中塚一碧楼に譲る。昭和初期に風間直得が漢語にフリガナ(ルビ)を振るルビ俳句を試作、これに賛同した碧梧桐もこれを作るようになるが、これはあまり支持をえなかったようだ。引退については俳句創作への情熱の衰えと、虚子への抗議の意味が込められていたようである。子規は、碧梧桐と虚子について、「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評した。

(代表句)
蕎麦白き道すがらなり観音寺
赤い椿白い椿と落ちにけり
相撲乗せし便船のなど時化(しけ)となり
雪チラチラ岩手颪(おろし)にならで止む
ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く
曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ

(著書)
『八年間』
俳諧漫話 新声社 1903.11
俳句評釈 人文社 1903.11
其角俳句評釈 大学館 1904.3 (俳句入門叢書)
蚊帳釣草 俳書堂 1906.8
新俳句研究談 東京大学館 1907.10
三千里 金尾文淵堂 1910.12 のち春陽堂文庫
続三千里 金尾文淵堂 1914/講談社学術文庫上下 1989
新傾向句集 日月社 1915
碧梧桐句集 大須賀乙字編 俳書堂 1916 
碧梧桐は斯う云ふ 大鐙閣 1917
支那に遊びて 大阪屋号書店 1919/復刻・ゆまに書房 1999
二重生活 改造社 1924 (改造社随筆叢書)
子規乃第一歩 俳画堂 1925
画人蕪村 中央美術社 1926
碧梧桐青鸞俳画集 黒住常二郎 大日本美術社 1926
新興俳句への道 春秋社 1929
山を水を人を 日本公論社 1933
子規を語る 汎文社 1934/岩波文庫 2002 
煮くたれて 双雅房 1935
山水随想 日本公論社 1937
子規の回想 昭南書房 1944/沖積舎で復刊 1992 1998
碧梧桐句集 喜谷六花・滝井孝作共編 1954 (角川文庫)
碧梧桐全句集 栗田靖編 蝸牛社 1992.4
なつかしき人々 碧梧桐随筆集 滝井孝作編 桜楓社 1992.9
河東碧梧桐 蝸牛社 1996 (蝸牛俳句文庫)
河東碧梧桐全集 全18巻 短詩人連盟 2001‐09

(参考文献)
栗田靖/著 『河東碧梧桐』 蝸牛社 1996年

青野季吉 『一つの石』
中学を卒業した年の秋、河東碧梧桐が「三千里」 の旅で来島した。私が知名の文士と言ふものに会ったのは、その時がはじめてであった。(襄に或る追憶文にこの事を在学当時と記したのは記憶ちがひだった。)まだ上京前の天南星が案内役をつとめ、私も駆り出されて、始終そばにくつついて歩いた。素僕な頭で描いてゐた俳人の型とはよほど違ってゐたが、いつかう名士ぶらず無口で、ぶあいさうなうちに、温かさを潜めたやうな人柄に私はつよく惹かれた。中学の在る町の歓迎会で、柏倉校長が、「芭蕉は佐渡へ釆なくつても、あの荒海やの名句を残した、碧氏は佐渡へ来たのだから、芭蕉以上の名句を残してもらひたい。」と挨拶した。私はなぜか恥かしくなって、碧梧桐の顔色をうかがったのを憶えてゐる。

河東碧梧桐(『三千里』)
「海府をめぐった碧梧桐」(「佐渡の百年」)

→「佐渡人名録」→マイ作品→「朱鷺」(シリーズで記載)


★川辺朝臣東女

 『佐渡流人史』(郷土出版社)より
 
 天平一四(七四二)佐渡に配流。塩焼王の乱倫行為に座す。塩焼王は伊豆へ配流(藤原広嗣の反乱に加担か)。武内宿祢後裔氏族。(『続日本紀』)


★川辺源七郎

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ川辺源七郎


★河辺源太郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政二年生 相川町羽田町 ・明3、第十三回選挙[三十二年九月十三日]・明4、佐渡自治会の決議[三十四年三月十八日]・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、進歩党の候補選定会[三十五年六月九日]


★川邊耕

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
かわ川邊耕
川辺時三の長男である。
→川辺時三


★川辺正三

「悲劇の文学将軍」(「佐渡の百年」)


★川辺時三(かわべときぞう)

左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
かわ川辺時三 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) かわ川辺時三 新潟県官民肖像録 明治41年
【生没】一八六二ー一九三三 旧金沢村千種の西方村に生まれる。川辺家は、相川町川辺源七郎から分れ、はじめ河原田で薬店・津の国屋を営み、のち西方村に移る。四世以後は医師を業とし、栄仙ー元栄ー玄林ー道玄ー時三とつづく。道玄のとき松前に移ったが、函館で病没。時三は、明治十五年(一八八二)新潟医学校を卒業。同二十年に眼科の専門医となり、金沢村中興で開業した。医術のほかに、芸能・美術・造園などに造詣深く、氏の設計による庭園は、今も村内にいくつもみられる。大正九年(一九二○)に柳田国男の訪問をうけ、その翌年民謡団体「あらなみ会」を結成し、佐渡を全国に紹介する事業に熱中した。野卑な歌詞にかわる新作民謡の募集、土産物の研究・加茂湖の売り込みなどがこれである。民謡では源平軍談など、相川音頭の普及が中心で、歌詞募集はおけさ節用であったが、今日耳にする佐渡おけさの歌詞の多くは、そのときの応募作である。時三は薬局を手伝っていた山崎直吉を、妹ヤスとめあわせ医師にし、直吉はのちに相川で、婦人科医川辺医院を開業した。時三の四男は父業を継ぎ、子孫は栃木県に在住する。
【関連】磯うつ波(いそうつなみ) 【参考文献】本間雅彦「荒波会と眼科医の川辺時三」(『あまほっこり』八号) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※磯うつ波(いそうつなみ)
 佐渡の観光宣伝の先駆者ともいえる、眼科医川辺時三が中心となって組織した、佐渡みやげ物研究会の会報。大正十一年(一九二二)に、新潟で開催された全国みやげもの陳列会に参加した川辺は、佐渡産物の
発展の必要を考えた。翌年、「佐渡土産の研究に依る佐渡郡の芸術及び産業の発展」を目的として研究会を発足させ、事務所を金井町大字中興の川辺宅に置いた。大正十三年に第一回の総会を開催、賛助者には、
本間琢斎・宮田藍堂・伊藤赤水・三浦常山らがいた。会報は、順徳上皇が真野で詠まれた「いざさらば磯打つ波にこと問はむ おきの方には何事かある」の御歌にちなみ、「磯うつ波」と名付けられた。大正十四年七月
四日、創刊号(六八頁)が発行され、執筆者には岩木擴・柏倉一徳・竹中成憲・夏目洗蔵・石井四山・中川喜一郎・臼杵長次郎・本間琢斎等が寄稿し、民謡団体「あらなみ会」の記事が掲載された。翌年の九月二十五
日に発行された第二号(八四頁)には、川辺時三・竹中成憲・佐々木象堂・石綿政治・斎藤侃・原信之が寄稿している。佐渡みやげ物研究会会則では、年二回の会報発行と、必要に応じての増刊号の発刊をうたって
いたが、発行は遅れがちで、第二号誌上で内容予告されている第三号・第四号が、実際発行されたかどうかは確認できない。
【関連】川辺時三(かわべときぞう) 【参考文献】本間雅彦「荒波会と眼科医の川辺時三」(『あまほっこり』八号)、北見継仁「川辺時三翁ー佐渡観光宣伝の先駆者」(『いきいきライフ』一号) 【執筆者】北見継仁 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
か川邊時三

か川邊時三 (2)

か川邊時三 (3)

諸情報


★川邊留吉

外海府村村長 五十浦
かわ川邊留吉 外海府村村長 五十浦


★川辺直吉

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
かわ川辺直吉 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)


★河邊百太郎

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
かわ河邊百太郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
外海府村村長 五十浦
かわ川邊百太郎 外海府村村長 五十浦


★川辺ヤス

明治23年、佐渡の女性で初めて洗礼を受けたプロテスタント。


★川辺六次郎

『小木町史』より
沢根に浜田屋という廻船問屋があります。その浜田屋の記録をみますと、寛政四年に浜田屋は、宿根木の与三右衛門の世話で宿根木の有田久四郎のもっていた二百石積の廻船永福丸を二十七両三歩と百十一文で買い、廻船業をはじめます。そのとき浜田屋は、宿根木村の川辺六次郎を雇い、船の運営はすべて宿根木村の与三右衛門に任せました。


★川向商店

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
かわ川向商店


★川村敏夫

かわ川村敏夫
かわ川村敏夫 (1)
寄贈した長谷寺うさぎ観音(平成30年11月)
とみ富田宝あ
とみ富田寳元 (2)
かわ川村敏夫 2912月 新潟県人会報
か川村敏夫
畑野栗野江出身、昭和7年生。佐渡農業高校卒。昭和27年上京。昭和ゴム機工株式会社代表取締役会長、新潟県人会副会長。
関東畑野会2代会長で現在(平成23年)は名誉会長。


★河村彦左衛門(かわむらひこざえもん)

【生没】(生年不詳)ー一六○八 「佐渡奉行歴代」には、「知行千五百石、河村彦左衛門吉久、元上杉景勝家臣ニテ慶長五年佐渡国中検地、其後同六年御当家エ被召出、同八年迄支配、但四奉行筆頭之由申伝フ、転役不知」とある。さらに「河村彦左衛門由緒書」によると、本国は尾張、生国は甲州とある。天正十七年(一五八九)佐渡攻略後、湊町(両津市)に居住し、文禄四年(一五九五)景勝が会津へ移封されると、鶴子外山の陣屋(佐和田町)へ移った。上杉景勝の代官として佐渡を支配し、徳川家康時代になっても、吉田佐太郎・田中清六・中川主税らと佐渡四代官の一人として残り、慶長七年(一六○二)まで在島した。甥にあたる主膳が、村上城主堀丹後守に仕えていた関係から、改易の後は村上にいたといわれている。没年は慶長十三年七月二十一日。供養塔が浄土宗大安寺境内(江戸沢町)にある。大久保長安支配下に、長安によって建立された大安寺に建てられた事情はわからないが、地方を預った大久保山城らとの関係によるものだろう。慶長五年(一六○○)の中使検地は、全島で行われた田地刈高検地で、河村彦左衛門が行ったもの。供養塔の地輪には、「広覚院殿清岳浄栄大禅定門頓証大菩提也 干時慶長拾三戊申稔 今月施主敬白」とある。
【関連】河村彦左衛門五輪塔(かわむらひこざえもんごりんとう)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集二・七)【執筆者】佐藤利夫
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※河村彦左衛門五輪塔(かわむらひこざえもんごりんとう)
慶長六年(一六○一)から八年まで、四奉行の一人であった河村彦左衛門吉久の五輪塔で、相川町江戸沢町の浄土宗大安寺にある。石英安山岩製。大形で全高二九八センチ、基壇三○センチ、地輪高八○センチ、巾九○センチ、水輪高さ七二センチ、火輪高さ五五センチ、巾九二センチ、風空輪は一石で、風輪高二八センチ、空輪高三三センチ、径五三センチ。水輪が大きく、火輪が比較的小さい感じで、全体が不均衡な感じがする。各輪正面にア・バ・ラ・カ・キャの種子を薬研彫し、地輪正面には向って右側から、「厥以右志者為俗名河村彦左衛門 逝去廣岳院殿 清吽浄栄大禅定門 頓證大菩提也 干時慶長拾三戊申穏今月 施主敬白」向って左面には「切工也 小泊村 大工 惣左エ門 新左エ門 甚□ 人足 □左エ門 □□郎 □人□」と刻む。大安寺過去帳の二十一日に、「慶長十三申七月 御奉行 清岳浄栄大禅定門 河村彦左衛門殿墓有之」内過去帳には「覚月妙本信女 慶長十巳年五月 御奉行河野彦左衛門家老妻」につづいて、「廣覚院殿清岳浄栄大居士 慶長十三申星七月廿一日 河野彦左衛門殿事」とある。『佐渡古実略記四』の「河村彦左衛門由緒書」には、「吉久慶長十三申七月廿一日於越後卒法号清岳浄栄大禅定門ト改相川大安寺ニ石塔有、吉久室慶長十三戌申十一月十六日卒法号了瑞院妙善佐州大野村根本寺施主本寿院日久ト有之」(根本寺の五輪塔は慶長十五年銘)とある。大安寺は慶長十一年(一六○六)、初代佐渡奉行大久保石見守長安が開基した寺であるが、大安寺石塔中、長安の逆修塔の慶長十六年に先立って建立され、大安寺最古の石塔である。彦左衛門五輪塔が、当初どこかに建てられたものが、のちに大安寺へ運ばれたとか、長安没の慶長十八年以後、在住の有志によって建てられた供養塔とする説(「寺と墓と墓制」)があるが、長安が佐渡入国前の佐渡支配者として、業績のある縁を以って五輪塔の年号どうりに、当初から大安寺に建立された墓塔であろう。地輪側面の銘は、小木町小比叡の蓮華峯寺にある快宥の慶長十二年銘大五輪塔とともに、慶長年、小泊(羽茂町)石工の惣左衛門らの存在を知る資料である。平成六年(一九九四)五月二十四日、国の史跡に指定された。
【関連】河村彦左衛門(かわむらひこざえもん)【参考文献】計良勝範「相川の石仏」(『いしぼとけ』三号・佐渡石仏会、『佐渡相川の歴史』(資料集二)【執筆者】計良勝範(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
世に「慶長事件」と呼ばれる事件がある。慶長六年(一六〇一)、幕府は中川主税・吉田佐太郎を佐渡に派遣し、従来の代官田中清六・河村彦左衛門に加え、四人の代官によって佐渡の支配に当らせた。この年、吉田佐太郎は自分の職権で、田租の五割増の触れを国中に出した。驚いた百姓たちは三人の代表を選んで江戸へ愁訴に及んだ。その三人の百姓は、羽茂本郷 勘兵衛・北方村 豊次郎(豊四郎とするものもある)・上新穂村 半十郎(半次郎とするものもある) である。幕府は調査のため役人を佐渡に派遣、その結果、代官側の越度(おちど)とされ吉田佐太郎は切腹(自殺ともいう)、中川主税は改易、田中・河村の二人はお暇になった。百姓三人は上訴の罪によって追放となったが、年貢の増徴は取止めになったという(「佐渡年代記」)。

「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))


★河村祐貞

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

か河原祐貞

か河原祐貞 (2)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の医家。正徳五年(一七一五年)五月、奉行神保長治が江戸に帰る時、病でこれに随行したが、病がよくなったので柏崎より帰された。この後、代々陣屋附となった。元文三年(一七三八年)五月になくなった。
(佐渡人名辞書)


★河村吉久

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡初代奉行。彦左工門、慶長六年(一六〇一年)より八年まで奉行であった。
民政と鉱務とを兼掌した。家禄は千五百石であった。(佐渡大観、佐渡遺事)


★川茂村彌曾右衛門→風間弥三右衛門


★河原伊勢治

 新穂北方の人、円通寺の右隣に住んだ考古学や朱鷺、その他の研究をする。朱鷺の餌を担いで生椿に通うなどして朱鷺保護に尽力した。生椿の高野高治氏とは親しく交友した。大正元年生、兄は新穂村長河原治一。妻が鶏肉販売などで生計を担った。


★川原榮次

両津出身、元「(株)東京精密」代表取締役(C.O.O.計測主幹)。

・本社所在地 東京都八王子市石川町2968-2
・設立年月日 1949年(昭和24年) 3月
・資本金 102億3604万円 (2013年9月30日 現在)
・証券取引所 東京証券取引所市場第一部に上場
・従業員数 単体 618名 連結 1,393名 (2014年3月31日 現在)
・事業内容 半導体製造装置と精密計測機器の製造販売


★河原益斎(えきさい)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か河原益斎(えきさい)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新穂村北方の人で、名は信允、字は子実、益斎は号である。
本間黙斎に経史を学び、水戸に行き、会津建斎の門に二年学んで帰り、再び水戸に出て立原翠軒、同杏所について国史、国文を修めた。和歌をよくした。文久元年(一八六一年)に六十九才でなくなった。(佐渡人名辞書)

『新穂村史』(昭和51年)より
一七九二-一八六一、北方の人で然斎の門で学問した後、水戸の会沢建斎(江戸後期の学者尊王攘夷派)の門に入り二年で帰り、又水戸で立原翠軒、杏所父子の下で国史国文を修め和歌も作ったといわれ、郷党に教える機会もあったものであろう。

新穂の和歌のグループは所々にあったらしい。河原益斎も河原浪江(?~一七九六)も舟下後藤守黒(-七八六~一八二七)守黒の子宗蔵(一八〇六~一八六一)同二男文中
(一八〇八~一八五五)宗蔵の子五郎次も和歌を能くし、同家には現在も多くの歌稿が残されている。辻守遊も、その子守継、その子守稠、守寿その子守富も和歌や連歌を能くしたと伝えられる。


★河原勝蔵

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村大野 ・明2、第五回選挙[十九年五月]・明2、第七回選挙[二十三年三月] ・明2、鵜飼郁次郎同志者を招待す[二十三年十月十日]・明3、鵜飼郁次郎の議会報告[二十四年六月十五日]・明3、佐渡自由倶楽部の創立[二十六年四月三十日]・明3、佐渡憲政党の発会式[三十一年七月二十四日]


★河原勝造

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大1、佐渡政友倶楽部の大会[三年八月十四日]


★河原亀吉

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
かわ河原亀吉


★河原貫作

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
下新穂村 ・明2、第五回選挙[十九年五月]・明2、第六回選挙[二十一年一月]


★河原清

新穂出身、「(株) ノーマ」代表取締役。

・所在地 神奈川県厚木市中町4丁目10番4号 厚木グリーンコーポ201
・設立 2003年(平成15年)8月12日 / 2005年7月1日に株式会社へ組織変更
・資本金 10,000,000円
・社員数 8名(役員3名含む)

(主要事業目的)

1.広域行政計画、総合計画の指導及び受託
2.都市計画に関する基礎調査並びに計画、立案の指導及び受託
3.各種イベント事業の企画、計画、実施運営の業務
4.土地区画整理事業に関する調査、計画、設計、測量、換地、補償、清算の指導及び受託
5.土地区画整理組合の設立、運営管理業務の指導及び受託
6.土地評価に関する指導及び受託
7.住居表示に関する指導及び受託
8.土地利用計画に関する指導及び受託
9.都市の総合整備事業の調査研究の指導及び受託
10.土地造成事業に関する調査、設計、積算、申請、監理の指導及び受託
11.土地造成事業に関する測量、帰属手続きの指導及び受託
12.地盤に関する調査、解析の指導及び受託
13.前各号に附帯する一切の業務


★河原金太郎

『両津市要覧(昭和33年)』より
かわ河原金太郎 (1)
かわ河原金太郎 (2)


★川原慶寿

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ河原慶壽


★河原慶太

『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
かわ河原慶太 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34


★河原玄吉(しこ名 北方のワーカン 黄金山)   

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
明治9年生まれ、昭和17年歿。(1876年~1942年)新穂村北方、右工門という家の出身。時代としては明治期の日の出山・瓢箪と肩を並べる頃の力士。この力士は、あまり出場はしなかったので、広く名は広まらなかったが、 一部の人の間では実に強かったと物語られている。新聞資料の中の勝者黄金山とあるのはこの人のこと。正式には黄金山の大名乗りを名乗ったのであるが、世間でほウーカンという奇妙な四股名で呼ばれた。これは、右工門の家のカンカン(※佐渡では金持ちの家の息子をカンカン、娘をピコヤンと云った。)がっまった四股名なのである。この人は身長5尺7寸位というから、当時としては大柄な力士であった。13~14歳ぐらいで祭土俵に登ったので、後年までウーカソの愛称が続いたのであろう。のち上京して横浜の警察官をつとめ、恩給がつくと佐渡へ帰って来て悠々自適して、時には近辺の土俵に出場して佐渡で歿した。黄金山の大名乗りは同村河原実が継くことになった。子息一雄は新潟に移住して県民生部長になった。


★河原厚二

 両津高校時代の1995年度(H7)10月、新潟県高等学校実務競技大会第1回秋季簿記大会団体2位(河原厚二 喜嶋俊樹 小杉正樹  知本守雄)、個人3位


★河原吾作

新穂北方
かわ河原吾作 北方 (1) かわ河原吾作 北方 (2)


★川原五作

『佐渡酒誌』(平成14年)
かわ川原吾作 『佐渡酒誌』(平成14年)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新保村、・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]


★河原作一

新穂園通寺
かわ河原作一 新穂園通寺 (1) かわ河原作一 新穂園通寺 (2)
右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
かわ河原作一 かわ河原作一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ河原作一


★河原作次

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明3、第十一回選挙[二十八年三月]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]


★河原作兵衛 

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
北方人形は①安政七年ころから明治二十年ころまで、太夫 渡辺甚八郎(皆川村、明治31年5月死亡、77歳)・影山治右衛門(下新穂村、時々語る)役者 市橋吉兵衛(本名和三郎、大正6年死亡、83)・河原作兵衛
・松本兵助(3人共北方村) ②明治二十年ころより同三十五年ころまで、太夫 渡辺甚八郎・池田宗玄(潟上村、時々語る) 役者 市橋吉兵衛・松本兵助・相田庄蔵(庄次郎とも言う)・渡部善次郎(通称団蔵) この渡部善次郎は、通称団蔵といったのでこの北方人形は「団蔵人形」ともいう。この一座は「のろま人形」もつかい、団蔵は「お花」を、吉兵衛は「木之助」を、庄蔵は「仏師」をつかって名人だったという。また一説には太夫は、皆川の通称「宮の前」という人であったともいう。


★河原治一(思秋)

かわ河原治一 新穂村史 s51年 かわ河原治一 かわ河原治一 (2) 
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の書家は、潟上の稲葉事、牛尾神社宮司土屋一丸(号は賢継)、瓜生産の石塚照(号卓堂)、潟上の後藤与作(壷中庵)、大野の小杉猪吉(号は悟東)等があり現存では潟上の佐山大業を師に土屋甚平(号桂石)、本多正吉(号彰雲)、渡辺健三郎(号竹翠)、河原治一(号思秋)、本間忠雄(号越堂)、雑賀栄助(号雨石)等があり、子弟を集めて教えているものもある。

『新穂村史』(昭和51年刊)より
石井玉僊(瓜生屋の人)、和田房吉(長畝の人)、和田りん(長畝の人)等も絵を書きその作品が残っている。河原思秋、本間春広も政治に活躍するとともに絵画を余技としている。

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治四年生 新穂村北方、農業 ・大1、第十三回衆議院議員選挙[六年四月二十日]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・昭2、佐渡民政倶楽部の発会式[四年九月二日]


★河原治作

新穂北方出身の医師で、九州大学病院時代に長塚節が結核で亡くなる時に立ち会っている。
当時、河原は一時川辺苗字を名乗っていた、。

「美人とハマナス」(「佐渡の百年」)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />河原治作


★河原畯一郎

【生没】一八九八ー一九六○ 外交官・法学博士・第二次世界大戦終戦時駐独日本大使館参事官・戦後最高裁判所調査官。明治三十一年十一月二十一日、佐渡新穂村北方に生まれた。旧制佐渡中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業して、外交官になった。昭和二十年(一九四五)四月、駐独日本大使大島浩が、ドイツ政府の要請で、南ドイツのバードスタインに移転したのち、米英軍の飛行機による空襲の中で、ベルリン日本大使館の責任者として、八人の館員とともに、籠城してこれを守った、ドイツの降伏後日本に帰国した。戦後は外交官に復帰せず、最高裁判所調査官として『言論及び出版の自由』(昭和二十九年)、法学博士論文になった『基本的人権の研究』(昭和三十二年)などを著わし、新しい日本国憲法研究のさきがけとなった。昭和三十五年十月二十七日、六一歳をもって没した。

【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』、河原俊一郎「ナチ崩壊の日ーベルリン籠城記」(『中央公論』)
【執筆者】山本修巳
【備考】名前の”俊”の字は田偏が正しい。
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

※名前の読みは「かわはらしゅんいちろう」が正確。

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
最高数判所調査官。法学博士。明治三十一年十一月二十三日、佐渡郡新穂村で生まれた。東京帝国大学政治科を卒業、高等文官及び外交官試験に合格した。メキシコ公使館二等書記官、ドイツ大使館参事官等を経て最高裁判所調査官となった。昭和三十一年十月二十八日望ハ十一才でなくなった。(越佐傑人譜、新潟県年鑑)

「ベルリン最後の日」(「佐渡の百年」)


★河原俊太郎

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ河原俊太郎

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />河原俊太郎


★河原春木

『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の俳諧。本間斧刪(明治二九没)、中川収之(明治三二役)の流れがつゞき、明治十二年(一八七九)にほ東京教材監社の新穂分会というものがあり、その奉献額が大日堂の拝殿内に
掲げられている。正岡子規等の改革により俳句といわれるようになり、瑞穂会(旧派)、沙鳥会(旧派)、みどり会(新派)等の団体が、大正頃まであった。瑞穂会に渡辺巴郷、高野翠斎、沙鳥会に中川月桂、河原春木、本間最古等の名が「新穂村案内」に見える。


★河原松庵

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
畑野後山村の医師で文化二年から名が見えるの。松庵家は、東栄・松庵・松亭と四代つづいて、松亭の伜がメキシコに移住した。


★河原桃水(養玄)

『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
か河原桃水 (2)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />河原桃水

かわ河原桃水 (2)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新穂村北方の医家、通称養元という。漢籍に通じ俳諧をよくし、五々庵と号した。享和元年(一八〇一年)になくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)

『新穂村史』(昭和51年)より
新穂北方の人で天明、享和頃の人。医術のかたわら漢籍、俳語を能くし、恐らく郷党の士に影響する所があったと思う。桃水の芭蕉の碑が根本寺境内にある。

北方(旧下新穂)の人である。俳人で、漢学や医術にもたけていた。根本寺境内の桃水の墓石と桃水が建てたという芭蕉翁碑纂が今も残っている。養玄というのは医師としての名であり、又五五庵とも称した。医は京、江戸に学んだといわれる。徳行の人でもあったらしい。


★河原徳太郎

「福寿草」(昭和57年8月)
河原徳太郎 福寿草(昭和57年8月) (7)


★河原俊秋

かわ河原俊秋
畑野町総務課長から畑野町町長。


★河原寿雄(かわはらとしお)

かわ河原寿雄 か河原寿雄
両津高校9代校長(昭和56年4月~昭和60年3月)。1923年生まれ、1993年没。東京理科大卒。数学教師として両津高校の進学教育の先頭に立った。名物教師の一人で、「カッパ」というあだ名で生徒に大変人気があった。テニス部顧問でもありった。教え子に京都大名誉教授の竹内洋がおり、竹内はその著作等に熱心な地方教師の例として河原の名を出している。校長在任中に両津高校漁業課廃止問題があり、県と地元との間に入ってご苦労された。


★河原浪江

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か河原浪江

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />河原浪江

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新穂村北方の人で、名を信義という。江戸成島塾に学び、和歌をよくした。寛政八年(一七九六年)になくなった。(佐渡人名辞書)

『新穂村史』(昭和51年)より
新穂北方の人で天明、寛政頃の人。江戸の成島塾に学び特に和歌を能くしたといわれる。
新穂の和歌のグループは所々にあったらしい。河原益斎も河原浪江(?~一七九六)も舟下後藤守黒(-七八六~一八二七)守黒の子宗蔵(一八〇六~一八六一)同二男文中
(一八〇八~一八五五)宗蔵の子五郎次も和歌を能くし、同家には現在も多くの歌稿が残されている。辻守遊も、その子守継、その子守稠、守寿その子守富も和歌や連歌を能くしたと伝えられる。


★河原仁一郎

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かわ河原仁一郎


★河原春樹

「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)


★河原久雄

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ河原久雄

「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)


★河原北洋

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />河原北洋


★川原真佐恵

西方、川原家の人。本名まさえ。
農業。昭和七年生れ。「歌と評論」同人。歌集「羽茂野」あり。

(歌碑:平成二十年三月建碑 樟石丈○、八八㍍)

○白木蓮一樹に競ふ千の花陽に耀(かがよ)ひて庭辺明るむ

四月の晴れた或る朝「千の風」の音楽が流れて来るテレビを見ながら、ふと外を見ると白木蓮が満開となり、朝陽に輝いて庭全体を明るくしてくれました。
しばらく花に見惚れて身も心も花に吸われてゆく自分、花の命にめぐる四季を思いつつ庁んでいました。(自註)
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より


★川原雅史

佐渡高校時代の昭和55.5.30~6.1、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)4×100mR(関根淳・菊地治・川原雅史・北見真人)6位
55.6.20~22、陸上競技北信越大会(新潟市)4×100mR(関根・菊地・川原・北見)2位 全国大会出場
55.8.1~5、陸上競技全国高校結合体育大会(愛媛県)4×100mR出場


★河原幹雄

佐渡高校時代の34.9.19~20、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)総合44点2位、三段跳5位、男1600mリレー(本間・野尻・河原・景山)1位
35.6.26、陸上競技全国高校信越地区予選会(新潟市)200mHに入賞


★河原箕山

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
かわ <br />河原箕山


★河原祐左工門  

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
享和年間(一八〇一前後)には、北方村から出て馬場で河原祐左工門が質屋兼金貸しを開業している。


★河原勇蔵

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・5・8・9~10 第2回北陸水上選手権・全日本水上北陸予選・県水上選手権 県下小学校水上選手権(県体協・北陸水上聯盟) 高田中学プール
高50自 2位 34.2(新)、100自2位 34.2(新) 、200自2位 1.20.1(新)

昭・6・8・29~30 第3回北陸水上選手権・県水上選手権・県青年団水上選手権・県下学量水上選手権・全日水上選手権・明治神官水上北陸予選会。悠久山プール
(金泉小 高男)50自1位 32.6新、100自 1.15.6新、200mR 1位 2.22.6 ※金泉小学校・県大会三連覇。


★河原幸雄

佐渡高校時代の36.6.10~11、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合32点2位、1500ml位
36.6.25、陸上競技全国大会信越地区予選会(上田市)1500m3位
36.9.23~24、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)総合36点3位、1500ml位・5000ml位
※1500mで全国高校ランキング18位により、現高体連表彰を受ける
37.6.9~10、陸上競技高校大会県予選会(新潟市)総合3位、800ml位・1500ml位
37.6.23~24、陸上競技北信越地区予選会(金沢市)総合19点4位、800ml位・1500ml位・5000m2位
37.9.19~20、陸上競技県高校総合体育大会(新潟大学)総合44点2位、800ml位・1500ml位

畑野出身、佐渡高校昭和38年卒。昭和37年6月、新潟県高校大会で800m、1500m、3000m走で優勝する。1500mは県新記録だった。法政大時に箱根駅伝に3度出場。

・昭和39年(40回)7区、10位、団体成績8位。
・昭和40年(41回)3区、9位、団体成績12位。
・昭和42年(43回)7区、5位、団体成績8位。


★河原養玄→河原桃水(養玄)


★河原与三兵衛

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
畑野後山の伊東酒屋のこと。相川町人関原主兵衛の一族である馬場村の河原森右衛門と同族である。与三兵衛は、久左衛門を名乗っていた頃に、寛延の一揆にかかわり、所払いを受けた。その間に久左衛門家を管理していたのは森右衛門であった。またある時期には、こんどは久左衛門が後山の桶屋の家屋敷や田地を預っていたことがある。橘屋は、廻船業で蓄積した資本を島内各地の土地開発に投資していたのである。『佐渡年代記』には、正徳三年に庄兵衛が潟上村に新田開発を試みた一件が載っているし、いっばう河原与三兵衛も山田村の太郎右衛門とはかって辰巳村を開発するなど事業家として同じょうな資質をもっている間柄なのであった。


★かん

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国下川茂村(赤泊村)佐助の母である。文政十三年(一八三〇年)九十五才になったので、役所から老衰扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)


★かん

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国相川下戸町浜町作右衛門の妻である。舅姑に仕えて孝心奇特の趣相聞につき、文政十二年(一八二九年) に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)


★観海

小木蓮華峰寺住職

「「励風館」の復元」(「飛鳥路に似る真野の里佐渡の百年」)


★含空寂門

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
がん含空寂門 佐渡国泉の人物誌 h29年11月


★貫春

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か貫春

か貫春 (2)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡新穂村潟上本間氏の出である。紀州(和歌山県)天曜寺に住み雲蓋院僧正と号した。紀州藩主からの信頼が厚く、藩主がなくなった時、記念として能楽装束若干を賜わった。
天明三年(一七八三年)隠居し、能装束七十八点を生家に贈った。(佐渡人名辞書)


★観世元清(かんぜもときよ)

【生没】一三六三ー没年不詳  室町時代前期の、能役者・能作者・能楽伝書の著者。父観阿弥は大和猿楽結崎座、のちの観世座の祖。母の名は「寿椿」とされている。幼名は藤若、通称三郎、実名が元清で、阿弥号の世阿弥陀仏から、世阿弥と
略称した。法号は至翁・善芳。貞治二年の誕生説が定説であるが、没年は正確にはわからず、最晩年に佐渡に流されたものの、赦免で帰洛したかどうかも不明。ただし、忌日は「八月八日」とされる。長男元雅・次男
の元能のほか、金春太夫氏信(禅竹)に嫁いだ女子がいた。元雅も優れた能作者だった。父・観阿弥が、初めて近江の醍醐寺で七日間の猿楽を演じて名声を博したときにも、さらに京都の今熊野で、将軍足利義満の
面前で演じたときにも一二歳で出演し、父の至芸と世阿弥の美童ぶりが、義満の目にとまった。高名な連歌師の二条良基が、「芸能は申すにおよばず、鞠(けまり)、連歌などさへ堪能には、ただ物(者)にあらず」と、ま
だ垂れ髪の世阿弥に警嘆し、「藤若」の名を与えている。「風姿花伝」「花鏡」など、数々の芸術論のほか、高砂・老松・敦盛・清経・実盛・井筒・檜垣・西行楼・忠度・班女・花筐・頼政・砧・芦刈・蟻通・融・野守・春栄など
の、謡曲の作者としても知られ、物まね芸といわれた大和猿楽本来の姿から、歌舞中心の能へとその芸風を向上させ、能を国際的な芸能にまで高めた功績は大きい。桃源瑞仙という禅僧が著した『史記抄』に、世阿
弥と座をともにした人の話として、小男ではあったがその立振舞には、おのずから節(リズム)があったといい、娘婿の氏信は「曙の花に月の残れるが如し」と、世阿弥の芸風を評した。永享六年(一四三四)五月、七二
歳で佐渡へ流され、滞島中の小謡曲舞集『金島書』が、いわば絶筆となり、以後消息を断った。
【関連】佐渡状(さどじょう)・金島書(きんとうしょ) 【参考文献】田中圭一「世阿弥の配処に関する考察」、磯部欣三『世阿弥配流』
【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『佐渡流人史』(郷土出版社)より
永享六(1434)佐渡に配流。能の大成者。足利義教の勘気による。同八年二月(金島書奥書による)までは滞島。以後消息を絶つ。佐渡で小謡集『金島書』をまとめる。(『世阿弥十六部集』『観世家譜』『佐渡志』『佐
渡国寺社境内案内帳』)
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※佐渡状(さどじょう)

 佐渡流罪中に、大和ないし京都にいたと思われる娘婿の、金春大夫氏信(禅竹)に宛てた世阿弥の手紙。直筆の手紙は二通しか現存しておらず、その中の一通がこれで、奈良県文化財。佐渡で書いた『金島書』は
、写本で伝わったものだから、世阿弥滞島中の筆跡は、この手紙が唯一のものであり、流人としての世阿弥の息づかいが感じられ、貴重である。昭和十六年、能楽研究家の川瀬一馬氏が、奈良県生駒市の宝山寺で
発見した今春家伝書群の中に、世阿弥自筆能本などといっしょにまじっていた。楮紙二枚をはりあわせた横五五・七糎、從二○・四糎の手紙で、「世阿弥が佐渡流謫中のものなり、稀代の資料といふべし」と、川瀬氏は
発見したときの驚きを記している。「六月八日」の日付があり、配流の翌永享七年(一四三五)に発信したものと見られている。文面は、佐渡では人目も外聞も、とくに問題なく暮していること、氏信から銭一○貫文が届
いたことと、妻の寿椿を預かってもらっていることへの謝辞、また佐渡は「不思議の田舎」なので、料紙なども不足していて、妙法諸経のありがたい教えも、稾筆で書くためしもあるというから、道の大事(鬼能のこと)を
書くこの手紙は、金紙とお考えになって下さい、などと結んでいる。禅竹から「鬼の能」について、質問した手紙が届いたことへの返信も兼ねているらしく、「(鬼の能に関しては)砕動までに限られ、力動なんぞは他流の
ことにて候」と、つっぱねている。鬼の能の力量が、役者評価の基準にされるような風調が、そのころ都で生まれていたらしく、形式的・外面的な能の俗化をいましめた手紙ともうけとられ、配処にあってもなお、能への
情熱を失ってはいないようすがうかがえる。「世阿弥佐渡状の碑」(題字、二十六世観世宗家・観世清和書)が、この手紙を直筆のまま刻んで、佐渡博物館の玄関前に平成九年に建立された。

【関連】観世元清(かんぜもときよ)・金島書(きんとうしょ)
【参考文献】表 章・加藤周一『世阿弥・禅竹』
【執筆者】本間寅雄
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※金島書(きんとうしょ)
 佐渡配流中に世阿弥が書いた紀行文ふうの小謡曲舞集。北蒲原郡安田町出身の地理学者で『大日本地名辞書』の編さんで知られる吉田東伍が、明治四十二年(一九○九)に発見し公刊した『世阿弥十六部集』(
能楽会刊、池田信嘉代表)の中で初めて紹介され、世間を驚かせた。同書は世阿弥に関する学問的研究の端緒を開いたとされ、今日でも高い評価を受けているが、『金島書』(吉田氏は「金島集」と紹介している)の発
見によって、世阿弥の配流が一般に知られることになり、この高名な芸術家の最晩年の動向、および室町時代の佐渡の国情をかいま見る貴重な書物ともなった。自筆の原本ではなく、他の世阿弥伝書と同様に、同一
人によって一七世紀中ごろに書写されたもので、漢字を少しまじえたひら仮名書きである。加えてこの『金島書』は、同一の写本が他のどこからも発見されておらず、また関東大震災で焼失したので、現在は活字になっ
た「吉田本」が残るのみとなった。「若州」「海路」「配処」「時鳥」「泉」「十社」「北山」の七篇の詞章から成り、最後に無題の「薪神事」一篇が奥書とともに添えてある。「海路」までが佐渡への道中で「配処」以下に滞島
中の見聞が綴られ、「永享八年二月日、沙弥善芳」と結んでいる。沙弥善芳は世阿弥の道號である。配流が七二歳に当たる永享六年(一四三四)五月であり、翌々年の二月まで佐渡で生存していたことはわかるもの
の、その後の消息はわからない。わりと平静な気持ちで流謫生活を送ったらしいことが、文面からもうかがえる。

【関連】観世元清(かんぜもときよ)・佐渡状(さどじょう)
【参考文献】磯部欣三『世阿弥配流』ほか
【執筆者】本間寅雄
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
正平十八年(一三六三年)に生まれ、嘉吉三年(一四四三年) に死んだ。
能楽の大成者で観世流第二祖である。父の観阿弥清次も偉大な能楽の天才であったが元清も父の志を継ぎ将軍足利義満につかえて能楽を幽玄な舞台芸術にした功労者である。能役者としてすぐれてていただけでなく謡曲の作者としても百番以上のすぐれた作品がある。能楽芸道論にも花伝書、花鏡等二十以上の秘伝書をあらわした。世阿弥と号した。吉田兼熈より神道を伝授され後に故あって永享六年(一四三四年)五月四日に佐渡国金沢へ流されて京都を出発した。現在、佐渡に能舞台が全国の半数もあるといわれるのは世阿弥が流されたため
であろうか。(観世系譜、世阿弥十六部集)

「ウィキペディア」より
世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?) 
本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。 父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)
である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは、「世阿彌」。

・生涯

世阿弥が生まれたとき父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少
のころから父の一座に出演していた。
1374年または1375年、観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では
将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。
当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の
教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。
義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満の
ころほどは恩恵を受けられなくなる。
義持が没し足利義教の代になると弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用。仙
洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。
1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死してしまう。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが大徳寺に分骨されたのではな
いかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉三年(1443年)に没したことになっている。

・業績

世阿弥の作品とされるものには『高砂』『井筒』『実盛』など50曲近くがあり、現在も能舞台で上演されている。また、『風姿花伝』などの芸論も史料価値だけではなく、文学的価値も高いとされている。

・芸道論

著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生
まれると説く。 「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。

・代表作

ウィキクォートに世阿弥に関する引用句集があります。

世阿弥は数多くの謡曲を残している。謡曲とは、能における節と詞(ことば)、または能の脚本(謡本)そのものを指す。
弓八幡
高砂
老松
実盛
頼政(平家物語)
忠度(平家物語)
清経(平家物語)
敦盛(平家物語)
八島(平家物語)
井筒(伊勢物語)
恋重荷
錦木


当麻
野守(万葉集の歌が典拠)
鍾馗
鵺(ぬえ:平家物語)
桜川
花筐(はながたみ)
葦刈(あしかり)
春栄
西行桜(さいぎょうざくら)
檜垣(ひがき)

・著作

世阿弥は父の遺訓、また自ら会得した芸術論を、「道のため、家のため」(『風姿花伝』)多数書き遺した。
その伝書は秘伝とされ、世阿弥の血筋を承けた越智観世家、そして観世宗家、また女婿禅竹を通じて金春家などが多く所蔵した。室町後期に越智観世家が絶え、観世宗家から入った養子が再興したことで、越智観世
が最も多く有していたといわれる伝書はあらかた観世宗家に渡った。またそれとは別に、越智観世から複数の伝書が能を愛好した徳川家康に献上され、家康を通じて細川幽斎や織田信忠がこれを手に入れている。
近世にも能楽関係者や一部大名家を除いて出回ることは殆どなかった。数少ない例外として、14代大夫の観世清親とともに世阿弥伝書の収集に尽力した15代大夫の観世元章が、1772年に『習道書』に注釈を加えて
出版し、座衆の一部に配布したこと、元章の後援者であった田安宗武が観世大夫が所蔵する本の一部を書写したこと、そして1818年に柳亭種彦が家康の蔵書であった『申楽談儀』を手に入れ、周囲の文人数名が写
本を作ったことが挙げられるが、これ以外に目立った形で世阿弥の著作が表に出ることはなかった。
20世紀に入り、吉田東伍が『世阿弥十六部集』を出版し、当時知られていた世阿弥の伝書を一挙刊行した。以後研究が進み、現在では世阿弥の伝書として二十一種が認められている。

世阿弥の伝書一覧
『風姿花伝』
『花習内抜書』
『音曲口伝』
『花鏡』(かきょう)
『至花道』
『二曲三体人形図』
『三道』
『曲付次第』
『風曲集』
『遊楽習道風見』
『五位』
『九位』
『六義』
『拾玉得花』
『五音曲条々』
『五音』
『習道書』
『夢跡一紙』
『却来華』
『金島書』
『世子六十以後申楽談儀』
『金春大夫宛書状』

・校訂書籍

吉田東伍校注 『世阿彌十六部集』能楽会、1909年
能勢朝次 『世阿弥十六部集評釈』(『世阿彌十六部集評釋』) 上・下巻、岩波書店、復刊2000年、上: ISBN 400001093X、下: ISBN 4000010948
野上豊一郎、西尾実校訂 『風姿花伝』(岩波文庫、初版1958年)、ISBN 4003300114 野上豊一郎、西尾実校訂 『風姿花伝』(ワイド版岩波文庫、1991年)、ISBN 4000070312

・表章校注 

『申楽談儀』(岩波文庫、初版1960年、復刊2003年ほか)、ISBN 4003300122
野上豊一郎校注 『能作書・覚習条条・至花道書』(岩波文庫、初版1934年、復刊1989年ほか)、ISBN 4003300130
表章、加藤周一校注 『世阿弥・禅竹』(岩波書店、新装版1995年)、ISBN 4000090712 内容細目: 世阿弥著『風姿花伝』、『花習内抜書』、『音曲口伝』、『花鏡』、『至花道』、『二曲三体人形図』、『三道』、『曲付次第
』、『風曲集』、『遊楽習道風見』、『五位』、『九位』、『六義』、『拾玉得花』、『五音曲条々』、『五音』、『習道書』、『夢跡一紙』、『却来華』、『金島書』、『世子六十以後申楽談儀』、『金春大夫宛書状』/禅竹著『六輪一露
之記(付二花一輪)』『歌舞髄脳記』『五音三曲集』『幽玄三輪』『六輪一露秘注(文正本・寛正本)』『明宿集』『至道要抄』/解説『世阿弥の戦術または能楽論』(加藤周一)、『世阿弥と禅竹の伝書』(表章)
表章監修、月曜会編纂 『世阿弥自筆能本集』 岩波書店、1997年、ISBN 4000236024 内容細目: 『難波梅』、『盛久』、『多度津左衛門』、『江口』、『雲林院』、『松浦』、『阿古屋松』、『布留』、『柏崎』、『弱法師』、『知
章』、『熊本三十五番目録』
表章、伊藤正義編 『風姿花伝 影印三種』和泉書院、1979年、ISBN 4900137286 内容細目: 『風姿華伝』、『金春本』5巻(生駒宝山寺蔵)、『花伝第六花修』、『世阿弥自筆本』(観世宗家蔵)、『花伝第七別紙口伝』、
『宗節本』(観世宗家蔵)/解題: 表章、伊藤正義著、風姿花伝の本文・注解・現代語訳等に関する主要文献: p270
田中裕校注 『世阿弥芸術論集』(新潮社〈新潮日本古典集成〉、1976年)、ISBN 4106203049 内容細目: 『風姿花伝』、『至花道』、『花鏡』、『九位』、『世子六十以後申楽談儀』
小西甚一編訳 『世阿弥能楽論集』(たちばな出版、2004年)、ISBN 4813318193 内容細目: 『風姿花伝』、『至花道』、『花鏡』、『九位』、『六義』、『拾玉得花』ほか全17部)
竹本幹夫校訂・訳解説 『風姿花伝、三道』(角川ソフィア文庫、2009年)、ISBN 4044055017
飯田利行編訳『世阿弥・仙馨』国書刊行会、2001年、ISBN 4336043558 内容細目: 『風姿花伝』(世阿弥)、半仙遺稿(佐田仙馨)
川瀬一馬校注・現代語訳『花伝書 風姿花伝』(講談社[講談社文庫]、1972年)、ISBN 4061340123
川瀬一馬校注『校註 花伝書 風姿花伝』わんや書店、1977年
堂本正樹訳『世阿弥アクティング・メソード 風姿花伝・至花道・花鏡』劇書房、1987年、ISBN 4875745419

・関連項目


芸道論
観阿弥
観世元雅
観世四郎
序破急
天河大弁財天社
宝山寺

・世阿弥の登場する作品

小説 柳生十兵衛死す(山田風太郎)
婆沙羅(山田風太郎)
舞台・戯曲 世阿弥(山崎正和)
ミュージカル「Zeami」
歌舞劇ロマン「カンアミ伝」 わらび座
マンガ あっかんべェ一休(坂口尚)
夢幻花伝(木原敏江)

★神蔵勝明(かんぞうかつあき)

かん神蔵勝明
1948年、両津吉井生まれ。1967年両津高校卒、1971年東京農工大農学部卒。佐渡高校教諭他島内各高校教諭を歴任。
『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。2010年佐渡市教育委員会社会教育課ジオパーク推進指導員となり、その後、佐渡市が推進する佐渡ジオパーク構想の中心メンバーとなって活躍する。共著に『離島 佐渡』がある。


★神蔵恵治

かん神蔵恵治 (2)
かん神蔵恵治


★神蔵源兵衛

かん神蔵源兵衛 (2) かん神蔵源兵衛


★神蔵権一

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かみ神蔵権一


★神蔵翠甫→神蔵嘉治


★神蔵治人

かん神蔵治人


★神蔵久子

夷保育園園長
かん神蔵久子 夷保育園園長


★神蔵政雄(かんぞうまさお)

正式には「神藏」のようである。

「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
か神藏政雄

か神藏政雄 (2)

か神藏政雄 (3)


★神蔵正行

佐渡高校時代の平成5,高校将棋選手権県大会1位、高校将棋選手権全国大会回戦まで進出
平成5,11、高文連将棋県大会1位、高文運将棋全国大会1回戦敗退、敗者戦で健闘し敢闘賞受賞
平成6,1、全国高校将棋竜王戦県大会1位 全国大会(福岡市)に出場
平成6,11、将棋県大会2位 全国大会(川崎市)に出場
平成7,6、高文連将棋県大会1位、神蔵正行は全国大会(分水町)に出場
平成7,6、全国高校将棋竜王戦県大会1位、全国大会(福岡市)に出場


★神蔵万蔵

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かん神蔵万蔵


★神蔵良醖

『金井を創った百人』(「明治・大正の開業医たち」)(金井町 平成12年)より
か神蔵良醖


★神蔵嘉治

上横山 光輪寺題字
かん神蔵嘉治 光輪寺題字 かん神蔵嘉治
吉井出身の高名な書家。長く両津市役所に勤める傍ら書道の研さんに励む。
島内の人気blog「佐渡カケス」の神蔵恵治氏は長男。
【履歴】
 大正14年3月17日
   新潟県佐渡郡吉井村(現佐渡市)にて出生
 昭和15年6月~同18年10月
   藤田讃陽氏の主催する紫雲書道会に入会
 昭和17年12月
   新潟県立佐渡農学校(現佐渡総合高等学校)繰上卒業
 昭和19年1月~同20年5月
   新潟県佐渡郡西三川村立青年学校職業科指導員
 昭和20年5月~8月
   徹さ部隊高射機関砲隊に入隊(千葉県)9月復員
 昭和21年10月~平成元年3月
   中俣斗山氏の主催する北越書道会に所属
   同、支部結成
 昭和24年3月~昭和43年10月
   上田桑鳩氏に師事(研精会、金星会に所属)
 昭和29年4月~同57年12月
   新潟県両津市役所勤務
 昭和42年8月
   吉井書道会を主宰(現青疇書道会)現在に至る
 昭和54年3月~平成13年12月
   書道研究団体「三木(さんもく)会」を結成 同人となる
 昭和55年10月
   両津市美術展(第10回記念展を機に無鑑査制を導入)書道部門無鑑査第1号となる
 昭和56年4月
   中俣苗那氏の主宰する太空(たいくう)会に所属 支部結成
 昭和61年1月
   同会同人となり現在に至る(苗那氏没後、田中白邸氏が代表となる)
 昭和57年5月~平成14年3月
   両津市公民館書道講師
 昭和58年4月~昭和60年3月
   新潟県立佐渡農業高等学校 書道科講師
 昭和58年7月~平成4年7月
   両津市農業委員会会長 両津市農政対策協議会会長就任
 昭和59年4月~平成7年3月
   新潟県立両津高等学校 書道科講師
 昭和61年4月~昭和63年9月
   木村三山氏の主宰する現代書詩創風会に所属
   同、支部結成
 昭和62年3月
   同会理事
 昭和63年3月
   同会副会長
 昭和63年5月~平成5年5月
   上記現代書詩廃刊により湘川(しょうせん)書道会(会長磯辺玄遠氏)
   書道誌湘川(しょうせん)発刊 同会顧問となる
 平成5年8月~現在
   青疇(せいちゅう)書道会を設立
   同会、書道誌「青疇」を創刊
 平成14年4月
   新潟県書道会参事に就任 現在に至る

【書歴】
(県展関係)
   昭和55、57、58、59の4回入選
(心芸墨美作家協会関係)
   平成2年審査会員
   平成3年評議員
   平成4年常任委員
   平成9年運営委員 常任理事
   平成15年3月副理事長となり現在に至る
(日中旅遊学会(日中作硯研究所)関係)
   平成8年3月結成(会長山本清石氏)常任委員長となる
   6回に渡って中国5大名硯の里を歴訪し現況の調査をする
(産経国際書会関係)
   平成16年第21回展書部門特選
   平成17年審査会員となる
 ・個展開催7回
 ・日中書道交流のため訪中18回(西安碑林博物館、北京新世紀壇
 ・太原市山西省民族博物館での交流展企画運営に実行委員として参画し、副団長として訪中

両津高校水産科
かん神蔵嘉治 両津高校水産科


★神田庄左衛門

大野日吉神社
かん神田庄左衛門 大野日吉神社 (2) かん神田庄左衛門 大野日吉神社


★神田照山

「戦国佐渡国人名辞典」より
河原田高統家臣。神田城主。官途は越中守。


★神田乃武(ないぶ)

明治時代の「カンダの辞書」で知られる英文学者。佐渡を訪れ、明治28年8月21日来島し、弟(と言われる)で当時相川鉱山に勤務していた工学士神田礼治と共に祖父高安三太郎の墓(羽茂村山 伊賀家)を訪ねる。「英文佐渡旅行日誌」を残す。

「英文学者と太鼓の家元」(「佐渡の百年」)


★神田政夫

新穂村
かん神田政夫


★神田礼治(かんだれいじ)

【生没】一八五八ー(没年不詳) 安政五年八月二十五日、岐阜県不破郡に生まれる。明治十五年(一八八二)工部大学校鉱山科を卒業し、工部省に出仕して院内鉱山・油戸鉱山等に勤務した。明治十八年佐渡鉱山に赴任し、足立太郎局長のもとで電話の開設などに努めた。同年十一月に大島高任が局長に就任すると、鉱場課長・四等技師として高任坑の開削などの採鉱に力を注ぎ、同二十年に赴任した渡辺渡(主として製錬担当)と共に、事業の拡張に努めた。明治二十二年四月に、佐渡鉱山が宮内省に移管されて御料局佐渡支庁となり、渡辺渡が支庁長に就任するとこれを助け、同二十三年に渡辺支庁長が鉱山学校を設立すると教授となった。その後、明治二十六年から同四十三年の間に二度にわたって渡航して欧米の鉱山を視察し、帰国後再び佐渡鉱山に勤めた。

【関連】大島高任(おおしまたかとう)・渡辺渡(わたなべわたる)・鉱山学校(こうざんがっこう)
【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、唐沢富太郎『教育人物事典』
【執筆者】石瀬佳弘
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

「真野宮の宝物 」(「佐渡の百年」)

「生きたお経をよんだ了寛」(「佐渡の百年」)


★関東長助

『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
長年足駄の歯がはさまって歩けないと不評だった木造桟橋が、時の町長土屋六石工門氏の努力により、築造型大埠頭建造へと急ピッチで進められ、昭和十一年六月、埠頭そのものは完成するに至り、砂上に仮ステージを設けて、夷七ノ丁鬼太鼓、文弥人形、笹鳴会の民謡舞踊の数々を日本港湾協会、一五〇名の招待客に披露され、大好評を得たのである。その際、われわれの大先輩、関東長助、福島作助の両氏はこれが俺らの名残し最後だと云って、太鼓は福島、赤鬼は関東、それぞれ死力を尽くして頑張った。青鬼は若手ではホープといわれた木村武雄君(木村材木屋・現東京在住)が舞った。

『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)より
両津鬼太鼓草創期の名人。八郎平町の人。
→山口弥之助


★関東彌右衛門

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
か関東彌右衛門


★上林真弓

1933年一2010年10月15日、77歳。相川町出身、小学校教諭時代から「さんふらわ-の会」を主宰し、ハバロフスク少年
少女友好使節団と佐渡の子ども達との交流を続けた。また佐渡在住の外国人妻への支援や、「親子ふるさと発見教室の親の会とOBの会」など、支援・文化交流に携わった。


★勘兵衛

『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
慶長の代表的義民の一人、羽茂本郷の人。この人は、祖先は羽茂の地頭本間殿の家老であったといわれているが、伝記はわからない。現在の白井勘兵衛家に就いて調査して見たが、古文書もなく、墓所も不明である。


★勘兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
越後国三島郡島崎村の商人である。文化十二年(一八一五年)佐渡へ渡り、奉行所を訪れ、鉛の納入を申し出た。金銀山御入用鉛で鉛百目に付代銀は一匁五分である。冥加として鉛千貫買上げにつき十貫目ずつ無代で運用鉛相納めるというものであった。(佐渡年代記中巻)


★願立寺素龍

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
が願立寺素龍























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渡辺和弘

Author:渡辺和弘
・佐渡市両津夷在住
・両津高校-同志社大
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①是非載せたい人物とその内容。
②訂正及び加筆情報。
   
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