2014-03-01
★赤塚五行(守)
佐渡羽茂出身で新潟県を代表する俳人である。旧姓は駿河。昭和26年生。

『死 秀句350選』(2013年06月28日09:06)
落鮎◇赤塚五行
落鮎のさからひつつも落ちゆけり 赤塚五行
秋がすすむと産卵のために鮎は流れを下りはじめる。一年魚である鮎は、まさに一年のうちに生まれ、育ち、その成長の果てに自らの宿命に従って落鮎となる。
「さからひつつも」は一年魚なるがゆえのその宿命へのむなしいさからいなのであろう。(『死 秀句350選』倉田紘文著より)
水の流れにさからうことを楽しんでいる風がある。こう感じるのは私だけだろうか。渓流を遡行するエネルギッシュな若鮎も好いが、落鮎の静かな佇まいも捨てがたい。老いたのかも知れない。
やや川幅が広くなり流れは緩やかで、天地澄み落鮎日和。「さからひつつも落ちゆけり」とゆとりのある調べと措辞。俳句を始めたころ斯ういう句にトライしたが完敗、今になって思うと鑑賞さえできていたかどうかは疑わしく、我が事ではあっても傍痛しという感はまぬがれない。「この島のほどよき広さ麦の秋」「蝋梅を月の匂いと想いけり」、赤塚氏の心静かな作品二句と遡上する鮎の動画を拝見しながら「この島」を想像している。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)赤塚守(五行・駿河守)
1 時事川柳 ピーナツ百句
2 渚にて
59 風土からの発想 -赤塚五行君句集「海彦」出版記念会- 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
★赤塚左一郎
『小木町史』より
明治十三年のことです。小木町の赤塚左一郎をど有志が、佐渡と越後の定期航路をつくらなければと研究協議していましたが、その矢先のことでした。たまたま、工部省から石油坑の視察のために出妻崎へ派遣されていた秋山美磨氏が、出雲崎の発展のためにやはり越後と佐渡の間に定期航路をひらくべきだと出雲崎の人にその具体化をすすめておりました。そこで小木では、出雲崎と共同すれば資金も得やすいということで、両者が話し合いました。その結果、小木が七千五百円、出雲崎側が七千五百円の株金をつのり、それをあわせて一万五千円、そのうち一万円を船の購求費にし、のこり五千円を創業費として越佐航海をはじめることで話がまとまりました。さらに、本社は小木と出雲崎に交替に置くことにしたのです。そんをふうにして開業しましたが、さて、何分にも収支がつぐをいません。そういうふうにをると、まず最初に音をあげてしまったのは佐渡側です。手をひきたいということになりました。明治十七年になって、三千円を相手側からうけとり船体と株金はみんなむこうにまかせて、しばらく様子をみることにしました。
しかし明治十九年、とうとう船会社を維持する通が途絶えて、船会社は閉鎖して、船体は新潟の売場に回されてしまいました。考えてみれば、これをやめてしまえば今までの苦労は水の泡です。そしてまた、将来の佐渡の利害を察するなら、これは捨ておきがたい事柄といえましょう。そこで、小木の古城俊平ほか四、五人の有志が、さきがけ丸を一千五百円で買いとり、それに一千円を投じて修繕を加え、もとのようにさきがけ丸と命名して、明治二十年一月から再び越後と佐渡の間を航海しはじめたのです。いま、明治二十二年の航海の状況がわかっています。一月が三度、二月が六度、三月が十度、四月が十九度、五月十八度、六月十七度、七月十九度、八月二十度、九月が二十度となっています。そして、一回の乗客は平均して二十八人とあります。しかし、なかなかうまくはこびませんでした。冬の間は、両津、新潟航路が一か月近くもとまってしまうことが逆にさいわいして、乗客もけっこうあり、採算があいましたが、夏にをると乗客もすっかりなくをり、荷物も減り、ただ郵便運搬だけで命脈をたもつというありさまで、船会社は損害に堪えられず、とうとう船は売りに出されました。そうなっては困るとみんなが思いをがら、どうにもをらをいのです。陳情をうけた佐渡支庁は、夏の問だけ、ご料局で近県から買い入れる鉱石や、鉱山で必要とする木材を引かせることにしました。また、航路を沢根までのばして航海させれば、国仲の人たちの便利とをるだろうとも考えました。そうした方法もとられましたが、今から考えてみれば、こんな消極的を方法で航路を維持することがどうしてできましょう。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
天保七年生 小木町 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明2、羽茂郡の独立運動[二十三年九月二十四日]・明2、海底電線架設の建言[二十三年十二月一日]
★赤塚勒負(じんふ)
『小木町史』より
小木阿弥陀院の古過去帳に次のようを記述があります。 文禄二年三月 赤塚勒負 羽茂知御母御歳十六 俗名千代ノ方と号す
赤塚氏(堀切屋)から羽茂の殿さまのところへ嫁に行った人がいて、その人が文禄二年(一五九三)の春になくをったというのです。さらに慶長七年(一六〇三)には、暗雲院武徳大賢居士 慶長七年八月 赤塚勒負 九十一歳 とあります。赤塚勒負という人物が、この寺と大変強い関係をもっていることがわかります。普通、一般の人たちが寺の檀家にをるのは、寛永末以降のことですから、阿弥陀院は赤塚氏の寺といってよいかも知れません。赤塚氏は、小木番所付問屋の一人堀切屋のことであるといいます。暗雲武徳大賢という戒名から想像できる赤塚靭負は、きっと羽茂殿の家来で武道のできる、括達を人柄だったのでしょう。この寺が、いつ小木町に建てられたかははっきりしません。しかし、過去帳の延宝三年(一六七五)のところに、「当院第二世宥雅」という書きつけがみえます。この一代前、第一世のときに今の場所に移って、新しい寺をかまえたことはほぼ間違いをいでしょう。そうすると、やはり元和、寛永のころと考えられます。以来三百年の間、町に少ない真言宗寺院として今日に至るわけです。
★赤塚トク
両津湊出身で旧姓は古藤、明治20年代生。金井中興にあった「ハンヤ節保存会」の赤塚惣七に嫁ぐ。大正から昭和初期にかけて「両津甚句会」一員として「両津甚句」を初めてレコードに吹き込む。昭和4年頃畑野の松本丈一氏に両津甚句を指導し、松本氏はその後両津甚句を唄いやすいように今の二息にし、以後それが定着し現在に至る。高齢になっても地元の祝事や両津の祭りには請われて佐渡民謡を唄っていたと言う(孫談話)。
「島の新聞」

★赤塚直宗
「戦国佐渡国人名辞典」より
【あかつかなおむね(1512~1602)】河原田高統家臣。出雲大社の神官から婿に入った。
★赤塚寛
両津高校時代の1981年度(S56)10月、第15回新潟県高等学校美術展絵画部門 奨励賞
★赤塚藤之

★赤鶴一透斎→」赤鶴一透斎(しゃくつるいっとうさい)
★赤泊の與三兵衛
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))


★赤泊村三太郎外五人
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★赤埴源蔵(あかばねげんぞう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★赤埴源蔵の母高野氏
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★赤松忠
両津高校時代のs44年、総体ヨット男子スナイブ級7位(赤松忠・石原俊次)
★秋田権右衛門(あきたごんうえもん)
佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)


【生没】一五九九ー一六六五 生地、秋田。五十里山を中心に活躍した山師。初代秋田権右衛門は、羽州秋田の城主佐竹家に仕えていたが、寛永元年(一六二四)秋田から佐渡へ渡る。旧姓秋元であったが、鎮目市左衛門の頃、秋田と改める。山主古口権兵衛に仕え、権兵衛死後名跡を継ぐ。相川より西野村に移住して、屏風沢・仕出喜沢・松ケ沢・百枚平一帯を稼ぐ。正保年間(一六四四ー四七)城下川端にあった多聞寺を西野村に移し、吉祥寺と改称した。河内山屏風沢にあった小社を、金北山神社として吉祥寺境内に移祀する。仕出喜間歩で豊鉱脈を掘り当て、承応元年(一六五二)から万治元年(一六五八)まで、日々夜々数万両を稼いだと伝えられる。寛文五年三月十日没した。二代権右衛門は寛文八年(一六六八)弥十郎間歩・黒瀬間歩、天和元年(一六八一)鳥越間歩、元禄元年(一六八八)小瀧間歩を稼ぎ、銀山巧者として名声を高めた。元禄十六年(一七○三)十一月廿六日に没した。【関連】山師(やまし) 【参考文献】「秋田家文書」、伊藤三右衛門『佐渡国略記』、「沢根町誌稿」(二輯) 【執筆者】土屋龍太郎
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
(「幕末明治の佐渡日記」(磯部欣三)より)
先祖を古口権兵衛といい、当初相川の「古口間歩」を稼行、元和六年(一六二〇)には鶴子銀山の屏風沢仕出来間歩を自分山(請山)として稼行を始める。その後二代目権右衛門(盛静)が仕出来および隣接する屏風沢の藤右衛門、大津市右衛門、五太夫、次郎右衛門などの諸間歩を普請し、この一帯の稼行領分を拡大し、慶安五年(一六五二)には、仕出来沢川下に「百武十間」におよぶ大水貫工事を完成させた。この結果、松ケ沢、仕出来沢、屏風沢の詰問歩は、水没から脱して一時活況を呈することになるらしい。
この人は「生国羽州秋田ナリ」とあって、寛永十年(一六三三)のころ来島し、鶴子銀山の百枚平などをはじめ、散在していた廃坑の普請を手広く手がける。銀山巧者として「山師由緒」にもその名が記録されて後世に残った。沓掛川上流の西野地内に、一族の墓地が残っている。吉田松陰が来島したとき、弥十郎間歩を請け負っていたのが、この秋田の末裔であり、出迎えた中にこの人物がいた可能性が高い。
「戦国佐渡国人名辞典」より
【あきたごんうえもん(1599~1665)】五十里山の山師。別名秋元権右衛門。羽後久保田城主佐竹義宣のもとで山師を務めた。1624年、佐渡国に渡り古口権兵衛に仕え、その病没後、その名跡を相続した。1644年、多聞寺を西野村に移し、吉祥寺と改称した。河内山屏風沢にあった小社を、金北山神社として吉祥寺境内に移祀した。1652年、仕出喜間歩で豊鉱脈を掘り当てた。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
銀山師、浄水ともいう。秋田の人で、父に従って佐渡に渡り、天和元年(一六八一年)鳥越間歩を開発、さらに元禄四年(一六九一年)鉱脈をほりあて、大量の金銀を採って富み栄えたが、貯蓄心がなく、毎日酒を飲んで暮らした。
親しい人が子孫のために財産を残すようすすめたが、千両箱一つを取出して見せ、子孫はこれで十分であるといった。
なくなってからその箱を調べると、金ではなく石がつめてあり、石の上に「千両のこがねは石に異ならずただ一心に万金にせよ」と書いてあった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
江戸時代の鶴子銀山を考える場合に忘れてならない人物がいる。秋田権右衛門であ㌃。初代の秋田権右衛門は由緒によると寛永(一六二四)出羽国秋田から佐渡へ渡ったという。(慶長の頃には出羽の秋田は久保田町と称していた)秋田権右衛門は西野村に住んで屏風沢を中心に稼いだという。いま新潟市に住む味方重憲氏は鉱山の山師味方但馬の末えいであるが、同家には秋田権右衛門の文書の写しがのこっている。秋田権右衛門は寛永に佐渡に釆ていくばくもなく鶴子銀山で大盛りを得たらしい。秋田は正保元年(一六四四)五十里城の下にあった多聞寺を西野にうつして吉祥寺とした。吉祥寺の本尊地蔵の供養棟札をみると秋田がいかにも古岩山、つまり鶴子銀山の神仏にふかく帰依をしていたかがわかる。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=6
★秋田権之助下女なつ
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★秋田秋月
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★秋田壽吾
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★秋田登一郎
「躍進日本」

★秋田藤十郎(あきたとうじゅうろう)
【生没】一八五一ー一九○七 嘉永四年十月二十五日相川町柴町に生まれる。秋田家は代々廻船問屋を営む資産家で、明治十五年(一八八二)に相川警察署が火災で消失すると、その復旧に私財を投じて県から表彰された。翌十六年には戸長、明治二十二年から二十五年にかけては相川町長に就任している。明治二十三年四月には、私費を投じて広間町に私立の高等小学校を設立し、自らの号をとって「有年私黌」と名づけた。高等小学校は、同十九年の小学校令で設置が決められたが、実際にはなかなか実現せず、町長でもあった彼は、私費で開校を決意したものと思われる。この学校は、その後広間町の第一尋常小学校に併設された。明治十八年には、夷町の若林玄益や梅津村(現両津市梅津)の市橋藤蔵らと新潟ー夷間の航路開設を企図し、同年五月に越佐汽船会社を創設して初代社長に就任した。同社は七月に新造船「度津丸」を就航させ、八月には夷ー函館間の往復航路を試み、翌十九年に直江津ー関山間に新潟県最初の鉄道が開通すると新潟ー直江津航路を開設するなど、意欲的な経営を行なった。明治二十四年には、独力で大型汽船「佐渡丸」を購入して海運業を営んだが、北海で船体が大破し、家運も次第に傾いたという。明治四十年十一月九日に移住先の東京で没、下相川本興寺に葬られる。【関連】越佐航路(えっさこうろ)・佐渡汽船会社(さどきせんかいしゃ) 【参考文献】岩木拡『相川町誌』、『相小の百年』(相川小学校)、橘法老『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永四年生 相川町柴町 ・明2、越後の同好会[二十一年十一月]・明2、相川の米騒動[二十三年六二十九日] 「佐渡関係事典に載る」
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)秋田藤十郎 128 「秋田氏伝記」に曾祖父・秋田藤十郎を偲ぶ 秋元美智子
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★秋月悌次郎
会津藩士でありながら長州の奥平謙輔の師でもあり、その縁で会津の少年山川健次郎(後の東大総長)が佐渡に匿われることになった。
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


「ウィキペディア」より
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」(明治の女子留学生)
★秋月正夫
立浪会35年のあゆみ」(昭和34年)


★秋野亀太郎
旧制佐渡中学12代目校長(昭和16・3・31~昭和19・3・31)。巻中他県内各地の校長を歴任する。
「佐渡高等学校百年史」
昭和十六年三月、坂井校長に代わって秋野亀太郎校長が着任した。二見村大浦の人で、第四代の柏倉一徳校長についで二人日の佐渡出身校長であった。大正三年佐中卒業後、東京高等師範学校理科第一部に進み、同校在学中の大正七年に一年志願兵として入隊、歩兵少尉で退役、同九年に卒業した。その後、山形師範学校教諭、新潟師範学校教諭、同校の校長事務取扱、巻中学校校長を経ての着任であった。昭和十九年三月に入隊のため退職するまでの三年間、まさに太平洋戦争の大部分の期間を佐中の校長として在職した。秋野は校長としてはかなり異色の人であった。頭脳明断で、バイオリンを弾いたりする繊細さがある反面、太っ腹で小心翼々としたところがなく、型にはまることを嫌った。数学の授業で教鞭もとったが、めったに生徒をしからなかったと言う。朝礼の朝の訓話などは、先述の開戦時の訓話に代表されるようにいつも簡潔であった。当時教諭として秋野に仕えた石塚勝太郎の記憶では、秋野は、「軍隊は死を要求するところ、学校は死の一歩手前まで要求するところだ」と教えたという。陸軍歩兵少尉の位をもつ秋野は、時として軍服で登校することがあったが、軍服時の帯剣義務も意に介さず、帯剣することはほとんどなかったという。無類の酒好きで、お茶代わりに酒を飲んでいたといわれ、また、夏の暑いときにはフンドシーつで執務をしたこともあったという。このように型破りの面があった反面、生徒や下の者には温かく、上には強い態度で臨むといった人柄であった。この点に関しては、当時五年生の浅倉正富が『佐渡高等学校八十年史』 に寄せた回想記の中で次のようなエピソードを紹介している。当時、五年生の権威と云うものは大変なもので、後輩の指導を体罰で行なうと云う猛々しい時代でありました。毎年五年生は、次代を背負う四年生に対して、特に厳しい説教と云うものを行なうのが例になっていた様で、私共も、或る日、四年生全員を、テニスコートか何かの広場に集めて、その説教なるものを行なって居りました。そのはげしさを見るに見兼ねてか、或る先生が止めに入り、云うことを開かない五年生の中の一人を、教員室に連行しました。五年生の権威を四年生に示して居る最中、体面もあり又頭に血がのぼっている時、仲間の一人が拉敦されたと云うことで、攻撃が一瞬にして其の先生に向きを変え、そのまま五年生全員が教員室に向ってなだれ込むと云う事件に発展しました。統制の厳しい軍国調の風潮の中で、左翼的なストライキと云う風に解釈され、更に悪いことに、四年生の父兄の中に地方新聞等公報機関をあほる人々があったと見え、世間の攻撃が学校当局に向けられると云う形に変化しました。そして責任者の処罰を要求する声が段々と大きくなって未ることが私共生徒までが感ずる様になりました。その時、私共何かの委員をしていた三~四人が責任者として校長室に呼ばれました。しかし、呼ばれはしたものの、校長様は慈悲深い眼で一べつするだけで、何もおっしゃらず執務し、我々は黙って立っていると云うことが数日続きました。この無言の教えと云うものは、今でもしみじみとその教えの探さを感ずる訳であります。この事件は結局、一人の処罰者も出さず、その校長である秋野亀太郎校長様への世間の風当りと云うものは大変なものであったやに聞くにつけても、益々その無言の教育の有り難さを感じている次第です。
昭和十九年三月、秋野亀太郎校長は辞職したのち新潟鉄工所に入りそこで再度応召した。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p388
★秋野貞男
佐渡高校時代の昭和28年7月17日 全国学校書道連盟主催全国競書大会(於東京都美術館)にて特賞
★秋野三蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

二見村長。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治八年生 二見村大浦、農業 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
★秋野竹二郎


相川町長(昭和51年10月~55年10月、昭和59年10月~63年10月)
★秋野利夫
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)100平1.43.0 秋野利夫(相)昭13
★秋本治
「両津勘吉に見る歴史の綾」
★秋元美智子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)秋元美智子 128 「秋田氏伝記」に曾祖父・秋田藤十郎を偲ぶ
★秋元玲子

★秋山高重(たかしげ)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
正平三年(一三四八年)十二月に北朝から佐渡守に任じられた。(新潟県史)
★秋山忠二
「躍進日本」

★秋山実
右2枚:「島の新聞」12号

「島の新聞」索引(人名別)
★秋山美磨
『小木町史』より
明治十三年のことです。小木町の赤塚左一郎をど有志が、佐渡と越後の定期航路をつくらなければと研究協議していましたが、その矢先のことでした。たまたま、工部省から石油坑の視察のために出妻崎へ派遣されていた秋山美磨氏が、出雲崎の発展のためにやはり越後と佐渡の間に定期航路をひらくべきだと出雲崎の人にその具体化をすすめておりました。そこで小木では、出雲崎と共同すれば資金も得やすいということで、両者が話し合いました。その結果、小木が七千五百円、出雲崎側が七千五百円の株金をつのり、それをあわせて一万五千円、そのうち一万円を船の購求費にし、のこり五千円を創業費として越佐航海をはじめることで話がまとまりました。さらに、本社は小木と出雲崎に交替に置くことにしたのです。そんをふうにして開業しましたが、さて、何分にも収支がつぐをいません。そういうふうにをると、まず最初に音をあげてしまったのは佐渡側です。手をひきたいということになりました。明治十七年になって、三千円を相手側からうけとり船体と株金はみんなむこうにまかせて、しばらく様子をみることにしました。
しかし明治十九年、とうとう船会社を維持する通が途絶えて、船会社は閉鎖して、船体は新潟の売場に回されてしまいました。考えてみれば、これをやめてしまえば今までの苦労は水の泡です。そしてまた、将来の佐渡の利害を察するなら、これは捨ておきがたい事柄といえましょう。そこで、小木の古城俊平ほか四、五人の有志が、さきがけ丸を一千五百円で買いとり、それに一千円を投じて修繕を加え、もとのようにさきがけ丸と命名して、明治二十年一月から再び越後と佐渡の間を航海しはじめたのです。いま、明治二十二年の航海の状況がわかっています。一月が三度、二月が六度、三月が十度、四月が十九度、五月十八度、六月十七度、七月十九度、八月二十度、九月が二十度となっています。そして、一回の乗客は平均して二十八人とあります。しかし、なかなかうまくはこびませんでした。冬の間は、両津、新潟航路が一か月近くもとまってしまうことが逆にさいわいして、乗客もけっこうあり、採算があいましたが、夏にをると乗客もすっかりなくをり、荷物も減り、ただ郵便運搬だけで命脈をたもつというありさまで、船会社は損害に堪えられず、とうとう船は売りに出されました。そうなっては困るとみんなが思いをがら、どうにもをらをいのです。陳情をうけた佐渡支庁は、夏の問だけ、ご料局で近県から買い入れる鉱石や、鉱山で必要とする木材を引かせることにしました。また、航路を沢根までのばして航海させれば、国仲の人たちの便利とをるだろうとも考えました。そうした方法もとられましたが、今から考えてみれば、こんな消極的を方法で航路を維持することがどうしてできましょう。
★阿久沢弥平次
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所組頭。文化二年(一八〇五年)正月十三日、銀十枚を与えられて幕府から賞された。その理由は、佐渡奉行所の役所向並びに銀山費用その他定式の費用が寛政六年より享和三年まで十年間に、総元高の内、米三百九十余石余、金二万千両余が残った。このことを幕府に報告したところ今回の褒賞となったのである。
弥平次の外に
広間役 関根甚三郎 銀五枚
広間役 平野仁左衛門 銀五枚
広間役 長島甚五兵衛 銀五枚
広間役 堀口弥右衝門 銀五枚
広間役 高田久左衛門 銀五枚
御金蔵定番役 西川藤兵衛 銀五枚
広間役助 藤村小十郎 銀五枚
右のように褒賞された。(佐渡年代記中巻)
★芥川竜之介
「城が丘の「ペンの碑」」(「佐渡の百年」)
★阿久津鯨六(勇)

栃木県の人、自衛隊を退職後、佐渡赤泊川茂地区に移住する。写真、絵画、彫刻等に異彩を発揮する。
羽茂大崎「ちょぼくり」の案内板

★明山照
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★明山本丸
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★アーサー・アダムス
安政6年(1859)、台風で漂流し、水津に給水に立ち寄った英国海軍水路調査船の軍医で、陸産貝類と甲虫を採集。
★浅井演
両津住吉神社

★浅井快甫
元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井源安、浅井仁庵、浅井貞吉
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
医家、佐渡平泉の人で、祝家に生まれ、名は爽といった。
鈴木見龍に学び、後江戸の吉田快安の門に入り、医学を修めた。
帰郷して浅井元安の女婿となってそのあとを継ぎ、陣屋付医師にあげられた。天保十二年(一八四一年)に七十八才でなくなった。(佐渡人名辞書)
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
・その頃、本町通りは山田七右工門宅につき当り右に曲れば横町へ、左へ曲れば七右工門横町から漢方医浅井家(現一三楼)前で、更に右折して馬場通りへ通ずるのが道筋であって、この路は、皆川、舟下、下新穂村方面の人達が、新穂山、北方山、大野山方面に持つ山へ登る唯一の通りであった。七右工門脇が通り抜けになって新穂町と馬場通りが一直線になったのは、明治二十八年である。
・文政元年(一八一八)の頃浅井快甫、文政二年(一八一九)容安、良川、天保十二年(一八四一)浅井快甫、弘化(一八四四-一八四七)年玄的、安政六年(一八五九)浅井源安などの漢方医の名が見える。明治二十四年(一八九一)五月六日山王火事の原因となった私立浅井病院開業祝いの花火は蘭法医仁庵、貞吉兄弟の施設新築の時であった。この病院が開業きれると、門前市をなしたと記録に残っている。
新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井元安
元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井快甫、浅井仁庵、浅井貞吉
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
寛保二年(一七四二)十月の書には新穂町、順安とあり、文化・文政(1804-1827)の頃、
良碩また、文政元年(一八一八)の頃浅井快甫、文政二年(一八一九)容安、良川、天保十二年(一八四一)浅井快甫、弘化(一八四四-一八四七)年玄的、安政六年(一八五九)浅井源安などの漢方医の名が見える。明治二十四年(一八九一)五月六日山王火事の原因となった私立浅井病院開業祝いの花火は蘭法医仁庵、貞吉兄弟の施設新築の時であった。
新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井源安
元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井快甫、浅井仁庵、浅井貞吉

新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井擴司
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★浅井貞吉(さだきち)
根本寺

NHK番組『ファミリーヒストリー』(h28年12月8日放映)より

元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井快甫、浅井源安
中川杏果(「福寿草」より):「明治30年代に京都に居て、新穂関係者の面倒を見てくれた。僕も明治38-39年ここに居てお世話になった」
NHK番組『ファミリーヒストリー』(平成28年12月8日放映)の調査でわかったこと。
※ディレクター田中淳氏が徹底的に文献を洗って調べ出した。
私も少々協力し、番組では「資料提供者」としてテロップで名前が流れた。
浅井快甫(佐渡奉行御出入り医師 町医師の技量、医術を審査する役目もあった新穂町)ー源安ー貞吉(万延元年 1860年生)ー綾子ー馨(倉本聰)
貞吉の兄仁庵は。貞吉の母は山谷太郎の後妻で、馨には妹と弟がいる。現在の家は明治24年建てられ当時と同じ外観。
貞吉は明治14年(1881)東京大学医学部別課入学。卒業後佐渡へ戻る。
※本科は二年の予備門とプラス5年の7年間必要、別課は4年で終了。
予備役の軍医だった兄仁庵と医療設備の整った医院を始める。明治24年(1891)5月10日浅井病院開業。その記念に盛大に花火打ち上げ、兄仁庵の42歳の祝いも兼ねる。打ち上げ場所は地元の日吉神社。花火は100発以上、当時人気だった「しだれ柳」という花火。ところが、拝殿に最初に燃え移った火の粉が落ちて燃え上がり、その火が飛び火して本殿他全てを全焼した。その後、地域の人達の寄付で無事再建。浅井家は兄仁庵の名前で100円(現在の200万)寄付。浅井医院は開業し火事を起こしたにもかかわらず盛況で1日5,60人の患者が押し寄せた。仁庵、貞吉は地元で流行していた病気(肺蔵ジストマ症)治療を研究し論文を発表している。肺に寄生虫が入り込み呼吸困難なる病気。その対処法を紹介している。日清戦争勃発、軍医が不足。予備役の軍医だった仁庵は身体を壊し出征できず。そこで貞吉が兄に代わって戦地に行くことを決意。乗組救護医員で、負傷し中国から帰国する患者を船内で治療する役目。「コレラ商にかかった兵士を他の健康人と隔離し治療、看護人二名と共に徹夜し厳重なる消毒を行った」などの記録も残る。貞吉の適確な処置によって多くの兵士の命が救われた。当時は銃弾で倒れる人よりも伝染病で亡くなる人の方がはるかに多かった。隔離するというのは非常に難しかった時代である。日清戦争が終わった直後、明治28年(1895)4月、兄仁庵死去。その後間もなく、京都で医師をしていた東大時代の友人から手紙。「京都では医師が不足している助けて欲しい」。天皇が東京に移られたことで御典医達も移ってしまった。佐渡のことが心配ですぐ京都に行けなかった。すると地元の後輩医師臼杵伊之吉が病院をそのまま引き継いでくれた。明治28年(1895)、35歳の貞吉は佐渡を離れる。手紙をくれた森祐晴(すけはる)を京都(大和大路通松原上る弓矢町29番地)に訪ねる。森は貞吉の一年下で病院を開業していた。当時京都では眼病の結膜炎が流行していた。そこで森は新たに眼科医院を立ち上げ、自分の病院を貞吉に任せ、自分は京都御幸町に移った。京都に移った貞吉が最初に行ったのは、佐渡から来た若者を下宿させたり仕事を紹介したりすることだった。後に作家となる中川杏果の文にこのようにある。「明治三十九年かと思う。麦僊が暑中休暇に帰った時、僕は麦僊と林光雅氏につれられて京都え行き、新穂出身の浅井貞吉と云う医師の家にやっかいになった。浅井先生は、佐渡から京都に出たものは常に世話してやり、其時長畝の佐藤藤十郎氏が京都の養蚕学校え浅井さんから通っていた。」(新穂公民館老人学級「ふくじゅそう」第3集 1967年)
・貞吉の娘綾子が倉本聰の父山谷太郎の後妻となり、山谷馨こと倉本聰が生まれた。
『新穂まち今昔』(昭和58年刊)より

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂町には他町村のように歌人や連歌師の名はほとんどみえないが、後世短歌とよばれる時代には有名人を輩出している。
新穂町には歌人として浅井病院の兄弟医師が明治二十四、五年頃の同人雑誌に載せた、
薄暮雪鴬待春 浅井仁庵
夕ざれば浦風さむくふる雪のこぎまよふらんあまのつり船
時は早 春に近しと諸島に先かけてなくうぐひすの声
終夜翫月往事如夢 浅井貞吉
よもすがらねもせて月をみる人の心やおなじ空にすむらん
うきふしも嬉しきふしもすぎはてゝ昔は夢の心地こそすれ
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]
「京都医事衛生誌」より
・浅井貞吉は明治27-28年の日清戦争での功により、叙勲を受ける。
日本赤十字社から救護員として派遣され、船の中での救護活動など行っていたようだ。。明治24年の火事の3年後のことです。
「京都の医師情報」(明治29年刊)
浅井貞吉さんの名前がある。京都へ移転後、すぐに開業していたことが分かる。
(柴山秀樹さん情報)
・中川杏果氏の文に出てくる佐藤氏(京都養蚕学校)はハイカラの人で、カメラを愛好し、大町桂月が金北山登山をした時の人足三人組の一人。
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井仁庵
元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井快甫、浅井源安
➡浅井貞吉参照→NHK番組『ファミリーヒストリー』(平成28年12月8日放映)の調査でわかったこと。
『新穂まち今昔』(昭和58年刊)より

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂町には他町村のように歌人や連歌師の名はほとんどみえないが、後世短歌とよばれる時代には有名人を輩出している。
新穂町には歌人として浅井病院の兄弟医師が明治二十四、五年頃の同人雑誌に載せた、
薄暮雪鴬待春 浅井仁庵
夕ざれば浦風さむくふる雪のこぎまよふらんあまのつり船
時は早 春に近しと諸島に先かけてなくうぐひすの声
終夜翫月往事如夢 浅井貞吉
よもすがらねもせて月をみる人の心やおなじ空にすむらん
うきふしも嬉しきふしもすぎはてゝ昔は夢の心地こそすれ
※本間黙斎娘が浅井仁庵妻

「真野宮の宝物 」(「佐渡の百年」)
新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井菁亭
両津北小浦出身の書家、水墨画家、新潟市在住。甥(妹の子)にデザイナーで「マスターマインド」社代表の本間正章がいる。



★浅井隆行
佐渡高校時代の59.6.2~8、軟式庭球県高校結合体育大会(男子柏崎市・女子新潟市)男子高柳文晴・浅井隆行組ベスト16、北信越大会に出場
★浅井但馬
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川村 ・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]
★浅井直
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★浅井まり子
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 3・佐渡自然学園・こども鬼太鼓(浅井まり子)
★浅井安兵衛 河崎村

★朝夷石(あさえびすいし)忠兵衛
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
江戸時代に於ける鶴子銀山の経営について『佐渡年代記』は「鶴子本口という間歩は、文禄四年(一五九五)五月廿四日、石見の国の者三人・忠左衛門・忠次郎・忠兵衛来りて初て稼ぐと云」とある。
鶴子本口という名称の間歩は坑道ばりの間歩である。そうしてみると、文禄四年の五月に、石見から坑道ばりという技術をもった技術者が佐渡に釆て、鶴子銀山に入りそこで坑道を掘って鉱脈を発見したと考えることができよう。ところでこの文の中にでる忠兵衛家の由緒書には「本名朝夷石、生国越前、文禄年中当国へ渡り西三川金山稼・同鶴子・慶長年中相川銀山の見立」とある。そうしてみると朝夷石忠兵衛は越前の生れで石見銀山で坑道ぼりの技術者として働き、文禄四年に上杉氏のもとに派遣され佐渡にやってきたとみることができる。
★浅尾森之介
1823(文政6) ~ 1900(明治33)。現在の佐渡おけさの踊りである16足「おけさ踊り」を創った人物。大坂道頓堀に出ていた浅田屋を名乗る二枚目役者で、美男が禍し、福井藩の武家の女房と不義におち、追手から逃げて諸国を流浪。偶然越後で遭遇した相川の有名料亭「寿志鹿」主人に連れられて相川に来た。相川に短期間居て、その後小木に移住し、明治23年頃から77歳で亡くなる明治33年まで当地に住んで踊りを教えた。浅尾の小木時代のことについては、一番弟子の本間トラさんや、本間さんの弟子中川シズさんからの聞き取りが残り、かなり明らかになっている。
・中川益栄(ますえ:昭和8年生まれ)さんによると、芸妓に踊りを教える「浅尾座」と言うものがあった。
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
小木に発達した小木歌舞伎を調べながら、ゆかりの衣装道具を吟味しようと、佐渡博物 館の芸能部長の本間林三氏および椎名仙卓学芸員に誘われて、水郷小木をたずねたのは一九五八 年六月二日である。ちょうどその日は東京の郡人会の郷土訪問の一行が正午ごろ上陸するというw ので、町はなんとなくざわめいていたが、それとは別に男女ふたりの高齢の方から、役場の二階
の静寂のなかで、とっくりと昔話をきくことができたのは、博物館の事前連絡により日曜にもか かわらずあれこれと斡旋してくれた小木教育委員会のおかげであると頭がさがった。
小木歌舞伎のことを語ってくれたひとりは一柳幸吉という親子二代にわたり金刀 小木歌舞伎平座(むかしの額の文字にしたがう)の道具方をしている当年七十に余る老人だ が、壮者をしのぐ元気さで大道具師でありながら、小道具も作って間に合わせるし、太鼓したた けば、つづみもうつという手巧者で、いうなれば小木のこの道での生ける文化財であろう。若い とき小木へ来た旅の一座が演じた仮名手本忠臣蔵の、あのくらいの高い呼吸のめんどうな大序の つづみをうってのけてとてもほめられ、給金のほかにあのころには大枚であった五円を祝儀にも らったはなし、さあっと頬を紅潮させての語り草など、佐渡芸能界のため気を吐いてくれたし い話である。女の方は明治十五年生れいえ七十六歳になります、という明治屋こと通称角の本間 トラさんである。一見六十をちょっと過ぎたとしか見えぬきりりとした上品な方で、わけてし若 かりし日はどんなにかきれいであったことだろうと思わせる目鼻立ちに残り香はのかにただよう たり、さすがは立役(男役)ばかりをおそわったというきびしい修業に堪えた気はくがいまな 人にせまるものがある。この方はちゃきらゃきの小木娘で、自他共に許した師匠浅尾森之介の 一番弟子である。 浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
「島の新聞」

「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
小木に発達した小木歌舞伎を調べながら、ゆかりの衣装道具を吟味しようと、佐渡博物 館の芸能部長の本間林三氏および椎名仙卓学芸員に誘われて、水郷小木をたずねたのは一九五八 年六月二日である。ちょうどその日は東京の郡人会の郷土訪問の一行が正午ごろ上陸するというw ので、町はなんとなくざわめいていたが、それとは別に男女ふたりの高齢の方から、役場の二階
の静寂のなかで、とっくりと昔話をきくことができたのは、博物館の事前連絡により日曜にもか かわらずあれこれと斡旋してくれた小木教育委員会のおかげであると頭がさがった。 小木歌舞伎のことを語ってくれたひとりは一柳幸吉という親子二代にわたり金刀 小木歌舞伎平座(むかしの額の文字にしたがう)の道具方をしている当年七十に余る老人だ が、壮者をしのぐ元気さで大道具師でありながら、小道具も作って間に合わせるし、太鼓したた けば、つづみもうつという手巧者で、いうなれば小木のこの道での生ける文化財であろう。若い とき小木へ来た旅の一座が演じた仮名手本忠臣蔵の、あのくらいの高い呼吸のめんどうな大序の つづみをうってのけてとてもほめられ、給金のほかにあのころには大枚であった五円を祝儀にも らったはなし、さあっと頬を紅潮させての語り草など、佐渡芸能界のため気を吐いてくれたし い話である。女の方は明治十五年生れいえ七十六歳になります、という明治屋こと通称角の本間 トラさんである。一見六十をちょっと過ぎたとしか見えぬきりりとした上品な方で、わけてし若 かりし日はどんなにかきれいであったことだろうと思わせる目鼻立ちに残り香はのかにただよう たり、さすがは立役(男役)ばかりをおそわったというきびしい修業に堪えた気はくがいまな 人にせまるものがある。この方はちゃきらゃきの小木娘で、自他共に許した師匠浅尾森之介の 一番弟子である。 浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★浅岡(浅野?)明子
佐渡高校時代の36.6.10~11、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合32点2位、100m5位
36.6.25、陸上競技全国大会信越地区予選会(上田市)100m4位
★浅丘ルリ子
『渡り鳥いつまた帰る』(昭和34年ロケ)

「島の新聞」

「島の新聞」索引(人名別)
★浅香三十郎(あさかさんじゅうろう)
【生没】生・没年不詳 佐渡奉行所の後藤役所(小判座)の御雇町人。『佐渡相川志』に、「元和七年辛酉七月二十日御奉行鎮目市左衛門惟明御伺之上後藤庄三郎代庄兵衛・浅香三十郎始メテ渡ル」とあり、これが佐渡に後藤役所を置いて小判を鋳造した最初で、金座後藤庄三郎の手代として、一族の後藤庄兵衛と浅香三十郎および数名の小判師が派遣され。『佐渡国略記』によると、鎮目奉行の建議で、筋金のまま江戸へ上納することは、海上の危険を増すことになるので、佐渡で小判に仕立てることになったと記している。当時相川の後藤屋敷は陣屋内にあったが、これは後藤庄兵衛に同年下付されているので、浅香は町家に住居し、庄兵衛も寛延元年(一七四八)の火災で焼失したあとは、町家に住居した。『佐渡相川志』が書かれた頃、後藤役所には後藤を名乗る御雇町人はおらず、御雇町人一三人の中に、浅香三十郎以外に浅香を名乗る者が、浅香金蔵・浅香貫蔵の二人がおり、これも浅香三十郎の一族と考えられる。
【参考文献】伊藤三右衛門『佐渡国略記』、麓三郎『佐渡金銀山史話』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★浅香周次郎(あさかしゅうじろう)

【生没】一八五四ー一九二一 安政元年八月二十五日、新保村(現金井町新保)の医師児玉貫斎の子として生まれる。慶応四年(一八六八)親戚に当たる地役人山田市太郎の相続人となって迅雷隊に入隊した。明治二年(一八六九)代々御金改役(後藤役)を勤めた浅香伊馬太に随行して上京、日本橋石町に住む儒者平田宗敬の塾に入った。同年十月浅香家(相川町)へ入籍して周次郎を名乗り、同四年十月に帰郷し、娘と縁組みして浅香家を相続した。同五年英学校(相川町)に入学、同八年には教師となった。同十三年町会議員に当選。同年十月頃より盛んになる国会開設運動に参加し、佐渡親睦会の役員に挙げられた。その後、信越鉄道会社や「常山陶器義社」の発起人となり、所得税調査委員や学務委員などを歴任した。明治二十九年には佐渡銀行の創立に努めて創立委員となり、相川町側の有志が国仲側と対立して明治三十年九月に相川銀行を設立すると、取締役に就任した。明治三十五年六月、幅野長蔵が「佐渡毎日新聞」を発刊すると主幹をつとめ、言論界でも活躍した。大正十年四月二十三日没、下寺町本典寺に葬られる。
【関連】佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)・相川銀行(あいかわぎんこう)・佐渡毎日新聞(さどまいにちしんぶん)・幅野長蔵(はばのちょうぞう)・浅香寛(あさかひろし) 【参考文献】「浅香家文書」、『第四銀行百年史』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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相川銀行(あいかわぎんこう)
明治三十年(一八九七)九月一日開業。明治二十九年に第四銀行相川支店閉鎖の動きが出ると、島民の手による銀行の設立が企図され、同年八月「株式会社佐渡銀行」の発起認可申請書・仮定款等が作成され
た。ところが同年八月八日に相川支店で開かれた設立組織会で、本店の設置場所(夷と相川)や株券の金額、発起人の負担額などで相川町と夷町や国仲の有志の意見が対立してまとまらなかった。その後何回かの
会議を経て、翌三十年三月に創立総会を開催したが、ここでも相川町と夷町の有志の妥協がならず、相川町の有志は脱退して同年三月二十五日、久保田金五郎を中心に相川銀行設立総会を開き、資本金八万円で
九月一日に開業した。本店は大正二年に羽田町二四番地に建てられ、支店を羽茂本郷に置き、のち湊町・新町・赤泊にも置いた。創立時の専務取締役には、久保田金五郎(本店担当)と羽茂本郷の風間与八郎(羽
茂支店担当)、取締役には浅香周次郎・三国久敬・梶井五郎左衛門ら九名が就任した。当初は第四銀行相川支店から公金取扱業務を引継ぎ順調であったが、佐渡銀行との過当な競争や取付け騒ぎ等によって次第
に経営が行き詰り、大正十三年(一九二四)九月一日第四銀行に合併され、同銀行の相川支店となった。
【関連】第四銀行相川支店(だいしぎんこうあいかわしてん)・佐渡銀行(さどぎんこう)・渡辺七十郎(わたなべしちじゅうろう)
【参考文献】『第四銀行百年史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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佐渡毎日新聞
明治三十五年(一九〇二) 六月三十日、幅野長蔵によって創刊された新聞。当時の「佐渡新聞」が官吏侮辱罪で告発されたり、進歩党やそれと結びつく資産家を激しく攻撃して、論調が過激であったためこれに対抗
して当時佐渡随一の資産家であった幅野長蔵が、浅香周次郎や畑野町小倉の青木永太郎らと相談して発刊した。社主が幅野長蔵で主幹には浅香周次郎が当たり、進歩党系で穏健な論調の新聞を目指した。
当初は「佐渡新聞」への対抗意識が強く、明治三十六年に北一輝が「国民対皇室の歴史的観察」という論文を「佐渡新聞」に連載すると、直ちに不敬との批判記事を掲載し、その論争は一か月におよんだ。しかし発行
部数は四、五〇〇部程度から伸びず経営が苦しくなったため、幅野長蔵は新聞社を買取り、自ら経営に乗り出した。大正三年(一九一四)には幅野色や進歩党色を一掃し、それまでの菊八倍の小新聞型を普通型に拡
張して、活字を明調に入れ替え紙面を一変させた。これによって発行部数も大幅に増加し、一時は一〇〇〇部にも達した。しかし、「佐渡日報」の発行もあって、大正八年には佐渡新聞社に買収合併された。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政元年生 相川町坂下町 ・明4、佐渡毎日新聞社[三十五年七月十三日] 「佐渡関係事典に載る」
数字は「孤島コンミューン論」掲載の page数 33~・80
「孤島コンミューン論」(松本健一)
★浅香寛(あさかひろし)

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町』(森幾)

※浅香家は相川の時鐘楼辺りから、京町に向かって右側に入った所で令和元年時点では「京町亭」(令和元年開店)の奥の家。浅香家は相川最後の当主が相川病院医師で、当主が死去後、妻が島外在住。庭の管理等が業者によって成されている。
【生没】一八八七ー一九四五 明治二十年十月二十二日相川町八百屋町に浅香周次郎の長男として生まれる。同三十五年佐渡中学校に入学、弁論部で活躍した。同期に青野季吉や児玉龍太郎、塚原徹らがいた。早稲田大学を卒業後帰郷して保険代理店の仕事を手伝っていたが、大正三年(一九一四)八月二十五日に、中学時代から志していた日刊新聞「佐渡日報」を創刊し、昭和十五年(一九四○)言論統制で廃刊となるまで同社の社主をつとめ、浩堂と号して言論界で活躍した。また、大正十二年には『佐渡案内』という本格的な観光ガイドブックを刊行し、「正調佐渡あけさ」の振付けをするなど、観光の発展にも寄与した。大正五年町会議員に当選、憲政会佐渡支部幹事長などを歴任して、昭和五年(一九三○)には県会議員に当選、昭和九年から同十七年にかけては相川町長に就任している。このほか、相川農会長や相川木炭組合長などを歴任し、昭和二年には佐渡郡畜産組合長、昭和十二年には佐渡郡木炭組合長に就任するなど、産業面でも活躍した。昭和二十年一月十五日没、下寺町本典寺に葬られる。
【関連】佐渡日報(さどにっぽう)・浅香周次郎(あさかしゅうじろう) 【参考文献】高屋次郎『佐渡名鑑』(佐渡毎日新聞社)、「新佐渡」 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
八百屋町。(一八八七-一九四五)(出生、居住)『佐渡日報』創刊者。相川町長。浅香周次郎の長男。旧制佐渡中学校時代、同期の児玉龍太郎、青野季吉、塚原徹らと共に北一輝の影響を受ける。早稲田大学を卒えて帰郷。大正三年八月、日刊紙『佐渡日報』を創刊。浩堂と号した。「正調佐渡おけさ」の振付けをする。大正五年、町会議員に。昭和五年、県会議員に。同九年~十七年、相川町長。佐渡郡畜産組合長、佐渡郡木炭組合長などを歴任する。
・「佐渡日報」創立者で立浪会草創期に活躍した。観光宣伝と「佐渡おけさ」への十六足踊りの導入・定着化の推進に大きく貢献。十六足踊りは県議児玉龍太郎と共に小木「高砂屋」に三日間滞在して学んだと言う。後に相川町長。
・佐渡中学4,5年生の頃文学に凝ってしまい、佐渡中学を落第?しそうになり石川県(富山県?)の学校に転校する。
※青野季吉『一つの石』には石川県、『佐渡高等学校百年史』(p58)には富山県とある。
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佐渡日報
大正三年(一九一四)八月二十五日、浅香寛によって創刊された日刊新聞。主幹が浅香寛で、主筆には児玉龍太郎、編輯人には富田霜人、営業には平岡栄太郎があたり、発行所は相川町大字八百屋町の浅香家の屋敷内に置かれた。このころ、相川町からは「佐渡新聞」・「佐渡毎日新開」の二紙が発行されていたので、あらたな購読者を獲得するために、表紙や欄画を川上涼花・酒井億尋・岡常次など新進の青年画家による絵で飾ったり、最新式ポイント活字を使用したりして、斬新な紙面の装いを工夫し、気軽に読める大衆紙を目指した。発行部数は約一〇〇〇部で、政治的には、創刊当時は中立を揚げていたが、大正四年春ころから同志会(後の民政党)系の新聞となった。昭和十五年(一九四〇)、言論統制による新聞の整理統合によって十一月三十日付をもって廃刊となった。
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佐渡中学同年には青野季吉(文芸評論家)、児玉龍太郎(県会議長)、城野亀吉(日本歯車工業会理事)、宮本美治(佐渡教育会会長)、角坂仁三次(河崎村長)、吉田耕一(相川高校初代校長),酒井千尋(根津美術館館長)等がいる。浅香は途中退学して富山の中学(or石川)に「転向した。又早稲田(文学部)には青野季吉(数年遅れて入学)、塚原徹(佐中7回生と同年だが中学落第)、、同じく政治学科児玉竜太郎がいた。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二十年生 相川町八百屋町、佐渡日報社主 ・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日][衆議院之巻]・大2、若槻憲政会顧問の来郡[十年七月二十二日]・大3、郡憲政派に対する新聞記事[十一年三月十四日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、佐渡護憲派の會合[十三年七月二日] 「佐渡関係事典に載る」
(昭和)・昭1、立憲民政党新潟縣支部発会式[二年七月十三日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]・昭2、佐渡民政倶楽部の発会式[四年九月二日]・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]・昭2、佐渡毎日新聞[五年七月一日]・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭3、野沢代議士の報告演説会[六年六月七日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭4、民政党縣支部の大会[十二年十二月十三日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
「佐渡おけさの流行」(「佐渡の百年」)
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p379
数字は「孤島コンミューン論」掲載の page数 82
「孤島コンミューン論」(松本健一)
★浅ヶ谷春次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年生 小木町木野浦、農業 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★浅川美智香
「佐渡ジャーナル」関係記事:「14号」(平成20年7月)まだ見ぬ旅したことのない島
★浅木彌三次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★浅島栄(あさしまえい)
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



追加情報
★浅島作雄
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p429・430
★浅嶋治兵衛
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(技芸伝)より

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)浅島治兵衛 89 点鬼簿(6) 中山守夫、本間敏雄、本間亮敬、斎藤良二郎、真木山幸二郎、小野久夫、本間フミ、山本惣次、若林吉堯、浅島治兵衛、相馬一正、宮崎萬平 山本修巳
★浅島誠(あさしままこと)
「ウイキペディア」より
左から2枚目:新潟日報(h27年3月)

佐渡高校同窓会報38号 h3008月


「ウィキペディア」より
1944年9月6日 - )、日本の生物学者。専門は発生生物学。東京大学名誉教授。理学博士(東京大学、1972年)。新潟県佐渡市出身。
・概要: 生物の分子発生プログラムと各器官形成に興味を持っていたが、1988年、胚発生における分化誘導物質として、アクチビンを世界で初めて同定した。これは世界的に追試されて確認され、高い評価を得た。アクチビンの濃度で胚発生はいろいろと制御されるが、この研究はのちにiPS細胞が発見される布石となり、その意味で生物学史のみならず医学史上でも大きな意義を持つ。この大きな業績から、ノーベル賞の有力候補とも言われる。
・学歴
1963年3月 - 新潟県立佐渡高等学校卒業
1967年3月 - 東京教育大学理学部卒業
1972年3月 - 東京大学大学院理学系研究科動物学専門課程博士課程修了
1972年4月 - 理学博士 「ウニ胚の発生過程における色素形成について」
・職歴
1972年4月 ベルリン自由大学分子生物研究所研究員
1974年10月 - 横浜市立大学文理学部助教授
1985年1月 - 横浜市立大学文理学部教授
1993年4月 - 東京大学教養学部教授
1995年4月 - 東京大学総長補佐
1996年4月 - 東京大学大学院総合文化研究科教授
2003年2月 - 東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長(2005年2月まで)
2007年3月 - 東京大学退職
2007年4月 - 国立大学法人東京大学理事(副学長)(2008年3月まで)
2007年6月 - 東京大学名誉教授
・学外における役職
日本学術会議副会長(第20期)
・人物 :実験材料でもあるイモリをこよなく愛する。年2回のイモリ採取は30年間欠かしたことがない。好きな言葉は"passion(情熱を超えた熱情)"。2007年4月13日、NHK総合テレビ「爆笑問題のニッポンの教養」第1回放送に出演した。
・著書: 『動物の発生と文化(新生命科学シリーズ)』、2011年、裳華房
・受賞・受章
日本動物学会賞1990年度(「両生類の胚誘導と細胞分化に関する研究」)[1]
井上学術賞 1990年度(「両生類の胚誘導と細胞分化に関する基礎的研究」) [2]
Man of the Year 1991 (USA. ABI)
木原記念財団学術賞1994年度(「両生類の胚誘導と細胞分化に関する研究」)[3]
ジーボルト賞(ドイツ政府)
東レ科学技術賞 1998年度 (「試験管内での幼生の形づくりと臓器形成の制御」)
持田記念医学薬学学術賞 1999年度(「試験管内での臓器形成の基礎研究とその応用」)
内藤記念科学振興賞 1999年度 (「試験管内での臓器形成と遺伝子発現の制御の基礎的研究」)
有馬啓バイオインダストリー協会賞 2000年度 (「アクチビンの発見と細胞分化および臓器形成における基礎的研究」)
上原賞 2000年度 (脊椎動物の臓器形成と形づくりの基礎的研究に対し)[4]
恩賜賞・日本学士院賞 2001年 (「初期発生における形態形成の基礎的研究」)
紫綬褒章
比較腫瘍学常陸宮賞
エルビン・シュタイン賞 2008
文化功労者 2008年度[5]
・脚注
1.^ “日本動物学会学会賞賞 受賞者”. 社団法人日本動物学会. 2009年10月31日閲覧。
2.^ “第6回~第10回井上学術賞_受賞者 (PDF)”. 財団法人井上科学振興財団. 2009年10月31日閲覧。
3.^ “第1回~第16回学術賞受賞者”. 財団法人木原記念横浜生命科学振興財団. 2009年10月31日閲覧。
4.^ “上原賞受賞者”. 財団法人上原記念生命科学財団. 2009年10月31日閲覧。
5.^ “産総研:トピックス - 浅島 誠 器官発生工学研究ラボ長が平成20年度文化功労者に選ばれました”. 独立行政法人産業技術総合研究所. 2009年10月31日閲覧。
・外部リンク
東京大学最終講義 動物の発生の仕組みを探し続けて40年 - 東京大学オープンコースウェア (2010年6月28日閲覧)
東京大学大学院総合文化研究科 浅島研究室 (2010年6月28日閲覧)
産業技術総合研究所幹細胞工学研究センター (2010年6月28日閲覧)
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・朱鷺保護で知られる佐藤春雄は叔父(母の弟)である。
・佐渡高校時代の昭和35年、全日本学校書道連盟野田支局主催全国学生展特選
(野町の市橋家)
・次男:橋本喜一(両津市長)・三男:向高野
菊池喜左衛門(仁作 両津郵便局長)・三男:佐藤春雄(南河内)
・菊池仁作妻は高尾亮一の姉妹
※菊池家の葬儀の時、高尾さんが白いポケットチーフを付けており、これが正式なんだと思った。(山田昭夫談)
・菊地仁作の娘は野口誠之(奈良女子大学長)に嫁ぐ。
「佐渡ジャーナル」関係記事:「9号」(平成19年4月)「佐渡のトキを見た」-から始まったぼくの生物学(浅島誠)→9ページ「12号」(平成20年1月)・宮田・藝大学長と浅島・東大副学長がパネラー-シンポジウム「大学の試練と挑戦」ー(岩田雅)
「14号」(平成20年7月)浅島誠東大副学長に エルビン・シュタイン賞-佐度は学ぶ素材の無限の宝庫-「17号」(平成21年4月)浅島誠・東大副学長は文化功労者-知の畑を耕そう-「36号」(平成26年1月)座談会 いかに雇用をうみだすか-浅島誠・石原武・宇留間和基・三浦基裕・武井千秋・岩田雅-
「島の新聞」索引(人名別)
※浅島先生談(令和4年7月)
自分が東大教授、自然科学系教授に佐渡関係者が5人いた。太田秀(S19年生)・近藤保(昭和11年生)・玉置(たまき)邦彦(昭和21年生)・佐藤徹・浅島誠 文科系にも多く居たと思う。
諸情報
★浅島万平
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★浅野彰
「島の新聞」索引(人名別)
★浅野甚九郎
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
(河原田)中島平吉と共同で製瓦業を始めた老に、河原田の伊勢屋浅野甚九郎がおり、平吉の弟子と思われる者に窪田の平松治平らがいる。文久三年頃(一八六三)平松治平は治平窯を開窯し、明治十八年、相川町の三浦常山および野口栄吉をとおして契約をかわし、信越線直江津停車場建設に際してレンガ壱万個の注文を受ける盛況・・・。
・治平窯址はシルバービレッジの松林中に、瓦やレンガの破片の散布でうかがい知ることができるし、治平作の鬼瓦や手あぶりなどが、平松家にのこされている。
★浅野虎之助
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★浅野光子
梅若流大師範。夫は三味線、尺八、横笛等のオールランドプレイヤーである佐藤元海(もとうみ)で、長男は悠紀と云い津軽三味線、お囃子(太鼓)音響等の担当。末っ子の知は津軽三味線の名手で、2014世界大会3位。
元海の弟は日本を代表した津軽三味線奏者の木田林松次、母は民謡家佐藤みや子である。
★浅野雄三
佐渡高校時代の39.9.19~20、ポート佐高フィックス、浅野雄三・田中柾敏・永田重文・土屋利彦・相田雅夫・石橋博・菊池哲治、国体3位入賞により県高体連表彰を受ける
★朝乃若

写真左:前列中央の白ふんどしが寺沢樹少年こと「朝乃若」。

父、弟と


アマチュア相撲力士。金井新保出身(寺沢又平家)、金井小ー鳴和中(石川県)ー金沢市立工ー東洋大4年。第57回全国大学選抜宇佐大会(日本学生相撲連盟、宇佐市、毎日新聞社主催 5月3日、大分県宇佐市の市総合運動場相撲場)で優勝。
小学校時代は島内大会で優勝し、全中は全国準優勝。(高校総体成績は不明)。
・祖父は寺沢又一郎、父は両津夷八、山本自転車店の次男山本謙君。山本家のルーツは黒姫。両津ミニバスや南中バスケ部でリードマンとして大活躍した。
・弟の陸君は金井中学校時代に、萩原頌胆君(現在の魁渡)と2人で相撲の団体戦(3人で団体)に出場して県大会で優勝(2人とも全勝)して全国大会に出場した。現在拓殖大相撲部。
・両津相撲教室の指導者は三国暁男氏で昭和20年生、両津高校でバスケットボール部、相撲部に在籍し国体等で活躍した。自宅は湊一の三国食品。
ブログ「アマチュア相撲観戦記」より(2009/8/11(火) 午後 8:57 [ さどみなと ])
寺沢樹くんは、佐渡相撲教室に、小学校6年まで在籍し、指導を受けていました。子供も、5~6人しかいない小さな教室でしたが、新潟県でも屈指の道場でした。ちなみに、卒業生は、鳴和中から金市工 東洋大の 辻、鳥取城北から日大の 金子、鳥取城北の 塚本、鳴和中から金市工の堀田がおります。残念ながら、現在は、寺沢の弟と同級生の二名しか生徒がおりませんが、新潟県で頑張っています。今後とも、寺沢をはじめ、佐渡の子供たちをよろしくお願いします。
(2009/8/11(火) 午後 8:57 [ さどみなと ])
(渡辺注)
・金子竜也君は鳥取城北高校で主将、日大時代全日本で3位となる。帰郷して佐和田で飲食店「龍の隠れ家」経営。.
・塚本君は湊塚本酒店の長男で、現在早稲田大相撲部コーチ。
「寺沢、腰痛乗り越え序ノ口7戦全勝V「長く疲れた」(3/22(金) 日刊スポーツ)
<大相撲春場所>◇13日目◇22日◇エディオンアリーナ大阪
ただ1人の6戦全勝で序ノ口優勝争いのトップに立っていた西19枚目の寺沢(23=高砂、本名・寺沢樹)が、7戦全勝で優勝を決めた。7番相撲で東13枚目の薩摩桜(18=式秀)と対戦、立ち合いから突き放し、もろ手突きで押し出す快勝だった。大学相撲の強豪、東洋大を卒業し昨年3月のこの春場所で初土俵。だが、大学の相撲部を引退後に腰痛を発症。序ノ口で初めて番付にしこ名が載った、5月の夏場所で1番相撲に勝ったものの、連敗し以降は途中休場。6月下旬に椎間板ヘルニアの手術を都内で受け、名古屋場所以降は全休。一度、番付外に落ち、先場所、再び前相撲を取り、今場所が2度目の序ノ口で臨んだ。大学時代の実績から、ケガが治れば序ノ口では当然の成績かもしれないが「勝つことは考えずに落ち着いて相撲を取ることを考えていた」という今場所。1場所7番取るのは今場所が初めてだが、最高の成績で締め「思ったより長くて疲れたけど、ホッとしてうれしい」と本音を漏らした。手術を含め入院は2週間。稽古再開は昨年10月下旬からで、今でも申し合いは出来ず、ぶつかり稽古や基礎運動しか出来ない。それでも師匠の高砂親方(元大関朝潮)に「ケガが治れば幕下ぐらいまでは、すぐに上がれる」の言葉を信じ、焦らずジックリと復帰への道を歩んできた。新潟・佐渡出身で「地元に期待されて入門したのに、あんな幸先で悔しい」と期待に応えたい気持ちは強い。「今は7、8割ぐらい」という回復度合いを高め「自分の体と相談しながら少しずつ」(寺沢)番付を上げていく。
➡塚本直紀
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「53号」(平成30年4月)・期待の郷土力士を応援するため「応援の会」を結成(蘭丸)※寺沢樹・グラフ佐度(・角界デビュー ※寺沢樹)
「ウイキペディア」より
★浅羽嘉伝
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★浅羽藤左衛門
両津羽黒神社

★浅原喜右衛門
長江観音寺


★朝原世常(せじょう)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡守である。応和三年(九六三年)三月二五日に太政官符を下して、世常の召名の宿称を誤って朝臣としたことを改めた。(越佐史料)
★朝日亭八重(子)
大正末に両津甚句を初めてレコードに吹き込む、ヒコーキ印で、三味線だけで鼓なし。町内では芸者節と言って評判が良くなかったと言う。又「両津甚句」が昭和2年4月初めてNHK で放送された時の唄い手(同時に「佐渡おけさ」、「相川音頭」を唄う)。出演は他に相川の清新亭つる子。「朝日亭」は昭和22 年頃まで八郎平町にあり、その場所は昭和25年に「加茂湖ホテル」となる。『日本民謡大観』の中部編(北陸地方)(NHK :昭和30年発行)に彼女の唄った大正末の唄と譜面が載る。
「島の新聞」

★朝比奈義太郎(萩葉)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
歌人。明治三十二年三月四日、佐渡郡真野町新町で生まれた。朝比奈の姓は戸籍には朝夷である。佐渡中学校を卒業、父の主人である岡崎謙をたよって北海道へ渡りその番頭となった。後、満州へ渡り昭和二十年八月十八日湯源県で戦死した。四十七才。大正五年六月五日、本郷涙果らと共著で歌集「寂しき呼吸」を出版した。同十年「新樹」「原始林」などに関係し「とねりこ」「橄欖(かんらん)」などに投稿した。昭和三年十一月十五日、歌集「笹原」を出版した。萩菓、未鳴の号があり義郎ともいった。真野亮太郎のベンチムで噂の結婚、泥棒の陳弁などの小説も書いた。(佐渡の百年)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。
「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。
「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
「佐渡の百年より」
戸籍は「朝夷」。真野出身の文学青年。明治32年3月4日生、昭和20年8月18日黒竜江を渡る途中にソ連軍に襲撃されて死亡、47歳。
「二人の文学青年」(「佐渡の百年」)
★朝比奈次左衛門)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡奉行、寛政六年(一七九四年)閏十一月十日、目付より佐渡奉行となり、十年五月十六日、長崎奉行へ転役して河内守と改めた。はじめの名は昌始、知行は五百石、役科千五百俵百人扶持である。(佐島遭事)
★朝比奈隆
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★朝比奈萩葉
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
★莇(あざみ)梅雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★浅見副充(すけあつ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡相川の人で、和様の書および連歌をよくした。夕かはの垣根の水や朝かかみ。(佐渡人名辞書)
★朝山本成
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★阿讃坊薫
相川町出身。オリジナルショップのスタッフを経て、佐伯屋を立ち上げる。
日本の伝統工芸の企画展示販売、オリジナル商品企画。
佐渡羽茂出身で新潟県を代表する俳人である。旧姓は駿河。昭和26年生。












『死 秀句350選』(2013年06月28日09:06)
落鮎◇赤塚五行
落鮎のさからひつつも落ちゆけり 赤塚五行
秋がすすむと産卵のために鮎は流れを下りはじめる。一年魚である鮎は、まさに一年のうちに生まれ、育ち、その成長の果てに自らの宿命に従って落鮎となる。
「さからひつつも」は一年魚なるがゆえのその宿命へのむなしいさからいなのであろう。(『死 秀句350選』倉田紘文著より)
水の流れにさからうことを楽しんでいる風がある。こう感じるのは私だけだろうか。渓流を遡行するエネルギッシュな若鮎も好いが、落鮎の静かな佇まいも捨てがたい。老いたのかも知れない。
やや川幅が広くなり流れは緩やかで、天地澄み落鮎日和。「さからひつつも落ちゆけり」とゆとりのある調べと措辞。俳句を始めたころ斯ういう句にトライしたが完敗、今になって思うと鑑賞さえできていたかどうかは疑わしく、我が事ではあっても傍痛しという感はまぬがれない。「この島のほどよき広さ麦の秋」「蝋梅を月の匂いと想いけり」、赤塚氏の心静かな作品二句と遡上する鮎の動画を拝見しながら「この島」を想像している。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)赤塚守(五行・駿河守)
1 時事川柳 ピーナツ百句
2 渚にて
59 風土からの発想 -赤塚五行君句集「海彦」出版記念会- 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
★赤塚左一郎
『小木町史』より
明治十三年のことです。小木町の赤塚左一郎をど有志が、佐渡と越後の定期航路をつくらなければと研究協議していましたが、その矢先のことでした。たまたま、工部省から石油坑の視察のために出妻崎へ派遣されていた秋山美磨氏が、出雲崎の発展のためにやはり越後と佐渡の間に定期航路をひらくべきだと出雲崎の人にその具体化をすすめておりました。そこで小木では、出雲崎と共同すれば資金も得やすいということで、両者が話し合いました。その結果、小木が七千五百円、出雲崎側が七千五百円の株金をつのり、それをあわせて一万五千円、そのうち一万円を船の購求費にし、のこり五千円を創業費として越佐航海をはじめることで話がまとまりました。さらに、本社は小木と出雲崎に交替に置くことにしたのです。そんをふうにして開業しましたが、さて、何分にも収支がつぐをいません。そういうふうにをると、まず最初に音をあげてしまったのは佐渡側です。手をひきたいということになりました。明治十七年になって、三千円を相手側からうけとり船体と株金はみんなむこうにまかせて、しばらく様子をみることにしました。
しかし明治十九年、とうとう船会社を維持する通が途絶えて、船会社は閉鎖して、船体は新潟の売場に回されてしまいました。考えてみれば、これをやめてしまえば今までの苦労は水の泡です。そしてまた、将来の佐渡の利害を察するなら、これは捨ておきがたい事柄といえましょう。そこで、小木の古城俊平ほか四、五人の有志が、さきがけ丸を一千五百円で買いとり、それに一千円を投じて修繕を加え、もとのようにさきがけ丸と命名して、明治二十年一月から再び越後と佐渡の間を航海しはじめたのです。いま、明治二十二年の航海の状況がわかっています。一月が三度、二月が六度、三月が十度、四月が十九度、五月十八度、六月十七度、七月十九度、八月二十度、九月が二十度となっています。そして、一回の乗客は平均して二十八人とあります。しかし、なかなかうまくはこびませんでした。冬の間は、両津、新潟航路が一か月近くもとまってしまうことが逆にさいわいして、乗客もけっこうあり、採算があいましたが、夏にをると乗客もすっかりなくをり、荷物も減り、ただ郵便運搬だけで命脈をたもつというありさまで、船会社は損害に堪えられず、とうとう船は売りに出されました。そうなっては困るとみんなが思いをがら、どうにもをらをいのです。陳情をうけた佐渡支庁は、夏の問だけ、ご料局で近県から買い入れる鉱石や、鉱山で必要とする木材を引かせることにしました。また、航路を沢根までのばして航海させれば、国仲の人たちの便利とをるだろうとも考えました。そうした方法もとられましたが、今から考えてみれば、こんな消極的を方法で航路を維持することがどうしてできましょう。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
天保七年生 小木町 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明2、羽茂郡の独立運動[二十三年九月二十四日]・明2、海底電線架設の建言[二十三年十二月一日]
★赤塚勒負(じんふ)
『小木町史』より
小木阿弥陀院の古過去帳に次のようを記述があります。 文禄二年三月 赤塚勒負 羽茂知御母御歳十六 俗名千代ノ方と号す
赤塚氏(堀切屋)から羽茂の殿さまのところへ嫁に行った人がいて、その人が文禄二年(一五九三)の春になくをったというのです。さらに慶長七年(一六〇三)には、暗雲院武徳大賢居士 慶長七年八月 赤塚勒負 九十一歳 とあります。赤塚勒負という人物が、この寺と大変強い関係をもっていることがわかります。普通、一般の人たちが寺の檀家にをるのは、寛永末以降のことですから、阿弥陀院は赤塚氏の寺といってよいかも知れません。赤塚氏は、小木番所付問屋の一人堀切屋のことであるといいます。暗雲武徳大賢という戒名から想像できる赤塚靭負は、きっと羽茂殿の家来で武道のできる、括達を人柄だったのでしょう。この寺が、いつ小木町に建てられたかははっきりしません。しかし、過去帳の延宝三年(一六七五)のところに、「当院第二世宥雅」という書きつけがみえます。この一代前、第一世のときに今の場所に移って、新しい寺をかまえたことはほぼ間違いをいでしょう。そうすると、やはり元和、寛永のころと考えられます。以来三百年の間、町に少ない真言宗寺院として今日に至るわけです。
★赤塚トク
両津湊出身で旧姓は古藤、明治20年代生。金井中興にあった「ハンヤ節保存会」の赤塚惣七に嫁ぐ。大正から昭和初期にかけて「両津甚句会」一員として「両津甚句」を初めてレコードに吹き込む。昭和4年頃畑野の松本丈一氏に両津甚句を指導し、松本氏はその後両津甚句を唄いやすいように今の二息にし、以後それが定着し現在に至る。高齢になっても地元の祝事や両津の祭りには請われて佐渡民謡を唄っていたと言う(孫談話)。
「島の新聞」

★赤塚直宗
「戦国佐渡国人名辞典」より
【あかつかなおむね(1512~1602)】河原田高統家臣。出雲大社の神官から婿に入った。
★赤塚寛
両津高校時代の1981年度(S56)10月、第15回新潟県高等学校美術展絵画部門 奨励賞
★赤塚藤之

★赤鶴一透斎→」赤鶴一透斎(しゃくつるいっとうさい)
★赤泊の與三兵衛
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))


★赤泊村三太郎外五人
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★赤埴源蔵(あかばねげんぞう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★赤埴源蔵の母高野氏
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★赤松忠
両津高校時代のs44年、総体ヨット男子スナイブ級7位(赤松忠・石原俊次)
★秋田権右衛門(あきたごんうえもん)
佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)


【生没】一五九九ー一六六五 生地、秋田。五十里山を中心に活躍した山師。初代秋田権右衛門は、羽州秋田の城主佐竹家に仕えていたが、寛永元年(一六二四)秋田から佐渡へ渡る。旧姓秋元であったが、鎮目市左衛門の頃、秋田と改める。山主古口権兵衛に仕え、権兵衛死後名跡を継ぐ。相川より西野村に移住して、屏風沢・仕出喜沢・松ケ沢・百枚平一帯を稼ぐ。正保年間(一六四四ー四七)城下川端にあった多聞寺を西野村に移し、吉祥寺と改称した。河内山屏風沢にあった小社を、金北山神社として吉祥寺境内に移祀する。仕出喜間歩で豊鉱脈を掘り当て、承応元年(一六五二)から万治元年(一六五八)まで、日々夜々数万両を稼いだと伝えられる。寛文五年三月十日没した。二代権右衛門は寛文八年(一六六八)弥十郎間歩・黒瀬間歩、天和元年(一六八一)鳥越間歩、元禄元年(一六八八)小瀧間歩を稼ぎ、銀山巧者として名声を高めた。元禄十六年(一七○三)十一月廿六日に没した。【関連】山師(やまし) 【参考文献】「秋田家文書」、伊藤三右衛門『佐渡国略記』、「沢根町誌稿」(二輯) 【執筆者】土屋龍太郎
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
(「幕末明治の佐渡日記」(磯部欣三)より)
先祖を古口権兵衛といい、当初相川の「古口間歩」を稼行、元和六年(一六二〇)には鶴子銀山の屏風沢仕出来間歩を自分山(請山)として稼行を始める。その後二代目権右衛門(盛静)が仕出来および隣接する屏風沢の藤右衛門、大津市右衛門、五太夫、次郎右衛門などの諸間歩を普請し、この一帯の稼行領分を拡大し、慶安五年(一六五二)には、仕出来沢川下に「百武十間」におよぶ大水貫工事を完成させた。この結果、松ケ沢、仕出来沢、屏風沢の詰問歩は、水没から脱して一時活況を呈することになるらしい。
この人は「生国羽州秋田ナリ」とあって、寛永十年(一六三三)のころ来島し、鶴子銀山の百枚平などをはじめ、散在していた廃坑の普請を手広く手がける。銀山巧者として「山師由緒」にもその名が記録されて後世に残った。沓掛川上流の西野地内に、一族の墓地が残っている。吉田松陰が来島したとき、弥十郎間歩を請け負っていたのが、この秋田の末裔であり、出迎えた中にこの人物がいた可能性が高い。
「戦国佐渡国人名辞典」より
【あきたごんうえもん(1599~1665)】五十里山の山師。別名秋元権右衛門。羽後久保田城主佐竹義宣のもとで山師を務めた。1624年、佐渡国に渡り古口権兵衛に仕え、その病没後、その名跡を相続した。1644年、多聞寺を西野村に移し、吉祥寺と改称した。河内山屏風沢にあった小社を、金北山神社として吉祥寺境内に移祀した。1652年、仕出喜間歩で豊鉱脈を掘り当てた。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
銀山師、浄水ともいう。秋田の人で、父に従って佐渡に渡り、天和元年(一六八一年)鳥越間歩を開発、さらに元禄四年(一六九一年)鉱脈をほりあて、大量の金銀を採って富み栄えたが、貯蓄心がなく、毎日酒を飲んで暮らした。
親しい人が子孫のために財産を残すようすすめたが、千両箱一つを取出して見せ、子孫はこれで十分であるといった。
なくなってからその箱を調べると、金ではなく石がつめてあり、石の上に「千両のこがねは石に異ならずただ一心に万金にせよ」と書いてあった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
江戸時代の鶴子銀山を考える場合に忘れてならない人物がいる。秋田権右衛門であ㌃。初代の秋田権右衛門は由緒によると寛永(一六二四)出羽国秋田から佐渡へ渡ったという。(慶長の頃には出羽の秋田は久保田町と称していた)秋田権右衛門は西野村に住んで屏風沢を中心に稼いだという。いま新潟市に住む味方重憲氏は鉱山の山師味方但馬の末えいであるが、同家には秋田権右衛門の文書の写しがのこっている。秋田権右衛門は寛永に佐渡に釆ていくばくもなく鶴子銀山で大盛りを得たらしい。秋田は正保元年(一六四四)五十里城の下にあった多聞寺を西野にうつして吉祥寺とした。吉祥寺の本尊地蔵の供養棟札をみると秋田がいかにも古岩山、つまり鶴子銀山の神仏にふかく帰依をしていたかがわかる。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html?p=6
★秋田権之助下女なつ
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★秋田秋月
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★秋田壽吾
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★秋田登一郎
「躍進日本」

★秋田藤十郎(あきたとうじゅうろう)
【生没】一八五一ー一九○七 嘉永四年十月二十五日相川町柴町に生まれる。秋田家は代々廻船問屋を営む資産家で、明治十五年(一八八二)に相川警察署が火災で消失すると、その復旧に私財を投じて県から表彰された。翌十六年には戸長、明治二十二年から二十五年にかけては相川町長に就任している。明治二十三年四月には、私費を投じて広間町に私立の高等小学校を設立し、自らの号をとって「有年私黌」と名づけた。高等小学校は、同十九年の小学校令で設置が決められたが、実際にはなかなか実現せず、町長でもあった彼は、私費で開校を決意したものと思われる。この学校は、その後広間町の第一尋常小学校に併設された。明治十八年には、夷町の若林玄益や梅津村(現両津市梅津)の市橋藤蔵らと新潟ー夷間の航路開設を企図し、同年五月に越佐汽船会社を創設して初代社長に就任した。同社は七月に新造船「度津丸」を就航させ、八月には夷ー函館間の往復航路を試み、翌十九年に直江津ー関山間に新潟県最初の鉄道が開通すると新潟ー直江津航路を開設するなど、意欲的な経営を行なった。明治二十四年には、独力で大型汽船「佐渡丸」を購入して海運業を営んだが、北海で船体が大破し、家運も次第に傾いたという。明治四十年十一月九日に移住先の東京で没、下相川本興寺に葬られる。【関連】越佐航路(えっさこうろ)・佐渡汽船会社(さどきせんかいしゃ) 【参考文献】岩木拡『相川町誌』、『相小の百年』(相川小学校)、橘法老『佐越航海史要』(佐渡汽船株式会社) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永四年生 相川町柴町 ・明2、越後の同好会[二十一年十一月]・明2、相川の米騒動[二十三年六二十九日] 「佐渡関係事典に載る」
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)秋田藤十郎 128 「秋田氏伝記」に曾祖父・秋田藤十郎を偲ぶ 秋元美智子
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★秋月悌次郎
会津藩士でありながら長州の奥平謙輔の師でもあり、その縁で会津の少年山川健次郎(後の東大総長)が佐渡に匿われることになった。
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


「ウィキペディア」より
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」(明治の女子留学生)
★秋月正夫
立浪会35年のあゆみ」(昭和34年)


★秋野亀太郎
旧制佐渡中学12代目校長(昭和16・3・31~昭和19・3・31)。巻中他県内各地の校長を歴任する。
「佐渡高等学校百年史」
昭和十六年三月、坂井校長に代わって秋野亀太郎校長が着任した。二見村大浦の人で、第四代の柏倉一徳校長についで二人日の佐渡出身校長であった。大正三年佐中卒業後、東京高等師範学校理科第一部に進み、同校在学中の大正七年に一年志願兵として入隊、歩兵少尉で退役、同九年に卒業した。その後、山形師範学校教諭、新潟師範学校教諭、同校の校長事務取扱、巻中学校校長を経ての着任であった。昭和十九年三月に入隊のため退職するまでの三年間、まさに太平洋戦争の大部分の期間を佐中の校長として在職した。秋野は校長としてはかなり異色の人であった。頭脳明断で、バイオリンを弾いたりする繊細さがある反面、太っ腹で小心翼々としたところがなく、型にはまることを嫌った。数学の授業で教鞭もとったが、めったに生徒をしからなかったと言う。朝礼の朝の訓話などは、先述の開戦時の訓話に代表されるようにいつも簡潔であった。当時教諭として秋野に仕えた石塚勝太郎の記憶では、秋野は、「軍隊は死を要求するところ、学校は死の一歩手前まで要求するところだ」と教えたという。陸軍歩兵少尉の位をもつ秋野は、時として軍服で登校することがあったが、軍服時の帯剣義務も意に介さず、帯剣することはほとんどなかったという。無類の酒好きで、お茶代わりに酒を飲んでいたといわれ、また、夏の暑いときにはフンドシーつで執務をしたこともあったという。このように型破りの面があった反面、生徒や下の者には温かく、上には強い態度で臨むといった人柄であった。この点に関しては、当時五年生の浅倉正富が『佐渡高等学校八十年史』 に寄せた回想記の中で次のようなエピソードを紹介している。当時、五年生の権威と云うものは大変なもので、後輩の指導を体罰で行なうと云う猛々しい時代でありました。毎年五年生は、次代を背負う四年生に対して、特に厳しい説教と云うものを行なうのが例になっていた様で、私共も、或る日、四年生全員を、テニスコートか何かの広場に集めて、その説教なるものを行なって居りました。そのはげしさを見るに見兼ねてか、或る先生が止めに入り、云うことを開かない五年生の中の一人を、教員室に連行しました。五年生の権威を四年生に示して居る最中、体面もあり又頭に血がのぼっている時、仲間の一人が拉敦されたと云うことで、攻撃が一瞬にして其の先生に向きを変え、そのまま五年生全員が教員室に向ってなだれ込むと云う事件に発展しました。統制の厳しい軍国調の風潮の中で、左翼的なストライキと云う風に解釈され、更に悪いことに、四年生の父兄の中に地方新聞等公報機関をあほる人々があったと見え、世間の攻撃が学校当局に向けられると云う形に変化しました。そして責任者の処罰を要求する声が段々と大きくなって未ることが私共生徒までが感ずる様になりました。その時、私共何かの委員をしていた三~四人が責任者として校長室に呼ばれました。しかし、呼ばれはしたものの、校長様は慈悲深い眼で一べつするだけで、何もおっしゃらず執務し、我々は黙って立っていると云うことが数日続きました。この無言の教えと云うものは、今でもしみじみとその教えの探さを感ずる訳であります。この事件は結局、一人の処罰者も出さず、その校長である秋野亀太郎校長様への世間の風当りと云うものは大変なものであったやに聞くにつけても、益々その無言の教育の有り難さを感じている次第です。
昭和十九年三月、秋野亀太郎校長は辞職したのち新潟鉄工所に入りそこで再度応召した。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p388
★秋野貞男
佐渡高校時代の昭和28年7月17日 全国学校書道連盟主催全国競書大会(於東京都美術館)にて特賞
★秋野三蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

二見村長。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治八年生 二見村大浦、農業 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
★秋野竹二郎




相川町長(昭和51年10月~55年10月、昭和59年10月~63年10月)
★秋野利夫
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)100平1.43.0 秋野利夫(相)昭13
★秋本治
「両津勘吉に見る歴史の綾」
★秋元美智子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)秋元美智子 128 「秋田氏伝記」に曾祖父・秋田藤十郎を偲ぶ
★秋元玲子

★秋山高重(たかしげ)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
正平三年(一三四八年)十二月に北朝から佐渡守に任じられた。(新潟県史)
★秋山忠二
「躍進日本」

★秋山実
右2枚:「島の新聞」12号



「島の新聞」索引(人名別)
★秋山美磨
『小木町史』より
明治十三年のことです。小木町の赤塚左一郎をど有志が、佐渡と越後の定期航路をつくらなければと研究協議していましたが、その矢先のことでした。たまたま、工部省から石油坑の視察のために出妻崎へ派遣されていた秋山美磨氏が、出雲崎の発展のためにやはり越後と佐渡の間に定期航路をひらくべきだと出雲崎の人にその具体化をすすめておりました。そこで小木では、出雲崎と共同すれば資金も得やすいということで、両者が話し合いました。その結果、小木が七千五百円、出雲崎側が七千五百円の株金をつのり、それをあわせて一万五千円、そのうち一万円を船の購求費にし、のこり五千円を創業費として越佐航海をはじめることで話がまとまりました。さらに、本社は小木と出雲崎に交替に置くことにしたのです。そんをふうにして開業しましたが、さて、何分にも収支がつぐをいません。そういうふうにをると、まず最初に音をあげてしまったのは佐渡側です。手をひきたいということになりました。明治十七年になって、三千円を相手側からうけとり船体と株金はみんなむこうにまかせて、しばらく様子をみることにしました。
しかし明治十九年、とうとう船会社を維持する通が途絶えて、船会社は閉鎖して、船体は新潟の売場に回されてしまいました。考えてみれば、これをやめてしまえば今までの苦労は水の泡です。そしてまた、将来の佐渡の利害を察するなら、これは捨ておきがたい事柄といえましょう。そこで、小木の古城俊平ほか四、五人の有志が、さきがけ丸を一千五百円で買いとり、それに一千円を投じて修繕を加え、もとのようにさきがけ丸と命名して、明治二十年一月から再び越後と佐渡の間を航海しはじめたのです。いま、明治二十二年の航海の状況がわかっています。一月が三度、二月が六度、三月が十度、四月が十九度、五月十八度、六月十七度、七月十九度、八月二十度、九月が二十度となっています。そして、一回の乗客は平均して二十八人とあります。しかし、なかなかうまくはこびませんでした。冬の間は、両津、新潟航路が一か月近くもとまってしまうことが逆にさいわいして、乗客もけっこうあり、採算があいましたが、夏にをると乗客もすっかりなくをり、荷物も減り、ただ郵便運搬だけで命脈をたもつというありさまで、船会社は損害に堪えられず、とうとう船は売りに出されました。そうなっては困るとみんなが思いをがら、どうにもをらをいのです。陳情をうけた佐渡支庁は、夏の問だけ、ご料局で近県から買い入れる鉱石や、鉱山で必要とする木材を引かせることにしました。また、航路を沢根までのばして航海させれば、国仲の人たちの便利とをるだろうとも考えました。そうした方法もとられましたが、今から考えてみれば、こんな消極的を方法で航路を維持することがどうしてできましょう。
★阿久沢弥平次
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所組頭。文化二年(一八〇五年)正月十三日、銀十枚を与えられて幕府から賞された。その理由は、佐渡奉行所の役所向並びに銀山費用その他定式の費用が寛政六年より享和三年まで十年間に、総元高の内、米三百九十余石余、金二万千両余が残った。このことを幕府に報告したところ今回の褒賞となったのである。
弥平次の外に
広間役 関根甚三郎 銀五枚
広間役 平野仁左衛門 銀五枚
広間役 長島甚五兵衛 銀五枚
広間役 堀口弥右衝門 銀五枚
広間役 高田久左衛門 銀五枚
御金蔵定番役 西川藤兵衛 銀五枚
広間役助 藤村小十郎 銀五枚
右のように褒賞された。(佐渡年代記中巻)
★芥川竜之介
「城が丘の「ペンの碑」」(「佐渡の百年」)
★阿久津鯨六(勇)

栃木県の人、自衛隊を退職後、佐渡赤泊川茂地区に移住する。写真、絵画、彫刻等に異彩を発揮する。
羽茂大崎「ちょぼくり」の案内板


★明山照
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★明山本丸
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★アーサー・アダムス
安政6年(1859)、台風で漂流し、水津に給水に立ち寄った英国海軍水路調査船の軍医で、陸産貝類と甲虫を採集。
★浅井演
両津住吉神社


★浅井快甫
元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井源安、浅井仁庵、浅井貞吉
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
医家、佐渡平泉の人で、祝家に生まれ、名は爽といった。
鈴木見龍に学び、後江戸の吉田快安の門に入り、医学を修めた。
帰郷して浅井元安の女婿となってそのあとを継ぎ、陣屋付医師にあげられた。天保十二年(一八四一年)に七十八才でなくなった。(佐渡人名辞書)
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
・その頃、本町通りは山田七右工門宅につき当り右に曲れば横町へ、左へ曲れば七右工門横町から漢方医浅井家(現一三楼)前で、更に右折して馬場通りへ通ずるのが道筋であって、この路は、皆川、舟下、下新穂村方面の人達が、新穂山、北方山、大野山方面に持つ山へ登る唯一の通りであった。七右工門脇が通り抜けになって新穂町と馬場通りが一直線になったのは、明治二十八年である。
・文政元年(一八一八)の頃浅井快甫、文政二年(一八一九)容安、良川、天保十二年(一八四一)浅井快甫、弘化(一八四四-一八四七)年玄的、安政六年(一八五九)浅井源安などの漢方医の名が見える。明治二十四年(一八九一)五月六日山王火事の原因となった私立浅井病院開業祝いの花火は蘭法医仁庵、貞吉兄弟の施設新築の時であった。この病院が開業きれると、門前市をなしたと記録に残っている。
新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井元安
元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井快甫、浅井仁庵、浅井貞吉
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
寛保二年(一七四二)十月の書には新穂町、順安とあり、文化・文政(1804-1827)の頃、
良碩また、文政元年(一八一八)の頃浅井快甫、文政二年(一八一九)容安、良川、天保十二年(一八四一)浅井快甫、弘化(一八四四-一八四七)年玄的、安政六年(一八五九)浅井源安などの漢方医の名が見える。明治二十四年(一八九一)五月六日山王火事の原因となった私立浅井病院開業祝いの花火は蘭法医仁庵、貞吉兄弟の施設新築の時であった。
新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井源安
元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井快甫、浅井仁庵、浅井貞吉

新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井擴司
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★浅井貞吉(さだきち)
根本寺


NHK番組『ファミリーヒストリー』(h28年12月8日放映)より

元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井快甫、浅井源安
中川杏果(「福寿草」より):「明治30年代に京都に居て、新穂関係者の面倒を見てくれた。僕も明治38-39年ここに居てお世話になった」
NHK番組『ファミリーヒストリー』(平成28年12月8日放映)の調査でわかったこと。
※ディレクター田中淳氏が徹底的に文献を洗って調べ出した。
私も少々協力し、番組では「資料提供者」としてテロップで名前が流れた。
浅井快甫(佐渡奉行御出入り医師 町医師の技量、医術を審査する役目もあった新穂町)ー源安ー貞吉(万延元年 1860年生)ー綾子ー馨(倉本聰)
貞吉の兄仁庵は。貞吉の母は山谷太郎の後妻で、馨には妹と弟がいる。現在の家は明治24年建てられ当時と同じ外観。
貞吉は明治14年(1881)東京大学医学部別課入学。卒業後佐渡へ戻る。
※本科は二年の予備門とプラス5年の7年間必要、別課は4年で終了。
予備役の軍医だった兄仁庵と医療設備の整った医院を始める。明治24年(1891)5月10日浅井病院開業。その記念に盛大に花火打ち上げ、兄仁庵の42歳の祝いも兼ねる。打ち上げ場所は地元の日吉神社。花火は100発以上、当時人気だった「しだれ柳」という花火。ところが、拝殿に最初に燃え移った火の粉が落ちて燃え上がり、その火が飛び火して本殿他全てを全焼した。その後、地域の人達の寄付で無事再建。浅井家は兄仁庵の名前で100円(現在の200万)寄付。浅井医院は開業し火事を起こしたにもかかわらず盛況で1日5,60人の患者が押し寄せた。仁庵、貞吉は地元で流行していた病気(肺蔵ジストマ症)治療を研究し論文を発表している。肺に寄生虫が入り込み呼吸困難なる病気。その対処法を紹介している。日清戦争勃発、軍医が不足。予備役の軍医だった仁庵は身体を壊し出征できず。そこで貞吉が兄に代わって戦地に行くことを決意。乗組救護医員で、負傷し中国から帰国する患者を船内で治療する役目。「コレラ商にかかった兵士を他の健康人と隔離し治療、看護人二名と共に徹夜し厳重なる消毒を行った」などの記録も残る。貞吉の適確な処置によって多くの兵士の命が救われた。当時は銃弾で倒れる人よりも伝染病で亡くなる人の方がはるかに多かった。隔離するというのは非常に難しかった時代である。日清戦争が終わった直後、明治28年(1895)4月、兄仁庵死去。その後間もなく、京都で医師をしていた東大時代の友人から手紙。「京都では医師が不足している助けて欲しい」。天皇が東京に移られたことで御典医達も移ってしまった。佐渡のことが心配ですぐ京都に行けなかった。すると地元の後輩医師臼杵伊之吉が病院をそのまま引き継いでくれた。明治28年(1895)、35歳の貞吉は佐渡を離れる。手紙をくれた森祐晴(すけはる)を京都(大和大路通松原上る弓矢町29番地)に訪ねる。森は貞吉の一年下で病院を開業していた。当時京都では眼病の結膜炎が流行していた。そこで森は新たに眼科医院を立ち上げ、自分の病院を貞吉に任せ、自分は京都御幸町に移った。京都に移った貞吉が最初に行ったのは、佐渡から来た若者を下宿させたり仕事を紹介したりすることだった。後に作家となる中川杏果の文にこのようにある。「明治三十九年かと思う。麦僊が暑中休暇に帰った時、僕は麦僊と林光雅氏につれられて京都え行き、新穂出身の浅井貞吉と云う医師の家にやっかいになった。浅井先生は、佐渡から京都に出たものは常に世話してやり、其時長畝の佐藤藤十郎氏が京都の養蚕学校え浅井さんから通っていた。」(新穂公民館老人学級「ふくじゅそう」第3集 1967年)
・貞吉の娘綾子が倉本聰の父山谷太郎の後妻となり、山谷馨こと倉本聰が生まれた。
『新穂まち今昔』(昭和58年刊)より

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂町には他町村のように歌人や連歌師の名はほとんどみえないが、後世短歌とよばれる時代には有名人を輩出している。
新穂町には歌人として浅井病院の兄弟医師が明治二十四、五年頃の同人雑誌に載せた、
薄暮雪鴬待春 浅井仁庵
夕ざれば浦風さむくふる雪のこぎまよふらんあまのつり船
時は早 春に近しと諸島に先かけてなくうぐひすの声
終夜翫月往事如夢 浅井貞吉
よもすがらねもせて月をみる人の心やおなじ空にすむらん
うきふしも嬉しきふしもすぎはてゝ昔は夢の心地こそすれ
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]
「京都医事衛生誌」より
・浅井貞吉は明治27-28年の日清戦争での功により、叙勲を受ける。
日本赤十字社から救護員として派遣され、船の中での救護活動など行っていたようだ。。明治24年の火事の3年後のことです。
「京都の医師情報」(明治29年刊)
浅井貞吉さんの名前がある。京都へ移転後、すぐに開業していたことが分かる。
(柴山秀樹さん情報)
・中川杏果氏の文に出てくる佐藤氏(京都養蚕学校)はハイカラの人で、カメラを愛好し、大町桂月が金北山登山をした時の人足三人組の一人。
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井仁庵
元々は奉行所典医の家柄で、浅井快甫の代より新穂馬場(後、料亭「一三楼」)で医院を続けた。浅井元安ー快甫ー源安ー仁庵・貞吉兄弟。明治24年、浅井兄弟病院の時に祝賀花火を揚げた際、それが原因で日吉神社を焼失し、佐渡を離れた。
→倉本聰、浅井快甫、浅井源安
➡浅井貞吉参照→NHK番組『ファミリーヒストリー』(平成28年12月8日放映)の調査でわかったこと。
『新穂まち今昔』(昭和58年刊)より

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂町には他町村のように歌人や連歌師の名はほとんどみえないが、後世短歌とよばれる時代には有名人を輩出している。
新穂町には歌人として浅井病院の兄弟医師が明治二十四、五年頃の同人雑誌に載せた、
薄暮雪鴬待春 浅井仁庵
夕ざれば浦風さむくふる雪のこぎまよふらんあまのつり船
時は早 春に近しと諸島に先かけてなくうぐひすの声
終夜翫月往事如夢 浅井貞吉
よもすがらねもせて月をみる人の心やおなじ空にすむらん
うきふしも嬉しきふしもすぎはてゝ昔は夢の心地こそすれ
※本間黙斎娘が浅井仁庵妻

「真野宮の宝物 」(「佐渡の百年」)
新穂 浅井医院代々諸情報
★浅井菁亭
両津北小浦出身の書家、水墨画家、新潟市在住。甥(妹の子)にデザイナーで「マスターマインド」社代表の本間正章がいる。





★浅井隆行
佐渡高校時代の59.6.2~8、軟式庭球県高校結合体育大会(男子柏崎市・女子新潟市)男子高柳文晴・浅井隆行組ベスト16、北信越大会に出場
★浅井但馬
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川村 ・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]
★浅井直
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★浅井まり子
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 3・佐渡自然学園・こども鬼太鼓(浅井まり子)
★浅井安兵衛 河崎村


★朝夷石(あさえびすいし)忠兵衛
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
江戸時代に於ける鶴子銀山の経営について『佐渡年代記』は「鶴子本口という間歩は、文禄四年(一五九五)五月廿四日、石見の国の者三人・忠左衛門・忠次郎・忠兵衛来りて初て稼ぐと云」とある。
鶴子本口という名称の間歩は坑道ばりの間歩である。そうしてみると、文禄四年の五月に、石見から坑道ばりという技術をもった技術者が佐渡に釆て、鶴子銀山に入りそこで坑道を掘って鉱脈を発見したと考えることができよう。ところでこの文の中にでる忠兵衛家の由緒書には「本名朝夷石、生国越前、文禄年中当国へ渡り西三川金山稼・同鶴子・慶長年中相川銀山の見立」とある。そうしてみると朝夷石忠兵衛は越前の生れで石見銀山で坑道ぼりの技術者として働き、文禄四年に上杉氏のもとに派遣され佐渡にやってきたとみることができる。
★浅尾森之介
1823(文政6) ~ 1900(明治33)。現在の佐渡おけさの踊りである16足「おけさ踊り」を創った人物。大坂道頓堀に出ていた浅田屋を名乗る二枚目役者で、美男が禍し、福井藩の武家の女房と不義におち、追手から逃げて諸国を流浪。偶然越後で遭遇した相川の有名料亭「寿志鹿」主人に連れられて相川に来た。相川に短期間居て、その後小木に移住し、明治23年頃から77歳で亡くなる明治33年まで当地に住んで踊りを教えた。浅尾の小木時代のことについては、一番弟子の本間トラさんや、本間さんの弟子中川シズさんからの聞き取りが残り、かなり明らかになっている。
・中川益栄(ますえ:昭和8年生まれ)さんによると、芸妓に踊りを教える「浅尾座」と言うものがあった。
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
小木に発達した小木歌舞伎を調べながら、ゆかりの衣装道具を吟味しようと、佐渡博物 館の芸能部長の本間林三氏および椎名仙卓学芸員に誘われて、水郷小木をたずねたのは一九五八 年六月二日である。ちょうどその日は東京の郡人会の郷土訪問の一行が正午ごろ上陸するというw ので、町はなんとなくざわめいていたが、それとは別に男女ふたりの高齢の方から、役場の二階
の静寂のなかで、とっくりと昔話をきくことができたのは、博物館の事前連絡により日曜にもか かわらずあれこれと斡旋してくれた小木教育委員会のおかげであると頭がさがった。
小木歌舞伎のことを語ってくれたひとりは一柳幸吉という親子二代にわたり金刀 小木歌舞伎平座(むかしの額の文字にしたがう)の道具方をしている当年七十に余る老人だ が、壮者をしのぐ元気さで大道具師でありながら、小道具も作って間に合わせるし、太鼓したた けば、つづみもうつという手巧者で、いうなれば小木のこの道での生ける文化財であろう。若い とき小木へ来た旅の一座が演じた仮名手本忠臣蔵の、あのくらいの高い呼吸のめんどうな大序の つづみをうってのけてとてもほめられ、給金のほかにあのころには大枚であった五円を祝儀にも らったはなし、さあっと頬を紅潮させての語り草など、佐渡芸能界のため気を吐いてくれたし い話である。女の方は明治十五年生れいえ七十六歳になります、という明治屋こと通称角の本間 トラさんである。一見六十をちょっと過ぎたとしか見えぬきりりとした上品な方で、わけてし若 かりし日はどんなにかきれいであったことだろうと思わせる目鼻立ちに残り香はのかにただよう たり、さすがは立役(男役)ばかりをおそわったというきびしい修業に堪えた気はくがいまな 人にせまるものがある。この方はちゃきらゃきの小木娘で、自他共に許した師匠浅尾森之介の 一番弟子である。 浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
「島の新聞」

「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
小木に発達した小木歌舞伎を調べながら、ゆかりの衣装道具を吟味しようと、佐渡博物 館の芸能部長の本間林三氏および椎名仙卓学芸員に誘われて、水郷小木をたずねたのは一九五八 年六月二日である。ちょうどその日は東京の郡人会の郷土訪問の一行が正午ごろ上陸するというw ので、町はなんとなくざわめいていたが、それとは別に男女ふたりの高齢の方から、役場の二階
の静寂のなかで、とっくりと昔話をきくことができたのは、博物館の事前連絡により日曜にもか かわらずあれこれと斡旋してくれた小木教育委員会のおかげであると頭がさがった。 小木歌舞伎のことを語ってくれたひとりは一柳幸吉という親子二代にわたり金刀 小木歌舞伎平座(むかしの額の文字にしたがう)の道具方をしている当年七十に余る老人だ が、壮者をしのぐ元気さで大道具師でありながら、小道具も作って間に合わせるし、太鼓したた けば、つづみもうつという手巧者で、いうなれば小木のこの道での生ける文化財であろう。若い とき小木へ来た旅の一座が演じた仮名手本忠臣蔵の、あのくらいの高い呼吸のめんどうな大序の つづみをうってのけてとてもほめられ、給金のほかにあのころには大枚であった五円を祝儀にも らったはなし、さあっと頬を紅潮させての語り草など、佐渡芸能界のため気を吐いてくれたし い話である。女の方は明治十五年生れいえ七十六歳になります、という明治屋こと通称角の本間 トラさんである。一見六十をちょっと過ぎたとしか見えぬきりりとした上品な方で、わけてし若 かりし日はどんなにかきれいであったことだろうと思わせる目鼻立ちに残り香はのかにただよう たり、さすがは立役(男役)ばかりをおそわったというきびしい修業に堪えた気はくがいまな 人にせまるものがある。この方はちゃきらゃきの小木娘で、自他共に許した師匠浅尾森之介の 一番弟子である。 浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★浅岡(浅野?)明子
佐渡高校時代の36.6.10~11、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合32点2位、100m5位
36.6.25、陸上競技全国大会信越地区予選会(上田市)100m4位
★浅丘ルリ子
『渡り鳥いつまた帰る』(昭和34年ロケ)









「島の新聞」

「島の新聞」索引(人名別)
★浅香三十郎(あさかさんじゅうろう)
【生没】生・没年不詳 佐渡奉行所の後藤役所(小判座)の御雇町人。『佐渡相川志』に、「元和七年辛酉七月二十日御奉行鎮目市左衛門惟明御伺之上後藤庄三郎代庄兵衛・浅香三十郎始メテ渡ル」とあり、これが佐渡に後藤役所を置いて小判を鋳造した最初で、金座後藤庄三郎の手代として、一族の後藤庄兵衛と浅香三十郎および数名の小判師が派遣され。『佐渡国略記』によると、鎮目奉行の建議で、筋金のまま江戸へ上納することは、海上の危険を増すことになるので、佐渡で小判に仕立てることになったと記している。当時相川の後藤屋敷は陣屋内にあったが、これは後藤庄兵衛に同年下付されているので、浅香は町家に住居し、庄兵衛も寛延元年(一七四八)の火災で焼失したあとは、町家に住居した。『佐渡相川志』が書かれた頃、後藤役所には後藤を名乗る御雇町人はおらず、御雇町人一三人の中に、浅香三十郎以外に浅香を名乗る者が、浅香金蔵・浅香貫蔵の二人がおり、これも浅香三十郎の一族と考えられる。
【参考文献】伊藤三右衛門『佐渡国略記』、麓三郎『佐渡金銀山史話』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★浅香周次郎(あさかしゅうじろう)

【生没】一八五四ー一九二一 安政元年八月二十五日、新保村(現金井町新保)の医師児玉貫斎の子として生まれる。慶応四年(一八六八)親戚に当たる地役人山田市太郎の相続人となって迅雷隊に入隊した。明治二年(一八六九)代々御金改役(後藤役)を勤めた浅香伊馬太に随行して上京、日本橋石町に住む儒者平田宗敬の塾に入った。同年十月浅香家(相川町)へ入籍して周次郎を名乗り、同四年十月に帰郷し、娘と縁組みして浅香家を相続した。同五年英学校(相川町)に入学、同八年には教師となった。同十三年町会議員に当選。同年十月頃より盛んになる国会開設運動に参加し、佐渡親睦会の役員に挙げられた。その後、信越鉄道会社や「常山陶器義社」の発起人となり、所得税調査委員や学務委員などを歴任した。明治二十九年には佐渡銀行の創立に努めて創立委員となり、相川町側の有志が国仲側と対立して明治三十年九月に相川銀行を設立すると、取締役に就任した。明治三十五年六月、幅野長蔵が「佐渡毎日新聞」を発刊すると主幹をつとめ、言論界でも活躍した。大正十年四月二十三日没、下寺町本典寺に葬られる。
【関連】佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)・相川銀行(あいかわぎんこう)・佐渡毎日新聞(さどまいにちしんぶん)・幅野長蔵(はばのちょうぞう)・浅香寛(あさかひろし) 【参考文献】「浅香家文書」、『第四銀行百年史』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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相川銀行(あいかわぎんこう)
明治三十年(一八九七)九月一日開業。明治二十九年に第四銀行相川支店閉鎖の動きが出ると、島民の手による銀行の設立が企図され、同年八月「株式会社佐渡銀行」の発起認可申請書・仮定款等が作成され
た。ところが同年八月八日に相川支店で開かれた設立組織会で、本店の設置場所(夷と相川)や株券の金額、発起人の負担額などで相川町と夷町や国仲の有志の意見が対立してまとまらなかった。その後何回かの
会議を経て、翌三十年三月に創立総会を開催したが、ここでも相川町と夷町の有志の妥協がならず、相川町の有志は脱退して同年三月二十五日、久保田金五郎を中心に相川銀行設立総会を開き、資本金八万円で
九月一日に開業した。本店は大正二年に羽田町二四番地に建てられ、支店を羽茂本郷に置き、のち湊町・新町・赤泊にも置いた。創立時の専務取締役には、久保田金五郎(本店担当)と羽茂本郷の風間与八郎(羽
茂支店担当)、取締役には浅香周次郎・三国久敬・梶井五郎左衛門ら九名が就任した。当初は第四銀行相川支店から公金取扱業務を引継ぎ順調であったが、佐渡銀行との過当な競争や取付け騒ぎ等によって次第
に経営が行き詰り、大正十三年(一九二四)九月一日第四銀行に合併され、同銀行の相川支店となった。
【関連】第四銀行相川支店(だいしぎんこうあいかわしてん)・佐渡銀行(さどぎんこう)・渡辺七十郎(わたなべしちじゅうろう)
【参考文献】『第四銀行百年史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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佐渡毎日新聞
明治三十五年(一九〇二) 六月三十日、幅野長蔵によって創刊された新聞。当時の「佐渡新聞」が官吏侮辱罪で告発されたり、進歩党やそれと結びつく資産家を激しく攻撃して、論調が過激であったためこれに対抗
して当時佐渡随一の資産家であった幅野長蔵が、浅香周次郎や畑野町小倉の青木永太郎らと相談して発刊した。社主が幅野長蔵で主幹には浅香周次郎が当たり、進歩党系で穏健な論調の新聞を目指した。
当初は「佐渡新聞」への対抗意識が強く、明治三十六年に北一輝が「国民対皇室の歴史的観察」という論文を「佐渡新聞」に連載すると、直ちに不敬との批判記事を掲載し、その論争は一か月におよんだ。しかし発行
部数は四、五〇〇部程度から伸びず経営が苦しくなったため、幅野長蔵は新聞社を買取り、自ら経営に乗り出した。大正三年(一九一四)には幅野色や進歩党色を一掃し、それまでの菊八倍の小新聞型を普通型に拡
張して、活字を明調に入れ替え紙面を一変させた。これによって発行部数も大幅に増加し、一時は一〇〇〇部にも達した。しかし、「佐渡日報」の発行もあって、大正八年には佐渡新聞社に買収合併された。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政元年生 相川町坂下町 ・明4、佐渡毎日新聞社[三十五年七月十三日] 「佐渡関係事典に載る」
数字は「孤島コンミューン論」掲載の page数 33~・80
「孤島コンミューン論」(松本健一)
★浅香寛(あさかひろし)


『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町』(森幾)

※浅香家は相川の時鐘楼辺りから、京町に向かって右側に入った所で令和元年時点では「京町亭」(令和元年開店)の奥の家。浅香家は相川最後の当主が相川病院医師で、当主が死去後、妻が島外在住。庭の管理等が業者によって成されている。
【生没】一八八七ー一九四五 明治二十年十月二十二日相川町八百屋町に浅香周次郎の長男として生まれる。同三十五年佐渡中学校に入学、弁論部で活躍した。同期に青野季吉や児玉龍太郎、塚原徹らがいた。早稲田大学を卒業後帰郷して保険代理店の仕事を手伝っていたが、大正三年(一九一四)八月二十五日に、中学時代から志していた日刊新聞「佐渡日報」を創刊し、昭和十五年(一九四○)言論統制で廃刊となるまで同社の社主をつとめ、浩堂と号して言論界で活躍した。また、大正十二年には『佐渡案内』という本格的な観光ガイドブックを刊行し、「正調佐渡あけさ」の振付けをするなど、観光の発展にも寄与した。大正五年町会議員に当選、憲政会佐渡支部幹事長などを歴任して、昭和五年(一九三○)には県会議員に当選、昭和九年から同十七年にかけては相川町長に就任している。このほか、相川農会長や相川木炭組合長などを歴任し、昭和二年には佐渡郡畜産組合長、昭和十二年には佐渡郡木炭組合長に就任するなど、産業面でも活躍した。昭和二十年一月十五日没、下寺町本典寺に葬られる。
【関連】佐渡日報(さどにっぽう)・浅香周次郎(あさかしゅうじろう) 【参考文献】高屋次郎『佐渡名鑑』(佐渡毎日新聞社)、「新佐渡」 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
八百屋町。(一八八七-一九四五)(出生、居住)『佐渡日報』創刊者。相川町長。浅香周次郎の長男。旧制佐渡中学校時代、同期の児玉龍太郎、青野季吉、塚原徹らと共に北一輝の影響を受ける。早稲田大学を卒えて帰郷。大正三年八月、日刊紙『佐渡日報』を創刊。浩堂と号した。「正調佐渡おけさ」の振付けをする。大正五年、町会議員に。昭和五年、県会議員に。同九年~十七年、相川町長。佐渡郡畜産組合長、佐渡郡木炭組合長などを歴任する。
・「佐渡日報」創立者で立浪会草創期に活躍した。観光宣伝と「佐渡おけさ」への十六足踊りの導入・定着化の推進に大きく貢献。十六足踊りは県議児玉龍太郎と共に小木「高砂屋」に三日間滞在して学んだと言う。後に相川町長。
・佐渡中学4,5年生の頃文学に凝ってしまい、佐渡中学を落第?しそうになり石川県(富山県?)の学校に転校する。
※青野季吉『一つの石』には石川県、『佐渡高等学校百年史』(p58)には富山県とある。
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佐渡日報
大正三年(一九一四)八月二十五日、浅香寛によって創刊された日刊新聞。主幹が浅香寛で、主筆には児玉龍太郎、編輯人には富田霜人、営業には平岡栄太郎があたり、発行所は相川町大字八百屋町の浅香家の屋敷内に置かれた。このころ、相川町からは「佐渡新聞」・「佐渡毎日新開」の二紙が発行されていたので、あらたな購読者を獲得するために、表紙や欄画を川上涼花・酒井億尋・岡常次など新進の青年画家による絵で飾ったり、最新式ポイント活字を使用したりして、斬新な紙面の装いを工夫し、気軽に読める大衆紙を目指した。発行部数は約一〇〇〇部で、政治的には、創刊当時は中立を揚げていたが、大正四年春ころから同志会(後の民政党)系の新聞となった。昭和十五年(一九四〇)、言論統制による新聞の整理統合によって十一月三十日付をもって廃刊となった。
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佐渡中学同年には青野季吉(文芸評論家)、児玉龍太郎(県会議長)、城野亀吉(日本歯車工業会理事)、宮本美治(佐渡教育会会長)、角坂仁三次(河崎村長)、吉田耕一(相川高校初代校長),酒井千尋(根津美術館館長)等がいる。浅香は途中退学して富山の中学(or石川)に「転向した。又早稲田(文学部)には青野季吉(数年遅れて入学)、塚原徹(佐中7回生と同年だが中学落第)、、同じく政治学科児玉竜太郎がいた。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二十年生 相川町八百屋町、佐渡日報社主 ・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日][衆議院之巻]・大2、若槻憲政会顧問の来郡[十年七月二十二日]・大3、郡憲政派に対する新聞記事[十一年三月十四日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、佐渡護憲派の會合[十三年七月二日] 「佐渡関係事典に載る」
(昭和)・昭1、立憲民政党新潟縣支部発会式[二年七月十三日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]・昭2、佐渡民政倶楽部の発会式[四年九月二日]・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]・昭2、佐渡毎日新聞[五年七月一日]・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭3、野沢代議士の報告演説会[六年六月七日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭4、民政党縣支部の大会[十二年十二月十三日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
「佐渡おけさの流行」(「佐渡の百年」)
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p379
数字は「孤島コンミューン論」掲載の page数 82
「孤島コンミューン論」(松本健一)
★浅ヶ谷春次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年生 小木町木野浦、農業 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★浅川美智香
「佐渡ジャーナル」関係記事:「14号」(平成20年7月)まだ見ぬ旅したことのない島
★浅木彌三次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★浅島栄(あさしまえい)
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



追加情報
★浅島作雄
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p429・430
★浅嶋治兵衛
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(技芸伝)より

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)浅島治兵衛 89 点鬼簿(6) 中山守夫、本間敏雄、本間亮敬、斎藤良二郎、真木山幸二郎、小野久夫、本間フミ、山本惣次、若林吉堯、浅島治兵衛、相馬一正、宮崎萬平 山本修巳
★浅島誠(あさしままこと)
「ウイキペディア」より
左から2枚目:新潟日報(h27年3月)



佐渡高校同窓会報38号 h3008月




「ウィキペディア」より
1944年9月6日 - )、日本の生物学者。専門は発生生物学。東京大学名誉教授。理学博士(東京大学、1972年)。新潟県佐渡市出身。
・概要: 生物の分子発生プログラムと各器官形成に興味を持っていたが、1988年、胚発生における分化誘導物質として、アクチビンを世界で初めて同定した。これは世界的に追試されて確認され、高い評価を得た。アクチビンの濃度で胚発生はいろいろと制御されるが、この研究はのちにiPS細胞が発見される布石となり、その意味で生物学史のみならず医学史上でも大きな意義を持つ。この大きな業績から、ノーベル賞の有力候補とも言われる。
・学歴
1963年3月 - 新潟県立佐渡高等学校卒業
1967年3月 - 東京教育大学理学部卒業
1972年3月 - 東京大学大学院理学系研究科動物学専門課程博士課程修了
1972年4月 - 理学博士 「ウニ胚の発生過程における色素形成について」
・職歴
1972年4月 ベルリン自由大学分子生物研究所研究員
1974年10月 - 横浜市立大学文理学部助教授
1985年1月 - 横浜市立大学文理学部教授
1993年4月 - 東京大学教養学部教授
1995年4月 - 東京大学総長補佐
1996年4月 - 東京大学大学院総合文化研究科教授
2003年2月 - 東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長(2005年2月まで)
2007年3月 - 東京大学退職
2007年4月 - 国立大学法人東京大学理事(副学長)(2008年3月まで)
2007年6月 - 東京大学名誉教授
・学外における役職
日本学術会議副会長(第20期)
・人物 :実験材料でもあるイモリをこよなく愛する。年2回のイモリ採取は30年間欠かしたことがない。好きな言葉は"passion(情熱を超えた熱情)"。2007年4月13日、NHK総合テレビ「爆笑問題のニッポンの教養」第1回放送に出演した。
・著書: 『動物の発生と文化(新生命科学シリーズ)』、2011年、裳華房
・受賞・受章
日本動物学会賞1990年度(「両生類の胚誘導と細胞分化に関する研究」)[1]
井上学術賞 1990年度(「両生類の胚誘導と細胞分化に関する基礎的研究」) [2]
Man of the Year 1991 (USA. ABI)
木原記念財団学術賞1994年度(「両生類の胚誘導と細胞分化に関する研究」)[3]
ジーボルト賞(ドイツ政府)
東レ科学技術賞 1998年度 (「試験管内での幼生の形づくりと臓器形成の制御」)
持田記念医学薬学学術賞 1999年度(「試験管内での臓器形成の基礎研究とその応用」)
内藤記念科学振興賞 1999年度 (「試験管内での臓器形成と遺伝子発現の制御の基礎的研究」)
有馬啓バイオインダストリー協会賞 2000年度 (「アクチビンの発見と細胞分化および臓器形成における基礎的研究」)
上原賞 2000年度 (脊椎動物の臓器形成と形づくりの基礎的研究に対し)[4]
恩賜賞・日本学士院賞 2001年 (「初期発生における形態形成の基礎的研究」)
紫綬褒章
比較腫瘍学常陸宮賞
エルビン・シュタイン賞 2008
文化功労者 2008年度[5]
・脚注
1.^ “日本動物学会学会賞賞 受賞者”. 社団法人日本動物学会. 2009年10月31日閲覧。
2.^ “第6回~第10回井上学術賞_受賞者 (PDF)”. 財団法人井上科学振興財団. 2009年10月31日閲覧。
3.^ “第1回~第16回学術賞受賞者”. 財団法人木原記念横浜生命科学振興財団. 2009年10月31日閲覧。
4.^ “上原賞受賞者”. 財団法人上原記念生命科学財団. 2009年10月31日閲覧。
5.^ “産総研:トピックス - 浅島 誠 器官発生工学研究ラボ長が平成20年度文化功労者に選ばれました”. 独立行政法人産業技術総合研究所. 2009年10月31日閲覧。
・外部リンク
東京大学最終講義 動物の発生の仕組みを探し続けて40年 - 東京大学オープンコースウェア (2010年6月28日閲覧)
東京大学大学院総合文化研究科 浅島研究室 (2010年6月28日閲覧)
産業技術総合研究所幹細胞工学研究センター (2010年6月28日閲覧)
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・朱鷺保護で知られる佐藤春雄は叔父(母の弟)である。
・佐渡高校時代の昭和35年、全日本学校書道連盟野田支局主催全国学生展特選
(野町の市橋家)
・次男:橋本喜一(両津市長)・三男:向高野
菊池喜左衛門(仁作 両津郵便局長)・三男:佐藤春雄(南河内)
・菊池仁作妻は高尾亮一の姉妹
※菊池家の葬儀の時、高尾さんが白いポケットチーフを付けており、これが正式なんだと思った。(山田昭夫談)
・菊地仁作の娘は野口誠之(奈良女子大学長)に嫁ぐ。
「佐渡ジャーナル」関係記事:「9号」(平成19年4月)「佐渡のトキを見た」-から始まったぼくの生物学(浅島誠)→9ページ「12号」(平成20年1月)・宮田・藝大学長と浅島・東大副学長がパネラー-シンポジウム「大学の試練と挑戦」ー(岩田雅)
「14号」(平成20年7月)浅島誠東大副学長に エルビン・シュタイン賞-佐度は学ぶ素材の無限の宝庫-「17号」(平成21年4月)浅島誠・東大副学長は文化功労者-知の畑を耕そう-「36号」(平成26年1月)座談会 いかに雇用をうみだすか-浅島誠・石原武・宇留間和基・三浦基裕・武井千秋・岩田雅-
「島の新聞」索引(人名別)
※浅島先生談(令和4年7月)
自分が東大教授、自然科学系教授に佐渡関係者が5人いた。太田秀(S19年生)・近藤保(昭和11年生)・玉置(たまき)邦彦(昭和21年生)・佐藤徹・浅島誠 文科系にも多く居たと思う。
諸情報
★浅島万平
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★浅野彰
「島の新聞」索引(人名別)
★浅野甚九郎
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
(河原田)中島平吉と共同で製瓦業を始めた老に、河原田の伊勢屋浅野甚九郎がおり、平吉の弟子と思われる者に窪田の平松治平らがいる。文久三年頃(一八六三)平松治平は治平窯を開窯し、明治十八年、相川町の三浦常山および野口栄吉をとおして契約をかわし、信越線直江津停車場建設に際してレンガ壱万個の注文を受ける盛況・・・。
・治平窯址はシルバービレッジの松林中に、瓦やレンガの破片の散布でうかがい知ることができるし、治平作の鬼瓦や手あぶりなどが、平松家にのこされている。
★浅野虎之助
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★浅野光子
梅若流大師範。夫は三味線、尺八、横笛等のオールランドプレイヤーである佐藤元海(もとうみ)で、長男は悠紀と云い津軽三味線、お囃子(太鼓)音響等の担当。末っ子の知は津軽三味線の名手で、2014世界大会3位。
元海の弟は日本を代表した津軽三味線奏者の木田林松次、母は民謡家佐藤みや子である。
★浅野雄三
佐渡高校時代の39.9.19~20、ポート佐高フィックス、浅野雄三・田中柾敏・永田重文・土屋利彦・相田雅夫・石橋博・菊池哲治、国体3位入賞により県高体連表彰を受ける
★朝乃若



写真左:前列中央の白ふんどしが寺沢樹少年こと「朝乃若」。












父、弟と




アマチュア相撲力士。金井新保出身(寺沢又平家)、金井小ー鳴和中(石川県)ー金沢市立工ー東洋大4年。第57回全国大学選抜宇佐大会(日本学生相撲連盟、宇佐市、毎日新聞社主催 5月3日、大分県宇佐市の市総合運動場相撲場)で優勝。
小学校時代は島内大会で優勝し、全中は全国準優勝。(高校総体成績は不明)。
・祖父は寺沢又一郎、父は両津夷八、山本自転車店の次男山本謙君。山本家のルーツは黒姫。両津ミニバスや南中バスケ部でリードマンとして大活躍した。
・弟の陸君は金井中学校時代に、萩原頌胆君(現在の魁渡)と2人で相撲の団体戦(3人で団体)に出場して県大会で優勝(2人とも全勝)して全国大会に出場した。現在拓殖大相撲部。
・両津相撲教室の指導者は三国暁男氏で昭和20年生、両津高校でバスケットボール部、相撲部に在籍し国体等で活躍した。自宅は湊一の三国食品。
ブログ「アマチュア相撲観戦記」より(2009/8/11(火) 午後 8:57 [ さどみなと ])
寺沢樹くんは、佐渡相撲教室に、小学校6年まで在籍し、指導を受けていました。子供も、5~6人しかいない小さな教室でしたが、新潟県でも屈指の道場でした。ちなみに、卒業生は、鳴和中から金市工 東洋大の 辻、鳥取城北から日大の 金子、鳥取城北の 塚本、鳴和中から金市工の堀田がおります。残念ながら、現在は、寺沢の弟と同級生の二名しか生徒がおりませんが、新潟県で頑張っています。今後とも、寺沢をはじめ、佐渡の子供たちをよろしくお願いします。
(2009/8/11(火) 午後 8:57 [ さどみなと ])
(渡辺注)
・金子竜也君は鳥取城北高校で主将、日大時代全日本で3位となる。帰郷して佐和田で飲食店「龍の隠れ家」経営。.
・塚本君は湊塚本酒店の長男で、現在早稲田大相撲部コーチ。
「寺沢、腰痛乗り越え序ノ口7戦全勝V「長く疲れた」(3/22(金) 日刊スポーツ)
<大相撲春場所>◇13日目◇22日◇エディオンアリーナ大阪
ただ1人の6戦全勝で序ノ口優勝争いのトップに立っていた西19枚目の寺沢(23=高砂、本名・寺沢樹)が、7戦全勝で優勝を決めた。7番相撲で東13枚目の薩摩桜(18=式秀)と対戦、立ち合いから突き放し、もろ手突きで押し出す快勝だった。大学相撲の強豪、東洋大を卒業し昨年3月のこの春場所で初土俵。だが、大学の相撲部を引退後に腰痛を発症。序ノ口で初めて番付にしこ名が載った、5月の夏場所で1番相撲に勝ったものの、連敗し以降は途中休場。6月下旬に椎間板ヘルニアの手術を都内で受け、名古屋場所以降は全休。一度、番付外に落ち、先場所、再び前相撲を取り、今場所が2度目の序ノ口で臨んだ。大学時代の実績から、ケガが治れば序ノ口では当然の成績かもしれないが「勝つことは考えずに落ち着いて相撲を取ることを考えていた」という今場所。1場所7番取るのは今場所が初めてだが、最高の成績で締め「思ったより長くて疲れたけど、ホッとしてうれしい」と本音を漏らした。手術を含め入院は2週間。稽古再開は昨年10月下旬からで、今でも申し合いは出来ず、ぶつかり稽古や基礎運動しか出来ない。それでも師匠の高砂親方(元大関朝潮)に「ケガが治れば幕下ぐらいまでは、すぐに上がれる」の言葉を信じ、焦らずジックリと復帰への道を歩んできた。新潟・佐渡出身で「地元に期待されて入門したのに、あんな幸先で悔しい」と期待に応えたい気持ちは強い。「今は7、8割ぐらい」という回復度合いを高め「自分の体と相談しながら少しずつ」(寺沢)番付を上げていく。
➡塚本直紀
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「53号」(平成30年4月)・期待の郷土力士を応援するため「応援の会」を結成(蘭丸)※寺沢樹・グラフ佐度(・角界デビュー ※寺沢樹)
「ウイキペディア」より
★浅羽嘉伝
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★浅羽藤左衛門
両津羽黒神社

★浅原喜右衛門
長江観音寺


★朝原世常(せじょう)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡守である。応和三年(九六三年)三月二五日に太政官符を下して、世常の召名の宿称を誤って朝臣としたことを改めた。(越佐史料)
★朝日亭八重(子)
大正末に両津甚句を初めてレコードに吹き込む、ヒコーキ印で、三味線だけで鼓なし。町内では芸者節と言って評判が良くなかったと言う。又「両津甚句」が昭和2年4月初めてNHK で放送された時の唄い手(同時に「佐渡おけさ」、「相川音頭」を唄う)。出演は他に相川の清新亭つる子。「朝日亭」は昭和22 年頃まで八郎平町にあり、その場所は昭和25年に「加茂湖ホテル」となる。『日本民謡大観』の中部編(北陸地方)(NHK :昭和30年発行)に彼女の唄った大正末の唄と譜面が載る。
「島の新聞」

★朝比奈義太郎(萩葉)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
歌人。明治三十二年三月四日、佐渡郡真野町新町で生まれた。朝比奈の姓は戸籍には朝夷である。佐渡中学校を卒業、父の主人である岡崎謙をたよって北海道へ渡りその番頭となった。後、満州へ渡り昭和二十年八月十八日湯源県で戦死した。四十七才。大正五年六月五日、本郷涙果らと共著で歌集「寂しき呼吸」を出版した。同十年「新樹」「原始林」などに関係し「とねりこ」「橄欖(かんらん)」などに投稿した。昭和三年十一月十五日、歌集「笹原」を出版した。萩菓、未鳴の号があり義郎ともいった。真野亮太郎のベンチムで噂の結婚、泥棒の陳弁などの小説も書いた。(佐渡の百年)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。
「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。
「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
「佐渡の百年より」
戸籍は「朝夷」。真野出身の文学青年。明治32年3月4日生、昭和20年8月18日黒竜江を渡る途中にソ連軍に襲撃されて死亡、47歳。
「二人の文学青年」(「佐渡の百年」)
★朝比奈次左衛門)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡奉行、寛政六年(一七九四年)閏十一月十日、目付より佐渡奉行となり、十年五月十六日、長崎奉行へ転役して河内守と改めた。はじめの名は昌始、知行は五百石、役科千五百俵百人扶持である。(佐島遭事)
★朝比奈隆
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★朝比奈萩葉
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
★莇(あざみ)梅雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★浅見副充(すけあつ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡相川の人で、和様の書および連歌をよくした。夕かはの垣根の水や朝かかみ。(佐渡人名辞書)
★朝山本成
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★阿讃坊薫
相川町出身。オリジナルショップのスタッフを経て、佐伯屋を立ち上げる。
日本の伝統工芸の企画展示販売、オリジナル商品企画。
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