2021-01-10
★體應(曼荼羅寺)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★大応→祖仙
★大光祖賢行者

★大庚梅道
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★大黒屋六郎左衛門
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より

★大順
「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)
★大乗
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡万福院住職、字は三玄、雲外と号し、また雲釣とも号した。新潟真宗長音寺の二男で、曹洞変転じ修業にまわり数年の後、敦賀永建寺、有馬の善福寺、常陸の浄春院等を訪ね、奥羽を回り村上に来て、弟巨堂のいた安泰寺の禅院にとどまり藩主の詩会に出席した。嘉永五年(一八五二年)巨堂が病死し、かわって寺務にたずさわること二年、後の住職がきまったので佐渡に渡り相川の万福院に住んだ。詩書をよく、黒竹にすぐれていた。特に詩は村上藩諸文士に推賞され三宅瓶斎、牧述堂、本間石塢、同芝園父子と親しかった。安政五年(一八五八年)ニ月に五十六才でなくなった。(北越詩話、新潟市史)
★大定(大工)
「佐渡人」(青野季吉 昭和17年)より
あの「秋の夜は長いものとは、まんまるな、月見ぬ人の心かも、更けて待てども、来ぬ人の、おとづるものは鐘ばかり、わしや照らされてゐるわいな」と云ふ、有名な端唄は、流人の大定といふ大工が、孤島の月を眺めて、ふと心に浮んだままを、江戸の歌沢の家元へ送つたのだと伝へられてゐる。さう聞くと、その哀調に特別なものがあるやうだ。大定の最後はどうなつたか分らないが、流人としての江戸の庶民の心境の一端が、そこに窺はれるやうな気がする。
★泰然院日了大徳 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★大膳坊

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

「大膳神社」
・佐渡市竹田561、式内 佐渡國雑太郡御食神社 旧村社
参道入口には上部のない鳥居。境内には能舞台がある。
・創祀年代は不詳。式内社・御食神社の論社。本来の社号は、御食神社だったと思われるが、御食神は、宮中大膳三祭神の一座であったため大膳大明神と称され、衰退後は、本来の御食神社という社号が忘れられたものらしい。
・聖護院宮に仕えた大膳坊賢榮が、阿新丸を京都より案内し佐渡に配流された阿新丸の父・日野資朝卿に会わせようとしたが雑太城主本間山城守が、これを許さず、日野資朝卿を誅した。阿新丸は仇を討つため、大膳坊賢榮の援けを受け本間山城守の館に潜入し、本間山城守の弟三郎を殺し、京都へ逃げる。本間山城守は激怒して大膳坊賢榮を処刑したが、その後、数々の祟りがあり、日野資朝卿と大膳坊賢榮を大膳神社に祀ったという。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大膳坊 9 佐渡本間物語 (9) -阿新丸の仇討と山伏大膳坊- 山中観一 45 佐渡・御食(みけ)神社考 -真野町竹田・大膳神社- 山本修巳
(大膳坊)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「27号」(平成23年10月)猪子兵介の由来譚-大膳坊法印 やわらぎ-
★大宗愚和 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★多市郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国河原田大坂町の人である。多市郎並びに妻女共親孝行であるという理由で享和二年(一八〇二年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★大通仙明 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★大統
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川法界寺の住職で和歌にすぐれていた。(佐渡人名辞書)
★大福芳雄

★大方貫通 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★平辰(たいらたつ)

(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=15
1940年(昭和15年)1月4日、にしん樽などのたがを作って北海道に売る竹工の金次郎氏と八重さん(ともに故人)の三男として新潟県佐渡市河崎に生まれる。河崎村立河崎小、河崎中、県立両津高校(9回生)を経て日立製作所に入社。3年ほど勤務して、滅菌の割り箸製造販売会社の経営などの後、68年大田区に若鳥焼きの「朱鷺」を開店し、73年には「庄や本家店(「庄や」1号店)」を開店。76年有限会社大庄を設立し、89年株式会社にする。東証1部「大庄」グループの総帥。 新潟県人会10代会長として、県人会百周年記念事業を行う。平成26年退任。また、両津高校同窓会(「石楠会」)第2代石楠会関東支部長を30年の長きに亘って務める。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「7号」(平成18年10月)「8・8」を親に感謝する国民の祝日に(平辰社長の呼びかけに応えよう)
独立制度がすべての基礎に
「ウィキペディア」より
諸情報
★平哲夫
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★平博 (たいら・ひろし)

全国に約883店舗「はい、よろこんで!」のかけ声でおなじみ、居酒屋・割烹チェーン「大庄グループ」の創業者の一人。1948年(昭和23年)8月25日、新潟県両津市河崎生まれ。68年東京の大田区池上で創業。兄平辰(たいら・たつ)二人三脚で始めた焼き鳥屋は、開店当初から売上ゼロの日が続きカベにぶつかる。手探りで始めた早朝の掃除、仕入先との人間関係、地域交流の中で、「商いとは、お客様の喜びを自分の喜びにすることだ」と気づき、「何事にも誠心誠意」をモットーに奮闘努力。たちまち商売は軌道に乗り急成長。76年法人化、94年株式を店頭公開、99年東証一部上場。上場を機に人材育成を自らの使命と定め、大庄研修センター長に就任。これまでの30年間で育てた社員は、1万人を超える。著書に、『商いで奇跡をおこす 33 の成功法則』『マニュアルなんかじゃ人はそだたず』ほか多数。
諸情報
★平季盛(たいらのすえもり)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
前主殿助 長承三(1134)佐渡に配流。伊勢神宮の称宣・神人たちからの訴えにより流罪。(『百錬抄』)
★平資行(たいらのすけゆき)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
新判官 治承元(一一七七)佐渡に配流。平清盛に抗し、藤原成親派として鹿ヶ谷の陰謀に加担した。 (『源平盛衰記』『大日本史』)
★平倫平(たいらのともひら)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡守となった。弘安九年(一二八六年)六月二十一日に上書して、前司が認諾または許可したという理由で税や官物を納めない者が多いので、前司の認諾、許可停止を願い、八月十四日幕府の許可を得た。(新潟県史)
★平伸盛(たいらのなかもり)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
安徳天皇の治承四年(一一八〇年)二月に佐渡守に任じられた。(新潟県史)
★平度繁(たいらののりしげ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
貞永元年(一二三二年)二月七日に佐渡守となった。(新潟県史)
★平宗清
(『近現代の羽茂』の中の「村人の伝承」による)
「小泊の港から小泊台地へ登る斜面に石積みの跡があって、小泊の人々は古くから宗清囲炉裏(むねきよいろり)と呼び、石屋の先祖の平宗清(たいらのむねきよ)が住んだ跡だと言い伝えてきた。しかし、また別に小泊へ「きたのは宗清の子供の権三郎で、これが今の権三郎家の先祖であり、小泊・椿尾石工の草分けだともいう。宗清は平重盛の子供で、平家滅亡後は一門を弔うため石工になった。この話は、歌舞伎の『一の谷ふたば軍記』の石屋の弥陀六で知られているが(佐渡の文弥人形にもある)、その後、三河国(愛知県)岡崎に住み着いて岡崎姓を名乗り、三男権三郎が小泊港へきて、石を求めて次第に段丘に上がり、定住したというのである。今、小泊では戸数百件のほぼ1/3が岡崎姓で、権三郎はその総本家(西三川村誌・羽茂村誌・佐渡の昔の話)」。なお、岡崎権三郎家に祖先の由来伝説では、「我家の祖先は平氏にして、・・・その子権三郎は佐渡に渡り、・・・石細工に妙を得たり」とある」(『西三川村誌』)。
子供六人といわれる分家を入れて岡崎七軒衆などといわれる家々がある。宗清囲炉裏は古墳ではないかともいわれるが、今は跡を留めていない。
・「小泊白山神社能舞台と石臼塚」(「にいがた観光ナビ」)
白山神社能舞台は明治期以前の建築で、最古の演能記録は1863年以前にさかのぼります。
神社の創建は不詳ですが、屋島で敗れた平宗清が尾張の岡崎に住んだ後、佐渡に渡り祠を建てて鎮守としたのが起源と言われています。
昭和50年代まで停農場として使用されており、境内には石臼塚があります。
【石臼塚】
一の谷嫩軍記の弥平兵衛宗清にまつわる平家伝説を伴う羽茂地区小泊の石工の歴史は古く、真野地区椿尾と共に石工で栄えた村です。
特に、小泊の石工たちは佐渡の石仏の作者としても名を馳せていました。
江戸時代末期には石仏、石臼が日本海沿岸に広く出荷され、明治から大正にかけては北海道にも移出されていました。
石臼は当時の生活必需品であり交易品の一つでしたが、時代の流れと共に使われなくなり、1977年に石臼を集め白山神社に奉納されこの塚が作られました。
このような塚は全国でも珍しいと言われています。
★平(北条)宗綱(たいらのむねつな)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
永仁元(1293)佐渡に配流。父頼綱の驕移に座す。のち赦されて北条氏の内管領となる。(『北条九代記』『保暦間記』『佐渡風土記』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
鎌倉の内管領平頼綱の嫡子である。父頼綱と弟助宗の叛謀を密告したので死罪をゆるされ、永仁元年(一二九三年)四月佐渡国へ流された。(新潟県史)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
流人。父頼綱は北条貞時の内官領で権政の者、憍潜の行いがあり北条貞時に誅された。また弟の資宗を将軍にという企てもあって資宗も父と共に殺された。長子であった宗綱は父の悪政を嘆きひそかに北条貞時に通じていた。正応六年(永仁元年一二九三年)四月二十二日、父、弟は殺され宗綱ほ佐渡へ流された。後に召かえされて管領となった。(越佐史料巻二)
★平盛方(たいらのもりかた)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
上西門院蔵人 安元二(一一七六)佐渡に配流。中務少輔藤原為綱を殺害した罪。(『百錬抄』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
安元二年(一一七六年)三月十九日に上西門院蔵人平盛方は、中務少輔藤原為綱を殺して佐渡国へ流された。(新潟県史)
★平美英(たいらのよしひで)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★田岡嶺雲
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数122
★高朝仁八郎
『金井を創った百人』


『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(技芸伝)より




「島の新聞」索引(人名別)
★高井三右衛門
両津羽黒神社

『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
両津市野町の人、三右衛門人形の創始者。両津市夷の治郎助人形を三右衛門(兵治)が、文弥語りの盲人亀先生夫婦(妻は兵治の姉)のために買ったものといわれる。カシラは同部落の勘兵衛が修理した。兵治は当時羽吉村長を三期もつとめたが、ときどき頬かむりをして人形をつかったともいう。明治三十一年死去。
一説には、椿の長兵衛人形はこの人形を譲り受けたものだともいう。
★高井寿一郎
昭和35年春、新潟日報「俳壇賞」。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高井寿一郎 2 郷愁の外海府 海女(あま)(自句自解)
★高井正春

両津高校6代校長(昭和43年4月~昭和45年3月)。
★高岩ヨシヒロ
1960年[2] - は日本の漫画家。新潟県佐渡市出身、東京都葛飾区在住。別ペンネームに高岩吉浩、星野かずみ。妻は漫画家の富田安紀子。経歴:1978年、週刊少年ジャンプの月例賞応募作品『創世記』でデビュー3]。1981年、『ドタバタ時間旅行』で第22回手塚賞に佳作入選[2][4]。その後、『月刊少年ジャンプ』(集英社)を中心に『ラブラブYOUターン』『NBA STORY』などの作品を連載。また、『小説ジュニア』(集英社)での漫画作品やコバルト文庫の表紙・挿絵など少女向けの作品を描く際は、「星野かずみ」というペンネームを使用した[3]。1990年代頃からは集英社以外の出版社の雑誌にも進出。『ヤングチャンピオン』(秋田書店)に連載された松田優作の実録漫画『松田優作物語』は、前身である『風奔る』を含め、1997年から2002年までの長期間の連載作品となった。・作品リスト:漫画:ラブラブYOUターン(月刊少年ジャンプ、集英社、全3巻)UNKNOWN(作:棟居仁、月刊少年ジャンプ、集英社、全2巻)NBA STORY(月刊少年ジャンプ、集英社、全5巻)HARD BEAT(ヤングテイオー、ぶんか社、全2巻)風奔る(作:宮崎克、スピードコミック、宝島社、全1巻)松田優作物語(作:宮崎克、ヤングチャンピオン、秋田書店、全7巻)※単行本は第0巻から第6巻までの7巻。後に竹書房より再版
コミック版プロジェクトX(宙出版、全2巻)深追い(作:横山秀夫、漫画サンデー、実業之日本社、全1巻)保険Gメン(作:森内千晴、週刊漫画TIMES、芳文社、全1巻)イノセント 〜処刑天使〜(作:宮崎克、プレイコミック、秋田書店、全1巻)・表紙・挿絵:いずれも集英社のコバルト文庫で、「星野かずみ」名義。・雑居時代(著:氷室冴子)S・O・Sマイ・フレンド(著:田中雅美)スターは君だ!!(著:田中雅美)ハート 燃えて・・・(著:唯川恵)トライ アゲイン(著:波多野鷹)恋するラグビー・ガール(著:水城昭彦)わたしの逆風野郎たち(著:園田英樹)キスミー!ミスター甲子園(著:水城昭彦)ゴールラインでだきしめて(著:水城昭彦)
・師匠:秋本治
・関連項目:渡辺航 (漫画家) - 元アシスタント。『松田優作物語』でチーフアシスタントを務めた[3]。片倉政憲 - 元アシスタント。『NBA STORY』でチーフアシスタントを務めた[3]。富士昴 - 元アシスタント。
うすね正俊 - 手塚賞の同期受賞者であり、親友である。短期間だが、アシスタントとして氏の背景を描いていた時期がある[3]。脚注^ “有名漫画家勢揃い!!『龍帝』映画化プロジェクト!!!”. Nextwaves(ネクストウェイブス). 2015年5月31日閲覧。^ a b 『深追い』表3 実業之日本社
^ a b c d e ワッツ エンターテイメント?^ 手塚賞作品一覧
★高江廣之助
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高雄敦子
平成28年8月


★髙尾政治
真野出身、「高尾工業 株式会社」取締役会長
・役員 ・代表取締役社長 高尾政樹 ・専務取締役 高尾博文 ・常務取締役 高尾宣史
・所在地 【本社工場 第三事業部】【東工場 第一事業部】【南工場 第二事業部】茨城県常総市杉山
・資本金 7,150万円
・設立年月日 【創業】昭和32年1月 【創立】昭和36年5月
・従業員 137名
(高尾政治)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・ご逝去 池田正雄・高尾政治
★高尾孫兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、安永二年(一七七三年)閏三月十二日、腰物奉行より佐渡奉行となり、六年三月二十六日持弓頭に転出した。名は信意、知行は八百石、役料千五百俵百人扶持であった。(佐島遺事)
★高尾道生
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
109 父高尾亮一の短歌と俳句
111 祖父佐々木象堂の人と作品
114 立原道造と父高尾亮一
★高尾山(初代)→中原玉吉
★高尾與作
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★高尾與三郎
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★高尾亮一
「ドキュメント 皇室典範-宮沢俊義と高尾亮一-」(高尾栄司 2019年)



新穂村大字新穂に生まれる。生家は山喜電機店の隣で、現在は空き地となっている。佐中・一高・束大卒、宮内庁に入る。戦後皇室典範改正にあたり、一室にたれこめて、陛下とむかい合って御審議申上げたという。昭和天皇の信任が厚かった。新皇居の造営主任として重責を果したが、その建築に装飾に調度に、古き新しき日本の枠を集めた苦心は後世に残るものである。岳父(妻の父)が人間国宝佐々木象堂であり、その作品が皇居に屋根を飾る「瑞鳥」である。文学にも造詣が深く、多くの作品を残している。
「20世紀日本人名事典の解説」
昭和期の官僚,版画家 山種美術財団評議員;元・宮内庁管理部長。・生年: 明治43(1910)年11月25日、没年: 昭和60(1985)年5月21日、出生地: 新潟県佐渡郡国仲新穂、学歴〔年〕:東大法学部〔昭和10年〕卒
・経歴: 昭和10年宮内省入り。現在の皇室典範、皇室経済法の作成に参画。皇居造営主管時代に吹上御所を、臨時皇居造営部長時代に新宮殿建設を手がけたほか、三笠、秩父、高松各宮邸などの建築を手がけ、宮殿づくりの“棟梁”といわれた。著書に「宮殿をつくる」がある。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

(野町の市橋家)
・次男:橋本喜一(両津市長)・三男:向高野
菊池喜左衛門(仁作 両津郵便局長)・三男:佐藤春雄(南河内)
・菊池仁作妻は高尾亮一の姉妹
※菊池家の葬儀の時、高尾さんが白いポケットチーフを付けており、これが正式なんだと思った。(山田昭夫談)
・菊地仁作の娘は野口誠之(奈良女子大学長)に嫁ぐ。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高尾亮一
1 「寺にかつ」考 4 鑑賞 佐渡のうた (4) 高尾亮一・日蓮・山家鳥虫歌・仙石廬元坊・各務支考 山本修巳 5 新刊紹介 高尾亮一著「皇居周辺」 私家版 10 <新刊紹介> 高尾亮一著「をりふしのたより」 私家版 山本修之助 10 <新刊紹介> 高尾亮一著「十番目の女神」 求龍堂版 山本修巳 12 紅葉の一句 12 書評 「佐渡風流(さどぶり)」 高尾亮一著 山本修巳 15 <新刊紹介> 私家版限定本 『下町あるき』 高尾亮一 山本修之助 19 伊丹康勝とその子孫 高尾亮一 23 <新刊紹介> 私家版限定本 『山の手往来』高尾亮一 山本修之助 26 特集 句集「海見ゆる坂」佐渡の海への抒情 27 ひとつの佐渡紀行 29 <新刊紹介> 私家版限定本『私の顔見世』高尾亮一著 山本修之助 33 <新刊紹介> 私家版限定本 『義経と弁慶』高尾亮一 山本修之助 37 <新刊紹介> 私家版限定本 「かんばん」 高尾亮一著 山本修之助 42 <新刊紹介> 私家版限定本 「江戸のなごり」 高尾亮一 著 山本修之助 48 高尾亮一氏 -よみうり寸評- 48 高尾亮一氏の思い出 山本修巳 49 高尾亮一氏逸文 「獅子ヶ城」31号(旧制佐渡中学校校友会雑誌 昭和3年発行) 109 父高尾亮一の短歌と俳句 高尾道生 114 立原道造と父高尾亮一 高尾 道生 133 皇居宮殿棟飾り「瑞鳥」と高尾亮一 末武正義 151 旧新穂村出身高尾亮一氏について 山本修巳
『十番目の女神』(高尾亮一 昭和52年)※佐渡関係のみ

「島の新聞」索引(人名別)
佐佐木象堂(高尾亮一 昭和38年)
諸情報
★高岡豊秀
佐渡高校時代の平成4.5.31-6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)800m7位、4×100mR(本間啓輔・志和正隆・戸田貴夫・高岡豊秀)6位 平成4.6.19~21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR出場
★高木君海
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人である。月木為山に学び、俳諧をよくしまた経義を亀田綾瀬に受けた。
寛政六年(一七九四年)八月に白彫の木版本「露の千種」を著わした。(佐渡人名辞書)
★高木悟了
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


★高木ひでこ
h28年9月11日 新潟日報

★高木彦治

高木彦治(後列中) 前列は雲洞庵の新井石龍 (彦治を佐渡に訪ねた)

赤泊徳和出身の教育者。明治30年頃生~昭和45年頃没、70歳頃か。中学校から島外に出て、広島高等師範学校卒。糸魚川中学在勤時代は相馬御風と交友を深めた。徳和の実家には相馬御風から送られた膨大な書籍や手紙類が残る。長岡高校校長時代は、当時高田高校校長であった小和田毅夫(雅子妃殿下祖父)と友人であった。二人は共に広島高等師範卒である。退職後に赤泊に帰った。妻は相川下戸の伊藤三右衛門家から出たチヨで、生け花、琴、三味線などをたしなんだ。又、作家林不忘が相川町出身となっていることに異を唱え、当時生存していた不忘の母ゆきの証言等を得て、「葛西周禎父子と長谷川海太郎」を書き、赤泊徳和で出生したことを明らかにした。東光寺住職と徳和の昔話などをまとめて本にしている。父は高木紋蔵である。
「葛西周禎と長谷川海太郎」(「徳和の口碑伝説その他(昭和45年 高木彦治 ))
→高木紋蔵
★高木正次(まさつぐ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行で父は正綱、又七郎または九兵衛といった。
天正十八年(一五九〇年)十六才の時、将軍秀忠の上京の供をした。文禄二年(一五九三年)下総国葛飾郡で領地をもらい三年上野国緑野郡で禄を加えられた。慶長五年(一六〇〇年)上杉景勝征伐の軍に加わった。十八年下総国葛飾郡で六百二十石余を加えられた。十九年大阪の役に秀忠に従い使番となって、目付をつとめた。元和元年にも従軍した。その功で相模国高座郡で千石を加増された。二年越後少将松平忠輝のことで高田へ来て国政を監督し、ついで持筒頭となって同心五十五人を預けられた。
八年最上義俊領地没収、また本多正純の罪の時も伊丹康勝と共に命を伝えた。九年上総国埴生、夷隅両郡で千石を加えられ,
千三百余石となった。寛永三年(一六二六年)秀忠上京に供となり、十二月従五位下筑後守となった。十年佐渡奉行となり十九年二月辞職した。慶安四年(一六五一年)に七十七才でなくなった。(大日本人名辞書)
★高木道光(みちみつ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、寛永十一年(一六三四年)より十二年まで在任した。
筑後守といい、知行は三千石であった。(佐島遺事)
★高木睦弘

両津高校14代校長(平成6年4月~平成8年3月)。
★高木紋蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
息子が高木彦治である。→高木彦治
★高岸一博
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高岸一博 130 佐渡における明治期の「アサヒビール」販売
★高木由太郎
『小木町史』(下)より
生涯を竹細工にかけた小木町の桃井寅次さんは、いろいろと記録を見せてくれました。それには、大正初期に〝笊購買販売組合″が発足し、組合長に登町の福島屋・福島峯二さんが選ばれたこと。発起人は片山某、高木由太郎さんと風間喜太夫さんで、生産者は二百五十名ほどいたこと。昭和のはじめからは、小木町生産者組合とをり、小木町信用組合に統合されたこと。そのころ荒物組合もあり、荒物の検査員に諏訪町の福井福次さんが選ばれ、大正末期から昭和二十一年ころまで町部村部と熱心にまわり、製品向上に努力されたことをどが書かれています。
★多佳気楼
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治三十年の大洪水で、二階建の料理屋の一画を破壌流失されたので、越後の大工数人を呼んで、三階建として有名になった旅館兼料理業多佳気楼が完成したのは明治三十五年で、能登瓦茸の立派な建てもので郡内一流の料理屋となり、越後の芸者を抱えた時代もあったが、昭和二十二 三年頃解き売りの運命となり、加茂村大字平松の惣四郎さんえ一部、相川町の清心苧、その他へ解き売りする運命とな・つた。繁栄の影に咲くものは、飲み屋であり、それに従事する女達である。
★高崎村利右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★高崎裕子

弁護士、旧姓は野本、母が両津夷出身で本人も両津市生まれとあるので母の実家の夷で生まれていると思われる。
実家は両津タクシーを経営した本間家で、経営者であった本間伸(のぼる)氏の姉美恵子さんが相川野本家に嫁ぎ、裕子が生まれた。
「春よこい」「ゆうこ 春みぃーつけた」等によると次のことがわかる。
三歳の時に相川の佐渡鉱山に勤めていた父の転勤で一家は兵庫県養父郡明延に移住し中学2年の3学期までそこに住んだ。その後は和歌山に転勤し、続いて高校二年の夏札幌に転勤、札幌旭丘高校卒、北大に進む。両親はその後東京の東久留米市に転居。
祖父は「きこり」で、父は「貧しい家庭に育った父は五人兄弟の長男」で「旧制中学への進学を断念」したが生涯勉強家であったと言う。
「ウィキペディア」より
高崎 裕子(たかさき ゆうこ、1948年11月6日 - )は、日本の政治家。国会議員経験者(参議院北海道選挙区から1期)。弁護士。ペンネームは「高崎ゆう子」としている。また、フェミニストとしても知られる。
(人物)
新潟県生まれ。北海道札幌旭丘高等学校卒業。1971年北海道大学法学部卒業。1976年司法試験27歳で合格し司法修習31期経て1979年に弁護士登録。北海道合同弁護士事務所勤務ののち、たかさき法律事務所を開設。弁護士業の傍ら、労働法制改悪に反対する懇談会世話人や泊・幌延直接請求の会代表委員などを経て、1989年日本共産党新人として北海道選挙区から出馬し、第15回参議院議員通常選挙で初当選した。日本共産党生活福祉委員会委員長や札幌弁護士会女権委員会副委員長などを務めた。参議院内では、文教委員、産業・資源エネルギー調査会理事、決算委員会理事、運輸委員を務めた。またTBS「クイズダービー」の「野党の委員長と1年生議員大会」で当時委員長の不破哲三と出場し見事10万点を達成した。1995年の第17回参議院議員通常選挙では落選した。現在は、弁護士業と講演活動を行っている。
(家族)
夫も弁護士で札幌弁護士会会長の高崎暢。
(著書)
『春よこい』(ポプラ書房、1989年)
『ゆう子 春みぃーつけた』(ルック、1995年)
ほか多数
★高沢博
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高沢博 100 司馬凌海とボードウィンのいる六人の写真について
★高下泰蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高階真人利風
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
佐渡国浪人 元慶三(八七九)、佐渡国雑太団権校尉を闘殺した科で、利風は他国へ還流。加茂郡入神人勲知雄、道古、今人は徒三年、大田部志真刀自女、牟志子女は杖一首(刑法上の処罰)。(『三代実録』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国の浪人である。元慶三年(八七九年)十二月十五日、利風は雑太(さわた)軍団権校尉道公宗雄を殺し、財物を盗んだ罪により遠流の刑に処された。(越佐史料)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
豪族。元慶三年(八七九年)佐渡国浪人の高階真人が雄太団権校尉道公宗雄を殺した。真人は天平宝字元年(七五七年)中央から佐渡流罪となった安宿王が、宝亀四年(七七三年)大赦によって旅還され、それが土着して豪族となった。加茂郡の神人勲知雄がこの事件に加わり徒三年の刑に処せられた。真人は高階利風と同一人である。(越佐農民の歩み)
★高島英助
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★高島蔵之助
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
吉井村 ・明4、進歩党佐渡支部発会式[三十五年九月七日]・明4、第九回衆議院議員の選挙[三十七年三月一日]・明4、代議士大竹貫一の来郡[四十年七月二十七日]
★高島圭
「島の新聞」索引(人名別)
★高島酔月
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★高島宜
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を英助といった。田中葵園について経史を学び、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★高島宣美
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を栄七といった。和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★高島屋平左衛門
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



★高杉正哉

★高田朱莉

★高田慎蔵(たかだしんぞう)
「ショートプロフィール」1852(嘉永五年)-1921(大正10年)。慶応元年奉行所に出仕、夷運上所の通弁見習となって英語を学び、慶応3年、英国公使パークス来島の折、供応の宴に列席。アーレンス商会、ベア商会と二つのドイツ人商会に勤務、ベアが廃業すると商権を買取り高田商会設立。各種機械・兵器・船舶等の日本を代表する貿易商社となる。

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)


1852(嘉永五年)-1921(大正10年)【生没】一八五二ー一九二一 嘉永五年二月二日、地役人天野孫太郎の次男として生まれる。五歳の時、地役人高田六郎兵衛の養子となり、修教館で学び演武館で剣術を習った。慶応元年(一八六五)奉行所に出仕、公事方書役などを経て、夷運上所の下調役(通弁見習)となって英語を学び、慶応三年七月に英国公使パークス来島の折には、供応の宴に列席したという。この間、慶応四年閏四月に、中山修輔が結成した迅雷隊にも加盟している。維新後佐渡県に出仕、鉱山改革のために来島した英国人技師ガワーや、鉱山正兼民部権大丞井上勝との面識を得た。明治三年英学修業のためにガワーの添書きを持って上京、同年十二月に築地居留地のアーレンス商会、明治十年からはベア商会と二つのドイツ人商会に勤務して、貿易の実務を学んだ。明治十三年にベアが廃業するとその商権を買取り、翌十四年アーレンスおよびベア商会の支配人だった英国人スコットと三人で、五○○○円ずつ出資して高田商会を設立した。その後共同出資者が相次いで病死したため、明治二十一年慎蔵個人の高田商会に切り替え、各種機械・兵器・船舶等の日本を代表する貿易商社に築き上げた。慎蔵は大正六年引退して娘婿に会社を任せ、同十年十二月二十六日没した。
【関連】天野孫太郎(あまのまごたろう)・ガワー(エラスマス・H・M・ガワー)・相川歌集(しょうせんかしゅう)【参考文献】中川清『明治・大正の代表的機会商社高田商会』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・八幡製鉄を作るのに大きな貢献をし、また日露戦争でロシアのパルチック艦隊をやっつけることになる軍艦をイギリスから買ってきた。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高田慎蔵
18 鑑賞 佐渡のうた (17) 旦水・高田相川(そうせん)・森澄雄・山本修巳
55 連載 閑々亭雑記 (14) 兵器類調達の社員は兵役免除 山本修之助
「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」(両津港物語)
諸情報
現代実業家立身伝(※高田慎蔵・益田孝 大正1)
修養世渡り警句(※益田孝・高田慎蔵・津田仙 大正4)
財界名士失敗談. 上巻(※益田孝・高田慎蔵 明42)
★高田武雄
『立浪会35年のあゆみ』(昭和34年)


★高田忠五郎
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34)
左:『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版) 右:『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★高田知
「島の新聞」索引(人名別)
★高田知紀
「島の新聞」索引(人名別)
★高田梅顚(たかだばいてん=高田平五郎)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称は平五郎、別に宣亭と号した。桜井梅室に学び俳詣をよくしまた謡曲、義太夫三弦にも巧みであった。句集「庵のちり」「ち里ひち」俳文「庵の塵」一巻がある。明治十年九月に八十四才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★高田備寛(たかだびかん)
【生没】(生年不詳)ー一七七三 佐渡奉行所地役人・仁木彦右衛門秀勝の次男で、高田六郎兵衛意正のあとを継いだ。高田家は、大和国今井八木村の出身。慶長八年より出仕、享保の末勘定役・元文三年(一七三八)定勘定役・元文四年に江戸詰めとなったのをはじめ、以後五回も江戸に行った。その後、延享四年印銀所定役・寛延元年吟味方となり、山方役見習として奥州半田銀山に行き宝暦三年在方役となった。同六年正月、石谷清昌が西丸御目付より佐渡奉行になって来国すると、石谷は前年の飢饉によって多数の餓死者が出たことを重くみて、高田備寛に命じて、一国の世情・民情を調査させた。これが『佐渡四民風俗』である。安永二年、「折れよとはかねて覚悟の雪の竹」の辞世をのこして亡くなった。六十余歳と伝える。
【関連】佐渡四民風俗(さどしみんふうぞく) 【参考文献】『日本庶民生活史料集成』(九巻)、高田備寛『佐渡四民風俗』 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡四民風俗(さどしみんふうぞく)
宝暦六年(一七五六)佐渡奉行所在方役の高田備寛は、奉行命によって島内の各村々の生活ぶりを二巻の書に記述し、これを『佐渡四民風俗』と名づけた。その後天保十一年(一八四○)に、広間役の原田久通が追補したものが明治二十八年(一八九五)に矢田求の解題で、下巻の一部を省いて史林社から刊行(同書は昭和四年にも出された)。戦後昭和二十六年(一九五一)に佐渡古典叢書として橘正隆の、さらに同四十四年に田中圭一の解説で、三一書房から出版された。上巻は中世の本間能久支配の頃から、江戸前期までの歴史の概要を述べたあと、「当国農家風俗の儀」として、上杉景勝支配以後の村の様子を記してある。記述の順序は、沢根町・河原田町・辰巳村・八幡村・四日町村と真野沿いにはじまって、終りは両津湾沿いの内海府村々となっている。下巻は職人についての記述で、樋職人・番匠・鍔師・金具師など、あらゆる職種に及んでいて、追加分を併せると、江戸前期・中期の島内の工芸事情が詳細に把握できる。筆者の高田備寛は、地方の役人とはいえ、江戸詰の機会が享保から元文にかけて前後五回もあって、江戸在住および往復の旅の経験や見聞がひろく、その視野の広さから、高度の民俗誌を書き上げることができたものと考えられる。
【関連】高田備寛(たかだびかん) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行広間役で通称を久左衛門といった。
宝暦六年(一七五六年)奉行石谷氏の命により、佐渡国四民風俗を著した。(佐渡人名辞書)
高田備寛(田中圭一講演集より)
★高田平五郎
大工町、昭和55年没、82歳。

左:「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」 右:「佐渡名勝史」(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

「高田一方精」
高田平五郎さんという方が作っていた漢方薬で『なんにでも効く薬』とされた。効用は「気付け、めまい、きふさぎ、胃の痛み、ぜんそく、たんせき、気管支病、おうと、口熱、虫歯、しゃくり、食あたり、切り傷、あかぎれ、打ち身、はれもの、二日酔い、産前産後、リュウマチ」。北海道まで販路を持っていた。明治38年時点で、一本十銭。
★高田万由子

女優。佐渡相川出身の大貿易商であった高田慎蔵の玄孫、言い換えると真由子の高祖父が高田慎蔵となる。また慎蔵の孫には世界的デザイナーであったピエール・カルダンの片腕として知られた高田美(よし)もいる。
(参照)→高田慎蔵 →高田美(よし)
『島の新聞』



「島の新聞」(両津港物語)
「ウイキペディア」より
★高田優子
佐渡高校時代の平成8.7.20~21、陸上競技県陸上競技選手権大会(新潟市) 4×400mR(高田優子・山本尚代・山本千絵・日野尾典子)1位
★高田由紀子

童話作家。相川諏訪町の万照寺住職(小林祐玄)さんのお嬢さん。同志社大卒。作品に「まんぷく寺でまってます」(2016年9月 ポプラ社)・「青いスタートライン」(2017年7月 ポプラ社)
投稿者 齊藤 想 投稿日 2016/9/27<
プロフィールには書いていませんが、著者は大手新聞社主催の童話賞を受賞されたことがあります。それから長年に渡り研鑽を積み、デビューに至りました。作品ですが、主人公はお寺の跡継ぎとして生まれた男の子です。跡継ぎとしてあるべき姿を主人公に強要する父親に反発しながら、父親を亡くした同級生の女の子との淡い恋心を通して、自分の居場所を見つけていきます。
読後感が爽やかで、だれもが安心して読める作品だと思います。物語の構成ですが、基本形である「行って帰る」に忠実だと感じました。舞台は最初から最後まで佐渡なので、主人公が物理的に旅行に出るわけではありません。しかし、お寺の跡継ぎという立場から、父親への反発をエネルギー源として少し離れるという冒険をして、元の場所に帰る。主人公はこの冒険を通して、少し大人になります。児童文学に欠かせない成長の要素もしっかりと盛り込んでいます。細かく書くと切がありませんが、日常的なシーンにも後半につながる伏線が張られていたり、とにかく細部まで詳細に詰められた作品です。とても勉強になります。外部からはうかがい知れないお寺の日常描写も豊富で、実家がお寺である強みを存分に活かしています。人ですが、まるで書き慣れたベテランのような構成だと思います。今後の活躍に期待したいです!
諸情報
★高田ユリ(たかだゆり)

【生没】一九一六ー 消費者運動家。大正五年一月二日、相川町北立島の両親の勤務先で生まれる。父母ともにそのころ小学校の教員で、一時相川味噌屋町辺にも住み、四歳のころ父母とともに上京した。昭和十二年(一九三七)に共立女子薬学専門学校(現共立薬科大)を卒業、のち同校の助教授に。主婦連合会に入ったのは昭和二十五年で、教育者からの転身は「生活を科学するため」であった。日常品試験室の主任となって、消費者運動に科学性を導入する活動を進めた。三十五年にニセ牛缶テストから、不当景品類および不当表示法の制定、四十一年にユリア樹脂製食器のホルマリン溶出テストから有害性を証明して、安全基準・表示改善など多くの成果を引き出した。ジュースのごまかし表示を明らかにし、ヘァースプレーの危険性をあばくなど業績は大きく、消費者教育の必要性を一段と社会に印象づけた。「業界の圧力をはね返し、実験と運動に振り廻されたけわしい道でした」と晩年に語っている。この間東京家政大学短期大学部および、横浜国大経済学部と教育学部の講師を勤め、五十七年には準公選の東京中野区の教育委員を、また中央公害対策審議会委員などを経て、平成元年(一九八九)に主婦連会長にも就任した。生まれた幼ないころの相川では、「村の乳母に背負われて、雪まじりの浜風の中で大声で泣いた記憶がなつかしい」と語る。
【参考文献】『現代日本朝日人物辞典』ほか 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★高田美(よし)

ピエールカルダンの片腕で、親友とも恋人とも称された女性。相川出身の貿易商高田慎蔵の孫にあたる。
高田慎蔵の興した高田商会は明治時代の貿易商としては三井物産、大蔵組と共に三大貿易商と言われた。
(参照)→高田慎蔵 →高田万由子
「デビ夫人のblogより」
「ピエールカルダンと高田美さん」
「島の新聞」(両津港物語)
★高田六郎兵衛
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★高田蘆竹
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★大応→祖仙
★大光祖賢行者


★大庚梅道
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★大黒屋六郎左衛門
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より

★大順
「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)
★大乗
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡万福院住職、字は三玄、雲外と号し、また雲釣とも号した。新潟真宗長音寺の二男で、曹洞変転じ修業にまわり数年の後、敦賀永建寺、有馬の善福寺、常陸の浄春院等を訪ね、奥羽を回り村上に来て、弟巨堂のいた安泰寺の禅院にとどまり藩主の詩会に出席した。嘉永五年(一八五二年)巨堂が病死し、かわって寺務にたずさわること二年、後の住職がきまったので佐渡に渡り相川の万福院に住んだ。詩書をよく、黒竹にすぐれていた。特に詩は村上藩諸文士に推賞され三宅瓶斎、牧述堂、本間石塢、同芝園父子と親しかった。安政五年(一八五八年)ニ月に五十六才でなくなった。(北越詩話、新潟市史)
★大定(大工)
「佐渡人」(青野季吉 昭和17年)より
あの「秋の夜は長いものとは、まんまるな、月見ぬ人の心かも、更けて待てども、来ぬ人の、おとづるものは鐘ばかり、わしや照らされてゐるわいな」と云ふ、有名な端唄は、流人の大定といふ大工が、孤島の月を眺めて、ふと心に浮んだままを、江戸の歌沢の家元へ送つたのだと伝へられてゐる。さう聞くと、その哀調に特別なものがあるやうだ。大定の最後はどうなつたか分らないが、流人としての江戸の庶民の心境の一端が、そこに窺はれるやうな気がする。
★泰然院日了大徳 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★大膳坊



『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

「大膳神社」
・佐渡市竹田561、式内 佐渡國雑太郡御食神社 旧村社
参道入口には上部のない鳥居。境内には能舞台がある。
・創祀年代は不詳。式内社・御食神社の論社。本来の社号は、御食神社だったと思われるが、御食神は、宮中大膳三祭神の一座であったため大膳大明神と称され、衰退後は、本来の御食神社という社号が忘れられたものらしい。
・聖護院宮に仕えた大膳坊賢榮が、阿新丸を京都より案内し佐渡に配流された阿新丸の父・日野資朝卿に会わせようとしたが雑太城主本間山城守が、これを許さず、日野資朝卿を誅した。阿新丸は仇を討つため、大膳坊賢榮の援けを受け本間山城守の館に潜入し、本間山城守の弟三郎を殺し、京都へ逃げる。本間山城守は激怒して大膳坊賢榮を処刑したが、その後、数々の祟りがあり、日野資朝卿と大膳坊賢榮を大膳神社に祀ったという。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大膳坊 9 佐渡本間物語 (9) -阿新丸の仇討と山伏大膳坊- 山中観一 45 佐渡・御食(みけ)神社考 -真野町竹田・大膳神社- 山本修巳
(大膳坊)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「27号」(平成23年10月)猪子兵介の由来譚-大膳坊法印 やわらぎ-
★大宗愚和 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★多市郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国河原田大坂町の人である。多市郎並びに妻女共親孝行であるという理由で享和二年(一八〇二年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★大通仙明 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★大統
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川法界寺の住職で和歌にすぐれていた。(佐渡人名辞書)
★大福芳雄

★大方貫通 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★平辰(たいらたつ)







(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=15
1940年(昭和15年)1月4日、にしん樽などのたがを作って北海道に売る竹工の金次郎氏と八重さん(ともに故人)の三男として新潟県佐渡市河崎に生まれる。河崎村立河崎小、河崎中、県立両津高校(9回生)を経て日立製作所に入社。3年ほど勤務して、滅菌の割り箸製造販売会社の経営などの後、68年大田区に若鳥焼きの「朱鷺」を開店し、73年には「庄や本家店(「庄や」1号店)」を開店。76年有限会社大庄を設立し、89年株式会社にする。東証1部「大庄」グループの総帥。 新潟県人会10代会長として、県人会百周年記念事業を行う。平成26年退任。また、両津高校同窓会(「石楠会」)第2代石楠会関東支部長を30年の長きに亘って務める。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「7号」(平成18年10月)「8・8」を親に感謝する国民の祝日に(平辰社長の呼びかけに応えよう)
独立制度がすべての基礎に
「ウィキペディア」より
諸情報
★平哲夫
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★平博 (たいら・ひろし)


全国に約883店舗「はい、よろこんで!」のかけ声でおなじみ、居酒屋・割烹チェーン「大庄グループ」の創業者の一人。1948年(昭和23年)8月25日、新潟県両津市河崎生まれ。68年東京の大田区池上で創業。兄平辰(たいら・たつ)二人三脚で始めた焼き鳥屋は、開店当初から売上ゼロの日が続きカベにぶつかる。手探りで始めた早朝の掃除、仕入先との人間関係、地域交流の中で、「商いとは、お客様の喜びを自分の喜びにすることだ」と気づき、「何事にも誠心誠意」をモットーに奮闘努力。たちまち商売は軌道に乗り急成長。76年法人化、94年株式を店頭公開、99年東証一部上場。上場を機に人材育成を自らの使命と定め、大庄研修センター長に就任。これまでの30年間で育てた社員は、1万人を超える。著書に、『商いで奇跡をおこす 33 の成功法則』『マニュアルなんかじゃ人はそだたず』ほか多数。
諸情報
★平季盛(たいらのすえもり)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
前主殿助 長承三(1134)佐渡に配流。伊勢神宮の称宣・神人たちからの訴えにより流罪。(『百錬抄』)
★平資行(たいらのすけゆき)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
新判官 治承元(一一七七)佐渡に配流。平清盛に抗し、藤原成親派として鹿ヶ谷の陰謀に加担した。 (『源平盛衰記』『大日本史』)
★平倫平(たいらのともひら)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡守となった。弘安九年(一二八六年)六月二十一日に上書して、前司が認諾または許可したという理由で税や官物を納めない者が多いので、前司の認諾、許可停止を願い、八月十四日幕府の許可を得た。(新潟県史)
★平伸盛(たいらのなかもり)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
安徳天皇の治承四年(一一八〇年)二月に佐渡守に任じられた。(新潟県史)
★平度繁(たいらののりしげ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
貞永元年(一二三二年)二月七日に佐渡守となった。(新潟県史)
★平宗清
(『近現代の羽茂』の中の「村人の伝承」による)
「小泊の港から小泊台地へ登る斜面に石積みの跡があって、小泊の人々は古くから宗清囲炉裏(むねきよいろり)と呼び、石屋の先祖の平宗清(たいらのむねきよ)が住んだ跡だと言い伝えてきた。しかし、また別に小泊へ「きたのは宗清の子供の権三郎で、これが今の権三郎家の先祖であり、小泊・椿尾石工の草分けだともいう。宗清は平重盛の子供で、平家滅亡後は一門を弔うため石工になった。この話は、歌舞伎の『一の谷ふたば軍記』の石屋の弥陀六で知られているが(佐渡の文弥人形にもある)、その後、三河国(愛知県)岡崎に住み着いて岡崎姓を名乗り、三男権三郎が小泊港へきて、石を求めて次第に段丘に上がり、定住したというのである。今、小泊では戸数百件のほぼ1/3が岡崎姓で、権三郎はその総本家(西三川村誌・羽茂村誌・佐渡の昔の話)」。なお、岡崎権三郎家に祖先の由来伝説では、「我家の祖先は平氏にして、・・・その子権三郎は佐渡に渡り、・・・石細工に妙を得たり」とある」(『西三川村誌』)。
子供六人といわれる分家を入れて岡崎七軒衆などといわれる家々がある。宗清囲炉裏は古墳ではないかともいわれるが、今は跡を留めていない。
・「小泊白山神社能舞台と石臼塚」(「にいがた観光ナビ」)
白山神社能舞台は明治期以前の建築で、最古の演能記録は1863年以前にさかのぼります。
神社の創建は不詳ですが、屋島で敗れた平宗清が尾張の岡崎に住んだ後、佐渡に渡り祠を建てて鎮守としたのが起源と言われています。
昭和50年代まで停農場として使用されており、境内には石臼塚があります。
【石臼塚】
一の谷嫩軍記の弥平兵衛宗清にまつわる平家伝説を伴う羽茂地区小泊の石工の歴史は古く、真野地区椿尾と共に石工で栄えた村です。
特に、小泊の石工たちは佐渡の石仏の作者としても名を馳せていました。
江戸時代末期には石仏、石臼が日本海沿岸に広く出荷され、明治から大正にかけては北海道にも移出されていました。
石臼は当時の生活必需品であり交易品の一つでしたが、時代の流れと共に使われなくなり、1977年に石臼を集め白山神社に奉納されこの塚が作られました。
このような塚は全国でも珍しいと言われています。
★平(北条)宗綱(たいらのむねつな)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
永仁元(1293)佐渡に配流。父頼綱の驕移に座す。のち赦されて北条氏の内管領となる。(『北条九代記』『保暦間記』『佐渡風土記』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
鎌倉の内管領平頼綱の嫡子である。父頼綱と弟助宗の叛謀を密告したので死罪をゆるされ、永仁元年(一二九三年)四月佐渡国へ流された。(新潟県史)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
流人。父頼綱は北条貞時の内官領で権政の者、憍潜の行いがあり北条貞時に誅された。また弟の資宗を将軍にという企てもあって資宗も父と共に殺された。長子であった宗綱は父の悪政を嘆きひそかに北条貞時に通じていた。正応六年(永仁元年一二九三年)四月二十二日、父、弟は殺され宗綱ほ佐渡へ流された。後に召かえされて管領となった。(越佐史料巻二)
★平盛方(たいらのもりかた)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
上西門院蔵人 安元二(一一七六)佐渡に配流。中務少輔藤原為綱を殺害した罪。(『百錬抄』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
安元二年(一一七六年)三月十九日に上西門院蔵人平盛方は、中務少輔藤原為綱を殺して佐渡国へ流された。(新潟県史)
★平美英(たいらのよしひで)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★田岡嶺雲
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数122
★高朝仁八郎
『金井を創った百人』


『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(技芸伝)より




「島の新聞」索引(人名別)
★高井三右衛門
両津羽黒神社

『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
両津市野町の人、三右衛門人形の創始者。両津市夷の治郎助人形を三右衛門(兵治)が、文弥語りの盲人亀先生夫婦(妻は兵治の姉)のために買ったものといわれる。カシラは同部落の勘兵衛が修理した。兵治は当時羽吉村長を三期もつとめたが、ときどき頬かむりをして人形をつかったともいう。明治三十一年死去。
一説には、椿の長兵衛人形はこの人形を譲り受けたものだともいう。
★高井寿一郎
昭和35年春、新潟日報「俳壇賞」。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高井寿一郎 2 郷愁の外海府 海女(あま)(自句自解)
★高井正春

両津高校6代校長(昭和43年4月~昭和45年3月)。
★高岩ヨシヒロ
1960年[2] - は日本の漫画家。新潟県佐渡市出身、東京都葛飾区在住。別ペンネームに高岩吉浩、星野かずみ。妻は漫画家の富田安紀子。経歴:1978年、週刊少年ジャンプの月例賞応募作品『創世記』でデビュー3]。1981年、『ドタバタ時間旅行』で第22回手塚賞に佳作入選[2][4]。その後、『月刊少年ジャンプ』(集英社)を中心に『ラブラブYOUターン』『NBA STORY』などの作品を連載。また、『小説ジュニア』(集英社)での漫画作品やコバルト文庫の表紙・挿絵など少女向けの作品を描く際は、「星野かずみ」というペンネームを使用した[3]。1990年代頃からは集英社以外の出版社の雑誌にも進出。『ヤングチャンピオン』(秋田書店)に連載された松田優作の実録漫画『松田優作物語』は、前身である『風奔る』を含め、1997年から2002年までの長期間の連載作品となった。・作品リスト:漫画:ラブラブYOUターン(月刊少年ジャンプ、集英社、全3巻)UNKNOWN(作:棟居仁、月刊少年ジャンプ、集英社、全2巻)NBA STORY(月刊少年ジャンプ、集英社、全5巻)HARD BEAT(ヤングテイオー、ぶんか社、全2巻)風奔る(作:宮崎克、スピードコミック、宝島社、全1巻)松田優作物語(作:宮崎克、ヤングチャンピオン、秋田書店、全7巻)※単行本は第0巻から第6巻までの7巻。後に竹書房より再版
コミック版プロジェクトX(宙出版、全2巻)深追い(作:横山秀夫、漫画サンデー、実業之日本社、全1巻)保険Gメン(作:森内千晴、週刊漫画TIMES、芳文社、全1巻)イノセント 〜処刑天使〜(作:宮崎克、プレイコミック、秋田書店、全1巻)・表紙・挿絵:いずれも集英社のコバルト文庫で、「星野かずみ」名義。・雑居時代(著:氷室冴子)S・O・Sマイ・フレンド(著:田中雅美)スターは君だ!!(著:田中雅美)ハート 燃えて・・・(著:唯川恵)トライ アゲイン(著:波多野鷹)恋するラグビー・ガール(著:水城昭彦)わたしの逆風野郎たち(著:園田英樹)キスミー!ミスター甲子園(著:水城昭彦)ゴールラインでだきしめて(著:水城昭彦)
・師匠:秋本治
・関連項目:渡辺航 (漫画家) - 元アシスタント。『松田優作物語』でチーフアシスタントを務めた[3]。片倉政憲 - 元アシスタント。『NBA STORY』でチーフアシスタントを務めた[3]。富士昴 - 元アシスタント。
うすね正俊 - 手塚賞の同期受賞者であり、親友である。短期間だが、アシスタントとして氏の背景を描いていた時期がある[3]。脚注^ “有名漫画家勢揃い!!『龍帝』映画化プロジェクト!!!”. Nextwaves(ネクストウェイブス). 2015年5月31日閲覧。^ a b 『深追い』表3 実業之日本社
^ a b c d e ワッツ エンターテイメント?^ 手塚賞作品一覧
★高江廣之助
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高雄敦子
平成28年8月


★髙尾政治
真野出身、「高尾工業 株式会社」取締役会長
・役員 ・代表取締役社長 高尾政樹 ・専務取締役 高尾博文 ・常務取締役 高尾宣史
・所在地 【本社工場 第三事業部】【東工場 第一事業部】【南工場 第二事業部】茨城県常総市杉山
・資本金 7,150万円
・設立年月日 【創業】昭和32年1月 【創立】昭和36年5月
・従業員 137名
(高尾政治)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・ご逝去 池田正雄・高尾政治
★高尾孫兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、安永二年(一七七三年)閏三月十二日、腰物奉行より佐渡奉行となり、六年三月二十六日持弓頭に転出した。名は信意、知行は八百石、役料千五百俵百人扶持であった。(佐島遺事)
★高尾道生
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
109 父高尾亮一の短歌と俳句
111 祖父佐々木象堂の人と作品
114 立原道造と父高尾亮一
★高尾山(初代)→中原玉吉
★高尾與作
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★高尾與三郎
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★高尾亮一
「ドキュメント 皇室典範-宮沢俊義と高尾亮一-」(高尾栄司 2019年)













新穂村大字新穂に生まれる。生家は山喜電機店の隣で、現在は空き地となっている。佐中・一高・束大卒、宮内庁に入る。戦後皇室典範改正にあたり、一室にたれこめて、陛下とむかい合って御審議申上げたという。昭和天皇の信任が厚かった。新皇居の造営主任として重責を果したが、その建築に装飾に調度に、古き新しき日本の枠を集めた苦心は後世に残るものである。岳父(妻の父)が人間国宝佐々木象堂であり、その作品が皇居に屋根を飾る「瑞鳥」である。文学にも造詣が深く、多くの作品を残している。
「20世紀日本人名事典の解説」
昭和期の官僚,版画家 山種美術財団評議員;元・宮内庁管理部長。・生年: 明治43(1910)年11月25日、没年: 昭和60(1985)年5月21日、出生地: 新潟県佐渡郡国仲新穂、学歴〔年〕:東大法学部〔昭和10年〕卒
・経歴: 昭和10年宮内省入り。現在の皇室典範、皇室経済法の作成に参画。皇居造営主管時代に吹上御所を、臨時皇居造営部長時代に新宮殿建設を手がけたほか、三笠、秩父、高松各宮邸などの建築を手がけ、宮殿づくりの“棟梁”といわれた。著書に「宮殿をつくる」がある。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

(野町の市橋家)
・次男:橋本喜一(両津市長)・三男:向高野
菊池喜左衛門(仁作 両津郵便局長)・三男:佐藤春雄(南河内)
・菊池仁作妻は高尾亮一の姉妹
※菊池家の葬儀の時、高尾さんが白いポケットチーフを付けており、これが正式なんだと思った。(山田昭夫談)
・菊地仁作の娘は野口誠之(奈良女子大学長)に嫁ぐ。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高尾亮一
1 「寺にかつ」考 4 鑑賞 佐渡のうた (4) 高尾亮一・日蓮・山家鳥虫歌・仙石廬元坊・各務支考 山本修巳 5 新刊紹介 高尾亮一著「皇居周辺」 私家版 10 <新刊紹介> 高尾亮一著「をりふしのたより」 私家版 山本修之助 10 <新刊紹介> 高尾亮一著「十番目の女神」 求龍堂版 山本修巳 12 紅葉の一句 12 書評 「佐渡風流(さどぶり)」 高尾亮一著 山本修巳 15 <新刊紹介> 私家版限定本 『下町あるき』 高尾亮一 山本修之助 19 伊丹康勝とその子孫 高尾亮一 23 <新刊紹介> 私家版限定本 『山の手往来』高尾亮一 山本修之助 26 特集 句集「海見ゆる坂」佐渡の海への抒情 27 ひとつの佐渡紀行 29 <新刊紹介> 私家版限定本『私の顔見世』高尾亮一著 山本修之助 33 <新刊紹介> 私家版限定本 『義経と弁慶』高尾亮一 山本修之助 37 <新刊紹介> 私家版限定本 「かんばん」 高尾亮一著 山本修之助 42 <新刊紹介> 私家版限定本 「江戸のなごり」 高尾亮一 著 山本修之助 48 高尾亮一氏 -よみうり寸評- 48 高尾亮一氏の思い出 山本修巳 49 高尾亮一氏逸文 「獅子ヶ城」31号(旧制佐渡中学校校友会雑誌 昭和3年発行) 109 父高尾亮一の短歌と俳句 高尾道生 114 立原道造と父高尾亮一 高尾 道生 133 皇居宮殿棟飾り「瑞鳥」と高尾亮一 末武正義 151 旧新穂村出身高尾亮一氏について 山本修巳
『十番目の女神』(高尾亮一 昭和52年)※佐渡関係のみ

「島の新聞」索引(人名別)
佐佐木象堂(高尾亮一 昭和38年)
諸情報
★高岡豊秀
佐渡高校時代の平成4.5.31-6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)800m7位、4×100mR(本間啓輔・志和正隆・戸田貴夫・高岡豊秀)6位 平成4.6.19~21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR出場
★高木君海
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人である。月木為山に学び、俳諧をよくしまた経義を亀田綾瀬に受けた。
寛政六年(一七九四年)八月に白彫の木版本「露の千種」を著わした。(佐渡人名辞書)
★高木悟了
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


★高木ひでこ
h28年9月11日 新潟日報

★高木彦治

高木彦治(後列中) 前列は雲洞庵の新井石龍 (彦治を佐渡に訪ねた)

赤泊徳和出身の教育者。明治30年頃生~昭和45年頃没、70歳頃か。中学校から島外に出て、広島高等師範学校卒。糸魚川中学在勤時代は相馬御風と交友を深めた。徳和の実家には相馬御風から送られた膨大な書籍や手紙類が残る。長岡高校校長時代は、当時高田高校校長であった小和田毅夫(雅子妃殿下祖父)と友人であった。二人は共に広島高等師範卒である。退職後に赤泊に帰った。妻は相川下戸の伊藤三右衛門家から出たチヨで、生け花、琴、三味線などをたしなんだ。又、作家林不忘が相川町出身となっていることに異を唱え、当時生存していた不忘の母ゆきの証言等を得て、「葛西周禎父子と長谷川海太郎」を書き、赤泊徳和で出生したことを明らかにした。東光寺住職と徳和の昔話などをまとめて本にしている。父は高木紋蔵である。
「葛西周禎と長谷川海太郎」(「徳和の口碑伝説その他(昭和45年 高木彦治 ))
→高木紋蔵
★高木正次(まさつぐ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行で父は正綱、又七郎または九兵衛といった。
天正十八年(一五九〇年)十六才の時、将軍秀忠の上京の供をした。文禄二年(一五九三年)下総国葛飾郡で領地をもらい三年上野国緑野郡で禄を加えられた。慶長五年(一六〇〇年)上杉景勝征伐の軍に加わった。十八年下総国葛飾郡で六百二十石余を加えられた。十九年大阪の役に秀忠に従い使番となって、目付をつとめた。元和元年にも従軍した。その功で相模国高座郡で千石を加増された。二年越後少将松平忠輝のことで高田へ来て国政を監督し、ついで持筒頭となって同心五十五人を預けられた。
八年最上義俊領地没収、また本多正純の罪の時も伊丹康勝と共に命を伝えた。九年上総国埴生、夷隅両郡で千石を加えられ,
千三百余石となった。寛永三年(一六二六年)秀忠上京に供となり、十二月従五位下筑後守となった。十年佐渡奉行となり十九年二月辞職した。慶安四年(一六五一年)に七十七才でなくなった。(大日本人名辞書)
★高木道光(みちみつ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、寛永十一年(一六三四年)より十二年まで在任した。
筑後守といい、知行は三千石であった。(佐島遺事)
★高木睦弘

両津高校14代校長(平成6年4月~平成8年3月)。
★高木紋蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
息子が高木彦治である。→高木彦治
★高岸一博
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高岸一博 130 佐渡における明治期の「アサヒビール」販売
★高木由太郎
『小木町史』(下)より
生涯を竹細工にかけた小木町の桃井寅次さんは、いろいろと記録を見せてくれました。それには、大正初期に〝笊購買販売組合″が発足し、組合長に登町の福島屋・福島峯二さんが選ばれたこと。発起人は片山某、高木由太郎さんと風間喜太夫さんで、生産者は二百五十名ほどいたこと。昭和のはじめからは、小木町生産者組合とをり、小木町信用組合に統合されたこと。そのころ荒物組合もあり、荒物の検査員に諏訪町の福井福次さんが選ばれ、大正末期から昭和二十一年ころまで町部村部と熱心にまわり、製品向上に努力されたことをどが書かれています。
★多佳気楼
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治三十年の大洪水で、二階建の料理屋の一画を破壌流失されたので、越後の大工数人を呼んで、三階建として有名になった旅館兼料理業多佳気楼が完成したのは明治三十五年で、能登瓦茸の立派な建てもので郡内一流の料理屋となり、越後の芸者を抱えた時代もあったが、昭和二十二 三年頃解き売りの運命となり、加茂村大字平松の惣四郎さんえ一部、相川町の清心苧、その他へ解き売りする運命とな・つた。繁栄の影に咲くものは、飲み屋であり、それに従事する女達である。
★高崎村利右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★高崎裕子

弁護士、旧姓は野本、母が両津夷出身で本人も両津市生まれとあるので母の実家の夷で生まれていると思われる。
実家は両津タクシーを経営した本間家で、経営者であった本間伸(のぼる)氏の姉美恵子さんが相川野本家に嫁ぎ、裕子が生まれた。
「春よこい」「ゆうこ 春みぃーつけた」等によると次のことがわかる。
三歳の時に相川の佐渡鉱山に勤めていた父の転勤で一家は兵庫県養父郡明延に移住し中学2年の3学期までそこに住んだ。その後は和歌山に転勤し、続いて高校二年の夏札幌に転勤、札幌旭丘高校卒、北大に進む。両親はその後東京の東久留米市に転居。
祖父は「きこり」で、父は「貧しい家庭に育った父は五人兄弟の長男」で「旧制中学への進学を断念」したが生涯勉強家であったと言う。
「ウィキペディア」より
高崎 裕子(たかさき ゆうこ、1948年11月6日 - )は、日本の政治家。国会議員経験者(参議院北海道選挙区から1期)。弁護士。ペンネームは「高崎ゆう子」としている。また、フェミニストとしても知られる。
(人物)
新潟県生まれ。北海道札幌旭丘高等学校卒業。1971年北海道大学法学部卒業。1976年司法試験27歳で合格し司法修習31期経て1979年に弁護士登録。北海道合同弁護士事務所勤務ののち、たかさき法律事務所を開設。弁護士業の傍ら、労働法制改悪に反対する懇談会世話人や泊・幌延直接請求の会代表委員などを経て、1989年日本共産党新人として北海道選挙区から出馬し、第15回参議院議員通常選挙で初当選した。日本共産党生活福祉委員会委員長や札幌弁護士会女権委員会副委員長などを務めた。参議院内では、文教委員、産業・資源エネルギー調査会理事、決算委員会理事、運輸委員を務めた。またTBS「クイズダービー」の「野党の委員長と1年生議員大会」で当時委員長の不破哲三と出場し見事10万点を達成した。1995年の第17回参議院議員通常選挙では落選した。現在は、弁護士業と講演活動を行っている。
(家族)
夫も弁護士で札幌弁護士会会長の高崎暢。
(著書)
『春よこい』(ポプラ書房、1989年)
『ゆう子 春みぃーつけた』(ルック、1995年)
ほか多数
★高沢博
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高沢博 100 司馬凌海とボードウィンのいる六人の写真について
★高下泰蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高階真人利風
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
佐渡国浪人 元慶三(八七九)、佐渡国雑太団権校尉を闘殺した科で、利風は他国へ還流。加茂郡入神人勲知雄、道古、今人は徒三年、大田部志真刀自女、牟志子女は杖一首(刑法上の処罰)。(『三代実録』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国の浪人である。元慶三年(八七九年)十二月十五日、利風は雑太(さわた)軍団権校尉道公宗雄を殺し、財物を盗んだ罪により遠流の刑に処された。(越佐史料)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
豪族。元慶三年(八七九年)佐渡国浪人の高階真人が雄太団権校尉道公宗雄を殺した。真人は天平宝字元年(七五七年)中央から佐渡流罪となった安宿王が、宝亀四年(七七三年)大赦によって旅還され、それが土着して豪族となった。加茂郡の神人勲知雄がこの事件に加わり徒三年の刑に処せられた。真人は高階利風と同一人である。(越佐農民の歩み)
★高島英助
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★高島蔵之助
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
吉井村 ・明4、進歩党佐渡支部発会式[三十五年九月七日]・明4、第九回衆議院議員の選挙[三十七年三月一日]・明4、代議士大竹貫一の来郡[四十年七月二十七日]
★高島圭
「島の新聞」索引(人名別)
★高島酔月
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★高島宜
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を英助といった。田中葵園について経史を学び、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★高島宣美
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を栄七といった。和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★高島屋平左衛門
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



★高杉正哉


★高田朱莉

★高田慎蔵(たかだしんぞう)
「ショートプロフィール」1852(嘉永五年)-1921(大正10年)。慶応元年奉行所に出仕、夷運上所の通弁見習となって英語を学び、慶応3年、英国公使パークス来島の折、供応の宴に列席。アーレンス商会、ベア商会と二つのドイツ人商会に勤務、ベアが廃業すると商権を買取り高田商会設立。各種機械・兵器・船舶等の日本を代表する貿易商社となる。



「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)





1852(嘉永五年)-1921(大正10年)【生没】一八五二ー一九二一 嘉永五年二月二日、地役人天野孫太郎の次男として生まれる。五歳の時、地役人高田六郎兵衛の養子となり、修教館で学び演武館で剣術を習った。慶応元年(一八六五)奉行所に出仕、公事方書役などを経て、夷運上所の下調役(通弁見習)となって英語を学び、慶応三年七月に英国公使パークス来島の折には、供応の宴に列席したという。この間、慶応四年閏四月に、中山修輔が結成した迅雷隊にも加盟している。維新後佐渡県に出仕、鉱山改革のために来島した英国人技師ガワーや、鉱山正兼民部権大丞井上勝との面識を得た。明治三年英学修業のためにガワーの添書きを持って上京、同年十二月に築地居留地のアーレンス商会、明治十年からはベア商会と二つのドイツ人商会に勤務して、貿易の実務を学んだ。明治十三年にベアが廃業するとその商権を買取り、翌十四年アーレンスおよびベア商会の支配人だった英国人スコットと三人で、五○○○円ずつ出資して高田商会を設立した。その後共同出資者が相次いで病死したため、明治二十一年慎蔵個人の高田商会に切り替え、各種機械・兵器・船舶等の日本を代表する貿易商社に築き上げた。慎蔵は大正六年引退して娘婿に会社を任せ、同十年十二月二十六日没した。
【関連】天野孫太郎(あまのまごたろう)・ガワー(エラスマス・H・M・ガワー)・相川歌集(しょうせんかしゅう)【参考文献】中川清『明治・大正の代表的機会商社高田商会』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】石瀬佳弘(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・八幡製鉄を作るのに大きな貢献をし、また日露戦争でロシアのパルチック艦隊をやっつけることになる軍艦をイギリスから買ってきた。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高田慎蔵
18 鑑賞 佐渡のうた (17) 旦水・高田相川(そうせん)・森澄雄・山本修巳
55 連載 閑々亭雑記 (14) 兵器類調達の社員は兵役免除 山本修之助
「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」(両津港物語)
諸情報
現代実業家立身伝(※高田慎蔵・益田孝 大正1)
修養世渡り警句(※益田孝・高田慎蔵・津田仙 大正4)
財界名士失敗談. 上巻(※益田孝・高田慎蔵 明42)
★高田武雄
『立浪会35年のあゆみ』(昭和34年)


★高田忠五郎
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34)
左:『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版) 右:『新潟県官民肖像録』(明治41年)


★高田知
「島の新聞」索引(人名別)
★高田知紀
「島の新聞」索引(人名別)
★高田梅顚(たかだばいてん=高田平五郎)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称は平五郎、別に宣亭と号した。桜井梅室に学び俳詣をよくしまた謡曲、義太夫三弦にも巧みであった。句集「庵のちり」「ち里ひち」俳文「庵の塵」一巻がある。明治十年九月に八十四才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★高田備寛(たかだびかん)
【生没】(生年不詳)ー一七七三 佐渡奉行所地役人・仁木彦右衛門秀勝の次男で、高田六郎兵衛意正のあとを継いだ。高田家は、大和国今井八木村の出身。慶長八年より出仕、享保の末勘定役・元文三年(一七三八)定勘定役・元文四年に江戸詰めとなったのをはじめ、以後五回も江戸に行った。その後、延享四年印銀所定役・寛延元年吟味方となり、山方役見習として奥州半田銀山に行き宝暦三年在方役となった。同六年正月、石谷清昌が西丸御目付より佐渡奉行になって来国すると、石谷は前年の飢饉によって多数の餓死者が出たことを重くみて、高田備寛に命じて、一国の世情・民情を調査させた。これが『佐渡四民風俗』である。安永二年、「折れよとはかねて覚悟の雪の竹」の辞世をのこして亡くなった。六十余歳と伝える。
【関連】佐渡四民風俗(さどしみんふうぞく) 【参考文献】『日本庶民生活史料集成』(九巻)、高田備寛『佐渡四民風俗』 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡四民風俗(さどしみんふうぞく)
宝暦六年(一七五六)佐渡奉行所在方役の高田備寛は、奉行命によって島内の各村々の生活ぶりを二巻の書に記述し、これを『佐渡四民風俗』と名づけた。その後天保十一年(一八四○)に、広間役の原田久通が追補したものが明治二十八年(一八九五)に矢田求の解題で、下巻の一部を省いて史林社から刊行(同書は昭和四年にも出された)。戦後昭和二十六年(一九五一)に佐渡古典叢書として橘正隆の、さらに同四十四年に田中圭一の解説で、三一書房から出版された。上巻は中世の本間能久支配の頃から、江戸前期までの歴史の概要を述べたあと、「当国農家風俗の儀」として、上杉景勝支配以後の村の様子を記してある。記述の順序は、沢根町・河原田町・辰巳村・八幡村・四日町村と真野沿いにはじまって、終りは両津湾沿いの内海府村々となっている。下巻は職人についての記述で、樋職人・番匠・鍔師・金具師など、あらゆる職種に及んでいて、追加分を併せると、江戸前期・中期の島内の工芸事情が詳細に把握できる。筆者の高田備寛は、地方の役人とはいえ、江戸詰の機会が享保から元文にかけて前後五回もあって、江戸在住および往復の旅の経験や見聞がひろく、その視野の広さから、高度の民俗誌を書き上げることができたものと考えられる。
【関連】高田備寛(たかだびかん) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行広間役で通称を久左衛門といった。
宝暦六年(一七五六年)奉行石谷氏の命により、佐渡国四民風俗を著した。(佐渡人名辞書)
高田備寛(田中圭一講演集より)
★高田平五郎
大工町、昭和55年没、82歳。

左:「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」 右:「佐渡名勝史」(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)


『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)




『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


「高田一方精」
高田平五郎さんという方が作っていた漢方薬で『なんにでも効く薬』とされた。効用は「気付け、めまい、きふさぎ、胃の痛み、ぜんそく、たんせき、気管支病、おうと、口熱、虫歯、しゃくり、食あたり、切り傷、あかぎれ、打ち身、はれもの、二日酔い、産前産後、リュウマチ」。北海道まで販路を持っていた。明治38年時点で、一本十銭。
★高田万由子

女優。佐渡相川出身の大貿易商であった高田慎蔵の玄孫、言い換えると真由子の高祖父が高田慎蔵となる。また慎蔵の孫には世界的デザイナーであったピエール・カルダンの片腕として知られた高田美(よし)もいる。
(参照)→高田慎蔵 →高田美(よし)
『島の新聞』



「島の新聞」(両津港物語)
「ウイキペディア」より
★高田優子
佐渡高校時代の平成8.7.20~21、陸上競技県陸上競技選手権大会(新潟市) 4×400mR(高田優子・山本尚代・山本千絵・日野尾典子)1位
★高田由紀子





















童話作家。相川諏訪町の万照寺住職(小林祐玄)さんのお嬢さん。同志社大卒。作品に「まんぷく寺でまってます」(2016年9月 ポプラ社)・「青いスタートライン」(2017年7月 ポプラ社)




投稿者 齊藤 想 投稿日 2016/9/27<
プロフィールには書いていませんが、著者は大手新聞社主催の童話賞を受賞されたことがあります。それから長年に渡り研鑽を積み、デビューに至りました。作品ですが、主人公はお寺の跡継ぎとして生まれた男の子です。跡継ぎとしてあるべき姿を主人公に強要する父親に反発しながら、父親を亡くした同級生の女の子との淡い恋心を通して、自分の居場所を見つけていきます。
読後感が爽やかで、だれもが安心して読める作品だと思います。物語の構成ですが、基本形である「行って帰る」に忠実だと感じました。舞台は最初から最後まで佐渡なので、主人公が物理的に旅行に出るわけではありません。しかし、お寺の跡継ぎという立場から、父親への反発をエネルギー源として少し離れるという冒険をして、元の場所に帰る。主人公はこの冒険を通して、少し大人になります。児童文学に欠かせない成長の要素もしっかりと盛り込んでいます。細かく書くと切がありませんが、日常的なシーンにも後半につながる伏線が張られていたり、とにかく細部まで詳細に詰められた作品です。とても勉強になります。外部からはうかがい知れないお寺の日常描写も豊富で、実家がお寺である強みを存分に活かしています。人ですが、まるで書き慣れたベテランのような構成だと思います。今後の活躍に期待したいです!
諸情報
★高田ユリ(たかだゆり)


【生没】一九一六ー 消費者運動家。大正五年一月二日、相川町北立島の両親の勤務先で生まれる。父母ともにそのころ小学校の教員で、一時相川味噌屋町辺にも住み、四歳のころ父母とともに上京した。昭和十二年(一九三七)に共立女子薬学専門学校(現共立薬科大)を卒業、のち同校の助教授に。主婦連合会に入ったのは昭和二十五年で、教育者からの転身は「生活を科学するため」であった。日常品試験室の主任となって、消費者運動に科学性を導入する活動を進めた。三十五年にニセ牛缶テストから、不当景品類および不当表示法の制定、四十一年にユリア樹脂製食器のホルマリン溶出テストから有害性を証明して、安全基準・表示改善など多くの成果を引き出した。ジュースのごまかし表示を明らかにし、ヘァースプレーの危険性をあばくなど業績は大きく、消費者教育の必要性を一段と社会に印象づけた。「業界の圧力をはね返し、実験と運動に振り廻されたけわしい道でした」と晩年に語っている。この間東京家政大学短期大学部および、横浜国大経済学部と教育学部の講師を勤め、五十七年には準公選の東京中野区の教育委員を、また中央公害対策審議会委員などを経て、平成元年(一九八九)に主婦連会長にも就任した。生まれた幼ないころの相川では、「村の乳母に背負われて、雪まじりの浜風の中で大声で泣いた記憶がなつかしい」と語る。
【参考文献】『現代日本朝日人物辞典』ほか 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★高田美(よし)


ピエールカルダンの片腕で、親友とも恋人とも称された女性。相川出身の貿易商高田慎蔵の孫にあたる。
高田慎蔵の興した高田商会は明治時代の貿易商としては三井物産、大蔵組と共に三大貿易商と言われた。
(参照)→高田慎蔵 →高田万由子
「デビ夫人のblogより」
「ピエールカルダンと高田美さん」
「島の新聞」(両津港物語)
★高田六郎兵衛
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★高田蘆竹
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

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