2012-01-05
「諸情報」
「病院・医者と佐渡の医療事情」(金井を創った百人」発刊1周年記念講演 講師:田中圭一)
亀井省吾(blog「佐渡が島悠々」より)
田中元筑波大学教授の講演は、毎回のことであるが得るものが多い。
今回も、佐渡人の考え方、生き方についての考察が興味深かった。
徳川幕府が官軍に破れた影響が今日の佐渡人を作っているとの考察であった。
佐渡人とは
1、明治の初めに東大医学部が出来た時、教授の1/3が佐渡人だった。
2、華岡青洲には300人の弟子が居たが、うち数十人が佐渡人だったし、江戸、京都、長崎に医学留学した。理由、天領で行動の自由があり、裕福だった。
3、明治の佐渡は非常にミジメだった。
官軍の進駐で540箇所の寺は80に減らされ、明治9年、相川県が廃され新潟県に統合され、天領ゆえの交易は衰退し、回船業は滅びた。
4、明治維新から50年で団結心がなくなったのは、リーダー不在で求心力がなくなったからである。
5、新潟県は、明治末期、人口190万人の大きな県でありながら唯一大学、美術館、博物館がなかった県。そんなものは要らないと県議会の決議であった。富農は多かったのに。
6、明治40年、時の佐渡郡長深井康邦は、「私が見た佐渡」と講演し、佐渡の人間は極端に度量狭く、自負心だけが強く、寛容の精神がない、例えば、赤十字への参加が全県に比べると、25/1000が17/1000,婦人会については、15/1000が7/1000,文盲は、5/1000に対し12/1000と高く、娼妓、遊郭の類はべらぼうに多い、要は、裕福なのに公共心が欠如している、と評した。
このように、身勝手で求心力を失ったのは、藩主が居ないゆえと田中元筑波大学教授は考察している。
では、佐渡病院は何故出来たか?昭和の初め、佐渡にも貧者の医療救済運動、セツルメント運動が起こったが一年ほどで潰れた。
これに危機感を持った運動が起きた、中心は茅原鉄蔵であった。
彼は、東京に留学し帰ってきてから明治35年、産業組合、耕地整理の実践運動を奨め、北見喜宇作の産業振興などを生んだ。
この運動は、学歴はないが、中小の地主の人たち、というのが共通の特徴であった。
昭和の初めに、竹中成憲いわく、県下で預金が一番豊かなのは佐渡だが、人のためには使わないと新聞に書いた。
これを読んだ、金井の地主、本間長二は同志を募り、青年たちも立ち上がり、信用組合立佐渡病院が出来た。
彼らは、高学歴ではなかったが佐渡の現状を憂いたのである。
ちなみに、現在、県内の投書の8割は佐渡人であると。
「江戸時代佐渡の医療」(田中圭一 18回全国天領ゼミナール 平成14年8月3・4日)
「佐渡の医学史」(蒲原宏 10回全国天領ゼミナール 平成6年8月6~8日)
「新潟県の医学の歴史をたずねて」
「長谷川元良と竹中成憲-幕末・明治の科学者達-」(田中圭一講演 平成13年11月18日 新宿文化センター)
「佐渡の衛生」(山本成之助 昭和28年)
「金井」
「明治・大正の開業医たち」(『金井を創った百人』 金井町 平成12年)より



「佐和田」
『佐和田町史』(通史編Ⅱ 平成3年)より


「新穂」
『新穂村史』(昭和51年刊)より



「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂町では江戸時代に正徳、享保(一七一一~一七三五)の頃、本間万吉三代目に周行という漢方医がいた。
寛保二年(一七四二)十月の書には新穂町、順安とあり、文化・文政(1804-1827)の頃、良碩また、文政元年(一八一八)の頃浅井快甫、文政二年(一八一九)容安、良川、天保十二年(一八四一)浅井快甫、弘化(一八四四-一八四七)年玄的、安政六年(一八五九)浅井源安などの漢方医の名が見える。明治二十四年(一八九一)五月六日山王火事の原因となった私立浅井病院開業祝いの花火は蘭法医仁庵、貞吉兄弟の施設新築の時であった。この病院が開業きれると、門前市をなしたと記録に残っている。なお先に記した容安という人は、相川羽田町の杉山家から船代村の後藤五郎右工門家へ入婿した当時の名医で、文政の頃に
は当町内に宅地建物を所有して医業に従事していたものらしく、文学にもすぐれ呉山と号して詩を能くした人で、嘉永二年(一八
四九)に相川奉行所から次のような申し渡しを受けているが、嘉永四年四月、六十九才で亡くなっている。
申渡 御役所詰医師格 船代村 後 藤 容 安
其方儀医業に出精に付、先達而御役所医格申付る処其後相励、医術功者に相成殊に村方の者に夫々教諭をも加へ、貧窮の病人等には深切に療治致し既に去々卯年申は小前百姓多数のものに施薬等致す趣相聞一段之事に付御役所詰医師肝煎並申付、平生帯刀差免す
己三月十三日 在住の儀は勝手次第 右之趣可相心得事 己三月 (註=己とは嘉永二年、肝煎並はきもやきなみ)
そして明治中期頃になると眼科医荻野医院が上町で開業、続いて内科耳鼻咽喉科本間医院、内科産科婦人科長嶋医院、内科臼杵医医院、昭和に入ると内科山田医院、小児科後藤医院などの開業がみられ、歯科医では小杉、樺島の両医がそれぞれ専門医として住民の診療にあたっていたのであるが、なお、長期入院を要する患者あるいは外科的大手術を要する者は、佐渡病院あるいは新潟医大等を尋ねるよりほかはなかったので、住民の不安は解消することはできなかった。特に冬期の積雪時にはその不便と不安はひとしおであった。
そこで住民間に病院施設を要望する声が高くなり、時の村長斎藤豊氏、村議会議長本間市郎左工門氏等が中心となって、昭和二
十二年佐渡病院新穂村診療所として元本間医院跡を借家して開所されていた診療所を、発展的解消して国の補助金を得て二九三坪の村営「新穂村国民健康保険病院」を国民健康保険の事業として開設し、二十一病床を設け前記診療所長であった当町出身の新潟医科大学出の外科医本間為次先生を迎えて院長とし、外科、内科、婦人科の三科を有する病院として発足し、薬剤師一名、レントゲン技師一名、看護婦七名、事務職員四名、その他雑役者二名を置いて最新鋭の医療機関として出発したのである。
後年、数度にわたって医療器具の新設、看菱婦の増員、水洗便所、給食施設、病棟の増改築等々が行われ村民は言うに及ばず近郷町村民の利用も多く、佐渡病院につぐ国仲地区の診療施設として目覚しい活動をしてきたのであるが、昭和三十年頃からの医師不足の影響を受けて、同三十四、五年頃から短期に派遣されるインターンを以って細々と診療を続ける状態となり、一時は佐渡病院の診療所に格下げせねばならなくなったこともあり、その経営は次第に緊迫の度を加え、同四十八年遂いに佐渡病院の診療所として存続するか、村営病院として再建するかの大困難に遭遇し、与論も喧々轟々たるものがあり、しばらくは一時しのぎの施策として、元佐渡病院院長時代名医とうたわれた川口先生の個人経営に委嘱の措置をとってきたが、同医師の急死によってその後しばらくは後継者もなく、その施設は往年の姿もなく、廃屋同然の姿となってさびしくその姿を止めていたのである。
川口先生は、当地の診療に献身された功績が高く評価きれて名誉村民の名をおくられ村葬を以てその御冥福を祈ったのである。
その間、開業医も次々に他界されて、しばらくは全くの無医村の状態であった。
昭和五十一年、ようやく台湾出身の黄先生が着任されたが、五十三年二月に帰国され、五十三年四月から国立真野療養所に勤務されていた田中先生がかっての川口先生と同様の状件で着任きれて以来、村民の保健、再生、診療に日夜献身的な努力を続けられ今日に至っている。
★新穂の医院(大正15年生 土屋武氏より)
・臼木医院:一三楼と川上楼の中間辺りにあった。内科・小児科。新穂村長も務め、午前中が役場在、午後は医師となった。
・樺島医院:歯科医(女医)で夫は教員だった。場所は南線沿いの平野側で、横町に曲がる道から6軒目位。
・小杉医院:歯科医で、樺島医院の並びで数軒目畑野側。
・後藤医院:両津から行くと、新穂橋を渡ってすぐの山側にあった。後藤衛門医師。兄は新穂村長後藤億衛、父は後藤与作(四三九)。ここに来る前は、横町で長三郎の並びにあった。後藤医院の前にこの場所は、末武医院(女医)で、末武医院の前は萩野医院(萩野桂三医師)で桂三の次男が能役者野村蘭作師である。
・末武医院:両津から行くと、新穂橋を渡ってすぐの山側にあった。女医で結婚して東京にわたった。上新穂善八郎の人で、父末武直吉は郡会議員であった。
「畑野」
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より





「真野」





「病院・医者と佐渡の医療事情」(金井を創った百人」発刊1周年記念講演 講師:田中圭一)
亀井省吾(blog「佐渡が島悠々」より)
田中元筑波大学教授の講演は、毎回のことであるが得るものが多い。
今回も、佐渡人の考え方、生き方についての考察が興味深かった。
徳川幕府が官軍に破れた影響が今日の佐渡人を作っているとの考察であった。
佐渡人とは
1、明治の初めに東大医学部が出来た時、教授の1/3が佐渡人だった。
2、華岡青洲には300人の弟子が居たが、うち数十人が佐渡人だったし、江戸、京都、長崎に医学留学した。理由、天領で行動の自由があり、裕福だった。
3、明治の佐渡は非常にミジメだった。
官軍の進駐で540箇所の寺は80に減らされ、明治9年、相川県が廃され新潟県に統合され、天領ゆえの交易は衰退し、回船業は滅びた。
4、明治維新から50年で団結心がなくなったのは、リーダー不在で求心力がなくなったからである。
5、新潟県は、明治末期、人口190万人の大きな県でありながら唯一大学、美術館、博物館がなかった県。そんなものは要らないと県議会の決議であった。富農は多かったのに。
6、明治40年、時の佐渡郡長深井康邦は、「私が見た佐渡」と講演し、佐渡の人間は極端に度量狭く、自負心だけが強く、寛容の精神がない、例えば、赤十字への参加が全県に比べると、25/1000が17/1000,婦人会については、15/1000が7/1000,文盲は、5/1000に対し12/1000と高く、娼妓、遊郭の類はべらぼうに多い、要は、裕福なのに公共心が欠如している、と評した。
このように、身勝手で求心力を失ったのは、藩主が居ないゆえと田中元筑波大学教授は考察している。
では、佐渡病院は何故出来たか?昭和の初め、佐渡にも貧者の医療救済運動、セツルメント運動が起こったが一年ほどで潰れた。
これに危機感を持った運動が起きた、中心は茅原鉄蔵であった。
彼は、東京に留学し帰ってきてから明治35年、産業組合、耕地整理の実践運動を奨め、北見喜宇作の産業振興などを生んだ。
この運動は、学歴はないが、中小の地主の人たち、というのが共通の特徴であった。
昭和の初めに、竹中成憲いわく、県下で預金が一番豊かなのは佐渡だが、人のためには使わないと新聞に書いた。
これを読んだ、金井の地主、本間長二は同志を募り、青年たちも立ち上がり、信用組合立佐渡病院が出来た。
彼らは、高学歴ではなかったが佐渡の現状を憂いたのである。
ちなみに、現在、県内の投書の8割は佐渡人であると。
「江戸時代佐渡の医療」(田中圭一 18回全国天領ゼミナール 平成14年8月3・4日)
「佐渡の医学史」(蒲原宏 10回全国天領ゼミナール 平成6年8月6~8日)
「新潟県の医学の歴史をたずねて」
「長谷川元良と竹中成憲-幕末・明治の科学者達-」(田中圭一講演 平成13年11月18日 新宿文化センター)
「佐渡の衛生」(山本成之助 昭和28年)
「金井」
「明治・大正の開業医たち」(『金井を創った百人』 金井町 平成12年)より



「佐和田」
『佐和田町史』(通史編Ⅱ 平成3年)より


「新穂」
『新穂村史』(昭和51年刊)より



「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂町では江戸時代に正徳、享保(一七一一~一七三五)の頃、本間万吉三代目に周行という漢方医がいた。
寛保二年(一七四二)十月の書には新穂町、順安とあり、文化・文政(1804-1827)の頃、良碩また、文政元年(一八一八)の頃浅井快甫、文政二年(一八一九)容安、良川、天保十二年(一八四一)浅井快甫、弘化(一八四四-一八四七)年玄的、安政六年(一八五九)浅井源安などの漢方医の名が見える。明治二十四年(一八九一)五月六日山王火事の原因となった私立浅井病院開業祝いの花火は蘭法医仁庵、貞吉兄弟の施設新築の時であった。この病院が開業きれると、門前市をなしたと記録に残っている。なお先に記した容安という人は、相川羽田町の杉山家から船代村の後藤五郎右工門家へ入婿した当時の名医で、文政の頃に
は当町内に宅地建物を所有して医業に従事していたものらしく、文学にもすぐれ呉山と号して詩を能くした人で、嘉永二年(一八
四九)に相川奉行所から次のような申し渡しを受けているが、嘉永四年四月、六十九才で亡くなっている。
申渡 御役所詰医師格 船代村 後 藤 容 安
其方儀医業に出精に付、先達而御役所医格申付る処其後相励、医術功者に相成殊に村方の者に夫々教諭をも加へ、貧窮の病人等には深切に療治致し既に去々卯年申は小前百姓多数のものに施薬等致す趣相聞一段之事に付御役所詰医師肝煎並申付、平生帯刀差免す
己三月十三日 在住の儀は勝手次第 右之趣可相心得事 己三月 (註=己とは嘉永二年、肝煎並はきもやきなみ)
そして明治中期頃になると眼科医荻野医院が上町で開業、続いて内科耳鼻咽喉科本間医院、内科産科婦人科長嶋医院、内科臼杵医医院、昭和に入ると内科山田医院、小児科後藤医院などの開業がみられ、歯科医では小杉、樺島の両医がそれぞれ専門医として住民の診療にあたっていたのであるが、なお、長期入院を要する患者あるいは外科的大手術を要する者は、佐渡病院あるいは新潟医大等を尋ねるよりほかはなかったので、住民の不安は解消することはできなかった。特に冬期の積雪時にはその不便と不安はひとしおであった。
そこで住民間に病院施設を要望する声が高くなり、時の村長斎藤豊氏、村議会議長本間市郎左工門氏等が中心となって、昭和二
十二年佐渡病院新穂村診療所として元本間医院跡を借家して開所されていた診療所を、発展的解消して国の補助金を得て二九三坪の村営「新穂村国民健康保険病院」を国民健康保険の事業として開設し、二十一病床を設け前記診療所長であった当町出身の新潟医科大学出の外科医本間為次先生を迎えて院長とし、外科、内科、婦人科の三科を有する病院として発足し、薬剤師一名、レントゲン技師一名、看護婦七名、事務職員四名、その他雑役者二名を置いて最新鋭の医療機関として出発したのである。
後年、数度にわたって医療器具の新設、看菱婦の増員、水洗便所、給食施設、病棟の増改築等々が行われ村民は言うに及ばず近郷町村民の利用も多く、佐渡病院につぐ国仲地区の診療施設として目覚しい活動をしてきたのであるが、昭和三十年頃からの医師不足の影響を受けて、同三十四、五年頃から短期に派遣されるインターンを以って細々と診療を続ける状態となり、一時は佐渡病院の診療所に格下げせねばならなくなったこともあり、その経営は次第に緊迫の度を加え、同四十八年遂いに佐渡病院の診療所として存続するか、村営病院として再建するかの大困難に遭遇し、与論も喧々轟々たるものがあり、しばらくは一時しのぎの施策として、元佐渡病院院長時代名医とうたわれた川口先生の個人経営に委嘱の措置をとってきたが、同医師の急死によってその後しばらくは後継者もなく、その施設は往年の姿もなく、廃屋同然の姿となってさびしくその姿を止めていたのである。
川口先生は、当地の診療に献身された功績が高く評価きれて名誉村民の名をおくられ村葬を以てその御冥福を祈ったのである。
その間、開業医も次々に他界されて、しばらくは全くの無医村の状態であった。
昭和五十一年、ようやく台湾出身の黄先生が着任されたが、五十三年二月に帰国され、五十三年四月から国立真野療養所に勤務されていた田中先生がかっての川口先生と同様の状件で着任きれて以来、村民の保健、再生、診療に日夜献身的な努力を続けられ今日に至っている。
★新穂の医院(大正15年生 土屋武氏より)
・臼木医院:一三楼と川上楼の中間辺りにあった。内科・小児科。新穂村長も務め、午前中が役場在、午後は医師となった。
・樺島医院:歯科医(女医)で夫は教員だった。場所は南線沿いの平野側で、横町に曲がる道から6軒目位。
・小杉医院:歯科医で、樺島医院の並びで数軒目畑野側。
・後藤医院:両津から行くと、新穂橋を渡ってすぐの山側にあった。後藤衛門医師。兄は新穂村長後藤億衛、父は後藤与作(四三九)。ここに来る前は、横町で長三郎の並びにあった。後藤医院の前にこの場所は、末武医院(女医)で、末武医院の前は萩野医院(萩野桂三医師)で桂三の次男が能役者野村蘭作師である。
・末武医院:両津から行くと、新穂橋を渡ってすぐの山側にあった。女医で結婚して東京にわたった。上新穂善八郎の人で、父末武直吉は郡会議員であった。
「畑野」
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より





「真野」





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