2021-08-23
★「佐渡島」とは?
「佐渡島(さどしま・さどがしま)」とは、「新潟県西部に位置していて新潟県佐渡市に属する島」のことです。
「佐渡島」は面積が854. 76km2で、北方領土を除く日本の島では「沖縄本島」に次いで大きな島になります。
「古事記」にも「佐渡島」の記載があり、645年の「大化の改新」の後に律令国家の体制に組み込まれた「佐渡」が成立したと伝えられています。
「佐渡島(さどしま)」は、国土地理院や文部科学省が採用している公式の漢字表記・島名(地名)になります。
「佐渡ヶ島」とは?
「佐渡ヶ島(さどがしま)」とは、「新潟県西部の海上にあり新潟県佐渡市に属する島」のことです。
「佐渡ヶ島」は1601年に「佐渡金山」が発掘されたことで有名ですが、順徳天皇・日蓮・日野資朝などが配流されたり流刑にされたりしたように、古代から中世にかけては「島流し(流刑)の島」でもありました。
「佐渡ヶ島(さどがしま)」の漢字表記・読み方は、「佐渡島(さどしま)」以上に島民(地元の人)や一般の日本人に普及しています。
元々は「佐渡・佐渡国」という古代律令制に由来する令制国(りょうせいこく)の地名・国名があり、それに「島」をつけた島名なので、「佐渡ヶ島」も「佐渡島」もどちらかが間違いというわけではありません。
「佐渡島」も「佐渡ヶ島」も「新潟県佐渡市の住所にされている新潟県西部の日本海上にある島」を意味していて、「佐渡島」も「佐渡ヶ島」もまったく同じ島のことです。
「佐渡島」の読み方は「さどしま」と「さどがしま」の二通りありますが、「佐渡島」と漢字で書いて「さどしま」と読むのが、国土地理院や文部科学省が採用している公式の島名・地名になっています。
ただし島民(地元の人)や一般の日本人には、「佐渡ヶ島」の漢字表記や「さどがしま」の呼び方も慣習的に普及しているため、島名について「佐渡ヶ島(さどがしま)」と書いたり呼んだりしても間違いではありません。
・まとめ
「佐渡島」と「佐渡ヶ島」の違いを説明しましたが、いかがだったでしょうか?
「佐渡島」とは「新潟県西部に位置して新潟県佐渡市に属する島・その島について国土地理院が採用している公式の漢字表記」を意味していて、「佐渡ヶ島」は「新潟県西部の海上にある新潟県佐渡市に属する島・その島についての慣習的な漢字表記」を意味している違いがあります。
★「佐渡島」と「佐渡ヶ島」の違い
「佐渡島」と「佐渡ヶ島」は、同じ新潟県の西部にある島を指す地名です。
どちらも、同じ島を指す地名で、単に呼び方が異なるものとなります。
「佐渡島」の場合、読み方は、「さどしま」と「さどがしま」の2パターンがあり、国土地理院や文部科学省などで公式な島の名前、地名として、「佐渡島」と書いて「さどしま」と読むことが定められています。一方、「佐渡ヶ島」の方は、一般的に親しまれているものとなり、その点に違いがあるだけで、全く同じ島を指す言葉になります。
★「佐渡」の呼び方って「さどしま」?「さどがしま」?
2008/05/13
5/11に佐渡の呼び方についての討論会が行われたようです。
「佐渡」は、さどしま? さどがしま?—。住民の間でさまざまな意見がある「佐渡」の呼び方を考える「佐渡の呼称を考える公開討論会」が11日、佐渡市中原のアミューズメント佐渡で開かれた。
新潟日報 NIIGATA NIPPO On Line
「佐渡」の呼び方は、多くの人が「さど」または「さどがしま」のようですが、国土地理院の定めた標準地名によると「さどしま」が正しいようです(未確認)。そんなこともあり、こんな討論会が行われた模様(あと、話題作り)。 「標準地名集」という書籍もありますが、1981年に発行されたもので、今ではどうも絶版のようです。
標準地名集―自然地名 (1981年)建設省国土地理院地図管理部
「さどがしま」には、島流しのイメージがあるから、「さどとう」が良い、なんてことを言い出す人もいたようです。「さどしま」言いにくいですが、「さどとう」も言いにくいだろう…
という感じで、「佐渡」の呼称について2時間の討論会が行われたのですが、結局、「さどしま」とする支持者はいなかったが、結果的に意見はまとまらず、加藤さんが「さまざまな考えがあるのを一律にしていいものかどうか。住民1人1人が思う呼び方で良いのではないか」と結び、呼称の結論は出なかった。
★越佐と出雲
越佐と出雲1 新潟日報 2016年2月12日掲載
http://izumo-studies.info/articles/etsusa_and_izumo/1_izumozaki_tasukewatasukuni
越佐と出雲2 新潟日報2016年2月26日掲載
http://izumo-studies.info/articles/etsusa_and_izumo/2_izumozaki_izumoda
越佐と出雲3 新潟日報 2016年3月11日掲載
http://izumo-studies.info/articles/etsusa_and_izumo/3_izumonokami_yorikijinja
「佐渡島」呼称問題
http://sado2298.blog.fc2.com/blog-entry-464.html
新潟県佐渡市の峠・渓谷・その他自然地名一覧
https://www.mapion.co.jp/phonebook/M07008/15224/
★佐渡国〜湿地を意味する「雑太(さはた)」が変化した地名
佐渡国(さどのくに)は現在の新潟県の佐渡島(さどがしま、さどのしま)に相当する旧国(令制国)です。
佐渡島は現在1島1市の佐渡市となっています。
佐渡は近年はトキの保護・飼育で知られる所。
その地名の由来をご紹介します。
古い地名の由来は諸説あります。
あくまで当サイトでの見解です。
1 佐渡国とは
2 地名の由来
「狭門=山に挟まれた狭い平地」説
「雑太郷=沢田=湿地を開発した土地」説
3 当サイトの見解は「雑太郷」説
雑太の地名の意味は「湿地を開発した地」
4 参考資料
佐渡国とは
佐渡国は佐渡島からなる国で、古くは「佐度」「佐土」などの表記も見られました。
書物における初見は『古事記』『日本書紀』のいわゆる国生みの話。
佐度島/佐度洲(さどのしま)として登場。大八島国の一つとなっていました。
『国造本記』では、743年に佐渡国は越後国(現在の新潟県本土側)に併合。
しかし752年に再び独立して佐渡国となります。
国内に郡は最初は雑太郡(さはたのこおり)1郡のみでした。
721年に郡が分割されて雑太・加茂(かも)・羽茂(はもち)の3郡体制に。
近世には金山・銀山の鉱山で繁栄しました。
・地名の由来
佐渡の地名由来は主に2説があります。
「狭門=山に挟まれた狭い平地」説
サドは「狭門」「狭処」「狭戸」などの意で、山と山とに挟まれ狭くなった平野を表したものとする説。
佐渡島は中央に平野があるのみで、その南北に山地があります。さらに島であるためその周囲は海。平野部はかなり限られた範囲のみです。
そしてその平野部に国府などの中枢がありました。
そのためその中枢となった平野の地形状況が地名となったとする説です。
当サイトでは、広域の地名はその範囲内の一地形に由来するという考えを基本としています。
参考:
旧国名や郡名は範囲内の一地域の地形に由来している!
この説はこの考え方に合致します。
「雑太郷=沢田=湿地を開発した土地」説
佐渡国内には雑太郡(さはたのこおり)があり雑太郡の中には雑太郷(さはたごう)があります。雑太は雑田と表記することがあります。
サドとサハタ(サワタ)では読みが似ていますが、同じではありません。
しかし意図的に又は自然に変化した可能性は十分考えられます。
また前述の通り佐渡国は当初は国内に雑太郡1郡のみでした。さらに雑太郡の中に雑太郷があります。
国内に同名の郡名や郷名があるときは、それが地名発祥地とする、当サイトの基本の考え方を当てはめ、雑太郷が佐渡国の地名由来と考えてもおかしくないでしょう。
かつての日本は地名の好字二字化を推し進めました。
その際にかなり強引な地名の変型をおこなった事例もあります。
また郷名より郡名、郡名より国名により良い印象の好字を使用した傾向もあります。
佐渡も、雑太(さはた)を「サハタ」→「サワタ」と強引に変化させて「佐渡」「佐度」の字を当てて「サハタ」と訓じさせたと推測します。
その後に読みが訓読みになり「サド」に変化したものと思われます。
地名由来伝承はウソ!? 古い地名は読みが転訛・変化している!?
漢字に惑わされるな! 古い地名は字面通りの意味ではない!?
旧国名や郡名は範囲内の一地域の地形に由来している!
では、雑太郷はどのような由来で生まれた地名でしょうか。
雑太(さはた)とは沢田のことで、沢(古くは「さは」と読んだ)は湿地のことです。
雑太郷は現在の佐渡市 旧 佐和田町にあたるとされています。佐和田町の中心市域は佐渡島中西部の平地にあり、国府川の下流域にあたります。
地形的にも湿地であったことは容易に想像が場所です。
その湿地を開発して出来た土地であることから沢田郷→雑太郷と命名されたのです。
なお沢田は沢処(サワト)が変化してサハタとなったとする説もあります。
こちらも意味することは同じです。
当サイトの見解は「雑太郷」説
雑太の地名の意味は「湿地を開発した地」
狭門説と雑太説の2つとも国内の一地名に由来しており、どちらも信憑性があります。
当サイトでは同名の郡名・郷名がある点に着目し、「雑太郷」由来説を推します。
参考資料
楠原佑介ほか『古代地名語源辞典』東京堂出版
『日本歴史地名体系 高知県の地名』平凡社
池邊彌『和名類聚抄郷名考証』吉川弘文館
★多田
佐渡国の始耕・稲作りを教えた三助・お菊の伝説は各地に残っている有名な伝記の一つです。
土佐国(高知県)の永楽又兵衛という農夫の倅三助は継母にいじめられて佐渡へ渡されました。三助の実母は悲しみ、三助の遠流に先立って、籾三升に鍬・鎌をもたせました。佐渡に着いた三助はやがて能登の国から流されたお菊という女に多田の浜でめぐり逢い、二人は夫婦となり三助の持ってきた籾をまいて稲を育てました。こが佐渡の稲作の始まりといわれ三助夫婦がこの多田の地で巡り逢い、農耕をしたことから、逢田といい中古には太田となり、今は多田となっています。多田沖田には夫婦の使った鍬・鎌を収めた塚がありました。また多田の西北方に男神山・女神山という二つの山が仲良く並んでいますが三助・お菊をそれぞれ祀った山とされています。この地は佐渡七弁天崎の一つであり三助・お菊が真夏に語り涼んだいこいの地といわれています。それに弁財天の祠と青竜大権現を祀った小社があります。
★願(ねがい): 新潟県佐渡市願
地名の由来について、磯漁をすることを「磯ねぎ」といい、その「ねぎ合い」ということばの転訛との説、近くに賽の河原洞穴があり願をかけたことからとの両説がある。
★猿八
猿八の開発の始まっ寛永15年。この年は申(さる)年で、出来上がったのが八月。それに起源する。
越敷神社
・祭神:埴安神 応神天皇 菅原道真朝臣
・由緒:当社は延喜式神名帳に記載ある佐渡九社神の第七に位する大社である。寛文年中佐渡国雑太郡三宮村に鎮座せる祠を先に勧請ありし八幡社に合祀遷座せられたり。明治六年八月式内村社に列せられる。明治三十一年十二月四日社殿火難に罹りしを氏子は敬神の年強く翌年より二ヶ年で再建、現在に至る・
・例祭日: 九月一日
・創建時期は不詳。
・往古は三宮村字荒屋(現・佐渡市三宮荒屋)の小字大社という地にあったと言われます(現在三宮神社が鎮座している場所が当社の旧鎮座地という説も)。『佐渡国誌』によればここに石祠があるとのことですが、現在もあるのかは不明。
延喜式神名帳にみえる「佐渡国雑太郡 越敷神社」に比定されています。
後に三宮の地に三宮神社(位置)が出来てそちらが栄えたため、当社は寂れてしまいます。
・猿八を開拓し、後に三宮に移住した斉藤清兵衛(『畑野村志』には「猿八村開発者2世斉藤清兵衛」とありますが清兵衛自身が2代目なのか、移住したのが清兵衛の子(2代目)なのかは不明)が当社の寂れ具合を嘆き、村人の了解を得て猿八に遷したとされます。
・遷座時期は慶安元年(1648)とか寛文5年(1665)とかの説あり。なおこの遷座の際、神官の高橋氏もまた猿八に移住したといいます(その後神職を辞した模様)。当地には寛永5年(1628)に勧請された八幡社があり、越敷神社の遷座後、合祀されました。
・明治6年(1873)村社列格。
・社名は通常「おしきじんじゃ」と読まれますが、「おふのじんじゃ」と読むとする説もあります。また、『佐渡神社誌』では、「越敷訓読普通【ヲシキ】なれども【ヲブ】と訓む方古に近し【ヲニブ】の中略」とあります。主祭神は現在、埴安姫命とされていますが、埴安神、彦火々出見尊、若狭比古神といった説もあったそうです。
★佐渡の難読地名
(あ行)
四十物町 あいものまち 相川
吾潟 あがた 両津
阿佛坊 あぶつぼう 真野
海士町 あままち 相川
荒城 あらじょう 佐和田
石花 いしげ 相川
石扣町 いしはたきまち 相川
五十浦 いかうら 相川
岩首 いわくび 両津
岩谷口 いわやぐち 相川
畝立 うねだち 赤泊
馬首 うまくび 両津
江積 えつつみ 小木
大床屋町 おおとこやまち 相川
下戸町 おりとまち 相川
下戸村 おりとむら 相川
(か行)
欠向 かけむかい 畑野
鹿伏 かぶせ 相川
上矢馳 かみやばせ 佐和田
加茂歌代 かもうたしろ 両津
北狄 きたえびす 相川
高下 こうげ 相川
腰細 こしぼそ 赤泊
木流 こながせ 小木
小比叡 こびえ 小木
(さ行)
三宮 さんぐう 畑野
宿根木 しゅくねぎ 小木
素蒔 すまき 羽茂
背合 せなごう 真野
千本 せんぼ 相川
(た行)
大小 だいしょう 真野
高千 たかち 相川
田切須 たぎりす 真野
高瀬 たこせ 相川
達者 たっしゃ 相川
壇塔 だんとう 金井
月布施 つきふせ 両津
(な行)
中何代 なかなんだい 畑野
二宮 にくう 佐和田
願 ねがい 両津
納内 のうち 金井
(は行)
生椿 はえつばき 新穂
硲 はざま 佐和田
羽二生 はにゅう 両津
仏供石 ぶくいし 赤泊
畉田 ふた 畑野
冬居 ふゆい 羽茂
(ま行)
真更川 まさらがわ 両津
水渡田 みとだ 金井
筵場 むしろば 赤泊
両尾 もろお 両津
(や行)
矢柄 やがら 相川
米郷 よなごう 相川
「佐渡島(さどしま・さどがしま)」とは、「新潟県西部に位置していて新潟県佐渡市に属する島」のことです。
「佐渡島」は面積が854. 76km2で、北方領土を除く日本の島では「沖縄本島」に次いで大きな島になります。
「古事記」にも「佐渡島」の記載があり、645年の「大化の改新」の後に律令国家の体制に組み込まれた「佐渡」が成立したと伝えられています。
「佐渡島(さどしま)」は、国土地理院や文部科学省が採用している公式の漢字表記・島名(地名)になります。
「佐渡ヶ島」とは?
「佐渡ヶ島(さどがしま)」とは、「新潟県西部の海上にあり新潟県佐渡市に属する島」のことです。
「佐渡ヶ島」は1601年に「佐渡金山」が発掘されたことで有名ですが、順徳天皇・日蓮・日野資朝などが配流されたり流刑にされたりしたように、古代から中世にかけては「島流し(流刑)の島」でもありました。
「佐渡ヶ島(さどがしま)」の漢字表記・読み方は、「佐渡島(さどしま)」以上に島民(地元の人)や一般の日本人に普及しています。
元々は「佐渡・佐渡国」という古代律令制に由来する令制国(りょうせいこく)の地名・国名があり、それに「島」をつけた島名なので、「佐渡ヶ島」も「佐渡島」もどちらかが間違いというわけではありません。
「佐渡島」も「佐渡ヶ島」も「新潟県佐渡市の住所にされている新潟県西部の日本海上にある島」を意味していて、「佐渡島」も「佐渡ヶ島」もまったく同じ島のことです。
「佐渡島」の読み方は「さどしま」と「さどがしま」の二通りありますが、「佐渡島」と漢字で書いて「さどしま」と読むのが、国土地理院や文部科学省が採用している公式の島名・地名になっています。
ただし島民(地元の人)や一般の日本人には、「佐渡ヶ島」の漢字表記や「さどがしま」の呼び方も慣習的に普及しているため、島名について「佐渡ヶ島(さどがしま)」と書いたり呼んだりしても間違いではありません。
・まとめ
「佐渡島」と「佐渡ヶ島」の違いを説明しましたが、いかがだったでしょうか?
「佐渡島」とは「新潟県西部に位置して新潟県佐渡市に属する島・その島について国土地理院が採用している公式の漢字表記」を意味していて、「佐渡ヶ島」は「新潟県西部の海上にある新潟県佐渡市に属する島・その島についての慣習的な漢字表記」を意味している違いがあります。
★「佐渡島」と「佐渡ヶ島」の違い
「佐渡島」と「佐渡ヶ島」は、同じ新潟県の西部にある島を指す地名です。
どちらも、同じ島を指す地名で、単に呼び方が異なるものとなります。
「佐渡島」の場合、読み方は、「さどしま」と「さどがしま」の2パターンがあり、国土地理院や文部科学省などで公式な島の名前、地名として、「佐渡島」と書いて「さどしま」と読むことが定められています。一方、「佐渡ヶ島」の方は、一般的に親しまれているものとなり、その点に違いがあるだけで、全く同じ島を指す言葉になります。
★「佐渡」の呼び方って「さどしま」?「さどがしま」?
2008/05/13
5/11に佐渡の呼び方についての討論会が行われたようです。
「佐渡」は、さどしま? さどがしま?—。住民の間でさまざまな意見がある「佐渡」の呼び方を考える「佐渡の呼称を考える公開討論会」が11日、佐渡市中原のアミューズメント佐渡で開かれた。
新潟日報 NIIGATA NIPPO On Line
「佐渡」の呼び方は、多くの人が「さど」または「さどがしま」のようですが、国土地理院の定めた標準地名によると「さどしま」が正しいようです(未確認)。そんなこともあり、こんな討論会が行われた模様(あと、話題作り)。 「標準地名集」という書籍もありますが、1981年に発行されたもので、今ではどうも絶版のようです。
標準地名集―自然地名 (1981年)建設省国土地理院地図管理部
「さどがしま」には、島流しのイメージがあるから、「さどとう」が良い、なんてことを言い出す人もいたようです。「さどしま」言いにくいですが、「さどとう」も言いにくいだろう…
という感じで、「佐渡」の呼称について2時間の討論会が行われたのですが、結局、「さどしま」とする支持者はいなかったが、結果的に意見はまとまらず、加藤さんが「さまざまな考えがあるのを一律にしていいものかどうか。住民1人1人が思う呼び方で良いのではないか」と結び、呼称の結論は出なかった。
★越佐と出雲
越佐と出雲1 新潟日報 2016年2月12日掲載
http://izumo-studies.info/articles/etsusa_and_izumo/1_izumozaki_tasukewatasukuni
越佐と出雲2 新潟日報2016年2月26日掲載
http://izumo-studies.info/articles/etsusa_and_izumo/2_izumozaki_izumoda
越佐と出雲3 新潟日報 2016年3月11日掲載
http://izumo-studies.info/articles/etsusa_and_izumo/3_izumonokami_yorikijinja
「佐渡島」呼称問題
http://sado2298.blog.fc2.com/blog-entry-464.html
新潟県佐渡市の峠・渓谷・その他自然地名一覧
https://www.mapion.co.jp/phonebook/M07008/15224/
★佐渡国〜湿地を意味する「雑太(さはた)」が変化した地名
佐渡国(さどのくに)は現在の新潟県の佐渡島(さどがしま、さどのしま)に相当する旧国(令制国)です。
佐渡島は現在1島1市の佐渡市となっています。
佐渡は近年はトキの保護・飼育で知られる所。
その地名の由来をご紹介します。
古い地名の由来は諸説あります。
あくまで当サイトでの見解です。
1 佐渡国とは
2 地名の由来
「狭門=山に挟まれた狭い平地」説
「雑太郷=沢田=湿地を開発した土地」説
3 当サイトの見解は「雑太郷」説
雑太の地名の意味は「湿地を開発した地」
4 参考資料
佐渡国とは
佐渡国は佐渡島からなる国で、古くは「佐度」「佐土」などの表記も見られました。
書物における初見は『古事記』『日本書紀』のいわゆる国生みの話。
佐度島/佐度洲(さどのしま)として登場。大八島国の一つとなっていました。
『国造本記』では、743年に佐渡国は越後国(現在の新潟県本土側)に併合。
しかし752年に再び独立して佐渡国となります。
国内に郡は最初は雑太郡(さはたのこおり)1郡のみでした。
721年に郡が分割されて雑太・加茂(かも)・羽茂(はもち)の3郡体制に。
近世には金山・銀山の鉱山で繁栄しました。
・地名の由来
佐渡の地名由来は主に2説があります。
「狭門=山に挟まれた狭い平地」説
サドは「狭門」「狭処」「狭戸」などの意で、山と山とに挟まれ狭くなった平野を表したものとする説。
佐渡島は中央に平野があるのみで、その南北に山地があります。さらに島であるためその周囲は海。平野部はかなり限られた範囲のみです。
そしてその平野部に国府などの中枢がありました。
そのためその中枢となった平野の地形状況が地名となったとする説です。
当サイトでは、広域の地名はその範囲内の一地形に由来するという考えを基本としています。
参考:
旧国名や郡名は範囲内の一地域の地形に由来している!
この説はこの考え方に合致します。
「雑太郷=沢田=湿地を開発した土地」説
佐渡国内には雑太郡(さはたのこおり)があり雑太郡の中には雑太郷(さはたごう)があります。雑太は雑田と表記することがあります。
サドとサハタ(サワタ)では読みが似ていますが、同じではありません。
しかし意図的に又は自然に変化した可能性は十分考えられます。
また前述の通り佐渡国は当初は国内に雑太郡1郡のみでした。さらに雑太郡の中に雑太郷があります。
国内に同名の郡名や郷名があるときは、それが地名発祥地とする、当サイトの基本の考え方を当てはめ、雑太郷が佐渡国の地名由来と考えてもおかしくないでしょう。
かつての日本は地名の好字二字化を推し進めました。
その際にかなり強引な地名の変型をおこなった事例もあります。
また郷名より郡名、郡名より国名により良い印象の好字を使用した傾向もあります。
佐渡も、雑太(さはた)を「サハタ」→「サワタ」と強引に変化させて「佐渡」「佐度」の字を当てて「サハタ」と訓じさせたと推測します。
その後に読みが訓読みになり「サド」に変化したものと思われます。
地名由来伝承はウソ!? 古い地名は読みが転訛・変化している!?
漢字に惑わされるな! 古い地名は字面通りの意味ではない!?
旧国名や郡名は範囲内の一地域の地形に由来している!
では、雑太郷はどのような由来で生まれた地名でしょうか。
雑太(さはた)とは沢田のことで、沢(古くは「さは」と読んだ)は湿地のことです。
雑太郷は現在の佐渡市 旧 佐和田町にあたるとされています。佐和田町の中心市域は佐渡島中西部の平地にあり、国府川の下流域にあたります。
地形的にも湿地であったことは容易に想像が場所です。
その湿地を開発して出来た土地であることから沢田郷→雑太郷と命名されたのです。
なお沢田は沢処(サワト)が変化してサハタとなったとする説もあります。
こちらも意味することは同じです。
当サイトの見解は「雑太郷」説
雑太の地名の意味は「湿地を開発した地」
狭門説と雑太説の2つとも国内の一地名に由来しており、どちらも信憑性があります。
当サイトでは同名の郡名・郷名がある点に着目し、「雑太郷」由来説を推します。
参考資料
楠原佑介ほか『古代地名語源辞典』東京堂出版
『日本歴史地名体系 高知県の地名』平凡社
池邊彌『和名類聚抄郷名考証』吉川弘文館
★多田
佐渡国の始耕・稲作りを教えた三助・お菊の伝説は各地に残っている有名な伝記の一つです。
土佐国(高知県)の永楽又兵衛という農夫の倅三助は継母にいじめられて佐渡へ渡されました。三助の実母は悲しみ、三助の遠流に先立って、籾三升に鍬・鎌をもたせました。佐渡に着いた三助はやがて能登の国から流されたお菊という女に多田の浜でめぐり逢い、二人は夫婦となり三助の持ってきた籾をまいて稲を育てました。こが佐渡の稲作の始まりといわれ三助夫婦がこの多田の地で巡り逢い、農耕をしたことから、逢田といい中古には太田となり、今は多田となっています。多田沖田には夫婦の使った鍬・鎌を収めた塚がありました。また多田の西北方に男神山・女神山という二つの山が仲良く並んでいますが三助・お菊をそれぞれ祀った山とされています。この地は佐渡七弁天崎の一つであり三助・お菊が真夏に語り涼んだいこいの地といわれています。それに弁財天の祠と青竜大権現を祀った小社があります。
★願(ねがい): 新潟県佐渡市願
地名の由来について、磯漁をすることを「磯ねぎ」といい、その「ねぎ合い」ということばの転訛との説、近くに賽の河原洞穴があり願をかけたことからとの両説がある。
★猿八
猿八の開発の始まっ寛永15年。この年は申(さる)年で、出来上がったのが八月。それに起源する。
越敷神社
・祭神:埴安神 応神天皇 菅原道真朝臣
・由緒:当社は延喜式神名帳に記載ある佐渡九社神の第七に位する大社である。寛文年中佐渡国雑太郡三宮村に鎮座せる祠を先に勧請ありし八幡社に合祀遷座せられたり。明治六年八月式内村社に列せられる。明治三十一年十二月四日社殿火難に罹りしを氏子は敬神の年強く翌年より二ヶ年で再建、現在に至る・
・例祭日: 九月一日
・創建時期は不詳。
・往古は三宮村字荒屋(現・佐渡市三宮荒屋)の小字大社という地にあったと言われます(現在三宮神社が鎮座している場所が当社の旧鎮座地という説も)。『佐渡国誌』によればここに石祠があるとのことですが、現在もあるのかは不明。
延喜式神名帳にみえる「佐渡国雑太郡 越敷神社」に比定されています。
後に三宮の地に三宮神社(位置)が出来てそちらが栄えたため、当社は寂れてしまいます。
・猿八を開拓し、後に三宮に移住した斉藤清兵衛(『畑野村志』には「猿八村開発者2世斉藤清兵衛」とありますが清兵衛自身が2代目なのか、移住したのが清兵衛の子(2代目)なのかは不明)が当社の寂れ具合を嘆き、村人の了解を得て猿八に遷したとされます。
・遷座時期は慶安元年(1648)とか寛文5年(1665)とかの説あり。なおこの遷座の際、神官の高橋氏もまた猿八に移住したといいます(その後神職を辞した模様)。当地には寛永5年(1628)に勧請された八幡社があり、越敷神社の遷座後、合祀されました。
・明治6年(1873)村社列格。
・社名は通常「おしきじんじゃ」と読まれますが、「おふのじんじゃ」と読むとする説もあります。また、『佐渡神社誌』では、「越敷訓読普通【ヲシキ】なれども【ヲブ】と訓む方古に近し【ヲニブ】の中略」とあります。主祭神は現在、埴安姫命とされていますが、埴安神、彦火々出見尊、若狭比古神といった説もあったそうです。
★佐渡の難読地名
(あ行)
四十物町 あいものまち 相川
吾潟 あがた 両津
阿佛坊 あぶつぼう 真野
海士町 あままち 相川
荒城 あらじょう 佐和田
石花 いしげ 相川
石扣町 いしはたきまち 相川
五十浦 いかうら 相川
岩首 いわくび 両津
岩谷口 いわやぐち 相川
畝立 うねだち 赤泊
馬首 うまくび 両津
江積 えつつみ 小木
大床屋町 おおとこやまち 相川
下戸町 おりとまち 相川
下戸村 おりとむら 相川
(か行)
欠向 かけむかい 畑野
鹿伏 かぶせ 相川
上矢馳 かみやばせ 佐和田
加茂歌代 かもうたしろ 両津
北狄 きたえびす 相川
高下 こうげ 相川
腰細 こしぼそ 赤泊
木流 こながせ 小木
小比叡 こびえ 小木
(さ行)
三宮 さんぐう 畑野
宿根木 しゅくねぎ 小木
素蒔 すまき 羽茂
背合 せなごう 真野
千本 せんぼ 相川
(た行)
大小 だいしょう 真野
高千 たかち 相川
田切須 たぎりす 真野
高瀬 たこせ 相川
達者 たっしゃ 相川
壇塔 だんとう 金井
月布施 つきふせ 両津
(な行)
中何代 なかなんだい 畑野
二宮 にくう 佐和田
願 ねがい 両津
納内 のうち 金井
(は行)
生椿 はえつばき 新穂
硲 はざま 佐和田
羽二生 はにゅう 両津
仏供石 ぶくいし 赤泊
畉田 ふた 畑野
冬居 ふゆい 羽茂
(ま行)
真更川 まさらがわ 両津
水渡田 みとだ 金井
筵場 むしろば 赤泊
両尾 もろお 両津
(や行)
矢柄 やがら 相川
米郷 よなごう 相川
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