2021-06-29
佐渡の民謡(050629 佐渡総合高校)

佐渡の旧家と人脈-葛西敬之と有田八郎他-(041203 首都圏佐渡連合会)
youtube↓
佐渡の旧家と人脈-葛西敬之と有田八郎他-(041203 首都圏佐渡連合会)

民謡授業@相川小 040908

サイエンスプロジェクト」(040730/31)
「サイエンスプロジェクト」(040730/31)
佐渡総合高校 民謡授業(040629 佐渡総合高校)

ふるさと講座(0406112 新穂公民館)「葛西敬之と有田八郎」

「葛西敬之と有田八郎 ワード」
「葛西敬之と有田八郎 パワーポイント」
youtube ふるさと講座(「葛西敬之と有田八郎」)040611
031128 佐渡民謡四方山話(新潟県人会館)
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「佐渡民謡の集い」前編(「ダン渡辺の「佐渡民謡四方山話」」他 031128 新潟県人会館)

「佐渡民謡四方山話」資料
「佐渡民謡四方山話」パワーポイント
031125 小木四方山話-芸妓の文化他-(あゆす会館)
「小木四方山話-芸妓の文化他-」(031125 小木あゆす会館)












030910 佐渡の民謡(小5用:相川小)


030630 佐渡総合高校 民謡授業


030612 古写真が語る新穂2(新穂ふるさと講座)
新穂ふるさと講座(「古写真が語る新穂2」)令和3年6月12日
![デスクトップ全体 [2021-06-29 18-09-58]](https://blog-imgs-136.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210629181855b57.jpg)
「説教人形」と「のろま人形」:享保年間(1716-1736)に須田五郎左衛門(八王子)が京から伝えた。現在51の首がある。その当時からのものと思われるものも多い。
・本間家10代清房の親友だった八王子の須田五郎左衛門が「永扇が能で芸名をあげるなら自分も一芸で名をあげよう」と江戸に行き説教節を習い、京で人形つかいも覚えたのだと伝えられる。
・その後青木人形、 北方人形、瓜生屋人形等とその芸人の属する村名をとって一座の名称とした。
・のろま人形は説教人形の合狂言として上演された。木の助、下の長者、お花、仏師の四つの人形を、方言 のろま人形丸出しの掛合いでせりふをいう。
「石地蔵」「そば畑」「五輪仏」「木の助座禅」 ・ 「お花さんの里帰り」等の出しものがある。
※のろま人形異説:寛保年間に江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が佐渡に渡り人形を遣わせたのが始まり。
※佐渡の説教人形は金平(きんぴら)人形ともいわれ、大江山酒呑童子や熊野合戦などの合戦ものと、哀れな心情を表現する孕常盤(はらみときわ)や山椒大夫がよく演じられた。大夫一人に人形の遣い手三人という人形座で、頭、遣い方、衣裳なども簡単で古風であったといわれる。
※野呂間人形は説教人形・文弥人形の間狂言として、一人遣いで方言を交えた台詞と滑稽卑俗な話で観客を笑わせる。人形遣い野呂松勘兵衛によって有名になったことから、野呂の間狂言を縮めて「野呂間」人形と呼ばれるようになった。一説には、この愚鈍な滑稽芝居が、ノロマ(野呂間)の語源とも言う。
「文弥節」
1:古浄瑠璃の流派の一。延宝(1673~1681)のころ、大坂の岡本文弥が創始。哀調を帯びた旋律が特徴で、泣き節といわれて人気を博したが、宝永年間(1704~1711)には衰滅。
2:民俗芸能として残存し、新潟県佐渡市、宮崎県都城市、石川県白山市等で人形芝居と結びついて行われる。
※【浄瑠璃】 の解説
語り物の一。室町中期から、琵琶や扇拍子の伴奏で座頭が語った。伴奏に三味線を使うようになり多様となり、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居が成立。義太夫、常磐津、清元、新内節などの各流派が派生した。
・文弥人形は明治初年羽茂の大崎屋松之助が大阪の岡本文弥のいわゆる文弥節とその人形を伝えた。人形芝居は享保元文から明治、大正と約百八十年間栄えた。
殊に明治初年から五ー六〇年間の文弥人形が最もさ かんで、新穂においてはいわゆる「潟上人形」といわれる初代池田宗玄、一 度照造(明治二〇年代)の末広座、及び新穂上町金子森蔵の「忠兵衛人形」が知られる。
・又のろま人形は説教人形の幕合いの狂言として行な われたもので、寛文年間江戸ののろ松勘兵衛の始めたものと伝えられている。
・文弥人形の太夫は池田宗玄でその美声と節廻しは有名であった。文弥節は一名「泣き節」ともいわれ、義理人情の 織りなす切々たる表情を伝え、それが人形と一体となって観衆の涙を誘った。又説教人形は幕が高いので「高幕人 形」ともいわれ、文弥人形は中央に「御殿」をしつらえ立体視を出したので「御殿人形」ともいわれた。使い手一度造の特に一に困難といわれたなぎなた使いは有名であった。佐渡島内だけでなく遠くまで出演している。次の 「鑑札写」が残っている。
「鑑札写 第10号 大正九年四月迄有効 遊芸称人驚札 愛媛県溫泉郡三津浜稲荷新地 一慶照造 日 大正八年四月一日 愛媛県溫泉郡役所図」
とあり、遠く四国まで出向いていたことを物語っている。
「鬼太鼓」
研究家仲野一男の文によれば「陽成天皇の代(882年)中国から能登半島に伝わった器楽と奈良時代に朝鮮から伝わった僧舞と、その太鼓を基にして作り出されたものでその後享保年間、 潟上の能の宝生流の本間清房師が産の所作を取り入れて改変を加え、更に大正年間舟下の森田宗市がこれを大衆化して 勇壮活発なものにし、人はこれを宗四郎流と称し、更に近藤勘吉はこれを巧みとしたので忠左エ門流と称した。
.、村内に鬼太鼓は 数々あるが、対外的には、この舟下の鬼太鼓が代表とされている。」と記されている。
■光市母子殺害事件
平成11年、18歳の少年が主婦と長女を殺害。加害者は一・二審で無期懲役判決、最高裁で破棄、死刑判決。
残虐な事件と「Fを死刑にすべきでない」と主張する弁護団。被害者の夫本村洋が「死刑でなくてよい、刑務所から出たら私が殺す」と訴える。
橋下はテレビで「あの弁護団に一斉に懲戒請求をかけてもらいたい」と視聴者に呼びかけた。
「踊り」
・むつみ会は仲野静美の主宰で昭和25年頃から多数の会員。
★青木の田起こし唄
「青木の歴史」にこの歌のいわれが詳しく書かれている。それによると、起源は不明だが、江戸時代、明治初年になってますます盛んに唄われた。元々は田植え作業時の労作歌だったが、時代の変遷に伴い、祝儀の席上での「祝い唄」「おどり」となった。別名は囃子詞の「ヨオーヤ ヨオーヤ」から「よやよや」と言った。昭和29年1月有志が立ちあがり、当時の古老よりこの唄の踊りの鍬ふりの指導を受けて「田起こし保存会」が結成された。
『新穂村史』(昭和51年刊)より
・田起し踊り 無形文化財 村指定 昭和四十八年六月十八日 保存会 川上新治氏:昔、田植作業の時に唄う労作唄で次第に踊り化され後祝儀唄となり、昭和二十九年二月保存会の結成となった。田植の時五人位の田人が田起し唄に合せて平鍬を振い大足を使って踊り、苗配りをする人の所作面白く五人位の早乙女は田植歌に合せて田植所作の踊りをする。囃しは樽を用い素朴で楽しさの溢れる田起しと田植の歌と踊りである。休憩時間は広い所で飲み食い、唄い踊りしたものであるが農作業の変化と共に次第に忘れさられた現況に鑑み古典民謡を存続させて文化財としたものである。踊りの起りは古く近世或は中世に及ぶ、最も盛んであったのは江戸時代から明治の初年である。NHKその他に招かれて出演すること十数回に及んでいる。田人早乙女の服装及び用具も民族資料として価値高いものであり、じゆばん、もゝひき、前ひろはゞき、どうらん、大足等現在全く使用されない貴重な文化遺産である。この保存会員(昭和四十七年八月現在)は男子十一名、女子五名である。
★羽田清次「佐渡盆踊 各地各態」(昭和13年刊)
※江戸時代末~明治、大正、昭和初期の盆踊りが書かれている。筆者は明治・大正・昭和を生きた方(1868-1946)。
(新穂町)
人の出盛りは十時過ぎ、櫓を中心に踊りの輪。音頭は「奈須與一」や「木曾義仲」等の77調のもの。音頭取りが交代で櫓の先に立って足拍子を取りながら歌い、休んでいるものが太鼓を打つ。櫓の上へ酒が運ばれ、音頭は元気づく。そして男女の親しい関係が出来る。通行の妨害になると言って駐在巡査が注意すると一時止めるがまた再開する。その後、横宿線が開通し、横町の町幅が広くなったのでそこに櫓が立つようになった。
■新穂の民謡
「こがね会」:昭和12年創立、歴代会長は土屋正寛-酒井藤太郎-近藤浅治-近藤哲央-霍間孝-後藤一夫-阿部弘-渡部初夫-青木純夫-榎良和-相田智佳子ー市橋雅臣
○近藤浅治:新穂北方の人、大正6年生。「こがね会」に長く在籍し、同会会長も務めた。歌の名手で知られ、特に「国仲音頭」のレコードはほとんどこの人に依る。県民謡協会副会長職も歴任。昭和52年新潟県民謡協会が初めて公認講師を認定した時、佐渡から小間惟司氏と共に認定。平成3年名誉教授6人の一人に選出。
○田中甚平(紅月・幸月):新穂舟下の人、明治37年生、59歳没。本名は田中甚兵衛、民謡では田中紅月を名乗る。小山武男、田中正巳、松下くめと昭和初期頃「佐渡おけさ」「佐渡おけさぞめき」をレコーディング。旧節「両津甚句」もレコードに残る。「おけさ踊」(大正15年刊)に高名な民謡歌手として紹介あり。
■新穂の芸能
「能」
室町時代の大成者といわれる世阿弥 (1363-1443)が佐渡に流罪となったのが永享6年(1434)72才の時で、在島3年位と思われるがこの間影響があったことはいなめない。北方万福寺(今は廃寺)に居た節、新保万福寺にいた説とあり、後泉に移った。潟上(台湾)の本間家は佐渡の宝生流家元として伝わる家柄。
・享保年中(1716-1736)、能楽宗家本間家は10代右京清房の時、芸に秀いで又宝生宗家の後見となり能面の道に達し、特に永扇の号を宗家から賜った。
・ 「佐渡年代記」によれば宝暦6年(1756)項、潟上村本間左京が前代より猿楽をなし能太夫と唱えた、とある。
・神社に附設の能舞台も多く、本村内に現存するものに 湯上牛尾神社、武井熊野神社の二つがある。掛舞台といって公演の時だけ臨時に舞台を作る材料が青木熊野神社にあった。
・潟上(吾尋)の本問梅ヶ沢家は代々能太夫の家で十二代左京由春、十四代令は特堪能で、村内外に弟子が多かった。
・かつて長畝の山田仁平、つづみ打の太田貞之烝、瓜生屋石井喜平治、田野沢の岩田浅治、下新穂の影山新右ェ門、長畝の羽田清治、 北方の菊池栄太郎、 武井の高野幸吉、 青木の齋藤儀太郎、 川上福松等これをよくした。
・現在は北方の菊池汎、青木の如月会の川上三吉、井内の昭諷会の後藤政治等が活躍している。
★野村蘭作
新穂村出身の宝生流能楽師で昭和四十年に重要無形文化財保持者総合指定。人間国宝と呼ばれることも多い。佐渡宝生15代目本間令桑の孫で、幼児、来島した宝生九郎家元に才能を認められて宗家で修行。後、家元の令嬢と結婚しして家元の実家の野村家を継承した。19255年野村蘭作が宝生流宗家を同行して来島し、これがキッカケで1928年より謡と仕舞の指導に羽茂へ来ることになった。1925年野村蘭作が宝生流宗家を同行して来島。これがきっかけで1928年より謡と仕舞の指導に羽茂へ来ることになった。
当時佐渡の能は、謡も拍子方も骨格が崩れ、拍子方も併せて養成することになった。招聘したのは、ヤマカ(ヤマカ醤油・葛西嘉右衛門家)の葛西ナカ。稽古は、ヤマカの別荘で行われた。
(注)重要無形文化財の保持者が俗に言う「人間国宝」であるが、それには三種類ある。
重要無形文化財の保持者または保持団体の認定の方式には、「各個認定」「総合認定」「保持団体認定」の3種があり、「重要無形文化財の指定並びに保持者及び保持団体の認定基準」(昭和29年文化財保護委員会告示第55号)に規定されている。
『真野町史(下巻)』より 「宝生二派の統一」
潟上の佐渡能楽倶楽部と西三川の佐渡能楽会に佐渡宝生が二つに分れた。
潟上16代の凞の葬儀が行われた昭和16年。宝生宗家代理の本間広清が来島、式後潟上派の人々を舞台に集め、日本国中同流派が二派に分れているのは佐渡だけで遺憾なこと、一日も早く協同すべきと説いたが、70年に余る感情は容易に解消できず。
統一の機運を作ったのは野村蘭作である。野村が新町に疎開したのは太平洋戦争が始まってまもなくだった。野村の指導は全島に亘った。そのため全佐渡の能楽の向上があり、同時に潟上、西三川両派の人々が同門として融合しやすい空気が生じた。西三川派で「檀風」をやったとき、野村がわざわざ手伝いに行ったのも、和解のきっかけを意識してのことだった。両派の和解が成立して合同演能が催され、長年の不協和音が解消されたのは昭和23年8月であった。
「佐渡宝生流の分裂」『真野町史(下巻)』
西三川の金子竜太郎は潟上の本間右近に入門し令蔵の地謡方になる。
明治8年、羽茂で演能、令蔵が道成寺、地頭(じがしら)は金子、来島した命尾寿六が鐘をひく。宴席で命尾が「今日の道成寺の地謡は何だ」とが言い出し金子と口論。令蔵は命尾先生に謝れと言ったが金子は聞かず、佐渡宝生の分裂がはじまる。
金子は加賀へ行き、波吉宮門について能を、一噌幸太郎に笛を、斉田千年に大鼓を、三須錦吾に小鼓を、増見仙太郎に金春流の太鼓を習う。帰って門下生を指導した金子は再び加賀へ行き加賀宝生の太夫宝生嘉内に入門し免許皆伝を許された。帰国後、自邸の敷地に能舞台を建て多数の能装束を買い求めた。
金子は加賀宝生の流れをくむ太夫として免状を出し入門者も増えた。こうして佐渡の宝生は二流の対立となる。令蔵は上京して高田商会に勤め帰国。この間に西三川流の勢力が伸びる。殊に金子の功績として特筆に価するのは、笛の島田磨佐記(加賀)太鼓の高安三太郎(江戸)太鼓の川合彦兵衛(加賀)等一流の役者を佐渡に迎えたこと。明治維新に際し生計の道を失ったかれらにとっては渡りに舟であり、世話をする者はかなり経済的負担があったはずである。金子柳太郎が亡くなった高次郎が二代目を継いだ。
「佐渡広場」より
(参考)西三川派の創始者 金子柳太郎その後
柳太郎は、明治36年(1903)3月23日68歳で没する直前の2月10日金子高次郎(1880~1961)に皆伝免許を授け婿養子とし二代目を継がせた(『佐渡の能舞台』。『佐渡能楽史序説』では、「柳太郎の逝去後、相川町・・・の三男高次郎が柳太郎次女の婿養子となり、初め実父に謡を習い、のち畑福新三郎に師事、さらに明治35年には上京して10世波吉宮門の教えも受けて、芸事は養父柳太郎にも劣らぬものがあったといわれており、西三川派は、新興派閥の熱気と結束があり、高次郎を二世大夫に仰いで安泰であった」とある) ところが、高次郎は大正7年(1918)になって能装束等を売却した。能装束は、群馬県高崎市で能楽の公演があった時に知り合った同市の多額納税勅選議員・桜井忠三郎に2万円で売却したという。能舞台は、同じく公演で知り合った京都の狂言師に売り払った。 売却が何の相談もなく密かに行なわれたので、門人たちは反発し「太夫」という敬称を止め佐渡能楽会を結成。出資金を集め、能装束を購入し充足を図った。(以降、潟上派と西三川派の実質的対立は、本間能太夫・佐渡能楽倶楽部会員と佐渡能楽会会員の対立となる) その金子高次郎(以後「佳愛」)は、佐渡能楽会から排除され東京へ出て能の師匠などして生活していたが、食えなくなったのかやがて佐渡能楽会への入会を求めて来た。昭和3年(1928)佐渡能楽会は、過去の事を許し金子の入会を認めた。その年の12月16日佐渡能楽会創立10周年記念祝賀能を真野尋常小学校体育館で行い、佳愛が「安宅」を舞いそれが復帰の披露となった。なお、佳愛は芸と指導に優れているとの定評があり、佳愛を尊敬する多くの門弟がいた。楽謡会・佳鳳会は、金子佳愛の門弟グループ。
「説教人形」と「のろま人形」:享保年間(1716-1736)に須田五郎左衛門(八王子)が京から伝えた。現在51の首がある。その当時からのものと思われるものも多い。
・本間家10代清房の親友だった八王子の須田五郎左衛門が「永扇が能で芸名をあげるなら自分も一芸で名をあげよう」と江戸に行き説教節を習い、京で人形つかいも覚えたのだと伝えられる。
・その後青木人形、 北方人形、瓜生屋人形等とその芸人の属する村名をとって一座の名称とした。
・のろま人形は説教人形の合狂言として上演された。木の助、下の長者、お花、仏師の四つの人形を、方言 のろま人形丸出しの掛合いでせりふをいう。
「石地蔵」「そば畑」「五輪仏」「木の助座禅」 ・ 「お花さんの里帰り」等の出しものがある。
※のろま人形異説:寛保年間に江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が佐渡に渡り人形を遣わせたのが始まり。
※佐渡の説教人形は金平(きんぴら)人形ともいわれ、大江山酒呑童子や熊野合戦などの合戦ものと、哀れな心情を表現する孕常盤(はらみときわ)や山椒大夫がよく演じられた。大夫一人に人形の遣い手三人という人形座で、頭、遣い方、衣裳なども簡単で古風であったといわれる。
※野呂間人形は説教人形・文弥人形の間狂言として、一人遣いで方言を交えた台詞と滑稽卑俗な話で観客を笑わせる。人形遣い野呂松勘兵衛によって有名になったことから、野呂の間狂言を縮めて「野呂間」人形と呼ばれるようになった。一説には、この愚鈍な滑稽芝居が、ノロマ(野呂間)の語源とも言う。
「文弥節」
1:古浄瑠璃の流派の一。延宝(1673~1681)のころ、大坂の岡本文弥が創始。哀調を帯びた旋律が特徴で、泣き節といわれて人気を博したが、宝永年間(1704~1711)には衰滅。
2:民俗芸能として残存し、新潟県佐渡市、宮崎県都城市、石川県白山市等で人形芝居と結びついて行われる。
※【浄瑠璃】 の解説
語り物の一。室町中期から、琵琶や扇拍子の伴奏で座頭が語った。伴奏に三味線を使うようになり多様となり、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居が成立。義太夫、常磐津、清元、新内節などの各流派が派生した。
・文弥人形は明治初年羽茂の大崎屋松之助が大阪の岡本文弥のいわゆる文弥節とその人形を伝えた。人形芝居は享保元文から明治、大正と約百八十年間栄えた。
殊に明治初年から五ー六〇年間の文弥人形が最もさ かんで、新穂においてはいわゆる「潟上人形」といわれる初代池田宗玄、一 度照造(明治二〇年代)の末広座、及び新穂上町金子森蔵の「忠兵衛人形」が知られる。
・又のろま人形は説教人形の幕合いの狂言として行な われたもので、寛文年間江戸ののろ松勘兵衛の始めたものと伝えられている。
・文弥人形の太夫は池田宗玄でその美声と節廻しは有名であった。文弥節は一名「泣き節」ともいわれ、義理人情の 織りなす切々たる表情を伝え、それが人形と一体となって観衆の涙を誘った。又説教人形は幕が高いので「高幕人 形」ともいわれ、文弥人形は中央に「御殿」をしつらえ立体視を出したので「御殿人形」ともいわれた。使い手一度造の特に一に困難といわれたなぎなた使いは有名であった。佐渡島内だけでなく遠くまで出演している。次の 「鑑札写」が残っている。
「鑑札写 第10号 大正九年四月迄有効 遊芸称人驚札 愛媛県溫泉郡三津浜稲荷新地 一慶照造 日 大正八年四月一日 愛媛県溫泉郡役所図」
とあり、遠く四国まで出向いていたことを物語っている。
030601 JA佐渡女性部新穂支部「講話会」
youtube 「新穂あれこれ」(2021年6月1日 佐渡農協新穂支所)




030329「小木講演」(小木の文化再発見)(小木あゆす会館)
youtube まちなみ講演会「小木の文化再発見」(2021年3月29日 小木「あゆす会館」)


■「小木の民謡」
★小木おけさ
小木独特の「おけさ節」で現在も「佐渡おけさ」とは独立して唄われる。民謡研究家であり、NHKやコロンビアレコードで民謡を取り仕切る竹内勉氏は事あるごとに「日本一の生きた唄」として「両津甚句」と「小木おけさ」を推奨する。「第1回 日本の民謡」(文化庁主催)が国立劇場大ホールで行われ小木の中川千代、本間フサ姉妹が「両津甚句」、「小木おけさ」を披露する。
・小木おけさ歌詞(「佐渡おけさ」に共通して歌われる歌詞が多い)
・昭和55年小木町町制八十周年記念「おけさ新歌詞」
・明日はお立ちかお名残り惜しやいっそ外の澗時化りやよい(金森淑子)「新歌詞」
・小木で生まれて沢崎暮し主と楽しいさざえ採り(嶋田冨美男)「新歌詞」
・小木と柏崎(出雲崎)は棹さしゃ届くよ何故に届かぬわが想い
※荒波会が大正11 年に全国から募集した「佐渡おけさ」歌詞
・小木の入江も静かにくれて泊まり船より立つ煙(茨の花)
※荒波会が大正11 年に全国から募集した「佐渡おけさ」歌詞
・小木の女郎衆は茶碗の湯づけ色は白うても水臭い
※「佐渡の民謡」(山本修之助著、昭和5 年刊)に載る。
・小木の岬の四所御所桜枝は越後に葉は佐渡に
「佐渡志 巻之十二 古蹟」(文化年間)に「越後の国の古き童謡にも(佐渡の三岬の御所桜枝は越後に)とうたひ」とある。
・小木は澗で持つ相川山で夷、湊は漁でもつ
・雁が鳴き行く城山あたり街に情けの火が灯る(福島野城子)「新歌詞」
・来るか来るかと上沖見れば矢島経島影ばかり
・恋の外の澗内の澗凪(な)いで花の城山おぼろ月(赤塚守)「新歌詞」【優秀賞】
・主は烏賊釣る矢嶋の沖で妾(わた)しゃタライでわかめ刈る(金子惇)「新歌詞」【最優秀賞】
・矢島経島小舟で漕げば波にチラチラ御所桜
・矢島矢(箭)の竹思いを込めてよ主の心を射止めたい
※山本修之助20 代(大正後期)の作品。新佐渡杜の「新作おけさ」歌詞募集に一等当選。
★小木追分
明治32年来島の尾崎紅葉が「続佐渡ぶり」に佐渡の代表的民謡として夷甚句、小木追分、相川音頭を挙げる。
小木花街の騒ぎ歌である。
(歌詞)アースイスイスイ めて(右手)に経島 スイ ゆんで(左手)に木崎 アースイ 沖に白帆が アースイスイースイ 二つ三つ 来るか来るかと上沖見れば箭島経島影ばかり」
(追分とは)
・元は信濃追分(現在の長野県北佐久郡軽井沢町)付近で歌われていた馬子唄(小諸馬子唄)が、越後に伝わって《越後追分》となり,日本海沿岸を北上し,《酒田追分》(山形県),《本荘追分》(秋田県)など各種の節回しの追分節を生み,天保の頃に北海道に定着して《江差追分》となった。
・追分の音楽的特徴として、はっきりした・明確な拍節を持たない(調子よく手拍子を打てない)音域が広い(高音から低音まで)、母音を伸ばす(歌詞の一文字を長く伸ばす場合が多い)。小泉文夫は日本音楽のこのような形式に注目し「追分形式」と呼んだ。追分形式と対照的なのが拍節感のはっきりした「八木節形式」
★小木大津絵節
「佐渡古民謡調査」(山本修之助)
「佐渡では、宴会の席で小木出身者の芸妓によって、必ずといってよいほど、この「小木大津絵」を唄い踊った。
・田辺尚雄氏は「この大津絵は、端唄の大津絵と違っていて、古風の説経節の道行きのようで、それが幾分佐渡化したような節まわしである。非常に優雅な感じがした」と言い、「小木の名所を詠い込んだものが有名」として次の歌詞を紹介する。
「小木の澗(ま)の春の夕景色風も匂うや御所桜 城山のおぼろ月 見はる向うの越の雪 沖のはせ舟 霞がくれに真帆片帆 内と外とのかかり舟 向うの岸の弁財天 矢島経島若やぐ木崎のさがり松 三島・向島・中の島 四方(よも)もを見はらす日和山
・明治末年頃からだんだん消えて行き、今では歌えるものは3、4 人の老人か、中年の芸者くらいになってしまった(酒井進宥「小木で歌われた大津絵節」)。
・小木花街の騒ぎ歌で小木出身の芸妓によって佐渡各地の宴席で「小木大津絵節」が唄われ踊られた。(山本修之助「佐渡古民謡調査」)
・「新潟県の民謡」(昭和61年)に小木の中川シズ(大正7年生)、中川ヨシ子(大正10年生)、伊藤和子(大正14年生)の「小木大津絵」が載る、歌詞もあり。
(大津絵とは)
滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画、多様な画題を扱い、東海道を旅する旅人たち土産物・護符として知られた。
大津絵の画題を唄い込んだ元唄・音曲・俗曲(大津絵節)が大津絵節。
★小木音頭
小木の「おその」と言う芸妓が「相川音頭」の武士的踊りに対して、庶民的踊りに振付したものと伝えられる。
曲調、歌詞共相川音頭と同じが、昔は相川音頭は野外、小木音頭は座敷用であった。
相川は唄の後に「はいはいはい」の囃子が入るが、小木は唄の直後は伴奏が入り、「はいはいはい」と続けて次に移った。
★祭礼小獅子舞(小木小獅子囃子)
『日本民謡大観』の中部編(北陸地方)(NHK:昭和30 年発行)に歌詞、譜面共に載る。
稲荷神社を建立するに当たって京都伏見の稲荷神社から御神体を分霊した折り、獅子舞も同時に移入したと言う。
稲荷神社は木崎神社に合祀されたので現在は木崎神社の祭典行事として存続されている。
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★佐 渡の民謡
■佐渡三大民謡
1 佐渡おけさ
・南西九州のハイヤ節と越後に古くから伝わるおけさ節が佐渡で融合されたと思われる。
・著名な歌詞「佐渡へ佐渡へと草木もなびく 佐渡はいよいか住みよいか」は江戸時代には全国の地名を入れて各地の民謡で唄われた。オリジナルは「伊予伊予へと・・・」
「かすむ相川夕日に染めて波の綾織る春日崎」(全国から応募 畑野長谷寺住職 野田行園作)
・唄い方の種類:正調・ぞめき(騒き)・選鉱場 ・文三節 ※大正12年に全国に歌詞募集
2 両津甚句
・久知甚句が湊甚句・夷甚句と変化、両津町発足時に一体化し両津甚句になった。
・「行こうか湊町帰ろか夷 ここが思案の両津橋」は両津町が出来る以前の歌詞である。
「しんと更けたる夜は怖ござる 烏賊(いか)が啼(な)きます船底で」
・唄い方の種類:正調・旧節(きゅうぶし)※昭和40年国立劇場で初めて唄われた民謡
3 相川音頭
・関西の口説節が元歌と思われ、佐渡では相川金山と積出港小木を結ぶ道中唄であった。
・「どっと笑うて立つ浪風の荒き折節義経候は・・」は源平合戦、五段五番目の歌詞。
「平家物語」「源平盛衰記」「義経記(ぎけいき)」などから引用、作者は深い学識を持つ。
「歌は家隆の流れを伝え音語れば「山姥」たまの」(謡百番くずし)
・唄い方の種類:正調・古調 ※相川音頭は心中物・合戦物・道中物等バラエティに富む
■その他の佐渡民謡
・相川甚句・七浦甚句・海府甚句・羽茂甚句(ちやさ)・はんや節・そーめんさん・新穂音頭・豊田音頭・田の神(たのかん)節(復活)・小木音頭・小木おけさ・砂金音頭(近作)・金井音頭(近作)等
■佐渡の民謡団体
・相川(立浪会・みすじ会等)・佐和田(なぎさ会・杉山民友会・松波会等)・真野(さざ波会等)・金井(金北民謡の会・弦芳会等)・新穂(こがね会・鄙の会等)・畑野(みどり会等)・羽茂(羽茂民研等)・小木(さざなみ会等)・赤泊(やまびこ会等)・両津(しぐれ会等)
■佐渡民謡を全国に紹介した人
・川辺時三(金井中興)・村田文三(相川)・曽我真一(相川)・松本丈一(畑野小倉)・菊地歌楽・松村直吉・岩崎文二(相川稲鯨)・小唄勝太郎(新潟)・小林よしえ(両津入桑)
・浅香寛・風岡藤作・丸岡藤作・浅尾森之助
★『意外と知らない「佐渡おけさ」?!』
◇二つの「佐渡おけさ」
1.正調佐渡おけさ:
松本丈一・菊地歌楽・杉山茂左衛門等に代表され、現在の一般的な歌い方。
2.文三節佐渡おけさ:
村田文三の唄い方で、三節目が大きく異なる。文三の他に長尾峻、岩崎康一郎に引き継がれた。
★佐渡民謡発展に尽力した人
・曽我眞一:相川の人、明治26年~平成4年。立浪会の中心人物として全国から世界に向けて佐渡おけさを広めた大功労者。日本民謡功労賞受賞。
・村田文三:相川の人、明治15年~昭和31年。立浪会に属し、日本一の民謡歌手と言われた。日本民謡技能賞受賞。
・松本丈一:畑野小倉の人、明治34年~昭和45年。日本を代表する民謡家で日本民謡功労賞受賞。現在の両津甚句を確立した人。
・岩崎文二:相川稲鯨の人、新潟県を代表する民謡団体「いずみ会」を主催し、全国的に活躍。七浦甚句を世に出した人。
・菊地歌楽:相川小川の人、立浪会で村田文三と共に全国的に活躍した。
・杉山茂左衛門:赤泊川茂の人、全国民謡大会で準優勝、「新潟交通おけさキャラバン」で活躍。杉山民友会会主杉山重信氏はその子。
・長尾峻:羽茂の人、長尾閑楽名で文弥節の名人であり、力士高尾山としても著名。「砂金音頭」作詞作曲。
・岩崎康一郎:二見稲鯨の人、佐渡民謡の代表的唄い手、古調相川音頭も伝える。
・岩原芳太郎 佐渡民謡研究会、松波会他か多くの民謡団体を指導。
★「佐渡おけさ」の三つの形
1. 正調 佐渡おけさ
2.ぞめき(騒き)おけさ:唄い出しに「はあーーっ」が入らず、テンポが少し速い。
3.選鉱場おけさ:選鉱場で唄われたもので、テンポが大変速い作業唄。
★その他
・小木おけさ:佐渡おけさの原型と言われる。唄、踊り共に佐渡おけさと少し異なる。
・新おけさ :明治末に来島した演歌師添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が大正9年に作った新民謡。
★佐渡おけさのルーツ
・一般的には、牛深港(熊本県)の船乗りが酒席で唄った「はいや節」が北前船を通じて日本海各地に変化しつつ伝えられた、とされる。佐渡では「はんや節」、津軽では「あいや節」となる。
・聞いた限りでは「佐渡おけさ」と「はいや節」に類似点はない。鎌倉時代から越後で唄われた「おけさ」と「はいや」が融合したのではないか?!
・赤泊山田地区では「山田はんや節」が現在も歌い継がれる。
★佐渡おけさの完成
(曲)東京音楽学校に在籍した曽我真一が音楽性の高いものに作り上げた。
(歌詞)金井の眼科医川辺時三が全国に歌詞を募集した。これには柳田国男の尽力もあったのではないか。川辺の眼科研修時代の後輩が柳田国男の兄井上通泰で、柳田は来島時一番に川辺を表敬訪問した。(大正9年、昭和11年来島)
(踊り)小木に住んだ大阪の歌舞伎役者浅尾森之介が小木の芸妓用に作った。
★佐渡民謡が日本一に!
・昭和25年、「佐渡民謡研究会」が全国民謡大会で優勝。(佐渡おけさ)
・昭和27年、全国民謡会会で中川千代・本間ふさが優勝。(両津甚句)
・昭和29年、全国都道府県対抗民謡大会で両津「鴨湖会」が優勝。(佐渡おけさ)
・昭和30年、日本民謡協会主催の民謡戦で立浪会が優勝。(佐渡おけさ)
・昭和30年、NHK全国のど自慢コンクールで赤泊の杉山茂左衛門が準優勝。(佐渡おけさ)
・昭和37年、若波会が日本民謡協会「全国民謡舞踊まつり」で優勝(佐渡おけさ)
・昭和38年、佐藤みやこが全国民用大会で優勝(両津甚句)
★おけさキャラバン(新潟交通・佐渡汽船)
・全国大会で優勝した「佐渡民謡研究会」(新潟交通)が全国へ観光キャラバンを打つ。
★山田耕作・藤原義江の「佐渡おけさ」
・昭和2年、立浪会の唄を聞き、山田耕筰が洋風に作曲し、藤原義江が世界公演で唄った。
・藤原は戦前から戦後にかけの世界的オペラ歌手、藤原歌劇団創設者。父がスコットランド人。
★佐渡へ佐渡へと草木もなびく・・は盗作?!
・江戸時代宝永頃(1704~)の狂言本「助六心中」に「伊予へ伊予へと草木もなびく…」。
・「江戸へ江戸へと草木もなびく」「木曾へ木曾へと…」などもある。
・「佐渡へ佐渡へと…」が「佐渡おけさ」の歌詞になったのは大正10年頃。
「佐渡日報10周年紀念号」に「他國の焼きなほしものを唄うことはやめた方がよい」。
・明治32 年に、直江津の古い「塩たれ唄」にあると尾崎紅葉が「煙霞療養」に記す。
★小唄 勝太郎
明治37年-昭和49年。芸者勝太郎として葭町花街に籍を置く傍ら、『島の娘』で歌手デビュー。『東京音頭』の大ブームを受け、小唄勝太郎と名乗って歌手業に専念。した。
★中川千代、山田ふさ姉妹の大活躍!
・昭和27年10月25日、日本民謡協会主催の第2回日本民謡大会で小木の中川千代(唄)、山田フサ(鼓)姉妹が優勝。(仙台公会堂)
・審査員の白鳥省吾博士
「佐渡の両津甚句の中川千代・山田フサ姉妹の唄はほとほと感じ入った」、「私はおけさなどより好きであり音楽的価値を高く評価しているものだが、今度中川姉妹の唄を聞いてまことに恍惚たるものがあった。」。
・作詞家の高橋掬太郎氏
「両津甚句の御両人は、歌ではあるけれどその声の良さ、唄いぶりの良さだけでなく、鼓を持って椅子に腰をかけて唄っていた其の姿が誠に趣のあるもので、その趣が一層歌の良さを活かしていた。非礼かも知れないが私は一種の恋情をさえ感じた」。
・主催者の一人天江富彌氏
「小鼓を打ちながら唄う姿もその声も何とも言えぬものである。思わず身体を乗り出した。若い頃、恋をおぼえた時のようなほのかにあたたかいものが胸に流れた。ウーンこれは好いと思わずうなったら、そばにいた白鳥省吾氏、ウーン、俺も好い、とうなった。浙潮博士(日本民謡協会会長浦本政三郎氏)はニヤニヤ笑いながら、あの二人は姉妹なのです、今度佐渡の小木祭りに行って見つけたのですと。先生左の方の人ね、野暮なようだが、どっかに艶が隠されている。」
「さて白鳥先生と私、夜の部の両津甚句の時、期せずして舞台のカブリツキの中央へ進出した。先生も私も妹の方に立候補したのだから、三角関係となりつる次第…ともあれ二人の老人がよだれを流さんばかりに聞きほれた姿をご想像下さい」。
・民謡研究家の浅野健二
「…結局、声量・発音・曲節変化等を総合して最も深い感銘を与えたのは中川千代・山田ふさ(新潟)両氏の「両津甚句」。けだし個人優勝盃の栄誉に値すべき抜群の佳吟であった。
鼓を打ちながら唱和する「思うて来たかよ思わで来りょか 三沢四沢の沢越えて」「千鳥啼けなけわしゃ燈台で 星を眺めて寝ずの番」のメロディは実にすばらしく、「アーリャントリャントリャント、コリャサッサ」の囃子詞がもつ古典的感触と共に、往昔(そのかみ)、宿駅の傍にあって路ゆく人の旅情を慰めたと言う“白拍手(しらびょうし)”の声の夜空に清むさまもかくやとそぞろ偲ばれた。私は、しばしその夢幻的な声調に聴きほれながら、水干(すいかん)・烏帽子姿の中世のたわれ女(め)を幻想し、民謡の尊さがここにあるのだとしみじみ思った。」
・民謡評論家の竹内勉氏は,自分の知る限りこの時の唄が歴代優勝者ナンバーワンだと言う。
・昭和42年、第1回「日本の民謡」(文化庁主催)が国立劇場大ホールで行われた。民謡が初めて国立劇場での公演を許可されたことになる。この時、一般人として二組が民謡を披露した。その一組が中川千代、本間フサ姉妹で「両津甚句」、「小木おけさ」を唄った。他は樺沢芳勝の「上州馬子歌」。その他にはプロ歌手の市丸、小唄勝太郎、赤坂小梅。この舞台は歌舞伎保存を目的として建てられ大衆芸能に解放されてなかったため歌舞伎界から大反対を受け、「民謡公演」翌日は舞台を休み「清める」という条件が付けられた。
★中川千代
小木旭町にあった置屋「喜一屋」で生まれた。羽茂本郷に嫁ぐ。明治39年生-平成8年没。若い頃と晩年は両津の料亭吉田屋に勤める。羽茂の味噌会社支配人夫人で、昭和27年第2全国民謡大会に妹の山田(本間)フサ(鼓)と出場して「両津甚句」で優勝。同大会の前日にレコードを吹き込み。
42年、国立劇場が初めて大衆芸能に開放された時、妹のフサと共に一般民謡人として初めて出演、演目は「佐渡おけさ」「小木おけさ」。民謡評論家の竹内勉氏は「自分の知る限り民謡歌い手中で一番歌がうまかった」と。
中川家当主は羽茂本郷中川文十郎氏。平成30年現在、中川文十郎(ぶんじゅうろう)家当主は75歳位で体調はあまり良くないが一人で生活している。中川千代さんは文十郎さんの祖父の後妻にあたる。千代さんの夫は丸大味噌支配人でもあったが、自分でも小木井尻地区で味噌製造を行っていた。位牌には「小木喜一屋生れ俗名チヨ」とある。
★本間(山田)フサ
姉千代と共に小木の置屋「喜一屋」の娘で大正4年生。若い頃、両津の「花月」に勤務。(姉は吉田屋)昭和27年第2回全国民謡大会で姉中川千代と共に「両津甚句」で優勝。この時は「山田房子」となっている。鼓を担当。相川の人と結婚。晩年は本間フサとして小木に住み後進を指導した。国立劇場が初めて大衆芸能に解放された時一般民謡人として初めて姉と共に出演。演目は「佐渡おけさ」「小木おけさ」。
★浅尾森之介
1823~ 1900。現在の佐渡おけさの踊りである16足「おけさ踊り」を創った人物。大坂道頓堀の小屋(劇場)に出ていた与六の弟で浅田屋を名乗る二枚目役者。美男が禍し、福井藩の武家の女房と不義におち、追手から逃げて諸国を流浪。越後で遭遇した相川の有名料亭「寿志鹿」主人に連れられて相川に来た。相川に短期間居て、その後小木に移住し、明治23年頃から77歳で亡くなる明治33年まで当地に住んで踊りを教えた。上州中条生れで、没後弟子の本間トラさんが仏参りに訪ねると間口九間の大きな家であったと言う。浅尾の小木時代のことについては、一番弟子の本間トラさんや、本間さんの弟子中川シズさんからの聞き取りが残り、かなり明らかになっている。白坂町の白木屋(中村姓)には女形専門の方が居た。自ら75歳の時に「元祖浅尾名字事」を記し、系譜を書いている。
★お光吾作の『佐渡情話』について
・「訂正越後頚城郡誌稿』
「此峰ノ薬師堂二常燈明アリテ、北海ヲ航スル船舶闇夜ニ此燈火ヲ以テ方位ヲ知ルノ目標
トセシニ、当郡直江津辺ニ男アリテ佐渡ノ島根ノ女ト契リケルニ、此女男ノ佐渡ノ島二渡 リテ常二契ラサルヲカコチ、夜々佐渡島根ヨリ波涛引渡リ通ヒケルニ、或夜男ノ女ニ向ヒ 遙々波路ラ毎夜通フハ如何シテ渡り越スヤト問ケレハ、渡リ越スニハ、板腹ニアテ海 中二游出テハ、米山薬師ノ常燈明ヲ目標二方位ヲ取リ游越スナリト答ケレバ、男モ空懼シ クナリテ、米山薬師堂ノ常燈明ヲ消ケレバ、女方位ヲ失ヒ海中二死シテ、後波ノ打上ケル ニ、此女ノ腹背ニ蛇ノ鱗出生シテアリケリ、ト郷党ノ口碑二伝ヘタリ」 と記されています。
・「柏崎市伝説集」
「柏崎に藤吉という佐渡通いの船頭がおり、小木のお弁と恋仲になる。藤吉には妻子があ り、その後、柏崎に帰ったきり佐渡にこなくなる。お弁はたらい舟に乗って、夜な夜な柏崎に通う。男はうすきみ悪くなり、ある晩、番神崎の常夜燈を消す。そのためお弁はめあてを失い難破し、死体となり、柏崎の青海川の海岸に打ちあげられる。そこに一筋の滝が流れていたので、その滝を『お弁の滝』と呼ぶようになった」
・『伝説の越後と佐渡』
「佐渡の女と越後男が恋仲になり、女は夜毎舟を漕ぎ、越後潟町の明神様前に点じられる 常夜燈をめあてに通い続ける。やがて男は、女のその強い情がそら恐しくなり、ある晩、 めあての常夜燈を消す。女は方向を失い、暁がた屍となり浜に漂い着く。男は自分のうす情を悔み、まもなく自らの命を断つ。潟町にある『人魚塚』は、その佐渡の女を葬った墓だという」
・寿々木 米若の浪曲によって、全国をふうびした『佐渡情話』の恋物語は、これらの口碑、伝説を もとにして、尾ひれをつけ脚色されたものではないかと思われます
★鈴木米若
寿々木 米若(すずき よねわか、本名・野上 松平(のがみ まつへい)、1899年(明治32年)4月5日 - 1979年(昭和54年)12月29日)は、昭和時代の浪曲師。新潟県中蒲原郡曽野木村大字曽川(現新潟市江南区)出身。
叔父は浪曲師の初代寿々木亭米造。農家の一家に育つ。1920年に上京、父の紹介で2代目寿々木亭米造に入門、寿々木亭米若(のちに寿々木米若)の名で前座ではなく二つ目からスタートした。1923年に真打昇進し一門を離れ独立。1928年に早くも渡米し巡業する。新作物を得意とし[1]、佐渡おけさにヒントを得て創作し自ら口演したSPレコード「佐渡情話」が大ヒット。ビクター、テイチクといったレコード会社を跨いだ形で吹き込みされた演目であり、1930年代にレコードとして最も売れた浪花節の一つである[2]。
〽佐渡へ 佐渡へと 草木はなびく
の哀調を帯びた外題付けは、有名になった。
哀切な語り口調と関西節の美声が特長的である。俳句も良くし、高浜虚子に師事、多くの作品を残している。長年日本浪曲協会会長も務めた。熱海に建てた旅館「よねわか荘」を別宅としたが、巡業続きで帰る暇がほとんど無いほどだったという。
★佐渡の恋歌
・三波春夫
・細川たかし
★たらい舟
・故老によれば、明治20年~25年、白木集落(大字沢崎)に利用目的不明のタライ舟が一つあり、若い衆が2,3人乗って沖の離れ岩で海苔採りをした。
日清戦争(明治27年)直後頃、各家庭で作られた。明治23年、白木の漁師がタコ漁の時に突風にあい、岩鼻を回れず遭難。その後も類似事故が起き、タライ舟活用が始まる。小木岬は磯漁に頼る寒村で、岩が多く、岬風が激しいこの地では、底が浅く身軽で進退自由で建造費が安いタライ舟が適した。女子供でも扱える
・明治30年代に白木の大半に行き渡り、小木にも伝わる。
・大正期に岬集落一円に普及し、一軒で5,6個持つ家もある。
・大正期から大型化し、縦五尺三寸(160cm)、幅四尺二寸(127cm)、高さ一尺八寸(55cm)で固定。一人持ち運び出来、作業しやすく風の抵抗が少ない。
・ワカメの口あけは四月中旬で、明け方暗い内から集落に触れ回り、総代の合図で一斉に出漁する。
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★小木町の職業(明治23年)
・明治22年頃、小木は家が702軒あった。人口は3271人、男が1516人、女が1755人。女が男より2割も多いのは養女などが多かったのか。
702軒の職業:旅人宿18軒 内13軒は廻船問屋兼業、木賃宿15軒 内6軒は廻船問屋兼業 宿屋が33軒。※木賃宿(安宿):木賃は旅人が持参した食料を炊く為、宿屋に払う薪代金。
・明治23の『北溟雑誌』
「早春より北海道および越後地方往来の船舶絶えず、4~50艘ずっ碇泊し、1時130艘にも及びしことありて、そのため米価高値の割りには一般の人気もおだやかなる方なり。」明治23年は6月~7月にかけて相川で相川暴動が起きるほ ど米価があがった年でした。一般に5人ずつ 乗っていたとしても、毎日650人からの人が宿屋に泊ることになります。船乗り相手に多くの職業が成立します。貸座敷が26戸あります。
・貸座敷は、明治政府の廃娼令によってできた。座敷を貸せるのですが、その実は後の売春宿。登録された娼妓が64人。実際には全部の娼妓が登録されないで、350人前後の女性が背後に居た。芸妓が13人。三味線を持って芸を見せる。
・四十物商が32軒。仲買商が25軒。湯屋の6軒です。各家には風呂がなかった。
・常舞台があります。明治24年春、東京春木座の芝居があり大入り。明治28年には日清戦争芝居。「日清戦争芝居が琴平座において開かれ、珍しき芝居なれば、近郷近在より毎日5、6百の入場者あり」(北溟雑誌)
★小木の芸者文化(「島の自叙伝」 田中圭一 1982年)
・大宿では、船が見えたという知らせを受けると、船頭のなじみの女郎子に連絡する。女郎子は銭湯に行き、着物をきがえて、洗足の水をタライに入れ、肴や酒の支度をして、船をむかえる。その船は松前・江差から下関・大坂まで、荒海をこえて 無事入港した船である。船の上から船頭は、買い付けの女郎がむかえに出ているかみる。「碇をおろすと、まず船頭は船員に髪を結ってもらい、頬にかみそりをあてさせる。次に船上 の神棚と仏壇に灯明をそなえ礼拝をする。他の船員もこれにならい、一同そろって本船の伝 船に乗る。船頭は着衣のままトモに立つが、船員はどんなに寒くとも御一本の真っ裸になって漕ぐ。櫂は船員の拍子にあわせて漕ぐ。 ハシケが岸に着くと一同着物を着る。(むかえに出ているなじみの女に、おっかあ、丈夫でよか ったなー、とみんなが再会をよろこぶ。)
・船頭はまず、問屋へ立ち寄って商売の事務をすませ小宿へ行く。船員は金毘羅神社、木崎神社などへ参詣した。宿に帰ってくると、縁に腰をおろして洗足のタライに足を入れる。女が足の塩と砂を落としてくれた。それから一通りのあいさつが終わる と、もう夕暮れ。街のあちこちから、さんざめく声が聞こえはじめる
・少女たちは、小木の養家で暮らす。小学校から帰ると、厳しいお稽古ごとが待ち受ける。その辛さに耐 えられないで実家へ逃げ帰る者もいた。入籍のわかる140人の内、46人が1年の内にやめている。冬の朝、玄関の戸を開け、ムシロの上で大声を張りあげて唄の練習をする。
・明治時代の間、小木をめぐる周囲の情勢は変わった。明治18年の相川-夷間の県道の開設、新潟-両津間の定期船の運航、上越線の開通に伴い、夷(両津)が佐渡の表玄関とな り、島の反対側にある小木は見放されることとなった。 さらに不幸なことに、明治37年8月28日午後7時、小木の町の歴史はじまって以来という大火が起きた。その火事は家数441軒を焼き尽くした。町の過半が燃えた。それが町を変化させた。かなりの人達がこの町に見切りをつけ他所へ去った。残った人達は新しい生業につかなければと自分達の将来の暮らしを真剣に心配しはじめた。
・アケビヅル細工や竹細工が始まった。そうした仕事は元手が要らず、少し経験をつめば女手でできた。 女達に頼った町は、今また女の手に頼った。小木の町は 発展からとりのこされようとした。昭和3年、小木をおとずれた詩人の白鳥省吾は、当時の小木の印象を次のように書く。「あこがれの島、佐渡への第一印象は、夕刻小木港に入港上陸した関係もあろうが、何となく暗い淋しいところのように感じた。電灯の暗いこと、ランプのあったことはおどろいた」。東京から佐渡へやってきた人には、小木はうらさびた港町に見えた。
「小木で芸妓を見たが、田舎としては決して恥しからぬものであった」 港町の貸座敷の灯だけが、やたらに明るかった。それは暗夜の灯火にも似ていた」。
・昔、小木で美声を知られた山田フサさんに会ったのは、お正月の凍てつくような夜のことであった。昨年、北海道の江差町で江差追分を聴いたことがあったが、そのとき江差の人に、小木追分はいまでも歌い手がいるか、と聞かれておどろいた。私などが知っているのは「佐渡おけさ」と「相川音頭」、それに「両津甚句」くらいで、「小木追分」などという唄を聴いたことなどなかった。 「信濃追分」は馬子唄で、それが村を回り海に出て、とうとう江差のニシン場まで伝わり、あの波に揺られるような 「江差追分」になったのだ。「小木追分」はその中間に位置するのだ。フサさんは大正四年の生まれだが、「小木追分」について、「父がお正月前に、おかまさんの端のところで、ワラでしめなわを編みながらロずさんでいるのを聞いて覚えました」 という。昔はみんな歌えたもので、フサさんが20歳の頃までは「宴会」でお座つきの後、「小木追分」を踊らないことはなかったという。 フサさんの「小木追分」は、聴いていた私たちの息をのませる見事なものだった。
・その頃は、波と戦って港に入った舟乗りたちの気持ちを慰めるのに十分なものだったろう。フサさんは小木の人、7歳のとき白木屋のトメさんに弟子入りした。当時、お父さんは6,7年も胃病をわずらい、お母さんは目が悪かった。トメ師匠のところへのモンビ(紋日)の礼も、よその子が1円持って いくのに、50銭持っていけるのがやっとだった。早く一人前になって家を助けなければ、という思いがいつも心の中にあった。15歳で自前になった。当時、どこの家でも女の子にはみんな芸事をさせた。 昭和初年に小木の小学校が午後になると、女の子供が稽古ごとに行くため学校を休んで困る、と父兄に注意書を出している。フサさんが小木を去ったのは、昭和13年のことだった。
★小木の貸座敷
・飯盛女について、「小木町の女郎は、江戸時代は飯売女と呼ばれ、華美の風なく木綿の衣服を着用してい た素人女くさい、私娼的な性格の、女房性を多分に発揮していた娼婦」。古老によると、小木女郎は日中は客に招かれても決してその勧めに応じない。夜は招かれるままに寝具を抱えて資座敷に出かける。意に染まぬ者は断る。好いた客なら初対面、うらもどし、押染(おなじみ)という 順序で客との関係を深める。一段と進んだ関係が「かねつけ」である。か ねつけとは旦那を持つことである。小木女郎の理想は旦那を持つことで。
・江戸時代後期、飯盛女の社会的地位は低くなる。明治5年、太政官から廃娼令が布告。廃業できるようになった。 「自由廃業で籠から飛び去った者は小木女郎には一人もなかった。明治6年、彼女等は自発的に女郎を続け、表面上、養家(抱主) から離れる条件で遊女の鑑札を受けた。しかし、実質は旧態のまま。
・廃娼令当時、貸座敷業者として小木で鑑札を受けたものは57名、大部分は四十物商、仲買商、船宿等が兼営、資座敷は全町に散在。前借金が女達をしばっていたので女性達は廃業出来ず。
・江戸時代、各種貸座敷があった。小宿という船頭専門の料理屋 (宿)。付船宿。船乗りが櫂を一挺ずつ持ってここに泊る。他に「女郎子屋」「あげ屋」。これらの 店は、船方を相手にしない佐渡の島人の行く「町もんの宿」。明治11年に貸座敷料理屋の制度改正で小木は48軒に権利が認められました。免許がなかった人達が「ねこ屋」。
・おけさ伝説には「ねこ」が登場。この遊女のねこ(寝妓)の話。「小木女郎の身代金は明治中期頃までは普通150円内外。明治25年の遊女の稼ぎが一晩に50銭。10日で5円、100日で50円。150円の前借金は大変な金額。自由営業とはいい、女達には悲しい背景があった。「小木の芸者屋は、家族主義的、温情主義的で、養女が結婚する、独立して家業を営む時、養女をもつ家では結婚のための費用とか、独立のための資金なりを与え、将来に亘って世話することは実の娘に対すると同様」
・貨座敷で働く女性達の背景
(明治治9年から約10年間の資料)
小木町に養女として来たり、小木の家に寄留した人の総数は約400人。一番は相川町出身の135人。全体の3割。鉱山が寂れ、相川で収入の道が途絶えた。明治になり、相川鉱山の経営は幕府から脚料局に移る1万人の人が鉱山で生活は困難。しかし土地を出られない。それで、相川の人が小さな女の子を小木へ養女に出した。
・明治初年、小木は多くの廻船が寄港。明治25年の山六さん一軒の貸座敷で年間238人の人間が宿泊。座敷は約30軒あり、宿泊は相当数。小木の貸座敷業者は養女を抱えても損はない。相川の実家にすれば5,6歳の子供が150円の金を家に入れ、大人までの面倒をみて、5年程の年季奉公で嫁にいかせてもらえる。当時、一軒の家の子供数も多く、5~7人をかかえ生活苦の家庭が多かった。
・相川の次に小木の91人。次は河原田の21、赤泊18、五十里9、新町6、二宮5、夷5、稲鯨4、豊田4、堂釜4、中興 4人。
・小木町史(昭和7年)の記録
小木の小学校では午後になると女生徒が習い事に行き,学校を早引きして困る。数百年間、経済の大部分を遊女、料理屋稼ぎに頼った小木としては仕方がなかった。明治20年代、和船が衰え蒸気船になると、北海道行きの船などは小木に寄港しなくなり、小木町様変わりし、明治20年代には貧しい町になった。
・養女の年令層
合計385人の内、9歳が20人、16歳の18人、10歳の17人、8歳の17人、6歳の16人、11歳の11人。小学校へいく6歳~12歳が25%。両親が子供を学校へやることが困難な状況。次は14歳~20歳まで。職を求め小木町へ来て、手早く親の手助けが出来る。
・養女を我が子のごとく育てるといっても修行。家の掃除から台所仕事、寒げい(早朝外で大きな声で唄よみの練習)もします。午後小学校を休み唄や三味線に通う子供が多かった。修行は厳しく、入籍期間に現れる。
入期間のわかる140名の内、46人が1年未満、5年~9年までが37名あります。養女達の離籍したときの年齢を見ると16歳前後と24歳前後に集中している。そこで1人立ちしていった。
・ 女性の数ですが、1人の家が98軒と圧倒的で、2人が36軒、3人が33軒。それから、8人、9人の女をもつ家が2軒ずつあります。
★小木と芸妓とネコ
飯盛女のことをネコと呼んだ。公の許可をもらって芸を売るものではない。三味もひかず、夜遅くにどこからか現れ、船宿に入った女性。ネコとは、夜遅く路次をよぎって、餌を求めて歩く猫に例えた。小木には、江戸時代に70人以上もの遊女がいた。飯盛女はその3~4倍は居たので250人前後と思われる。
・当時,公道の店頭に「にしんしめかす」の看板と「芸妓営業」の看板。農業には金で肥料を買う。その金を手っとり早くつかむ為に娘を売る。
・どうしてネコが生まれたか、公認され、鑑札をもった芸者との間に問題はおきなかったのか?!
せり合って許可を申請、鑑札をもらえない者が出る。店で一人だけ登録し、他の4、5人は税金をかけないで稼げる。1人分の税金は家にいるネコが分担。
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
小木に発達した小木歌舞伎を調べながら、ゆかりの衣装道具を吟味しようと、佐渡博物 館の芸能部長の本間林三氏および椎名仙卓学芸員に誘われて、水郷小木をたずねたのは一九五八 年六月二日である。ちょうどその日は東京の郡人会の郷土訪問の一行が正午ごろ上陸するというw ので、町はなんとなくざわめいていたが、それとは別に男女ふたりの高齢の方から、役場の二階
の静寂のなかで、とっくりと昔話をきくことができたのは、博物館の事前連絡により日曜にもか かわらずあれこれと斡旋してくれた小木教育委員会のおかげであると頭がさがった。
小木歌舞伎のことを語ってくれたひとりは一柳幸吉という親子二代にわたり金刀 小木歌舞伎平座(むかしの額の文字にしたがう)の道具方をしている当年七十に余る老人だ が、壮者をしのぐ元気さで大道具師でありながら、小道具も作って間に合わせるし、太鼓したた けば、つづみもうつという手巧者で、いうなれば小木のこの道での生ける文化財であろう。若い とき小木へ来た旅の一座が演じた仮名手本忠臣蔵の、あのくらいの高い呼吸のめんどうな大序の つづみをうってのけてとてもほめられ、給金のほかにあのころには大枚であった五円を祝儀にも らったはなし、さあっと頬を紅潮させての語り草など、佐渡芸能界のため気を吐いてくれたし い話である。女の方は明治十五年生れいえ七十六歳になります、という明治屋こと通称角の本間 トラさんである。一見六十をちょっと過ぎたとしか見えぬきりりとした上品な方で、わけてし若 かりし日はどんなにかきれいであったことだろうと思わせる目鼻立ちに残り香はのかにただよう たり、さすがは立役(男役)ばかりをおそわったというきびしい修業に堪えた気はくがいまな 人にせまるものがある。この方はちゃきらゃきの小木娘で、自他共に許した師匠浅尾森之介の 一番弟子である。
浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
★「麦と兵隊」と「佐渡おけさ」
「徐州徐州と人馬は進む 徐州いよいか住みよいか しゃれた文句に振り返えりゃ お国訛りのおけさ節 髭が微笑む麦畑」ご存じ「麦と兵隊」の一節です。
この歌は、東海林太郎の唄(作詞:藤田まさと、作曲:大村能章 1938年)で大ヒット。
・「つれづれ想思譜(自動車ジャーナリスト有馬崇)より
「新潟県柏崎市大字石曽根にある鯖石神社の50代目の神職で、ミヤコ自動車工業の創立者だった故宮澤益二郎さんにこんな逸話があります。「私の年代は、当然のことながら太平洋戦争を控えての支那事件、上海事件に参加した人が多い。私自身もその一人だ」。」宮澤さんによると中支派遣軍に応召。上海・南京攻略作戦に参加、さらに徐州作戦において「大腿部貫通銃創」という名誉ある負傷を受けている。その徐州作戦における野戦病院に担ぎこまれた負傷兵の中で、元気のよい宮澤さんは、ともすると陰気になりがちな戦友の気持ちを引きたてるため得意の“佐渡おけさ”を中心とした民謡を唄った。そうした風景をたまたま前線慰問に訪れた作家・火野葦平氏が感激して宮澤さんを激励したという。そうした一風景は、小説「麦と兵隊」に書かれる一方、東海林太郎が唄った「麦と兵隊」の一節、友を背にして道なき道を…”のモデルにもなったそうだ。
★三橋美智也の名曲「哀愁列車」と「佐渡おけさ」
哀愁列車の作曲は沢根出身の鎌多俊與である。関係者の書いたものを総合すると、この歌の唄い出しである高音の「ほーーーれえてほれえてー…」の部分は「佐渡おけさ」の歌い出し部分「はあーーっ…」をヒントに作ったそうだ。佐渡高校百周年記念誌には「哀愁列車故郷へ帰る」との一文がある。
尚、三橋美智也は「佐渡おけさ」「相川音頭」「両津甚句」「七浦甚句」をレコーディングしている。
指導に当たったのは畑野出身の民謡家松本丈一で、「三橋はなかなかうまく歌えなくて困った…」と生前語っていたと言う。松本と三橋の交友は大変長い。昭和27 年に日本民謡協会が創立した時の創立大会に松本と弱冠19歳の三橋が共に模範歌唱をしている。その後も互いに民謡協会の役員として深く交わったようである。
★中川雀子の新説「はんやは大阪佐渡島町の半夜から出た!」
・「佐渡おけさの起源とハンヤ考」
佐渡の海産物(スルメ、ホシアワビ、キンコ、テン草)は当時唯一の対支貿易品。その荷を積む船を御俵物船(ごひょうぶつぶね)と呼び、九州に運ばれ、各港で幅を利かせた。九州で荷を下ろし、空船に日曜雑貨等戻り荷を積むため大阪で数日を過ごす。その間、船頭衆は豪奢な慰安を求めた。「佐渡島町」はそう言った佐渡船頭衆の盛大な散財ぶりからの命名であろう。
・大阪の遊女の、太夫、天神、鹿恋、半夜の姿態を写し考証を加えた古い版本がある。
挿絵には半夜は三味線を抱え、又九州方面には芸者を半夜と称している地域もある。その語源も太夫や天神の全夜のお伽女に対する半夜の女…即ち宵半夜の酒宴に芸事の興を添える女の意だろう。三味線太鼓でぞめき囃し、華やかさを好む船頭衆の酒宴には半夜はなくてはならない存在だったろう。
・半夜は又、毎航海の都度豪勢に振るまって廓を賑わす船頭衆には格別の好意を示し、情意投合の秘事もあったであろう。
「ハンヤイヤソリヤ枕はいらぬ互い違いのお手枕」。ハンヤは床枕を売る女ではなかったことが明らかである。
・「おけさ節」ばかりでなく「ハンヤ節」も又始祖は佐渡の御俵物船の船頭衆であろう。
※宮尾しげお氏も次のように書く。
ハンヤは「半夜」と言う芸者のことで酒宴に三味を弾き歌う。「全夜」は夜伽をする遊女のこと。
★「おけさ」の語源21!
1・佐渡の小木の貧しい家に長年飼い慣らされた老猫が居て
2・江戸の深川の高貴な家で飼われていた猫が
3・小木のそば屋の老夫婦に飼い猫が
4・小木港に猫好きのおばあさんが居た
5・遠く建久の昔、奥州丸山の領主佐藤庄司元治の未亡人、
6・文治2年(1186)勝見浦に上陸した源義経を見送った静御前と佐藤継信・忠信の母
7・織田信長の娘松君姫が本能寺の変(天正10年)を逃れ、尼僧清音尼となり、佐渡に来た。
8・能登福浦港では遊女のことを「おけさ」と呼ぶ。
9・美声の桶屋の佐助が
10・播州明石の浪人堀将俊が
11・上方より織物の技術を持った「おけさ」と言う美しい女性が
12・関西からやって来た明石二郎という武家が一人娘の「おけい」と共に
13 ・出雲崎に山村より「けさ」と言う賤女が
14・柏崎地方の「出家さ踊り」から「しげさ」、「おけさ」に転化した。
15・小木の宿屋で泊り客に朝目を覚まさせるために「起きろ」と言う歌があり、この「おきろ節」が転化して
16・飛騨白川郷に笠踊りと言う「白川節」があり、江戸末期旅芸人の「おけさ」と言う女が
17・相川花街の青年が京都に出て、織田信孝令女と深い仲になり相川に戻る。
18・「奴踊」と称する神事踊が各地に残っており、その唱歌に「任せておけろのよいやさ」
19・白根の新飯田に渋谷籐衛門と言う美声の持ち主が居た。
20・慶長年間、新潟に「おけさ」と呼ぶやさしく美しい娘がおり、
21・佐渡の港町小木に、やもめぐらしの老翁が住んでいた。猫をかわいがっていた。
★尾崎紅葉とお糸さん伝説
大変美しい恋物語として流布しているが、実際は…。
(1)当時の事情をよく知る西三川村小村小学校長の池正治「小木と尾崎紅葉」。
・紅葉の来港を聞き伊藤町長と風間小学校長が来て、紅葉を誘って「権座屋」表二階に席を設け、その時に三人の芸妓「いと」「つる」「とら」が呼ばれ、紅葉は恋女房菊子夫人似の小糸(糸の芸名、当時27 歳)に心ひかれる。
・20日風間儀太郎が綿屋で紅葉歓迎会を開くがわざと小糸を宴に招かず。
小糸はたまらず紅葉に呼び出しの手紙を書き、紅葉は「待っていろ、必ず帰って遣わす」と返事するがなかなか行かず。
・21日浴衣を買い小糸に仕立てを頼む。
・22日羽茂の人達が小木「大角屋」で歓待し、紅葉は小糸をのろけるのでわざと彼女を呼ばず。
一方小糸は縫った浴衣も持って待つが紅葉帰らず。
・23日紅葉が帰ると小糸は紅葉をなじり紅葉は弁解し、小糸が縫った浴衣を着て小糸と浜へ出る。
この夜紅葉は小糸の三味線に「来いちや来いちやに二度だまされた又も来いちやでだますのか」と書く。
・この三味線は後に小糸の手を離れ各地を転々として昭和25年小木「宝屋」旅館所蔵となる。
・別れの時、「風」こと風間慎一郎が持ち合せの扇子を出して「先生、一句なかるべからず」と言い、紅葉は「汗なんどふいてもろうて別れけり」と認める。小糸はこの扇子を大切にしていたが、明治37年の大火で焼失。
・両津で小糸に手紙を書く。「…かりそめ契ではあったが他人とは思われない…もう2、3年したら再び佐渡に遊びたく思うが其の時にはどうかお前が然るべき人の処に縁附いて母アちゃんと云われている姿を私は見たいと思う」。
・小糸はその後妙宣寺住職に嫁し、住職の死後が権座屋近くの質商と再縁し町の婦人会幹部などとなる。
(2)橘法老『楽我記帳』に「お糸のこと」なる一節
橘は当時の事情をよく知る小木の老妓に直接聞く。
7月19日夜、権座屋の宴席に辰巳屋のおいく、福屋のおうめ、岩本屋のおつる、伊勢屋のおのぶ、稲見屋のおとらの五人が出る。おいく、おうめ、おつるは当時小木の三美人だった。中でもおいくをとても好みお伽に侍らせる。おいくは歩く時反り身で、目に剣があったが紅葉はその剣が好きだと言って可愛がる。芸者仲間では「江戸っ子って妙な所をすくもんだ」と噂しあった。
ところが彼女には見受け話が出て、河原田の中山呉服店主が度々通った。日本一の小説家と言っても一般世間からは堕落書生の親方位にしか見られなかった紅葉との関係がばれると身受けが破談になると思い「芸はなし、器量は悪しで仲間から案山子芸者と仇名されていた」お糸を身代わりに立てた。
それが続いて三度目の7月23日に紅葉はお糸の三味線をふんだくって「来いちや来いちやに二度だまされた又も来いちやでだますのか」と怨言を書き散らした。
※ところが「来いちゃ来いちゃで又騙された…」について山本修之助は「佐渡の民謡」(昭和5年刊)で次のように書いている。 「明治32年7月尾崎紅葉が佐渡来遊中、小木の妓お糸さんの三味線の胴に書いて与えた唄で、紅葉の作とも又それ以前からのものだとも云われている。」
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★塚原徹
【生没】一八八九ー一九四七 明治二十二年小木町幸町四二九の一、ヤマヨこと与右衛門家に生まれる。当時の家業は、信濃屋という味噌・醤油の醸造業であった。早稲田大学哲学科に学んだあと家業をついだが、町会議員におされて二度当選した。のち町長となり、太平洋戦争末期の困難な時代に二期つとめ、城山公園の造成、矢島経島の名所旧跡の紹介などに力をつくした。文化面でも、大正四年に日刊紙「新佐渡」の刊行に参加し、天南星の号で文人としての巾ひろい活動をみせた。昭和十七年に、友人猪俣津南雄の協力を得て小木町史編さんを企て、当時日蓮研究で来島していた橘法老(実名正隆)に依嘱を試みた。この試みは実現しなかったが、そのころ千葉県から郷里佐渡へ疎開していた渡部次郎を説得・援助して、『佐渡国小木港の社会経済史的研究』という一○○頁の印子を出版させた。佐渡中学で同級の作家で評論家の青野季吉は、その著書『佐渡』(小山書店版)の中で、塚原家の屋号から「先祖は信濃から移住してきた商工民であろう」と推定している。その年代はわからないが元禄検地帳には、すでに与十郎の名で間口三間・奥行一二間としるされている。その時は石細工問屋であった。島内産の石臼は日本海沿岸の村々に津軽あたりまで運ばれており、良寛などは佐渡で刻まれた石地蔵を枕にして、昼寝した話が伝えられている。文化八年に出雲崎へ渡った与十郎は、村上まで出掛けて漆の種子を買い求め、村内に植えた。樹が成長すると漆や蝋をとり、他村にも植えひろめた。漆は塗料ばかりでなく、その実は和蝋燭の原料にもなる。やがて松ケ崎の金田六左衛門という蝋燭製造業者が、国産原料自給に目をつけて、小木三崎野の新田開発に乗り出した。そこに成立したのが金田新田村である。太平洋戦後に、この新開村に葉タバコ栽培が始められたのをはじめ、採種などの高度な園芸農業農地が展開し、いまや島内ゆび折りの生産地に変貌した。
★「我等はしょせん田舎者か」
塚原徹さんが一番偉大 だった点、それは小木岬の実情に足を踏まえて、大正、昭和の地方政治、あるいは日本の 近代、将来を語ろうとした点にあります。塚原さんは理想主義者ではありまし たが、しかし、いわゆる空理空論をふりまわしていたわけではありません。ここでとりあ げようと思うのは、塚原さんが主宰した新聞『新佐渡』の十八号にのせた、『我等はしょせ ん田舎者かー地方開発の最根本的条件を論ず』という論説です。「田舎者ということは、田夫野人というような意味である。低智低能のもちぬしを意味する。およそ、その国、その時代の文明の下層に属する人びとを意味する習慣である。田舎酒、田舎侍、田舎なまり、田舎ふう、田舎新聞、田舎教師、田舎文士、田舎政治家、田舎芸人、田舎医者、田舎初段、田舎廻り、田舎料理など、田舎の二字をかしらにつける事物は、がいしてその国その時代において、より粗悪、劣悪な事物を意味する約束になっている。評価の低度の事物を意味する。評価の第一位を許されざる事物を意味するのである。 佐渡は日本の一田舎であり、我等佐渡人は田舎物の一種類である。・・・・・・・・・・・・
佐渡人は、小木人はみずから置かれた劣悪な経済条件のもとで、 いかに自分なりのものをつくり出す必要があるかを説いたものでありましょう。ひとつの
030323「畑野あれこれ」(畑野公民館)
youtube 「畑野あれこれ」(2021年3月23日 畑野行政センター)










佐渡の旧家と人脈-葛西敬之と有田八郎他-(041203 首都圏佐渡連合会)
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佐渡の旧家と人脈-葛西敬之と有田八郎他-(041203 首都圏佐渡連合会)


















民謡授業@相川小 040908




サイエンスプロジェクト」(040730/31)
「サイエンスプロジェクト」(040730/31)
佐渡総合高校 民謡授業(040629 佐渡総合高校)



ふるさと講座(0406112 新穂公民館)「葛西敬之と有田八郎」



「葛西敬之と有田八郎 ワード」
「葛西敬之と有田八郎 パワーポイント」
youtube ふるさと講座(「葛西敬之と有田八郎」)040611
031128 佐渡民謡四方山話(新潟県人会館)
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「佐渡民謡の集い」前編(「ダン渡辺の「佐渡民謡四方山話」」他 031128 新潟県人会館)






「佐渡民謡四方山話」資料
「佐渡民謡四方山話」パワーポイント
031125 小木四方山話-芸妓の文化他-(あゆす会館)
「小木四方山話-芸妓の文化他-」(031125 小木あゆす会館)














030910 佐渡の民謡(小5用:相川小)



030630 佐渡総合高校 民謡授業





030612 古写真が語る新穂2(新穂ふるさと講座)
新穂ふるさと講座(「古写真が語る新穂2」)令和3年6月12日
![デスクトップ全体 [2021-06-29 18-08-46]](https://blog-imgs-136.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210629181852c33.jpg)
![デスクトップ全体 [2021-06-29 18-09-02]](https://blog-imgs-136.fc2.com/s/a/d/sado2298/202106291818530b9.jpg)
![デスクトップ全体 [2021-06-29 18-09-58]](https://blog-imgs-136.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210629181855b57.jpg)
「説教人形」と「のろま人形」:享保年間(1716-1736)に須田五郎左衛門(八王子)が京から伝えた。現在51の首がある。その当時からのものと思われるものも多い。
・本間家10代清房の親友だった八王子の須田五郎左衛門が「永扇が能で芸名をあげるなら自分も一芸で名をあげよう」と江戸に行き説教節を習い、京で人形つかいも覚えたのだと伝えられる。
・その後青木人形、 北方人形、瓜生屋人形等とその芸人の属する村名をとって一座の名称とした。
・のろま人形は説教人形の合狂言として上演された。木の助、下の長者、お花、仏師の四つの人形を、方言 のろま人形丸出しの掛合いでせりふをいう。
「石地蔵」「そば畑」「五輪仏」「木の助座禅」 ・ 「お花さんの里帰り」等の出しものがある。
※のろま人形異説:寛保年間に江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が佐渡に渡り人形を遣わせたのが始まり。
※佐渡の説教人形は金平(きんぴら)人形ともいわれ、大江山酒呑童子や熊野合戦などの合戦ものと、哀れな心情を表現する孕常盤(はらみときわ)や山椒大夫がよく演じられた。大夫一人に人形の遣い手三人という人形座で、頭、遣い方、衣裳なども簡単で古風であったといわれる。
※野呂間人形は説教人形・文弥人形の間狂言として、一人遣いで方言を交えた台詞と滑稽卑俗な話で観客を笑わせる。人形遣い野呂松勘兵衛によって有名になったことから、野呂の間狂言を縮めて「野呂間」人形と呼ばれるようになった。一説には、この愚鈍な滑稽芝居が、ノロマ(野呂間)の語源とも言う。
「文弥節」
1:古浄瑠璃の流派の一。延宝(1673~1681)のころ、大坂の岡本文弥が創始。哀調を帯びた旋律が特徴で、泣き節といわれて人気を博したが、宝永年間(1704~1711)には衰滅。
2:民俗芸能として残存し、新潟県佐渡市、宮崎県都城市、石川県白山市等で人形芝居と結びついて行われる。
※【浄瑠璃】 の解説
語り物の一。室町中期から、琵琶や扇拍子の伴奏で座頭が語った。伴奏に三味線を使うようになり多様となり、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居が成立。義太夫、常磐津、清元、新内節などの各流派が派生した。
・文弥人形は明治初年羽茂の大崎屋松之助が大阪の岡本文弥のいわゆる文弥節とその人形を伝えた。人形芝居は享保元文から明治、大正と約百八十年間栄えた。
殊に明治初年から五ー六〇年間の文弥人形が最もさ かんで、新穂においてはいわゆる「潟上人形」といわれる初代池田宗玄、一 度照造(明治二〇年代)の末広座、及び新穂上町金子森蔵の「忠兵衛人形」が知られる。
・又のろま人形は説教人形の幕合いの狂言として行な われたもので、寛文年間江戸ののろ松勘兵衛の始めたものと伝えられている。
・文弥人形の太夫は池田宗玄でその美声と節廻しは有名であった。文弥節は一名「泣き節」ともいわれ、義理人情の 織りなす切々たる表情を伝え、それが人形と一体となって観衆の涙を誘った。又説教人形は幕が高いので「高幕人 形」ともいわれ、文弥人形は中央に「御殿」をしつらえ立体視を出したので「御殿人形」ともいわれた。使い手一度造の特に一に困難といわれたなぎなた使いは有名であった。佐渡島内だけでなく遠くまで出演している。次の 「鑑札写」が残っている。
「鑑札写 第10号 大正九年四月迄有効 遊芸称人驚札 愛媛県溫泉郡三津浜稲荷新地 一慶照造 日 大正八年四月一日 愛媛県溫泉郡役所図」
とあり、遠く四国まで出向いていたことを物語っている。
「鬼太鼓」
研究家仲野一男の文によれば「陽成天皇の代(882年)中国から能登半島に伝わった器楽と奈良時代に朝鮮から伝わった僧舞と、その太鼓を基にして作り出されたものでその後享保年間、 潟上の能の宝生流の本間清房師が産の所作を取り入れて改変を加え、更に大正年間舟下の森田宗市がこれを大衆化して 勇壮活発なものにし、人はこれを宗四郎流と称し、更に近藤勘吉はこれを巧みとしたので忠左エ門流と称した。
.、村内に鬼太鼓は 数々あるが、対外的には、この舟下の鬼太鼓が代表とされている。」と記されている。
■光市母子殺害事件
平成11年、18歳の少年が主婦と長女を殺害。加害者は一・二審で無期懲役判決、最高裁で破棄、死刑判決。
残虐な事件と「Fを死刑にすべきでない」と主張する弁護団。被害者の夫本村洋が「死刑でなくてよい、刑務所から出たら私が殺す」と訴える。
橋下はテレビで「あの弁護団に一斉に懲戒請求をかけてもらいたい」と視聴者に呼びかけた。
「踊り」
・むつみ会は仲野静美の主宰で昭和25年頃から多数の会員。
★青木の田起こし唄
「青木の歴史」にこの歌のいわれが詳しく書かれている。それによると、起源は不明だが、江戸時代、明治初年になってますます盛んに唄われた。元々は田植え作業時の労作歌だったが、時代の変遷に伴い、祝儀の席上での「祝い唄」「おどり」となった。別名は囃子詞の「ヨオーヤ ヨオーヤ」から「よやよや」と言った。昭和29年1月有志が立ちあがり、当時の古老よりこの唄の踊りの鍬ふりの指導を受けて「田起こし保存会」が結成された。
『新穂村史』(昭和51年刊)より
・田起し踊り 無形文化財 村指定 昭和四十八年六月十八日 保存会 川上新治氏:昔、田植作業の時に唄う労作唄で次第に踊り化され後祝儀唄となり、昭和二十九年二月保存会の結成となった。田植の時五人位の田人が田起し唄に合せて平鍬を振い大足を使って踊り、苗配りをする人の所作面白く五人位の早乙女は田植歌に合せて田植所作の踊りをする。囃しは樽を用い素朴で楽しさの溢れる田起しと田植の歌と踊りである。休憩時間は広い所で飲み食い、唄い踊りしたものであるが農作業の変化と共に次第に忘れさられた現況に鑑み古典民謡を存続させて文化財としたものである。踊りの起りは古く近世或は中世に及ぶ、最も盛んであったのは江戸時代から明治の初年である。NHKその他に招かれて出演すること十数回に及んでいる。田人早乙女の服装及び用具も民族資料として価値高いものであり、じゆばん、もゝひき、前ひろはゞき、どうらん、大足等現在全く使用されない貴重な文化遺産である。この保存会員(昭和四十七年八月現在)は男子十一名、女子五名である。
★羽田清次「佐渡盆踊 各地各態」(昭和13年刊)
※江戸時代末~明治、大正、昭和初期の盆踊りが書かれている。筆者は明治・大正・昭和を生きた方(1868-1946)。
(新穂町)
人の出盛りは十時過ぎ、櫓を中心に踊りの輪。音頭は「奈須與一」や「木曾義仲」等の77調のもの。音頭取りが交代で櫓の先に立って足拍子を取りながら歌い、休んでいるものが太鼓を打つ。櫓の上へ酒が運ばれ、音頭は元気づく。そして男女の親しい関係が出来る。通行の妨害になると言って駐在巡査が注意すると一時止めるがまた再開する。その後、横宿線が開通し、横町の町幅が広くなったのでそこに櫓が立つようになった。
■新穂の民謡
「こがね会」:昭和12年創立、歴代会長は土屋正寛-酒井藤太郎-近藤浅治-近藤哲央-霍間孝-後藤一夫-阿部弘-渡部初夫-青木純夫-榎良和-相田智佳子ー市橋雅臣
○近藤浅治:新穂北方の人、大正6年生。「こがね会」に長く在籍し、同会会長も務めた。歌の名手で知られ、特に「国仲音頭」のレコードはほとんどこの人に依る。県民謡協会副会長職も歴任。昭和52年新潟県民謡協会が初めて公認講師を認定した時、佐渡から小間惟司氏と共に認定。平成3年名誉教授6人の一人に選出。
○田中甚平(紅月・幸月):新穂舟下の人、明治37年生、59歳没。本名は田中甚兵衛、民謡では田中紅月を名乗る。小山武男、田中正巳、松下くめと昭和初期頃「佐渡おけさ」「佐渡おけさぞめき」をレコーディング。旧節「両津甚句」もレコードに残る。「おけさ踊」(大正15年刊)に高名な民謡歌手として紹介あり。
■新穂の芸能
「能」
室町時代の大成者といわれる世阿弥 (1363-1443)が佐渡に流罪となったのが永享6年(1434)72才の時で、在島3年位と思われるがこの間影響があったことはいなめない。北方万福寺(今は廃寺)に居た節、新保万福寺にいた説とあり、後泉に移った。潟上(台湾)の本間家は佐渡の宝生流家元として伝わる家柄。
・享保年中(1716-1736)、能楽宗家本間家は10代右京清房の時、芸に秀いで又宝生宗家の後見となり能面の道に達し、特に永扇の号を宗家から賜った。
・ 「佐渡年代記」によれば宝暦6年(1756)項、潟上村本間左京が前代より猿楽をなし能太夫と唱えた、とある。
・神社に附設の能舞台も多く、本村内に現存するものに 湯上牛尾神社、武井熊野神社の二つがある。掛舞台といって公演の時だけ臨時に舞台を作る材料が青木熊野神社にあった。
・潟上(吾尋)の本問梅ヶ沢家は代々能太夫の家で十二代左京由春、十四代令は特堪能で、村内外に弟子が多かった。
・かつて長畝の山田仁平、つづみ打の太田貞之烝、瓜生屋石井喜平治、田野沢の岩田浅治、下新穂の影山新右ェ門、長畝の羽田清治、 北方の菊池栄太郎、 武井の高野幸吉、 青木の齋藤儀太郎、 川上福松等これをよくした。
・現在は北方の菊池汎、青木の如月会の川上三吉、井内の昭諷会の後藤政治等が活躍している。
★野村蘭作
新穂村出身の宝生流能楽師で昭和四十年に重要無形文化財保持者総合指定。人間国宝と呼ばれることも多い。佐渡宝生15代目本間令桑の孫で、幼児、来島した宝生九郎家元に才能を認められて宗家で修行。後、家元の令嬢と結婚しして家元の実家の野村家を継承した。19255年野村蘭作が宝生流宗家を同行して来島し、これがキッカケで1928年より謡と仕舞の指導に羽茂へ来ることになった。1925年野村蘭作が宝生流宗家を同行して来島。これがきっかけで1928年より謡と仕舞の指導に羽茂へ来ることになった。
当時佐渡の能は、謡も拍子方も骨格が崩れ、拍子方も併せて養成することになった。招聘したのは、ヤマカ(ヤマカ醤油・葛西嘉右衛門家)の葛西ナカ。稽古は、ヤマカの別荘で行われた。
(注)重要無形文化財の保持者が俗に言う「人間国宝」であるが、それには三種類ある。
重要無形文化財の保持者または保持団体の認定の方式には、「各個認定」「総合認定」「保持団体認定」の3種があり、「重要無形文化財の指定並びに保持者及び保持団体の認定基準」(昭和29年文化財保護委員会告示第55号)に規定されている。
『真野町史(下巻)』より 「宝生二派の統一」
潟上の佐渡能楽倶楽部と西三川の佐渡能楽会に佐渡宝生が二つに分れた。
潟上16代の凞の葬儀が行われた昭和16年。宝生宗家代理の本間広清が来島、式後潟上派の人々を舞台に集め、日本国中同流派が二派に分れているのは佐渡だけで遺憾なこと、一日も早く協同すべきと説いたが、70年に余る感情は容易に解消できず。
統一の機運を作ったのは野村蘭作である。野村が新町に疎開したのは太平洋戦争が始まってまもなくだった。野村の指導は全島に亘った。そのため全佐渡の能楽の向上があり、同時に潟上、西三川両派の人々が同門として融合しやすい空気が生じた。西三川派で「檀風」をやったとき、野村がわざわざ手伝いに行ったのも、和解のきっかけを意識してのことだった。両派の和解が成立して合同演能が催され、長年の不協和音が解消されたのは昭和23年8月であった。
「佐渡宝生流の分裂」『真野町史(下巻)』
西三川の金子竜太郎は潟上の本間右近に入門し令蔵の地謡方になる。
明治8年、羽茂で演能、令蔵が道成寺、地頭(じがしら)は金子、来島した命尾寿六が鐘をひく。宴席で命尾が「今日の道成寺の地謡は何だ」とが言い出し金子と口論。令蔵は命尾先生に謝れと言ったが金子は聞かず、佐渡宝生の分裂がはじまる。
金子は加賀へ行き、波吉宮門について能を、一噌幸太郎に笛を、斉田千年に大鼓を、三須錦吾に小鼓を、増見仙太郎に金春流の太鼓を習う。帰って門下生を指導した金子は再び加賀へ行き加賀宝生の太夫宝生嘉内に入門し免許皆伝を許された。帰国後、自邸の敷地に能舞台を建て多数の能装束を買い求めた。
金子は加賀宝生の流れをくむ太夫として免状を出し入門者も増えた。こうして佐渡の宝生は二流の対立となる。令蔵は上京して高田商会に勤め帰国。この間に西三川流の勢力が伸びる。殊に金子の功績として特筆に価するのは、笛の島田磨佐記(加賀)太鼓の高安三太郎(江戸)太鼓の川合彦兵衛(加賀)等一流の役者を佐渡に迎えたこと。明治維新に際し生計の道を失ったかれらにとっては渡りに舟であり、世話をする者はかなり経済的負担があったはずである。金子柳太郎が亡くなった高次郎が二代目を継いだ。
「佐渡広場」より
(参考)西三川派の創始者 金子柳太郎その後
柳太郎は、明治36年(1903)3月23日68歳で没する直前の2月10日金子高次郎(1880~1961)に皆伝免許を授け婿養子とし二代目を継がせた(『佐渡の能舞台』。『佐渡能楽史序説』では、「柳太郎の逝去後、相川町・・・の三男高次郎が柳太郎次女の婿養子となり、初め実父に謡を習い、のち畑福新三郎に師事、さらに明治35年には上京して10世波吉宮門の教えも受けて、芸事は養父柳太郎にも劣らぬものがあったといわれており、西三川派は、新興派閥の熱気と結束があり、高次郎を二世大夫に仰いで安泰であった」とある) ところが、高次郎は大正7年(1918)になって能装束等を売却した。能装束は、群馬県高崎市で能楽の公演があった時に知り合った同市の多額納税勅選議員・桜井忠三郎に2万円で売却したという。能舞台は、同じく公演で知り合った京都の狂言師に売り払った。 売却が何の相談もなく密かに行なわれたので、門人たちは反発し「太夫」という敬称を止め佐渡能楽会を結成。出資金を集め、能装束を購入し充足を図った。(以降、潟上派と西三川派の実質的対立は、本間能太夫・佐渡能楽倶楽部会員と佐渡能楽会会員の対立となる) その金子高次郎(以後「佳愛」)は、佐渡能楽会から排除され東京へ出て能の師匠などして生活していたが、食えなくなったのかやがて佐渡能楽会への入会を求めて来た。昭和3年(1928)佐渡能楽会は、過去の事を許し金子の入会を認めた。その年の12月16日佐渡能楽会創立10周年記念祝賀能を真野尋常小学校体育館で行い、佳愛が「安宅」を舞いそれが復帰の披露となった。なお、佳愛は芸と指導に優れているとの定評があり、佳愛を尊敬する多くの門弟がいた。楽謡会・佳鳳会は、金子佳愛の門弟グループ。
「説教人形」と「のろま人形」:享保年間(1716-1736)に須田五郎左衛門(八王子)が京から伝えた。現在51の首がある。その当時からのものと思われるものも多い。
・本間家10代清房の親友だった八王子の須田五郎左衛門が「永扇が能で芸名をあげるなら自分も一芸で名をあげよう」と江戸に行き説教節を習い、京で人形つかいも覚えたのだと伝えられる。
・その後青木人形、 北方人形、瓜生屋人形等とその芸人の属する村名をとって一座の名称とした。
・のろま人形は説教人形の合狂言として上演された。木の助、下の長者、お花、仏師の四つの人形を、方言 のろま人形丸出しの掛合いでせりふをいう。
「石地蔵」「そば畑」「五輪仏」「木の助座禅」 ・ 「お花さんの里帰り」等の出しものがある。
※のろま人形異説:寛保年間に江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が佐渡に渡り人形を遣わせたのが始まり。
※佐渡の説教人形は金平(きんぴら)人形ともいわれ、大江山酒呑童子や熊野合戦などの合戦ものと、哀れな心情を表現する孕常盤(はらみときわ)や山椒大夫がよく演じられた。大夫一人に人形の遣い手三人という人形座で、頭、遣い方、衣裳なども簡単で古風であったといわれる。
※野呂間人形は説教人形・文弥人形の間狂言として、一人遣いで方言を交えた台詞と滑稽卑俗な話で観客を笑わせる。人形遣い野呂松勘兵衛によって有名になったことから、野呂の間狂言を縮めて「野呂間」人形と呼ばれるようになった。一説には、この愚鈍な滑稽芝居が、ノロマ(野呂間)の語源とも言う。
「文弥節」
1:古浄瑠璃の流派の一。延宝(1673~1681)のころ、大坂の岡本文弥が創始。哀調を帯びた旋律が特徴で、泣き節といわれて人気を博したが、宝永年間(1704~1711)には衰滅。
2:民俗芸能として残存し、新潟県佐渡市、宮崎県都城市、石川県白山市等で人形芝居と結びついて行われる。
※【浄瑠璃】 の解説
語り物の一。室町中期から、琵琶や扇拍子の伴奏で座頭が語った。伴奏に三味線を使うようになり多様となり、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居が成立。義太夫、常磐津、清元、新内節などの各流派が派生した。
・文弥人形は明治初年羽茂の大崎屋松之助が大阪の岡本文弥のいわゆる文弥節とその人形を伝えた。人形芝居は享保元文から明治、大正と約百八十年間栄えた。
殊に明治初年から五ー六〇年間の文弥人形が最もさ かんで、新穂においてはいわゆる「潟上人形」といわれる初代池田宗玄、一 度照造(明治二〇年代)の末広座、及び新穂上町金子森蔵の「忠兵衛人形」が知られる。
・又のろま人形は説教人形の幕合いの狂言として行な われたもので、寛文年間江戸ののろ松勘兵衛の始めたものと伝えられている。
・文弥人形の太夫は池田宗玄でその美声と節廻しは有名であった。文弥節は一名「泣き節」ともいわれ、義理人情の 織りなす切々たる表情を伝え、それが人形と一体となって観衆の涙を誘った。又説教人形は幕が高いので「高幕人 形」ともいわれ、文弥人形は中央に「御殿」をしつらえ立体視を出したので「御殿人形」ともいわれた。使い手一度造の特に一に困難といわれたなぎなた使いは有名であった。佐渡島内だけでなく遠くまで出演している。次の 「鑑札写」が残っている。
「鑑札写 第10号 大正九年四月迄有効 遊芸称人驚札 愛媛県溫泉郡三津浜稲荷新地 一慶照造 日 大正八年四月一日 愛媛県溫泉郡役所図」
とあり、遠く四国まで出向いていたことを物語っている。
030601 JA佐渡女性部新穂支部「講話会」
youtube 「新穂あれこれ」(2021年6月1日 佐渡農協新穂支所)






030329「小木講演」(小木の文化再発見)(小木あゆす会館)
youtube まちなみ講演会「小木の文化再発見」(2021年3月29日 小木「あゆす会館」)





■「小木の民謡」
★小木おけさ
小木独特の「おけさ節」で現在も「佐渡おけさ」とは独立して唄われる。民謡研究家であり、NHKやコロンビアレコードで民謡を取り仕切る竹内勉氏は事あるごとに「日本一の生きた唄」として「両津甚句」と「小木おけさ」を推奨する。「第1回 日本の民謡」(文化庁主催)が国立劇場大ホールで行われ小木の中川千代、本間フサ姉妹が「両津甚句」、「小木おけさ」を披露する。
・小木おけさ歌詞(「佐渡おけさ」に共通して歌われる歌詞が多い)
・昭和55年小木町町制八十周年記念「おけさ新歌詞」
・明日はお立ちかお名残り惜しやいっそ外の澗時化りやよい(金森淑子)「新歌詞」
・小木で生まれて沢崎暮し主と楽しいさざえ採り(嶋田冨美男)「新歌詞」
・小木と柏崎(出雲崎)は棹さしゃ届くよ何故に届かぬわが想い
※荒波会が大正11 年に全国から募集した「佐渡おけさ」歌詞
・小木の入江も静かにくれて泊まり船より立つ煙(茨の花)
※荒波会が大正11 年に全国から募集した「佐渡おけさ」歌詞
・小木の女郎衆は茶碗の湯づけ色は白うても水臭い
※「佐渡の民謡」(山本修之助著、昭和5 年刊)に載る。
・小木の岬の四所御所桜枝は越後に葉は佐渡に
「佐渡志 巻之十二 古蹟」(文化年間)に「越後の国の古き童謡にも(佐渡の三岬の御所桜枝は越後に)とうたひ」とある。
・小木は澗で持つ相川山で夷、湊は漁でもつ
・雁が鳴き行く城山あたり街に情けの火が灯る(福島野城子)「新歌詞」
・来るか来るかと上沖見れば矢島経島影ばかり
・恋の外の澗内の澗凪(な)いで花の城山おぼろ月(赤塚守)「新歌詞」【優秀賞】
・主は烏賊釣る矢嶋の沖で妾(わた)しゃタライでわかめ刈る(金子惇)「新歌詞」【最優秀賞】
・矢島経島小舟で漕げば波にチラチラ御所桜
・矢島矢(箭)の竹思いを込めてよ主の心を射止めたい
※山本修之助20 代(大正後期)の作品。新佐渡杜の「新作おけさ」歌詞募集に一等当選。
★小木追分
明治32年来島の尾崎紅葉が「続佐渡ぶり」に佐渡の代表的民謡として夷甚句、小木追分、相川音頭を挙げる。
小木花街の騒ぎ歌である。
(歌詞)アースイスイスイ めて(右手)に経島 スイ ゆんで(左手)に木崎 アースイ 沖に白帆が アースイスイースイ 二つ三つ 来るか来るかと上沖見れば箭島経島影ばかり」
(追分とは)
・元は信濃追分(現在の長野県北佐久郡軽井沢町)付近で歌われていた馬子唄(小諸馬子唄)が、越後に伝わって《越後追分》となり,日本海沿岸を北上し,《酒田追分》(山形県),《本荘追分》(秋田県)など各種の節回しの追分節を生み,天保の頃に北海道に定着して《江差追分》となった。
・追分の音楽的特徴として、はっきりした・明確な拍節を持たない(調子よく手拍子を打てない)音域が広い(高音から低音まで)、母音を伸ばす(歌詞の一文字を長く伸ばす場合が多い)。小泉文夫は日本音楽のこのような形式に注目し「追分形式」と呼んだ。追分形式と対照的なのが拍節感のはっきりした「八木節形式」
★小木大津絵節
「佐渡古民謡調査」(山本修之助)
「佐渡では、宴会の席で小木出身者の芸妓によって、必ずといってよいほど、この「小木大津絵」を唄い踊った。
・田辺尚雄氏は「この大津絵は、端唄の大津絵と違っていて、古風の説経節の道行きのようで、それが幾分佐渡化したような節まわしである。非常に優雅な感じがした」と言い、「小木の名所を詠い込んだものが有名」として次の歌詞を紹介する。
「小木の澗(ま)の春の夕景色風も匂うや御所桜 城山のおぼろ月 見はる向うの越の雪 沖のはせ舟 霞がくれに真帆片帆 内と外とのかかり舟 向うの岸の弁財天 矢島経島若やぐ木崎のさがり松 三島・向島・中の島 四方(よも)もを見はらす日和山
・明治末年頃からだんだん消えて行き、今では歌えるものは3、4 人の老人か、中年の芸者くらいになってしまった(酒井進宥「小木で歌われた大津絵節」)。
・小木花街の騒ぎ歌で小木出身の芸妓によって佐渡各地の宴席で「小木大津絵節」が唄われ踊られた。(山本修之助「佐渡古民謡調査」)
・「新潟県の民謡」(昭和61年)に小木の中川シズ(大正7年生)、中川ヨシ子(大正10年生)、伊藤和子(大正14年生)の「小木大津絵」が載る、歌詞もあり。
(大津絵とは)
滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画、多様な画題を扱い、東海道を旅する旅人たち土産物・護符として知られた。
大津絵の画題を唄い込んだ元唄・音曲・俗曲(大津絵節)が大津絵節。
★小木音頭
小木の「おその」と言う芸妓が「相川音頭」の武士的踊りに対して、庶民的踊りに振付したものと伝えられる。
曲調、歌詞共相川音頭と同じが、昔は相川音頭は野外、小木音頭は座敷用であった。
相川は唄の後に「はいはいはい」の囃子が入るが、小木は唄の直後は伴奏が入り、「はいはいはい」と続けて次に移った。
★祭礼小獅子舞(小木小獅子囃子)
『日本民謡大観』の中部編(北陸地方)(NHK:昭和30 年発行)に歌詞、譜面共に載る。
稲荷神社を建立するに当たって京都伏見の稲荷神社から御神体を分霊した折り、獅子舞も同時に移入したと言う。
稲荷神社は木崎神社に合祀されたので現在は木崎神社の祭典行事として存続されている。
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★佐 渡の民謡
■佐渡三大民謡
1 佐渡おけさ
・南西九州のハイヤ節と越後に古くから伝わるおけさ節が佐渡で融合されたと思われる。
・著名な歌詞「佐渡へ佐渡へと草木もなびく 佐渡はいよいか住みよいか」は江戸時代には全国の地名を入れて各地の民謡で唄われた。オリジナルは「伊予伊予へと・・・」
「かすむ相川夕日に染めて波の綾織る春日崎」(全国から応募 畑野長谷寺住職 野田行園作)
・唄い方の種類:正調・ぞめき(騒き)・選鉱場 ・文三節 ※大正12年に全国に歌詞募集
2 両津甚句
・久知甚句が湊甚句・夷甚句と変化、両津町発足時に一体化し両津甚句になった。
・「行こうか湊町帰ろか夷 ここが思案の両津橋」は両津町が出来る以前の歌詞である。
「しんと更けたる夜は怖ござる 烏賊(いか)が啼(な)きます船底で」
・唄い方の種類:正調・旧節(きゅうぶし)※昭和40年国立劇場で初めて唄われた民謡
3 相川音頭
・関西の口説節が元歌と思われ、佐渡では相川金山と積出港小木を結ぶ道中唄であった。
・「どっと笑うて立つ浪風の荒き折節義経候は・・」は源平合戦、五段五番目の歌詞。
「平家物語」「源平盛衰記」「義経記(ぎけいき)」などから引用、作者は深い学識を持つ。
「歌は家隆の流れを伝え音語れば「山姥」たまの」(謡百番くずし)
・唄い方の種類:正調・古調 ※相川音頭は心中物・合戦物・道中物等バラエティに富む
■その他の佐渡民謡
・相川甚句・七浦甚句・海府甚句・羽茂甚句(ちやさ)・はんや節・そーめんさん・新穂音頭・豊田音頭・田の神(たのかん)節(復活)・小木音頭・小木おけさ・砂金音頭(近作)・金井音頭(近作)等
■佐渡の民謡団体
・相川(立浪会・みすじ会等)・佐和田(なぎさ会・杉山民友会・松波会等)・真野(さざ波会等)・金井(金北民謡の会・弦芳会等)・新穂(こがね会・鄙の会等)・畑野(みどり会等)・羽茂(羽茂民研等)・小木(さざなみ会等)・赤泊(やまびこ会等)・両津(しぐれ会等)
■佐渡民謡を全国に紹介した人
・川辺時三(金井中興)・村田文三(相川)・曽我真一(相川)・松本丈一(畑野小倉)・菊地歌楽・松村直吉・岩崎文二(相川稲鯨)・小唄勝太郎(新潟)・小林よしえ(両津入桑)
・浅香寛・風岡藤作・丸岡藤作・浅尾森之助
★『意外と知らない「佐渡おけさ」?!』
◇二つの「佐渡おけさ」
1.正調佐渡おけさ:
松本丈一・菊地歌楽・杉山茂左衛門等に代表され、現在の一般的な歌い方。
2.文三節佐渡おけさ:
村田文三の唄い方で、三節目が大きく異なる。文三の他に長尾峻、岩崎康一郎に引き継がれた。
★佐渡民謡発展に尽力した人
・曽我眞一:相川の人、明治26年~平成4年。立浪会の中心人物として全国から世界に向けて佐渡おけさを広めた大功労者。日本民謡功労賞受賞。
・村田文三:相川の人、明治15年~昭和31年。立浪会に属し、日本一の民謡歌手と言われた。日本民謡技能賞受賞。
・松本丈一:畑野小倉の人、明治34年~昭和45年。日本を代表する民謡家で日本民謡功労賞受賞。現在の両津甚句を確立した人。
・岩崎文二:相川稲鯨の人、新潟県を代表する民謡団体「いずみ会」を主催し、全国的に活躍。七浦甚句を世に出した人。
・菊地歌楽:相川小川の人、立浪会で村田文三と共に全国的に活躍した。
・杉山茂左衛門:赤泊川茂の人、全国民謡大会で準優勝、「新潟交通おけさキャラバン」で活躍。杉山民友会会主杉山重信氏はその子。
・長尾峻:羽茂の人、長尾閑楽名で文弥節の名人であり、力士高尾山としても著名。「砂金音頭」作詞作曲。
・岩崎康一郎:二見稲鯨の人、佐渡民謡の代表的唄い手、古調相川音頭も伝える。
・岩原芳太郎 佐渡民謡研究会、松波会他か多くの民謡団体を指導。
★「佐渡おけさ」の三つの形
1. 正調 佐渡おけさ
2.ぞめき(騒き)おけさ:唄い出しに「はあーーっ」が入らず、テンポが少し速い。
3.選鉱場おけさ:選鉱場で唄われたもので、テンポが大変速い作業唄。
★その他
・小木おけさ:佐渡おけさの原型と言われる。唄、踊り共に佐渡おけさと少し異なる。
・新おけさ :明治末に来島した演歌師添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が大正9年に作った新民謡。
★佐渡おけさのルーツ
・一般的には、牛深港(熊本県)の船乗りが酒席で唄った「はいや節」が北前船を通じて日本海各地に変化しつつ伝えられた、とされる。佐渡では「はんや節」、津軽では「あいや節」となる。
・聞いた限りでは「佐渡おけさ」と「はいや節」に類似点はない。鎌倉時代から越後で唄われた「おけさ」と「はいや」が融合したのではないか?!
・赤泊山田地区では「山田はんや節」が現在も歌い継がれる。
★佐渡おけさの完成
(曲)東京音楽学校に在籍した曽我真一が音楽性の高いものに作り上げた。
(歌詞)金井の眼科医川辺時三が全国に歌詞を募集した。これには柳田国男の尽力もあったのではないか。川辺の眼科研修時代の後輩が柳田国男の兄井上通泰で、柳田は来島時一番に川辺を表敬訪問した。(大正9年、昭和11年来島)
(踊り)小木に住んだ大阪の歌舞伎役者浅尾森之介が小木の芸妓用に作った。
★佐渡民謡が日本一に!
・昭和25年、「佐渡民謡研究会」が全国民謡大会で優勝。(佐渡おけさ)
・昭和27年、全国民謡会会で中川千代・本間ふさが優勝。(両津甚句)
・昭和29年、全国都道府県対抗民謡大会で両津「鴨湖会」が優勝。(佐渡おけさ)
・昭和30年、日本民謡協会主催の民謡戦で立浪会が優勝。(佐渡おけさ)
・昭和30年、NHK全国のど自慢コンクールで赤泊の杉山茂左衛門が準優勝。(佐渡おけさ)
・昭和37年、若波会が日本民謡協会「全国民謡舞踊まつり」で優勝(佐渡おけさ)
・昭和38年、佐藤みやこが全国民用大会で優勝(両津甚句)
★おけさキャラバン(新潟交通・佐渡汽船)
・全国大会で優勝した「佐渡民謡研究会」(新潟交通)が全国へ観光キャラバンを打つ。
★山田耕作・藤原義江の「佐渡おけさ」
・昭和2年、立浪会の唄を聞き、山田耕筰が洋風に作曲し、藤原義江が世界公演で唄った。
・藤原は戦前から戦後にかけの世界的オペラ歌手、藤原歌劇団創設者。父がスコットランド人。
★佐渡へ佐渡へと草木もなびく・・は盗作?!
・江戸時代宝永頃(1704~)の狂言本「助六心中」に「伊予へ伊予へと草木もなびく…」。
・「江戸へ江戸へと草木もなびく」「木曾へ木曾へと…」などもある。
・「佐渡へ佐渡へと…」が「佐渡おけさ」の歌詞になったのは大正10年頃。
「佐渡日報10周年紀念号」に「他國の焼きなほしものを唄うことはやめた方がよい」。
・明治32 年に、直江津の古い「塩たれ唄」にあると尾崎紅葉が「煙霞療養」に記す。
★小唄 勝太郎
明治37年-昭和49年。芸者勝太郎として葭町花街に籍を置く傍ら、『島の娘』で歌手デビュー。『東京音頭』の大ブームを受け、小唄勝太郎と名乗って歌手業に専念。した。
★中川千代、山田ふさ姉妹の大活躍!
・昭和27年10月25日、日本民謡協会主催の第2回日本民謡大会で小木の中川千代(唄)、山田フサ(鼓)姉妹が優勝。(仙台公会堂)
・審査員の白鳥省吾博士
「佐渡の両津甚句の中川千代・山田フサ姉妹の唄はほとほと感じ入った」、「私はおけさなどより好きであり音楽的価値を高く評価しているものだが、今度中川姉妹の唄を聞いてまことに恍惚たるものがあった。」。
・作詞家の高橋掬太郎氏
「両津甚句の御両人は、歌ではあるけれどその声の良さ、唄いぶりの良さだけでなく、鼓を持って椅子に腰をかけて唄っていた其の姿が誠に趣のあるもので、その趣が一層歌の良さを活かしていた。非礼かも知れないが私は一種の恋情をさえ感じた」。
・主催者の一人天江富彌氏
「小鼓を打ちながら唄う姿もその声も何とも言えぬものである。思わず身体を乗り出した。若い頃、恋をおぼえた時のようなほのかにあたたかいものが胸に流れた。ウーンこれは好いと思わずうなったら、そばにいた白鳥省吾氏、ウーン、俺も好い、とうなった。浙潮博士(日本民謡協会会長浦本政三郎氏)はニヤニヤ笑いながら、あの二人は姉妹なのです、今度佐渡の小木祭りに行って見つけたのですと。先生左の方の人ね、野暮なようだが、どっかに艶が隠されている。」
「さて白鳥先生と私、夜の部の両津甚句の時、期せずして舞台のカブリツキの中央へ進出した。先生も私も妹の方に立候補したのだから、三角関係となりつる次第…ともあれ二人の老人がよだれを流さんばかりに聞きほれた姿をご想像下さい」。
・民謡研究家の浅野健二
「…結局、声量・発音・曲節変化等を総合して最も深い感銘を与えたのは中川千代・山田ふさ(新潟)両氏の「両津甚句」。けだし個人優勝盃の栄誉に値すべき抜群の佳吟であった。
鼓を打ちながら唱和する「思うて来たかよ思わで来りょか 三沢四沢の沢越えて」「千鳥啼けなけわしゃ燈台で 星を眺めて寝ずの番」のメロディは実にすばらしく、「アーリャントリャントリャント、コリャサッサ」の囃子詞がもつ古典的感触と共に、往昔(そのかみ)、宿駅の傍にあって路ゆく人の旅情を慰めたと言う“白拍手(しらびょうし)”の声の夜空に清むさまもかくやとそぞろ偲ばれた。私は、しばしその夢幻的な声調に聴きほれながら、水干(すいかん)・烏帽子姿の中世のたわれ女(め)を幻想し、民謡の尊さがここにあるのだとしみじみ思った。」
・民謡評論家の竹内勉氏は,自分の知る限りこの時の唄が歴代優勝者ナンバーワンだと言う。
・昭和42年、第1回「日本の民謡」(文化庁主催)が国立劇場大ホールで行われた。民謡が初めて国立劇場での公演を許可されたことになる。この時、一般人として二組が民謡を披露した。その一組が中川千代、本間フサ姉妹で「両津甚句」、「小木おけさ」を唄った。他は樺沢芳勝の「上州馬子歌」。その他にはプロ歌手の市丸、小唄勝太郎、赤坂小梅。この舞台は歌舞伎保存を目的として建てられ大衆芸能に解放されてなかったため歌舞伎界から大反対を受け、「民謡公演」翌日は舞台を休み「清める」という条件が付けられた。
★中川千代
小木旭町にあった置屋「喜一屋」で生まれた。羽茂本郷に嫁ぐ。明治39年生-平成8年没。若い頃と晩年は両津の料亭吉田屋に勤める。羽茂の味噌会社支配人夫人で、昭和27年第2全国民謡大会に妹の山田(本間)フサ(鼓)と出場して「両津甚句」で優勝。同大会の前日にレコードを吹き込み。
42年、国立劇場が初めて大衆芸能に開放された時、妹のフサと共に一般民謡人として初めて出演、演目は「佐渡おけさ」「小木おけさ」。民謡評論家の竹内勉氏は「自分の知る限り民謡歌い手中で一番歌がうまかった」と。
中川家当主は羽茂本郷中川文十郎氏。平成30年現在、中川文十郎(ぶんじゅうろう)家当主は75歳位で体調はあまり良くないが一人で生活している。中川千代さんは文十郎さんの祖父の後妻にあたる。千代さんの夫は丸大味噌支配人でもあったが、自分でも小木井尻地区で味噌製造を行っていた。位牌には「小木喜一屋生れ俗名チヨ」とある。
★本間(山田)フサ
姉千代と共に小木の置屋「喜一屋」の娘で大正4年生。若い頃、両津の「花月」に勤務。(姉は吉田屋)昭和27年第2回全国民謡大会で姉中川千代と共に「両津甚句」で優勝。この時は「山田房子」となっている。鼓を担当。相川の人と結婚。晩年は本間フサとして小木に住み後進を指導した。国立劇場が初めて大衆芸能に解放された時一般民謡人として初めて姉と共に出演。演目は「佐渡おけさ」「小木おけさ」。
★浅尾森之介
1823~ 1900。現在の佐渡おけさの踊りである16足「おけさ踊り」を創った人物。大坂道頓堀の小屋(劇場)に出ていた与六の弟で浅田屋を名乗る二枚目役者。美男が禍し、福井藩の武家の女房と不義におち、追手から逃げて諸国を流浪。越後で遭遇した相川の有名料亭「寿志鹿」主人に連れられて相川に来た。相川に短期間居て、その後小木に移住し、明治23年頃から77歳で亡くなる明治33年まで当地に住んで踊りを教えた。上州中条生れで、没後弟子の本間トラさんが仏参りに訪ねると間口九間の大きな家であったと言う。浅尾の小木時代のことについては、一番弟子の本間トラさんや、本間さんの弟子中川シズさんからの聞き取りが残り、かなり明らかになっている。白坂町の白木屋(中村姓)には女形専門の方が居た。自ら75歳の時に「元祖浅尾名字事」を記し、系譜を書いている。
★お光吾作の『佐渡情話』について
・「訂正越後頚城郡誌稿』
「此峰ノ薬師堂二常燈明アリテ、北海ヲ航スル船舶闇夜ニ此燈火ヲ以テ方位ヲ知ルノ目標
トセシニ、当郡直江津辺ニ男アリテ佐渡ノ島根ノ女ト契リケルニ、此女男ノ佐渡ノ島二渡 リテ常二契ラサルヲカコチ、夜々佐渡島根ヨリ波涛引渡リ通ヒケルニ、或夜男ノ女ニ向ヒ 遙々波路ラ毎夜通フハ如何シテ渡り越スヤト問ケレハ、渡リ越スニハ、板腹ニアテ海 中二游出テハ、米山薬師ノ常燈明ヲ目標二方位ヲ取リ游越スナリト答ケレバ、男モ空懼シ クナリテ、米山薬師堂ノ常燈明ヲ消ケレバ、女方位ヲ失ヒ海中二死シテ、後波ノ打上ケル ニ、此女ノ腹背ニ蛇ノ鱗出生シテアリケリ、ト郷党ノ口碑二伝ヘタリ」 と記されています。
・「柏崎市伝説集」
「柏崎に藤吉という佐渡通いの船頭がおり、小木のお弁と恋仲になる。藤吉には妻子があ り、その後、柏崎に帰ったきり佐渡にこなくなる。お弁はたらい舟に乗って、夜な夜な柏崎に通う。男はうすきみ悪くなり、ある晩、番神崎の常夜燈を消す。そのためお弁はめあてを失い難破し、死体となり、柏崎の青海川の海岸に打ちあげられる。そこに一筋の滝が流れていたので、その滝を『お弁の滝』と呼ぶようになった」
・『伝説の越後と佐渡』
「佐渡の女と越後男が恋仲になり、女は夜毎舟を漕ぎ、越後潟町の明神様前に点じられる 常夜燈をめあてに通い続ける。やがて男は、女のその強い情がそら恐しくなり、ある晩、 めあての常夜燈を消す。女は方向を失い、暁がた屍となり浜に漂い着く。男は自分のうす情を悔み、まもなく自らの命を断つ。潟町にある『人魚塚』は、その佐渡の女を葬った墓だという」
・寿々木 米若の浪曲によって、全国をふうびした『佐渡情話』の恋物語は、これらの口碑、伝説を もとにして、尾ひれをつけ脚色されたものではないかと思われます
★鈴木米若
寿々木 米若(すずき よねわか、本名・野上 松平(のがみ まつへい)、1899年(明治32年)4月5日 - 1979年(昭和54年)12月29日)は、昭和時代の浪曲師。新潟県中蒲原郡曽野木村大字曽川(現新潟市江南区)出身。
叔父は浪曲師の初代寿々木亭米造。農家の一家に育つ。1920年に上京、父の紹介で2代目寿々木亭米造に入門、寿々木亭米若(のちに寿々木米若)の名で前座ではなく二つ目からスタートした。1923年に真打昇進し一門を離れ独立。1928年に早くも渡米し巡業する。新作物を得意とし[1]、佐渡おけさにヒントを得て創作し自ら口演したSPレコード「佐渡情話」が大ヒット。ビクター、テイチクといったレコード会社を跨いだ形で吹き込みされた演目であり、1930年代にレコードとして最も売れた浪花節の一つである[2]。
〽佐渡へ 佐渡へと 草木はなびく
の哀調を帯びた外題付けは、有名になった。
哀切な語り口調と関西節の美声が特長的である。俳句も良くし、高浜虚子に師事、多くの作品を残している。長年日本浪曲協会会長も務めた。熱海に建てた旅館「よねわか荘」を別宅としたが、巡業続きで帰る暇がほとんど無いほどだったという。
★佐渡の恋歌
・三波春夫
・細川たかし
★たらい舟
・故老によれば、明治20年~25年、白木集落(大字沢崎)に利用目的不明のタライ舟が一つあり、若い衆が2,3人乗って沖の離れ岩で海苔採りをした。
日清戦争(明治27年)直後頃、各家庭で作られた。明治23年、白木の漁師がタコ漁の時に突風にあい、岩鼻を回れず遭難。その後も類似事故が起き、タライ舟活用が始まる。小木岬は磯漁に頼る寒村で、岩が多く、岬風が激しいこの地では、底が浅く身軽で進退自由で建造費が安いタライ舟が適した。女子供でも扱える
・明治30年代に白木の大半に行き渡り、小木にも伝わる。
・大正期に岬集落一円に普及し、一軒で5,6個持つ家もある。
・大正期から大型化し、縦五尺三寸(160cm)、幅四尺二寸(127cm)、高さ一尺八寸(55cm)で固定。一人持ち運び出来、作業しやすく風の抵抗が少ない。
・ワカメの口あけは四月中旬で、明け方暗い内から集落に触れ回り、総代の合図で一斉に出漁する。
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★小木町の職業(明治23年)
・明治22年頃、小木は家が702軒あった。人口は3271人、男が1516人、女が1755人。女が男より2割も多いのは養女などが多かったのか。
702軒の職業:旅人宿18軒 内13軒は廻船問屋兼業、木賃宿15軒 内6軒は廻船問屋兼業 宿屋が33軒。※木賃宿(安宿):木賃は旅人が持参した食料を炊く為、宿屋に払う薪代金。
・明治23の『北溟雑誌』
「早春より北海道および越後地方往来の船舶絶えず、4~50艘ずっ碇泊し、1時130艘にも及びしことありて、そのため米価高値の割りには一般の人気もおだやかなる方なり。」明治23年は6月~7月にかけて相川で相川暴動が起きるほ ど米価があがった年でした。一般に5人ずつ 乗っていたとしても、毎日650人からの人が宿屋に泊ることになります。船乗り相手に多くの職業が成立します。貸座敷が26戸あります。
・貸座敷は、明治政府の廃娼令によってできた。座敷を貸せるのですが、その実は後の売春宿。登録された娼妓が64人。実際には全部の娼妓が登録されないで、350人前後の女性が背後に居た。芸妓が13人。三味線を持って芸を見せる。
・四十物商が32軒。仲買商が25軒。湯屋の6軒です。各家には風呂がなかった。
・常舞台があります。明治24年春、東京春木座の芝居があり大入り。明治28年には日清戦争芝居。「日清戦争芝居が琴平座において開かれ、珍しき芝居なれば、近郷近在より毎日5、6百の入場者あり」(北溟雑誌)
★小木の芸者文化(「島の自叙伝」 田中圭一 1982年)
・大宿では、船が見えたという知らせを受けると、船頭のなじみの女郎子に連絡する。女郎子は銭湯に行き、着物をきがえて、洗足の水をタライに入れ、肴や酒の支度をして、船をむかえる。その船は松前・江差から下関・大坂まで、荒海をこえて 無事入港した船である。船の上から船頭は、買い付けの女郎がむかえに出ているかみる。「碇をおろすと、まず船頭は船員に髪を結ってもらい、頬にかみそりをあてさせる。次に船上 の神棚と仏壇に灯明をそなえ礼拝をする。他の船員もこれにならい、一同そろって本船の伝 船に乗る。船頭は着衣のままトモに立つが、船員はどんなに寒くとも御一本の真っ裸になって漕ぐ。櫂は船員の拍子にあわせて漕ぐ。 ハシケが岸に着くと一同着物を着る。(むかえに出ているなじみの女に、おっかあ、丈夫でよか ったなー、とみんなが再会をよろこぶ。)
・船頭はまず、問屋へ立ち寄って商売の事務をすませ小宿へ行く。船員は金毘羅神社、木崎神社などへ参詣した。宿に帰ってくると、縁に腰をおろして洗足のタライに足を入れる。女が足の塩と砂を落としてくれた。それから一通りのあいさつが終わる と、もう夕暮れ。街のあちこちから、さんざめく声が聞こえはじめる
・少女たちは、小木の養家で暮らす。小学校から帰ると、厳しいお稽古ごとが待ち受ける。その辛さに耐 えられないで実家へ逃げ帰る者もいた。入籍のわかる140人の内、46人が1年の内にやめている。冬の朝、玄関の戸を開け、ムシロの上で大声を張りあげて唄の練習をする。
・明治時代の間、小木をめぐる周囲の情勢は変わった。明治18年の相川-夷間の県道の開設、新潟-両津間の定期船の運航、上越線の開通に伴い、夷(両津)が佐渡の表玄関とな り、島の反対側にある小木は見放されることとなった。 さらに不幸なことに、明治37年8月28日午後7時、小木の町の歴史はじまって以来という大火が起きた。その火事は家数441軒を焼き尽くした。町の過半が燃えた。それが町を変化させた。かなりの人達がこの町に見切りをつけ他所へ去った。残った人達は新しい生業につかなければと自分達の将来の暮らしを真剣に心配しはじめた。
・アケビヅル細工や竹細工が始まった。そうした仕事は元手が要らず、少し経験をつめば女手でできた。 女達に頼った町は、今また女の手に頼った。小木の町は 発展からとりのこされようとした。昭和3年、小木をおとずれた詩人の白鳥省吾は、当時の小木の印象を次のように書く。「あこがれの島、佐渡への第一印象は、夕刻小木港に入港上陸した関係もあろうが、何となく暗い淋しいところのように感じた。電灯の暗いこと、ランプのあったことはおどろいた」。東京から佐渡へやってきた人には、小木はうらさびた港町に見えた。
「小木で芸妓を見たが、田舎としては決して恥しからぬものであった」 港町の貸座敷の灯だけが、やたらに明るかった。それは暗夜の灯火にも似ていた」。
・昔、小木で美声を知られた山田フサさんに会ったのは、お正月の凍てつくような夜のことであった。昨年、北海道の江差町で江差追分を聴いたことがあったが、そのとき江差の人に、小木追分はいまでも歌い手がいるか、と聞かれておどろいた。私などが知っているのは「佐渡おけさ」と「相川音頭」、それに「両津甚句」くらいで、「小木追分」などという唄を聴いたことなどなかった。 「信濃追分」は馬子唄で、それが村を回り海に出て、とうとう江差のニシン場まで伝わり、あの波に揺られるような 「江差追分」になったのだ。「小木追分」はその中間に位置するのだ。フサさんは大正四年の生まれだが、「小木追分」について、「父がお正月前に、おかまさんの端のところで、ワラでしめなわを編みながらロずさんでいるのを聞いて覚えました」 という。昔はみんな歌えたもので、フサさんが20歳の頃までは「宴会」でお座つきの後、「小木追分」を踊らないことはなかったという。 フサさんの「小木追分」は、聴いていた私たちの息をのませる見事なものだった。
・その頃は、波と戦って港に入った舟乗りたちの気持ちを慰めるのに十分なものだったろう。フサさんは小木の人、7歳のとき白木屋のトメさんに弟子入りした。当時、お父さんは6,7年も胃病をわずらい、お母さんは目が悪かった。トメ師匠のところへのモンビ(紋日)の礼も、よその子が1円持って いくのに、50銭持っていけるのがやっとだった。早く一人前になって家を助けなければ、という思いがいつも心の中にあった。15歳で自前になった。当時、どこの家でも女の子にはみんな芸事をさせた。 昭和初年に小木の小学校が午後になると、女の子供が稽古ごとに行くため学校を休んで困る、と父兄に注意書を出している。フサさんが小木を去ったのは、昭和13年のことだった。
★小木の貸座敷
・飯盛女について、「小木町の女郎は、江戸時代は飯売女と呼ばれ、華美の風なく木綿の衣服を着用してい た素人女くさい、私娼的な性格の、女房性を多分に発揮していた娼婦」。古老によると、小木女郎は日中は客に招かれても決してその勧めに応じない。夜は招かれるままに寝具を抱えて資座敷に出かける。意に染まぬ者は断る。好いた客なら初対面、うらもどし、押染(おなじみ)という 順序で客との関係を深める。一段と進んだ関係が「かねつけ」である。か ねつけとは旦那を持つことである。小木女郎の理想は旦那を持つことで。
・江戸時代後期、飯盛女の社会的地位は低くなる。明治5年、太政官から廃娼令が布告。廃業できるようになった。 「自由廃業で籠から飛び去った者は小木女郎には一人もなかった。明治6年、彼女等は自発的に女郎を続け、表面上、養家(抱主) から離れる条件で遊女の鑑札を受けた。しかし、実質は旧態のまま。
・廃娼令当時、貸座敷業者として小木で鑑札を受けたものは57名、大部分は四十物商、仲買商、船宿等が兼営、資座敷は全町に散在。前借金が女達をしばっていたので女性達は廃業出来ず。
・江戸時代、各種貸座敷があった。小宿という船頭専門の料理屋 (宿)。付船宿。船乗りが櫂を一挺ずつ持ってここに泊る。他に「女郎子屋」「あげ屋」。これらの 店は、船方を相手にしない佐渡の島人の行く「町もんの宿」。明治11年に貸座敷料理屋の制度改正で小木は48軒に権利が認められました。免許がなかった人達が「ねこ屋」。
・おけさ伝説には「ねこ」が登場。この遊女のねこ(寝妓)の話。「小木女郎の身代金は明治中期頃までは普通150円内外。明治25年の遊女の稼ぎが一晩に50銭。10日で5円、100日で50円。150円の前借金は大変な金額。自由営業とはいい、女達には悲しい背景があった。「小木の芸者屋は、家族主義的、温情主義的で、養女が結婚する、独立して家業を営む時、養女をもつ家では結婚のための費用とか、独立のための資金なりを与え、将来に亘って世話することは実の娘に対すると同様」
・貨座敷で働く女性達の背景
(明治治9年から約10年間の資料)
小木町に養女として来たり、小木の家に寄留した人の総数は約400人。一番は相川町出身の135人。全体の3割。鉱山が寂れ、相川で収入の道が途絶えた。明治になり、相川鉱山の経営は幕府から脚料局に移る1万人の人が鉱山で生活は困難。しかし土地を出られない。それで、相川の人が小さな女の子を小木へ養女に出した。
・明治初年、小木は多くの廻船が寄港。明治25年の山六さん一軒の貸座敷で年間238人の人間が宿泊。座敷は約30軒あり、宿泊は相当数。小木の貸座敷業者は養女を抱えても損はない。相川の実家にすれば5,6歳の子供が150円の金を家に入れ、大人までの面倒をみて、5年程の年季奉公で嫁にいかせてもらえる。当時、一軒の家の子供数も多く、5~7人をかかえ生活苦の家庭が多かった。
・相川の次に小木の91人。次は河原田の21、赤泊18、五十里9、新町6、二宮5、夷5、稲鯨4、豊田4、堂釜4、中興 4人。
・小木町史(昭和7年)の記録
小木の小学校では午後になると女生徒が習い事に行き,学校を早引きして困る。数百年間、経済の大部分を遊女、料理屋稼ぎに頼った小木としては仕方がなかった。明治20年代、和船が衰え蒸気船になると、北海道行きの船などは小木に寄港しなくなり、小木町様変わりし、明治20年代には貧しい町になった。
・養女の年令層
合計385人の内、9歳が20人、16歳の18人、10歳の17人、8歳の17人、6歳の16人、11歳の11人。小学校へいく6歳~12歳が25%。両親が子供を学校へやることが困難な状況。次は14歳~20歳まで。職を求め小木町へ来て、手早く親の手助けが出来る。
・養女を我が子のごとく育てるといっても修行。家の掃除から台所仕事、寒げい(早朝外で大きな声で唄よみの練習)もします。午後小学校を休み唄や三味線に通う子供が多かった。修行は厳しく、入籍期間に現れる。
入期間のわかる140名の内、46人が1年未満、5年~9年までが37名あります。養女達の離籍したときの年齢を見ると16歳前後と24歳前後に集中している。そこで1人立ちしていった。
・ 女性の数ですが、1人の家が98軒と圧倒的で、2人が36軒、3人が33軒。それから、8人、9人の女をもつ家が2軒ずつあります。
★小木と芸妓とネコ
飯盛女のことをネコと呼んだ。公の許可をもらって芸を売るものではない。三味もひかず、夜遅くにどこからか現れ、船宿に入った女性。ネコとは、夜遅く路次をよぎって、餌を求めて歩く猫に例えた。小木には、江戸時代に70人以上もの遊女がいた。飯盛女はその3~4倍は居たので250人前後と思われる。
・当時,公道の店頭に「にしんしめかす」の看板と「芸妓営業」の看板。農業には金で肥料を買う。その金を手っとり早くつかむ為に娘を売る。
・どうしてネコが生まれたか、公認され、鑑札をもった芸者との間に問題はおきなかったのか?!
せり合って許可を申請、鑑札をもらえない者が出る。店で一人だけ登録し、他の4、5人は税金をかけないで稼げる。1人分の税金は家にいるネコが分担。
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
小木に発達した小木歌舞伎を調べながら、ゆかりの衣装道具を吟味しようと、佐渡博物 館の芸能部長の本間林三氏および椎名仙卓学芸員に誘われて、水郷小木をたずねたのは一九五八 年六月二日である。ちょうどその日は東京の郡人会の郷土訪問の一行が正午ごろ上陸するというw ので、町はなんとなくざわめいていたが、それとは別に男女ふたりの高齢の方から、役場の二階
の静寂のなかで、とっくりと昔話をきくことができたのは、博物館の事前連絡により日曜にもか かわらずあれこれと斡旋してくれた小木教育委員会のおかげであると頭がさがった。
小木歌舞伎のことを語ってくれたひとりは一柳幸吉という親子二代にわたり金刀 小木歌舞伎平座(むかしの額の文字にしたがう)の道具方をしている当年七十に余る老人だ が、壮者をしのぐ元気さで大道具師でありながら、小道具も作って間に合わせるし、太鼓したた けば、つづみもうつという手巧者で、いうなれば小木のこの道での生ける文化財であろう。若い とき小木へ来た旅の一座が演じた仮名手本忠臣蔵の、あのくらいの高い呼吸のめんどうな大序の つづみをうってのけてとてもほめられ、給金のほかにあのころには大枚であった五円を祝儀にも らったはなし、さあっと頬を紅潮させての語り草など、佐渡芸能界のため気を吐いてくれたし い話である。女の方は明治十五年生れいえ七十六歳になります、という明治屋こと通称角の本間 トラさんである。一見六十をちょっと過ぎたとしか見えぬきりりとした上品な方で、わけてし若 かりし日はどんなにかきれいであったことだろうと思わせる目鼻立ちに残り香はのかにただよう たり、さすがは立役(男役)ばかりをおそわったというきびしい修業に堪えた気はくがいまな 人にせまるものがある。この方はちゃきらゃきの小木娘で、自他共に許した師匠浅尾森之介の 一番弟子である。
浅尾森之介は、大阪の道頓堀の小屋(劇場の古称)に出ていた与六という役者の弟で、浅田屋を名乗る二枚目役者(色男役)である。すこぶる美男であったので女子どもにもて、 さわがれついには福井藩のさる武家の女房と不義におちたのが発覚し、重ねておいて四つにされ るのを怖れて兄の小屋を抜け、諸国流浪中、越後路をうろついていたのを、相川の料亭寿志鹿の 主人が佐渡へ連れてきたものである。相川に逗留していたのはほんのわずかの間で、ほどなく小 木へ移り住み、ここで弟子取りをして燈を立てていたが後年小木で客死している。森之介が小木 へ来たのは明治二十三年ごろで、七十七歳で亡くなったのが明治三十三年とあるから、小木には 十年いたことになる。森之介は上州中条の生まれで、その歿後旅の道すがら師匠の仏参りに訪ね た弟子トラさんの話では、家は間口が九間もある大きな建物であったという。
★「麦と兵隊」と「佐渡おけさ」
「徐州徐州と人馬は進む 徐州いよいか住みよいか しゃれた文句に振り返えりゃ お国訛りのおけさ節 髭が微笑む麦畑」ご存じ「麦と兵隊」の一節です。
この歌は、東海林太郎の唄(作詞:藤田まさと、作曲:大村能章 1938年)で大ヒット。
・「つれづれ想思譜(自動車ジャーナリスト有馬崇)より
「新潟県柏崎市大字石曽根にある鯖石神社の50代目の神職で、ミヤコ自動車工業の創立者だった故宮澤益二郎さんにこんな逸話があります。「私の年代は、当然のことながら太平洋戦争を控えての支那事件、上海事件に参加した人が多い。私自身もその一人だ」。」宮澤さんによると中支派遣軍に応召。上海・南京攻略作戦に参加、さらに徐州作戦において「大腿部貫通銃創」という名誉ある負傷を受けている。その徐州作戦における野戦病院に担ぎこまれた負傷兵の中で、元気のよい宮澤さんは、ともすると陰気になりがちな戦友の気持ちを引きたてるため得意の“佐渡おけさ”を中心とした民謡を唄った。そうした風景をたまたま前線慰問に訪れた作家・火野葦平氏が感激して宮澤さんを激励したという。そうした一風景は、小説「麦と兵隊」に書かれる一方、東海林太郎が唄った「麦と兵隊」の一節、友を背にして道なき道を…”のモデルにもなったそうだ。
★三橋美智也の名曲「哀愁列車」と「佐渡おけさ」
哀愁列車の作曲は沢根出身の鎌多俊與である。関係者の書いたものを総合すると、この歌の唄い出しである高音の「ほーーーれえてほれえてー…」の部分は「佐渡おけさ」の歌い出し部分「はあーーっ…」をヒントに作ったそうだ。佐渡高校百周年記念誌には「哀愁列車故郷へ帰る」との一文がある。
尚、三橋美智也は「佐渡おけさ」「相川音頭」「両津甚句」「七浦甚句」をレコーディングしている。
指導に当たったのは畑野出身の民謡家松本丈一で、「三橋はなかなかうまく歌えなくて困った…」と生前語っていたと言う。松本と三橋の交友は大変長い。昭和27 年に日本民謡協会が創立した時の創立大会に松本と弱冠19歳の三橋が共に模範歌唱をしている。その後も互いに民謡協会の役員として深く交わったようである。
★中川雀子の新説「はんやは大阪佐渡島町の半夜から出た!」
・「佐渡おけさの起源とハンヤ考」
佐渡の海産物(スルメ、ホシアワビ、キンコ、テン草)は当時唯一の対支貿易品。その荷を積む船を御俵物船(ごひょうぶつぶね)と呼び、九州に運ばれ、各港で幅を利かせた。九州で荷を下ろし、空船に日曜雑貨等戻り荷を積むため大阪で数日を過ごす。その間、船頭衆は豪奢な慰安を求めた。「佐渡島町」はそう言った佐渡船頭衆の盛大な散財ぶりからの命名であろう。
・大阪の遊女の、太夫、天神、鹿恋、半夜の姿態を写し考証を加えた古い版本がある。
挿絵には半夜は三味線を抱え、又九州方面には芸者を半夜と称している地域もある。その語源も太夫や天神の全夜のお伽女に対する半夜の女…即ち宵半夜の酒宴に芸事の興を添える女の意だろう。三味線太鼓でぞめき囃し、華やかさを好む船頭衆の酒宴には半夜はなくてはならない存在だったろう。
・半夜は又、毎航海の都度豪勢に振るまって廓を賑わす船頭衆には格別の好意を示し、情意投合の秘事もあったであろう。
「ハンヤイヤソリヤ枕はいらぬ互い違いのお手枕」。ハンヤは床枕を売る女ではなかったことが明らかである。
・「おけさ節」ばかりでなく「ハンヤ節」も又始祖は佐渡の御俵物船の船頭衆であろう。
※宮尾しげお氏も次のように書く。
ハンヤは「半夜」と言う芸者のことで酒宴に三味を弾き歌う。「全夜」は夜伽をする遊女のこと。
★「おけさ」の語源21!
1・佐渡の小木の貧しい家に長年飼い慣らされた老猫が居て
2・江戸の深川の高貴な家で飼われていた猫が
3・小木のそば屋の老夫婦に飼い猫が
4・小木港に猫好きのおばあさんが居た
5・遠く建久の昔、奥州丸山の領主佐藤庄司元治の未亡人、
6・文治2年(1186)勝見浦に上陸した源義経を見送った静御前と佐藤継信・忠信の母
7・織田信長の娘松君姫が本能寺の変(天正10年)を逃れ、尼僧清音尼となり、佐渡に来た。
8・能登福浦港では遊女のことを「おけさ」と呼ぶ。
9・美声の桶屋の佐助が
10・播州明石の浪人堀将俊が
11・上方より織物の技術を持った「おけさ」と言う美しい女性が
12・関西からやって来た明石二郎という武家が一人娘の「おけい」と共に
13 ・出雲崎に山村より「けさ」と言う賤女が
14・柏崎地方の「出家さ踊り」から「しげさ」、「おけさ」に転化した。
15・小木の宿屋で泊り客に朝目を覚まさせるために「起きろ」と言う歌があり、この「おきろ節」が転化して
16・飛騨白川郷に笠踊りと言う「白川節」があり、江戸末期旅芸人の「おけさ」と言う女が
17・相川花街の青年が京都に出て、織田信孝令女と深い仲になり相川に戻る。
18・「奴踊」と称する神事踊が各地に残っており、その唱歌に「任せておけろのよいやさ」
19・白根の新飯田に渋谷籐衛門と言う美声の持ち主が居た。
20・慶長年間、新潟に「おけさ」と呼ぶやさしく美しい娘がおり、
21・佐渡の港町小木に、やもめぐらしの老翁が住んでいた。猫をかわいがっていた。
★尾崎紅葉とお糸さん伝説
大変美しい恋物語として流布しているが、実際は…。
(1)当時の事情をよく知る西三川村小村小学校長の池正治「小木と尾崎紅葉」。
・紅葉の来港を聞き伊藤町長と風間小学校長が来て、紅葉を誘って「権座屋」表二階に席を設け、その時に三人の芸妓「いと」「つる」「とら」が呼ばれ、紅葉は恋女房菊子夫人似の小糸(糸の芸名、当時27 歳)に心ひかれる。
・20日風間儀太郎が綿屋で紅葉歓迎会を開くがわざと小糸を宴に招かず。
小糸はたまらず紅葉に呼び出しの手紙を書き、紅葉は「待っていろ、必ず帰って遣わす」と返事するがなかなか行かず。
・21日浴衣を買い小糸に仕立てを頼む。
・22日羽茂の人達が小木「大角屋」で歓待し、紅葉は小糸をのろけるのでわざと彼女を呼ばず。
一方小糸は縫った浴衣も持って待つが紅葉帰らず。
・23日紅葉が帰ると小糸は紅葉をなじり紅葉は弁解し、小糸が縫った浴衣を着て小糸と浜へ出る。
この夜紅葉は小糸の三味線に「来いちや来いちやに二度だまされた又も来いちやでだますのか」と書く。
・この三味線は後に小糸の手を離れ各地を転々として昭和25年小木「宝屋」旅館所蔵となる。
・別れの時、「風」こと風間慎一郎が持ち合せの扇子を出して「先生、一句なかるべからず」と言い、紅葉は「汗なんどふいてもろうて別れけり」と認める。小糸はこの扇子を大切にしていたが、明治37年の大火で焼失。
・両津で小糸に手紙を書く。「…かりそめ契ではあったが他人とは思われない…もう2、3年したら再び佐渡に遊びたく思うが其の時にはどうかお前が然るべき人の処に縁附いて母アちゃんと云われている姿を私は見たいと思う」。
・小糸はその後妙宣寺住職に嫁し、住職の死後が権座屋近くの質商と再縁し町の婦人会幹部などとなる。
(2)橘法老『楽我記帳』に「お糸のこと」なる一節
橘は当時の事情をよく知る小木の老妓に直接聞く。
7月19日夜、権座屋の宴席に辰巳屋のおいく、福屋のおうめ、岩本屋のおつる、伊勢屋のおのぶ、稲見屋のおとらの五人が出る。おいく、おうめ、おつるは当時小木の三美人だった。中でもおいくをとても好みお伽に侍らせる。おいくは歩く時反り身で、目に剣があったが紅葉はその剣が好きだと言って可愛がる。芸者仲間では「江戸っ子って妙な所をすくもんだ」と噂しあった。
ところが彼女には見受け話が出て、河原田の中山呉服店主が度々通った。日本一の小説家と言っても一般世間からは堕落書生の親方位にしか見られなかった紅葉との関係がばれると身受けが破談になると思い「芸はなし、器量は悪しで仲間から案山子芸者と仇名されていた」お糸を身代わりに立てた。
それが続いて三度目の7月23日に紅葉はお糸の三味線をふんだくって「来いちや来いちやに二度だまされた又も来いちやでだますのか」と怨言を書き散らした。
※ところが「来いちゃ来いちゃで又騙された…」について山本修之助は「佐渡の民謡」(昭和5年刊)で次のように書いている。 「明治32年7月尾崎紅葉が佐渡来遊中、小木の妓お糸さんの三味線の胴に書いて与えた唄で、紅葉の作とも又それ以前からのものだとも云われている。」
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★塚原徹
【生没】一八八九ー一九四七 明治二十二年小木町幸町四二九の一、ヤマヨこと与右衛門家に生まれる。当時の家業は、信濃屋という味噌・醤油の醸造業であった。早稲田大学哲学科に学んだあと家業をついだが、町会議員におされて二度当選した。のち町長となり、太平洋戦争末期の困難な時代に二期つとめ、城山公園の造成、矢島経島の名所旧跡の紹介などに力をつくした。文化面でも、大正四年に日刊紙「新佐渡」の刊行に参加し、天南星の号で文人としての巾ひろい活動をみせた。昭和十七年に、友人猪俣津南雄の協力を得て小木町史編さんを企て、当時日蓮研究で来島していた橘法老(実名正隆)に依嘱を試みた。この試みは実現しなかったが、そのころ千葉県から郷里佐渡へ疎開していた渡部次郎を説得・援助して、『佐渡国小木港の社会経済史的研究』という一○○頁の印子を出版させた。佐渡中学で同級の作家で評論家の青野季吉は、その著書『佐渡』(小山書店版)の中で、塚原家の屋号から「先祖は信濃から移住してきた商工民であろう」と推定している。その年代はわからないが元禄検地帳には、すでに与十郎の名で間口三間・奥行一二間としるされている。その時は石細工問屋であった。島内産の石臼は日本海沿岸の村々に津軽あたりまで運ばれており、良寛などは佐渡で刻まれた石地蔵を枕にして、昼寝した話が伝えられている。文化八年に出雲崎へ渡った与十郎は、村上まで出掛けて漆の種子を買い求め、村内に植えた。樹が成長すると漆や蝋をとり、他村にも植えひろめた。漆は塗料ばかりでなく、その実は和蝋燭の原料にもなる。やがて松ケ崎の金田六左衛門という蝋燭製造業者が、国産原料自給に目をつけて、小木三崎野の新田開発に乗り出した。そこに成立したのが金田新田村である。太平洋戦後に、この新開村に葉タバコ栽培が始められたのをはじめ、採種などの高度な園芸農業農地が展開し、いまや島内ゆび折りの生産地に変貌した。
★「我等はしょせん田舎者か」
塚原徹さんが一番偉大 だった点、それは小木岬の実情に足を踏まえて、大正、昭和の地方政治、あるいは日本の 近代、将来を語ろうとした点にあります。塚原さんは理想主義者ではありまし たが、しかし、いわゆる空理空論をふりまわしていたわけではありません。ここでとりあ げようと思うのは、塚原さんが主宰した新聞『新佐渡』の十八号にのせた、『我等はしょせ ん田舎者かー地方開発の最根本的条件を論ず』という論説です。「田舎者ということは、田夫野人というような意味である。低智低能のもちぬしを意味する。およそ、その国、その時代の文明の下層に属する人びとを意味する習慣である。田舎酒、田舎侍、田舎なまり、田舎ふう、田舎新聞、田舎教師、田舎文士、田舎政治家、田舎芸人、田舎医者、田舎初段、田舎廻り、田舎料理など、田舎の二字をかしらにつける事物は、がいしてその国その時代において、より粗悪、劣悪な事物を意味する約束になっている。評価の低度の事物を意味する。評価の第一位を許されざる事物を意味するのである。 佐渡は日本の一田舎であり、我等佐渡人は田舎物の一種類である。・・・・・・・・・・・・
佐渡人は、小木人はみずから置かれた劣悪な経済条件のもとで、 いかに自分なりのものをつくり出す必要があるかを説いたものでありましょう。ひとつの
030323「畑野あれこれ」(畑野公民館)
youtube 「畑野あれこれ」(2021年3月23日 畑野行政センター)










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