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2021-01-12

★渡辺泰治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
わた渡辺泰治

★渡辺尚志(たかし)
医師、現在(平成27年)ドイツのマックス・プランク生物物理化学研究所研究員でMRI等の研究に従事。
昭和45年生、相川小-佐和田中-佐渡高校-筑波大医学部卒。

★渡辺貴宏
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺拓真
「シマイル」
わた渡辺拓真 (2) わた渡辺拓真 (1)

★渡辺琢磨
平成27年2月24日 新潟日報
なか中村暢子(ようこ)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「40号」(平成27年1月)佐渡市地域おこし協力隊(笹川・西三川地区 寺内栄樹、小倉地区 渡邉琢磨)

★渡辺威人
わた渡辺威人渡辺威人 嶋田哲夫 佐渡八十八番霊場「佐渡遍路紀行」平成28年刊行
金井新保の人。令和5年2月没、90歳。昭和27年佐渡高校卒、県内島内各地で教員生活を送る。「島の新聞」に、創刊以来、平成26年まで88回に亘り「佐渡八十八番霊場」を連載する。短歌、俳句、川柳等の文芸作品を新潟日報等に発表する佐渡を代表する文人である。
『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺威人
103 田中茂の生いたち 118 相田栄蔵のこと -旧二宮村窪田 県議会議員- 125 義民本間作右衛門  103 田中茂の生いたち 105 松木西願-明治紀念堂由来銅柱を寄付した行者- 108 義民本間作右衛門 145 遍路紀行について 152 佐渡の山伏の先駆者 154 佐渡の山伏の先駆者(そのⅡ)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「28号」(平成24年1月)佐高時代の思い出(渡邉威人)「29号」(平成24年4月)名刹小叡山 蓮華峰寺(渡邉威人)「29号」(平成24年4月)佐渡の方言と民具(渡辺威人)「30号」(平成24年7月)佐渡の方言と民具 その2(渡辺威人)「30号」(平成24年7月)佐渡西国33番霊場 その1(渡辺威人)「31号」(平成24年10月)佐渡の方言3(渡辺威人)「31号」(平成24年10月)佐渡西国33番霊場 その2(渡辺威人)「32号」(平成25年1月)佐渡西国33番霊場 その3(渡辺威人)「32号」(平成25年1月)佐渡の方言 その4(渡辺威人)「33号」(平成25年4月)佐渡西国33番霊場 その4(渡辺威人)「33号」(平成25年4月)佐渡の方言 その5(渡辺威人)「34号」(平成25年7月)佐渡西国33番霊場 その5(渡辺威人)「34号」(平成25年7月)佐渡の方言 その6(渡辺威人)「35号」(平成25年10月)・佐渡西国33番霊場 その6(渡辺威人)・佐渡の方言 その7(渡辺威人)「36号」(平成26年1月)・佐渡の方言 その8(渡辺威人)・佐渡西国33番霊場 その7(渡辺威人)「37号」(平成26年4月)・佐渡西国33番霊場 その7(渡辺威人)・佐渡の方言 その9(渡辺威人)「38号」(平成26年7月)・佐渡の方言 その10(渡辺威人)・佐渡西国33番霊場 その7(渡辺威人)「39号」(平成26年10月)・佐渡西国33番霊場 その10(渡辺威人)・佐渡の方言 その11(渡辺威人)「40号」(平成27年1月)・佐渡西国33番霊場 その11(渡辺威人)・佐渡の方言 その12(渡辺威人)「41号」(平成27年4月)・佐渡西国33番霊場 その12(渡辺威人)・佐渡の方言 その13(渡辺威人)「42号」(平成27年7月)・佐渡西国33番霊場 その13(渡辺威人)・佐渡の方言 その14(渡辺威人)「43号」(平成27年10月)・佐渡西国33番霊場 その14(渡辺威人)・佐渡の方言 その15(渡辺威人)「44号」(平成28年1月)・佐渡西国33番霊場 その15(渡辺威人)・佐渡の方言 その16(渡辺威人)「45号」(平成28年4月)・佐渡西国33番霊場 その16(渡辺威人)・佐渡の方言 その17(渡辺威人)「46号」(平成28年7月)・佐渡西国33番霊場 その17(渡辺威人)・佐渡の方言 その18(渡辺威人)「47号」(平成28年10月)・佐渡西国33番霊場 その18(渡辺威人)・佐渡の方言 その19(渡辺威人)「48号」(平成29年1月)・佐渡西国33番霊場 その19(渡辺威人)・佐渡の方言 その20(渡辺威人)「49号」(平成29年4月)・佐渡西国33番霊場 その20(渡辺威人)・佐渡の方言 その21(渡辺威人)「50号」(平成29年7月)・佐渡西国33番霊場 その21(渡辺威人)・佐渡の方言 その22(渡辺威人)「51号」(平成29年10月)・佐渡西国33番霊場 その22(渡辺威人)・佐渡の方言 その23(渡辺威人)「52号」(平成30年1月)・佐渡西国33番霊場 その23(渡辺威人)・佐渡の方言 その24(渡辺威人)「53号」(平成30年4月)・佐渡西国33番霊場 その24(渡辺威人)・佐渡の方言 その25(渡辺威人)・遍路の旅(渡辺威人)「54号」(平成30年7月)・佐渡西国33番霊場 その25(渡辺威人)・佐渡の方言 その26(渡辺威人)「55号」(平成30年10月)・佐渡西国33番霊場 その26(渡辺威人)・佐渡の方言 その27(渡辺威人)「56号」(平成31年1月)・佐渡西国33番霊場 その27(渡辺威人)・佐渡の方言 その28(渡辺威人)「57号」(平成31年4月)・佐渡西国33番霊場 その28(渡辺威人)・佐渡の方言 その29(渡辺威人)「58号」(令和1年7月)・佐渡西国33番霊場 その29(渡辺威人)・佐渡の方言 その30(渡辺威人)「60号」(令和2年1月)・佐渡西国33番霊場 その30(渡辺威人)・佐渡の方言 その31(渡辺威人)「61号」(令和2年4月)・佐渡西国33番霊場 その31(渡辺威人)・佐渡の方言 その32(渡辺威人)「62号」(令和2年7月)・佐渡西国32番霊場 その32(渡辺威人)「63号」(令和2年10月)・佐渡西国33番霊場 その33(渡辺威人)
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺タケノ
「岩首校百年誌」(昭和55年)
わた渡辺タケノ 岩首校百年誌(昭和55年)

★渡辺忠志
302月 渡辺忠志 わた渡辺忠志

★渡辺忠正
佐渡高校時代の昭和38.2.16、全国児童生徒デザイン展入選 

★渡部七十郎
長谷寺
わた渡部七十郎 長谷寺

★渡部太平次
長谷寺
わた渡部太平次 長谷寺 (2) わた渡部太平次 長谷寺

★渡辺忠一
両津夷の人、明治40年生、理髪業(仙次郎床屋)。
三味線の名人で鴨湖会会長を長く務め、会長在任中の昭和29年産経新聞主催の日本民謡大会において「佐渡おけさ」で日本一になった。鴨湖会全盛期の中心人物で、相川立浪会と両津鴨湖会は日本中に知られた佐渡民謡の双璧の会であった。

★渡辺忠蔵(扇畑)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
上山田の人、大崎屋松之助の去った後の大崎座の太夫。川茂の阿波の一の高弟で、小佐渡の太夫として高名であった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
「山里の人びと」(文弥人形)

★渡辺長一
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
わ渡辺長一 
わ渡辺長一  (2)
わ渡辺長一  (3)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢村 ・昭1、佐渡立憲民衆党の創立[二年八月十八日]・昭1、佐渡立憲民衆党の結党式[二年八月十八日]・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]・昭3、佐渡民憲党[六年十一月六日]・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日] 『金井を創った百人』

★渡部長治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
わた渡部長治

★渡辺長次郎
『続佐渡酒誌』(平成14年)
わた渡辺長次郎 『佐渡酒誌』(平成14年)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
吉岡の人、醸造開始は天保一四(一八四三)年といわれている。
旧真野村村長、明治三一年九・一より。

★渡辺長松
『続佐渡酒誌』(平成14年)
わた渡辺長松 『続佐渡酒誌』(平成14年)

★渡辺千代蔵
わた渡辺千代蔵
『両津市要覧(昭和33年)』より
わた渡辺千代蔵

★渡辺チヨノ   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡高女時代の昭和16年、第11回女子中等学校体育大会(上越、中越、下越の三会場で開催)佐渡高女400mR4位(伊藤与志乃、渡辺チヨノ、谷郷稔、安田ムツ)

★渡辺貞阿(喜平次)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
わ渡辺貞阿
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
わた 渡辺貞阿 わた渡辺貞阿 (2) わた渡辺貞阿 (4) わた渡辺貞阿 (5) わた渡辺貞阿 (6) わた渡辺貞阿 (7) わた渡辺貞阿 (8)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡新穂の人で通称は喜平次という。美濃風の俳諧をよくし宗匠となり巴江庵を建てた。天明八年(一七八八年)になくなった。(佐渡人名辞書)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
一七五五-一七七六。渡辺巴江は蕪村と殆んど同時期に新穂に出た俳人。芭蕉の流れをくみ一般向といわれる支考(芭蕉の高弟で美濃=岐阜県の人、精力的に平俗的な俳句を広め美濃派といわれる)の系統の人といわれる。父の水巴も俳諧人であったが、父の弟貞阿(一七二七-一七八八)も俳藷をよくした。何所で学んだかは明らかでないがその子巴丈(一七四七-一七九六)、魯山(一七七九-一八三五)、周斎(一七九七-一八五四)他に一家から晋山(一八三一-一八四九)、巴春(?~一八九二)等早世した俳人も出ている。今その作品の二三を示そう。
唐獅子の影咲きかくす牡丹かな(巴江)
汐につれて声の満ち来る千鳥かな(〃)
朝なぎや霞の中に櫂の音(貞阿)
早嵐や松もひそかに秋の音(巴丈)
極楽のせまさ語るや冬ごもり(〃)
蚊の声に低うなりけり朝の山(魯山)
炉開や五徳の錆もなつかしく(周斎)
おもい出や杖のあとにも春の水(晋山)
美しき別れ衣や雪の旅(巴春)
魯山は又慎斎と号し、書道にもすぐれていた。これ等の人々は宗匠として多くの同好の士を集め俳讃の通を広めた。
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★渡辺貞治
新穂村 
わた渡辺貞治
潟上の人、令和元年5月没、89歳。新穂村議、日産生命佐渡支所長などを歴任。

★渡辺照房
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡羽茂町の人で通称を甚兵衛という。柔術をよくした。菅原社境内に慶応戊戊(慶応に戊戌の年はない)六十の寿碣がある。(佐渡人名辞書)

★渡辺貞蔵
『続佐渡酒誌』(平成14年)
わた渡辺貞蔵 『佐渡酒誌』(平成14年)

★渡辺鐵之助
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺哲治
「岩首校百年誌」(昭和55年)
わた渡辺哲治 岩首校百年誌(昭和55年)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4海府の方言と風景と ・高千の土着文化を見つめる 6佐渡の現代っ子たちの遊び 7戦後五十年、佐渡の子供たち

★渡辺てるみ
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺伝蔵
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎座は明治三十年、大和座に合流以来約三十年の間、交流・共鳴の形で芸道に精進してきたが、昭和の初期、赤泊興業の帰途、意見の衝突から、ついにたがいに出し合っていた人形を分けて帰り、大和座とは完全に分離してしまった。当時の太夫は中川今吉(大谷)、役者は中川鉄五郎(大谷)・中川鹿威・中川伊八・渡辺伝蔵らであった。その後大崎座は鹿蔵を座長として、南部一円を興業してまわった。
・大崎座と大和座は分裂以後、たがいに芸道を競い、文弥人形界は活気を呈してきた。中川甚七は昭和四年(一九二九)没し、中川鹿蔵も老境に入り、葛原五兵衛がその後をついで座頭となり、中川伊八・渡辺伝蔵・石渕由太郎・村田豊次・今倉正太郎らと共に、その振興に力を尽した。鹿蔵もまた昭和十一年に世を去った。その後五兵衛は、佐渡人形界の名人の座にあり、全島に「五兵衛さん」の愛称で親しまれ、特に二刀流のつかい手としては、島内の第一人者である。また、薙刀の名演技も鮮かである。中川伊八は薙刀、渡辺伝威は女形・薙刀・若武者、石渕由太郎は女形・若武者を特技とした。太夫は村山の笠井長吉(大山)がつとめ、再び里見座の全盛時代を招来した。笠井長吉の没後、河原田の岡本文司によって各地をまわり、また、潟上の三代池田宗玄も両三度来演されたが、昭和三十年(一九五五)頃より中興岡本文盛太夫となり、羽茂の藤井閑六・長尾閑月らと共に今日に至っている。
・昭和二十四年(一四四九)村田豊次宅の火災により、同家に保管されていた人形一行李を焼失した。上の坊住職本間敵政は、かねてから余技として刻んだ人形を里見座に寄贈して、その不足を補った。その後、石渕由太郎は不幸病魔のため倒れ、渡辺伝蔵・村田豊治も共に歿し、また、昔日の面影はなく、わずかに座頭葛原五兵衛が今倉正太郎と共に、一座をささえている状態となった。しかるに、五兵衛また老境に入り、大崎の文弥人形の将来を危ぶむ声が起ってきた。かねてから藤井真一は岡本文司に師事して文弥を修業し、かたわら人形つかいの技を修め、また昭和五二年(一九七七)には草木実・中川清治・川上公紀・渡辺友子・川1芳枝・中原ムツらの若人が、五兵衛の指導を受けて大崎座の復興にのり出した。しかるに、不幸若手のホープとして嘱望された藤井真一・草木実の両名が相次いで死去の悲運に遭ったが、若い同志の固い結束により、文弥人形の保存と振興のために精進をつづけている。また、昭和五十三年には、文弥人形愛好の有志により、大崎文弥人形保存会を結成して協力しつつある現状である。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
「山里の人びと」(文弥人形)

★渡辺藤一
「佐渡ふるさと百科」
わた渡辺藤一 佐渡ふるさと百科 わた渡辺藤一 「風間君の佐渡」
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
彫刻家。明治三十五年十一月二十一日に佐渡郡佐和田町沢根で生まれた。三十六年に父多吾がなくなり、八才の時母トクの連れ子として二代与八(仏師)に育てられた。昭和元年、二十五才の時、上京して木彫の佐々木大樹(帝展審査員)の門にはいり、昭和四年二十八才の時、第十二回帝展に「沖」が翌年「現明」が入選した。その後、佐渡へ帰り多くの作品を残した。昭和十三年八月九日に三十七才でなくなった。(佐渡の百年)

「風間進君の佐渡」より
渡辺は佐渡沢根出身(1902-1938)、母の再婚により仏師の家山田家に入る。その才能を惜しんだ義父の計らいで木彫の第一人者佐々木大樹に入門。帝展入選を果たすが病のために帰郷、その後も多くの作品を生むが36才で没した。
「佐渡の木彫家」(「佐渡の百年」)より 
渡辺藤一 佐和田町沢根の渡辺多吉、トクの長男として明治三十五年十一月二十一日に生まれた。佐渡の木彫家のうちでも、とりわけ近代的感覚にすぐれ、中央の展覧会にもたびびた入選した。若くして世を去ったため、その名はあまり知られていない。うぶ声をあげた翌三十六年、父の死にあい、八歳の時、母の連れ子として二代目山田与八(茂助)に育てられた。藤一は生まれつきの才能もあったが、この養父の薫陶も大きかった。二十歳のころ、佐渡共進会へ 「虎仙人」を出品、一等賞を獲得した。昭和元年、二十五歳の時上京、当時帝展審査員であった木彫の大家佐々木大樹の門にはいった。昭和四年、ニ十八歳の時、第十二回帝展に「沖」が、翌年は「現明」が相次いで入選した。その後、佐渡へ帰り、多くの作品を残した。昭和九年、筆者の父静古が、古稀(七十歳)の時、記念として座像を制作してくれた。数日間滞在して制作に取り組んだが、父の顔が非常に彫刻的だと言って、モデルにした。はじめアメリカ製の粘土で型をとり、それを石膏に作り、その石膏を見て木材にノミをふるうという工程であった。彼は言葉少ない誠実な男で、作品は俗臭を離れ、清楚で単純のなかにも、一種の神秘的な深さをもっていた。彼の病臥中、妻は産祷で息を引き取り、その葬式にも出られないまま、彼もまたまもなく跡を追うようにして死んでいった。昭和十三年八月九日、三十七歳の若さであった。
「佐渡の木彫家」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)

★渡部道一
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) 
寺田村の医師で、父も医師の昌運。三浦綾子に授洗した小野村林蔵の妻ぜんは道一の養女である。彼女は蔵田茂樹の子孫。

★渡辺陶生→渡辺陶生(わたなべすえなり)

★渡辺陶三(わたなべとうぞう)
わ渡辺陶三
多治見工業高校窯業科卒。宮之原兼先生師事。日展入選、東西選抜陶芸十人展出品、東陶会会長賞、日本現代工芸美術展会員賞、日本現代工芸美術展審査員。文仁親王・紀子妃両殿下お成り 香炉献上。東陶会会長就任。
佐渡ロータリクラブ会長等を歴任し、ロータリー運動に尽力する。弟東陶生(すえなり)氏も陶芸家。
「島の新聞」40号
40わた渡辺陶三 (1)
40わた渡辺陶三 (2)
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺徹
両津高校時代のs45年、総体ヨット男子スナイブ級8位(石原俊次、渡辺徹、野口勉)

★渡辺徹
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺徹 149 昭和五十六年までのブロンズ像 渡辺徹作

★渡辺利雄
「ショートプロフィール」昭和10年(1935)-令和2年(2020)。日本を代表する英米文学者。両津高校ー東大英文科卒。ハーバード大等に留学、東大教授、日本英米文学界会長。マークトウェインの研究で知られる。日本初の体操五輪選手の本間茂雄は伯父。
渡辺利雄 わた渡辺利雄 (1) わた渡辺利雄 (2) わた渡辺利雄 041122 わた渡辺利雄 041122 わた渡辺利雄2 わた渡辺利雄 わた渡辺利雄5 わた渡辺利雄3 わた渡辺利雄4
日本を代表する英米文学者。1935年(昭和10年)台湾新竹市生まれ。1954年、新潟県両津高校卒。1958年、東京大学文学部英文科卒。1961年、同大学大学院修士課程修了。父は両津高校教諭の渡辺松二郎、伯父は体操競技で日本人初のオリンピック選手で同競技団長を長く務め体操日本を築いた本間茂雄。1962年から64年まで、カリフォルニア大学バークレー校などに留学。東京大学文学部教授、20年近く「アメリカ文学史」の講義。その講義を通して、柴田元幸はじめ、佐藤良明、小川高義、後藤和彦、上岡伸雄、舌津智之、諏訪部浩一等、現在活躍中の多くのアメリカ文学者・翻訳者に、多大な影響を与える。その後、日本女子大学文学部教授・文学部長などを歴任。現在、東京大学名誉教授、昭和女子大学特任教授。専門はアメリカ文学(特に、マーク・トウェイン、ヘンリー・ジェイムズなどのリアリズム文学)。著書に『フランクリンとアメリカ文学』『英語を学ぶ大学生と教える教師に―これでいいのか? 英語教育と文学研究』(いずれも研究社)。編著に『20 世紀英語文学辞典』『読み直すアメリカ文学』(研究社)など、訳書に『フランクリン自伝』(中公クラシックス)、マーク・トウェイン『自伝』(研究社)、『ハックルベリー・フィンの冒険』(集英社)、『不思議な少年』(講談社)、ジョン・ドス・パソス『USA』(岩波文庫、共訳)、ノーマン・マクリーン『マクリーンの川』(集英社文庫)、『マクリーンの森』(集英社)などがある。2007年12月、研究・教育の集大成『講義アメリカ文学史[全3巻]―東京大学文学部英文科講義録』を刊行し、2009年12月には『講義アメリカ文学史 補遺版』を出版した。そしてこの4冊の基本的な部分を抽出し、限りなく新しい情報も盛り込んだ『講義アメリカ文学史 入門編』を、2011年2月に発表した。
・潟上渡辺家と親戚の下新穂計良澄江さん情報:渡辺教授が我が家を訪ねたが子供は双子の男児であった。
・渡辺教授の姉は潟上北村家の奥様だが、子供の健康面の事情で東京に住んだ。
「島の新聞」
71.jpg
「ウィキペディア」より

★渡辺寿治 
両津高校時代の1973年度(S48)5月、第28回新潟県展奨励賞 洋画                   

★渡辺敏文
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺富美雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺富美雄 9 佐渡の子守歌 渡辺富美雄※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)福田伊治

★渡辺トモ子
(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。
戦後の復興期には藤井真一が、昭和52年からは草木実、中川清治が始めたが惜しくも中断し、現在 川上公紀・川上良江・渡辺トモ子・西橋健の4人に支えられている。太夫は長尾閑月・白井清次で、ちなみに白井太夫は葛原五兵衛の甥、川上夫妻は大崎屋松之助の生家兵衛家の当主」

★渡辺豊吉
明治27年生、昭和57年没(88歳)、大和屋洋服店創業者。昭和9年、現在の藤井書店(借家)で営業していた時に夷7ノ町年番となり、「単身町役場へ乗り込んで、七ノ町があんな大組では連絡するにも時間がかかりすぎて困る。早く七ノ丁、海岸通と、七ノ丁裏町とを分けてくれ」と交渉し、「その日のうちに七ノ丁は、海岸通、七ノ丁、八ノ丁と三つに分かれた」。「渡辺氏はかねてから町の消防団では大幹部級であった」。(「太鼓人生六十年」山口巌 平成7年刊より)

★渡辺豊治
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
わた渡辺豊治 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★渡辺虎吉
『続佐渡酒誌』(平成14年)
わた渡辺虎吉 『佐渡酒誌』(平成14年)
わた渡辺虎吉 『佐渡酒誌』(平成14年)

★渡辺寅蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応二年生 新穂村潟上 ・明4、新潟県会の役員[四十年十月十五日]

★渡辺夏丸
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
わ渡辺夏丸
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
わた渡辺夏丸
わた渡辺夏丸 (2)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡新穂の人で通称は良碩、如洗または九二丸と号した。医家で俳詣をよくし纂刻も巧みであった。非常に貧しく諧謔狂奇、頗る飄逸であった。(佐渡人名辞書)

★渡辺仁作
「加茂村誌」(昭和38年4月)
わた渡辺仁作 「加茂村誌」(昭和38年4月)

★渡辺仁平
わた渡辺仁平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十四年 両津町夷、商業 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]

★渡辺信子
 両津高校時代の1964年度(S39)6月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会北信越地区予選(長野)(総合6位) 槍投6位 8月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会(大阪)出場(両高から4人) 

★渡辺信弘
エスライフ2021年6・7月号
わた渡辺信弘 エスライフ2021年6・7月号 (1) わた渡辺信弘 エスライフ2021年6・7月号 (2)
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺登
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・14・7・30 第9回県学童水上競技(佐渡会場)(県小学校体育聯盟)
〔大会新記録・タイ記録〕初男 50自(金)36.4(タイ)
(昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)初男50自 36.4 渡辺 登(金泉)昭14

★渡辺巴郷
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の俳諧。本間斧刪(明治二九没)、中川収之(明治三二役)の流れがつゞき、明治十二年(一八七九)にほ東京教材監社の新穂分会というものがあり、その奉献額が大日堂の拝殿内に
掲げられている。正岡子規等の改革により俳句といわれるようになり、瑞穂会(旧派)、沙鳥会(旧派)、みどり会(新派)等の団体が、大正頃まであった。瑞穂会に渡辺巴郷、高野翠斎、沙鳥会に中川月桂、河原春木、本間最古等の名が「新穂村案内」に見える。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
わた渡辺巴郷 わた渡辺巴郷 (2)

★渡辺巴江
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
わ渡辺巴江 わ渡辺巴江 (2)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
わた渡辺巴江 わた渡辺巴江 (2) わた渡辺巴江 (3) わた渡辺巴江 (4) わた渡辺巴江 (5)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
一七五五-一七七六。渡辺巴江は蕪村と殆んど同時期に新穂に出た俳人。芭蕉の流れをくみ一般向といわれる支考(芭蕉の高弟で美濃=岐阜県の人、精力的に平俗的な俳句を広め美濃派といわれる)の系統の人といわれる。父の水巴も俳諧人であったが、父の弟貞阿(一七二七-一七八八)も俳藷をよくした。何所で学んだかは明らかでないがその子巴丈(一七四七-一七九六)、魯山(一七七九-一八三五)、周斎(一七九七-一八五四)他に一家から晋山(一八三一-一八四九)、巴春(?~一八九二)等早世した俳人も出ている。今その作品の二三を示そう。
唐獅子の影咲きかくす牡丹かな(巴江)
汐につれて声の満ち来る千鳥かな(〃)
朝なぎや霞の中に櫂の音(貞阿)
早嵐や松もひそかに秋の音(巴丈)
極楽のせまさ語るや冬ごもり(〃)
蚊の声に低うなりけり朝の山(魯山)
炉開や五徳の錆もなつかしく(周斎)
おもい出や杖のあとにも春の水(晋山)
美しき別れ衣や雪の旅(巴春)
魯山は又慎斎と号し、書道にもすぐれていた。これ等の人々は宗匠として多くの同好の士を集め俳讃の通を広めた。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)渡辺巴江 
 46 連載 閑々亭雑記 (5)  「巴江庵」版の芭蕉像拓本 山本修之助
 86 佐渡貞阿と田上菊舎 田中倫子

★渡辺巴篁
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
わた <br>渡辺巴篁 わた <br>渡辺巴篁 (2) わた <br>渡辺巴篁 (3)

★渡辺一
「躍進日本」
わた渡辺一「躍進日本」

★渡辺巴春
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
わた渡辺巴春 わた渡辺巴春 (2)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
一七五五-一七七六。渡辺巴江は蕪村と殆んど同時期に新穂に出た俳人。芭蕉の流れをくみ一般向といわれる支考(芭蕉の高弟で美濃=岐阜県の人、精力的に平俗的な俳句を広め美濃派といわれる)の系統の人といわれる。父の水巴も俳諧人であったが、父の弟貞阿(一七二七-一七八八)も俳藷をよくした。何所で学んだかは明らかでないがその子巴丈(一七四七-一七九六)、魯山(一七七九-一八三五)、周斎(一七九七-一八五四)他に一家から晋山(一八三一-一八四九)、巴春(?~一八九二)等早世した俳人も出ている。今その作品の二三を示そう。
唐獅子の影咲きかくす牡丹かな(巴江)
汐につれて声の満ち来る千鳥かな(〃)
朝なぎや霞の中に櫂の音(貞阿)
早嵐や松もひそかに秋の音(巴丈)
極楽のせまさ語るや冬ごもり(〃)
蚊の声に低うなりけり朝の山(魯山)
炉開や五徳の錆もなつかしく(周斎)
おもい出や杖のあとにも春の水(晋山)
美しき別れ衣や雪の旅(巴春)
魯山は又慎斎と号し、書道にもすぐれていた。これ等の人々は宗匠として多くの同好の士を集め俳讃の通を広めた。

★渡辺巴丈
左:『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊) 右:『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
わ渡辺巴丈 わた渡辺巴丈
『新穂村史』(昭和51年刊)より
一七五五-一七七六。渡辺巴江は蕪村と殆んど同時期に新穂に出た俳人。芭蕉の流れをくみ一般向といわれる支考(芭蕉の高弟で美濃=岐阜県の人、精力的に平俗的な俳句を広め美濃派といわれる)の系統の人といわれる。父の水巴も俳諧人であったが、父の弟貞阿(一七二七-一七八八)も俳藷をよくした。何所で学んだかは明らかでないがその子巴丈(一七四七-一七九六)、魯山(一七七九-一八三五)、周斎(一七九七-一八五四)他に一家から晋山(一八三一-一八四九)、巴春(?~一八九二)等早世した俳人も出ている。今その作品の二三を示そう。
唐獅子の影咲きかくす牡丹かな(巴江)
汐につれて声の満ち来る千鳥かな(〃)
朝なぎや霞の中に櫂の音(貞阿)
早嵐や松もひそかに秋の音(巴丈)
極楽のせまさ語るや冬ごもり(〃)
蚊の声に低うなりけり朝の山(魯山)
炉開や五徳の錆もなつかしく(周斎)
おもい出や杖のあとにも春の水(晋山)
美しき別れ衣や雪の旅(巴春)
魯山は又慎斎と号し、書道にもすぐれていた。これ等の人々は宗匠として多くの同好の士を集め俳讃の通を広めた。
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★渡辺巴丈(はじょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡新穂の人で貞阿の子である。父のたてた、巴江庵を継ぎ、俳句をよくした。句集「冬ごもり集」を寛政三年(一七九一年)に出した。「極楽の狭さ語るや冬ごもり」は巴丈の句である。寛政八年になくなった。(佐渡人名辞書)

★渡辺巴水
わた渡辺巴水
わた渡辺巴流

★渡辺巴流
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
わた 渡辺巴流
わた <br>渡辺巴流 (2)

★渡辺ハルエ
わた渡辺ハルエ わた渡辺ハルエ1
赤泊で生まれ、中国に渡って敗戦の最中に激動の人生を送る。なお、息子・娘達との戦争にほんろうされた中国時代の出来事を活写した長男の著書下記がある。西条正著「二つの祖国を持つ私」「中国人として育った私」(共に「中公新書「」)
→「水田はなか」(娘) →「西条正」(兄)
「島の新聞」索引(人名別)
その他諸情報

★渡辺秀樹
わた渡辺秀樹
両津高校8代同窓会長(石楠会)、昭和43年~昭和45年。佐渡青年会議所初代会長、佐渡ライオンズクラブ会長等を歴任する。
島内を代表する実業家で、「渡辺産商」他を経営する。両津高校時代はバスケット部で、佐渡バスケットの発展に側面的に尽力した。

★渡辺尚
佐渡高校時代の昭和45.7.18~19、水泳県高校結合体育大会(長岡市)自由形100m3位
46.6.24~25、水泳県高校結合体育大会(長岡市)自由形100m3位
46.7.17~18 、水泳北信越高校大会(長野県野沢)自由形100m6位

★渡辺秀則
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51976196.html#comments
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=8
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51977340.html

★渡部文弘
「佐渡ジャーナル」関係記事:「55号」(平成30年10月)・いきる(渡部文弘) vol.16(蘭丸)

★渡辺兵一郎
『両津市要覧(昭和33年)』より
わた渡辺兵一郎

★渡辺博
昭和四年生れ。上山田、茂右衛門家の人。短歌は藤川忠治先生の羽茂高校在任中から始めたが、仕事の関係で止めたり、始めたりだったという。「歌と評論」同人。家業は農業で、柿畑も多く、その上、公民館長、教育長、助役、町長などと公職の期間が長かった。
(歌碑:平成二十年三月建碑 樟石丈一㍍)
○北風の吹き渡り行く柿畑にはだれ雪ふみ剪定をする(ひろし) 
柿の木の勇定は冬から早春にかけて行われる。柿栽培の基本作業で、考えながら枝一本一本を切るのだから大変である。
 『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より

★渡辺弘
大正12年、両津夷に生まれる。父は豊吉、母はマツ。長男は和弘。新潟市「丸屋洋服店」で修行し、両津夷大和屋洋服店を経営(2代目)。綜合警備保障創業者広田靖夫(旧友)氏と再会
わた渡辺和弘 綜合警備保障創業者広田靖夫(旧友)氏と再会

★渡辺博之
「佐渡ジャーナル」関係記事:「40号」(平成27年1月)いきる(渡辺博之) vol.1(蘭丸)

★渡辺福蔵
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)
わた渡辺福蔵 「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)
わた渡辺福蔵

★渡辺福松
「岩首校百年誌」(昭和55年)
わた渡辺福松 岩首校百年誌(昭和55年)

★渡辺孫吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
わた渡辺孫吉

★渡辺孫十郎
『佐和田町史資料編・上』
戸中村の渡辺孫十郎家は専得寺の檀家で鉱山開発のために鶴子から来た。

★渡辺誠
1945年、両津原黒で生れる。佐渡高校、早大(政経)卒後、新潟日報に勤め論説委員長を務める。

★渡辺正(まさし)
両津高校時代の1963年度(S38)6月、第2回北信越高校陸上兼全国大会予選 槍投4位      
 9月、第16回新潟県高等学校稔合体育大会陸上競技(男子稔合4位) 槍投1位        10月、第18回山口国体 槍投出場

★渡辺正俊 
h28年7月 佐渡ジャーナル29号
わた渡辺正俊 h287月 佐渡ジャーナル29号

★渡辺勝
わた渡辺晃三 (1) わた渡辺晃三 (2)

★渡辺松二郎
令和5年(2023)1月オープン
わた渡辺松二郎 (3) わた渡辺松二郎 (2) わた渡辺松二郎 (1)
わた渡辺松二郎 050117 りぜむ 渡辺松二郎
両津高校の英語教師。青山学院出。生まれは畑野坊ケ浦の本間家で、新穂潟上の本間利左エ門家を継ぐ。実家は兄本間茂雄が継いだ。茂雄は日本初の体操競技のオリンピック選書で、その後オリンピック体操競技の競技団長として母校東京教育大の後輩を中心に世界を制する日本体操界をけん引した。松二郎の長男利雄は日本を代表する英米文学者で東大名誉教授。
→本間茂雄
→渡辺利雄
・畑野坊ケ浦生まれ、父は本間森蔵。
・大正1年頃の生まれ(昭和45年3月両津高校退職時が60歳とすると)
・青山学院卒、英語教師。
・新穂潟上の渡辺利左衛門に入婿。渡辺家は元は大地主であったが農地解放で普通の百姓になったと松二郎氏は生前語っていた。
当時、台湾新竹市で英語教師であったと思われる。(長男利雄が新竹市生まれから推察)
・佐渡高校勤務:昭和21年5月ー昭和23年5月
・利左衛門家は潟上源平(げんだいら)であったが佐渡高校への通勤が不便のため、南線沿いの地に転居。
・源平の家は左隣の渡辺一以さん(協和園芸)に譲渡。
・両津高校勤務:昭和25年3月ー昭和45年3月(60歳?)
・逝去:昭和59年8月20日
・妻は仁(まさし)で利左エ門家の跡継ぎ。
・実兄は東京高師を出て体操競技で日本初のオリンピック選手。→本間茂雄
・長男利雄は昭和10年生、英米文学学会会長で東大名誉教授。次男二郎は昭和13年生、東京工大卒、岡山県在住。→渡辺利雄
・長女は潟上北村家に嫁いだ照子(昭和8年生)、子供は恵美子で病弱?であり、照子はそのため東京に住む。
利雄には子供二人(双子)がおり、長男英彦は早稲田大、次男は慶応卒。
・渡辺利左衛門家は下新穂計良家(当主は実)、河原田渡利呉服店等が親戚。

★渡部学
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺マリ
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報

★渡辺瑞惠
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺みちお
「ウイキペディア」より 
わた渡辺みちお (1) わた渡辺みちお (2) わた渡辺みちお (3) わた渡辺みちお (4)
1954年7月27日 - 、著名な漫画家。新潟県佐渡市出身。代表作に『まるごし刑事』、『白竜』など。実家は相川後尾(うしろ)の民宿「六郎」。
「渡辺みちお先生インタビュー」2009年10月号:日本漫画学院Web
 今月はむとうひろし先生のご紹介で、渡辺みちお先生を訪問しました。  かざま鋭二先生に師事し、現在、日本文芸社刊『週刊漫画ゴラク』誌面にて、闇社会の覇王伝説とも言うべき「白竜 LEGEND」を好評連載中! 今までになかった任侠漫画の展開には、だれもがのめり込むほどの面白さがあります。その秘訣なども聞けた和やかな雰囲気のインタビューでした。
・ご出身は…?
 新潟県は佐渡島です。新潟出身の漫画家は数あれど、なかなか佐渡島出身はいないですよね。
・絵を描くことは好きだった…?
 そうですねえ…小学3年の時だったと思うんですが、好んで描いたということじゃなかったんですけど、学校でよく文化祭展覧会みたいなのがありますよね、そこで描いた絵で銅賞もらったんですよ。絵は蛇の模様を描いたのですが、少しデザインっぽい絵で目立ったのかもしれません。小学生ですから賞をもらえたことが、すごく嬉しかったんでしょうね。それから絵に少し興味をもち、よく描くようになったんですよ。
・漫画にはいつ出会うのですか?
 島ですから漫画本を探すと言うよりは、まず近くに本屋がないんです。さらに遠方の本屋にいってもコミックなんか売ってないんですよ。だから通信販売でしたよ。当時、週刊誌がマガジン、サンデーが出始めだったので、主流は月刊誌の『冒険王』とか『少年』でしたので、出版社に電話をして送ってもらうしか入手できなかったんです。友達と交換して読んでいましたね。中学生の頃かな…石ノ森章太郎先生の〝マンガ家入門〟が発売されて、それを教科書にして漫画の描き方を覚えたのです。
・いつ頃から漫画家になりたいなあとか思い始めたのですか?
 高校生の時に読んだ望月三起也先生のアクション漫画にしびれちゃいましてね、「ワイルド7」なんか夢中でよんでいましたね。…小学生の高学年から高校にかけては友だちと漫画を描いていたのですが、高校生の時に出版社の新人賞に応募するために町に行って画材を揃えたんですよ。でもスクリーントーンの値段が凄く高くて買えなかった時代ですよね…とりあえず一通り揃えて描いてましたから将来は漫画家になりたいって思っていたんでしょうね。作品を確か2本くらい投稿したと思います。自分では凄く自信があったんですが、返事がないのでまさか原稿が届いてないんじゃないのか?って思っていたほど少しうぬぼれていたんです。結局はダメだったんで、実力不足と判断して高校を卒業した時に漫画家の道はあきらめたんですよ。
・再び漫画の道に入った動機は?
 親父が建築関係の仕事をしていましたので、上京して新聞奨学生で建築関係の学校に入学したのです。でも好きで入ったわけじゃないのでやっぱり飽きてきちゃったんですよ。そんな頃に、新聞販売店の所長が凄くいい人で、いつも色々なことを親身になって相談に乗ってくれたんです。ある時、「本当は俺、漫画家になりたいんです」って言ったら、「漫画家の知り合いいるよ、かざま鋭二っていうんだけどさ、だったら紹介してやるよ」って言われたんです。すぐに飛びつきましたね。学校に入って3ヶ月なのですが辞めて、かざま先生を紹介していただきました。ただ、奨学生の立場があるので1年だけはちゃんと新聞配達をやれと言われて、月に何回か新聞配達をしながら隔週の週末だけかざま先生のアトリエに通うような生活をしていました。かざま先生からは「来年から毎日来い」ということを言われ、かざまプロでの4年の修行が始まったのです。
・4年間はどうでしたか?
 そこで初めていわゆるストーリー漫画というものにふれて何もかもが発見の連続で、私の力不足がはっきりとわかったんです。私は仕上げを手伝っていたんですが、ベタ塗りもうまくできないんですよ…。しかもあの頃の先生の画風は、墨を筆で塗りまくるベタではなく、斜線で黒く潰すんですよね…。斜線の練習にはなるんですが、斜線であれだけゴリゴリっていう手法を使っている人は今は少ないでしょうねえ…。勉強させられました。さらに先生はとてもバイタリティがある人で、色々なことにすぐに興味をもつ行動力がある先生でしたから、漫画制作技術面だけでなく、漫画に対する姿勢ということにも刺激を受けました。学んだことは多かった4年でしたね。
・デビューは…?
 アシスタント時代に知り合いになった編集の方と縁があって、芳文社の『コミックマガジン』という雑誌で原作付きでしたが、隔週連載を持つことが出来てデビューしました。かざまプロを出てからですから24歳の時ですね。あの時の編集さんとの出会いがなかったらデビューはなかったわけですから、出会いって大事ですよね。
・苦労したことってありますか?
 私は技術があるほうではないので、自分でいうのもおこがましいのですが、絵の良し悪しは多少わかるので、時間があれば頭の中にある絵は描けるはずなんですよ。でも漫画家は短時間で描かないといけないから、頭で思っている絵が実際と違う時があるんです。…時間の余裕があればというのはありますが、技術をもって描いている絵と、頭で思っている絵が違うので、その差を縮めるのに苦労をしています。
・作品を描く上で気を使っているところはありますか?
   絵を多少見極められるかもしれないけれど、それを描く技術は二流だと思っていますから、原作があることで絵の表現に出来るだけ時間をたっぷり使って、ストーリー展開と画面構成で面白くするようにしています。…原作を1回通して読んで、2回目くらいで各コマの場面のイメージが膨らんでくる、そうすると1本の話の中に絶対に見せなきゃいけない場面のコマが出てくるんですよ。そこを中心に考えながら他のコマで盛り上げられるようにしていこうと気をつけています。
・今後描きたいものとかあります?
 佐渡金山を舞台にした作品を描いてみたいですね。半分SFっぽくなるけども、いま資料を集めたりもしているんです。今は時間的にきついのですが、死ぬまでの間にはと…。
・漫画家を目指す人にメッセージをお願いします。
 のめり込め!!仕事にできれば最良!!趣味にとどめるも良!!
「ウイキペディア」より

★渡辺光好   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
赤泊の人、昭和4年、第1回県下陸上競技選手権大会(三条島田グランド)5000m3位。

★渡辺南風(みなみ)
「シマイル」
わた渡辺南風(みなみ) (2)
「シマイル」
わた渡辺南風(みなみ) (1)

★渡辺都
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・5 第7回県学童水上競技大会(県水上競技連盟・県小学校体育連盟)新潟中プール
(金泉小尋)尋100自①1.24.8新、200リレー ①(山本・中村・渡辺・石見)2.41.6新
昭和12年度県学童大会最高記録(県小学校体育連盟・県水上競技連盟)
100自1.24.8(金泉)昭12.8.5、200リレー2・41・6 (金泉)山本・中村・渡辺・石見 昭12・8・4

★渡辺深雪
「島の新聞」索引(人名別)

★渡辺民和子
わた渡辺民和子
「島の新聞」索引(人名別)

★渡部明次郎
「岩首校百年誌」(昭和55年)
わた渡部明次郎 岩首校百年誌(昭和55年)

★渡辺恵
佐渡高校時代の平成7.6、ソフトテニス北信越大会(石川県能都町)女子個人 引野顕子・渡辺恵組出場

★渡辺森蔵
わた渡辺森蔵
旧畑野高等小学校校長

★渡辺主右衛門(もんうえもん)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明3、松本八十八の祝賀会[二十七年四月□日]

★渡辺主左衛門(もんざえもん)  
渡辺主左衛門
わた渡辺主左衛門 (1) わた渡辺主左衛門 (2) わた渡辺主左衛門 (3)
『佐渡酒誌』(平成14年)わた渡邊主左衛門 『佐渡酒誌』(平成14年)
『続佐渡酒誌』(平成14年)
わた渡辺主左衛門 『佐渡酒誌』(平成14年)
わた渡辺主左衛門
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)                       
江戸末期から明治初期に活躍した。謡曲界で有名だった忠卂(主左衛門)の父親で欽斎と称し漢学の人であった。また書をよくして近村の子弟で主左衛門に学ぶ者は多かったといわれている。明治十四年に、円山溟北・丸山南陜らの主催する尚歯会では書の部で協力した。その年の七月二十八日葬。享年八十一才であった。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
明治中期から後期にかけて活躍した渡辺主左衛門は父の名を欽斎といいい、その子、主左衛門(号は忠■(ちゅうじん) ※迅のシンニョウのないもの)は天保八年に生れ、能楽を本間左京に、また東京に出て命尾(めーゆう)寿六に学んだと云う。天才的な素質があり本間太夫の脇師としては並ぶ者がいなかった。明治後期が主左衛門の円熟期で活躍が目立つ。特に明治三十二年八月十四日、十五日の勧進能の時には初日の切能(その日の最後に演ずる能)道成寺のワキをつとめ、二日目は脇能・通小町と三番目松風のシテをつとめるという素人とは思われない出演をしている。彼は門人の育成にもカを入れ、小田菊蔵、間幸蔵、小田男農吉、本間藤次郎、細野直吉、木藤幸太郎等の門弟を育てた。大正五年に畑野常舞台で行なわれた本間令蔵師の追悼能で隅田川を舞うのが最後と思われ、大正七年歿、享年八十一才であった。大正八年三月二十三日畑野常舞台で彼の追悼能が行なわれている。









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