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2013-12-13

★由井宏典
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)由井宏典 57 「相川の散り紅葉」が出来るまで

★宥円
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
(羽茂大崎)宮本寺本堂の西北方の別殿に、昆沙門天を安置してある。本尊は御丈四尺三寸で、頭頂に甲冑をいただき、左手には宝塔を捧げ、右手には鉾を持った立像である。永禄二年(一五五九)夏、下黒山の行者宥円と言うものが三岬の海で拾い、その菩提寺である宮本坊に納めたものであると伝えられる。今縁起により、昆沙門天宮本寺の毘沙門堂の由来を尋ねて見ると、毘沙門天は、弘法大師の御作といわれ宮本寺の毘沙門堂の由来を尋ねて見ると、毘沙門天は、弘法大師の御作といわれ、永正年間(一五〇四~一五二〇)平泉親然という修業者が、常陸筑波山より負うて出て、諸国を遍歴し、大永六年(一五二六)五月、越後の角田港から多田港に渡り、丸山に登って草庵を建てて、滞在四、五年の後一寺を建立し、自分の氏をとって平泉寺と称し、自作の毘沙門天を本尊とし、享禄四年(一五三一) 三月、更に各地の修業をはじめ、今の金井町平清水に多聞寺を開き、筑波山より運ばれた昆沙門天を本尊とした。天文一三年(一五四四)兵乱の際、他国へ移すため、二見港より積み出したが、沖合で暴風に遭い、船は少しも進まなかったので、仏意に通じないことを悟り、これを海中に投じた。今平清水多聞寺に安置してある毘沙門天は、その後親然の自作したものと伝えられる。永禄二年(一五五九)夏の日暮頃、宥円が三岬村の素浜を通ると、海上はるかに五色の光を見、龍燈の光であろうと思い、砂上に安座して、法華経を捧げたところ、次第に近づき、夜明け頃に波打ち際に、仏像一体を見つけたので、宥円は大いに書こんで、これを奉持して当山に納めた。時の住職伝昌は、多聞堂を建てて安置した。現在の堂宇は、棟札を見ると、常陸国水戸の領小鶴村無量院の住職全海という者、諸国行脚のため当山に釆て、住僧と協力して、五七か村を奉賀勧化して、同十三年(一七六三)人仏供養したと伝えられている。全海作の十王十体が、今尚安置されている。昆沙門天は、三三年毎に開帳の例となっている。昭和二九年四月四日の御開帳であった。「昆沙門天」とある毘沙門堂の額の筆者は、真野町背合与三兵衛の先代で、幼少(八歳)の時の書である。幼少より書をよくし、背合の八幡祠、豊田の薬師堂に奉額がある。また、豊田の諏訪神社の大幟もー〇歳の時の書であるという。後、堀口松庵に書を学び、松軒と号した。天保九年(一八三八)の生まれで、宮本坊毘沙門堂の額は、弘化二年(一八四五)の書である。明治二七年(一八九四)鵜飼郁次郎に次ぐ二番目の代議士に当選した松本八十八がその人である。

★結城清史
ゆう結城清史
「国仲騒動」(小説378枚 国仲騒動 昭和32・稲津昇平)
佐渡の国仲の村々の村民たちは、不作であるにもかかわらず莫大な年貢の要求に不満を感じ、相川奉行所に対し一揆を起こした。その際、村々を一つにまとめるために立ち上がったのが遍照坊智専だ。佐渡奉行所は、この騒動の首謀者を智専と断定した。村民たちは彼の助命を嘆願し続けたが、四年の獄中生活の後、処刑された。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)

★融道(ゆうどう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡蓮華峰寺の学僧で字は勧善、生地は明らかでない。蓮華峰寺から京都六波羅密寺に転じ、学識の名が高かった。寛政七年(一七九五年)八月二十八日になくなった。著に喩伽條目二巻がある。(日本仏家人名辞書)

★夕町京吉(山本登か)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。
「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)

★如成(ゆきなり)
 『佐渡流人史』(郷土出版社)より
 散位 長暦元(一〇三七)佐渡に配流。但馬守の源則理の官物負累の罪に座す。(『行親記』『扶桑紀略』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
散位で姓はわからない。但馬守源則理が官有物をとった罪に座して、長暦元年(一〇三七年)五月二十日に佐渡へ流された。(越佐史料)

★靱丸(ゆきまる)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
ゆ靱丸
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡小木正覚寺に住した。名は良然といい、橘守部に学んで和歌をよくした。安政三年(一八五六年)になくなった。(佐渡人名辞書)

★幸村敬吉
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
ゆき幸村敬吉 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) ゆき幸村敬吉 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2)

★湯舟敏郎
「島の新聞」
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「島の新聞」索引(人名別)

★与右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国石拓町(相川町)六郎右衛門の下代である。主家に仕えて忠実であったので文化九年(一八一二年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された(佐渡年代記中巻)

★影向範昭(ようこうのりあき)
佐渡ジャーナル h28 1月
よう影向範昭 佐渡ジャーナル h28 1月
「佐渡ジャーナル」関係記事:「44号」(平成28年1月)・いきる(影向範昭) vol.5(蘭丸)

★影向(ようこう)幸枝
影向歯科医院影向幸枝は、昭和二十三年羽茂川橋北詰(羽茂本郷元一6番地村川ヨキ宅附近)で診療、三年後弥栄町(羽茂本郷五二〇)に移転して昭和三十六年新潟市に転出するまで通算十四年ほど歯科診療を行なった。飯岡の出身、日本女子歯科専門学校卒業。

★養山呑(雲)?
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
よう養山呑(雲)? 佐渡国泉の人物誌

★余湖明彦
余湖 明彦 氏
             (旧佐渡畑野町小倉出身)
講演概要
世界遺産登録を目指す佐渡金銀山の歴史とそこから育まれた佐渡の文化など。
プロフィール(2014年 当時)
1964年2月8日、旧畑野町小倉生まれ。佐渡高等学校、慶応義塾大学文学部史学科を卒業後、1986年より新潟県の高校日本史の教員として教鞭をふるう。
1997年から1999年まで佐渡総合高校で教鞭を執り、同校所蔵の歴史資料「橘鶴堂文庫」(きっかくどうぶんこ)の管理をする傍々、郷土史の研究に取り組む。
 2001年から2004年ま佐渡高校で歴史講座を担当する。
 2005年に新潟県教育庁高等学校教育課指導主事となり、その後、文化行政課世界遺産登録推進室主任調査員、県立文書館副館長を経て、2013年より現職。現在、文献史料をもとに佐渡金銀山の価値についての調査研究を進め、世界遺産登録のための推薦書作成に取り組んでいます。
よご余湖明彦
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)余湖明彦 
 132 史料紹介『佐渡土産』(1)  135 史料紹介『佐渡土産』(2) 141 『佐渡郷土文化』創刊四十周年・創刊者山本修之助二十三回忌・記念講演 佐渡の近世と山本半右衛門家 

★余湖乙吉
旭桜会

★余湖浩一
日本の城郭研究者。1961年畑野出身。佐渡高校(1980年卒)から早稲田大第一文学部卒(1984年)。平成30年現在、東京都立東高校校長。千葉県成田市在住。弟の余湖明彦氏(現在新潟中央高校)は著名な佐渡学研究者。廃城マニアとして知られ、今までに訪れた城址は5000城を越える。城跡を訪れては縄張り図を描き、それを鳥瞰図等にしてホームページで紹介している。この独自の鳥瞰図はマニアの間で「余湖図」と呼ばれ、お城めぐりのお供にしているファンも多い。
余湖さんのホームページ http://homepage3.nifty.com/yogokun/
著書(共著)『図説 茨城の城郭』(国書刊行会)『廃城をゆく』1~3、『あやしい天守閣』(イカロス出版)

★余吾孝二
新潟大学教授、教育学。畑野出身。
「佐渡ジャーナル」関係記事:「2号」(平成17年7月)いまこそ○×テスト・教育を廃して、出直すとき

★余湖智
(会社概要)有限会社:余湖農園 代表者:余湖智 所在地:〒061-1365 北海道恵庭市穂栄323番地 TEL. 0123-37-2774 FAX. 0123-37-2779 E-mail. mail@yogonouen.co.jp
・資本金:3800万円 設立:昭和47年1月31日 従業員数:45名(令和4年現在 パート含む)
・主要業務:約70品目の特別栽培野菜を生産
・沿革:昭和47年(有)余湖農園設立 (1戸2名)
  58年:有機農業と直販の取り組み開始 平成18年:ABLによる契約(銀行融資の担保が農産物)→全国初 22年:野菜集出荷場など移転   22年:アグリビジネス投資育成(株)より一千万円の出資をうける 24年:JGAP認証農場となる
・現経営面積
約90ha(自作地 約30.37ha)令和5年3月現在
受賞歴:平成16年 第1回コープさっぽろ農業賞 特別賞受賞 19年 第3回HAL農業賞経営部門優秀賞受賞 22年 第1回 農林水産省 全国優良経営体表彰 法人部門 「農林水産省経営局長賞」受賞
(販売会社 会社概要)
社名:株式会社 グローバル自然農園
代表者:余湖智 所在地:同上 資本金 1000万円 設立:平成3年12月24日

★余湖(高野)治三郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
真野の人。柔道選手で、中島(石塚)四郎と一緒に選手として活躍する。
→中島(石塚)四郎

★余吾鶴松
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) 
嘉永七年に小倉村鳥越の勘右衛門家に生れた。松風軒東郊と号した碩学であった。最初の師は不明であるが、のち明治十二年に二十八才で円山溟北の門に入り、小倉村内外の青年子弟をはじめ、のちに小倉小学校に校長として勤めて児童の訓育にも貢献した。河内村の猪股茂右衛門などもその門弟のひとりであった。鶴松は明治二十九年八月葬。享年四十六才であった。
・明治中期に小倉校の校長を勤め、十世紀頃の郷名、加茂郡の佐為が小倉であろうと推定した。(『畑野村志』)

★余湖汀一(宗汀)
よご余湖汀一 余湖汀一(宗汀) (2)
・帯広在住の裏千家茶道家で北海道内での茶道発展に貢献する。帯広柏陽高から同志社大(茶道部部長)。平成30年没。余湖家は佐渡ルーツである。
・余湖宗汀さん死去 茶道界の発展に尽力 84歳 (2018/06/27)
道内の茶道界の重鎮として知られる帯広市の余湖宗汀(よご・そうてい、本名・汀一)さん=茶道裏千家淡交会北海道地区帯広支部参与=が27日、心不全のため自宅で死去した。84歳だった。

★余吾伝次郎
旭桜会

★余吾篤太郎
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)  右:『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
よご余呉篤太郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)  よご余語篤太郎 新潟県官民肖像録 明治41年
よご余吾篤太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
よご余吾篤太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村小倉 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]・大1、青木永太郎等同志会を脱党す[四年九月]・大1、第十三回衆議院議員選挙[六年四月二十日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]

★余湖秀夫
畑野小倉出身、「誠美堂」社長。
(誠美堂)
・資本金 70,000千円 ・従業員数 70名/ 男性27名 女性43名
・店舗数 宝飾・時計部13店舗 眼鏡部3店舗 計16店舗

★余湖松蔵
「手わざ図鑑」
よご余湖松蔵 「手わざ図鑑」

★余湖三千雄(よごみちお)
よ余湖三千雄
「ウィキペディア」より
(1943年4月4日 - )日本の教育者。鹿島学園高等学校理事長兼学校長。
新潟県佐渡市出身。新潟県立佐渡農業高等学校卒業後、農業・土方・タクシー運転手と職を転々とする。働く傍ら日本大学文理学部英文学科(通信教育)に通い1980年に卒業。更に早稲田大学教育学部専攻科へ進み、卒業後に予備校の英語講師を務めながら心理学を学ぶために東京都立大学大学院に聴講生として通う。こうした研究や予備校講師としての経験から「SK方式」と呼ばれる独特の学習法を編み出し、1985年に「早慶外語ゼミ」を設立。大学受験生を教えると共に教師の養成にも力を入れた。1999年に常総学院から鹿島学園高等学校の運営を引き継ぎ、理事長・校長に就任。同校を部活で全国レベルの活躍をさせるまで躍進させると共に、通信制課程を開設して、やりたいことをするために全日制高校を選択しない高校生に教育の機会を与えている。ゴルフ部は2004年から3年連続で日本一、サッカー部は2004年から6年連続茨城県代表として全国大会に出場し、第87回全国高校サッカー選手権では全国3位となる。鹿島学園高等学校では自らも教壇に立ち英語、国語、現代社会を生徒に教えている。また、毎年国語の入試総合問題のために、自ら文章を作成している。2010年には、中国石家庄市で開催された“教育発展戦略と教育質量”をテーマとする国際シンポジウムに出席。日本からの唯一の出席者として「教育の質の向上」について講演し、討論会では参加した各国の代表者と意見交換を行った。当シンポジウムには、中国の中央教育科学研究所、中国教育政策研究院をはじめとする 教育関係者のほか、スタンフォード大学教育学院院長など、アメリカ、韓国、シンガポールからの著名な教育関係者を含む500人以上が参加した。
・著書:「いまある自分を打ちこわせ!―“落ちこぼれ”だから明日がある」(泉書房)2003年初版発行 ISBN 4900138290
余湖の少年期がモデル。講談師・神田紅によってラジオドラマ化され、ニッポン放送で放送された。
・テレビ出演:余湖の教育理念・半生をテーマにした30分の特別番組が、TOKYO MXTVにて放送された。 また、同様にNHK水戸放送局でも取材を受け番組が放送された。   
・辞典編集・校閲協力:永年の英語教育が認められ、2008年旺文社出版の辞典『オーレックス英和辞典』の編集・校閲協力者として、名を連ねている。
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「Ishida Hajime's blog」より
・余湖三千雄著『いまある自分を打ちこわせ!』(泉書房、2003年)
筆者は予備校理事長・高校理事長。農業、運転手などを経て、30にして学に志す。通信教育で日大に通いはじめ、11年かけて卒業。予備校教師→独立して予備校を興す→私立高校設立。ただものではない。
学に志した後も、始め数年は全く成績が振るわない。1年かけて「豆単」暗記に挑戦するも、覚えていたのはわずか20単語。けれど「一点突破法」で壁を破り、予備校で英語教師ができるほどの実力を付ける。生き方がカッコいい。こんな生き方をしたいものだ。波瀾万丈だからこそ、学問の意義を語る姿が粋に映る。印象的だったのは日大卒業後、早稲田大学の英語専攻科へいったときのワンシーン。早稲田大学生に対し、言及している場面である。忘れられないほど印象に残っている。この類の学生(無責任で、他人の迷惑を考えない学生)や、教室の後ろに固まってお喋りする連中は高田馬場駅界隈で酒を飲み、気勢を上げ、スクラム組んで「都の西北」を歌って満足する。私も酒が好きなので誘われれば同行するが、「スクラム組んで都の西北」には、どうしても参加できない。
 とは言え、母校の校歌が嫌いなのではない。全国の校歌の中で最も素晴らしいと信じているし、運転中やアパートでは一人口ずさむほど好きである。だのに、彼らと一緒には歌えないのだ。彼らはやるべきこともしないで、「都の西北」さ
え歌えば全て免罪されると考えていると思われてならなかった。私の好きな校歌を免罪符扱いすることには、どうしても我慢ならなかった。(178頁)「彼らはやるべきこともしないで、「都の西北」さえ歌えば全て免罪されると考えていると思われてならなかった」。この言葉は恐ろしい。自分が「彼ら」にならないよう、自律した生き方をしていく必要性を感じる。そう生きることは、自己に身体化した「学校化」された生き方をはねのけることになるはずだ。
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小倉八瀬松地区出身、佐渡に居た学生時代や30代までは、目立たない人であったと言う。

★横尾六右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国代官。名は照平、はじめ行隆、通称を与左衛門、六右衛門という。支配勘定、御勘定となり宝暦元年(一七五一年)四月十二日より二年九月まで佐渡に勤務した。三年四月二十七日佐渡代官となった。天明三年(一七八三年)三月七日に八十六才でなくなった。(守門村史)
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))

★横田十郎兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、寛政十二年(一八〇〇年)閏四月四日、目付より佐波奉行となり、享和元年(一八〇一年)三月二十三日徳川民部卿家老に転役、二百石加増された。名は延松、知行三百石、役料は千五百俵百人扶持であった。在任中佐渡へは着任しなかった。(佐島遺事)

★横田芳太郎
「躍進日本」
よこ横田芳太郎「躍進日本」

★横地栄蔵
1841年(天保12)羽二生で生誕。江戸に出て朱子学を修め、又日光二荒山に滞在して儒学と卦(け)の学を修める。
羽二生に戻り私塾を開き、村内外の多くのものが教えを乞うた。

★横地記子
両津高校時代の1984年度(S59)11月、新潟県競書大会 準特選

★横地玄常・楚山・島狄子(とうてきし)
【生没】(生年不詳)ー一七○二  名は正時、一に道精ともある。通称ははじめ善右衛門のち玄常と称し、相川門前町の医師であったが、堀江治部斎に書を習い能書家として高名。当時社寺の題額等島狄子の書が多かった。鹿伏観音寺の額字「衒山」は、小倉大納言の需めに応じ書かれたもので、大納言が次男季伴に命じ、板に彫らせ寺に掲たもの。学問にもすぐれ、辻守遊(露元)・池島魯庵・布田正伯らは、はじめ玄常に学んだ。元禄八年(一六九五)四月、水戸藩主徳川光圀が佐渡の国志を求めたとき、当時該当する書籍がなく、横地玄常が『佐渡地志』一巻を著して献上した。これは「佐渡古跡考」と題して、現在も水戸彰考館に保存されている。翌年、霊元天皇第一皇子勧修寺宮済深法親王(母小倉実起郷の女)へも献上したという。元禄十五年五月一日死去、享年不明。子の惟正も玄常を襲名したが、子なく、中興村の農家より三郎という者を養子に迎えた。これが横地楚山で、名は正務、初名就正・楚山は号である。正徳の初め上京して松岡玄達に入門し医学を修め、帰国後奉行所附医師となる。医業の傍ら子弟に漢学を授けた。享保十七年(一七三二)江戸に移住、同二十年水戸侯に招かれ二十人扶持を給せられる。著書に「医学的」二巻等がある。【関連】佐渡地志(さどちし) 【参考文献】岩木拡『相川町誌』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
よ横地楚山
よ横地楚山 (2)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
よ横地楚山(玄常)
よ横地楚山(玄常) (2)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の医家で名は正務、はじめ就正といい、島狄子の孫、父の名を継いで玄常という。正徳(一七一一~一五年)のはじめ、京都に出て松岡玄達について学んだ。数年で帰郷して診療のかたわら生徒に諭孟詩文を講じた。門弟が多かった。後に陣屋附医師となったが、享保十七年(一七三二年)六月、江戸へ移り、二十年六月水戸侯を召されて二十人扶持を賜わった。寛保三年(一七四三年)に「医学的」二巻を著わした。延享三年(一七四六年)四月二十五日江戸薬研堀の邸でなくなった。相川志には初名を三節といい、父は中興村の農民で相川に住み、三節は辻守継に仕えたが才智発明であったので、守継が資を出して松岡玄達に学はせ、横地玄常の養子としたとある。(佐渡人物志、相川町誌、相川志)
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※佐渡地志(さどちし):  一巻、「佐渡古跡考」ともいい、相川町の医師横地島狄子の著。「佐渡地志」は、元禄八年(一六九五)水戸の徳川光圀が、佐渡奉行所に佐渡の国誌について下問した時、相川の医師横地島狄子玄常(正時)がその命をうけて著述献上したもので、当時そのような書物がなかったため、横地が祖父の記録によって著述し献上した。原本は現在も水戸彰考館に伝存している。現存最古の佐渡地誌。内容は、佐渡の式内社九社と、他の主要な神社九社、主要な寺堂二八、名所九、これに小倉実起の配所鹿伏村、国の田地年貢高、金山、奉行所諸役人について記している。殊に小倉実起についての記述が目立ち、横地島狄子と実起との関係をうかがわせる。【関連】横地島狄子(よこちとうてきし)・小倉実起(おぐらさねおき) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
よ横地島狄子
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
よ横地島狄子(玄常)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の医家で名は正時(一に道精ともいう)善右衛門といい、後に玄常といった。書を堀江治部斎に学び能書の誉が高かった。博覧で才学があり、元禄八年(一六九五年)四月、水戸光圀が佐渡の国史を徴した時、佐渡地志一巻を編述して上った。翌年さらに観修寺宮済深法親王へも一本を献上したという。元禄十五年五月になくなった。(佐波人物志、相川町誌)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035581.html?p=2

★横地寿一
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)
よこ横地寿一

★横地正輔(しょうすけ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
よ横地正輔
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の医家で通称は三折といい、楚山の長子である。父のあとを継ぎ延享三年(一七四六年)七月、二十人扶持を与えられ水戸家表医師となったが宝暦六年(一七五六年)閏十一月、病気のため小普請組となり同十一年二月二十五日水戸家を去って浪人した。その後のことはわからない。(佐渡人物志、相川町誌)

★横地所左衛門 
『赤泊村誌(上)』より
赤泊代官。横地所左衛門が大久保長安によって赤泊の代官に任命されたのは慶長九年のことであった。佐渡奉行所の記録である『佐渡年代記』によれば、この年の春、所左衛門は大久保長安について佐渡に渡り、赤泊に住み、水津までの村々を支配したという。この時、原土佐は小木の、服部伊豆が湊(両津)の代官に任命されている。横地所左衛門が赤泊にやって釆て佐渡南部海岸の村々を支配するために役所を置いたことが、赤泊がこの地域の中心になる一番大きい理由であった。赤泊はこのときできたといって過言ではないだろう。「横地家由緒書」によれば、所左衛門ほ武州江戸(東京)の生れで、寛永三年(1626)に七〇才で没したとあるから、赤泊に釆たのは四九才のときかと思う。慶長一八年に大久保長安が没するや、金銀隠匿の罪で、亡くなった長安をはじめ一家が処分をうけると、所左衛門は慶長一九年(1614)、お暇をもらって武州笹井村に帰っていった。二・三男は佐渡に留まり、二男は小田切長右衛門を名乗り佐渡奉行所役人、三男は小田切伊右衛門といい赤泊で問屋を勤めた。赤泊に在任中、所左衛門ほ一寺を建立して先祖の菩掟をとむらった。それが西方寺である。宝暦のころ編さんされた『佐渡国寺社境内案内帳』によれば、西方寺は浄土宗川原田常念寺未で、慶長一二年 (一六〇七)、行挙が建立、本願人は横地所左衛門義治で大久保長安の配下として赤泊に住み、このため横地と長安の位牌があると述べている。西方寺の過去帳では、この寺の開山行誉上人は武州勝願寺円誉の弟子で、元和元年(一六一五)五八才で没したとある。地元ではこの寺は赤泊の殿様の小田切弾正という人が建てたと伝えている。今も残る本尊は一メートル余りの来迎阿弥陀如来で、江戸時代の初めの特徴をもつ立派なものである。「横地家由緒書」には、西方寺に関して「所左衛門赤泊村居住の節、同村西方寺建立、徳和・赤泊両村御林の内、栢・椿の実、並びに腰細古城の内に茶畑等寄進、よつて石見守(大久保長安のこと)位牌、横地氏夫婦位牌石塔これあり」とある。このあとの部分の記述は大変面白い。それほ横地がお寺をつくっても、お寺(住職) にくれてやる財産がない。そこで横地は自分の支配村である赤泊、徳和の御林の栢の実と椿の実を寺に与えたのではなかろうか。宝暦三年(一七五三)三月奉行所の役人が御林の木数をかぞえに徳和にやってきた。そのとき、三右衛門、太郎右衛門、善九郎が立会ったが、どうも役人が数えると木数が合わない。その時三人はこういい立てたのである。「村の御林木の椿は前々から阿弥陀除けといって御林木から除いて帳面をつくってまいりました。」この阿弥陀が西方寺の本尊の阿弥陀である。おそらく、このころまで村方では椿の木は御林木の中へいれずに、西方寺のものだという話を知っていたのであろ。つぎの腰細古城内の茶畑を寄進したという記述は、横地が大久保長安から、腰細の古城を与えられ処分する権限を持っていたことを示している。腰細の城は、城主の本間氏が上杉景勝によって滅ぼされると、上杉氏に没収され、それが徳川幕府に引き継がれたと思われるのである。
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
慶長九年の『年代記』には、「横地所左衛門、原土佐、吉岡出雲等石見守にしたがい来り、所左衛門は赤泊に任し、水津迄の郷村を預り、土佐は小木の古城に住し西三川迄を預り、出雲は銀山の事を沙汰す」とあり、また「保科喜右衛門は鶴子銀山を預り、堀口弥右衛門は河原田城付地方を預り、鳥井嘉左衛門は夷組大野組代官となり」とある。

★横地楚山→横地玄常

★横地島狄子(とうてきし)→楚山・玄常

★横山怡白(いはく)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
よ横山怡白
よ横山怡白(2)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
よ横山怡白(よこやまいはく)

★横地守忠(もりただ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
横地楚山の二男で通称を三省といい、後に玄常と改めた。江戸茅場町に住み医を業とした。著書に傷寒論自序広義一巻がある。(佐渡人物志、相川町誌)

★横野光(よこのひかる)
生年月日、1966年3月14日(56歳)、出身地:佐渡市、身長 / 体重162cm / 65kg、血液型A型、出身校:日本プロスポーツ専門学校(日本女子ゴルフ専門学校)、職業:ゴルフ選手(ゴルファー)

★横山旭三郎
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)横山旭三郎 8 越後に残る佐渡の伝承

★横山秀樹(よこやまひでき)
1949年、新潟県村上生まれ。新潟県立近代美術館学芸課普及係長。近代日本画を担当。著書に「アーティストジャパン土田麦僊」 (同朋舎)、 「横山操の画業」 (三彩) などがある。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。

★与作
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
精勤者。佐渡国上相川町の人、水替役所下遺である。役所より次の通り褒賞された。其方儀元雲子問歩帳付より当時の場処に雇ひ替都合三十ケ年相勤候処平常職分出精いたし特先年より年久敷上相川住居のものにて近年身代も不如意いたせども困窮の族へは手厚に世話いたし平日小前の者実意に申諭す故一郷の風俗も相直り一躰常々自己の慎は勿論性質篤実にて銀山向雇ひのものの亀鑑に可相成趣に相聞奇特の事に付褒美として白銀二枚遣之 弘化四年(一八四七年)未九月十三日(佐渡年代記下巻拾遺巻之下)

★与三次郎(よさじろう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川嘉左衛門町の人である。奇特之趣相聞るに付、嘉永三年(一八五〇年)役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)

★与三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川羽田町の人である。孝心奇特の趣相聞忙つき、文政十二年(一八二九年)に役所へ呼出され、妻たつと共に鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★与謝野晶子
真野公園文学碑
よさ与謝野晶子 真野公園文学碑 (2)
真野公園文学碑
よさ与謝野晶子 真野公園文学碑
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)与謝野晶子 
 95 「渡辺湖畔への手紙」から その12 与謝野寛、晶子夫妻の来島まで  96 「渡辺湖畔への手紙」から その13 与謝野寛、晶子の佐渡  97 「渡辺湖畔への手紙」から その14 与謝野寛と湖畔-漢詩と短歌  103 「渡辺湖畔への手紙」から その20 晶子晩年の手紙 105 「渡辺湖畔への手紙」から その22 晶子晩年と湖畔 146 与謝野晶子の初めての佐渡 斎藤明雄
よさ与謝野晶子 (2) よさ与謝野晶子
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)
よさ与謝野鉄幹・晶子 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年
「島の新聞」24号
24よさ与謝野晶子
「鉄幹と晶子」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)
→与謝野鉄幹
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=8
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=9

★与謝野鉄幹(寛)
「佐渡ふるさと百科」
よさ与謝野寛・晶子 佐渡ふるさと百科
外海府はね坂
よさ与謝野鉄幹 外海府はね坂 (1) よさ与謝野鉄幹 外海府はね坂 (2)
よさ与謝野鉄幹
黒木御所
よさ与謝野鉄幹 黒木御所
(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
「続越佐詠草(下)」(短歌59首 「冬柏」5巻12号、昭和9・11月号)
昭和9年10月、晶子とともに越佐を旅した時の作品。魚野川・長岡・三条・弥彦・新潟・佐渡への船中・両津・新穂・相川・外海府・小木・帰路の歌から成る。知人との交流を果たし、三条の鍛冶や佐渡の太鼓などその地でなければ見聞できない多くの地方文化に接し、期待していた旅ではあったが、予想以上の収穫に満悦している様子が全体にうかがえる。挨拶風の歌も交っているが、各地の特徴を捉えて旅情あふれるものが多い。
「越佐詠草」(短歌103首 第2次「明星」5巻4号 大正13・9月号)
大正13年夏、越後・佐渡を旅した時の作で、「赤倉温泉にて」の三十七首、「関温泉にて」九首、「野尻湖にて」十一首、「柏原にて」一首、「直江津にて」十一首、直江津から新潟までが六首、「新潟にて」七首、「大国丸にて」十二首、「佐渡にて」九首から成る。それぞれの地の自然文物の特徴が詠み込まれ、作者の感動が穏やかな調子で表現されている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)与謝野寛 
 50 与謝野寛より渡辺湖畔への書簡 山本修之助 92 「渡辺湖畔への手紙」から その9 『明星』の復刊など 95 「渡辺湖畔への手紙」から その12 与謝野寛、晶子夫妻の来島まで  96 「渡辺湖畔への手紙」から その13 与謝野寛、晶子の佐渡  97 「渡辺湖畔への手紙」から その14 与謝野寛と湖畔-漢詩と短歌  99 「渡辺湖畔への手紙」から 16 『明星』休刊そして会津八一との再会
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
「湖畔と不泣」(「佐渡の百年」)
「鉄幹と晶子」(「佐渡の百年」)
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
➡与謝野晶子
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=8

★よし
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国相川嘉左衛門町金之助女房である。嘉永二年(一八四九年)役所から次の通り褒賞された。
 其方儀両親は近年追々盲人に相夫金之助も長々疝癪相煩ひ立居不自由に罷其上幼少の子供両人の内一人は盲目にて艱難に暮夫薬用又は家取賄のため自己の手道具をも売払両親は勿論夫の心に叶ふ様都て深切に仕へ孝養を尽くし近隣の交りも宣趣相聞奇特の事に付褒美として鳥目五貫文為取之 酉閏四月廿八日(佐渡年代記下巻拾遺巻之下)

★よし
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国小木番所附問屋能登屋仁右衛門の下女である。主家大切に仕うる趣相聞に付、天保七年(一八三六年)役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)

★吉井勇
「躍進日本」(中川杏果)より
 明治四十年頃から交友しており、大正四年頃佐渡へやって来て(しばらく小木で静養したい)というので、渡辺湖畔氏と僕が小木へ案内して、その夜宝屋で若い芸者と泊め、翌朝僕が伺ったら、「彼の女いえなとりにはふさうらん旅の男に云々」と書いて見せ、いささか失望したらしく、「小木はやめて新潟へ引き上げる」というので、新穂の六丸で夕食したら、その時の芸者おとよが芝居の括が出来るのですっかり気に入り、三日間も滞在して引き上げた。

『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)
よし吉井勇 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年
(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
「吉井勇歌集」(短歌1936首 昭和27・岩波文庫)
『酒ほがひ』から『寒行』までの十四歌集から作者が自選して一冊にまとめた歌集。青春を謳歌した初期の歌は割合少なく、転機となった『人間経』以降の、中期から次第に閑寂の境地に至る後年の作が多く採られている。歌道に進む動機となったのが父の弥彦の歌で、新潟には関心を持ち、数回来県しているが、特に昭和8年6月小杉放庵と越佐に遊んだ旅は長期にわたり、残された歌も多い。巻末の解説に自身の歌歴を振り返っている。
「佐渡ケ島」(紀行28枚 吉井勇全集8 昭和39・番町書房)
佐渡の名所・旧跡を巡りながら味わった旅情の記録である。秋近い黄昏時に新潟を発った作者は、佐渡での第一夜、窓辺に寄せる波の音に流離の身を嘆かずにいられなかった。それから一週間余、加茂湖・真野湾・真野御陵・小木・箭島・妙宣寺・根本寺・相川鉱山など、訪れる各所で、歴史の悲哀・漂泊の想いを新たにした。当時作者の心に萌していた「遁世の念」は佐渡周遊の旅によって一層深められたようだと感じている。『わびずみの記』(昭11、政経書院)中の一編。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)吉井勇 20 鑑賞 佐渡のうた (18) -補遺- 吉井勇・星野麥丘人 山本修巳
「湖畔と不泣」(「佐渡の百年」)
「御硯の歌碑」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)
ウイキペディアより

★吉井雲鈴  
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
佐渡郷土辞典によると、「佐渡の俳讃は、天和(一六八二-一六八三)年中巻渕為甲越後から釆て始めて伝え、元禄年中(一ハ八八-一七〇三)彦根の許六(蕉風)門である吉井雲鈴が再度来って数年滞してから俳讃が盛んになった」と書いている。

★吉井清一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)吉井清一 150 佐渡良寛会の山本修巳会長が新潟日報文化賞を受賞

★吉井俊郎(本名 橋本松太郎)
外海府の関出身。徳川夢声門下の活動弁士で、後に漫談士、司会業。その後、テレビ業界に入りディレクターとして活躍。
「佐渡郷土文化」142号
よし吉井俊郎 佐渡郷土文化142(1) よし吉井俊郎 (2)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)吉井俊郎 142 旧外海府村関出身 徳川夢声門弟 -吉井俊郎のこと 菊地健

★吉井初子(初誇)
島内を代表する日本画家、昭和16年平松に生まれる、旧姓佐々木。浦川に嫁ぎ、長女の死後に仏画を書き始める。両津市公民館講座で田中隆元(茂一)から日本画を受講する。その後、桑原義泰に師事する。イベントプロデューサーの吉井靖は息子である。
平成28年3月に行われた「西本和枝・吉井初子二人展」@アイポート より
よ吉井初子 よし吉井初枝 h28 3 10 (13)
よし吉井初枝 h28 3 10 (2) よし吉井初枝 h28 3 10 (3)
よし吉井初枝 h28 3 10 (4) よし吉井初枝 h28 3 10 (5)
よし吉井初枝 h28 3 10 (6) よし吉井初枝 h28 3 10 (16)
よし吉井初枝 h28 3 10 (11) よし吉井初枝 h28 3 10 (12)
よし吉井初枝 h28 3 10 (18) よし吉井初枝 h28 3 10 (21)

★吉井本郷名主義兵衛
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
よ吉井本郷名主義兵衛
よ吉井本郷名主義兵衛 (2)

★吉井村重右衛門
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))

★吉井靖
よし吉井靖
株式会社うぶすな 代表取締役
座右の銘「(てきとうふき)」諦めず、媚びず、信念を貫き通す生き方
両津高校ー東洋大学卒業後、番組制作会社(有)ポマトプロ入社、放送作家として活動。その後番組制作からイベントプロデュースに軸を移し、東レパンパシフィックオープントーナメントの 企画運営等スポーツイベントプロデュースから始まり、渋谷ロフトとの新商品タイアッププロモーションイベントや、 メディア獲得型パブリシティイベントのプロデュース事業を手掛ける。
1996年 日本初インターネット動画配信プロジェクトのイベントプロデュースを成功させ、ネット動画配信時代の先端を担う。
2000年 株式会社うぶすな起業。
2001年 小泉内閣タウンミーティング全国50か所ネット中継イベント実務プロデュース担当。
2004年 新潟県佐渡観光立て直し事業「佐渡百選」の企画運営に携わり、故郷佐渡島の危機的状態を認識し、民間が主導する佐渡活性化活動に着手。
2005年 野口健佐渡環境学校を招聘し、事業主体社として活動開始。
お笑い芸人を半年間佐渡に滞在させ、ネット動画とblogで佐渡情報を毎日発信する「佐渡、お笑い島計画」をスタート。
2007年 「佐渡、お笑い島計画」は、google検索で吉本興業を抜く人気コンテンツとなり、民間主導の地域情報発信に新たな手法を確立する。
2008年 「地域に手厚い」国家施策を組み取り、地域を元気にさせる活動を推進。農商工連携等人材育成事業、JAPANデザイン海外販路開拓支援事業、 地域中小企業海外販路開拓支援事業、海外展開人材育成事業等を地域に着地させ、事業社の人材を育成し、商材のレベルを上げ、国内外販路 開拓の支援を開始
2010年より、秋田市観光アドバイザーに就任。
市民参加型観光情報サイトの構築、中国放送局を招聘し秋田地域産品と観光地の紹介を中国およびASEAN各国に衛星放送を通じて番組配信しながら、秋田産品販路拡大とインバウンド旅行開発を仕掛ける。
2014年より、職業人としての経験を集約した「Emotional Value」= 感情的価値向上のマーケティングを提唱。 永続発展する施策提案・検証の理論を、企業向け自治体向けセミナーとして展開する。
●内閣府・地域活性化伝道師
●内閣府・クールジャパン地域プロデューサー
●総務省・地域力創造アドバイザー
●東京商工会議所・中小企業国際展開アドバイザー
●一般社団法人日本イベントプロデュース協会・参事
●秋田県秋田市・三種町・男鹿市・能代市・山形県長井市・アドバイザー(歴任) /
茨城県・鹿嶋市アドバイザー(現在)
●著書:ピーオーピー出版 「企画屋道場」 (展コミにて連載)
「島の新聞」9号
9よし吉井靖 広瀬大海 金子佳史
※島内で活躍する画家の吉井初枝は母である。

★与次右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行老。佐渡国北狄村(相川町)の百姓である。小前の者をいたわり、品々奇特に取りはからいをしたので、文政六年(一八二三 年)に役所へ呼出され、金子を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★与次右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国皆川村(新穂村)の人である。嘉永四年(一八五一年)佐渡奉行羽田竜助巡視の時、恒孝心奇特之趣き相聞るに付、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)

★吉岡出雲
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
慶長九年の『年代記』には、「横地所左衛門、原土佐、吉岡出雲等石見守にしたがい来り、所左衛門は赤泊に任し、水津迄の郷村を預り、土佐は小木の古城に住し西三川迄を預り、出雲は銀山の事を沙汰す」とあり、また「保科喜右衛門は鶴子銀山を預り、堀口弥右衛門は河原田城付地方を預り、鳥井嘉左衛門は夷組大野組代官となり」とある。

★吉岡正方
「戦国佐渡国人名辞典」より
【よしおかまさかた(15??~15??)】
羽茂高茂家臣。羽茂郡吉岡館主。官途は遠江守。別名本間正方。吉岡(外三宮、名古屋、馬場、北村、後山、宮浦)1,400石を領した。1589年、「羽茂城の戦い」では、若林帯刀、笠井藤右衛門らとともに兵150余りを率い、羽茂高茂を支援したが樋口兼続勢の攻撃を受け撃退された。

★吉岡義雄
旧制佐渡中学10代目校長(昭和5・3・31~昭和7・3・31)。

★吉岡村七郎左衛門→永井七郎左衛門

★吉岡村清左衛門
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))

★吉川英治

羽茂高校前に碑がある。
よ吉川英治文学碑(羽茂高校)
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
(文学碑:樟石丈一、二㍍ 羽茂高校)
○ 我以外 皆 我師
昭和四十一年、羽茂高等学校創立三十周年記念に建てられた碑で、刻まれている言葉は、吉川英治自身の人生訓でもある。
吉川英治は本名英次(ひでつぐ)。神奈川県に生れ、小学校中退後、多くの職業を転々として人生を切り開き、「宮本武蔵」等を書いて人気を博し、文化勲章を受けた。碑は朝に夕べに、自ら歩いた勉学求道の心がけを語りかけている。
「ウィキペディア」より

★吉川五右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]

★吉川正基
よし吉川正基 日報 h27 8 27

★吉川三雄司
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大1、小作組合の検挙[六年四月二十日]

★吉沢桶助
明治後の地役人救済の為に奥平謙輔は開墾を行った。鷲崎村弾野地区では北辰隊の伍長であった新田徹次郎が13人の兵衛隊を引き連れて開墾した。白井千別(普請方)、吉沢桶助(学問所)、本間宗治(係役)等である。
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)

★吉沢和夫
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1『安寿姫伝説』の原話

★芳沢謙吉
「一徹の外交官」(「佐渡の百年」)

★吉沢吉蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
よし吉沢吉蔵

★吉重(よししげ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国市野村の鍛冶。鎗をきたえ下坂十代の源吉重と記した。享保五年(一七二二年)佐渡奉行へ差出した。田舎細工には相応なりといえども未だ用をなすべき所に至らざる故、丹精こらし鍛錬なすべき旨を申付けられた。(佐渡年代記上巻)

★吉沢芳太郎
小木 ●昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]●昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]

★吉住維秀(これひで)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【よしずみこれひで(15??~15??)】加茂郡吉住城主。潟上秀盛の次男。通称新六郎。1519年、吉住維秀が住吉城を築城(白瀬、北五十里、坊ヶ浦、馬首、松ヶ崎、小浦、見立、黒姫、舟代、虫崎)を領した。父潟上秀盛とともに、久知正泰と抗争を繰り返した。

★吉住秀躰(ひでもと)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【よしずみひでもと(15??~15??)】吉住維秀の男。通称源三郎。別名本間季躰。1573年、「吉住城の戦い」で久知泰時勢の攻撃を受け降伏した。

★吉沢吉裕
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]

★吉田晃
よし吉田晃

★吉田文音(あやね)
よし吉田文音

★吉田右内
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)

★吉田學軒
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)吉田學軒 107 「渡辺湖畔への手紙」から その23 吉田學軒と湖畔

★吉田覺左衛門
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
よし吉田覺左衛門 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★吉田加南子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)吉田加南子 75 高見順賞を受賞して 吉田加南子

★吉田完衛
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
よし吉田完衛

★吉田久一
「立浪会35年のあゆみ」(昭和34年)
よし吉田久一 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (1)
よし吉田久一 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (2)

★吉田久満次
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
よし吉田久満次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
よし吉田久満次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
両津 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]

★吉田薫斎
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
よ吉田薫斎

★吉田兼佶
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
よし吉田兼佶 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★吉田耕一
佐渡中学7回生で、同年には青野季吉(文芸評論家)、児玉龍太郎(県会議長)、城野亀吉(日本歯車工業会理事)、宮本美治(佐渡教育会会長)、角坂仁三次(河崎村長)、酒井千尋(根津美術館館長)、浅香寛(退学して富山or石川の中学に転校)、塚原徹(落第で卒業遅れる)等がいる。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
よし吉田耕一
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p379

★吉田吾右衛門
金井熊野神社
よし吉田吾右衛門 金井熊野神社

★吉田耕太郎
「佐渡高等学校百年史」より
草創期の佐渡中学図画科教師。図画帳を手本に、教師が指導しながら描かせる教え方で、平面図法・投影図法の初歩も教えた。吉田は日本画家で、その頃五〇歳くらいであった。明治三十年六月から大正七年六月まで教鞭を執った。(「佐渡高等学校百年史」より)

★吉田幸平
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)吉田幸平 2366 し 真光寺破損甲冑 118 佐渡真光寺破損甲冑の兜鉢と胴の残欠概論 -当世具足の初期遺品の一考察-

★吉田吾吉
金井熊野神社
よし吉田吾吉 金井熊野神社 (2) よし吉田吾吉 金井熊野神社 (3) よし吉田吾吉 金井熊野神社 (4)

★吉田佐太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、慶長六年(一六〇一年)より八年まで在任した。守貞という。知行は千二首五十石であった。(佐島遺事)
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
世に「慶長事件」と呼ばれる事件がある。慶長六年(一六〇一)、幕府は中川主税・吉田佐太郎を佐渡に派遣し、従来の代官田中清六・河村彦左衛門に加え、四人の代官によって佐渡の支配に当らせた。この年、吉田佐太郎は自分の職権で、田租の五割増の触れを国中に出した。驚いた百姓たちは三人の代表を選んで江戸へ愁訴に及んだ。その三人の百姓は、羽茂本郷 勘兵衛・北方村 豊次郎(豊四郎とするものもある)・上新穂村 半十郎(半次郎とするものもある) である。幕府は調査のため役人を佐渡に派遣、その結果、代官側の越度(おちど)とされ吉田佐太郎は切腹(自殺ともいう)、中川主税は改易、田中・河村の二人はお暇になった。百姓三人は上訴の罪によって追放となったが、年貢の増徴は取止めになったという(「佐渡年代記」)。
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))

★吉田シカ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡雑太(さわた)郡相川の人である。十九才で関六蔵の妻となりよく夫に仕えた。明治六年以来相川小学校の小使となったがよく勤務し、勤続二十年に及び県より金一円を賞賜された。(越佐名誉鑑)

★吉田志麻
よし吉田志麻050404 よし吉田志麻 よし吉田志麻 ときわ丸内 よし吉田志麻 よし吉田志麻1 よし吉田志麻2 よし吉田志麻3 よし吉田志麻4 よし吉田志麻5 よし吉田志麻6 よし吉田志麻7 よし吉田志麻8 よし吉田志麻9 よし吉田志麻10 よし吉田志麻11 よし吉田志麻12 よし吉田志麻13 よし吉田志麻 (3) 
h28年6月
よし吉田志麻 h2864
両津夷一ノ町出身の画家、昭和14年生。両津小-両津中-両津高校(9回生)、旧姓は加賀勝美、実家は「マルカ旅館」。佐渡とアフリカを題材にした作品が中心である。県内各地で展覧会を開き、佐渡病院正面玄関入り口左側には大作が展示されている。また、ホテルファミリーオ佐渡相川には、200号の版画がロビーに、30室の客室全てにも版画が入る。 佐渡汽船「ときわ丸」船内にも作品が掲示される。更に、ホテルメッツ新潟、長岡にも版画が展示されている。・四国に嫁いで居たが夫と死別し、新潟で高級bar「瀬戸内」を開店した。
実家の夷まるか旅館
まるか旅館 3004月 (1) まるか旅館 3004月 (2) まるか旅館 3004月 (3)
諸情報

★吉田純子
赤泊演劇クラブ
よし吉田純子 赤泊演劇クラブ よし吉田純子(左) 赤泊演劇クラブ 片野尾在 よし吉田順子 赤泊演劇クラブ

★吉田松陰
よし吉田松陰 (1) よし吉田松陰 (3) よし吉田松陰 (4)
よし吉田松陰 (1) よし吉田松陰 (3) よし吉田松陰 (4) よし吉田松陰 (5)
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平30年)
よし吉田松陰 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年
よ吉田松陰 よし吉田松蔭
嘉永五年(1852)の2月27日、出雲崎から小木に着く。12日間ほど滞在して3月10日離島した。(参考文献)『幕末明治の佐渡日記』(磯部欣三著)
吉田松陰(よしだしょういん): 【生没】一八三○ー五九 幕末の思想家・教育者。佐渡へは嘉永五年(一八五二)二月に来島。『東北遊日記』に、一二日間の滞島日記を残している。天保元年八月四日、長州藩士杉百合之助と妻タキの二男として萩(山口県)に生まれ、叔父に当たる吉田大助(賢良)の養子になって、吉田家を継いだ。山鹿流兵学師範の家であり、天保十年(一八三九)一○歳で、藩校の明倫館でその家学を教授し、翌年には藩主毛利敬親の面前で、素行の『武教全書』を講義している。のち佐久間象山から、砲術や兵学を学んだ。「東山・北陸は、土曠く山峻しくして、古より英雄割拠し、奸兇巣穴す。且つ東は満州に連なり、北はおろしやに隣す。是れ最も経国の大計に関はる所にして、宜しく古今の得失を観るべきものなり」(『東北遊日記』)が、東遊を志した目的で、海防事情に関心があり、佐渡では鉱山のほかに、春日崎の砲台も見学している。新潟まできて松前へ渡ろうとしたが、春まで便船がないと聞き、佐渡渡航を決めたと、日記には記しているが、当初から佐渡は視野にあったらしく、江戸の歌人臼井秋澄(采女)から紹介状をもらい、佐渡奉行所の蔵田茂樹を真っ先に訪ねて、見学などの便宜をはかってもらったことが、後世になって日記以外の諸資料からわかった。来島したときの奉行羽田龍助が、「好んで長沼流兵法を講じた」と松陰は書いている。松陰も若いころ、長沼流兵学の免許皆伝を得ていたから、このえにしで佐渡滞在がわりと容易に運んだらしいことをうかがわせる。安政六年十月、江戸伝馬町の獄舎で処刑された。三○歳。【関連】東北遊日記(とうほくゆうにっき) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
 30 松陰神社を参拝して 伊沢辰雄 139 佐渡に遺る吉田松陰の碑 中川哲昌  
「島の新聞」(両津港物語)
ウイキペディアより
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035581.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=11
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=14
諸情報

★吉田甚七
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
よし吉田甚七

★吉田励(すすむ)
「手わざ図鑑」
よし吉田励(すすむ)「手わざ図鑑」

★吉田善平
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
よし吉田善平 新潟県官民肖像録 明治41年
豊田港にある顕彰碑
よし吉田善平 (1) よし吉田善平 (2)
旧恋ケ浦村(真野)村長、明治二五・一二・七~二八・一・二〇~。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明3、松本八十八の祝賀会[二十七年四月□日]

★吉田素僊
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)吉田素僊 149 吉田素僊の彩色 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)

★吉田武虎
「島の新聞」索引(人名別)

★吉田忠右衛門
新町 円静寺墓
よし吉田忠右衛門 新町 円静寺墓 (1) よし吉田忠右衛門 新町 円静寺墓 (2)
明治時代に新町にあった旅館「吉田屋」主人。来島の文人墨客等も宿泊したらしい。絶家し現在は遠藤幹彦(遠藤建設)宅となっている。
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
よし吉田忠右衛門 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
「立葵の咲く旅籠」(「佐渡の百年」)


★吉田千代吉

『佐渡酒誌』(平成14年)
よし吉田千代吉 『佐渡酒誌』(平成14年)

★吉田東伍
世阿弥 吉田東吾 (1) 世阿弥 吉田東吾 (2) 世阿弥 吉田東吾 (3)
1864年-1918年。歴史学者、地理学者。新潟県出身。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。音楽史の造詣も深く、能楽研究に意を注ぎ、『申楽談儀』を校訂、これが世阿弥伝書の発見につながる。吉田が『花伝書』と命名した『風姿花伝』や,発見された世阿弥の著書16部を収めた『世阿弥十六部集』を校注、世阿弥像を一新させ,近代能楽研究の出発点となった。
世阿弥発見100年−吉田東伍と『世阿弥十六部集』−(佐藤 和道/早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手)
 今からちょうど100年前、ハルビンで伊藤博文が暗殺され、両国に国技館が建設された明治42年。この年の2月、当時早稲田大学教授であった吉田東伍(よしだ・とうご)博士によって1冊の本が刊行された。『能楽古典 世阿弥十六部集』と題されたこの本は、それまで謎に包まれ伝説上の人物とされていた世阿弥という人物の姿を初めて世に知らしめたのである。
 吉田東伍は1864年(元治元年)新潟県北蒲原郡保田村(現 阿賀野市保田)に旗野木七の三男として生まれた。ほぼ独学で小学校教員となり、新聞社社員などを経て歴史研究への道を歩むことになる。「落伍生」のペンネームで数々の論考を発表した後、明治26年には、初の著作『日韓古史断』を刊行し、次第に歴史家吉田東伍の名は世に知られることとなっていった。
 さらに東伍は、日本にはまだ統一した地誌がないことに気づき、日本の地名に関する辞書の作成に着手する。これが構想から完成まで足掛け13年をかけた『大日本地名辞書』である。本書は、古代から近代にいたる様々な歴史史料を基に、地名の起源やその変遷について考察するもので、文字数1200万字、辞書に引かれた項目は4万を超え、原稿の厚さは5メートルにも及んだと言われる未曽有の大事業であった。こうした東伍の業績が評価され、明治34年には東京専門学校(現早稲田大学)の講師として教壇に立つこととなった。
能楽の復興と研究
 ところで、室町時代に端を発する能楽は江戸時代には幕府の式楽となり、役者は幕府や藩などから与えられる扶持によって生活していた。そのため、明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、能役者はそれまで与えられていた俸給を失い、さらに維新の混乱によって上演の機会を奪われることになった。その結果、多くの能役者たちが代々の技芸を捨てることとなり、能は壊滅的な打撃を受けたのである。 そうした危機的状況を目の当たりにし、能楽の復興事業に乗り出したのが、池内信嘉(いけのうち・のぶよし)である。俳人高浜虚子の実兄として知られる池内は、能楽の盛んな松山に生まれ、幼少より能に親しんだ環境で育った。明治35年、池内は私財を投げうって上京すると、能役者養成のための機関である能楽倶楽部を立ち上げた。さらに雑誌「能楽」を刊行し、広く全国の同好の士を募って能楽復興への助力を呼び掛けた。池内の努力は徐々に実を結び、復興の機運も次第に高まっていくことになる。 そうした状況の中、池内は、早稲田大学の坪内逍遙、高田早苗らと図り、能楽に関する研究の場として「謡曲文学研究会」を立ち上げる。明治37年10月23日に開催された第一回研究会には、久米邦武(くめ・くにたけ)、芳賀矢一(はが・やいち)、東儀鉄笛(とうぎ・てつてき)、五十嵐力、ノエル・ペリ、伊原敏郎など各界を代表する研究者が集められた。池内はその時の様子を、著書『能楽盛衰記』に、以下のように記している。 此時後の方に控へた頭の毛の蓬々(ぼうぼう)と延びた大男が衡(つと)立ち上り、「今日御提出の問題の内に久世舞(くせまい)の起り迄といふ事がありますが、其の起源についてご説明が承りたい」と言ふ。一座顔を見合せて答へる人がない。(中略)高田会長が「なにさう厳格な起源論ではないのだよ。曲舞は能には関係が深いから、それでこゝに書いたまでさ」と軽く言はれると、其大男は微笑を漏(もら)したまゝ席に復した。はて不審な人よと思ったが、誰あって進んで矢面に立たれなかったこそ道理、これこそ後に此の研究会の大立者となられた吉田東伍君で、歴史の大家であるといふ事を後に知り得たのであった。 東伍は当時早稲田大学史学科の中心人物であり、『大日本地名辞書』の業績などですでに「歴史の大家」として一目置かれた存在であった。その反面、それまで能楽や芸能に関する論考を発表したことはなく、周囲の人々は東伍にそうした知識があるとは思っていなかったようである。しかし『大日本地名辞書』編纂などによってつちかわれた歴史に関する広範な見識は、能楽研究に対しても十二分に通用するものであった。その後東伍は、能の歴史的研究に興味を抱き、続々と論考を発表していく。
世阿弥発見
 明治41年、東伍は、国学者小杉榲邨(こすぎ・すぎむら)の手元にあった『申楽談儀(さるがくだんぎ)』を翻刻・紹介している。『申楽談儀』は世阿弥の芸談を子息の元能(もとよし)が書き留めたもので、大成期の能について具体的に知ることができる貴重な資料であった。この本を読んだ安田善次郎(やすだ・ぜんじろう)は、自身の蔵書中に同様の伝書があることに気づき、東伍にその旨を報告した。東伍が安田善次郎のもとに赴くと、そこには十六篇にも及ぶ世阿弥の能楽論書が存在していた。
 去る七月中旬、世子談儀の校注本を版行せしむるにあたり、予は其の欠失を惜しみて、心窃に他日の発見に期せる矢先、岡田紫男氏偶々来りて、世子の遺著発見を告げらる、曰く、近来旧藩華族某家の御払物あり、中に能の古書数帖ありしが、買人の手を経て、数日前に安田善之助氏の蔵架に帰せり、請ふ此の数帖を看よ、云々、予聞いて駭き、展玩暫時、果して珍実なり、乃、予は年来想望の空しからざりしを喜び、特に能楽道の為に慶幸に勝へざりき、而も当時、予は北越旅行の約あり、該書の細読に余暇なし、岡田氏と相別る、既にして八月下旬帰京、匆々能楽会に就いて、該書の借覧を乞ひ、繙閲再三、茲に自家の胸臆を記して、漫に数帖の序引に擬するといふのみ
(吉田東伍「世子完本ならびに花伝書能作書習道書等の発見」)
【文意】(去る七月中旬、「申楽談儀」の校注本を刊行した際に、惜しくも一部が欠損していたので、いつか発見したいと思っていたところ、岡田紫男氏が来て、世阿弥の能楽論書の発見を知らせてくれた。「最近、華族某家の旧蔵品の中に能の古書が数帖見つかったが、数日前に安田善之助氏の所蔵となった」とのことであった。見たところ、大変貴重な資料で、年来の望みが叶った思いであった。特に能楽界のためには素晴らしい発見であった。ちょうどその時は新潟旅行の約束があり、細かく調査することは出来なかったが、八月下旬に帰京したときに見ることが出来たのである。)
 能の大成者として知られる世阿弥は、二十篇に及ぶ能楽論書を執筆したことが知られているが、これらは秘伝書として、能役者や一部の権力者の手に秘蔵され、長くその存在が知られることはなかった。東伍がこの時発見した十六篇の伝書は、世阿弥以来およそ500年の間、限られた人々にしか見ることが許されなかったもので、伝説的な存在であった世阿弥の業績を明らかにする大発見であった。東伍は発見から僅か半年のうちに翻刻、校訂作業を行い『能楽古典 世阿弥十六部集』として出版している。その後、安田善次郎の手元にあった伝書は、大正十二年の関東大震災によってすべて焼失したため、その姿は、現在では『世阿弥十六部集』の中にうかがうことができるのみである。東伍が「能楽創始の根本史料」と記した如く、『世阿弥十六部集』は、能楽研究の第一級資料として現在でも高く評価されているのである。 世阿弥伝書の発見以後も、東伍は能楽の歴史研究に力を注ぎ、大正4年には続編『能楽古典 禅竹集』を刊行している。また、能楽以外の芸能についても興味をもち、大正2年には、雅楽家東儀鉄笛とともに宴曲(えんきょく・早歌)の復元演奏を行った。宴曲は能の先行芸能の一つとされる鎌倉時代の歌謡であるが、東伍はこれらを含めた芸能全体の歴史を明らかにするというスケールの大きな研究を意図していたのであった。しかし、大正7年1月、病に倒れた東伍は、志半ばにして急逝してしまう。まだ53歳であった。
ウイキペディアより
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=4

★吉田董斎(とうさい)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の画家で通称を順平という。山崎董泉に画を学んだ。(佐渡人名辞書)

★吉田友治
「躍進日本」
よし吉田友治「躍進日本」

★吉田虎吉→小金井秀峰

★吉田尚
「佐渡ジャーナル」関係記事:「24号」(平成23年1月)この一冊「一兵士の青春とモスクワから届いたカルテ」(吉田尚著)(岩田雅)
「島の新聞」索引(人名別)

★芳田秀幸
『続佐渡酒誌』(平成14年)
よし芳田秀幸 『続佐渡酒誌』(平成14年)

★吉田浩昭
両津高校時代の1991年度(H3)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第6号) 俳句 奨励賞  

★吉田孫左衛門
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
畑野の東小路で写真館を経営していた。先代までは紺屋であったが兼佶の代に写真屋になった。昭和五年ころまで畑野にいたが、その後河原田大阪町に移り、佐渡中学の生徒らを顧客として栄えた。

★吉田みやび(本名 雅枝)
よし吉田みやび 新穂村井内の人。佐渡農高卒後、都内の郵便局に40年勤務。 『昔話 トキのやくそく』出版。
「佐渡ジャーナル」関係記事:「38号」(平成26年7月)昔話 トキのやくそく

★吉田モリト(盛之)
よし吉田モリト
よい吉田モリト
よし吉田モリト 300929
き (1)

★吉田彌十郎
河原田諏訪神社
よし吉田彌十郎 河原田諏訪神社

★吉田好昭
佐渡高校時代の29.7.31~、全国高校陸上大会(熊本県)棒高跳出場

★吉永久三郎
「佐渡ジャーナル」関係記事:「12号」(平成20年1月)懐かしの高千鉱山(1)(吉永久三郎 両津湊)「13号」(平成20年4月)懐かしの高千鉱山(2)(吉永久三郎 両津湊)
「島の新聞」索引(人名別)

★吉野栄五郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]

★吉野秀雄
「吉野秀雄全集1・2」(昭和44・筑摩書房)
全集1.2巻には『苔径集』『早梅集』『寒蝉集』『晴陰集』『含紅集』の他、「短歌作品拾遺」として歌集以外の歌も多く収録されている。生涯自身の病と家族の不幸に悩みながら、歌には一見豪放とも思える強さがある。良寛の遺跡をはじめ県内各地を旅した歌は非常に多く、生涯の師として敬慕した秋州道人に関する歌もまた数多く詠んでいる。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)
よし吉野秀雄 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年
ウイキペディアより

★吉野福蔵(よしのふくぞう)
【生没】一九○七ー八三 明治四十年八月二日、相川町に生まれた。最後の伝統的な春駒芸の伝承者で、吉野の他界後の春駒は、同好者の趣味的な性格をつよくするようになった。吉野福蔵(『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)では福三)の晴れ舞台は、昭和三十七年(一九六二)十月に東京で催された全国民俗芸能大会(文部省芸術祭として)に、舞方として出演したときであろう。地方は村上藤太郎で、補助役として菊田勇吉と村上啓太郎が加わった。その四年後に、相川町の有志によって春駒保存会が結成され、同四十三年に公民館で後継者養成のための講習会がもたれた。吉野がその講師であった(講師にはほかに東京在住の深原大蔵も加わった)。その後に地方として活躍した寺尾作治氏所有の資料によると、同五十三年三月に春駒保存会の委員の顔ぶれには、西野善兵衛(元町長)・森三郎(元教育長)・曽我真一(立浪会指導者)・中川重蔵(元町史編さん室長)はじめ、町内有力者・郷土研究家・立浪会員など、三二名の名前がみえている。吉野が専ら愛用していた春駒面の名作品は、吉野の歿後、所蔵者の他界などのことがあって、一時は島外に出ていたが島に帰り、所蔵者の依頼によって、現在は佐渡博物館の保管となっている。【関連】春駒(はるこま) 【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※春駒(はりごま): 正月や春祭の日に、町や村の家々を門付けして歩く土俗的な芸能。各地にあったが、現在は何らかの形で伝えられている所は、山梨県・沖縄県・群馬県・静岡県と佐渡が知られている。佐渡では「はりごま」と呼ぶ。佐渡の春駒は、舞方と地方の二人が組になって、地方の唄と舞方のアドリブを混へた台詞と、交互に掛合いながら舞う。舞方は、ゼイゴ(農村部)では白面をかぶり、右手に鈴(古型では一六個)が手綱についている木製の小さな駒形(約二五センチくらい。手駒)を持って舞う。相川の市街地で行われた春駒は、黒褐色の頬のゆがんだ面をかぶり、かなり大形の馬の頭部を胸から下げ、馬の尻を背後につけて、乗馬の形をして舞う。近年、前者を女春駒とか夏駒とか呼ぶ習慣ができて、後者の男春駒と分けて呼ぶ者があるが、成立の過程や芸態からみて、手駒型と乗馬型の呼称のほうがよいかと思う。男女とか春夏の区別には、根拠がないからである(註・乗馬型にまつわる味方但馬伝説には、朝鮮の仮面劇「両班〔ヤンパン〕」の影響が感じられる)。春駒の起源には、宮中の白馬の節会説がつよいが、土俗的には養蚕の予祝に関係があり、佐渡春駒にもその痕跡がある。【参考文献】石井文海『天保年間相川十二ケ月』(曽我真一編)、蔵田茂樹『鄙の手振』、本間雅彦『春駒の文化史』 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50047237.html?p=3

★吉恒(よしつね)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
刀匠。古今鍛冶備考二に吉恒を、佐渡に一人有、時代不明、と記している。(越佐史料巻四)

★古野一→理勢ノ一

★吉原清
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)

★吉原弥市
「手わざ図鑑」
よし吉原弥市 「手わざ図鑑」

★好古→鍔師好古(つばしよしふる)

★吉益亮子(よしますりょうこ)
1857年(安政4年) - 1886年秋)は明治時代前期の教育者。
・生涯
1857年、江戸に生まれる。1871年11月、最初の女子留学生として岩倉使節団に同行し、アメリカ合衆国へ留学するが、眼病の為に10ヶ月余りで同じ留学生の上田悌子と帰国。一説にはホームシックが原因と言われている。帰国後、後の海岸女学校の英語教師を務める。1886年6月、亮子の父、吉益正雄により、亮子を校長とした私塾「女子英学教授所」を設立したが、同年秋、コレラの為に没。享年30(満29歳没)
「島の新聞」(両津港物語)
「島の新聞」(明治の女子留学生)

★吉村昭
2吉村昭 3吉村昭 4吉村昭 5吉村昭 ブルーノタウト 6吉村昭(ブルーノタウト 『日本美の再発見』) 7吉村昭(ブルーノタウト 『日本美の再発見』に出る芳蘭館) 1吉村昭 よし𠮷村昭
妻の津村節子と共に佐渡を愛し、何度も来島して佐渡に関した作品を発表した。「破船」「花渡る海」等である。前者は小木堂の釜地区辺りをモデルにしたと言われるが著者は内容の問題もあり特定の地域ではないと話す。また、後者は横谷出身の蘭方医長野周甫が登場する。この医院は芳蘭館といい、昭和になって佐渡を訪れたブルーのタウトが書いた「日本美の再発見」に登場する。
吉村氏夫妻は郷土史家であり佐渡博物館館長であった本間寅雄氏とは昵懇であった。津村節子の『紅梅』に佐渡の友人の弔辞を読む話が出る。
「石の微笑」(小説96枚 「文学界」昭和37年4月)
・第四十七回昭和37年上半期の芥川賞候補作品。少年のころ女の縊死体を見守りつつけた学生は若い女中と情死した父を持つ。佐渡へ石仏収集に出かけ、骨董屋に売るアルバイトをしているその男は自身も女と心中して自分だけ生き残り、また下宿の娘とも未遂に終る。次の間借り先の女も不意にいなくなり、男もいなくなる。女を誘い込む死の匂いをその身に漂わせる男の魔性を描く。作者の記録文学的な傾向別の冷徹な感覚を示すもの。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
・姉と二人暮らしの学生、英一は、同級生の曽根に誘われて、石仏類の「蒐集」の仕事に同行する。行先は佐渡。「佐渡の両津からバスで1時間ほど行ったAという町」へ行く。
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「ウィキペディア」より


★与次兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
名主。佐渡国中興村(金井町)の人である。奇特の趣相聞につき、役所へ呼出され、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)

★吉屋信子
よ吉屋信子
『佐渡相川の歴史(通史編)』(1995年)より
先祖代々からの相川人ではないが、父親が裁判所や郡役所、鉱山に赴任してきて、たまたま相川で幼年時代を過した者の中に、作家の吉屋信子などがいた。信子は明治二十九年一月に新潟市栄通りの県庁宿舎で生まれるが、県警務課長だった長州の萩出身の父雄一とともに、二歳のときに相川へ渡った。雄一は佐渡郡長だった。三十五年に公害の足尾銅山のある栃木県下都賀郡長になって去るが、五歳のときまで信子ほ相川で暮らし、後半「憧れ知る頃」で相川の浜で桜貝など拾ったときの叙情的な美しい文章を書き残した。
・父が佐渡郡支庁長だった吉屋雄一で、信子は相川で生まれ育つ。大安寺が宿舎であった。
「幻の町々」(随筆2枚 吉屋信子全集11 昭和51・朝日新聞社)
「読売新聞」昭和38年5月。筆者はただ一つという思い出の地をもたない。新潟、佐渡、新発田など生まれ育ったいくつかの町のよいところをかき集めた思い出を幻のように思い浮かべる。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)吉屋信子 151号 良寛の母「おのぶ」と吉屋信子 そして蕗谷紅児 辻美佐夫
「佐渡ジャーナル」関係記事:「32号」(平成25年1月)1月生まれの二人の作家(※長谷川海太郎・吉屋信子)「64号」(令和3年1月)・吉屋信子の父が佐渡に(岸田準二)
「ウィキペディア」より
「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)

★吉屋雄一
よし吉屋雄一
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡長。明治三十年から三十二年まで相川に勤務した。三十一年日刊佐渡新聞を創刊した森知幾は官権の横暴私政を新聞紙上で糾弾し、いわゆる官吏侮辱事件を起こした。これに対し吉屋郡長、岩崎法林警察署長らは佐渡水害委託金消費事件をもって森を突然拘引したが半年の後、森は釈放され、この事件はでっち上げといわれた。作家吉屋信子は明治二十九年一月十二日生まれで、父雄一と共に幼時を相川ですごした。後に栃木高等女学校を卒業した。(新潟県年鑑、佐渡の部落解放運動小史)
昭和28年頃、島根県から新潟県警察部警務課長に転任してきた。出雲と隠岐の島間の航路問題に奔走した経験があるので、新人県議の野沢卯一はこの件で吉屋と懇談を重ねた。長州出身。
「佐渡の日刊新聞創刊」(「佐渡の百年」)
「白髪の老政客」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p360
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数60

★与四郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川浜町の人である。孝心奇特の趣相聞に付、文政八年(一八二五年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★与助
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川南沢町の人である。よく孝養を尽くしたので、文政五年(一八二二年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★世拗亭黙公→飯田辰巳

★与三兵衛(よそうべい)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国赤泊村の百姓である。与三兵衛夫婦は老母によく仕えたので文化元年(一八〇四年)夫婦共、役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★余田市太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
よだ余田市太郎
『加茂村誌』(昭和38年)
よだ余田市太郎

★余田市兵衛
加茂羽黒神社御旅所
よだ余田市兵衛 加茂羽黒神社御旅所

★余田孝一
『両津市要覧(昭和33年)』より
よだ余田孝一

★依田十郎兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、安永四年(一七七五年)六月八日納戸頭より佐渡奉行となり、七年四月十五日御先手鉄砲頭へ転任した。名は政恒、知行二百五十俵、役料千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)

★余田隆邑(たかむら)
両津馬場の人、昭和13年頃の生れ。「ドンデンファンクラブ」代表。同会は2004年に結成され、現在(平成27年)会員は20人、ドンデンの芝生を守ること等を目的とし、毎年草刈を実施している。
よだ余田隆邑 h27 7 9

★よね
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国原黒村(両津市)藤左衛門の祖母である。弘化二年(一八四五年)に九十五才になり、役所から鳥目七貫文を与えられた。(佐渡年代記下巻)

★よね
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
精励著。佐渡国井口新次郎(役人と思われる)の下女である。主家を大切に致す趣相聞るに付、弘化三年(一八四六年)に役所から鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記下巻)

★よね
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国柳沢村(赤泊村)の人である。天保十三年(一八四二年)に九十五才になったので役所から老妻扶持一人扶持を与えられた。(佐渡年代記下巻)

★米倉昌忠
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
よ米倉昌忠

★米谷友宏
よね米谷友宏 300625

★米津年江
平泉毘沙門
よね米津年江 平泉毘沙門

★米津茂右衛門
平泉毘沙門
よね米津茂右衛門 平泉毘沙門

★米津茂左衛門
平清水
よね米津茂左衛門 平清水 (1) よね米津茂左衛門 平清水 (2)

★米山耕
よね米山耕 h2812月 (2)
平成27年夏のHELLO BOOKS 手伝いに来島し、その後、羽茂大崎に住んで、後継者の少ない絞張地区の伝統的藁細工を学んでいる。一方で、平成28年よりドーナツの店「タガヤス堂」を開店し、人気店となっている。
https://suumo.jp/town/entry/sado2-tamaoki/?fbclid=IwAR3vyEJhIYkPohfZ2l1APGFnqlojya9Jc21ToAVcz8x92V4qCXxIrJz_BzI
諸情報

★余村光世
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)余村光世 137 俳句鑑賞

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