2021-01-11
★松山アサ
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川町長坂町 ・明2、小崎懋の政治演説会[二十年九月三十日]
★松山管子(弘響)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★松山善三
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)松山善三 142 松山善三さん死去 山本修巳
★松山隆弘

★松山隆典

★真子猛

★摩尼久晴(まにひさはる)
昭和44年春、新潟日報「歌壇賞」。
★摩尼義晴(まによしはる)

佐和田二宮出身、昭和30年佐渡高校卒、京大卒。昭和34年第一勧銀入行、代表取締役副頭取。首都圏佐渡連合会二代会長、首都圏佐和田会3代会長(平成14年~平成20年)。
「島の新聞」索引(人名別)
★真乃史優→金丸千津江
★真野湾太郎→高野間蔵
★間淵ヤス(すず子)
北一輝の妻。
「北一輝論」(不可視の恋・恋愛と革命について 昭和47年 松本健一)
https://drive.google.com/file/d/1i7LpB-PsZGKM_p22UxQIrSAA7EgUIcjq/view?usp=sharing
★馬堀喜孝

★間宮次郎
「島の新聞」索引(人名別)
★間宮新左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、慶長十八年(一六一三年)より十九年まで在任した。道忠またほ直元ともいう。知行は千石、十九年十二月十五日、大阪でなくなった。(佐島過事)
★魔夜峰央(まやみねお)


漫画家、両親が赤泊出身。父は赤泊上町で小山苗字、母の実家は延命院(本間苗字 真言宗)。本名山田峰央(妻であるバレーダンサー山田芳美の姓か?)。1953年3月4日 -)。新潟県新潟市(現在の中央区)出身。昭和54年から連載した『パタリロ!』で有名に。現在も連載中の73巻目『パタリロ』説明・小銭大好きの国王パタリロとその周囲が織りなすスーパー痛快ギャグ漫画。別冊花とゆめに現在連載中。舞台のマリネラ王国の形はなぜか佐渡ヶ島。そして、パタリロ愛用の運送業者はなぜか『中越通運』、他に18もの作品がある。
【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第11話:『パタリロ!』魔夜峰央とブリの握り
諸情報
「ウイキペディア」より
★丸岡重五郎(まるおかじゅうごろう)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八五○ー一九一五 嘉永三年、山田晩登の五男として生まれる。幼名を成徳、南畝と号した。幼年の頃丸岡南陔の養子となり、養父から教育を受けるいっぽう、圓山溟北に詩文を学んだ。のち江戸に出て、田口江村の塾に入り漢学を学び、帰って川島篤太郎らと詩社を結成した。その後再び上京して津田仙の学農社に入り、帰って牧畜業を始めたが失敗した。明治十三年(一八八○)六月頃より国会開設運動を始め、同年十月には佐渡親睦会を組織して本部長となり、同月二十八・二十九日に開催された三郡大親睦会では、会長に選ばれた。翌十四年八月には、鵜飼郁次郎らと政治結社「輔仁社」を結成し、盛んに政談演説会を開催している。また明治十三年五月には、三郡連合町村会議員となり、中山新道の開削や、官庁移転反対、興産補助金の交付に活動した。明治二十六年から三十五年にかけては相川町長をつとめ、鉱山の同盟罷業の調停に当たった。教育界でも活躍し、明治十二年には折柴校の教員となり、同十八年同校校長、同三十六年相川尋常高等小学校教員を勤めている。晩年は郷村を転々として漢籍詩文を講じていたが、大正四年五月一日病没した。【関連】佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)・丸岡南陔(まるおかなんがい) 【参考文献】石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2)、岩木拡『相川町誌』、本間周敬『佐渡郷土辞典』 【執筆者】石瀬佳弘(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)
明治の初め、藩閥政治に反対して民主政治を確立しようとした政治運動。明治七年(一八七四)、板垣退助らが民撰議院設立建白書を政府へ提出したのを契機に、国会開設運動が全国に広がり、明治十三年十一月、東京で国会期成同盟第二回大会を開催する計画を進めていた。佐渡でもこの動きに呼応して、明治十三年四月五日新潟で開かれた「第一回国会開設懇望協議会」に、夷町の若林玄益と湊町の神原清典が出席し、加茂郡を中心に運動を進めて四七名の署名を集め、懇望協議会の代表山際七司にこれを託した。同年六月頃になると、竹田村(現真野町竹田)の羽生郁次郎や相川町の丸岡重五郎らを中心に雑太郡でも運動が起こり、十月二十八・二十九の両日、河原田で三郡大親睦会を開き、会長に丸岡重五郎を選出した。この時出京委員に選ばれた羽生郁次郎は、翌十一月二日、二九○名が署名した「国会開設哀願書」を携えて上京した。これに対して、政府は弾圧を強めるいっぽう、十年後に国会を開く約束をした。そこで佐渡の民権家たちは、政談演説会などを中心に運動を行なっていたが、明治二十年頃から自由党系・改進党系の政党を組織し、再び活発な運動を展開した。
【関連】佐渡自由党(さどじゅうとう)・佐渡同好会(さどどうこうかい)・丸岡重五郎(まるおかじゅうごろう)・若林玄益(わかばやしげんえき) 【参考文献】石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八五〇-一九一五)相川で生育、居住。南陔の養子。漢学者。教育者。折柴校々長。政治家。相川町長。南陔の教えを受け、溟北に詩文を学ぶ。田口江村の塾で漢学を学ぶ。明治十三年頃から国会開設運動を始め、十四年に鵜飼郁次郎らと政治結社を作り、政談演説会を開く。十三年、三部連合町村会議員になり、中山新道の開削、官庁移転反対運動に活躍する。晩年は、他町村を転々として漢籍詩文を講ずる。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


「一兵卒の銅像」(「佐渡の百年」)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数31~・59・63・67・69
★丸岡藤作
相川の人、1878-1945 年、2 丁目で丸岡活版所を経営。萩野由之博士の甥。立浪会創立時副会長で2代目会長。多趣味で生花から、踊りも名人芸とされ、三味線、鼓も達者で村田文三等とレコーディングしている。大正10 年頃、金井町中興の眼科医川辺時三が民謡団体「荒浪会」を中興で設立、その機関誌「磯うつ波」が大正14 年に発刊された時丸岡活版所で印刷。川辺とは共に音楽、民謡好きで交流し、川辺の妻が相川から嫁いだこともあり川辺も相川音頭の保存には理解を持ち「源平軍談」を出版。
また風岡藤作に強く働きかけ大正13年に立浪会が創立。12年、民族音楽研究家田辺尚雄が料亭「寿司嘉」に投宿、羽田清次・児玉龍太郎・風岡藤作・曽我真一、丸岡藤作等で歓迎する。翌13年、丸岡と本田は相川町羽田浜の鉱山倉庫跡広場で「相川音頭会」などを催し、立浪会はそれらの会を母体にして創立された。
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丸岡藤作(まるおかとうさく)
【生没】一八七八ー一九四五 印刷業。立浪会副会長。二丁目で丸岡活版所を経営していた。多趣味の人で、生花から三味線も上手、踊りも名人芸とされた。明治四十一年(一九○八)ころ、山之神の東照宮境内を利用して、「相川音頭保存会」ができていた。「立浪会」創立以前のことで、一年ほどで解散したが、この音頭を昔の「御前踊」のように盛んにして、後世に残そうと努力したのが丸岡氏。大正十二年ごろ、金井町中興の眼科医・川辺時三が、民謡団体「荒浪会」を中興で設立していた。その機関誌「磯うつ波」が、佐渡みやげ物研究会から大正十四年七月に発刊されたとき、丸岡活版所で印刷されている。「川辺とは音楽好き、民謡好きで親しく、また川辺の妻が相川から嫁いでいたこともあって、川辺も、相川音頭の保存には理解を持っていた。丸岡から風岡藤作(立浪会初代会長)に、強い働きかけがあって大正十三年の立浪会創立が実現する。これより先、同十二年七月に、民謡研究の全国行脚で来島した田辺尚雄が、料亭「寿司嘉」に投宿した。集まった中に「羽田清次・児玉龍太郎・風岡藤作・曽我真一、そして丸岡藤作がいた」(本田虎次郎「創立当時の追憶」から)。翌十三年に、丸岡と本田は、相川町羽田浜の鉱山倉庫跡広場で「相川音頭会」などを催している。立浪会はそうした会を母体にして創立されるのである。本田は『立浪会史』の編集者として、功績を残した。
【関連】立浪会史(たつなみかいし) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・元々の家は海産物関係業者で、佐渡新聞記者となり丸岡印刷を興した。立浪会創立に尽力した。沢根青野家とつながる家であり、萩野由之の妻は丸岡家の出。萩野由之旧宅を丸岡家が購入し、現在は丸岡家子孫が住む。
★丸岡南陔(まるおかなんがい 総四郎)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八二三ー八六 家は代々相川町下戸の里正を勤めて官倉の金庫を管理し、醤油の醸造業を営んでいた。南 は号で名は成章、幼名を伝蔵と言い、のち総四郎と名乗った。父親は総兵衛(南濤)と言い、その長男として生まれ、一八歳の時に父親が退隠して家督を継いだ。江戸の昌平黌で学んだ藤木実斎の教えを受け、天野孫太郎らと共に誌社を結成した。弘化二年(一八四五)に来島した江戸の漢学者田口江村にも学び、安政三年(一八五六)には江戸に上って教えを受け、慶応三年(一八六七)九月に修教館教授となった。慶応四年、新政府が佐渡に裁判所を置くと聞くや、中山修輔は広間役岩間郁蔵らを京都に派遣してこれを阻止しようとしたが、南亥(正しくは”こざと”偏)は顧問として同行して「戊辰西上録」を残している。この時の功により平日の帯刀を許され、学問所教授方手伝を申付けられた。維新後は漢学局に出仕、相川県では学区取締兼教師となって、相川小学校の設立に努め、明治十一年十二月には、郡役所を相川に置くよう県に陳情している。同十四年には公立相川中学校学務委員、同十七年には新穂に移った公立中学佐渡黌の教諭となったが、同十九年一月八日、六三歳で没した。【関連】藤木実斎(ふじきじっさい)・佐渡裁判所(さどさいばんしょ)・丸岡重五郎(まるおかじゅうごろう) 【参考文献】岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『戊辰西上録』(舟崎文庫) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡相川折戸町の人で、代々坊長と官庫出納掾を兼ね醤油醸造業である。南陔は号で、名は成章、字を子燠といい、通称は伝蔵、後に総兵衛と改め、晩年に総四郎といった。父は正方、総兵衛といい、晩年に怡斎と改め、南濤と号した。春木南湖に学んで画をよくした。南陔はその長男である。藤木実斎に学び詩で名高かった。しかし一方家業に熱心であった。慶応三年(一八六七年)九月に、修教館教授となり、士となった。明治維新には佐渡も混乱したので太政官にその対策を願い出た。明治三年相川県漢学校教頭に、七年八月雑太郡学務監督兼教師に、十七年には佐渡中学校教諭になった。十九年一月に六十二才でなくなった。(近世越佐人物伝、佐島遺事、佐渡人物誌、佐渡人名辞書)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
下戸炭屋町14番地。同裏町12番地(現市川都屋宅地、桜沢家倉庫、村上家宅地)。(一八二三-一八八六)漢学者。教育者。修教館教授。藤木実斎に学ぶ。詩文を萩野由之、小崎藍川、丸岡重五郎などに教える。維新の際、佐渡の従来の政治のあり方を維持する建議書を執筆する。また、奥平謙輔が獅子ケ城祉に移した治府を相川に復旧させる激しい運動を行う。明治十二年の郡役所移転運動に対しても、存置派の代表として、移転の不可を知事に訴えた。(出生、生育、居住)下戸炭屋町十四番地・同裏町十二番地(現市川都家宅地、桜沢家倉庫、村上家宅地)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1825-1886 幕末-明治時代の漢詩人。 文政8年生まれ。生家は佐渡(新潟県)相川(あいかわ)の商家。詩を藤木実斎にまなぶ。慶応3年奉行所所属の修教館教授となり,維新後は相川県漢学校教頭,佐渡学校教諭などをつとめた。明治19年1月8日死去。62歳。名は成章。字(あざな)は子煥。通称は伝蔵,総四郎。
・家業は醤油製造
・丸岡南がい家(醤油製造)の場所に佐渡新聞が出来た。
・丸岡家の真ん前が萩野由之博士の生家で、後に丸岡南がい家とは別の丸岡家が住んだ。丸岡家と萩野家は親戚。この丸岡家は丸岡印刷を興し、大正14年の地図には相川2丁目(いずも屋隣)にあり、当主丸岡藤作は立浪会創立に関わり、二代目会長となった。藤作は萩野由之博士の甥である。
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)




『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文政六年生 相川町下戸 ・大1、山本藤右衛門死亡[三年十月八日] 「佐渡関係事典に載る」
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

「戦禍を防いだ組頭」(「佐渡の百年」)
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★丸岡南濤(なんとう)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人、南陔の父である。名は政方、通称を総兵衛、晩年に怡斎と改め南濤と号した。春木南湖について画を学び兼ねて盆画に巧であった。万延元年(一八六〇年)八月に六十六才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★丸畑豊(まるはたゆたか)
洋画家、1930年(昭和5年)生れ、羽茂の北嶋吾二平に学ぶ。
★丸家留次郎
外海府村村長 岩谷口

★丸家良蔵
相川外海府村助役。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

外海府村村長 岩谷口

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十二年 外海府村岩谷口 ・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]
★丸山昭夫
首都圏真野人会2代目会長(平成14年~平成21年)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「16号」(平成21年1月)私と囲碁と佐渡(丸山昭夫 真野町出身)「36号」(平成26年1月)海府の海(丸山昭夫)
「島の新聞」索引(人名別)
★丸山清子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「65号」(令和3年4月)・赤泊・今城家の由来について(丸山清子)
★丸山健太

プロジェクションマッピングで日本を代表する。
金井新保出身の画家桑原義泰の孫(長女康子の子)。
企業HP http://www.solu-mediage.com 所在地〒950-0905 新潟県新潟市中央区天神尾1-2-27 設立 2005年03月01日 創業 2003年10月01日 資本金300万円 従業員数 5~10人未満
・業種Webサイト制作 ・キーワード 映像制作 / Web制作 / アプリケーション開発 ・会社商品 PR 新時代のクリエイションに一貫して取り組むスペシャリスト集団です。
・私達の社名「ソルメディエージ」は、
SOLUTION(解明)+ MEDIA(媒体)+ AGE(時代)の3つのキーワードからなる造語です。多様化し淘汰され、なお発展し日々新しい可能性が生まれる「メディア」。その舞台で、皆様が新しい可能性を手にするサポートをする集団。皆様のパートナーとして共に目的を達成していく集団。それが「ソルメディエージ」という社名に込められた意味であり、弊社の礎となる想いです。我々、ソルメディエージは、新潟を拠点に、日本全国、世界各地のクライアントと共に新しい価値観と求める結果を生み出すために日々挑戦を続けております。「皆様が伝えたいもの」を「皆様が伝えたいひと」に確かにお届けする。グラフィック、映像、ウェブと、境界が薄れ新しい価値を持ちはじめた情報社会。様々な提案と創造を提供し、末永くお付き合いの出来る最高のパートナーを目指します。弊社は、プロデューサー、ディレクターをはじめ、プランナー、デザイナー、プログラマーと様々なスペシャリストが常駐しております。社内一貫の制作体制により「広い視点、とらわれない発想」と「コンパクトでスピーディーなオペレーション」による効果の最大化を実現しています。また、制作のみにとどまらず、最大限の結果を追求するためのプランニングとサポートを提供できるのも弊社の強みです。
(事業内容)弊社は、デザイン業務を主軸に、WEBコンテンツ制作、映像制作、グラフィックデザイン、ブランディング、また最新技術を利用したデジタルサイネージや、プロジェクションマッピング、空間演出と多岐に展開しております。現代社会は、グラフィック、映像、ウェブと、境界が薄れ新しい価値を持ちはじめた情報社会。それぞれの特性を理解し、お客様に合わせプランニング、構築する、アイデアと技術が必要となります。弊社はそれぞれの分野においてスペシャリストを常駐し、制作だけに留まらない一貫した体制でお客様のサポートを行っております。
特徴的な制度/社風
弊社は「アイデア」と「発想」を重視しており、社内は自由なスタイルで運営してます。・今後の事業展開/・ビジョン 弊社のサービスは人種や国を問わず実感出来る商品が多いため、世界の皆様が「素晴らしい」と言って頂けるよう日本を代表するサービスやデザインを世界に投下していきます。
★円山鈴子
「躍進日本」

1945 - 2007。両津出身の歌手、俳優、本名は 阿部 静子(アベ シズコ)。美空ひばりの弟加藤哲也(歌手名 小野透)と結婚し後離婚。実子は加藤和也で夫の姉美空ひばりの養子となり、現在「ひばりプロダクション」社長。その後、円山理映子の名で映画「すべ公番長 ざんげの値打ちもない」「華麗なる追跡」などに出演。“地上げの帝王”と呼ばれた早坂太吉と結婚して話題を呼んだが離婚した。没年月日、平成19年2月24日 (2007年)。
「金井泉の住人談」
・円山鈴子の父は曽我正平(大正9年生:「佐渡人名録」にあり)で娘が円山鈴子だと生前語っていた。70歳代で没。河原田奥三屋に婿入りした弟渡辺賢一は河原田の入江座を経営しており、泉の人はよくそこへ行った。鈴子の父が満州で亡くなったとあるが間違いではないか。
・金井奥三屋(洋品・化粧品店)は親戚であるが関係は不明。
・令和4年現在、正平の妻は健在であり、二人の間には三人の子供(すべて女性)が居り、家を継いだひで子さん(小学校教諭)は高校教諭の婿を取り、40代?で亡くなった。鈴子は前妻の子ではないか。
「河原田の住人談」
・円山鈴子の父の弟は本町で奥三屋洋品店を経営しており渡辺苗字だった。時々鈴子さんが遊びに来ていた。
★丸山遜卿(学古)(まるやまそんきょう)
【生没】一七七六ー一八三七 江戸時代の儒学者。出羽(秋田県)鶴岡藩士であったが、若くして江戸に出て、亀田鵬斎に学ぶ。のち諸国を遊歴して、文化三年(一八○六)、夷町(両津市)に居住し、医を業とする。本名は丸山敏、字は遜卿・三平と称し、蒲盧窩または学古堂と号し、学古塾を開くかたわら、自ら経学・史学を究める。文政十年(一八二七)、佐渡奉行泉本正助が、奉行所内に学塾修教館を創設した時に、御雇儒者として召し出される。夷より一か月二○日出勤し、一○日は休日としたと言われる。手当て、一か年二○両。天保八年八月、六二歳にて死去。両津市湊の妙法寺に葬る。著書に『蒲盧窩遺稿』二巻がある。なお、夷町の小池氏を妻としたが、甥を養子とする。すなわち丸山溟北のち圓山と改めるが、幕末から明治時代にかけて、生涯を佐渡の教育にかけた人物である。【関連】修教館(しゅうきょうかん)・圓山溟北(まるやまめいほく) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、山本修之助『佐渡の百年』、山本静古『佐渡碑文集』 【執筆者】山本修巳
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
両津市湊の人で、円山溟北の養父である。学古は通称を三平、名は敏または、学古といい蒲盧窩と号した。遜卿または子行は字である。円山氏の祖先は房躬といい、出羽の人で、代々庄内藩につかえていた。学古は庄内を出て、諸国に遊学し佐渡に釆て、両津の風景のすぐれているのにひかれ、こゝに住んだ。妻は小池家の生まれで湊に釆てから結婿した。学古は史学にすぐれていて、土地の人びとの教えを受ける者が多かった。文政七年(一八二四年)に佐渡奉行泉本正助が、佐渡にはじめて学校をたて修教館といった。奉行の役人田中葵園(その項を見よ)も修教館の教授であったが、その推薦で学古も教授となった。天保八年八月に六十二才でなくなった。(近世越佐人物伝、新潟県史、佐渡人物志)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)丸山遜卿
83 溟北と学古 倉田藤五郎
106 学古塾の面影 倉田藤五郎
諸情報
→円山溟北
★円山貞吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大1、渡部七十郎縣会議員を争はんとす[四年九月二十五日]
★丸山千代
「躍進日本」

★丸山久子


未来社が経営難の時、「民話シリーズ」で持ち直したと言われる。このシリーズを応援したのが宮本常一で、これが二人がつながるきっかけとなった。民話ブームは柳田国男の弟子である丸山久子が昭和29年10月に畑野町でテープレコーダーで岩井キサさん(1847年頃の生まれ)の話を録音し、それを語り口調のまま書き起こし『佐渡国中の昔ばなし』として出版したのが始めと言われている。
※このテープレコーダーは柳田国男が寄贈したもの。国産第一号で、ソニーの前身東京通信工業製。その後、本間雅彦氏が保管し、現在は池田哲夫(新潟大名誉教授)の手元にある。(令和3年6月現在)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)丸山久子
2 背負籠にの歌仙 26 特集 句集「海見ゆる坂」月を打つ鬼太鼓の句 47 佐渡わらべ唄考 51 丸山久子さんを悼む 山本修之助
★丸山正明

フェイスブック「ようこそ、旅の人!佐渡を千倍愉しむっちゃ」2017年11月29日 ·
佐渡島の北西、外海府の北端に位置する岩谷口集落で、かつて子供の頃に食べていた米飴を「オーガニック米飴」として現代に蘇らせようと、丁寧に製造開発している人がいます。自然食品である米飴の原料は、発芽玄米と有機麦芽、それに地元の有名な名水のみ。安全安心な水飴を提供するために、原料はいずれも有機JASの認証品で、自らも有機JAS加工業者の認定を受けています。米飴は、キレの良い後味と優しい甘みが特徴で、糖度は78%〜80%。様々な効能から多くの健康効果が期待でき、料理にも蜂蜜やメープルシロップなどに引けをとらなく、使い勝手の良い米飴といえます。 この11月からボトルデザインも一新。そして価格もお求めやすいレベルを考慮して、販売に力を入れています。 私的には、豚肉との相性が良いし、皮の付いたままの大根を厚さ1cmの輪切り5、6枚用意して、米飴をかけて3〜5時間後に出てきた汁を飲むと咳止めに効果がある、というのにも期待しています。
商品名、税込価格等は以下のとおり。
・赤ちゃんのさとう135グラム入り 630円。・佐渡島民のアイスそうす190グラム入り 740円・佐渡米飴なっつ135グラム入り(有機ナッツが目一杯入ってとてもお買い得だと思います)940円・佐渡島民の有機アイスそうす190グラム入り920円・新発売の米飴黒にんにく 135グラム入り 1,800円(大好評でまとめ買いが多いようです)
送料は基本620円で、詳細は岩谷口村発酵 代表 丸山正明 さん 電話/0259-78-2325まで。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・岩屋口村発酵の有機古代紫米飴(伊藤俊二)※丸山正昭
「島の新聞」索引(人名別)
★圓山溟北(まるやまめいほく)
【生没】一八一八ー九二 江戸亀田綾瀬(りょうらい)門の儒家。幕末・明治前期の佐渡の文教をつかさどる。溟北は文政元年五月五日、両津市夷小池長佐の長男として生まれた。のち、夷に住む儒家丸山遜卿に、長佐の妹が嫁したが子供がなく、遜卿の養子となる。溟北の姓は「丸山」であったが、明治十七年(一八八四)「日野資朝」の碑の撰文をしたとき「圓山」と書き、それを明治天皇がご覧になられたことから、感激して戸籍も「圓山」に改めた。子供のときは通称三蔵と呼び、のち三平。名は葆、字は子光。溟北と号す。溟北は一○歳のとき、養父遜郷が佐渡奉行所内の学問所儒者になったので、伴われて相川に出て勉強した。一八歳の時、江戸に出て佐藤一斎の塾に入ったが、二○歳の時養父の死去で一時帰国し、翌年亀田鵬斎の養子綾瀬の門に入り、翌年二三歳の十一月、塾頭になって大名や旗本の屋敷で代講するようになった。そして、下野国(栃木県)の壬生藩主に俸米百俵で招かれたが、母の反対によって断わり、養父の後継者として帰島し、夷町で父の学古塾を再興し、一方医業に従事した。三八歳のとき、養父遜卿と同じく学問所の儒者となり、苗字帯刀を許され、以後相川町に永住した。明治九年相川県が廃止されるまで二二年間勤務した。また、明治十五年から十七年まで三年間、新穂村の三郡公立中学佐渡黌に教えた以外は、相川において学古塾を開いて佐渡の多くの子弟を育てた。明治二十五年五月三十一日、七四歳で死去。墓は相川町山之神にある。著書は多数あるが、『溟北文稿』三巻と『大学夷考並門答附録』一巻が活字本となっている。
「佐渡ふるさと百科」

(名前の読み方)
名前の「葆」は「ほ」「しげる」の他に永田俊一氏は著書に「つつむ」とルビをふっている。
山本修巳先生は「ほ」とルビをふられ、その理由を次のように述べる。
祖父半蔵(静古)は溟北門下生で、風呂で先生の背中を流すような仲であり、いつも先生のことを「ほ」と読んでいた。(山本修之助→山本修巳) 勿論、だからと言ってそれが単に先生の愛称だったかも知れないが。
又、北海道に渡った溟北の次孫貞吉は自分の子供達に「学古」「三平」等祖父ゆかりの名前を付け、次男には「葆二(しげじ)」とつけている。これは祖父溟北の本名が「葆(しげる)」だったことを示しているのかも知れない。
円山溟北旧居跡

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

「島の新聞」35号(by 松本秀雄)


『溟北先生時代日記』(永田俊一署)より(小説であるがかなり史実を踏まえていると思われる)
鶴岡の藩士であった父は志を抱き江戸へ出て亀田鵬斎に学び、諸国を遊歴、その途次訪れた佐渡夷の加茂湖周辺の景勝の地をこよなく愛し永住の地と定め、佐渡の学問・教育に貢献した。しかし、佐渡から一度も離れることなく、その故郷に帰ることもなかった。弟妹を残し故郷を捨てたような形になつてしまったことに、心の重荷があったことは否めない。国許の無事を問うようにとの宿題を私に遺し父は逝った。佐渡に住まうことになった父学古に私の叔母が嫁ぎ、叔母の実家の兄小池長佐の子である私が養子としてその丸山家に入ることになった。
※小池家は「夷で魚を商っていた小池家」と出てくる。従って私は鶴岡も知らないし、父の縁戚の人々のことも知らない。亡くなる前に聞いていたことは、父が去った後、弟と妹一人は他家に入り、丸山家は同藩の男子が婿で入り継いでいるということであった。音信も殆どなく、一人の妹からの便りでそのような状況を認識していたようであった。父は亀田鵬斎塾で修業していたわけだが、松平正信様が実権を握ると、寛政異学の禁が発せられ栄子学が国学となり、折衷派であった亀田鵬斎は「異学の五鬼」の一人とされ、千人を超えた弟子はみるみる減少・四散した。禁の趣旨は昌平坂学問所等幕府教育機関での朱子学以外の教育を禁じたものであるが、藩校も含めそれに倣うところとなり、異学塾が成り立ち難くなった。鵬斎塾自体が閉ぎされるのは数年後になるが、父の全国遊歴漂泊はそのことと無縁ではないと思われる。私自身も亀田綾瀬塾塾頭から中央で活動する所期の志を折り帰郷、修教館儒者までの長い苦労の道程を思うと、父の遊歴漂泊の思いに心中共振するものがあった。
・・・・・・
父が亡くなつて既に二十五年余になるが、その間鶴岡とは音信なきままになつており、何処まで尋ね当てられ何処まで状況が分かるのだろうか、とても心配なことではあった。この年は、季節と暦を五年に二度歴月日を付加し調整する閏に当たっており、旅は八月八日から閏八月二十五日に及んだ。夷の妙法寺に父の菩提を訪(とぶら)い、天候待ち三日の後、磯部・佐野の二門人と共に舟に乗り込み、粟島を経由して十五日に温海に到着。山間部に入り清水舎なる温泉宿に投宿。温海は名の通り大変熱い湯で、浴槽に浸ったり槽辺に座したりして湯治に努め、湯を上がると好きな碁を打ち、晴れれば門人と近隣の社寺や渓谷や魚市場を訪れたりして日を過ごした。そして突然藩主湯治の報を受け退去を求められたので予定を早めた。閏八月一日の早朝宿を発ち、鳥海・湯殿の山を眺めつつ徒歩と馬で夕方鶴岡に投宿した。翌二日、宗家を訪ねようとしたが、何分にも長い間の状況も分からず、先ず父から聞いた上の妹が嫁いだ池田家を訪ねた。その子池田貞助も既に亡くなり、孫の総二が、貞助の弟山口与八郎も呼び接遇してくれ、語り合うことが出来た。聞いた話は予想外のものであった。父の弟宋実(甚五)は萩原氏を継ぎ、上の妹はこの池田氏に嫁し、宗家は同藩の男子寿作を下の妹の婿に迎え丸山を継がせたが、天保年間に不始末があり途絶えてしまったというものである。萩原家で今はひっそりと丸山家の祀を伝えているが、宗家を失った彼等の悵恨(ちょうこん:歎き恨むこと)の思いを聞いて私も茫然自失、言葉も見つからぬまま、明日を約して辞去した。 翌日、総二の案内で郊外の青竜寺村に萩原家を訪ねた。立派な構えの家であった。既に叔父の宋実は亡くなり、その孫常師の代になっていた。彼が言うには、「祖父は兄が国を去り音沙汰のないことを日ごと欺き、聞くところでは佐渡にあって顕用されているとのことだが、その真偽の程も確認出来ない、と言いつつ亡くなった。今あなたからの話を祖父共々絶えた家祖一党の人々が聞いたら何と思われることだろう」と。その悲嘆を思い相共に玄(サンズイ+玄)然とし涙を流した。 その夜は萩原家に逗留、家挙げての歓待を受けた。翌日常師が宿まで送ってくれ、待っていた与八郎・総二共々また語り合い夕餉を共にし、記念にと私の書を夫々手にして別れを告げて帰っていった。閏八月四日であった。
【関連】学古塾(がっこじゅく)・丸山遜卿(まるやまそんきょう) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、山本修之助『佐渡の百年』、倉田藤五郎『師恩友益』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・」妻沢子は藤沢明卿幼女、長女繁子、長男は生後間もなく没、三男も夭折、次男は「聿」(のぶる)。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)円山溟北
25 田中葵園と円山溟北 山本修巳 29 円山溟北門人録 附、円山溟北略年譜 山本修之助 29 溟北の遺族について 山本修之助 46 連載 閑々亭雑記 (5) 松本良順から溟北の病状につき凌海宛書簡 山本修之助 56 連載 閑々亭雑記 (15) 新発田収蔵送別の溟北の詩 山本修之助 83 溟北と学古 倉田藤五郎 84 溟北覚え書き -その人物評論-(上) 倉田藤五郎 85 溟北覚え書き -その人物評論-(下) 倉田藤五郎 86 円山溟北の遺文集 倉田藤五郎 89 <資料> 溟北圓山先生養老金額人名表 89 荏川文庫円山溟北資料 -書簡より- 倉田藤五郎 91 溟北覚え書き (4) -萩野由之への手紙- 倉田藤五郎 93 溟北覚え書き (5) -柴田収蔵を送る誌をめぐって- 倉田藤五郎 97 溟北覚え書き (6) -萩野由之の返信- 倉田藤五郎
98 溟北覚え書き (7) -「梅雨亭ノ記」四篇ほか- 倉田藤五郎 103 溟北覚え書き (8) -「我為我堂記」の軸- 倉田藤五郎
106 学古塾の面影 倉田藤五郎 106 資朝卿の遺跡の標柱と円山溟北門下国会議員 山本修巳 132 倉田藤五郎先生書簡(圓山溟北の書解説) 中川 哲昌 137 第四回學古塾同窓会 山本修巳 153 谷守翁壽藏銘: 原文 円山溟北 釈文 本間昭雄
153 円山溟北と近代佐渡の教育ー修教館から佐渡中学校まで―山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」(両津港物語)
山水と人物(※佐渡の人物 田中葵園と圓山溟北 横山健堂著 大正4)
芸苑一夕話. 上(※円山溟北 市島春城著 大正11)
大学夷考(円山溟北 (葆)著 出版者 美濃部楨 明36)
溟北文稿(円山葆著 出版 円山聿 明22)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数22・24
『溟北文稿』 - 国立国会図書館デジタルコレクション 『大学夷考』 - 国立国会図書館デジタルコレクション 『溟北圓山先生年譜』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
諸情報
★丸山裕三郎
県立佐渡女子高等学校20代目校長(昭和60.4.1~63.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★万吉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川下戸炭屋町の人である。孝心奇特の理由で享和元年(一八〇-年)に役所へ呼出され、鳥目七貫文を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★万五郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川大工町五兵衛の倅である。親に孝養を尽くしたので、文政元年(一八一八年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★万歳由道(まんざいよしみち)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
代々佐渡州吏で通称は庄之助、字は子行、東所と号した。森田節斎、宮原節庵に学び、節斎はその文の雅健を賞した。豪胆不羈、事にあたって恐れず嘉永のはじめ(元年は一八四八年)日附役となり奉行内藤忠辰に重用された。そのころ幕府は海防船君沢型一隻を佐渡に備える案があった。君沢型は船型のことで安政元年(一八五四年)十一月、伊豆国君沢郡戸田港で破壊したロシヤの船と同型の船を二隻新造してこの名がある。奉行は由道に回航させた。途中能登近海で暴風雨にあい千の浦に避難しあやまって海中に落ち溺死した。奉行はこれを深く悼惜し、幕府は十金を下賜し、家格を譜代に進めた。安政(十二年とあるは誤り)のころであり四十才であった。(佐渡人名辞書)
★万徳院家尚深法印
羽茂上町万徳院の人、連歌関係者。→下記資料のp697
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★萬年巌
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)萬年巌 100 私の見た佐渡
★萬明
真野竹田 やせが平にあり 大運寺

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川町長坂町 ・明2、小崎懋の政治演説会[二十年九月三十日]
★松山管子(弘響)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★松山善三
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)松山善三 142 松山善三さん死去 山本修巳
★松山隆弘

★松山隆典

★真子猛

★摩尼久晴(まにひさはる)
昭和44年春、新潟日報「歌壇賞」。
★摩尼義晴(まによしはる)



佐和田二宮出身、昭和30年佐渡高校卒、京大卒。昭和34年第一勧銀入行、代表取締役副頭取。首都圏佐渡連合会二代会長、首都圏佐和田会3代会長(平成14年~平成20年)。
「島の新聞」索引(人名別)
★真乃史優→金丸千津江
★真野湾太郎→高野間蔵
★間淵ヤス(すず子)
北一輝の妻。
「北一輝論」(不可視の恋・恋愛と革命について 昭和47年 松本健一)
https://drive.google.com/file/d/1i7LpB-PsZGKM_p22UxQIrSAA7EgUIcjq/view?usp=sharing
★馬堀喜孝

★間宮次郎
「島の新聞」索引(人名別)
★間宮新左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、慶長十八年(一六一三年)より十九年まで在任した。道忠またほ直元ともいう。知行は千石、十九年十二月十五日、大阪でなくなった。(佐島過事)
★魔夜峰央(まやみねお)




漫画家、両親が赤泊出身。父は赤泊上町で小山苗字、母の実家は延命院(本間苗字 真言宗)。本名山田峰央(妻であるバレーダンサー山田芳美の姓か?)。1953年3月4日 -)。新潟県新潟市(現在の中央区)出身。昭和54年から連載した『パタリロ!』で有名に。現在も連載中の73巻目『パタリロ』説明・小銭大好きの国王パタリロとその周囲が織りなすスーパー痛快ギャグ漫画。別冊花とゆめに現在連載中。舞台のマリネラ王国の形はなぜか佐渡ヶ島。そして、パタリロ愛用の運送業者はなぜか『中越通運』、他に18もの作品がある。
【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第11話:『パタリロ!』魔夜峰央とブリの握り
諸情報
「ウイキペディア」より
★丸岡重五郎(まるおかじゅうごろう)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八五○ー一九一五 嘉永三年、山田晩登の五男として生まれる。幼名を成徳、南畝と号した。幼年の頃丸岡南陔の養子となり、養父から教育を受けるいっぽう、圓山溟北に詩文を学んだ。のち江戸に出て、田口江村の塾に入り漢学を学び、帰って川島篤太郎らと詩社を結成した。その後再び上京して津田仙の学農社に入り、帰って牧畜業を始めたが失敗した。明治十三年(一八八○)六月頃より国会開設運動を始め、同年十月には佐渡親睦会を組織して本部長となり、同月二十八・二十九日に開催された三郡大親睦会では、会長に選ばれた。翌十四年八月には、鵜飼郁次郎らと政治結社「輔仁社」を結成し、盛んに政談演説会を開催している。また明治十三年五月には、三郡連合町村会議員となり、中山新道の開削や、官庁移転反対、興産補助金の交付に活動した。明治二十六年から三十五年にかけては相川町長をつとめ、鉱山の同盟罷業の調停に当たった。教育界でも活躍し、明治十二年には折柴校の教員となり、同十八年同校校長、同三十六年相川尋常高等小学校教員を勤めている。晩年は郷村を転々として漢籍詩文を講じていたが、大正四年五月一日病没した。【関連】佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)・丸岡南陔(まるおかなんがい) 【参考文献】石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2)、岩木拡『相川町誌』、本間周敬『佐渡郷土辞典』 【執筆者】石瀬佳弘(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)
明治の初め、藩閥政治に反対して民主政治を確立しようとした政治運動。明治七年(一八七四)、板垣退助らが民撰議院設立建白書を政府へ提出したのを契機に、国会開設運動が全国に広がり、明治十三年十一月、東京で国会期成同盟第二回大会を開催する計画を進めていた。佐渡でもこの動きに呼応して、明治十三年四月五日新潟で開かれた「第一回国会開設懇望協議会」に、夷町の若林玄益と湊町の神原清典が出席し、加茂郡を中心に運動を進めて四七名の署名を集め、懇望協議会の代表山際七司にこれを託した。同年六月頃になると、竹田村(現真野町竹田)の羽生郁次郎や相川町の丸岡重五郎らを中心に雑太郡でも運動が起こり、十月二十八・二十九の両日、河原田で三郡大親睦会を開き、会長に丸岡重五郎を選出した。この時出京委員に選ばれた羽生郁次郎は、翌十一月二日、二九○名が署名した「国会開設哀願書」を携えて上京した。これに対して、政府は弾圧を強めるいっぽう、十年後に国会を開く約束をした。そこで佐渡の民権家たちは、政談演説会などを中心に運動を行なっていたが、明治二十年頃から自由党系・改進党系の政党を組織し、再び活発な運動を展開した。
【関連】佐渡自由党(さどじゅうとう)・佐渡同好会(さどどうこうかい)・丸岡重五郎(まるおかじゅうごろう)・若林玄益(わかばやしげんえき) 【参考文献】石瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『近代史研究』2) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八五〇-一九一五)相川で生育、居住。南陔の養子。漢学者。教育者。折柴校々長。政治家。相川町長。南陔の教えを受け、溟北に詩文を学ぶ。田口江村の塾で漢学を学ぶ。明治十三年頃から国会開設運動を始め、十四年に鵜飼郁次郎らと政治結社を作り、政談演説会を開く。十三年、三部連合町村会議員になり、中山新道の開削、官庁移転反対運動に活躍する。晩年は、他町村を転々として漢籍詩文を講ずる。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


「一兵卒の銅像」(「佐渡の百年」)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数31~・59・63・67・69
★丸岡藤作
相川の人、1878-1945 年、2 丁目で丸岡活版所を経営。萩野由之博士の甥。立浪会創立時副会長で2代目会長。多趣味で生花から、踊りも名人芸とされ、三味線、鼓も達者で村田文三等とレコーディングしている。大正10 年頃、金井町中興の眼科医川辺時三が民謡団体「荒浪会」を中興で設立、その機関誌「磯うつ波」が大正14 年に発刊された時丸岡活版所で印刷。川辺とは共に音楽、民謡好きで交流し、川辺の妻が相川から嫁いだこともあり川辺も相川音頭の保存には理解を持ち「源平軍談」を出版。
また風岡藤作に強く働きかけ大正13年に立浪会が創立。12年、民族音楽研究家田辺尚雄が料亭「寿司嘉」に投宿、羽田清次・児玉龍太郎・風岡藤作・曽我真一、丸岡藤作等で歓迎する。翌13年、丸岡と本田は相川町羽田浜の鉱山倉庫跡広場で「相川音頭会」などを催し、立浪会はそれらの会を母体にして創立された。
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丸岡藤作(まるおかとうさく)
【生没】一八七八ー一九四五 印刷業。立浪会副会長。二丁目で丸岡活版所を経営していた。多趣味の人で、生花から三味線も上手、踊りも名人芸とされた。明治四十一年(一九○八)ころ、山之神の東照宮境内を利用して、「相川音頭保存会」ができていた。「立浪会」創立以前のことで、一年ほどで解散したが、この音頭を昔の「御前踊」のように盛んにして、後世に残そうと努力したのが丸岡氏。大正十二年ごろ、金井町中興の眼科医・川辺時三が、民謡団体「荒浪会」を中興で設立していた。その機関誌「磯うつ波」が、佐渡みやげ物研究会から大正十四年七月に発刊されたとき、丸岡活版所で印刷されている。「川辺とは音楽好き、民謡好きで親しく、また川辺の妻が相川から嫁いでいたこともあって、川辺も、相川音頭の保存には理解を持っていた。丸岡から風岡藤作(立浪会初代会長)に、強い働きかけがあって大正十三年の立浪会創立が実現する。これより先、同十二年七月に、民謡研究の全国行脚で来島した田辺尚雄が、料亭「寿司嘉」に投宿した。集まった中に「羽田清次・児玉龍太郎・風岡藤作・曽我真一、そして丸岡藤作がいた」(本田虎次郎「創立当時の追憶」から)。翌十三年に、丸岡と本田は、相川町羽田浜の鉱山倉庫跡広場で「相川音頭会」などを催している。立浪会はそうした会を母体にして創立されるのである。本田は『立浪会史』の編集者として、功績を残した。
【関連】立浪会史(たつなみかいし) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・元々の家は海産物関係業者で、佐渡新聞記者となり丸岡印刷を興した。立浪会創立に尽力した。沢根青野家とつながる家であり、萩野由之の妻は丸岡家の出。萩野由之旧宅を丸岡家が購入し、現在は丸岡家子孫が住む。
★丸岡南陔(まるおかなんがい 総四郎)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八二三ー八六 家は代々相川町下戸の里正を勤めて官倉の金庫を管理し、醤油の醸造業を営んでいた。南 は号で名は成章、幼名を伝蔵と言い、のち総四郎と名乗った。父親は総兵衛(南濤)と言い、その長男として生まれ、一八歳の時に父親が退隠して家督を継いだ。江戸の昌平黌で学んだ藤木実斎の教えを受け、天野孫太郎らと共に誌社を結成した。弘化二年(一八四五)に来島した江戸の漢学者田口江村にも学び、安政三年(一八五六)には江戸に上って教えを受け、慶応三年(一八六七)九月に修教館教授となった。慶応四年、新政府が佐渡に裁判所を置くと聞くや、中山修輔は広間役岩間郁蔵らを京都に派遣してこれを阻止しようとしたが、南亥(正しくは”こざと”偏)は顧問として同行して「戊辰西上録」を残している。この時の功により平日の帯刀を許され、学問所教授方手伝を申付けられた。維新後は漢学局に出仕、相川県では学区取締兼教師となって、相川小学校の設立に努め、明治十一年十二月には、郡役所を相川に置くよう県に陳情している。同十四年には公立相川中学校学務委員、同十七年には新穂に移った公立中学佐渡黌の教諭となったが、同十九年一月八日、六三歳で没した。【関連】藤木実斎(ふじきじっさい)・佐渡裁判所(さどさいばんしょ)・丸岡重五郎(まるおかじゅうごろう) 【参考文献】岩木拡『相川町誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『戊辰西上録』(舟崎文庫) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡相川折戸町の人で、代々坊長と官庫出納掾を兼ね醤油醸造業である。南陔は号で、名は成章、字を子燠といい、通称は伝蔵、後に総兵衛と改め、晩年に総四郎といった。父は正方、総兵衛といい、晩年に怡斎と改め、南濤と号した。春木南湖に学んで画をよくした。南陔はその長男である。藤木実斎に学び詩で名高かった。しかし一方家業に熱心であった。慶応三年(一八六七年)九月に、修教館教授となり、士となった。明治維新には佐渡も混乱したので太政官にその対策を願い出た。明治三年相川県漢学校教頭に、七年八月雑太郡学務監督兼教師に、十七年には佐渡中学校教諭になった。十九年一月に六十二才でなくなった。(近世越佐人物伝、佐島遺事、佐渡人物誌、佐渡人名辞書)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
下戸炭屋町14番地。同裏町12番地(現市川都屋宅地、桜沢家倉庫、村上家宅地)。(一八二三-一八八六)漢学者。教育者。修教館教授。藤木実斎に学ぶ。詩文を萩野由之、小崎藍川、丸岡重五郎などに教える。維新の際、佐渡の従来の政治のあり方を維持する建議書を執筆する。また、奥平謙輔が獅子ケ城祉に移した治府を相川に復旧させる激しい運動を行う。明治十二年の郡役所移転運動に対しても、存置派の代表として、移転の不可を知事に訴えた。(出生、生育、居住)下戸炭屋町十四番地・同裏町十二番地(現市川都家宅地、桜沢家倉庫、村上家宅地)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1825-1886 幕末-明治時代の漢詩人。 文政8年生まれ。生家は佐渡(新潟県)相川(あいかわ)の商家。詩を藤木実斎にまなぶ。慶応3年奉行所所属の修教館教授となり,維新後は相川県漢学校教頭,佐渡学校教諭などをつとめた。明治19年1月8日死去。62歳。名は成章。字(あざな)は子煥。通称は伝蔵,総四郎。
・家業は醤油製造
・丸岡南がい家(醤油製造)の場所に佐渡新聞が出来た。
・丸岡家の真ん前が萩野由之博士の生家で、後に丸岡南がい家とは別の丸岡家が住んだ。丸岡家と萩野家は親戚。この丸岡家は丸岡印刷を興し、大正14年の地図には相川2丁目(いずも屋隣)にあり、当主丸岡藤作は立浪会創立に関わり、二代目会長となった。藤作は萩野由之博士の甥である。
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)




『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文政六年生 相川町下戸 ・大1、山本藤右衛門死亡[三年十月八日] 「佐渡関係事典に載る」
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

「戦禍を防いだ組頭」(「佐渡の百年」)
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★丸岡南濤(なんとう)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人、南陔の父である。名は政方、通称を総兵衛、晩年に怡斎と改め南濤と号した。春木南湖について画を学び兼ねて盆画に巧であった。万延元年(一八六〇年)八月に六十六才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★丸畑豊(まるはたゆたか)
洋画家、1930年(昭和5年)生れ、羽茂の北嶋吾二平に学ぶ。
★丸家留次郎
外海府村村長 岩谷口

★丸家良蔵
相川外海府村助役。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

外海府村村長 岩谷口

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十二年 外海府村岩谷口 ・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]
★丸山昭夫
首都圏真野人会2代目会長(平成14年~平成21年)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「16号」(平成21年1月)私と囲碁と佐渡(丸山昭夫 真野町出身)「36号」(平成26年1月)海府の海(丸山昭夫)
「島の新聞」索引(人名別)
★丸山清子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「65号」(令和3年4月)・赤泊・今城家の由来について(丸山清子)
★丸山健太

プロジェクションマッピングで日本を代表する。
金井新保出身の画家桑原義泰の孫(長女康子の子)。
企業HP http://www.solu-mediage.com 所在地〒950-0905 新潟県新潟市中央区天神尾1-2-27 設立 2005年03月01日 創業 2003年10月01日 資本金300万円 従業員数 5~10人未満
・業種Webサイト制作 ・キーワード 映像制作 / Web制作 / アプリケーション開発 ・会社商品 PR 新時代のクリエイションに一貫して取り組むスペシャリスト集団です。
・私達の社名「ソルメディエージ」は、
SOLUTION(解明)+ MEDIA(媒体)+ AGE(時代)の3つのキーワードからなる造語です。多様化し淘汰され、なお発展し日々新しい可能性が生まれる「メディア」。その舞台で、皆様が新しい可能性を手にするサポートをする集団。皆様のパートナーとして共に目的を達成していく集団。それが「ソルメディエージ」という社名に込められた意味であり、弊社の礎となる想いです。我々、ソルメディエージは、新潟を拠点に、日本全国、世界各地のクライアントと共に新しい価値観と求める結果を生み出すために日々挑戦を続けております。「皆様が伝えたいもの」を「皆様が伝えたいひと」に確かにお届けする。グラフィック、映像、ウェブと、境界が薄れ新しい価値を持ちはじめた情報社会。様々な提案と創造を提供し、末永くお付き合いの出来る最高のパートナーを目指します。弊社は、プロデューサー、ディレクターをはじめ、プランナー、デザイナー、プログラマーと様々なスペシャリストが常駐しております。社内一貫の制作体制により「広い視点、とらわれない発想」と「コンパクトでスピーディーなオペレーション」による効果の最大化を実現しています。また、制作のみにとどまらず、最大限の結果を追求するためのプランニングとサポートを提供できるのも弊社の強みです。
(事業内容)弊社は、デザイン業務を主軸に、WEBコンテンツ制作、映像制作、グラフィックデザイン、ブランディング、また最新技術を利用したデジタルサイネージや、プロジェクションマッピング、空間演出と多岐に展開しております。現代社会は、グラフィック、映像、ウェブと、境界が薄れ新しい価値を持ちはじめた情報社会。それぞれの特性を理解し、お客様に合わせプランニング、構築する、アイデアと技術が必要となります。弊社はそれぞれの分野においてスペシャリストを常駐し、制作だけに留まらない一貫した体制でお客様のサポートを行っております。
特徴的な制度/社風
弊社は「アイデア」と「発想」を重視しており、社内は自由なスタイルで運営してます。・今後の事業展開/・ビジョン 弊社のサービスは人種や国を問わず実感出来る商品が多いため、世界の皆様が「素晴らしい」と言って頂けるよう日本を代表するサービスやデザインを世界に投下していきます。
★円山鈴子
「躍進日本」







1945 - 2007。両津出身の歌手、俳優、本名は 阿部 静子(アベ シズコ)。美空ひばりの弟加藤哲也(歌手名 小野透)と結婚し後離婚。実子は加藤和也で夫の姉美空ひばりの養子となり、現在「ひばりプロダクション」社長。その後、円山理映子の名で映画「すべ公番長 ざんげの値打ちもない」「華麗なる追跡」などに出演。“地上げの帝王”と呼ばれた早坂太吉と結婚して話題を呼んだが離婚した。没年月日、平成19年2月24日 (2007年)。
「金井泉の住人談」
・円山鈴子の父は曽我正平(大正9年生:「佐渡人名録」にあり)で娘が円山鈴子だと生前語っていた。70歳代で没。河原田奥三屋に婿入りした弟渡辺賢一は河原田の入江座を経営しており、泉の人はよくそこへ行った。鈴子の父が満州で亡くなったとあるが間違いではないか。
・金井奥三屋(洋品・化粧品店)は親戚であるが関係は不明。
・令和4年現在、正平の妻は健在であり、二人の間には三人の子供(すべて女性)が居り、家を継いだひで子さん(小学校教諭)は高校教諭の婿を取り、40代?で亡くなった。鈴子は前妻の子ではないか。
「河原田の住人談」
・円山鈴子の父の弟は本町で奥三屋洋品店を経営しており渡辺苗字だった。時々鈴子さんが遊びに来ていた。
★丸山遜卿(学古)(まるやまそんきょう)
【生没】一七七六ー一八三七 江戸時代の儒学者。出羽(秋田県)鶴岡藩士であったが、若くして江戸に出て、亀田鵬斎に学ぶ。のち諸国を遊歴して、文化三年(一八○六)、夷町(両津市)に居住し、医を業とする。本名は丸山敏、字は遜卿・三平と称し、蒲盧窩または学古堂と号し、学古塾を開くかたわら、自ら経学・史学を究める。文政十年(一八二七)、佐渡奉行泉本正助が、奉行所内に学塾修教館を創設した時に、御雇儒者として召し出される。夷より一か月二○日出勤し、一○日は休日としたと言われる。手当て、一か年二○両。天保八年八月、六二歳にて死去。両津市湊の妙法寺に葬る。著書に『蒲盧窩遺稿』二巻がある。なお、夷町の小池氏を妻としたが、甥を養子とする。すなわち丸山溟北のち圓山と改めるが、幕末から明治時代にかけて、生涯を佐渡の教育にかけた人物である。【関連】修教館(しゅうきょうかん)・圓山溟北(まるやまめいほく) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、山本修之助『佐渡の百年』、山本静古『佐渡碑文集』 【執筆者】山本修巳
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
両津市湊の人で、円山溟北の養父である。学古は通称を三平、名は敏または、学古といい蒲盧窩と号した。遜卿または子行は字である。円山氏の祖先は房躬といい、出羽の人で、代々庄内藩につかえていた。学古は庄内を出て、諸国に遊学し佐渡に釆て、両津の風景のすぐれているのにひかれ、こゝに住んだ。妻は小池家の生まれで湊に釆てから結婿した。学古は史学にすぐれていて、土地の人びとの教えを受ける者が多かった。文政七年(一八二四年)に佐渡奉行泉本正助が、佐渡にはじめて学校をたて修教館といった。奉行の役人田中葵園(その項を見よ)も修教館の教授であったが、その推薦で学古も教授となった。天保八年八月に六十二才でなくなった。(近世越佐人物伝、新潟県史、佐渡人物志)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)丸山遜卿
83 溟北と学古 倉田藤五郎
106 学古塾の面影 倉田藤五郎
諸情報
→円山溟北
★円山貞吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大1、渡部七十郎縣会議員を争はんとす[四年九月二十五日]
★丸山千代
「躍進日本」

★丸山久子



未来社が経営難の時、「民話シリーズ」で持ち直したと言われる。このシリーズを応援したのが宮本常一で、これが二人がつながるきっかけとなった。民話ブームは柳田国男の弟子である丸山久子が昭和29年10月に畑野町でテープレコーダーで岩井キサさん(1847年頃の生まれ)の話を録音し、それを語り口調のまま書き起こし『佐渡国中の昔ばなし』として出版したのが始めと言われている。
※このテープレコーダーは柳田国男が寄贈したもの。国産第一号で、ソニーの前身東京通信工業製。その後、本間雅彦氏が保管し、現在は池田哲夫(新潟大名誉教授)の手元にある。(令和3年6月現在)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)丸山久子
2 背負籠にの歌仙 26 特集 句集「海見ゆる坂」月を打つ鬼太鼓の句 47 佐渡わらべ唄考 51 丸山久子さんを悼む 山本修之助
★丸山正明


フェイスブック「ようこそ、旅の人!佐渡を千倍愉しむっちゃ」2017年11月29日 ·
佐渡島の北西、外海府の北端に位置する岩谷口集落で、かつて子供の頃に食べていた米飴を「オーガニック米飴」として現代に蘇らせようと、丁寧に製造開発している人がいます。自然食品である米飴の原料は、発芽玄米と有機麦芽、それに地元の有名な名水のみ。安全安心な水飴を提供するために、原料はいずれも有機JASの認証品で、自らも有機JAS加工業者の認定を受けています。米飴は、キレの良い後味と優しい甘みが特徴で、糖度は78%〜80%。様々な効能から多くの健康効果が期待でき、料理にも蜂蜜やメープルシロップなどに引けをとらなく、使い勝手の良い米飴といえます。 この11月からボトルデザインも一新。そして価格もお求めやすいレベルを考慮して、販売に力を入れています。 私的には、豚肉との相性が良いし、皮の付いたままの大根を厚さ1cmの輪切り5、6枚用意して、米飴をかけて3〜5時間後に出てきた汁を飲むと咳止めに効果がある、というのにも期待しています。
商品名、税込価格等は以下のとおり。
・赤ちゃんのさとう135グラム入り 630円。・佐渡島民のアイスそうす190グラム入り 740円・佐渡米飴なっつ135グラム入り(有機ナッツが目一杯入ってとてもお買い得だと思います)940円・佐渡島民の有機アイスそうす190グラム入り920円・新発売の米飴黒にんにく 135グラム入り 1,800円(大好評でまとめ買いが多いようです)
送料は基本620円で、詳細は岩谷口村発酵 代表 丸山正明 さん 電話/0259-78-2325まで。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・岩屋口村発酵の有機古代紫米飴(伊藤俊二)※丸山正昭
「島の新聞」索引(人名別)
★圓山溟北(まるやまめいほく)
【生没】一八一八ー九二 江戸亀田綾瀬(りょうらい)門の儒家。幕末・明治前期の佐渡の文教をつかさどる。溟北は文政元年五月五日、両津市夷小池長佐の長男として生まれた。のち、夷に住む儒家丸山遜卿に、長佐の妹が嫁したが子供がなく、遜卿の養子となる。溟北の姓は「丸山」であったが、明治十七年(一八八四)「日野資朝」の碑の撰文をしたとき「圓山」と書き、それを明治天皇がご覧になられたことから、感激して戸籍も「圓山」に改めた。子供のときは通称三蔵と呼び、のち三平。名は葆、字は子光。溟北と号す。溟北は一○歳のとき、養父遜郷が佐渡奉行所内の学問所儒者になったので、伴われて相川に出て勉強した。一八歳の時、江戸に出て佐藤一斎の塾に入ったが、二○歳の時養父の死去で一時帰国し、翌年亀田鵬斎の養子綾瀬の門に入り、翌年二三歳の十一月、塾頭になって大名や旗本の屋敷で代講するようになった。そして、下野国(栃木県)の壬生藩主に俸米百俵で招かれたが、母の反対によって断わり、養父の後継者として帰島し、夷町で父の学古塾を再興し、一方医業に従事した。三八歳のとき、養父遜卿と同じく学問所の儒者となり、苗字帯刀を許され、以後相川町に永住した。明治九年相川県が廃止されるまで二二年間勤務した。また、明治十五年から十七年まで三年間、新穂村の三郡公立中学佐渡黌に教えた以外は、相川において学古塾を開いて佐渡の多くの子弟を育てた。明治二十五年五月三十一日、七四歳で死去。墓は相川町山之神にある。著書は多数あるが、『溟北文稿』三巻と『大学夷考並門答附録』一巻が活字本となっている。
「佐渡ふるさと百科」

(名前の読み方)
名前の「葆」は「ほ」「しげる」の他に永田俊一氏は著書に「つつむ」とルビをふっている。
山本修巳先生は「ほ」とルビをふられ、その理由を次のように述べる。
祖父半蔵(静古)は溟北門下生で、風呂で先生の背中を流すような仲であり、いつも先生のことを「ほ」と読んでいた。(山本修之助→山本修巳) 勿論、だからと言ってそれが単に先生の愛称だったかも知れないが。
又、北海道に渡った溟北の次孫貞吉は自分の子供達に「学古」「三平」等祖父ゆかりの名前を付け、次男には「葆二(しげじ)」とつけている。これは祖父溟北の本名が「葆(しげる)」だったことを示しているのかも知れない。
円山溟北旧居跡


「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

「島の新聞」35号(by 松本秀雄)


『溟北先生時代日記』(永田俊一署)より(小説であるがかなり史実を踏まえていると思われる)
鶴岡の藩士であった父は志を抱き江戸へ出て亀田鵬斎に学び、諸国を遊歴、その途次訪れた佐渡夷の加茂湖周辺の景勝の地をこよなく愛し永住の地と定め、佐渡の学問・教育に貢献した。しかし、佐渡から一度も離れることなく、その故郷に帰ることもなかった。弟妹を残し故郷を捨てたような形になつてしまったことに、心の重荷があったことは否めない。国許の無事を問うようにとの宿題を私に遺し父は逝った。佐渡に住まうことになった父学古に私の叔母が嫁ぎ、叔母の実家の兄小池長佐の子である私が養子としてその丸山家に入ることになった。
※小池家は「夷で魚を商っていた小池家」と出てくる。従って私は鶴岡も知らないし、父の縁戚の人々のことも知らない。亡くなる前に聞いていたことは、父が去った後、弟と妹一人は他家に入り、丸山家は同藩の男子が婿で入り継いでいるということであった。音信も殆どなく、一人の妹からの便りでそのような状況を認識していたようであった。父は亀田鵬斎塾で修業していたわけだが、松平正信様が実権を握ると、寛政異学の禁が発せられ栄子学が国学となり、折衷派であった亀田鵬斎は「異学の五鬼」の一人とされ、千人を超えた弟子はみるみる減少・四散した。禁の趣旨は昌平坂学問所等幕府教育機関での朱子学以外の教育を禁じたものであるが、藩校も含めそれに倣うところとなり、異学塾が成り立ち難くなった。鵬斎塾自体が閉ぎされるのは数年後になるが、父の全国遊歴漂泊はそのことと無縁ではないと思われる。私自身も亀田綾瀬塾塾頭から中央で活動する所期の志を折り帰郷、修教館儒者までの長い苦労の道程を思うと、父の遊歴漂泊の思いに心中共振するものがあった。
・・・・・・
父が亡くなつて既に二十五年余になるが、その間鶴岡とは音信なきままになつており、何処まで尋ね当てられ何処まで状況が分かるのだろうか、とても心配なことではあった。この年は、季節と暦を五年に二度歴月日を付加し調整する閏に当たっており、旅は八月八日から閏八月二十五日に及んだ。夷の妙法寺に父の菩提を訪(とぶら)い、天候待ち三日の後、磯部・佐野の二門人と共に舟に乗り込み、粟島を経由して十五日に温海に到着。山間部に入り清水舎なる温泉宿に投宿。温海は名の通り大変熱い湯で、浴槽に浸ったり槽辺に座したりして湯治に努め、湯を上がると好きな碁を打ち、晴れれば門人と近隣の社寺や渓谷や魚市場を訪れたりして日を過ごした。そして突然藩主湯治の報を受け退去を求められたので予定を早めた。閏八月一日の早朝宿を発ち、鳥海・湯殿の山を眺めつつ徒歩と馬で夕方鶴岡に投宿した。翌二日、宗家を訪ねようとしたが、何分にも長い間の状況も分からず、先ず父から聞いた上の妹が嫁いだ池田家を訪ねた。その子池田貞助も既に亡くなり、孫の総二が、貞助の弟山口与八郎も呼び接遇してくれ、語り合うことが出来た。聞いた話は予想外のものであった。父の弟宋実(甚五)は萩原氏を継ぎ、上の妹はこの池田氏に嫁し、宗家は同藩の男子寿作を下の妹の婿に迎え丸山を継がせたが、天保年間に不始末があり途絶えてしまったというものである。萩原家で今はひっそりと丸山家の祀を伝えているが、宗家を失った彼等の悵恨(ちょうこん:歎き恨むこと)の思いを聞いて私も茫然自失、言葉も見つからぬまま、明日を約して辞去した。 翌日、総二の案内で郊外の青竜寺村に萩原家を訪ねた。立派な構えの家であった。既に叔父の宋実は亡くなり、その孫常師の代になっていた。彼が言うには、「祖父は兄が国を去り音沙汰のないことを日ごと欺き、聞くところでは佐渡にあって顕用されているとのことだが、その真偽の程も確認出来ない、と言いつつ亡くなった。今あなたからの話を祖父共々絶えた家祖一党の人々が聞いたら何と思われることだろう」と。その悲嘆を思い相共に玄(サンズイ+玄)然とし涙を流した。 その夜は萩原家に逗留、家挙げての歓待を受けた。翌日常師が宿まで送ってくれ、待っていた与八郎・総二共々また語り合い夕餉を共にし、記念にと私の書を夫々手にして別れを告げて帰っていった。閏八月四日であった。
【関連】学古塾(がっこじゅく)・丸山遜卿(まるやまそんきょう) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、山本修之助『佐渡の百年』、倉田藤五郎『師恩友益』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・」妻沢子は藤沢明卿幼女、長女繁子、長男は生後間もなく没、三男も夭折、次男は「聿」(のぶる)。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)円山溟北
25 田中葵園と円山溟北 山本修巳 29 円山溟北門人録 附、円山溟北略年譜 山本修之助 29 溟北の遺族について 山本修之助 46 連載 閑々亭雑記 (5) 松本良順から溟北の病状につき凌海宛書簡 山本修之助 56 連載 閑々亭雑記 (15) 新発田収蔵送別の溟北の詩 山本修之助 83 溟北と学古 倉田藤五郎 84 溟北覚え書き -その人物評論-(上) 倉田藤五郎 85 溟北覚え書き -その人物評論-(下) 倉田藤五郎 86 円山溟北の遺文集 倉田藤五郎 89 <資料> 溟北圓山先生養老金額人名表 89 荏川文庫円山溟北資料 -書簡より- 倉田藤五郎 91 溟北覚え書き (4) -萩野由之への手紙- 倉田藤五郎 93 溟北覚え書き (5) -柴田収蔵を送る誌をめぐって- 倉田藤五郎 97 溟北覚え書き (6) -萩野由之の返信- 倉田藤五郎
98 溟北覚え書き (7) -「梅雨亭ノ記」四篇ほか- 倉田藤五郎 103 溟北覚え書き (8) -「我為我堂記」の軸- 倉田藤五郎
106 学古塾の面影 倉田藤五郎 106 資朝卿の遺跡の標柱と円山溟北門下国会議員 山本修巳 132 倉田藤五郎先生書簡(圓山溟北の書解説) 中川 哲昌 137 第四回學古塾同窓会 山本修巳 153 谷守翁壽藏銘: 原文 円山溟北 釈文 本間昭雄
153 円山溟北と近代佐渡の教育ー修教館から佐渡中学校まで―山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
「島の新聞」(両津港物語)
山水と人物(※佐渡の人物 田中葵園と圓山溟北 横山健堂著 大正4)
芸苑一夕話. 上(※円山溟北 市島春城著 大正11)
大学夷考(円山溟北 (葆)著 出版者 美濃部楨 明36)
溟北文稿(円山葆著 出版 円山聿 明22)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数22・24
『溟北文稿』 - 国立国会図書館デジタルコレクション 『大学夷考』 - 国立国会図書館デジタルコレクション 『溟北圓山先生年譜』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
諸情報
★丸山裕三郎
県立佐渡女子高等学校20代目校長(昭和60.4.1~63.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★万吉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川下戸炭屋町の人である。孝心奇特の理由で享和元年(一八〇-年)に役所へ呼出され、鳥目七貫文を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★万五郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川大工町五兵衛の倅である。親に孝養を尽くしたので、文政元年(一八一八年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★万歳由道(まんざいよしみち)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
代々佐渡州吏で通称は庄之助、字は子行、東所と号した。森田節斎、宮原節庵に学び、節斎はその文の雅健を賞した。豪胆不羈、事にあたって恐れず嘉永のはじめ(元年は一八四八年)日附役となり奉行内藤忠辰に重用された。そのころ幕府は海防船君沢型一隻を佐渡に備える案があった。君沢型は船型のことで安政元年(一八五四年)十一月、伊豆国君沢郡戸田港で破壊したロシヤの船と同型の船を二隻新造してこの名がある。奉行は由道に回航させた。途中能登近海で暴風雨にあい千の浦に避難しあやまって海中に落ち溺死した。奉行はこれを深く悼惜し、幕府は十金を下賜し、家格を譜代に進めた。安政(十二年とあるは誤り)のころであり四十才であった。(佐渡人名辞書)
★万徳院家尚深法印
羽茂上町万徳院の人、連歌関係者。→下記資料のp697
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★萬年巌
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)萬年巌 100 私の見た佐渡
★萬明
真野竹田 やせが平にあり 大運寺


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