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2021-01-16

★本間仲右衛門➡本間仲右衛門(ちゅうえもん)

★本間奈美
ほん本間奈美 (1)
ほん本間奈美 (2)
ほん本間奈美 (3)
ほん本間奈美 300816

★本間仁作
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ほん本間仁作

★本間仁作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ほん本間仁作

★本間仁作
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
春駒の演者。小倉・外山の近藤市兵衛家生れ。子供の頃から春駒が好きで、小倉祭りに相川から門付にに来る春駒の後に付いて歩き、その芸を見覚えたという。彼は舞方として活躍する。彼と最初にコンビを組んだのが小倉・八瀬松の甲斐重右衝門であった。重右衛門がどこで芸を覚えたのかはわかっていないが、彼が若い頃、畑野の野高屋へ竹細工の修業に行った時代があり、その頃に芸ごとの好きな彼は覚えたのではないだろうか。野高屋の竹細工といえば今井喜四郎家である。当時、喜四郎家には島内から竹細工の弟子たちが集まっていた。彼は生れながらの美声の持主であり、歌がうまかったという。重右衛門はその後、小倉の自宅で竹細工をやり、従兄弟の本間仁作や仁作と兄弟の猪股豊吉も彼の家へ竹細工を習いに通っていた。篭や桑の葉入れる竹篭を作っていたという。この頃に仁作と重右衛門の春駒のコンビができたのではないだろうか。昭和初期のことである。重右衛門はおしいことに四十八才で亡くなり(昭和十八年頃)その後、本間仁作と猪股豊吉のコンビが誕生し、地方の豊吉と舞方の仁作の芸の時代が続いた。
旭桜会

★本間日演
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ほん本間日演

★本間能太夫(ほんまのうだゆう)
佐渡宝生流の家元である。潟上村(現新穂村)にある。本間家の系図では、初代は秀信という人で上杉景勝の臣として米沢に行った潟上本間氏の末、元和二年(一六一六)の生れで諸国をまわり、奈良で薪能をみて宝生家に贄をとり、寛永年間に佐渡に帰ったという。慶安三年(一六五○)相川春日社の神事能に、左太夫として顔を出している。本間家十代の右京清房は、「九代唯清の子、享保十三年(一七二八)宝生の宗家・将監友春師卒す、ついて嗣子が夭死し、一流まさに退職せんとするとき、清房あげられて後見となり、師友春の四男暢栄を補佐して功あり。よって永扇の号を賜り、内弟子格にとりたてられた」という。
【関連】春日社神事能(かすがしゃしんじのう) 【参考文献】田中圭一『佐渡芸能史(上)』(中村書店) 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※春日社神事能(かすがしゃしんじのう)
 相川町下戸の春日神社の能をいう。鹿伏村の春日崎に同社が建つのは慶長十年(一六○五)だが、元和五年(一六一九)には現在の下戸に移され、四月五日の祭礼には神楽が奉納されていた。社前で能が奉納されるのは正保二年(一六四五)からで、「春日神社能楽の沿革」によれば、舞台は下戸町の甲賀六左衛門の寄進。境内北側にあって東に向い、橋掛り・鏡ノ間などすべて本式に作られた、とある。佐渡での能舞台建立の最初の記事だが、出典はわからない。甲賀氏はおそらく有力商人の一人であろう。甲賀姓の者が相川には残っている。四月五日の祭礼に、奉納された春日社の能については、正保三年から『佐渡風土記』に、連年にわたって番組みおよび役者名がくわしく掲載されている。同年の記事に「四月五日春日神事能始ル」とあって、「翁」(三番叟)「志賀」(兵之丞)「清経」(権太郎)「井筒」(権右衛門)「葵上」(次郎左衛門)「班女」(権右衛門)「項羽」(権太郎)「祝言・高砂」とある。また「四月十七日、大山祇神事能」とあって、番組みも記されているが、大山祇社の能は、この年以降は掲載がない。春日能は、幕末まで休みなく続いたわけではなく、「寛保十三年、本間右近が再興」「寛延元年阿部奉行のすすめで春日・大山祇社能楽再興」などとした記事がある。明治以降は春日社祭禮は「宮祭」を停められ、能も自然に衰退し、大正六年(一九一七)には能舞台再建のための協讃会設立の動きなどが報じられた。春日演能については、石井文海の『天保年間相川十二ケ月』に描写があり、この島の十七世紀中ばの能楽史料として貴重である。
【関連】春日神社(かすがじんじゃ)・本間能太夫(ほんまのうだゆう) 【参考文献】永弘寺松堂『佐渡相川志』、椎野広吉『佐渡と能謡』 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間能太夫家 138 本間能太夫家・生田家と山本藤九郎家 山本修巳

★本間伸夫
佐渡市出身。県立新潟女子短期大学名誉教授。農学博士。新潟大学農学部卒業。専門:食文化論。
ほん本間伸夫 (2) ほん本間伸夫 (1)

★本間信弘
佐渡高校時代の27.8.9~10、秩父宮賜全国高校陸上競技選手権大会(長野県)、三段跳6位
27.9.23、オリンピック優秀選手招待陸上競技新潟大会(新潟市)、100m3位
27.10.19~23、国民体育大会(福島県)、110mH2位

★本間宣定
『小木町史』より
鎌倉時代のことです。小木木浦郷は本間宣定、重久の兄弟が地域をわけて知行していました。ところが、やがて重久の知行地、宿根木から佐藤氏が出て強清水を開き、佐久間氏が深浦の村を開きました。また、江積の佐藤氏が田野浦を開きました。記録では、これらの新村を「小名」(しょうみょう)と呼んでいます。重久は、新しく生まれた村は自分の知行地から独立したものですから、当然自分の領地になると考えていました。ところが、兄の宣定は、それは木浦郷地頭職をもつ自分が支配すべき村であるといって取り上げてしまったのです。ここに、宣走と重久兄弟の間に村の支配をめぐる争いが起こり、やがて弟の重久が幕府に訴え出ました。弘安二年(二一七九)のことです。判決を下したのは、佐渡守護北条(大仏)宣時でありました。判決は、全面的に兄宣定の主張を認めたものでした。鎌倉幕府成立以来、地頭職に任命された者が、村の支配権を庶子に分割して相続させる傾向が生じていましたが、それはやがて、庶子家と本家との争いを引き起こす原因にをってゆきました。本家(惣領)と庶子家の争いについて、幕府は、鎌倉時代半ば以後は地頭である惣領の主張を認める判断を示す場合が多く、そのために、惣領と庶子の対立は次第に根深くをっていきました。十四世紀のはじめ、鎌倉幕府が動揺をしだしても、惣領と反目する庶子たちは幕府支持のために立ちあがることはなく、やがて幕府は自壊していきました。北条氏恩顧の侍であった佐渡の地頭たちが、鎌倉幕府の滅亡によって、その権威を失ったことは当然でありました。やがて引き起こされる南北朝の内乱がまたたく間に全国におよんだのは、この惣領家と庶子家の対立が全国各地で火をふいたものとみてよいでしょう。宿根木を持つ垂久の子宣久(庶子)と、木浦を持つ宣定の子宣光(惣領)が戦ったのは、そうした背景のをかで理解する必要があります。

★本間憲泰(のりやす)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【ほんまのりやす(15??~1623)】本間泰高の男。官途は信濃守。別名本間高滋。1589年、「河原田城の戦い」後、長尾景勝が佐渡国を平定すると、越後国に転封された。

★本間梅翁
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) 
文政十二年生れ、通称太次兵衛、梅香とも云った。明治維新前後畑野で寺小屋を開いていた。絵は梅遷に師事し、鶏の絵が得意であったらしく、掛軸が残っている(塾の項参照)

★本間梅香
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) 
旧村志は、畑野で寺小屋を開いたというのことを記してある。梅香は絵師でもあり、その絵にほ梅翁の号を用いており、梅翁の絵は村内にも見受けらる。同人の古稀を祝して門弟たちが開いた頒布会の年代から逆算すると、梅香ほ天保元年生れである。通称を太次兵衛といったが、屋号は畑方村の太次右衛門で本名は誠一といい、後山村の池田こと新右衛門の生れである。

★本間梅叟
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
ほん <br>本間梅叟
ほん <br>本間梅叟 (2)
ほん <br>本間梅叟 (3)

★本間初一 
ほん本間初一 h2810月

★本間初太郎 
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)
ほん本間初太郎 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)(大正12年 佐渡日報社)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ほん本間初太郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
村会議員、相川矢柄区長。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★本間早
佐渡高校時代の昭和31.7.11、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞  
昭和31.11.1葛葉書道会主催全国学生書道展全国学校書道連盟賞

★本間春吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ほん本間春吉 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★本間晴彦
「エスライフ」2018年10・11月号
ほん本間晴彦 エスライフ2018年10・11月号 1 ほん本間晴彦 エスライフ2018年10・11月号 2
ほん本間晴彦

★本間晴美
両津高校時代の1983年度(S58)12月、文庫による読書感想文全国コンクール(角川文化振興財団主催)県審査 一般個人の部 優秀賞

★本間鎫阿(ばんあ)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ほん本間鎫阿(ばんあ)

★本間坂谷
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
ほん <br>本間坂谷

★本間半次郎
「本間半次郎と探兆」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)) 
文政年間の畑本郷村の絵図を見ると絵師の本間探兆は野高屋に居住している。『佐渡人物志』 に本間探兆、名は守興。通称は平蔵という。畑野の人なり。父某は肝幽の門人なりしかば、平蔵も少年より絵事に志あり。文化の初江戸に出て、鹿島探春に従いて画を学び、後狩野探信守政の絵所に入門す。(旧村志では亭蔵)と書かれてある。文中父某とは半次郎のことで、肝幽の門下で、号を長顕と言い、畑野何代、梅ノ木の堂の涅槃絵は宝暦三年六月長顕が措いたものである。また畑野西町の堂には明和二年、五十八才の時に彼が措いた涅槃絵の大軸が残っている。この収納箱の真に書かれた年から考えれば宝永四年に半次郎は生れたことになり、肝幽は享保十五年二月、八十一才で亡くなっているので長顕が二十三才の時と言うことになる。探兆守興の代表的な作品には青竜寺(両津市旭)の本堂天井に描かれた竜や慶官寺の釈迦涅槃図などがあり、涅槃図は高さ三メートル四〇センチ、幅三メートルの大軸で探兆もそれだけに製作意欲をもやしたのであろう、仏画には珍らしく探兆藤原守興と名をしたためてある。彼の作品ほ島内でもよく見ることができ、門人も多く後藤春兆・羽生林斎・中川兆斎などがいる。探兆は天保八年八月十一日寂、探覚守光居士。

★本間半平
『続佐渡酒誌』(平成14年)
ほん本間半平 『佐渡酒誌』(平成14年) (2)
左:『続佐渡酒誌』(平成14年7月 酒造組合佐渡支部)  右:『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
ほん本間半平 『佐渡酒誌』(平成14年) ほん本間半平 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34

★本間久恵
佐渡高校時代の59.6.2~4、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)砲丸投3位
59.6.18~20、陸上競技北信越大会(金沢市)出場
60.5.31-6.2、陸上競技県高校結合体育大会(柏崎市)砲丸投1位・円盤投3位
60.6.20~23、陸上競技北信越大会(長野市)砲丸投・円盤投出場

★本間久枝
「島の新聞」索引(人名別)

★本間久雄
左:松本丈一碑移転記念
まつ松本丈一 本間久雄 336369447_1649343752176895_700278760859965444_n.jpg 336664913_1157441321612583_3462287092622768848_n.jpg 336703099_923837465701763_398823908374148528_n.jpg 336873307_976999883681869_2640008657698367618_n.jpg 337099286_1341079759957891_4293667162995718485_n.jpgほん本間久雄 ほん本間久雄 ほん本間久雄 ほん本間久雄
畑野の人、昭和11 年生。「佐渡みどり会」会員として松本丈一師の元で長く研鑽を積み、島外各地で公演する。歌、踊、三味線、太鼓、鼓等全てに通じ、畑野・新穂の公民館講座等で本間社中主催の多くの会を持ち、島内一円に多くの民謡愛好家を育てる。平成22年には本間社中30周年チャリティ公演を大々的に行い、佐渡市に楽器等を寄贈。平成18年には県民謡協指導者資格最高位である名誉教授に認定される。長く新潟県民謡協会の役員を務め、平成23 年現在は専務理事。佐渡民謡協会の副会長でもある。総務省・文化庁・NHK 後援の「第4回地域伝統芸能祭り」(平成16 年)に佐渡民謡協会一員として出演。又、「そうめんさん」「海府甚句」「ハンヤ節」「新おけさ」「小倉酒屋米とぎ唄」等歌い手が少なくなった民謡の伝承にも力を入れている。
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1936、新潟県民謡協会公認名誉教授、民謡本間社中会主、佐渡民謡協会会長。
後継者育成のため本間社中結成(1978年より)。畑野地区教育委員会主催民謡教室(小中学一般を含む)2003年1月より月1回。その他各種イベントボランティア参加。(月、火、水、木、金)毎夜各種指導。 地域の例大祭(熊野神社例大祭)大黒舞の笛太鼓指導。小学1年生3名、小学6年生全員(横笛)18年間。佐渡おけさ全国大会2003年度優勝者。チャリティー民謡ショー開催(平成22年に30周年)。
→中川勝見参照
2022年12月05日 「民謡で生き生き! 「エイジレス章」佐渡市の本間久雄さん/佐渡テレビジョン」
年齢にとらわれず自らの責任と能力で自由に生き生きと生活を送るエイジレス・ライフ実践者を称える内閣府の「エイジレス章」を、民謡の伝承などに尽力する佐渡市畑野地区の本間久雄さん 86歳が受章しました。本間さんは、これまで佐渡観光の宣伝のため島外各地での民謡の公演に参加してきました。また小中学生などを対象に民謡教室を開催し、後継者の育成活動を行っています。郵便局OBという経歴からこのほど、信越郵政人連盟からの推薦を受けました。現在は畑野地区を中心とする民謡団体「佐渡みどり会」の会長を務め、佐渡の民謡の伝承に力を注いでいます。本間さんは、受章の喜びを語るとともに今後も子どもたちなど民謡を継承する後継者の育成に努めたいと意気込んでいます。今度の個人受章者は全国で55人、うち新潟県内では本間さんを含めて2人が受章しています。
ほん本間久雄 ほん本間久雄 (4) ほん本間久雄 (3) ほん本間久雄 (2) ほん本間久雄 (1)
→「佐渡の民謡」
諸情報

★本間久雄(琢斎四代目)
「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)

★本間久喜
ほん本間久喜 箱根駅伝出場者
畑野町畑野出身、佐渡農高入学するが、翌年佐渡高校に入学し昭和28年卒。佐渡高校時代の27.10.19~23、国民体育大会(福島県)出場。立教大時に箱根駅伝に出場、4年時には主将を務めた。・昭和29年(30回)2区、4位、団体成績7位。 ・昭和30年(31回)2区、4位、団体成績8位。 ・昭和31年(32回)2区、7位、団体成績7位。 ・昭和32年(33回)10区、3位、団体成績3位。 大学卒後「東京インク」に務め常務。
→★加藤勝己

★本間久國
「岩首校百年誌」(昭和55年)
ほん本間久國 岩首校百年誌(昭和55年)

★本間久
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ほん本間久 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ほん本間久
『続佐渡酒誌』(平成14年)
ほん本間久 『佐渡酒誌』(平成14年)

★本間久彦
相川小校長
ほん 相川小校長
「島の新聞」索引(人名別)

★本間久嘉
「佐渡高等学校百年史」(「去りゆくホープ」)
佐高新開委員として、又編集室住人として長く佐高新聞に寄与した功績は大きい。佐高新聞の為なら午後七時八時頃まで学校にいて働くと云う。佐高新聞と共に歩んだ陰の苦労人、又佐高文芸部員として幾多の作品を発表して異色ある作家の一人だ。昨年も本間久嘉が去り今年も同姓同名の本間久嘉が学びの舎を去って行く。去年の人はヒーコーで通ったが今年は久嘉と言えばあの新聞マニアと答えるくらい天井裏ん鼠にまで知られている人だ。(「佐高新聞」第二六号 昭和二十九年二月二十五日)
新開委員としての本間の活躍は、同級生の思い出のなかに今も深く刻まれている。

★本間秀昭
ほん本間秀昭 (2)
ほん本間秀昭
ほん本間秀昭1
ほん本間秀昭
・祖父本間長太郎、父本間一秋のもとで竹工芸家となる。・1959年:佐渡郡畑野町に生まれる・1987年(昭和62年):「本間工芸」入社。・1988年:家業の竹芸3代目として竹芸の道に入る。・1990年:展覧会に出品しはじめる・1991年:現代工芸新潟会展県知事賞受賞、その他多数受賞。・1992年:現代工芸展初入選(以後入選5回)、日展初入選(以後入選17回)・1993年:県展奨励賞受賞(受賞2回)・1994年(平成6年):第33回日本現代工芸美術展において親子同時受賞。一秋/文部大臣賞・秀昭/工芸賞、受賞。新潟大和にて創業70周年記念三人展(一秋・勲・秀昭)開催。・1996年:現代工芸展現代工芸賞受賞、県展で県展賞受賞(無鑑査になる)。・2002年:9月アメリカのサンタフェ・タイギャラリーにて「日本の竹芸家8人」グループ展に出品。初の海外出品で。以降海外での出品が毎年行われている。・2009年:(社)現代工芸美術家協会本会員(1998年~)、現代工芸新潟会会員・、日展会友(2002年~)、県展無鑑査(1996年~)、伝統文化と環境福祉の専門学校竹芸専任講師(2008年~)
ほん本間秀昭 (2)
「島の新聞」索引(人名別)
参照:「本間工芸」サイト

★本間秀夫
鉄工丸事件
てつ鉄工丸事件 (1) てつ鉄工丸事件 (2)てつ鉄工丸事件 (1) てつ鉄工丸事件 (3)てつ鉄工丸事件 (1)

★本間秀清
本間能太夫家四代、右京本間秀清( ~1669)。承応2年(1653)~寛文9年(1669)までの春日神社の神事能に出演。また、万治2年(1659)~寛文8年(1668)の間、子の権左ェ門と共に勤めている。

★本間秀高
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国潟上城主。帰本斎秀高。天正九年(一五八一年)五月六日、上杉景勝は秀高に物を送って答報した。同十年四月二十四日、景勝は秀高に、越佐両国がどのように変化しても潟上に対しては末世末代まで安泰である旨の誓書を送った。潟上秀高と同一人物である。本間喜本斎秀高 当国ニ而卒ス湖鏡庵ニ葬 代々家老本間左京ー潟上弥太郎秀康(季高)ー潟上勘ケ田(越佐史料巻六)

★本間整(ひとし)
ほん本間整(ひとし) (1) ほん本間整(ひとし) (2) ほん本間整(ひとし) (3)
「新撰 芸能人物事典(明治~平成)」より
職業俳優 演出家、専門ひとり語り。昭和4年7月26日~ 2007年10月15日没。
両津市夷出身、佐渡中卒。呉服商の家に生まれ、小学2年の時に東京に移住。中学卒業後、新協劇団研究所に入所、俳優を経て、スタッフとなる。昭和60年第1回全日本子どものための舞台芸術大祭典の運営のため佐渡に渡った時、絶滅の危機にあるトキを守る地元の人の話に感動。61年知人の演出家・熊井宏之と再訪し、ひとり語り「トキが滅びるとき」の台本を製作。それを機に約30年ぶりに俳優にもどり、62年同市で初演、以来全国で公演。平成2年北海道女満別町に移住、女満別実験村を開き、市民劇団・風の子を指導する傍ら、ひとり語りを続けた。9年1000回突破を記念。11年ひとり語りの2作目「森から来た魚」を上演。13年脳こうそくのため公演中に倒れたが、リハビリにより回復、再び舞台に立った。受賞全児演賞(第1回)、家族妻=本間 文子(染織作家)。
※夷自動車先代(本間幸則さん父)の弟と昔聞いたことがある。

(個人ブログより)

北海道・女満別在住の本間整が、昨日の朝早くお亡くなりになりました。78歳でした。本当に、残念でなりません。 本間さんは、劇団風の子の初期からのメンバーで、早くに役者を降りて制作の道を選ばれ、長くにわたり風の子をカリスマ的とも言えるリーダーシップで引っ張ってくださった方です。劇団風の子は、本間さんがいらっしゃらなかったら、ここまで続かなかった、と言っても過言ではありません。 数多くのお芝居を制作され、20年前には『チワンの星』という作品を演出されました。 また、ご自分では『朱鷺が滅びるとき』『食べて食べて65年』『森からきた魚』など“一人語り”を長くやられていました。リュックひとつで、全国各地に座布団一枚のスペースで語りをされてきました。 私個人の思い出としては… ☆劇団の研究生のとき、夏に佐渡祭典という児童演劇のイベントに合宿で出かけたときに初めて?お会いしたこと…みんなで道を歩いていると、祭典Tシャツを着たおじさま二人に声をかけられました。おじさま「祭典に来たの?君達はどこかの劇団?」 私たち「風の子の研究生でーす♪(元気よく)」 おじさま「おいおい、この人(もう一人のおじさま)は風の子だよ(笑)」 私たち「…え、え?!」 それが本間さんでした(爆)。 ☆風の子に入団したときに運営委員長だったこと…最初はただただ怖かった(笑)。☆『チワンの星』で“花鈴(ホワリン)”という役に抜擢してくださったこと…今の私の“声”を引き出してくださった。心から表現して唄う楽しさを教えてくださった。 ☆3年ほど前に『おまつりぴ~ひゃらどん』を観にきてくださった時に「圭!なんだそのお前の身体は!」と、小班でオーバー・ウエイトしていた私に一喝してくださったこと(『チワン』のころは今よりかなり痩せていたので…(汗))…怒られたんだけど、すごく嬉しかった。数をあげたらきりがありません。 心よりご冥福をお祈りいたします。そして、ありがとうございました。今日、公演からの帰りの車の中で話していて、本間さんとの思い出をまたひとつ思い出しました。『チワンの星』で京都でお休みがあった時、本間さんが美味し~い“葛きり”を食べに連れて行ってくださいました。たしか、東山のほうでした。とっても美味しくて、以来四条通りのお店にはことあるごとに行くようになりました。

★本間英孝→本間英孝(ふさたか)

★本間秀継
本間能太夫家五代権左ェ門秀継( ~1691)。万治2年(1659)~元和元年(1681)まで春日社の神事能を勤めた。

★本間秀信(潟上海ケ沢)
1616~1651、本間能太夫家初代。父秀光=潟上弥太郎は、上杉景勝の家臣となって越後に渡り、さらに景勝と共に会津そして米沢に住んだ。16歳のとき家督を次男に譲って諸国遍歴の途中、奈良で薪能をみて感銘し、宝生家の門を叩き教えを受けたとされる。寛永18年(1641)佐渡に帰り梅ヶ沢に住み、能楽を家業とすることとした。慶安年中(4年=1651ともいう)佐渡奉行所より能太夫を命ぜられた。
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
潟上の本間家が能の太夫になるのは、秀信が奈良で薪能を見、宝生家の弟子となって帰国、慶安年中(一六四八ー五一)に能太夫を拝命したのが始まりだといわれている。しかし、たしかな記録にあらわれるのは「佐渡国略記」延宝三(一六七五)年の条に、「潟上村佐太夫、江戸宝生にて鏡の間をつとめる」頃からである。代々の太夫のうち一〇代の清房(永扇)、一三代の左京由春、一五代の令桑が特に傑出していたという。
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
相模の国の住人清和源氏多田満仲の弟満政の後胤が潟上村に住居し、寛永年中その子孫本間秀信は能楽の祖となり、慶安年中能太夫になったとあり、これが後の潟上海ケ沢の先祖である。

★本間秀昌
1634~1666、本間能太夫家二代目。先代の嫡男で、父と共に梅ヶ沢に住んだ。後、源兵衛と改名。慶安5年(1653)世襲に当って八世宗家九郎将監重友より、謡本を贈られた。(『吾潟郷土史』では、「田中圭一氏によると、慶安4年(1651)に本間源兵衛が宝生九郎重政から『小野小町』の口伝書を貰い、それが残っているという」)

★本間英世
平成25年(2013)12月24日没。両津夷出身、父は本間林三、母方祖父は羽田清次。上智大名誉教授、ドイツ思想史。

★本間百蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ほん本間百蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★本間浩昭
同志社大学文学部を1985年に卒業後、「黄金の三角地帯」で1年余りを過ごし、カエルやネズミ、昆虫食三昧の生活を覚える。毎日新聞入社後もゲテモノとボーダーをこよなく愛し、北方領土最前線の街根室での勤務は1989年以来、足かけ22年。NPO法人「北の海の動物センター」理事。共著に『知床・北方四島』(カラー版岩波新書、2008年)、『エゾシカを食卓へ』(丸善プラネット、1998年)など多数。旧石器発掘ねつ造事件の調査報道チームの一員として2001年、日本新聞協会賞受賞。
※佐渡出身であるか出身地区は不明、情報請う

★本間浩子 
佐渡高校時代の昭和38、全国学校書道連盟主催全日本学生競書大会、団体賞受賞、推薦
昭和38、全日本学生清書コンクール団体奨励賞受賞、特選 
昭和38、白扇書道会主催全国学生書道展優良校貴受賞、松林賞

★本間博子
前佐渡病院の皮膚科医師、実家は佐和田後藤医院。兄は物理学者の後藤鉄男。息子本間順平は佐渡病院の脳外科医。

★本間弘子
ほん本間弘子

★本間寛
新穂村
ほん本間寛

★本間弘
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ほん本間弘 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) (2)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ほん本間弘 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★本間弘
本間弘 本間弘1 本間弘2 本間弘3
「エスライフ」2015年2・3月号
ほん本間弘 エスライフ2015年2・3月号 1 ほん本間弘 エスライフ2015年2・3月号 2
令和4年3月表彰
ほん本間弘 ほん本間弘1 ほん本間弘2
「佐渡文化財団HP」(0207月)
金井地区にある茅葺き工事現場で屋根の修繕工事が行われていました。この日は、新潟県の選定保存技術保持者に認定されている本間弘さん(なんと88歳!)を親方として5人での茅葺き作業です。まだ工事が始まったばかりでしたが、最も重要な部分は終わっているとのこと。その重要な部分とは、基礎と呼ばれる屋根の一番下の軒部分、ここの厚みと角度の付け方が最も重要で、それに沿って上へ上へと葺いたときに最上部の棟にピッタリと納まるようにしなければならないのだとか。もちろん目安となる丁張などは一切ありません。どのように見極める?と聞いてみたところ、少し考えた本間さんから出た言葉は、なんと「カン!」。そしてもう一つ、本間さんの素晴らしい技術が「ハリ取り」という技術。手芸で使うカギ針を1メートル以上にして絶妙な角度に曲げたような道具を用いて、屋根材である茅と骨組みである竹などを縛る際に必要となる技術ですが、わかりますでしょうか?茅と骨組みを縛る際は、普通であれば屋根の外側から入れた縄を内側にいる人が骨組みにかけ、また外側に縄を戻す必要がありますが、これを1人でやってしまう道具と技術なのです。言葉での説明は難しいのですが、竹の先に縄をひっかけて外側から差し込み、骨組みをまたいだ位置にハリ取り道具を差し込んでカギ針に縄をひっかけて引っ張り出すというもの。一人二役が可能となる素晴らしい技術ですが、見えない先で針を操るわけなので、もちろん簡単な技術ではありません。そもそも骨組みの位置がなんでわかる?と聞いてみたところ、本間さんの答えはやっぱり「カン!」。「この仕事は、カンが大事なんだよ。」と笑っていましたが、もちろんただの第六感ではなく、長年の経験と技術を有する職人ならではの「漢のカン」ですね。さて、後半戦に備えて一服休憩のときのこと。やっとみんな座れたなと思った途端に、また全員が慌ただしく動き出しました。「道具!」「縄!茅!」「ブルーシート!」と声が飛び交います。
見れば雨が降り出していました。縄が濡れると滑りが悪くなり縛れない、茅が濡れると耐久性が落ちるなど、茅葺職人の天敵は雨なのだそう。西の空を見つめながら「もう少しやりたかったけど、今日はもう難しいな。」と寂しそうに呟いていました。

★本間弘
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
西三川の鬼太鼓はわりあい新しい。明治三二年生まれの本間栄太郎が青年会長だったころ、栄太郎が中心になって小木の鬼太鼓を習いに行ったのである。たぶん大正の末頃であろう。 小木では当時芸者衆が打っていた。したがってこちらから習いに出向くわけだから、費用もかなりかかったのであろう。都合のよいことに栄太郎の弟弘吾が小木へむこに行っていたのでそこを足場にした。全力打ちの太鼓だからたくさんの交替要員が必要で、西三川部落の青年が中心だが、高崎・金山等の青年も加わった。こうして鬼太鼓阻ができると、太鼓・面・ハッピなど一式が個人の寄附で新調された。山さきで、のちに郡会議員にもなった本間弘、すなわち栄太郎の父が寄附したのである。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十一年生 西三川村高崎、牧畜木材建設業 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]

★本間弘
『両津市要覧(昭和33年)』より
ほん本間弘

★本間博
「躍進日本」
ほん本間博「躍進日本」 (2) ほん本間博「躍進日本」

★本間博
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・7-8 第7回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中等学校体育連盟)佐中プール
(佐渡中)400自➅、200リレー①佐中。800リレー⑤佐中、総合②佐中48
昭13・6・19 第1回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)新潟商業プール
(佐渡中学が第1回大会に優勝。①佐中49②新商39③新潟32④相中22)
400自②5.38.9、800自② 、200リレー②佐中 2.04.8、800リレー(佐中 11.05.0)
昭・13・8・5~6 第8回県中等学校水上競技選手権(県中体連・県水上競技連盟)長岡・高鳥プール
(佐渡中・総合1位。3年ぶり2度目の優勝)
400自③ 5.47.7、800自➄、200リレー①佐中(山本・笠井・土屋・本間)2・00・9新、800リレー②佐中
昭・14・6・18 第2回近県中等学校水上競技(新潟市水上競技連盟)新潟中学競泳池
(佐渡中・総合3位・得点44点)400自⑥、800自⑤、200リレー①(土屋・斎藤・本間博・本間性)2・04・0、800リレー③(間島・舟見・本間・土屋)11.45・2
昭・14・7・23 第9回県中等学校水上競技選手権(県中体聯・県水上競技聯盟)柏崎・八坂プール
(佐渡中・二年連続、通算3回目の優勝。得点61点)200リレー①笠井・土屋・斉藤・本間2.02.0

★本間博
「島の新聞」索引(人名別)

★本間汎(ひろし)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・大3、小作総合會の秋期大会[十二年十一月十三日]・大3、須貝快天の政談演説会[十二年十一月十五日]・大3、小作労働組合の會合[十三年二月七日]・大3、塚本派の演説会[十三年四月三十日]・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]・昭1、佐渡立憲民衆党の創立[二年八月十八日]・昭1、佐渡立憲民衆党の結党式[二年八月十八日]・昭2、佐渡立憲民衆党の分裂[五年二月六日]・昭2、日本大衆党佐渡支部[五年八月二十四日]・昭3、第十八回総選挙[七年二月二十日]・昭3、社会大衆党支部の委員会[九年三月二十八日]

★本間凞(ひろし) 
潟上の本間能太夫家十六代本間凞(~1941)。
 先代本間令桑(令蔵)には五男二女があり、長男・次男は早逝・若死し三男は養子に行き、令蔵没後は四男・凞が後を継いだ。凞は本拠地が東京で、盆暮に佐渡へ帰り指導を行なった。大正12年と大正15年に宝生宗家一行を佐渡に招き本間家能舞台で演能を行なった。大正12年の時の費用が、同行した野村蘭作の話では、全費用3,000円で当時家が一軒買える値段という。入場料は1人3円で500人として1,500円。差額は、本間家と佐渡能楽倶楽部の負担。

★本間弘美
ほん本間弘美 佐渡高校同窓会報43号 05(2023)8月 b ほん本間弘美 佐渡高校同窓会報43号 05(2023)8月 a
ほん本間弘美 (2) ほん本間弘美 本間弘美 (1) 本間弘美 (2) ほん本間弘美
畑野出身、昭和7年生。幼少時は東京で過ごし、佐渡に移住。佐渡高校1回生で在校時生徒会長。東大卒。県内各高校に英語教師として勤務。英国人アンガス・ウエイコッの著『SADO』を翻訳して『佐渡を歩いて』(新潟日報事業社)として出版する。
佐渡高校同年には次の人らが居た。ドイツ文学者本間英世(上智大教授、父は本間林三)、山田静雄(ライト工業社長、両津湊山田畳屋長男、弟八郎は佐渡病院医師)。祖父は➡本間慶太郎(参照)。

★本間福寿郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ほん本間福寿郎

★本間(山田)フサ
姉千代と共に小木の置屋「喜一屋」の娘で大正4年生。若い頃、両津の「花月」に勤務(姉は吉田屋)。昭和27年第2回全国民謡大会で姉中川千代と共に「両津甚句」で優勝。この時は「山田房子」となっている。鼓を担当。相川の人と結婚。晩年は本間フサとして小木に住み後進を指導した。国立劇場が初めて大衆芸能に解放された時一般民謡人として初めて姉と共に出演。演目は「佐渡おけさ」「小木おけさ」。「新潟県の民謡」(昭和61年:新潟県教育委員会)に「小木おけさ」「小木追分」を収録。『日本民謡大観』の中部編(北陸地方)(NHK:昭和30年発行)に昭和27年の「両津甚句」が載る。
「島の新聞」
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★本間英孝(ふさたか)
ほん本間英孝 ほん本間英孝 h2901月
1934年生、潟上の本間能太夫十八代目。幼少の頃より先代宗家(十七代本間友英(1902~1969)の薫陶を受ける。海外公演や米国各地の大学で指導実績がある。1975年重要無形文化財指定。

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間英孝 144 悼 本間英孝氏 山本修已
「佐渡ジャーナル」関係記事:「55号」(平成30年10月)・本間家定例能開催-本間英孝先生一周忌追善能-

★本間斧刪(ふさん)
ほん本間斧さん 新穂村史 s51年
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
ほ本間斧删
ほ本間斧删 (2)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
ほ本間斧刪(ふさん)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
ほん <br>本間斧删
ほん <br>本間斧删 (2)
ほん <br>本間斧删 (3)
ほん <br>本間斧删 (4)
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
一八二二~一八九六、新穂の人、中川収之と同年輩で俳藷の大家であった。家業は溟北によれば、酒楼(料理店)でありその名「夕佳楼」も溟北の命名という。「門外常に長者の車多し」とも言っているので、高級な料亭であり、俳藷を好む士の集りも多かったと考えられる。斧刪古稀の賀(七十才の祝) の時出した案内状の木版が今も残っている。
「古稀之賀書画詩歌連俳活花会(兼題各位御随意)
 来旧三月廿二日新穂乗光坊(今の管明寺)精舎において開筵、晴雨を論ぜず、四方の諸君子の御賁臨(ひりん)を是祈る
会主 本間斧刪 補助 渡辺巴篁 中川収之 玉置苕園 後藤稼亭 浅井貞義 及俳連中  
とあり、年月日はないが明治二十五年(一八九二)であろう。
明治十八年(一八八五)俳句(明治になり俳諧より俳句が用いられる)の会、教林盟社の新穂分社を作り、斧刪が世話をしていた。当時の名簿に五十二人の名が見え、その内三十六名は本村人である。又瓜生屋大日堂に献額がある。
明治十二年四月東京教林盟社新穂分会とあり、斧刪、収之、巴篁(新穂渡辺快二)、九二丸(同渡辺夏丸)、螢処(新穂土屋泰一)、白司(瓜生屋名古屋常盤)、巴郷(新穂渡辺敬蔵)、水友(瓜生屋鶴間亀蔵)、二川(不詳)、可民(下新穂土屋権吉)、矯哉(不詳)、素民(新穂土屋権吉)、松鶴(瓜生屋鶴間八三郎)、松窓(北方河原与一郎)、都園(新穂本間幸作)、暁鳥(新穂柴山勝蔵)、幸両(瓜生産鶴間甚吉)、晴窓(同鶴間三五郎)、佐仲(新穂山田佐中)の旬がある。句の二、三を記そう
 袷着て限につく庵の障子かな 斧刪
 拍手になれて啼くなり松むしは 斧刪
 天の命返して清し雪の旅 収之
 掃除せし清水音して沸にけり 収之
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の俳諧。本間斧刪(明治二九没)、中川収之(明治三二役)の流れがつゞき、明治十二年(一八七九)にほ東京教材監社の新穂分会というものがあり、その奉献額が大日堂の拝殿内に掲げられている。正岡子規等の改革により俳句といわれるようになり、瑞穂会(旧派)、沙鳥会(旧派)、みどり会(新派)等の団体が、大正頃まであった。瑞穂会に渡辺巴郷、高野翠斎、沙鳥会に中川月桂、河原春木、本間最古等の名が「新穂村案内」に見える。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間斧刪 126 新穂の俳人 本間斧刪 山本修巳

★本間藤之丞
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ほん本間藤之丞 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★本間フミ
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間フミ 89 点鬼簿(6) 中山守夫、本間敏雄、本間亮敬、斎藤良二郎、真木山幸二郎、小野久夫、本間フミ、山本惣次、若林吉堯、浅島治兵衛、相馬一正、宮崎萬平 山本修巳

★本間婦美枝
佐渡高校時代の昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞

★本間二三雄
畑野出身で日本体操の父とも言われた本間茂雄の4男で、世界選手権等で活躍した。
ミュンヘン五輪直前の世界選手権で団体優勝、個人総合6位、跳馬4位、鉄棒6位。オリンピック直後のワールドカップでも個人総合6位、つり輪2位の好成績を残した。ミュンヘン五輪には補欠出場した。平行棒と吊輪種目にある「ホンマ」は彼の名から来ている。スキーで頸椎を損傷し、車椅子生活となったが、大学で体育学の研究を重ね、東京学芸大教授として活躍した。また、父の弟渡辺松二郎の長男(従兄弟)渡辺利雄は日本を代表する英米文学者で東大名誉教授。

★本間文雄
「佐渡ジャーナル」関係記事:「37号」(平成26年4月)座談会(本間文雄・石原和子・民部猛・村田圭・岩田雅)
「島の新聞」索引(人名別)

★本間富美子
佐渡高校時代の昭和38、白扇書道会主催全国学生書道展優良校貴受賞、特賞 昭和39,1、日本書道美術院主催全国競書大会団体奨励賞受賞、文化院賞

★本間文蔵
横浜で成功した佐渡人であるが詳しいことは不明。明治44年夏、東京相撲の横綱常陸山、西の海一行が来島したが、これは本間文蔵にお世話になった常陸山による追善興行であった。
「奇行の医者」(「佐渡の百年」)

★本間文平
ほん本間文平

★本間兵吉(保豊) 
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
伝えるところによると、岡田の稲場の村川吉右衛門昌平が、剣道一波流の免許を、嘉永二年(一八四九)五月に受け、さらに剣道随変篠田流・同無限心流、また柔道は唯心流を極め、若者らに指導したという。大崎では葛原源左衛門本考(野口)・八尋渕甚太郎(木戸場)・本間兵吉保豊(兵庫)・中川春吉(清水)らがこれに師事した。ことに葛原源左衛門は、剣道一波流の白刃をもよくし、若者たちにこれを伝授した。八王寺祭(草刈神社)には、以前は余興として大崎・西方の若者が、白刃の型を奉納したと伝えられる。
 →葛原源左衛門

★本間平左衛門(小木田野浦)
『小木町史』より
佐渡の海岸の村の旧家にときどき本間姓をもつ家があります。そうした家は、村の大屋といわれたり、村の立ちはじまりといわれているものが多いようです。もとは村の草分けの一族の長で名字も違っていた人たちでしょうが、戦国時代に入ってから本間の殿さまの家臣に組み入れられ、本間姓を与えられて本間を名乗るようにをったものでしょう。田野浦も、鎌倉時代に江積の出村として開発された村です。この村の大屋の本間平左衛門は江積村円満寺のおも檀家で、江戸時代の初期から中使(ちゅうじ)を勤めています。戦国時代には、村の親方として羽茂殿の家臣になったものでしょう。村の谷の入口に古い水田があり、山田安兵衛が持っていますが、この水田は大屋が開いたものといい、安兵衛はそのわかれであると伝えています。

★本間兵助
『新穂村史』(昭和51年)より
(新穂)弐方潟の城その昔弐方潟というひとつのブロックが存在したで雪うことは、弐方潟に気比大明神があったことや、長畝の観音院や内巻の東光院の本房である宝幢寺という大きな浄土系寺院が元気比社のすぐば弐方潟の地にあったことで推測される。こうした大寺や大社が領主と関係なしに存在することは先ずあり待ないと思われる。だから弐方潟に領主がいたことが推測される。ところが、現実に弐方潟の城はどこにあるのか、ということになるとその存在の場所がわからないのが実情なのである。そこでここではうすうすそうかも知れないと思う調査の覚書を記録しておくことにする。先ず弐方潟の三家老と呼ばれる家がある。それは、土屋後藤助・本間兵助・池田的場の三人である。そのうち池田的場の家は主計(かずえ)ともいわれており、気比神社でお札を配るときにほ主計の家と三田甚八郎の家には特別のお札を配ったという。この家が的場という名称で呼ばれるのは気比社の的場があって、それと何かのかかわりをもった家ではないか。そのために的場の家と気比社が特別の関係をもったのではあるまいか。

★本間兵蔵
本間兵蔵(市川多三郎 新穂村史 s51年)
ほん本間兵蔵 市川多三郎 新穂村史 s51年
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
いち 市川田三郎
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂田野沢の人、山田紋四郎を主に、島内は勿論越後方面各地に村祭の余興や興業をして大喝采を博した「紋四郎かぶき」の一員。芸名市川多三郎。
→山田紋四郎

★本間芳堂(義夫)
ほん本間義夫(芳堂)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「39号」(平成26年10月)中芳書道会40周年記念展(藍原七穂)※本間芳堂(義夫)・藤村中堂

★本間マコ
「島の新聞」索引(人名別)

★本間孫七  
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治五年の区長雑記を見ると酒造業、九十五石本間善平、六十石本間孫次、六十石杉山吉三郎、四十石中嶋伝四郎、二十石川原平五郎、二十石渡辺快次、醤油製造業、十五石本間孫七、十五石山田忠三郎という記録がある。孫七が酒造業を始めたのは明和四年(一七六七)万吉から分家した初代秀英の時からである。この孫七の家から(相川から入婿になった人)江戸末期に佐渡の中江藤樹と言われた漢学者が出て有名な犂雨村舎をたてて漢学を教授して数多くの漢学者を出した。

★本間孫平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、第六回選挙[二十一年一月]

★本間正章
ほ本間正章
mastermind JAPAN デザイナー
・プロフィール
昭和44年両津夷に生まれる。(実家は当時夷にあった理髪店「ビューティホンマ」)
両津高校普通科卒(39回生)。
1997年、マスターマインドジャパン設立。
1999年にメンズブランド、mastermind JAPANの1stショーを東京で開催。
2001年、パリの展示会に出展、インポートを開始した。
2003年にパリ展示会『Le Done』内での単独ショーを開催。
2004年よりパリでの展示会を単独で開催。
“ハイエンド・カジュアル”の先駆者。
ラグジュアリーなマテリアルを遊び感覚で着こなし、心に愛と平和を秘める大人の男の服。
同年、ディズニーとのコラボレーション、2005年にはフランスの老舗メーカー『ゴヤール』との
コラボレーション商品をパリと東京で発表。
現在LAはじめパリ、ロンドン、ミラノなど海外高級セレクトショップにて、トップ・プレステージブランド
として安定した評価を得ている。
顧客リストには国内外のセレブリティー、アスリート、ミュージシャン、俳優など熱烈なファンが多数連なる。
※母は北小浦浅井さん。浅井家次男がワット隆子さんの妹と結婚。ちなみに浅井さん長男はきらくホテル長女の夫。
指揮者新通英博氏:祖母は大阪屋さんの出、即ち現当主の佐藤石松氏(大正12年生)の姉。ワット隆子さん:祖父が加茂村村長の馬首山本菊次さん。その娘テルさんは夷大阪屋の佐藤石松さんの妻。東京両津の会の佐藤氏とワットさんは従兄弟同士。
・デザインのポイント
「LOVE & PEACE with Rolling Stones!」
・両津で生まれ、1年間イギリスで英語を学んだ後、親の後継ぎをして美容師になろうとした。
 実家はとバーバー「ビューティホンマ」。
・「元来、毛がなくなる家系なので美容師になっても説得力がない」と意を改め、一転ファッション・デザイナーの道を選んだ。
 19歳でヨージ・ヤマモトの店で働き始めた青年の夢が叶ったのは、それから約10年後。
・ヨージ・ヤマモトを卒業し、「MASTERMIND JAPAN」という自身のブランドを立ち上げた。
・薄利多売を狙って価格の低いラインのTシャツやトレーナーを作ろうと思えばそれもできただろう。
 本間は頑なに、素材の良さと埋もれている日本の技術を拾い上げながら服を作り上げるという意志を貫き、
 高価格ラインの商品を市場にぶつけつづけた。
・その願いがようやく昨年実り、「南青山の本間」は一気に「世界が知るHONMA」になった。
・ブランドは海外のトップバイヤーやセレブリティの眼鏡に叶い、日本に逆輸入されるや、若きカリスマ達に
 チョイスされ、一気に爆発した。
・今や、4万円のTシャツや35万円のセーターが出荷即日完売という勢いである。
・デザインだけでなく、素材から縫製技術までメイド・イン・ジャパンの魂を注ぎ込みたいという考えが本間には
 ある。今シーズンのテーマ「REAL MASTERMIND」のREAL MASTERとは、”ひとつの才能に長けた本物”を意味する
 という。
庄野潤三『佐渡』に本間さんの父が描かれる。
ほん本間正章 (1) ほん本間正章 (2)

★本間正方(まさかた)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国賀茂郡吉井の上杉時代地頭である藍原泰理の旗本で吉井に住んだ。吉岡、三宮、名古屋、馬場、北村、後山、宮浦等千四有余石を領した。遠江守といった。(佐島退事)

★本間昌方
潟上の本間能太夫家八代右近昌方( ~1756)。享保2年(1717)8月1~3日沢根で勧進能を勤める。国仲の能が盛んになる反面、相川の神事能が神楽に替わられることを恐れ、享保13年(1728)春日社社祠 津田山城に願文を提出。(享保9年経費節約から定能をやめ神楽に改めた。そのため書面を神職に送って費用の一部を自分たちも負担するから神事能を復興してもらいたいと願い出た。なお、奉行によって能に興味のない者もいて一様に援助されていたわけではない)

★本間正樹
ほん本間正樹

★本間正樹
ほん本間正樹 (1) ほん本間正樹 (2) ほん本間正樹 (3) ほん本間正樹 (4) ほん本間正樹 (5) ほん本間正樹 (6)
絵本作家。1952年、真野金丸生まれ。実家は曹洞宗種徳院。創作のほか、自然と人間をテーマにしたノンフィクションなど、幅広く執筆活動をしている。主な作品に『大地とともに』(第41回産経児童出版文化賞推薦図書)など
(作品)
「おしゃかさま」(佼成出版社 発行日:2017年02月) 「がんばれ! とびまる」(佼成出版社:2004年11月) 「ぼくのダーナマン」(佼成出版社:2004年11月) 「ポリンはポリン」(佼成出版社:2004年10月) 「ずっとともだち」(佼成出版社:2004年10月) 「こぎつねキッコ」(佼成出版社:2004年9月) 「かみなりコゴロウ」(佼成出版社:2004年) 「ねこにのまれて」(佼成出版社:2004年) 「あいたいきもち」(佼成出版社:2004年) 「こんにちは」(佼成出版社:2004年) 「ひとりじめ」(佼成出版社:2004年) 「ざりがに」(小峰書店:1993年02月) 「ひこうきにのったよ」(小峰書店:1992年02月) 「紙芝居 おいしいランドのたんけんたい」(出版社:メイト)

★本間雅子
 両津高校時代の1996年度(H8)、秋季簿記県大会  団体2位(橋本一幸 伊藤由希子 小田亮平  安田道宏 本間雅子 高橋祐子)

★本間正隆
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ほん本間正隆 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★本間勝人(まさと)
※下記略歴につき、問題点・疑問点が出てきましたので確認中です。(令和4年7月 管理人)
写真左から:ミレスチ・ミーチ社副社長 モルドバ共和国前副大統領 本間勝人 
ほん本間勝人 左から ミレスチ・ミーチ社副社長 モルドバ共和国前副大統領 本間さん 
NPO日本・ウクライナ・モルドバ友好協会副会長でモルドバ・ワイン輸入の仕掛け人、本間勝人氏。ミレスチ・ミーチのビンテッジワインは約200キロメートルに渡る天然の巨大な地下貯蔵庫を持っていることで有名。このビジネスの収益は一部、チェリノブイリやストリートチルドレン・恵まれないこどもたちの支援のために使われる。本間氏は、佐渡の金山・本間財閥の本家の血筋。長男の跡継ぎという立場で、18歳のとき、東京の日立研究所に勤務。研究成果に対して、100万円のボーナスを一回もらうだけで、高卒は係長どまり、という、待遇を知る。同僚は、自己の発明・発見をたずさえて、アメリカに渡り、数十億の収入を得ている現実を知り、自分の現状に飽き足らず、2年で退社。その後、特殊ガラス(本間ガラス)や様々な職業を経て、現在は神奈川県で不動産会社を営む。モルドバ・ワインとの出会いで、チャリチィーの面白さに引かれ、自己所有のマンション2棟を、このための資金にした。
※2019年 新潟日報:佐渡市で放射性汚泥処理計画 地元住民が反発、断念へ|新潟県内のニュース

★本間真人
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
徳和村 ・明2、監獄実地調査[二十一年六月]

★本間正直
新穂の医師。本間芳太郎氏の長男で馬場で父の後を継いで開院した。後年目が不自由だった。父の弟に中興の堀家を継いだ堀治部(じぶ)がいる。本間家は江戸時代に両替商等で財をなし、本間万吉の代(享和年間)には伊能忠敬の別働隊平山隊が宿泊している。また本間黙斉はこの本間家の分家である。
→本間万吉、本間黙斉、本間芳太郎、堀治部

★本間正宣
「島の新聞」索引(人名別)

★本間雅晴(ほんままさはる)
「ショートプロフィール」1888(明治21)-1967(昭和21年)三宮村の農家で出生。陸軍士官学校、陸軍大学で優等生。英国駐在中第一次世界大戦参加。帰国後陸軍大学校教官。インド駐在、帰国後に台湾軍司令官、太平洋戦争で比島方面軍司令官。バターン半島戦で投降した7万余米比軍の扱いで現地裁判で銃殺刑。
本間雅晴
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【生没】一八八八ー一九四六(明治21-昭和21年) 一月二十七日、後山(当時三宮村)の農家紋次右衛門家(通称・町のいんきょ)に生まれる。ひとり子であったが家業をつがず、陸軍士官学校に入り職業軍人となる。陸士校へは、従来は幼年学校出身者だけが進むことができたが、明治三十八年(一九○五)十二月に、日露戦争での将校不足を補うため中学校出身者を募集、その第一回生であった。さらに陸軍大学校に進み、優等生として恩賜の軍刀を与えられた。参謀本部付、イギリス駐在中ヨーロッパで第一次世界大戦に参加。帰国後に陸軍大学校教官となる。インド駐在三年の後、再び参謀本部付と陸大教官を兼任。昭和二年(一九二七)秩父宮付武官・イギリス大使官付武官。大戦後の軍縮会議に出席ののち、陸軍省新設の新聞班長に就任のため帰国。昭和九年(一九三四)歩兵第一聨隊長。翌年旅團長、英皇帝戴冠式に秩父宮の随員として出席。帰国後に参謀本部第二部長・第二七師団長・台湾軍司令官をへて、太平洋戦争の緒戦で比島方面軍司令官となる。昭和十七年(一九四二)五月。バタアン半島戦で投降した七万余の米比軍の扱いが悪かったとして、戦後の現地裁判により銃殺刑。同二十一年四月三日死去。【参考文献】角田房子『いっさい夢に御座候』(中央公論社) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間雅晴
13 鑑賞 佐渡のうた (13) 有田真平・長谷川楽天・本間雅晴 山本修巳  22 本間雅晴将軍を士官学校へすすめた同級生 舟崎由夫  121 悲運の文学将軍 中将の初恋をめぐって 谷口真弓  121 将軍の辞世の和歌  132 《台湾》台北・台南・高雄 佐渡縁の人の痕跡を訪ねる旅(3.23~27日) 山本修巳 
「佐渡ジャーナル」関係記事:「14号」(平成20年7月)本間雅晴中将の書「大和魂」-靖国神社の遊就館に展示-「25号」(平成23年4月)「写真で語る」本間雅晴・陸軍省新聞班長の頃(岩田雅)「27号」(平成23年10月)「写真で語る」バターン死の行進65年後の真実(岩田雅)「28号」(平成24年1月)「写真で語る」本間雅晴の太平洋戦争観(岩田雅)「30号」(平成24年7月)「写真で語る」祖国離れマニラの土へ(岩田雅)※本間雅晴「31号」(平成24年10月)「写真で語る」戦争画に描かれた本間雅晴(岩田雅)「32号」(平成25年1月)「鬼太鼓の鬼 時代を歩く 評伝・本間雅晴のころ」(岩田雅著)
「島の新聞」索引(人名別)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4十五年戦争と佐渡の将軍
「ウイキペディア」より 
 本間雅晴 その他諸情報

★本間正春
ほん本間正春 - コピー ほん本間正春
昭和3年、新穂村舟下生まれ。令和3年6月没、93歳。農業の傍ら昭和55年頃から面彫りを始める。彫り上げた作品は1000点を超える。イメージを簡単なデッサンから立体に表現する力は抜群と言われる。現在は彫り三昧の生活である。作品は新穂民俗資料館で見ることができる。

★本間雅彦(ほんままさひこ)
「ショートプロフィール」大正6年(1917)ー平成22年(2010)。東京で出生、本間雅晴中将二男。佐渡中学ー東京農大学卒。佐渡農高教諭。郷土史・民俗研究など執筆多数。宮本常一との交流が縁で鬼太鼓座創立に尽力。座の開始は妻の実家旧若林医院。
本間雅彦
ほん本間雅彦
ほ本間雅彦 ほん本間雅彦1 ほん本間雅彦2 ほん本間雅彦3
ほん本間雅彦
ほん本間雅彦1 (1) ほん本間雅彦1 (2) ほん本間雅彦1 (3) ほん本間雅彦1 (4)
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・『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)
1917年(大正6)9月26日-2010年(平成22年)6月16日没。享年94歳。東京都新宿区四谷単笥町で本間雅晴中将の二男として出生。同12年故郷の佐渡畑野町宮川へ移る。昭和10年県立佐渡中学卒業、同17年東京農大農学部農業経済学料率業と同時に応召、千島で終戦を迎え、シべリアで抑留生活4年、同24年10月復員、同27年東京農大助手、同26年佐渡農業高校教諭。佐渡の郷土史や民俗研究など執筆多数。佐渡での理解者として鬼太鼓座の立ち上げを支援し、初期には「てずから工房」を作り、自らものづくりを若い人達に伝える。宮本常一と親しく交わったことが縁で、鬼太鼓座創立に尽力した。田耕(でん・たがやす)によって初めて鬼太鼓座が運動を開始したのは、雅彦の妻の実家である旧若林医院の建物である。鼓童文化財団評議員。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
・著書多数:「舟木の島: 佐渡杣小誌」(日本海文化研究所 1971年)「春駒の文化史」(てずから工房 1983年)「牛のきた道―地名が語る和牛の足跡」 (ニュー・フォークロア双書 1994年)「鬼の人類学」(1997年) 「縄文の地名を探る」(2000年)「春駒の文化史」(てずから工房 1983年)「和牛の土俗誌」
その他
・父本間雅晴中将が東京成城在住で、柳田国男の家と近く雅彦も来島前に柳田と交流があった。結婚する時にも柳田邸に挨拶に行っている。また、民俗資料収集用にと当時は大変高価だったソニー(当時は日本通信工業?)のテープレコーダーを柳田からもらっている。この機械を利用して、丸山久子の佐渡でも民話聞き取りが行われた。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和9年、第4回県下男子中等学校競技大会に出場し三段跳4位、記録は12m74、棒高跳は1位、記録は3m20。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間雅彦
 15 独立のない佐渡独立論-佐渡独立論とわたし-本間雅彦  17 近代詩 うっしゃま  22 佐渡のおなご衆  30 佐渡プロテスタント小史 (1)   32 佐渡プロテスタント小史 (2)   33 佐渡プロテスタント小史 (3)   64 佐渡の庶民研究近況  73 島名「サド」の語源について  81 再び「島名サドの語源」について  83 韃靼人の墓  87 伝統の罪 -民族学からの文化論-  94 長谷川四郎を読む(上)  101 島の窓口「山本半右衛門」 -『軒過録』を読んで-  119 佐渡の小字地名  120 新※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)海府の詩(うた)
「島の新聞」索引(人名別)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)p427・428・431・432
『島の風俗』(本間雅彦 昭和35年7月―8月)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 3佐渡の国仲・外海府というところ3 曽我真一さんを悼む 3鬼太鼓と若衆 7父の予言 8<巻頭詩〉鬼の幻想 8《特別寄稿》荒波会と眼科医の川辺時三 9海府の詩 9むらかみてんのう考一佐渡わらべ唄ー 10「牧畜佐渡発祥説」考 

★本間正英
ほん本間正英 (1) ほん本間正英 (2) ほん本間正英 (3)


★本間正博

「島の新聞」索引(人名別)

★本間昌房
潟上の本間能太夫家七代権之丞昌房( ~1700)。春日社の神事能を勤めたのは寛文6(1766)・7・8・10年(1670)。短命で父より早く没す。

★本間正巳
両津高校時代の1992年度(H4)10月、第6回学生短歌・高校生の部(短歌新聞社『短歌現代』10月号)入選 

★本間ますみ
ほん本間ますみ
•ペットボトルリサイクルアーティスト
略歴
1992年
•女子美術大学絵画科卒業・同研究科2年終了
2006年
•ペットボトルソフィストケイティドアート制作を開始示
2008~10年
•ホテル・駅等各所でクリスマス装飾展示
2010年
•新江の島水族館「サンゴ礁の世界」展示
•赤坂アークヒルズ「北欧の森」に薔薇展示
•幼児教育雑誌 科学ぷれいらんど掲載
2010年
•沼津港深海水族館「リュウグウノツカイ4.6m」常設展示
2011年
•沼津港深海水族館「リュウグウノツカイ4.6m」常設展示
2012年
•日本ホビー大賞 奨励賞受賞
•読売新聞・MSNニュースにて個展「花鳥風月」記載
2013年
•渋谷Hikarie「東北復興支援・MONSTER展」出展(2月)
•WOWOWプライムショーにて作品紹介(4月)
•かねふくめんたパーク大洗屋外用カラーボール展示(11月~)
2014年
•池袋サンシャイン水族館にてコラボ展(前年11月~1月)
•池袋サンシャイン水族館内「リュウグウノツカイ4m」常設展示(3月)
•東京新聞にて特集記事掲載(2月)
•日本テレビ「スッキリ」「ギャップ人」出演(3月)
•読売テレビ「ほんわかテレビ」出演(4月)
•東京FM「フロンティアーズ~明日への挑戦」出演(4月)
•フジテレビ「めざましテレビ」出演(5月)
•日本テレビ 「news every」「ネプ&イモトの世界番付」出演(5月)
•NHK総合「ひるまえほっと」出演(6月)
•中日新聞「こどもウィークリー」記事掲載(6月)
•テレビ朝日「モーニングバード」出演(7月)
•よこはまみなとみらいギャラリーにて個展開催「甦るPETボトルー海ー」(7月2日~7日)
•SONY HPにて特集記事掲載(8月)
•教育雑誌「マイナビゲート」記事掲載(8月)
•テレビ東京「L4・Youプラス」出演(9月)
•イオンモールムーミン企画展出品協力(9月)
•池袋東急ハンズ「30周年企画展」出品(10月)
•NHK Eテレ「シャキーン!」写真出演(10月)
•宮崎ケーブルテレビの「てげテレ」写真出演(10月)
•福音館書店 「たくさんのふしぎ11月号」記事掲載(11月)
•テレビ朝日「デザイン・コード」出演(11月)
•eco japan cupエコアート入選(12月)
2015年
•「THE MINI INTERNATIONAL」42号に記事掲載(1月)
•沖縄県立博物館・美術館特別展「Reborn~異彩放つ琉球の自然」個展開催(2月~4月5日)
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「フロンティアーズ~明日への挑戦」より
本間さんは新潟県佐渡島出身。
自然の中で育ち、将来は生物学者になりたかったそうです。
でも、高3の秋に、当時の共通一次試験に合格する英語力がないことを先生に指摘され、
絵が好きで、上手だと褒められてきたので、美大に進路を変更しました。
専攻したのは油絵。
本間さんの作品を見た教授たちのコメントは「粘り強いねえ・・・」。
それが褒められているのか、けなされているのかわからなかったそうで、
周囲に聞いたところ「褒め言葉」だと言われて安心したとか。
卒業後、芸術家になるビジョンはなく、就職を考えていました。
実家からの仕送りを終えて、経済的に自立しなければと思ったからです。
好きなことをやるなら、それからだと。
ただ、誰にもできるような仕事はやりたくありませんでした。
「自分だからできる、面白い仕事がしたい」と思い、
4年の在学期間の後に設けられている2年の研究科に進みます。
その間に知ったのが動物園や水族館の展示物をつくる仕事でした。
偶然にも大学時代に建築会社でアルバイトしていたので
図面を読むことができるようになっていたこともあり、
はじめはアルバイトで採用され、後に社員になりました。
今でも有名な全国の水族館の展示物を多数手がけたそうです。
しかし、バブル景気が終わると、新しい動物園や水族館の建設はなくなり、会社は解散。
本間さんは独立し仕事をしていく中で、2006年に転機が訪れます。
ホテルのイルミネーションを「エコ」をテーマにつくってほしいという依頼を受けたのです。
いろいろ考えた末、本間さんが決めた素材はペットボトル。
ゴミになってしまうものを使って、それがガラスであるかのように美しく見える、
展示の役目を終えた時にはリサイクルできる、
その象徴としてペットボトルを使おうと思ったのです。
本間さんは、それまでにつくってきたものが、
最終的に廃棄物となることにジレンマも抱えていました。
そうして、つくりはじめたのがペットボトルリサイクルアート。
美大時代に指摘された「粘り強さ」で、さまざまな切り取り方、
加工方法を考え出し、さまざまな作品をつくっています。
自身が手がけている繊細な作品は、
「ペットボトル ソフィスティケッドアート」と名づけました。
ただ、こうした作品を自分1人でつくっていては「エコ」にならない!
そう考えた本間さんは、もう少し簡単な作品づくりを教えることを考えています。
例えば、東日本大震災の被害を受けた、東北の農家の方たち。
実家が専業農家だった本間さんは、
農家の女性が冬の間、副業として器用なものづくりをするのを見てきました。
冬の間に作品をつくってもらい、暖かくなったら発表するイベントを開く、
それを見に観光客が訪れるようになる、そんなことができればと考えています。

本間ますみさんのwebサイトはこちら!
http://masumi-homma.com/

★本間真本(まさもと)
『小木町史』より
室町時代の初期、応永三十三年(一四二六)、羽茂菅原天神の土地寄進状に載る地頭は、沙弥真本とあります。習三十四年の銀のある羽茂大蓮寺(禅宗で羽茂地頭の菩提寺)の本尊の無量寿仏の胎内に書かれている名前は、大檀那本間対馬人道真本とあります。同一人なのでしょう。そのころ、羽茂の大蓮寺をもつほど羽茂本間氏の経済力は大きくなっているのです。

★本間正幸
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間正幸
 82 「いわし雲」によせる想い-『追悼 山本修之助』-  125 「花麝香」と人々の香気 -山本修巳著『句集 花麝香』を読む-

★本間又兵衛
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
両津市夷の人、又兵術人形創始者。又兵衛の遺族は、明治三十六年ころ北海道へ移住。人形のカシラ十数個は親戚の同地本間鉄太郎が保管していたが、昭和二十三年両津大火で焼失した。髪は麻糸を黒く染めたもので、カシラは「作りつけ」の古型であったという。
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
ほう祝次郎助

★本間真珠(ほんままたま)
ほん本間真珠 (2)
ほん本間真珠 (3)
ほん本間真珠 (1)
ほん本間真珠
新穂の人。平成24年没、享年81歳。国文学者であり、両津高校他島内高校教諭として多くの文学愛好家を育てた。
父は投稿詩人として全国的に知られた本間五丈原(ごじょうげん)。平成24年没、享年81歳。
(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
『微笑』(小説35枚 島の四季 昭和59・佐渡新報社)
佐渡金山における厳重な監視と過酷な労働を背景に、虐げられた人が、束の間の自ら選んだ生き方に満足す
る物語。主人公は口減らしのため江戸へ出たが職もなく、無宿人として佐渡へ護送される。帰国は保証する
という役人の言に、水番人足の仕事に励むが、帰国は果たされない。体力は衰えるばかり。彼はついに島抜
けを決行する。それが成功しないことは明らかであるけれども「生きる」意味についての激しい自問自答が
印象的である。
『香華』(小説59枚 島の四季 昭和59・佐渡新報社)
「県民文芸」昭和55年3月。佐渡金山に通じる間道にひっそりと建つ水替人足二十八人の墓のいわれを記し
た小説。建立者は差配人与吉。鬼の与吉と呼ばれた彼も、一人の事故死がきっかけとなって心を寄せ合う人
足達の姿に、彼等の人情を知り、人間らしい心をとり戻すことができた。ちょうどその直後に発生した坑内
火災、延焼を防ぐため、二十八人の命は犠牲にされた。こうした金山の悲惨な有様とともに、人々の心の動き
が、その時々に応じて生々しく描き出されている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間眞珠 
 79 高野喜久雄『出会うため』寸感 本間 眞珠  82 句集『花麝香』と山本修巳  85 奉行と一汁一菜 88 漂うロマンの余韻 -上田三四二『冬暦』- 92 「自分史」の歌の重み -金子賤子遺歌集『遠花火』- 96 句集『紙魚』と山本修巳 102 河原作左衛門家所蔵古文書 -持山松木盗伐に懸る争論 108 詩人・高野喜久雄 120 『佐渡びとの道中記』本間眞珠※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山本修巳 本間 恂一 122 本間眞珠・山本修巳編著『佐渡びとの道中記-山本慊の近代の見聞録-の刊行にふれて 田中聡 123 山本修巳句集『花麝香』を読む 本間眞珠

★本間マツ   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭和14年、第9回県下女子中等学校体育大会400mRで河原田高女5位(近藤絢子、石塚スエ、本間マツ、小野トイ)
昭和15年、第10回県下女子中等学校体育大会(柏崎グランド)体力300mRで河原田高女1位(近藤絢子、本間マツ、中川タエ)43秒9。
河原田高女時代の昭和17年、第12回県下女子中等学校体育大会(長岡中学グランド)体力競技(ボール投、三回跳、300mRの三種目の合計点で採点し、順位を競う競技)1位。

★本間松太郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
ほん本間松太郎 新潟県官民肖像録 明治41年

★本間満美子
両津高校時代の1983年度(S58)11月、第29回青少年読書感想文コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催) 県審査優秀賞 

★本間希樹(まれき)
ほん本間希樹 ほん本間希樹 (1) ほん本間希樹 (2) ほん本間希樹 ほん本間希樹
「サイエンスプロジェクト」(令和4年7月31日 「ひとの話」)(本間芳則・本間希樹・渡辺和弘 司会:小橋敞徳)
サイエンスプロジェクト 040904 (1) サイエンスプロジェクト 040904 (2)
父本間秀木氏は金井中興 本間権右衛門家の人。希樹氏は1971年アメリカ合衆国テキサス州生まれ。東京大学大学院理学系研究科天文学専攻博士課程を修了し、博士(理学)の学位を取得。現在、国立天文台水沢VLBI観測所教授。専門は、超高分解能電波観測による銀河系天文学。特に、銀河系の構造研究と、巨大ブラックホールの研究。現在、巨大ブラックホールを事象の地平線スケールまで分解する、EHT(Event Horizon Telescope)プロジェクトに日本側責任者として参加し、銀河の中心部にあるとされる巨大ブラックホールの存在の確認に挑んでいる。
※・実家は、佐渡市中興(なかおく)の「老人健保施設さど」から南に200 mほど下ったところ。屋号は、権右衛門(ごんねむ)です。本家の本間権左衛(ごんじぇむ)家は、天正十七年(1589年)6月の佐渡攻めの時に、上杉に味方した沢根本間氏の子孫で親は、中興に領地を貰いました。本間権右衛門家は1700年代中頃に第三代本間権左衛家から分家。
・中興神社道南の禅宗興源院の周囲には、大きな空堀があります。これが本間権左衛門および本間権右衛門の菩提所です。詳しくは、金井町史や中興史で。
・父は秀木(ひでき)で昭和11年生、金沢小、金沢中学を卒業した。その後、島外に出て上場企業に勤めた。
・本間権左衛門家が本家で当主は東京理科大学名誉教授の本間芳和氏。
・人気漫画「花の慶次」に本間権左衛門家は悪役として登場する。本間希樹教授は講演等でその話を面白く語る。

アインシュタインがその存在を予言してから100年。多くの謎に包まれていたブラックホールだったが、2019年4月10日に本間が発表した「直径約1000億キロで周囲の温度は60億度以上」という途方もないサイズ感も含め、初めて公開されたブラックホールの画像に宇宙のロマンを感じた方も多かっただろう。
以下は、2019年4月14日放送ドキュメンタリー番組「情熱大陸」(MBS製作著作/TBS系全国ネット)からの引用
『今回の研究は13機関200名を超える研究者からなるビッグプロジェクトで、銀河系内の天体が発する電波をもとに、地球からの距離や天体の動きを高い精度で計測する最新の「電波望遠鏡」を世界各地で繋いで地球規模の巨大観測システムを構築し、ブラックホールの姿を明らかにするというものだ。番組では日本を代表する天文学者としてプロジェクトで活躍を続ける本間に2年4カ月にわたって長期密着取材を敢行。歴史的快挙を成し遂げたプロジェクトの舞台裏に迫る。「見えない宇宙の中でも究極に“見えない”のがブラックホールですよね。簡単に見えないからこそ面白い。人間は宇宙でも何でも“見えないものを見たい”という好奇心から始まるじゃないですか」
はるか宇宙の彼方、5500万光年先の「暗黒天体」を直接見る力を手に入れた研究者たちが、最先端の天文学によってまだ誰も見たことの無いブラックホールの謎を解き明かすまでの一部始終をカメラが追った。』
<プロフィル>本間希樹(ほんま・まれき) 1971年アメリカ合衆国テキサス州生まれ。子供の頃から星を見るのが好きで、自然科学の研究者を志して東京大学に入学。「スケールの大きな研究がしたい」と大学院から電波天文学の世界に飛び込む。東京大学大学院博士課程修了後、国立天文台の研究員に。複数の望遠鏡で同じ天体を観測し、データを掛け合わせることで巨大望遠鏡で観測したのと同じ解像度を得るシステムの第一人者として、日本では水沢(岩手)、小笠原(東京)、入来(鹿児島)、石垣島(沖縄)の4基を繋いで観測する「VERAシステム」のリーダーを務め、その実績により2014年「自然科学研究機構若手研究者賞」受賞。現在も水沢にあるVLBI観測所長として岩手県に単身赴任中。
「天の川のブラックホール初撮影」 「研究の新たな幕開け」
「産経新聞」2022/5/12
宇宙で最も重く、謎に包まれた天体であるブラックホールのうち、太陽系がある天の川銀河の中心に位置する「いて座Aスター」の撮影に成功したと、国立天文台などの国際チームが12日、発表した。非常に強い重力であらゆる物質をのみ込むため、姿を見ることが困難なブラックホールの撮影成功は世界で2例目で、身近な天の川銀河では初。国際チームの日本メンバーは同日、東京都内で記者会見し「ブラックホールや銀河の多様性の理解につながる。研究の新しい幕が開ける」と語った。いて座Aスターは、地球から約2万7000光年の距離で太陽の400万倍の質量を持つ。その存在は欧米の研究者が観測で指摘し、2020年のノーベル物理学賞に輝いた。だが、光さえ引き込まれて出てこないことから真っ暗で、撮影はできていなかった。そこで国際チームは、国立天文台などが建設した南米チリのアルマ望遠鏡や米欧、南極など6カ所計8基の電波望遠鏡を連携し、地球サイズの巨大な望遠鏡に匹敵する高解像度の観測体制を構築。17年4月に観測を行いデータを解析した結果、周囲のガスが引き込まれる際に輝く様子を捉え、直径約6000万キロの明るい円形の中央部に、「黒い穴」のような姿を浮かび上がらせることに成功した。国際チームは同じ手法で19年、世界初のブラックホールの撮影成功を発表している。対象は、5500万光年離れたおとめ座のM87銀河の中心にあり、太陽の65億倍の質量を持つ巨大ブラックホールだった。観測時期は同じだが、いて座Aスターは周囲の物質の動きが速く不安定なため、M87銀河の解析が先行した。M87銀河のブラックホールは、ガスが猛スピードで噴出するジェットという現象が確認されているが、いて座Aスターにはなく、両者は特徴が異なる。国際チームの日本代表を務める国立天文台の本間希樹(まれき)教授は「画像を詳しく比較すれば、活動性の違いの起源や銀河に与える影響の解明につながる。重力が強い空間で既存の物理法則が成立するかどうかの検証にも役立つだろう」と話している。

★本間万吉
新穂で漢方薬の商いと両替屋を営んでいた資産家。文化元年(1804)48歳で歿。名は子済、字は世郷。享和3年(1803)9月12日、伊能測量隊の内、平山隊が宿泊する。この時に応対したのはこの人と思われる。真野新町山本半左衛門家五世、半右衛門の三男で新穂本間家に養子に入った人。尚、本間万吉家の分家に本間孫七家がある。この家から、文政9年(1826)に新穂の私塾「犂雨村舎」を開き、丸山遜郷と共に佐渡奉行所内学問所(後、修教館)の教授となる本間黙斎が出た。平山隊の宿泊時、黙斎は50歳で道を挟んではす向かいに住んでいた。本間万吉家の墓と顕彰碑?は現在(平成27年)新穂横町の「寿司の長三郎」裏の車庫の所にあり広い敷地である。古くはこの一帯(長三郎や隣の駐車場-以前山田医院があった-)は全て本間万吉家のものであったらしい。なお、子に家から明治に入って本間芳太郎、健吉兄弟が出て共に医師となり、前者は「鮮魚 佐助」隣(両津側で現在空き地)で耳鼻咽喉科医院を開き、後者は松ヶ崎で医院を開業した。芳太郎は佐渡中学一回生で校舎完成時には在校生代表として挨拶したと「佐渡高校百年誌」にある。芳太郎の長男は正直で父の後を継いで医師となったが、後年目が不自由であった。次男は治部(じぶ)は中興の堀家を継ぎ、東京池袋で開院していたが子供に恵まれなかったので当時の金井町に建物と土地を寄贈した。なお、中興の堀家は現在(平成27年)「金井能楽堂」となっており、昭和27年の「佐渡ケ島エレジー」のロケに使われた。
現在本間家は新穂川に面する角地(スナック「狸楽巣」裏)にあり、正直の子芳之氏が退職後佐渡に戻って家を継いでいる。
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
このように銀山の繁栄は町の発展となり、いろいろな新しい事業が起り、商取引が活発になってくると金融がいそがしくなるのは当然であって、明暦年間 (一六六五-一六六七)、河原田町から移住してきた中町の万吉は、薬種商のかたわら両替屋(質屋兼金貸し)を始め、人形屋万吉、のちに穂波屋万吉と改めて島内全城にわたって手広く事業を繁栄せしめている。明治四十年一月佐渡銀行両津支店が本間万苦方(現佐助屋敷)に設立、大正十五年第四銀行と合併。 新穂はかなり古い時代から天満天神の信仰があって、この年、寛政八年になって、舞内でも有数の富者者であった漢方薬商業両替屋(質屋金貸し)本間万苦の寄進を得て、ずいぶん立派な尊像一体を迎えたものゝように思われる。
(天神祭)
町内の信者は二組に別れて祭りに参加したのである。即ち乗光寺組は万吉組とも言って、七軒町小路と久太夫小路を堺にして西価にあたる中町、下町、横町と馬場南側の下新穂地の琵民が氏子で約八十一軒、三諦坊組は上酒屋組とも言って、上町、
河原町、馬場北側及び番出の上新穂地の住民で氏子の数は約九十七軒であったと言うが、昭和十一年十二月、両寺は合併して成就山菅明寺と名乗るようになって、その時、天満宮もーケ所に集め、現在奥の院となっているのが乗光坊のやしろ、外側の拝殿が三諦坊のやしろであって、信者も町内一円となったのである。瓜生産橋を渡り、河原町から上町え出て、上酒屋の家の前でひと休みするのである。そして再び上町から中町へ進み下仲町本間万吉の家の前で行列を止めて少休憩するのである。上酒屋といい、万吉といい、この二軒の家の前でのみ、神輿を据えて一服するのは、この両家が先に記したように、天満宮を寄進したことに感謝して、両家の屋号を組名として用いるのと同じょぅに、氏子達が祭りの敬意を表わしての挨拶なのである。この-時、本間さん(万苦)では、じよおろきん(上蕗=高位高宮の奥さんの敬称)が出て、神輿にお寒銭を上げるのであった。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間萬吉 126 新穂本間萬吉家と分家孫七家(本間黙齋)家-真野新町山本半右衛門家と- 山本修巳

★本間万吉
「岩首校百年誌」(昭和55年)
ほん本間万吉 岩首校百年誌(昭和55年) (1)
ほん本間万吉 岩首校百年誌(昭和55年) (2)

★本間万平
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
、正月十五日-佐和田町八幡の八幡宮初まいりがあつた。どの範囲の部落から参詣者があつたか、よくわからないが、筆者の住む真野町新町からは、夜の明けないうちに徒歩でおおぜいおまいりに行った。この時の土産はかならず「つばくら」といって、紙でこしらえた燕を竿につるして帰った。これは、佐和田町河原田諏訪町の本間万平の作ったものである。
・唐ズングリと言う独楽(こま)があった。竹の胴に穴があいているのでプンプンと鳴った。正月二十五日の五十里籠町の天神堂の縁日や、四月八日の豊田の大光寺の薬師堂の縁日では、かならず買ったということである。この唐ズングリは、河原田の通称カクマン本間万平と両津市夷通称河原田屋本間森蔵が、大正の末期まで作っていた。
・燕の玩具は、全国でも少なく大阪市四天王寺の四月二十三日の聖霊会に十二個を限って雷よけのマジナイに出す木の燕と、愛知県の継鹿尾(つがのお)の寂光院で旧三月三日と四月三日の縁日に売る紙燕がある。大阪のものは、黒一色で写実的で、それに尾がヒラヒラ動くようになつていない。愛知県のものは、佐渡の「つばくら」に似ているが、佐渡の方がもっと素朴で土俗味があふれている。作者は佐和田町河原田町本間万平で、この人は、このほかいろいろの玩具をこしらえていた。
・鯛提灯の作者は佐和田町河原田諏訪町の通称カクマンこと本間万平である。本職は提灯屋であるが、この鯛提灯のほか、木挽人形、竹の蛇、カリワザ(転業の方言)人形、体操人形など多くの郷土玩具を作った。 筆者所蔵のものは、車台座より尾の先まで高さ四十五cm、長さ三十五cm、横二十三cm。台座の波は青地に蝋で描いてあり、鯛は赤で塗ってある。昭和十年八月二十八日に本間万平は死んでいる。なお、佐渡博物館所蔵のものは、中川雀子の作ったものである。
・佐渡には木挽人形といって、約十cmくらいの木製のやや偏平の人形が、裸で、黒い腹掛に赤いフンドシをしめ、大ノコギリを持っているものがある。幅五cm、長さ十八cmのうすい板の上に、この人形が乗っており、人形の持つ大ノコギリは長さ二十五cmの竹についていて、この竹を左右に動かすことによって、木挽が大ノコギリで木を挽くようになつている。手足はみなハリガネでとめてある。野趣横溢で、意匠も奇抜である。
この作者は、佐和田町本間万平である。「鯛提灯」やその他多くの玩具の製作者である。首人形の作者佐々木与吉とともにかくれた街の芸術家である。佐与吉については、このごろ一部の人たちの注目をあびるようになつたが、この方平については、まったく埋もれたままになつているのは残念である。
・郷土玩具のうちで、店頭に出して売るというものでなく、家庭で親たちが、手近にある材料で作ってあたえるものを、手づくり玩具といっている。 木挽人形の作者本間万平は、器用のところから、手づくり玩具の類を、注文に応じて製作していた。筆者の入手したものでも十余種ある。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)

★本間三枝子
佐渡高校時代の昭和35、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会推薦 (他10名)

★本間未己
佐渡高校時代の昭和31.11.1葛葉書道会主催全国学生書道展特選

★本間未吉
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p381

★本間操
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ほん本間操
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭4、第二十回衆議院議員の総選挙[十二年四月三十日]

★本間ミサ子
両津高校時代のs44年、総体ヨット女子A級ディンギー級3位(柴田マスミ、本間ミサ子、高野美智子)

★本間道雄
「島の新聞」索引(人名別)

★本間道子
ほん本間道子

★本間美千矛(みちほこ)
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★本間光枝
両津高校時代の1968年度(S43)11月、第2回全国ポスター絵画写真コンクール 絵画部門銅賞 

★本間光賢(みつかた)
『小木町史』より
羽茂町飯岡の八幡さま(今は度津神社に合併)に古い棟札があります。鎌倉時代の正和二年(1313)の年号があるこの棟札に載る大檀郡、八幡宮建立の中心人物が、本間対馬守筑後房光賢です。これが羽茂地頭の名の見える最初の記録です。
同じく元亨二年(1322)の年号のある、羽茂町大石の熊野神社の棟札にも、僧筑後房光賢の名が見られます。飯岡八幡宮の延元五年(一三四〇)の棟札の裏面にも、同じく大檀那、本間対馬筑後房光賢の名が見えます。この年建て替えたのでしょう。
 
★本間光子
佐渡高校時代の昭和38.2.16、全国児童生徒デザイン展入選 

★本間満繁(ほんまみつしげ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国賀茂郡北方(新穂村)に住んでいた上杉時代の地頭である。九郎といった。北方福島、岩首を領していた。(佐島遺事)

★本間みつ代
佐渡高校時代の昭和38、白扇書道会主催全国学生書道展優良校貴受賞、特賞

★本間美奈子
佐渡高校時代の平成元.1.16-17、バドミントン県高校選抜大会(新潟市)女子ダブルスベスト8、本間美奈子女子シングルスベスト8

★本間美穂
両津高校時代の1999年度(H11)、新潟県『高校文芸』小説部門 奨励賞

★本間みゆき
両津高校時代の1990年度(H2)5月、新潟県競書大会 準特選  

★本間睦子
ほん本間睦子
令和1年藍綬褒章を受章した。旧姓は小竹(夷旭町)、昭和24年生。夫は夷自動車(本間幸則 昭和18年生)、娘は真野遠藤建設に嫁ぐ。両津高校時代の1980年度(S55)1月、第24回全国学芸コンクール(旺文社主催)学校に表彰状、彫刻部門 銀賞(学芸奨励賞)

★本間村蔵→本間藤右衛門

★本間黙斎(ほんまもくさい)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ほん本間黙斎
【生没】一七五四ー一八二九 徳行の人と言われた儒学者・教育者・漢詩人。相川二丁目川島家に生まれ、新穂村新穂本間孫七家に入婿。名を成美、字を子英という。家は代々酒造業。二○歳の時、従兄弟の真野町新町山本子温(山本半右衛門家六代目)と、京都の那波魯堂に学び、帰郷後も勉学に励んだが、特に文化元年(一八○四)隠居した五○歳から私塾で教えた。文政八年七一歳の時、相川において佐渡奉行所の修教館に教授として招かれ教えたが、翌年、高齢の理由によって退職し、新穂に帰った。そして、新穂において、門人たちが黙斎のために、日吉神社の別当新延寺の境内(現在の新穂小学校の前の国道沿いのあたり)に、あらたに「犂雨村舎」を建立した。この私塾からは、多くの人材が輩出したが、なかでも、太田熊山(通称退蔵)は著名である。太田熊山が、江戸に出て著書『師善録』を著わすが、『師善録』の中に、黙斎の徳行がいくつか記されている。黙斎の所有している田地の地続きの地主の侵入者に対して、自家の米蔵にしのびこんだ米盗人に対して、寛容であったことなどである。また漢詩人としては、全国的に知られる岡崎盧門撰の「麗澤詩集」に、「訪原山人隠居」の一篇が掲載されている。しかし、現在残っている遺墨には、黙斎の作品は見あたらない。先人の詩や古人の語録しか書いていないのは、謙遜な態度からであろうか。本間黙斎は、文政十二年六月二十九日、七五歳にて死去。墓は新穂村馬場の乗光坊(現在は管明寺)にある。墓の字は、新穂の俳人であり、無幻流の書家渡辺慎斎。墓のほかに、「黙斎詩碑陰記」を、江戸の亀田鵬斎の子息綾瀬が揮毫したものがあるが、建てられていない。昭和三年新穂村教育会で「黙斎先生百年祭」を行ない、北海道より遺族本間咲太郎も出席、江戸の大儒山本北山や亀田鵬斎が、黙斎のために書いた額などを展示した。なお「犂雨邨舎」の位置は、明治十六年十月に「佐渡三郡公立佐渡黌」同二十年四月に「三郡公立佐渡高等科小学校」が建ち、新穂小学校へと続いている。【参考文献】萩野由之『佐渡人物誌』、山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・長男守一は明治40年頃、北海道小樽新聞の記者であった。大正7年頃死去。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間黙齋 126 新穂本間萬吉家と分家孫七家(本間黙齋)家-真野新町山本半右衛門家と- 山本修巳
※本間黙斎娘が浅井仁庵妻
河原春樹
諸情報

★本間杢(もく)昌継
本間能太夫3代目、~1664、二代秀昌の弟秀成の子。

★本間茂左衛門
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)

★本間茂三郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ほん本間茂三郎
ほん本間茂三郎 (2)

★本間森蔵
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
唐ズングリと言う独楽(こま)があった。竹の胴に穴があいているのでプンプンと鳴った。正月二十五日の五十里籠町の天神堂の縁日や、四月八日の豊田の大光寺の薬師堂の縁日では、かならず買ったということである。この唐ズングリは、河原田の通称カクマン本間万平と両津市夷通称河原田屋本間森蔵が、大正の末期まで作っていた。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)

★本間森蔵
ほん本間盛蔵 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34

★本間森蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ほん本間森蔵
※長男が日本体操界を世界に導いた本間茂雄である。
➡本間茂雄

★本間紋平
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
畑野の人、本間慶四郎の親戚筋で、慶四郎と共に本荘了寛から引き継いで北溟雑誌を発行する。
※詳しくは→本間慶四郎



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