2021-01-11
★本間周子

★本間千佳子
佐渡高校時代の昭和38、全国学校書道連盟主催全日本学生競書大会、特選
昭和38、白扇書道会主催全国学生書道展優良校貴受賞、特賞
★本間竹工房
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
おけさ人形でも、佐渡は竹の産地だというので、竹を材料としたものが、以前からあつた。エナメル
を塗ったものもあつたが、このごろは店頭から姿を消したようである。こうした中にあつて畑野町の本間竹工房で作る「おけさ人形」は、竹の味を新しく生かした芸術品である。笠はもちろん顔・手・足すべて竹で、こまかい配慮がある。昭和三十九年から創作したものであるが、八寸と六寸竹の二種類で、材料さがしに苦労しているという。運輸大臣賞を受けている。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★本間池垂
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★本間千鶴
「島の新聞」索引(人名別)
★本間千歳
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間智菜津



★本間忠市
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間中斎(ちゅうさい)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
医家。佐渡郡河原田町の人で千鶴の弟である。名は章、字は仲達、守中斎と号した。十七才で京都にのぼり、仲兄言倫の塾に入り、七年間、医を学んだ。帰郷して開業した。詩歌をよくした。文政七年(一八二四年)に四十四才でなくなった。私謚して宗立先生といぅ。(佐渡人名辞書)
★本間仲右衛門(瓜生屋村)
長谷


『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
明和の代表的義民である、新穂瓜生屋の人。新穂中学校横から、天保二揆に密議のおこなわれた四条大日堂へ登る三キロほどの道中の途中に生家は現存する。住宅の構えや独立している大墓地などから見て、当時の名主の面影が偲ばれる。やはり、遍照坊処刑後放免となったのであるが、墓所は最近整理されて累代の合葬にしているが、仲右衛門の五輪塔は残されている。明和以後にも本間家には公共に尽した名主が多かったようで、故佐渡中学校教諭石塚照氏の撰文に成る五輪塔も残っている。俗称を仲野という。
(右上)本間仲右衛門の墓-新穂瓜生屋
(右下)本間仲右衛門の生家-新穂瓜生屋
(左上)後藤五郎右衛門の墓ー新穂舟下、舟城寺境内
(左下)後藤五郎右衛門の生家-新穂村舟下
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★本間長吉
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★本間長治

「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
明治十四年に佐渡郡金井町千種に生まれた。耕地整理組合長、村農会長、村長等となつた。大正二年金沢村産業組合の組合長となり三十余年その発展に尽くした。大正五年産業組合中央会佐渡郡支部ができ、七年に副会長、十一年に会長となった。また長治の提唱で佐渡郡購買販売利用組合連合会ができ産業経済の発展に寄与した。佐渡病院の発展にも大きく貢献した。昭和二十九年一月十九日に七十四才でなくなった。(概観佐渡)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢村、農業 ・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日] 『金井を創った百人』
『田中圭一講演集(第七集)『佐渡病院』より
病院を建てようかなという機運は、何処でもきっかけがないと生まれません。佐渡に病院を作る直接のきっかけを与えたのは、昭和七年四月、第二十八回全国産業組合大会です。そこで産業組合中央会が大会のスローガンの一つに「産業組合の医療の大衆化」という項目を掲げ決議します。出席した、例えば本間長治(産業組合中央会佐渡郡部会長)や武井盛三郎(羽茂村産業組合長)などがこれを病院建設のきっかけとして捉えることになります。では、どうして彼等が大会に出て、よしやろう、という風に考えたのか、実はさまざまな要因、きっかけがあります。全国大会には何百人も出席しておりますが、実際に病院を作ったのはそれほどおりません。大会があつて、こういうことを単に決議したというだけでは建設運動は起きてはきません。佐渡病院の場合、この二人には直接的に共通する個人的な事情がありました。武井の場合は、長男が新潟医大を出て、開業する突先に熱で亡くなつている。本間の場合は、大正時代に娘を、それからこの頃、二人の子供、一人は朝鮮の陸軍病院で、もう一人は新潟の病院で
亡くしている。こういうことが彼等を動かし、病院の必要性を痛感させることになる。
「佐渡病院の草創期」
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「総合病院の誕生」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)
★本間長次郎
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


★本間長次郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
吉井の人、大正6年の第一回青年団スポーツ競技会(相撲の部)で優勝する。
★本間長三
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日] 『金井を創った百人』
★本間長太郎
佐渡の竹芸を代表する本間竹工房創業者。
1923年(大正12年)、佐渡畑野町で竹細工を創業。佐渡の代表的竹製品・文庫を製造。
1942年(昭和17年):輸送用の竹行李を製造。
1945年(昭和20年):家庭用雑貨(御飯篭・味噌漉し・手提げ篭等を製造し、北海道方面と島内観光土産品に販路を広げる。
1953年(昭和28年):装身具(ブローチ・ネックレス等)の新デザイン数10種を考案し、意匠登録をする。
1958年(昭和33年):日本郷土民工芸展で「竹製ブローチ」が農林水産大臣賞を受賞。
1960年(昭和35年):ブローチの量産体制を計り、全国に販路を拡げる。
1961年(昭和36年):『竹製装身具の考案』により、科学技術庁長官賞を受賞。
1964年(昭和39年):『本間竹工房』と称し、有限会社の法人登記をし、代表取締役に就任。
1965年(昭和40年):新潟市紫竹山に営業所を設置。
1970年(昭和45年):10月 鐙西1丁目の現在地に再建する。観光土産コンクールで『おけさ竹人形』が運輸大臣賞を受賞。
1972年(昭和47年):畑野町後何代に工房新設。相川税務署より「優良法人表彰」を受ける。
1973年(昭和48年):『本間工芸』と社名変更する。(従業員40名)
1975年(昭和50年):旧畑野町庁舎を移築し、事務所及び展示場を開設。
1984年(昭和59年):死去。
参照:「本間工芸」サイト
★本間長太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間千代吉 (初代)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
河原田城落城の時、15代城主の高統(たかつな)と長男は自刃し、家臣も討死し、河原田本間家は滅びる。だがその最中 下級の若侍・磯田徳兵衛が、一子高応(たかまさ)を連れ出し会津に落ちのび、荒地を開墾しながら子を育てた。その後景勝が、会津に移されると上州赤堀に移って再び開墾の鍬を振った。
その高応の末裔が、関東随一の富豪を誇り、馬庭念流の剣で鳴らした赤堀の本間大尽。大正から昭和初期の当主千代吉は、貴族院議員。中原本田寺に高統の墓を建てた。
「ウイキペディア」より
初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1857年1月15日(安政3年12月20日[1][2]) - 1917年(大正6年)2月26日[3])は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・源四郎、名・応家[4][5]。
・経歴
本間千五郎応次[4]、たに子の二男[4][5]として上野国佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)に生まれる[1]。佐渡国の戦国武将、本間高統の後胤[1]。幼少期に文学に目覚め、足立春英に漢学などを学ぶ[6]。慶応元年7月(1865年)亡兄十四松の跡を継いだ[2]。1880年(明治13年)市場村外五箇村戸長に就任[7]。ついで連合村会議員を経て[3]、1885年(明治18年)3月、最多票数を獲得し佐位郡選出の群馬県会議員となる[7]。1887年(明治20年)12月、満期退職後[7]、佐波郡会議員、同参事会員などを歴任した[3]。
1897年(明治30年)群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[8]から1911年(明治44年)9月28日まで2期在任した[3]。
・親族
養子・甥:2代本間千代吉(貴族院多額納税者議員)
弟:本間三郎(衆議院議員・2代千代吉の父)[4]
・脚注
[脚注の使い方]
^ a b c 山中 1890, 8頁.
^ a b 『大正人名辞典 第3版』163頁。
^ a b c d 衆議院、参議院 編 1960, 213頁.
^ a b c d 『群馬県人名大事典』473頁。
^ a b 『群馬新百科事典』688頁。
^ 山中 1890, 9頁.
^ a b c 山中 1890, 11頁.
^ 『官報』第4275号、明治30年9月30日。
参考文献
山中啓一 『群馬県貴族院多額納税者列伝』 山中啓一、1890年。
東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
衆議院、参議院 編 『議会制度七十年史 第1』 大蔵省印刷局、1960年。
『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。
★本間千代吉 (2代)
「ウイキペディア」より
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2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年(明治21年)6月[1] - 1959年(昭和34年)7月6日[1])は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八[2][3]、名は応義(まさよし)[4]。
・経歴
群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)[4]で、剣道範士本間三郎の二男として生まれ[2][3][5]、伯父の初代千代吉の養子となり[2][3][5]、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した[2][4]。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業する[1]。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた[1]。1925年(大正14年)群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[6]から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した[1]。
ほか、武道家として本間念流を継承し、鍛錬館長、剣道範士となった[4]。
・脚注
[脚注の使い方]
^ a b c d e 衆議院、参議院 編 1960, 213頁.
^ a b c d 『昭和人名辞典』ホ40頁。
^ a b c 『群馬県人名大事典』473頁。
^ a b c d 竹内ほか 1994, 290頁.
^ a b 『群馬新百科事典』688頁。
^ 『官報』第3931号、大正14年9月30日。
参考文献
『昭和人名辞典』光人社、1933年。
衆議院、参議院 編 『議会制度七十年史 第1』 大蔵省印刷局、1960年。
『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
竹内理三ほか 編纂 『群馬県姓氏家系大辞典』 角川日本姓氏歴史人物大辞典10、角川書店、1994年。ISBN 4040021002。
『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。
★本間作
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。
鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。
そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。
いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。
やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。
借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。
★本間対馬守
『新穂村史』(昭和51年)より
天正九年(一五八一)卯月廿日上杉景勝は潟上の本間喜本斎に一過の手紙を送った。それは帰本斎から
の手紙に関する返事であったが、それには越中に出馬したために返報がすっかれ遅れてしまったことを
わびている。そして翌十年、上杉景勝と久知及び潟上氏との間に血判の誓詞が交わされたのであった。四月廿四日の日付がのっている。さらに又、天正十年六月十二日、景勝は織田信長父子三人が切腹したことを佐渡に報じたが、その宛先は本間対馬守(羽茂)本間但馬守(新穂か)本間信濃守(雑太)本間弥太郎・本間下総守(久知)本間帰本斎(潟上)本間山城守(河原田)の七人宛となっている。このころ潟上の帰本斎ほ上杉景勝の旗下にほいった佐渡の七人領主の一人として大きな力をふるったものであろう。
★本間網次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年生 松ヶ崎村多田、海産物商 ・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]
★本間ツネ
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4〈山居の池伝説〉
★本間恒樹
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間毅
佐渡高校時代の平成元.1.16-17、バドミントン県高校選抜大会(新潟市)男子シングルス3位、藤井・本間組ベスト8
★本間禎吉
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1佐渡の人も他国の人も・本間禎吉
★本間廷久

★本間定次
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★本間貞蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★本間貞蔵(二代目琢斎)
「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)
★本間鉄男
両津高校初代・3代同窓会長(石楠会)、昭和35年、昭和37年~昭和38年。代々水産加工業の家。両津高校1回生で、両津市バレーボール協会の重鎮であった。私的には両津高校同窓会「石楠会」でお世話になったが大変豪放磊落な人物であった
本間鉄三郎が父と思われる。
★本間鉄三郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間鉄治(芳水)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。
「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。
「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。
この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
★本間鉄心→本間伊之助
★本間鉄太郎
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より

★本間哲郎
昭和38年の相川高校時代、全国高校大会の水泳(背泳ぎ)に出場し、5位となる。
当時の相川高校水泳部監督は市野重治で、自らもオリンピック候補選手で、国体等で活躍していた。
★本間輝也
「躍進日本」

★本間照代

「佐渡ジャーナル」(平成27年7月号)


★本間傳四郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢村 ・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]
★本間藤右衛門(村蔵)
畑野西町にある現在の家



本間籐右衛門(八代)

『続佐渡酒誌』(平成14年)

「佐渡広場」(係わりの地42)より
佐渡で指折りの資産家とされる畑野の本間藤右衛門家七代目で代々酒造りを行ってきた。七代30歳の明治26年(1893)に諸般の事情で羽幌に移住。良質の水探しと寒冷地・道北の米作りに努め、大正5(1916)日本最北の酒造りに成功。だが、八代の時に太平洋戦争で留萌以北の沿岸の酒屋は廃業せよとの国の指令で、300年続いた酒造りは廃止。現在、羽幌町資料館には「本間家コーナー」があり、九代が寄贈した230点の資料が展示されている。八代藤右衛門は、増毛・丸一本間の初代泰蔵氏の仲人で泰蔵の従兄弟の娘(トミ)をめとり、凌家は親戚筋となる。尚、羽幌は苫前から分村して出来たが、苫前では多くの佐渡衆が財をなした。
「丸藤本間の歴史」(「menu」→「丸藤本間」)
「丸藤本間の酒造り」
「佐渡広場」北海道と佐渡(2):羽幌(1)(2)
本間藤右衛門家論考+家系図(羽幌 菊地瞳)
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
明和の代表的義民である、畑野畑本郷の人。藤右衛門は町の旧家であって徳望高く、一揆の先頭に立って活躍し、助左衛門と同じ時捕えられて放免となった。同家の豪農であったことは、明治時代になっても全島の子供の毬搗き歌にうたわれたことにょってわかる。それは次のような文句である。
「畑野藤右衛門さんの 出る衣装見たかね 肌にきんきりもん(絹物)で上にほ袖(つむぎ)ね
帯は博多で当世結びね 足にゃ五匁の足袋編み込んでね 一分雪駄(せつた)に 二分緒を立ててね」
本間家ほ現在子孫は町にいないが、墓所が現存し、そのかみの繁栄が偲ばれる。
(右大)宝暦飢餓死者供養塔-畑野町中小倉
(右上小)明和義民記念碑-旧遍照坊跡
(左上段)本間藤右衛門-畑野町畑野、西の堂墓地
(左中段右)中村重左衛門の墓-畑野小倉
(左中段左)熊谷六左衛門の墓-畑野畑野、西の堂墓地
(左下段)熊谷六左衛門の生家-畑野畑野本郷
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
「藤右衛門と街すじ」
(藤内左衛門からの分家)
藤内左衛門通称シモノオウヤこと本間藤内左衛門家は、波多の殿さまの子孫と伝えられている。藤右衛門家の系
図の中にも、「当家の先祖は沢田殿の末葉のよし、依而本間姓なりと承る」とある。そしてこの一族は、佐渡本間氏の家紋である「十六目結(ゆい)」をいまも用いていて、由緒の正しさを示している。
藤右衛門家は、江戸初期のころに五代目藤内左衛門家の三男が分家して一家を建てた。(注・ただしこの分家藤右衛門の呼称は、全くの新規のものではなく、中世末期から慶長検地にかけての時期にも実在していたので、「起し棟」という形であったのかもしれない(石工の項〕)その三男藤右衛門は延宝二年に生れた。言い伝えにょると、相川の商家に丁稚奉公に出ていたときに、その家が火事になったが、その時の藤右衛門の働きがめざましかったので、主人に気に入られて取立てられたのが出世の緒(いとぐち)となったという。
(初期の籐右衛門)同家の系譜を記した『我家ノ記』には、相川時代から以後の初期の頃の藤右衛門家の様子についてつぎのように書いてある。藤右衛門が分家した頃の藤内左衛門は身上不如意で、家屋でさえも松ケ崎の菊池喜兵衛の質流れになっていたので、藤右衛門は十年の年期で身を売り、相川大間町の外山屋文右衛門方に奉公した。その時に大間の大火に遭い、前記のような働きをしたため、町の者からも賞賛を受けた。年季が明けた時、聟の名跡や番頭等に望む者が多かったが皆断わって、三十二才で畑本郷へ帰って小さな家を建て濁酒を造り、武井に嫁いだ妹を相手に働くほかに、小間物の行商をした。そして質流れになっていた本家の屋敷を請け返し、その後に菊池家で遣い用にしていた酒ホノギ (権利)を葺いうけて造酒屋となった。この件で村方より異議が申立てられ、三年ほど訴訟となったが、結極公認されて良酒が出来るようになった。以前の酒造用水は、川水でなければ造らなかったが、藤右衛門は現在の井戸水で造ることに成功したとも書いてある。彼は親元が貧乏したため、読み書きは得意ではなかったが、国中の酒屋仲間の寄会いの節は藤右衛門の申出で事が片付いたと言うほど重立った存在であった。このように、同家は初代の時から酒造業で成功したのである。初代藤右衛門は、武井の本間重右衛門から迎えた妻との間に、二男三女があったが、妻は享保四年に若死にしたので大久保の庄三郎から後妻を迎え、三男藤十郎を生んだ。初代藤右衛門は延享二年(一七四五)七十二才で死んだ。
(下畑から上畑へ)『我家ノ記』は、冒頭に下畑から上畑への移住についてこう述べてある。
「百年ばかり先は、藤右衛門一軒だけが久しく上(か)ミ畑に住んでいたが、追々に一門が広くなり、今は十七軒になった。(注・今とは初代のことか)下畑当時の屋敷は、氏社の亥の方向で藤七持になっている字スス払いの田の下で、本郷の三七郎持の田地のところであった。昔、文治の頃(鎌倉初期)に大洪水があり、当時の川筋は古川から新保川に合流していたが、いつの頃か金丸に通すことになった。そのため上ミ畑へ引屋敷をとることが始まった。上ミ畑は広々とした野原であったが、道があったのでその大道端に弥兵衛(後に藤内左衛門と改める)は屋敷をとった。」 その大道とは、現在のカネツ小路を少し下った東側のところである。元和三年の畑本郷の屋敷検地帳をみると、藤内左衛門は一五間に一五間、七畝十五歩の屋敷を持っていたが、元禄七年の検地時にはすでに屋敷ほ失なっていた。この時が松ケ崎の菊池喜兵衛の質にとられていたのであろう。右記した系譜によると、下畑から上畑へ移った最初の家は藤内左衛門であり、その藤内左衛門が困窮していた時に、藤右衛門が救い主として現われたというわけである。従って、上畑のある時期は、藤右衛門支配であったということができ、このことが畑野の街づくりに大きな影響力をもつことになるのである。
(西町の術すじと藤右衛門家)
同家の系図をみると、藤右衛門家も本家の藤内左衛門家も、その一族の殆んどは西町の街すじを中心に屋敷を構えている。まず藤内左衛門の分かれを挙げると、六代目の弟(藤右衛門の兄)半兵衛は、いまのカネツ家のところに、七代目
の次弟藤三郎、三弟字兵衛とその子の太兵衛と源右衛門、さらに下の四弟紋兵衛らがある。ついで藤右衛門家のほう
では、二代目の弟字右衛門、三代目の弟に藤吉と藤七が、四代目からは藤五郎が、六代目からは慶四郎がそれぞれ分かれて出た。西町の石仏墓地にある一族の墓所のほうからみると、藤内左衛門を挟んで東側の並びに紋兵衛・藤三郎・藤右衝門・藤七が、西側に太兵衛と源右衛門が、そして通路を距てて向い側に西から、三十郎・喜平次・半兵衛・喜十郎・宇兵衛などがある。またやや離れて松屋こと藤五郎・藤四郎・宇右衛門・仁井屋の墓があり、油屋こと宇左衛門の墓が別の位置にある。右記した家々が、藤内左衛門および藤右衛門両家と、どのように結びつくのかほ詳かではないが、一族の多くが集団的に石仏墓地の中に墓所を分け合っていることはたしかである。
(藤右衛門家の歴代)初代藤右衛門についてはすでに詳述した。二代目藤右衛門は以久といった。幼名は寅之助で若い時は藤兵衛といった。信仰心が厚く、肥満体でありながら廻国日本順札の旅を二度も重ね、その時の供養塔を菩提寺の玉林寺門前に建てた。
下戸であった初代と違い適当に酒を噂み、商売は上手で儲けた金で田地十町歩・畑一〇か所・山林二〇か所などを入手し、土蔵・酒蔵などを建てた。以久は安永六年酉二月二十五日九十六才で死んだ。この以久の代に明和の一揆・俗に言う遍照坊の事件が起きた。同家の系譜の中には、三代目のところに、「去ル事有・若キ時公難二逢久シタ苦ミ」として、具体的な内容に触れることを避けてあるが、当時としては不名誉な事件という感じがあったのかもしれない。(「義民」の項)
三代目好祖の幼名は子之助・若名は藤兵衛であった。又の名を東作ともいった。五尺二寸と小柄であったが、初代に似て大胆・細心で、前記した明和の事件に加えて訴訟沙汰もあったのを乗り越えて、更に十町歩余の田地を加えた。この三代目の時から同家の全盛の時代が始まった。和歌・乱舞・謡・碁・将棋などに嗜みがあり、とくに連歌と碁を得意とした。酒造業の上でも、酒蔵・納屋等の設備改善をはじめ、安永八年には水車の設置に成功した。最初は四柄立てでのちには六柄立てであったという。六柄の水車は天明八年に信州の諏訪で見写した水車を取入れ改造させたものであった。好祖は文化十二年に死んだ。四代目祖邦の代は、藤右衛門家の最高潮の時代であった。祖邦にもたくさんの名がある。藤次右衛門・幼名桃次郎・著名大蔵・藤兵衛などである。明和七年寅年のいわゆる遍照坊事件の年に生れた。この代に酒造道具や酒蔵等を一新し、酒屋としての土台を一層強固なものにした。芸事も領域が広くなり、蹴鞠から立花・生花などの心得えがあった。四代目は安政二年に死んだ。五代目の祖良は、幼名を後藤右衛門といい、藤次とも呼ばれた。文化五年に生れ、明治十年に七十才で死んだ。西の三次郎から迎えた妻との間に子がなく、新穂の中川治郎右衛門の弟を養子に貰った。そして新穂の勘右衛門家から迎えた後妻おのよとの問に生れた慶四郎を分家させたが、慶四郎には子がなくここで血すじが入れ替った。
新穂の中川家からきた祖継が六代目になる。祖継も藤兵衛と呼ばれ、幸七という別名をもっている。妻八重との間
に四男三女があり、その長男が文久三年生れの七代目藤右衛門こと村蔵で、この村蔵の代に北海道の羽幌に移住して畑野での藤右衛門家は終った。羽幌での現当主文子夫妻は村蔵の孫で、その子息は札幌で医業にたずさわっている。藤右衛門家の系図を示すと右記のようになる。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
三代目藤右衛門は好祖と言い、水車で醸造米の精米するのを生業として全盛時代の基をきずいた。好祖は江戸の里村玄川に師事し連歌を学び、また潟上の本間右近太夫について能楽を覚えたと言う。
彼の辞世の句「西へ行く 心所は一つ しまの月」
四代目藤右衛門、祖邦は同家の全盛時代を迎へ「畑野藤右衛門さん出る衣裳見たか……。」と村人たちに唄われた。 彼は好祖と同じく連歌を好み能楽をやり高安流小鼓の免許皆傳を受けた。彼の一宮唐崎を詠んだ歌に
千はやふる神の宮坂こえ行けば こほ名に高き山ぶきの里
五代目藤次右衛門は祖良と言い、俚謡に「畑野ニケ村(本郷・畑方)で博打せぬ者は藤右衛門爺に石地蔵」と言われた堅物であった。
立ち昇る烟もうすく見えぬるは 重なる山の奥の炭がま
このように藤右衛門ほ豊かな財を背景に文化面でも村に与えた影響は大きかったが、七代目村蔵の代に明治二十六年北海道羽幌へ移住してしまった。
「本間藤右衛門一族」
・とうねい:局長さん: カネツの並びで道路を挟んだ反対側角。明治23年に焼討された本間藤右衛門家が住んでいたらしい。焼討ち・打ち壊しされた当時の「のき(手斧)」の傷が柱に残っているそうだ。昭和35年頃まで何代か畑野郵便局長を輩出した。本間久雄氏(昭和11年生、畑野局外務員)によると、毎日碁を打つのが仕事であり、大変強かったと言う。 当時の郵便局長は地域の財産家で世襲であった。金融業は信用がなければ成り立たなかったので当然であったろう。
・カネツ:本間藤右衛門初代(3男)の兄(次男)半兵衛の家である。白壁の土蔵作りの大きな家。下(しも)の大屋の真野側隣の大きな家で、裏通りまで屋敷があった。一時期は中間部分を畑野役場に貸しており公民館として使用された。現在の当主は本間弘美氏。近年(令和元年時)、外国人に蔵屋敷を売却した。佐渡高校1回生(昭和6年生)で初代生徒会長だった。東大仏文科を出て各地で高校教師(英語)を務めた。アンガス・ウエイコット「佐渡を歩いて」を翻訳出版した。小学6年時に戦争による食糧不足の為、畑野の住んだと言う。祖父は本間慶太郎(「佐渡人名録」参照)で北海道で財を成し、明治期に畑野に戻って蔵屋敷風の建物を建築し、島内一の呉服店であった。その後、自主廃業して佐渡電燈等の会社役員であった。その父は重蔵で小樽で財を成したと思われる。カネツ家は長く小樽に土地を所有していたが戦後売却した。慶太郎の長男重吉は昭和14年頃まで東京で千代田生命に勤務した。その後、友人梅村氏興亜鑿泉?なるポンプ関係会社を興したが成功はしなかった。
・下(しも)の大屋: カネツの隣で、現在の嘉井電気の場所。元は呉服店であり、「局長さん」の後、この家の本間悌二郎氏が畑野郵便局長となった。その子は昭和34年佐渡高校から慶応に入った本間彰氏である。
・本間藤七: 高島屋家具の両津側隣の少し奥まって立っている家。戦後まで呉服店であった。当主の本間藤弥氏は昭和3年生で高校教師(理科)であった。
・本間宇衛門: 通称「あぶら屋」で、現在(令和1年)の「県シン」の地。以前は佐渡銀行畑野支店、油屋の経営する食品雑貨「フジマート」、第四銀行畑野支店があった。この家が独自で三峰神社を勧請した。敷地内か隣に、大正初期にプロテスタント系のキリスト教教会が建設された。その場所は真野側角地で後に吉田自転車→栄自転車店の場所と言う人もいる。
・小松屋:本間苗字で一族ではあるが詳しくはわからない。
・上(かみ)の大屋:あぶら屋(本間宇衛門)の真野側隣家。
・本間泰義家:元畑野郵便局があった家。一族であろうが詳細は不明。

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『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村 ・明2、鵜飼郁次郎同志者を招待す[二十三年十月十日]
★本間藤右衛門(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=20
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=21
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=26
★本間藤吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
★本間藤作
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
相川県平氏で、明治七年六月に畑方で庠舎設立を文部省に上申され認可された。
★本間藤七
畑野高島屋家具隣

『佐渡名勝史』(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)

「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
➡本間藤右衛門
★本間道善
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
九郎入道道善といい俗名はわからない。北朝方に属した。弘和元年(一三八一年)四月に故足利義詮の認可を得た地であるからといって佐渡国蓋見(相川町二見)の地の半分の地頭職安堵状を申し出た。(佐渡志、新潟県史)
★本間藤太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村畑野、商業、畑野郵便局長 ・大1、青木永太郎等同志会を脱党す[四年九月]
★本間藤八
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★本間藤兵衛
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
天保年中の畑方村の仁居屋こと本間藤吉家の次男。江戸の漢学者日尾荊山の門に学び、若くしてその高弟
のひとりに数えられた。文久の頃に郷里に帰り、畑野西町の堂で経史を教えたところ、多くの子弟が集まった。(旧
村志)のち相川町同心として仕官し、二〇俵二人扶持を給せられ、円山溟北から鑛山の号を贈られた。鑛山は相川においても江戸においても畑野方言をその儘用いていたという。慶応三年一月二十二日病歿。享年五十余才であった。
★本間籐平
「近現代の羽茂」

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
本間藤平は天保元年(一八三〇)一〇月一八日、大崎村中村家に生まれる。藤内左衛門の長男で、幼時、葛原五兵衛盛朝について、謡曲・生花などを兼修し、弘化二年(一八四五)九月川口宇平の門に入り、能を学び、嘉永二年(一八四九)十一月、佐渡の能楽師本間左京について技をきわめ、宝生太夫より免許を受け、また、太鼓の皆伝は、江戸金春惣次郎より受け、名実共に南部における能師となった。
俳譜は相川の宗匠霞昇の門に学び、のち上京して春秋庵三森幹雄の門に入り、宗匠に列せられ、俳名を香林舎鶴洞と号して、弟子二〇〇人を有し、毎月、月並み会を開いた。
藤平は、また、村治に力を尽した。明治三年(一八七〇)名主となり、同九年(一八七六)相川県より地租改正下調方を命ぜられた。同一二年(一八七九)学校設立に力を尽したことにより、新潟県より木杯一個を授けられた。一四年(一八八一)佐渡三郡公立第三番小学校事務係、同二五年三九番大崎校事務係、同一六年二月一一日付で上山田外一か村の戸長となり、同年三月準官一五等に任ぜられた。二二年(一八八九)六月には、千手村村長に当選(初代村長)し、また、村会議員に選出されることも数回におよび、村治に尽した功績は大きいものがあった。また、明治一一年(一八七八)二月相川神宮教育会より奏楽係を命ぜられた。同一三年一一月三日、天長節御能執行につき、度津神社より賞金を賜わった。
村長を辞してから、本間宅の前に別荘を建て門人の教育に専念した。同三七年(一九〇四)歿した。享年七五歳。
辞世 夏の日の暮るるもしらずのみかかり
大坪秋葉山の側に、本間藤平翁之墓誌が建っている。
本間藤平翁之墓誌
翁諱久雄本間氏称藤平本州大崎人也家世農父曰藤内左衛門翁其長子也翁於生山間僻邑夙嗜能楽従本郡能師本間左京習其舞容頗極其薀
一郷慕風者愈多又受太鼓於東京金春総二郎亦得伝其秘正与翁性風雅嗜俳句師春秋庵幹雄構句斬新月耕雲耨口恒不絶吟哦咄郷閭子弟多従之
者推為宗匠正与先是大崎自為一村翁為村長若干年亦愜恨職云後辞職専以風雅自楽至老不裏也翁以天保元年十月十八日生明治三十七年五月
十七日歿享年七十有五配佐藤氏生二女一女早死養羽茂本郷中川氏之子茂一為嗣以女配之云
明治三十九年十月 正七位 美濃部楨撰幷書 岡崎群□刻
・大崎の葛葛原五兵衛・川口宇平について能技を学び、本間左京について仕手方の技をきわめ、太鼓は金春惣次郎・川合清治郎・高安英勝に、小鼓は幸流に通じ、森田流の笛をよくした(明治三十七年歿、享年七十五歳)。
・書道家でもあり、相川の俳人霞昇について懐素を学んだといわれる。
・大崎白山神社の能舞台は明治の初年に、当地の能楽師本間藤平が舞台の必要を感じ、師匠の川口宇兵衛と二人が主体となり、能楽愛好者、氏子の協賛を得で、建設されたものと伝えられる(本間ツマ談)。また、舞台背景の松は、年月を経て不鮮明となったので、昭和五一年(一九七六)葛原碧堂(足太)と孫正己の両名により描かれ復元された。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
(『羽茂村誌』1956年刊より)
当地(羽茂)の能楽は、天保年間の大崎の葛原五兵衛が潟上の本間家に学び、後江戸へ上って宝生宗家に就いて修道し、特に仕手方及拍子の技を学んで帰郷したのが始めであると伝えられている。
其後に(大崎の)川口宇平(1818~1876年)も又本間家に就き、後江戸の宝生家に遊学して帰り、加賀船から能装束並びに能面等を買求め、岡崎長左エ門(村山伊賀屋敷の人)と共に、当地方の能楽の普及に努めた佐渡南部に於ける能楽の隆盛はここに因しているのである。(大崎の)本間藤平(1830~1904年)も五兵衛、宇平等に能技を学び、更に本間左京に就いて仕手方の技を究め、太皷は金春惣治郎、又川合清次郎、高安英勝に、小皷は幸流に通じ、森田流の笛を能くし、このため明治時代の能楽は盛んになった。
(『佐渡広場』より)
(大崎の能の系譜)
葛原五兵衛(1804~1845)→川口宇平(1818~1876)→藤井泰延(1820~1889)→本間藤平(1830~1904)→大場喜太郎(1861~1933)→「今日名をなす者の多くは此の門下である」と1956年刊の『羽茂村誌』にある。また、(羽茂)本郷の三羽烏といわれた飯岡の金子厳、上山田の佐久間甚吉・若林郷太郎の3氏は、大場さんの下で謡曲の勉強をしていたとある(『佐渡広場』「佐渡の能楽45:外山久次翁の能楽人生」)。
★本間徹
佐渡高校時代の昭和45.6.6~8、柔道県高校結合体育大会(新潟商業高校)個人重量級ベスト8
★本間都園
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★本間藤三郎
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
窪田には平松治平の他、明治のころから斎藤弥平、本間留蔵、中島平吉の孫和作、本間藤三郎らが相ついで瓦焼業を経営した。他に小嶋芙山がいる。また、西二宮の前保田では、明治四十年四月、中川佐太郎が、鈴木忠蔵家屋敷の前方一部を借り受け瓦焼きを始め、佐太郎が没したあとは子息佐一がこれを引き継ぎ、昭和二十二、三年頃まで焼き立てた。また、昭和二年八月からは中村久馬吉が同じく鈴木家後方の一部を借りてこの業を起し、中村久馬吉の後は真光寺の本間喜作が富山から釆て、中原に居住していた本間喜作を雇って製瓦し、昭和十二、三年頃まで行った。鈴木家には、「昭和七年七月今村多一」と刻銘の牛の置物などが残されている。西二宮の上保田では窪田から移った中島和作も瓦や人形などを焼いたが、のちに市野沢から長木へ移った。佐渡凰製瓦の創始とされる小沢窯の瓦業は矢島主計没をもって止み、秋津窯へと移る。こうした窪田での瓦業素地の上に、再び弘化二年に来島した中島平吉の瓦焼きから、幕末・明治・大正・昭和近年にかけての窪田と西二宮を中心とする「二宮瓦」の瓦業へと発展していった。
また、平松治平などと同じく、平吉の弟子と思われる窪田の相田嘉左衛門の二男佐市は、文久元年(1862)に久文家を起こした。その後、明治に入ってからであろうか、新穂村正明寺にて瓦業を開き、正明寺・潟上を中心とする「潟上瓦」の端緒となった(『新穂村史』)。
★本間籐七
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★本間時泰(ときやす)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国久知城主。下総守時泰。天正十年(一五八二年)四月二十六日、上杉景勝は時泰に対し、越佐両国がどのように変化しても久知に対しては末世末代まで安泰である旨の誓書をおくった。(越佐史料巻六)
★本間徳助
両津羽黒神社

★本間徳太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★本間俊明
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★本間敏明
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=6
★本間俊夫(俊雄)
大正7年、河原田諏訪町で生まれる。佐渡中学生時代、昭和10年の県下中等学校水上競技大会において、400m,800m自由形、200m,800mメドレーリレーで優勝する。佐渡中学は総合優勝。 同年の信越水上競技大会に臨み、 400m、800m自由形、800mメドレーリレーで優勝する。 立教大時代、昭和14年の日本選手権1500m自由形で世界4位の好記録を出し、オリンピック有力候補となったが、第二次大戦でオリンピックは中止、本人も戦死した。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中学時代の昭和6年、校内新記録を樹立。400m、59秒0。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)
佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・7・8・2~3 第2回県中等学校水上競技選手権大会(新潟県水上競技連盟)新潟村山プール(万代橋下手)
(佐渡中)7位 2.40.2
昭・7・12・1 新潟県水上競技聯盟・ランキング表発表(佐渡関係者)
(佐渡中)200自 7位 2.40.2、400自 9位 9.55.6
昭・8・8・5~6 第3回県中等学校水上競技選手権(県水上競技連盟)悠久山プール
(佐渡中学)400自 1位 5.45.2 800自3位 11.12.5、佐中200リレー6位 2.13.8、佐中800リレー4位 11.12.5
昭・9・7・28第8回東部中等学校水上競技選手権大会(関東学生水上競技連盟)神宮プール
400自・800白いづれも準決勝進出
昭・9・8・4~5 第4回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中体連)新潟中学プール
400自1位 5.22.8、800自1位 11・05・0、200リレー(市野・本間・渡辺・笠井)800リレー(市野・本間・笠井・渡辺)入賞
昭・10・8・2~3 第5回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟)悠久山プール
(佐渡中学 総合1位)400自1位 5.26.8、800自1位 11.37.8、200リレー1位(本間竹・山本・笠井・本間俊)2.01.8新、800リレー①山本、池田、本間竹、本間俊10.41.0新
昭・10・8・11信越水上競技大会(長野)(参加・長野県10校、新潟県2校佐中・柏商)
400自1位 本間俊雄5.21.4新、200リレー2位(本間竹、山本、笠井、本間俊雄)2.03.8新
800自1位 11.21.0新、800リレー1位(本間竹、山本、笠井、本間俊雄)2.03.8新、佐渡中総合4位
(1500m世界第4位)
昭19・ヘルシンキ・オリンピック候補選手
大・7年河原田・諏訪町に出生。昭・6・4 佐渡中学校に入学。昭・11卒業。立教大学に進学。昭和19年2月15日、太平洋戦争で戟死。
(主な水泳歴)
昭・8~昭10 県中等学校水上で400自・800自に優勝。
昭・14 日本選手権水上1500自2位19.34.4(世界第4位)
昭・15 日本学生水上800自2位10.21.2(国内第2位)
昭・16 比島水上選手権400自1位4.58.2。1500自1位20.07.2
昭和9年(佐渡中学4年)の県中学校水上競技選手権大会で、自由形400m・800mに優勝し、翌10年も同種目で2連勝を果たした。立教大学進学後は益々快調に実力を伸ばし、昭和14年の日本選手権では1500mで上記の好記録を出し、オリンピックの有力侯補になったが第二次大戦でオリンピックは中止、本人も出征して戦死し
た。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・1・1県水上競技聯盟・昭和11年度県最高記録発表
400自5.26.3本間俊雄(佐中)、800自11.28.4 本間俊雄(佐中)
★本間敏雄
両津高校時代の1969年度(S44)10月、第3回県高校新人戦陸上競技 走高跳1位
★本間敏夫(しこ名 佐渡錦)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
大正8年吉井村に生まれ、現在生存している。佐渡の青年団の相撲で優勝した本間長太郎の息子である。(当時の新聞記事は屋号の長次郎を用いている。佐渡ヶ島を井筒部屋へ連れていった人物で、本人は佐渡ヶ森という四股名を持っていた。)昭和11年佐渡ヶ島林蔵の紹介で井筒部屋に入門、3段目迄進む。5尺7寸18.5貫だったという。昭和14年壮丁検査で高田連隊の山砲に徴兵、中国の山野を斗い、漢口・宜昌・重慶にまで及んだという。敗戦後昭和21年内地へ帰った時は、年齢も体力も大相撲に復帰する条件に無く廃業。郷里で農業をして現在に至った。勲八等瑞宝章を受賞している。帰郷後は相撲とは絶縁して、アマチュア相撲に出ることもなかったという。
★本間敏雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間敏雄 89 点鬼簿(6) 中山守夫、本間敏雄、本間亮敬、斎藤良二郎、真木山幸二郎、小野久夫、本間フミ、山本惣次、若林吉堯、浅島治兵衛、相馬一正、宮崎萬平 山本修巳
★本間としこ
「島の新聞」索引(人名別)
★本間登志美
本名本間利美。大正十一年生れ。「歌と評論」同人であったが、平成十四年に没した。
○清蓮(せいれん)の河瀬を遡(のぼ)る鮎の群れ時折光る銀の横腹
(平成18年3月建碑 棹石丈0.8m)
「清蓮」は清らかな小波。まさに羽茂川中流の、このあたりの鮎が詠まれている。詠者は大崎宮本寺の人。ちなみに此処は、以前「地獄淵」と呼ばれる底無しの深淵であった。羽茂川が直流して来て突き当たり、直角に折れ曲がるので、淵は深く渦を巻き、尺余の大鮎もいると言われた。鮎の碑にふさわしい地である。
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★本間俊麿
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間俊麿 1 祭りと鬼と獅子舞と
★本間利美
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。
平凡な生活願ふ日紫陽花の咲き出でて亡き夫をしのばす
★本間東三夫
「島の新聞」索引(人名別)
★本間留蔵
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
窪田には平松治平の他、明治のころから斎藤弥平、本間留蔵、中島平吉の孫和作、本間藤三郎らが相ついで瓦焼業を経営した。他に小嶋芙山がいる。また、西二宮の前保田では、明治四十年四月、中川佐太郎が、鈴木忠蔵家屋敷の前方一部を借り受け瓦焼きを始め、佐太郎が没したあとは子息佐一がこれを引き継ぎ、昭和二十二、三年頃まで焼き立てた。また、昭和二年八月からは中村久馬吉が同じく鈴木家後方の一部を借りてこの業を起し、中村久馬吉の後は真光寺の本間喜作が富山から釆て、中原に居住していた本間喜作を雇って製瓦し、昭和十二、三年頃まで行った。鈴木家には、「昭和七年七月今村多一」と刻銘の牛の置物などが残されている。西二宮の上保田では窪田から移った中島和作も瓦や人形などを焼いたが、のちに市野沢から長木へ移った。佐渡凰製瓦の創始とされる小沢窯の瓦業は矢島主計没をもって止み、秋津窯へと移る。こうした窪田での瓦業素地の上に、再び弘化二年に来島した中島平吉の瓦焼きから、幕末・明治・大正・昭和近年にかけての窪田と西二宮を中心とする「二宮瓦」の瓦業へと発展していった。
また、平松治平などと同じく、平吉の弟子と思われる窪田の相田嘉左衛門の二男佐市は、文久元年(1862)に久文家を起こした。その後、明治に入ってからであろうか、新穂村正明寺にて瓦業を開き、正明寺・潟上を中心とする「潟上瓦」の端緒となった(『新穂村史』)。
★本間友英(ともふさ)
佐渡宝生流宗家の17世、1902~1969。在京時代より俳句を趣味とし、高浜虚子との親交を深めた。昭和二七年、高浜虚子、星野立子、高野素十、中田瑞穂等を招き句会を催す。この時詠んだ虚子の句碑が本間家に残る。
・或時は江口の月のさしわたり 虚子
謡曲に「江口」があり、旅僧が西行の古歌「夜もすがら月こそ袖に宿りけれ昔の秋を思い出づれば」を懐かしんでいる時に江口の君の幽霊が現われ、世の無常を話させている。虚子も能を嗜んだ事から、謡曲を念頭に置いた句であろう。
「佐渡広場」より
潟上の本間能太夫家十七代本間友英(1902~1969)。先代本間凞(ひろし)には男子がなく女子だけであった。宝生宗家の分家九世宝生嘉内(1854~1921)の娘の子で昭和8年1月入籍、同8月披露能。家元宝生九郎重英とは叔父・甥の関係にある。昭和23年には70年以上にわたって対立した西三川派との和解が成立。戦前までは東京に居る方が多かったが、戦後は佐渡を本拠地に活動。
→野村蘭作「宝生二派の統一」参照
「虚子ときんぽうげ」(「佐渡の百年」)
★本間豊蔵
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
相川流から国仲流に変わった四日町の鬼太鼓は、羨望と絶讃を集めることになった。さっそくそれを
習ったのが竹田だった。明治四二年生まれの土屋増一と、大正六年生まれの三浦忠雄が古老に聞いた
記憶によると、小田六郎平(弘化元-明治四〇)、松本滝蔵(明治九-大正一四)、本間豊蔵(明治一五ー大正一三)、本間寅蔵(明治一四-昭和二五)、遠藤紋平(明治一七-昭和四〇)等で、明治二九年頃だという。六郎平と滝蔵は舞もしたが太鼓中心、紋平は左利きで裏打の名人だったという。寅蔵と豊蔵が舞手だった。その年はまだ衣裳も整わず、はりきって待った三〇年は水害で祭りどころではなく、三三年には盛大な鬼太鼓を演じたと言う。
★本間豊丸
→本間周敬
★本間トラ
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★本間寅雄(ほんまとらお)(ペンネーム 磯部欣三)
「ウイキペディア」より
1926年(大正15)高千村生-2006年1月4日没。佐渡史研究家でペンネーム「磯部欣三」でも多くの著作がある。
NHK嘱託を経て昭和27年毎日新聞に入社。佐渡通信部長時代から良寛や世阿弥らと佐渡の歴史との関連を研究、同社地方記者に贈られる「やまなみ賞」第一回受賞者。1981年、良寛の母親がそれまでの定説だった人物とは別人であるとの説を発表して注目された。退職後、佐渡博物館に勤務し、歴史部長、館長を歴任(佐渡博物館4代目館長 昭和63年~平成9年)。相川町史編纂委員。主な著書に「世阿弥配流」(恒文社)、「佐渡金山」(中央公論社)、「良寛の母おのぶ」(恒文社)などがあり、佐渡民謡についても多くを記した。
『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
「fuakiの日記」(2011-02-13)
『本間寅雄著作目録』刊行
●佐渡の北見継仁氏から『本間寅雄著作目録』を御恵与賜った。平成23年1月4日発行。佐渡研究の第一人者・本間寅雄氏は平成18年(2006)に79歳で他界された。この本間氏は、磯部欣三のペンネームをもち、1946年から2007年まで、佐渡に関する膨大な著作を遺し、生涯を佐渡文化の発掘・定着に捧げられた。佐渡研究では、山本修之助氏が大きな足跡を遺されたが、それに続く人は、本間寅雄氏だと、私は思っている。
●私は、鈴木重嶺の資料調査で、何度も佐渡を訪問しているが、平成13年9月に、毎日新聞の磯野保氏をはじめ、多くの佐渡の方々にお会いして、多くの御指導を賜った。その時、本間寅雄氏にもお会いしている。非常に温和な方であるが、佐渡の事に関しては、汲めども尽きぬ豊富な材料を内蔵されている方だという印象だった。この度の、著作目録を拝見して、納得できた。
●その折、本間氏は、蔵田茂樹の『恵美草』の千畳敷の条に、井関隆子が歌を寄せているが、この「ともしきろかも」とは、どういう意味か、私に質問された。
「いづくはあれど、ここのあそびのいとうらやましくて、
すがすがだたみ千重敷いそにうたげせるさどのしま人ともしきろ鴨 隆子」
隆子は、茂樹の『恵美草』を2度も書写している。このように見事な景色の中で酒宴を開ける佐渡の人々は幸せで、私は羨ましい、というのである。多分、本間氏も納得されたものと思う。
■『本間寅雄著作目録』
この目録の詳細→http://www.ksskbg.com/sonota/shin.htm
『大工と穿子』(佐渡金山 平成4年 中央公論社)
本書は、前著『佐渡金山の底辺』(昭36)を基に、長い年月を費やした綿密な調査と、彪大な資料を駆使して書きつづった、文字通り「佐渡金山」の集大成である。とりわけ著者が力を注いでいるのは、鉱山庶民史であり、島送りされた無宿者に課せられた労働の苛酷さ、その彼らに性を捏供する遊女たちの悲惨さであり、読む人びとの胸を打つ。佐渡金山の過酷な歴史を克明に描きつつ、文章にも情感があって、類書にない魅力をもっている。
「紅梅」(津村節子)


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)磯部欣三
50 良寛の母についての新知見 56 北片辺に建った「夕鶴の碑」 67 中山キリシタン塚考 72 山本修之助さんを悼む 実証史学的な佐渡の先達-一貫して流れる浪漫思想- 93 良寛と佐渡 101 山本家と伊能忠敬書簡など 110 本間寅雄氏の御逝去を悼む 111 磯部欣三さんを悼む、弔辞 山本修巳 111(磯部欣三さんご逝去)弔辞 瀬戸内寂聴 111 (磯部欣三さんご逝去)弔辞 津村節 117 世阿弥の墓所-磯部欣三先生の想い出 寺島雅範 134 坂のある町... 寺島雅範 高橋信一・磯部欣三両先生と
(磯部欣三)
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「5号」(平成18年4月)磯部欣三さんを悼む(山本修巳)「11号」(平成19年10月)「回想-磯部欣三」(刊行委員会)(岩田雅)
「島の新聞」索引(人名別)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 10佐渡博物館 本間寅雄館長を文部大臣が表彰
★ 本間寅次郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)
佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
昭・6・8・29~30 第3回北陸水上選手権・県水上選手権・県青年団水上選手権・県下学量水上選手権・全日水上選手権・明治神官水上北陸予選会。悠久山プール
(佐渡郡青年団チーム)50自1位 31.8、100自5位。※明治神官大会・青年団府県対抗・新潟県代表選手に佐渡から、本間寅次郎、岩佐道三郎が選ばれる。
★本間寅蔵
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
相川流から国仲流に変わった四日町の鬼太鼓は、羨望と絶讃を集めることになった。さっそくそれを
習ったのが竹田だった。明治四二年生まれの土屋増一と、大正六年生まれの三浦忠雄が古老に聞いた
記憶によると、小田六郎平(弘化元-明治四〇)、松本滝蔵(明治九-大正一四)、本間豊蔵(明治一五ー大正一三)、本間寅蔵(明治一四-昭和二五)、遠藤紋平(明治一七-昭和四〇)等で、明治二九年頃だという。六郎平と滝蔵は舞もしたが太鼓中心、紋平は左利きで裏打の名人だったという。寅蔵と豊蔵が舞手だった。その年はまだ衣裳も整わず、はりきって待った三〇年は水害で祭りどころではなく、三三年には盛大な鬼太鼓を演じたと言う。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 両津町夷、商業 ・大3、小作労働組合の會合[十三年二月七日]
★本間酉蔵
舟下

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★本間千佳子
佐渡高校時代の昭和38、全国学校書道連盟主催全日本学生競書大会、特選
昭和38、白扇書道会主催全国学生書道展優良校貴受賞、特賞
★本間竹工房
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
おけさ人形でも、佐渡は竹の産地だというので、竹を材料としたものが、以前からあつた。エナメル
を塗ったものもあつたが、このごろは店頭から姿を消したようである。こうした中にあつて畑野町の本間竹工房で作る「おけさ人形」は、竹の味を新しく生かした芸術品である。笠はもちろん顔・手・足すべて竹で、こまかい配慮がある。昭和三十九年から創作したものであるが、八寸と六寸竹の二種類で、材料さがしに苦労しているという。運輸大臣賞を受けている。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★本間池垂
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★本間千鶴
「島の新聞」索引(人名別)
★本間千歳
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間智菜津



★本間忠市
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間中斎(ちゅうさい)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
医家。佐渡郡河原田町の人で千鶴の弟である。名は章、字は仲達、守中斎と号した。十七才で京都にのぼり、仲兄言倫の塾に入り、七年間、医を学んだ。帰郷して開業した。詩歌をよくした。文政七年(一八二四年)に四十四才でなくなった。私謚して宗立先生といぅ。(佐渡人名辞書)
★本間仲右衛門(瓜生屋村)
長谷






『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
明和の代表的義民である、新穂瓜生屋の人。新穂中学校横から、天保二揆に密議のおこなわれた四条大日堂へ登る三キロほどの道中の途中に生家は現存する。住宅の構えや独立している大墓地などから見て、当時の名主の面影が偲ばれる。やはり、遍照坊処刑後放免となったのであるが、墓所は最近整理されて累代の合葬にしているが、仲右衛門の五輪塔は残されている。明和以後にも本間家には公共に尽した名主が多かったようで、故佐渡中学校教諭石塚照氏の撰文に成る五輪塔も残っている。俗称を仲野という。

(右下)本間仲右衛門の生家-新穂瓜生屋
(左上)後藤五郎右衛門の墓ー新穂舟下、舟城寺境内
(左下)後藤五郎右衛門の生家-新穂村舟下
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★本間長吉
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★本間長治

「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
明治十四年に佐渡郡金井町千種に生まれた。耕地整理組合長、村農会長、村長等となつた。大正二年金沢村産業組合の組合長となり三十余年その発展に尽くした。大正五年産業組合中央会佐渡郡支部ができ、七年に副会長、十一年に会長となった。また長治の提唱で佐渡郡購買販売利用組合連合会ができ産業経済の発展に寄与した。佐渡病院の発展にも大きく貢献した。昭和二十九年一月十九日に七十四才でなくなった。(概観佐渡)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢村、農業 ・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日] 『金井を創った百人』
『田中圭一講演集(第七集)『佐渡病院』より
病院を建てようかなという機運は、何処でもきっかけがないと生まれません。佐渡に病院を作る直接のきっかけを与えたのは、昭和七年四月、第二十八回全国産業組合大会です。そこで産業組合中央会が大会のスローガンの一つに「産業組合の医療の大衆化」という項目を掲げ決議します。出席した、例えば本間長治(産業組合中央会佐渡郡部会長)や武井盛三郎(羽茂村産業組合長)などがこれを病院建設のきっかけとして捉えることになります。では、どうして彼等が大会に出て、よしやろう、という風に考えたのか、実はさまざまな要因、きっかけがあります。全国大会には何百人も出席しておりますが、実際に病院を作ったのはそれほどおりません。大会があつて、こういうことを単に決議したというだけでは建設運動は起きてはきません。佐渡病院の場合、この二人には直接的に共通する個人的な事情がありました。武井の場合は、長男が新潟医大を出て、開業する突先に熱で亡くなつている。本間の場合は、大正時代に娘を、それからこの頃、二人の子供、一人は朝鮮の陸軍病院で、もう一人は新潟の病院で
亡くしている。こういうことが彼等を動かし、病院の必要性を痛感させることになる。
「佐渡病院の草創期」
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「総合病院の誕生」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)
★本間長次郎
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


★本間長次郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
吉井の人、大正6年の第一回青年団スポーツ競技会(相撲の部)で優勝する。
★本間長三
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日] 『金井を創った百人』
★本間長太郎
佐渡の竹芸を代表する本間竹工房創業者。
1923年(大正12年)、佐渡畑野町で竹細工を創業。佐渡の代表的竹製品・文庫を製造。
1942年(昭和17年):輸送用の竹行李を製造。
1945年(昭和20年):家庭用雑貨(御飯篭・味噌漉し・手提げ篭等を製造し、北海道方面と島内観光土産品に販路を広げる。
1953年(昭和28年):装身具(ブローチ・ネックレス等)の新デザイン数10種を考案し、意匠登録をする。
1958年(昭和33年):日本郷土民工芸展で「竹製ブローチ」が農林水産大臣賞を受賞。
1960年(昭和35年):ブローチの量産体制を計り、全国に販路を拡げる。
1961年(昭和36年):『竹製装身具の考案』により、科学技術庁長官賞を受賞。
1964年(昭和39年):『本間竹工房』と称し、有限会社の法人登記をし、代表取締役に就任。
1965年(昭和40年):新潟市紫竹山に営業所を設置。
1970年(昭和45年):10月 鐙西1丁目の現在地に再建する。観光土産コンクールで『おけさ竹人形』が運輸大臣賞を受賞。
1972年(昭和47年):畑野町後何代に工房新設。相川税務署より「優良法人表彰」を受ける。
1973年(昭和48年):『本間工芸』と社名変更する。(従業員40名)
1975年(昭和50年):旧畑野町庁舎を移築し、事務所及び展示場を開設。
1984年(昭和59年):死去。
参照:「本間工芸」サイト
★本間長太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間千代吉 (初代)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
河原田城落城の時、15代城主の高統(たかつな)と長男は自刃し、家臣も討死し、河原田本間家は滅びる。だがその最中 下級の若侍・磯田徳兵衛が、一子高応(たかまさ)を連れ出し会津に落ちのび、荒地を開墾しながら子を育てた。その後景勝が、会津に移されると上州赤堀に移って再び開墾の鍬を振った。
その高応の末裔が、関東随一の富豪を誇り、馬庭念流の剣で鳴らした赤堀の本間大尽。大正から昭和初期の当主千代吉は、貴族院議員。中原本田寺に高統の墓を建てた。
「ウイキペディア」より
初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1857年1月15日(安政3年12月20日[1][2]) - 1917年(大正6年)2月26日[3])は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・源四郎、名・応家[4][5]。
・経歴
本間千五郎応次[4]、たに子の二男[4][5]として上野国佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)に生まれる[1]。佐渡国の戦国武将、本間高統の後胤[1]。幼少期に文学に目覚め、足立春英に漢学などを学ぶ[6]。慶応元年7月(1865年)亡兄十四松の跡を継いだ[2]。1880年(明治13年)市場村外五箇村戸長に就任[7]。ついで連合村会議員を経て[3]、1885年(明治18年)3月、最多票数を獲得し佐位郡選出の群馬県会議員となる[7]。1887年(明治20年)12月、満期退職後[7]、佐波郡会議員、同参事会員などを歴任した[3]。
1897年(明治30年)群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[8]から1911年(明治44年)9月28日まで2期在任した[3]。
・親族
養子・甥:2代本間千代吉(貴族院多額納税者議員)
弟:本間三郎(衆議院議員・2代千代吉の父)[4]
・脚注
[脚注の使い方]
^ a b c 山中 1890, 8頁.
^ a b 『大正人名辞典 第3版』163頁。
^ a b c d 衆議院、参議院 編 1960, 213頁.
^ a b c d 『群馬県人名大事典』473頁。
^ a b 『群馬新百科事典』688頁。
^ 山中 1890, 9頁.
^ a b c 山中 1890, 11頁.
^ 『官報』第4275号、明治30年9月30日。
参考文献
山中啓一 『群馬県貴族院多額納税者列伝』 山中啓一、1890年。
東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
衆議院、参議院 編 『議会制度七十年史 第1』 大蔵省印刷局、1960年。
『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。
★本間千代吉 (2代)
「ウイキペディア」より
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2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年(明治21年)6月[1] - 1959年(昭和34年)7月6日[1])は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八[2][3]、名は応義(まさよし)[4]。
・経歴
群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)[4]で、剣道範士本間三郎の二男として生まれ[2][3][5]、伯父の初代千代吉の養子となり[2][3][5]、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した[2][4]。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業する[1]。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた[1]。1925年(大正14年)群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[6]から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した[1]。
ほか、武道家として本間念流を継承し、鍛錬館長、剣道範士となった[4]。
・脚注
[脚注の使い方]
^ a b c d e 衆議院、参議院 編 1960, 213頁.
^ a b c d 『昭和人名辞典』ホ40頁。
^ a b c 『群馬県人名大事典』473頁。
^ a b c d 竹内ほか 1994, 290頁.
^ a b 『群馬新百科事典』688頁。
^ 『官報』第3931号、大正14年9月30日。
参考文献
『昭和人名辞典』光人社、1933年。
衆議院、参議院 編 『議会制度七十年史 第1』 大蔵省印刷局、1960年。
『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
竹内理三ほか 編纂 『群馬県姓氏家系大辞典』 角川日本姓氏歴史人物大辞典10、角川書店、1994年。ISBN 4040021002。
『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。
★本間作
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。
鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。
そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。
いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。
やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。
借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。
★本間対馬守
『新穂村史』(昭和51年)より
天正九年(一五八一)卯月廿日上杉景勝は潟上の本間喜本斎に一過の手紙を送った。それは帰本斎から
の手紙に関する返事であったが、それには越中に出馬したために返報がすっかれ遅れてしまったことを
わびている。そして翌十年、上杉景勝と久知及び潟上氏との間に血判の誓詞が交わされたのであった。四月廿四日の日付がのっている。さらに又、天正十年六月十二日、景勝は織田信長父子三人が切腹したことを佐渡に報じたが、その宛先は本間対馬守(羽茂)本間但馬守(新穂か)本間信濃守(雑太)本間弥太郎・本間下総守(久知)本間帰本斎(潟上)本間山城守(河原田)の七人宛となっている。このころ潟上の帰本斎ほ上杉景勝の旗下にほいった佐渡の七人領主の一人として大きな力をふるったものであろう。
★本間網次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年生 松ヶ崎村多田、海産物商 ・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]
★本間ツネ
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4〈山居の池伝説〉
★本間恒樹
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間毅
佐渡高校時代の平成元.1.16-17、バドミントン県高校選抜大会(新潟市)男子シングルス3位、藤井・本間組ベスト8
★本間禎吉
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1佐渡の人も他国の人も・本間禎吉
★本間廷久

★本間定次
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★本間貞蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★本間貞蔵(二代目琢斎)
「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)
★本間鉄男
両津高校初代・3代同窓会長(石楠会)、昭和35年、昭和37年~昭和38年。代々水産加工業の家。両津高校1回生で、両津市バレーボール協会の重鎮であった。私的には両津高校同窓会「石楠会」でお世話になったが大変豪放磊落な人物であった
本間鉄三郎が父と思われる。
★本間鉄三郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間鉄治(芳水)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。
「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。
「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。
この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
★本間鉄心→本間伊之助
★本間鉄太郎
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より

★本間哲郎
昭和38年の相川高校時代、全国高校大会の水泳(背泳ぎ)に出場し、5位となる。
当時の相川高校水泳部監督は市野重治で、自らもオリンピック候補選手で、国体等で活躍していた。
★本間輝也
「躍進日本」

★本間照代

「佐渡ジャーナル」(平成27年7月号)


★本間傳四郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢村 ・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]
★本間藤右衛門(村蔵)
畑野西町にある現在の家



本間籐右衛門(八代)


『続佐渡酒誌』(平成14年)

「佐渡広場」(係わりの地42)より
佐渡で指折りの資産家とされる畑野の本間藤右衛門家七代目で代々酒造りを行ってきた。七代30歳の明治26年(1893)に諸般の事情で羽幌に移住。良質の水探しと寒冷地・道北の米作りに努め、大正5(1916)日本最北の酒造りに成功。だが、八代の時に太平洋戦争で留萌以北の沿岸の酒屋は廃業せよとの国の指令で、300年続いた酒造りは廃止。現在、羽幌町資料館には「本間家コーナー」があり、九代が寄贈した230点の資料が展示されている。八代藤右衛門は、増毛・丸一本間の初代泰蔵氏の仲人で泰蔵の従兄弟の娘(トミ)をめとり、凌家は親戚筋となる。尚、羽幌は苫前から分村して出来たが、苫前では多くの佐渡衆が財をなした。
「丸藤本間の歴史」(「menu」→「丸藤本間」)
「丸藤本間の酒造り」
「佐渡広場」北海道と佐渡(2):羽幌(1)(2)
本間藤右衛門家論考+家系図(羽幌 菊地瞳)
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
明和の代表的義民である、畑野畑本郷の人。藤右衛門は町の旧家であって徳望高く、一揆の先頭に立って活躍し、助左衛門と同じ時捕えられて放免となった。同家の豪農であったことは、明治時代になっても全島の子供の毬搗き歌にうたわれたことにょってわかる。それは次のような文句である。
「畑野藤右衛門さんの 出る衣装見たかね 肌にきんきりもん(絹物)で上にほ袖(つむぎ)ね
帯は博多で当世結びね 足にゃ五匁の足袋編み込んでね 一分雪駄(せつた)に 二分緒を立ててね」
本間家ほ現在子孫は町にいないが、墓所が現存し、そのかみの繁栄が偲ばれる。

(右上小)明和義民記念碑-旧遍照坊跡
(左上段)本間藤右衛門-畑野町畑野、西の堂墓地
(左中段右)中村重左衛門の墓-畑野小倉
(左中段左)熊谷六左衛門の墓-畑野畑野、西の堂墓地
(左下段)熊谷六左衛門の生家-畑野畑野本郷
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
「藤右衛門と街すじ」
(藤内左衛門からの分家)
藤内左衛門通称シモノオウヤこと本間藤内左衛門家は、波多の殿さまの子孫と伝えられている。藤右衛門家の系
図の中にも、「当家の先祖は沢田殿の末葉のよし、依而本間姓なりと承る」とある。そしてこの一族は、佐渡本間氏の家紋である「十六目結(ゆい)」をいまも用いていて、由緒の正しさを示している。
藤右衛門家は、江戸初期のころに五代目藤内左衛門家の三男が分家して一家を建てた。(注・ただしこの分家藤右衛門の呼称は、全くの新規のものではなく、中世末期から慶長検地にかけての時期にも実在していたので、「起し棟」という形であったのかもしれない(石工の項〕)その三男藤右衛門は延宝二年に生れた。言い伝えにょると、相川の商家に丁稚奉公に出ていたときに、その家が火事になったが、その時の藤右衛門の働きがめざましかったので、主人に気に入られて取立てられたのが出世の緒(いとぐち)となったという。
(初期の籐右衛門)同家の系譜を記した『我家ノ記』には、相川時代から以後の初期の頃の藤右衛門家の様子についてつぎのように書いてある。藤右衛門が分家した頃の藤内左衛門は身上不如意で、家屋でさえも松ケ崎の菊池喜兵衛の質流れになっていたので、藤右衛門は十年の年期で身を売り、相川大間町の外山屋文右衛門方に奉公した。その時に大間の大火に遭い、前記のような働きをしたため、町の者からも賞賛を受けた。年季が明けた時、聟の名跡や番頭等に望む者が多かったが皆断わって、三十二才で畑本郷へ帰って小さな家を建て濁酒を造り、武井に嫁いだ妹を相手に働くほかに、小間物の行商をした。そして質流れになっていた本家の屋敷を請け返し、その後に菊池家で遣い用にしていた酒ホノギ (権利)を葺いうけて造酒屋となった。この件で村方より異議が申立てられ、三年ほど訴訟となったが、結極公認されて良酒が出来るようになった。以前の酒造用水は、川水でなければ造らなかったが、藤右衛門は現在の井戸水で造ることに成功したとも書いてある。彼は親元が貧乏したため、読み書きは得意ではなかったが、国中の酒屋仲間の寄会いの節は藤右衛門の申出で事が片付いたと言うほど重立った存在であった。このように、同家は初代の時から酒造業で成功したのである。初代藤右衛門は、武井の本間重右衛門から迎えた妻との間に、二男三女があったが、妻は享保四年に若死にしたので大久保の庄三郎から後妻を迎え、三男藤十郎を生んだ。初代藤右衛門は延享二年(一七四五)七十二才で死んだ。
(下畑から上畑へ)『我家ノ記』は、冒頭に下畑から上畑への移住についてこう述べてある。
「百年ばかり先は、藤右衛門一軒だけが久しく上(か)ミ畑に住んでいたが、追々に一門が広くなり、今は十七軒になった。(注・今とは初代のことか)下畑当時の屋敷は、氏社の亥の方向で藤七持になっている字スス払いの田の下で、本郷の三七郎持の田地のところであった。昔、文治の頃(鎌倉初期)に大洪水があり、当時の川筋は古川から新保川に合流していたが、いつの頃か金丸に通すことになった。そのため上ミ畑へ引屋敷をとることが始まった。上ミ畑は広々とした野原であったが、道があったのでその大道端に弥兵衛(後に藤内左衛門と改める)は屋敷をとった。」 その大道とは、現在のカネツ小路を少し下った東側のところである。元和三年の畑本郷の屋敷検地帳をみると、藤内左衛門は一五間に一五間、七畝十五歩の屋敷を持っていたが、元禄七年の検地時にはすでに屋敷ほ失なっていた。この時が松ケ崎の菊池喜兵衛の質にとられていたのであろう。右記した系譜によると、下畑から上畑へ移った最初の家は藤内左衛門であり、その藤内左衛門が困窮していた時に、藤右衛門が救い主として現われたというわけである。従って、上畑のある時期は、藤右衛門支配であったということができ、このことが畑野の街づくりに大きな影響力をもつことになるのである。
(西町の術すじと藤右衛門家)
同家の系図をみると、藤右衛門家も本家の藤内左衛門家も、その一族の殆んどは西町の街すじを中心に屋敷を構えている。まず藤内左衛門の分かれを挙げると、六代目の弟(藤右衛門の兄)半兵衛は、いまのカネツ家のところに、七代目
の次弟藤三郎、三弟字兵衛とその子の太兵衛と源右衛門、さらに下の四弟紋兵衛らがある。ついで藤右衛門家のほう
では、二代目の弟字右衛門、三代目の弟に藤吉と藤七が、四代目からは藤五郎が、六代目からは慶四郎がそれぞれ分かれて出た。西町の石仏墓地にある一族の墓所のほうからみると、藤内左衛門を挟んで東側の並びに紋兵衛・藤三郎・藤右衝門・藤七が、西側に太兵衛と源右衛門が、そして通路を距てて向い側に西から、三十郎・喜平次・半兵衛・喜十郎・宇兵衛などがある。またやや離れて松屋こと藤五郎・藤四郎・宇右衛門・仁井屋の墓があり、油屋こと宇左衛門の墓が別の位置にある。右記した家々が、藤内左衛門および藤右衛門両家と、どのように結びつくのかほ詳かではないが、一族の多くが集団的に石仏墓地の中に墓所を分け合っていることはたしかである。
(藤右衛門家の歴代)初代藤右衛門についてはすでに詳述した。二代目藤右衛門は以久といった。幼名は寅之助で若い時は藤兵衛といった。信仰心が厚く、肥満体でありながら廻国日本順札の旅を二度も重ね、その時の供養塔を菩提寺の玉林寺門前に建てた。
下戸であった初代と違い適当に酒を噂み、商売は上手で儲けた金で田地十町歩・畑一〇か所・山林二〇か所などを入手し、土蔵・酒蔵などを建てた。以久は安永六年酉二月二十五日九十六才で死んだ。この以久の代に明和の一揆・俗に言う遍照坊の事件が起きた。同家の系譜の中には、三代目のところに、「去ル事有・若キ時公難二逢久シタ苦ミ」として、具体的な内容に触れることを避けてあるが、当時としては不名誉な事件という感じがあったのかもしれない。(「義民」の項)
三代目好祖の幼名は子之助・若名は藤兵衛であった。又の名を東作ともいった。五尺二寸と小柄であったが、初代に似て大胆・細心で、前記した明和の事件に加えて訴訟沙汰もあったのを乗り越えて、更に十町歩余の田地を加えた。この三代目の時から同家の全盛の時代が始まった。和歌・乱舞・謡・碁・将棋などに嗜みがあり、とくに連歌と碁を得意とした。酒造業の上でも、酒蔵・納屋等の設備改善をはじめ、安永八年には水車の設置に成功した。最初は四柄立てでのちには六柄立てであったという。六柄の水車は天明八年に信州の諏訪で見写した水車を取入れ改造させたものであった。好祖は文化十二年に死んだ。四代目祖邦の代は、藤右衛門家の最高潮の時代であった。祖邦にもたくさんの名がある。藤次右衛門・幼名桃次郎・著名大蔵・藤兵衛などである。明和七年寅年のいわゆる遍照坊事件の年に生れた。この代に酒造道具や酒蔵等を一新し、酒屋としての土台を一層強固なものにした。芸事も領域が広くなり、蹴鞠から立花・生花などの心得えがあった。四代目は安政二年に死んだ。五代目の祖良は、幼名を後藤右衛門といい、藤次とも呼ばれた。文化五年に生れ、明治十年に七十才で死んだ。西の三次郎から迎えた妻との間に子がなく、新穂の中川治郎右衛門の弟を養子に貰った。そして新穂の勘右衛門家から迎えた後妻おのよとの問に生れた慶四郎を分家させたが、慶四郎には子がなくここで血すじが入れ替った。
新穂の中川家からきた祖継が六代目になる。祖継も藤兵衛と呼ばれ、幸七という別名をもっている。妻八重との間
に四男三女があり、その長男が文久三年生れの七代目藤右衛門こと村蔵で、この村蔵の代に北海道の羽幌に移住して畑野での藤右衛門家は終った。羽幌での現当主文子夫妻は村蔵の孫で、その子息は札幌で医業にたずさわっている。藤右衛門家の系図を示すと右記のようになる。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
三代目藤右衛門は好祖と言い、水車で醸造米の精米するのを生業として全盛時代の基をきずいた。好祖は江戸の里村玄川に師事し連歌を学び、また潟上の本間右近太夫について能楽を覚えたと言う。
彼の辞世の句「西へ行く 心所は一つ しまの月」
四代目藤右衛門、祖邦は同家の全盛時代を迎へ「畑野藤右衛門さん出る衣裳見たか……。」と村人たちに唄われた。 彼は好祖と同じく連歌を好み能楽をやり高安流小鼓の免許皆傳を受けた。彼の一宮唐崎を詠んだ歌に
千はやふる神の宮坂こえ行けば こほ名に高き山ぶきの里
五代目藤次右衛門は祖良と言い、俚謡に「畑野ニケ村(本郷・畑方)で博打せぬ者は藤右衛門爺に石地蔵」と言われた堅物であった。
立ち昇る烟もうすく見えぬるは 重なる山の奥の炭がま
このように藤右衛門ほ豊かな財を背景に文化面でも村に与えた影響は大きかったが、七代目村蔵の代に明治二十六年北海道羽幌へ移住してしまった。
「本間藤右衛門一族」
・とうねい:局長さん: カネツの並びで道路を挟んだ反対側角。明治23年に焼討された本間藤右衛門家が住んでいたらしい。焼討ち・打ち壊しされた当時の「のき(手斧)」の傷が柱に残っているそうだ。昭和35年頃まで何代か畑野郵便局長を輩出した。本間久雄氏(昭和11年生、畑野局外務員)によると、毎日碁を打つのが仕事であり、大変強かったと言う。 当時の郵便局長は地域の財産家で世襲であった。金融業は信用がなければ成り立たなかったので当然であったろう。
・カネツ:本間藤右衛門初代(3男)の兄(次男)半兵衛の家である。白壁の土蔵作りの大きな家。下(しも)の大屋の真野側隣の大きな家で、裏通りまで屋敷があった。一時期は中間部分を畑野役場に貸しており公民館として使用された。現在の当主は本間弘美氏。近年(令和元年時)、外国人に蔵屋敷を売却した。佐渡高校1回生(昭和6年生)で初代生徒会長だった。東大仏文科を出て各地で高校教師(英語)を務めた。アンガス・ウエイコット「佐渡を歩いて」を翻訳出版した。小学6年時に戦争による食糧不足の為、畑野の住んだと言う。祖父は本間慶太郎(「佐渡人名録」参照)で北海道で財を成し、明治期に畑野に戻って蔵屋敷風の建物を建築し、島内一の呉服店であった。その後、自主廃業して佐渡電燈等の会社役員であった。その父は重蔵で小樽で財を成したと思われる。カネツ家は長く小樽に土地を所有していたが戦後売却した。慶太郎の長男重吉は昭和14年頃まで東京で千代田生命に勤務した。その後、友人梅村氏興亜鑿泉?なるポンプ関係会社を興したが成功はしなかった。
・下(しも)の大屋: カネツの隣で、現在の嘉井電気の場所。元は呉服店であり、「局長さん」の後、この家の本間悌二郎氏が畑野郵便局長となった。その子は昭和34年佐渡高校から慶応に入った本間彰氏である。
・本間藤七: 高島屋家具の両津側隣の少し奥まって立っている家。戦後まで呉服店であった。当主の本間藤弥氏は昭和3年生で高校教師(理科)であった。
・本間宇衛門: 通称「あぶら屋」で、現在(令和1年)の「県シン」の地。以前は佐渡銀行畑野支店、油屋の経営する食品雑貨「フジマート」、第四銀行畑野支店があった。この家が独自で三峰神社を勧請した。敷地内か隣に、大正初期にプロテスタント系のキリスト教教会が建設された。その場所は真野側角地で後に吉田自転車→栄自転車店の場所と言う人もいる。
・小松屋:本間苗字で一族ではあるが詳しくはわからない。
・上(かみ)の大屋:あぶら屋(本間宇衛門)の真野側隣家。
・本間泰義家:元畑野郵便局があった家。一族であろうが詳細は不明。

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『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村 ・明2、鵜飼郁次郎同志者を招待す[二十三年十月十日]
★本間藤右衛門(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=5
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=4
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=20
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=21
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=26
★本間藤吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
★本間藤作
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
相川県平氏で、明治七年六月に畑方で庠舎設立を文部省に上申され認可された。
★本間藤七
畑野高島屋家具隣

『佐渡名勝史』(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)

「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
➡本間藤右衛門
★本間道善
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
九郎入道道善といい俗名はわからない。北朝方に属した。弘和元年(一三八一年)四月に故足利義詮の認可を得た地であるからといって佐渡国蓋見(相川町二見)の地の半分の地頭職安堵状を申し出た。(佐渡志、新潟県史)
★本間藤太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村畑野、商業、畑野郵便局長 ・大1、青木永太郎等同志会を脱党す[四年九月]
★本間藤八
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★本間藤兵衛
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
天保年中の畑方村の仁居屋こと本間藤吉家の次男。江戸の漢学者日尾荊山の門に学び、若くしてその高弟
のひとりに数えられた。文久の頃に郷里に帰り、畑野西町の堂で経史を教えたところ、多くの子弟が集まった。(旧
村志)のち相川町同心として仕官し、二〇俵二人扶持を給せられ、円山溟北から鑛山の号を贈られた。鑛山は相川においても江戸においても畑野方言をその儘用いていたという。慶応三年一月二十二日病歿。享年五十余才であった。
★本間籐平
「近現代の羽茂」

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
本間藤平は天保元年(一八三〇)一〇月一八日、大崎村中村家に生まれる。藤内左衛門の長男で、幼時、葛原五兵衛盛朝について、謡曲・生花などを兼修し、弘化二年(一八四五)九月川口宇平の門に入り、能を学び、嘉永二年(一八四九)十一月、佐渡の能楽師本間左京について技をきわめ、宝生太夫より免許を受け、また、太鼓の皆伝は、江戸金春惣次郎より受け、名実共に南部における能師となった。
俳譜は相川の宗匠霞昇の門に学び、のち上京して春秋庵三森幹雄の門に入り、宗匠に列せられ、俳名を香林舎鶴洞と号して、弟子二〇〇人を有し、毎月、月並み会を開いた。
藤平は、また、村治に力を尽した。明治三年(一八七〇)名主となり、同九年(一八七六)相川県より地租改正下調方を命ぜられた。同一二年(一八七九)学校設立に力を尽したことにより、新潟県より木杯一個を授けられた。一四年(一八八一)佐渡三郡公立第三番小学校事務係、同二五年三九番大崎校事務係、同一六年二月一一日付で上山田外一か村の戸長となり、同年三月準官一五等に任ぜられた。二二年(一八八九)六月には、千手村村長に当選(初代村長)し、また、村会議員に選出されることも数回におよび、村治に尽した功績は大きいものがあった。また、明治一一年(一八七八)二月相川神宮教育会より奏楽係を命ぜられた。同一三年一一月三日、天長節御能執行につき、度津神社より賞金を賜わった。
村長を辞してから、本間宅の前に別荘を建て門人の教育に専念した。同三七年(一九〇四)歿した。享年七五歳。
辞世 夏の日の暮るるもしらずのみかかり
大坪秋葉山の側に、本間藤平翁之墓誌が建っている。
本間藤平翁之墓誌
翁諱久雄本間氏称藤平本州大崎人也家世農父曰藤内左衛門翁其長子也翁於生山間僻邑夙嗜能楽従本郡能師本間左京習其舞容頗極其薀
一郷慕風者愈多又受太鼓於東京金春総二郎亦得伝其秘正与翁性風雅嗜俳句師春秋庵幹雄構句斬新月耕雲耨口恒不絶吟哦咄郷閭子弟多従之
者推為宗匠正与先是大崎自為一村翁為村長若干年亦愜恨職云後辞職専以風雅自楽至老不裏也翁以天保元年十月十八日生明治三十七年五月
十七日歿享年七十有五配佐藤氏生二女一女早死養羽茂本郷中川氏之子茂一為嗣以女配之云
明治三十九年十月 正七位 美濃部楨撰幷書 岡崎群□刻
・大崎の葛葛原五兵衛・川口宇平について能技を学び、本間左京について仕手方の技をきわめ、太鼓は金春惣次郎・川合清治郎・高安英勝に、小鼓は幸流に通じ、森田流の笛をよくした(明治三十七年歿、享年七十五歳)。
・書道家でもあり、相川の俳人霞昇について懐素を学んだといわれる。
・大崎白山神社の能舞台は明治の初年に、当地の能楽師本間藤平が舞台の必要を感じ、師匠の川口宇兵衛と二人が主体となり、能楽愛好者、氏子の協賛を得で、建設されたものと伝えられる(本間ツマ談)。また、舞台背景の松は、年月を経て不鮮明となったので、昭和五一年(一九七六)葛原碧堂(足太)と孫正己の両名により描かれ復元された。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
(『羽茂村誌』1956年刊より)
当地(羽茂)の能楽は、天保年間の大崎の葛原五兵衛が潟上の本間家に学び、後江戸へ上って宝生宗家に就いて修道し、特に仕手方及拍子の技を学んで帰郷したのが始めであると伝えられている。
其後に(大崎の)川口宇平(1818~1876年)も又本間家に就き、後江戸の宝生家に遊学して帰り、加賀船から能装束並びに能面等を買求め、岡崎長左エ門(村山伊賀屋敷の人)と共に、当地方の能楽の普及に努めた佐渡南部に於ける能楽の隆盛はここに因しているのである。(大崎の)本間藤平(1830~1904年)も五兵衛、宇平等に能技を学び、更に本間左京に就いて仕手方の技を究め、太皷は金春惣治郎、又川合清次郎、高安英勝に、小皷は幸流に通じ、森田流の笛を能くし、このため明治時代の能楽は盛んになった。
(『佐渡広場』より)
(大崎の能の系譜)
葛原五兵衛(1804~1845)→川口宇平(1818~1876)→藤井泰延(1820~1889)→本間藤平(1830~1904)→大場喜太郎(1861~1933)→「今日名をなす者の多くは此の門下である」と1956年刊の『羽茂村誌』にある。また、(羽茂)本郷の三羽烏といわれた飯岡の金子厳、上山田の佐久間甚吉・若林郷太郎の3氏は、大場さんの下で謡曲の勉強をしていたとある(『佐渡広場』「佐渡の能楽45:外山久次翁の能楽人生」)。
★本間徹
佐渡高校時代の昭和45.6.6~8、柔道県高校結合体育大会(新潟商業高校)個人重量級ベスト8
★本間都園
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★本間藤三郎
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
窪田には平松治平の他、明治のころから斎藤弥平、本間留蔵、中島平吉の孫和作、本間藤三郎らが相ついで瓦焼業を経営した。他に小嶋芙山がいる。また、西二宮の前保田では、明治四十年四月、中川佐太郎が、鈴木忠蔵家屋敷の前方一部を借り受け瓦焼きを始め、佐太郎が没したあとは子息佐一がこれを引き継ぎ、昭和二十二、三年頃まで焼き立てた。また、昭和二年八月からは中村久馬吉が同じく鈴木家後方の一部を借りてこの業を起し、中村久馬吉の後は真光寺の本間喜作が富山から釆て、中原に居住していた本間喜作を雇って製瓦し、昭和十二、三年頃まで行った。鈴木家には、「昭和七年七月今村多一」と刻銘の牛の置物などが残されている。西二宮の上保田では窪田から移った中島和作も瓦や人形などを焼いたが、のちに市野沢から長木へ移った。佐渡凰製瓦の創始とされる小沢窯の瓦業は矢島主計没をもって止み、秋津窯へと移る。こうした窪田での瓦業素地の上に、再び弘化二年に来島した中島平吉の瓦焼きから、幕末・明治・大正・昭和近年にかけての窪田と西二宮を中心とする「二宮瓦」の瓦業へと発展していった。
また、平松治平などと同じく、平吉の弟子と思われる窪田の相田嘉左衛門の二男佐市は、文久元年(1862)に久文家を起こした。その後、明治に入ってからであろうか、新穂村正明寺にて瓦業を開き、正明寺・潟上を中心とする「潟上瓦」の端緒となった(『新穂村史』)。
★本間籐七
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★本間時泰(ときやす)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国久知城主。下総守時泰。天正十年(一五八二年)四月二十六日、上杉景勝は時泰に対し、越佐両国がどのように変化しても久知に対しては末世末代まで安泰である旨の誓書をおくった。(越佐史料巻六)
★本間徳助
両津羽黒神社


★本間徳太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★本間俊明
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★本間敏明
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=6
★本間俊夫(俊雄)
大正7年、河原田諏訪町で生まれる。佐渡中学生時代、昭和10年の県下中等学校水上競技大会において、400m,800m自由形、200m,800mメドレーリレーで優勝する。佐渡中学は総合優勝。 同年の信越水上競技大会に臨み、 400m、800m自由形、800mメドレーリレーで優勝する。 立教大時代、昭和14年の日本選手権1500m自由形で世界4位の好記録を出し、オリンピック有力候補となったが、第二次大戦でオリンピックは中止、本人も戦死した。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中学時代の昭和6年、校内新記録を樹立。400m、59秒0。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)
佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・7・8・2~3 第2回県中等学校水上競技選手権大会(新潟県水上競技連盟)新潟村山プール(万代橋下手)
(佐渡中)7位 2.40.2
昭・7・12・1 新潟県水上競技聯盟・ランキング表発表(佐渡関係者)
(佐渡中)200自 7位 2.40.2、400自 9位 9.55.6
昭・8・8・5~6 第3回県中等学校水上競技選手権(県水上競技連盟)悠久山プール
(佐渡中学)400自 1位 5.45.2 800自3位 11.12.5、佐中200リレー6位 2.13.8、佐中800リレー4位 11.12.5
昭・9・7・28第8回東部中等学校水上競技選手権大会(関東学生水上競技連盟)神宮プール
400自・800白いづれも準決勝進出
昭・9・8・4~5 第4回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中体連)新潟中学プール
400自1位 5.22.8、800自1位 11・05・0、200リレー(市野・本間・渡辺・笠井)800リレー(市野・本間・笠井・渡辺)入賞
昭・10・8・2~3 第5回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟)悠久山プール
(佐渡中学 総合1位)400自1位 5.26.8、800自1位 11.37.8、200リレー1位(本間竹・山本・笠井・本間俊)2.01.8新、800リレー①山本、池田、本間竹、本間俊10.41.0新
昭・10・8・11信越水上競技大会(長野)(参加・長野県10校、新潟県2校佐中・柏商)
400自1位 本間俊雄5.21.4新、200リレー2位(本間竹、山本、笠井、本間俊雄)2.03.8新
800自1位 11.21.0新、800リレー1位(本間竹、山本、笠井、本間俊雄)2.03.8新、佐渡中総合4位
(1500m世界第4位)
昭19・ヘルシンキ・オリンピック候補選手
大・7年河原田・諏訪町に出生。昭・6・4 佐渡中学校に入学。昭・11卒業。立教大学に進学。昭和19年2月15日、太平洋戦争で戟死。
(主な水泳歴)
昭・8~昭10 県中等学校水上で400自・800自に優勝。
昭・14 日本選手権水上1500自2位19.34.4(世界第4位)
昭・15 日本学生水上800自2位10.21.2(国内第2位)
昭・16 比島水上選手権400自1位4.58.2。1500自1位20.07.2
昭和9年(佐渡中学4年)の県中学校水上競技選手権大会で、自由形400m・800mに優勝し、翌10年も同種目で2連勝を果たした。立教大学進学後は益々快調に実力を伸ばし、昭和14年の日本選手権では1500mで上記の好記録を出し、オリンピックの有力侯補になったが第二次大戦でオリンピックは中止、本人も出征して戦死し
た。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・1・1県水上競技聯盟・昭和11年度県最高記録発表
400自5.26.3本間俊雄(佐中)、800自11.28.4 本間俊雄(佐中)
★本間敏雄
両津高校時代の1969年度(S44)10月、第3回県高校新人戦陸上競技 走高跳1位
★本間敏夫(しこ名 佐渡錦)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
大正8年吉井村に生まれ、現在生存している。佐渡の青年団の相撲で優勝した本間長太郎の息子である。(当時の新聞記事は屋号の長次郎を用いている。佐渡ヶ島を井筒部屋へ連れていった人物で、本人は佐渡ヶ森という四股名を持っていた。)昭和11年佐渡ヶ島林蔵の紹介で井筒部屋に入門、3段目迄進む。5尺7寸18.5貫だったという。昭和14年壮丁検査で高田連隊の山砲に徴兵、中国の山野を斗い、漢口・宜昌・重慶にまで及んだという。敗戦後昭和21年内地へ帰った時は、年齢も体力も大相撲に復帰する条件に無く廃業。郷里で農業をして現在に至った。勲八等瑞宝章を受賞している。帰郷後は相撲とは絶縁して、アマチュア相撲に出ることもなかったという。
★本間敏雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間敏雄 89 点鬼簿(6) 中山守夫、本間敏雄、本間亮敬、斎藤良二郎、真木山幸二郎、小野久夫、本間フミ、山本惣次、若林吉堯、浅島治兵衛、相馬一正、宮崎萬平 山本修巳
★本間としこ
「島の新聞」索引(人名別)
★本間登志美
本名本間利美。大正十一年生れ。「歌と評論」同人であったが、平成十四年に没した。
○清蓮(せいれん)の河瀬を遡(のぼ)る鮎の群れ時折光る銀の横腹
(平成18年3月建碑 棹石丈0.8m)
「清蓮」は清らかな小波。まさに羽茂川中流の、このあたりの鮎が詠まれている。詠者は大崎宮本寺の人。ちなみに此処は、以前「地獄淵」と呼ばれる底無しの深淵であった。羽茂川が直流して来て突き当たり、直角に折れ曲がるので、淵は深く渦を巻き、尺余の大鮎もいると言われた。鮎の碑にふさわしい地である。
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★本間俊麿
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間俊麿 1 祭りと鬼と獅子舞と
★本間利美
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。
平凡な生活願ふ日紫陽花の咲き出でて亡き夫をしのばす
★本間東三夫
「島の新聞」索引(人名別)
★本間留蔵
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
窪田には平松治平の他、明治のころから斎藤弥平、本間留蔵、中島平吉の孫和作、本間藤三郎らが相ついで瓦焼業を経営した。他に小嶋芙山がいる。また、西二宮の前保田では、明治四十年四月、中川佐太郎が、鈴木忠蔵家屋敷の前方一部を借り受け瓦焼きを始め、佐太郎が没したあとは子息佐一がこれを引き継ぎ、昭和二十二、三年頃まで焼き立てた。また、昭和二年八月からは中村久馬吉が同じく鈴木家後方の一部を借りてこの業を起し、中村久馬吉の後は真光寺の本間喜作が富山から釆て、中原に居住していた本間喜作を雇って製瓦し、昭和十二、三年頃まで行った。鈴木家には、「昭和七年七月今村多一」と刻銘の牛の置物などが残されている。西二宮の上保田では窪田から移った中島和作も瓦や人形などを焼いたが、のちに市野沢から長木へ移った。佐渡凰製瓦の創始とされる小沢窯の瓦業は矢島主計没をもって止み、秋津窯へと移る。こうした窪田での瓦業素地の上に、再び弘化二年に来島した中島平吉の瓦焼きから、幕末・明治・大正・昭和近年にかけての窪田と西二宮を中心とする「二宮瓦」の瓦業へと発展していった。
また、平松治平などと同じく、平吉の弟子と思われる窪田の相田嘉左衛門の二男佐市は、文久元年(1862)に久文家を起こした。その後、明治に入ってからであろうか、新穂村正明寺にて瓦業を開き、正明寺・潟上を中心とする「潟上瓦」の端緒となった(『新穂村史』)。
★本間友英(ともふさ)
佐渡宝生流宗家の17世、1902~1969。在京時代より俳句を趣味とし、高浜虚子との親交を深めた。昭和二七年、高浜虚子、星野立子、高野素十、中田瑞穂等を招き句会を催す。この時詠んだ虚子の句碑が本間家に残る。
・或時は江口の月のさしわたり 虚子
謡曲に「江口」があり、旅僧が西行の古歌「夜もすがら月こそ袖に宿りけれ昔の秋を思い出づれば」を懐かしんでいる時に江口の君の幽霊が現われ、世の無常を話させている。虚子も能を嗜んだ事から、謡曲を念頭に置いた句であろう。
「佐渡広場」より
潟上の本間能太夫家十七代本間友英(1902~1969)。先代本間凞(ひろし)には男子がなく女子だけであった。宝生宗家の分家九世宝生嘉内(1854~1921)の娘の子で昭和8年1月入籍、同8月披露能。家元宝生九郎重英とは叔父・甥の関係にある。昭和23年には70年以上にわたって対立した西三川派との和解が成立。戦前までは東京に居る方が多かったが、戦後は佐渡を本拠地に活動。
→野村蘭作「宝生二派の統一」参照
「虚子ときんぽうげ」(「佐渡の百年」)
★本間豊蔵
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
相川流から国仲流に変わった四日町の鬼太鼓は、羨望と絶讃を集めることになった。さっそくそれを
習ったのが竹田だった。明治四二年生まれの土屋増一と、大正六年生まれの三浦忠雄が古老に聞いた
記憶によると、小田六郎平(弘化元-明治四〇)、松本滝蔵(明治九-大正一四)、本間豊蔵(明治一五ー大正一三)、本間寅蔵(明治一四-昭和二五)、遠藤紋平(明治一七-昭和四〇)等で、明治二九年頃だという。六郎平と滝蔵は舞もしたが太鼓中心、紋平は左利きで裏打の名人だったという。寅蔵と豊蔵が舞手だった。その年はまだ衣裳も整わず、はりきって待った三〇年は水害で祭りどころではなく、三三年には盛大な鬼太鼓を演じたと言う。
★本間豊丸
→本間周敬
★本間トラ
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★本間寅雄(ほんまとらお)(ペンネーム 磯部欣三)
「ウイキペディア」より










1926年(大正15)高千村生-2006年1月4日没。佐渡史研究家でペンネーム「磯部欣三」でも多くの著作がある。
NHK嘱託を経て昭和27年毎日新聞に入社。佐渡通信部長時代から良寛や世阿弥らと佐渡の歴史との関連を研究、同社地方記者に贈られる「やまなみ賞」第一回受賞者。1981年、良寛の母親がそれまでの定説だった人物とは別人であるとの説を発表して注目された。退職後、佐渡博物館に勤務し、歴史部長、館長を歴任(佐渡博物館4代目館長 昭和63年~平成9年)。相川町史編纂委員。主な著書に「世阿弥配流」(恒文社)、「佐渡金山」(中央公論社)、「良寛の母おのぶ」(恒文社)などがあり、佐渡民謡についても多くを記した。
『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
「fuakiの日記」(2011-02-13)
『本間寅雄著作目録』刊行
●佐渡の北見継仁氏から『本間寅雄著作目録』を御恵与賜った。平成23年1月4日発行。佐渡研究の第一人者・本間寅雄氏は平成18年(2006)に79歳で他界された。この本間氏は、磯部欣三のペンネームをもち、1946年から2007年まで、佐渡に関する膨大な著作を遺し、生涯を佐渡文化の発掘・定着に捧げられた。佐渡研究では、山本修之助氏が大きな足跡を遺されたが、それに続く人は、本間寅雄氏だと、私は思っている。
●私は、鈴木重嶺の資料調査で、何度も佐渡を訪問しているが、平成13年9月に、毎日新聞の磯野保氏をはじめ、多くの佐渡の方々にお会いして、多くの御指導を賜った。その時、本間寅雄氏にもお会いしている。非常に温和な方であるが、佐渡の事に関しては、汲めども尽きぬ豊富な材料を内蔵されている方だという印象だった。この度の、著作目録を拝見して、納得できた。
●その折、本間氏は、蔵田茂樹の『恵美草』の千畳敷の条に、井関隆子が歌を寄せているが、この「ともしきろかも」とは、どういう意味か、私に質問された。
「いづくはあれど、ここのあそびのいとうらやましくて、
すがすがだたみ千重敷いそにうたげせるさどのしま人ともしきろ鴨 隆子」
隆子は、茂樹の『恵美草』を2度も書写している。このように見事な景色の中で酒宴を開ける佐渡の人々は幸せで、私は羨ましい、というのである。多分、本間氏も納得されたものと思う。
■『本間寅雄著作目録』
この目録の詳細→http://www.ksskbg.com/sonota/shin.htm
『大工と穿子』(佐渡金山 平成4年 中央公論社)
本書は、前著『佐渡金山の底辺』(昭36)を基に、長い年月を費やした綿密な調査と、彪大な資料を駆使して書きつづった、文字通り「佐渡金山」の集大成である。とりわけ著者が力を注いでいるのは、鉱山庶民史であり、島送りされた無宿者に課せられた労働の苛酷さ、その彼らに性を捏供する遊女たちの悲惨さであり、読む人びとの胸を打つ。佐渡金山の過酷な歴史を克明に描きつつ、文章にも情感があって、類書にない魅力をもっている。
「紅梅」(津村節子)


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)磯部欣三
50 良寛の母についての新知見 56 北片辺に建った「夕鶴の碑」 67 中山キリシタン塚考 72 山本修之助さんを悼む 実証史学的な佐渡の先達-一貫して流れる浪漫思想- 93 良寛と佐渡 101 山本家と伊能忠敬書簡など 110 本間寅雄氏の御逝去を悼む 111 磯部欣三さんを悼む、弔辞 山本修巳 111(磯部欣三さんご逝去)弔辞 瀬戸内寂聴 111 (磯部欣三さんご逝去)弔辞 津村節 117 世阿弥の墓所-磯部欣三先生の想い出 寺島雅範 134 坂のある町... 寺島雅範 高橋信一・磯部欣三両先生と
(磯部欣三)
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「5号」(平成18年4月)磯部欣三さんを悼む(山本修巳)「11号」(平成19年10月)「回想-磯部欣三」(刊行委員会)(岩田雅)
「島の新聞」索引(人名別)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 10佐渡博物館 本間寅雄館長を文部大臣が表彰
★ 本間寅次郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)
佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
昭・6・8・29~30 第3回北陸水上選手権・県水上選手権・県青年団水上選手権・県下学量水上選手権・全日水上選手権・明治神官水上北陸予選会。悠久山プール
(佐渡郡青年団チーム)50自1位 31.8、100自5位。※明治神官大会・青年団府県対抗・新潟県代表選手に佐渡から、本間寅次郎、岩佐道三郎が選ばれる。
★本間寅蔵
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
相川流から国仲流に変わった四日町の鬼太鼓は、羨望と絶讃を集めることになった。さっそくそれを
習ったのが竹田だった。明治四二年生まれの土屋増一と、大正六年生まれの三浦忠雄が古老に聞いた
記憶によると、小田六郎平(弘化元-明治四〇)、松本滝蔵(明治九-大正一四)、本間豊蔵(明治一五ー大正一三)、本間寅蔵(明治一四-昭和二五)、遠藤紋平(明治一七-昭和四〇)等で、明治二九年頃だという。六郎平と滝蔵は舞もしたが太鼓中心、紋平は左利きで裏打の名人だったという。寅蔵と豊蔵が舞手だった。その年はまだ衣裳も整わず、はりきって待った三〇年は水害で祭りどころではなく、三三年には盛大な鬼太鼓を演じたと言う。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 両津町夷、商業 ・大3、小作労働組合の會合[十三年二月七日]
★本間酉蔵
舟下


(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

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