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2021-01-11

★本間太應(たいおう)
『加茂村誌』(昭和38年)
ほん本間太応
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ほん本間太應

★本間大樹(たいき)
ほん本間大樹・松澤顕治・蛭間勇介・山本修巳・北一輝 きた北一輝 20200523 (1) きた北一輝 20200523 (2) きた北一輝 20200523 (3) 030810 北一輝生家

★本間大關
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(俳客伝)より
ほ本間大關 俳客伝

★本間泰亮(たいすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡賀茂郡城腰(両津市)城主で上杉時代の地頭である。高島、椎泊、両尾、城腰、下久知、久知河内、蚫、川崎、羽生、大川、水津、片野尾、立間、強清水、多田、丸山、松ケ崎、赤玉を領した。(佐島遺事)

★本間泰蔵
左:丸一本間の2代目本間泰輔と妻キミ。大正後期、30歳前後のキミ
中:大正後期の本間家。真ん中に本間泰蔵、その左に一夫とキミ、キミの後ろに泰輔
ほん本間泰蔵 丸一本間の2代目本間泰輔と妻キミ。大正後期、30歳前後のキミ 
ほん本間泰蔵 大正後期の本間家。真ん中に本間泰蔵、その左に一夫とキミ、キミの後ろに泰輔 ほん本間泰蔵
曾祖母キミの思い出を語る本間櫻さん(左)と林花織さん"
本間泰蔵 曾祖母キミの思い出を語る本間櫻さん(左)と林花織さん
無題
ほん本間泰蔵 (1) ほん本間泰蔵 (2)
ほん本間泰蔵
本間泰蔵 曾祖母キミの思い出を語る本間櫻さん(左)と林花織さん
無題
・「ウィキペディア」より
(國稀酒造):國稀酒造株式会社(くにまれしゅぞう)は、北海道増毛郡増毛町の清酒製造・販売を行う酒蔵。1882年(明治15年)創業。2001年(平成13年)10月1日、「丸一本間合名会社」から「國稀酒造株式会社」に法人格及び社名を変更。初代は本間泰蔵。『國稀』『北海鬼ころし』が主力商標である。南部杜氏の流れを汲み、昔ながらの製法を守る蔵であり、暑寒別岳山麓からの良質な天然水に拘った酒造りをしている。現在、造り酒屋としては日本で最北に位置する。高倉健主演の映画『駅 STATION』のロケ地ともなった。
・<旧商家丸一本間家‐歴史>
丸一本間家は明治8年から雑貨店を経営していましたが、明治13年大火に被災し家財を失いました。しかし直ちに復旧し、この地の発展を見込んで敷地を拡大し呉服店舗、雑貨店舗、酒造蔵、居宅倉庫などを防災的な構造を視野に入れて工事を進め、明治35年には丸一本間合名会社社屋中枢部を増築、初期建設のすべてを完了。その後昭和初期には社屋であった旧雑貨店舗を木造新社屋に改築、建物はほとんど明治35年のものが維持されていました。
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<旧商家丸一本間家‐国指定重要文化財>
100年前の明治時代の姿をそのまま現代に伝えている旧商家丸一本間家。屋根瓦の一枚一枚には屋号が彫り込まれ、壁面や門柱には洋風の装飾が施されるど当時の建築職人の心意気が感じられます。本間家は「丸一本間」の屋号で、呉服商に始まり鰊漁の網元、海運業、酒造業など時代とともに多岐にわたり事業を展開し、家屋もそれに伴って増築していきました。現在は建物の大部分が修繕・復原され、店鋪や居宅部を含む、広大な建物の内部を見学できるようになっています。
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【国稀酒造】明治15年創業の北海道最古の酒蔵で平成13年に丸一本間合名会社から「国稀酒造」に社名を変更。日本最北の造り酒屋としても知られています。水にこだわり続ける酒蔵で暑寒別岳の伏流水を使って醸造しています。無料で酒蔵内の見学も出来ます。【豪商・本間泰蔵】明治8年ニシン景気に沸く増毛に、佐渡の仕立屋に生まれた本間泰蔵が、呉服なども商う小さな雑貨店を開いた。店は繁盛し事業を拡大。7年後には本業の呉服や荒物雑貨販売のほか、船を買い、ニシン漁、海運業、酒造業まで手を伸ばし、「天塩随一の豪商」と呼ばれるまでになりました。その本間家の繁栄をあらわしているのが、1902年(明治35年)まで約20年の歳月をかけ、建築された「旧商家丸一本間家」の建物群です。建物は当時、越後から宮大工を呼んで造らせたもので柱はエンジュ、一間廊下はヒバ、差鴨居(さしかもい)はカツラでどれもほぼ建てられた当時のままできれいに残っています。
・旧商家丸一本間家
~国指定重要文化財 初代本間泰蔵の家~國稀の創業者である本間泰蔵の自宅であった「旧商家丸一本間家」は、100年前の明治時代の姿をそのまま現代に伝えています。明治14年から建設を始め、明治35年に落成した町屋造りを基本とした建物群は、「ふるさと歴史通り」に面して木骨石造りの呉服店舗と呉服蔵があり、その間の玄関を入ると、軟石を敷き詰めた通り庭の奧に、コの字型で天井の高い木造平屋建ての居宅と、木造一部三階建ての付属家があります。屋根瓦の一枚一枚には屋号が彫り込まれ、壁面や門柱には洋風の装飾が施されるなど、当時の建築職人の心意気を感じることができます。本間家は「丸一本間」の屋号で、呉服商に始まり鰊漁の網元、海運業、酒造業など時代とともに多岐にわたり事業を展開し、家屋もそれに伴って増築していきました。増毛町はこの建物の価値、そして文化財としての保護が急務であると考え、平成9年に増毛町文化財に指定し、同時に「増毛町本間家保存修復事業」として推進することを確定。平成11年には初期の建築が完成した明治35年ころの再現を念頭に復元保存工事が竣工されました。現在は店鋪や居宅部を含む広大な建物の内部と、本間家所蔵の什器ほか備品等を展示し、見学できるようになっています。旧商家丸一本間家(増毛町ホームページより)
・「北海道歴史探訪」
日本最北の酒蔵、国稀酒造。現在も全国で人気を誇る名酒は、明治初期の男によって作り上げられました。男の名は本間泰蔵。1849年に佐渡で生まれました。生家は裕福な呉服商でした。泰蔵が18歳のときに明治維新がおこります。その激動期を経て、泰蔵は北海道で商売をする決意をしました。本州では家を継げないものは土地が得られない。しかし、北海道であれば、開拓して自分の土地を手に入れられると考えたのです。泰蔵は24歳で家を出ます。そして小樽に上陸し、生家の商売だった呉服商の門をたたきます。そこが彼の恩人となる丸一松居呉服店でした。人口5千人を数える小樽は、多いに賑わっていました。泰蔵は店主に認められ、ほどなく番頭になるほどに出世します。そのころ、北海道は鰊漁で賑わっていました。季節になると、日本海一帯の町にヤン衆と呼ばれる鰊漁に従事する男たちが押し寄せてきました。泰蔵は行商で、増毛に行くことになりました。店主が泰蔵に持たせたのは、ふろしきいっぱいの反物でした。これほど売れるのかと疑いたくなるような量でした。増毛につき、反物を広げた泰蔵のまえに、人だかりができ、反物はすぐに売れてしまいました。その景気のよさに、泰蔵は舌をまきます。泰蔵は、その後も何度か増毛に行き、商才を発揮して顧客をつくり、店の売り上げに貢献していきます。ところが、明治8年。丸一松居井呉服店は、店主の都合から店を閉めることになってしまいます。わずか2年間で呉服店での仕事は終わってしまいました。店主は、泰蔵にこれまでの仕事に礼を言い、これを元手に商売を始めなさいと300円相当の反物を与えました。それは給料の3年分もの値打ちでした。泰蔵は驚き、あまりの高額な贈り物にためらいました。しかし、店主は泰蔵にこれまでの努力を評価し、その商才を伸ばしていくことをすすめました。その言葉を聞き、泰蔵は店主の贈り物をいただくことにしました。そして、商人として旅立つことにします。彼はどこで商売を始めるかを考えます。今まで度々行っていた増毛。その景気のよさから、増毛で商売を始めることを決心しました。明治8年、本間泰蔵26歳。彼は恩人である店主からの贈り物を手に、鰊景気に沸く増毛に移り住みました。そのころの増毛は暑寒別岳を背に、海の玄関として北前船の往来が激しく、著しい発展をしていました。ここで泰蔵は呉服店を開きました。店は順調に売り上げを伸ばしていきました。明治13年には石造りの店舗を作り、店員は40名ほどにもなっていました。増毛一番の呉服商、雑貨商として成功した泰蔵は、正式に社名を起案し、丸一本間と名乗ります。恩人である丸一松居呉服店にあやかったものでした。泰蔵は事業を拡大していきました。彼は鰊漁の網元としての活動を開始します。出稼ぎに来たヤン衆たちを雇い、海の商人としても活躍していきます。このことが泰蔵にさらなる事業を思いつかせます。出稼ぎに来たヤン衆たちのなぐさめになり、楽しく仕事をさせてやりたい。そうするためにはどうしたらいいのか。その思いから、泰蔵は酒を造ることを発案します。増毛は暑寒別岳のおかげでおいしい水がありました。明治15年秋、泰蔵は増毛郡役所に酒の醸造許可を願い出て、酒造りをはじめます。増毛の冬は冷たい空気で満たされます。この寒さも酒をおいしくしました。泰蔵は、春は網元、秋冬は酒造りに没頭していきます。彼は酒に国の誉という名前をつけました。泰蔵は明治20年に海運業にも進出しました。物資が不安定な増毛にいつも物資が到着するようにしたのです。彼は天塩地方随一の豪商といわれるまでになりました。その後も丸一本間は、順調な商いを続けていきました。明治35年、泰蔵の酒「国の誉」に関する出来事が起きました。この年、日露戦争のために増毛の若者が多く入っている第7師団が出征しました。彼らは203高地で激戦で、多くが死傷してしまいます。泰蔵はかれらのために慰霊碑をたてようとします。そして、その碑文を元陸軍大将の乃木稀典将軍に書いてもらうことにしました。泰蔵は乃木と謁見し、増毛に戻ったあと、乃木将軍の稀の字をいただき、国にとって稀な良い酒という意味合いから酒を「国稀」と改名しました。泰蔵は老境に入ってからも、事業のアイデアを絶やしませんでした。米を安く供給しようと、外国産米や道産米の研究を行います。また、大正5年には、増毛で初めての火力発電による電灯を提唱しました。佐渡から北海道にわたってから、54年目。昭和2年、泰蔵は亡くなりました。享年77。現在も国稀酒造は、創業者・本間泰蔵の考え出した手法を、かたくなに守り続けているといいます。
・「国稀酒造レポート」(「ムラオカ食品」)
最初に国稀酒造の歴史についての御話を伺いました。増毛町は明治初期 にしん景気で賑わっておりました、創業者の本間泰蔵は新潟県佐渡出身で呉服の仕立て屋の三男として1849年に生まれ、1873年(明治6年)に小樽に渡り呉服屋の養子格の番頭として働いておりました。増毛町には明治8年に移り住み呉服商を始めたとの事。明治15年に「丸一本間」の社名で本業の呉服商の他、海運業・ニシン漁・醸造業を始めるに至りました。佐渡出身の本間泰蔵は知人に酒屋がいた事から酒の自家醸造を始めました。
 初めは現在の蔵元横の旧本店の敷地内の醸造蔵で酒が造られておりましたがニシン豊漁による好景気で酒の需要が増え続け、明治35年に現在地に酒蔵を建設し現在に至っています。当時は社名も「丸一本間合名会社酒類部」となり営業をしておりましたが、合名会社設立から100年後の平成13年に現在の「国稀酒造株式会社」が社名となりました。
 野呂部長より蔵内を案内され、そこでは昔ながらの製造をされておりました。当初は本間泰蔵が新潟県出身だったこともあり酒造好適米「五百万石」使用した清酒が多かったようですが、近年は「きらら397」「ゆきひかり」など北海道産の米を使用した清酒が造られています。最近では北海道産酒米である「吟風」を使用した清酒が多く造られております。
「佐渡広場」(係わりの地44)
本間泰蔵:嘉永2年(1849)河原田で仕立て屋の三男として生まれ、23歳で小樽に渡り呉服店で働く。後、ニシン景気で湧く増毛(ましけ)で呉服店を始める。明治31年(1902)丸一本間合名会社創立。事業分野には、呉服雑貨業、醸造業(佐渡の知人に酒屋がいて醸造知識はあった)、漁業、海運業(汽船5隻所有)、不動産業、また増毛電気株式会社の初代社長であったり、総合商社のような多角経営を行った。天塩國随一の納税者で豪商と呼ばれた。現在、國稀酒造(株)が存在し、「旧商家丸一本間家」は国重要文化財で、地域の観光スポットになっている。日本初の点字図書館を作り、点字の父と呼ばれる本間一夫は孫にあたる。また、羽幌の本間藤右衛門とは親戚筋になる。
「島の新聞」
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本間泰蔵寄贈の狛犬(真野宮)
ほん本間泰蔵 (2) ほん本間泰蔵 (4)
「本間キミとその時代」
丸一本間の2代目本間泰輔と妻キミ。大正後期、30歳前後のキミ
有島武郎や井上円了が増毛を訪れたのは1907(明治40)年。その3年後、丸一本間(現・国稀酒造)は、道南の茂辺地からとびきりの花嫁を迎える。かつての松前藩の家老の家系に生まれた、キミという気丈な女性だった。
谷口雅春-text
松前藩家老家からの嫁取り物語
「キミのことを考えると、幕末から明治にかけての日本の歴史がまるで自分に関わることのように、少し実感できるんです」。
増毛町(ましけちょう)の国稀酒造(株)の企画室長本間櫻さんは、曾祖母のことをそう言う。姉の林花織取締役も、キミのことをいまもいつも身近に感じているという。明治大正昭和と、激しい時代の潮流のただ中を泳ぎ切って現在の国稀の形を作ったのは、この本間キミ(1891-1968)なのだ。
本間キミは、丸一本間(現・国稀酒造)の二代目、本間泰輔の夫人。キミの実家は道南の茂別(現・北斗市)の下国家で、松前藩の家老として藩政に深く関わった家柄だった。父(濵三郎)は17代目で、その兄貞之丞が16代。キミの祖父となる下国崇教(たかのり・通称「安芸」)は、戊辰戦争の最終局面である箱館戦争の最前線にいて、その後の明治政府による北海道開拓のはじまりまでを見届けた人物だ。崇教は最後の日本式城郭のひとつである福山城(松前城)の築城の責任者(築城総奉行)となり、戊辰戦争では藩内で佐幕派(幕府側)と尊皇派が激しく対立する中で尊皇を軸にした改革を調整。榎本武揚率いる旧幕府軍が箱館戦争の緒戦で圧勝すると藩主徳広らと津軽に逃れた。『北海道史人名彙』(河野常吉)には、「資性温厚人望あり、又和歌を善くす」とある。下国家のルーツは津軽安東家だ。下国家は15世紀半ばに、南部氏との抗争の末に本拠地である十三湊(現・五所川原市)から蝦夷地に逃れた。その後かれらは渡島半島に沿って12ほどの館(たて・砦)を築いていく。武装商人とも称される、獣や海獣の毛皮、干鮭、昆布、鷹の羽や砂金といった蝦夷地の特産物を本州と独占的に交易した一族だ。渡島半島南端は、茂別館が中心の「下の国」(現・北斗市矢不来)、大館(松前)中心の「松前」、花沢館中心「上の国」(現・上ノ国町)の三つの地域に分けられた。約6800坪もの敷地をもつ茂別館は、茂辺地川左岸の丘陵につくられていた。下国氏はやがて蠣崎氏(のちに松前氏に改姓)の家臣となったが、蠣崎(松前)氏以外では唯一家老となる家柄となったのだった。蝦夷の中世史では、下国家はコシャマインの戦い(1457年)で重要な働きをしたとされている。箱館近郊の鍛冶屋集落で和人がアイヌの青年を刺殺したことに端を発して、東部アイヌの首長コシャマインに率いられたアイヌ民族が蜂起した事変だ。和人豪族の館はつぎつぎに陥落して、下国家政の茂別館と蠣崎季繁の花沢館(現・上ノ国)の2館を残すのみとなった。しかし蠣崎季繁のもとにあった武田信広が和人軍を指揮して反撃に成功。これを機に武田信広が蠣崎氏の養子となり、のちの松前藩の源流となる。以後和人とアイヌの交易は松前に集約されて、アイヌの自由な交易は制限されていった。蠣崎氏は改姓して松前氏となり、17世紀はじめには徳川家康からアイヌとの交易の独占権を承認される。櫻さんと花織さんの曾祖母下国キミは、こうした歴史の舞台にいた家系の末裔だった。キミは1891(明治24)年に茂辺地(現・北斗市)に生まれた。上にふたりの兄がいる。キミの叔父である下国家16代貞之氶は、自宅で子どもたちのために寺子屋を開いたが、キミの父で17代となる濵三郎はこれを引き継ぐ形で茂辺地小学校の初代校長となった。新しい時代の学びを強く志向する家庭に育ったキミは、北海道庁立函館高等女学校(現・函館西高校)に一期生として入学する。高等科を卒業すると、自宅で近所の子どもたちに勉強を教えていたという。
一方で明治30年代の丸一本間は、呉服や雑貨など幅広い商いをしながら、ニシンの網元であり酒造りにも取り組んでいた。加えて海運業が絶好調で、不動産の分野にも進出していく。佐渡から小樽に渡り1875(明治8)年に増毛で起業した創業者本間泰蔵は、1902(明治35)年に商法が施行されてほどなく、自らの事業群を近代的な合名会社として束ねた。泰蔵は同郷の妻チエとのあいだに3人の子をもうけたが、このころ長男泰輔のために、とっておきの嫁取りを計画して実現させる。それがキミだった。
嫁取りのために動いたのは、丸一本間合名会社汽船部の函館支配人だ。跡取りに添わせたいと支配人が目をつけた令嬢がたまたま下国家の娘であったのか、最初から下国家と知っていたゆえに縁結びに奮闘したのかはわからない。増毛に根ざして功を成した商人にとって、下国家から嫁を取ることには格別の意味があった。江戸時代、増毛一帯は下国家の知行地であったからだ。世が世であれば一介の商人が知行主である武家から嫁を取るなど到底想像できなかったことだろう。泰蔵にとって、これ以上の成功の証があっただろうか。1910(明治43)年、泰輔は会社の持ち船「太刀丸」を満艦飾にして、七重浜まで新婦を迎えに行った。キミは19歳。浜にはおおぜいの見物人が幾重にも人垣をつくっていた。もちろん増毛でも、わがまちの大店本間家が迎える嫁に好奇と期待が高まる。「太刀丸」が港に入ると、すぐさま婚礼の儀と披露宴が行われた。宴は親族と店の顧客それぞれ別にもたれ、さらには使用人、出入りの手伝人、女中ごとにも席が設けられた。盛大な披露宴が4日間で5回も開かれたのだった。他方で明治の世は、松前藩の威光をすでに過去のものにしていた。かつての御家老家からの嫁入り道具ははたしてどれほどけた違いのものかと想像していた本間家の人々は、キミの持参品の、豪華ではあるがあっけないほどの少なさに驚いた。そのうちのひとつをいま、増毛の総合交流促進施設「元陣屋」の郷土資料室の展示で見ることができる。ひと振りの薙刀(なぎなた)だ。薙刀は、武家の女性の嫁入り道具に欠かせないもの。鞘(さや)には下国家の家紋、「丸に違い鷹の羽」が刻印されている。武士が矢羽根に使う蝦夷地東部や千島産のワシ・タカの尾羽は、本州の武家にとってきわめて価値の高いもので、松前藩はこれをアイヌとの交易で手にしていた。下国家の家紋は、まさに内地に向けた蝦夷地の稀少な特産品をかたどっているのだった。本間家によると、刀身の根元に「平安城住源直之」という名が刻まれている。直之は越前下坂出身で京都に住んだ刀鍛冶で、幕府ご用達の仕事を手がけて17世紀後半に活躍した人物。この薙刀は、松前家を通して下国家にもたらされたものなのだろう。こうして本間家に嫁いだキミはやがて、丸一ののれんを守る原動力になっていく。
さながら酒蔵への退却戦を指揮した本間キミ
創業者泰蔵の娘で泰輔の妹千代は、大正初めに結婚して一男をもうけたが、ほどなく亡くなってしまう。千代は泰蔵が溺愛した娘で、小樽から婿を取っていた。この子どもが、後年になって日本で最初の点字図書館を東京に開くことになる本間一夫だ。千代亡きあと一夫の父は本間家との縁が切れてしまったので、一夫は両親を知らずに育つことになってしまう。泰輔とキミは子宝には恵まれなかったので、一夫をわが子として迎え入れた。しかし一夫は5歳のとき、脳膜炎がもとで視力を失ってしまう。キミのショックと悲しみは深かった。キミは一夫に光を取り戻すために、名医と聞けば手間と費用をいとわず東京にも出かけたが、願いはかなわない。息子が視力を完全に失ってしまったことを受け入れるには、発症から8年以上の歳月が必要だった。
一夫は、函館の元町にある函館盲唖院(現・田家町の「函館盲学校」)で学ぶことになる。キミは下国家が元町に持っていた屋敷を建て替えて(1928年)、道庁に勤めていたすぐ上の兄の家族に移り住んでもらって息子の世話を頼んだ。一夫が盲唖院に通ったこの古い建物はいま、函館観光の人気の喫茶店になっている。元町公園の東側、日和(ひより)坂をのぼったところにある「茶房無垢里(むくり)」だ。一夫は盲唖院で点字をおぼえ、大きな喜びを覚えた。幼いころから本を読んでもらうのが好きだった一夫は、増毛時代は、キミが買ってくれた本をもっぱら店の奉公人などにせがんで読んでもらっていた。しかし好きなときに相手にしてもらえるわけではない。でも点字があれば、ひとりで好きなときに本が読める。一方で、点字化された本はまだとても少ない。古今の名作の点字本をたくさん作って、いつかそれを集めた図書館を開きたい。ロンドンにはそんなすばらしい図書館があるというではないか! 一夫少年の胸に、しだいにそんな思いが湧き上がった。またこの増毛時代、一夫の遊び相手になっていたのが、8つ下の従兄弟で、本間櫻さんと林花織さんの父である泰次だった。一夫はその後、関西学院大学専門部英文科に進んだ。当時、視覚障害者に門戸が開かれていた数少ない高等教育の場だ。意欲に燃えて入学した一夫は、講義を聞きながらタイプを打ってノートをつくるのだが、大きな音が出るのでまわりに迷惑がかかってしまう。一夫の苦境を知ったキミは、一夫のためにノートを作ってくれる学友を見つけて、彼の学資は本間家で世話する、という解決策を見つけた。卒業後、一夫は東京の視覚障害者施設に勤める。1940(昭和15)年には、本家の支援を受けながら自身の蔵書をもとに日本初の点字図書館「日本盲人図書館」(現・日本点字図書館)を東京に開設(豊島区雑司ヶ谷)。翌年には本間家が東京に持っていた土地(現・新宿区高田馬場)に移転させた。太平洋戦争がはじまると一夫は図書を茨城、そして増毛に疎開。終戦後しばらくは、増毛から貸し出し事業を継続した。一夫がこのような道を歩んだので、事業の未来のために泰輔は、甥(弟泰一の次男)を養子にした。本間櫻さん、林花織さんの父で、のちに増毛町長を6期近く務めた本間泰次だ。創業者泰蔵の娘千代は小樽から婿を迎えたし、この連載でふれてきたように増毛と小樽の縁は強く、泰次は小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進み、2年のときには学徒出陣をしている。盛岡の戦車隊に入って満州へ向かったが、同じ隊にいたのちの作家司馬遼太郎との長い交友は、本間家の歴史を魅力的に彩っている。さてキミの伴侶泰輔は1925(大正14)年に2代目を継いだのだが、創業者泰蔵が亡くなってすぐの翌年、1928(昭和3)年に逝ってしまった。泰輔はもともと病弱で、気丈なキミとはずいぶん性格が異なる人だったようだ。花織さんはキミから、泰輔が東京の病院に入院していたとき、病室から見える庭の一角でヘビが鳥の巣に侵入して卵を丸呑みするのを目の当たりにした話を聞いたことがある。「あの人は怖くなって、もうこんなところにいたくないと泣き言を言ったのよ」、とキミは笑った。キミは夫の泰輔が亡くなってから、櫻さんと花織さんの父である泰次が代表につく1968(昭和43)年までの40年ものあいだ、丸一本間の舵取りを担った。その間、集中と選択の経営を果敢に実践する。泰輔が亡くなるといち早く呉服業と海運業から手を引き、ニシンの漁獲が激減した昭和30年代初頭には漁業から撤退。結果として、今日に直結する酒造業一本に絞る壮大な退却戦を指揮したのだ。その意味で現在の国稀酒造を築いたのはキミであったことは、国稀酒造(株)の誰もが実感するところだ。猫や馬など動物が大好きで、つねに世の中の新しい動きに敏感だったキミは、代表を泰次に引き継いだ年(1968年)、すべてを見届けたように76歳の生涯を閉じた。それは、明治以降に北海道に渡ってきた和人たちがちょうど開拓百年(開拓使設置から百年)の節目をうたった年だ。名門の武家から奥地の新興の商家に嫁ぎ、新たな時代に立ち向かうように歩みつづけた、強さとたおやかさを合わせ持ったキミの人となりは、現在の国稀の一杯にも溶けているのかもしれない。松前から小樽、そして増毛以北につながっていた海の道は、大きく俯瞰すれば、古来列島の南北を太く結んでいた日本海の舟運(しゅううん)の一部だった。松前や江差の人々はそうした歴史を通して関西と深く関わっていたし、本間櫻さんも、子どものころ家にはいつも京都や大阪のお菓子などがあったと語る。日本海を北上しながら蝦夷地から北海道へ向かう時間と空間の旅は、国稀酒造を入り口にすることで僕たちの前にいきいきと立ち上がってくる。
「北海道立志編」(明治36年刊)より
ほん本間泰蔵(北海道立志編) (13)
ほん本間泰蔵(北海道立志編) (14)
『北海道人名辞書』(金子信尚編 北海民論社 大正12年刊)
ほん本間泰蔵(「北海道人名辞書」)
「本間泰蔵とその孫一夫」
「本間泰蔵とその孫一夫」(「佐渡郷土文化」)
「佐渡広場」(北海道と佐渡(4):増毛)
「國稀の歴史」
NHK-BSプレミアム 2月7日(日)午後10時50分~午後11時50分  再々放送 『六角精児の呑み鉄本線・日本旅「秋・留萌本線を呑む!」』
北海道増毛の国稀酒造を六角精児さんが訪れました。国稀酒造は、最北の酒蔵であり、創業者の本間泰蔵は佐渡の出身です。
本間 泰蔵(ほんまたいぞう)
1849(嘉永2)年、新潟の佐渡(現新潟県佐渡市)の仕立屋に生まれる。行商で訪れた増毛で雑貨兼呉服店を開業。その後鰊漁網元、醸造業、海運業と商いを広め、議員にも当選。長男の婚礼は、松前藩の家老・下国家の娘を社有の船で七重浜に迎えに行く、盛大な海路の輿入れだった。1927年に逝去。葬儀は弔問客が駅前通りを埋め尽くす程だったという。日本点字図書館の創設者・本間一夫は孫に当たる。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間泰蔵 138 本間泰蔵とその孫一夫-豪商の祖父と点字図書館を創設した孫- 渡辺和弘
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=26
追加情報

★本間胎蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
両津町 ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]・昭2、佐渡民政倶楽部の発会式[四年九月二日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]


★本間大吉

真野町豊田出身の弁護士で、日本弁護士会副会長を務める。広島で活動した。
・「ヒロシマ平和メディアセンター」より
1963/7/31 浜井広島市長、建林正喜広島大教授、今堀誠二広島大教授ら11人が「原水爆禁止と平和を願う緊急声明」を出し「日本原水協に党利党略を持ち込み、混乱を招くことは人類の純粋な願いを愚ろう」と社共両党をきびしく批判。3人を除く署名者=本間大吉(弁護士)、河村政任(広島キリスト教信徒会会長他。


★本間太市

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ほん本間太市


★本間妙子

ほん本間妙子


★本間多恵子

両津高校時代の1985年度(S60)11月、第31回青少年読書感想文コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催)県審査 優秀賞


★本間高明

『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 
 103 本間氏地頭代説の問題点
 115 江戸後期の佐渡の文化度
「佐渡ジャーナル」関係記事:「18号」(平成21年7月)佐渡の中世を考えよう1 本間高明「19号」(平成21年10月)佐渡の中世を考えよう2 本間高明「20号」(平成22年1月)佐渡の中世を考えよう3 本間高明「21号」(平成22年4月)佐渡の中世を考えよう4 本間高明「22号」(平成22年7月)佐渡の中世を考えよう5 本間高明「23号」(平成22年10月)佐渡の中世を考えよう6 本間高明「24号」(平成23年1月)佐渡の中世を考えよう7 本間高明「25号」(平成23年4月)佐渡の中世を考えよう8 本間高明「26号」(平成23年7月)佐渡の中世を考えよう9 本間高明「27号」(平成23年10月)佐渡の中世を考えよう10 本間高明「28号」(平成24年1月)佐渡の中世を考えよう11 本間高明「29号」(平成24年4月)佐渡の中世を考えよう12 本間高明「31号」(平成24年10月)佐渡の中世を考えよう13 本間高明「32号」(平成25年1月)佐渡の中世を考えよう14 本間高明

★本間孝雄
ほん本間孝雄

★本間敬男
佐渡高校時代の33.6.7-8、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合22点6位、棒高跳1位
33.6.29、陸上競技全国大会信越地区予選会(高田市)総合15点5位、棒高跳1位
33.9.13~14、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)総合26点4位、棒高跳2位
34.6.6~7、陸上競技全国高校大会県予選会(新潟市)総合32点4位、棒高跳1位
34.6.28、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(上田市)総合21点3位、棒高跳3位
34.9.19~20、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)総合44点2位、棒高跳1位
34.8.7~9、陸上競技全国高校大会(東京国立競技場)出場
※本間敬男棒高跳全国ランキング3位により県高体連表彰を受ける

★本間孝子
佐渡高校時代の平成4,現代学生百人一首入選 

★本間高貞(たかさだ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡羽茂郡羽茂城主で上杉時代の地頭である。対馬守という。小木、強清水、深浦、大泊、西方、清土岡、村山、大石、野崎、赤岩、大杉、杉之浦、新保、柳沢、真蒲、小木、木浦、大崎、飯岡、滝平、宿根木、草刈、上山田、羽茂本郷を領し、越後にも領地があった。千九百二十石である。(佐島遺事)
『小木町史』より
天正十七年、上杉景勝によって攻められ落城、国府河原の露と消えたのが、本間対馬守高貞であったといわれていますから、高李の子でしょうか。

★本間隆
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・7・27 第12回県水泳選手権・日本水上選手権予選会(県水上競技連盟・県体協)・第8回佐渡水上競技選手権(佐渡水泳協会) 200自③本間隆(鉱山)

★本間孝
「佐渡ジャーナル」関係記事:「16号」(平成21年1月)この一冊「木食さんの佐渡」(文・萩原光之 写真・本間孝 アサヒメディア)

★本間高次
ほん本間高次

★本間高滋(たかしげ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国難太郎檀風城(真野町)にいた上杉時代の地頭である。信濃守という。竹田、八幡、長江、金丸、同本郷、長石、杉崎、目黒町、安国寺、大久保、河内、四日町、畑方、同本郷、鞭ケ廻、大川、皆川、小倉、寺田、新保、貝塚、西方、上中興、藤津、八分一、大和田、下中興、本屋敷、坊ケ浦の外越後にも領地があり、四千六百余石を領した。(佐島遺事)

★本間高季(たかすえ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡羽茂の将。対馬守高季。天正十年(一五八二年)六月十二日、上杉景勝は書を高季等佐渡の諸将におくり、本能寺の変と越中能登の諸将が復属したことにより、この仕置のために同国に出馬することを伝えた。(越佐史料巻六)
『小木町史』より:室町末期になると、天文二十年(1551)の年号のある、宿根木石塚家(現在、羽茂本郷の石塚薬局)の文書にあらわれる高李がいます。羽前同山形県の志賀家文書にも、天正十二年(一五八四)のころ、本間対馬守高季と出てきます。

★本間 高統(たかつな・たかもと)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国河原田の城主。天正十二年(一五八四年)羽茂の本間高季と戦ったので、上杉景勝は八月二十二日、後藤入道勝元を遣わして和解させた。和解のために伝馬一疋、宿送三人と賄五人とを与えた。この和解は永続せず同十七年六月の佐渡討伐へと発展した。(新潟県史)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本間 高統(ほんま たかつな、天文20年(1551年) - 天正17年6月2日(1589年7月14日))は、戦国時代の佐渡国の武将。佐渡河原田城主。本間貞兼の子。通称・近江守、山城守、佐渡守。名は高綱・高続とも。また家名をとって河原田高統ともいう。
佐渡国内を大部分を支配した河原田本間氏の当主。他の本間家を糾合して越後国の上杉氏に反発と和睦を繰り返し独立勢力としていた。天正12年(1584年)には来襲した藤田信吉を破っている。
天正12年(1584年)同じく佐渡南部で勢力を持っていた羽茂本間氏と対立。その際は上杉景勝によって派遣された後藤勝元の仲裁で和するが、間もなく決裂。羽茂本間高季との内乱に発展する。しかしこの内乱を平定するという名目で、天正17年(1589年)6月、一部の本間氏と結託した景勝が来襲する。この強襲に際し、高統は河原田城に篭って抵抗するも、城は落城し、自身も嫡男・統之とともに自害した。墓所は佐渡市の本田寺。一子の高応が家臣・磯田徳兵衛の働きにより会津へ脱出しており、家名断絶には至らなかった。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国雑太郡河原田東福城にいた上杉時代の地頭である。中原、石田、片貝、二宮、一谷、青野、窪田、真光寺、沢崎、神田、永野等を領知し千六百余石であった。佐渡守といぅ。(佐島遺事)

★本間高直(たかなお)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の人である。寛正四年(一四六三年)四月二十二日に近江守に任じられた。(佐渡志、新潟県史)

★本間高信
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間高信 15 佐渡本間物語 (15) -長尾為景と羽茂の本間高信との関係- 山中観一

★本間高納(ほんまたかのり)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国賀茂郡谷塚の人で上杉時代の地頭である。谷塚を領した。十郎という。(佐島遺事)

★本間高茂
本間対馬守高貞(ほんまたかもち・ほんまつしまのかみたかさだ)【直江兼続・天地人関係】
 生年月日不詳~天正17年(1589)。 羽茂(はもち)の対馬守高貞は、天正17年(1589)6月の上杉景勝佐渡攻めに対し、徹底抗戦を行った南佐渡連合の盟主です。 知行は1920石。領地は羽茂、清士岡(せいじがおか)、西片、村山、大石、大泊(おおどまり)、野崎、赤岩、菅浦(すがうら)、大杉、宿根木(しゅくねぎ)、新保、柳沢、真浦(まうら)、飯岡(いいおか)、木ノ浦、草刈、山田、大崎、滝平、小木(おぎ)、強清水(こわしみず)、越後に久田、郷本、渡部の内少々。 上杉方は佐渡攻めの最終打倒目標を羽茂本間対馬守高貞に定めていました。6月13日から展開された戦闘は、河原田城(かわはらだじょう)の攻防が1つの要でした。河原田城の落城で攻撃の矛先は南に向けられ、国府川(こうのがわ)対岸の南佐渡連合の防衛線が突破されると、雑太城(さわだじょう)や吉岡城などは簡単に開城させられ、16日早朝から羽茂城攻略にかかりました。河原田城に次ぐ大激戦が展開したが、衆寡敵せず羽茂城は1日で落城しました。船で逃亡を図った本間対馬守高貞と本間参河守高頼や家族と近臣は、越後に吹き寄せられて捕縛され、佐渡へ送還されて国府川(こうのがわ)河畔の市場で処刑されました。墓所は佐渡市羽茂本郷の大蓮寺にあります。
・本間高茂のその後
上杉景勝による佐渡平定において、もっとも激しく抵抗したと言われているのが、羽茂城の本間高茂(ほんまたかもち)でした。高茂がどのような人生を送ったかをご存知でしょうか?本間氏の出自は、相模国海老名氏の流れで、鎌倉時代から佐渡守護代として佐渡島に関係を持ち始めたと言われています。そして、徐々に島内での勢力を伸ばしていきます。その過程で領地争いによる内部分裂が起き、分家が乱立するようになり、そのひとつが高茂の羽茂本間氏になります。越後の上杉氏との関係は、分家ごとにそれぞれ異なり、高茂の羽茂本間氏は、越後国内で上杉景勝に反旗を翻した新発田氏に同調し、景勝との関係は悪化。新発田氏を援助していた会津蘆名氏と親交を深めていたと推測されます。佐渡平定の際、上杉家の直江兼続は、この本間家の分裂を利用しました。上杉家に恭順の意を示さないと侵攻することを各本間家に通達。沢根城主であった本間左馬助は、即座に上杉家に寝返り佐渡島への上陸を導きました。その後、本間家は次々に上杉軍に抑えられてしまいます。上杉軍の上陸後は、上杉家に味方した本間氏を敵対する本間氏への先鋒として戦わせました。そのような戦況の中、最後まで激しい抵抗をしたのが、高茂でした。各本間家の城主が自刃する中で、高茂は会津蘆名氏を頼ろうと出羽へ向け海を渡ろうとしますが、上杉軍に捕らえられ殺害されてしまいます。そもそも蘆名氏と親交を築いていたのも、本間氏を上杉家から独立した大名にするためだとも推測でき、蘆名氏としても隣国の上杉の家中での内紛が激化することを望んでいたのではないでしょうか。
・漫画「花の慶次」に登場した本間高茂は実在の武将ですか?また慶次の 佐渡攻めは本当ですか?
 本間高茂は実在の武将。慶次の佐渡攻めは一部史実で大部分はフィクション。上杉謙信死後の後継者争いなどで分裂した越後をようやく統一した上杉景勝は佐渡征服に乗り出した。このころ佐渡は羽間本間高茂(高季)と河原田本間高統が争う内乱状態で、景勝の出兵はこれを平定するというものであった。最も頑強に抵抗した本間高茂は羽間城を激しく攻められて落城脱出し、本土に逃れようとしたが越後に着いたところで捕らえられて、佐渡に戻されて処刑された。景勝は本間高統も攻めて河原田城を落とし、本間高統父子は逃走せずに城で自害して果てた。しかしこの事件は1589年であり、前田慶次郎が加賀前田家を出奔したのは、時期は確定しないが奥州仕置(1590年)従軍後なのは確かなので、前田慶次郎が佐渡平定戦に参戦したのは史実ではない。
・羽茂城
佐渡の羽茂(はもち)にある佐渡最大の中世山城。ここは羽茂本間氏の居城であり、羽茂本間氏は本間本家と佐渡を二分した。そもそも、本間氏は相模国愛甲郡依知郷本間を本拠地とする武蔵七党の横山党海老名氏の出。鎌倉時代に佐渡国守護職を得た大仏流北条氏の守護代として佐渡に入った。執権北条貞時の連署を務めた大仏宣時(1238-1323)が佐渡守護となった事に伴って北条氏の郎党であった本間能久が佐渡守護代となったのが佐渡本間氏の始まり。嫡流は雑太本間氏であったが早くから石田、波多、羽茂、久知、木野浦、大浦に庶流が独立するようになった。その内で本家に対抗するまでに大きくなったのが羽茂本間氏。その後、室町時代に掛けて惣領家が衰微すると、羽茂本間氏は同じく庶流の河原田本間氏との間で抗争を繰り広げる事となる。羽茂本間氏は越後守護代の長尾氏と好みを通じた。越後守護上杉房能を倒した長尾為景が関東管領上杉顕定に攻められて佐渡に落ち延びた際に頼ったのも羽茂本間氏である。長尾景虎が上杉謙信と名を改めて後、1573(元亀4)年に越中一揆に呼応して越後一揆が勃発。上杉氏代官である蓼沼右京が一揆勢によって殺害される。これに対して上杉軍が反撃に出て一揆を鎮圧。この時に上杉軍として一揆勢を鎮圧した側に、羽茂本間高信、雑太本間山代守、太田本間秀氏、久知本間与十郎、潟上本間秀光などの本間一族がいた。上杉謙信の死後、御館の乱で上杉景勝が家督を掌握すると親上杉であった羽茂本間氏は景勝に与した。羽茂本間氏以外は去就を明確にせず、揚北衆の新発田重家が上杉景勝に叛旗を翻すと反上杉の烽火を上げた。新発田重家は御館の乱における景勝の劣勢を挽回した功労者であったが論功行賞で旗本衆を重視し揚北衆を軽んじた事に憤りを感じ叛旗を翻したのである。その行動は織田信長との連絡をとった上であった。ところが、本能寺の変が起こる。時代は大きく動き、その間も上杉景勝と新発田重家とは激しい戦いを繰り広げる。その中で、豊臣秀吉が柴田勝家を滅ぼし、越後平定を伺うようになる。豊臣秀吉軍による越後平定を恐れた上杉景勝はいち早く秀吉に忠誠を誓う。新発田重家は遅れをとったのである。こうして、豊臣秀吉の公認の下に上杉景勝は新発田重家を攻め滅ぼした。
爾後、羽茂本間高茂は、新発田重家を支援していた会津芦名義広と結んで上杉氏からの独立を目指すようになる。1598(天正17)年、上杉景勝が佐渡平定に乗り出し、沢根本間永州、潟上本間(葉梨)秀高を先鋒として羽茂城に押し寄せた。羽茂本間高茂は落城に際して出羽へ渡ろうとしたが上杉軍捕えられ殺害。佐渡は上杉氏の直轄領となり本間一族による支配は羽茂本間氏の滅亡とともに幕を下ろした。

★本間高泰
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の将。信濃守高泰。天正十年(一五八二年)六月十二日、上杉景勝は書を高泰等佐渡の諸将におくり、本能寺の変と越中能登の諸将が復属したことにより、この仕置のために同国に出馬することを伝えた。(越佐史料巻六)

★本間高泰
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の人である。応永十三年(一四〇六年)十一月に久知の長安寺の寺法を定めた。(新潟県史)

★本間高頼(たかより)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国羽茂郡赤泊に住み上杉時代の地頭である。対馬守といった。小立、大立、赤泊、徳和、腰細、山田、延場、小泊、上川茂、下川茂、下黒山、亀脇、椿尾、高崎、大須、西三川、田切須、倉谷、本流、大浦、江積、井坪、堂釜を領し七百石である。(佐島遺事)

★本間琢斎(ほんまたくさい)
ほん本間琢斎 (1) ほん本間琢斎 (2) ほん本間琢斎
蝋型鋳金系譜
「佐渡ふるさと百科」
ほん本間琢斎 初代 佐渡ふるさと百科 ほん本間琢斎(4代) 佐渡ふるさと百科
本間琢斎 2代 佐渡博物館
ほん本間琢斎 2代 佐渡博物館
本間琢斎 三代
ほん本間琢斎 三代
本間琢斎 初代
ほん本間琢斎 初代
左:『新潟県官民肖像録』(明治41年) 右: 『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
ほん本間琢斎 新潟県官民肖像録 明治41年) ほん本間琢斎 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)
当代の琢斎(平成25年)
ほん本間琢斎 ほん本間琢斎 (1)
【生没】一八一一ー九一 越後生まれで刈羽郡大久保村(現柏崎市)の鋳物師・原得斎の長男であったが、家督を弟に譲って天保年中に、佐渡の五十里村の本間六兵衛家の養子となった。諸国を巡って名工を訪ねるなどして技を磨き、当初は鉦や日用品をつくったり、弘化の黒船来航による海防に備えて、幕府のために大砲の鋳造に応じたりしていた。文久年間に、佐久間象山の指導で鋳造した新式砲が桑名侯に激賞され、慶応年間には、東征大総督の仁和寺宮に名を知られて作品を求められたのを機に、美術品の製作に転じた。明治五年(一八七二)には紫銅色の考案、海外の博覧会に出品するなどを重ね、同十八年には宮内省より買上げの栄を得て、両陛下から嘉賞を得た。またロウ型鋳銅器は、当時の東京博物館に陳列されたが、明治二十四年歿した。晩年もかくしゃくとして製作意欲は衰えず、豪放な気性から生前に自らの棺を作って、「これは自分の将来の家である」と語っていたという逸話が残っている。琢斎二世は長男の貞蔵が継いだが、二男・三男ともに家業を継承し、本家のほうは三世・四世・五世に至って、さらにその嗣子も修行を積んでおり、弘化から数えてもすでに一五○年を重ねている。【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「24号」(平成23年1月)佐渡鋳金家 本間琢斎(本間琢斎)
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035763.html?p=2
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=3
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=8
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=13
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=19

諸情報(代々の琢斎等)

★本間琢治
蝋型鋳金系譜
「島の新聞」索引(人名別)

★本間琢磨
蝋型鋳金系譜
ほん本間琢麿 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)(大正12年 佐渡日報社)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ほん本間琢磨

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
銅器作家。初代琢磨は原得斎の三男である。佐渡郡五十里で銅器を製作した。三代琢磨は初代琢磨の三男である。一八九四年アメリカ合衆国コロンビヤ万国博覧会に出品して入賞感謝状を受けた。(佐渡名鑑)
「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ほん本間琢磨

★本間武雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ほん本間武雄

★本間武

「躍進日本」
ほん本間武「躍進日本」

★本間竹志
佐渡中学生時代、昭和10年の県下中等学校水上競技大会において、100m背泳、200m,800mメドレーリレーで優勝する。佐渡中学は総合優勝。 同年の信越水上競技大会に臨み、 100m、200m背泳、800mメドレーリレーで優勝する。後に、佐渡高校水泳部初代監督となり幾多の優秀選手を育て、県大会で優勝する強豪チームとなった。
昭和22年第二回国体(金沢)の百m背泳で2位。この後29年まで第九回大会まで新潟県選手団の中心選手として活躍した。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・9・8・4~5 第4回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中体連)新潟中学プール
50背 37・2、100背 1・22・0で入賞
昭・10・8・2~3 第5回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟)悠久山プール
(佐渡中学 総合1位)50背 4位、100背1位 本間竹志1.20.4〔佐渡中学・県初制覇〕、200リレー1位(本間竹・山本・笠井・本間俊)2.01.8新、800リレー①山本、池田、本間竹、本間俊10.41.0新
昭・10・8・11信越水上競技大会(長野)(参加・長野県10校、新潟県2校佐中・柏商)
100背 1.20.4新、200背 2.54.0新、200リレー2位(本間竹、山本、笠井、本間俊雄)2.03.8新、800リレー1位(本間竹、山本、笠井、本間俊雄)2.03.8新、佐渡中総合4位
(背泳の名選手)
佐和田町沢根町に出生。佐渡中学校に入学(昭13卒業)東京高師に入学。(昭16卒業)
愛知県一宮中学校・愛知県第一高等女学校を歴任。愛知県視学委員・内政部教学課に勤務。佐渡中学校に赴任。
昭・26・12 新潟大学・教育学部・長岡分校に転任。昭・52・2 退職。昭和54年3月27日 逝去。享年61歳。
(主な水泳歴)
昭・9~10 県中等学校水上で50・100背泳で優勝。
昭・22~24 第2回~第4回国民体育大会に出場。教員100背泳で2位・3位・4位三年連続入賞。
戦後、佐渡中学を指導、昭23~26年県大会7連覇の偉業を成し、新潟国体に備え、県の強化委員長として、大きな成果を残し、又、水泳連盟理事として、指導者として、水泳の指導・普及に併せ、多くの有意な人材育成に多大な功績を果たされた。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・7・27 第12回県水泳選手権・日本水上選手権予選会(県水上競技連盟・県体協)・第8回佐渡水上競技選手権(佐渡水泳協会)
100背①(佐中OB)1.13.9 ◎本間竹志100背神官大会へ県代表として選ばれる。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p426

★本間武司 
『小木町史』(下)より
昭和にはいって、小樽から職人を招いてご用寵をつくった。また同氏が宿根木出身の有田さんを金沢村新保の同志団より招いて文庫を製作したことが、現在の真竹細工の基礎になった。昭和五年ころ、やはり本間武司さん(明治屋)が東京から団扇立てを持ち帰って製作をはじめました。昭和八年ころ、ザルの不況にともない、塚原徹町長の努力で、大阪の高島屋デパートヘ一万枚のザルを送って販売したこと、また、信用組合で、関東、関西方面ヘザル販売員に和衛門(沢口梅吉)、川の端(末武博次)、源屋(中川種次)を派遣したことも今は昔の語り草とをってしまいました。なお、そのとき中川氏が持ち帰った〝ソバフリ″は今でも一部に製作されています。

★本間竹蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ほん本間竹蔵

★本間但馬守
『新穂村史』(昭和51年)より
天正九年(一五八一)卯月廿日上杉景勝は潟上の本間喜本斎に一過の手紙を送った。それは帰本斎から
の手紙に関する返事であったが、それには越中に出馬したために返報がすっかれ遅れてしまったことを
わびている。そして翌十年、上杉景勝と久知及び潟上氏との間に血判の誓詞が交わされたのであった。四月廿四日の日付がのっている。さらに又、天正十年六月十二日、景勝は織田信長父子三人が切腹したことを佐渡に報じたが、その宛先は本間対馬守(羽茂)本間但馬守(新穂か)本間信濃守(雑太)本間弥太郎・本間下総守(久知)本間帰本斎(潟上)本間山城守(河原田)の七人宛となっている。このころ潟上の帰本斎ほ上杉景勝の旗下にほいった佐渡の七人領主の一人として大きな力をふるったものであろう。

★本間忠雄(越堂)
元新穂役場
ほん本間忠雄 元新穂役場 (1) ほん本間忠雄 元新穂役場 (2)
ほん本間忠雄 (1) ほん本間忠雄 (2) ほん本間忠雄 (3)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の書家は、潟上の稲葉事、牛尾神社宮司土屋一丸(号は賢継)、瓜生産の石塚照(号卓堂)、潟上の後藤与作(壷中庵)、大野の小杉猪吉(号は悟東)等があり現存では潟上の佐山大業を師に土屋甚平(号桂石)、本多正吉(号彰雲)、渡辺健三郎(号竹翠)、河原治一(号思秋)、本間忠雄(号越堂)、雑賀栄助(号雨石)等があり、子弟を集めて教えているものもある。

★本間唯清
潟上の本間能太夫家九代江助唯清( ~1746)。

★本間忠
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
ほ本間忠
ほ本間忠 (2)

★本間忠時
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の人で射的の名手本間信忠の弟、佐渡守本間能久の甥である。弥四郎左衛門尉という。正嘉元年(一二五七年)一月六日の年中行事、射的始に参列した。文応元年(一二六〇年)一月十二日に弓始式の射手が幕府から発表され、十三人の中、忠時は第一番目にあげられ、十四日の弓始式には、大いに名をあげ、二十日幕府は一芸にすぐれた人を選んで昼番衆と名づけ、その中に入れられた。(吾妻鏡、新潟県史)

★本間多中
ほん本間多中
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村徳和 ・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]

★本間玉蔵
ほん本間玉蔵 (1) ほん本間玉蔵 (2)

★本間為吉 夷地蔵堂  
ほん本間為吉 夷地蔵堂(1) ほん本間為吉 夷地蔵堂(2)

★本間為次  
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
住民間に病院施設を要望する声が高くなり、時の村長斎藤豊氏、村議会議長本間市郎左工門氏等が中心となって、昭和二十二年佐渡病院新穂村診療所として元本間医院跡を借家して開所されていた診療所を、発展的解消して国の補助金を得て二九三坪
の村営「新穂村国民健康保険病院」を国民健康保険の事業として開設し、二十一病床を設け前記診療所長であった当町出身の新潟医科大学出の外科医本間為次先生を迎えて院長とし、外科、内科、婦人科の三科を有する病院として発足し、薬剤師一名、レントゲン技師一名、看護婦七名、事務職員四名、その他雑役者二名を置いて最新鋭の医療機関として出発したのである。
『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)より
北見角太郎(同窓会長、医博、佐和田町)山本成之助(県相川保健所長、同、真野町)らは大正十二年の卒業名簿にのっている。このクラスには医者が多く出た。本間賢吉(医博、両津市)、榎蓮(内科医、同)や北見は、島内でいまも開業している。後藤衛門(内科医、新穂村)本間為次(外科医、新穂病院長)も、死亡したが同級だった。ほかに伊藤栄一(内科医、医博、埼玉県)堀治部(耳鼻科医、同、東京都新宿区)武井悌(内科医、羽茂町)渡辺五郎(耳鼻科医、両津市)らがいる。たいてい、十一年に四年で修了して進学した人たちである。北見によると「医者だけで十二人出た。佐中の歴史で、あとにも先にも、例がなかった」という。

★本間太郎
新潟日報 h28年9月
ほん本間太郎
ほん本間太郎 (1) ほん本間太郎 (2) ほん本間太郎 (3) ほん本間太郎 (4) ほん本間太郎
「島の新聞」索引(人名別)

★本間太郎
明治28年、岩城作太郎と共同し松ヶ崎沖にて瓢網の定置投網した。

★本間太郎
『両津市要覧(昭和33年)』より
ほん本間太郎

★本間太郎右衛門
「佐渡ふるさと百科」
ほん本間太郎右衛門 佐渡ふるさと百科
ほん本間太郎右衛門 (1) ほん本間太郎右衛門 (2)
赤泊地区
ほん本間太郎右衛門 赤泊地区 (1) ほん本間太郎右衛門 赤泊地区 (2)
下記に詳しく載る。
・・・・・・・・・・・・・・・
※佐渡義民殿(さどぎみんでん)
江戸期の、慶長から天保までの義民のうち、代表的な二六名を合祀した佐渡一国義民堂が、畑野町栗野江の城か平の山頂にある。昭和八年に、島内の百姓一揆を研究し、『佐渡義民伝』を著わし、義民劇の上演などに協力していた新穂村青木の伊藤治一を中心に、一二九名が発起人となって建設が始まり、昭和十二年に落成したものである。島内の農民騒動の発端は、慶長六年(一六○一)に佐渡が徳川家の直轄領と定められ、上杉支配のときから居残った代官の河村彦左衛門に加え、新たに田中清六・中川主税・吉田佐太郎が代官に任命され、四人支配の下に本途(本年貢)の五割増という急激な増税策が出されたのに対して、島の有識者たちが抵抗したことにある。この最初の一揆の結末は、首謀者の新穂村半次郎・北方村豊四郎・羽茂村勘兵衛の三人が江戸に出向いて、幕府に直訴したのが効を奏し、吉田は切腹、中川は免職、河村と田中は改易となり、全面勝訴となったのである。その後一世紀半ほどは、良吏の派遣などもあって平穏であったが、享保四年(一七一九)の定免制(収穫に関係なく定められた年貢を徴集する制度)の実施に伴なう増税に加え、同八年以後の鉱山経営の不振が住民の生活に圧迫を来し、村々の有識者の連帯を強めた。寛延三年(一七五○)の一揆は、そうした背景の中で、辰巳村太郎右衛門・川茂村弥三右衛門らを首謀者として起った。このときも、島ぬけして訴状を江戸の勘定奉行に手渡すことに成功して、幕府は訴状に認められた二八か条の要求の正しさを認めて、佐渡奉行・鈴木九十郎は免職となった。しかし訴人は、他の多くの役人にも非のあることを再度、佐渡奉行・幕府巡見(検)使らに訴えて、諸役人の不正が暴露され、在方役・地方役・米蔵役などに、斬罪一・死罪二・遠島七・重追放三・中追放一・軽追放一・暇五・押込二六・役義取放一・急度叱五の計五二名が刑を受けた。いっぽう訴人の側も刑を受け、太郎右衛門は獄門に、椎泊村弥次右衛門は死罪、椎泊村七左衛門は遠島、弥三右衛門は重追放、吉岡村七郎左衛門・新保村作右衛門・和泉村久兵衛は軽追放のほか、二○八か村の名主が被免、二○○名以上の百姓が急度叱りの処分となった。明和三年(一七六六)から同七年にかけて、大雨による洪水、浮塵子の大発生で中稲・晩稲が全滅状態になったとき、村々ではその実情を立毛検分するよう請願したが、けっきょく四日町・馬場・北村・猿八の四か村に年貢被免、船代・下村・畑方・畑本郷・武井・金丸・金丸本郷の七か村に三分一の未納・年賦・石代納の措置がとられただけで、他の村々には恩恵がなかった。その上、当時は代官制がしかれて、奉行に加え二重支配となったため、願いや届に煩雑なる手数がかかり百姓たちを苦しめた。さらに、代官の下役で年貢米取立ての御蔵奉行谷田又四郎と百姓の間に起きた摩擦がしだいに悪化し、谷田の苛酷さを非難する訴状が佐渡奉行所にもちこまれた。訴状は名主ら村役人たちによってしたためられたが、願いの筋がきき届けられないので、百姓どものこらず御陣屋へ押かけようとするのをなだめすかしたこと、要求がいれられなければ江戸表へまかり出て直訴しなければならないので出判をお渡しくださるようなど書いてある。谷田は、相川金銀山の衰微に伴って、米の消費が減少し、余剰米の大阪回米が市場で不評であり、その佐渡米の商品価値を高めようとして、米質や包装改良を求めて百姓と摩擦を生じたもので、良吏とされた人物であったが、百姓がわでは、それを賄賂をとるためとする誤解が生まれて事件を深めることになった。一揆にいたる前哨戦として、沢根町に相ついで起った付け火が挙げられる。米価の高騰で爆発した相川の鉱山稼ぎの者が、中山峠を越えて沢根方面の富裕な商家を襲ったのであるが、米価の引き下げなどの処置で、この時は大きな騒動にはならなかった。この明和の一揆は、首謀者の呼びかけで、栗野江の賀茂社境内に集結した民衆が、二度めの集結を察知され、六人が捕えられ、成功にいたらなかった。裁きの末、通りすがりにすぎなかった長谷村の遍照坊住職・智専が自ら罪を負う形となって死罪となり、他は牢死・お預け・釈放などの微罪で落着した。智専は「憲盛法印」のおくり名で今も農民の崇敬をうけている。天保九年の全島的な一揆は、島内で最大の規模で起ったので「一国騒動」と呼ばれている。惣代の羽茂郡上山田村の善兵衛を願主とする訴状には、百姓・商人などの要求十六か条が書かれていたが、上訴した巡見使から返答がないまま善兵衛らが捕えられ、善兵衛は獄門に、宮岡豊後の死罪、ほか遠島・所払いなど極めて多数の受刑者やとがめを受けて終った。この天保一揆についての記録としては、江戸末期の川路聖謨奉行による『佐州百姓共騒立ニ付吟味落着一件留』(佐渡高校・舟崎文庫所蔵)があり、同校同窓会が刊行している。
【関連】智専(ちせん)・中川善兵衛(なかがわぜんべえ) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
ほ本間太郎右衛門
ほ本間太郎右衛門 (2)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡佐和田町山田の名主ではじめ貞蔵といった。元文二年(一七三七年)国府川の荒地を開拓して辰己村を開いてこゝに移った。寛延二年(一七四九年)幕府は増税し、民衆は哀訴をくりかえしたが処刑される者が多かつた。太郎右衛門ほ川茂村の名主で開拓を共にした風間弥三右衛門と相談して幕府への直訴を企てた。奉行鈴木房善はやむを得ず十年間廷期することにした。太郎右衛門はそれで満足せず、島内の同志とはかり幕府に直訴をつゞけた。奉行房善は三年十一月禄四百石の半分を取り上げられ閉門となった。後任の松平忠陸は党をくみ強訴した罪で太郎右衛門を捕え、宝暦二年七月十八日に死刑とした。年六十であった。(佐渡人名辞書、近世越佐人物伝、越佐大観、殉国碑、佐渡人物志)
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
寛延の代表的義民の一人、佐和田八幡の人。幼名を貞蔵という。元禄六年二宮村山田に生れた。家は代々の名主で、その生家は現存している。墓所は、西山田の宗念堂に在り、その境内には、村人の建立した頌徳碑と、憲盛法印、椎泊弥次右衛門、太郎右術門を合祀した供養塔もある。享保二十年(一七三五)に国府川沿岸の荒地開墾を計画して、其筋の許可を受け、川茂村の弥三右衛門ら各村村の名主六名の賛助を得て、翌元文元年から三年までかけて大工事を竣工し、辰巳村を創設した。そして元文三年、家を長男に譲って辰巳村に移住し、別に一家を立てて八幡の人となった。寛延二年の増税で国内が紛糾し、免訴の歎願がしきりに出されたが、奉行所はことごとくこれを退け譴責せられた者も出た。しかし民衆は抗議して止まず、酷刑に処せられる者も出て来たほどである。そこで太郎右衛門は弥三右衛門と計り、江戸直訴をしょぅとしたので、奉行所は止むを得ず十年年賦納租を許すことになった。しかし、太郎右衛門はこれを抜本的に解決すべきであるとして、屈せず、直訴を企てた。そして自ら訴状を草し、惣代を江戸に派遣して幕府に直訴したのである。太郎右衛門はそのため宝暦元年(一七五一)に捕えられて投獄され、翌二年七月十八日斬に処せられ家は闕所(けつしょ:欠けること)となった。年六十才である。妻女ほ賢夫人の名が高く、捕縛の役人が釆ても驚くことなく、夫に食事を執らせ、晴着を着せて、涙一滴落さず、これを見送ったと伝えられている。法名は「忍誉乗願心居士」と謚(おくりな)した。辰巳の旧邸跡に、南無阿弥陀仏の名号を刻した供養の碑が建っていたが、最近一国義民碑とともに現形のまま佐渡博物館へ移した。
1img663(右)佐渡一国義民供養塔・八幡辰巳より昭和四十二年六月佐和田町八幡佐渡博物館に遷す
(右上)本間太郎右衛門の供養碑
(左上段右)豊四郎(了雲)の墓地のある円通寺-新穂村北方
(左上段左)半次郎の生家と伝えられる山田家-新穂町上新穂
(左下段)佐渡一国義民殿のある城ケ平より国仲平野の眺望-畑野栗之江
2img662(右上段)本間太郎右衛門の生家-佐和田町山田
(右下段右)義民供養塔ー佐和田町山田、宗念堂境内
(左上)風間弥三右衛門の墓-赤泊村川茂
(左下)風間弥三右衛門生家
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
寛延の百姓一揆(『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
た辰巳村太郎衛門 (2)
た辰巳村太郎衛門 (3)

★本間太郎右衛門(沢崎)
『小木町史』より
佐渡の海岸の村の旧家にときどき本間姓をもつ家があります。そうした家は、村の大屋といわれたり、村の立ちはじまりといわれているものが多いようです。もとは村の草分けの一族の長で名字も違っていた人たちでしょうが、戦国時代に入ってから本間の殿さまの家臣に組み入れられ、本間姓を与えられて本間を名乗るようにをったものでしょう。
永徳二年(一三八二)の川崎の野中家文書によると、沢崎は、南北朝のころ河原田地頭の手に移ったようです。村の、貞享三年(一六八六)の史料では、「私どもの村は、昔は河原田殿の本領であったと申し伝えております」といっていますが、戦国期にはやはり羽茂の殿さまの領地になっていました。ここに、村の草分けといわれる本間太郎右衛門がいます。村の鎮守神石(みこいわ)神社の社人でもあります。ところが、太郎右衛門は村にある薬師寺の檀家ではなく、小木町照覚寺のおも檀家です。こうしたことからみて、羽茂と関係の深い人だったことがわかります。村の祭りの獅子は、以前は羽茂の出先であった宿根木とこの沢崎だけだったといい、ここにも羽茂との関係が深かったことがわかります。本間太郎右衛門は、戦国時代村の親方であり、羽茂の家臣であったものでしょう。ところが、沢崎には大屋といわれる家がほかにもあります。高野姓を名乗り、村の一番よい場所に住んでいます。太郎右衛門がはじといわれているのと対象的です。また、大屋は村にある薬師寺のおも檀家でもあります。どうみても、高野大屋のほうが本間太郎右衛門より古いのです。そうしてみれば、この大屋が河原田支配時期の大屋で、太郎右衛門が羽茂の支配に入って羽茂からここに居を移した人の家なのでしょうか。
なお、白木の村は、江戸時代に沢崎と江積、田野浦の入会地にできた村ですが、この村の大屋本間甚左衛門は、沢崎の大屋高野家の出身であるといいます。

★本間太郎左衛門尉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の人で実名を欠く。応永十一年(一四〇四年)一月十七日に室町幕府の的始式に第二番射手に選ばれた。(新潟県史)
1383年(永徳元年)、渋谷平三の地頭職を本間太郎左衛門に渡付した。

★本間太郎八
『加茂村誌』(昭和38年)
ほん本間太郎八
伊藤庭太郎等と共に明治24年、内浦海産会社より、烏賊釣り教師として島根、青森、石川、長崎方面へ赴く。明治30年、ホルスタイン乳牛を導入し、福浦にて乳舎を始めた。明治32年、梅津渋谷甚平、和木石塚権平等と但馬牛加茂村内に導入し飼育した。明治32年、郡会議員に当選。大正2年、加茂村村長に当選。

★本間丹治
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ほん本間丹治 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)


★本間探兆

金井大和田 宝蔵坊
ほん本間探兆 慶宮寺 (5) ほん本間探兆 大和田 宝蔵坊 (1) ほん本間探兆 大和田 宝蔵坊 (2) ほん本間探兆 大和田 宝蔵坊 (3)

慶宮寺
ほん本間探兆 慶宮寺 (1) ほん本間探兆 慶宮寺 (2) ほん本間探兆 慶宮寺 (3) ほん本間探兆 慶宮寺 (4)
吉井青竜寺天井画
ほん本間探兆 吉井青竜寺天井画 (1) ほん本間探兆 吉井青竜寺天井画 (2)
「島の新聞」19号(by 松本秀雄)
19ほん本間探兆

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
ほ本間探兆

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
ほ本間探兆

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡畑野の人で名は守興、通称を平蔵、幼名は亭蔵という。父は胖幽の門人であったが探兆も幼時から画をこのみ、文化のはじめ(元年は一八〇四年)江戸に出て鹿島探春につき、後に狩野探信の絵所に入門した。山水人物に長じ和歌もよくした。天保十年(一八三九年)になくなった。人名辞書には八年歿とある。門人後藤春兆は新穂の人で仏画をよくし、羽生林斎、中川兆斎もまた名があった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)

「本間半次郎と探兆」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)) 
文政年間の畑本郷村の絵図を見ると絵師の本間探兆は野高屋に居住している。『佐渡人物志』 に本間探兆、名は守興。通称は平蔵という。畑野の人なり。父某は肝幽の門人なりしかば、平蔵も少年より絵事に志あり。文化の初江戸に出て、鹿島探春に従いて画を学び、後狩野探信守政の絵所に入門す。(旧村志では亭蔵)と書かれてある。文中父某とは半次郎のことで、肝幽の門下で、号を長顕と言い、畑野何代、梅ノ木の堂の涅槃絵は宝暦三年六月長顕が措いたものである。また畑野西町の堂には明和二年、五十八才の時に彼が措いた涅槃絵の大軸が残っている。この収納箱の真に書かれた年から考えれば宝永四年に半次郎は生れたことになり、肝幽は享保十五年二月、八十一才で亡くなっているので長顕が二十三才の時と言うことになる。探兆守興の代表的な作品には青竜寺(両津市旭)の本堂天井に描かれた竜や慶官寺の釈迦涅槃図などがあり、涅槃図は高さ三メートル四〇センチ、幅三メートルの大軸で探兆もそれだけに製作意欲をもやしたのであろう、仏画には珍らしく探兆藤原守興と名をしたためてある。彼の作品ほ島内でもよく見ることができ、門人も多く後藤春兆・羽生林斎・中川兆斎などがいる。探兆は天保八年八月十一日寂、探覚守光居士。

『佐渡ジャーナル41号』(松本秀雄解説)
名は守興、幼名は亭蔵で旧畑野町野高野の人、生年は不詳。生家は市の畑野農業環境改良センター近くで、今はその生家跡はない。絵は少年時代、狩野深幽の流れを汲む狩野胖幽の門下である父長顕(ちょうけん)の手ほどきを受けていたが、後に文化年間、江戸に出て狩野探幽の絵所に入門。名手の称を貰う。花鳥、人物を得意とし、また和歌をも嗜み、酒豪でもあったという。旧吉井村旭(両津)の青龍寺の天井画の飛龍は、三間四方に豪快に描かれている。門人も多く仏画を能くする新穂青木の後藤春兆、畑野は下畑の中川兆斉、羽生林斉などがいる。天保8年(1837)没す。
 見事な某所の大襖絵は、中国の「蘭亭の会」と思われる。これは晋の穆帝(ぼくてい)の永和9年(353)3月、謝安(しやあい)(東晋の宰相)ら名士41人が蘭亭に会して疎(みそぎ)し、曲水に觴(さかずき)を流して詩を賦したこと。後の日本の「曲水の宴」の元であったと推察する。







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