2021-01-11
★布施一喜雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)布施一喜雄 85 新穂村出身・土田杏村を支えた 長谷川巳之吉・与板余聞
★布施直樹

★蕪村
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)蕪村 145 蕪村の一句 山本修已
★二見勾當(ふたみこうとう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡二見の盲人である。小倉大納言実起が佐渡に流された時たびたび召されて揉療治をしている間、実起について琴曲を学んだ。後に検校の位を売るため京都にのぼり、演奏が絶妙であったので一躍勾当を授けられたという。(佐渡人名辞書)
★仏冠貞胤 洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★フッグス
ゼー・ウイービー・フッグス。『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より新潟丸船長。日本政府は明治四年六月、佐渡国両津の加茂湖畔で日本最初の鉄船新潟丸四十九トンを完成させた。そのころ日本人で汽船の操縦できる人はなかった。そこで政府はオラソダ人のフックス(四十三才)を月給九十五円で船司(船長)として雇い、就航に当たらせる一方、乗組員の教習などを担当させた。(佐渡の百年)
「島の新聞」

「日本最初の鉄船製造」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」(両津港物語)
★佛山明道 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★ふて
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国椎泊村(両津市)百姓茂右衛門の祖母である。嘉永元年(一八四八年)に九十五才になったので、役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★舟木莉音
佐渡高校同窓会報43号 05(2023)8月

★舟崎克彦→舟崎克彦(よしひこ)
★舟崎金治
旧金丸村(真野)村長、明治三一・四・二〇~・三二・七・一〇~。
★舟崎吾吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★舟崎五八
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p377
★舟崎仁作(仁平)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
(金丸の)鬼太鼓を始めたのは舟崎仁作(仁平)だという。明治九年生まれで、昭和四九年に数え年九九歳で亡くなった。新穂から習ったといわれているが、新穂のどこの鬼太鼓だったのか、また一緒に習いに行った仲間の名前もわからない。舟下説もあるが、舟下には巫女がつかない。巫女が出るのは新穂町の鬼大聖つだから、それを習ったのであろうか。それにしても豆まきがつくところを見ると、四日町がそうであったように、古くから相川流の鬼太鼓があったのを、舟崎の時に国仲流に改めたと考える方がよさそうである。
★舟崎仁一
前段右より・高野清八郎・瀬下清通・塩嶋仁吉 後段右より・柄沢四郎左衛門・柄沢寛・舟崎仁一

金丸舟崎家の出、父は金治。弁護士となり新潟市で開業、後新潟県弁護士会会長を務める。長男であったが、三男が相川松栄家を継いだ松栄俊三(町長等要職を歴任)、四男が舟崎文庫に名を残す舟崎由之、長女久代は新潟小嶋家(石油関連会社「三船商事」創業)に嫁ぎ、二女春江は医学博士となる。甥に児童文学作家の舟崎克彦が居る。
※・舟崎仁一妻は かほる で、父は北条欽(中興 本間権左衛門家の出)、母はキャウ。
「島の新聞」


・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p375
★舟崎文八朗
「躍進日本」

★舟崎由夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)舟崎由夫 22 本間雅晴将軍を士官学校へすすめた同級生
★舟崎克彦(よしひこ)
1945年生まれ、2015(平成27年)没、70歳。作家、詩人、作詞家、挿絵画家、劇画原作者。舟崎文庫の舟崎由之の孫にあたる。(母が由之の娘)日本を代表する児童文学作家で大学教授でもある。佐渡でも講演会を催し、佐渡市図書館にたくさんの書籍を寄贈された。
➡舟崎由之
「島の新聞」索引(人名別)
舟崎克彦諸情報
★舟崎由之(ふなざきよしゆき)
「ウイキペディア」より

【生没】一八九四ー一九六六 衆議院議員、佐渡高等学校同窓会の舟崎文庫の創設者。真野町大字金丸の人。金丸の素封家舟崎家に、父金治の四男として明治二十七年出生。佐渡中学校(現佐渡高等学校)卒業後、早稲田大学理工学部機械科に入学、大正六年同大学卒業後、東京鋼材株式会社(現三菱製鋼株式会社)に入社し、その後東京機材工業所・東京鋼帯工業株式会社・高砂鉄工を経て、昭和五年三四歳の時東京伸鉄所を設立、以後東京磨帯鋼製造所・日本特殊鋼材工業株式会社、戦後再出発して日本金属産業株式会社を設立。四十余年間終始磨帯鋼の研究生産に取組み、日本の磨帯鋼業界の創始者である。著書に『磨帯鋼回想録』がある。昭和二十一年衆議院議員選挙に当選、政治家として活躍した。戦後まもなく、故萩野由之博士が蒐集された厖大な史料のうち、佐渡関係のものを佐渡教育会の依頼をうけて、佐渡から流出することを避けるため購入、その後昭和二十八年、母校佐渡高等学校同窓会に寄贈した。現在ある舟崎文庫がそれである。佐渡の近世・近代史の貴重な史料・文献の宝庫であり、また、萩野博士が秘蔵した近世の思想家・文人・政治家の、約一○○人の書簡集である『先哲手簡』『先賢手簡』等を収蔵している。昭和四十一年十二月二日没。享年七二歳。【関連】舟崎文庫(ふなざきぶんこ) 【参考文献】『舟崎文庫目録』(佐渡高等学校) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
➡舟崎克彦
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p386
・『舟崎さん』(昭和53年 金丸区作成)
諸情報
★舟代源助
「戦国佐渡国人名辞典」より
【ふなしろげんすけ(15??~15??)】河原田高統家臣。舟代城主。別名本間源助。
★舟代村五左衛門
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★舟代村五郎右衛門 →後藤五郎右衛門
★船登源兵衛(ふなとげんべえ)
近世前期の廻船主 相川町大字岩谷口。享保十八年(一七三三)まで廻船業を営む。岩谷口の両宮大明神の社人、同地の弥勒寺の開基旦那。持仏堂として阿弥陀堂がある。船登家の出自は明確でないが、口碑には高松藩の船奉行をしていて、難船して定住したとも、津軽十三湊から来たともいわれている。船登家の籾保存用のセイロ板に「享保十八年二月、本屋敷より百六年目に、此屋敷へ移り申し候、応致代」とある。本屋敷は海岸にあり、寛永四年(一六二七)より住んでいた。同家の地神は両宮神社に合祇されている土船大明神で、由緒書では明応七年(一四九八)開基となっている。かって越前康継の刀と豊前藤原守貞の鎗を家宝としていたというから、中世から近世初頭の帰農武士の例であろう。岩谷口へ定住してからは、初期は相川へ鉱山用の留木を運び、源蔵・源吉時代があった。寛文期ころ(一六六一~七二)には、相川羽田町枡屋六右衛門の商船であった。相川は金銀山景気により上方の高級品指向の需要が多く、必需品の塩・酒・紙などのほか茶・衣類・諸道具類が船登船などで運び込まれた。宝暦期(一七五一~六三)以降になると、蝦夷地と大坂を結ぶ北前船時代になるが、船登船はそれ以前の近・中距離の新潟を中心とした交易時代に活躍した。享保十八年以降、廻船業をやめ、山ぎわの岩陰遺跡の前に新屋を建て、蓄積してきた資金で田地・山林などを買い入れ、地方の重立農家として家業を続け、戦後民宿を経営して現在に至る。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)、『新潟県史』(資料編九)、佐藤利夫「日本海における船登忠兵衛の廻船取引」(『海事史研究』五四号) 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『赤泊村誌(上)』より
江戸時代の始め(延宝頃)、相川金銀山の繁栄にわく頃、佐渡の岩谷口にいた大廻船業者。新発田藩に300両もの金を貸し付けた。
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
・相川町岩谷口の船登源兵衛家には、この延宝期から元禄前半期頃(十七世紀末~十八世紀はじめ)との取引 にかけての商取引を示す仕切吾が残っている。このなかの一通は延宝五年(一六七七)三月二十一日付、浜田屋権左衛門の仕切証文である。浜田屋は船登の手を経て蝦夷地あたりの海産物を仕入れていることがわかる。仕入品目のすべてはわからないが、前年分からの数回の取引を合わせて、印銀二貫四二九匁余となっているから、取引も相当な額にのぼっている。
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
浜田屋権左衝門と取引のあった船登源兵衛船の船頭は赤泊出身であり忠思兵衛といった。この忠兵衛船の水主は赤泊が二人、杉野浦が六人、野崎が一人、夷町一人、合わせて乗組員ほ十一人であった(元禄期)。船の大きさはせいぜい二〇〇石積ぐらいである。・船登源兵衛船の運んだ海産物がどこから運ばれてきたものか不明である。当時の売買仕切書をみると、北は酒田・金浦(このうら)・本荘・秋田辺からの穀類の買付、西の方は能登輪島・越前三国・敦賀・若州小浜などからの日用品の買付などがみられ、まだ、蝦夷地や下関方面まで船は廻航してはいない。船登家所蔵文書でみる限りでは江差まで行くようになったのは貞享四年(一六八七)となっている。この年、源兵衛船は二一四俵の米を横んで、それを江差の伊勢屋又兵衛に売却して、ここから鯡(にしん)六三八束、数の子一三本を買い入れて帰っている。さきの延宝五年(一六七七)の鮭などは中間のどこかの港から仕入れてきたものであろうか。しだいに、この蝦夷地における海産物の利益が大きいことがわかってきたのであろう。
「島の新聞」索引(人名別)
★船登泰蔵
外海府村村長 岩谷口

★船登卓爾
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★船登彌三吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大2、政友会の公正會入党披露会[八年十月十四日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

船登彌三吉 外海府村村長 岩谷口

★船登惟希(ふなとよしあき)

船登源兵衛の子孫。1987年、新潟県佐渡郡佐和田町生まれ。佐和田中卒後、2006年 新潟県立新潟高等学校理数科卒業し、東京大学理科Ⅱ類に入学。2010年 東京大学理学部化学科卒業。現在、東京大学大学院理学系研究科化学専攻修士課程在籍。
在学中に「宇宙一わかりやすい高校化学(理論化学編)」他3冊を執筆他、現在、新規に6冊の参考書の執筆を手がける。
その他、東日本大震災復興支援団体Youth for 3.11を立ち上げ、代表に就任。活動から8ヶ月で、延べ9000名以上の学生を被災地に送り出す。
現在も継続し、「ハードルの低いボランティアプログラム(交通手段/宿泊施設/飲食物が全て用意されて、無料で参加できるなど)」を提供する。教育、特に「edutainment」に興味があり、「楽しみながら勉強する」「わかりやすく本質をついた教育コンテンツ」の作成を通じ、社会に貢献したいと考えている。
★舟見秀雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・6・23 第3回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)
(佐渡中・30点4位)300mメドレー②佐中4・02・9、200リレー③佐中、800リレー④佐中、800自⑥
昭・15・7・27 第12回県水泳選手権・日本水上選手権予選会(県水上競技連盟・県体協)・第8回佐渡水上競技選手権(佐渡水泳協会)
400自斉藤兼苦杯③(佐中)
★舟見良夫
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・7-8 第7回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中等学校体育連盟)佐中プール
(佐渡中)50自⑥、200リレー①佐中。800リレー⑤佐中、総合②佐中48
昭・14・6・18 第2回近県中等学校水上競技(新潟市水上競技連盟)新潟中学競泳池
(佐渡中・総合3位・得点44点)800リレー③(間島・舟見・本間・土屋)11.45・2
昭・14・7・23 第9回県中等学校水上競技選手権(県中体聯・県水上競技聯盟)
(佐渡中・二年連続、通算3回目の優勝。得点61点)
800リレー ①舟見・斉藤・本間・土屋11.02.4。
★船山博
旧姓金子 新町生まれ、畑野に転居。昭和30年6月17日、49歳で死去。
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p418
★武兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国河崎村(両津市)の人である。奇特之趣相聞るに付、弘化二年(一八四五年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★武兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川柴町の人である。孝心奇特の趣相聞につき、文政十二年(一八二九年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★ふよ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国夷町(両津市)権兵衛の妻である。奇特孝心の趣相聞に付、文政十一年(一八四〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて質された。(佐渡年代記中巻)
★ブラウン
「ウイキペディア」より
新潟女学校
「島の新聞」(明治の女子留学生)
★古市末松
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★古川秀一
本名又太郎。羽茂本郷、仮屋、又五郎家の人。大正十一年四月生れ。平成八年に死亡した。旧羽茂町の森林組合にも勤めたが、銀行勤務が長かった。若くして青年団や公民館活動に熱心で、青年団長、町会議員を勤めた。歌は、藤川忠治先生疎開当時からの歌友で、歌と評論の同人であった。
(歌碑:平成十八年三月建碑 樟石丈○、七三㍍)
○花冷えの朝(あした)の庭に立ち出でて白くきはだつ霜を踏みしむ
歌は、庭を愛し草木に親しんだ作者の、早春、早朝の作である。
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★古川信榮
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★古川聖子

古川聖子
https://www.niikei.jp/132172/
両津出身の琴奏者。母も琴奏者の市橋やすえ、琴奏者の市橋京子は姉。
宮城社教師(箏・三弦)。両津高校から東京学芸大学教育学部卒。生涯学習インストラクター1級。
→市橋やすえ
→市橋京子
★古川長四郎(六代目)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
廻船業。古川家は江戸時代から廻船業を営み、長四郎を襲名した。六代長四郎は海運業のかたわら、明治三十四年四月から翌年八月まで直江津町長、三十四年七月から同年十二月まで商業会議所会頭、大正十四年十一月から十四年まで佐渡商船社長等を歴任した。大正十四年六月一日になくなった。(新潟県人物百年史頸城編)
★古川長四郎(七代目)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
実業家。明治二十八年五月七日に直江津市沖見町で生まれた。父は六代目長四郎で古川家は江戸時代から代々長四郎をつぐ廻船問屋であった。慶応義塾に学んだが中退した。佐渡商船社長となり、昭和七年七月二十日、新潟汽船、越佐商船、佐渡商船三社が合併し、県半額出資の佐渡汽船が発足した時、初代社長となった。昭和二年県会議員当選、十七年八月直江津町長、二十一年十一月まで在任した。昭和三十四年九月三十日に五十四才でなくなった。(新潟県人物百年史頸城編)
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
★古川鉄平
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)6代校長(昭和6・3・31~昭和8・3・31)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★古川友八(ふるかわともはち)
【生没】一八○○ー六二 無名異焼や薬用の原料となる無名異の、佐渡における最初の開発者。のちに無名異焼(楽焼)を創始する七代目伊藤甚兵衛と同じ年の、寛政十二年に生まれた。この島の施釉陶器の創始者となる黒沢金太郎の「金太郎窯」が開窯した年でもある。本職は代々鉱山の中尾間歩の帳付職で、器材の出し入れ、鉱石の出方、大工や穿子の差し組などを記帳し、ときには坑内に入って採鉱や排水の面倒を見る仕事である。親の長之助に続いて帳付職に採用されたのは文化十三年(一八一六)で、文久二年に六二歳で死亡するまで、四六年間この職にあった。中尾坑内から無名異を産出することは、文化年間(一八○四ー一七)に田中從太郎の著わした『佐渡志』に、「無名異、雑太郡中尾山」とあるのが初見で、この無名異に注目したのが、帳付職として永年勤めていた友八(政明)であった。弘化三年(一八四六)に「国産無名異製し方致し候中尾間歩帳付友八、願に依て仕入銭貸渡」(『佐渡年代記』)とした記事があり、西村滄州という人が、友八の略歴を記した『古川器水翁小伝』(明治二十四年刊)によると、最初官営で採取を願出たが許されず、自分で請けて「私売」の形で四方に販売を始めたとあり、「無名異の効能が大いに世に顕れた」としていて、六代目のこの友八を「古川家中興の祖」と記している。「器水」と号したのは、薬用から陶器の原料として無名異の名が広まる晩年らしく、製陶にもかなりの学識があったことが、古川家の家蔵文書からもうかがえる。その子の千種(友之助)も文久二年から帳付職を世襲し、その子孫は濁川町に住み無名異土の一手販売をしていた。【関連】古川平助(ふるかわへいすけ)・無名異(むみょうい) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)
★古川博史
CSコーポレイション創業者。佐渡農業高校卒。
商号 株式会社CSコーポレイション
本社 〒950-0924 新潟県新潟市中央区美の里17番8号
TEL 025-286-1332 / FAX 025-286-1334
Tokyo H.Q 〒107-0061 東京都港区北青山2丁目11番9号 北青山プラザビル4F
TEL 03-6812-9831 / FAX 03-6812-9832
工場 〒956-0015 新潟県新潟市秋葉区川口乙578番地24
創立年月 1975年5月
会社設立年月 1977年9月
※建設業許可/特定建設業 新潟県知事 許可(特-29)第14383号
※一級建築士事務所/新潟県知事登録(ニ)第3701号
※屋外広告業/新潟県屋外広告業登録(3)第13号
※宅地建物取引業/新潟県知事(7)第3679号
資本金 4,500万円
(役員)
・会 長:古川博史 ・社長:古川憲 ・専務取締役: 山田敏 ・常務取締役:中山修 ・取締役:笠原英治
(従業員) 49名
(沿革)
1975年5月 シーエス新潟創立
1977年9月 株式会社シー・エス新潟 に改称。資本金300万円
1981年4月 資本金600万円に増資
1981年6月 新潟市姥ケ山に本社屋建設
1983年12月 資本金900万円に増資
1984年5月 新潟市美の里に新社屋建設
1985年10月 資本金2,070万円に増資
1986年6月 亀田工業団地に亀田工場建設
1991年11月 資本金4,500万円に増資
1994年11月 新津工業団地に新津工場建設
2000年8月 本社新社屋建設
2005年8月 社名 株式会社CSコーポレイション に改称
2011年9月 古川 憲 代表取締役 就任
2018年9月 Tokyo H.Q 開設
★古川平助(ふるかわへいすけ)
「佐渡ふるさと百科」

【生没】(生年不詳)ー一七二四 江戸前期の流人で、延宝二年(一六七四)の遠島者記録の中に見える。流される理由だけはあって、出自はわからなかったが、菩提所の中寺町大超寺(大安寺に合併)にあった墓碑に、「大和国高取、三万五千石、植村出羽守城下也、古河平助」とある(古川家文書)。「大和国高取」はいまの奈良県高取市高取町で、奈良盆地のほぼ中央部、有名な明日香村の近くである。そこの侍であったが、江戸勤番中に同僚と争って傷害事件を起したのが、遠島の理由である。相川では、鉱山の振矩職(測量師)で生計を立てていた。享保二十年(一七三五)に、養子で二代目になる古川門左衛門が、新規に鉱山の絵図師として採用される記事の中に、養父平助(門左衛門)が「年久しく銀山振矩御用相勤めた」といった説明があり、古今の金銀山稼ぎ所をよく知っている金銀巧者で、絵図の製作にも秀でていたことが記されている。これが二代目門左衛門の、絵図師採用の理由であった。赦免になるのは正徳五年(一七一五)で、十年ほどして、享保九年に没した。鉱山が繁栄した元禄時代に居合わせた流人だが、元禄十年(一六九七)に完成した有名な「南沢疎水道」の工事で、その下使いなどで働きながら測量術を学んだことが想像される。三代目以降は、代々中尾間歩の「帳付職」として働き、その末裔は濁川町に住んでいた古川介(九代目)で、明治のころ金泉小学校の校長をしていた。【関連】古川友八(ふるかわともはち)・振矩師(ふりかねし) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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【遠島3】延宝2年
傍輩巨海五郎右衛門を尋ね出して切りつけ、捕らえられる。正徳5年(1715) 赦免。
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


★古川政明
「佐渡ふるさと百科」

★古川満太
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「39号」(平成26年10月)ちょっと気になったこと※古川満太
★古川門左衛門
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)古川門左衛門 27 振矩師雑記 (7) -古川門左衛門-金子勉
★古木高一
加茂歌代中高野の人、大正13年生、令和4年3月没、98歳。両津市議。短歌を好み、多くの新聞投稿をした。長男は古木設備を創設。
★古城光三
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡河崎村の人。文久三年(一八六三年)十二月生。後藤武左衛門の三男で古城家をついだ。宝生流の宗家梅ヶ沢軒本間家に師事し達人といわれた。また笛にもすぐれ門人が多かった。平崎の菊池と共に鼓で佐渡の双壁といわれた。晩年古器を愛し、傍ら貝細工の能面根付等の彫刻をし、光三と銘を入れた。(佐渡名鑑)
★古城茂幸
「島の新聞」

「島の新聞」索引(人名別)
★古城俊平
『小木町史』より
明治十三年のことです。小木町の赤塚左一郎をど有志が、佐渡と越後の定期航路をつくらなければと研究協議していましたが、その矢先のことでした。たまたま、工部省から石油坑の視察のために出妻崎へ派遣されていた秋山美磨氏が、出雲崎の発展のためにやはり越後と佐渡の間に定期航路をひらくべきだと出雲崎の人にその具体化をすすめておりました。そこで小木では、出雲崎と共同すれば資金も得やすいということで、両者が話し合いました。その結果、小木が七千五百円、出雲崎側が七千五百円の株金をつのり、それをあわせて一万五千円、そのうち一万円を船の購求費にし、のこり五千円を創業費として越佐航海をはじめることで話がまとまりました。さらに、本社は小木と出雲崎に交替に置くことにしたのです。そんをふうにして開業しましたが、さて、何分にも収支がつぐをいません。そういうふうにをると、まず最初に音をあげてしまったのは佐渡側です。手をひきたいということになりました。明治十七年になって、三千円を相手側からうけとり船体と株金はみんなむこうにまかせて、しばらく様子をみることにしました。
しかし明治十九年、とうとう船会社を維持する通が途絶えて、船会社は閉鎖して、船体は新潟の売場に回されてしまいました。考えてみれば、これをやめてしまえば今までの苦労は水の泡です。そしてまた、将来の佐渡の利害を察するなら、これは捨ておきがたい事柄といえましょう。そこで、小木の古城俊平ほか四、五人の有志が、さきがけ丸を一千五百円で買いとり、それに一千円を投じて修繕を加え、もとのようにさきがけ丸と命名して、明治二十年一月から再び越後と佐渡の間を航海しはじめたのです。いま、明治二十二年の航海の状況がわかっています。一月が三度、二月が六度、三月が十度、四月が十九度、五月十八度、六月十七度、七月十九度、八月二十度、九月が二十度となっています。そして、一回の乗客は平均して二十八人とあります。しかし、なかなかうまくはこびませんでした。冬の間は、両津、新潟航路が一か月近くもとまってしまうことが逆にさいわいして、乗客もけっこうあり、採算があいましたが、夏にをると乗客もすっかりなくをり、荷物も減り、ただ郵便運搬だけで命脈をたもつというありさまで、船会社は損害に堪えられず、とうとう船は売りに出されました。そうなっては困るとみんなが思いをがら、どうにもをらをいのです。陳情をうけた佐渡支庁は、夏の問だけ、ご料局で近県から買い入れる鉱石や、鉱山で必要とする木材を引かせることにしました。また、航路を沢根までのばして航海させれば、国仲の人たちの便利とをるだろうとも考えました。そうした方法もとられましたが、今から考えてみれば、こんな消極的を方法で航路を維持することがどうしてできましょう。
★古城長八
両津羽黒神社

★古城鼎丕(ふるきていひ)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡小木町の俳人で昨非庵と号した。屋号を丹後屋という。天田菁莪について俳諧を学んだ。気宇瀟洒で終身、独身ですごした。諸国をまわって各地の名流をたずね、ついに庵を相州江の島に結び子弟に教授した。後に兄がなくなり帰郷して嘉永三年(一八五〇年)になくなった。金井良談と社を結び小木の両宗匠といわれた。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
★古城哲太郎
小木町町長。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治七年生 ふるき、小木町小木、商業 ・明4、佐渡水産学校[四十年三月二十日]・大2、小木突堤の修繕工事[七年十一月]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★古城徳四郎
『小木町史』より
当時小木港は、もっとも繁華をきわめたときであったので、親族や朋輩は今どきそんな仕事をしてとあざけりました。しかし風間氏は、そんをことは意にもかいせず、もっぱら励み、今より八年前、七十歳でなくなりました。世が移り、時が変わった今、浮利の頼むに足らぎるを悟り、はじめて風間翁の活眼先見に敬服する老が多くなりました。そして、この仕事に従事する老百戸に近く、歳入は三千円ほどになります。わけても桃井常蔵、古城徳四郎の両人は、風間翁についてはやくより習い、笊造りをしている老錬家です。なかには、手早さを主として粗悪の製品を造る人もままありますが、松葉屋笊、常新笊は第一との評判です。
→風間与作(小島屋)
★古木弥十郎
「島の新聞」(95号)



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「島の新聞」索引(人名別)
★古城利作
「島の新聞」索引(人名別)
★古桑熊吉
旭桜会
★古桑兵右エ門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★古坂馨
「島の新聞」索引(人名別)
★古坂勘太郎
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
後山人形の太夫と思われる。資料が乏しいので詳しい事はわからないが、現在でも古坂家には後山人形台本が何冊か残っているので太夫を勤めたのであろう。それ以前に後山には古野一という太夫がいたので一座があっても不思議はない。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
畑野町後山(現在宮川)の人、後山人形の創始者。太夫は古坂勘太郎であったといわれる。竹田人形の一部を買い、のち相川町大浦の中川新兵衛へ譲った。
★古沢喜三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡坊ケ崎の人ではじめ仁蔵といった。二十五才で佐和田町町五十里の本間家を継ぎ、晩年また古沢にかえった。和風建築にくわしく彫刻にすぐれていた。維新前後の神殿仏堂はその技になったもので名声があった。奉行所大玄関もその棟梁であったという。明治十六、七年のころ七十余才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★古沢欣二
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)古沢欣二 105 佐渡の郵便史を顧みる 古沢欣二
★古田隆一
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・7・8・27~28 県水上選手権・全日本水上県予選(県体育協会・県水上競技連盟・県小学校体育連盟主催)新発田・西公園プール
(金泉小・全種目優勝)50平2位 44.6新、50背 2位 56.0
★古舘雄流(ふるたてたける)

★ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut)
右端は『日本美の再発見』に出る長野周甫「芳欄館」

昭和9年5月21日来島、23日離島。相川では山長旅館(高田屋向かい)、両津では白山屋で宿泊。昭和10年(1935)来島し、名著 『日本美の再発見』で佐渡について記述。特に吉井地区の白壁の農家や洋風建築「芳蘭館」(現在の児玉、二敷家)を絶賛する。
『日本美の再発見』(紀行26枚 昭和14・岩波書店)
昭和10年5月16日に京都を発ち、高山・富山・柏崎・新潟・佐渡・秋田・仙台を経て東京に帰るまでのこと
を一ドイツ人建築家が書いた紀行文で、また評論と称してもよいものである。神社・家屋や町並み・海岸の
景観に、日本の美を見出し、そのみずみずしい感性は一つの文化論としても注目を浴びた。岩波新書・篠田
英雄訳。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)ブルーノ・タウト 143 ブルーノ・タウトが見た佐渡の風景と建築 斎藤明雄
諸情報
★古林信吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治八年生 羽茂村、農業 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]
★古林佑介


★古屋(ふるや)将貿(将監)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
宝暦六年、畑野後山、西高屋の通称オモヤの三代目当主・将貿(将監)は、後山村字ホトロにあった伝吉の雑木林を求めて、そこに新宮を建て、御食(みけし)神社と呼称した。同家に伝わる古文書にょると、宮造立のきっかけは、同家が一向宗であって神社借仰がなかったことから、不作に遭ったりするのを先代が気にしており、それに対処するために設立したという。しかしその後、将賢自身も大病を患い、宮勤めを山伏の観行院に委ねた。この観行院がいまの神官司である。
将賢は本名を右中と言い、相川の生れで同じく相川の町医者時岡本立とは従兄弟の間柄であった。この頃、相川から後山村に移住する老がほかにもあり、良寛の母おのぶの親などもそのひとりである。右中は医薬を業として、後山の山中で薬草の採取をやったらしい。同家の系図によると、四代目は玄秀・五代目は金丸本郷生れの玄周とあるほかに、文書では延孝二年に玄節の名も見えるので、これらの名前からみて医薬の業は数代つづいたもののようである。こうして江戸中期に、相川からの人材の補充にょって、オモヤの村における地位が一層固められたとみられる。同家の坪の内に立つコウヤマキの巨木といい、堀跡の名残りといい、この家の歴史の古さや旧家のおもかげは濃い。
★古屋十太郎
窪田 高浜神社

★古屋(ふるや)六郎兵衛
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑野後山、西高屋の通称オモヤ。後山村成立に深いかかわりをもつ要人であった。オモヤの語源は、門徒衆(浄土真宗信者)の間で使われた用語で、この家が浄土真宗の世話人の立場にあったことからつけられたものであろう。後山にある同宗寺院の広円寺は、慶長の初年に合沢から移転したといわれる。(旧村志)そして六郎兵衛は広円寺の重檀家であるから、その移転には、オモヤが関連していたことは言うまでもない。ことによると、オモヤが後山村に先行していてそこへ寺を誘致したのかもしれない。古屋の姓は、それに近い古家・湖屋を含めて「コヤ」とも発音する。両津市の夷・北五十里・真木や旧二宮村の山田などにそれがある。真木は、久知地頭でもあった宮浦殿直泰が、後年に真木城(別名真更川城)を築いたところである。隣村椎泊には浄土真宗寺院は二か寺もあり、後山の古屋六郎兵衛と久知殿とのかかわりがないでむないが、明らかとは言えない。
★文室朝臣忠基
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
内舎人 承和一〇(八四三)佐渡に配流。父文室朝臣宮田麻呂の謀反により、宮田麻呂は伊豆へ。子忠基は佐渡へ。承和の変の余波か。(『続日本後紀』)
★文妙院日完大徳 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★分龍
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡法界寺の中興となった。越中の人で法を不残についだ。寛永十七年(一六四〇年)になくなったが年齢はわからない。(日本仏家人名辞書)
★ベア
「成功した士族の商法」(「佐渡の百年」)
★平助
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=3
★平成の天皇
@大膳神社


「ウイキペディア」より
★碧峰雅敏 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★兵四郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国鹿伏村の人である。養母へ孝心に事うる趣相聞るに付き弘化四年(一八四七年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★平内歌次(へいないうたじ)
写真左:昭和9年撮影。山本修之助氏が羽茂から写真屋を連れて平内家を訪れた。(山本修巳先生が父修之助氏より聞いた話)曽孫は平内岩雄さんで昭和5年生まれ。令和3年9月現在、91歳でお元気である。※平内岩雄さんは令和5年(2023)6月没、92歳。

【生没】一八五八ー一九四○ 安政五年四月十一日、羽茂大崎村の通称平内牧の長男として生まれた。父は離縁した人形遣いの大崎屋松之助といわれている。明治三十九年(一九○六)の秋、小説家の長塚節が来島したとき、新潟から両津往きの船で知り合って、両津の旅館でも同宿した。その後、節が羽茂から大崎の犬落をへて赤泊に出る途中で、平内牧を訪ねたときの様子が紀行文「佐渡が島」に書かれている。のちに公表された自筆原稿「波の上」および、この記事は博労であった平内からの知識のためか、牛に関する話がよく出てくる。そして節の文章に、最初に登場する歌次の風体は、「よごれた白木綿の三尺帯をしめた小柄の男で、色あせた浅黄のフロシキの中から梨を取り出し、手のひらでこすって皮のままムシャムシャかじり始め」るような、博労らしい大らかさがあった。平内牧からは、佐渡人形の元祖といわれる大崎屋松之助が出ている。歌次の孫で、明治四十年(一九○七)生まれの鍵太郎(歌次の子、新市の長男)は、同三十二年生まれの先輩大山満蔵らと共に、大道芸のチョボクレを伝承していて、大正末ごろまではよく踊っていた。歌次がどのような伝承芸を身につけていたかはわからないが、平内牧というマキ(一族・血すじ)には、そうしたゆとりがあったことはたしかである。歌次は博労という職業がら、生活にも派手な点があって、家業に精出す百姓タイプではなかった。昭和十五年八月一日没・法名博寿奇慶居士。【関連】大崎屋松之助(おおさきやまつのすけ) 【参考文献】長塚節『佐渡が島』、山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】本間雅彦(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
バクロ平内
長塚節(ながつかたかし)は、歴史に残る歌人だ。ハりのように鋭い、澄みきった歌が多い。彼の佐渡紀行も、すこぶる愛唱にあたいするばかりでなく、佐渡が島のよさをも、再発見している。この紀行の中で、彼の案内を偶然つとめたバクロの君が、わが平内である。冬になると鉄砲うちもやった。火なわづつで、ナマリの一つ玉を腰だめで、ガンと打つ。一日のキジの二羽か、ウサギの三羽もとれば、けっこうというところであった。りようしも昔はのんびりしたものである。彼はまた静がうまい。いつも抜けて行くような失敗談をやる。歌人長塚節が、旅のつれずれに、よろこんだのもむりはない。彼の話を一つ。タアンと打ったところが、ウサギがカラカラところめいた。そうら打ったと、拾おうと思うと、ピョンピョンと逃げた。おっかけると木の穴へはいった。一方からさおでつつく。一方へ出る。さおでたたくと、たたきそこなって、ウサギがむこうへとぶ。自分は田ン中へとびこんで困った。こういう調子である。八〇にならんで死んだが、晩年には、頭のまん中に、毛をポソポソと残し、あとはそり落していた。まことに愉快な村の道化者であった。(「佐渡新報-青木重孝、昭和二十七年)
・平内家:歌次-新一ー鍵太郎ー岩雄(昭和5年生)※平内歌次と共に写真に載る
「美人とハマナス」(「佐渡の百年」)
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★平内(へいない)鍵太郎

※羽茂地区大崎に伝えられてきた「ちょぼくり」は、正しくは「ちょぼくれ」といい江戸時代中期以前に関西から始まった大道芸だといわれています。大崎では明治30年頃、北海道へ移住したり屯田兵に行っていた人が帰ってきて教えたといわれています。明治30年代末頃、大場鉄蔵(慶応元年生まれ)と本間治吉(明治3年生まれ)が中心になって踊っていました。そして大正期にかけて広く普及し、酒が出れば板の間や囲炉裏縁をたたき、畳半畳の広さがあれば踊ったといいます。その後中断していて、昭和39年(1964)、宮本寺にちょぼくりの台本が残っていたことと、かつて踊っていた記憶があった葛原五兵衛、大山満蔵などによって復活しました。そして昭和53年以降「大崎そばの会」の場で上演することによって地域に定着してきました。大崎では地方は机に向かって座し、俎板を火箸で打って調子を取りながら語ります。立方は、衣装は黒い破れ衣に一文字笠、腰に一升徳利を下げ「八升九升飲み流す」で手に取って飲むしぐさ。「おっと変わって」からテンポが早くなると、踊りも早くなり、文句にあったユーモラスな踊りが連続し、最後は雲を霞と逃げて行きます。昭和の戦前~戦後中断していたチョボクリが昭和39年復活したのは、昔の人が楽しんだ芸を残そうという有志と演技者がいたことによる。台本があったことに加え、長老の大山満蔵や葛原五兵衛に記憶があり、本間敞政住職らによる努力があった。時の地方(じがた)は大山満蔵、立ち方(かた)は平内鍵太郎。
★別当局(べっとうのつぼね)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
順徳上皇が佐渡へ流された時、奉仕した女房。上皇は仁治三年(一二四一年)九月十二日に四十六才でおなくなりになったので、出家して上皇の御冥福を祈った。局は藤原範朝の女ともいわれる。範朝は元久年中(一二〇四-五年)氏院別当に任じられ、後また検非違使別当ともなった。(順徳上皇を偲び奉りて、順徳上皇と佐渡)
★ペロリ

佐和田出身の役者、タレント。
(代表作品)
2014年 信長協奏曲 (フジテレビ)
2014年 土竜の祭り (映画)
2014年 大家的婚禮 (舞台) 台湾公演
2015年 激落ちくん (CM)
(主な活動)
映画:家路、テレビ:信長協奏曲・大空港2013、舞台:大家的婚禮(台湾)
★弁次→棋客辦次 又は 棋打辡蔵
★遍照院
「島の新聞」索引(人名別)
★遍照坊(憲盛法印)→智専
★逸見至
左:「佐渡名勝史」(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★逸見悦運
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★逸見修
相川小校長

※「佐渡ジャーナル」関係記事:「15号」(平成20年10月)登録運動は佐渡市民が一つになれる重要なテーマ!-世界文化遺産登録運動をとおして佐渡の未来を考える-(逸見修 相川小校長)
「16号」(平成21年1月)世界遺産にふさわしい 佐渡をめざして(逸見修 相川小校長)
★逸見オリエ
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))」
★逸見抑堂
『金井を創った百人』(「明治・大正の開業医たち」)(金井町 平成12年)より

★逸見権左衛門
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★逸見浩司
佐渡高校時代の平成7.11、高文連将棋新人県大会1位
・平成8.1、高文連将棋新人戦全国大会(高知市)、2勝0敗で予選リーグを突破し決勝トーナメントへ進出
・平成8.5、高文連将棋県大会1位、全国大会(北海道)に出場
・平成8.6、全国高校将棋竜王戦県大会1位、全国大会(福岡市)に出場
・平成8.11、高文連将棋新人戦県大会2、全国大会(伊那市)に出場
★逸見権左衛門
旧金丸村(真野)村長、明治三二・八・一八~。
★逸見至康
『続佐渡酒誌』(平成14年)




★辺見じゅん
『精霊の島』(紀行18枚 ふるさと幻視行 昭和53・講談社)
「るるぶ」昭和51年11月。国文学者角川源義を父に持っ辺見じゅんにはすぐれたノンフィクション作品が多いが、『新・北越雪譜』の著書で県内の各地の伝承や風俗を活写した現代の語り部でもある筆者の佐渡ルポルタージュである。佐渡の土地の地霊、死霊、生霊と交信を交わすかのように次々と浮かび上がるさまざまなこの土地にかかわりを持った人々の生きざま。辺見じゅんはそれを惜しむかのように現代に蘇らせて語り継いでいく。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
・辺見じゅん 『精霊の島』
★逸見正平

首都圏真野人会3代目会長(平成22年~)
司環境計画(不動産業)代表。
★逸見登

「島の新聞」索引(人名別)
★逸見秀雄
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
大正二年生まれ、父豊蔵が能楽に熱心だったので幼時からその道に親しみ、のち金子佳愛晩年の高弟として活躍した。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)逸見秀雄
63 佐渡演能番組-平成元年- 66 佐渡演能番組-平成2年- 69 佐渡演能番組-平成3年-
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
→若林米蔵「笛畝会」参照
★逸見秀樹
佐渡高校時代の昭和55.6、柔道北信越大会出場
56.6.3~4、柔道県高校総合体育大会(佐渡郡佐和田町)団体戦3位、重量級3位
56.6.27-28、柔道北信越大会(松本市)団体戦出場
56.柔道秋季北信越大会 団体戦3位
56.8.2~4、柔道全国高校柔道選手権大会(千葉県)団体戦出場
★逸見不愁
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)逸見不愁 74 山本悌二郎(二峰)書道展
★逸見文次郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★逸見通儀
『続佐渡酒誌』(平成14年)


★逸見紋平
→野村蘭作「宝生二派の統一」参照
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)布施一喜雄 85 新穂村出身・土田杏村を支えた 長谷川巳之吉・与板余聞
★布施直樹

★蕪村
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)蕪村 145 蕪村の一句 山本修已
★二見勾當(ふたみこうとう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡二見の盲人である。小倉大納言実起が佐渡に流された時たびたび召されて揉療治をしている間、実起について琴曲を学んだ。後に検校の位を売るため京都にのぼり、演奏が絶妙であったので一躍勾当を授けられたという。(佐渡人名辞書)
★仏冠貞胤 洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★フッグス
ゼー・ウイービー・フッグス。『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より新潟丸船長。日本政府は明治四年六月、佐渡国両津の加茂湖畔で日本最初の鉄船新潟丸四十九トンを完成させた。そのころ日本人で汽船の操縦できる人はなかった。そこで政府はオラソダ人のフックス(四十三才)を月給九十五円で船司(船長)として雇い、就航に当たらせる一方、乗組員の教習などを担当させた。(佐渡の百年)
「島の新聞」

「日本最初の鉄船製造」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」(両津港物語)
★佛山明道 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★ふて
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国椎泊村(両津市)百姓茂右衛門の祖母である。嘉永元年(一八四八年)に九十五才になったので、役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★舟木莉音
佐渡高校同窓会報43号 05(2023)8月

★舟崎克彦→舟崎克彦(よしひこ)
★舟崎金治
旧金丸村(真野)村長、明治三一・四・二〇~・三二・七・一〇~。
★舟崎吾吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★舟崎五八
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p377
★舟崎仁作(仁平)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
(金丸の)鬼太鼓を始めたのは舟崎仁作(仁平)だという。明治九年生まれで、昭和四九年に数え年九九歳で亡くなった。新穂から習ったといわれているが、新穂のどこの鬼太鼓だったのか、また一緒に習いに行った仲間の名前もわからない。舟下説もあるが、舟下には巫女がつかない。巫女が出るのは新穂町の鬼大聖つだから、それを習ったのであろうか。それにしても豆まきがつくところを見ると、四日町がそうであったように、古くから相川流の鬼太鼓があったのを、舟崎の時に国仲流に改めたと考える方がよさそうである。
★舟崎仁一
前段右より・高野清八郎・瀬下清通・塩嶋仁吉 後段右より・柄沢四郎左衛門・柄沢寛・舟崎仁一

金丸舟崎家の出、父は金治。弁護士となり新潟市で開業、後新潟県弁護士会会長を務める。長男であったが、三男が相川松栄家を継いだ松栄俊三(町長等要職を歴任)、四男が舟崎文庫に名を残す舟崎由之、長女久代は新潟小嶋家(石油関連会社「三船商事」創業)に嫁ぎ、二女春江は医学博士となる。甥に児童文学作家の舟崎克彦が居る。
※・舟崎仁一妻は かほる で、父は北条欽(中興 本間権左衛門家の出)、母はキャウ。
「島の新聞」


・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p375
★舟崎文八朗
「躍進日本」

★舟崎由夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)舟崎由夫 22 本間雅晴将軍を士官学校へすすめた同級生
★舟崎克彦(よしひこ)





1945年生まれ、2015(平成27年)没、70歳。作家、詩人、作詞家、挿絵画家、劇画原作者。舟崎文庫の舟崎由之の孫にあたる。(母が由之の娘)日本を代表する児童文学作家で大学教授でもある。佐渡でも講演会を催し、佐渡市図書館にたくさんの書籍を寄贈された。
➡舟崎由之
「島の新聞」索引(人名別)
舟崎克彦諸情報
★舟崎由之(ふなざきよしゆき)
「ウイキペディア」より



【生没】一八九四ー一九六六 衆議院議員、佐渡高等学校同窓会の舟崎文庫の創設者。真野町大字金丸の人。金丸の素封家舟崎家に、父金治の四男として明治二十七年出生。佐渡中学校(現佐渡高等学校)卒業後、早稲田大学理工学部機械科に入学、大正六年同大学卒業後、東京鋼材株式会社(現三菱製鋼株式会社)に入社し、その後東京機材工業所・東京鋼帯工業株式会社・高砂鉄工を経て、昭和五年三四歳の時東京伸鉄所を設立、以後東京磨帯鋼製造所・日本特殊鋼材工業株式会社、戦後再出発して日本金属産業株式会社を設立。四十余年間終始磨帯鋼の研究生産に取組み、日本の磨帯鋼業界の創始者である。著書に『磨帯鋼回想録』がある。昭和二十一年衆議院議員選挙に当選、政治家として活躍した。戦後まもなく、故萩野由之博士が蒐集された厖大な史料のうち、佐渡関係のものを佐渡教育会の依頼をうけて、佐渡から流出することを避けるため購入、その後昭和二十八年、母校佐渡高等学校同窓会に寄贈した。現在ある舟崎文庫がそれである。佐渡の近世・近代史の貴重な史料・文献の宝庫であり、また、萩野博士が秘蔵した近世の思想家・文人・政治家の、約一○○人の書簡集である『先哲手簡』『先賢手簡』等を収蔵している。昭和四十一年十二月二日没。享年七二歳。【関連】舟崎文庫(ふなざきぶんこ) 【参考文献】『舟崎文庫目録』(佐渡高等学校) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
➡舟崎克彦
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p386
・『舟崎さん』(昭和53年 金丸区作成)
諸情報
★舟代源助
「戦国佐渡国人名辞典」より
【ふなしろげんすけ(15??~15??)】河原田高統家臣。舟代城主。別名本間源助。
★舟代村五左衛門
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★舟代村五郎右衛門 →後藤五郎右衛門
★船登源兵衛(ふなとげんべえ)
近世前期の廻船主 相川町大字岩谷口。享保十八年(一七三三)まで廻船業を営む。岩谷口の両宮大明神の社人、同地の弥勒寺の開基旦那。持仏堂として阿弥陀堂がある。船登家の出自は明確でないが、口碑には高松藩の船奉行をしていて、難船して定住したとも、津軽十三湊から来たともいわれている。船登家の籾保存用のセイロ板に「享保十八年二月、本屋敷より百六年目に、此屋敷へ移り申し候、応致代」とある。本屋敷は海岸にあり、寛永四年(一六二七)より住んでいた。同家の地神は両宮神社に合祇されている土船大明神で、由緒書では明応七年(一四九八)開基となっている。かって越前康継の刀と豊前藤原守貞の鎗を家宝としていたというから、中世から近世初頭の帰農武士の例であろう。岩谷口へ定住してからは、初期は相川へ鉱山用の留木を運び、源蔵・源吉時代があった。寛文期ころ(一六六一~七二)には、相川羽田町枡屋六右衛門の商船であった。相川は金銀山景気により上方の高級品指向の需要が多く、必需品の塩・酒・紙などのほか茶・衣類・諸道具類が船登船などで運び込まれた。宝暦期(一七五一~六三)以降になると、蝦夷地と大坂を結ぶ北前船時代になるが、船登船はそれ以前の近・中距離の新潟を中心とした交易時代に活躍した。享保十八年以降、廻船業をやめ、山ぎわの岩陰遺跡の前に新屋を建て、蓄積してきた資金で田地・山林などを買い入れ、地方の重立農家として家業を続け、戦後民宿を経営して現在に至る。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集四)、『新潟県史』(資料編九)、佐藤利夫「日本海における船登忠兵衛の廻船取引」(『海事史研究』五四号) 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『赤泊村誌(上)』より
江戸時代の始め(延宝頃)、相川金銀山の繁栄にわく頃、佐渡の岩谷口にいた大廻船業者。新発田藩に300両もの金を貸し付けた。
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
・相川町岩谷口の船登源兵衛家には、この延宝期から元禄前半期頃(十七世紀末~十八世紀はじめ)との取引 にかけての商取引を示す仕切吾が残っている。このなかの一通は延宝五年(一六七七)三月二十一日付、浜田屋権左衛門の仕切証文である。浜田屋は船登の手を経て蝦夷地あたりの海産物を仕入れていることがわかる。仕入品目のすべてはわからないが、前年分からの数回の取引を合わせて、印銀二貫四二九匁余となっているから、取引も相当な額にのぼっている。
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
浜田屋権左衝門と取引のあった船登源兵衛船の船頭は赤泊出身であり忠思兵衛といった。この忠兵衛船の水主は赤泊が二人、杉野浦が六人、野崎が一人、夷町一人、合わせて乗組員ほ十一人であった(元禄期)。船の大きさはせいぜい二〇〇石積ぐらいである。・船登源兵衛船の運んだ海産物がどこから運ばれてきたものか不明である。当時の売買仕切書をみると、北は酒田・金浦(このうら)・本荘・秋田辺からの穀類の買付、西の方は能登輪島・越前三国・敦賀・若州小浜などからの日用品の買付などがみられ、まだ、蝦夷地や下関方面まで船は廻航してはいない。船登家所蔵文書でみる限りでは江差まで行くようになったのは貞享四年(一六八七)となっている。この年、源兵衛船は二一四俵の米を横んで、それを江差の伊勢屋又兵衛に売却して、ここから鯡(にしん)六三八束、数の子一三本を買い入れて帰っている。さきの延宝五年(一六七七)の鮭などは中間のどこかの港から仕入れてきたものであろうか。しだいに、この蝦夷地における海産物の利益が大きいことがわかってきたのであろう。
「島の新聞」索引(人名別)
★船登泰蔵
外海府村村長 岩谷口

★船登卓爾
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★船登彌三吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大2、政友会の公正會入党披露会[八年十月十四日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

船登彌三吉 外海府村村長 岩谷口

★船登惟希(ふなとよしあき)

船登源兵衛の子孫。1987年、新潟県佐渡郡佐和田町生まれ。佐和田中卒後、2006年 新潟県立新潟高等学校理数科卒業し、東京大学理科Ⅱ類に入学。2010年 東京大学理学部化学科卒業。現在、東京大学大学院理学系研究科化学専攻修士課程在籍。
在学中に「宇宙一わかりやすい高校化学(理論化学編)」他3冊を執筆他、現在、新規に6冊の参考書の執筆を手がける。
その他、東日本大震災復興支援団体Youth for 3.11を立ち上げ、代表に就任。活動から8ヶ月で、延べ9000名以上の学生を被災地に送り出す。
現在も継続し、「ハードルの低いボランティアプログラム(交通手段/宿泊施設/飲食物が全て用意されて、無料で参加できるなど)」を提供する。教育、特に「edutainment」に興味があり、「楽しみながら勉強する」「わかりやすく本質をついた教育コンテンツ」の作成を通じ、社会に貢献したいと考えている。
★舟見秀雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・6・23 第3回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)
(佐渡中・30点4位)300mメドレー②佐中4・02・9、200リレー③佐中、800リレー④佐中、800自⑥
昭・15・7・27 第12回県水泳選手権・日本水上選手権予選会(県水上競技連盟・県体協)・第8回佐渡水上競技選手権(佐渡水泳協会)
400自斉藤兼苦杯③(佐中)
★舟見良夫
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・7-8 第7回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中等学校体育連盟)佐中プール
(佐渡中)50自⑥、200リレー①佐中。800リレー⑤佐中、総合②佐中48
昭・14・6・18 第2回近県中等学校水上競技(新潟市水上競技連盟)新潟中学競泳池
(佐渡中・総合3位・得点44点)800リレー③(間島・舟見・本間・土屋)11.45・2
昭・14・7・23 第9回県中等学校水上競技選手権(県中体聯・県水上競技聯盟)
(佐渡中・二年連続、通算3回目の優勝。得点61点)
800リレー ①舟見・斉藤・本間・土屋11.02.4。
★船山博
旧姓金子 新町生まれ、畑野に転居。昭和30年6月17日、49歳で死去。
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p418
★武兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国河崎村(両津市)の人である。奇特之趣相聞るに付、弘化二年(一八四五年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★武兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川柴町の人である。孝心奇特の趣相聞につき、文政十二年(一八二九年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★ふよ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国夷町(両津市)権兵衛の妻である。奇特孝心の趣相聞に付、文政十一年(一八四〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて質された。(佐渡年代記中巻)
★ブラウン
「ウイキペディア」より
新潟女学校
「島の新聞」(明治の女子留学生)
★古市末松
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★古川秀一
本名又太郎。羽茂本郷、仮屋、又五郎家の人。大正十一年四月生れ。平成八年に死亡した。旧羽茂町の森林組合にも勤めたが、銀行勤務が長かった。若くして青年団や公民館活動に熱心で、青年団長、町会議員を勤めた。歌は、藤川忠治先生疎開当時からの歌友で、歌と評論の同人であった。
(歌碑:平成十八年三月建碑 樟石丈○、七三㍍)
○花冷えの朝(あした)の庭に立ち出でて白くきはだつ霜を踏みしむ
歌は、庭を愛し草木に親しんだ作者の、早春、早朝の作である。
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★古川信榮
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★古川聖子



古川聖子
https://www.niikei.jp/132172/
両津出身の琴奏者。母も琴奏者の市橋やすえ、琴奏者の市橋京子は姉。
宮城社教師(箏・三弦)。両津高校から東京学芸大学教育学部卒。生涯学習インストラクター1級。
→市橋やすえ
→市橋京子
★古川長四郎(六代目)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
廻船業。古川家は江戸時代から廻船業を営み、長四郎を襲名した。六代長四郎は海運業のかたわら、明治三十四年四月から翌年八月まで直江津町長、三十四年七月から同年十二月まで商業会議所会頭、大正十四年十一月から十四年まで佐渡商船社長等を歴任した。大正十四年六月一日になくなった。(新潟県人物百年史頸城編)
★古川長四郎(七代目)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
実業家。明治二十八年五月七日に直江津市沖見町で生まれた。父は六代目長四郎で古川家は江戸時代から代々長四郎をつぐ廻船問屋であった。慶応義塾に学んだが中退した。佐渡商船社長となり、昭和七年七月二十日、新潟汽船、越佐商船、佐渡商船三社が合併し、県半額出資の佐渡汽船が発足した時、初代社長となった。昭和二年県会議員当選、十七年八月直江津町長、二十一年十一月まで在任した。昭和三十四年九月三十日に五十四才でなくなった。(新潟県人物百年史頸城編)
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
★古川鉄平
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)6代校長(昭和6・3・31~昭和8・3・31)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★古川友八(ふるかわともはち)
【生没】一八○○ー六二 無名異焼や薬用の原料となる無名異の、佐渡における最初の開発者。のちに無名異焼(楽焼)を創始する七代目伊藤甚兵衛と同じ年の、寛政十二年に生まれた。この島の施釉陶器の創始者となる黒沢金太郎の「金太郎窯」が開窯した年でもある。本職は代々鉱山の中尾間歩の帳付職で、器材の出し入れ、鉱石の出方、大工や穿子の差し組などを記帳し、ときには坑内に入って採鉱や排水の面倒を見る仕事である。親の長之助に続いて帳付職に採用されたのは文化十三年(一八一六)で、文久二年に六二歳で死亡するまで、四六年間この職にあった。中尾坑内から無名異を産出することは、文化年間(一八○四ー一七)に田中從太郎の著わした『佐渡志』に、「無名異、雑太郡中尾山」とあるのが初見で、この無名異に注目したのが、帳付職として永年勤めていた友八(政明)であった。弘化三年(一八四六)に「国産無名異製し方致し候中尾間歩帳付友八、願に依て仕入銭貸渡」(『佐渡年代記』)とした記事があり、西村滄州という人が、友八の略歴を記した『古川器水翁小伝』(明治二十四年刊)によると、最初官営で採取を願出たが許されず、自分で請けて「私売」の形で四方に販売を始めたとあり、「無名異の効能が大いに世に顕れた」としていて、六代目のこの友八を「古川家中興の祖」と記している。「器水」と号したのは、薬用から陶器の原料として無名異の名が広まる晩年らしく、製陶にもかなりの学識があったことが、古川家の家蔵文書からもうかがえる。その子の千種(友之助)も文久二年から帳付職を世襲し、その子孫は濁川町に住み無名異土の一手販売をしていた。【関連】古川平助(ふるかわへいすけ)・無名異(むみょうい) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「常山と琢斎 」(「佐渡の百年」)
★古川博史
CSコーポレイション創業者。佐渡農業高校卒。
商号 株式会社CSコーポレイション
本社 〒950-0924 新潟県新潟市中央区美の里17番8号
TEL 025-286-1332 / FAX 025-286-1334
Tokyo H.Q 〒107-0061 東京都港区北青山2丁目11番9号 北青山プラザビル4F
TEL 03-6812-9831 / FAX 03-6812-9832
工場 〒956-0015 新潟県新潟市秋葉区川口乙578番地24
創立年月 1975年5月
会社設立年月 1977年9月
※建設業許可/特定建設業 新潟県知事 許可(特-29)第14383号
※一級建築士事務所/新潟県知事登録(ニ)第3701号
※屋外広告業/新潟県屋外広告業登録(3)第13号
※宅地建物取引業/新潟県知事(7)第3679号
資本金 4,500万円
(役員)
・会 長:古川博史 ・社長:古川憲 ・専務取締役: 山田敏 ・常務取締役:中山修 ・取締役:笠原英治
(従業員) 49名
(沿革)
1975年5月 シーエス新潟創立
1977年9月 株式会社シー・エス新潟 に改称。資本金300万円
1981年4月 資本金600万円に増資
1981年6月 新潟市姥ケ山に本社屋建設
1983年12月 資本金900万円に増資
1984年5月 新潟市美の里に新社屋建設
1985年10月 資本金2,070万円に増資
1986年6月 亀田工業団地に亀田工場建設
1991年11月 資本金4,500万円に増資
1994年11月 新津工業団地に新津工場建設
2000年8月 本社新社屋建設
2005年8月 社名 株式会社CSコーポレイション に改称
2011年9月 古川 憲 代表取締役 就任
2018年9月 Tokyo H.Q 開設
★古川平助(ふるかわへいすけ)
「佐渡ふるさと百科」

【生没】(生年不詳)ー一七二四 江戸前期の流人で、延宝二年(一六七四)の遠島者記録の中に見える。流される理由だけはあって、出自はわからなかったが、菩提所の中寺町大超寺(大安寺に合併)にあった墓碑に、「大和国高取、三万五千石、植村出羽守城下也、古河平助」とある(古川家文書)。「大和国高取」はいまの奈良県高取市高取町で、奈良盆地のほぼ中央部、有名な明日香村の近くである。そこの侍であったが、江戸勤番中に同僚と争って傷害事件を起したのが、遠島の理由である。相川では、鉱山の振矩職(測量師)で生計を立てていた。享保二十年(一七三五)に、養子で二代目になる古川門左衛門が、新規に鉱山の絵図師として採用される記事の中に、養父平助(門左衛門)が「年久しく銀山振矩御用相勤めた」といった説明があり、古今の金銀山稼ぎ所をよく知っている金銀巧者で、絵図の製作にも秀でていたことが記されている。これが二代目門左衛門の、絵図師採用の理由であった。赦免になるのは正徳五年(一七一五)で、十年ほどして、享保九年に没した。鉱山が繁栄した元禄時代に居合わせた流人だが、元禄十年(一六九七)に完成した有名な「南沢疎水道」の工事で、その下使いなどで働きながら測量術を学んだことが想像される。三代目以降は、代々中尾間歩の「帳付職」として働き、その末裔は濁川町に住んでいた古川介(九代目)で、明治のころ金泉小学校の校長をしていた。【関連】古川友八(ふるかわともはち)・振矩師(ふりかねし) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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【遠島3】延宝2年
傍輩巨海五郎右衛門を尋ね出して切りつけ、捕らえられる。正徳5年(1715) 赦免。
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


★古川政明
「佐渡ふるさと百科」

★古川満太
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「39号」(平成26年10月)ちょっと気になったこと※古川満太
★古川門左衛門
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)古川門左衛門 27 振矩師雑記 (7) -古川門左衛門-金子勉
★古木高一
加茂歌代中高野の人、大正13年生、令和4年3月没、98歳。両津市議。短歌を好み、多くの新聞投稿をした。長男は古木設備を創設。
★古城光三
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡河崎村の人。文久三年(一八六三年)十二月生。後藤武左衛門の三男で古城家をついだ。宝生流の宗家梅ヶ沢軒本間家に師事し達人といわれた。また笛にもすぐれ門人が多かった。平崎の菊池と共に鼓で佐渡の双壁といわれた。晩年古器を愛し、傍ら貝細工の能面根付等の彫刻をし、光三と銘を入れた。(佐渡名鑑)
★古城茂幸
「島の新聞」

「島の新聞」索引(人名別)
★古城俊平
『小木町史』より
明治十三年のことです。小木町の赤塚左一郎をど有志が、佐渡と越後の定期航路をつくらなければと研究協議していましたが、その矢先のことでした。たまたま、工部省から石油坑の視察のために出妻崎へ派遣されていた秋山美磨氏が、出雲崎の発展のためにやはり越後と佐渡の間に定期航路をひらくべきだと出雲崎の人にその具体化をすすめておりました。そこで小木では、出雲崎と共同すれば資金も得やすいということで、両者が話し合いました。その結果、小木が七千五百円、出雲崎側が七千五百円の株金をつのり、それをあわせて一万五千円、そのうち一万円を船の購求費にし、のこり五千円を創業費として越佐航海をはじめることで話がまとまりました。さらに、本社は小木と出雲崎に交替に置くことにしたのです。そんをふうにして開業しましたが、さて、何分にも収支がつぐをいません。そういうふうにをると、まず最初に音をあげてしまったのは佐渡側です。手をひきたいということになりました。明治十七年になって、三千円を相手側からうけとり船体と株金はみんなむこうにまかせて、しばらく様子をみることにしました。
しかし明治十九年、とうとう船会社を維持する通が途絶えて、船会社は閉鎖して、船体は新潟の売場に回されてしまいました。考えてみれば、これをやめてしまえば今までの苦労は水の泡です。そしてまた、将来の佐渡の利害を察するなら、これは捨ておきがたい事柄といえましょう。そこで、小木の古城俊平ほか四、五人の有志が、さきがけ丸を一千五百円で買いとり、それに一千円を投じて修繕を加え、もとのようにさきがけ丸と命名して、明治二十年一月から再び越後と佐渡の間を航海しはじめたのです。いま、明治二十二年の航海の状況がわかっています。一月が三度、二月が六度、三月が十度、四月が十九度、五月十八度、六月十七度、七月十九度、八月二十度、九月が二十度となっています。そして、一回の乗客は平均して二十八人とあります。しかし、なかなかうまくはこびませんでした。冬の間は、両津、新潟航路が一か月近くもとまってしまうことが逆にさいわいして、乗客もけっこうあり、採算があいましたが、夏にをると乗客もすっかりなくをり、荷物も減り、ただ郵便運搬だけで命脈をたもつというありさまで、船会社は損害に堪えられず、とうとう船は売りに出されました。そうなっては困るとみんなが思いをがら、どうにもをらをいのです。陳情をうけた佐渡支庁は、夏の問だけ、ご料局で近県から買い入れる鉱石や、鉱山で必要とする木材を引かせることにしました。また、航路を沢根までのばして航海させれば、国仲の人たちの便利とをるだろうとも考えました。そうした方法もとられましたが、今から考えてみれば、こんな消極的を方法で航路を維持することがどうしてできましょう。
★古城長八
両津羽黒神社


★古城鼎丕(ふるきていひ)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡小木町の俳人で昨非庵と号した。屋号を丹後屋という。天田菁莪について俳諧を学んだ。気宇瀟洒で終身、独身ですごした。諸国をまわって各地の名流をたずね、ついに庵を相州江の島に結び子弟に教授した。後に兄がなくなり帰郷して嘉永三年(一八五〇年)になくなった。金井良談と社を結び小木の両宗匠といわれた。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
★古城哲太郎
小木町町長。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治七年生 ふるき、小木町小木、商業 ・明4、佐渡水産学校[四十年三月二十日]・大2、小木突堤の修繕工事[七年十一月]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★古城徳四郎
『小木町史』より
当時小木港は、もっとも繁華をきわめたときであったので、親族や朋輩は今どきそんな仕事をしてとあざけりました。しかし風間氏は、そんをことは意にもかいせず、もっぱら励み、今より八年前、七十歳でなくなりました。世が移り、時が変わった今、浮利の頼むに足らぎるを悟り、はじめて風間翁の活眼先見に敬服する老が多くなりました。そして、この仕事に従事する老百戸に近く、歳入は三千円ほどになります。わけても桃井常蔵、古城徳四郎の両人は、風間翁についてはやくより習い、笊造りをしている老錬家です。なかには、手早さを主として粗悪の製品を造る人もままありますが、松葉屋笊、常新笊は第一との評判です。
→風間与作(小島屋)
★古木弥十郎
「島の新聞」(95号)





「島の新聞」索引(人名別)
★古城利作
「島の新聞」索引(人名別)
★古桑熊吉
旭桜会
★古桑兵右エ門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★古坂馨
「島の新聞」索引(人名別)
★古坂勘太郎
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
後山人形の太夫と思われる。資料が乏しいので詳しい事はわからないが、現在でも古坂家には後山人形台本が何冊か残っているので太夫を勤めたのであろう。それ以前に後山には古野一という太夫がいたので一座があっても不思議はない。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
畑野町後山(現在宮川)の人、後山人形の創始者。太夫は古坂勘太郎であったといわれる。竹田人形の一部を買い、のち相川町大浦の中川新兵衛へ譲った。
★古沢喜三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡坊ケ崎の人ではじめ仁蔵といった。二十五才で佐和田町町五十里の本間家を継ぎ、晩年また古沢にかえった。和風建築にくわしく彫刻にすぐれていた。維新前後の神殿仏堂はその技になったもので名声があった。奉行所大玄関もその棟梁であったという。明治十六、七年のころ七十余才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★古沢欣二
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)古沢欣二 105 佐渡の郵便史を顧みる 古沢欣二
★古田隆一
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・7・8・27~28 県水上選手権・全日本水上県予選(県体育協会・県水上競技連盟・県小学校体育連盟主催)新発田・西公園プール
(金泉小・全種目優勝)50平2位 44.6新、50背 2位 56.0
★古舘雄流(ふるたてたける)

★ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut)
右端は『日本美の再発見』に出る長野周甫「芳欄館」




昭和9年5月21日来島、23日離島。相川では山長旅館(高田屋向かい)、両津では白山屋で宿泊。昭和10年(1935)来島し、名著 『日本美の再発見』で佐渡について記述。特に吉井地区の白壁の農家や洋風建築「芳蘭館」(現在の児玉、二敷家)を絶賛する。
『日本美の再発見』(紀行26枚 昭和14・岩波書店)
昭和10年5月16日に京都を発ち、高山・富山・柏崎・新潟・佐渡・秋田・仙台を経て東京に帰るまでのこと
を一ドイツ人建築家が書いた紀行文で、また評論と称してもよいものである。神社・家屋や町並み・海岸の
景観に、日本の美を見出し、そのみずみずしい感性は一つの文化論としても注目を浴びた。岩波新書・篠田
英雄訳。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)ブルーノ・タウト 143 ブルーノ・タウトが見た佐渡の風景と建築 斎藤明雄
諸情報
★古林信吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治八年生 羽茂村、農業 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]
★古林佑介


★古屋(ふるや)将貿(将監)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
宝暦六年、畑野後山、西高屋の通称オモヤの三代目当主・将貿(将監)は、後山村字ホトロにあった伝吉の雑木林を求めて、そこに新宮を建て、御食(みけし)神社と呼称した。同家に伝わる古文書にょると、宮造立のきっかけは、同家が一向宗であって神社借仰がなかったことから、不作に遭ったりするのを先代が気にしており、それに対処するために設立したという。しかしその後、将賢自身も大病を患い、宮勤めを山伏の観行院に委ねた。この観行院がいまの神官司である。
将賢は本名を右中と言い、相川の生れで同じく相川の町医者時岡本立とは従兄弟の間柄であった。この頃、相川から後山村に移住する老がほかにもあり、良寛の母おのぶの親などもそのひとりである。右中は医薬を業として、後山の山中で薬草の採取をやったらしい。同家の系図によると、四代目は玄秀・五代目は金丸本郷生れの玄周とあるほかに、文書では延孝二年に玄節の名も見えるので、これらの名前からみて医薬の業は数代つづいたもののようである。こうして江戸中期に、相川からの人材の補充にょって、オモヤの村における地位が一層固められたとみられる。同家の坪の内に立つコウヤマキの巨木といい、堀跡の名残りといい、この家の歴史の古さや旧家のおもかげは濃い。
★古屋十太郎
窪田 高浜神社


★古屋(ふるや)六郎兵衛
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑野後山、西高屋の通称オモヤ。後山村成立に深いかかわりをもつ要人であった。オモヤの語源は、門徒衆(浄土真宗信者)の間で使われた用語で、この家が浄土真宗の世話人の立場にあったことからつけられたものであろう。後山にある同宗寺院の広円寺は、慶長の初年に合沢から移転したといわれる。(旧村志)そして六郎兵衛は広円寺の重檀家であるから、その移転には、オモヤが関連していたことは言うまでもない。ことによると、オモヤが後山村に先行していてそこへ寺を誘致したのかもしれない。古屋の姓は、それに近い古家・湖屋を含めて「コヤ」とも発音する。両津市の夷・北五十里・真木や旧二宮村の山田などにそれがある。真木は、久知地頭でもあった宮浦殿直泰が、後年に真木城(別名真更川城)を築いたところである。隣村椎泊には浄土真宗寺院は二か寺もあり、後山の古屋六郎兵衛と久知殿とのかかわりがないでむないが、明らかとは言えない。
★文室朝臣忠基
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
内舎人 承和一〇(八四三)佐渡に配流。父文室朝臣宮田麻呂の謀反により、宮田麻呂は伊豆へ。子忠基は佐渡へ。承和の変の余波か。(『続日本後紀』)
★文妙院日完大徳 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★分龍
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡法界寺の中興となった。越中の人で法を不残についだ。寛永十七年(一六四〇年)になくなったが年齢はわからない。(日本仏家人名辞書)
★ベア
「成功した士族の商法」(「佐渡の百年」)
★平助
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=3
★平成の天皇
@大膳神社


























「ウイキペディア」より
★碧峰雅敏 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)



★兵四郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国鹿伏村の人である。養母へ孝心に事うる趣相聞るに付き弘化四年(一八四七年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★平内歌次(へいないうたじ)
写真左:昭和9年撮影。山本修之助氏が羽茂から写真屋を連れて平内家を訪れた。(山本修巳先生が父修之助氏より聞いた話)曽孫は平内岩雄さんで昭和5年生まれ。令和3年9月現在、91歳でお元気である。※平内岩雄さんは令和5年(2023)6月没、92歳。


【生没】一八五八ー一九四○ 安政五年四月十一日、羽茂大崎村の通称平内牧の長男として生まれた。父は離縁した人形遣いの大崎屋松之助といわれている。明治三十九年(一九○六)の秋、小説家の長塚節が来島したとき、新潟から両津往きの船で知り合って、両津の旅館でも同宿した。その後、節が羽茂から大崎の犬落をへて赤泊に出る途中で、平内牧を訪ねたときの様子が紀行文「佐渡が島」に書かれている。のちに公表された自筆原稿「波の上」および、この記事は博労であった平内からの知識のためか、牛に関する話がよく出てくる。そして節の文章に、最初に登場する歌次の風体は、「よごれた白木綿の三尺帯をしめた小柄の男で、色あせた浅黄のフロシキの中から梨を取り出し、手のひらでこすって皮のままムシャムシャかじり始め」るような、博労らしい大らかさがあった。平内牧からは、佐渡人形の元祖といわれる大崎屋松之助が出ている。歌次の孫で、明治四十年(一九○七)生まれの鍵太郎(歌次の子、新市の長男)は、同三十二年生まれの先輩大山満蔵らと共に、大道芸のチョボクレを伝承していて、大正末ごろまではよく踊っていた。歌次がどのような伝承芸を身につけていたかはわからないが、平内牧というマキ(一族・血すじ)には、そうしたゆとりがあったことはたしかである。歌次は博労という職業がら、生活にも派手な点があって、家業に精出す百姓タイプではなかった。昭和十五年八月一日没・法名博寿奇慶居士。【関連】大崎屋松之助(おおさきやまつのすけ) 【参考文献】長塚節『佐渡が島』、山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】本間雅彦(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
バクロ平内
長塚節(ながつかたかし)は、歴史に残る歌人だ。ハりのように鋭い、澄みきった歌が多い。彼の佐渡紀行も、すこぶる愛唱にあたいするばかりでなく、佐渡が島のよさをも、再発見している。この紀行の中で、彼の案内を偶然つとめたバクロの君が、わが平内である。冬になると鉄砲うちもやった。火なわづつで、ナマリの一つ玉を腰だめで、ガンと打つ。一日のキジの二羽か、ウサギの三羽もとれば、けっこうというところであった。りようしも昔はのんびりしたものである。彼はまた静がうまい。いつも抜けて行くような失敗談をやる。歌人長塚節が、旅のつれずれに、よろこんだのもむりはない。彼の話を一つ。タアンと打ったところが、ウサギがカラカラところめいた。そうら打ったと、拾おうと思うと、ピョンピョンと逃げた。おっかけると木の穴へはいった。一方からさおでつつく。一方へ出る。さおでたたくと、たたきそこなって、ウサギがむこうへとぶ。自分は田ン中へとびこんで困った。こういう調子である。八〇にならんで死んだが、晩年には、頭のまん中に、毛をポソポソと残し、あとはそり落していた。まことに愉快な村の道化者であった。(「佐渡新報-青木重孝、昭和二十七年)
・平内家:歌次-新一ー鍵太郎ー岩雄(昭和5年生)※平内歌次と共に写真に載る
「美人とハマナス」(「佐渡の百年」)
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★平内(へいない)鍵太郎

※羽茂地区大崎に伝えられてきた「ちょぼくり」は、正しくは「ちょぼくれ」といい江戸時代中期以前に関西から始まった大道芸だといわれています。大崎では明治30年頃、北海道へ移住したり屯田兵に行っていた人が帰ってきて教えたといわれています。明治30年代末頃、大場鉄蔵(慶応元年生まれ)と本間治吉(明治3年生まれ)が中心になって踊っていました。そして大正期にかけて広く普及し、酒が出れば板の間や囲炉裏縁をたたき、畳半畳の広さがあれば踊ったといいます。その後中断していて、昭和39年(1964)、宮本寺にちょぼくりの台本が残っていたことと、かつて踊っていた記憶があった葛原五兵衛、大山満蔵などによって復活しました。そして昭和53年以降「大崎そばの会」の場で上演することによって地域に定着してきました。大崎では地方は机に向かって座し、俎板を火箸で打って調子を取りながら語ります。立方は、衣装は黒い破れ衣に一文字笠、腰に一升徳利を下げ「八升九升飲み流す」で手に取って飲むしぐさ。「おっと変わって」からテンポが早くなると、踊りも早くなり、文句にあったユーモラスな踊りが連続し、最後は雲を霞と逃げて行きます。昭和の戦前~戦後中断していたチョボクリが昭和39年復活したのは、昔の人が楽しんだ芸を残そうという有志と演技者がいたことによる。台本があったことに加え、長老の大山満蔵や葛原五兵衛に記憶があり、本間敞政住職らによる努力があった。時の地方(じがた)は大山満蔵、立ち方(かた)は平内鍵太郎。
★別当局(べっとうのつぼね)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
順徳上皇が佐渡へ流された時、奉仕した女房。上皇は仁治三年(一二四一年)九月十二日に四十六才でおなくなりになったので、出家して上皇の御冥福を祈った。局は藤原範朝の女ともいわれる。範朝は元久年中(一二〇四-五年)氏院別当に任じられ、後また検非違使別当ともなった。(順徳上皇を偲び奉りて、順徳上皇と佐渡)
★ペロリ

佐和田出身の役者、タレント。
(代表作品)
2014年 信長協奏曲 (フジテレビ)
2014年 土竜の祭り (映画)
2014年 大家的婚禮 (舞台) 台湾公演
2015年 激落ちくん (CM)
(主な活動)
映画:家路、テレビ:信長協奏曲・大空港2013、舞台:大家的婚禮(台湾)
★弁次→棋客辦次 又は 棋打辡蔵
★遍照院
「島の新聞」索引(人名別)
★遍照坊(憲盛法印)→智専
★逸見至
左:「佐渡名勝史」(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★逸見悦運
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★逸見修
相川小校長

※「佐渡ジャーナル」関係記事:「15号」(平成20年10月)登録運動は佐渡市民が一つになれる重要なテーマ!-世界文化遺産登録運動をとおして佐渡の未来を考える-(逸見修 相川小校長)
「16号」(平成21年1月)世界遺産にふさわしい 佐渡をめざして(逸見修 相川小校長)
★逸見オリエ
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))」
★逸見抑堂
『金井を創った百人』(「明治・大正の開業医たち」)(金井町 平成12年)より

★逸見権左衛門
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★逸見浩司
佐渡高校時代の平成7.11、高文連将棋新人県大会1位
・平成8.1、高文連将棋新人戦全国大会(高知市)、2勝0敗で予選リーグを突破し決勝トーナメントへ進出
・平成8.5、高文連将棋県大会1位、全国大会(北海道)に出場
・平成8.6、全国高校将棋竜王戦県大会1位、全国大会(福岡市)に出場
・平成8.11、高文連将棋新人戦県大会2、全国大会(伊那市)に出場
★逸見権左衛門
旧金丸村(真野)村長、明治三二・八・一八~。
★逸見至康
『続佐渡酒誌』(平成14年)




★辺見じゅん
『精霊の島』(紀行18枚 ふるさと幻視行 昭和53・講談社)
「るるぶ」昭和51年11月。国文学者角川源義を父に持っ辺見じゅんにはすぐれたノンフィクション作品が多いが、『新・北越雪譜』の著書で県内の各地の伝承や風俗を活写した現代の語り部でもある筆者の佐渡ルポルタージュである。佐渡の土地の地霊、死霊、生霊と交信を交わすかのように次々と浮かび上がるさまざまなこの土地にかかわりを持った人々の生きざま。辺見じゅんはそれを惜しむかのように現代に蘇らせて語り継いでいく。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
・辺見じゅん 『精霊の島』
★逸見正平

首都圏真野人会3代目会長(平成22年~)
司環境計画(不動産業)代表。
★逸見登

「島の新聞」索引(人名別)
★逸見秀雄
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
大正二年生まれ、父豊蔵が能楽に熱心だったので幼時からその道に親しみ、のち金子佳愛晩年の高弟として活躍した。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)逸見秀雄
63 佐渡演能番組-平成元年- 66 佐渡演能番組-平成2年- 69 佐渡演能番組-平成3年-
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
→若林米蔵「笛畝会」参照
★逸見秀樹
佐渡高校時代の昭和55.6、柔道北信越大会出場
56.6.3~4、柔道県高校総合体育大会(佐渡郡佐和田町)団体戦3位、重量級3位
56.6.27-28、柔道北信越大会(松本市)団体戦出場
56.柔道秋季北信越大会 団体戦3位
56.8.2~4、柔道全国高校柔道選手権大会(千葉県)団体戦出場
★逸見不愁
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)逸見不愁 74 山本悌二郎(二峰)書道展
★逸見文次郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★逸見通儀
『続佐渡酒誌』(平成14年)


★逸見紋平
→野村蘭作「宝生二派の統一」参照
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