2021-01-11
★林?
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
小倉出身で、学習院大学教授の後に国分寺住職となる。当時の国分寺は佐渡を代表する大地主であった。
★林章子
両津高校時代の1982年度(S57)12月 第2回高校生の読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催)文部大臣奨励賞、学校賞(「世界の文学」全訳巻1セット)
★林伊三郎
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★林勇
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★林右エ門
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)林右エ門 24 隠れた沢根の義民林右エ門 伊藤秋雄・土屋弸
★林英哲
1971年(昭和46年)に「佐渡・鬼太鼓座」の創設に誘われて参加。「鼓童」の創設にも関わり、11年間のグループ活動を経た1982年にソロ奏者(ソリスト)として独立し、世界的な和太鼓奏者として活躍。長野冬季五輪の開会式は林の和太鼓で幕開けした。
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「ウィキペディア」より
林 英哲(はやし えいてつ[1]、1952年2月2日[2][3] - )は、日本の和太鼓奏者、作曲家。
・来歴・人物: 広島県出身。実家は真言宗の寺院で、8人兄弟の末っ子。広島県立東城高等学校を卒業後の1970年(昭和45年)に、美大を目指して上京。翌1971年(昭和46年)に「佐渡・鬼太鼓座」の創設に誘われて参加。「鼓童」の創設にも関わり、11年間のグループ活動を経た1982年にソロ奏者(ソリスト)として独立した[3]。1984年(昭和59年)にはオーケストラ曲『交響的変容』(水野修孝作曲)[4]で、和太鼓ソリストとして初となるカーネギー・ホール(マンハッタンのコンサートホール)での演奏を果たした[5]。若手和太鼓奏者と組んだ「英哲風雲の会」というユニットでの活動もある。1995年(平成7年)のテレビCMにおける出演者からの選抜メンバーが、ルーツだという[6]。洗足学園音楽大学で客員教授も務める[7]。2013年(平成25年)4月10日、出身地の広島県庄原市より市民栄誉賞を受賞[8]。
・著書: あしたの太鼓打ちへ (晶文社、1992年) ISBN 4794960980
林英哲太鼓日月 - 独走の軌跡 (講談社、2012年) ISBN 4062180529
・出典: 1.^ 英哲打歴 - 林英哲オフィシャルサイト
2.^ JLogos「CD人物レファレンス事典 日本編」」昭和・平成期 - 日外アソシエーツ
3.^ a b sotokoto interview 林英哲 - ソトコト
4.^ プロフィール 林英哲 - avex network
5.^ ANA WORLD AIR CURRENT PARIS - J-WAVE
6.^ 日本の太鼓 英哲風雲の会 稽古レポート - 独立行政法人日本芸術文化振興会
7.^ 林英哲 世界の特別講師陣 - 大学紹介 | 洗足学園音楽大学
8.^ “太鼓の林さんに市民栄誉賞”. 中国新聞 (中国新聞社). (2013年4月11日) 2013年6月21日閲覧。(アーカイブ)
諸情報
★林勝蔵
『佐渡酒誌』(平成14年)

★林熊太郎
佐渡中学(20回生)から蔵前高工卒、後に東洋紡社長。
★林勝憲
「戦国佐渡国人名辞典」より
【はやしかつのり(15??~15??)】羽茂高茂家臣。通称主計。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。
★林儀作(はやしぎさく 濁川)

北一輝論 不可視の恋 (昭和47年)


「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)


【生没】一八八三ー一九三五 政治家・新聞記者。三十六郎・濁川と号した。明治十六年二月、相川町濁川に生まれた。生家は代々佐渡鉱山に勤めていたこともあり、佐渡鉱山学校(校長渡辺渡)を卒業。明治三十五年(一九○二)創刊の「佐渡毎日新聞」記者となり、明治三十六年には三十六郎と号して、鈴木重嶺の流れを引く旧派和歌の結社「清楽社」に対抗して「紅紫会」を組織し、和歌革新運動に携わる一方、北一輝と恋愛論を戦わすなど、論客としても活躍した。のち「佐渡新聞」に移籍したが、「毎日」時代論争の好敵手であった北一輝が名をあげると、あとを追うように上京、幸徳秋水らとも交わり、「平民新聞」に残蝶のペンネームで執筆した。同四十年(一九○七)北海道へ渡り、「北海新聞」(のち函館新聞)編集長・「函館日日新聞」社理事・主筆、東洋印刷会社社長、函館共働宿泊理事長を務め、その後市会議員・道議会議員を経て、昭和七年(一九三二)二月の総選挙に、政友会から立候補して代議士に当選した。昭和十年一月二十日東京で病没。後年使用した濁川の号は、相川の生家近くを流れる濁川にちなんでいる。
【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』、「佐渡新聞」(明三五~三九)、『大人名事典』(平凡社) 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八八三-一九三五)(出生、生育)新聞記者。国会議員。三十六郎・濁川と号す。佐渡鉱山学校を卒業し、明治三十五年創刊の『佐渡毎日新聞』の記者になる。三十六年、「紅紫会」を結成して和歌革新運動を行う。同年令の北一輝と紙上で恋愛論を戦わした。のち、『佐渡新聞』に移る。そのご、上京し、幸徳秋水らと交わり、『平民新聞』に「残蝶」の名で執筆する。四十年、『函館日日新聞』記者。そのご、『北海新聞』『北海』記者。四十五年、長谷川清と『函館新聞』を創刊。のち、市会議員、道議会議員を経て、昭和七年、代議士に当選する。
「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編)
歯に衣着せぬ評論で「毒舌の濁川(だくせん)」と呼ばれ、新聞記者から代議士となり志半ばでこの世を去った佐渡出身の林儀作。 明治16年、佐渡で生まれる。号を濁川と言い、出身地の佐渡濁川の町名をとった。生家が鉱山業を営んでいたことから佐渡鉱山学校で学ぶ。佐渡毎日新聞に在社していた時、同郷の長谷川世民(函館新聞界を代表した硬骨の言論人で、大衆作家・海太郎、画家・二郎、ロシア文学の濬、作家・四郎の父、本名・長谷川淑夫)に招かれて函館の北海新聞に転じ健筆を振るう。 明治43年、筆禍事件(「北海新聞」連載の”昔の女と今の女“が内務省によって告発され、「北海新聞」の発行が禁止となった事件)で世民と濁川は禁固刑を受け、出獄のあと世民は平出喜三郎経営の函館新聞へ移ったが、濁川は一時浪人生活を送り、大正7年の函館日日新聞創刊に加わり、主筆兼編集局長として永く世民とペンを競う。 この頃の新聞記者で濁川程の博識者はいなかったと言われる。濁川の知識は、和漢洋を問わず、しかもその学識の門戸は極めて広かった。文字通り、温故知新そのもので、その時々の新しい学説、思想といった事に、明快な所見を述べていた。相手が坊主であれば、仏典を論じ、宗教哲学が飛出し、相手が医学者であれば近代医学から漢法医学と、まくし立て、裁判長、検事連が相手ならば、法理論が始まるといった具合で、それが専門的に、堂々と渡り合って、一歩も遜色なく、それどころかいつの間にやら、それらの専門家が濁川の話を、傾聴するという光景であった。それが単なる濁川の話術の巧みさというものではなく、その学識の深さがもたらすものであった。 濁川には、末広見番の芸者・お新さんという彼女がいた。何かの宴会で、佐々木平治郎代議士が、からかって濁川の事を、たかが新聞記者じゃないかと、悪口を言ったことがあった。お新さんはこの晩に限って珍らしく荒れて”おや、新聞記者の方が、代議士より、偉いのだと思って、惚れていたのに、代議士の方が偉いのかね。そうと判ったら、あたしゃ、ハーさんを代議士にしてお目にかけるわ。たかが新聞記者で悪かったわね。“と満座の中でタンカを切ったという。人の運命とはおもしろいもので、大正13年から2期、北海道会議員となる。お新さんのタンカも現実のものになった。 博識と卓見から繰り出される名演説は、反対派議員をも傾聴させたという。第18回総選挙に初出馬し強敵を退けて当選したのも、濁川の人望が厚かったことによるものだろう。
歯に衣着せぬ評論で「毒舌の濁川」と呼ばれたが、乏しい懐から慈恵院の孤児に雛人形を贈ったり、童話を聞かせて喜ぶという人情味もあった。 昭和11年、政治家としての洋々たる前途も約束された林儀作だったが、狭心症が生命を一瞬にして奪ってしまった。臨終の言葉は「こんな筈がない」という一語だった。
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説
1883-1935 明治-昭和時代前期の新聞記者,実業家。 明治16年2月生まれ。「北海新聞」「函館新聞」の記者をへて,大正7年(1918)「函館日日新聞」創刊にくわわり,主筆となる。東洋印刷社長などをつとめ,昭和7年衆議院議員(政友会)。昭和10年1月20日死去。53歳。新潟県出身。号は濁川(だくせん)。
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作家の林不忘の名前は「林の恩を忘れるな」との意味。
不忘の父、長谷川清と林儀作は同じ佐渡出身で、函館新聞の席を置き昵懇であった。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
政治家。明治十六年二月九日に新潟県で生まれた。函館新聞主筆となり、函館市会議員北海道会議負となり昭和七年二月衆議院議員に当選し、政友会に属した。(越佐傑人譜)
広報函館発「共働通信 第11号」(2005年1月1日)
昭和6年5月、第5代理事長に林儀作氏が就任し、財団法人函館共働宿泊所と改称した。昭和5年12月、火災により全焼した舎屋を、昭和6年8月に総建坪290坪、収容定員200名の舎屋完成再興したのだが、その2年半後の昭和9年3月、函館市空前の大火災に再び罹災し、不幸にも一切を灰じんに帰した。 さらに、その翌々年の昭和11年、狭心症にて各界より惜しまれつつ他界された。 53歳の若さでこの世を去らねばならなかった無念さを推し量るとき、さぞや断腸の思いであったろうと推察される。
平成12年4月1日「ステップアップNo133」4月号(財団法人函館市文化・スポーツ振興財団発行)によると林儀作氏は、「明治16年佐渡で生まる。(略)生家が鉱山業を営んでいたことから佐渡鉱山学校で学ぶ。佐渡毎日新聞に在社していた時、同郷の長谷川世民(略)に招かれて函館の北海新聞に転じ健筆を振るう。(略)大正7年函館日日新聞創刊に加わり、主筆兼編集局長として永く世民とペンを競う。この頃の新聞記者で林程の博識者はいなかったと言われる。
林の知識は、和漢洋を問わず、しかもその学識の門戸は極めて広かった。文字通り、温故知新そのもので、その時々の新しい学説、思想と言ったことに、明快な所見を述べていた。(略)大正13年から2期、北海道会議員となる。(略)博識と卓見から繰り出される名演説は、反対派議員をも傾聴させたという。第18回総選挙に初出馬し強敵を退けて当選したのも、林の人望が厚かったことによるものだろう。(略)」と紹介されている。(※注、本文では林氏を号の「濁川」と記述されておりますが、「林」と読み替えさせていただきました。)
又、第5代理事長林儀作氏の人となりは、1961年12月発行の海峡第84号「函館物故記者列伝(6)」の中でも、常野知哉氏により紹介されている。 「(前略)林さんを尊敬した動機に、その学識の高さの他にもう一つこういう事があった。地蔵町に、西沢と
いう玩具小間物の問屋があった。或時、この主人の西沢氏を林さんが訪問して「雛人形一揃を、月賦で売って貰えまいか」との頼みだった。当然、林さんの子供の為に買うのだろうと思うと、そうではなく「今日一寸慈恵院の孤児を訪ねて見たが、おひな様が無いとのことだったので、買ってあげたいが、一度では払えないので、月賦で買いたいのだ」との事だ。西沢さんは、即座に、最高のものを10カ月払いにして、林さんの名前で、慈恵院に届けた。まあ一二度も払ったら、後は、負けろという事になろうが、それでも、孤児達の為には、嬉しい贈り物をした事になるから、という考えで、西沢さんは、二つ返事で引き受けた。それから10か月、安月給の中から一度も遅れる事なく、林さんがその金を届けた。「あの男は偉くなりますよ」と西沢さんからこの話を聞いた時、僕も胸をうたれたのだった。(後略)」
・北一輝、平岡栄太郎と同じ明治16年生まれで、日蓮の熱狂的崇拝者で、日蓮妙法主義は非国家主義、非戦論であると主張する。北とたびたび論争し親友となり、幸徳秋水を尊敬する。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十六年生 相川町濁川 ・明4、佐渡毎日新聞社の選挙違反[三十五年八月十日]・明3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭3、牧野と林の当選[七年二月二十日]・昭3、代議士 林儀作 急死[十年一月二十日] 「佐渡関係事典に載る」
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
「鉄幹と晶子」(「佐渡の百年」)
「三つの筆名の小説家」(「佐渡の百年」)
「ウィキペディア」より
・『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数63・64・80・84
★林儀太郎
佐渡高等学校2代同窓会長(昭和29・8~昭和38・8)。
★林儀太郎

明治37年4月2日死亡。河原田本町の大商人、河原田町長。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★林儀平
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡相川の出身である。昭和七年二月二十日、北海道より衆議院議員に当選した。(佐渡大観)
★林熊太郎
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p388
★林敬助
相川小校長

★林玄億
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で鍼医小林可均の養子である。宝暦二年(一七五二年)に陣屋附医師となった。(佐渡人名辞書)
★林浩一郎
佐渡高校時代の昭和62、全国高校囲碁選手権県大会、団体戦(加藤陽渾・川上嘉人・林浩一郎)1位 全国大会に出場
★林光雅
学習院大教授、後に国分寺住職。佐渡高校講師も務めた。土田麦僊や中川杏果を連れて京都の浅井貞吉を訪ね、二人の世話をお願いしている。(「ふくじゅそう」→浅井貞吉)
★林佐野
「七段の女流棋士」(「佐渡の百年」)
★林純一

★林準二
旧制佐渡中学13代目校長(昭和19・3・31~昭和20・8・19)
「佐渡高等学校百年史」
昭和十九年三月、県立新発田高等女学校より林準二校長が着任した。林校長は温厚で人格高潔、専門の歴史・法制・経済についての造詣が深かったが、病弱で終戦直後の昭和二十年八月十九日、惜しくも病にたおれた。本校在職期間は一年五カ月であったが、この間二度にわたり学徒動員の引率や生徒激励のため名古屋に出向している。昭和十九年八月七日、四・五年生により編成された佐渡中学校勤労動員隊が佐渡を出発した。五月三十一日に新潟港での二一日間の勤労動員を終えて帰ってきたばかりであった。生徒はおよそ二〇〇名、引率教官は林準二校長を隊長に、計長春野・佐々木長一・石塚勝太郎・印銀安雄の五人であったが、のちに他の教員と交代しながら指導にあたった。八月十日、東海道線で名古屋市郊外の豊和重工業株式会社に着いた最初の夜、空襲警報が発令され、畑の中の防空壕に避難した。実感として戦争を体験した最初であった。
昭和二十年八月十九日、胃潰瘍のため入院中だった林準二校長が逝去した。終戦直後の混乱に加え夏季休業中という条件が重なったため、学校葬は行われず、中原の本田寺でしめやかに葬儀がとり行われた。林校長は戦局の悪化した昭和十九年から二十年にかけて、病弱な身を押して勤労動員やその撤収をはじめ幾多の難局に対処した。後頭部の髪が鳥の尾羽のようにはね上がり、度の強い眼鏡をかけた独特な風貌は、その人柄同様朴訥そのもので、一種超俗的な寡囲気をただよわせていた。動員中の生徒を激励慰問するために、二度にわたって名古屋の豊和重工業と新潟鉄工所に赴くなど、その精励ゆえに死期を早めたことを思うと、林校長もまた戦争の犠牲者と言わなければならない。新学期の始まった九月、生徒ははじめて林校長の死を知らされた。
★林浄賢(浄憲)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

吉井船津の善積寺の長男。教育者で吉井小学校校長等を務めた。長男の林義則も教育者で、両津南中等の校長を歴任した。孫は村上総合病院院長の林達彦氏。
★林昭三
佐渡汽船埠頭前公園


左より: 「鬼太鼓の像」(佐渡汽船前)・朱鷺の像(上野動物園)・忠犬タマ公像(新潟駅南)
朱鷺の像(旧新穂役場前:上野動物園と同じもの)

畑野出身、1935年(昭和10年)生れ。高名な彫刻家で日展評議員。佐渡農業高校出身で、母校同年に同じ日展審査員の親松英治(河崎分校)がいる。島内では、畑野行政センター入り口の像や佐渡汽船前に「鬼太鼓の像」がある。昭和57年の上越新幹線開業の年が戌年と重なった為、駅のシンボルとして新潟駅構内に林昭三作のタマの銅像が設置された。
・栗ノ江林徳右衛門家の人。五泉羽下(はが)修三の元で学び後上京する。両津埠頭前湊公園の岡上に鬼太鼓の像(ブロンズ)がある。尚、その原型は両津グランドホテルロビーにある。同ホテル経営者の娘(私の同級生、三辻健三氏の姉と思う)が林昭三に嫁いだ縁であろう。尚、林昭三の母は夷の内田家具創業者内田利吉氏の姉であるので、現在の内田実氏と林昭三は従兄弟となる。


※「佐渡ジャーナル」関係記事:「16号」(平成21年1月)約束の朝(※林昭三)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html
★林申二郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
新潟県中等学校陸上競技大会で、竹林正一(相川)がメンバー800mリレーチームは決勝で二位を40mも離してゴールインした。全国大会でも他の追従を許さず堂々と優勝。新潟師範の竹林が800リレーで、同小林仁作が庭球で、同下林中二郎が剣道で揃って全国
優勝したので、「相川の三林優勝」と当時の新聞は絶賛した。
★林清十郎
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★林髞(はやしたかし)

1897-1969 昭和時代の大脳生理学者,推理作家。
明治30年5月6日生まれ。昭和7年ソ連に留学してパブロフにまなび,わが国に条件反射理論を紹介する。21年慶大医学部教授。木々高太郎の名で推理小説もかき,昭和12年「人生の阿呆」で直木賞。23年「新月」で探偵作家クラブ賞。昭和44年10月31日死去。72歳。山梨県出身。慶大卒。著作に「大脳生理学」「頭のよくなる本」など。
※風間茂子の叔父(茂子の父風間医師の弟、林家に入る)の林家につながる人。
➡風間茂子
「佐渡郷土文化」51号:昭和36年、五月三十日慶応大学医学部教授林髞先生(筆名・木々高太郎)来訪。
ウイキペディアより
風間・藤川・林・柴田家系図
★林武

★林辰彦
相川下戸村生れ、父は佐渡電灯の技師長、少年時代に河原田へ引っ越す。(林一族は下戸炭屋町の米屋で、林嶺二郎は相川町三丁目浜町で「蕎麦屋」を経営。)昭和12年佐中37回卒で京大卒、読売新聞記者。大阪樟蔭女子大講師。著書に「実録・井植学校-関西経営者を育てた思想と哲学-」(ダイヤモンド社 1985)、「日本とアラブ」 (1975年)。 作家の司馬遼太郎氏や正岡子規の跡を継いだ正岡忠三郎(司馬遼太郎『ひとびとの跫音(あしおと)』のモデル)と親しく交わる。佐渡高校校友誌に長く随筆を執筆した。
因みに正岡忠三郎の妻あやは、相川出身の高名な心理学者(京大名誉教授)の野上俊雄の娘で、京の三美人の一人と言われ雑誌の表紙なども飾ったと云う。
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忠三郎さんの飲み友達の一人だった元読売新聞記者の林辰彦さんはいうのだ。
「忠三郎はどういう人物だったか、ゴンチャローフの小説に出てくる余計者的知識人オブローモフという人もいた。しかし、彼は生粋の自由人であった。枠にはまった考えはしなかった。戦前、河上芳子を採用したように、彼ならパージ組など問題にしなかったであろう。推薦してとったと思うよ。GHQにもあかんべだ」
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)林辰彦 74 京都で会った山本修巳さん
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)林辰彦の天下御免ー故郷・佐渡は回生するか
★林達彦
村上総合病院院長、吉井船津の善積寺の長男。
父は両津南中等で校長だった林義則氏、祖父も教育者で吉井小学校校長等を務めた林浄憲氏である。
★林忠蔵
外海府村村長 真更川

真更川の人。海陸産物商、廻船問屋とある。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★林伝吉
旭桜会
★林道意
「島の新聞」索引(人名別)
★林光




父林義雄は佐渡出身の医師で東京で開業。義雄氏は山本修之助氏と佐渡中学同級生。下記「ウィキペディア」には「父は慶応義塾大学医学部卒業の医師で、ベルリン留学ののち、日本大学医学部教授を務めていた。尾高尚忠とはベルリン留学中に知り合い、帰国後も親しく交流していた。」とある。林光氏は「少年時代父に連れられて佐渡に来て、波の音と能楽の旋律が忘れられない」と書く。佐渡高校校歌を作曲する、作詞は羽茂出身の藤川忠治。藤川と林は遠縁にあたるらしい。昭和30年に佐渡高校校歌を作曲する。当時24歳で、NHKで指揮をしていた。作詞は佐中第十九回卒業生で当時信州大学教授だった藤川忠治。林の父義雄(旧姓風間)は佐中第二十一回卒業生で、藤川夫人の実兄。高名なフルート奏者の林りり子は従姉である。
「小学生の頃、父と共に佐渡を訪れた時に聞いた波の音が忘れられない。自分が音楽家になった原点かも知れない」と述べている。(佐渡高校90周年か100周年前後の校友会誌)
※父は羽茂の人で医師、東京で医家である林家に入る。兄は河原田や畑野で開業した。
→藤川忠治・林りり子・風間茂子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「35号」(平成25年10月)「ひのひかり・・・」佐渡高校歌の自筆楽譜発見(あきら)※藤川忠治・林光
風間・藤川・林・柴田家系図
諸情報
★林豁(はやしひろし)
【生没】一九一二ー一九九四 池田條一の次男として入川に出生。幼時より絵を好むも、父の強い奨めにより、医学の道に進む。昭和十二年(一九三七)東京帝国大学医学部卒業。当時日本に幔延していた結核病について、同学内局で専攻し、更に陸軍予科士官学校軍医を通しての研究論文「結核の感染と発病」により、学位を授与された。戦後国立相模原病院を経て、自衛隊中央病院内科部長・陸将・厚生省医師国家試験審議会委員を歴任。東大在学中、林家(現神奈川県厚木市下荻野)の聟養子となり、分家して林姓に改姓。中学時代に、郡の秀才教育費の給付、高校時代には中野財団奨学資金の貸与を受けた恩恵を、社会の為に恩返ししたいとの考えから、昭和五十七年勲三等瑞宝章叙勲を記念して、相川町に一千万円を寄付した。平成元年(一九八九)、自伝『佐渡に生れて』を出版する。この中で、私の人生で切り離せないものに、趣味の水彩画(渡辺華山を崇拝し、その画風を好んだ)があり、好きで余暇に始めた絵は、光風会新進画家藤江理三郎氏・重鎮三宅克己氏より絵の心得を伺い、年と共に研きがかかってきたと自負。光風会日本水彩画展、東大絵画の会・一二士会等に出品し、相次いで入選した。昭和四十八年(一九七三)、初めての個展を厚木市で、二回目は東京銀座で、更に相川でも二回開催し、総二二回を数える。銀座での個展の際、相川出身でたぶろう会の会員である酒田小虎氏を知り、以後たぶろう会の会員となる。『一九八九日本芸術家年鑑』に、その名が掲載される。平成六年十月八日没。八三歳。【参考文献】林 豁『佐渡に生れて』 【執筆者】池田達也 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※『佐渡に生れて』
秘境佐渡の海府に生れ医者となって50余年、医の傍ら絵を描き、文を草し、ふるさとをしのびつつ思い出を綴る珠玉のエッセイ。
・相川町に奨学金を残す。屋号九郎津 弟は鉱山技師。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)林豁
11 海府の方言 15 六十年前の海府(1)-大正の頃の海府の生態- 16 六十年前の海府(2)-大正の頃の海府の生態- 19 ごわじの花
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 3鹿の浦随想(林豁 ひろし) 4「佐渡のお盆・林豁
★林不忘→長谷川海太郎
★林平右衛門
『新穂村史』(昭和51年)より
長畝の池田元右衛門家ほ四つ目菱の紋をもって昔から東光院の重檀家をやっていたという。四ツ目の紋というのは本間家のわかれをいうのが一般であるから、村殿は本間氏を名乗ったのかもしれない。昔から長畝殿の三家老として林平右衛門、須田四郎左衛門(中尾)、須田帯刀の三人が挙げられている。
★林米山
「七段の女流棋士」(「佐渡の百年」)
越後高田出身の画家で喜多文子の養父。
★林政市
県立佐渡高等学校2代校長(昭和30・4・1~昭和31・3・31)、和歌山県人。
「佐渡高等学校百年史」
昭和三十年四月、巻高等学校より校長として赴任。林校長は就任の挨拶の中で「生徒間の親睦」を強く要望し、さらに「保護者の理解」を強調した。林校長は和歌山県出身で、長く台湾で教師生活を送った。昭和二十一年四月に台湾から引き揚げてきて半年ほど両津の縁者宅で静養し、その年の九月から二年半河原田高等女学校に勤務した。終戦直後の困窮の中で、同僚や地域の人々から受けた愛情と親切は忘れられないものであったという。その後一度越後に移り、六年を経て再び河原田女子高等学校と統合した佐渡高等学校へ校長として戻って
きたのである。旧制河原田高等女学校時代からの職員にとって、林校長は旧友であった。林校長はわずか一年で定年退職し、昭和三十一年四月羽茂高等学校より牧野平三郎校長が着任した。
★林道明
小木宿根木、時宗称光寺住職。
宮本常一の助言を得て、宿根木分校に民俗資料館を作り、漁具農具や日常の道具類を収集展示した。
多くの文化人と交わり、佐田まさしの父とは旧友であり、佐田は小さい頃父と宿根木を訪れたと書いている。
「小木半島の石造文化について 主として宿根木付近のもの」(『佐渡史学』(雑誌 佐渡史学会)第10集(昭和49年2月)林道明著)などがある。

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)林道明 2 椿地蔵
★林道夫

→雑学メモ→佐渡鉱山と朝鮮人労働者
「島の新聞」索引(人名別)
★林光丸
「躍進日本」

★林ミネ

★林義雄
旧姓風間。畑野で開業して居た風間準平の次男で東京の林医院に婿入りする。子供に作曲家林光が居る。義雄は慶應義塾大学医学部卒業の医師で、ベルリン留学ののち、日本大学医学部教授を務めていた。「音声学の権威であり、臨床医としても、ほとんどの声楽家や演劇人のノドを診てきた名医であった」[2]。尾高尚忠とはベルリン留学中に知り合い、帰国後も親しく交流していた。
「躍進日本」

風間・藤川・林・柴田家系図
★林義則
吉井船津の善積寺の長男。教育者で、両津南中等の校長を歴任した。父も教育者で吉井小学校校長等を務めた林浄憲氏である。長男は村上総合病院院長の林達彦氏。
★林喜正
「島の新聞」(95号)
★林良宏
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・島の取り組み<自然栽培>(林良宏)
★林喜正


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「島の新聞」索引(人名別)
★林リリ子

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1925~1974 フルート奏者。70名近いプロ奏者を育て、カーネギーホールやザルグブルグ音楽祭でリサイタルを行う。
12歳から吉田雅夫?に師事し、宝響や日本フィルハーモニー交響楽団の首席奏者を勤め、ジョリヴェ、ブゾーニ、メシアンなどの作品の日本初演を果たしている。作曲家、林光の従姉。
→藤川忠治・林光・林りり子・風間茂子
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「デジタル版 日本人名大辞典+Plu」sの解説.
1926-1974 昭和時代後期のフルート奏者。
大正15年1月1日生まれ。吉田雅夫に師事。東京交響楽団をへて,日本フィルハーモニー交響楽団の創立にくわわり,首席奏者となる。また桐朋学園大などでおしえた。昭和49年1月20日死去。48歳。東京出身。自由学園卒。本名は阿部璃々子(りりこ)。
風間・藤川・林・柴田家系図
★遠見八之助(はやみはちのすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、寛保三年(一七四三年)正月二十八日西丸御納戸頭より佐渡奉行に、延享元年(一七四四年)十二月十五日御勘定奉行に転任した。名は忠栄、知行は五百石内三百石は加増、御役料千五百俵百人扶持であった。(佐島遺事)
※渡辺注:「遠見」は「速水」の間違いと思われる。
★早水そで
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★原幾太
「躍進日本」

★原泉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★原健司
両津高校時代の1974年度(S49)5月、第29回新潟県展奨励賞
★原聡

★原琢斎→本間琢斎
★原鉄三郎
山本半右衛門家系図(「佐渡郷土文化」136号 山本修巳)
真野新町出身、王子製紙、朝鮮製紙重役。父は漢方医の山本桂、兄弟に山本悌二郎(農林大臣)、有田八郎(外務大臣)、山本九郎(医学博士)等が居る。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)原銕三郎 60 原銕三郎(王子製紙取締役)について -農相 山本悌二郎・外相 有田八郎兄弟-若野忠男
★原伝十郎
「佐和田町史」(資料編上巻 昭和57年)

★原土佐(宗勇)
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
慶長9年(1604)から元和期にかけて小木に居た代官で鏡彦左衛門と共に小木の古城を預かり、羽茂から西三川までを支配し、原は寛永六年(一六二九)七月十七日死去し、法号を仁昌院夫格宗勇居士と称した。羽茂本郷大蓮寺には、この法号を記した原宗勇の位牌が現存する。また、原は元和九年(一六二三)大蓮寺に対し、寺領の荒地を再興して寄進する旨の次の証文を納めている。
『赤泊村誌(上)』より
小木の代官で、元小木の海潮寺に先祖の菩掟をとむらうために持仏の地蔵菩薩を寄進しているが、海潮寺のあたりは、中世以来の小木城のあった所と推定されている。原は小木の城にいたと伝えられているところをみると、彼は町の番所にいたのではなくて、昔の小木城のあたりに住んでいたのであろう。
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
慶長九年の『年代記』には、「横地所左衛門、原土佐、吉岡出雲等石見守にしたがい来り、所左衛門は赤泊に任し、水津迄の郷村を預り、土佐は小木の古城に住し西三川迄を預り、出雲は銀山の事を沙汰す」とあり、また「保科喜右衛門は鶴子銀山を預り、堀口弥右衛門は河原田城付地方を預り、鳥井嘉左衛門は夷組大野組代官となり」とある。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『小木町史』より
小木城に入ったのは、慶長八年のことでした。原土佐は信州筑摩の人で、小木地方の代官としてこの地にやってきました。この原土佐によって小木港は整備されたのです。そのころまで、小木に入る船は元小木の潤と人沖の潤に分かれて入っていました。小さい船は元小木に、大きい船は人沖の浜に着きました。人沖の浜に「浜屋」が建てられていた記録がありますが、そこに物資が陸揚げされたのです。
★原仁左衛門
「佐和田町史」(資料編上巻 昭和57年)

★原裕
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)原裕 24 鑑賞 佐渡のうた (20) -補遺- 原裕 山本修巳
★原與一
両津高校創立時の校長事務取扱(昭和21年3月~昭和23年3月)。
『両津市要覧(昭和33年)』より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★原芳幸
佐渡高校時代の昭和38、日本教育書道連盟主催日中親善書道展特選
★原力蔵
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
蝋型鋳物帥。柏崎市大久保の人で原力蔵の三男である。長兄は本間琢斎で佐渡の本間家を継いだ。
佐渡本間家からの手紙に「琢斎が三弟良助(力蔵)に家督を譲りしは弘化年間(一八四四-四七年)佐渡奉行の招聘により大砲鋳造の為来佐して当家(本間家)を継ぎたる結果に御座候、琢斎の父を力蔵といい祖父を仁左工門と申し候」とある。次兄亀之助は僧となり安政五年八月二十八日に江戸になくなった。弟神山得斎ほ日光または徳斎といった。力蔵は天保二年(一八三一年)に生まれた。その作品は兄琢斎とならぶ名人である。作品は柏崎市桑山家の観世音像、両竜の水入れ、からくさの筆筒、十二支の鏡、長岡悠久山拝殿前にある一対の燈籠等がのこっている。観世音立像は推古仏にみるようなおだやかなふくらみを持ち、燈籠は六尺もあろうかと思われるものでその最大傑作、蟻型鋳物で銘に嘉永二年八月、細工人大久保村原力蔵とある。力蔵十八才の時の作である。文久三年(一八六三年)四月、苗字を許された。慶応三年(一八六七年)十月二十六日に三十七才でなくなった。(笹川芳三氏捷供、越後タイムス昭和三・二・二七原力蔵について、桑山太市)
★原黒村五郎右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★原田栄次


★原田広作
『真野町史(上巻)』(昭和51年刊)
郷土史ブームが盛んになった大正末年、当時新潟県史蹟調査委貞であった真野町新町の山本半歳、同じく新町の本間周敬(酒川)相川町の原田広作が吉岡在住の鶴間兵蔵を案内人として松林中を探査し、一個の礎石を発見したのが遺跡発見の端緒である。昭和二年九月十一日、上記三氏は真野小学校の田辺誉三郎の協力を得て第一回発掘調査を行い、爾後数回に亘って調査を重ね、ほぼ現在見られるような遺跡を発見した。昭和二年、文部省嘱託荻野仲三郎、諸田八百七の調査に続き、翌三年、新潟県史蹟調査委貞斎藤秀平の調査が行なわれ、昭和二八年の斎藤忠博士の調査によって礎石発見が追加されて現在に至っている。
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
★原田壽山
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★原田晙

東京相川会5代目会長。営団地下鉄銀座線駅長。この人の人脈で佐渡おけさが銀座の町に30年も続いた。実家の屋号は「原田菓子屋」で相川町羽田に有った。6代の原田佑三郎会長とは一族である。親は児玉肉店から来た。
★原田鎭治(はらだしんじ)
【生没】一八六○ー一九三一 萬延元年、豊橋藩士原田精一の長男として生まれる。明治十五年(一八八二)、大学を卒業して理学博士となり、農商務省地質調査所技師を拝命した。明治二十年、三菱合資会社に入社して吉岡鉱山に赴任し、その後佐渡鉱山・生野鉱山・大阪製錬所が御料局から払下げられることになったためその調査に当たり、明治二十九年生野鉱山が三菱合資会社に移管されると、鉱山長に就任した。同三十二年六月佐渡鉱山長に就任し、赤字が続いていた鉱山経営の改革と、事業の改良を敢行した。まず探鉱や製錬技術の研究と改良に努め、高任四番坑東厚身区域を発見し、高任坑西部と大立坑東部の開発に成功した。いっぽう人員整理や資材の節約など緊縮方針を採ったため、同盟罷業を引き起こした。明治三十五年、本社の鉱山部長となり欧米各国を巡察し、工学博士となり、日本鉱業会会長に推された。大正五年(一九一六)三菱鉱業会社の会長に就任、同八年退職して、佐渡で習得した釣りや謡曲を楽しんでいたが、昭和六年十二月病没した。【関連】佐渡鉱山長(さどこうざんちょう)・佐渡鉱山の同盟罷業(さどこうざんのどうめいひぎょう) 【参考文献】平井栄一『佐渡鉱山史(稿)』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★原田清作
新穂村史 s51年

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★原田雅代(なりよ)
「エスライフ」2008年5・6月号

「島の新聞」索引(人名別)
★原田八五郎

★原田光

★原田久通(はらだひさみち)
【生没】生・没年不詳 天保九年(一八三八)、羽茂西方村の百姓中川善兵衛らによる強訴がおこなわれた。そしてこの事件処理のため、川路聖謨奉行が着任した。その時川路奉行が、原田に命じてつくらせたのが『佐渡四民風俗』である。原田は、奉行所役人原田重始の長男として生まれたが、早く父に別れた。奉行所役人として、筋金所役・勘定役となり、安永六年(一七七七)地方役のとき、一年間江戸詰めで江戸に行った。その後目付役・山方役となり、さらに天保九年広間役助、天保十三年広間役となり、この間奉行所役人西川明雅の『佐渡年代記』の事業を引きつぎ、これを完成し七二歳で没した。【関連】佐渡年代記(さどねんだいき)・中川善兵衛(なかがわぜんべえ) 【参考文献】山本修之助編『佐渡叢書』(一○巻) 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡年代記(さどねんだいき):一九巻・二二冊。原本は慶長六年(一六○一)から嘉永四年(一八五一)まで、二五一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、江戸幕府の佐渡支配を知る根本史料。著者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本に、明雅の没後、同じ地役人であった原田久通が書き続けたものといわれる。さらに嘉永五年(一八五二)から明治七年(一八七四)までの二三年は、『佐渡年代記続輯』として、また、『佐渡年代記』に全く脱漏したもの、および不完全な部分を萩野由之が編纂して『佐渡年代記拾遺』として、昭和十年以降佐渡郡教育会から出版した。『佐渡年代記』は、『佐渡風土記』『佐渡志』(田中葵園)『佐渡四民風俗』『佐渡相川志』(永弘寺松堂)とともに、佐渡五史書と呼ばれて重視されてきた。佐渡教育会の刊本は、佐渡支庁本を底本として、両津市鵜飼文庫本、真野町荏川文庫本によって校訂し出版されたが、ほかに萩野由之蒐集の舟崎文庫本が優れている。刊本は羽田清次が編纂主任となり、矢田求・山本半蔵・北見喜宇作がこれに参加して完成した。
【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏、通称を次郎右衛門という。詩歌にすぐれ、天保年中、(一八三〇~四三年)川路奉行の命で「佐渡国四民風俗」を追補した。原本は宝暦年中、(一七五一~六三年)高田備寛が石谷奉行の命で著したものである。(佐渡人名辞書)
★原田浩文
「島の新聞」索引(人名別)
★原田文七
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★原田稔
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★原田安太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★原田佑三郎

東京相川会6代目会長。昭和5年生まれ。老舗の「割烹・すしか」の三男で、中学を出ると新潟の料亭に奉公に出たが、後に原田晙氏等の関係で地下鉄に勤める。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「1号」(平成17年4月) 「1号」(平成17年4月)おけさが私をはぐくんでくれた「5号」(平成18年4月)古老 石井潔さんを偲ぶ(原田佑三郎)
「9号」(平成19年4月)東京相川会長老中村亘さんを偲ぶ(原田佑三郎)「13号」(平成20年4月)校舎のない学校に入学(原田佑三郎)「14号」(平成20年7月)14歳の中学生に学徒動員命令(原田佑三郎)
★原田豊
佐渡高校時代の37.7.21~22、水泳県高校選手権(柏崎市)総合64点3位、(バタフライ)100ml位・200m3位
37.8.1~2、水泳東北高校大会(長岡市)総合3位、上位入賞
37.8.25~26、水泳高校結合体育大会(長岡市)総合3位、(バタフライ)100ml位・200m2位
37.9.16~19、水泳国民体育大会(岡山県)県代表として出場
38.7.25~26、水泳県高校選手権(高田市)総合46点4位、(バタフライ)100ml位・200ml位、800mリレー(酒井・渡辺・軽沢・原田)1位 400mリレー・400mメドレーそれぞれ3位
38.8.10~11、水泳東北高校大会(秋田市)総合31点3位、(バタフライ)100ml位・200ml位、リレー2種目入賞
38.8,12、水泳、(400mメドレーリレー)新潟県高校チームのメンバーとして県高体連表彰を受ける また、この年、新潟日報社賞を受賞する
38.8.25-28、水泳全国高校大会(大阪市)(バタフライ)100m・200mに出場
38.8.31~9.1、水泳県高校結合体育大会(長岡市)総合40点3位、(バタフライ)100ml位・200ml位リレー3種目に上位入賞
38.9.15-18、水泳国民体育大会(宇部市)県代表として出場
39.7.4~5、水泳県高校結合体育大会(長岡市)(バタフライ)100m2位・200m3位
★原田庸吉
千葉周作門下の剣術使いで、奥平謙輔との間でエピソードを残す。
「神鏡をうけた殺人鬼」(「佐渡の百年」)
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
★原屋三千代

★ハリス
「華族となった佐渡人」(「佐渡の百年」)
★播磨五郎兵衛
【生没】生・没年不詳 相川町下相川石切町へ近世初期渡来の石工。『佐渡相川志』には「慶長年中ニ越中ヨリ五郎兵衛ト言フ石工来リテ此業ヲ勤ム」とある。元和三年(一六一七)の屋敷検地帳によると、二畝歩の屋敷があり一斗八升の地子を収めていたことがわかるが、「退転致シ先年ニ引候由」とあり早々に転居している。しかし『佐渡相川志』には続けて「陣屋或ハ味方孫太夫屋敷、木原正順等ガ石垣ヲ築ク」とあり、慶元期に奉行所・山師・資産家の石垣を築いた。当時の佐渡の石工は、小泊・椿尾村の職人が行っており、慶長十二年(一六○七)、小比叡山蓮華峰寺の快宥の供養塔、同十三年、大安寺の河村彦左衛門の五輪塔は、いずれも小泊村石工惣左衛門の作である。小泊石工は墓石や石塔などが多く、石垣を主とする五郎兵衛とはそれぞれ製造品が異なり住みわけをしていた。播磨とあるから、石切職人のいた見影から越中を経由して渡来したと思われる。『佐渡年代記』の天和二年(一六八二)の条に、「慶長年中銀山立始りの砌、播州見影より石切四兵衛・源右衛門と云もの来り、見影より石を廻し磨石に用い─」とある。のち戸中より片辺に石切丁場を見立て、磨石を切り出した。同じ播州石工でも、鉱石搗砕用につかう磨石職人もいた。五郎兵衛の居所は下相川村の中央部、百姓町に近い浜側にいた。少し遅れて播磨から入った石工に、弥左衛門・作兵衛がいる。いずれも、越中から渡来した大福寺の檀家である。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集二・五)、永弘寺松堂『佐渡相川志』、西川明雅他『佐渡年代記』【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「佐渡広場」blogより
播州出身の石工 五郎兵衛は、相川の北の端 下相川町に石屋集落を作り、それが「石切町」となった。 『佐渡相川志』(書の成立年代は、宝暦3年(1753)頃)の記事。 「慶長年中に、越中より五郎兵衛と言う石工来りてこの業を勤む。陣屋(奉行所)或るは味方孫太夫(=但馬)屋敷、木原正順等が石垣を築く。其の外諸方の石細工をなせしより、弟子多く付きて次第に広がるとぞ。 今に一町此の業を勤む。石切町とて下相川村にあり」 大福寺の過去帳によれば播磨五郎兵衛とあり 一族皆 播磨姓であるので、五郎兵衛は播磨の出身で越中(おそらくは、富山県礪波(となみ)市)、そして相川へ渡ってきたと見なされている。播磨は「御影石」の産地であることから、当時 商売するには越中よりも有望な相川に来たと見ることができる。浄土真宗の大福寺も狙いは同じ。
「島の新聞」索引(人名別)
★波凌
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★はる
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川炭屋町の寡婦。君母に仕えて孝行であるので、文化二年(一八〇五年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★春川顕治
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★春山陽一
朝日新聞両津通信局に勤務し、昭和59年9月から新潟版で「朱鷺物語-人・時代・風土」を連載する。
後に朝日新聞社より単行本として出版される。
★鑁雅(ばんが)和尚
1838年(天保9)新穂皆川に生まれ、明治7年羽二生で没。本名は雑賀勇蔵。7歳で鑁尊(ばんそん)和尚の元で剃髪、鑁雅坊空阿として仏門に入る。15歳で真言宗豊山派総本山長谷寺で修業し、同派の学僧随一と言われた。羽二生来迎寺住職となり親松太郎等に多大な影響を与えた。大正14年、来迎寺境内に石碑が建つ。碑文は豊山派管長の大僧正権田雷斧(ごんだらいふ:出雲崎出身)撰文併書で、旧知の親松太郎の依頼によった。
★伴清縄(きよつな)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
貞観八(八六六)佐渡に配流。応天門炎上事件の大納言伴善男の従者。共犯として佐渡へ。善男は伊豆、善男の子中庸は隠岐流罪。(『三代実録』 『宇治拾遺物語』『江談抄』『佐渡志』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
大納言伴善男等が応天門を焼き、共犯者である清繩は貞観七年(八六六年)九月二十二日に佐渡へ流された。(越佐史料)
★伴宿祢有仁
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
遣唐知乗船事従七位上 承和六(八三九)佐渡に配流。遣唐船に乗船させられることを知り、刀岐直雄貞(暦請益従六位下)・佐伯直安通(暦留学生少初位下)・志斐連永世(天文留学生少初任下)と)共謀して逃走し、捕まり死一等を減じて佐渡へ。伴宿祢有仁と刀岐直雄貞は承和七年二月一六日赦免。(『続日本後紀』)
★伴宿祢国道
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
従四位下。延暦四(七八五)佐渡に配流。父継人の藤原種継暗殺事件に座す。吉備朝臣泉に同じである。同二四年(八〇五)桓武天皇崩御の恩赦で赦免入京。応天門事件の伴善男は国道の五男。(『公卿補任』『三代実録』『大日本史』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
従四位下である。延暦四年(七八四年)に父継人のことで罪となり佐渡に流され、後許されて帰京した。(越佐史料)
★伴大納言
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)伴大納言 60 連載 閑々亭雑記 (19) 伴大納言の佐渡伝説 山本修之助
★伴武道
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
治承二(一一七八)佐渡に配流。五月に斎宮御所の狐を射たという。前滝口の郎党とある。(『山塊記』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
前滝口源競(きそう)の臣である。斎宮の庭内で野きつねを射た罪にょり治承二年(一-七八年)閏六月二十四日に佐渡国へ流された。(新潟県史)
★伴 朋

★半五郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川二丁目新浜町の人である。妻けさと共に祖母、母へ孝心に仕う趣相聞るに付、弘化三年(一八四六年)役所から、半五郎に鳥目五貫文、けさへ同三貫文を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★萬歳庄之助由道
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


★萬歳彌三右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★半左衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★半次郎
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
慶長の代表的義民の一人、新穂上新穂の人。
山田半十郎家の祖先である、という説があるが、判明しない。一説には、天保一揆
の巡見使の宿所となった、杉山吉右衛門家であるともいわれている。
これは本陣であって、中川善兵衛が上訴状を提出した家であるから、数百年来の旧家であることは推定できるがやはり明白な証拠はない。要するに、三名とも処刑されたのではなく、佐渡義民の濫觴(らんしょう:始まりのこと)ではあるが、伝記はつまびらかでほない。
(右)佐渡一国義民供養塔・八幡辰巳より昭和四十二年六月佐和田町八幡佐渡博物館に遷す
(右上)本間太郎右衛門の供養碑
(左上段右)豊四郎(了雲)の墓地のある円通寺-新穂村北方
(左上段左)半次郎の生家と伝えられる山田家-新穂町上新穂
(左下段)佐渡一国義民殿のある城ケ平より国仲平野の眺望-畑野栗之江
★半田幸太郎
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
羽茂の大谷人形(大和座)は明治十八年、大谷の中川今吉のはじめたもの。今吉は文弥節を仲平琴清(池阿波ノーの弟子)に習い、琴清の死後は渡辺忠蔵の弟子となった。彼はまた人形のカシラも刻み、傑作は「持統天皇」のカシラだという。一座は今吉が太夫で、役者は弟の高野待太郎、藤井金蔵と息子の鉄五郎という一族で組織していた。時おり隣家の茶園三蔵も加わった。明治三十年大崎座の人形や小道具の一部が洗出した時合併した。(大正五、六年までつづいた)今吉は、昭和五年七十四歳で死んだので、息子の鉄五郎が継いで座元になった。太夫は村山の笠井長吉(今吉と同じく渡辺忠蔵の弟子)であった。役者は、その後昭和二年に待太郎が死に、昭和七年に金蔵が死んだので、新たに北島初太郎、半田幸太郎が加わった。戦後、「新大和座」が生れ、太夫に長尾俊、藤井軾蔵(しょくぞう)、役者に早川治作、関口一郎、中川栄一が加わった。
★半田信蔵→市川信十郎
★半田清鳳
『新穂村史』(昭和51年刊)より
北方の人、名は清太郎といい、清則とも号した。大滝雨山に師事し、後上京伊藤深水(美人画の泰斗)の門にはいったが、不幸二十一才の若さで、昭和四年(一九二九)に没している。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★半田老人
『新穂村史』(昭和51年)より
潟上の上町の通称野屋敷の半田老人は、もこさらえ(熊手)造りの名人であった。曲げた竹の先端が、もとに戻らないようにするため、京都の三十三間堂の通し弓をつくる弓師に教えを受けにいくほど、責任感の強い人であった。その曲げた竹の束が、ずったり抜けたりしないため、横から孔を貫通して釘で止める工夫をしたりもした。わら・すげ・竹を使って、大きな〆飾りを綯(な)うのも得意であった。細かな竹ヒゴで神酒徳利の口に挿すオミキグチも巧みに造った。老人は八十才の半ばに達しても仕事を止めなかった。神棚用具をつくる日は、朝から茶を飲まず小用にも行かないようにして身を浄めてから仕事にかかるという古風な職人気質を最後まで失わなかった。若い頃は、市川紋十郎の芸名で田野沢芝居などをやっていた人である。
★半藤逸我
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)半藤逸我 55 連載 閑々亭雑記 (14) 小笹竹斎と半藤逸我 山本修之助
★坂東玉三郎
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「35号」(平成25年10月)人間国宝で歌舞伎俳優の 坂東玉三郎さんに聞く
★坂東村十郎
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★榛白(はんぱく)八十八
『両津市要覧(昭和33年)』より

★半兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
鉱山師。信州安曇郡稲扱村の人である。文化十一年(一八一四年)佐渡へ渡り、西五十里村大滝間歩で銀山の試掘を始めた。翌十二年正月二十四日、小屋場が雪崩で押つぶされ半兵衛は圧死した。(佐渡年代記中巻)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
小倉出身で、学習院大学教授の後に国分寺住職となる。当時の国分寺は佐渡を代表する大地主であった。
★林章子
両津高校時代の1982年度(S57)12月 第2回高校生の読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催)文部大臣奨励賞、学校賞(「世界の文学」全訳巻1セット)
★林伊三郎
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★林勇
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★林右エ門
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)林右エ門 24 隠れた沢根の義民林右エ門 伊藤秋雄・土屋弸
★林英哲
1971年(昭和46年)に「佐渡・鬼太鼓座」の創設に誘われて参加。「鼓童」の創設にも関わり、11年間のグループ活動を経た1982年にソロ奏者(ソリスト)として独立し、世界的な和太鼓奏者として活躍。長野冬季五輪の開会式は林の和太鼓で幕開けした。
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「ウィキペディア」より
林 英哲(はやし えいてつ[1]、1952年2月2日[2][3] - )は、日本の和太鼓奏者、作曲家。
・来歴・人物: 広島県出身。実家は真言宗の寺院で、8人兄弟の末っ子。広島県立東城高等学校を卒業後の1970年(昭和45年)に、美大を目指して上京。翌1971年(昭和46年)に「佐渡・鬼太鼓座」の創設に誘われて参加。「鼓童」の創設にも関わり、11年間のグループ活動を経た1982年にソロ奏者(ソリスト)として独立した[3]。1984年(昭和59年)にはオーケストラ曲『交響的変容』(水野修孝作曲)[4]で、和太鼓ソリストとして初となるカーネギー・ホール(マンハッタンのコンサートホール)での演奏を果たした[5]。若手和太鼓奏者と組んだ「英哲風雲の会」というユニットでの活動もある。1995年(平成7年)のテレビCMにおける出演者からの選抜メンバーが、ルーツだという[6]。洗足学園音楽大学で客員教授も務める[7]。2013年(平成25年)4月10日、出身地の広島県庄原市より市民栄誉賞を受賞[8]。
・著書: あしたの太鼓打ちへ (晶文社、1992年) ISBN 4794960980
林英哲太鼓日月 - 独走の軌跡 (講談社、2012年) ISBN 4062180529
・出典: 1.^ 英哲打歴 - 林英哲オフィシャルサイト
2.^ JLogos「CD人物レファレンス事典 日本編」」昭和・平成期 - 日外アソシエーツ
3.^ a b sotokoto interview 林英哲 - ソトコト
4.^ プロフィール 林英哲 - avex network
5.^ ANA WORLD AIR CURRENT PARIS - J-WAVE
6.^ 日本の太鼓 英哲風雲の会 稽古レポート - 独立行政法人日本芸術文化振興会
7.^ 林英哲 世界の特別講師陣 - 大学紹介 | 洗足学園音楽大学
8.^ “太鼓の林さんに市民栄誉賞”. 中国新聞 (中国新聞社). (2013年4月11日) 2013年6月21日閲覧。(アーカイブ)
諸情報
★林勝蔵
『佐渡酒誌』(平成14年)

★林熊太郎
佐渡中学(20回生)から蔵前高工卒、後に東洋紡社長。
★林勝憲
「戦国佐渡国人名辞典」より
【はやしかつのり(15??~15??)】羽茂高茂家臣。通称主計。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。
★林儀作(はやしぎさく 濁川)


北一輝論 不可視の恋 (昭和47年)


「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)



【生没】一八八三ー一九三五 政治家・新聞記者。三十六郎・濁川と号した。明治十六年二月、相川町濁川に生まれた。生家は代々佐渡鉱山に勤めていたこともあり、佐渡鉱山学校(校長渡辺渡)を卒業。明治三十五年(一九○二)創刊の「佐渡毎日新聞」記者となり、明治三十六年には三十六郎と号して、鈴木重嶺の流れを引く旧派和歌の結社「清楽社」に対抗して「紅紫会」を組織し、和歌革新運動に携わる一方、北一輝と恋愛論を戦わすなど、論客としても活躍した。のち「佐渡新聞」に移籍したが、「毎日」時代論争の好敵手であった北一輝が名をあげると、あとを追うように上京、幸徳秋水らとも交わり、「平民新聞」に残蝶のペンネームで執筆した。同四十年(一九○七)北海道へ渡り、「北海新聞」(のち函館新聞)編集長・「函館日日新聞」社理事・主筆、東洋印刷会社社長、函館共働宿泊理事長を務め、その後市会議員・道議会議員を経て、昭和七年(一九三二)二月の総選挙に、政友会から立候補して代議士に当選した。昭和十年一月二十日東京で病没。後年使用した濁川の号は、相川の生家近くを流れる濁川にちなんでいる。
【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』、「佐渡新聞」(明三五~三九)、『大人名事典』(平凡社) 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八八三-一九三五)(出生、生育)新聞記者。国会議員。三十六郎・濁川と号す。佐渡鉱山学校を卒業し、明治三十五年創刊の『佐渡毎日新聞』の記者になる。三十六年、「紅紫会」を結成して和歌革新運動を行う。同年令の北一輝と紙上で恋愛論を戦わした。のち、『佐渡新聞』に移る。そのご、上京し、幸徳秋水らと交わり、『平民新聞』に「残蝶」の名で執筆する。四十年、『函館日日新聞』記者。そのご、『北海新聞』『北海』記者。四十五年、長谷川清と『函館新聞』を創刊。のち、市会議員、道議会議員を経て、昭和七年、代議士に当選する。
「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編)
歯に衣着せぬ評論で「毒舌の濁川(だくせん)」と呼ばれ、新聞記者から代議士となり志半ばでこの世を去った佐渡出身の林儀作。 明治16年、佐渡で生まれる。号を濁川と言い、出身地の佐渡濁川の町名をとった。生家が鉱山業を営んでいたことから佐渡鉱山学校で学ぶ。佐渡毎日新聞に在社していた時、同郷の長谷川世民(函館新聞界を代表した硬骨の言論人で、大衆作家・海太郎、画家・二郎、ロシア文学の濬、作家・四郎の父、本名・長谷川淑夫)に招かれて函館の北海新聞に転じ健筆を振るう。 明治43年、筆禍事件(「北海新聞」連載の”昔の女と今の女“が内務省によって告発され、「北海新聞」の発行が禁止となった事件)で世民と濁川は禁固刑を受け、出獄のあと世民は平出喜三郎経営の函館新聞へ移ったが、濁川は一時浪人生活を送り、大正7年の函館日日新聞創刊に加わり、主筆兼編集局長として永く世民とペンを競う。 この頃の新聞記者で濁川程の博識者はいなかったと言われる。濁川の知識は、和漢洋を問わず、しかもその学識の門戸は極めて広かった。文字通り、温故知新そのもので、その時々の新しい学説、思想といった事に、明快な所見を述べていた。相手が坊主であれば、仏典を論じ、宗教哲学が飛出し、相手が医学者であれば近代医学から漢法医学と、まくし立て、裁判長、検事連が相手ならば、法理論が始まるといった具合で、それが専門的に、堂々と渡り合って、一歩も遜色なく、それどころかいつの間にやら、それらの専門家が濁川の話を、傾聴するという光景であった。それが単なる濁川の話術の巧みさというものではなく、その学識の深さがもたらすものであった。 濁川には、末広見番の芸者・お新さんという彼女がいた。何かの宴会で、佐々木平治郎代議士が、からかって濁川の事を、たかが新聞記者じゃないかと、悪口を言ったことがあった。お新さんはこの晩に限って珍らしく荒れて”おや、新聞記者の方が、代議士より、偉いのだと思って、惚れていたのに、代議士の方が偉いのかね。そうと判ったら、あたしゃ、ハーさんを代議士にしてお目にかけるわ。たかが新聞記者で悪かったわね。“と満座の中でタンカを切ったという。人の運命とはおもしろいもので、大正13年から2期、北海道会議員となる。お新さんのタンカも現実のものになった。 博識と卓見から繰り出される名演説は、反対派議員をも傾聴させたという。第18回総選挙に初出馬し強敵を退けて当選したのも、濁川の人望が厚かったことによるものだろう。
歯に衣着せぬ評論で「毒舌の濁川」と呼ばれたが、乏しい懐から慈恵院の孤児に雛人形を贈ったり、童話を聞かせて喜ぶという人情味もあった。 昭和11年、政治家としての洋々たる前途も約束された林儀作だったが、狭心症が生命を一瞬にして奪ってしまった。臨終の言葉は「こんな筈がない」という一語だった。
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説
1883-1935 明治-昭和時代前期の新聞記者,実業家。 明治16年2月生まれ。「北海新聞」「函館新聞」の記者をへて,大正7年(1918)「函館日日新聞」創刊にくわわり,主筆となる。東洋印刷社長などをつとめ,昭和7年衆議院議員(政友会)。昭和10年1月20日死去。53歳。新潟県出身。号は濁川(だくせん)。
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作家の林不忘の名前は「林の恩を忘れるな」との意味。
不忘の父、長谷川清と林儀作は同じ佐渡出身で、函館新聞の席を置き昵懇であった。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
政治家。明治十六年二月九日に新潟県で生まれた。函館新聞主筆となり、函館市会議員北海道会議負となり昭和七年二月衆議院議員に当選し、政友会に属した。(越佐傑人譜)
広報函館発「共働通信 第11号」(2005年1月1日)
昭和6年5月、第5代理事長に林儀作氏が就任し、財団法人函館共働宿泊所と改称した。昭和5年12月、火災により全焼した舎屋を、昭和6年8月に総建坪290坪、収容定員200名の舎屋完成再興したのだが、その2年半後の昭和9年3月、函館市空前の大火災に再び罹災し、不幸にも一切を灰じんに帰した。 さらに、その翌々年の昭和11年、狭心症にて各界より惜しまれつつ他界された。 53歳の若さでこの世を去らねばならなかった無念さを推し量るとき、さぞや断腸の思いであったろうと推察される。
平成12年4月1日「ステップアップNo133」4月号(財団法人函館市文化・スポーツ振興財団発行)によると林儀作氏は、「明治16年佐渡で生まる。(略)生家が鉱山業を営んでいたことから佐渡鉱山学校で学ぶ。佐渡毎日新聞に在社していた時、同郷の長谷川世民(略)に招かれて函館の北海新聞に転じ健筆を振るう。(略)大正7年函館日日新聞創刊に加わり、主筆兼編集局長として永く世民とペンを競う。この頃の新聞記者で林程の博識者はいなかったと言われる。
林の知識は、和漢洋を問わず、しかもその学識の門戸は極めて広かった。文字通り、温故知新そのもので、その時々の新しい学説、思想と言ったことに、明快な所見を述べていた。(略)大正13年から2期、北海道会議員となる。(略)博識と卓見から繰り出される名演説は、反対派議員をも傾聴させたという。第18回総選挙に初出馬し強敵を退けて当選したのも、林の人望が厚かったことによるものだろう。(略)」と紹介されている。(※注、本文では林氏を号の「濁川」と記述されておりますが、「林」と読み替えさせていただきました。)
又、第5代理事長林儀作氏の人となりは、1961年12月発行の海峡第84号「函館物故記者列伝(6)」の中でも、常野知哉氏により紹介されている。 「(前略)林さんを尊敬した動機に、その学識の高さの他にもう一つこういう事があった。地蔵町に、西沢と
いう玩具小間物の問屋があった。或時、この主人の西沢氏を林さんが訪問して「雛人形一揃を、月賦で売って貰えまいか」との頼みだった。当然、林さんの子供の為に買うのだろうと思うと、そうではなく「今日一寸慈恵院の孤児を訪ねて見たが、おひな様が無いとのことだったので、買ってあげたいが、一度では払えないので、月賦で買いたいのだ」との事だ。西沢さんは、即座に、最高のものを10カ月払いにして、林さんの名前で、慈恵院に届けた。まあ一二度も払ったら、後は、負けろという事になろうが、それでも、孤児達の為には、嬉しい贈り物をした事になるから、という考えで、西沢さんは、二つ返事で引き受けた。それから10か月、安月給の中から一度も遅れる事なく、林さんがその金を届けた。「あの男は偉くなりますよ」と西沢さんからこの話を聞いた時、僕も胸をうたれたのだった。(後略)」
・北一輝、平岡栄太郎と同じ明治16年生まれで、日蓮の熱狂的崇拝者で、日蓮妙法主義は非国家主義、非戦論であると主張する。北とたびたび論争し親友となり、幸徳秋水を尊敬する。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十六年生 相川町濁川 ・明4、佐渡毎日新聞社の選挙違反[三十五年八月十日]・明3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭3、牧野と林の当選[七年二月二十日]・昭3、代議士 林儀作 急死[十年一月二十日] 「佐渡関係事典に載る」
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
「鉄幹と晶子」(「佐渡の百年」)
「三つの筆名の小説家」(「佐渡の百年」)
「ウィキペディア」より
・『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数63・64・80・84
★林儀太郎
佐渡高等学校2代同窓会長(昭和29・8~昭和38・8)。
★林儀太郎

明治37年4月2日死亡。河原田本町の大商人、河原田町長。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★林儀平
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡相川の出身である。昭和七年二月二十日、北海道より衆議院議員に当選した。(佐渡大観)
★林熊太郎
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p388
★林敬助
相川小校長

★林玄億
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で鍼医小林可均の養子である。宝暦二年(一七五二年)に陣屋附医師となった。(佐渡人名辞書)
★林浩一郎
佐渡高校時代の昭和62、全国高校囲碁選手権県大会、団体戦(加藤陽渾・川上嘉人・林浩一郎)1位 全国大会に出場
★林光雅
学習院大教授、後に国分寺住職。佐渡高校講師も務めた。土田麦僊や中川杏果を連れて京都の浅井貞吉を訪ね、二人の世話をお願いしている。(「ふくじゅそう」→浅井貞吉)
★林佐野
「七段の女流棋士」(「佐渡の百年」)
★林純一

★林準二
旧制佐渡中学13代目校長(昭和19・3・31~昭和20・8・19)
「佐渡高等学校百年史」
昭和十九年三月、県立新発田高等女学校より林準二校長が着任した。林校長は温厚で人格高潔、専門の歴史・法制・経済についての造詣が深かったが、病弱で終戦直後の昭和二十年八月十九日、惜しくも病にたおれた。本校在職期間は一年五カ月であったが、この間二度にわたり学徒動員の引率や生徒激励のため名古屋に出向している。昭和十九年八月七日、四・五年生により編成された佐渡中学校勤労動員隊が佐渡を出発した。五月三十一日に新潟港での二一日間の勤労動員を終えて帰ってきたばかりであった。生徒はおよそ二〇〇名、引率教官は林準二校長を隊長に、計長春野・佐々木長一・石塚勝太郎・印銀安雄の五人であったが、のちに他の教員と交代しながら指導にあたった。八月十日、東海道線で名古屋市郊外の豊和重工業株式会社に着いた最初の夜、空襲警報が発令され、畑の中の防空壕に避難した。実感として戦争を体験した最初であった。
昭和二十年八月十九日、胃潰瘍のため入院中だった林準二校長が逝去した。終戦直後の混乱に加え夏季休業中という条件が重なったため、学校葬は行われず、中原の本田寺でしめやかに葬儀がとり行われた。林校長は戦局の悪化した昭和十九年から二十年にかけて、病弱な身を押して勤労動員やその撤収をはじめ幾多の難局に対処した。後頭部の髪が鳥の尾羽のようにはね上がり、度の強い眼鏡をかけた独特な風貌は、その人柄同様朴訥そのもので、一種超俗的な寡囲気をただよわせていた。動員中の生徒を激励慰問するために、二度にわたって名古屋の豊和重工業と新潟鉄工所に赴くなど、その精励ゆえに死期を早めたことを思うと、林校長もまた戦争の犠牲者と言わなければならない。新学期の始まった九月、生徒ははじめて林校長の死を知らされた。
★林浄賢(浄憲)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

吉井船津の善積寺の長男。教育者で吉井小学校校長等を務めた。長男の林義則も教育者で、両津南中等の校長を歴任した。孫は村上総合病院院長の林達彦氏。
★林昭三
佐渡汽船埠頭前公園






左より: 「鬼太鼓の像」(佐渡汽船前)・朱鷺の像(上野動物園)・忠犬タマ公像(新潟駅南)






朱鷺の像(旧新穂役場前:上野動物園と同じもの)

畑野出身、1935年(昭和10年)生れ。高名な彫刻家で日展評議員。佐渡農業高校出身で、母校同年に同じ日展審査員の親松英治(河崎分校)がいる。島内では、畑野行政センター入り口の像や佐渡汽船前に「鬼太鼓の像」がある。昭和57年の上越新幹線開業の年が戌年と重なった為、駅のシンボルとして新潟駅構内に林昭三作のタマの銅像が設置された。
・栗ノ江林徳右衛門家の人。五泉羽下(はが)修三の元で学び後上京する。両津埠頭前湊公園の岡上に鬼太鼓の像(ブロンズ)がある。尚、その原型は両津グランドホテルロビーにある。同ホテル経営者の娘(私の同級生、三辻健三氏の姉と思う)が林昭三に嫁いだ縁であろう。尚、林昭三の母は夷の内田家具創業者内田利吉氏の姉であるので、現在の内田実氏と林昭三は従兄弟となる。


※「佐渡ジャーナル」関係記事:「16号」(平成21年1月)約束の朝(※林昭三)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html
★林申二郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
新潟県中等学校陸上競技大会で、竹林正一(相川)がメンバー800mリレーチームは決勝で二位を40mも離してゴールインした。全国大会でも他の追従を許さず堂々と優勝。新潟師範の竹林が800リレーで、同小林仁作が庭球で、同下林中二郎が剣道で揃って全国
優勝したので、「相川の三林優勝」と当時の新聞は絶賛した。
★林清十郎
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★林髞(はやしたかし)







1897-1969 昭和時代の大脳生理学者,推理作家。
明治30年5月6日生まれ。昭和7年ソ連に留学してパブロフにまなび,わが国に条件反射理論を紹介する。21年慶大医学部教授。木々高太郎の名で推理小説もかき,昭和12年「人生の阿呆」で直木賞。23年「新月」で探偵作家クラブ賞。昭和44年10月31日死去。72歳。山梨県出身。慶大卒。著作に「大脳生理学」「頭のよくなる本」など。
※風間茂子の叔父(茂子の父風間医師の弟、林家に入る)の林家につながる人。
➡風間茂子
「佐渡郷土文化」51号:昭和36年、五月三十日慶応大学医学部教授林髞先生(筆名・木々高太郎)来訪。
ウイキペディアより
風間・藤川・林・柴田家系図
★林武

★林辰彦
相川下戸村生れ、父は佐渡電灯の技師長、少年時代に河原田へ引っ越す。(林一族は下戸炭屋町の米屋で、林嶺二郎は相川町三丁目浜町で「蕎麦屋」を経営。)昭和12年佐中37回卒で京大卒、読売新聞記者。大阪樟蔭女子大講師。著書に「実録・井植学校-関西経営者を育てた思想と哲学-」(ダイヤモンド社 1985)、「日本とアラブ」 (1975年)。 作家の司馬遼太郎氏や正岡子規の跡を継いだ正岡忠三郎(司馬遼太郎『ひとびとの跫音(あしおと)』のモデル)と親しく交わる。佐渡高校校友誌に長く随筆を執筆した。
因みに正岡忠三郎の妻あやは、相川出身の高名な心理学者(京大名誉教授)の野上俊雄の娘で、京の三美人の一人と言われ雑誌の表紙なども飾ったと云う。
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忠三郎さんの飲み友達の一人だった元読売新聞記者の林辰彦さんはいうのだ。
「忠三郎はどういう人物だったか、ゴンチャローフの小説に出てくる余計者的知識人オブローモフという人もいた。しかし、彼は生粋の自由人であった。枠にはまった考えはしなかった。戦前、河上芳子を採用したように、彼ならパージ組など問題にしなかったであろう。推薦してとったと思うよ。GHQにもあかんべだ」
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)林辰彦 74 京都で会った山本修巳さん
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)林辰彦の天下御免ー故郷・佐渡は回生するか
★林達彦
村上総合病院院長、吉井船津の善積寺の長男。
父は両津南中等で校長だった林義則氏、祖父も教育者で吉井小学校校長等を務めた林浄憲氏である。
★林忠蔵
外海府村村長 真更川

真更川の人。海陸産物商、廻船問屋とある。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★林伝吉
旭桜会
★林道意
「島の新聞」索引(人名別)
★林光














父林義雄は佐渡出身の医師で東京で開業。義雄氏は山本修之助氏と佐渡中学同級生。下記「ウィキペディア」には「父は慶応義塾大学医学部卒業の医師で、ベルリン留学ののち、日本大学医学部教授を務めていた。尾高尚忠とはベルリン留学中に知り合い、帰国後も親しく交流していた。」とある。林光氏は「少年時代父に連れられて佐渡に来て、波の音と能楽の旋律が忘れられない」と書く。佐渡高校校歌を作曲する、作詞は羽茂出身の藤川忠治。藤川と林は遠縁にあたるらしい。昭和30年に佐渡高校校歌を作曲する。当時24歳で、NHKで指揮をしていた。作詞は佐中第十九回卒業生で当時信州大学教授だった藤川忠治。林の父義雄(旧姓風間)は佐中第二十一回卒業生で、藤川夫人の実兄。高名なフルート奏者の林りり子は従姉である。
「小学生の頃、父と共に佐渡を訪れた時に聞いた波の音が忘れられない。自分が音楽家になった原点かも知れない」と述べている。(佐渡高校90周年か100周年前後の校友会誌)
※父は羽茂の人で医師、東京で医家である林家に入る。兄は河原田や畑野で開業した。
→藤川忠治・林りり子・風間茂子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「35号」(平成25年10月)「ひのひかり・・・」佐渡高校歌の自筆楽譜発見(あきら)※藤川忠治・林光
風間・藤川・林・柴田家系図
諸情報
★林豁(はやしひろし)
【生没】一九一二ー一九九四 池田條一の次男として入川に出生。幼時より絵を好むも、父の強い奨めにより、医学の道に進む。昭和十二年(一九三七)東京帝国大学医学部卒業。当時日本に幔延していた結核病について、同学内局で専攻し、更に陸軍予科士官学校軍医を通しての研究論文「結核の感染と発病」により、学位を授与された。戦後国立相模原病院を経て、自衛隊中央病院内科部長・陸将・厚生省医師国家試験審議会委員を歴任。東大在学中、林家(現神奈川県厚木市下荻野)の聟養子となり、分家して林姓に改姓。中学時代に、郡の秀才教育費の給付、高校時代には中野財団奨学資金の貸与を受けた恩恵を、社会の為に恩返ししたいとの考えから、昭和五十七年勲三等瑞宝章叙勲を記念して、相川町に一千万円を寄付した。平成元年(一九八九)、自伝『佐渡に生れて』を出版する。この中で、私の人生で切り離せないものに、趣味の水彩画(渡辺華山を崇拝し、その画風を好んだ)があり、好きで余暇に始めた絵は、光風会新進画家藤江理三郎氏・重鎮三宅克己氏より絵の心得を伺い、年と共に研きがかかってきたと自負。光風会日本水彩画展、東大絵画の会・一二士会等に出品し、相次いで入選した。昭和四十八年(一九七三)、初めての個展を厚木市で、二回目は東京銀座で、更に相川でも二回開催し、総二二回を数える。銀座での個展の際、相川出身でたぶろう会の会員である酒田小虎氏を知り、以後たぶろう会の会員となる。『一九八九日本芸術家年鑑』に、その名が掲載される。平成六年十月八日没。八三歳。【参考文献】林 豁『佐渡に生れて』 【執筆者】池田達也 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※『佐渡に生れて』
秘境佐渡の海府に生れ医者となって50余年、医の傍ら絵を描き、文を草し、ふるさとをしのびつつ思い出を綴る珠玉のエッセイ。
・相川町に奨学金を残す。屋号九郎津 弟は鉱山技師。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)林豁
11 海府の方言 15 六十年前の海府(1)-大正の頃の海府の生態- 16 六十年前の海府(2)-大正の頃の海府の生態- 19 ごわじの花
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 3鹿の浦随想(林豁 ひろし) 4「佐渡のお盆・林豁
★林不忘→長谷川海太郎
★林平右衛門
『新穂村史』(昭和51年)より
長畝の池田元右衛門家ほ四つ目菱の紋をもって昔から東光院の重檀家をやっていたという。四ツ目の紋というのは本間家のわかれをいうのが一般であるから、村殿は本間氏を名乗ったのかもしれない。昔から長畝殿の三家老として林平右衛門、須田四郎左衛門(中尾)、須田帯刀の三人が挙げられている。
★林米山
「七段の女流棋士」(「佐渡の百年」)
越後高田出身の画家で喜多文子の養父。
★林政市
県立佐渡高等学校2代校長(昭和30・4・1~昭和31・3・31)、和歌山県人。
「佐渡高等学校百年史」
昭和三十年四月、巻高等学校より校長として赴任。林校長は就任の挨拶の中で「生徒間の親睦」を強く要望し、さらに「保護者の理解」を強調した。林校長は和歌山県出身で、長く台湾で教師生活を送った。昭和二十一年四月に台湾から引き揚げてきて半年ほど両津の縁者宅で静養し、その年の九月から二年半河原田高等女学校に勤務した。終戦直後の困窮の中で、同僚や地域の人々から受けた愛情と親切は忘れられないものであったという。その後一度越後に移り、六年を経て再び河原田女子高等学校と統合した佐渡高等学校へ校長として戻って
きたのである。旧制河原田高等女学校時代からの職員にとって、林校長は旧友であった。林校長はわずか一年で定年退職し、昭和三十一年四月羽茂高等学校より牧野平三郎校長が着任した。
★林道明
小木宿根木、時宗称光寺住職。
宮本常一の助言を得て、宿根木分校に民俗資料館を作り、漁具農具や日常の道具類を収集展示した。
多くの文化人と交わり、佐田まさしの父とは旧友であり、佐田は小さい頃父と宿根木を訪れたと書いている。
「小木半島の石造文化について 主として宿根木付近のもの」(『佐渡史学』(雑誌 佐渡史学会)第10集(昭和49年2月)林道明著)などがある。


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)林道明 2 椿地蔵
★林道夫


→雑学メモ→佐渡鉱山と朝鮮人労働者
「島の新聞」索引(人名別)
★林光丸
「躍進日本」

★林ミネ

★林義雄
旧姓風間。畑野で開業して居た風間準平の次男で東京の林医院に婿入りする。子供に作曲家林光が居る。義雄は慶應義塾大学医学部卒業の医師で、ベルリン留学ののち、日本大学医学部教授を務めていた。「音声学の権威であり、臨床医としても、ほとんどの声楽家や演劇人のノドを診てきた名医であった」[2]。尾高尚忠とはベルリン留学中に知り合い、帰国後も親しく交流していた。
「躍進日本」

風間・藤川・林・柴田家系図
★林義則
吉井船津の善積寺の長男。教育者で、両津南中等の校長を歴任した。父も教育者で吉井小学校校長等を務めた林浄憲氏である。長男は村上総合病院院長の林達彦氏。
★林喜正
「島の新聞」(95号)
★林良宏
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・島の取り組み<自然栽培>(林良宏)
★林喜正




「島の新聞」索引(人名別)
★林リリ子


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1925~1974 フルート奏者。70名近いプロ奏者を育て、カーネギーホールやザルグブルグ音楽祭でリサイタルを行う。
12歳から吉田雅夫?に師事し、宝響や日本フィルハーモニー交響楽団の首席奏者を勤め、ジョリヴェ、ブゾーニ、メシアンなどの作品の日本初演を果たしている。作曲家、林光の従姉。
→藤川忠治・林光・林りり子・風間茂子
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plu」sの解説.
1926-1974 昭和時代後期のフルート奏者。
大正15年1月1日生まれ。吉田雅夫に師事。東京交響楽団をへて,日本フィルハーモニー交響楽団の創立にくわわり,首席奏者となる。また桐朋学園大などでおしえた。昭和49年1月20日死去。48歳。東京出身。自由学園卒。本名は阿部璃々子(りりこ)。
風間・藤川・林・柴田家系図
★遠見八之助(はやみはちのすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、寛保三年(一七四三年)正月二十八日西丸御納戸頭より佐渡奉行に、延享元年(一七四四年)十二月十五日御勘定奉行に転任した。名は忠栄、知行は五百石内三百石は加増、御役料千五百俵百人扶持であった。(佐島遺事)
※渡辺注:「遠見」は「速水」の間違いと思われる。
★早水そで
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★原幾太
「躍進日本」

★原泉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★原健司
両津高校時代の1974年度(S49)5月、第29回新潟県展奨励賞
★原聡

★原琢斎→本間琢斎
★原鉄三郎
山本半右衛門家系図(「佐渡郷土文化」136号 山本修巳)
真野新町出身、王子製紙、朝鮮製紙重役。父は漢方医の山本桂、兄弟に山本悌二郎(農林大臣)、有田八郎(外務大臣)、山本九郎(医学博士)等が居る。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)原銕三郎 60 原銕三郎(王子製紙取締役)について -農相 山本悌二郎・外相 有田八郎兄弟-若野忠男
★原伝十郎
「佐和田町史」(資料編上巻 昭和57年)

★原土佐(宗勇)
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
慶長9年(1604)から元和期にかけて小木に居た代官で鏡彦左衛門と共に小木の古城を預かり、羽茂から西三川までを支配し、原は寛永六年(一六二九)七月十七日死去し、法号を仁昌院夫格宗勇居士と称した。羽茂本郷大蓮寺には、この法号を記した原宗勇の位牌が現存する。また、原は元和九年(一六二三)大蓮寺に対し、寺領の荒地を再興して寄進する旨の次の証文を納めている。
『赤泊村誌(上)』より
小木の代官で、元小木の海潮寺に先祖の菩掟をとむらうために持仏の地蔵菩薩を寄進しているが、海潮寺のあたりは、中世以来の小木城のあった所と推定されている。原は小木の城にいたと伝えられているところをみると、彼は町の番所にいたのではなくて、昔の小木城のあたりに住んでいたのであろう。
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
慶長九年の『年代記』には、「横地所左衛門、原土佐、吉岡出雲等石見守にしたがい来り、所左衛門は赤泊に任し、水津迄の郷村を預り、土佐は小木の古城に住し西三川迄を預り、出雲は銀山の事を沙汰す」とあり、また「保科喜右衛門は鶴子銀山を預り、堀口弥右衛門は河原田城付地方を預り、鳥井嘉左衛門は夷組大野組代官となり」とある。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『小木町史』より
小木城に入ったのは、慶長八年のことでした。原土佐は信州筑摩の人で、小木地方の代官としてこの地にやってきました。この原土佐によって小木港は整備されたのです。そのころまで、小木に入る船は元小木の潤と人沖の潤に分かれて入っていました。小さい船は元小木に、大きい船は人沖の浜に着きました。人沖の浜に「浜屋」が建てられていた記録がありますが、そこに物資が陸揚げされたのです。
★原仁左衛門
「佐和田町史」(資料編上巻 昭和57年)

★原裕
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)原裕 24 鑑賞 佐渡のうた (20) -補遺- 原裕 山本修巳
★原與一
両津高校創立時の校長事務取扱(昭和21年3月~昭和23年3月)。
『両津市要覧(昭和33年)』より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★原芳幸
佐渡高校時代の昭和38、日本教育書道連盟主催日中親善書道展特選
★原力蔵
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
蝋型鋳物帥。柏崎市大久保の人で原力蔵の三男である。長兄は本間琢斎で佐渡の本間家を継いだ。
佐渡本間家からの手紙に「琢斎が三弟良助(力蔵)に家督を譲りしは弘化年間(一八四四-四七年)佐渡奉行の招聘により大砲鋳造の為来佐して当家(本間家)を継ぎたる結果に御座候、琢斎の父を力蔵といい祖父を仁左工門と申し候」とある。次兄亀之助は僧となり安政五年八月二十八日に江戸になくなった。弟神山得斎ほ日光または徳斎といった。力蔵は天保二年(一八三一年)に生まれた。その作品は兄琢斎とならぶ名人である。作品は柏崎市桑山家の観世音像、両竜の水入れ、からくさの筆筒、十二支の鏡、長岡悠久山拝殿前にある一対の燈籠等がのこっている。観世音立像は推古仏にみるようなおだやかなふくらみを持ち、燈籠は六尺もあろうかと思われるものでその最大傑作、蟻型鋳物で銘に嘉永二年八月、細工人大久保村原力蔵とある。力蔵十八才の時の作である。文久三年(一八六三年)四月、苗字を許された。慶応三年(一八六七年)十月二十六日に三十七才でなくなった。(笹川芳三氏捷供、越後タイムス昭和三・二・二七原力蔵について、桑山太市)
★原黒村五郎右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★原田栄次


★原田広作
『真野町史(上巻)』(昭和51年刊)
郷土史ブームが盛んになった大正末年、当時新潟県史蹟調査委貞であった真野町新町の山本半歳、同じく新町の本間周敬(酒川)相川町の原田広作が吉岡在住の鶴間兵蔵を案内人として松林中を探査し、一個の礎石を発見したのが遺跡発見の端緒である。昭和二年九月十一日、上記三氏は真野小学校の田辺誉三郎の協力を得て第一回発掘調査を行い、爾後数回に亘って調査を重ね、ほぼ現在見られるような遺跡を発見した。昭和二年、文部省嘱託荻野仲三郎、諸田八百七の調査に続き、翌三年、新潟県史蹟調査委貞斎藤秀平の調査が行なわれ、昭和二八年の斎藤忠博士の調査によって礎石発見が追加されて現在に至っている。
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
★原田壽山
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★原田晙

東京相川会5代目会長。営団地下鉄銀座線駅長。この人の人脈で佐渡おけさが銀座の町に30年も続いた。実家の屋号は「原田菓子屋」で相川町羽田に有った。6代の原田佑三郎会長とは一族である。親は児玉肉店から来た。
★原田鎭治(はらだしんじ)
【生没】一八六○ー一九三一 萬延元年、豊橋藩士原田精一の長男として生まれる。明治十五年(一八八二)、大学を卒業して理学博士となり、農商務省地質調査所技師を拝命した。明治二十年、三菱合資会社に入社して吉岡鉱山に赴任し、その後佐渡鉱山・生野鉱山・大阪製錬所が御料局から払下げられることになったためその調査に当たり、明治二十九年生野鉱山が三菱合資会社に移管されると、鉱山長に就任した。同三十二年六月佐渡鉱山長に就任し、赤字が続いていた鉱山経営の改革と、事業の改良を敢行した。まず探鉱や製錬技術の研究と改良に努め、高任四番坑東厚身区域を発見し、高任坑西部と大立坑東部の開発に成功した。いっぽう人員整理や資材の節約など緊縮方針を採ったため、同盟罷業を引き起こした。明治三十五年、本社の鉱山部長となり欧米各国を巡察し、工学博士となり、日本鉱業会会長に推された。大正五年(一九一六)三菱鉱業会社の会長に就任、同八年退職して、佐渡で習得した釣りや謡曲を楽しんでいたが、昭和六年十二月病没した。【関連】佐渡鉱山長(さどこうざんちょう)・佐渡鉱山の同盟罷業(さどこうざんのどうめいひぎょう) 【参考文献】平井栄一『佐渡鉱山史(稿)』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★原田清作
新穂村史 s51年

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★原田雅代(なりよ)
「エスライフ」2008年5・6月号

「島の新聞」索引(人名別)
★原田八五郎

★原田光

★原田久通(はらだひさみち)
【生没】生・没年不詳 天保九年(一八三八)、羽茂西方村の百姓中川善兵衛らによる強訴がおこなわれた。そしてこの事件処理のため、川路聖謨奉行が着任した。その時川路奉行が、原田に命じてつくらせたのが『佐渡四民風俗』である。原田は、奉行所役人原田重始の長男として生まれたが、早く父に別れた。奉行所役人として、筋金所役・勘定役となり、安永六年(一七七七)地方役のとき、一年間江戸詰めで江戸に行った。その後目付役・山方役となり、さらに天保九年広間役助、天保十三年広間役となり、この間奉行所役人西川明雅の『佐渡年代記』の事業を引きつぎ、これを完成し七二歳で没した。【関連】佐渡年代記(さどねんだいき)・中川善兵衛(なかがわぜんべえ) 【参考文献】山本修之助編『佐渡叢書』(一○巻) 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡年代記(さどねんだいき):一九巻・二二冊。原本は慶長六年(一六○一)から嘉永四年(一八五一)まで、二五一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、江戸幕府の佐渡支配を知る根本史料。著者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本に、明雅の没後、同じ地役人であった原田久通が書き続けたものといわれる。さらに嘉永五年(一八五二)から明治七年(一八七四)までの二三年は、『佐渡年代記続輯』として、また、『佐渡年代記』に全く脱漏したもの、および不完全な部分を萩野由之が編纂して『佐渡年代記拾遺』として、昭和十年以降佐渡郡教育会から出版した。『佐渡年代記』は、『佐渡風土記』『佐渡志』(田中葵園)『佐渡四民風俗』『佐渡相川志』(永弘寺松堂)とともに、佐渡五史書と呼ばれて重視されてきた。佐渡教育会の刊本は、佐渡支庁本を底本として、両津市鵜飼文庫本、真野町荏川文庫本によって校訂し出版されたが、ほかに萩野由之蒐集の舟崎文庫本が優れている。刊本は羽田清次が編纂主任となり、矢田求・山本半蔵・北見喜宇作がこれに参加して完成した。
【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏、通称を次郎右衛門という。詩歌にすぐれ、天保年中、(一八三〇~四三年)川路奉行の命で「佐渡国四民風俗」を追補した。原本は宝暦年中、(一七五一~六三年)高田備寛が石谷奉行の命で著したものである。(佐渡人名辞書)
★原田浩文
「島の新聞」索引(人名別)
★原田文七
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★原田稔
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★原田安太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★原田佑三郎

東京相川会6代目会長。昭和5年生まれ。老舗の「割烹・すしか」の三男で、中学を出ると新潟の料亭に奉公に出たが、後に原田晙氏等の関係で地下鉄に勤める。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「1号」(平成17年4月) 「1号」(平成17年4月)おけさが私をはぐくんでくれた「5号」(平成18年4月)古老 石井潔さんを偲ぶ(原田佑三郎)
「9号」(平成19年4月)東京相川会長老中村亘さんを偲ぶ(原田佑三郎)「13号」(平成20年4月)校舎のない学校に入学(原田佑三郎)「14号」(平成20年7月)14歳の中学生に学徒動員命令(原田佑三郎)
★原田豊
佐渡高校時代の37.7.21~22、水泳県高校選手権(柏崎市)総合64点3位、(バタフライ)100ml位・200m3位
37.8.1~2、水泳東北高校大会(長岡市)総合3位、上位入賞
37.8.25~26、水泳高校結合体育大会(長岡市)総合3位、(バタフライ)100ml位・200m2位
37.9.16~19、水泳国民体育大会(岡山県)県代表として出場
38.7.25~26、水泳県高校選手権(高田市)総合46点4位、(バタフライ)100ml位・200ml位、800mリレー(酒井・渡辺・軽沢・原田)1位 400mリレー・400mメドレーそれぞれ3位
38.8.10~11、水泳東北高校大会(秋田市)総合31点3位、(バタフライ)100ml位・200ml位、リレー2種目入賞
38.8,12、水泳、(400mメドレーリレー)新潟県高校チームのメンバーとして県高体連表彰を受ける また、この年、新潟日報社賞を受賞する
38.8.25-28、水泳全国高校大会(大阪市)(バタフライ)100m・200mに出場
38.8.31~9.1、水泳県高校結合体育大会(長岡市)総合40点3位、(バタフライ)100ml位・200ml位リレー3種目に上位入賞
38.9.15-18、水泳国民体育大会(宇部市)県代表として出場
39.7.4~5、水泳県高校結合体育大会(長岡市)(バタフライ)100m2位・200m3位
★原田庸吉
千葉周作門下の剣術使いで、奥平謙輔との間でエピソードを残す。
「神鏡をうけた殺人鬼」(「佐渡の百年」)
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
★原屋三千代

★ハリス
「華族となった佐渡人」(「佐渡の百年」)
★播磨五郎兵衛
【生没】生・没年不詳 相川町下相川石切町へ近世初期渡来の石工。『佐渡相川志』には「慶長年中ニ越中ヨリ五郎兵衛ト言フ石工来リテ此業ヲ勤ム」とある。元和三年(一六一七)の屋敷検地帳によると、二畝歩の屋敷があり一斗八升の地子を収めていたことがわかるが、「退転致シ先年ニ引候由」とあり早々に転居している。しかし『佐渡相川志』には続けて「陣屋或ハ味方孫太夫屋敷、木原正順等ガ石垣ヲ築ク」とあり、慶元期に奉行所・山師・資産家の石垣を築いた。当時の佐渡の石工は、小泊・椿尾村の職人が行っており、慶長十二年(一六○七)、小比叡山蓮華峰寺の快宥の供養塔、同十三年、大安寺の河村彦左衛門の五輪塔は、いずれも小泊村石工惣左衛門の作である。小泊石工は墓石や石塔などが多く、石垣を主とする五郎兵衛とはそれぞれ製造品が異なり住みわけをしていた。播磨とあるから、石切職人のいた見影から越中を経由して渡来したと思われる。『佐渡年代記』の天和二年(一六八二)の条に、「慶長年中銀山立始りの砌、播州見影より石切四兵衛・源右衛門と云もの来り、見影より石を廻し磨石に用い─」とある。のち戸中より片辺に石切丁場を見立て、磨石を切り出した。同じ播州石工でも、鉱石搗砕用につかう磨石職人もいた。五郎兵衛の居所は下相川村の中央部、百姓町に近い浜側にいた。少し遅れて播磨から入った石工に、弥左衛門・作兵衛がいる。いずれも、越中から渡来した大福寺の檀家である。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集二・五)、永弘寺松堂『佐渡相川志』、西川明雅他『佐渡年代記』【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「佐渡広場」blogより
播州出身の石工 五郎兵衛は、相川の北の端 下相川町に石屋集落を作り、それが「石切町」となった。 『佐渡相川志』(書の成立年代は、宝暦3年(1753)頃)の記事。 「慶長年中に、越中より五郎兵衛と言う石工来りてこの業を勤む。陣屋(奉行所)或るは味方孫太夫(=但馬)屋敷、木原正順等が石垣を築く。其の外諸方の石細工をなせしより、弟子多く付きて次第に広がるとぞ。 今に一町此の業を勤む。石切町とて下相川村にあり」 大福寺の過去帳によれば播磨五郎兵衛とあり 一族皆 播磨姓であるので、五郎兵衛は播磨の出身で越中(おそらくは、富山県礪波(となみ)市)、そして相川へ渡ってきたと見なされている。播磨は「御影石」の産地であることから、当時 商売するには越中よりも有望な相川に来たと見ることができる。浄土真宗の大福寺も狙いは同じ。
「島の新聞」索引(人名別)
★波凌
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★はる
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川炭屋町の寡婦。君母に仕えて孝行であるので、文化二年(一八〇五年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★春川顕治
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★春山陽一
朝日新聞両津通信局に勤務し、昭和59年9月から新潟版で「朱鷺物語-人・時代・風土」を連載する。
後に朝日新聞社より単行本として出版される。
★鑁雅(ばんが)和尚
1838年(天保9)新穂皆川に生まれ、明治7年羽二生で没。本名は雑賀勇蔵。7歳で鑁尊(ばんそん)和尚の元で剃髪、鑁雅坊空阿として仏門に入る。15歳で真言宗豊山派総本山長谷寺で修業し、同派の学僧随一と言われた。羽二生来迎寺住職となり親松太郎等に多大な影響を与えた。大正14年、来迎寺境内に石碑が建つ。碑文は豊山派管長の大僧正権田雷斧(ごんだらいふ:出雲崎出身)撰文併書で、旧知の親松太郎の依頼によった。
★伴清縄(きよつな)
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
貞観八(八六六)佐渡に配流。応天門炎上事件の大納言伴善男の従者。共犯として佐渡へ。善男は伊豆、善男の子中庸は隠岐流罪。(『三代実録』 『宇治拾遺物語』『江談抄』『佐渡志』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
大納言伴善男等が応天門を焼き、共犯者である清繩は貞観七年(八六六年)九月二十二日に佐渡へ流された。(越佐史料)
★伴宿祢有仁
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
遣唐知乗船事従七位上 承和六(八三九)佐渡に配流。遣唐船に乗船させられることを知り、刀岐直雄貞(暦請益従六位下)・佐伯直安通(暦留学生少初位下)・志斐連永世(天文留学生少初任下)と)共謀して逃走し、捕まり死一等を減じて佐渡へ。伴宿祢有仁と刀岐直雄貞は承和七年二月一六日赦免。(『続日本後紀』)
★伴宿祢国道
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
従四位下。延暦四(七八五)佐渡に配流。父継人の藤原種継暗殺事件に座す。吉備朝臣泉に同じである。同二四年(八〇五)桓武天皇崩御の恩赦で赦免入京。応天門事件の伴善男は国道の五男。(『公卿補任』『三代実録』『大日本史』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
従四位下である。延暦四年(七八四年)に父継人のことで罪となり佐渡に流され、後許されて帰京した。(越佐史料)
★伴大納言
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)伴大納言 60 連載 閑々亭雑記 (19) 伴大納言の佐渡伝説 山本修之助
★伴武道
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
治承二(一一七八)佐渡に配流。五月に斎宮御所の狐を射たという。前滝口の郎党とある。(『山塊記』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
前滝口源競(きそう)の臣である。斎宮の庭内で野きつねを射た罪にょり治承二年(一-七八年)閏六月二十四日に佐渡国へ流された。(新潟県史)
★伴 朋

★半五郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川二丁目新浜町の人である。妻けさと共に祖母、母へ孝心に仕う趣相聞るに付、弘化三年(一八四六年)役所から、半五郎に鳥目五貫文、けさへ同三貫文を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★萬歳庄之助由道
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


★萬歳彌三右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★半左衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★半次郎
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
慶長の代表的義民の一人、新穂上新穂の人。
山田半十郎家の祖先である、という説があるが、判明しない。一説には、天保一揆
の巡見使の宿所となった、杉山吉右衛門家であるともいわれている。
これは本陣であって、中川善兵衛が上訴状を提出した家であるから、数百年来の旧家であることは推定できるがやはり明白な証拠はない。要するに、三名とも処刑されたのではなく、佐渡義民の濫觴(らんしょう:始まりのこと)ではあるが、伝記はつまびらかでほない。

(右上)本間太郎右衛門の供養碑
(左上段右)豊四郎(了雲)の墓地のある円通寺-新穂村北方
(左上段左)半次郎の生家と伝えられる山田家-新穂町上新穂
(左下段)佐渡一国義民殿のある城ケ平より国仲平野の眺望-畑野栗之江
★半田幸太郎
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
羽茂の大谷人形(大和座)は明治十八年、大谷の中川今吉のはじめたもの。今吉は文弥節を仲平琴清(池阿波ノーの弟子)に習い、琴清の死後は渡辺忠蔵の弟子となった。彼はまた人形のカシラも刻み、傑作は「持統天皇」のカシラだという。一座は今吉が太夫で、役者は弟の高野待太郎、藤井金蔵と息子の鉄五郎という一族で組織していた。時おり隣家の茶園三蔵も加わった。明治三十年大崎座の人形や小道具の一部が洗出した時合併した。(大正五、六年までつづいた)今吉は、昭和五年七十四歳で死んだので、息子の鉄五郎が継いで座元になった。太夫は村山の笠井長吉(今吉と同じく渡辺忠蔵の弟子)であった。役者は、その後昭和二年に待太郎が死に、昭和七年に金蔵が死んだので、新たに北島初太郎、半田幸太郎が加わった。戦後、「新大和座」が生れ、太夫に長尾俊、藤井軾蔵(しょくぞう)、役者に早川治作、関口一郎、中川栄一が加わった。
★半田信蔵→市川信十郎
★半田清鳳
『新穂村史』(昭和51年刊)より
北方の人、名は清太郎といい、清則とも号した。大滝雨山に師事し、後上京伊藤深水(美人画の泰斗)の門にはいったが、不幸二十一才の若さで、昭和四年(一九二九)に没している。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★半田老人
『新穂村史』(昭和51年)より
潟上の上町の通称野屋敷の半田老人は、もこさらえ(熊手)造りの名人であった。曲げた竹の先端が、もとに戻らないようにするため、京都の三十三間堂の通し弓をつくる弓師に教えを受けにいくほど、責任感の強い人であった。その曲げた竹の束が、ずったり抜けたりしないため、横から孔を貫通して釘で止める工夫をしたりもした。わら・すげ・竹を使って、大きな〆飾りを綯(な)うのも得意であった。細かな竹ヒゴで神酒徳利の口に挿すオミキグチも巧みに造った。老人は八十才の半ばに達しても仕事を止めなかった。神棚用具をつくる日は、朝から茶を飲まず小用にも行かないようにして身を浄めてから仕事にかかるという古風な職人気質を最後まで失わなかった。若い頃は、市川紋十郎の芸名で田野沢芝居などをやっていた人である。
★半藤逸我
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)半藤逸我 55 連載 閑々亭雑記 (14) 小笹竹斎と半藤逸我 山本修之助
★坂東玉三郎
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「35号」(平成25年10月)人間国宝で歌舞伎俳優の 坂東玉三郎さんに聞く
★坂東村十郎
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★榛白(はんぱく)八十八
『両津市要覧(昭和33年)』より

★半兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
鉱山師。信州安曇郡稲扱村の人である。文化十一年(一八一四年)佐渡へ渡り、西五十里村大滝間歩で銀山の試掘を始めた。翌十二年正月二十四日、小屋場が雪崩で押つぶされ半兵衛は圧死した。(佐渡年代記中巻)
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