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2021-01-11

★永橋富蔵
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
なが永橋富蔵 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

★中浜栄一
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)
なか中浜栄一 「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

★長浜数右工門(ながはまかずうえもん)
佐渡博物館
なが長浜数右衛門 佐渡博物館
「島の新聞」30号(by 松本秀雄)                       
30なが長浜数右衛門 (1) 30なが長浜数右衛門 (2)
陶芸家、1920年〜2007年。大正9年 佐渡・相川町に生る 。昭和11年 陶芸の道に入る。昭和13年 新潟陶苑にて 故 宮之原謙先生に師事 。昭和20年5月 佐渡・相川町に帰り、窯を築く 。昭和31年6月 第1回個展(新潟市小林デパート)
以降個展10数回、東京・銀座資生堂ギャラリー、銀座・松屋、大和新潟店 佐渡博物館・佐渡会館 。平成10年7月 第15回個展 喜寿・出版記念 。平成10年7月 「陶工 数右エ門」作品集出版 。平成16年6月 新しい登窯を築く 。平成17年6月 新しい登窯記念 数右エ門三代展
半世紀にも及ぶ研鋳が結実。特有の深紅色が美しい数右工門窯主は、中国元代中期に生まれた釉裏紅(ゆうりこう)に魅せられ、半世紀の研鑽を重ねた。釉下に銅の成分を含んだ色で文様を描き、登り窯に入る空気をできるだけ遮断することにより特殊な美を生み出している。他に、青瓷(※外字 次の下に瓦)(せいじ)、佐渡唐津、無名異焼などの作品もある。
「島の新聞」索引(人名別)

★長浜数右
な長浜和義
陶芸家、数右エ門窯3代目。 昭和57年 相川町に生る
平成13年 県立佐渡高等学校卒業
平成15年3月 京都伝統工芸専門学校伝統工芸科陶芸コース卒業
平成16年3月 京都伝統工芸専門学校陶芸専科1年終了
平成16年4月 数右エ門窯で陶芸の道に入る
平成17年6月 新しい登窯記念 数右エ門三代展

★長浜数義
陶芸家、数右エ門窯二代目。
昭和18年 相川町に生る
昭和37年 岐阜県立多治見工業高校窯業科卒業
昭和41年 武蔵野美術大学彫刻科卒業
昭和41年 日展 初入選 以後入選32回
昭和45年 日本現代工芸美術展 初入選 以後入選6回
昭和56年 日本現代工芸美術展において会員記念賞を受賞
昭和57年 日本現代工芸美術展審査員となる 以後4回
平成3年 第1回個展(大佐渡開発総合センター
平成7年10月 長岡市展 審査員となる(平成8年 平成9年)
平成8年8月 セラート21(FUJI国際陶芸展)全日空賞受賞
平成12年 現代工芸美術家協会理事に就任(平成12年~18年)
平成12年 現代工芸新潟会会長に就任(平成12年~18年)
平成17年6月 新しい登窯記念 数右エ門三代展
現在 日展会友
現代工芸美術家協会参事
現代工芸新潟会顧問
「島の新聞」索引(人名別)

★中浜佐緒里
両津高校時代の1986年度(S61)8月、第34回全国高等学校家庭クラブ研究発表大会(三重県四日市市) 北陸地区代表として発表

★中浜照文
なか中浜照文

★中浜文彦
佐渡高校時代の昭和33年、全日本学校書道連盟主催全国学生競書大会推薦
昭和33,2、日本書道美術院展特選
昭和34.全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞  
昭和34、日本書道美術院展特賞(他6名)
昭和34、大正大学主催書道展特別賞

★中浜百合子
両津高校時代のs38年、総体ヨット女子スナイプ級2位(中浜百合子、越次かな)、女子A級ディンギー級1位(八代穠子、長谷川広子、竹本君子、 親松美智子)

★長林密蔵
「躍進日本」
なが長林密蔵「躍進日本」

★中原阿波野
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある) この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。

★中原市右衛門 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
草苅村のなかで草苅神社ともっとも関係の深かったものに天沢伝兵衛家がある。この伝兵衛家は草苅神社の社人として神社の祭祀を取りしきってきた。草苅神社は羽茂祇園さんともいわれ、土地の農民からは「作りの神様」といわれていた。社領米として五斗九升余をそれぞれ、次の百姓らが納入していた。二斗九升六合 伝兵衛、一斗四升八合 市郎兵衛、七升四合 市右衛門、三升七合 助十郎、三升七合 伝次この五人の百姓は、いずれも草苅村の百姓であり、伝兵衛家をはじめとして古くからの神社とのかかわりをもった百姓であった。伝次は中原市右衛門一族で、「わき」というところに屋敷地をもっている。もともと草苅村百姓であったものと思われる。

★中原一蘆 
→佐々木元英(げんえい)の項

★中原俊精→岡本阿波野

★中原丈一頼紀(のりより) 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。大石丈一、中原丈一郎の子、越後に転出、詳細不明。

★中原丈一郎藤原富等(まさとも) 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂町大石丈一、鍛冶秘伝一軸(年代不詳)。 中原丈一の父、嘉永二年五月五日生、大正十二年二月十六日没。

★長原心恭 
赤泊、松林山禅長寺住職 『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★中原助十郎 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
草苅村のなかで草苅神社ともっとも関係の深かったものに天沢伝兵衛家がある。この伝兵衛家は草苅神社の社人として神社の祭祀を取りしきってきた。草苅神社は羽茂祇園さんともいわれ、土地の農民からは「作りの神様」といわれていた。社領米として五斗九升余をそれぞれ、次の百姓らが納入していた。二斗九升六合 伝兵衛、一斗四升八合 市郎兵衛、七升四合 市右衛門、三升七合 助十郎、三升七合 伝次この五人の百姓は、いずれも草苅村の百姓であり、伝兵衛家をはじめとして古くからの神社とのかかわりをもった百姓であった。助十郎はいだ町に屋敷があり、代々中原助十郎と言われた。

★中原玉吉(羽茂の高尾山)   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
羽茂町大達の人。明治5年生まれ、昭和30年歿。年85歳。月の友醸造元葛西家の酒男を職業とした。当時5尺9寸もあった大柄の体格で、幾分腰高で、突張り、内掛を得意とした。明治28年羽茂の青年が拠出して、化粧廻しを調達し、大名乗り高尾山初代となった。谷風(中原与吉)は実子である。酒好きで男ぶりは良かった。化粧廻しは、2代高尾山(長尾俊)を経て、現在菅原神社に奉納してあり、見ることができる。羽茂に残っている柔(やわら)も修業したという。小川の瓢箪と親交を結んだという。里謡に、“久知の日の出山、所作高尾山、いとしげのこと鏡山’’と当時歌われたという。

★中原徳寿
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。水底に鯉うごくらし水ゆるむ池の水蓮の葉がゆらぐなり

★中原豊蔵
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)

★中原英夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中原英夫 127 羽茂の宮大工散見

★中原雅司
昭和十六年生れ。天沢和木家の人。羽茂高等学校教諭。羽茂農協組合長。
句碑:平成十九年三月建碑 樟石丈一、〇三㍍
○川蟹のすっと隠れて濁るなし              
京都の高僧が少しお見えにならないと思っていると、いつの間にかお隠れになっている。ゎたしも晩年はそうでありたい。
と、言うよぅな寂聴の文章を記憶している。ぁる日、家の前の江川に住む蟹がすっと穴に隠れたのに水が濁らない事に気がついて作った句である。濁らない人生は難しいが指針にと思っている。(自註)
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より

★中原ミツ   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
河原田高女時代の昭和5年、第8回県下女子中等学校競技大会で、100m5位(13砂8)、走幅跳1位(4m49)、200mR5位(伊藤春、下山、斎藤、中原)。
昭和6年、県中等学校体育連盟が主催者となり第1回県下女子中等学校競技大会開催(長岡中学校グランド)、走幅跳2位(4m50)。 
「島の新聞」索引(人名別)

★中原ムツ
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
昭和二十四年(一四四九)村田豊次宅の火災により、同家に保管されていた人形一行李を焼失した。上の坊住職本間敵政は、かねてから余技として刻んだ人形を里見座に寄贈して、その不足を補った。その後、石渕由太郎は不幸病魔のため倒れ、渡辺伝蔵・村田豊治も共に歿し、また、昔日の面影はなく、わずかに座頭葛原五兵衛が今倉正太郎と共に、一座をささえている状態となった。しかるに、五兵衛また老境に入り、大崎の文弥人形の将来を危ぶむ声が起ってきた。かねてから藤井真一は岡本文司に師事して文弥を修業し、かたわら人形つかいの技を修め、また昭和五二年(一九七七)には草木実・中川清治・川上公紀・渡辺友子・川1芳枝・中原ムツらの若人が、五兵衛の指導を受けて大崎座の復興にのり出した。しかるに、不幸若手のホープとして嘱望された藤井真一・草木実の両名が相次いで死去の悲運に遭ったが、若い同志の固い結束により、文弥人形の保存と振興のために精進をつづけている。また、昭和五十三年には、文弥人形愛好の有志により、大崎文弥人形保存会を結成して協力しつつある現状である。
「山里の人びと」(文弥人形)

★中原祐二
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、屋号舟落。陶器製作に年季を入れて修業し、帰国して自宅に窯を築いて作陶にいそしんでいたが、後、矢田山付近に小佐渡窯を設けて陶器製作に励み、格調高い作品を出し、羽茂高等学校の美術講師をつとめている。

★中原与吉(しこ名 谷風)   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
村山の人、昭和4年の第13回青年団スポーツ競技会(相撲の部)で優勝する。

★中原亮甫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中原亮甫 66 一老兵の想い

★永広繁松
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)4代校長(大正14・3・31~昭和4・3・31)、和歌山県人。
藤沢利喜太郎の数学理論を実践する。

★中堀鬼市
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]

★中堀春蔵
「真野宮の宝物 」(「佐渡の百年」)

★中堀春枝
h28 2 4 新潟日報
なか中堀春枝 h28 2 4 日報

★中堀均
なか中堀均
昭和11年小木町生まれ。昭和45年より民具の収集を始める。小木町社会教育主事として「佐渡國民俗博物館」開設に尽力する。佐渡国小木民俗博物館に勤務。平成7年退職。
著書に『佐渡の釣り今昔』(平成8年10月刊)・『南佐渡の漁撈習俗(共著)』・『日本の町並み、北陸編(共著)』他。
『佐渡の釣り今昔』(平成8年10月発行)
本文191頁、天然礁一覧、主要魚種漁場図、天然礁位置図、天然魚礁底質分布図、あとがき から構成。佐渡の博物館で漁具を収集していた著者がお年寄りや現役の漁師から聞いた話と著者の釣り体験をもとにして編まれた「佐渡の釣り」についての一篇。
諸情報

★仲間徳蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
なか仲間徳蔵

★中俣正義
なか中俣正義 中俣正義
著書:「空と海と人と」「ゆき」「佐渡幻影」「越後の山々」「佐渡・越後路」「妙高・野尻湖・戸隠」「日蓮の佐渡」( 山本修之助文)「越後路の四季いまむかし」「雪国と暮らし」

★中町信  
『佐渡金山殺人事件』(小説400枚 昭和63・勁文社)
売れない推理小説作家の氏家周一郎は、飛行機事故で亡くなった友人・武里久子の墓参をしたいという妻の早苗の望みをいれ、佐渡旅行を計画した。久子の妹の珠美の経営するホテルに宿泊するが、偶然起こつた殺人事件に巻き込まれてしまう。それは、久子が代表になったオリンピックのマラソン選手の選考と、流行歌の歌詞に関する連続殺人だった。作品の諸所に佐渡の観光名所が登場する。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)

★永松武彦
なが永松武彦
「島の新聞」索引(人名別)

★中丸雄一  
「ネット情報」
・2014/7/29 14:35 数年前にラジオで本人が言っていました。中丸くんはNHKドラマ『ラストマネー』の撮影で佐渡島に行ったのですが、『ロケ地が母親の出身地で縁を感じた』というような事を話していました。母親の影響でか、訛りがあると言われる、という事も話していました。
・中丸くんの母方おじいちゃまは新潟県佐渡島両津に住まう唄うたいの自転車屋さん…手先器用な歌うま職人さんってそれはもう中丸さん…DNAすごいなぁぁぁ

★中道博  
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4唄で結ぶ海府26村

★仲道明治郎   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
新穂の人、大正9年の第四回青年団スポーツ競技会(相撲の部)で優勝する。

★長峯忠義(ただよし)

『佐渡流人史』(郷土出版社)より
太宰府使 寛弘二(一〇〇五)佐渡に配流。太宰府使として、宇佐宝殿を封じた罪で流罪。同四年(一〇〇七)七月二日赦免。(『日本紀略』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
太宰府使であった。寛弘二年(一〇〇五年)十二月二十八日に佐渡へ流され、四年七月二日に許された。(越佐史料)

★中村昭子
両津高校時代のs37年、総体(香川)ヨット女子A級ディンギー級5位(中村美恵子、中村昭子、長谷川広子、
八代穠子、越次かな)

★中村アン
なか中村アン なか中村アン (4) なか中村アン (1) なか中村アン (2) なか中村アン (3) 
なか中村アン (2) なか中村アン (3) なか中村アン (4) なか中村アン (5) なか中村アン (6) なか中村アン (7) なか中村アン母 佐和子
美人のタレント、モデルでブレーク中。両親が佐渡市出身で、佐和田学校時代の同級生だったと言う。
父はIT関係会社の社員で、祖母も含めて同居している。父は鍛冶町の中村家、母は窪田の近松家の方。
平成27年?の佐和田夏祭にゲストとして登場した。自分のブログやTV番組で佐渡の食べ物をよく話している。
「ウィキペディア」より
オフィシャルブログ


★中村岩吉
なか中村岩吉
『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★中村石見守
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、元治元年(一八六四年)五月八日、勤仕並寄合より佐渡奉行となった。名は時万、知行二百俵、役料千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)

★中村宇之助
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
なか中村宇之助 新潟県官民肖像録 明治41年

★中村奥太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
なか中村奥太郎

★中村馨
「島の新聞」索引(人名別)

★中村鶴翁
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
なか <br>中村鶴翁

★中村一憲
「島の新聞」索引(人名別)

★中村克忠
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で名は忠吉という。天保七年(一八三六年)京都に出て香川景樹の門にはいり和歌を修めた。(佐渡人名辞書)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
な中村克忠

★中村寛治
外海府村村長 小田
なか中村寛治 外海府村村長 小田

★中村喜一
両津湊の人、明治28年生。湊で中村写真館創業。昭和23年頃、千鳥会から独立して金波会を作り会長を務める。
自宅を練習会場に提供し熱心に指導し、長男嘉明氏も千鳥会の中心メンバーとして活躍する。民謡団体「金波会」を立ち上げ、自宅を練習会場に提供した。同会は昭和33年頃解散。
(画 若宮神社 当時子供)
なか中村喜一(当時子供)画 若宮神社 (1) なか中村喜一(当時子供)画 若宮神社 (2)

★中村キク
「手わざ図鑑」
なか中村キク 「手わざ図鑑」

★中村久太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
なか中村久太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
なか中村久太郎

★仲村久八郎
金丸公民館
なか仲村久八郎

★中村草田男
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中村草田男
 14 鑑賞 佐渡のうた (14) 尾崎紅葉・内藤鋠策・中村草田男 山本修巳
 40 木俣修※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中村草田男両先生の思い出 山本修之助

★中村国雄
 両津高校時代の1963年度(S38)9月、第16回新潟県高等学校稔合体育大会陸上競技(男子稔合4位) 200MH2位
 1964年度(S39)6月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会県予選 200M3位
 1964年度(S39)6月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会北信越地区予選(長野)(総合6位) 200MH4位
 8月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会(大阪)出場(両高から4人) 
 9月、第17回新潟県高等学校総合体育大会陸上競技(男子総合2位) 200M3位・200MH2位

★中村国太郎
「相川暴動」(「佐渡の百年」)

★中村邦彦
「島の新聞」索引(人名別)

★中村久馬吉
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
窪田には平松治平の他、明治のころから斎藤弥平、本間留蔵、中島平吉の孫和作、本間藤三郎らが相ついで瓦焼業を経営した。他に小嶋芙山がいる。また、西二宮の前保田では、明治四十年四月、中川佐太郎が、鈴木忠蔵家屋敷の前方一部を借り受け瓦焼きを始め、佐太郎が没したあとは子息佐一がこれを引き継ぎ、昭和二十二、三年頃まで焼き立てた。また、昭和二年八月からは中村久馬吉が同じく鈴木家後方の一部を借りてこの業を起し、中村久馬吉の後は真光寺の本間喜作が富山から釆て、中原に居住していた本間喜作を雇って製瓦し、昭和十二、三年頃まで行った。鈴木家には、「昭和七年七月今村多一」と刻銘の牛の置物などが残されている。西二宮の上保田では窪田から移った中島和作も瓦や人形などを焼いたが、のちに市野沢から長木へ移った。佐渡凰製瓦の創始とされる小沢窯の瓦業は矢島主計没をもって止み、秋津窯へと移る。こうした窪田での瓦業素地の上に、再び弘化二年に来島した中島平吉の瓦焼きから、幕末・明治・大正・昭和近年にかけての窪田と西二宮を中心とする「二宮瓦」の瓦業へと発展していった。また、平松治平などと同じく、平吉の弟子と思われる窪田の相田嘉左衛門の二男佐市は、文久元年(1862)に久文家を起こした。その後、明治に入ってからであろうか、新穂村正明寺にて瓦業を開き、正明寺・潟上を中心とする「潟上瓦」の端緒となった(『新穂村史』)。

★中村月渓
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を武右衛門という。楽亭西馬に学び俳詔をよくした。(佐渡人名辞書)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
な中村月渓

★中村研一
父が佐渡鉱山の技師。1897年生まれの弟(琢二 洋画家)が佐渡で生れ、1899年に佐渡を離れているので、兄研一も一時は佐渡に居たと思われる。
「ウィキペディア」より
中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月14日 - 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。
・経歴
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。洋画家の中村琢二は実弟。1909年、福岡県立中学修猷館に入学する。修猷館在学中に、生涯の友となる三輪寿壮、日高信六郎らと出会い、児島善三郎、中村琢二らと、絵画同好会「パレット会」を創立し、西洋絵画を勉強する。また、福岡に滞在中であった青山熊治に指導を受ける。1914年、修猷館を卒業し、美校受験を志すが許されず、第三高等学校の受験準備の名目で京都に出て、鹿子木孟郎の内弟子となる。1915年、画家志望に反対する父を鹿子木に説得してもらい、美校受験が許可され、上京し本郷絵画研究所に入る。同年4月、東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助の教室で学ぶ。1919年、第8回光風会展に、『お茶の水風景』を出品し初入選する。1920年、東京美術学校を卒業する。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞を受賞する。1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学する。ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。1929年、『若き日』が第10回帝展で特選を連続受賞する。そして、1930年、『弟妹集う』が第11回帝展で帝国美術院賞を受賞する[1]。1931年、36歳にして帝展の審査委員となり、その後も文部省美術展覧会(新文展)、日本美術展覧会(日展)などと改名した官展の審査員を歴任する。1937年、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加する軍艦足利に乗艦して渡英している。戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作することとなり、1942年、シンガポールからインドシナへの旅行中に、コタ・バルに15日間滞在し、『安南を憶う』が第5回新文展で昭和奨励賞、野間美術奨励賞を受賞する。作戦記録画『コタ・バル』(東京国立近代美術館蔵、無期限貸与作品)が第1回大東亜戦争美術展に展示され、朝日文化賞(後の朝日賞)を受賞する。中村が描いたと確認できる戦争画は17点で、これは藤田嗣治の19点には及ばないもののトップクラスの点数であり、「戦争期に画業の一頂点をなした」とも言われる。1945年5月、東京大空襲により代々木の住居とアトリエを焼失し、戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。
1989年、中村の作品を彼の死後も守り続けてきた富子夫人が、それらを長く後世へ伝えたいと、「中村研一記念美術館」を独力で開館しており、後に小金井市へ寄贈され、改修などを経て、2006年に「中村研一記念小金井市立はけの森美術館」となっている。
・著書
『絵画の見かた―画家と美学者との対話 』(矢崎美盛との共著、岩波新書、1953年)
・外部リンク
中村研一記念小金井市立はけの森美術館 - 公式サイト
・脚注
1.^ 官展歴代受賞者リスト

★中村賢二郎
なか中村賢二郎
なか中村賢二郎 (2) なか中村賢二郎 (3) なか中村賢二郎 (4) なか中村賢二郎 (5) なか中村賢二郎 (6) なか中村賢二郎 (7) なか中村賢二郎 (8) なか中村賢二郎 (9)
宮内庁侍従、両津湊出身。実家は中村自転車店。佐渡高校2回生。著書に『吹上の季節―最後の侍従が見た昭和天皇』(正・続)がある。
1958年東京大学文学部哲学科卒業、同時に文部省入省。
1977年より同省内各課長、京都国立博物館次長、文化庁文化財保護部長を歴任。
1986年宮内庁侍従に就任。
1989年には皇太后宮職参事兼侍従に就任。
1991年国立茨城工業高等専門学校長就任。
1997年に別府大学学長兼教授に就任。
2003年4月杉野服飾大学・同短期大学部学長 兼教授、
2004年5月に学校法人杉野学園理事長に就任。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中村賢二郎 63 昭和天皇とお正月

★中村賢次郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
なか中村賢次郎

★中村源次郎
『北海道人名辞書』(金子信尚編 北海民論社 大正12年刊)
なか中村源次郎(「北海道人名辞書」)

★中村健郎
な中村健郎
両津高校20代校長(平成20年4月~平成23年3月)。

★中村幸一
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p451

★中村幸右衛門
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
かわ川上仁平次

★中村幸吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
なか中村幸吉 新潟県官民肖像録 明治41年

★中村心香(このか)
なか中村心香(このか)

★仲村サク
金丸公民館
なか仲村サク

★中村佐魂
『両津市要覧(昭和33年)』より
中村木子om/s/a/d/sado2298/20171203163156860.jpg" alt="なか中村佐魂" border="0" width=90% />

★中村三郎「躍進日本」
「躍進日本」
なか中村三郎「躍進日本」

★中村三太郎
湊漁師。明治24年、加賀より手繰り網を取り寄せ、許可を得て操業。

★中村治右エ門
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
かわ川上仁平次
なか中村治右衛門

★中村治作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
湊町 ・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]

★中村雀三郎(=長江の武助)
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)

★中村重左衛門、重次郎、重五郎、重助(小倉村)
長谷
なか中村重左エ門・重五郎 長谷 (1) なか中村重左エ門・重五郎 長谷 (2)
『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
明和の代表的義民である、畑野小倉の人。重左衛門は小倉の名主であって、小倉、猿八、大久保などの山間部の総代として活躍した。特に回文や連判取りまとめなどを分担したために、取調べの進行にともなって、分家の実弟重次郎、令息重五郎まで連坐して捕えられた。これは重左衛門が入牢してから、家宅捜索を受けたためである。佐渡数度の一揆の中で、親子兄弟三人同時に捕えられたのほ中村家だけである。放免されて間もなく、明和七年五月十四日獄中の疲労で病没した。中村家は現存し、俗称を牛場(うしば)という。墓所は同家の裏山にあり、分家のお墓も接続してある。法名ほ、勝寂院種善浄居士という。なお、小倉川のほとり、物部神社附近には、同村の総動員にょって執りおこなわれた、宝暦飢饉の餓死者一千五百人の大供養塔が建立されており、当時の同村の惨状が眼前に浮ぶようである。僧侶も各宗派連合で奉仕している。
7img657(右大)宝暦飢餓死者供養塔-畑野町中小倉
(右上小)明和義民記念碑-旧遍照坊跡
(左上段)本間藤右衛門-畑野町畑野、西の堂墓地
(左中段右)中村重左衛門の墓-畑野小倉
(左中段左)熊谷六左衛門の墓-畑野畑野、西の堂墓地
(左下段)熊谷六左衛門の生家-畑野畑野本郷
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))

★中村習之
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)
なか中村習之

★中村周蔵(なかむらしゅうぞう)
【生没】一八六四ー一九三五 元治元年二月九日、雑太郡北片辺村に生まれる。昭和十年十一月二十四日死去。沢根の五十里篭町の宮大工、初代明石近陽の弟子であった。明石家の弟子のうち、片辺出身者の名前は見あたらない。
【参考文献】「沢根村史編さんのための調査資料(謄写刷)」 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

★中村十郎
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
13 “妖(あや)かし”のはなし 15 乙和池幻想図譜 74 「冬の虹」-山本修之助遺句集- 愛誦句

★中村叔平
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)7代校長(昭和8・3・31~昭和10・9・14)、長野県人。

★中村俊治
 両津高校時代の1972年度(S47)6月、第11回北信越高校陸上競技大会(石川県)砲丸投5位       
 8月、第25回全国高等学校総合体育大会(山形県)陸上競技 出場

★中村準次郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
なか中村準次郎

★中村重蔵
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
明治二十二年に町村制が施行された時の小倉村〔小倉〕猿八・長谷の初代村長。(〔 〕は役場所在)

★中村政吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
な中村政吉

★中村清三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
湊町 ・明2、越佐の有志者北辰自由党を組織す(十六年九月十日解散)[十五年四月十日]
・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
中村清三郎
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数22・26・59

★中村政治
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
なか中村政治 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★中村政次
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p384・387・388

★仲村征司
昭和17年生、佐渡高校卒、真野金丸出身。
名古屋工大卒、前田建設部長などを歴任。

★中村清助
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
石田村鍛冶の祖は、慶長八年(1603)、大久保長安が佐渡支配のとき随従した中村清助という。清助が石田川のほとりを移住の地と定めた理由については、いまもって解けないナゾではあるが、鶴子の金銀山が天文十一年(一五四二)に本格的採掘にはいり、其の後稼行が続いていたことや、川原田が上杉氏以降慶長八年(一六〇三)まで一国の行政庁所在地であった事などが原因ではなかろうかと推測される。さらに竹田(遠藤氏)、下畑(金子氏か)、中興(近藤氏)の鍛冶衆が、戦国末から江戸の初頭に石田に移住したという灰かな口碑が残る。これらのことから、資料には欠くが清助の入村の素地があったものと思われる。鍛冶頭取中村清助が揖州尼ケ崎(兵庫県)から招かれるのは、急増する鉱山入用鉄道具打立てのためである。
たがねはもとより御用船、御役所入用の釘などの製作に従事し、其の後、一国の鍛冶頭取となった。頭取
は、鍛冶職はもちろん、鋳物師や錺(かざり)職など諸職の支配者である。
中村清助は、徳川期を通して、代々これらの職分の取締りに当って釆たが、大正年間に相川町字小田へ移り雑貨商を営み、はどなく東京に転出した。元禄検地帳にのる清助の屋敷「東、四畝十歩」ほ、現在の鍛冶町東方七一四の一番地、本間年雄氏の所有である。
・清助は河内中村の人で、鍛冶職集団(20軒もあった)として大久保長安に招かれた。
『田中圭一講演集(第三集)「氏江市郎兵衛の話」』より
佐渡の鍛冶屋の親方を「頭取」と呼びましたが、江戸時代を通じて頭
取をしていたのは、鍛冶町(現佐和田町鍛冶町) の中村溝助家です。それで中村姓が鍛冶町に多くあるのです。中村清助は「自分たちは河内丹南郡からやって来た」と言っていました。河内丹南郡(現大阪府南河内郡)といえば、日本の鍛冶屋の発祥地と言われる所です。相川金山の繁栄とともに彼らは大久保長安に招かれて佐渡に渡り、鍛冶町に住んで商売をしておりました。その頃鍛冶屋が二十軒、錺屋(かざりや:金属のかんぎしや金具などの細かい細エをする人)が四軒ありましたから、商売人たちが町をつくっていたことになります。

★中村泰三
「躍進日本」
なか中村泰三「躍進日本」

★中村瀧蔵
『続佐渡酒誌』(平成14年)
なか中村瀧蔵 『続佐渡酒誌』(平成14年)

★中村琢二
「ウィキペディア」より
中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 1988年1月31日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。
・経歴:鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の二男として、当時啓二郎が勤務していた佐渡金山があった新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に生まれる。洋画家の中村研一は実兄。1899年、愛媛県新居浜に移り、1906年より、福岡県の祖父母のもとで育つ。福岡県立中学修猷館に入学し、在学中に兄・研一や児島善三郎らが創立した絵画同好会「パレット会」に参加して、西洋絵画を勉強している。1916年、父の跡を継ぐべく第五高等学校理科に進むが、健康上の理由で中退し、第六高等学校英法科に入学して、1924年、東京帝国大学経済学部を卒業する。1928年、フランス留学から帰国した兄・研一の勧めで画家を志し、1930年、『材木座風景』で第17回二科会展に初入選する。同年から、兄の紹介で安井曽太郎に師事する。1937年、一水会が創立されるとこれに参加し、1938年、第2回一水会展に『母と子』などを出品して岩倉具方賞を受賞する。1939年、第3回一水会展に『ボレロの女』などを出品して一水会賞を受賞する。1941年、第4回文部省美術展覧会(新文展)で『女集まる』が特選を受賞する[1]。
1942年、一水会会員となり、1946年、同委員となる。1953年、第15回一水会展出品作『扇を持つ女』で、芸能選奨文部大臣賞を受賞する。1962年、第5回日本美術展覧会(日展)で『画室の女』が文部大臣賞を受賞し、1963年、同作品、及び第24回一水会展出品作『男の像』により、日本芸術院賞を受賞する。1965年、紺綬褒章を受章する。その後、1973年、日展参与、1980年、日展参事、1981年、日本芸術院会員、1982年、日展顧問を歴任する。風景画、肖像画を主に描き、中間色を用いた穏やかな作風、明快な構図、軽妙な筆触を示した。1988年1月31日、急性心筋梗塞のため横浜市金沢区の横浜南共済病院で死去。享年90。
・画集: 『中村琢二画集』(六芸書房、1984年)
・脚注:
1.^ 官展歴代受賞者リスト

★中村竹四郎
「岩首校百年誌」(昭和55年)
なか中村竹四郎 岩首校百年誌(昭和55年)

★中村多作
旭桜会

★中村正
「島の新聞」索引(人名別)

★中村仲右衛門
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
なか中村仲右衛門 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★中村千代
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7赤いテープ 8住吉公民館一日研修旅行に参加して 9羽二生の地蔵巡りに参加して 10すみよしの浜辺のひととき

★中村恒雄
なか中川恒雄 なか中村恒雄 なか中村恒雄 h290524 (1) なか中村恒雄 h290524 (2)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・グラフ佐度(・「厳正な手続きを踏んだ」佐渡市長争う姿勢・波の泡帯・渋谷暴動事件 大阪正明容疑者再逮捕)「55号」(平成30年10月)・風化させてはならない渋谷暴動事件(蘭丸)※中村恒雄・中村秀雄「61号」(令和2年4月)・中村恒雄さんの慰霊碑(池登史邦)

諸情報

★中村強
佐渡高校時代の昭和35,全日本学校書道連盟野田支局主催全国学生展推薦 
昭和37、全日本学生清書コンクール特選  

★中村禎里
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中村禎里
 102 佐渡貉祠の成立  104 団三郎と隠れ里 105 佐渡の貉伝説

★中村哲彦
「佐渡ジャーナル」関係記事:「38号」(平成26年7月)コンクリートの隙間でド根性キャベツ育つ(強清水 中村哲彦宅)

★中村傳十郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]

★中村藤作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川町江戸澤、佐渡郡長 ・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]


★中村敏郎

河原田本田寺
なか中村敏郎 河原田本田寺 (1) なか中村敏郎 河原田本田寺 (2)


★中村富雄

「躍進日本」
なか中村富雄「躍進日本」 (2) なか中村富雄「躍進日本」


★中村富雄

夷保育園園長
なか中村富雄 夷保育園園長

★中村智子
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 10御詠歌に出会う 

★仲村中蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
なか仲村中蔵

★中村仲蔵
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂大野の人、山田紋四郎を主に、島内は勿論越後方面各地に村祭の余興や興業をして大喝采を博した「紋四郎かぶき」の一員。
→山田紋四郎

★中村藤作
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
なか中村藤作 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★中村敏郎
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
 43 はしきわれらが学園-前真野町立真野中学校校長-  60 私の文弥のふるさと

★中村智子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 126 句碑建立に心を寄せて

★中村友美
 両津高校時代の1998年度(H 10)、第14回全国高等学校簿記コンクール新潟県大会 団体 準優勝(伊藤寛記 俵法子 中村友美  萩原友紀)

★中村直躬
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中村直躬 72 佐渡の文人、郷土史家 山本修之助先生 追悼・中村奈津子
 4 「冬の虹」-山本修之助遺句集-  76 佐渡だより  79 「追悼 山本修之助」  80 本当の故郷  130 山本修巳句集『花麝香』 

★中村ハツ
「岩首校百年誌」(昭和55年)
なか中村ハツ 岩首校百年誌(昭和55年) (1)
なか中村ハツ 岩首校百年誌(昭和55年) (2)

★中村隼人
「岩首校百年誌」(昭和55年)
なか人中村隼人 岩首校百年誌(昭和55年)

★中村晴隆
『両津町史』(昭和44年刊)
湊の妙法寺は法華宗で有名檀越中村氏の五代晴隆によって新穂の大野村正教寺の日■(術のニスイ)を初代として造立されたといわれる。出来た場所は中村氏の畠といわれている。寛永元年のことである。中村氏の系譜に依ると、中村氏は五代から七代にかけて御口屋役人となったという。御口屋役人と言うのは、従来その地にあった有力な商人を番所の値打ち役人としたものである。だから、中村氏がこ初期の番所が今の勝広寺、妙法寺の附近にあったことをあらわすものと考えてよい。そうすれば今の消防署の近くということになり、そこには服部伊豆守という奉行所差廻しの役人と中村氏以下おそらくは総勢五人の問屋がいたであろう。この御口屋の置かれた場所も今日では忘れられしまっているが、今の勝広寺付近であろう。中村氏一族の居住地もそのあたりに分布しているし、妙法寺はその中村氏一族の立てた寺である。最も妙法寺が建った寛永元年(一六ニ四)頃には、そのあたりは砂畠であったとも言われるから、今日のように家は密集していなかったかも知れない。中村家によると、この一族は大阪からこの国に入り、寛永の頃、口屋役人衆になったとしている。そうして見ると、元和の前慶長の頃には、今の勝広寺界隈が既に港になっていたと思われる。このことは夷上町の砂浜にはじめて家が建てられたのが慶長十年代であることと符合する。今の湊や夷はおおよそ慶長の頃に家並がたちはじまったのである。
『両津町史』(昭和44年)
文明十八年摂津国中村から来国したとつたえ、五代から七代までの三代の間、湊の口屋役人をつとめたという。

★中村春彦(なかむらはるひこ)
「佐渡ふるさと百科」
なか中村春彦 佐渡ふるさと百科
【生没】一八○七ー八五 熱串彦神社神官・歌人、両津・湊の人。文化四年湊町番所付問屋中村次郎左衛門一族に生まれた。初め忠生、のち次郎右衛門と称し、養松軒と号した。江戸に上り、賀茂季鷹・賀茂直兄・香川景樹・海野遊翁らについて国学和歌を学び、明治初年権少講義に任ぜられ、熱串彦社神職となり、一方学校教員も勤めた。両津町を中心に「花月社」を結び和歌を指導し、その門弟一○○人といわれる。明治初年は、最後の佐渡奉行であった歌人の鈴木重嶺が、相川県参事(後権県令)として再赴任し、相川を中心に多数の門人を集めていて、東西の両巨頭の観を呈した。春彦が七○歳の時に出した歌集『松廼布類枝』には、重嶺が序文を書いている。明治十八年没。湊の日蓮宗妙法寺墓地に、「中村春彦奥津城」と刻む神式の墓碑があり、裏面に辞世の歌、「我身よに受もち来つる魂を結びの神に今や返さむ」が彫られている。寺域に神式の墓があるのは、同寺が中村家の所有する畑地を寄進して建立され、中村氏が代々檀徒頭をつとめていたことによるものであろう。
【関連】鈴木重嶺(すずきしげね) 【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』、酒井友二『佐渡のうたびとたち』(新潟日報事業社)
【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)
なか中村春彦
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
両津市湊の人で通称は次郎右衛門、はじめ忠生といい養松軒と号した。加茂直兄、加茂季鷹、香川景樹、海野遊翁等について和歌を学び、維新のはじめ権少講義に任じられ、熱串彦神社の神職となった。遺構に、松の古枝がある。(佐渡人名辞書)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
な中村春彦

な中村春彦 (2)

「明治の敬老会」(「佐渡の百年」)

「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
 41 鑑賞 佐渡のうた (34) -補遺- 中村春彦 山本修巳
 『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐渡歌壇史余滴(四) 中村春彦と門弟たち 酒井友二
越佐名誉鑑. 初篇(※中村春彦・山本悌二郎・益田孝 狩野栄次郎編 明25)

★中村彦右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
鋳物肺。佐渡相川の人である。弘化二年(一八四五年)に百目玉抱打筒二挺を鋳立て鉄砲師佐々木八郎兵衛がこれを仕上げた。(佐津年代記下巻)

★中村久雄
佐渡中学大正14年卒、佐和田中校長。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p395

★中村久子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中村久子 49 更科源蔵先生を悼みて

★中村秀雄
令和2年2月没、76歳。
なか中村秀雄050707 なか中村秀雄
「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・グラフ佐度(・「厳正な手続きを踏んだ」佐渡市長争う姿勢・波の泡帯・渋谷暴動事件 大阪正明容疑者再逮捕)「55号」(平成30年10月)・風化させてはならない渋谷暴動事件(蘭丸)※中村恒雄・中村秀雄

★中村蓉芳
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より なか中村蓉芳

★中村木子→佐魂

★中村征夫
「島の新聞」索引(人名別)

★中村美恵子
両津高校時代のs37年、総体(香川)ヨット女子A級ディンギー級5位(中村美恵子、中村昭子、長谷川広子、八代穠子、越次かな)

★中村光雄
「佐渡ジャーナル」(47号 h28年10月)
なか中村光雄

★中村村次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十一年生 畑野村、農業 ・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]

★仲村村次
※上の中村村次と同一か。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十一年生 畑野村目黒町、農業 ・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]

★中村暢子(ようこ)
平成27年2月24日 新潟日報
なか中村暢子(ようこ)

★中村美沙希
「エスライフ」2014年8・9月号
なか中村美沙希 エスライフ2014年8・9月号 1 (2) なか中村美沙希 エスライフ2014年8・9月号 1 (3)


★中村保彦(もりひこ)

教員、地域をよくする運動、図書館存続運動等で活躍した。令和3年1月没、84歳。小木町の人。


★中村良夫

なか中村良夫 (1) なか中村良夫 (2) なか中村良夫 (3) なか中村良夫 (4) なか中村良夫
新潟日報(h28年4月12日) 市議 東京都出身(郵便局勤務) 
せん選挙 h28 4 11 (4) せん選挙 h28 4 11 (5)


平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報
なか中村良夫


★中村義隆

中村義隆 中村義隆 (1) 中村義隆 (6) 中村義隆 (7)
「略歴」
昭和7年(1932)新潟県佐渡市に生まれる
昭和30年(1955)新潟大学教育学部卒業
 その後、新潟県内小・中・高等学校に勤務
平成5年(1993)新潟県立六日町女子高等学校長 定年退職
この間に、
 新潟市郷土資料館
 新潟県史編さん室
 新潟県立教育センター に勤務
その他
 新潟市史編さん委員会主任編集員
 岩室村史調査員
 巻町史編さん委員会近世史部会長
 吉田町史編さん委員会近世史部会長
 東蒲原郡史編さん委員会近世史部会長(現在)

「発表論文等」
「幕末期越後豪農層の北蝦夷地漁場開拓」(『日本海地域史研究』8輯、文献出版)、1988年
「新潟平野における割地制度の歴史的展開」(『近世越後佐渡史の研究』、名著出版)、1976年
『新潟県の歴史』(共著)、山川出版、1998年
写真集『新潟市パノラマ館』、郷土出版、1999年


★中村由蔵

『続佐渡酒誌』(平成14年)
なか中村由蔵 『佐渡酒誌』(平成14年) (2)
なか中村由蔵 『佐渡酒誌』(平成14年)


★中村芳太郎

旭桜会


★中村吉秀

佐渡高校時代の昭和47.10.15、陸上競技県高校新人選抜大会(三条市)入賞


★中村怜

両津湊の人。
両津消防署勤務を経て、佐渡汽船湊移転に伴いターミナル内に湊地権者達によるシータウン商店街が出来ると役員として活躍した。喫茶「カド」も経営する。
島内自民党や近藤元次後援会の重職を務めた。

「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より
なか中村怜


★中村亘

「佐渡ジャーナル」関係記事:「9号」(平成19年4月)東京相川会長老中村亘さんを偲ぶ(原田佑三郎)


★中本英彦(なかもとひでひこ)

相川大山祇神社
なか中本英彦 相川大山祇神社
【生没】一八七三ー(没年不詳) 明治六年二月、山口県阿武郡三見村に生まれる。明治三十一年、東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業、同年八月三菱合資会社に入社して、佐渡鉱山技師に任命された。明治三十三年六月、佐渡鉱山製錬課長に昇進、同三十六年工作課長を兼任、同三十九年三月佐渡鉱山技師となり、翌四十年佐渡鉱山副長、同四十四年六月佐渡鉱山長に就任し、大正六年(一九一七)九月に、大阪製錬所長として転出するまでその職にあった。この間、明治三十三年に『揚鉱論』、明治三十六年には『佐渡鉱山説明書』著し、同三十七年八月沈殿法を廃止して砂鉱青化法を採用、同年九月混汞製錬法を廃止、同四十年一月泥鉱青化法を採用、同四十四年新泥鉱法を設計新設などの技術改革を行なったほか、入川鉱山を買収して立島鉱山と合併し、高千支山を置いた。佐渡を離れてからは、大正七年本社採鉱課長、同八年技師長となり、同十一年三菱鉱業会社取締役に就任した。その後、国内各地の鉱山はもちろん、シベリヤや朝鮮・中国などの鉱山を調査し、設計などを行ない、晩年には「青化製錬法」を執筆した。没年不詳。
【関連】佐渡鉱山長(さどこうざんちょう) 【参考文献】平井栄一『佐渡鉱山史(稿)』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)





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Author:渡辺和弘
・佐渡市両津夷在住
・両津高校-同志社大
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