2021-01-10
★土屋誠
『行啓の吉井村』(昭和3年11月 市橋千太郎発行)より

★土屋正起

「島の新聞」索引(人名別)
★土屋正純
「島の新聞」索引(人名別)
★土屋雅春
(株)ウイリアム イ・クラークアンドサンズ 社長(ceo)
・不動産の賃貸・管理 ・有価証券の運用 ・M&A(企業経営)のコンサルタント ・リゾート開発(現在 非事業) ・出版
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「10号」(平成19年7月)追悼 中塚良一先生 「ふる里の山に向かって・・・ありがとう」(土屋雅春)
★土屋正容
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
★土屋増一
「島の新聞」(95号)
佐渡鷺流の先駆者たちは、宗家に学び、佐渡に芸を伝えた。草分けは吾潟の葉梨源内。一八二一年(文政四)に宗家十六世仁右衛門に師事たとされるが、島内での記録はない。沢根の土屋辰次郎が一八五三年(嘉永六)に上京し、宗家十八世から相伝書を受けているが、帰郷後は不明。同時期、五十里の林喜正が十八世と十九世に師事し、相伝書五通を受けて帰島。昭和初期の林家の火災で相伝書は焼失したが、喜正が使用した台本が真野町の若林義太郎家に移されて保存され、今日の鷺流復活の基となっている。喜正に師事した青野の小杉忠三郎は上京して宗家に学び、零落した宗家から伝来の古面や台本を譲り受けて帰郷した。佐渡は正統を継いだことになる。幕末から明治期にかけて最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用心として来た三河静観は明治維新後も両津に定住し、和歌や狂言を安藤世彦・幸彦父子に教えた。湊に住んでいた天田狂楽は安藤父子に手ほどきを受け、明治三十年代に上京して畔翁に指示し、皆伝免状を受けて帰島している。天田は名人といわれ、多いときは年間五〇~六〇回演じたという。また天田は、喜正の弟子で加茂歌代の古木弥十郎らと明治末期に両津鷺流狂言会を組織した。天田が一九四四年に没すると、佐渡狂言は衰運をたどる。一方、真野では鶴間兵蔵が明治十八年から二度上京し、一噌流の笛と狂言を学び、帰郷して活躍、後継者を育てた。高弟の若林米蔵らは能楽上演団体「笛畝会」を立ち上げ、狂言も演じた。米蔵に師事したのが佐々木文蔵、その弟子が鷺流最後の狂言師土屋増一である。これらは要となる人物で他にも多くいた。中央で芸を身につけた人々の活躍で、明治後期から昭和初期にかけては佐渡鷺流の最盛期だった。「能楽を学びに上京して、能をやるなら狂言もと身につけたのだろう。能楽があったから佐渡に継承されてきたと考えられる」と祐亨さんは見る。最近になって天田家に伝わる台本が島外へ持ち出されてしまった。小杉家が宗家から譲り受けた古面や台本も今では小杉家を離れ、転売されて所在不明となっている。天田本や小杉本を借りて、安藤本と照合していた裕亨さんは「佐渡鷺流狂言の復活に欠かせない貴重な財産。調査未了のうちに散逸してしまい、残念でならない」と嘆息する。安藤家は代々夷諏訪神社の宮司で台本は保存されている。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野町公民館は週一回、囃子方と狂言の講座をひらいている。狂言の指導は土産増一・遠藤信一・若林義太郎・中嶋武雄の四人で始まった。土屋は明治四二年生まれ、佐々木文蔵から鷺流狂言を習ったから笛畝の孫弟子になる。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野の狂言は鶴間笛畝に始まる。明治一八年に上京した時に鷺流の狂言も習った。真野での弟子に岩本量宏(明治五-昭和二八年)や佐々木文蔵(明治一七-昭和三六年)がおり、文蔵の弟子に土屋増一がいる。


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→葉梨源内参照
→若林米蔵「笛畝会」参考
「島の新聞」索引(人名別)
★土屋松蔵
畑野の人で、「日本基督教協会佐渡講義所」における最も活動的な信者であった。佐渡プロテスタント(新教)の最初の信者である同じく畑野の内田要蔵に勧められて入信する。「長五郎番匠」と呼ばれた。元々は天理教信者であったが改宗した。明治40年7月21日に洗礼を受け、彼のせがれ長吉、養女マサもその後洗礼を受ける。畑野に佐渡で最初に出来たプロテスタント教会は彼が棟梁で建てたもの。大正5年春のことで、献堂式は8月26日、現在の県信用組合西側の二階建の建物。この教会に来た牧師は佐渡中学を追われた嶺直貴であった。(参考:「佐渡プロテスタント小史」本間雅彦)
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)
★土屋学
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・7・8・21第5回県青年団水上競技大会(県青年団)加茂湖プール 200平2位 3.36.8
★土屋守
「ショートプロフィール」世界を代表するウイスキー評論家、作家、ジャーナリスト、スコッチ文化研究所代表。1954年生、両津夷出身。学習院大卒後、週刊誌記者(「フォーカス」)を経てロンドンで日本語雑誌の編集に携わる。帰国後、ウイスキー、関連の著述で活躍中。ハイランドディスティラーズ社より「世界のウイスキーライター5人」に選ばれる。主な著書に『モルトウイスキー大全』『ブレンデッドスコッチ大全』(小学館)など多数。

ウイスキー評論家、作家、ジャーナリスト、スコッチ文化研究所代表。1954年生まれ、両津市夷出身。実家は源助屋履物店で、母は商店会婦人部会長等で活躍された。佐渡高校時代は山岳部、学習院大学時代は探検部に籍を置いた。学習院大学文学部卒後、週刊誌記者(「フォーカス」)を経てロンドンで日本語雑誌の編集に携わる。帰国後、ウイスキー、釣り、紅茶、英国関連の著述で活躍中。1988年、ハイランドディスティラーズ社より「世界のウイスキーライター5人」に選ばれる。主な著書に『モルトウイスキー大全』『ブレンデッドスコッチ大全』(小学館)など多数。
・主な著作
「イギリス・カントリー紀行」(1995年5月) 「モルトウィスキー大全」(1995年12月) 「ブレンデッドスコッチ大全」(1999年3月) 「スコッチ三昧」(2000年5月) 「スコットランド旅の物語」(2000年7月) 「改訂版モルトウィスキー大全」(2002年4月) 「シングルモルトを愉しむ」(2002年11月)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)ジャーナリストが予言する佐渡の未来ー「セレブの島・佐渡」をめざせ(スコッチ文化研究所・土屋守、世界日報主筆・木下義昭、共同通信論説委員・岩田雅)「17号」(平成21年4月)この一冊「ウイスキーちょっといい話」(土屋守著)
諸情報
★土屋萬吉
大野日吉神社

★土屋萬平
大野日吉神社

★土谷三重子
佐渡高校時代の40年、白扇書道会主催全国学生書道展最高賞
★土屋三枝子
「島の新聞」索引(人名別)
★土屋美智子
佐渡高校時代の昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★土屋弸(つちやみつる)
【生没】一九○二ー九三 明治三十五年、沢根町五十里に生まれる。屋号忠左衛門。旧制佐渡中学校卒業後、家業の果樹園芸(幽香園)を継ぐ。三二歳より俳句をはじめ、のち無門亭比我子と号し書を能くする。果樹は父忠雄によって、裏山六反歩が開かれてリンゴと洋ナシを植える。佐渡の果樹園芸の草分け。のち武井京蔵によって羽茂に栽培技術が伝えられた。先祖は田中村山口に居住し、中使を務め、農業の傍ら鉱山稼ぎをしていたという。田中町の東端に居住することから「東」と呼ばれた。父は一○人の子供を残し死亡、自分の子供五人を合わせ、一五人の養育をする。戦時中、沢根町青年団長・町会議員など歴任。戦後は佐和田町文化財調査審議委員長として『文化財第一集』を発行。能狂言・生花にも通じ、農の心に徹して生きた在野の教養人。旧家の多くは子供に教育投資をし生家を去っていくなかで、みずから百姓を認じ、「こだわらず生きたし柿はかきいろに」の心境で生涯を通した。その心境は、喜寿を迎えた頃から著作となって現われる。昭和五十四年(一九七九)『きじゅ雑記』には、「生き得たり七十七年梅の宿」とある。四年後の『峠』には、懐旧の思いとかたよらぬ時代評を書き残す。田んぼの向うに、青野峠が手にとるように見える自家で、八十路の錦繍の峠で書く心境で記している。他に平成二年『比我子作品集』がある。書家の評価を受けるのを好まず、「もの書き」に徹していた。相川の間山「江戸水替小屋跡」の碑の脇に、「謳歌天領者往々而不識地底水替哀歌」の漢詩を残す。平成五年、九○歳で歿。【参考文献】『きじゅ雑記』、『峠』、『比我子作品集』 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
梨やリンゴの栽培は、第一次大戦ころから昭和の初期ころにかけて、佐々木伝左衛門や小川内の渡辺八十八、合沢の羽生忠二郎、四日町の菊池長右衛門、沢根の土屋弸(つちやみつる)らによってはじめられた。とくに梨は大正九年、郡の農業技師山田忠平が桃の栽培の良好なのをみて、梨の栽培を勧めたのが動撥となって、翌年には佐々木伝左衛門らが早生赤、長十郎などを植えた。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=6
★土屋実
夷新の人。佐渡汽船勤務、重職を担った。昭和23年佐渡民報社が懸賞付きで募集した七夕歌を作詞する。
「七夕祭のうた」作詞・土屋実、作曲・中田信
http://sado2298.blog.fc2.com/blog-entry-757.html
★土屋実

新穂出身、佐渡高校時代の31.9.22~23、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市) 総合45点2位、1500m入賞 ・32.6.8~9、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合29点2位、1500m2位・5000m3位 ・32.6.30、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(校本市)総合24点2位、1500m・5000m入賞
法政大時に箱根駅伝に出場。
・昭和36年(37回)9区、4位、団体成績8位。・昭和37年(38回)1区、4位、団体成績8位。
★土屋村雄
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村栗野江 ・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★土屋杢太郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

『続佐渡酒誌』(平成14年)

『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

★土屋元治
『加茂村誌』(昭和38年)


『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂村 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、新潟政友会支部の総会[七年十二月二十二日]
★土屋元治
※上記 土屋元次と同一人物か?
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大1、政友会新潟縣支部会[三年十一月十二日]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日]
★土屋守太郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

★土屋友松(重平)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★土屋幸雄

★土屋裕
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p378
★土屋吉蔵
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★土屋芳造
長畝気比神社

★土屋俐歌➡土屋俐歌(さとか)
★土屋理川
新穂長畝、土屋五郎左衛門家の人、連歌関係者。→下記資料のp685、688他
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★土屋竜
佐渡高校時代の平成7.12.26、ソフトテニス県高校インドア大会(五泉市)男子個人 土屋竜・入舟寿和組2位
平成8.1.14、ソフトテニス北信越高校インドア大会(石川県能都町)男子個人 土屋・入舟組出場
平成8.5.27~29、ソフトテニス県高校総合体育大会(新潟市) 男子団体ベスト8、男子個人 土屋竜・入舟寿和組2位
平成8.6.14~16、ソフトテニス北信越大会(高岡市) 土屋・入舟組 臼杵・菊地組出場
平成8.8.2~8、ソフトテニス全国高校総合体育大会(石和市) 土屋・入舟組出場 3回戦進出
★土屋亮興
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★土屋良太
「ウイキペディア」より


新穂大野出身の俳優、1967年(昭和42年)5月17日生まれ。新穂中-佐渡高校-早稲田大。1993年劇団3○○養成科夢人塾一期生。同年、劇団員となる。(1997年劇団解散)2004年当事務所所属となる。妻は女優渡辺えり。
(主な出演作品)
【映画】 アゲイン28年目の甲子園 臨場劇場版
【舞台】 ペリクリーズ 奇妙旅行 あかい壁の家 イーハトーボの劇列車 シュペリオル・ドーナツ 天使猫 ペテン・ザ・ペテン ゲゲゲのげ 木の皿 山の声
【テレビ】 相棒 おひとりさま トップセールス
【CM】 協和発酵
★土屋老白
新穂長畝、土屋五郎左衛門家の人、連歌関係者。→下記資料のp685
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★土屋六右衛門(つちやろくうえもん 二六 正利)
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

一枚目は昭和11年の写真、時雨松の下で。右斎藤八郎兵衛(83歳)、 左六右衛門(69歳)

顕彰碑(福浦公園内)


【生没】一八六八ー一九三七 明治元年十二月十九日、夷町(現両津市夷)小池佐太郎と母このの次男として生まれ、同町土屋六右衛門(屋号俵屋)の養子となった。幼名辰之助・諱正利、明治三十八年(一九○五)家督を継いで、六右衛門を襲名し二六と号した。七歳の時若林玄益の門に入り、漢学を学んでいる。明治二十九年、養父の佐渡銀行創立の運動に加わり、同三十八年、後を継いで専務取締役となった。明治四十四年、佐渡で最初の佐渡水力電気株式会社を創設、大正二年(一九一三)、島民資本による佐渡商船株式会社を設立して社長に就任、越佐航路の改善に尽力した。大正八年所有船の遭難や戦後不況の影響で佐渡銀行の取付事件が起こったため、職を辞し、私財を投じて整理に充てた。政治家としては、国権党から民政党に移り、明治四十四年から三期県会議員に当選した。大正五年から五期二○年にわたって両津町長をつとめ、この間、両津港の築港、加茂湖の埋立て、水産講習所の開設・水産加工品の改良、蠣の養殖などに努めた。また、浜田地域に新市街地を開設したため、町民はここを「俵屋町」と呼んで、その恩恵を称えた。町長及び県会議員在任中の昭和十二年三月十七日、新潟で病没した。
【関連】佐渡銀行(さどぎんこう) 【参考文献】『両津町史』・若林万吉『二六土屋正利先生追懐録』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※土屋六右衛門頌徳碑(つちやろくえもんしょうとくひ): 福浦の城之上公園は眺めのよい高台にあり、静かな憩いの場となっています。遊具が整えられたその小さな公園の隅には、「二六土屋翁碑」と題する大きな石碑があります。土屋六右衛門の功績をたたえて建てられたものです。六右衛門は明治元年(1868年)に夷で生まれました。若林朔汀から漢籍を学び、努力の末、佐渡郡会議員や県議会議員の道を歩みました。そして、大正5年(1916年)には両津町長に就任、以後二十数年の長きにわたり郷土の発展に尽くしました。加茂湖における漁業の振興や港湾整備、上水道建設など、その業績は枚挙にいとまがなく、私財の投入も惜しみませんでした。その傍ら、銀行・電気会社・商船会社の経営に携わりました。しかし、昭和12年(1937年)に旅先で病に倒れ、六右衛門は70歳の生涯を閉じました。ところで、明治の末ころに六右衛門は貸し家を建て、「俵屋町」と呼ばれる町並みを整備しました。それが現在の浜田になります。昭和18年(1943年)に建てられたこの石碑は、最初は両津港北ふ頭にあり、佐渡市役所両津支所前への移転を経た後、この福浦の地に移された。(※昔「鏡が岡」があった地にできた小公園内)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数59・67・140
諸情報
★土屋和吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]
新穂武井 熊野神社

★都築和良・千鶴子
「島の新聞」索引(人名別)
★都筑金三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、嘉永六年(一八五三年)三月二十四日、勘定吟味役より佐渡奉行となった。
六月十六日相川へ着いた。名は峯重、知行二百俵、役料千五百俵百人扶持である。七年四月八日相川を出発、江戸に出、伊豆下田奉行に転任し、駿河守と改めた。(佐島遺事)
★都筑静雄
「躍進日本」


東京相川会3代目会長。
「黒龍堂」(女性用化粧品で当時のヒット商品)社長、弁理士。
★都竹通年雄(つづくつねお)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)都竹通年雄(つづくつねお) 3 外海府の真更川の方言資料から
★包音吉完記(すけのり)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。大石岡田包。
★常木桂三★常太夫
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1ウマの合う斎藤兄貴・常木桂三
★常太夫
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★角田房子

「ウイキペディア」より
『アマゾンの歌』(角田房子)と「佐渡おけさ」
初期アマゾン開拓者達を実名で追ったドキュメンタリー風作品に次のようにある。
「即ちタイトルの「アマゾンの歌」は「佐渡おけさ」なのだった」。又、冒頭部分に故郷を懐かしんで「軍歌から民謡へ、民謡からまた軍歌へと、同じ歌があきずに繰り返された。調子外れの「佐渡おけさ」が歌われ、替え歌も混じる。」「ハアァ、来いと いうたとて 帰らりょかァ故郷(くに)へよ 故郷は幾千里 波の果てえェ……」「みなが今さらに、故郷の遠さを思う顔になった。波の果てに浮かぶ祖国へ、再び帰る日が来るのだろうかー。ハアァ、来いと…ヒイーッと、悲鳴に近い声が、おけさの哀調を貫いて流れた。甲板にしかれたゴザにしがみつくようにして、若い女が泣いていた。夜明けと共に、歌声も消えた」。以前、NHKドキュメント番組でもアマゾン移民が取りあげられ、新潟県出身者が佐渡おけさを歌う場面があったのを思い出す。なお角田房子には『いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝』がある。
★椿利策
畑野浜河内出身、自宅は椿屋(屋号)。昭和5年生、佐渡農高卒。県職員労働組合執行委員長を務め、参院議員に転身した志苫裕氏(両津蚫出身で昭和2年生、佐渡農高卒)の後継として1975年県議選に社会党から出馬し初当選。95年まで計4期務めた。妹(昭和10年生)は物部神社宮司加藤瑞穂に嫁いだ。



★鍔師好古
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
鍔師。くわしいことはわからないが、茶家酔舌録に見える。(佐渡人名辞書)
★坪井雲僲(うんせん)
「島の新聞」17号(by 松本秀雄)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の画家で名は素平、字は江という。本間凌山に学んで金岳と号し、ついで僧雪山について雲園と改めた。
晩年京都にのぼり、鈴木百年、黒僢について数年技をみがき要僢と改めた。明治二十二年七月に新潟で客死した。(佐渡人名辞書)
★坪井久太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年 河崎村崎、農業 ・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]
★坪井周富
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)初代校長(明治45・4・16~明治45・5・9)
相川小学校校長

★坪井仙吉
『加茂村誌』(昭和38年)

羽吉の人、明治40年、川内渡辺源一と共に盛岡種馬所より種馬移入。大正8年、市橋長作氏らと共に手廻し脱穀機導入。
★坪井傳之丞陳善
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


文政年中、鯉子3000尾を他国より取り寄せ加茂湖に放入。
★坪井玉蔵
両津羽黒神社

★坪根舒治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
羽茂村 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭4、第十九回衆議院議員選挙[十一年二月二十日]・昭4、佐渡政友倶楽部の大会[十二年十一月十八日]・昭4、山本悌二郎 薨去[十二年十二月十四日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★津村島丸
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

両津片野尾の風嶋神社宮司、昭和50年代に92歳で没。家は孫(次男)正明が、神社は長男一郎が守る。津村家のルーツは長府三田尻(現、防府市)と言われる島丸は昭和30年代まで番傘の製造を行っていた。
★津村節子
左から2,3枚目は佐渡金山にある津村節子文学碑、『海鳴』の舞台は佐渡相川、『紅梅』には佐渡関係の随筆が載る。

夫の吉村昭と共に佐渡を愛し、「海鳴」等佐渡を描いた作品を残す。
夫婦共に元佐渡博物館館長で郷土史家でもあった本間寅雄氏(ペンネーム磯部欣三)と親しく交友し、『紅梅』には佐渡で本間寅雄さんの弔辞を読む話が出てくる。
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※津村節子文学碑(つむらせつこぶんがくひ)
平成三年(一九九一)四月、ゴールデン佐渡の手で建立された。場所は大立坑公園のある下相川地内の奥山で、南の方向に、山頂を二つに裂いた「道遊」の山並みが聳える。北の方に隣接して、明治八年(一八七五)にわが国で初めて開削されたとされる、「大立竪坑」がある。ここは旧銀山町の区域で、眺望のいい高台に建っている。自然石に「慶長六年、三浦治兵衛ら、三人の山師に発見された、鉱脈は、鮎川の渓谷をさかのぼり、鬱蒼とした茂みをぬけると、燦然とその露頭を現わしていた」と刻んである。佐渡鉱山を題材にした、長編小説『海鳴』の一節で、昭和四十年に講談社から出版された。もう一つの石碑には、「望郷の念に駆られながら、若い命を相川に埋めた無宿人たちの、かすかな声が、石や草群の蔭から、聞えてくるような気がする」とした、この小説の取材中の所感が、直筆で刻まれている。津村氏は福井市の出身で、学習院短大国文科を卒業。昭和三十九年に『さい果て』で「新潮同人雑誌賞」、同四十年『玩具』で芥川賞、平成二年『流星雨』で女流文学賞、同十年『智恵子飛ぶ』で、芸術選奨文部大臣賞などを受賞している。初めて『海鳴』の取材で来島したのは、昭和三十七年。以来夫の吉村昭氏(作家、芸術院会員)とともに、たびたび来島して、佐渡に関する数多い随筆・エッセーを発表している。
【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※「佐渡の翼」ブログより
この津村節子文学碑は、既に「けんぱ」さんによって正解が導かれているが、改めてこの地を訪ねてみた。「けんぱ」さんに先を越されたため探し出す楽しみは減ったが、検証作業も又楽しいものだ。佐渡金山第5駐車場に大切山坑があり、その手前に大立公園がある。この公園内に津村節子文学碑があった。文学碑は二つあり、それらには、昭和四十年に講談社から出版された佐渡鉱山を題材にした、水替無宿の青年と遊女の愛を描いた長編小説『海鳴』の一節と取材時の作者の所感が刻まれている。一つには、「慶長六年に三浦治兵衛ら三人の山師に発見された鉱脈は、鮎川の渓谷をさかのぼり、鬱蒼とした茂みをぬけたところに、燦然と、その露頭を現していた」と言う小説の一節が刻まれていた。山師と言うのは「試験で山をかける」と言う言葉があるように、ばくち打ちのようなものだ。のるかそるかの大勝負に出て、一発逆転を狙う勝負師の事だ。当たれば一攫千金だが、はずれれば、奈落の底に突き落とされる。佐渡金山を発見した三浦治兵衛らは、その独特の嗅覚で、濁り川の上流に金脈が存在する事を嗅ぎ取っていたのだろう。鶴子銀山の鉱脈が途絶えると、彼らはその北方に必ず金脈があると信じ、相川に辿り着いたのだ。大した執念であるし、鉱山学の基礎知識なども乏しい時代によくぞこれだけの鉱脈を発見したものである。そしてその掘削技術は現代の最先端技術に比較すれば驚くほど幼稚で拙かった。だから、あれだけの悲哀の歴史と掘削技術の蓄積伝承が形成されたのだ。
もう一つの石碑には、「望郷の念に駆られながら、若い命を相川に埋めた無宿人たちの、かすかな声が、石や草の蔭から、聞こえてくるような気がする」とした取材時の所感が節子直筆の文字で刻まれていた。現代に置き換えれば、その日暮らしの日雇い人夫とソープランドのソープ嬢との悲恋話、道ならぬ恋物語である。左手前方を見上げたら、雪を被った道遊の割戸が真近に迫って来た、物凄い迫力である。過酷な鉱山労働に耐えかねて、若いみそらで世を去った無宿人たちの無念で悲痛な叫びが切々と伝わって来る。この地こそが佐渡の原点である。様々な階層の、様々な職種の人々が織り成す歴史絵巻、それが金山華やかなりし頃の相川の街そのものだ。佐渡金銀山へは、幸田露伴や与謝野鉄幹・晶子など多くの文人が訪れており、それらの文学碑はそこかしこにある。是非とも歴史文学散策のために相川の地を訪ねて頂きたいと思う。
『海鳴』(小説313枚 昭和40・講談社)
「文学者」昭和39年11月~40年8月。作者が何回も佐渡へ足を運び、相川郷土博物館や郷土史家などから資料を得て書いたもの。無宿者であった相川金山の水替え人足直吉と相川の水金遊廓の遊女花衣との話が交互に進みながら、第五章で二人ははじめて出会う。第十章で二十一歳と十九歳の男女は海中へ没する。不当な歴史の強圧の中でたどる若い男女の悲惨な運命を、緊密な構成と抑えた文体で描いた。作者最初の歴史小説。のちに善かれた「相川心中」は素材を同じくする。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
『相川心中』(小説 96枚 姫婦たちの暦 昭和50・講談社)
「小説現代」昭和47年6月。五章よりなる。男と心中を図って、男が死に自分が救われた女は佐渡相川に泊まり、そこがかつて女郎と客が心中した女郎屋であったことから、百年以上も前のことをきく。二、三、四章が、女郎小藤と鉱山労働者の卯之吉が心中を遂げる昔の話。現在を描く、一、五章が外枠となって、社会のひずみにゆがみ落としめられる悲運が強調される。収載されている『娼婦たちの暦』 には佐渡小木の私娼のやさしさを描く「キセル貝」も収める。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
「ウィキペディア」より
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)津村節子
111(磯部欣三さんご逝去)弔辞
142 相川金山の小説「海鳴」 松田実
149 『海鳴』の著者、津村節子先生に拝芝の機を得る -附言 作品の存在意義に於ける一考察ー山田詩乃武
・津村節子 『相川心中』
「紅梅」(津村節子)


★津村禮次郎
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「11号」(平成19年10月)佐度と私-夏の思い出(2007・9・15 津村禮次郎)(田中柾敏)「14号」(平成20年7月)佐渡島の夏(興梠いずみ 一橋観世会)※津村禮次郎
★津谷角五郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★津山照惠
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★津山法韶
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★津山法龍
二見龍吟寺住職。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★露木兵助
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所広間役。天保八年(一八三七年)より弘化三年(一八四六年)三月まで在勤した。佐渡奉行御役宅向模様替建足其外御修復皆出来右御用骨折相勤倹に付、天保十五年に幕府土井大炊頭より銀三枚を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★鶴間彩鈴(あやね)

★鶴間伊右衛門由秋
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035581.html?p=2
★霍間和夫

★鶴間栄次郎


『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
信楽焼窯元「奥田要助」の三男として生れ京焼の大家「清水六兵衛」の窯元にて技法を習得、鶴間家の養子となり新穂に来た。これを相川の三浦常山が聞きつけ無名異焼の指導者として迎え、常山を始め相川の名工は直接間接に彼の影響を受けたと言われる。新穂の陶工としての焼き物は栄次郎焼(別名 太一焼・雲山焼)として知られる。
★霍間和夫

令和5年(2023)2月没、88歳。
※広栄座(こうえいざ):新穂村瓜生屋にある、説経人形座の名称。座長は霍間和夫氏。先代の幸雄は、説経節の佐渡最後の太夫で、平成八年(一九九六)二月、八七歳でなくなった。説経人形芝居の間狂言として演ずる「のろま人形」も、同座で所蔵しており、文弥人形をふくめて昭和五十二年五月、重要無形民俗文化財に指定されている。広栄座所蔵の人形首(かしら)のうち、「乳人」「般若」「神翁」「雷源」「ことわり人形」「白太夫」(以上説経)、「木之介」「下ノ長者」「お花」「仏師」(以上のろま)の一○個は、昭和三十四年三月、新潟県有形民俗文化財に指定された。説経の首は、一八世紀初頭の享保年間のころ、浄瑠璃と一緒に上方から伝えたとされ、「乳人」などの首には、享保ビナとの類似点が見られる。また腰幕の「藪越しの虎」の図柄は、一七世紀後半の延宝年間に、京都四条河原で金平(きんぴら)人形を演じていた、虎屋喜太夫座の櫓幕に似ているといい、高幕一枚の舞台も、元禄三年(一六九○)刊の、『人倫訓蒙図彙』に出てくる山本土佐掾の楽屋と同じ、と指摘する人もいて、享保移入説の裏付けともなっている。のろまの首四個のうち、「木之助」と「下ノ長」は首が上下に動く、「ガクガク人形」と呼ばれ、「お花」と「仏師」は「デッツク人形」と呼ばれて、固定式である。ともに木製の胴体に、首を串状に接続する古い形の人形で、日本の人形首の祖形に近い形式を伝えていて、貴重である。【関連】 説経節(せっきょうぶし)・のろま人形(のろまにんぎょう)・文弥人形(ぶんやにんぎょう)・新穂村歴史民俗資料館(にいぼむられきしみんぞくしりょうかん)【参考文献】 信田純一・斉藤清二郎『のろま・そろま狂言集成』ほか【執筆者】 本間寅雄(『佐渡相川の歴史』別冊 佐渡相川郷土史事典より引用)
「島の新聞」索引(人名別)
★霍間和子
「島の新聞」索引(人名別)
★鶴間和幸
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「11号」(平成19年10月)学習院大学 鶴間和幸教授を訪ねて(中国古代史の権威として活躍中の)
★鶴間禾村(かそん 賢二・太市)

★鶴間喜八郎
「躍進日本」

★鶴間国作

★鶴間賢二
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
★鶴間公作
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★鶴間権四郎
→若林米蔵「笛畝会」参照
trong>★霍間幸雄(つるまさちお)
【生没】一九○九ー九六 説経節の大夫。明治四十二年七月二十三日、新穂村瓜生屋に生まれた。父は太吉、母はふち。その長男である。太吉は説経人形の遣い手であった。一二歳で人形を遣い始めたが、語りは先々代の大夫だった土屋三平(大正五年、七七歳没)が、先代の大夫、山田周吉(昭和二年、四五歳没)に教えるのを聞いて、育ったといい、遣い手から「語りを取る」ようになったのが昭和二年(一九二七)、一八歳のとき。山田周吉大夫がなくなったためで、子が語って、父太吉が人形を遣った時代だった。太吉はヒラ鍬の柄をいれる職人で、下駄なども作っていた。昭和五年に入営し、同六年で除隊。同十七年に志願兵として中国に渡った。家蔵に説経人形のほか「のろま人形」があり、これは台本がない。口伝だった台本を、自分で筆録して出征した。戦地で万一のことを考え、のろま人形が途絶するのを心配したのである。人形を操った一二のころは、年回一○○回近くも上演したといい、内海府方面では主として「荒もの」の金平モノ、国仲では「静かもの」の説経と金平モノが多く、一晩中上演することもあって、のろま人形とのコンビで、堂宮余興としてヒットしていた。温厚篤実な人柄で、説経がすたれて文弥人形が隆盛していく過程で、文弥語りの名人だった中川閑楽翁から、しきりと文弥への転向を奨められたが、「自分が死んで説経が絶えるなら仕方がないか」と断わった。説経節の佐渡最後の語り手だったが、平成八年二月二十八日、八七歳で没し、瓜生屋の善光寺に葬られた。
【関連】説経節(せっきょうぶし)・広栄座(こうえいざ) 【参考文献】佐々木義栄『佐渡ケ島人形ばなし』、秋谷治「佐渡の説経節・霍間幸雄」 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※説経節(せっきょうぶし)
室町時代末から江戸時代初期にかけて、盛んに語られた。僧侶の説経に端を発したといい、代表的な話に「苅萱」「しゆんとく丸」「小栗判官」などがあり、佐渡でもなじみ深い「さんせう大夫」もその一つ。人の多く集まる街頭芸人としての説経語りから、やがて劇場にも進出し、三味線なども用いて浄瑠璃化した。佐渡へは享保年間(一七一六ー三五)に、新穂村瓜生屋の須田五郎左衛門が上方に登り、公卿から浄瑠璃の伝授を受け、人形一組を購入して帰ったのが始まりとされ、同所「広栄座」の人形がそれであるという。文弥節より一時代早い古浄瑠璃で、人形は腰串に首がくっつく「デッツク人形」。上下にうなづく形の「ガクガク人形」(文弥人形)とは対比される。いずれも文楽よりはるかに古い一人遣い方式で、三味線も伴奏ではなく拍子をとるだけ。文弥節の三味線より古色を感じさせる。間狂言の「のろま人形」の首の造形もそうだが、「乳人」(説経首)などには享保ビナと共通したものがあり、台本も慨して上方系が多い。説経節は、説経祭文として寛政頃(一七八九ー一八○○)に、八王子など関東地方に伝えられた後期説経節と、佐渡に伝わった前期説経節に大別されて残っている。内容は社寺の縁起譚などが主で、信仰色が強い。「さんせう大夫」説話の伝播によって、佐渡へは早やくから地蔵信仰が広がったと思われるフシがある。相川にも古く「大倉の五郎助人形」「後尾の知教院人形」「大浦の中川儀兵衛人形」入川の「マツヨム人形」などの説経座があったが、のちに廃絶または文弥人形座に転身したとされる。
【関連】広栄座(こうえいざ)・のろま人形(のろまにんぎょう)・文弥人形(ぶんやにんぎょう)・霍間幸雄(つるまさちお) 【参考文献】『民衆芸能・説経節集』、佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂ののろま説教人形の遣い手。
→芸能(「新穂」文弥人形とのろま説教人形)
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
(瓜生産人形 広栄座)
太夫 霍間幸雄(瓜生屋)、役者 本間政治・石井助男・引野善平(下新穂)
昭相六年ころから現在までつづけている。そして、「説経人形」と「のろま人形」を所蔵し、それを演ずるのほ現在この一座だけになった。
★つるま里子

本名は鶴間里子。赤泊腰細出身の漫画家。昭和32年生まれ。赤泊小ー赤泊中ー羽茂高校赤泊分校。
★鶴間春二

・明治四十二年、第九回卒業生のうち新種村瓜生屋、一鶴間春二は南洋オランダ領東インド(現在のインドネシア共和国)のセレべス島のマカッサルへ渡航している。彼は在学中は弁論家であったという。卒業後、渡航したのであるが、薬品類を持参し、現地でことばに不自由なのに苦労しながら宝石などと物々交換をして成功した。一時は「日印貿易会社」を設立し貿易船二隻を所有し、従業員も数十人使用していたという。一緒に行った人は妻薫のほか、妻の兄本間一郎(新穂村青木、本間一松の長男、現地でマラリアで死去)、鶴間賢二(新穂村新稀、通称太市)、小田其(畑野町榎田、現地で死去)らがいた。一時帰国の時は親戚や知己に南洋みやげとして、水牛の角やべっこう細工などを贈ったが、もらった各家では今も大切に保存している。 こうして、事業はますます盛んになった。それをねたんだものか、あるいは単に物とりのためかわからないが、ある朝、現地土人が押し入り裸のまま寝室を走り出たところを殺害されたという。犯人はとうとうわからなかった。新穂村役場の戸籍簿を調べたところ、彼は「明治二十四年三月三日生まれで大正十年五月四日午後一時四十八分蘭領東印度セレべス島マカッサ(マカッサルの間違いか)陸軍病院にて死亡」となっている。三十一歳という若さであった。妻薫は同村青木、本間一松の娘で、北一々輝、玲書兄弟のイトコにあたる。鶴間春二が幸徳秋水らの「平民新開」購読者の一人であったのは北一輝とのこうした関係からであろう。長男、長女も死亡、今のところその遺族はいない。
・「大逆事件」の幸徳秋水のノートに書いてある佐渡人は北輝次郎(一輝)、本間一松、鶴間春二、森知幾、林儀作(濁川)、平岡栄太郎の六人である。
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数82
★霍間(つるま)二郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和14年、第9回県下男子中等学校総合体育大会において、棒高跳6位。
★鶴間水友
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★霍間太吉(通称善吉)
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
(青木人形)
①明治三十五年ころから同四十二年ころまで:太夫 土屋三平(通称八左衛門、大正5年死亡、七十七歳)、役者 市橋吉兵衛・相田庄蔵・渡部善次郎
②明治四十三年ころから大正四年ころまで:太夫 土屋三平・山田周吉(通称善助、瓜生屋)役者 相田庄蔵・渡部善次郎・霍間太吉(通称善吉)・本間北蔵(通称稲葉)
③大正五年ころから昭和元年ころまで:太夫 山田周吉 役者 霍間太吉・本間北蔵・川上周治(通称多平)・渡辺善次郎(昭和8年10月18日死亡、96歳)
④昭和元年ころから昭和五年ころまで:太夫 山田周吉 役者 霍間太吉・川上周治・治助・藤助・土田郁蔵
★霍間保
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂ののろま説教人形の遣い手。
→芸能(「新穂」文弥人形とのろま説教人形)
★鶴間笛畝(名は義治、通称兵蔵)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野には笛畝会がある。鶴間笛畝の門人によって組織阻赦された会である。笛畝名は義治、通称兵蔵、万延元(一八六〇)年吉岡の京が峯家に生まれた。父仁平治も能をよくし、明治四年から一九年まで宝生宗家九郎から多くの免状をうけ、また十三年から二四年までに波吉宮門からも数番の免状をうけ、最後に二六年に金子柳太郎から道成寺を免許された。兵蔵はこのような環境の中に育ち、七歳で初舞台を踏んだ。能楽全般にわたって通じていたが、特に笛の名人として知られている。はじめ加賀藩の能役者島田摩佐記に入門した。島田は一管の能笛を以て禄三〇〇石を得た人物である。維新に際し、扶持を離れ生活に窮した彼は、佐渡は能楽が盛んだときいて、明治十三年の秋来島、金沢村千種に寓居した。兵蔵は島田を師とし、ニ一年にほ奥儀を皆伝された。しかしその間にも研鑽の志深く、一八年一一月、上京して修業を重ねた。鷺流狂言を家元鷺権之丞について習い、また一噌包太郎に能管を学んだ。師の代理を勤めるまでに上達し、帰国して門下生を指導したが、二〇年の秋再び上京して春日流の笛を中地万太郎に学んだ。その間に福王流脇師をも習得して帰郷したが、上京修業は二四年と三度に及んでいる。冬から正月に至る農閑期には、笛を学ぶ者、小鼓を打つ者、太鼓を調べる者、立ち方を舞う者、謡をうたう老など、毎夜門人四、五名を下ることはなかったという。大正八年に聞吉岡下の堂前に建てられた「鶴間笛畝翁碑」には「翁や人となり真率にして言談〇(サンズイに麗)落よく人の頤(おとがい)を解く、笛曲に於て頗る其の妙にいたる、一たび座に就て吹奏すれば、清韻嘹喨として石を裂き雲を穿つ、聴く者嘆賞せざるなし」としるされている。笛の名人であったばかりでなく、酒を愛し、性磊落(らいらく)、人に親しまれた人だった。昭和六年没、笛の高弟に長佐治平がいる。笛畝の高弟に若林米蔵がいた。吉岡小沢家の人である。下の堂の前にその古稀を祝って門人が建てた寿碑がある。総社神社宮司渡部砧の撰文の中に「資性穏健、幼より謡曲を好み、弱冠にして鶴間笛畝翁に師事し宝生流を学び、傍ら脇方福王統を極む」とあり、また「暇あれば後進を教養して倦むことなし昭和十五年笛畝会を創設して先師の業績を偲び 益々斯道の発展を期せらる」としるされている。笛畝会は、笛畝の門人が若林米蔵を中心にして作った会である。鶴間氏の持っていた装束があり、立方、囃子方、狂言方等、門人だけで舞える力があったために、佐渡能楽会(西三川派)から独立したのである。前記の装束は二二点、その年に二宮の鷺流狂言師小杉忠三郎から五九点を買い取った。代金二〇〇円は一株二〇円として仲間を作り、米蔵は二株もった。戦後米蔵、義太郎父子から二一点、佐々木文蔵、長野長幸、佐々木源治等から一、二点づつ、下黒山部落で持っていた装束十二点も寄附され、その他二五点をいろいろな人から買いとって現在の装束ができた。日野資朝公を偲んで、妙宣寺の境内で催される黄門忌の能は、近年まで笛畝会の会員だけで奉仕する例になっていた。
→中嶋晴好参照
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野の狂言は鶴間笛畝に始まる。明治一八年に上京した時に鷺流の狂言も習った。真野での弟子に岩本量宏(明治五-昭和二八年)や佐々木文蔵(明治一七-昭和三六年)がおり、文蔵の弟子に土屋増一がいる。
→葉梨源内参照
★霍間弘之
「島の新聞」索引(人名別)
★鶴間兵蔵
「島の新聞」(95号)
佐渡鷺流の先駆者たちは、宗家に学び、佐渡に芸を伝えた。草分けは吾潟の葉梨源内。一八二一年(文政四)に宗家十六世仁右衛門に師事たとされるが、島内での記録はない。沢根の土屋辰次郎が一八五三年(嘉永六)に上京し、宗家十八世から相伝書を受けているが、帰郷後は不明。同時期、五十里の林喜正が十八世と十九世に師事し、相伝書五通を受けて帰島。昭和初期の林家の火災で相伝書は焼失したが、喜正が使用した台本が真野町の若林義太郎家に移されて保存され、今日の鷺流復活の基となっている。喜正に師事した青野の小杉忠三郎は上京して宗家に学び、零落した宗家から伝来の古面や台本を譲り受けて帰郷した。佐渡は正統を継いだことになる。幕末から明治期にかけて最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用心として来た三河静観は明治維新後も両津に定住し、和歌や狂言を安藤世彦・幸彦父子に教えた。湊に住んでいた天田狂楽は安藤父子に手ほどきを受け、明治三十年代に上京して畔翁に指示し、皆伝免状を受けて帰島している。天田は名人といわれ、多いときは年間五〇~六〇回演じたという。また天田は、喜正の弟子で加茂歌代の古木弥十郎らと明治末期に両津鷺流狂言会を組織した。天田が一九四四年に没すると、佐渡狂言は衰運をたどる。一方、真野では鶴間兵蔵が明治十八年から二度上京し、一噌流の笛と狂言を学び、帰郷して活躍、後継者を育てた。高弟の若林米蔵らは能楽上演団体「笛畝会」を立ち上げ、狂言も演じた。米蔵に師事したのが佐々木文蔵、その弟子が鷺流最後の狂言師土屋増一である。これらは要となる人物で他にも多くいた。中央で芸を身につけた人々の活躍で、明治後期から昭和初期にかけては佐渡鷺流の最盛期だった。「能楽を学びに上京して、能をやるなら狂言もと身につけたのだろう。能楽があったから佐渡に継承されてきたと考えられる」と祐亨さんは見る。最近になって天田家に伝わる台本が島外へ持ち出されてしまった。小杉家が宗家から譲り受けた古面や台本も今では小杉家を離れ、転売されて所在不明となっている。天田本や小杉本を借りて、安藤本と照合していた裕亨さんは「佐渡鷺流狂言の復活に欠かせない貴重な財産。調査未了のうちに散逸してしまい、残念でならない」と嘆息する。安藤家は代々夷諏訪神社の宮司で台本は保存されている。
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎


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「島の新聞」索引(人名別)
★鶴屋善次郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国海府番所附問屋である。善次郎は盲目の父に仕えて孝行であるという理由で、享和元年(一八〇一年)鳥目拾貫文を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
『行啓の吉井村』(昭和3年11月 市橋千太郎発行)より

★土屋正起

「島の新聞」索引(人名別)
★土屋正純
「島の新聞」索引(人名別)
★土屋雅春
(株)ウイリアム イ・クラークアンドサンズ 社長(ceo)
・不動産の賃貸・管理 ・有価証券の運用 ・M&A(企業経営)のコンサルタント ・リゾート開発(現在 非事業) ・出版
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「10号」(平成19年7月)追悼 中塚良一先生 「ふる里の山に向かって・・・ありがとう」(土屋雅春)
★土屋正容
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
★土屋増一
「島の新聞」(95号)
佐渡鷺流の先駆者たちは、宗家に学び、佐渡に芸を伝えた。草分けは吾潟の葉梨源内。一八二一年(文政四)に宗家十六世仁右衛門に師事たとされるが、島内での記録はない。沢根の土屋辰次郎が一八五三年(嘉永六)に上京し、宗家十八世から相伝書を受けているが、帰郷後は不明。同時期、五十里の林喜正が十八世と十九世に師事し、相伝書五通を受けて帰島。昭和初期の林家の火災で相伝書は焼失したが、喜正が使用した台本が真野町の若林義太郎家に移されて保存され、今日の鷺流復活の基となっている。喜正に師事した青野の小杉忠三郎は上京して宗家に学び、零落した宗家から伝来の古面や台本を譲り受けて帰郷した。佐渡は正統を継いだことになる。幕末から明治期にかけて最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用心として来た三河静観は明治維新後も両津に定住し、和歌や狂言を安藤世彦・幸彦父子に教えた。湊に住んでいた天田狂楽は安藤父子に手ほどきを受け、明治三十年代に上京して畔翁に指示し、皆伝免状を受けて帰島している。天田は名人といわれ、多いときは年間五〇~六〇回演じたという。また天田は、喜正の弟子で加茂歌代の古木弥十郎らと明治末期に両津鷺流狂言会を組織した。天田が一九四四年に没すると、佐渡狂言は衰運をたどる。一方、真野では鶴間兵蔵が明治十八年から二度上京し、一噌流の笛と狂言を学び、帰郷して活躍、後継者を育てた。高弟の若林米蔵らは能楽上演団体「笛畝会」を立ち上げ、狂言も演じた。米蔵に師事したのが佐々木文蔵、その弟子が鷺流最後の狂言師土屋増一である。これらは要となる人物で他にも多くいた。中央で芸を身につけた人々の活躍で、明治後期から昭和初期にかけては佐渡鷺流の最盛期だった。「能楽を学びに上京して、能をやるなら狂言もと身につけたのだろう。能楽があったから佐渡に継承されてきたと考えられる」と祐亨さんは見る。最近になって天田家に伝わる台本が島外へ持ち出されてしまった。小杉家が宗家から譲り受けた古面や台本も今では小杉家を離れ、転売されて所在不明となっている。天田本や小杉本を借りて、安藤本と照合していた裕亨さんは「佐渡鷺流狂言の復活に欠かせない貴重な財産。調査未了のうちに散逸してしまい、残念でならない」と嘆息する。安藤家は代々夷諏訪神社の宮司で台本は保存されている。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野町公民館は週一回、囃子方と狂言の講座をひらいている。狂言の指導は土産増一・遠藤信一・若林義太郎・中嶋武雄の四人で始まった。土屋は明治四二年生まれ、佐々木文蔵から鷺流狂言を習ったから笛畝の孫弟子になる。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野の狂言は鶴間笛畝に始まる。明治一八年に上京した時に鷺流の狂言も習った。真野での弟子に岩本量宏(明治五-昭和二八年)や佐々木文蔵(明治一七-昭和三六年)がおり、文蔵の弟子に土屋増一がいる。




→葉梨源内参照
→若林米蔵「笛畝会」参考
「島の新聞」索引(人名別)
★土屋松蔵
畑野の人で、「日本基督教協会佐渡講義所」における最も活動的な信者であった。佐渡プロテスタント(新教)の最初の信者である同じく畑野の内田要蔵に勧められて入信する。「長五郎番匠」と呼ばれた。元々は天理教信者であったが改宗した。明治40年7月21日に洗礼を受け、彼のせがれ長吉、養女マサもその後洗礼を受ける。畑野に佐渡で最初に出来たプロテスタント教会は彼が棟梁で建てたもの。大正5年春のことで、献堂式は8月26日、現在の県信用組合西側の二階建の建物。この教会に来た牧師は佐渡中学を追われた嶺直貴であった。(参考:「佐渡プロテスタント小史」本間雅彦)
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)
★土屋学
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・7・8・21第5回県青年団水上競技大会(県青年団)加茂湖プール 200平2位 3.36.8
★土屋守
「ショートプロフィール」世界を代表するウイスキー評論家、作家、ジャーナリスト、スコッチ文化研究所代表。1954年生、両津夷出身。学習院大卒後、週刊誌記者(「フォーカス」)を経てロンドンで日本語雑誌の編集に携わる。帰国後、ウイスキー、関連の著述で活躍中。ハイランドディスティラーズ社より「世界のウイスキーライター5人」に選ばれる。主な著書に『モルトウイスキー大全』『ブレンデッドスコッチ大全』(小学館)など多数。








ウイスキー評論家、作家、ジャーナリスト、スコッチ文化研究所代表。1954年生まれ、両津市夷出身。実家は源助屋履物店で、母は商店会婦人部会長等で活躍された。佐渡高校時代は山岳部、学習院大学時代は探検部に籍を置いた。学習院大学文学部卒後、週刊誌記者(「フォーカス」)を経てロンドンで日本語雑誌の編集に携わる。帰国後、ウイスキー、釣り、紅茶、英国関連の著述で活躍中。1988年、ハイランドディスティラーズ社より「世界のウイスキーライター5人」に選ばれる。主な著書に『モルトウイスキー大全』『ブレンデッドスコッチ大全』(小学館)など多数。
・主な著作
「イギリス・カントリー紀行」(1995年5月) 「モルトウィスキー大全」(1995年12月) 「ブレンデッドスコッチ大全」(1999年3月) 「スコッチ三昧」(2000年5月) 「スコットランド旅の物語」(2000年7月) 「改訂版モルトウィスキー大全」(2002年4月) 「シングルモルトを愉しむ」(2002年11月)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)ジャーナリストが予言する佐渡の未来ー「セレブの島・佐渡」をめざせ(スコッチ文化研究所・土屋守、世界日報主筆・木下義昭、共同通信論説委員・岩田雅)「17号」(平成21年4月)この一冊「ウイスキーちょっといい話」(土屋守著)
諸情報
★土屋萬吉
大野日吉神社

★土屋萬平
大野日吉神社

★土谷三重子
佐渡高校時代の40年、白扇書道会主催全国学生書道展最高賞
★土屋三枝子
「島の新聞」索引(人名別)
★土屋美智子
佐渡高校時代の昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★土屋弸(つちやみつる)
【生没】一九○二ー九三 明治三十五年、沢根町五十里に生まれる。屋号忠左衛門。旧制佐渡中学校卒業後、家業の果樹園芸(幽香園)を継ぐ。三二歳より俳句をはじめ、のち無門亭比我子と号し書を能くする。果樹は父忠雄によって、裏山六反歩が開かれてリンゴと洋ナシを植える。佐渡の果樹園芸の草分け。のち武井京蔵によって羽茂に栽培技術が伝えられた。先祖は田中村山口に居住し、中使を務め、農業の傍ら鉱山稼ぎをしていたという。田中町の東端に居住することから「東」と呼ばれた。父は一○人の子供を残し死亡、自分の子供五人を合わせ、一五人の養育をする。戦時中、沢根町青年団長・町会議員など歴任。戦後は佐和田町文化財調査審議委員長として『文化財第一集』を発行。能狂言・生花にも通じ、農の心に徹して生きた在野の教養人。旧家の多くは子供に教育投資をし生家を去っていくなかで、みずから百姓を認じ、「こだわらず生きたし柿はかきいろに」の心境で生涯を通した。その心境は、喜寿を迎えた頃から著作となって現われる。昭和五十四年(一九七九)『きじゅ雑記』には、「生き得たり七十七年梅の宿」とある。四年後の『峠』には、懐旧の思いとかたよらぬ時代評を書き残す。田んぼの向うに、青野峠が手にとるように見える自家で、八十路の錦繍の峠で書く心境で記している。他に平成二年『比我子作品集』がある。書家の評価を受けるのを好まず、「もの書き」に徹していた。相川の間山「江戸水替小屋跡」の碑の脇に、「謳歌天領者往々而不識地底水替哀歌」の漢詩を残す。平成五年、九○歳で歿。【参考文献】『きじゅ雑記』、『峠』、『比我子作品集』 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
梨やリンゴの栽培は、第一次大戦ころから昭和の初期ころにかけて、佐々木伝左衛門や小川内の渡辺八十八、合沢の羽生忠二郎、四日町の菊池長右衛門、沢根の土屋弸(つちやみつる)らによってはじめられた。とくに梨は大正九年、郡の農業技師山田忠平が桃の栽培の良好なのをみて、梨の栽培を勧めたのが動撥となって、翌年には佐々木伝左衛門らが早生赤、長十郎などを植えた。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=6
★土屋実
夷新の人。佐渡汽船勤務、重職を担った。昭和23年佐渡民報社が懸賞付きで募集した七夕歌を作詞する。
「七夕祭のうた」作詞・土屋実、作曲・中田信
http://sado2298.blog.fc2.com/blog-entry-757.html
★土屋実

新穂出身、佐渡高校時代の31.9.22~23、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市) 総合45点2位、1500m入賞 ・32.6.8~9、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合29点2位、1500m2位・5000m3位 ・32.6.30、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(校本市)総合24点2位、1500m・5000m入賞
法政大時に箱根駅伝に出場。
・昭和36年(37回)9区、4位、団体成績8位。・昭和37年(38回)1区、4位、団体成績8位。
★土屋村雄
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村栗野江 ・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★土屋杢太郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

『続佐渡酒誌』(平成14年)

『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

★土屋元治
『加茂村誌』(昭和38年)


『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂村 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、新潟政友会支部の総会[七年十二月二十二日]
★土屋元治
※上記 土屋元次と同一人物か?
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大1、政友会新潟縣支部会[三年十一月十二日]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日]
★土屋守太郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

★土屋友松(重平)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★土屋幸雄

★土屋裕
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p378
★土屋吉蔵
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★土屋芳造
長畝気比神社



★土屋俐歌➡土屋俐歌(さとか)
★土屋理川
新穂長畝、土屋五郎左衛門家の人、連歌関係者。→下記資料のp685、688他
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★土屋竜
佐渡高校時代の平成7.12.26、ソフトテニス県高校インドア大会(五泉市)男子個人 土屋竜・入舟寿和組2位
平成8.1.14、ソフトテニス北信越高校インドア大会(石川県能都町)男子個人 土屋・入舟組出場
平成8.5.27~29、ソフトテニス県高校総合体育大会(新潟市) 男子団体ベスト8、男子個人 土屋竜・入舟寿和組2位
平成8.6.14~16、ソフトテニス北信越大会(高岡市) 土屋・入舟組 臼杵・菊地組出場
平成8.8.2~8、ソフトテニス全国高校総合体育大会(石和市) 土屋・入舟組出場 3回戦進出
★土屋亮興
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★土屋良太
「ウイキペディア」より





新穂大野出身の俳優、1967年(昭和42年)5月17日生まれ。新穂中-佐渡高校-早稲田大。1993年劇団3○○養成科夢人塾一期生。同年、劇団員となる。(1997年劇団解散)2004年当事務所所属となる。妻は女優渡辺えり。
(主な出演作品)
【映画】 アゲイン28年目の甲子園 臨場劇場版
【舞台】 ペリクリーズ 奇妙旅行 あかい壁の家 イーハトーボの劇列車 シュペリオル・ドーナツ 天使猫 ペテン・ザ・ペテン ゲゲゲのげ 木の皿 山の声
【テレビ】 相棒 おひとりさま トップセールス
【CM】 協和発酵
★土屋老白
新穂長畝、土屋五郎左衛門家の人、連歌関係者。→下記資料のp685
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★土屋六右衛門(つちやろくうえもん 二六 正利)
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

一枚目は昭和11年の写真、時雨松の下で。右斎藤八郎兵衛(83歳)、 左六右衛門(69歳)



顕彰碑(福浦公園内)




【生没】一八六八ー一九三七 明治元年十二月十九日、夷町(現両津市夷)小池佐太郎と母このの次男として生まれ、同町土屋六右衛門(屋号俵屋)の養子となった。幼名辰之助・諱正利、明治三十八年(一九○五)家督を継いで、六右衛門を襲名し二六と号した。七歳の時若林玄益の門に入り、漢学を学んでいる。明治二十九年、養父の佐渡銀行創立の運動に加わり、同三十八年、後を継いで専務取締役となった。明治四十四年、佐渡で最初の佐渡水力電気株式会社を創設、大正二年(一九一三)、島民資本による佐渡商船株式会社を設立して社長に就任、越佐航路の改善に尽力した。大正八年所有船の遭難や戦後不況の影響で佐渡銀行の取付事件が起こったため、職を辞し、私財を投じて整理に充てた。政治家としては、国権党から民政党に移り、明治四十四年から三期県会議員に当選した。大正五年から五期二○年にわたって両津町長をつとめ、この間、両津港の築港、加茂湖の埋立て、水産講習所の開設・水産加工品の改良、蠣の養殖などに努めた。また、浜田地域に新市街地を開設したため、町民はここを「俵屋町」と呼んで、その恩恵を称えた。町長及び県会議員在任中の昭和十二年三月十七日、新潟で病没した。
【関連】佐渡銀行(さどぎんこう) 【参考文献】『両津町史』・若林万吉『二六土屋正利先生追懐録』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※土屋六右衛門頌徳碑(つちやろくえもんしょうとくひ): 福浦の城之上公園は眺めのよい高台にあり、静かな憩いの場となっています。遊具が整えられたその小さな公園の隅には、「二六土屋翁碑」と題する大きな石碑があります。土屋六右衛門の功績をたたえて建てられたものです。六右衛門は明治元年(1868年)に夷で生まれました。若林朔汀から漢籍を学び、努力の末、佐渡郡会議員や県議会議員の道を歩みました。そして、大正5年(1916年)には両津町長に就任、以後二十数年の長きにわたり郷土の発展に尽くしました。加茂湖における漁業の振興や港湾整備、上水道建設など、その業績は枚挙にいとまがなく、私財の投入も惜しみませんでした。その傍ら、銀行・電気会社・商船会社の経営に携わりました。しかし、昭和12年(1937年)に旅先で病に倒れ、六右衛門は70歳の生涯を閉じました。ところで、明治の末ころに六右衛門は貸し家を建て、「俵屋町」と呼ばれる町並みを整備しました。それが現在の浜田になります。昭和18年(1943年)に建てられたこの石碑は、最初は両津港北ふ頭にあり、佐渡市役所両津支所前への移転を経た後、この福浦の地に移された。(※昔「鏡が岡」があった地にできた小公園内)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50032212.html
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数59・67・140
諸情報
★土屋和吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]
新穂武井 熊野神社

★都築和良・千鶴子
「島の新聞」索引(人名別)
★都筑金三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、嘉永六年(一八五三年)三月二十四日、勘定吟味役より佐渡奉行となった。
六月十六日相川へ着いた。名は峯重、知行二百俵、役料千五百俵百人扶持である。七年四月八日相川を出発、江戸に出、伊豆下田奉行に転任し、駿河守と改めた。(佐島遺事)
★都筑静雄
「躍進日本」


東京相川会3代目会長。
「黒龍堂」(女性用化粧品で当時のヒット商品)社長、弁理士。
★都竹通年雄(つづくつねお)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)都竹通年雄(つづくつねお) 3 外海府の真更川の方言資料から
★包音吉完記(すけのり)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。大石岡田包。
★常木桂三★常太夫
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1ウマの合う斎藤兄貴・常木桂三
★常太夫
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★角田房子



「ウイキペディア」より
『アマゾンの歌』(角田房子)と「佐渡おけさ」
初期アマゾン開拓者達を実名で追ったドキュメンタリー風作品に次のようにある。
「即ちタイトルの「アマゾンの歌」は「佐渡おけさ」なのだった」。又、冒頭部分に故郷を懐かしんで「軍歌から民謡へ、民謡からまた軍歌へと、同じ歌があきずに繰り返された。調子外れの「佐渡おけさ」が歌われ、替え歌も混じる。」「ハアァ、来いと いうたとて 帰らりょかァ故郷(くに)へよ 故郷は幾千里 波の果てえェ……」「みなが今さらに、故郷の遠さを思う顔になった。波の果てに浮かぶ祖国へ、再び帰る日が来るのだろうかー。ハアァ、来いと…ヒイーッと、悲鳴に近い声が、おけさの哀調を貫いて流れた。甲板にしかれたゴザにしがみつくようにして、若い女が泣いていた。夜明けと共に、歌声も消えた」。以前、NHKドキュメント番組でもアマゾン移民が取りあげられ、新潟県出身者が佐渡おけさを歌う場面があったのを思い出す。なお角田房子には『いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝』がある。
★椿利策
畑野浜河内出身、自宅は椿屋(屋号)。昭和5年生、佐渡農高卒。県職員労働組合執行委員長を務め、参院議員に転身した志苫裕氏(両津蚫出身で昭和2年生、佐渡農高卒)の後継として1975年県議選に社会党から出馬し初当選。95年まで計4期務めた。妹(昭和10年生)は物部神社宮司加藤瑞穂に嫁いだ。



★鍔師好古
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
鍔師。くわしいことはわからないが、茶家酔舌録に見える。(佐渡人名辞書)
★坪井雲僲(うんせん)
「島の新聞」17号(by 松本秀雄)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の画家で名は素平、字は江という。本間凌山に学んで金岳と号し、ついで僧雪山について雲園と改めた。
晩年京都にのぼり、鈴木百年、黒僢について数年技をみがき要僢と改めた。明治二十二年七月に新潟で客死した。(佐渡人名辞書)
★坪井久太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年 河崎村崎、農業 ・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]
★坪井周富
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)初代校長(明治45・4・16~明治45・5・9)
相川小学校校長

★坪井仙吉
『加茂村誌』(昭和38年)

羽吉の人、明治40年、川内渡辺源一と共に盛岡種馬所より種馬移入。大正8年、市橋長作氏らと共に手廻し脱穀機導入。
★坪井傳之丞陳善
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


文政年中、鯉子3000尾を他国より取り寄せ加茂湖に放入。
★坪井玉蔵
両津羽黒神社




★坪根舒治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
羽茂村 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭4、第十九回衆議院議員選挙[十一年二月二十日]・昭4、佐渡政友倶楽部の大会[十二年十一月十八日]・昭4、山本悌二郎 薨去[十二年十二月十四日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★津村島丸
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

両津片野尾の風嶋神社宮司、昭和50年代に92歳で没。家は孫(次男)正明が、神社は長男一郎が守る。津村家のルーツは長府三田尻(現、防府市)と言われる島丸は昭和30年代まで番傘の製造を行っていた。
★津村節子
左から2,3枚目は佐渡金山にある津村節子文学碑、『海鳴』の舞台は佐渡相川、『紅梅』には佐渡関係の随筆が載る。





夫の吉村昭と共に佐渡を愛し、「海鳴」等佐渡を描いた作品を残す。
夫婦共に元佐渡博物館館長で郷土史家でもあった本間寅雄氏(ペンネーム磯部欣三)と親しく交友し、『紅梅』には佐渡で本間寅雄さんの弔辞を読む話が出てくる。
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※津村節子文学碑(つむらせつこぶんがくひ)
平成三年(一九九一)四月、ゴールデン佐渡の手で建立された。場所は大立坑公園のある下相川地内の奥山で、南の方向に、山頂を二つに裂いた「道遊」の山並みが聳える。北の方に隣接して、明治八年(一八七五)にわが国で初めて開削されたとされる、「大立竪坑」がある。ここは旧銀山町の区域で、眺望のいい高台に建っている。自然石に「慶長六年、三浦治兵衛ら、三人の山師に発見された、鉱脈は、鮎川の渓谷をさかのぼり、鬱蒼とした茂みをぬけると、燦然とその露頭を現わしていた」と刻んである。佐渡鉱山を題材にした、長編小説『海鳴』の一節で、昭和四十年に講談社から出版された。もう一つの石碑には、「望郷の念に駆られながら、若い命を相川に埋めた無宿人たちの、かすかな声が、石や草群の蔭から、聞えてくるような気がする」とした、この小説の取材中の所感が、直筆で刻まれている。津村氏は福井市の出身で、学習院短大国文科を卒業。昭和三十九年に『さい果て』で「新潮同人雑誌賞」、同四十年『玩具』で芥川賞、平成二年『流星雨』で女流文学賞、同十年『智恵子飛ぶ』で、芸術選奨文部大臣賞などを受賞している。初めて『海鳴』の取材で来島したのは、昭和三十七年。以来夫の吉村昭氏(作家、芸術院会員)とともに、たびたび来島して、佐渡に関する数多い随筆・エッセーを発表している。
【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※「佐渡の翼」ブログより
この津村節子文学碑は、既に「けんぱ」さんによって正解が導かれているが、改めてこの地を訪ねてみた。「けんぱ」さんに先を越されたため探し出す楽しみは減ったが、検証作業も又楽しいものだ。佐渡金山第5駐車場に大切山坑があり、その手前に大立公園がある。この公園内に津村節子文学碑があった。文学碑は二つあり、それらには、昭和四十年に講談社から出版された佐渡鉱山を題材にした、水替無宿の青年と遊女の愛を描いた長編小説『海鳴』の一節と取材時の作者の所感が刻まれている。一つには、「慶長六年に三浦治兵衛ら三人の山師に発見された鉱脈は、鮎川の渓谷をさかのぼり、鬱蒼とした茂みをぬけたところに、燦然と、その露頭を現していた」と言う小説の一節が刻まれていた。山師と言うのは「試験で山をかける」と言う言葉があるように、ばくち打ちのようなものだ。のるかそるかの大勝負に出て、一発逆転を狙う勝負師の事だ。当たれば一攫千金だが、はずれれば、奈落の底に突き落とされる。佐渡金山を発見した三浦治兵衛らは、その独特の嗅覚で、濁り川の上流に金脈が存在する事を嗅ぎ取っていたのだろう。鶴子銀山の鉱脈が途絶えると、彼らはその北方に必ず金脈があると信じ、相川に辿り着いたのだ。大した執念であるし、鉱山学の基礎知識なども乏しい時代によくぞこれだけの鉱脈を発見したものである。そしてその掘削技術は現代の最先端技術に比較すれば驚くほど幼稚で拙かった。だから、あれだけの悲哀の歴史と掘削技術の蓄積伝承が形成されたのだ。
もう一つの石碑には、「望郷の念に駆られながら、若い命を相川に埋めた無宿人たちの、かすかな声が、石や草の蔭から、聞こえてくるような気がする」とした取材時の所感が節子直筆の文字で刻まれていた。現代に置き換えれば、その日暮らしの日雇い人夫とソープランドのソープ嬢との悲恋話、道ならぬ恋物語である。左手前方を見上げたら、雪を被った道遊の割戸が真近に迫って来た、物凄い迫力である。過酷な鉱山労働に耐えかねて、若いみそらで世を去った無宿人たちの無念で悲痛な叫びが切々と伝わって来る。この地こそが佐渡の原点である。様々な階層の、様々な職種の人々が織り成す歴史絵巻、それが金山華やかなりし頃の相川の街そのものだ。佐渡金銀山へは、幸田露伴や与謝野鉄幹・晶子など多くの文人が訪れており、それらの文学碑はそこかしこにある。是非とも歴史文学散策のために相川の地を訪ねて頂きたいと思う。
『海鳴』(小説313枚 昭和40・講談社)
「文学者」昭和39年11月~40年8月。作者が何回も佐渡へ足を運び、相川郷土博物館や郷土史家などから資料を得て書いたもの。無宿者であった相川金山の水替え人足直吉と相川の水金遊廓の遊女花衣との話が交互に進みながら、第五章で二人ははじめて出会う。第十章で二十一歳と十九歳の男女は海中へ没する。不当な歴史の強圧の中でたどる若い男女の悲惨な運命を、緊密な構成と抑えた文体で描いた。作者最初の歴史小説。のちに善かれた「相川心中」は素材を同じくする。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
『相川心中』(小説 96枚 姫婦たちの暦 昭和50・講談社)
「小説現代」昭和47年6月。五章よりなる。男と心中を図って、男が死に自分が救われた女は佐渡相川に泊まり、そこがかつて女郎と客が心中した女郎屋であったことから、百年以上も前のことをきく。二、三、四章が、女郎小藤と鉱山労働者の卯之吉が心中を遂げる昔の話。現在を描く、一、五章が外枠となって、社会のひずみにゆがみ落としめられる悲運が強調される。収載されている『娼婦たちの暦』 には佐渡小木の私娼のやさしさを描く「キセル貝」も収める。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
「ウィキペディア」より
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)津村節子
111(磯部欣三さんご逝去)弔辞
142 相川金山の小説「海鳴」 松田実
149 『海鳴』の著者、津村節子先生に拝芝の機を得る -附言 作品の存在意義に於ける一考察ー山田詩乃武
・津村節子 『相川心中』
「紅梅」(津村節子)


★津村禮次郎
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「11号」(平成19年10月)佐度と私-夏の思い出(2007・9・15 津村禮次郎)(田中柾敏)「14号」(平成20年7月)佐渡島の夏(興梠いずみ 一橋観世会)※津村禮次郎
★津谷角五郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★津山照惠
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★津山法韶
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★津山法龍
二見龍吟寺住職。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★露木兵助
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所広間役。天保八年(一八三七年)より弘化三年(一八四六年)三月まで在勤した。佐渡奉行御役宅向模様替建足其外御修復皆出来右御用骨折相勤倹に付、天保十五年に幕府土井大炊頭より銀三枚を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★鶴間彩鈴(あやね)

★鶴間伊右衛門由秋
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035581.html?p=2
★霍間和夫

★鶴間栄次郎


『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
信楽焼窯元「奥田要助」の三男として生れ京焼の大家「清水六兵衛」の窯元にて技法を習得、鶴間家の養子となり新穂に来た。これを相川の三浦常山が聞きつけ無名異焼の指導者として迎え、常山を始め相川の名工は直接間接に彼の影響を受けたと言われる。新穂の陶工としての焼き物は栄次郎焼(別名 太一焼・雲山焼)として知られる。
★霍間和夫


令和5年(2023)2月没、88歳。
※広栄座(こうえいざ):新穂村瓜生屋にある、説経人形座の名称。座長は霍間和夫氏。先代の幸雄は、説経節の佐渡最後の太夫で、平成八年(一九九六)二月、八七歳でなくなった。説経人形芝居の間狂言として演ずる「のろま人形」も、同座で所蔵しており、文弥人形をふくめて昭和五十二年五月、重要無形民俗文化財に指定されている。広栄座所蔵の人形首(かしら)のうち、「乳人」「般若」「神翁」「雷源」「ことわり人形」「白太夫」(以上説経)、「木之介」「下ノ長者」「お花」「仏師」(以上のろま)の一○個は、昭和三十四年三月、新潟県有形民俗文化財に指定された。説経の首は、一八世紀初頭の享保年間のころ、浄瑠璃と一緒に上方から伝えたとされ、「乳人」などの首には、享保ビナとの類似点が見られる。また腰幕の「藪越しの虎」の図柄は、一七世紀後半の延宝年間に、京都四条河原で金平(きんぴら)人形を演じていた、虎屋喜太夫座の櫓幕に似ているといい、高幕一枚の舞台も、元禄三年(一六九○)刊の、『人倫訓蒙図彙』に出てくる山本土佐掾の楽屋と同じ、と指摘する人もいて、享保移入説の裏付けともなっている。のろまの首四個のうち、「木之助」と「下ノ長」は首が上下に動く、「ガクガク人形」と呼ばれ、「お花」と「仏師」は「デッツク人形」と呼ばれて、固定式である。ともに木製の胴体に、首を串状に接続する古い形の人形で、日本の人形首の祖形に近い形式を伝えていて、貴重である。【関連】 説経節(せっきょうぶし)・のろま人形(のろまにんぎょう)・文弥人形(ぶんやにんぎょう)・新穂村歴史民俗資料館(にいぼむられきしみんぞくしりょうかん)【参考文献】 信田純一・斉藤清二郎『のろま・そろま狂言集成』ほか【執筆者】 本間寅雄(『佐渡相川の歴史』別冊 佐渡相川郷土史事典より引用)
「島の新聞」索引(人名別)
★霍間和子
「島の新聞」索引(人名別)
★鶴間和幸
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「11号」(平成19年10月)学習院大学 鶴間和幸教授を訪ねて(中国古代史の権威として活躍中の)
★鶴間禾村(かそん 賢二・太市)

★鶴間喜八郎
「躍進日本」

★鶴間国作


★鶴間賢二
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
★鶴間公作
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★鶴間権四郎
→若林米蔵「笛畝会」参照
trong>★霍間幸雄(つるまさちお)
【生没】一九○九ー九六 説経節の大夫。明治四十二年七月二十三日、新穂村瓜生屋に生まれた。父は太吉、母はふち。その長男である。太吉は説経人形の遣い手であった。一二歳で人形を遣い始めたが、語りは先々代の大夫だった土屋三平(大正五年、七七歳没)が、先代の大夫、山田周吉(昭和二年、四五歳没)に教えるのを聞いて、育ったといい、遣い手から「語りを取る」ようになったのが昭和二年(一九二七)、一八歳のとき。山田周吉大夫がなくなったためで、子が語って、父太吉が人形を遣った時代だった。太吉はヒラ鍬の柄をいれる職人で、下駄なども作っていた。昭和五年に入営し、同六年で除隊。同十七年に志願兵として中国に渡った。家蔵に説経人形のほか「のろま人形」があり、これは台本がない。口伝だった台本を、自分で筆録して出征した。戦地で万一のことを考え、のろま人形が途絶するのを心配したのである。人形を操った一二のころは、年回一○○回近くも上演したといい、内海府方面では主として「荒もの」の金平モノ、国仲では「静かもの」の説経と金平モノが多く、一晩中上演することもあって、のろま人形とのコンビで、堂宮余興としてヒットしていた。温厚篤実な人柄で、説経がすたれて文弥人形が隆盛していく過程で、文弥語りの名人だった中川閑楽翁から、しきりと文弥への転向を奨められたが、「自分が死んで説経が絶えるなら仕方がないか」と断わった。説経節の佐渡最後の語り手だったが、平成八年二月二十八日、八七歳で没し、瓜生屋の善光寺に葬られた。
【関連】説経節(せっきょうぶし)・広栄座(こうえいざ) 【参考文献】佐々木義栄『佐渡ケ島人形ばなし』、秋谷治「佐渡の説経節・霍間幸雄」 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※説経節(せっきょうぶし)
室町時代末から江戸時代初期にかけて、盛んに語られた。僧侶の説経に端を発したといい、代表的な話に「苅萱」「しゆんとく丸」「小栗判官」などがあり、佐渡でもなじみ深い「さんせう大夫」もその一つ。人の多く集まる街頭芸人としての説経語りから、やがて劇場にも進出し、三味線なども用いて浄瑠璃化した。佐渡へは享保年間(一七一六ー三五)に、新穂村瓜生屋の須田五郎左衛門が上方に登り、公卿から浄瑠璃の伝授を受け、人形一組を購入して帰ったのが始まりとされ、同所「広栄座」の人形がそれであるという。文弥節より一時代早い古浄瑠璃で、人形は腰串に首がくっつく「デッツク人形」。上下にうなづく形の「ガクガク人形」(文弥人形)とは対比される。いずれも文楽よりはるかに古い一人遣い方式で、三味線も伴奏ではなく拍子をとるだけ。文弥節の三味線より古色を感じさせる。間狂言の「のろま人形」の首の造形もそうだが、「乳人」(説経首)などには享保ビナと共通したものがあり、台本も慨して上方系が多い。説経節は、説経祭文として寛政頃(一七八九ー一八○○)に、八王子など関東地方に伝えられた後期説経節と、佐渡に伝わった前期説経節に大別されて残っている。内容は社寺の縁起譚などが主で、信仰色が強い。「さんせう大夫」説話の伝播によって、佐渡へは早やくから地蔵信仰が広がったと思われるフシがある。相川にも古く「大倉の五郎助人形」「後尾の知教院人形」「大浦の中川儀兵衛人形」入川の「マツヨム人形」などの説経座があったが、のちに廃絶または文弥人形座に転身したとされる。
【関連】広栄座(こうえいざ)・のろま人形(のろまにんぎょう)・文弥人形(ぶんやにんぎょう)・霍間幸雄(つるまさちお) 【参考文献】『民衆芸能・説経節集』、佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂ののろま説教人形の遣い手。
→芸能(「新穂」文弥人形とのろま説教人形)
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
(瓜生産人形 広栄座)
太夫 霍間幸雄(瓜生屋)、役者 本間政治・石井助男・引野善平(下新穂)
昭相六年ころから現在までつづけている。そして、「説経人形」と「のろま人形」を所蔵し、それを演ずるのほ現在この一座だけになった。
★つるま里子


本名は鶴間里子。赤泊腰細出身の漫画家。昭和32年生まれ。赤泊小ー赤泊中ー羽茂高校赤泊分校。
★鶴間春二

・明治四十二年、第九回卒業生のうち新種村瓜生屋、一鶴間春二は南洋オランダ領東インド(現在のインドネシア共和国)のセレべス島のマカッサルへ渡航している。彼は在学中は弁論家であったという。卒業後、渡航したのであるが、薬品類を持参し、現地でことばに不自由なのに苦労しながら宝石などと物々交換をして成功した。一時は「日印貿易会社」を設立し貿易船二隻を所有し、従業員も数十人使用していたという。一緒に行った人は妻薫のほか、妻の兄本間一郎(新穂村青木、本間一松の長男、現地でマラリアで死去)、鶴間賢二(新穂村新稀、通称太市)、小田其(畑野町榎田、現地で死去)らがいた。一時帰国の時は親戚や知己に南洋みやげとして、水牛の角やべっこう細工などを贈ったが、もらった各家では今も大切に保存している。 こうして、事業はますます盛んになった。それをねたんだものか、あるいは単に物とりのためかわからないが、ある朝、現地土人が押し入り裸のまま寝室を走り出たところを殺害されたという。犯人はとうとうわからなかった。新穂村役場の戸籍簿を調べたところ、彼は「明治二十四年三月三日生まれで大正十年五月四日午後一時四十八分蘭領東印度セレべス島マカッサ(マカッサルの間違いか)陸軍病院にて死亡」となっている。三十一歳という若さであった。妻薫は同村青木、本間一松の娘で、北一々輝、玲書兄弟のイトコにあたる。鶴間春二が幸徳秋水らの「平民新開」購読者の一人であったのは北一輝とのこうした関係からであろう。長男、長女も死亡、今のところその遺族はいない。
・「大逆事件」の幸徳秋水のノートに書いてある佐渡人は北輝次郎(一輝)、本間一松、鶴間春二、森知幾、林儀作(濁川)、平岡栄太郎の六人である。
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数82
★霍間(つるま)二郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和14年、第9回県下男子中等学校総合体育大会において、棒高跳6位。
★鶴間水友
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★霍間太吉(通称善吉)
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
(青木人形)
①明治三十五年ころから同四十二年ころまで:太夫 土屋三平(通称八左衛門、大正5年死亡、七十七歳)、役者 市橋吉兵衛・相田庄蔵・渡部善次郎
②明治四十三年ころから大正四年ころまで:太夫 土屋三平・山田周吉(通称善助、瓜生屋)役者 相田庄蔵・渡部善次郎・霍間太吉(通称善吉)・本間北蔵(通称稲葉)
③大正五年ころから昭和元年ころまで:太夫 山田周吉 役者 霍間太吉・本間北蔵・川上周治(通称多平)・渡辺善次郎(昭和8年10月18日死亡、96歳)
④昭和元年ころから昭和五年ころまで:太夫 山田周吉 役者 霍間太吉・川上周治・治助・藤助・土田郁蔵
★霍間保
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂ののろま説教人形の遣い手。
→芸能(「新穂」文弥人形とのろま説教人形)
★鶴間笛畝(名は義治、通称兵蔵)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野には笛畝会がある。鶴間笛畝の門人によって組織阻赦された会である。笛畝名は義治、通称兵蔵、万延元(一八六〇)年吉岡の京が峯家に生まれた。父仁平治も能をよくし、明治四年から一九年まで宝生宗家九郎から多くの免状をうけ、また十三年から二四年までに波吉宮門からも数番の免状をうけ、最後に二六年に金子柳太郎から道成寺を免許された。兵蔵はこのような環境の中に育ち、七歳で初舞台を踏んだ。能楽全般にわたって通じていたが、特に笛の名人として知られている。はじめ加賀藩の能役者島田摩佐記に入門した。島田は一管の能笛を以て禄三〇〇石を得た人物である。維新に際し、扶持を離れ生活に窮した彼は、佐渡は能楽が盛んだときいて、明治十三年の秋来島、金沢村千種に寓居した。兵蔵は島田を師とし、ニ一年にほ奥儀を皆伝された。しかしその間にも研鑽の志深く、一八年一一月、上京して修業を重ねた。鷺流狂言を家元鷺権之丞について習い、また一噌包太郎に能管を学んだ。師の代理を勤めるまでに上達し、帰国して門下生を指導したが、二〇年の秋再び上京して春日流の笛を中地万太郎に学んだ。その間に福王流脇師をも習得して帰郷したが、上京修業は二四年と三度に及んでいる。冬から正月に至る農閑期には、笛を学ぶ者、小鼓を打つ者、太鼓を調べる者、立ち方を舞う者、謡をうたう老など、毎夜門人四、五名を下ることはなかったという。大正八年に聞吉岡下の堂前に建てられた「鶴間笛畝翁碑」には「翁や人となり真率にして言談〇(サンズイに麗)落よく人の頤(おとがい)を解く、笛曲に於て頗る其の妙にいたる、一たび座に就て吹奏すれば、清韻嘹喨として石を裂き雲を穿つ、聴く者嘆賞せざるなし」としるされている。笛の名人であったばかりでなく、酒を愛し、性磊落(らいらく)、人に親しまれた人だった。昭和六年没、笛の高弟に長佐治平がいる。笛畝の高弟に若林米蔵がいた。吉岡小沢家の人である。下の堂の前にその古稀を祝って門人が建てた寿碑がある。総社神社宮司渡部砧の撰文の中に「資性穏健、幼より謡曲を好み、弱冠にして鶴間笛畝翁に師事し宝生流を学び、傍ら脇方福王統を極む」とあり、また「暇あれば後進を教養して倦むことなし昭和十五年笛畝会を創設して先師の業績を偲び 益々斯道の発展を期せらる」としるされている。笛畝会は、笛畝の門人が若林米蔵を中心にして作った会である。鶴間氏の持っていた装束があり、立方、囃子方、狂言方等、門人だけで舞える力があったために、佐渡能楽会(西三川派)から独立したのである。前記の装束は二二点、その年に二宮の鷺流狂言師小杉忠三郎から五九点を買い取った。代金二〇〇円は一株二〇円として仲間を作り、米蔵は二株もった。戦後米蔵、義太郎父子から二一点、佐々木文蔵、長野長幸、佐々木源治等から一、二点づつ、下黒山部落で持っていた装束十二点も寄附され、その他二五点をいろいろな人から買いとって現在の装束ができた。日野資朝公を偲んで、妙宣寺の境内で催される黄門忌の能は、近年まで笛畝会の会員だけで奉仕する例になっていた。
→中嶋晴好参照
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野の狂言は鶴間笛畝に始まる。明治一八年に上京した時に鷺流の狂言も習った。真野での弟子に岩本量宏(明治五-昭和二八年)や佐々木文蔵(明治一七-昭和三六年)がおり、文蔵の弟子に土屋増一がいる。
→葉梨源内参照
★霍間弘之
「島の新聞」索引(人名別)
★鶴間兵蔵
「島の新聞」(95号)
佐渡鷺流の先駆者たちは、宗家に学び、佐渡に芸を伝えた。草分けは吾潟の葉梨源内。一八二一年(文政四)に宗家十六世仁右衛門に師事たとされるが、島内での記録はない。沢根の土屋辰次郎が一八五三年(嘉永六)に上京し、宗家十八世から相伝書を受けているが、帰郷後は不明。同時期、五十里の林喜正が十八世と十九世に師事し、相伝書五通を受けて帰島。昭和初期の林家の火災で相伝書は焼失したが、喜正が使用した台本が真野町の若林義太郎家に移されて保存され、今日の鷺流復活の基となっている。喜正に師事した青野の小杉忠三郎は上京して宗家に学び、零落した宗家から伝来の古面や台本を譲り受けて帰郷した。佐渡は正統を継いだことになる。幕末から明治期にかけて最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用心として来た三河静観は明治維新後も両津に定住し、和歌や狂言を安藤世彦・幸彦父子に教えた。湊に住んでいた天田狂楽は安藤父子に手ほどきを受け、明治三十年代に上京して畔翁に指示し、皆伝免状を受けて帰島している。天田は名人といわれ、多いときは年間五〇~六〇回演じたという。また天田は、喜正の弟子で加茂歌代の古木弥十郎らと明治末期に両津鷺流狂言会を組織した。天田が一九四四年に没すると、佐渡狂言は衰運をたどる。一方、真野では鶴間兵蔵が明治十八年から二度上京し、一噌流の笛と狂言を学び、帰郷して活躍、後継者を育てた。高弟の若林米蔵らは能楽上演団体「笛畝会」を立ち上げ、狂言も演じた。米蔵に師事したのが佐々木文蔵、その弟子が鷺流最後の狂言師土屋増一である。これらは要となる人物で他にも多くいた。中央で芸を身につけた人々の活躍で、明治後期から昭和初期にかけては佐渡鷺流の最盛期だった。「能楽を学びに上京して、能をやるなら狂言もと身につけたのだろう。能楽があったから佐渡に継承されてきたと考えられる」と祐亨さんは見る。最近になって天田家に伝わる台本が島外へ持ち出されてしまった。小杉家が宗家から譲り受けた古面や台本も今では小杉家を離れ、転売されて所在不明となっている。天田本や小杉本を借りて、安藤本と照合していた裕亨さんは「佐渡鷺流狂言の復活に欠かせない貴重な財産。調査未了のうちに散逸してしまい、残念でならない」と嘆息する。安藤家は代々夷諏訪神社の宮司で台本は保存されている。
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎




「島の新聞」索引(人名別)
★鶴屋善次郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国海府番所附問屋である。善次郎は盲目の父に仕えて孝行であるという理由で、享和元年(一八〇一年)鳥目拾貫文を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
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