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2021-01-10

★土屋明春
新穂村
つち土屋明春

★土屋郁子
両津高校時代の1993年度(H5)10月、第8回全国臨書摸刻展(心芸墨美作家協会主催)特別賞
1994年度(H6)10月、第9回全国臨書摸刻展(心芸豊美作家協会主催)準大賞・招待審査員賞

★土屋歌吉
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)
佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・7-8 第7回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中等学校体育連盟)佐中プール
(佐渡中)400自⑤、800自③、200リレー①佐中。800リレー⑤佐中、総合②佐中48
昭13・6・19 第1回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)新潟商業プール
(佐渡中学が第1回大会に優勝。①佐中49②新商39③新潟32④相中22)
400自①5.38.7、800自① 11.48.4、300mメドレーリレー②佐中 4.08.2 、200リレー②佐中 2.04.8、800リレー(佐中 11.05.0)
昭・13・8・5~6 第8回県中等学校水上競技選手権(県中体連・県水上競技連盟)長岡・高鳥プール
(佐渡中・総合1位。3年ぶり2度目の優勝)
400自② 5.32.0、800自① 11.46.7、200リレー①佐中(山本・笠井・土屋・本間)2・00・9新、800リレー②佐中
昭・14・6・18 第2回近県中等学校水上競技(新潟市水上競技連盟)新潟中学競泳池
(佐渡中・総合3位・得点44点)
400自② 5.45.2、800自 ①11.45.2、300mメドレー(石塚・本間・土屋)3・58・5新、200リレー①(土屋・斎藤・本間博・本間性)2・04・0、800リレー③(間島・舟見・本間・土屋)11.45・2
昭・14・7・23 第9回県中等学校水上競技選手権(県中体聯・県水上競技聯盟)
(佐渡中・二年連続、通算3回目の優勝。得点61点)400自④ 5.47.4、800自③ 12.08.0、、200リレー①笠井・土屋・斉藤・本間2.02.0
昭・15・6・23 第3回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)
(佐渡中・30点4位)300mメドレー②佐中4・02・9、200リレー③佐中、800リレー④佐中、400自④、100背 1.20.2(新)
昭・15・7・26 第10回県中等学校水上選手権(県中体連・県水上競技連盟)佐中競泳地
(佐渡中 総合3位34点)100背① 1.20.0、200背① 2.52.5、200リレー②佐中2.05.7、800リレー④佐中
昭・15・7・27 第12回県水泳選手権・日本水上選手権予選会(県水上競技連盟・県体協)・第8回佐渡水上競技選手権(佐渡水泳協会)
100自相川町長杯①土屋歌吉書(佐中)1.09.8、200自① 2.36.5、200リレー河原田町長杯①佐中 2.03.8
昭・15・8・3~4 第14回東部中等学校水上競技・日本中等学校選手権水上東部予選会
 関東学生水上競技聯盟主催。 明治神宮外苑水泳場
(佐渡中)100背・予②1.21.4 準決④1.19.8 決勝⑦1.20.2、200背・予①2.52.4 準決③2.52.6 決勝⑥2.51.0

★土屋永胤(えいいん)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋永胤(えいいん)
つち <br>土屋永胤(えいいん) (2)

★土屋永川
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
つ土屋永川
つ土屋永川 (2)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡相川の人で、永甫の養子である。文化初年(一八〇四年が元年)坂昌成、里村昌逸の門にはいって連歌を修め、文化十一年(一八一四年)永輔のあとを継ぎ金銀山祈祷連歌宗匠となり文政五年(一八三二年)および七年に柳営連歌執事をつとめた。文政七年二月になくなった。(佐渡人名辞書、新穂村史稿抄、佐渡人物志)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋永川
つち <br>土屋永川 (2)
長畝の人、連歌師。→下記資料のp685 
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
『新穂村史』(昭和51年刊)より
長畝の連歌師土屋永輔の養子で江戸で幕府の「連歌執筆」に用いられ、文政七年(一八二四)に没。
→土屋永輔
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035581.html?p=2

★土屋永輔
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
つ土屋永甫
つ土屋永甫 (2)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
つ土屋永輔
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋永輔
つち <br>土屋永輔 (2)
つち <br>土屋永輔 (3)
小木 安隆寺境内二枚※平成初め頃、山門の左側にあったが、崩れそうになっていたので寺で通路の反対側に新しく建立した。
つち土屋永輔 安隆寺 ふく福井百花 安隆寺境内
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新穂村長畝の人である。天明六年(一七八六年)江戸に出て坂昌文に連歌を学び寛政二年(一七九〇年)昌文の教後ほ京都にのぼって里村昌逸の教えを受けた。同四年帰郷し家を弟にゆずり相川に住み連歌に従事し同七年に柳営連歌師時連衆に召出された。文政二年(一八一九年)十二月になくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
長畝の人、連歌師。→下記資料のp662他 
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
『新穂村史』(昭和51年刊)より
一七五五~一八一九、二万潟村(今の長畝)の人。幼いときから連歌を好み、家業は弟にゆづり、江戸に出て幕府の連歌師阪昌文の門に学ぶこと三年、一旦帰国して再び江戸に出て研究三年、帰国後は相川に居住して連歌の師匠とし常に四十人を超える武士や庶民の弟子があったと「佐渡人物志」は記している。寛政四年(一七九二)には奉行所付連歌師を命ぜられ、座席の厳しい時代にあって寛政十年(一七九八)正月から、奉行所書院で年賀の拝礼が許されている。郷里二万潟村(長畝)に居たことは少かったと思われるが門弟はあったと解すべきであろう。永輔の養子永川も江戸で幕府の「連歌執筆」に用いられ、文政七年(一八二四)に没している。昌仙も亦永輔の娘と結婚して土屋家をついでいる。潟上の神職土屋壱岐の子で、江戸の連歌師坂昌成(前出昌文の子)の所へ、文政九年(一八二六)に入門、連歌師の名門里村昌逸にも入門し、十ケ年間学行、その後一時帰郷、再び江戸に出て天保十年(一八三九)には幕府の定連歌衆となり、時に帰郷し時に出府している。「千句連歌」が天保十三年に出府するはなむけとして作られ今に残っている。直幹二百五旬、弘道二百一、義恭百八十、弁長九十一其阿四十六、抱雲四十五、執筆(歌の書き役をした人)十、昌仙二百二十二の句が集録されている。又天保五年(一八三四)から弘化二年(一八四五)嘉永二年(一八四九)同三年(一八五〇)同四年(一八五一)同五年(一八五二)までの主として昌仙のものを集録した「連歌集」も残っており、昌仙はもとより初めの名の永長のものもあり昌助、直行、恒直、正見、義明等の名も見える。養嗣子昌和の調による履歴には「門人三百人余、嘉永六年より三ケ年連歌三万句興行して家屋地築造す」とある。明治元年(一八六八)六月没している。明治五年(一八七二)門人により建てられた碑が長畝因領寺境内にある。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)土屋永輔 
 31 鑑賞 佐渡のうた (24) -補遺- 土屋永輔 山本修巳 74 佐渡の連歌 (その4) -土屋永輔とその周辺-大野温于 75 佐渡の連歌 (その5) -「土屋永輔履歴」をめぐって-大野温于
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035581.html?p=2
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=14

★土屋一枝
佐渡高校時代の昭和39,10、日本教育書道連盟主催日中親善書道展特選
昭和39、白扇書道金主催全国学生書道展全国優良校賞受賞、白扇金賞 

★土屋一春
「島の新聞」索引(人名別)

★土屋一丸(賢継)

『新穂村史』(昭和51年刊)より
・新穂の書家は、潟上の稲葉事、牛尾神社宮司土屋一丸(号は賢継)、瓜生産の石塚照(号卓堂)、潟上の後藤与作(壷中庵)、大野の小杉猪吉(号は悟東)等があり現存では潟上の佐山大業を師に土屋甚平(号桂石)、本多正吉(号彰雲)、渡辺健三郎(号竹翠)、河原治一(号思秋)、本間忠雄(号越堂)、雑賀栄助(号雨石)等があり、子弟を集めて教えているものもある。
・新穂の詩歌俳句。近世からの延長として和歌は明治期にも盛んで、連歌の盛んであった長畝に「莬玖波会」という団体があり、毎月十一日に例会を開いたといわれる。青木にも土屋賢継を師とする和歌の会があった。明治中期から短歌といわれるようになり、昭和初頭より、故藤川忠治(羽茂出身)の「歌と評論」の支社として益田清、後藤億衛、一度精一、本間勇夫、近藤芳雄、池田元一郎、佐藤常済、土屋貞作、本多敏樹、川上道夫等が同人となり、盛んであった。藤川没後はやゝ下火となった。山田穂積(田野沢一八九五~一九五五)大正期にはその歌才が群を抜いていた。

★土屋カツ子
両津高校時代のs41年、総体ヨット女子A級ディンギー級2位(畠山ひろみ、板野敬子、土屋カツ子)

★土屋寛治
「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)高野喜久雄さんのこと(土屋寛治 新穂)

★土屋勘蔵
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋勘蔵

★土屋義制・土屋義方
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋義制・土屋義方
つち <br>土屋義制・土屋義方 (2)

★土屋吉蔵➡土屋吉蔵(よしぞう) 

★土屋堯伯(ぎょうはく) 
新穂長畝、池田元右衛門家の人、連歌関係者。→下記資料のp685  
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』

★土屋玉水
つち土屋玉水

★土屋金蔵
『両津市要覧(昭和33年)』より
つち土屋金蔵

★土屋倉吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋倉吉

★土屋螢所
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋螢所

★土屋桂石
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋桂石

★土屋桂太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、進歩党の候補選定会[三十五年六月九日]

★土屋健
彫刻家、昭和23年生。両津高校卒。両津高校(後中等教育学校)前に作品がある。実家は海岸通りでおけさ食堂を経営していた。伯父(父の兄)は両津高校教頭土屋長松。

★土屋賢継
牛尾神社
つち土屋賢継 牛尾神社 (1) つち土屋賢継 牛尾神社 (2)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋賢継
『 新穂村史』( s51年)
つち土屋賢継 新穂村史 s51年

★土屋源左衛門
金井千種の人。両津東中学校校長等を歴任。マスターズ陸上で数々の全国的記録と樹立。令和4年7月26日没。従五位。
「第1回佐渡市体育協会表彰 受賞者名簿」
土屋源左衛門 T14.1.28(80)
・第16回 県スポーツフェスティバルマスターズ陸上
100m走 男子M75(75~79)の部 1位(16″1)
200m走 男子M75(75~79)の部 1位(35″3)
・第17回 全国スポーツ・レクリエーション祭
マスターズ陸上競技
100m走 男子M75(75~79)の部 7位(16″58)
200m走 男子M75(75~79)の部 4位(35″07)

写真右:新潟日報 平成27年11月21日
つち土屋源左衛門 つち土屋源左衛門 h27 11 21
「島の新聞」索引(人名別)

★土屋源三郎
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
武井の医者。安政四年生れの保科玄碩の娘を娶る。

★土屋源十郎
『続佐渡酒誌』(平成14年)
つち土屋源十郎 『佐渡酒誌』(平成14年)

★土屋源十郎(源左衛門)
『続佐渡酒誌』(平成14年)
つち土屋源十郎 『佐渡酒誌』(平成14年)
『新穂村史』(昭和51年)より
(新穂)舟代というのはどんな所なのか。先ず舟代の文化の絵図面をみると「城ノ内」という地字が目につく。徳川時代以前にここに城のあったことがわかる。この城の内には土屋氏が住んでいる。大家とよばれる土屋源十郎が七軒の別家をもってここにいる。だからこの城の内は土屋氏の城をあらわしている。舟代の村のやしろは十禅師権現である。舟下後藤家にある寛永三年十禅師権現棟札の下書によると別当は十禅寺の快善坊朝尊とあり、舟代中使は土屋源左衛門とある。この土屋源左衛門が土屋氏の大家である。十禅師権現は山王権現末社の第六番目で別当に真言宗十禅寺をもつ大社で、神主は佐藤伊勢がうけもっていた。
村には寺としてこの十禅師権現の別当の十禅寺と浄土宗の舟城寺がある。土屋大家以下の土屋氏はみんな舟城寺であるから舟城寺は土屋氏の氏寺と見てよいだろう。

★土屋健太朗
つち土屋健太朗 300403

★土屋玄蕃
『新穂村史』(昭和51年刊)より
佐渡に始めて自動車があらわれたのは大正二年(一九一三)で、某家の同年六月二十八日の日記に「本郡最初の自動車快走、先月末頃新穂方面に来り目下北新道運転中」とある。両津の秀明館主が相川・両津間をタクシーとも乗合ともいえぬものを走らせたのだという。
大正七年(一九一八)新穂自動車会社がまちの高野幸太郎、大野の石井喜三治の手で作られ、これを大正十一年本間芳太郎が引継いだ。又この新穂の土の上を始めて自家用自動車が走ったのは、大正八年土屋玄蕃のハイヤーである。

★土屋幸作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三年生 畑野村栗野江、農業 ・明3、・大選挙区に於いて佐渡進歩派の会合[三十三年四月八日]・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、進歩党の候補選定会[三十五年六月九日]

★土屋幸作
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち土屋幸作

★土屋浩二郎
佐渡高校時代の37.6.23~24、柔道全国高校大会県予選会(新発田農業高校)団体戦優勝、(重量級)ベスト8
37.8.4~6、柔道全国高校大会(新潟市)団体戦に出場
37.9.19-20、柔道県高校総合体育大会(新潟工業高校)団体戦3位
37.9.30、柔道北信越大会(小松市)、個人戦3位
37.10.22、柔道国民体育大会(鹿児島市)、新潟チーム副将として出場、団体5位
※新潟県高校チームとして団体5位入賞により県高体連表彰を受ける
]
★土屋吾作
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
つち土屋吾作 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村畑野、帝國実業銀行出張所 ・昭1、農政革新会の惣會[二年一月五日]

★土屋後藤
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋後藤

★土屋後藤助
長畝気比神社
つち土屋後藤助 長畝気比神社
『新穂村史』(昭和51年)より
(新穂)弐方潟の城その昔弐方潟というひとつのブロックが存在したで雪うことは、弐方潟に気比大明神があったことや、長畝の観音院や内巻の東光院の本房である宝幢寺という大きな浄土系寺院が元気比社のすぐば弐方潟の地にあったことで推測される。こうした大寺や大社が領主と関係なしに存在することは先ずあり待ないと思われる。だから弐方潟に領主がいたことが推測される。ところが、現実に弐方潟の城はどこにあるのか、ということになるとその存在の場所がわからないのが実情なのである。そこでここではうすうすそうかも知れないと思う調査の覚書を記録しておくことにする。先ず弐方潟の三家老と呼ばれる家がある。それは、土屋後藤助・本間兵助・池田的場の三人である。そのうち池田的場の家は主計(かずえ)ともいわれており、気比神社でお札を配るときにほ主計の家と三田甚八郎の家には特別のお札を配ったという。この家が的場という名称で呼ばれるのは気比社の的場があって、それと何かのかかわりをもった家ではないか。そのために的場の家と気比社が特別の関係をもったのではあるまいか。

★土屋権三郎
両津羽黒神社
つち土屋権三郎 両津羽黒神社

★土屋俐歌(さとか)
つち土屋俐歌(さとか)
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)

★土屋佐ノ一
相川石花の人、文弥節語り。

★土屋三蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋三蔵

★土屋三平
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
新穂青木の人、通称八左衛門、大正5年死亡、七十七歳。
(青木人形)
①明治三十五年ころから同四十二年ころまで:太夫 土屋三平(通称八左衛門、大正5年死亡、七十七歳)、役者 市橋吉兵衛・相田庄蔵・渡部善次郎
②明治四十三年ころから大正四年ころまで:太夫 土屋三平・山田周吉(通称善助、瓜生屋)役者 相田庄蔵・渡部善次郎・霍間太吉(通称善吉)・本間北蔵(通称稲葉)
③大正五年ころから昭和元年ころまで:太夫 山田周吉 役者 霍間太吉・本間北蔵・川上周治(通称多平)・渡辺善次郎(昭和8年10月18日死亡、96歳)
④昭和元年ころから昭和五年ころまで:太夫 山田周吉 役者 霍間太吉・川上周治・治助・藤助・土田郁蔵

★土屋茂雄   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
・佐渡中時代の昭和9年、第4回県下男子中等学校競技大会に出場し槍投2位、記録は43m80。
・昭和10年、第5回県下男子中等学校体育大会で槍投4位、記録は40m81。

・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p427

★土屋重信
両津高校草創期に教頭を長くやられた土屋長松さんの長男。平成24年頃没。
パリで活躍した建築家でした。南中を出た後、付属の早稲田高等学院に進み、早大理工学部建築科で学んだ後、坂倉設計事務所に就職。28歳でフランスに渡ってパリの設計事務所に入り、カリブ海周辺の建築などを多数手掛けています。フランス人の伴侶がいましたが、父親は籍に入れることを最後まで拒み、滞在ビザで仕事しながら半年ごと日本と行き来する生活でした。パリの日仏文化会館設立の際にも事務局の役割で深く関わっています。姉昭子さんが日立市に、妹真理子さんは川崎市宮前区に住んでいます。(出山正さん情報)

★土屋糸岡
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋糸岡
つち <br>土屋糸岡 (2)

★土屋治左衛門
大野日吉神社
つち土屋治左衛門 大野日吉神社

★土屋七左衛門
両津羽黒神社
つち土屋七左衛門 両津羽黒神社

★土屋篠次郎
『両津市要覧(昭和33年)』より
つち土屋篠次郎
※渡辺注:子供の頃、土屋床屋さんの常連だった。母の実家が片野尾で、土屋床屋の主も同郷だったからだろう。背の低いがっちりした人で、いつも笑みを絶やさなかった。市会議員だったが偉ぶったところが全くない立派な方だった。子供の目は正直である。長男が新大医学部を出て一時両津病院に居たが、いつの間にか島外に去った。何かあったらしいが今は覚えていない。この店には水津、片野尾関係者の女性が多く働いており、それぞれ理髪業に嫁いだり、自ら店を持ったりした。

★土屋重五
「躍進日本」
つち土屋重五「躍進日本」 (1)

★土屋秀蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
二宮村 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・昭1、農政革新会の惣會[二年一月五日]

★土屋重平(夷の人)
「相川暴動」(「佐渡の百年」)

★土屋重平(新穂の人)→土屋友松

★土屋準
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋準

★土屋潤一
つち土屋潤一

★土屋順治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋順治

★土屋春蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、本間一松の死亡[四年十一月七日]

★土屋丈一
「躍進日本」
つち土屋丈一「躍進日本」

★土屋松溪
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
つち土屋松渓
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
う土屋松溪
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋松渓
つち <br>土屋松渓 (2)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新穂村大野の人で名は倹、字は子節、通称を万吉といった。書が巧みでまた経義を後藤呉山に学んだ。明治十四年になくなくなった。(佐渡人名辞書)
『新穂村史』(昭和51年)より
1803-1881年、後藤呉山の弟子で漢籍を学び、又、書を能くし、親に仕えて至孝と「佐渡人名辞書」にも見え、郷党の人々に私塾を開き教えたものと思われる。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
お大野村土屋松渓
「明治の敬老会」(「佐渡の百年」)

★土屋笑山
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋笑山

★土屋潤一
つち土屋潤一

★土屋昌仙
つち土屋昌仙 (1) つち土屋昌仙 (2) つち土屋昌仙 (3)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
つ土屋昌仙 (2)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋昌仙
つち <br>土屋昌仙 (2)
つち <br>土屋昌仙 (3)
つち <br>土屋昌仙 (4)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で名は永長、永川の養子である。文政九年(一八二六年)江戸の連歌師坂昌成の門にはいり苦労十年その蘊奥を極めた。天保八年(一八三七年)柳営定連衆となり、九年柳営御会引出物として毎年白銀十枚を下賜された。これから名声が世に聞こえた。嘉永元年(一八四八年)ころより佐渡鉱山繁栄祈祷の連歌を上り手当てとして毎年十二石の米を与えられた。明治元年に五十九才でなくなった。養子昌和ほ羽茂の氏江家二男でそのあとを継ぎ三十三年十二月になくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
長畝の連歌師土屋昌仙の娘と結婚して土屋家をついでいる。潟上の神職土屋壱岐の子で、江戸の連歌師坂昌成(前出昌文の子)の所へ、文政九年(一八二六)に入門、連歌師の名門里村昌逸にも入門し、十ケ年間学行、その後一時帰郷、再び江戸に出て天保十年(一八三九)には幕府の定連歌衆となり、時に帰郷し時に出府している。「千句連歌」が天保十三年に出府するはなむけとして作られ今に残っている。直幹二百五旬、弘道二百一、義恭百八十、弁長九十一其阿四十六、抱雲四十五、執筆(歌の書き役をした人)十、昌仙二百二十二の句が集録されている。又天保五年(一八三四)から弘化二年(一八四五)嘉永二年(一八四九)同三年(一八五〇)同四年(一八五一)同五年(一八五二)までの主として昌仙のものを集録した「連歌集」も残っており、昌仙はもとより初めの名の永長のものもあり昌助、直行、恒直、正見、義明等の名も見える。養嗣子昌和の調による履歴には「門人三百人余、嘉永六年より三ケ年連歌三万句興行して家屋地築造す」とある。明治元年(一八六八)六月没している。明治五年(一八七二)門人により建てられた碑が長畝因領寺境内にある。
→土屋永輔
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
つ土屋昌仙
長畝の人、連歌師。→下記資料のp685 
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035581.html?p=2

★土屋甚平(桂石)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の書家は、潟上の稲葉事、牛尾神社宮司土屋一丸(号は賢継)、瓜生産の石塚照(号卓堂)、潟上の後藤与作(壷中庵)、大野の小杉猪吉(号は悟東)等があり現存では潟上の佐山大業を師に土屋甚平(号桂石)、本多正吉(号彰雲)、渡辺健三郎(号竹翠)、河原治一(号思秋)、本間忠雄(号越堂)、雑賀栄助(号雨石)等があり、子弟を集めて教えているものもある。

★土屋政一
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約言五十人を数えている。

★土屋昌和
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち土屋昌和

★土屋甚太郎  
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
前川(中山)みきの唱えた「悪しきを払うて救い給え南無天理王の命」という天理教が、当地方に普及されたのは、明治二十九年頃で長畝の土屋甚太郎、青木(正明寺)の川上久左工門等が自宅を開放して布教に務めたことに始まるといわれ、明治三十三年
に正明寺に教会を設立し上棟式を行ったという記録がある。それが後に長畝へ移ったのである。他方、新発田生れの曽根幸八氏が河崎村の天理教会から分れて大野町や北方(市右工門借家)の民家で仮設教会を開いて布教に努め大正四年十月新穂橋の北側横宿線東側に移り、大正十四年十一月、日吉神社の西側、元宝蔵寺跡に各地の信者の寄進を得て立派な教会を新築して、父子三代にわたってこれが布教に従事し、現在の会長は曽根昭一氏(三代目)である。信者は畑野、真野、金沢方面にも多く、町内には十数名の熱心な信者がいる。昭和三年十一月、天理教新潟分教会佐渡支教会新穂宣教所として今日に至っているのである。

★土屋唇風
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち <br>土屋唇風

★土屋清右衛門
新穂武井 熊野神社
つち土屋清右衛門 新穂武井 熊野神社

★土屋宗一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋宗一

★土屋宗益
土屋宗益 初代
つち土屋宗益 初代

★土屋大五郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋大五郎

★土屋大洲
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
つち土屋大洲 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
「島の新聞」29号(by 松本秀雄)
29つち土屋大渕 (2)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
つち土屋大洲
つち土屋大洲 (2)
『新穂村史』 (s51年)
つち土屋大州 新穂村史 s51年
「島の新聞」索引(人名別)

★土屋高蔵
北鵜島の人、明治40 年生。新潟県の民謡」(新潟県教育委員会:昭和61年)に「そうめんさん」「海府甚句」を収録。
「海府甚句」の名人で田中忠雄と昭和43年にレコードを吹き込む。
海府甚句保存会の中心人物として活躍した。

★土屋貴伸
両津高校時代の1995年度(H7)10月、第10回全国臨書模刻展(心芸墨美作家協会) 協会賞
「エスライフ」2021年2・3月号
つち土屋貴伸 エスライフ2021年2・3月号

★土屋多吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
つち土屋多吉 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★土屋忠雄
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
つち土屋忠雄 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
つち土屋忠雄 (2) 
つち土屋忠雄 (3) つち土屋忠雄
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]

★土屋辰次郎
「島の新聞」(95号)
佐渡鷺流の先駆者たちは、宗家に学び、佐渡に芸を伝えた。草分けは吾潟の葉梨源内。一八二一年(文政四)に宗家十六世仁右衛門に師事たとされるが、島内での記録はない。沢根の土屋辰次郎が一八五三年(嘉永六)に上京し、宗家十八世から相伝書を受けているが、帰郷後は不明。同時期、五十里の林喜正が十八世と十九世に師事し、相伝書五通を受けて帰島。昭和初期の林家の火災で相伝書は焼失したが、喜正が使用した台本が真野町の若林義太郎家に移されて保存され、今日の鷺流復活の基となっている。喜正に師事した青野の小杉忠三郎は上京して宗家に学び、零落した宗家から伝来の古面や台本を譲り受けて帰郷した。佐渡は正統を継いだことになる。幕末から明治期にかけて最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用心として来た三河静観は明治維新後も両津に定住し、和歌や狂言を安藤世彦・幸彦父子に教えた。湊に住んでいた天田狂楽は安藤父子に手ほどきを受け、明治三十年代に上京して畔翁に指示し、皆伝免状を受けて帰島している。天田は名人といわれ、多いときは年間五〇~六〇回演じたという。また天田は、喜正の弟子で加茂歌代の古木弥十郎らと明治末期に両津鷺流狂言会を組織した。天田が一九四四年に没すると、佐渡狂言は衰運をたどる。一方、真野では鶴間兵蔵が明治十八年から二度上京し、一噌流の笛と狂言を学び、帰郷して活躍、後継者を育てた。高弟の若林米蔵らは能楽上演団体「笛畝会」を立ち上げ、狂言も演じた。米蔵に師事したのが佐々木文蔵、その弟子が鷺流最後の狂言師土屋増一である。これらは要となる人物で他にも多くいた。中央で芸を身につけた人々の活躍で、明治後期から昭和初期にかけては佐渡鷺流の最盛期だった。「能楽を学びに上京して、能をやるなら狂言もと身につけたのだろう。能楽があったから佐渡に継承されてきたと考えられる」と祐亨さんは見る。最近になって天田家に伝わる台本が島外へ持ち出されてしまった。小杉家が宗家から譲り受けた古面や台本も今では小杉家を離れ、転売されて所在不明となっている。天田本や小杉本を借りて、安藤本と照合していた裕亨さんは「佐渡鷺流狂言の復活に欠かせない貴重な財産。調査未了のうちに散逸してしまい、残念でならない」と嘆息する。安藤家は代々夷諏訪神社の宮司で台本は保存されている。
さぎ鷺流狂言 (1)
さぎ鷺流狂言 (2)
さぎ鷺流狂言 (3)width="4011" height="1206" />
さぎ鷺流狂言 (4)

★土屋周子
つち土屋周子 (1)
つち土屋周子 (2)
つち土屋周子 (3)
さぎ鷺流狂言 (1)
さぎ鷺流狂言 (2)
さぎ鷺流狂言 (3)
さぎ鷺流狂言 (4)
「佐渡ジャーナル」(平成27年10月15日)
つち土屋周子 佐渡ジャーナルh27 10 15 (2)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「43号」(平成27年10月)・シリーズ『Sado人』探訪4 土屋周子さん:能楽師(遠渡隆)「43号」(平成27年10月)・杣月(そまづき)会を観る(二瓶五郎)※土屋周子

★土屋竹雨
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 
 108 「渡辺湖畔への手紙」から その24 土屋竹雨と湖畔の漢詩
 114 「渡辺湖畔への手紙」から その29 戦中戦後の土屋竹雨と湖畔

★土屋重五
「佐渡ジャーナル」関係記事:「12号」(平成20年1月)満百歳、土屋重五さん(山本真帆)

★土屋長左衛門
新穂青木 熊野神社
つち土屋長左衛門新穂青木 熊野神社

★土屋長作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
二宮村 ・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]

★土屋長作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋長作

★土屋長三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文化三年(一八〇六年)三月四日、目付から佐渡奉行となり、六年八月十二日、禁裡付に転役し筑後守と改めた。名は正備、知行ほ千石、役料干五百俵百人扶持であった。海防に尽力し要所に砲台を築いた。広惠倉を設けた。(佐島遺事)
「明治の夜明け」(「佐渡の百年」)

★土屋長松
両津夷7の人、実家の屋号は「まるぜん」で土産物店。東京理科大卒。高校教諭となって都立西高校から創立間もない両津高校に赴任し、進学教育に力を入れて幾多の優秀な人材を輩出させた。教頭でもあった。あだ名は「けも」、語尾に佐渡弁の「・・だけも」が抜けなかったことかららしい。両津高校の数学教師、後に教頭。都立西高校で教鞭をとり、昭和22年の夷大火当日に両津に戻った。菊池、北川両校長と共に両津高校を佐渡高校と並ぶ進学高校に仕立てた。実家は夷七で「丸善」土産物店。長男は建築家としてパリで活躍。
「島の新聞」
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つち土屋長松
→◆両津の昔を記す→学び舎・先生 に詳しい。

★土屋勉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
実業家。明治二十九年十一月十三日に佐渡郡新穂村で生まれた。佐渡中学校を卒業して実業界にはいった。大日本色材工業株式会社会長となった。千葉県船橋市海神町に住んだ。昭和四十一年十一月九日に六十八才でなくなった。(新潟県年鑑、昭和四一・一一・一一・読売新聞)

★土屋貞
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋貞

★土屋鉄太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋鉄太郎

★土屋輝秋
新潟県職員、昭和46年春、新潟日報「歌壇賞」。 
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
 1 春の村(詩) 第1章 村~第5章 薄暮
 2 青い果実(詩)

★土屋照邦(てるくに)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡二方潟の人で上杉時代の地頭である。二方潟を領し二百十石であった。(佐島遺事)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【つちやてるくに(15??~15??)】加茂郡二方潟館主。官途は下総守。210石を領した。

★土屋東一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋東一

★土屋忞(つとむ)
「手わざ図鑑」
つち土屋忞(つとむ) 「手わざ図鑑」
                                          
★土屋貞作
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の詩歌俳句。近世からの延長として和歌は明治期にも盛んで、連歌の盛んであった長畝に「莬玖波会」という団体があり、毎月十一日に例会を開いたといわれる。青木にも土屋賢継を師とする和歌の会があった。明治中期から短歌といわれるようになり、昭和初頭より、故藤川忠治(羽茂出身)の「歌と評論」の支社として益田清、後藤億衛、一度精一、本間勇夫、近藤芳雄、池田元一郎、佐藤常済、土屋貞作、本多敏樹、川上道夫等が同人となり、盛んであった。藤川没後はやゝ下火となった。山田穂積(田野沢一八九五~一九五五)大正期にはその歌才が群を抜いていた。

★土屋哲夫
佐渡高校時代の昭和41、日本教育書道連盟主催日中親善書道展特選 

★土屋哲二郎
土屋六右衛門息子。若林朔汀は血族的祖父、即ち朔汀の長女ナカの次男で生後30日で土屋家の嗣子となる。土屋家には、この4,5代実子なし。大正元年新潟中学(現新潟高校入学)、本間金年の2歳年下、林三の6,7才年上。大正五年早稲田文学部に学び、妹二人と東京の家に住む。(豊島区雑司ヶ谷442番地)伊豆野一郎父利一氏とは小学校同級生。

★土屋哲二郎 
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
明治二十二年に町村制が施行された時の粟野江村〔粟野江〕坊ケ浦初代村長。(〔 〕は役場所在)

★土屋東一(大洲)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
下新穂の人、一八七四~一九四三。大洲と号し、特に歴史画に堪能であり、初め酒井珠津(小倉の人鈴木鵞湖の門の門に入り、後東京で小堀鞆音(歴史画の大家、一八六四-一九三一)に師事した。その作品は村内にも多い。又俳句も作った。

★土屋藤太郎
つち土屋藤太郎 『十勝宝盟鑑』 (1)

★土屋稔之
かと加登仙一

★土屋利彦
佐渡高校時代の39.9.19~20、ポート佐高フィックス、浅野雄三・田中柾敏・永田重文・土屋利彦・相田雅夫・石橋博・菊池哲治、国体3位入賞により県高体連表彰を受ける

★土屋二川(にせん) 
新穂長畝、土屋五郎左衛門家分家の人、連歌関係者。→下記資料のp685  
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』

★土屋希望
「島の新聞」索引(人名別)

★土屋春樹
「躍進日本」
つち土屋春樹「躍進日本」

★土屋晴仁(はるひと)
「エスライフ」2007年7・8月号
つち土屋晴仁 エスライフ2007年7・8月号
つち土屋晴仁
「講師派遣サイトより」
1949年新穂村生、ハイテクジャーナリスト、出版プロデューサー、ITコンサルタント、プロデュース工房 ボッテガ・サド代表。
新穂中ー佐渡高校-東京学芸大学教育学部中退。
(主な講演テーマ)
「第2次IT革命の幕開けと中小企業」
「第2次IT革命進行中~“Web2.0”ブームの背景にある動き」
「ITブーム以降の時代トレンドをどう読むか?」
「インターネットと経営/ITによる○○業の顧客サービス」
「マスコミが教えてくれないITが地域産業にもたらす真の効用とは?」
「わかるITから使うITへ~SCM導入の利点と限界~」
「B to B ECをめぐる表・裏事情」
「激動の市場ニーズをつかむ~ITが変えたマーケティング」
「インターネットによるビジネス革新」
「地域活性化とIT活用」 他IT全般
(主な著書)
『最新 業界勢力&系列図』『仕事に使える「数学」』
『マーケティングで成功する企業、失敗する企業』
『PDAが見る見るわかる』『eMPから見る最新EC動向』
『ITマーケティングが見る見るわかる』『デジタル大事典』
『デジタル部下をぶっとばせ!』『一人で始めるサイバーベンチャー』
『マルチメディア入門』『インターネット再入門&最活用』
『通勤快読!マルチメディア“サイビズ”時代を読み解く』
『パソコンは電子メールだ!』『インターネットの英語術』
『マンガ・インターネット入門』『インターネットのことがわかる本』
『新しい成長神話を創る―カテナの挑戦と課題』
(経歴)
シンクタンクの芙蓉情報センター(現富士総研)嘱託を経て、フリーランスのアートディレクターとなる。広告・イベント・CIなどのプロデュースおよび企業活性化、人材教育などのコンサルティングも多く手掛ける。1983年に企画編集プロダクション(株)イエローリポーツ設立。1993年に社長を退任して現在は同社取締役。1999年コンテンツ製作会社(株)ロビンソンを設立、現在同社取締役。ハイテク分野のジャーナリスト、編集者として活動する一方で、ITコンサルタントとして雑誌へ寄稿するほか、大学、企業、自治体などでの講演も多い。論文「2004年のロビンソンクルーソー」で1994年度『SAPIO』賞特別賞受賞。現在は、佐渡に拠点を移し地域活性化の総合的なプロデュースにも関わっている。
「島の新聞」7号
「島の新聞」索引(人名別)

★土屋久吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つ土屋久吉
 
★土屋秀樹
つ土屋秀樹
両津高校18代校長(平成15年4月~平成18年3月)。

★土屋齊
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
つち土屋齊

★土谷博明
佐渡高校時代の昭和41、日本教育書道連盟主催日中親善書道展特選 

★土屋弘
「躍進日本」
つち土屋弘「躍進日本」

★土屋房吉
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。
しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎







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Author:渡辺和弘
・佐渡市両津夷在住
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