2021-01-10
★田近愛蔵
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★橘以南
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
40 鑑賞 佐渡のうた (33) -補遺- 遊女初君・山本以南・佐藤枝彦・大久保正・能村登四郎 山本修巳 40 出雲崎・寺泊紀行 -以南句碑除幕式に参列して- 山本修之助 40 良寛の父 橘以南の句碑建立-刻まれし自筆の句について- 宮栄二 60 連載 閑々亭雑記 (19) 良寛の父以南と俳僧松堂 山本修之助 76 良寛の父 山本修巳 115 わが家に伝わる良寛と父以南の遺墨 山本修巳 115『佐渡郷土文化』所収(数字は号)良寛の父橘以南の句碑 山本修巳
★立花京二
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
★橘幸子
「島の新聞」索引(人名別)
★橘三喜
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★橘次作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★橘治作・正治(大和田)
左:橘治作 川上喚涛の娘(ノブ)の夫 中:川上喚涛次女ノブ(大和田の橘家に嫁いだ) 右:川上喚涛初孫(大和田の橘家に嫁いだ次女ノブの長男)20歳頃没 佐渡農学校の秀才だった。橘正治の弟

左:橘正治(しょうじ)川上喚涛の次女の次男 右:句碑(俳号 子赤) 左:橘正治妻(十重 とえ)

→橘光治(みつはる)
★橘昌平
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★橘澄江
両津高校時代の1994年度(H6)12月、第14回全国高校生読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催)入選
★橘善吉
1837年(天保8)大和田村(現 千種)に生誕。旧姓は山川、14歳で父に死別し橘家に養子に入り、養父善吉の名を襲名。
元治元年学問修業jに江戸に出るが、尊王攘夷運動で騒乱の江戸をあきらめ翌年佐渡に帰って営農。明治13年佐渡三郡連合会議議員、新潟県県議会議員に選出される。明治14年初代大和田戸長、明治24年金沢村二代村長に就任する。
畜産業の改良運動に取り組んだ近代的畜産業の先駆者である。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
千種村 ・明1、第二回の選挙[十三年十月][新潟縣会の巻]・明1、佐渡三郡の選挙[十四年四月][新潟県会之巻]・明2、第三回選挙[十六年三月]・明2、電信架設の建議[十六年四月]・明2、電線架設の建議[十七年五月]・明2、第六回選挙[二十一年一月]・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明2、海底電線架設の建言[二十三年十二月一日] 『大和誌』、『金井を創った百人』
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数29・43
★橘俊孝
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
出雲守 長元五(1032)佐渡に配流。宝殿を造り、杵築の宮の神託を詐称した罪。(『日本紀略』『扶桑紀略』『百錬抄』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
出雲守である。いつわって神のお告げといって杵築社を造営するよう奏請した。
長元五年(一〇三二年)九月二十七日に佐渡へ流された。(越佐史料)
★橘南谿(なんけい)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)橘南谿 48 連載 閑々亭雑記 (7) 佐渡へ船出したが渡れなかった旅行家 山本修之助
「明治の遊歴人」(「佐渡の百年」)
★橘正隆(橘法老)
日本海文化研究所報告 第一集 令和元年7月




「新穂村史」(s51年)


『楽苦我記抄』(橘法老 s56年)より



※写真は 『楽苦我記抄』(s56年)より
日蓮の研究で来島し、島で生涯を終える。佐渡史の実証的研究で大きな業績を残す。「金泉村史」で民謡を記述し、佐渡独特の19文字の古民謡を高く評価する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【生没】一八九二ー一九六四 明治二十五年六月三十日生まれの橘正隆は、東京麹町区九段三の一六番地が本籍地であるが、出生地は新発田市郊外の、旧五十公野村といわれている。先代は、新発田藩の武術指南役の家柄であったため、江戸に出役中に維新に会い、そのまま永住すべく、のちに籍を移したらしい。学業は、中央大学の法科に学んだともいわれる。こうして来島前の経歴があいまいなのは、当人はなぜか過去を語ることが殆んどなかったためである。それでも大正十二年(一九二三)の関東大震災で妻子を失ない、その後、軍(陸軍)関係の仕事にあったことなどを、親しい者に漏らしている。また遺品の中には、青年時代に合気道の門に入り、文字のない師に代って奥儀や体験を詳述した書籍があり、自ら書いた書物の最初のものであるという書き込みがしてある。佐渡には昭和十一年(一九三六)八月二十七日に、日蓮の遺跡研究の目的で小木港に渡った。しかし島内では伝説や口碑を史実と誤認していることに落胆し、自らの手で調べ直すことを決意して、郷土史研究を始めた。緻密で鋭い洞察力を備えていたため若い世代をひきつけたが、一面では狷介な性格をみせ、誤解や反撥を招くこともあった。昭和三十九年九月十四日死去の後は、氏を慕う者たちによって、墓のある湊の妙法寺で毎年法老忌が催されてきた。【関連】橘鶴堂文庫(きっかくどうぶんこ)・佐越航海史要(さえつこうかいしよう)・佐渡古典叢書(さどこてんそうしょ) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※橘鶴堂文庫(きっかくどうぶんこ)
越後の新発田出身(本籍は東京市麹町九段三の一六)の橘正隆(通称は法老)は、昭和十一年(一九三六)八月二十七日に佐渡にわたった。目的は日蓮遺跡研究であった。ところが来島して訪ねた霊跡と、島人に伝わる伝承とが著しく事実と相違していることに気づいて、根底から調べ直すことを決意した。そのため地方史研究に集中して、生活をそこにかけ、島ではじめての専業郷土史家となったのである。以来、昭和三十九年(一九六四)九月十四日に、七三歳の生涯を終えるまで、佐渡の歴史研究に終始した。その間、『附注佐渡名勝誌』・『佐渡兵制史話』・『佐越航海史要』・『遭逢夢の如し五○年』・『水津村史料編年志』・『河崎村史料編年志上』などを刊行し、そのほか『金泉郷土史』・『赤泊村史』・『課税の変遷と佐渡義民始末記』の編さんに協力し、『佐渡古典叢書』二巻を発刊した。そのために蒐集した古文書はじめ、絵図・写真・切抜帖から複写原稿および下書きに至るまでを、本人の意向もあって後援会の話し合いで、県立佐渡農業高校に保管することになり、「橘鶴堂文庫」と名づけた。同校は創立七十周年記念出版として、『橘法老佐渡史話・楽苦我記抄』を、同八十年には『日蓮聖人佐渡霊跡研究』を出版した。【関連】橘正隆(たちばなまさたか) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※佐越航海史要(さえつこうかいしよう): 昭和二十二年(一九四七)に佐渡汽船株式会社は、明治初年から八○年間の船舶の発達、航海の状態、港津の盛衰等を輯録して、「佐越航海史」を編さんすることを計画し、それを郷土史家の橘正隆(通称法老)に依嘱した。依嘱は、同社の顧問格で取締役であった野沢卯市から直接なされたもので、野沢はそれまでに三か年にわたって集めた資料すべてを橘に提供し、橘自身の調べた資料を加えて、自由にまとめるよう要望した。橘は昭和十一年(一九三六)に日蓮遺跡研究を目的に来島して、最初は金泉村にいたが、翌年村史編さんの仕事が赤泊ではじまったとき、同村に招かれた。野沢はその赤泊の出身者で、早くから両者は昵懇の間柄であり、橘は後日野沢の伝記ともいうべき『遭逢夢の如し五○年』を書いている。橘は会社の要望した「佐越航海史」に、「要」を加えて次の八章にまとめた。「[1]緒言[2]海洋文化時代[3]流人島時代[4]徳川領時代[5]黎明時代[6]佐越航海競営時代[7]佐越航海統一時代[8]官公費補助始末」。同書は、昭和二十二年(一九四七)に五○○部が非売品として佐渡汽船株式会社から出され、また昭和四十八年(一九七三)に同社の創立六十周年を記念して、『六十年のあゆみ』を発刊したときにB5版に拡大して再版され、同じ凾に収め非売品として、関係者に配布された。【関連】橘正隆(たちばなまさたか) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※佐渡古典叢書(さどこてんそうしょ):昭和二十六年(一九五一)に郷土史家の橘正隆(通称は法老)は、金井町中心街の尾花崎で、印刷事業を行っていた産青連印刷所の三十周年記念事業として、同会と提携して佐渡史関係の古典書の刊行をはじめた。第一巻は『相川県史』で、そこへ「寺社帖」が付されていた。第二巻は、「四民風俗」と「いが栗」が収録され、いずれも好評を得て郷土史愛好者たちに、叢書の発行が期待されていたが、事情があって打ち切られてしまった。そのため『佐渡古典叢書』は中断したまま、幻の叢書となってしまった。
【関連】橘正隆(たちばなまさたか) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
新発田の出身で、昭和十一年日蓮研究のため佐渡に渡り両津市河崎に住んだ。
郷土史研究家で河崎村編年志、佐渡古典叢書、水津村資料編年志、赤泊村史、越佐航海史などの著書がある。法老と号した。晩年身寄がないた一め地元の史学愛好者たちが「橘法老後援会」をつくって世話した。昭和三十九年九月十四日に七十三才でなくなった。(読売新聞・朝日新聞、概観佐渡資料目録)
「橘鶴堂文庫と斎藤長三著「佐渡政党史稿」」((風間進 「佐渡郷土文化」100号より転載)
乗客も疎らな大佐渡丸の二等船室に仰向けになり、明治二十七年に斎藤長三が自分の印刷所で刷った冊子「北斗」を読んでいたがやがて眠ってしまい、目覚めると船室の窓からドンテン山の白い嶺が見える。二月にしては珍しく凪いだ海を渡り、ひとり佐渡に来てしまった。 南線のバスに乗り、曇空の下、雪を被った大佐渡山系と黒く踞る小佐渡の丘陵を見比べながら、畑野の佐渡総合高等学校に向かった。左右の畑地や道端の窪に幾らか雪が残り、遠目に見える牛尾神社の石段はこの冬の総ての雪を積み上げている。 二月中旬に山本修巳氏から「橘鶴堂文庫」閲覧許可の電話を貰った。新潟図書館に収蔵されている「佐渡政党史稿」の旧版の一部が橘鶴堂文庫にあることが判っていたので是非とも見たいと考えていたが、総合高校から許可を頂いたとの事で、早速その週末に伺う手筈となった。長三は佐渡政党史稿の初期稿を二度書き直している。 彼が史稿の出版を構想したのは昭和十五年頃らしく、最初の原稿を北昤吉などに見せ、北の「もっと広範なものにすべし」との意見を受けて一度書き改め、「明治の巻」については二度書き改め、これを五十部ほど印刷し、意見聴取のために知人などに送ったが、だれからも表だった意見はなかった。 橘鶴堂文庫には県立図書館のものより以前の版が残っており、早起きして佐渡に来た甲斐があった。 ところで橘鶴堂文庫には佐渡政党史稿に関連して野澤卯市が書いた「斎藤長三氏編佐渡政党史稿批正の弁」という謄写版刷りの文書があるが、この概要は佐渡政党史稿が政友会本位な記述に終始していることへの強い異議である。野澤は斎藤長三が佐渡政党史を著そうと思うと言うので、佐渡の各政党の史実を公平に纏めるのは難しい。斎藤が政友会史を、自分が民政党史を書くことにしたらどうかと提案したが、斎藤は史家として公平を期すると確約したので自分も賛意を示した。後には民政党関係について口述して彼に協力した。また原稿も求められたのでこれも記述し送付した。 しかし、斎藤は途中から自分が送付する原稿を無視して、政友会本位の政党史をまとめ、史実を歪めている。と反駁し、自分が長三に送った原稿と政党史稿の記述とを比較し、政党史稿の史実との相違を挙げることに細かな文字で四十頁ほどを費やしている。 長三は佐渡政党史稿を巡る野澤卯市との軋轢あつれきについて「履歴書」の終章頃、昭和十九年十二月十七日の日付で以下のように書いている。 政党史稿を書くために佐渡日報に民政党系の資料の提示を求めたが対応して貰えず、野澤卯市に仲介を頼んだ。そのうち野澤から「政党史稿は政友会臭い、長三中心の政党史だ。」などと故障を申し立てられ「民政党の旧同志にすまないから緑を絶つ。」とまで拒絶されてしまった。断絶解消の調停を夷の本間金五郎に頼んだが野澤は受け付けない。当初、長三の政党史編纂を煽っていた北昤吉にも手紙で仲介を頼んだが、野澤に因果を含められたのか返事も寄こさない。新潟にいる野澤に会いに行きたくても、雪中老齢で足も動かない。 (昭和十九年)十二月二十日付けで内務省に出版発行届けを為し、残余の冊子を有志者に郵送して運を天に任すことにした。との心境を日誌に書いた数日後、年も暮れた二十七日に長三は死去している。 佐渡政党史稿は数十冊が最寄りの人々に配られただけで、彼の死によって正式な出版は頓挫してしまった。
彼の時代を一緒に生きた敵も味方もみんな死んでしまい、政敵ではあるが唯ひとり生き残って、自分の時代を共有できると思っていた野澤に強烈な反発を受けてしまった。 しかし、政友会の重鎮斎藤長三の政党史が政友会的になるのは当たり前、民政党の重鎮野澤卯市がこれを否定するのも当然で、長三が野澤に編纂の手助けを求めたことが、そもそも老いた長三の甘えかもしれない。 前述の「批正の弁」の結語で野澤卯市も、著者が老後の想い出として氏業に従事して以来約五年、東奔西走、努力せられつつありしに急逝せられたるは、史稿その物に対する批判は別として其心事に対しては同情に堪えざる次第である。と結んで、長三の死後になって始めて彼への鎮魂の辞を贈っている。 佐渡総合高校が管理している橘鶴堂文庫は、佐渡の史家「橘正隆」の蔵書と原稿と蒐集した文書などを収めた文庫である。橘正隆の出自は新発田らしいが東京の人で、東京大学法学部卒で元々史家ではないらしいということ以外、東京での生業などの履歴は不明である。関東大震災で妻子も家財もすべてを無くし、昭和十一年に佐渡に渡っている。無一物となったことがきっかけで日蓮研究をこころざし、鎌倉から三國峠を越える流罪の日蓮が通った道を徒歩旅行して小木港に辿り着いた、と文庫目録には書かれている。 昭和三十九年に七十三歳で死去するまで、佐渡での橘正隆は大夫の日蓮上人佐渡霊跡研究、河崎村史料、水津村史料編年記、金泉郷土史、赤泊村史などの村史編纂の他、佐渡兵制史話、佐渡航海史要などの著作を残している。 また、彼は佐渡の史家達の歴史探索についての手法に大分異議を唱えていたらしく、史家達との軋轢は相当なものだったらしい。 「佐渡航海史要」は当時佐渡汽船の取締役であった野澤卯市の委託によるものであり、赤泊村史の編纂のために同村に移住した頃からか、野澤との強い提携が生まれていたと推測される。 橘鶴堂文庫の収蔵文書のひとつに「佐渡航海史要、完本見本」がある。この本は活版印刷の試刷後に最後の校正のために橘正隆に渡された印刷物と思われるが、彼はこの本の余白にも更に追加稿を書き入れ、本になりかけの文章へも加筆の意欲を見せている。 巻頭にはこの本が野澤卯市への捧呈(ママ)であると書かれ、次頁にはこの時八十歳を迎えた野澤翁の略歴が書かれている。 野澤は明治元年に徳和村で生まれ、早稲田大学の前身東京専門学校を卒業すると郷里で改進党から県会議員となり、以後連続当選し、昭和五年には山本悌二郎を破って衆議院議員となっている。 昭和七年に議員を引退した後は民政党の新潟縣支部の重鎮として君臨する一方、佐渡汽船取締役などとして佐渡振興に努めている。 自由党全盛の佐渡でひとり改進党として立ち、同党の党勢拡大に尽くした野澤は政治については妥協のない人であったらしいから、長三の政党史稿を許容することは出来なかったのであろう。 私が佐渡に向かう船室で読んでいた「北斗」は、二宮の鞍立富三が発行者となり、矢田求、斎藤長三などをレギュラーの寄稿者として発行した養気会の機関誌だが、明治二十六年、三十六号に対する郡役所からのクレームで廃刊となっている。 廃刊の理由は、巻頭文に載せた「高田郡長に望む」などの論説が政治的である、との理由による。「北斗」は学術雑誌として出版登録しているのに学術の域を越えている、との指摘である。勿論、養気会は学術の範囲とは?と反論しているが、やがて「廃刊の顛末」という冊子を最後に発行停止している。
ところで、廃刊に先立つ六月の三十二号に次ぎのような広告が出ている。
廣告
佐渡自由主義者ノ非政社的團体ナル佐渡自由倶楽部ハ雑太郡河原田町ニ設置セリ
同志ノ諸君ハ奮テ加盟セラレタシ追テ発会式挙行之上役員ヲ公選スル迄仮ニ役員ヲ定ムル左ノ如シ 幹事 児玉甚右衛門 斎藤長三
委員 池田球造 池野最平 本間一松
堀修太郎 高橋元吉
規約書御覧相成度方ハ御申込次第直ニ発送ス 佐渡自由主義者
時代を経て佐渡政友倶楽部に連なる佐渡自由倶楽部の主要メンバーがその団体を創設し、参加者を求め始めたのはこの頃ではないかと思われる。「北斗」の廃刊理由となっている巻頭の稿「高田郡長に望む」も読むと予想外に穏健な内容で、却ってこの広告が醸し出す「北斗」の政治への傾斜が、隠れた廃刊理由なのかもしれない。
最近、斎藤長三の佐渡政友倶楽部での盟友、「北斗」の広告にも名を連ねている新穂の本間一松の後裔、本間一元氏から一松を中心とした家系図を頂いた。
これを見ると、周知の様に一松の妹リクは夷の北慶太郎に嫁し、北輝次郎(一輝)、北昤吉などの子を成している。また、末の妹は河原田の浦本令一に嫁している。そして一松は、次女を北昤吉に嫁がせ、三女は自分の叔父鶴間光雄の孫にあたる鶴間春二に嫁がせている。この様な地域的な系統を固め、政治的には私財を蕩尽して山本悌二郎を押し立てる「井戸屏政治家」としての一松が、時に資金面の援助をしながらも、思想信条的に自分から遠く離れていく甥、北一輝をどの様な気持ちで見ていたかは興味の沸くことではある。 北一輝著作集の書簡の項、大正十一年五月の長田実に宛てた手紙で「・・過日は青木老突然上京、消息を承り安堵・・」と、東京の一輝の元を一松が訪問したことに触れている。この頃、一松は佐渡鉄道の請願委員となり上京しているから、この用事のついでに、甥の顔を見に寄ったのだろう。 一輝は大正九年一月に上海から東京に戻り、大正十年には「支那革命外史」を出版、大正十一年は運命を共にする西田税と初対面し、職業的な右翼革命家として一家を成しつつある時期でもあったろう。
この時期に訪ねて来る叔父は、甥にとって忘れたくとも忘れられない「根処」としての佐渡を象徴し、まして地元佐渡への鉄道敷設のために要路に膝を屈する請願者としての上京である。生き方の相違を越えて、この時ふたりの間でどのような会話があったのか知りたいが知る由もない。 山本氏と橘鶴堂文庫を閲覧した後、吉岡の義父の家に向かうと、義父は佐渡まで文書漁りに来た不肖の婿を夕飯の仕度をして待っていてくれた。 食事の後、近代の頃には新町の産業のひとつであったと本に書かれている「新町塗」の椀がこの家にもあるかな?と父に聞くとふたつの小さな塗り椀を棚から出してくれた。 その、外は黒く内側が朱の塗椀は、箱膳に合わせるためか子供茶碗のように小さく実用本位で、作りが幼く島内のための道具だなと感じる。 「汁を飲むのになにを気取ることがある。」という気分が佐渡らしいとも思うし、木工旋盤を操る家業を「くりくり屋」と呼ぶのも私には好ましく聞こえる。 帰りも静かな船旅であった。船上で、塗椀の在処をカバンの外から確かめ、佐渡総合高校から貸して頂いた橘鶴堂文庫目録を眺めながら、またも眠ってしまった。 仕事に取り紛れて迎えた五月の末に、山本修巳氏から「新穂文庫」の手掛かりを報せる葉書を貰った。 北昤吉の著書「思想と生活」に、北一輝が読経に使っていた法華経の経典は元々北兄弟の父慶太郎が所有しており、後に新穂文庫に収蔵されていたものを一輝が自分の著作と交換に取り返したもの・・と書いてある。 本間一松や北兄弟の足跡があるかもしれない新穂文庫の所在が知りたくて、またしても山本氏の手をわずらわしていたが、氏からの葉書は新穂村歴史民俗資料館の本間眞珠館長にお聞きせよ、とのことで、本間館長に照会すると、新穂村図書館の郷土関係資料の棚に新穂文庫と印の押された「南満州鐡道株式会社十年史(大正八年刊)」があることから、新穂文庫は同館の前身ではないか?と云うご返事を頂いた。 八月の盆明の頃、漸く新穂村図書館の郷土史の棚を閲覧に行く事ができた。蔵書は質も量も立派なもので、書架の上に「寄贈(故)佐藤常済所蔵図書」と書かれた木札が付けてある。 この忘れられた文庫の蔵書には、橘正隆の『河崎村史料編年誌』や『佐渡兵制史話』、斎藤長三蔵版の田中従太郎著『佐渡志』などに混じって、「新穂文庫」の角印が押された『南満州鉄道株式会社十年史』、おまけに北一輝が献本したかもしれない佐渡商船株式会社の角印のある『支那革命外支』まで見受けられた。南満州鉄道株式会社は斎藤長三の子息傳財門が山本悌二郎の斡旋で勤務した会社である。 この古い社史からも、長三と一松の語り合う声が聞こえる気がする。
「田中圭一講演集第一集(世阿弥の頃の佐渡)」より
佐渡高校からF佐渡名勝志』という本が出版されましたが、その中の金井町泉の正法寺の項に(観世太夫(観世流の親玉のこと)が佐渡へ流されてきて、この寺の境内に腰掛石一が残っている)という意味のことが記されております。 この本を書いたのは佐渡人ではなく、千葉の伊東隆敬という人であります。佐渡の古代から江戸時代までの行政や風俗、社寺、文学などのあらゆる分野にわたって書いた郷土史なんです。およそ二五〇年も昔に、観世太夫の佐渡配流について書かれていたのですから驚かざるをえません。といっても、この品書物は-椴の人の脹に触れることはありませんので、昭和になりましてから橘正隆(越後生まれ)が佐渡に住み、注を入れた『佐渡名勝志』を刊行して初めて私どもはその事実を知ることになります。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)橘法老 100 橘鶴堂文庫と斎藤長三著「佐渡政党史稿」のことなど
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)①
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)②
・『琺老橘正隆先生を偲んで』
・「佐越航海史要」(昭和22年初版、48年再販)
地域文化を変えた余所者達の話
★橘光雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)橘光雄 6 どうしてなのかな(詩)
★橘光治(みつはる)

→橘治作・正治(大和田)
★橘屋庄兵衛
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
良寛の母おのぶの生家である。晩年は畑野後山の住人であった。西こうやの上のほうで、通称かどこと羽二生忠三郎と、加藤善右衛門家の中間のあたりで道路の反対側のところにその家はあった。明治初めころまでは庄左衛門の名で伝わっており、のちに窪田に移ってそば屋を開いたといわれている。庄兵衛の名は、元禄検地時に字家ノ西に一反十五歩の屋敷と、七反歩の田畑持として記載されているが、これが果して橘屋とつながる者であるかどうかは確認できない。相川の橘屋が、後山村に家屋敷を持ったのは、時岡一家との関係からでもあった。庄兵衛の妻ほ時岡の娘であり、弥右衛門やオモヤの右中とも密接な関係があったからである。さらに庄兵衛は、これも相川町人であった河原与三兵衛の先祖ともつながりをもっていた。
★立原道造(たちはらみちぞう)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)立原道造 114 立原道造と父高尾亮一 高尾道生
★田長美登
→野村蘭作「宝生二派の統一」参照
★田付又四郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、元文四年(-七三九年)十月二十八日御書院組頭より佐渡奉行に、寛保二年(-七四二年)三月二十八日二百石加増して長崎奉行に転任した。名は景厖(かげのう)、知行は三百五十石、御役料千五百俵百人扶持であった。(佐島遺事)
★達者の荒磯→和倉元吉
★立間喜十郎
小木琴平神社

★辰間司信「躍進日本」、
「躍進日本」

★辰巳村太郎右衛門→本間太郎右衛門
★竜登谷之助
「佐渡ケ嶽部屋六代目」(「佐渡の百年」)
★伊達修
羽茂大崎、犬落の又兵衛家の人。本名修一。佐渡最初の新聞人、伊達喜太郎の長男として生れた。佐渡中学校中退。台湾製糖などに勤め、応召。終戦によって復員。以後、大崎に住み百姓と短歌に生き、酒を友とした。昭和六十三年死亡。行年八十三歳。歌は直情径行な万葉調で、真実な生き方に打たれる。「歌と評論」 主要同人で、歌集「霜蹄」がある。
○ふところのこの焼き芋の冷えぬ間に子よ帰り来よ夜道は寒し (平成十九年三月建碑 棹石丈0.85㍍)
碑の歌は学校から四キロの山の通学路を考えると、身に迫るものを感じる。
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★伊達喜太郎(だてきたろう 狂堂)

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八七一ー一九一○ 明治四年九月三日、羽茂町大崎の又兵衛家に生まれ、狂堂と号した。横浜商業高校を卒業して千手小学校(現大滝小学校)の代用教員となり、明治二十四年千手村(現羽茂町)に「少年会」を結成した。その後北海道に渡って「江差新聞」などの記者をしていたが、森知幾から新聞発行の相談を受けて、明治三十年頃帰郷した。「佐渡新聞」の発行に当たっては、自由党支持の立場から、進歩党を支持する本間慶太郎と対立、伊達は板垣退助らの祝詞を掲載した創刊号を発行しようとしたが、失敗に終って退社した。同三十一年二月に「佐渡新聞社」に復帰、森知幾の主張に同調して、吉屋郡長の官尊民卑の姿勢を激しく糾弾した。これに対抗して郡長らは、同年三月官吏侮辱罪で、当時編集人であった笹川亮太郎を拘引、主筆の大竹忠次郎や伊達・森らの家宅を捜索、同年六月九日には森知幾を拘留して、その期間は六か月に及んだ。この間、編集兼発行人として新聞社を支えたが、翌三十二年一月には自らも拘留され、重禁固一か月・罰金五円の判決を受けた。同年七月に出獄したがそのまま東京に残り、「二六新報」の復刊に奔走、その記者となって廃娼運動や労働運動に活躍、のち「満州日報」などの記者となった。この間佐渡へも帰り、藩閥政治反対の立場から、民党協力のために奔走したが、明治四十三年十月病没した。【関連】佐渡新聞(さどしんぶん)・森知幾(もりちき) 【参考文献】『近現代の羽茂』(『羽茂町誌』四巻)、『佐渡相川の歴史』(通史編近・現代) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※佐渡新聞(さどしんぶん)
明治三十年(一八九七)九月三日、森知幾によって創刊された佐渡で最初の本格的新聞。当初は隔日刊であったが、同三十五年から日刊となった。発行兼編輯人が友部周次郎、印刷人細野啓蔵、主筆には「新潟新聞」の記者をしていた大竹忠次郎を迎えて発足したが、実際には主幹の森知幾が編集と発行に当たった。発行所は当初羽田町にあったが、のち下戸炭屋浜町へ移転した。以前から島民による新聞の発行を企図していた知幾は、畑野町の本間慶四郎や「江差新聞」の記者をしていた伊達喜太郎らと相談して六月発刊の予定にしていたが、本間と伊達の間で支持政党の対立が起こって、三か月近く遅れた。知幾は、人民の自由・平等と独立をかかげて地方分権を主張し、官尊民卑の姿勢が強かった当時の吉屋雄一郡長と激しく対立、その姿勢を糾弾する論陣を張った。そのため官吏侮辱罪で六か月間の拘留(のち無罪判決)となったが、この間一時退社していた伊達喜太郎が新聞社を支えた。同紙はこうした弾圧に屈することなく、廃娼論や被差別部落の解放、佐渡鉱山のストライキ解決のための論陣を張り、佐渡の近代化と産業の振興に大きく貢献し、最盛期には発行部数が二○○○部にも達した。大正三年(一九一四)、社主の知幾が没すると、一時山本悌二郎に経営が託されたが、その後知幾の子供たちが受け継ぎ、昭和十五年(一九四○)九月に新聞の整理統合によって廃刊となった。【関連】森知幾(もりちき)・伊達喜太郎(だてきたろう)・本間慶四郎(ほんまけいしろう) 【参考文献】岩木拡『相川町誌』、森 幾『森知幾ー地方自治・分権の先駆』 【執筆者】石瀬佳弘
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八七一-一九一〇)(居住)新聞記者。佐渡新聞の記者のころ、羽田村(中町)に住んでいたらしい。その期間は、七年余で、明治三十一年二月から三十二年六月まで、三十四年七月から三十九年六月末まで、四十二年一月から四十三年一月までである。羽茂村犬落に生れ、横浜商業学校を卒業して、羽茂の千手小学校の代用教員になり、二十四年、佐渡青年協会の幹事。二十六年、北海道の江差新聞、江鴎新聞に関係し、二十七年ころ二六新聞に入社、二十八年、同紙の休刊と共に帰郷した。三十二年、二六新報の発行兼編集人になり、三十九年、満州日報に入社、四十一年、筑後新聞に入社している。佐渡紙時代は、郡長の官尊民卑の姿勢を糾弾し、二六新報時代は、廃嫡運動や労働運動に活躍した。
「佐渡の日刊新聞創刊」(「佐渡の百年」)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
伊達喜太郎は明治四年(一八七一)九月三日、犬落伊達虎五郎の長男として生まれる。幼時より学を好み、大崎や赤泊に赴いて書を学び、また、経史にも通じた。喜太郎の性格は磊落不覇で、一見旧知の如く人に接し、何の隔てもなく、有れば人に施し、無ければ人より受けて、あえて意に介せず、天竺浪人と自称し、また、文章を好くして、狂堂と号して新聞記者で終始した。明治二四年(一八九一)中川知平と共に、千手小学校大崎派出所{中川知平宅)の教師となり、子弟の教育に当たった。また、同年自ら主唱者となって、千手村少年会を結成して、毎会合に講師となって活躍をした。狂堂二〇歳の頃、青年農会の創立に中川知平に協力して、夜学校を開いて、毎夜犬落から一里余の道を往復して、教授の任に当たった。
大崎青年農会が後年天下に名をなしたのも、氏の啓発によるところが大であったといってもよい。明治二八年(一八九五)一〇月二六日、北海道江差日報が発行認可されると、記者として入社し、記者生活の第一歩を踏み出した。同二九年「北の目覚社」 (北海道函館にあった)に入社し、また、三〇年(一八九七)一〇月三〇日発刊認可を得て、佐渡新聞を創刊した。これが佐渡の新聞の始めであって、佐渡文化史上特筆に価すべきことであった。
関係認可書の写を次に掲げる。
通第三六三三号 佐渡新聞
新潟県佐渡郡相川町大字羽田九〇番地
発行所 佐渡新聞社 同所寄留 発行人 伊達喜太郎
一、毎月一回以上遂号定期発行すること。
一、記載事項の性質終期を予定すべからざること。
一、書籍性質を有せざること。
一、発行の目的、時事を報道論議し及び広くこれを公衆に発売すること。
右各項の証明を勘査し第三種郵便物となすことを認可す。但し見本一部を発行地本管一等郵便電話局へ納む可し。紙面の体裁記
載事項の性質種類を変更したるとき亦同じ。
明治三〇年六月一〇日 逓信省
同三五年(一九〇二)四月二五日、東京二六新聞再刊に当たり入社、娼妓の自由廃業を叫び、人気大いにあがる。その後、また佐渡新聞に入社した。
のち、宮崎来城とともに満洲日報を創刊して入社し、さらに東京通信社にも入社した。同四一年(一九〇八)四月一日認可で、宮崎来城とともに、筑後毎日新聞を創刊して入社した。同年一〇月請われて、三度佐渡新聞に入社したが、四三年(一九一〇)一〇月七日病を得て自宅で歿した。享年四〇歳。狂堂の祖父又兵衛は、生花・俳詩ともに宗匠をもって許され、俳名を左頂と号した。明治二九年八月八日殺した。 享年七〇歳。
六三の春を迎えて
孫つれて七九の杖や凧あそび 左頂
はつ鶏や世界の夢を一声に 同人
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治四年生 狂堂、羽茂村大崎 ・明3、辛卯倶楽部の設立[二十四年八月十二日]・明3、佐渡憲政党の発会式[三十一年七月二十四日]・明4、佐渡独立選挙区について[三十五年七月]・明4、佐渡独立選挙区[三十五年八月十日]・明4、山本の帰省[三十五年九月三日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、伊達喜太郎の病死[四十二年] 「佐渡関係事典に載る」
・父は江差の田辺九郎平の番頭として活躍。
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数53・62・63・76
★伊達幸子

「エスライフ」2018年8・9月号

h25年8月15日

「島の新聞」索引(人名別)
★伊達修一
羽茂BG体育館前

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。
とくとくと茶碗にそそぐにいしぼり襟を正さむ思いぞわれは
★伊達四郎為家
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
建暦二(1212)佐渡に配流。萩生右馬允と侍所で闘争する。右馬允は日向流罪。(『吾妻鏡』『佐渡風土記』)
★伊達又兵衛(左頂)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎犬落の人、伊達喜太郎の祖父。又兵衛は、生花・俳詩ともに宗匠をもって許され、俳名を左頂と号した。明治二九年八月八日殺した。 享年七〇歳。
六三の春を迎えて
孫つれて七九の杖や凧あそび 左頂
はつ鶏や世界の夢を一声に 同人
『山里の人びと』(俳壇)(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
★立石斧次郎
「華族となった佐渡人」(「佐渡の百年」)
★立石雅昭
「島の新聞」索引(人名別)
★立岩真也(たていわしんや)
両津図書館

「ウイキペディア」より
著作等

両津市鷺野出身の社会学者で障害児問題についての専門家である。実家は両津高校のすぐ裏手で、父立岩則雄氏は中学(南中)、高校(両津・佐渡)の英語教師である。曽祖父は浦川文殊院の住職だった立岩寶傳と想われる。ルーツは両津蚫か。
「ウィキペディア」より
1960年8月16日 -。日本の社会学者、立命館大学先端総合学術研究科教授。
新潟県両津市(現・佐渡市)生まれ。新潟県立両津高等学校を経て1983年東京大学文学部社会学科卒業、1990年同大学院博士課程単位取得満期退学。日本学術振興会特別研究員、千葉大学文学部助手、信州大学医療技術短期大学部講師・助教授、立命館大学政策科学部助教授を経て、2004年から現職。
・単著: 『私的所有論』(勁草書房 1997年) 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社 2000年) 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店 2004年) 『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院 2004年) 『希望について』(青土社 2006年) 『良い死』(筑摩書房 2008年) 『唯の生』(筑摩書房 2009年) 『人間の条件 そんなものない』(理論社 2010年)
・共著: (安積純子・岡原正幸・尾中文哉)『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店 1990年)
(稲葉振一郎)『所有と国家のゆくえ』(日本放送出版協会[NHKブックス] 2006年)
(稲場雅紀・山田真)『流儀――アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(生活書院 2008年)
(村上慎司・橋口昌治)『税を直す』(青土社 2009年)
生存権 いまを生きるあなたに 尾藤廣喜,岡本厚共著 同成社 2009.3
(齊籐拓)『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(青土社 2010年)
・翻訳: トマス・ポッゲ「なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか―世界的貧困と人権」(監訳)池田浩章ほか訳、生活書院 2010年 ISBN
「島の新聞」索引(人名別)
「もらったものについて・1」(立岩真也 2007年)
※立岩(柿野浦):立岩苗字のルーツと思われる
「立岩真也さんが問い続けた生きる意味」…享年62歳 やまゆり園事件では安楽死肯定論を痛烈に批判
2023年8月3日 東京新聞
社会学者の立岩真也さんが62歳の若さで亡くなった。病や老い、障害とともに生きることから社会を考察する「生存学」の礎を築いた。2016年に起きた相模原市の「津久井やまゆり園」殺傷事件では安楽死に肯定的な論説を痛烈に批判し、生きる意味を問い続けた。引き継ぐべき遺志を考えた。(木原育子)
◆悪性リンパ腫と闘病
ビデオ会議システムで取材した時には、部屋に必ず飼いネコが登場し、いつも場を和ませてくれた。そんな立岩さんが7月31日、悪性リンパ腫で世を去った。ブログには3月以降、闘病生活がつづられていた。「血小板の輸血始まり」「温かいものが飲めるように」。7月22日を最後に更新は止まっていた。 2007年にできた立命館大生存学研究センターを率い、今年3月まで後継の研究所で所長だった立岩さん。さまざまに異なった身体で生きる人々の経験を集め、社会に問う「障老病異」が理念の拠点だった。 同所の上席研究員、長瀬修さん(64)は「偉大な研究者であり教師であり、リーダーだった」と称する。
◆「障害や生存の課題は国境を超える」
出会いは1996年。立岩さんは信州大医療技術短期大学部の専任講師だった。障害学の立ち上げ構想を持ちかけ意気投合。「大いに盛り上がって、初対面なのに自宅に泊めてくれてね。昔から気さくで開けっぴろげだった」 2003年に長瀬さんと障害学会を設立。東アジアにも広げ、国際セミナーも開かれた。「障害や生存の課題は国境を超えると意識していた。彼は国内の社会課題の発信をしてきたとみられがちだが、国際色も豊かだった。各国から追悼メッセージが届いている」 朝日新聞の元論説委員でジャーナリストの大熊由紀子さん(83)は、01年に自身の新たな旅立ちのために開かれた会に触れた。参加した立岩さんの姿が忘れられない。「皆がさまざまな話題で盛り上がる中、壁に一人寄りかかり、冷静に観察する風情が彼らしかった。まだ無名の研究者だったが、『彼も来たのか』と知る人ぞ知る存在、当時から一目置かれていた」
◆被告の姿は私たちにつながる、と指摘
尊厳死や安楽死に反対の立場を貫いた立岩さん。16年に相模原の殺傷事件が起きると「本人のためという言葉を使って、実のところは私たちの都合の良さを実現するのが優生思想・安楽死の常套じょうとう手段」「事件の被告の姿は私たちにつながる」と本質を突いた。 障害者施設だけではなく、精神科病院の強制入院にも異を唱えた。21年の「こちら特報部」の取材に「今まで病院にかけていたお金を地域ケアにかけるようバランスを変えればいいだけ」と指摘。厚生労働省に「政策転換を本気でやってもらいたい」と訴えた。 薬害問題にも関心を持った。交流した一人が、カルテ開示市民運動を展開した医療事故遺族の勝村久司さん(62)。「気難しい印象かもしれないが、ユーモアもあっておしゃれ。京の町を小型バイクで軽快に走っていた」
◆人には死ぬ権利があると言っていい。しかし…
勝村さんは、京都の病院に設けられた医療倫理に関する外部委員会で立岩さんとともにメンバーだった。以後もインタビューの依頼が届くなど、交流を持ち続けた。「障害や病気が原因で生きることを軽視されたり、阻害されたりすることがあってはならないと一貫していた。そこを妥協すると、患者や障害者らの生きにくさを助長すると早くから気づいていた」 筋萎縮性側索硬化症(ALS)で呼吸器を付ければ生きていくことができる人が、その選択をせず、生を全うしたとされる社会のあり様に異を唱え続けた立岩さん。17年の本紙取材にこう答えた。「人には死ぬ権利があると言っていい。しかし、いざとなった時に、死にたいという人は非常に少ない。『生きていい』社会にしてもらいたい」

諸情報
★立岩則雄

平成30年11月没、88歳、両津鷺野の人.。大正大卒。両津南中、両津高校、佐渡高校等で教鞭をとった英語教師。長男に立命館大教授立岩真也が居る。仏教系大学卒から察するに父は立岩寶傳か。立岩苗字のルーツは柿野浦である。
奥様は湊上安、宮川家の人。
★立岩寶傳
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★舘岡嘉喜治
「島の新聞」索引(人名別)
★舘岡正夫
「島の新聞」索引(人名別)
★立川算法
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★蓼沼右京亮(たでぬまうきょうのすけ)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【たでぬまうきょうのすけ(15??~1573)】長尾景虎家臣。佐渡国の代官職と務めた。1573年、「佐渡一向一揆」では、北陸の一向一揆に呼応して、銀山や砂金山で働く浄土真宗の門徒衆が中心となり一揆を起こした。長尾景虎に一揆発生を知らせると、少ない手勢で一揆衆と戦い討死した。長尾景虎は家臣の甘糟景継を派遣して一揆勢を鎮圧した。
★蓼沼房枝
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1春夏秋冬に想う・蓼沼房枝
★館野おもちゃ屋
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
昭和の初めまでは羽田町の通称「もちや」青柳藤太郎が、提灯を作るかたわら凧を作っていた。先々代長次のころから作っていたというから、「初金比羅」土産は、この長次などの作ったものであろう。相川町には、このほか小六町の館野おもちゃ屋でも売っていた。十月十八日は相川町の善知鳥神社の祭礼である。この夜の神輿の渡御を迎える提灯がたくさんならぶ。秋の夜の深い闇に明滅する提灯の明りは美しい。この時おとなの提灯にならってこども用の「オケェーリ(お帰り)提灯」とよばれるものが小六町の館野おもちゃ店で売っていた。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★立野仙次郎
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
相川町入川の人、マツヨム人形(後、文楽座)の創始者。この人形を始めた立野仙次郎は通称「松右衛門」、土地ではマツヨムと発音する。天保七年生れで、明治四十四年に死んでいる。
源頼光や渡辺ノ綱などよい人形を五個も、いっしょにスラット揃えたと、いつもホラを吹きまわっていたので、「スラット」という綽名をつけられたほどの人形きちがいであったという。役者は、このほか近藤利吉、坂上福松、樋口五郎太、池野栄蔵などがいた。太夫ほ池野大太郎(通称新三郎の大蔵)で、我流で文弥節を語っていたという。
明治三十年、真野町中雑田の善蔵人形のカシラ十個を買い不足をおぎなった。このころから樋口五郎太が岡本文楽の芸名で太夫となり「文楽座」と座名をつけた。
★立野茂利
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★建原司
「島の新聞」索引(人名別)
★立山いの
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
貞婦で佐渡相川町坑夫立山覚蔵の妻である。病弱な夫によく仕え朝晩夫を途中まで送迎して励まし、義母ひなに孝養を尽くした。元治元年(一八六四年)夫がなくなると、早朝から薄暮まで鉱石運搬に従事し、夜は紡績でおそくまで働いて一家をささえた。
義母と子供の養育につとめ明治七年一月、相川県より賞された。(佐渡人物志)
★帯刀彌市
長谷寺

★立分(たてわけ)村治
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★田中藍
1978年12月11日生れ。ハロー!ブックス実行委員会代表。 東京都荒川区出身。足立高校-文化服装学院(II部)、セツ・モードセミナーを卒業後、佐渡島へ移住。佐渡の食材を天然シロップにした「かき氷ペンギン」店主。地域の図書館をよくする会代表や「ゴーゴー!羽茂温泉プロジェクト」活動メンバー、羽茂大市での「お多福いち」プロデュースや、味噌樽をステージにした「樽劇場」企画など、地域の宝ものを活かす活動を仲間と行うマルチな女性。 佐渡在住14年、2児の母。文弥人形虫紋座所属。元オリーブ調査隊。
平成27年 新潟日報 平成26年「HELLO BOOKS」で谷川俊太郎さんと

「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★田中章
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★田中敦子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)田中敦子 75 冬虹清雅-山本修之助遺句集『冬の虹』鑑賞-
★田中伊三雄
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★田中稲藏
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★田中伊之吉
「躍進日本」

「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★橘以南
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
40 鑑賞 佐渡のうた (33) -補遺- 遊女初君・山本以南・佐藤枝彦・大久保正・能村登四郎 山本修巳 40 出雲崎・寺泊紀行 -以南句碑除幕式に参列して- 山本修之助 40 良寛の父 橘以南の句碑建立-刻まれし自筆の句について- 宮栄二 60 連載 閑々亭雑記 (19) 良寛の父以南と俳僧松堂 山本修之助 76 良寛の父 山本修巳 115 わが家に伝わる良寛と父以南の遺墨 山本修巳 115『佐渡郷土文化』所収(数字は号)良寛の父橘以南の句碑 山本修巳
★立花京二
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
★橘幸子
「島の新聞」索引(人名別)
★橘三喜
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★橘次作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★橘治作・正治(大和田)
左:橘治作 川上喚涛の娘(ノブ)の夫 中:川上喚涛次女ノブ(大和田の橘家に嫁いだ) 右:川上喚涛初孫(大和田の橘家に嫁いだ次女ノブの長男)20歳頃没 佐渡農学校の秀才だった。橘正治の弟



左:橘正治(しょうじ)川上喚涛の次女の次男 右:句碑(俳号 子赤) 左:橘正治妻(十重 とえ)



→橘光治(みつはる)
★橘昌平
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★橘澄江
両津高校時代の1994年度(H6)12月、第14回全国高校生読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催)入選
★橘善吉
1837年(天保8)大和田村(現 千種)に生誕。旧姓は山川、14歳で父に死別し橘家に養子に入り、養父善吉の名を襲名。
元治元年学問修業jに江戸に出るが、尊王攘夷運動で騒乱の江戸をあきらめ翌年佐渡に帰って営農。明治13年佐渡三郡連合会議議員、新潟県県議会議員に選出される。明治14年初代大和田戸長、明治24年金沢村二代村長に就任する。
畜産業の改良運動に取り組んだ近代的畜産業の先駆者である。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
千種村 ・明1、第二回の選挙[十三年十月][新潟縣会の巻]・明1、佐渡三郡の選挙[十四年四月][新潟県会之巻]・明2、第三回選挙[十六年三月]・明2、電信架設の建議[十六年四月]・明2、電線架設の建議[十七年五月]・明2、第六回選挙[二十一年一月]・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明2、海底電線架設の建言[二十三年十二月一日] 『大和誌』、『金井を創った百人』
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数29・43
★橘俊孝
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
出雲守 長元五(1032)佐渡に配流。宝殿を造り、杵築の宮の神託を詐称した罪。(『日本紀略』『扶桑紀略』『百錬抄』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
出雲守である。いつわって神のお告げといって杵築社を造営するよう奏請した。
長元五年(一〇三二年)九月二十七日に佐渡へ流された。(越佐史料)
★橘南谿(なんけい)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)橘南谿 48 連載 閑々亭雑記 (7) 佐渡へ船出したが渡れなかった旅行家 山本修之助
「明治の遊歴人」(「佐渡の百年」)
★橘正隆(橘法老)
日本海文化研究所報告 第一集 令和元年7月





「新穂村史」(s51年)





『楽苦我記抄』(橘法老 s56年)より



※写真は 『楽苦我記抄』(s56年)より
日蓮の研究で来島し、島で生涯を終える。佐渡史の実証的研究で大きな業績を残す。「金泉村史」で民謡を記述し、佐渡独特の19文字の古民謡を高く評価する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【生没】一八九二ー一九六四 明治二十五年六月三十日生まれの橘正隆は、東京麹町区九段三の一六番地が本籍地であるが、出生地は新発田市郊外の、旧五十公野村といわれている。先代は、新発田藩の武術指南役の家柄であったため、江戸に出役中に維新に会い、そのまま永住すべく、のちに籍を移したらしい。学業は、中央大学の法科に学んだともいわれる。こうして来島前の経歴があいまいなのは、当人はなぜか過去を語ることが殆んどなかったためである。それでも大正十二年(一九二三)の関東大震災で妻子を失ない、その後、軍(陸軍)関係の仕事にあったことなどを、親しい者に漏らしている。また遺品の中には、青年時代に合気道の門に入り、文字のない師に代って奥儀や体験を詳述した書籍があり、自ら書いた書物の最初のものであるという書き込みがしてある。佐渡には昭和十一年(一九三六)八月二十七日に、日蓮の遺跡研究の目的で小木港に渡った。しかし島内では伝説や口碑を史実と誤認していることに落胆し、自らの手で調べ直すことを決意して、郷土史研究を始めた。緻密で鋭い洞察力を備えていたため若い世代をひきつけたが、一面では狷介な性格をみせ、誤解や反撥を招くこともあった。昭和三十九年九月十四日死去の後は、氏を慕う者たちによって、墓のある湊の妙法寺で毎年法老忌が催されてきた。【関連】橘鶴堂文庫(きっかくどうぶんこ)・佐越航海史要(さえつこうかいしよう)・佐渡古典叢書(さどこてんそうしょ) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※橘鶴堂文庫(きっかくどうぶんこ)
越後の新発田出身(本籍は東京市麹町九段三の一六)の橘正隆(通称は法老)は、昭和十一年(一九三六)八月二十七日に佐渡にわたった。目的は日蓮遺跡研究であった。ところが来島して訪ねた霊跡と、島人に伝わる伝承とが著しく事実と相違していることに気づいて、根底から調べ直すことを決意した。そのため地方史研究に集中して、生活をそこにかけ、島ではじめての専業郷土史家となったのである。以来、昭和三十九年(一九六四)九月十四日に、七三歳の生涯を終えるまで、佐渡の歴史研究に終始した。その間、『附注佐渡名勝誌』・『佐渡兵制史話』・『佐越航海史要』・『遭逢夢の如し五○年』・『水津村史料編年志』・『河崎村史料編年志上』などを刊行し、そのほか『金泉郷土史』・『赤泊村史』・『課税の変遷と佐渡義民始末記』の編さんに協力し、『佐渡古典叢書』二巻を発刊した。そのために蒐集した古文書はじめ、絵図・写真・切抜帖から複写原稿および下書きに至るまでを、本人の意向もあって後援会の話し合いで、県立佐渡農業高校に保管することになり、「橘鶴堂文庫」と名づけた。同校は創立七十周年記念出版として、『橘法老佐渡史話・楽苦我記抄』を、同八十年には『日蓮聖人佐渡霊跡研究』を出版した。【関連】橘正隆(たちばなまさたか) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※佐越航海史要(さえつこうかいしよう): 昭和二十二年(一九四七)に佐渡汽船株式会社は、明治初年から八○年間の船舶の発達、航海の状態、港津の盛衰等を輯録して、「佐越航海史」を編さんすることを計画し、それを郷土史家の橘正隆(通称法老)に依嘱した。依嘱は、同社の顧問格で取締役であった野沢卯市から直接なされたもので、野沢はそれまでに三か年にわたって集めた資料すべてを橘に提供し、橘自身の調べた資料を加えて、自由にまとめるよう要望した。橘は昭和十一年(一九三六)に日蓮遺跡研究を目的に来島して、最初は金泉村にいたが、翌年村史編さんの仕事が赤泊ではじまったとき、同村に招かれた。野沢はその赤泊の出身者で、早くから両者は昵懇の間柄であり、橘は後日野沢の伝記ともいうべき『遭逢夢の如し五○年』を書いている。橘は会社の要望した「佐越航海史」に、「要」を加えて次の八章にまとめた。「[1]緒言[2]海洋文化時代[3]流人島時代[4]徳川領時代[5]黎明時代[6]佐越航海競営時代[7]佐越航海統一時代[8]官公費補助始末」。同書は、昭和二十二年(一九四七)に五○○部が非売品として佐渡汽船株式会社から出され、また昭和四十八年(一九七三)に同社の創立六十周年を記念して、『六十年のあゆみ』を発刊したときにB5版に拡大して再版され、同じ凾に収め非売品として、関係者に配布された。【関連】橘正隆(たちばなまさたか) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※佐渡古典叢書(さどこてんそうしょ):昭和二十六年(一九五一)に郷土史家の橘正隆(通称は法老)は、金井町中心街の尾花崎で、印刷事業を行っていた産青連印刷所の三十周年記念事業として、同会と提携して佐渡史関係の古典書の刊行をはじめた。第一巻は『相川県史』で、そこへ「寺社帖」が付されていた。第二巻は、「四民風俗」と「いが栗」が収録され、いずれも好評を得て郷土史愛好者たちに、叢書の発行が期待されていたが、事情があって打ち切られてしまった。そのため『佐渡古典叢書』は中断したまま、幻の叢書となってしまった。
【関連】橘正隆(たちばなまさたか) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
新発田の出身で、昭和十一年日蓮研究のため佐渡に渡り両津市河崎に住んだ。
郷土史研究家で河崎村編年志、佐渡古典叢書、水津村資料編年志、赤泊村史、越佐航海史などの著書がある。法老と号した。晩年身寄がないた一め地元の史学愛好者たちが「橘法老後援会」をつくって世話した。昭和三十九年九月十四日に七十三才でなくなった。(読売新聞・朝日新聞、概観佐渡資料目録)
「橘鶴堂文庫と斎藤長三著「佐渡政党史稿」」((風間進 「佐渡郷土文化」100号より転載)
乗客も疎らな大佐渡丸の二等船室に仰向けになり、明治二十七年に斎藤長三が自分の印刷所で刷った冊子「北斗」を読んでいたがやがて眠ってしまい、目覚めると船室の窓からドンテン山の白い嶺が見える。二月にしては珍しく凪いだ海を渡り、ひとり佐渡に来てしまった。 南線のバスに乗り、曇空の下、雪を被った大佐渡山系と黒く踞る小佐渡の丘陵を見比べながら、畑野の佐渡総合高等学校に向かった。左右の畑地や道端の窪に幾らか雪が残り、遠目に見える牛尾神社の石段はこの冬の総ての雪を積み上げている。 二月中旬に山本修巳氏から「橘鶴堂文庫」閲覧許可の電話を貰った。新潟図書館に収蔵されている「佐渡政党史稿」の旧版の一部が橘鶴堂文庫にあることが判っていたので是非とも見たいと考えていたが、総合高校から許可を頂いたとの事で、早速その週末に伺う手筈となった。長三は佐渡政党史稿の初期稿を二度書き直している。 彼が史稿の出版を構想したのは昭和十五年頃らしく、最初の原稿を北昤吉などに見せ、北の「もっと広範なものにすべし」との意見を受けて一度書き改め、「明治の巻」については二度書き改め、これを五十部ほど印刷し、意見聴取のために知人などに送ったが、だれからも表だった意見はなかった。 橘鶴堂文庫には県立図書館のものより以前の版が残っており、早起きして佐渡に来た甲斐があった。 ところで橘鶴堂文庫には佐渡政党史稿に関連して野澤卯市が書いた「斎藤長三氏編佐渡政党史稿批正の弁」という謄写版刷りの文書があるが、この概要は佐渡政党史稿が政友会本位な記述に終始していることへの強い異議である。野澤は斎藤長三が佐渡政党史を著そうと思うと言うので、佐渡の各政党の史実を公平に纏めるのは難しい。斎藤が政友会史を、自分が民政党史を書くことにしたらどうかと提案したが、斎藤は史家として公平を期すると確約したので自分も賛意を示した。後には民政党関係について口述して彼に協力した。また原稿も求められたのでこれも記述し送付した。 しかし、斎藤は途中から自分が送付する原稿を無視して、政友会本位の政党史をまとめ、史実を歪めている。と反駁し、自分が長三に送った原稿と政党史稿の記述とを比較し、政党史稿の史実との相違を挙げることに細かな文字で四十頁ほどを費やしている。 長三は佐渡政党史稿を巡る野澤卯市との軋轢あつれきについて「履歴書」の終章頃、昭和十九年十二月十七日の日付で以下のように書いている。 政党史稿を書くために佐渡日報に民政党系の資料の提示を求めたが対応して貰えず、野澤卯市に仲介を頼んだ。そのうち野澤から「政党史稿は政友会臭い、長三中心の政党史だ。」などと故障を申し立てられ「民政党の旧同志にすまないから緑を絶つ。」とまで拒絶されてしまった。断絶解消の調停を夷の本間金五郎に頼んだが野澤は受け付けない。当初、長三の政党史編纂を煽っていた北昤吉にも手紙で仲介を頼んだが、野澤に因果を含められたのか返事も寄こさない。新潟にいる野澤に会いに行きたくても、雪中老齢で足も動かない。 (昭和十九年)十二月二十日付けで内務省に出版発行届けを為し、残余の冊子を有志者に郵送して運を天に任すことにした。との心境を日誌に書いた数日後、年も暮れた二十七日に長三は死去している。 佐渡政党史稿は数十冊が最寄りの人々に配られただけで、彼の死によって正式な出版は頓挫してしまった。
彼の時代を一緒に生きた敵も味方もみんな死んでしまい、政敵ではあるが唯ひとり生き残って、自分の時代を共有できると思っていた野澤に強烈な反発を受けてしまった。 しかし、政友会の重鎮斎藤長三の政党史が政友会的になるのは当たり前、民政党の重鎮野澤卯市がこれを否定するのも当然で、長三が野澤に編纂の手助けを求めたことが、そもそも老いた長三の甘えかもしれない。 前述の「批正の弁」の結語で野澤卯市も、著者が老後の想い出として氏業に従事して以来約五年、東奔西走、努力せられつつありしに急逝せられたるは、史稿その物に対する批判は別として其心事に対しては同情に堪えざる次第である。と結んで、長三の死後になって始めて彼への鎮魂の辞を贈っている。 佐渡総合高校が管理している橘鶴堂文庫は、佐渡の史家「橘正隆」の蔵書と原稿と蒐集した文書などを収めた文庫である。橘正隆の出自は新発田らしいが東京の人で、東京大学法学部卒で元々史家ではないらしいということ以外、東京での生業などの履歴は不明である。関東大震災で妻子も家財もすべてを無くし、昭和十一年に佐渡に渡っている。無一物となったことがきっかけで日蓮研究をこころざし、鎌倉から三國峠を越える流罪の日蓮が通った道を徒歩旅行して小木港に辿り着いた、と文庫目録には書かれている。 昭和三十九年に七十三歳で死去するまで、佐渡での橘正隆は大夫の日蓮上人佐渡霊跡研究、河崎村史料、水津村史料編年記、金泉郷土史、赤泊村史などの村史編纂の他、佐渡兵制史話、佐渡航海史要などの著作を残している。 また、彼は佐渡の史家達の歴史探索についての手法に大分異議を唱えていたらしく、史家達との軋轢は相当なものだったらしい。 「佐渡航海史要」は当時佐渡汽船の取締役であった野澤卯市の委託によるものであり、赤泊村史の編纂のために同村に移住した頃からか、野澤との強い提携が生まれていたと推測される。 橘鶴堂文庫の収蔵文書のひとつに「佐渡航海史要、完本見本」がある。この本は活版印刷の試刷後に最後の校正のために橘正隆に渡された印刷物と思われるが、彼はこの本の余白にも更に追加稿を書き入れ、本になりかけの文章へも加筆の意欲を見せている。 巻頭にはこの本が野澤卯市への捧呈(ママ)であると書かれ、次頁にはこの時八十歳を迎えた野澤翁の略歴が書かれている。 野澤は明治元年に徳和村で生まれ、早稲田大学の前身東京専門学校を卒業すると郷里で改進党から県会議員となり、以後連続当選し、昭和五年には山本悌二郎を破って衆議院議員となっている。 昭和七年に議員を引退した後は民政党の新潟縣支部の重鎮として君臨する一方、佐渡汽船取締役などとして佐渡振興に努めている。 自由党全盛の佐渡でひとり改進党として立ち、同党の党勢拡大に尽くした野澤は政治については妥協のない人であったらしいから、長三の政党史稿を許容することは出来なかったのであろう。 私が佐渡に向かう船室で読んでいた「北斗」は、二宮の鞍立富三が発行者となり、矢田求、斎藤長三などをレギュラーの寄稿者として発行した養気会の機関誌だが、明治二十六年、三十六号に対する郡役所からのクレームで廃刊となっている。 廃刊の理由は、巻頭文に載せた「高田郡長に望む」などの論説が政治的である、との理由による。「北斗」は学術雑誌として出版登録しているのに学術の域を越えている、との指摘である。勿論、養気会は学術の範囲とは?と反論しているが、やがて「廃刊の顛末」という冊子を最後に発行停止している。
ところで、廃刊に先立つ六月の三十二号に次ぎのような広告が出ている。
廣告
佐渡自由主義者ノ非政社的團体ナル佐渡自由倶楽部ハ雑太郡河原田町ニ設置セリ
同志ノ諸君ハ奮テ加盟セラレタシ追テ発会式挙行之上役員ヲ公選スル迄仮ニ役員ヲ定ムル左ノ如シ 幹事 児玉甚右衛門 斎藤長三
委員 池田球造 池野最平 本間一松
堀修太郎 高橋元吉
規約書御覧相成度方ハ御申込次第直ニ発送ス 佐渡自由主義者
時代を経て佐渡政友倶楽部に連なる佐渡自由倶楽部の主要メンバーがその団体を創設し、参加者を求め始めたのはこの頃ではないかと思われる。「北斗」の廃刊理由となっている巻頭の稿「高田郡長に望む」も読むと予想外に穏健な内容で、却ってこの広告が醸し出す「北斗」の政治への傾斜が、隠れた廃刊理由なのかもしれない。
最近、斎藤長三の佐渡政友倶楽部での盟友、「北斗」の広告にも名を連ねている新穂の本間一松の後裔、本間一元氏から一松を中心とした家系図を頂いた。
これを見ると、周知の様に一松の妹リクは夷の北慶太郎に嫁し、北輝次郎(一輝)、北昤吉などの子を成している。また、末の妹は河原田の浦本令一に嫁している。そして一松は、次女を北昤吉に嫁がせ、三女は自分の叔父鶴間光雄の孫にあたる鶴間春二に嫁がせている。この様な地域的な系統を固め、政治的には私財を蕩尽して山本悌二郎を押し立てる「井戸屏政治家」としての一松が、時に資金面の援助をしながらも、思想信条的に自分から遠く離れていく甥、北一輝をどの様な気持ちで見ていたかは興味の沸くことではある。 北一輝著作集の書簡の項、大正十一年五月の長田実に宛てた手紙で「・・過日は青木老突然上京、消息を承り安堵・・」と、東京の一輝の元を一松が訪問したことに触れている。この頃、一松は佐渡鉄道の請願委員となり上京しているから、この用事のついでに、甥の顔を見に寄ったのだろう。 一輝は大正九年一月に上海から東京に戻り、大正十年には「支那革命外史」を出版、大正十一年は運命を共にする西田税と初対面し、職業的な右翼革命家として一家を成しつつある時期でもあったろう。
この時期に訪ねて来る叔父は、甥にとって忘れたくとも忘れられない「根処」としての佐渡を象徴し、まして地元佐渡への鉄道敷設のために要路に膝を屈する請願者としての上京である。生き方の相違を越えて、この時ふたりの間でどのような会話があったのか知りたいが知る由もない。 山本氏と橘鶴堂文庫を閲覧した後、吉岡の義父の家に向かうと、義父は佐渡まで文書漁りに来た不肖の婿を夕飯の仕度をして待っていてくれた。 食事の後、近代の頃には新町の産業のひとつであったと本に書かれている「新町塗」の椀がこの家にもあるかな?と父に聞くとふたつの小さな塗り椀を棚から出してくれた。 その、外は黒く内側が朱の塗椀は、箱膳に合わせるためか子供茶碗のように小さく実用本位で、作りが幼く島内のための道具だなと感じる。 「汁を飲むのになにを気取ることがある。」という気分が佐渡らしいとも思うし、木工旋盤を操る家業を「くりくり屋」と呼ぶのも私には好ましく聞こえる。 帰りも静かな船旅であった。船上で、塗椀の在処をカバンの外から確かめ、佐渡総合高校から貸して頂いた橘鶴堂文庫目録を眺めながら、またも眠ってしまった。 仕事に取り紛れて迎えた五月の末に、山本修巳氏から「新穂文庫」の手掛かりを報せる葉書を貰った。 北昤吉の著書「思想と生活」に、北一輝が読経に使っていた法華経の経典は元々北兄弟の父慶太郎が所有しており、後に新穂文庫に収蔵されていたものを一輝が自分の著作と交換に取り返したもの・・と書いてある。 本間一松や北兄弟の足跡があるかもしれない新穂文庫の所在が知りたくて、またしても山本氏の手をわずらわしていたが、氏からの葉書は新穂村歴史民俗資料館の本間眞珠館長にお聞きせよ、とのことで、本間館長に照会すると、新穂村図書館の郷土関係資料の棚に新穂文庫と印の押された「南満州鐡道株式会社十年史(大正八年刊)」があることから、新穂文庫は同館の前身ではないか?と云うご返事を頂いた。 八月の盆明の頃、漸く新穂村図書館の郷土史の棚を閲覧に行く事ができた。蔵書は質も量も立派なもので、書架の上に「寄贈(故)佐藤常済所蔵図書」と書かれた木札が付けてある。 この忘れられた文庫の蔵書には、橘正隆の『河崎村史料編年誌』や『佐渡兵制史話』、斎藤長三蔵版の田中従太郎著『佐渡志』などに混じって、「新穂文庫」の角印が押された『南満州鉄道株式会社十年史』、おまけに北一輝が献本したかもしれない佐渡商船株式会社の角印のある『支那革命外支』まで見受けられた。南満州鉄道株式会社は斎藤長三の子息傳財門が山本悌二郎の斡旋で勤務した会社である。 この古い社史からも、長三と一松の語り合う声が聞こえる気がする。
「田中圭一講演集第一集(世阿弥の頃の佐渡)」より
佐渡高校からF佐渡名勝志』という本が出版されましたが、その中の金井町泉の正法寺の項に(観世太夫(観世流の親玉のこと)が佐渡へ流されてきて、この寺の境内に腰掛石一が残っている)という意味のことが記されております。 この本を書いたのは佐渡人ではなく、千葉の伊東隆敬という人であります。佐渡の古代から江戸時代までの行政や風俗、社寺、文学などのあらゆる分野にわたって書いた郷土史なんです。およそ二五〇年も昔に、観世太夫の佐渡配流について書かれていたのですから驚かざるをえません。といっても、この品書物は-椴の人の脹に触れることはありませんので、昭和になりましてから橘正隆(越後生まれ)が佐渡に住み、注を入れた『佐渡名勝志』を刊行して初めて私どもはその事実を知ることになります。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)橘法老 100 橘鶴堂文庫と斎藤長三著「佐渡政党史稿」のことなど
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)①
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)②
・『琺老橘正隆先生を偲んで』
・「佐越航海史要」(昭和22年初版、48年再販)
地域文化を変えた余所者達の話
★橘光雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)橘光雄 6 どうしてなのかな(詩)
★橘光治(みつはる)

→橘治作・正治(大和田)
★橘屋庄兵衛
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
良寛の母おのぶの生家である。晩年は畑野後山の住人であった。西こうやの上のほうで、通称かどこと羽二生忠三郎と、加藤善右衛門家の中間のあたりで道路の反対側のところにその家はあった。明治初めころまでは庄左衛門の名で伝わっており、のちに窪田に移ってそば屋を開いたといわれている。庄兵衛の名は、元禄検地時に字家ノ西に一反十五歩の屋敷と、七反歩の田畑持として記載されているが、これが果して橘屋とつながる者であるかどうかは確認できない。相川の橘屋が、後山村に家屋敷を持ったのは、時岡一家との関係からでもあった。庄兵衛の妻ほ時岡の娘であり、弥右衛門やオモヤの右中とも密接な関係があったからである。さらに庄兵衛は、これも相川町人であった河原与三兵衛の先祖ともつながりをもっていた。
★立原道造(たちはらみちぞう)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)立原道造 114 立原道造と父高尾亮一 高尾道生
★田長美登
→野村蘭作「宝生二派の統一」参照
★田付又四郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、元文四年(-七三九年)十月二十八日御書院組頭より佐渡奉行に、寛保二年(-七四二年)三月二十八日二百石加増して長崎奉行に転任した。名は景厖(かげのう)、知行は三百五十石、御役料千五百俵百人扶持であった。(佐島遺事)
★達者の荒磯→和倉元吉
★立間喜十郎
小木琴平神社


★辰間司信「躍進日本」、
「躍進日本」

★辰巳村太郎右衛門→本間太郎右衛門
★竜登谷之助
「佐渡ケ嶽部屋六代目」(「佐渡の百年」)
★伊達修
羽茂大崎、犬落の又兵衛家の人。本名修一。佐渡最初の新聞人、伊達喜太郎の長男として生れた。佐渡中学校中退。台湾製糖などに勤め、応召。終戦によって復員。以後、大崎に住み百姓と短歌に生き、酒を友とした。昭和六十三年死亡。行年八十三歳。歌は直情径行な万葉調で、真実な生き方に打たれる。「歌と評論」 主要同人で、歌集「霜蹄」がある。
○ふところのこの焼き芋の冷えぬ間に子よ帰り来よ夜道は寒し (平成十九年三月建碑 棹石丈0.85㍍)
碑の歌は学校から四キロの山の通学路を考えると、身に迫るものを感じる。
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★伊達喜太郎(だてきたろう 狂堂)

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八七一ー一九一○ 明治四年九月三日、羽茂町大崎の又兵衛家に生まれ、狂堂と号した。横浜商業高校を卒業して千手小学校(現大滝小学校)の代用教員となり、明治二十四年千手村(現羽茂町)に「少年会」を結成した。その後北海道に渡って「江差新聞」などの記者をしていたが、森知幾から新聞発行の相談を受けて、明治三十年頃帰郷した。「佐渡新聞」の発行に当たっては、自由党支持の立場から、進歩党を支持する本間慶太郎と対立、伊達は板垣退助らの祝詞を掲載した創刊号を発行しようとしたが、失敗に終って退社した。同三十一年二月に「佐渡新聞社」に復帰、森知幾の主張に同調して、吉屋郡長の官尊民卑の姿勢を激しく糾弾した。これに対抗して郡長らは、同年三月官吏侮辱罪で、当時編集人であった笹川亮太郎を拘引、主筆の大竹忠次郎や伊達・森らの家宅を捜索、同年六月九日には森知幾を拘留して、その期間は六か月に及んだ。この間、編集兼発行人として新聞社を支えたが、翌三十二年一月には自らも拘留され、重禁固一か月・罰金五円の判決を受けた。同年七月に出獄したがそのまま東京に残り、「二六新報」の復刊に奔走、その記者となって廃娼運動や労働運動に活躍、のち「満州日報」などの記者となった。この間佐渡へも帰り、藩閥政治反対の立場から、民党協力のために奔走したが、明治四十三年十月病没した。【関連】佐渡新聞(さどしんぶん)・森知幾(もりちき) 【参考文献】『近現代の羽茂』(『羽茂町誌』四巻)、『佐渡相川の歴史』(通史編近・現代) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※佐渡新聞(さどしんぶん)
明治三十年(一八九七)九月三日、森知幾によって創刊された佐渡で最初の本格的新聞。当初は隔日刊であったが、同三十五年から日刊となった。発行兼編輯人が友部周次郎、印刷人細野啓蔵、主筆には「新潟新聞」の記者をしていた大竹忠次郎を迎えて発足したが、実際には主幹の森知幾が編集と発行に当たった。発行所は当初羽田町にあったが、のち下戸炭屋浜町へ移転した。以前から島民による新聞の発行を企図していた知幾は、畑野町の本間慶四郎や「江差新聞」の記者をしていた伊達喜太郎らと相談して六月発刊の予定にしていたが、本間と伊達の間で支持政党の対立が起こって、三か月近く遅れた。知幾は、人民の自由・平等と独立をかかげて地方分権を主張し、官尊民卑の姿勢が強かった当時の吉屋雄一郡長と激しく対立、その姿勢を糾弾する論陣を張った。そのため官吏侮辱罪で六か月間の拘留(のち無罪判決)となったが、この間一時退社していた伊達喜太郎が新聞社を支えた。同紙はこうした弾圧に屈することなく、廃娼論や被差別部落の解放、佐渡鉱山のストライキ解決のための論陣を張り、佐渡の近代化と産業の振興に大きく貢献し、最盛期には発行部数が二○○○部にも達した。大正三年(一九一四)、社主の知幾が没すると、一時山本悌二郎に経営が託されたが、その後知幾の子供たちが受け継ぎ、昭和十五年(一九四○)九月に新聞の整理統合によって廃刊となった。【関連】森知幾(もりちき)・伊達喜太郎(だてきたろう)・本間慶四郎(ほんまけいしろう) 【参考文献】岩木拡『相川町誌』、森 幾『森知幾ー地方自治・分権の先駆』 【執筆者】石瀬佳弘
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八七一-一九一〇)(居住)新聞記者。佐渡新聞の記者のころ、羽田村(中町)に住んでいたらしい。その期間は、七年余で、明治三十一年二月から三十二年六月まで、三十四年七月から三十九年六月末まで、四十二年一月から四十三年一月までである。羽茂村犬落に生れ、横浜商業学校を卒業して、羽茂の千手小学校の代用教員になり、二十四年、佐渡青年協会の幹事。二十六年、北海道の江差新聞、江鴎新聞に関係し、二十七年ころ二六新聞に入社、二十八年、同紙の休刊と共に帰郷した。三十二年、二六新報の発行兼編集人になり、三十九年、満州日報に入社、四十一年、筑後新聞に入社している。佐渡紙時代は、郡長の官尊民卑の姿勢を糾弾し、二六新報時代は、廃嫡運動や労働運動に活躍した。
「佐渡の日刊新聞創刊」(「佐渡の百年」)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
伊達喜太郎は明治四年(一八七一)九月三日、犬落伊達虎五郎の長男として生まれる。幼時より学を好み、大崎や赤泊に赴いて書を学び、また、経史にも通じた。喜太郎の性格は磊落不覇で、一見旧知の如く人に接し、何の隔てもなく、有れば人に施し、無ければ人より受けて、あえて意に介せず、天竺浪人と自称し、また、文章を好くして、狂堂と号して新聞記者で終始した。明治二四年(一八九一)中川知平と共に、千手小学校大崎派出所{中川知平宅)の教師となり、子弟の教育に当たった。また、同年自ら主唱者となって、千手村少年会を結成して、毎会合に講師となって活躍をした。狂堂二〇歳の頃、青年農会の創立に中川知平に協力して、夜学校を開いて、毎夜犬落から一里余の道を往復して、教授の任に当たった。
大崎青年農会が後年天下に名をなしたのも、氏の啓発によるところが大であったといってもよい。明治二八年(一八九五)一〇月二六日、北海道江差日報が発行認可されると、記者として入社し、記者生活の第一歩を踏み出した。同二九年「北の目覚社」 (北海道函館にあった)に入社し、また、三〇年(一八九七)一〇月三〇日発刊認可を得て、佐渡新聞を創刊した。これが佐渡の新聞の始めであって、佐渡文化史上特筆に価すべきことであった。
関係認可書の写を次に掲げる。
通第三六三三号 佐渡新聞
新潟県佐渡郡相川町大字羽田九〇番地
発行所 佐渡新聞社 同所寄留 発行人 伊達喜太郎
一、毎月一回以上遂号定期発行すること。
一、記載事項の性質終期を予定すべからざること。
一、書籍性質を有せざること。
一、発行の目的、時事を報道論議し及び広くこれを公衆に発売すること。
右各項の証明を勘査し第三種郵便物となすことを認可す。但し見本一部を発行地本管一等郵便電話局へ納む可し。紙面の体裁記
載事項の性質種類を変更したるとき亦同じ。
明治三〇年六月一〇日 逓信省
同三五年(一九〇二)四月二五日、東京二六新聞再刊に当たり入社、娼妓の自由廃業を叫び、人気大いにあがる。その後、また佐渡新聞に入社した。
のち、宮崎来城とともに満洲日報を創刊して入社し、さらに東京通信社にも入社した。同四一年(一九〇八)四月一日認可で、宮崎来城とともに、筑後毎日新聞を創刊して入社した。同年一〇月請われて、三度佐渡新聞に入社したが、四三年(一九一〇)一〇月七日病を得て自宅で歿した。享年四〇歳。狂堂の祖父又兵衛は、生花・俳詩ともに宗匠をもって許され、俳名を左頂と号した。明治二九年八月八日殺した。 享年七〇歳。
六三の春を迎えて
孫つれて七九の杖や凧あそび 左頂
はつ鶏や世界の夢を一声に 同人
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治四年生 狂堂、羽茂村大崎 ・明3、辛卯倶楽部の設立[二十四年八月十二日]・明3、佐渡憲政党の発会式[三十一年七月二十四日]・明4、佐渡独立選挙区について[三十五年七月]・明4、佐渡独立選挙区[三十五年八月十日]・明4、山本の帰省[三十五年九月三日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、伊達喜太郎の病死[四十二年] 「佐渡関係事典に載る」
・父は江差の田辺九郎平の番頭として活躍。
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数53・62・63・76
★伊達幸子

「エスライフ」2018年8・9月号














h25年8月15日

「島の新聞」索引(人名別)
★伊達修一
羽茂BG体育館前


『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。
とくとくと茶碗にそそぐにいしぼり襟を正さむ思いぞわれは
★伊達四郎為家
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
建暦二(1212)佐渡に配流。萩生右馬允と侍所で闘争する。右馬允は日向流罪。(『吾妻鏡』『佐渡風土記』)
★伊達又兵衛(左頂)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎犬落の人、伊達喜太郎の祖父。又兵衛は、生花・俳詩ともに宗匠をもって許され、俳名を左頂と号した。明治二九年八月八日殺した。 享年七〇歳。
六三の春を迎えて
孫つれて七九の杖や凧あそび 左頂
はつ鶏や世界の夢を一声に 同人
『山里の人びと』(俳壇)(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
★立石斧次郎
「華族となった佐渡人」(「佐渡の百年」)
★立石雅昭
「島の新聞」索引(人名別)
★立岩真也(たていわしんや)
両津図書館



「ウイキペディア」より
著作等












両津市鷺野出身の社会学者で障害児問題についての専門家である。実家は両津高校のすぐ裏手で、父立岩則雄氏は中学(南中)、高校(両津・佐渡)の英語教師である。曽祖父は浦川文殊院の住職だった立岩寶傳と想われる。ルーツは両津蚫か。
「ウィキペディア」より
1960年8月16日 -。日本の社会学者、立命館大学先端総合学術研究科教授。
新潟県両津市(現・佐渡市)生まれ。新潟県立両津高等学校を経て1983年東京大学文学部社会学科卒業、1990年同大学院博士課程単位取得満期退学。日本学術振興会特別研究員、千葉大学文学部助手、信州大学医療技術短期大学部講師・助教授、立命館大学政策科学部助教授を経て、2004年から現職。
・単著: 『私的所有論』(勁草書房 1997年) 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社 2000年) 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店 2004年) 『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院 2004年) 『希望について』(青土社 2006年) 『良い死』(筑摩書房 2008年) 『唯の生』(筑摩書房 2009年) 『人間の条件 そんなものない』(理論社 2010年)
・共著: (安積純子・岡原正幸・尾中文哉)『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店 1990年)
(稲葉振一郎)『所有と国家のゆくえ』(日本放送出版協会[NHKブックス] 2006年)
(稲場雅紀・山田真)『流儀――アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(生活書院 2008年)
(村上慎司・橋口昌治)『税を直す』(青土社 2009年)
生存権 いまを生きるあなたに 尾藤廣喜,岡本厚共著 同成社 2009.3
(齊籐拓)『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(青土社 2010年)
・翻訳: トマス・ポッゲ「なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか―世界的貧困と人権」(監訳)池田浩章ほか訳、生活書院 2010年 ISBN
「島の新聞」索引(人名別)
「もらったものについて・1」(立岩真也 2007年)
※立岩(柿野浦):立岩苗字のルーツと思われる
「立岩真也さんが問い続けた生きる意味」…享年62歳 やまゆり園事件では安楽死肯定論を痛烈に批判
2023年8月3日 東京新聞
社会学者の立岩真也さんが62歳の若さで亡くなった。病や老い、障害とともに生きることから社会を考察する「生存学」の礎を築いた。2016年に起きた相模原市の「津久井やまゆり園」殺傷事件では安楽死に肯定的な論説を痛烈に批判し、生きる意味を問い続けた。引き継ぐべき遺志を考えた。(木原育子)
◆悪性リンパ腫と闘病
ビデオ会議システムで取材した時には、部屋に必ず飼いネコが登場し、いつも場を和ませてくれた。そんな立岩さんが7月31日、悪性リンパ腫で世を去った。ブログには3月以降、闘病生活がつづられていた。「血小板の輸血始まり」「温かいものが飲めるように」。7月22日を最後に更新は止まっていた。 2007年にできた立命館大生存学研究センターを率い、今年3月まで後継の研究所で所長だった立岩さん。さまざまに異なった身体で生きる人々の経験を集め、社会に問う「障老病異」が理念の拠点だった。 同所の上席研究員、長瀬修さん(64)は「偉大な研究者であり教師であり、リーダーだった」と称する。
◆「障害や生存の課題は国境を超える」
出会いは1996年。立岩さんは信州大医療技術短期大学部の専任講師だった。障害学の立ち上げ構想を持ちかけ意気投合。「大いに盛り上がって、初対面なのに自宅に泊めてくれてね。昔から気さくで開けっぴろげだった」 2003年に長瀬さんと障害学会を設立。東アジアにも広げ、国際セミナーも開かれた。「障害や生存の課題は国境を超えると意識していた。彼は国内の社会課題の発信をしてきたとみられがちだが、国際色も豊かだった。各国から追悼メッセージが届いている」 朝日新聞の元論説委員でジャーナリストの大熊由紀子さん(83)は、01年に自身の新たな旅立ちのために開かれた会に触れた。参加した立岩さんの姿が忘れられない。「皆がさまざまな話題で盛り上がる中、壁に一人寄りかかり、冷静に観察する風情が彼らしかった。まだ無名の研究者だったが、『彼も来たのか』と知る人ぞ知る存在、当時から一目置かれていた」
◆被告の姿は私たちにつながる、と指摘
尊厳死や安楽死に反対の立場を貫いた立岩さん。16年に相模原の殺傷事件が起きると「本人のためという言葉を使って、実のところは私たちの都合の良さを実現するのが優生思想・安楽死の常套じょうとう手段」「事件の被告の姿は私たちにつながる」と本質を突いた。 障害者施設だけではなく、精神科病院の強制入院にも異を唱えた。21年の「こちら特報部」の取材に「今まで病院にかけていたお金を地域ケアにかけるようバランスを変えればいいだけ」と指摘。厚生労働省に「政策転換を本気でやってもらいたい」と訴えた。 薬害問題にも関心を持った。交流した一人が、カルテ開示市民運動を展開した医療事故遺族の勝村久司さん(62)。「気難しい印象かもしれないが、ユーモアもあっておしゃれ。京の町を小型バイクで軽快に走っていた」
◆人には死ぬ権利があると言っていい。しかし…
勝村さんは、京都の病院に設けられた医療倫理に関する外部委員会で立岩さんとともにメンバーだった。以後もインタビューの依頼が届くなど、交流を持ち続けた。「障害や病気が原因で生きることを軽視されたり、阻害されたりすることがあってはならないと一貫していた。そこを妥協すると、患者や障害者らの生きにくさを助長すると早くから気づいていた」 筋萎縮性側索硬化症(ALS)で呼吸器を付ければ生きていくことができる人が、その選択をせず、生を全うしたとされる社会のあり様に異を唱え続けた立岩さん。17年の本紙取材にこう答えた。「人には死ぬ権利があると言っていい。しかし、いざとなった時に、死にたいという人は非常に少ない。『生きていい』社会にしてもらいたい」

諸情報
★立岩則雄

平成30年11月没、88歳、両津鷺野の人.。大正大卒。両津南中、両津高校、佐渡高校等で教鞭をとった英語教師。長男に立命館大教授立岩真也が居る。仏教系大学卒から察するに父は立岩寶傳か。立岩苗字のルーツは柿野浦である。
奥様は湊上安、宮川家の人。
★立岩寶傳
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★舘岡嘉喜治
「島の新聞」索引(人名別)
★舘岡正夫
「島の新聞」索引(人名別)
★立川算法
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★蓼沼右京亮(たでぬまうきょうのすけ)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【たでぬまうきょうのすけ(15??~1573)】長尾景虎家臣。佐渡国の代官職と務めた。1573年、「佐渡一向一揆」では、北陸の一向一揆に呼応して、銀山や砂金山で働く浄土真宗の門徒衆が中心となり一揆を起こした。長尾景虎に一揆発生を知らせると、少ない手勢で一揆衆と戦い討死した。長尾景虎は家臣の甘糟景継を派遣して一揆勢を鎮圧した。
★蓼沼房枝
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1春夏秋冬に想う・蓼沼房枝
★館野おもちゃ屋
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
昭和の初めまでは羽田町の通称「もちや」青柳藤太郎が、提灯を作るかたわら凧を作っていた。先々代長次のころから作っていたというから、「初金比羅」土産は、この長次などの作ったものであろう。相川町には、このほか小六町の館野おもちゃ屋でも売っていた。十月十八日は相川町の善知鳥神社の祭礼である。この夜の神輿の渡御を迎える提灯がたくさんならぶ。秋の夜の深い闇に明滅する提灯の明りは美しい。この時おとなの提灯にならってこども用の「オケェーリ(お帰り)提灯」とよばれるものが小六町の館野おもちゃ店で売っていた。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★立野仙次郎
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
相川町入川の人、マツヨム人形(後、文楽座)の創始者。この人形を始めた立野仙次郎は通称「松右衛門」、土地ではマツヨムと発音する。天保七年生れで、明治四十四年に死んでいる。
源頼光や渡辺ノ綱などよい人形を五個も、いっしょにスラット揃えたと、いつもホラを吹きまわっていたので、「スラット」という綽名をつけられたほどの人形きちがいであったという。役者は、このほか近藤利吉、坂上福松、樋口五郎太、池野栄蔵などがいた。太夫ほ池野大太郎(通称新三郎の大蔵)で、我流で文弥節を語っていたという。
明治三十年、真野町中雑田の善蔵人形のカシラ十個を買い不足をおぎなった。このころから樋口五郎太が岡本文楽の芸名で太夫となり「文楽座」と座名をつけた。
★立野茂利
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★建原司
「島の新聞」索引(人名別)
★立山いの
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
貞婦で佐渡相川町坑夫立山覚蔵の妻である。病弱な夫によく仕え朝晩夫を途中まで送迎して励まし、義母ひなに孝養を尽くした。元治元年(一八六四年)夫がなくなると、早朝から薄暮まで鉱石運搬に従事し、夜は紡績でおそくまで働いて一家をささえた。
義母と子供の養育につとめ明治七年一月、相川県より賞された。(佐渡人物志)
★帯刀彌市
長谷寺

★立分(たてわけ)村治
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★田中藍
1978年12月11日生れ。ハロー!ブックス実行委員会代表。 東京都荒川区出身。足立高校-文化服装学院(II部)、セツ・モードセミナーを卒業後、佐渡島へ移住。佐渡の食材を天然シロップにした「かき氷ペンギン」店主。地域の図書館をよくする会代表や「ゴーゴー!羽茂温泉プロジェクト」活動メンバー、羽茂大市での「お多福いち」プロデュースや、味噌樽をステージにした「樽劇場」企画など、地域の宝ものを活かす活動を仲間と行うマルチな女性。 佐渡在住14年、2児の母。文弥人形虫紋座所属。元オリーブ調査隊。
平成27年 新潟日報 平成26年「HELLO BOOKS」で谷川俊太郎さんと


「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★田中章
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★田中敦子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)田中敦子 75 冬虹清雅-山本修之助遺句集『冬の虹』鑑賞-
★田中伊三雄
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★田中稲藏
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★田中伊之吉
「躍進日本」

スポンサーサイト
Powered by FC2 Blog
Copyright © 佐渡人名録 All Rights Reserved.