2021-01-10
★高屋次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、佐渡新報の発刊[十四年十一月十日]・昭2、佐渡毎日新聞[五年七月一日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭5、佐渡新報の廃刊[十五年四月 日]
★高安三太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
大鼓(おおづつみ)高安流家元。能楽のハヤシ方で名は英勝、通称三太郎といった。のちに喜叟と改めた。東京の人で明治六年四月中旬、佐渡の弟子を訪問するため子の国順と共に赤泊へ着き弟子の畑野町本間藤右衛門宅や村山の伊賀寿三郎宅に滞在した。三太郎は暑気にあてられ病気になり八月十五日、伊賀家でなくなった。六十三才であった。三太郎は世を去る時、子の国順に「こういう遠い佐渡が島で死ぬのも何かの因縁であろう。わしの死体を東京まで持ち運ぶのは容易でないから、この伊賀家の墓地に埋葬してもらい、そして歯だけを東京芝の菩提寺に納めるように」と遺言した。大善院高安英勝居士の戒名で墓は伊賀家より百メートル西方の竹林中にある。(佐渡の百年)
参照:「佐渡人名録」→「佐渡の百年」(明治)p220-222
★高柳角右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川村 ・明4、政友会新潟支部の役員[四十年十一月十七日]
★高柳角太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治元年 生 西三川村西三川 ・明4、山本の送別会[三十五年八月十五日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、新潟県会議員補欠選挙[四十三年六月]・明4、政友会新潟支部役員[四十三年十一月二十日]・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★高柳一巳
「エスライフ」2015年8・9月号

「島の新聞」索引(人名別)
★高柳勝身
西三川田切須、小布勢神社境内

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★高柳二郎
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
66 祖母(ばやん)の話(1) 67 祖母の話(2) 69 祖母の話(3)
★高柳源太郎
金丸 種徳院

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
金丸鬼太鼓の継承者。明治二四年生まれ。はじめ昔の鬼太鼓を舞っていたが一七、八歳のころ本間米蔵から新しい型を習ったという。
→舟崎仁作参照
★高柳弘子
佐渡高校時代の昭和38、全国学生選書会展団体賞受賞、特選
★高柳文晴
佐渡高校時代の昭和59.6.2~8、軟式庭球県高校結合体育大会(男子柏崎市・女子新潟市)男子高柳文晴・浅井隆行組ベスト16、北信越大会に出場
★高柳正彦


★高柳幹蔵
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
★高柳竜司
佐渡高校時代の昭和50.9.28 陸上競技、県高校選抜大会(上越市)三段跳2位
51.6.8~9 、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)走幅跳1位
51.10.3 陸上競技 、県高校選抜大会(上越市)走幅跳1位・三段挑2位
52.6.3~5、陸上競技 県高校結合体育大会(新潟市) 4×100mR(羽豆・高柳・称解・村川)5位、走幅跳1位・三段跳2位
52.6.24-26、陸上競技北信越大会(金沢市)三段跳4位
★高柳渡
金丸公民館

★高山又蔵
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所支配組頭。天保二年(一八三一年)七月二十三日より伺八年三月二十九日まで在任した。源貞利という。天保六年に雲子間歩敷内御普請御用出精相勤候に付、五月二十八日、松平周防守より褒美として銀五枚を与えられた。(佐渡年代下巻)
★宝屋の豊子
小木の旅館「宝屋」の芸妓で、大正12年、新穂「川徳」の奴と共に上京して「佐渡おけさ」をレコードに吹き込む。この時の日東(燕印)レコード会社のレコード売れ行き番付によれば、「佐渡おけさ」が「日本全国の民謡レコード全部をひとまとめにしてもこのレコードに及ばない」売行きとなってしまったという。
「佐渡おけさの流行」(「佐渡の百年」)
★田川大吉郎
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
★田川虎松
「近現代の羽茂」

中:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
羽茂村大石 ・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★滝春一(たきしゅんいち)
小川一灯の師。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1901-1996 昭和-平成時代の俳人。明治34年10月15日生まれ。水原秋桜子に師事し,「馬酔木(あしび)」同人。昭和14年から「暖流」を主宰。戦後,無季俳句をとなえて「馬酔木」をはなれたが,41年復帰。57年「花石榴」で蛇笏(だこつ)賞。人生の機微をうたった。平成8年4月28日死去。94歳。神奈川県出身。本名は粂太郎。【格言など】あの世へも顔出しにゆく大昼寝(「ゆずり葉」)
「「しどみの花」の俳人」(「佐渡の百年」)
★瀧敏雄
「躍進日本」

★瀧川義一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 70 近世佐渡文人についての書簡
★滝口恵倫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)滝口恵倫
17 貝談奇談 (1) バイガイ、ツメタガイ
18 貝談奇談 (2) アワビ、イボニシ、ナミノコガイ
20 貝談奇談 (3) アラレタマキビ、カキ、チョウセンハマグリ
21 貝談奇談 (4) アサリ、カワニナ
22 貝談奇談 (5) ウラシマガイ、ヤツシロガイ、アヤボラ、バイ
62 出版記念会 滝口恵倫・たづ夫妻「白魚」・酒井友二氏「阿修羅」
85 思い出の人々 (1)
★滝川廣為
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★滝川廣基
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★滝川主殿
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文久三年(一八六三年)講武所調物頭役より佐渡奉行となった。
知行は二千十九右一斗七升、役料千五百俵百人扶持であった。四年三月二十八日、堺奉行に転役、讃岐守と改めた。佐渡へは着任しなかった。(佐島遺事)
★瀧口長策
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★滝坂謙作
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
左衛門四郎は姓は駒形、滝平の伯労である。廻国の折他国から糯(もち)種子を持ち帰って試作したところ、品質がよかったので、近隣の者達がよく作付けし、左衛門四郎糯と呼ばれ、南部一円に栽培されるようになり、また、北海道にも移出されて、その声価は高かった。品種は豊後糯の一種である。この種子を、黒山から金沢村平山(たいらやま)へ縁付いた人の手で彼の地でも作られ、作付面積もしだいに多くなり、かの地の篤農家茅原鉄蔵の認めるところとなり、平山橋と命名して北海道へも移出されていた。
この精米は餅にしても味がよいため、以前葛西家では、久邇宮多嘉王殿下の御来邸(大正一四年八月一四日)後、毎年この精米で餅をついて献上したが、その米は三十郎(大崎の篤農家葛原勘吉)で作ったものを用いた。三十郎では増産品種が出てからも久しくこれを栽培していた。大崎の新屋(滝坂謙作)ではこの精米で餅をついたが、出来上りの餅は腰が強く、一尋でも二尋でもよくのびるよい餅になるので、「新屋の一尋餅」といって有名である。つき方も「もまない、急がない、あわてない」、また、「始め軽く、中頃出来るだけ強く、後軽く」である。同家では今もなお、この糯を作付して評判の餅をついている。駒形左衛門四郎は明治六年八二歳で殺した。(口碑)
★滝坂辻蔵
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
チョン髷爺さん(佐渡の別天地に奇人)
佐渡南部の別天地、小佐渡山脈の懐に抱かれた大崎部落に、今度六十九歳を迎えた滝坂辻蔵さんという老人がある。明治維新前からのチョン髷を結びながら生きて来た。彼は仙人同様の生活に、変人扱いにされているが、「訴訟の神様」の尊称まで捧げられている。彼をめぐっての訴訟のエピソードは、ドッサリ織り交ぜられ、相川区裁判所、新潟地方裁判所へ出頭したことは、どんなにあったことか、控訴院(今の高裁)に三回、大審院 (今の最高裁)にも二回出頭した記録を持つのだ。最近でも彼のチョンマゲ姿は、相川区裁判所へチョイチョイ現われるのだ。一八歳の時村役場の教育費不当賦課に、役場を相手に訴訟を起こし、五年三ケ月争って勝ったのが病みつきで、高利貸しに悩む商人、貧農のために戦って来たというが、まだ一ぺんんも負けたことがない。(朝日新聞)
老人にまつわる逸話は多い。
1.老人は御用籠の大きなものに、野菜などをいれて背負い、よく小木町へ売りに出掛けた。 小木町のある商店で、籠の中の野菜を、あれこれ出して見たが、買わなかった。やがて冬近いある日、その商店を訪れて、半紙を求めた。出した半紙を一枚一枚店先きに並べて見ていたが、折りからのすきま風に、紙は店内に散らばった。老人は断って買わずに店を去った。老人の頑の中には、かつての日野菜をことわられたことが、残っていたのであろう。
2.老人は東京見物に出かけた。チョンマゲ姿の田舎爺さんは、二重橋へ行った。大勢の人達が、皆橋のところに恭しく拝んでいる。老人はふと垣を越えて橋を渡り始めた。哨兵はあわてて銃を構えたが、老人は「ダンサン、俺をうとうよりカモでもうてやれ」といとも平気なものである。哨兵も気違いと見たか「馬鹿野郎、帰れ」とどなって橋から追い帰した。爺さん日く「二重橋を渡ったものは、見物人では俺ぐらいのものであろう。ハハ」(口碑)
★滝沢一朗
『花辛夷』(歌集 490首 平成3・私家版)
昭和40年から平成2年までの作品を収めた第二歌集。第一部「風媒花」は旅の歌、この中に黒姫山の歌がある。第二部「白珠」は蔵王で遭難死した長男に寄せる両親の悲痛な心境を歌った感動的な歌群である。第三部「櫻略」 は京・大和の古寺を訪れた時々の歌。第四部「高清水」は「私の居住する北国での詠草」とあとがきで著者が述べている通り、地名は特にないが、新潟周辺の気候・自然・風物等を推定できる作品が多い。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★滝澤俊
「シマイル」


★滝沢馬琴
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)滝沢馬琴
43 連載 閑々亭雑記 (2) 「馬琴日記」に見える石井夏海 :静蔵 山本修之助
43 連載 閑々亭雑記 (2) 「八犬伝」の犬士を佐渡へ 山本修之助
43 連載 閑々亭雑記 (2) 「里見八犬伝」にある夏海の和歌 山本修之助
43 連載 閑々亭雑記 (2) 滝沢馬琴旧蔵の「佐渡年代記」 山本修之助
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)
★滝浪玄伯(たきなみげんぱく)
【生没】一七九六ー一八六二 名は秀成、字は就卿、可翁と号した。相川の医師。祖先は摂津国で九代前の祖弥八郎の時、豊臣秀吉に仕え武勇の誉れが高かったという。秀吉の死後辞官して、夫人と佐渡に渡り名を宗意と改め医を業とした。大坂の陣に際して、単身大坂に行き城を守って戦死した。その子孫は青野(現佐和田町青野)に居り、数代後相川に出て医師となる。玄伯は青年の頃江戸に出て、官医中川栄春院に入門して医学を修め、七年後に帰国し名声を博し、遠近より患者が多く治療を乞うた。文政三年(一八二○)奉行所は、子専哲を御出入医師格に登用している。玄伯自身も、同六年十二月御役所詰医師を命ぜられ、同八年学問所が創設されたとき、藤沢明卿・田中順卿・大原昌清とともに、医学所世話煎に任ぜられ帯刀を許されている。文久二年(一八六二)、はしかが大流行したとき、昼夜寝食を忘れて東西に奔走し、佐渡奉行岡松久徴は特に乗駕を許した。また、嘉永二年(一八四九)より疱瘡が流行したとき種痘を普及させ、町医者が種痘によって、貧困者から法外の治療費をとることを禁じて細民を助けた。文久二年十月二十日死去、享年六六歳、相川下寺町法然寺境内に葬られる。佐渡高校同窓会舟崎文庫に、滝浪から沢根の生田潜庵に宛てた、種痘に関する書簡がある。
【参考文献】萩野由之『浜ながし』ほか 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人、字は就卿、名を秀成という。若くして江戸の中山米春院の門にはいり、七年間、医術を学んだ。
帰国して文政(一八一八-二九年)中に陣屋附となり医学幹事を兼ね天保(一八三〇-四三年)中には進んで医事経紀となった。
また和歌を海野遊翁に学んだという。文久二年(一八六二年)十月に六十六才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★滝波図南(たきなみとなん)
詩人丸岡南陔の実子で滝浪家を継いだ。
★滝埜ひとみ

★瀧本喬
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★滝本喬眞
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★滝本幸子
両津高校時代のS4l、全国選手権ボート部女子ナックル6位(山口茂子、滝本幸子、須藤法子、板野富代、池ひろ子)
★滝本律
両津高校時代の1969年度(S44)6月、第22回新潟県高等学校総合体育大会陸上競技 三段跳3位 、第7回北信越高校大会陸上競技 内田賢一 斎藤好彦 桧田恵子 滝本律出場
★田切須村宇兵衛
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★瀧脇村吉右衛門子吉三郎
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★託阿
『小木町史』より
寛延三年(一七五〇)に桂光院其阿義簡という人が書いた、『佐州三崎の道場海徳山称光寺建立濫觴』によって、寺が成立する直後の事情についてみてみましょう。「遊行七代託阿上人が、暦応元年(一三三八)の四月、越後の国河井庄往生院において嗣法を行い、同三年、越後の国応声寺において数日結縁の間に、弟子託岸に言うには、〝今度佐渡へ修業したいと思うが、まだ佐渡には一つの道場もない、お前が佐渡に渡って所々に道場を建て、国中の諸人に後代の利益を説いて釆なさい〟託岸は師の命にしたがってその年の六月佐渡に渡り、まず三崎にとどまり諸人を勧化し、道場建立の意願を発し、昼夜六時の行法をいささかも怠ることをく行いました。そうしたところ、遠近の帰依者も多く、ついに、貞和五年(一三四九)三崎に道場を建て、山号を海徳山と言いまし。
その後、託岸は佐渡国中を勧化し、所々に道場を建てること十八か寺にも及びました。さて、文和四年(一三五五)の三月上旬、遊行八世渡船上人が佐渡に渡って、まず三崎の道場において数日間神勅のお礼結縁をおこなったところ、国守本間佐渡守をはじめ、国中の貴賎が信伏して喜ばをい人はありませんでした。
その後、国中をまわった渡船上人は、帰国するために三岬道場へ釆て託岸に言うには、”お前が無二の誠心をもって所々に道場を建て、宗祖の遺法を広めたことは、お前の大願によるものである〟と、託岸はそのことに答えて〝これは私の功ではありません、先師託阿上人の遺命によるものであります〟と、これによって、称光寺及び国中所々の精舎は、託阿上人を開山とし、託岩を第二世としました。」とあります。真野町四日町大願寺にある遊行八世渡船記には、越後の応声寺の時衆を佐渡に遣わしてつくった道場が岬にあって、そこに着いたことが記されていますから、その時衆が託岸だということにをるのでしょう。
★淖翁

★託岸
『小木町史』より
寛延三年(一七五〇)に桂光院其阿義簡という人が書いた、『佐州三崎の道場海徳山称光寺建立濫觴』によって、寺が成立する直後の事情についてみてみましょう。「遊行七代託阿上人が、暦応元年(一三三八)の四月、越後の国河井庄往生院において嗣法を行い、同三年、越後の国応声寺において数日結縁の間に、弟子託岸に言うには、〝今度佐渡へ修業したいと思うが、まだ佐渡に一つの道場もない、お前が佐渡に渡って所々に道場を建て、国中の諸人に後代の利益を説いて釆なさい〟託岸は師の命にしたがってその年の六月佐渡に渡り、まず三崎にとどまり諸人を勧化し、道場建立の意願を発し、昼夜六時の行法をいささかも怠ることをく行いました。そうしたところ、遠近の帰依者も多く、ついに、貞和五年(一三四九)三崎に道場を建て、山号を海徳山と言いました。
その後、託岸は佐渡国中を勧化し、所々に道場を建てること十八か寺にも及びました。さて、文和四年(一三五五)の三月上旬、遊行八世渡船上人が佐渡に渡って、まず三崎の道場において数日間神勅のお礼結縁をおこなったところ、国守本間佐渡守をはじめ、国中の貴賎が信伏して喜ばをい人はありませんでした。
その後、国中をまわった渡船上人は、帰国するために三岬道場へ釆て託岸に言うには、”お前が無二の誠心をもって所々に道場を建て、宗祖の遺法を広めたことは、お前の大願によるものである〟と、託岸はそのことに答えて〝これは私の功ではありません、先師託阿上人の遺命によるものであります〟と、これによって、称光寺及び国中所々の精舎は、託阿上人を開山とし、託岩を第二世としました。」とあります。真野町四日町大願寺にある遊行八世渡船記には、越後の応声寺の時衆を佐渡に遣わしてつくった道場が岬にあって、そこに着いたことが記されていますから、その時衆が託岸だということにをるのでしょう。
★田草川みずき
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 156 近松研究から見る佐渡古浄瑠璃 田草川みずき・文弥人形座の舞台と人形
★澤心和尚
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で法界寺の徒弟であった。別に沢心ともいう。
宝暦十三年(一七六三年)十月に江戸伝通院より京都智恩院五十四世の住職となり大僧正に任じられ、明和二年(一七六五年)七月に智恩院でなくなった。(佐渡人名辞書)
★田口源五郎
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p375
★田口八重子
昭和30年(1955)生8月10日生、昭和53年(1978)6月頃、北朝鮮に拉致(23歳)。朝鮮名は李恩恵(リ・ウネ)。北朝鮮による拉致被害者。北朝鮮の元工作員で、大韓航空爆破事件の実行犯金賢姫(キム・ヒョンヒ)の日本人化教育係であったとされる。
北朝鮮側の話:大阪から拉致された原敕晁(調理師)と結婚、夫は病死し、妻は自動車事故で死亡。金賢姫の存在は否定。一方、金賢姫は「恩恵先生は生きていますよ」と2009年3月11日に田口さんの長男との面会の際に発言している。
(斉藤紀世子さん談:令和3年2月)
・田口さんのルーツは本間家で相川塩屋町にあった。お婆さんが一人で住んでいた。旦那さんは見たことがない。豆腐屋で、後に雑貨、駄菓子店となった。
・孫が来たと言って喜んでおり、孫は一か月位居て突然帰った。今に思えば何か事件に巻き込まれており、逃げ場がなく一時佐渡に避難していたのかと思う。お婆さんによく似ていた。其れが田口八重子さんだと思う。
・お婆さんの長男は本間栄太郎と言い、相川高校の先生(国語担当)で自分も習った。※本間栄太郎先生;大正10年前後の生まれ。
先生は退職後間もなく亡くなった。栄太郎さんは門前の杉山さん(鉱夫)の娘と結婚した。この子供と、偶然に浦和のデパートと会ったことがある。彼女は店員さんでお互い佐渡弁だったので話した。
・本間家はお婆さん没後、そこが役場になると言うので、土地交換で会津町清新亭辺りに家を建てた。
※現在その家は、本間栄太郎さんの娘(中山苗字)が住んでいる。
・大韓航空爆破事件の際、警察が調査に来たので知っていることを話した。
(渡辺注)
・本間栄太郎さんの姉の子供が現在の拉致被害者の会の代表飯塚繁雄(昭和13年生)さん。即ち、本間家の娘さんが埼玉の飯塚家に嫁ぎ、繁雄さんが生まれた。弟は勝さんで、佐渡に実家の本間家を継ぐ。本間家には後継ぎはいなかったのだろう。
この繁雄さん、勝さんの妹が田口八重子さん。本間勝さんは現在、東京の佐渡民謡団体若波会の重鎮である。昭和18年生。
「本間勝(田口八重子さん兄)スピーチ」
みなさん、本日はありがとうございます。八重子が22歳で東京の池袋から拉致されてからはや37年、もう59歳になります。59歳になるということが頭の中に整理できない状態になります。 兄弟は八重子を含めて7人で、八重子は末っ子です。一つ上の姉は昨年9月八重子に会えずに亡くなりました。そのように、兄弟も会えなくなる事情が出ています。本当に悲しいことです。 私は八重子を取り戻す、つまり「死亡」とされた8人の中にいるわけですが、先ほど耕一郎が言ったように、まず「死亡」をくつがえし、そして生存者をすぐ返すということを即刻やってもらいたい。 それと、八重子の母親というのは新潟県の佐渡の相川の出身です。私たちの故郷にもなっているわけですが、泉田知事がせっかく来ておられますので、申し上げます。 知事は、万景峰92号がうるさく入港してきた時に、ラウドスピーカーで、「そのような対応を取るならば入港を禁止させる」とおっしゃっていただきました(拍手)。新潟港の信濃川の入港に関しては、港を管理する権限は知事にあるわけです。そして万景峰92号というのは、多くの工作員に拉致され、私たちと一緒に川口で戦っている藤田さんの兄、進さんが運ばれたと聞いています。だから拉致被害者が全員帰国するまでは絶対万景峰92号を入港させないでいただきたいと思います(拍手)。 佐渡は曽我ひとみさんのお母さん曽我ミヨシさん、特定失踪者の大沢孝司さんが失踪されています。新潟はたくさんの拉致被害者が出たということで、その中で泉田知事が先頭に立って戦っていただいていることは本当に心強いと思います。 次に拉致被害者が万景峰に乗せられて帰ってこなかったら、ダメよと約束してください(拍手)。私たちは戦っている最中なので、心強いお言葉をいただいたということは、これからの北朝鮮との交渉でも、拉致被害者を返さなければ新潟港へ入れない、新潟県との経済的成果も得られないことを頭に入れて、再調査を今考えていると思います。 皆さんどうぞ、そういう流れを、関連したことも含めて考えて、私たちの、今の所尽きない戦いですが、ご支援いただきたいと思います。宜しくお願いいたします(拍手)。
★駄栗毛寛(だぐりげひろし)
相川の人、長く相川役場に奉職し、退職後、郷土の各種文化運動を率先して行う。

駄栗毛家系図
「島の新聞」索引(人名別)
★武ひとし(たけひとし)
「佐渡が夢」著者。1954年生まれ。福岡県出身、在住。九州大学工学部卒業、現在、塾を経営。
(あたすじ)目が覚めたら享保5年? 幕領じゃない佐渡藩!? 迷い込んでしまったパラレルワールド。運命と使命を感じながら、4人は〈別の未来〉に向かって動き出した。「平和」を手にするための「力」とは──。SF歴史小説誕生! 「人にはどうしようもない欲があります。持てば持つほど、その欲は大きくなっていきます。ほどほどに、が肝心ではありませんか」(本文より)
★武井卯之吉行天(ゆきたか)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂町西方源次、鍛冶秘伝一軸(年代不詳) 嘉永二年九月二十八日羽茂本郷寺田茂助に生まれる。諏訪野力蔵の弟、西方の源次家を継ぎ農業を営む、大正十一年三月二十一日没。
★武井京蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★武井健三
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

★武井佐市
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★武井助左衛門
中興神社

★武井盛三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 羽茂村大橋 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『田中圭一講演集(第七集)『佐渡病院』より
病院を建てようかなという機運は、何処でもきっかけがないと生まれません。佐渡に病院を作る直接のきっかけを与えたのは、昭和七年四月、第二十八回全国産業組合大会です。そこで産業組合中央会が大会のスローガンの一つに「産業組合の医療の大衆化」という項目を掲げ決議します。出席した、例えば本間長治(産業組合中央会佐渡郡部会長)や武井盛三郎(羽茂村産業組合長)などがこれを病院建設のきっかけとして捉えることになります。では、どうして彼等が大会に出て、よしやろう、という風に考えたのか、実はさまざまな要因、きっかけがあります。全国大会には何百人も出席しておりますが、実際に病院を作ったのはそれほどおりません。大会があつて、こういうことを単に決議したというだけでは建設運動は起きてはきません。佐渡病院の場合、この二人には直接的に共通する個人的な事情がありました。武井の場合は、長男が新潟医大を出て、開業する突先に熱で亡くなつている。本間の場合は、大正時代に娘を、それからこの頃、二人の子供、一人は朝鮮の陸軍病院で、もう一人は新潟の病院で
亡くしている。こういうことが彼等を動かし、病院の必要性を痛感させることになる。
★ 武井武雄

武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日-1983年2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。玩具の収集研究を通して山本修之助、中川雀子等と親交があった。
童話の添え物として軽視されていた子供向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めた。武井武雄の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていない。「コドモノクニ」をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、図案(デザイン)、おもちゃの研究・創作「イルフ・トイス」、本自体を芸術作品と捉えた「刊本作品」、童画批評など多岐多彩な分野で作品を残した。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)武井武雄 38 武井武雄先生の思い出 山本修之助
「ウイキペディア」より
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★武井千秋

1958年相川町生まれ。佐渡高校、東洋大学卒業。㈱アパートメントプロ代表およぴ「十季あかり」㈱佐渡厚生会代表(「十季のあかり」㈱佐渡厚生会代表)(参考 「佐渡ジャーナル」36号)
(武井千秋)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「36号」(平成26年1月)座談会 いかに雇用をうみだすか-浅島誠・石原武・宇留間和基・三浦基裕・武井千秋・岩田雅-
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「40号」(平成27年1月)出雲大社に絹の屏風を奉納 ※武井千秋
★武井悌
『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)より
北見角太郎(同窓会長、医博、佐和田町)山本成之助(県相川保健所長、同、真野町)らは大正十二年の卒業名簿にのっている。このクラスには医者が多く出た。本間賢吉(医博、両津市)、榎蓮(内科医、同)や北見は、島内でいまも開業している。後藤衛門(内科医、新穂村)本間為次(外科医、新穂病院長)も、死亡したが同級だった。ほかに伊藤栄一(内科医、医博、埼玉県)堀治部(耳鼻科医、同、東京都新宿区)武井悌(内科医、羽茂町)渡辺五郎(耳鼻科医、両津市)らがいる。たいてい、十一年に四年で修了して進学した人たちである。北見によると「医者だけで十二人出た。佐中の歴史で、あとにも先にも、例がなかった」という。
★竹内淳夫
彩流社社長。小木小比叡出身、羽茂高校昭和37年度卒業。
★竹内音吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★竹内久美子
両津高校時代の1975年度(S50)11月、第9回全国高校生ポスター絵画写真コンクール学校特別賞
絵画部門 金賞
★竹内健蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★竹内幸吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★竹内栖鳳
高名な日本画家で土田麦僊の師。
「舞妓芸術の麦僊」(「佐渡の百年」)
「ウィキペディア」より
★竹内勉(つとむ)


昭和12年生、平成27年3月24日没、77歳。12歳から東京の民謡保存運動を始め、昭和36年より請われて町田佳聲に師事。
「民謡源流考」で芸術祭奨励賞受賞、大作「日本民謡大観」編集に携わる。昭和40年~平成18年までNHK 民謡関係番組に出演。何度となく調査や公演等で来島し、佐渡民謡の発掘研究に大きな業績を残す。「おけさ・はいやと北前船」などの労作がある。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=9
★竹内秀明

★竹内正文

両津高校21代校長(平成23年4月~平成25年3月)、同校の最後の校長となった。佐渡中等学校校長も兼務する。
★竹内増太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★竹内道広
新潟日報(h28年4月12日) 市議初当選

平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報

★武内美由紀
佐渡高校時代の平成6.5.28~31、陸上競技県高校総合体育大会(長岡市)、走高跳3位
平成6.6.17~19、陸上競技北信越大会(長野市)走高跳出場
平成7.6.2~4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)走高跳4位
平成7.6.23~25、陸上競技北信越大会(新潟市)走高跳出場
★竹内洋(たけうちよう)

昭和17年生れ、両津夷出身の日本を代表する教育社会学者で平成24年度吉野作造賞を受賞する。両津中学校ー両津高校(11回生)ー京都大学卒。高校時代は、現在の太陽堂の裏手辺り(+夷築地寺尾方)に住んでいた。著書の中に恩師河原寿雄先生のことや、草創期の両津高校について活写している。
「島の新聞」索引(人名別)
「馬鹿八と人はいう」(竹内洋解説)
「革新幻想の戦後史」(竹内洋)
諸情報
★竹川竜之介
佐渡奉行所組頭、幕末佐渡において多用な分野で登場する。
「明治の夜明け」(「佐渡の百年」)
「最後の佐渡奉行」(「佐渡の百年」)
★竹内瑠美子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「15号」(平成20年10月)「五徳屋」さん二十周年(Y)※竹内瑠美子
★竹内廉太郎


★竹下申吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『 故里つばき』



※南中校長等を歴任した倉田藤吾郎氏は次男である。
★竹下申太郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

※南中校長等を歴任した倉田藤吾郎氏は実弟である。
★竹下三男吉
東京両津の会2代会長(就任1年未満で他界)
「躍進日本」

「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より

★竹田榮次郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★竹田栄太郎
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「越佐と出雲6 新潟日報 2016年4月22日掲載」
近世の佐渡島には、諸国から多くの移民が押し寄せた。越前・越中の出身者が多かったが、出雲や石見も少なくない。金山発見後、陣屋(奉行所)が置かれ、人口5万人規模の町となった相川。その江戸前期の町人名簿には、出雲藤右衛門や石見弥蔵といった名がある。出身国名を屋号で表したのが出雲屋や浜田屋だ。宝暦3(1753)年、相川町の郷宿に指定された出雲屋は、文政9(1826)年の絵図「相川町墨引」では「旅人宿出雲屋庄右衛門」と出ている。1988年の廃業まで、ずっと奉行所(跡)から600mほどの相川町二町目にあった。 昭和13年の『佐渡名鑑』は、当主竹田榮太郎は11代目で、堂々たる三層楼を築き、1年で2万人余の旅客を迎える相川町五大旅館の一つと紹介。その孫、伊藤佐世子さんは、先祖は出雲から来て苗字帯刀を許されたことなどを、祖母から聞いていた。出雲では旧暦10月の神在月、季節風で海が荒れた後、浜に寄りくる龍蛇(南海から北上してきた背黒海蛇)を、神の使いと見なした。杵築大社などに奉納された龍蛇は剥製・整形されて神宝となる。文政7(1824)年、加茂郡正明寺村の五郎作が、その龍蛇様を牛頭天王八王子宮(現牛尾神社)に奉納している。佐渡金銀山入用の鉄を買入れるため出雲国へ渡海した際、杵築大社に参詣して授かったものだ。牛尾神社は延暦11(792)年、杵築大社からの勧請・創建と伝わる古社。北ツ海(日本海)を介した佐渡と出雲の往来を示す、その龍蛇神と受証文は、佐渡市指定文化財になった。造船などの他、鑽(たがね)など採掘用の道具作りの需要も多かった佐渡で、古くから鉄を取引していたのが浜田屋だ。初代の川上権左衛門が石見国浜田から渡来したのは、16世紀末頃という。元禄期に沢根町名主となり、佐々井(笹井)姓に変わった浜田屋は、明治初期まで廻船業を続けた。
★竹田覚隆
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より

★武田健司
佐渡高校時代の25.7.29~30、県高校水上競技大会(長岡市)、400m自由型5位・800m自由型4位、、200m継泳(後藤・本多・木透・武田)6位、800m継泳(武田・佐々木・木透・後藤)4位、男子総合優勝
25.8.22~23、北日本学校水上競技大会(新潟市)、400m自由型2位・400m自由型2位
25.8.22~23、北日本学校水上競技大会(新潟市)、200m継泳(後藤・本多・内藤・武田)1位
25.8.22~23、北日本学校水上競技大会(新潟市)、800m継泳(武田・磯部・佐々木・後藤)4位
25.8.22~23、北日本学校水上競技大会(新潟市)、男子総合優勝
26、東部高校大会、石川猛夫・武田健司200m継泳4位
★竹田兼蔵・鶴松
『故里つばき』


★竹田十郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★武田静澄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
53 山本修之助著「佐渡の伝説」所感 80 点鬼簿(2) 武田静澄氏、福田清人氏、富川潤一氏、笹井正氏 山本修巳
★武田民蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治元年生 新穂村武井 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
★竹田長兵衛
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
両津市椿のひと、長兵術人形の創始者。藤村半四郎より譲り受け、さらに矢柄の繁栄座へ譲った。人形をつかった長兵衛は、大正七年に九十四歳でなくなった。つかい手の相手は二男の鶴松。太夫ほ羽吉の盲人利助。今もこの家に小道具の馬二匹が保存されている。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=3
★武田鉄雄
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「2号」(平成17年7月)相川出身の飯山氏二人展開催(飯山虎之助・武田鉄雄)
★竹田輝雄
「島の新聞」索引(人名別)
★武田藤左衛門
新穂武井 熊野神社

★竹田富夫
「島の新聞」索引(人名別)
★武田弘繕(ひろつぐ)
両津市春日町出身、昭和22年生まれ、両津高校(商業科 17回生)卒。「株式会社 文化アディック」代表。
(事業内容他)ADTotal Agency AmusemenSHOP運営 Web&地方発ビジネス Hotel&inn Produce
ECOBarrlerfreeBusiness SPイベントPlanner NetIT出版事業 OrlglnalTravertour ベット健康食品関連ビジネス Entertainment文化、芸術プロジェクト
(東京都千代田区神田神保町l-3-5寿ビル3.4F)
「合同会社ひととき」(佐渡市立野333)
佐渡の地域活性化を目指し、安心・安全・美容と健康の島に 農産物加工品企画開発販売業 農産物生産事業 農業経営サポート事業 Web制作運営事業 加工古民具インテリア家具販売 飲食煮農家カフェ 佐渡在来種生産 観光イベント事業 地産地商
★武田文次郎(しこ名 両津の春日山)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
明治37年生まれ、昭和60年逝去。享年82歳。両津のタクシーの運転手を業としていた。小兵なので、上手からの逆手まわしの独特の技を工夫していた。一人子をなしたが他家へ養子となったので絶家。加茂歌代江西院に葬られている。彼が着用した化粧廻しは、畑野町渡部麻吉氏が所蔵している。
★武田みさを
武田みさお・梶原武雄実家(畑野野高屋集会所はす向かい)


畑野野高屋に生れる、生家は野高屋集会所の斜め前、当時、父は下駄屋だった。小学校高学年時に両津谷地(現春日町)に転居。父が「両津劇場」の経営を引き継いだからである。その後中央に出て当時数少ない女流棋士として活躍し、日本を代表する棋士となる。弟が梶原武雄9段である。武田みさをさんの小学校時代を知る方(昭和11年生まれの夷2の大黒屋のおばあちゃんである土屋さん)によると、「ものすごく頭の良い子が畑野から転向してきたと評判だった」と言う。
段位/五段 5 青年月日 大正10年8月1日 1921/8/1 昭和9年増淵八段に入門 昭和13年入段、17年二段、31年三段、47年引退・四段 昭和52年春現役三段に復帰、61年四段、63年引退・五段 プロ棋士梶原武雄九段は実弟 日本棋院東京本院所属 夫は武田博愛6段
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★武田稔
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★竹田村新兵衛
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★竹田村又兵衛夫妻
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★竹田村名主善右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★竹中清志
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)高等教育現場の今ー佐渡総合高校・竹中清志校長 佐渡高校・片山達雄校長ー
★竹中成憲
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『歴史と水の町 ふるさと福浦』より
明治七年東京生れ。東京医学校に学び、新潟の各地の病院に勤務し、明治三十九年、招かれて福浦で「竹中医院」を開業しました。地域の公衆衛生や学童保健などにも貢献しました。加茂湖埋立工事(八郎兵衛町建設)には、栄町の土をトロッコに乗せて病院の横を通る許可や、安照寺偲巽堂(しそんどう)の命名、建設の浄財不足分を寄付するなどの尽力もしました。大正十四年没(六十二歳)。
※病院は理性院の角地(若林鮮魚店前辺り)にあった。
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
佐渡で名医と謳われた者が二人いた。善平がその一人で、もう一人は両津にいた竹中成憲である。成憲は「東京府平民」で、東京帝国大学医学部を卒業していた。当時としては稀れな「医学士」で、神様のようにいわれていた。しかしこの辺では「みたては若林、薬は竹中」と言われた。
上記「佐渡の百年」には出てこないが、竹中成憲墓は両津聖徳寺にもある。

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より




「奇行の医者」(「佐渡の百年」)
「長谷川元良と竹中成憲-幕末・明治の科学者達-」(田中圭一講演)
長谷川元了と竹中成憲(田中圭一講演集より)
『田中圭一講演集(第六集)「長谷川元了と竹中成憲』より
竹中はドイツ人医師ベルツの日本人の一番弟子ですが、脚気の研究のため新潟にきておりましたが、明治三十八年、両津で開業します。維新後、医療はコレラなどの伝染病予防対策のほか、脚気対策も重要な課題でした。何しろ脚気は庶民のほかに軍人が罷り政府も頭を痛めます。脚気は、ビタミンBが明治四四年(一九一〇)、鈴木梅太郎によって発見され解決します。それはともかく、佐渡では結核と梅毒が多かった。竹中は結核やら内科やら伝染病やら多岐に亘って医学の本を沢山書いておりますが、エイヤッとばかりにこんな風に佐渡人の悪口を「佐渡新聞」に書いている。なかなか元気がいいんであります。日く、「佐渡人は新潟県で一番お金を貯めているけも(けれども)、そのくせちやんとした病院
がない。これは要するに佐渡の人間は銭は貯めるけも、自らの健康について何も考えることのできない種族である。これを直さなければ佐渡を近代化することはできない」。こう書く一方、実際の診療はどうかというと、午前中に百人くらいの患者を診るのに聴診器を使わないことがある。どうして使わないかを訊くと、「患者の顔色を見ればわかる。聴診器を使わんと分からんような医者で、医者がやっていけるか」と豪語する。そうして、午後になると両津の役場に行って消防団の仕事(団長)をやる、といった具合。また、こんなことをやっている。両津の小学校で、子供の弁当のおかずを観察し、それを見れば大人の病気が分るという。これは確かに一理ありますよね。変った医者ですけゾ咋傑物と
いうか、私は大変偉いと思いますね。ナ」の人はエピソードに事欠きません。福浦(両津)の土手を切って加茂湖を埋め立てる計画に町民が反対して、自分の地所には絶対通らせないと頑張って一切工事に協力しない。それを聞いた竹中は自分の病院の敷地を通らせます。そうして、こう言うわけです、「町の将来も考えんような町民に町の将来を預けられない」と。ここに新地ができた(神明町)ので、我々
『田中圭一講演集(第七集)『佐渡病院』より
佐渡に医院ではなく大きな病院を作れと提言したのが、福浦(両津市)で開業していた竹中成憲です。彼は大阪の人で、ドイツの医学者ベルツの高弟であります。明治四十五年、佐渡新聞に説を掲げます。その要旨は、「佐渡の人間の中には国に金を寄付するものがいるが止めたほうがよい。皆さんが寄付をしたところで新潟に病院が出来ぐらいが精一杯で、佐渡に病院は出来はしない。だから、病気にかかるお金はみんなが健康税だと思って払い、佐渡に病院を作れ」と言いました。本間長治はこのことをよく知っており、現実に病院を建てる必要がある、なんとかして建てたいと考えるようになる。
★竹中智英
「島の新聞」索引(人名別)
★竹中春男
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)竹中春男 74 「冬の虹」-山本修之助遺句集-愛誦句
★竹中錬英
新穂村根本寺住職、新穂村長

「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
★竹林正一
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
新潟県中等学校陸上競技大会で、竹林正一(相川)がメンバー800mリレーチームは決勝で二位を40mも離してゴールインした。全国大会でも他の追従を許さず堂々と優勝。新潟師範の竹林が800リレーで、同小林仁作が庭球で、同下林中二郎が剣道で揃って全国優勝したので、「相川の三林優勝」と当時の新聞は絶賛した。
★竹原達乎
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)5代校長(昭和4・3・31~昭和6・3・31)、島根県人。
★竹淵季伴→小倉季伴
★武部喜蔵
赤泊郵便局長。 『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★武部喜八郎
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村 ・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]・明4、田辺九郎平死亡[三十五年八月十二日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

※赤泊の武部喜八郎家:元石塚屋(現丸善衣料店)の真ん前の家。この家は、元は赤泊五軒問屋の一つ「大屋」(仁科家)であった。荒町にあった武部家がここに転居した。武部家当主は京都で医師。年に一度ほど帰省する。
★武部サキ子
佐渡高校時代の昭和36、白扇書道会主催全国学生書道展書道金賞
昭和37、全国学生選書会展特選
昭和38、全国学校書道連盟主催全日本学生競書大会、団体賞受賞、推薦
昭和38、全日本学生清書コンクール団体奨励賞受賞、特選
★武部治雄
令和4年(2022年)5月没、88歳。小学校教員として島内各地で勤務。退職後、社会福祉法人佐渡前浜福祉会代表や赤泊演劇の会代表等を歴任し、赤泊地区の文化や福祉事業推進に大きな貢献をした。
「島の新聞」索引(人名別)
★丈部若刀自売(たけべわかとじめ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人である。天長六年(八二九年)十一月十日に三つ児を生んだ。三百束と乳母一人、三年間の食糧とを給された。(越佐史料)
★竹村一男
「躍進日本」

★竹村九郎右衛門(たけむらくろううえもん)憲政
【生没】(生年不詳)ー一六三一 名は嘉政。『佐渡年代記』に、「元和四年(一六一八)鎮目市左衛門惟明と共に佐渡支配を命ぜられる」とある。寛永四年(一六二七)まで両人代る代る、また両人共佐渡に留まることもあった。『佐渡古実略記』には「生国大和国竹内村、父竹内丹波守、元和四年閏三月より当国支配。翌年五月十五日当国へ渡海。寛永八年九月十五日卒」とあり、また、『寛政重修諸家譜』には近江国安土城にあり、そののち大久保長安に仕えたとある。寛永四年、鎮目市左衛門なきあと、同八年(一六三一)まで一三年間奉行を勤める。小木町浄土宗光善寺境内に、寛永八年の板石形塔婆がある。『佐渡国寺社境内案内帳』には「当寺京都知恩院末、相川長坂町に建立。寛永七年小木町へ遷し建立。本願主竹村九郎右衛門。これに依て石塔を当寺に造立。この石塔は竹村の供養塔であることがわかる。佐渡在勤中は、佐渡産金銀の積出港であった小木港の整備につくした。元和から寛永初期にかけて、「山出の金銀も前後無類の盛を得た」時代で、湊に寄港する廻船の建造にも意を用いたらしく、船材の産出地小倉に近い長谷寺には、巨大な五輪塔がある。家禄八五○石。元和三年金銀山御改衆の一人として渡海、金銀山盛況時代の奉行であった。水主衆が多い浄土宗の篤信者であったらしく、元和七年(一六二一)伊豆から僧専誉を招いて、相川一丁目に金龍山広源寺を建てた。在任のまま寛永八年江戸において卒し、牛込大信寺に葬った。一説には佐渡にて病死、光善寺に葬ったとする記録もある。
【参考文献】『佐渡小木町史』(史料集下)、麓三郎『佐渡金銀山史話』 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『小木町史』より
小木諏訪町のおくまった高台に光善寺はあります。宝暦期に書かれた「寺社境内案内帳」には、もと相川長坂町南側にあったものを、寛永七年(一六三〇)小木町に移してきたもの です。その時の願主は佐渡奉行の竹村九郎右衛門憲政で、寺の住職は生誉良運であった。と書いてあります。
それまで相川にあった寺が、小木に引き移されたのには理由がありました。それは、小木港を良港として認め、それをおおいに大きくしていこうとした竹村九郎右衛門のはからいによるものでした。竹村奉行の本領は石見の銀山です。だから、竹村九郎右衛門は石見銀山の土地を知っていたし、日本海の廻船に乗ってもいました。それだけでなく、慶長八年以降ともなれば、石見からおびただしい人びとの群が佐渡を訪れていました。そのころ、吉岡出雲という人や、宗岡佐渡というようを鉱山の支配人が、大久保長安の手下として佐渡支配に訪れていますが、その吉岡家文書(石見)によると、すでに、慶長十年前後に石見からフイゴの口が佐渡に送られていることがわかります。そういうことからすれば、広く日本の各地を歩いた人びとにとって、小木町がいかに天然の良港であるかはすぐ目につくところでありました。こうして、竹村は小木港の開発利用に力を傾けたのです。光善寺にある竹村九郎右衛門の供養塔は、小木町にとって大切をものといえましょう。
★竹村盛一
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「54号」(平成30年7月)・いきる(竹村盛一) vol.15(蘭丸)
★竹村百和
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏で通称を八郎次、享保十年(一七二五年)ころより永宮守松堂について俳諧を学び十九年新潟に出て蘆元坊と会い数句をのこしたという。(佐渡人名辞書)
★竹村弥太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、寛永十一年(一六三一年)より十一年まで在任した。
嘉董といい、知行は八百五十石であった。(佐島遺事)
★竹村嘉理(よしまさ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行である。石見奉行竹村道清の弟である。父の善春は細井戸城で討死、後兄とともに外祖父富松因幡のもとにあり、織田信長の人質となって安土城にいた。大久保石見守長安に仕え、慶長十八年(一六一三年)に長安が罪となった後、伏見城で家康に謁見し寛永四年(一六二七年)七月佐渡奉行となり六年十一月佐渡で千石を与えられ八年九月十五日に六十六才でなくなった。(大日本人名辞書)
「ウイキペディア」より
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期 生誕 永禄9年(1566年) 死没 寛永8年9月15日(1631年10月10日)
別名 嘉政、弥吉、九郎右衛門 幕府 江戸幕府 佐渡奉行 主君大久保長安→徳川家康→秀忠→家光
氏族 竹村氏 父母 父:竹村与吉兵衛 兄弟 道清、嘉理 子 嘉勝、嘉英
竹村 嘉理(たけむら よしまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。佐渡奉行。家禄850石。
・生涯:永禄9年(1566年)、竹村与吉兵衛の次男として大和国竹内村にて誕生。
幼年の頃、父が細井戸城にて討死にしてから、徳川家康の命により兄・道清と隔年で織田信長の許に安土城に人質として赴く。本能寺の変の後は、大久保長安に仕え、その没後は徳川家康に仕えた。元和4年(1618年)に鎮目惟明と共に佐渡支配(佐渡奉行)を命じられ、寛永4年(1627年)まで両名か交代で佐渡に留まった。この間、佐渡の金銀産出は活況を極め、積出港の小木港の整備を行った。同6年11月29日に佐渡国内において1000石を賜る。同年7月の鎮目の没後も佐渡奉行として、寛永8年(1631年)に66歳で没するまで13年間その職にあった。佐渡で没して光善院(小木)に葬られた説と江戸にて没し牛込大信寺に葬られた説がある。没後、子・嘉勝が佐渡奉行として赴任した。
・出典 寛政重修諸家譜 日本人名大辞典(講談社)
★竹村嘉窮(よしみ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
幕府越後直轄領代官、佐渡奉行であった嘉理のひこに当たる。
惣左衛門または弥五左衛門という。安軒と号した。延宝六年(一六七八年)八月十六日、父嘉有のあとを継ぎ普請となった。
元禄四年(一六九一年)越後代官、宝永元年(一七〇四年)三月十六日御勘定の組頭、享保元年(一七一六年)三月二十二日御勘定吟味役、五年十二月七日に職を退いた。
十七年(一七三二年)正月二十五日に七十八才でなくなった。(守門村史)
★竹本霞昇
『近現代の羽茂』

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏で通称を良蔵といい、仙草庵とも号した。
俳句をよくし門人が甚だ多く、また篆刻にもすぐれていた。(佐渡人名辞書)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
44 鑑賞 佐渡のうた (36) -補遺- 一幽軒守遊・竹本霞昇・中川収之・細川加賀 山本修巳
85 幕末の俳諧宗匠 竹本霞昇のこと 大野温于
★竹本君子
両津高校時代のs38年、総体ヨット女子スナイプ級2位(中浜百合子、越次かな)、女子A級ディンギー級1位(八代穠子、長谷川広子、竹本君子、 親松美智子)
★竹本多平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
沢根町 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
★竹本忠一
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★竹本忠右衛門
「加茂村誌」(昭和38年4月)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

昭和元年、加茂村長に当選。昭和5年、村長再選。
★武本里栄
佐渡高校時代の昭和35、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会推薦
★竹森一男
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
21 今井浤二氏・田辺慶治氏・竹森一男氏 山本修之助 22 追憶の三人 山本修之助
★竹谷和吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★太宰治

左より 太田静子・太田治子

・昭和15年11月17日に佐渡を訪れ、『佐渡』を書く。両津では夷三ノ町本間旅館(文中「福田屋」、現在は「太陽堂」)、相川では羽田の高田屋(文中「浜野屋」)泊。※渡辺注(令和4年記):高田屋は後に佐州館、佐州ホテルとなり、その後は観光案内所「おーやり館」となっている。本間旅館宿泊の際、夕食後飲みに出かけ「よしつね」という店に入るが、これは「弁慶」と言う店で戦後まで現在の「両津タクシー」の裏にあった。(経営者は東京から来た人) 佐渡を満州と間違えた話や魚臭い夷の町の様子など興味深い内容である。
・太宰は佐渡と不思議なつながりがある。
佐渡八幡の人で計良長雄(ながお、京大卒、東芝勤務)という人がいた。彼は太宰治の愛人で、小説『斜陽』のモデルであり、作家太田治子の母でもある太田静子の初婚の夫。二人の間に長女満里子がいるが、1ヶ月足らずで早世。計良は太田治子の父ではない。太田治子は来島し八幡にある腹違いの姉満里子の墓に詣でている。
長篠康一郎「太宰治文学アルバム」より
宿を出た太宰は街を見物に出掛け、小雨の中を裏町にやって来た。そのころの裏町というのは加茂湖寄りの神明、八郎平の二町をいい、本間旅館から約300メートル。当時の裏町にはにぎやかで、吉田屋(現吉田ホテル)花月(現花月ホテル)朝日亭、弁慶などの料亭が立ち並んでいた。「格式のある家」という「寺田屋」は、その吉田屋をさしており、「よしつね」とは弁慶(両津タクシーの裏)のことで、八郎平町にあったが、経営者は終戦後に東京へ帰ってしまった。相川で太宰治が宿泊した「浜野屋」は、現在の佐州ホテルの前身、高田屋である。高田屋は明治20年の創業で、皇族を迎えたこともある由緒ある格式の旅館であった。
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
作家。青森県出身、明治四十二年に生まれ昭和二十三年に自殺した。昭和十六年一月号の「公論」に紀行文「佐渡」を発表した。治が佐渡を訪れたのは昭和十五年十一月十七日で官立新潟高等学校へ講演に釆た時の帰途である。この紀行文には相川と両津の印象を書いている。「中山トンネルを抜けると、バスは一気に坂道を下る。いくつ日かのカーブを曲った瞬間、黒い日本海に臨んだ相川の町並みが、急に目の中にとびこんできた。町の入口の右手に旅館が二軒増築中らしく、鉄塔が立っている。しかしツチ音は聞こえない。静かである。ときどきオートバイがぜんそく持ちのようなせわしい音をひゞかせるだけである。町並みは旅行者を黙殺しているのだ」は紀行文佐渡の一節である。(昭和四一・三・九・新潟日報、、越佐文学散歩、昭和一六・一・公論)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
太宰治 だざい-おさむ 1909-1948 昭和時代の小説家。 明治42年6月19日生まれ。井伏鱒二(ますじ)に師事。左翼活動での挫折のあと「海豹(かいひょう)」「日本浪曼(ろうまん)派」に作品を発表,昭和10年「逆行」が芥川賞候補となる。戦後は無頼派とよばれ,「ヴィヨンの妻」「斜陽」などで流行作家となる。昭和23年6月13日玉川上水で入水自殺した。40歳。青森県出身。東京帝大中退。本名は津島修治。作品はほかに「走れメロス」「人間失格」など。 【格言など】富士には,月見草がよく似合う
『佐渡』(小説 31枚 類聚版太宰治全集7 昭和53・筑摩書房)
「公論」昭和16年1月。「みみづく通信」の旅の続きとして佐渡へ渡り、夷港・相川を見た折りの感想を綴った私小説。天国より地獄の方が気にかかる「私」は、かねて死ぬほど淋しいところだと聞く佐渡に、死神に吸い寄せられるように惹かれて渡った。相川に泊まった夜、どぶんどぶんと聞こえる波の音を聞きながらなかなか寝つかれぬまま、遠い孤島の宿屋にいま寝ているのだと実感し、「死ぬほど淋しいところ」の酷烈な孤独感を捉える。やりきれないものだが、これが欲しく
て佐渡までやって来たのだ、うんと味わえと自らに言い聞かせる。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)太宰治 62 小鴨の夢 -太宰治の佐渡- 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=11
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=18
その他諸情報
★田坂友吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川出身 ・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日][衆議院之巻]
★田崎昭夫(たざきあきお)
河原田出身、昭和34年佐渡高校、38年小樽商科大学卒後、岩崎電気に入社。
2001年66月から社長就任、後会長などを歴任、現在川口市に在住。
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※岩崎電気株式会社4)
東証1部、会社設立 1944年、従業員数 1270人(単独) 2529人(連結) 。
照明部門、光応用部門。
★田崎公子
佐渡高校時代の昭和33年、全日本学校書道連盟主催全国学生競書大会特選
★田崎穂積
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「13号」(平成20年4月)日本酒のウンチク(田崎穂積)
★田崎正巳

両親が佐渡出身、幼児期は休み毎に佐渡に長期滞在していたという。
グロービス経営大学院大学教員。一橋大学商学部卒業、IMD(スイス)PEDコース修了。 味の素株式会社、ボストンコンサルティンググループ勤務を経て、欧州の投資会社であるアータルグループに入社し、同社の日本法人、アータルジャパン株式会社を設立、代表取締役に就任。企業の買収及び企業の経営等を手がけるプライベート・エクイティ事業を展開し、複数企業の事業再建及び立ち上げに携わった経験を有する。その後A.T.カーニー株式会社のヴァイスプレジデントを経て、経営コンサルティング会社STRパートナーズを設立、代表に就任。グロービス・マネジメント・スクール及びグロービス・オーガニゼーション・ラーニング(企業研修)にて講師を担当。
会社名:有限会社STRパートナーズ 、創業:2003年3月、代表者名:田﨑正巳
★多三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国沢根町の人である。奇特之趣相聞るに付、天保十四年(一八四三年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★田沢政次郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文政三年(一八二〇年)三月十七日、本丸納戸頭から佐渡奉行となった。名は正通また正道といい、知行二百俵、役料千五百俵百人扶持である。
五年四月二十八日、二之丸留守居役に転役した。留守居役中に千石となった。(佐島遺事)
★田島郁子
津高校時代の1980年度(S55)9月、第14回新潟県高等学校美術展 彫塑工芸部門奨励賞
★田島四郎右衛門富成
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★田嶋四郎右衛門(たじましろううえもん)
【生没】生・没年不詳 佐渡奉行所の地役人田嶋四郎右衛門富久は、寛永五年(一六二八)並高で御奉公、本名は小山、和泉堺の人、三代の富寛は元禄四年より務め同八年地方役、正徳二年在方役をつとめ、享保五年には高六○俵になった。四代四郎右衛門富成は、享保元年よりつとめ六年に印銀所定役、同八年吟味方役、同十三年在方役をつとめた。田嶋は享保改革期の大開発期にあたって、さかんに開墾をすすめた。『佐渡国略記』によると、新田畑の開発は、享保十八年三一一町歩、享保二十年三三五町歩、享保二十一年四○町歩に達した。田嶋はまた、公費で溜池の整備をすすめて開田を援助した。
【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七) 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★田島秀美

佐渡のフラダンスの草分けの人。昭和31年佐和田生まれ。30年前頃にカフェ「アゲーン」を開店し、後に森田氏に店を任せたが、現在は再び経営している。同じく佐和田で「ラハイナ」というカフェも経営する一方、幾つかのフラダンスサークルを指導している。
父は新穂の民謡団体「こがね会」初代会長の土屋正寛氏。
★田嶋与兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所役人、銭座役。享保二年(一七一七年)佐渡で銭鋳立の命を戸田山城守より奉行に伝えられた。与兵衛は天野伝右衛門と共に銭座役となった。役扶持三人扶を与えられた。下使役に佐野長兵衛、水品安右衛門、町年寄も協力を命じられた。新銭は銅一万貫に白目錫三百貫目、上錫千貫目、鉛二千八百貫目を加えて、寛永通宝を表に、佐を裏にしたもので、良貨といわれる。(佐渡年代記上巻)
★但馬屋安太
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★多十
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
43 鑑賞 佐渡のうた (35) -補遺- 多十 山本修巳 47 連載 閑々亭雑記 (6) 刑場に引かれる無宿の辞世 :多十 山本修之助
★田尻耕三→田耕(でんたがやす)
★田尻正記
「島の新聞」索引(人名別)
★多曽一→磯野与次兵衛
★多田但馬守
「戦国佐渡国人名辞典」より
【ただたじまかみ(15??~15??)】羽茂高信家臣。多田城主。別名本間但馬守。
★多田ひさえ
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。滔々と瀬の音のみのこの峡に夕べを白く桜散り込む
★多田正栄

★多田好正

★忠子内親王(ただこないしんのう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
順徳上皇第二皇女、貞永元年(一二三二年)佐渡で誕生された。和歌をよくし能書であった。
菩提樹の三字に名前を記された幼時の書が二宮神社の神宝となっている。御在世中、河原田の地頭本間左衛門少尉が守護した。河原田より二宮にいたる道を下馬坂というが、この辺に宮がおられたのであろうか。十一才の時父皇にわかれ、十八才で姉宮に先だってなくなった。建長元年(一二四九年)七月である。お墓は二宮にあり、二宮神社の祭神王島姫大明神は忠子内親王である。この詞官のうち近藤家ほ上皇の御随身藤原直家の子孫であるという。大正五年七月皇太子殿下佐渡行啓の時代拝を差しむけられた。(順徳天皇と佐渡)
★忠野甚吉
「手わざ図鑑」

★忠野善吉
畑野加茂神社

★忠平郁蔵(しこ名 平松の磯千鳥)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
明治34年生まれ、現在家族は横須賀へ移住したので、後半生は不明。生存しているとすると95歳に当たる。両津市平松の出身。海軍出身で北秋の鳴神と肩を並べた力士。突き・投げを得意技とした。柔道も有段者で(※5段と云う人がいる。)指圧や柔道指導者としても名が残っている。舞鶴鎮守府の相撲大会で5人抜きをして、司令長官佐藤鉄太郎海軍中将から賞を受けたといわれ、戦後十日町市で行われた新潟県大会に優勝したことがあったと云われている。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、佐渡新報の発刊[十四年十一月十日]・昭2、佐渡毎日新聞[五年七月一日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭5、佐渡新報の廃刊[十五年四月 日]
★高安三太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
大鼓(おおづつみ)高安流家元。能楽のハヤシ方で名は英勝、通称三太郎といった。のちに喜叟と改めた。東京の人で明治六年四月中旬、佐渡の弟子を訪問するため子の国順と共に赤泊へ着き弟子の畑野町本間藤右衛門宅や村山の伊賀寿三郎宅に滞在した。三太郎は暑気にあてられ病気になり八月十五日、伊賀家でなくなった。六十三才であった。三太郎は世を去る時、子の国順に「こういう遠い佐渡が島で死ぬのも何かの因縁であろう。わしの死体を東京まで持ち運ぶのは容易でないから、この伊賀家の墓地に埋葬してもらい、そして歯だけを東京芝の菩提寺に納めるように」と遺言した。大善院高安英勝居士の戒名で墓は伊賀家より百メートル西方の竹林中にある。(佐渡の百年)
参照:「佐渡人名録」→「佐渡の百年」(明治)p220-222
★高柳角右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川村 ・明4、政友会新潟支部の役員[四十年十一月十七日]
★高柳角太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治元年 生 西三川村西三川 ・明4、山本の送別会[三十五年八月十五日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、新潟県会議員補欠選挙[四十三年六月]・明4、政友会新潟支部役員[四十三年十一月二十日]・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★高柳一巳
「エスライフ」2015年8・9月号



「島の新聞」索引(人名別)
★高柳勝身
西三川田切須、小布勢神社境内


『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★高柳二郎
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
66 祖母(ばやん)の話(1) 67 祖母の話(2) 69 祖母の話(3)
★高柳源太郎
金丸 種徳院


『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
金丸鬼太鼓の継承者。明治二四年生まれ。はじめ昔の鬼太鼓を舞っていたが一七、八歳のころ本間米蔵から新しい型を習ったという。
→舟崎仁作参照
★高柳弘子
佐渡高校時代の昭和38、全国学生選書会展団体賞受賞、特選
★高柳文晴
佐渡高校時代の昭和59.6.2~8、軟式庭球県高校結合体育大会(男子柏崎市・女子新潟市)男子高柳文晴・浅井隆行組ベスト16、北信越大会に出場
★高柳正彦


★高柳幹蔵
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
★高柳竜司
佐渡高校時代の昭和50.9.28 陸上競技、県高校選抜大会(上越市)三段跳2位
51.6.8~9 、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)走幅跳1位
51.10.3 陸上競技 、県高校選抜大会(上越市)走幅跳1位・三段挑2位
52.6.3~5、陸上競技 県高校結合体育大会(新潟市) 4×100mR(羽豆・高柳・称解・村川)5位、走幅跳1位・三段跳2位
52.6.24-26、陸上競技北信越大会(金沢市)三段跳4位
★高柳渡
金丸公民館

★高山又蔵
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所支配組頭。天保二年(一八三一年)七月二十三日より伺八年三月二十九日まで在任した。源貞利という。天保六年に雲子間歩敷内御普請御用出精相勤候に付、五月二十八日、松平周防守より褒美として銀五枚を与えられた。(佐渡年代下巻)
★宝屋の豊子
小木の旅館「宝屋」の芸妓で、大正12年、新穂「川徳」の奴と共に上京して「佐渡おけさ」をレコードに吹き込む。この時の日東(燕印)レコード会社のレコード売れ行き番付によれば、「佐渡おけさ」が「日本全国の民謡レコード全部をひとまとめにしてもこのレコードに及ばない」売行きとなってしまったという。
「佐渡おけさの流行」(「佐渡の百年」)
★田川大吉郎
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
★田川虎松
「近現代の羽茂」

中:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より





『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
羽茂村大石 ・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★滝春一(たきしゅんいち)
小川一灯の師。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1901-1996 昭和-平成時代の俳人。明治34年10月15日生まれ。水原秋桜子に師事し,「馬酔木(あしび)」同人。昭和14年から「暖流」を主宰。戦後,無季俳句をとなえて「馬酔木」をはなれたが,41年復帰。57年「花石榴」で蛇笏(だこつ)賞。人生の機微をうたった。平成8年4月28日死去。94歳。神奈川県出身。本名は粂太郎。【格言など】あの世へも顔出しにゆく大昼寝(「ゆずり葉」)
「「しどみの花」の俳人」(「佐渡の百年」)
★瀧敏雄
「躍進日本」

★瀧川義一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 70 近世佐渡文人についての書簡
★滝口恵倫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)滝口恵倫
17 貝談奇談 (1) バイガイ、ツメタガイ
18 貝談奇談 (2) アワビ、イボニシ、ナミノコガイ
20 貝談奇談 (3) アラレタマキビ、カキ、チョウセンハマグリ
21 貝談奇談 (4) アサリ、カワニナ
22 貝談奇談 (5) ウラシマガイ、ヤツシロガイ、アヤボラ、バイ
62 出版記念会 滝口恵倫・たづ夫妻「白魚」・酒井友二氏「阿修羅」
85 思い出の人々 (1)
★滝川廣為
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★滝川廣基
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★滝川主殿
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文久三年(一八六三年)講武所調物頭役より佐渡奉行となった。
知行は二千十九右一斗七升、役料千五百俵百人扶持であった。四年三月二十八日、堺奉行に転役、讃岐守と改めた。佐渡へは着任しなかった。(佐島遺事)
★瀧口長策
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★滝坂謙作
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
左衛門四郎は姓は駒形、滝平の伯労である。廻国の折他国から糯(もち)種子を持ち帰って試作したところ、品質がよかったので、近隣の者達がよく作付けし、左衛門四郎糯と呼ばれ、南部一円に栽培されるようになり、また、北海道にも移出されて、その声価は高かった。品種は豊後糯の一種である。この種子を、黒山から金沢村平山(たいらやま)へ縁付いた人の手で彼の地でも作られ、作付面積もしだいに多くなり、かの地の篤農家茅原鉄蔵の認めるところとなり、平山橋と命名して北海道へも移出されていた。
この精米は餅にしても味がよいため、以前葛西家では、久邇宮多嘉王殿下の御来邸(大正一四年八月一四日)後、毎年この精米で餅をついて献上したが、その米は三十郎(大崎の篤農家葛原勘吉)で作ったものを用いた。三十郎では増産品種が出てからも久しくこれを栽培していた。大崎の新屋(滝坂謙作)ではこの精米で餅をついたが、出来上りの餅は腰が強く、一尋でも二尋でもよくのびるよい餅になるので、「新屋の一尋餅」といって有名である。つき方も「もまない、急がない、あわてない」、また、「始め軽く、中頃出来るだけ強く、後軽く」である。同家では今もなお、この糯を作付して評判の餅をついている。駒形左衛門四郎は明治六年八二歳で殺した。(口碑)
★滝坂辻蔵
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
チョン髷爺さん(佐渡の別天地に奇人)
佐渡南部の別天地、小佐渡山脈の懐に抱かれた大崎部落に、今度六十九歳を迎えた滝坂辻蔵さんという老人がある。明治維新前からのチョン髷を結びながら生きて来た。彼は仙人同様の生活に、変人扱いにされているが、「訴訟の神様」の尊称まで捧げられている。彼をめぐっての訴訟のエピソードは、ドッサリ織り交ぜられ、相川区裁判所、新潟地方裁判所へ出頭したことは、どんなにあったことか、控訴院(今の高裁)に三回、大審院 (今の最高裁)にも二回出頭した記録を持つのだ。最近でも彼のチョンマゲ姿は、相川区裁判所へチョイチョイ現われるのだ。一八歳の時村役場の教育費不当賦課に、役場を相手に訴訟を起こし、五年三ケ月争って勝ったのが病みつきで、高利貸しに悩む商人、貧農のために戦って来たというが、まだ一ぺんんも負けたことがない。(朝日新聞)
老人にまつわる逸話は多い。
1.老人は御用籠の大きなものに、野菜などをいれて背負い、よく小木町へ売りに出掛けた。 小木町のある商店で、籠の中の野菜を、あれこれ出して見たが、買わなかった。やがて冬近いある日、その商店を訪れて、半紙を求めた。出した半紙を一枚一枚店先きに並べて見ていたが、折りからのすきま風に、紙は店内に散らばった。老人は断って買わずに店を去った。老人の頑の中には、かつての日野菜をことわられたことが、残っていたのであろう。
2.老人は東京見物に出かけた。チョンマゲ姿の田舎爺さんは、二重橋へ行った。大勢の人達が、皆橋のところに恭しく拝んでいる。老人はふと垣を越えて橋を渡り始めた。哨兵はあわてて銃を構えたが、老人は「ダンサン、俺をうとうよりカモでもうてやれ」といとも平気なものである。哨兵も気違いと見たか「馬鹿野郎、帰れ」とどなって橋から追い帰した。爺さん日く「二重橋を渡ったものは、見物人では俺ぐらいのものであろう。ハハ」(口碑)
★滝沢一朗
『花辛夷』(歌集 490首 平成3・私家版)
昭和40年から平成2年までの作品を収めた第二歌集。第一部「風媒花」は旅の歌、この中に黒姫山の歌がある。第二部「白珠」は蔵王で遭難死した長男に寄せる両親の悲痛な心境を歌った感動的な歌群である。第三部「櫻略」 は京・大和の古寺を訪れた時々の歌。第四部「高清水」は「私の居住する北国での詠草」とあとがきで著者が述べている通り、地名は特にないが、新潟周辺の気候・自然・風物等を推定できる作品が多い。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
★滝澤俊
「シマイル」


★滝沢馬琴
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)滝沢馬琴
43 連載 閑々亭雑記 (2) 「馬琴日記」に見える石井夏海 :静蔵 山本修之助
43 連載 閑々亭雑記 (2) 「八犬伝」の犬士を佐渡へ 山本修之助
43 連載 閑々亭雑記 (2) 「里見八犬伝」にある夏海の和歌 山本修之助
43 連載 閑々亭雑記 (2) 滝沢馬琴旧蔵の「佐渡年代記」 山本修之助
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)
★滝浪玄伯(たきなみげんぱく)
【生没】一七九六ー一八六二 名は秀成、字は就卿、可翁と号した。相川の医師。祖先は摂津国で九代前の祖弥八郎の時、豊臣秀吉に仕え武勇の誉れが高かったという。秀吉の死後辞官して、夫人と佐渡に渡り名を宗意と改め医を業とした。大坂の陣に際して、単身大坂に行き城を守って戦死した。その子孫は青野(現佐和田町青野)に居り、数代後相川に出て医師となる。玄伯は青年の頃江戸に出て、官医中川栄春院に入門して医学を修め、七年後に帰国し名声を博し、遠近より患者が多く治療を乞うた。文政三年(一八二○)奉行所は、子専哲を御出入医師格に登用している。玄伯自身も、同六年十二月御役所詰医師を命ぜられ、同八年学問所が創設されたとき、藤沢明卿・田中順卿・大原昌清とともに、医学所世話煎に任ぜられ帯刀を許されている。文久二年(一八六二)、はしかが大流行したとき、昼夜寝食を忘れて東西に奔走し、佐渡奉行岡松久徴は特に乗駕を許した。また、嘉永二年(一八四九)より疱瘡が流行したとき種痘を普及させ、町医者が種痘によって、貧困者から法外の治療費をとることを禁じて細民を助けた。文久二年十月二十日死去、享年六六歳、相川下寺町法然寺境内に葬られる。佐渡高校同窓会舟崎文庫に、滝浪から沢根の生田潜庵に宛てた、種痘に関する書簡がある。
【参考文献】萩野由之『浜ながし』ほか 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人、字は就卿、名を秀成という。若くして江戸の中山米春院の門にはいり、七年間、医術を学んだ。
帰国して文政(一八一八-二九年)中に陣屋附となり医学幹事を兼ね天保(一八三〇-四三年)中には進んで医事経紀となった。
また和歌を海野遊翁に学んだという。文久二年(一八六二年)十月に六十六才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★滝波図南(たきなみとなん)
詩人丸岡南陔の実子で滝浪家を継いだ。
★滝埜ひとみ

★瀧本喬
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★滝本喬眞
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★滝本幸子
両津高校時代のS4l、全国選手権ボート部女子ナックル6位(山口茂子、滝本幸子、須藤法子、板野富代、池ひろ子)
★滝本律
両津高校時代の1969年度(S44)6月、第22回新潟県高等学校総合体育大会陸上競技 三段跳3位 、第7回北信越高校大会陸上競技 内田賢一 斎藤好彦 桧田恵子 滝本律出場
★田切須村宇兵衛
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★瀧脇村吉右衛門子吉三郎
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★託阿
『小木町史』より
寛延三年(一七五〇)に桂光院其阿義簡という人が書いた、『佐州三崎の道場海徳山称光寺建立濫觴』によって、寺が成立する直後の事情についてみてみましょう。「遊行七代託阿上人が、暦応元年(一三三八)の四月、越後の国河井庄往生院において嗣法を行い、同三年、越後の国応声寺において数日結縁の間に、弟子託岸に言うには、〝今度佐渡へ修業したいと思うが、まだ佐渡には一つの道場もない、お前が佐渡に渡って所々に道場を建て、国中の諸人に後代の利益を説いて釆なさい〟託岸は師の命にしたがってその年の六月佐渡に渡り、まず三崎にとどまり諸人を勧化し、道場建立の意願を発し、昼夜六時の行法をいささかも怠ることをく行いました。そうしたところ、遠近の帰依者も多く、ついに、貞和五年(一三四九)三崎に道場を建て、山号を海徳山と言いまし。
その後、託岸は佐渡国中を勧化し、所々に道場を建てること十八か寺にも及びました。さて、文和四年(一三五五)の三月上旬、遊行八世渡船上人が佐渡に渡って、まず三崎の道場において数日間神勅のお礼結縁をおこなったところ、国守本間佐渡守をはじめ、国中の貴賎が信伏して喜ばをい人はありませんでした。
その後、国中をまわった渡船上人は、帰国するために三岬道場へ釆て託岸に言うには、”お前が無二の誠心をもって所々に道場を建て、宗祖の遺法を広めたことは、お前の大願によるものである〟と、託岸はそのことに答えて〝これは私の功ではありません、先師託阿上人の遺命によるものであります〟と、これによって、称光寺及び国中所々の精舎は、託阿上人を開山とし、託岩を第二世としました。」とあります。真野町四日町大願寺にある遊行八世渡船記には、越後の応声寺の時衆を佐渡に遣わしてつくった道場が岬にあって、そこに着いたことが記されていますから、その時衆が託岸だということにをるのでしょう。
★淖翁

★託岸
『小木町史』より
寛延三年(一七五〇)に桂光院其阿義簡という人が書いた、『佐州三崎の道場海徳山称光寺建立濫觴』によって、寺が成立する直後の事情についてみてみましょう。「遊行七代託阿上人が、暦応元年(一三三八)の四月、越後の国河井庄往生院において嗣法を行い、同三年、越後の国応声寺において数日結縁の間に、弟子託岸に言うには、〝今度佐渡へ修業したいと思うが、まだ佐渡に一つの道場もない、お前が佐渡に渡って所々に道場を建て、国中の諸人に後代の利益を説いて釆なさい〟託岸は師の命にしたがってその年の六月佐渡に渡り、まず三崎にとどまり諸人を勧化し、道場建立の意願を発し、昼夜六時の行法をいささかも怠ることをく行いました。そうしたところ、遠近の帰依者も多く、ついに、貞和五年(一三四九)三崎に道場を建て、山号を海徳山と言いました。
その後、託岸は佐渡国中を勧化し、所々に道場を建てること十八か寺にも及びました。さて、文和四年(一三五五)の三月上旬、遊行八世渡船上人が佐渡に渡って、まず三崎の道場において数日間神勅のお礼結縁をおこなったところ、国守本間佐渡守をはじめ、国中の貴賎が信伏して喜ばをい人はありませんでした。
その後、国中をまわった渡船上人は、帰国するために三岬道場へ釆て託岸に言うには、”お前が無二の誠心をもって所々に道場を建て、宗祖の遺法を広めたことは、お前の大願によるものである〟と、託岸はそのことに答えて〝これは私の功ではありません、先師託阿上人の遺命によるものであります〟と、これによって、称光寺及び国中所々の精舎は、託阿上人を開山とし、託岩を第二世としました。」とあります。真野町四日町大願寺にある遊行八世渡船記には、越後の応声寺の時衆を佐渡に遣わしてつくった道場が岬にあって、そこに着いたことが記されていますから、その時衆が託岸だということにをるのでしょう。
★田草川みずき
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 156 近松研究から見る佐渡古浄瑠璃 田草川みずき・文弥人形座の舞台と人形
★澤心和尚
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で法界寺の徒弟であった。別に沢心ともいう。
宝暦十三年(一七六三年)十月に江戸伝通院より京都智恩院五十四世の住職となり大僧正に任じられ、明和二年(一七六五年)七月に智恩院でなくなった。(佐渡人名辞書)
★田口源五郎
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p375
★田口八重子
昭和30年(1955)生8月10日生、昭和53年(1978)6月頃、北朝鮮に拉致(23歳)。朝鮮名は李恩恵(リ・ウネ)。北朝鮮による拉致被害者。北朝鮮の元工作員で、大韓航空爆破事件の実行犯金賢姫(キム・ヒョンヒ)の日本人化教育係であったとされる。
北朝鮮側の話:大阪から拉致された原敕晁(調理師)と結婚、夫は病死し、妻は自動車事故で死亡。金賢姫の存在は否定。一方、金賢姫は「恩恵先生は生きていますよ」と2009年3月11日に田口さんの長男との面会の際に発言している。
(斉藤紀世子さん談:令和3年2月)
・田口さんのルーツは本間家で相川塩屋町にあった。お婆さんが一人で住んでいた。旦那さんは見たことがない。豆腐屋で、後に雑貨、駄菓子店となった。
・孫が来たと言って喜んでおり、孫は一か月位居て突然帰った。今に思えば何か事件に巻き込まれており、逃げ場がなく一時佐渡に避難していたのかと思う。お婆さんによく似ていた。其れが田口八重子さんだと思う。
・お婆さんの長男は本間栄太郎と言い、相川高校の先生(国語担当)で自分も習った。※本間栄太郎先生;大正10年前後の生まれ。
先生は退職後間もなく亡くなった。栄太郎さんは門前の杉山さん(鉱夫)の娘と結婚した。この子供と、偶然に浦和のデパートと会ったことがある。彼女は店員さんでお互い佐渡弁だったので話した。
・本間家はお婆さん没後、そこが役場になると言うので、土地交換で会津町清新亭辺りに家を建てた。
※現在その家は、本間栄太郎さんの娘(中山苗字)が住んでいる。
・大韓航空爆破事件の際、警察が調査に来たので知っていることを話した。
(渡辺注)
・本間栄太郎さんの姉の子供が現在の拉致被害者の会の代表飯塚繁雄(昭和13年生)さん。即ち、本間家の娘さんが埼玉の飯塚家に嫁ぎ、繁雄さんが生まれた。弟は勝さんで、佐渡に実家の本間家を継ぐ。本間家には後継ぎはいなかったのだろう。
この繁雄さん、勝さんの妹が田口八重子さん。本間勝さんは現在、東京の佐渡民謡団体若波会の重鎮である。昭和18年生。
「本間勝(田口八重子さん兄)スピーチ」
みなさん、本日はありがとうございます。八重子が22歳で東京の池袋から拉致されてからはや37年、もう59歳になります。59歳になるということが頭の中に整理できない状態になります。 兄弟は八重子を含めて7人で、八重子は末っ子です。一つ上の姉は昨年9月八重子に会えずに亡くなりました。そのように、兄弟も会えなくなる事情が出ています。本当に悲しいことです。 私は八重子を取り戻す、つまり「死亡」とされた8人の中にいるわけですが、先ほど耕一郎が言ったように、まず「死亡」をくつがえし、そして生存者をすぐ返すということを即刻やってもらいたい。 それと、八重子の母親というのは新潟県の佐渡の相川の出身です。私たちの故郷にもなっているわけですが、泉田知事がせっかく来ておられますので、申し上げます。 知事は、万景峰92号がうるさく入港してきた時に、ラウドスピーカーで、「そのような対応を取るならば入港を禁止させる」とおっしゃっていただきました(拍手)。新潟港の信濃川の入港に関しては、港を管理する権限は知事にあるわけです。そして万景峰92号というのは、多くの工作員に拉致され、私たちと一緒に川口で戦っている藤田さんの兄、進さんが運ばれたと聞いています。だから拉致被害者が全員帰国するまでは絶対万景峰92号を入港させないでいただきたいと思います(拍手)。 佐渡は曽我ひとみさんのお母さん曽我ミヨシさん、特定失踪者の大沢孝司さんが失踪されています。新潟はたくさんの拉致被害者が出たということで、その中で泉田知事が先頭に立って戦っていただいていることは本当に心強いと思います。 次に拉致被害者が万景峰に乗せられて帰ってこなかったら、ダメよと約束してください(拍手)。私たちは戦っている最中なので、心強いお言葉をいただいたということは、これからの北朝鮮との交渉でも、拉致被害者を返さなければ新潟港へ入れない、新潟県との経済的成果も得られないことを頭に入れて、再調査を今考えていると思います。 皆さんどうぞ、そういう流れを、関連したことも含めて考えて、私たちの、今の所尽きない戦いですが、ご支援いただきたいと思います。宜しくお願いいたします(拍手)。
★駄栗毛寛(だぐりげひろし)
相川の人、長く相川役場に奉職し、退職後、郷土の各種文化運動を率先して行う。

駄栗毛家系図
「島の新聞」索引(人名別)
★武ひとし(たけひとし)
「佐渡が夢」著者。1954年生まれ。福岡県出身、在住。九州大学工学部卒業、現在、塾を経営。
(あたすじ)目が覚めたら享保5年? 幕領じゃない佐渡藩!? 迷い込んでしまったパラレルワールド。運命と使命を感じながら、4人は〈別の未来〉に向かって動き出した。「平和」を手にするための「力」とは──。SF歴史小説誕生! 「人にはどうしようもない欲があります。持てば持つほど、その欲は大きくなっていきます。ほどほどに、が肝心ではありませんか」(本文より)
★武井卯之吉行天(ゆきたか)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂町西方源次、鍛冶秘伝一軸(年代不詳) 嘉永二年九月二十八日羽茂本郷寺田茂助に生まれる。諏訪野力蔵の弟、西方の源次家を継ぎ農業を営む、大正十一年三月二十一日没。
★武井京蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


★武井健三
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

★武井佐市
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★武井助左衛門
中興神社

★武井盛三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 羽茂村大橋 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『田中圭一講演集(第七集)『佐渡病院』より
病院を建てようかなという機運は、何処でもきっかけがないと生まれません。佐渡に病院を作る直接のきっかけを与えたのは、昭和七年四月、第二十八回全国産業組合大会です。そこで産業組合中央会が大会のスローガンの一つに「産業組合の医療の大衆化」という項目を掲げ決議します。出席した、例えば本間長治(産業組合中央会佐渡郡部会長)や武井盛三郎(羽茂村産業組合長)などがこれを病院建設のきっかけとして捉えることになります。では、どうして彼等が大会に出て、よしやろう、という風に考えたのか、実はさまざまな要因、きっかけがあります。全国大会には何百人も出席しておりますが、実際に病院を作ったのはそれほどおりません。大会があつて、こういうことを単に決議したというだけでは建設運動は起きてはきません。佐渡病院の場合、この二人には直接的に共通する個人的な事情がありました。武井の場合は、長男が新潟医大を出て、開業する突先に熱で亡くなつている。本間の場合は、大正時代に娘を、それからこの頃、二人の子供、一人は朝鮮の陸軍病院で、もう一人は新潟の病院で
亡くしている。こういうことが彼等を動かし、病院の必要性を痛感させることになる。
★ 武井武雄




武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日-1983年2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。玩具の収集研究を通して山本修之助、中川雀子等と親交があった。
童話の添え物として軽視されていた子供向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めた。武井武雄の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていない。「コドモノクニ」をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、図案(デザイン)、おもちゃの研究・創作「イルフ・トイス」、本自体を芸術作品と捉えた「刊本作品」、童画批評など多岐多彩な分野で作品を残した。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)武井武雄 38 武井武雄先生の思い出 山本修之助
「ウイキペディア」より
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★武井千秋

1958年相川町生まれ。佐渡高校、東洋大学卒業。㈱アパートメントプロ代表およぴ「十季あかり」㈱佐渡厚生会代表(「十季のあかり」㈱佐渡厚生会代表)(参考 「佐渡ジャーナル」36号)
(武井千秋)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「36号」(平成26年1月)座談会 いかに雇用をうみだすか-浅島誠・石原武・宇留間和基・三浦基裕・武井千秋・岩田雅-
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「40号」(平成27年1月)出雲大社に絹の屏風を奉納 ※武井千秋
★武井悌
『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)より
北見角太郎(同窓会長、医博、佐和田町)山本成之助(県相川保健所長、同、真野町)らは大正十二年の卒業名簿にのっている。このクラスには医者が多く出た。本間賢吉(医博、両津市)、榎蓮(内科医、同)や北見は、島内でいまも開業している。後藤衛門(内科医、新穂村)本間為次(外科医、新穂病院長)も、死亡したが同級だった。ほかに伊藤栄一(内科医、医博、埼玉県)堀治部(耳鼻科医、同、東京都新宿区)武井悌(内科医、羽茂町)渡辺五郎(耳鼻科医、両津市)らがいる。たいてい、十一年に四年で修了して進学した人たちである。北見によると「医者だけで十二人出た。佐中の歴史で、あとにも先にも、例がなかった」という。
★竹内淳夫
彩流社社長。小木小比叡出身、羽茂高校昭和37年度卒業。
★竹内音吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★竹内久美子
両津高校時代の1975年度(S50)11月、第9回全国高校生ポスター絵画写真コンクール学校特別賞
絵画部門 金賞
★竹内健蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★竹内幸吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★竹内栖鳳
高名な日本画家で土田麦僊の師。
「舞妓芸術の麦僊」(「佐渡の百年」)
「ウィキペディア」より
★竹内勉(つとむ)



昭和12年生、平成27年3月24日没、77歳。12歳から東京の民謡保存運動を始め、昭和36年より請われて町田佳聲に師事。
「民謡源流考」で芸術祭奨励賞受賞、大作「日本民謡大観」編集に携わる。昭和40年~平成18年までNHK 民謡関係番組に出演。何度となく調査や公演等で来島し、佐渡民謡の発掘研究に大きな業績を残す。「おけさ・はいやと北前船」などの労作がある。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=9
★竹内秀明

★竹内正文

両津高校21代校長(平成23年4月~平成25年3月)、同校の最後の校長となった。佐渡中等学校校長も兼務する。
★竹内増太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★竹内道広
新潟日報(h28年4月12日) 市議初当選


平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報

★武内美由紀
佐渡高校時代の平成6.5.28~31、陸上競技県高校総合体育大会(長岡市)、走高跳3位
平成6.6.17~19、陸上競技北信越大会(長野市)走高跳出場
平成7.6.2~4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)走高跳4位
平成7.6.23~25、陸上競技北信越大会(新潟市)走高跳出場
★竹内洋(たけうちよう)





昭和17年生れ、両津夷出身の日本を代表する教育社会学者で平成24年度吉野作造賞を受賞する。両津中学校ー両津高校(11回生)ー京都大学卒。高校時代は、現在の太陽堂の裏手辺り(+夷築地寺尾方)に住んでいた。著書の中に恩師河原寿雄先生のことや、草創期の両津高校について活写している。
「島の新聞」索引(人名別)
「馬鹿八と人はいう」(竹内洋解説)
「革新幻想の戦後史」(竹内洋)
諸情報
★竹川竜之介
佐渡奉行所組頭、幕末佐渡において多用な分野で登場する。
「明治の夜明け」(「佐渡の百年」)
「最後の佐渡奉行」(「佐渡の百年」)
★竹内瑠美子
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「15号」(平成20年10月)「五徳屋」さん二十周年(Y)※竹内瑠美子
★竹内廉太郎




★竹下申吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『 故里つばき』



※南中校長等を歴任した倉田藤吾郎氏は次男である。
★竹下申太郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

※南中校長等を歴任した倉田藤吾郎氏は実弟である。
★竹下三男吉
東京両津の会2代会長(就任1年未満で他界)
「躍進日本」

「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より

★竹田榮次郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★竹田栄太郎
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「越佐と出雲6 新潟日報 2016年4月22日掲載」
近世の佐渡島には、諸国から多くの移民が押し寄せた。越前・越中の出身者が多かったが、出雲や石見も少なくない。金山発見後、陣屋(奉行所)が置かれ、人口5万人規模の町となった相川。その江戸前期の町人名簿には、出雲藤右衛門や石見弥蔵といった名がある。出身国名を屋号で表したのが出雲屋や浜田屋だ。宝暦3(1753)年、相川町の郷宿に指定された出雲屋は、文政9(1826)年の絵図「相川町墨引」では「旅人宿出雲屋庄右衛門」と出ている。1988年の廃業まで、ずっと奉行所(跡)から600mほどの相川町二町目にあった。 昭和13年の『佐渡名鑑』は、当主竹田榮太郎は11代目で、堂々たる三層楼を築き、1年で2万人余の旅客を迎える相川町五大旅館の一つと紹介。その孫、伊藤佐世子さんは、先祖は出雲から来て苗字帯刀を許されたことなどを、祖母から聞いていた。出雲では旧暦10月の神在月、季節風で海が荒れた後、浜に寄りくる龍蛇(南海から北上してきた背黒海蛇)を、神の使いと見なした。杵築大社などに奉納された龍蛇は剥製・整形されて神宝となる。文政7(1824)年、加茂郡正明寺村の五郎作が、その龍蛇様を牛頭天王八王子宮(現牛尾神社)に奉納している。佐渡金銀山入用の鉄を買入れるため出雲国へ渡海した際、杵築大社に参詣して授かったものだ。牛尾神社は延暦11(792)年、杵築大社からの勧請・創建と伝わる古社。北ツ海(日本海)を介した佐渡と出雲の往来を示す、その龍蛇神と受証文は、佐渡市指定文化財になった。造船などの他、鑽(たがね)など採掘用の道具作りの需要も多かった佐渡で、古くから鉄を取引していたのが浜田屋だ。初代の川上権左衛門が石見国浜田から渡来したのは、16世紀末頃という。元禄期に沢根町名主となり、佐々井(笹井)姓に変わった浜田屋は、明治初期まで廻船業を続けた。
★竹田覚隆
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より

★武田健司
佐渡高校時代の25.7.29~30、県高校水上競技大会(長岡市)、400m自由型5位・800m自由型4位、、200m継泳(後藤・本多・木透・武田)6位、800m継泳(武田・佐々木・木透・後藤)4位、男子総合優勝
25.8.22~23、北日本学校水上競技大会(新潟市)、400m自由型2位・400m自由型2位
25.8.22~23、北日本学校水上競技大会(新潟市)、200m継泳(後藤・本多・内藤・武田)1位
25.8.22~23、北日本学校水上競技大会(新潟市)、800m継泳(武田・磯部・佐々木・後藤)4位
25.8.22~23、北日本学校水上競技大会(新潟市)、男子総合優勝
26、東部高校大会、石川猛夫・武田健司200m継泳4位
★竹田兼蔵・鶴松
『故里つばき』


★竹田十郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★武田静澄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
53 山本修之助著「佐渡の伝説」所感 80 点鬼簿(2) 武田静澄氏、福田清人氏、富川潤一氏、笹井正氏 山本修巳
★武田民蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治元年生 新穂村武井 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
★竹田長兵衛
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
両津市椿のひと、長兵術人形の創始者。藤村半四郎より譲り受け、さらに矢柄の繁栄座へ譲った。人形をつかった長兵衛は、大正七年に九十四歳でなくなった。つかい手の相手は二男の鶴松。太夫ほ羽吉の盲人利助。今もこの家に小道具の馬二匹が保存されている。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=3
★武田鉄雄
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「2号」(平成17年7月)相川出身の飯山氏二人展開催(飯山虎之助・武田鉄雄)
★竹田輝雄
「島の新聞」索引(人名別)
★武田藤左衛門
新穂武井 熊野神社

★竹田富夫
「島の新聞」索引(人名別)
★武田弘繕(ひろつぐ)
両津市春日町出身、昭和22年生まれ、両津高校(商業科 17回生)卒。「株式会社 文化アディック」代表。
(事業内容他)ADTotal Agency AmusemenSHOP運営 Web&地方発ビジネス Hotel&inn Produce
ECOBarrlerfreeBusiness SPイベントPlanner NetIT出版事業 OrlglnalTravertour ベット健康食品関連ビジネス Entertainment文化、芸術プロジェクト
(東京都千代田区神田神保町l-3-5寿ビル3.4F)
「合同会社ひととき」(佐渡市立野333)
佐渡の地域活性化を目指し、安心・安全・美容と健康の島に 農産物加工品企画開発販売業 農産物生産事業 農業経営サポート事業 Web制作運営事業 加工古民具インテリア家具販売 飲食煮農家カフェ 佐渡在来種生産 観光イベント事業 地産地商
★武田文次郎(しこ名 両津の春日山)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
明治37年生まれ、昭和60年逝去。享年82歳。両津のタクシーの運転手を業としていた。小兵なので、上手からの逆手まわしの独特の技を工夫していた。一人子をなしたが他家へ養子となったので絶家。加茂歌代江西院に葬られている。彼が着用した化粧廻しは、畑野町渡部麻吉氏が所蔵している。
★武田みさを
武田みさお・梶原武雄実家(畑野野高屋集会所はす向かい)


畑野野高屋に生れる、生家は野高屋集会所の斜め前、当時、父は下駄屋だった。小学校高学年時に両津谷地(現春日町)に転居。父が「両津劇場」の経営を引き継いだからである。その後中央に出て当時数少ない女流棋士として活躍し、日本を代表する棋士となる。弟が梶原武雄9段である。武田みさをさんの小学校時代を知る方(昭和11年生まれの夷2の大黒屋のおばあちゃんである土屋さん)によると、「ものすごく頭の良い子が畑野から転向してきたと評判だった」と言う。
段位/五段 5 青年月日 大正10年8月1日 1921/8/1 昭和9年増淵八段に入門 昭和13年入段、17年二段、31年三段、47年引退・四段 昭和52年春現役三段に復帰、61年四段、63年引退・五段 プロ棋士梶原武雄九段は実弟 日本棋院東京本院所属 夫は武田博愛6段
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★武田稔
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★竹田村新兵衛
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★竹田村又兵衛夫妻
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★竹田村名主善右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★竹中清志
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)高等教育現場の今ー佐渡総合高校・竹中清志校長 佐渡高校・片山達雄校長ー
★竹中成憲
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

『新潟県官民肖像録』(明治41年)


『歴史と水の町 ふるさと福浦』より
明治七年東京生れ。東京医学校に学び、新潟の各地の病院に勤務し、明治三十九年、招かれて福浦で「竹中医院」を開業しました。地域の公衆衛生や学童保健などにも貢献しました。加茂湖埋立工事(八郎兵衛町建設)には、栄町の土をトロッコに乗せて病院の横を通る許可や、安照寺偲巽堂(しそんどう)の命名、建設の浄財不足分を寄付するなどの尽力もしました。大正十四年没(六十二歳)。
※病院は理性院の角地(若林鮮魚店前辺り)にあった。
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
佐渡で名医と謳われた者が二人いた。善平がその一人で、もう一人は両津にいた竹中成憲である。成憲は「東京府平民」で、東京帝国大学医学部を卒業していた。当時としては稀れな「医学士」で、神様のようにいわれていた。しかしこの辺では「みたては若林、薬は竹中」と言われた。
上記「佐渡の百年」には出てこないが、竹中成憲墓は両津聖徳寺にもある。


『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より




「奇行の医者」(「佐渡の百年」)
「長谷川元良と竹中成憲-幕末・明治の科学者達-」(田中圭一講演)
長谷川元了と竹中成憲(田中圭一講演集より)
『田中圭一講演集(第六集)「長谷川元了と竹中成憲』より
竹中はドイツ人医師ベルツの日本人の一番弟子ですが、脚気の研究のため新潟にきておりましたが、明治三十八年、両津で開業します。維新後、医療はコレラなどの伝染病予防対策のほか、脚気対策も重要な課題でした。何しろ脚気は庶民のほかに軍人が罷り政府も頭を痛めます。脚気は、ビタミンBが明治四四年(一九一〇)、鈴木梅太郎によって発見され解決します。それはともかく、佐渡では結核と梅毒が多かった。竹中は結核やら内科やら伝染病やら多岐に亘って医学の本を沢山書いておりますが、エイヤッとばかりにこんな風に佐渡人の悪口を「佐渡新聞」に書いている。なかなか元気がいいんであります。日く、「佐渡人は新潟県で一番お金を貯めているけも(けれども)、そのくせちやんとした病院
がない。これは要するに佐渡の人間は銭は貯めるけも、自らの健康について何も考えることのできない種族である。これを直さなければ佐渡を近代化することはできない」。こう書く一方、実際の診療はどうかというと、午前中に百人くらいの患者を診るのに聴診器を使わないことがある。どうして使わないかを訊くと、「患者の顔色を見ればわかる。聴診器を使わんと分からんような医者で、医者がやっていけるか」と豪語する。そうして、午後になると両津の役場に行って消防団の仕事(団長)をやる、といった具合。また、こんなことをやっている。両津の小学校で、子供の弁当のおかずを観察し、それを見れば大人の病気が分るという。これは確かに一理ありますよね。変った医者ですけゾ咋傑物と
いうか、私は大変偉いと思いますね。ナ」の人はエピソードに事欠きません。福浦(両津)の土手を切って加茂湖を埋め立てる計画に町民が反対して、自分の地所には絶対通らせないと頑張って一切工事に協力しない。それを聞いた竹中は自分の病院の敷地を通らせます。そうして、こう言うわけです、「町の将来も考えんような町民に町の将来を預けられない」と。ここに新地ができた(神明町)ので、我々
『田中圭一講演集(第七集)『佐渡病院』より
佐渡に医院ではなく大きな病院を作れと提言したのが、福浦(両津市)で開業していた竹中成憲です。彼は大阪の人で、ドイツの医学者ベルツの高弟であります。明治四十五年、佐渡新聞に説を掲げます。その要旨は、「佐渡の人間の中には国に金を寄付するものがいるが止めたほうがよい。皆さんが寄付をしたところで新潟に病院が出来ぐらいが精一杯で、佐渡に病院は出来はしない。だから、病気にかかるお金はみんなが健康税だと思って払い、佐渡に病院を作れ」と言いました。本間長治はこのことをよく知っており、現実に病院を建てる必要がある、なんとかして建てたいと考えるようになる。
★竹中智英
「島の新聞」索引(人名別)
★竹中春男
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)竹中春男 74 「冬の虹」-山本修之助遺句集-愛誦句
★竹中錬英
新穂村根本寺住職、新穂村長

「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
★竹林正一
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
新潟県中等学校陸上競技大会で、竹林正一(相川)がメンバー800mリレーチームは決勝で二位を40mも離してゴールインした。全国大会でも他の追従を許さず堂々と優勝。新潟師範の竹林が800リレーで、同小林仁作が庭球で、同下林中二郎が剣道で揃って全国優勝したので、「相川の三林優勝」と当時の新聞は絶賛した。
★竹原達乎
旧県立河原田高等女学校(河原田女子高等学校)5代校長(昭和4・3・31~昭和6・3・31)、島根県人。
★竹淵季伴→小倉季伴
★武部喜蔵
赤泊郵便局長。 『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★武部喜八郎
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『新潟県官民肖像録』(明治41年)


『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村 ・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]・明4、田辺九郎平死亡[三十五年八月十二日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

※赤泊の武部喜八郎家:元石塚屋(現丸善衣料店)の真ん前の家。この家は、元は赤泊五軒問屋の一つ「大屋」(仁科家)であった。荒町にあった武部家がここに転居した。武部家当主は京都で医師。年に一度ほど帰省する。
★武部サキ子
佐渡高校時代の昭和36、白扇書道会主催全国学生書道展書道金賞
昭和37、全国学生選書会展特選
昭和38、全国学校書道連盟主催全日本学生競書大会、団体賞受賞、推薦
昭和38、全日本学生清書コンクール団体奨励賞受賞、特選
★武部治雄
令和4年(2022年)5月没、88歳。小学校教員として島内各地で勤務。退職後、社会福祉法人佐渡前浜福祉会代表や赤泊演劇の会代表等を歴任し、赤泊地区の文化や福祉事業推進に大きな貢献をした。
「島の新聞」索引(人名別)
★丈部若刀自売(たけべわかとじめ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人である。天長六年(八二九年)十一月十日に三つ児を生んだ。三百束と乳母一人、三年間の食糧とを給された。(越佐史料)
★竹村一男
「躍進日本」

★竹村九郎右衛門(たけむらくろううえもん)憲政
【生没】(生年不詳)ー一六三一 名は嘉政。『佐渡年代記』に、「元和四年(一六一八)鎮目市左衛門惟明と共に佐渡支配を命ぜられる」とある。寛永四年(一六二七)まで両人代る代る、また両人共佐渡に留まることもあった。『佐渡古実略記』には「生国大和国竹内村、父竹内丹波守、元和四年閏三月より当国支配。翌年五月十五日当国へ渡海。寛永八年九月十五日卒」とあり、また、『寛政重修諸家譜』には近江国安土城にあり、そののち大久保長安に仕えたとある。寛永四年、鎮目市左衛門なきあと、同八年(一六三一)まで一三年間奉行を勤める。小木町浄土宗光善寺境内に、寛永八年の板石形塔婆がある。『佐渡国寺社境内案内帳』には「当寺京都知恩院末、相川長坂町に建立。寛永七年小木町へ遷し建立。本願主竹村九郎右衛門。これに依て石塔を当寺に造立。この石塔は竹村の供養塔であることがわかる。佐渡在勤中は、佐渡産金銀の積出港であった小木港の整備につくした。元和から寛永初期にかけて、「山出の金銀も前後無類の盛を得た」時代で、湊に寄港する廻船の建造にも意を用いたらしく、船材の産出地小倉に近い長谷寺には、巨大な五輪塔がある。家禄八五○石。元和三年金銀山御改衆の一人として渡海、金銀山盛況時代の奉行であった。水主衆が多い浄土宗の篤信者であったらしく、元和七年(一六二一)伊豆から僧専誉を招いて、相川一丁目に金龍山広源寺を建てた。在任のまま寛永八年江戸において卒し、牛込大信寺に葬った。一説には佐渡にて病死、光善寺に葬ったとする記録もある。
【参考文献】『佐渡小木町史』(史料集下)、麓三郎『佐渡金銀山史話』 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『小木町史』より
小木諏訪町のおくまった高台に光善寺はあります。宝暦期に書かれた「寺社境内案内帳」には、もと相川長坂町南側にあったものを、寛永七年(一六三〇)小木町に移してきたもの です。その時の願主は佐渡奉行の竹村九郎右衛門憲政で、寺の住職は生誉良運であった。と書いてあります。
それまで相川にあった寺が、小木に引き移されたのには理由がありました。それは、小木港を良港として認め、それをおおいに大きくしていこうとした竹村九郎右衛門のはからいによるものでした。竹村奉行の本領は石見の銀山です。だから、竹村九郎右衛門は石見銀山の土地を知っていたし、日本海の廻船に乗ってもいました。それだけでなく、慶長八年以降ともなれば、石見からおびただしい人びとの群が佐渡を訪れていました。そのころ、吉岡出雲という人や、宗岡佐渡というようを鉱山の支配人が、大久保長安の手下として佐渡支配に訪れていますが、その吉岡家文書(石見)によると、すでに、慶長十年前後に石見からフイゴの口が佐渡に送られていることがわかります。そういうことからすれば、広く日本の各地を歩いた人びとにとって、小木町がいかに天然の良港であるかはすぐ目につくところでありました。こうして、竹村は小木港の開発利用に力を傾けたのです。光善寺にある竹村九郎右衛門の供養塔は、小木町にとって大切をものといえましょう。
★竹村盛一
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「54号」(平成30年7月)・いきる(竹村盛一) vol.15(蘭丸)
★竹村百和
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏で通称を八郎次、享保十年(一七二五年)ころより永宮守松堂について俳諧を学び十九年新潟に出て蘆元坊と会い数句をのこしたという。(佐渡人名辞書)
★竹村弥太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、寛永十一年(一六三一年)より十一年まで在任した。
嘉董といい、知行は八百五十石であった。(佐島遺事)
★竹村嘉理(よしまさ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行である。石見奉行竹村道清の弟である。父の善春は細井戸城で討死、後兄とともに外祖父富松因幡のもとにあり、織田信長の人質となって安土城にいた。大久保石見守長安に仕え、慶長十八年(一六一三年)に長安が罪となった後、伏見城で家康に謁見し寛永四年(一六二七年)七月佐渡奉行となり六年十一月佐渡で千石を与えられ八年九月十五日に六十六才でなくなった。(大日本人名辞書)
「ウイキペディア」より
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期 生誕 永禄9年(1566年) 死没 寛永8年9月15日(1631年10月10日)
別名 嘉政、弥吉、九郎右衛門 幕府 江戸幕府 佐渡奉行 主君大久保長安→徳川家康→秀忠→家光
氏族 竹村氏 父母 父:竹村与吉兵衛 兄弟 道清、嘉理 子 嘉勝、嘉英
竹村 嘉理(たけむら よしまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。佐渡奉行。家禄850石。
・生涯:永禄9年(1566年)、竹村与吉兵衛の次男として大和国竹内村にて誕生。
幼年の頃、父が細井戸城にて討死にしてから、徳川家康の命により兄・道清と隔年で織田信長の許に安土城に人質として赴く。本能寺の変の後は、大久保長安に仕え、その没後は徳川家康に仕えた。元和4年(1618年)に鎮目惟明と共に佐渡支配(佐渡奉行)を命じられ、寛永4年(1627年)まで両名か交代で佐渡に留まった。この間、佐渡の金銀産出は活況を極め、積出港の小木港の整備を行った。同6年11月29日に佐渡国内において1000石を賜る。同年7月の鎮目の没後も佐渡奉行として、寛永8年(1631年)に66歳で没するまで13年間その職にあった。佐渡で没して光善院(小木)に葬られた説と江戸にて没し牛込大信寺に葬られた説がある。没後、子・嘉勝が佐渡奉行として赴任した。
・出典 寛政重修諸家譜 日本人名大辞典(講談社)
★竹村嘉窮(よしみ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
幕府越後直轄領代官、佐渡奉行であった嘉理のひこに当たる。
惣左衛門または弥五左衛門という。安軒と号した。延宝六年(一六七八年)八月十六日、父嘉有のあとを継ぎ普請となった。
元禄四年(一六九一年)越後代官、宝永元年(一七〇四年)三月十六日御勘定の組頭、享保元年(一七一六年)三月二十二日御勘定吟味役、五年十二月七日に職を退いた。
十七年(一七三二年)正月二十五日に七十八才でなくなった。(守門村史)
★竹本霞昇
『近現代の羽茂』

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏で通称を良蔵といい、仙草庵とも号した。
俳句をよくし門人が甚だ多く、また篆刻にもすぐれていた。(佐渡人名辞書)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
44 鑑賞 佐渡のうた (36) -補遺- 一幽軒守遊・竹本霞昇・中川収之・細川加賀 山本修巳
85 幕末の俳諧宗匠 竹本霞昇のこと 大野温于
★竹本君子
両津高校時代のs38年、総体ヨット女子スナイプ級2位(中浜百合子、越次かな)、女子A級ディンギー級1位(八代穠子、長谷川広子、竹本君子、 親松美智子)
★竹本多平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
沢根町 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
★竹本忠一
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★竹本忠右衛門
「加茂村誌」(昭和38年4月)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

昭和元年、加茂村長に当選。昭和5年、村長再選。
★武本里栄
佐渡高校時代の昭和35、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会推薦
★竹森一男
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
21 今井浤二氏・田辺慶治氏・竹森一男氏 山本修之助 22 追憶の三人 山本修之助
★竹谷和吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★太宰治



左より 太田静子・太田治子


・昭和15年11月17日に佐渡を訪れ、『佐渡』を書く。両津では夷三ノ町本間旅館(文中「福田屋」、現在は「太陽堂」)、相川では羽田の高田屋(文中「浜野屋」)泊。※渡辺注(令和4年記):高田屋は後に佐州館、佐州ホテルとなり、その後は観光案内所「おーやり館」となっている。本間旅館宿泊の際、夕食後飲みに出かけ「よしつね」という店に入るが、これは「弁慶」と言う店で戦後まで現在の「両津タクシー」の裏にあった。(経営者は東京から来た人) 佐渡を満州と間違えた話や魚臭い夷の町の様子など興味深い内容である。
・太宰は佐渡と不思議なつながりがある。
佐渡八幡の人で計良長雄(ながお、京大卒、東芝勤務)という人がいた。彼は太宰治の愛人で、小説『斜陽』のモデルであり、作家太田治子の母でもある太田静子の初婚の夫。二人の間に長女満里子がいるが、1ヶ月足らずで早世。計良は太田治子の父ではない。太田治子は来島し八幡にある腹違いの姉満里子の墓に詣でている。
長篠康一郎「太宰治文学アルバム」より
宿を出た太宰は街を見物に出掛け、小雨の中を裏町にやって来た。そのころの裏町というのは加茂湖寄りの神明、八郎平の二町をいい、本間旅館から約300メートル。当時の裏町にはにぎやかで、吉田屋(現吉田ホテル)花月(現花月ホテル)朝日亭、弁慶などの料亭が立ち並んでいた。「格式のある家」という「寺田屋」は、その吉田屋をさしており、「よしつね」とは弁慶(両津タクシーの裏)のことで、八郎平町にあったが、経営者は終戦後に東京へ帰ってしまった。相川で太宰治が宿泊した「浜野屋」は、現在の佐州ホテルの前身、高田屋である。高田屋は明治20年の創業で、皇族を迎えたこともある由緒ある格式の旅館であった。
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
作家。青森県出身、明治四十二年に生まれ昭和二十三年に自殺した。昭和十六年一月号の「公論」に紀行文「佐渡」を発表した。治が佐渡を訪れたのは昭和十五年十一月十七日で官立新潟高等学校へ講演に釆た時の帰途である。この紀行文には相川と両津の印象を書いている。「中山トンネルを抜けると、バスは一気に坂道を下る。いくつ日かのカーブを曲った瞬間、黒い日本海に臨んだ相川の町並みが、急に目の中にとびこんできた。町の入口の右手に旅館が二軒増築中らしく、鉄塔が立っている。しかしツチ音は聞こえない。静かである。ときどきオートバイがぜんそく持ちのようなせわしい音をひゞかせるだけである。町並みは旅行者を黙殺しているのだ」は紀行文佐渡の一節である。(昭和四一・三・九・新潟日報、、越佐文学散歩、昭和一六・一・公論)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
太宰治 だざい-おさむ 1909-1948 昭和時代の小説家。 明治42年6月19日生まれ。井伏鱒二(ますじ)に師事。左翼活動での挫折のあと「海豹(かいひょう)」「日本浪曼(ろうまん)派」に作品を発表,昭和10年「逆行」が芥川賞候補となる。戦後は無頼派とよばれ,「ヴィヨンの妻」「斜陽」などで流行作家となる。昭和23年6月13日玉川上水で入水自殺した。40歳。青森県出身。東京帝大中退。本名は津島修治。作品はほかに「走れメロス」「人間失格」など。 【格言など】富士には,月見草がよく似合う
『佐渡』(小説 31枚 類聚版太宰治全集7 昭和53・筑摩書房)
「公論」昭和16年1月。「みみづく通信」の旅の続きとして佐渡へ渡り、夷港・相川を見た折りの感想を綴った私小説。天国より地獄の方が気にかかる「私」は、かねて死ぬほど淋しいところだと聞く佐渡に、死神に吸い寄せられるように惹かれて渡った。相川に泊まった夜、どぶんどぶんと聞こえる波の音を聞きながらなかなか寝つかれぬまま、遠い孤島の宿屋にいま寝ているのだと実感し、「死ぬほど淋しいところ」の酷烈な孤独感を捉える。やりきれないものだが、これが欲しく
て佐渡までやって来たのだ、うんと味わえと自らに言い聞かせる。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)太宰治 62 小鴨の夢 -太宰治の佐渡- 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=11
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=18
その他諸情報
★田坂友吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川出身 ・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日][衆議院之巻]
★田崎昭夫(たざきあきお)
河原田出身、昭和34年佐渡高校、38年小樽商科大学卒後、岩崎電気に入社。
2001年66月から社長就任、後会長などを歴任、現在川口市に在住。
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※岩崎電気株式会社4)
東証1部、会社設立 1944年、従業員数 1270人(単独) 2529人(連結) 。
照明部門、光応用部門。
★田崎公子
佐渡高校時代の昭和33年、全日本学校書道連盟主催全国学生競書大会特選
★田崎穂積
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「13号」(平成20年4月)日本酒のウンチク(田崎穂積)
★田崎正巳

両親が佐渡出身、幼児期は休み毎に佐渡に長期滞在していたという。
グロービス経営大学院大学教員。一橋大学商学部卒業、IMD(スイス)PEDコース修了。 味の素株式会社、ボストンコンサルティンググループ勤務を経て、欧州の投資会社であるアータルグループに入社し、同社の日本法人、アータルジャパン株式会社を設立、代表取締役に就任。企業の買収及び企業の経営等を手がけるプライベート・エクイティ事業を展開し、複数企業の事業再建及び立ち上げに携わった経験を有する。その後A.T.カーニー株式会社のヴァイスプレジデントを経て、経営コンサルティング会社STRパートナーズを設立、代表に就任。グロービス・マネジメント・スクール及びグロービス・オーガニゼーション・ラーニング(企業研修)にて講師を担当。
会社名:有限会社STRパートナーズ 、創業:2003年3月、代表者名:田﨑正巳
★多三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国沢根町の人である。奇特之趣相聞るに付、天保十四年(一八四三年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★田沢政次郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文政三年(一八二〇年)三月十七日、本丸納戸頭から佐渡奉行となった。名は正通また正道といい、知行二百俵、役料千五百俵百人扶持である。
五年四月二十八日、二之丸留守居役に転役した。留守居役中に千石となった。(佐島遺事)
★田島郁子
津高校時代の1980年度(S55)9月、第14回新潟県高等学校美術展 彫塑工芸部門奨励賞
★田島四郎右衛門富成
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★田嶋四郎右衛門(たじましろううえもん)
【生没】生・没年不詳 佐渡奉行所の地役人田嶋四郎右衛門富久は、寛永五年(一六二八)並高で御奉公、本名は小山、和泉堺の人、三代の富寛は元禄四年より務め同八年地方役、正徳二年在方役をつとめ、享保五年には高六○俵になった。四代四郎右衛門富成は、享保元年よりつとめ六年に印銀所定役、同八年吟味方役、同十三年在方役をつとめた。田嶋は享保改革期の大開発期にあたって、さかんに開墾をすすめた。『佐渡国略記』によると、新田畑の開発は、享保十八年三一一町歩、享保二十年三三五町歩、享保二十一年四○町歩に達した。田嶋はまた、公費で溜池の整備をすすめて開田を援助した。
【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七) 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★田島秀美


佐渡のフラダンスの草分けの人。昭和31年佐和田生まれ。30年前頃にカフェ「アゲーン」を開店し、後に森田氏に店を任せたが、現在は再び経営している。同じく佐和田で「ラハイナ」というカフェも経営する一方、幾つかのフラダンスサークルを指導している。
父は新穂の民謡団体「こがね会」初代会長の土屋正寛氏。
★田嶋与兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所役人、銭座役。享保二年(一七一七年)佐渡で銭鋳立の命を戸田山城守より奉行に伝えられた。与兵衛は天野伝右衛門と共に銭座役となった。役扶持三人扶を与えられた。下使役に佐野長兵衛、水品安右衛門、町年寄も協力を命じられた。新銭は銅一万貫に白目錫三百貫目、上錫千貫目、鉛二千八百貫目を加えて、寛永通宝を表に、佐を裏にしたもので、良貨といわれる。(佐渡年代記上巻)
★但馬屋安太
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★多十
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
43 鑑賞 佐渡のうた (35) -補遺- 多十 山本修巳 47 連載 閑々亭雑記 (6) 刑場に引かれる無宿の辞世 :多十 山本修之助
★田尻耕三→田耕(でんたがやす)
★田尻正記
「島の新聞」索引(人名別)
★多曽一→磯野与次兵衛
★多田但馬守
「戦国佐渡国人名辞典」より
【ただたじまかみ(15??~15??)】羽茂高信家臣。多田城主。別名本間但馬守。
★多田ひさえ
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、昭和四年(一九二九)藤川忠治が発刊した歌誌「歌と評論」の同人。次の歌がある。滔々と瀬の音のみのこの峡に夕べを白く桜散り込む
★多田正栄

★多田好正



★忠子内親王(ただこないしんのう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
順徳上皇第二皇女、貞永元年(一二三二年)佐渡で誕生された。和歌をよくし能書であった。
菩提樹の三字に名前を記された幼時の書が二宮神社の神宝となっている。御在世中、河原田の地頭本間左衛門少尉が守護した。河原田より二宮にいたる道を下馬坂というが、この辺に宮がおられたのであろうか。十一才の時父皇にわかれ、十八才で姉宮に先だってなくなった。建長元年(一二四九年)七月である。お墓は二宮にあり、二宮神社の祭神王島姫大明神は忠子内親王である。この詞官のうち近藤家ほ上皇の御随身藤原直家の子孫であるという。大正五年七月皇太子殿下佐渡行啓の時代拝を差しむけられた。(順徳天皇と佐渡)
★忠野甚吉
「手わざ図鑑」

★忠野善吉
畑野加茂神社

★忠平郁蔵(しこ名 平松の磯千鳥)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
明治34年生まれ、現在家族は横須賀へ移住したので、後半生は不明。生存しているとすると95歳に当たる。両津市平松の出身。海軍出身で北秋の鳴神と肩を並べた力士。突き・投げを得意技とした。柔道も有段者で(※5段と云う人がいる。)指圧や柔道指導者としても名が残っている。舞鶴鎮守府の相撲大会で5人抜きをして、司令長官佐藤鉄太郎海軍中将から賞を受けたといわれ、戦後十日町市で行われた新潟県大会に優勝したことがあったと云われている。
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