2021-01-10
★白井泉
両津高校時代の1985年度(S60)11月、第31回青少年読書感想文コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催)県審査佳作、 1986年度(S61)11月、第20回新潟県高等学校美術展 絵画(洋画)奨励賞、 1987年度(S62)5月、第42回新潟県展 版画部門 入選、12月、第7回高校生の読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催)入選
★白井勘兵衛
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
世に「慶長事件」と呼ばれる事件がある。慶長六年(一六〇一)、幕府は中川主税・吉田佐太郎を佐渡に派遣し、従来の代官田中清六・河村彦左衛門に加え、四人の代官によって佐渡の支配に当らせた。この年、吉田佐太郎は自分の職権で、田租の五割増の触れを国中に出した。驚いた百姓たちは三人の代表を選んで江戸へ愁訴に及んだ。その三人の百姓は、羽茂本郷勘兵衛・北方村豊次郎(豊四郎とするものもある)・上新穂村半十郎(半次郎とするものもある) である。
幕府は調査のため役人を佐渡に派遣、その結果、代官側の越度(おちど)とされ吉田佐太郎は切腹(自殺ともいう)、中川主税は改易、田中・河村の二人はお暇になった。百姓三人は上訴の罪によって追放となったが、年貢の増徴は取止めになったという(「佐渡年代記」)。白井勘兵衛は羽茂地頭の家老の一人の家柄で、軍記物にも名前があらわれ、一波流剣術の伝書にも残る武士の家である。江戸初期には、中使(史料はみえないが)の立場にあったと伝えられる。子孫は享保ころまで千光寺過去帳に現れるが、その後どうなったか、ほっきりしない。
→参照:中川七郎兵衛
★白井五郎右衛門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白井秀治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★白井情太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★白井清次
(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。戦後の復興期には藤井真一が、昭和52年からは草木実、中川清治が始めたが惜しくも中断し、現在 川上公紀・川上良江・渡辺トモ子・西橋健の4人に支えられている。太夫は長尾閑月・白井清次で、ちなみに白井太夫は葛原五兵衛の甥、川上夫妻は大崎屋松之助の生家兵衛家の当主」
★白井石眠
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村 ・明2、三郡町村総合會官衙移転請願[十五年十月]
★白井桑園(武成) 市
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★白井千別
明治後の地役人救済の為に奥平謙輔は開墾を行った。
鷲崎村弾野地区では北辰隊の伍長であった新田徹次郎が13人の兵衛隊を引き連れて開墾した。
白井千別(普請方)、吉沢桶助(学問所)、本間宗治(係役)等である。
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
★白井崇陽(しらいたかあき)

母が佐渡沢根、笹井家の人。母は新大教育学部の音楽学科を出て、同窓の愛知出身の白井氏と結婚。
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1984年 愛知県生まれ。
筑波大学付属盲学校音楽科を経て、2006年 桐朋学園大学音楽学部ヴァイオリン科卒業。
・活動歴
1995年,1997年 全日本盲学生音楽コンクール(現・ヘレンケラー記念音楽コンクール)で、連続1位。
2004年 チャリティーコンサート「モーツァルト協奏曲の饗宴」にて桐アマデウス室内管弦楽団と競演。
2007年 1月 公開の映画「あなたを忘れない」の挿入歌に参加し、サウンドトラックCDレコーディング、日本武道館でのプレミアムコンサートに参加。5月聖路加国際病院、6月東大病院でコンサートを開き、毎日新聞に紹介される。 また、年末の神戸ルミナリエ2007, 2008, 2009に3年連続CDレコーディングに参加、ハートフルデーに出演、朝日新聞に掲載される。
これまでに小川有紀子、鷲見健彰、和波孝禧、各氏に師事。2008年10月 オリジナル・アルバム「大いなる刻」の全国発売にてデビューを果たす。 2012年7月 音楽家人名事典 『日本の演奏家-クラシック音楽の1400人』に掲載される。
音楽アーティストの他、陸上競技アスリートとしても活躍。2006年 9月、オランダ開催の身体障害者・世界選手権に3段跳びで出場、7位の成績をのこし、2007年 8月、ブラジル開催のIBSA世界選手権では、3段跳びで5位、走り幅跳びで8位入賞。
★白井智子
両津高校時代の1983年度(S58)12月、全国高校生小論文小泉信三賞コンテスト(慶応義塾大学主催) 佳作(賞状・3万円・置時計)
★白井福松
『両津市要覧(昭和33年)』より

★白井正江
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)白井正江 107 詩・絵・書が私の青春-私の闘病記
★白井安太郎利学(としたか)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。詳細不明。
★白井由美子
両津高校時代の1968年度(S43)11月、第2回全国ポスター絵画写真コンクール絵画部門銀賞
★白井良夫

昭和11年生、河崎の人。両津高校6回生。日体大卒後、両津高校の体育教師として長く勤務し、バスケットボール指導等で全県の強豪校に仕立て上げた。新潟県高校新人戦では準優勝に輝いた。加藤良昭、石川覚、伊藤正人、神蔵肇、来田学、平田祐己等の国体選手を輩出した。又昭和39年の新潟国体ではヨット競技の指導も行い全国上位の成績を上げた。
★白井義延
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しらいよしのぶ(15??~15??)】羽茂高信家臣。通称勘兵衛。羽茂高信の家老職を務めた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。
★白石岩雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白岩作治
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★白川主蔵
『両津町史』(昭和44年)
佐渡では、明治二十二年に、相川海士町の白川主蔵が、両津、相川間に乗合馬車を開業したが、乗客が少なくて一、二年で廃業した。
★白川福蔵
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
相川町北河内の人。河内人形の創始者。明治四十二、三年ころ文弥高幕人形をはじめた。この白川は、関の中川閑楽に文弥節を習い、座元で太夫であり、そして役者でもあった。このほか役者に仲屋石松、小林三吉、田中栄吉、日下徳蔵がいた。この一座の中には速成の役者がいたので、近くの入川人形や後尾人形におよばず、まもなく廃絶した。この白川は、弘化四年生れで、明治四十四年死んだが、生れつき芸事が好きで、素人芝居の一座を組織したり、義太夫なども語った。死ぬ時、家人に「オレが死んだら念仏の鉦を鳴らさないで、三味線をひいてくれ、その方が功徳になるからナ」と云い残したというエピソードがある。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=4
★白川不三夫
ノンプロ野球の選手。で東洋大学時代一年生の秋期大会で神宮第二球場で代打?満塁ホームランを打ちスポーツ紙の一面を飾る。卒業後当時社会人野球の強豪三協精機で優勝、日本代表に選ばれて世界大会にも出場。その後、三協精機は社業の不況で野球、スケートなどを閉部。不三夫は軟式野球部のあるライト工業に転職。国体で優勝等重ねたある時「宮崎病院」と決勝戦で対戦。1対0で勝っていたのに最終回で同点、延長戦へ。延長〇〇回になっても決着つかず、翌日に再試合となった。翌日も0が続き何と延長45回でライト工業が優勝した。この試合はギネスの最長試合として登録され、この年のスポーツ最優秀賞?を獲得している。
白川不三夫選手=東洋大野球部の歴史―人物⑨
→白川優子(兄二三夫の娘に「国境なき医師団」で活躍する白川優子がいる。)
★白河昌弘
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「41号」(平成27年4月)・春のスイーツクッキング party
★白川絞蔵
相川の人。島内客馬車の創業者。明治20年(1887)県道両津-相川線が」全線開通し、馬車も通過可能となる。同年5月25日『北溟雑誌』(19号)に次のようにあつ。「馬車の創業、本州相川人白川絞蔵氏の奮発にて今回馬車営業を創(はじ)むる由なるが二頭立ニ良馬(りょうめ)八頭は已に到着したり其往来の路線を聞くに相川を発して沢根、川原田、吉井、鬢白坂(びんじろざか)を乗換場(のりかへば)となし中央金沢村([大字中興]に継立場(つぎたてば)を置き夷港に達する筈にて弥(いよいよ)来六月上旬より開業の手順なり猶ゆくゆくは小木線路へも往来するの計画ありといふ」
★白川優子

父白川不二夫が相川高千の北河内出身。本人は国境なき医師団(MSF)手術室看護師。1973年埼玉県出身。高校卒業後、坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学、卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2006年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年よりMSFに参加し、スリランカ、パキスタン、シリア、イエメンなどで活動に参加してきた。現在はMSF日本事務局にて海外派遣スタッフの採用を担当。著書に『紛争地の看護師』(小学館)。
※(親戚の石塚豊氏情報)父親が高千の方川内の生まれで、中学校卒後東京都の小平市に家族共々転出し現在は埼玉県東松山市の方に住んでいまさす。父不二夫の弟「不三夫」はノンプロ野球の選手で東洋大学時代一年生の秋期大会で神宮第二球場で代打?満塁ホームランを打ちスポーツ紙の一面を飾る。卒業後当時社会人野球の強豪三協精機で優勝、日本代表に選ばれて世界大会にも出場。その後、三協精機は社業の不況で野球、スケートなどを閉部。不三夫は軟式野球部のあるライト工業に転職。国体で優勝等重ねたある時「宮崎病院」と決勝戦で対戦。1対0で勝っていたのに最終回で同点、延長戦へ。延長〇〇回になっても決着つかず、翌日に再試合となった。翌日も0が続き何と延長45回でライト工業が優勝した。この試合はギネスの最長試合として登録され、この年のスポーツ最優秀賞?を獲得している。
★白川芳太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白須繁司
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白須重二
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白須甚右衛門
『佐渡酒誌』(平成14年)

★白須万治
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
日本最初の鉄船「新潟丸」建造従事者。明治四年六月、佐渡国両津の加茂湖畔で、鉄船新潟丸四十九トンが、完成した。日本政府によってイギリス人造船技師マタニホールの設計監督によるものである。万治はこの建造に従事した。新潟県(当時佐渡県管内であったが貿易港事務所だけは新潟県管内であった)から次の通り褒賞された。
白 須 万 治
一、金千疋
昨年来蒸気船打建中、御用取扱出精尽力致候二付、為賞至被下候 辛未七月(明治四年) 新潟県 印 (佐渡の百年)
「島の新聞」

「日本最初の鉄船製造」(「佐渡の百年」)
★白鳥省吾
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)
ウイキペディアより
★四郎左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者、佐渡国矢柄村(相川町外海府)百姓。身分相応の生活をし、利欲を離れ、貧しい者に無利子で金を貸し、貯蔵の雑穀を与え、親によく仕え、下人をいたわる等の善行があった。安永七年(一七七八年)六月四日、佐渡奉行所へ呼出され、白銀二枚をもって賞された。(佐渡年代記中巻)
★城腰芳蔵




新潟日報(h29年2月25日)

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
明治四十年北海道で生れ。四才のとき親戚で桶屋の城腰家にきて、十七才のとき養父のすすめで新穂の桶屋土屋春吉の弟子となった。二十三才で独立し、戟時中には再び需要が増した水上輪(とい)を多く作ったが、戦後一時は桶つくりを止めた。戦後に木製桶の需要が減ってからも、古い桶のタガの掛け直しの仕事があった。金井町に移住している。大正七年の村是に記録されている桶職人は、専業が一人、副業が三人である。この専業桶職人とは小倉の城腰家の先代のことらしい。坊ケ浦の小田太郎家の大書老人は昭和四十年代まで、家々を廻ってタガ掛を続けた。桶職人はほかにも何人もおりその弟子もいる。桶職の道具ほ、諸職のうちではひときわ数が多くて、新調にほ資金を要したので、比較的世襲の形をとりやすいにかかわらず、数代をかぞえる家ほ多くはない。桶屋の多くはその後に転業して大工となったりした。
★城塚伝内
→小黒ヨシ参照
★城鳥朝之栄
「島の新聞」索引(人名別)
★城鳥咲太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白根四男也
両津浜田出身、昭和13年生まれ、両津中学から両津高校卒、実家は白根布団店。「東京両津の会副会長」(兼事務局長)、「石楠会(両津高校同窓会)」幹事等で故郷佐渡と関東圏をつなぐ活動に尽力される。
★城野勝太郎
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★城野亀吉

新穂村下新穂に生まる。佐中・広島高師卒。京都市視学より助役となり、後には東京目黒区長などをつとめ日本歯車協会の理事長となった。佐渡中学7回生で、同年には青野季吉(文芸評論家)、児玉龍太郎(県会議長)、宮本美治(佐渡教育会会長)、角坂仁三次(河崎村長)、吉田耕一(相川高校初代校長),酒井千尋(根津美術館館長)、浅香寛(退学して富山or石川の中学に転校)、塚原徹(落第で卒業遅れる)等がいる。
明治21年(1888)7月27日出生、5男。大正3年(26歳)セツと婚姻。昭和3年(40歳)分家につき除籍。
昭和21年(58歳)次男忠弥と養子縁組、昭和22年(59歳)忠弥と協議離縁(忠弥の兄(佐中2年)が病死の為)。この時期まで京都左京区在住。昭和35年11月9日、藍綬褒章(日本歯車工業会専務理事として活躍時代、成績顕著により宮中に召され症状と共に賜る。妻セツ同行) 昭和40年11月5日、勲四等瑞宝章。昭和44年1月6日(没、80歳)、従五位に叙せらる(内閣総理大臣 佐藤栄作)。
「佐渡高等学校百年史」より
この時期の佐渡中学校において注目されるのは、真の校風発揚を叫ぶ生徒がいたことである。その生徒は城野亀吉であり、ペンネームを「緋鹿子」と号し、談話会 (弁論大会) や同窓会誌『獅子ケ城』などでさかんに論じている。城野は 『獅子ケ城』第十三号に 「校風論 其の二」と題する論文を寄せているが「校風と学風の関係」という項の冒頭で、「善良なる青年気風とは何ぞや、日く天真を欠くことなく、活発にして能く勉むると共に能く遊ぶものにして穏健誠実なる気風をいふ」と、まず生徒の理想像を掲げてから論じ始めている。そして「校風と学風」については、校風とは一人ひとりの生徒が育成されてきた人格、その人格像の集団から、公約数的にみられるその学校独自の風采だと規定し、学風とは生徒らの学術研究への、その学校独自の傾向であると説き、校風も学風もその学校の教育理念の表現された姿であると論じている。また、「校風萎磨」と「学風廃頭」に陥ることのないようにと警鐘の論を発している・・」
「躍進日本」(中川杏果)より
僕と小学校は一級上であった。広島高師卒業後、中学教師を振り出しに京都市の助役・東京牛込区長(官選)・品川区長を歴任。
今次大戦中、日本歯車工業会を創設、先年アメリカ政府から招聘されて欧米各国を視察、また歯車工業の貢献者としての功労により藍綬褒章を賜った。今なお元気で歯車工業会本部で陣頭指揮をされている。
・城野亀吉は男兄弟4人の4男で、長男は勝太郎で農家であった。次男は若くして亡くなり、三男の市蔵は相川の金毘羅宮の養子となり、教育者となって、大正5年に皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)が吉井尋常高等小学校訪問の際の御案内役であったと言う。勝太郎の長男は勤(つとむ)でその子が元高校教諭で新穂銀山保存会の代表を務める城野忠弥氏である。
・城野亀吉は東京荻窪に住み、子供達は戦争等で大半が亡くなり、末娘に婿をとって家を継いだ。息子さんは長畝の名家川上家の廣氏、東大を出ている。
➡城野廣
・中川杏果 記述関係➡「福寿草」11号
★城野甚平
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村下新穂 ・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★城野忠弥
新穂の人、佐渡高校、両津高校等での県立高校教諭退職後、「新穂銀山友の会」創立に携わり、初代会長となる。令和1年6月26日没、81歳。城野亀吉は祖父勝太郎の弟、即ち大叔父にあたる。


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)城野忠弥 151号 悼 城野忠弥氏 山本修巳
(城野忠彌)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「45号」(平成28年4月)・佐渡親馬クラブ-伝統文化の継承に欠かせない馬の確保-※城野忠彌・岩村文雄
「島の新聞」索引(人名別)
★城野廣
新穂長畝出身、実家は川上伊左衛門家(三男)。東大卒、日本硝子重役。
城野亀吉(品川区長、日本歯車協会理事長)の次女と結婚し、城野家に入婿。
★志和源次郎
旧真野村村長、明治20年代。
★志和舜雅(しゅんが)
金井町西方正覚坊住職で土田麦僊少年を最初に僧侶見習いとして預かり、京都智積院に修業に出した。
「舞妓芸術の麦僊」(「佐渡の百年」)
★志和孝洋
佐渡高校時代の平成7.6.2~4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)男子総合6位、400mH3位、4×400mR(藤井・早川・磯野・志和)4位
平成7.6.23~25、陸上競技北信越大会(新潟市)400mH3位、4×400mR出場
平成7.8.1~4、陸上競技全国高校結合体育大会(鳥取市)400mHに出場
★志和貞蔵
『小樽区外七郡案内』(山崎鉱蔵著 小樽区外七郡案内発行所 明42年9月刊)

★志和武平・志和辰五郎
武平は真野出身で北海道苫前で明治27年志和商店を創立し、息子辰五郎が継ぎ成功する。共に地元のリーダーとなり村会議員となった。志和武平(明治38年~41年、明治44~45年)、志和辰五郎(昭和9年~13年)。また昭和14年創立苫前商業組合は斎数六平会長、本間忠吉(酒屋)、志和辰五郎の佐渡人が中心となった。辰五郎の息子さん栄茂(えいしげ)さんは教員となり札幌に移住した。苫前では、長島家、志和家、斎数家、名畑家等の佐渡衆が明治、大正、昭和にかけて漁業、呉服店、雑貨店等で成功した。佐渡衆は昭和30年頃には鬼太鼓道具一式を購入し苫前神社祭礼に鬼太鼓を舞った。
「苫前町の佐渡衆について」
★志和正隆
佐渡高校時代の平成.5.31-6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)4×100mR(本間啓輔・志和正隆・戸田貴夫・高岡豊秀)6位
平成4.6.19~21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR出場
平成5.5.29~31、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)男子総合2位、110mH3位・400mH1位
平成5.6.18~20、陸上競技北信越大会(富山市)男子総合6位、110mH2位・400mH1位
平成5.8.1-5、陸上競技全国高校総合体育大会(宇都宮市)男子総合10位、110mH3位.400H準決勝進出。
平成5.10.24~29、陸上競技国民体育大会(鳴門市)400mH7位
★志和正美
「エスライフ」2007年11・12月号

★心阿了長
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★甚右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国両尾村甚四郎の親である。天保十二年(一八四一年)に九十五才になったので、役所から存生のうち老養扶持を与えられることとなった。(佐渡年代記下巻)
★心應愚禅 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★真応大謙 洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★新開師三太夫
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
・『佐渡四民風俗』(下) の瓦師などを書いた部分の追加書きのところによると、 田中村主計と申す老数年江戸え罷り出で居り、山本北山の弟子に成り、学問致し(て)医者に成り、文化中帰国の上国益の事など世話致し、越後より新開師三太夫を呼び寄せ、願いの上住居致させ、自分所持の畑(を)田と成し、新田など仕立て、耕耘(こううん)力を尽くすべき事を始め、養蚕の事など近郷迄勧め弘め或は越後より瓦師を呼び寄せ(て)焼き立て、寺院の鐘楼、土蔵屋根等に用ひ侯事を勧め、当時は相川にても広恵倉、其の外山の神、須灰谷御米倉にも瓦屋根御仕立て御座候。とあり、さらに、同じく『佐渡四民風俗』(上) の釜屋・寵米・長江村のことを記した部分の追加書きに「釜屋村に三太夫と申す老これあり、親三太夫代文化の末越後より参りて住居致し」とあって、文化の末年、即ち十四年(一八一七)に越後から新開師三太夫および瓦師が来島し、開墾するかたがた開窯したとみることができる。
・矢島主計によって越後から寄びよせたとする新開師三太夫と瓦師は、主計の居住地田中村(五十里村に同じ)に居り、文政三年(一八二〇)には五十里村三太夫を筆頭願い主として釜屋村(両津市秋津)五藤左衛門らが、釜屋村釜屋野の御林の新開を願い出ている(『両津市誌』町村編1)。さらに先にあげた『四民風俗』(上)の、釜屋・寵米・長江村のことを書いた追加の部分に、「釜屋に三太夫と申す着これあり」とあって、追加書きが天保十一年(一八四〇)であることから、この年までには、三太夫および瓦師は五十里から釜屋へ移ったものとみえる。近年、秋津の飛行場入口の道路工事中に、小沢窯址出土類似の陶片多数が出土しており、三太夫と行動を共にした焼物師(瓦師)が、小沢窯にひきつづいて、秋津でも開窯したことを知ることができる。
小沢窯の窯師の名前も、越後のどこから釆たのかも、小沢窯から秋津窯へ移動したのちの動向もわからないが、恐らく、矢島主計の小沢窯は、主計晩年の号がみられることなどから、主計が没する天保三年(一八三二)頃まであり、そののち、三太夫および焼物師は釜屋へ移り、秋津でも陶器類を焼き立てたのであろう。なお、『佐渡国略記』に次のような注目すべき記載がある。小沢窯が稼行盛んな頃と思われる文政六年(一八二三)と、文政十年の記述である。これによると、小沢窯の窯師は、瓦を相川米屋町の長兵衛、焼物(器物)は相川下戸町の弥三七が関与した可能性が大きい。
★神宮長治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★新三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国下知久村(両津市)新九郎の父である。文政十三年(一八三〇年)に九十五才になったので役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★甚四郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国龍米村の人である。奇特の趣相聞につき、天保四年(一八三三年)役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)
★眞後和子
両津福浦出身(実家は「北光堂」)、歌人。平成26年5月に出来た新潟県歌人会の会長。因みに、同会顧問は湊出身の久保田フミエ。夫は両津甚句を世に出した「朝日亭」縁の眞後智一。
★真後久四郎「躍進日本」

★真後静馬
第四銀行頭取。
★眞後卓峰
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★真後哲衛
明治10年頃生。母世津と共に両津夷にあった料亭「朝日亭」を経営。大正3年に出来た「両津甚句会」発起同人。
両津甚句を世に出した功労者で、同店の芸妓であった二人が「朝日亭八重子」「朝日亭みすじ」としてレコードに吹き込む。日本民謡協会初代理事長の浦本政三郎と昵懇で、浦本氏の尽力もあり両津甚句が全国に知られるようになった。
なお「朝日亭」は大正から昭和22 年頃まであった有名料亭で最初は夷5、後に八郎平町に移転し、この場所は後に加茂湖ホテルになる。眞後家は、国分寺傘下の新穂不動明王元祐坊の僧侶であった。
「島の新聞」

★眞後東一郎
国分寺傘下の新穂不動明王元祐坊の僧侶であったが両津夷に出て料亭「朝日亭」を経営する。
この店の代々の当主や芸妓朝日亭八重子によって両津甚句が歌い継がれ、まさに両津甚句発祥の地と言ってもよい店である。元々は夷五(丸屋書店辺り)、八郎平町に移転した。昭和20年代前半には「加茂湖ホテル」となった場所である。
(参考 「新穂村仏法史」他)
★眞後智一
両津甚句を世に出した「朝日亭」の子孫(父が朝日亭主の弟)。東京生まれであるが、退職後、父の故郷佐渡に住み、羽吉「御器」家を購入して住む。
「島の新聞」

★新五郎町長助
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★新坂和男
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)新坂和男 15 「佐渡の凧」で感じたこと
★信性(しんしょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国羽黒(両津市)権現の別当寺の住職である。
羽黒正光寺の僧能主と、大仏宣時の幸せを祈って鍛工藤原守重に梵鐘を作らせて正光寺におさめた。(佐渡志、新潟県史)
★眞醒→眞醒(まざめ)
★信碩(しんせき)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
法阿上人。佐渡郡真野町竹田の生まれで名は信碩といった。
同町四日町松山大願寺二十世である。後に甲州一蓮寺二十七代の住職となった。
元禄四年(一六九一年)相州藤沢山清浄光寺他可三十世に転じ独住六年で元禄九年九月二十七日に七十四才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★信哲
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国相川五郎左衛門町浄土宗来迎寺の住僧である。奇特の取計有之、天保九年(一八三八年)に役所から白銀を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★眞藤玉眞
佐渡博物館

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
銅器作家。明治十三年に佐渡郡沢根町で生まれた。真壁半五郎の二男で父業をついだ。商工省芸展開始以来毎回入選、日展第十三、四回入選、その他博覧会、共進会に出品入賞した。-九二六年のスイス、一九三〇年のベルギーの万国博覧会にも出品入賞した。(佐渡名鑑)
「島の新聞」索引(人名別)
★進藤広治
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

大柄で豪放磊落、大の野球好きだった。少年野球の大会などでは大声で応援し、野球会場の名物男だった。長男は忠之さん(昭和20年生)も大の野球好きで、家業の蒲鉾屋を継いだが閉店し長男が中学に入る時に東京に移住した。次男の茂氏は元々は柔道や陸上競技でならしたスポーツマン。進藤整骨院を湊一で開業し、その後城ノ内に移転、大変繁盛したが、本人の病気で平成半ば頃に閉院した。
★真藤浩二
「島の新聞」索引(人名別)
★進藤茂
佐渡高校時代の41.6.18~19、柔道全国高校大会県予選会(三条高校)団体3位、個人戦重量級3位
★真藤治八
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★眞藤眞山
「島の新聞」21号(by 松本秀雄)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

「島の新聞」索引(人名別)
★進藤誠吉

★眞藤ヒロシ

俳優、相川出身。つるや一族の息子さん。1975年3月17日生。1995年、劇団新感線入団。以後、同劇団公演に参加のほか、客演も多数。主な出演作品に、舞台『スーパー歌舞伎「オオクニヌシ」』『髑髏城の7人』『ドラゴンロック2』『それいゆ』『夢の肉弾三勇士』『無頼漢』『繭文~放蕩ノ吊ラレ作家~』ほか多数。代表作品1舞台『繭文、放蕩ノ吊ラレ作家』、代表作品2舞台『無頼漢』、代表作品3舞台『こくう物語』
★新通英洋(しんどおりひでひろ)

昭和36年両津市加茂歌代に生まれる。指揮者、両津南中-両津高校卒(31回生)。
桐朋学園、モスクワ国立音楽院において指揮を高階正光、尾高忠明、秋山和慶、黒岩英臣、小澤征爾、L.ニコラィエフ、V.シナイスキーの各氏に師事。その後、英国ロイヤルオペラハウス、イングリッシュ・ナショナルオペラ、ウェルシュ・ナショナルオペラのリハーサルで学ぶ。またBBCウェールズ交響楽団において尾高忠明氏に就いてさらに研鑚を重ねた。第5回フィテルベルク国際指揮者コンクールにおいて第2位、ならびに特別賞受賞。ワルシャワでシンフォニア・ヴァルソヴィアを指揮してヨーロッパ・デビュー。日本テレビ「深夜の音楽会」:横山幸雄氏のショパンピアノ協奏曲全曲演奏に読売日響と共演したほか、G.シャハム、E.モギレフスキー、佐々木典子、高橋多佳子、田部京子、丸山泰雄の各氏をはじめとする多くのソリストと共演。独奏者からの信望も厚い。これまでに大阪フィル、神奈川フィル、群馬響、札幌響、東京響、東京シティフィル、東京フィル、名古屋フィル、日本フィル、読売日響、ポーランド国立シレジアフィル、シンフォニア・ヴァルソヴィア、東京佼成ウインド等を指揮。オペラでは、読売日響、札幌響による歌劇「ピーター・グライムズ」公演で尾高忠明氏の副指揮者を務めたほか、豊田市コンサートホールでの喜歌劇「こうもり」公演、梅若六郎氏演出による歌劇「カーリュー・リヴァー」、名古屋二期会本公演:歌劇「森は生きている」、かんでんオペラ:歌劇「後宮からの逃走」(大阪フィル、関西二期会)を指揮し各方面から高い評価を受けた。また、講演等でも活躍しており、ラジオ番組のゲストとして指揮の歴史や日本における「第九」受容史、音楽家の利き手・利き腕などについてのトークが話題になった。BSN新潟放送ラジオの朗読「ふるさと散歩」では一年間に渡りエッセーを執筆。愛知県立芸術大学、徳島文理大学、上越教育大学大学院非常勤講師を歴任。
※・妹紀子さんは金井貝塚大蔵家に嫁ぐ。大蔵家の姑にあたる大蔵靖子さんは島内を代表する歌人・俳人であり、その父は写真家として名高い近藤福雄(とみお)である。なお、大蔵家は北一輝の親戚で、島田事件の弁護士大蔵敏彦を生み、俳優丹波哲郎は遠縁となる。
・祖母は大阪屋さんの出、即ち現当主の佐藤石松氏(大正12年生)の姉。
こんな繋がりもある。
ワット隆子さん:祖父が加茂村村長の馬首山本菊次さん。その娘テルさんは上記佐藤石松さんの妻。東京両津の会の佐藤氏とワットさんは従兄弟同士。デザイナー本間正章氏:母は北小浦浅井さん。浅井家次男がワット隆子さんの妹と結婚。ちなみに浅井さん長男はきらくホテル長女の夫。
入場行進曲「パプリカ」録音 オオサカ・シオン・ウインド力強く演奏 第92回選抜高校野球
「毎日新聞2020年1月28日」
阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で3月19日に開幕する第92回選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催)の入場行進曲に選ばれた「パプリカ」が28日、大阪市鶴見区の花博記念ホールで録音された。
パプリカは、シンガー・ソングライターの米津玄師さんが作詞・作曲。作曲家の酒井格(いたる)さんが入場行進用に編曲した。この日は、新通(しんどおり)英洋さんの指揮の下、吹奏楽団「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ」の38人が演奏し、1時間かけて収録した。
第81回大会から編曲を務める酒井さんは「それぞれの楽器の持ち味を発揮しながら、しっかり歩けること」を心がけているといい、開会式では毎回、バックネット裏から見守っている。録音にも同席し、「積み重ねた自分の力を信じて全力でプレーしてほしい」とエールを送った。
収録されたCDは出場校に贈られ、一般にも販売される。問い合わせは毎日新聞大阪本社事業部(06・6346・8371)。【荻野公一】


★新畑金平
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★新保菊蔵
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。不詳。
★新保啓
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)新保啓 145 佐渡紀行―高野喜久雄の足跡を訪ねて
★新保哲(しんぼさとる)

相川大工町出身、昭和23年生。文学修士(中央大学)
2002年 姫路獨協大学専任講師 1977年 中央大学 文学研究科 哲学専攻 1998年 日本精神文化学会 会長 1999年 日本佐渡学会 会長 2002年 本人類言語学会理事 2002年 日本精神文化学会学術研究賞
『教行信証』にみる他力思想 『外国語学部紀要』(第6号,姫路独協大学) 6,60-75 1993年
『不動智神妙録』にみる剣禅一如観 宗教研究 295(66) 263-264 1993年
日本人にみる主体的自己の究明 『総合社会科学研究』(兵庫県立姫路短期大学) 5,27-51 1993年
武道と芸道の究極的世界 『大倉山文化会議研究年報』(大倉山文化会議) 4,45-61 1993年
抜隊にみる本源の性について 印度学仏教学研究 42(1) 142-144 1993年
・書籍
「日本思想史論」(大東出版社 1980年) 「親鸞-その念仏と恩思想-」(吉川弘文館 1985年) 「道元の時間論」(雪華社 1985年) 「ソローの精神と現代-東西融合論へ向けて-」(行路社 1988年) 「日本思想史」(晃洋書房 1989年)
・所属学協会
比較思想学会(228) , 日本宗教学会(766) , 日本印度学仏教学会(497) , 日本思想史学会(211) , 日本倫理学会(520) , 東方学会(703) , 日本ショーペンハウアー協会(25) , 日本ソロー学会(28) , 比較文学会(21) , 国際比較文学会(61) , 日本山岳修験学会(43) , 日本密教学会(58) , 日本精神文化学会(3) , 日本佐渡学会(1) , 日本人類言語学会(9)
今回出版された【親鸞】で38冊目の出版になり、第25回日本文芸大賞・学術文芸賞受賞する。
祖父の代までは相川金山の大工頭を務めた佐渡鉱山の重役だったと言う。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)新保哲 58 相川と自然 66 相川での思い出の片鱗
(新保哲)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)「日本佐渡学会」と「学問研究」(新保哲)「13号」(平成20年4月)新保哲氏に日本文芸大賞・学術文芸賞「15号」(平成20年10月)新保哲氏『遊び心』出版
★神保新五左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、正徳二年(一七一二年)より五年十月八日江戸で病死するまで在任した。
長治、長次という。知行ほ九百石であった。(佐島遺事)
★新保正則

★新保宗吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★新保村作右衛門→渡邊作右衛門
★新保基治(基衡:もとひら)

左:平成28年8月 佐渡市広報


「島の新聞」索引(人名別)
★新町村伊右衛門
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★新町村ちえ
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★新町村亦七
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★新町余右衛門
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★新屋(朱鷺)さなえ
佐渡市両津生まれ
平成2年、横浜市在住時佐渡で『朱鷺の舞』を発表。平成19年佐渡に戻り朱鷺さなえ会を主催、毎年3月に発表会を開催、今年で16回を数える。毎年佐渡市両津『椎崎諏訪神社』の能舞台にて舞いを奉納。佐渡の他全国各地でボランティア活動に参加。
直近の活動:岩首棚田、『local.wear.tourism』ゲスト出演、ドンデン高原ロッジ『銀河の舞い』出演、yamato『平和は僕らのこころの中に』コンサート特別出演し、拉致被害者に捧げた曲『またあなたを想う』に振付・出演、東京浅草公会堂にて『古今花舞台』四季の響宴に出演
ボランティア活動:金井『隣保館』保育園児に日本舞踊と日本文化、礼儀作法を月一回教えている。
指導:佐渡市加茂歌代にお稽古場を構える。
日本舞踊『寿流』師範
佐渡民謡 教授
花嫁着付 講師


朱鷺さなえ
https://www.niikei.jp/132172/
★親鸞
・古田武彦氏「親鸞聖人佐渡配流説」。
「親鸞は越後ではなくまず佐渡に流された。その後、佐渡から越後(国府)へ移された。」
・「親鸞思想と日本海」):上越市板倉の「伝承」では、「親鸞聖人は佐渡から来られた。」
・建永2・承元元(1207)年2月18日、法然が土佐へ、親鸞が佐渡へ流罪となった(承元の法難)。
・後鳥羽上皇が熊野に参詣中、法然の弟子が行っていた念仏会に上皇の女官が参加、出家したことに上皇が激怒し、専修念仏を禁止。法然は土佐へ、その弟子の親鸞は佐渡へと流された。
・親鸞聖人腰かけの石:土御門天皇のとき、親鸞聖人は、なみあみだぶつをとなえる事によって往生できるという浄土宗を禁じた為、佐渡へ流されることになった。
その時、小摺戸を通られました。そのころの黒部川は、新屋と小摺戸の境を流れていましたが、水かさが増えて渡る事が出来ず左岸の赤石に腰をかけて一夜あかされました。その後、大谷派本山の尋ねによって掘り起こされた赤石は舟堀にまつられています。
「親鸞思想と日本海」(古田武彦)
両津高校時代の1985年度(S60)11月、第31回青少年読書感想文コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催)県審査佳作、 1986年度(S61)11月、第20回新潟県高等学校美術展 絵画(洋画)奨励賞、 1987年度(S62)5月、第42回新潟県展 版画部門 入選、12月、第7回高校生の読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催)入選
★白井勘兵衛
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
世に「慶長事件」と呼ばれる事件がある。慶長六年(一六〇一)、幕府は中川主税・吉田佐太郎を佐渡に派遣し、従来の代官田中清六・河村彦左衛門に加え、四人の代官によって佐渡の支配に当らせた。この年、吉田佐太郎は自分の職権で、田租の五割増の触れを国中に出した。驚いた百姓たちは三人の代表を選んで江戸へ愁訴に及んだ。その三人の百姓は、羽茂本郷勘兵衛・北方村豊次郎(豊四郎とするものもある)・上新穂村半十郎(半次郎とするものもある) である。
幕府は調査のため役人を佐渡に派遣、その結果、代官側の越度(おちど)とされ吉田佐太郎は切腹(自殺ともいう)、中川主税は改易、田中・河村の二人はお暇になった。百姓三人は上訴の罪によって追放となったが、年貢の増徴は取止めになったという(「佐渡年代記」)。白井勘兵衛は羽茂地頭の家老の一人の家柄で、軍記物にも名前があらわれ、一波流剣術の伝書にも残る武士の家である。江戸初期には、中使(史料はみえないが)の立場にあったと伝えられる。子孫は享保ころまで千光寺過去帳に現れるが、その後どうなったか、ほっきりしない。
→参照:中川七郎兵衛
★白井五郎右衛門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白井秀治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★白井情太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★白井清次
(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。戦後の復興期には藤井真一が、昭和52年からは草木実、中川清治が始めたが惜しくも中断し、現在 川上公紀・川上良江・渡辺トモ子・西橋健の4人に支えられている。太夫は長尾閑月・白井清次で、ちなみに白井太夫は葛原五兵衛の甥、川上夫妻は大崎屋松之助の生家兵衛家の当主」
★白井石眠
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村 ・明2、三郡町村総合會官衙移転請願[十五年十月]
★白井桑園(武成) 市
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★白井千別
明治後の地役人救済の為に奥平謙輔は開墾を行った。
鷲崎村弾野地区では北辰隊の伍長であった新田徹次郎が13人の兵衛隊を引き連れて開墾した。
白井千別(普請方)、吉沢桶助(学問所)、本間宗治(係役)等である。
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
★白井崇陽(しらいたかあき)


母が佐渡沢根、笹井家の人。母は新大教育学部の音楽学科を出て、同窓の愛知出身の白井氏と結婚。
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1984年 愛知県生まれ。
筑波大学付属盲学校音楽科を経て、2006年 桐朋学園大学音楽学部ヴァイオリン科卒業。
・活動歴
1995年,1997年 全日本盲学生音楽コンクール(現・ヘレンケラー記念音楽コンクール)で、連続1位。
2004年 チャリティーコンサート「モーツァルト協奏曲の饗宴」にて桐アマデウス室内管弦楽団と競演。
2007年 1月 公開の映画「あなたを忘れない」の挿入歌に参加し、サウンドトラックCDレコーディング、日本武道館でのプレミアムコンサートに参加。5月聖路加国際病院、6月東大病院でコンサートを開き、毎日新聞に紹介される。 また、年末の神戸ルミナリエ2007, 2008, 2009に3年連続CDレコーディングに参加、ハートフルデーに出演、朝日新聞に掲載される。
これまでに小川有紀子、鷲見健彰、和波孝禧、各氏に師事。2008年10月 オリジナル・アルバム「大いなる刻」の全国発売にてデビューを果たす。 2012年7月 音楽家人名事典 『日本の演奏家-クラシック音楽の1400人』に掲載される。
音楽アーティストの他、陸上競技アスリートとしても活躍。2006年 9月、オランダ開催の身体障害者・世界選手権に3段跳びで出場、7位の成績をのこし、2007年 8月、ブラジル開催のIBSA世界選手権では、3段跳びで5位、走り幅跳びで8位入賞。
★白井智子
両津高校時代の1983年度(S58)12月、全国高校生小論文小泉信三賞コンテスト(慶応義塾大学主催) 佳作(賞状・3万円・置時計)
★白井福松
『両津市要覧(昭和33年)』より

★白井正江
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)白井正江 107 詩・絵・書が私の青春-私の闘病記
★白井安太郎利学(としたか)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。詳細不明。
★白井由美子
両津高校時代の1968年度(S43)11月、第2回全国ポスター絵画写真コンクール絵画部門銀賞
★白井良夫

昭和11年生、河崎の人。両津高校6回生。日体大卒後、両津高校の体育教師として長く勤務し、バスケットボール指導等で全県の強豪校に仕立て上げた。新潟県高校新人戦では準優勝に輝いた。加藤良昭、石川覚、伊藤正人、神蔵肇、来田学、平田祐己等の国体選手を輩出した。又昭和39年の新潟国体ではヨット競技の指導も行い全国上位の成績を上げた。
★白井義延
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しらいよしのぶ(15??~15??)】羽茂高信家臣。通称勘兵衛。羽茂高信の家老職を務めた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。
★白石岩雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白岩作治
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★白川主蔵
『両津町史』(昭和44年)
佐渡では、明治二十二年に、相川海士町の白川主蔵が、両津、相川間に乗合馬車を開業したが、乗客が少なくて一、二年で廃業した。
★白川福蔵
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
相川町北河内の人。河内人形の創始者。明治四十二、三年ころ文弥高幕人形をはじめた。この白川は、関の中川閑楽に文弥節を習い、座元で太夫であり、そして役者でもあった。このほか役者に仲屋石松、小林三吉、田中栄吉、日下徳蔵がいた。この一座の中には速成の役者がいたので、近くの入川人形や後尾人形におよばず、まもなく廃絶した。この白川は、弘化四年生れで、明治四十四年死んだが、生れつき芸事が好きで、素人芝居の一座を組織したり、義太夫なども語った。死ぬ時、家人に「オレが死んだら念仏の鉦を鳴らさないで、三味線をひいてくれ、その方が功徳になるからナ」と云い残したというエピソードがある。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=4
★白川不三夫
ノンプロ野球の選手。で東洋大学時代一年生の秋期大会で神宮第二球場で代打?満塁ホームランを打ちスポーツ紙の一面を飾る。卒業後当時社会人野球の強豪三協精機で優勝、日本代表に選ばれて世界大会にも出場。その後、三協精機は社業の不況で野球、スケートなどを閉部。不三夫は軟式野球部のあるライト工業に転職。国体で優勝等重ねたある時「宮崎病院」と決勝戦で対戦。1対0で勝っていたのに最終回で同点、延長戦へ。延長〇〇回になっても決着つかず、翌日に再試合となった。翌日も0が続き何と延長45回でライト工業が優勝した。この試合はギネスの最長試合として登録され、この年のスポーツ最優秀賞?を獲得している。
白川不三夫選手=東洋大野球部の歴史―人物⑨
→白川優子(兄二三夫の娘に「国境なき医師団」で活躍する白川優子がいる。)
★白河昌弘
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「41号」(平成27年4月)・春のスイーツクッキング party
★白川絞蔵
相川の人。島内客馬車の創業者。明治20年(1887)県道両津-相川線が」全線開通し、馬車も通過可能となる。同年5月25日『北溟雑誌』(19号)に次のようにあつ。「馬車の創業、本州相川人白川絞蔵氏の奮発にて今回馬車営業を創(はじ)むる由なるが二頭立ニ良馬(りょうめ)八頭は已に到着したり其往来の路線を聞くに相川を発して沢根、川原田、吉井、鬢白坂(びんじろざか)を乗換場(のりかへば)となし中央金沢村([大字中興]に継立場(つぎたてば)を置き夷港に達する筈にて弥(いよいよ)来六月上旬より開業の手順なり猶ゆくゆくは小木線路へも往来するの計画ありといふ」
★白川優子



父白川不二夫が相川高千の北河内出身。本人は国境なき医師団(MSF)手術室看護師。1973年埼玉県出身。高校卒業後、坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学、卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2006年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年よりMSFに参加し、スリランカ、パキスタン、シリア、イエメンなどで活動に参加してきた。現在はMSF日本事務局にて海外派遣スタッフの採用を担当。著書に『紛争地の看護師』(小学館)。
※(親戚の石塚豊氏情報)父親が高千の方川内の生まれで、中学校卒後東京都の小平市に家族共々転出し現在は埼玉県東松山市の方に住んでいまさす。父不二夫の弟「不三夫」はノンプロ野球の選手で東洋大学時代一年生の秋期大会で神宮第二球場で代打?満塁ホームランを打ちスポーツ紙の一面を飾る。卒業後当時社会人野球の強豪三協精機で優勝、日本代表に選ばれて世界大会にも出場。その後、三協精機は社業の不況で野球、スケートなどを閉部。不三夫は軟式野球部のあるライト工業に転職。国体で優勝等重ねたある時「宮崎病院」と決勝戦で対戦。1対0で勝っていたのに最終回で同点、延長戦へ。延長〇〇回になっても決着つかず、翌日に再試合となった。翌日も0が続き何と延長45回でライト工業が優勝した。この試合はギネスの最長試合として登録され、この年のスポーツ最優秀賞?を獲得している。
★白川芳太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白須繁司
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白須重二
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白須甚右衛門
『佐渡酒誌』(平成14年)

★白須万治
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
日本最初の鉄船「新潟丸」建造従事者。明治四年六月、佐渡国両津の加茂湖畔で、鉄船新潟丸四十九トンが、完成した。日本政府によってイギリス人造船技師マタニホールの設計監督によるものである。万治はこの建造に従事した。新潟県(当時佐渡県管内であったが貿易港事務所だけは新潟県管内であった)から次の通り褒賞された。
白 須 万 治
一、金千疋
昨年来蒸気船打建中、御用取扱出精尽力致候二付、為賞至被下候 辛未七月(明治四年) 新潟県 印 (佐渡の百年)
「島の新聞」

「日本最初の鉄船製造」(「佐渡の百年」)
★白鳥省吾
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)
ウイキペディアより
★四郎左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者、佐渡国矢柄村(相川町外海府)百姓。身分相応の生活をし、利欲を離れ、貧しい者に無利子で金を貸し、貯蔵の雑穀を与え、親によく仕え、下人をいたわる等の善行があった。安永七年(一七七八年)六月四日、佐渡奉行所へ呼出され、白銀二枚をもって賞された。(佐渡年代記中巻)
★城腰芳蔵

















新潟日報(h29年2月25日)

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
明治四十年北海道で生れ。四才のとき親戚で桶屋の城腰家にきて、十七才のとき養父のすすめで新穂の桶屋土屋春吉の弟子となった。二十三才で独立し、戟時中には再び需要が増した水上輪(とい)を多く作ったが、戦後一時は桶つくりを止めた。戦後に木製桶の需要が減ってからも、古い桶のタガの掛け直しの仕事があった。金井町に移住している。大正七年の村是に記録されている桶職人は、専業が一人、副業が三人である。この専業桶職人とは小倉の城腰家の先代のことらしい。坊ケ浦の小田太郎家の大書老人は昭和四十年代まで、家々を廻ってタガ掛を続けた。桶職人はほかにも何人もおりその弟子もいる。桶職の道具ほ、諸職のうちではひときわ数が多くて、新調にほ資金を要したので、比較的世襲の形をとりやすいにかかわらず、数代をかぞえる家ほ多くはない。桶屋の多くはその後に転業して大工となったりした。
★城塚伝内
→小黒ヨシ参照
★城鳥朝之栄
「島の新聞」索引(人名別)
★城鳥咲太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★白根四男也
両津浜田出身、昭和13年生まれ、両津中学から両津高校卒、実家は白根布団店。「東京両津の会副会長」(兼事務局長)、「石楠会(両津高校同窓会)」幹事等で故郷佐渡と関東圏をつなぐ活動に尽力される。
★城野勝太郎
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★城野亀吉


新穂村下新穂に生まる。佐中・広島高師卒。京都市視学より助役となり、後には東京目黒区長などをつとめ日本歯車協会の理事長となった。佐渡中学7回生で、同年には青野季吉(文芸評論家)、児玉龍太郎(県会議長)、宮本美治(佐渡教育会会長)、角坂仁三次(河崎村長)、吉田耕一(相川高校初代校長),酒井千尋(根津美術館館長)、浅香寛(退学して富山or石川の中学に転校)、塚原徹(落第で卒業遅れる)等がいる。
明治21年(1888)7月27日出生、5男。大正3年(26歳)セツと婚姻。昭和3年(40歳)分家につき除籍。
昭和21年(58歳)次男忠弥と養子縁組、昭和22年(59歳)忠弥と協議離縁(忠弥の兄(佐中2年)が病死の為)。この時期まで京都左京区在住。昭和35年11月9日、藍綬褒章(日本歯車工業会専務理事として活躍時代、成績顕著により宮中に召され症状と共に賜る。妻セツ同行) 昭和40年11月5日、勲四等瑞宝章。昭和44年1月6日(没、80歳)、従五位に叙せらる(内閣総理大臣 佐藤栄作)。
「佐渡高等学校百年史」より
この時期の佐渡中学校において注目されるのは、真の校風発揚を叫ぶ生徒がいたことである。その生徒は城野亀吉であり、ペンネームを「緋鹿子」と号し、談話会 (弁論大会) や同窓会誌『獅子ケ城』などでさかんに論じている。城野は 『獅子ケ城』第十三号に 「校風論 其の二」と題する論文を寄せているが「校風と学風の関係」という項の冒頭で、「善良なる青年気風とは何ぞや、日く天真を欠くことなく、活発にして能く勉むると共に能く遊ぶものにして穏健誠実なる気風をいふ」と、まず生徒の理想像を掲げてから論じ始めている。そして「校風と学風」については、校風とは一人ひとりの生徒が育成されてきた人格、その人格像の集団から、公約数的にみられるその学校独自の風采だと規定し、学風とは生徒らの学術研究への、その学校独自の傾向であると説き、校風も学風もその学校の教育理念の表現された姿であると論じている。また、「校風萎磨」と「学風廃頭」に陥ることのないようにと警鐘の論を発している・・」
「躍進日本」(中川杏果)より
僕と小学校は一級上であった。広島高師卒業後、中学教師を振り出しに京都市の助役・東京牛込区長(官選)・品川区長を歴任。
今次大戦中、日本歯車工業会を創設、先年アメリカ政府から招聘されて欧米各国を視察、また歯車工業の貢献者としての功労により藍綬褒章を賜った。今なお元気で歯車工業会本部で陣頭指揮をされている。
・城野亀吉は男兄弟4人の4男で、長男は勝太郎で農家であった。次男は若くして亡くなり、三男の市蔵は相川の金毘羅宮の養子となり、教育者となって、大正5年に皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)が吉井尋常高等小学校訪問の際の御案内役であったと言う。勝太郎の長男は勤(つとむ)でその子が元高校教諭で新穂銀山保存会の代表を務める城野忠弥氏である。
・城野亀吉は東京荻窪に住み、子供達は戦争等で大半が亡くなり、末娘に婿をとって家を継いだ。息子さんは長畝の名家川上家の廣氏、東大を出ている。
➡城野廣
・中川杏果 記述関係➡「福寿草」11号
★城野甚平
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村下新穂 ・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★城野忠弥
新穂の人、佐渡高校、両津高校等での県立高校教諭退職後、「新穂銀山友の会」創立に携わり、初代会長となる。令和1年6月26日没、81歳。城野亀吉は祖父勝太郎の弟、即ち大叔父にあたる。


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)城野忠弥 151号 悼 城野忠弥氏 山本修巳
(城野忠彌)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「45号」(平成28年4月)・佐渡親馬クラブ-伝統文化の継承に欠かせない馬の確保-※城野忠彌・岩村文雄
「島の新聞」索引(人名別)
★城野廣
新穂長畝出身、実家は川上伊左衛門家(三男)。東大卒、日本硝子重役。
城野亀吉(品川区長、日本歯車協会理事長)の次女と結婚し、城野家に入婿。
★志和源次郎
旧真野村村長、明治20年代。
★志和舜雅(しゅんが)
金井町西方正覚坊住職で土田麦僊少年を最初に僧侶見習いとして預かり、京都智積院に修業に出した。
「舞妓芸術の麦僊」(「佐渡の百年」)
★志和孝洋
佐渡高校時代の平成7.6.2~4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)男子総合6位、400mH3位、4×400mR(藤井・早川・磯野・志和)4位
平成7.6.23~25、陸上競技北信越大会(新潟市)400mH3位、4×400mR出場
平成7.8.1~4、陸上競技全国高校結合体育大会(鳥取市)400mHに出場
★志和貞蔵
『小樽区外七郡案内』(山崎鉱蔵著 小樽区外七郡案内発行所 明42年9月刊)

★志和武平・志和辰五郎
武平は真野出身で北海道苫前で明治27年志和商店を創立し、息子辰五郎が継ぎ成功する。共に地元のリーダーとなり村会議員となった。志和武平(明治38年~41年、明治44~45年)、志和辰五郎(昭和9年~13年)。また昭和14年創立苫前商業組合は斎数六平会長、本間忠吉(酒屋)、志和辰五郎の佐渡人が中心となった。辰五郎の息子さん栄茂(えいしげ)さんは教員となり札幌に移住した。苫前では、長島家、志和家、斎数家、名畑家等の佐渡衆が明治、大正、昭和にかけて漁業、呉服店、雑貨店等で成功した。佐渡衆は昭和30年頃には鬼太鼓道具一式を購入し苫前神社祭礼に鬼太鼓を舞った。
「苫前町の佐渡衆について」
★志和正隆
佐渡高校時代の平成.5.31-6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)4×100mR(本間啓輔・志和正隆・戸田貴夫・高岡豊秀)6位
平成4.6.19~21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR出場
平成5.5.29~31、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)男子総合2位、110mH3位・400mH1位
平成5.6.18~20、陸上競技北信越大会(富山市)男子総合6位、110mH2位・400mH1位
平成5.8.1-5、陸上競技全国高校総合体育大会(宇都宮市)男子総合10位、110mH3位.400H準決勝進出。
平成5.10.24~29、陸上競技国民体育大会(鳴門市)400mH7位
★志和正美
「エスライフ」2007年11・12月号



★心阿了長
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★甚右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国両尾村甚四郎の親である。天保十二年(一八四一年)に九十五才になったので、役所から存生のうち老養扶持を与えられることとなった。(佐渡年代記下巻)
★心應愚禅 正法寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★真応大謙 洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★新開師三太夫
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
・『佐渡四民風俗』(下) の瓦師などを書いた部分の追加書きのところによると、 田中村主計と申す老数年江戸え罷り出で居り、山本北山の弟子に成り、学問致し(て)医者に成り、文化中帰国の上国益の事など世話致し、越後より新開師三太夫を呼び寄せ、願いの上住居致させ、自分所持の畑(を)田と成し、新田など仕立て、耕耘(こううん)力を尽くすべき事を始め、養蚕の事など近郷迄勧め弘め或は越後より瓦師を呼び寄せ(て)焼き立て、寺院の鐘楼、土蔵屋根等に用ひ侯事を勧め、当時は相川にても広恵倉、其の外山の神、須灰谷御米倉にも瓦屋根御仕立て御座候。とあり、さらに、同じく『佐渡四民風俗』(上) の釜屋・寵米・長江村のことを記した部分の追加書きに「釜屋村に三太夫と申す老これあり、親三太夫代文化の末越後より参りて住居致し」とあって、文化の末年、即ち十四年(一八一七)に越後から新開師三太夫および瓦師が来島し、開墾するかたがた開窯したとみることができる。
・矢島主計によって越後から寄びよせたとする新開師三太夫と瓦師は、主計の居住地田中村(五十里村に同じ)に居り、文政三年(一八二〇)には五十里村三太夫を筆頭願い主として釜屋村(両津市秋津)五藤左衛門らが、釜屋村釜屋野の御林の新開を願い出ている(『両津市誌』町村編1)。さらに先にあげた『四民風俗』(上)の、釜屋・寵米・長江村のことを書いた追加の部分に、「釜屋に三太夫と申す着これあり」とあって、追加書きが天保十一年(一八四〇)であることから、この年までには、三太夫および瓦師は五十里から釜屋へ移ったものとみえる。近年、秋津の飛行場入口の道路工事中に、小沢窯址出土類似の陶片多数が出土しており、三太夫と行動を共にした焼物師(瓦師)が、小沢窯にひきつづいて、秋津でも開窯したことを知ることができる。
小沢窯の窯師の名前も、越後のどこから釆たのかも、小沢窯から秋津窯へ移動したのちの動向もわからないが、恐らく、矢島主計の小沢窯は、主計晩年の号がみられることなどから、主計が没する天保三年(一八三二)頃まであり、そののち、三太夫および焼物師は釜屋へ移り、秋津でも陶器類を焼き立てたのであろう。なお、『佐渡国略記』に次のような注目すべき記載がある。小沢窯が稼行盛んな頃と思われる文政六年(一八二三)と、文政十年の記述である。これによると、小沢窯の窯師は、瓦を相川米屋町の長兵衛、焼物(器物)は相川下戸町の弥三七が関与した可能性が大きい。
★神宮長治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★新三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国下知久村(両津市)新九郎の父である。文政十三年(一八三〇年)に九十五才になったので役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★甚四郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国龍米村の人である。奇特の趣相聞につき、天保四年(一八三三年)役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)
★眞後和子
両津福浦出身(実家は「北光堂」)、歌人。平成26年5月に出来た新潟県歌人会の会長。因みに、同会顧問は湊出身の久保田フミエ。夫は両津甚句を世に出した「朝日亭」縁の眞後智一。
★真後久四郎「躍進日本」

★真後静馬
第四銀行頭取。
★眞後卓峰
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★真後哲衛
明治10年頃生。母世津と共に両津夷にあった料亭「朝日亭」を経営。大正3年に出来た「両津甚句会」発起同人。
両津甚句を世に出した功労者で、同店の芸妓であった二人が「朝日亭八重子」「朝日亭みすじ」としてレコードに吹き込む。日本民謡協会初代理事長の浦本政三郎と昵懇で、浦本氏の尽力もあり両津甚句が全国に知られるようになった。
なお「朝日亭」は大正から昭和22 年頃まであった有名料亭で最初は夷5、後に八郎平町に移転し、この場所は後に加茂湖ホテルになる。眞後家は、国分寺傘下の新穂不動明王元祐坊の僧侶であった。
「島の新聞」

★眞後東一郎
国分寺傘下の新穂不動明王元祐坊の僧侶であったが両津夷に出て料亭「朝日亭」を経営する。
この店の代々の当主や芸妓朝日亭八重子によって両津甚句が歌い継がれ、まさに両津甚句発祥の地と言ってもよい店である。元々は夷五(丸屋書店辺り)、八郎平町に移転した。昭和20年代前半には「加茂湖ホテル」となった場所である。
(参考 「新穂村仏法史」他)
★眞後智一
両津甚句を世に出した「朝日亭」の子孫(父が朝日亭主の弟)。東京生まれであるが、退職後、父の故郷佐渡に住み、羽吉「御器」家を購入して住む。
「島の新聞」

★新五郎町長助
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★新坂和男
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)新坂和男 15 「佐渡の凧」で感じたこと
★信性(しんしょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国羽黒(両津市)権現の別当寺の住職である。
羽黒正光寺の僧能主と、大仏宣時の幸せを祈って鍛工藤原守重に梵鐘を作らせて正光寺におさめた。(佐渡志、新潟県史)
★眞醒→眞醒(まざめ)
★信碩(しんせき)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
法阿上人。佐渡郡真野町竹田の生まれで名は信碩といった。
同町四日町松山大願寺二十世である。後に甲州一蓮寺二十七代の住職となった。
元禄四年(一六九一年)相州藤沢山清浄光寺他可三十世に転じ独住六年で元禄九年九月二十七日に七十四才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

★信哲
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国相川五郎左衛門町浄土宗来迎寺の住僧である。奇特の取計有之、天保九年(一八三八年)に役所から白銀を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★眞藤玉眞
佐渡博物館

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
銅器作家。明治十三年に佐渡郡沢根町で生まれた。真壁半五郎の二男で父業をついだ。商工省芸展開始以来毎回入選、日展第十三、四回入選、その他博覧会、共進会に出品入賞した。-九二六年のスイス、一九三〇年のベルギーの万国博覧会にも出品入賞した。(佐渡名鑑)
「島の新聞」索引(人名別)
★進藤広治
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

大柄で豪放磊落、大の野球好きだった。少年野球の大会などでは大声で応援し、野球会場の名物男だった。長男は忠之さん(昭和20年生)も大の野球好きで、家業の蒲鉾屋を継いだが閉店し長男が中学に入る時に東京に移住した。次男の茂氏は元々は柔道や陸上競技でならしたスポーツマン。進藤整骨院を湊一で開業し、その後城ノ内に移転、大変繁盛したが、本人の病気で平成半ば頃に閉院した。
★真藤浩二
「島の新聞」索引(人名別)
★進藤茂
佐渡高校時代の41.6.18~19、柔道全国高校大会県予選会(三条高校)団体3位、個人戦重量級3位
★真藤治八
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★眞藤眞山
「島の新聞」21号(by 松本秀雄)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

「島の新聞」索引(人名別)
★進藤誠吉

★眞藤ヒロシ

俳優、相川出身。つるや一族の息子さん。1975年3月17日生。1995年、劇団新感線入団。以後、同劇団公演に参加のほか、客演も多数。主な出演作品に、舞台『スーパー歌舞伎「オオクニヌシ」』『髑髏城の7人』『ドラゴンロック2』『それいゆ』『夢の肉弾三勇士』『無頼漢』『繭文~放蕩ノ吊ラレ作家~』ほか多数。代表作品1舞台『繭文、放蕩ノ吊ラレ作家』、代表作品2舞台『無頼漢』、代表作品3舞台『こくう物語』
★新通英洋(しんどおりひでひろ)

昭和36年両津市加茂歌代に生まれる。指揮者、両津南中-両津高校卒(31回生)。
桐朋学園、モスクワ国立音楽院において指揮を高階正光、尾高忠明、秋山和慶、黒岩英臣、小澤征爾、L.ニコラィエフ、V.シナイスキーの各氏に師事。その後、英国ロイヤルオペラハウス、イングリッシュ・ナショナルオペラ、ウェルシュ・ナショナルオペラのリハーサルで学ぶ。またBBCウェールズ交響楽団において尾高忠明氏に就いてさらに研鑚を重ねた。第5回フィテルベルク国際指揮者コンクールにおいて第2位、ならびに特別賞受賞。ワルシャワでシンフォニア・ヴァルソヴィアを指揮してヨーロッパ・デビュー。日本テレビ「深夜の音楽会」:横山幸雄氏のショパンピアノ協奏曲全曲演奏に読売日響と共演したほか、G.シャハム、E.モギレフスキー、佐々木典子、高橋多佳子、田部京子、丸山泰雄の各氏をはじめとする多くのソリストと共演。独奏者からの信望も厚い。これまでに大阪フィル、神奈川フィル、群馬響、札幌響、東京響、東京シティフィル、東京フィル、名古屋フィル、日本フィル、読売日響、ポーランド国立シレジアフィル、シンフォニア・ヴァルソヴィア、東京佼成ウインド等を指揮。オペラでは、読売日響、札幌響による歌劇「ピーター・グライムズ」公演で尾高忠明氏の副指揮者を務めたほか、豊田市コンサートホールでの喜歌劇「こうもり」公演、梅若六郎氏演出による歌劇「カーリュー・リヴァー」、名古屋二期会本公演:歌劇「森は生きている」、かんでんオペラ:歌劇「後宮からの逃走」(大阪フィル、関西二期会)を指揮し各方面から高い評価を受けた。また、講演等でも活躍しており、ラジオ番組のゲストとして指揮の歴史や日本における「第九」受容史、音楽家の利き手・利き腕などについてのトークが話題になった。BSN新潟放送ラジオの朗読「ふるさと散歩」では一年間に渡りエッセーを執筆。愛知県立芸術大学、徳島文理大学、上越教育大学大学院非常勤講師を歴任。
※・妹紀子さんは金井貝塚大蔵家に嫁ぐ。大蔵家の姑にあたる大蔵靖子さんは島内を代表する歌人・俳人であり、その父は写真家として名高い近藤福雄(とみお)である。なお、大蔵家は北一輝の親戚で、島田事件の弁護士大蔵敏彦を生み、俳優丹波哲郎は遠縁となる。
・祖母は大阪屋さんの出、即ち現当主の佐藤石松氏(大正12年生)の姉。
こんな繋がりもある。
ワット隆子さん:祖父が加茂村村長の馬首山本菊次さん。その娘テルさんは上記佐藤石松さんの妻。東京両津の会の佐藤氏とワットさんは従兄弟同士。デザイナー本間正章氏:母は北小浦浅井さん。浅井家次男がワット隆子さんの妹と結婚。ちなみに浅井さん長男はきらくホテル長女の夫。
入場行進曲「パプリカ」録音 オオサカ・シオン・ウインド力強く演奏 第92回選抜高校野球
「毎日新聞2020年1月28日」
阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で3月19日に開幕する第92回選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催)の入場行進曲に選ばれた「パプリカ」が28日、大阪市鶴見区の花博記念ホールで録音された。
パプリカは、シンガー・ソングライターの米津玄師さんが作詞・作曲。作曲家の酒井格(いたる)さんが入場行進用に編曲した。この日は、新通(しんどおり)英洋さんの指揮の下、吹奏楽団「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ」の38人が演奏し、1時間かけて収録した。
第81回大会から編曲を務める酒井さんは「それぞれの楽器の持ち味を発揮しながら、しっかり歩けること」を心がけているといい、開会式では毎回、バックネット裏から見守っている。録音にも同席し、「積み重ねた自分の力を信じて全力でプレーしてほしい」とエールを送った。
収録されたCDは出場校に贈られ、一般にも販売される。問い合わせは毎日新聞大阪本社事業部(06・6346・8371)。【荻野公一】



★新畑金平
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★新保菊蔵
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。不詳。
★新保啓
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)新保啓 145 佐渡紀行―高野喜久雄の足跡を訪ねて
★新保哲(しんぼさとる)

相川大工町出身、昭和23年生。文学修士(中央大学)
2002年 姫路獨協大学専任講師 1977年 中央大学 文学研究科 哲学専攻 1998年 日本精神文化学会 会長 1999年 日本佐渡学会 会長 2002年 本人類言語学会理事 2002年 日本精神文化学会学術研究賞
『教行信証』にみる他力思想 『外国語学部紀要』(第6号,姫路独協大学) 6,60-75 1993年
『不動智神妙録』にみる剣禅一如観 宗教研究 295(66) 263-264 1993年
日本人にみる主体的自己の究明 『総合社会科学研究』(兵庫県立姫路短期大学) 5,27-51 1993年
武道と芸道の究極的世界 『大倉山文化会議研究年報』(大倉山文化会議) 4,45-61 1993年
抜隊にみる本源の性について 印度学仏教学研究 42(1) 142-144 1993年
・書籍
「日本思想史論」(大東出版社 1980年) 「親鸞-その念仏と恩思想-」(吉川弘文館 1985年) 「道元の時間論」(雪華社 1985年) 「ソローの精神と現代-東西融合論へ向けて-」(行路社 1988年) 「日本思想史」(晃洋書房 1989年)
・所属学協会
比較思想学会(228) , 日本宗教学会(766) , 日本印度学仏教学会(497) , 日本思想史学会(211) , 日本倫理学会(520) , 東方学会(703) , 日本ショーペンハウアー協会(25) , 日本ソロー学会(28) , 比較文学会(21) , 国際比較文学会(61) , 日本山岳修験学会(43) , 日本密教学会(58) , 日本精神文化学会(3) , 日本佐渡学会(1) , 日本人類言語学会(9)
今回出版された【親鸞】で38冊目の出版になり、第25回日本文芸大賞・学術文芸賞受賞する。
祖父の代までは相川金山の大工頭を務めた佐渡鉱山の重役だったと言う。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)新保哲 58 相川と自然 66 相川での思い出の片鱗
(新保哲)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)「日本佐渡学会」と「学問研究」(新保哲)「13号」(平成20年4月)新保哲氏に日本文芸大賞・学術文芸賞「15号」(平成20年10月)新保哲氏『遊び心』出版
★神保新五左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、正徳二年(一七一二年)より五年十月八日江戸で病死するまで在任した。
長治、長次という。知行ほ九百石であった。(佐島遺事)
★新保正則

★新保宗吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★新保村作右衛門→渡邊作右衛門
★新保基治(基衡:もとひら)





左:平成28年8月 佐渡市広報



「島の新聞」索引(人名別)
★新町村伊右衛門
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
★新町村ちえ
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★新町村亦七
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★新町余右衛門
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★新屋(朱鷺)さなえ
佐渡市両津生まれ
平成2年、横浜市在住時佐渡で『朱鷺の舞』を発表。平成19年佐渡に戻り朱鷺さなえ会を主催、毎年3月に発表会を開催、今年で16回を数える。毎年佐渡市両津『椎崎諏訪神社』の能舞台にて舞いを奉納。佐渡の他全国各地でボランティア活動に参加。
直近の活動:岩首棚田、『local.wear.tourism』ゲスト出演、ドンデン高原ロッジ『銀河の舞い』出演、yamato『平和は僕らのこころの中に』コンサート特別出演し、拉致被害者に捧げた曲『またあなたを想う』に振付・出演、東京浅草公会堂にて『古今花舞台』四季の響宴に出演
ボランティア活動:金井『隣保館』保育園児に日本舞踊と日本文化、礼儀作法を月一回教えている。
指導:佐渡市加茂歌代にお稽古場を構える。
日本舞踊『寿流』師範
佐渡民謡 教授
花嫁着付 講師


朱鷺さなえ
https://www.niikei.jp/132172/
★親鸞
・古田武彦氏「親鸞聖人佐渡配流説」。
「親鸞は越後ではなくまず佐渡に流された。その後、佐渡から越後(国府)へ移された。」
・「親鸞思想と日本海」):上越市板倉の「伝承」では、「親鸞聖人は佐渡から来られた。」
・建永2・承元元(1207)年2月18日、法然が土佐へ、親鸞が佐渡へ流罪となった(承元の法難)。
・後鳥羽上皇が熊野に参詣中、法然の弟子が行っていた念仏会に上皇の女官が参加、出家したことに上皇が激怒し、専修念仏を禁止。法然は土佐へ、その弟子の親鸞は佐渡へと流された。
・親鸞聖人腰かけの石:土御門天皇のとき、親鸞聖人は、なみあみだぶつをとなえる事によって往生できるという浄土宗を禁じた為、佐渡へ流されることになった。
その時、小摺戸を通られました。そのころの黒部川は、新屋と小摺戸の境を流れていましたが、水かさが増えて渡る事が出来ず左岸の赤石に腰をかけて一夜あかされました。その後、大谷派本山の尋ねによって掘り起こされた赤石は舟堀にまつられています。
「親鸞思想と日本海」(古田武彦)
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