2021-01-10
★笹原蕪得
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(俳客伝)より

★笹原安五郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

★笹渕紘平
「島の新聞」索引(人名別)
★笹本弘海
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三年生 吉井村秋津 ・明4、山本の送別会[三十五年八月十五日]
★佐次兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行書。佐渡国相川馬町の人である。奇特之趣相聞に付、天保十一年(-八四〇年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★佐治兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国湊町(両津市)の人である。天保六年(一八三五年)役所から、去年米払底之砌奇特之取計有之趣につき、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★佐田啓二
左:岸恵子と尖閣湾にて、まだ吊り橋だった頃 右:弾崎灯台にある銅像

「島の新聞」

(佐田啓二)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「36号」(平成26年1月)グラフ佐度(・佐度ロケの効果・映画共演の佐田、高峰ブロンズ・主人公「お光の碑」)
★佐田まさし
本人の随筆に、父と佐渡宿根木称光寺住職の林道明さんが親しい友人だったので、子供の頃、父と一緒に宿根木に来て海で泳いだとあった。随筆名は現在不明。元両津市役所勤務の渡辺吉丸さんによると、有名歌手になった後も小木宿根木を懐かしんで来訪しており、自分が運転した、と。ラジオでは、「次の曲は佐渡の小木と言う所で海を見ながら作った曲です」と言って「落日」を流したという。
♪夕日が沈んで行く 君の瞳の中に はぐれ雲が朱鷺色に
♪そう悲しげな時の羽の色に染まりながら風に流れて行く
♪少し風が出て来た 君の肩を抱いた
♪命は何処から来て 何処へ行きたいのだろう
♪本当が知りたい僕らの愛の事も
♪幸せになろう いつか必ず
♪約束をしよう 幸せになろう
また、次の曲は佐渡をモチーフに歌ったものだそうです。(藤下さん情報)
「前夜(桃花鳥ニッポニアニッポン)」「寒北斗」
・宿根木称光寺の道明和尚とさだまさしさんのお父さんは戦友だったと聞いた事があります。位は和尚の方が上だったそうです。それで上官だった和尚の所に来ていた事も知ってはいましたが、まさか、さだまさしさんが小木の海を歌った曲があるなんて初めて知りました。
★佐竹栄美子

★佐竹紘栄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐竹紘栄
76 山口誓子先生と富士山 77 山口誓子先生の思い出
★佐竹実
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
相撲において、佐竹実(加茂村)伊沢隆(赤泊村)は昭和7年新潟県大会団体優勝の新潟師範学校の選手であった。また伊沢隆と後藤千代松(河崎村・旧姓藤井・元両津市教育長)は、昭和9年に新潟県の団体優勝した新潟師範の一員で、同年が皇紀2600年祭に当たったので、新潟県を代表して宮崎県宮崎神宮大会に出場している。伊沢の櫓投げは特技であって、永く競技生命を保っていた。昭和17年の新潟県郡市対抗の佐渡郡代表であった。
★佐竹守太郎
明治36年、郡会議員に当選するが辞退し、古玉作平が補欠当選する。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治元年 生 加茂村浦川 ・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]
★定太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国関村(相川町外海府)源太郎の母である。文政十三年(一八三〇年)に九十五才になったので役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★定太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国長江村(両津市)の人である。孝心奇特之趣相聞に付、天保七年(一八三六年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★定八郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川二丁目の人である。よく孝養を尽くしたので、文政五年(一八二二年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。 (佐渡年代記中巻)
★佐太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川馬町の人である。母に仕ぇて孝養を尽くしたので、文政二年(一八一九年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★さつ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国小川村(相川町金泉)平吉の祖母である。弘化二年(一八四五年)に百才になり、困窮である由に付、役所から鳥目十貫文を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★さつ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川二丁目浜町の寡婦である。養母に仕えて孝行を尽くしたので文化四年(一八〇七年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★佐渡五郎左衛門尉(さどごろざえもんのじょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で、建長二年(一二五〇年)八月十八日に将軍藤原頼嗣が由比が浜に遊んだ時供人となった。
その後にたびたび供人となっている。(吾要鏡、新潟県史)
★佐渡三郎左衛門尉(きどさぶろうざえもんのじよう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
暦仁元年(一二三八年)二月十七日、将軍藤原頼経の六波羅御所への随行となった。
佐渡の人である。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐渡次郎右衛門尉(さどじろうえもんのじょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で名は基親という。嘉禎三年(一二三七年)四月二十二日、将軍藤原頼経が北条左京権太夫の邸に行った時、随員に加わり、六月二十三日、大慈寺の丈六大仏法会には調度係となった。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐渡新左衛門尉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で弘長三年(一二六三年)一月一日の垸飯の行事に供奉人となった。(吾妻鏡、新潟県史)
※垸飯(おうはん):他人を饗応する際の献立の一種。後には饗応を趣旨とする儀式・行事自体をも指した。
★佐渡先生光成(さどせんじようみつなり)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
強盗の首領である。名前から佐渡国の下級官史かといわれている。
承安元年(一一七一年)四月十二日に後白河法皇は光成を召し出して御覧になった。(百錬抄、新潟県史)
★佐渡独特の漢字(国字)

★佐渡孫左衛門尉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
応永四年(一三九七年)一月十七日に足利幕府は弓場始の式を行ない、第一二背の射手となった。佐渡の人である。(新潟県史)
★佐渡基隆
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の本間氏である。五郎左衛門尉という。寛元三年(一二四五年)八月十五日将軍頼嗣が鶴が岡八幡宮放生会に臨んだ時、供奉人となった。
宝治元年(一二四七年) の放生会にも同様であり、その他にも供人となっている。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐渡基綱
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡真野の人で本間氏である。建長六年(一二五四年)一月二日、垸飯の行事があり、将軍宗尊親王の随兵となった。その後もたびたび供人となった。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐渡基政
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人である。帯刀左衛門尉基政という。
嘉禎三年(一二三七年)将軍頼経が北条左京権太夫の邸へ行った時、随行に加わり、六月二十三日大慈寺に行った時は調度係となった。暦仁元年(一二三八年)二月二十三日、将軍藤原頼経が参内の時に供をした。吾妻鏡六月五日の条には後藤佐渡判官基政が将軍頼経の奈良春日神社参拝供奉人となったことが記されている。(吾妻鏡)
★佐渡太夫判官(さどたゆうはんがん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で建長二年(一二五〇年)八月十八日に将軍藤原頼嗣が由比が浜に遊んだ時、供人となった。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐戸律子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐戸律子 128 俳句鑑賞
★佐藤知(あきら)
津軽三味線の名手で、2014世界大会3位。
父は三味線、尺八、横笛等のオールランドプレイヤーである佐藤元海(もとうみ)、母は梅若流大師範の浅野光子。
兄は悠紀で、津軽三味線、お囃子(太鼓)音響等を担当する。最近は佐藤兄弟としても売り出している。
叔父(父の弟)に日本を代表する津軽三味線奏者の故木田林松次がおり、知は林松次の指導を受けた。
祖母は民謡家佐藤みや子である。
「新潟日報」平成27年4月5日

★佐藤敦子→北川淳子
★佐藤穴口
『小木町史』(下)より
宿根木には、明治十一年ころまでは廻船が十四、五捜もあって、百人以上の人がこの船の水主として乗りあわせ、百数十戸の村の経済を支えていたのです。ところが明治10年の西南戦争後、 廻船はすっかり駄目にをり、それよりは田地を買ってそれを預け、小作料をとった方が利にかなう時代がやってきたのです。宿根木の廻船持ち佐藤穴口さんなどが手広く水田を買い求めたのはこの時期です。明治二十五年のころ、宿根木で廻船を持っているのは、佐藤実平、浜田嘉平次、佐藤伊左衛門の三人が一艇ずつでした。「もともと、これらの廻船は越後に行って米を仕入れ、それを大阪方面へ積んで行って売りさばくことを職業としていたのですが、なんと最近は、上方の米相場の方がかえつて佐渡より安いということで、もう米を大阪へ運んだのでは損をするばかりという有様になってしまいました。そこで方向を変えて最近では越後の米を北海道へ運送することに力をおくようにしたのですが、本年(明治二十五年)をどは奥州の米値段が非常に安く、すっかり前途の目途が立たをいというようを有様にをってしまった」(北浜雑誌)のです。もう、宿根木の村は火が消えたようになってしまいました。
★佐藤亜也子
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤伊左衛門(穴口)
『小木町史』(下)より
宿根木には、明治十一年ころまでは廻船が十四、五捜もあって、百人以上の人がこの船の水主として乗りあわせ、百数十戸の村の経済を支えていたのです。ところが明治10年の西南戦争後、 廻船はすっかり駄目にをり、それよりは田地を買ってそれを預け、小作料をとった方が利にかなう時代がやってきたのです。宿根木の廻船持ち佐藤穴口さんなどが手広く水田を買い求めたのはこの時期です。明治二十五年のころ、宿根木で廻船を持っているのは、佐藤実平、浜田嘉平次、佐藤伊左衛門の三人が一艇ずつでした。「もともと、これらの廻船は越後に行って米を仕入れ、それを大阪方面へ積んで行って売りさばくことを職業としていたのですが、なんと最近は、上方の米相場の方がかえつて佐渡より安いということで、もう米を大阪へ運んだのでは損をするばかりという有様になってしまいました。そこで方向を変えて最近では越後の米を北海道へ運送することに力をおくようにしたのですが、本年(明治二十五年)をどは奥州の米値段が非常に安く、すっかり前途の目途が立たをいというようを有様にをってしまった」(北浜雑誌)のです。もう、宿根木の村は火が消えたようになってしまいました。
宿根木

『小木町史』より
宿根木才次郎の隠居として生まれました。元禄のころのことです。そのとき才次郎は子供一人をつれて隠居し、一軒をたてたのですが、その子が短命で元禄十六年(一七〇三)に死んでしまいました。さて、二代目の伊左衛門は、石塚彦右衛門家からもらいました。妻女は羽茂の清士岡村の仁右衛門からもらったのですが、短命で子供を四人おいて亡くなったので、後妻を野崎村の屋敷新兵衝からめとりました。二代目の伊左衛門が亡くなったのは宝暦二年(一七五二)のことでした。三代目伊左衛門の代に造酒屋をはじめました。それが成功し金が貯まるようになったころ、たまたま妹聾の高津惣兵衛の家に二百石積の廻船がありました。すすめられ、造酒でもうけた金で廻船仲間にをったのです。この船は運賃積みをしておりました。船には買積みと運賃積みがあります。買積みというのは、自分のお金で物を買い集め、それを自分の船で運んで商う商船です。一方運賃積みは、他人の荷物をその人の注文値段で買い集め運送する商船です。佐渡では、松ケ崎が買積み、宿根木が運賃積みの代表格です。松ケ崎は、国仲地域のわら細工物を買積みし、松前に運び、それを行商し、秋に松前から胴鰊や笹目をもってきて、それを国仲の百姓に売ったのです。しかし、宿根木は松ケ崎のようを後背地をもちません。だから、いきおい運賃積みをするようにをったのでしょう。三代目は安永六年(一七七七)に亡くをりました。
三代目が亡くをったとき、四代の伊太郎(著名)が調べてみたら、その遺産は銭壱千貫文を超えていました。はじめて酒造をおこをったときの元手が三百貫文でしたから、相当を蓄財といわなければならないでしょう。四代目伊太郎の代には、酒造商売がいそがしくて寒中三十日は昼も夜も帯をとくひまがをかったといっています。この代はまた高津惣兵衛と仲間で三百五十石積みの船を経営して、頼母子金を借り入れて商売するほどの発展をみせます。そしてそのころには船を五百五十石積みにし、弟の佐藤忠次郎を船頭にしています。この四代目のときに佐藤家はいろいろなことをします。蔵を普請し、住家も普請をします。暑浜(あつはま)に船小屋を建て、別に屋敷を買い求めます。そのほか檀那寺称光寺へ二十両の寄付をしています。
ところが、文政十二年(一八二九)の十二月、五百五十石積みの廻船が囲い場で焼けてしまいます。造作して七年目の船でした。それから天保九年(一八三八)まで九か年の間、手船商売をやめました。丁度その年、宿根木新田の有田久兵衛が、三百三十石積み六人乗りの十六年船を売るという話が出ました。早速それを百八十一両で買入れ船商売をはじめました。先代とこの代には、そのもうけで小木、羽茂、西三川方面でかをりの水田を持ち、その作徳米を一年に三十石を売るほどの財産を著わえています。そのころが宿根木商船の全盛時代だったのです。さて、明治にをってさしもの宿根木廻船も落日をむかえます。
『小木町史』(下)より
宿根木には、明治十一年ころまでは廻船が十四、五捜もあって、百人以上の人がこの船の水主として乗りあわせ、百数十戸の村の経済を支えていたのです。ところが明治10年の西南戦争後、 廻船はすっかり駄目にをり、それよりは田地を買ってそれを預け、小作料をとった方が利にかなう時代がやってきたのです。宿根木の廻船持ち佐藤穴口さんなどが手広く水田を買い求めたのはこの時期です。明治二十五年のころ、宿根木で廻船を持っているのは、佐藤実平、浜田嘉平次、佐藤伊左衛門の三人が一艇ずつでした。「もともと、これらの廻船は越後に行って米を仕入れ、それを大阪方面へ積んで行って売りさばくことを職業としていたのですが、なんと最近は、上方の米相場の方がかえつて佐渡より安いということで、もう米を大阪へ運んだのでは損をするばかりという有様になってしまいました。そこで方向を変えて最近では越後の米を北海道へ運送することに力をおくようにしたのですが、本年(明治二十五年)をどは奥州の米値段が非常に安く、すっかり前途の目途が立たをいというようを有様にをってしまった」(北浜雑誌)のです。もう、宿根木の村は火が消えたようになってしまいました。
★佐藤石松
平成28年 新潟日報

大正12年生まれ、令和2年5月没(96歳)
★佐藤市之丞
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政三年生 新穂村長畝 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]
★佐藤一斎
「佐渡の教育の父・円山溟北」(「佐渡の百年」)
★佐藤一平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三十三年生 小木町宿根木 ・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭4、第二十回衆議院議員の総選挙[十二年四月三十日]・昭4、佐渡政友倶楽部の大会[十二年十一月十八日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐藤卯三郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★佐藤栄作
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
佐渡における天理教の歴史は、河崎の「佐島分教会」と新穂の「越の国分教会」がもっとも古いとされる。越の国分教会についてみると、明治二七(一八九四)年敦賀の人佐藤栄作が新穂村青木で布教、明治三三(1900)年同じく遠藤清左衛門来島、明治四二(一九〇九)年教会を設立し、今日に至る。信者数全島一七教会で約3000人という。
★佐藤栄八
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
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★佐藤枝彦(さとうえだひこ)
佐藤勘十郎墓(+枝彦 赤泊 上の山)

【生没】一七九一ー一八五三 歌人、赤泊村の人。河原田の中山千鶴・新穂の本間季喜とともに、佐渡の三歌匠と称された。寛政三年廻船問屋桝屋の三代目として生まれ、勘十郎を襲名し、桜園と号した。祖父の勘十郎は、徳和村信田宇兵衛家からの養子で、小百姓から身を起こし、一代にして神通丸・万徳丸を擁して大阪などと通商、菩提寺遍照院の本堂を寄進するほどの富豪になった。枝彦は読書に親しみ、ことに古典を好んで、本居大平の門に学ぶ国学の徒でもあり、素戔嗚尊と月夜見尊との関係についての、論考を書くひとかどの学者でもあって、『古事記伝』を佐渡に最初に伝えたという。伊勢松阪に師の大平を訪ね、さらに奈良・京都・讃岐・山陽路から江戸に至るまでの、和歌を詠み込んだ道中記『旅の道くさ』が残されている。佐藤家は枝彦の代で没落し、子孫は北海道に移住した。邸宅跡は、松前稼ぎで成功した田部九郎平が買い取り、望楼のついた家が建てられた。
嘉永六年二月没、「上の山」にある「佐藤藤原枝彦墓」は、地震で倒れたままになっている。
【関連】中山千鶴(なかやまちづる)・本間季喜(ほんますえよし) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、『赤泊村史』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡赤泊村徳和、信田宇兵衛の子で通称を勘十郎といった。赤泊の佐藤家を継いだ。本居太平に国学を学び和歌をよくし佐渡三大家といわれた。書も巧みであった。嘉永六年(一八五三年)二月に六十三才でなくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
・佐藤枝彦 さとう-えだひこ
1791-1853 江戸時代後期の国学者。
寛政3年生まれ。佐渡(新潟県)の人。本居大平(もとおり-おおひら)にまなび,本居宣長(のりなが)の「古事記伝」をはじめて佐渡につたえた。嘉永(かえい)6年2月死去。63歳。本姓は信田。通称は勘十郎。号は桜園。名は枝比古とも。
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※「佐藤枝彦道中記」
赤泊の廻船商人・佐藤枝彦が関西や江戸へ上った際の旅日記です。枝彦は、本名を升屋勘十郎といい、家業を継いで廻船問屋枡屋を営んでいましたが、本居大平について国学も修め、絵画や和歌の名手としても知られました。この旅日記は、縦9cm、横16cmの小冊子で、年号は書かれていませんが、3月29日に菅の屋を出てから奈良~大阪~京都へと上り、その後東海道を下って江戸の柳はし宿に到着したことが記されています。また、その間に40首の和歌が詠まれていますが、「我うし(大人)に、なには(浪花)にて夘月十一日に別し」とあることから、師・本居大平と途中まで同行していた様子がうかがえます。
『赤泊村誌(上)』より
佐渡奉行久須美六郎左衛門が佐渡へ渡ったのほ、天保一二年(一八四一)五月四日のことであった。久須芙の書いた『佐渡の日次(ひなみ)』によれば、その日の朝五ツ時(八時)に寺泊を出航し、赤泊に着いたのは九ツ時(一二時) だった。赤泊では、町年寄佐藤勘十郎宅に止宿することになった。勘十郎の家につくとおかゆが出され、これはなかなか良い味であったとある。つづいて「勘十郎家作など風流花麗にて奢侈の躰、ことに料理なども馳走がましく、はなはだいかがの仕向きなり。本膳、鱠(なます)平皿膳椀、蒔絵にて飯次飯台なども同様にて、もっとも敬い侯趣意にもこれあるべく侯とも、蒔絵の膳椀など用うべき筋にこれなく、其の意を得ざる事に供えども、当国へ入込み、いまだ同役へ面談に及ばず存意申し述べ侯もいかが、かつは先役共の義を批判いたし侯趣意にも相当り候哉には、追て取計い方もこれあるべしと勘弁致した」と記して、不満の意をのぞかせている。とにかく勘十郎の豊かな生活がうかがえる。佐藤勘十郎がいつから船をはじめたかほあまり良くわかっていない。しかし延命院の過去帳に次のような記載のあることを発見した。
「文化十一戌七月十二日の悪風にて、当津勘十郎船上下二十人松前登死去」
これによれば、勘十郎の船が松前方面へ航海していて沈んだのであろう。寛政二年(一七九〇) には、檀那寺である遍照坊の再建立資金を出しているし、寛政六年には鎮守若宮権現へ石の鳥居を、文化一〇年(一八一三)には同社へ石燈寵を寄進しているところをみれば、宝暦の佐渡産物他国出しの波に乗って廻船をはじめ、松前との交易を中心にして、このこの頃には相当の財を貯えるに至ったのであろう。このことは、勘十郎の土地所有の状況からも推測できると思う。元禄七年(一六九四)の検地で勘十郎は、
・山方 屋敷 二十四歩 ・浜方 屋敷 三歩 ・ねがくぼ 上畑 七畝十歩 ・ねがくぼ 下畑 一反四畝十七歩 ・上の山 上畑 一畝十八歩 ・くり林 上々畑 一畝十二歩 ・宮の河内 下畑 六歩
しかもっていなかった。ところが、天保六年(一八三五)広恵倉から、二〇〇両の借金をするときに出した質入証文によると、田だけでも二町六反六畝六歩という大変広い土地を所有するようになっていることがわかる。
天保六年佐藤勘十郎田地所有状況(p185にあり)
広恵倉は、佐渡奉行所が文政年間に米の適正価格での市中売出しを計って設けたものであるが、やがてその益金を商人や村方に貸し出すようになっていた。この借金は、勘十郎が天保四年(一八三三)、西方村市振(現羽茂町)に一町四反七畝の新田を開き、検地を受けている(西方区有文書)から、そうした資金繰りに当てたのであろうか。ついで天保七年、勘十郎は再び一〇〇両を広恵倉から拝借した。その拝借期間は五分の利息で五ケ年であった。勘十郎はこの証文で、「松前表の商い物仕入仕りたく」 と、その使いみちについて書いている。天保一一年の二月には、さらに五五五貫文の拝借を願い出たのであった。その理由を「御本陣相勤めまかりあり候処、此度家作り手入れ仕りたく右入用に差支え拝借願い奉り侯」といっている。この家作修理は、おそらく天保九年(一八三八)、佐渡でおきた、いわゆる天保の一揆で勘十郎の家は打ち壊しをうけ、それを修理しょうとしたのであろう。当時、勘十郎の当主は、枝彦と号し、本居宣長の後継者である本居大平に国学を学び、佐渡三歌人の一人といわれる文人でもあった。このころまでが勘十郎繁栄の絶頂期であった。天保一二年六月一日、久須美奉行は巡村の折、再び佐藤勘十郎の宅で昼食をとった。質素倹約を旨とする久須実は、この前は奉行として赴任する途中であったから、ぜいたくなもてなしもそのままにしておいたが、今度は
「今日も例の通り膳椀にて一汁一菜之外、焼物、椀盛、猪口などをつけ差出し供に付、飯はほかに用意もこれなき故相用い候得ども、持参の香の物・なめものにて食事を仕廻、目付役西川藤内を呼びよせ右膳部を見せ、かねて申し付置侯おもむきこれあり侯ところ、いかがの心得にて馳走がましき義致し候哉、元来家作家具などはなはだ奢侈の躰其の意を得ざる義に付、原田次郎右衛門へも申し談じ、勘十郎心得方とくと相糺し申し開かせ侯よう」申し渡した。原田次郎右衛門が勘十郎を糺したところ、巡村の接待については、かねてお触があった趣も知ってはいたが、前々のしきたりにかんがみて一汁一菜ではあまりそまつで悪いと思い、お触には違反すると知りながらかような心待ちがいとなったことは、甚だ恐れいった旨を書付を以て差出したのであった。当時の赤泊本陣佐藤勘十郎の宅地図面がのこっている。こうした佐藤勘十郎の繁栄もながくはつづかなかった。嘉永三年(一八五〇)の拝借証文をみると、借金の合計は二四一三貫五九四文である。勘十郎はこれを二五ケ年の年賦で借りたのであるが、この金の返済については、その後いろんなトラブルをおこし、再び彼の家は立ち直ることはなかったのである。風流華麗を誇った勘十郎の宅地は、明治には、やはり松前稼ぎで成功した田部九郎平の手に渡った。今、その場所には九郎平の建てたニシン場の建物を偲ばせる望楼が、かつての商いの繁栄をわずかに物語っている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤枝彦
40 鑑賞 佐渡のうた (33) -補遺- 遊女初君・山本以南・佐藤枝彦・大久保正・能村登四郎 山本修巳
66 連載 閑々亭雑記 (20) 歌人佐藤枝彦のこと 山本修之助
84 佐渡歌壇史余滴 (2) 佐藤枝彦道中日記「旅の道くさ」(その1) 酒井 友二
86 佐渡歌壇史余滴 (2) 佐藤枝彦道中日記「旅の道くさ」(その2) 酒井 友二
87 佐渡歌壇史余滴 (2) 佐藤枝彦道中日記「旅の道くさ」(その3) 校注 酒井 友二
88 佐渡歌壇史余滴 (2) 佐藤枝彦道中日記「旅の道くさ」(その4)校注
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)



『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

赤泊八幡神社にある石灯籠(「佐藤勘十郎」「文化」が読み取れる)

★佐藤嘉一郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

有田家(有田八郎・有田圭輔の子孫・家系図)(閨閥)
昭和23年(1948)6月29日 佐藤嘉一郎、住友銀行取締役就任(八六節)
昭和37年(1962)1月4日 住友銀行元取締役佐藤嘉一郎死去
★佐藤嘉吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐藤角蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村 ・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★佐藤嘉十郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

有田家(有田八郎・有田圭輔の子孫・家系図)(閨閥)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町中町 ・大1、政友会新潟縣支部の春季大会[四年五月八日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「一徹の外交官」(「佐渡の百年」)
★佐藤一富
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤和彦
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤和彦 101 佐渡の民俗事象に学ぶ
★佐藤勘一郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

★佐藤冠猴(冠猿)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★佐藤勘十郎→佐藤枝彦(さとうえだひこ)
★佐藤勘十郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町 ・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
★佐藤勘之助」
「躍進日本」

★佐藤喜久夫
東京柿野浦・東鵜島会初代会長(昭和53年12月~平成10年)
★佐藤喜十郎
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
★佐藤喜太郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・6・8・29~30 第3回北陸水上選手権・県水上選手権・県青年団水上選手権・県下学量水上選手権・全日水上選手権・明治神官水上北陸予選会。悠久山プール
(金泉小 尋常男)50自1位 37.1、50背2位、200リレー1位金泉
★佐藤吉三郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐藤窮屈(窟翁)
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
俳人。佐渡郡新穂村潟上の人で隠屈、退屈とも号し名は藤五郎といった。
俳諸をよくし奇行が多く、常に窟をほって住み、家人でも見ることができなかった。たずねる老があると病気またほ事故といってことわり、その人が帰る時、昨来昨来といった。
時には乞喰と寝食を共にした。また闇夜汁のうち、食べにくいものは足駄の歯と馬蛭であるといった。晩年は五穀塩醤を食わず、しかも一飲一斗といわれる程で酔わなければやめなかった。古賀精里の額をいつも室にかかげた。文政十二年(一八二九年)九十三才でなくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★佐藤久次郎
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
沢根には名物の沢根だんごがある。言い伝えによると、天保年間頃に加賀か能登の船頭が沢根沖で難船して、そのまま沢根町に住みつき、やがて中の茶屋久次郎の入婿となり籠町の叺(かます)屋惣平の娘を妻にした。そして故郷のだんごを製造販売した。人から人にその評判が伝わり、たちまち大繁盛をしたという。家業は三代にわたり受け継がれへ明治になって子孫は北海道に移住してしまった。地元では当時、「茶屋だんご」と呼んでいた。しかし大乗寺過去帳によれは、沢根だんごの創始者思われる佐藤久次郎は、天保七年(1836)北海道岩内にて死亡し、同十年に息子、嘉永五年(一八五二)六月には妻が同地にてなくなっている。以後、代々岩内に住んだが、大正期からは大乗寺過去帳には佐藤家の記載は見られない。このことから推察すると、すでに天保期にほその製造法を、誰かに伝えて、間もなく北海道へ移住したものと考えられる。
★佐藤銀蔵
「岩首校百年誌」(昭和55年)



★佐藤金太郎
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤熊蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]
★佐藤慶一

1990年生まれ。新潟県佐渡島出身。 2009年 獨協大学外国語学部英語学科入学、佐渡島からきて、英語を学びつつ、国際関係論を専攻していた。ウェブ編集者。greenz.jpのライターインターン、オウンドメディア関連会社でのウェブ編集アルバイトを経て、講談社「現代ビジネス」のウェブ編集者に。その他、NPO/NGOのウェブメディア立ち上げ/編集、企業のオウンドメディア立ち上げ支援などを行っている。
諸情報
★佐藤源五郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★佐藤賢治

「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤謙之輔
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★佐藤佐一
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭和15年、県青年陸上競技大会800mR真野チーム5位(金森寅二・山田正太郎・佐藤佐一・小川一男)
★佐藤佐吉
「躍進日本」

★佐藤定

★佐藤佐太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐藤敏
「エスライフ」2007年7・8月号

★佐藤三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町 ・明4、山本の送別会[三十五年八月十五日]
★佐藤治右衛門(さとうじうえもん)
【生没】(生・没年不詳) 相川町三丁目の元廻船業、松栄家の始祖。出羽(山形)の最上郡丸山郷最上の出身といわれる。慶長年間(一五九六ー一六一四)に佐渡に渡り、相川羽田町西側に住んでいた(松栄家系図)。元和九年(一六二三)の火災のあと、鉱山のある宗徳町に移るが、六代目の治右衛門通唯までは、佐渡奉行所の構内にあった金銀改役、後藤庄三郎に抱えられて、小判師として家計をささえていた。のち御米蔵銀掛に転職し、以後代々この職を世襲している。文政九年(一八二六)以降、両替屋上席を仰せつかった記録があるので、鉱山関係の雇町人から商人になり、元治元年(一八六四)佐治右衛門の代に、下戸番所付問屋の新規御雇係を拝命している。明治維新後県令の鈴木重嶺から、「松栄」の姓に改めることを許されたという。松栄の初代は治作で、この代から廻船業に転じて数隻の船(「松栄丸」)を持ち、松前・大坂・江戸まで廻航して商域を広げた。鹿伏の善知鳥神社境内に、「元禄四暦霜月吉祥寺、施主相川住佐藤治右衛門」と刻み、左藤丸紋章を中央に陰刻した、美麗な水鉢が残っていて、元禄のころには苗字を許されていたらしい。三丁目の金毘羅神社には、廻船時代の「松栄丸」を描いた船絵馬が、同家から多く奉納されてある。
【関連】松栄俊三(まつばえしゅんぞう) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★佐藤滋子
両津高校時代の1968年度(S43)11月 第2回新潟県高等学校美術展県教育委員長賞受賞
★佐藤実平
『小木町史』(下)より
宿根木には、明治十一年ころまでは廻船が十四、五捜もあって、百人以上の人がこの船の水主として乗りあわせ、百数十戸の村の経済を支えていたのです。ところが明治10年の西南戦争後、 廻船はすっかり駄目にをり、それよりは田地を買ってそれを預け、小作料をとった方が利にかなう時代がやってきたのです。宿根木の廻船持ち佐藤穴口さんなどが手広く水田を買い求めたのはこの時期です。明治二十五年のころ、宿根木で廻船を持っているのは、佐藤実平、浜田嘉平次、佐藤伊左衛門の三人が一艇ずつでした。「もともと、これらの廻船は越後に行って米を仕入れ、それを大阪方面へ積んで行って売りさばくことを職業としていたのですが、なんと最近は、上方の米相場の方がかえつて佐渡より安いということで、もう米を大阪へ運んだのでは損をするばかりという有様になってしまいました。そこで方向を変えて最近では越後の米を北海道へ運送することに力をおくようにしたのですが、本年(明治二十五年)をどは奥州の米値段が非常に安く、すっかり前途の目途が立たをいというようを有様にをってしまった」(北浜雑誌)のです。もう、宿根木の村は火が消えたようになってしまいました。
★佐藤紫寿(しのぶ)
新潟県出身。2011年、第25回新潟日報文学賞(小説部門)を受賞。2012年、文芸社より短編小説集 『felicidad フェリシダ』(佐渡が舞台の作品)を刊行。
★佐藤しのぶ
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「62号」(令和2年7月)・佐藤しのぶさんを悼み、佐渡の「夕鶴」を想う(山本顕男)
★佐藤重右工門
『新穂村史』(昭和51年)より
新穂の番匠の家。佐藤重右工門家の文政の帳簿によると、番匠の総数は二十四人となっている。そのうち佐藤家のある旧長畝村の番匠は七名で、他は新穂町五人、潟端・細屋・内巻各三人、新保と源太平・島各々一人である。長畝村の七名が村じゅうの番匠の数であろう。
→番匠(新穂)
★佐藤淳悟
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1936年。日本体育大学卒、小中学校の体育教員として36年間勤務、高等学校では特に、器械体操、陸上競技の指導。真野地区の小学校低学年(1、2年生)を中心に、運動ぎらい、運動オンチの子供達を土曜日に2時間ばかり、マット、トビ箱運動をしたり一緒に遊んでいる(ボランティア)
★佐藤俊策(さとうしゅんさく)
1930年、相川生まれ。相川役場勤務。日本考古学協会員。
編著書に「佐渡考古歴史」①~②(佐渡考古歴史学会)、「金太郎窯」(相川郷土博物館)、「惣社裏遺跡」ニ具野町教育委員会)などがある。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
★佐藤淳次
県立佐渡女子高等学校校長(昭和51.4.1~53.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★佐藤順良
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐藤常済
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の詩歌俳句。近世からの延長として和歌は明治期にも盛んで、連歌の盛んであった長畝に「莬玖波会」という団体があり、毎月十一日に例会を開いたといわれる。青木にも土屋賢継を師とする和歌の会があった。明治中期から短歌といわれるようになり、昭和初頭より、故藤川忠治(羽茂出身)の「歌と評論」の支社として益田清、後藤億衛、一度精一、本間勇夫、近藤芳雄、池田元一郎、佐藤常済、土屋貞作、本多敏樹、川上道夫等が同人となり、盛んであった。藤川没後はやゝ下火となった。山田穂積(田野沢一八九五~一九五五)大正期にはその歌才が群を抜いていた。
★佐藤次郎左衛門(小木江積)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。小木江積は中世からの村です。二十六戸中佐藤姓が一番多く十二戸あります。大屋は佐藤次郎左衛門です。藤原氏の子孫と伝えているところをみると、鍛冶などと関係があったものでしょうか。村の鎮守十二権現(熊野神社)の開基は次郎左衛門の先祖であるといいますから、村の草分けであることがわかります。十二権現は、はじめ佐藤善太郎(屋号中村)の山にあったといわれ、大屋と中村は菩提寺の円満寺から永代院号を与えられているといいますから、中村は大屋の古い分家でしょう。
★佐藤澄子
「エスライフ」2010年10・11月号

★佐藤清蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★佐藤惣之助
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

「惣之助と鬼太鼓」(「佐渡の百年」)
「赤城の子守唄」、「人生劇場」の作詞などで知られる詩人、俳人。昭和4年10月に詩人福田正夫、畑喜代司と共に来島。
昭和11年8月福田正夫と共に再来島し、「かにかくに小木はなつかしき港なりけり七日月西にかかれば内の澗の波にあき風しのびくる」の詩を作った。真野四日町集落で偶然鬼太鼓を見て詠んだ。その日は四日町若宮八幡の祭礼だった。
後に俳句雑誌「雑草」(昭和4年11月17日発行)に「鬼太鼓十句」を発表した。
・新月を必死と撃つや鬼太鼓 ・鶏頭の燃ゆるかに鬼太鼓来たりけり ・鬼太鼓とどろとすぎぬ零余子(むかご)畑 ・子等の輪にかぶる黄葉や鬼太鼓 ・鬼太鼓に新酒構えて茣蓙(ござ)に居る ・掛け稲に妓(おんな)追ひつめよ鬼太鼓
「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)
★佐藤大住
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会において、槍投5位(40m41)。
★佐藤隆子
両津高校時代の1981年度(S56)12月、高校生小論文(新潟日報主催)優秀作
★佐藤孝

新潟日報(h28年4月12日) 市議二期目

平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報

★佐藤貴幸
「佐渡ふるさと百科」

★佐藤卓宗(痴蝶)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★佐藤武雄
住吉瑞芳寺

★佐藤達也
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤智孝
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★佐藤チャウ
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤千夜子(ちやこ)
「雨情の講演会と震災」(「佐渡の百年」)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤千夜子 7 「いちばん星」の佐藤千夜子 -佐渡で震災を聞く-伊沢辰雄
★佐藤貞市
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★佐藤貞一
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。
しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★佐藤徹次郎

「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の茶の湯は裏千家流志田静子と会員約五十名、江戸千家流金沢フミ外五十名があり、一時佐藤徹次郎等の同好会四日会もあった。現在はわずかに大野杉山スエが自宅で、その他総合センターの講座等で教えている。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤徹次郎 21 稀品・鵜飼郁次郎翁の書
★佐藤東作
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
相川下戸の人、金融業、昭和4 年没。雅楽研究家であり、「立浪会」創立の大正13年に入会し笛を担当し長く会員として活躍する。大正15 年には村田文三、曾我眞一等と1ヶ月に亘る満州各地の公演旅行に参加。大正末の「両津甚句」の初期レコーディングの際にも笛を担当した。
★佐藤東作
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★佐藤藤三郎
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤藤十郎

(柴山秀樹さん情報)・上記、中川杏果氏の文に出てくる佐藤氏(京都養蚕学校)はハイカラの人で、カメラを愛好し、大町桂月が金北山登山をした時の人足三人組の一人。
★佐藤徹

東京大学教授/環境学研究系。佐渡関係者(※浅島誠先生談:本人が佐渡出身と言っていた)
海洋技術環境学専攻/海洋環境創成学講座/海洋環境工学
「略歴」
1984年3月東京大学工学部船舶工学科卒業
1986年3月東京大学大学院工学系研究科船舶工学修士課程修了
1986年4月~1996年1月?Mブリヂストン
1990年10月~1993年7月英国インペリアルカレッジ化学工学科博士課程(Ph.D.)
1996年1月東京大学大学院工学系研究科環境海洋工学専攻助教授
2004年5月東京大学大学院新領域創成科学研究科教授(現職)
「教育活動」
大学院:環境調和システム開発論、環境流体シミュレーション、環境システム学概論
工学部システム創成学科:環境エネルギー流体力学、環境エネルギー基礎プロジェクト、環境エネルギー応用プロジェクト
「研究活動」
メタンハイドレート生産に関するモデル研究(2003-):
メタンハイドレート(MH)は、エネルギーセキュリティーを考えると日本にとって重要な資源である。当研究室では、国のプロジェクト(MH21)のMH生産シミュレーターの開発に参画し、産総研との共同研究として、その重要なモジュールである分解速度モデルの構築を行った。また総分解量を予測するために必要な、堆積層中のMHの生成・分解モデルを開発中である。さらに、MH開発のベネフィットを、経済性だけではなく、エネルギーセキュリティーやリスクも含めた形で評価統合的環境影響指標の提案をしている。
CO2海洋隔離と海域地中貯留に関する環境影響評価(1997-):
地球温暖化ガスであるCO2の海洋隔離法と海域地中貯留に関し、深海中でのCO2液滴の挙動、溶解した CO2・熱・塩分の移流拡散、CO2の生物影響を予測するために、CO2液滴スケール及び局所的な海洋スケールを取り扱うモデルを構築し、温暖化対策技術としての将来性を提言した。また海洋隔離を実施する場合としない場合の環境リスクと経済効果を、大気・陸域・海域全体を捉えて評価する統合的指標を開発している。微細藻類培養高効率フォトバイオリアクターの開発(1999-2003, 2006-):
大気中の二酸化炭素を光合成によって固定するため、微細藻類を高効率に大量培養する装置を発明した。非構造格子を用いた二相流CFDを用いることで、開発プロセスを効率化した。またライトフラッシング効果を表現できる独創的な離散型光合成モデルを開発し、計算機中でリアクターの性能予測をする手法を開発している。
海洋環境評価のための海洋流動モデルの開発とその応用(2000-2003):
局所的な人類活動の海洋への影響を解析できる海洋モデルを開発した。直径3mの回転水槽に海底地形を型どった歪模型を設置した水理実験と合わせて、諫早湾に海水浄化装置を設置した場合の物理的な効果を予測した。また上記物理モデルに生態系モデルを組み込み、浄化装置の生態系影響と浄化メカニズムを解明した。
小スケール海洋乱流の数値的・実験的研究(2001-2007):
人工物との相関の強い小スケールの海洋の乱れは、様々な渦と内部重力波によって構成される。そこで新しい海洋乱流計測法を考案して3次元流場の現場実測を行い、また3次元流体現象の数値解析モデルを開発し、現実の海洋の乱流を数値的に再現することに成功した。さらにDNSとLESにより、非等方乱流を表現するのに適した乱流モデルを指摘した。
学位 Ph.D(ロンドン大学)
職名 教授
所属 大学院新領域創成科学研究科
海洋技術環境学専攻海洋環境創成学講座
所属サイトURL http://www.k.u-tokyo.ac.jp/別ウィンドウで開く
専門分野 海洋環境工学
研究テーマ 海域を利用した二酸化炭素隔離技術の環境影響評価手法の開発
研究テーマに関するキーワード 海域CCSの環境影響評価,ハイドレートによるCCS技術の基礎的研究,メタンハイドレート堆積層内の三相流解析,ハイドレートの分解・生成モデリング,微細藻類培養フォトバイオリアクターの開発
実績等URL http://lemons.k.u-tokyo.ac.jp/SATO/別ウィンドウで開く
Scopusページへのリンク Scopus別ウィンドウで開く
★佐藤得二
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)より
昭和5年当時の観光客というのは、殆どが、「日蓮宗佐渡参拝団」という団体であった。そもそもこの参拝団なるものは夷の丸金旅館(今の菊池組の一部)主、佐藤得二氏(夷七、斎藤八郎兵衛翁次男)が発案したもので、それに同じ日蓮宗の法華甚平事青木屋旅館の小野原甚蔵氏(現青木星小野原マツエおばあさんの父)を誘って、自費をつぎ込んで宣伝募集した日蓮の遺跡参拝を目的とした宗教団体から発想したものだ。それが大きく飛躍して当時の第八佐渡丸を貸切っての二百、三百人の大団体は○○駅主催といったものが多く、それにしてもその基を始めた丸金旋館主の功績は見逃せない。
★佐藤利夫(さとうとしお)

新潟日報(h28年10月24日 新潟日報文化賞受賞)


昭和7年(1932)-令和5年(2023)4月没、92歳。相川長坂町在。新穂長畝生まれ。富山大学経済学部卒業。郷土史家。相川高校教諭。著書に写真集「くらしの四季」(佐渡国小木民俗博物館)、「海陸道順達日記」 (法政大学出版会)などがある。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。両津、新穂他での文化講座講師や、各種歴史講演会の講師として活躍する。2013年11月、「離島振興60周年記念功労者表彰」を受賞。
・1931年、新潟県佐渡市に生まれる。富山大学文理学部経済学科卒。1955年より県立相川・佐渡・羽茂の各高等学校教諭を経て、1988年に退職。この間、佐渡島内の歴史と民俗にかかわる記録・習俗・伝承などを調査し、新潟県史および佐渡の町村史の執筆にかかわる。退職後は佐渡各地の古文書・行事などの調査をつづけている。著書に「裂織(ものと人間の文化史 ) 木綿生活誌」(法政大学出版局)他多数
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤利夫
34 山家の蕎麦 42 秀山「海陸順達記」の道をたどる (1) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 43 秀山「海陸順達記」の道をたどる (2) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 44 秀山「海陸順達記」の道をたどる (3) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 45 秀山「海陸順達記」の道をたどる (4) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 46 秀山「海陸順達記」の道をたどる (5) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 47 秀山「海陸順達記」の道をたどる (6) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 48 秀山「海陸順達記」の道をたどる (7) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 49 秀山「海陸順達記」の道をたどる (8) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 51 秀山「海陸順達記」の道をたどる (9) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作
52 秀山「海陸順達記」の道をたどる (10) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 53 秀山「海陸順達記」の道をたどる (11) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 55 秀山「海陸順達記」の道をたどる (12) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 92 羽黒神社の神幸祭考(上) 94 羽黒神社の神幸祭考(中) 97 羽黒神社の神幸祭考(下) 109 佐渡渡来四百年 -山本半右衛門家の歴史- 110 山本半右衛門家の「日の丸船印」 112 北国米輸送と山本半右衛門家のかかわり 116 「千の風になって」とふるさと 119 近代を見た旅日記 -明治三年『道中記』九世山本半右衛門(山本慊)- 佐藤 利夫 123 山本家の墓所改築の所感 125 真野湾南岸の海村-渋手と新町 -山本半右衛門家の新町転住の背景- 127 相川の松栄家について
「佐渡の信仰と郷土芸能」(佐藤利夫 平成14年)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p441・442
「村の生活 高千」(佐藤利夫)
★佐藤智雄
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佐藤 智雄(さとう ともお、1917年5月14日-2000年2月8日[1])は、日本の社会学者。中央大学名誉教授。専門は、ジャーナリズム論・メディア論・新聞学・宗教社会学。新潟県佐渡郡相川町出身。日蓮宗の古刹の寺社に生まれる。1941年立正大学文学部哲学科卒業。同文学部助手。1946年立正大学文学部専門部専任講師。1949年中央大学経済学部助教授。1951年中央大学文学部助教授。1960年中央大学文学部教授。1969年中央大学評議員(〜1985年)。1988年中央大学定年退職。同名誉教授[2]。淑徳大学社会福祉学部教授。1989年同大学院社会福祉学研究科教授。1992年淑徳大学退職。学外の役職として、日本社会学会理事、日本新聞学会理事、1960年NHK放送文化研究所研究委員(〜1970年)、1965年広告電通賞審査委員(〜1969年)、1976年日本生活環境センター理事、1985年文部省科学技術審議会専門委員、放送大学教養学部客員教授など。
著書:『新しい布教法 : 宗教宣伝学』平楽寺書店 1955.10『流行 : その魅力の分析』日本教文社 1955.11『現代の社会学』 ルネ・ケーニッヒ著 鈴木幸寿と共訳 誠信書房 1957.7『社会心理学』 ウッダード著 佐藤訳 誠信書房 1958.『地方都市 : 糸魚川市の実態』 編著 東京大学出版会 1961.10『疎外と連帯 : 宗教的政治的信念体系』 デ・グレージア原著 池田昭と共訳 勁草書房 1966.11『社会心理学』 柳井道夫と共編 学文社 1972.4『歴史としての現代社会』 編著 中央大学出版部 1973『現代社会と社会学』 編著 中央大学出版部 1974.3『生活構造の社会学(改訂版)』 編著 中央大学出版部 1976.4
注釈
^ 林 茂樹「佐藤智雄先生を偲ぶ」『マス・コミュニケーション研究 57号』2000年
^ 以上につき、「佐藤智雄教授の経歴並びに業績」『中央大学文学部紀要 133号』1988年
・中央大学社会学教授、相川妙圓寺24世住職。
★佐藤寅吉
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★佐藤信夫
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
両津 ・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★佐藤春明
滝平大峰の人、連歌関係者 →下記資料のp683
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★佐藤春雄(さとうはるお)

1919年、両津河内生まれ。平成26年12月6日死去、95歳。両津高校他、島内高校で教鞭をとる傍ら朱鷺保護に邁進する。佐渡トキ保護会三代目会長。日本野鳥の会佐渡支部長。日本鳥類保護連盟専門委員。著書に「はばたけ朱鷺」(研成社)などがある。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。初代両津高校校長橋本喜一は実兄、元東大副学長の浅島誠は甥(姉の息子)にあたる。
(野町の市橋家)
・次男:橋本喜一(両津市長)・三男:向高野
菊池喜左衛門(仁作 両津郵便局長)・三男:佐藤春雄(南河内)
・菊池仁作妻は高尾亮一の姉妹
※菊池家の葬儀の時、高尾さんが白いポケットチーフを付けており、これが正式なんだと思った。(山田昭夫談)
・菊地仁作の娘は野口誠之(奈良女子大学長)に嫁ぐ。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「40号」(平成27年1月)グラフ佐度(・佐藤春雄さん死去・約160年前から伝わる「戸地祭」)「57号」(平成31年4月)・佐藤春雄先生「生誕100年」(清水薫)
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤春夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤春夫 114 佐渡の石二つ-佐藤春夫と三島由紀夫と-清田文武
★佐藤彦丸
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
★佐藤久雄

平成31年2月




畑野町大久保出身、昭和22年生。佐渡高校ー早稲田大ー三井物産勤務を経て平成23年新潟県議。この県議選は飛行場建設に対して積極でなかった中野県議に対して憤った自民党系市議(加賀、竹内が先頭に立つ)がアンチ中野県議として新人佐藤久雄氏を担いだ。現役の中川カヨ子も含めて三つ巴戦であったが、とばっちりを受ける形で中川が落選した。
佐藤は県議になってまもなくの市長選出馬を目指したが、上記市議達の猛反発にあい断念した。
(略 歴)
・昭和22年旧佐渡都畑野町大久保生まれ
・昭和35年後山小学校卒業
・昭和38年畑野中学校卒業
・昭和41年佐渡高等学校卒業
・昭和46年早稲田大学政治学科卒業、三井物産株式会社 入社
・昭和49年三井物産株式会社ジャカルタ支店経理研修員
・昭和52年イラン・ジャパン・ベトロケミカル・カンパニー(イラン駐在)
・昭和57年米国三井物産株式会社ニューヨーク本店監査課長
・平成11年物産機械情報サービス(株)取締役経理部長
・平成16年三井物産パッケージング(株)取締役経理部長
・平成20年三井物産株式会社 退職
早稲田大学大学院公共経営研究科入学
北川正恭教授に師事、地方自治を研究。
・平成23年新潟県議会議員初当選
(佐藤久雄)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「57号」(平成31年4月)・県議選開票結果(中川隆一12599票・佐藤ひさお7493票・北けい7111票)
★佐藤ひさし
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤ひさし 4 郷土玩具界の先達者 山本修之助
★佐藤久吉
明治40年、白瀬漁場にて定置網を投網する。
★佐藤秀次



両津夷八郎平町の老舗ホテル「花月」を経営した。相撲人としてもよく知られ、大相撲佐渡巡業や大学他の相撲部の宿泊所となり献身的に世話をされ、中央と佐渡をつなぐ相撲関係者の中心人物であった。ホテル内に当時の相撲関係写真が陳列されている。
尚、この佐藤家の本家は夷七ノ町「佐藤長兵衛」(現「大阪屋」菓子店)であり、ここは初代佐渡ケ嶽の実家である。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
・両津の人、大正8年、東京電気学校時代に全国中学校相撲大会で2年連続優勝する。
大正14年、海軍軍人清水兼造(金泉)が靖国神社奉納第1回陸海軍人対関東学生相撲大会で個人優勝し、明治大学の佐藤秀次(両津)は関東相撲大会に優勝する。
・明治36年生まれ、昭和52年歿。1903年~1977年。享年75歳。両津市夷町に生まれ、東京電機学校に入学した。大正8年と9年全国中等学校大浜大会に個人優勝した。次いで明治大学に入学し、大正14年・大正15年関東大学学生相撲大会に個人優勝した。のち専修大学に転学し、専修大学卒業。帰郷後はホテル経営のかたわら佐渡のアマチュア相撲に出場し、青年力士達は花月(秀次の四股名)を破るのを目標とした。当時越佐対抗という名で佐渡と北蒲原郡中条町とは交流があったが、中条の大会でも優勝したことがあったといわれている。最後は夷の大名乗り越ノ湖を名乗ったといわれているが、越ノ海は木村助九郎・山口鶴蔵・金子幸一(戦死)・飯島辰之助(新潟港で遭難死亡)・佐藤秀次と続いたという人もあり、金子幸一で終ったという説もあり現在はっきりしていない。
佐藤は花月の四股名のほうが今は有名である。子息の当主も父親のことはよくわからないと云っている。突張り・寄切り・やぐら投げを得意とした。湖水波と称した時代もある。晩年大学相撲部貞の佐渡合宿、大相撲巡業の宿舎提供、日本相撲連盟への貢献などの功績で、名誉8段位を追贈された。
→佐渡嶽子之助(さどがたけねのすけ)
★佐藤兵衛(小木井坪)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。井坪には、佐藤姓はかみという屋号の佐藤兵衛一軒しかありません。佐藤兵衛のいる付近が清水の湧く所で、村の立ち始まりの場所だといわれていますから、草分けであることはまちがいないでしょう。
鎮守熊野権現の社人もしています。清水はこの佐藤兵衛と堀口(屋号中村)とが共同に利用しており、両家は兄弟だと伝えていますから、中村は古い分家なのでしょう。
清水の入口ということで堀口と名乗ったのでしょうか。
★佐藤兵衛(小木田野浦)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。田野浦は、鎌倉時代に江積から分かれてできた村です。ここには江積と同じく佐藤氏がいます。慶安年間(江戸時代のはじめ)に成立した犬神村の佐藤兵衛(佐藤右衛門)は田野浦の出身で、江戸時代から佐藤姓を使っているところからみて、戦国時代の地侍であったのでしょう。
★佐藤兵次
「加茂村誌」(昭和38年4月)

★佐藤福松
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
孝子。養母によくつかえ、鉱山の入坑を業とした。
母の病気中外出の時は妻に看病のことをこまごまと諭し帰宅するとその日の寒暖をのべ病苦のようすを問いその日の飲食の状況を妻にたずねた。近隣のつきあいも厚かった。
明治七年一月県から金二百疋を与えられて賞された。(佐渡人物志)
★佐藤富士美

※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・いきる(佐藤富士美) vol.11(蘭丸)
★佐藤方紀→佐藤方紀(やすのり)
★佐藤孫次郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★佐藤正勝
「手わざ図鑑」

★佐藤真樹
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤正安
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤正安 77 佐渡ヶ島における「えごえご」のゆくえ
★佐藤マチ
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★佐藤真由美

★佐藤萬五郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★佐藤光子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤光子 97 家庭人の魅力※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山本修巳先生
★佐藤道雄
昭和15年相川羽田町生まれ。昭和32年新潟商業卒、東京大学法学部卒。司法試験に合格し全国各地で検事として活躍。
佐渡へ帰り弁護士事務所を開設したが、後上越市にて事務所を開設。佐藤氏一族は佐藤方紀氏(音楽プロデューサー)、松栄和津(松栄俊三の孫)など。佐藤方紀氏は又従兄にあたる。
★佐藤通唯
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人。通称治右衛門という。
後藤小判師で和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★佐藤みつこ
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤南

★佐藤実
県立佐渡女子高等学校18代目校長(昭和55.4.1~57.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★佐藤ミヤ子

大正10年10月10日、鷲崎藻浦生,平成26年8月3日、12時半過ぎ逝去(92歳)。昭和30年代、「きんかん素人名人戦」で「両津甚句」を唄って全国優勝し、新潟で民謡酒場『甚句』を経営。レコードも多く吹き込む。その2男が有名な津軽三味線奏者木田林松次(昭和25年生)である。木田さんも藻浦で育つ。このblog中「佐渡民謡に貢献した人」に写真が載る。
愛弟子の高千池田元治さんが葬儀の模様を下記のように伝えて下さいました。
「お通夜に弔辞を依頼されました、又、出棺の際、佐渡おけさの伴奏も頼まれなんとか大役をこなしました。又、お通夜には佐藤知兄弟で津軽三味線で葬送曲を奏でました。」
「佐藤みやこさんの愛弟子である池田元治さん(高千在住)より」
佐藤ミヤ子さんには3人のお子さんがいました、
長女は妙美、長男佐藤貞夫、二男が次男と云いまして妙美は若い頃は唄とお囃子を担当してました、ミヤ子さんのレコーディングの時はお囃子をしてました、現在残されているCDとテープは全部がそうです。長男の貞夫は芸名を佐藤元海(もとうみ)を名乗り、三味線、尺八、横笛、のオールランドプレイヤーです、又、篠笛も製作販売もしてます。二男は御存じの木田林松次です、貞夫の奥さんは浅野光子(梅若流大師範)ですし林松次の奥さんは兼坂智友(故人)兼坂流の名取です。お孫さんは長女に2人いますが民謡はやってません。貞夫には3人います、長男は悠紀と云いまして津軽三味線、お囃子(太鼓)音響等の担当です、末っ子の知は御存じ津軽三味線の名手です(2014世界大会3位)林松次には2人いますが長男が佐藤匠(たくみ)と云います、津軽三味線をやってます。もちろん皆さん佐渡の民謡もやつてます。
佐藤ミヤ子・木田林松次写真
★佐藤元海(もとうみ)
本名は佐藤貞夫。民謡歌手佐藤みや子の長男で、三味線、尺八、横笛等のオールランドプレイヤー。
又、篠笛も製作販売もしてます。弟に日本を代表する津軽三味線奏者の故木田林松次がいる。
奥さんは浅野光子(梅若流大師範)。長男悠紀は津軽三味線、お囃子(太鼓)音響等の担当、末っ子の知は津軽三味線の名手で、2014世界大会3位。
(佐藤元海 もとうみ)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「64号」(令和3年1月)・藻浦集落開村160周年 ※佐藤元海(もとうみ)
★佐藤基行
(実業家、1954年 - ) : 三菱製鋼株式会社取締役社長(2015年 - )
年齢: 61歳 (2016年3月31日現在)
年月 略歴
1954年 誕生
1978年4月 当社入社
2006年3月 当社ばね事業部長
同 年6月 当社取締役、ばね事業部長
2011年6月 当社常務取締役、ばね事業部長
2013年6月 当社常務取締役
2015年6月 当社取締役社長(現任)
★佐藤守秀
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
画家。佐渡相川の人で通称を図書、探源斎と号した。
寛保元年(一七四一年)京都に出て鶴沢探鯨について画を学び延享元年(一七四四年)帰国した。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★佐藤泰
『両津市要覧(昭和33年)』より

★佐藤方紀(やすのり)
相川妙圓寺25世住職、音楽会社「ハーモニー」社長。父、智雄の遷化後、修行に入り住職となる。
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤雄一

★佐藤悠紀
津軽三味線の奏者でお囃子(太鼓)音響等も担当する。父は三味線、尺八、横笛等のオールランドプレイヤーである佐藤元海(もとうみ)、母は梅若流大師範の浅野光子。
弟は佐藤知(あきら)で2014世界大会3位の津軽三味線奏者、最近は佐藤兄弟として売り出している。
叔父(父の弟)に日本を代表する津軽三味線奏者の故木田林松次がおり、知は林松次の指導を受けた。
祖母は民謡家佐藤みや子である。
★佐藤勇太郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・9・8・19 第7回県青年団水上競技大会 柏崎公認50米プール
400自4位、1oo背 4位、
★佐藤与三郎
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1大いなるしゅうねん
★佐藤芳樹

★佐藤吉人
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤吉人 133 民謡詩人白鳥省吾の相川の碑を訪ねて
★佐藤六郎(さとうろくろう)
【生没】(生年不詳)ー一八六八 江戸で浪人をしていたが、文久年間に奉行岡松伊予守の雇侍として来島した。文久三年(一八六三)奉行の辞任と共に一旦江戸へ帰ったが、その後再び来島し、石田屯所番所役となって水戸藩脱走兵の世話をしていた。慶応四年五月に彼らが佐渡を去ると、共に越後に渡って戦ったが、徳川方の敗色によって佐渡へ来ていた。同年八月初旬、小木へ官軍の軍艦が入港すると、佐渡一国人民総代という名目で、佐渡が佐幕同盟を結んでおり、苛酷な税を課しているなどと密訴した。官軍方が依頼者の連署を求めたため、年貢半減を触れ回って連判状を作成しようとして、奉行所に捕えられ投獄された。しかし大熊忠順ら同志の者が、越後府へ官軍に抵抗する備えをしているなどと訴え出たため、来島した北辰隊や奥平参謀の軍事行動の契機となった。しかし、佐藤六郎一派の訴えが事実に反することが判明し、明治元年十一月十三日、佐藤六郎と大熊忠順は処刑され、他の者もそれぞれ処罰された。
【関連】中山修輔(なかやましゅうすけ)・奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・北辰隊(ほくしんたい) 【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川、岡松奉行の用人である。維新のはじめ和泉村(金井町)の大能仲順と共に越後府に組頭中山修輔以下が会津藩に通じ同盟し善内等が軍資を出したと密告した。訴えにいつわりの条項が多かったので獄に入れられ後に斬られた。(佐渡人名辞書)
(※渡辺注)一般的には、佐藤六郎と大熊忠順である。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
江戸浪人。会津藩士が佐渡郡河原田の屯所に在留中は世話方を命じられたが、同藩士が去った後、佐幕同盟論が時を得たのを見て、国内無頼の徒と語い、事を起そうとはかった。明治元年八月のはじめ、官軍の軍艦が小木に入港したと聞き、六郎は同志と共に、同盟の事情を密告し、佐渡奉行所組頭中山修輔を誣告したが、艦長はこれを受けなかった。更に越後府に告訴したがこれも受付けられなかった。止むなくひそかに帰国し、詐謀をめぐらしたが、事が発覚したので、中山修輔は九月二十日に六郎を捕えて獄に入れた。六郎の同志も離散して事件は終った。(佐島遺事)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
江戸浪人 ・明1、佐渡に於ける佐幕党[元年七月] 「佐渡関係事典に載る」
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より


「密訴する男」(「島の新聞」)
★佐藤和吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★佐藤原範経(さとうはらのりつね)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
範茂の恭子で生父は甲斐守範仲である。兵衛左で順徳上皇の近習、承久三年(一二二一年)順徳上皇佐渡御遷幸の時、供奉し、越後国寺泊で病死した。(承久記、吾妻鑑、真野山皇陵記)
★佐渡ケ崎
「佐渡ケ嶽部屋六代目」(「佐渡の百年」)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
小木町琴浦の生まれ。小木町宿根木の磨崖仏ある岩屋山の入口にに慰霊碑がある。
明治3年11月郷里で没した。漣(さざなみ)石松といって、宿寝木高藤家の船の船長をしていて、新潟港に寄港した時、相撲巡業(二所系追手風部屋であろう)があり飛入り参加をした。プロ力士を次から次に投げ倒す様を見て、大関源氏山がプロ入りをすすめ、源氏山の弟子になったものである。プロの世界では、遂に関取り(十両以上を云う)になれなくて廃業した。碑文ほ羽茂の葛西周禎(医師で漢学者として高名)が書いたもので、周禎が子供の頃、佐渡が崎の後姿を見たことがあるが、身長6尺、筋骨如鉄と驚いた様を記録に残している。
★佐渡島正吉
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★佐渡ケ島林蔵(佐々木林蔵)

佐渡ヶ島林蔵碑 真野公園


「横綱を破った「佐渡ケ島」」(「佐渡の百年」)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
力士。明治四十二年に佐渡郡真野町吉岡の佐々木芳蔵の長男として生まれた。昭和八年五月、二十四歳の時、東京大相撲の井筒部屋(初代西ノ海創設) の力士として初土俵を踏んだ。同十四年一月に十両、翌十五年一月には藤の川(現伊勢の海親方)を破って準優勝となった。五月に入幕、十六年八月西方四枚目に進んだ。横綱男女の川、大関五ツ島に勝ったこともあった。同十七年一月応召、高田山砲隊にはいり出征、戦傷で十八年帰還、新発田陸軍病院に入院した。同二十一年廃業し
て相撲界を去った。昭和三十年三月十七日に四十六歳でなくなった。(佐渡の百年)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
1909年~1955年、佐渡の力士が関取になった例ほ徳川時代にはあったが明治以降関取になった人はまだ出なかった。明治維新以後青雲の志を持った青年たちが、関取の夢をもって上京して、プロの部屋入りをしたのであるが、佐渡でもようやく関取りが出現することになった。それが「佐渡ヶ島林蔵」で真野町真野公園の一隅に、佐渡ヶ島林蔵顕彰碑が建っている。佐渡ケ島林蔵については2~3の郷土史家が書き残しているが、顕彰碑建立諏意書が当を得ているので、それを転記して、この人物を見ることにする。
「佐渡ヶ島林蔵」顧彰碑建立趣意書
「一年を二十日で暮すいい男」という古川柳があるが、わが真野町出身の名力士「佐渡ヶ島林蔵」が活躍したのは、かの双葉山が全盛期で、興業も1月と5月の15日ずつ30日で暮せたし、幕内3場所勤めて引退すると一生食うに困らぬと云われた黄金期であった。士は小川内甚九郎家の長男として生まれ、幼少の頃から心根優しく腕力に秀で炭を焚く父を助けて孝養に励んだ。長ずるに及んで島内の草相撲で一方の雄として牛耳を執ったが、やがて現役兵として昭和4年仙台野砲隊に召されることになった。在隊中ほ、生来の正順な思想と剛力の故をもって上官の覚えもめでたく、特に火砲祭での対抗相撲等でばったばったと相手をなぎ倒す有様は、さながら仁王か弁慶に紛らう程であったと伝えられる。身の丈6尺有5分(1.818m)体重実に30貫目(112.5kg)、加うるには比類な腕力を誇る士を、この世界で見逃すはずはなく、除隊後間もなく望まれて井筒部屋に入門。同門鶴ヶ嶺等と切磋琢磨の功が報いられて十両に昇進。この場所、得意の外掛け・つり等を駆使して14勝1敗準優勝、惜しくも優勝を逸したが翌場所晴れて入幕という異例の昇進ぶりであった。翌、昭和16年1月場所において西前頭六枚目に列し、時の横綱男女ノ川、大関五ツ島を連破して郷党の衆望に応えたことは今も語り草となっている。昭和17年1月応召、不幸にも病を得て新発田陸軍病院に静養を余儀なくされ惜しくも廃業。昭和30年3月17日栃木市倭町において永眠、享年47歳であった。たまたま、今年士の27回忌を迎えるに当り、郷党有志相謀りて生誕の地にはど近い真野公園の一隅に士の偉業を、徳を伝うべく顕彰の碑を建立することとなった。希くば江湖の賛同を得て、この事業が無事に完遂されるよう祈ってやまない次第である。
〔略 歴〕
明治42年10月5日 真野町小川内 甚九郎家長男として生まる。
昭和14年1月場所 十両に昇進
昭和15年1月場所 十両準優勝(14勝1敗)翌5月場所入幕
昭和16年1月場所 前頭六枚目 横綱男女ノ川、大関五ツ島に完勝
昭和17年1月(※8日) 場所前に応召、戦傷のため内地送還 新発田陸軍病院に入院
昭和21年 廃業
昭和30年3月17日 栃木市倭町にて死去。享年47歳
昭和55年6月 世話人34名(氏名は略)
※当時全盛を誇っていた相撲部屋は、双葉山・羽黒山・名寄岩のいた立浪部屋か、老舗を誇る出羽の海なのに、何故井筒部屋に入門したかという問題なのであるが、井筒部屋は横綱西ノ海の創設した部屋で、薩摩系統の部屋。北国の佐渡とは縁遠い話のように見えるが、明治43年と44年に西ノ海は佐渡で巡業しており、また佐渡の名行司といわれた池田文次郎は、井筒系の呼出しであったが、故あって佐渡に定着したとされていたので、その当時井筒系の息は佐渡にかかっていたと考えることができる。直接林蔵を井筒部屋へ連れていったのは、吉井村の本間長太郎(第1回青年団優勝者)と云われている。
佐渡ヶ島林蔵の妻は東京浅草の髪結いを業とした女性だが、戦後栃木市倭町に美容院を開業して生計を助けたので、林蔵は此処が終えんの地となった。当時の『相撲大観』という書物に新潟県では羽黒山・番神山・佐渡ヶ島と三人の関取りがいるが、番神山より佐渡ヶ島のほうが技があって面白いと、記事が掲載されている。戦争のためにあたら才能を消してしまったことは残念である。写真の猛虎の図柄の化粧廻しは両津市夷斉藤甲子郎家(薬局)に保存されている。井筒部屋の道場には佐渡ヶ島の木札が掛っている。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
佐渡ケ島関は本名佐々木林蔵、小川内の甚九郎家の出身で明治四二年生まれ、父芳蔵の長男である。母コノも女としては大柄で、林蔵は子どもの時から体も大きく力も強かった。真野小学校卒業の後は農業に従ったが、新町の土俵では白藤というしこ名で人気を集めていた。昭和八年、二四才のとき、東京大相撲の井筒部屋に入り、力士として初土俵を踏んだ。一四年には十両に昇進、翌十五年春場所で藤の川を破って準優勝、五月、念願の入幕を果たし、翌一六年八月、幕内西方四杖目のとき、三日目の相撲で横綱男女の川を破って金星をあげた。時に三二才、身長六尺(一八一メートル)、体重二六貫(九七・五キログラム)だった。なお、この場所の八日目にほ大関五ツ島にも勝った。一七年、応召して高田山砲連隊に入って出征、戦傷のため十八年に帰還して新発田陸軍病院に入った。角界を引退したのはこの年の五月、戦後の二十一年に廃業して相撲界を去った。青年時代に新町の土俵で草相撲の名力士として鳴らし、昭和十一年の夏、玉錦の一行と、十五年には双葉山、男女の川の一行と共に新町大神宮の土俵に晴れ姿をみせた。錦を飾っての帰郷だった。昭和三〇年三月十七日、四六才でなくなった。真野官の境内に記念の石碑が建てられたのほ五五年の秋である。
「佐渡ケ嶽部屋六代目」(「佐渡の百年」)
「ウイキペディア」より
★佐渡ヶ嶽

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
6代目佐渡ヶ嶽沢右二門 文化10年(1813年)真野町四日町知本4代目清蔵の3男として生まれ、忠之助と称した。19歳まで生家で百姓をしている。この頃見付・下田・岩船・蒲原などで農民一揆がおき、外国との関わりでは高田屋嘉兵衛がロシア船につかまるなど、幕末のうるさい時代が目の前に来ている。真野町の語り草としては、相撲も強くて四股名を森の松風といった。ある年佐和田町八幡の八幡宮で相撲があって、兄の川柳が大関相撲に惜しくも負けてしまった。残念だったなあと見物衆の帰り道に話しているのを聞いて、忠之助は国府橋の近くの田んぼで稲刈りをして、父から足止めをくっていたのだが、思わず鎌をはおり出して仇討だあといって八幡へ駆け出していった、という話が残っている。20歳の年家出をする。江戸へ出て5代目佐渡ヶ嶽沢五郎の弟子になり、嘉永元年佐渡相川春日社境内で行われた江戸角力興行記録に、大錨(いかり)盛之助と名乗って、顔見世をしている。(※山本静古・山本修之助・岩木境などの記録による)日本相撲協会の記録によると、6代佐渡ヶ嶽沢右工門は嘉永5年2月より名跡を継ぐ。明治3年11月まで。序2段鏡山力蔵。真野町知本忠之助。弘化5年1月より嘉永4年11月序2段7枚限り現役引退。明治29年没。部屋は1時雷権太夫預り。とあり、付記して、5代・6代は詳細不明とある。更に付記して、6代は知本忠之助天保3年20才で家出。鏡山を名乗ったことは古文書にない。5代生家高野家に籍を入れるため、明治6年に附籍願が残っている。東京相撲“佐渡ヶ嶽沢右工門儀‥……・”と記載されている。高野家墓所に葬られた記録なし。佐渡の記録では明治19年6月18日没。佐了雲渡信士。知本清蔵弟。東京にて死すとある。一説には毒殺されたとの風聞もある。鏡山は雲洲藩ゆかりの名で低位の者が軽々しく名乗れるものではないと、疑問の付記がつけられている。先代の5代目佐渡ヶ嶽沢五郎は埼玉県秩父市品沢出身。本名高野佐市。幕下3枚目。天保10年3月15年間空席だった部屋を継ぐ。天保6年(1835年)松ノ浦佐市(幕下)~嘉永元年(1848)11月引退。嘉永3年6月24日投。深川万徳院に葬る。6代目を佐渡より養子に迎えた事は事実であり、秩父地方の民謡に、「ふんどしを 忘れてきたか 佐渡ヶ嶽 今日もふりふり 明日もふりふり」とあり、秩父市誌にも、沢右工門は養父沢五郎と弘化5年(嘉永元年)3月、秩父妙見宮(現在の秩父神社)境内で相撲興行を行なったと記載されているそうである。ちなみに、佐渡ヶ嶽部屋は、横綱男女ノ川や琴桜を出した部屋で、10代佐渡ヶ嶽高一郎は日本相撲協会を一時取りしきった人で、相撲体操など案出した由緒ある部屋なのであるが、5代6代は詳細不明と片付けられる程、落魄時代であったわけである。年寄名跡の権益は雷権太夫一時預りとあるのも、そういう事情があるのである。ご承知のように、今日では年寄名跡を継ぐには、幕内力士の経歴のある力士か、十両10場所をへて特別詮議を通過した人でなければ、年寄を名乗れないのである。佐渡ヶ嶽部屋の現在は、四股名の冠頭に琴がっく力士が沢山いて仲々勢いが出ている。
琴の若2代目

★佐渡嶽子之助(さどがたけねのすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
力士。佐渡夷町(両津市)の漁夫長兵衛の弟で幼時より力が強く江戸に出て力士となって関脇まで進んだ。
宝暦五年(一七五五年)三月に四十一才でなくなった。佐渡人名辞書には猪之助とある。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
(写真左)佐渡ヶ嶽部屋ルーツが両津夷ってことで、親方以下が大挙して来島。両津夷「安照寺」にて。
・前列右端(母にだっこ)が現在の琴の若! 父は先代琴の若(後列左から三人目)、祖父は名横綱で当時の親方琴桜(前列左から4人目)。前列左から2人目が大阪屋の佐藤石松さん、初代佐渡ヶ嶽の子孫。後列左端は琴奨菊。
(写真右)前列中央の白ふんどしが寺沢樹少年こと「朝乃若」。

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

「島の新聞」

「佐渡ケ嶽部屋六代目」(「佐渡の百年」)
「安照寺史」より

平成15年に元横綱琴桜等佐渡ケ嶽部屋一行が安照寺を訪問する

琴奨菊結婚披露宴に梶井照雄住職が招待される

佐渡ケ嶽部屋関連写真
「島の新聞」索引(人名別)
★佐渡島正吉

★佐渡ケ濱(力士)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
力士。佐渡野浦村(両津市)の農家や生まれた。力量がすぐれ角力が好きであったので江戸力士となって佐渡浜と名のり幕内二段目まで進んだ。後郷里にかえって父母を養った。天保(一八三〇-四三年)中の人である。(佐渡人物志)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★佐渡錦→本間敏夫
★佐渡湖(さどのうみ)
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐渡湖 54 横綱大錦(第26代)の書いた「佐渡湖の碑」(さどのうみ)梶井照雄
★里道熊次郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を周平といい、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★里道サキ 芙蓉

★里村玄碩
連歌師、里村玄川の養子で、文化14年(56歳)に来島する。→下記資料のp707~
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)里村玄碩
9 鑑賞 佐渡のうた (9) 里村玄碩・石井夏海・田中葵園 山本修巳
93 連歌師 里村玄碩履歴考 (その1)大野温于
95 連歌師 里村玄碩履歴考 (その2)大野温于
96 連歌師 里村玄碩履歴考 (その3)大野温于
★里村玄川
「佐渡ふるさと百科」

連歌師 →下記資料のp673、694,698他
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
(玄川の第一回来島)
寛政元年(一七八九)の春、京都の連歌師里村玄川が来島したことは、数点の連歌資料によって確かめられている。
しかしこれは、「里村句集」(寛政四年~文化十五年)以前のことで、もちろんその動機や目的、滞在期間等については、はっきりわかっていない。が、やり後年の記録(「里村句集」)にあるように、正月十一日の江戸城連歌(柳営連歌)を終えて、帰洛の途次、佐渡に立ち寄ったものであろう。
(玄川の第二回来島)
寛政四年(一七九二)、里村玄川は自ら句帳に、次のように記している。
「閏二月の比佐州へまかりけるに越路雪深けれバ 旅衣春風寒し越の雪」と詠んだ。小木の小野元恭に乞われて聖像の讃をしているが、小木へは十二日に着岸し、さっそく后(木崎)大明神の広前で百韻連歌を催している。挨拶代りの張行であろう。巻頭に 官柱巡り逢世や花の友 と詠じ一路、相川へ向った。
句帳には「二月十八日 相川 惣連中へ 見へもしつ見もしつ花のとも鏡
三年前に物故した渡辺朗三を弔う
永輔旅宿同人
佐渡にて国の宗匠を免許せしめ、役辺へも予が申達し、武辺相済けれバ」と記されている。巡歴の概要は、二月二十三日 河原田、同二十七日 瓜生屋、三月三日 椎泊・両尾・湊、同十二日 長畝、同十五日 畑野・両
尾・水津・風嶋弁天詣・椎泊、同三十日 湊、四月朔日 湊、同四日 羽黒山詣、同七日 湊(東部地区約四十日間)、同十二日 河原田、同十四日 相川、五月二十二日 金比山詣、同二十五日 大願寺天満宮奉楽、六月八日小野見天満宮・檀特山詣・不動瀧・石名・小田・河原田・畑野へ、同二十五日 羽茂に行く(西部地区約七十日間)とある。
里村玄川の第二回来島は、寛政4年(1792)2月12日に小木につき、湊町、水渡田、長畝、新穂、畑野、羽茂(天満宮法楽)、相川、潟上、梅ヶ沢、小木、新倉山弘仁寺、小比叡山蓮華蜂寺(小木で船待ちにより九月九日より二十九日まで滞在)を訪れ、九月末日にようやく出雲崎へ渡った。何を思ったか、京都へは帰らず、十月一日奥州へ旋立った。
(玄川の第三回来島)
玄川の羽茂滞在は、六月二十六日から七月二十日ころまでの、約二十五旦間であった。数日のずれはあるが、前回(寛政四年)とほぼ同じ月の同じ期間であった。その後玄川は、真野、二方潟、河原田、椎泊、湊、相川、畑野を経て、小木へ出たのは九月二十五日ころと思われる。ちょうど便船があって、九月二十七日に出雲崎へ渡り、この度も京都へは向わずに、江戸へのコースをとっている。何か都合があったものと思われる。佐渡滞在は、前回の約二百三十日に比べてやや短かく、約百八十日であった。
★佐渡屋伊右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
新潟十七軒町(本町通十番町)佐渡屋市兵衛の弟である。享保四年(一七一九年)に生まれた。兄に仕えてよく尽くし一家和合して春のようであったので明和三年(一七六六年)にその善行を表彰され賞を与えられた。四十八才であった。(舟江遺芳録)
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(俳客伝)より

★笹原安五郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

★笹渕紘平
「島の新聞」索引(人名別)
★笹本弘海
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三年生 吉井村秋津 ・明4、山本の送別会[三十五年八月十五日]
★佐次兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行書。佐渡国相川馬町の人である。奇特之趣相聞に付、天保十一年(-八四〇年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★佐治兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国湊町(両津市)の人である。天保六年(一八三五年)役所から、去年米払底之砌奇特之取計有之趣につき、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★佐田啓二
左:岸恵子と尖閣湾にて、まだ吊り橋だった頃 右:弾崎灯台にある銅像


「島の新聞」

(佐田啓二)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「36号」(平成26年1月)グラフ佐度(・佐度ロケの効果・映画共演の佐田、高峰ブロンズ・主人公「お光の碑」)
★佐田まさし
本人の随筆に、父と佐渡宿根木称光寺住職の林道明さんが親しい友人だったので、子供の頃、父と一緒に宿根木に来て海で泳いだとあった。随筆名は現在不明。元両津市役所勤務の渡辺吉丸さんによると、有名歌手になった後も小木宿根木を懐かしんで来訪しており、自分が運転した、と。ラジオでは、「次の曲は佐渡の小木と言う所で海を見ながら作った曲です」と言って「落日」を流したという。
♪夕日が沈んで行く 君の瞳の中に はぐれ雲が朱鷺色に
♪そう悲しげな時の羽の色に染まりながら風に流れて行く
♪少し風が出て来た 君の肩を抱いた
♪命は何処から来て 何処へ行きたいのだろう
♪本当が知りたい僕らの愛の事も
♪幸せになろう いつか必ず
♪約束をしよう 幸せになろう
また、次の曲は佐渡をモチーフに歌ったものだそうです。(藤下さん情報)
「前夜(桃花鳥ニッポニアニッポン)」「寒北斗」
・宿根木称光寺の道明和尚とさだまさしさんのお父さんは戦友だったと聞いた事があります。位は和尚の方が上だったそうです。それで上官だった和尚の所に来ていた事も知ってはいましたが、まさか、さだまさしさんが小木の海を歌った曲があるなんて初めて知りました。
★佐竹栄美子

★佐竹紘栄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐竹紘栄
76 山口誓子先生と富士山 77 山口誓子先生の思い出
★佐竹実
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
相撲において、佐竹実(加茂村)伊沢隆(赤泊村)は昭和7年新潟県大会団体優勝の新潟師範学校の選手であった。また伊沢隆と後藤千代松(河崎村・旧姓藤井・元両津市教育長)は、昭和9年に新潟県の団体優勝した新潟師範の一員で、同年が皇紀2600年祭に当たったので、新潟県を代表して宮崎県宮崎神宮大会に出場している。伊沢の櫓投げは特技であって、永く競技生命を保っていた。昭和17年の新潟県郡市対抗の佐渡郡代表であった。
★佐竹守太郎
明治36年、郡会議員に当選するが辞退し、古玉作平が補欠当選する。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治元年 生 加茂村浦川 ・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]
★定太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国関村(相川町外海府)源太郎の母である。文政十三年(一八三〇年)に九十五才になったので役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★定太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国長江村(両津市)の人である。孝心奇特之趣相聞に付、天保七年(一八三六年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★定八郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川二丁目の人である。よく孝養を尽くしたので、文政五年(一八二二年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。 (佐渡年代記中巻)
★佐太郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川馬町の人である。母に仕ぇて孝養を尽くしたので、文政二年(一八一九年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★さつ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国小川村(相川町金泉)平吉の祖母である。弘化二年(一八四五年)に百才になり、困窮である由に付、役所から鳥目十貫文を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★さつ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川二丁目浜町の寡婦である。養母に仕えて孝行を尽くしたので文化四年(一八〇七年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★佐渡五郎左衛門尉(さどごろざえもんのじょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で、建長二年(一二五〇年)八月十八日に将軍藤原頼嗣が由比が浜に遊んだ時供人となった。
その後にたびたび供人となっている。(吾要鏡、新潟県史)
★佐渡三郎左衛門尉(きどさぶろうざえもんのじよう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
暦仁元年(一二三八年)二月十七日、将軍藤原頼経の六波羅御所への随行となった。
佐渡の人である。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐渡次郎右衛門尉(さどじろうえもんのじょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で名は基親という。嘉禎三年(一二三七年)四月二十二日、将軍藤原頼経が北条左京権太夫の邸に行った時、随員に加わり、六月二十三日、大慈寺の丈六大仏法会には調度係となった。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐渡新左衛門尉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で弘長三年(一二六三年)一月一日の垸飯の行事に供奉人となった。(吾妻鏡、新潟県史)
※垸飯(おうはん):他人を饗応する際の献立の一種。後には饗応を趣旨とする儀式・行事自体をも指した。
★佐渡先生光成(さどせんじようみつなり)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
強盗の首領である。名前から佐渡国の下級官史かといわれている。
承安元年(一一七一年)四月十二日に後白河法皇は光成を召し出して御覧になった。(百錬抄、新潟県史)
★佐渡独特の漢字(国字)

★佐渡孫左衛門尉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
応永四年(一三九七年)一月十七日に足利幕府は弓場始の式を行ない、第一二背の射手となった。佐渡の人である。(新潟県史)
★佐渡基隆
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の本間氏である。五郎左衛門尉という。寛元三年(一二四五年)八月十五日将軍頼嗣が鶴が岡八幡宮放生会に臨んだ時、供奉人となった。
宝治元年(一二四七年) の放生会にも同様であり、その他にも供人となっている。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐渡基綱
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡真野の人で本間氏である。建長六年(一二五四年)一月二日、垸飯の行事があり、将軍宗尊親王の随兵となった。その後もたびたび供人となった。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐渡基政
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人である。帯刀左衛門尉基政という。
嘉禎三年(一二三七年)将軍頼経が北条左京権太夫の邸へ行った時、随行に加わり、六月二十三日大慈寺に行った時は調度係となった。暦仁元年(一二三八年)二月二十三日、将軍藤原頼経が参内の時に供をした。吾妻鏡六月五日の条には後藤佐渡判官基政が将軍頼経の奈良春日神社参拝供奉人となったことが記されている。(吾妻鏡)
★佐渡太夫判官(さどたゆうはんがん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡の人で建長二年(一二五〇年)八月十八日に将軍藤原頼嗣が由比が浜に遊んだ時、供人となった。(吾妻鏡、新潟県史)
★佐戸律子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐戸律子 128 俳句鑑賞
★佐藤知(あきら)
津軽三味線の名手で、2014世界大会3位。
父は三味線、尺八、横笛等のオールランドプレイヤーである佐藤元海(もとうみ)、母は梅若流大師範の浅野光子。
兄は悠紀で、津軽三味線、お囃子(太鼓)音響等を担当する。最近は佐藤兄弟としても売り出している。
叔父(父の弟)に日本を代表する津軽三味線奏者の故木田林松次がおり、知は林松次の指導を受けた。
祖母は民謡家佐藤みや子である。
「新潟日報」平成27年4月5日

★佐藤敦子→北川淳子
★佐藤穴口
『小木町史』(下)より
宿根木には、明治十一年ころまでは廻船が十四、五捜もあって、百人以上の人がこの船の水主として乗りあわせ、百数十戸の村の経済を支えていたのです。ところが明治10年の西南戦争後、 廻船はすっかり駄目にをり、それよりは田地を買ってそれを預け、小作料をとった方が利にかなう時代がやってきたのです。宿根木の廻船持ち佐藤穴口さんなどが手広く水田を買い求めたのはこの時期です。明治二十五年のころ、宿根木で廻船を持っているのは、佐藤実平、浜田嘉平次、佐藤伊左衛門の三人が一艇ずつでした。「もともと、これらの廻船は越後に行って米を仕入れ、それを大阪方面へ積んで行って売りさばくことを職業としていたのですが、なんと最近は、上方の米相場の方がかえつて佐渡より安いということで、もう米を大阪へ運んだのでは損をするばかりという有様になってしまいました。そこで方向を変えて最近では越後の米を北海道へ運送することに力をおくようにしたのですが、本年(明治二十五年)をどは奥州の米値段が非常に安く、すっかり前途の目途が立たをいというようを有様にをってしまった」(北浜雑誌)のです。もう、宿根木の村は火が消えたようになってしまいました。
★佐藤亜也子
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤伊左衛門(穴口)
『小木町史』(下)より
宿根木には、明治十一年ころまでは廻船が十四、五捜もあって、百人以上の人がこの船の水主として乗りあわせ、百数十戸の村の経済を支えていたのです。ところが明治10年の西南戦争後、 廻船はすっかり駄目にをり、それよりは田地を買ってそれを預け、小作料をとった方が利にかなう時代がやってきたのです。宿根木の廻船持ち佐藤穴口さんなどが手広く水田を買い求めたのはこの時期です。明治二十五年のころ、宿根木で廻船を持っているのは、佐藤実平、浜田嘉平次、佐藤伊左衛門の三人が一艇ずつでした。「もともと、これらの廻船は越後に行って米を仕入れ、それを大阪方面へ積んで行って売りさばくことを職業としていたのですが、なんと最近は、上方の米相場の方がかえつて佐渡より安いということで、もう米を大阪へ運んだのでは損をするばかりという有様になってしまいました。そこで方向を変えて最近では越後の米を北海道へ運送することに力をおくようにしたのですが、本年(明治二十五年)をどは奥州の米値段が非常に安く、すっかり前途の目途が立たをいというようを有様にをってしまった」(北浜雑誌)のです。もう、宿根木の村は火が消えたようになってしまいました。
宿根木


『小木町史』より
宿根木才次郎の隠居として生まれました。元禄のころのことです。そのとき才次郎は子供一人をつれて隠居し、一軒をたてたのですが、その子が短命で元禄十六年(一七〇三)に死んでしまいました。さて、二代目の伊左衛門は、石塚彦右衛門家からもらいました。妻女は羽茂の清士岡村の仁右衛門からもらったのですが、短命で子供を四人おいて亡くなったので、後妻を野崎村の屋敷新兵衝からめとりました。二代目の伊左衛門が亡くなったのは宝暦二年(一七五二)のことでした。三代目伊左衛門の代に造酒屋をはじめました。それが成功し金が貯まるようになったころ、たまたま妹聾の高津惣兵衛の家に二百石積の廻船がありました。すすめられ、造酒でもうけた金で廻船仲間にをったのです。この船は運賃積みをしておりました。船には買積みと運賃積みがあります。買積みというのは、自分のお金で物を買い集め、それを自分の船で運んで商う商船です。一方運賃積みは、他人の荷物をその人の注文値段で買い集め運送する商船です。佐渡では、松ケ崎が買積み、宿根木が運賃積みの代表格です。松ケ崎は、国仲地域のわら細工物を買積みし、松前に運び、それを行商し、秋に松前から胴鰊や笹目をもってきて、それを国仲の百姓に売ったのです。しかし、宿根木は松ケ崎のようを後背地をもちません。だから、いきおい運賃積みをするようにをったのでしょう。三代目は安永六年(一七七七)に亡くをりました。
三代目が亡くをったとき、四代の伊太郎(著名)が調べてみたら、その遺産は銭壱千貫文を超えていました。はじめて酒造をおこをったときの元手が三百貫文でしたから、相当を蓄財といわなければならないでしょう。四代目伊太郎の代には、酒造商売がいそがしくて寒中三十日は昼も夜も帯をとくひまがをかったといっています。この代はまた高津惣兵衛と仲間で三百五十石積みの船を経営して、頼母子金を借り入れて商売するほどの発展をみせます。そしてそのころには船を五百五十石積みにし、弟の佐藤忠次郎を船頭にしています。この四代目のときに佐藤家はいろいろなことをします。蔵を普請し、住家も普請をします。暑浜(あつはま)に船小屋を建て、別に屋敷を買い求めます。そのほか檀那寺称光寺へ二十両の寄付をしています。
ところが、文政十二年(一八二九)の十二月、五百五十石積みの廻船が囲い場で焼けてしまいます。造作して七年目の船でした。それから天保九年(一八三八)まで九か年の間、手船商売をやめました。丁度その年、宿根木新田の有田久兵衛が、三百三十石積み六人乗りの十六年船を売るという話が出ました。早速それを百八十一両で買入れ船商売をはじめました。先代とこの代には、そのもうけで小木、羽茂、西三川方面でかをりの水田を持ち、その作徳米を一年に三十石を売るほどの財産を著わえています。そのころが宿根木商船の全盛時代だったのです。さて、明治にをってさしもの宿根木廻船も落日をむかえます。
『小木町史』(下)より
宿根木には、明治十一年ころまでは廻船が十四、五捜もあって、百人以上の人がこの船の水主として乗りあわせ、百数十戸の村の経済を支えていたのです。ところが明治10年の西南戦争後、 廻船はすっかり駄目にをり、それよりは田地を買ってそれを預け、小作料をとった方が利にかなう時代がやってきたのです。宿根木の廻船持ち佐藤穴口さんなどが手広く水田を買い求めたのはこの時期です。明治二十五年のころ、宿根木で廻船を持っているのは、佐藤実平、浜田嘉平次、佐藤伊左衛門の三人が一艇ずつでした。「もともと、これらの廻船は越後に行って米を仕入れ、それを大阪方面へ積んで行って売りさばくことを職業としていたのですが、なんと最近は、上方の米相場の方がかえつて佐渡より安いということで、もう米を大阪へ運んだのでは損をするばかりという有様になってしまいました。そこで方向を変えて最近では越後の米を北海道へ運送することに力をおくようにしたのですが、本年(明治二十五年)をどは奥州の米値段が非常に安く、すっかり前途の目途が立たをいというようを有様にをってしまった」(北浜雑誌)のです。もう、宿根木の村は火が消えたようになってしまいました。
★佐藤石松
平成28年 新潟日報

大正12年生まれ、令和2年5月没(96歳)
★佐藤市之丞
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政三年生 新穂村長畝 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]
★佐藤一斎
「佐渡の教育の父・円山溟北」(「佐渡の百年」)
★佐藤一平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三十三年生 小木町宿根木 ・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭4、第二十回衆議院議員の総選挙[十二年四月三十日]・昭4、佐渡政友倶楽部の大会[十二年十一月十八日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐藤卯三郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★佐藤栄作
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
佐渡における天理教の歴史は、河崎の「佐島分教会」と新穂の「越の国分教会」がもっとも古いとされる。越の国分教会についてみると、明治二七(一八九四)年敦賀の人佐藤栄作が新穂村青木で布教、明治三三(1900)年同じく遠藤清左衛門来島、明治四二(一九〇九)年教会を設立し、今日に至る。信者数全島一七教会で約3000人という。
★佐藤栄八
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★佐藤枝彦(さとうえだひこ)
佐藤勘十郎墓(+枝彦 赤泊 上の山)



【生没】一七九一ー一八五三 歌人、赤泊村の人。河原田の中山千鶴・新穂の本間季喜とともに、佐渡の三歌匠と称された。寛政三年廻船問屋桝屋の三代目として生まれ、勘十郎を襲名し、桜園と号した。祖父の勘十郎は、徳和村信田宇兵衛家からの養子で、小百姓から身を起こし、一代にして神通丸・万徳丸を擁して大阪などと通商、菩提寺遍照院の本堂を寄進するほどの富豪になった。枝彦は読書に親しみ、ことに古典を好んで、本居大平の門に学ぶ国学の徒でもあり、素戔嗚尊と月夜見尊との関係についての、論考を書くひとかどの学者でもあって、『古事記伝』を佐渡に最初に伝えたという。伊勢松阪に師の大平を訪ね、さらに奈良・京都・讃岐・山陽路から江戸に至るまでの、和歌を詠み込んだ道中記『旅の道くさ』が残されている。佐藤家は枝彦の代で没落し、子孫は北海道に移住した。邸宅跡は、松前稼ぎで成功した田部九郎平が買い取り、望楼のついた家が建てられた。
嘉永六年二月没、「上の山」にある「佐藤藤原枝彦墓」は、地震で倒れたままになっている。
【関連】中山千鶴(なかやまちづる)・本間季喜(ほんますえよし) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、『赤泊村史』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡赤泊村徳和、信田宇兵衛の子で通称を勘十郎といった。赤泊の佐藤家を継いだ。本居太平に国学を学び和歌をよくし佐渡三大家といわれた。書も巧みであった。嘉永六年(一八五三年)二月に六十三才でなくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
・佐藤枝彦 さとう-えだひこ
1791-1853 江戸時代後期の国学者。
寛政3年生まれ。佐渡(新潟県)の人。本居大平(もとおり-おおひら)にまなび,本居宣長(のりなが)の「古事記伝」をはじめて佐渡につたえた。嘉永(かえい)6年2月死去。63歳。本姓は信田。通称は勘十郎。号は桜園。名は枝比古とも。
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※「佐藤枝彦道中記」
赤泊の廻船商人・佐藤枝彦が関西や江戸へ上った際の旅日記です。枝彦は、本名を升屋勘十郎といい、家業を継いで廻船問屋枡屋を営んでいましたが、本居大平について国学も修め、絵画や和歌の名手としても知られました。この旅日記は、縦9cm、横16cmの小冊子で、年号は書かれていませんが、3月29日に菅の屋を出てから奈良~大阪~京都へと上り、その後東海道を下って江戸の柳はし宿に到着したことが記されています。また、その間に40首の和歌が詠まれていますが、「我うし(大人)に、なには(浪花)にて夘月十一日に別し」とあることから、師・本居大平と途中まで同行していた様子がうかがえます。
『赤泊村誌(上)』より
佐渡奉行久須美六郎左衛門が佐渡へ渡ったのほ、天保一二年(一八四一)五月四日のことであった。久須芙の書いた『佐渡の日次(ひなみ)』によれば、その日の朝五ツ時(八時)に寺泊を出航し、赤泊に着いたのは九ツ時(一二時) だった。赤泊では、町年寄佐藤勘十郎宅に止宿することになった。勘十郎の家につくとおかゆが出され、これはなかなか良い味であったとある。つづいて「勘十郎家作など風流花麗にて奢侈の躰、ことに料理なども馳走がましく、はなはだいかがの仕向きなり。本膳、鱠(なます)平皿膳椀、蒔絵にて飯次飯台なども同様にて、もっとも敬い侯趣意にもこれあるべく侯とも、蒔絵の膳椀など用うべき筋にこれなく、其の意を得ざる事に供えども、当国へ入込み、いまだ同役へ面談に及ばず存意申し述べ侯もいかが、かつは先役共の義を批判いたし侯趣意にも相当り候哉には、追て取計い方もこれあるべしと勘弁致した」と記して、不満の意をのぞかせている。とにかく勘十郎の豊かな生活がうかがえる。佐藤勘十郎がいつから船をはじめたかほあまり良くわかっていない。しかし延命院の過去帳に次のような記載のあることを発見した。
「文化十一戌七月十二日の悪風にて、当津勘十郎船上下二十人松前登死去」
これによれば、勘十郎の船が松前方面へ航海していて沈んだのであろう。寛政二年(一七九〇) には、檀那寺である遍照坊の再建立資金を出しているし、寛政六年には鎮守若宮権現へ石の鳥居を、文化一〇年(一八一三)には同社へ石燈寵を寄進しているところをみれば、宝暦の佐渡産物他国出しの波に乗って廻船をはじめ、松前との交易を中心にして、このこの頃には相当の財を貯えるに至ったのであろう。このことは、勘十郎の土地所有の状況からも推測できると思う。元禄七年(一六九四)の検地で勘十郎は、
・山方 屋敷 二十四歩 ・浜方 屋敷 三歩 ・ねがくぼ 上畑 七畝十歩 ・ねがくぼ 下畑 一反四畝十七歩 ・上の山 上畑 一畝十八歩 ・くり林 上々畑 一畝十二歩 ・宮の河内 下畑 六歩
しかもっていなかった。ところが、天保六年(一八三五)広恵倉から、二〇〇両の借金をするときに出した質入証文によると、田だけでも二町六反六畝六歩という大変広い土地を所有するようになっていることがわかる。
天保六年佐藤勘十郎田地所有状況(p185にあり)
広恵倉は、佐渡奉行所が文政年間に米の適正価格での市中売出しを計って設けたものであるが、やがてその益金を商人や村方に貸し出すようになっていた。この借金は、勘十郎が天保四年(一八三三)、西方村市振(現羽茂町)に一町四反七畝の新田を開き、検地を受けている(西方区有文書)から、そうした資金繰りに当てたのであろうか。ついで天保七年、勘十郎は再び一〇〇両を広恵倉から拝借した。その拝借期間は五分の利息で五ケ年であった。勘十郎はこの証文で、「松前表の商い物仕入仕りたく」 と、その使いみちについて書いている。天保一一年の二月には、さらに五五五貫文の拝借を願い出たのであった。その理由を「御本陣相勤めまかりあり候処、此度家作り手入れ仕りたく右入用に差支え拝借願い奉り侯」といっている。この家作修理は、おそらく天保九年(一八三八)、佐渡でおきた、いわゆる天保の一揆で勘十郎の家は打ち壊しをうけ、それを修理しょうとしたのであろう。当時、勘十郎の当主は、枝彦と号し、本居宣長の後継者である本居大平に国学を学び、佐渡三歌人の一人といわれる文人でもあった。このころまでが勘十郎繁栄の絶頂期であった。天保一二年六月一日、久須美奉行は巡村の折、再び佐藤勘十郎の宅で昼食をとった。質素倹約を旨とする久須実は、この前は奉行として赴任する途中であったから、ぜいたくなもてなしもそのままにしておいたが、今度は
「今日も例の通り膳椀にて一汁一菜之外、焼物、椀盛、猪口などをつけ差出し供に付、飯はほかに用意もこれなき故相用い候得ども、持参の香の物・なめものにて食事を仕廻、目付役西川藤内を呼びよせ右膳部を見せ、かねて申し付置侯おもむきこれあり侯ところ、いかがの心得にて馳走がましき義致し候哉、元来家作家具などはなはだ奢侈の躰其の意を得ざる義に付、原田次郎右衛門へも申し談じ、勘十郎心得方とくと相糺し申し開かせ侯よう」申し渡した。原田次郎右衛門が勘十郎を糺したところ、巡村の接待については、かねてお触があった趣も知ってはいたが、前々のしきたりにかんがみて一汁一菜ではあまりそまつで悪いと思い、お触には違反すると知りながらかような心待ちがいとなったことは、甚だ恐れいった旨を書付を以て差出したのであった。当時の赤泊本陣佐藤勘十郎の宅地図面がのこっている。こうした佐藤勘十郎の繁栄もながくはつづかなかった。嘉永三年(一八五〇)の拝借証文をみると、借金の合計は二四一三貫五九四文である。勘十郎はこれを二五ケ年の年賦で借りたのであるが、この金の返済については、その後いろんなトラブルをおこし、再び彼の家は立ち直ることはなかったのである。風流華麗を誇った勘十郎の宅地は、明治には、やはり松前稼ぎで成功した田部九郎平の手に渡った。今、その場所には九郎平の建てたニシン場の建物を偲ばせる望楼が、かつての商いの繁栄をわずかに物語っている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤枝彦
40 鑑賞 佐渡のうた (33) -補遺- 遊女初君・山本以南・佐藤枝彦・大久保正・能村登四郎 山本修巳
66 連載 閑々亭雑記 (20) 歌人佐藤枝彦のこと 山本修之助
84 佐渡歌壇史余滴 (2) 佐藤枝彦道中日記「旅の道くさ」(その1) 酒井 友二
86 佐渡歌壇史余滴 (2) 佐藤枝彦道中日記「旅の道くさ」(その2) 酒井 友二
87 佐渡歌壇史余滴 (2) 佐藤枝彦道中日記「旅の道くさ」(その3) 校注 酒井 友二
88 佐渡歌壇史余滴 (2) 佐藤枝彦道中日記「旅の道くさ」(その4)校注
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)



『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

赤泊八幡神社にある石灯籠(「佐藤勘十郎」「文化」が読み取れる)



★佐藤嘉一郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

有田家(有田八郎・有田圭輔の子孫・家系図)(閨閥)
昭和23年(1948)6月29日 佐藤嘉一郎、住友銀行取締役就任(八六節)
昭和37年(1962)1月4日 住友銀行元取締役佐藤嘉一郎死去
★佐藤嘉吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐藤角蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村 ・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★佐藤嘉十郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

有田家(有田八郎・有田圭輔の子孫・家系図)(閨閥)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町中町 ・大1、政友会新潟縣支部の春季大会[四年五月八日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「一徹の外交官」(「佐渡の百年」)
★佐藤一富
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤和彦
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤和彦 101 佐渡の民俗事象に学ぶ
★佐藤勘一郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

★佐藤冠猴(冠猿)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★佐藤勘十郎→佐藤枝彦(さとうえだひこ)
★佐藤勘十郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町 ・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
★佐藤勘之助」
「躍進日本」

★佐藤喜久夫
東京柿野浦・東鵜島会初代会長(昭和53年12月~平成10年)
★佐藤喜十郎
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
★佐藤喜太郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・6・8・29~30 第3回北陸水上選手権・県水上選手権・県青年団水上選手権・県下学量水上選手権・全日水上選手権・明治神官水上北陸予選会。悠久山プール
(金泉小 尋常男)50自1位 37.1、50背2位、200リレー1位金泉
★佐藤吉三郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐藤窮屈(窟翁)
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
俳人。佐渡郡新穂村潟上の人で隠屈、退屈とも号し名は藤五郎といった。
俳諸をよくし奇行が多く、常に窟をほって住み、家人でも見ることができなかった。たずねる老があると病気またほ事故といってことわり、その人が帰る時、昨来昨来といった。
時には乞喰と寝食を共にした。また闇夜汁のうち、食べにくいものは足駄の歯と馬蛭であるといった。晩年は五穀塩醤を食わず、しかも一飲一斗といわれる程で酔わなければやめなかった。古賀精里の額をいつも室にかかげた。文政十二年(一八二九年)九十三才でなくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★佐藤久次郎
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
沢根には名物の沢根だんごがある。言い伝えによると、天保年間頃に加賀か能登の船頭が沢根沖で難船して、そのまま沢根町に住みつき、やがて中の茶屋久次郎の入婿となり籠町の叺(かます)屋惣平の娘を妻にした。そして故郷のだんごを製造販売した。人から人にその評判が伝わり、たちまち大繁盛をしたという。家業は三代にわたり受け継がれへ明治になって子孫は北海道に移住してしまった。地元では当時、「茶屋だんご」と呼んでいた。しかし大乗寺過去帳によれは、沢根だんごの創始者思われる佐藤久次郎は、天保七年(1836)北海道岩内にて死亡し、同十年に息子、嘉永五年(一八五二)六月には妻が同地にてなくなっている。以後、代々岩内に住んだが、大正期からは大乗寺過去帳には佐藤家の記載は見られない。このことから推察すると、すでに天保期にほその製造法を、誰かに伝えて、間もなく北海道へ移住したものと考えられる。
★佐藤銀蔵
「岩首校百年誌」(昭和55年)



★佐藤金太郎
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤熊蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]
★佐藤慶一


1990年生まれ。新潟県佐渡島出身。 2009年 獨協大学外国語学部英語学科入学、佐渡島からきて、英語を学びつつ、国際関係論を専攻していた。ウェブ編集者。greenz.jpのライターインターン、オウンドメディア関連会社でのウェブ編集アルバイトを経て、講談社「現代ビジネス」のウェブ編集者に。その他、NPO/NGOのウェブメディア立ち上げ/編集、企業のオウンドメディア立ち上げ支援などを行っている。
諸情報
★佐藤源五郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★佐藤賢治

「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤謙之輔
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★佐藤佐一
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭和15年、県青年陸上競技大会800mR真野チーム5位(金森寅二・山田正太郎・佐藤佐一・小川一男)
★佐藤佐吉
「躍進日本」

★佐藤定




★佐藤佐太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐藤敏
「エスライフ」2007年7・8月号

★佐藤三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町 ・明4、山本の送別会[三十五年八月十五日]
★佐藤治右衛門(さとうじうえもん)
【生没】(生・没年不詳) 相川町三丁目の元廻船業、松栄家の始祖。出羽(山形)の最上郡丸山郷最上の出身といわれる。慶長年間(一五九六ー一六一四)に佐渡に渡り、相川羽田町西側に住んでいた(松栄家系図)。元和九年(一六二三)の火災のあと、鉱山のある宗徳町に移るが、六代目の治右衛門通唯までは、佐渡奉行所の構内にあった金銀改役、後藤庄三郎に抱えられて、小判師として家計をささえていた。のち御米蔵銀掛に転職し、以後代々この職を世襲している。文政九年(一八二六)以降、両替屋上席を仰せつかった記録があるので、鉱山関係の雇町人から商人になり、元治元年(一八六四)佐治右衛門の代に、下戸番所付問屋の新規御雇係を拝命している。明治維新後県令の鈴木重嶺から、「松栄」の姓に改めることを許されたという。松栄の初代は治作で、この代から廻船業に転じて数隻の船(「松栄丸」)を持ち、松前・大坂・江戸まで廻航して商域を広げた。鹿伏の善知鳥神社境内に、「元禄四暦霜月吉祥寺、施主相川住佐藤治右衛門」と刻み、左藤丸紋章を中央に陰刻した、美麗な水鉢が残っていて、元禄のころには苗字を許されていたらしい。三丁目の金毘羅神社には、廻船時代の「松栄丸」を描いた船絵馬が、同家から多く奉納されてある。
【関連】松栄俊三(まつばえしゅんぞう) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★佐藤滋子
両津高校時代の1968年度(S43)11月 第2回新潟県高等学校美術展県教育委員長賞受賞
★佐藤実平
『小木町史』(下)より
宿根木には、明治十一年ころまでは廻船が十四、五捜もあって、百人以上の人がこの船の水主として乗りあわせ、百数十戸の村の経済を支えていたのです。ところが明治10年の西南戦争後、 廻船はすっかり駄目にをり、それよりは田地を買ってそれを預け、小作料をとった方が利にかなう時代がやってきたのです。宿根木の廻船持ち佐藤穴口さんなどが手広く水田を買い求めたのはこの時期です。明治二十五年のころ、宿根木で廻船を持っているのは、佐藤実平、浜田嘉平次、佐藤伊左衛門の三人が一艇ずつでした。「もともと、これらの廻船は越後に行って米を仕入れ、それを大阪方面へ積んで行って売りさばくことを職業としていたのですが、なんと最近は、上方の米相場の方がかえつて佐渡より安いということで、もう米を大阪へ運んだのでは損をするばかりという有様になってしまいました。そこで方向を変えて最近では越後の米を北海道へ運送することに力をおくようにしたのですが、本年(明治二十五年)をどは奥州の米値段が非常に安く、すっかり前途の目途が立たをいというようを有様にをってしまった」(北浜雑誌)のです。もう、宿根木の村は火が消えたようになってしまいました。
★佐藤紫寿(しのぶ)
新潟県出身。2011年、第25回新潟日報文学賞(小説部門)を受賞。2012年、文芸社より短編小説集 『felicidad フェリシダ』(佐渡が舞台の作品)を刊行。
★佐藤しのぶ
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「62号」(令和2年7月)・佐藤しのぶさんを悼み、佐渡の「夕鶴」を想う(山本顕男)
★佐藤重右工門
『新穂村史』(昭和51年)より
新穂の番匠の家。佐藤重右工門家の文政の帳簿によると、番匠の総数は二十四人となっている。そのうち佐藤家のある旧長畝村の番匠は七名で、他は新穂町五人、潟端・細屋・内巻各三人、新保と源太平・島各々一人である。長畝村の七名が村じゅうの番匠の数であろう。
→番匠(新穂)
★佐藤淳悟
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1936年。日本体育大学卒、小中学校の体育教員として36年間勤務、高等学校では特に、器械体操、陸上競技の指導。真野地区の小学校低学年(1、2年生)を中心に、運動ぎらい、運動オンチの子供達を土曜日に2時間ばかり、マット、トビ箱運動をしたり一緒に遊んでいる(ボランティア)
★佐藤俊策(さとうしゅんさく)
1930年、相川生まれ。相川役場勤務。日本考古学協会員。
編著書に「佐渡考古歴史」①~②(佐渡考古歴史学会)、「金太郎窯」(相川郷土博物館)、「惣社裏遺跡」ニ具野町教育委員会)などがある。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
★佐藤淳次
県立佐渡女子高等学校校長(昭和51.4.1~53.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★佐藤順良
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐藤常済
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の詩歌俳句。近世からの延長として和歌は明治期にも盛んで、連歌の盛んであった長畝に「莬玖波会」という団体があり、毎月十一日に例会を開いたといわれる。青木にも土屋賢継を師とする和歌の会があった。明治中期から短歌といわれるようになり、昭和初頭より、故藤川忠治(羽茂出身)の「歌と評論」の支社として益田清、後藤億衛、一度精一、本間勇夫、近藤芳雄、池田元一郎、佐藤常済、土屋貞作、本多敏樹、川上道夫等が同人となり、盛んであった。藤川没後はやゝ下火となった。山田穂積(田野沢一八九五~一九五五)大正期にはその歌才が群を抜いていた。
★佐藤次郎左衛門(小木江積)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。小木江積は中世からの村です。二十六戸中佐藤姓が一番多く十二戸あります。大屋は佐藤次郎左衛門です。藤原氏の子孫と伝えているところをみると、鍛冶などと関係があったものでしょうか。村の鎮守十二権現(熊野神社)の開基は次郎左衛門の先祖であるといいますから、村の草分けであることがわかります。十二権現は、はじめ佐藤善太郎(屋号中村)の山にあったといわれ、大屋と中村は菩提寺の円満寺から永代院号を与えられているといいますから、中村は大屋の古い分家でしょう。
★佐藤澄子
「エスライフ」2010年10・11月号


★佐藤清蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★佐藤惣之助
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

「惣之助と鬼太鼓」(「佐渡の百年」)
「赤城の子守唄」、「人生劇場」の作詞などで知られる詩人、俳人。昭和4年10月に詩人福田正夫、畑喜代司と共に来島。
昭和11年8月福田正夫と共に再来島し、「かにかくに小木はなつかしき港なりけり七日月西にかかれば内の澗の波にあき風しのびくる」の詩を作った。真野四日町集落で偶然鬼太鼓を見て詠んだ。その日は四日町若宮八幡の祭礼だった。
後に俳句雑誌「雑草」(昭和4年11月17日発行)に「鬼太鼓十句」を発表した。
・新月を必死と撃つや鬼太鼓 ・鶏頭の燃ゆるかに鬼太鼓来たりけり ・鬼太鼓とどろとすぎぬ零余子(むかご)畑 ・子等の輪にかぶる黄葉や鬼太鼓 ・鬼太鼓に新酒構えて茣蓙(ござ)に居る ・掛け稲に妓(おんな)追ひつめよ鬼太鼓
「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)
★佐藤大住
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会において、槍投5位(40m41)。
★佐藤隆子
両津高校時代の1981年度(S56)12月、高校生小論文(新潟日報主催)優秀作
★佐藤孝



新潟日報(h28年4月12日) 市議二期目


平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報

★佐藤貴幸
「佐渡ふるさと百科」

★佐藤卓宗(痴蝶)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★佐藤武雄
住吉瑞芳寺

★佐藤達也
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤智孝
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★佐藤チャウ
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤千夜子(ちやこ)
「雨情の講演会と震災」(「佐渡の百年」)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤千夜子 7 「いちばん星」の佐藤千夜子 -佐渡で震災を聞く-伊沢辰雄
★佐藤貞市
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★佐藤貞一
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。
しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★佐藤徹次郎


「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の茶の湯は裏千家流志田静子と会員約五十名、江戸千家流金沢フミ外五十名があり、一時佐藤徹次郎等の同好会四日会もあった。現在はわずかに大野杉山スエが自宅で、その他総合センターの講座等で教えている。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤徹次郎 21 稀品・鵜飼郁次郎翁の書
★佐藤東作
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

相川下戸の人、金融業、昭和4 年没。雅楽研究家であり、「立浪会」創立の大正13年に入会し笛を担当し長く会員として活躍する。大正15 年には村田文三、曾我眞一等と1ヶ月に亘る満州各地の公演旅行に参加。大正末の「両津甚句」の初期レコーディングの際にも笛を担当した。
★佐藤東作
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★佐藤藤三郎
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤藤十郎

(柴山秀樹さん情報)・上記、中川杏果氏の文に出てくる佐藤氏(京都養蚕学校)はハイカラの人で、カメラを愛好し、大町桂月が金北山登山をした時の人足三人組の一人。
★佐藤徹

東京大学教授/環境学研究系。佐渡関係者(※浅島誠先生談:本人が佐渡出身と言っていた)
海洋技術環境学専攻/海洋環境創成学講座/海洋環境工学
「略歴」
1984年3月東京大学工学部船舶工学科卒業
1986年3月東京大学大学院工学系研究科船舶工学修士課程修了
1986年4月~1996年1月?Mブリヂストン
1990年10月~1993年7月英国インペリアルカレッジ化学工学科博士課程(Ph.D.)
1996年1月東京大学大学院工学系研究科環境海洋工学専攻助教授
2004年5月東京大学大学院新領域創成科学研究科教授(現職)
「教育活動」
大学院:環境調和システム開発論、環境流体シミュレーション、環境システム学概論
工学部システム創成学科:環境エネルギー流体力学、環境エネルギー基礎プロジェクト、環境エネルギー応用プロジェクト
「研究活動」
メタンハイドレート生産に関するモデル研究(2003-):
メタンハイドレート(MH)は、エネルギーセキュリティーを考えると日本にとって重要な資源である。当研究室では、国のプロジェクト(MH21)のMH生産シミュレーターの開発に参画し、産総研との共同研究として、その重要なモジュールである分解速度モデルの構築を行った。また総分解量を予測するために必要な、堆積層中のMHの生成・分解モデルを開発中である。さらに、MH開発のベネフィットを、経済性だけではなく、エネルギーセキュリティーやリスクも含めた形で評価統合的環境影響指標の提案をしている。
CO2海洋隔離と海域地中貯留に関する環境影響評価(1997-):
地球温暖化ガスであるCO2の海洋隔離法と海域地中貯留に関し、深海中でのCO2液滴の挙動、溶解した CO2・熱・塩分の移流拡散、CO2の生物影響を予測するために、CO2液滴スケール及び局所的な海洋スケールを取り扱うモデルを構築し、温暖化対策技術としての将来性を提言した。また海洋隔離を実施する場合としない場合の環境リスクと経済効果を、大気・陸域・海域全体を捉えて評価する統合的指標を開発している。微細藻類培養高効率フォトバイオリアクターの開発(1999-2003, 2006-):
大気中の二酸化炭素を光合成によって固定するため、微細藻類を高効率に大量培養する装置を発明した。非構造格子を用いた二相流CFDを用いることで、開発プロセスを効率化した。またライトフラッシング効果を表現できる独創的な離散型光合成モデルを開発し、計算機中でリアクターの性能予測をする手法を開発している。
海洋環境評価のための海洋流動モデルの開発とその応用(2000-2003):
局所的な人類活動の海洋への影響を解析できる海洋モデルを開発した。直径3mの回転水槽に海底地形を型どった歪模型を設置した水理実験と合わせて、諫早湾に海水浄化装置を設置した場合の物理的な効果を予測した。また上記物理モデルに生態系モデルを組み込み、浄化装置の生態系影響と浄化メカニズムを解明した。
小スケール海洋乱流の数値的・実験的研究(2001-2007):
人工物との相関の強い小スケールの海洋の乱れは、様々な渦と内部重力波によって構成される。そこで新しい海洋乱流計測法を考案して3次元流場の現場実測を行い、また3次元流体現象の数値解析モデルを開発し、現実の海洋の乱流を数値的に再現することに成功した。さらにDNSとLESにより、非等方乱流を表現するのに適した乱流モデルを指摘した。
学位 Ph.D(ロンドン大学)
職名 教授
所属 大学院新領域創成科学研究科
海洋技術環境学専攻海洋環境創成学講座
所属サイトURL http://www.k.u-tokyo.ac.jp/別ウィンドウで開く
専門分野 海洋環境工学
研究テーマ 海域を利用した二酸化炭素隔離技術の環境影響評価手法の開発
研究テーマに関するキーワード 海域CCSの環境影響評価,ハイドレートによるCCS技術の基礎的研究,メタンハイドレート堆積層内の三相流解析,ハイドレートの分解・生成モデリング,微細藻類培養フォトバイオリアクターの開発
実績等URL http://lemons.k.u-tokyo.ac.jp/SATO/別ウィンドウで開く
Scopusページへのリンク Scopus別ウィンドウで開く
★佐藤得二
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)より
昭和5年当時の観光客というのは、殆どが、「日蓮宗佐渡参拝団」という団体であった。そもそもこの参拝団なるものは夷の丸金旅館(今の菊池組の一部)主、佐藤得二氏(夷七、斎藤八郎兵衛翁次男)が発案したもので、それに同じ日蓮宗の法華甚平事青木屋旅館の小野原甚蔵氏(現青木星小野原マツエおばあさんの父)を誘って、自費をつぎ込んで宣伝募集した日蓮の遺跡参拝を目的とした宗教団体から発想したものだ。それが大きく飛躍して当時の第八佐渡丸を貸切っての二百、三百人の大団体は○○駅主催といったものが多く、それにしてもその基を始めた丸金旋館主の功績は見逃せない。
★佐藤利夫(さとうとしお)



新潟日報(h28年10月24日 新潟日報文化賞受賞)








昭和7年(1932)-令和5年(2023)4月没、92歳。相川長坂町在。新穂長畝生まれ。富山大学経済学部卒業。郷土史家。相川高校教諭。著書に写真集「くらしの四季」(佐渡国小木民俗博物館)、「海陸道順達日記」 (法政大学出版会)などがある。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。両津、新穂他での文化講座講師や、各種歴史講演会の講師として活躍する。2013年11月、「離島振興60周年記念功労者表彰」を受賞。
・1931年、新潟県佐渡市に生まれる。富山大学文理学部経済学科卒。1955年より県立相川・佐渡・羽茂の各高等学校教諭を経て、1988年に退職。この間、佐渡島内の歴史と民俗にかかわる記録・習俗・伝承などを調査し、新潟県史および佐渡の町村史の執筆にかかわる。退職後は佐渡各地の古文書・行事などの調査をつづけている。著書に「裂織(ものと人間の文化史 ) 木綿生活誌」(法政大学出版局)他多数
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤利夫
34 山家の蕎麦 42 秀山「海陸順達記」の道をたどる (1) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 43 秀山「海陸順達記」の道をたどる (2) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 44 秀山「海陸順達記」の道をたどる (3) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 45 秀山「海陸順達記」の道をたどる (4) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 46 秀山「海陸順達記」の道をたどる (5) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 47 秀山「海陸順達記」の道をたどる (6) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 48 秀山「海陸順達記」の道をたどる (7) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 49 秀山「海陸順達記」の道をたどる (8) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 51 秀山「海陸順達記」の道をたどる (9) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作
52 秀山「海陸順達記」の道をたどる (10) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 53 秀山「海陸順達記」の道をたどる (11) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 55 秀山「海陸順達記」の道をたどる (12) 佐藤利夫※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)三浦啓作 92 羽黒神社の神幸祭考(上) 94 羽黒神社の神幸祭考(中) 97 羽黒神社の神幸祭考(下) 109 佐渡渡来四百年 -山本半右衛門家の歴史- 110 山本半右衛門家の「日の丸船印」 112 北国米輸送と山本半右衛門家のかかわり 116 「千の風になって」とふるさと 119 近代を見た旅日記 -明治三年『道中記』九世山本半右衛門(山本慊)- 佐藤 利夫 123 山本家の墓所改築の所感 125 真野湾南岸の海村-渋手と新町 -山本半右衛門家の新町転住の背景- 127 相川の松栄家について
「佐渡の信仰と郷土芸能」(佐藤利夫 平成14年)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p441・442
「村の生活 高千」(佐藤利夫)
★佐藤智雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐藤 智雄(さとう ともお、1917年5月14日-2000年2月8日[1])は、日本の社会学者。中央大学名誉教授。専門は、ジャーナリズム論・メディア論・新聞学・宗教社会学。新潟県佐渡郡相川町出身。日蓮宗の古刹の寺社に生まれる。1941年立正大学文学部哲学科卒業。同文学部助手。1946年立正大学文学部専門部専任講師。1949年中央大学経済学部助教授。1951年中央大学文学部助教授。1960年中央大学文学部教授。1969年中央大学評議員(〜1985年)。1988年中央大学定年退職。同名誉教授[2]。淑徳大学社会福祉学部教授。1989年同大学院社会福祉学研究科教授。1992年淑徳大学退職。学外の役職として、日本社会学会理事、日本新聞学会理事、1960年NHK放送文化研究所研究委員(〜1970年)、1965年広告電通賞審査委員(〜1969年)、1976年日本生活環境センター理事、1985年文部省科学技術審議会専門委員、放送大学教養学部客員教授など。
著書:『新しい布教法 : 宗教宣伝学』平楽寺書店 1955.10『流行 : その魅力の分析』日本教文社 1955.11『現代の社会学』 ルネ・ケーニッヒ著 鈴木幸寿と共訳 誠信書房 1957.7『社会心理学』 ウッダード著 佐藤訳 誠信書房 1958.『地方都市 : 糸魚川市の実態』 編著 東京大学出版会 1961.10『疎外と連帯 : 宗教的政治的信念体系』 デ・グレージア原著 池田昭と共訳 勁草書房 1966.11『社会心理学』 柳井道夫と共編 学文社 1972.4『歴史としての現代社会』 編著 中央大学出版部 1973『現代社会と社会学』 編著 中央大学出版部 1974.3『生活構造の社会学(改訂版)』 編著 中央大学出版部 1976.4
注釈
^ 林 茂樹「佐藤智雄先生を偲ぶ」『マス・コミュニケーション研究 57号』2000年
^ 以上につき、「佐藤智雄教授の経歴並びに業績」『中央大学文学部紀要 133号』1988年
・中央大学社会学教授、相川妙圓寺24世住職。
★佐藤寅吉
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★佐藤信夫
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
両津 ・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★佐藤春明
滝平大峰の人、連歌関係者 →下記資料のp683
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★佐藤春雄(さとうはるお)








1919年、両津河内生まれ。平成26年12月6日死去、95歳。両津高校他、島内高校で教鞭をとる傍ら朱鷺保護に邁進する。佐渡トキ保護会三代目会長。日本野鳥の会佐渡支部長。日本鳥類保護連盟専門委員。著書に「はばたけ朱鷺」(研成社)などがある。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。初代両津高校校長橋本喜一は実兄、元東大副学長の浅島誠は甥(姉の息子)にあたる。
(野町の市橋家)
・次男:橋本喜一(両津市長)・三男:向高野
菊池喜左衛門(仁作 両津郵便局長)・三男:佐藤春雄(南河内)
・菊池仁作妻は高尾亮一の姉妹
※菊池家の葬儀の時、高尾さんが白いポケットチーフを付けており、これが正式なんだと思った。(山田昭夫談)
・菊地仁作の娘は野口誠之(奈良女子大学長)に嫁ぐ。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「40号」(平成27年1月)グラフ佐度(・佐藤春雄さん死去・約160年前から伝わる「戸地祭」)「57号」(平成31年4月)・佐藤春雄先生「生誕100年」(清水薫)
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤春夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤春夫 114 佐渡の石二つ-佐藤春夫と三島由紀夫と-清田文武
★佐藤彦丸
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
★佐藤久雄

















平成31年2月




畑野町大久保出身、昭和22年生。佐渡高校ー早稲田大ー三井物産勤務を経て平成23年新潟県議。この県議選は飛行場建設に対して積極でなかった中野県議に対して憤った自民党系市議(加賀、竹内が先頭に立つ)がアンチ中野県議として新人佐藤久雄氏を担いだ。現役の中川カヨ子も含めて三つ巴戦であったが、とばっちりを受ける形で中川が落選した。
佐藤は県議になってまもなくの市長選出馬を目指したが、上記市議達の猛反発にあい断念した。
(略 歴)
・昭和22年旧佐渡都畑野町大久保生まれ
・昭和35年後山小学校卒業
・昭和38年畑野中学校卒業
・昭和41年佐渡高等学校卒業
・昭和46年早稲田大学政治学科卒業、三井物産株式会社 入社
・昭和49年三井物産株式会社ジャカルタ支店経理研修員
・昭和52年イラン・ジャパン・ベトロケミカル・カンパニー(イラン駐在)
・昭和57年米国三井物産株式会社ニューヨーク本店監査課長
・平成11年物産機械情報サービス(株)取締役経理部長
・平成16年三井物産パッケージング(株)取締役経理部長
・平成20年三井物産株式会社 退職
早稲田大学大学院公共経営研究科入学
北川正恭教授に師事、地方自治を研究。
・平成23年新潟県議会議員初当選
(佐藤久雄)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「57号」(平成31年4月)・県議選開票結果(中川隆一12599票・佐藤ひさお7493票・北けい7111票)
★佐藤ひさし
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤ひさし 4 郷土玩具界の先達者 山本修之助
★佐藤久吉
明治40年、白瀬漁場にて定置網を投網する。
★佐藤秀次





両津夷八郎平町の老舗ホテル「花月」を経営した。相撲人としてもよく知られ、大相撲佐渡巡業や大学他の相撲部の宿泊所となり献身的に世話をされ、中央と佐渡をつなぐ相撲関係者の中心人物であった。ホテル内に当時の相撲関係写真が陳列されている。
尚、この佐藤家の本家は夷七ノ町「佐藤長兵衛」(現「大阪屋」菓子店)であり、ここは初代佐渡ケ嶽の実家である。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
・両津の人、大正8年、東京電気学校時代に全国中学校相撲大会で2年連続優勝する。
大正14年、海軍軍人清水兼造(金泉)が靖国神社奉納第1回陸海軍人対関東学生相撲大会で個人優勝し、明治大学の佐藤秀次(両津)は関東相撲大会に優勝する。
・明治36年生まれ、昭和52年歿。1903年~1977年。享年75歳。両津市夷町に生まれ、東京電機学校に入学した。大正8年と9年全国中等学校大浜大会に個人優勝した。次いで明治大学に入学し、大正14年・大正15年関東大学学生相撲大会に個人優勝した。のち専修大学に転学し、専修大学卒業。帰郷後はホテル経営のかたわら佐渡のアマチュア相撲に出場し、青年力士達は花月(秀次の四股名)を破るのを目標とした。当時越佐対抗という名で佐渡と北蒲原郡中条町とは交流があったが、中条の大会でも優勝したことがあったといわれている。最後は夷の大名乗り越ノ湖を名乗ったといわれているが、越ノ海は木村助九郎・山口鶴蔵・金子幸一(戦死)・飯島辰之助(新潟港で遭難死亡)・佐藤秀次と続いたという人もあり、金子幸一で終ったという説もあり現在はっきりしていない。
佐藤は花月の四股名のほうが今は有名である。子息の当主も父親のことはよくわからないと云っている。突張り・寄切り・やぐら投げを得意とした。湖水波と称した時代もある。晩年大学相撲部貞の佐渡合宿、大相撲巡業の宿舎提供、日本相撲連盟への貢献などの功績で、名誉8段位を追贈された。
→佐渡嶽子之助(さどがたけねのすけ)
★佐藤兵衛(小木井坪)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。井坪には、佐藤姓はかみという屋号の佐藤兵衛一軒しかありません。佐藤兵衛のいる付近が清水の湧く所で、村の立ち始まりの場所だといわれていますから、草分けであることはまちがいないでしょう。
鎮守熊野権現の社人もしています。清水はこの佐藤兵衛と堀口(屋号中村)とが共同に利用しており、両家は兄弟だと伝えていますから、中村は古い分家なのでしょう。
清水の入口ということで堀口と名乗ったのでしょうか。
★佐藤兵衛(小木田野浦)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。田野浦は、鎌倉時代に江積から分かれてできた村です。ここには江積と同じく佐藤氏がいます。慶安年間(江戸時代のはじめ)に成立した犬神村の佐藤兵衛(佐藤右衛門)は田野浦の出身で、江戸時代から佐藤姓を使っているところからみて、戦国時代の地侍であったのでしょう。
★佐藤兵次
「加茂村誌」(昭和38年4月)

★佐藤福松
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
孝子。養母によくつかえ、鉱山の入坑を業とした。
母の病気中外出の時は妻に看病のことをこまごまと諭し帰宅するとその日の寒暖をのべ病苦のようすを問いその日の飲食の状況を妻にたずねた。近隣のつきあいも厚かった。
明治七年一月県から金二百疋を与えられて賞された。(佐渡人物志)
★佐藤富士美


★佐藤方紀→佐藤方紀(やすのり)
★佐藤孫次郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★佐藤正勝
「手わざ図鑑」

★佐藤真樹
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤正安
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤正安 77 佐渡ヶ島における「えごえご」のゆくえ
★佐藤マチ
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★佐藤真由美

★佐藤萬五郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★佐藤光子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤光子 97 家庭人の魅力※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山本修巳先生
★佐藤道雄
昭和15年相川羽田町生まれ。昭和32年新潟商業卒、東京大学法学部卒。司法試験に合格し全国各地で検事として活躍。
佐渡へ帰り弁護士事務所を開設したが、後上越市にて事務所を開設。佐藤氏一族は佐藤方紀氏(音楽プロデューサー)、松栄和津(松栄俊三の孫)など。佐藤方紀氏は又従兄にあたる。
★佐藤通唯
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人。通称治右衛門という。
後藤小判師で和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★佐藤みつこ
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤南






★佐藤実
県立佐渡女子高等学校18代目校長(昭和55.4.1~57.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★佐藤ミヤ子


大正10年10月10日、鷲崎藻浦生,平成26年8月3日、12時半過ぎ逝去(92歳)。昭和30年代、「きんかん素人名人戦」で「両津甚句」を唄って全国優勝し、新潟で民謡酒場『甚句』を経営。レコードも多く吹き込む。その2男が有名な津軽三味線奏者木田林松次(昭和25年生)である。木田さんも藻浦で育つ。このblog中「佐渡民謡に貢献した人」に写真が載る。
愛弟子の高千池田元治さんが葬儀の模様を下記のように伝えて下さいました。
「お通夜に弔辞を依頼されました、又、出棺の際、佐渡おけさの伴奏も頼まれなんとか大役をこなしました。又、お通夜には佐藤知兄弟で津軽三味線で葬送曲を奏でました。」
「佐藤みやこさんの愛弟子である池田元治さん(高千在住)より」
佐藤ミヤ子さんには3人のお子さんがいました、
長女は妙美、長男佐藤貞夫、二男が次男と云いまして妙美は若い頃は唄とお囃子を担当してました、ミヤ子さんのレコーディングの時はお囃子をしてました、現在残されているCDとテープは全部がそうです。長男の貞夫は芸名を佐藤元海(もとうみ)を名乗り、三味線、尺八、横笛、のオールランドプレイヤーです、又、篠笛も製作販売もしてます。二男は御存じの木田林松次です、貞夫の奥さんは浅野光子(梅若流大師範)ですし林松次の奥さんは兼坂智友(故人)兼坂流の名取です。お孫さんは長女に2人いますが民謡はやってません。貞夫には3人います、長男は悠紀と云いまして津軽三味線、お囃子(太鼓)音響等の担当です、末っ子の知は御存じ津軽三味線の名手です(2014世界大会3位)林松次には2人いますが長男が佐藤匠(たくみ)と云います、津軽三味線をやってます。もちろん皆さん佐渡の民謡もやつてます。
佐藤ミヤ子・木田林松次写真
★佐藤元海(もとうみ)
本名は佐藤貞夫。民謡歌手佐藤みや子の長男で、三味線、尺八、横笛等のオールランドプレイヤー。
又、篠笛も製作販売もしてます。弟に日本を代表する津軽三味線奏者の故木田林松次がいる。
奥さんは浅野光子(梅若流大師範)。長男悠紀は津軽三味線、お囃子(太鼓)音響等の担当、末っ子の知は津軽三味線の名手で、2014世界大会3位。
(佐藤元海 もとうみ)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「64号」(令和3年1月)・藻浦集落開村160周年 ※佐藤元海(もとうみ)
★佐藤基行
(実業家、1954年 - ) : 三菱製鋼株式会社取締役社長(2015年 - )
年齢: 61歳 (2016年3月31日現在)
年月 略歴
1954年 誕生
1978年4月 当社入社
2006年3月 当社ばね事業部長
同 年6月 当社取締役、ばね事業部長
2011年6月 当社常務取締役、ばね事業部長
2013年6月 当社常務取締役
2015年6月 当社取締役社長(現任)
★佐藤守秀
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
画家。佐渡相川の人で通称を図書、探源斎と号した。
寛保元年(一七四一年)京都に出て鶴沢探鯨について画を学び延享元年(一七四四年)帰国した。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★佐藤泰
『両津市要覧(昭和33年)』より

★佐藤方紀(やすのり)
相川妙圓寺25世住職、音楽会社「ハーモニー」社長。父、智雄の遷化後、修行に入り住職となる。
「島の新聞」索引(人名別)
★佐藤雄一


★佐藤悠紀
津軽三味線の奏者でお囃子(太鼓)音響等も担当する。父は三味線、尺八、横笛等のオールランドプレイヤーである佐藤元海(もとうみ)、母は梅若流大師範の浅野光子。
弟は佐藤知(あきら)で2014世界大会3位の津軽三味線奏者、最近は佐藤兄弟として売り出している。
叔父(父の弟)に日本を代表する津軽三味線奏者の故木田林松次がおり、知は林松次の指導を受けた。
祖母は民謡家佐藤みや子である。
★佐藤勇太郎
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・9・8・19 第7回県青年団水上競技大会 柏崎公認50米プール
400自4位、1oo背 4位、
★佐藤与三郎
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1大いなるしゅうねん
★佐藤芳樹

★佐藤吉人
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐藤吉人 133 民謡詩人白鳥省吾の相川の碑を訪ねて
★佐藤六郎(さとうろくろう)
【生没】(生年不詳)ー一八六八 江戸で浪人をしていたが、文久年間に奉行岡松伊予守の雇侍として来島した。文久三年(一八六三)奉行の辞任と共に一旦江戸へ帰ったが、その後再び来島し、石田屯所番所役となって水戸藩脱走兵の世話をしていた。慶応四年五月に彼らが佐渡を去ると、共に越後に渡って戦ったが、徳川方の敗色によって佐渡へ来ていた。同年八月初旬、小木へ官軍の軍艦が入港すると、佐渡一国人民総代という名目で、佐渡が佐幕同盟を結んでおり、苛酷な税を課しているなどと密訴した。官軍方が依頼者の連署を求めたため、年貢半減を触れ回って連判状を作成しようとして、奉行所に捕えられ投獄された。しかし大熊忠順ら同志の者が、越後府へ官軍に抵抗する備えをしているなどと訴え出たため、来島した北辰隊や奥平参謀の軍事行動の契機となった。しかし、佐藤六郎一派の訴えが事実に反することが判明し、明治元年十一月十三日、佐藤六郎と大熊忠順は処刑され、他の者もそれぞれ処罰された。
【関連】中山修輔(なかやましゅうすけ)・奥平謙輔(おくだいらけんすけ)・北辰隊(ほくしんたい) 【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川、岡松奉行の用人である。維新のはじめ和泉村(金井町)の大能仲順と共に越後府に組頭中山修輔以下が会津藩に通じ同盟し善内等が軍資を出したと密告した。訴えにいつわりの条項が多かったので獄に入れられ後に斬られた。(佐渡人名辞書)
(※渡辺注)一般的には、佐藤六郎と大熊忠順である。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
江戸浪人。会津藩士が佐渡郡河原田の屯所に在留中は世話方を命じられたが、同藩士が去った後、佐幕同盟論が時を得たのを見て、国内無頼の徒と語い、事を起そうとはかった。明治元年八月のはじめ、官軍の軍艦が小木に入港したと聞き、六郎は同志と共に、同盟の事情を密告し、佐渡奉行所組頭中山修輔を誣告したが、艦長はこれを受けなかった。更に越後府に告訴したがこれも受付けられなかった。止むなくひそかに帰国し、詐謀をめぐらしたが、事が発覚したので、中山修輔は九月二十日に六郎を捕えて獄に入れた。六郎の同志も離散して事件は終った。(佐島遺事)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
江戸浪人 ・明1、佐渡に於ける佐幕党[元年七月] 「佐渡関係事典に載る」
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より


「密訴する男」(「島の新聞」)
★佐藤和吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★佐藤原範経(さとうはらのりつね)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
範茂の恭子で生父は甲斐守範仲である。兵衛左で順徳上皇の近習、承久三年(一二二一年)順徳上皇佐渡御遷幸の時、供奉し、越後国寺泊で病死した。(承久記、吾妻鑑、真野山皇陵記)
★佐渡ケ崎
「佐渡ケ嶽部屋六代目」(「佐渡の百年」)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
小木町琴浦の生まれ。小木町宿根木の磨崖仏ある岩屋山の入口にに慰霊碑がある。
明治3年11月郷里で没した。漣(さざなみ)石松といって、宿寝木高藤家の船の船長をしていて、新潟港に寄港した時、相撲巡業(二所系追手風部屋であろう)があり飛入り参加をした。プロ力士を次から次に投げ倒す様を見て、大関源氏山がプロ入りをすすめ、源氏山の弟子になったものである。プロの世界では、遂に関取り(十両以上を云う)になれなくて廃業した。碑文ほ羽茂の葛西周禎(医師で漢学者として高名)が書いたもので、周禎が子供の頃、佐渡が崎の後姿を見たことがあるが、身長6尺、筋骨如鉄と驚いた様を記録に残している。
★佐渡島正吉
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★佐渡ケ島林蔵(佐々木林蔵)

佐渡ヶ島林蔵碑 真野公園




「横綱を破った「佐渡ケ島」」(「佐渡の百年」)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
力士。明治四十二年に佐渡郡真野町吉岡の佐々木芳蔵の長男として生まれた。昭和八年五月、二十四歳の時、東京大相撲の井筒部屋(初代西ノ海創設) の力士として初土俵を踏んだ。同十四年一月に十両、翌十五年一月には藤の川(現伊勢の海親方)を破って準優勝となった。五月に入幕、十六年八月西方四枚目に進んだ。横綱男女の川、大関五ツ島に勝ったこともあった。同十七年一月応召、高田山砲隊にはいり出征、戦傷で十八年帰還、新発田陸軍病院に入院した。同二十一年廃業し
て相撲界を去った。昭和三十年三月十七日に四十六歳でなくなった。(佐渡の百年)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
1909年~1955年、佐渡の力士が関取になった例ほ徳川時代にはあったが明治以降関取になった人はまだ出なかった。明治維新以後青雲の志を持った青年たちが、関取の夢をもって上京して、プロの部屋入りをしたのであるが、佐渡でもようやく関取りが出現することになった。それが「佐渡ヶ島林蔵」で真野町真野公園の一隅に、佐渡ヶ島林蔵顕彰碑が建っている。佐渡ケ島林蔵については2~3の郷土史家が書き残しているが、顕彰碑建立諏意書が当を得ているので、それを転記して、この人物を見ることにする。
「佐渡ヶ島林蔵」顧彰碑建立趣意書
「一年を二十日で暮すいい男」という古川柳があるが、わが真野町出身の名力士「佐渡ヶ島林蔵」が活躍したのは、かの双葉山が全盛期で、興業も1月と5月の15日ずつ30日で暮せたし、幕内3場所勤めて引退すると一生食うに困らぬと云われた黄金期であった。士は小川内甚九郎家の長男として生まれ、幼少の頃から心根優しく腕力に秀で炭を焚く父を助けて孝養に励んだ。長ずるに及んで島内の草相撲で一方の雄として牛耳を執ったが、やがて現役兵として昭和4年仙台野砲隊に召されることになった。在隊中ほ、生来の正順な思想と剛力の故をもって上官の覚えもめでたく、特に火砲祭での対抗相撲等でばったばったと相手をなぎ倒す有様は、さながら仁王か弁慶に紛らう程であったと伝えられる。身の丈6尺有5分(1.818m)体重実に30貫目(112.5kg)、加うるには比類な腕力を誇る士を、この世界で見逃すはずはなく、除隊後間もなく望まれて井筒部屋に入門。同門鶴ヶ嶺等と切磋琢磨の功が報いられて十両に昇進。この場所、得意の外掛け・つり等を駆使して14勝1敗準優勝、惜しくも優勝を逸したが翌場所晴れて入幕という異例の昇進ぶりであった。翌、昭和16年1月場所において西前頭六枚目に列し、時の横綱男女ノ川、大関五ツ島を連破して郷党の衆望に応えたことは今も語り草となっている。昭和17年1月応召、不幸にも病を得て新発田陸軍病院に静養を余儀なくされ惜しくも廃業。昭和30年3月17日栃木市倭町において永眠、享年47歳であった。たまたま、今年士の27回忌を迎えるに当り、郷党有志相謀りて生誕の地にはど近い真野公園の一隅に士の偉業を、徳を伝うべく顕彰の碑を建立することとなった。希くば江湖の賛同を得て、この事業が無事に完遂されるよう祈ってやまない次第である。
〔略 歴〕
明治42年10月5日 真野町小川内 甚九郎家長男として生まる。
昭和14年1月場所 十両に昇進
昭和15年1月場所 十両準優勝(14勝1敗)翌5月場所入幕
昭和16年1月場所 前頭六枚目 横綱男女ノ川、大関五ツ島に完勝
昭和17年1月(※8日) 場所前に応召、戦傷のため内地送還 新発田陸軍病院に入院
昭和21年 廃業
昭和30年3月17日 栃木市倭町にて死去。享年47歳
昭和55年6月 世話人34名(氏名は略)
※当時全盛を誇っていた相撲部屋は、双葉山・羽黒山・名寄岩のいた立浪部屋か、老舗を誇る出羽の海なのに、何故井筒部屋に入門したかという問題なのであるが、井筒部屋は横綱西ノ海の創設した部屋で、薩摩系統の部屋。北国の佐渡とは縁遠い話のように見えるが、明治43年と44年に西ノ海は佐渡で巡業しており、また佐渡の名行司といわれた池田文次郎は、井筒系の呼出しであったが、故あって佐渡に定着したとされていたので、その当時井筒系の息は佐渡にかかっていたと考えることができる。直接林蔵を井筒部屋へ連れていったのは、吉井村の本間長太郎(第1回青年団優勝者)と云われている。
佐渡ヶ島林蔵の妻は東京浅草の髪結いを業とした女性だが、戦後栃木市倭町に美容院を開業して生計を助けたので、林蔵は此処が終えんの地となった。当時の『相撲大観』という書物に新潟県では羽黒山・番神山・佐渡ヶ島と三人の関取りがいるが、番神山より佐渡ヶ島のほうが技があって面白いと、記事が掲載されている。戦争のためにあたら才能を消してしまったことは残念である。写真の猛虎の図柄の化粧廻しは両津市夷斉藤甲子郎家(薬局)に保存されている。井筒部屋の道場には佐渡ヶ島の木札が掛っている。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
佐渡ケ島関は本名佐々木林蔵、小川内の甚九郎家の出身で明治四二年生まれ、父芳蔵の長男である。母コノも女としては大柄で、林蔵は子どもの時から体も大きく力も強かった。真野小学校卒業の後は農業に従ったが、新町の土俵では白藤というしこ名で人気を集めていた。昭和八年、二四才のとき、東京大相撲の井筒部屋に入り、力士として初土俵を踏んだ。一四年には十両に昇進、翌十五年春場所で藤の川を破って準優勝、五月、念願の入幕を果たし、翌一六年八月、幕内西方四杖目のとき、三日目の相撲で横綱男女の川を破って金星をあげた。時に三二才、身長六尺(一八一メートル)、体重二六貫(九七・五キログラム)だった。なお、この場所の八日目にほ大関五ツ島にも勝った。一七年、応召して高田山砲連隊に入って出征、戦傷のため十八年に帰還して新発田陸軍病院に入った。角界を引退したのはこの年の五月、戦後の二十一年に廃業して相撲界を去った。青年時代に新町の土俵で草相撲の名力士として鳴らし、昭和十一年の夏、玉錦の一行と、十五年には双葉山、男女の川の一行と共に新町大神宮の土俵に晴れ姿をみせた。錦を飾っての帰郷だった。昭和三〇年三月十七日、四六才でなくなった。真野官の境内に記念の石碑が建てられたのほ五五年の秋である。
「佐渡ケ嶽部屋六代目」(「佐渡の百年」)
「ウイキペディア」より
★佐渡ヶ嶽

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
6代目佐渡ヶ嶽沢右二門 文化10年(1813年)真野町四日町知本4代目清蔵の3男として生まれ、忠之助と称した。19歳まで生家で百姓をしている。この頃見付・下田・岩船・蒲原などで農民一揆がおき、外国との関わりでは高田屋嘉兵衛がロシア船につかまるなど、幕末のうるさい時代が目の前に来ている。真野町の語り草としては、相撲も強くて四股名を森の松風といった。ある年佐和田町八幡の八幡宮で相撲があって、兄の川柳が大関相撲に惜しくも負けてしまった。残念だったなあと見物衆の帰り道に話しているのを聞いて、忠之助は国府橋の近くの田んぼで稲刈りをして、父から足止めをくっていたのだが、思わず鎌をはおり出して仇討だあといって八幡へ駆け出していった、という話が残っている。20歳の年家出をする。江戸へ出て5代目佐渡ヶ嶽沢五郎の弟子になり、嘉永元年佐渡相川春日社境内で行われた江戸角力興行記録に、大錨(いかり)盛之助と名乗って、顔見世をしている。(※山本静古・山本修之助・岩木境などの記録による)日本相撲協会の記録によると、6代佐渡ヶ嶽沢右工門は嘉永5年2月より名跡を継ぐ。明治3年11月まで。序2段鏡山力蔵。真野町知本忠之助。弘化5年1月より嘉永4年11月序2段7枚限り現役引退。明治29年没。部屋は1時雷権太夫預り。とあり、付記して、5代・6代は詳細不明とある。更に付記して、6代は知本忠之助天保3年20才で家出。鏡山を名乗ったことは古文書にない。5代生家高野家に籍を入れるため、明治6年に附籍願が残っている。東京相撲“佐渡ヶ嶽沢右工門儀‥……・”と記載されている。高野家墓所に葬られた記録なし。佐渡の記録では明治19年6月18日没。佐了雲渡信士。知本清蔵弟。東京にて死すとある。一説には毒殺されたとの風聞もある。鏡山は雲洲藩ゆかりの名で低位の者が軽々しく名乗れるものではないと、疑問の付記がつけられている。先代の5代目佐渡ヶ嶽沢五郎は埼玉県秩父市品沢出身。本名高野佐市。幕下3枚目。天保10年3月15年間空席だった部屋を継ぐ。天保6年(1835年)松ノ浦佐市(幕下)~嘉永元年(1848)11月引退。嘉永3年6月24日投。深川万徳院に葬る。6代目を佐渡より養子に迎えた事は事実であり、秩父地方の民謡に、「ふんどしを 忘れてきたか 佐渡ヶ嶽 今日もふりふり 明日もふりふり」とあり、秩父市誌にも、沢右工門は養父沢五郎と弘化5年(嘉永元年)3月、秩父妙見宮(現在の秩父神社)境内で相撲興行を行なったと記載されているそうである。ちなみに、佐渡ヶ嶽部屋は、横綱男女ノ川や琴桜を出した部屋で、10代佐渡ヶ嶽高一郎は日本相撲協会を一時取りしきった人で、相撲体操など案出した由緒ある部屋なのであるが、5代6代は詳細不明と片付けられる程、落魄時代であったわけである。年寄名跡の権益は雷権太夫一時預りとあるのも、そういう事情があるのである。ご承知のように、今日では年寄名跡を継ぐには、幕内力士の経歴のある力士か、十両10場所をへて特別詮議を通過した人でなければ、年寄を名乗れないのである。佐渡ヶ嶽部屋の現在は、四股名の冠頭に琴がっく力士が沢山いて仲々勢いが出ている。
琴の若2代目


★佐渡嶽子之助(さどがたけねのすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
力士。佐渡夷町(両津市)の漁夫長兵衛の弟で幼時より力が強く江戸に出て力士となって関脇まで進んだ。
宝暦五年(一七五五年)三月に四十一才でなくなった。佐渡人名辞書には猪之助とある。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
(写真左)佐渡ヶ嶽部屋ルーツが両津夷ってことで、親方以下が大挙して来島。両津夷「安照寺」にて。
・前列右端(母にだっこ)が現在の琴の若! 父は先代琴の若(後列左から三人目)、祖父は名横綱で当時の親方琴桜(前列左から4人目)。前列左から2人目が大阪屋の佐藤石松さん、初代佐渡ヶ嶽の子孫。後列左端は琴奨菊。
(写真右)前列中央の白ふんどしが寺沢樹少年こと「朝乃若」。


『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

「島の新聞」

「佐渡ケ嶽部屋六代目」(「佐渡の百年」)
「安照寺史」より


平成15年に元横綱琴桜等佐渡ケ嶽部屋一行が安照寺を訪問する



琴奨菊結婚披露宴に梶井照雄住職が招待される



佐渡ケ嶽部屋関連写真
「島の新聞」索引(人名別)
★佐渡島正吉





★佐渡ケ濱(力士)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
力士。佐渡野浦村(両津市)の農家や生まれた。力量がすぐれ角力が好きであったので江戸力士となって佐渡浜と名のり幕内二段目まで進んだ。後郷里にかえって父母を養った。天保(一八三〇-四三年)中の人である。(佐渡人物志)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★佐渡錦→本間敏夫
★佐渡湖(さどのうみ)
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐渡湖 54 横綱大錦(第26代)の書いた「佐渡湖の碑」(さどのうみ)梶井照雄
★里道熊次郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を周平といい、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★里道サキ 芙蓉

★里村玄碩
連歌師、里村玄川の養子で、文化14年(56歳)に来島する。→下記資料のp707~
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)里村玄碩
9 鑑賞 佐渡のうた (9) 里村玄碩・石井夏海・田中葵園 山本修巳
93 連歌師 里村玄碩履歴考 (その1)大野温于
95 連歌師 里村玄碩履歴考 (その2)大野温于
96 連歌師 里村玄碩履歴考 (その3)大野温于
★里村玄川
「佐渡ふるさと百科」

連歌師 →下記資料のp673、694,698他
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
(玄川の第一回来島)
寛政元年(一七八九)の春、京都の連歌師里村玄川が来島したことは、数点の連歌資料によって確かめられている。
しかしこれは、「里村句集」(寛政四年~文化十五年)以前のことで、もちろんその動機や目的、滞在期間等については、はっきりわかっていない。が、やり後年の記録(「里村句集」)にあるように、正月十一日の江戸城連歌(柳営連歌)を終えて、帰洛の途次、佐渡に立ち寄ったものであろう。
(玄川の第二回来島)
寛政四年(一七九二)、里村玄川は自ら句帳に、次のように記している。
「閏二月の比佐州へまかりけるに越路雪深けれバ 旅衣春風寒し越の雪」と詠んだ。小木の小野元恭に乞われて聖像の讃をしているが、小木へは十二日に着岸し、さっそく后(木崎)大明神の広前で百韻連歌を催している。挨拶代りの張行であろう。巻頭に 官柱巡り逢世や花の友 と詠じ一路、相川へ向った。
句帳には「二月十八日 相川 惣連中へ 見へもしつ見もしつ花のとも鏡
三年前に物故した渡辺朗三を弔う
永輔旅宿同人
佐渡にて国の宗匠を免許せしめ、役辺へも予が申達し、武辺相済けれバ」と記されている。巡歴の概要は、二月二十三日 河原田、同二十七日 瓜生屋、三月三日 椎泊・両尾・湊、同十二日 長畝、同十五日 畑野・両
尾・水津・風嶋弁天詣・椎泊、同三十日 湊、四月朔日 湊、同四日 羽黒山詣、同七日 湊(東部地区約四十日間)、同十二日 河原田、同十四日 相川、五月二十二日 金比山詣、同二十五日 大願寺天満宮奉楽、六月八日小野見天満宮・檀特山詣・不動瀧・石名・小田・河原田・畑野へ、同二十五日 羽茂に行く(西部地区約七十日間)とある。
里村玄川の第二回来島は、寛政4年(1792)2月12日に小木につき、湊町、水渡田、長畝、新穂、畑野、羽茂(天満宮法楽)、相川、潟上、梅ヶ沢、小木、新倉山弘仁寺、小比叡山蓮華蜂寺(小木で船待ちにより九月九日より二十九日まで滞在)を訪れ、九月末日にようやく出雲崎へ渡った。何を思ったか、京都へは帰らず、十月一日奥州へ旋立った。
(玄川の第三回来島)
玄川の羽茂滞在は、六月二十六日から七月二十日ころまでの、約二十五旦間であった。数日のずれはあるが、前回(寛政四年)とほぼ同じ月の同じ期間であった。その後玄川は、真野、二方潟、河原田、椎泊、湊、相川、畑野を経て、小木へ出たのは九月二十五日ころと思われる。ちょうど便船があって、九月二十七日に出雲崎へ渡り、この度も京都へは向わずに、江戸へのコースをとっている。何か都合があったものと思われる。佐渡滞在は、前回の約二百三十日に比べてやや短かく、約百八十日であった。
★佐渡屋伊右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
新潟十七軒町(本町通十番町)佐渡屋市兵衛の弟である。享保四年(一七一九年)に生まれた。兄に仕えてよく尽くし一家和合して春のようであったので明和三年(一七六六年)にその善行を表彰され賞を与えられた。四十八才であった。(舟江遺芳録)
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