2021-01-10
★策善
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
小比叡村の人。文化十二年に四国八八ケ所霊場の土砂を三宮村、中川如月、小倉村の本間弘学らと持帰り各村村へ配置して佐渡遍路をはじめた。
★佐久間儀七
『近現代の羽茂』
大崎には此他にも斯の道に秀でたものが多く、佐久間伝十郎(1819~92年)は太皷を五十里の春藤次郎兵衛に学び、高安英勝からは脇能、小習、大習、頭取等の許を受けて名手となった。其子儀七も父に習うて太皷の名手となった。本間藤平と共に大正年間の名人とよばれた者に(大崎の)大場喜太郎(1861~1933:本間令桑に就いて其道を究めた)が、いた。此道に熱意をもって教えを乞う者があれば遠近を問わず寒暑をいとわず子弟を指導した。今日名をなす者の多くは此の門下である」
★佐久間甚吉
(『佐渡広場』より)
(大崎の能の系譜)葛原五兵衛(1804~1845)→川口宇平(1818~1876)→藤井泰延(1820~1889)→本間藤平(1830~1904)→大場喜太郎(1861~1933)→「今日名をなす者の多くは此の門下である」と1956年刊の『羽茂村誌』にある。また、(羽茂)本郷の三羽烏といわれた飯岡の金子厳、上山田の佐久間甚吉・若林郷太郎の3氏は、大場さんの下で謡曲の勉強をしていたとある(『佐渡広場』「佐渡の能楽45:外山久次翁の能楽人生」)。
★佐久間伝十郎
『近現代の羽茂』
『羽茂村誌』にないが『近現代の羽茂』には、大崎の藤井泰延(1820~1889)の事が載っている。泰延は、地元の川口宇平から謡を習い、潟上の本間左京由春に入門し、本間太夫の地謡方を務めた。天保10年城腰の三国五郎右ェ門豊水より金春流太鼓を学んだ。安政年間には京都に上がり森田流杉浦兵衛から笛を習い、帰途江戸へ回って森田流笛師藤本生五郎の指導を受けた。また、金春次郎より金春流太鼓の指導も得て帰国。本間宗家3代に仕えて各地の能に出演。明治6年に金春流太鼓宗家金春熊次郎より皆伝、同13年に森田流宗家より笛の皆伝を許された。大崎には此他にも斯の道に秀でたものが多く、佐久間伝十郎(1819~92年)は太皷を五十里の春藤次郎兵衛に学び、高安英勝からは脇能、小習、大習、頭取等の許を受けて名手となった。其子儀七も父に習うて太皷の名手となった。 本間藤平と共に大正年間の名人とよばれた者に(大崎の)大場喜太郎(1861~1933:本間令桑に就いて其道を究めた)が、いた。此道に熱意をもって教えを乞う者があれば遠近を問わず寒暑をいとわず子弟を指導した。今日名をなす者の多くは此の門下である」
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
・大崎の人。太鼓を五十里の春藤次郎兵衛に、また、高安英勝より脇能・小習・大習・頭取などの許しを受けて名手となった(明治二十五年五月二十日歿、七十四歳)。その子儀七も父について鼓技を習い、後高安英勝の子英粲から免状を受け、名人の称が高く(明治二十年一月二十五日歿)、儀七の子豊吉もまた父に習って大鼓の名手となった(大正十年十月三十日投、法名鼓法相伝居士)。
・(羽茂大崎)龍沢神社は青龍さんと呼ばれて、むかしから(佐久間)伝十郎の旧宅地内にあった祠である。何時の頃創建されたか詳でない。佐久間伝十郎は文化四年(一八一七)に生まれ、長じて神道大教院から教導職試補を授けられ、農事のかたわら神事を司った。明治の初め頃、お宮やお寺でお説教があったが、このお説教をする人を教導職といい、相川の中教院で、一応の漢学を勉強しなければならなかった。その頃の教師は円山溟北で、また、この中教院には神殿があって、そこで修業をすることになっていた。明治三〇年(一八九七)の大洪水で、伝十郎屋敷は欠潰流失したので、神社だけを残して現在のところへ転居した。その後も、洪水の度ごとに龍沢神社も被害を受けるので、昭和九年(一九三四)に安全地帯である白山神社境内に寄進したが、時々夢の枕に立たれて、もとのところにお帰りを望まれる青龍社神の御神託にしたがい、昭和一五年(一九四〇)現在のところに杜を再建し、厚くこれをお祀りした(佐久間伝市談)。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
(「佐渡広場」より)http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=4
★佐久間伝平
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
★佐久間儀七
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、父伝十郎について鼓技を習い、後高安英勝の子英粲から免状を受け、名人の称が高く(明治二十年一月二十五日歿)、儀七の子豊吉もまた父に習って大鼓の名手となった(大正十年十月三十日投、法名鼓法相伝居士)。
→佐久間伝十郎
★佐久間豊吉
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、佐久間儀七の子、伝十郎の孫。父儀七に習って大鼓の名手となった(大正十年十月三十日投、法名鼓法相伝居士)。
→佐久間伝十郎
★佐久間秀治
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・おけさ柿づくり 地域で知恵を出し合って(佐久間秀治)
★佐久間兵左衛門(深浦)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。深浦の大屋は佐久間氏を名乗っています。佐久間氏は、佐渡の他の地方にはない珍しい姓です。十三世紀末の文書に、宿根木の小名であると書かれていますから、そのころ以来の村でしょう。
★佐久間雄二
「島の新聞」索引(人名別)
★作山眞太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐倉準
「躍進日本」

★桜井香
昭和十五年ころに畑野中何代で天恵堂写真館を開いたが、戦後まもなく両津に移った。
★桜井惣五郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

大正14年佐渡中学卒、両津市教育長。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p414
★櫻井哲夫
両津夷出身、昭和21年生まれ。両津南中(2回生)ー両津高校(16回生)ー京大卒。
企業退職後、新潟に在住し、頻繁に佐渡を訪れて佐渡研究に励み、「佐渡広場」なる人気ブログを運営している。
その都度単行本として刊行し、平成26年現在4冊を数える。

「島の新聞」索引(人名別)
★桜井兵五郎(ひょうごろう)


「ウイキペディア」より
生年月日 1880年(明治13年)8月8日
出生地 石川県鳳至郡柳田村(現・鳳珠郡能登町)
没年月日 1951年2月11日(70歳没)
出身校 早稲田大学政治経済学科
親族 三男・櫻井廣明(石川県議会議員)
選挙区 (石川県郡部選挙区→)
石川県第2区 当選回数9回
在任期間 1915年3月25日 - 1916年11月27日
1917年1月8日 - 1920年2月26日
1928年2月20日 - 1945年12月18日
石川県の旗 石川県会議員
選挙区 鳳至郡選挙区
当選回数 1回
在任期間 1913年7月1日 - 1915年4月1日
1880年(明治13年)8月8日 - 1951年(昭和26年)2月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、国務大臣、石川県会議員。幼名・正清。
・来歴・人物
石川県鳳至郡柳田村(現:鳳珠郡能登町)で桜井源次の長男として生まれる。1911年3月、早稲田大学政治経済学科を卒業。1915年4月、日本タイプライター会社(現キヤノンセミコンダクターエクィップメント)を創立し常務となる。その他、北陸毎日新聞社長・副社長、北日本耐火煉瓦社長、日本観光社長などを務めた。
1913年7月から1915年4月まで石川県会議員となる。1915年3月の第12回衆議院議員総選挙に石川県郡部区から立憲同志会に属して出馬し当選。1916年11月27日、大審院で衆議院議員選挙無効訴訟事件の上告が棄却され議員を退職[1]。その後再選挙となるが再び当選[2]。第13回総選挙でも再選された。その後、1928年2月の第16回衆議院議員総選挙から1942年4月の第21回総選挙まで6回連続で当選した。所属政党では、立憲民政党総務、同党政務調査会長、同党幹事長、翼賛議員同盟総務などを務め、戦後は日本進歩党に所属したが、間もなく公職追放となった[3]。
また、1931年4月に第2次若槻内閣の商工参与官。1932年、金沢市の湯涌温泉で白雲楼ホテルを開業する。
1934年10月、岡田内閣の拓務政務次官となる。太平洋戦争を迎え、1942年3月、陸軍省事務嘱託(親任官待遇)・第15軍司令部付・軍政顧問に就任しビルマに赴任。1945年4月、鈴木貫太郎内閣に国務大臣(無任所)として入閣した。
戦後、1945年12月にA級戦犯容疑者として拘留されたが、1947年9月に釈放された。
1951年2月11日、日本タイプライター本社の社長室で死去した。享年70。横浜市長の平沼亮三を葬儀委員長とする社葬が営まれた。
・著作 『日本打開論』帝国地方行政学会、1927年。 『日本の情勢と産業合理化』近田商会、1930年。 『第七十六議会報告書:附・衆議院予算総会劈頭代表質問』高井良恭輔、1941年。
・親族
三男 櫻井廣明(石川県議会議員)
★櫻井満
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)櫻井満 79 点鬼簿(1) 中河與一氏、櫻井満氏、北見俊夫氏、西谷能雄氏、山本泰司氏 山本修巳
★桜井美帆
「島の新聞」索引(人名別)
★桜井要八郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、社会民衆党佐渡支部発会式[四年十二月十五日]
★桜井蓮
佐渡高校卒。

★桜木紫乃
直木賞作家、祖父が佐渡市出身で開拓で北海道に渡った。釧路市立北中学校卒業、北海道釧路東高等学校卒業。「ウイキペディア」より(「実家は理容室であったが、15歳のときに父親が釧路町に「ホテルローヤル」というラブホテルを開業し、部屋の掃除などで家業を手伝っていたという経験が性愛への冷めた視点を形成したという。代表作『ホテルローヤル』をはじめ、いくつかの作品に同名のラブホテルが登場する。」)
「ウイキペディア」より
★櫻屋
小木の質屋で、お糸さんの再婚先。昭和30年代まで続いた。お糸さんの主人八木従蔵(質店主)の先妻の子が質屋を営んでいた。平成2年頃まで建物はあった。
★酒匂勘十郎(さこうかんじゅうろう)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★佐合源吉
『両津市要覧(昭和33年)』より

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・昭1、農政革新会の惣會[二年一月五日]・昭2、農政革新会の演説[五年一月十一日]
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)


★佐合雄介

★佐近(羽茂大草 典医)


★左近儀平次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、電線架設の建議[十七年五月]
★左近博
両津高校時代の1967年度(S42)10月、県高校新人大会陸上競技110MH2位・200MH2位
1968年度(S43)6月、第21回新潟県高等学校総合体育大会陸上競技 200MH2位
1968年度(S43)6月、北信越高校大会陸上競技 200MH8位
★佐々源左衛門(ささげんざえもん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、延享六年(一七四四年)十二月十五日御日付より佐渡奉行に、四年正月二十六日に御普請奉行へ転任した。
名は成倚、知行は四百石、御役料千五俵百人扶持であった。(佐島遺事)
★笹井吉十郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
明治一五年五月、西三川藤井甚太郎、味噌製造業を廃止し其の器具を笹井吉十郎に売却し、笹井吉十郎味噌製造業始む。
明治二五年、笹井吉十郎は開拓に味噌大醸造場を設け、大豆を北海道及満洲より購入し、北海道に輸送していたが、今年味噌三千樽を北海道へ輸送する。明治二七年九月一二日、笹井吉十郎所有船八十石積みは、倉谷沖にて難波、船頭死亡。
また、豊田「山路家文書」によると、明治二八年七月二〇日、小布勢村笹井吉十郎は味噌一〇〇五樽を恋ケ浦村山路酉蔵扱いで北海道へ移出している。
★笹井吉郎兵衛
西三川の人、高崎人形の人形師で通称「べーヤシキ(馬屋敷)」。彫刻の名人でもあり、羽茂村山の「つぶろさし」面も作った。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
演劇博物館編の「国劇要覧」(昭和七年刊)によると、(高崎人形は)真野町の竹田人形のカシラの一部が伝来したと書いてある。しかし、カシラに「やまきち」の焼印が擁してあって、西三川の通称姥屋敷 (べえやしき)笹井吉郎兵衛の刻んだものもある。
このなかの翁(おきな)と媼(おうな)は近所の通称下山(しもやま)佐藤家の老夫婦をモデルにしたものといわれる。この老夫婦は、文久二年と天保九年に死んでいるのでこれらの人形はそれ以前に刻んだものであろう。昭和十年二月十七日、著者は松田与吉翁の紹介で、この一座のカシラ・幕・道具一切を譲りうけた。人形を入れた行李が、牛小屋の片隅に放ってあったのは驚いた。破損したものや牛の小便がかかって匂いのするものさえあった。三十八個あったらしいが、なんとか形のととのったものは二十個くらいであった。女のカシラは一個しかなかったが、小さく、古雅で仏像を見るようであった。腰幕も古風で牡丹に唐獅子の図柄であった。最も珍らしかったのは裸体で陰部まで刻んである男女の人形であった。この一座は、明治十年ころまでつかっていたというが、太夫や役者の氏名はわかっていない。しかし、通称横枕加藤長太郎、通称ウシロ朝比奈浜蔵、佐々木寡作、臼杵善蔵の四人が共同所蔵であったから、この人たちの先代が太夫や役者であったのかも知れない。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
真野町酉三川の人。通称姥屋敷(べぇやしき)、天保のころの人らしい。カシラに(やまきち)の焼印を捺している。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★佐々井(笹井)九之助
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
笹井新屋家に残されている「笹井氏先祖由来」によると、慶長元年(一五九六)に、佐々井九之助と母妙真が渡来して、相川の庄右衛門町に住んだと記している。佐々井九之助は山師である。沢根町と同時期に、上相川周辺にたくさんの町屋ができた時代である。そして寛文三年(一六六三)に、この庄右衛門町より佐々井氏が沢根上町にでて、浜田屋権左衛門(二代川上権左衛門)という商人となった。つまり、川上権左衛門は佐々井氏から娘婿をもらって家業を継がせることにしたのである。笹井家の伝えによると、このときはじめ小船一艘を所有するようになったといわれているが、そのとき以降つかわれた船霊本尊が、笹井新屋家に保存されている日蓮宗曼荼羅である。二代川上権左衛門の没年は延宝三年(一六七五)である。そして、三代の時代に浜田屋は、家業も軌道にのり、渡海用の手船を一般所有するはどになった。元禄年中(1688-1703)には、沢根上町から下町に移ることになる。
★笹井治左衛門(ささいじざえもん)
沢根の廻船問屋。先祖は佐渡金銀山の初期、石見国浜田より渡来、初代は川上権左衛門、二代は相川庄右衛門町、佐々井孫左衛門の子次郎兵衛が婿養子に入り、沢根上町に出て、浜田屋権左衛門となり廻船問屋となる。「由来記」では川上五郎右衛門(山主、のち新穂村長畝帰農)、久保新右衛門(地役人となる)ら三人が渡来したとある。元禄年中、沢根上町から下町に移住し、岩谷口の船登源兵衛船と取引をして廻船業は成功した。先祖以来、日蓮宗の熱心な信者で、京都本圀寺第十六世日 直筆の題目曼荼羅を小倉(畑野町)御梅堂に寄進している。寛延三年(一七五○)、相川羽田町の渡部覚左衛門より養子が入り五代浜田屋を継ぐ。家業興隆の初祖となり、屋号を笹井治左衛門と称する。北前船の船主となったのは明和年間(一七六四~七一)で、宿根木(小木町)にて大黒丸(二五○石積)を新造、佐渡最初の北前型弁才船であった。寛政五年(一七九三)、五代浜田屋隠居、浜田屋新屋(治右衛門)を建る。文化元年(一八○四)、本家治左衛門船は大黒丸・明神丸、新屋治右衛門船は大徳丸であった。この浜田屋廻船業の記録を笹井秀山(伊助)が書き残しており、五か月にわたる旅日記『海陸道順達日記』も書く。幕末には浜田屋は沢根町第一の分限者となり、「当町浜田屋治左衛門と申、身元宜敷者これあり」と記されている。明治二年(一八六九)、家業は酒造兼質屋、治右衛門は鍋商人となった。【関連】海陸道順達日記(かいりくどうじゅんたつにっき) 【参考文献】『佐和田町史』(通史編) 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★笹井秀山
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
沢根町笹井治右衛門(秀山)は文化十年(一八一三)に西国へ一四四日の旅に出て、その道中のようすを記した『海陸道順達日記』という旅日記を残している。このときの秀山(宗遠の子、伊助)と同行者の倅(岩之助)、雇い人(佐平次)の三人の出判は「商売出国の分として高外出判」の扱いを受けており、割当人数外であったし、手続きも簡単に済んでいる。この笹井秀山の出立は四月十九日、帰ってきたのは九月十六日であった。沢根五十里の金子弥五右衛門(紺屋家)が幕末に赤泊港を三月二十三日に出立して、信州をまわり、日光、江戸を経て東海道を西に行って、伊勢参りをして、大阪、京都見物をして、北陸道で出雲崎へ出て、赤泊へ帰着した八十四日間の旅も記録に残っている。秀山の旅は約五か月間の旅であったから、商い物仕入の名目で出国したにしては長期間であった。この旅の行程の概略を記してみると、沢根港を出帆後二見で日和待ちをして、能登の福浦に上陸した。その後陸路京都へ向かい、北陸道で敦賀に出て昔からの商取引相手であった茶屋助左衛門で数日間泊って、山越えをして琵琶湖北岸の海津に出た。そこから西近江路で大津から京都に入った。秀山はこの旅の前には敦賀へは自分の船で出向いたことがあったようであるが、京都、大坂、兵庫ははじめてであった。この旅は商品仕入れだけでなく、秀山の倅の岩之助の痔の手術に紀州の平山(現在の和歌山県那賀郡平山)にいた当時、外科医として日本的に名声の高かった華岡青洲(随賢)のもとへ行くことが目的であった。おそらく浜田屋では京都の宿、三河屋源右衛門の手を経て、青洲による手術の手配をつけたものだろう。京都で商品仕入れをして、紀州の平山の治療所、青洲の春林軒についたのは五月二十二日であるから、佐渡を出てから一か月余たってからである。岩之助は手術後の療養が必要なので、手代の佐平次をここに残し、秀山は案内人をつれて高野山をまわり、また、大坂へ出て商品の注文をするために、久宝寺屋という問屋に止宿し、そのあと奈良見物、南下して長谷寺参りをして、帰りは法隆寺などを見物して、木津川から宇治へ出て、京都の三河屋へまたもどった。ここで、六月七日の祇園祭りを見物している。この後は東海道を下って関(現三重県鈴鹿郡関町)から伊勢別街道で伊勢に向った。秀山が伊勢外宮のある山田へついたのが、文化十年の六月十一日である。ここに当時上野国、東北、佐渡などの伊勢講の人びとと師檀関係を結んで、伊勢参詣を勧誘し、伊勢参りにきた人たちに宿舎を提供していた三日市太夫次郎という御師(おんし)宿があった。秀山がこの三日市太夫次郎邸に入ったときの記述は次のようになっている。
方五町四方も其余もあるべくぞ思われ、前に大門あり。それより入りぬれば、ここに小木戸あって是より内は広庭なり。そのかたえに玄関ようの処より各々支度直し、座敷へ入りぬれば、ここに幸い佐渡河原田の伊勢屋定次(定八)とて、伊勢宿を勤候ものなりしが、此春太夫様御登りの頃、国元より供いたし参り侯よし……。秀山を迎えたのが河原田の伊勢屋定次であったが、もう一人、喜左衛門がいた。喜左衛門は三日市太夫次郎の代りを勤める御師宿の番頭のような立場にあった。河原田町の享和三年(一八〇三)の屋敷帳にでてくる中沢喜左衛門であろシ。喜左衛門屋敷ほ本町裏通りの石原アパート付近にあった。ここに現在、諏訪神社に移された伊勢神宮の小社があった。そして、このそばに定吉屋敷(定八)があって伊勢宿をしていた。伊勢の三日市太夫次郎の手代らはここに泊って、伊勢御師の仕事をしていた。『佐渡国略記』、『佐渡風土記』、『佐渡年代記』などに享保十七年、伊勢三日市太夫次郎の手代中沢市太夫が自殺した記事を載せている。当時としては大きな事件であったのであろう。喜左衛門や市太夫は佐渡の神明講中の御初穂を集め、伊勢の大麻頒布をし、太神楽を行って帰っていったのである。忠左衛門とは中沢氏のことで、もともと中沢喜左衛門は佐渡河原田出身ではないかと思う。秀山は三日市太夫次郎邸で喜左衛門から別れぎわに、特別に高蒔絵の手箱に入った印度、唐伝来の名石を拝見している。伊勢参りのみならず、佐渡人の旅は、これを機会に各地のめずらしい品物や漢方薬、農作物の苗木や種など、さまざまな品物を島内に持ち込んでいる。また、著名な祭り行事を見物したのを機に芸能を習い覚えて帰ったものもいる。
・笹井秀山は伊勢参宮を終ってから田丸(三重県玉城町田丸)を経て、伊勢の名張から奈良へ出て、木津川から京都の宿へ帰った。この田丸の森田屋という燈油屋で油紙製の刻み煙草入れや合羽を伊勢土産として購入している。このような道中で求めた旅の土産ほ佐渡の各地へ相当持ち込まれたものと思われる。
・さて、秀山らは播州の海岸通りを歩いて兵庫に至った。ここで遅れてきた手代の佐平次といっしょになり、手術後の倅は浜田屋の廻船で佐渡へ帰ることにし、秀山と手代の二人は瀬戸内から下関に出て、ここで兵庫からの浜田屋の廻船を待って帰島することになる。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)笹井秀山
42 秀山「海陸順達記」の道をたどる (1) 佐藤利夫・三浦啓作 43 秀山「海陸順達記」の道をたどる (2) 佐藤利夫・三浦啓作 44 秀山「海陸順達記」の道をたどる (3) 佐藤利夫・三浦啓作 45 秀山「海陸順達記」の道をたどる (4) 佐藤利夫・三浦啓作 46 秀山「海陸順達記」の道をたどる (5) 佐藤利夫・三浦啓作 47 秀山「海陸順達記」の道をたどる (6) 佐藤利夫・三浦啓作 48 秀山「海陸順達記」の道をたどる (7) 佐藤利夫・三浦啓作 49 秀山「海陸順達記」の道をたどる (8) 佐藤利夫・三浦啓作 51 秀山「海陸順達記」の道をたどる (9) 佐藤利夫・三浦啓作 52 秀山「海陸順達記」の道をたどる (10) 佐藤利夫・三浦啓作 53 秀山「海陸順達記」の道をたどる (11) 佐藤利夫・三浦啓作 55 秀山「海陸順達記」の道をたどる (12) 佐藤利夫・三浦啓作
笹井秀山の旅
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=23
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=24
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=3
★笹井祥作
『佐渡酒誌』(平成14年)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
澤根町 ・明3、稲堀事件[二十五年十一月]・明3、佐渡憲政党の発会式[三十一年七月二十四日]・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明3、第拾回選挙[二十六年二月八日]・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]
★笹井正
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)笹井正 80 点鬼簿(2) 武田静澄氏、福田清人氏、富川潤一氏、笹井正氏 山本修巳
★ 笹井敏雄
佐渡を代表する画家であった。画号は莬子。沢根の豪商、回船問屋浜田屋の人。青野家、新町山本家とも姻戚関係にある。
「佐渡ふるさと百科」

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)笹井敏雄
1 鑑賞 佐渡のうた (1) 笹井敏雄 画 大定・庭 山本修巳 1 棟方志功氏の思い出
「島の新聞」14号

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
「島の新聞」索引(人名別)
★笹川一松
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・7・8・27~28 県水上選手権・全日本水上県予選(県体育協会・県水上競技連盟・県小学校体育連盟主催)新発田・西公園プール(金泉小・全種目優勝)50平 44.2新
★笹川清
諸情報
★笹川要作
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・5 第7回県学童水上競技大会(県水上競技連盟・県小学校体育連盟)新潟中プール
(金泉小尋)100平①1.35.1新
昭和12年度県学童大会最高記録(県小学校体育連盟・県水上競技連盟)
100平 1.35.1(金泉)昭12.8.5
昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)
100平 1.33.3笹川要作(金泉)昭12
★佐々木?
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治九年生 赤泊村徳和 ・明4、進歩党の集会[四十一年四月二十日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木晶
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木晶 22 瞼を閉じれば
★佐々木勲

★佐々木勇

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木勇 3 或る系図について
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★佐々木勇

佐渡出身、広島大教授。
佐々木勇
★佐々木市三郎

★佐々木市作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡農事協会の創立[三年八月二十五日]
★佐々木一作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、日本大衆党佐渡支部[五年八月二十四日]
★佐々木逸祐
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)より(俳客伝)

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★佐々木伊八郎
小木郵便局長。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
『小木町史』(下)より
小木の町には島外からの輸入品をとりあつかう店が大いにはやりました。明治二十四年の記録に、呉服商の佐々木伊八郎、中川晴吉の二人が、近年一層仕入れを手広にして、土地の便益になっているとあります。佐々木伊八郎は、明治のはじめには廻船持ちの商人でしたが、この頃には呉服商として大をなしていたのです。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
★佐々木梅太郎
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★佐々木栄喜多
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・10・8・2~3 第5回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟)悠久山プール
(佐渡中学 総合1位)100平4位、200平4位
★佐々木栄太郎
→山本清左衛門「清諷会」参照
★佐々木恵里紗

★佐々木覚三郎→佐々木甘泉
★佐々木覚準
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木勝次
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
(真野)浜中の鬼太鼓は竹田から習ったという。教えたのは竹田での創始者たちで、習ったのは永井啓作(明治九-昭和二九)が女鬼、佐々木勝次(明治二五-昭和四〇)が男鬼、太鼓が佐々木源次(明治一九-昭和四四)、長勝治(明治ニー-昭三一、佐々木甚平(明治二四~)等だったというから、竹田より二・三年遅いくらいなのであろうか。 明治四二年生まれの永井与次右衛門は太鼓も舞も上手だったが、右の人たちが若い衆に教えているのは見たが、舞うのはみたことがないという。竹田の土屋徳蔵が浜中祭りに釆ていた。新屋がそのつれあいの生家だったからであろう。永井はそのとき鬼の役だったが、先輩に「先生が釆ておるから気をつけて舞え」と注意され、格別に心をこめて舞ったという。竹田と浜中の関係は深いといわねばならない。
★佐々木勘作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木甘泉(覚三郎)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★佐々木喜三次
「躍進日本」

★佐々木吉次
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★佐々木吉次郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木久右衛門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木鞏太郎(きょうたろう)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★佐々木玉山(俊蔵)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
本姓は生天日、名は備、字は咏帰、通称を俊蔵といい、常陸の人である。
豊田天功、藤田東湖に学び、国事に奔走し会津箱館の戦に参加した。
後に佐渡倉谷佐々木家に寄寓してその家の姓を用い、真野の新町に移って子弟を教授した。
明治三十五年常陸で七十三才でなくなった。(佐渡人名辞書)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木玉山 34 鑑賞 佐渡のうた (27) -補遺- 佐々木玉山 山本修巳
★佐々木クメ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡郡佐和田町上矢馳の人で天明二年(一七八二年)正月十一日に生まれた。明治二十二年三月十二日に百六才二か月でなくなった。八十八才の時、夫が九十才でなくなった。二男五女の子があり、この年、長男と三女が死亡、長女七十二才、二女七十才、ニ男六十四才、四女六十五才、五女が六十才で健在であった。目も見え、耳も聞え歯も強く髪はまばらに白い。一日米三合、洒五勺、トウガラシが好きで、タバコも吸った。父は五十四、母は六十二でなくなった。(佐渡の百年)
「大力の女と百六歳の老婆」(「佐渡の百年」)
★佐々木邦基

(一社)佐渡生きもの語り研究所副理事長、佐渡トキの田んぼを守る会。
父方祖父(若き孫正義の才能を見出した人物)

「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木国蔵
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★佐々木敬一郎
昭和13年創部の佐渡中学弓道部に属し(昭和12年より活動)、、明治大でも活躍した。引退後赤泊に弓道場を作った。
★佐々木敬子
佐渡高校時代の25.6.10~11、県陸上選手権大会(柏崎市)、走幅跳3位
★佐々木元英(万松斎宗友一和・左近先生・海老名保作)

羽茂西方の矢が沢家の人。半生をかけて羽茂関係資料を収集した「翠堂文庫」を作る。



★佐々木賢慈
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★佐々木健次
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)
佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。
その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時
代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
★佐々木源次
→若林米蔵「笛畝会」参照
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
(真野)浜中の鬼太鼓は竹田から習ったという。教えたのは竹田での創始者たちで、習ったのは永井啓作(明治九-昭和二九)が女鬼、佐々木勝次(明治二五-昭和四〇)が男鬼、太鼓が佐々木源次(明治一九-昭和四四)、長勝治(明治ニー-昭三一、佐々木甚平(明治二四~)等だったというから、竹田より二・三年遅いくらいなのであろうか。 明治四二年生まれの永井与次右衛門は太鼓も舞も上手だったが、右の人たちが若い衆に教えているのは見たが、舞うのはみたことがないという。竹田の土屋徳蔵が浜中祭りに釆ていた。新屋がそのつれあいの生家だったからであろう。永井はそのとき鬼の役だったが、先輩に「先生が釆ておるから気をつけて舞え」と注意され、格別に心をこめて舞ったという。竹田と浜中の関係は深いといわねばならない。
★佐々木源十郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川 ・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
★佐々木健次郎
奉納者名にあり

★佐々木健太郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

★佐々木吾一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木五三郎






『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
「くだものまつり」と「くだもの直売センター」
昭和六〇年代は、安定した生産が始まってきた。組合員にも自信ができ、次のステップを考えるようになってきた。平成五年組合長の佐々木五三郎は、生産者と消費者と話し合いのできる場が必要であるとの考えから、イベント 「西三川くだものまつり」 を実施し、拠点である集出荷場において第一回の西三川くだもの祭りを実施した。予想を上回る一、二〇〇人の人達から、もぎ取り体験や皮むき大会に参加していただき、消費者との交流の場となった。時代とともに販売方法や買い手売り手の関係も変わっていき、佐渡島内での販売から新潟出荷へ、そして有利販売のできる贈答用販売へと変わっていった。昭和六〇年頃より西三川郵便局の協力を得てふるさと小包ゆうパックを始める。島内ではスーパーマーケットの出現で、個人店舗での需要が少なくなり、販売に行き詰まり感がでていた。主要産地に研修に行く度に見ていた農家の直売店にヒントを得て、平成九年組合長の佐々木良昌氏を中心に佐渡では本格的なくだもの直売センターを建設し、九名の参加者で国道三五〇号線に開店した。この組合の特色は女性たちの参加である。日常的活動はもとより先進地への研修や講習会等も全て女性同伴で行われている。こうした女性の参画は、農業経営への参加、企画、そし直売センターて農業経営簿記の記帳作業等へ発展し、農休日の設定や次世代の青年たちの参加意欲につながり、さらには、ゆとりある農業へと考え方が広がっている。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「57号」(平成31年4月)・社説:三組の相次ぐ受賞を慶ぶ(・佐々木五三郎・板垣徹・山本修巳)
「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木康一
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


★佐々木小太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町、・明3、板垣退助の渡航[二十五年八月八日]
★佐々木権四郎
→葛原源左衛門
★佐々木佐市
「近現代の羽茂」

★佐々木哲
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1ヒゲの斎藤ダメな静知 2 東京に「安寿の会」 2安寿、毒の水 3・佐渡は四十九里波の上 ・佐渡は居よいヨ住みよいヨ ・鬼のツノ・ふる里の味・沖汁 4・北田野浦のまつり ・佐渡の少年安藤隆司君 ・方言と佐渡 6小倉の祭礼 佐々木哲 6沖縄戦と将軍と子ども 7佐渡の言葉「タクラダ」 7この子を尋ねて四十九里 7漫画のページ 7濡仏・哲 7回想五十年 7戦中二十年、戦後五十年 8<現地ルポ>小倉川暴れる 9明るい農村「冷や汗テレビ出演ばなし」 9茅の上にも三年
★佐々木三良
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木三良 95 「院展何者ぞ」佐々木象堂の工芸へかけた情熱
★佐々木左門
旧小布勢村(真野)村長、明治三〇・一二・二七~。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十二年生 西三川村田切須、農業、明治十二年 生 ・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]
★佐々木佐与吉(ささきさよきち)
【生没】一八六三ー一九三六 人形芝居の首を模して、小さく土で作って棒をさし、子供たちの遊びに使わせた佐渡の郷土玩具作者。文久三年三月十八日、佐々木佐平次の長男として、佐和田町河原田諏訪町に生まれた。戸籍では佐与次とある。佐渡では、土で作られた人形が各地で製作されたが、全国的に有名なのは、いわゆる佐与吉の首人形で、郷土玩具研究家武井武雄は、「洒脱奔放な指の跡に加ふるに、軽妙に彩り飛ばした稚拙な筆を以てしたのは、あっぱれ日本首人形の白眉たるに恥ぢない。やや巧緻な傑作徳島県撫養の立岩のものと、両横綱であらう」(『日本郷土玩具』昭和五年)と絶賛している。なお、首人形は源頼光などの四天王などが多いが、猿や馬や狐もあって、傑作と言われるものもある。昭和十年(一九三五)ころ、小型のものは一個一銭で、一円代も買うと百個もあった。また、佐与吉は凧も作り、奴凧の両袖と中央に描いた椿の花は評価が高く、三寸角の朝鮮凧は、背負われた幼児が、箸の先につけて持つものであるが名品である。昭和十一年四月二十八日、七三歳で死去。
【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』、同『佐渡の郷土玩具』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
首人形作者。文久三年(一八六三年)三月十八日、佐渡郡佐和田町諏訪町佐平次の長男として生まれた。佐与吉は戸籍では佐与次という。土人形は佐渡各地で製作され、木製では獅子頭、木挽人形、独楽などがあり、紙製には凧、鯛提灯、燕などがあるが、全国的に有名なのは河原田の首人形である。武井武雄は「酒脱奔放な指の跡に加ふるに、軽妙な彩り飛ばした稚拙な筆を以てしたのは、あっぱれ日本首人形の白眉に恥ぢない。やゝ巧緻なやや巧緻の傑作徳島県撫養(むや)の立岩のものと両横綱であろう。」と河原田の首人形をほめている。昭和十一年四月二十八日、七十四才でなくなった。市井に埋もれた芸術家であった。(佐渡の百年)
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より

河原田首人形の作者のものにも、五cmくらいの福助人形がある。紫や赤の色彩は彼独特のものである。佐渡で福助といえば、すぐ「八幡の福助」を連想するほど佐和田町八幡のものは有名で、大小さまざまあり、生産も多量であつた。
・河原田 (佐和田町)首人形の作者、佐々木佐与吉のものに首人形の天神〔節〕がある。全国の郷土玩具のうちでも、首人形の天神というのは珍しく、類を見ないのではないかと思う。烏帽子を合わせて首の大きさが約十一cmの大型のものである。
・佐渡の凧のうちで、全国的に珍しく、特色のあるものがある。全国の凧には、いろいろ形態のかわったものが多い。佐渡の凧は、形態のかわったものではなく、描いてある凧絵の稚拙の筆致によるものである。この凧の製作者は、土製の首人形「つまみ人形」の製作者としても全国的に有名な佐々木佐与吉である。種類は奴凧、かるた凧、六角凧、朝鮮凧であるが、このなかで「奴凧」と「朝鮮凧」が、特色があり珍しいものである。四種類とも、板木による木版画でなく、みな筆描きのものである。首人形と同じ稚拙な筆致であるところに佐与吉の個性がよく表現されている。もう一つは、同じ佐与吉のつくる「朝鮮凧」である。縦、横、各約十七cmという全国でももっとも小形の凧である。これは、空にあげるものでなく、丸箸の先につけて、子守の背に負われている幼児に持たせるものである。これらの佐与吉の凧は、正月近くになると、ごくわずかだけつくつたから、一般にはあまり知られていないものであろう。佐々木佐与吉の首人形は、日本一の折り紙がついていることが、この凧もまた日本一の折り紙をつけられるべきものであろう。
・河原田の首人形の作者佐々木佐与吉にも土人形の犬がある。高さ十四cm、独特の犬で、眉やヒゲには、首人形と同じ筆致で措いている。実に素朴で、ユーモアな犬である。
・武井武雄画伯が、徳島県撫養町立岩のものと、佐渡の佐和田町河原田のものは、日本首人形の両横綱であるといっている。そして、この河原田の首人形については「洒脱奔放な指の跡に加ふるに、軽妙に彩り飛ばした稚拙な筆をもってしたのは、天晴れ日本首人形の白眉たるに恥ない」と最大級の称賛の言葉を付け加えている。この首人形の作者は、佐和田町河原田諏訪町の佐々木佐与吉である。佐和田町役場の戸籍簿によると「佐与次」となつていて、文久三年三月十八日、佐平次の長男として生まれた、となつている。彼は、生涯妻もなく、子供もなく、まったくの孤独で、酒と人形作り三昧に世を終えた埋もれた街の芸術家であつた。こういう人でなければ、あの天真爛漫な人形は作れない。利欲というものがなく、童心そのものの持ち主であつた。佐与吉は、朝から酒ばかり飲み、赭ら顔に目ばかりキョロキョロさせていた。大正十三年八月、歌人与謝野寛・晶子夫妻が佐渡へ来島した。この時、相川町へ行く途中、佐和田町のこの佐与吉老人の家の前で自動車をとめた。耳の遠い佐与吉に大きな声を出して、首人形のいくつかを買った。この時も朝から酒を飲んでいたとみえて、テカテカと赭ら顔をしていた。晶子夫人は「さど人の 朝焼のごと かがやける 手よりあがなふ のろま人形」と短冊に書いた。佐与吉の赭ら顔を、朝焼の空のように赤くかがやいていると形容したのが面白い。もちろん、この「のろま人形」は、土の首人形のことである。「敵味方仲よく並ぶ佐与が店-去春散士」の川柳にあるように、佐与吉の店には、人形芝居に出る敵になる人形も、味方になる人形も、共に仲よくならんでいるというのである。「爺さん、おるかア」と、声をかけて店へ入ると、イロリに立てた首人形の彩色をやめて出て来るが、耳が遠いのでなかなか話が通じない。昭和の初め、小型のものは、一個一銭で、一円代買うと百個あつて持ちきれなかったほどであつた。そして、古い教科書などを、ジャリジャリとさいて、藁シべでグルグルと巻いて包んでくれた。そのころ、他の商店などでは、すでにきれいな包装紙があつたが、この佐与吉の店だけは素朴で野趣のある包装紙であつた。
・首人形の着物は、手づくりの古新聞紙などでこしらえたが、晩年、佐与吉はお客のすすめで彼らしい筆致の模様で着物や鎧をつくつていた。佐々木佐与吉はとうとう昭和十一年四月二十八日すなわち河原田まつりの翌日、七十四歳で死んだ。そして、全国の郷土玩具愛好家からたいへん惜しまれた。主治医であつた河原田町の中山徳太郎先生の話にょると、死因は肺炎とのことであった。そして、前年の秋ころ一度からだの具合いが悪いといううわさがあつたが、その後酒徳利をかかえて町を通る姿を見かけたので、これでまあよかったと安心したものだという。年があらたまると、また人形づくりに精を出していたので、もう大丈夫だと思っていた。そのうち、死ぬ一週間前から中山先生の診察をうけるようになつた。見舞いに行くと、まくら元には薬瓶らしいものは見あたらないで、いつも愛用の酒徳利だけがならんでいた。四月二十七日は、年に一度の河原田まつりで、町は屋台が通り、笛や太鼓のにぎやかなハヤシが病人の耳にも聞こえてきた。そして、いつまでもその音に聞き入っていた。翌日佐与吉は「これで、今年のまつりも、無事にすんだなあ。おれもオーヤリした(安心の佐渡方言)」と、いって往生をとげた。まったくの孤独の身で、まくら元にあつて最後の別れをしたものは、長い間苦楽をともにした酒徳利と近所の人たちだけで、中山先生も間に合わなかったとのことである。奇人であり、名人であつた佐与吉らしい最期であった。菩提所は、河原田町の本田寺で、墓もその境内にある。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
「鉄幹と晶子」(「佐渡の百年」)
「首人形の佐与爺」(「佐渡の百年」)
★佐々木三四郎(小比叡)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。この家は能登からきたと伝えており、夏井の城山はこの佐々木家が持っています。羽茂殿の製塩の代官をしていたものでしょう。小比叡の佐々木一族の大屋と思われます。佐々木氏の釆国は古代のころであると考えられています。
★佐々木三蔵
「躍進日本」

★佐々木滋太郎(しげたろう)
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★佐々木茂乃
佐渡高校時代の昭和37、全日本学生清書コンクール特選
★佐々木茂春
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・サンセ一キ梨づくり
西三川は「二十世紀梨」 の産地である。各農園で二〇~三〇アールの梨を栽培していたが、その七〇パーセントが二十世紀梨であった。二十世紀梨は黒班病に弱く、二回の袋掛けをしないと収穫ができなかった。九月に集中する島内販売に詰まり新潟市場へ出荷するが、大量にある新潟産の梨の中で価格は安かった。佐々木茂春氏、佐々木康夫氏は袋を掛けないで栽培する二十世紀梨に挑戦し、長野県松川町等の先進地まで出かけ研修して完成させた。商品名をサンセーキとして新潟市場へ出荷し、糖度と適酸でコクのある梨となり評価を受けた。完全無袋のサンセーキ梨は新潟県内でも西三川だけである。
★佐々木茂(初代 吉の山)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
吉野山の初代で明治39年生まれ昭和54年73歳で病歿した人で吉井村の大名乗りである。
★佐々木秀安
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川神明社人。橘三者について神道をおさめ、また和歌をよくした。
元文二年(一七三七年)になくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
★佐々木酒水(高瀬)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
★佐々木俊蔵(生天目辰之助 なばため )
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
寺小屋師匠、郵便局長。水戸藩士で明治元年会津戦争に従軍し、さらに函館五稜郭の戦に賊軍として参加した。敗戦後、北海道にいた佐渡人佐々木三郎のもとに、身をかくし、佐渡に渡って三郎の弟、俊蔵と変名した。本名は生天日(なばため)辰之助といい、玉山と号した。明治三年佐渡真野町の山本半歳、山本五半、山本藤八郎、島倉伊平、中川清三郎の五人が出資して「学問所」を開設し、俊蔵を教師として迎えた。この学問所は新町郷校と明治五年に改め後に真野小学校となった。また五年七月、内務省駅逓局所轄郵便取扱所(郵便局の前身)が新町、相川、赤泊、小木に開設され、俊蔵は同八年から二十九年まで郵便局長となった。明治三十五年、郷里水戸で七十三才の生涯を閉じた。(佐渡の百年)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
明治維新の変革の際水戸藩士として会津戦争に従軍し、さらに北海道函館の五稜郭の戦争に参加し、敗れて、そのころ北海道江差町にいた真野町大倉谷佐々木才三郎方に身を寄せていた。そのうち、才三郎が郷里に帰ることになったので、官軍の目をくらますため、才三郎弟俊蔵と変名し大倉谷に住していた。佐々木俊蔵は、本名生天目(なばため)辰之助といい、玉山と号した。豊田天功や藤田東湖に師事した佐幕派の志士であった。彼は明治三年、新町に移住し、明治九年、あらためて「新町校」となるころまで奉職し、のち、郵便局長を明治八年から明治二九年まで勤め、その間新町区長などにも任命された。俊蔵が佐幕派として戦ったのは、天皇を載く薩摩・長州に対する反抗である。もともと、水戸藩の学問は、国学・史学・神道と儒学とで組織した学問であり、皇学の尊厳を説き、維新の王政復古には大きな影響を与えたのである。俊蔵は新しい時代における皇室の尊厳を新町の有識者の人たちに説いたと思われる。明治五年秋、新町の山本半右衛門家一族一二軒は、浄土宗から神葬祭に改宗した。今に伝える山本家の神葬祭は、水戸学の葬制である。また、順徳院の真野御陵への尊崇の念から、戦前まで続いた「陵下の民」の誇りは、佐々木俊蔵によって点じられたのがはじめではないだろうか。明治三年に山本半蔵・山本五平・山本藤八郎・島倉伊平・中川清三郎の五人が費用を出しあって「学問所」を開設し、のち、明治五年、この「学問所」が政府の許可を得て「新町郷校」と名称を改めた。先生として佐々木俊蔵(辰之助)を雇い、場所は司馬盈之(司馬凌海)旧宅であった。これが、現在の真野小学校のはじめである。この五人の有志たちが「学問所」の先生を迎えるについて、エピソードがある。心当たりを捜していると、たまたま北海道から釆て西三川村大倉谷の佐々木才三郎方に身を寄せていた佐々木俊蔵という人物が学才にたけているということを聞き、評判だけでは真価がわからないというので、新町の漢方医山本桂に大倉谷まで行かせ、人物試験をさせた。先生を迎えるのに人物試験をして迎えるところに、有志たちの意気が感じられる。
旧新町(真野)村長、明治二二年・四・一より。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村新町 ・明2、佐渡新聞の計画[十七年四月]
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木俊蔵 114 ある水戸藩士の苦悩-『瓦石斤集』を読む- 倉田藤五郎
「逃亡藩士の郵便局長」(「佐渡の百年」)
「倉内忠左衛門の冒険」(「佐渡の百年」)
★佐々木俊平
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★佐々木象堂(ささきしょうどう)
<
佐渡博物館

常念寺



『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より

(続く)造の保持者として認定を受けた。昭和36年1月1日、真野町名誉町民に推戴されたが、1月26日に死去された。享年79歳。勲四等瑞宝章を授けられた。

【生没】一八八四ー一九六一 明治十七年河原田町に生まれる。本名は文蔵。一八歳のとき沢根の宮田藍堂に師事して、蝋型鋳金の技法を修得する。二五歳のとき河原田で鋳造をはじめたが、四年後(大正二年)に東京へ出て、その年開かれた日本美術協会展へ出品した作品が銅賞を得た上、宮内省買上げとなり広く認められるようになった。以後各種展覧会に出品するたびに入賞および買上げを重ね、技法も円熟に達した。大正十四年(一九二五)に板谷波山・香取秀真など、工芸界の先人たちと工芸済々会を結成し、ろう型鋳金の第一人者として重きをなすようになった。昭和十年(一九三五)刊『佐渡大観』に載せられた出品作のうち、宮内省御買上が五品ある。こうして皇室・皇族すじからの信頼は、のちに佐渡出身で宮内庁勤めをした娘婿の高尾亮一が、新宮殿建築の仕事を担当したこともあって、宮殿の屋根に象堂作の鳳凰が据えられるというまでになった(註 同型の鳳凰像は新潟の佐渡汽船切符売場にある)。昭和三十五年四月十九日人間国宝に認定(重要無形文化財蝋型鋳造保持者工芸部門第四○号)、翌三十六年一月に真野町名誉町民に選ばれた。太平洋戦争中は、銅像や釣鐘までも供出するようになり、材料入手の道が途絶えたので、象堂は一時新潟で陶器作りに転じ、まもなく夫人の実家近くの真野町合沢で「まの山焼」をはじめた。上京当時は、夫人となった羽生タケとともにクリスチャンで、当初(明治四十年)は文蔵が、四年後に夫人がプロテスタントの洗礼を受けている。【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・戦中、金属供出等の影響で蝋型鋳金が出来ず新潟で新潟焼、その後、佐渡で真野山焼きの陶器制作をする。場所は妻タケ(旧姓羽生)の実家の平屋建て小屋でそこに住み作業場でもあった。現在同地はに象堂関係の石碑が数個あり、タケの実家の当主羽生周也氏(令和元年当時60歳代前半)が管理し整備している。なお、象堂はその後、真野新町に移住した。場所は真野農協を山側に下ったT字路の左角である。また、象堂がそれまでに住んだ合沢の小屋は新潟から象堂について佐渡に渡った田村吾川の住居兼作業場となった。
・佐渡國雑太郡河原田町本町186番地の1で出生。父は新蔵で同町佐々木多平家の出、後に分家(本町の下町)。母はムラ、河原田町金子家の出(本町の下町)。
・妻はタケ、佐渡國雑太郡真野村合澤の羽生門平・アサの三女で新潟県立長岡女子師範卒。
・長女は三枝、大正4年生。長男は狭門(さと)、大正6年生、生後三か月で急逝。長男狭門の後、数人の子供が生まれたが流産、早産で育たず。次女睦子は大正11年生。
・長女三枝が高尾亮一と結婚。昭和23年、次女睦子が佐々木茂(羽茂高校教諭)と結婚。
・(山本修巳談)・佐々木象堂先生は晩年、松井源内家から山手に下りた角の家に住んでいた。私(修巳)もよく覚えている。佐々木象堂さんの娘さん(次女)は羽茂に嫁ぎ(羽茂高高校教員、社会科)、その後象堂先生の家が空いたのでそこに住んだ。現在は佐々木家であるが、嫁ぎ先も偶然佐々木苗字であったかどうかはわからない。
「東京文化財研究所」
没年月日:1961/01/26 分野:工芸, 工芸家 (鋳金) 読み:ササキ, ショウドウ※、 Sasaki, Shodo※
(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)
蝋型鋳造の無形文化財保持者佐々木象堂は、1月26日新潟県佐渡郡の児玉病院で急性肺炎のため死去した。78歳。彼は本名を文蔵と云い、1882(明治15)年3月14日に新潟県佐渡郡に生れたが、戸籍面は2年後の同月同日生になっている。1897年に、河原田小学校を卒業し、17歳ごろ画家を志して上京したが極度の近視眼のため帰郷し、1901年より佐渡郡沢根町宮田藍堂(初代)に蝋型鋳金を学び、1907年5月より河原田町で鋳金家として自立した。1913(大正2)年上京し農商務省(図案及応用作品)展(第一回)に出品入選し、また東京鋳金会展、日本美術協会展などに出品し、宮内省より数度買上げられた。1915・6年から象堂を号としている。1922年平和博覧会出品の「鋳銅菊花丸紋花瓶」は金牌を受賞した。1927(昭和2年)新たに工芸部が設けられた第八回帝展に出品した「鋳銀孔雀香炉」に特選を得て宮内省買上げとなる。1929年11月帝国美術院推薦となり、同年第10回帝展出品「金銅鳳凰置物」も特選となる。以後1931、1932、1934年に帝展審査員を務め、1935年には帝国美術院参与に推薦となる。1936、1937、1939年に文展審査員を務め、1940年には日本工芸美術展に展覧会委員依属となる。1938年には新潟市に越路焼窯新潟陶苑を興し、1945年まで郷土の陶器製作と弟子の養成にたずさわった。1944年戦禍を避けて佐渡に疎開し、戦後1947年真野町に真野山焼窯を創設し、再び陶芸と子弟を養成する。1945年より日展に依属出品を続け1953年より第5回日本伝統工芸展に蝋型鋳銅置物「釆花」を出品し文化財保護委員長賞受賞、同じく6回展には「蝋型鋳銅置物・瑞鳥」に日本工芸会総裁賞を受賞し、共に文化財保護委員会の買上げとなった。1960年4月重要無形文化財蝋型鋳造技術保持者と認定され、名実共に鋳金界の最長老の一人として活動していた。
出 典:『日本美術年鑑』昭和37年版(122頁) 登録日:2014年04月14日 更新日:2021年12月10日 (更新履歴)
佐佐木象堂(高尾亮一 昭和38年)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木象堂
6 鑑賞 佐渡のうた (6) 青木月斗・佐々木象堂・前田普羅・村山古郷 山本修巳 20 〈新刊紹介〉人間国宝シリーズ-28 佐々木象堂:蝋型鋳造・海野清:彫金・魚住為楽:銅鑼 講談社 山本修巳 95 「院展何者ぞ」佐々木象堂の工芸へかけた情熱 佐々木三良 111 祖父佐々木象堂の人と作品 高尾道生
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)田村吾川作陶展-故佐々木象堂先生追善供養先生余技絵画展-(飯山弘)
「島の新聞」索引(人名別)
佐佐木象堂(高尾亮一 昭和38年)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 3佐渡の代表=麦優・象堂 6人間国宝・佐々木象堂 6 佐々木象堂とモダニズム 藤田裕彦
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=2
佐々木象堂 その他諸情報
★佐々木四郎平
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p388
★佐々木甚太郎
旧小布勢村(真野)村長、明治20年代。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永二年生 西三川村田切須 ・明2、電線架設の建議[十七年五月]・明2、第五回選挙[十九年五月]・明2、第六回選挙[二十一年一月]・明3、松本八十八の祝賀会[二十七年四月□日]・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、高等女学校[四十年三月二十日]・明4、佐渡水産学校[四十年三月二十日]
★佐々木甚平
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
(真野)浜中の鬼太鼓は竹田から習ったという。教えたのは竹田での創始者たちで、習ったのは永井啓作(明治九-昭和二九)が女鬼、佐々木勝次(明治二五-昭和四〇)が男鬼、太鼓が佐々木源次(明治一九-昭和四四)、長勝治(明治ニー-昭三一、佐々木甚平(明治二四~)等だったというから、竹田より二・三年遅いくらいなのであろうか。 明治四二年生まれの永井与次右衛門は太鼓も舞も上手だったが、右の人たちが若い衆に教えているのは見たが、舞うのはみたことがないという。竹田の土屋徳蔵が浜中祭りに釆ていた。新屋がそのつれあいの生家だったからであろう。永井はそのとき鬼の役だったが、先輩に「先生が釆ておるから気をつけて舞え」と注意され、格別に心をこめて舞ったという。竹田と浜中の関係は深いといわねばならない。
→野村蘭作「宝生二派の統一」参照
★佐々木翠
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
徳和村 ・明3、第拾回選挙[二十六年二月八日]
★佐々木末雄
「躍進日本」

★佐々木清吉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
事業家。明治十四年二月十八日に佐渡郡相川町で生れた。東京高等工業学校を卒業、日本トーラィト取締役会長となった。昭和三十六年一月二十日に七十九才でなくなった。(新潟県年鑑)
★笹木晴次
「躍進日本」

★佐々木政次郎
→小黒ヨシ参照
★佐々木清松
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]
★佐々木善助
→小黒ヨシ参照
★佐々木大樹

★佐々木大順
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐々木泰蔵
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
通称与吉、真野佐々木善助家の出身で、江差町で呉服業を営む。明治三〇年代に新町に家を新築したが、大正時代に絶家となった。
★佐々木多一郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

★佐々木孝昭
佐渡高校(真野分校)時代の昭和42.7.22-23、水泳県高校結合体育大会(柏崎市) 個人メドレー入賞
★佐々木高
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川 ・昭1、佐渡革政党の創立[二年十二月四日]・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]・昭1、佐渡革政党の秋期大会[三年九月七日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
西三川郵便局長で、佳愛金子高次郎の門弟の集まりである佳鳳会の代表であった。この会は昭和三六年に佳愛が没し、四〇年に佐々木高が亡くなるとまもなく消滅した。高は松本栄太郎の弟である。
★佐々木高之助
佐渡中学4回生、東京帝大卒、三菱鉱業勤務。
★佐々木たけ
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木たけ 47 句集 紫苑 佐々木たけ著
★佐々木正
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木正 121 羽茂農協六十年の歩み
★佐々木多忠
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐々木民蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐々木貞市
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]
★佐々木哲也(哲)



★佐々木出羽秀安
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★佐々木傳左衛門
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
桃やリンゴ・梨などの果樹が、全国的に経済的栽培対象となったのは明治末期以降であった。それまでは自然栽培の自給的域を脱しなかった。大正二(1913)年、静岡県興津の園芸試験場ではじめて果樹の栽培が行われたのが、わが国の本格的な栽培のおこりという。佐渡でも、このころから果樹栽培が農業経営の一環として取り入れられ、近代的科学技術を採用した栽培がはじめられた。しかし、これより先、すでに真野町においては個人の力で果樹栽培の試植が行われていた。明治四〇(一九〇七)年ころ、田切須の佐々木伝左衛門は宅地の一隅に桃を植えた。このころ、田切須鉱山の発展につれて売れゆきが良好のため営利栽培し、これが島内栽培の端緒となったという。梨やリンゴの栽培は、第一次大戦ころから昭和の初期ころにかけて、佐々木伝左衛門や小川内の渡辺八十八、合沢の羽生忠二郎、四日町の菊池長右衛門、沢根の土屋弸(つちやみつる)らによってはじめられた。とくに梨は大正九年、郡の農業技師山田忠平が桃の栽培の良好なのをみて、梨の栽培を勧めたのが動撥となって、翌年には佐々木伝左衛門らが早生赤、長十郎などを植えた。佐々木伝左衛門は、西三川地区が畑面積が広く、土質も果樹にあい、気候も適していることを考え、大正一三年に西三川園芸組合を結成し組合長となり、自ら千葉・静岡・鳥取・岡山・山形などの先進地を数回にわたって調査研究し、二十世紀梨の苗木あっせん・植えつけ・剪定・病虫害予防などの指導に当った。また自らもー町歩のモデル果樹畑を経営し、一般に公開奨励したので西三川だけでも昭和一二年ころには果樹園が一三ヘクタールにも達した。昭和六年、佐渡園芸組合長に選ばれた佐々木は、その後昭和二一年、佐渡果実協会に改組されたときにはその会長に推され、梨・リンゴ・柿などの栽培の発展に尽した。佐々木農園の梨は全国的な各種の品評会に出品され、度々優等賞を受け「おけさ梨」の名声を高めることになり、これがまた全島の梨栽培をいっそう盛んにする基盤となった。
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・西三川地域の社会的経済的環境
西三川果樹の植栽は、海抜五〇~一二〇メートル位の丘陵地に広がっている。地形は小佐渡山脈の経塚山系から田切須鼻にかけて広がる丘陵地で、開拓で水田ができるまでは畑作中心の農村地帯であった。一九一三年頃、佐々木伝佐工門らの指導のもとに換金作物となる二十世紀梨の導入が進められてきた。(真野町史下巻二五八頁)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木東庵
『金井を創った百人』(「明治・大正の開業医たち」)(金井町 平成12年)より

★佐々木トシ子
→小黒ヨシ参照
★佐々木敏行

★佐々木虎次郎
「躍進日本」

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木虎二郎 100 佐々木虎二郎の活躍 中塚宗一
★佐々木伸彦
赤泊川茂の人、歌人。平成26年から新潟日報「島の文芸」(短歌)撰者。長く郵便局に勤務された。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木伸彦
15 仁和賀をみて 34 雑誌「鋤鍬乃友」について 69 月市※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)祭市 151号 雑誌「鋤鍬の会」について 152 義民 弥曾右衛門について 155 雑誌「歌と評論」の終刊にあたり
「島の新聞」索引(人名別)

中:新潟日報(平成26年12月)
★佐々木八郎(ささきはちろう)
「躍進日本」

★佐々木八郎(ささきはちろう)
【生没】一八九八ー一九八○ 国文学者。相川町下京町五番地で明治三十一年九月十日、税務署勤めの熊蔵の長男として生まれた。この生家は幕末のころ、佐渡奉行所の学問所(修教館)を建てた田中從太郎(葵園)の邸宅があった場所。長男であって「八郎」と名付けたのは、元外務大臣有田八郎の養母が、「ウチの八郎のようにりっぱな人に」というすすめであったという。祖父の邦蔵(大正八年十一月没、六九歳)が有田家と親しく、また邦蔵は優秀な指物師で知られていた。明治四十四年、一三歳のとき佐渡を離れ、新潟中学から長野県の松本中学へ転入学。大正八年の早稲田大学高等師範部国語漢文科を卒業し、のち早稲田大学の講師・教授などを経て、同大教務部長・教育学部長・同大図書館長・同理事などを歴任し、かたわら昭和女子大・上智大・実践女子大の各講師、文部省の大学設置審議会特別委員・国立国語研究所評議員・国語審議会委員などを勤めた。昭和二十四年(一九四九)八月、五一歳のとき「平家物語の研究」で学位をとる。「平家の佐々木か、佐々木の平家か」(鳥越文蔵・元早大演劇博物館長の話)といわれるほど、実証的な研究者で知られた。自然に平曲・謡曲・浄瑠璃など、中世芸能や語りものにも深い理解を示し、多くの学者がその門下から育った。「日野資朝卿」「佐渡の文弥節」「世阿弥と佐渡」など、ふるさとに関した論考も多い。昭和五十五年九月八日、心筋梗そくで東京練馬区の自宅で死去。八一歳。相川の菩提寺総源寺と、東京の多摩霊園にそれぞれ分骨埋葬された。法名は「秋聲院聴雨八朗大居士」。【参考文献】『聴雨追想』(佐々木八郎 追悼集)、『平家物語評講』【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『佐渡相川の歴史(通史編)』(1995年)より
『平家物語』など、中世文学の研究で知られる佐々木八郎は、明治三十一年九月十日、相川の上町台地にある下京町に生まれた。「今とちがって、僕の少年時代に、佐渡ではつめたい霙(みぞれ)が粉雪に変りはじめる頃になると、どの家でも障子の目張りをしたり、家の周囲には薄板を打ったり、蓆(むしろ)や芦簀(よしず)のたぐいをめぐらして、吹雪を防ぐ雪囲いをして冬寵りに入ったものである。そして、歳暮が近づくと、農村ー佐渡では農村のことを〝在郷″訛って〝ゼイゴ〟といったーの百姓たちが馬に餅米をつめた俵を負わせて町へやって来る。この一年の間の契約で汲み取った肥料にする糞尿の代償に正月の餅米が届けられるのである。土蔵の前の薄暗い板の間でその餅米を升ではかっているのをみると、正月が近づいたことを思ったものである。おしつまると、どの家でも餅搗きの杵の音が寒い暁の空に響く。僕の家では土蔵の前の土間に臼をおいて餅を搗いたが、その〝あいどり″はいつもきまって女であった。土蔵の前の板の間には、母をはじめ子供たちから手つだいの衆がならんで、にぎやかに餅をまるめる。まるめた餅を、はしから運んで土蔵の中の棚にならべるのが僕の役であった。たしか最後の臼で搗いた餅を〃ミヅドリ″といって、餡餅にして重箱に入れ、隣近所へくぼった。神棚の前には繭玉が飾られる。佐渡の繭玉は〝メエダマ″と訛って呼んだ。柳の枝か何かに、薄手の〝針打ちせんべい″をつりさげたものであった。〝針打ちせんべい〟というのは、餅米の粉でつくった、直径一〇センチはどの円い扁平形で、とりどりに色どった薄い軟質のせんべいである。子供たちはこのせんべいを何枚も積み重ねて、上から針を打って、針が通ったところまでを自分の持ち分として勝負を争ったものである。元旦はいずくも同じことで、とりたてていうはどの記憶がない。ただ相川の町では、歌留多取りの夜がつづく。あたり近所の家々がかわるがわる宿をして、雪の降る夜をふけるまで興じた」
「郷里の佐渡のお盆は八月だ。近所ではたいてい旧盆の七月であったが、私の生まれた相川では、どういうわけか一月遅れの八月に行われる。子供たちは毎日のように浜辺に出て鶏卵ほどの大きさの美しい白い石を拾い集める。佐渡の金山が開けてこのかた、海岸に選り捨てた鉱石が浪に洗われ浪のまにまに互に磨れあってすべすべに丸くなった大石小石で岸辺を埋め連ねているのが相川の町の海辺の特徴だ。お盆の十三日になると、私は朝早く起きて、集めて置いた石塊を大風呂敷に背負い、お米や線香や、青竹で造った花たてなどを持って山の上にある菩提寺に行く。寺の境内からは、石をごろごろ載せてならべた家々の屋根を越して、鈍く光る夏の朝のしずかな日本海が見下ろされる。代々の人たちの眠るいくつかの墓のならんだ墓場には朝露が草場に光って、秋虫やきりぎりすが鳴いていた。私は背負ってきた小石を一つ一つ墓場に敷き並べ、竹で造った花たてを一対ずつ小石で地中に打ち込んで、蓮華だの、萩だの、桔梗だのという花をたてる。それから墓石に冷めたい、すがすがしい水をかけ、そのてっぺんには、大きい蓮の葉をかぶせる。これは強い夏の陽光をさえぎってあげるという趣向であろう。この間に祖父は仏壇をきれいに飾って仏前には胡瓜に四本の麻からをさし込んで造った馬や、茄子に同じ趣向をした牛や、赤いほおづきや、そのほかいろいろなものを並べた精霊棚が安置されるのであった。日本海の空を真赤に染めた夕焼が薄れて行き、海辺の町に宵闇がせまり、黒い大きな蝙蝠が屋根から屋根に飛び回る頃ともなると、緩い勾配のある狭い路をほさんで並ぶ両側の家々では軒先に出て、挨拶をかわしながら迎火をたく」。
その相川で、有田八郎と同名の佐々木八郎は一四の年まで育った。「一四歳の春に郷里を出てからこのかた、ざっと四〇年余りの春秋を他国で暮らして、来る春ごとに四角に切った切りモチばかり見慣れた私には、あのふくよかな愛らしい丸形の正月モチを思うと、たまらない郷愁を覚える」(以上「経済新報」「佐渡新報」「早稲田学報」から)と、のちに、ふるさとをなつかしげに回想している。八郎が県立新潟中学校に入学したのが明治四十四年四月のことだから、そのときが相川を離れた「一四の年」に当たる。菩提寺総源寺(下山之神町)の藤木完爾住職によると、八郎の祖父は邦蔵といい指物師(箱・机・小箪笥・火鉢などの職人)で緻密な手職の名士であり、八郎の父熊蔵は税務署に勤める官史だったという。そうした家系に八郎は生まれる。
(佐々木八郎 略歴)
新潟中学から長野県松本中学を経て、早稲田大学高等師範部国語漢文科卒(大正8)。早大高等師範部教授(昭和17)。早大教務部長(昭和23)同教育学部教授。「平家物語の研究」で文学博士の学位を得る(昭和24)。文部省大学設置審議会特別委員会委員、早大教育学部長(昭和26)などを経て昭和女子大学講師(昭和27)。のち昭和女子大学評議員、中世文学会代表委員(昭和31)となる。米国諸大学経営管理調査のため渡米、翌年大学基準協会副会長(昭和34)。上智大学講師、国立国語研究所評議員(昭和36)。学術奨励審議会委員、早大図書館長(昭和39)。また早大理事となり定年退職(昭和44)。大東文化大学教授などもした。『平家物語』『源氏物語の成立過程』などの著書、論文が多い。
昭和55・9・8死去 81歳
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1898-1980 昭和時代の国文学者。
明治31年9月10日生まれ。早稲田中学教諭などをへて,昭和4年早大教授。大学設置基準協会副会長,国語審議会委員などをつとめた。「平家物語」の研究家として知られ,著作に「平家物語の研究」「平家物語評講」がある。昭和55年9月8日死去。81歳。新潟県出身。早大卒。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木八郎 28 佐々木八郎氏・松本啓蔵氏 山本修之助 56 佐々木八郎先生の思い出 山本修之助
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★佐々木八郎兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
鉄砲師。佐渡国相川の人である。弘化二年(一八四五年)に中村彦右衛門が百目玉抱打筒二挺を鋳立て、八郎兵衛がこれを仕上げた。(佐渡年代記下巻)
★笹木春美
両津高校時代の1986年度(S61)11月、新潟県競書大会 準特選
★佐々木彦次郎
→小黒ヨシ参照
★佐々木久雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木久雄 4 渡辺梅園の面影
★佐々木秀男
「躍進日本」

★佐々木日出治
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

★佐々木日出海
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木日出海 37 翠雨軒常山工房の職人たち、付・波山の急須
★佐々木秀安(ささきひでやす)
【生没】一六七九ー一七三七 鹿伏神明社神官、父は秀長、出羽と称した。近世佐渡の神道は、寛文十二年(一六七二)に来島した宗源神道五十六道若証庵橘三喜や、元禄の末から宝永のころに、肥前長崎諏訪の社人青木行衛の弟新六が、京都から二度にわたって渡海して伝えたというが、秀安は若年のころ京都へ赴いて、神祇管領吉田家に直接学び、神典に通じていたので、佐渡一国の神職は師範と仰いだ。享保六年(一七二一)から佐渡奉行をつとめた小浜志摩守久隆が、鹿伏三社へ参詣の折、神明社に石の鳥居があるのを不審に思って尋ねたところ、秀安は唯一神道には石の鳥居を用いぬことになっているが、カナコの者どもの祈願によって建てた。当国は銀山国で、石の中で働く者たちが是非石でというので、しばらく法をゆるめた、と答えたという(『佐渡四民風俗』)。これは「銀山宜候へば八難を蔵候」という、巷間の諺の例としてあげる話であるが、同時に秀安の器量と奉行への忠告をも物語るのであろう。秀安の名は広く知れわたっていたらしく、その娘の結婚についても、『佐渡国略記』元文二年(一七三七)の項に、「二月五日夜、鹿伏村神明神主佐々木出羽守娘ヲ、公事方役三馬五太夫ヘ婚礼」と出ている。秀安はこの二か月後の四月十六日、五九歳で没した。【参考文献】高田備寛『佐渡四民風俗』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』、永弘寺松堂『佐渡相川志』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★佐々木英之
「エスライフ」2008年3・4月号


「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木ひとみ

平成31年佐渡市儀補欠選挙で当選。


★佐々木?(㜁から女を取る、ひとし?)

★佐々木文蔵




「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木祐之
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・西三川果樹組合の設立
昭和四〇年代以前の組合は、役職も定かでなく有識者が交代で資材の調達や精算を行っていた。五〇年代には組合長職を置くなど組合としての体制が整ってきた。初代組合長は佐々木祐之、副会長は佐々木康夫、資材係等の係が決められた。集出荷用の資材、農薬等を取りまとめて組合員の利便を計ってきた。先進地研修やまた講習会、佐渡果実協会への参加等、技術向上にも組合は積極的に関わってきた。
★佐々木裕子
「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木吹三
佐渡高校時代の37.9.19~20、陸上競技県高校総合体育大会(新潟大学)総合44点2位、入賞
★佐々木フミ子
西三川田切須の人、大正15 年生、平成26年11月25日没。昭和60 年に砂金祭が開催され、その時に砂金山にちなんだ音頭作成の機運が高まる。こで彼女が西三川の古文献を元に、真野の佐々木義栄、山本修之助両氏の協力を得て基礎資料を作成、それを元に昭和62 年に羽茂本郷の長尾俊さんが作詞・作曲した「砂金音頭」が完成。長尾氏自ら唄い、三味線葛間覚、鼓丹藤啓一郎、囃子高野和子、振付嶋田冨美男で完成した。

「島の新聞」13号


「島の新聞」索引(人名別)
➡ブログ「佐渡の民謡」(「聞き書き」)→佐々木フミ子に詳しく載る。
2011年4月(佐々木さん85歳)インタビュー
「砂金音頭の思い出話」by 佐々木フミ子・渡辺和弘
★佐々木文蔵
「島の新聞」(95号)
佐渡鷺流の先駆者たちは、宗家に学び、佐渡に芸を伝えた。草分けは吾潟の葉梨源内。一八二一年(文政四)に宗家十六世仁右衛門に師事たとされるが、島内での記録はない。沢根の土屋辰次郎が一八五三年(嘉永六)に上京し、宗家十八世から相伝書を受けているが、帰郷後は不明。同時期、五十里の林喜正が十八世と十九世に師事し、相伝書五通を受けて帰島。昭和初期の林家の火災で相伝書は焼失したが、喜正が使用した台本が真野町の若林義太郎家に移されて保存され、今日の鷺流復活の基となっている。喜正に師事した青野の小杉忠三郎は上京して宗家に学び、零落した宗家から伝来の古面や台本を譲り受けて帰郷した。佐渡は正統を継いだことになる。幕末から明治期にかけて最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用心として来た三河静観は明治維新後も両津に定住し、和歌や狂言を安藤世彦・幸彦父子に教えた。湊に住んでいた天田狂楽は安藤父子に手ほどきを受け、明治三十年代に上京して畔翁に指示し、皆伝免状を受けて帰島している。天田は名人といわれ、多いときは年間五〇~六〇回演じたという。また天田は、喜正の弟子で加茂歌代の古木弥十郎らと明治末期に両津鷺流狂言会を組織した。天田が一九四四年に没すると、佐渡狂言は衰運をたどる。一方、真野では鶴間兵蔵が明治十八年から二度上京し、一噌流の笛と狂言を学び、帰郷して活躍、後継者を育てた。高弟の若林米蔵らは能楽上演団体「笛畝会」を立ち上げ、狂言も演じた。米蔵に師事したのが佐々木文蔵、その弟子が鷺流最後の狂言師土屋増一である。これらは要となる人物で他にも多くいた。中央で芸を身につけた人々の活躍で、明治後期から昭和初期にかけては佐渡鷺流の最盛期だった。「能楽を学びに上京して、能をやるなら狂言もと身につけたのだろう。能楽があったから佐渡に継承されてきたと考えられる」と祐亨さんは見る。最近になって天田家に伝わる台本が島外へ持ち出されてしまった。小杉家が宗家から譲り受けた古面や台本も今では小杉家を離れ、転売されて所在不明となっている。天田本や小杉本を借りて、安藤本と照合していた裕亨さんは「佐渡鷺流狂言の復活に欠かせない貴重な財産。調査未了のうちに散逸してしまい、残念でならない」と嘆息する。安藤家は代々夷諏訪神社の宮司で台本は保存されている。
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野の狂言は鶴間笛畝に始まる。明治一八年に上京した時に鷺流の狂言も習った。真野での弟子に岩本量宏(明治五-昭和二八年)や佐々木文蔵(明治一七-昭和三六年)がおり、文蔵の弟子に土屋増一がいる。


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→葉梨源内参照
→若林米蔵「笛畝会」参照
★佐々木辡次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木保四郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木まさえ

「佐渡・裂織り3人展」2015年 ・場所:佐渡市赤泊地区外山集会場
・内容:赤泊地区で裂織りの作品作りを行っている佐々木マサエさん、加藤幸子さん、除テルヨさんによる3人展。裂織りの敷物、タペストリー、バッグ、小物類を展示即売。どれも手作りの温もりが感じられる作品ばかりです。会場には作者もいますのでお話しを聞きながら鑑賞できます。
★佐々木政雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木正文
首都圏佐渡金井会5代会長
★佐々木増右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永五年 生
相川町下戸炭屋町 ・明4、佐渡毎日新聞社[三十五年七月十三日]・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、高等女学校[四十年三月二十日]・明4、佐渡水産学校[四十年三月二十日]・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、三土、小久保等の遊説[四十四年八月十八日]
★佐々木真奈

★佐々木萬吉
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
桶屋。佐渡相川の人。技術が極めて精巧でその製品は日にさらしても水のもるようなことほなかった。自負も人に過ぎ、高慢桶屋とよばれた。奉行が江戸に出る時、たびたび土産にその桶を用いたという。明治四十年になくなった。(佐渡人名辞書)
「佐渡の木彫家」(「佐渡の百年」)より
相川町に居た桶屋の名人。彼が作った桶は日にさらしても決して水の漏るようなことはなかった。いつも自慢をするので「高慢桶屋」のあだ名で呼ばれていた。佐渡奉行が江戸へ帰る時はたびたびみやげに用いたという。明治四十年ごろまで生きていた。
「佐渡の木彫家」(「佐渡の百年」)
★佐々木万次郎
人形芝居関係者。→「金子善次郎」参照
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
真野町笹川の人、笹川人形の創始者。金山人形ともいう。黒山人形が、金子善次郎の失明後しばらく笹川へ移っていたので、こうよばれた。太夫は、通称孫兵衛(佐々木万次郎)、役者は通称小坂主四郎(金子綱次郎)、通称又十郎(金子石松)、通称九兵衛で、この九兵衛は時々つかう程度であった。四、五年の短かい期間で、再び黒山へ戻った。
★佐々木宗氏
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
続千載集、続後拾遺集、新千載集等の編者である。
佐渡守にもなった。元徳元年(一三二九年)七月十六日になくなった。(新潟県史)
★佐々木邦基
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・佐渡米の存在価値を日本酒に込めて(佐々木邦基)
★佐々木彌作
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★佐々木康夫★
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・西三川果樹組合の設立: 昭和六二年、くだもの集出荷場の建設は、西三川果樹組合にとって正式な組合設立という重要な年となった。組合では長年にわたり会合等の集会には組合長宅を利用させてもらう等、会合や資材等の共同購入時にも建物がなく不自由な思いをしてきた。佐々木康夫組合長を中心に昭和六二年新潟県農林水産業総合振興事業の補助金をもらって建設することになり、あらためて正式な組合設立となった。集出荷施設(五間×六間)の建設により「くだもの」の集荷や出荷、資材の保管場所、組合員の会議や研修、くだもの祭りの会場等と有効に利用されて組合の活動拠点となっている。平成一三年には組合員手作りによる会議室も併設されて施設はさらに充実してきた。昭和四〇年代以前の組合は、役職も定かでなく有識者が交代で資材の調達や精算を行っていた。五〇年代には組合長職を置くなど組合としての体制が整ってきた。初代組合長は佐々木祐之、副会長は佐々木康夫、資材係等の係が決められた。集出荷用の資材、農薬等を取りまとめて組合員の利便を計ってきた。先進地研修やまた講習会、佐渡果実協会への参加等、技術向上にも組合は積極的に関わってきた。一
・サンセ一キ梨づくり: 西三川は「二十世紀梨」 の産地である。各農園で二〇~三〇アールの梨を栽培していたが、その七〇パーセントが二十世紀梨であった。二十世紀梨は黒班病に弱く、二回の袋掛けをしないと収穫ができなかった。九月に集中する島内販売に詰まり新潟市場へ出荷するが、大量にある新潟産の梨の中で価格は安かった。佐々木茂春氏、佐々木康夫氏は袋を掛けないで栽培する二十世紀梨に挑戦し、長野県松川町等の先進地まで出かけ研修して完成させた。商品名をサンセーキとして新潟市場へ出荷し、糖度と適酸でコクのある梨となり評価を受けた。完全無袋のサンセーキ梨は新潟県内でも西三川だけである。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=6
★佐々木泰子
佐渡高校時代の昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★佐々木芳雄
佐渡高校時代の昭和31.11.1葛葉書道会主催全国学生書道展特選
昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★佐々木芳男
佐渡高校時代の34.8.1~2、水泳県高校選手権(長岡市)総合49点2位、(自由形)200ml位、400mメドレーリレー1位 800mリレー1位
34.8.8-9、水泳東北高校大会(内郷市常盤炭鉱)総合23点3位、(自由形)100m・200m入賞
34.8.22~23、水泳県高校結合体育大会(長岡市)総合45点2位、自由形200ml位・100m3位、400mメドレーリレー・800mリレー1位
★佐々木由太郎
二宮村窪田
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木義也
佐渡高校時代の昭和31.7.21 全国学生書道展(於上野美術館)特賞
★佐々木良紀
佐渡高校時代の平成元、高校囲碁選手権県大会団体戦1位(佐々木良紀・加藤政幸・江口勝)、高校囲碁選手権全国大会団体戦2回戦敗退
・平成2,高校囲碁選手権県大会団体戦(佐々木良紀・長井圭一・加藤政幸)1位、全国
大会に出場
★佐々木芳博
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余
興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★佐々木義栄(ささきよしひさ)
新町 円静寺墓


『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より


【生没】一九○九ー二○○○ 真野町新町に生れた。新町大神宮宮司、人形浄瑠璃の研究家。国学院大学高等師範部卒業後、県立佐渡農高の教諭などを経て昭和五十二年に教職を退いた。この間北見角太郎らと「佐渡文弥人形振興会」(二十七年)を、また「佐渡人形芝居保存会」(四十五年)を組織し、新穂広栄座の説経、のろま人形をふくめて、その保存や後継者の育成に尽力した。諸国に残る文弥人形芝居を歴訪して、鹿児島県東郷町・石川県尾口村・宮崎県山之口地区にまだ文弥人形が残っていること、飛騨や越後では廃絶したことなど調査し、延宝年間(一六七三ー八一)に大坂出羽座の太夫で、岡本文弥の創始したとされる文弥節と、佐渡文弥の関係を立証した功蹟などは広く認められている。平成八年に『佐渡ケ島人形ばなし』の大著を上梓し、佐渡の芸能史研究に大きな弾みをつけた。昭和二十八年に文部省主催の第四回郷土芸能祭(芸術祭)に、佐渡の人形芝居を引率して上京して以来、本田正次・佐々木八郎・河竹繁俊らと交遊を重ね、佐渡人形芝居が国の重要無形民俗文化財に指定(五十二年)されるかげの役割を果した。『文弥浄瑠璃集』(上下二巻、北見角太郎発行)は五十四年の発行。三味線も弾く芸達者で「大平記ほまれの仇討」という二幕物の創作浄瑠璃があり、五十三年に川野名孝雄らと「真明座」を組織した。永らく佐渡博物館の芸能部長を勤め、平成八年には真野町の名誉町民に選ばれた。【関連】北見角太郎(きたみかくたろう)・佐渡が島人形ばなし(さどがしまにんぎょうばなし) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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著書に「文弥節太夫中川閑楽」、編著「文弥節浄瑠璃集」上下、共著書「真野町史」などがある。真野町新町大神宮宮司。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木義栄
33 佐渡の人形芝居
72 山本修之助先生 追悼文 追悼(真野町町民葬)
81 「佐渡学」ノート (3) 「佐渡が島人形ばなし」 山本修巳
88 山本修之助
92 新町大神宮ご鎮座四百年記念大祭
92 鳥越先生と佐渡
94 『佐渡が島人形ばなし』(佐々木義栄著)について 秋谷治
98 佐々木義栄先生最後の一言 山本修巳
98 『佐渡が島人形ばなし』(佐々木義栄著)を思う時 山本修巳
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1心やさしき薩摩隼
2山椒太夫考 3いま、佐渡の人形芝居は 8人形の中の自分史 8義栄先生の著書紹介・世拗亭黙公 10 図書紹介 佐渡人形ばなし 佐々木義栄
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p389
『島の文学碑めぐり』(佐々木義栄 昭和41年1月-2月)
★佐々木良昌
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・「くだものまつり」と「くだもの直売センター」
昭和六〇年代は、安定した生産が始まってきた。組合員にも自信ができ、次のステップを考えるようになってきた。 平成五年組合長の佐々木五三郎は、生産者と消費者と話し合いのできる場が必要であるとの考えから、イベント 「西三川くだものまつり」 を実施し、拠点である集出荷場において第一回の西三川くだもの祭りを実施した。予想を上回る一、二〇〇人の人達から、もぎ取り体験や皮むき大会に参加していただき、消費者との交流の場となった。時代とともに販売方法や買い手売り手の関係も変わっていき、佐渡島内での販売から新潟出荷へ、そして有利販売のできる贈答用販売へと変わっていった。昭和六〇年頃より西三川郵便局の協力を得てふるさと小包ゆうパックを始める。島内ではスーパーマーケットの出現で、個人店舗での需要が少なくなり、販売に行き詰まり感がでていた。主要産地に研修に行く度に見ていた農家の直売店にヒントを得て、平成九年組合長の佐々木良昌氏を中心に佐渡では本格的なくだもの直売センターを建設し、九名の参加者で国道三五〇号線に開店した。この組合の特色は女性たちの参加である。日常的活動はもとより先進地への研修や講習会等も全て女性同伴で行われている。こうした女性の参画は、農業経営への参加、企画、そし直売センターて農業経営簿記の記帳作業等へ発展し、農休日の設定や次世代の青年たちの参加意欲につながり、さらには、ゆとりある農業へと考え方が広がっている。
佐渡でのくだもの栽培は新しい技術や品種等すべての情報を島外に求めなければならなかった。 昭和五〇年代は「ふじ」と「つがる」 の新品種の登場で、「国光」や「紅玉」の品種更新が行われた。 山形県東根市の須藤りんご研究所の研修生であった佐々木良昌氏は、習ってきた高接更新の技術を組合員に教えた。この高接更新はブームとなり「ふじ」 や「つがる」 の時代へと入って行った。
「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木利作

★佐々木利三次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★佐々木良吉
→葛原源左衛門
★佐々木玲子
「エスライフ」2013年4・5月号

「島の新聞」索引(人名別)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
小比叡村の人。文化十二年に四国八八ケ所霊場の土砂を三宮村、中川如月、小倉村の本間弘学らと持帰り各村村へ配置して佐渡遍路をはじめた。
★佐久間儀七
『近現代の羽茂』
大崎には此他にも斯の道に秀でたものが多く、佐久間伝十郎(1819~92年)は太皷を五十里の春藤次郎兵衛に学び、高安英勝からは脇能、小習、大習、頭取等の許を受けて名手となった。其子儀七も父に習うて太皷の名手となった。本間藤平と共に大正年間の名人とよばれた者に(大崎の)大場喜太郎(1861~1933:本間令桑に就いて其道を究めた)が、いた。此道に熱意をもって教えを乞う者があれば遠近を問わず寒暑をいとわず子弟を指導した。今日名をなす者の多くは此の門下である」
★佐久間甚吉
(『佐渡広場』より)
(大崎の能の系譜)葛原五兵衛(1804~1845)→川口宇平(1818~1876)→藤井泰延(1820~1889)→本間藤平(1830~1904)→大場喜太郎(1861~1933)→「今日名をなす者の多くは此の門下である」と1956年刊の『羽茂村誌』にある。また、(羽茂)本郷の三羽烏といわれた飯岡の金子厳、上山田の佐久間甚吉・若林郷太郎の3氏は、大場さんの下で謡曲の勉強をしていたとある(『佐渡広場』「佐渡の能楽45:外山久次翁の能楽人生」)。
★佐久間伝十郎
『近現代の羽茂』
『羽茂村誌』にないが『近現代の羽茂』には、大崎の藤井泰延(1820~1889)の事が載っている。泰延は、地元の川口宇平から謡を習い、潟上の本間左京由春に入門し、本間太夫の地謡方を務めた。天保10年城腰の三国五郎右ェ門豊水より金春流太鼓を学んだ。安政年間には京都に上がり森田流杉浦兵衛から笛を習い、帰途江戸へ回って森田流笛師藤本生五郎の指導を受けた。また、金春次郎より金春流太鼓の指導も得て帰国。本間宗家3代に仕えて各地の能に出演。明治6年に金春流太鼓宗家金春熊次郎より皆伝、同13年に森田流宗家より笛の皆伝を許された。大崎には此他にも斯の道に秀でたものが多く、佐久間伝十郎(1819~92年)は太皷を五十里の春藤次郎兵衛に学び、高安英勝からは脇能、小習、大習、頭取等の許を受けて名手となった。其子儀七も父に習うて太皷の名手となった。 本間藤平と共に大正年間の名人とよばれた者に(大崎の)大場喜太郎(1861~1933:本間令桑に就いて其道を究めた)が、いた。此道に熱意をもって教えを乞う者があれば遠近を問わず寒暑をいとわず子弟を指導した。今日名をなす者の多くは此の門下である」
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
・大崎の人。太鼓を五十里の春藤次郎兵衛に、また、高安英勝より脇能・小習・大習・頭取などの許しを受けて名手となった(明治二十五年五月二十日歿、七十四歳)。その子儀七も父について鼓技を習い、後高安英勝の子英粲から免状を受け、名人の称が高く(明治二十年一月二十五日歿)、儀七の子豊吉もまた父に習って大鼓の名手となった(大正十年十月三十日投、法名鼓法相伝居士)。
・(羽茂大崎)龍沢神社は青龍さんと呼ばれて、むかしから(佐久間)伝十郎の旧宅地内にあった祠である。何時の頃創建されたか詳でない。佐久間伝十郎は文化四年(一八一七)に生まれ、長じて神道大教院から教導職試補を授けられ、農事のかたわら神事を司った。明治の初め頃、お宮やお寺でお説教があったが、このお説教をする人を教導職といい、相川の中教院で、一応の漢学を勉強しなければならなかった。その頃の教師は円山溟北で、また、この中教院には神殿があって、そこで修業をすることになっていた。明治三〇年(一八九七)の大洪水で、伝十郎屋敷は欠潰流失したので、神社だけを残して現在のところへ転居した。その後も、洪水の度ごとに龍沢神社も被害を受けるので、昭和九年(一九三四)に安全地帯である白山神社境内に寄進したが、時々夢の枕に立たれて、もとのところにお帰りを望まれる青龍社神の御神託にしたがい、昭和一五年(一九四〇)現在のところに杜を再建し、厚くこれをお祀りした(佐久間伝市談)。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
(「佐渡広場」より)http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=4
★佐久間伝平
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
★佐久間儀七
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、父伝十郎について鼓技を習い、後高安英勝の子英粲から免状を受け、名人の称が高く(明治二十年一月二十五日歿)、儀七の子豊吉もまた父に習って大鼓の名手となった(大正十年十月三十日投、法名鼓法相伝居士)。
→佐久間伝十郎
★佐久間豊吉
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、佐久間儀七の子、伝十郎の孫。父儀七に習って大鼓の名手となった(大正十年十月三十日投、法名鼓法相伝居士)。
→佐久間伝十郎
★佐久間秀治
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・おけさ柿づくり 地域で知恵を出し合って(佐久間秀治)
★佐久間兵左衛門(深浦)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。深浦の大屋は佐久間氏を名乗っています。佐久間氏は、佐渡の他の地方にはない珍しい姓です。十三世紀末の文書に、宿根木の小名であると書かれていますから、そのころ以来の村でしょう。
★佐久間雄二
「島の新聞」索引(人名別)
★作山眞太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐倉準
「躍進日本」

★桜井香
昭和十五年ころに畑野中何代で天恵堂写真館を開いたが、戦後まもなく両津に移った。
★桜井惣五郎
『両津市要覧(昭和33年)』より

大正14年佐渡中学卒、両津市教育長。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p414
★櫻井哲夫
両津夷出身、昭和21年生まれ。両津南中(2回生)ー両津高校(16回生)ー京大卒。
企業退職後、新潟に在住し、頻繁に佐渡を訪れて佐渡研究に励み、「佐渡広場」なる人気ブログを運営している。
その都度単行本として刊行し、平成26年現在4冊を数える。

「島の新聞」索引(人名別)
★桜井兵五郎(ひょうごろう)



「ウイキペディア」より
生年月日 1880年(明治13年)8月8日
出生地 石川県鳳至郡柳田村(現・鳳珠郡能登町)
没年月日 1951年2月11日(70歳没)
出身校 早稲田大学政治経済学科
親族 三男・櫻井廣明(石川県議会議員)
選挙区 (石川県郡部選挙区→)
石川県第2区 当選回数9回
在任期間 1915年3月25日 - 1916年11月27日
1917年1月8日 - 1920年2月26日
1928年2月20日 - 1945年12月18日
石川県の旗 石川県会議員
選挙区 鳳至郡選挙区
当選回数 1回
在任期間 1913年7月1日 - 1915年4月1日
1880年(明治13年)8月8日 - 1951年(昭和26年)2月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、国務大臣、石川県会議員。幼名・正清。
・来歴・人物
石川県鳳至郡柳田村(現:鳳珠郡能登町)で桜井源次の長男として生まれる。1911年3月、早稲田大学政治経済学科を卒業。1915年4月、日本タイプライター会社(現キヤノンセミコンダクターエクィップメント)を創立し常務となる。その他、北陸毎日新聞社長・副社長、北日本耐火煉瓦社長、日本観光社長などを務めた。
1913年7月から1915年4月まで石川県会議員となる。1915年3月の第12回衆議院議員総選挙に石川県郡部区から立憲同志会に属して出馬し当選。1916年11月27日、大審院で衆議院議員選挙無効訴訟事件の上告が棄却され議員を退職[1]。その後再選挙となるが再び当選[2]。第13回総選挙でも再選された。その後、1928年2月の第16回衆議院議員総選挙から1942年4月の第21回総選挙まで6回連続で当選した。所属政党では、立憲民政党総務、同党政務調査会長、同党幹事長、翼賛議員同盟総務などを務め、戦後は日本進歩党に所属したが、間もなく公職追放となった[3]。
また、1931年4月に第2次若槻内閣の商工参与官。1932年、金沢市の湯涌温泉で白雲楼ホテルを開業する。
1934年10月、岡田内閣の拓務政務次官となる。太平洋戦争を迎え、1942年3月、陸軍省事務嘱託(親任官待遇)・第15軍司令部付・軍政顧問に就任しビルマに赴任。1945年4月、鈴木貫太郎内閣に国務大臣(無任所)として入閣した。
戦後、1945年12月にA級戦犯容疑者として拘留されたが、1947年9月に釈放された。
1951年2月11日、日本タイプライター本社の社長室で死去した。享年70。横浜市長の平沼亮三を葬儀委員長とする社葬が営まれた。
・著作 『日本打開論』帝国地方行政学会、1927年。 『日本の情勢と産業合理化』近田商会、1930年。 『第七十六議会報告書:附・衆議院予算総会劈頭代表質問』高井良恭輔、1941年。
・親族
三男 櫻井廣明(石川県議会議員)
★櫻井満
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)櫻井満 79 点鬼簿(1) 中河與一氏、櫻井満氏、北見俊夫氏、西谷能雄氏、山本泰司氏 山本修巳
★桜井美帆
「島の新聞」索引(人名別)
★桜井要八郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、社会民衆党佐渡支部発会式[四年十二月十五日]
★桜井蓮
佐渡高校卒。

★桜木紫乃
直木賞作家、祖父が佐渡市出身で開拓で北海道に渡った。釧路市立北中学校卒業、北海道釧路東高等学校卒業。「ウイキペディア」より(「実家は理容室であったが、15歳のときに父親が釧路町に「ホテルローヤル」というラブホテルを開業し、部屋の掃除などで家業を手伝っていたという経験が性愛への冷めた視点を形成したという。代表作『ホテルローヤル』をはじめ、いくつかの作品に同名のラブホテルが登場する。」)
「ウイキペディア」より
★櫻屋
小木の質屋で、お糸さんの再婚先。昭和30年代まで続いた。お糸さんの主人八木従蔵(質店主)の先妻の子が質屋を営んでいた。平成2年頃まで建物はあった。
★酒匂勘十郎(さこうかんじゅうろう)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★佐合源吉
『両津市要覧(昭和33年)』より

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・昭1、農政革新会の惣會[二年一月五日]・昭2、農政革新会の演説[五年一月十一日]
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)


★佐合雄介

★佐近(羽茂大草 典医)



★左近儀平次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、電線架設の建議[十七年五月]
★左近博
両津高校時代の1967年度(S42)10月、県高校新人大会陸上競技110MH2位・200MH2位
1968年度(S43)6月、第21回新潟県高等学校総合体育大会陸上競技 200MH2位
1968年度(S43)6月、北信越高校大会陸上競技 200MH8位
★佐々源左衛門(ささげんざえもん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、延享六年(一七四四年)十二月十五日御日付より佐渡奉行に、四年正月二十六日に御普請奉行へ転任した。
名は成倚、知行は四百石、御役料千五俵百人扶持であった。(佐島遺事)
★笹井吉十郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
明治一五年五月、西三川藤井甚太郎、味噌製造業を廃止し其の器具を笹井吉十郎に売却し、笹井吉十郎味噌製造業始む。
明治二五年、笹井吉十郎は開拓に味噌大醸造場を設け、大豆を北海道及満洲より購入し、北海道に輸送していたが、今年味噌三千樽を北海道へ輸送する。明治二七年九月一二日、笹井吉十郎所有船八十石積みは、倉谷沖にて難波、船頭死亡。
また、豊田「山路家文書」によると、明治二八年七月二〇日、小布勢村笹井吉十郎は味噌一〇〇五樽を恋ケ浦村山路酉蔵扱いで北海道へ移出している。
★笹井吉郎兵衛
西三川の人、高崎人形の人形師で通称「べーヤシキ(馬屋敷)」。彫刻の名人でもあり、羽茂村山の「つぶろさし」面も作った。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
演劇博物館編の「国劇要覧」(昭和七年刊)によると、(高崎人形は)真野町の竹田人形のカシラの一部が伝来したと書いてある。しかし、カシラに「やまきち」の焼印が擁してあって、西三川の通称姥屋敷 (べえやしき)笹井吉郎兵衛の刻んだものもある。
このなかの翁(おきな)と媼(おうな)は近所の通称下山(しもやま)佐藤家の老夫婦をモデルにしたものといわれる。この老夫婦は、文久二年と天保九年に死んでいるのでこれらの人形はそれ以前に刻んだものであろう。昭和十年二月十七日、著者は松田与吉翁の紹介で、この一座のカシラ・幕・道具一切を譲りうけた。人形を入れた行李が、牛小屋の片隅に放ってあったのは驚いた。破損したものや牛の小便がかかって匂いのするものさえあった。三十八個あったらしいが、なんとか形のととのったものは二十個くらいであった。女のカシラは一個しかなかったが、小さく、古雅で仏像を見るようであった。腰幕も古風で牡丹に唐獅子の図柄であった。最も珍らしかったのは裸体で陰部まで刻んである男女の人形であった。この一座は、明治十年ころまでつかっていたというが、太夫や役者の氏名はわかっていない。しかし、通称横枕加藤長太郎、通称ウシロ朝比奈浜蔵、佐々木寡作、臼杵善蔵の四人が共同所蔵であったから、この人たちの先代が太夫や役者であったのかも知れない。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
真野町酉三川の人。通称姥屋敷(べぇやしき)、天保のころの人らしい。カシラに(やまきち)の焼印を捺している。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★佐々井(笹井)九之助
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
笹井新屋家に残されている「笹井氏先祖由来」によると、慶長元年(一五九六)に、佐々井九之助と母妙真が渡来して、相川の庄右衛門町に住んだと記している。佐々井九之助は山師である。沢根町と同時期に、上相川周辺にたくさんの町屋ができた時代である。そして寛文三年(一六六三)に、この庄右衛門町より佐々井氏が沢根上町にでて、浜田屋権左衛門(二代川上権左衛門)という商人となった。つまり、川上権左衛門は佐々井氏から娘婿をもらって家業を継がせることにしたのである。笹井家の伝えによると、このときはじめ小船一艘を所有するようになったといわれているが、そのとき以降つかわれた船霊本尊が、笹井新屋家に保存されている日蓮宗曼荼羅である。二代川上権左衛門の没年は延宝三年(一六七五)である。そして、三代の時代に浜田屋は、家業も軌道にのり、渡海用の手船を一般所有するはどになった。元禄年中(1688-1703)には、沢根上町から下町に移ることになる。
★笹井治左衛門(ささいじざえもん)
沢根の廻船問屋。先祖は佐渡金銀山の初期、石見国浜田より渡来、初代は川上権左衛門、二代は相川庄右衛門町、佐々井孫左衛門の子次郎兵衛が婿養子に入り、沢根上町に出て、浜田屋権左衛門となり廻船問屋となる。「由来記」では川上五郎右衛門(山主、のち新穂村長畝帰農)、久保新右衛門(地役人となる)ら三人が渡来したとある。元禄年中、沢根上町から下町に移住し、岩谷口の船登源兵衛船と取引をして廻船業は成功した。先祖以来、日蓮宗の熱心な信者で、京都本圀寺第十六世日 直筆の題目曼荼羅を小倉(畑野町)御梅堂に寄進している。寛延三年(一七五○)、相川羽田町の渡部覚左衛門より養子が入り五代浜田屋を継ぐ。家業興隆の初祖となり、屋号を笹井治左衛門と称する。北前船の船主となったのは明和年間(一七六四~七一)で、宿根木(小木町)にて大黒丸(二五○石積)を新造、佐渡最初の北前型弁才船であった。寛政五年(一七九三)、五代浜田屋隠居、浜田屋新屋(治右衛門)を建る。文化元年(一八○四)、本家治左衛門船は大黒丸・明神丸、新屋治右衛門船は大徳丸であった。この浜田屋廻船業の記録を笹井秀山(伊助)が書き残しており、五か月にわたる旅日記『海陸道順達日記』も書く。幕末には浜田屋は沢根町第一の分限者となり、「当町浜田屋治左衛門と申、身元宜敷者これあり」と記されている。明治二年(一八六九)、家業は酒造兼質屋、治右衛門は鍋商人となった。【関連】海陸道順達日記(かいりくどうじゅんたつにっき) 【参考文献】『佐和田町史』(通史編) 【執筆者】佐藤利夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★笹井秀山
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
沢根町笹井治右衛門(秀山)は文化十年(一八一三)に西国へ一四四日の旅に出て、その道中のようすを記した『海陸道順達日記』という旅日記を残している。このときの秀山(宗遠の子、伊助)と同行者の倅(岩之助)、雇い人(佐平次)の三人の出判は「商売出国の分として高外出判」の扱いを受けており、割当人数外であったし、手続きも簡単に済んでいる。この笹井秀山の出立は四月十九日、帰ってきたのは九月十六日であった。沢根五十里の金子弥五右衛門(紺屋家)が幕末に赤泊港を三月二十三日に出立して、信州をまわり、日光、江戸を経て東海道を西に行って、伊勢参りをして、大阪、京都見物をして、北陸道で出雲崎へ出て、赤泊へ帰着した八十四日間の旅も記録に残っている。秀山の旅は約五か月間の旅であったから、商い物仕入の名目で出国したにしては長期間であった。この旅の行程の概略を記してみると、沢根港を出帆後二見で日和待ちをして、能登の福浦に上陸した。その後陸路京都へ向かい、北陸道で敦賀に出て昔からの商取引相手であった茶屋助左衛門で数日間泊って、山越えをして琵琶湖北岸の海津に出た。そこから西近江路で大津から京都に入った。秀山はこの旅の前には敦賀へは自分の船で出向いたことがあったようであるが、京都、大坂、兵庫ははじめてであった。この旅は商品仕入れだけでなく、秀山の倅の岩之助の痔の手術に紀州の平山(現在の和歌山県那賀郡平山)にいた当時、外科医として日本的に名声の高かった華岡青洲(随賢)のもとへ行くことが目的であった。おそらく浜田屋では京都の宿、三河屋源右衛門の手を経て、青洲による手術の手配をつけたものだろう。京都で商品仕入れをして、紀州の平山の治療所、青洲の春林軒についたのは五月二十二日であるから、佐渡を出てから一か月余たってからである。岩之助は手術後の療養が必要なので、手代の佐平次をここに残し、秀山は案内人をつれて高野山をまわり、また、大坂へ出て商品の注文をするために、久宝寺屋という問屋に止宿し、そのあと奈良見物、南下して長谷寺参りをして、帰りは法隆寺などを見物して、木津川から宇治へ出て、京都の三河屋へまたもどった。ここで、六月七日の祇園祭りを見物している。この後は東海道を下って関(現三重県鈴鹿郡関町)から伊勢別街道で伊勢に向った。秀山が伊勢外宮のある山田へついたのが、文化十年の六月十一日である。ここに当時上野国、東北、佐渡などの伊勢講の人びとと師檀関係を結んで、伊勢参詣を勧誘し、伊勢参りにきた人たちに宿舎を提供していた三日市太夫次郎という御師(おんし)宿があった。秀山がこの三日市太夫次郎邸に入ったときの記述は次のようになっている。
方五町四方も其余もあるべくぞ思われ、前に大門あり。それより入りぬれば、ここに小木戸あって是より内は広庭なり。そのかたえに玄関ようの処より各々支度直し、座敷へ入りぬれば、ここに幸い佐渡河原田の伊勢屋定次(定八)とて、伊勢宿を勤候ものなりしが、此春太夫様御登りの頃、国元より供いたし参り侯よし……。秀山を迎えたのが河原田の伊勢屋定次であったが、もう一人、喜左衛門がいた。喜左衛門は三日市太夫次郎の代りを勤める御師宿の番頭のような立場にあった。河原田町の享和三年(一八〇三)の屋敷帳にでてくる中沢喜左衛門であろシ。喜左衛門屋敷ほ本町裏通りの石原アパート付近にあった。ここに現在、諏訪神社に移された伊勢神宮の小社があった。そして、このそばに定吉屋敷(定八)があって伊勢宿をしていた。伊勢の三日市太夫次郎の手代らはここに泊って、伊勢御師の仕事をしていた。『佐渡国略記』、『佐渡風土記』、『佐渡年代記』などに享保十七年、伊勢三日市太夫次郎の手代中沢市太夫が自殺した記事を載せている。当時としては大きな事件であったのであろう。喜左衛門や市太夫は佐渡の神明講中の御初穂を集め、伊勢の大麻頒布をし、太神楽を行って帰っていったのである。忠左衛門とは中沢氏のことで、もともと中沢喜左衛門は佐渡河原田出身ではないかと思う。秀山は三日市太夫次郎邸で喜左衛門から別れぎわに、特別に高蒔絵の手箱に入った印度、唐伝来の名石を拝見している。伊勢参りのみならず、佐渡人の旅は、これを機会に各地のめずらしい品物や漢方薬、農作物の苗木や種など、さまざまな品物を島内に持ち込んでいる。また、著名な祭り行事を見物したのを機に芸能を習い覚えて帰ったものもいる。
・笹井秀山は伊勢参宮を終ってから田丸(三重県玉城町田丸)を経て、伊勢の名張から奈良へ出て、木津川から京都の宿へ帰った。この田丸の森田屋という燈油屋で油紙製の刻み煙草入れや合羽を伊勢土産として購入している。このような道中で求めた旅の土産ほ佐渡の各地へ相当持ち込まれたものと思われる。
・さて、秀山らは播州の海岸通りを歩いて兵庫に至った。ここで遅れてきた手代の佐平次といっしょになり、手術後の倅は浜田屋の廻船で佐渡へ帰ることにし、秀山と手代の二人は瀬戸内から下関に出て、ここで兵庫からの浜田屋の廻船を待って帰島することになる。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)笹井秀山
42 秀山「海陸順達記」の道をたどる (1) 佐藤利夫・三浦啓作 43 秀山「海陸順達記」の道をたどる (2) 佐藤利夫・三浦啓作 44 秀山「海陸順達記」の道をたどる (3) 佐藤利夫・三浦啓作 45 秀山「海陸順達記」の道をたどる (4) 佐藤利夫・三浦啓作 46 秀山「海陸順達記」の道をたどる (5) 佐藤利夫・三浦啓作 47 秀山「海陸順達記」の道をたどる (6) 佐藤利夫・三浦啓作 48 秀山「海陸順達記」の道をたどる (7) 佐藤利夫・三浦啓作 49 秀山「海陸順達記」の道をたどる (8) 佐藤利夫・三浦啓作 51 秀山「海陸順達記」の道をたどる (9) 佐藤利夫・三浦啓作 52 秀山「海陸順達記」の道をたどる (10) 佐藤利夫・三浦啓作 53 秀山「海陸順達記」の道をたどる (11) 佐藤利夫・三浦啓作 55 秀山「海陸順達記」の道をたどる (12) 佐藤利夫・三浦啓作
笹井秀山の旅
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=23
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=24
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=3
★笹井祥作
『佐渡酒誌』(平成14年)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
澤根町 ・明3、稲堀事件[二十五年十一月]・明3、佐渡憲政党の発会式[三十一年七月二十四日]・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明3、第拾回選挙[二十六年二月八日]・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]
★笹井正
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)笹井正 80 点鬼簿(2) 武田静澄氏、福田清人氏、富川潤一氏、笹井正氏 山本修巳
★ 笹井敏雄
佐渡を代表する画家であった。画号は莬子。沢根の豪商、回船問屋浜田屋の人。青野家、新町山本家とも姻戚関係にある。
「佐渡ふるさと百科」

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)笹井敏雄
1 鑑賞 佐渡のうた (1) 笹井敏雄 画 大定・庭 山本修巳 1 棟方志功氏の思い出
「島の新聞」14号

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
「島の新聞」索引(人名別)
★笹川一松
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・7・8・27~28 県水上選手権・全日本水上県予選(県体育協会・県水上競技連盟・県小学校体育連盟主催)新発田・西公園プール(金泉小・全種目優勝)50平 44.2新
★笹川清
諸情報
★笹川要作
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・5 第7回県学童水上競技大会(県水上競技連盟・県小学校体育連盟)新潟中プール
(金泉小尋)100平①1.35.1新
昭和12年度県学童大会最高記録(県小学校体育連盟・県水上競技連盟)
100平 1.35.1(金泉)昭12.8.5
昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)
100平 1.33.3笹川要作(金泉)昭12
★佐々木?
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治九年生 赤泊村徳和 ・明4、進歩党の集会[四十一年四月二十日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木晶
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木晶 22 瞼を閉じれば
★佐々木勲

★佐々木勇








※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木勇 3 或る系図について
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★佐々木勇

佐渡出身、広島大教授。
佐々木勇
★佐々木市三郎

★佐々木市作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡農事協会の創立[三年八月二十五日]
★佐々木一作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、日本大衆党佐渡支部[五年八月二十四日]
★佐々木逸祐
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)より(俳客伝)

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★佐々木伊八郎
小木郵便局長。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
『小木町史』(下)より
小木の町には島外からの輸入品をとりあつかう店が大いにはやりました。明治二十四年の記録に、呉服商の佐々木伊八郎、中川晴吉の二人が、近年一層仕入れを手広にして、土地の便益になっているとあります。佐々木伊八郎は、明治のはじめには廻船持ちの商人でしたが、この頃には呉服商として大をなしていたのです。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]
★佐々木梅太郎
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★佐々木栄喜多
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・10・8・2~3 第5回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟)悠久山プール
(佐渡中学 総合1位)100平4位、200平4位
★佐々木栄太郎
→山本清左衛門「清諷会」参照
★佐々木恵里紗

★佐々木覚三郎→佐々木甘泉
★佐々木覚準
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木勝次
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
(真野)浜中の鬼太鼓は竹田から習ったという。教えたのは竹田での創始者たちで、習ったのは永井啓作(明治九-昭和二九)が女鬼、佐々木勝次(明治二五-昭和四〇)が男鬼、太鼓が佐々木源次(明治一九-昭和四四)、長勝治(明治ニー-昭三一、佐々木甚平(明治二四~)等だったというから、竹田より二・三年遅いくらいなのであろうか。 明治四二年生まれの永井与次右衛門は太鼓も舞も上手だったが、右の人たちが若い衆に教えているのは見たが、舞うのはみたことがないという。竹田の土屋徳蔵が浜中祭りに釆ていた。新屋がそのつれあいの生家だったからであろう。永井はそのとき鬼の役だったが、先輩に「先生が釆ておるから気をつけて舞え」と注意され、格別に心をこめて舞ったという。竹田と浜中の関係は深いといわねばならない。
★佐々木勘作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木甘泉(覚三郎)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★佐々木喜三次
「躍進日本」

★佐々木吉次
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★佐々木吉次郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木久右衛門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木鞏太郎(きょうたろう)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★佐々木玉山(俊蔵)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
本姓は生天日、名は備、字は咏帰、通称を俊蔵といい、常陸の人である。
豊田天功、藤田東湖に学び、国事に奔走し会津箱館の戦に参加した。
後に佐渡倉谷佐々木家に寄寓してその家の姓を用い、真野の新町に移って子弟を教授した。
明治三十五年常陸で七十三才でなくなった。(佐渡人名辞書)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木玉山 34 鑑賞 佐渡のうた (27) -補遺- 佐々木玉山 山本修巳
★佐々木クメ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡郡佐和田町上矢馳の人で天明二年(一七八二年)正月十一日に生まれた。明治二十二年三月十二日に百六才二か月でなくなった。八十八才の時、夫が九十才でなくなった。二男五女の子があり、この年、長男と三女が死亡、長女七十二才、二女七十才、ニ男六十四才、四女六十五才、五女が六十才で健在であった。目も見え、耳も聞え歯も強く髪はまばらに白い。一日米三合、洒五勺、トウガラシが好きで、タバコも吸った。父は五十四、母は六十二でなくなった。(佐渡の百年)
「大力の女と百六歳の老婆」(「佐渡の百年」)
★佐々木邦基

(一社)佐渡生きもの語り研究所副理事長、佐渡トキの田んぼを守る会。
父方祖父(若き孫正義の才能を見出した人物)

「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木国蔵
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★佐々木敬一郎
昭和13年創部の佐渡中学弓道部に属し(昭和12年より活動)、、明治大でも活躍した。引退後赤泊に弓道場を作った。
★佐々木敬子
佐渡高校時代の25.6.10~11、県陸上選手権大会(柏崎市)、走幅跳3位
★佐々木元英(万松斎宗友一和・左近先生・海老名保作)

羽茂西方の矢が沢家の人。半生をかけて羽茂関係資料を収集した「翠堂文庫」を作る。



★佐々木賢慈
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★佐々木健次
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)
佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。
その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時
代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
★佐々木源次
→若林米蔵「笛畝会」参照
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
(真野)浜中の鬼太鼓は竹田から習ったという。教えたのは竹田での創始者たちで、習ったのは永井啓作(明治九-昭和二九)が女鬼、佐々木勝次(明治二五-昭和四〇)が男鬼、太鼓が佐々木源次(明治一九-昭和四四)、長勝治(明治ニー-昭三一、佐々木甚平(明治二四~)等だったというから、竹田より二・三年遅いくらいなのであろうか。 明治四二年生まれの永井与次右衛門は太鼓も舞も上手だったが、右の人たちが若い衆に教えているのは見たが、舞うのはみたことがないという。竹田の土屋徳蔵が浜中祭りに釆ていた。新屋がそのつれあいの生家だったからであろう。永井はそのとき鬼の役だったが、先輩に「先生が釆ておるから気をつけて舞え」と注意され、格別に心をこめて舞ったという。竹田と浜中の関係は深いといわねばならない。
★佐々木源十郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川 ・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
★佐々木健次郎
奉納者名にあり

★佐々木健太郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

★佐々木吾一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木五三郎










『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
「くだものまつり」と「くだもの直売センター」
昭和六〇年代は、安定した生産が始まってきた。組合員にも自信ができ、次のステップを考えるようになってきた。平成五年組合長の佐々木五三郎は、生産者と消費者と話し合いのできる場が必要であるとの考えから、イベント 「西三川くだものまつり」 を実施し、拠点である集出荷場において第一回の西三川くだもの祭りを実施した。予想を上回る一、二〇〇人の人達から、もぎ取り体験や皮むき大会に参加していただき、消費者との交流の場となった。時代とともに販売方法や買い手売り手の関係も変わっていき、佐渡島内での販売から新潟出荷へ、そして有利販売のできる贈答用販売へと変わっていった。昭和六〇年頃より西三川郵便局の協力を得てふるさと小包ゆうパックを始める。島内ではスーパーマーケットの出現で、個人店舗での需要が少なくなり、販売に行き詰まり感がでていた。主要産地に研修に行く度に見ていた農家の直売店にヒントを得て、平成九年組合長の佐々木良昌氏を中心に佐渡では本格的なくだもの直売センターを建設し、九名の参加者で国道三五〇号線に開店した。この組合の特色は女性たちの参加である。日常的活動はもとより先進地への研修や講習会等も全て女性同伴で行われている。こうした女性の参画は、農業経営への参加、企画、そし直売センターて農業経営簿記の記帳作業等へ発展し、農休日の設定や次世代の青年たちの参加意欲につながり、さらには、ゆとりある農業へと考え方が広がっている。
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「57号」(平成31年4月)・社説:三組の相次ぐ受賞を慶ぶ(・佐々木五三郎・板垣徹・山本修巳)
「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木康一
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


★佐々木小太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町、・明3、板垣退助の渡航[二十五年八月八日]
★佐々木権四郎
→葛原源左衛門
★佐々木佐市
「近現代の羽茂」

★佐々木哲
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1ヒゲの斎藤ダメな静知 2 東京に「安寿の会」 2安寿、毒の水 3・佐渡は四十九里波の上 ・佐渡は居よいヨ住みよいヨ ・鬼のツノ・ふる里の味・沖汁 4・北田野浦のまつり ・佐渡の少年安藤隆司君 ・方言と佐渡 6小倉の祭礼 佐々木哲 6沖縄戦と将軍と子ども 7佐渡の言葉「タクラダ」 7この子を尋ねて四十九里 7漫画のページ 7濡仏・哲 7回想五十年 7戦中二十年、戦後五十年 8<現地ルポ>小倉川暴れる 9明るい農村「冷や汗テレビ出演ばなし」 9茅の上にも三年
★佐々木三良
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木三良 95 「院展何者ぞ」佐々木象堂の工芸へかけた情熱
★佐々木左門
旧小布勢村(真野)村長、明治三〇・一二・二七~。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十二年生 西三川村田切須、農業、明治十二年 生 ・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]
★佐々木佐与吉(ささきさよきち)
【生没】一八六三ー一九三六 人形芝居の首を模して、小さく土で作って棒をさし、子供たちの遊びに使わせた佐渡の郷土玩具作者。文久三年三月十八日、佐々木佐平次の長男として、佐和田町河原田諏訪町に生まれた。戸籍では佐与次とある。佐渡では、土で作られた人形が各地で製作されたが、全国的に有名なのは、いわゆる佐与吉の首人形で、郷土玩具研究家武井武雄は、「洒脱奔放な指の跡に加ふるに、軽妙に彩り飛ばした稚拙な筆を以てしたのは、あっぱれ日本首人形の白眉たるに恥ぢない。やや巧緻な傑作徳島県撫養の立岩のものと、両横綱であらう」(『日本郷土玩具』昭和五年)と絶賛している。なお、首人形は源頼光などの四天王などが多いが、猿や馬や狐もあって、傑作と言われるものもある。昭和十年(一九三五)ころ、小型のものは一個一銭で、一円代も買うと百個もあった。また、佐与吉は凧も作り、奴凧の両袖と中央に描いた椿の花は評価が高く、三寸角の朝鮮凧は、背負われた幼児が、箸の先につけて持つものであるが名品である。昭和十一年四月二十八日、七三歳で死去。
【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』、同『佐渡の郷土玩具』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
首人形作者。文久三年(一八六三年)三月十八日、佐渡郡佐和田町諏訪町佐平次の長男として生まれた。佐与吉は戸籍では佐与次という。土人形は佐渡各地で製作され、木製では獅子頭、木挽人形、独楽などがあり、紙製には凧、鯛提灯、燕などがあるが、全国的に有名なのは河原田の首人形である。武井武雄は「酒脱奔放な指の跡に加ふるに、軽妙な彩り飛ばした稚拙な筆を以てしたのは、あっぱれ日本首人形の白眉に恥ぢない。やゝ巧緻なやや巧緻の傑作徳島県撫養(むや)の立岩のものと両横綱であろう。」と河原田の首人形をほめている。昭和十一年四月二十八日、七十四才でなくなった。市井に埋もれた芸術家であった。(佐渡の百年)
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より

河原田首人形の作者のものにも、五cmくらいの福助人形がある。紫や赤の色彩は彼独特のものである。佐渡で福助といえば、すぐ「八幡の福助」を連想するほど佐和田町八幡のものは有名で、大小さまざまあり、生産も多量であつた。
・河原田 (佐和田町)首人形の作者、佐々木佐与吉のものに首人形の天神〔節〕がある。全国の郷土玩具のうちでも、首人形の天神というのは珍しく、類を見ないのではないかと思う。烏帽子を合わせて首の大きさが約十一cmの大型のものである。
・佐渡の凧のうちで、全国的に珍しく、特色のあるものがある。全国の凧には、いろいろ形態のかわったものが多い。佐渡の凧は、形態のかわったものではなく、描いてある凧絵の稚拙の筆致によるものである。この凧の製作者は、土製の首人形「つまみ人形」の製作者としても全国的に有名な佐々木佐与吉である。種類は奴凧、かるた凧、六角凧、朝鮮凧であるが、このなかで「奴凧」と「朝鮮凧」が、特色があり珍しいものである。四種類とも、板木による木版画でなく、みな筆描きのものである。首人形と同じ稚拙な筆致であるところに佐与吉の個性がよく表現されている。もう一つは、同じ佐与吉のつくる「朝鮮凧」である。縦、横、各約十七cmという全国でももっとも小形の凧である。これは、空にあげるものでなく、丸箸の先につけて、子守の背に負われている幼児に持たせるものである。これらの佐与吉の凧は、正月近くになると、ごくわずかだけつくつたから、一般にはあまり知られていないものであろう。佐々木佐与吉の首人形は、日本一の折り紙がついていることが、この凧もまた日本一の折り紙をつけられるべきものであろう。
・河原田の首人形の作者佐々木佐与吉にも土人形の犬がある。高さ十四cm、独特の犬で、眉やヒゲには、首人形と同じ筆致で措いている。実に素朴で、ユーモアな犬である。
・武井武雄画伯が、徳島県撫養町立岩のものと、佐渡の佐和田町河原田のものは、日本首人形の両横綱であるといっている。そして、この河原田の首人形については「洒脱奔放な指の跡に加ふるに、軽妙に彩り飛ばした稚拙な筆をもってしたのは、天晴れ日本首人形の白眉たるに恥ない」と最大級の称賛の言葉を付け加えている。この首人形の作者は、佐和田町河原田諏訪町の佐々木佐与吉である。佐和田町役場の戸籍簿によると「佐与次」となつていて、文久三年三月十八日、佐平次の長男として生まれた、となつている。彼は、生涯妻もなく、子供もなく、まったくの孤独で、酒と人形作り三昧に世を終えた埋もれた街の芸術家であつた。こういう人でなければ、あの天真爛漫な人形は作れない。利欲というものがなく、童心そのものの持ち主であつた。佐与吉は、朝から酒ばかり飲み、赭ら顔に目ばかりキョロキョロさせていた。大正十三年八月、歌人与謝野寛・晶子夫妻が佐渡へ来島した。この時、相川町へ行く途中、佐和田町のこの佐与吉老人の家の前で自動車をとめた。耳の遠い佐与吉に大きな声を出して、首人形のいくつかを買った。この時も朝から酒を飲んでいたとみえて、テカテカと赭ら顔をしていた。晶子夫人は「さど人の 朝焼のごと かがやける 手よりあがなふ のろま人形」と短冊に書いた。佐与吉の赭ら顔を、朝焼の空のように赤くかがやいていると形容したのが面白い。もちろん、この「のろま人形」は、土の首人形のことである。「敵味方仲よく並ぶ佐与が店-去春散士」の川柳にあるように、佐与吉の店には、人形芝居に出る敵になる人形も、味方になる人形も、共に仲よくならんでいるというのである。「爺さん、おるかア」と、声をかけて店へ入ると、イロリに立てた首人形の彩色をやめて出て来るが、耳が遠いのでなかなか話が通じない。昭和の初め、小型のものは、一個一銭で、一円代買うと百個あつて持ちきれなかったほどであつた。そして、古い教科書などを、ジャリジャリとさいて、藁シべでグルグルと巻いて包んでくれた。そのころ、他の商店などでは、すでにきれいな包装紙があつたが、この佐与吉の店だけは素朴で野趣のある包装紙であつた。
・首人形の着物は、手づくりの古新聞紙などでこしらえたが、晩年、佐与吉はお客のすすめで彼らしい筆致の模様で着物や鎧をつくつていた。佐々木佐与吉はとうとう昭和十一年四月二十八日すなわち河原田まつりの翌日、七十四歳で死んだ。そして、全国の郷土玩具愛好家からたいへん惜しまれた。主治医であつた河原田町の中山徳太郎先生の話にょると、死因は肺炎とのことであった。そして、前年の秋ころ一度からだの具合いが悪いといううわさがあつたが、その後酒徳利をかかえて町を通る姿を見かけたので、これでまあよかったと安心したものだという。年があらたまると、また人形づくりに精を出していたので、もう大丈夫だと思っていた。そのうち、死ぬ一週間前から中山先生の診察をうけるようになつた。見舞いに行くと、まくら元には薬瓶らしいものは見あたらないで、いつも愛用の酒徳利だけがならんでいた。四月二十七日は、年に一度の河原田まつりで、町は屋台が通り、笛や太鼓のにぎやかなハヤシが病人の耳にも聞こえてきた。そして、いつまでもその音に聞き入っていた。翌日佐与吉は「これで、今年のまつりも、無事にすんだなあ。おれもオーヤリした(安心の佐渡方言)」と、いって往生をとげた。まったくの孤独の身で、まくら元にあつて最後の別れをしたものは、長い間苦楽をともにした酒徳利と近所の人たちだけで、中山先生も間に合わなかったとのことである。奇人であり、名人であつた佐与吉らしい最期であった。菩提所は、河原田町の本田寺で、墓もその境内にある。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
「鉄幹と晶子」(「佐渡の百年」)
「首人形の佐与爺」(「佐渡の百年」)
★佐々木三四郎(小比叡)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。この家は能登からきたと伝えており、夏井の城山はこの佐々木家が持っています。羽茂殿の製塩の代官をしていたものでしょう。小比叡の佐々木一族の大屋と思われます。佐々木氏の釆国は古代のころであると考えられています。
★佐々木三蔵
「躍進日本」

★佐々木滋太郎(しげたろう)
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★佐々木茂乃
佐渡高校時代の昭和37、全日本学生清書コンクール特選
★佐々木茂春
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・サンセ一キ梨づくり
西三川は「二十世紀梨」 の産地である。各農園で二〇~三〇アールの梨を栽培していたが、その七〇パーセントが二十世紀梨であった。二十世紀梨は黒班病に弱く、二回の袋掛けをしないと収穫ができなかった。九月に集中する島内販売に詰まり新潟市場へ出荷するが、大量にある新潟産の梨の中で価格は安かった。佐々木茂春氏、佐々木康夫氏は袋を掛けないで栽培する二十世紀梨に挑戦し、長野県松川町等の先進地まで出かけ研修して完成させた。商品名をサンセーキとして新潟市場へ出荷し、糖度と適酸でコクのある梨となり評価を受けた。完全無袋のサンセーキ梨は新潟県内でも西三川だけである。
★佐々木茂(初代 吉の山)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
吉野山の初代で明治39年生まれ昭和54年73歳で病歿した人で吉井村の大名乗りである。
★佐々木秀安
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川神明社人。橘三者について神道をおさめ、また和歌をよくした。
元文二年(一七三七年)になくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
★佐々木酒水(高瀬)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
★佐々木俊蔵(生天目辰之助 なばため )
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
寺小屋師匠、郵便局長。水戸藩士で明治元年会津戦争に従軍し、さらに函館五稜郭の戦に賊軍として参加した。敗戦後、北海道にいた佐渡人佐々木三郎のもとに、身をかくし、佐渡に渡って三郎の弟、俊蔵と変名した。本名は生天日(なばため)辰之助といい、玉山と号した。明治三年佐渡真野町の山本半歳、山本五半、山本藤八郎、島倉伊平、中川清三郎の五人が出資して「学問所」を開設し、俊蔵を教師として迎えた。この学問所は新町郷校と明治五年に改め後に真野小学校となった。また五年七月、内務省駅逓局所轄郵便取扱所(郵便局の前身)が新町、相川、赤泊、小木に開設され、俊蔵は同八年から二十九年まで郵便局長となった。明治三十五年、郷里水戸で七十三才の生涯を閉じた。(佐渡の百年)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
明治維新の変革の際水戸藩士として会津戦争に従軍し、さらに北海道函館の五稜郭の戦争に参加し、敗れて、そのころ北海道江差町にいた真野町大倉谷佐々木才三郎方に身を寄せていた。そのうち、才三郎が郷里に帰ることになったので、官軍の目をくらますため、才三郎弟俊蔵と変名し大倉谷に住していた。佐々木俊蔵は、本名生天目(なばため)辰之助といい、玉山と号した。豊田天功や藤田東湖に師事した佐幕派の志士であった。彼は明治三年、新町に移住し、明治九年、あらためて「新町校」となるころまで奉職し、のち、郵便局長を明治八年から明治二九年まで勤め、その間新町区長などにも任命された。俊蔵が佐幕派として戦ったのは、天皇を載く薩摩・長州に対する反抗である。もともと、水戸藩の学問は、国学・史学・神道と儒学とで組織した学問であり、皇学の尊厳を説き、維新の王政復古には大きな影響を与えたのである。俊蔵は新しい時代における皇室の尊厳を新町の有識者の人たちに説いたと思われる。明治五年秋、新町の山本半右衛門家一族一二軒は、浄土宗から神葬祭に改宗した。今に伝える山本家の神葬祭は、水戸学の葬制である。また、順徳院の真野御陵への尊崇の念から、戦前まで続いた「陵下の民」の誇りは、佐々木俊蔵によって点じられたのがはじめではないだろうか。明治三年に山本半蔵・山本五平・山本藤八郎・島倉伊平・中川清三郎の五人が費用を出しあって「学問所」を開設し、のち、明治五年、この「学問所」が政府の許可を得て「新町郷校」と名称を改めた。先生として佐々木俊蔵(辰之助)を雇い、場所は司馬盈之(司馬凌海)旧宅であった。これが、現在の真野小学校のはじめである。この五人の有志たちが「学問所」の先生を迎えるについて、エピソードがある。心当たりを捜していると、たまたま北海道から釆て西三川村大倉谷の佐々木才三郎方に身を寄せていた佐々木俊蔵という人物が学才にたけているということを聞き、評判だけでは真価がわからないというので、新町の漢方医山本桂に大倉谷まで行かせ、人物試験をさせた。先生を迎えるのに人物試験をして迎えるところに、有志たちの意気が感じられる。
旧新町(真野)村長、明治二二年・四・一より。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村新町 ・明2、佐渡新聞の計画[十七年四月]
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木俊蔵 114 ある水戸藩士の苦悩-『瓦石斤集』を読む- 倉田藤五郎
「逃亡藩士の郵便局長」(「佐渡の百年」)
「倉内忠左衛門の冒険」(「佐渡の百年」)
★佐々木俊平
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


★佐々木象堂(ささきしょうどう)
<

佐渡博物館

常念寺









『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より

(続く)造の保持者として認定を受けた。昭和36年1月1日、真野町名誉町民に推戴されたが、1月26日に死去された。享年79歳。勲四等瑞宝章を授けられた。


【生没】一八八四ー一九六一 明治十七年河原田町に生まれる。本名は文蔵。一八歳のとき沢根の宮田藍堂に師事して、蝋型鋳金の技法を修得する。二五歳のとき河原田で鋳造をはじめたが、四年後(大正二年)に東京へ出て、その年開かれた日本美術協会展へ出品した作品が銅賞を得た上、宮内省買上げとなり広く認められるようになった。以後各種展覧会に出品するたびに入賞および買上げを重ね、技法も円熟に達した。大正十四年(一九二五)に板谷波山・香取秀真など、工芸界の先人たちと工芸済々会を結成し、ろう型鋳金の第一人者として重きをなすようになった。昭和十年(一九三五)刊『佐渡大観』に載せられた出品作のうち、宮内省御買上が五品ある。こうして皇室・皇族すじからの信頼は、のちに佐渡出身で宮内庁勤めをした娘婿の高尾亮一が、新宮殿建築の仕事を担当したこともあって、宮殿の屋根に象堂作の鳳凰が据えられるというまでになった(註 同型の鳳凰像は新潟の佐渡汽船切符売場にある)。昭和三十五年四月十九日人間国宝に認定(重要無形文化財蝋型鋳造保持者工芸部門第四○号)、翌三十六年一月に真野町名誉町民に選ばれた。太平洋戦争中は、銅像や釣鐘までも供出するようになり、材料入手の道が途絶えたので、象堂は一時新潟で陶器作りに転じ、まもなく夫人の実家近くの真野町合沢で「まの山焼」をはじめた。上京当時は、夫人となった羽生タケとともにクリスチャンで、当初(明治四十年)は文蔵が、四年後に夫人がプロテスタントの洗礼を受けている。【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・戦中、金属供出等の影響で蝋型鋳金が出来ず新潟で新潟焼、その後、佐渡で真野山焼きの陶器制作をする。場所は妻タケ(旧姓羽生)の実家の平屋建て小屋でそこに住み作業場でもあった。現在同地はに象堂関係の石碑が数個あり、タケの実家の当主羽生周也氏(令和元年当時60歳代前半)が管理し整備している。なお、象堂はその後、真野新町に移住した。場所は真野農協を山側に下ったT字路の左角である。また、象堂がそれまでに住んだ合沢の小屋は新潟から象堂について佐渡に渡った田村吾川の住居兼作業場となった。
・佐渡國雑太郡河原田町本町186番地の1で出生。父は新蔵で同町佐々木多平家の出、後に分家(本町の下町)。母はムラ、河原田町金子家の出(本町の下町)。
・妻はタケ、佐渡國雑太郡真野村合澤の羽生門平・アサの三女で新潟県立長岡女子師範卒。
・長女は三枝、大正4年生。長男は狭門(さと)、大正6年生、生後三か月で急逝。長男狭門の後、数人の子供が生まれたが流産、早産で育たず。次女睦子は大正11年生。
・長女三枝が高尾亮一と結婚。昭和23年、次女睦子が佐々木茂(羽茂高校教諭)と結婚。
・(山本修巳談)・佐々木象堂先生は晩年、松井源内家から山手に下りた角の家に住んでいた。私(修巳)もよく覚えている。佐々木象堂さんの娘さん(次女)は羽茂に嫁ぎ(羽茂高高校教員、社会科)、その後象堂先生の家が空いたのでそこに住んだ。現在は佐々木家であるが、嫁ぎ先も偶然佐々木苗字であったかどうかはわからない。
「東京文化財研究所」
没年月日:1961/01/26 分野:工芸, 工芸家 (鋳金) 読み:ササキ, ショウドウ※、 Sasaki, Shodo※
(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)
蝋型鋳造の無形文化財保持者佐々木象堂は、1月26日新潟県佐渡郡の児玉病院で急性肺炎のため死去した。78歳。彼は本名を文蔵と云い、1882(明治15)年3月14日に新潟県佐渡郡に生れたが、戸籍面は2年後の同月同日生になっている。1897年に、河原田小学校を卒業し、17歳ごろ画家を志して上京したが極度の近視眼のため帰郷し、1901年より佐渡郡沢根町宮田藍堂(初代)に蝋型鋳金を学び、1907年5月より河原田町で鋳金家として自立した。1913(大正2)年上京し農商務省(図案及応用作品)展(第一回)に出品入選し、また東京鋳金会展、日本美術協会展などに出品し、宮内省より数度買上げられた。1915・6年から象堂を号としている。1922年平和博覧会出品の「鋳銅菊花丸紋花瓶」は金牌を受賞した。1927(昭和2年)新たに工芸部が設けられた第八回帝展に出品した「鋳銀孔雀香炉」に特選を得て宮内省買上げとなる。1929年11月帝国美術院推薦となり、同年第10回帝展出品「金銅鳳凰置物」も特選となる。以後1931、1932、1934年に帝展審査員を務め、1935年には帝国美術院参与に推薦となる。1936、1937、1939年に文展審査員を務め、1940年には日本工芸美術展に展覧会委員依属となる。1938年には新潟市に越路焼窯新潟陶苑を興し、1945年まで郷土の陶器製作と弟子の養成にたずさわった。1944年戦禍を避けて佐渡に疎開し、戦後1947年真野町に真野山焼窯を創設し、再び陶芸と子弟を養成する。1945年より日展に依属出品を続け1953年より第5回日本伝統工芸展に蝋型鋳銅置物「釆花」を出品し文化財保護委員長賞受賞、同じく6回展には「蝋型鋳銅置物・瑞鳥」に日本工芸会総裁賞を受賞し、共に文化財保護委員会の買上げとなった。1960年4月重要無形文化財蝋型鋳造技術保持者と認定され、名実共に鋳金界の最長老の一人として活動していた。
出 典:『日本美術年鑑』昭和37年版(122頁) 登録日:2014年04月14日 更新日:2021年12月10日 (更新履歴)
佐佐木象堂(高尾亮一 昭和38年)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木象堂
6 鑑賞 佐渡のうた (6) 青木月斗・佐々木象堂・前田普羅・村山古郷 山本修巳 20 〈新刊紹介〉人間国宝シリーズ-28 佐々木象堂:蝋型鋳造・海野清:彫金・魚住為楽:銅鑼 講談社 山本修巳 95 「院展何者ぞ」佐々木象堂の工芸へかけた情熱 佐々木三良 111 祖父佐々木象堂の人と作品 高尾道生
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「4号」(平成18年1月)田村吾川作陶展-故佐々木象堂先生追善供養先生余技絵画展-(飯山弘)
「島の新聞」索引(人名別)
佐佐木象堂(高尾亮一 昭和38年)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 3佐渡の代表=麦優・象堂 6人間国宝・佐々木象堂 6 佐々木象堂とモダニズム 藤田裕彦
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=2
佐々木象堂 その他諸情報
★佐々木四郎平
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p388
★佐々木甚太郎
旧小布勢村(真野)村長、明治20年代。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永二年生 西三川村田切須 ・明2、電線架設の建議[十七年五月]・明2、第五回選挙[十九年五月]・明2、第六回選挙[二十一年一月]・明3、松本八十八の祝賀会[二十七年四月□日]・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、高等女学校[四十年三月二十日]・明4、佐渡水産学校[四十年三月二十日]
★佐々木甚平
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
(真野)浜中の鬼太鼓は竹田から習ったという。教えたのは竹田での創始者たちで、習ったのは永井啓作(明治九-昭和二九)が女鬼、佐々木勝次(明治二五-昭和四〇)が男鬼、太鼓が佐々木源次(明治一九-昭和四四)、長勝治(明治ニー-昭三一、佐々木甚平(明治二四~)等だったというから、竹田より二・三年遅いくらいなのであろうか。 明治四二年生まれの永井与次右衛門は太鼓も舞も上手だったが、右の人たちが若い衆に教えているのは見たが、舞うのはみたことがないという。竹田の土屋徳蔵が浜中祭りに釆ていた。新屋がそのつれあいの生家だったからであろう。永井はそのとき鬼の役だったが、先輩に「先生が釆ておるから気をつけて舞え」と注意され、格別に心をこめて舞ったという。竹田と浜中の関係は深いといわねばならない。
→野村蘭作「宝生二派の統一」参照
★佐々木翠
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
徳和村 ・明3、第拾回選挙[二十六年二月八日]
★佐々木末雄
「躍進日本」

★佐々木清吉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
事業家。明治十四年二月十八日に佐渡郡相川町で生れた。東京高等工業学校を卒業、日本トーラィト取締役会長となった。昭和三十六年一月二十日に七十九才でなくなった。(新潟県年鑑)
★笹木晴次
「躍進日本」

★佐々木政次郎
→小黒ヨシ参照
★佐々木清松
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]
★佐々木善助
→小黒ヨシ参照
★佐々木大樹

★佐々木大順
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐々木泰蔵
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
通称与吉、真野佐々木善助家の出身で、江差町で呉服業を営む。明治三〇年代に新町に家を新築したが、大正時代に絶家となった。
★佐々木多一郎
『佐渡酒誌』(平成14年)

★佐々木孝昭
佐渡高校(真野分校)時代の昭和42.7.22-23、水泳県高校結合体育大会(柏崎市) 個人メドレー入賞
★佐々木高
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川 ・昭1、佐渡革政党の創立[二年十二月四日]・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]・昭1、佐渡革政党の秋期大会[三年九月七日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
西三川郵便局長で、佳愛金子高次郎の門弟の集まりである佳鳳会の代表であった。この会は昭和三六年に佳愛が没し、四〇年に佐々木高が亡くなるとまもなく消滅した。高は松本栄太郎の弟である。
★佐々木高之助
佐渡中学4回生、東京帝大卒、三菱鉱業勤務。
★佐々木たけ
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木たけ 47 句集 紫苑 佐々木たけ著
★佐々木正
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木正 121 羽茂農協六十年の歩み
★佐々木多忠
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐々木民蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★佐々木貞市
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]
★佐々木哲也(哲)



★佐々木出羽秀安
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★佐々木傳左衛門
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
桃やリンゴ・梨などの果樹が、全国的に経済的栽培対象となったのは明治末期以降であった。それまでは自然栽培の自給的域を脱しなかった。大正二(1913)年、静岡県興津の園芸試験場ではじめて果樹の栽培が行われたのが、わが国の本格的な栽培のおこりという。佐渡でも、このころから果樹栽培が農業経営の一環として取り入れられ、近代的科学技術を採用した栽培がはじめられた。しかし、これより先、すでに真野町においては個人の力で果樹栽培の試植が行われていた。明治四〇(一九〇七)年ころ、田切須の佐々木伝左衛門は宅地の一隅に桃を植えた。このころ、田切須鉱山の発展につれて売れゆきが良好のため営利栽培し、これが島内栽培の端緒となったという。梨やリンゴの栽培は、第一次大戦ころから昭和の初期ころにかけて、佐々木伝左衛門や小川内の渡辺八十八、合沢の羽生忠二郎、四日町の菊池長右衛門、沢根の土屋弸(つちやみつる)らによってはじめられた。とくに梨は大正九年、郡の農業技師山田忠平が桃の栽培の良好なのをみて、梨の栽培を勧めたのが動撥となって、翌年には佐々木伝左衛門らが早生赤、長十郎などを植えた。佐々木伝左衛門は、西三川地区が畑面積が広く、土質も果樹にあい、気候も適していることを考え、大正一三年に西三川園芸組合を結成し組合長となり、自ら千葉・静岡・鳥取・岡山・山形などの先進地を数回にわたって調査研究し、二十世紀梨の苗木あっせん・植えつけ・剪定・病虫害予防などの指導に当った。また自らもー町歩のモデル果樹畑を経営し、一般に公開奨励したので西三川だけでも昭和一二年ころには果樹園が一三ヘクタールにも達した。昭和六年、佐渡園芸組合長に選ばれた佐々木は、その後昭和二一年、佐渡果実協会に改組されたときにはその会長に推され、梨・リンゴ・柿などの栽培の発展に尽した。佐々木農園の梨は全国的な各種の品評会に出品され、度々優等賞を受け「おけさ梨」の名声を高めることになり、これがまた全島の梨栽培をいっそう盛んにする基盤となった。
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・西三川地域の社会的経済的環境
西三川果樹の植栽は、海抜五〇~一二〇メートル位の丘陵地に広がっている。地形は小佐渡山脈の経塚山系から田切須鼻にかけて広がる丘陵地で、開拓で水田ができるまでは畑作中心の農村地帯であった。一九一三年頃、佐々木伝佐工門らの指導のもとに換金作物となる二十世紀梨の導入が進められてきた。(真野町史下巻二五八頁)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木東庵
『金井を創った百人』(「明治・大正の開業医たち」)(金井町 平成12年)より

★佐々木トシ子
→小黒ヨシ参照
★佐々木敏行

★佐々木虎次郎
「躍進日本」

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木虎二郎 100 佐々木虎二郎の活躍 中塚宗一
★佐々木伸彦
赤泊川茂の人、歌人。平成26年から新潟日報「島の文芸」(短歌)撰者。長く郵便局に勤務された。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木伸彦
15 仁和賀をみて 34 雑誌「鋤鍬乃友」について 69 月市※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)祭市 151号 雑誌「鋤鍬の会」について 152 義民 弥曾右衛門について 155 雑誌「歌と評論」の終刊にあたり
「島の新聞」索引(人名別)


中:新潟日報(平成26年12月)




★佐々木八郎(ささきはちろう)
「躍進日本」

★佐々木八郎(ささきはちろう)
【生没】一八九八ー一九八○ 国文学者。相川町下京町五番地で明治三十一年九月十日、税務署勤めの熊蔵の長男として生まれた。この生家は幕末のころ、佐渡奉行所の学問所(修教館)を建てた田中從太郎(葵園)の邸宅があった場所。長男であって「八郎」と名付けたのは、元外務大臣有田八郎の養母が、「ウチの八郎のようにりっぱな人に」というすすめであったという。祖父の邦蔵(大正八年十一月没、六九歳)が有田家と親しく、また邦蔵は優秀な指物師で知られていた。明治四十四年、一三歳のとき佐渡を離れ、新潟中学から長野県の松本中学へ転入学。大正八年の早稲田大学高等師範部国語漢文科を卒業し、のち早稲田大学の講師・教授などを経て、同大教務部長・教育学部長・同大図書館長・同理事などを歴任し、かたわら昭和女子大・上智大・実践女子大の各講師、文部省の大学設置審議会特別委員・国立国語研究所評議員・国語審議会委員などを勤めた。昭和二十四年(一九四九)八月、五一歳のとき「平家物語の研究」で学位をとる。「平家の佐々木か、佐々木の平家か」(鳥越文蔵・元早大演劇博物館長の話)といわれるほど、実証的な研究者で知られた。自然に平曲・謡曲・浄瑠璃など、中世芸能や語りものにも深い理解を示し、多くの学者がその門下から育った。「日野資朝卿」「佐渡の文弥節」「世阿弥と佐渡」など、ふるさとに関した論考も多い。昭和五十五年九月八日、心筋梗そくで東京練馬区の自宅で死去。八一歳。相川の菩提寺総源寺と、東京の多摩霊園にそれぞれ分骨埋葬された。法名は「秋聲院聴雨八朗大居士」。【参考文献】『聴雨追想』(佐々木八郎 追悼集)、『平家物語評講』【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『佐渡相川の歴史(通史編)』(1995年)より
『平家物語』など、中世文学の研究で知られる佐々木八郎は、明治三十一年九月十日、相川の上町台地にある下京町に生まれた。「今とちがって、僕の少年時代に、佐渡ではつめたい霙(みぞれ)が粉雪に変りはじめる頃になると、どの家でも障子の目張りをしたり、家の周囲には薄板を打ったり、蓆(むしろ)や芦簀(よしず)のたぐいをめぐらして、吹雪を防ぐ雪囲いをして冬寵りに入ったものである。そして、歳暮が近づくと、農村ー佐渡では農村のことを〝在郷″訛って〝ゼイゴ〟といったーの百姓たちが馬に餅米をつめた俵を負わせて町へやって来る。この一年の間の契約で汲み取った肥料にする糞尿の代償に正月の餅米が届けられるのである。土蔵の前の薄暗い板の間でその餅米を升ではかっているのをみると、正月が近づいたことを思ったものである。おしつまると、どの家でも餅搗きの杵の音が寒い暁の空に響く。僕の家では土蔵の前の土間に臼をおいて餅を搗いたが、その〝あいどり″はいつもきまって女であった。土蔵の前の板の間には、母をはじめ子供たちから手つだいの衆がならんで、にぎやかに餅をまるめる。まるめた餅を、はしから運んで土蔵の中の棚にならべるのが僕の役であった。たしか最後の臼で搗いた餅を〃ミヅドリ″といって、餡餅にして重箱に入れ、隣近所へくぼった。神棚の前には繭玉が飾られる。佐渡の繭玉は〝メエダマ″と訛って呼んだ。柳の枝か何かに、薄手の〝針打ちせんべい″をつりさげたものであった。〝針打ちせんべい〟というのは、餅米の粉でつくった、直径一〇センチはどの円い扁平形で、とりどりに色どった薄い軟質のせんべいである。子供たちはこのせんべいを何枚も積み重ねて、上から針を打って、針が通ったところまでを自分の持ち分として勝負を争ったものである。元旦はいずくも同じことで、とりたてていうはどの記憶がない。ただ相川の町では、歌留多取りの夜がつづく。あたり近所の家々がかわるがわる宿をして、雪の降る夜をふけるまで興じた」
「郷里の佐渡のお盆は八月だ。近所ではたいてい旧盆の七月であったが、私の生まれた相川では、どういうわけか一月遅れの八月に行われる。子供たちは毎日のように浜辺に出て鶏卵ほどの大きさの美しい白い石を拾い集める。佐渡の金山が開けてこのかた、海岸に選り捨てた鉱石が浪に洗われ浪のまにまに互に磨れあってすべすべに丸くなった大石小石で岸辺を埋め連ねているのが相川の町の海辺の特徴だ。お盆の十三日になると、私は朝早く起きて、集めて置いた石塊を大風呂敷に背負い、お米や線香や、青竹で造った花たてなどを持って山の上にある菩提寺に行く。寺の境内からは、石をごろごろ載せてならべた家々の屋根を越して、鈍く光る夏の朝のしずかな日本海が見下ろされる。代々の人たちの眠るいくつかの墓のならんだ墓場には朝露が草場に光って、秋虫やきりぎりすが鳴いていた。私は背負ってきた小石を一つ一つ墓場に敷き並べ、竹で造った花たてを一対ずつ小石で地中に打ち込んで、蓮華だの、萩だの、桔梗だのという花をたてる。それから墓石に冷めたい、すがすがしい水をかけ、そのてっぺんには、大きい蓮の葉をかぶせる。これは強い夏の陽光をさえぎってあげるという趣向であろう。この間に祖父は仏壇をきれいに飾って仏前には胡瓜に四本の麻からをさし込んで造った馬や、茄子に同じ趣向をした牛や、赤いほおづきや、そのほかいろいろなものを並べた精霊棚が安置されるのであった。日本海の空を真赤に染めた夕焼が薄れて行き、海辺の町に宵闇がせまり、黒い大きな蝙蝠が屋根から屋根に飛び回る頃ともなると、緩い勾配のある狭い路をほさんで並ぶ両側の家々では軒先に出て、挨拶をかわしながら迎火をたく」。
その相川で、有田八郎と同名の佐々木八郎は一四の年まで育った。「一四歳の春に郷里を出てからこのかた、ざっと四〇年余りの春秋を他国で暮らして、来る春ごとに四角に切った切りモチばかり見慣れた私には、あのふくよかな愛らしい丸形の正月モチを思うと、たまらない郷愁を覚える」(以上「経済新報」「佐渡新報」「早稲田学報」から)と、のちに、ふるさとをなつかしげに回想している。八郎が県立新潟中学校に入学したのが明治四十四年四月のことだから、そのときが相川を離れた「一四の年」に当たる。菩提寺総源寺(下山之神町)の藤木完爾住職によると、八郎の祖父は邦蔵といい指物師(箱・机・小箪笥・火鉢などの職人)で緻密な手職の名士であり、八郎の父熊蔵は税務署に勤める官史だったという。そうした家系に八郎は生まれる。
(佐々木八郎 略歴)
新潟中学から長野県松本中学を経て、早稲田大学高等師範部国語漢文科卒(大正8)。早大高等師範部教授(昭和17)。早大教務部長(昭和23)同教育学部教授。「平家物語の研究」で文学博士の学位を得る(昭和24)。文部省大学設置審議会特別委員会委員、早大教育学部長(昭和26)などを経て昭和女子大学講師(昭和27)。のち昭和女子大学評議員、中世文学会代表委員(昭和31)となる。米国諸大学経営管理調査のため渡米、翌年大学基準協会副会長(昭和34)。上智大学講師、国立国語研究所評議員(昭和36)。学術奨励審議会委員、早大図書館長(昭和39)。また早大理事となり定年退職(昭和44)。大東文化大学教授などもした。『平家物語』『源氏物語の成立過程』などの著書、論文が多い。
昭和55・9・8死去 81歳
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1898-1980 昭和時代の国文学者。
明治31年9月10日生まれ。早稲田中学教諭などをへて,昭和4年早大教授。大学設置基準協会副会長,国語審議会委員などをつとめた。「平家物語」の研究家として知られ,著作に「平家物語の研究」「平家物語評講」がある。昭和55年9月8日死去。81歳。新潟県出身。早大卒。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木八郎 28 佐々木八郎氏・松本啓蔵氏 山本修之助 56 佐々木八郎先生の思い出 山本修之助
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★佐々木八郎兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
鉄砲師。佐渡国相川の人である。弘化二年(一八四五年)に中村彦右衛門が百目玉抱打筒二挺を鋳立て、八郎兵衛がこれを仕上げた。(佐渡年代記下巻)
★笹木春美
両津高校時代の1986年度(S61)11月、新潟県競書大会 準特選
★佐々木彦次郎
→小黒ヨシ参照
★佐々木久雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木久雄 4 渡辺梅園の面影
★佐々木秀男
「躍進日本」

★佐々木日出治
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

★佐々木日出海
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木日出海 37 翠雨軒常山工房の職人たち、付・波山の急須
★佐々木秀安(ささきひでやす)
【生没】一六七九ー一七三七 鹿伏神明社神官、父は秀長、出羽と称した。近世佐渡の神道は、寛文十二年(一六七二)に来島した宗源神道五十六道若証庵橘三喜や、元禄の末から宝永のころに、肥前長崎諏訪の社人青木行衛の弟新六が、京都から二度にわたって渡海して伝えたというが、秀安は若年のころ京都へ赴いて、神祇管領吉田家に直接学び、神典に通じていたので、佐渡一国の神職は師範と仰いだ。享保六年(一七二一)から佐渡奉行をつとめた小浜志摩守久隆が、鹿伏三社へ参詣の折、神明社に石の鳥居があるのを不審に思って尋ねたところ、秀安は唯一神道には石の鳥居を用いぬことになっているが、カナコの者どもの祈願によって建てた。当国は銀山国で、石の中で働く者たちが是非石でというので、しばらく法をゆるめた、と答えたという(『佐渡四民風俗』)。これは「銀山宜候へば八難を蔵候」という、巷間の諺の例としてあげる話であるが、同時に秀安の器量と奉行への忠告をも物語るのであろう。秀安の名は広く知れわたっていたらしく、その娘の結婚についても、『佐渡国略記』元文二年(一七三七)の項に、「二月五日夜、鹿伏村神明神主佐々木出羽守娘ヲ、公事方役三馬五太夫ヘ婚礼」と出ている。秀安はこの二か月後の四月十六日、五九歳で没した。【参考文献】高田備寛『佐渡四民風俗』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』、永弘寺松堂『佐渡相川志』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★佐々木英之
「エスライフ」2008年3・4月号



「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木ひとみ

平成31年佐渡市儀補欠選挙で当選。


★佐々木?(㜁から女を取る、ひとし?)

★佐々木文蔵




「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木祐之
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・西三川果樹組合の設立
昭和四〇年代以前の組合は、役職も定かでなく有識者が交代で資材の調達や精算を行っていた。五〇年代には組合長職を置くなど組合としての体制が整ってきた。初代組合長は佐々木祐之、副会長は佐々木康夫、資材係等の係が決められた。集出荷用の資材、農薬等を取りまとめて組合員の利便を計ってきた。先進地研修やまた講習会、佐渡果実協会への参加等、技術向上にも組合は積極的に関わってきた。
★佐々木裕子
「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木吹三
佐渡高校時代の37.9.19~20、陸上競技県高校総合体育大会(新潟大学)総合44点2位、入賞
★佐々木フミ子
西三川田切須の人、大正15 年生、平成26年11月25日没。昭和60 年に砂金祭が開催され、その時に砂金山にちなんだ音頭作成の機運が高まる。こで彼女が西三川の古文献を元に、真野の佐々木義栄、山本修之助両氏の協力を得て基礎資料を作成、それを元に昭和62 年に羽茂本郷の長尾俊さんが作詞・作曲した「砂金音頭」が完成。長尾氏自ら唄い、三味線葛間覚、鼓丹藤啓一郎、囃子高野和子、振付嶋田冨美男で完成した。

「島の新聞」13号


「島の新聞」索引(人名別)
➡ブログ「佐渡の民謡」(「聞き書き」)→佐々木フミ子に詳しく載る。
2011年4月(佐々木さん85歳)インタビュー
「砂金音頭の思い出話」by 佐々木フミ子・渡辺和弘
★佐々木文蔵
「島の新聞」(95号)
佐渡鷺流の先駆者たちは、宗家に学び、佐渡に芸を伝えた。草分けは吾潟の葉梨源内。一八二一年(文政四)に宗家十六世仁右衛門に師事たとされるが、島内での記録はない。沢根の土屋辰次郎が一八五三年(嘉永六)に上京し、宗家十八世から相伝書を受けているが、帰郷後は不明。同時期、五十里の林喜正が十八世と十九世に師事し、相伝書五通を受けて帰島。昭和初期の林家の火災で相伝書は焼失したが、喜正が使用した台本が真野町の若林義太郎家に移されて保存され、今日の鷺流復活の基となっている。喜正に師事した青野の小杉忠三郎は上京して宗家に学び、零落した宗家から伝来の古面や台本を譲り受けて帰郷した。佐渡は正統を継いだことになる。幕末から明治期にかけて最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用心として来た三河静観は明治維新後も両津に定住し、和歌や狂言を安藤世彦・幸彦父子に教えた。湊に住んでいた天田狂楽は安藤父子に手ほどきを受け、明治三十年代に上京して畔翁に指示し、皆伝免状を受けて帰島している。天田は名人といわれ、多いときは年間五〇~六〇回演じたという。また天田は、喜正の弟子で加茂歌代の古木弥十郎らと明治末期に両津鷺流狂言会を組織した。天田が一九四四年に没すると、佐渡狂言は衰運をたどる。一方、真野では鶴間兵蔵が明治十八年から二度上京し、一噌流の笛と狂言を学び、帰郷して活躍、後継者を育てた。高弟の若林米蔵らは能楽上演団体「笛畝会」を立ち上げ、狂言も演じた。米蔵に師事したのが佐々木文蔵、その弟子が鷺流最後の狂言師土屋増一である。これらは要となる人物で他にも多くいた。中央で芸を身につけた人々の活躍で、明治後期から昭和初期にかけては佐渡鷺流の最盛期だった。「能楽を学びに上京して、能をやるなら狂言もと身につけたのだろう。能楽があったから佐渡に継承されてきたと考えられる」と祐亨さんは見る。最近になって天田家に伝わる台本が島外へ持ち出されてしまった。小杉家が宗家から譲り受けた古面や台本も今では小杉家を離れ、転売されて所在不明となっている。天田本や小杉本を借りて、安藤本と照合していた裕亨さんは「佐渡鷺流狂言の復活に欠かせない貴重な財産。調査未了のうちに散逸してしまい、残念でならない」と嘆息する。安藤家は代々夷諏訪神社の宮司で台本は保存されている。
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野の狂言は鶴間笛畝に始まる。明治一八年に上京した時に鷺流の狂言も習った。真野での弟子に岩本量宏(明治五-昭和二八年)や佐々木文蔵(明治一七-昭和三六年)がおり、文蔵の弟子に土屋増一がいる。




→葉梨源内参照
→若林米蔵「笛畝会」参照
★佐々木辡次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木保四郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木まさえ

「佐渡・裂織り3人展」2015年 ・場所:佐渡市赤泊地区外山集会場
・内容:赤泊地区で裂織りの作品作りを行っている佐々木マサエさん、加藤幸子さん、除テルヨさんによる3人展。裂織りの敷物、タペストリー、バッグ、小物類を展示即売。どれも手作りの温もりが感じられる作品ばかりです。会場には作者もいますのでお話しを聞きながら鑑賞できます。
★佐々木政雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木正文
首都圏佐渡金井会5代会長
★佐々木増右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永五年 生
相川町下戸炭屋町 ・明4、佐渡毎日新聞社[三十五年七月十三日]・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、高等女学校[四十年三月二十日]・明4、佐渡水産学校[四十年三月二十日]・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、三土、小久保等の遊説[四十四年八月十八日]
★佐々木真奈

★佐々木萬吉
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
桶屋。佐渡相川の人。技術が極めて精巧でその製品は日にさらしても水のもるようなことほなかった。自負も人に過ぎ、高慢桶屋とよばれた。奉行が江戸に出る時、たびたび土産にその桶を用いたという。明治四十年になくなった。(佐渡人名辞書)
「佐渡の木彫家」(「佐渡の百年」)より
相川町に居た桶屋の名人。彼が作った桶は日にさらしても決して水の漏るようなことはなかった。いつも自慢をするので「高慢桶屋」のあだ名で呼ばれていた。佐渡奉行が江戸へ帰る時はたびたびみやげに用いたという。明治四十年ごろまで生きていた。
「佐渡の木彫家」(「佐渡の百年」)
★佐々木万次郎
人形芝居関係者。→「金子善次郎」参照
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
真野町笹川の人、笹川人形の創始者。金山人形ともいう。黒山人形が、金子善次郎の失明後しばらく笹川へ移っていたので、こうよばれた。太夫は、通称孫兵衛(佐々木万次郎)、役者は通称小坂主四郎(金子綱次郎)、通称又十郎(金子石松)、通称九兵衛で、この九兵衛は時々つかう程度であった。四、五年の短かい期間で、再び黒山へ戻った。
★佐々木宗氏
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
続千載集、続後拾遺集、新千載集等の編者である。
佐渡守にもなった。元徳元年(一三二九年)七月十六日になくなった。(新潟県史)
★佐々木邦基
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「50号」(平成29年7月)・佐渡米の存在価値を日本酒に込めて(佐々木邦基)
★佐々木彌作
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★佐々木康夫★
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・西三川果樹組合の設立: 昭和六二年、くだもの集出荷場の建設は、西三川果樹組合にとって正式な組合設立という重要な年となった。組合では長年にわたり会合等の集会には組合長宅を利用させてもらう等、会合や資材等の共同購入時にも建物がなく不自由な思いをしてきた。佐々木康夫組合長を中心に昭和六二年新潟県農林水産業総合振興事業の補助金をもらって建設することになり、あらためて正式な組合設立となった。集出荷施設(五間×六間)の建設により「くだもの」の集荷や出荷、資材の保管場所、組合員の会議や研修、くだもの祭りの会場等と有効に利用されて組合の活動拠点となっている。平成一三年には組合員手作りによる会議室も併設されて施設はさらに充実してきた。昭和四〇年代以前の組合は、役職も定かでなく有識者が交代で資材の調達や精算を行っていた。五〇年代には組合長職を置くなど組合としての体制が整ってきた。初代組合長は佐々木祐之、副会長は佐々木康夫、資材係等の係が決められた。集出荷用の資材、農薬等を取りまとめて組合員の利便を計ってきた。先進地研修やまた講習会、佐渡果実協会への参加等、技術向上にも組合は積極的に関わってきた。一
・サンセ一キ梨づくり: 西三川は「二十世紀梨」 の産地である。各農園で二〇~三〇アールの梨を栽培していたが、その七〇パーセントが二十世紀梨であった。二十世紀梨は黒班病に弱く、二回の袋掛けをしないと収穫ができなかった。九月に集中する島内販売に詰まり新潟市場へ出荷するが、大量にある新潟産の梨の中で価格は安かった。佐々木茂春氏、佐々木康夫氏は袋を掛けないで栽培する二十世紀梨に挑戦し、長野県松川町等の先進地まで出かけ研修して完成させた。商品名をサンセーキとして新潟市場へ出荷し、糖度と適酸でコクのある梨となり評価を受けた。完全無袋のサンセーキ梨は新潟県内でも西三川だけである。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=6
★佐々木泰子
佐渡高校時代の昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★佐々木芳雄
佐渡高校時代の昭和31.11.1葛葉書道会主催全国学生書道展特選
昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★佐々木芳男
佐渡高校時代の34.8.1~2、水泳県高校選手権(長岡市)総合49点2位、(自由形)200ml位、400mメドレーリレー1位 800mリレー1位
34.8.8-9、水泳東北高校大会(内郷市常盤炭鉱)総合23点3位、(自由形)100m・200m入賞
34.8.22~23、水泳県高校結合体育大会(長岡市)総合45点2位、自由形200ml位・100m3位、400mメドレーリレー・800mリレー1位
★佐々木由太郎
二宮村窪田
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★佐々木義也
佐渡高校時代の昭和31.7.21 全国学生書道展(於上野美術館)特賞
★佐々木良紀
佐渡高校時代の平成元、高校囲碁選手権県大会団体戦1位(佐々木良紀・加藤政幸・江口勝)、高校囲碁選手権全国大会団体戦2回戦敗退
・平成2,高校囲碁選手権県大会団体戦(佐々木良紀・長井圭一・加藤政幸)1位、全国
大会に出場
★佐々木芳博
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余
興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★佐々木義栄(ささきよしひさ)
新町 円静寺墓




『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より



【生没】一九○九ー二○○○ 真野町新町に生れた。新町大神宮宮司、人形浄瑠璃の研究家。国学院大学高等師範部卒業後、県立佐渡農高の教諭などを経て昭和五十二年に教職を退いた。この間北見角太郎らと「佐渡文弥人形振興会」(二十七年)を、また「佐渡人形芝居保存会」(四十五年)を組織し、新穂広栄座の説経、のろま人形をふくめて、その保存や後継者の育成に尽力した。諸国に残る文弥人形芝居を歴訪して、鹿児島県東郷町・石川県尾口村・宮崎県山之口地区にまだ文弥人形が残っていること、飛騨や越後では廃絶したことなど調査し、延宝年間(一六七三ー八一)に大坂出羽座の太夫で、岡本文弥の創始したとされる文弥節と、佐渡文弥の関係を立証した功蹟などは広く認められている。平成八年に『佐渡ケ島人形ばなし』の大著を上梓し、佐渡の芸能史研究に大きな弾みをつけた。昭和二十八年に文部省主催の第四回郷土芸能祭(芸術祭)に、佐渡の人形芝居を引率して上京して以来、本田正次・佐々木八郎・河竹繁俊らと交遊を重ね、佐渡人形芝居が国の重要無形民俗文化財に指定(五十二年)されるかげの役割を果した。『文弥浄瑠璃集』(上下二巻、北見角太郎発行)は五十四年の発行。三味線も弾く芸達者で「大平記ほまれの仇討」という二幕物の創作浄瑠璃があり、五十三年に川野名孝雄らと「真明座」を組織した。永らく佐渡博物館の芸能部長を勤め、平成八年には真野町の名誉町民に選ばれた。【関連】北見角太郎(きたみかくたろう)・佐渡が島人形ばなし(さどがしまにんぎょうばなし) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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著書に「文弥節太夫中川閑楽」、編著「文弥節浄瑠璃集」上下、共著書「真野町史」などがある。真野町新町大神宮宮司。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)佐々木義栄
33 佐渡の人形芝居
72 山本修之助先生 追悼文 追悼(真野町町民葬)
81 「佐渡学」ノート (3) 「佐渡が島人形ばなし」 山本修巳
88 山本修之助
92 新町大神宮ご鎮座四百年記念大祭
92 鳥越先生と佐渡
94 『佐渡が島人形ばなし』(佐々木義栄著)について 秋谷治
98 佐々木義栄先生最後の一言 山本修巳
98 『佐渡が島人形ばなし』(佐々木義栄著)を思う時 山本修巳
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 1心やさしき薩摩隼
2山椒太夫考 3いま、佐渡の人形芝居は 8人形の中の自分史 8義栄先生の著書紹介・世拗亭黙公 10 図書紹介 佐渡人形ばなし 佐々木義栄
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p389
『島の文学碑めぐり』(佐々木義栄 昭和41年1月-2月)
★佐々木良昌
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
・「くだものまつり」と「くだもの直売センター」
昭和六〇年代は、安定した生産が始まってきた。組合員にも自信ができ、次のステップを考えるようになってきた。 平成五年組合長の佐々木五三郎は、生産者と消費者と話し合いのできる場が必要であるとの考えから、イベント 「西三川くだものまつり」 を実施し、拠点である集出荷場において第一回の西三川くだもの祭りを実施した。予想を上回る一、二〇〇人の人達から、もぎ取り体験や皮むき大会に参加していただき、消費者との交流の場となった。時代とともに販売方法や買い手売り手の関係も変わっていき、佐渡島内での販売から新潟出荷へ、そして有利販売のできる贈答用販売へと変わっていった。昭和六〇年頃より西三川郵便局の協力を得てふるさと小包ゆうパックを始める。島内ではスーパーマーケットの出現で、個人店舗での需要が少なくなり、販売に行き詰まり感がでていた。主要産地に研修に行く度に見ていた農家の直売店にヒントを得て、平成九年組合長の佐々木良昌氏を中心に佐渡では本格的なくだもの直売センターを建設し、九名の参加者で国道三五〇号線に開店した。この組合の特色は女性たちの参加である。日常的活動はもとより先進地への研修や講習会等も全て女性同伴で行われている。こうした女性の参画は、農業経営への参加、企画、そし直売センターて農業経営簿記の記帳作業等へ発展し、農休日の設定や次世代の青年たちの参加意欲につながり、さらには、ゆとりある農業へと考え方が広がっている。
佐渡でのくだもの栽培は新しい技術や品種等すべての情報を島外に求めなければならなかった。 昭和五〇年代は「ふじ」と「つがる」 の新品種の登場で、「国光」や「紅玉」の品種更新が行われた。 山形県東根市の須藤りんご研究所の研修生であった佐々木良昌氏は、習ってきた高接更新の技術を組合員に教えた。この高接更新はブームとなり「ふじ」 や「つがる」 の時代へと入って行った。
「島の新聞」索引(人名別)
★佐々木利作

★佐々木利三次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★佐々木良吉
→葛原源左衛門
★佐々木玲子
「エスライフ」2013年4・5月号


「島の新聞」索引(人名別)
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