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2021-01-09

★小池有恒   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
明治初期の武道の達人。相川小六町の人で、横浜の大日本帝国元祖私立小地整骨院を開設し、その院長であった。先祖小池土佐守有年は、天正年間に浪人として来島し3代目は佐渡奉行陣屋付医師で、6代目有恒(父は中奥村農末武英川)は幼名を善蔵と呼び、ペリー浦賀へ来港の頃砲術を学び剣術・水練の術を習い、後日さらに柔術及び整骨科の医術を修め、武術(剣術・柔術)
修行のため諸国を歴遊し、明治3年横浜末広町に柔術及び整骨科の開業をする。
明治16年、学習院で、中条澄清と組打ちの技を天覧に供した。その優れた技を見て海軍省御雇フランス人フランソワーは門人となり柔術の修練を受ける。今日ヨーロッパでもフランスの柔道は愛好者も多くレベルも高いが、そのフランス柔道の芽は小池有恒が育ての親ともいえる。松子夫人も柔術と整骨の術に優れていた。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
相川小六町の小池有恒は、嘉永6年(1853)アメリカのペリーが浦賀へ来た時に、発憤
して上京し、砲術を学び剣術を習い、水練の術を修め、さらに真揚流柔術の元祖に従い柔術・整骨の医術を修めた。明治3年公務を去り横浜末吉町で柔術及び整骨医を開業した。明治16年学習院で中條澄清と組打ちの技を天覧に供したことは、佐渡柔道界の輝かしい史実である。

★小池詩子
両津高校時代の1993年度(H5)12月、第13回全国高校生読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催) 人選

★小池栄吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
こい小池栄吉 新潟県官民肖像録 明治41年

★小池一一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★小池亀一
→中川勝見参照

★小池勘次郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
こい小池勘次郎

★小池小市郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こい小池小市郎
『両津市要覧(昭和33年)』より
こい小池小一郎

★小池佐市
両津夷にあった「両津活版所」創業者。明治末から大正半ば頃にかけての創業と思われる。当時、佐和田鍛冶町にあった斎藤長三氏の経営する印刷会社から機械を引き継いだと言う。斎藤八郎兵衛氏も創業時に関わったと言うが、政治家同士であった佐和田、夷の両斎藤の関係が想われる。同社は、佐市の長男の小池和義氏(大正2年生、新潟で印刷業修業)、その長男の小池荘一郎氏と引き継がれ、平成16年頃に廃業した。なお、創業時の場所は湊城ノ内の加茂湖側の一番手前(現在は道路)に両津警察所がありその次が両津活版所であった。しかし、昭和8年の夷大火で後、避難道路の必要が出たので、小池家から出た土屋六衛門両津町長の斡旋で、昭和6年頃に活版所は夷7ノ町に移り、警察署が活版所跡に移動し、警察所跡地を道路とした。

★小池佐兵衛
左:『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)  右:『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
こい小池佐兵衛 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34 こい小池佐兵衛 新潟県官民肖像録 明治41年

★小池三四郎
夷地蔵堂
こい小池三四郎 夷地蔵堂 (1) こい小池三四郎 夷地蔵堂 (2)

★小池鹿蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★小池庄右衛門→諏方の一 

★小池荘一郎
こい小池荘一郎
両津夷の人、両津市議を数期務める。両津高校野球部、少年野球の指導、夷鬼組他多くの組織に関わり、代表者として活躍する。両津高校9代同窓会長(石楠会)、昭和46年~昭和47年。浜田造成や佐渡汽船就航等に尽力した土屋六右衛門両津町長はこの小池家から出た人(曽祖父の弟)である。荘一郎と言う名前は土屋六右衛門が命名した。
➡ブログ内「両津の昔を語る」で多くの語って頂く。
→参照:小池佐一
本人談(h28年12月)
昭和12年2月5日生まれです。今度の誕生日で80歳です。生まれは両津夷12-1で夷7の町です。父の代から印刷を始めました。場所は両津欄干橋の湊側の加茂湖側です。この並びの一番夷側の端に警察署があり、その隣が私の家でした。当時の土屋六衛門町長は私の家である小池佐太郎から出た人だったんですが、この一番端に避難道を造りたいと言うことになり、夷に家を建てる敷地があるのでそこへ移ってくれと言うことになりわが屋は夷12-1に移転したわけです。一番夷側に避難路が出来て、警察はその道路分、湊側に動いたことになります。今も一番加茂湖側は道路ですよね。
「新潟日報」h27年6月25日
こい小池荘一郎 h27 6 25 日報
鬼太鼓講演会@真野故郷会館にて(平成26年頃?)
こい小池荘一郎

★小池鶴太郎
→鈴木卓苗 「佐渡高等学校百年史」

★小池貞一郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]

★小池敏雄
「手わざ図鑑」
こい小池敏雄 「手わざ図鑑」

★小池一
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]

★小池正容
「島の新聞」索引(人名別)

★小池勝
「島の新聞」索引(人名別)

★小池杢太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こい小池杢太郎

★小池保次
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
こい小池保次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こい小池保次

★小池有恒
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人、少時砲術槍法水練を学び奉行所雇となった。安政四年(一八五七年)江戸に出て柔術、整骨科を修め明治三年道場を横浜に開き、整骨治療にあたった。たまたま仏人の負傷をなおして名声をあげ、内外人の治療をこうものが多かった。仏、蘭両公使は謝状をおくりかつ柔道を学んだ。明治十六年学習院でその競技を天覧に供した。慈善の心が厚く貧者を施療して表彰を受けた。(佐渡人名辞書)

★小池裕
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
両津町 ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]・大4、佐渡立憲青年党大会[十四年七月二日]

★小池竜蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
両津町 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、第十七回衆議院議員選挙[五年二月二十日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]

★小池林平
「躍進日本」
こい小池林平「躍進日本」 (2)
「躍進日本」
こい小池林平「躍進日本」
『佐渡相川の歴史(通史編)』(1995年)より
東京で小池製作所を設立した小池林平さんは、大正四年の、第一次大戦のさ中に相川で生まれる。父の栄蔵は早稲田工手学校を出て、昭和六年度竣工の旧佐渡支庁庁舎を設計した腕のいい棟梁だったが、林平は小学校しか出ていなかった。のちに先端技術を駆使して活字鋳造業界の、日本の主力メーカーの一つに数えられるようになる。相川での幼ないころの回想がある。そのころは裁判所か、役場の職員になるにほ中学校を出ないといけず、小卒なら鉱山に勤めるはかはなかった。鉱山の製鉱場に二本の長い煙突がそびえていた。日ごろ林平が手押しポンプで水汲みを手伝っていた隣りの風呂屋の主人が、その煙突を指さしながら、こう言った。「あれを見い。あの煙突を立てている米国の技術者は月一万円ももらっているんだ。学校などいかないで、彼のような手の職をつけなさい」(「小池製作所の歩み」)。一七歳のとき一人で上京する。
「 花筏 小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から 」
「花筏」
「島の新聞」索引(人名別)

★碁石仁之助
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治九年生 岩首村岩首、農業 ・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]

★小泉其明(きめい)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
新潟の人で宝暦十一年(一七六一年)に生れた。その祖父は本間作十郎で刈羽郡刈羽村の人であるが、新潟に移った。
父は二代目作十郎の三男で小泉家を継いだ。其明は名を文恕、白水と号し、通称は八郎治、後に彦兵衛と改め、さらに善平と改めた。其明は数年間諸国をまわり、さらに二度各地を訪れた。見附市今町の永閑寺住職山宮安霊と知合い、今町の旅館柏屋小柳彦八の家にとゞまり、妻をめとり一家をなし、小柳彦兵衛といった。ついで村の組頭となり、後に小泉善平と改めた。また村の役目につき、晩年には坂井新田外一か村の役目を受けた。其明は測地、製図にすぐれ、新発田藩の地理調査に従い、苗字帯刀を許された。寛政十一年(一七九九年)から文化十四年(一八一七年)まで実測して、越後全図大小二、図説十巻、越後の道しるべ初篇一巻を出版した。新発田藩主の賞を受けたが、発行後間もなく絶版を命じられた。文政年間に佐渡国山獄海岸真景、佐渡鉱山図譜、越後国三国通山道総図を作り、新発田落と幕府に献上し、幕府から賞された。天保のはじめ(元年は一八三〇年)佐渡金図を著わした。この図は明治九年に孫の善平が出版した。巻菱湖は越後全図に其明の苦心のようすを漢文で書いている。其明は画を五十嵐浚明の高弟、芳明に学び、猿の画がとくいで、猿を飼っていた。百猿の図を新発田藩主に献上している。また藩の菩提所である江戸駒込吉祥寺の客殿にも藩主の命で猿を書いた。七十二才の時、越後二十五景図を著した。県の役人がこれを借りてかえさず、帰山雲崖の復写が新潟県庁に保存されている。其明は石をこのみ、見石翁といい、各地をまわって石を集めた。曲亭馬琴と交わり、馬琴は其明の還暦に
 うらやまし六十路の上を又一つ
  あまりものには福もこそあれ
の歌をおくった。天保七年(一八三六年)五月十一日に今町で七十六才の一生を終わった。(越後全図巻菱湖題文、北越名流遺芳、柏崎人物誌、新潟県史、南蒲原郡先賢伝、舟江遺芳録)

★小泉蒼軒
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
見附市今町の人で、小泉其明の長男である。通称は善之助、名は蒼軒、字は氏計、雲楼、橋東、晨郷、海巨、花狂園、八百会舎、翠松軒等の号がある。寛政九年(一七九七年)に今町で生まれた。博学強記で父の志を継ぎ、地理を学んだ。父の佐渡全図を補正した。著書が多く、越後里程誌、越佐地名表、風俗問状、備荒儲言、越後七不思議、老のくり言、麓の遅理比遅、古今仮名例、北越古城考、治水一班、粟島紀行、治水等がある。明治六年十月十九日に七十七才でなくなった。(北越名流遺芳、新潟県史、南蒲原郡先賢伝、舟江遺芳録、越後人物志、新津市誌)

★小泉輝三朗
「相川暴動」(「佐渡の百年」)

★小泉輝三郎
「佐渡ジャーナル」関係記事:「22号」(平成22年7月)小泉輝三郎さんと「お金送り」(K・Y)

★小泉道益
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
こ小泉道益
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡佐和田町五十里の人で医家。画を春木南湖に学んだ。(佐渡人名辞書)

★小磯国昭
「一兵卒の銅像」(「佐渡の百年」)

★小出義一
昭和30年代の両津高校の体育教師として陸上部顧問でもあり、多くの優秀選手を育てた。上越柿崎の人。両津高校前の白山アパートに長く住み、両津で生涯を終えた。短身ながらあらゆる競技の指導に精通して居た。昭和30年代後半の陸上部は総合点で全県トップクラスであった。槍投げの渡辺正志、中距離の木次健次、砲丸投げの山本君子等の新潟県トップクラスの選手が居た。
こい小出義一

★小出惣七
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
こい小出惣七
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十二年生 内海府村北小浦、農業 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]

★小岩井重人
「島の新聞」索引(人名別)

★黄医師  
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
新穂病院は、川口医師没後、昭和五十一年、ようやく台湾出身の黄先生が着任されたが、五十三年二月に帰国された。

★鴻江瀧蔵
『佐渡酒誌』(平成14年)
こう鴻江瀧蔵 『佐渡酒誌』(平成14年)

★香遠小八(桜荘)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
元治元年生 吉井村 ・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]『金井を創った百人』
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★香遠直子
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報

★香遠正浩
こう香遠正浩

★香遠義雄
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
こう香遠義雄 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★香遠與蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
こう香遠與蔵 新潟県官民肖像録 明治41年

★甲賀景山
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
こ甲賀景山
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の表具師。下野の人で名を貫といぅ。
仏画ならびに山水花鳥に巧みであった。(佐渡人名辞書)

★弘現
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
こ弘現
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡赤泊村大杉の人で字は義観という。智積院四十世の能化となり勅大僧都より権少数正に進み、明治十一年十二月に六十一才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)

★高下泰蔵
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
こう高下泰蔵 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

★好古→鍔師好古(つばしよしふる)

★高坂昌信(高坂弾正)→春日虎綱

★孝山房日道大徳 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
こう孝山房日道大徳 本光寺 佐渡国泉の人物誌 h29年11月

★光性院
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
こう光性院 佐渡国泉の人物誌 h29年11月

★幸次郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川下戸炭最浜町の人である。親に仕えてよく孝養を尽くしたので、文政五年(一八二二年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★神主弌二)(こうずいちじ)
こう神主弌二050508 こう神主弌二 こう神主弌二1
神主さんは、シテ方宝生流の能楽師として佐渡の能舞台に立つほか、お弟子さんに稽古をつけたり、さらには市内の中学校で能楽を教えるなど、様々な活動で佐渡の能文化を支えています。神主さんは、祖母が佐渡で女性としてはじめて能を舞った佐渡本間家の重立(有力者)という能と所縁の深い家に生まれましたが、実際に稽古をはじめたのは東京での大学時代でした。「たまたま能楽サークルを見つけ、吸い込まれるように入部しました」(神主さん)大学卒業後、新潟県長岡市で高校の教員となっても能を続け、40歳で佐渡本間家十八代当主・本間英孝先生の門を叩いて本格的に能に打ち込むようになり、54歳で宝生流師範となりました。」「能は、50年やっても終わりというものがない。その奥深さが魅力」という神主さんが新潟県立佐渡中等学校の総合的な学習の時間で能楽を教えはじめたのは平成20年。佐渡の文化を学ぶスクール・カルチャーとして、学年ごとに年間約20時間の授業を担当されています。神主さん曰わく「全校生徒が能楽を学んでいる中学校は全国でもここだけでしょう」とのこと。「謡には深い呼吸が必要で、それには姿勢も大事ですから、自然と身体の芯が造られる。授業では能楽の魅力を伝えることはもちろん、こうした身体的財産も獲得してほしいという思いで教えています」
「佐渡ジャーナル」関係記事:「17号」(平成21年4月)「能楽」-佐度中等教育学校のスクールカルチャーは-(神主弌二)

★郷田且重
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p401

★小唄勝太郎
新潟の人、1904 ~ 1974 年。沼垂花柳界出身で新潟から上京し葭町のお座敷に出ていた。昭和4年にオデオンレコードから「佐渡おけさ」でデビュー、お座敷調「勝太郎おけさ」として一世を風靡。同じ頃、村田文三の佐渡おけさも大流行していたので、両者が相まって日本中に佐渡おけさブームが起こった。ビクターに移籍後、8年に佐渡を唄った「島の娘」が大ヒット、9年の「佐渡を想えば」もヒットした。その後も「東京音頭」「さくら音頭」など一連の「ハァ小唄」が次々とヒットし大スターとなった。
「島の新聞」
85.jpg
こう小唄勝太郎
こう小唄勝太郎 (2)
「島の新聞」索引(人名別)
小唄 勝太郎 おけさ踊り

★郷田安太郎
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
大正七年から畑野での学校医を委嘱された医師。

★幸田露伴
右:『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)
こう幸田露伴 こう幸田露伴 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年
高名な作家。明治25年7月28日に来島し、8月1日に島を去った。この旅は紀行文『枕頭山水』に詳しい。短編小説『佐渡ヶ島』も書いた。
『佐渡ケ島』
「新小説」明治30年1月。新潟から佐渡夷港へ着いた旅人は、まず相川へ行き金山の見物をする。地獄のような坑道で働く少年たちを見る。次の日、御陵見物の案内に来たのは坑道で見た岩造少年だった。両親を亡くした岩造は、いろいろと世話をしてくれた隣家の娘千代だけが心の支えだった。その千代が近々嫁いでしまうので岩造はふさいでいたのだ。旅人は「ではお前が嫁に貰え」と言うと岩造は赤くなって走っていく。七年後、横須賀で立派になった岩造に会う。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
『易心後語』
「新聞国会」明治25年7月。明治25年7月、「五重塔」完成後東北を一周、青森県で恐山や弘前を見物ののち、秋田から船で酒田を経て新潟にまわった。新潟に着いた7月27日当日は市中を散歩するだけで翌朝すぐ佐渡へ渡り、数日間滞在。その時のことは紀行的小説「佐渡ケ島」 に書かれている。佐渡からの帰りに再び新潟に寄った。年端のゆかぬ子供たちが雪を売り歩く光景を珍しく思い、「雪売りの声かくる1や柳かげ」の句を作った。翌日、直江津へ向けて発った。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
・(山本修巳談)・幸田露伴の泊まったのは吉田旅館(忠左衛門)。現在の遠藤建設社長宅、後藤鮮魚の前辺り。
「朱鷺」
幸田露伴 「朱鷺」 (1) 幸田露伴 「朱鷺」 (2) 幸田露伴 「朱鷺」 (3) 幸田露伴 「朱鷺」 (4) 幸田露伴 「朱鷺」 (5) 幸田露伴 「朱鷺」 (6)
「若き日のろはんとお舟石」(「佐渡の百年」)
『枕頭山水』(著者:幸田露伴 出版者:博文館 出版年月日 出版日:明26.9)
「ウィキペディア」より
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=15
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029455.html?p=6

★碁打ち弁次→棋客辦次
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)碁打ち弁次 60 連載 閑々亭雑記 (19)  碁打ちの神童「弁次」 山本修之助

★上月喬(こうづきたかし 桂男)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)
こう上月喬 金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町 森幾
【生没】一八七五ー一九五六 歌人・書家。桂男と号した。明治八年二月六日、代々の佐渡奉行所地役人をつとめる上月亮の子として、相川に出生。幼時より皇漢学を学ぶとともに、唐宋の法帖によって書の研鑽を積んだ。明治二十年(一八八七)一二歳で佐渡郡役所に出仕、給仕・雇を経て首席書記に進んだ。大正元年(一九一二)、佐渡郡小学校女子准教員養成所開設とともに、習字科・作文科講師を嘱託された。この間、竹馬の友の山田穀城(花作)や、長谷川清(楽天)らとともに、新派和歌普及活動に参加し、「桂男」の号で盛んに「佐渡新聞」紙上に作品や評論を発表した。同三年六月、同郷の先輩高田慎蔵に誘われ、一家をあげて上京し、合資会社高田商会社員となり、高田の秘書をつとめた。高田商会倒産後は、弁護士事務所などに勤務したが、老齢退職後は専ら書に親しみ、近隣の人に教授したり、頼まれて額や墓碑を書いたりして過ごした。筆跡は佐渡の各地に残るが、二見神社の幟は大作である。昭和三十一年二月十五日、東京中野区若宮に没し、同区沼袋貞源寺に葬られた。
【関連】高田慎蔵(たかだしんぞう)【参考文献】酒井友二『佐渡のうたびとたち』(新潟日報事業社)【執筆者】酒井友二(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八七五-一九五六)(出生、生育、居住) 歌人。書家。幼時から皇漢学を学ぶと共に書の研墳を積む。山田、長谷川、
牧野などと新派和歌普及運動を行い、「桂男」の号で佐渡紙上に作品や評論を発表する。明治二十年から郡役所に勤める。大正元年、小学校の習字科、作文科の講師になる一。同三年六月、高田商会社員になり、高田慎蔵の秘書を務める。森知幾の墓碑の文字は上月の手跡である。
「鉄幹と晶子」(「佐渡の百年」)
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数59

★上月亮(こうづきりょう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を亮之助といった。白井秋澄に学び和歌をよくした。遺稿若干がある。明治二十年になくなった。(佐渡人名辞書)

「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)


★幸徳秋水

「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)

 通称勘右衛門。正徳二年(一七一二)から享保六年(一七二一)までの佐渡奉行。正徳二年の荻原重秀失脚後、目付より佐渡奉行に昇進、この時から佐渡奉行の二人交代在勤制が復活した。相役は神保新五右衛門長治(正徳二~同五)と北条新左衛門氏如で、河野奉行の任期は、新井白石の正徳の治と徳川吉宗の享保改革の初期にあたり、元禄期から享保期への、幕政の転換期であった。河野奉行は、着任後すぐに中央での正徳の治をうけて、佐渡奉行所の機構改革に着手し、幕初以来の留守居役・町奉行・山奉行などを、それぞれ月番役・町方役・山方役と改称、それ以下の役職も整備した。正徳四年成立の「諸役人勤書」は、その完成した佐渡奉行所の機構を伝えるもので、職名と職掌、定員を規定している。また、諸役人の政治姿勢を正し、風俗匡正、経済面でも元禄期の放漫財政を止め緊縮財政に転換し、貨幣改鋳(良)を行うとともに、商人請座制を拡める政策をすすめた。そのため、世情は元禄期とは大きく変わり、『佐渡四民風俗』が「近江守殿御跡両奉行御支配に相なり候節は、銀山並びに町中の者ども小児迄も天地晦溟の心地」になったと記す状況であった。享保期に入ると、河野は享保改革の政策をうけて、倹約と緊縮財政・新田開発・元禄税制の廃止と、新税制(定免制)の採用・鋳銭座の新設・金銀山への投資削減など、享保改革に添った政策を実施し、享保七年に次の小浜志摩守久隆奉行に引き継ぎ、改革を発展させることになった。
【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
河野通重(こうの-みちしげ
1652-1725* 江戸時代前期-中期の武士。
承応(じょうおう)元年生まれ。幕臣。小姓組番士,納戸番頭(なんどばんがしら),佐渡奉行をへて,享保(きょうほう)6年京都町奉行となった。享保9年12月18日死去。73歳。通称は勘右衛門。

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、正徳二年(一七一二年)より享保五年(一七二〇年)まで在任した。
通重、通久といい、知行五百石、御役料千五百俵である。京都町奉行へ転住し、豊後守といった。
享保九年十二月十八日になくなった。(佐島遺事)

★督の典侍(こうのてんじ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
通忠の母、承久三年(一ニ二ー年)順徳上皇佐渡御遷幸の時、供奉した。病気のために寛喜元年(一二二九年)八月十七日、帰京した。(越佐史料)

★河野勝蔵
新穂村3代目村長。
こう河野勝蔵 河野勝蔵(かわのしょうぞう)
「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市

★河野勘太郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
羽茂町大橋 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]


★河野治一

こう河野治一 新穂村史 s51年 こう河野治一
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十二年生 新穂村大野、農業 ・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日]・大2、佐渡郡会の鉄道敷設請願[九年十二月二十三日]・大3、佐渡政友倶楽部の会合[十一年一月六日]・大3、佐渡政友倶楽部の春期総會[十一年四月十八日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、高等女学校の移転問題[十一年十二月二日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大3、政友会新潟縣支部大会[十二年十月十七日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、佐渡護憲派の會合[十三年七月二日]・大4、政友倶楽部秋季総會[十四年十一月二十一日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭1、錦を着て故郷に帰る山本悌二郎[二年八月十六日]・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期大会[二年八月十八日]・昭1、佐渡農事協会の創立[三年八月二十五日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、日本大衆党の演説会[四年十月二十七日]・昭2、本間一松の死亡[四年十一月七日]・昭2、日本大衆党佐渡支部[五年八月二十四日]・昭3、第十八回総選挙[七年二月二十日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こう河野治一

こう河野治一 (2)


★河野祥篁

こう河野祥篁


★河野輝彦

羽茂町の大工で、画家志望であったので佐渡出身の荏原製作所社長酒井億尋が東京に連れて来て支援した。後に佐渡へと帰り、絵を描き続けた。酒井億尋も元々は画家志望であった。


★河野平作(仁十郎)

こう河野平作 新穂村史 s51年

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
こう <br>河野平作

『新穂村史』(昭和51年)より
新穂大野の人、1892-1964年。彫り師で、一度照造が師である。
六十をすぎてから妻に先立たれ、淋しさをまぎらすためにはじめ棚田の老人に手ほどきをうけた。そしてのちに、一度のところに四年ほど教わりに行った。手本にする人形を借りるため、宗玄の家にも出入りし、懇意になった。
人形の髪の毛を編んだり、衣装を縫うのほ嫁が手伝った。胡粉塗りの技術は沢根間島杢太郎に教わって自分で塗れるようになっていた。             
評論家の草柳大蔵が雑誌『芸術生活』(昭三八・九月号)の「続山河に芸術ありて」という連載に、平作をとりあげている。
彼は文弥節の録音を聴きながら彫ったという。比較的多作で一つの首を四・五日で完成した。(荒彫り一日、仕上げ彫り一日、下塗り五回を一日、上塗り三回を一日、艶出しなどで一日ぐらい)

→一度照造


★高師長(こうのもろなが)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より

小太郎師長という。長禄三年(一四五九年)十二月に、曽祖父師英以来所領の由来を述べて、佐渡守護職および旧領越後弥彦荘等の本領を復せんことを幕府に訴えた。(越佐史料巻三、新潟県史)


★孔麟

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
こ孔麟

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡河原田の人で俗姓は本間氏、河原田善宗寺より転じて両津市湊勝広寺十一世となった。
書を男谷蕪斎に学びはじめ若水と号し、後に然斎と改めた。
天保十五年(一八四四年)六月になくなった。(佐渡人名辞書)

★高蓮水誉光松隆山
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
こう高蓮水誉光松隆山 佐渡国泉の人物誌 h29年11月

★古賀残星
『煙』(詩集)
「望郷」二十編、「オリッピック時代」三編、
「越路の雪」三十二編、「村松小唄」、「父の惨死前後」(随筆)から成る。作者は佐賀県生まれ。昭和3年3月、東京高等師範学校体育科を卒業後新潟県に奉職し、松村尋常小学校訓導と県立村松中学校教諭を兼務して、411月までの一年半あまりを村松町に過ごした。「越路の雪」の章に収められている「越後から」「佐渡ヶ島」「佐渡相川」「佐渡を発つ前夜」「村松風景」「眺望」「越後街道」「炭焼の煙」「春を呼ぶ雪」「田舎の停車場」などに滞在した村松町、3年8月にした佐渡旅行が詠まれている。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)

★古賀忠道
こが古賀忠道 (1) こが古賀忠道 (2)
初代上野動物園長。両津高校2代目校長である菊地勘左衛門の佐賀時代の教え子で、後年朱鷺を通して菊地勘左衛門や佐藤春夫を支援することとなる。
「島の新聞」
66.jpg
67.jpg
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p386

「ウィキペディア」より

★後賀田一則
「エスライフ」2021年12・1月号
後賀田和則 (1) 後賀田和則 (2)
ごが後賀田一則
「佐渡ジャーナル」関係記事:「59号」(令和1年10月)・NPO立野福祉会が就労手助け ※後賀田一則
「島の新聞」索引(人名別)

★後賀田早紀
 両津高校時代の2004年度(H16)、心の輪広げる体験作文 県優秀賞 

★小金井秀峰(吉田虎吉)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
こが <br>小金井秀峰(吉田虎吉)

★古河内耕作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こ古河内耕作

★御器與三松(ごき)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ごき御器與三松
※渡辺記
 平成16年現在、羽吉にあった豪壮な家は十年程前より、佐渡に縁の眞後智一氏の所有となり眞後氏が住む。眞後家は両津甚句を世に出した「朝日亭」経営で知られ、昭和22年頃に佐渡を離れたが、経営者の実弟の長男である智一氏が求めた。
 この家は映画「喜びも悲しみも幾年月」や「はなれ瞽女おりん」のロケに使われている。

★國分十郎季俊
国分十郎末俊
こく国分十郎末俊
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
こ國分十郎季俊
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
孝子。佐渡国難太郡沢田の人、建治二年老母が重病だったので竹田村の滝つぼに身を打たせ国分寺薬師如来に全快を祈り、ついに全快した。地頭はその孝心を賞し若干の土地を与えた。この滝を十郎滝という。十郎末俊といったからである。(佐渡志、佐渡人名辞書)

★国府坊日久(国府入道)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
妻是日と共に弟子として日蓮につくした。下江房日増のあとを継いで、弘安七年(一二八四)畑方をほなれ、四日町に道場を建てて移り住んだ。これが国府道場と呼ばれるものである。

★古桑平右衛門
物部神社
ふる古桑平右衛門 物部神社 (1) ふる古桑平右衛門 物部神社 (2)

★鸑峯源海
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
がく鸑峯源海 佐渡国泉の人物誌 h29年11月


★小坂初世

「島の新聞」索引(人名別)


★小坂豊

「島の新聞」索引(人名別)


★小坂令蔵

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こさ小坂令蔵


★小崎懋→小崎懋(おざきつとむ)

★小崎和彦
こざ小崎和彦 回転寿司 050503
「佐渡ジャーナル」関係記事:「56号」(平成31年1月)・いきる(小崎和彦) vol.1(蘭丸)

★小崎徳行
佐渡高校時代の32.6.8~9、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合29点2位、800mに入賞
32.6.30、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(校本市)総合24点2位、800m入賞

★小笹竹斎
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小笹竹斎 55 連載 閑々亭雑記(14) 小笹竹斎と半藤逸我 山本修之助

★古沢喜三郎
『加茂村誌』(昭和38年)
こざ古沢喜三郎

★古澤諭吉
「佐渡ジャーナル」関係記事:「14号」(平成20年7月)旅ゆけば~と島に到着(※古澤諭吉)「51号」(平成29年10月)・新しい出会いに乾杯(平田緑)※古澤諭吉

★越の湖(二代)→山口鶴蔵   

★小嶋ウメ
「若き女教師の焼死」(「佐渡の百年」)

★小島岳青
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小島岳青 125 山本修巳句集『花麝香』

★五島金三郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
ごし五島金三郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★小島政二郎
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
大正一四年八月三日より七日までの五日間、佐渡(真野会場)で初めて夏期大学が開かれた。当時は慶応大学教授であった。
この時の講師の一人として来島し、この時のことを題材とした長編小説「心の青空」(「船の上」)を「時事新報」に連載し、のち単行本にもなった。小説の中の主人公が、夕方両津港についた時、電灯の暗いのに心細かったといっている。そのころ、佐渡の電灯会社はほ水力であり、季節が夏の渇水期であったから、ナンバン電灯であった。小説には明記してないが、新町の宿は、吉田屋こと吉田忠右衛門であった。

★小島太郎一
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、新潟県会の役員[四十年十月十五日]

★小島千絵子
こじ小島千絵子
こじ小島千絵子
鼓童名誉団員一九七六年「佐渡の国鬼太鼓座」に入座、一九八一年「鼓童」創設メンバー。鼓童の太鼓中心の舞台の中で、独自の舞踊の世界を切り拓くと共に、女性ユニット「花結」や、ソロ・パフォーマンス「ゆきあひ」などで意欲的に表現の場を拡げている。二〇一二年度文化庁文化交流使として、ヨーロッパ四ケ国を訪問。

★小島房麿
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★小嶋芙山
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
窪田には平松治平の他、明治のころから斎藤弥平、本間留蔵、中島平吉の孫和作、本間藤三郎らが相ついで瓦焼業を経営した。他に小嶋芙山がいる。また、西二宮の前保田では、明治四十年四月、中川佐太郎が、鈴木忠蔵家屋敷の前方一部を借り受け瓦焼きを始め、佐太郎が没したあとは子息佐一がこれを引き継ぎ、昭和二十二、三年頃まで焼き立てた。また、昭和二年八月からは中村久馬吉が同じく鈴木家後方の一部を借りてこの業を起し、中村久馬吉の後は真光寺の本間喜作が富山から釆て、中原に居住していた本間喜作を雇って製瓦し、昭和十二、三年頃まで行った。鈴木家には、「昭和七年七月今村多一」と刻銘の牛の置物などが残されている。西二宮の上保田では窪田から移った中島和作も瓦や人形などを焼いたが、のちに市野沢から長木へ移った。佐渡凰製瓦の創始とされる小沢窯の瓦業は矢島主計没をもって止み、秋津窯へと移る。こうした窪田での瓦業素地の上に、再び弘化二年に来島した中島平吉の瓦焼きから、幕末・明治・大正・昭和近年にかけての窪田と西二宮を中心とする「二宮瓦」の瓦業へと発展していった。また、平松治平などと同じく、平吉の弟子と思われる窪田の相田嘉左衛門の二男佐市は、文久元年(1862)に久文家を起こした。その後、明治に入ってからであろうか、新穂村正明寺にて瓦業を開き、正明寺・潟上を中心とする「潟上瓦」の端緒となった(『新穂村史』)。

★小島文雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こじ小島文雄

★五嶋玉蔵
→若林米蔵「笛畝会」参照

★小島正芳
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小島正芳 
 146 画帳に貼られた江戸文人四方真顔の作品 画帳に貼られた良寛の遺墨 146 石井夏海所蔵の良寛遺墨について 148 良寛の母のふるさと佐渡」ー良寛に受けつがれた慈愛の心ー 149 良寛の母のふるさと佐渡(二)-良寛に受けつがれた慈愛の心ー
 150 良寛の母のふるさと佐渡(三)-良寛に受けつがれた慈愛の心ー 151 良寛の母の故郷佐渡(四) -良寛に受けつがれた慈愛の心- 154 江戸時代の佐渡の文化 つれづれ(1) 155 江渡時代の佐渡の文化 つれずれ(二) 156 江戸時代の佐渡の文化 つれづれ(三)北前船によって佐渡にもたらされた古伊万里の大皿 

★小島又次
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
こじ小島又次 佐渡郡肖像録 大正15
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村新町、料理屋業 ・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]

★小嶋ゆう子小嶋ゆう子
両津高校時代の1974年(S49)11月、絵画部門銀賞 

★古島友四郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]

★小杉昭
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 6小川の史蹟 8小杉伊之助の偉業 10海府魂(ある編集委員の闘病活動)

★小杉伊勢夫
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・5 第7回県学童水上競技大会(県水上競技連盟・県小学校体育連盟)新潟中プール
(金泉小尋)50背①46.0新
昭和12年度県学童大会最高記録(県小学校体育連盟・県水上競技連盟)
50背 46.0(金泉)昭12.8.5

★小杉猪吉(悟東)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の書家は、潟上の稲葉事、牛尾神社宮司土屋一丸(号は賢継)、瓜生産の石塚照(号卓堂)、潟上の後藤与作(壷中庵)、大野の小杉猪吉(号は悟東)等があり現存では潟上の佐山大業を師に土屋甚平(号桂石)、本多正吉(号彰雲)、渡辺健三郎(号竹翠)、河原治一(号思秋)、本間忠雄(号越堂)、雑賀栄助(号雨石)等があり、子弟を集めて教えているものもある。

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
こす <br>小杉梧東

『新穂村史』(s51年)
こす小杉梧東 新穂村史 s51年

★小杉亥之吉
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
相川町小川の人。亥之吉人形の創始者。太夫の亥之吾が早く死んだので、中沢新右衛門家を継いでいた弟が語っていたという。役者は菊地三右衛門、小杉勘十郎などであった。

★小杉伊之助
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
こす小杉伊之助 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十一年生 二宮村青野、農業、倉庫業 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
金泉村長 『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より 
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治七年 金泉村小川 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こ小杉伊之助
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7偉大なる知人 小杉伊之助 小杉昭二 7父伊之助と尖閣湾 小杉謙一郎 8小杉伊之助の偉業・小杉昭 9<続>偉大なる先人 父・小杉伊之助 小杉謙一郎  

★小杉栄蔵
「躍進日本」
こす小杉栄蔵「躍進日本」


★小杉景保

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こす小杉景保


★小杉亀吉

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こ小杉亀吉

★小杉吉右衛門
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7小川濡仏(阿弥陀如来) 

★小杉謙一郎(こすぎけんいちろう)
相川小校長時代
【生没こす小杉謙一郎 相川小校長
】一九○三ー九四 明治三十六年七月十二日、金泉村小川(現相川町小川)の小杉伊之助とツマの長男として生まれる。大正八年(一九一九)新潟師範学校に入学し、同十二年に卒業すると赤泊小学校に勤めた。昭和二十二年(一九四七)四月に河原田小学校長、同二十四年十月に相川小学校長となり、同三十七年三月に退職するまでの約一二年間、その職にあった。訓導・教諭時代には「明るい歌声に満ちた学校」をめざして音楽教育に情熱を注ぎ、河原田小学校長時代には戦後教育の混乱の中で家庭・地域社会と一体となった学校教育の推進をめざし、昭和二十三年のPTA結成に先がけて「父母の会」を組織した。相川小学校長に就任すると、新教育のカリキュラムを作成、同二十八年学習指導研究会を開催して教育界に民主教育の方向と内容を示した。また昭和二十八年から郡小学校長会長・県小学校長会評議員、同三十四年から佐渡郡両津市教育研究会長などの要職を歴任し、教育界をリードした。退職後は、廃校となった小川分校への公民館の設立、時代に先がけての老人福祉を目的とした「同友会」の結成など、村づくりに貢献した。平成六年十月十五日に没した。
【関連】佐渡郡教育会(さどぐんきょういくかい) 【参考文献】『相小の百年』(相川小学校)、小杉謙一郎『父・伊之助を語る』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
昭・2 少年少女オリンピックの応援合戦に備えて相川小学校訓導として「春日原頭風薫り…」の応援歌を作詩・編曲して、相川の応援団は場内を圧した。
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7海府新道路開??のこと 7父伊之助と尖閣湾 9<続>偉大なる先人 父・小杉伊之助

★小杉源右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村大野、農業、明治九年 生 ・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こす小杉源右エ門


★小杉梧東→小杉猪吉


★小杉実吉

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
大野村 ・明3、第拾回選挙[二十六年二月八日]

★小杉昭二
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数7 偉大なる知人 小杉伊之助 小杉昭二

★小杉善次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こ小杉善次

★小杉胤次
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
こす小杉胤次 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こす小杉胤次

★小杉忠三郎
「島の新聞」(95号)
佐渡鷺流の先駆者たちは、宗家に学び、佐渡に芸を伝えた。草分けは吾潟の葉梨源内。一八二一年(文政四)に宗家十六世仁右衛門に師事たとされるが、島内での記録はない。沢根の土屋辰次郎が一八五三年(嘉永六)に上京し、宗家十八世から相伝書を受けているが、帰郷後は不明。同時期、五十里の林喜正が十八世と十九世に師事し、相伝書五通を受けて帰島。昭和初期の林家の火災で相伝書は焼失したが、喜正が使用した台本が真野町の若林義太郎家に移されて保存され、今日の鷺流復活の基となっている。喜正に師事した青野の小杉忠三郎は上京して宗家に学び、零落した宗家から伝来の古面や台本を譲り受けて帰郷した。佐渡は正統を継いだことになる。幕末から明治期にかけて最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用心として来た三河静観は明治維新後も両津に定住し、和歌や狂言を安藤世彦・幸彦父子に教えた。湊に住んでいた天田狂楽は安藤父子に手ほどきを受け、明治三十年代に上京して畔翁に指示し、皆伝免状を受けて帰島している。天田は名人といわれ、多いときは年間五〇~六〇回演じたという。また天田は、喜正の弟子で加茂歌代の古木弥十郎らと明治末期に両津鷺流狂言会を組織した。天田が一九四四年に没すると、佐渡狂言は衰運をたどる。一方、真野では鶴間兵蔵が明治十八年から二度上京し、一噌流の笛と狂言を学び、帰郷して活躍、後継者を育てた。高弟の若林米蔵らは能楽上演団体「笛畝会」を立ち上げ、狂言も演じた。米蔵に師事したのが佐々木文蔵、その弟子が鷺流最後の狂言師土屋増一である。これらは要となる人物で他にも多くいた。中央で芸を身につけた人々の活躍で、明治後期から昭和初期にかけては佐渡鷺流の最盛期だった。「能楽を学びに上京して、能をやるなら狂言もと身につけたのだろう。能楽があったから佐渡に継承されてきたと考えられる」と祐亨さんは見る。最近になって天田家に伝わる台本が島外へ持ち出されてしまった。小杉家が宗家から譲り受けた古面や台本も今では小杉家を離れ、転売されて所在不明となっている。天田本や小杉本を借りて、安藤本と照合していた裕亨さんは「佐渡鷺流狂言の復活に欠かせない貴重な財産。調査未了のうちに散逸してしまい、残念でならない」と嘆息する。安藤家は代々夷諏訪神社の宮司で台本は保存されている。
★小杉忠三郎
さぎ鷺流狂言 (1)
さぎ鷺流狂言 (2)
さぎ鷺流狂言 (3)width="4011" height="1206" />
さぎ鷺流狂言 (4)
「島の新聞」索引(人名別)
→葉梨源内参照

★小杉偵二(禾雨 かう )
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
こす小杉禎二 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
こす小杉偵二 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村新穂、歯科医 ・大3、尾崎行雄 来郡[十三年九月十日~十五日]・大4、政友倶楽部秋季総會[十四年十一月二十一日]

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治中期頃になると眼科医荻野医院が上町で開業、続いて内科耳鼻咽喉科本間医院、内科産科婦人科長嶋医院、内科臼杵医医院、昭和に入ると内科山田医院、小児科後藤医院などの開業がみられ、歯科医では小杉、樺島の両医がそれぞれ専門医として住民の診療にあたっていた。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
こす <br>小杉禾雨(かう 小松偵二)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こす小杉偵二

★小杉久志
佐渡高校時代の昭和49.11.29-30、柔道 県高校柔道選手権大会(新潟商業高校) 団体3位、中量級ベスト8

★小杉放庵
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小杉放庵 5 鑑賞 佐渡のうた (5) 小杉放庵・津田青楓・司馬遼太郎 山本修巳

★小杉正樹 
両津高校時代の1995年度(H7)10月、新潟県高等学校実務競技大会第1回秋季簿記大会団体2位(河原厚二 喜嶋俊樹 小杉正樹  知本守雄)

★小杉萬三
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こ小杉萬三

★小杉紋四郎

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・7・8・27~28 県水上選手権・全日本水上県予選(県体育協会・県水上競技連盟・県小学校体育連盟主催)新発田・西公園プール
(金泉小・全種目優勝)100自 1.17.3新、200自 1位 2.56.2新、200mR金泉1位(小杉・山本・大坂・坂本)2.16.6新


★小杉保次

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
こす小杉保次
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渡辺和弘

Author:渡辺和弘
・佐渡市両津夷在住
・両津高校-同志社大
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