2020-12-27
★尾潟香代
両津高校時代の s42、埼玉国体ボート部女子ナックル7位(池ひろ子、板野富代、尾潟香代、池かず子、坂田則子、甲斐かず子)
★尾形邦雄
佐渡高校時代の36.6.10~11、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合32点2位、走幅跳入賞
★尾潟七左衛門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

子孫に尾潟恒雄が居る。➡尾潟恒雄
★尾潟照一

※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「44号」(平成28年1月)・追悼 皆に愛された自由人 尾潟照一さん(河原隆昭)
「島の新聞」索引(人名別)
★尾形仂(つとむ)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)尾形仂
55 佐渡のうた
56 「俳枕」考
★尾潟恒雄
昭和15年生、両津中ー佐渡高校卒後、家業の牡蠣養殖業(屋号は尾潟 かね七)を継ぐ。バスケットの選手や指導者として活躍し、白陵クラブの選手、監督、コーチとして活躍した。昭和39年の新潟国体には両津体協ボート部選手として出場し高位入賞した。
また、佐渡市発足と共に佐渡市体育協会長として島内のスポーツ振興に尽力した。
★岡田立蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『故里つばき』


★尾形正嘉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★緒方護
椎泊長善寺

★緒方彌次右衛門(椎泊村)
赤泊地区

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
寛延の代表的義民の一人、両津椎泊の人。名主ではないが知性高く、剛毅活達で義侠心が強く、立ち上れば水火の中も恐れない性質であった。寛延の増税で、佐渡は一国を挙げて減免の歎願運動が起ったので、名主七左衛門を助け常に先頭に立つて活動した。たまたま、寛延二年十二月在方役人の大森五右衛門と萩野善右衛門が延納督促に椎泊へ来て厳格な態度で村方に臨んだので、弥次右衛門は進んで調理方を引き受け、食膳の一椀毎に多量の蕃椒を加味して出した。
役人は大いに怒って無礼を責めたので弥次右衛門ほ「目下百姓ほ食糧がなく飢渇に苦しんでいるこの惨状が役人には見えないのか。役人の食膳のことなど在方では申すべきでほなかろう。」とやり返し、遂に役人を引き下らせた、と伝えられている。もとより命がけでなければやれないことである。やがて翌寛延三年に江戸直訴が決定すると、吉岡の七左衛門ら江戸に出たが、百姓らの委任状がないために上訴の手続きが出来ず、単身帰国することになり、商人に変装して松ケ崎から帰村し名主の七左衛門と第二回の大会を開いた。その決議にょってやらねばならぬ重なる仕事は
①各村惣代の証文をとり集めること
②訴状の資料を集めること
③代表を増員すること
などで、はるばる川茂の弥三右衛門を訪い、さらに辰巳の太郎右衛門と打ち合せて再び松ケ崎から越後の五ケ浜へ密航した。それから後続の新保の作右衛門、下村の庄右衛門、和泉の久兵衛らと合流し、江戸表で四カ月にわたって活躍し、完全に任務を果して十二月になってようやく帰国した。そして、それからも引き続き大活動を続けていたが、宝暦二年七左衛門とともに逮捕され、七月十八日獄中で死罪となったのである。享年六十六才。誓願寺の裏山に埋葬され、法号を釈凉敬という。墓は大正六年椎泊の青年団が建てたのである。
(右)緒方弥次右衛門の墓-両津椎泊、願誓寺境内
(左上段右)緒方弥次右衛門工門、本間七左衛門の彰徳碑
(左上段左)本間七左衛門墓-両津椎泊、本間家裏側両津湾に面する丘の上
(左下段大)本間七左衛門の生家-両津市椎泊
(左下段小)伊豆新島にある七左衛門の墓
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
両津市椎泊の農民で、寛延二年(一七四九年)免租歎願の時(本間太郎右衛門の項を見よ)同村の本間七郎左衛門と協力して、免税運動をした。三年幕府に直訴の時、吉岡村の七郎右衛門とともに江戸に出て、老中本多伯耆守、勘定奉行、新任の佐渡奉行に強訴した。四か月間江戸に滞在して佐渡に帰り、全島の名主を河原田へ集め、報告し、奉行所に訴えるようすゝめた。七郎左衛門とともに捕えられ、処刑された。六十六才であった。(佐渡人名辞書、近世越佐人物伝、越佐大観、殉国碑)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)



『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)


「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
寛延の百姓一揆(『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より)
★緒方弥生
『両津市要覧(昭和33年)』より

★岡田吉正
佐渡高校時代の昭和38.2.16、全国児童生徒デザイン展入選
★岡田米吉

★岡島亥吉
旧新町(真野)村長、明治三二年・八・二より。
★岡野久治
両津北五十里出身、明治35 年頃生-平成7 年没(92 歳)。昭和20、30 年代の新潟県を
代表する民謡の唄い手。第1 回民謡新潟県代表決定戦で優勝(昭和23 年)。以後、26 年、
28 年にも優勝する。昭和32 年NHK のど自慢関東甲信越大会2 位。千鳥会に属し浅草の
松竹演芸場等に出演。85 歳になっても各種大会に出場した。
★岡野他家夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)岡野他家夫 26 句集「海見ゆる坂」の著者
★岡野寛
「七段の女流棋士」(「佐渡の百年」)
★岡部卓爾
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★岡松伊予守
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、安政六年(一八五九年)徒士頭より佐渡奉行となった。名は久徴、知行二百俵、役料千五百俵百人扶持であった。
文久三年(一八六三年)八月十四日西丸留守居に転役した。(佐島遺事)
★岡松八右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、文化七年(一八一〇年)正月十一日、勘定吟味役兼納戸頭より佐渡奉行に、十年二月七日、佐渡で病死した。
相川寺町大安寺に葬った。名は久稠、知行は二百俵、役料千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)
★岡村亀蔵
「立浪会35年のあゆみ」(昭和34年)


★岡村久兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国清士岡村次郎左衛門の父である。天保七年(一八三六年)九十五才になつたので、役所から老養扶持(-人扶持)を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★岡村鉄琴
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)岡村鉄琴 138 佐渡にみる山本二峯の文士像
★岡村与三兵衛(おかむらよそペえ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国清士岡村与右衛門の父である。天保三年(一八三二年)に与三兵衛は九十五才になったので、役所から老養扶持を与えられた。天保八年百才になったので鳥目を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★岡村礼子

★岡本阿波野(中原俊精)
本名仲原俊精、文弥人形語り。明治19年生まれ、昭和10年1月15日、外海府五十浦部落へ文弥を語りに行き、そこで急死、52歳。真野新町に住んでいた盲目のアンマ。真野黒山生まれなので「黒山先生」と呼ばれた。師匠は池野阿波ノ一。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
文司と共に金子善次郎に習った弟子に仲原俊精がいる。明治一九年に黒山のこうじ屋に生まれた。先天的な盲人で、新町に住んであんまを業としていたので「黒山先生」とよばれた。体が大きく声量も豊かで、師匠の教えた節をくずさなかった。生涯阿波一の系譜をひくことを誇りとしていた。残念なことに盲人のためにレパートリーが少なく、語ったのは源氏烏帽子折、天神記・出世景清・こもち山姥・佐渡鑑くらいだった。かんの鋭い人で、愁嘆場になると感動して涙を流しながら語ることが多かった。惜しい語り手だったが昭和一〇年の一月、海府へチョンガリの三味をひきに行き、急病のため海府で亡くなった。
→「金子善次郎」参照
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
本名仲原俊精、真野町黒山通称「こうじや」で明治十九年生れた。生れつきの盲人で新町に居住した。按摩(あんま)をしていたので「黒山先生(佐渡では盲人を先生とよぶ)」といい、「出たか黒山、大コウべ(頭)」とからかわれるほどの大きな頭をしていた。師匠は黒山の金子善次郎であったというが、そのまた師匠の上川茂の池野阿波ノーの系統をついでいることを誇りとしていた。阿波ノーの三味線も大切に保存していた。節まわしも古拙を伝えていて、今思うと説経節に近いもののようであった。著者の家へもよく出入りしたので、いつかレコードに吹き込ませてやりたいと思ったが、その機会もなかったのは残念である。それだけに、義太夫節らしい文弥節には大反対であった。昭和十年一月十五日。相川町五十浦へ文弥節を語りに行き、そこで急死した、五十二歳。
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★岡本長左衛門
『新穂村史』(昭和51年)より
「佐渡年代記」に正保四年「亥年新穂村の銀山請負の山主沢井小左衛門、岡本長左衛門と云者自分入用を以古間歩普請致し其上新切山三ケ所取立る可く江戸表へ伺い願の通り申し付べき旨順斎より申来る」とある。慶長から正保にかけて山師の往来がさかんであり、(新穂)銀山が大いに稼がれたことが推則される。
★岡本文司(藤井政治郎)
文弥節語り。深山静賀の弟子。本名藤井政次郎、明治11年6月16日、真野町静平通称キュウジ(木藤)に生まれた。兄亀次郎と共に「黒山人形」の元祖エンタロウ(衛門太郎)金子善次郎に文弥節を習い、後に深山静賀に習う。25歳で太夫となり、窪田へ移り、晩年は河原田田町で過ごす。明治44年6月17日、東京音楽学校で深山静賀、岡本文寿と共に東京音楽学校で文弥節を披露し、レコーディングされた。
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある)
この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
明治二四年に、笹川から人形一組を買い入れたのは藤井亀次郎、すなわち岡本文司の兄である。しかし亀次郎はもう一組をすでに持っていた。ともあれこうして第二期の黒山人形が始まった。木藤こと亀次郎は元治元(一八六四)年の生まれで、一座を組んで人形を始めたのが二六年だというから三〇歳の時である。遣い手は笹川の人が多く、後に文弥語りの名人といわれる文司はその弟で本名政治郎、時に一六歳で最年少の遣い手だった。
真野官の境内には文弥節の石碑がある。黒山の木藤出身の岡本文司太夫の頭徳碑だ。「文弥浄瑠璃を聴きて」と題して、「年老いし文司が語るいにしへの哀しき歌に夜はふけにけり」と歌碑の形になっている。早稲田大学教授文学博士暉峻康隆の作。「哀しき歌」というのは「文弥節」のことで、昭和二七年の夏、十王堂で文弥人形を見た時に作ったものである。
→「金子善次郎」参照
★岡本文司
於:真野公園

『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
本名藤井政治郎、明治十一年六月十六真野町静平に生れた。同じ文弥語りの実兄亀次郎は十四歳上であった。兄と共に金子善次郎に文弥節を習い、明治二十六年第二期の黒山人形をはじめた。明治四十四年兄の亀次郎が四十七歳で死んでから、この人形座も廃絶した。そして彼は佐和田町河原田や八幡に居を転々とかえた。生れた土地の名から「黒山太夫」といったが、また「スミ太夫」ともよんだ、いかにも文楽の太夫にでもありそうな名前だが、これは木炭の産地の黒山からスミ(炭)をはこんで売買していたからの名前であった。美声で、義太夫の節に近かったが、役者は人形をつかうのによかったともいっている。明治四十四年、東京音楽学校の演奏には深山静賀と共に出演した。昭和三十年七月七日、七十八歳で死亡。死の四日前真野宮境内に建てられた記念碑の除幕式には、自動車に臥たまま出席した。碑面には暉峻康隆早大教授の「年老いし文司が語るいにしへの哀しき歌に夜はふけにけり」の短歌を刻み、碑陰の撰文と書は著者が拙筆をふるった。
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
★岡本文寿(松村村治)
本名松村村治、両津北松ヶ崎生まれ。文弥節語り。深山静賀の弟子。明治44年6月17日、東京音楽学校で深山静賀、岡本文司と共に東京音楽学校で文弥節を披露し、レコーディングされた。 吉井本郷で理髪業の傍ら、夷人形座の太夫を務める。晩年は両津原黒で過ごす。
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))」
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★岡本文盛
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
★岡本文弥→深山静賀
★岡本文弥
青野季吉「佐渡人」より
また、これは士ではないが、やはり加賀ものと云はれた盲目の文弥節語りも、私の町にゐた。本名は記憶にないが、芸名は岡本文弥と云つて淋しげな顔を宙に向けた恰好や弾き語りの文弥節の噎ぶやうな哀調が、私のこころに沁みついてゐる。それは加賀方面でうたはれた文弥節の一種で、俗に「泣き節」と云われたものだと、後になって知った。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★岡本文楽(おかもとぶんらく)[樋口五郎太]
【生没】一八七四ー一九一八 相川町入川の文弥人形「文楽座」の創始者である。明治七年一月五日生まれ。頭脳明晰で寺子屋(地蔵堂)にて論語・中庸などを学びその助手をつとめる。寺子屋を出ると、入川の「マツヨム人形」の一座に加わり、
折をみて、入川出身の池野文慶(文弥の座語り・盲人)から文弥の手ほどきをうけ、その才を認められ、彼の斡旋で当時文弥の神様といわれた沢根の常磐一の門人となる。文楽二○歳のころである。きびしい文弥修
業の後、免許皆伝となると文楽はムラに帰り、間もなく「マツヨム人形」を発展的に解消させ、新たに「文楽座」を創始した。文楽は途中日露戦争に召集されたが、明治三十八年暮ごろ凱戦し、明治四十年には、今まで
の人形を矢柄の仲屋石松に譲り、真野町黒山の藤井亀次郎から四五円で新しい人形を購入し、さらに小倉の人形遣いの名人新田伊作から遣い方を学び、「文楽座」の充実をはかった。文楽が亡くなったのは、大正七
年十一月である。享年四五歳、太夫としてはこれからという年齢だった。彼の死後、弟の石塚五三郎(千本の八兵衛)が人形をそっくり借りていたが、五三郎の死後(昭和十一年)再び文楽の長男の家(樋口五郎吉)
にもどり、新しい遣い手たちにより現存している。太夫は文楽の血をひく甥の梶原宗楽である。
【関連】文弥人形(ぶんやにんぎょう) 【参考文献】『高千村史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】浜口一夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※文弥人形(ぶんやにんぎょう)
佐渡の人形芝居には、「説経人形」「文弥人形」「のろま人形」と呼ばれるものが三つある。その中で「説経人形」が最も古く、語りは説経節であった。「のろま人形」は、「説経人形」や「文弥人形」の中間に出る間狂言
で、太夫の語りはなく、人形遣いが生の佐渡弁で、即興的におもしろおかしく「生地蔵」などを演じた。明治以前の文弥節は、盲人の座語りとして伝承されており、それが人形と結びつき、文弥人形を成立させたのは明
治三年で、沢根の文弥語り伊藤常盤一と、小木の人形遣い大崎屋松之助との、提携によるものといわれている。佐渡の人形芝居は、かっての佐渡びとにとっては、かけがえのない娯楽の一つであった。古くは蔵田茂
樹の『鄙の手振』(文政十三年ー一八三○)や、ややおいて石井文海の『天保年間相川十二ケ月』には、相川塩釜明神での人形芝居のことが載っており、また『相川砂子』(舟崎文庫)の年中行事には、達者白山神社
での人形芝居の記事がある。幕末から明治にかけて、佐渡で活躍した人形座の数は約三○座ほどあり、そのうち相川関係のものは、関の閑栄座・矢柄の繁栄座・入川の文楽座など、八つもの人形座があったという。
これらは「佐渡の人形芝居」として、国の重要無形民俗文化財に指定(昭和五十一年八月二十三日)された。
【関連】説経節(せっきょうぶし)・広栄座(こうえいざ)・のろま人形(のろまにんぎょう) 【参考文献】佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】浜口一夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★岡本美絵

★岡本鈴次郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★岡林高蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★岡林初十郎
「近現代の羽茂」

★岡本文司
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=4
★岡本美絵

★小川温子
「エスライフ」(no82 2022年4・5月号)

★小川一灯(おがわいっとう)
相川、廣永寺の句碑 「ゆきかえり覗く小店や初雀」
% />
【生没】一九一六ー五三 俳人。小川一灯は本名誠治、大正五年一月三日、相川町紙屋町で生まれた。大正十三年(1924)、一家が東京に転住するまで相川小学校に通う。東京府立五中を経て大倉高商を卒業し、大正生命保険会社に入社、そこで俳句の師滝春一(「春燈」主宰)を知る。精進して、自らも俳句誌「青桐」を主宰するが、肺結核になり、東京都下清瀬村の清心療養園に入院した。また同じく結核で東京療養所に療養中の石田波郷(「鶴」主宰)を知り、その影響を受ける。一灯は昭和二十八年七月十七日、三七歳の生涯を閉じるが、師の滝春一・石田波郷の序文で、生前の作品千五百句の中から三百句を選び、「一灯句集」として昭和二十九年五月一日に刊行された。波郷は序文の中で、「しどみ紅く滴りて服売りし金とどく」という一灯の句をあげて、戦後まもないころの療養者の「わびしい喜び」と述べている。昭和五十五年(一九八○)六月二十九日、小川一灯の句碑が菩提寺相川町広永寺に建立され、除幕式が行われた。「ゆきかへり覗く小店や初雀」という一灯の俳句で、相川町の繁華街の新年風景にふさわしいとされたものである。しかし実際は、一灯が相川小学校から転校した滝野川小学校の幼な友だちで、俳人岸田稚魚の書店の開業を祝った句であった。除幕式に出席した岸田稚魚は、佐渡を素材にして、「角川俳句賞」を受賞したが、「一灯の霊が私に名誉ある賞を与えた」と述べた。そうした縁があって、この俳句が碑に刻まれることになった。【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
俳人。大正五年一月三日に佐渡郡相川町紙屋町で生まれた。大正十三年八才の時、一家が東京へ移住した。東京府立五中を経て大倉高等商業学校を卒業、昭和十一年大正生命保険会社へ入社した。滝春一に師事し、句友岸田稚魚(第三回角川俳句賞受賞)は幼友だちであった。昭和十九年、肺結核で東京都下清瀬村の清心療養園に入院した。こゝで俳句誌「青桐」を主宰し、多くの若い俳人を養成した。このころ東京療養所に療養中の石田波郷を知り療養俳句に大きな影響を受け師事した。昭和二十八年七月十七日に三十七才でなくなった。遺稿集「一灯句集」は同二十九年五月一日、滝春一と石田波郷の序文で出版された、生前の作品千五百句の中から三百句を選んである。 しどみ紅く滴りて服売りし金とどく は昭和二十三年の作である。(佐渡の百年)
『一灯句集』(昭和29・私家版)
「十年患者まず喘ぎ結ふ七夕紙」「若き人は癒えてとく去る梅は実に」「尿捨ててもらふ聖夜の看護婦に」「母死にて父の優しきクリスマス」本名誠治。佐渡相川町生まれ。大正13年上京、昭和11年大倉高等商業(現東京経済大学)卒業。中学時代より俳句に親しむ。俳誌「暖流」「馬酔木」による。昭和12年頃、結核発病、昭和19年清瀬村清心療養園入院、院内俳誌「青桐}主宰。石田波郷に師事。大正5~昭和28。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小川一灯
21 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (1) 金子のぼる
22 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (2) 金子のぼる
23 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (3) 金子のぼる
24 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一灯 金子のぼる
24 小川一灯句碑除幕式と献句
27 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一灯のことども (6) 金子のぼる
35 小川一灯の俳句 (1) 金子のぼる
36 小川一灯の俳句 (2) 金子のぼる
38 鑑賞 佐渡のうた (31) -補遺- 小川一灯・金子のぼる 山本修巳
62 三十年は夢の間に -小川一灯の思い出- 秋山 珠樹
132 小川一灯「佐渡郷土文化」の電子化を試み 懐かしい人々に遭う
「「しどみの花」の俳人」(「佐渡の百年」)
★小川一男
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭和15年、県青年陸上競技大会800mR真野チーム5位(金森寅二・山田正太郎・佐藤佐一・小川一男)
★小川佳奈子
「島の新聞」索引(人名別)
★小川久蔵(おがわきゅうぞう)
小川久三の墓(相川中寺町、瑞泉寺)
右後ろに「高野」と書いた墓石が見えますが、こちらは赤穂浪士のひとり、赤垣源蔵=赤埴源蔵=赤埴重賢の「母親の実家」の墓地

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八六七ー九三 米騒動の若き指導者。父は弥平。母はイト。その長男として、慶応三年九月二十五日大工町に生まれた。父の職業は戸籍に「雑業」とある。長女りえ・二女すみ・三女くらの三人の妹がいて、うち一人の妹は暴動ののち水金のくるわに身売りしたという。八歳のとき、出稼ぎの父に伴われて足尾銅山に住んだ。同銅山が国営財産から民間に払下げられた三年後の明治七年のころに帰国したあと、佐渡鉱山鉱夫となるのが十六年の六月、一五歳の時である。幼少時は家が貧しいので、妹をおんぶして教室の窓の外から先生の授業を聞いていたなどの逸話がある。暴動が起こる明治二十三年六月は、相川六番組(大工町辺)の消防小頭で、四四人の長だった。妻はなく母と妹だけの暮らしで、生まれつき男だての気性があり、天保一国一揆の上山田善兵衛の人となりを慕っていたと、『北溟雑誌』は伝える。暴動のあと、二○○人を超える検挙者と共に新潟に護送され、軽懲役七年の判決を受けて新潟監獄所に服役中、天然痘におかされて明治二十六年二月二十五日に二五歳で病死した。「小川久蔵は、該裁判所に服せず、東京控訴院に控訴したり」(新潟新聞)とあるから、上審の判決を待たずに獄死したことになる。大工町の故富田トク(明治十一年生れ)は、「中肉中背で、ニコニコした色白の人だった。連れられていくとき、いい子になれよ、といって私の頭をなでていった」と回想している。佐渡鉱山が御料局の所管だった御料局長当時に来島した品川弥二郎と面識のあった、金井町の篤農家茅原鉄蔵は、暴動の翌年二十四年に第一次松方内閣の内務大臣として入閣した品川に、久蔵の助命嘆願を願出たと、昭和八年になって回想している。中寺町の瑞仙寺に久蔵の墓(地蔵佛)が残っていて、香花が絶えたことがないといわれた。
【関連】相川暴動(あいかわぼうどう)【参考文献】『北溟雑誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※相川暴動(あいかわぼうどう)
明治二十三年(一八九○)の六月末に起こった、全国最大規模の米騒動。相川から始まったので、新聞は相川暴動と報じた。打ち壊しなどの被害を受けた町村は、全島で一五、被害戸数は七七戸におよび、鎮圧のため新発田から一箇中隊が海を渡った。発端は米価騰貴で、二十二年九月からほぼ全国規模で起った。佐渡では、同月二十八日に夷町で貧民四百余人が、廻船問屋と米商人五軒に乱入して、米の積出しをやめさせる「津止め」の証書をとるなどの騒ぎになり、翌二十九日に相川に波及した。一升七、八銭の米価が、十二銭に騰貴したためで、町内の米屋・廻船問屋・質屋・金貸業・酒造業・四十物商・精米業など、一八戸が壊される。相川がもっとも被害が大きかった。翌三十日は、二見・沢根・河原田・金沢、また八幡から新町を経て畑野へ向う一隊があり、第一回衆院選が行なわれた七月一日は、南片辺から小田村まで、海府一帯の地主層が襲われ、島中がパニック状態におちいった。『北溟雑誌』によると、このころ小木港でも「細民頻りに動揺し、頗ル不穏の景况」で、重立ち衆が二千円を三か月無利子で細民に貸しつけることで、「鎮静」に向った。真野町では、新町浜からの米の津出しをやめさせたほか、重立ちが都合千二百円を供出し、「右金ニテ相当値段ヲ以テ米穀ヲ買入シ、買値段ヨリ三割引ヲ以テ町内ノ人民ニ売渡スベク実施」するなどの救済策がとられ、暴動をまぬがれたとある。相川ではそのような事前の救援策がなかったことが、暴動拡大のひきがねにもなっていた。相川湾から、度津丸で新潟に連行された検挙者は二○○人を超えた。新潟地方裁判所の判決によると、沢根の港から大坂へ米を積み出していた九百石積の和船「万徳丸」に、石油で放火した三五歳の坑夫が、重禁錮一二年でいちばん重い判決を受け、指揮者とみなされた二二歳の鉱山坑夫小川久蔵は、軽懲役七年。服役中に獄死した。
【関連】小川久蔵(おがわきゅうぞう)・相川暴動顛末記(あいかわぼうどうてんまつき)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八六七-一八九三)(出生、居住)相川事件の指導者。佐渡鉱山の元坑夫で、大工町の消防小頭だった。義侠心のある青年で、事件の前、精米所などを詳しく内偵し、米価の引き下げを勧告し、役所や警察にも引き下げの斡旋を依頼したが、米商らの応諾はなかった。明治二十三年六月二十九日、相州町例祭の夜、久蔵は、大工町の細民を指導して、相川町内の精米所を打ち毀し
た。打ち毀しに加わる者の数は、ふくれ上り、廻船問屋、質屋、酒造業者などを襲い、三十日には、沢根、二見、金沢、八幡、新町、畑野へ行き、第一回衆院選の行われた七月一日には、陸と海から海府の地主層を襲った。加わる者、二千余。秩父困民党の軍律に似た「規約」は、久蔵の本隊以外には行き亘らず、郡長の懇願、警察署長らの説諭も効なく、無政府状態であった。この事件は、このころ全国で頻発した米騒動の中の最大のものであった。郡長の要請で新発田歩兵一中隊が到着したのは、事件の終ったあとであった。検挙者は二百人を超えた。久蔵は、軽懲役七年の判決を控訴したが、天然痘にかかり、獄死する。
明治時代に佐渡で起きた暴動のうち、最も大きなものが相川暴動である。別名を米騒動という。明治23年、米の価格が2倍近くに暴騰した。暴騰の原因は不明だが、多分凶作のせいであろう。人々の生活は次第に苦しくなり、それにつれ人心が不安定となった。米の値上がりは米商人のしわざだと思い込んだ村人達は、まず精米所を襲撃した。次いで火の手は沢根に移り、酒屋と廻船問屋を営む「青野季吉」の実家が襲われた。酒樽が壊され、酒が川のように流れ出し、沖に停泊した船には火が放たれる。河原田で決起した暴徒は、群役所を河原田に移そうと画策する連中や自由党員などに襲い掛かり、更にこの暴動は国仲一帯や外海府にまで及び、佐渡は無警察状態に陥った。こうした全島に及ぶ暴動を首謀したのが小川久蔵である。久蔵は相川鉱山の鉱夫の子として生まれた。久蔵が火付け役となり佐渡全土に飛び火した暴動は3日ほど続いたが、首謀者として捕えられた久蔵は、暴動を鎮めるため、2~3人の同士と共に、「引き上げ、小川久蔵」と書かれた白旗を掲げて群集の中に入り、ようやくこの騒動は収束した。久蔵の処罰は懲役7年の刑であったが、翌年獄死して果てた、この小川久蔵の墓が瑞仙寺の境内にあると聞き、私は瑞仙寺を訪ねてみた。ところが一向に墓らしきものが見つからなかったので、たまたま境内におられた住職さんに場所を尋ねてみた。すると彼は「ああ、久蔵の墓はねえ~、境内の外にあります。以前は境内にあったのですが、皆さんがお参りしやすいようにと外へ移したんです」と答えながら墓の場所へと私を誘導してくれた。久蔵の墓は墓というよりもお地蔵さんのような感じである。そしてこの墓の右隣に赤穂浪士の一人、赤垣源蔵の母の生家、高野家の墓があった。
参考文献:「隠れた佐渡の史跡」(山本修巳)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 相川大工町 ・明2、相川の米騒動[二十三年六月二十九日]「佐渡関係事典に載る」
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数49
★小川真一郎




両津市浜田出身(実家は「小川菓子店」)。
「株式会社 GOOD FORTUNE」代表取締役社長。
(会社住所)東京都目黒区鷹番 (資本金)500万円 (設立)2010年7月28日
(事業内容
1、飲食料品の製造・卸・小売及び輸出入 2、日用品の製造・卸・小売及び輸出入 ) 3、飲食店の経営 4、酒類の販売
はじめまして。チャッキーこと、小川真一郎と申します。 新潟県佐渡島生まれ、趣味は料理とブルースギター。約20年間高校教師をしていました。そんな私が、なぜ今まで生きてきた世界とは全く異なるこのような店を始めようと思ったのか、そんなストーリーにお付き合いください。大学卒業後すぐ、新潟県の公立高校の教壇に立っていた私ですが、1998 年にマレーシア工科大学に数学教師として2年間派遣されました。この時の体験が私の人生にとって大きなターニングポイントとなりました。多民族国家マレーシアの生活・文化そしてエネルギッシュな人々に刺激され、 心の中から湧き出るように 外国生活への興味が急激に高まりました。以来、頻繁に海外に出かけるようになり、マレーシア在任中、短期の休みをすべて利用して、近隣諸国、オーストラリア・ニュージーランド・シンガポール・タイなどを何度も 訪れました。また、マレーシアからの帰国後は、特に興味のあったロンドン・パリに何度も足を運びました。もともと料理好きで美味しいもの探しが大好きな私にとって、どこの国へ行っても、地 元のグロッサリーや市場を廻り、その土地で食べられている美味しいものや珍しいも のを探すのが旅の楽しみの一つです。 レストランでよくわからないメニューと奮闘しながら食事をするよりも、美味しいものとワインを調達してきては、ホテルの自室で自ら調理をし、ディナーを楽しむほうがずっと楽しい!そんな旅を繰り返していました。2002年12月。4度目のロンドンへの旅。 いつものように行き先は特に決めず電車に乗り、蚤の市やグロッサリー、商店街を廻る旅を楽しんでいたある日のことです。ロンドン北部郊 外のふと立ち寄った街ハムステッドで、運命のグロッサリーストアに出会いました。 外観は一見「自由が丘にあるおしゃれな雑貨屋さん」、そんな風にしか見えない、白を基調にしたか わいらしいお店でした。店頭には野菜が並んでいて、どうも食料品店らしい。しかし、ロンドン・パリで今まで観てきたグロッサリーとは全く異なります。興味津々で店内に入ってみると、その瞬間から私のワクワクが止まらなくなりました!店頭のディスプレイ・商品の陳列・ 照明など、どこを切りとっても絵はがきになりそうなかわいさです。乙女心(?)のように心がときめき、 つたない英語で店主との会話を楽しみながら、狭い店内にかなり長時間いた気がします。この食料品店がずっと気になり続けて8年、あの日のワクワク感と心のときめきがひとつの形になりました。それがGOOD FORTUNE FACTORYです。 かわいくて楽しくてワクワクする食料品店。豊かな気持ちになれて笑顔を持ち帰れ るような食料品店。ハムステッドのグロッサリーのワクワク感を再現するために、そんな思いを込めて店名をつけました。店名にも関連して、GFFを出店するにあたり、大切にしていることがあります。
それは、「関わるすべての方に幸運が訪れる店にしたい」ということ。 私の生家は和洋菓子屋です。毎日朝早くから菓子を作り続ける父親と家族の姿を見て育ちました。店頭に並ぶお菓子が、何人の手によってどのような過程のもと出来上がってゆくのか見ながら育ちました。 商売の現場では「お客様は神様」。お客様が最も大切にされているのはいつでもどこでも同じで当然です。しかし、それだけで商いは成り立ちません。 心をこめて作る職人がいて、それを丁寧に届けてくれる運送屋さんがいて、店頭に愛おしく陳列して接客する販売員がいます。どれを外すこともできません。すべてがセットで「商い」です。ひとつの商品がお客様の手に渡るまでに関わる全ての方が笑顔になれて、すべて の方に幸運が届けられる、そうなって初めて「商い」は成り立つのではないかと 思うのです。こんな思いで"幸運工房"GOOD FORTUNE FACTORY"が生まれました。ぜひ末長く暖かく見守ってください。よろしくお願いいたします。(株式会社GOOD FORTUNE 代表取締役 小川真一郎)
※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「38号」(平成26年7月)すべての人にグッドフォーチュン(幸運)を(遠藤隆)※小川真一郎「40号」(平成27年1月)ライブハウスRAISEで「六本木be in SADE」※小川真一郎

★小川淑子
佐渡高校時代の昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★小川の瓢箪→田中大蔵
★小川一
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★小川博
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小川博
25 金北山の「はつやまかけ」
93 宮本常一先生と佐渡の九学会調査の想い出
★緒川文雄
『酒天VS頼光』(「西蒲新報」平成5・2月号~平成6・5月号)
今から千年余の昔、酒天童子という悪人がいて、故郷に居られず、都の近く、大江山に住んでいたところを源頼光に成敗された、という古来の伝説に対し、そうではなく、源家のために「つくられた悪人」であるとする。作者は視点を一種の貴種流離讃として構成し、最後は洒天自身は大江山で頼光と直接闘わず、海上に新天地を求めてある島に上陸し、そこで大津浪に呑まれて行方不明になった、としている。
★小川未明
「来島の越後の三作家」(「佐渡の百年」)
小川未明:来島は明治32年頃(高田中学時代) 「麗日」(明治42年 春陽堂発行「惑星」所収)
★小川亮

★沖口誠
「ショートプロフィール」1985年(昭和60年)生。両津夷に縁の体操選手、北京オリンピック体操団体で銀メダル。世界選手権では跳馬、徒手で優勝したが五輪直前に怪我、五輪では個人種目は出場なく代りに出た19歳内村航平が世界デビュー。

1985年(昭和60年)~ 両津夷に縁のある体操選手で、北京オリンピック体操団体で銀メダル。世界選手権では跳馬、徒手で優勝したが、五輪直前の怪我の為五輪では個人種目は出場しなかった。現在は実業団のコナミに所属し、内村、山村選手等の先輩格として活躍している。彼の祖父沖口光臣さんは両津夷にあった沖口旅館の方で彼は佐渡三世である。
ウィキペディアより
沖口 誠(おきぐち まこと、1985年11月22日 - )は、大阪府出身の体操競技選手。コナミスポーツ所属。2008年北京オリンピックに出場、男子団体競技で銀メダリスト。
・人物:大阪府泉南郡熊取町のトップスポーツクラブから大阪体育大学附属中学校、関西高等学校、日本体育大学体育学部体育学科卒業。身長161cm。体重57kg。北京オリンピック団体銀メダリスト。 大学時代からメキメキと力をつけ日本代表をする選手に成長する。得意種目は床。北京オリンピックは足を痛めての出場であったが、持ち前の粘りで床で高得点をだし、団体銀メダル獲得に貢献した。
・経歴:2007年 世界体操競技選手権大会 団体2位
2008年 カタール国際 2位、彩の国功労賞を受賞。
2008年 NHK杯兼北京五輪代表決定競技会 (五輪出場が決定)
2008年 北京オリンピック団体2位 銀メダル獲得
2008年9月8日、大阪スポーツ大賞、受賞。
2011年 世界体操競技選手権大会 種目別跳馬銅メダル



「ウィキペディア」より
★沖口楼すみ子
「両津甚句」「新おけさ節」をレコーディング(昭和20年前後)。沖口楼は両津夷神明町にあった。この沖口楼の孫筋にあたるのが北京オリンピック体操団体銀メダルの沖口誠である。
「島の新聞」

★小木曽政一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★荻野晶子
「島の新聞」索引(人名別)
★荻野桂三
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治中期頃になると眼科医荻野医院が上町で開業、続いて内科耳鼻咽喉科本間医院、内科産科婦人科長嶋医院、内科臼杵医医院、昭和に入ると内科山田医院、小児科後藤医院などの開業がみられ、歯科医では小杉、樺島の両医がそれぞれ専門医として住民の診療にあたっていた。次男に能楽の大家野村蘭作がいる。(野村蘭作は本間令桑の孫と書かれたものもある。)
※「佐渡能楽の里」に陳列されていた野村蘭作の経歴には「萩野桂三」とある。
★荻原源左衛門
荻原源左衛門(田中圭一講演集より)
★荻原重秀(おぎはらしげひで)
【生没】(生年不詳)ー一七一三 通称彦次郎。元禄三年(一六九○)十一月、勘定吟味役より佐渡奉行に任ぜられ、同九年勘定奉行にすすみ近江守を受領、佐渡奉行を兼任、正徳二年(一七一二)九月新井白石の弾劾で失脚するまで、二二年間佐渡を支配した。渡海したのは元禄四年四月から七月まで、あとは用人数人を留守居として佐渡に置き支配する。元禄五年の貨幣改鋳に際し、元和以来の佐渡小判鋳造を止めて、焼金・筋金・砂金等すべて江戸に上納し、以後江戸の金・銀座で元禄・宝永の改鋳を行った。荻原の佐渡奉行就任は、幕府財政再建が目的であったから、同九年に竣工した南沢疎水道開鑿、鶴子・新穂滝沢・西三川等諸鉱山の再開発など、江戸からの莫大な資金による積極経営であった。これによって鉱山は活況を呈し、相川は殷賑をきわめ、農村にも貨幣が流通した。荻原は郷村支配でも、画期的な政策を実現した。元禄七年佐渡一国検地を行い、はじめて
田・畑・屋敷の実測検地を石高制によって行ない、一三万石を検出し、佐渡の近世的郷村支配を確立した。荻原は検地による増税に農民が反対することを抑え、かつ農村を潤した貨幣を幕庫に還流するため、田方年貢の半分を、時価の半分で銀納させるとい、巧妙な税制を実施した。佐渡における荻原の治政は、中央の評価と異り高く評価され、荻原支配の時代を「近江守様時代」と賞讃し、正徳三年十月二十五日死去すると、縁故の役人らが主唱して、相川下寺町本典寺に供養塔が建てられ法要が営まれた。至誠院殿重源日秀大居士の法名は、それを物語っている。【関連】元禄検地(げんろくけんち)・南沢疎水坑(みなみざわそすいこう) 【参考文献】伊藤三右衛門『佐渡国略記』、麓三郎『佐渡金銀山史話』、『新潟県史』(通史編3近世一) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※南沢疎水坑(みなみざわそすいこう)
南沢を坑口とする佐渡鉱山最大の排水坑道。「南沢水貫間切」または「南沢水貫間歩」とも古くは呼ばれた。「間切」は坑道をきりぬくこと、「間歩」は坑道自体の呼び名である。元禄四年(一六九一)の七月二十五日に起工し、同九年の五月十日に完成した。四年と一○か月の工程で、長さは九二二メートル余。全線とも岩盤で、鑚と穿鎚だけが頼りの手堀作業である。工程内の岩石の比率は、水金沢凝灰岩が二九六・五メートル(三二・二%)安山岩が二五八・○メートル(二八%)吹上流紋岩が二三○・○メートル(二五%)庚申塚熔結凝灰岩が一三六・五メートル(一四・八%)。わりと硬い流紋岩と安山岩帯が五五%を占めていて、想像を絶
する難工事となった。坑道の大きさ(断面)は「高さ八尺」(二・四メートル)「横六尺」(一・八メートル)を標準とし、天井を山型に切り、底部をいくぶん広げた「将棋の駒」形に仕上げてある。工法にも苦心した面がみられ、開始点の鉱山(千松水坪)と、終点(南沢)の両方から同時着工したばかりでなく、中間にほぼ等間隔に二本の竪坑を掘り下げ、予定の地底に達すると前後に「迎い堀り」を開始した。ここで工区が三区分され、合計六か所から堀進するという画期的な工法がとられた。有名な静岡県の「箱根用水」から二五年ほどのちの工事で、この難しい測量にいどんだのが「与右衛門」という振矩師。この人は町人の出とされ、勘定頭兼務で佐渡奉行になった荻原重秀(近江守)がこの工事を裁可した。なお元禄十四年(一七○一)から、南沢坑口~相川湾の間に「百九間三尺(一九九メートル)」の追加工事があったことが『佐渡風土記』などに記されていて、総延長は一一二一メートルとなる。平成六年(一九九四)五月二十四日、国の史跡に指定された。
【関連】静野与右衛門(しずのようえもん)・荻原重秀(おぎはらしげひで) 【参考文献】磯部欣三「南沢疎水」、飯塚一雄「新技術史の旅」 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ウィキペディア」より
荻原 重秀(おぎわら しげひで、万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))
江戸幕府の勘定奉行。管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで有名。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下・近江守。
・経歴
旗本荻原十助種重(200俵)の次男として江戸に誕生。母は横松氏の娘。武鑑に本国甲斐とあるのは、荻原家始祖の常陸介昌勝(1461年-1535年)が武田氏より分家して甲斐国山梨郡荻原村に移り住んだためである。昌勝は国境の秩父口防備にあたり、武田信虎・晴信の2代にわたって弓術と兵法を教えたと言われ、武田二十四将の1人に加える異説もある人物である。武田氏滅亡後は三世甚之丞昌之が徳川氏に仕えて旗本となる。爾来、荻原家本家は八王子に留まり分家の1つと共に代々八王子千人頭を勤めたが、他の分家はみな江戸に住まい、それぞれ旗本として明治維新を迎えた。荻原種重家の家督は兄の荻原左兵衛成重が継
ぎ、重秀は別家を興した。延宝2年(1674年)10月26日に幕府勘定方に列し、11月7日に将軍徳川家綱にはじめて謁見。延宝3年(1675年)12月21日、切米150俵を支給された。延宝7年(1679年)12月3日、先の五畿内検地の功績で時服二領羽織一領を与えられた。天和元年(1681年)に上野沼田藩主真田伊賀守信利が改易にされた際にはその郷村の受け取りのために沼田へ赴いた。天和3年(1683年)10月11日、勘定組頭に就任。12月21日に100俵を加増。貞享4年(1687年)9月10日、勘定頭三名の罷免により勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に任命され、さらに300石を加増され、先の250俵の切米も領地に代えられて都合550石を領した。12月25日には布衣の着用を許された。元禄2年(1689年)8月21日、200石加増(都合750石)。元禄3年(1690年)10月7日には佐渡奉行に任ぜられた。元禄8年(1695年)12月22日、1,000石の加増(都合1,750石)。9年(1696年)4月11日、勘定奉行に就任し、250石を加増(2,000石)。12月22日に従五位下近江守に就任した。元禄11年(1698年)12月21日にはさらに500石の加増があり(都合2,500石)、元禄12年(1699年)4月には長崎へ赴いている。元禄16年(1703年)2月にも稲垣重富の副使として京都・大阪・長崎などへ赴いている。宝永2年(1705年)12月11日に700石加増される(都合3,200石)。宝永6年(1709年)に将軍徳川綱吉が死去し、徳川家宣が六代将軍となると、新井白石などの家宣近臣達との関係が悪化。宝永7年(1710年)4月25日、張り紙値段を勝手に引き下げようとして、将軍家宣への拝謁を禁止されているが、わずか4日後の29日には許されている。12月11日には500石の加増を受けており、都合3,700石を領した。さらに正徳元年(1711年)7月18日にも評定所での精勤ぶりをもって熨斗縮絹紬、越後縮などを与えられている。しかし新井白石の憎悪は深く、度重なる弾劾を受けて、病没寸前の家宣はついに折れ、正徳2年(1712年)9月11日に勘定奉行を罷免された。嫡男の荻原乗秀には辛うじて越前国坂井郡で700石の相続が許された。正徳3年(1713年)9月26日に死去。絶食して自害したとも言われる。東京都台東区谷中の長明寺に葬られた。法名は日秀居士。妻は青柳勘右衛門道孝の娘、後妻は高木忠右衛門定清の娘。なお嫡男・乗秀の母はそのいずれもでなく、某氏の娘。
・経済政策
・延宝検地
家綱の代の延宝5年(1677年)幕府は太閤検地以降80年もの間一度も検地を行わなかった五畿内の検地を実施した。事後の人事動向から見て、検地の細かい業務立案者は荻原重秀であったと推定される。重秀は、五畿内の土豪出身の世襲代官の妨害を排する為、近隣の諸大名に検地を行わせる事を提言し、同時に勘定所からも巡検団を派遣して現地調査を行う事で、より正確に現地の状況を把握する事に努めた。更に重秀は、これらを円滑に行う為の全29条の検地条目を策定し、見事に検地をやり遂げる事に成功した。この結果を受けた重秀は、延宝8年(1680年)に将軍の座に就いたばかりの綱吉や幕閣に対し世襲代官制の弊害を提言し、それを受けた幕府は世襲代官達を一掃して、代官の完全な官僚化を推し進めた。
・佐渡金山再生
元禄3年に佐渡奉行に任ぜられた重秀は、当時生産量が落ち込んでいた佐渡金山を再生させる為に、翌元禄4年(1691年)佐渡へと渡海した。現地にて金山の状況を調べ上げた重秀は、坑内に溜まった地下水を排出する為の排水溝を掘削する事を決める。その5年後の元禄9年に「南沢疏水坑」が完成し、これにより佐渡金山は生産量が回復した。これと平行して重秀は、佐渡国の大規模検地に着手し、その結果元禄4年の年貢収入は前年より8割も増加し、重秀はその増加分を佐渡金山再生に充てる事で、佐渡全体の経済サイクルを構築した。しかし、この年貢増徴策が佐渡の農民の怒りを買い、後々の失脚の一因となった。重秀は2ヶ月間の滞在の後に江戸へと帰還し、以後は佐渡に渡海する事は無かったものの、21年間に亘って佐渡奉行として現地との連絡を欠かさずに取りながら、佐渡の治世や金山管理に勤めた。
・貨幣改鋳
元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった。それをかろうじて回避していたのが将軍綱吉とその生母桂昌院の散財癖だったが、それは幕府の大幅な財政赤字を招き、この頃になると財政破綻が現実味を帯びたものになってきていた。そうした中で、綱吉の治世を通じて幕府の経済政策を一手に任されたのが重秀だった。重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない、という貨幣国定学説を200年余りも先取りした財政観念を持っていた。従前の金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨への移行することができれば、市中に流通する通貨を増やすことが可能となり、幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。そこで重秀は元禄8年(1695年)、慶長金・慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金・元禄銀を作った。訊洋子が著した『三王外記』には、このときの重秀の決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。幕府の改鋳差益金は約500万両にもなった。従来この貨幣改鋳は経済の大混乱を招き、未曾有のインフレ(元禄バブル)をもたらしたと考えられてきたが、金沢大学教育学部教授の村井淳志の研究によれば、元禄期貨幣改鋳の後11年間のインフレ率は名目で平均3%程度と推定され、庶民の生活への影響はさして大きなものではなかったという。その一方で、改鋳により豪商や富裕層が貯蓄していた大量の慶長金銀の実質購買力は低下し、商人たちは貨幣価値の下落に直面して貯蓄から投資へ転じた。こうして従前は幕府の御金蔵から商家の蔵へ金銀が流れる一方だった経済構造に変化が生じ、これ以上幕府財政に負担をかけずに緩やかなインフレをもたらすことが実現された。その結果経済は元禄の好景気に沸いたのである。しかしこの時期は、関東の元禄地震、東海〜南海の宝永地震、富士山の宝永大噴火など大規模な自然災害に加え、宝永の大火による内裏焼失や将軍代替わりによる出費が続いたこともあり、幕府の赤字財政からの脱却は困難を極めた。重秀は一方では佐渡金山にテコ入れ策を講じ、また一方では長崎貿易を増加して運上金を徴収、さらには全国の酒造家にも50%の運上銀をかけるなど、一貫して幕府歳入の増加に努めたが、焼け石に水だった。そこで財政赤字の補填を目的として宝永3年(1706年)には宝永銀、宝永7年(1710年)には宝永金・永字銀と立続けの貨幣改鋳を行ったが、今回は特に銀貨の品位が大幅に低下して通貨量が増大したことから著しいインフレが発生、商人が保有する資産価値が低下し景気悪化した。撩乱した元禄文化はここに終止符を打ったのである。
・死後
荻原重秀は書物を残さなかった。これに対し、重秀を追い落とした新井白石は『折たく柴の記』で「荻原は26万両の賄賂を受けていた」などと根拠のない悪宣伝[要出典]を繰り返し、一方的な悪評が定着した。しかし重秀の無筆がもたらした最大の災厄は、幕末の開国時に起きた。実物貨幣から信用貨幣へのシフトという政策を支える経済理論が後世に伝わらなかった為、改鋳により金地金より高い価値を持つようになった金貨および南鐐二朱銀以降秤量貨幣から計数貨幣へ切り替わるとともに銀地金の数倍の価値を持つようになった銀貨の仕組みについて、幕府は金本位制が主流の欧米諸国を納得させる説明ができず、地金の価値に基づく為替レートを承認させられた。諸外国では金銀比価が金1:銀15に対し、日本では金1:銀5であった。その結果、金が国外に大量に流出し、流出防止の為に金貨の価値を銀貨の価値に対し相対的に引き上げる必要が生じ、金貨の量目を低下させたので、インフレーションが発生し、日本経済は混乱した(幕末の通貨問題参照)。
・参考文献
村井淳志著『勘定奉行荻原重秀の生涯』(集英社新書)集英社,2007年
荻原重秀(田中圭一講演集より)
★荻原井泉水
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)

ウイキペディアより
★荻原安治
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=17
★小木番所附問屋能登屋仁右衛門下女よし
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★荻野次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、日本大衆党の演説会[四年十月二十七日]
★小木町 三屋
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。三代藤井鉄蔵が鍛冶業を行なっていたが死後廃業。
★奥田瑛一(えいいち)

生年月日 1991年9月18日(29歳)・出身地 新潟県佐渡市→東京都→仙台・職業 麻雀選手(雀士)
1991年9月18日生まれ、新潟県佐渡市出身の麻雀選手(雀士)。
★奥田敦也
『両津市要覧(昭和33年)』より

★奥田勘右衛門

文雄の父奥田勘右衛門は富山市四方(ヨカタ)の出身(文雄の出生地)です。両津町の初代?町議会議長も務め昭和30年代両津の旅館街のリーダー役でした。文雄は自慢の父でしたので功績は沢山あって書ききれません。同じ富山ご出身の菊池市勘佐エ門氏(当時教育長?)とのご縁で昭和35年両津中学校を南・東に分けるときのPTA会長でした。時代が変わって今はもとの両津中学校になりました。安田火災では代理店の草分け的存在で全国の他社代理店にも「佐渡の奥田」で知れ渡っていました。
これは文雄の改名して使っていた名前です。昭和37年に瓦・材木商「奥田産業」が倒産したあと縁起のよい画数のこの名前にしました。
奥田家の孫長男は生まれる前から名前が決まっていました。現在の奥田敦也は画数がよいのですが、いまだに父義昭のスネをかじっています。
父、ナガオカヤ、小島ボーイ、ほか、「明星楽団」をご存知ですか?
楽団のことはナガオカヤの襟子さんにも聞いておきます。
奥田文雄には坂本守正(母が山形の人)という腹違いの弟がいました。三菱商事に勤めていて、そうそう戊辰戦争の本を出版しました。奥田家の家系は複雑で私の姉淑子が家系図を作ってあるのであとでコピーをお渡しします。富山館は祖父と小林さんが経営、小林さんの長女の子一子さん(今96歳)が継ぎました。弟2人は東京の大学へ進学・就職しました。当時旅館を手伝っていたのは文雄です。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『両津市要覧(昭和33年)』より

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
実業家。明治十七年十二月六日、富山県で生まれた。
両津市に住み、佐渡商議所会頭、両津市議会議長、佐渡観光、佐渡汽船各監査役、自民党両津支部長等になった。(新潟県年鑑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和40年代まで両津海岸通りにあった旅館「富山館」(現在 「スーパーキング」)を経営し、往時は真ん前の角地も「富山館」支店であった。
関係企業に奥田保険がある。
★奥田茂治
両津夷の奥田薬局創業者。福井県で生まれる。姓は斎藤で、新発田市の奥田家に入り婿。
両津夷に移住する。奥田薬局は、奥田茂治-奥田昇-奥田俊-奥田聡と続く。茂治には長男昇、長女もと が居り、もとは福井の斎藤家を継ぎ、湊に住み薬品販売業を営んだ。斎藤家は現在新潟市在住で、長男が以前両津労働基準監督署所長であった。
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★奥田澄子
両津高校時代の1988年度(S63)11月、新潟県競書大会 準特選
★奥田直
「躍進日本」

★奥田昇
『両津市要覧(昭和33年)』より

★奥田文雄(=敦也)
★奥田文子
佐渡高校時代の昭和36、書道芸術院主催全国書道コンクール、日本書道学会賞
★奥田茫仲(與惣右衛門)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)



※「奥田与三左衛門(よそざえもん)」とも
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の奥田勘左衛門良忠の五男で、名は茫仲といった。江戸に出て、土屋相模守数直に仕えて老職となった。
数直の死後はその子の政直に仕え、政直が土浦藩主となった時は、千石どりであった。
元禄四年(一六九一年)正月になくなった。
与三左衛門のこどもの時の歌に
いつかわれとりの鳴音におきいてて
きみにつかへん暁もかな
というのがある。年おいた母が与三左衛門に会いたいということを聞き、相川に帰った。
親戚知人が与三左衛門を招待したが、みな断わった。主人に暇をもらって帰ったのは、ただ母に会うことだけであるからと、十日あまりの間の母そばにいて、夜も床をならべて寝たという。(近世越佐人物伝、佐渡志)
★奥田陸鵞
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で、通称を稲次郎といい、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★奥平謙輔(おくだいらけんすけ)
(河原田小校長室)

【生没】一八四○ー七六 長州藩士、越後府権判事。藩校明倫館に学び、慶応二年(一八六六)五月干城隊に入り、明治元年戊辰戦争に参加して越後・会津に転戦、十一月五日新潟府の民政方役所の参謀兼民政方に任命され(明治二年二月に越後府権判事となる)佐渡の統治に当たった。奥平は配下の北辰隊を先遣するとともに、自らも十一月十三日に佐渡に上陸して、旧佐渡奉行所の中山脩輔から平穏裡に佐渡支配を引き継ぎ、ここに佐渡は名実ともに新政府の統治下に入った。奥平謙輔の佐渡在任期間は、明治二年八月までの約九か月の短期間であったが、着任早々「参謀布告書」を島民に布告するとともに、民政方役所を相川から石田村獅子ケ城跡(現新潟県立佐渡高等学校)にあった屯所に移し、行政機関を整理して、事務・民政・市政刑法・金坑採錬の四局に分けた。奥平の施策は、産業奨励・租税改革・戸籍編成・開墾・寺院廃合など多岐にわたるが、特に五三九寺を八○寺に整理した廃寺政策は急進的で、「鬼参謀」と恐れられた。明治二年八月辞任後は、郷土の萩に帰り、九年十月に前原一誠らとともに萩の乱を起こし敗れて斬首された。年三六歳。大正五年四月従五位を追贈された。【関連】北辰隊(ほくしんたい)・明治維新(めいじいしん) 【参考文献】『新潟県史』(通史編6近代一)、山本修之助編『佐渡叢書』(一巻) 【執筆者】本間恂一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※北辰隊(ほくしんたい):戊辰北越戦争に際して結成された草莽隊の一つ。蒲原郡下興野新田(現豊栄市)の遠藤七郎を隊長に、幹部は水原町の伊藤退蔵、臼井村(白根市)の西潟八雲、下興野新田の星野帰一・越三作、小須戸町の吉沢千柄らであった。遠藤らは、既に新発田藩管下の各村で、警備等に当たっていた尊皇の志の厚い地主層であった。慶応四年(一八六八)六月、新発田藩が奥羽越列藩同盟の要請で出兵した時に阻止行動をとり、同年七月二十五日に、新政府軍が松ケ崎浜・大夫浜に上陸すると新政府軍側に参加し、長州藩干城隊に属して、各地の戦闘で活躍した。十一月には新政府に正式に取り立てられ、遠藤七郎が隊長に任命され、北辰隊の名称を授けられた。隊員は一七九人(明治二年十月現在)を数え、阿賀野川周辺の農民を結集していたが、十月十七日に新発田にあった総督府本営から佐渡警備を命じられて、参謀兼民政方の奥平謙輔の指揮下で佐渡の施政に参加し、奥平の施策の推進に、重要な役割を果たした。北辰隊員は二年八月に帰郷して葛塚(現豊栄市)に頓集していたが、三年二月に上京して第三遊軍に編成され、東京警備に当たった。【関連】奥平謙輔(おくだいらけんすけ) 【参考文献】『新潟県史』(通史編6近代一)、真水淳「佐渡県と北辰隊」(『新潟県歴史教育論考』一)、同「北辰隊名簿について」(『新潟史学』一二号) 【執筆者】本間恂一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応二年生 長州藩士 ・明1、佐渡と其沿革 ・明1、佐渡に於ける佐幕党[元年七月]・明1、奥平謙輔の赴任[元年十月二十五日] 「佐渡関係事典に載る」

『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


「ウィキペディア」より」
奥平 謙輔(おくだいら けんすけ、天保12年1月21日(1841年2月12日) - 明治9年(1876年)12月3日) 江戸時代後期(幕末)から明治時代の長州藩士、志士。名は居正。号は弘毅斎。萩の乱の首謀者の一人。
(経歴)天保12年(1841年)、長州藩士・奥平清兵衛の五男として萩城下土原に生まれる。藩校明倫館で学び詩賦に優れた。文久3年(1863年)の下関戦争では先鋒隊士として参加。慶応2年(1866年)には干城隊に配属された。その後の戊辰戦争ではその干城隊の参謀として報国隊、奇兵隊とともに長岡、新発田、新潟を転戦した。その際、友人の会津藩士秋月悌次郎にあてた手紙は名文として知られる。またその際には秋月から会津藩士の少年二人を書生として預かったが、一人は後に東京帝国大学総長となった山川健次郎で、もう一人は陸軍に入り近衛師団の工兵大隊長を務めた小川亮大佐である。明治2年(1869年)に越後府権判事として佐渡に赴任するが、同年8月には職を辞している。郷里に戻ってからは攘夷論を説き、新政府の方針に不満を募らせる。明治9年(1876年)には前原一誠を盟主に萩の乱を起こしたが敗走し、12月3日斬首となった。享年36。
(参考資料) 松本次郎『増補 萩の乱前原一誠とその一党』- マツノ書店 1996年
一坂太郎『長州奇兵隊』- 中公新書 2002年
山川健次郎『奥平謙輔先生』- 『男爵山川先生遺稿』所載
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長州の人で、名を居正という。明治元年戊辰の役に壬生総督の参謀として北蒲原郡水原にいたが、北辰隊をひきいて佐渡に渡った。十一月のことである。謙輔は二十七才であった。相川に入り、目安箱を設け、二宮吉岡竹田等で開田をはかり、池を掘って用水(奥平堤という)とした。また裁判を正した。相川の屯所を河原田に移して、本府といった。武道を奨励したが、一方校舎をたてゝ旧修道館生負十一名(須田行義、酒匂明俊、鹿野直一郎、保科可怜、石井英彦、小山盛造、持田磯司、円山聿、藤村勘之丞、細野清次郎、渡辺褧)を選び、学資(一日米一升、銭二百文)を与えて就学させた。佐渡県がおかれて判事となり、民政聴訟会計土木の四局をおき、政治を改めた。剣道がすきで、役所で朝試合をさせた。公務の暇を見て、田んぼに出て耕作をし、薪を割り、自ら範を示した。謙輔の行動はやや意表をついたこともあったが、維新の混乱期に、武断をもって佐渡の気風を一変させた。明治二年九月、免官となって佐渡を去った。長州に帰り、戊辰の役で知り合った前原一誠と深く交わり、九年十月一誠と乱を起こした。捕えられて斬られた。三十七才であった。死後詩集を出版して、弘毅斎遺稿という。大正五年四月従五位をおくられた。(佐島遺事、大日本人名辞書)
「鬼参謀・奥平謙輔」(『佐渡の百年』)
・佐渡における功績では賛否両論のある奥平謙輔。彼は明治9年、尊敬する前原一誠の起こした萩の乱に加わり、処刑された。
その後、大正5年、名誉回復がなって「従五位」を送られた。この年の9月3日、山本静古氏達が発起して佐渡中学校で奥平謙輔の「追遠祭」を開催する。遺族として信越線横川駅助役の奥平芳太郎氏や山口県の郷土史家村田峰次郎氏等が参列した。
『田中圭一講演集(第七集)『奥平謙輔と北一輝』より
奥平謙輔という人物は、二十八歳の若さということもあるのでしょうが、佐渡の役人が横柄に挨拶したりすると、草軽を履いたままで頭を蹴飛ばしたというくらいですから、まあ相当激しい性格の持主です。しかし、物分りが悪いかというと、そうでもない面を持ち合わせておりました。幕末に佐渡奉行所組頭・中山修輔を中心に、幕府応援のための兵隊を募集し、佐幕同盟「迅雷隊」を結成しました。隊員として十六歳以上四十歳未満の男子、地役人の子供や島民をかき集め、百五十人ほどで組織し、その旨宣言しました。この時の宣言書「祖廟斎盟記」を起草したのは当時の修教館教授円山溟北です。円山は、倒れようとする幕府を応援するのは幕府の役人としては当然で今こそ幕府のために立ち1がらなくてはならないと、いう趣旨のことを書きます。すると奥平がやってきて、立腹、円山を呼び出し、「お前は死刑だ、幕府のために戦うなんておまえ自身が間違っている」というようなことを言ったらしい。それに対して円山が言うのには、「私がたしかに筆を取った。三百年の恩顧をこうむる佐渡の人が迅雷隊を結成するのは当然である。あなたの長州藩だつて蛤御門で戦端を開き、天皇の軍に叛いたではないか。あなたが自分の立場がこうなつたら、あなただつて徳川氏のために頑張ろうと言うだろう」と。円山もまあいい事を言いますね。そうしたら奥平は二時間も考えてからそれを肯定しました。奥平はその後、「萩の乱」(明治九年)で前原表と共に殺されるわけですが、この乱は明治新政府に対する最初の反抗運動だといわれています。また、こんなことがあります。奥平は、明治元年に忘大将としてやってきましたが、この年佐渡は不作で、百姓が税金をまけてくれと頼むと、税金をまけてやるんです。そうしたら、のちに大蔵卿などになつた井上馨(新潟県知事に任命されたが赴任する気がなく、すぐ辞退)が、絶対まけてはならん、これから新しい時代を作らなければならない時なのに、百姓がそう言ったからといって、まけるようなことでお前は官吏が務まるのか、というようなことで、結局クビになつてしまい、萩に帰ります。ですから、奥平という人物は激しい側面と、西郷隆盛と同じような情理のわかるというところを持ち合わせていたのです。それが明治時代を押し進めていくのには少し不足する部分であります。
・奥平は佐渡を去る時、まあ、厄介 (やっけえ)になつたということかもしれませんが、円山と握手をしております。
「島の新聞」(明治の女子留学生)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)奥平謙輔
19 奥平謙輔の評判 松本健一 37 奥平謙輔の肖像画(岡田三郎助筆)とその系譜 山本修之助 56 連載 閑々亭雑記 (15) 奥平謙輔が小木港へ上陸の日 山本修之助 56 連載 閑々亭雑記 (15) 奥平参謀を見た人の話 山本修之助 141 明治維新の佐渡の統治者奥平謙輔 山本修巳
「佐幕派・迅雷隊」(「佐渡の百年」)
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
「密訴する男」(「佐渡の百年」)
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
奥平謙輔と北一輝(田中圭一講演集より)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=16
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=14
★阿国(おくに)→出雲の阿国
★小国頼行
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
源蔵人太夫従五位下 保元二(1157)佐渡に配流。保元の乱に座し、謀反の罪で流罪。道中西七条で自害したという。(『兵範記』 『保元物語』)
★奥野郁子
両津高校時代のS37、17回岡山国体 ボート部女子ナックル7位 (奥野郁子、宮川テル子、菊池節子、
渋谷節子、杉山道子)
★奥野伊代治
『両津市要覧(昭和33年)』より

★奥野栄次郎
新潟日報 h29年2月

「島の新聞」索引(人名別)
★奥野七郎右衛門賢好 其子賢正
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
八幡村に新田を開き、八幡堤を築いた。しかし隣村四日町の中使兵右衛門一家への暴圧その他の悪事が露顕し、寛文十年(一六七〇)改易(追放ともある)となり、故郷の甲州へ帰り名も秋山九郎右衛門と改めすごしたが、延宝六年(一六七八)六月十日死去した。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


「蓮華峰寺の解体修理」(「佐渡の百年」)
★奥野俊英

★奥野松太郎
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★奥野美智子

★奥野航(わたる)

★奥林新蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★尾組増蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★奥村寛純
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)奥村寛純 94 佐渡と上方(かみがた)-郷土玩具の視点から-
★小倉公連(おぐらきみつら)
【生没】一六四七ー八四 流人。大納言小倉実起の長子。参議まで昇進したが、天和元年(一六八一)父実起の勅命違背の罪に連座、父および弟の竹淵刑部大輔季伴とともに、佐渡配流となった。佐渡での日常は、おおむね風雅を主として
いたらしく、雲の上人を迎えた地元の文人たちは小倉父子を訪れ、あるいは招いて詩歌の贈答をした。『佐渡名勝志』には、実起の漢詩九首と和歌三首、公連の漢詩三首と和歌八首、季伴の漢詩二首、和歌一首が記録されている。公連は貞享元年九月二十二日、父実起の死に後れること半年、そのあとを追うように他界し、鹿伏観音寺の実起の墓の傍に葬られた。法名賢良院殿鉄山一舟大居士。公連が都に遺した謫子の侍従実躬も、翌貞享二年(一六八五)正月三日一四歳で夭折したので、小倉家は一時断絶したが、元禄八年(一六九五)五月赦免され、季慶と号していた季伴が、四年後に跡目を許されて竹淵家から復帰し、さらに熙季と改名して、小倉家を復興した。小倉家の後裔英季は、明治十七年(一八八四)子爵を授けられた。
【関連】小倉実起(おぐらさねおき)・観音寺(かんのんじ) 【参考文献】『佐渡名勝志』、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『読史総覧』(人物往来社) 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
宰相 天和元(一六八一)佐渡に配流。皇位継承にからむ違勅の罪。父実起 、弟季伴と共に佐渡に流罪。貞享元年(一六八四)病死。二男季伴は、元禄八年(一六九五)赦免、小倉家を再興。(『佐渡名勝志』『撮要年代記』)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「美術人名辞典」の解説.
公卿。実起の男。初名公代。藤原姓。参議右中将従三位。父と共に佐渡に配流される。和歌を能す。貞享元年(1684)歿、38才。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
小倉実起の長男で、天和元年(一六八一年)十月二十三日、父および弟と共に佐渡へ流されることとなり、十二月二日相川へ着いた。三年九月二十二日、相川で三十八才の一生を終わった。
真野御陵
拝むにもなは秋ふかし初のつゆ
ふるき御幸のあとをたづねて
は公達の作である。(佐島遺事、佐渡人名辞書、大日本人名辞書、概観佐渡)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小倉大納言親子 131 配流の文人 小倉大納言親子 山本修巳
★小倉実起(おぐらさねおき)
於:多門寺




左二枚は『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より、右端は金井清水多聞寺

【生没】一六二三ー八四 流人。藪大納言嗣良の三男、のち近衛少将小倉実為の養子に迎えられ、延宝三年(一六七五)には、正二位・権大納言の地位にあった。これより先の寛文十一年(一六七一)八月、実起の娘中納言典侍が、霊元天皇の寵を受けて一宮寛清親王を産み、一旦は継躰の内示があったものの、のち皇位継承者は五宮に変更され、一宮へは出家の命が出されたが、それを拒否した外祖父実起と、その謫男公連・次男季伴が、ともに佐渡配流となった。小倉父子は天和元年(一六八一)十一月晦日小木へ着岸、十二月一日新町泊り、二日相川に入り、はじめ常徳寺などに滞在したが、市中が狭苦しいというので、商人の岩佐嘉右衛門が提供した鹿伏の別宅に移り住んだ。相川では、奉行所役人や豪商たちが争って大納言一家と風雅の交わりを求めたらしく、贈答の詩歌が数多く残されている。また、実起は相川だけでなく、河原田の中山宗春等の、国仲の富豪たちにも招かれて逗留し、和歌や京風の庭園造りを伝授したと伝えられ、いまも伝小倉大納言作の庭が、各地に散在する。貞享元年三月十八日没、鹿伏の観音寺裏山に葬られた。法名義孝院殿花応雪舟大居士。在島二年三か月であった。
【関連】小倉公連(おぐらきみつら)・観音寺(かんのんじ) 【参考文献】『佐渡名勝志』、磯部欣三『近世佐渡の流人』(文芸懇話会)、永井次芳編『佐渡風土記』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
大納言 天和元(一六八一)佐渡に配流。
皇位継承にからむ違勅の罪。長男公達、次男季伴と共に佐渡に流罪。貞享元年(一六八四)病死。二男季伴は、元禄八年(一六九五)赦免、小倉家を再興。(『佐渡名勝志』『撮要年代記』)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ウィキペディア」より
小倉実起(おぐら さねおき、元和8年2月8日(1622年3月19日) - 貞享元年3月18日(1684年5月2日))
江戸時代初期の公卿。大納言・藪嗣良の三男で、近衛少将・小倉実為の養子となる。妻は小倉公根の娘。子に小倉公連、小倉熙季(竹淵季伴)、中納言典侍(霊元天皇典侍)がいる。
延宝3年(1675年)には正二位、権大納言となった。しかし延宝9年(1681年)、娘・中納言典侍の生んだ霊元天皇第一皇子・一宮(後の済深法親王)の出家に反対して一宮を匿うなどしたため、勅命違反として息子の
公連・季伴と共に佐渡に流罪となった(小倉事件)。
貞享元年(1684年)、同地で薨去。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「朝日日本歴史人物事典」の解説.
生年: 元和8.8.2 (1622.9.7) 没年: 貞享1.3.18 (1684.5.2)
江戸前期の公家。高倉(藪)嗣良の次男。小倉公根の娘を妻とし,小倉家を継ぐ。寛文12(1672)年権大納言に任じられ,延宝3(1675)年正二位に叙せられる。寛文11年霊元天皇の後宮へ入っていた実起の娘(中納言典
侍)は,一宮を生んだ。当時天皇の女御に皇子がなく一宮擁立の動きがあったが,その後松木宗条の娘(大納言典侍)が生んだ五宮擁立の動きが現れた。天和1(1681)年4月一宮は大覚寺へ入ることとなった。この措置
を不服とし,実起は一宮と共に引き籠もった。9月,一宮と共に蟄居を命じられ,10月22日解官,翌日佐渡流罪が言い渡された。その後佐渡で死亡した。(藤田恒春)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
藤原氏で西園寺家の庶流、山階左大臣実雄の子孫である。薮大納言嗣良の三男で、右近衛少将小倉実為のあとを継いだ。はじめは季雅といった。寛永十六年(一六四一年)十八才で従五位となり、権中納言にすすみ、従二位となり、寛文十二年(一六七二年)権大納言に、延宝三年(一六七五年)五十四才で正二位となった。音楽書道にすぐれ、熊沢蕃山は実起から音楽を学んだという。霊元天皇の皇子一ノ宮は実起の娘中納言典侍が母である。天皇ははじめ一ノ宮を深く愛しておらたが、後に五ノ官(母は松木内大臣の娘、岩局またほ上臈の局といい、後に大典待と改めた。五ノ宮というが実は第四ノ宮である)を寵愛し、一ノ宮の出家をのぞまれた。一ノ宮は出家をきらい、実起もーノ宮の気持を察して三度まで天皇にお願いしたが、許されなかった。実起は一ノ宮に出家をすゝめたがきゝ入れられず、天皇は一ノ官の考えでなく、実起の後おしがあると考えられた。一ノ宮は関東の兵によって一室におしこめられ、天和二年(一六八二年)十月二十八日、勧修寺で僧となられた。実起は天和元年九月十七日に勅勘を受け、十月二十日官を解かれ、二十三日実起、長男公連、二男季伴は佐渡へ渡されることに決った。
護送の途中、木曽路では、
身のうさを露はかなりしも歎かねと
家を尋ねん君ぞこひしき
と一ノ宮をしのばれ、信州寝覚の床で、
老が身に思ひをそへて行旅の
ねさめの床の名さえ恨めし
この歌古志には三の句を「行く道の」五の句を「夢も恨みじ」とあるが、佐渡での伝えがよいと思われる。
出雲崎、小木、新町と経て、相川へ十二月二日に着いた。はじめ羽田町の常徳寺に住み、後町家に、さらに鹿伏の観音寺、下寺町の高安寺に住んだが、鹿伏が多かった。
天和三年三月十八日、高安寺で六十三才の一生を終わった。長男公連も九月二十二日に三十八才でなくなった。二男季伴は元禄八年(一六九五年)五月許された。
小倉家を継ぎ、名を煕季と改め、権中納言正三位となった。享保五年(一七二〇年)十月二十五日に七十才でなくなった。(佐島遺事、佐渡人名辞書、大日本人名辞書)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小倉大納言親子 131 配流の文人 小倉大納言親子 山本修巳

★小倉修平
『続佐渡酒誌』(平成14年)

『続佐渡酒誌』(平成14年)


★小倉(竹淵)季伴
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
刑部大輔 天和元(一六八一)佐渡に配流。皇位継承にからむ違勅の罪。父実起 、兄公連と共に佐渡に流罪。元禄八年(一六九五)赦免、小倉家を再興する。(『佐渡名勝志』『撮要年代記』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
小倉実起の二男。元和元年(一六八一年)十二月二日、父実起、兄公連と共に佐渡に流された。父と兄は天和三年にともに相川でなくなった。元禄八年(一六九五年)五月許され、小倉家を継ぎ照季と改め権中納言正三位となった。享保五年(一七二〇年)十二月二十五日に七十才でなくなった。
昨日の浦
秋風に船をうかべてこよひまた
昨日の浦の月やながめん
は佐渡における季伴の作である。(佐島遺事、佐渡人名辞書、大日本人名辞書、概観佐渡)
※渡辺注:元和元年→天和元年
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)[補遺]より
小倉大納言実起の二男。天和元年(一六八一年)十二月二日、父実起、兄公達と共に佐渡に流され相川に到着した。町人岩佐嘉右衛門修省の好意により誓り、その下屋敷のある鹿伏に住んだ。近くに観音寺がありその泉水を父実起が修築し、衒山の二字を横地玄常島狄子に書かせ、季伴が横額にそれを彫った。造園に実起は自分の名をはゞかって衒山としたのである。季伴は竹淵家をついで刑部大輔といつた。名を斎(いつき)という。元禄八年(一六九五年)五月、許されて京都にかえった。二十三日に相川を立ち使役佐野長兵衛、鈴木浅右衛門が従ったという。季伴は小倉家を相続し、名を熈季と改め、権中納言正三位となり、享保五年(一七二〇年)十月二十五日に七十才でな
くなった。
出雲崎よりの舟路にて
頼りなき浪にこがるる身のうさを
人の情におもい忘れて
思 古 卿
幽浦雪深稀客間 寒風頻至苦瀾声 暫時難
忘古卿事 猶痛家君寂寞情
(佐島遺事)
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小倉大納言親子 131 配流の文人 小倉大納言親子 山本修巳
★小倉村重左衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★小黒イト
→小黒ヨシ参照
★小黒清鑑
→小黒ヨシ参照
★小黒ヨシ
新町 円静寺墓

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
天理教真野山分教会の創立者小黒ヨシが新町に布教を開始したのは、昭和七年四月一〇日であった。小黒ヨシは新潟県三島郡寺泊町生れ、夫が相川鉱山に勤めることになって、相川に居住し、その後、夫の急逝にあい、縁あって新穂の教会の信者となった。老母と十三才・十一才・九才の娘とのつらい生活であったが、布教につとめ、昭和二年には奈良の天理教本部で「おさずけ」を戴いた。こうしたなかで、小黒ヨシは実兄、末娘、実弟の相つぐ死去にあい、布教一途に励む心を定めた。その場所として、小木か新町かをきめかねていたが、畑野の分教会に詣でた時、阿部眼科医院に通っている新町の本間作衛の妻が、自動車事故で片限を失明して手術のあと苦しんでいるのにあい、新町での布教を心にきめた。このころ、新穂の教会に兄の病気を撥に通っていた河原ヒサが、新町の山本修之助に嫁していた。この人たちの援助で、新町牧野半次郎宅真二階を一か月三円五〇銭で借り、新町に布教の足場をつくることになった。昭和七年四月一〇日である。そして布教の活動は、新穂分教会の会長の長男、曽根一が二四歳の若さで、創立者の小黒ヨシを助けることになり、二、三か月経たころには信者も十人ほどになった。本間シズ・本間作衛夫婦・山本ヒサ・山本重内の妻・佐々木吉三郎の妻・三浦与七・本間源四郎などであった。しかし、物取り宗教だというような社会の偏見は根強く、困難な布教活動がつづいた。それから二年経たころ、昭和九年五月には、信者も八〇名くらいになり、牧野宅裏二階では手狭で、信者の山田フジの土地を借り、設計は、そのころ住みこんでいた佐和田町八幡の遠藤真一郎が行ない、工事は新町の渡辺熊蔵が六二〇円で請負って教会が建てられた。完成したのは十一月九日であり、翌十日に牧野宅から現在の真野山分教会のある位置に移転した。
こうした状況のなかで、翌昭和十年三月には教会設置の請願をすることになった。設置に関する書類には信者百十戸の調印や総経費八五〇円などが必要であったが信者は不眠不休の強行日程で奔走した。調印は信者の数では不足で親類や地域の人からもらったが、反対する人も多く、たいへんな苦労をしたと当時を回想して真野の佐々彦次郎は述懐する。小黒ヨシは四月二十一日午後四時、奈良の天理教本部で、中山正善天理教管長から「真野山宣教所」の設置を認可された。
この時小黒ヨシを助けた人たちは、曽根一、畑野町粟之江の今川甚治・遠藤真一郎・本間慎三・佐々木トシ子・臼杵与策は内部にあって、外部にあっては、若松市の小黒ヨシノ、近隣では、中川春太夫妻・薄木久五郎・佐々木善助・山田フジ・山本ヒサ・阿部コウ・永井与次右衛門・長仁三郎・佐々木政次郎本間作衛夫妻・松橋久五郎・牧野半次郎・臼木サヨ・佐々彦次郎・福田チヨ・福田キワ・本間キヨ・中川イソ・城塚伝内・山田三次郎夫妻などであった。新しい布教所が誕生して二、三年は信者は特宗教にはげみ、小黒ヨシとともに佐々木彦次郎は、毎日布教に出かけたという。
その後、戦中・戦後の社会情勢の不安定な中で、様々な苦難の道もあったが、初代の小黒ヨシが昭和十七年死去したあとは、二代の小黒イト・三代の小黒義正・四代に小黒清鑑と受けつがれていった。
・小黒館は昭和3年の夷大火まで神明町の角(現「再会」)。その後、八郎平町(後に「小舟」の場所)でレストラン小黒館を開店し、その後旅館小黒館となった。その後、移転して八郎平町でホテル蓬莱を開店した。・小黒ヨシは明治20年頃の生まれで、昭和17年に50台で没した。・小黒由太郎はヨシの長男で、横浜ニューグランドホテルで修行し、両津夷で小黒館を開店した。・ヨシの長女はヨシノで、会津若松の天理教関係の人に嫁ぐ。元は芸者であった。夫の死後、真野に戻って天理教の裏に住んだ。・ヨシの次女は糸子で真野天理教を継いだ。元は芸者であった。・4代は清鑑(みよみ)で昭和27年生。父が義正(3代)、祖母が糸子(2代)、曾祖母がヨシ(初代)となる。・新潟古町にあった小黒館は親戚である。・両津夷の蓬莱は昭和60年代頃に倒産し、甲斐氏に売却された。後継ぎの義邦(よしくに)はヤマキホテルに入り山口姓となった。昭和27年生。
★小黒由太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★小黒義正
→小黒ヨシ参照
★小栗淑子
「島の新聞」索引(人名別)
両津高校時代の s42、埼玉国体ボート部女子ナックル7位(池ひろ子、板野富代、尾潟香代、池かず子、坂田則子、甲斐かず子)
★尾形邦雄
佐渡高校時代の36.6.10~11、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合32点2位、走幅跳入賞
★尾潟七左衛門
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

子孫に尾潟恒雄が居る。➡尾潟恒雄
★尾潟照一

※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「44号」(平成28年1月)・追悼 皆に愛された自由人 尾潟照一さん(河原隆昭)
「島の新聞」索引(人名別)
★尾形仂(つとむ)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)尾形仂
55 佐渡のうた
56 「俳枕」考
★尾潟恒雄
昭和15年生、両津中ー佐渡高校卒後、家業の牡蠣養殖業(屋号は尾潟 かね七)を継ぐ。バスケットの選手や指導者として活躍し、白陵クラブの選手、監督、コーチとして活躍した。昭和39年の新潟国体には両津体協ボート部選手として出場し高位入賞した。
また、佐渡市発足と共に佐渡市体育協会長として島内のスポーツ振興に尽力した。
★岡田立蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

『故里つばき』


★尾形正嘉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★緒方護
椎泊長善寺


★緒方彌次右衛門(椎泊村)
赤泊地区


『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
寛延の代表的義民の一人、両津椎泊の人。名主ではないが知性高く、剛毅活達で義侠心が強く、立ち上れば水火の中も恐れない性質であった。寛延の増税で、佐渡は一国を挙げて減免の歎願運動が起ったので、名主七左衛門を助け常に先頭に立つて活動した。たまたま、寛延二年十二月在方役人の大森五右衛門と萩野善右衛門が延納督促に椎泊へ来て厳格な態度で村方に臨んだので、弥次右衛門は進んで調理方を引き受け、食膳の一椀毎に多量の蕃椒を加味して出した。
役人は大いに怒って無礼を責めたので弥次右衛門ほ「目下百姓ほ食糧がなく飢渇に苦しんでいるこの惨状が役人には見えないのか。役人の食膳のことなど在方では申すべきでほなかろう。」とやり返し、遂に役人を引き下らせた、と伝えられている。もとより命がけでなければやれないことである。やがて翌寛延三年に江戸直訴が決定すると、吉岡の七左衛門ら江戸に出たが、百姓らの委任状がないために上訴の手続きが出来ず、単身帰国することになり、商人に変装して松ケ崎から帰村し名主の七左衛門と第二回の大会を開いた。その決議にょってやらねばならぬ重なる仕事は
①各村惣代の証文をとり集めること
②訴状の資料を集めること
③代表を増員すること
などで、はるばる川茂の弥三右衛門を訪い、さらに辰巳の太郎右衛門と打ち合せて再び松ケ崎から越後の五ケ浜へ密航した。それから後続の新保の作右衛門、下村の庄右衛門、和泉の久兵衛らと合流し、江戸表で四カ月にわたって活躍し、完全に任務を果して十二月になってようやく帰国した。そして、それからも引き続き大活動を続けていたが、宝暦二年七左衛門とともに逮捕され、七月十八日獄中で死罪となったのである。享年六十六才。誓願寺の裏山に埋葬され、法号を釈凉敬という。墓は大正六年椎泊の青年団が建てたのである。

(左上段右)緒方弥次右衛門工門、本間七左衛門の彰徳碑
(左上段左)本間七左衛門墓-両津椎泊、本間家裏側両津湾に面する丘の上
(左下段大)本間七左衛門の生家-両津市椎泊
(左下段小)伊豆新島にある七左衛門の墓
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
両津市椎泊の農民で、寛延二年(一七四九年)免租歎願の時(本間太郎右衛門の項を見よ)同村の本間七郎左衛門と協力して、免税運動をした。三年幕府に直訴の時、吉岡村の七郎右衛門とともに江戸に出て、老中本多伯耆守、勘定奉行、新任の佐渡奉行に強訴した。四か月間江戸に滞在して佐渡に帰り、全島の名主を河原田へ集め、報告し、奉行所に訴えるようすゝめた。七郎左衛門とともに捕えられ、処刑された。六十六才であった。(佐渡人名辞書、近世越佐人物伝、越佐大観、殉国碑)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)



『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)


「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
寛延の百姓一揆(『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より)
★緒方弥生
『両津市要覧(昭和33年)』より

★岡田吉正
佐渡高校時代の昭和38.2.16、全国児童生徒デザイン展入選
★岡田米吉

★岡島亥吉
旧新町(真野)村長、明治三二年・八・二より。
★岡野久治
両津北五十里出身、明治35 年頃生-平成7 年没(92 歳)。昭和20、30 年代の新潟県を
代表する民謡の唄い手。第1 回民謡新潟県代表決定戦で優勝(昭和23 年)。以後、26 年、
28 年にも優勝する。昭和32 年NHK のど自慢関東甲信越大会2 位。千鳥会に属し浅草の
松竹演芸場等に出演。85 歳になっても各種大会に出場した。
★岡野他家夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)岡野他家夫 26 句集「海見ゆる坂」の著者
★岡野寛
「七段の女流棋士」(「佐渡の百年」)
★岡部卓爾
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★岡松伊予守
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、安政六年(一八五九年)徒士頭より佐渡奉行となった。名は久徴、知行二百俵、役料千五百俵百人扶持であった。
文久三年(一八六三年)八月十四日西丸留守居に転役した。(佐島遺事)
★岡松八右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、文化七年(一八一〇年)正月十一日、勘定吟味役兼納戸頭より佐渡奉行に、十年二月七日、佐渡で病死した。
相川寺町大安寺に葬った。名は久稠、知行は二百俵、役料千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)
★岡村亀蔵
「立浪会35年のあゆみ」(昭和34年)


★岡村久兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国清士岡村次郎左衛門の父である。天保七年(一八三六年)九十五才になつたので、役所から老養扶持(-人扶持)を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★岡村鉄琴
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)岡村鉄琴 138 佐渡にみる山本二峯の文士像
★岡村与三兵衛(おかむらよそペえ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国清士岡村与右衛門の父である。天保三年(一八三二年)に与三兵衛は九十五才になったので、役所から老養扶持を与えられた。天保八年百才になったので鳥目を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★岡村礼子

★岡本阿波野(中原俊精)
本名仲原俊精、文弥人形語り。明治19年生まれ、昭和10年1月15日、外海府五十浦部落へ文弥を語りに行き、そこで急死、52歳。真野新町に住んでいた盲目のアンマ。真野黒山生まれなので「黒山先生」と呼ばれた。師匠は池野阿波ノ一。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
文司と共に金子善次郎に習った弟子に仲原俊精がいる。明治一九年に黒山のこうじ屋に生まれた。先天的な盲人で、新町に住んであんまを業としていたので「黒山先生」とよばれた。体が大きく声量も豊かで、師匠の教えた節をくずさなかった。生涯阿波一の系譜をひくことを誇りとしていた。残念なことに盲人のためにレパートリーが少なく、語ったのは源氏烏帽子折、天神記・出世景清・こもち山姥・佐渡鑑くらいだった。かんの鋭い人で、愁嘆場になると感動して涙を流しながら語ることが多かった。惜しい語り手だったが昭和一〇年の一月、海府へチョンガリの三味をひきに行き、急病のため海府で亡くなった。
→「金子善次郎」参照
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
本名仲原俊精、真野町黒山通称「こうじや」で明治十九年生れた。生れつきの盲人で新町に居住した。按摩(あんま)をしていたので「黒山先生(佐渡では盲人を先生とよぶ)」といい、「出たか黒山、大コウべ(頭)」とからかわれるほどの大きな頭をしていた。師匠は黒山の金子善次郎であったというが、そのまた師匠の上川茂の池野阿波ノーの系統をついでいることを誇りとしていた。阿波ノーの三味線も大切に保存していた。節まわしも古拙を伝えていて、今思うと説経節に近いもののようであった。著者の家へもよく出入りしたので、いつかレコードに吹き込ませてやりたいと思ったが、その機会もなかったのは残念である。それだけに、義太夫節らしい文弥節には大反対であった。昭和十年一月十五日。相川町五十浦へ文弥節を語りに行き、そこで急死した、五十二歳。
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★岡本長左衛門
『新穂村史』(昭和51年)より
「佐渡年代記」に正保四年「亥年新穂村の銀山請負の山主沢井小左衛門、岡本長左衛門と云者自分入用を以古間歩普請致し其上新切山三ケ所取立る可く江戸表へ伺い願の通り申し付べき旨順斎より申来る」とある。慶長から正保にかけて山師の往来がさかんであり、(新穂)銀山が大いに稼がれたことが推則される。
★岡本文司(藤井政治郎)
文弥節語り。深山静賀の弟子。本名藤井政次郎、明治11年6月16日、真野町静平通称キュウジ(木藤)に生まれた。兄亀次郎と共に「黒山人形」の元祖エンタロウ(衛門太郎)金子善次郎に文弥節を習い、後に深山静賀に習う。25歳で太夫となり、窪田へ移り、晩年は河原田田町で過ごす。明治44年6月17日、東京音楽学校で深山静賀、岡本文寿と共に東京音楽学校で文弥節を披露し、レコーディングされた。
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある)
この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
明治二四年に、笹川から人形一組を買い入れたのは藤井亀次郎、すなわち岡本文司の兄である。しかし亀次郎はもう一組をすでに持っていた。ともあれこうして第二期の黒山人形が始まった。木藤こと亀次郎は元治元(一八六四)年の生まれで、一座を組んで人形を始めたのが二六年だというから三〇歳の時である。遣い手は笹川の人が多く、後に文弥語りの名人といわれる文司はその弟で本名政治郎、時に一六歳で最年少の遣い手だった。
真野官の境内には文弥節の石碑がある。黒山の木藤出身の岡本文司太夫の頭徳碑だ。「文弥浄瑠璃を聴きて」と題して、「年老いし文司が語るいにしへの哀しき歌に夜はふけにけり」と歌碑の形になっている。早稲田大学教授文学博士暉峻康隆の作。「哀しき歌」というのは「文弥節」のことで、昭和二七年の夏、十王堂で文弥人形を見た時に作ったものである。
→「金子善次郎」参照
★岡本文司
於:真野公園




『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
本名藤井政治郎、明治十一年六月十六真野町静平に生れた。同じ文弥語りの実兄亀次郎は十四歳上であった。兄と共に金子善次郎に文弥節を習い、明治二十六年第二期の黒山人形をはじめた。明治四十四年兄の亀次郎が四十七歳で死んでから、この人形座も廃絶した。そして彼は佐和田町河原田や八幡に居を転々とかえた。生れた土地の名から「黒山太夫」といったが、また「スミ太夫」ともよんだ、いかにも文楽の太夫にでもありそうな名前だが、これは木炭の産地の黒山からスミ(炭)をはこんで売買していたからの名前であった。美声で、義太夫の節に近かったが、役者は人形をつかうのによかったともいっている。明治四十四年、東京音楽学校の演奏には深山静賀と共に出演した。昭和三十年七月七日、七十八歳で死亡。死の四日前真野宮境内に建てられた記念碑の除幕式には、自動車に臥たまま出席した。碑面には暉峻康隆早大教授の「年老いし文司が語るいにしへの哀しき歌に夜はふけにけり」の短歌を刻み、碑陰の撰文と書は著者が拙筆をふるった。
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
★岡本文寿(松村村治)
本名松村村治、両津北松ヶ崎生まれ。文弥節語り。深山静賀の弟子。明治44年6月17日、東京音楽学校で深山静賀、岡本文司と共に東京音楽学校で文弥節を披露し、レコーディングされた。 吉井本郷で理髪業の傍ら、夷人形座の太夫を務める。晩年は両津原黒で過ごす。
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))」
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★岡本文盛
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
★岡本文弥→深山静賀
★岡本文弥
青野季吉「佐渡人」より
また、これは士ではないが、やはり加賀ものと云はれた盲目の文弥節語りも、私の町にゐた。本名は記憶にないが、芸名は岡本文弥と云つて淋しげな顔を宙に向けた恰好や弾き語りの文弥節の噎ぶやうな哀調が、私のこころに沁みついてゐる。それは加賀方面でうたはれた文弥節の一種で、俗に「泣き節」と云われたものだと、後になって知った。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★岡本文楽(おかもとぶんらく)[樋口五郎太]
【生没】一八七四ー一九一八 相川町入川の文弥人形「文楽座」の創始者である。明治七年一月五日生まれ。頭脳明晰で寺子屋(地蔵堂)にて論語・中庸などを学びその助手をつとめる。寺子屋を出ると、入川の「マツヨム人形」の一座に加わり、
折をみて、入川出身の池野文慶(文弥の座語り・盲人)から文弥の手ほどきをうけ、その才を認められ、彼の斡旋で当時文弥の神様といわれた沢根の常磐一の門人となる。文楽二○歳のころである。きびしい文弥修
業の後、免許皆伝となると文楽はムラに帰り、間もなく「マツヨム人形」を発展的に解消させ、新たに「文楽座」を創始した。文楽は途中日露戦争に召集されたが、明治三十八年暮ごろ凱戦し、明治四十年には、今まで
の人形を矢柄の仲屋石松に譲り、真野町黒山の藤井亀次郎から四五円で新しい人形を購入し、さらに小倉の人形遣いの名人新田伊作から遣い方を学び、「文楽座」の充実をはかった。文楽が亡くなったのは、大正七
年十一月である。享年四五歳、太夫としてはこれからという年齢だった。彼の死後、弟の石塚五三郎(千本の八兵衛)が人形をそっくり借りていたが、五三郎の死後(昭和十一年)再び文楽の長男の家(樋口五郎吉)
にもどり、新しい遣い手たちにより現存している。太夫は文楽の血をひく甥の梶原宗楽である。
【関連】文弥人形(ぶんやにんぎょう) 【参考文献】『高千村史』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】浜口一夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※文弥人形(ぶんやにんぎょう)
佐渡の人形芝居には、「説経人形」「文弥人形」「のろま人形」と呼ばれるものが三つある。その中で「説経人形」が最も古く、語りは説経節であった。「のろま人形」は、「説経人形」や「文弥人形」の中間に出る間狂言
で、太夫の語りはなく、人形遣いが生の佐渡弁で、即興的におもしろおかしく「生地蔵」などを演じた。明治以前の文弥節は、盲人の座語りとして伝承されており、それが人形と結びつき、文弥人形を成立させたのは明
治三年で、沢根の文弥語り伊藤常盤一と、小木の人形遣い大崎屋松之助との、提携によるものといわれている。佐渡の人形芝居は、かっての佐渡びとにとっては、かけがえのない娯楽の一つであった。古くは蔵田茂
樹の『鄙の手振』(文政十三年ー一八三○)や、ややおいて石井文海の『天保年間相川十二ケ月』には、相川塩釜明神での人形芝居のことが載っており、また『相川砂子』(舟崎文庫)の年中行事には、達者白山神社
での人形芝居の記事がある。幕末から明治にかけて、佐渡で活躍した人形座の数は約三○座ほどあり、そのうち相川関係のものは、関の閑栄座・矢柄の繁栄座・入川の文楽座など、八つもの人形座があったという。
これらは「佐渡の人形芝居」として、国の重要無形民俗文化財に指定(昭和五十一年八月二十三日)された。
【関連】説経節(せっきょうぶし)・広栄座(こうえいざ)・のろま人形(のろまにんぎょう) 【参考文献】佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】浜口一夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★岡本美絵

★岡本鈴次郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★岡林高蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★岡林初十郎
「近現代の羽茂」

★岡本文司
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=4
★岡本美絵

★小川温子
「エスライフ」(no82 2022年4・5月号)


★小川一灯(おがわいっとう)
相川、廣永寺の句碑 「ゆきかえり覗く小店や初雀」

【生没】一九一六ー五三 俳人。小川一灯は本名誠治、大正五年一月三日、相川町紙屋町で生まれた。大正十三年(1924)、一家が東京に転住するまで相川小学校に通う。東京府立五中を経て大倉高商を卒業し、大正生命保険会社に入社、そこで俳句の師滝春一(「春燈」主宰)を知る。精進して、自らも俳句誌「青桐」を主宰するが、肺結核になり、東京都下清瀬村の清心療養園に入院した。また同じく結核で東京療養所に療養中の石田波郷(「鶴」主宰)を知り、その影響を受ける。一灯は昭和二十八年七月十七日、三七歳の生涯を閉じるが、師の滝春一・石田波郷の序文で、生前の作品千五百句の中から三百句を選び、「一灯句集」として昭和二十九年五月一日に刊行された。波郷は序文の中で、「しどみ紅く滴りて服売りし金とどく」という一灯の句をあげて、戦後まもないころの療養者の「わびしい喜び」と述べている。昭和五十五年(一九八○)六月二十九日、小川一灯の句碑が菩提寺相川町広永寺に建立され、除幕式が行われた。「ゆきかへり覗く小店や初雀」という一灯の俳句で、相川町の繁華街の新年風景にふさわしいとされたものである。しかし実際は、一灯が相川小学校から転校した滝野川小学校の幼な友だちで、俳人岸田稚魚の書店の開業を祝った句であった。除幕式に出席した岸田稚魚は、佐渡を素材にして、「角川俳句賞」を受賞したが、「一灯の霊が私に名誉ある賞を与えた」と述べた。そうした縁があって、この俳句が碑に刻まれることになった。【参考文献】山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
俳人。大正五年一月三日に佐渡郡相川町紙屋町で生まれた。大正十三年八才の時、一家が東京へ移住した。東京府立五中を経て大倉高等商業学校を卒業、昭和十一年大正生命保険会社へ入社した。滝春一に師事し、句友岸田稚魚(第三回角川俳句賞受賞)は幼友だちであった。昭和十九年、肺結核で東京都下清瀬村の清心療養園に入院した。こゝで俳句誌「青桐」を主宰し、多くの若い俳人を養成した。このころ東京療養所に療養中の石田波郷を知り療養俳句に大きな影響を受け師事した。昭和二十八年七月十七日に三十七才でなくなった。遺稿集「一灯句集」は同二十九年五月一日、滝春一と石田波郷の序文で出版された、生前の作品千五百句の中から三百句を選んである。 しどみ紅く滴りて服売りし金とどく は昭和二十三年の作である。(佐渡の百年)
『一灯句集』(昭和29・私家版)
「十年患者まず喘ぎ結ふ七夕紙」「若き人は癒えてとく去る梅は実に」「尿捨ててもらふ聖夜の看護婦に」「母死にて父の優しきクリスマス」本名誠治。佐渡相川町生まれ。大正13年上京、昭和11年大倉高等商業(現東京経済大学)卒業。中学時代より俳句に親しむ。俳誌「暖流」「馬酔木」による。昭和12年頃、結核発病、昭和19年清瀬村清心療養園入院、院内俳誌「青桐}主宰。石田波郷に師事。大正5~昭和28。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小川一灯
21 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (1) 金子のぼる
22 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (2) 金子のぼる
23 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (3) 金子のぼる
24 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一灯 金子のぼる
24 小川一灯句碑除幕式と献句
27 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一灯のことども (6) 金子のぼる
35 小川一灯の俳句 (1) 金子のぼる
36 小川一灯の俳句 (2) 金子のぼる
38 鑑賞 佐渡のうた (31) -補遺- 小川一灯・金子のぼる 山本修巳
62 三十年は夢の間に -小川一灯の思い出- 秋山 珠樹
132 小川一灯「佐渡郷土文化」の電子化を試み 懐かしい人々に遭う
「「しどみの花」の俳人」(「佐渡の百年」)
★小川一男
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭和15年、県青年陸上競技大会800mR真野チーム5位(金森寅二・山田正太郎・佐藤佐一・小川一男)
★小川佳奈子
「島の新聞」索引(人名別)
★小川久蔵(おがわきゅうぞう)
小川久三の墓(相川中寺町、瑞泉寺)
右後ろに「高野」と書いた墓石が見えますが、こちらは赤穂浪士のひとり、赤垣源蔵=赤埴源蔵=赤埴重賢の「母親の実家」の墓地

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)

【生没】一八六七ー九三 米騒動の若き指導者。父は弥平。母はイト。その長男として、慶応三年九月二十五日大工町に生まれた。父の職業は戸籍に「雑業」とある。長女りえ・二女すみ・三女くらの三人の妹がいて、うち一人の妹は暴動ののち水金のくるわに身売りしたという。八歳のとき、出稼ぎの父に伴われて足尾銅山に住んだ。同銅山が国営財産から民間に払下げられた三年後の明治七年のころに帰国したあと、佐渡鉱山鉱夫となるのが十六年の六月、一五歳の時である。幼少時は家が貧しいので、妹をおんぶして教室の窓の外から先生の授業を聞いていたなどの逸話がある。暴動が起こる明治二十三年六月は、相川六番組(大工町辺)の消防小頭で、四四人の長だった。妻はなく母と妹だけの暮らしで、生まれつき男だての気性があり、天保一国一揆の上山田善兵衛の人となりを慕っていたと、『北溟雑誌』は伝える。暴動のあと、二○○人を超える検挙者と共に新潟に護送され、軽懲役七年の判決を受けて新潟監獄所に服役中、天然痘におかされて明治二十六年二月二十五日に二五歳で病死した。「小川久蔵は、該裁判所に服せず、東京控訴院に控訴したり」(新潟新聞)とあるから、上審の判決を待たずに獄死したことになる。大工町の故富田トク(明治十一年生れ)は、「中肉中背で、ニコニコした色白の人だった。連れられていくとき、いい子になれよ、といって私の頭をなでていった」と回想している。佐渡鉱山が御料局の所管だった御料局長当時に来島した品川弥二郎と面識のあった、金井町の篤農家茅原鉄蔵は、暴動の翌年二十四年に第一次松方内閣の内務大臣として入閣した品川に、久蔵の助命嘆願を願出たと、昭和八年になって回想している。中寺町の瑞仙寺に久蔵の墓(地蔵佛)が残っていて、香花が絶えたことがないといわれた。
【関連】相川暴動(あいかわぼうどう)【参考文献】『北溟雑誌』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※相川暴動(あいかわぼうどう)
明治二十三年(一八九○)の六月末に起こった、全国最大規模の米騒動。相川から始まったので、新聞は相川暴動と報じた。打ち壊しなどの被害を受けた町村は、全島で一五、被害戸数は七七戸におよび、鎮圧のため新発田から一箇中隊が海を渡った。発端は米価騰貴で、二十二年九月からほぼ全国規模で起った。佐渡では、同月二十八日に夷町で貧民四百余人が、廻船問屋と米商人五軒に乱入して、米の積出しをやめさせる「津止め」の証書をとるなどの騒ぎになり、翌二十九日に相川に波及した。一升七、八銭の米価が、十二銭に騰貴したためで、町内の米屋・廻船問屋・質屋・金貸業・酒造業・四十物商・精米業など、一八戸が壊される。相川がもっとも被害が大きかった。翌三十日は、二見・沢根・河原田・金沢、また八幡から新町を経て畑野へ向う一隊があり、第一回衆院選が行なわれた七月一日は、南片辺から小田村まで、海府一帯の地主層が襲われ、島中がパニック状態におちいった。『北溟雑誌』によると、このころ小木港でも「細民頻りに動揺し、頗ル不穏の景况」で、重立ち衆が二千円を三か月無利子で細民に貸しつけることで、「鎮静」に向った。真野町では、新町浜からの米の津出しをやめさせたほか、重立ちが都合千二百円を供出し、「右金ニテ相当値段ヲ以テ米穀ヲ買入シ、買値段ヨリ三割引ヲ以テ町内ノ人民ニ売渡スベク実施」するなどの救済策がとられ、暴動をまぬがれたとある。相川ではそのような事前の救援策がなかったことが、暴動拡大のひきがねにもなっていた。相川湾から、度津丸で新潟に連行された検挙者は二○○人を超えた。新潟地方裁判所の判決によると、沢根の港から大坂へ米を積み出していた九百石積の和船「万徳丸」に、石油で放火した三五歳の坑夫が、重禁錮一二年でいちばん重い判決を受け、指揮者とみなされた二二歳の鉱山坑夫小川久蔵は、軽懲役七年。服役中に獄死した。
【関連】小川久蔵(おがわきゅうぞう)・相川暴動顛末記(あいかわぼうどうてんまつき)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八六七-一八九三)(出生、居住)相川事件の指導者。佐渡鉱山の元坑夫で、大工町の消防小頭だった。義侠心のある青年で、事件の前、精米所などを詳しく内偵し、米価の引き下げを勧告し、役所や警察にも引き下げの斡旋を依頼したが、米商らの応諾はなかった。明治二十三年六月二十九日、相州町例祭の夜、久蔵は、大工町の細民を指導して、相川町内の精米所を打ち毀し
た。打ち毀しに加わる者の数は、ふくれ上り、廻船問屋、質屋、酒造業者などを襲い、三十日には、沢根、二見、金沢、八幡、新町、畑野へ行き、第一回衆院選の行われた七月一日には、陸と海から海府の地主層を襲った。加わる者、二千余。秩父困民党の軍律に似た「規約」は、久蔵の本隊以外には行き亘らず、郡長の懇願、警察署長らの説諭も効なく、無政府状態であった。この事件は、このころ全国で頻発した米騒動の中の最大のものであった。郡長の要請で新発田歩兵一中隊が到着したのは、事件の終ったあとであった。検挙者は二百人を超えた。久蔵は、軽懲役七年の判決を控訴したが、天然痘にかかり、獄死する。
明治時代に佐渡で起きた暴動のうち、最も大きなものが相川暴動である。別名を米騒動という。明治23年、米の価格が2倍近くに暴騰した。暴騰の原因は不明だが、多分凶作のせいであろう。人々の生活は次第に苦しくなり、それにつれ人心が不安定となった。米の値上がりは米商人のしわざだと思い込んだ村人達は、まず精米所を襲撃した。次いで火の手は沢根に移り、酒屋と廻船問屋を営む「青野季吉」の実家が襲われた。酒樽が壊され、酒が川のように流れ出し、沖に停泊した船には火が放たれる。河原田で決起した暴徒は、群役所を河原田に移そうと画策する連中や自由党員などに襲い掛かり、更にこの暴動は国仲一帯や外海府にまで及び、佐渡は無警察状態に陥った。こうした全島に及ぶ暴動を首謀したのが小川久蔵である。久蔵は相川鉱山の鉱夫の子として生まれた。久蔵が火付け役となり佐渡全土に飛び火した暴動は3日ほど続いたが、首謀者として捕えられた久蔵は、暴動を鎮めるため、2~3人の同士と共に、「引き上げ、小川久蔵」と書かれた白旗を掲げて群集の中に入り、ようやくこの騒動は収束した。久蔵の処罰は懲役7年の刑であったが、翌年獄死して果てた、この小川久蔵の墓が瑞仙寺の境内にあると聞き、私は瑞仙寺を訪ねてみた。ところが一向に墓らしきものが見つからなかったので、たまたま境内におられた住職さんに場所を尋ねてみた。すると彼は「ああ、久蔵の墓はねえ~、境内の外にあります。以前は境内にあったのですが、皆さんがお参りしやすいようにと外へ移したんです」と答えながら墓の場所へと私を誘導してくれた。久蔵の墓は墓というよりもお地蔵さんのような感じである。そしてこの墓の右隣に赤穂浪士の一人、赤垣源蔵の母の生家、高野家の墓があった。
参考文献:「隠れた佐渡の史跡」(山本修巳)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 相川大工町 ・明2、相川の米騒動[二十三年六月二十九日]「佐渡関係事典に載る」
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数49
★小川真一郎








両津市浜田出身(実家は「小川菓子店」)。
「株式会社 GOOD FORTUNE」代表取締役社長。
(会社住所)東京都目黒区鷹番 (資本金)500万円 (設立)2010年7月28日
(事業内容
1、飲食料品の製造・卸・小売及び輸出入 2、日用品の製造・卸・小売及び輸出入 ) 3、飲食店の経営 4、酒類の販売
はじめまして。チャッキーこと、小川真一郎と申します。 新潟県佐渡島生まれ、趣味は料理とブルースギター。約20年間高校教師をしていました。そんな私が、なぜ今まで生きてきた世界とは全く異なるこのような店を始めようと思ったのか、そんなストーリーにお付き合いください。大学卒業後すぐ、新潟県の公立高校の教壇に立っていた私ですが、1998 年にマレーシア工科大学に数学教師として2年間派遣されました。この時の体験が私の人生にとって大きなターニングポイントとなりました。多民族国家マレーシアの生活・文化そしてエネルギッシュな人々に刺激され、 心の中から湧き出るように 外国生活への興味が急激に高まりました。以来、頻繁に海外に出かけるようになり、マレーシア在任中、短期の休みをすべて利用して、近隣諸国、オーストラリア・ニュージーランド・シンガポール・タイなどを何度も 訪れました。また、マレーシアからの帰国後は、特に興味のあったロンドン・パリに何度も足を運びました。もともと料理好きで美味しいもの探しが大好きな私にとって、どこの国へ行っても、地 元のグロッサリーや市場を廻り、その土地で食べられている美味しいものや珍しいも のを探すのが旅の楽しみの一つです。 レストランでよくわからないメニューと奮闘しながら食事をするよりも、美味しいものとワインを調達してきては、ホテルの自室で自ら調理をし、ディナーを楽しむほうがずっと楽しい!そんな旅を繰り返していました。2002年12月。4度目のロンドンへの旅。 いつものように行き先は特に決めず電車に乗り、蚤の市やグロッサリー、商店街を廻る旅を楽しんでいたある日のことです。ロンドン北部郊 外のふと立ち寄った街ハムステッドで、運命のグロッサリーストアに出会いました。 外観は一見「自由が丘にあるおしゃれな雑貨屋さん」、そんな風にしか見えない、白を基調にしたか わいらしいお店でした。店頭には野菜が並んでいて、どうも食料品店らしい。しかし、ロンドン・パリで今まで観てきたグロッサリーとは全く異なります。興味津々で店内に入ってみると、その瞬間から私のワクワクが止まらなくなりました!店頭のディスプレイ・商品の陳列・ 照明など、どこを切りとっても絵はがきになりそうなかわいさです。乙女心(?)のように心がときめき、 つたない英語で店主との会話を楽しみながら、狭い店内にかなり長時間いた気がします。この食料品店がずっと気になり続けて8年、あの日のワクワク感と心のときめきがひとつの形になりました。それがGOOD FORTUNE FACTORYです。 かわいくて楽しくてワクワクする食料品店。豊かな気持ちになれて笑顔を持ち帰れ るような食料品店。ハムステッドのグロッサリーのワクワク感を再現するために、そんな思いを込めて店名をつけました。店名にも関連して、GFFを出店するにあたり、大切にしていることがあります。
それは、「関わるすべての方に幸運が訪れる店にしたい」ということ。 私の生家は和洋菓子屋です。毎日朝早くから菓子を作り続ける父親と家族の姿を見て育ちました。店頭に並ぶお菓子が、何人の手によってどのような過程のもと出来上がってゆくのか見ながら育ちました。 商売の現場では「お客様は神様」。お客様が最も大切にされているのはいつでもどこでも同じで当然です。しかし、それだけで商いは成り立ちません。 心をこめて作る職人がいて、それを丁寧に届けてくれる運送屋さんがいて、店頭に愛おしく陳列して接客する販売員がいます。どれを外すこともできません。すべてがセットで「商い」です。ひとつの商品がお客様の手に渡るまでに関わる全ての方が笑顔になれて、すべて の方に幸運が届けられる、そうなって初めて「商い」は成り立つのではないかと 思うのです。こんな思いで"幸運工房"GOOD FORTUNE FACTORY"が生まれました。ぜひ末長く暖かく見守ってください。よろしくお願いいたします。(株式会社GOOD FORTUNE 代表取締役 小川真一郎)
※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「38号」(平成26年7月)すべての人にグッドフォーチュン(幸運)を(遠藤隆)※小川真一郎「40号」(平成27年1月)ライブハウスRAISEで「六本木be in SADE」※小川真一郎

★小川淑子
佐渡高校時代の昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★小川の瓢箪→田中大蔵
★小川一
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★小川博
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小川博
25 金北山の「はつやまかけ」
93 宮本常一先生と佐渡の九学会調査の想い出
★緒川文雄
『酒天VS頼光』(「西蒲新報」平成5・2月号~平成6・5月号)
今から千年余の昔、酒天童子という悪人がいて、故郷に居られず、都の近く、大江山に住んでいたところを源頼光に成敗された、という古来の伝説に対し、そうではなく、源家のために「つくられた悪人」であるとする。作者は視点を一種の貴種流離讃として構成し、最後は洒天自身は大江山で頼光と直接闘わず、海上に新天地を求めてある島に上陸し、そこで大津浪に呑まれて行方不明になった、としている。
★小川未明
「来島の越後の三作家」(「佐渡の百年」)
小川未明:来島は明治32年頃(高田中学時代) 「麗日」(明治42年 春陽堂発行「惑星」所収)
★小川亮


★沖口誠
「ショートプロフィール」1985年(昭和60年)生。両津夷に縁の体操選手、北京オリンピック体操団体で銀メダル。世界選手権では跳馬、徒手で優勝したが五輪直前に怪我、五輪では個人種目は出場なく代りに出た19歳内村航平が世界デビュー。


1985年(昭和60年)~ 両津夷に縁のある体操選手で、北京オリンピック体操団体で銀メダル。世界選手権では跳馬、徒手で優勝したが、五輪直前の怪我の為五輪では個人種目は出場しなかった。現在は実業団のコナミに所属し、内村、山村選手等の先輩格として活躍している。彼の祖父沖口光臣さんは両津夷にあった沖口旅館の方で彼は佐渡三世である。
ウィキペディアより
沖口 誠(おきぐち まこと、1985年11月22日 - )は、大阪府出身の体操競技選手。コナミスポーツ所属。2008年北京オリンピックに出場、男子団体競技で銀メダリスト。
・人物:大阪府泉南郡熊取町のトップスポーツクラブから大阪体育大学附属中学校、関西高等学校、日本体育大学体育学部体育学科卒業。身長161cm。体重57kg。北京オリンピック団体銀メダリスト。 大学時代からメキメキと力をつけ日本代表をする選手に成長する。得意種目は床。北京オリンピックは足を痛めての出場であったが、持ち前の粘りで床で高得点をだし、団体銀メダル獲得に貢献した。
・経歴:2007年 世界体操競技選手権大会 団体2位
2008年 カタール国際 2位、彩の国功労賞を受賞。
2008年 NHK杯兼北京五輪代表決定競技会 (五輪出場が決定)
2008年 北京オリンピック団体2位 銀メダル獲得
2008年9月8日、大阪スポーツ大賞、受賞。
2011年 世界体操競技選手権大会 種目別跳馬銅メダル





「ウィキペディア」より
★沖口楼すみ子
「両津甚句」「新おけさ節」をレコーディング(昭和20年前後)。沖口楼は両津夷神明町にあった。この沖口楼の孫筋にあたるのが北京オリンピック体操団体銀メダルの沖口誠である。
「島の新聞」

★小木曽政一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★荻野晶子
「島の新聞」索引(人名別)
★荻野桂三
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治中期頃になると眼科医荻野医院が上町で開業、続いて内科耳鼻咽喉科本間医院、内科産科婦人科長嶋医院、内科臼杵医医院、昭和に入ると内科山田医院、小児科後藤医院などの開業がみられ、歯科医では小杉、樺島の両医がそれぞれ専門医として住民の診療にあたっていた。次男に能楽の大家野村蘭作がいる。(野村蘭作は本間令桑の孫と書かれたものもある。)
※「佐渡能楽の里」に陳列されていた野村蘭作の経歴には「萩野桂三」とある。
★荻原源左衛門
荻原源左衛門(田中圭一講演集より)
★荻原重秀(おぎはらしげひで)
【生没】(生年不詳)ー一七一三 通称彦次郎。元禄三年(一六九○)十一月、勘定吟味役より佐渡奉行に任ぜられ、同九年勘定奉行にすすみ近江守を受領、佐渡奉行を兼任、正徳二年(一七一二)九月新井白石の弾劾で失脚するまで、二二年間佐渡を支配した。渡海したのは元禄四年四月から七月まで、あとは用人数人を留守居として佐渡に置き支配する。元禄五年の貨幣改鋳に際し、元和以来の佐渡小判鋳造を止めて、焼金・筋金・砂金等すべて江戸に上納し、以後江戸の金・銀座で元禄・宝永の改鋳を行った。荻原の佐渡奉行就任は、幕府財政再建が目的であったから、同九年に竣工した南沢疎水道開鑿、鶴子・新穂滝沢・西三川等諸鉱山の再開発など、江戸からの莫大な資金による積極経営であった。これによって鉱山は活況を呈し、相川は殷賑をきわめ、農村にも貨幣が流通した。荻原は郷村支配でも、画期的な政策を実現した。元禄七年佐渡一国検地を行い、はじめて
田・畑・屋敷の実測検地を石高制によって行ない、一三万石を検出し、佐渡の近世的郷村支配を確立した。荻原は検地による増税に農民が反対することを抑え、かつ農村を潤した貨幣を幕庫に還流するため、田方年貢の半分を、時価の半分で銀納させるとい、巧妙な税制を実施した。佐渡における荻原の治政は、中央の評価と異り高く評価され、荻原支配の時代を「近江守様時代」と賞讃し、正徳三年十月二十五日死去すると、縁故の役人らが主唱して、相川下寺町本典寺に供養塔が建てられ法要が営まれた。至誠院殿重源日秀大居士の法名は、それを物語っている。【関連】元禄検地(げんろくけんち)・南沢疎水坑(みなみざわそすいこう) 【参考文献】伊藤三右衛門『佐渡国略記』、麓三郎『佐渡金銀山史話』、『新潟県史』(通史編3近世一) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※南沢疎水坑(みなみざわそすいこう)
南沢を坑口とする佐渡鉱山最大の排水坑道。「南沢水貫間切」または「南沢水貫間歩」とも古くは呼ばれた。「間切」は坑道をきりぬくこと、「間歩」は坑道自体の呼び名である。元禄四年(一六九一)の七月二十五日に起工し、同九年の五月十日に完成した。四年と一○か月の工程で、長さは九二二メートル余。全線とも岩盤で、鑚と穿鎚だけが頼りの手堀作業である。工程内の岩石の比率は、水金沢凝灰岩が二九六・五メートル(三二・二%)安山岩が二五八・○メートル(二八%)吹上流紋岩が二三○・○メートル(二五%)庚申塚熔結凝灰岩が一三六・五メートル(一四・八%)。わりと硬い流紋岩と安山岩帯が五五%を占めていて、想像を絶
する難工事となった。坑道の大きさ(断面)は「高さ八尺」(二・四メートル)「横六尺」(一・八メートル)を標準とし、天井を山型に切り、底部をいくぶん広げた「将棋の駒」形に仕上げてある。工法にも苦心した面がみられ、開始点の鉱山(千松水坪)と、終点(南沢)の両方から同時着工したばかりでなく、中間にほぼ等間隔に二本の竪坑を掘り下げ、予定の地底に達すると前後に「迎い堀り」を開始した。ここで工区が三区分され、合計六か所から堀進するという画期的な工法がとられた。有名な静岡県の「箱根用水」から二五年ほどのちの工事で、この難しい測量にいどんだのが「与右衛門」という振矩師。この人は町人の出とされ、勘定頭兼務で佐渡奉行になった荻原重秀(近江守)がこの工事を裁可した。なお元禄十四年(一七○一)から、南沢坑口~相川湾の間に「百九間三尺(一九九メートル)」の追加工事があったことが『佐渡風土記』などに記されていて、総延長は一一二一メートルとなる。平成六年(一九九四)五月二十四日、国の史跡に指定された。
【関連】静野与右衛門(しずのようえもん)・荻原重秀(おぎはらしげひで) 【参考文献】磯部欣三「南沢疎水」、飯塚一雄「新技術史の旅」 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ウィキペディア」より
荻原 重秀(おぎわら しげひで、万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))
江戸幕府の勘定奉行。管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで有名。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下・近江守。
・経歴
旗本荻原十助種重(200俵)の次男として江戸に誕生。母は横松氏の娘。武鑑に本国甲斐とあるのは、荻原家始祖の常陸介昌勝(1461年-1535年)が武田氏より分家して甲斐国山梨郡荻原村に移り住んだためである。昌勝は国境の秩父口防備にあたり、武田信虎・晴信の2代にわたって弓術と兵法を教えたと言われ、武田二十四将の1人に加える異説もある人物である。武田氏滅亡後は三世甚之丞昌之が徳川氏に仕えて旗本となる。爾来、荻原家本家は八王子に留まり分家の1つと共に代々八王子千人頭を勤めたが、他の分家はみな江戸に住まい、それぞれ旗本として明治維新を迎えた。荻原種重家の家督は兄の荻原左兵衛成重が継
ぎ、重秀は別家を興した。延宝2年(1674年)10月26日に幕府勘定方に列し、11月7日に将軍徳川家綱にはじめて謁見。延宝3年(1675年)12月21日、切米150俵を支給された。延宝7年(1679年)12月3日、先の五畿内検地の功績で時服二領羽織一領を与えられた。天和元年(1681年)に上野沼田藩主真田伊賀守信利が改易にされた際にはその郷村の受け取りのために沼田へ赴いた。天和3年(1683年)10月11日、勘定組頭に就任。12月21日に100俵を加増。貞享4年(1687年)9月10日、勘定頭三名の罷免により勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に任命され、さらに300石を加増され、先の250俵の切米も領地に代えられて都合550石を領した。12月25日には布衣の着用を許された。元禄2年(1689年)8月21日、200石加増(都合750石)。元禄3年(1690年)10月7日には佐渡奉行に任ぜられた。元禄8年(1695年)12月22日、1,000石の加増(都合1,750石)。9年(1696年)4月11日、勘定奉行に就任し、250石を加増(2,000石)。12月22日に従五位下近江守に就任した。元禄11年(1698年)12月21日にはさらに500石の加増があり(都合2,500石)、元禄12年(1699年)4月には長崎へ赴いている。元禄16年(1703年)2月にも稲垣重富の副使として京都・大阪・長崎などへ赴いている。宝永2年(1705年)12月11日に700石加増される(都合3,200石)。宝永6年(1709年)に将軍徳川綱吉が死去し、徳川家宣が六代将軍となると、新井白石などの家宣近臣達との関係が悪化。宝永7年(1710年)4月25日、張り紙値段を勝手に引き下げようとして、将軍家宣への拝謁を禁止されているが、わずか4日後の29日には許されている。12月11日には500石の加増を受けており、都合3,700石を領した。さらに正徳元年(1711年)7月18日にも評定所での精勤ぶりをもって熨斗縮絹紬、越後縮などを与えられている。しかし新井白石の憎悪は深く、度重なる弾劾を受けて、病没寸前の家宣はついに折れ、正徳2年(1712年)9月11日に勘定奉行を罷免された。嫡男の荻原乗秀には辛うじて越前国坂井郡で700石の相続が許された。正徳3年(1713年)9月26日に死去。絶食して自害したとも言われる。東京都台東区谷中の長明寺に葬られた。法名は日秀居士。妻は青柳勘右衛門道孝の娘、後妻は高木忠右衛門定清の娘。なお嫡男・乗秀の母はそのいずれもでなく、某氏の娘。
・経済政策
・延宝検地
家綱の代の延宝5年(1677年)幕府は太閤検地以降80年もの間一度も検地を行わなかった五畿内の検地を実施した。事後の人事動向から見て、検地の細かい業務立案者は荻原重秀であったと推定される。重秀は、五畿内の土豪出身の世襲代官の妨害を排する為、近隣の諸大名に検地を行わせる事を提言し、同時に勘定所からも巡検団を派遣して現地調査を行う事で、より正確に現地の状況を把握する事に努めた。更に重秀は、これらを円滑に行う為の全29条の検地条目を策定し、見事に検地をやり遂げる事に成功した。この結果を受けた重秀は、延宝8年(1680年)に将軍の座に就いたばかりの綱吉や幕閣に対し世襲代官制の弊害を提言し、それを受けた幕府は世襲代官達を一掃して、代官の完全な官僚化を推し進めた。
・佐渡金山再生
元禄3年に佐渡奉行に任ぜられた重秀は、当時生産量が落ち込んでいた佐渡金山を再生させる為に、翌元禄4年(1691年)佐渡へと渡海した。現地にて金山の状況を調べ上げた重秀は、坑内に溜まった地下水を排出する為の排水溝を掘削する事を決める。その5年後の元禄9年に「南沢疏水坑」が完成し、これにより佐渡金山は生産量が回復した。これと平行して重秀は、佐渡国の大規模検地に着手し、その結果元禄4年の年貢収入は前年より8割も増加し、重秀はその増加分を佐渡金山再生に充てる事で、佐渡全体の経済サイクルを構築した。しかし、この年貢増徴策が佐渡の農民の怒りを買い、後々の失脚の一因となった。重秀は2ヶ月間の滞在の後に江戸へと帰還し、以後は佐渡に渡海する事は無かったものの、21年間に亘って佐渡奉行として現地との連絡を欠かさずに取りながら、佐渡の治世や金山管理に勤めた。
・貨幣改鋳
元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった。それをかろうじて回避していたのが将軍綱吉とその生母桂昌院の散財癖だったが、それは幕府の大幅な財政赤字を招き、この頃になると財政破綻が現実味を帯びたものになってきていた。そうした中で、綱吉の治世を通じて幕府の経済政策を一手に任されたのが重秀だった。重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない、という貨幣国定学説を200年余りも先取りした財政観念を持っていた。従前の金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨への移行することができれば、市中に流通する通貨を増やすことが可能となり、幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。そこで重秀は元禄8年(1695年)、慶長金・慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金・元禄銀を作った。訊洋子が著した『三王外記』には、このときの重秀の決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。幕府の改鋳差益金は約500万両にもなった。従来この貨幣改鋳は経済の大混乱を招き、未曾有のインフレ(元禄バブル)をもたらしたと考えられてきたが、金沢大学教育学部教授の村井淳志の研究によれば、元禄期貨幣改鋳の後11年間のインフレ率は名目で平均3%程度と推定され、庶民の生活への影響はさして大きなものではなかったという。その一方で、改鋳により豪商や富裕層が貯蓄していた大量の慶長金銀の実質購買力は低下し、商人たちは貨幣価値の下落に直面して貯蓄から投資へ転じた。こうして従前は幕府の御金蔵から商家の蔵へ金銀が流れる一方だった経済構造に変化が生じ、これ以上幕府財政に負担をかけずに緩やかなインフレをもたらすことが実現された。その結果経済は元禄の好景気に沸いたのである。しかしこの時期は、関東の元禄地震、東海〜南海の宝永地震、富士山の宝永大噴火など大規模な自然災害に加え、宝永の大火による内裏焼失や将軍代替わりによる出費が続いたこともあり、幕府の赤字財政からの脱却は困難を極めた。重秀は一方では佐渡金山にテコ入れ策を講じ、また一方では長崎貿易を増加して運上金を徴収、さらには全国の酒造家にも50%の運上銀をかけるなど、一貫して幕府歳入の増加に努めたが、焼け石に水だった。そこで財政赤字の補填を目的として宝永3年(1706年)には宝永銀、宝永7年(1710年)には宝永金・永字銀と立続けの貨幣改鋳を行ったが、今回は特に銀貨の品位が大幅に低下して通貨量が増大したことから著しいインフレが発生、商人が保有する資産価値が低下し景気悪化した。撩乱した元禄文化はここに終止符を打ったのである。
・死後
荻原重秀は書物を残さなかった。これに対し、重秀を追い落とした新井白石は『折たく柴の記』で「荻原は26万両の賄賂を受けていた」などと根拠のない悪宣伝[要出典]を繰り返し、一方的な悪評が定着した。しかし重秀の無筆がもたらした最大の災厄は、幕末の開国時に起きた。実物貨幣から信用貨幣へのシフトという政策を支える経済理論が後世に伝わらなかった為、改鋳により金地金より高い価値を持つようになった金貨および南鐐二朱銀以降秤量貨幣から計数貨幣へ切り替わるとともに銀地金の数倍の価値を持つようになった銀貨の仕組みについて、幕府は金本位制が主流の欧米諸国を納得させる説明ができず、地金の価値に基づく為替レートを承認させられた。諸外国では金銀比価が金1:銀15に対し、日本では金1:銀5であった。その結果、金が国外に大量に流出し、流出防止の為に金貨の価値を銀貨の価値に対し相対的に引き上げる必要が生じ、金貨の量目を低下させたので、インフレーションが発生し、日本経済は混乱した(幕末の通貨問題参照)。
・参考文献
村井淳志著『勘定奉行荻原重秀の生涯』(集英社新書)集英社,2007年
荻原重秀(田中圭一講演集より)
★荻原井泉水
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)

ウイキペディアより
★荻原安治
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=17
★小木番所附問屋能登屋仁右衛門下女よし
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★荻野次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、日本大衆党の演説会[四年十月二十七日]
★小木町 三屋
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。三代藤井鉄蔵が鍛冶業を行なっていたが死後廃業。
★奥田瑛一(えいいち)

生年月日 1991年9月18日(29歳)・出身地 新潟県佐渡市→東京都→仙台・職業 麻雀選手(雀士)
1991年9月18日生まれ、新潟県佐渡市出身の麻雀選手(雀士)。
★奥田敦也
『両津市要覧(昭和33年)』より

★奥田勘右衛門

文雄の父奥田勘右衛門は富山市四方(ヨカタ)の出身(文雄の出生地)です。両津町の初代?町議会議長も務め昭和30年代両津の旅館街のリーダー役でした。文雄は自慢の父でしたので功績は沢山あって書ききれません。同じ富山ご出身の菊池市勘佐エ門氏(当時教育長?)とのご縁で昭和35年両津中学校を南・東に分けるときのPTA会長でした。時代が変わって今はもとの両津中学校になりました。安田火災では代理店の草分け的存在で全国の他社代理店にも「佐渡の奥田」で知れ渡っていました。
これは文雄の改名して使っていた名前です。昭和37年に瓦・材木商「奥田産業」が倒産したあと縁起のよい画数のこの名前にしました。
奥田家の孫長男は生まれる前から名前が決まっていました。現在の奥田敦也は画数がよいのですが、いまだに父義昭のスネをかじっています。
父、ナガオカヤ、小島ボーイ、ほか、「明星楽団」をご存知ですか?
楽団のことはナガオカヤの襟子さんにも聞いておきます。
奥田文雄には坂本守正(母が山形の人)という腹違いの弟がいました。三菱商事に勤めていて、そうそう戊辰戦争の本を出版しました。奥田家の家系は複雑で私の姉淑子が家系図を作ってあるのであとでコピーをお渡しします。富山館は祖父と小林さんが経営、小林さんの長女の子一子さん(今96歳)が継ぎました。弟2人は東京の大学へ進学・就職しました。当時旅館を手伝っていたのは文雄です。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『両津市要覧(昭和33年)』より

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
実業家。明治十七年十二月六日、富山県で生まれた。
両津市に住み、佐渡商議所会頭、両津市議会議長、佐渡観光、佐渡汽船各監査役、自民党両津支部長等になった。(新潟県年鑑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和40年代まで両津海岸通りにあった旅館「富山館」(現在 「スーパーキング」)を経営し、往時は真ん前の角地も「富山館」支店であった。
関係企業に奥田保険がある。
★奥田茂治
両津夷の奥田薬局創業者。福井県で生まれる。姓は斎藤で、新発田市の奥田家に入り婿。
両津夷に移住する。奥田薬局は、奥田茂治-奥田昇-奥田俊-奥田聡と続く。茂治には長男昇、長女もと が居り、もとは福井の斎藤家を継ぎ、湊に住み薬品販売業を営んだ。斎藤家は現在新潟市在住で、長男が以前両津労働基準監督署所長であった。
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★奥田澄子
両津高校時代の1988年度(S63)11月、新潟県競書大会 準特選
★奥田直
「躍進日本」

★奥田昇
『両津市要覧(昭和33年)』より

★奥田文雄(=敦也)
★奥田文子
佐渡高校時代の昭和36、書道芸術院主催全国書道コンクール、日本書道学会賞
★奥田茫仲(與惣右衛門)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)



※「奥田与三左衛門(よそざえもん)」とも
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の奥田勘左衛門良忠の五男で、名は茫仲といった。江戸に出て、土屋相模守数直に仕えて老職となった。
数直の死後はその子の政直に仕え、政直が土浦藩主となった時は、千石どりであった。
元禄四年(一六九一年)正月になくなった。
与三左衛門のこどもの時の歌に
いつかわれとりの鳴音におきいてて
きみにつかへん暁もかな
というのがある。年おいた母が与三左衛門に会いたいということを聞き、相川に帰った。
親戚知人が与三左衛門を招待したが、みな断わった。主人に暇をもらって帰ったのは、ただ母に会うことだけであるからと、十日あまりの間の母そばにいて、夜も床をならべて寝たという。(近世越佐人物伝、佐渡志)
★奥田陸鵞
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で、通称を稲次郎といい、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★奥平謙輔(おくだいらけんすけ)
(河原田小校長室)

【生没】一八四○ー七六 長州藩士、越後府権判事。藩校明倫館に学び、慶応二年(一八六六)五月干城隊に入り、明治元年戊辰戦争に参加して越後・会津に転戦、十一月五日新潟府の民政方役所の参謀兼民政方に任命され(明治二年二月に越後府権判事となる)佐渡の統治に当たった。奥平は配下の北辰隊を先遣するとともに、自らも十一月十三日に佐渡に上陸して、旧佐渡奉行所の中山脩輔から平穏裡に佐渡支配を引き継ぎ、ここに佐渡は名実ともに新政府の統治下に入った。奥平謙輔の佐渡在任期間は、明治二年八月までの約九か月の短期間であったが、着任早々「参謀布告書」を島民に布告するとともに、民政方役所を相川から石田村獅子ケ城跡(現新潟県立佐渡高等学校)にあった屯所に移し、行政機関を整理して、事務・民政・市政刑法・金坑採錬の四局に分けた。奥平の施策は、産業奨励・租税改革・戸籍編成・開墾・寺院廃合など多岐にわたるが、特に五三九寺を八○寺に整理した廃寺政策は急進的で、「鬼参謀」と恐れられた。明治二年八月辞任後は、郷土の萩に帰り、九年十月に前原一誠らとともに萩の乱を起こし敗れて斬首された。年三六歳。大正五年四月従五位を追贈された。【関連】北辰隊(ほくしんたい)・明治維新(めいじいしん) 【参考文献】『新潟県史』(通史編6近代一)、山本修之助編『佐渡叢書』(一巻) 【執筆者】本間恂一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※北辰隊(ほくしんたい):戊辰北越戦争に際して結成された草莽隊の一つ。蒲原郡下興野新田(現豊栄市)の遠藤七郎を隊長に、幹部は水原町の伊藤退蔵、臼井村(白根市)の西潟八雲、下興野新田の星野帰一・越三作、小須戸町の吉沢千柄らであった。遠藤らは、既に新発田藩管下の各村で、警備等に当たっていた尊皇の志の厚い地主層であった。慶応四年(一八六八)六月、新発田藩が奥羽越列藩同盟の要請で出兵した時に阻止行動をとり、同年七月二十五日に、新政府軍が松ケ崎浜・大夫浜に上陸すると新政府軍側に参加し、長州藩干城隊に属して、各地の戦闘で活躍した。十一月には新政府に正式に取り立てられ、遠藤七郎が隊長に任命され、北辰隊の名称を授けられた。隊員は一七九人(明治二年十月現在)を数え、阿賀野川周辺の農民を結集していたが、十月十七日に新発田にあった総督府本営から佐渡警備を命じられて、参謀兼民政方の奥平謙輔の指揮下で佐渡の施政に参加し、奥平の施策の推進に、重要な役割を果たした。北辰隊員は二年八月に帰郷して葛塚(現豊栄市)に頓集していたが、三年二月に上京して第三遊軍に編成され、東京警備に当たった。【関連】奥平謙輔(おくだいらけんすけ) 【参考文献】『新潟県史』(通史編6近代一)、真水淳「佐渡県と北辰隊」(『新潟県歴史教育論考』一)、同「北辰隊名簿について」(『新潟史学』一二号) 【執筆者】本間恂一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応二年生 長州藩士 ・明1、佐渡と其沿革 ・明1、佐渡に於ける佐幕党[元年七月]・明1、奥平謙輔の赴任[元年十月二十五日] 「佐渡関係事典に載る」

『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


「ウィキペディア」より」
奥平 謙輔(おくだいら けんすけ、天保12年1月21日(1841年2月12日) - 明治9年(1876年)12月3日) 江戸時代後期(幕末)から明治時代の長州藩士、志士。名は居正。号は弘毅斎。萩の乱の首謀者の一人。
(経歴)天保12年(1841年)、長州藩士・奥平清兵衛の五男として萩城下土原に生まれる。藩校明倫館で学び詩賦に優れた。文久3年(1863年)の下関戦争では先鋒隊士として参加。慶応2年(1866年)には干城隊に配属された。その後の戊辰戦争ではその干城隊の参謀として報国隊、奇兵隊とともに長岡、新発田、新潟を転戦した。その際、友人の会津藩士秋月悌次郎にあてた手紙は名文として知られる。またその際には秋月から会津藩士の少年二人を書生として預かったが、一人は後に東京帝国大学総長となった山川健次郎で、もう一人は陸軍に入り近衛師団の工兵大隊長を務めた小川亮大佐である。明治2年(1869年)に越後府権判事として佐渡に赴任するが、同年8月には職を辞している。郷里に戻ってからは攘夷論を説き、新政府の方針に不満を募らせる。明治9年(1876年)には前原一誠を盟主に萩の乱を起こしたが敗走し、12月3日斬首となった。享年36。
(参考資料) 松本次郎『増補 萩の乱前原一誠とその一党』- マツノ書店 1996年
一坂太郎『長州奇兵隊』- 中公新書 2002年
山川健次郎『奥平謙輔先生』- 『男爵山川先生遺稿』所載
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長州の人で、名を居正という。明治元年戊辰の役に壬生総督の参謀として北蒲原郡水原にいたが、北辰隊をひきいて佐渡に渡った。十一月のことである。謙輔は二十七才であった。相川に入り、目安箱を設け、二宮吉岡竹田等で開田をはかり、池を掘って用水(奥平堤という)とした。また裁判を正した。相川の屯所を河原田に移して、本府といった。武道を奨励したが、一方校舎をたてゝ旧修道館生負十一名(須田行義、酒匂明俊、鹿野直一郎、保科可怜、石井英彦、小山盛造、持田磯司、円山聿、藤村勘之丞、細野清次郎、渡辺褧)を選び、学資(一日米一升、銭二百文)を与えて就学させた。佐渡県がおかれて判事となり、民政聴訟会計土木の四局をおき、政治を改めた。剣道がすきで、役所で朝試合をさせた。公務の暇を見て、田んぼに出て耕作をし、薪を割り、自ら範を示した。謙輔の行動はやや意表をついたこともあったが、維新の混乱期に、武断をもって佐渡の気風を一変させた。明治二年九月、免官となって佐渡を去った。長州に帰り、戊辰の役で知り合った前原一誠と深く交わり、九年十月一誠と乱を起こした。捕えられて斬られた。三十七才であった。死後詩集を出版して、弘毅斎遺稿という。大正五年四月従五位をおくられた。(佐島遺事、大日本人名辞書)
「鬼参謀・奥平謙輔」(『佐渡の百年』)
・佐渡における功績では賛否両論のある奥平謙輔。彼は明治9年、尊敬する前原一誠の起こした萩の乱に加わり、処刑された。
その後、大正5年、名誉回復がなって「従五位」を送られた。この年の9月3日、山本静古氏達が発起して佐渡中学校で奥平謙輔の「追遠祭」を開催する。遺族として信越線横川駅助役の奥平芳太郎氏や山口県の郷土史家村田峰次郎氏等が参列した。
『田中圭一講演集(第七集)『奥平謙輔と北一輝』より
奥平謙輔という人物は、二十八歳の若さということもあるのでしょうが、佐渡の役人が横柄に挨拶したりすると、草軽を履いたままで頭を蹴飛ばしたというくらいですから、まあ相当激しい性格の持主です。しかし、物分りが悪いかというと、そうでもない面を持ち合わせておりました。幕末に佐渡奉行所組頭・中山修輔を中心に、幕府応援のための兵隊を募集し、佐幕同盟「迅雷隊」を結成しました。隊員として十六歳以上四十歳未満の男子、地役人の子供や島民をかき集め、百五十人ほどで組織し、その旨宣言しました。この時の宣言書「祖廟斎盟記」を起草したのは当時の修教館教授円山溟北です。円山は、倒れようとする幕府を応援するのは幕府の役人としては当然で今こそ幕府のために立ち1がらなくてはならないと、いう趣旨のことを書きます。すると奥平がやってきて、立腹、円山を呼び出し、「お前は死刑だ、幕府のために戦うなんておまえ自身が間違っている」というようなことを言ったらしい。それに対して円山が言うのには、「私がたしかに筆を取った。三百年の恩顧をこうむる佐渡の人が迅雷隊を結成するのは当然である。あなたの長州藩だつて蛤御門で戦端を開き、天皇の軍に叛いたではないか。あなたが自分の立場がこうなつたら、あなただつて徳川氏のために頑張ろうと言うだろう」と。円山もまあいい事を言いますね。そうしたら奥平は二時間も考えてからそれを肯定しました。奥平はその後、「萩の乱」(明治九年)で前原表と共に殺されるわけですが、この乱は明治新政府に対する最初の反抗運動だといわれています。また、こんなことがあります。奥平は、明治元年に忘大将としてやってきましたが、この年佐渡は不作で、百姓が税金をまけてくれと頼むと、税金をまけてやるんです。そうしたら、のちに大蔵卿などになつた井上馨(新潟県知事に任命されたが赴任する気がなく、すぐ辞退)が、絶対まけてはならん、これから新しい時代を作らなければならない時なのに、百姓がそう言ったからといって、まけるようなことでお前は官吏が務まるのか、というようなことで、結局クビになつてしまい、萩に帰ります。ですから、奥平という人物は激しい側面と、西郷隆盛と同じような情理のわかるというところを持ち合わせていたのです。それが明治時代を押し進めていくのには少し不足する部分であります。
・奥平は佐渡を去る時、まあ、厄介 (やっけえ)になつたということかもしれませんが、円山と握手をしております。
「島の新聞」(明治の女子留学生)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)奥平謙輔
19 奥平謙輔の評判 松本健一 37 奥平謙輔の肖像画(岡田三郎助筆)とその系譜 山本修之助 56 連載 閑々亭雑記 (15) 奥平謙輔が小木港へ上陸の日 山本修之助 56 連載 閑々亭雑記 (15) 奥平参謀を見た人の話 山本修之助 141 明治維新の佐渡の統治者奥平謙輔 山本修巳
「佐幕派・迅雷隊」(「佐渡の百年」)
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
「密訴する男」(「佐渡の百年」)
「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
奥平謙輔と北一輝(田中圭一講演集より)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=16
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=14
★阿国(おくに)→出雲の阿国
★小国頼行
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
源蔵人太夫従五位下 保元二(1157)佐渡に配流。保元の乱に座し、謀反の罪で流罪。道中西七条で自害したという。(『兵範記』 『保元物語』)
★奥野郁子
両津高校時代のS37、17回岡山国体 ボート部女子ナックル7位 (奥野郁子、宮川テル子、菊池節子、
渋谷節子、杉山道子)
★奥野伊代治
『両津市要覧(昭和33年)』より

★奥野栄次郎
新潟日報 h29年2月

「島の新聞」索引(人名別)
★奥野七郎右衛門賢好 其子賢正
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
八幡村に新田を開き、八幡堤を築いた。しかし隣村四日町の中使兵右衛門一家への暴圧その他の悪事が露顕し、寛文十年(一六七〇)改易(追放ともある)となり、故郷の甲州へ帰り名も秋山九郎右衛門と改めすごしたが、延宝六年(一六七八)六月十日死去した。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


「蓮華峰寺の解体修理」(「佐渡の百年」)
★奥野俊英

★奥野松太郎
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★奥野美智子

★奥野航(わたる)

★奥林新蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★尾組増蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★奥村寛純
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)奥村寛純 94 佐渡と上方(かみがた)-郷土玩具の視点から-
★小倉公連(おぐらきみつら)
【生没】一六四七ー八四 流人。大納言小倉実起の長子。参議まで昇進したが、天和元年(一六八一)父実起の勅命違背の罪に連座、父および弟の竹淵刑部大輔季伴とともに、佐渡配流となった。佐渡での日常は、おおむね風雅を主として
いたらしく、雲の上人を迎えた地元の文人たちは小倉父子を訪れ、あるいは招いて詩歌の贈答をした。『佐渡名勝志』には、実起の漢詩九首と和歌三首、公連の漢詩三首と和歌八首、季伴の漢詩二首、和歌一首が記録されている。公連は貞享元年九月二十二日、父実起の死に後れること半年、そのあとを追うように他界し、鹿伏観音寺の実起の墓の傍に葬られた。法名賢良院殿鉄山一舟大居士。公連が都に遺した謫子の侍従実躬も、翌貞享二年(一六八五)正月三日一四歳で夭折したので、小倉家は一時断絶したが、元禄八年(一六九五)五月赦免され、季慶と号していた季伴が、四年後に跡目を許されて竹淵家から復帰し、さらに熙季と改名して、小倉家を復興した。小倉家の後裔英季は、明治十七年(一八八四)子爵を授けられた。
【関連】小倉実起(おぐらさねおき)・観音寺(かんのんじ) 【参考文献】『佐渡名勝志』、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『読史総覧』(人物往来社) 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
宰相 天和元(一六八一)佐渡に配流。皇位継承にからむ違勅の罪。父実起 、弟季伴と共に佐渡に流罪。貞享元年(一六八四)病死。二男季伴は、元禄八年(一六九五)赦免、小倉家を再興。(『佐渡名勝志』『撮要年代記』)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「美術人名辞典」の解説.
公卿。実起の男。初名公代。藤原姓。参議右中将従三位。父と共に佐渡に配流される。和歌を能す。貞享元年(1684)歿、38才。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
小倉実起の長男で、天和元年(一六八一年)十月二十三日、父および弟と共に佐渡へ流されることとなり、十二月二日相川へ着いた。三年九月二十二日、相川で三十八才の一生を終わった。
真野御陵
拝むにもなは秋ふかし初のつゆ
ふるき御幸のあとをたづねて
は公達の作である。(佐島遺事、佐渡人名辞書、大日本人名辞書、概観佐渡)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小倉大納言親子 131 配流の文人 小倉大納言親子 山本修巳
★小倉実起(おぐらさねおき)
於:多門寺










左二枚は『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より、右端は金井清水多聞寺



【生没】一六二三ー八四 流人。藪大納言嗣良の三男、のち近衛少将小倉実為の養子に迎えられ、延宝三年(一六七五)には、正二位・権大納言の地位にあった。これより先の寛文十一年(一六七一)八月、実起の娘中納言典侍が、霊元天皇の寵を受けて一宮寛清親王を産み、一旦は継躰の内示があったものの、のち皇位継承者は五宮に変更され、一宮へは出家の命が出されたが、それを拒否した外祖父実起と、その謫男公連・次男季伴が、ともに佐渡配流となった。小倉父子は天和元年(一六八一)十一月晦日小木へ着岸、十二月一日新町泊り、二日相川に入り、はじめ常徳寺などに滞在したが、市中が狭苦しいというので、商人の岩佐嘉右衛門が提供した鹿伏の別宅に移り住んだ。相川では、奉行所役人や豪商たちが争って大納言一家と風雅の交わりを求めたらしく、贈答の詩歌が数多く残されている。また、実起は相川だけでなく、河原田の中山宗春等の、国仲の富豪たちにも招かれて逗留し、和歌や京風の庭園造りを伝授したと伝えられ、いまも伝小倉大納言作の庭が、各地に散在する。貞享元年三月十八日没、鹿伏の観音寺裏山に葬られた。法名義孝院殿花応雪舟大居士。在島二年三か月であった。
【関連】小倉公連(おぐらきみつら)・観音寺(かんのんじ) 【参考文献】『佐渡名勝志』、磯部欣三『近世佐渡の流人』(文芸懇話会)、永井次芳編『佐渡風土記』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
大納言 天和元(一六八一)佐渡に配流。
皇位継承にからむ違勅の罪。長男公達、次男季伴と共に佐渡に流罪。貞享元年(一六八四)病死。二男季伴は、元禄八年(一六九五)赦免、小倉家を再興。(『佐渡名勝志』『撮要年代記』)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ウィキペディア」より
小倉実起(おぐら さねおき、元和8年2月8日(1622年3月19日) - 貞享元年3月18日(1684年5月2日))
江戸時代初期の公卿。大納言・藪嗣良の三男で、近衛少将・小倉実為の養子となる。妻は小倉公根の娘。子に小倉公連、小倉熙季(竹淵季伴)、中納言典侍(霊元天皇典侍)がいる。
延宝3年(1675年)には正二位、権大納言となった。しかし延宝9年(1681年)、娘・中納言典侍の生んだ霊元天皇第一皇子・一宮(後の済深法親王)の出家に反対して一宮を匿うなどしたため、勅命違反として息子の
公連・季伴と共に佐渡に流罪となった(小倉事件)。
貞享元年(1684年)、同地で薨去。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「朝日日本歴史人物事典」の解説.
生年: 元和8.8.2 (1622.9.7) 没年: 貞享1.3.18 (1684.5.2)
江戸前期の公家。高倉(藪)嗣良の次男。小倉公根の娘を妻とし,小倉家を継ぐ。寛文12(1672)年権大納言に任じられ,延宝3(1675)年正二位に叙せられる。寛文11年霊元天皇の後宮へ入っていた実起の娘(中納言典
侍)は,一宮を生んだ。当時天皇の女御に皇子がなく一宮擁立の動きがあったが,その後松木宗条の娘(大納言典侍)が生んだ五宮擁立の動きが現れた。天和1(1681)年4月一宮は大覚寺へ入ることとなった。この措置
を不服とし,実起は一宮と共に引き籠もった。9月,一宮と共に蟄居を命じられ,10月22日解官,翌日佐渡流罪が言い渡された。その後佐渡で死亡した。(藤田恒春)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)


『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
藤原氏で西園寺家の庶流、山階左大臣実雄の子孫である。薮大納言嗣良の三男で、右近衛少将小倉実為のあとを継いだ。はじめは季雅といった。寛永十六年(一六四一年)十八才で従五位となり、権中納言にすすみ、従二位となり、寛文十二年(一六七二年)権大納言に、延宝三年(一六七五年)五十四才で正二位となった。音楽書道にすぐれ、熊沢蕃山は実起から音楽を学んだという。霊元天皇の皇子一ノ宮は実起の娘中納言典侍が母である。天皇ははじめ一ノ宮を深く愛しておらたが、後に五ノ官(母は松木内大臣の娘、岩局またほ上臈の局といい、後に大典待と改めた。五ノ宮というが実は第四ノ宮である)を寵愛し、一ノ宮の出家をのぞまれた。一ノ宮は出家をきらい、実起もーノ宮の気持を察して三度まで天皇にお願いしたが、許されなかった。実起は一ノ宮に出家をすゝめたがきゝ入れられず、天皇は一ノ官の考えでなく、実起の後おしがあると考えられた。一ノ宮は関東の兵によって一室におしこめられ、天和二年(一六八二年)十月二十八日、勧修寺で僧となられた。実起は天和元年九月十七日に勅勘を受け、十月二十日官を解かれ、二十三日実起、長男公連、二男季伴は佐渡へ渡されることに決った。
護送の途中、木曽路では、
身のうさを露はかなりしも歎かねと
家を尋ねん君ぞこひしき
と一ノ宮をしのばれ、信州寝覚の床で、
老が身に思ひをそへて行旅の
ねさめの床の名さえ恨めし
この歌古志には三の句を「行く道の」五の句を「夢も恨みじ」とあるが、佐渡での伝えがよいと思われる。
出雲崎、小木、新町と経て、相川へ十二月二日に着いた。はじめ羽田町の常徳寺に住み、後町家に、さらに鹿伏の観音寺、下寺町の高安寺に住んだが、鹿伏が多かった。
天和三年三月十八日、高安寺で六十三才の一生を終わった。長男公連も九月二十二日に三十八才でなくなった。二男季伴は元禄八年(一六九五年)五月許された。
小倉家を継ぎ、名を煕季と改め、権中納言正三位となった。享保五年(一七二〇年)十月二十五日に七十才でなくなった。(佐島遺事、佐渡人名辞書、大日本人名辞書)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小倉大納言親子 131 配流の文人 小倉大納言親子 山本修巳

★小倉修平
『続佐渡酒誌』(平成14年)

『続佐渡酒誌』(平成14年)


★小倉(竹淵)季伴
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
刑部大輔 天和元(一六八一)佐渡に配流。皇位継承にからむ違勅の罪。父実起 、兄公連と共に佐渡に流罪。元禄八年(一六九五)赦免、小倉家を再興する。(『佐渡名勝志』『撮要年代記』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
小倉実起の二男。元和元年(一六八一年)十二月二日、父実起、兄公連と共に佐渡に流された。父と兄は天和三年にともに相川でなくなった。元禄八年(一六九五年)五月許され、小倉家を継ぎ照季と改め権中納言正三位となった。享保五年(一七二〇年)十二月二十五日に七十才でなくなった。
昨日の浦
秋風に船をうかべてこよひまた
昨日の浦の月やながめん
は佐渡における季伴の作である。(佐島遺事、佐渡人名辞書、大日本人名辞書、概観佐渡)
※渡辺注:元和元年→天和元年
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)[補遺]より
小倉大納言実起の二男。天和元年(一六八一年)十二月二日、父実起、兄公達と共に佐渡に流され相川に到着した。町人岩佐嘉右衛門修省の好意により誓り、その下屋敷のある鹿伏に住んだ。近くに観音寺がありその泉水を父実起が修築し、衒山の二字を横地玄常島狄子に書かせ、季伴が横額にそれを彫った。造園に実起は自分の名をはゞかって衒山としたのである。季伴は竹淵家をついで刑部大輔といつた。名を斎(いつき)という。元禄八年(一六九五年)五月、許されて京都にかえった。二十三日に相川を立ち使役佐野長兵衛、鈴木浅右衛門が従ったという。季伴は小倉家を相続し、名を熈季と改め、権中納言正三位となり、享保五年(一七二〇年)十月二十五日に七十才でな
くなった。
出雲崎よりの舟路にて
頼りなき浪にこがるる身のうさを
人の情におもい忘れて
思 古 卿
幽浦雪深稀客間 寒風頻至苦瀾声 暫時難
忘古卿事 猶痛家君寂寞情
(佐島遺事)
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年刊)


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小倉大納言親子 131 配流の文人 小倉大納言親子 山本修巳
★小倉村重左衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★小黒イト
→小黒ヨシ参照
★小黒清鑑
→小黒ヨシ参照
★小黒ヨシ
新町 円静寺墓


『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
天理教真野山分教会の創立者小黒ヨシが新町に布教を開始したのは、昭和七年四月一〇日であった。小黒ヨシは新潟県三島郡寺泊町生れ、夫が相川鉱山に勤めることになって、相川に居住し、その後、夫の急逝にあい、縁あって新穂の教会の信者となった。老母と十三才・十一才・九才の娘とのつらい生活であったが、布教につとめ、昭和二年には奈良の天理教本部で「おさずけ」を戴いた。こうしたなかで、小黒ヨシは実兄、末娘、実弟の相つぐ死去にあい、布教一途に励む心を定めた。その場所として、小木か新町かをきめかねていたが、畑野の分教会に詣でた時、阿部眼科医院に通っている新町の本間作衛の妻が、自動車事故で片限を失明して手術のあと苦しんでいるのにあい、新町での布教を心にきめた。このころ、新穂の教会に兄の病気を撥に通っていた河原ヒサが、新町の山本修之助に嫁していた。この人たちの援助で、新町牧野半次郎宅真二階を一か月三円五〇銭で借り、新町に布教の足場をつくることになった。昭和七年四月一〇日である。そして布教の活動は、新穂分教会の会長の長男、曽根一が二四歳の若さで、創立者の小黒ヨシを助けることになり、二、三か月経たころには信者も十人ほどになった。本間シズ・本間作衛夫婦・山本ヒサ・山本重内の妻・佐々木吉三郎の妻・三浦与七・本間源四郎などであった。しかし、物取り宗教だというような社会の偏見は根強く、困難な布教活動がつづいた。それから二年経たころ、昭和九年五月には、信者も八〇名くらいになり、牧野宅裏二階では手狭で、信者の山田フジの土地を借り、設計は、そのころ住みこんでいた佐和田町八幡の遠藤真一郎が行ない、工事は新町の渡辺熊蔵が六二〇円で請負って教会が建てられた。完成したのは十一月九日であり、翌十日に牧野宅から現在の真野山分教会のある位置に移転した。
こうした状況のなかで、翌昭和十年三月には教会設置の請願をすることになった。設置に関する書類には信者百十戸の調印や総経費八五〇円などが必要であったが信者は不眠不休の強行日程で奔走した。調印は信者の数では不足で親類や地域の人からもらったが、反対する人も多く、たいへんな苦労をしたと当時を回想して真野の佐々彦次郎は述懐する。小黒ヨシは四月二十一日午後四時、奈良の天理教本部で、中山正善天理教管長から「真野山宣教所」の設置を認可された。
この時小黒ヨシを助けた人たちは、曽根一、畑野町粟之江の今川甚治・遠藤真一郎・本間慎三・佐々木トシ子・臼杵与策は内部にあって、外部にあっては、若松市の小黒ヨシノ、近隣では、中川春太夫妻・薄木久五郎・佐々木善助・山田フジ・山本ヒサ・阿部コウ・永井与次右衛門・長仁三郎・佐々木政次郎本間作衛夫妻・松橋久五郎・牧野半次郎・臼木サヨ・佐々彦次郎・福田チヨ・福田キワ・本間キヨ・中川イソ・城塚伝内・山田三次郎夫妻などであった。新しい布教所が誕生して二、三年は信者は特宗教にはげみ、小黒ヨシとともに佐々木彦次郎は、毎日布教に出かけたという。
その後、戦中・戦後の社会情勢の不安定な中で、様々な苦難の道もあったが、初代の小黒ヨシが昭和十七年死去したあとは、二代の小黒イト・三代の小黒義正・四代に小黒清鑑と受けつがれていった。
・小黒館は昭和3年の夷大火まで神明町の角(現「再会」)。その後、八郎平町(後に「小舟」の場所)でレストラン小黒館を開店し、その後旅館小黒館となった。その後、移転して八郎平町でホテル蓬莱を開店した。・小黒ヨシは明治20年頃の生まれで、昭和17年に50台で没した。・小黒由太郎はヨシの長男で、横浜ニューグランドホテルで修行し、両津夷で小黒館を開店した。・ヨシの長女はヨシノで、会津若松の天理教関係の人に嫁ぐ。元は芸者であった。夫の死後、真野に戻って天理教の裏に住んだ。・ヨシの次女は糸子で真野天理教を継いだ。元は芸者であった。・4代は清鑑(みよみ)で昭和27年生。父が義正(3代)、祖母が糸子(2代)、曾祖母がヨシ(初代)となる。・新潟古町にあった小黒館は親戚である。・両津夷の蓬莱は昭和60年代頃に倒産し、甲斐氏に売却された。後継ぎの義邦(よしくに)はヤマキホテルに入り山口姓となった。昭和27年生。
★小黒由太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★小黒義正
→小黒ヨシ参照
★小栗淑子
「島の新聞」索引(人名別)
スポンサーサイト
Powered by FC2 Blog
Copyright © 佐渡人名録 All Rights Reserved.