2020-12-27
★海老嘉吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★海老助治
水津漁協組合長

★夷町家大工和吉
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★夷町吉郎右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★夷町権吉妻ふよ
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★夷町市右衛門夷町市右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★夷町市右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★海老名円平
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年生 小木町小木 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]
★鰕名歓太郎
「手わざ図鑑」

★海老名義恭
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の地役人で、字は泰天、通称を寛次郎、玄義または桜戸と号した。
天保十五年(一八四四年)六十才で京都に出て里村昌同に学び、連歌および和歌をよくした。
著書に「都の行かひ」がある。安政三年(一八五六年)九月二十八日に七十二才でなくなった。
(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★海老名吉右衛門


★海老名九右衛門
1635年(寛永12)、椿村裏目付けであったが、町方役となる。
★海老名五三郎
「手わざ図鑑」

★海老名左衛門尉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の人で、宝治元年(一二四七年)五月十四日に将軍藤原頼嗣夫人の葬式に、棺側に供奉した。(吾妻鏡、新潟県史)
★海老名周甫(秀甫)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡大石(羽茂町)の人で、源右衛門の子である。
葛西周徳に医学を学び、弘化三年(-八四六年)江戸に出て伊東玄朴に蘭方をならい、その塾頭となり、師の推挙で将軍の侍医となった。安政五年(一八五八年)八月に三十才でなくなった。(佐渡人名辞書)
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
文政十二年(1829)生れ、安政五年(1858)歿。
周徳の門人で最初に江戸に出て、伊東玄朴の象先堂に入るのは海老名周甫(のち秀輔と改める)であった。「羽茂村誌」によれば「医を周徳に学び、西方村の源右衛門(通称地田の湊)家の出身。弘化三年(一八四六)十七歳の時に江戸に出、伊東玄朴(シーボルト門人)に就き蘭方医学を修め塾頭となり、師の推挙によって将軍の侍医になる。安政五年八月歿。享年三十歳」とあるが、その他の記載はない。
資料としては、伊東玄朴の「象先堂門人姓名録」に氏江市左衛門が請人になって見え、「嘉永四年八月二十日 コロリ病死」となっている(「新潟県史」近世編十一)。これは入塾年月日を示すもので「コロリ病死」は後の書き込みではないかと思われる。海老名保作の「西方村誌」には、戒名「錦綺道覚周甫信士」とある。また、寺田市郎兵衛家には次のような伊東玄朴の授業料の受領書があって、元彦が海老名秀輔の身元引受人であったことがわかる。
「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)
★海老名末吉
→葛原源左衛門
★海老名弾正

『小木町史』より
慶長九年、小木に十分一役所がつくられました。十分一役所というのは、この港に陸揚げされる物資から十分一税をとるための役所をいいます。この役所の置かれた場所が、いまの幸町から相生町にかけての通路の西側です。その役所の近くに役人の住む役宅がつくられ、物資を買い入れる問屋衆が住むことにをりました。伝えによると、屋五人衆は次のようになります。播磨屋、上野住。
★海老名弾正忠
「戦国佐渡国人名辞典」より
羽茂高貞家臣。西方城主。1589年、樋口兼続勢の攻撃を受けると、鉄炮衆20余りを含む50余りで、樋口兼続勢を待ち伏せた。樋口兼続勢14名を討ち取るも、羽茂高貞勢側も20名余りが討たれ、海老名弾正忠も負傷したため撤退した。
★海老名武右衛門(義明)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「明治の敬老会」(「佐渡の百年」)
連歌関係者 →下記資料のp670
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
※羽生致孝とは兄弟
★海老名武十郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久三年生 羽茂本郷村 ・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明3、第十三回選挙[三十二年九月十三日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★海老名ヒナ
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★海老名保作(遠松斎宗流一仙)
→佐々木元英(げんえい)の項
★海老名泰子
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「1号」(平成17年4月)市(いち」今昔
★鰕名雪江(えびなゆきえ)

「facebook「佐渡文化財団」(令和元年11月)
島の暮らしに寄り添う民具】について、お話を伺ってきました。
「おらち(私達)にとっての最高の贅沢は、暑い日に浴衣を着て、おろしたての藁草履を履いて歩くこと。藁草履は汗も吸い取ってくれて最高の気分になるんだよ」と、お話して下さったのは羽茂大崎絞張(しめばり)地区にお住いの鰕名さんご夫婦。ご夫婦は携帯の電波が届かない、静かな山あいで自然と共存しながら暮らしていらっしゃいます。締張地区で昔から作られている伝統藁細工の絞張馬(しめばりうま)を5歳の時から作り始め、かれこれ80年作り続けているとしていました。他にも、蛯名さんが作るものでヌイゴボウキや鍋敷きは人気商品で、藁細工については一通りできるそうです。「わら細工は生活に絶対に必要なもんだった。冬仕事に草履を100足はこしらえておかんなん(作っておかないといけない)。草鞋は3~4日に1度交換せんといけんもんしな(交換しないといけないものだ)。大変だったけも(けれども)、自然に還るもんを使うことは気持ちよかった」と、優しい口調で語るご主人。藁細工はミドリ米、エチゼン米と呼ばれる藁細工に適した米を栽培して作っているそうです。食べてもおいしくはないお米。筆者が普段食べているコシヒカリとは違い、長く美しく艶があるため美しい細工ができるのだそうです。「藁細工は毎日やらんとよりが戻る(忘れてしまう)。元のほうろくだ(元に戻る=技術が衰える)。習うより慣れろっちゅうてな、頭でだけでは魂のこもったもんは作れんっちゃ」と、語るご主人。奥様は80年前に藁細工を祖父から習い、それ以来ずっと好きで続けているそうです。「もう何百人も藁細工を教えたんだよ。だけど、誰一人跡を継ぐもんはおらん(いない)。この時代個人の力では佐渡の藁細工は続けられん…、滅ぶだけだ。天から金は降ってこんっちゃ」と厳しい現実を指摘しながらも、ご夫婦は手を休めることなく絞張馬を20分足らずで仕上げていました。「科学肥料で簡単に作る野菜は面白ろ〜ね〜(面白くない)。昔ながらの野菜を育てるのが面白れ〜んだ(面白いのだ)」と、ほほ笑むご鰕名ご夫婦の元には、失われつつある昔ながらの暮らしに興味を持つ人が連日訪れてくるといいます。
※藁の民具は数百種に及びます。
「島の新聞」8号



「島の新聞」索引(人名別)
★蝦名(えびな)勇吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三年生、羽茂村大崎 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]
★江見水蔭

大正14年と昭和7年の二度にわたって佐渡を訪れ、作品をものし、講演会等地元との交流で大きな足跡を残す。佐渡を描いた作品に下記がある。「佐渡へ佐渡へ」(昭和7年12月 「水蔭行脚全集」1巻)、 「続煙霞療養-紅葉遺聞及桂月逸話-」(大正15年1月 「太陽」)
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

「紅葉・お糸のロマンス」(「佐渡の百年」)
「小波と水蔭」(「佐渡の百年」)
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
江見水蔭(「佐渡へ佐渡へ」)
「ウィキペディア」より
★江村秀山
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡山田(赤泊村)の人で、相川浄徳寺で剃髪し、後藤南岳に漢籍を学び塾頭となり、ついで仏学を研究した。
三十才のころ慶応義塾で英学を学び、卒業後、大阪府知事渡辺昇の命で長崎へ行き、キリスト教を探査した。
帰って本山大学の教頭となった。南条文雄と併称され、雄弁家であった。明治四十年になくなった。(佐渡人名辞書)
★円音(えんおん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国国分寺住僧。去々申年(天保七年)以来在中米払底之節居村幷隣村小前困窮乏者へ鳥目又は施米安売米等いたし為取凌侯趣に付、天保九年(一八三八年)に役所から褒賞された。この外二十二人も同様褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★圓学坊日圓大徳 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★圓空
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★円光
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の僧である。正中二年(一三二五年)八月五日に佐渡国久知郷長安寺へ条田を寄付した。(佐渡志)
★圓持院日昇上人 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★圓禅西沙弥
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★猿方微
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を周平といい、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★遠藤市次郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★遠藤樹

★遠藤和夫
「島の新聞」索引(人名別)
★遠藤可清
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡河原田町の人で、通称を源右衛門といった。里村昌徳、昌陸に学び、連歌、和歌、書をよくし、また散楽の太鼓、立花に巧みであった。貞享元年(一六八四年)十二月、七十六才でなくなった。(佐渡人名辞書)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
遠藤九左衛門や枠藤九郎を中心に観世流が行われたことは、元文四(一七三九)年二月一五日の「能師潟上村本間右近伜郷助並に小六町遠藤九左衛門伜藤九郎夕白町大行院にて打拍子を相勤む」という記事によって明らかである。すなわち、本間が佐渡宝生を代表し、遠藤が佐渡観世を代表したことを意味する。しかし、観世流は、明治一五、六年頃一一代遠藤可清が廃業してから衰えた。
★遠藤克彦
1944年真野で生まれる。妙宣寺住職の長男。
東大工学部建築学科を経て1968年同文学部倫理学科を卒業。
1975年愛媛大学教養部講師。同法文学部教授。専攻は哲学およびドイツ現代史。
★遠藤喜美子
「島の新聞」索引(人名別)
★遠藤九左衛門
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
遠藤九左衛門や枠藤九郎を中心に観世流が行われたことは、元文四(一七三九)年二月一五日の「能師潟上村本間右近伜郷助並に小六町遠藤九左衛門伜藤九郎夕白町大行院にて打拍子を相勤む」という記事によって明らかである。すなわち、本間が佐渡宝生を代表し、遠藤が佐渡観世を代表したことを意味する。しかし、観世流は、明治一五、六年頃一一代遠藤可清が廃業してから衰えた。
★遠藤九郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
遠藤九左衛門や枠藤九郎を中心に観世流が行われたことは、元文四(一七三九)年二月一五日の「能師潟上村本間右近伜郷助並に小六町遠藤九左衛門伜藤九郎夕白町大行院にて打拍子を相勤む」という記事によって明らかである。すなわち、本間が佐渡宝生を代表し、遠藤が佐渡観世を代表したことを意味する。しかし、観世流は、明治一五、六年頃一一代遠藤可清が廃業してから衰えた。
★遠藤源右衛門
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
竹田村(真野町)鍛冶衆の頭で、近世の初頭から町の重立ち衆の筆頭であった柳屋こと遠藤源右衛門は近隣の村々に田畑を保有する商人地主であった。遠藤氏も中山氏や中沢氏と同様に中世末か近世のはじめに移住して来た。同家の系譜はおよそ次のようである。
(遠藤氏略系図:「妙経寺過去帳」による)
・泰吉(竹田村(臭野町)泉沢住。のち四日町を開き移住。永禄七年(一五六四)五月六日没
・泰純(天正十三年(一五八五)三十三才投)
・泰貞(天正十七年、上杉氏佐渡平定のとき他国にのがれるが、後に帰国し河原田に住む。寛永三年(一六二六)十一月投
遠藤氏は鍛冶など諸職の集団をひきいる親分的な家という伝承がある。『佐渡相川志』に「慶長・元和の頃二人ずつ鍛冶町居住、白鳥善太夫・堀覚左衛門。其後、鍛冶町より納めたがね、河原田源右衛門支配」とあり鍛冶との関わりをうかがい知ることができる。しかも支配とあるから準役人(御雇町人)であっ
た。
・享和のころになると下町の中沢三郎右衛門は先祖の地越後へ帰り、文政七年(一八二四)、中山新右衛門(大屋)は江戸に出て幕府御徒士組に仕官をする。天保十二年(一八四一)中山忠兵衛は江戸糀町の前田大和守家に仕えた(『河崎産物語』)という。このように初期の有力町人のうちには、御家人株を買い武士となったり、医者になる家もできた。中山立恭(中山新兵衛)、遠藤立栄(遠藤源右衛門)、内藤玄佐(内藤清兵衛)など多彩である。このように「出京、学問を修めるもの」が輩出するが反面、「表立ち侯有徳の人(商人)つぶれ候へば、自然と衰徴仕り侯も、埋りに存じ奉り侯」(『佐渡四民風俗』)となった。新右衛門・新兵衛など河崎屋七軒衆と呼ばれた家々も今はすでにない。わずかに昔日の栄光を残すのは、林立する一族の巨大な墓や、寺社への寄進の品々のみである。
★遠藤元哲
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
元禄期(一六八八~一七一〇)ころからこの町に何人かの医家ができてきた。沢板五十里の町では、
菊地寿庵・生田専益、諏訪町に松村三益、河原田大坂町の内藤玄佐、上欠馳村では遠藤元哲・本間進斎、鍛冶町の鞍立常庵、河原田本町の中山玄亨、山中玄連などである。
→「医師」(佐和田)
★遠藤俉信
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
大蔵流の狂言を伝承したものが二人いた。終戦直後、先代山本東次郎師が毎年冬になると来島した。その教えをうけたのが下黒山の臼杵与作と遠藤俉信である。この二人はすでに故人となったが、俉信の子信一が伝承している
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
→若林米蔵「笛畝会」参照
★遠藤七郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
豊栄市葛塚の代々村役の家に生まれた。名は昭忠、字は子明、愛山と号し、別に睡虎、甘雨等の号があった。
勤王家であって、明治戊辰の役には、三百余人で一隊を組織し、戊辰隊という。
軍監に伊藤退蔵、小隊長に西方訥、伊野徳右衛門を決め、奥羽各地に戦って功があった。
戦後、奥平謙輔に従って佐渡の守備にあたったが、奥羽が平定されたので解隊した。
その功により、朝廷から短刀料、扶持(手あて)を与えられ士籍に列せられた。
七郎は陽明学を学び、大塩中斎をしたい、画、詩をよくした。家業についてからは、政治に加わらず、世事にもにもかかわらなかった。明治二十五年一月、五十四才で東京の旅先でなくなった。(北越名流遺芳)
★遠藤順快
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


★遠藤俊平
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★遠藤信一
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
大蔵流の狂言を伝承したものが二人いた。終戦直後、先代山本東次郎師が毎年冬になると来島した。その教えをうけたのが下黒山の臼杵与作と遠藤俉信である。この二人はすでに故人となったが、俉信の子信一が伝承している
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野町公民館は週一回、囃子方と狂言の講座をひらいている。
狂言の指導は土産増一・遠藤信一・若林義太郎・中嶋武雄の四人で始まった。
遠藤は大正九年生まれ、父俉信に師事したので大蔵流の名手山本東次郎の孫弟子になる。流派は異なるが狂言には相通うところがあるので指導の一役をかった。
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
→若林米蔵「笛畝会」参照
★遠藤真一郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、日本大衆党佐渡支部[五年八月二十四日]
★遠藤真一郎
→小黒ヨシ参照
★遠藤甚吉
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
スポーツ好きで赤泊校に在任中の遠藤甚吉(真野、元中学校体育連盟会長)は、同校グランドをこよなく愛し選手とともに自らも愛用したので「遠甚グランド」と話題になり、バスケットの導入期は小学校教員チームを編成して、中等学校チームと対戦した。スキーも畑野村板置山スキー場の開設に尽力し、合沢の自宅から金沢小学校へ通勤した普及の第一人着であった。
『両津市要覧(昭和33年)』より

★遠藤澄江
佐渡高校時代の昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★遠藤駿河ノ一
真野町竹田の人、文弥節語りで、常盤ノ一を指導した。明治6年没。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
駿河一は竹田の忠左衛門家の出身で、同家には天保年間に盲官をとった時の告文が残っている。盲官取得の前は清嘉という名前だった。嘉永三年には「打掛」慶応三年には「一度の中老引」に昇進している。駿河一は文弥の名人だった。毎年正月二日から五日までの間に盲人が奉行所へ出向いて「源氏烏帽子折」の三段目の「げにや三六〇日、こよみこよみと巻き尽くし」というところを語るのが例だったが、ある年駿河一が語って奉行からほめられたという。また木戸銭をとって文弥を語るようになったのも駿河一からだといわれている。亡くなったのは明治六年だった。駿河一には二人のすぐれた弟子がいた。一人は大崎星松之助と提携して文弥人形を始めた沢根の伊藤常盤一で他の一人が川茂の池野阿波一で、この二人がそれぞれおおぜいの弟子をもって佐渡の文弥界を東西に二分する状態だった。したがって系統をたどると、最初は駿河一-阿波一-金子善次郎、後の師匠は駿河一-常盤一-静賀と、元はどちらも駿河一に結ばれることになる。師匠運がよかったといえよう。
→「金子善次郎」参照
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
真野町竹田遠藤忠左衛門家に生れた。初め清嘉といった。師匠は畑野町後山(現在宮川)吉野一(桝五郎先生)。
官をとった時の告文が残っているが、最も古いものは「天保二年六月朔日」とある。嘉永三年に「打掛」、慶応三年に「一度の中老引」と昇格している。江戸時代、佐渡奉行所で毎年正月(二日から五日までの間)「源氏烏帽子折」を語ったが、ある年、この駿河ノ一ほ奉行にほめられたという。昔の文弥語りは、金持ちの家に招ばれて語っただけであったが、この駿河ノ一によってはじめて木戸銭をとって興行するようになったという。明治六年十月十二日死亡。戒名は「駿河一賢翁道性大徳」。由子に伊藤常盤ノーがいる。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★遠藤清左衛門
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
佐渡における天理教の歴史は、河崎の「佐島分教会」と新穂の「越の国分教会」がもっとも古いとされる。越の国分教会についてみると、明治二七(一八九四)年敦賀の人佐藤栄作が新穂村青木で布教、明治三三(1900)年同じく遠藤清左衛門来島、明治四二(一九〇九)年教会を設立し、今日に至る。信者数全島一七教会で約3000人という。
★遠藤清之進(えんどうせいのしん)
【生没】一八一八ー六五 能楽師。相川観世流の祖。慶応元年三月十一日、四八歳で病死しているから、文政元年の生れになる。遠藤家の十代目で、清之丞可啓ともいい、九代の藤九郎可厚に子がなかった。石扣町の甲賀勘兵衛の五男が、養子として入って十代を継いだ。遠藤家の祖は、順徳上皇に供奉してきた、遠藤為盛という北面の武士と伝えるが、定かではない。初代の九左衛門可通は、日蓮配所の一ノ谷(佐和田町)に住み、妙照寺の寺家松寿院を建立したとされる。二代可信から、福王茂十郎に入門して能の脇方となり、三代可頭のときに佐渡奉行神保五左衛門に乞われて、相川に移った。佐渡では潟上本間家の脇師として、二八○年ほど勤めた能家である。十代可啓になって、観世宗家観世清孝の直弟子となり太夫格を得、相川に帰って奉行から、佐渡観世流太夫の認許を得たと伝える。安政四年(一八五七)のことで、地元相川の門人が「百数十人」にも及んだ。慶応元年三月、四八歳の病没までわずか八年で、そのすぐれた技能は十一代の靖之進可清に受け継がれた。相川の観世流は、この二代にわたって蓄積されたもので、可清は一六歳で上京し、観世流の梅若実、同じく山階滝五郎両家に師事したという。明治新政府が能楽を軽視したことに憤慨し、同十五、六年ごろ能楽師を廃業、能装束一式を西三川(真野町)の加賀宝生流、余子柳太郎に売却して上京した。大正十三年七月、七五歳で没した。その末裔で杉並区高井戸に住む遠藤三郎方に伝えられた同家の系図・古文書・謡本などは、平成八年八月佐渡博物館に一括寄贈された。
【関連】相川の能(あいかわののう) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※相川の能(あいかわののう)
この町の能の初見は、大久保長安が慶長九年(一六○四)に、和州(奈良)からつれてきた「常太夫」と、「杢太夫」の二人の能師に始まる。「石見陣屋ニテ能アリ」(『佐渡相川志』)とあるから、佐渡奉行所が能のでき
る造りを、創建当時から持っていたことをうかがわせる。「上相川大山祇ニモ(能)アリ」とあって、翌慶長十年に大久保長安が建てる大山祇や、春日神社でも能が催されたらしく、春日社で正保二年(一六四五)に佐渡
で初めて能舞台ができる以前から、能はにぎわっていた。常太夫・杢太夫の死後、貞享年間(一六八四ー八七)に越前福井から中島可久という人が、また宝永六年(一七○九)に京都から仏師の左近という者がきて、
春日神社の能師を勤めたという。佐渡へ赴任の歴代奉行には能好きの人が多かったが、正徳三年(一七一三)から在勤した河野勘右衛門が、たいそう仕舞を好んだので侍一般にも広がったとされ、岡崎から大久保
平右衛門という人がきて、これも仕舞の指範をしたと伝えている。こうした能の盛行の陰に、潟上本間家(宝生)や矢馳村に住んでいた遠藤家(のち観世流の佐渡の祖となる)による出張指導の影響も大きかった。遠
藤家三代の可頭が、正徳三年に相川へ移ったのは、神保五左衛門奉行の指図であり、十代目可啓の時代に、潟上本間家と並んで能太夫を許され、潟上とともに神事能のシテ役を代々勤め、かつ相川に観世流が広
まることになる。明治以降は、謡曲愛好家でもあった佐渡鉱山御料局長、渡辺渡などが赴任し、官邸で各課長など招いて稽古につとめ、維新以後おとろえていた能の復興が始まる。三菱金属に移管されたのちも鉱山
長の原田鎮治らを迎えて謡曲素謡月並会などが常時開かれた。遠藤可啓と可清(十一代)による、幕末・明治の相川の門弟数は、百数十人を数えるという盛況ぶりで、能太夫可啓は越後水原や高田にも出張指導し
て、観世流を広めている。
【関連】海謡会(かいようかい)・春日社神事能(かすがしゃしんじのう)・遠藤清之進(えんどうせいのしん) 【参考文献】椎野広吉『佐渡の能謡』 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」
遠藤清之進の用語解説 - 1818-1865
江戸時代後期の能役者シテ方。 文政元年生まれ。家は代々佐渡(新潟県)の観世流能楽の名家。江戸の観世流家元にまなぶ。安政4年佐渡奉行から能太夫を命じられ,神事能をつとめた。元治(げんじ)2年3月11日死
去。48歳。名は可啓。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★遠藤隆
「佐渡ジャーナル」関係記事:「38号」(平成26年7月)すべての人にグッドフォーチュン(幸運)を(遠藤隆)※小川真一郎「40号」(平成27年1月)片桐幸男(ジャズギタリスト)-ギターこそ我が人生-(遠藤隆)「41号」(平成27年4月)・シリーズ『Sado人』探訪2 雑賀由美子さん(公益財団法人日本補助犬協会理事・訓練部長)(遠藤隆)「42号」(平成27年7月)・シリーズ『Sado人』探訪3 佐渡の地域活性化は私のライフワーク大倉剛さん(遠藤隆)「43号」(平成27年10月)・シリーズ『Sado人』探訪4 土屋周子さん:能楽師(遠藤隆)「45号」(平成28年4月)・シリーズ『Sado人』探訪6 大塚伸夫(遠藤隆)「49号」(平成29年4月)・「服のお直し」は「人生の仕立て直し」でもある-斉藤正さん(アン・コトン社長)-(遠藤隆)「50号」(平成29年7月)・シリーズ『Sado人』探訪10 今泉清美(遠藤隆)「53号」(平成30年4月)・「旅ルミネ」-第一弾は佐渡-(遠藤隆)「59号」(令和1年10月)・<佐渡相川物産品店(新潟館ネスパス)>(遠藤隆)
★遠藤隆行
両津高校時代の1990年度(H2)12月、第10回全国高校生読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催) 入選
★遠藤為盛
順徳上皇に随伴した北面の武士であったが、上皇崩御後は、日蓮に帰依。
日得と名乗って、すでに入信していた千日尼や子息盛綱と共に日蓮に仕え自分の館を日蓮に捧げる。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の人である。文永十一年(一二七四年)三月十二日に日蓮がゆるされて鎌倉へ帰る時、書を為盛におくって救助の恩を謝した。(越後略風土記、新潟県史)
★遠藤長右衛門
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
金井町舟津の人、舟津人形の創始者。中島人形、あるいは長右衛門人形ともいう。太夫加藤与十郎、役者は遠藤長右衛門と息子の長次、それに三角(みつやま)の老人であった。
この一座のカシラは「作りつけ」で、説経高幕人形であったという。また、現在広栄座で演じているような「のろま人形」もあった。そして、「下ン長」ほ長右衛門、「お花」は長次。「木之助」は三角の老人がつかったという。明治の未に廃絶した。
★遠藤藤四郎盛国
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★遠藤桐葉
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★遠藤徳太郎
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 9文弥人形の思い出 9 佐渡徒然集 10続・佐渡徒然集
★遠藤徳平(徳兵衛)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
竹田には明治になってから文弥高幕人形ができた。遠藤徳平の始めた徳平人形である。徳平はほじめ歌舞伎芝居の役者だった。芸よりもむしろ男ぶりの方がよかったらしい。いつのことか、ある晩、女に扮装して自分の家に行き、「徳平さんにお世話になっている女ですが、居たらあわせてほしい」と云い、細君ほ夫とは気づかず、あとでやきもち喧嘩になったというエピソードがある。徳平は嘉永二(一八四九)年の一二月生まれだった。芝居は他村のなかまと一緒にやったもので、明治一八年、徳平三七才の時の八幡での興行願書を見ると、畑本郷の中川熊次郎、熊谷次郎や下新穂の影山昌平と連名になっている。影山は義太夫語りである。また明治三五年の松ケ崎村丸山神社での願書には、徳和の鶴間又市や菊池盛太郎と名前を連ねている。徳平五四才の時である。
昭和五一年に九〇才で亡くなった遠藤徳輔は、少年のころたびたび人形を見に行ったというから、徳平は芝居の役者をしながら人形座を組織していたことになる。太夫は徳平で遣い手は伝作に久作に新屋、伝作が死ぬとかわりに浅右衛門、久作が死んでからは徳輔も手伝いに行ったことがあるという。浅右衛門は繰り出しが上手だった。文弥高幕の徳平人形の三番叟は人形のかしらに黒い面をつけ、扇と鈴を持って舞った。その時は鼓打ちが出る。鼓打ちはどこでも狂言人形がつとめた。その前に口上人形が出る。それが古い人形芝居の定式だった。ノロマほその頃は男性自身を出す狂言ではなくて、掛合い話で滑稽な筋を語る形に変わっていたという。徳平人形はのちに御殿人形に改良された。徳平がよく語ったのはこもち山姥、持統天皇歌軍法、源氏烏帽子折、天神記等近松物が多く、中には小栗判官のような説経物もあり、見物衆が眠くなると太田合戦や熊野合戟のような金平物をだした。こうした出しものを見ると、説経高幕がすでにはやらなくなってからのものだとわかる。徳平は三味線を肩にかけるようにして語ったという。まだ玄人になりきっていなかったのであろう。窪田の盲人太夫深山静賀が来ると見物は多かったが、徳平が語るときは少なくて、途中でやめたこともあったという。それでも一座をもつことができたのは、・馬頭観音、秋葉山、清正公、後藤地蔵、大膳神社等、祭の人形が竹田だけで六ぺんもあったからで、そのほかに臨時に二夜待、三夜講などでやることもあったのである。徳平没後、倅が北海道へ移住したとき人形を持って行き、その後の消息は不明である。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
徳兵衛人形の創始者。「徳兵衛芝居」といって、地芝居一座を組織し役者であった遠藤徳兵衛が、明治中期に文弥節を習い、太夫となっていた。人形は息子が北海道へ持って行ったという。
★遠藤敏碩
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★遠藤年雄
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
★遠藤日運
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

真野妙宣寺住職。紅葉と浮名を流したお糸さんは日運に嫁ぎ、日運死後、小木に戻り質商に嫁いだ。
「紅葉・お糸のロマンス」(「佐渡の百年」)
★遠藤日潤
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★遠藤広
相川小校長、娘は渡辺産商(渡辺秀樹)に嫁ぐ。

★遠藤弘
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★遠藤誠
佐渡高校時代の昭和44.10.4~5、陸上競技県高校新人大会(新潟市) 入賞
★遠藤満久
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1964年、CST(コア・サイエンス・ティーチャー)。新潟大学理学部卒 上越教育大学大学院終了 佐渡市立理科教育センター専任所員、中学校教員(佐渡市立高千中学校)。科学実験(児童生徒を中心に)、天体観察、地層観察。児童生徒対象の科学実験教室 教員・児童生徒対象の天体観察会講師 教員・児童生徒対象の地層観察会講師(全て佐渡市の小中学校) 田の生物調査講師(佐渡市)
★遠蔵みよこ
『新穂村史』(昭和51年刊)より
真野竹田の人、山田紋四郎を主に、島内は勿論越後方面各地に村祭の余興や興業をして大喝采を博した新穂田の沢「紋四郎かぶき」の一員。盲人で義太夫の語り。
★遠藤森蔵
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★遠藤森造

昭和2年5月12日没。河原田本町、学務委員、河原田町長。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・明2、監獄実地調査[二十一年六月]・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]・明3、第十三回選挙[三十二年九月十三日]・明4、自由派の会合と交渉会[三十五年六月二十三日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
★遠藤紋平
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
相川流から国仲流に変わった四日町の鬼太鼓は、羨望と絶讃を集めることになった。さっそくそれを
習ったのが竹田だった。明治四二年生まれの土屋増一と、大正六年生まれの三浦忠雄が古老に聞いた
記憶によると、小田六郎平(弘化元-明治四〇)、松本滝蔵(明治九-大正一四)、本間豊蔵(明治一五ー大正一三)、本間寅蔵(明治一四-昭和二五)、遠藤紋平(明治一七-昭和四〇)等で、明治二九年頃だという。六郎平と滝蔵は舞もしたが太鼓中心、紋平は左利きで裏打の名人だったという。寅蔵と豊蔵が舞手だった。その年はまだ衣裳も整わず、はりきって待った三〇年は水害で祭りどころではなく、三三年には盛大な鬼太鼓を演じたと言う。
★遠藤由紀夫
佐渡高校時代の56.6.3~4、柔道県高校総合体育大会(佐渡郡佐和田町)団体戦3位、軽々量級8位
56.6.27-28、柔道北信越大会(松本市)団体戦出場
56.柔道秋季北信越大会 団体戦3位
56.8.2~4、柔道全国高校柔道選手権大会(千葉県)団体戦出場
★遠藤了雲(籐九郎)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡河原田の人で、はじめ藤九郎といった。
森田宗運について謡曲を学び、元禄六年(一六九三年)出府して福王茂右衛門の直弟となった。
帰郷後は相川に住み、門人が多かった。享保四年(一七一九年)になくなった。(佐渡人名辞書)
★遠藤六郎左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、延享四年(一七四七年)正月二十六日御勘定吟味役より佐渡奉行に、寛延二年(一七四九年)正月十一日に三百石に加増され、御勘定奉行に転任した。
名は易統、在任密は二百五十俵、御役料は千五百俵百人扶持であった。(佐島避事)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★海老助治
水津漁協組合長

★夷町家大工和吉
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★夷町吉郎右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★夷町権吉妻ふよ
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★夷町市右衛門夷町市右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★夷町市右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★海老名円平
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年生 小木町小木 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]
★鰕名歓太郎
「手わざ図鑑」

★海老名義恭
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の地役人で、字は泰天、通称を寛次郎、玄義または桜戸と号した。
天保十五年(一八四四年)六十才で京都に出て里村昌同に学び、連歌および和歌をよくした。
著書に「都の行かひ」がある。安政三年(一八五六年)九月二十八日に七十二才でなくなった。
(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★海老名吉右衛門


★海老名九右衛門
1635年(寛永12)、椿村裏目付けであったが、町方役となる。
★海老名五三郎
「手わざ図鑑」

★海老名左衛門尉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の人で、宝治元年(一二四七年)五月十四日に将軍藤原頼嗣夫人の葬式に、棺側に供奉した。(吾妻鏡、新潟県史)
★海老名周甫(秀甫)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡大石(羽茂町)の人で、源右衛門の子である。
葛西周徳に医学を学び、弘化三年(-八四六年)江戸に出て伊東玄朴に蘭方をならい、その塾頭となり、師の推挙で将軍の侍医となった。安政五年(一八五八年)八月に三十才でなくなった。(佐渡人名辞書)
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
文政十二年(1829)生れ、安政五年(1858)歿。
周徳の門人で最初に江戸に出て、伊東玄朴の象先堂に入るのは海老名周甫(のち秀輔と改める)であった。「羽茂村誌」によれば「医を周徳に学び、西方村の源右衛門(通称地田の湊)家の出身。弘化三年(一八四六)十七歳の時に江戸に出、伊東玄朴(シーボルト門人)に就き蘭方医学を修め塾頭となり、師の推挙によって将軍の侍医になる。安政五年八月歿。享年三十歳」とあるが、その他の記載はない。
資料としては、伊東玄朴の「象先堂門人姓名録」に氏江市左衛門が請人になって見え、「嘉永四年八月二十日 コロリ病死」となっている(「新潟県史」近世編十一)。これは入塾年月日を示すもので「コロリ病死」は後の書き込みではないかと思われる。海老名保作の「西方村誌」には、戒名「錦綺道覚周甫信士」とある。また、寺田市郎兵衛家には次のような伊東玄朴の授業料の受領書があって、元彦が海老名秀輔の身元引受人であったことがわかる。
「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)
★海老名末吉
→葛原源左衛門
★海老名弾正


『小木町史』より
慶長九年、小木に十分一役所がつくられました。十分一役所というのは、この港に陸揚げされる物資から十分一税をとるための役所をいいます。この役所の置かれた場所が、いまの幸町から相生町にかけての通路の西側です。その役所の近くに役人の住む役宅がつくられ、物資を買い入れる問屋衆が住むことにをりました。伝えによると、屋五人衆は次のようになります。播磨屋、上野住。
★海老名弾正忠
「戦国佐渡国人名辞典」より
羽茂高貞家臣。西方城主。1589年、樋口兼続勢の攻撃を受けると、鉄炮衆20余りを含む50余りで、樋口兼続勢を待ち伏せた。樋口兼続勢14名を討ち取るも、羽茂高貞勢側も20名余りが討たれ、海老名弾正忠も負傷したため撤退した。
★海老名武右衛門(義明)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「明治の敬老会」(「佐渡の百年」)
連歌関係者 →下記資料のp670
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
※羽生致孝とは兄弟
★海老名武十郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久三年生 羽茂本郷村 ・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明3、第十三回選挙[三十二年九月十三日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
★海老名ヒナ
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★海老名保作(遠松斎宗流一仙)
→佐々木元英(げんえい)の項
★海老名泰子
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「1号」(平成17年4月)市(いち」今昔
★鰕名雪江(えびなゆきえ)

「facebook「佐渡文化財団」(令和元年11月)
島の暮らしに寄り添う民具】について、お話を伺ってきました。
「おらち(私達)にとっての最高の贅沢は、暑い日に浴衣を着て、おろしたての藁草履を履いて歩くこと。藁草履は汗も吸い取ってくれて最高の気分になるんだよ」と、お話して下さったのは羽茂大崎絞張(しめばり)地区にお住いの鰕名さんご夫婦。ご夫婦は携帯の電波が届かない、静かな山あいで自然と共存しながら暮らしていらっしゃいます。締張地区で昔から作られている伝統藁細工の絞張馬(しめばりうま)を5歳の時から作り始め、かれこれ80年作り続けているとしていました。他にも、蛯名さんが作るものでヌイゴボウキや鍋敷きは人気商品で、藁細工については一通りできるそうです。「わら細工は生活に絶対に必要なもんだった。冬仕事に草履を100足はこしらえておかんなん(作っておかないといけない)。草鞋は3~4日に1度交換せんといけんもんしな(交換しないといけないものだ)。大変だったけも(けれども)、自然に還るもんを使うことは気持ちよかった」と、優しい口調で語るご主人。藁細工はミドリ米、エチゼン米と呼ばれる藁細工に適した米を栽培して作っているそうです。食べてもおいしくはないお米。筆者が普段食べているコシヒカリとは違い、長く美しく艶があるため美しい細工ができるのだそうです。「藁細工は毎日やらんとよりが戻る(忘れてしまう)。元のほうろくだ(元に戻る=技術が衰える)。習うより慣れろっちゅうてな、頭でだけでは魂のこもったもんは作れんっちゃ」と、語るご主人。奥様は80年前に藁細工を祖父から習い、それ以来ずっと好きで続けているそうです。「もう何百人も藁細工を教えたんだよ。だけど、誰一人跡を継ぐもんはおらん(いない)。この時代個人の力では佐渡の藁細工は続けられん…、滅ぶだけだ。天から金は降ってこんっちゃ」と厳しい現実を指摘しながらも、ご夫婦は手を休めることなく絞張馬を20分足らずで仕上げていました。「科学肥料で簡単に作る野菜は面白ろ〜ね〜(面白くない)。昔ながらの野菜を育てるのが面白れ〜んだ(面白いのだ)」と、ほほ笑むご鰕名ご夫婦の元には、失われつつある昔ながらの暮らしに興味を持つ人が連日訪れてくるといいます。
※藁の民具は数百種に及びます。
「島の新聞」8号









「島の新聞」索引(人名別)
★蝦名(えびな)勇吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三年生、羽茂村大崎 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]
★江見水蔭

大正14年と昭和7年の二度にわたって佐渡を訪れ、作品をものし、講演会等地元との交流で大きな足跡を残す。佐渡を描いた作品に下記がある。「佐渡へ佐渡へ」(昭和7年12月 「水蔭行脚全集」1巻)、 「続煙霞療養-紅葉遺聞及桂月逸話-」(大正15年1月 「太陽」)
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)

「紅葉・お糸のロマンス」(「佐渡の百年」)
「小波と水蔭」(「佐渡の百年」)
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
江見水蔭(「佐渡へ佐渡へ」)
「ウィキペディア」より
★江村秀山
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡山田(赤泊村)の人で、相川浄徳寺で剃髪し、後藤南岳に漢籍を学び塾頭となり、ついで仏学を研究した。
三十才のころ慶応義塾で英学を学び、卒業後、大阪府知事渡辺昇の命で長崎へ行き、キリスト教を探査した。
帰って本山大学の教頭となった。南条文雄と併称され、雄弁家であった。明治四十年になくなった。(佐渡人名辞書)
★円音(えんおん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国国分寺住僧。去々申年(天保七年)以来在中米払底之節居村幷隣村小前困窮乏者へ鳥目又は施米安売米等いたし為取凌侯趣に付、天保九年(一八三八年)に役所から褒賞された。この外二十二人も同様褒賞された。(佐渡年代記下巻)
★圓学坊日圓大徳 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★圓空
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★円光
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の僧である。正中二年(一三二五年)八月五日に佐渡国久知郷長安寺へ条田を寄付した。(佐渡志)
★圓持院日昇上人 本光寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★圓禅西沙弥
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★猿方微
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を周平といい、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★遠藤市次郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★遠藤樹

★遠藤和夫
「島の新聞」索引(人名別)
★遠藤可清
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡河原田町の人で、通称を源右衛門といった。里村昌徳、昌陸に学び、連歌、和歌、書をよくし、また散楽の太鼓、立花に巧みであった。貞享元年(一六八四年)十二月、七十六才でなくなった。(佐渡人名辞書)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
遠藤九左衛門や枠藤九郎を中心に観世流が行われたことは、元文四(一七三九)年二月一五日の「能師潟上村本間右近伜郷助並に小六町遠藤九左衛門伜藤九郎夕白町大行院にて打拍子を相勤む」という記事によって明らかである。すなわち、本間が佐渡宝生を代表し、遠藤が佐渡観世を代表したことを意味する。しかし、観世流は、明治一五、六年頃一一代遠藤可清が廃業してから衰えた。
★遠藤克彦
1944年真野で生まれる。妙宣寺住職の長男。
東大工学部建築学科を経て1968年同文学部倫理学科を卒業。
1975年愛媛大学教養部講師。同法文学部教授。専攻は哲学およびドイツ現代史。
★遠藤喜美子
「島の新聞」索引(人名別)
★遠藤九左衛門
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
遠藤九左衛門や枠藤九郎を中心に観世流が行われたことは、元文四(一七三九)年二月一五日の「能師潟上村本間右近伜郷助並に小六町遠藤九左衛門伜藤九郎夕白町大行院にて打拍子を相勤む」という記事によって明らかである。すなわち、本間が佐渡宝生を代表し、遠藤が佐渡観世を代表したことを意味する。しかし、観世流は、明治一五、六年頃一一代遠藤可清が廃業してから衰えた。
★遠藤九郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
遠藤九左衛門や枠藤九郎を中心に観世流が行われたことは、元文四(一七三九)年二月一五日の「能師潟上村本間右近伜郷助並に小六町遠藤九左衛門伜藤九郎夕白町大行院にて打拍子を相勤む」という記事によって明らかである。すなわち、本間が佐渡宝生を代表し、遠藤が佐渡観世を代表したことを意味する。しかし、観世流は、明治一五、六年頃一一代遠藤可清が廃業してから衰えた。
★遠藤源右衛門
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
竹田村(真野町)鍛冶衆の頭で、近世の初頭から町の重立ち衆の筆頭であった柳屋こと遠藤源右衛門は近隣の村々に田畑を保有する商人地主であった。遠藤氏も中山氏や中沢氏と同様に中世末か近世のはじめに移住して来た。同家の系譜はおよそ次のようである。
(遠藤氏略系図:「妙経寺過去帳」による)
・泰吉(竹田村(臭野町)泉沢住。のち四日町を開き移住。永禄七年(一五六四)五月六日没
・泰純(天正十三年(一五八五)三十三才投)
・泰貞(天正十七年、上杉氏佐渡平定のとき他国にのがれるが、後に帰国し河原田に住む。寛永三年(一六二六)十一月投
遠藤氏は鍛冶など諸職の集団をひきいる親分的な家という伝承がある。『佐渡相川志』に「慶長・元和の頃二人ずつ鍛冶町居住、白鳥善太夫・堀覚左衛門。其後、鍛冶町より納めたがね、河原田源右衛門支配」とあり鍛冶との関わりをうかがい知ることができる。しかも支配とあるから準役人(御雇町人)であっ
た。
・享和のころになると下町の中沢三郎右衛門は先祖の地越後へ帰り、文政七年(一八二四)、中山新右衛門(大屋)は江戸に出て幕府御徒士組に仕官をする。天保十二年(一八四一)中山忠兵衛は江戸糀町の前田大和守家に仕えた(『河崎産物語』)という。このように初期の有力町人のうちには、御家人株を買い武士となったり、医者になる家もできた。中山立恭(中山新兵衛)、遠藤立栄(遠藤源右衛門)、内藤玄佐(内藤清兵衛)など多彩である。このように「出京、学問を修めるもの」が輩出するが反面、「表立ち侯有徳の人(商人)つぶれ候へば、自然と衰徴仕り侯も、埋りに存じ奉り侯」(『佐渡四民風俗』)となった。新右衛門・新兵衛など河崎屋七軒衆と呼ばれた家々も今はすでにない。わずかに昔日の栄光を残すのは、林立する一族の巨大な墓や、寺社への寄進の品々のみである。
★遠藤元哲
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
元禄期(一六八八~一七一〇)ころからこの町に何人かの医家ができてきた。沢板五十里の町では、
菊地寿庵・生田専益、諏訪町に松村三益、河原田大坂町の内藤玄佐、上欠馳村では遠藤元哲・本間進斎、鍛冶町の鞍立常庵、河原田本町の中山玄亨、山中玄連などである。
→「医師」(佐和田)
★遠藤俉信
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
大蔵流の狂言を伝承したものが二人いた。終戦直後、先代山本東次郎師が毎年冬になると来島した。その教えをうけたのが下黒山の臼杵与作と遠藤俉信である。この二人はすでに故人となったが、俉信の子信一が伝承している
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
→若林米蔵「笛畝会」参照
★遠藤七郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
豊栄市葛塚の代々村役の家に生まれた。名は昭忠、字は子明、愛山と号し、別に睡虎、甘雨等の号があった。
勤王家であって、明治戊辰の役には、三百余人で一隊を組織し、戊辰隊という。
軍監に伊藤退蔵、小隊長に西方訥、伊野徳右衛門を決め、奥羽各地に戦って功があった。
戦後、奥平謙輔に従って佐渡の守備にあたったが、奥羽が平定されたので解隊した。
その功により、朝廷から短刀料、扶持(手あて)を与えられ士籍に列せられた。
七郎は陽明学を学び、大塩中斎をしたい、画、詩をよくした。家業についてからは、政治に加わらず、世事にもにもかかわらなかった。明治二十五年一月、五十四才で東京の旅先でなくなった。(北越名流遺芳)
★遠藤順快
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


★遠藤俊平
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より


★遠藤信一
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
大蔵流の狂言を伝承したものが二人いた。終戦直後、先代山本東次郎師が毎年冬になると来島した。その教えをうけたのが下黒山の臼杵与作と遠藤俉信である。この二人はすでに故人となったが、俉信の子信一が伝承している
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野町公民館は週一回、囃子方と狂言の講座をひらいている。
狂言の指導は土産増一・遠藤信一・若林義太郎・中嶋武雄の四人で始まった。
遠藤は大正九年生まれ、父俉信に師事したので大蔵流の名手山本東次郎の孫弟子になる。流派は異なるが狂言には相通うところがあるので指導の一役をかった。
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
→若林米蔵「笛畝会」参照
★遠藤真一郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、日本大衆党佐渡支部[五年八月二十四日]
★遠藤真一郎
→小黒ヨシ参照
★遠藤甚吉
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
スポーツ好きで赤泊校に在任中の遠藤甚吉(真野、元中学校体育連盟会長)は、同校グランドをこよなく愛し選手とともに自らも愛用したので「遠甚グランド」と話題になり、バスケットの導入期は小学校教員チームを編成して、中等学校チームと対戦した。スキーも畑野村板置山スキー場の開設に尽力し、合沢の自宅から金沢小学校へ通勤した普及の第一人着であった。
『両津市要覧(昭和33年)』より

★遠藤澄江
佐渡高校時代の昭和32.7.1、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★遠藤駿河ノ一
真野町竹田の人、文弥節語りで、常盤ノ一を指導した。明治6年没。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
駿河一は竹田の忠左衛門家の出身で、同家には天保年間に盲官をとった時の告文が残っている。盲官取得の前は清嘉という名前だった。嘉永三年には「打掛」慶応三年には「一度の中老引」に昇進している。駿河一は文弥の名人だった。毎年正月二日から五日までの間に盲人が奉行所へ出向いて「源氏烏帽子折」の三段目の「げにや三六〇日、こよみこよみと巻き尽くし」というところを語るのが例だったが、ある年駿河一が語って奉行からほめられたという。また木戸銭をとって文弥を語るようになったのも駿河一からだといわれている。亡くなったのは明治六年だった。駿河一には二人のすぐれた弟子がいた。一人は大崎星松之助と提携して文弥人形を始めた沢根の伊藤常盤一で他の一人が川茂の池野阿波一で、この二人がそれぞれおおぜいの弟子をもって佐渡の文弥界を東西に二分する状態だった。したがって系統をたどると、最初は駿河一-阿波一-金子善次郎、後の師匠は駿河一-常盤一-静賀と、元はどちらも駿河一に結ばれることになる。師匠運がよかったといえよう。
→「金子善次郎」参照
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
真野町竹田遠藤忠左衛門家に生れた。初め清嘉といった。師匠は畑野町後山(現在宮川)吉野一(桝五郎先生)。
官をとった時の告文が残っているが、最も古いものは「天保二年六月朔日」とある。嘉永三年に「打掛」、慶応三年に「一度の中老引」と昇格している。江戸時代、佐渡奉行所で毎年正月(二日から五日までの間)「源氏烏帽子折」を語ったが、ある年、この駿河ノ一ほ奉行にほめられたという。昔の文弥語りは、金持ちの家に招ばれて語っただけであったが、この駿河ノ一によってはじめて木戸銭をとって興行するようになったという。明治六年十月十二日死亡。戒名は「駿河一賢翁道性大徳」。由子に伊藤常盤ノーがいる。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★遠藤清左衛門
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
佐渡における天理教の歴史は、河崎の「佐島分教会」と新穂の「越の国分教会」がもっとも古いとされる。越の国分教会についてみると、明治二七(一八九四)年敦賀の人佐藤栄作が新穂村青木で布教、明治三三(1900)年同じく遠藤清左衛門来島、明治四二(一九〇九)年教会を設立し、今日に至る。信者数全島一七教会で約3000人という。
★遠藤清之進(えんどうせいのしん)
【生没】一八一八ー六五 能楽師。相川観世流の祖。慶応元年三月十一日、四八歳で病死しているから、文政元年の生れになる。遠藤家の十代目で、清之丞可啓ともいい、九代の藤九郎可厚に子がなかった。石扣町の甲賀勘兵衛の五男が、養子として入って十代を継いだ。遠藤家の祖は、順徳上皇に供奉してきた、遠藤為盛という北面の武士と伝えるが、定かではない。初代の九左衛門可通は、日蓮配所の一ノ谷(佐和田町)に住み、妙照寺の寺家松寿院を建立したとされる。二代可信から、福王茂十郎に入門して能の脇方となり、三代可頭のときに佐渡奉行神保五左衛門に乞われて、相川に移った。佐渡では潟上本間家の脇師として、二八○年ほど勤めた能家である。十代可啓になって、観世宗家観世清孝の直弟子となり太夫格を得、相川に帰って奉行から、佐渡観世流太夫の認許を得たと伝える。安政四年(一八五七)のことで、地元相川の門人が「百数十人」にも及んだ。慶応元年三月、四八歳の病没までわずか八年で、そのすぐれた技能は十一代の靖之進可清に受け継がれた。相川の観世流は、この二代にわたって蓄積されたもので、可清は一六歳で上京し、観世流の梅若実、同じく山階滝五郎両家に師事したという。明治新政府が能楽を軽視したことに憤慨し、同十五、六年ごろ能楽師を廃業、能装束一式を西三川(真野町)の加賀宝生流、余子柳太郎に売却して上京した。大正十三年七月、七五歳で没した。その末裔で杉並区高井戸に住む遠藤三郎方に伝えられた同家の系図・古文書・謡本などは、平成八年八月佐渡博物館に一括寄贈された。
【関連】相川の能(あいかわののう) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※相川の能(あいかわののう)
この町の能の初見は、大久保長安が慶長九年(一六○四)に、和州(奈良)からつれてきた「常太夫」と、「杢太夫」の二人の能師に始まる。「石見陣屋ニテ能アリ」(『佐渡相川志』)とあるから、佐渡奉行所が能のでき
る造りを、創建当時から持っていたことをうかがわせる。「上相川大山祇ニモ(能)アリ」とあって、翌慶長十年に大久保長安が建てる大山祇や、春日神社でも能が催されたらしく、春日社で正保二年(一六四五)に佐渡
で初めて能舞台ができる以前から、能はにぎわっていた。常太夫・杢太夫の死後、貞享年間(一六八四ー八七)に越前福井から中島可久という人が、また宝永六年(一七○九)に京都から仏師の左近という者がきて、
春日神社の能師を勤めたという。佐渡へ赴任の歴代奉行には能好きの人が多かったが、正徳三年(一七一三)から在勤した河野勘右衛門が、たいそう仕舞を好んだので侍一般にも広がったとされ、岡崎から大久保
平右衛門という人がきて、これも仕舞の指範をしたと伝えている。こうした能の盛行の陰に、潟上本間家(宝生)や矢馳村に住んでいた遠藤家(のち観世流の佐渡の祖となる)による出張指導の影響も大きかった。遠
藤家三代の可頭が、正徳三年に相川へ移ったのは、神保五左衛門奉行の指図であり、十代目可啓の時代に、潟上本間家と並んで能太夫を許され、潟上とともに神事能のシテ役を代々勤め、かつ相川に観世流が広
まることになる。明治以降は、謡曲愛好家でもあった佐渡鉱山御料局長、渡辺渡などが赴任し、官邸で各課長など招いて稽古につとめ、維新以後おとろえていた能の復興が始まる。三菱金属に移管されたのちも鉱山
長の原田鎮治らを迎えて謡曲素謡月並会などが常時開かれた。遠藤可啓と可清(十一代)による、幕末・明治の相川の門弟数は、百数十人を数えるという盛況ぶりで、能太夫可啓は越後水原や高田にも出張指導し
て、観世流を広めている。
【関連】海謡会(かいようかい)・春日社神事能(かすがしゃしんじのう)・遠藤清之進(えんどうせいのしん) 【参考文献】椎野広吉『佐渡の能謡』 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」
遠藤清之進の用語解説 - 1818-1865
江戸時代後期の能役者シテ方。 文政元年生まれ。家は代々佐渡(新潟県)の観世流能楽の名家。江戸の観世流家元にまなぶ。安政4年佐渡奉行から能太夫を命じられ,神事能をつとめた。元治(げんじ)2年3月11日死
去。48歳。名は可啓。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)


★遠藤隆
「佐渡ジャーナル」関係記事:「38号」(平成26年7月)すべての人にグッドフォーチュン(幸運)を(遠藤隆)※小川真一郎「40号」(平成27年1月)片桐幸男(ジャズギタリスト)-ギターこそ我が人生-(遠藤隆)「41号」(平成27年4月)・シリーズ『Sado人』探訪2 雑賀由美子さん(公益財団法人日本補助犬協会理事・訓練部長)(遠藤隆)「42号」(平成27年7月)・シリーズ『Sado人』探訪3 佐渡の地域活性化は私のライフワーク大倉剛さん(遠藤隆)「43号」(平成27年10月)・シリーズ『Sado人』探訪4 土屋周子さん:能楽師(遠藤隆)「45号」(平成28年4月)・シリーズ『Sado人』探訪6 大塚伸夫(遠藤隆)「49号」(平成29年4月)・「服のお直し」は「人生の仕立て直し」でもある-斉藤正さん(アン・コトン社長)-(遠藤隆)「50号」(平成29年7月)・シリーズ『Sado人』探訪10 今泉清美(遠藤隆)「53号」(平成30年4月)・「旅ルミネ」-第一弾は佐渡-(遠藤隆)「59号」(令和1年10月)・<佐渡相川物産品店(新潟館ネスパス)>(遠藤隆)
★遠藤隆行
両津高校時代の1990年度(H2)12月、第10回全国高校生読書体験記コンクール(一ツ橋文芸教育振興会主催) 入選
★遠藤為盛
順徳上皇に随伴した北面の武士であったが、上皇崩御後は、日蓮に帰依。
日得と名乗って、すでに入信していた千日尼や子息盛綱と共に日蓮に仕え自分の館を日蓮に捧げる。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の人である。文永十一年(一二七四年)三月十二日に日蓮がゆるされて鎌倉へ帰る時、書を為盛におくって救助の恩を謝した。(越後略風土記、新潟県史)
★遠藤長右衛門
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
金井町舟津の人、舟津人形の創始者。中島人形、あるいは長右衛門人形ともいう。太夫加藤与十郎、役者は遠藤長右衛門と息子の長次、それに三角(みつやま)の老人であった。
この一座のカシラは「作りつけ」で、説経高幕人形であったという。また、現在広栄座で演じているような「のろま人形」もあった。そして、「下ン長」ほ長右衛門、「お花」は長次。「木之助」は三角の老人がつかったという。明治の未に廃絶した。
★遠藤藤四郎盛国
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★遠藤桐葉
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★遠藤徳太郎
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 9文弥人形の思い出 9 佐渡徒然集 10続・佐渡徒然集
★遠藤徳平(徳兵衛)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
竹田には明治になってから文弥高幕人形ができた。遠藤徳平の始めた徳平人形である。徳平はほじめ歌舞伎芝居の役者だった。芸よりもむしろ男ぶりの方がよかったらしい。いつのことか、ある晩、女に扮装して自分の家に行き、「徳平さんにお世話になっている女ですが、居たらあわせてほしい」と云い、細君ほ夫とは気づかず、あとでやきもち喧嘩になったというエピソードがある。徳平は嘉永二(一八四九)年の一二月生まれだった。芝居は他村のなかまと一緒にやったもので、明治一八年、徳平三七才の時の八幡での興行願書を見ると、畑本郷の中川熊次郎、熊谷次郎や下新穂の影山昌平と連名になっている。影山は義太夫語りである。また明治三五年の松ケ崎村丸山神社での願書には、徳和の鶴間又市や菊池盛太郎と名前を連ねている。徳平五四才の時である。
昭和五一年に九〇才で亡くなった遠藤徳輔は、少年のころたびたび人形を見に行ったというから、徳平は芝居の役者をしながら人形座を組織していたことになる。太夫は徳平で遣い手は伝作に久作に新屋、伝作が死ぬとかわりに浅右衛門、久作が死んでからは徳輔も手伝いに行ったことがあるという。浅右衛門は繰り出しが上手だった。文弥高幕の徳平人形の三番叟は人形のかしらに黒い面をつけ、扇と鈴を持って舞った。その時は鼓打ちが出る。鼓打ちはどこでも狂言人形がつとめた。その前に口上人形が出る。それが古い人形芝居の定式だった。ノロマほその頃は男性自身を出す狂言ではなくて、掛合い話で滑稽な筋を語る形に変わっていたという。徳平人形はのちに御殿人形に改良された。徳平がよく語ったのはこもち山姥、持統天皇歌軍法、源氏烏帽子折、天神記等近松物が多く、中には小栗判官のような説経物もあり、見物衆が眠くなると太田合戦や熊野合戟のような金平物をだした。こうした出しものを見ると、説経高幕がすでにはやらなくなってからのものだとわかる。徳平は三味線を肩にかけるようにして語ったという。まだ玄人になりきっていなかったのであろう。窪田の盲人太夫深山静賀が来ると見物は多かったが、徳平が語るときは少なくて、途中でやめたこともあったという。それでも一座をもつことができたのは、・馬頭観音、秋葉山、清正公、後藤地蔵、大膳神社等、祭の人形が竹田だけで六ぺんもあったからで、そのほかに臨時に二夜待、三夜講などでやることもあったのである。徳平没後、倅が北海道へ移住したとき人形を持って行き、その後の消息は不明である。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
徳兵衛人形の創始者。「徳兵衛芝居」といって、地芝居一座を組織し役者であった遠藤徳兵衛が、明治中期に文弥節を習い、太夫となっていた。人形は息子が北海道へ持って行ったという。
★遠藤敏碩
「岩首校百年誌」(昭和55年)

★遠藤年雄
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
★遠藤日運
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

真野妙宣寺住職。紅葉と浮名を流したお糸さんは日運に嫁ぎ、日運死後、小木に戻り質商に嫁いだ。
「紅葉・お糸のロマンス」(「佐渡の百年」)
★遠藤日潤
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★遠藤広
相川小校長、娘は渡辺産商(渡辺秀樹)に嫁ぐ。

★遠藤弘
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★遠藤誠
佐渡高校時代の昭和44.10.4~5、陸上競技県高校新人大会(新潟市) 入賞
★遠藤満久
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1964年、CST(コア・サイエンス・ティーチャー)。新潟大学理学部卒 上越教育大学大学院終了 佐渡市立理科教育センター専任所員、中学校教員(佐渡市立高千中学校)。科学実験(児童生徒を中心に)、天体観察、地層観察。児童生徒対象の科学実験教室 教員・児童生徒対象の天体観察会講師 教員・児童生徒対象の地層観察会講師(全て佐渡市の小中学校) 田の生物調査講師(佐渡市)
★遠蔵みよこ
『新穂村史』(昭和51年刊)より
真野竹田の人、山田紋四郎を主に、島内は勿論越後方面各地に村祭の余興や興業をして大喝采を博した新穂田の沢「紋四郎かぶき」の一員。盲人で義太夫の語り。
★遠藤森蔵
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★遠藤森造

昭和2年5月12日没。河原田本町、学務委員、河原田町長。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・明2、監獄実地調査[二十一年六月]・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]・明3、第十三回選挙[三十二年九月十三日]・明4、自由派の会合と交渉会[三十五年六月二十三日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]
★遠藤紋平
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
相川流から国仲流に変わった四日町の鬼太鼓は、羨望と絶讃を集めることになった。さっそくそれを
習ったのが竹田だった。明治四二年生まれの土屋増一と、大正六年生まれの三浦忠雄が古老に聞いた
記憶によると、小田六郎平(弘化元-明治四〇)、松本滝蔵(明治九-大正一四)、本間豊蔵(明治一五ー大正一三)、本間寅蔵(明治一四-昭和二五)、遠藤紋平(明治一七-昭和四〇)等で、明治二九年頃だという。六郎平と滝蔵は舞もしたが太鼓中心、紋平は左利きで裏打の名人だったという。寅蔵と豊蔵が舞手だった。その年はまだ衣裳も整わず、はりきって待った三〇年は水害で祭りどころではなく、三三年には盛大な鬼太鼓を演じたと言う。
★遠藤由紀夫
佐渡高校時代の56.6.3~4、柔道県高校総合体育大会(佐渡郡佐和田町)団体戦3位、軽々量級8位
56.6.27-28、柔道北信越大会(松本市)団体戦出場
56.柔道秋季北信越大会 団体戦3位
56.8.2~4、柔道全国高校柔道選手権大会(千葉県)団体戦出場
★遠藤了雲(籐九郎)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡河原田の人で、はじめ藤九郎といった。
森田宗運について謡曲を学び、元禄六年(一六九三年)出府して福王茂右衛門の直弟となった。
帰郷後は相川に住み、門人が多かった。享保四年(一七一九年)になくなった。(佐渡人名辞書)
★遠藤六郎左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、延享四年(一七四七年)正月二十六日御勘定吟味役より佐渡奉行に、寛延二年(一七四九年)正月十一日に三百石に加増され、御勘定奉行に転任した。
名は易統、在任密は二百五十俵、御役料は千五百俵百人扶持であった。(佐島避事)
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