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2020-12-27

★渦ケ崎源治
「佐渡ケ嶽部屋六代目」(「佐渡の百年」)

★臼杵昭博
うす臼杵昭博

★臼杵伊之吉
うす臼杵伊之吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
うす臼杵伊之吉 新潟県官民肖像録 明治41年
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うす臼杵伊之吉
臼木伊之吉村長は午前中は役場で村長職、午後は臼杵医院で患者を診た。
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治中期頃になると眼科医荻野医院が上町で開業、続いて内科耳鼻咽喉科本間医院、内科産科婦人科長嶋医院、内科臼杵医医院、昭和に入ると内科山田医院、小児科後藤医院などの開業がみられ、歯科医では小杉、樺島の両医がそれぞれ専門医として住民の診療にあたっていた。
・白瀬の臼杵重右衛門家の三男。
→土屋元治
(柴山秀樹さん情報)
次男正司は新穂に住み、新穂役場水道課に勤めた。大正末か昭和初期の生まれ。現在、近辻さんの近くに臼杵家がある。
この場所は元々は丹波家で、丹波家が両津に移ったのでそこに臼杵家が住んだ。
「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市

★臼杵卯平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野町 ・昭1、佐渡革政党の創立[二年十二月四日]

★臼木栄作
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
うす臼木榮作 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭4、第二十回衆議院議員の総選挙[十二年四月三十日]・昭4、佐渡政友倶楽部の大会[十二年十一月十八日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うす臼木栄作

★臼木悦生(うすきえつお)
うす臼木悦生
大正大学教員データベースより(最終更新日:2013-05-15 17:16:02)
所属 人間学部 人間環境学科
職種 任期制准教授
■ 学歴
1. 1984/04~1990/03 大正大学 文学部
2. 1990/04~1993/03 大正大学大学院 文学研究科修士課程
3. 1993/04~1996/03 大正大学大学院 文学研究科博士課程
4. 2001/10~2006/09 東京工業大学大学院 社会理工学研究科博士後期課程
■ 職歴
1. 1996/04~1999/03 大正大学綜合仏教研究所 研究員
2. 1997/04~1998/03 仏教大学 通信教育部 非常勤講師
3. 1997/04~2004/03 関東学院大学 工学部 非常勤講師
4. 1999/04~2013/03 大正大学 文学部 非常勤講師
5. 2006/04~ 國學院大学 文学部 兼任講師
全件表示(7件)
■ 所属学会
1. 1989/10~ 日本ショーペンハウアー協会
2. 1991/11~ 仏教文化学会
3. 1992/07~ 日本宗教学会
4. 1994/04~ 日本倫理学会
5. 1997/04~ 比較思想学会
全件表示(12件)
■ 著書・論文歴
1. 著書  『知のエクスプロージョン――東洋と西洋の交差――』 (共著) 2009/08
2. 著書  『地域力を生かす中学生の職場体験学習~地場産業を活用したキャリア教育の実践~』 (共著) 2009/07
3. 著書  『輪廻の世界』 (共著) 2001/08
4. 著書  『ショーペンハウアー哲学の再構築――「充足根拠律の四方向に分岐した根について」(第一版)訳解――』 (共著) 2000/10
5. 著書  『日本人の生命観』 (共著) 1998/10
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「NPO法人「さど」」HPより
佐渡・大願寺住職 / 大正大学准教授
國學院大學講師  / NPO法人「さど」 理事・事務局長
大正大学文学部哲学科卒
大正大学大学院文学研究科宗教学(西洋哲学)専攻修了
ドイツ、ケルン大学留学
東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士後期課程単位取得満期退学。
現在、大正大学人間学部准教授、地域コミュニティ論、地域活性化に従事。最近では、地域活性化ためのシステム構築についての研究等を行っている。日本感性工学会、地域社会学会、日本キャリア教育学会、総合社会科学会等会員。NPO法人「さど」理事。
最近の活動
1. 大田区教育委員会 職業体験プログラム作成委員会 委員・講師[平成17年11月(現在に至る)]
2. 学職連携ネット・おおた 委員[平成17年11月(現在に至る)]
3. 大田区立御園中学校職場体験推進協議会 顧問[平成18年6月(現在に至る)]
4. 佐渡市教育委員会生涯学習課と高校生用生涯教育を共同企画[平成18年9月9日]
5. 講演「まちづくりと子どもたちの関わり――キャリア教育と地域社会」[平成18年10月]
6. トキの放鳥に向けた地域コミュニティのシステム構築づくり[平成19年4月(現在に至る)]
7. 佐渡市教育委員会生涯学習課と生涯教育を共同企画[平成19年10月27日]
8. 能楽の島・佐渡の野外能舞台群の活用を目指した研究会[平成19年10月(至平成20年9月まで)]
9. 「旅行商品化を見据えた文化観光のあり方を考える会」(国土交通省)委員・講師[平成19年12月17日(浅草編)]
10. 大田区中学生の職場体験を支援する会 顧問[平成20年10月(現在に至る)]
11. NPO法人「さど」 理事[平成21年 4月(現在に至る)]
12. みその学校サポート 顧問[平成21年 4月(現在に至る)]
13. 21・22年度東京都商店街振興事業、商店街リーダー塾講師[平成22年 3月まで]
14. 東京都理美容組合大田支部講演「キャリア教育と地域社会」[平成23年11月11日]
15. リアル熟議in東京Ⅲ ゲストスピーカー「子どもと社会へのつながりを考える」[平成23年12月11日]
最近の著書
1. 「コミュニティ形成における装置」司馬春英、渡辺明照編『知のエクスプロージョン』
平成21年 8月北樹出版
2. 「教育と地域づくりは共利・共生」学職連携ネット・おおた編『地域力を生かす中学生の職場体験学習~地場産業を活用したキャリア教育の実践~』
平成21年 7月実業之日本社
最近の論文
1. 「キャリア教育の視点から考える地域づくりのシステム構築」第13回社会情報システム学シンポジウム『学術講演論文集』(社会情報システム学研究会)
平成19年1月
2. 「地域社会における意識形成過程について――「平成の大合併」における地名存続問題を手がかりとして――」『総合社会科学研究』第2集9号(総合社会科学会)
平成19年3月
3. 「地域コミュニティ形成におけるキャリア教育の可能性」『日本感性工学会論文誌』Vol.8 No.3(日本感性工学会)
平成21年2月
4. 「トキをシンボルとしたバイオリージョンの試み」『BIO-City』(ビオシティ)No.42(株式会社ビオシティ)
平成21年6月
5. 「主体間相互支援モデルによる地域連携型キャリア教育の在り方に関する考察――東京・大田区の中学校の事例研究から――」『キャリア教育研究』第28巻第1号(日本キャリア教育学会)
平成21年10月
6. 「土地の記憶と忘却――自然・宗教・地域社会の相互関係としての環境――」『BIO-City』(ビオシティ)No.44(株式会社ビオシティ)
平成22年2月

★臼木悦眞
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うす臼木悦眞
・大願寺39代住職、佐渡高校教員、昭和39年没

★臼杵悦鳳
大願寺40代住職、大正大学教授、昭和58年没(54歳)

★臼杵喜太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
松ヶ崎村 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]

★薄木久五郎
→小黒ヨシ参照

★臼杵國男
令和2年4月没、75歳。真野町真野の人(島外から臼杵家に入婿)。島内小校長、佐渡版画村理事長、佐渡市教育長等を歴任。自ら版画を彫り、黒白の大胆なデザインの独特の版画はファンも多い。奥様の洋子さんは小学校教諭として高橋信一先生指導による版画運動を支えた。洋子さんの父は島内各小学校校長であり、島内バドミントンの発展に尽力した臼杵正巳氏(著作に「バドミントン島」、両津河崎の守道家の出で兄は守道辰雄)。

★臼木粂蔵(くめぞう)
→若林米蔵「笛畝会」参照

★臼木啓蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
うす臼木啓蔵 新潟県官民肖像録 明治41年
旧金丸村(真野)村長、明治三二・六・二八~。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、高等女学校[四十年三月二十日]

★臼杵健次郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
白杵医院の創始者健次郎は真野の長五郎家の出身である。明治三五年生まれで新潟大学医学部を卒業の後、昭和一三年六月、新町で開業した。婦人科医である。

★臼木兼蔵
旧金丸村(真野)村長、明治三〇年・四・二六~。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金丸村 ・明3、第拾回選挙[二十六年二月八日]・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うす臼木兼蔵
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
→若林米蔵「笛畝会」参照

★臼杵紅二
『加茂村誌』(昭和38年)
うす臼杵紅二

★臼杵作次郎
旧恋ケ浦村(真野)村長、明治三一・一一・一〇~。

★臼杵哲
佐渡高校時代の平成7.9.23、ソフトテニス県高校新人大会(弥彦)男子個人 臼杵哲・菊地亮太組3位
平成8.5.27~29、ソフトテニス県高校総合体育大会(新潟市) 男子団体ベスト8、男子個人 臼杵哲・菊地亮太組ベスト16
平成8.6.14~16、ソフトテニス北信越大会(高岡市)  臼杵・菊地組出場

★臼木サヨ
→小黒ヨシ参照

★臼杵重右エ門
『加茂村誌』(昭和38年)
うす臼杵重右エ門
『加茂村誌』(昭和38年)
うす臼杵重右衛門加茂村誌(昭和38年)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031892.html?p=4

★臼杵壽八
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
うす臼杵壽八 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年 生 西三川村西三川、農業、西三川電気 ・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]・明4、佐渡政友会員の会合[三十六年六月十四日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うす臼杵壽八


★臼杵春三

うす臼杵春三011018


★臼杵恕庵

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
「真野村志」にみえる臼杵恕庵・同昌庵・足立勇はすべて豊田岩野の「なかの」家の人である。漢方医で、足立勇は盲人だったというがいつ頃からそうなったのかはわからない。同一の家系で姓が違うのはふしぎにみえるが、足立兵庫守以来の足立姓がいつか臼杵姓にかわり、明治のはじめ、本来の足立姓にかえったのである。
「佐渡百話」には恕庵と昌庵についておもしろい話が載っている。『公民館の豊田分館附近に、江戸時代の「浦目付役所」があった。文政のころ、ここの役人だった清水季左衛門のところへ夜になると老婆姿の妖怪が現われた。ある日季左衛門と親しくしていた白杵恕庵が来て、顔色の悪い理由を聞いた。はじめ隠していたがとうとう妖怪の話をしたら、恕庵は「庭下駄の左の方を仰向けにしておけ」と教えた。それ以後妖怪は全く姿を見せなくなったという。』
昌庵についてはこんな話がある。『昌庵は当時質屋も兼ねていたが、ある年の末、相川の春駒から頬の曲がった春駒がいて、駒の面を質草にとったことがあった。新町の下町の山本半五郎家に滑椿な、そして狂歌を作っては人を笑わせる老人がいて、それを聞いて一首の狂歌を作った。
 いしゃはまあ頬のまがった面をとり
      さりとは智恵の白木松庵』
「いしゃ」は佐渡の方言では「お前」の意、それに「医者」をかけたものである。また「智恵の臼木」は「智恵のうすい」にかけたのである。昌庵と松庵、どちらが正しいかはわからない。恕庵は文久三年、昌庵は明治八年に死んだ。その子勇は二八年没。お墓に「貞隆」とあるのは、医者としての名前であろう。
あだ足立勇


★臼杵昌庵

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
「真野村志」にみえる臼杵恕庵・同昌庵・足立勇はすべて豊田岩野の「なかの」家の人である。漢方医で、足立勇は盲人だったというがいつ頃からそうなったのかはわからない。同一の家系で姓が違うのはふしぎにみえるが、足立兵庫守以来の足立姓がいつか臼杵姓にかわり、明治のはじめ、本来の足立姓にかえったのである。
「佐渡百話」には恕庵と昌庵についておもしろい話が載っている。『公民館の豊田分館附近に、江戸時代の「浦目付役所」があった。文政のころ、ここの役人だった清水季左衛門のところへ夜になると老婆姿の妖怪が現われた。ある日季左衛門と親しくしていた白杵恕庵が来て、顔色の悪い理由を聞いた。はじめ隠していたがとうとう妖怪の話をしたら、恕庵は「庭下駄の左の方を仰向けにしておけ」と教えた。それ以後妖怪は全く姿を見せなくなったという。』
昌庵についてはこんな話がある。『昌庵は当時質屋も兼ねていたが、ある年の末、相川の春駒から頬の曲がった春駒がいて、駒の面を質草にとったことがあった。新町の下町の山本半五郎家に滑椿な、そして狂歌を作っては人を笑わせる老人がいて、それを聞いて一首の狂歌を作った。
 いしゃはまあ頬のまがった面をとり
      さりとは智恵の白木松庵』
「いしゃ」は佐渡の方言では「お前」の意、それに「医者」をかけたものである。また「智恵の臼木」は「智恵のうすい」にかけたのである。昌庵と松庵、どちらが正しいかはわからない。恕庵は文久三年、昌庵は明治八年に死んだ。その子勇は二八年没。お墓に「貞隆」とあるのは、医者としての名前であろう。



★臼木尚三

『両津市要覧(昭和33年)』より
うす臼木尚三


★臼木善祥

新穂大野の樹林寺住職、東大文学部インド哲学科卒。昭和26年佐渡高校卒。平成29年12月没。
新穂村議から創立時の佐渡市議、佐渡高校同窓会会長等も歴任した。
東大時代、新穂出身の医学部教授長島長節教授から声を掛けられて恐縮したとのこと。
同年の上智大ドイツ語教授本間英世氏とは親しい友人であった。

佐渡高校同窓会報38号
うす臼杵善祥 佐渡高校同窓会報38号 h30o8月


★臼杵妙子     
佐渡高校時代の昭和39、白扇書道金主催全国学生書道展全国優良校賞受賞、宝研金賞 

★臼杵司
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=2

★臼杵綱蔵
旧恋ケ浦村(真野)村長、明治二九・九・二三~。

★臼杵利雄
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
大正一四年の出生、平成27年11月没。父与吉は小鼓の名手として知られたが、利雄は笛にすぐれている。

→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
→若林米蔵「笛畝会」参照


★臼杵敏文

「島の新聞」索引(人名別)


★薄木春廣

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
うす薄木春廣


★臼杵直一郎

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
うす臼杵直一郎


★臼杵秀昭
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=3

★臼木兵右衛門
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
う臼木兵右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡真野町四日町の農で、父の源右衛門は名主であった。娘の初は美人で、留守居役奥野七郎右衛門は初を妾にしょぅとした。源右衛門はこれを固辞したので奥野ほ怒り、父子を捕えようとした。源右衛門ほこのことを知り、前浜に隠れること数年、奥野はその家人を家にとじこめ、国中の諸村より庸役をつのり監視させた。後源右衛門は捕えられて獄死し、長男も獄に入れられた。兵右衛門は源右衛の二男で、外に出て苦心の末、巡検使に追訴すること二回で、ようやく一家は釈放され、奥野は追放された。時に寛文十一年(一六七一年)十二月であった。(佐渡人名辞書)

「蓮華峰寺の解体修理」(「佐渡の百年」)


★臼杵平吉

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
郡有林の経営は、県下で佐渡が一番早かった。佐渡都会(明治三〇年~大正一五年)は明治三六(一九〇三)年一二月の通常会において郡有林道成案を議決した。それほ真野山御料地内の一六〇町歩余を拝借し、一五年間継続事業として植林しょうとするものであった。その経費は一四、五一〇円九〇銭となっている。この事業は翌三七年より実施に移された。毎年一、二一六円の補助で杉、 檜、落葉松、赤松など約七〇万本が植えられた。一時は菅野杉苗を植えたが失敗をしたともいう。こうした苦労を重ねて、この樹木が郡財産の基礎となったわけである。この事業の完成については、白杵平書(真野白杵長五郎家)の働きが大きい。前述のように郡有林のことが議決されると、郡会は臼杵平吉を東京農科大学林業実習生として特派した。臼杵が帰ってから予定の事業を開始する計画であった。ところが県は苗木を附与するから早く植林せよと督促するし、郡も初めての仕事として一種の好奇心により、また財産の余裕のあるに任せて、ついに土地に適さない杉苗を植え、全部枯死させるというような状態であった。
臼杵平吉が帰島したのは、すでに杉苗の植えつけが完了した後で、この植えつけの状態をみて「たいへんよくない」と言ったという。臼杵の帰島してから仕事を始めたら全山枯死
というような状態にならなかっただろうと当時の雑誌(新潟県山林会報第二号ー大正二年)に記している。
臼杵は郡有林主事となり、郡有林植樹の改善や、県外への調査研究、島内での山林経営実地指導にかけめぐり大きな功績をあげている。


★臼杵雅子

佐渡高校時代の昭和38、全国学校書道連盟主催全日本学生競書大会、特選 


★臼杵雅

 両津高校時代の2001年度(H13)、空手道部全国選抜体育大会新潟県予選 男子個人組手3位、 北信越高等学校新人大会 男子個人組手出場


★臼杵稔

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
うす臼杵稔 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)


★臼杵弥助(小泊の弥助、石工弥助)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡小泊の石工。石像を刻むに妙を得、その作品は開眼を要しないといわれた。明和(一七六四-七一年)ころの人である。(佐渡人名辞書)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
い石工彌助

『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
小泊の名工弥助は明和の頃の人であるが、その生家は明らかにされていない。松岡雪操「佐渡の石像石仏」(『佐渡研究』第二号)は「碓杵弥助」とし、『佐渡の昔ばなし』(不苦楽庵主人) の「丸山の大師」 の中では「小泊の奥が平臼杵弥助」、『西三川村誌』(本間周敬)では「小泊のイナバの出か」としていて、確定できない。弥助ほ臼杵姓とみられてはいるが、「奥が平」か「イナバ」 の人か、両家と菩提寺に手がかりがないのであろうか。
小泊の名工弥助のものは、椿尾のせり河内にある地蔵堂内の両大師(弘法大師、興教大師)が知られている。小泊の白山神社鳥居も弥助作と言われている。
小泊の岡崎文泉は、古代の小泊須恵器窯跡発見と調査の功労者であるが、石仏や石塔も愛し、造詣が深かった。彼によると、石工銘があるなしにかかわらずそれぞれ作風があり、弥助の系統、五兵衛の系統、重太郎の系統があるとし、弥助は清楚で仏相をただよわせ、五兵衛は精致、重太郎は人間味にあふれてどっしりしているとする。弥助はまた、海岸の軟かい石でも多く切り、全体の姿がのびやかで、彫りも形も上手である。
椿尾のせり河内地蔵堂にある弥助作の両大師は、祭壇前面の両側に木製の椅子に安置されている。ゴマ石製で、およそ像高三十センチの丸彫採色坐像で、両大師ともその椅子の裏底に次のような墨書銘があって、明和四年(一七六七)の弥助作であることが知られると共に、弥助存在を証明している。
他に、両津市両尾の宇賀山にまつられる金比羅神社狛犬は凝灰岩製で、およそ高さが二十数センチ位のものであるが、その底部に墨書で「世話人 明和五 戌子 八助」とある。この「八助」は小泊の「弥助」かも知れない。

うす臼杵弥助 うす臼杵弥助 (2) 


★臼杵泰弘

 両津高校時代の2000年度(H12)、北信越総合体育大会 陸上競技部 3000MSC 2位 、 2001年度(H13)、陸上部県選抜陸上競技大会 3000MSC 3位、北信越高校新人陸上競技大会 300MSC 8位


★臼杵洋子
令和5年8月没、八幡、76才。島内小学校に勤務し高橋信一の提唱する版画運動の実践者として活躍した。夫は教育長等を歴任した臼杵国男、父は真野町真野の臼杵正美(島内校長、バドミントン等スポーツ指導)。

★臼杵与策
 →小黒ヨシ参照

★臼杵与作
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
大蔵流の狂言を伝承したものが二人いた。終戦直後、先代山本東次郎師が毎年冬になると来島した。その教えをうけたのが下黒山の臼杵与作と遠藤俉信である。この二人はすでに故人となったが、俉信の子信一が伝承している。

★臼田亜浪
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)
うす臼田亜浪 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年 
ウイキペディアより

★歌明子
両津高校時代の1991年度(H3)8月、秋季実務競技県大会 ワードプロセッサ部門、団体2位、正確賞 

★哥賢蔵(うたけんぞう)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
うた歌賢蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
河原田諏訪町で写真館を経営する。近藤福雄などと共に、畑野後山の長島恵一の指導を受けたと伝えられている。恵一が写真を撮り始めた年代はわからないが明治30年頃からの写真が残っている。
「人力車から自動車へ」(「佐渡の百年」)

★歌重右衛門
昭和8年河崎生まれ、父歌重太郎の後を継いで河崎郵便局長となる。
「新潟日報」(平せ26年8月13日)
うた歌重右衛門

★歌重太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うた歌重太郎

★歌忠策
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
うた歌忠策 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★宇田浅次郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うだ宇田浅次郎

★宇田川平七(うだがわへいしち)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行。安永六年(-七七七年)三月二十六日納戸頭より佐渡奉行となり、天明元年(一七八-年)六月十五日に御先手弓頭、鉄砲頭に転任した。名は定図または定円、知行二百俵、役料千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)

★歌代藤吉
佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)
うた歌代藤吉 佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)

★歌野金次(欣治)  
新穂の人、明治40年頃生。長くNHK に勤め音楽部長として佐渡民謡の紹介に尽力した。霧島昇「肉弾報国の歌」等も作曲。バイオリニストでもあった。
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より:明治も末の頃、馬場の歌野金太郎氏宅(現農協生活センターこで、通称新屋のおっさんと言われた仕立屋さんがリーダーとなって、太鼓、ラッパ、手風琴、クラリオネット奏者等五、六人で、楽隊(ヂンタ)を組擁していた。明治三十七、八年の日露戦争の時等は、出征軍人の歓送迎の行列の先頑に立って、大いに志気を高揚したものである。大正七、八年頃、バイオリンの名手として浅草のオペラ劇場、金龍館に主任音楽師として勤務し、後、新潟市の二大映画館の一つ電機館で主任音楽師を勤め、また、昭和六年に新潟放送局が開局になると、同局の音楽部の主任となり、人気者組の素人のど自慢大会には審査委艮となって、大衆に大変親しまれた歌野金次氏(歌野金太郎氏長男)も或は少年時代に聞いたであろう、新屋のおっきん達のヂンタの音の魔力に魅せられ、音楽家を志したものではなかろうか。

★歌野金太郎  
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治も末の頃、馬場の歌野金太郎氏宅(現農協生活センターこで、通称新屋のおっさんと言われた仕立屋さんがリーダーとなって、太鼓、ラッパ、手風琴、クラリオネット奏者等五、六人で、楽隊(ヂンタ)を組擁していた。明治三十七、八年の日露戦争の時等は、出征軍人の歓送迎の行列の先頑に立って、大いに志気を高揚したものである。
→歌野金次

★歌野徳次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うた歌野徳次
うた歌野徳次 (2)

★内海市兵衛
うち内海市兵衛 (1) うち内海市兵衛 (2)

★内海喜兵衛
『加茂村誌』(昭和38年)
うち内海喜兵衛

★内海治市
うち内海治市 うち内海治市 夷保育園園長 うち内海治市 夷保育園園長
上横山共同墓地
うち内海治市
夷四ノ町で小児科医院を経営、石川書店の道路を挟んで真ん前であった。両津に高等女学校設立を強く主張し、その思いが通じて創立に至る。当時の両津町は、乳幼児死亡率が新潟県のトップであり、母親に出産や育児の知識が余りにも乏しかった。この当時の状況については、内海医院の近所で育った京都大学名誉教授の竹内洋氏の著作に詳述されている。
(渡辺駐)私が夷保育所時代は夷三の中静先生が園長で、内海先生がその上の立場の人かなと思っていた。春風駘蕩の雰囲気のある方で、大柄でゆっくりと話す方だった。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うち内海治市
「島の新聞」
69.jpg
「両津勘吉に見る歴史の綾」

★内海六観(亀蔵)
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
うち内海六観(亀蔵) 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
明治30年生、北方の人。新穂横町で料亭六観亭を経営していた。場所は現在(平成27年)の長三郎寿司店。そうは長くなかったらしい。大正12年7月、当時の民俗音楽研究の第一人者であった田辺尚雄氏はここで鬼太鼓を観賞し、称賛する。演技者は舟下の森田森田宗一であった。(昭和2年刊「島國の唄と踊」) これを機に佐渡の鬼太鼓が全国的に注目を浴びることになった。

★内江清五郎(うちえせいごろう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所目付役。天保十一年(一八四〇年)に佐州百姓共徒党いたし侯一件奉行所において評定所留役等吟味いたし候節骨折侯に付、銀二枚を与えられた。(佐渡年代記下巻)

★内ケ崎愛夫
於:黒木御所
うち内ケ崎愛夫 黒木御所

★内川洋
う内川洋
両津高校19代校長(平成18年4月~平成20年3月)。

★打越美恵
河原田高女教師で、昭和5年に佐渡中学応援歌(A)を作曲する。戦前戦中派の人に親しまれたが、現在(平成11年現在)は歌われていない。
さど佐渡中学校応援歌(A)

★内田克彦
内田克彦 (1) 内田克彦 (2) 内田克彦 (3)
(コロナ禍で休業中の「もつ焼き屋」 格安5本100円で子供向けに売り続けるわけ)
この度の緊急事態宣言の中で、「お子様連れのお母さん、お父さんにもつの串焼き5本入りパックを100円で販売」ということを実践しているもつ焼き店がある(ここでの「もつ」は豚の内臓のこと)。店名は「もつ焼 でん」(以下、でん)。経営は株式会社田(本社/東京都千代田区、代表/内田克彦)。2013年にオープンした水道橋店が1号店で、その後、中目黒店、西小山店、蒲田店、戸越銀座店、アメ横店(以上、東京都内)、佐渡金井店(新潟県佐渡市)と展開してきた。「でん」ではなぜこのような売り方を手掛けるようになったのだろうか。店を休業して「もつ焼き」のスキルアップに充てる「もつ焼 でん」はこの度の緊急事態宣言で休業を続けている。もつ焼きはアルコールとセットになっている食べ物ということで、アルコールが売れないことはもつ焼きも売れないことに等しい。ここで代表の内田氏は、飲食店は休業することとし、店内で従業員のもつの串打ちともつ焼のスキルアップの時間に当てようと考え、それを実践するようになった。内田氏はランニングを趣味としていて、店に入るまで自宅から町中を抜けてやってくる。この中で見る機会が増えてきたのは「子供食堂」という看板であった。ここで内田氏も「子供を通じた社会貢献」を意識するようになった。そして「このもつ焼を子供たちに食べてもらおう」とひらめいた。この時、学校が夏休みに入る時期で、「夏休み応援企画、無料」ということを考えたが、「無料だと、入りにくい人がいる。100円でもいいから、お金をお預かりしてお渡しをしたほうがいい」と知人からアドバイスされた。そこで「通常営業の時に来店をしていただく機会のない、お子様やお子様連れのお母さんにおいしいもつ焼きを食べてもらう」という企画が整った。スタートしたのは都内6店舗同時で7月25日から。串打ちは12時から16時までで1店あたり300~400串となる。もつ焼きの他に惣菜も販売、お子様連れの人には1個200円、お子様連れではない人には、もつ焼き5本セットを含めてすべて300円で販売する。16時から販売し、売り切れと同時に営業を終了する。買い物をしてくれた親子のお子様には昔の駄菓子屋にあったくじ引きを1回楽しんでもらう。「でん」の各店がこのような試みをしていて、各店では思わぬ売れ方をしている。アメ横店は周りに小売店や飲食店が密集していて、ここの経営者や従業員が買い求めるようになり、ご近所づきあいが活発になった。ほかの店舗でも、通常営業の時には来店することがなかった地元の住民が買い求めにやってくるようになった。顧客層が広がっている手応えを感じている。水道橋店は「でん」の中でも最も長く営業していて、常連の顧客も多い。そこでわざわざ電車に乗って買い求めにやってくる顧客もいる。これらの試みは9月いっぱい継続する予定で、この売上はすべて小児医療施設に寄付するという。また、各店長から今回の試みによって従業員の串打ちの技術が格段に上がったとの報告を得ていて、当初の狙いは達成している模様だ。次々とトップランナーの下で学ぶ。代表の内田氏は、飲食業の中で貴重な経験を積んでいる。それは、偶然にも飲食業の中でトレンドをつくり上げたトップランナーの下で仕事をしてきたということである。内田氏の黒縁メガネはトレードマークで、これまで飲食業界の先端的なさまざまなシーンに出没していた(筆者撮影)内田氏は1963年5月生まれ。新潟の佐渡島の出身。高校を卒業後上京し専門学校に進み、アルバイトで新宿二丁目のゲイバーで働く。ここでの月給は28万円、普通のサラリーマンの2倍であった。8年間勤務して、飲食業で独立する意識が芽生えるようになった。そこで「居酒屋で働いて経験を積もう」と考え、求人雑誌で見つけた「八百八町」の梅屋敷店で働くことになった。この店は、1980年代に大きく隆盛した「つぼ八」の創業者である石井誠二氏が同社を退任してから開業した店である。石井氏はワタミの渡邉美樹氏を育てた人物であり、居酒屋の神様と称された。「八百八町」はつぼ八の路線とは異なり、ファミリーを背景にした住宅街で展開していて、内田氏は同社で10年間勤務した。先に述べた「子供連れのお母さん、お父さん」に対する思いはここでの経験で培われたものだろう、筆者は長く飲食業の取材に関わってきたが、その中の時代の先端に位置付けられるような場面の中に内田氏が存在した。筆者の記憶にある内田氏は、2003年に新宿末広通りにオープンして新宿三丁目の一帯が飲食街としてにぎわうきっかけとなった「日本再生酒場」のカウンターの中にいた。「日本再生酒場」は戦後にブームとなった「もつ焼き」を復活させた存在で、10坪足らずの店舗ながら月商1000万円を叩き出した。同店を運営するいし井グループ(本部/東京都調布市、代表/石井宏治)はこのコンセプトを不動のものとして店名を統一しない形で全国展開を進めていく。
(お客様を思いやる気持ちが熱い)
2007年9月、「飲食業開業支援」をうたって「飲食店のプランニングで最も優秀と認められた人物に1億円をプレゼント」というコンテスト「伝説の扉」が開催された。そのファイナリストの中に内田氏がいた。筆者はこの黒縁メガネの人物が「日本再生酒場」に居たことを思い出して、「飲食業での独立心が熱い人なんだ」と思った。このコンテストでは優勝を逃したが、審査員の一人、際コーポレーション代表の中島武氏の賞である「中島賞」と「熱演賞」を受賞した。中島氏は、1990年代から「鉄鍋餃子」「北京ダック」といったヒットコンセプトを次々と生み出した人物である。その後、内田氏は、新宿思い出横丁の「もつ焼 ウッチャン」のカウンターの中にいた。この店は中島氏が出資者として関連していると聞いていた。店内にはジャパニーズロックがガンガンと流れていた。そして、水道橋の「もつ焼 でん」はオープンしたての当時、知人と食事をしたことがあった。そして黒縁メガネの人物がいきいきと仕事をしていた。そこはかとなく「日本再生酒場」のテイストを感じた。このように筆者の飲食業の記憶の中で、「もつ焼き屋でいきいきと働く」というシーンの中に内田氏が存在している。内田氏はこれらの経営者のことを「大変お世話になった方々」ということを節々で語るが、内田氏の今日の経営姿勢に大きな影響を及ぼしていることだろう。それは、商売の技術を磨くこともさることながら、お客様を思いやる気持ちだと筆者は感じている。それが「お子様連れのお母さん、お父さん」に表れているのだろう。

★内田喜久男
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野能楽会は「笛畝会」と「清諷会」とが合流して生まれたが、その頃誕生早々で、今は真野能楽会に所属しているものに「宝清会」がある。この会は昭和四九年、町役場勤務の若い者を中心に五、六名が山本清左衛門に習ったことから始まり、今は二〇名近い。会長は羽生茂・内田喜久男・渡辺ヤス・安達忠雄と続き、現在は再び羽生茂である。師匠は山本の没後、その高弟である小泊の浜岡直一にかわった。

★内田キヨ      
 両津高校時代の1958年度(S33)10月、第13回国体 槍投出場
 1959年度(S34) 6月、新潟県高校陸上競技対抗選手権大会兼全国高校陸上競技対抗選手権大会新潟県予選会 女子団体3位、砲丸投1位・槍投1位・円盤投3位
 第12回全国高校陸上競技対抗選手権大会信越地区予選会 槍投1位
 8月、第12回全国高校陸上競技対抗選手権大会(東京) 槍投 決勝敗退   
 9月、第12回新潟県高等学校総合体育大会 陸上競技 槍投1位・砲丸投3位
 9月、 第14回東京国体 陸上競技 槍投 決勝5位(37M80)

★内田賢一
両津高校時代の1969年度(S44)6月、第7回北信越高校大会陸上競技 内田賢一 斎藤好彦 桧田恵子 滝本律出場 、9月、第24回長崎国体県予選陸上競技 走巾跳2位  
「島の新聞」索引(人名別)

★内田治一郎
うち内田治一郎

★内田俊三郎
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)

★内田潤平
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
うち内田潤平 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

★ 内田製作所
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
佐渡の民俗芸能に「春駒」がある。今まで、これを土人形に作ったものが、たびたびあらわれたが、どうも全体の姿が表現しにくいのか成功しなかったようである。しかし、このなかで相川町内田製作所で作る「春駒人形」は、二十cmくらいの大きさだけに、割り合いよく出来ている。全体布地をもちいてあるが、面は土製らしい。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)

★ 内田セツ
「島の新聞」9号
9うち内田セツ (1)
9うち内田セツ (2)
「島の新聞」索引(人名別)

★内田知美
佐渡高校時代の平成元.6.3~5バドミントン県高校結合体育大会(佐渡)内田知美女子シングルスベスト8、内田・金子組女子ダブルスベスト8

★内田正雄
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
椿尾の安藤毅に謡曲を習う者に「楽謡会」と「竹田謡曲会」がある。
安藤は明治三五年生れ。父牧太は金子柳太郎の高弟。そのため幼くして能に親しみ、のち佳愛に入門した。自宅の庭に、昭和五七年の秋、満八〇才の誕生日に、門人のたてた寿碑がある。「安藤翁の傘寿を祝して」と題した「鶴の舞ひ亀の謡ひて宝生のなかれをくみし能師たたふる」 の歌と文字は、門人内田正雄の作である。

★内田正雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)内田正雄 10 とうろやさん

★内田美和子
佐渡高校時代の昭和60.6.1~3、バドミントン県高校結合体育大会(新発田市)女子団体2位 金杉悦子・内田美和子女子シングルスベスト8女子ダブルス(本間・内田組 中山・金杉組)ベスト8
61.1.18-19、バドミントン県高校選抜大会(新潟市)女子団体3位 内田美和子、石川里美女子シングルスベスト8、女子ダブルス(内田・山地組 仲川・石川組)ベスト8
61.6.7-9、バドミントン県高校結合体育大会(長岡市)女子団体3位(北信越大会に出場)、内田美和子女子シングルス3位、女子ダブルス(内田・逸見組)ベスト8

★内田康夫
『佐渡伝説殺人事件』(佐渡伝説殺人事件 昭和62年 角川文庫)
「カドカワノベルズ」昭和60年4月。「願」という文字のみが記された葉書が舞い込み、駒津は殺害され、大学時代の親友四人組の一人、三輪もまた、佐渡の海府大橋で不可解な死を遂げる。二人の死を推理していくと、事件は三十数年前の佐渡・願地区の賓の河原に端を発していたことがわかる……。小説全体を通じ、日本海の荒波に打たれる寂しい賽の河原、流人の島といぅ過去を持つ佐渡ケ島が、殺人事件の背景として描かれている。

★内田ユキオ(うちだゆきお)
う内田ユキオ     うち内田ユキオ1
上記写真『いつもカメラが』より
うち内田ユキオ2 うち内田ユキオ3
1996年(昭和41)、両津市生れ(岩首?)。公務員を経て1995年写真家として活動をスタート。タレントやミュージシャンの撮影の かたわら、 モノクロによる街のスナップを発表。写真展 「水の記憶に誘われて」(2005年フジフ ォトサロン)など。 雑誌などを中心に執筆も手がける。モノクロでのスナップに定評があり、ニコンサロン、富士フォトサロンなどで個展を開催。187cmの長身を活かしたスナップと、モノクロ写真へのこだわりがウリ。執筆も手がけ、カメラ雑誌や新聞に寄稿。現在は、写真教室の講師も務める。
自称、「最後の文系写真家」。主な著書:『ライカとモノクロの日々』『いつもカメラが』(写真評論家飯沢耕太郎解説)。
 ■「スロー・フォト」へ誘う一冊
 今年になっていくつかのフィルムメーカーやカメラメーカーから、撤退や縮小の発表が相次いだ。 そのこともあって、銀塩フィルムを使うアナログの写真がこのまま残るのだろうかという声が、 強い危機感をともなって聞こえてきた。僕のようにずっと写真にかかわってきた者にとっては、 まだ半信半疑でもあるのだが、最近の急速な状況の変化を見ると、フィルムや印画紙が市場から消えて
しまう日が来ることもあながち否定はできないと思う。 だが、内田ユキオが産経新聞夕刊(平成17、18年、大阪本社版)などに連載した写真とエッセー を収録した本書を読むと、世の中の99%がデジタル化したとしても、銀塩にこだわり続ける人たちは
残っていくのではないかと思う。ライカのような歴史を経たカメラで、モノクロームの印画紙に 焼き付けられたプリントの魅力は、そう簡単に別のものに置き換えることはできないはずだからだ。 内田はこう書いている。「もしあなたの撮りたいものが、名前を決めかねているようなものなら、 それはたとえば哀しみだとか、懐かしさだとか、驚きだとか、温(ぬく)もりだとか、恋に変わり そうなときめきだとかなら、モノクロで撮るのがいい」 にはアナログの楽しみがある。カメラとレンズを選び、フィルムを詰め、状況に応じて絞りや シャッタースピードの組み合わせを決定し、じっくりと狙いを定めてシャッターを切る。もっと 余裕があれば、自分でフィルムを現像し、引伸機でプリントしてもいい。そんな「スロー・フォト」 の仲間たちに向けた珠玉のメッセージが、たっぷりと詰まっている。 読み終えたらしばらく使っていなかったカメラを引っ張り出し、フィルムを詰め替えてほしい。 「おや、写真はこんなに面白かったん」。撮り終えたときに、そんな風に感じる人も多いのでは ないだろうか。(枻(えい)出版社・1365円)
佐渡の動画

★内田要蔵
佐渡プロテスタント(新教)の最初の信者。万延元年(1860)9月29日畑野生れ、父傳吉、母マキの三男。
マキは徳和村伊賀久次良の三女。要蔵は畑野の猪股元次郎の長女トミと結婚したが、妻を畑野に残して出稼ぎをしていたらしい。
明治17年8月3日、25歳の時、新潟で米人ギュリキより受洗、北海道に行き明治23,24年頃帰島する。明治26年、兄杢太郎が妻子と共に北海道に移住した為、家名を相続。
明治25年池野又七が佐渡に初代伝道師として赴任した時には要蔵に会えず、妻トミの世話で畑野方面の伝道にあたる。
要蔵は畑野では土屋松蔵と言う信者を作る。その後、大正5年に北海道夕張郡長沼村の加賀団体(屯田兵か)へ移転する。
(参考:「佐渡プロテスタント小史」本間雅彦)
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)

★内田三郎兵衛
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)

★内野常蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うち内野常蔵
安養寺・羽黒神社
うち内野四郎兵衛 (1) うち内野四郎兵衛 (2)

★内堀利右衛門
新穂武井 熊野神社
うち内堀利右衛門 新穂武井 熊野神社

★内村鑑三
うち内村鑑三1 うち内村鑑三
明治17年、北海道からニシンの卵を佐渡に移し繁殖を試みる。著書『余は如何にして基督信徒となりし乎』に鷲崎の十一屋旅館に宿泊した時の面白いエピソードが描かれている。新潟の英学校「北越学館」で教頭を務めたこともある。また、大日本水産会伝習所では生徒であった森知幾に大きな薫陶を与えた。
(小菅徹也)
両津市湊に生家の残る北一輝は、内村鑑三が新潟の教会へ来た時期に、暫く佐渡の水産研究所へも来ていた。その時に内村と北が出逢い、内村の日蓮思想に啓発されたのが北一輝の日蓮思想深化の契機になった。以上のことに関し、今後の研究上の方法論について相談を受けたので、小菅が助言した。北一輝の家は、真宗大谷派の勝廣寺である。妙法寺とは隣接している。この両寺の敷地は、戦国期には加茂澁谷氏の湊城であり、天正17年6月以後の上杉時代には上杉氏の湊代官所となり、江戸初期には大久保石見守長安の代官服部伊豆守(初代服部半蔵の次男・長安の娘婿)の代官所であった。慶長18年4月の大久保長安事件での服部伊豆の出奔・改易以後、その代官所跡地に勝廣寺と妙法寺が入って今日に至っている。
英文『余は如何にして基督信徒となりしか』
「佐渡の日刊新聞創刊」(「佐渡の百年」)
新潟女学校
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)28号 「森知幾と「佐渡新聞』」
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)内村鑑三 54 連載 閑々亭雑記 (13)  内村鑑三が佐渡へ鰊の卵を移植 山本修之助
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数 62・122
「ウィキペディア」より
「島の新聞」(明治の女子留学生)
※内村鑑三は鷲崎を訪問した際に「十一屋旅館」に宿泊している。ここは下記に出る木村屋ではなかろうか。
 「佐渡一巡記」 民俗学者の柳田国男は、大正九年(一九二○)六月十六日に両津に着き、翌日小型の発動機船で鷲崎に往き木村屋に一泊した。
※(梶井松陰さんより:祖母の情報)
・木村旅館は松崎丸が着いた場所の真ん前にあった。現在の鷲崎郵便局の隣。木村家の屋号は十一屋だった。

★ 内山市平(通称加藤嘉左衛門)
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
凧と書いてタコと読んでいるが、ほんとに蛸の形をした凧がある。蛸凧と書いて、佐渡では凧をイカと方言でいっているから、凧イカとなる。このタコイカをつくつていたのは佐和田町五十里炭屋町の通称加藤嘉左衛門こと内山市平である。内山は、越後白根市の生まれで明治二十年ごろ佐渡へ渡って来たという。提灯屋であるが、正月近くなると、この凧を作るのである。種類は二種あるが、どちらも真っ赤な色の蛸がハチ巻をしめているというこつけいなものである。形は、丸みのあるものと、六角凧に近い長方形のものとがある。これらは、ともに凧の国・越後の影響をうけているものといえよう。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)

★内山節(たかし)
1950年1月15日[1]- )は日本の哲学者。特定非営利活動法人森づくりフォーラム代表理事など。存在論、労働論、自然哲学、時間論において独自の思想を展開する。両津とは不思議な縁がある。
うち内山節 (1) うち内山節 (2) うち内山節 (3)
「島の新聞」索引(人名別)

★内山武夫(うちやまたけお)
1940年、兵庫県生まれ。京都国立近代美術館学芸課長。著書に「京都画壇」 (原色現代の美術3・小学館)、「竹内栖鳳」 (日本の名画4・中央公論社)、「土田麦僊」(毎日新聞社)などがある。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。

★内山裕信
うち内山裕信 050127

★宇津尾清  
佐渡高校時代の40.8.28~29、水泳県高校結合体育大会(長岡市)上位に入賞

★打木辰巳
「島の新聞」索引(人名別)

★打木正美
「島の新聞」索引(人名別)

★宇登長蔵
正明寺12坊中1坊の主、瓜生屋に住み、後に両津夷に出て白山屋旅館を興した。この旅館には「日本美の再発見」で佐渡を描いたブルーノタウトが泊まった。昭和50年代?まであり、現在はスーパー太郎平となっている。(参考 「新穂村仏法史」)

★畝目三郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うね畝目三郎

★畝目末吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うね畝目末吉

★鵜野峻(うのしゅん)
うの鵜野峻
1951年(昭和26年)佐渡市北鵜島に生まれる。本名は山岸俊次。50歳代で死去。1970年佐渡高校卒業。1979年杏林大学医学部、卒業。同上第二外科(鍋谷教授)入局。1984年同上退局。1986年埼玉県越谷市で山岸外科医院を開設した。生活保・身体障害者(指定医)。労災保険指定医療機関。越谷市医師会会員・日本外科学会認定医・日本医師会認定健康スポーツ医。作家としても活躍する。
「未熟な外科医の研修旅行」 (1999/11)
「灯台 医の光りを求めて」 (2001/1)
 ※作品中の大学の先輩国見先生は湊の三国先生である、大学の先輩であったと言う。
  解説には次のようにある。  (無医村―。佐渡の北の地方にも点在する。ふる里に戻り、開業する外科医、下鳥純平。美しい佐渡の自然の中で、灯台が教えたものは―。)
「女医の贖罪」 (2002/4/15)  「ブルー・マウンテンズ」 『癌、この命ある限り』(若松屋印刷) 『父の残したもの』(若松屋印刷) 『未熟な外科医の研修旅行』(文芸社)
「北鵜島山岸家」
・作家、鵜野俊(本名 山岸俊次)の父は山岸長平家の山岸長胤(ながたね)。長胤の叔父喜次郎(長胤の父の3男)は東京に出て不動産会社「山一開発」を興して成功する。その叔父を頼って長胤は東京に出て不動産業。長俊一(しゅんいち)を含む5人の子供達の4人は東京で育ったが、次男の俊次だけは佐渡に残り祖母と共に過ごし佐渡高校を卒業し上京。
・両津聖徳寺住職の山岸隆光は長胤の叔父(長胤の父の次男、喜次郎の兄)。
・山岸善晴氏は山岸長平家の隠居で山岸吾左衛門家。

★宇野信夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)宇野信夫 31 宇野信夫「安寿と厨子王」の世界 清田文武

★優婆塞暁歡(うばそくぎょうかん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
う優婆塞暁歡
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川和光院で享保十六年(一七三一年)に生まれ、暁歓房修栄、暁栄ともいい、一印と号した。
幼時から修験道に入り、宝暦三年(一七五三年)はじめて入峰し、六月京都三宝院門跡に謁見し、七年二月和州(大阪府)朝日寺で忠海律師について加行を修し、秘密真言の儀軌を受けた。
後諸国の山川を跋渉し、高僧碩徳の教えをうけ、高野山の法蔵に入って秘軌を修写した。
著書に教誠篇一巻破邪論一巻、山伏真浴分段等がある。仏画をよくした。寛政十年(一七九八年)五月に六十八才でなくなった。(佐渡人名辞書)

★宇兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国田切須村(真野町)の人である。弘化三年(一八四六年)に孝心奇特之趣相聞るに付、奉行巡村先で鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)

★宇兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国下黒山村(真野町)の人である。寛政二年(一七九〇年)に孝子のゆえをもって佐渡奉行所へ呼出され、金銭を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★馬道市太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
うま馬道市太郎

★海野政人
「島の新聞」索引(人名別)

★梅吉
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川銀山町庄右衝門の倅である。祖父並びに親に深(親)切に仕えたので天保三年(一八三二年)役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)

★梅沢光次
『加茂村誌』(昭和38年)
うめ梅沢光次 「加茂村誌」(昭和38年4月)
大正4年、郡会議員に当選。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂村梅津 ・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]

★梅沢由蔵
未開放部落出身
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数 63・71

★梅次郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川諏訪町の人である。よく孝養を尽したので、文政五年(一八二二年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★梅田薫・貞子
「躍進日本
うめ梅田薫・貞子「躍進日本」

★梅津半右衛門
『加茂村誌』(昭和38年)
うめ梅津半右衛門
うめ梅津半右衛門 (2)

★梅津政景
梅津政景日記(うめづまさかげにっき)
 梅津政景(一五八一ー一六三三)は、天正九年下野宇都宮に生まれ、佐竹義宣に仕える。佐竹氏が出羽秋田に移るとき秋田に移り住み、やがて院内銀山奉行となった。「梅津政景日記」は、銀山奉行時代の記録である。その中に佐渡に米を売った記録や、佐渡銀山の山師・金穿りが院内に行き、そこで起した事件の記録など貴重な資料が含まれている。政景はその後元和元年に勘定奉行、寛永七年には家老兼町奉行となる。墓は秋田太平黒沢の応供寺にある。【参考文献】 『大日本古記録』(梅津政景日記解題)【執筆者】 田中圭一

★梅津村喜平治妻まて
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
う梅津村喜平治妻まて

★梅原猛
うめ梅原猛
うめ梅原猛
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)梅原猛 
 105 梅原猛先生の佐渡 山本修巳 150 梅原猛先生を悼む 山本修巳

★梅本院
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
うめ梅本院 佐渡国泉の人物誌 h29年11月

★梅本宗三郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
うめ梅本宗三郎 新潟県官民肖像録 明治41年

★梅本玉蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うめ梅本玉蔵

★梅本之雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うめ梅本之雄

★梅本めぐみ 
両津高校時代の1990年度(H2)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第5号) 短歌 奨励賞  

★浦五郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
うら浦五郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うら浦五郎

★浦川村伊三郎
『加茂村誌』(昭和38年)
うら浦川村伊三郎
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
う浦川村助右衛門下男伊三郎

★浦田宗禿
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 3「オカネさん」と「サイの神」4追善供養と十三仏 7和をもって美味となすべし

★浦野成昭
うら浦野成昭 (2) うら浦野成昭

★浦本貫一
『両津市要覧(昭和33年)』より
うら浦本貫一 うら浦本貫一
弁護士、両津夷(諏方神社前)で開業。母キツは北一輝の母リクの妹であり、貫一は一輝の従弟となる。父は令一。
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数 145

★浦本金太郎
河原田本田寺
うら浦本家 河原田本田寺 (1) うら浦本家 河原田本田寺 (2) うら浦本家 河原田本田寺
北一輝の外叔父令一の父で、鵜飼、丸岡等と国会期成同盟に参加した。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・明2、三郡町村総合會官衙移転請願[十五年十月]・明2、監獄実地調査[二十一年六月]・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数26~

★浦本政三郎
明治24 年生- 1965 年、山形県生、旧姓は榊原、号は浙潮。大正、昭和時代の生理学者。小林紫山らに尺八本曲を学び、普化流(ふけ)尺八の研究家としても知られた。日本民謡協会初代理事長。昭和3 年初来島以来、昭和34 年までに20 回程来島。「遠島甚句と両津甚句の比較研究」「佐渡と佐渡民謡など」を「民謡協会会報」で連載。両津朝日亭主人等と交わり両津甚句等を調査研究する。日本民謡協会発足時は自ら「民謡協会報」を出していたが、三国栄次郎氏が側近として協力し、一時は三国氏が編集長となった。三国氏は両津の人で、昭和30年代に両津に帰り、湊で「三国医院」を開院した。
「島の新聞」
54.jpg
『立浪会35年のあゆみ』(昭和34年)
うら浦本政三郎 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (1)
うら浦本政三郎 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (2)
うら浦本政三郎 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (3)

★浦本令一
北一輝の母リクの妹キツは河原田の商人令一に嫁ぐ。従って一輝の外叔父で佐渡中学入学時の保証人。

★浦山六右衛門(うらやまろくうえもん)
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
う浦山六右衛門 (2)
う浦山六右衛門
「馬耕の先生」(「佐渡の百年」)

★瓜林正博
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「43号」(平成27年10月)・省エネと二酸化炭素削減に参加しませんか

★瓜林裕治
NHKグローバルメディアサービス専門委員。昭和24年旧金井町吉井本郷生れ、同42年佐渡高校卒、同46年新潟大学人文学部卒、同年NHKに入局。

★漆部直伊波(うるしべのなおいは)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
外従五位下である。天平宝宇四年(七六○)に佐渡守佐撃となった。(越佐資料)

★瓜生繁子→永井繁子
★瓜生外吉
「島の新聞」(明治の女子留学生)

★瓜生屋村仲右衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)

★宇留間一成
佐渡高校時代の昭和56.6.3~4、柔道県高校総合体育大会(佐渡郡佐和田町)団体戦3位、軽重量級3位
56.6.27-28、柔道北信越大会(松本市)団体戦出場、軽重量級ベスト8
56.柔道秋季北信越大会 団体戦3位
56.8.2~4、柔道全国高校柔道選手権大会(千葉県)団体戦出場

★宇留間和基(うるまかずもと)
「ウイキペディア」より 
う宇留間和基
1954年相川二見生まれ。二見中、佐渡高校、一橋大学卒。毎日新聞社、朝日新聞社で記者を経て雑誌「アエラ」編集長。朝日新聞出版社長、2012年から日刊スポーツ新聞社常務取締役。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「宇留間和基編集長インタビュー」(『AERA』の作り方)
精神科医の和田秀樹さんは、「アエラは知的好奇心の強い人向けのワイドショー」と言っていました。なるほど、そういう表現もあるか、と思わされました。好むと好まざるとに関わらず「知的」というのは、「アエラというメディアは何か」と問い詰めたとき、最後の核の部分に残るキーワードのひとつだと思います。社外の方から、よく訊ねられる質問があります。「アエラがターゲットとする年代は?」。公式的には創刊以来、社会の中堅層を中核読者として想定してきましたので、「30、40代が対象です」と答えますが、実際の読者は学生から60代まで多様です。これはなぜなのか、と考えてみなすと、さきほどのアエラのイメージと関係があると思うのです。アエラを読んでくださる方々は、年代に関わらず、「知的好奇心が強い」という共通点をもっているのでしょう。創刊以来使われてきたアエラのキャッチフレーズに「時代の最先端を切り取るニュース週刊誌」という表現があります。しかし、このフレーズはおそらく、スキャタンダルや毒を売り物とする他の週刊誌に当てはめてもおかしくはないでしょう。では、アエラと他の週刊誌との違いは何か、となると、やはり「知的」ということがひとつの重要な要素になるのだと思います。もうひとつ、よく聞かれる質問があります。「アエラの読者は女性が多いのですか、男性が多いのですか?」。確かに世の中には男性誌、女性誌と分けられていますし、一般誌と見られているアエラはいったい、どちらの読者が多いのか、外部の人に限らず気になるところです。でも、男性のみを意識したり、女性のみを意識したりして誌面を作るという時代はとうに終わったのではないか、と思うのです。いまや女性に読まれないメディア
に明日はない、ということは自明のことで、ユニセックスあるいはバイセックスなメディアでなければ世の支持は得られないと思います。アエラはラテン語で「時代」。今というかけがえのない時代を、年代も性差も超えた知的な切り口で伝えていきたいと思っています。
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「36号」(平成26年1月)座談会 いかに雇用をうみだすか-浅島誠・石原武・宇留間和基・三浦基裕・武井千秋・岩田雅-「44号」(平成28年1月)・金鶴創業100周年を祝う(宇留間和基)「46号」(平成28年7月)・新市長 三浦基裕氏に聞く(聞きて・宇留間和基)「50号」(平成29年7月)・鶴の恩返し(宇留間頌太)「62号」(令和2年7月)・この一冊「編集の教科書」(宇留間和基著)(岩田雅)

★宇留間光吉
佐渡高校時代の28.8.1~2、県高校水上競技大会(長岡市)、100m背泳5位・200m背泳6位、男子総合2位
30.8.1~2、水泳県高校選手権大会(長岡市)バタフライ100m・200m2位
30.8.10~11、水泳東北高校大会(岩手県金田一)バタフライ100m2位、200m3位
30.8.27~28、水泳県結合体育大会(柏崎市)バタフライ100m・200m2位、総合3位
30.9.22~25、水泳国民体育大会(鎌倉市)県代表として出場

★宇留間頌太
「佐渡ジャーナル」関係記事:「47号」(平成28年10月)・佐度のハリキリ(宇留間頌太)「48号」(平成29年1月)・佐渡の春駒(宇留間頌太)「49号」(平成29年4月)佐渡の天然杉(宇留間頌太)「51号」(平成29年10月)・金山の排水事情(宇留間頌太)「52号」(平成30年1月)・下げ紙とマユダマ(宇留間頌太)「53号」(平成30年4月)・「佐渡産牡蠣のガンガン焼き」やってみた(宇留間頌太)「54号」(平成30年7月)・佐渡の眼観音川(二見地区)(宇留間頌太)「55号」(平成30年10月)・佐渡汽船・ウミネコのおみおくり(宇留間頌太)「56号」(平成31年1月)・佐渡汽船船内散歩(宇留間頌太)「57号」(平成31年4月)・畑野地区小倉「千枚田の大ひらき」(宇留間頌太)「58号」(令和1年7月)・貉の禅達さん(宇留間頌太)「59号」(令和1年10月)・宿根木の千石船(宇留間頌太)「60号」(令和2年1月)・大久保集落の田遊び神事(宇留間頌太)「61号」(令和2年4月)・氏江市郎兵衛の『羽茂稲こき』の話(宇留間頌太)「62号」(令和2年7月)・妙宣寺五重の塔の話(宇留間頌太)「63号」(令和2年10月)・佐度国小木民族博物館の魅力(宇留間頌太)

★宇留間太郎次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十五年生 二見村橘、農業 ・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
うる宇留間太郎次

★宇留間寅吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 二見村橘、農業 ・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大2、佐渡郡会[九年十二月二十三日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]

★宇留間義光
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
うる宇留間義光 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

★雲外千龍 洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
うん雲外千龍 洞泉寺 h29年11月

★雲葢院貫春僧正
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
う雲葢院貫春僧正





















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・佐渡市両津夷在住
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