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2020-12-27

★伊藤昭夫
『続佐渡酒誌』(平成14年)


★伊藤功
いと伊藤功 いと伊藤功 河崎会会長 いと伊藤功 東京河崎会会長
両津高校石楠会(同窓会)第4代関東支部長。河崎の人、両津高校14回生。両津高校時代の1961年度(S36)11月、山一証券懸賞論文3等、両津高校生徒会長。
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「44号」(平成28年1月)・宮田先生、国際シンポジウムでだちゃかん連発 英訳は?(「佐渡を世界遺産にする首都圏の会」広報委員長 伊藤功)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「44号」(平成28年1月)・宮田先生、国際シンポジウムでだちゃかん連発 英訳は?(「佐渡を世界遺産にする首都圏の会」広報委員長 伊藤功)

★伊藤市次郎
真野町新町の人、通称「天神」。竹田人形の人形師。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
故老の話では、真野町新町上町に通称「天神」伊藤市次郎が土製の天神をつくつていたという。現在新町大神宮境内の天神社の本尊は、この市次郎の作だという。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
真野町新町の人。通称天神、明治初年まで生きていたという。この人の刻んだカシラは小さい。新町大神宮境内の天神社の御神体の天神はこの人の作と伝えられている。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)

★伊藤市作
昭和10年、加茂村長に当選。

★伊藤伊兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の陶エ。伊藤家八代で、名は秀之、号を南渓清風亭、聾室弄花堂という。安政(一八五四-五九年)申に甚兵衛と改めた。作品には羽甚または○佐の銘を用いた。俳諧挿花をよくした。明治十八年十一月に六十四才でなくなった。(佐渡人名辞書)

★伊藤伊兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
陶工。佐渡の人で、正徳四年(一七一四年)に素焼をほじめた。佐渡陶エの最初である。享保十九年(一七三四年)七月に六十四才でなくなった。(佐渡人名辞書)

★伊藤市作
『加茂村誌』(昭和38年)
いと伊藤市作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤市作

★伊藤鋭
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
水津の人。柔道選手で、海軍で柔道に一段と精通される。 

★伊藤栄一
『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)より
北見角太郎(同窓会長、医博、佐和田町)山本成之助(県相川保健所長、同、真野町)らは大正十二年の卒業名簿にのっている。このクラスには医者が多く出た。本間賢吉(医博、両津市)、榎蓮(内科医、同)や北見は、島内でいまも開業している。後藤衛門(内科医、新穂村)本間為次(外科医、新穂病院長)も、死亡したが同級だった。ほかに伊藤栄一(内科医、医博、埼玉県)堀治部(耳鼻科医、同、東京都新宿区)武井悌(内科医、羽茂町)渡辺五郎(耳鼻科医、両津市)らがいる。たいてい、十一年に四年で修了して進学した人たちである。北見によると「医者だけで十二人出た。佐中の歴史で、あとにも先にも、例がなかった」という。

★伊藤栄傑→伊藤栄傑(いとうひでたけ)

★伊藤圓蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いと伊藤園蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応二年生 金沢村千種 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]・大2、政友倶楽部の春季大会[七年八月二十七日]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日] 『金井を創った百人』
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
い伊藤園蔵 (2)
い伊藤園蔵 (3)
い伊藤園蔵

★伊藤薫
いと伊藤薫050524

★伊藤覚明
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いと伊藤覚明

★伊藤覚隆
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
両津市大川の人、大川人形の創始者。覚隆人形ともいう。両津市夷の弥平次人形を大川の照光寺住職伊藤覚隆(伊藤小七郎家の出身)が買い、明治末から大正初年まで六、七年間つかった。覚隆は、いろいろ職業をかえたといわれ、しばらく僧籍をはなれ両津市夷に出て精米所や雑貨商に従事し、また漢学塾を開いた。六十歳のころ、京都の仏教大学の講師となり、奈良県の地蔵院住の職を兼務することになったので、この一座を親戚の板屋中川竹治に譲った。

★伊藤嘉十郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川の町人、重立である。奇特の取計有之、天保九年(一八三八年)に役所から白銀を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)

★伊藤和男
昭和26年両津市出身、両津高校21回生。群馬大学電気電子工学科准教授
(研究内容)
半導体微細構造の作製とナノ構造の電子デバイスへの応用に関する研究を行なっている。具体例としては,位置制御した微粒子集積化技術への応用,シリコン量子細線の低温電気伝導,ショットキー障壁MOS-FETに関する研究などである。他に,集積回路プロセス技術の基礎的研究や素子の電気的特性評価や解析を行なう。

★伊藤一雄
『両津市要覧(昭和33年)』より
いと伊藤一雄
「アイマーク佐渡 会社沿革」
1946年 創業者・伊藤一雄が満州から復員し、両津湊青年会を組織する。 同時期に復員した若者を集めて、町の奉仕活動や、両津大火の復興支援、後始末等に従事する。
1949年 青年会の奉仕活動で町内のゴミ収集を開始。これが当社のルーツとなった。
1950年 4月 清掃事業者の統合により、「両津清掃組合」が創業。 本社/新潟県佐渡郡両津町大字夷202番地、組合長/伊藤一雄。
1954年 11月 両津市の誕生により、名称を「両津市清掃組合」とした当社が市の清掃業務の全てを任されることに。
1964年 4月 「合資会社両津市清掃組合」として法人化。資本金30万円。
1967年 10月 伊藤一雄組合長が厚生大臣表彰を受ける。(全国清掃事業功労者表彰式)。
1981年 3月 伊藤憲三が2代目組合長就任。
1983年 4月 佐渡リサイクルセンター(空き缶・空き瓶のリサイクル施設)を開設。
1984年 4月 両津市潟端403番地に本社を移転。 株主割当増資を行い、資本金990万円となる。 浄化槽保守点検業務を開始。
1993年 社員福利厚生の一環として社員食堂を開設。
2000年 4月 両津市清掃センターの運転管理業務を受託。
2001年 10月 従業員・中川俊雄君が厚生労働大臣表彰を受ける。
2004年 3月 佐渡市の誕生により、名称を「合資会社佐渡市清掃組合」に変更。 村山由貴男が社長就任。
2005年 9月 社員用住宅「一雄会ガーデンハウス」を新設。
2005年 10月 県内の廃棄物関連企業で初めて、ISO9001:2000とISO14001:2004のダブル認証を取得。
2006年 3月 不用品かたづけの「お宅かたづけ隊(現、お宅かたづけ隊佐渡)」を開始。
2006年 4月 株主割当増資を行い、資本金3000万円となる。
2006年 6月 株式会社へ組織変更、社名を「アイマーク環境株式会社」へ。 代表取締役社長・村山由貴男。
2006年 9月 第1回インターンシップ「環境ビジネス最前線の旅」を開催。
2007年 3月 バイオディーゼル燃料リサイクル事業を開始。
2008年 7月 新潟営業所(お宅かたづけ隊新潟)を開設。
2014年 4月 四代目社長・後藤勇典 就任。

★伊藤数子
いと伊藤数子
1962年(昭和37)佐渡市生まれ、新潟大学卒。コミュニケーションプランナーとして活躍し、障害者スポーツ推進に取り組む。
株式会社パステルラボ 代表取締役社長、NPO法人STAND 代表理事。
行政機関・企業におけるコンサルティングをはじめ、プロモーションの総合
企画・マルチメディアコンテンツの開発等、人づくりからものづくりまでトー
タルにプランニング。
(ユニバーサルコミュニケーション活動)
年齢・性別・障害・職業・国や地域の区別なく、すべての人が持てる力を発揮し、誇りある自立を得、ともに明るく豊かに暮らす社会を実現するための
活動。
企業の枠や仕事の領域を超え、それぞれの立場で経営資源や得意分野を活かしながら、高齢者や障害者や子どもたちのより豊かな生活のための
活動を推進。
1991 映像制作会社勤務を経て、金沢市にて企画会社パステルラボ設立、代表取締役社長。
1999 東京オフィス開設
2005 NPO法人STAND設立。副代表理事。障害者スポーツの事業を開始
2005 金沢市ITビジネス大賞受賞
2006 総務省u-Japanベストプラクティス2006
2006 日経地域情報化大賞 CANフォーラム賞
2008 MCPCアワード 特別賞
2008 総務省u-Japanベストプラクティス2008
2008 石川県バリアフリー社会推進賞 最優秀賞
2009 MCF モバイルプロジェクトアワード 奨励賞
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総務省 情報通信審議会専門委員
総務省 地域情報化アドバイザー
内閣府 地域活性化伝道師
石川県 私立学校審議会委員
石川県 中山間地域総合対策審査委員
石川県 農地・水・環境保全向上第三者委員会委員
財団法人石川県デザインセンター理事
財団法人いしかわ女性基金運営委員
石川県 地域づくり推進協会コーディネーター
石川県 地域興しマイスター
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(著書)「ようこそ、障害者スポーツへ-パラリンピックを目指すアスリートたち-」(廣済堂出版 2012年) 「大学は地域を活性化できるか}(共著:中央経済社 2005年)
「新潟日報」記事(平成26年3月12日)
いと伊藤数子
「アスリートカフェ」
「挑戦者たち」

★伊藤和子
いと伊藤和子 (7) いと伊藤和子 (5) いと伊藤和子 (6) いと伊藤和子 (3) いと伊藤和子 (4) いと伊藤和子 (2) いと伊藤和子 (1)
小木の芸妓、水上勉「みなと紀行」にはA子さんとして描かれる。・小木町200番地、渡辺金物店を浜に下って角の家(隣は車庫)、電話86-2562 ※以下は令和5年4月27日に伊藤さんの自宅でインタビビューー。
・福島県で昭和14年に生まれた。 ・嫁ぎ先は小木栄町の小島屋。竹細工や漁業。・息子が一人いて60歳代です。
・13歳の時に福島の親に売られ、小木「一元」の女将の養女となった。
・「一元」の女将は芸者置屋を始めるため芸妓や芸妓見習いを集めていた。「一元」女将と自分の母はどこかで関係があったのだと思う。私の生まれた福島の地域は子供を他所に売るのが珍しくなかった。
・母は私を3万円で売ったそうだが、「一元」さんは1万5000円で買ったようだ。手元にそれしかなかったようで、残金については知らない。
・「一元」には一人前の芸妓3人と私を含めて見習いが3人いた。見習いの他の二人は修業が辛くて逃げだした。
・小木で学校に通ったが、三味線や踊りの習い事が中心で勉強には身が入らなかった。
・芸妓として佐渡各地に行った。松ケ崎、多田、羽茂、相川、新穂、畑野、佐和田である。金井には行かなかった。祭の時に多くは山車(だし)の上で踊ったり三味を弾いたりしたが、羽茂は山車がなかったし、両津では山車には乗らなかった。地元の芸妓が多かったからだと思う。
・日当は一人前が4000円、見習いは2000円だった。
・一泊二日のことも多く、松ヶ崎では金子旅館などで泊まった。
・25歳で独立した。
置屋「一元」に属し、連絡があれば三味線を持ってどこでも出かけた。言わば、個人営業だった。
・水上勉先生が私について触れている「みなと町紀行」については読んだことがなかった。
・水上先生は小柄な人で、一緒にいた3人の人よりずっと小さかった。静かなやさしい方で、髪の前の方が半分くらい白髪だった。
・朝に突然、この家の玄関に立った時にはびっくりしたものだ。
・水上先生と一緒にみんなで写した写真があるが二階にあるので、足が悪くて取りにけない。
・ここにあるのは水上先生に書いてもらった色紙です。
 ※「自分一人 この道を歩く(小木にて 水上勉)」
・色紙は権座屋旅館の末武一平さん(昭和一桁生まれ)が、水上先生は有名な人なんだよ、色紙を二枚お前に渡すから、一枚は権座屋用に、もう一枚はお前のために書いてもらいなさいと言ったので先生にお願いした。
(追加)
・小島屋の義父は漁師、夫は小木物産に勤めたがある程度の年齢から竹細工職人となった。家の裏の八畳間を仕事場にして丸籠を作っていた。
・実父は新潟県小出の人で浪曲師、旅芸人であり、儲けたお金は母に送ってきていたようだ。苗字は小日山(こひやま)。私も生まれは小出だが、母小出の家とうまく行かず福島の実家に帰った。子供もついて行き、父も仕方なく母の住む福島に来た。
・子供は8人兄弟で、女6人、男2人。女2人は若くして亡くなった。私は4番目で姉が3人である。現在は喧嘩別れみたいな形で音信不通の人もいれば親しく付き合っている兄弟もいる。
・母は子育てに大変だったが、一段落してから常磐炭鉱に勤めた。子供達も質の悪い石炭などが山のように積まれている場所に行って、その中でも売れそうな石炭を拾っては生活の足しにしていた。あの石炭のガラ山が懐かしい。その後、何度かこの場所を訪ねたことがある。
・息子は現在61歳、板前職人で、現在は栃木に住んでいる。妻を数年前に亡くした。子供がいない、私にとっては孫がいないのが寂しい。
・芸妓としての源氏名は特になく、見習いの頃から和子で、一人前になってからも和子で通り、皆さんには和子姐さんと呼ばれた。
・芸妓を辞めてからは仲間と一緒に食堂に勤めていた。
・今でも芸妓時代の仲間数人と親しく付き合っているが、皆さん少しずつ呆け始めている。芸妓時代の仲間たちの大半は亡くなっている。

★伊藤勝二
「ショートプロフィール」昭和20年相川生れ。1500m自由形でメキシコ五輪日本代表。相川高時代は全国大会5位。日大入学後頭角を現し、1500m自由形で日本新記録樹立、当時の長距離泳では未使用のクイックターンを1500メール泳で世界で初使用。相川高時代の恩師市野重治はオリンピック候補選手で相川高水泳部を全国に知らしめた。
伊藤勝二 (2) 伊藤勝二 (1) or伊藤勝二 (1) or伊藤勝二 (2) or伊藤勝二 (3) or伊藤勝二 (4) or伊藤勝二 (5) or伊藤勝二 (6) or伊藤勝二 (7) or伊藤勝二 (8) いと伊藤勝二
相川の実家「山與鮮魚店」
いと伊藤勝二 山與鮮魚店 (1) いと伊藤勝二 山與鮮魚店 (2)
昭和20年、相川町生れ。1500m自由形日本チャンピオンで、メキシコオリンピック日本代表。オリンピックでは同年の日本選手権で出した17分14秒10を下回る17分50秒2で予選敗退。実家は相川下戸の山與鮮魚店。昭和38年の相川高校時代は全国高校大会五位だった。相川高校水泳部のプールは今の相川技能伝承館裏で50mプールだった。彼は名門日大入学後頭角を現し、1500m自由形で日本新記録を樹立した。同じ日大には中学、高校記録を塗り替えた高瀬悦二郎と言う天才スイマーが居り、彼との切磋琢磨の中で伊藤は急成長した。伊藤は当時の長距離泳では使われなかったクイックターンを1500メール泳では世界で初めて使用した。相川高校時代の恩師市野重治は自らがオリンピック候補選手であり、相川高水泳部を全国に知らしめた。
日大卒後、日本鋼管勤務。
・勝二父は與市、その長男(勝二兄)は義則氏(昭和17年生)で山與鮮魚店を継いだ。50歳代で没し、鮮魚店は廃業した。
・相川出身でメキシコオリンピック(1968年)に出場。ヤマヨ鮮魚店次男、昭和21年生。水泳長距離でクイックターンをしたのは伊藤選手が初。
「第32回日本高校水泳選手権」:400m(決勝4位)・l500m(決勝5位)
「日本選手権兼アジア大会予選」(日大2年):1500m予選で日本新記録。
「日本学生大会」(日大3年):1500m決勝l位(日本新記録)
「東京ユニバーシアード大会」(国際学生大会):l500m決勝3位
 ※同年秋、急性肝臓で入院、約2ケ月間療養生活。日本水泳界では伊藤選手は再起不可能とまでいわれた。しかし、病魔を克服し最終予選会では誰もが想像もしなかった日本新記録を樹立した。
「メキシコオリンピック最終予選会」:l500m決勝l位(17:14:1の日本新記録)
「第19回メキシコ五輪」:水泳長距離選手として、日本でただ一人選ばれる。
「メキシコ五輪」(昭和44年月):1500m出場(予選:17:50:2で落選。
「水泳日本の礎」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)

★伊藤勝蔵
『続佐渡酒誌』(平成14年)
いと伊藤勝蔵 『佐渡酒誌』(平成14年)

★伊藤兼吉
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いと伊藤兼吉 佐渡案内写真大集
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤兼吉

★伊藤亀太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤亀太郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久三年生 相川町一丁目濱町 ・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、佐渡政友倶楽部臨時大会[十三年二月八日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大4、政友倶楽部秋季総會[十四年十一月二十一日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭1、錦を着て故郷に帰る山本悌二郎[二年八月十六日]・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期大会[二年八月十八日]・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
数字は「孤島コンミューン論」掲載の page数 59
「孤島コンミューン論」(松本健一)

★伊藤勘五郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤勘五郎
いと伊藤勘五郎 (2)

★伊藤勘五郎
『両津市要覧(昭和33年)』より
いと伊藤勘五郎

★伊藤勘五郎(文岱) 
『歴史と水の町 ふるさと福浦』より
幕末のころ、竹本霞昇という奉行所の元役人が、俳句の先生として島内各地で句会を開き指導をしていました。伊藤勘五郎は、この地区では代表的な俳人で、句会にも参加して、霞昇からは高く評価されていました。  晴きらぬ空を桜の日和かな 文岱

★伊藤久造   
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
いと伊藤久造 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34

★伊藤清明   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会4部において、走幅跳5位(5m15)。
昭和14年、第9回県下男子中等学校総合体育大会において、走幅跳1位(6m26)。

★伊藤橋太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤橋太郎

★伊藤金涯
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(俳客伝)より
い伊藤金涯 俳客伝

★伊藤銀蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町 ・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]

★伊藤邦男(いとうくにお)
いと伊藤邦男050701 いと伊藤邦男
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
いと伊藤邦男 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) いと伊藤邦男 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2)
いと伊藤邦男1 いと伊藤邦男2
『島の新聞』94号
1928年-2010年9月29日、82歳。和泉村出身。佐渡の植物研究の第一人者。高校教諭のかたわら、佐渡の植物を調査した。著書は佐渡の植物シリーズ全6巻、佐渡植物選書全8冊など多数。なかでもカラー版『佐渡の花(春)・(夏)・(秋)』は花愛好者の山歩きのバイブルになっている。
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1928年、佐渡金井生まれ。新潟県自然環境保全審議会専門調査員。
佐渡の植物刊行会代表。共著書に「佐渡の植物」シリーズ」①~⑥(佐渡の植物刊行会)、著書に「佐渡花の風土記」、「佐渡薬草風土記」、「佐渡山菜風土記」 (佐渡の植物刊行会)などがある。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
佐渡の独特の植生、民俗学を調査し著書を残され高校教諭。
BEIPALの『一生懸命人列伝』に選ばれた。
昭和3年~平成20年
昭和3年   新潟県佐渡金井地区に生まれる。
昭和22年  新潟大学農学部卒業
1947年~1988年まで理科・生物の教員勤務。
その後
日本自然保護協会自然観察指導員
新潟県自然環境保全審議委員会専門調査会
佐渡の植物刊行会代表
「島の新聞」索引(人名別)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 6花・草・木と遊ぶ 7佐渡の花「トビシマカンゾウ」 
「佐渡の植物」(伊藤邦男講演 平成8年)
「佐渡島の植物と民俗」(菊池はるみブログ)

★伊藤啓作
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)
いと伊藤啓作 「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

★伊藤圭三
『両津市要覧(昭和33年)』より
いと伊藤圭三

★伊藤慶太郎
御食神社御旅所
いと伊藤慶太郎 御食神社御旅所 (1) いと伊藤慶太郎 御食神社御旅所 (2)

★伊藤源右衛門
『新穂村史』(昭和51年)より
新穂銀山の伊藤間歩、伊藤水貫の伊藤は相川銀山の有力山師、伊藤源右衛門のことである。「佐渡年代記」に正保四年「亥年新穂村の銀山請負の山主沢井小左衛門、岡本長左衛門と云者自分入用を以古間歩普請致し其上新切山三ケ所取立る可く江戸表へ伺い願の通り申し付べき旨順斎より申来る」とある。慶長から正保にかけて山師の往来がさかんであり、(新穂)銀山が大いに稼がれたことが推則される。

★伊藤憲三
「アイマーク佐渡 会社沿革」
1946年 創業者・伊藤一雄が満州から復員し、両津湊青年会を組織する。 同時期に復員した若者を集めて、町の奉仕活動や、両津大火の復興支援、後始末等に従事する。
1949年 青年会の奉仕活動で町内のゴミ収集を開始。これが当社のルーツとなった。
1950年 4月 清掃事業者の統合により、「両津清掃組合」が創業。 本社/新潟県佐渡郡両津町大字夷202番地、組合長/伊藤一雄。
1954年 11月 両津市の誕生により、名称を「両津市清掃組合」とした当社が市の清掃業務の全てを任されることに。
1964年 4月 「合資会社両津市清掃組合」として法人化。資本金30万円。
1967年 10月 伊藤一雄組合長が厚生大臣表彰を受ける。(全国清掃事業功労者表彰式)。
1981年 3月 伊藤憲三が2代目組合長就任。
1983年 4月 佐渡リサイクルセンター(空き缶・空き瓶のリサイクル施設)を開設。
1984年 4月 両津市潟端403番地に本社を移転。 株主割当増資を行い、資本金990万円となる。 浄化槽保守点検業務を開始。
1993年 社員福利厚生の一環として社員食堂を開設。
2000年 4月 両津市清掃センターの運転管理業務を受託。
2001年 10月 従業員・中川俊雄君が厚生労働大臣表彰を受ける。
2004年 3月 佐渡市の誕生により、名称を「合資会社佐渡市清掃組合」に変更。 村山由貴男が社長就任。
2005年 9月 社員用住宅「一雄会ガーデンハウス」を新設。
2005年 10月 県内の廃棄物関連企業で初めて、ISO9001:2000とISO14001:2004のダブル認証を取得。
2006年 3月 不用品かたづけの「お宅かたづけ隊(現、お宅かたづけ隊佐渡)」を開始。
2006年 4月 株主割当増資を行い、資本金3000万円となる。
2006年 6月 株式会社へ組織変更、社名を「アイマーク環境株式会社」へ。 代表取締役社長・村山由貴男。
2006年 9月 第1回インターンシップ「環境ビジネス最前線の旅」を開催。
2007年 3月 バイオディーゼル燃料リサイクル事業を開始。
2008年 7月 新潟営業所(お宅かたづけ隊新潟)を開設。
2014年 4月 四代目社長・後藤勇典 就任。

★伊藤玄朴 
「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)

★伊藤幸吉   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
・両津の人、大正10年、新潟師範学校で、第5回極東選手権大会陸上競技第1次新潟地区予選会があり、呼びもの種目の25マイルマラソソで岩原甚作(両津)は、東京予選会記録を破る2時間41分35秒で1位、伊藤幸吉(両津)は2位になり佐渡青年の意気を揚げたが、後日身元調査の結果車夫(人力車ひき)であったために失格になった。
・(極東大会予選失格)
 第5回極東選手権大会陸上競技第1次新潟地区予選の25マイルマラソソに佐渡青年の岩原甚作・伊藤幸吉(両津)は、東京予選会の記録を破り1・2位になったが、共に車夫であるため身元調査の結果資格を失った。(大・10)
「伊藤潔様提供資料」
千葉市在住の伊藤潔(S23年生)74才です。実家は旧佐和田町河原田諏訪町で畳店でした(父/清太郎=母/美津子)。元島の新聞社(長野雅子さん)は「店子」で、新聞の発刊日が近くなると夜更けまで編集作業をしていました。
母親/美津子が他界した折、実家の整理中に一枚の記念写真を見つけました。
祖父(母方の)幸吉が大正10年(1921年)4/30-5/1に開催された、第5回極東オリンピック大会新潟予選会に出場した時の記念写真です。(ゼッケン68)岩原甚作マラソン1位、(ゼツケン69)伊藤幸吉(25才)マラソン2位、(ゼツケン32) 近松行雄(18才)5哩3位(旧佐和田町窪田/新潟師範生、卒業後真野中学校等で美術教師、後に画伯として活躍)マラソン1位岩原甚作、2位伊藤幸吉となったが、後日身元調査の結果、車夫(人力車ひき)のため失格になつた。初めて知った事実に大変驚きました !!職業柄と言えども、アスリートとしても立派な成績ですね。祖父幸吉は両津夷三ノ丁の岩原政治=クマ(旧姓祝)の三男。長男は岩原惣兵衛(惣平)(後に人力車業を営む)で七男三女の兄弟姉妹の家族でした。その後、両津夷の伊藤仲蔵(屋号/すしや)の養子となる。リツと結婚し長女/美津子が私の母親です。私はその息子/長男の潔です。
集合写真 (004) 出場選手名簿 (004) 大正10年4月大会 (004)

★伊藤孝次 
東京両津の会4代会長
「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より
いと伊藤孝次
いと伊藤孝次 (2)

★伊藤幸治
佐渡高校時代の昭和48.7.22~23、県高校定時制・通信制結合体育大会(新潟市)軟式庭球男子団体真野3 位、男子個人金田敏夫・伊藤幸治組(真野)2位

★伊藤紅二
『立浪会35年のあゆみ』(昭和34年)
いと伊藤紅二 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (1)

★伊藤幸助
『両津市要覧(昭和33年)』より
いと伊藤幸助

★伊東高雪(いとうこうせつ)
【生没】一六六七ー一七五二 江戸城の奥医師。宝暦二年五月十九日、八六歳で没したというから、寛文七年の生まれであろう。相川の地役人、天野伝左衛門長重の二男に生まれたとされる。「佐州諸役人抱入年暦帳」によれば、「天野孫太郎(先祖忠兵衛)、元和四年」とあり、伝左衛門はその三代目に該当するらしく、幕末の「地役人家譜略記」には、「二十俵三人扶持、天野孫太郎」とあって、わりと下級侍である。高雪は次郎太夫祐朝、または祐秀と称したといい、父のすすめで江戸へ出て医術を学んだ。のち医家の伊東某の娘と結ばれてその婿養子に入る。このとき伊東高雪祐範と名乗ったという。治療を乞う人が門前にあふれるほどで、その名が幕府用人にも知られるようになる。『徳川実紀』に「正徳六年四月晦日、御所(江戸城)にはこのほどとかく御病にわたらせ給ふをもて、医員河野良以通休、池田玄達仙庵、市井医伊東高益(雪の誤り)祐範を、今朝にわかに召して奥医とせられ、御治療の事にあづからしむ」とあり、また『寛政重修譜』に高雪が、「享保元年四月晦日、医をよくするをもって、有章院殿につかへたてまつり、奥医に列し、廩米二百俵を賜ふ。この年薨去により、五月十六日寄合となる」とある。有章院は将軍徳川家継(七代)で、町医師から突然江戸城の奥医に抜てきされ、家継の臨終に立会った。寄合(幕府の職名)としての出仕も、異例の出世だった。高雪が生まれた相川の天野家から、のち明治・大正の実業家で貿易商の高田慎蔵が生まれている。【関連】天野孫太郎(あまのまごたろう)・高田慎蔵(たかだしんぞう) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、『徳川実紀』 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
い伊藤高雪
い伊藤高雪 (2)
い伊藤高雪 (3)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
 佐渡相川の人で、地役人天野伝右衛門長重(天野家三代目)の二男である。次郎太夫祐朝(またほ祐秀)といった。こどもの時より学問に志したので、父ほ医学を学はせた。江戸に出て医学の研修をし、医師伊東家のむすめを妻として伊東家を継ぎ、高雪祐範といった。医家として名声が高かった。享保元年(一七一六年)四月、将軍家継が危篤となり、高雪は召されて治療にあたった。将軍はなくなったが、高雪は幕府の奥医師に任用され、二百俵を与えられた。宝暦二一年.(一七五二年)に八十六才でなくなった。
子高仙祐興、孫高雪祐至、曽孫高益至義と相ついで奥医となった。(新潟県史、佐渡人物志)

★井藤浩太郎
両津大川の人、昭和2年生れ。令和1年7月没、92歳。旅館「東栄館」を経営し、地元観光の発展に尽力する。昭和30年頃に佐渡出身の高名な作曲家鎌田俊與、作詞家保科義雄による「大川小唄」作成に関わる。歌は畑野出身の今井昭。その後、平成になってから、この唄を復活すべく、地元入桑出身の民謡家小林よしえさんの協力を得て完成する。この時、小林さんによる三味線伴奏が加わった。大川集落を望む「見返り峠」には「大川小唄の碑」が立っている。
「島の新聞」
みん民謡 (1)

★伊藤幸太郎
『両津市要覧(昭和33年)』より
いと伊藤幸太郎

★伊藤五作(閑居示水 かんきょじすい)
いと伊藤五作
畑野小2代目校長

『歴史と水の町 ふるさと福浦』より
市橋長作(春岱)の弟。畑野小学校長を退職した後は、福浦に住まいして閑居示水と称して、もっぱら文筆を楽しんでいました。  別座敷写真など出して大笑 示水


★伊藤五兵衛

『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(起業伝)より
い伊藤五兵衛 起業伝


★伊藤五郎

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤五郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)


★伊藤作次郎

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]


★伊藤聡

「島の新聞」索引(人名別)


★伊藤三右衛門(いとうさんうえもん)

【生没】(生年父・子共不詳)ー父一七七八・子ー一八○四
 父子二代相川町年寄を勤める。父ははじめ吉兵衛と称したが、宝暦六年(一七五六)閏十一月町年寄に任ぜられ、三右衛門と改名した。子は明和八年(一七七一)五月父の跡を継いで町年寄になり襲名した。伊藤三右衛門は、相川二丁目の商人で、佐渡の故実に精しく算学にもすぐれ、自ら見聞したこと大小となく記録にとどめ、奇特であるとして褒賞されたほどである。また俳諧をよくし半山と号した。三右衛門就任は同年の春、佐渡支配の大改革を行った石谷備後守清昌が佐渡奉行に就任しており、同人の要請で、当時町方担当の広間役で、良吏で名高い岩間政茂(半左衛門)や、地方担当の広間役で、『佐渡四民風俗』を石谷に提出した高田備寛など、奉行所幹部の推挙で実現したと考えられる。著書に『伊藤三右衛門日記』一六巻、『佐渡古実略記』七巻、『佐渡国略記』三四巻などがある。石谷奉行は、伊藤が町人であったにもかかわらず、個人的にしばしば招いて昵懇な間柄があり、佐渡離任に際して伊藤は新町まで見送り、石谷は「随分出精致し御用大切に相勤め申すべき」旨の、懇切な言葉をおくっている。父は、安永七年十月五日死去、法名妙行院法身日順。子は、文化元年十二月二十四日死去、法名遠妙院信恵日要。ともに相川下寺町蓮長寺に葬られる。
【関連】相川町年寄伊藤氏日記(あいかわまちどしよりいとうしにっき) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※相川町年寄伊藤氏日記(あいかわまちどしよりいとうしにっき)
 全一六巻 原本の表題は「御用留」で、「相川町年寄伊藤氏日記」は、旧所蔵者萩野由之が付けたものである。伊藤三右衛門は、相川町二丁目で手広く商売を行う有力町人で、はじめ吉兵衛を名乗り、のち家督を相続してから家名の三右衛門を名乗った。早くから佐渡の故実に興味をもち、『佐渡故実略記』七巻・『佐渡国略記』三四巻を著したが、これらには佐渡奉行所が所蔵する記録を多く活用していることから、三右衛門が相川町年寄という職務柄、佐渡奉行所も三右衛門に、いろいろ便宜をはかったことが推察することができる。また、前記二史書も『相川町年寄伊藤氏日記』も、自分が管掌する相川町管内だけでなく、広く佐渡全域に
関する記事が多見されるのは、町方役所を中心に、情報を得やすい立場にあったからであろう。『相川町年寄伊藤氏日記』も、三右衛門が「御用留」と題しているように、相川町の施政や商品流通・貨幣流通その他万般にわたって知り得た事柄を記録しているが、それだけでなく佐渡の農漁村地域や、他国との流通・情報等についても記録している。このように、本書の内容は詳細・精緻で広範にわたっているので、江戸中期の佐渡や、相川の状況を知るうえで重要である。第一巻は宝暦六年(一七五六)から筆を起こし、第一五巻が安永十年(一七八一 天明元)で結び、最後の第一六巻は「御用附込」と表記されており、これは相川町の「毎月小
役銀高」「御蔵米値段」「相川御修復場所」「塵芥捨所」「御船水主請負直段」「単木綿并地織産物」「町入用書上帳」など、便覧に供するための付録である。宝暦から天明期は、享保改革期の幕府財政再建のための、緊縮財政と年貢増微策を見なおして、殖産興業策の推進と、国産の他国移出政策に重点をおいた政策転換の時期で、江戸後期の佐渡の社会・経済の方向を定めた時期として、重要な時代であった。本書第一巻の宝暦六年は、この政策の基礎をつくった石谷清昌が、佐渡奉行に就任した年であった。
【関連】伊藤三右衛門(いとうさんうえもん) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
?-1778 江戸時代中期の郷土史家。
佐渡(新潟県)相川の商人。宝暦6年(1756)町年寄となる。佐渡の故実に通じ,「佐渡故実略記」「佐渡国略記」などをあらわした。安永7年死去。号は半山(はんざん)。

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
い伊藤三右衛門

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
雑学者。佐渡相川ニ丁目の人で、ほじめ吉兵衛といった。国の故実に詳しく、佐渡の事実、見聞のことを細大となき書きとめ、その奇特を賞されて町年寄となった。著書に、佐渡故実略七冊、佐渡国略記三十四冊、相川町年寄日記十六冊、算学の筆余若干冊がある。(佐渡人物志)
「島の新聞」索引(人名別)



★伊藤三蔵

「島の新聞」索引(人名別)


★伊藤治一(いとうじいち)

【生没】一八九七ー一九五七 明治三十年七月十一日、新穂村青木の通称治右衛門家の長男として生まれる。大正二年(一九一三)三月佐渡農学校を卒業して農業助手を同八年まで勤め、静岡県の篤農家松本喜作の指導を受けて農業の多角
経営を実践した。二五歳で村会議員に当選、大正十二年に農村の振興と改革を目的として、新穂農事協会を組織して機関誌『農民』を発行し、昭和二年(一九二七)八月には、石田芳太郎(赤泊村)や江口武(金沢村
)らと、佐渡立憲民衆党を組織して総務となった。昭和三年(一九二八)二月、農事協会を佐渡農事協会に拡張して会長に就任、同四年八月には社会大衆党々首阿部磯雄や、婦選同盟の市川房枝らを講師に招いて
、同協会主催第一回佐渡農民大学を開催した。同年十月二十七日、後藤奥衛らによって日本大衆党佐渡支部準備会が組織されると、これに参加した。昭和八年、佐渡一国義民殿の建設を計画して奉賛会を組織し、
宣伝も兼ねて佐渡農事協会による義民劇を全島各地で公演し、同十二年に畑野町栗野江の城ケ平に完成した。同十三年六月に『佐渡義民伝』を著し、晩年耕楽と号した。昭和三十二年二月三日没。
【関連】菊池弘吉(きくちこうきち)・石田芳太郎(いしだよしたろう)・後藤奥衛(ごとうおくえい) 【参考文献】斉藤長三『佐渡政党史稿』、後藤奥衛「佐渡政党史」(『近代』)、『佐渡義民伝』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
いと <br>伊藤治一

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡新穂村青木に生まれ、大正二年に佐渡農学校を卒業した。
八年まで農学校助手をっとめ、静岡県の篤農家松本喜作の指導を受け、帰って農業の多角経営にあたった。
十四年に新穂農事協会を組織し、昭和二年佐渡農事協会と改名して全郡的に発展した。
「農民」の発刊。夏季大会の開催につとめ、四年には「稲作増収法」を発刊した。
八年、佐渡義民奉賛会をつくり、佐渡義民殿の建設に努力した。
養蚕組合や、酪農組合の発展に尽くし、営農改善、酪農改善、土地改良、農村文化の開発等広く活躍した。
昭和三十二年二月三日に五十九才で会くなった。(概観佐渡)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治三十年生 新穂村青木 ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]・昭1、佐渡立憲民衆党の創立[二年八月十八日]・昭1、佐渡立憲民衆党の結党式[二年八月十八日]・昭1、佐渡農事協会の創立[三年八月二十五日]・昭2、佐渡立憲民衆党の分裂[五年二月六日]・昭2、日本大衆党佐渡支部[五年八月二十四日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭3、佐渡民憲党[六年十一月六日]・昭3、社会大衆党支部の委員会[九年三月二十八日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日] 「佐渡関係事典に載る」

★伊藤茂
両津夷出身。昭和15年3月、佐渡中学卒。日大医学部卒。福浦で両津病院を開業し、昭和30年代初期の福浦大火の後に巻頭に出て相模原伊藤病院を設立し、現在の隆盛の基礎を築く。尚、島外からの友人で共に両津病院を興した館脇医師は佐渡に残って両津夷新に医院(整形外科)を経営した。ロータリークラブ全国組織の役員などを歴任し、東京両津の会5代会長。20周年記念誌発行、ふるさと訪問団、両津市との交流、両津市民会館へのグランドピアノ寄贈、企業誘致などに尽力した。又、相模原伊藤病院はTVドラマ「白い巨塔」の浪速病院のロケに使用された。父は夷(福浦山側裏通り?)に住み丸伊屋と言った。ルーツは梅津で墓は両津高校横を通って鷺野経由、梅津川を越して梅津に向かうすぐの所の共同墓地にあった。現在は大きな台座だけが残る。この墓地の正面の高橋家墓地は高橋信一先生の家のもので、右隣の本間墓地は弟本間幸二氏の墓である。
「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より
いと伊藤茂
いと伊藤茂 (2) いと伊藤茂 (3) いと伊藤茂 (4) いと伊藤茂 (5) いと伊藤茂 (1982年)
丸伊屋墓地跡 梅津
いと伊藤茂 丸伊屋墓地跡 梅津

★伊藤治作
『新穂村史』(昭和51年)より
潟上天王さんの牛尾神社は、大正元年に建てられた。ここの拝殿の彫刻のみごとさはよく知られてい
て、島内でもっとも美しい社といわれている。拝殿のほかに、幣殿・本殿・社務所・能舞台などを棟梁したのが、潟上の関口文蔵で、彫刻は文蔵の一門たちが集まって、千百二十工半を費して彫り上げたものである。文蔵が図面をひき、彫りのうち亀は文蔵のイトコで番匠としては弟分の沢根の明石勘吉が、また鯉は文蔵の二男で河原田大阪町に婿にいった伊藤治作が手がけたものである。その一族の外の多ぜいの弟子が手分けして参加をしている。村内には潟上湖鏡庵・内巻東光院・瓜生屋善光寺・馬場の管明寺・青木熊野神社・大野樹林寺などの山門や虹梁(こうりょう 寺社の本堂拝殿の入口の踏み段を覆うゲヤの梁)等に彫刻のすばらしいものが少くない。その大部分は明治末から昭和のはじめ頃にかけて、文蔵をほじめとする関口辰右エ門(通称タッチエム番匠)一族一門によるものである。

★伊藤重太郎
椿の人、昭和7年、篠宮式ロール調製機導入。

★伊東修之助
昭和22年沢根生まれ、佐渡高校、日大理工学部卒。2012年(平成24年) - 第7代 福田組代表取締役社長就任。
いと伊藤修之助

★伊東潤
いと伊東潤
ウィキペディアより
『男たちの船出(千石船佐渡海峡突破) 』(伊東潤 2018年刊 )
 瀬戸内海の海運の要衝・塩飽諸島の牛島で廻船業者・丸尾五左衛門のもと、随一の船大工と謳われていた嘉右衛門。しかし、造った七百五十石積みの大船が大時化で沈没。弟・市蔵や大勢の船子を失っていた。寛文十二年(1673)五月、河村屋七兵衛(後の河村瑞賢)からの大船造りの依頼を嘉右衛門は断る。が、弥八郎はそんな父を詰り、嘉右衛門は弥八郎を義絶する。弥八郎は大坂へ船造りの修業に出る。大坂で修業に苦労する弥八郎は、七兵衛の意を受け大船造りのために佐渡島へ向かう。そこではさらなる苦難が弥八郎を待っていた。父と息子の愛憎と絆、職人の誇りと意地を懸けた対立を軸に、心の奥底から湧き上がる強い感動が読者を揺さぶる傑作長編時代小説。
(作者より)
日本は海に取り囲まれた島国です。しかも内陸部は山あり谷ありで、物を運ぶのに適していません。そのため早いうちから海運業が発達してきました。ところが江戸時代前期までの造船技術には限界があり、本州を一周することさえたいへんでした。というのも本州沿岸には三カ所の難所があり、そこを通過するのが困難だったからです。その三カ所とは津軽海峡、熊野灘から遠州灘にかけて、そして佐渡海峡です。江戸―大坂間を行き来する船が多いこともあり、遭難件数は熊野灘から遠州灘にかけてが断トツなのですが、海の荒れ方のひどさは佐渡海峡が一番でした。というのも地球の自転の影響で、潮流は西から東に向かって流れていきます。ところが日本海には、佐渡島という巨大な岩塊が立ちはだかり、そこで潮流は二分されていきます。さらに佐渡近海の海底の隆起は激しく、潮流は極めて複雑な動きをします。江戸時代初期、佐渡海峡を通れるのは一年のうち四~六カ月ほどで、残る半年ほどの交通は途絶していました。それほど当時の造船技術では海に勝てなかったのです。しかし、どうしても海に挑まねばならない事情が発生します。十七世紀に入ると、旱魃(かんばつ)や不作によって飢饉(ききん)が起こり、江戸への人口流入が始まります。これは爆発的で、瞬く間に江戸は世界一の人口を抱える大都市へと変わっていきました。これにより江戸を飢えさせないために、東北の天領で収穫された米や穀物を江戸に運び込まねばならなくなったのです。しかし当時の陸運力には限界があり、海運に頼らざるを得ません。とはいっても、それまでの小型船では積載量も限られている上、船の数が多くなれば事故による損米率も上がります。そこで、冬の佐渡海峡でも難なく通過できる大船を開発しようということになったのです。ところが千石船を造るとしても、五百石積み船を、そのまま大きくすればよいわけではありません。帆を巨大化すれば取り回しが困難になり、船尾の舵を大きくすれば、水深が浅い海には入れません。さらに大きくなればなるだけ船腹に横波を受ける面積も大きくなり、横転しやすくなります。こうした致命的ともいえる和船の弱みを、試行錯誤を重ねながら克服していかねばならなくなったのです。主人公の嘉右衛門は老境が近づいた船大工頭で、弟の海難死によって大船造りに否定的になります。しかしイノベーションしていかないと、塩飽の造船業は衰退を余儀なくされるのも事実です。そこで大船を造ろうという息子の弥八郎と、それに消極的な嘉右衛門との間で確執が始まります。そこに一人の男が現れることで、事態は動き出します。その男とは河村瑞賢です。瑞賢は塩飽の造船技術を高く買っており、塩飽で千石船を造らせようとしますが、事はそう容易には運びません。人という生き物は、変化を受け入れ難いものです。とくに年を取るほどに、それまで成功体験に固執し、新たなことに挑戦することに消極的になります。しかし環境の変化は待ってくれません。「そこにとどまっていること」は衰退や没落を意味するのです。『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、塩飽の船大工たちの視点で描いた人間ドラマです。言うまでもなく、和船の構造的な問題をいかに克服していくかという技術的なテーマばかりではなく、父子の確執、老いの問題、代替わりの難しさといった数々の「人間本来の問題」も取り上げていますので、誰にでも楽しめる作品となっています。

★伊藤純逸
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤純逸 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
県立佐渡女子高等学校7代目校長(昭和7.2.9~22.9.28)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
佐渡郡教育会会長を務め、『佐渡風土記』発行に尽力する。
※佐渡風土記(さどふどき)
 上中下三巻。相川の地役人永井次芳(歌古園・鳳波と号す)が、延享三年(一七四六)に完成した。明治三十二年まで作者がわからなかったが、子孫の永井晋によって次芳であることが立証された。上巻は上杉景
勝の領国となる天正十七年(一五八九)以前、中巻は同年より慶安五年(一六五二)小比叡騒動の終結まで、下巻は承応二年(一六五三)より寛延三年(一七五○)までを収めている。内容は書名と異り、郡村・山川・寺社・物産などの記述はいちじるしく少く、すべて歴史的記述で構成される。ただ、上巻は史料が乏しいため、おおよその時代をおって配列しており、中・下巻は毎年の記事をおって編年体で記述され、時代が下るにつれ詳細である。次芳は、高野信治の子ではじめ半十郎といい、のち永井四郎兵衛仲雄の養子となり、手形改役・目付・山方役を歴任し、宝暦十四年(一七六四)四三歳で死去した。父仲雄は月番役で、父子ともに奉行所の記録閲覧の便があったと思われ、著者はそれによって佐渡の年代記を編纂しようとしたらしく、中・下巻を「佐渡国年代略記」と名づけた写本があることによっても、このことが裏づけられる。『佐渡地志』についで、早く成立した佐渡史書として貴重である。【関連】永井次芳(ながいつぐよし) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
い伊藤純逸
い伊藤純逸
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤純逸

★伊藤俊二
旧姓小杉、相川高校時代は水泳部、上京してプロレスラーとして活躍後、伊藤家に入り酒店を経営。相川の町おこしに活躍している。
いと伊藤俊二
令和3年10月
いと伊藤俊二 (1) いと伊藤俊二 (2) いと伊藤俊二 (3) いと伊藤俊二 (4) いと伊藤俊二 (5)
(伊藤俊二)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「9号」(平成19年4月)・今、岩首が元気(小杉俊二)・弥生三月「第三回佐渡国相川ひなまつり」開催(小杉俊二)「10号」(平成19年7月)今年の「宵の舞」(小杉俊二)・ 相川クリーン作戦に参加して(小杉俊二)「11号」(平成19年10月)・虫かごにバッタやカミキリムシ、大ニュースはアサガオの木(小杉俊二)・佐渡国際トライアスロン大会-9月2日長い一日を終えて-(小杉)「12号」(平成20年1月)・「はらはらドキドキ」初めての学習発表会(小杉俊二)・酒蔵始動(小杉俊二)「14号」(平成20年7月):・1+1+1+1=100 これが家族の力(小杉俊二)・ランキング依存(小杉俊二)「15号」(平成20年10月)・体育祭に文化祭 青春まっただ中(小杉俊二 相川大間)・この人こそ-佐渡トライアスロンの顔-(小杉俊二)・気にしてみれば、ますます気になる田んぼ・米(小杉俊二)「16号」(平成21年1月)相川新そば祭り(小杉俊二)「17号」(平成21年4月)・相川ひな祭り(小杉俊二)・版画甲子園(小杉俊二)・伝統文化としての日本酒を考えると(小杉俊二)「19号」(平成21年10月)佐渡の前浜には懐かしい風景がありました(小杉俊二)「20号」(平成22年1月)昨年10月にスタートした伊藤酒店総裁部です「21号」(平成22年4月)佐渡の看板酒 真陵山廃純米大吟醸「新酒」(小杉俊二)「21号」(平成22年4月)「今年”は”中止になりました」で消えるパターン(小杉俊二)「22号」(平成22年7月)・6月1日は『金鶴純米吟醸生酒の日』(小杉俊二)・宵の舞、2つの顔(小杉俊二)・軒先の巣にツバメが来たようです(小杉俊二)「26号」(平成23年7月)ツバメが巣づくり(伊藤俊二)「36号」(平成26年1月)・市体育協会主催の指導者講習会開催(小杉俊二)・伝えることってむずかしい(小杉俊二)「37号」(平成26年4月)・両津剣士会の練習を見学-「剣の道に導く」姿-(伊藤俊二)・相川小学校 蜂の巣から代替わり(伊藤俊二)・第2回燗酒を楽しむ会(伊藤俊二)・版画甲子園の奮闘ぶり(伊藤俊二)「38号」(平成26年7月)・もう動き出しています-26酒造年度-(伊藤俊二)・休みの日は楽しんだモン勝ち(伊藤俊二)「39号」(平成26年10月)・相川小学校旧校舎の解体が始まり思い出すなあーあの頃を(伊藤俊二)・ツバメも少子化?(伊藤俊二)「40号」(平成27年1月)・子供たちのためにも残してほしい(伊藤俊二)・卒業生は喜んで飲むんだろうな~学び舎で造った酒(伊藤俊二)「41号」(平成27年4月)・かいふ発酵の「菜種色」が「佐渡のどぶろく」に(伊藤俊二)・酒蔵はてんてこ舞い(伊藤俊二)・にいがた酒の陣に負けんくらいの純米酒の会やりたい(伊藤俊二)・岩谷口ひなまつりで飲み、北狄演芸会で笑い、沢根かき祭りで食べそこね(伊藤俊二)「42号」(平成27年7月)・佐渡のスポーツイベント(伊藤俊二)・宵乃舞(伊藤俊二)・相川小学校の体育館(伊藤俊二)・2回目の改装で更に個性アップ(伊藤俊二)「43号」(平成27年10月)・恩師金水泳大会(伊藤俊二)・「佐渡 酒の陣」開催(伊藤俊二)・体育館の骨組みがほぼ完成(相川小学校)(伊藤俊二)「49号」(平成29年4月)・かじりついて観ておりました(伊藤俊二)「50号」(平成29年7月)・岩屋口村発酵の有機古代紫米飴(伊藤俊二)※丸山正昭・7月で40日(伊藤俊二)・真野までの金の道へ(伊藤俊二)「53号」(平成30年4月)・団三郎の住み家がモツケネー状態に(伊藤俊二)「54号」(平成30年7月)・相川天領通りで あきんど会 楽市楽座(伊藤俊二)「61号」(令和2年4月)・酒の話(伊藤俊二)「62号」(令和2年7月)・酒の話 純米酒造りが始まった学校蔵(伊藤俊二)

★伊藤正一(いとうしょういち)
1942年、北海道生まれ。新潟児立羽茂高校他県内各高校教諭。節足動物・甲殻綱・端脚目に属するワレカラ類の生態を、佐渡島を中心に組織学的手法も用いて調査している。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)伊藤正一  59 佐渡の「ムジナ」はタヌキ  62 アリカラ食わぬ坊さん無し  67 茅窓漫録「ワレカラ」図について  103 季語「われから」再考 108 「蛙がハチメに化す」  111 『北溟雑誌』の「怪魚捕獲並びに圖」について 113 山本修之助先生蒐集の熱帯マメ科種子について 115 山本家に保管されていたイタヤガイ科貝化石 116 「佐渡島」の呼称について(1) -佐渡人はいつから「佐渡が島」を用いたか- 117 「佐渡島」の呼称(2) -本邦人が佐渡人を見る眼- 120 佐渡はいよいか住みよいか 122 「加茂湖」はいつから加茂湖と記されたか 136 クロモとキタワレカラ 145 奴豆腐と冷奴 156 ・メバル雑感 伊藤正一 ・佐渡の海 伊藤正一

★伊藤庄八
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
いと伊藤庄八 新潟県官民肖像録 明治41年

★伊藤次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
両津町 ・昭4、第十九回衆議院議員選挙[十一年二月二十日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]

★伊藤二郎
いと伊藤二郎

★伊藤甚一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤甚一

★伊藤慎太郎
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「61号」(令和2年4月)・佐渡文化財団実務トップの伊藤慎太郎専務理事が辞職)
「島の新聞」索引(人名別)

★伊藤真直
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
詞官。もと加賀藩士であったが、文政六年(一八二三年)に佐渡坊ケ浦皇祖十二社権現の詞官となった。画を円山応挙に学び、応一、応辰、真奈魚と号した。また書、茶、生花、和歌、揚弓等にもすぐれていたという。天保十一年(-八四〇年)八月に六十七才でなくなった。(佐渡人名辞書)

★伊藤甚兵衛
「佐渡ふるさと百科」
いと伊藤甚兵衛 初代 佐渡ふるさと百科
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
い伊藤甚兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川で鉱山用の羽口制作を業とした。加賀の人である。羽口というのほ吹床に用いる土細工をいう。歴代甚兵衛または伊兵衛といった。(佐渡人名辞書)

★伊藤甚兵衛(三代)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人である。安永四年(一七七五年)御用瓦焼を命じられたので、江戸に出て修業し、帰国後、中坂滝の下にかまどを築き瓦を焼き、「佐」の字の極印を許された。享和元年(一八〇一年)九月になくなった。(佐渡人名辞書)

★伊藤甚兵衛(七代))
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川南沢の人で、家は代々陶工であった。文政二年(一八一九年)二十才の時、無名異で楽焼を作った。屋号を羽口屋といったので、略して「羽甚」と号した。嘉永三年(一八五〇年)に隠居し、安政三年(一八五六年)九月に五十七才でなくなった。(佐渡人名辞書)

★伊藤角子
「島の新聞」索引(人名別)

★伊藤清一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤清一

★伊藤清右衛門
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤清右衛門 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
いと伊藤清右衛門 新潟県官民肖像録 明治41年
『両津町史』(昭和44年)
乗合自動車の始まりは明治44年である。これは湊の伊藤清右衛門、夷の市橋勘吉、加茂の斎藤恒の三人の共同出資で開業したもので、越後の来迎寺、小千谷間に運転していた六人乗りの中古車を購入し、夷の旅館秀明館の土間を車庫代りとし、夷、相川間を往復したのである。しかし、これは、いろいろの支障があって大正二年に廃業となった。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢村、運送業、店舗 両津町湊 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭2、山本、政友倶楽部総裁の辞任[五年十月二十八日]・昭3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]
「人力車から自動車へ」(「佐渡の百年」)
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
「佐渡病院の草創期」

★伊藤政治→伊藤政治(まさじ)→

★伊藤清太郎
いと伊藤清太郎
両津湊出身。東大卒、佐渡病院二代目院長。創立期の佐渡病院は地元医師会の反対にあって新大から医師が派遣されず、東大から派遣された。初代院長の佐野龍雄も同じく東大卒である。小樽で財を成し、小林多喜二の「不在地主」のモデルと言われる磯野進は叔父にあたる。
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
い伊藤清太郎
い伊藤清太郎 (3)

い伊藤清太郎

「佐渡病院の草創期」
「島の新聞」索引(人名別)

★伊藤赤水(いとうせきすい)
いと伊藤赤水
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤赤水 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
相川名誉町民(5番目)
あ相川町名誉町民 - コピー (4) い伊藤赤水
【生没】一八三八ー九九 赤水家は、南沢の羽口屋の三代甚兵衛の長男で、家督を弟に譲り分家して荒物商を営んでいた。初代赤水は、天保九年生れで伊藤家の五代を継ぎ、下戸町から一丁目に居を移して、陶業をはじめた。最初は素焼
物が多かったが、明治に入って鉱山の西洋化が進み、大量の煉瓦を必要としたため、同三年からは煉瓦焼に移行した。「焼物控帳」には、製鉱所へ納めた枚数と金額が記入される。一方、三浦常山と競争で無名異土の高温焼成にも一生懸命であった。常山とあまり差がなく朱泥焼に成功しており、全国各地の博覧会に、積極的に出品し賞を得ている。しかし、収入の主力は煉瓦製造であった。明治十三年の届けを見ても、本業煉瓦製造・兼業陶器となっている。赤水の号は明治三十一年(一八九八)から名乗り、佐渡の漢学者圓山溟北が名付親と伝わる。初代は中国風南画の浮き彫りを得意とし、俳味もあったが、翌年死亡した。二代目は圓山溟北に学び、坪井雲仙に師事するなど、研究熱心で知られたが昭和五年(一九三○)に没し、四代は昭和三十六年(一九六一)に死亡する。三代は四代より長生きで、昭和四十九年(一九七四)に没している。現在の五代は、京都繊維大学窯業科を卒業し、自宅で新製品の開発に励み、国際的作家の発展が期待され、国内外の招待作品が多い。【参考文献】佐藤俊策「伊藤赤水」(『佐渡の美術』)、伊藤赤水『焼物控帳』 【執筆者】佐藤俊策 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)伊藤赤水 104 県下で四人目伊藤赤水さん人間国宝認定を喜ぶ 飯山弘
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「21号」(平成22年4月)初の佐渡市名誉市民称号授与式(浅島誠・伊藤窯一・故三浦小平二)(山本修巳)
「島の新聞」索引(人名別)
「佐渡広場」(佐渡の画廊38:人間国宝 伊藤赤水の作品)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=4
諸情報
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50031750.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=2
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=4

★伊藤惣造(翠渓)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治四年生 羽茂村羽茂本郷 ・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★伊藤その
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)伊藤その 63 会員の訃報 伊藤そのさん 山本修之助

★伊藤泰一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤泰一

★伊藤太吾(いとうたいご)
1943年(昭和18年)佐渡小木に生まれる。大阪大学名誉教授、ブカレスト大学文学博士(ロマンス言語学)。佐渡高校卒。ル―マニア語の権威者で大阪大学大学院名誉教授。大阪外国語大学大学院修了。大阪外語大学教授。ブカレスト大学文学博士。主な著書:「フランス語からスペイン語へ」「イタリア語からスペイン語へ」「ロマンス語ことわざ辞典」他多数。幼い頃耳にした小木の民謡が懐かしく佐渡民謡を愛好、CDを作成する。

★伊藤剛
いと伊藤剛 いと伊藤剛 いと伊藤剛 (1) いと伊藤剛 (2) いと伊藤剛 (3) いと伊藤剛 (4)

★伊藤丹蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤丹蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★伊東千寿
両津高校時代のS38、山口国体 ボート部女子ナックル3位(渋谷節子、菊池節子、三田敏枝、杉山道子、伊東千寿)

★伊藤長吉
『両津市要覧(昭和33年)』より
いと伊藤長吉

★伊東長兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行。文化十年(一八一三年)三月八日、徒士頭から佐渡奉行になり、十一年正月晦日持筒頭へ転役した。
名は祐香、知行は二百五十俵、役料千五百俵百人扶持である。佐渡へは着任しなかった。(佐島遺事)

★伊藤恒昭
佐渡高校時代の30.5.28、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)走高跳3位
31.8.5-6、陸上競技全国高校大会(高知県)110mH6位(10月26日、秋季国体に出場)
31.9.22~23、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市) 総合45点2位、110mH全国大会入賞により県高体連表彰を受ける

★伊藤哲滋

いと伊藤哲滋


★伊藤鉄蔵

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
小倉人形(朝日座〉は明治二十四年、真野町吉岡の甚蔵人形を譲りけてからはじまった。太夫は後藤清蔵、役者は伊藤鉄蔵、後藤春吉、加藤酉蔵であった。この人形は、明治三十八年に相川町入川の樋口五郎太へ渡り、さらに相川町矢柄の繁栄座へ移った。これほ高幕人形であった。明治三十五年、小木町大崎屋松之助の刻んだ人形をもとめた。これは御殿人形であった。こんどの座元は新田伊作であった。この新田は、「人形つかいの神様」といわれるほどの名人であった。また太夫もつとめ、人形も刻むという器用な人であった。佐渡の文弥節や人形芝居について、「耳眼書集」というものを残している。昭和十年九月十日、六十八歳で死んだ。そして、人形は昭和十二、三年ころ柏崎の吉田直方へ譲った。


★伊藤藤右衛門

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十四年生 真野町名古屋、荒物商 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、臨時郡会[八年十月十八日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭2、佐渡民政倶楽部の発会式[四年九月二日]・昭3、第十八回総選挙[七年二月二十日]


★伊藤籐左衛門

「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
いと伊藤藤左衛門 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤藤左衛門 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤藤左衛門 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) (2)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤籐左衛門

★伊藤藤三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田諏訪町 ・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]

★伊藤藤蔵
河原田の重立ちで奥平謙輔ととの間でエピソードを残す。
『続佐渡酒誌』(平成14年)
いと伊藤藤蔵 『佐渡酒誌』(平成14年)
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)

★伊藤藤間
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤藤間
いと伊藤藤間 (2)

★伊藤常盤一(いとうときわいち)→常磐一

★伊藤敏明
「島の新聞」索引(人名別)

★伊藤富太郎
『両津市要覧(昭和33年)』より
いと伊藤富太郎

★伊藤智子
「島の新聞」索引(人名別)

★伊藤豊丸
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤豊丸


★伊藤直一

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤直一 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★伊藤奈津江
両津高校時代の1987年度(S62)12月、第20回オート・スカラシップ高校文化大賞RONBUN(サンケイ新聞社主催) 文部大臣奨励賞(副賞・アメリカ研修旅行)、12月、第8回文庫による読書感想文コンクール(角川文化振興財団主催) 佳作、学校賞(「角川文庫ワンセット」40冊) 1988年度(S63)11月、第9回文庫による読書感想文コンクール(角川文化振興財団主催) 佳作、学校賞(「角川文庫ワンセット」40冊)

★伊藤庭蔵
『続佐渡酒誌』(平成14年)
いと伊藤庭蔵 『続佐渡酒誌』(平成14年)

★伊藤庭太郎
本間太郎八等と共に明治24年、内浦海産会社より、烏賊釣り教師として島根、青森、石川、長崎方面へ赴く。

★伊藤藤蔵
光福寺
いと伊藤藤蔵 光福寺

★伊藤晴雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・6・23 第3回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)
(佐渡中・30点4位)100自⑥ 昭・15・7・26 第10回県中等学校水上選手権(県中体連・県水上競技連盟)佐中競泳地
(佐渡中 総合3位34点)100自⑥、200リレー②佐中2.05.7、800リレー④佐中

★伊藤春吉
『両津市要覧(昭和33年)』より
いと伊藤春吉 (1)
いと伊藤春吉 (2)

★伊藤光
いと伊藤光 いと伊藤光 (2)
相川下戸の人、平成28年6月より三浦基裕市長の下で佐渡市副市長、54歳。もう一人の副市長は藤木則夫氏。 昭和56年3月:県立佐渡高等学校卒業、 昭和56年8月:郵政省入省、平成28年6月:相川郵便局退職。
「島の新聞」索引(人名別)

★伊藤久雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
河崎の人。柔道選手で、中央大学に学び堂々たる体躯、5段の猛者で常に他を圧する人物。

★伊藤久雄
『両津市要覧(昭和33年)』より
いと伊藤久雄

★伊藤久
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。 いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。 借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。

★伊藤久司
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いと伊藤久司

★伊藤栄傑(いとうひでたけ)
い伊藤栄傑
陶芸家、人間国宝 五代・伊藤赤水長男。1977年新潟県佐渡市生まれ。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=2

★伊藤博
「島の新聞」索引(人名別)

★伊藤博英
「手わざ図鑑」
いと伊藤博英「手わざ図鑑」

★伊藤平右衛門
新穂青木 熊野神社
いと伊藤平右衛門 新穂青木 熊野神社

★伊藤寛記
両津高校時代の1998年度(H 10)、第14回全国高等学校簿記コンクール新潟県大会 団体 準優勝(伊藤寛記 俵法子 中村友美  萩原友紀)、個人優勝

★伊藤フミ
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 6母 小菅タマの歩みを辿るの記

★伊藤文吉
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)伊藤文吉 143 悼 伊藤文吉氏 山本修巳

★伊藤勉治(べんじ 旧姓石塚辦司)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤勉治 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
佐渡高等学校初代同窓会長(昭和20・8~昭和29・8)。明治30年佐渡中学開校式で入学生代表で祝辞を述べた。後佐渡中学校教員となり、弁論部舌禍事件に深く関与する。
→堀部国治 「佐渡高等学校百年史」(弁論部舌禍事件)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p364・369
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p389
「太平洋横断飛行の夢」(「佐渡の百年」)

★井東法純
『加茂村誌』(昭和38年)
いと伊東法純
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
いと井東法純 新潟県官民肖像録 明治41年

★伊藤北水
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いと伊藤北水

★伊藤政吉
『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)より
相模原伊藤病院創立者である伊藤茂先生の父。政吉翁はかつて夷七ノ丁の名常会長、両津市の合同常会長も長年つとめ、所謂「丸伊屋節」といえばみんなに親しまれた方。
→伊藤茂

★伊藤政二
「佐渡ふるさと百科」
いと伊藤政二(まさじ)佐渡ふるさと百科
いと伊藤政二
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いと伊藤政治 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)伊藤政二 90 佐渡を描きとおした洋画家伊藤政二 計良勝範

★伊藤正人
 両津高校時代の1985年度(S60)8月、第6回北信越国体予選バスケットボール 1位となった新潟選抜チーム19名の一員として出場。10月、第40回鳥取国体バスケットボールに出場(新潟選抜チーム9名の一員と して)。1986年度(S61)10月、第41回山梨国体 バスケットボール伊藤正人 神蔵肇 出場(新潟選抜チーム19名の一員として)
1986年度(S61)10月、第41回山梨国体 バスケットボール伊藤正人 神蔵肇 出場(新潟選抜チーム19名の一員として)。両津高校チームの一員としては、1年下の長身ガード(180ch以上)神蔵肇と共に活躍し県内上位チームをキープした。高校卒業後は日体大に進学してインカレチャンピオンになる。その後、一時国体要員として香川県の高校教師をした後、新潟県に戻り、県内各高校で勤務。その間、強豪新潟教員チームのセンターとしても活躍した。 両津吉井小時代に入った両津ミニバスチームでは身長180cm、靴30.5cmのサイズで、両津南中時代には既に197cmであった。高校時代には同学年に後にジャパンの中心選手になる祐木毅(191cm、新潟南)が居り、ツインタワーとして活躍した。

★伊藤正福(まさとみ)
きた北一輝 20200523 (1) きた北一輝 20200523 (2) きた北一輝 20200523 (3)
伊藤正福 (1) 伊藤正福 (1) 伊藤正福 (2)
1950年、両津湊で生まれる。両津東中-佐渡高校-立教大経済学部卒。アメリカ遊学、印刷会社、地質調査会社勤務などを経て帰国後、学習塾経営。佐渡市民演劇グループ「いごねり」に属し、共同脚本に「朱鷺の舞う空」「ゴミ捨て場に降った夢」「宇賀神いるか」「おせんの恋」「君に会えたら聞いてみたい」。同脚本賞「命つなぐ愛」(山本勝一編著)は新潟日報事業社主催の「第5回新潟出版文化賞優秀賞」及び「第2回ふるさと新潟出版大賞」を受賞。2012年(平成24年)に『北一輝のための終わりなき戯曲』(「文芸社」)を出す。
・「世界のウイスキーライター5人」に選ばれた土屋守氏は従兄弟である。(伊藤氏の父の弟が土屋守氏の父)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)伊藤正福 57 佐渡の文化行事 北一輝の「映像」の難しさ
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「32号」(平成25年1月)この一冊「北一輝のための終わりなき戯曲」(伊藤正福著)(岩田雅)
「島の新聞」索引(人名別)

★伊東眞直
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
い伊東眞直

★伊藤雅光
「島の新聞」索引(人名別)

★伊藤三男三郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤三男三郎

★伊藤ミチ子
佐渡高校時代の昭和31.7.11、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞  

★伊藤美智子
佐渡高校時代の昭和39,1、全日本学生美術展覧会(於東京都立美術館)入選、人物画「おばあさん」
昭和39,第28回大潮展、入選 「人物」

★伊藤道太郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
いと伊藤道太郎 新潟県官民肖像録 明治41年

★伊藤美智穂
佐渡高校時代の平成元、全国高校生作文コンテスト学燈社賞、課題「私の町」

★伊藤充良
ごと後藤唯 (3) ごと後藤唯 (4)
日本現代工芸美術家協会本会員、現代工芸新潟会会員、県立佐渡総合高校教師、新潟県芸展新審査員
日展入選 9回
日本現代工芸美術展入選 15回 石川県民陶芸展 教育委員会賞受賞 石川県展 入選 新潟県芸展 県議会議長賞受賞 新潟県芸展 奨励賞受賞 他入選4回 新潟県展 奨励賞受賞 他入選3回 「伝統文化と社会福祉の専門学校」(陶芸デザイン学科講師)

★伊藤彌三左衛門
もち望月権四郎 (2)
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
いと伊藤弥三左衛門

★伊藤彌平
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤彌平

★伊藤勇藏
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)
いと伊藤勇藏

★伊藤雄太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤雄太郎

★伊藤裕季子
両津高校時代の両津高校時代の1993年度(H5)1月、第8回学生短歌・高校生の部(短歌新聞社『短歌現代1月号) 入選、1994年度(H6)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第9号) 短歌 奨励賞、 1995年度(H7)10月、第11回学生短歌・高校生の部(短歌新聞社『短歌現代』10月号) 入選

★伊藤由希子
両津高校時代の1996年度(H8)、秋季簿記県大会  団体2位(橋本一幸 伊藤由希子 小田亮平  安田道宏 本間雅子 高橋祐子)、個人3位

★伊藤豊
いと伊藤豊

★伊藤窯一→伊藤赤水

★伊藤与志乃   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
・昭和15年、第10回県下女子中等学校体育大会(柏崎グランド)体力300mRで佐渡高女2位(計良アキ、伊藤与志乃、柴田松枝)46秒0
・佐渡高女時代の昭和16年、第11回女子中等学校体育大会(上越、中越、下越の三会場で開催)佐渡高女400mR4位(伊藤与志乃、渡辺チヨノ、谷郷稔、安田ムツ)、短棒投1位。

★伊藤与三治
「相川暴動」(「佐渡の百年」)

★伊藤誉治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いと伊藤誉治

★伊藤善行
いと伊藤善行 (3) いと伊藤善行 (4) いと伊藤善行
いと伊藤善行 (2)
いと伊藤善行
いと伊藤善行
いと伊藤善行 3004月 (1) いと伊藤善行 3004月 (2)
いと伊藤義行
真野新町に昭和50年生。真野小-真野中-相川高校-アップル外語観光カレッジホテルリゾート科卒。ご縁の宿伊藤屋5代目番頭、レストラン&バーこさど3代目店長。著書に「FX自動売買ロボット作成マニュアル」(2009/6/25出版)
「佐渡の洋食屋店長の挑戦!」
「島の新聞」索引(人名別)


★伊藤与八

「躍進日本」
いと伊藤与八「躍進日本」 「相川暴動」(「佐渡の百年」)

★伊藤与八
千葉銀行頭取
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)p384

★伊藤隆一
「島の新聞」索引(人名別)

★伊東隆敬
「田中圭一講演集第一集(世阿弥の頃の佐渡)」より
佐渡高校からF佐渡名勝志』という本が出版されましたが、その中の金井町泉の正法寺の項に(観世太夫(観世流の親玉のこと)が佐渡へ流されてきて、この寺の境内に腰掛石一が残っている)という意味のことが記されております。
 この本を書いたのは佐渡人ではなく、千葉の伊東隆敬という人であります。佐渡の古代から江戸時代までの行政や風俗、社寺、文学などのあらゆる分野にわたって書いた郷土史なんです。およそ二五〇年も昔に、観世太夫の佐渡配流について書かれていたのですから驚かざるをえません。といっても、この品書物は-椴の人の脹に触れることはありませんので、昭和になりましてから橘正隆(越後生まれ)が佐渡に住み、注を入れた『佐渡名勝志』を刊行して初めて私どもはその事実を知ることになります。

★伊藤竜太郎
h28年6月 朝日新聞
いと伊藤竜太郎 h286月
新潟日報(otona+大崎)

★伊藤良雲
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いと伊藤良雲

★伊藤瑠璃子
佐渡高校時代の昭和38.2.16、全国児童生徒デザイン展入選 


★伊藤六左右衛門

「島の新聞」索引(人名別)


★伊藤渉

いと伊藤渉


★糸屋八左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
江戸柳原の商人。正徳三年(一七一三年)八左衛門は佐渡産出の鋼で新銭鋳造を計画し幕府へ出願した。翌年八左衛門は細工人四十二人を引きつれて佐渡に渡り、四月二十二日相川に到着、下戸浜で仕事にかゝつた。銅一箇につき十六貫入り代印銀百二十五匁で購入、六月十日より鋳造を始めた。見本銭を江戸に出した所、鋳方不宜の旨、七月十八日に通知があった。そこで吹方をかえ五年五月まで鋳造したが損失が多く廃止した。銅代印銀五貫目の返済が出来ず銭座建物ともとり上げられた。細工人は江戸に帰ったが十人ばかりは佐渡に残ったという。この銅銭は今までの古銭同様、銀一匁に付、銭四十文であった。五月二十五日、相川新五郎町の南部忠右衛門が銭座を引きついだ。(佐渡年代記上巻)


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・佐渡市両津夷在住
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